最前線の子育て論byはやし浩司(2300)
●今日も、始まった!
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昨日、銀行へ行ってきた。
順番を待った。そこで、
久しぶりに、女性週刊誌に
目を通した。
冒頭は、定番の皇室の話。
つづいて、これまた定番の、
ゴシップ記事。それにつづく、
これまた定番の、ゴシップ記事。
まさにゴシップ記事の洪水。
あとは意味のない、コラムと
エッセー。超能力を売り物に
するタレント占い師が、教育論を
展開していたのには、驚いた!
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「ゴシップ」……gossip、つまり「うわさ記事」(日本語大辞典)。そのゴシップ記事には、それ
なりのおもしろさがある。それは認める。が、私の知らない人ばかり。ひとり、羽G何とかという タレントの獄中記が載せてあったが、知っているといえば、その人くらいだけ。「へえ〜」とか、 「ほ〜」とか言って、読んだ。
『他人の不幸話ほどおもしろいものはない』と、どこかのだれかが言った。私が感じた(おもし
ろさ)は、そういうおもしろさだったかもしれない。羽G何とかというタレントにしても、現在は、詐 欺罪と恐喝罪で、告訴され、拘置所暮らし。「精神的に限界にきている」というようなことが、そ の記事には書いてあった。
私のような一般庶民は、有名人が、何かの事件を引き起こして、一般庶民になることを喜
ぶ。有名人が、私たち一般庶民と同じ人種であることを知って、喜ぶ。あるいは有名人が、没 落して、一般庶民になることを喜ぶ。
ここで「私のような」と書いたのは、そうとでも書かないと、世の女性たちに袋だたきにあいそ
うだからである。本当は、「世の女性たちは」と書きたかった。世の女性たちは、日ごろ感じて いるコンプレックスを、こうした記事を読むことで、解消している(?)。
ゴシップが悪いというのではない。私たちは、たとえば他人の失敗にしても、それをうまく使え
ば、それを通して、何かを学ぶことができる。が、それには条件がある。(学ぶ)という姿勢であ る。それがないと、ゴシップは、いつもただのゴシップで終わってしまう。
私はそれらの記事を読みながら、「これは書き手の問題」と感じた。つまり記事を書く人が、
それなりの問題意識をもっていれば、よし。そうでなければ、ほんとうにただのゴシップ記事で 終わってしまう。読む人にしても、「アッ、そう」で終わってしまう。
実は、私も、20代のころ、S社の女性週刊誌の記者をしていた。「記者」というのも大げさだ
が、名刺には、そう印刷してあった。その名刺をもって、あちこちを取材して回った。そのとき編 集長をしていた、I氏(男性)が、こんなことを教えてくれた。
「女性というのはね、XXXXXXXXXXXXXXXXX」と。あまりにも過激な言葉なので、この部分
は、省略する。しかしその精神は、40年近くたった今も、変わっていない。つまりそれを読む女 性の読者たちは、こうした編集長の手の上で、踊らされているだけ。
まあ、今の私なら、もう少し記事を掘りさげて書く。羽G何とかというタレントの獄中記にして
も、精神的にどういう状態なのかを、もう少し詳しく書く。
そうそう、もう1人いた。あの「騒音おばさん」。あの騒音おばさんだが、刑期を終えて、再び、
もとの家にもどり、今度はふつうの生活(?)をしているという。「ふとんとはたく回数が、数百回 から、数回程度になった」というようなことが書いてあった。
その記事を読んだとき、ふと、「私なら、できるだろうか?」と考えた。つまりあれだけ世間で
騒がれ、たたかれた人である。近所の人たちにも、嫌われた。そういう人が、もとの家に戻って いる!
私は、そこに、あの女性のもつ悲しさというか、苦しみを見た思いがした。あの女性につい
て、当時、「ある女性の悲劇」と題して、こんな原稿を書いたことがある。
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●ある女性の悲劇
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Xさんには、2人の娘と、1人の
息子がいた。
しかし上の娘2人は、脳の病気で、
ともに32歳という、同じ年齢で、
あいついで、他界。
夫と息子も、同じ脳の病気で、
現在、入院中。
とくに長男は、現在、
予断を許さない状況だという。
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これは実話である。
Xさんには、2人の娘(長女、二女)と、1人の息子(長男)がいた。Xさんは、ごくふつうの母親
として、3人の子どもを育てた。そのころのことをよく知る近所の人たちは、みな口をそろえて、 こう証言している。
「子どもをかわいがる人で、休みごとに、子どもたちを、あちこちへ連れていった」と。
当時の写真などは、写真週刊誌などで紹介されているが、どこからどう見ても、ごくふつうの、
幸福そうな母親といった感じがする。
そのXさんの家庭に、異変が起きたのは、長女が思春期を迎えたときのことだった。長女が、
脳のある病気で、入院した。そしてそのあと、長い闘病生活のあと、その長女は、32歳の若さ で、他界。
が、不幸はつづく。
同じく二女もまた、長女と同じころに発病。やはり脳のある病気だった。Xさんは、最後の1年
間は、二女のそばについて、寝ずの看病をしつづけたという。が、くしくも、その二女が他界し たのも、次女が32歳のとき。長女が他界したのと同じ年齢だったという。
これを「偶然」というには、あまりにもむごい。が、そこで不幸が終わったわけではない。
現在、Xさんの夫も、そして長男も、同じ脳のある病気で、入院中だという。しかも長男は重症
で、余命は、それほど長くないと言われている。
つまりXさんは、2人の娘を、脳の病気でなくし、さらに今また、夫と長男まで、同じ脳の病気
で、なくそうとしている。不幸といえば、これほど、不幸な家族も、そうはない。もし、あなたがそ のXさんなら、あなたは、そういう自分の境遇を、どう思うだろうか。あるいは、その苦しみから、 どうやって自分を解放するだろうか。
冒頭に書いたように、この話は、実話である。そしてこれから書く話も、実話である。
やがてXさんは、どういう理由からか、道をはさんだ隣人のYさんと、トラブルを起こすようにな
る。Yさんの家から聞こえてくる騒音が、気になったという。そこでXさんは、その腹いせのため か、反対にYさんに対して、攻撃的な姿勢にうってでるようになる。
そうしたトラブルが原因で、Yさんは、何度かにわたってXさんを訴えた。
Xさんが、「騒音おばさん」と呼ばれるようになったのは、そのあとのことである。テレビでもそ
の様子が紹介されたので、知らない人はいないと思う。大音響のラジカセを鳴らしながら、それ に合わせて、フトンをバンバンと叩きつづける。
あるいは隣人の家の前までやってきて、大声で、怒鳴り散らす。
Xさんは、騒音条例違反で、やがて警察に逮捕。現在は、拘置所に拘置されたまま、裁判所
で裁判を受けている。
私も最初、その模様をテレビで見たとき、普通でない様子に驚いた。緊張で、ひきつった顔。
動物的な怒鳴り声。私は、「これが私たちと同じ人間か」とさえ、思った。いや、個人どうしという レベルでは、似たような行動をする人を知らないわけではない。
しかしその個人というレベルを超えて、マスコミが取材している、その目前で、そういった行動
をする人は少ない。そのためか、当時は、Xさんに同情する人は、まずいなかった。「騒音おば さん」という、どこか親しげなニックネームはつけたものの、それは、Xさんにたいする、激しい 嫌悪感を裏がえしにした言い方とも考えられなくもない。
あえて同情して言うなら、うちつづく不幸の中で、Xさんは、自分を見失ってしまった。もっと言
えば、正気をなくしてしまった。そういうふうにも考えられなくもない。
こうしたXさんの過去を知ったとき、私は、ものごとは、決して一方向だけから見てはいけない
ことを、改めて、思い知らされた。多分、このエッセーを読んだあなたも、そうではないか。
だからといって、Xさんがした、あの一連の行為が許されるというのではない。隣人のYさん
は、毎日、毎晩、さぞかしつらい思いをしたことだろう。こういう事件が近所で起こると、心底、 神経をすり減らす。
Xさんにしても、またYさんにしても、たいへん悲しい物語であることには、ちがいない。
【教訓】
よく他人の不幸をのぞいては、あれこれ言ってくる人がいますね。無神経というか、無頓着と
いうか。私も、今まで、そういうことをよくされました。
しかしこちらには、こちらの、人には言えない事情というものがあります。そういう事情も知ら
ないで、ときに親分風を吹かせて、ズケズケと、あるいはときに、物知り顔に、イヤミを言う。お まけに説教までしてくる!
そういうことは、たがいに、してはいけません。たとえ相手が、身内でも、です。
今回、Xさんの過去を知り、私は改めて、それを強く思いました。
それにもうひとつ。被害者となったYさんにはたいへん申し訳ないのですが、私自身は、Xさん
の過去を知り、どこかほっとしたような気持ちになりました。「やはり、根っからの悪人はいない のだ」と。つまりXさんには、Xさんの、人には言えない事情というものがあったのです。もっと言 えば、同情すべき点も、多いということ。
どうか、みなさん、心、安らかに!
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「もしあなたに3人の子どもがいて……」という話は、もうやめよう。今、大切なことは、そっとし
ておいてやること。当の本人にとっても、また近所の人にとっても、それが最善。
そのころ銀行で、私の順番が回ってきたので、私はそのまま窓口に立った。
(補記)
30〜40年前とくらべて、ゴシップ記事が、たいへん多くなったように思う。昔もその類の記事
はあるにはあったが、ときどき「特集」とか、そういう形で、載っていた。が、今は、週刊誌その ものが、ゴシップ記事のかたまりといったふう。
こうしたゴシップ記事でこわいのは、一度読み始めると、いわゆる「ゴシップ中毒(アディクショ
ン)」に陥(おちい)りやすいということ。それを知らないと落ち着かない……というより、知ること によって、自分の立場と地位を確保するようになる。
他人の前で、有名人のゴシップをひけらかすことで、自分の優位性を確保するようになる。
こうなると重症で、それ以後は、ゴシップ記事ばかりを追いかけるようになる。女性週刊誌
は、そのためのバイブルということか? つまり女性週刊誌そのものが、どこかカルト化してい る? ……これは私の考え過ぎか?
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●学習の動機づけ
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子どもに勉強をさせたかったら、
楽しませること。
これは幼児期の子どもの指導の、
大鉄則と考えてよい。
英語の格言にも、
HAPPY LEARNERS LEARN BEST.
(楽しく学ぶ子は、よく学ぶ)
というのがある。
私の教室のモットーにも
なっている。
ほかにも方法はあるが、これに
まさる方法はない。
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●楽しませる
子どもの「勉強」を考えたら、とにかく、楽しませる。「楽しい」「楽しかった」という思いが、子ど
もを前向きに引っぱっていく。
心理学の世界では、こうした前向きに引っぱっていく力を、「好子(こうし)」という。また大脳生
理学の世界では、辺縁系の帯状回が、「やる気」をコントロールしていると、説明する。それだ けではない。
子どもはこれから先、いろいろなカベにぶつかる。そのときそのカベを乗り越える原動力にな
るのも、ここでいう「楽しさ」である。「私はできる」「できるはず」「私には、できないことはない」と いう、前向きのストロークが、子どもを伸ばす。
たとえば文字学習を考えてみよう。
子どもは満四・五歳(四歳六か月)を境に、急速に文字に興味をもつようになる。それまで
は、いくら教えても、一見、効果がないように見える。そしてこの時期を境に、見よう、見まね で、文字らしき文字を書くようになる。
このとき大切なことは、子どもがどんな文字を書いても、それをほめること。読んであげるこ
と。
文字の使命は、言うまでもなく、意思の伝達である。意思の伝達に始まって、意思の伝達に
終わる。書き順、トメ、ハネ、ハライなどは、それを大切だと思う人に、任せておけばよい。ある いは、どうして、そんなものが、大切なのか?
そしてそれと平行して、「文字は楽しい」という思いを、子どもの心の中に焼きつけておく。具
体的には、子どもを抱いて、本を読んであげる。暖かい息を吹きかけながら、本を読んであげ る。
まずいのは、いきなり文字を教え、こまごまとした指導をすること。子どもは文字に恐怖心す
らもつようになる。しかし一度、この時期、そうなると、修復は不可能。いわんや、「勉強」を、子 どもの責め具に使ってはいけない。「毎日、三〇分、勉強しなさい!」と。
ちなみに、年中児でも、文字に対して恐怖心をもっている子どもは、約半数はいる。中には、
「名前を書いてみようか」と声をかけただけで、体をこわばらせ、涙ぐむ子どもさえいる。こうな ると、将来的に、文字嫌いのみならず、国語嫌い、本嫌い、さらには勉強嫌いになるのは、 明々白々。
この日本には、無数の誤解がある。計算力があるから、算数ができるという誤解。よくしゃべ
るから、頭がよいという誤解。ものをよく知っているから、勉強がよくできるという誤解。そして、 きれいな文字を書くから、国語力があるという誤解。こうした誤解が、無数に集まって、日本人 独特の、「勉強観」をつくりあげている。
では、どうするか?
子どもを楽しませる。いつもそれに始まって、それに終わる。英語にも、『楽しく学ぶ子は、よ
く学ぶ』という格言がある。まさにポイントをついた格言である。
●今、一人気になっている子ども(小六男子)に、S君がいる。彼は幼いときから、書道教室に
通っている。だから彼が書く文字は、まさに一級。きれいである。しかし一方で、作文がまったく と言ってよいほど、書けない。「作文は大嫌い」と、いつも逃げてしまう。で、何とか書かせて、 励ますのだが、正直に言えば、とても、読むに耐えない内容。いつも的はずれで、トンチンカン な作文を書く。もちろん本は、大嫌い。ときどき、「この本を読んでみたら」と単行本を貸すのだ が、受け取ることさえ、拒絶する。どうしたらよいものか。親は、漢字のテストでよい点と取るこ とや、きれいな文字だけを見て、「うちの子は、国語はだいじょうぶ」と思っている。
●以前、N君という小学生(当時二年生)がいた。彼もまた、きれいな文字を書いていた。が、
書くスピードが、遅かった。みなの二倍以上の時間がかかった。だからいつもひとりだけ、黙々 と文字を書いていた。しかしそのため、いつも、授業が中断してしまった。で、ある日、私はこう 言った。「ていねいに書くときは、書けばよい。しかし今は、黒板の文字を書き写すこと。だから もっと速く、書きなさい」と。とたん、N君は、ふつうの(?)速さで書き始めた。が、私はN君の文 字を見て、びっくりした。ひどいなんてものではなかった。しかしそれが彼の、オリジナルの文字 だった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学習
の動機づけ 勉強の動機づけ)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司※
●スズメの放し飼い
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子育ての最終目標は、
子どもをよき家庭人として、
自立させること。
たとえばスズメを例に
あげて考えてみよう。
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拾ってきたスズメの子を育てる。ここまではよくある話である。しかしそのあと、そのスズメを
放し飼いにする人は少ない。
しかしこんな人がいる。
その人は、スズメを拾ってきて、育てた。ある程度、大きくなったところで、外に放した。その
ほうが、スズメにとってはよいと考えた。が、そのあとそのスズメは、毎日、エサを食べるため に、その人の家に戻ってくるという(Y新聞、投書)。
……この話を聞いて、私は、新鮮な驚きを感じた。
私も、私の友人も、よく子どものころ、スズメの子を拾ってきて、育てた。しかしそのとき、外の
世界へ放してしまう、というところまでは考えなかった。「放し飼い」といっても、人間によく慣れ させたあと、ぜいぜい部屋の中で放し飼いにする程度である。
しかしこの違いは、基本的な子育て観の違いといってもよい。
スズメの子を拾ってきて育てる。そのとき、スズメの子を育てながらも、その自由には制限を
つける。無意識のうちに、そうする。「育ててやる。しかし逃げていくことは許さない」と。
こうした子育て観は、日本人独特のものと考えてよい。そしてそれが、たとえば子どもの育て
方にも現れてくる。
今、親たちは、子どもを育てている。しかし外の世界にまで「放し飼い」を許す親は少ない。大
半の親たちは、反対に、外の世界へ逃げてゆかないようにする。意識的な行為というよりは、 無意識のうちに、そうする。長い間の伝統の中で、日本人は、そうしてきた。そういう子育てを、 ほとんど考えることなしに、繰りかえしてきた。
たとえば「子どもをかわいがる」という言い方がある。このとき親は、自分の子どもを、「かわ
いい子ども」に育てることを、目標にする。そして親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい 子イコール、よい子とする。
反対に親を親とも思わない子どもを、生意気な子とする。そういう子どものことを、私が生ま
れ育った岐阜のほうでは、「きつい子」、あるいは「鬼の子」とも言う。こんな例がある。
K君は、岐阜市から車で、一時間半ほどの距離の田舎町に住んでいた。が、中学を卒業す
ると、岐阜市内の高校に通うことを希望した。学力もあった。そういうK君に喜びながらも、それ に猛反対したのが、実はK君の母親だった。K君の母親は、あの手、この手をつかって、K君 が自分の手元を離れることを阻止しようとした。
母親はまず、中学の先生のところに話しにいった。そして何とか、岐阜へ行くのを思いとどま
るよう説得してほしいと頼んだ。つぎに、K君の通っていた塾の先生にも、それを頼んだ。岐阜 市にいる叔父(母親の兄)にも、それを頼んだ。しかしK君の前では、何も言わなかった。母親 は、K君に嫌われるのを避けたかったようだ。
今でこそ、こういう例は少なくなった。が、ないとは言えない。子どもは育てる。しかし最終的
には、自分のもとを離れることを許さない、と。
この違いが、冒頭のスズメの話である。
これはあくまでも仮定の話だが、あなたはどちらのタイプに近いだろうか。あなたがスズメの
子を拾ってきて、育て始めたときのことを想定してみてほしい。(もちろんあなたが小鳥が好き という前提での話である。)
(依存型ママ)拾ってきたスズメを育ててやる。しかし育ててやるのは、私。自分が「かわいい」
と思う間は、外に放してやらない。あくまでも部屋の中で、あるいはカゴの中で育てる。そのほう がスズメにとっても、安全と考える。勝手に逃げていくことを許さない。
(非依存型ママ)「かわいい」と思っても、やはり野生のスズメは、外の世界に放してやるのが一
番。さみしいと思うが、外に放してやる。育ててやったというような、恩は着せない。スズメにとっ ては、きびしい世界かもしれないが、それが本来、あるべき姿だと思う。
私も子どものころ、こんな経験がある。
何かの映画だったと思うが、野生のライオンの子を育てた人の映画だった。その人はそのラ
イオンがある程度大きくなったところで、そのライオンを野生に帰すための努力を始める。その 映画を見ていたときのこと。私は、こう思った。
「もったいない」と。「せっかく育ててやったのだから、自分でペットとして飼えばいい」とも。
実のところ、そう思ったということは、私自身が依存型の子育てを、無意識のうちにも、容認し
ていたことになる。しかしそれは、私自身がそう思ったというよりは、日本がもつ大きな流れの 中で、そういう意識をつくられたといったほうが正しい。私の父も母も、親戚の人たちも、そして 地域の人たちも、みな、そういう考え方をしていた。……今も、している?
だから私はその投書を読んだとき、新鮮な驚きを感じた。
私「育てたスズメを、外の世界に放してやるという発想は、ぼくの子ども時代には、なかった」
ワイフ「私は、小鳥を飼わなかったから……」
私「手なづけて、ペットとして飼うということは、考えた」
ワ「あくまでもペットね」
私「そう。日本人は、子どもを育てながら、どこかでペットを育てるようなところがある。一人の
人間として自立させるというよりは、自分のそばに置いて、かわいがるというようにね」
ワ「あくまでも自分のためね」
私「そう。子どものためではない。自分のため。ここに日本人が全体としてかかえる、精神的未
熟性がある」と。
(030920)
【追記】
いつか子どもは、あなたから去っていく。そのとき、あなたはどこまで無我の境地になれるだろ
うか。ある父親は、息子にむかって、ことあるごとに、こう言うという。「お前には、三〇〇〇万 円も、かけたからな」と。つまり「学費など、三〇〇〇万円もかかった」と。
その父親は息子にそう言いながら、「だから何とかせよ」と迫っている。その息子氏は、私に
こう言った。「あれくらい、いやな言葉はない。それを言われるたびに、かえって親への感謝の 気持ちが、吹っ飛んでしまう」と。
しかし父親がそう言うということは、そもそも父親の息子に対する愛情を疑ってみたほうがよ
い。何か、大きなわだかまりがあるのかもしれない。
親が子どもに対して犠牲的になるのはしかたないとしても、それを子どもに押しつけてはいけな
い。いわんや恩の押し売りをしてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの巣立ち 依存型子育て)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●脳の老化
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脳みそも、使っている部分は
発達する。しかし使っていない
部分は、老化する。
同じ脳みそなのに、仕事に応じて、
分業している?
最近、英語を翻訳していて、
そんなことを感じた。
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このところ英文を訳していると、ほかでは感じない疲れを覚えるようになった。脳ミソの中で
も、英語を訳す部分は、使う部分が違うらしい。
こうした現象は、ほかでも経験する。たとえば私は、単純な反復作業が苦手。すぐイライラし
てしまう。あるいはさがしものをしているときも、そうだ。
脳ミソというのは、部分によって、それぞれが別の働きをもっているようだ。言いかえると、そ
のつどいろいろな部分を鍛えておかないと、やがて使いものにならなくなるということ。部分的 には、活発に動いていても、ほかの部分がダメになるということは、理論的には考えられる。
そこでまた、あえて英文を訳してみる。訳しながら、あれこれ考えてみる。テーマは、「人生
論」。
●人生論
As long as a man stands in his own way, everything seems to be in his way: government,
society, and even the sun, moon and stars. ー Henry David Thoreau
人が、その本文を忘れないかぎり、すべてのものは、うまくいく。政府にせよ、社会にせよ、太
陽や月や星にせよ。(ソロー)
Disobedience is the true foundation of liberty. The obedient must be slaves. ー Henry David
Thoreau
不服従は、自由の源泉である。服従的な人は、奴隷でしかない。(ソロー)
If I have got false teeth, I trust that I have not got a false conscience. It is safer to employ
the dentist than the priest to repair the deficiencies of nature. ー Henry David Thoreau
もし私が入れ歯をしたとしても、私は、ニセの意識をもったとは思わない。自然の欠陥をなおす
ために牧師を雇うよりも、歯医者を雇ったほうが、安全だ。(ソロー)
Obstacles are those frightful things we see when we take our eyes off our goal. ー Henry
Ford
障害なんてものはね、目標から目をそらしたときに見る、恐ろしいもののことだよ。(=目標か
ら、目をそらすまで、障害はない。)(ヘンリー・フォード)
Don't do anything by half. If you love someone, love them with all your soul. When you go to
work, work your ass off. When you hate someone, hate them until it hurts. ー Henry Rollins
何でも中途半端なことをするな。だれかを愛するなら、心底、徹底的に愛せよ。仕事をするな
ら、ケツの穴が抜けるほど仕事をせよ。だれかを憎むなら、それで自分の心が痛むまで、徹底 的に憎め。(ヘンリー・ロリンズ)
Never let your sense of morals keep you from doing what is right. ー Isaac Asimov
正しいことをするために、あなたの道徳を眠らせてはいけない。
For every problem, there exists a simple and elegant solution which is absolutely wrong. ー
J. Wagoner, U.C.B. Mathematics
どんな問題にも、それを快活するためにの、完ぺきにまちがっているところの、簡単で、魅惑
的な方法がある。
If something is boring after two minutes, try it for four. If still boring, then eight. Then
sixteen. Then thirtyーtwo. Eventually one discovers that it is not boring at all. ー John Cage
二分間してみて、退屈に感じたら、四分間してみろ。それでだめなら八分間してみろ。さらに一
六分間してみろ。つぎに三二分間だ。そうすれば結果的に、あなたはそれが退屈でないと、知 るだろう。(J・ケイジ)
Man will often act and live as though he were apart from his body, as if improving it from
the outside. ー Karl Marx
男というのは、しばしば彼の肉体を離れているかのように行動し、生きるもの。あたかも肉体を
外から改善するかにように。(カール・マルクス)
When you are content to be simply yourself and don't compare or compete, everybody will
respect you ー LaoーTzu
ただ自分に満足すればよい。戦うために比較するな。そうすれば皆があなたを尊敬するように
なるだろう。(ラオ・ツ)
The real question of life after death isn't whether or not it exists, but even if it does, what
problems this really solves. ー Ludwig Wittgenstein
死後の世界があるかどうかは、問題ではない。仮に存在したとしても、それがどんな問題を解
決するというのか。(L・ウィッチンゲンスタイン)
If the brain were so simple we could understand it, we would be so simple we couldn't. ー
Lyall Watson
脳ミソがそんなにも単純なもので、それを理解したとしても、我々は、そんなふうに理解できる
ほど、単純ではない。(L・ワットソン)
First they ignore you, then they laugh at you, then they fight you, then you win. ー Mahatma
Ghandi
最初は彼らがあなたを無視する。つぎに、あざ笑い、それからあなたに戦いをいどんでくる。そ
のとき、あなたは勝つ。(マハトマ・ガンジー)
In the end, we will remember not the words of our enemies, but the silence of our friends. ー
Martin Luther King Jr.
最後には、あなたは敵の言葉ではなく、友の沈黙のほうを覚えているだろう。(マーティンルー
サー・キング・Jr)
If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther
King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティ
ンルーサー・キング・Jr)
●広い世界
要するに、いかにして自分の住む世界を広くするかということ。脳ミソのレベルでいうなら、い
ろいろな部分を刺激しつづけること。決して、かたよってはいけない。そう言えば、昔、こんな人 がいた。
その人は、数学の世界では、かなり名の知られた人だった。小学校の算数教育の世界で
は、とくに有名だった。しかしその人は、五〇歳をすぎるころから、今でいうアルツハイマー型 痴呆症にかかっていたと思う。
言うことなすこと、メチャメチャで、トンチンカンだったが、数学の問題だけは、難解な問題で
も、スラスラと解いていた。つまり彼のばあい、脳ミソのほかの部分は、おかしくなったが、数学 の問題を解く部分だけは、そうでなかったということ。もっとも、その部分も、やがてあとを追い かけるように、おかしくなったが、そういうことはある。
脳ミソ全体を活性化するためには、いろいろな方面に興味をもち、そのつどチャレンジしてい
かねばならない。たとえば、いわゆる専門バカになるのは、たいへん危険なことである。その部 分は活性化するかもしれないが、ほかの部分が、ダメになってしまう。
……と書いて、「では、私はだいじょうぶか?」と、今、思った。冒頭に書いたように、英文を翻
訳していると、昔は感じなかった、疲れを覚えるようになった。これはどういう現象によるもの か。
一説によると、言語野は左脳にあるという。しかし英語の意味を直感的に考える部分は、右
脳にあるという。となると、私が感ずる疲れは、左脳と右脳が情報をやり取りする部分、つまり 脳梁(のうりょう)に原因があるのではないか、ということになる。(あくまでも素人判断だが… …。)
そう言えば、このところ絵を描かなくなった。作曲もしなくなった。少なくとも、この一〇年、ほと
んど、していない。そういう点では、右脳がつかさどっているとされる、クリエイティブな力が落ち てきたかもしれない。
いかにして、脳ミソ全体を使っていくか。脳ミソに新しい刺激を与えていくか。ひとつの実験と
して、ポルノ小説を書いてみる。(あくまでも、創作小説だぞ!) あなたの脳ミソを活性化する のにも、少しは役だつかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 脳の
老化 分業)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++はやし浩司5081
●自己の統合性
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どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。
それが統合性の問題ということになる。
が、それを一言で言い表した人がいた。
マルチン・ルーサー・キングである。
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マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。
If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther
King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティ
ン・ルーサー・キング・Jr)
そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せ
て、私は今、命がけでしていることがあるか、と。
老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎
日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれ ない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガー は、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ 日誌』の浜ちゃん!)
しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一
夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が 必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかど うかは、これまた別問題。
命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そ
うではないか?
「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私に
は、命がけでしなければならない仕事があるか」と。
ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画
大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに 紹介させてもらう。
「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初
めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は 親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。
勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最
期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心 は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼 女は退職届を出すところだった。
「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の
仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の 原因となっていた陳述書だった……」と。
この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞してい
る。
そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求め
る。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾 hp」)と。
今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。
+++++++++++
●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)
1 いのち短し 恋せよ乙女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
2 いのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて 彼(か)の舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものを
3 いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
++++++++++++
私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07+++++++++はやし浩司5081
最前線の子育て論byはやし浩司(2301)
【いじめ】
+++++++++++++
いじめについての相談は、多い。
昨日も、1件、入った。
メールの内容について、「転載不許可」
とあるので、ここでは紹介できない。
以前に書いた原稿を、もう一度、
手直ししながら、改めて
いじめについて、考え直して
みる。
+++++++++++++
●いじめに苦しむ中学生
ある母親(静岡県K市在住、STさん)から、相談のメールが入った。内容は、中学二年生にあ
る娘が、学校でいじめにあっているという。何をしても無視される。仲間はずれにされる。のけ ものにされる。そしてそのたびに、娘はつらい思いをしている。だから「娘の心に、キズはつか ないか?」と。
こうした相談をもらうたびに、私は大きな無力感を覚える。その母親は、私に救いを求めてき
ている。しかし私には、その母親はもちろん、娘を救う力など、どこにもない。私がせいぜいで きることと言えば、その母親や娘の立場になって、話を聞いてやることでしかない。
実は、私も、中学時代のある時期、そして高校時代のある時期、同じような経験をしている。
こんなことがあった。高校一年の終わりか、二年のときのことだったと思う。
遠足のバスの、その席決めをするときのこと。クラスに一人、リーダー格の男がいて、その男
が、バスの一番うしろに陣取ってしまった。あとはその仲間と取り巻きが、うしろから順に席をと った。担任の教師が、「話しあって、自分たちで決めろ」と言った。それでそうなった。
私は、前から二番目の席に座ることになった。となりは、学校ではまったく目立たない、B君
だった。授業中でも居眠りすると、口や鼻から、ダラダラと唾液をこぼす男だった。そのため、 とくに、女子からは嫌われていた。
私は、だれも座りたがらない、そのB君の横に座った。親しくはなかったが、家が近かった。
それでよく遊びに行ったりは、していた。
ほかにもいろいろあった。で、そういうときの自分の心理を、思いだしてみると、今でも何とも
言えない重苦しさを覚える。心が空回りしているというか、自分であって、自分でなかったような ……。
毎日が、そういういじめと、それに対する、虚勢の張りあいの繰りかえしだった。当時の私
は、弱音を吐いたら、負けと思っていた。だからいくらいじめにあっても、それを気にしないフリ をしていた。反対に、ときには、相手に向かって、殴りあいのけんかをしかけていったこともあ る。
私は、そういう点では、決してヤワな男ではなかった。そんな私でも、毎日、学校へ向かうの
が苦痛だった。いつもひとりぼっちだったし、心を許せる友だちはいなかった。私は、みなか ら、孤立していた。
今から考えると、その原因のほとんどは、担任のT教師にあったように思う。高校の入学当
時、私はズバ抜けて成績がよかった。だからT教師はいつも、「林に追いつけ」「林を追い越 せ」と、みなにハッパをかけていた。一方、追われる立場の私には、テストごとに、「お前は、こ の科目では、XXに負けそうだ」「YYに追いつかれるぞ」と、脅した。
そんなわけで私は、高校一年の夏休みには、すでに転校を考えていた。が、母がそれを許さ
なかった。母は、あの手、この手を使って、私の転校を阻止しようとした。私はやがて、八方ふ さがりの状態に追いこまれていった。
私に対する「いじめ」は、そのころから始まった。みなが私には、口をきいてくれなくなった。も
ちろんあいさつもない。そのつど、いろいろなスポーツ大会があったが、私はそれからも仲間 はずれにされた。
ゆいいつ、私ができたことは、逆に、彼らを無視することだった。本当は無視などできなかっ
たが、気にしていないフリをした。「どうぞ、ご勝手に」と。
●私の経験から
こうしてあの悪夢のような三年間は終わったが、その結果、私はどうなったか? 孤独に強く
なったというか、そういう生きザマが、身についてしまった。今でも、そのころの生きザマが、基 本になっている。他人に相手にされなくても、かまわないという生きザマ。結局は、生きていくの もひとり、死ぬのもひとりという生きザマ。ときどきそんな自分を、「風来坊」とか、「無頼(ぶら い)」とか思うことがある。そういう生きザマを身につけてしまった。
いじめによる「キズ」は、たしかにある。ないとは言わない。しかし私のばあい、もう一つ大き
な問題があった。
私が四、五歳のころから、父は酒におぼれるようになり、数日おきに酒を飲んでは暴れた。
私には、まさに地獄のような毎日だった。そのため、当然のことながら、心もゆがんだ。精神も キズついた。今でも、当時のキズが、私を苦しめることがある。
だから打たれ強いというか、免疫性ができていたというか、学校でのいじめは、あくまでも私
にとっては、マイナーな問題でしかなかった。学校にいるのも地獄なら、家の中にいるのは、さ らに地獄だった。
こうした私の経験が、その相談の人に役だつかどうかは知らないが、こういうことは言える。
質問にもあるように、「キズつくかどうか」ということだが、キズはつく。まちがいなく、キズはつ
き、そのキズは一生残る。やわらぐことはあるが、決して消えることはない。今の私がそうだ が、私はいつごろからか、もう消そうとは思わなくなった。そのかわり、キズと、うまくつきあうこ とだけを考えるようになった。あきらめたというか、居なおったというか……。
ただ、誤解しないでほしいのは、キズのない人はいないし、また人は、キズまるけになって成
長するものだということ。キズをつくような経験は、だれでもいやだ。しかし人は、キズまるけに なって成長する。
こんなことを書くと、その渦中にいる人に、叱られるかもしれない。以前、私に、「あんたはい
じめの本質がわかっていない。教育評論家として失格だ。筆を折れ。大馬鹿野郎!」と、手紙 を書いてきた女性がいた。私が、「いじめによって、子どもが、キズつくことを恐れてはいけな い」と、何かのコラムに書いたときのことである。その女性は、私の文をしっかりと読まないま ま、「いじめを容認する発言で、許せない」と怒っていた。私は、そんなことは一言もいないのだ が……。
私は何も、いじめを肯定しているのでも、容認しているのでもない。しかし人は、キズつくこと
で、そうでない人にはわからない、心のポケットをつくる。そしてそのポケットが多くなり、それぞ れのポケットが深くなればなるほど、その人はやさしくなる。人格は重くなる。
いじめた人は、そのときは、ある種の優越感にひたることができるかもしれないが、長い間の
人生では、確実に損をする。人生の真理から遠ざかった分だけ、時間をムダにする。
しかし一方、いじめられた人は、そのときは、深い悲しみや苦しみに襲われるかもしれない
が、長い人生の中で、一直線に、真理に向かうことができる。ほかの人が見ることができない 世界を見、そしてその世界が、どんな世界かを、知ることができる。
私も、もうずぐ五六歳になる。だから今まで、だれにも話さなかったことを告白しよう。
●クビ切りは、立ち話だった
三年間勤めた進学塾の講師だったが、クビを切られるときは、立ち話だった。ある日、教室
で資料の整理をしていると、交代したばかりの塾長がやってきて、私にこう言った。「林君、君 は、来月からは、もう来なくていいから」と。
そのとき私が受けた衝撃がどんなものであったか。それはともかくも、私はそれから数日間、
夜は一睡もできなかった。体中が熱をおび、息苦しさが、私を繰り返し襲った。ワイフが一晩 中、私を、介抱(かいほう)してくれた。
で、その結果だが、私は、そのときの悔しさを、バネとすることができた。「いつかあいつをた
たきのめしてやる」と、燃えるような敵意さえ覚えた。もっとも、そのあと私が選んだ道は、決し て楽なものではなかったが、ともかくも、そのときを境に、私の幼児教育に対する姿勢は、大き く変わった。
今から思うと、そのときの反骨精神もまた、あの高校時代につかんだ生きザマからきている
のかもしれない。怒りを、生きるエネルギーにする。悔しさを、生きるバネにする。そして苦しみ や悲しみ乗り越えながら、ますます強くなっていく。そういう反骨精神である。
こういう経験から、いろいろなことが言える。
●いじめる側の意識
私のばあい、高校時代、そうしたいじめにあっているとき、それをだれにも言わなかった。父
はもちろんのこと、母にも、そして担任の教師にも言わなかった。これは余談だが、最近になっ て、高校の同窓生のY君にその話をすると、Y君は、こう言った。
「林がいじめにあっていたなんて、信じられない。お前は、いつも明るく楽しそうだった。それ
にお前は、T(担任教師)に、かわいがられていたと思っていたよ」と。
さらにこんなこともあった。ちょうど三〇歳になったころ。高校の同窓会があった。で、その中
の一人に、私はこう聞いた。X君といって、そのグループのナンバー2にいた男だった。「君は、 高校時代、かなりぼくに敵意を感じていたようだが、どうしてか?」と。
するとその男は、けげんそうな顔をして、「ぼくがア……?」と。
まったく覚えていないというか、記憶にないというような様子だった。私は、彼の態度に驚い
た。「私をいじめていたことを覚えていない?」と。
しかしもしそのとき、そのとき彼が、「ああ、そうだったな」とでも言えば、私はその場でその男
を、殴り飛ばしていたかもしれない。その覚悟をもって、私はそう聞いた。が、その彼が、「ぼく がア……?」と。
最初、私は、彼がとぼけていると思った。しかしどうもそうでなかったようだ。どこか狐につま
まれたような気分だった。そしてつぎの瞬間、私は「では、あのいじめはいったい、何だったの か」と思った。私の思い過ごし? 誤解? それとも被害妄想? わけがわからなくなってしまっ た。
で、あの状況の中で、つまり私が高校という場でキズまるけになっていたとき、だれかが私を
救うことができたかというと、それはできなかったと思う。父や母の出る幕はなかったし、担任 の教師の問題ではなかった。いじめるほうはともかくも、いじめられるほうにとっては、いじめの 問題は、どこまでも個人的な問題である。
本当に助ける力があるなら、相手の子どもを排除するか、さもなければ、私を別の世界へ運
び出す。そこまでしてはじめて、そういうときの私を救うことができる。へたな励ましや、へたな 指導など、何の意味もない。あれこれ外部の人が口を出すと、かえって事情は複雑になる。た とえそれが親や教師でも、だ。
こうして考えてみると、最初に感じた無力感は、そのまま親の限界ということにもなる。つまり
親にできることにも、限界があるということ。親はいつも、その限界状況の中で、子育てをす る。
親がせいぜいできることと言えば、その限界状況の内側から、子どもの成長を、そっと静か
に見守ることでしかない。それは、とくにこうした問題をかかえた親には、つらくてきびしい経験 かもしれないが、どうしようもない。
ゆいいつできることと言えば、家庭という場を通して、子どもの心と体をいやす程度でしかな
い。そしてどこまでも子ども立場で、子どもの心を理解することでしかない。「がんばれ」ではな く、「あなたはよくがんばっているわ」と。
少し話題を変えてみたい。
ひとり、印象に残っている高校生に、ヒロシ君という子どもがいた。私は今でも、その子ども
を、尊敬の念をこめて、「ヒロシ君」と、「君」づけで呼ぶ。そのヒロシ君について書いた原稿を、 ここに掲載する。
++++++++++++++++++++++
●ヒロシ君
ヒロシ君(中二)は、心のやさしい子どもだった。そういうこともあって、いつも皆に、いじめら
れていた。が、彼は決して、友だちを責めなかった。背中にチョークで、いっぱい落書きをされ ても、「ううん、いいんだよ、先生。何でもないよ。皆でふざけて遊んでいただけだよ」と言ってい た。
そのヒロシ君は、事情があって、祖父母の手で育てられていた。が、その祖父が脳梗塞で倒
れた。倒れて伊豆にあるリハビリセンターへ入院した。これから先は、ヒロシ君の祖母から聞 いた話だ。
祖父はヒロシ君が毎週、見舞いに来てくれるのを待って、ひげを剃らなかった。ヒロシ君がひ
げを剃ってくれるのを、何よりも楽しみにしていたそうだ。そしてそれが終わると、祖父とヒロシ 君は、センターの北にある神社へ、お参りに行くことになっていたという。
そこでのこと。帰る道すがら、祖父が、「お前はどんなことを祈ったか」と聞くと、ヒロシ君は、
「高校に合格しますようにと祈った」と。それを聞いた祖父が怒って、「どうしてお前は、わしの 病気が治るように祈らなかったか」と。そこでヒロシ君はあわてて神社へ戻り、もう一度、祈りな おしたという。
この話を聞いて以来、私は彼を、尊敬の念をこめて、「ヒロシ君(実名)」で呼ぶようになった。
とても呼び捨てにはできなかった。いろいろな子どもがいるが、実際には、ヒロシ君のような子 どももいる。
今、いじめが問題になっている。しかしいじめられる子どもは、幸いである。心に大きな財産
を蓄えることができる。一方、いじめる子どもは、大きく自分の心を削る。そしていつか、そのこ とで後悔するときがくる。世の中の人はバカばかりではない。しっかりと人を見る人がいる。そ ういう人が、しかっりと判断する。ヒロシ君にしても、学校の先生には好かれ、浜松市内のK高 校を卒業したあと、東京のK大学へと進んでいる。ヒロシ君は、見るからに人格が違っていた。
自分の子どもが、学校でいじめられているのを見るのは、つらいことだ。しかし問題は、いつ
どこで親が手を出し、いつどこで教師が手を出すかだ。いじめのない世界はないし、人はいじ められながら成長し、そしてたくましくなる。つらいが、親も教師も、耐えるところでは耐える。そ うでないと、子どもがひ弱になってしまう。
今はこういう時代だから、ちょっとした悪ふざけでも、「そら、いじめだ!」と、親は騒ぐ。が、こう
いう姿勢は、かえって子どもから自立心を奪う。もちろん陰湿ないじめや、限度を超えたいじめ は別である。
しかしそれ以前の範囲なら、一に様子を見て、二にがまん。三、四がなくて、五に相談。親や教
師ができることといえば、せいぜい、子どもの肩に手をかけ、「お前はがんばっているんだよ」と 励ましてあげることでしか、ない。それは親や教師にとっては、とてもつらいことだが、親や教師 にも、できることには限度がある。その限度の中で、じっと耐えるのも、親や教師の務めではな いかと、私は思う。
++++++++++++++++++++++
●いじめの背後にあるもの
繰りかえすが、だからといって、もちろんいじめを、私は肯定しているわけではない。容認して
いるわけでもない。しかしこの問題は、親たちが考えているより、はるかに根が深い。
今のような、つまり、日本のような競争主義の世界では、強者、弱者は必然的に生まれる。
「勉強しなさい」という、親たちが何気なく使う言葉が、一方で、子どもたちの世界で、軋轢(あつ れき)を生み出す。
さらに人間という生物そのものが、本来的にかかえる問題もある。弱者を踏みにじりながら、
あるいは弱者を排斥しながら、人間は進化を重ねてきた。理性を超えた、本能の部分で、いじ めが起こることもある。
本来なら、社会のリーダーたちが、その弱者の立場で、政治を考え、社会を考えなければな
らない。しかしこの日本では、皮肉なことに、はげしい受験構想を勝ちぬいた、つまりは、勉強 しかしない。勉強しかできないような、いわゆる強者でないと、そのリーダーになれない。もとも と弱者の視点そのものがない。
文化の完成度は、弱者にいかにやさしい社会かで、決まる。そのやさしさがある社会を、完
成された社会と呼び、そうでない社会を、不完全な社会と呼ぶ。豪華な劇場や、豪華な道路で はない。あくまでも、「心の中身」で決まる。
こうした社会や、人間性の欠陥を補うため、制度として、いじめに苦しんでいる子どもを救う
方法も考えなければならない。たとえばこの日本では、子どもたちには、いつもひとつのコース しかない。考えてみれば、これほど、おかしな制度もない。いまだにこの日本は、明治時代の 富国強兵策から生まれた学校制度を、かたくなに守っている。
融通のきかない制度。多様性を認めない制度。実はそういう硬直した世界で、子どもたち自
身が、窒息している。親たちも、窒息している。いじめに限らず、学校教育がかかえるほとんど の問題は、こうした硬直した制度から生まれる。受験競争しかり。荒廃しかり。校内暴力しか り。
いじめの問題を、本当に解決しようと考えたら、こうした部分にまでメスを入れなければならな
い。しかし、それは今の日本では、可能なのか?
●どう接したらよいか?
そこで、こう考えては、どうだろうか。これは私の経験をもとに、「こうあってほしかった」という
視点から考えた方法である。
(1)徹底して、家庭を、憩いとやすらぎの場にする。……家庭を、子どもが外の世界で疲れた
心と体を休める場所にする。そのために「暖かい無視」を大切にする。子どもの世界を、親の 暖かい愛情で包み、一方、子ども自身が親の目をほとんど感じないほどまでに、無視する。こ うしたケースで、子どものほうから、何か救いを求めてこない間は、親のほうから、あれこれ、 口を出すのは、かえって逆効果。
(2)あくまでも子どもの立場で考える。……こうしたケースで、「がんばれ」式の励まし。「こんな
ことでは」式の脅しは、タブー。それについては、もう書いた。大切なことは、子どもの苦しみを 共有すること。「あなたはダメになってしまう」式に、不安や心配を子どもにぶつけてはいけな い。さらに「学校が悪い」「友だちが悪い」式に、怒りやうらみを、他人にぶつけてはいけない。 愚かな人間たちを、あわれんでやる。そういう姿勢が、子どもの心を溶かし、そして豊かにす る。
(3)コースは一つではない。……幸せになる道は、決して一つではない。近道もないし、回り道
もない。子どもの世界について言うなら、「学校」だけが、コースではない。だからといって、学 校教育を否定しているのではない。ないが、その学校教育には、限界がある。「学校」を絶対 視してはいけない。大切なのは、そうした幻想から、自らを解き放つこと。親が、その幻想にと りつかれている間は、子どももまた、その幻想から解き放たれることはない。集団に属さない から、落ちこぼれという考え方は、まちがっている。完全にまちがっている。もしまちがっている というのなら、では、いったい、この私はどうなのか。私は二〇代のはじめから、集団には、ま ったく属していない。
(4)高い文化をめざそう。……先にも書いたように、文化の高さは、社会的弱者にいかにやさ
しいかで、決まる。そういう「やさしい社会」を、みんなでめざそう。こうした教育のまつわる最大 の欠陥は、実は、親たち自身にある。親たちは、自分の子どもがその渦中にいるときは、あれ これ大きく問題にする。しかし子どもが、卒業し、「学校」から離れると、その問題から遠ざかっ てしまう。逃げてしまう。私が何か、助言を求めても、「私たちは、もう終わりましたから」と。こう した親の気持ちが、理解できないわけではない。しかしこうした親の「割り切り?」が、問題を順 に先送りしてしまう。むずかしいことではない。ごく日常的な、ほんの身のまわりから、「やさし さ」を見つけ、それを育てていく。そういう小さな努力が、この日本を変える。
注意すべきこともある。こうしたいじめを経験した子どもは、そのあと、大きく、二つのタイプに
分かれる。
ひとつは、いじめの邪悪性に気づき、人間的に自らを昇華していくタイプ。もうひとつは、その
邪悪さに、染まっていくタイプ。後者の子どもは、いじめられた経験をもとに、今度は反対に、い じめる側に回ることが多い。
このいじめとは関係ないが、私は、このことを、自分がドン底に落とされたとき、発見した。そ
のことについて書いたのが、つぎの原稿である。話が少しわき道にそれるが、許してほしい。
++++++++++++++++++++++
●善人と悪人
人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう意味で
善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚園で講師にな ったとき、すべてをなくした。母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。私は 毎晩、自分のアパートへ帰るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならな かった。ただ私のばあいは、そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方 をするようになった。酒もタバコもやめた。女遊びもやめた。
もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立
ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分 自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。だから今、そういった自分を振りかえってみると、 自分にはたしかに運命はあった。しかしその運命というのは、あらかじめ決められたものでは なく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自分で決めながら、自分の運命をつくってきた。 が、しかし本当にそう言いきってよいものか。
もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運
命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていただろう。自分 ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねているに 違いない。が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運 命を、自分で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当に私 なのか、と。
今も、世間をにぎわしている偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人に
なったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は 偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。
たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれ
ば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、その ままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に 吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦ってい る。
私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ち
ょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人ぶっているあな ただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっている かもしれない。そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにく い話をしたが、「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のとこ ろで考えてみることにする。
+++++++++++++++++++++++
【STさんへ】
相談のメール、どうもありがとうございました。ここでは、「いじめ」について、少し別の角度か
ら考えてみました。参考になったかどうかは、わかりませんが、今、私が思っていることを、そ のまま書いてみました。
お嬢さんが苦しんでおられる様子は、メールの内容から、よくわかります。またよく理解できま
す。しかしこの問題がかかえる、最大の問題は、その怒りや悲しみを、ぶつける先がないという ことです。だれに、どう訴えたらよいのかわからないまま、袋小路に入ってしまいます。
本来なら、「そんなに苦しいのなら、学校なんて、行かなくてもいいのよ」と言ってあげたいで
すね。しかしそれが自然な形で言えるようになるには、親自身、さらには社会全体がもっている 意識を変えなければなりません。
大切なことは、お嬢さんの「心」を守るということです。いえ、キズつくことから守るというのでは
ありません。こうしたキズには、必ず、二面性があります。キズを、自分の心のポケットにする 子どももいれば、さらに邪悪な心に転化してしまう子どももいるということです。
その分かれ道は、「やさしさ」で決まります。今こそ、あなたという親のやさしさの、その真価が
試されるときだと思ってください。あなたの愛情と、それから生まれ出るやさしさがあれば、あな たのお嬢さんの心がゆがむということは、ありえません。どうか、それを信じて、前向きに進ん でください。
悲しいことに、いじめる側は、ほとんど無意識のまま、半ば「遊び」の連続として、それをしま
す。本人たちに、いじめているという意識そのものがないのが、ふつうです。言いかえると、こち ら側が、まじめに考えるのが、アホらしくなるほどです。だったら、無視すればよいのです。とい っても、それは口で言うほど、簡単なことではないですが……。
そこでどうでしょう。こう考えては……。
親は、子どもを産んで親になりますが、真の親になる道は、遠い、です。野を越え、山を越
え、嵐の中をくぐり抜けながら、前に進む。そしてその結果として、親は、子どもによって、真の 親へと育てられる。
STさんがかかえておられる問題が、決して簡単な問題だと言っているのではありません。し
かしこの問題も、前向きにとらえることによって、あなたはあなたとして、それを自分を成長させ るための道具とすることができるということです。
そうです。これは深刻な問題です。先にも書いたように、社会全体、あるいは人間が本性とし
てかかえる問題です。だったら、みんなで、この問題を考えていこうではありませんか。……つ まり、私がここでいう「前向き」というのは、そういう姿勢をいいます。
本当に、無力で、ごめんなさい。しかしね、STさん。こうした無力感は、今、始まったばかりで
すよ。これから先、STさんも、親として、無数の無力感を覚えるはずです。どうしようもないカベ にぶつかりながら、そのつど、「許して忘れる」。子育ては、まさにその連続です。
一つ、視点を外に向ければ、格差、貧困、不公平社会。さらに外に向ければ、争い、飢餓、
戦争。いやおうなしに、子どもたちは、そういう世界に巻きこまれていきます。
たとえば、こんなこともあります。私の息子の一人も、タバコを吸っています。それまでははげ
しく禁煙運動をしていた私ですが、以後、禁煙運動はやめました。無力感というか、大きな挫折 感を覚えたからです。
しかし今、そういう息子を振りかえりながら、息子には息子の、タバコを吸いたくなるような、
心の状態があったことが理解できます。そして一方に、エイズだの、麻薬だの、そういう問題が あります。今では、「タバコなど、何でもないなあ」と思うようになってしまいました。
こうした無力感を感ずるうちに、これは私のばあいですが、その怒りを、外に向けるようにな
りました。今、こうして評論活動をつづけているのも、その一つです。で、私たちが、親としてせ いぜいできることと言えば、キズついて帰ってくる息子や娘たちが、心や体を休める場所を、静 かに提供することぐらいでしか、ありません。「いつでも、疲れたら、もどっておいで」とです。と てもつらいことですが、そっと暖かく、見守ることでしかないということです。
何の力にもなれません。たいへん、申し訳なく思っています。ただそれがどんな形であれ、あ
なたのお嬢さんは、今、懸命に、戦いながら生きています。いじめの問題はさておき、私はそう いう姿の中に、懸命に生きる人間の尊さというか、美しさを感じます。どうかそういう視点で、あ なたのお嬢さんの成長を、見守ってあげてください。約束します。あなたのお嬢さんが、この問 題を乗り切ったとき、あなたのお嬢さんは、まちがいなくすばらしい人間に成長します。そしてあ なた自身も、すばらしい人間に成長します。
どうかそれを信じて、前向きに、ただひたすら前向きに、進んでみてください。
いっしょに、弱い人をいじめる、アホな連中を、あわれんでやろうでは、ありませんか。
いっしょに、弱い人をいじめる、バカな連中を、あわれんでやろうでは、ありませんか。
そんな気持を忘れずに。それが、私たちの、やさしさなのです。
(030922)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
【溺愛】
●母親の溺愛
溺愛する親にせよ、ストーカー行為を繰りかえす人にせよ、それは「愛」によるものではない。
「代償的愛」による。代償的愛というのは、いわば、愛もどきの愛。身勝手で、自分本位の愛。 自分の心のすき間を埋めるための愛。子どもや、その相手を、そのために利用しているにす ぎない。
この代償的愛は、共通のものと考えてよい。私はこのことを、一人の母親に出会って、知っ
た。
その母親(五五歳くらい)は、娘(現在、二八歳)を、溺愛した。それは恐ろしいほどの溺愛だ
った。娘が幼稚園児のときは、遠足先まで、見え隠れしながら、自分で車を運転して、ついてき たという。
が、その娘は、あるときから、そういう母親の溺愛をうるさく思うようになった。そして事件は起
きた。
娘が母親の反対を押し切って、一人の男と結婚して、家を出てしまった。母親は、娘夫婦とい
っしょに暮らすことを考えていた。が、その夢は、こなごなに、こわれた。とたん、その母親は、 ストーカーに変身した。
その話を、その女性(娘)から聞いたままを、ドキュメンタリー風に、書いてみる。あまりにも
生々しい話なので、事実だけを、そのまま書く。
+++++++++++++++++
●娘をストーカーする母親
ある夕方、H(女性、二八歳)が、食事のしたくをしていると、そこへ電話がかかってきた。そこ
に住むようになって、数日目のことだった。受話器を取ると、母親からだった。母親は、こう言っ た。
「あんた、今日はダサイ服を着てたわね。何よ、あの赤いスカート!」と。驚いてHが、「どうし
て知ってるの?」と聞くと、「スーパーで見かけたからよ」と。
しかしその娘が行くスーパーには、母親は行かないはず。それに実家からは、距離も離れて
いる。母親は、ネチネチとした言い方で、あれこれ話し始めた。
「あんた、インスタント食品ばかり買ってたでしょ。それにスパゲッティに、ウーロン茶? いっ
たい、どういう取り合わせをしてるの? 体によくないわよね。それとも、あんたのダンナを早 く、殺したいの? ちゃんと、料理してあげなさいよ」と。
Hは、母が自分のことを怒っていることを知っていた。母の反対を押し切って、結婚した。実
際には、結婚式は、できなかった。今の夫とは、駈け落ちするかのようにして、家を出た。あと で父に聞くと、その夜、母は、狂乱状態になって暴れたという。そんな負い目があった。Hは、 母親の話をだまって聞くしかなかった。
が、それは、それからつづく、いやがらせの、ほんのはじめに過ぎなかった。
電話は、翌日もかかってきた。そして今度は、こう言った。
「この親不孝者め。親を捨てて家を出るということが、どういうことなのか、あんたにはわかっ
ているの。あのね、親を捨てる者は、地獄へ落ちるのよ。そう、あんたなんか、地獄へ落ちれ ばいいのよ」と。
それは前日と同じように、ネチネチした言い方だった。Hは、電話にとまどいながらも、反発す
ることすらできなかった。相手は親だ。しかも自分は、その親に、かわいがってもらった。ほし いものは、たいてい何でも買ってもらった。
大学は家から通ったが、家では、一番日当たりのよい、二階の三部屋を自由に使うことがで
きた。学費のほか、毎月一〇万円の小づかいをもらっていたが、そのほとんどは遊興費に使う ことができた。しかし親は、何も文句は言わなかった。
H「お母さん、ごめんなさい。親不孝者だということは、自分でもわかっているわ」
母「そうよ。あんたなんか、地獄へ落ちるのよ。私が先に死ぬからね。あの世で、あんたが地
獄へ落ちるのを、楽しみに見ていてあげるからね」
H「でも、そんなつもりはないの」
母「そんなつもりって、何だい? 親を捨てたことかい?」
H「捨ててなんか、いないわ。いつもお母さんのことを、大切に思っているわ」
母「ああ、私はね、足が痛いんだよ。年齢も年齢だからね。だれが、病院へ連れていってくれる
のかね」と。
こうした電話が、ほとんど、毎日、かかってきた。ときには、朝早い時刻に。ときには、真夜中
に。Hは、電話のベルが鳴るたびに、不安感を覚えるようになった。「心の底をえぐられるような 不安感」と、Hは言った。
しかしHは、母からの電話については、夫には言わなかった。ときどき夫が電話に出ることは
あったが、母は、夫には、別人のように、やさしくていねいな言い方をした。夫は、いつも、H に、「おまえの母さんは、いい母さんだな」と言っていた。
そう、母親は、近所では、「仏様」というニックネームをつけられていた。穏やかな顔立ち、そ
れに低い、物腰。何かと小うるさい女性ではあったが、嫌われるということは、なかった。しかし 娘のHには、違った。
その日は、夫がいない夜に、電話がかかってきた。母は、夫が泊りがけの出張で、家にいな
いことを知っていた。
母「あんたの手料理が食べたいよオ〜」
H「何を?」
母「昨日は、ダンナと、スキヤキを食べたんだろ?」
H「どうして、それを知っているの?」
母「母さんは、何でも知ってるんだよ」
H「どうしてスキヤキって、知っているの? 見てたの? どこで?」
母「そんなのは、私の勝手だろ。私はね、あんたが家を出てからというもの、毎晩、泣いて過ご
しているんだよ」
H「そんな……」
母「あんたも、もうすぐ母親になるんだろ。子どもが生まれるんだろ。だったら、そんな狭いアパ
ートなんかにいないでさ、うちへ戻っておいでよ。あんな風采のあがらないダンナなんかとは、 別れなさいよ」
H[それは、できないわ]
母「どうしてだい。親よりも、ダンナのほうが大切だと言うのかい?」
H「そうではないけど、私には、私の生活があるのよ」
母「じゃあ聞くけど、私の人生は何だったのよ。私の人生を返してよ。あんたには、いくらお金を
かけたか、わからない。あんたがピアノをひけるようになったのも、私が毎週、毎週、高い月謝 を払って、ピアノ教室へ連れていってあげたからでしょ。その恩を忘れたの?」
H「忘れてはいないわ。でも、私は私の生活をしたいの」
母「この親不孝者めが!」(ガチャン)と。
Hによると、電話での母の声の調子は、毎日のように変わるという。はげしく罵声したかと思う
と、その翌日には、ネコなで声で、甘えるような言い方をするなど。あるいは、怒った言い方を した翌日は、今度は一転、弱々しい言い方をするときもあるという。一度は、今にも死にそうな 声で、「助けてくれ」と電話がかかってきたこともある。
あわててHが実家へ戻ってみると、母は台所で、ピンピンしていたという。そしてこう言ったと
いう。「お帰りなさい。あんたが帰ってくると思ったから、おいしいごちそうを用意しておいたから ね」と。
Hは夫に、あれこれ口実をつくって、アパートをかえることにした。夫は、それに従ってくれた。
Hは、もちろん母に内緒で、今度は、市内でも、実家からは反対側にある、E町に住居を移し た。が、電話線を引いたその翌日には、母から電話がかかってきた。
母「引っ越したんだってね。どんなところだい。家賃は、一二万円というじゃないかい。豪勢な生
活だね」
H「……」
母「私に内緒で引っ越しても、ムダだよ。親と神様は、すべてをお見通しだよ」
H「お願いだから、私のことは私に任せて」
母「任せて? よくもまあ、そんな生意気な口がきけたもののね。あんたは、だれのおかげで、
言葉が話せるようになったか、それがわかっているの? 親の私よ。どこに、子どもに言葉を 教えない親がいるもんかね」
そこでHは、ふりしぼるような声で、こう言った。
H「お母さん……、私に、どうかお願いだから、もう構わないで……」と。
「構わないで」という言い方は、Hが母親に対して、はじめて使った言葉である。Hが、使いたく
ても使えなかった言葉。いつものどまで出かかっていたが、そこで止まっていた言葉。予想どお り、その言葉は、母を激怒させた。母は、ヒステリックな金きり声をあげて、こう叫んだ。
「何てこと言うの! 親に向かって! この恩知らずめ!」(ガチャン)と。
この話は、現在進行形である。私も、最初、この話を聞いたときには、自分の耳を疑った。し
かし、ここに書いたことは、事実。こうした(常識にはずれた話)を書くときは、私はできるだけ 聞いたとおりを、忠実に書く。
で、この話とは別に、私は一つの事実に気づいた。それが冒頭に書いた、子どもを溺愛する
親が感ずる「愛もどきの愛」と、ストーカーする人が口にする、「愛もどきの愛」とは、同質のも のである、と。もともと親の身勝手な愛という点で、共通している。
+++++++++++++++++++
●溺愛
溺愛ママには、いくつかの特徴があります。
それについては、以前にも、いくつかの原稿
を書いてきました。その一つ(子育ての最前
線にいるあなたへ」(中日新聞社・掲載済み)
を、ここに転載します。
+++++++++++++++++++
●溺愛ママの溺愛児
「先生、私、異常でしょうか」と、その母親は言った。「娘(年中児)が、病気で休んでくれると、
私、うれしいのです。私のそばにいてくれると思うだけで、うれしいのです。主人なんか、いても いなくても、どちらでもいいような気がします」と。私はそれに答えて、こう言った。「異常です」 と。
今、子どもを溺愛する親は、珍しくない。親と子どもの間に、距離感がない。ある母親は自分
の子ども(年長男児)が、泊り保育に行った夜、さみしさに耐え切れず、一晩中、泣き明かした という。また別の母親はこう言った。「息子(中学生)の汚した服や下着を見ると、いとおしくて、 ほおずりしたくなります」と。
親が子どもを溺愛する背景には、親自身の精神的な未熟さや、情緒的な欠陥があるとみる。
そういう問題が基本にあって、夫婦仲が悪い、生活苦に追われる、やっとのことで子どもに恵 まれたなどという事実が引き金となって、親は、溺愛に走るようになる。肉親の死や事故がきっ かけで、子どもを溺愛するようになるケースも少なくない。そして本来、夫や家庭、他人や社会 に向けるべき愛まで、すべて子どもに注いでしまう。その溺愛ママの典型的な会話。
先生、子どもに向かって、「A君は、おとなになったら、何になるのかな?」
母親、会話に割り込みながら、「Aは、どこへも行かないわよね。ずっと、ママのそばにいるわ
よねエ。そうよねエ〜」と。
親が子どもを溺愛すると、子どもは、いわゆる溺愛児になる。柔和でおとなしく、覇気がない。
幼児性の持続(いつまでも赤ちゃんぽい)や退行性(約束やルールが守れない、生活習慣がだ らしなくなる)が見られることが多い。満足げにおっとりしているが、人格の核形成が遅れる。こ こでいう「核」というのは、つかみどころをいう。輪郭といってもよい。
子どもは年長児の中ごろから、少年少女期へと移行するが、溺愛児には、そのときになって
も、「この子はこういう子だ」という輪郭が見えてこない。乳幼児のまま、大きくなる。ちょうどひ ざに抱かれたペットのようだから、私は「ペット児」と呼んでいる。
このタイプの子どもは、やがて次のような経路をたどる。一つはそのままおとなになるケー
ス。以前『冬彦さん』というドラマがあったが、そうなる。結婚してからも、「ママ、ママ」と言って、 母親のふとんの中へ入って寝たりする。これが全体の約三〇%。もう一つは、その反動から か、やがて親に猛烈に反発するようになるケース。
ふつうの反発ではない。はげしい家庭内暴力をともなうことが多い。乳幼児期から少年少女期
への移行期に、しっかりとそのカラを脱いでおかなかったために、そうなる。だからたいていの 親はこう言って、うろたえる。「小さいころは、いい子だったんです。どうして、こんな子どもにな ってしまったのでしょうか」と。これが残りの約七〇%。
子どもがかわいいのは、当たり前。本能がそう思わせる。だから親は子どもを育てる。しかし
それはあくまでも本能。性欲や食欲と同じ、本能。その本能に溺れてよいことは、何もない。
++++++++++++++++++++++++
同じような内容ですが、「マザコン人間」(失礼!)に
ついて書いた原稿を転載します。
++++++++++++++++++++++++
●マザコン人間
マザコンタイプの男性や女性は、少なくない。昔、冬彦さん(「テレビドラマ『ずっとあなたが好
きだった』の主人公」)という男性のような例は、極端な例だが、しかしそれに似た話はいくらで もある。総じてみれば、日本人は、マザコン型民族。よい例が、森進一が歌う、『おふくろさ ん』。世界広しといえども、大のおとなが夜空を見あげながら、「ママー、ママー」と涙をこぼす民 族は、そうはいない。
そのマザコンタイプの人を調べていくと、おもしろいことに気づく。その母親自身は、マザコン
タイプの息子や娘を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。一方、マザコンタイプ の息子や娘は、自分を、「親思いの、いい息子、いい娘」と思い込んでいる。その双方が互い にそう思い込んでいるから、自分たちのおかしさに気づくことは、まずない。
意識のズレというのはそういうものだが、もっとも互いにそれでよいというのなら、私やあなた
のような他人がとやかく言う必要はない。しかし問題は、そういう男性や女性の周囲にいる人 たちである。男性の妻とか、女性の夫とかなど。ある女性は、結婚直後から自分の夫がマザコ ンであることに気づいた。ほとんど数日おきに、夫が実家の母親と連絡を取りあっているという のだ。何かあると、ときには妻であるその女性に話す前に、実家の母親に報告することもある という。
しかし彼女の夫自身は、自分がマザコンだとは思っていない。それとなくその女性が夫に抗議
すると、「親を大切にするのは子の努め」とか、「親子の縁は切れるものではない」と言って、ま ったく取りあおうとしないという。
いわゆる依存型社会では、「依存性」が、さまざまな形にその姿をかえる。ここにあげた「マザ
コン」もその一つ。で、最近気がついたが、マザコンというと、母親と息子の関係だけを想像し がちだが、母親と娘、あるいは父親と娘でも、同じような関係になることがある。そして息子と 同じように、マザコン的であることが、「いい娘」の証(あかし)であると思い込む女性は少なくな い。
このタイプの女性の特徴は、「あばたもエクボ」というか、何があっても、「母はすばらしい」と決
めつけてしまう。ほかの兄弟たちが親を批判しようものなら、「親の悪口は聞きたくない!」と、 それをはげしくはねのけてしまう。ものの考え方が権威主義的で、親を必要以上に美化する一 方、その返す刀で、自分の息子や娘に、それを求める。
つぎの問題は、このとき起きる。息子や娘がそれを受け入れればそれでよいが、そうでないと
きには、互いがはげしく衝突する。実際には、息子や娘がそれを受け入れる例は少なくない。 こうした基本的な価値観の衝突は、「キレツ」程度ではすまない。たいていはその段階で、「断 絶」する。
マザコン的であることは、決して親孝行ではない。このタイプの男性や女性は、自らのマザコ
ン性を、孝行論でごまかすことが多い。じゅうぶん注意されたい。
【追記】ことさらおおげさに、親孝行論を唱えたり、親を絶対視する人は、まず、その人の中に
潜む、ここでいう「マザコン性」を疑ってみるとよい。このタイプの人は、自らのマザコン性を正 当化するために、親を絶対視する傾向が強い。
親子といえども、そこは純然たる人間関係で、その「質」が決まる。少なくとも親は、「親であ
る」という、「である」論に甘えてはいけない。親は親で、どこまでも気高く、前向きに生きていく。 それが親としての、真のやさしさではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 溺愛
子どもを溺愛する母親 溺愛ママ でき愛ママ)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●やるせない虚脱感
++++++++++++++
多くの教師たちが今、ある種の
虚脱感に襲われている。
何かがおかしい。何かがへん。
しかしそれを声に出して言うこと
すら、許されない。
そんな虚脱感である。
++++++++++++++
少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダから落
として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教育者のみなら ず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。
こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しかしつぎ
の瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言ったらよいか もしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。
怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。
もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、講師
のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もうと思って、席 に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見つめているではな いか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。
で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそういうことには
無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言った。
「先生、へんな味はしなかった?」と。
とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう一人の中
学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとなって、こう叫ん だ。
「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する能力もな
いのか。出て行け!」と。
あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾させて
ほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。
で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかった。そう
いうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人間を、バカという) を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手にしなければならない虚しさ。教え なければならない虚しさ。そういうものが、どっと私を襲った。
恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を否定さ
れたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいるが、そんなもの ではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさである。
で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最近でも
起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明らかに変化して いる。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさぎを二階のベランダか ら落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考えることを、今の子どもたち は、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹をたてていたら、仕事そのものが成りた たない。
で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、道理が
わかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチャメチャなこと をしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できないにも、関係ない。
えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者と考え
る。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。デタラメ。は っきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進学高校ほど、陰湿な いじめが多いというのは、そういう理由による。
最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、その
知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、おかしな子ども を、どんどんと生産している。
で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふくらんでい
る。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザーで、踏み荒らさ れるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなることもある。私一人の力で は、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年金が入るなら、明日にでも足を 洗うかもしれない。
こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。一日、
一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。そのために は、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあとは、自分で行動さ せ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊かな子どもにする。
そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)
【ギャグ化現象】
日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ごまかす」な
どという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くことをいう。
●逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかけると、
「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。
●仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐらかす。
「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちてくると、地球はこ なごなになる」と言うのが、それ。
●飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」「からし明
太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。
●奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、その場を
ごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャジャ〜ン」と答えるな ど。
こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、それだけで
軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オーストラリアの友人 に、このことを話すと、その友人は、こう言った。
「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わない。その
分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさげて、考えてみた い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虚脱
感 教師の虚脱感5105)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
【今日・あれこれ】(10月25日)
+++++++++++++++
風邪が、はやっているという。
インフルエンザも、はやっていると
いう。
浜松市内の中学校でも、学級閉鎖に
なったところが、チラホラでてきた。
気をつけよう。
+++++++++++++++
●歩く
久しぶりに、7キロを歩いた。家から教室までの、7キロ。このところ運動不足。体が老化し始
めたのかもしれない。ひざの動きが悪くなった。
最初の10〜20分ほど、地面の硬さが、直接、ひざに響いた。そのたびにひざが、ガクガクし
た。自分でもそれがよくわかった。自転車には乗っているが、歩く機会が、ぐんと減った。その せいだろう。が、しばらくすると、今度は、軽い腰痛。
体の重心が前に移ると、その分だけ背骨への負担がます。腰痛が始まる。つまり肥満? こ
のところ腹が少し出てきた。気をつけよう。
で、7キロを無事、歩いた。最後に、コンビニで水を買った。歩きながら、飲み干した。おいし
かった。
●ルールが守れない子ども
ルールが守れない子どもというのは、たしかにいる。何かのゲームをしていても、ゲームその
ものを破壊してしまう。一人でもそういう子どもがいると、必ず扇動者(アジテーター)が現れる。 その同調者を巻き込んで、騒ぎ出す。
このタイプの子どもは、強く叱るしかない。「君は、このゲームをしてはだめだ。向こうで待って
いなさい」と。しかしそういう指示そのものに、なじまない。さらにはげしく騒ぎ出す。
ルールが守れないというのは、ドラ息子症候群のひとつと考えてよい。自分勝手で、わがま
ま。自制心、自律心に欠ける。ルールそのものを、自分で作ってしまう。あるいは自分の意に そわないと、怒ったり、泣き出したりする。
年長期から小学1年にかけて、この傾向が、はっきりしてくる。が、このころ気づいても、もう
遅い。手遅れ。家庭のリズムそのものが、そうなっている。子どもを直すのは、むずかしい。家 庭のリズムを直すのは、さらに、さらに、むずかしい。
だからこのタイプの子どもは、結局は、行き着くとことまで、行く。行くしかない。そこまで行か
ないと、親も気づかない。
たとえば今日も、歩いているとき、携帯電話をもったまま運転している人を、何人か見かけ
た。その中には、若い母親らしき人もいた。そういう母親は、家庭で、いったいどのようにして 子どもをしつけているのだろうか。きっとそういう人にかぎって、家では、ガミガミと言っているに ちがいない。「約束を守りなさい!」と。
この問題は、そこまで行き着く。母親が一方で、ルールをさんざん破っておきながら、子ども
に向かって、「約束を守りなさい」は、ない。いや、たかが携帯電話などとは、思っていけない。 この世界は、『一事が万事』。車を運転しながら平気で携帯電話をかける人というのは、ほか のところでも、まんべんなく、ルールを破っている。
人間の脳みそというのは、それほど器用にできてはいない。ある部分ではまじめで、ある部
分ではそうでない・・・ということは、できない。つまり携帯電話をもったまま運転する人というの は、あらゆる面で、ずるい。そのずるさを、子どもは、日常的に見る。・・・見ている。そしてその 子どもは、その子どもになる。
だから、結局は、行き着くところまで行く。行くしかない。行かないと気づかない。中には、行き
着くところまで行っても、気がつかない人もいる。自分を知るということは、それほどまでに、む ずかしい。
子どもがルールを破ったら、子どもを責めても意味はない。子どもは、あくまでも、「家族の代
表者」。反省すべきは、まず自分自身。さらには家庭環境ということになる。
●悪よりもこわい、小ずるさ。
悪は悪。その悪を擁護するつもりは、まったくない。しかしその悪より、さらにタチが悪いの
が、小ずるさ。悪は、まだ、わかりやすい。その分だけ、目立つ。たたかれる。
しかし小ずるさは、ジワジワと、その人の精神を蝕(むしば)む。長い時間をかけて、その人
の人格そのものを崩す。まさに『一事が万事』。ひとつのことで小ずるい人は、あらゆる面で、 小ずるい。
たとえば不倫。私は愛人をもっているような男は、信用しない。命がけの恋愛は別として、自
分の妻ですらも、平気で裏切るような男である。友を裏切るようなことは、何でもない。いくら 「友」と呼ばれても、私は信用しない。
その私だが、私は小ずるい男だった。すべてをあの時代の責任にすることはできないが、あ
の時代というのは、そういう時代だった。何もかもが、インチキ臭かった。またインチキをしない と、生きていかれなかった。
そのころ体についたシミは、今でも残っている。一度体にしみついたシミは、消えない。ふと
油断したようなとき、そのシミが顔を出す。
ところで今、伊勢神宮のおかげ横丁にある「赤福」が、世間を騒がせている。少し前の雪印
事件もあった、それにミート・ホープ事件もあった。悪質と言えば悪質だが、あの時代には、み な、同じようなことをしていた。ただ幸いなことに、その時代は意外と早く終わった。私が小学生 に入るころには、朝鮮動乱、学生になるころにはベトナム戦争、それぞれの特需景気で、日本 経済は、息を吹き返した。
が、この小ずるさは、世界では通用しない。よい例が、現在の中国。ダンボール紙入りの肉
まん事件などは、まだ軽い。最近では、下水にたまった廃油から、食用油を作っていた業者が いたそうだ。(下水だぞ! わかるか! うんちや小便の流れる下水だぞ!)
そういうのと比べたら、赤福事件など、何でもない。・・・と言いたいが、世界の人は、「日本も
中国も同じだな」と思うにちがいない。残念といえば、これほど残念なことはない。私も、つい先 日、あの店で、赤福餅を食べた。「あの赤福餅も・・・?」と、今、思っている。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2302)
●母
静かな時だった。
ちょうど昼食が終わったところだった。
ヘルパーさんたちは、控え室にもどった。
広い居間には、私とワイフ、それに母だけ。
少し離れたところにもう1人、女性。
時折、獣(けもの)のような声を張り上げる。
私は何も話さなかった。
ワイフも何も話さなかった。
母も何も話さなかった。
時だけが、そのまま流れる。
テレビは、つけたまま。
湿った秋の冷気が、窓から入る。
やさしくカーテンを揺らす。
時計は、午後2時少し前を示していた。
大きな掛け時計で、その下には、
「10月25日、木曜日」と、書いてあった。
そのとき、母が言った。
「ここは、耕(たがや)すものがない」と。
耕す……つまり、野菜を育てる畑がないことを言った。
私「畑がしたいのか?」
母「家の前に、畑があった」
私「そうやな。畑があればいいな」と。
いつもそうだが、私は聞き役。
そこに座っているだけ。
話すこともない。話しても、会話が
かみあわない。
母「ここは退屈や……」
私「退屈か?」
母「ここは退屈や……」と。
いろいろ試してみたが、母の注意を引く
ものはなかった。
どれも長続きしなかった。
母「ここは、いやや……」
子「いややなあ……。こんなところ」
母「はよ(早く)、退院したいな」
私「そうやな、はよ、退院できればいいな」と。
以前より元気にはなった。
が、足は、すっかり使えなくなった。
一日中、車いすか、ベッドの上にいる。
……いろいろ考える。
母を実家へ連れて行くこと。実家の写真を撮って
母に見せること。郷里のM町に連れて帰ること。
私「だれか、会いたい人はいるか?」
母「おらんな。だれにも、会いたくない」
私「だれに会いたい?」
母「ははは、お前や。浩司、お前に会いたい」と。
10分が過ぎ、20分が過ぎた。
私とワイフは、だまって時計だけを見る。
私「じゃあ、帰る」
母「昼飯は食ったか?」
私「ああ、食べた、食べた」
母「じゃあ、食べておんさい(=食べてきなさい)」と。
私とワイフは、椅子を片づける。
通りがかったヘルパーさんに、頭をさげる。
振り返ると、母が手を振った。
ワイフがそれに答えた。
私はだまって、階段をおりた。
++++++++++++++++
老人といっても、様子は、さまざま。今度新しく入居してきた老人(女性)は、時折、動物のよう
な奇声を張り上げる。声というより、奇声。
見ると、ひとりで大きなソファを占領して、そこでヘルパーさんに、何か怒鳴りつけている。
が、ヘルパーさんたちは、みな、無視。だからますます大声で、怒鳴る。
ワイフはそれを見て、「きっと、家ではたいへんだったのね」とポツリ。
ほかに、一日中、眠っている老人もいる。詩吟のような歌を歌っている老人もいる。歌うという
よりは、「うなる」といったふう。ウ〜ウ〜、と。あるいはだれを見ても、恐ろしい目つきでにらん でいる老人もいる。
「私なら、こんなところ、1時間ももたない」と思った。しかしつぎの瞬間、「ほかに方法はある
のか?」と思った。
こうした介護施設では、24時間、世話をしてもらえる。食事や入浴の心配もない。何もかも整
っている。恵まれた環境である。
「在宅介護」という方法もあるが、しかしここにも書いたように、老人といっても、様子は、さま
ざま。Oさんの義父は、慢性の腎臓病を患っていた上、夜中中、大声を出して、家人を呼びつ けていたという。
在宅で介護できる老人もいれば、そうでない老人もいる。家庭の事情も、それぞれ、みな、ち
がう。親子関係も、みな、ちがう。
母を見舞うたびに襲われる無力感。「あんたの気持ちはよくわかる。でも、どうしようもないん
だよ」と。
私「正月には、うちへ連れてくるしかないね」
ワ「そうね……」
私「でも、もう、しも(=便)の始末は、したくない」
ワ「……」と。
介護は、「便」との闘いといっても過言ではない。それが今、拒絶反応となって、私の心をふさ
ぐ。
私「追いつめられれば、できるかもしれない。でも、もういやだ」と。
私の母にしても、相手の立場でものを考えるということが、できない。若いときから、自己中心
的な女性だった。老後を迎えて、それがさらにはげしくなった。わがままで、自分勝手。私の家 にいたときも、数日ごとに、「家(=母の生まれ故郷の実家)に帰る」と言って騒いだ。私たちを 困らせた。今も、「ここは地獄や」と、言う。
が、母というより、介護施設で見る老人たちの姿は、私たちの近未来の姿でもある。実際に
は、今のような手厚い介護は、望めない。昨日の新聞報道によれば、医療、介護保険制度 は、すでに破綻状態にあるという。
自分たちの老後を考えると、ますます気が重くなる。
……ということで、昨夜は、仕事が終わると、ワイフと2人で、映画を見てきた。ニコール・キッ
ドマン主演の、『インベェージョン』。「今のうちにしたいことをしておこう」と私が言うと、ワイフ は、快(こころ)よく、それに応じてくれた。
映画は、星2つの、★★。テーマが陳腐。主演がニコール・キッドマンだったから、何とか、見
られた。そんな感じの映画だった。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●新しいデジカメを買う
M電工の株を、1237円で買った。1000株。それが2日前。「底値」と判断した。こういうとき
は、同族会社の株価も、参考にする。
親会社のM電気の株が、やや上昇に転じた。つられてM電工の株価も動き出した。それで
「底値」と判断した。
そのM電工の株価が、きのうの午前中だけで、30〜40円、値上がりした。すかさず、売っ
た。それで3〜4万円、ゲット。そのお金で、同じくM電気の、LUMIX―FX33を購入。
すばらしく頭のよいカメラである。新機能、満載! またまた進化した。ためしに街の夜景を
撮ってみた。昼間の写真のように気楽に撮れる。もちろんブレない!
家に帰って、株価を見ると、M電工株は、終値で、何と、昨日、1日だけで、100円近い暴
騰。つまり夕方までもっていれば、10万円ゲットできた。惜しかった。しかし人間の欲には、キ リがない。
ほどほどに儲けたら、それで満足する。これは株売買の世界では、常識。
●P社FX33
形はシンプル。女性向き。被写体に応じて、人工知能(?)が作動し、それぞれの場面に最
適の補正をしてくれる。もちろん顔認識装置付き。トリプル方式のブレ防止付き。
感度は、ISO・6400! ふつうのカメラで、1600程度だから、これはものすごい数字と考え
てよい。ためしに走る車の中から、何枚か夜景を撮ってみた。
側の風景は、光が帯(おび)のように流れるが、(昼間でもそうだが)、前方の風景は、まった
く問題なく撮れた。すごい!
顔認識にしても、10人前後まで、ピントを合わせてくれる。すごい! その顔に応じて、露出
まで決めてくれる。すごい!
何でも「世界最薄」とか。「こんな小さなカメラがねえ……」と、手でいじりながら、何度もため
息をつく。値段は、Y電気で、3万4000円だった。
最初は、シンプルなデザインで、どこか物足りない感じ。しかし今は、しっくりと手先になじんで
いる。ひとつ難点を言えば、P社のカメラは、液晶画面の保護が弱い。圧力を加えると、液晶が 簡単に割れる。注意! できれば固(かた)めのケースに入れて、持ち運ぶのがよい。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2303)
●科学の勉強
+++++++++++++
台風が近づいているという。
そのため、今日は、雨。
そこで昨日、科学雑誌を
買ってきた。
『日経・サイエンス』誌、
2007年12月号。
午前中は、この雑紙を、
じっくりと読んでみる。
+++++++++++++
日経・サイエンス(12月号)は、「肥満と食糧危機」が、テーマ。
が、最初に目についたのが、「宇宙論」(P16〜17)。
従来のビッグバン説によると、「宇宙は無限のエネルギーと密度をもつ(点)から生まれた」
(同誌)ということになっている。
この(点)のことを「特異点」と呼ぶ。この特異点では、私たちがもっている物理学的な常識
は、すべて当てはまらないという。時間もなければ、もちろん空間もない。
その特異点が、きわめて短時間に、光速をはるかに上回るスピードで急膨張して、今の、こ
の宇宙ができたという。その急膨張を、「インフレーション」と呼ぶ。
「(宇宙は)インフレーションを引き起こし、ほぼ均一に平たく引き伸ばされた。そう考えると、
多くの謎が解ける。たとえば時空が平坦で、光がほぼ曲がらず直進するのは、インフレーショ ンによって、初期宇宙の曲率が平らにならされたためだ」(同誌)と。
現時点では、この「インフレーション説」が、学会でも有力説になっているが、これに対して、
宇宙の前には宇宙があったという説も、脚光を浴びるようになってきたらしい。
「ビッグバン以前に、宇宙は収縮し、特異点を作った。その特異点から、再び、現在の宇宙
が生まれた」(要約)と。2001年に発表された、「エピキロティック説」が、そのひとつ。
これは宇宙を破滅、再生させるエピキローシスという、古代ギリシアのストア学派の概念から
生まれた言葉だという。
理由はいろいろ書いてある。それなりに根拠があるからこそ、こうした説が生まれる。が、そ
れを読んで、いろいろ考える。
この宇宙がかつて、「点」であったことについては、私も疑問を感じていた。点といっても、想
像を絶するほど固い点であったはず。その固い点が、ある日、突然、爆発した(?)。ビッグ・バ ン(=巨大爆発)である。
プリンストン大学の、P・スタインハート(研究者)も、「そんなことはありえない」と述べていると
いう(同誌)。そこでこの説を補正するかたで生まれたのが、「ひも理論」。「宇宙は、かつて点 ではなく、ひものようであった」と。つまり「(この宇宙は)、高温高密度の(ひも)のガスから誕生 した」(カナダ・マギル大学・ブランデンバーガー)と。
しかしこの説については、「まともに相手にしている学者はいない」(同誌)とのこと。
フ〜ンとうなってみたり、しばし、考え込んでしまったり。読みながら、将棋をさしているような
おもしろさを覚えた。
私たちが現在住んでいるこの宇宙は、その前が何であったにせよ、ビッグバンという大爆発
によって生まれた。今の今も、その爆発はつづいていて、この宇宙は、膨張をつづけている。 太陽や地球どころの話ではない。
この銀河系だけでも、砂丘の砂粒の数ほどの星があるという。(地球は、星ではない。太陽
は、その星の1つにすぎない。念のため。)そういう銀河系が、これまた、砂丘の砂粒の数ほど もあるという。(望遠鏡などで観測される銀河系や星は、ほんの一部でしかない。これも念のた め。)
こういう記事を読んでいると、気が遠くなる。しかも、だ。この(時間)にしても、(平坦)なの
は、「(宇宙が)ほぼ均一に平たく引き伸ばされた」ためだという(同誌)。
では、均一に平たく引き伸ばされなかったとしたら、どうだったのか? 私の想像力をかぎり
なく刺激する。たしかに今、時間は、コチコチと、過去から現在、そして未来へと、(平坦に)流 れている。まるで平面を、波が伝わっていくように、だ。
しかしもし、時間が流れる(平面)が、平面でないとするなら……? いったい、どういうことに
なるのだろう? たとえば時空のゆがみが、あちこちで生まれる。隣の家では、未来から過去 に向かって時間が流れ、その向こうの家では、時間が止まったままになるということも考えられ る。さらに、A国では、時間が、速く過ぎ、B国では、時間が、のんびりと過ぎるということも考え られる。
あるいはそれが、刻々と変化する……。想像するだけでも、おもしろい。楽しい。
どうであれ、この銀河系にしても、当初は、小さな点(もしくはひも)であったというのは、おもし
ろい。もっとも、「小さい」といっても、大小の概念すら当てはまらない世界である。何をもって、 「大きい」と言い、何をもって、「小さい」というのか。
さらに、である。これはあのホーキング博士が言っていることだが、そうした宇宙が、これまた
無数にあるという。ここにも、そこにも、あそこにも! わかるか? この大宇宙のような宇宙 が、私たちの知らないところにも、無数にあるという。まるであわ(バブル)のように!
……今も、曇天の空をながめてみた。「この空の向こうがねえ……」と。私たちはこの宇宙の
瞬間の、そのまた瞬間を、生きているに過ぎない。小さな、小さな、どこまでも小さな、宇宙から 見れば、チリのような惑星の上で。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●液体ズームレンズ
カメラには、レンズがある。(当然である。)そのレンズは、ふつう7〜10枚程度のレンズが組
み合わさって、できている。このレンズを、前後に動かすことによって、焦点を合わせたり、望 遠にしたりする。
ところが、今度、レンズそのものを、人間の目のように、ふくらませたり、しぼませたりする方
法が、発明されたという(アメリカのベンチャー企業・ホロチップ社)。称して「適応ズームレン ズ」。この方法が実用化されれば、理論的には、レンズは、1枚ですむことになる。しかも、だ。 「レンズの口径を1ミリ前後にできる」(同誌)という。
日経・サイエンス誌によれば、「数年以内に商品化できる」ということらしい。楽しみだ。
●言葉の爆発(統語的ブートストラッピング)
「幼児は1歳から2歳の間に、たどたどしい片言から、嵐のようにしゃべりまくるように急変す
る」(同誌)とある。
それはよく知られた事実だが、日経・サイエンス誌によれば、「幼児はこの時期に、統語的ブ
ートストラッピング(新しい言語の意味を、前後関係から決定する能力)など、言葉の大爆発を もたらす特別な機能を獲得すると考えられている」とある。
このことは、経験的にも、わかっている。たとえば子どもに、「うさぎさんは、ころんでヒロヒリと
痛い思いをしました」という文を読んで聞かせたとしよう。
このとき子どもは、(ころぶ)→(痛い)という言葉の間で、(ヒリヒリ)の意味を知る。自分がこ
ろんで痛い思いをしたときの経験を、そこに重ね合わせる。
ところが、である。今度は、こんな文を読んで聞かせたとしよう。
「マグパイは、ガムツリーの上で、大胆な声で、泣きました」と。
マグパイというのは、オーストラリアに住む鳥の名前。ガムツリーというのは、ユーカリの木の
別名。子どもは、未知の言葉の間にはさまってしまい、(大胆)という言葉の意味を知ることは できない。
乳幼児であればあるほど、知っている言葉の数は少ない。そのため未知の言葉の間にはさ
まってしまうことが、しばしば起きると考えられる。そこで重要なことは、体験と言葉を、状況に 応じて一致させていくこと。
たとえば子どもがころんで痛そうなとき、「ヒリヒリと痛い?」と聞くなど。そうすることによって、
(ころぶ)という行為と、(痛い)という現象の中で、子どもは、(ヒリヒリ)の意味を知ることができ る。つまり文章を読んできかせただけでは、子どもは、言葉の意味を知ることはない。(記憶の どこかに、格納しておくという点では、無駄ではないが……。)
ともかくも、こうした能力を、「統語的ブートストラッピング」という。(私は、知らなかった!)
「ブート」というのは、「救済」「援助」という意味。「ストラッピング」というのは、「(ひもで)結び
つける」という意味。ナルホド! 前後の言葉の援助を受けて、ひもで結ぶようにして、言葉を 統合的に理解するから、「統語的ブートストラッピング」。「統語的ブートストラッピング」ねえ?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統語
的ブートストラッピング 統語的ブート・ストラッピング)
●肥満
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肥満は、つぎの式で求められる(BMI)。
BMI=(体重、Kg)/(身長、m)の二乗
私のばあいは、64キロ、1・66メートルだから、
BMI=64÷(1・66x1・66)=23・1
となる。
BMI値が、25以上を、肥満(WHO)もしくは、
肥満度1(日本)としている。
25を超えると、肥満関連疾患が、急激に増える
という(日経・サイエンス、07年12月号)。
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約8億人の人が、飢餓で苦しんでいる一方、この地球では、肥満関連疾患に苦しんでいる人
も多い。最近の傾向としては、発展途上国でも肥満が増え、肥満への認識が甘いため、かえっ て深刻な社会問題を引き起こしているという(同誌、要約)。
いくつか気になる事実を拾ってみよう。
●350mlで、速歩で、25分、ジョギングで10分
何かの健康雑誌に、「おにぎり1個分のカロリーを消費するためには、1万歩、歩かねばなら
ない」と書いてあったのを記憶している。
つまり1万歩、歩かないと、おにぎり1個分のエネルギーを消費できないということ。同じような
内容だが、「サイエンス」誌によれば、
「体重60キログラムの人が、100Kカロリー消費するためには、速歩で約25分、ジョギング
なら、10分走らなければならない。350ml入りの清涼飲料水のカロリーを消費するために は、3キロメートル近く歩かねばならない」と。
が、実際には、先進国では、1人あたりのカロリー摂取量が、どんどんとふえている。アメリカ
では、1日あたり、3200Kカロリー(1980年)だったものが、3900Kカロリー(2000年)へと ふえている。
みなさんもご存知かと思うが、アメリカに行って、まず驚くのが、太った人。「多い」というより
は、日本人の基準でみると、ほとんどがそうではないかと思えるほど、多い。太っているといっ ても、ふつうの太り方ではない。ビア樽(だる)を、さらに一回り太くしたような太り方をいう。そう いう人が、やたらと目につく。
3200Kカロリーから、3900Kカロリーへ、つまり700Kカロリー増えると、どうなるか? そ
の結果が、今のアメリカの現状ということになる。
では、運動をしてやせればよいと、だれしも考える。が、一度摂取したカロリーを燃焼させる
のは、容易なことではない。1万歩、歩いて、やっとおにぎり1個分のカロリーを燃焼させること ができるという。が、実際に、毎日、1万歩、歩いている人は、いったい、どれだけいるだろう か。
サイエンス誌は、健康法として、結論として、つぎのように書いている。
(1)太らないこと。すでに太っているばあいは、体重を減らす。
(2)飽和脂肪(牛肉、豚肉類、乳製品)の摂取を減らす。
(3)固形脂より、植物脂を使用するようにする。
(4)主に野菜、果物、無脂乳製品を食べるようにする。
(5)塩と砂糖(精製糖)は、控えめにする。
(6)薬品や、凝った料理法によらない食事法が望ましい。
(7)たくさん運動し、野外のレクリエーションを楽しむ、と。
1959年、キーズ夫妻という人が提唱した健康法だそうだ。この方法は「今でも生きている」
(同誌)と。
●リバウンドを防ぐためには、運動しかない
アメリカには、よく知られたダイエット法として、(1)アトキンズ・ダイエット法、(2)ゾーン・ダイ
エット法、(3)低脂肪食ダイエット法、(4)オーニッシュ・ダイエット法などがあるそうだ。
いちばん効果的だったのが、(1)のアトキンズ・ダイエット法だったという。が、しかし「この方
法では、減らした体重を維持するのはむずかしい」(心理学者で、減量法の権威、J・Hill)との こと。つまりリバウンドが起こりやすい。
せっかく減量に成功しても、それからは毎日、空腹感と闘わねばならないということになる。
で、サイエンス誌の出した結論は、こうだ。
「体重維持のカギは、運動」と。肥満の程度にもよるが、毎日1時間程度の運動が好ましい、
と。しかし実際には、「毎日1時間以上の運動を生活に組み込むのは、難しい」。そこで重要な のが、予防ということになる。「予防こそ、大切」と。
予防のためなら、1日、15分〜20分程度の運動で、だいじょうぶ、ということらしい。つまり
肥満になってから、運動するよりも、肥満になる前に運動するほうが、効果的ということにな る。それに楽。
……そのあたりのことは、私にも、よくわかっているのだが……。
ほかにもいろいろ書いてある。私のように、(太る)→(減量する)→(また太る)というように、
「ヨーヨーのように、体重がふえたり、減ったりするダイエットは、不健康」ということらしい。
私のばあいは、体重が67キロを超えると、あわててダイエットを始め、64キロ前後まで落ち
着くと、また食べ始める。いつも、この繰りかえし。周期をみると、だいたい、1〜2か月ごとに、 それを繰りかえしている。
運動はしているが、サイエンス誌を読んだところでは、私の運動量では、どうも不足ということ
らしい。しかしこれ以上運動量ふやせといっても、どこでどうふやせばよいのか? それに体力 がつづくかどうか?
とりあえずできることは、食事の量を控えめにするということ。もうすぐ夕食だが、今夜は、い
つも3分の2程度ですませよう。
*************************
●満60歳!
満、60歳。その実感は、ない。まったく、ない。
皆で、鍋料理を食べた。ケーキを食べた。
「(市販の)ショートケーキでいいよ」と私が言うと、
「作るからいい」と、ワイフは言った。
静かな時が流れた。安らいだ時が流れた。
私はパソコンを前にして、眠った。いくつかの夢を見た。
見ると、ワイフが横にいた。「眠ったみたい」と、私。
「もうすぐ、準備ができるから」と、ワイフ。
いつもの夕方。いつもの夕食。そしていつもの誕生日。
長男とワイフが、私の声に合わせて歌ってくれた。
「♪ハッピーバースディ、ツー、ユー」と。
夕食後、みなで、『ロッキー・ザ・ファイナル』を見た。
よい映画だった。なつかしかった。涙があふれた。
60歳の誕生日に、ふさわしい映画だった。
私「あと10年、がんばるよ」
ワ「いつものペースでいいのよ」
私「そうだね」と。
私はここで誓う。
もう1人の邪悪な私とは、決別する。いじけやすく、
ひがみやすく、くじけやすい。そんな私だ。
それにもうひとつ。この先、その10年に、
私の命を賭ける。私の命を燃焼する。燃焼しつくす。
残りの人生は、私のものではない。
私の息子たちのもの。私のワイフのもの。
そして……。
おおげさなことは言えない。書けない。
しかし私の命を、この地球に、宇宙に、
返したい。みなに、捧げたい。
「どんな気分?」と、ワイフは言った。
満60歳になった気分をワイフは聞いた。私は、
「別に……」と答えた。
何も変わらない。その自覚もない。
「60」という数字などに、意味はない。
私は私。どこまでいっても、私は私。
ただこの闘志は何か? 「やるぞ!」という闘志。
今までになかったもの。何かにつけ、負け戦(いくさ)。
あきらめること、引きさがること、そればかりを
考えていた。が、そんな私の中で、何かが燃えだした。
よい映画だった。『ロッキー・ザ・ファイナル』は、
よい映画だった。こんな私にも、生きる勇気を
与えてくれた。希望を与えてくれた。
私にあるのは、過去ではない。未来だ。
その未来に向かって、私は進む。
「どんなに打ちのめされても、前に進み続ける……。
決してあきらめずに。NEVER GIVE UP!」
「自分を信じなきゃ、人生じゃない」と。
見ていて涙がポロポロとこぼれたのは、そのためか。
35年前の、あの感動、つまりあの当時の感動が、
よみがえってきた。
あの時代、私は、無我夢中で生きていた。毎日、
がむしゃらに働いた。その感動が、よみがえってきた。
これからも、私は、無我夢中で、生きていきたい。
生きていく。私、はやし浩司は、まだまだ現役だ。
その日が来るまで……。
はやし浩司、満60歳の誕生日に。
(付記)
『ロッキー・ザ・ファイナル』の中の、シルヴェスター・スタローンの肉体を見てほしい。彼はこ
の映画を完成させるために、自分の肉体を鍛えた。そのプロ根性が、スクリーンを通して、私 たちに伝わってきた。それが、私たちを感動させた。
シルヴェスター・スタローンは、役者としてではなく、映画を通して、自分の生きざまを、私たち
に示してくれた。
ウソやインチキでは、あの映画はできない。
*************************
●トイレ掃除
私は、今日、トイレ掃除をした。昨日から用具を買いそろえ、今日、それを実行した。作業の
前に、「これからはトイレの中でも、食事ができるようにする」と告げると、ワイフは笑った。
……まず掃除機をかける。2、3回、繰りかえす。床、壁、便器の周辺を、雑巾で、ていねい
に拭く。ランプを、40Wから50Wに換える。便器は、消毒薬などを使って、磨く。ピカピカに磨 く。バラの造花で飾る。香水の入った瓶を2つ置く。
そうそう床の上に、新しいマットを敷いた。こまかい汚れは、手袋をして、サンド・ペーパーで
磨いた。壁のシミは、ひとつひとつ、白い修正ペイントで塗りつぶした。
「これなら食事ができる」と実感したところで、トイレ掃除は、終わり。楽しかった。
●マガジン11月号
マガジン11月号のHTML版(カラー写真版)は、休むつもりでいた。一度は、10月号の最後
で、「11月号は休みます」と書いた。
しかし取り消し!
今日、11月号のHTML版を完成させた。新しいカメラを買ったこともある。それに(休む)と
いうことには、どこか敗北感が漂う。それで取り消した。
どうか、HTML版のほうも、ときどきのぞいてみてください。がんばっています!
●ホームページ
今度、N社という会社が、HPの無料サービスを始めた。100MBまで、無料。しかもアップロ
ード・ファイルサイズについては、3MBまで、OK。(少し前、ファイルサイズ制限なしと書いた が、これはまちがい。)
3MBというと、原稿用紙(40字x36行)にして、500〜700枚程度。さらに1人で、いくつで
も、HPを開設することができる。
すごいサービスである。有料版にしても、月額、たったの95円!
さっそく、6つほど、新しいサイトを開設してみた。1つ、2つ目は、それなりに手こずったが、3
つ目くらいからは、2〜3分で開設できるようになった。
ただし「3か月間、アクセス件数がゼロのときは、廃止される」とのこと。
私は今、動画については、TUBE、静止画(写真)については、Flickrを、それぞれ利用させ
てもらっている。これから先、HPのほうは、N社のサービスを利用させてもらう。
私のHPのトップページにある、「子育て・あいうえお」、「子育てQ&A」などは、このN社のサ
ービスを使ったもの。興味のある方は、どうか、のぞいてみてほしい。
NINJAのHPサービスは、以下のアドレスからどうぞ。
http://www.ninja.co.jp/hp/
●1000号まで、あと30号!
マガジンは、12月3日で、970号になる。1000号まで、あと30号! 1000号以後は、どう
するか? いろいろ考えるが、何も変わらないだろう。今までどおり、書きつづける。
「1000号になったら、2人で、お祝いしようね」と言うと、ワイフは、「うん」と言ってくれた。どこ
かでおいしいものを食べて、それでおしまい。もの足りない感じがしないでもないが、現実は、 こんなもの。
もし読者のみなさん中で、1001号〜からは、マグプレ(有料版・月額300円)を読んでもよ
いと思ってくださる方がいらっしゃれば、よろしく! この1年以上、読者数は、25人前後のま ま。しかし有料ということで、私は、このマグプレを、もっとも大切にしている。
●あと20分で、10月29日
このところEマガの配信が、乱れている。予約どおりに、配信されないまま、配信トレイに残っ
たままになる。
何度か、Eマガ社に問い合わせているが、返事は、なし。しかたないので、毎度、朝になって
から、手動で、再配信。この2週間ほど、そんな作業がつづいている。
どうしてだろう? それを確かめるため、つまり、ちゃんと配信されるかどうか、それを確かめ
るため、今夜は、12時(午前0時)まで、起きていることにした。12時に、10月29日号が、配 信されるはず。
あと17分。
【読者のみなさんへ】
Eマガは、現在、こんな調子です。できれば、MELMA(無料版)への乗り換えをお願いしま
す。乗り換えは、私のHPのほうからできます。
(乗り換え→)http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
ボックスに、メールアドレスを書き込むだけです。よろしくお願いします。
……以上、意味のない雑談ばかりで、ごめんなさい。たった今(午前12時)、メールボックス
を調べてみました。やはりEマガは、予約どおり、配信されていないようです。
そんなわけで、10月29日も、手動で、配信しました。
では、みなさん、おやすみなさい!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2304)
●バウチャー制度
+++++++++++++++++
まず6年前に書いた、新聞記事
をそのまま紹介する。
この中で、私はアメリカのバウチャー
制度について、少し触れた。
+++++++++++++++++
●教育の自由化
アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽しさ」。
まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような錯覚を覚える。
写真は、アメリカ中南部にある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペ
リット小学校。生徒数三百七十名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があった りする。
アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政府のガ
イダンスに従って、学校独自が、親と相談して決めることができる。オクイン校長に「ガイダンス はきびしいものですか」と聞くと「たいへんゆるやかなものです」と笑った。
もちろん日本でいう教科書はない。検定制度もない。
たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教える。そのほか、プレ・キンダガーテンと
いうクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスである。費用は朝食代と昼食代などで、週 六十ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによって、親は補助されている。驚いたの は四歳児から、コンピューターの授業をしていること。また欧米では、図書館での教育を重要 視している。この学校でも、図書館には専門の司書を置いて、子供の読書指導にあたってい た。
授業は一クラス十六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学から
派遣されたインターンの学生の三人で当たっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけ が日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もい くつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。
教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書
の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民 間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ いては検定してはならない」(南豪州)ということになっている。
アメリカには、家庭で教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さ
らには学校券で運営するバウチャースクールなどがある。行き過ぎた自由化が、問題になって いる部分もあるが、こうした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。
+++++++++++++
バウチャー券というのは、学校
教育に対してだけしか利用できない、
クーポン券のことと思えばよい。
「商品券」でもよい。
たとえば年間、10万円のバウチャー
券を支給されれば、親は、それを
「学費」として使用することが
できる。
わかりやすく言えば、それにより、
親が国から直接、援助を受ける
ことになる。
「では現金でそれをすればよい」
というふうに考える人もいるかもしれ
ない。
しかし現金だと、それが何に使われるか
わからない。親によっては、遊興費に
流用してしまうかもしれない。
そこでバウチャー券ということに
なる。少し前までは、「クーポン券」
(東京都など)と呼ぶ政治家もいた。
(バウチャー=voucher……
証票、証明書、引換書、商品券のこと
(IMIDAS))
++++++++++++++
日経ニュースサイトは、つぎのように伝える。
『政府の教育再生会議(N座長)が検討している「教育バウチャー(利用券)」制度の素案が、
10月27日、明らかになった。保護者が利用券で子供の通う学校を選ぶ仕組みをまず特区を 使って地域限定で導入。小中学校だけでなく高校、幼稚園にも拡大する。公立、私立から幅広 く学校を選択したり、低所得者世帯の私学就学を援助したりする案も検討する。
同会議は教育バウチャー制度について年末にまとめる第3次報告に盛り込む方針。政府は
早ければ来年度にも導入したい考えだが、詰めるべき点も多く想定通り実現するかどうかは 微妙だ』と。
このバウチャー制度は、日本の教育にとって、画期的な制度となる。この制度により、従来の
国や自治体による補助金制度が、根本的な部分で、ひっくり返ることになる。
従来の補助金制度では、(国や自治体)は、(学校や幼稚園などの学校法人)という(法人組
織)に、補助金を交付してきた。けっしてハンパな額ではない。だから学校や幼稚園は、上から 落ちてくる補助金だけを見ていればよかった。
それがバウチャー制度により、国や自治体の補助金が、一度(子どもをもつ父母)を経由す
ることになる。そのバウチャー券を手にした父母は、学校や幼稚園に対して、バウチャー券と いう商品券で、学費を支払うことになる。
つまり親のほうが、学校法人を選択、管理するようになる。当然のことながら、今までは、
(上)だけを見ていればよかった学校や幼稚園は、バウチャー制度によって、今度は(下)も見 なければならなくなる。それだけきびしい環境に置かれることになる。
だいたいにおいて、今までの補助金制度そのものが、おかしい。国や自治体は、(法人)は助
けるが、(個人)は助けない。これは欧米の常識とは、逆。欧米では、(個人)は助けるが、(法 人)は助けない。
バウチャー制度は、そうした日本的な常識を、打ち壊す威力をもっている。あるいはその第
一歩となるかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 バウ
チャー バウチャー券 boucher)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●小・中9年制
+++++++++++++++
欧米では、教育の自由化は、予想
以上に進んでいる。
学校で教えるカリキュラムすら、
それぞれの学校が独自で決めている。
アメリカでは、公立学校であっても、
入学年度を、自由に決めている。
PTAの権限も、日本のそれとは比較に
ならないほど強い。教師の任命権
すら、もっている。つまりPTAが、
「あの教師は不適格」と判断すれば、
その教師はクビになる。
大学教育にしても、単位の共通化は、
今では、常識。EU(ヨーロッパ)
では、完全に共通化されている。
つまりどこの大学で、どのように勉強
しようが、単位さえ集めれば、それで
大学の卒業資格が与えられる。
こうした流れをみると、日本の教育
改革は、50年は遅れた。
けっして大げさなことを言っている
のではない。
私が学生だった1970年のオーストラリア
においてですら、単位の共通化は、
常識だった。
たとえば、メルボルン大学で、1年、2年を
過ごし、そのあと北京大学で1年勉強すれば、
帰国後は、4年生になれた。
アメリカでは、公立、私立を問わず、
転籍、転学は自由。日本でたとえれば、
1年と2年は早稲田大学で過ごし、3年目
からは静岡大学へ転籍できる。そういうことが
平気でできる。
もちろん学部の変更も自由。法学部で入学
し、そのあと、工学部へ転学するというよう
なこともできる。
教育再生会議は、今度、「小・中9年制」
の検討を答申したが、「今ごろねえ……」という
のが、私の実感。
こうした諮問会議で注意しなければならないのは、
たいてい座長と呼ばれる人は、それなりの権威者。
つづくメンバーは、「どうしてそういう人が
選ばれたかもわからない」(T教授)という、
文科省寄りのYESマンばかり。
議案も進行も、すべて役人のお膳立てによって
進められる。
諮問機関そのものが、お役人の(お墨付き機関)
として機能することが多い。
お役人は諮問機関で出された答申をもとに、
あとは「控えおろう」「下に……!」と、
あとは自分たちのしたい放題。
教育再生会議がそうだとは思わないが、そういう
疑いの目は、じゅうぶんもって見たほうがよい。
そういう中で生まれた、「小・中9年制」である。
つまり「地域の実情に応じて、4・3・2などと、
学年のまとまりを設ける」(日経)と。
この「地域の実情」という部分が、クセモノ。
おかしい。何かヘン。何かを隠している?
それについてはまた別の機会に考えるとして、
数字的な制度だけをいじっても、意味はない。
ほんとうに日本の教育を再生させようとするなら、
たとえばPTAの権限を強化するとか、そういう
内部部分の改革を目指さなければならない。
教師の任命権、解雇権まで踏み込む。
それに日本のような(格差社会)で、いくら
教育改革を唱えても、無駄。親たちは日常的な
生活を通して、その(格差)をいやというほど、
思い知らされている。
この(格差)があるかぎり、たとえば進学競争
はなくならないだろう。つまり、教育改革を
いくら唱えても、親たちは、進学率だけを見て、
学校の優劣を決めてしまう。また進学率が
あがるような制度を求めてしまう。
現に今、中高一貫校は、そういう流れの中で
動いている。
福田首相は会議の冒頭、「注目を集める会議と認識している。
国民全員が関心を持っている話題であり、
建設的な議論をしていただきたい」と求めたという(同)。
ほんとうかな?
子どもをもつ親たちが注目しているのは、
どうすれば自分の子どもが、進学競争に
有利になるかということ。
ついでに、教育再生会議では、大学への
飛び級入学についても議論されているという。
これについても、一言。
たとえばアメリカでは、原則として、
小中学校でも、無学年制。どこの学校へ
行っても、学年という「数字」はない。
教室の前にあるのは、そのクラスの責任者
である、教師の名前だけ。
飛び級を自由化するためには、同時に、
「落第」に対する意識を変えなければならない。
アメリカでは、先生が、「お宅の子を、
もう一度、ヒロシ教室で教えます(=落第
させます)」と言うと、親たちは、喜んで
それに従う。
落第ということが、日常茶飯事になされている。
飛び級というのは、その反射的効果として
浮かび上がってくるもの。
「飛び級」という片輪だけを論じても意味は
ない。
+++++++++++++++
以前、書いた私の原稿(中日新聞
発表済み)を載せる。
+++++++++++++++
家族の心が犠牲になるとき
●子どもの心を忘れる親
アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。
アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいか
ない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親 から電話でこんな相談があった。
何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているというのだ。そ
の母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなの か?
●明治以来の出世主義
日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。 カナダやフランスでもそうだ。
が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿 題がある」と言えば、すべてが免除される。
●家事をしない夫たち
二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近く
を妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当して いるケースは、わずか一%でしかなかったという。
子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たっ
たの三%!)前後にとどまった。その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっ と求める必要がある」と考えていることもわかったという。
内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は比較的家事
に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない人がいる。男 性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、積極的に(意 識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。
仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。 それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、 家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を 平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。
●家族主義
かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ のまま欧米人の幸福観の基本になっている。
たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」 という意味の単語に由来する。)「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通 の理念にもなっている。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれ が回りまわって、彼らのいう愛国心(※2)になっている。
●変わる日本人の価値観
それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと ばかりではない。
九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日本人
が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%になった。 たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革 命とも言えるべき大変化である。
そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て を変え、日本を変え、日本の教育を変える。
※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい う(二〇〇一年一一月)。
※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国 心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意して ほしい。
++++++++++++++++++++
(資料)(日経ニュースより)
●教育再生会議が福田政権で初会合、「小・中9年制」検討で一致
教育再生会議(野依良治座長)は10月23日、首相官邸で福田政権発足後初めての総会を
開き、論議を再開した。柔軟な教育カリキュラムを編成できるようにするため、現行の小中学 校の「6・3」制を見直し、9年制の義務教育学校の創設などを検討することで一致した。
教育再生は安倍晋三前首相が憲法改正などと並んで掲げた重要政策の一つ。安倍氏の辞
任で論議が中断していたが、福田首相は冒頭「注目を集める会議と認識している。国民全員 が関心を持っている話題であり、建設的な議論をしていただきたい」と求めた。
学校制度の見直しは小中一貫の9年制学校をつくり、地域の実情に応じて「4・3・2」などの
学年のまとまりを設ける案を軸に検討する方向。大学への飛び級入学を促進するため一段の 要件緩和を進める必要があるとの意見も相次いだ。
一方、年末を予定していた三次報告のとりまとめ時期を巡っては「もっと時間をかけるべきだ」
との異論も出た。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●ゆとり教育
+++++++++++++
ときとして外国から日本を
ながめたほうが、日本のことが
よくわかる。
日本の(ゆとり教育)が始まった
とき、それをまっさきに喜んだ
のが、隣の韓国。
そして今回、その(ゆとり教育)が
見直されることになった。
それにもっとも危機感を抱いて
いるのも、隣の韓国という
ことになる。
++++++++++++++
●東亜N報の記事より
まず、韓国の東亜N報が、書いている記事をそのまま紹介する。日本の実情を、かなり客観
的にながめている。興味深い。参考になる。
+++++東亜N報(10・29日より)++++++++
日本の中央教育審議会(中教審)は、中間報告書で、ゆとり教育が難関にぶつかった原因を
分析し、「授業時間を大幅に削減したため、基礎知識を十分に習得できなくなり、思考力と表 現力も育てることができなかった」などの反省項目を列挙する予定だ。
中教審は96年から、思考力や表現力、思いやりなど、「生きていく力」を育成することを公教
育の目標として提唱してきた。
02年から施行された現行の学習指導要領は、詰め込み主義教育を改善するという名分によ
って、小中学校の学習内容を以前より約30%削減し、授業時間も約10%減らした。
中間報告書の反省項目には、授業時間の削減のほかにも、△「生きていく力」の概念と必要
性を教師と父兄に十分に説明できなかった、△子どもの自主性を尊重したことで、学生指導を ためらう教師が増えた、△家庭と地域の教育能力が低下している事実を十分に把握できてい なかったという内容などが含まれるもようだ。
中教審は、ゆとり教育が難関にぶつかった原因の一つとして、「ゆとり」を強調しすぎたため、
教師が、基礎知識を教えることまで詰め込み主義教育と誤って理解した点を挙げた。
文科省が提出し、中教審が現在審議中の学習指導要領改正案は、英語、国語、数学などの
主要科目の授業時間を10%増やし、選択科目を大幅に縮小する内容を盛り込んでいる。
文科省は、このように事実上ゆとり教育を廃棄する方向に政策を旋回しながらも、公式的には
「ゆとり教育の理念は間違っておらず、運用上の問題にすぎない」と主張している。
にもかかわらず、諮問機構である中教審が「反省文」を発表するのは、誤った点を具体的に説
明しなければ、一線の学校が教育政策を転換する理由を十分に理解できないと判断したため だ。
+++++++++以上、東亜N報記事より+++++++++++
ゆとり教育が始まったとき、おおむね、教科内容は、1年レベルがさがった(小学校)。楽とい
えば、楽。教えるのが、ほんとうに楽になった。
しかしそれも、2年はつづかなかった。3年目に入ると、それが(当たり前)になり、教える側
からすると、その(楽)が消えた。
が、私の教室では、今でも、ゆとり教育の始まる前のカリキュラムで教えている。たとえばか
け算にしても、小2の夏休み前から、教えている。が、ゆとり教育では、10月から教えることに なっている。小2の算数だけを見ても、3〜4か月、後回しになったということになる。
で、その(ゆとり教育)が見直されることになった。当然である。日本を包む国際環境がきびし
さをます中、それに逆行する形での(ゆとり教育)である。当時の韓国は、「これで日本を追い 抜かせる」と喜んでいた。
が、それでほんとうに子どもたちに(ゆとり)ができたかというと、それは疑わしい。たとえば私
立中・高学校では、文科省の示すカリキュラムを無視した授業が始まるようになった。
現にこのあたりの私立中学校では、英語にしても、公立中学校よりも、6か月から1年、先取
りの教育を展開している。数学にしても、そうだ。(中学1年生で、関係代名詞の勉強をしてい るところもあるぞ!)
それまではというと、私立中・高校は、公立中・高校の受け皿的な存在だった。が、今は、完
全に逆転している。公立中・高校が、私立中・高校の受け皿的な存在になってしまった。つまり その分、受験競争がはげしくなった。子どもたちは、小学4、5年制から、進学受験予備校に通 うようになった。
文科省のおかしな制度いじりが、(東京という中央では、それなりにうまく機能していたのだろ
うが)、地方の教育を、今、こうして混乱させている。まずもって、文科省は、それに気づくべ き。反省すべき。
さらに学校の教師にしても、忙しさのあまり、悲鳴をあげている。それについて書いた原稿
が、つぎのもの。
++++++++++++++
●忙しくなる、教師の世界
私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいて
い、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。
その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教
材を用意したりしていた。
しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。
このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間になってしまっ
たという(某、小学校校長談)。
だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、
めったにない、
「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習
熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の 先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。
この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追
い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。
余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出
している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこ のところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰る のは、毎晩、7時、8時だという。
何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追
いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1〜2人の 自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生に押しつけて、「何とか しろ!」はない。
さらに一言。
1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000
年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、 激化する様相さえ見せ始めている。
私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、み
なさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学
指導 詰め込み教育)
++++++++++++++++
バネというのは、ゆるめるのは簡単。しかし一度ゆるんだバネは、もとには戻らない。あるい
は戻すのに、何倍もの時間と努力が必要。「主要科目の授業時間を10%増やし、選択科目を 大幅に縮小する内容を盛り込んでいる」というが、そうは、うまくいくものか?
教育というのは、20年先、30年先を見ながら組み立てる。今、改革しても、その効果が現れ
るのは、20年後、30年後。
文科省の改革(?)は、どれも後手後手という感じがしないでもないのだが、そう思うのは、は
たして私だけだろうか。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●日韓経済戦争(10月29日号)
+++++++++++++
し烈さを増す、日韓経済戦争。
勝つか、負けるか?
が、今、韓国では、実に妙な
ことが起きている。
外資は逃げる。個人負債はふえる。
しかし株価だけは、上昇する。
なぜか?
+++++++++++++
●ウォン高
今日(10・29)現在、1ドル=908円(12PM)。「900円を割ったら、韓国の輸出産業は、
壊滅的な打撃を受ける」と言われている。が、その900円まで、あと8円!
しかし韓国の大本営発表ほど、いいかげんなものはない。そのつど、言っている内容が、コ
ロコロと変わる。しかし1ドル=908ウォンというのは、たしかに行きすぎ。それほどまでに、ウ ォンは強いのか? 魅力的な通貨なのか?
●逃げる外資
ここ2年間で、約83億ドルの外国人投資資金が、韓国から逃げている(東亜N報、10−2
9)。いわく、「KOTRAが28日、国会の産業資源委員会に提出した国政監査資料によると、国 内に投資した外国人投資額のうち、撤収金額は05年に32億8000万ドル、昨年50億6000 万ドルで、2年間の合計は83億4000万ドル(約7兆5885億ウォン)であるという調査結果と なった」と。
理由は、いろいろある。その中でも、最大の理由が、「労使関係」。韓国の労働組合の強さ
は、日本の比ではない。過去、日系企業も数多く、韓国に進出したが、そのほとんどが、今で は撤退している。そうでなくても、反日感情の強い国である。
が、これだけ外資が逃げるから、その分だけ、韓国経済が打撃を受けているかというと、そう
でもない。当局(KOTRA)は、つぎのように説明している。
「外国人投資家が国内の事業場を清算し、出資金をすべて回収する事例は少なく、撤収して
も韓国人に持ち分売却を行う場合がほとんどなので、国内経済に及ぼす影響は大きくない」 (東亜N報)と。
わかるか? このハゲタカのようなやりかた。
外国企業が撤退するときも、(その外国企業が)出資金をすべて回収することは、「少ない」
と。わかりやすく言えば、こういうこと。
まず外国人(ほとんどは日本人、当時)に、工場などを建てさせる。つぎに労使紛争を激化さ
せ、操業を停止させる。嫌気がさした、外国企業は撤退する。その撤退する外国企業を安く買 いたたいて、自分たちのものにする。だから「国内経済に及ぼす影響は大きくない」と。
●ふえる個人負債
目下、韓国人1人あたりの個人負債は、うなぎのぼりというか、天文学的数字にまで、ふくれ
あがっている。その額、軽く日本円で、70兆円を超え、90兆円に迫っている。
90兆円だぞ! 日本の人口規模に換算すると、3〜4倍して、約300兆円!
そのため、銀行の貸し倒れが、急増中。この1〜6月期の貸し倒れ(貸出債権損失処理金
額)だけでも、2兆6700億ウォンあまり(東亜N報。10−25)。03年以後、銀行圏だけでも、 総額28兆7000億ウォンにもなっている(同)。
しかもその借金は、ふえつづけている。中央N報の記事いわく、
「個人負債が国内総生産(GDP)の80%を超えた。22日、韓国銀行の国政監査資料による
と、個人の負債残額は(今年の6月末基準)、699兆1000億ウォン(約87兆円)で、物価上 昇率を考慮しない名目GDP871兆8000億ウォンの80・2%に達した。2004年末69・6% から昨年末79・1%に急騰したのに続き、80%台も超えたのだ」(10−23)と。
個人負債が、GDPの80%を超えたということがどういうことか、あなたにはわかるか? 簡
単に言えばおやじが稼ぐ給料とほぼ同額の金額を、妻がどこからから借りている。つまり国民 のほとんどが、借金漬けということ。借金に借金を重ねて、その金を、何かに使っている。
その「何か」とは、何か? 言うまでもなく、「投資」である。「株投資」である。東亜N報は、こ
んな例をあげている。
「ハナ銀行の家計向け融資担当者は「今年、証券市場が好況を享受していることから、株式
やファンドに投資するために信用融資を受ける顧客が多い」と話し、「担保や保証なしに1億2 000万ウォンを借りて株式に投資した事例があるとも聞いている」と説明した」と。
●借りた金で、株投資
韓国では、レバレッジ、つまり借りた金で株を購入、その株を担保にまた金を借りる。その金
でまた株を購入。さらにその株を担保にまた金を借りる……が、当たり前のようになされてい る。
その結果が、株価の大暴落と、大暴騰。その繰りかえし。
私も毎日のように韓国の株価をのぞいているが、もうメチャメチャ。1800ポイント台に急落し
たかと思うと、今度は、2000ポイント台に急上昇。そういう変化を、この数か月、週単位で繰 りかえしている。
今日現在(10―29、午後1時)は、2062ポイント。
韓国では、法定利息は、年利66%だった。それが最近、49%に引き下げられた。しかしヤ
ミ金融の世界では、100〜200%が当たり前。
どうなるか……?、というより、こんなメチャメチャな経済運営をしている国を、私は、ほかに
知らない。一部の、ごく一部の国策企業だけは、毎日のように華々しいアドバルーンをあげて いる。しかしそれは一部。
もしここでほんの少しでも、株価が低落したり、景気が低迷したら、どうなるか? さらに原油
高という問題もある。私たち日本人の知ったことではないが、しかし何も、日本が、韓国のこと を心配する必要はない。つい先日も、韓国は、アジアでも最大級の揚陸艦(兵士上陸用の特 殊船)を完成させた。名前はズバリ、「独島」。日本名は、「竹島」。まさにやりたい放題。日本 が竹島を占拠(?)したら、韓国はその揚陸艦を出動させるつもりらしい。
(もし日本が反対の立場で、同じものを建造したら、韓国はどのように反応するだろうか?)
ここは静観して、韓国経済の成り行きを見ていようではないか。
(以上、10月29日記)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●今日・あれこれ(10月30日)
+++++++++++++
満60歳+2日!
何も変わらない。いつもどおり。
しかし運動量は、ふやした。
昨日は、小雨模様の中、2単位。
今日も、2単位(予定)。
その前日は、1時間ほど、歩いた。
体の調子は、悪くない。
(よくもないが……。)
この分なら、60代も、無事通過
できるかもしれない。まだ2日目
だが……。
うしろ向きに生きるのは、やめた。
これからは、どんどんと前向きに
生きる。
私は、ヤング・オールド・マンなのだ!
++++++++++++++
●私は生きている
60歳と、プラス2日。
体は、動く。仕事も、そのまま。
頭の働きも、まあまあ。
何も変わらない。変わらないが、
あの押し詰まったような緊張感は、
いったい、何だったのか?
60歳が近づくにつれて、
気分がふさいだ。あれこれ考えた。
しかしその60歳を過ぎてみると、
目の前が、パッと明るくなった。
気分が楽になった。軽くなった。
たとえて言うなら、暗いトンネルを
抜けたような感じ。
私はたしかに生きている。
その実感。自転車をこぐ足にも、
力が入る。仕事も楽しい。
食事もおいしい。
そうそう昨夜、居間にいたとき、
こんなことがあった。
座椅子から立ち上がろうとすると、
たまたまそばにいたワイフが
手を貸してくれた。
私は立ち上がったあと、また
座椅子に座り直した。
今度は、自分で立ち上がった。
ワイフは、「何も、座り直すことは
ないわよ」と言って笑った。
私は、「いやだね。まだまだ自分で
立ち上がれる」と。
私は生きている。たしかに生きている。
その実感が、楽しい。うれしい。
還暦なんて、クソ食らえ!
バカヤロー!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●砂糖は白い麻薬
++++++++++++
甘い食品になれた子どもから、
甘い食品を取りあげると、
禁断症状に似た症状が観察される。
私はこのことを、すでに30年前
に発見した。雑紙にも、そう書いた。
それが最近、科学的に、証明され
つつある。
++++++++++++
●禁断症状
アメリカの国立薬物乱用研究所の、N・D・ボルコフ(女性研究者)は、つぎのような論文を発
表している。
「……過食症ラットのばあい、砂糖を多く含むエサを与えたあとに、ナロキソンというオピオイ
ド拮抗剤(脳内快楽物質の働きを妨げる薬)を投与すると、禁断症状が起こる。
モルヒネを注射したあとに、ナロキソンを投与したのと同じく、禁断症状が生ずるのだ。この
結果から、糖分の多いエサを食べつづけることによって、身体的な依存が生じていたことがわ かる。人間でも同じ反応が起こるなら、禁断症状を緩和する処置が、ダイエットに役立つかもし れない」(日経・サイエンス・07・12月号・P55)と。
これはラットについての実験だから、そのまま人間に当てはまるとはかぎらない。しかし一
歩、近づいた! つまり白砂糖でも、麻薬に似た禁断症状が起こる!
その30年前に書いた原稿をさがしてみたが、見あたらなかった。そのかわり、当時の原稿を
もとに、書き直した原稿が見つかった。中日新聞に、8年前に発表した原稿である。この中に 書いた、U君というのは、今でもよく覚えている。
++++++++++++++
●砂糖は白い麻薬
●独特の動き
キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。
原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(ア メリカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。
つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分
泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の 抑制命令を阻害する、と。
●U君(年長児)のケース
U君の母親から相談があったのは、4月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。
U君は突発的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられ
た。このタイプの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。
「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君 は1日、100〜120グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで 私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。
●禁断症状と愚鈍性
U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症 状のようなものがあらわれることがある。U君のもそれだった。
夜中に母親から電話があったので、「そのまま砂糖断ちをつづけるように」と私は指示した。
が、その1週間後、私はU君の姿を見て驚いた。U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたま ま、まったく反応がなくなってしまったのだ。
何かを問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだ
け。母親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。
●砂糖は白い麻薬
これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの 必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラム。この量はイ チゴジャム大さじ一杯分程度。
もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキー
と声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネ シウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂 糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落 ち着く。
●リン酸食品
なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。
とは言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ
(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けて も流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせ ず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味を おだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水に よく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰を入れて対処しないと、リン 酸食品を遠ざけることはできない。
●こわいジャンクフード
ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要 なことである」と。
つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲 労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな どの原因になっている」とも。
●U君の後日談
砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期 間が長ければ長いほど、後遺症が残る。
U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。 脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片 瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。
子どもの食生活を安易に考えてはいけない。
+++++++++++++
30年前の当時、『白砂糖は麻薬』と、私は書いた。U君の禁断症状(ほんとうは、麻薬による
禁断症状というのは、知らなかったが)、その禁断症状を目(ま)の当たりに見せつけられて、 私は、そう書いた。
U君は、幼稚園から帰るとすぐ、冷蔵庫を足で蹴りながら、「ビスケット!」「ビスケット!」と叫
んだという。そのあまりの異常な様子に母親があわてて、私に相談してきた。
が、当時、『白砂糖が麻薬』と考える人は、だれもいなかった。私の意見は無視された。おか
しなことに、当時は、「砂糖は、滋養要素」と考えられ、「甘いものを断つと、かえって子どもの 情緒は不安定になる」と主張する学者さえいた。
私はN・D・ボルコフ(女性研究者)の論文を読んだとき、「やはりそうだった」と、確信を得た。
まだラットでの実験段階だから、先にも書いたように、人間にそのまま当てはめて考えることは できない。先に、「あと、一歩!」と書いた私の気持ちを理解してもらえれば、うれしい。
●お母さんたちへ
ショッピングセンターなどの飲食コーナーなどへ行くと、よく、子どもの頭よりも大きなソフトク
リームや、ジュースを、食べたり、飲んでいる子どもを見かけますね。
それがいかに危険なものであるかを知るためには、あなた自身が、一度、自分の頭より大き
なソフトクリームや、ジュースを、食べたり、飲んでみることです。
量は、体重で計算します。体重、15キロの子どもが、ソフトクリーム1個を食べるということ
は、体重60キロのおとなが、4個食べる量に等しいということです。
いくらおとなでも、4個は食べられませんね。食べたら、気分(=頭)がおかしくなります。それ
だけではありません。一時的な血糖値の急上昇が、その直後に、低血糖を引き起こすことも、 よく知られています。「甘いものを食べて、どうして低血糖?」と思われる人もいるかもしれませ ん。理由は簡単です。血中に大量のインシュリンだけが残り、必要以上に血糖値をさげてしま うからです。
突発的に衝動的な行動に移る子どもは、この低血糖を疑ってみます。わかりやすく言えば、
突発的に、キーッとか、キャッキャッと、甲高い声を張り上げて、(たいていは耳をつんざくよう な金きり声で)、騒ぐようでしたら、まずこの低血糖を疑ってみます。
『砂糖は、白い麻薬』です。もしどうしても、甘い食品……ということでしたら、精製していな
い、黒砂糖をお勧めします。黒砂糖には、CA、MG、Kなどの天然のミネラル分がバランスよく 含まれていますから、ここでいうような(突発的な行動)は起こりません。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ボル
コフ 過食症ラット 禁断症状)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2305)
●ハレンチ事件
++++++++++++++
たとえば若い男が、美しい
女性のヌードを見たとする。
そのとき、その男は、ムラムラと、
性欲が身体の中でわき起きてくる
のを知る。
一種の条件反射だが、そのとき
脳内では、ドーパミンが放出
されるという。
もう少し詳しくいうと、
脳の中でも、報酬と行動欲求に
関する部分と言われる(線条体)
で、ドーパミンが急増するという。
この変化は、(生存に関する)もの
だけに、「この刺激は強力で、
意志の力だけでこの衝動を克服
するのは、非常に難しい」(アメリカの
国立薬物乱用研究所、N・D・
ボルコフ)とのこと。
私はこの論文(日経・サイエンス、07
年12月号)を読んだとき、内心
ほっとした。「そうだったのか」と、
である。
+++++++++++++++
●ドーパミンという脳間伝達物質
ほぼ毎日のように、教職者や教育関係者によるハレンチ事件が報道される。学校の校長
や教頭のみならず、大学の教授級の人までも、この種の事件を引き起こしている。教師の
セクハラ事件となると、今どき、珍しくも何ともない。
なぜか?
その謎を解くカギが、ドーパミンにあった。ドーパミンというのは、脳間伝達物質のひ
とつで、少なすぎても困る。しかし多すぎても困るという物質である。少なすぎると、た
とえば立ち上がろうとしても足がすくんでしまったり、どう行動したらよいかわからなく
なったりするという。パーキンソン病も、そのひとつ。
反対に多すぎると、今度は、「幻覚やパラノイア(統合失調症の陽性症状)が起こったり、
発話や運動をコントロールできなくなって、変な恥ずかしいことを思わずやったり、口走ったり
し、不必要とわかっていながら同じ行動を反復する強迫神経症になったりする」(東京都老人 総合研究所・HPより)とのこと。
このドーパミンが、脳の中でも、(人間の生存)に関する部分に深く関与しているということが
わかっている。実際には、そこにはたいへん複雑なメカニズムが働くわけだが、簡単に言え ば、そういうことになる。
で、その作用は、麻薬によるものと、たいへんよく似ているという。東京都老人総合研
究所の青崎俊彦氏も、つぎのように書いている。
「麻薬そのものがドーパミンと深く関わっていると言いましたが、実際麻薬とドーパミ
ンは切っても切れない仲にあり、パーキンソン病研究を飛躍的に発展させたのも、ある
意味で麻薬中毒患者たちの功績と言ってもいいくらいです」(同HP)と。
どこか回りくどい言い方になってしまったが、人間の脳みそが勝手に反応する部分だけ
に、「この刺激は強力で、意志の力だけでこの衝動を克服するのは、非常に難しい」(アメ
リカの国立薬物乱用研究所、N・D・ボルコフ)ということになる。
が、だからといって、教職者や教育関係者によるハレンチ事件を擁護するつもりは、な
い。まったくない。「非常に難しい」が、「不可能」ということではない。ただ私に関して
言うなら、こういうことが言える。
私にしても(ふつうの男)。だから、(ふつう程度の性欲)はある。しかしそういうもの
を(悪)と決めてかかってもらっては困る。(教育)に関係しているから、そういう(こと)
と無縁であるべきだとか、無縁だとか、そういうふうにも考えてほしくない。
私がたまたま足を踏み外さないでいるのは、(たまたま)、そうであるからにほかならな
い。相手もいないし、チャンスもない。風貌にも、恵まれなかった。
そこで重要なのは、教師や教育関係者によるハレンチ事件というのは、その人個人の問
題というよりは、(制度)の問題ということ。こうした事件が起きるたびに、文科省や教育
委員会あたりの人たちは、上意下達式に、綱紀粛正を伝達する。しかし文科省や教育委員
会の人たちがみな、いわゆる(聖人)かというと、そういうことは、ない。ぜったいに、
ありえない。
男であれば、夜な夜なその種のビデオを見ながら、それをテイッシュ・ペーパーで包ん
で、自分をなぐさめている。当然、頭の中は、ヒワイなことでいっぱい。若い女性の裸体を思い
浮かべることもあるだろう。言い方をかえるなら、『誰が、石もて、打てる
か』ということになる。
そこで(制度)ということになる。(法の整備)と考えてもよい。すでに欧米では、この
種のハレンチ事件に対しては、厳罰主義が常識化している。アメリカでは、理由や内容の
いかんを問わず、教師が生徒と性交渉をもったら、問答無用式に、即、懲役刑が科せられ
る。
が、この日本では、信じられないくらい、甘い。ハレンチ事件はともかくも、軽いセク
ハラ事件ともなると、ほとんどの事件は、学校レベルでもみ消されてしまう。教育委員会
レベルでもみ消されてしまう。事件となって報道されるのは、氷山のほんの一角。仮に起
訴、有罪となっても、たいていは執行猶予がついて、そのまま無罪(?)放免。
さらに(制度)についても、教師は、教室内での教育だけに専念し、またそれ以外の場
所での生徒との接触をいっさい、禁止する。あるいはそういう方向に、もっていく。現在
の日本のように、学校の教師が、生徒の教育はもちろん、生活指導、はては、しつけや家
庭問題にまで首をつっこむほうが、異常なのである。つまり、スキだらけ!
こういうスキを一方で放置しておきながら、教育者や教育関係者だけを一方的に責めて
も、意味はない。しかたない。
……ということで、私はこの論文(日経・サイエンス、07年12月号)を読んだとき、
内心ほっとした。「そうだったのか」と。
まあ、あえて言うなら、教育者も教育関係者も、自然体で生きればよい。居直ればよい。
「私も、男だ」「ふつうの男だ」と。無理に自分をねじまげるから、コソコソと隠れた場所
で、ハレンチ事件を繰りかえすことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
教育者のハレンチ事件)
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2306)
【ハード・クラッシュに備えよう!】
●絶壁に立った韓国経済
とうとう1ドルが、900ウォンに近づいた。10月31日現在、1ドル=901ウォン! 韓国の経
常収支は、実質、赤字! (韓国は、外国からの借金まで、資本収支に、「黒字」として計上し ている。)外資は、逃避、また逃避。にもかかわらず、ウォン高、株高、個人負債は、90兆円 (日本円で)!
危機ラインを突破! 韓国のバブル経済崩壊は、目前。来月(11月)、起きても、おかしくな
い。今週、起きても、おかしくない。韓国は2回目のデフォルト(債務不履行=国家破綻)を迎え る。
日本よ、日本の製造業よ、心して韓国のデフォルトに備えよう!
韓国がデフォルトに陥れば、韓国への輸出で潤っている日本の製造業は、大きな被害を被
(こうむ)る。その覚悟はできているか。この9月期、朝鮮N報によれば、設備投資は、マイナス を記録した。
いわく、「設備投資は今年上期には2けた台の伸びを見せたが、7〜8月に1%台へと落ち込
み、ついに9月期にマイナスに転落した」と。
韓国がデフォルトに陥ったら、日本政府は、すぐさま日本の製造業、とくに工作機械メーカー
などの救済をめざすべき。また今から、その準備をしておくべし。韓国の救済は、つぎのつぎで よい。彼らが頭をさげて頼みに来るまで、ぜったいに、救済の手をさしのべてはいけない。
97年のデフォルトのときは、日本政府は、頼まれもしないのに、500億ドルという現金を用
意して、韓国を救済した。今度は、そんな愚かなことをしてはいけない。
1ドルが900ウォンを切った、その日があぶない!
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●Yビヨンの核開発施設は、ガラクタの山!
++++++++++++++++
K国にあるYビヨンの核開発関連
施設は、やはりガラクタの山
だった!
ワシントン発、聯合ニュースは、
「『悪の帝国の核神経センター』という
よりは、1950年代で時間が止まった
ままのジャンクヤードに近い」と
報じている(10月30日)。
++++++++++++++++
ワシントン発、聯合ニュースはつぎのように伝える(ヤフー・ニュースより転載。)このニュース
の中で、とくに、末尾にあるつぎの文言に注意してほしい。いわく……。
「水と電気も数時間しか供給されず、光輝くレーザーや最新コンピュータ装備もなく、『悪の帝
国の核神経センター』というよりは、1950年代で時間が止まったままのジャンク・ヤードに近 い」と。
「Yビヨンの核施設はジェームズ・ボンドの映画に出てくる先端技術団地とは距離があり、放射
能に汚染され、崩れたセメント構造物の集合にすぎない」……。北朝鮮が来月1日から核施設 の無能力化措置を開始すると明らかにした中、米国の核専門家である戦略国際問題研究所 (CSIS)のジョン・ウォルフスタール国際安保担当専任研究員は、このほどCSISのホームペー ジに掲載した文章を通じ、Yビヨンの核施設の実態と水準について評価した。
ウォルフスタール研究員は米エネルギー省の出身で、1994年の米朝枠組み合意を受け90
年代末からYビヨン核施設の凍結監視団として現地に滞在し、Yビヨンの核施設を見て回った 数少ない専門家だ。
ウォルフスタール研究員は、「水と電気も数時間しか供給されず、光輝くレーザーや最新コンピ
ュータ装備もなく、『悪の帝国の核神経センター』というよりは、1950年代で時間が止まったま まのジャンクヤードに近い」と、Yビヨン核施設の実態を明らかにした」(聯合・07年10月30 日)と。
「ジャンク・ヤード」というのは、「ガラクタ置き場」を意味する。「junk」……「廃物、がらくた」と
ある(日本語大辞典)。
わかるか?
6か国協議では、他の5か国は、そんなガラクタと交換に、毎月5万トンもの原油を提供し
た! 私は何度も、Yビヨンの核開発関連施設は、「老朽化して使い物のならない」と書いてき た。K国から亡命してきた、F氏(K国元高官)も、繰り返し、そう言っている。
毎月5万トンも提供するなら、現物を見てからにすればよかった。ものを買うとき、一度品物
を見定めてから買うのは、資本主義社会の常識でもある。はっきり言えば、アメリカのヒル氏 は担(かつ)がれた!
これについても、私は何度も書いてきた。あんな国をまともに信じて交渉する方が、おかし
い。まちがっている。ヒル氏のような、育ちのよい(=育ちがよすぎる)国務次官補に、K国のも つ(したたかさ)など、理解できるわけがない。
K国は、もっと別のところで、核兵器の開発を今の今も、つづけている。それを明るみにする
ための5万トンということなら、まだ話もわかる。(恐らくヒル氏は、そう言い訳をするだろうが… …。)
しかしK国の金xxは、さらにその上をいく、「悪玉」である。そんなことは、今までの流れを見
ればわかるはず。甘いというか、愚かというか、はたまた、バカというか。私の書いていること が過激だと思う人は、もう一度、先の報告書を読んでみたらよい。
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司
●手巻き式の懐中時計vsデジタルカメラ
++++++++++++++
懐中時計とデジタルカメラ。
まったく正反対のモノであるにも
かかわらず、この両者は、私の心を
とらえて放さない。
++++++++++++++
先週、手巻き式の懐中時計を買った。「手巻き式」。約30時間ごとにネジを巻く。巻かないと、
そこで止まる。その上、ネジが上下に、よく動く。簡単に動く。懐中時計では、ネジを上に引く と、時刻合わせモードになる。そのとき、時刻が狂う。
時刻が狂う……。そのたびに時刻を合わせる。ほぼ、毎回、この繰り返し。ワイフは、「たい
へんね」と言うが、実は、それが楽しい。実にヒューマン温もりを覚える。
一方、数日前、新しいデジタルカメラを買った。P社の、FX33。ここ数年、デジタルカメラは、
P社製と決めている。今まで使っていたのは、P社製の、TZ−1。そのカメラもよかったが、液 晶画面に、ヒビが入ってしまった。修理に出そうと思ったが、修理費は、最低でも1万5000円 とか。(1万円は、店の手間賃。5000円は、メーカーの検査料ということらしい。)部品を取り 替えれば、その分が、さらに加算される。
「直すより買ったほうが得です」と、店の男に言われた。それでそのカメラを買った。
そのFX33は、P社のカタログの中でも先頭に紹介されているだけあって、たしかに、すごい。
「トリプル・ブレ防止」なるブレ防止はもちろん、逆光補正、露出補正などなど。顔を選び出し、 その顔にピントを合わせてくれる機能もついている。顔が動いても、追跡してくれる。すべて自 動でしてくれる。すごい! ほかにも新しい機能がある。
感度は、ISO・6400。(6400だぞ!)かなり暗いところでも、写真が撮れる。しばらくいじっ
てみたが、そのたびに「すごい!」の連発。ここ1年で、デジタルカメラは、格段の進歩と遂げ た。そこで私は、実感した。「これでフィルムカメラの時代は、終わった」と。
「終わった」というより、決定的な差がついた。(逆に、フィルムカメラのほうが、デジタルカメラ
化するということは、ありえるが・・・。)
考えてみれば、今度買った懐中時計と、デジタルカメラは、正反対の位置にある。
今どき手巻き式の懐中時計をもっている人は少ない。動力は、もちろん、ゼンマイ。旧式とい
えば旧式。文字表示も、アナログ式。
一方、デジタルカメラのほうには、最先端の技術が濃縮されている。私は同時にその2つを手
の中でいじりながら、どちらも同じ輝きをもって、私の心をとらえているのを知る。優劣は、つけ がたい。
これはどうしたことか? 時代を超えて、人の心をとらえるものは、同じ、ということか? 懐
中時計をいじっているのも、楽しい。デジタルカメラをいじっているのも、これまた楽しい。私は このところ毎日のように、交互をポケットから取り出して、遊んでいる。
……ということは、この先、たとえば100年後でも、200年後でもよいが、そのときどきにお
いて、そのときの(モノ)が、そのときの人の心をとらえるということになる。つまりモノの中身で はない。モノそのものが、人の心をとらえる。
そこでさらに考える。「では、モノとは、いったい、何なのか?」と。
私のばあい、視覚的な魅力というよりは、モノ自体がもつ機能というか、働きに興味がある。
だから陶器とか絵画には、あまり興味がない。さらに言えば、手でもつ感触を楽しむ。パソコン にしても、キーボードの感触が大切。とくにノートパソコンは、その感触で選ぶ。
人によって、こまかい(ちがい)はあるだろうが、モノの魅力は、どうやら脳みそと直結してい
ると考えてよい。もっと言えば、脳みそ自体が、自己の欠陥を補うために、モノを求めている?
そのことは、たとえばモノいじりを繰りかえす子どもを見ればよい。たとえば毛布の切れ端を
手放さない子どもがいる。その様子を観察してみると、子ども自身が、陶酔感を味わっている のがわかる。反対に、取りあげると、とたんに子どもの情緒が不安定になる。
……しかしこの私の論理は、どこかおかしい? モノいじりをする子どもは、指先の刺激を脳
みそに伝えることによって、快感を覚える。モノをいしることで、脳内で、モルヒネ様の物質が放 出されることが知られている。エンケファリンやエンドロフィンなどである。
子どもがもつ毛布と、デジタルカメラや、懐中時計を、同じに考えることはできない。……と思
ったが、やはり関係があるのかもしれない。私のばあい、モノの感触を楽しんでいる。指先でそ れをいじっていると、たしかに気持ちがよい。
……いろいろ考えるが、どうも、考えがまとまらない。まとまらないから、この話は、ここまで。
つづきは、明日の朝、起きたら、また考えてみる。……ということで、今夜は、ここまで。明日か ら11月。おやすみなさい!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●60歳+3日
60歳になった。
60歳になっても、
私は生きている。
バンザーイ!
体も動く。
目も見える。
耳も聞こえる。
話もできる。
考えることもできる。
バンザーイ!
仕事もある。
やるべきこともある。
したいこともある。
したいことができる。
私には、夢がある。
バンザーイ!
妻がいる。
家族がいる。
家庭がある。
みな、健康だ。
私も健康だ。
バンザーイ!
体が動く喜び。
仕事ができる喜び。
書きたいことが書ける喜び。
新しい発見ができる喜び。
感謝、感謝、また感謝。
バンザーイ!
満60歳になった。
満60歳になっても、
私は、今、こうして、
今までどおり、生きている。
ものを書いている。
バンザーイ!
+++++++++++++
●生きる
今日も、自転車に乗って仕事場に向かうとき、1人の男を見た。70歳くらいの男だった。自転
車を苦しそうに、押して歩いていた。歩き方が小刻みで、おぼつかなかった。脳梗塞を起こした 人らしかった。
「大丈夫ですか?」と声をかけたが、返事はなかった。私のほうを見ることもなかった。
私もやがてすぐ、ああなる。可能性の問題ではない。確実性の問題である。そうでなければ、
別の病気で、同じように、そうなる。運がよければ、20年後かもしれない。しかし運が悪けれ ば、明日かもしれない。
が、ともかくも、今は、健康だ。これといった病気もない。大切なことは、今日一日を、思う存
分、生きること。生きて生きて、生きまくること。明日は、今日の結果として、やってくる。来年 は、今年の結果として、やってくる。
私の未来がどうであれ、私はその日まで生きる。生きて、生きて、生き抜いてやる。
●運命論
脳梗塞といっても、今は、処置さえ早ければ、そのあとの症状も軽くすむそうだ。画期的な新
薬も開発された。脳梗塞を起こしてから3時間以内に、その薬を投与すれば、脳の血管に詰ま った血栓を溶かすことができる。
が、すべての医療機関で、その処置ができるわけではない。副作用も強いことから、処置の
前には、慎重な検査が求められる。が、ある男性(60歳くらい)は、運が悪く、その処置が受け られなかった。そのためその処置を受けたのは、ギリギリの3時間後。遅かった。そのため脳 梗塞の症状が、残ってしまった。左半身が、不随になってしまった。
レポーターのインタビューに答えてあれこれ話していたが、最後のところで、こう言った。「こん
な思いは、私だけで、たくさんです」と。ハラハラと涙をこぼした(NHK・07年10月)。
「こんな思い」というのは、処置を早く受けられなかったことへの無念さを表現したものだっ
た。
こういう報道番組を見ると、胸が詰まる。が、その一方で、その男性の話を聞きながら、こうも
思った。(運命)というものが、避けられないものであるとするなら、そのつど、運命を受け入れ て生きていくことも大切なことではないか、と。
何度も繰りかえすが、私たちには無数の(糸)がからんでいる。社会の糸、家族の糸、健康の
糸などなど。その(糸)の中で、私たちの運命は決まっていく。つまりその男性が、半身不随に なったのは、適切な処置を、早く受けられなかったことではなく、それ以前から、そうなる(糸) が無数にからんでいたためではなかったからではないか、と。
たいへん辛辣(しんらつ)な言い方であることは、自分でもよくわかっている。あるいは脳梗塞
という病気は、それほどまでに重いのかもしれない。その男性は、タクシーの運転手をしていた という。その病気で職も、失った。
しかし見方を変えれば、現に今、その男性は生きている。完ぺきな処置ではなかったかもし
れないが、20年、30年前なら、命まで落としていたかもしれない。「生きている」という原点に 身を置けば、ハラハラと涙をこぼすことはなかった?
運命というのは不思議なもので、それに逆らえば、キバを向いて、私たちに襲いかかってく
る。しかしそれを受け入れてしまえば、何でもない。運命のほうから、シッポを巻いて、逃げてい く。「これはいやだ」「あれはいやだ」ともがいているときというのは、一日とて、心の安まる日は ない。
しかし受け入れてしまえば、その日から、その人は前向きに生きていくことができる。……と
書いても、その男性もそうであるべきなどという、失礼なことを言っているのではない。先にも書 いたように、脳梗塞というのは、それ以上に重篤(じゅうとく)な病気である。運命として受け入 れるのは、あまりにも過酷すぎる。
それに私とて、今は健康だから、こうして偉そうなことを書ける。しかし私もそうなったら……。
本当のところ、自信はない。その男性以上に、無念の涙をハラハラとこぼすかもしれない。しか し、これだけは言える。
たとえば私のワイフが、脳梗塞になっても、私は最後の最後まで、ワイフの世話をする。便の
始末だって、する。私はけっして、ワイフをひとりぼっちにはしない。その自信はある。覚悟もで きている。私はそのときはそのときで、運命を前向きに受け入れていく。その自信は、ある。
まあ、ここはあまり深刻に考えないで、今日もがんばって生きていこう!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●リタリン
+++++++++++++++
向精神薬の子どもへの投与は、
慎重であるべき。
私は今まで、何度も、そう
書いてきた。
一時的には効果があっても、
その反作用がひどい。
それに脳にはフィードバック
機能というのがある。
向精神薬を用いると、その効果
を打ち消そうとする機能が
働く。
そのため向精神薬の投与を
やめたとたん、症状が一気に
悪化する。
私はそういう事例を、子どもの
世界で、何十例も、見てきている。
で、あのリタリン。
AD・HD児にリタリンが投与され
ているという話は、今では、どこの
学校でも、半ば、常識化している。
しかし同時に、アメリカでは、
リタリンの副作用も問題になっていた。
私はその資料を、すでに5年前から
手に入れ、マガジンなどで報告
してきた。
が、今になって、つまり(常識化した
今)になって、「危険である」と。
こんなバカげた話があるだろうか。
こんなバカげたことが、子どもの世界で
許されてよいものだろうか。
その前に、向精神薬の投与には慎重で
あるべきという、あの常識は、今、
どこへ消えてしまったのか?
おとなとちがい、子どもには、その
成長過程において、自立的に脳を
正常化するという機能が働く。
AD・HDにしても、その時期が
くれば、見た目の症状は、そのまま
消失していく。
幼児期や小学校の低学年児のときに
そうであるからといって、無理を
することはない。無理をしても
いけない。はげしい指導で、
症状をこじらせてもいけない。
リタリンを教訓に、私たち、親や
教育者は、もっと賢くなったらよい。
+++++++++++++++
(リタリンについては、
http://hiroshihayashid.ninja-web.net/
に収録しておきました。参考にしてください。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2307)
●今朝・あれこれ(11月1日)
++++++++++++++
無事、10月が終わった。
ほっとした。
満60歳が近づくにつれて、
ぐいぐいと、自分が、瓶(びん)
の中にでも、押し込められていく
かのような圧迫感を覚えた。
不快な重圧感だった。
が、それを通り抜けたとたん、
気が晴れた。気が楽になった。
何も変わらなかった。私は私。
いつもの私だった。
だれだ、「還暦」などという、
バカげた言葉を考えたヤツは!
還暦というのは、数え年で、
61歳のことをいう。
十干と十二支の組み合わせで、
数え年で、61歳のときに、
それを祝うことをいう。
12x5=60、となる。
いや、「還暦」というよりも、
還暦に、定年退職という言葉を
結びつけたヤツが悪い。
定年退職というと、「用なし」
「お払い箱」というニュアンスが
ともなう。
それが悪い。
しかしその重圧感というのは、
悪いばかりではない。
それは収縮と爆発を繰りかえす、
宇宙論と似ている?
60歳を過ぎたとたん、私は
爆発した。中身まで、変わった。
私は私の中で、巣くっていた
邪悪な自分と、決別することが
できた。
ワイフに、「ぼくは生まれ変わった
みたい」と話したが、それを今、
たしかなものとして、実感できる。
ともかくも、年齢という(数字)に、
自分をあてはめて考えること自体、
バカげている。
……とはいっても、世間的な常識と
戦うのは、容易なことではない。
いくら「自分は、そうは考えない」と
思っても、周囲の者たちが、それを
許さない。
ジワジワと、私に迫ってくる。
小学生の子どもですら、「先生、
定年で退職するの?」と聞いてくる。
そこでどうだろう。もう定年退職など
という言葉は、廃語にしたら?
働けるかどうかは、その人自身が
決める。その周囲の人たちが決める。
年齢という数字ではない。あくまでも
本人しだい。本人を見て、決める。
「60歳だから……」という「ダカラ論」
だけで、その人を区別するのは、立派な
差別である。
さらに、多くの人は誤解しているかも
しれないが、仕事ができるというのは、
その人の特権である。権利である。
「年金で、悠々自適の老後生活」などと
言っている人は、自らその権利を放棄
していることになる。そんな老後生活に、
どれほどの意味があるというのか?
ともかくも、満60歳を無事、通過!
この先、もう気になる年齢は、ない。
あとは、その日が来るまで、生きる。
ハハハ。このすがすがしさ。それを、
あなたにわかってもらえるだろうか。
ハハハ!
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●平凡という罪悪(60歳+4日)
++++++++++++++++
平凡は、それ自体、美徳だが、
その平凡からは、何も生まれない。
あのW・サマーセット・モームも、
『人間の絆』の中で、「幸福に
身を委ねることは、敗北の承認
である」というようなことを
書いている。
その渦中にいる人には、つらい
ことかもしれない。実際、モームは、
若いころ、波瀾万丈の人生の中で、
もがき、苦しむ。が、結局、彼が
得た結論は、こうだ。
「結婚し、子どもをもうけ、
死んでいく」というような、つまり
平凡な人生は、「立派な敗北」である
と。
わかりやすく言えば、人がなぜ
生きるかといえば、そのドラマに
こそ、価値があるということ。
子育ても、またしかり。
何も問題のない子どもをもち、
何ごともなく過ぎていくのも、
ひとつの人生かもしれない。が、
そういった子育てからは、何も
生まれない。何も学ばない。
つまり親自身も、成長しない。
だからといって、苦労するのが
よいというわけではない。だれだって
苦労は避けたい。その一方で、楽を
したい。
それはわかるが、大切なのは、「懸命さ」。
ひたむきな懸命さである。
その懸命さこそが、無数のドラマを産み、
そのドラマが、人生を、心豊かな、
潤いのあるものにする。
++++++++++++++++
『人間の絆』は、W・サマーセット・モーム(1874〜1965)自身の自叙伝とも言われている。
正直な作家で、ある本(『彩られたベール』)では、実名で書いたため、名誉毀損で訴えられた りしている。
もちろん小説だから、細部については、それなりに改変してある。しかし『人間の絆』の中の
主人公、フィリップ・ケアリは、彼自身のことである。
そのフィリップ・ケアリは、子どものころから、そして最終的にサリという女性に出会うまで、ふ
つうでない苦労に苦労を重ねる。とくにフィリップを悩ましつづけるのが、ミルドレッドという女性 である。もともとはレストランのウェートレスをしていた女性である。日本的に言えば、そのミル ドレッドとの腐れ縁で、フィリップの生活はメチャメチャに破壊される。『人間の絆』は、フィリップ とミルドレッドの物語と言っても過言ではない。が、やがてその生活もミルドレッドの悲劇的な終 末で、終止符が打たれる。
サリと知り合ったのは、そのあとのことである。が、モームは、冒頭に書いたような結論に達す
る。「幸福に身を委ねるということは、それ自体が、立派な敗北である」と。
それはその通りで、平凡な人の平凡な生活からは、小説になるようなおもしろいネタは生ま
れない。その人自身は「私は幸福だ」と思うかもしれないが、その幸福感は、薄っぺらく、中身 のないものである。それがわからなければ、時には新聞に載る投稿記事を読んでみたらよい。
「庭に、秋の訪れを感ずるススキの穂が咲きました。風に揺れるススキの穂を見ていると、今
は亡き父といっしょに過ごした、楽しかった子どものころを思いだします」と。
私自身は、ああした歯が浮いたような投稿記事を読むと、時にぞっとすることがある。それは
たとえて言うなら、どこかの役所で、仕事らしい仕事もしないで、のんべんだらりと時間をつぶし ている、公務員を見たときに感ずるような怒りに似ている。「お前ら、それでも生きていると言え るのか!」と。
私は若いころ、モームの書いた『東洋航路』が好きだった。あの本を読んで、……というより
同時進行の形で、私は外国へ飛び出した。またそれがきっかけで、モームの本を、何冊か読 んだ。ほかに『月と六ペンス』がある。英文のほうは、大学でも読んだが、やたらと難解で、翻 訳本を横に置きながら講義を受けたのを覚えている。
が、やはり何と言っても、W・サマーセット・モームと言えば、この『人間の絆』に行き着く。
今調べてみたら、1915年発表とあるから、モームが40歳前後の作品ということになる。モ
ームは、この本の中に、それまでの自分をすべてぶつけた。
もっともその後のモームは、超有名作家として、イギリスで富と名声を自分のものにし、優雅
な(たぶん?)、生活を送っている。皮肉なことに、『人間の絆』の中では、上流階級の夫人たち を随所で嫌っているが、モーム自身は、やがてその上流階級の世界に埋没していく。『東洋航 路』にしても、当時としては、特別な階級の人のみに許された旅行記であった。
……とここまで書いて、さて、私の番。
これからの10年。私は、どう生きるべきか……? たとえば今まで私は、「はやし浩司」とし
て生きてきたが、実は、「はやし浩司」だけではない。ペンネームでいろいろな世界で、いろい ろな本を書いてきた。「はやし浩司」に影響があるといけないからという理由で、そうしてきた。
しかしそろそろそうした遠慮とも、おさらばしたい。敵もできるだろう。不愉快に思う人もいるだ
ろう。しかしこれからは、私は私で生きたい。平凡なんて、クソ食らえ!
久しぶりにW・サマーセット・モームの『人間の絆』を紐(ひも)解いてみて、今朝は、そんなこ
とを強く感じた。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●ヘミングウェイ
+++++++++++++++++
W・サマーセット・モームについて書いたら、
もう1人、どうしても書かねばならない作家
がいる。
E・ヘミングウェイである。
映画を見たこともある。それで私は、
『誰(た)がために、鐘は鳴る』を、英文で
読破した。(英文で、だぞ!)
冒頭の詩は、何度も読んで、暗記
した。
「Anymen's death
deminishes me...
(誰の死なれど……)」という、あの詩である。
幸いなことに(?)、ヘミングウェイ
の書いた英語は、平易で、学生の私にも
ほとんど辞書なしで読めた。
(最初に自信をつけてくれたのが、
『老人と海』だった。それまでは、
英語の本を手にしただけで、おじけついて
しまって、読めなかったのを覚えている。
が、ヘミングウェイに出会ってからは、
一変した。それ以後は、英文の本を、
つぎつぎと読破できるようになった。
ほかに好きだったのは、バートランド・
ラッセルや、オー・ヘンリーの短編小説など。)
このヘミングウェイで特筆すべき点は、
61、2歳の若さで、猟銃自殺を図った
ということ。
記録を見ると、1899年7月21日
生まれ、1961年7月2日、アイダホ
州ケチャムの山荘で猟銃自殺とある。
正確に年齢を計算すると、満61歳で
この世を去ったことになる。今の私と
ほぼ同年齢である。
+++++++++++++++++
ヘミングウェイに最初に出会ったのは、高校時代だったが、『誰がために鐘は鳴る』に出会っ
たのは、映画のほうが先だったと思う。そのあと英語の原書を買ってきて、自分で読んだ。
で、当時の自分を振り返ってみて、こう思ったのを覚えている。「どうして鐘が鳴るのか?」と。
その答は、原書のほうにあった。「toll(=鐘がなる)」という単語は、「弔いの鐘が鳴る」という
意味である。「ring(=鐘が鳴る)」というときの「鳴る」とは、意味がちがう。
この詩を引用して書いたエッセーが、つぎのものである(中日新聞発表済み)。
+++++++++++++++++
●脳腫瘍で死んだ一磨君
一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生
活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」 と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほし い」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。
いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワ イやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。
しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望
感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。 実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまった かのように感じた。
葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」 と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、 私だけではなく、皆が目頭を押さえた。
ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は一磨君の 遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。
この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くな
る。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わ ったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴 るなりや。汝がために鳴るなり」と。
私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両 親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。
しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しか
し心がつながったとき、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の 中で生きることができる。それが重要なのだ。
一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕
事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その 瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きて いることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。
++++++++++++++++++
その一磨君が、私に1枚の絵を描いて残してくれた。その絵は、BW教室に、今の今も飾って
ある。一風変わった線画である。それに何日もかけて、色を塗ってくれた。一磨君が亡くなる半 年くらい前のことだった。その絵は、私の宝であり、同時に私自身の命でもある。
で、当時暗記した英文を、そのままここに書く。(ひょっとしたら、部分的にまちがっているかも
しれない……。)
Anymen's death diminishes me,
Because I'm involved in human−beings.
Therefore never send to know
For whom the bell tolls.
It tolls for thee.
誰の死なれど、我が胸痛む。
我も人の子にありせば、それ故に
問うことなかれ。
「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや」と。
汝がために鳴るなり。
この詩はヘミングウェイの書いたものではない。小説『誰がために鐘は鳴る』の冒頭を飾って
いる詩である。つまりこの詩を書いた人は、どこかで弔いの鐘が鳴るのを聞いた。それを聞い て、「あの鐘が鳴るのは、だれのためでもない。自分のためだ」と感じた。「なぜなら、いつか、 自分も死ぬのだから……」と。
ヘミングウェイは、この詩に感動した。だから自分の小説の冒頭を、この詩で飾った。同時
に、その詩は、ヘミングウェイ自身、さらにはその小説を読んだすべての人に、こう伝えた。
「生きることを大切にしろよ」と。
しかし……。ヘミングウェイ自身は、猟銃自殺を図っている。すべての富と名声を手に入れな
がらも、彼の心は満たされることはなかった? 私にはよくわからないが……、というより、私 のような者が自殺するというのであれば、まだ話もわかる。「はやし浩司が、失意と失望、孤独 の中で自殺した」と。
若いころ、ヘミングウェイが自殺していたと聞いたとき、そして彼が61歳だったと聞いたとき、
「あのおじいさんが……」と思ったのをよく覚えている。ヘミングウェイは、風貌からしてジジ臭 かった。
しかし今、自分がその年齢になってみて、その考え方は、大きく変わった。「ヘミングウェイも
若くして死んだのだなあ」と。
ところで、私は自殺なんか、しないぞ。富も名声もない。だったら命くらいは大切にしなくちゃ
あ。ハハハ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ヘミン
グウェイ サマーセット・モーム)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●60歳+5日
+++++++++++++++
昨夜は、雨だった。自転車に
乗れなかったので、速歩で、
歩いて家に帰った。
歩いているときから、足がつる
感じがした。おかげで夜中に
脚痛!
無理をしてはいけない。しかし
私は楽しかった。うれしかった。
「私は歩けるんだ」という喜びが、
足の痛さを忘れさせた。
そう、思わず、トトロの歌を
歌いながら、歩いた。
「♪歩こ、歩こ、私は元気……」と。
みなさん、おはようございます。
+++++++++++++++
満60歳のその日が近づくにつれて、あたかも万力機で体を押しつぶされていくような、圧迫
感を覚えた。
万力機……ものをはさんで、レバーをクルクル回すと、そのものに、ものすごい力が働く機械
をいう。「まんりきき」という。昔は、どこの自転車屋にも、それが置いてあった。
いくら「私は私」と叫んでも、意識というのは、そういうもの。昔からの意識が残っている。周囲
の人たちの意識もある。そうした諸々の意識が、私の意識に作用して、私の意識を形づくる。
が、満60歳になったとたん、その圧迫感から解放された! あたかもカゴの中から、外に放
たれた鳥になったような気分だった。スーッと、軽い風が、心の中をかけぬけた。
60歳+1日目。私は、私が何も変わっていないことを知った。
60歳+2日目。私を取り巻く環境が、何も変わっていないことを知った。
60歳+3日目。私は生きている歓びを感じた。
60歳+4日目。私は、前向きに生き始めた。年齢なんて、クソ食らえ!
そして今日。私の前に、「年齢」がないことを知った。「年齢」という壁が消えたのを知った。7
0歳になろうが、80歳になろうが、生きられるところまで生きる。それが自信となって、私の心 の中に充満し始めた。
●愚かな人を憐れむ
私の家の隣は、空き地になっている。竹ヤブの雑木林になっている。そこはかっこうの、ごみ
捨て場。それはわかる。
しかし近所の人の中には、その竹ヤブが、私の私有地と思っている人がいるらしい。私がい
つもゴミ拾いをしているからかもしれない。それはそれで構わない。
ところが、である。その竹ヤブの中のゴミを、わざわざ私の家の庭先に、放り投げていく人が
いる。少し前には、古い家具を、私の家の駐車場に投げ込んでいった人がいた。それまでは、 竹やぶに捨ててあった家具である。たぶん、「お前の空き地だから、清掃くらいしろ」という意味 で、そうしているのだろう。
愚かな人だ。そういう行為すること自体、バカげている。それに気づいていない。が、このタイ
プの愚かな人は、いくらでもいる。ここにも、そこにも、あそこにもいる。
しかし自分が一歩、「上」に出てみると、そういう人たちが、哀れで、かわいそうな人に見えてく
るから不思議である。心の病が原因で、そうしている人もいる。私の知人の隣には、ことあるご とにパトカーを呼びつけている人がいる。工事の車が止まっても、「駐車違反(?)」で、パトカー を呼びつけている。
退職前は、そういう関係の職場で、「長」をしていた人だという。年齢も80歳を超えている。
この世界、……というより、人間の世界は、動物の世界と同じ。もっと言えば、人間も動物と
同じ。大きくちがうようで、どこもちがわない。むしろ人間のほうが、へたに知恵がある分だけ、 扱いにくい。やっかい。
では、その(差)はどこにあるかというと、言うまでもなく、(思考力)ということになる。思考力
があるから、人間は人間。思考力がなくなれば、人間は、動物の世界へと、逆戻りする。動物 そのものに、なる。
要するに、こうした愚かな行為が平気でできる人というのは、(自分ではそうは思っていない
だろうが)、思考力のない人イコール、動物と同じということ。
とたん、つまりそれがわかったとたん、不思議なことに、そういう人たちに対して、同情心が生
まれる。「憐れみ」とも言う。もちろん私自身が、不愉快に思うことはない。怒りの気持ちは、さ らにない。
だまって放り投げられたゴミを片づける。犬のハナの糞と同じ。心の糞だ。そんなものに、腹
をたててもしかたない。
(補記)
こういう愚かな行為を平気でできる人というのは、たいてい、何かの心の病をかかえていると
思ってよい。今、その心の病をかかえている人は、多い。また人も、高齢になればなるほど、心 そのものが変調してくる。おかしな行動を繰りかえすようになる。
肉体の健康は、外からでもよくわかるが、精神の健康は、外からではわかりにくい。そのため
なおざりになりがちだが、肉体の健康を考えたら、精神の健康も考える。これは老後を心豊か に生きるためのコツではないだろうか。
●子どもの3大情動
++++++++++++++
恐れ、怒り、愛情の3つを、
人間の「3大情動」(ワトソン)
という。
これら3つの3大情動は、生後
人間が、生まれながらにして
もっている(感情)と考えられ
ている。
(そうでないと主張する学者
もいるが……。)
この3大情動の反対側にあるのが、
安らぎ、喜び、憎しみということに
なる。
たとえば乳児は、慈愛に満ちた
母親の腕の中では、安らいだ
表情をしてみせる。あやしたり
抱っこしてやると、喜ぶ。一方、
育児拒否、冷淡、無視が日常化
すると、心がゆがむ。憎しみも
そのひとつ。
+++++++++++++++
人間は、ほかの動物たちと、多くの共通点をもつ。この共通している部分が、人間が生まれ
ながらにもつ部分と考えてよいのではないか。たとえばワトソンという学者は、人間の3大情動 として、(1)恐れ、(2)怒り、(3)愛情の3つをあげた。
これらの情動について、人間が生まれながらにもっているものなのか、それとも生まれたあ
と、経験的に身につけるものなのかについては、さまざまな議論がなされている。(私自身は、 そういう議論のワクの外で生きている立場なので、直接は知らない。)
しかしむずかしい議論などしなくても、犬を見ればわかる。ネコや小鳥を見ればわかる。人間
を含めて、すべての高等動物は、これら3つの情動を、共通してもっている。共通してもってい るということは、「生まれながら」、つまり生来的と考えてよい。
これら3つの情動の反対側にあるのが、(1)安らぎ、(2)喜び、(3)憎しみということになる。
ところで話はぐんと東洋的になるが、漢方医学では、人間の感情を、5つ、もしくは7つに分け
て考える。
(怒)(喜)(思)(悲)(恐)の5つである。これを「五情」という。そしてそれぞれの情動は、「相
生(そうじょう)」「相克(そうこく)」の関係で、関連し合っていると、漢方では考える(素問・陰陽 応象大論)。「相生」というのは、(怒)(喜)(思)(悲)(恐)の情動が、順に、「喜は怒から生まれ る……」「思は喜から生まれる……」というように、その生成順位を言ったもの。
「相克」というのは、たとえば「怒と思」「喜と悲」は、それぞれ対立関係にあることをいったも
の。たとえば「悲しみにふけっている人には、喜びを与えて、(病気の)治療をする」などと応用 する。
この東洋医学の考え方を応用してみると、ワトソンの3大情動は、(恐)と対立関係にあるの
は、(喜)、(怒)と対立関係にあるのは、(思)ということになる。(詳しくは、「はやし浩司のHP」 →「目で見る漢方診断」(P147))
話を戻す。要するに、こうした情動は、子どもが生まれながらにもっていて、それが経験的
に、それが外に引き出されるようになると考えるとわかりやすい。たとえばよく知られた例に、 「微笑み(ほほえみ)」がある。
乳児は、生後1、2か月ごろから心を許した母親や父親に抱かれたりすると、微笑みを見せ
るようになる。(「天使の微笑」というときは、眠っているようなとき、微笑むことをいう。)こうした 微笑みは、親の愛に包まれたという経験がもとで、外に引き出されると考えられる。
怒りについても、同じように考えられる。(ただ乳児のばあい、怒りといっても、顔を赤くした
り、のどをうならせたりして表現する。)「愛情」、つまり「愛着表現」「愛着行動」については、す でにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。
こうした現象をもう少し客観的にみると、人間がもつ豊かな情動というのは、そのつど引き出
され、育てられていくものだということがわかる。その反対の例としてよく取りあげられるのが、 野生児である。
生後、何らかの理由で、野生の世界で育てられた子どもを、野生児という。この野生児に共
通して見られる症状が、いわゆる感情の鈍麻である。喜怒哀楽の情動のうち、怒をのぞいた 感情の発達が、阻害される。1920年に前後して発見された、インドのオオカミ少女(姉妹)、フ ランスのアベロンのビクトール少年などの例を、あげるまでもない。
さらに言いかえると、人間がもつ豊かな感情表現は、それ自体が、人間が人間であるという
証(あかし)ということになる。もっと言えば、人間がもつ、心の財産と考えてよい。中には、「何 だ、ただの感情のことか」と思う人も多いかと思うが、今、その感情のない子ども、あるいは感 情表現の乏しい子どもがふえている。これらの子どもは、年中児の段階で、約20%前後はい るとみてよい。
子どもの情動を考えるひとつのヒントになれば、うれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 情動
情動行為 感情 子供の感情表現)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2308)
●ジョディ・フォスター主演の「ブレイブ・ワン」
++++++++++++++++++
昨夜、仕事が終わってから、ワイフと、
ジョディ・フォスター主演の「ブレイブ・ワン」
を見た。
簡単に言えば、「復讐映画」だが、ジョディ・
フォスター演ずる、エリカの心の葛藤が
見物。それを演ずるジョディ・フォスター
の名演技が見物。
「許せますか、彼女の"選択"」と、副題に
あるが、選択できないまま、復讐の世界へ
と入っていくエリカ。その(心の葛藤描写)が、
すばらしい。
++++++++++++++++++
映画『ブレイブ・ワン』については、いろいろ論じられている。ヤフーの検索エンジンを使って、
『ブレイブ・ワン』を検索してみたら、17万件あまりもヒットした。
そこで私は、少しちがった角度から、この映画を考えてみたい。
ジョディ・フォスターは、白人である。婚約者とデートしているところを、ギャング(=暴徒)に襲
われる。ジョディ・フォスターは瀕死の重傷。婚約者は、殺害される。3週間目にジョディ・フォス ターが昏睡状態から覚めると、婚約者はすでに埋葬されたあと。映画は、ここから始まる。
が、ここからが問題。ジョディ・フォスターと婚約者を襲ったギャングは、有色系。プエルトリコ
系アメリカ人? もしここで婚約者が白人だったとしたら、この映画は、白人対有色系の対立 映画となってしまう。
そこで脚本家は、婚約者を、有色系にした。インド系?……配慮(1)
つぎに刑事。マーサー刑事を演ずるテレンス・ハワードは、有色系。アフリカ系アメリカ人。も
しこの刑事を白人にしたら、同じくこの映画は、白人対有色系の対立映画となってしまう。
そこで脚本家は、刑事を、有色系にした。……配慮(2)
ジョディ・フォスターは、銃砲店へ銃を買いに行く。そこで1人の男から銃を買う。この男は、ア
ジア系アメリカ人。白人でもアフリカ系アメリカ人でもないところが、ニクイ。
ともかくも銃をジョディ・フォスターに売ったのは、やはり有色系。……配慮(3)
ドラマは、ここから展開していく。ジョディ・フォスターは、いくつかの(やむをえない場面?)を
経て、つぎつぎとギャングを殺していく。相手は、すべて有色系。しかしこれでは、やはり白人対 有色系の対立映画となってしまう。
そこで伏線として、白人の悪党を登場させる。この男はギャングとちがって、本物の悪党。ジ
ョディ・フォスターは、この悪党を殺害する。……配慮(4)
つまりこの映画は、(人種)のバランスをみごとにクリアしながら制作された映画ということに
なる。白人が見ても、有色系の人が見ても、それなりに納得し、見られる映画ということにな る。映画のストーリーもさることながら、脚本家は、人種のバランスをどう取るかで、腐心したに ちがいない。その腐心のあとが、ありありとわかる(?)映画だった。
映画の評価は、どうか? 金曜日の深夜劇場だったが、観客は、私たち夫婦を含めて、6〜
7人前後。ガラガラ以上のガラガラだった。見終わったとき、ワイフは、こう言った。「(今度見る 予定の)スターダストが、楽しみね」と。
そんなわけで、星は3つの、★★★。ジョディ・フォスターという女優は、しかし、ものすごい女
優だね。すばらしい!
町の中の劇場を出たあと、夜の町の写真を、何枚か撮った。今度のカメラ(パナソニック社製
のFX33)は、超高感度設定にすると、深夜でも、昼間のように写真を撮ることができる。ISO・ 6400! このカメラは、ほんとうにすごい! これは余談!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●T氏のこと
++++++++++++++
T氏とのつきあいは、今年で、
もう30年になる。
若いころは、よく行き来した。
市外で、医院を経営していて、
氏自身は、眼科医として、周辺の
人たちからも、尊敬の念を集めて
いた。
知りあったのは、ある小学校で講演を
させてもらったのが、きっかけだった。
T氏も、文を書くのが好きだった。
そのT氏も、今は、アルツハイマー
型の認知症になり、「手に負えない」
ということで、今度、ケア・センター
から老人病院の方へ転院した。
徘徊がひどく、ときに洗面台の上に
乗って、暴れることもあったそうだ。
あのT氏が……と思うと、「つぎは
我が身」と、強く、思う。
+++++++++++++++
もう10年近く前になるが、T氏が、還暦を記念して、一冊の本を私にくれた。そのとき書いた
エッセーがつぎのものである。このエッセーを読むと、胸が痛い。
+++++++++
●T氏
今度、T氏が、自費出版で、短歌集を出した。たまたま昨日、T氏の家に遊びにいったら、T
氏が、うれしそうに、その中の一冊を私にくれた。私は、しばし、その短歌集に見入った。
そういうときのT氏の気持ちは、本を出したものでないと、わからない。自分の子ども以上の
子ども。本というのは、そういうもの。自分の命、そのものと言ってもよい。
死んだあとも、何かしらの足跡を、この世に残したいという思いは、T氏も私も、同じようにも
っている。
もちろん本にもいろいろある。
一番、くだらないのが、代筆で書いた本。つぎに教材などの実用本、指導書など。こういった
本は、本ではない。商品。ただの印刷物。
つぎに評論や随筆など。これらには、ある程度、「私」が残る。しかしどこかで読者の目を意
識した本は、やはり私の本ではない。
皮肉なことに、自費出版で出した本にこそ、その「私」が残る。自分のお金で出版するわけだ
から、だれにも遠慮する必要がない。ありのままの自分を、そのまま書くことができる。
しかし大きな問題が、一つ、残る。
読者あっての、本である。だれも読みたがらないような本を出しても、意味がない。ただのひ
とり言になってしまう。だからどうしても、そこで読者とのかけ引きが始まる。
「読んでください」と頭をさげつつ、その中に、自分の読んでもらいたいことを、織りこむ。いつ
だったか、「M」という子育て雑誌の編集長をしていた知人が、私にこう話してくれた。
「林さん、まず読者を喜ばすことです。読者が喜びそうな記事を、90%、書きます。残りの1
0%のうち、5%だけ、自分の意見を書きます。それでじゅうぶんです」と。
具体的には、「あなたは、すばらしい。いい人だ」と、90%の部分を使って書き、5%で、「で
も、こうすればもっと、すばらしい人になりますよ」と書く。
雑誌と本は、立場も目的もちがう。だからこの意見が、そのまま本にも当てはまるとは思わな
いが、一理ある。
私はそうして自費出版できるT氏を、うらやましいと思った。私などは、どうしてもどこかで読者
の目を意識してしまう。またそういう自分になってしまった。
今夜は、少し時間があるので、そのT氏の短歌集を、じっくりと読むつもり。自費出版にあり
がちな、独善的なところがない。すべてを、ありのままにさらけ出しているといった感じ。読みご たえのある本である。
Tさん、ありがとうございました。
****************************
T氏の「還暦のうた」を読む
****************************
還暦(60歳)の記念出版ということもあって、T氏の新刊には、友や知人の死を悼む短歌が
多い。
その短歌、それぞれに寄せられた注釈を見ると、改めてT氏の人脈の広さというか、太さを、
思い知らされる。人脈というか、心のパイプの太さといったほうがよいかもしれない。
T氏の父母への思いをつづった短歌につづいて、小学3年生で、T氏と知り合った、鈴木D君
という子どもについて詠んだ短歌もあった。もちろん自分自身の闘病記についても……。
その中でも、つぎの短歌には、はっとさせられた。
●こと更に病気のことにふれぬげにわれをきづかふ妻はかなしも
記述をみると、平成5年から7年にかけてと、ある。無頓着というか、鈍感というか、そのこ
ろ、T氏が入院していたとは、知らなかった。何という不覚!
T氏の短歌は、つづく。
●気がつけば我が病室に一輪の椿さしあり手術日の朝
●あなうれし芭蕉もきけり馬のしと音たてて出る我がいばりかな
このあとの短歌には、「手術後尿の出て喜ぶ」と注が書き添えてある。
ワイフは、さきほどから居間のソファに座って、T氏の短歌集を読んでいる。ワイフも、一冊も
らって、うれしそうだった。
++++++++++++++
何度も見舞いに行きたかったが、T氏の妻が、「よしてほしい」と言う。見舞いに行くと、そのあ
とT氏は興奮状態になってしまうという。「だから、そっとしておいてほしい」と。
よく無神経な人は、そのほとんどは単なる好奇心から、こうした老人を見舞ったりする。「好奇
心から」だ。
今回、私も母を介護するようになって、それがよくわかった。見舞いといっても、義理で来る人
もいる。何のために来るのか、それがわからない人もいる。
家族の私としては、そっとしておいてほしい。そう願う。母にしても、ぶざまな姿など、そう、人
に見せたくもないだろう。
反対に言うと、もしあなたの近くに、ケア・センターかどこかに入所した老人がいたとしても、
見舞いすべきかどうかについては、その家族の意向をよく聞いてから判断したらよい。ふつう は、行かない方がよい。
「見舞いに行けば、喜ぶだろう」と考えるのは、その人の勝手だが、T氏のように、そのあと興
奮状態になってしまう老人も多い。困るのは施設の人であり、家族の人ということになる。
もし見舞うとしても、(老人の様態は千差万別で、老人にもよるが)、そっと静かに来て、そっ
と静かに帰るのがよい。ワーワーと大げさに騒いだり、手を握って涙をこぼすなどというような ことはしてはいけない。
在宅介護を受けている老人であれば、なおさらである。私のばあいも、そうした見舞いは、す
べて断った。在宅で介護していると、家庭全体が、ある種の緊張感に包まれる。そういうとき介 護の苦労も知らない人がやってきて、もっともらしいことを言ったりすると、かえって腹が立つ。
さらには、「これでお母さんも、幸せですね。実の息子さんに世話をしてもらって」とか、「あな
たは親孝行の息子さんですね」などと言う人がいる。
しかし本音の本音を言えば、こちらは何もしたくてしているわけではない。「親孝行」などという
軽い言葉で、介護を茶化してほしくはない。それがわからなければ、小便を顔にかけられなが ら、下痢で汚れた親の尻を拭くときの苦労を、少しでも頭の中で想像してみることだ。それが毎 日、つづく。
介護は、きれいごとではできない! 現実だ。そこにある現実だ。それが介護だ!
……ということで、T氏の奥さんとは、毎週のように連絡を取りあっている。
私「うちの母は、徘徊ということがないだけ、助かります」
妻「へたに元気というのも、困りますね」
私「病院に任すところは任せて、忘れることがいちばんですね」
妻「私も、そう思います」と。
ところで、先日、T氏の息子氏(45歳)と、通りで出会った。私が、「Tさんは元気ですか?」と
声をかけると、意外と明るい声で、こう言った。「1回しか、見舞いに行っていませんから……」 「だから、わかりません」と。
この半年ほどで、1回? ……T氏の息子氏を責めているのではない。そういう息子氏を、私
は、内心ではうらやましく思った。
正直に、スラスラとそういうことが口にできるということ。また「1回だけ」ということで、自分を
責めている様子でもないこと。そのあと、私なら、何と答えただろうかと考えた。
たぶん私なら、世間的な常識に毒されて、「元気ですよ。先日も見舞いに行ってきたばかりで
すから」などと、ウソを言ったかもしれない。私は子どものころから、そういう家庭環境に生まれ 育った。一度体にしみこんだシミを、心から消すのは、容易なことではない。いつもどこかで、 世間的な評価を気にしている。体裁を構う。
だから私は笑って、その息子氏と別れた。ハハハ、と。
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※
●ある読者の方からのメール
+++++++++++++++
WINDOWメールを整理していたら、
1通のメールがそこに残っていた。
ずいぶん前に受け取ったものだが、
こういうメールは、削除できない。
つまりそのまま残った。
そのまま紹介させてもらう。このメール
をもらったころ、マガジンの廃刊を、
本気で考えていた。
+++++++++++++++
こんばんは。林様。
このメールに返信して届くのかよくわかりませんが
お頼りすることにしました。
母親歴10年になる(九州の)M町在住のものです。
この号に、もしかして休刊?、ということが書いてあったので
ちゃんと読んでますよ、ということをお伝えしたかったのです。
私も昨年まで6年間、ネット業界にいましたので
相手からの反応が体感しにくいので、モチベーションがあがりにくい
というネットの現状を知っているつもりです。
そのことをふっと思い出して、ちゃんと読んでますよ!とお伝えしたくなった次第で
す。
次号も楽しみにしていますので頑張ってください。
こちらの希望としては、もうすこし記事が少ないほうが読みやすいです。
盛りだくさんなので。読めずにたまることもあります。
今の半分の量でも十分だと思います。
日本の教育については本当に同感する部分が多いです。
地元公立小学校に子供が通っていますが、正直がっかりさせられることが
多いです。(私立がいいという意味ではありません。)
介護日記も楽しみにしています。
明日は我が身。。。
好き勝手書きましたが、一読者の感想でした。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●「ロコ・ロンドンxx」という詐欺商法
+++++++++++++++
またまた新手の詐欺商法!
今度は、「ロコ・ロンドンxx」という名前の
詐欺商法である。
「金の価格が暴騰していますよ」「今、
金に投資すれば儲かりますよ」という
語り口で、近づいてくる。
被害が急増している。東京都だけで、
すでに200件以上の会社(?)が、
活動しているという。被害者の数は、
かなりの数になるはず。全国に、被害者
救済
金の先物取引というと、あの豊田通商事件
を思い出すが、「ロコ・ロンドンxx」は、
先物取引ではない。現物取引を歌っている。
しかしもちろん、(現物=金の延べ板)が、
手に入るわけではない。
みなさんもくれぐれも、ご用心!
なお「ロコ」というのは、固有名詞ではない。
英語の「@=at」にあたる言葉。だから
「ロコ・ロンドン」というのは、もちろん
会社名ではない。「ロンドンにて」という
意味にすぎない。
この部分だけが、たとえば「ロコ・ニューヨーク
xx」というように変えられる。
++++++++++++++++
●「NO!」をはっきり言う練習
こうした詐欺商法から身を守るためには、「NO!」を、日ごろからはっきり言う練習をしておく
とよい。だれか、たとえば夫か妻に相手になってもらい、その会話練習をする。心理学の世界 でも、この方法は、きわめて有効であることが実証されている。夫が相手のばあいは……。
夫「奥さん、いい薬がありますよ。いかかですか?」
妻「いりません!」「お帰りください!」
夫「金に投資してみませんか?」
妻「興味ありません」「電話を切ります!」
夫「ちょっと遊んでいきませんか?」
妻「お断りします」「さようなら!」と。
できるだけ大きな声で、はっきりと言うようにする。この訓練を、1、2週間おきくらいに数度、
繰りかえす。
BW教室でも、私はこの訓練をときどきする。
私「ちょっと遊びに行かない?」
子「NO!」
私「車に乗ってよ?」
子「NO!」
私「お菓子を買ってあげるからさ」
子「NO!」と。
こうした誘いに対して、反射神経的に「NO!」と言えるようにしておく。これは子どもたちの身
を守るための、知恵ということになる。
なお国民生活センターは、HP上で、つぎのように警告している。
「昨年(06年)の秋頃から「ロコ・ロンドン貴金属取引」「ロコ・ロンドン保証金取引」といった名
称の取引(以下、ロコ・ロンドン金取引)について、「契約したが、大丈夫か」「取引をしたところ 損をした」などの相談が、国民生活センターや全国の消費生活センター等に寄せられはじめて いる。
相談事例をみると、70歳代〜80歳代の高齢者が取引の仕組みを理解できないまま、100
万円以上の高額なお金を投資し、トラブルに巻き込まれているケースが多くみられる。なかに は、「投資したお金のほとんどが戻らなかった」という深刻な被害もある」と。
みなさんも、くれぐれも、ご用心!
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2309)
●幼児性心理(H法務大臣の軽率発言)
++++++++++++++++++++++
フロイトは幼児の性欲について、次の三段階に
分けている。
(1)口唇期……口の中にいろいろなものを入れて快感を覚える。
(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に
興味を示したり、そこをいじったりする。
(3)男根期……満四歳くらいから、性器に特別の関心をもつよ
うになる。
++++++++++++++++++++++
本題に入る前に、まず一般論から。少し前、こんな相談があった。
++++++++
Q うちの子は、口が悪くて困ります。私に向かっても、平気で「クソババー!」とか言います。
(小二男2
A 子どもの口が悪いのは当たり前。それを許せというわけではないが、それが言えないほど
まで、子どもを抑えつけてはいけない。もう少し専門的に言うと、こうなる。
乳幼児の心理は、口唇期(口を使って口愛行動をする)、肛門期、男根期を経て発達する(フ
ロイト)。肛門期というのは、体内にたまった不要物を、外に排出する快感を覚える時期と考え るとわかりやすい。(これに対して、男根期は、いわゆる小児性欲のこと。おとなの性器性欲の 基礎になる。)
たとえばおとなでも、重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。
が、それを話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。その とき感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい。
つまり子どもは、思ったことをズケズケと言うことで、自分の心の中にたまったゴミを外に吐き
出そうとする。それは快感であると同時に、子どもにとっては、精神のバランスをとるために は、必要なことでもある。
むしろそれを抑えつけてしまうことによる弊害のほうが、大きい。イギリスの格言にも、『抑圧
は悪魔をつくる』というのがある。心の抑圧状態が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になる ことを言ったものだが、子どものばあい、それがとくに顕著に現れる。
N君(小5)という、静かでおとなしい子どもがいた。従順で、これといって問題はなかった。し
かし私はある日、彼のノートを見て、びっくりした。そこには、首のない人間や、血だらけになっ てもがき苦しむ顔、ドクロなどが描かれていた。原因は、父親の神経質な過関心だった。
言いたいことを言う。思ったことを言う。それができるから、家庭という。あの『クレヨンしんち
ゃん』の中にも、母親のみさえが、義理の父親に向かって、こう怒鳴るシーンがある(V16)。 「ひからびた、ゆで玉子頭」と。そういうことが自由に言いあえる家庭というのは、それだけで も、すばらしい家庭(?)ということになる。
私も、よく生徒に、「クソじじい」と言われる。そこである日、こう教えてやった。
私「もっと悪い言葉を教えてやろうか」
子「うん、教えて、教えて」
私「でも、お父さんや、校長先生に言ってはだめだよ。約束するか?」
子「するする…」
私「ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。
それからというもの、私のニックネームは、美男子になった。生徒たちは私を見ると、うれしそ
うに、「美男子! 美男子!」と。私は一応、怒ったフリをするが、内心では笑っている。
+++++++++++
以上は、子どもの世界の話だが、今日、こんなニュースが伝わってきた。またまたあのH法
務大臣の失言問題である。
H法務大臣が11月3日、地元選挙区の福岡県で「日本にはテロリストがいることを知ってい
る」と発言したという。
「本当のことを、事実を言うと、みんながびっくりしてマスコミが騒ぐ。とにかく、この国をテロか
ら守る。テロリストの怖いのが平気でこの国をうろうろしている。私はその事実を知っているか ら申し上げている」(ヤフー・news・11月3日)と。
H大臣は、この10月、「友人の友人がアルカイダ」などと発言、官房長官から「軽率だ」と注
意を受け、謝罪したばかりである。いったい、このH法務大臣の頭の中は、どうなっているの か。実は、その謎を解くカギが、「肛門期」である。
先に書いたことを、もう一度、おさらいしてみよう。
「……重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。が、それを話せ
ないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。そのとき感ずる快感 が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい」、である。
つまりことの真偽は別として、H法務大臣は、まさに幼児の肛門期を地でいくような発言を繰
りかえしているのがわかる。しかしH法務大臣は、幼児ではない。立派なおとなである。しかも ふつうのおとなではない。法務大臣という一国家の要職にある人物である。
わかりやすく言うと、H法務大臣は、幼児性を残したまま、つまり精神的未発達のまま、おと
なになった人物ということになる。地位や肩書きにだまされてはいけない。仮にそうであるとして も、法務大臣という立場上、証拠に基づかないようなことを軽々に口にすべきではない。もし証 拠があるならあるで、法務大臣という立場で、法的に処理すべきである。
恐らくH法務大臣は、要職についたことをよいことに、大物ぶるために、そういう発言を繰りか
えしているのだろう。「私はこれこれしかじかのことを知っている」「だから私は大物だ」と。そこ らの週刊誌のレポーターが、タレントの裏話を得意げに話すのと同じである。
しかし大物ぶるということは、それだけ小物ということ。中身に一本、スジが通っていないか
ら、こういう軽率な発言を繰りかえす。
それにしても、いったい、この国の政治家たちは、どうなっているのか? レベルが低い。…
…というより、低すぎる。そういう人物が、堂々と、法務大臣という肩書きをぶらさげている。世 の中には、口にしてよいことと、そうでないことがある。その区別すらできない? 仮に知ってい ても、……というより、法務大臣なら、もう少しマシな演説ができないものか? 伝わってきてい る演説内容は一部だが、その一部だけをみても、レベルの低さがわかる。
もう一度、H法務大臣の発言を、よく読んでみてほしい。そこには、こうある。
「本当のことを、事実を言うと、みんながびっくりして、マスコミが騒ぐ。とにかく、この国をテロか
ら守る。テロリストの怖いのが平気でこの国をうろうろしている。私はその事実を知っているか ら申し上げている」と。
全体として、「文章」になっていないのがわかる。中学生でも、こんな作文を書いたら、私な
ら、容赦なく、「C」をつける。
●今日・あれこれ(11月5日)
+++++++++++++++++
昨日、今日、ほとんど原稿を書かなかった。
講演会のレジュメの作成とか、いろいろ
仕事が重なった。
で、今、やっとヒマになった。
11月5日、午後11時。ワイフは、先ほど
床に入った。
私は書斎に入り、パソコンに電源を入れる。
いつものようにメールを開く。何人かの人たちに、
返事を書く。
雑紙に目を通す。このところ毎日のように
雑紙を買ってくる。昨日も、経済誌を1冊、
買ってきた。『週刊エコノミスト』(11・6)。
雑紙代だけでも、月に2〜3万円になる。
バカにならない。しかしこれもボケ防止のため?
そう思えば、安い。
++++++++++++++++++
●インチキ、またインチキ
中国人というのは、本をほとんど読まないそうだ。読んでも新聞。が、夕刊まで読む人は少な
いとか。また本といっても、ハウツー本がほとんど。
「北京、上海などの大都市の平均的家庭が1年間に支出する文化的消費は、(テレビ・ラジオ・
新聞)の購読のみである。少しましな家庭は、夕刊紙も購読している。読書する人は、非常に 少ないし、読むとしても、金儲けや説得術、ナントカ速成術など、ノウハウものが圧倒的に多 い」と。西安生まれの周勍(しゅうけい)氏という、中国人のコラムニストがそう書いているから、 まちがいない。
こうして得た情報を、周勍氏は、「ゴミ情報」と断罪する。中国そのものが、ゴミ情報に埋もれ
てしまっている!
私はこの「ゴミ」という言葉に、新鮮な驚きを覚えた。ナルホド! この言葉を応用すると、「ゴ
ミ知識」「ゴミ伝統」「ゴミ文化」というふうにも使える。これらゴミ情報に埋もれて生きている人 は、ゴミ人間(失礼!)?
その中国だが、7歳半ですでに月経があり、乳房がピンポン玉大になるような、性的早熟児
がふえているという。原因は、言わずと知れた、成長促進剤。従来なら2〜3年かけて大きくな るスッポンが、成長促進剤を使うと、わずか数か月で、同じ大きさになるという。
中国の農民たちは、「養魚池の底に、抗生物質や避妊薬を敷き詰めると同時に、魚のエサ
に大量のホルモンを混ぜる。それは伝染病を予防すると同時に、魚の成長を早める効果があ る」と。
スッポンやうなぎだけではない。中国の養鰻業者たちは、こう言っているそうだ。「自分で育て
た魚は、食べない」(同氏)と。
その記事を読んでいたとき、背筋がゾーッとするのを覚えた。詳しくは、週刊「エコノミスト」(1
1・9・中国人ジャーナリストの警告)に書いてあるから、興味のある人は、そちらを読んでみた らよい。
で、なぜこういうデタラメが中国では平気でなされているかということ。そのコラムニストが言う
には、「金銭と権力が癒着し、暴利が権力者の懐にころがりこんでいるため」(要約)ということ らしい。中国ではへたに正義感を燃やすと、かえって社会そのものから、排斥されてしまう。つ まり国中が、デタラメということ。(あるいは国そのものが、デタラメ?)
ときどき日本に漏れ伝わってくる情報は、氷山の一角の、そのまた一角ということになる。
しかし……。日本とて、偉そうなことは、言えない。雪印、ミートホープにつづいて、赤福餅な
どなど。ここ1週間だけでも、香川県丸亀市の学校給食材料の産地偽装事のほか、鹿児島産 たくあんが、実は中国産であったり(鹿児島漬け物)、国内産と売っていた三輪そうめんも、こ れまた中国製であったという事件が発覚している(ライスGT社)。さらに愛知県の地鶏の、名古 屋コーチンにも、疑いがかけられている。
また宮崎県の業者が、台湾から輸入したうなぎを、国内産と偽っていたケース。「コシヒカリ10
0%」「山田錦100%」と歌ってる米を、DNA鑑定を使って調べてみたら、どうもそうでないとい う結果が出た(通産省)、というようなケースも報道されている。
食物だけにはかぎらない。Tゴム工業は、断熱パネルの材料に水酸化アルミニウムを混ぜて
燃えにくくした上で不燃性試験を受けて、国土交通大臣認定を不正に得ていたという。さらに建 材大手Nアスが、」耐火性能を偽った住宅建材を販売していたという(日経07・11・5)。
あえて言うなら、これもまた、氷山の一角。日本中が、偽装だらけ。本質的には、中国人も、
日本人も、それほど、変わらない。つまりは、ゴミ情報だけで生きる、ゴミ人間?(失礼! ただ し「ゴミ」といっても、価値のない人とか、そういう意味ではない。ゴミ情報で頭の中が、いっぱい という意味で、「ゴミ人間」という。誤解のないように!)
●ゴミ情報vs良質な情報
入ってくる情報は、常に選択する。まさに世は、情報だらけ。選択しなければ、そのままその
人は、情報の洪水の中で、溺れてしまう。
そこで問題は、どうやってその中から、良質な情報を選択していくかということ。そのために
は、まず、身のまわりから、ゴミ情報を削っていく。
たとえばこれはあくまでも私のばあいだが、バラエティ番組は、見ない。ゴシップ週刊誌は、
読まない、など。そうでなくとも、脳みそは、いつも満杯状態。ゴミ情報を格納するだけの余裕 は、ほとんど、ない。それに時間も、ない。
が、しかしそれ以上に大切なことは、常に自分で考えること。情報を得ても、自分で判断し、取
捨選択すること。さらにそのためには、できるだけ自分のまわりに、静かな時間を用意するこ と。
この問題は、脳みそ自体がもつ欠陥と、直結している。脳みそ自体がもつ欠陥を、箇条書き
にしてみる。
(1)情報の整理ができない。
いまだに記憶のメカニズムは、はっきりしていない。つまり脳に届いた情報は、それぞれの質と
内容に応じて、脳の中の別々の場所に、格納される。わかりやすく言えば、バラバラの状態で あちこちに格納される。
そこで本棚の中の本を整理するように、情報を整理できればよいのだが、それができない。だ
からときに、たとえば何か問題が起きたようなとき、参考となる情報を適確に引き出せないま ま、ムダにしてしまうことが多い。
(2)過去、現在の記憶が、時系列的に格納できない。
社会科の年表のように脳の中に入った情報が、過去から現在に至るまで、順に並んでいれ
ば、わかりやすい。あるいは、地層のようでもよい。過去の情報の上に、新しい情報が塗り固 められていくとか。
しかし実際には、脳の中にある記憶には、距離感がない。50年前の記憶も、1週間前の記憶
も、(想起)する段階では、等距離にある。距離感がないから、ときに、古いキズがそのまま、あ たかもつい昨日のようにことのように顔を出したりする。私たちが「トラウマ」と呼んでいるのも、 そのひとつ。
(3)情報の重大性を客観的に判断できない。
そのため、たとえば、身のまわりで、ささいな問題が起きたとすると、そのささいなことに振り回
されてしまう。そのすぐ外では、環境問題、地球温暖化問題と、それにつづく食糧危機問題が 起きている。ことの重大性という視点からは、かりに考えるとしても、ささいな問題は、マイナー な問題。が、脳みそは、その判断ができない。
(4)情報と思考で得た知識を区別できない。
ほとんどの人は、情報の多さをもって、思考力があると錯覚している。しかしもの知りイコー
ル、賢いという意味ではない。一方、思考することには、ある種の苦痛が伴う。難解な数学の 問題を前にして、四苦八苦している自分を想像してみればよい。
そのためほとんどの人は、できるなら思考を、しないですませようとする。数学の問題でいうな
ら、解答を丸写しにして、すませようとする。が、脳みそ自身は、情報で得た知識と、思考で得 た知識を区別できない。できないまま、数学の解答を丸写しにしながら、自分は、賢くなったと 錯覚する。
(5)情報、知識の漏出
せっかく得た情報や知識にしても、内容にもよるが、時間の経過とともに、薄れていく。消えて
いく。よい例が、学生時代学んだ英語の単語。そののち、使っているかどうかによってもちがう が、ほとんどの人は、学生時代に知っていた単語すら、10年、20年とたつうちに、忘れてい く。
この私も、高校生を教えなくなったとたん、頭の中の単語の数が、ぐんと少なくなったように感
ずる。この傾向が、加齢とともに、加速する。脳みその底に、まるで穴があいたような状態にな る。
つまりこうして、人は、情報のゴミの中で、ゴミ人間になっていく。先に「ゴミ情報でいっぱいに
なった人を、ゴミ人間という」と書いたが、ゴミ情報ばかりに包まれていれば、ものの考え方そ のものが、ゴミ化するということは、じゅうぶん考えられる。冒頭に書いた、インチキは、その一 例ということになる。
が、現在、思考の前提となる、(静かな時間)そのものが、ない。(静かに考える時間)といっ
てもよい。しかもその時間というのは、1日のうちで、1時間や2時間では足りない。できれば、 3時間とか4時間。長ければ長いほど、よい。それはちょうど健康論に似ている。
週に1、2時間程度の運動では、健康は維持できない。できれば3、4時間はほしい。長けれ
ば長いほど、よい。
賢くなる……つまりは考える人間になるということだが、賢い人からは、そうでない人がよくわ
かる。が、だからといって、何も、私が賢い人間というわけではない。賢いかそうでないかという ことは、あくまでも相対的な問題でしかない。より賢い人から見れば、私は、そうでない人という ことになる。
それはたとえて言うと、山登りのようなもの。低いと思って登った山でも、意外と遠くまで見え
るもの。その山の高さには、限界がない。1000メートルの山の向こうには、2000メートルの 山がある。さらにその先には、3000メートルの山もある。
さらに悲劇的なことに、賢い人からは、そうでない人がよくわかる。しかしそうでない人から
は、賢い人がわからない。わからないから、えてしてそうでない人は、その段階で、「私は賢い」 と錯覚してしまう。進歩するのを、やめてしまう。
いろいろ脱線したが、要するに、自ら考えるということ。それがこうしたゴミ情報から、自分を
守るための、ゆいいつの方法ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ゴミ情
報 ゴミ知識 思考と情報 情報と思考)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2310)
●ある自己愛者
++++++++++++++
この世界には、「常識」という
ものがある。
その「常識」があれば、当然、
「常識ハズレ」というのも、ある。
しかしそれだけではない。
「常識ハズレ」の、そのまた
「常識ハズレ」というのもある。
「常識ハズレの番外」という
べきか。
++++++++++++++
●常識ハズレ・番外編
私の知人が、市内で美容院を経営している。従業員は、2人。結構、繁盛している。そんなあ
る日、……というか、その少し前、数軒おいた隣に、レストランができた。うわさによれば、キッ チンの改修費だけでも、数百万円をかけたという。
が、開店当初から、客は、ほとんどゼロ。理由はいろいろあるが、それはともかくも、事件
は、そのあと、起きた。
そのレストランの経営者(女性、当時40歳くらい)が、突然、知人の美容院へやってきた。そ
のとき客が、4、5人いたという。床には、切った髪の毛が散乱していた。
そのレストランの経営者が、さめざめと泣きながら、こう言ったという。「お宅には、こうして客
がたくさん来ている。その客を、うち(=レストラン)へ少し回してくれ」と。
美容院を経営している知人が、「それはできません」と断ると、そのレストランの経営者は、そ
の場で土下座。髪の毛の散らかった頭を床にこすりつけて、「お願いします」と何度も言ったと いう。
これには美容院の知人が驚いた。従業員たちも驚いた。もちろん客たちも、驚いた。
この世界には、「常識」というものがある。その常識があれば、当然、「常識ハズレ」というの
もある。が、そのレストランの経営者がしたことは、常識ハズレの、さらにその外にある。つまり 番外!
が、問題は、それで終わったわけではない。ここからが本番。
申し出を断られたレストランの経営者は、それ以後、その美容院に対して、猛烈ないやがら
せを繰りかえし始めたという。美容院を経営している知人は、こう言った。
「証拠がないから、だれが犯人とは言えませんが、車にキズをつけられる。シャッターにペン
キをかけられる。犬の糞が、玄関先に並べられる。さらには、生ゴミが、美容院の駐車場にば らまかれる。看板に、石をぶつけられる……というようなことがつづきました」と。
それからしばらくの間、その美容院の知人は、店のシャッターを半分閉じて、営業をつづけた
という。「相手が相手ですから、何をされるかわからなくて、こわかったです」と。
●拒否されると、敵
自己中心性が極端にまで肥大化した状態を、自己愛という。自己中心性が強ければ強いほ
ど、相手の心の動きがわからなくなる。
そのレストランの女性の心の中に、視点を置いてものを考えてみよう。
そのレストランの女性は、こう考えた。「近所で開店したのだから、少しくらい、客を回してくれ
てもよいはず」→「頭をさげて、頼みに行った」→「土下座までして、頼んだ」→「しかし断られ た」→「そのためレストランの経営が、ますますきびしくなった」と。そこでそのレストランの女性 は、「自分のレストランに客が入らないのは、美容院の経営者のせい」と考えるようになった。
そのあといろいろないやがらせ事件がつづくが、もちろん犯人はわからない。しかし常識を働
かせて考えれば、犯人は、だれか、容易に察しがつく。
常識ハズレの人は、常識ハズレの行為に出る。常識ハズレという点で、一貫性がある。同じ
ような例を、私も経験している。
もう30年も前の話だが、当時の私は、それなりにモテた。そんなある日、あるところで、こん
な事件が起きた。
何かの仕事でその人を手伝っているとき、横にいた女性(当時、30歳くらい)が、私の手の
上に、自分の手をのせて、こう言った。「今度、ヒマなとき、英会話を教えてくださらない?」と。
どこかなまめかしい声だった。が、私は、ゆっくりと手を放し、「忙しいから……」というような
言い方で、それを断った。
その女性が、である。それから1年以上にわたって、私の悪口を言い始めた。「あの林は、幼
児教室を開いているというが、母親に、手を出した」「生徒がやめると、罰金を請求してくる」「生 徒がやめたら、その妹までやめさせられた」「今、女性問題で、妻とは離婚状態にある」などな ど。
その前後には、毎晩深夜に、無言電話までかかってくるようになった。
私は、レストランの女性の話を聞きながら、自分の経験を思い出していた。このタイプの女性
は、自分の思い通りにならないと、一転、今度は、徹底的に、敵に回る。つまりこれも自己愛者 特有の症状のひとつということになる。
●自己愛者は孤独
考えてみれば、かわいそうな女性たちである。美容院で土下座をした女性もかわいそうなら、
私の悪口を言いふらした女性も、かわいそう。(自分)というものが、どこにもない。そのつど、 欲望の命令ずるまま、常識ハズレな行動を繰りかえす。
もちろんものの考え方も、自分勝手。わがまま。そのため他人が、どんどんと離れていく。
が、本人は、それでも「自分さえよければ」と考える。自分の自己中心性に気づくことさえない。
だから、孤独。だから、さみしい。
だから……と、さらにこの先を書くのは、危険なことかもしれない。しかしこういうことも言え
る。
もしあなたが日々の生活の中で、孤独を感じ、さみしく思っているなら、まず疑ってみるべき
は、自己愛者ではないかということ。自己愛者でなくても、自己中心的な人ほど、そうである。 が、問題がないわけではない。
仮にあなたが自己中心性の強い人であるとする。その自己中心性に気がついたとする。そし
てその自己中心性を打破するために、何かの活動を始めたとする。が、もしこの段階で、それ 自体が、「自分のため……」「自分の孤独感を癒すため」と考えているようであれば、結局は、 元の木阿弥。自己中心性を打破することはできない。
というのも、その人の自己中心性というのは、脳みその奧の奧まで、イレズミのシミのように、
しみこんでいる。表面的に化粧した程度では、取れない。消えない。
自分の脳みその奧の奧までしみこんだシミと戦うためには、それこそ10年単位、20年単位
の努力が必要である。多くのばあい、死ぬまで消えない。あるいは加齢とともに、ますますひど くなる。
といっても、この世界は、すべてその自己中心性を基盤として、成り立っている。子どもの受
験競争から始まり、もろもろの経済活動、さらには政治活動などなど。この世界から自己中心 性を取り除いたら、社会そのものが崩壊する。
そこで重要なことは、家庭だけでも、あるいは学校だけでも、(そうでない世界)にすること。
「学校が最後の砦(とりで)です」と言った校長(K町K小学校)がいた。親子にしても、教師と父 母、子どもの関係にまで、自己中心性が入ったら、人は、どこでどのように、自分の孤独やさ みしさを癒せばよいかということになる。
親子は、無私、無欲。無私、無欲であるからこそ、親子という。「損をした」とか、「得をした」と
か、そういうふうに考えること自体、おかしい。「産んでやった」「育ててやった」、さらには「大学 まで出してやった」とか言うこと自体、おかしい。もしあなたがそういうふうに考えているとした ら、それはそれで構わないが、その代償として、あなたは孤独や、さみしさと、日々に戦わねば ならなくなる。
●レストラン
話が脱線したが、自己愛者は、自分のことしか考えない。自分の姿しか見えない。だからそ
の言動は、どうしても、常識ハズレになりやすい。冒頭にあげた、レストランの女性が、その一 例である。
で、その女性のレストランだが、皮肉なことに、現在は、その美容院がそこに移転し、美容院
になっている。レストランを経営していた女性は、そののち、H市の郊外へ引っ越し、今は、どこ で何をしているかわからない。
その美容院の知人は当時を思い出しながら、こう言った。
「何もかも我流で、常識ハズレでしたね。大理石づくりの椅子を並べたのですが、おしりが冷
たくて、座ることもできませんでした。それに客として行くと、そばにずっと立っていて、『味はど うだ?』『これはおいしいでしょう』と話しかけてくる。うるさくて、たまりませんでした」と。
そのレストランに客が入らなかったのは、その女性経営者自身に問題があったからというこ
とになる。自己愛者は、自分の立場でしか、ものを考えることができない。つまりそのレストラン が失敗するのは、最初からわかりきっていたことということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
愛 自己愛者)
【付記】
この原稿を書くきっかけとなったのは、こんな事件があったから。
1時間ほど休み時間があったので、その間、私は近くの書店で、時間をつぶした。その帰り
道でのこと。突然、1人の男(50歳くらい)が、私に怒鳴りかけてきた。
「貴様、貴様を不法占拠で、訴えてやる。警察を呼んでやる!」と。気が狂った犬のような叫
び方だった。
私はとっさの反応として、まわりを見た。が、そこには私しか、いなかった。私は、自分で自分
を指さし、「私のこと?」と。
するとその男は、ますますいきり立って、「貴様だア!」と。
ちょうど夕暮れ時で、その男は、私を、別のだれかと見まちがえたらしい。それはわかるが、
しかしそれにしても……???
あとでこの話をワイフにすると、ワイフはこう言った。「世の中には、おかしな人が多いわね。
でも、そこまで常識からハズレている人は知らない」と。
そこで私は美容院を経営している知人から聞いた話を思い出した。それをワイフに話した。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●マンション建設反対
++++++++++++++++++++
私が住む団地の一角に、マンションが建設される
ことになった。もとはといえば病院のあったところ
である。
そのマンション建設に対して、近くの住民の人たちが、
「マンション建設反対運動」を起こした。
「運動」といっても、私は、直接は知らない。
そのあたりを通ると、「建設反対」の大きな看板が、
いくつか並んでいる。
今のところ自治体が動いているという話は聞いていない。
この団地には、すでに、ざっと数えても、4階建ての
マンションが、数棟、2階建てのアパートとなると、
30〜40棟はある。
++++++++++++++++++++
大きなマンションが建つことによって、当然、その周辺の人たちは、影響を受ける。日本のば
あい、とくに北側に住む人たちが、大きな影響を受ける。日本の家屋は、南側を意識して建て られることが多い。
一方、土地をもち、その上にマンションを建てる人には、建てる側の論理がある。経済という
論理である。簡単に言えば、建設許可さえあれば、問題はないはずと考える。このあたりは、 第二種住宅地域。法に定められた基準さえクリアすれば、マンションの建設は、割と簡単に許 可される。たとえ国でもそれを差し止めることはできない。
そこで住民の人たちに残された方法は、裁判闘争ということになるが、権利の侵害が明白で
ないばあいには、それもむずかしい。
が、だからといって、つまり建設許可がおりたからといって、問題はないはずと考えるのは、
おかしい。当然、マンションを建設する人は、その周辺の人たちへの迷惑を考えながら、建設 すべきである。それに力関係が、まるでちがう。住民は、財力という点でも、弱者。弁護士に相 談することすら、ままならない。
・・・ということで、つまりこの問題は、私の住む地域の人に関することなので、ここまで。心情的
には、住民の人たちの側に立ちたい。しかしそれでは公正性に欠ける。この種の問題は、では 私ならどうするかという立場で考えるのがよい。あなたならどうするかという立場で考えるのが よい。もし私やあなたの家の前に、大きなマンションが建設されることになったとしたら・・・、と。
ところで私は、原稿を書くとき、いくつかの原則を守っている。
その第一。私の近辺の人たちのことについては、書かない。書くとしても、いくつかの話を混
ぜたり、あるいは架空の話として仕あげる。あるいは人から聞いた話として書く。どこか遠くで 起きた話として書く。私自身の話として書くこともある。近隣に住む人が読んでも、ぜったいに その人の話だとわからないようにする。話の内容を変える。
親や子どもの話については、とくに気をつかう。親や子どもの話では、現在、私が関係してい
る人の話は、どういう形であるにせよ、書かない。(その子どもをほめたり、私の失敗談として 書くことはあるが・・・。)
だからといって、ウソを書いているというわけではない。こうした改変は、この世界では常識。ま
たそれをしないと、私の文章が、思わぬところで、その人をキズつけてしまうこともありえる。こ の世界には、「炎上」という言葉がある。自分の書いた文章が原因で、とんでもないトラブルに 巻き込まれることをいう。そのためHPを廃止した人もいる。マガジンを廃刊に追い込まれた人 もいる。さらに名誉毀損で訴えられた人もいる。
だからあくまでも一般論として、ここでは私の意見を書いてみたい。
「マンション建設問題」は、要するに、私的利益と公的利益の(かねあいの問題)ということにな
る。私的利益を保護し過ぎれば、公的利益がそこなわれる。一方、公的利益を保護し過ぎれ ば、私的利益がそこなわれる。
今回のマンション建設反対運動にしても、その北側に住む人は、(間に、8メートル道路をは
さんでいるが)、大きな影響を受ける。日照時間も減る。が、何よりも、プライバシーが侵され る。マンションからは、庭のすみずみまで見わたせる。マンションの建設に反対する人の理由 も、そのあたりにあるのだろう。
しかしこういうふうに問題がこじれる前に、何とか、ならなかったものか? 話し合いを重ね、た
がいに納得してから建設工事にかかるとか、そういうことはできなかったものか? 反対運動 をする人にしても、反対運動をすること自体、不愉快。ふつうの人なら、それだけで神経が参っ てしまう。が、私には事情がまったくわからないので、やはりこの話は、ここまで。
ただ一言。マンションを建設する人は、それで迷惑をこうむる人の気持ちをもっと、大切にし
てほしい。「法を守っているから」という理由だけで、好き勝手なことをしてもらっては困る。先に も書いたように、「財力」という点では、まるでちがう。一方、建設する側には、それだけの財力 がある。弁護士も、最初からついているだろう。つまり最初から、「力」という点では、住民の人 たちには、勝ち目はない。
言うまでもなく、「法」というのは、その人が守るべき、最低の規範をいう。繰り返すが、「許可が
おりたから」という理由だけで、財力にものを言わせて、好き勝手なことをしてもらっては、困 る。
●パソコン
少し前、「これからの人は、パソコンを通信販売で買うようになるだろう」「販売店では、パソコ
ンは買わなくなるだろう」と書いた。それに対して、BLOGのほうに、いくつかの反論が届いてい る。
いわく、「今の今でも、パソコンがかたまってしまい、真っ青になっている人がいる。そういうと
き、一番の助けになるのは、パソコンショップだ。これからもパソコンショップは、パソコン病院 として、りっぱに機能していくだろう」と。
さらに「家庭内LANの設定など、身近にプロがいないとできない作業もある。通信販売で買っ
たパソコンでは、そこまでケアしてくれない」と。
私が書いたことは、浅薄だった。私は私の知っている範囲で、また私の仕事の範囲で、もの
を書いた。これがまちがいのもとだった。率直に、反省している。
たしかにそのとおりで、パソコンがフリーズしてしまったようなばあい、それを自分で直せる人
は、まだまだ少ない。真っ青どころか、心臓が止まる思いをした人も、多いはず。
そういうとき私は、すかさずメーカーに電話を入れる。が、その電話がなかなかつながらな
い。メーカーによっては、30〜50分、待たされることも珍しくない。しかも中には、有料のとこ ろもある。「20秒ごとに、8・5円かかります」(M社)とか、なんとか。
やはり助けになるのは、パソコンショップということになる。
また家庭内LANの設定などは、そのつど、プロの人と相談しながらしたほうがよい。ケーブル
にしても、2種類ある。まちがえると、インターネットの接続すら、できなくなる。
・・・ということで、ものを書くときのむずかしさを、改めて、思い知らされた。いくら想像力を働か
せても、そこには、限界というものがある。私は、こうだと思って書いても、それは(私の知って いる範囲)でのことでしかない。つまりまちがいだらけ。
これからは、気をつけます! ごめんなさい!
●中学の同窓会
この正月に、中学時代の同窓会がある。「中学の同窓会」と書くべきか。どちらにせよ、今の
ところ、出席するつもりでいる。ハガキの下に、14、5人の旧友の名前が連ねてあった。知るも 知らぬもない。みな、幼稚園、小学校時代からの仲間である。
いろいろ考える。いろいろ思い出す。私にとっては、20年ぶりの同窓会である。正確には、2
5年ぶり?
同窓会といっても、郷里を離れて42年。その間、毎年年賀状を交換する程度の友人はいる
が、とくに親しくしている友人はいない。「話すことは、あまりないだろうな」と思いつつ、一応、 「出席」に丸をつけた。(まだ投函していないが・・・。)
みなの様子を見たい。元気だろうか? どんなふうに変わっただろうか? 楽しみというより、
どこかこわい感じがする。相手も、私を、そんな目で見るにちがいない。
●山荘
今度、山荘の化粧直しをすることにした。外壁の塗装をすることにした。建築当時、「10年は
もちます」ということだったが、今年で12年目。地元でも、最優良という折り紙つきの建築会社 に頼んだので、家そのものは、しっかりとしている。
塗装屋さんと相談しながら、ふとこんなことを考える。「近く売りに出すことになるだろうな」と。
土地の造成に、6年。建築してから、丸12年。あしかけ、19年ということになる。早いもの
だ。気がついたら、私も60代。そのうちワイフも車を運転できなくなるだろう。そうなれば、山荘 へ来ることも、できなくなる。
私「ぼくたちが元気なうちに、売ろうか?」
ワ「そうね」と。
もし山荘を買ってもよいと思っている人がいたら、連絡してほしい。今すぐ・・・というわけでは
ないが、手放す時期は、近い。
東名西インターからは、車で20〜25分。今度できる第二東名からは、車で、5分前後のとこ
ろにある。
土地は、南向きのひな壇。うしろに家の高さの小山を背負っているから、北風は、ほとんど当
たらない。
●考える子どもvs考えない子ども
簡単なパズルを出す。小2レベルであれば、「足しても、掛けても、同じ数になるのは、何と
何?」でもよい。
そのとき、子どもが示す反応を、よく観察してみてほしい。即座に考えるしぐさを見せ、ぐいと
食いついてくる子どもがいる。そういう子どもは、それだけ(思考するクセ)が身についている子 どもということになる。が、そうでない子どもも、多い。「どうでもいいや」とか、「関係ない」といっ た様子を示す。おおざっぱにみると、(思考するクセ)のある子どもが、60%。そうでない子ど もは、40%とみる。
もちろん程度の差もある。同じ(思考するクセ)のある子どもでも、鋭い集中力を示す子ども
は、全体の、20%とみる。
このタイプの子どもは、学習面でも、秀(ひい)でた能力を示す。そういう意味では、頭のよし
あしは、思考力、さらに言えば、(思考するクセ)で決まる。もちろん生来的な能力、遺伝的な能 力も大きく影響するが、反対に、せっかくすぐれた能力をもちながらも、(思考するクセ)がない ため、能力を生かせないままで終わってしまう子どもも、少なくない。
思考することによって、脳細胞からシナプスが、伸びる。シナプスどうしがからみあい、さらに
複雑な思考をすることができる。これが良循環となって、その子どもの頭は、ますますよくな る。
あとは時間。時間をかけて、思考するクセのある子どもは、学習面でも、飛躍的に伸びる。社
会人となってからも、伸びる。そうでない子どもは、残念ながら、そうでない。
では、どうするか?
つまりその方向づけをするのが、幼児教育ということになる。
●歩く
昨日につづけて、今日も、8キロの道のりを歩いた。大またで、力を入れて歩いた。明日は、
F市の会館で、講演をすることになっている。地区の先生たち、1000人近くが集まってくれる。 体調を整える。体力を養う。
今週は、前半、だらけた。後半、毎日2単位の運動をこなした。今夜も、1時間ほど、自転車
で近くを走るつもり。(雨が心配だが・・・。)
「講演で、あがりませんか?」と聞く人がいる。しかし実際には、睡魔との戦い。私の昼寝タイ
ムと重なることが多い。話している途中に、ときどき、眠くなる。だから講演の前は、食事抜き。
で、終わったあとも、しばらくは、食欲はほとんど、ない。緊張していないようで、緊張してい
る。その緊張感が、食欲を減退させる。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●今朝・あれこれ(11月9日)
+++++++++++++++
11月とはいえ、暖かい朝だ。
で、こういう朝を迎えるたびに、
「これでいいのかなあ?」と
思ってしまう。
地球温暖化は、もう、だれの目に
も疑いようがない。
たった30年前のことだが、11月
といえば、この浜松でも、ときに
身を切るような冷気にさらされたもの。
自転車に乗ったとき、手袋を忘れて、
自転車をこぐことができなかった
ことすらある。
過ごしやすいことはよいことだが、
しかしやはり、こう思ってしまう。
「これでいいのかなあ?」と。
+++++++++++++++
●友人の来訪
来年早々、メルボルンに住むK君が、娘を連れて、日本へやってくる。つづいて、アデレード
に住む、B君も、やってくる。突然、私の家が、ポッと花が咲いたような雰囲気になった。K君が 日本へ来るのは、20年ぶり?
その話をすると、ワイフはこう言った。「みんな、そういう年齢になったのね」と。
「いろいろめんどうをかけるけど、ごめんね」と言うと、「いいのよ」と。ワイフも、どこか楽しみ
にしているよう。それを感じて、私はうれしかった。
みんな、2〜3週間の予定で滞在してくれる。向こうの友人たちはみな陽気。ワイワイと騒い
でいるだけで、気が晴れる!
●株価の大暴落
ここ数日、株価が暴落につづく、暴落。去年(06年)の8月にも暴落して、1万5000円台に
なったことがある。で、昨日(11月8日)の終値は、1万5771円! そこで今朝のニューヨーク 市場の動きを見ると、またまた暴落。終わりにかけて、ややもちなおしたというが、それでも前 日に比べて、33ドル安。
たぶん、今日の東京市場も、下落?、……と思って、開場前の値動きをさぐってみた。いつも
午前8時ごろから、株価の動きが表示される。……が、ナ、何と、私のもっている株(M電工) が、昨日の値段より、70〜80円高でもみあっているではないか! (「高」だぞ!)
「こういうこともあるのかなア……?」と思いつつ、前場が開くのを、待つしかない。この世界で
は、あまり欲張らないこと。ほどほどのところで、小遣い稼ぎができたら、さっさと売る。私はい つも、そうしている。
心配なのは、円高。今朝は、1ドル=112円! 円高になればなるほど、手持ちの債券価格
(=国際証券の価値)が、さがる。つまり、「損」。こちらのほうは、もう少し長いスパンでものを 考えるしかない。
●中学の同窓会
同窓会の案内をもらったときには、出席するつもりでいた。しかし今回は、やめ。理由は、オ
ーストラリアの友人たちが来ること。
「同窓会はやめるよ」とワイフに告げると、「しかたないわね」と。つぎに会えるのは、10年
後? あるいは私のほうが先に、あの世行き?
ところで、もう一度、株価の動きを見てみると、今度は、ナ、何と、20円安。(「安」だぞ!)。も
みあっているうちに、さがってしまった!
「こういうこともあるのかなア……?」と、今度は、ため息。今日の株価は、波乱ぶくみ。1ドル
=112円まで円高になると、輸出関連株は、軒並み、暴落する。私の予想では、前場だけで も、400〜600円の大暴落になるのでは? その程度ですめば、まだよいほうかも?
そうそう朝食のとき、ワイフがこう言った。
「韓国は、だいじょうぶ?」と。
韓国も必死。韓国政府は、1ドル=900ウォンを死守ラインとして、猛烈なドル買い、ウォン
売りをつづけている(報道)。しかしそれも時間の問題。昨日、日本の株価は、320円程度 (2%)の暴落で住んだが、韓国の株価は、60ポイント以上(3・2%)も値をさげている。
「まるでエレベーターみたい」と私が言うと、「ほんとうにそうね」とワイフ。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●日韓経済戦争(11月11日版)
++++++++++++++
日韓経済戦争どころか、日本と
韓国の外で、猛烈な台風が吹き
始めた。
アメリカのドル暴落という、台風
である。
現在、1ドル=110円!
たとえて言うなら、日韓経済戦争は、
暴風雨の中での(サッカーの試合)の
ようなもの。
が、暴風雨だからといって、試合を
中断するわけにはいかない。
最初に、ギブアップしたほうが、
負け!
++++++++++++++
●外貨準備高
韓国は、相変わらず、何とかのひとつ覚えのように、「外貨準備高がふえた」とはしゃいでい
る。
しかし外貨というのは多ければ多いほどよいというわけでもない。外貨というのは、いわば、
タンス預金のようなもの。海外で運用してはじめて、意味をもつ。東亜N報(11月10日は、つぎ のように伝える。
「10年前、外国為替市場への介入などで底をつく寸前までいった韓国の外貨準備高は、今、
世界5位の規模に拡大した。急落した株価も内外の好材料を追い風に、KOSPI指数で、200 0前後で推移している」
「通貨危機の引き金なった外貨準備高は1997年12月に39億ドルまで減少したが、その後
徐々に増加し、先月末現在で2596億ドルに達している。中国、日本、ロシア、台湾に次ぐ世 界5位の規模だ」と。
外貨準備高がふえたことで、あたかも韓国が力をもったと言わんばかりの論調である。しか
し先にも書いたように、外貨などというものは、海外で運用してはじめて、意味をもつ。それが ふえたからといって、国力がましたと考えるのは、あまりにも早計。無知。
外貨というのは、為替変動の調整金として、各国が蓄えるもの。たとえば海外への支払いの
ため、急にドルが必要になったようなとき、その外貨を使う。つまりある一定の適正水準以上 に外貨をもっていても、意味はない。ないばかりか、管理に、莫大なコストがかかる。さらに現 在のようにドル安になればなるほど、価値は目減りする。
それになぜ、韓国の外貨準備高がふえたかといえば、つまりそれだけ、ウォンを売って、ドル
を買い支えたからにほかならない。輸出入で稼いだお金というよりは、ウォン高を防ぐために、 ドルを買いつづけた。韓国政府は、1ドル=900ウォンを死守ラインと設定している。
1ドル=900ウォンを割るようなことになると、つまり800ウォン台に入るようなことになると、
韓国の輸出産業は、それこそ壊滅的な打撃を受ける。
で、韓国は、そのお金を、つまりドルを買い支えるお金を、外国からの借金でまかなってい
る。同じく東亜N報は、つぎのように伝える。
「韓国銀行によると今年6月末現在、満期1年未満の短期外債の規模は、1378億9000万
ドルと、韓国の外債全体の44.3%に達する。この比率は、通貨危機当時(97年末)の36. 6%よりも7.7ポイント高い」と。
わかるかな? 「短期外債」というのは、簡単に言えば、「外国からの借金」のこと。つまりそ
の借金が、1379億ドル。日本円に換算すると、およそ15兆1000億円! つまりそれだけの お金を外国から借りて、資本収支に「黒字?」として組み込んだ上、ドルを買い支えている。
韓国経済の(恐ろしさ)は、すべて、この1点に集約される。ふつうの国なら、外国からの借金
は、資本収支に黒字(=外国からの投資)としては組み込まない。「投資」と「借金」は、まったく 異質のものである。
しかも肝心の経常収支(貿易収支+資本収支)はどうかというと、このところ、どんどんと悪化
している。数字を並べてみよう。
05年に12億4840万ドルの黒字
06年に5億770万ドルの黒字
07年は9月現在で、3億2430万ドル(東亜N報)
04年には23億4780万ドルの黒字だったから、たいへんな減りようということになる。今年
(07年)後半には、原油高も加わり、赤字に転落するだろうと予想されている。つまりこれだ け、ごまかしにごまかしを重ねても、この数字。
ところでこんな笑い話。
韓国の失業率が、3%にさがったという。(3%だぞ!)
インチキもインチキ。大卒の就職率が、25%前後という韓国にあって、どうして3%なの
か!? あまりこういう言葉は使いたくないが、「バカも休み休み、言え」。日本では大卒の就 職率は、ほぼ100%。その日本ですら、失業率は、5〜6%前後。
韓国政府が発表する経済指標は、ことごとく疑ってかかってみたほうがよい。
さて1ドル=110円! 円を一度ドルに交換して借金している韓国にとっては、これはたいへ
ん深刻な問題と考えてよい。
わかりやすく説明しよう。
1ドル=120円で、あなたが120万円、借りたとしよう。あなたは日本から、ドルに交換して、
1万ドル借りたことになる。(これが円キャリートレード。)が、ここで1ドル=110円になったとす る。あなたは120万円の借金を返すために、約1万1000ドルを用意しなければならない。(こ れが円キャリートレードの解消。)
つまり借金が、1000ドル、ふえることになる。
もちろん日本とて、無傷ですむわけはない。何せ、暴風雨の中での、サッカーの試合である。
つまりこの試合は、最初に、ギブアップした方が、負け。
がんばれ、日本! 負けるな、日本!
ついでに一言。
韓国という国は、前にも書いたが、国をあげて受験競争をしているような国である。毎日のよ
うに、「世界〜位」「世界〜位」という数字が、新聞の紙面を飾る。「外貨準備高は、今、世界5 位の規模に拡大した」というのも、そのひとつ。
こういうウソの数字に踊らされている韓国の人たちは、あわれとしか言いようがない。ホン
ト!
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司※
●殺意の認定
+++++++++++++++
少し前、A県で、1人の娘(児童)が、
母親によって、(殺された?)。
検察側、弁護側、双方が認定した
事実によると、あらましは、こうだ。
その母親は、夕方、薄暗くなってから、
「魚が見たい」という娘の希望を
かなえるため、近くの川に行き、娘を
橋の欄干(らんかん)の上に立たせた。
事件(事故?)は、そのあと起きた。
娘は、橋から転落。そのまま死亡して
しまった。
+++++++++++++++
現在、当裁判は、係争中なので、ここでは事件なのか、事故なのかについてのコメントは、さ
しひかえたい。現在、争点になっているのは、「殺意」。母親に、殺意はあったのか、それともな かったのか。
刑法でいう殺人罪を適応するためには、殺意の認定は、欠かせない。構成要件のひとつに
なっている。「殺意」がなければ、殺人罪そのものが、成立しない。
しかし人の心の中を、のぞくことは、だれにもできない。そこで検察側、弁護側双方ともに、そ
のときの状況証拠を積み重ねながら、殺意の認定、もしくは、否定を主張する。
もっともこの段階で、母親が、「私は殺すつもりで、娘を、橋の下に突き落としました」とでも言え
ば、話は簡単。改めて、殺意の認定を争う必要はない。現実に、娘は死亡しているのだから、 刑法でいう殺人罪の構成要件を満たすことになる。つまり、殺人罪が適応される。
私は、この報道記事を読みながら、ふと、こう思った。「こんなばあいにも、殺意の認定は必
要なのかなあ?」と。というのも、(殺意)などというものは、いつでも、どこでも、ふとしたきっか けで、だれにでも、起こる。自動車を乱暴に運転する人を見たとき。巨額のワイロを手にしなが ら平然としている政治家を見たとき。日本人を拉致しておきながら、「解決済み」と居直る相手 側の政治家を見たとき。
私のワイフにすら、ときとして、私は殺意を感じることもある。
しかしいくら殺意を感じても、それを実行するというのは、まったく別問題。その間、つまり(思
い)と(行動)の間には、遠い距離があり、大きな壁がある。
つまり同じ殺意といっても、空想に近い殺意から、実行行為に近い殺意まで、いろいろある。
そういうのを、ひとまとめにして、(殺意)を論じても意味はない。冒頭にあげたケースでも、そ の母親は娘を橋の欄干の上に立たせ、そこから突き落としたという(検察側主張)。
このばあい殺意は、きわめて実行行為に近い殺意ということになる。まわりくどい言い方にな
ってしまったが、要するに、改めて殺意の認定などする必要など、ない。あるいは弁護側は、こ んなわかりきったケースでも、過失致死罪か何かで、もっていこうとしているのか? さらに言 えば、「罪名」に、どうしてそうまでこだわるのか?
こんなことで、重箱の隅をほじくるような議論を重ねていても、意味はない。時間の無駄。よい
例が、あの地下鉄サリン事件である。裁判長の再三、再四の注意にもかかわらず、弁護側 は、ああでもないこうでもないと、ささいなことにこだわり、裁判を長引かせた。
あえて言うなら、これこそがまさに、日本の裁判制度の欠陥と言ってもよい。だからふつうの
裁判でも、5年とか、10年。ばあいによっては、15年とか、20年もかかる。
その間に、事件そのものが風化してしまう。被害者の救済も、どこかへ霧散してしまう。判決
がおりるころには、「そんな事件もあったっけ?」となってしまう。しかしこれは悲しむべきことと 言ってよい。
事件そのものを、過去の教訓として、未来に生かすことができなくなってしまう。
裁判は迅速に。そのために、はじめからわかりきったことについては、無駄な議論はしな
い。・・・ということで、この話は、おしまい。あの母親には、本当は殺意はなかったのかもしれな い。娘が魚を見たいと言ったので、欄干の上に立たせたのかもしれない。そのとき誤って娘 が、川の中に落ちてしまったのかもしれない。
その可能性はないわけではないが、そう考えるには、かなりの無理がある。もしそうなら、つま
り私がその母親なら、その直後から、大声で叫びながら、娘の捜索を始めただろう。私自身も 川の中に飛び込んだかもしれない。
が、その母親は、どういうわけか、そのまま家に帰り、かなりの時間を経てから、別の方法で
捜索願いを出している。つまり不自然。
この事件を、端的に言えば、弁護側の主張する(無理)と、検察側の主張する(不自然さ)と
の闘いということになる。
(補記、07年11月12日の第8回公判記録より)(秋田「さきがけon the Web」)
検察側は、自ら「極刑を望む」としたH被告に「あなたにとって死刑以外では不満か」と質問。
H被告は「不満かどうか分かりませんが、主張していることを認められるなら、私はそれで構わ ない」と淡々と語った。
一方、弁護側は大沢橋の欄干に座る長女Aちゃん=当時(9つ)=がH被告に抱きつこうと
し、振り払ったとする当時の心境をあらためて確認。「(欄干に乗った)Aが初めて自分の目線 より高くなり、高い所から覆いかぶさってくるようになったので。怖いと思った」と話した。
●指手話(ゆび・しゅわ)
先日、電車で、横に乗った人たちが、指手話というのを始めた。左右の手、3本ずつの指を
使って、会話をするというものだった。珍しそうにながめていると、そのうちの一人が、私に指 手話の説明をしてくれた。
私はまず、「あ・い・う・え・お」を覚えた。その人は、その指手話を使って、もう一人別のところ
に座っている男性と、会話をしていた。
指手話というのは、耳と目の両方とも不自由な人が使うのだそうだ。私に指手話を教えてくれ
た人は、その男性の付き添いの人だった。「無料ではないが、ボランティア活動として、してい る」ということだった。言い忘れたが、年齢は、45歳くらいの女性だった。
その風景をながめていて、まず驚いたのは、みな、とても楽しそうだったということ。その女性
が指を折り曲げながら何か男性に話をすると、その男性は、顔中の筋肉をゆるませて笑って いた。
私は、その男性の年齢を聞いた。おそらくその女性はその男性の年齢を知っていたのだろう
が、あえて指手話を使って聞いてみてくれた。男性は、はにかみながら、「54」と、空に数字を 書いた。
それを見て、その女性は笑った。横にいたワイフも笑った。のどかな光景だった。で、会話も
一段落したとき、私は、その女性にこう聞いた。
「まだお若いようですが・・・」と。54歳で、耳と目が不自由になったという。音もほとんど聞こ
えない。目もほとんど見えない。
「この人は、まず耳が聞こえなくなったそうです。しばらくすると、今度は、目も見えなくなった
そうです」と。
そこまで聞くのが、精一杯だった、それ以上は、とても私には聞けなかった。内心、「そういう
病気もあるんだな」と、それだけを思った。
そのグループは、浜松駅のいくつか手前でおりた。手を振ろうとしたが、そのまま雑踏の中
に、姿を消した。
私「54歳でね……。ぼくは、この6年間、何をしてきたんだろ?」
ワ「そうねエ……」
私「ぼくは54歳のころ、毎日、原稿ばかり、書いていた」
ワ「目が見える、音が聞こえるということだけでも、すばらしいことなのね」
私「うん……。そんなこと、考えもしなかった」と。
しかしそれにしても、さわやかな人たちだった。そういうグループにありがちな(暗さ)というも
のが、どこにもなかった。むしろ小学生の子どもたちが、ピクニックか何かにでかけたような雰 囲気だった。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2311)
●ベッドタイムゲーム
子どもは床についてから眠るまで、毎晩、同じことを繰り返す習性がある。これを英語では
「ベッドタイムゲーム」(日本語では、「就眠儀式」)という。このベッドタイムゲームのしつけが悪 いと、子どもはなかなか寝つかなくなるばかりでなく、ばあいによっては情緒そのものが不安定 になることもある。もしあなたの子どもが寝る前になると決まって、ぐずったり(マイナス型)、暴 れたりするようであれば(プラス型)、このしつけの失敗を疑ってみる。
方法としては、(1)毎晩同じことを繰り返すようにする。(2)心安らかな状態を大切にし、就寝
前少なくとも一時間はテレビやゲームなど、はげしい刺激は避ける。(3)ベッドのまわりにぬい ぐるみなどを置いてあげ、心が暖まる雰囲気をつくるなどがある。毎晩本を読んであげるとか、 静かな音楽を聞かせるというのもよい。まずいのは子どもを子ども部屋に閉じ込め、強引に電 気を消してしまうような行為。こうした乱暴な行為が繰り返されると、子どもは眠ることそのもの に恐怖心を抱くようになる。
ところで今、年長児(満六歳児)でも、五人のうち三人が、「ほとんど毎朝、こわい夢をみる」こと
がわかっている(二〇〇一年・筆者調査)。「どんな夢?」と聞くと、「ワニに追いかけられる夢」 「暗い穴にいる夢」「怪獣の夢」という答が返ってきた。子どもの世界がどこか不安定になって いると考えてよい。
ちなみに年中児で睡眠時間(眠ってから起きるまでのネット時間)は一〇時間一五分、年長児
で一〇時間(筆者調査)。子どもが小学生になると、睡眠時間はぐんと短くなるが、それでも最 低九時間半を確保する。睡眠不足が知能の発育に影響を与えるというデータはないが、しかし 睡眠不足が続くと集中力が弱くなる。あるいは突発的に興奮することはあっても、すぐ潮が引く ようにぼんやりとしてしまう。園や学校などでの学習面で影響が出てくる。なお年中児になって も「昼寝グセ」が残っているようなら、その時間ガムをかかせるという方法でなおす。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●じゅうぶんな睡眠時間を
目をさましてから起きあがるまでの時間には、特別の意味がある。この時間、人間の心はも
っとも静かな「時」を迎える。雑念や俗念、不安や心配、さらには恐怖や妄想から解放される。 つまりこの時間、自分の「原点」をそこで見つめることができる。もっと言えば、その人がもっと もその人らしくなる……。
パスカルは『思考が人間の偉大さをなす』(パンセ)と書いている。つまり考えるから人間は人
間である、と。言いかえると、考えるかどうかで、その人の「質」が決まる。知識や知恵ではな い。技術や肩書きでもない。反対に考えない人間がどうなるか。その例というわけではないが、 深夜のバラエティ番組に出てくる若者たちを見ればそれがわかる。実に「軽い」。軽すぎて、「こ れが同じ人間か」とさえ思うときがある。自ら考える習慣のない人間は、そうなる。
子どもに考えさせる習慣を身につけさせるもっともよい方法は、子どもがひとり、静かに自分
の時を過ごせるような時間と場所を用意することである。総じてみれば日本人は、集団教育の し過ぎ(……され過ぎ)。一人で静かに考えるという習慣そのものもないし、その価値を認めな い。子どもが机に向かってひとりぼんやりしていたとすると、親や先生は、「何、しているん だ!」と、それを叱る。しかし大切なことは、「自分で考えること」だ。子どもがあれこれ自分で考 える様子を見せたら、そっとしておいてあげる。
で、その一つの方法というわけではないが、子どもが目をさましてから、起きあがるまでの時
間を大切にする。そういう意味でも、静かな目覚めを大切にする。またそのためにも、睡眠時 間はたっぷりととる。まずいのは、「もう起きなさい!」と、まだ眠気まなこの子どもを、床の中 から引きずり出すような行為。子どもが静かにものを考えることができる、せっかくの時間その ものを奪ってしまう。
前回と今回は、子どもの睡眠について考えてみたが、もう少し子どもの睡眠には、親は慎重
であってもよいのではないか。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●子どもを自立させる
子育ての目標は、子どもを自立させること。その「自立」には二つの意味がある。子ども自身
の自立と、親の自立である。依存心というのは相互的なもので、子どもに依存心をもたせるこ とに無頓着な親は、一方で、自分自身もだれかに依存したいという潜在的な願望をもっている と考えてよい。つまり子どもを自立させたいと思ったら、親もまた自立しなければならない。こん な親(六〇歳女性)がいた。
会うと私にこう言った。「先生、息子なんて、育てるもんじゃないですね。息子は横浜の嫁に取
られてしまいました」と。そしてさらに顔をしかめて、「親なんてさみしいもんですわ」と。その親 は、息子が結婚して、横浜に住んでいることを、「取られた」というのだ。
こうした親は、親意識が強く、その強い分だけ、子どもを「モノ」と見る傾向が強い。そして自
分にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、よい子とし、親に反発する独立心の旺盛 な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。こうした親の意識の背景にあるのが、依存心ということにな る。もう少しわかりやすい言葉でいうなら、「甘え」ということになる。
子育ての目標は、子どもを自立させること。「あなたの人生だから、思う存分、あなたの人生
を生きなさい。たった一度しかない人生だから、思いっきり大空を飛びなさい。親孝行……? そんなこと考えなくてもいい」と、一度は子どもの背中をたたいてあげる。それでこそ親は親とし ての義務を果たしたことになる。もちろんそのあと子どもが自分で考えて、親のめんどうをみる というのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。
日本人は、国際的にみても、互いの依存心が強い国民である。長く続いた封建時代という時
代が、こういう民族性をつくったとも言える。どこかの国に移住しても、すぐ日本人どうしが集ま り、そこにリトル東京(日本人街)をつくったりする。親子関係もそうで、互いに甘え、甘えられる 親子ほど、よい親子と評価する。しかし依存心が強ければ強いほど、その人から「私」を奪う。 しかしこれは、これからの日本人の生き方ではない。少なくとも、こうした生き方は、世界ではも う通用しない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け
子どもにより高価なものを買ってあげるのが、親の愛だと錯覚している人がいる。あるいは
「高価なものを買ってあげたから、子どもとのきずなは強くなった」と考える人がいる。親は子ど もはそれで感謝するだろうと思ってそうする。あるいはそれで子どもの心をつかんだと考える。 しかしこれは誤解。あるいはかえって逆効果。
先日も一人の祖母が、孫(小四女児)のために、数万円もするような服を買ってあげているとこ
ろがテレビで紹介されていた。レポーターが、「(そんな高価なもの)、いいんですか?」と聞く と、その女性は、「いいんです、いいんです。かわいい孫のことですから」と言っていた。
が、こんな愚かなこと(失礼!)をするから、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。金銭感覚そのも
のがマヒする。たとえ一時的に感謝することはあっても、その感謝は決して長続きしない。
イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太 くする。
日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そして
オーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、 友人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイ ル・ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、 基本的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。
さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿を振り返ってみてほしい。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●先生の悪口は言わない
教育もつきつめれば人間関係で決まる。教師と生徒との良好な人間関係が、よい教育の基
本。この基本なくして、よい教育は望めない。そこで大原則。「子どもの前では、先生の悪口は 言わない」。先生を批判したり、あるいは子どもが先生の悪口を言ったときも、それに相槌(づ ち)を打ってはいけない。打てば打ったで、今度は、「あなたが言った言葉」として、それは先生 の耳に入る。必ず、入る。
子どもというのはそういうもので、先生の前では決して隠しごとができない。親よりも、園や学校
の先生と接している時間のほうが長い。また先生も、この種の会話には敏感に反応する。
一方、先生もまた生身の人間。中には聖人のように思っている人もいるかもしれないが、そう
いうことを期待するほうがおかしい。子どもと接する時間が長いというだけで、先生とてこの文 を読んでいるあなたと、どこも違わない。そこでこう考えてみてほしい。
もしあなたが教師で、生徒にこう言われたとする。「あんたの教え方ヘタだって、ママが言って
いたよ」と。そのときあなたはそれを笑って無視できるだろうか。中には、「あんたの教え方ヘタ だから、今度校長先生に言って、先生をかえてもらうとママが言っていた」と言う子どもさえい る。あなたは生徒のそういう言葉に耐えられるだろうか。
教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでもかけられる。しかし手を抜こうと思うえば、
いくらでも抜ける。ここが教育のこわいところでもあるが、それを決めるのが、冒頭にあげた 「人間関係」ということになる。実際、やる気を決めるのは、教師自身ではなく、この人間関係で ある。それを一方で破壊しておいて、「よい教育をせよ」はない。が、それだけではすまない。
あなたが先生の悪口を言ったり、先生を批判したりすると、子ども自身もまた先生に従わなく
なる。一度そうなるとそれが悪循環となって、(損とか得とかいう言い方は好きではないが… …)、結局は子ども自身が損をすることになる。仮に先生に問題があるとしても、子どもの耳に 入らないところで、問題を処理する。子どもが先生の悪口を言ったとしても、「あなたが悪いか らでしょ」と言ってのける。これも大原則の一つである。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●まじめな子ども
言われたことをきちんと、しかも従順にする子どものことを、まじめな子どもと考えている人が
いる。しかしこれは誤解。その子どもがまじめかどうかは、その子どもがどれだけ自己規範(自 分で考え、その判断に従って行動すること)を守れるかどうかで決まる。こんな子どもがいた。
ある日、バス停で一人の女の子(小三)に会った。以前の生徒だったので、「ジュースを買っ
てあげようか」と声をかけると、その子はこう言った。「いいです。これから家に帰って、夕ご飯 を食べますから。ジュースを飲んだら、夕ご飯が食べられなくなります」と。こういう子どもをまじ めな子どもという。
子どものまじめさは、家庭環境で決まる。しかも〇歳からの乳幼児期にかけて決まる……?
そのことを、私は二匹の犬を飼ってみて知った。
私の家には二匹の犬がいる。一匹は、保健所で処分される寸前にもらってきた犬(これをA
犬とする)。もう一匹は、愛犬家のもとで手厚く育てられた犬(これをB犬とする)。この二匹の 犬は、我が家へ来てからずっと、性格は幼犬のときのまま。A犬は、もう一五才にもなるが、忠 誠心も弱く、裏の木戸があいていようものなら、すぐ遊びに出て行ってしまう。だれにでもシッポ を振るから、番犬にはならない。
一方B犬のほうは、態度も大きいが、忠誠心も強い。見知らぬ人が来たりすると、けたたましく
ほえる。実のところ人間も犬と同じ。生後まもなくから、親の手を離れて育った子どもや、育児 拒否、家庭騒動、虐待を経験した子どもは、A犬のような性格をもつ。一方、心穏やかな環境 で、親の愛をたっぷりと受けて育ったような子どもは、B犬のような性格をもつ。
これ以上のことは、あれこれ誤解を招くので。ここでは書けないが、子どもをここでいう「まじめ
な子ども」にしたかったら(当然だが……)、B犬が育ったような環境で、子どもを育てる。もっと 言えば、子どもの側からみて、絶対的な安心感のある家庭で、子どもを育てる。「絶対的」とい うのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう家庭があってはじめて子どもは、善悪を静か に判断して、それに従って行動できるようになる。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●マトリックス(母体)の世界
少し前、キアヌ・リーブズ主演の、『マトリックス』という映画があった。おもしろい映画だった。
仮想現実の世界を母体(マトリックス)と思い込んだ人たち(?)が、本当の母体を知るという映 画だったが、しかしそれは映画の世界だけの話ではない。
子どもを育てるということは、人間を育てることをいう。教育というのがあるとするなら、それ
は子どもに生きるために必要な知識や経験を、武器として与えることをいう。しかしそれが今、 逆転している。教育のために、子どもを育てるのが、この日本では子育ての基本になってい る。そら進学だ、そら受験だ、と。
人間を育てる世界を母体(マトリックス)とするなら、教育の世界は、いわば仮想現実の世界と
いうことになる。が、ほとんどの親はその仮想現実の世界にハマりながら、それが仮想現実の 世界だとすら気づかないでいる……! こんなことがあった。
K君(中一)という、本当にまじめな子どもがいた。ただ能力的には、あまり恵まれていなかっ
た。私のところへ来ても、ただひたすらコツコツと勉強をしていたが、そんなわけで学校での成 績は思わしくなかった。で、最初の期末試験が終わったときのこと。K君の母親から電話がか かってきた。いわく、「成績が悪かった。もっと息子をしぼってほしい」と。しかし私はこう言っ た。
「K君には、よくがんばったねと言うことはできても、これ以上がんばれとは、私には言えない」
と。すると今度は父親から電話がかかってきて、「うちの息子はどうしても、S高(静岡県でも最 難関の進学高校)へ入ってもらわねばならない。S高へ入れてもらえるか」と。そこで私が、「う ちは進学塾ではありません」と言うと、「君はうちの子ではS高は無理と言っているのか。失敬 ではないか!」と、怒り出してしまった。
この両親のばあいも、人間を育てるという本来の母体(マトリックス)を忘れてしまい、仮想現
実の世界で子どもを育てていた。本末転倒という言葉があるが、まさにその本末が転倒してい た。
映画「マトリックス」は、もちろんSF(空想科学)映画だが、しかしSFとばかり言えない面があ
る。一度仮想現実の世界にハマってしまうと、それが現実の世界だと思い込んでしまう。さて、 あなたも一度、あなたの仮想現実の世界を疑ってみたらどうだろうか。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
【今朝・あれこれ】
●老後問題
+++++++++++++++
老後も、たいへん!
満60歳というが、この先、まだ、
25年近く、生きていかねばならない。
(運がよければ、という話だが……。)
25年といっても、健康寿命は、
残り、せいぜい、10年あまり。
つまり健康で生きられるのは、
よくて10年あまりということ。
(これも運がよければ、という話だが……。)
団塊世代を意識してか、このところ、
経済誌各誌は、どれも、老後問題を
特集している。
いくつかを読んでみたが、どれも
ぞっとするような話ばかり。
生きるのもたいへんだが、どう死ぬかも
たいへん。
そんな感想をもった。
+++++++++++++++
●独居老人問題
この先、独居老人が、ふえるそうだ。統計的な数字など、この際、意味はない。私やあなた
が、その独居老人になる可能性は、きわめて高い。今、この時点で、「私はだいじょうぶ」と断 言できる人は、いったい、どれだけいるだろうか?
孤独と空虚の中で、悶絶死! 他人に発見されたときには、ミイラ! そんな現実が、今、そ
こまで迫っている!
で、国の介護保険制度はどうかというと、これがまったく、アテにならない。今の今ですら、介
護保険制度は、パンク状態。それもそのはず。老人1人分の介護費用だけでも、30〜35万 円もかかる。それだけの費用を、現在は、国と個人(=家族)が分けて負担している。老人の 割合が少なければ、まだよい。しかしこの先、すぐ、3人に1人とか、4人に1人とかが、満65 歳以上の老人になる。
私たちが介護を必要とするころには、老人は、みな、粗大ゴミ。手厚い介護など、もとから望
むべくもない。
●スラム化するマンション問題
毎月の管理費をきちんと徴収し、管理人を置いているマンションは、まだ、よい。それなりの
財産価値がある。しかしその手前の、中小のマンションは、この先、スラム化するという。つま り財産価値が、ゼロになるという(某・経済誌)。
これはあくまでも、私の推算だが、仮に住民の10〜20%が、管理費を払えなくなったとする
と、とたんに、そのマンションの改修、修理がままならなくなる。老人世帯がふえればふえるほ ど、その可能性は高くなる。
ある経済誌は、こう警告している。「マンションをもっていれば、葬儀費用くらいにはなると考
えている人もいるかもしれないが、それは甘い」と。現在、葬儀費用にしても、平均、200〜25 0万円(+戒名代)かかるそうだ。
●治療費
病気にもなれない。がんにでもなれば、200〜300万円程度の治療費が必要だという。特
殊な治療を受ければ、それこそ1000万円単位の治療費が請求されるという。
要するに、それだけの治療費がまかなえない人は、早く死ねということらしい。いわんや、粗
大ゴミとなった私たちに、それだけの治療費をかけて、どうする? いや、一般社会が、そうい う目で、私たちを見るようになる。
そうなったとき、私たち老人に、もはや居場所は、ない。
●では、どうするか?
私が読んだのは経済誌だから、(経済的な観点)で、老人問題を考えていた。しかし経済だけ
が、すべてではない。また経済だけで、ものごとを考えてはいけない。
それ以上に重要なのは、(生きがい)である。もっと言えば、夢、希望、それに目的。この3つ
があれば、かりに大病になっても、私たちは前向きに生きることができる。前向きに生きること ができれば、それこそ『夕べに死すも、可なり』(=夕方に死ぬことになっても、悔いはない)と いうことになる。
もっと言えば、野で、のたれ死に、そのまま骨となっても、悔いはないということになる。治療
費だの、葬儀費用だの、そんなことを問題にするほうが、おかしい。天命は天命、じたばたした ところで、どうしようもない。
……とまあ、口で言うのは簡単なことかもしれない。いざ、その場に自分が立たされたら、(現
実に今、立たされ始めているが……)、そうはかっこよくいくものか? そこでやはり、(生きが い)ということになる。心理学の用語を使うなら、『統合性の確立』ということになる。
それをどう確立していくか?
少し前に書いた自分の原稿を読みなおしてみる。
+++++++++++++++++
●自己の統合性
++++++++++++++
私は何をすべきか。
まず、それを考える。
つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。
考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。
これを「統合性」という。
つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。
老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。
+++++++++++++
●自分は何をすべきか
定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折られてしま
う。
ある日突然、ボキッ、とだ。
とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にしてきた人
も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができなくなったとた ん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。
そこで「自己の統合性」ということになる。
(自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということになる。そう
でない人は、そうでない。
似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のしたいこと)
と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人が、この同一性の 問題で悩む。苦しむ。
「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、そこにある
のに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになってしまう。何をして も、むなしい。自分が自分でないように感ずる。
しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期には、(未
来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁に立たされたよう な状態になる。先がない。
そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」ではない。
この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よくわかるようになる。
高級車を買った……だから、それがどうなの?
家を新築した……だから、それがどうなの?
株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。
モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔いしれて、
自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。一時的に自分をご まかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう考える。
「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分から、「自分は
どうあるべきか」という命題が生まれる。
しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がついてみた
ら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたような状態になる。
では、どうするか?
多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。40歳という
年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。
50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りといわれる
40歳前後である。
つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的には、
(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つまりそれをしない まま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた状態)になってしまう。
繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。この両者の
間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の多くは、(したいこと) でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。
たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がいた。
議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなしていた。その 女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは何もない。が、そ の女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性に、こう聞いた。
「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。
するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの問題だけ
は、解決しておきたいのです」と。
つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致させてい
た。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。
●退職後の混乱
しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半の人が
そうではないのか。
中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで金儲
け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを見出す人も多 い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。
しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほど、(酔
い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。
……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そのとおり
で、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。その人がその 人なりにハッピーであれば、それでよい。
が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんになって
しまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、公務員であ るにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。
私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個人的
には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題は、それほど までに深刻な問題と考えてよい。
●では、どうするか?
満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も繰りかえ
すが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考える。
そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできることを考え
る。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。名誉や地位にし てもそうだ。
ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。というのも、(す
べきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。その(闘い)なくして、 (すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、(自分の命)の問題 とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目標が遠のいてしまう。時に、そのため絶 望感すら覚えることもある。
損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。
たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人を残す
ことです」と。
そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そういう方
でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物というのは、田丸先生の ような人をいう。
そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後はどうあ
るべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。
実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うなら、真理
の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、この世界は、本当 に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れてくる。ときどき、自分 が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。
すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だからよく
迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけではないのか」と。
つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論によれ
ば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。
だから……というわけでもないが、繰りかえす。
40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ先」とか、
「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまちがいである。子育て が終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、早足でやってくる。60代 は、さらに早足でやってくる。
さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目標)
【付記】
もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教団に身
を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。
しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、その人
は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがてそのまま静か に自分の人生を終える。
そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいるかさ
え、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。しかし食欲だけ は、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってくる。
そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、ない。何
かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。毎日、もの を食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのか。価 値があるというのか。
もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きているだ
け。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味する。母は、高 齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。
私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、それ
ぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命をみな、負って いる。
要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさがそうとし
ても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くもある。20歳から50歳 までの年数に等しい。
統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決して、
安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。
+++++++++++++++++
もう1作、「同一性」について書いた
原稿を、掲載します。
+++++++++++++++++
●心理学でいうアイデンティティとは、
(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、をいう(エリクソン)。
++++++++++++++++++++
エリクソンは、アイデンティティの確立(自己同一性の確立)について、つぎの3つのものをあ
げる。
(1)「自分は他者とはちがう」という、独自性の追求、
(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間である」という、統合性の容認、
(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という、一貫性の維持、である。
(1)独自性の追求
「老人はこうあるべきだ」という目に見えない、圧力。それを加齢とともに、強く感ずるようにな
った。どうしてか?
たとえば私はあと1年で、「還暦(かんれき)」と呼ばれる年齢になる。「60にして、還暦」の
「還暦」である。十干と十二支の組みあわせでは、満60歳(数え年では、61歳)のときに、干 支(えと)に戻るので、「還暦」という。「暦(こよみ)が、還(かえ)る」という意味である。
で、ときどき人に、こう言われる。「林さんも、来年は還暦ですね」と。つまり私は、そういうふう
にして、まわりの人たちから、自分の年齢を作られていく。
ところで子どもの世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、いつの間にか男の子ら
しくなっていく。女の子は、いつの間にか女の子らしくなっていく。遺伝子の作用によるものだと いう説もあるが、遺伝子の作用だけでは、すべてを説明できない。
まわりの人たちが、いつの間にか、男の子を男の子らしくしていく。女の子を女の子らしくして
いく。子ども自身も、意識の外の世界で、自ら、男の子らしくなり、女の子らしくなっていく。
それと同じような現象が、現在進行形の形で、私の身のまわりで起こりつつある。私は、今、
老人にされつつある。だから、こう叫ぶ。
「何が、還暦だ!」「くだらないこと言うな!」と。
しかしその声には力がない。いくら叫んでも、その声は、そのままカスミの向こうに消えてしま
う。
となると、「独自性とは何か」ということになる。いや、それを考える前に、いったい、私には、
独自性と言えるようものがあるのかということになる。服装だとか、髪型とか、そういうものは、 どうでもよい。大切なのは、中身だ。精神だ。その中身や精神の部分で、独自性と言えるような ものがあるのか、と。
どこかに(私らしさ)はあるにはあるが、いつも道に迷ってばかりいる。「これは!」と思うよう
な部分でも、相手やその周囲の人たちに、すぐ迎合してしまう。
今の今も、そうで、生活自体が、加齢とともに、しぼんでいくのが、自分でもわかる。体力も落
ちた、収入も減った、正義感も薄れた、集中力もつづかない。そういう現実を前にして、「では、 どうすればいいのか」と考えることが多くなった。それが自分を、どんどんと、老人臭くしていく。
しかし私は、あえて、抵抗してやる。だれが老人臭くなっていくものか!
(2)統合性の容認
いつの間にか、私は「教育評論家」ということになってしまった。しかしこの言葉は、あまり好
きではない。私は、したいことをしているだけ。書きたいことを書いているだけ。
私は、ごくふつうの人間だし、ごくふつうの生き方をしている。聖人でもないし、君子でもない。
だから「教育評論家のくせに……」と言われることくらい、不愉快なことはない。ときどき、そう
言われる。とくにみなの前で、バカ話をしたようなときに、そうだ。しかもそれなりの人に、そう言 われるならまだしも、そこらのオジサンにそう言われるから、たまらない。
「林さん、あんた、教育評論家だろ。その教育評論家がそういうことを言っちゃア、いかんよ」
とか、など。
酒やタバコ、それに女遊びこそしないが、しかし性欲だってふつうにある。美しい女性を見れ
ば、抱きたくなる。裸を想像する。チャンスがあれば、浮気だってしたいと思っている。
どうしてそういう私を、私自らが、否定しなければならないのか。つまり、それを否定してしまう
と、私は、私でなくなってしまう。エリクソンが説くところの、統合性がなくなってしまう。
仮面をかぶってはいけない。自分を偽ってはいけない。私は私である前に、人間なのだ。そ
の人間であることを、そのまま認めて生きる。スケベな話、大好き! どうしてそれが悪いこと なのか!
(3)一貫性の維持
一貫性のあるなしは、一貫性のない人を見れば、それがよくわかる。これは極端な例だが、
認知症か何かになった人を、見てみればよい。
数日前に、何か仕事を頼んだときには、「いいですよ」「心配ないですよ」と言っておきながら、
いざ、当日になると、不機嫌な顔をして、文句ばかり言う。こういう人は、つきあいにくい。その 人がどういう人なのか、それさえわからない。
子どもの世界でも、似たようなことを観察する。
年長児(満6歳児)ともなると、その子どもらしさ、つまり人格の輪郭(りんかく)が、明確になっ
てくる。人格の核(コア・アイデンティティ)が確立してくるからである。教える側からすると、「こ の子は、こういう子だ」という、(つかみどころ)ができてくる。
が、不幸にして不幸な家庭環境、たとえば、育児放棄、無視、冷淡、虐待、家庭崩壊、愛情
飢餓を経験したような子どもは、この核形成が、遅れる。軟弱で、つかみどころのない子どもに なる。ときに、何を考えているかさえ、わからなくなる。
このことを、ここでいう一貫性にあてはめてみると、一貫性というのは、他人から見た(つかみ
どころ)ということになる。その(つかみどころ)のある人を、一貫性のある人といい、そうでない 人を、そうでないという。
わかりやすく言うと、自分がもつ一貫性などというものは、まったくアテにならない。「私は一貫
性がある」と思っている人でも、一貫性のない人はいくらでもいる。自分で、そう思いこんでいる だけ。
そこでこの一貫性を知るためには、一度、視点を、自分の外に置いてみなければならない。
視点を外に置き、そこから自分を見つめなおしてみる。その時点で、自分には一貫性があるか どうかを、判断する。
あなたは、他人から見たとき、わかりやすい人間だろうか。あるいはあなたの子どもは、あな
たという親から見たとき、わかりやすい子どもだろうか。
以上、こうして、「私らしさ」を求めていく。その私らしさができたとき、つまり(自己概念)と(現
実自己)が一致したとき、自己の同一性(アイデンティティ)が、確立されたとみる。
自己の同一性が確立した子どもは、どっしりとしている。落ちついている。多少の誘惑ぐらい
では、ビクともしない。夢と希望をもち、自分で目標に向かって進んでいく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 独自性 統合性 一貫性 エリクソン 自己の同一性)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●自動更新というインチキ
+++++++++++++
ある日突然、「契約を自動更新
しました」という通知が届く。
よく読むと、「ウィルス対策ソフト
を自動更新しました。12月12日
からも、弊社の製品を、安心して
お使いいただけます」とある。
今日は、まだ11月13日!
つまり1か月も先に、自動更新をし、
現金が、クレジットカードから、
引き落とされる!
+++++++++++++
1台、8年前に買ったパソコンがある。現在は、ほとんど使っていない。開くとしても、数か月
に、1、2度。
そのパソコンに、買った当時、M社のウィルス対策ソフトを導入した。たぶん、そのときに、あ
まり深く考えないで、(契約自動更新)に(レ)マークを入れたのだと思う。以後、毎年、11月に なると、こうして自動更新されることになった。
実は、昨年も同じようなことが起きた。で、そのときも自動更新を解除しようとあれこれやって
みたが、画面上には、その方法が、どこにも書いてない。ガイドブックにも、電話番号らしきも のは、どこにもない。あれやこれやしているうちに、12月12日が過ぎてしまった。
しかたないので、私はあきらめた。が、今年も、また!
しかし昨年とは、事情が変わった。最近、私のパソコンには、1日、数百通ものスパムメール
が入る。そのため一度、すべてのメールは、(ゴミ箱)に入れ、必要なメールだけを選んで読む ようにしている。
それにまぎれて、(契約更新手続き完了)の知らせ! あやうく、見落とすところだった。
つまり放っておけば、こうして毎年契約が更新され、そのつど、現金が、クレジットカードから
引き落とされることになる。実に、狡猾(こうかつ)なやり方と言ってよい。
私は、M社に電話をした。抗議をした。確認のメールには、電話番号が記載してあった。
「引き落とすなら引き落とすで、一度、更新確認のメールをよこすべきではないか」と。ほかの
会社は、みな、そういう連絡をしてくれる。更新確認の連絡もないまま、現金を引き落とすの は、信義則に反する。
が、応対に出た女性は、こう言った。「だからこうして1か月前(=つまり今日)から、連絡して
いるではありませんか」と。
私は反論した。「すでに引き落としてから、連絡も何も、ないだろ!」と。
私「1か月前に、引き落とすということは、10万人なら、4億円。20万人なら、40億円になる。
利息だけでも、たいへんな額になる。引き落としは、12月12日の期限切れの日にすべきでし ょう」
女「解約の手続きをなさるということですね」
私「だから、あなたがたのやり方は、狡猾だと言っているんです。つまりズルイ」
女「解約の手続きをしておきます。連絡は、メールでいたします」
私「ちゃんと、更新の確認をしてから、そのあと、現金を引き落とすべきでしょう」
女「林様のアドレスは、xxxxx@xxxxxxですね」と。
みなさん、あえて忠告する。
M社のウィルス対策ソフトの、「自動更新」には、じゅうぶん、注意したほうがよい。「自動更新
にすると、割引価格になる」とか何とか書いてある。が、ああいうものにつられて、へたに(レ) マークを入れると、以後、永遠に、現金が引き落とされることになる。
M社のような世界的企業が、まさか……?、なんて信じていると、損をする。ご注意!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2312)
●今朝の雑談(11月14日)
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内線電話がかかってくる。
朝食の用意ができたという。
ワイフからの連絡。
こういうとき、ワイフは、
たいてい5から10分のサバを
読む。
あわてて行く必要はない。
あれこれ仕事をすませて台所へ。
ワイフがこう言った。
「味噌汁が、冷めてしまったわ」と。
私「今朝は、サバを読まなかったの?」
ワ「できあがってから、電話をかけた
のに……」と。
「サバ」というのは、魚の「鯖」の
こと。
「利益を得るために、数をごまかすこと」
(日本語大辞典)とある。
ナルホド!
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●底なしの防衛省疑惑
連日、新聞のトップは、防衛省疑惑。出るわ、出るわ……という感じ。それを読んでワイフが
こう言った。
「あなたはいつも、『4割の善と、4割の悪』と言うけれど、今の日本は、『2割の善と、6割の
悪』ね」と。
ひょっとしたら、善は、2割もないのかもしれない。つづいてワイフはこうも言った。「こんな世
界で、子どもたちにだけ善を求めても、しかたないわね」と。
その通り。
愛国心教育が必要なのは、防衛省の役人。愛国心教育は、まずそこから始めたらよい。こう
いう巨悪を一方で野放しにしておきながら、何が、愛国心教育だ!、ということになる。
私「あの世界は、消耗品の世界だろ。ドン、ドンと、爆弾を爆発させれば、1発、100万円から
1000万円が、煙と消える。金銭感覚が、一般社会とは、ズレている」
ワ「消耗した武器や弾薬は、そのまま国から補充してもらうというわけね」
私「そう。お金がまるでベルト・コンベヤーのように、右から左へと流れていく。その途中で、つ
まみ食いする人がいても、おかしくない。今度の事件も、そういう流れの中で発生した」と。
●道路整備に68兆円!
国土交通省が、11月13日に、「道路整備中期計画」の素案を発表した。それによると、事
業費が、ナ、何と、68兆円!
もうメチャメチャな金額と言ってよい。日本の国家税収は、年間、45兆円前後。公務員の人
件費だけでも、年間、38兆円前後。(人件費だけだぞ!)ほかにもいろいろあるが、その上で の、68兆円!
国土交通省は、「揮発油税などの道路特定財源を道路整備で使い切る」という。わかりやすく
言えば、私たちが支払っているガソリン税などをすべて、道路整備に使う、と言うのだ。
「もう、道路はいい」というのが、私の意見。「ないよりはあったほうがいい」という論理だけで、
お金を使っていれば、この先、日本は、たいへんなことになる。(すでにたいへんなことになって いるが……。)
一方、その68兆円をアテにして、(地方)が動き出している。つまり国がバラばく道路整備費
を、餅まきの餅よろしく、拾うためである。自民党の族議員たちは、「地方活性化のために必 要」(中日新聞)などと説く。
ところで小泉内閣のとき、公共事業費は削減された。その削減された分だけ、道路特定財源
に余裕ができた。そこで06年12月、その余裕でできた財源を、道路整備以外にも使用できる という(方針)が決定された。
国土交通省が言うところの、「使い切る」という中には、そうした財源も含む。
しかしそれにしても、バカげている! 道路整備に、68兆円だぞ! 人口を1億人にして計
算すると、国民1人あたり、68万円! 3人家族で、204万円! 5人家族で、340万円!
中日新聞は、こう報道している。
「参院選の与党惨敗を受け、地方活性化が緊急課題に浮上。活性化は道路でと、勢いづく
自民党道路族議員や、自治体の動きは、国交省への追い風となった」と(11月14日)。
私「地方の活性化は必要かもしれない。が、何も、道路だけに頼る必要はない」
ワ「どうして道路なのかしら?」
私「土木事業は、それだけ裾野が広いということ。低所得の人たちの職場として機能している
……」
ワ「田中角栄の列島改造論の亡霊が、いまだに尾を引いているのね」
私「しかしね、本当のところは、だれも低所得の人たちの心配など、していない。口実にしてい
るだけ。もっと言えば、低所得の人たちを、利用しているだけ。お前は、ああいう政治家たち が、ほんとうに、そういう人たちのために働いているように見えるか」
ワ「……見えないわね」
私「だろ……」と。
●月面写真
日本が打ち上げた月探査機、「かぐや」から、鮮明な写真が送られてきている。今朝の新聞
には、月面を下に、そこに浮かび上がる地球の写真が載っていた。
ワ「地球は、きれいね」
私「ぼくは、地球より、月面のほうに興味がある」
ワ「……」
私「UFOが写っているかもしれない。あるいはもうすでに修正されているかもしれない」
ワ「この黒い帯は何かしら……?」
私「それは単なる影だと思う」と。
UFOは、確実に存在する。私たち夫婦が目撃しているのだから、これはまちがいない。あと
は、それをどうやって証明するか、だ。
12月中旬から、「本格的に写真が送られてくる」(報道)ということらしい。楽しみにしている
が、同時に、不安もある。ほんとうにすべてを公開してくれるかという不安。それにもしUFOらし きものが写っていたとしたら、どう考えたらよいのかという不安。
地球人(=私たち)と、宇宙人は、もしDNAの配列がちがうなら、ぜったいに共存は、できな
い。あのホーキング博士も、そう言っている。もし中に、「そんなことはない」「仲良くできるはず」 と思っている人がいたら、甘い。
同じ人間どうしでも、戦争ばかりしている。そういう地球人が、宇宙人と仲良くできるはずがな
い。
私「それにね、戦争といっても、たがいに最終兵器を使うだろうから、悲惨なものになるだろう
よ。相手は、地球をそのものを、こなごなに破壊してしまうかもしれない」
ワ「宇宙人がいるとするなら、宇宙人も、そのあたりをいちばん、心配しているはずよ」
私「そう。地球人は、あまりにも好戦的。気性が荒い。ぼくが宇宙人なら、地球人とは、仲良くし
ないね。へたに技術や知識を与えると、それをすべて武器の開発か、そういうものに使ってし まう」
ワ「そうね」と。
●保険料は、7万3600円!
75歳以上の人を対象にした「後期高齢者医療制度」によると、平均的な単身の厚生年金受
給者(年間208万円)のばあい、今度から、保険料は、月額6133円、年額7万3600円にな るという(静岡県・県後期高齢者医療広域連合)。
(ただし基礎年金=国民年金のみの受給者のばあいは、7割削減した、年額1万0800円に
なる。医療機関で、受診・入院した際の自己負担額は、従来どおり、原則1割。治療費がかさ んだばあいの負担を軽減する「高額療養費支給」も従来どおり。)
私「死ぬまで、お金がかかるということ」
ワ「つまりその分、子どもたちの負担ということになるのね」
私「そう。収入のない老人に、お金を払えといっても、無理な話。あるいは、その分、前もって、
貯金をしておくしかない」
ワ「実質的な、年金減らしね」
私「そう。これからも、どんどんと、そうなっていくよ」と。
医療保険制度がパンクしかけたとき、介護保険制度が生まれた。医療保険制度を救済する
ためである。その介護保険制度も、パンクするのは、もはや時間の問題。そこで厚生労働省 の役人たちは、あれやこれやと知恵をしぼっている。「つぎは、どこから、どうやって、金を取 る?」と。
この先、こうした動きは加速することはあっても、減速することはない。この日本は、老人た
ち、とくに私たち団塊の世代にとっては、ますます住みにくい国になる。で、再び、道路整備費 の話。
私「道路整備費に68兆円ねえ……?」
ワ「おかしいわねエ……?」
私「そのうちの10兆円だけでも、老人介護費用に回せば、要介護4と5の人が現在、30万人
として、1人あたり、約3300万円の介護を受けられることになる。3300万円だぞ!」
ワ「日本の財政運営は、デタラメね」
私「簡単に言えば、そういうこと」と。
現在、要介護4の老人は16万人、要介護5の老人は14万人(厚生労働省・介護保険事業
状況報告・03年調べ)。
寒かった朝も朝食が終わるころには、ゆるんだ。庭では、白い陽光がまばゆいまでに、輝い
ていた。空には、雲、ひとつない。快晴!
今日も、がんばるぞ!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●携帯からBLOGへ
携帯電話から直接、BLOGへ記事を書き込むことができるという。前から知ってはいたが、
今朝、はじめて、それに挑戦してみた。
アドレスは、
post-xvjjxxxxx@tcup.net
しかし携帯電話に、文字を打ち込むのが、めんどう。私の携帯電話には、一応、フルキーボ
−ドがついている。が、それでも、めんどう。機種は、ウイルコムのWS004SH。
この方法を使えば、出先からも、緊急のばあい、(あるいはヒマなとき)、BLOGへ直接、記事
を書き込むことができる。もっともその緊急性を感じたことは、かつて一度もないが……。
そのBLOGは、つぎのアドレスで開くことができる。興味のある人は、どうぞ!
http://yellow.ap.teacup.com/bwhayashi/
たった今、記事を確認! 送信、成功!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
【伸びる子、伸びない子、こんな簡単なテスト法】
+++++++++++++
あなたの子どもが、この先、
伸びるか、伸びないか?
こんな簡単なテスト法があるので
紹介する。
用意するもの。
下のイラストを、印刷して、
子どもに見せる。
+++++++++++++
最近、「数学マジック辞典」(上野登美夫著、東京堂出版)という本を買ってきた。現在、その
中のいくつかを、私の生徒たちに見せ、楽しんでいる。で、たいへん興味深い事実に気がつい た。
たとえば、つぎのイラストを子どもに見せたときのこと。(無断で、転載して申し訳ない。このイ
ラスト自体の著作権は、当の昔に消滅していると思われるので、許してほしい。またイラスト自 体を転載するのが目的ではないので、許してほしい。マガジンでは、HTML版のほうで、紹 介。)
(同書、P88より)
上の図を線に沿って、3つに分割し、下のように並び替える。すると、人が6人から5人に減
る。同時に四角い板(私は、「チョコレートだよ」と話しているが……)は、4枚から、5枚にふえ る。
この手品というか、マジックを子どもたちの前でしてみせる。そのとき……。
(1)鋭い反応を示し、「どうして?」と真剣に考え込む子ども。
(2)「どうせインチキ」とか何とか言って、まったく興味を示さない子ども。
もちろんその中間もある。程度の差もある。子どもたちの反応は、さまざま。しかし大きく分け
ると、上の(1)と(2)に分かれるのがわかる。
全体に大きく評価してみると、学習面で伸びつづける子どもは、おおむね(1)のような反応を
示す。それだけ問題意識も深く、日ごろから、考える習慣を身につけている。
が、伸び悩み、何かを教えても、ちょうどザルで水をすくうような感触しかない子どもがいる。
このタイプの子どもは、おおむね(2)のような反応を示す。問題意識も浅く、好奇心も弱い。日 ごろから、生活態度も享楽的。どこか、いいかげん。
で、こうした子どもの反応は、母親の影響によるところが多い。子どもたちに同行してきた母
親たちにも見せてみたが、母親たちの反応も、大きく分けると、上の(1)と(2)に分かれるのが わかった。
さらに母親たちが示す反応と、その子どもたちの示す反応が、ほぼ一致するのがわかった!
つまり(考える習慣)=(伸びる子どもの重要な要素)は、母親の影響によるところが、たいへ ん大きいということ。
そこであなたの子どもはどうか? あなたという親自身は、どうか?
こういう原稿を読んでいるあなたという親は、(読んでいる)ということ自体、(1)のタイプの親
ということになる。問題意識の浅い親は、こういう原稿を読まない。関心ももたない。
だからあなたの子どもは、まちがいなく伸びるタイプの子どもということになるが、それでも…
…ということなら、一度、このテストを子どもの前でしてみせるとよい。
「あら、こうすると、6人よね。でもカードを並び替えると、5人になるわね」と。
対象は、小学2年生前後から、5、6年生まで。それ以下だと、マジックの意味が理解できな
い。またそれ以上だと、似たような手品を、学校でもしているので、簡単にしかけを見抜いてし まう。
もし、あなたの子どもが(1)のような反応を示せば、それでよし。もし(2)のような反応しか示
さないなら、この先、あなたの子どもは、かなり伸び悩むことを、今から覚悟しておいたらよい。 (失礼!)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 伸び
る子 伸びない子 伸び悩む子ども)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2313)
●親が子育てで行きづまるとき
++++++++++++++++
毎年、新しい親は、同じ失敗を
繰りかえす。
それは海辺に打ち寄せる波のよう。
毎回、どれひとつとして、同じ
「水」はない。
しかしそれが繰りかえし、繰りかえし、
海辺に打ち寄せる。
どうして親たちよ、先人の愚を、
自分の知恵に生かさないのか?
もしあなたが「私だけはちがう」と
思っていたとしたら、それは
とんでもない誤解。まちがい。
……だから私は、再び、同じ
原稿を、ここに掲載する。
+++++++++++++++
●私の子育ては、何だったの?
ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考えさせら
れた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私たち自身の問 題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。
「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました。
庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部 屋も飾ってきました。
なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、
マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地 理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。
二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナ
ーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互 いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(月刊M誌・K県・ 五〇歳の女性)と。
多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。
「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どう したらいいでしょうか」と。
もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食 の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。
こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子 どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後 の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。
「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合
格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限が ないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。
+++++++++++++++++++++
●親が子育てでいきづまるとき(2)
前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴではなかっ たのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?
(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっているような経験
は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、Kさんを笑っているの でも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったことは、すべての親が共通してか かえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)
そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立
つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を 飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が 苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。
一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを 大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。
そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハ
ズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをし ない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるい は「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。
このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けない
から、それがわかる。
私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」
と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、 「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。
親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そしてBよ
き友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもし れないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきび しい我が家の子育て」というところ。
この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であった のかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一 点に、問題のすべてが集約される。
が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。
+++++++++++++++++++++++
子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離れを始
めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。
この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩みも、そ
の一つ。
【Fさんへ】
Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責めるのは、
正しくありません。
あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。子ども
は、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想とする子ども 像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)
理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、いろ
いろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うことも……。
一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできないからで
す。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。
ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場で、もっ
というなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけてみることです。
親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまうでしょ
う。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」とか、「お母さん も、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。
幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですから、それ
を一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子どもは、自分の 道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子どもを、側面から支え ることになります。
残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが子どもに
なすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、そういうふうに、考 えないことです。
子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行ってはほ
しくない方向に自ら進んでいくこともあります。
では、どうするか?
最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子どもの間
の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題があったかと聞 かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗したという点で す。)
あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性というこ
とで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の子育てをし てきた可能性があります。
どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよくて、2つと
か3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してください。(みんな、外か ら見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みんな、問題だらけですよ。外から は、それが見えないだけ。)
あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの不安や
心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏感に感じ取 って、「ウルセー!」となるわけです。
こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番底があ
ります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届かない遠くに 行ってしまうこともありえるということです。
だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっしょに、
歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえし、(3)ほどよい 親であることです。
やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。
あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、それまでと
いうことです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、水を飲ませること はできない』というのが、あります。
あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、自分を光
らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、一芸が、子どもを 伸ばす時代です。
そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分のしたい
ことをすればよいのです。1人の人間として、です。
そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれにまさる、
不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、前向きに生き ている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。
「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かなり親意識の
強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう意識をつくりあげ られてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられるもの。子どもは、親を踏 み台にして、さらに先へ行くものです。
子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。
くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!
子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいのです。それ
が親の、つまりは人間としての度量ということになります。
あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。
この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっと言え
ば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということです。あなた の子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。
「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、そういう
ときは、休みなさい」と。
ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そういうときは、
「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやがるでしょうが……。) あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むのです。
Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、ママ」
と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)にやって、よい 成績をとって、人に好かれる子どもです。
しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。
……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんのかかえて
いる問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクしていますが、あな たの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているのです。そういう目で、見てあ げてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●がんになる確率
++++++++++++++++
40〜44歳で、28%
45〜49歳で、34%
50〜54歳で、41%
55〜59歳で、45%
60〜64歳で、47%
65〜69歳で、46%。
がんになる確率だそうだ。
(厚生労働省・05年・人口
動態統計より)
++++++++++++++++
厚生労働省が発表した人口動態統計を見て、ゾッとした。それによると、50代で、41〜4
5%の人が、がんになる。60代で、47〜46%の人が、がんになる。簡単な数字になおすと、 50歳を超えると、50代の10年間だけでも、約半数の人が、がんになるということ。
ほかに心疾患、脳血管疾患を含めると、50代で、62〜66%、60代で、69%の人が、これ
ら「三大成人病」になるという。これも簡単な数字になおすと、50代の10年間だけでも、約7 0%の人が、がん、心疾患、脳血管疾患になるということ。
私について言えば、今後、5年間のうちに、がん、心疾患、脳血管疾患になる確率は、69%
ということになる。(約70%!、だぞ。)
ふつう、確率の世界で、「70%」と言えば、「ほぼ100%」とみる。もっとも、だからといって、
「死ぬ」ということではない。今では医療も進歩している。がんイコール、死ではない。心疾患イ コール、死ではない。脳血管疾患イコール、死ではない。
しかし、重篤(じゅうとく)な病気であることには、ちがいない。心疾患といえば、心筋梗塞。脳
血管疾患といえば、脳梗塞を意味する。(ほかにも、あるが・・・。)
どれも後遺症が残る。私の義兄も数年前、心筋梗塞を経験している。そのため仕事はやめ、
以後、1年近く、闘病生活を送っている。現在は、バイパス手術もうまくいって、軽い農作業くら いならできるようになった。が、それでも、はげしい動きのある運動は、できない。いつも、静か にしている。
しかしそれにしても、すごい数字である。私はこの数字を見たとき、「死」がすぐそこまで来て
いるように感じた。「私だけ、例外でありたい」という気持ちはないわけではない。しかし過去に おいて、私には、その例外的なことは、何もなかった。
インフルエンザが流行すれば、インフルエンザになった。持病も、いくつか、ある。左の耳が、
聴力をなくして、もう20年近くになる。あるいは私のこの文章を読んで、「林は、ラッキーだな」 と思う人もいるかもしれない。実際、私自身も、そう思っている。今まで、こうしてまあまあ健康 でこられたこと自体、奇跡としか言いようがない。この先のことはわからない。わからないが、 今のところ、だれに対してということではないが、感謝している。
ただ願わくは、死ぬときは、ポックリと死にたい。ポックリ、とだ。がんは、いや。心脳血管疾
患も、いや。心疾患も、いやだが、ポックリ死ぬには、心疾患が、いちばんよいかもしれない。
・・・で、こうして考えてみると、まず思い浮かぶことは、「人生も、あっけないものだなあ」という
こと。つぎに思い浮かぶことは、「この先、人は、死ぬまでが人生」ということ。
そしてさらに思い浮かぶことは、「とにかく今日も、懸命に生きてみよう」ということ。
……しかし、今、ふと思ったが、この厚生労働省の統計は、どこかおかしい? 私は最初、4
0〜44歳で、28%の人ががんになるが、つづく、45〜49歳で、さらに残りの34%の人が、 がんになると読んだ。
仮に40代でがんになる人が、30%とする。(実際には、28%、34%。)これらの人のうち、
何割かの人は死に、何割かの人は、治癒する。よく「5年生存率」という言葉が使われるが、そ のあと5年以上、生き延びる人も少なくない。
となると、この厚生労働省の統計は、「新しくがんにはる人」というふうに理解できる。「がんに
なる確率」というのは、そういう意味である。「その年齢で、現在、がんになっている人」という意 味ではない。
となると、おかしなことになる。
40代でがんになる人が、30%とすると、50代でがんになる人は、その30%をのぞいた、7
0%の人のうちの、45%ということになる。わかりやすい数字で考えてみよう。がんによる死亡 率を、50%として計算してみた。
あなたの町内に、満40歳の住民が、100人いたとする。するとその人たちは、40代のうち
に、30人が、がんになることになる。がんにならなかった人は、70人。がんになった人のうち、 15人が死に、15人が生き残ったとする。その10年後には、満50歳の住民は、85人になる。
50代で新しくがんになる人は、厚生労働省の統計によれば、45%だから、70人x0・45で、
32人ということになる。40代でがんになった人を加えると、30+32で、62人がそのときまで にがんになったということになる。同じように、16人が死に、16人が生き残ったとする。その1 0年後の満60歳の住民は、85−16で、69人になる。
同じように考えて、69人から、すでに40代、50代で、がんになった人を引くと、69−(30+
32)で、がんにならなかった人は、残り、たったの7人になってしまう! つまり満60歳を前に して、100人のうち、93人が、がんなるということになる? しかしそんなことはありえない。
……ということは、この統計は、どこか、おかしい! まちがっている! あえて言うなら、「年
代を超えて、約45%前後の人が、一生の間に、がんになる」というふうに解釈するのがよい。 「年代別……」というのが、そもそも、おかしい。
ハハハ。だからこんな数字を気にするほうが、おかしい。無視するのもよくないが、こんな数
字を見て、ゾッとすることもない。
とにかく、今は、私は健康だ。がんではない。がん細胞は、無数にあるのかもしれないが、今
のところ、表には出てきていない。「60代で、がんになる確率は、47%」と聞くと、ゾッとする が、「死ぬまでに、がんになる確率は、47%」というのであれば、「まあ、そういうものだろうな」 と納得できる。
だからこの統計は、こう書き改めるべきである。
40〜44歳で、28%
45〜49歳で、プラス6%
50〜54歳で、プラス7%
55〜59歳で、プラス4%
60〜64歳で、プラス2%
65〜69歳で、マイナス1%
……
死ぬまでに、約47%の人が、がんになる、と。
つまり現在満60歳の人は、「60代にがんになる確率は、2―1の1%」と考えればよい。100
人に1人なら、それほど気にすることはない。(ずいぶんと、勝手な解釈だとは、思うが……。)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2314)
●NEETの心理
+++++++++++++++
NEETと呼ばれる若者たちの心理。
それは、絶え間ない、悶々とした
被害妄想。
何をしても、先をみてしまうという、
虚無主義。
それに、自分を包む、自信喪失。
やる気のなさ。
G県のある母親から、NEETについて
の相談が寄せられた。メールは、転載
不許可ということなので、ここでは
紹介できない。
NEETについて考えてみる。
+++++++++++++++
NEET(ニート)と呼ばれる若者たちがいる。「教育も受けない、仕事もしない」という若者たち
である。
このNEETにも、レベル(?)がある。しかしその期間が長くなり、「まじめに働くことさえバカに
し始めたら、NEETから逃れるのは、容易ではない」そうだ(「プレジデント・フィフティ・プラス」 (07・12・12号))。
NEETということもあって、同時に、健康管理も、おろそかになる。生活態度もだらしなくなる。
あとはその悪循環。年齢とともに、救済が、ますますむずかしくなる。
最初は、小さな(つまずき)で、始まる。が、この段階で、その予備軍の若者たちは、それを乗
り越えるだけの(忍耐力)を、もちあわせていない。子どもの世界で、忍耐力というのは、(いや なことをする力)をいう。もっと言えば、(苦難に耐える力)ということになる。その(力)がない。
概して言えば、幼児期から、甘やかされて育っている。規範のない生活、一貫性のない親の
育児姿勢、きびしさと甘さが同居する家庭環境、などなど。
だからこのタイプの子どもは、何かあると、自分の失敗をすぐ、他人に責任転嫁しやすい。も
のの考え方が、常に、他責的。「あいつが悪いから、こうなった」「学校の先生が悪いから、こう なった」と。
不平不満も、多くなる。と、同時に、悶々とした被害妄想をもつようになる。が、それを表に出
すことはない。このタイプの子どもは、心の中に鬱積した不満を、内へ内へとためこんでしま う。外に向かって発散するということはない。それがますます妄想を、加速させる。
が、それでいて自意識だけは、やたらと高い。何かの仕事を始めても、「つまらない」「こんな
仕事をしていて何になる」というような考え方をする。そして「自分が満足な仕事ができないの は、周囲がまちがっているから」「社会がおかしいから」というような考え方をする。自分の努力 のなさや、才能のなさは、棚にあげてしまう。さらに責任を追及されると、「こういう自分にした のは、父親だ」「母親だ」と考える。
だからNEETと呼ばれる若者たちに、「あなたが仕事をしなければ、あなたの家族が困るん
だよ」と諭(さと)しても、意味はない。家族が迷惑をするということ自体が、NEETと呼ばれる若 者にしてみれば、「当然の帰結」ということになる。
では、どうするか。
経済誌「プレジデント・フィフティ・プラス」は、「心を鬼にして、必要な教育は与えた。これから
はひとりで食べていけと、子どもをたたき出すことも必要かもしれない」(P40)と書いている。
しかし実際には、NEETと呼ばれる若者たちの多くは、同時に心の病気をかかえていること
が多い。NEETになったから、心の病気になったのか、心の病気があったから、NEETになっ たのか、それはよくわからないが、それはともかくも、そういうケースが多い。回避性障害、対 人恐怖症、さらにうつ病などがベースにあることもある。
さらにそれまでの家庭のリズムを変えるのは、容易なことではない。「心を鬼にして」というこ
とになるが、それができれば簡単、ということになる。
では、NEETと呼ばれる若者たちが、何も考えていないのかというと、そうでもない。NEETと
呼ばれる若者たちは、彼らなりに悩んでいる。一見、だらしない生活態度を繰りかえしてはいる が、心の中はいつも緊張状態。相談してきた母親は、こう書いている。「一触即発の状態です。 こわくて、何も言えません」と。
NEETと呼ばれる若者の心は、かさぶたの上に、さらにかさぶたが張りついたような状態に
なっている。その心を溶かすのは、容易なことではない。それこそ5年単位、10年単位の根気 が必要である。
方法としては、(1)暖かい無視、(2)ほどよい世話に心がける。ただひとつ忘れてならないの
は、NEETと呼ばれる若者にしても、あなたという(家族)が悩んでいる以上に、悩んでいるとい うこと。苦しんでいるということ。一見すると、怠け病(?)に見えるかもしれないが、先にも書い たように、そういうわけで、心の中は、いつも緊張状態にある。
その緊張状態を、じょうずに、前向きに生かしていくことができない。発散させていくことがで
きない。それがNEETと呼ばれる若者たちの心理と考えてよい。
【はやし浩司より】
心の病気をベースに考え、一度、心療内科の門をくぐってみるとよいですよ。多くの心療内科
は、そうした若者たちが、サークル的に集まって活動している団体と直結していて、その子ども にふさわしい団体を紹介してくれます。費用も、1日、数百円から高くて1000円止まりです。
サークルでは、「自活できるようになること」を目的に、みなで食事を作ったりしています。不
登校中の高校生から、40〜50歳くらいまでの人たちが集まっています。
一度NEETになってしまうと、そういうサークルへ行くこと自体を拒否するかもしれません。し
かしそこはあせらず、じっくりと構えてください。先に書いたように、心の病気(回避性障害や対 人恐怖症)がベースにあると、かなりの時間(=年月)がかかると覚悟してください。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 NEE
T ニート 引きこもる若者たち 引きこもり)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●人間の弱さ
++++++++++++++
よきにつけ、悪しきにつけ、
その人には、その人なりの
一貫性がある。
まじめな人は、あらゆる場面で、
まじめ。
小ずるい人は、あらゆる場面で、
小ずるい。
人間の心というのは、それほど、
器用にはできていない。場面に
応じて、まじめさと、小ずるさを
使い分けるということは、
できない。
++++++++++++++
防衛省を舞台とした汚職事件が、連日、新聞のトップ記事を飾っている。主役は、もちろん、
あのM政務次官。どこか得体の知れない人物。「政務次官」というのは、「防衛省のトップ」をい う。防衛大臣につぐ要職。
そのM政務次官が、(現在は、前政務次官だが……)、退職金の7000万円を国に返上する
と言い出した。「私には、受け取る資格がない」と。どうせ没収される退職金である。それを知っ ているから、前もって、返上すると言ってみせた。
小ずるい人は、あらゆる場面で小ずるい。そういう意味でも、人間の心には、一貫性がある。
今まで小ずるいことを、さんざんしてきておきながら、この場に及んで、「私には、受け取る資格 がない」とは!
しかしこのことは、重要な教訓を、私たちに与えてくれている。
その人の人格というのは、日々の、まさに、ささいな事実の積み重ねで、できあがる。ウソを
つかない。約束(ルール)を守る。その積み重ねが、週となり、月となり、年となり、その年が積 み重なって、やがて人格となっていく。
昔から西欧では、『善と悪は、神の左手と右手である』と説く。しかしその善と悪は、けっして
平等ではない。とくに善には、熟成が必要である。その熟成なくして、善はありえない。
たとえばこんな例を考えてみよう。
あなたは強大な権限をもった政務次官である。毎年、数千億円以上もの予算を、自分の力
で取り仕切ることができる。しかも毎日、巨額の現金が、目の前を、ベルトコンベヤーよろしく、 右から左へと流れている。
あなたはほんの少し目をつぶれば、その一部が自分のものになる。しかもどうせ、やがて煙
と消えるお金である。
そういうとき、だれかがあなたの部屋にやってきて、数千万円の札束を積みあげたとする。
「ちょっと目をつぶってくだされば、このお金は、あなたのものです」と。
そのときのこと。あなたがもしその政務次官だったら、それを断る勇気をもっているだろうか。
数千万円でなくてもよい。たとえば夜、コンビニの前を歩いていたら、サイフが落ちていた。あ
たりは暗くて、だれもいない。で、サイフの中を見ると、10万円近い現金が入っていた。
そういうとき、あなたはそのサイフをどうするだろうか。
ここであなたは、自分自身の中の、善と悪が試される。さらに言えば、善人ぶることぐらいな
ら、だれにでもできる。それらしい顔をして、それらしいことを言えばよい。それらしい振る舞い をすればよい。
しかし自分の中に潜む悪と闘い、善をより強固なものにするためには、時間が必要である。
積み重ねが必要である。それが私がここでいう「熟成」という意味である。
M政務次官。ああいう人間を、本物の「悪」というのだろうが、では、「私ならどうか?」と考え
ていくと、ものの考え方が、一変する。あるいは、あなたなら、どうだろうか? つまりその(不確 かさ)の中に、人間がもつ、根源的な(弱さ)が隠されている。
だからあのニーチェは、こう言った。
『ニーチェの、つぎの言葉である。
『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)と。
とくに後半の、『悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』という部分に注目してほしい。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●今朝・あれこれ(11月16日)
++++++++++++++
今日の一日は、朝風呂で始まった。
起きると同時に、入浴。
まるで温泉気分。
この寒さも、11月らしくて、
心地よい。
そうそう、昨日、ワイフが、
「浜北(=浜松市の北部)では、
紅葉が見ごろよ」と言ったので、
その浜北へ行ってみた。
浜北には、森林公園という、
すばらしい公園がある。
が、どの木も、まだ、青々と
していた。
かろうじてイチョウの木だけが、
黄金色に輝き、秋の風情を
かもしだしていた。
残念!
「12月を楽しみにしよう」という
ことで、昨日のショート・ドライブは、
おしまい。
おはようございます!
+++++++++++++++
●道徳完成論
+++++++++++++
子どもにとって、道徳とは何か。
子どもの道徳の完成度は、つぎ
の5つで決まる。
称して、はやし浩司の「道徳
完成論」。
(1)公正性
(2)普遍性
(3)一貫性
(4)正義性
(5)視野の広大性
+++++++++++++
(1)公正性
たとえばあなたの親類の1人が、万引きしていたとする。そのときあなたは、その親類に対し
て、
どう行動をとるだろうか。見て見ぬフリをするだろうか。あるいは、悪いことは悪いこととして、そ
の
親類を注意するだろうか。さらに店の人に通報するだろうか。相手がだれであれ、ものごとを
公正
に判断できる人を、道徳の完成度の高い人という。
(2)普遍性
ものの価値観が、世界的標準で、常識的であること。だれが聞いても、納得できる人生観、
哲学
をもっている。おかしな思想に染まり、かたよったものの考え方をする人は、それだけで道徳の
完
成度の低い人とみる。
(3)一貫性
言っていることに、いつも一貫性があること。反対に、会うたびに言うことが変わったり、様子
が
変わったりする人は、それだけで道徳の完成度の低い人ということになる。誘惑にも弱く、悪事
に
染まりやすい。一方、一貫性のある人は、言動と行動が一致している。
(4)正義性
視点がいつも弱者の側にあり、他人に対しても、また自分に対しても誠実であること。自分に
対
して誠実ということは、心を偽らないこと。いつもありのままの自分を、外に出すことをいう。ま
た他
人に対して誠実であるというには、ウソをつかない。約束を守る。この2つが、日常生活の中
で、自
然な形で実行できることをいう。
(5)視野の広大性
ものの考え方が、人間、生物、地球、宇宙・・・と、広いことを、「視野の広大性」という。一方、
卑
近な問題に右往左往し、私利私欲にかられたり、利己的なものの考え方をする人は、視野が
狭い
ということになる。
教育の場で、(家庭教育においても、そうだが……)、「道徳」を考えたら、この5つの柱を参
考に
してみてほしい。何かの役に立つはず。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 道徳
道
徳の完成 道徳の完成度 道徳完成度 子どもの道徳 子供の道徳 道徳教育)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2315)
善と悪
●神の右手と左手
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であると、言われ
ている。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえな いということらしい。
そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。
『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)
要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。
●悪と戦う
私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし 悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。 もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、 至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道 徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。
子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦 うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。
たとえばどこか会館の通路に、一〇〇〇円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだ
れもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の 中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。
●近づかない、相手にしない、無視する
が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」と か、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルー ルがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場で は、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信 号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、 そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題で はない。
あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にすると いう意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。 かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だか ら、近づかない。相手にしない。無視する。
こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を 得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思 う。
●子どもの世界
子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪 への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子 どもがいた。
ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言 った。
この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう か。ノー! では、何か?
●考える力
そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分 の判断に従って行動しようとする意思ということになる。
となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解さ れるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでも ない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。
が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そのもの
を、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、 しつけも、それに含まれる。もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り 早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということ になる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」とい う問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人 間が人間であるのは、その「考える力」があるからということになる。
とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは 考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、 「神の力」ということになる。
(02−10−25)※
++++++++++++++++++++
●補足
善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。
今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。 小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本 当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。
私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目 の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われると か、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。
本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ 「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自 分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。
いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
ここに転載する。
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四割の善と、四割の悪
(以前、掲載したのと同じ原稿です。お許しください。)
子どもに善と悪を教えるとき
●四割の善と四割の悪
社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの 世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。
つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校 の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放 り投げていた。その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に 対してはどうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親 は、少ない。
●善悪のハバから生まれる人間のドラマ
話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話 が残っている。
ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい 人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」 と。
●子どもの世界だけの問題ではない
子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問 題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは どれほどそれと闘っているだろうか。
私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘
もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていた ら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはし ないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、 その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆ がめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。
●悪と戦って、はじめて善人
よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、 大きく変わる。子どもの世界も変わる。
(参考)
子どもたちへ
魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って言うんだよね。
みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。
ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。
そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
振り回される親たち
少し前、赤ちゃんがおしゃぶりを使うと、指しゃぶりが残りやすいという説があった。そこで一
時期、おしゃぶりが、子どもの世界から姿を消した。しかし今度は、無理におしゃぶりをやめさ せると、子どもの情緒が不安定になるという説が出た。すると親たちは、再び、おしゃぶりを子 どもに与えるようになった。が、再び、おしゃぶりが、よくないという説がまた出てきた。理由は あれこれあるらしいが、もっともらしい説が、つぎつぎと育児雑誌をにぎわした。
そのつど、親たちは、ささいな情報に振り回される。新説が出るたびに、ああでもない、こうで
もないと振り回される。が、またまたまおしゃぶり論争。こんどは、おしゃぶりは、必要という説。 それに火をつけたのが、子どもたちによく見られる、口呼吸。「最近の子どもは口呼吸をする。 それは母乳で、じゅうぶん育てられなかったからだ」と。あるドクターが、テレビ番組の中でしゃ べったのがきっかけだった。つまり赤ちゃんは、母親の乳首を吸っている間、鼻呼吸をする。 その乳首を吸う回数が少ないと、口呼吸になりやすいというのだ。そして鼻には、バイ菌などを 遮断する機能があるので、鼻呼吸する子どもは健康に、一方、口呼吸する子どもは、病気にな りやすい、と。つまりおしゃぶりは、その鼻呼吸を子どもにさせるには、効果的であるということ らしい。とたん、また、おしゃぶりが、復活した……!
こういう論争を耳にすると、(私は乳児については、まったくの門外漢ということもあるが)、
「?」と思ってしまう。「どうしてもっと基本的なことを論じないのか」と。
仮に百歩譲って、口呼吸より鼻呼吸が健康によいということにしよう。しかしそれでも、この問
題は、無数にある問題のひとつにすぎない。「無数」だ。こうした情報というのは、夜のバラエテ ィ番組に出てくるクイズのようなもの。アフリカの一民族が使うような料理用の道具を持ち出し、 「これは何でしょうか?」と。自称、知識人やタレントたちが、さもしたり顔で、それを討論した り、ときには、ギャーギャーと騒いだり……。しかしそれがわかったところで、どうということはな いし、わからないからといって、これまたどうということはない。少なくとも、テレビというマスメデ ィアを通して、全国の人たちに知らせなければならないような問題ではない。
たしかに口呼吸と鼻呼吸はちがうが、子どもが口呼吸したらしたで、それはそのとき考えれ
ばよい。赤ん坊のときから、神経を使わねばならないような問題ではない。どうして親たちは、 こういう重箱の底をほじくりかえすような、ささいな問題で、そのつど振り回されるのか? 私に はむしろ、そちらのほうを問題としたい。
では、どう考えるべきか。
この口呼吸と鼻呼吸の問題にしても、子育てを自然体でしていれば、何も問題はないはず。人
類は、そうして何十万年も生き延びてきた。つまりこれからも自然体で子育てをすれば、何十 万年も生きられる。そうした視点に立ちかえれば、一挙に、無数の問題を解決することができ る。口呼吸と鼻呼吸の問題も、それに含まれる。
「口」はものを食べるため。「鼻」は呼吸をするため。そんなことは、自然の中では、常識ではな
いか。こうした「自然体」というか、「自然にかえれ」ということを、なぜ、もっとみんなが声を大き くして言わないのか。言いかえると、もしあなたが子育てをしていて、何かのことで迷ったり、わ からなくなったら、自然にかえればよい。それで結論は出る。すべてが解決する。私はこうした 情報が出るたびに、それに振り回されている親をみると、「はたして情報とは何か」と、そこまで 考えてしまう。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●今朝・あれこれ(11月17日)
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昨夜、遅く、この山荘へやってきた。
2人で、おでんを食べて、床についたのが、
午後11時半ごろ。
風邪気味だったので、市販の感冒薬をのんだ。
が、早朝、軽い偏頭痛で、目が覚める。
時計を見ると、午前3時。
こういうときは、起きてしまうのがよい。
脳圧がさがれば、頭痛は治まる。幸い、
風邪の症状は、消えていた。
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●無知、無理解、無学
子育てで、何がこわいかと言って、無知(=親にその知識がない)、無理解(=子どもの症状に
ついて、理解しようとしない)、無学(=親に学ぶ姿勢がない)の3つほど、こわいものはない。
私はドクターではないから、診断名をくだすことはできない。しかしその子どもに、どんな障害
があるかは、会ったその瞬間に、ある程度わかる。が、それを口に出すことはできない。わか っていても、知らぬフリをする。そんなときは、そのため、それとなく、親に、さぐりを入れる。
が、そういう親にかぎって、無知、無理解、無学。(失礼!)「できるだけ、避けて通りたい」と
いう親の気持ちも、理解できないわけではない。「たとえその疑いはあっても、信じたくない」と いう親の気持ちも、理解できないわけではない。親としても、つらい。悲しい。それはよくわか る。
たとえば7、8年前になるが、1人の女の子(小2)がいた。Hさんという名前の女の子だった。場
面かん黙児だった。最初、父親に連れられて私の教室にやってきた。が、父親は、自分の娘 のことを、何も気づいていなかった。
その日は、何とか、やり過ごした。が、つぎのときには、今度は母親に連れられてやってき
た。私は、それとなくさぐりを入れた。(さぐり)というのは、親がどの程度まで、自分の子どもの 問題点を理解しているか、それを知ることをいう。が、何を聞いても、即座に返ってくるのは、 反論ばかり。
私「静かなお子さんですね」
母「家では、ふつうにしゃべります」
私「学校では、どうですか?」
母「友だちとなら、会話できます。しかし、おとなが苦手です」
私「学校の教室では、どんな様子ですか?」
母「しゃべりません。とくに先生との相性が悪いようです」
私「幼児期に、どこかへ相談なさったことがありますか」
母「問題は、ありません。生まれつき、外では、静かな子どもです」
私「外で静かだということにお気づきになったのは、いつですか?」
母「言葉の発達が遅れたからです」
私「遅れたというのは……?」
母「今は、問題、ありません」と。
その女の子には、かん黙児特有の、(遊離)が見られた。顔の表情と、心の状態(情意)が不
一致した状態をいう。いつもニンマリというか、ニコニコというか、意味のわからない笑みを浮 かべていた。いやがっているはずのときも、怒っているはずのときも、意味のわからない笑み を浮かべていた。同じかん黙児でも、こうした遊離が見られたら、(程度にもよるが……)、症状 は重いとみる。あるいは、すでに症状がこじれてしまっているとみる。
もっと早い段階、たとえば3、4歳ごろにそれに気づき、適切な対処をしていれば、ある程度、
遊離を防げたかもしれない。軽くすますことができたかもしれない。しかしそれは(過去)の話。 教育の世界では、(今、そこにある現実)を原点に、ものを考える。親の過去を責めても、意味 はない。
私はさらにさぐりを入れた。入れながら、親の口から、「かん黙」という言葉が出てくるのを待
った。しかし最後まで、その言葉は出てこなかった。ほんとうに無知なのか? それとも隠して いるのか? 私には判断できなかった。
で、このタイプの子どもの指導のむずかしい点は、(1)集団に溶け込まないこと。(2)心を開
かないから、心の交流ができないこと。(3)ストレスを、内へ内へとためやすいため、予期せぬ 問題が、発生しやすいこと。そのときすでに、その女の子には、家庭内暴力的な様子が、始ま っていた。母親は、こう言った。
「学校から帰ってくると、私に向かってはげしい暴力を振るうことがあります」と。
つまり教える側からすると、腫れ物に触れるかのような、細心で、デリケートな指導が必要と
なる。何を考えているか、わからない。それがつかめない。そのため教えるといっても、まさに 手さぐりの神経戦。ピンと張り詰めたような神経戦。それが一瞬、一秒という単位でつづく。突 然、キレて、暴れ出すこともある。若いときなら、神経戦もできるが、当時すでに私は50歳を超 えていた。神経戦は、つらい。
が、何よりも大きな問題は、そういう問題がありながらも、親自身が、それに気がついていな
いこと。気がついていれば、話もできる。指導もできる。が、そこにある問題から、親が目をそ らしてしまっているばあい、指導そのものができない。
またこのタイプの親は、やめるのも、早い。少しやってみて効果がないとわかると、(そんなに
簡単に効果が現れるということはないのだが……)、「この教室はだめだ」というような判断をく だして、子どもの手を引っ張って、そのままやめてしまう。
その女の子のばあいも、私は、こう言った。「簡単には、いきませんよ。1年とか、2年とか、
あるいはもっとかかるかもしれません」と。しかし母親は、こう反論した。「うちの子は、慣れれ ば、だれとでも話をします。話をしないのは、慣れていないだけです」と。「とにかく、教室へ置い てくれれば、それでいい」とも、言った。
事実、その女の子は、そのあと数か月程度で、私の教室を去っていった。
かん黙児……。その中でもとくに指導がむずかしいのは、場面かん黙児。親は、「家ではふ
つうです」と、がんばる。子ども自身に問題があるとは、思っていない。だから、その問題点に 気づくこともない。
だから私は、当時、こう書いた。「親の、無知、無理解、無学ほど、こわいものはない」と。
(付記)
かん黙児にかぎらず、情緒そのものに障害がある子どもは、けっして、無理をしてはいけな
い。「直そう」とか、「治そう」と考えてはいけない。そういう子どもであることを認めた上で、その 子どもに合った指導をするのがよい。(親にそれを認めさせるまでが、たいへんだが……。)あ とは、時期を待つ。子ども自身がもつ自律能力を待つ。
かん黙児にしても、その年齢がくれば、何ごともなかったかのように、終わる。小3〜4年生を
境に、症状は急速に改善する。(症状をこじらせれば、その時期は、ぐんと遅くなる。あるい は、別の問題を引き起こす。)
無知、無理解、無学が原因で、たいていの親は、無理をする。この無理が、こわい。「そんな
はずはない」「うちの子に限って」と、子どもをはげしく叱ったりする。そのため症状を、かえって こじらせてしまう。子ども自身が自分で立ちなおるのを、遅らせてしまう。
そこで学校教育の場では、それとなく親に、学校医もしくは専門医の紹介をしたりする。「一
度、専門医に相談してみてはどうですか?」と。
こうした働きかけがあったら、親は、すなおにそれに応ずるのも、大切なことではないだろう
か。
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司
●恐ろしい、新手の詐欺、称して「遺産詐欺」
++++++++++++++++
いろいろな詐欺事件を見聞きしてきたが、
私は、これほどまでに恐ろしい詐欺を
知らない。
まさに新手の詐欺。「よく、ここまで
法の盲点をついたものだ!」と感心するほど、
巧妙な詐欺である。
みなさんも、この手の詐欺には、じゅうぶん、
注意されたい。これから先、この手の詐欺が、
急増する可能性がある。
++++++++++++++++
たいていは、ことの発端は、一通の手紙。手紙というより、書類。それで始まる。
その書類には、こうある。
「あなた様の遠い親戚にあたる、○○県○○市の○○氏が、このほど、逝去されました。つ
いて、その○○氏が残した遺産が、現金として、300万円ほどあります。法的な手続きをしてく だされば、そのお金は、あなたのものになります」と。
ふつう遺産というのは、遺産相続権者である遺産相続人に、引き渡される。死亡したのが親
であれば、配偶者や子に。配偶者や子がいないときは、親の親、親の兄弟、さらには、親の兄 弟の子に。しかしその故人に、こうした遺産相続人がいないときは、さらに回りまわって、(遠い 親戚)に、その遺産が引き渡されることがある。直接の遺産相続権者が、遺産相続を拒否する ばあいも、それに含まれる。
その書類を受け取った(あなた)は、喜ぶ。思ってもいなかった現金が、遺産として、舞い込
むからである。
あなたはその(遠い親戚)にあたるその故人をしのびながら、こう思う。「ああ、あの人が、私
に遺産くれた」「あの人は、そう言えば、いい人だった」と。
そこであなたは、種類に書いてある指示に従って、遺産を相続する。たいては、1、2枚の書
類。住所と名前、それに振込先の銀行名を記入する。印鑑証明を取り寄せ、実印を、1、2箇 所押す。それでおしまい。
で、1、2週間もすると、銀行から、入金の連絡が入る。あなたはその連絡を受けて、大喜び
する。「遺産が、入ったア!」と。何といっても、300万円! 新車だって、買える。あなたは「と りあえず……」ということで、数万円の現金を引き出して、使う。
が、ここからが、恐ろしい! 地獄の始まり!
しばらくすると、今度は、ナ、何と、2億円の債務確認書が届く。(1億円かもしれない。5000
万円かもしれない。あるいは10億円かもしれない。)
「故人の○○氏は、私どもに、2億円の借金をして、逝去されました。ついては、遺産相続人
である、あなた様に、その債務を肩代わりしていただきます。XX金融株式会社」と。
あるいは、「故人の○○氏は、ZZ氏の連帯保証人になっていました。ついては、ZZ氏の負債
を、相続人である、あなたに支払ってもらいます」と。
この段階で、「私たちは、相続人ではない」と主張しても、あとの祭り。遅い。あなたは、遺産
相続人として、実際の権利を行使してしまっている。しかも実際に、相続したお金に手をつけて しまっている!
遺産相続人は、遺産を相続すると同時に、その故人が残した債務についても、相続すること
になる。(これを「負の遺産相続」と呼ぶ。)一方で、遺産を相続しておきながら、債務について は、「NO!」とは、言えない。つまりあなたは、2億円の債務を、その時点で背負うことになる。
(わかるかな? 300万円を手にして、2億円の借金だぞ!)
で、この時点で、はじめてあなたは、どうして自分のところに回りまわって、遺産がころがりこ
んできたかを知る。その故人の直接の遺産相続権者たちは、債務を肩代わりするのがいや で、遺産相続権の放棄をしていたのだ。だから事情を知らない、あなたのところに、回りまわっ て、それがやってきた。
……ということで、あなたは2億円の借金を抱えることになる。あとのことは、推してはかるべ
し。あなたはすべての財産を失い、自己破産。
これがここでいう新手の詐欺である。今、この手の詐欺が、深く、静かに、しかしジワジワとあ
なたのところにも迫っている。やがて社会問題化するだろう。が、今のところ、表には出てきて いない。
で、私の印象では、現在、こうした詐欺を、組織的かつ計画的に行っている団体、もしくはグ
ループがあるように思う。組織的かつ計画的でなければ、またこういう詐欺は、不可能である。
しかも恐ろしいことに、この手の詐欺は、詐欺といいながら、法的には、どこにも問題がない。
まさに法の盲点をついた詐欺、ということになる。繰り返しになるが、現金に手をつけた段階、 もしくは、書類に実印をついた段階で、あなたは、その遺産(=債務)相続人になっている。そ のあと、「私は相続人ではない」と主張しても、すでに遅い。
名前をつけるとしたら、「遺産詐欺」ということか。改めて言う。ともかくも、おいしい話には、く
れぐれも、ご用心!
(はやし浩司 遺産詐欺)
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司
●怒りのない世界
+++++++++++++++
私は、満60歳の誕生日を境に、
「怒り」と決別できたように思う。
以後、一度も、感情的な「怒り」を
覚えたことがない。
しかし(怒り)のない世界が、こうまで
すばらしいものだとは、思っても
いなかった。
私の心の中から、最後まで残って
いた邪悪な感情が消えたように思う。
(まだ結論を出すのは、早いかな?)
+++++++++++++++++
「怒(いか)り」といっても、大きく分けて2種類、ある。「感情的な怒り」と、「静かな怒り」であ
る。ものを書くときは、いつもそのうちの「静かな怒り」に支配される。これがなくては、ものは、 書けない。
しかし「感情的な怒り」は、それがある分だけ、その人を見苦しくする。で、その怒りが試され
る日が、やってきた。
この話は先日も書いたが、3週間ほど前のこと。私はどこか頭のおかしい男に、からまれた。
その男は、突然、私に、怒鳴りかけてきた。「お前は、この町を不法占拠している」と。とんでも ない、言いがかりである。
そのときのこと。私は最初から最後まで、心臓の鼓動を1回とて速めることもなく、冷静に、そ
の男と対峙することができた。若いときなら、「バカヤロー!」と怒鳴り返して、喧嘩を始めてい たかもしれない。
が、そのあと、私は不思議な満足感に包まれた。うれしかった。楽しかった。同時に、怒りの
ない世界のすばらしさを、実感した。
ただ私のばあい、「怒り」そのものが消えたわけではない。そうした「怒り」は、こういう形で、
文に叩きつけることで、解消している。またそういう手段をもっている。つまりそういう手段が、 私の中で、定着した?
……ということで、満60歳の誕生日から、3週間あまり。一度だけ、フラットしたことはある
が、今のところ、「感情的な怒り」とは、無縁の世界にいる。あとは、この状態を、静かに保つだ け。できるだけ長く、もたせるだけ。
何かと不完全で、問題のある私だが、こうして少しずつ、前向きに自分を引っ張っていきた
い。
(付記)
しかし怒りを感じないで過ごすのも、むずかしい。数日前には、こんなことがあった。
車で交差点を右折しようとしたら、左側のアウトコース(=直進レーン)から、突然、大回りに
右折してきた車があった。その車は、私たちの車の左側を、追い抜いていった。私たちの車 が、あと少しスピードを出していたら、衝突していたかもしれない。もう、メチャメチャな運転と言 ってよい。
私は自分の頭に、カッと血がのぼるのを感じた。見ると、60歳くらいの男性だった。となりに
は、やはり60歳くらいの女性が乗っていた。ワイフがクラクションを1回鳴らした。その車はそ のまま走り去ってしまった。
そして昨夜も!
夕食を終えたころのこと。突然、FAXが送られてきた。私の家のFAXは、送られてきたデータ
を一度、内部に保存してから、打ち出す仕組みになっている。ある程度時間が過ぎたあとだ と、印刷を途中で停止することができない。
見ると、不動産屋からのもの。マンションやアパートの紹介と家賃がズラズラと書いてある。
そういうFAXが、5枚も。6枚目の途中のところで、やっと停止できた。
私は即座に、その不動産屋に電話を入れた。が、応対に出た女性は、明るい声で、「アー
ラ、すみません」と。
私「アーラ、すみませんで、すむ話ではないだろ」
女「番号をまちがえました」
私「何番にかけているの?」
女「448−xxxx、です」
私「それは、私の家の番号でしょう」
女「お客さんが、まちがえて書いたと思います。この番号になっています」
私「それは、お宅の事情かもしれないが、こちらは、迷惑している」
女「ごめんなさい」
私「おたがい、気をつけましょう」と。
が、である。電話機を置いてしばらくすると、再び、電話。受話器を取ると、またFAXが送られ
てきた。すかさず「停止」のボタンを押す。今度は、1枚目の途中で、FAXを止めることができ た。
私は再び、不動産屋に電話。同じ女性が出た。
私「あなたたち、いやがらせで、こういうことをしているのですか」
女「そんなつもりは、ありません。電話番号を調べたら、448ではなく、488ということがわかり
ました」
私「……とにかく、あなたでは、話にならない」
女「社長を呼んできます」
私「……」と。
が、である。今度は、待たされること、数分以上。私は受話器を、おろした。その間、私は48
8−xxxxへ、電話してみた。が、「現在、その番号は使われていません」とのこと。その女性 は、出まかせを言ったらしい。が、また、電話!
受話器を取ったとたん、「伊Xさんのお宅ですか?」と。
私「私は、林です」
女「あら、すみません。うちの社員が、電話番号をまちがえたようです。伊Xという方が書いたと
おりの電話番号に、電話したのです」
私「2度もFAXが、送られてきました」
女「……今、調べてみましたが、送信が途中で切れたため、FAXが自動的に、再送信したみた
いです」
私「そういうときは、一度、コンセントから電源をはずすといい」
女「そうします」
私「とにかく、こういうことは困ります」と。
あとでワイフに電話の内容を伝えると、ワイフは、「あなた、怒っていたわよ」と。
私「しかし、ああいうケースで、笑ってすますというのは、むずかしい」
ワ「まちがいは、まちがいだから……」
私「事務所の電話機にも、つぎからつぎへと、FAXが送られてくることがある。金融会社や文具
店からのものが、多い。インターネットのスパムメールが、その瞬間、頭の中で、ダブる。とた ん、頭に、カッと血がのぼる」
ワ「止めることはできないの?」
私「自動応答が終わったあとだと、できない。それもね、1枚とか2枚ならいいけど、ときには、
それが5枚とか6枚も、送られてくる。インクリボン代だって、バカにならないよ」と。
怒りのない世界とはいうが、この現実の世界で、怒りを覚えないで生活することは、たいへん
むずかしい。
……ということで、先に書いた、『今のところ、「感情的な怒り」とは、無縁の世界にいる』という
部分は、こう訂正する。
『怒りを覚えても、その瞬間だけで、すますことができるようになった』と。
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司
●迷う
+++++++++++++++
数日前、市内でも、NO.2ほどに
大きな、パソコンショップへ、足を
運んでみた。
ねらうは、携帯ワンセグ付きポータブル・
プレーヤー。
この世界では、T社の、ギガビートが、
先行している。値段は、5〜6万円。
が、そこでのこと。携帯電話なるものが、恐ろしく
進化しているのを知る。近く、ワンセグ
搭載の携帯電話が、この冬、あちこちで発売に
なるという。
わかりやすく言えば、携帯電話で、テレビ
が見られるようになるということ。ポータブル
プレーヤーについては、今では、常識。
付属のカメラについても、専用のデジタル・カメラ
程度の性能をもちはじめている。フルキーボード付きの
携帯電話も、すでに、つぎつぎと発売になっている。
称して、「スマート・フォン」! 「頭のキレる
電話機」という意味?
突然、私の志向が、そちらに向かう。
店の人に相談すると、「携帯電話を
買い換えたらどうですか?」とのこと。
フーン、ナルホド! そういうことだったのか。
……とまあ、ひとりで感心する。
++++++++++++++++++
電子製品は、私にとっては、おもちゃのようなもの。またそういうふうに位置づけて、買ってい
る。遊んでいる。
どんなものでも、最先端をいく新製品が好き。またそういうものでないと、満足できない。これ
は私の、昔からのビョーキ。自分でも、それがよくわかっている。
ポータブル・プレーヤーについても、私は、左耳の聴力を完全に失っている。そんな私には、
それほど意味はない。ここ20年、「ステレオ」とは、無縁の世界に住んでいる。それにテレビに しても、ニュースや報道番組以外、ほとんど見ない。
その私が、T社のギガビートなる、ポータブルプレーヤーをほしがるというのも、おかしな話
だ。たいてい一通り使ったあとは、息子たちに、払いさげ。そういう流れが、我が家には、でき ている。
しかしそれにしても、携帯電話がここまで進化するとは、思ってもみなかった。付属のカメラに
しても、手ぶれ防止付き、ズーム付きの携帯電話まで、ある。私が現在使っている携帯電話に は、フルキーボードがついていて、ワードやエクセルが使えるようになっている。またそこで文 章を打ち込むと、そのまま自分のパソコンに転送できるようになっている。
実際、そういうふうにして使ったのは、回数にしても、数えるほどしかないが……。
しかし、おもしろい! 楽しい! ワイフに、「夢ができた」と話すと、ワイフは、「どんな夢?」
と。
「今度、携帯電話を変えるよ」と。
ねらうは、すべての機能をもった、最新型の携帯電話。この冬が、ぐんと楽しみになった。し
かしそれにしても、この世界、目まぐるしく動く。あまりにも目まぐるしいので、ついていくだけで たいへん。お金も、たいへん!
Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2316)
●精神的なゆとり
++++++++++++++++++
働き盛りの40代男性と、
子育て期の30代女性は時間的、
経済的、精神的にゆとりがない
人が多いという(産経新聞)。
++++++++++++++++++
内閣府が、こんな調査結果を公表した(07年11月17日)。時事通信の記事をそのまま紹介
させてもらう。
『内閣府は17日、今年創設した「家族の日」(18日)に合わせて、「少子化対策と家族・地域
のきずなに関する意識調査」の結果を発表した。同居家族とのつながりが「強い方だ」と考える 人は87・8%で、「弱い方だ」の6%を大きく上回った。一方、地域とのつながりは「弱い方だ」 が52・5%で、「強い方だ」(45・7%)より多かった』と。
数字だけを、もう一度、整理してみる。
同居家族とのつながりが、強い方と考える人……87・8%
地域とのつながりは弱い方と考える人 ……52・5%
ほかに、
時間的ゆとりについて「ある」 ……47・2%
時間的なゆとりについて「ない」 ……27・6%
経済的ゆとりが「ある」 ……22・3%
経済的なゆとり「ない」 ……34・5%
とくに子供の教育費など出費がかさむ40〜50代男性や、30〜40代女性は、「ある」の回答
が、おおむね15%にとどまったという。
精神的ゆとりが「ある」 ……38・2%、
精神的なゆとり「ない」 ……22・2%
管理職などにつく40〜50代男性と、子育てや仕事に忙しい30〜40代女性が、「ある」と答え
た割合は、25〜30%で、平均を大きく下回ったという。
家族の話し合いは「十分している」 ……43%
家族との話し合いは、あまりしていない ……12%
調査は今年1〜2月、全国の18歳以上の男女4000人を対象に、面接方式で実施し、2409
人から回答を得たものだという。
今回の調査では、(ゆとり)がテーマになっているらしい。時間的なゆとり、精神的なゆとり、そ
れに経済的なゆとりという言葉が使われている。しかし(ゆとり9とは何か。これら3つは、それ ぞれに関連しあっている。
経済的なゆとりのある人は、時間的なゆとりができ、ついで、精神的なゆとりができる。そうで
ない人は、そうでない。一般論としては、そうなる。もちろん、経済的なゆとりはなくても、時間的 なゆとりや、精神的なゆとりのある人は、いる。そういう人も少なくない。が、私は、ここでハタと 考えこんでしまった。
経済的なゆとりについては、よくわかる。しかし「精神的なゆとりとは何か?」「時間的なゆとり
とは何か?」と。とくにわからないのが、精神的なゆとり。あるいは、あなたなら、もしだれかに 「精神的なゆとりがありますか?」と聞かれたら、何と答えるだろうか。あえて言えば、こういうこ とになる。
日々の生活に追われ、身のまわりのささいなことに心を奪われ、広く自分を離れてものを考
えることができない人を、精神的なゆとりがない人という、と。
反対に、日々の生活は、日々の生活として、天下国家を論じ、心豊かにものを考えることが
できる人を、精神的なゆとりがある人という、と。
そこで改めて、経済的なゆとりについて考えてみる。というのも、経済的なゆとりというのは、
あくまでも相対的なものでしかない。毎月、500万円の生活をしている人からみれば、毎月、5 0万円の生活など、考えられないだろう。毎月、50万円といっても、かなりリッチな生活であ る。もちろん、その反対も、言える。
同じように、精神的なゆとりも、相対的なものなのか? 答は、「NO!」である。時間的なゆと
りについても、同じ。こんな私でも、時として、時間が惜しくて、睡眠時間を削ることがある。そう いう私を見て、「時間的にゆとりがない人」と思ってほしくない。
恐らく内閣府が意図した、精神的なゆとりというのは、「心の余裕」を意味するのだろうが、そ
れでもよくわからない。
……とまあ、つっかかるのは、このくらいにしておいて、「精神的なゆとりがある人」が、3
8%、「ない人」が、22%というのは、どういうふうに解釈してよいのか、よくわからない。(また、 つっかかっている!)
「そういうものかなあ」と思ったところで、この話は、おしまい。
(心のゆとり論)
運命を前向きに受け入れてしまえば、心に大きな余裕ができる。へたに逆らうから、心に余
裕がなくなってしまう。
たとえば現在、老人介護に四苦八苦している人は多い。そういう人たちをながめてみると、大
きく分けて2つのタイプがあることがわかる。
運命を前向きに受け入れて、出すべきお金は、出す、すべきことはすると、割り切って、介護
している人がいる。「どうせ相手は、老人ではないか」と。ものごとをおおらかに考える。
一方、「お金を出すのもいや」「時間をつぶされるのもいや」と、毎日、不平不満、グチ、取り
越し苦労に、ヌカ喜びを繰りかえしている人がいる。ささいなことを、おおげさにとらえて、ギャ ーギャーと騒ぐ。
当然のことながら、前者のタイプの人には、「精神的なゆとりがある」ということになる。後者
のタイプの人には、「ない」ということになる。
つまり、「精神的なゆとり」というのは、(生きざまの問題)であって、内閣府のアンケート調査
で、調べられるような問題ではないということ。(あああ、またつっかかってしまった! 今日の 私は、精神的なゆとりが、あまりないようだ。気をつけよう!)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2317)
●今朝・あれこれ(11月19日)
++++++++++++++
昨夜、どこか風邪っぽかった。
が、外食。大きな店だったが、
暖房があまりきいていなかった。
肉料理を久しぶりに食べたが、
家に帰ると、悪寒。薬をのんで、
そのまま就寝。
ところで、この土日に、2本の
DVDを見た。
『敬愛なるベートーベン』と、
『ドレスデン』。ともに、すばらしい
映画だった。
学生のころは、毎年、第九交響曲を
歌っていた。映画を見ながら、
いっしょに合唱。涙、ポロポロ。
『敬愛なるベートーベン』は、
星は4つの、★★★★。
もう1本の『ドレスデン』も、
星は4つの、★★★★。2時間半もの
大作なので、じっくりと構えて見るの
がよい。
ドイツも、このところ、すばらしい
映画を制作するようになった。
CGも、ハリウッド映画に追いついた
という感じ。
よかった! 感動した!
ほんとうは、どれも星は5つかも
しれない。乱発すると価値が
さがるので、あえて、星は、
4つにした。
++++++++++++++
●ヨセフ
今度、キリストの父親のヨセフをテーマにした映画が、劇場で公開されるという。公開されしだ
い、ワイフと見に行くつもり。ワイフは、たいへん楽しみにしている。
チラシには、こうある。
「あの日、ヨセフがマリアを信じなければ、あの時、ふたりが大王による虐殺から逃れえなけ
れば、キリストは誕生しなかっった」と。
キリスト教会の中には、「聖ヨセフ教会」というのもあるが、全体としてみると、父、ヨセフの影
は薄い。マリア像をかかげる教会は多いが、ヨセフ像をかかげる教会は、ほとんど、ない。
私は、若いころから、教会へ行くたびに、それを疑問に感じていた。そういう疑問をベースに、
以前、いくつかの原稿を書いたことがある。
+++++++++++++++
●育児に参加しない父親
Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかか
ってきます。
A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうではな
い。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だったかもしれ ない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。
ある女の子(小5)は母親に、こう言った。「どうしてあんなパパと、結婚したの。もっといい男の
人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考えれば、母親が別の男性と結婚していたら、そ の子どもは存在していなかったことになるのだが…。
そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方をす
る。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親のヨセフ は、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?
これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、そ
の一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約30%の夫は、家事をほとんどしてい ない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。
そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親にしても
らう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」と。決して男尊 女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親なら、私はその反対 のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬しあうことをいう。まちがっ ても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とくに子どもの前では、してはいけない。
こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、母親
の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女性(32歳) は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑していた。原因は、 その女性の母親にあった。
母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父親は、
まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親を、「甲斐性 (生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?
これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過渡期
にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約30%の若い夫は、育児はもちろん、炊事、 洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。
…というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を張って
いる。あせらず、じっくりと構えること。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●母親の役目
子どもにとって、自分と母親の関係は、絶対的なものだが、しかし自分と父親の関係は、絶
対的なものではない。「母親から生まれた」という実感はあるが、「父親から生まれた」という実 感は、もちにくい。だからたいていの子どもは、自意識(だいたい10歳前後から)が発達してく ると、父親との間に、一定の距離を置くようになる。「ひょっとしたら、自分は父親の子どもでは ないかもしれない」と思う子どもも少なくない。
ある男の子(小5)は、こう言った。「ママが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、も
っと幸福になれた」と。
こういうケースでは、「パパが、もっとお金持ちの人と結婚していれば、ぼくは、もっと幸福にな
れた」とは、言わない。中には母親に向かって、「どうしてあんなパパと結婚したの!」と、迫る 子どもさえいる。理屈で考えれば、もし母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは、絶対 に生まれていなかったことになるのだが……。
このことは、子どもと母親の結びつきを理解するには、たいへん重要なポイントとなる。わか
りやすく言えば、子どもと母親のつながりは、父親のそれよりも太いということ。もちろん中に は、そうでないケースもあるが、少なくとも、子どもの側からみると、太い。だから父親と母親 が、けんかをすると、特別の事情がないかぎり、子どもは、母親の味方をする。歌にしても、母 親をたたえる歌は多いが、父親をたたえる歌は少ない。
たとえば窪田聡氏が作詞した、『かあさんの歌』にしても、森進一氏が歌う、『おふくろさん』に
しても、母親をたたえる歌である。「♪母さんは、夜なべをして……」とは、歌うが、同じように苦 労をしている父親に対して、「♪父さんは、夜なべをして……」とは、歌わない。
最近、演歌歌手のK氏が、父親をたたえる歌を歌いだしたが、そういう歌は例外と考えてよい。
つまり母親というのは、どこかたたえやすいが、父親というのは、どこかたたえにくい?
このことと関連しているのかもしれないが、たとえばキリスト教でも、聖母マリアをたたえる信
者は多いが、父親ヨセフをたたえる信者は少ない。実のところ、これがこのエッセーを書き始 めたヒントになっている。昨夜ワイフが、ふと、「どうしてヨセフは影が薄いのかしら?」と言った のが、きっかけになった。
話が脱線したが、つまり子どもの側からみたとき、父親と母親は、決して対等ではない。子ど
もにとって母親は、父親以上に、特別な存在である。幼児でも、「お母さんがいないと、どんなこ とで困りますか?」と質問すると、つぎつぎと答がかえってくる。しかし「お父さんがいないと、ど んなことで困りますか?」と質問すると、とたんに、答が少なくなる。
そこで母親は、このアンバランスを、子育ての場で、調整しなければならない。そして結果とし
て、子どもの側から見たとき、父親と母親が、等距離にいるようにしなければならない。この仕 事は、父親ではできない。それをするのは、母親自身ということになる。
方法としては、母親の立場をよいことに、母親だけが親であるというような押しつけはしないこ
と。もっと言えば、家庭教育の場で、父親の存在を、いつも子どもに感じさせるようにする。「こ れは大切な問題だから、お父さんに判断してもらいましょうね」「お父さんががんばってくれるか ら、みんなが安心して生活ができるのよ」とか。
決して男尊女卑的なことを言っているのではない。賢い母親なら、そうする。たがいに高い次
元に置き、尊敬しあうことを、「平等」という。もちろんこの文章を読んでいるのが父親なら、そ の反対のことをすればよい。
しかし、なぜ私がこのエッセーを書いているかについては、もう一つの理由がある。それは
今、父親の存在感が、ますます薄くなってきているということ。これに対して、「父親の威厳を回 復せよ」という意見もあるが、今は、もうそういう時代ではない。「威厳論」をもちだしても、子ど も自身が従わない。そこでここでいうように、「たがいに高めあう」という意味での、平等論という ことになる。
またまた話が脱線したが、家庭教育においては、いかにして子どもと父親のパイプを太くする
かが、重要なテーマと考えてよい。またその努力を怠ると、家族そのものが、バラバラになって しまう。話せば長くなるが、問題行動を起こす子どもの家庭ほど、父親の存在感が薄いことが 知られている。
もっとはっきり言えば、母親だけでは、子育てはできないということ。できなくはないが、失敗す
る確率は、ぐんと高くなる。そのためにも、子どもと父親のパイプは、今から太くしておく。そして それをするのは、母親の役目ということになる。
(03−1−5)
【追記】
よく父親の教育参加が話題になるが、それはここにも書いたように、そんな単純な問題では
ない。父親が、「では、私も子育てに参加してみるか」と思うころは、すでに手遅れ。問題の 「根」は、もっと深い。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●父親、ヨセフ
●存在感の薄い、ヨセフ
イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。一説に
よると、そのときヨセフは、マリアと婚約関係にはあったが、マリアとは性的関係はなかったとさ れる。また一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせたが、ヨセフには、知 らせなかったという。さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の子としての活動を始める前に、死 んでいる。ここでキリスト教、最大の謎にぶつかる。父親ヨセフは、では、いったい、何であった のか、と。
この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。私のよう
な門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を先に進めてみた い。
●母親は絶対
母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的な方
法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの関係は、母 親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」の関係にすぎない。 このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。
たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そればか
りか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」という疑いを もつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさわしい人物にちが いない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。
実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気にさえな
れば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一方、女に は、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。
もし男も女も、同等の快感であったとするなら、女はセックスなどしないだろう。そのあと予想さ
れる「重荷」を考えたら、とても割にあわない。たとえば男というのは、そのセックスの途中であ っても、冷静に、女の反応を楽しむことができる。しかし女はそうではない。無我夢中というか、 我を忘れてセックスの快感に酔いしびれる。
またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深い。恐らく長い間
の進化の過程でそうなったのだろう。つまり女にとっての快感は、そのあと予想される「重荷」 を忘れさせるほど、すばらしいものであるらしい。またそれがあるから、女も、あと先のことを考 えることなく、セックスに没頭することができる?
となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理することはでき
る。
●親は、母親だけ?
人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代において
は、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形ができたの は、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、母親でしかなかっ たのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、如実に示されていると 考えられなくもない。
で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存在するこ
とがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれを克服した崇高 さを、ことさら美化している。
しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が確立した、「現代」から見た
視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛盾する。おかしい。おかし いから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?
しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことながら、
家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考える家族観、… …つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、異質のものであっ たと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」中心の家族観に改めら れたのは、戦後のことである。
●母親と父親は平等ではない?
こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、同一のも
のでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子どもに対する意 識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の子どもではない」と 疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見ながら、「ひょっとしたら、この 子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。そしてそれがちょうどカガミに映さ れるかのように、子どもの心となる。
つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念は、ずっ
とあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、一夫一妻制度が 確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、まさに「精液一しず く」。
そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考える。父
親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、子どもの意 識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を吸う子どもはいな い。
●母親は父親を立てる
で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父親と子
どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、(1)子どもが父親と の関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと自体、すでに、父親と 子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。
つぎに(2)母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在を高め
る。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というのは、互いに相手 を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。「大切な判断は、お父さ んにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。そういう姿勢を通して、子ども は、父親像を学ぶ。身につける。
●父親ヨセフの苦悩
こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストをもうけるために
マリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなかったのではということ になる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうをみるなら、だれでもよかった? ……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を冷静に積み重ねていくと、そうなる。ある いは、あなたがヨセフならどうだったかという視点で考えてみるとよい。
妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつめる
と、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。そういう状 況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。
ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗り越えたところに、父親ヨセフの偉大さがある」
というような論陣を張るが、それはあくまでも結果論。結果的に、イエス・キリストが、偉大な人 物になったから言えることであって、そうでなかったら、そうでなかったであろう。
いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、おそらく母親
のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と聞かされていた。イ エス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を感じなかったのか。あるいは それこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかったのか?
「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教会では、マ
リア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑問をもったのがきか っけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこかの教会へ行ったときにで も、じっくりと考えてみる。
(03−1−15)
++++++++++++++
「マリア」のチラシの裏面には、こうある。
「本作は、神学、歴史、政治、社会、文化などのあらゆる専門家の協力を得て、マリアとヨセ
フ、そしてキリスト誕生までの物語を、忠実に再現。突然、神からの啓示を受けた若いふたり がどのように困難を乗り越え、お互いの親愛を築いていったのか? そしてクリスマスの本当 の意味とは……」とある。
映画が楽しみだ。
そうそう、ほかに、ニコラス・ケイジ主演の、「ナショナル・トレジャー」と、アンジェリーナ・ジョリ
ー主演の、「マイティ・ハート」も封切りになる。ワイフは「みんな見に行く」とがんばっているの で、つきあうつもりでいる。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(2318)
●メリークリスマス!
++++++++++++++++++
この原稿がマガジンに載るのは、12月
24日ということになる。
メリークリスマス!
が、今日は、11月20日。火曜日。
朝、起きて、あちこちのニュースを読む。
今日(アメリカ:19日)も、アメリカの株価は、
暴落したようだ。200ドル以上もの、棒下げ。
日本への影響は、必至。
さあ、どうなる、日本!
サブプライム問題は、予想以上に
根が深く、大きいようだ。そればかりか、
サブプライム問題が、あちこちの産業に、
飛び火をし始めている。
今は、そんな感じ。
しかしアメリカのドルは、強い!
ほかの国なら、とっくの昔に、破綻。
が、そこは、ドル。
現在、原油は、イランなど、いくつかの国を
のぞいて、そのドルでしか、購入できない。
アメリカにしてみれば、「金に困れば、
ドル紙幣を、どんどん印刷すればいい」
ということになる。
もちろん、そうなれば、インフレ。
ハイパーインフレ。
原油価格にしても、1バレル=100ドル
から、さらに上昇して、200ドルになる
かもしれないという(経済各誌)。
200ドルになれば、原油価格は、
この1年間で、約5倍以上になる
ことになる。
つまりドルの価値が、5分の1に低下
することを意味する。
私のような素人がうんぬんする問題では
ないかもしれないが、日本経済に与える
影響は、はかり知れない。
もちろん私やあなたの生活をも、直撃
する。
明日は、クリスマスというのに、
暗い話で、ごめん!
ともかくも、メリークリスマス!
++++++++++++++++++
●オーパーツ
昨日、書店でいくつかの雑紙と、オーパーツについて書いた本を買ってきた。
オーパーツ……「Out of Place Artifacts(場違いな加工品)」のことをいう。
世の中には、常識では理解できない、不思議なものがある。本当かウソかは、わからない
が、その中のいくつかを、ここに列挙してみる(「超古代オーパーツFile」(学研)より抜粋。)
★超古代核戦争の痕跡(リビア砂漠のガラスなど)
★メカニック・オーパーツ(アンティキティラの歯車など)
★クリスタル&石像物(ヘッジスの水晶ドクロ)
★電気・金属オーパーツ(秦時代のクロムメッキ剣)
★大洪水説の痕跡(アトラス山のノアの箱船)
★巨大遺跡の謎と真実(秦始皇帝時代の地下宮殿)、などなど
この中でも、私は、最後の「巨大遺跡の謎と真実」の中にある、中国のピラミッドについて、関
心をもった。……というより、このうわさは、かなり若いころから、耳にしていた。
「超古代オーパーツFile」には、つぎのようにある。
「1945年、中国はシーアン(西安)の南西部の山岳地帯上空を飛行していた、アメリカ空軍
パイロット、J・ガウスマンが、眼下に出現した、巨大ピラミッドを撮影した。
彼が後に、ニューヨーク・タイムズ紙上で語ったところでは、ピラミッドは、太陽光を反射し、白
く光っていた。それはまるで、表面に金属板か白いタイルのようなものを施したと思われる荘厳 な光景だったという。
それを補足するかたちで、つづいて1946年3月、トランスワールド航空のM・シーハン元大佐
も、シーアンの南、約120キロの地点にある、チンリン山脈のふもとで、高さ900メートル、基 底部が約1・5キロあるピラミッドを目撃したのだ」(P142)と。
高さ900メートル! エジプトのギザのピラミッドは、大きいといっても、高さは、136メート
ル、基底部は、230メートルにすぎない。
以前、私はそのピラミッドの写真を、何かの本で見たことがある。が、それはただの影のように
なっていて、不鮮明なものだった。この本の中では、それよりもやや鮮明な写真が紹介されて いる。それを見ると、そのピラミッドは、はっきりと角がわかる、四角錐台の形をしているのが わかる。頂上部には、水平になった広場らしきものまである。
この形を見て、「自然にできたもの」と思う人は、まず、いない。表面こそ、風化か何か(?)
で、でこぼこしているようだが、全体としては、しっかりとした四角錐台の形を整えている。
こういうとき役立つのが、グーグル・アース。さっそくシーアン(西安)あたりを、検索してみる。
位置としては、
33°10'58・17"N、108°53'01・81"E、
あたりだと思う。(シーアンの真南、120キロで検索。)
が、一辺が1・5キロもあれば、それらしき正方形が見えるはずだが、私が見たところ、それは
なかった。また本に載っている写真を見ると、平地の中にそのピラミッドがあるように見える。し かしシーアンの南、120キロあたりは、チンリン山脈のまっただ中。本当に、シーアンの南、1 20キロなのだろうか?
「?」ということになる。
しかし何とも、ロマンをかきたてる話ではないか? 平地に高さ900メートルものピラミッドを
建設するなどということは、ギザのピラミッドと対比するまでもなく、人間には、不可能。あるい はもともと四角錐台に近かった山を削ったのかもしれない。しかし、だれが、何のために?
昨日も、自然に目が閉じるまで、私はふとんの中で、その本を読んでいた。そしてそのまま眠
ってしまった。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2319)
●今朝・あれこれ(11月21日)
+++++++++++++++
毎年、秋になると、岐阜に住む
友人が、柿を送ってくれる。
実家が、柿農家だという。自分で
もいで、ふくろをかけたという。
「今年は肥料のやり過ぎで、少し
実がかたい」と、電話の向こうで、
笑っていた。
私は、岐阜弁が嫌いではない。
子どものころは、その岐阜弁に
あこがれさえ抱いた。
郷里のM町に生まれ育った私には、
岐阜弁が、洗練された都会の言葉に
聞こえた。
ありがとう、Nさん!
+++++++++++++++
●ニュー・リッチ
子どもの学費で悲鳴をあげている人たちがいる一方で、稼いだお金をどう使おうかと、苦労し
ている人たちがいる。50代や60代の人たちの話ではない。20代、30代の若い人たちの話で ある。
いわゆる「ニュー・リッチ」と呼ばれる人たちである。
野村総合研究所の推計によれば、金融資産が1億円以上の世帯は、日本に87万世帯ある
という。しかもその総世帯数の2%に満たない層が、総額213兆円もの資産を占めている。こ れは日本の個人金融資産の10%以上に相当するという(文藝春秋「日本の論点、'08」)。
もちろんこの中には、昔からいう資産家や、医師や弁護士など、特殊な職業の人たちも
含まれる。が、その構図が今、大きく変わろうとしている。
ゼロ金利政策と、それにつづく超低金利政策。今、日本は、日本国内はもちろんのこと、世
界中に、日本の円が、「ジャブジャブに」(某経済誌)バラまかれている。日本という国全体が、 巨大なサラ金国家になっていると考えると、わかりやすい。
こうしてバラまかれたお金は、当然のことながら、だれかのところに集まる。私の知人の中に
は、いわゆるストックオクションだけで、毎年、1〜2億円の利益をあげている人がいる。「すご いね」と話しかけると、「ぼくなんか、まだ少ない方だよ」と笑っていた。その知人は、今年40歳 になったばかりである。
こうした格差をながめていると、それは「格差」というより、「情報の差」ということになる。もっ
と言えば、「交流の差」ということになる。いかにして「質の高い人」とつきあうか。その差が、情 報の差となり、格差となる。恩師の田丸先生も、会うたびに、私にこう言う。「質の高い人たち と、もっと交流しなさい」と。
もちろん田丸先生は、金儲けのことで、そう言ったのではない。しかしそれは事実で、その世
界でもトップクラスの人には、その人独特の雰囲気というものがある。会った瞬間に、オーラの ようなものさえ感ずる。(私は、「オーラ」なるものは信じていないが……。)そうしたオーラは、 本や雑誌を通しては、ぜったいに感ずることができないものである。
ニュー・リッチと呼ばれる人たちは、こうした人脈を巧みにたどりながら、それを自分の利益
につなげていく。
では、どうすれば、その「質の高い人」と交流できるかだが、その第一の条件は、「今、住んで
いる世界から、飛び出す」こと。飛び出して他流試合を重ねていくこと。するとそこにひとつの輪 ができる。その輪の中に入ってしまえば、しめたもの。……といっても、その「輪」は、あとにな ってわかるもの。そのときは無我夢中で、その「輪」に気づくことはない。
私のばあいも、20代のころは、たしかにその「輪」の中にいた。今でこそ留学といっても、珍
しくも、何ともない。だれでもできる時代になった。しかし私の時代には、そうではなかった。あ の人口300万人(当時)と言われるメルボルン市ですら、日本人の留学生は、私、1人だけだ った。
私の世話人になってくれたのが、現在の皇后陛下の父親の正田氏だった。(当時は、世話人
がいないと、日本人は、正規の留学が認められなかった。)その正田氏とも、東京へ行くたび に、電話1本で、会うことができた。
そんな中、札幌オリンピックのつぎの企画の仕事が、仲間のA氏のもとにころがりこんでき
た。A氏は、第一回日豪経済委員会給費留学生。私が、第二回日豪経済委員会給費留学生 だった。メルボルン大学時代の私の友人のP氏も、仲間に加わった。
私は、三井物産という会社をやめ、その仲間に加わった。当時、財界の大物であった、今里
氏という人物が、スポンサーになってくれた。……とまあ、今から思っても、とんでもない世界 に、私はいたと思う。
その余録というわけでもないが、浜松に移り住み、ちょうどワイフが長男を妊娠したころのこ
と。アメリカからリン氏という、中国系アメリカ人が、私を何度か訪ねてきた。話を聞くと、何で も、今度、東京に遊園地(彼は「プレイ・グラウンド」という言葉を使った)を作ることになった。つ いては、私に、その遊園地の副園長になってくれないか、というものだった。
名前を聞くと、「ディズニーランドだ」という。が、私は、その世界のことをまったく知らなかっ
た。私は浜松市の郊外にある、「P」という名前の遊園地を想像していた。だから、断った。「東 京には、2度と戻りたくない」という思いも強かった。
今のニュー・リッチの人たちにはかなわないが、当時の私は私で、結構、稼いだと思う。毎週
のように外国へでかけ、いろいろな人に出会った。ビジネスもした。が、そのあといろいろと心 境の変化もあって、ビジネスの世界からは遠ざかったが、だからといって、何も、負け惜しみを 書いているのではない。
先に書いたA氏は、外資系企業の社長を歴任している。P氏にしても、オーストラリアへ帰っ
てから起業に成功し、40歳そこそこの若さで、自分の会社を、オーストラリアでも、利益ナンバ ー・ワンの会社に育てあげている。
ここで私がここで言う「自分の世界から飛び出す」「輪」というのは、そういう意味である。
しかし、では、そういう世界が「幸福な世界」「私たちが求める世界」かというと、私は、そうで
はないと思う。お金を湯水のごとく使っても、変えられないものがある。変わらないものも、あ る。それについては、また別の機会に書くことにして、ともかくも、ニュー・リッチをめざすなら、 そういう「輪」の中に入る、ということになる。
ただ、残念に思うのは、私が若いころには、格差といっても、知れたもの。が、今は、それが
ケタ外れになってきている。狂ってきている。冒頭であげた、「日本の論点'08」には、こんな話 が紹介されている。
「高級外車の国内販売代理店に、1人の若い女性がフェラーリを買いたいと、現れた。現金
で、2700万円をもってきたという。ところが店員は、すぐには売れないと答えた。フェラーリは 注文が殺到し、3年待ちの状態だったからだ。そんなに待てないと、女性が別の業者に相談し たところ、あと1000万円プラスしてくれれば、翌週に手配できるとのこと。彼女はためらうこと なく、すぐに全額を支払った……」(P56)と。
先日もテレビで、掃除機を1回ずつ、使い捨てにしているという女性を紹介していた。(掃除機
そのものを、だぞ!)「ゴミ袋を取り替えることができないから」という理由で、そうしているのだ という。
フ〜ンとうなっただけで、私は、そこで言葉を失った。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●インターネットの世界
+++++++++++++
インターネットの発明は、
第二の産業革命に匹敵する
ほど、この世界を変えつつ
ある。
(「第二の産業革命」になるか
どうかは、もう少し歴史の中で
熟成させてみないとわからな
いが……。)
一時は、ウィルスなどの出現で、
インターネット限界論も、
強く叫ばれた。が、今は、その声も
弱くなった。
インターネットには、それ以上の
パワーがある。
+++++++++++++
●恐ろしいほどの高速性
私が何よりも驚いているのが、その高速性である。昔は、こうだった。
まず雑誌社から1本の電話が入る。「今度の雑誌の付録の原稿を書いてほしい」と。そのと
き、同時に、おおまかな内容や字数が、告げられる。
私はその原稿を書き、それを速達で送る。真夜中に郵便局へ走るのが、当時の日課のよう
にもなっていた。
しばらくすると、原稿のゲラ刷りが送られてくる。私は、それにチェックを入れる。あるいは電
話で返事をする。私が30歳くらいのとき、すでにFAXなるものはあるにはあったが、大きな機 械で、ドラムを回しながら、送信するというものだった。
が、今では、そうした作業が、瞬時にできる。書きあげる原稿の量にしても、比較にならな
い。現在の私でも、単行本の分量にして、(1600字詰め原稿用紙x100〜120枚分程度)、 月に、2〜3冊分は書いている。
しかもBLOG上で原稿を書くと、その1〜2日後には、検索エンジンで検索できるようになる。
BLOGだけでも、毎日、数百人以上、HPだけでも、毎日、数百人以上、さらに電子マガジン
については、毎号3000人以上もの人たちが、私の原稿を読んでくれていることになる。
(現在BLOGは4誌、HPは6誌、マガジンは3誌、発行している。)
これに検索エンジンを使って、HPの各ページなどにアクセスしてくれている人を含めると、そ
の数は、膨大なものになる。おおざっぱな計算だが、月に、数万から、ばあいによっては、十数 万人になるかもしれない。
そういう作業が、たったひとりでできる。この8畳間という小さな部屋の中だけで、できる。
●質とマネー
が、問題がないわけではない。多くの人は、「インターネットで流れる情報には、信頼性がな
い」と考えている。
しかしこれについては、私は、過渡的なものではないかと思っている。インターネットの世界で
は、(私の原稿も含めてでの話だが……)、とても原稿にならないような原稿も、同時に、流さ れている。そういう原稿が、インターネットの質を落としているのも事実。
が、このところ、つまりこの数年の間だけでさえ、質が変わってきた。あるパソコン雑誌(「週
刊・アスキー」)の中で、こんなような記事を書いている人がいた。
テレビができたころ、映画の制作にかかわる人たちは、「テレビは映画には勝ち目はない。
画面がザラついていて、使い物にならない」と言っていたという。
が、そのテレビも今では、格段の進歩を遂げた。つまり昔のテレビと映画の関係、そして今の
インターネットと新聞、書籍の関係は、どこか似ている?
「今の状態」だけを見て、インターネットを判断してはいけない。
またつぎに、マネーの問題がある。
昔は、つまりインターネットの世界に入る前は、どんな本を書いても、出版と同時に、最低で
も、30〜60万円の現金収入があった。しかし今は、ほとんどゼロに近い。多くの人は、「インタ ーネットで得る情報は、タダ」と思っている。
私にしても、書店での書籍の購入に、月、数万円以上も使っている。が、インターネット上で
の支払いには、何かしら、大きな抵抗感を覚える。できるだけタダですまそうという心理が、強く 働く。
これはどういう心理によるものか、私にもよくわからない。ときどき本を買ったあと、「こんな程
度の情報なら、インターネットでいくらでも、タダで手に入るのに」と思うことがある。
つまりインターネットでは、どうやって情報をマネーにつなげていくか、それが問題ということに
なる。(これも、私の個人的な問題なのかもしれないが……。)
しかし全体としてみると、インターネットがもつ影響力には、ものすごいものがある。たとえて
言うなら、野原を自由に走り回るブルドーザーのようなもの。今は、その過渡期だから、あちこ ちに不完全な部分があるかもしれない。が、やがてそれも解消されるだろう。
私自身は、インターネットの未来を信じている。
(付記)●地域性について
若いころ、私を知る人は、みな、こう言った。「君がしているような仕事は、東京でないとだめ
だ」「東京へ出てこい」と。
私も、地方に住むことの限界を強く感じていた。そんなある日のこと。私が27〜8歳くらいの
ときのことではなかったか。実名を出して恐縮だが、北海道の札幌にある、ハドソンという会社 が、今で言う「エクセル」に似た、表計算のソフトを発売した。名前を「カルク」と言った。
私はそれにとびついた。当時、私は、すでに何台かのパソコンをもっていた。が、何よりも驚
いたのは、その会社が、札幌にある会社だったということ。「地方の会社でも、こんなことがで きるのだ!」と。
しかし今から思うと、それがインターネットの始まりだったように思う。もちろん当時、インター
ネットはなかった。その前身である、(パソコン通信)なるものが、NEC系で始まったのは、私 が35、6歳くらいのときのことではなかったか。
最初は、カタカナ通信だけ。やがてひらがな通信、さらに漢字通信ができるようになった。私
はそのつどパソコン販売店へ足を運び、パソコンを買い換えた。
話が脱線したが、今では、こうして地方に住む私が、何らハンディなく、世界に向かって情報
を発信できる。つまりインターネットが、社会構造そのものがもつ地域性を、完全に破壊してし まった。「破壊」というより、「垣根」の概念そのものをなくしてしまった。
これもインターネットがもつ特性のひとつとして、頭に入れておかねばならない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2320)
●生きる本分
++++++++++++++
生きる本分を忘れると、
何のために生きているか、
それがわからなくなって
しまう。
しかし、これほど、恐ろしい
ことはない。
++++++++++++++
リチャード・マクドナルドという人がいた。数年前に89歳でなくなったが、あのハンバーガーチ
ェーンの「マクドナルド」の創始者と言えば、だれでも知っている。が、当のマクドナルド氏自身 は、早い時期にレストランの権利を別の人物に売り渡している。
それについて生前、テレビのレポーターが、「損をしたと思いませんか」と聞いたときのこと。マ
クドナルド氏はこう答えている。「もしあのまま会社に残っていたら、今ごろはニューヨークのオ フィスで、弁護士や会計士に囲まれてつまらない生活をしていることでしょう。(こういう農場で のんびり暮らしている)今のほうが、ずっと幸せです」と。
話は大きくそれるが、私には3人の息子がいるが、そのうちの2人をあやうく海でなくしかけた
ことがある。とくに二男は助かったのが奇跡としか言いようがない。そんなこともあって、私は二 男に何か問題があるたびに、「こいつは生きていてくれるだけでいい」と思いなおすことで、そ れらの問題を乗り越えることができた。生きることを原点にしてものを考えるということは、そう いうことをいう。
私はマクドナルド氏の話を聞いて、大きな衝撃を受けた。日本人には信じられないような生き
方だが、アメリカやオーストラリアでは珍しくない。私の友人のP君も、宝石加工会社をおこし、 40数歳の若さで、「輸出高ナンバーワン」で、オーストラリア政府から表彰されている。
しかしそののちまもなく権利を売り渡し、今はシドニー郊外で悠悠自適の隠居生活を楽しんで
いる。ほかにもこういう例は多い。よく知られた人物としては、ジェームズ・ルービン報道官がい る。彼は妻の出産を理由に、ホワイトハウスの報道官を退任。今はロンドン郊外で「主夫業」 (報道)をしている。
ものの考え方というのは相対的なものである。日本人が「あれっ!」と思うということがあれ
ば、ちょうどその反対のことで、彼らもまた同じように、「あれっ」と思うもの。アメリカ人やオース トラリア人にしてみれば、日本人の生き方のほうが奇異に見えることだって多い。
……いや、だからといって日本人の生き方がまちがっているというのではない。日本人は日本
人で、今、精一杯がんばっている。こういう生き方しかできないといえば、それはし方ないこと だ。しかし心の基本が、どこにあるかで生き方そのものも変わってくる。ものの考え方も変わっ てくる。もちろん子育てのし方も変わってくる。仕事は大切だ。名誉も地位も肩書きも大切だ。 しかしそれは決して世界の常識ではない。世界の常識は、もう少し違った位置にある。
要は、生きる本分を忘れないということ。忘れると、世界から日本はいつも奇異な目で見られ
る。個人について言えば、結局は自分の人生をムダにすることになる。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●日本史
++++++++++++++
日本史も、アジア史の一部でしか
ない。
日本の歴史教育の中で、何が
まちがっているかといって、
日本史を、世界史と完全に
切り離してしまっていること。
「日本だけは特別」と思いたい
気持ちも、わからないわけでは
ない。しかしこうした歴史観は、
日本の進むべき道を、かえって
見誤らせることになる。
++++++++++++++
テレビの討論番組で、「ぼくたちはアジア人ではない! 日本人だ!」と叫んだ小学生たち
(5、6年生くらい)がいた。それに対して、アフリカ人の留学生が、「君たちの肌は黄色いでは ないか」とたたみかけると、その小学生はさらに、こう叫んだ。「黄色ではない。肌色だ!」と(2 000年)。
そこで私も小学校の高学年児を対象に、独自に調べてみた。結果、「日本人はアジア人」と
思っている小学生は1人もいないことがわかった(2001年、小学生約20人について調査)。 「欧米人とアジア人の中間」「欧米人に近いアジア人」、あるいは中には「ぼくたちは欧米人」と 答えた子どももいた。
日本人はまちがいなく、アジア人である。しかしこの日本で教育を受けていると、そういう意識
が消える……らしい。また、そういう教育をしていない。
30年前のことだが、私がオーストラリアという国から日本を見ても、日本人の目は欧米には向
いていたが、アジアにはまったくといってよいほど向いていなかった。そういう日本人をさして、 「黄色い白人」というニックネームすらつけられたが、日本人はそれをむしろ「誇り」に思ったよ うなところがある。(実際には、日本人はバカにされたのだが……。)
問題はなぜ、こういうゆがんだ民族意識をもってしまったかということ。その理由の一つが、
日本史を東洋史と切り離してしまったところにある。しかしこれは世界の常識ではない。
たとえばフランスの大学では、日本語学部や日本語学科は、朝鮮学部や朝鮮語学科の中に
組み入れられている。また欧米の大学では東洋学部というときは、中国研究を意味し、日本学 科はその一部でしかない。
……いや、こう書くと、「君は日本人としての誇りを捨てるのか」という人が必ずといってよいほ
ど現れる。しかし私は何も日本人を否定しているのではない。日本人はアジア人であり、その 先では人間だ。日本人が人間であるとか、アジア人であると言ったところで、日本人を否定した ことにはならない。むしろ短絡的な民族主義は、えてして国粋主義に姿を変える。それがこわ い。
「日本人はすばらしい」と思うのはその人の勝手だが、だからといって、その返す刀で、「他の
民族は劣っている」と考えるのは、まちがいだということ。
これからの日本が、世界の中で生きていくためには、日本人自身が、もっと広い目で自分を
見なければならない。でないと、結局は、日本はいつまでたっても東洋の島国から抜け出るこ とができないままになってしまう。私はそれを心配する。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2321)
●子どもは甘えるもの
++++++++++++++
「甘え」と依存性は、
まったく別のもの。
まずそういう視点で、
「子どもの甘え」を
考える。
++++++++++++++
スキンシップの重要性は言うまでもない。そのスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、
「甘える」という行為である。
一般論として、濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自
然である。「自然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。 甘えることができる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子ど もの心の中に染み込んでいくのがわかる。
これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児
拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人 に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。
他人が悲しんだり、苦しんでいるのを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。もの
の考え方が、全体にひねくれる。私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どう して?」、子「あそこに雲がある」、私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい 天気ではない」と。
こんなショッキングな報告もある(2000年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一も
いるというのだ。「全国各地の保育士が、預かった0歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じ なかった『拒否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、4分の1に及ぶことが、『臨床育 児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。
報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が3
3%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後 見られ、調査した6項目の平均で25%に達したという。
また保育士らの実感として、「体が固い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で2
0%の赤ちゃんから報告されたという。さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き 取り調査をしたところ、「育児から解放されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」など の意識が強いことがわかったという。また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この 数年、流行している「抱っこバンド」を使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったとい う。
報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二
〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不 足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。
果たしてあなたの子どもはだいじょうぶだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 甘え
甘える子ども)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(81)
●「今」を知らない子どもたち
+++++++++++++
「今」を生きるということは、
今を懸命に生きること。
結果は、あとからついてくる!
+++++++++++++
私の知人がこう言った。「退職したら、Tさんと二人で、車で日本一周をするつもりです」と。し
かし私はその話を聞いたとき、「ではなぜ、今しないのか?」と思った。
日本人は仏教というよりチベット密教の影響を強く受けているから、「結果」を重要視する。
「死に顔でその人の生涯が決まる」と教えている日本最大の宗教教団すらある。
しかし大切なのは、結果ではなく、「今」だ。が、それだけではない。こうした結果を大切にする
考え方は、日本人の生き方そのものにも大きな影響を与えている。その一つが、「未来」のた めにいつも「今」を犠牲にするという生き方。
たとえば幼稚園は小学校入学のため、小学校は中学校や高校の入学のため、さらに高校は
大学入試のため、大学は就職するためと考える親は多い。そう考えるのは親の勝手だとして も、子どももまた、そういう生き方を身につけてしまう。そしていつまでたっても「今」がつかめな くなる。しかしそれは愚かな生き方そのもの。イギリスには、『休息を求めて疲れる』という格言 がある。「いつか楽になろうなろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまい何もできなくな る」という意味である。
一度こういう生き方のパターンができてしまうと、それを変えるのは容易ではない。そのまま
一生つづくと言ってもよい。その一例として、休暇の過ごし方がある。
たとえば今、10日間の休暇が与えられたとする。そういうとき欧米の人なら、その「時」をその
まま楽しむ。……楽しむことができる。しかし日本人は、休暇中は今度は、休暇が終わってか らの仕事を考える。子どももそうだ。
子どもが学校から3日間の休日を与えられたとする。そして子どもが家でブラブラしていたとす
る。すると親はそれを見て不安に思ったりする。「こんなことでいいの!」と。つまり日本人は休 みを休みとして楽しむことすらできない。別の友人はこう言った。「10日も休みをもらっても、過 ごし方がわらない」と。こうした生き方は、よく「仕事中毒」という言葉で説明されるが、そんな簡 単なことではない。根は深い。
さて冒頭の話だが、私はその知人は、退職後、日本一周の旅には出ないと思う。しても旅か
ら帰ったあとの老後の話ばかりすると思う。それはちょうど試験週間の学生のようなものだ。試 験中というのは、ほとんどの学生は「試験が終わったら映画を見にいこう」とか、「旅行しよう」と か考えるが、いざ試験が終わると、何もしたくなくなる。
あなたにもそういう経験があると思うが、抑圧された環境の中では夢だけがひとり歩きする。し
かしその抑圧から解放されると、同時に夢も消える。いや、その前に健康がそれまで続くかど うかさえわからない。命だってあぶない。そんなあやふやな「未来」に夢を託してはいけない。 夢があるなら、条件をつけないで、「今」始めることだ。繰り返すが、結果は必ずあとからついて くる。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●過関心は心をつぶす
+++++++++++++++
親の4悪に、過保護、溺愛、
過干渉、それに過関心がある。
+++++++++++++++
親が自分の子どもに関心をもつのは当然のことだが、それが度を超すと、過関心になる。そ
の過関心、とくに神経質な過関心は、子どもの心をつぶす。
私は私の授業を例外なく、公開している。そういう中でも、ときに親の視線が強すぎて授業そ
のものがやりにくく感ずることがある。「強い」というより、「刺すような」視線である。それがピリ ピリと伝わってくる。
そこでそれとなくその親の方をみるのだが、表情を見る限り、とくに緊張している様子はない。
柔和な笑顔を浮かべていることさえある。しかし視線だけが、異常に強い……!
親の過関心が日常的につづくと、子どもの心は内閉したり、さらにそれが進むと萎縮したりす
る。(反対に粗放化する子どももいる。このタイプの子どもは、親の過関心をはね返した子ども とみる。)子どもらしいハツラツとした表情が消え、顔もどんよりと曇ってくる。また自分で考えて 行動することができなくなるため、外の世界では、常識ハズレな行動をしやすい。
バスの窓から体を乗り出してみせた子ども(小4男児)や、先生のコップに、殺虫剤を入れた子
ども(中1男子)がいた。が、そういう事件を起こしても、親にはその自覚がない。ないばかり か、かえって子どもを激しく叱ったりする。この悪循環が、子どもをますます悪い方向に追い込 む。
実際、神経質な親は多い。子どもの持ち物は言うにおよばず、机の中や携帯電話の中まで、
こっそり調べたりする。子ども部屋に監視カメラをつけている親だっている。こうした親は、口で は「私は子どもを愛しています」と言うが、その実、子どもを愛していない。自分の心のすき間を 埋めるために、子どもを利用しているだけ(失礼!)。
さらにその原因は何かと言えば、子どもを信じられないという不信感がある。「うちの子は何を
しても心配だ」という思いが転じて、過関心になる。もちろん親自身の情緒的欠陥が原因となる こともある。このタイプの親は、うつ型タイプの人が多く、一度こまかいことを気にし始めると、 そのことばかり気にするようになる。そしてささいなことを問題にしては、おおげさに騒ぐ……。
子どものことで、こまかいことが気になり始めたら、過関心を疑ってみる。そしてもしそうなら、
一度思い切って、子どものことは忘れ、子育てそのものから離れてみる。方法はいくらでもあ る。サークルでも、ボランティアでも何でもすればよい。自分のまわりに、子育てとは関係のな い世界をもつ。そしてその結果として、子育てそのものから遠ざかる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親の
過関心 過関心)
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●仮想現実の世界
+++++++++++
生きるために稼ぐのか、
稼ぐために生きるのか?
すべての疑問は、その
1点に集約される。
+++++++++++
●生きるのがマトリックス(母体)
生きるためにお金を稼ぐ。稼ぐために働く。働くために仕事をする。あくまでも生きることがマ
トリックス(母体)。それが今、逆転している。仕事が生きることより優先され、仕事のために生 きている人はいくらでもいる。たとえば休暇。
私たちは「休みになったら、○○をしよう」と考えて仕事をする。それは問題ないが、休みにな
ったら、休みなったで、今度は仕事のことばかり考える。よく日本人は休暇の過ごし方を知らな いと言われるが、その理由の一つはこんなところにもある。子どもの教育とて例外ではない。 土日が休みになって、子どもが家でゴロゴロと横になって休んでいたとする。そういうとき親は、 「勉強はしなくていいの?」とか、「もうすぐテストでしょ」とか言って、子どもを追い立てる。
生きることがマトリックス(母体)とするなら、仕事の世界はまさに仮想現実の世界。この世界
にハマると、本来大切でないものまで大切と思い込むようになる。学歴だの出世だの、地位だ の肩書きだの、そんなことばかりを気にするようになる。それだけならまだしも、その一方で、 本来大切にすべきものを、粗末にするようになる。よい例が、単身赴任だ。昔、私のオーストラ リアの友人たちがこう言った。「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と。
もちろん仕事をするのが悪いと言っているのではない。しかし本分を忘れてはいけない。この
本分を忘れると、自分の人生そのものまで犠牲にすることになる。やっと楽になったと思った ら、人生も終わっていた……、と。
子どもをなぜ教育するかといえば、それは子どもたちに心豊かで、幸せな人生を歩んでほし
いからだ。教育に目的があるとするなら、私たちの知識や経験を武器として、子どもに与えるこ とだ。
つまりそれが教育のマトリックス(母体)。たしかにこの日本には学歴社会があり、それにまつ
わる受験競争もある。しかしその本分は忘れてはいけない。これを忘れると、子ども自身もま た、今のあなたと同じように、いつまでたっても自分の人生をつかめなくなる。いや、その前に、 あなたと子どもの関係は、まちがいなく崩壊する。
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司
●愛情は落差の問題
++++++++++++++
愛情の量は、落差の問題。
多い、少ないではなく、
ふえたか、減ったで、
考える。
よい例が、赤ちゃん返り。
++++++++++++++
下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃ
んがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型という ことができる。)本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教して も意味がない。叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。
こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どう
して上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だ から文句はないということになるが、上の子どもにしてみれば、その「50%」というのが不満な のだ。つまり下の子どもが生まれるまでは、100%だった親の愛情が、五〇%に減ったことが 問題なのだ。
もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落差」。それ
がわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あなたの夫が 愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとしたら、あなた はそれに納得するだろうか。
本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、
上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽 しみにさせるような雰囲気づくりをする。「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなた の新しい友だちよ」「いっしょに遊べるからいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれ たというような印象を、上の子どもに与えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。 ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬心と闘争心はいじらないほうがよい。
で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいようであれ
ば、以前と同じように、もう一度100%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。 (2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(50%50%)を貫き、そのつど、上 の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食生 活にこころがける。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 赤ち
ゃん返り 愛情問題 愛情 落差 落差の問題)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●仮面治癒に注意!
++++++++++++++++
子どもの心の問題に対処するときは、
1年単位の根気が必要。
1年でも早いほうかもしれない。
数年単位で、様子を比較する。
++++++++++++++++
子どもの心の問題をあつかっていると、ときどき不思議な現象にであう。私が最初にある子
どもに出会ったとき、「この子の心の問題がなおるには、数年かかるだろうな」と思ったとする。
で、それなりの対処をしているのだが、数か月もたたないうちに、「なおった?」ような状態にな
ることがある。たとえばF君(年中児・5歳)がそうだった。
最初母親も、「三歳のとき、病院で自閉症と診断されました」と話していた。(たしかに自閉傾向
はあったが、私がみたところ自閉症ではなかった。母親が聞きまちがえたのだろうとそのとき はそう思った。)自分勝手な行動が目立ち、私の言うことなどほとんど聞かなかった。
が、指導を始めて数か月後のこと。ふと気づくと、F君が別人のようにおとなしく、しおらしい様
子で、私の指示に従っているではないか! 驚いてうしろで参観していた母親のほうを見ると、 母親はそれを見て喜んでいたが、どうもおかしい。そこで母親からあれこれ話を聞くと、F君は ある訓練教室で訓練を受けているということがわかった。はげしい暴力的な訓練で有名な訓練 教室である。
こうしたケースは極端なケースだが、大前提として、子どもの心の問題は、簡単にはなおらな
い。無理をすれば一見、なおったかのように見えることがある。私はこれを仮面治癒と呼んで いるが、仮面は仮面。なおったのではない。症状はさらに奥の深いところにもぐったと考える。
心の問題は、決しておさえてなおるものではない。むしろ反対に、不登校にせよ、引きこもりに
せよ、もろもろの情緒障害にせよ、心の問題は、外へ解放させることによってなおす。1年単位 の恐ろしく時間のかかる作業だが、これが大原則である。こうした問題で、たとえば別の形で 強度の恐怖心を与えたりすると、子どもは退避的に、自己をコントロールするようになる。
F君がその教室で受けた訓練は、そういうものだったが、しかしそれは風邪をひいて熱を出して
いる子どもに、頭から水をかけるようなものである。熱はさがるかもしれないが、それですむわ けがない。事実そのあと数か月もすると、F君に妙な現象が出てきた。絵を描いているときで も、何を思ったのかひとりでニヤニヤ笑ってみせたり、突発的に大声を張りあげて、泣き叫ん だりするなど。
子どもに心の問題を感じたら、親のほうが一歩も二歩も引きさがる。今の状態をそれ以上悪
くしないことだけを考えて、無理をしない。無理をすればするほど逆効果。さらに無理をすれ ば、ここでいう仮面治癒を引き起こすことがある。
こうなると、「教育」という場で対処できる問題ではなくなってしまう。その訓練教室では、「なお
った、なおった」とさかんに宣伝しているが、本当に「なおった」とみてよいのか。私がいう仮面 治癒に、皆さんもじゅうぶん注意してほしい。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●しつけは普遍
++++++++++++++
子どもにとって、しつけとは?
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50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人
格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。たとえばTさん(70歳女性)は近所でも、「仏 様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかしくなってきた。
近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。
人はそれを、Tさんが老人になったせいだと話していたが、実のところTさんの盗みグセは、Tさ んが2。30歳のときからあった。
ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけの気力があった。しかし70歳近くも
なって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例するかのように、T さんの醜い性格が前に出てきた……。
日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで 決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。
子どもが中学生になるころには、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性
に沿っておとなになるだけ。途中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。た とえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴミを 捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果しか ない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりする。
さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識 的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか る。してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。
しかししてはいけないことをしたときには、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従っ
て生きることを教えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。そういう意 味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは普遍」とい う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 しつけ
子どものしつけ)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2322)
●子の未来より、自分の老後
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正確な数字を見てみよう。
2012年……高齢者人口は、
3000万人に達するという。
その後、2014年まで、高齢者は、
毎年100万人ずつふえるという
(高齢者白書)。
2018年……75歳以上の
後期老齢者の数が、65〜74歳の
前期高齢者の数を上回り、その
ほとんどが、年金収入だけの生活を
するようになる。
現在においても、75歳以上で
職についている人は、10%に
満たない(内閣府調査)。
「私には年金があるから……」と
言っている人でも、安心するのは、
早い。
介護が必要になったとき、そのまま
特別養護老人ホーム(特養)へ、
入居できるとはかぎらない。
全国に特養は、約5500施設、
38万床ある。が、今の今でも、待機者
は、40万人にのぼっていると
いう(「日本の論点08」)。
毎年100万人ずつ高齢者がふえた
としたら、38万床など、まさに
焼け石に水。
さあ、どうするか?、……と
考えたところで、自分の懐(ふところ)
の中を見てほしい。
あなたはそれでも、「子どもの教育
がいちばん」と、胸を張って言える
だろうか。
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私のワイフは、いつもこう言う。「死ぬまでに、私たちが稼いだ財産は、私たちで、全部、使い
切りましょうよ」と。
家も、土地も、すべて、そのときがきたら、売ればよい、と。私もワイフのこの考え方に、基本
的には、賛成である。私もワイフも、親としてやるべきことは、すべてした。息子たちは息子た ちで、あとは、勝手に生きていけばよい。
しかしそれで私たちの老後が、安泰というわけではない。今、ちまたでは、「嫌老〜〜」という
本が、話題になっている。どういう内容の本かは知らないが、「嫌われない老人になるために は……」という趣旨の本と願いたい。そうでなくとも、このところ、何かにつけて、肩身が狭くなっ ていくのを感ずる。
つまり「どう生きるか」ということと同時に、「どう迷惑をかけないで生きるか」(田丸先生弁)と
いうことも、考えなくてはいけない。……というふうに考えていくと、今、子育てのまっ最中にある 人も、まず、自分の老後を最優先にしたらよいということになる。中には、「老後は、息子や娘 たちの世話になる」と考えている人もいるかもしれない。が、現在のあなたと同じように、あなた の息子や娘たちも、自分の生活を支えるだけで、精一杯。
息子や娘たちに、負担をかけることはできない。
……しかしそれにしても、2012年までに、65歳以上の高齢者が、私も含めて、3000万人
とは! どうするのだろう? どうなるのだろう? 考えれば考えるほど、不安になる。そこで私 なりの一案。
今朝も寒い。曇り空。こういうときは、老後のために、体を鍛えるのが、いちばんよい。イギリ
スのある科学者の試算によると、タバコを1本数と、寿命が8分間、縮むそうだ。同じように考 えて、ここで1時間、運動をして汗をかくと、寿命が、1日分、延びると考えては、どうだろうか。 週に2日、計2時間ほど運動すれば、成人病を防げるという話も、ある。
成人病さえ防げれば、何とか、長生きできる。つまり、これからの高齢社会を生き延びるため
には、健康寿命を、1日でも長く延ばした方がよい。……ということで、今日も、私は、2単位、 運動をこなす。
団塊世代のみなさん、いっしょに、がんばろう!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2323)
●今朝・あれこれ
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時刻は、午前6時。たった今、
あちこちのニュース記事を読み
終えたところ。
気になるのは、経済ニュース。
当初、「日本には大きな影響は
ない」と目されていた、アメリカ
のサブプライム・ローン問題。
しかしそのサブプライム・ローン
問題が、ただの台風から、超大型
台風へと発達し始めている。
まさに底なし。日本経済という
大木さえ、大きく揺れ始めた。
経済協力開発機構(OECD)は、
21日にまとめた金融市場動向に
関する定期リポートの中で、
サブプライム・ローン問題に触れ、
金融機関や機関投資家が抱える損失額が
最大3000億ドル(約33兆円)に
膨らむとの見通しを述べた。
その上で、「アメリカの住宅ローンの
市況はこの先一段と悪化する公算が大きい」
とも(日経新聞)。
その影響か、今日(21日)のニューヨーク
市場では、またまた株価をさげている。
終値はまだ報告されていないが、一時は
180ドル以上の値下げ場面もあったという。
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●万事休すの韓国経済
韓国の株価の下落が、はげしい。今日までに5日、連続で、株価をさげている。2050ポイン
ト台から、1800ポイント、ギリギリまで暴落している。つい先月には、「韓国の株価は、2000 ポイント台で安定」(新聞)と、大見得を切っていたが、その夢は、ツユと消えた。
で、私が驚いたのは、サブプライム・ローン問題が明るみになったとき、韓国の各紙は、「(ア
メリカの問題だから)韓国経済には関係ない」と言い切っていたこと。しかしどうしてそんな、の んきなことが言えるのか。
現在、韓国の銀行は、ウリ銀行をのぞいて、そのほとんどが、アメリカ系銀行の資本支配下
にある。
韓美銀行……99・9%、アメリカ・シティ銀行グループ
国民銀行……85・7%、バンク・オブ・ニューヨーク
外換銀行……74・2%、ローンスター
ハナ銀行……72・3%、ゴールドマン・サックスなどなど。(%は、外資比率を示す。)
第一銀行にいたっては、100%、アメリカの資本である(スタンダード・チャータード)。ウリ銀行
という国策銀行にしても、外資比率は、11・1%である。アメリカの銀行が風邪をひけば、韓国 の銀行は、そのまま肺炎になる。
その韓国では、現在、猛烈な勢いで、外資が逃避し始めている。株安のほか、ウォン安、債
券安の、俗にいう「トリプル安」。わかりやすく言えば、韓国そのものが、売られている。
が、時限爆弾は、それだけではない。ここにきて、マンション不況が、深刻な様相を帯び始め
てきている。昨今の韓国の各紙によれば、売れ残りマンションだけでも、9万戸。しかし実際に は、その2倍の18万戸以上も、あると言われている(東亜N報)。
加えて原油高。短期外債(=外国からの借金)の急増。個人負債の増加。……とくに個人負
債の増加が、すさまじい。今年(07年)に入ってから、日本円で70兆円と言われていたが、80 兆円を突破。現在は、90兆円に向かっている。(90兆円だぞ!)
個人が借金に借金を重ねて、株取り引きに夢中になっている。それが現在の韓国の状況と
考えてよい。
そんな中、N政権は、今月に入って、「韓国の失業率は、3%」と発表した。私はその数字を
聞いて、思わず、笑った。大卒でも、就職率が、25%(4人に1人)という国である。どうしてそ んな国で、3%なのか! 統計の取り方も、日本とは、まるでちがう。韓国では、1か月に、1時 間でも働いたら、失業者とみなされない。
こうしたウソと虚飾で塗り固められた、韓国経済。すでに崩壊の音が、きしみ始めている。つ
まり2回目のデフォルト(=債務不履行、国家破綻)は、時間の問題。「時間」というより、秒読 みの段階。
そこで日本。日本は、どう対峙すべきか。
小泉政権のとき、日本と韓国は、どちらかがデフォルトしたら、相互に100億ドルずつ、援助
するという取り決めをした。実に、巧みな取り決めである。つまりこの取り決めによって、日本 政府は、「100億ドルしか、援助しませんよ」と宣言したに等しい。
たったの100億ドル! 日本円で、1兆円! 個人負債額だけでも、90兆円である。
前回、97年の第一回デフォルトのときは、日本政府は、頼まれもしないのに、かつアメリカの
反対を押し切って、総額500億ドルもの現金をそろえて、韓国を援助した。
しかし韓国には、そうした日本の行動に対して、一片の敬意も示さなかった。示さなかったば
かりか、「韓国経済を救済したのは、韓国民自身」と、うそぶいている。当時、たしかに国をあ げての、貴金属の国家寄付運動、海外に住む韓国人同胞からの投資運動はあるにはあっ た。しかしそんな額など、知れたもの。
最近にいたっては、「(日本などから借りた)お金は、全額、返した」と、居直っている。
その韓国が、この10年、何をしたか? 金大中、N大統領は、何をしたか? 造船、鉄鋼、
電子、自動車など、日本の基幹産業の(お株)を、つぎつぎと奪いながら、なおかつ、「日本を たたきつぶせ」の大合唱。その反日感情というか、敵意は、サッカーの日韓戦を見るまでもな い。
……で、こうした私の意見に対して、「林は、過激すぎる」という意見もあるかもしれない。しか
し国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。むしろ私は、甘すぎるほど、甘い、日本 人がもつ国際政治感覚に、驚く。あきれる。
今、まさに、日本の直近で、巨大な反日国家が誕生しようとしている。そういう動きを、日本
は、「友好はいいこと」と、ただ指をくわえて見ているだけでよいのか。何度も書くが、これはサ ッカーの試合とは、訳がちがう。勝つか、負けるか。引き分けは、ない。もちろん日本が敗れれ ば、日本は、太平洋の海溝へ、ほんとうにたたき落とされることになる。
もちろん日本とて、無傷ですむはずはない。製造機械を中心とした輸出産業は、大きな打撃
をこうむる。だからこそ、今から、そうした輸出産業に対しては、救済策を、講じておく。
また韓国が第2回目のデフォルト(国家破綻)に陥ったときには、日本政府は、前回のような
「愚」を繰りかえしてはいけない。救済に入るにしても、韓国には、しっかりと頭をさげさせるこ と。またその言質は、取っておくこと。ギブ&テイクの、「テイク」の部分を、明確にしておくこと。
拉致問題にしても、韓国政府は、いっさい、日本側に協力しなかった。日本側の要請をのらり
くらりとかわしながら、「詳しい内容は覚えていない」(N大統領、先の南北首脳会談の内容につ いて)と。そしてつい先日は、国連でのK国非難決議には、棄権までしている。
あと数時間で、今日(22日)もまた、日本、韓国の株式市場が開く。どちらが、より株価をさ
げるか? その動きを見れば、明日の韓国がわかる。
(付記)
日韓経済戦争は、(下げ率)でみる、消耗戦の段階に入っている。しかし日本の強みは、いく
つかある。
(1)日本は、外国には、借金をしていない。日本政府は、巨額の負債(=赤字国債)をかかえ
てはいるが、言うなれば、一家のおやじが、息子や娘たちに借金をしているようなもの。日本政 府(=一家のおやじ)には、1000兆円近い、資産がある。
これに対して、韓国は、ばくだいな額を、外国の借金に頼っている。韓国銀行によると今年6月
末現在、満期1年未満の短期外債の規模は、1378億9000万ドルと、韓国の外債全体の4 4.3%に達する。この比率は、通貨危機当時(97年末)の36.6%よりも7.7ポイント高い。
(2)日本の基幹産業は、トヨタ、ホンダを例にあげるまでもなく、しっかりとしていること。韓国な
しでも日本は生きて行かれるが、韓国は、日本なしでは、生きていかれない。韓国の一大産業 である携帯電話の分野にしても、製造機械は日本から輸入し、大半の部品も、日本から輸入 している。
(3)日本は、バブル経済の崩壊をすでに経験し、そのノウハウを身につけている。産業構造そ
のものが、それに適応できるようになっている。
心配するな、日本の若者たちよ、子どもたちよ! 日本は、まだまだ大国だぞ!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
【子どもとゲーム】
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07年12月12日、東京大学にて、
東京大学大学院情報学環歴史情報論研究室と
IGDA東京が運営する「東京大学ゲーム研究
プロジェクト」の、第1回公開講座が開催
された。
講師は社会心理学が専門の、阪元章氏。その
報告が、ヤフーに載っていた。
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●ゲームは、危険か?
テレビゲームが子どもたちにどのような影響を与えるか。それについて、今までにも、さまざ
まな機会で、論じられてきている。
今度(07年12月12日)、東京大学にて、東京大学大学院情報学環歴史情報論研究室とIG
DA東京が運営する「東京大学ゲーム研究プロジェクト」の、第1回公開講座が開催された。
講師は社会心理学が専門の、阪元章氏。その氏の報告によれば、おおむね、つぎのような
内容だったという。結論だけを、ヤフー・ニュースから、いくつかを、かいつまんで列挙してみ る。
★『……続いて、ゲームによって暴力的な傾向が強まるかについて。これは結論から言ってし
まえば、暴力的なゲームをプレイした場合に、子どもが暴力的な傾向を持つことが認められる 方向の研究結果がある。ちなみにこれは、テレビ映像についても同様とのこと。暴力シーンに よって欲求不満が解消されるという説もあったが、現在はこの説は否定されているという』
★『この理由について坂元氏は「ゲームが暴力を学習させる」ことが大きな理由であると説明。
暴力を学習するというのは、暴力によってヒーローが問題を解決したりすることで、暴力がよい 解決手段だと認められてしまうことが挙げられる。特にゲームにおいては自分自身を反映した キャラクターが相手を倒すことで、ストーリー展開や未知の映像などを含めた報奨を得る構造 になっているため、テレビよりも影響力が強いのではないか、という説もある。
また、ゲームの中で暴力を振るうことで、実際に暴力を振るうことにも慣れてしまう。例えば現
実に怒りを感じた場合、我慢する、逃避するなどさまざまな選択肢があるが、暴力への回路が 開かれやすい状態になるというのだ。
その他、技術が進歩することによって、ゲームがより現実に近づいている点が触れられた。
そのため、学習された暴力が現実世界でも出てしまう傾向が強まっているという』
★『ゲームによって学力低下が引き起こされるかという点については、明確な関係は今のとこ
ろはっきりしていない。研究も少なく、悪影響の可能性があるのではないか、というレベルなの だそうだ。ただし、ゲームが図形把握能力など視覚的能力を向上させるということは明らかに されており、先日米サイエンス誌でもこの点に関する研究結果が掲載されたという』
★『また、日本大学の森教授の著書「ゲーム脳の恐怖」が、発表当時に一大センセーションを
巻き起こしたことは記憶に新しい。これは、ゲームプレイによって繰り返し前頭前野の活動が 低下することで、ゲームから離れても、前頭前野が機能しなくなってしまうという説を述べた本 だ。
この「ゲーム脳の恐怖」の調査内容に関しては、Webサイトや書評によって調査方法の不備
などが指摘されている。また、ゲーム中に前頭前野の活動が低下することは10年以上前から 研究結果として報告されていることでもある
ただし、脳医学の領域において発達に対する影響がどうなのか、という調査結果は今のとこ
ろない。ゲームによって前頭前野の活動が低下するという経験を繰り返すことで、ゲームから 離れても前頭前野が活動しなくなるかどうかということは明らかにされていない』(以上、「ヤフ ー・ニュース・レポートより」07年11月21日)
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このレポートを読んで、まず気になるのが、(1)直観的なゲーム論には、意味がないという趣
旨の内容が目立つこと。(2)レポーター自身が、たいへんな権威迎合主義者で、(たぶん?)、 教授が言うことはすべて正しいという前提で、ものを書いている点である。
『子どものことは、子どもに聞く』。それが大鉄則であり、大原則。ゲームにハマっている子ど
もが、どこかおかしくなるという印象は、直接、子どもと何日も、接してみてわかること。その変 化については、何年も接してみてわかること。しかも多人数の子どもたちと比較してみて、はじ めて、わかること。
直感が不完全で、信頼性がないというのなら、(レポートの中では、「直観」となっているが)、
ならば「教育とは何か?」ということになってしまう。
私はこうしたレポートを読むたびに、「この研究者は、どの程度、子どもに接しているだろう
か」という視点で、内容を判断する。阪元氏が、そうではないと言っているのではない。しかしレ ポートを通して知るかぎり、子どもの臭いが、どこにもない。ないのが、気になる。
暴力番組の影響で、子どもが暴力的になることは、幼稚園の現場では、すでに30〜40年も
前から指摘されていることである。当時、それまでにはなかった遊びが、大流行した。いわゆる 「キック」である。
K・ライダーの動きにまねて、相手の子どもや先生に、キックを繰りかえす子どもが続出した。
相手が子どもでも、まともにキックされると、大のおとなでも、うずくまってしまう。それほどまで のパンチ力がある。子どもの足でも、おとなの男の腕ほどの太さがある。
ゲーム漬けによって、子どもが暴力的になるかどうかという見方は、それ自体が、きわめて
一面的でもある。
むしろ心配されるのは、「心の破壊」であろう。
私の調査では、大きなぬいぐるみなどを、子どもたちが通る玄関先に置いてみたばあい、
「かわいい」と言って、ぬいぐるみに好意的な反応を示す子どもが、約80%。反応を示さない 子どもが、20%。そのうち何割かは、否定的な反応を示し、ぬいぐるみに対して、キックをした り、ぬいぐるみを、投げ飛ばしたりする。
これが私たちの「直観」である。
もちろんこうした子どもの心が、すべてゲームの影響によって決まるとは思わない。「心」とい
うのは、たいへん複合的なもので、それこそDNAのように、複雑にからみあっている。その結 果として、「暴力的であるか、ないか」が、決まる。
ゲームが子どもの心に影響を与えているかどうかということについては、「ある」と考えるの
が、当然である。ゲームが暴力的であれば、あるほど、そうである。しかしゲームだけで、暴力 的になるとも考えられない。
その子ども自身のもつ「質」の問題も、からんでくる。「家庭環境」の問題もからんでくる。親の
冷淡、無視、不適切な育児姿勢があれば、なおさらである。
こうした論議を重ねる前に、まだどこかに幼児性を残す子どもが、無表情のまま、「殺せ」「や
っつけろ」「やったア!」と、声を出しながらゲームを繰りかえすことの異常さを、まず知るべき である。
否定的なことばかりを書いたが、阪元氏らの研究が、ムダであるとか、そういうことを書いて
いるのではない。森氏の書いた、『ゲーム脳の恐怖』については、おおいに参考になった。これ からもこうした分野での研究は進むと思われる。また進めてほしい。
私の「直観」によれば、この『ゲーム脳の恐怖』に書かれていることは、現場の子どもたちの
現象を、うまく説明している。レポートは、『この「ゲーム脳の恐怖」の調査内容に関しては、 Webサイトや書評によって調査方法の不備などが指摘されている。また、ゲーム中に前頭前野 の活動が低下することは、10年以上前から研究結果として報告されていることでもある』と、ど こか否定的な見解を述べている。
この部分を読んで、まず思い出したのが、「タバコ無害キャンペーン」。若い人は知らないか
も知れないが、私が20〜25歳のころは、どこの駅前でも、旗を立てた一群が、「タバコ無害キ ャンペーン」なるキャンペーンを展開していた。
「タバコが有害であるということは、科学的に実証されていません」と。
子どもの世界では、『疑わしきは、罰する』。それが原則。危険確認まで待っていたら、その
間に、子どもの世界は、どこかへ行ってしまう。ゲームについても、しかり。もし私が言っている ことに疑問をもつなら、あなたも、一度でよいから、ゾンビを相手に、刀で切りまくるゲームをし てみることだ。
そのあと気分が爽快になり、すがすがしくなる人は、ぜったいに、いない!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もとゲーム ゲーム 子供とゲーム)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●二重人格性
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「二重人格性」という言葉を
使ってよいかどうかは、わからない。
適切かどうかも、わからない。
しかし男というのは、(女もそうだと思うが…)、
射S前と射S後では、「女」について、
まったく別の考え方をする。
射S前には、あれほどまでに狂おしく
見えた女性の体でも、射S後には、
ただの(肉のかたまり)に見える。
当然、ものの考え方も変わる。
感じ方も変わる。価値観(?)も、変わる。
その上、それが、瞬間的に、入れ替わる。
そういう「私」自身を観察してみると、
「これもひょっとしたら、二重人格性
のひとつと考えてよいのでは」と、
思ってしまう。
射Sと同時に、脳内で、別のホルモンが
瞬時に放出されるためか?
もしそうなら、もろもろの場面で
私たちが見せる二重人格性といった
ものは、脳内ホルモンの作用に
よるものということになる。
かなり乱暴な意見に聞こえるかも
しれないが、今朝、ふと、そんな
ことを考えた。
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●性YOKUのメカニズム
まず、はじめに。私はほぼ毎日、「R天」というところで、日記を書いている。このR天には、ひ
とつの制約がある。たとえば、何かのヒワイ語を使うと、「禁止用語が使われています」とか何 とか、警告文が赤字で表示される。そしてそこで作業は、中断される。
たとえば、「SXX」も、ダメらしい。「チXチX」も、ダメらしい。たぶん、「女性の体」とか、「射S」
程度の言葉なら、だいじょうぶだと思う。(あとで試してみるが……。)だからここでは、この類の 言葉は、すべて「X」で表示する。「X」の部分には、適当に文字を当てはめて、読んでほしい。
さて、本論。
冒頭にも書いたように、「二重人格性」という言葉を使ってよいかどうかは、わからない。適切
かどうかも、わからない。しかし男というのは、(女もそうだと思うが…)、射S前と射S後では、 「女」について、まったく別の考え方をする。
男のばあい、それが、自分でもおもしろいほど、急速に入れ替わる。ときに、射S後に、「どう
してああまで、女の体を求めたのだろう」と思うことさえある。メカニズム的には、射S後、脳内 である種の脳内ホルモンが分泌され、そのためフィードバック現象が起こるためと考えてよい のではないか。
フィードバック現象(ふつうは単に「フィードバック」と呼ぶ)というのは、脳内でたとえばAという
脳内ホルモンが分泌されると、それを打ち消すための、まったく正反対の働きをする、別の(− A)という脳内ホルモンが分泌されることをいう。こうして脳は、自分の脳内を、いつも空(から= ゼロ)の状態に保とうとする。
で、この話を進める前に、もう一度、性YOKUのメカニズムについて、勉強してみたい。
脳の中心部に、間脳と呼ばれる部分がある。その中の視床下部と呼ばれる部分が、性行動
の司令塔と考えてよい。
たとえば女性のヌード写真を見たとする。すると、視床下部は、「女性を抱いてみたい」という
信号を発する。が、そのとき、「ここで性的に興奮してはまずい」というブレーキが働く。そのブ レーキの役割をするのが、大脳辺縁系ということになる。さらに、「これは写真にすぎない。いろ いろ加工して、わざと情欲をそそるように編集してある」と判断するのが、前頭前頭野ということ になる。
視床下部は、いわば、原始脳。動物的なものの考え方をする。かたや前頭前野は、人間の
理性を司る。
で、おおざっぱに言えば、(視床下部)→(辺縁系)→(前頭葉)を経て、性YOKUは生まれ、
コントロールされる。ついでに性YOKUのみならず、食欲、睡眠、血圧なども、この視床下部に よって、基本的にはコントロールされるという(「心の健康辞典」町田静夫著)。
では、何が、視床下部に刺激を与えるか、である。
先にも書いたように、射S前と射S後では、「女」に対する印象は、まるでちがう。つまり睾丸
で作られた精液の量が、性YOKUと深く関わっているのが、これでわかる。ここから先は、あく までも私という素人の仮説だが、それは(血糖値)と(空腹感)の関係に似ているのではない か。そういう物質が発見されたという話はまだ聞いていないが、睾丸に精液がたまると、(ある 物質)が血液中に放出される。それが視床下部を刺激するのかもしれない。
こうして男の頭の中は、「女」でいっぱいになる。ペXXが、勃Xするのは、そのあとのことであ
る。(勃Xのメカニズムについては、省略する。)
ここでいう「ある物質」こそが、性YOKUのメカニズムを解くカギということになる。つまりそれ
が脳内に充満したとき、性YOKUが起き、反対にそれを打ち消すために、フィードバック現象 が起きたとき、性YOKUは今度は、急速に減退する。
●二重人格性
しかしここで書きたいことは、性YOKUのことではない。ここで書きたいのは、原因が脳内ホ
ルモンであるにせよ、ないにせよ、外部的な刺激と、それに反応する自分の肉体の間で、精神 状態も、大きく変化するということ。「変化」というよりは、まるで別人のようになる。
ここでわざわざ「性YOKU」を取りあげたのは、フロイト流に考えれば、その性YOKUが、人
間のリピドー(=生命力の根源)になっているからである。
ほかに私のばあい、ワイフと喧嘩しているときと、していないときとでは、ワイフに対して、感じ
方が、まるでちがう。感じ方がちがうから、考え方まで、ちがう。
喧嘩しているときは、「こんなヤツ、どこかでのたれ死にすればいい」とさえ思う。が、そうでな
いときは、「ぼくがいつ死んでもかまわないように、財産だけは、きちんとしておいてやろう」と考 える。
これも考えてみれば、二重人格性ということになる。つまり私たちは、日常生活の中で、無意
識であるにせよ、二重人格性を経験しているということ。「二重人格」という言葉に問題がある なら、「多重構造性」と言いかえてもよい。少なくとも、単一ではない。
が、この多重構造性がはげしければはげしいほど、自分というものが、わからなくなる。とき
に、自分を見失うこともある。手鏡で、女性のスカートの下をのぞいていた大学教授を思い浮 かべてみればよい。ふだんは立派な(?)学者である。しかしある種の脳内ホルモンに毒され ると、理性のコントロールがきかなくなってしまう。(たぶん?)
そこで、こういうことは言える。
よきにつけ、悪しきにつけ、単一性が強い人のことを、「一貫性のある人」という。反対に多重
構造性が強い人のことを、「人格の完成度の低い人」と。
この先のことは、私にもわからない。これから先、科学が進歩して、この分野も、やがて詳細
に解明される日がやってくるだろう。で、ここでひとつのテーマ。
もしこの文章を読んでいるあなたが、男性なら、セッXXの途中でもよいから、射S前の自分と
射S後の自分を、冷静に比較してみるとよい。その変化を、観察してみるのもよい。私のばあ い、気のせいかもしれないが、射S後、脳の中に、ジワーッと、脳内ホルモンらしきものが充満 してくるのを感ずる。
女性のことは、実のところ、いまだに、よくわからない。
注:S=精のこと
注:結局、この原稿は、楽天日記のほうには、掲載できなかった。
どの文字が、禁止用語なのか、私には、わからない。きびしい!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
【今朝・雑談・11月23日】
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昨夜、ブラッドピット主演の
『バベル』を見た。
短い作品かな……?、と思って
見始めたが、終わってみると、
3時間!
そんなわけで床に入ったのが、
午前0時半過ぎ。
起きたのが、少し前。午前8時。
今日は、仕事も休み。肌寒さを
感ずる冬の冷気が、心地よい。
おはようございます。
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●DVD『バベル』
ブラッドピット主演の『バベル』。過去→現在→過去と、話が飛ぶから、見るときは、注意が必
要。最初は、モロッコ、東京、サンディアゴの3か所で、同時進行の形で、交互にカメラが回る。 サンディアゴ、メキシコのプエルトリコには、20代のころ、行ったことがある。
「?」と思っていると、だんだんとストーリーがつながっていく。あまり詳しくは書けないので、内
容は、ここまで。
星は、2つの★★。少しきびしいかな? 東京という都市が、退廃的な都市として、描かれて
いた。「すべてのものがありながら、何もない空間」。そんな印象をもった。私はこのDVDを見 ながら、学生時代に、金沢で、ガイドのアルバイトをしていた自分を思い出していた。
当時のアメリカ人は、傲慢(ごうまん)だった。『バベル』の中のブラッドピットも、そのタイプの
男性として描かれている。気になったシーンをいくつか、あげてみる。
(1)村にひとつしかない電話をかけながら、相手が自分の意にかなわない返事をしたとき、そ
の受話器を、壁にたたきつけていた。
(2)妻が、尿意をもよおしたとき、ガイド役の男性に、「鍋はないか?」と聞き、その鍋をもって
こさせた。妻に、鍋の中に、小便をさせていた。
ほかにもあるが、電話機にしても、鍋にしても、モロッコの人たちにとっては、たいへんな貴重
品。「アメリカ人なら、何をしてもよい」という傲慢さが、ガイドをしていた自分の記憶と重なっ た。
前にも書いたことがあるが、ガイドといっても、実際には、奴隷のようなもの。もちろん中に
は、親切なアメリカ人もいた。反対に、あれこれ教えてくれた人もいた。が、そういうアメリカ人 は、少なかった。記憶をたどってみる。
(1)小松空港へ迎えに行き、そこからタクシーで、金沢まで同行したときのこと。「タクシー代
は、予定外だ。私は了解していない。お前が払え」と言われた。
(2)そのアメリカ人は、金沢の町の中で、「ここはどこだ?」と、地図を地面に広げた。私は、地
面にはいつくばって、そのときの現在位置を教えた。そのアメリカ人は、上から私を見おろして いた。
(3)夜遅く、郊外の温泉宿まで案内した。しかし帰りのバスも、タクシー代もなく、私は徹夜で、
金沢の町まで、歩いて帰った。
(4)忍者寺へ行ったときのこと。その男性と妻の靴を、脱がせたり、履かせたりさせられた、な
どなど。
当時の日本は、まだそのレベルだった。アメリカ人もまた、そういうレベルで、日本や日本人
を見ていた。印象に残っているのは、カナダから来た家族だった。高校生ぐらいの女の子が、 タンクトップを身につけていた。日本人の私には、あまりにも刺激的だった。
私はそれを見て、何度も、歩けなくなってしまったのを覚えている。当時の日本で、タンクトッ
プを身につけている女性はいなかった。(これは余談。)
残念ながら、私は『バベル』を見ながら、当時の、あのタチの悪いアメリカ人を、思い出してい
た。ブラッドピットも、小さな部落で、ワーワーとわめき散らしていた。「外国にいる」という謙虚さ が、まるで感じられなかった。それで星は、2つ。時間に余裕のある人は、見たらよい。
もう一言。
東京という都市が、退廃的な都市として描かれていたということは、先にも書いた。かなり誇
張されていた。それはそれとして、このDVDを見ていて、「豊かさとは何か」、それを改めて考 えさせられた。
見終わったあと、「モロッコのほうが、人間的ね」と、ワイフは言った。私も、まったく同感だっ
た。
……しかし東京というと、どうしていつも、ああまで薄汚い街として、描かれるのか? 私も東京
は好きではないが、しかしあそこまでひどいとは、思わない。東京の人たちよ、もっと、怒れ!
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
【三つ子の魂、百まで】
●乳児の善悪判断
+++++++++++++
乳児にも善悪判断ができると
いう。
そんなおもしろい研究結果が、
ヤフー・ニュースに載って
いた。そのまま紹介させて
もらう。
+++++++++++++
(時事通信・11・23)
生後6か月の赤ちゃんも善悪を区別し、道徳的な判断もできる……。22日付の英紙デーリー・
テレグラフによると、アメリカ・エール大学のカイリー・ハムリン氏らの研究チームがこうした実 験結果を明らかにした。
3つ子ならぬ「6か月児の魂も、100まで」ということになる。
同紙によると、実験では12人の6か月の赤ちゃんに、
(1)丸いおもちゃ「クライマー」が丘を上ろうとするが、失敗する。
(2)三角のおもちゃ「ヘルパー」が、クライマーを丘の上まで押し上げる。
(3)四角のおもちゃがクライマーを、丘の下まで押し戻す……という3つの映像を見せた。
その後、赤ちゃんにおもちゃを選ばせると、全員が三角に「好意」を示したという。
+++++++++++
この中で、「三つ子の魂、百まで」を読んだとき、30年前に、私が書いた記事のことを思い出
した。
当時、『幼児のがくしゅう』(学研)という雑誌があった。その雑誌の付録に小冊子があって、
それにコラムを書かせてもらっていた。
その中で、私は、この『三つ子の魂、百まで』について書いた。内容はともかくも、この『三つ
子の魂、百まで』という格言が、「差別にあたる」というのだ。雑誌が発行されたあと、ある団体 から、猛烈な抗議を受け取ったのを覚えている。
いわく、「三つ子までに性格が決まるというなら、3歳まで、不幸にして不幸な乳幼児期を過ご
した子どもは、その後、立ちなおることはできないというのか。その後の努力で、立派に更生し た人も多い」と。
抗議の内容はよく覚えていないが、当時は、まだそういう時代だった。雑誌といっても、姉妹
紙の『なかよしがくしゅう』と合わせて、月に、40〜50万部も売れていた。影響力も大きかっ た。
で、しばらく……というより、40代に入って自分の本を書くまで、私は、意識的に、この格言を
避けてきた。が、今では、ここで見るまでもなく、同じ格言が、堂々と使われている。
……となると、あのときのあの抗議は、いったい、何だったのかということになる。一部の団
体の、一部の人たちの過剰反応だったのか?
この『三つ子の魂、百まで』について書いた原稿を、ここに添付する。
+++++++++++++
●飼い犬考察(「自分」発見のために)
私は二匹の犬を飼っている。一匹は保健所で処分される寸前のものを、もらってきた犬。こ
れをA犬とする。もう一匹は、親の愛をたっぷり受け、愛情豊かな家庭で生まれた犬。これをB 犬とする。これらA犬とB犬は、まったく性格が違う。
まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、 決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入 ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。
一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らんぷりして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木 鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠 実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた ましく吠える。
人間も犬と同じと言ったらいいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったらいいのか、同じような
ことが人間の子どもにも観察される。いろいろ誤解を生ずるので、ここでは詳しく書けないが、 性格というのは、一度できあがると、その後、なかなか変わらないということ。
A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、冷淡を経験した犬だ。心に大きなキズを負って
いる。一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った。一見、愛想は悪いが、人間に心を許 している。だから、そういうことができる。つまり人間を信頼している。幸福か不幸かということ になれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。
人間も成長とともに、自分のことがよくわかってくると、自分という人間が、遠い昔にできあが
ったということがわかる。高校生や中学生のときではない。もっと前だ。小学生のときでもな い。しかし四、五歳を境に急激に記憶が薄れていく。ちょうどモヤのかかった闇に吸い込まれ ていくように、記憶が薄れていく。
つまりそれから以前は、はっきりしない。「自分」という人間は、どうやらそのあたりで完成した
ようだ、と。「だから幼児教育は重要だ」と、ここで書けば、私が犬の話を持ちだした意図が、見 え見えになってしまう。事実、その通りだと思うが、しかしあまりにもはっきりとそう書くと、この 世の中、反発を買う。「三つ子の魂、百まで」と書くだけでも、抗議が殺到する。だからどう書い たらいいのか、わからないが、そういうことだ。
ただ人間の場合、経験や知識で、自分の姿を客観的に見ることができる。そして自分の努力
で、自分自身を変えることができる。私はそういう可能性まで、否定しているのではない。どん な人も幼児期の暗い思い出の一つや二つは背負っている。完ぺきな家庭で愛情豊かに育った 人のほうが、少ない。そういうことも考えながら、あなた自分自身の心の中を旅してみてほし い。きっと新しい「あなた」を発見ができると思う。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●スパルタ方式への疑問
スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。
そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評 論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、 かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。
むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない。)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの 日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」 「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。
こうした日本がもつ特異性は、外国の子育てと比較してみると、よくわかる。ニュージラーンド
やオーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食がすむまで家事を 手伝うのが日課になっている。
こういう国々では、学校の宿題よりも、家事のほうが優先される。が、この日本では、何かにつ
けて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方で、生活は便利になったが、その分、子どもので きる仕事が減った。私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう 言った。「何をさせればいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしま う。料理も、電子レンジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてく れます」と。
こういうスキをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう
形でドラ息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。
が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど 一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい へんなストレスをかかえこむ。
本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、乳幼児期に、さんざん、目いっ
ぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あなたをなおします」というのは、 あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日本人が全体としてかかえる問題 と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパルタ教育というのは! もしその 教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子どもにすべき教育ではない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●三つ子の魂、百まで
『三つ子の魂、百まで』というのは、その人の基本的な性格や方向性は、三歳ごろまでに決ま
るので、それまでの子育てを大切にしろという意味。しかし教育的には、つぎの四つの意味を もつ。
(1)この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかについ
て、おおよその見当がつくということ。
(2)この時期までに、何か心にキズをつけてしまうと、そのキズは、一生つづくから注意しろと
いう意味。
(3)この時期をすぎたら、その子どもはそういう子どもだと認めたうえで、子どもの性格や方向
性はいじってはいけないということ。
(4)そしてもう一つは、子どもが大きくなってから、いろいろな問題が起きたときには、この三歳
までの育て方に原因を求めろということ。
ただ念のために申し添えるなら、この格言は、公式の場(公の雑誌や新聞など)では、使えな
いことになっている。「差別につながる」ということだそうだ。私も一度、G社から出している雑誌 に、この格言を引用して、抗議の電話をもらったことがある。いわく、「三歳までに不幸だった子 どもは、おとなになってからも不幸になるということか」と。
しかしそういった抗議はともかくも、この格言は、たしかに真実を含んでいる。「三歳」と切るこ
とはないが、幼児期の子どものあり方は、その子どもの基礎になることは、もうだれの目にも 明らかである。
さて本題。よく親は、子どもの性格は、変えられるものと思っている。しかし実際には、そうは
簡単ではない。子どもの性格は、乳児から幼児期にかけての時期。私は性格形成第一期と呼 んでいる。そして幼児期から少年少女期にかけての時期。私は性格形成第二期と呼んでい る。これら二度の時期を経て、形成される。
とくに大切なのは、幼児期から少年少女期(満四・五歳〜五・五歳)の時期である。この時期を
経るとき、子どもに、人格の「核」ができる。教える側からすると、「この子はこういう子だ」という つかみどころができてくる。それ以前の子どもは、どこか軟弱で、それがはっきりしない。が、こ の時期をすぎると、急にその形がはっきりとしてくる。言いかえると、この満四・五歳から五・五 歳の時期の、幼児教育が、とくに大切ということ。冒頭にも書いたように、この時期にできる基 本的な性格は、その子どもの一生を方向づける。
またこの時期というのは、自意識がそれほど発達していないので、子ども自身が、自分を飾
ったり、ごまかしたりできない。その分、その子どもの本来の姿を、正確に判断することができ る。「この時期の子どもをていねいに見れば、その後、子どもがどんなふうになっていくかにつ いて、おおよその見当がつく」というのは、そういう意味である。
が、何よりも大切なことは、この時期をとおして、子どもは、子育てのし方そのものを、親から
学ぶ。子育ては本能でできるようになるのではない。学習によってできるようになる。しかし学 習だけでは足りない。子どもは自分が親に育てられたという経験があって、もっと言えばそうい う体験が体の中にしみこんでいてはじめて、自分が親になったとき、今度は、自分で子育てが できるようになる。そういう意味でも、この時期は、心豊かな親の愛情や、心静かで穏やかな家 庭環境を大切にする。またそれにまさる家庭教育はない。
(02−11−7)
●三歳までの家庭環境を、大切にしよう。
●幼児期をすぎたら、性格をいじってはいけない。あるがままを認め、受け入れてしまおう。
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この原稿に関連して書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞にて発表済み)
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教育を通して自分を発見するとき
●教育を通して自分を知る
教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも らってきた。これをB犬とする。
まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、 決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入 ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。
一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木 鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠 実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた ましく吠える。
●人間も犬も同じ
……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に 大きなキズを負っている。
一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信 頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間 の子どもにも同じようなことが言える。
●施設で育てられた子ども
たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の 動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ きやすい(長畑正道氏)など。が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手 にへつらう、相手に合わせて自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一 見、表情は明るく快活だが、そのくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あ るいは「いい人」という仮面をかぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。
●施設児的な私
実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。
つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。… …と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私 であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問 題であることに気づいた。
●まず自分に気づく
読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。 たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。
が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、 結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中 を旅してみるとよい。
(02−11−7)
●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題 は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 三つ
子の魂、百まで 3つ子の魂 3つ子の魂、100まで)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(2324)
●今朝・雑感(11月24日)
++++++++++++++++++++++
昨日、やっと寒さがゆるんだ。それでも
早朝の気温は、11度前後。12月下旬
並みの寒さだったという。
その昨日、いくつかの仕事をした。
まずHPに、『子育て格言、ママ100賢』の
第201〜250を、収録した。
この本は、山手書房新社というところから
出版したものだが、現在は、絶版になって
いる。だからこうして無料で、公開しても
問題はない。
で、どこの出版社もそうだが、「HP上で
公開していいか?」と問い合わせると、
返事は、たいてい、「NO!」。ほとんど
絶版状態にある本についても、そうである。
著者には、著作権というものがある。
出版社には、版権というものがある。
いくら自分の書いた本でも、出版社の版権を
侵すことはできない。
ところで、先日、こんなメールをもらった。
その人には悪意はないと思うが、また悪い
人だとは、思っていないが、こういう
内容のものだった。(G県のOさんより。)
何でも私の原稿をもとに、自分の原稿を
書いている。ついては、具体的な例を、
それぞれあげてほしい、と。
読者の皆さんが、私のエッセーを読んで、
家庭という場で、それをどう活用するかは、
その人の勝手。私は、関知しない。自由に
それをしていただいて、構わない。
しかし原稿の流用は別。いわんや、どこかで
発表するために、私の原稿を流用するなどという
ことをしてもらっては、困る。たいへん困る。
もの書きには、もの書きの世界の常識という
ものがある。その人からのメールは、その
常識から、完全にはずれていた。
(ちょっと言い過ぎかもしれませんが、
Oさん、お許しください。)
+++++++++++++++++++++
●ケア・センターの女性
母が入居しているケア・センターに、1人の女性がいる。年齢は、93歳だという。母に会いに
いくたびに、大広間にあるソファに座っている。
「若いときは、さぞかし美しい人だったのだろうな」と思わせるほど、目鼻立ちが整っている。
背も高い。いや、実際の背の高さはわからないが、いつ見ても、背筋が、ピンと伸びている。
その女性が、5〜10分ごとに、部屋中に響き渡るような大声をあげる。金きり声に近い。
「オーイ、メシはまだかア!」
「わっち(=私)にも、センベー、くれエ!」
「オーイ、昼飯を食べておらんぞオ!」と。
間脳(=視床下部)の命ずるがまま、声を発している。それをコントロールする前頭前葉の活
動は、あまりよくないらしい。しかし私はその女性を見るたびに、こう思う。
「人間も、年をとると、こうなるのか」と。
しかしここで重要なことは、どんな人もそうなのだろうが、ある日、突然、そうなるわけではな
い。徐々に、徐々に、少しずつ、そうなる。年齢のことはよくわからないが、早ければ、50歳前 後から、そういう傾向が現れてくるのではないか。
(知的な緊張感が持続できなくなる)→(その人の「地」が、表に出てくる)→(本能の命ずるが
まま、行動するようになる)、と。
ここでいう「知的緊張感」を司(つかさど)るのが、前頭前葉ということになる。わかりやすく言
えば、この部分が、「理性の司令塔」として機能する。この部分の働きが鈍くなれば、人間の行 動は、より動物的になる。より本能的になる。あるいは、幼稚っぽくなる。
交通事故か何かで、前頭前葉に損傷を受けた人が、話し方まで、幼くなることは、よく知られ
ている。
で、その女性を見ながら、「あの人は、若いころ、どんなだったのだろう」と、よく考える。今か
ら、60〜70年前には、さっそうとしたイデタチで、街の通りを闊歩(かっぽ)していたにちがい ない。様子からして、恋愛もし、結婚もし、子どもももうけたにちがいない。
そんな女性が、今、「オーイ、メシはまだかア!」と。今は、まさに、「恍惚の人」(有吉佐和子)
ということになる。
が、これはけっして、他人の話ではない。私の近未来像であり、あなたの近未来像でもある。
有吉佐和子は、「恍惚の人」の中で、「長い人生を営々と歩んで来て、その果てに老もうが待ち 受けているとしたら、人間は何のために生きたことになるのだろう」と書いている。
有吉佐和子の心情が、ひしひしとよくわかる。
●絶版本のHPへの収録
先ほど、絶版となった本を、私のHPに収録したと書いた。今回は、50作分、100ページ分を
収録した。
それが結構、たいへん。
ます1ページごと、スキャナーでパソコン内に、取り込む。つぎにそれを、FLICKR(=無料、
画像登録サイト)に、登録する。HPの編集ソフトをたちあげ、ひとつずつ、HTMLタグをはりつ けていく。
50作分を収録し、HTML送信が終了するまで、休みなく作業を繰りかえして、約2時間半も
かかった。私は、子どものころから、こういう単純、反復作業が苦手。しかしこうしてHPに収録 することによって、一度は絶版となった本が、そのまま蘇(よみがえ)る。
めんどうな作業だったが、それをし終えたとき、ほっとした安堵感を覚えたのは、そのため
か?
●同窓会
1月に、中学の同窓会がある。ほぼ30年ぶりではないか。当初は、出席を迷ったが、今とな
っては、出席したいという気持ちのほうが、強い。
過去は過去だが、私の人生の一部であることには、ちがいない。みんなどんふうに変わった
のかということよりも、どんなふうにこれからの人生を送ろうとしているのか、それを知りたい。
恐らく、同窓会といっても、その場で会って、その場で別れて、それでおしまい。旧交を温め、
それをこれからの未来に生かしていくということは、ないだろう。で、今、いくつか心に決めてい ることがある。
すでに亡くなった人も多いかと思うが、務めてそういう人たちの話はしない。今、みなが、どん
な生活をしているか、そうした安易な詮索もしない。病気の話は、しない。話をするとしても、中 学時代の思い出にかぎる。
中学時代の私には、(浮いた話)は、何もない。ガールフレンドもいなかった。好意を寄せた
女の子は、何人かいたが、そういう女の子に、私の気持ちを、相手に伝えたことはない。
ラブレターをもらったことはあるが、どの人も、1〜2歳、年下の女の子ばかりだった。だから
今回の同窓会では、とくに気になる女性というのは、いない。が、考えてみれば、これはとても さみしいことだ。「異性は、同窓会の花」とも言う。(私が勝手にそう言っているだけだが……。) その「花」がない。
ただ恩師の消息は、知りたい。
とくに世話になったのが、繁田晴伸先生。「しげた・はるのぶ」と読む。社会科の先生だった。
1年生のときの担任。当時すでに定年間際だったから、もし元気なら、今年、100歳前後にな っているはず。
つぎに戸谷成好先生。2年、3年のときの担任。インターネットで検索してみたが、見当たらな
かった。同姓のドクターが、現在、東京で活躍していることは、わかった。私はそのドクターは、 出身地からして、戸谷先生の息子氏ではないかと思っている。
ほかに成戸先生。数学の先生だった。Sという先生にも世話になった。音楽の先生だった
が、女生徒に手を出し、教職を棒に振っている。私には、いい先生だった。……などなど。
地元に残った友人たちは、こうした話をよく知っているにちがいない。
友人では、何といっても、砂場君、西部君、須山君、金子君、三輪君に会いたい。みな、45
年ぶりの再会となる。もし同窓会に来てくれれば、の話だが……。
●生涯、現役!
昨夜遅く、この山荘にやってきた。着いたときには、すでに午後11時近くになっていた。
床の間の掃除をした。正月から2月にかけて、オーストラリアの友人たちが、3週間単位で、
泊まっていっていく。うれしい、楽しみ、プラス、うらやましい!
日本人は、私も含めて、いつも時間に追いかけ回されている。ピーター・パンに出てくる、フッ
ク船長のようなもの。時計を飲み込んだワニに、いつもビクビクしている。チクタク、チクタク… …と、
定年退職の年齢になったとはいえ、私には、1週間以上の休暇は、まだ、無理。また、私は、
それでよいと納得している。
内閣府の調査によれば、75歳で、現役で仕事をしている人は、10%程度だという。私は、そ
の10%をめざして、がんばる。80歳をすぎても、現役でがんばる。80歳になったとき、「1週 間以上の休暇は無理です」と言えたら、いいな。
そのための健康づくりだけは、大切に。「健康づくり」というよりは、「健康の維持」。今ある健
康を、大切にしたい。
●韓国の株価
つい先月までは、韓国のウォン高が問題になっていた。先月は、1ドル=900〜905円前後
を、ウロウロしていた。が、今は、1ドル=930〜40ウォン。つまりウォン安。
韓国を包む経済情勢が、一変した。世界的なドル安。「アメリカの終わりの始まり」というコラ
ムも、どこかで読んだ。
その影響を受けて、世界の通貨は、ドルに対して、ジリジリとあがり始めている。日本円も、1
ドル=110円前後から、昨日現在は、1ドル=108円まで上昇した。が、韓国のウォンだけ は、ウォン安!
わかりやすく言えば、韓国そのものが、売りに出されている。原油価格の上昇と重ね合わせ
てみると、今、韓国国内がどういう状況になっているかは、容易に察しがつく。
それに加えて、株価(KOSPI)の大暴落。先月には、2050ポイント前後もあった株価が、現
在は、300ポイント近くも、さがっている。韓国のバブル経済が、今、まさに、はじけつつある。
日本は、そのとき不良債権を、銀行が抱えた。韓国は、今、個人がかかえている。その額、
日本円に換算して、90兆円。(90兆円だぞ!)日本の人口規模に換算すると、約3倍して、2 70兆円! アメリカのサブプライム・ローンによる焦げ付きが、40兆円前後と言われている。 それと比べただけでも、90兆円という額が、いかにデタラメな額かが、わかる。
日本人の私の知ったことではないが、私は同情しない。あれだけ反日感情をむき出しにされ
ると、同情のしようがない。
そこで韓国の銀行は、短期外債という名前の借金を重ねに重ねてきた(※1)。韓国の国民
は、そのお金を銀行から借り、株の投資に、血眼(ちまなこ)になった。もしここで株価が低迷す るようなことにでもなれば、(すでに低迷を通り越して、暴落し始めているが……)、韓国経済 に、明日はない。
(韓国では、こうした短期外債の借り入れまで、「その他の収支」として、資本収支の中に、黒
字として、計上している。粉飾も、ここまでくると、あきれるというより、笑えてくる。簡単に言え ば、つぎのような手段を、とる。
ウォン高を是正するためには、ドル買い、ウォン売りをしなければならない。しかしそれには元
手がいる。そこで短期外債という形で、外国から借金をする。その借金で、ドルを買う。韓国政 府は、ドルをかかえこむことになる。タンスに入れておいても、意味がない。そこでそのドルで、 アメリカの国債などを買う。その国債などを、外貨準備高に算入する。借金をすればするほ ど、外貨準備高がふえるという、魔法のような手口は、こうして説明される。)
ウォン高から、一転して、行き過ぎたウォン安。原油が1バレル=100ドル近い現在、韓国
は、どうやって、やっていくつもりなのか。すでにガソリンは、韓国では、1リットルあたり、日本 円で200円を超えている。
皮肉な言い方をすれば、現在のN大統領には、あと5年、韓国の大統領をしてもらいたい。
韓国経済は、さらに、メチャメチャになる※。
かつてあの小泉元総理は、公の場所で、こう言った。「後悔するのは、韓国のほうだ」と。韓
国のN大統領が、反日発言を繰り返していたときのことである。
注:私は拉致問題について、抗議の念をこめて、K国の金xxは、「金xx」と表記している。そして
その金xxを援助してやまない、韓国のN大統領を、「N大統領」と表記している。)
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(注※1、東亜N報、11月24日付記事より)
●外国からの資金調達も困難
韓国政府が海外で発行した外国為替平衡基金債権(外平債)の加算金利が、急騰(外平債の
価格は急落)するなど、金融への不安心理が広がっている。
23日、ソウル証券市場ではグローバル金融市場への不安に、未来(ミレ)アセット資産運用の
先行売買のうわさまで加わり、コスピ指数は前日より26・14ポイント(1・45%)下がった177 2・88で取引を終えた。
株価が7日連続下落したのは、04年10月7〜15日以来、3年1か月ぶりのことだ。コスピ指
数は今月15日の1972・58から下落し始め、23日まで199・7ポイントも下がった。
また、国際金融市場では安全な資産を好む傾向が目立ち、韓国政府が発行した14年満期の
外平債は21日現在、米国の国債金利より1・03ポイント(103bp)高い水準で取引され、同 債権が04年発行されて以来、加算金利は最高値を記録した。
25年満期の外平債の加算金利も1.3%まで上がり、同じく発行以来最高値を記録してい
る。
外平債の加算金利が上がれば、国内の各銀行や企業が海外で発行する債券の加算金利が
ともに上がり、海外からの資金調達が難しくなる。
一方、市中金利の上昇の勢いが続き、変動金利付住宅ローンの基準金利である91日満期の
譲渡性預金証書(CD)金利は年5・50%で、前日より0・01%上がり(CD価格は下落)、01 年7月以降、6年4か月ぶりに、再び、年5・50%台に進入した。
これを受け、銀行から融資を受けて住宅を購入した人たちの利息への負担はさらに増大する
ものと懸念される。
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韓国でいう「外国為替平衡基金債権(外平債)」というのは、外国で発行する、国債のようなも
の。その国債が売れないときは、金利を高くする(=おいしいエサをつける)。その金利が、04 年以来、最高値を記録しているという。
韓国では、こうして集めたお金で、ドルを買い、ウォンを売っている。当然のことながら、こん
なことを繰りかえしていたら、韓国内は、ウォンでジャブジャブになってしまう。そこで韓国銀行 は、そのウォンを吸収するために、別枠で、「通貨安定証券」なるものを発行している。(韓国 政府ではなく、韓国銀行が、だぞ!)
事情を知らない韓国の新聞各社は、「外貨準備高が、世界で〜〜位になった」とはしゃいで
いるが、言うなれば、借金で、外貨を買っているようなもの(※2)。日本では考えられない、も う、メチャメチャな経済政策と言ってよい。
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(注※2)
「韓国銀行によると今年6月末現在、満期1年未満の短期外債の規模は、1378億9000万ド
ルと、韓国の外債全体の44・3%に達する。この比率は、通貨危機当時(97年末)の36・6% よりも7.7ポイント高い」(東亜N報、11月)
わかるかな? 韓国の外債の内、44%あまりが、短期外債(=借金)によってつくられた外
債ということ。
●庭の枯れ葉
外がだいぶ、明るくなってきた。窓をあけてみると、枯れ葉の山。これから服を着がえ、枯れ
葉を集めて、焚き火。
今、ワイフが台所で、朝食の用意を始めたところ。それを食べたら、作業にとりかかる。
そうそう昨夜、ワイフと長男は、「ゾーディアック」というDVDを見た。私は、見なかった。私
は、その間、コタツの中で、居眠り。終わってから、「どんな映画だった?」と聞くと、「まあ、星 は、2つの、★★ね」と言った。「2つも、無理かもしれない」とも。
私は、見ないことにした。
ところでおととい見た、ブラッドピット主演の『バベル』だが、日本側のシーンに出てきた女優
は、撮影当時、24、5歳だったという。映画の中では、女子高校生を演じていた。全裸シーン も、何か所かあった。
どこか暗さをたたえる高校生として描かれていたが、アカデミー賞で、何かの賞を取り損ねた
という話を耳にしたことがある。「外人って、ああいう女性が好みなのかなあ」と思ったりする。
ところで、一言。
世界の映画ファンたちよ、ああいう映画を見て、「あれが日本」と、どうか、思わないでほし
い。よくアメリカ人の友人たちは、こう言う。「ヒロシ、ハリウッド映画だけを見て、これがアメリカ と思わないでくれ」と。それと同じ。
くれぐれも、よろしく。
●冒頭に書いた、読者の方へ(G県のOさんへ)
けっして悪意があって、そういうメールをくれたのではないと思う。それはよくわかっている。
返事に、私は、「非常識なメールに、憤慨しています」と書いたが、その気持ちは今も、変わっ ていない。が、この言葉は、あなたには大きなショックを与えたかもしれない。それはそれとし て、あなたのこれからの執筆活動の勉強になればと願っている。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
【私の中学時代】(1)
●OK君
「中学時代」という言葉を口にして、最初に思い浮かぶのは、OK君のことだ。ザワザワとした
記憶の雑踏の中から、まっさきに、彼の顔が飛び出した。色白の、都会的な顔立ちをしてい た。1年生のころは、飛び抜けて成績がよく、私は、OK君には、いつも一目、置いていた。
家は、高校の敷地内の職員宿舎にあった。父親が、高校の教師をしていた。町をはさんで、
OK君の家と、中学校は、正反対の位置にあった。私の家は、町の中心部にあった。
OK君の家には、よく遊びにいった。ついでに高校のプールで泳いだりもした。今で言う、転勤
族で、私の知らないことを、たくさん知っていた。
が、記憶というのは、残酷なものだ。懸命にOK君のことを思い出そうとするのだが、あの顔
立ちだけで、それ以上のものがつづかない。私のことを、「林君」「林君」と、慕ってくれた。腕力 は、私のほうがあった。
名前すらも、忘れてしまった。たしか「博士」の「博」という字があったように思う。そのOK君
は、中学2年生になると同時に、どこかへ引っ越していった。
私の印象では、その後、OK君は、どこかの大学の教授になったかもしれない。中学時代の
OK君には、すでにその雰囲気が備わっていた。
●クラブ
私は中学時代、コーラス部と、天文部に属していた。運動部には、入っていなかった。そのか
わりというわけではないが、市内の柔道の道場に、週2、3回、通っていた。
コーラス部といえば、まっさきに思い出すのが、ST君のこと。彼の弟は、その後、野口五郎と
いうタレント名で、日本でも有名な歌手になった。ST君は、私より2年、下だった。美しい声の 持ち主だった。「ボーイソプラノ」を担当していた。
天文部では、太陽の黒点観測が、いちばんのテーマだった。ほかに反射望遠鏡を作るた
め、毎日、放課後にガラス磨きをした。直径が20センチほどのガラス板を磨いて、レンズを作 った。
そのあとそのレンズがどうなったかは、知らない。たしか、大きな反射望遠鏡になったような
気がする。みんなで、披露会のようなものを開いたのを、記憶のどこかで覚えている。よくは覚 えていない。
柔道は、けっこう、いい線までいった。よく対抗試合にでかけていった。私の得意技は、大外
刈り「おおそとがり」と読む。相手の体を少し回し、バランスを崩させる。そのとたん、自分の足 裏で相手の足を止め、腕をぐいと引いて倒す。そのバランスを崩させるのが、天才的に(?)、 うまかった。当時は、白帯の上が、茶色帯で、私は、その茶色帯を腰に巻いていた。黒帯は、 高校生以上のものだった。
が、中学3年の終わりごろ、鎖骨を2度つづけて折って、それで引退。ちょうど受験期に重な
ったこともある。
そんなわけで、今でも、合唱は好き。望遠鏡も好き。それに柔道も、大好き。
●小学時代
私は小学時代には、わんぱく少年で、通った。いつも「お山の大将」だった。学校から帰ると
きも、まっすぐ家に向かって帰ったことは、ほとんど、ない。毎日、道草の、そのまた道草を食 いながら、家に帰った。
私は今から思うと、帰宅拒否児ではなかったかと思う。家は嫌いだった。自分の居場所すら、
なかった。
だから、近くの山の中に、「小屋」とか、「陣地」とかいう名前の、自分だけの住み処(すみか)
をよく作った。少し穴を堀り込んで、その上に棒などをわたして、家をつくった。屋根は、草や葉 を使った。
当時の私は、杉の木でも、平気で登って遊んでいた。身が軽かった。山の下は墓地になって
いたが、墓から墓へと、ひょいひょいと、跳んで渡ったのを、よく覚えている。
●繁田晴伸先生
1年のときの担任が、繁田晴伸先生だった。定年間際の先生で、当時の私から見ると、おじ
いさん先生だった。
きびしい先生で、その上、がんこだった。私はこの先生に出会って、始めて、中学校を知っ
た。こんな話は自慢にならないが、私が、繁田先生に叱られた、第一号だった。たしか、外へ 出るとき、下駄箱の横にあったスリッパを蹴散らしたのが理由ではないかと思う。そのとき、叱 られた。
あとになって、「お前は、ぼくが叱った、第一号だ」と、先生に、よくからかわれた。
やせた、小さな先生で、歯が大きく、外へ飛び出していた。私が先生の似顔絵を描くと、「ぼく
によく似ているなあ」と、よくほめてくれた。タバコが好きで、教室でも、職員室でも、タバコばか り吸っていた。渡り廊下を歩いているときも、タバコを吸っていた。
繁田晴伸先生というと、タバコ。タバコ、またタバコ。ほかに思い出すことは、あまりない。私
は、繁田先生の家に、よく遊びに行った。いや、遊びに行ったのは、先生が退職してからで、私 が高校生のときのことではなかったか。大学生になってからも、ときどき、行った。それで繁田 晴伸先生のことは、印象に強く残っている。
言い忘れたが、すばらしい先生だった! 大好きだった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 繁田
晴伸 先生)
●戸谷成好先生
中学2年と3年のときの担任が、戸谷成好先生だった。当時、私の中学は、11クラスまであ
って、どのクラスも、1クラス、53〜55人だった。
ときどきサッカーをしたが、22人で、1チームを編成した。だから私は、ずっとあとになるま
で、サッカーというのは、1チーム、22人で、プレーするものだとばかり思っていた。
だからというわけでもないが、その分だけ、先生と私たちとの関係は、希薄だった。先生の思
い出はいろいろあるが、それは私という(生徒)からの一方的な思い出でしかない。
品格のある、ひょうひょうとした先生だった。性格は温厚で、私は戸谷成好先生が、自分を取
り乱して、怒鳴ったり、怒ったりしたのを見たことがない。何かを質問すると、ニコニコと笑いな がら、いつまでもていねいに、教えてくれた。
当時、まだ若い先生だったから、今でも健在なはず。ただインターネットでいくら検索しても、
先生の名前は出てこなかった。かわりに、戸谷○○という人の名前が出てきた。東京で、ドクタ ーをしているという。出身地を調べると、戸谷成好先生と同じ郷里になっているので、戸谷成好 先生の息子氏ではないかと思っている。(つづく)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●日韓経済戦争(11月25日版)
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昨日、「韓国銀行によると、今年6月末
現在、満期1年未満の短期外債の規模は、
1378億9000万ドルと、韓国の外
債全体の44・3%に達する。この比率
は、通貨危機当時(97年末)の36・6%
よりも7・7ポイント高い」(東亜N報、
11月)と書いた。
「短期外債」というのは、1年以内に返済
しなければならない、(外国からの借金)を
いう。その借金が、44%にもなったという。
わかりやすく言えば、その割合が大きければ
大きいほど、その国の財政状況は、悪化して
いるということを意味する。
韓国は、その短期外債をつぎつぎと借り入れ
ながら、今まさに、財政の自転車操業を
繰りかえしていることになる。
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「韓国政府が海外で発行した外国為替平衡基金債権(外平債)の加算金利が、急騰(外平債
の価格は急落)するなど、金融への不安心理が広がっている」(東亜N報)と。
「外国為替平衡基金債権(外平債)」というのは、日本でいう「国債」のこと。つまり政府の借
金。東亜N報の記事によれば、現在、韓国では、その借金が、ままならなくなってきたということ らしい。
その額、06年9月時点で、18兆ウォンと言われている。直近の為替相場で換算すると、日
本円で、約2・1兆円。
「2・1兆円」と聞いて、「ナーンダ、たったの2兆円ではないか」と思う人がいるかもしれない。
しかしそこは韓国。ちゃんと、その裏には、カラクリがある。「通貨安定証券」という、カラクリで ある。
国債、つまり「外平債」は、韓国政府という「国」が発行する。この「外平債」とは別に、韓国で
は、韓国銀行(=日本の日銀に相当)が、独自に発行する、「通貨安定証券」なるものがある。 中身は、国債とまったく同じ。金利を払いながら、市中から、ウォンを吸い上げている。
その通貨安定証券の残高が、約200兆ウォンほどあるとされる。日本円で、23兆円! こ
れにほかの国家債務を加えると、約400兆ウォン以上。日本円で、46兆円以上!
日本政府も、多額の借金をかかえているが、いわば(身内の借金)。しかし韓国政府は、外
国に向かって借金を繰りかえしている。
もしここで、日本の円が、少しでも円高に振れたら、(すでに円高に振れてしまったが)、韓国
経済は、たいへんなことになる。借金の大半が、日本からのものだとすると、そのとたん、その 分だけ、借金の額が肥大化することになる。
わかりやすく説明しよう。
あなたは日本の銀行から、1億円、借りた。1円=8ウォンで計算すると、あなたは8億ウォン
を手にすることができる。あなたはそのお金で、株を買ったり、マンションに投資をすることがで きる。
が、円高になり、1円=10ウォンになったとする。そうなるとあなたは、1億円を返すために、
10億ウォンを用意しなければならない。つまり借金が、2億ウォンふえることになる。
そこへさらに、ウォン安が加わったら、どうなるか? 実質の借金額は、さらにふえることにな
る。(すでにウォン安に振れてしまったが……。)
が、その借金の返済が、ままならなくなってきた。そこであなたは、さらに借金に借金を重ね
る。それが、「韓国銀行によると、今年6月末現在、満期1年未満の短期外債の規模は、137 8億9000万ドルと、韓国の外債全体の44・3%に達する。この比率は、通貨危機当時(97年 末)の36・6%よりも7・7ポイント高い」(東亜N報、11月)という部分に集約されている。
この中で、とくに、「この比率は、通貨危機当時(97年末)の36・6%よりも7・7ポイント高い」
という部分に注目してほしい。これだけでも、韓国経済が、今、いかに危機的な状況にあるか が、わかる。
なお韓国政府は、ここに書いた、「通貨安定証券なるものは、韓国銀行の発行しているもの
だから、韓国政府、つまり国の借金ではない」という煙幕を張っている。つまり国の借金から、 除外している。これが韓国一流の、カラクリである。
さて今日の朝鮮N報によると、こうある(11月25日)。
「こうした状況を物語るかのごとく、04年まで国内証券市場の42%を占めていた外国人の
割合(時価総額基準)が、最近では31%にまで急減した」と。
外資が、雪崩を打って、韓国から逃避し始めていることを示す。
同じく、朝鮮N報は、「これまで外国人投資家が左右していた国内証券市場が、自然に機関投
資家らに代替されたのは、国内証券市場がそれだけ成熟し、世界的な経済変数から独立性を 確保した証拠だと見ていい。ちなみに台湾の証券市場も外国人の割合が32%で、韓国と同水 準だ」と書いている。
「台湾と同じ水準だから、だいじょうぶ」と。
31%なら、31%でよい。その水準で安定していれば、それでよい。問題は、「42%から3
1%まで減った」ということ。さらに、そこで止まるという保証は、どこにもない。それが韓国が現 在かかえる、時限爆弾ということになる。
日韓経済戦争といいながら、実は、韓国は、何も、日本が手をくださなくても、今、自滅に向
かって、まっしぐらに進んでいる。
なお韓国政府は、今、この時期に、強制連行された韓国人に対して、日本円で、1人当たり、
200〜250万円の補償金を与えると発表した。日本へのアテこすりのようにも聞こえる。
しかし戦後、日本政府は韓国に、莫大な額の戦後補償金を支払っている。当時の韓国政府
は、そのお金を、すべて、国家の再建に使ってしまった。「漢江の奇跡」というのも、それで起き た。日本政府も、そのお金がどう使われるか、不問にしたこともある。
それを今になって、「被害者に補償しなかった」と、日本政府を非難している! それがここで
いう「アテこすり」という意味である。
これは余談。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2325)
●すばらしい秋
+++++++++++++
今日は、日曜日。
長男と、佐鳴湖を自転車で
一周した。
私は、ずっと、空を見あげながら、
一周した。
気持ちよかった。
青い空に、紅葉が、輝きながら
揺れていた。
+++++++++++++
生きていることは、すばらしい。
少し大げさな言い方に聞こえるかも
しれないが、その(すばらしさ)の
前では、どんな問題も、取るに
足りない、小さな問題。
歩く、走る、息を吸う。はき出す。
それができる人には、当たり前の
ことかもしれないが、そうでない
人には、そうでない。
その(すばらしさ)に、賢い人は、
それをなくす前に気づく。
そうでない人は、それをなくして
から気づく。
つまり生きることは、その愚かさとの
戦いということになる。
ささいな問題にとらわれ、悶々と、
心をこがす。同時に、その(すばらしさ)
を忘れる。
今朝は、こんなエッセーを書いた。
++++++++++++++++++
●体が動く!
++++++++++++++++++
だからといって、運悪く、そういう
状態になった人が、どうこうというわけではない。
そういう状態になりながらも、懸命に生きている
人は、いくらでもいる。家族の暖かい愛情に
包まれ、幸福な人は、いくらでもいる。
たとえば脳梗塞。「血栓性の脳疾患」ともいう。
たまたま私が脳梗塞になっていないのは、
ラッキーだったからにほかならない。
こうした病気は、運と確率の問題。
注意していても、なる人は、なる。
ならない人は、ならない。
今日はだいじょうぶだからといって、だれにも、
明日のことはわからない。来年のことは、
わからない。
5年後、10年後のことは、さらにわからない。
しかし現に今、同年齢の人たちの中でも
その脳梗塞で倒れていく人は、少なくない。
そのまま亡くなってしまう人もいる。
が、一命はとりとめても、さまざまな
後遺症に苦しむ。この病気のこわいところは、
その後遺症にある。
精神状態すら、変わってしまう人もいる。
そういう人たちを見かけるたびに、「明日は
わが身」と思う。胸の中に、ツンとした
緊張感が走る。
率直に言って、つらい。「私なら耐えられるだろうか」
とも思う。
若いころは、そんなことを考えもしなかった。
しかし今は、ちがう。こうした病気は、遠い未来の
話ではない。今という現実の、話である。
++++++++++++++++++++++
あなたは体が動く喜びを、知っているか? 手や足が、思い通りに動く喜びを、知っている
か? ふつうに会話ができて、ふつうに食事ができる喜びを、知っているか?
私は、知っている。知っているから、今日も、感じた。
冬の冷気を全身で感じながら、自転車のペダルをこぐ。ブルッと体が震える。足のこわばりを
感ずる。しかしそれにかまわず、体を立てて、足に力を入れる。首をすぼめる。前方をにらむ。 腕をぐいと、内側に引く。
私の体は動く。目が見える。音が聞こえる。風が肌をこするのが、わかる。私はそのとき、私
が生きていることを知る。
この(生きていること)を原点に考えれば、ありとあらゆる問題が、空中を舞うホコリのように
なる。とたん、それまで私を押しつぶしていた、わずらわしい人間関係が、煙のように消える。
今日も、町の中にある教室へ来るまでに、何人かの人を見た。一人は車椅子に乗っていた。
もう一人は、ガラス戸をあけて、どこかの店に入っていくところだった。半身が付随なのがよく わかった。とくに、ガラス戸をあけて、どこかの店に入っていった人は、半身が付随なのにあわ せて、もう一方の半身もままならないといったふうだった。
少し前の私なら、「ああ、よかった」「私でなくて、よかった」と思ったかもしれない。しかし今
は、そんな失礼な気持ちは消えた。「私が、こうして自転車に乗っていられるのは、たまたま運 がよかったからだけ」と。
その人が私で、私がその人であっても、何もおかしくない。
で、私は、先日、こう考えた。たいへん不謹慎な話に聞こえるかもしれないが、考えたことを
そのまま書く。
そのときも自転車をこいでいた。どこかの農道を、ハナ(犬)を引きながら、走っていたときの
ことだった。
「私は脳梗塞になった」「私は、何年間も、寝たきりに近い状態だった」「が、その私が、奇跡
的に、助かった」「助かって、体が動くようになった」「自転車に乗ることができるようになった」 と。
とたん自転車をこぐという、今まで何でもなかったことが、すばらしく価値があるように思えて
きた。
似たような話だが、こんな手記を読んだことがある。その男性は、長い間、腎臓病を患ってい
た。そして最後の手段として、腎移植手術を受けた。そのあとのこと。その男性は、自分でトイ レに立った。そのとき窓から日の光が入ってきて、その男性がする小便を照らした。その男性 は、自分の小便が、黄金色に輝いているのを知った。
その男性は、こう書いていた。「あまりの美しさで、思わず、自分の小便を、両手で受け止め
そうになった」と。(実際に、受け止めたと、それには書いてあったような気もする。)
総じて言えば、「生きる」ということは、そういうことではないのか。つまりものが見える。耳が
聞こえる。手が動く。足が動く。そしてものを考え、それを文章にすることができる。それらすべ てが、実は(喜び)に包まれている。小便をすることだって、大便をすることだって、ありとあらゆ ることが、実は、(喜び)に包まれている! つまりそれが(生きる)ということ。
賢い人は、そのもの価値を、失う前に気づき、愚かな人は、そのもの価値を、失ってから、気
づく。そのものの価値とは、第一には、「健康」をいう。つぎに「生きること」をいう。
そこで最大の問題は、どうすれば、私たちは、その(賢い人)になれるかということ。もっと言
えば、(生きていること)の中に隠されている(喜び)を、どうすれば知ることができるかというこ と。
その(喜び)さえ知ってしまえば、もうこわいものはない。どんな問題も、その(喜び)を引き立
てる装飾品にすぎない。
こういう言い方を、このエッセーの終わりにもってくるのは、よくないかもしれない。しかし事実
は、事実。
どうせ死ねば、この世もろとも、私は消えてなくなる。それまでの人生。たった一度しかない人
生だから、生きて、生きて、生き抜く。全身で生きる喜びを受け止めながら、生きて、生きて、 生き抜く。
+++++++++++
(補記)
実はこのエッセーを書き始める前、私はある人との人間関係に苦しんでいた。仏教にも、「怨
憎会苦(おんぞうえく)」という言葉があるが、会いたくない人と会い、話をしたくない人と話をす るのは、人間に与えられた、最大の苦しみのひとつという意味である。
相手がそれなりにレベルの高い人であれば、それなりの対処の仕方もあるが、そうでないと
きは、自分自身の魂まで、汚される。それと戦うだけでも、精一杯。こちら側は相手にしたくな いのだが、相手のほうが、ペタペタと、容赦なく、私にくっついてくる。それが原因で起こる不快 感は、相当なものである。
先日も、私が「私は、あなたが思っているほど、バカではないとは思うのですが・・・」というと、
その人もこう言った。「私も、バカではありません!」と。
そのとき私はこう思った。「バカにつける薬はないナ」と。
はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
●脳の老齢化
++++++++++++++++
脳みそも、加齢とともに、老化する。
そのことがわからなければ、特別擁護
老人センターにいる老人たちを見れば
よい。
そこにいる老人たちにしても、ある日、
突然、ああなるのではない。少しずつ、
ほんとうに、少しずつ、長い年月をかけて、
ああなっていく。
言いかえると、現在の私や、あなたも、
少しずつだが、その「道」をたどりつつ
ある。
例外はない。むしろ「私はだいじょうぶ」と
高をくくっている人ほど、あぶない。
「私も心配」と、それなりの努力をして
人は、まだ救われる。
++++++++++++++++++
●老化の実感
パソコンをいじっていると、ときどき、脳みその老化を実感する。つい先日までできた何かの
操作が、できなくなるときがある。そういうとき、「私の頭は、いったい、どうなってしまったの か?」とさえ思う。心配になる。
一方、私の知人の中には、こんな人がいる。今年、65歳くらいになるのではないか。つきあう
ようになって、もう30年近くになる。親しくはないが、年に、1、2度、会って、いっしょに食事をし たりしている。
その知人だが、このところ、知性がその人から消えていくのを感ずる。ものの考え方が、直感
的で、短絡的。話の内容も、どんどんと浅くなっていく。話を聞くと、「この1年、本や雑誌など、 読んだことがない」と。「映画は?」と聞くと、「ああいうものは、頭が痛くなるから、見ない」と。 「外国映画(DVD)も見たことがない」とも言った。彼の家には、DVDプレーヤーすら、ない。
読むのは新聞だけ。しかもスポーツ欄だけ。そしてこうも言った。「私は、ものごとを深く考え
ないタチでね」「考えても、どうもならない」「考えないで、気楽に生きたい」と。
私は何度も「そういうものではないのだがなア」と思った。思ったが、年上の人に、その生き様
について反論するのも、気が引ける。
しかし若いときはそれほどの差を感じなかったが、このところ、その差を、大きく感ずるように
なった。それは絶望感に近い(差)と言ってもよい。その人が、私の手の届かない、はるか遠く へ行ってしまったかのように感じた。
そう言えば、介護施設で会う母にしてもそうだ。簡単な会話くらいなら今でもできるが、その会
話にしても、つぎの瞬間には、内容をすべて忘れてしまっている。「今日は寒いな」「今日は暖 かいな」という程度の会話で、終わってしまう。
母ほどはひどくないにしても、それに近い。
●脳みその老化
ただはっきりしていることは、脳みそも、肉体と同じように、老化するということ。肉体の老化
は、自分でも、客観的に判断することができるが、脳みそのばあいは、そうではない。脳のCP U(中央演算装置)そのものが老化するから、それに気づくのは、たいへんむずかしい。
再び介護施設の老人たちの話になるが、「私はバカになった」と自覚している老人は、まだよ
いほう。「私はまともだ」「バカでない」とがんばる老人ほど、問題。ピック病(認知症のひとつ) の老人などは、言うことだけはまとも。だからかえって、扱いにくい。・・・というような話も、聞い たことがある。
そこで重要なことは、(1)まず自分自身の脳の老化を自覚すること。特別な訓練をつづけな
いかぎり、脳みそは、確実に老化する。そういう前提で、自分の脳みそを考える。
つぎに(2)知識や知恵が漏れ出ることはしかたないとして、大切なことは、それ以上の知識
や知恵を、補充していくということ。10の知識が漏れたら、100の知識を注入する。100の知 識が漏れたら、1000の知識を注入する。
脳の老化と戦うということは、そういうこと。
さらに(3)、脳みそというのは、タマネギの皮がかがれるように、老化していく。そして最後
は、中心部の「芯(しん)」だけが残るようになる。そのため、古い記憶だけが表に出てくるよう になる。本人も、それだけが記憶だと思うようになる。
しかしそうなったら、脳の老化は、かなり進んだと見てよい。わかりやすく言えば、過去をなつ
かしんだり、過去の思い出に浸るようになったら、人間も、おしまいということ。「死の待合室」 に、一歩、足を踏み入れたことになる。
●高橋さんと話す
昨日、高橋さんと電話で話す。実名である。つきあうようになって、もう35年になる。私と同年
齢で、来年、3月、役所を退職する。
高橋さんのすごいところは、山小屋を、自分で建ててしまったこと。10年近い年月をかけて、
愛知県との県境に近い、Aという部落の中に、建てた。川のすぐそばで、「夏は使い物にならな いよ」とは言っていた。私もたびたび、遊びに行った。泊めてもらったことも、何度か、ある。
(夏場は、川のそばの別荘は、蒸し暑く、それに虫の襲来がひどくて、使い物にならないとい
う意味。別荘を建てるなら、丘の上の、風通しのよいところがよい。これは余談。)
昨日、電話があった。「林さんのBLOGを読んでいたら、ぼくの名前が載っていたから」と。う
れしそうだった。だから今日も、高橋さんの名前は、こうして実名で書くことにする。
その高橋さん、退職後は、本気で、「百姓」(高橋さんの言葉)をするという。広大な農地も手
に入れたという。今度の日曜日に、ワイフと草刈りの手伝いに行くつもり。(奥さんに農業資格 があって、それで農地を手に入れることができたという。これも余談。)
その高橋さんが、電話でこう言った。
「ぼくは、これから先もね、前向きに生きていくよ」と。
大賛成! 中には、うしろばかり振り返って生きている人がいる。私も、一時、そうなりかけた
ときがある。しかし先日、満60歳の誕生日を過ぎてから、人生観が一変した。それまで行く手 をさえぎっていた(年齢制限)を、撤廃することができた。とたん、気が軽くなった。
「どうせ、失敗しても、もともと」と。これからは思う存分、自分の人生を、生きる。
昨日も、こういうことがあった。
ワイフが、夕食を届けてくれた。30分ほど、休み時間があった。近くの公園の紅葉(ももじ)
の話をすると、ワイフが、「見たい」と言った。今が、紅葉、まっさかり! そこで私はワイフを連 れて、公園まで行った。
私「あのな、今夜、仕事が終わったら、映画を見に行かないか?」
ワ「今夜?」
私「そう、深夜劇場だ。今から、チケットだけ、買いに行こう」
ワ「紅葉はどうするの?」
私「もちろん、見る。映画も見る。両方、見る」と。
というわけで、公園で紅葉も見た。仕事が終わってから、映画も見た。『ボーン・アルリメイト』
とか何とかいう映画だった。目まぐるしいだけの、中身のない映画だった。星は1個の、★。し かし楽しかった。ワイフと、ポップコーンを食べながら、見たのが楽しかった。
高橋さんと話をしていると、楽しい。前向きに生きている人と話をしていると、そのエネルギー
が、ビンビンと、こちらに伝わってくる。私の波長と一致する。
そうそう、その高橋さん。もとはと言えば、オーストラリアの友人のK君の紹介で、知り合っ
た。そのK君が、2月に日本へ来る。それを話してやると、心底、うれしそうだった。1月には、 南オーストラリア州に住む、R君が来る。来年は、早々から、忙しくなりそう!
●デニーズのこと
二男の嫁が、デニーズ。私は、嫁でありながらも、そのデニーズを尊敬している。その第一、
英語がうまい。これは当然であるとしても、アメリカ人だから、みな、英語がうまいと思うのは、 誤解。
それがわからなければ、日本人を見ればよい。日本人だから、日本語がうまいということに
はならない。彼女の書く英文は、どんな英文でも、超一級。それくらいの読解力は、私にもあ る。
が、それ以上に、私は、デニーズほど、誠実な女性を知らない。どんなささいな約束でも、き
ちんと守る。先日は、こんな記事が、二男のBLOGに載っていた。
+++++++++++++
6年目
この前結婚したばかりのような気がしていたのだけど、今月でもう結婚生活6年目になる。
僕は結婚して2人のすばらしい子供にも恵まれ、文句の付け所のない幸せな暮らしをしてい
る、と思う。僕は子供の頃、自分の将来に全くと言っていいほど何も期待していなかった。20 歳まで生きられればこんな人生沢山だ、とも思っていた。そんな僕でも、理想とする家族の姿 だけは毎日思い描きながら生きていたのだけど、そんな家族が今僕にはあるような気がして、 もう他に欲しいものなどない。
今日友達の家族が行っているモルモン教の教会で、「トラック・オア・トリーティング」っていう、
教会の駐車場でお菓子を配るイベントがあったので家族を連れて行ってきた。今年の誠司は カウボーイ、芽衣は数年前誠司が嫌がって着てくれなかったスーパーマンの衣装を「スーパー ガール」ということにして、無理やり着せて行くことにした。(明日のトリック・オア・トリーティング でもこの衣装にする予定。)早めに行ったのだけど、もうすでにキャンディーがなくなりかけてい るトラックがあった。それを見てディニースが、「キャンディーは誠司だけもらうことにして、芽衣 のはいらないわ。他の子供達がキャンディーをもらえなくなってしまうから」と言った。
僕はこういう妻が誇りに思えてならない。他人のことをまず先に思いやり、どんなにくだらない
約束でも必ずそれを守る。道徳とか、誠実さとか、そういうのはいくら本を読んで考えても、誰 かから話を聞いても、簡単に身に付けられるような物ではないと聞く。しかし彼女の日ごろの何 気ない行動にはいつも色々教えられてばかりだ。これからも彼女と一緒に生きていきたい。
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さらに、その向学心には、頭がさがる。子育ても一段落しそうなので、今度、奨学金を得て、
大学院へ進むという。誠司は、まだ5歳。芽依は、まだ1歳。が、すでにデニーズは、自分の将 来を考えている。
これをすばらしいと言わずして、何という? こういう女性をすばらしい女性と言わずして、何
という?
かつて二男は、こう言った。「デニーズは、日本の女性より、謙虚深い」と。どういう思いをもっ
て二男がそう言ったのかはしらないが、今どき、謙虚な日本女性は、いない。さがしても、いな い。
親として(こういう言い方は、あまりしたくないが……)、ほんとうに、よかったと思う。
●読者のみなさん、ありがとう!
このところ、私のHPへのアクセス数が、急速にふえ始めている。今まで、カウントは、トップペ
ージしかとっていなかったが、今度、新しいサービスを導入した。それによって、各ページへの アクセス数(=実際には、そのページへの件数と、ダウンロードサイズ)を知ることができる。
それを見て、驚いた!
トップページを通さないで、直接、そろぞれのページにアクセスしてくる人が、こんなにもいると
は、知らなかった。私のHPは、数百ページ以上あるが、どのページにも、平均して、40〜60 人。ダウンロードサイズも、各ページ、1〜10MB!
単純に計算しても、1日、1〜2万人! (本当は、同じ人があちこちを見てくれるということも
あるので、1〜2万件と書くのが、正確。)それにしても、1〜2万人とは! 実際には、もっと、 多い。
こうなると、やる気満々! さっそく、昨日、「ママ100賢」を、充実させた。新しく、100ペー
ジ、追加した。(読んでくれる人は、「はやし浩司のHP」より、どうぞ!)
「生きがい」というのは、こうして生まれるものか? 私は、情報を提供する。それに対して、
読者の人が、私に(生きがい)をくれる。自分ひとりだけの世界に閉じこもっていたのでは、生 きがいは、生まれない。今朝も、朝、起きるのが、楽しかった。
読者のみなさん、ありがとう! おはよう!
●「フレックス・レイ」って、何?
どこかのニュースを拾い読みしていたら、「フレックス・レイ」という言葉が目にとまった。
「フレックス・レイって、何?」
そこでヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、NECのHPには、こうあった。
「NECエレクトロニクス(社長:TZ、本社:神奈川県川崎市)はこのたび、新たに車内用LANの
プロトコルである、FlexRayの推進団体である、「FlexRay Consortium」に加入いたしました。N ECエレクトロニクスはかねてより、車内LAN制御機能の製品展開をマイクロコンピュータを中 心としたシステムLSIで取り組んで参りました。今回のコンソーシアム加入は、当社の車内LAN 分野でのシステムLSI事業を更に強化するものであります」と。
要するに、車の中のLANに関する、新しい制御装置のことらしい。近年、車自体が、全体とし
て、パソコン化している。いろいろな装置が、有機的につながっている。エンジンの指導、ドア の開閉、スピード制御などなど。それを一体的に制御するのが、「フレックス・レイ」ということら しい。(まちがっていたら、ごめん!)
私は、この記事を読んで、「フ〜ン」と感心したり、驚いたり。毎日のように、こうした新語が生
まれる。またそれを知らないと、時代の流れについていけない。それにしても、「フレックス・レ イ」……ネエ。
あなたは知っていたか? 私のばあい、こういう新語に出会うと、どうしてもその意味が知り
たくなる。知らないまま、すますことができない。知らないまま、記事を読んでいると、イライラす る。
ここまで書いて思い出したが、「シャワー方式」。以前、「シャワー方式」という英語教育法があ
った。英語をシャワーのように子どもに浴びせかけながら、英語を教えるという方法である。英 語だけを、ガンガンと子どもに聞かせる。日本語はなし。日本語の解説も、なし。
どこかの大学の教授が、どこかでそういう論文を読んだらしい。そこでその方式に沿った、子
供向けの英会話教材が開発された。私にも、相談があった。が、私は、即座に、反対した。
それがわからなけば、ドイツ語のラジオ放送を、30分だけでも聞いてみることだ。(ドイツ語
のわかる人は別だが……)。たいてい5〜10分もすると、イライラしてくるはず。あるいは毎 日、ドイツ語の放送を、1時間聞いたとしても、ドイツ語を話せるようになるとは、思わない。… …思わないと言うより、そういうことはありえない。
相手が子どもなら、なおさらである。
言葉というのは、そういうもの。「フレックス・レイ」という言葉を見たとき、別の心で、そんなこ
とを考えた。
ついでに「プロトルコ」って、何?
「パソコン用語事典」(秀和システム)によれば、「コンピュータ同士で通信する際に必要な規
則」とある。
コンピュータ同士で、データをやりとりするときには、情報の形式が統一されていなければな
らない。通信速度や通信方式、エラーチェックの方法など。そういった約束事項を統一したもの を、プロトルコというらしい。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(2326)
【2007年】
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この原稿は、マガジン、12月31日
号用。つまり大晦日(おおみそか)。
先ほど、12月28日号の送信予約を、
入れた。で、ここからは、12月31
日号用。
その2007年を振り返ってみる。
いろいろあった。あったが、こういう
ときは、楽しかったことだけを、書き
たい。いやなことは、忘れる。2008年
まで持ち越さない。
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●あいさつ
何はさておき、読者のみなさんへ、
今年、1年、マガジンをお読みくださり、ありがとうございました。読者のみなさんあっての、マ
ガジンです。毎回、少しずつですが、読者の方がふえていくのを知るのは、ほんとうに励みにな りました。
ちかくの(わかば耳鼻咽喉科医院)のスタッフの方は、待合室に、私のマガジンの購読申込
書まで置いてくれています。それを知って、ほんとうに励まされました。この場を借りて、厚く、お 礼申し上げます。
(本当なら、「置いてくれています」ではなく、「置いてくださっています」と書くべきなのですね。
が、私は、へりくだり語を使うのを、極力避けています。相手が、首相でも、天皇でも、へりくだ り語を使いません。どうか、お許しください。)
今年も、今日でおしまいですね。来年、2008年も、みなさんにとっても、すばらしい年となる
ことを、心から念願しています。
私もがんばります。ですから、どうか、みなさんも、がんばってください。ともに、すばらしい新
年を迎えましょう。
●楽しかったこと
楽しかったことは、たくさん、ありました。その一は、何と言っても、三男が無事、大学を卒業
したこと。3年間は、横浜の大学に。つぎの1年間は、オーストラリアに。そしてつぎの2年間 は、航空大学に。そして無事、J社に入社しました。
現在は成田国際空港で訓練を受け、このマガジンが発行されるころは、羽田空港で。そして
2008年のはじめからは、カルフォルニアで訓練を受けることになっています。
とにかく「空」が好きな息子です。「会社も、給料も、どうでもいい。空を飛べれば」などと、言っ
ています。
つぎにワイフと、あちこち、旅行をしたこと。毎月のように、遠出をしました。毎週のように、ド
ライブをしました。「明日、しよう」と考えたら、できるだけ、今日、することにしています。「来週、 しよう」と考えたら、できるだけ、今週、することにしています。
母の介護で忙しかったときは、一時、中断しましたが、毎週曜日を決めて、街中の映画館で
映画を見ることにしています。50歳以上は、1人、1000円で見られます。6回見ると、7回目 は、ただです。
年末にかけて、見たい映画が、毎週のように封切られます。すべてを見るつもりでいます。
が、何と言っても、毎朝、起きるのが楽しかった。私は、起きるとまっさきに、書斎へ入り、パ
ソコンに電源を入れます。あちこちのニュースに目を通したあと、おもむろに原稿を書き始める ……。
それが楽しかった。
私にとって、「生きることは、考えること」。その考えることができる時間は、私にとっては、た
いへん貴重な時間です。
たいてい、朝の5時、6時には、起きます。早いときは、4時に起きます。それから朝食までの
9時までが、私の時間です。
その間に、マガジン用の原稿を書いたり、HPをいじったりします。マガジンの1日分を書くの
に、だいたい、4〜6時間、かかります。平均して、2日で、1日分のマガジンを完成します。そし て配信予約を入れる。
朝、目を覚ましたとき、(やりたいこと)が、どっと押し寄せてくるのは、よいことですね。これか
らも、このリズムは大切にしたいと思っています。
私はみなさんに情報を提供します。どうかこれからも、末永く、私のマガジンを、お読みくださ
い。2008年の2月のはじめ、そのマガジンが、とうとう1000号を迎えます。
つぎにめざすは、2000号です! どうか、また力を貸してください。
そうそう、できれば、まぐプレ(有料版、月額300円)を、どうか、ご購読ください。よろしくお願
いします。
●2008年の抱負
2008年の抱負は、HPのほうに書いておきました。とくに「抱負」というのは、ありませんが、
「何があっても、乗り越えていく」ということだけを目標に、がんばっていきます。できるとか、で きないとか、自信があるとか、ないとか、そういうことはあまり考えないようにします。とにかく、 やるしか、ないのです。
2008年は、ワイフとオーストラリアへ行ってきます。ワイフにとっては、はじめてのオーストラ
リアです。前から行きたいと言っていましたが、安易な気持ちでは、連れていきたくはなかった です。
オーストラリアは、私にとっては、聖地です。だれにも汚されたくない、聖地です。私の人生
は、あのオーストラリアで始まり、今も、オーストラリアでのあの時代とともに生きています。死 ぬときも、(たぶん?)、あの時代を思い出しながら死ぬと思います。
メルボルン大学のインターナショナルハウスは、グーグル・アースの、(下記座標)で見ていた
だけます。今でも、このあたりを見ると、ときに、目が涙でうるみます。
37°47'17.46"S
144°57'29.11"E
ハウスへは、グーグル・アースを開いたら、(編集)→(プロパティ)へと進み、上記の座標を、そ
のままコピーして貼り付けたあと、(OK)をクリックしてみてください。
中央の赤茶色の屋根の建物が、食堂です。東西、広い公園にはさまれています。メルボルン
大学は、ハウスから、南東の方角にあります。中央に総合大学。周辺は、カレッジです。
このハウスにワイフと2泊するつもりです。
●脳みそを使う
ストレスはよくありませんね。しかし使うだけなら、脳みそは、使えば使うほど、効率がよくなり
ます。シナプスも発達します。ですから、脳みそは、使うにかぎる……。
ということで、2008年も、脳みその健康も大切にしながら、原稿を書きつづけます。みなさん
とともに、「生きる」ことについて、考えていきたいと思います。
たった一度しかない人生ですから、思う存分、有意義な人生にしたいですね。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2327)
●気になる記事
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HBCラジオ(函館)のBLOGに、
こんな書き込みがあった。それをまず、
そのまま紹介させてもらう。
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+++++以下、BLOG、書き込み記事より
私には男の子が3人います。上の子が3歳、下の双子は1歳の時です。やんちゃ盛りで目が離
せず、外出もままならず世間から隔離されたような生活の日々。毎日の子育てに疲れて「何で 私ばっかり・・・」と卑屈になって、でもそんな自分もまた嫌で落ち込んでいた頃でした。
ある朝、まだ主人と子どもたちも寝ている時、何気なくテレビをつけると某テレビ番組で講師の
方が子育てについて話をされていました。
その講師の方は「子育ては許して忘れることです」と言いました。「許して忘れる。英語で言うと
"許す"は"forgive"、"忘れる"は"forget;。これを直訳すると"forgive"は"与えるため"、"for get"は"得るため"です。では何を与えて何を得るためなのか・・・。それは愛です。愛を与える ために許し、愛を与えるために忘れるのです。
しかも子どもたちは、そんな知識がなくても既に実行しているんです。お母さんに叱られても5
分か10分もするとケロッと忘れて、またすぐお母さんお母さんと言って寄って来ます。子どもの 方はとっくに"許して忘れる"を実行してるんですねぇ。」
この言葉は、いつもイライラしていた私の心にスーッと染み渡りました。叱ってばかりで子ども
が悪くなくても、自分の感情でつい子どもに当たったこともありました。でもどんなに怒っても、 やっぱり子どもたちは少しすると、お母さんお母さんと言って擦り寄って来るのです。テレビを 見ながら涙が後から、後から溢れ出て止まりませんでした。
今、子供たちは小学校へ通っています。その時の言葉は今も私の中で生きていて、優しい気
持ちでいさせてくれる言葉です。
++++++++以上、書き込み記事より、日付は、7月7日(水)とのみ、ある。
「朝早く」ということだから、「テレビ寺子屋」? もしそうなら、その講師というのは、この「私」
ということになる。「許して忘れる」は、私の子育て論の根幹をなす育児哲学である。
しかし気になるのは、後半の部分。こう、ある。
「しかも子どもたちは、そんな知識がなくても既に実行しているんです。お母さんに叱られても
5分か10分もするとケロッと忘れて、またすぐお母さんお母さんと言って寄って来ます。子ども の方はとっくに"許して忘れる"を実行してるんですねぇ。」と。
私は、こんなことを、話した覚えはない。話したとすれば、「私たちは、親として、無意識のうち
にも、この許して忘れるを、実行している」ということ。
この女性は、どこでどのようにして、まただれから、この言葉を聞いたのだろう。その講師と
いうのは、だれだろう。
もしこの「私」でないとしたら、その講師は、100%、私の持論をパクったことになる。
一度、詳しく調べてみたい。なお、「許して忘れる」は、私の本などでは、1990年の中ごろに
は、あちこちで発表している。また「愛を与えるために許し、愛を得るために忘れる」というの は、100%、私のオリジナルの解釈である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 許して
忘れる 許して、忘れる forgive & forget FORGIVE & FORGET for・give & for・get FOR・ GIVE & FOR・GET 許して忘れるの育児論 許して忘れるの子育て論 許して忘れるの教育 論 愛を与えるために許す 愛を得るために許す by はやし浩司)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2328)
【2008年を展望する】
++++++++++++++++
2008年は、どんな年になるのだろう?
いろいろ考えてみる。
今朝のニュースを読むと、こんな記事
が載っていた。
「ローレンス・サマーズ元米財務長官は、
11月26日、ファイネンシャル・
タイムズ(FT)に投稿したコラムで、
『今年9月のサブプライム問題が起きたときは、
その余波が金融市場にだけ限られたが、
今は、米国経済の低迷のみならず、
世界経済の成長にも悪影響を及ぼすものとみられる」
と警告した。国際通貨基金(IMF)も最近、
来年の米国や欧州連合、日本などの経済成長率は、
今年より下がるだろうと展望した」(東亜N報)と。
何か、いやな感じ……。2008年の景気は、
今年より、悪くなるということらしい。
同じ記事の中には、「大恐慌以来の、衝撃」
という言葉もあった。
しかしあの時代と、現代は、さまざまな点で
ちがう。あの時代は、アメリカ一極にすべてが
集中していた。が、現代は、分散している。
日本がある。EUがある。中国やインドがある。
むしろ今回の、サブプライム・ローン問題は、
「アメリカの終わりの始まり」(経済各誌)
と説く論調が目立つ。
そのことは、アメリカへ直接行ってみると、
わかる。
ホテルに泊まっても、電気器具は、中国、
台湾製。テレビは、東南アジア製などなど。
かろうじてアメリカ製と言えるのは、家具
くらいなもの。
しかもその家具といっても、見た目には
豪華でも、裏から見ると、板をパンパンと
貼り付けただけの、簡単なもの。
「これでは輸出はできないね」とワイフに
話すと、ワイフもあっさりと、同意して
くれた。
アメリカの産業と言えば、農業、電子産業、
軍事産業、それに映画産業。自動車産業
もあったが、今は、勢いが衰えてきた。
「終わりの始まり」という言葉が、現実味を
帯びてきた。
2008年の世界の動向は、すべてここを
起点とする。またここを起点として、
考える。
+++++++++++++++++
●今朝・あれこれ(11月29日)
このところ、(寒さ)があまり気にならなくなった。冬の冷気を、むしろ心地よく感ずることもあ
る。夏に体を鍛えたせいではないか。今年の夏も、クーラーなしでがんばった。運動も欠かさな かった。生きざまも、少し、変わった。
満60歳を迎える前までは、こんなふうに考えていた。たとえばモノを買うときも、「あと、10年
もてばいい」とか、「どうせ使っても、10年」と。何でも、ものごとを、小さく、小さく、考えるように なっていた。しかし今は、ちがう。
どうしてこの私が、この世界に遠慮して生きなければならないのか。年齢を気にして、生きな
ければならないのか。昨夜も、中学生の女の子が、「先生は、いくつ?」と聞いた。それに答え て、すかさず、私は、こう答えた。
「あのね、人間は、年齢ではなく、中身だよ」と。
いくつか数学の問題を相手にして、中学生たちと競争した。私は本気だった。本気で、問題を
解いてやった。今までは、わざと手を抜いたが、もう手を抜かない。抜く必要はない。ボケたフ リをする必要もない。結果、どの問題も、1、2分で、解いてやった。中学生たちは、みな、だれ も、解けなかった。内心、「ザマーミロ!」と思った。
国際情勢はどうであれ、私は、これからもずっと、現役のままがんばる。で、ワイフに、こう言
った。「ぼくはね、75歳まで、現役でいくよ」と。ワイフはうれしそうに笑った。
そうそう、昨夜は、小雨がパラついていた。ワイフが教室まで迎えに来てくれた。しかし私は
自転車で帰った。かなり無理をして走った。そのせいか、今朝は、足が、少し痛い。痛いと言っ ても、心地よい痛さだが……。
●失業率が3%
今月のはじめ、韓国政府は、「韓国の失業率は、3%」と発表した。私はその数字を読んで、
笑った。どうしてあの国は、ウソばかり並べるのか?
経済記事に関して、割と正直なのが、韓国の東亜N報。中央N報や、朝鮮N報の記事など
は、アテにならない。信用してはいけない。その東亜N報に、こんな記事が載っていた。
「6世帯のうち、1世帯が、無職世帯」(11月26日付)と。もう少し詳しく内容を読んでみよう。
「世帯主がこれといった職業を持っていない、無職世帯の割合が韓国の全国世帯の16%近
くあることがわかった。
28日、統計庁によると、今年第3四半期(7〜9月)、全国世帯の中で世帯主が無職である世
帯の割合は15.57%で、昨年同期(14.69%)比0.88%上昇した」と。
わかるかな?
世帯主が無職である世帯が、16%もあるという。簡単に言えば、5軒に1軒。私の家族にあ
てはめてみる。
私という世帯主が無職。考えようによっては、失業率より、この「16%」という数字は、深刻。
息子や娘に仕事があっても、世帯主に仕事がない? あるいは息子や娘にも、仕事がない可 能性も高い。大卒の就職率にしても、20%前後をウロウロしている。
韓国での統計方法によれば、1か月に、1時間でも働いたら、失業者とみなされない。そうい
うことも考えると、「失業率は3%」というのは、まっかなウソと考えてよい。反対に、どうして 「3%」という数字が出てくるのか、不思議でならない。
東亜N報の記事は、こうしめくくっている。
「実際に、今年10月の雇用率は60・4%で、前年同月とほぼ同じ水準を維持するのにとどま
ったが、非経済活動人口は同期間に、1462万1000人から、1480万8000人に、18万70 00人(1・3%)増加した」と。
ウソと虚飾で塗り固めた、韓国の経済指標。みなさんも、くれぐれも、ご用心!
●「選挙」というインチキ
選挙をしているから、民主主義国家ということにはならない。むしろ、選挙という方法が、民主
主義のあり方を、ゆがめているのでは? 今の、日本の政治体制が、そうである。
政治家たちは、「選挙に勝った」というだけで、したい放題のことをしている。しかし実際に、実
権をにぎっているのは、官僚と、その下で巨大なピラミッドを形成する、役人たち。
政治家にしても、「国民から選ばれた」と、どうして言えるのか? 選ばれたのではなくて、「自
分から選んでくれ」と勝手に立候補して、選挙競争に勝っただけのこと。勝っただけで、「選ば れた」と言い出す。巨億の富と権力を、手にする。
どこかおかしいぞ、日本の民主主義。
たとえば権力にしても、財力にしても、「一個人」というワクを超えて、強大になりすぎている。
私たちが民主主義というときは、まさに、こうした権力や財力を、一個人に集中させない制度を いう。またそれができてこそ、民主主義という。
一方、40年前、私がオーストラリアで見た民主主義は、同じ民主主義といいながら、日本の
それとは、まったく異質のものだった。首相にしても、自宅から自転車通勤をしているような感 じ。こんな事件も、あった。
当時の首相だったが、岸壁で、魚釣りをしていて、サメに足をかみ切られるという事件が起き
た。そういう事件が、ユーモラスに、かつそれでいて、どこにでもある事件のひとつとして語られ ていた。
一方、ちょうどその少し前、私が金沢で学生だったときのこと。石川県選出の国会議員が、
防衛庁長官に就任した。その少しあとのことだと思うが、たまたま金沢駅の前を通りかかると、 ものすごい数の車の列に出くわした。
先頭車から、最後尾車まで、ずらりと、100〜200台。兵隊を乗せた自衛隊のトラックも、何
台かつらなっていた。大名行列ならぬ、長官の凱旋(がいせん)行列。こういうことが平気でで きるのが、日本。そういう光景を見ても、何も疑問に感じないのが、日本。今の今も、政治は、 その流れから、一歩も、外に出ていない。
さて、選挙。
よく悪事に悪事を働いた政治家が、失脚するという事件が起きる。そういう政治家でも、再び
選挙に勝って、政治家に返り咲くということがある。当の本人は、「みそぎがすんだ」などとい う。「みそぎ」というのは、神道でいう、水による祓(はら)いをいう。
政治家にしてみれば、それが選挙、ということになる。またそれが民主主義ということになる。
が、実際に、実権を握っているのは、官僚。これはおかしい。
もちろん選挙なくして、民主主義はありえない。しかし反対に選挙を利用して、民主主義を歪
曲(わいきょく)することも、許されない。いわんや選挙を利用して、富や権力が、1個人に集中 するような制度を許してはいけない。選挙というのは、民主主義を維持するための一手段にす ぎない。けっして、それがすべてと考えてはいけない。
何か、おかしい。何か、へん。今回の一連の防衛省を舞台とした疑獄事件をながめている
と、私には、そんな感じがしてならない。
●民主主義(追記)
(付記)
そもそも民主主義というのは、一定個人、集団への権力の集中を防ぐためのもの。それを許
してしまえば、行き着く先は、「独裁」。あのK国でさえ、国名の中に、「xx民主主義人民xx国」と 歌っている。
「民主主義」とは、聞いてあきれる。あきれるが、この日本が、それを笑うことはできない。
そこで「選挙」ということになるが、選挙そのものが形骸化している。どこの県でも、県知事は
みな、元中央官僚。副知事も、元中央官僚。大都市の市長も、元中央官僚。つまり選挙という 手段が、権力者たちが権力を維持するための(お墨付き)としてしか機能していない。官僚世 界でいう、「審議会」のようなもの。適当に有識者を集め、答申を出させる。たいていは、あらか じめ用意したシナリオに沿った答申である。
あとはその答申をよいことに、官僚たちは、したい放題。
民主主義とは何か? 選挙とは何か? だれしも民主主義イコール、選挙と考えやすいが、
民主主義発祥の地、アテネのポリス(都市国家)には、選挙など、なかった。役人は、1年ごと にくじ引きで決めていた。
あくまでも、「民(たみ)」。民あっての代表。その代表は、民のために動く。それが民主主義。
しかしこの問題は、選挙というより、結局は、私たち1人ひとりの意識の問題ということにな
る。その意識を変えないかぎり、この日本に民主主義が定着することはない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●ケチ、一考
++++++++++++++++
ケチはケチでも、時間や健康に、
ケチな人は少ない。しかし時間や
健康に、もっとケチになろう。
お金にケチな人は多い。それはわかる。
しかし時間や健康は、お金よりも
はるかに大切な財産。
その時間や健康を、平気で、ムダに
している人は多い。
++++++++++++++++
ふつう「ケチ」というときは、お金やモノに対することをいう。それはわかる。しかしお金やモノ
よりも、もっと大切なものがある。時間と健康である。
しかし時間や健康に、ケチな人は少ない。くだらない低俗番組を見て、「しまった!」と思う人
は、少ない。おかしなものを食べたり、飲んだりして、「しまった!」と思う人は、少ない。
興味深いのは、タバコ。タバコを吸えば、健康に悪い。悪いことを百も承知で、タバコを吸う。も
し健康がひとつの(価値)と考えるなら、タバコを吸うことは、それ自体が、「損」。
なぜだろう。なぜ、お金にはみな、ケチになるが、時間や健康には、ケチにならないのだろ
う。
たとえば浜松市の郊外に、食べ放題の店がある。昼食時だと、1400円前後で、好きなだけ、
ものを食べることができる。料理の質も、悪くない。私も一度だけ、家族と入ったことがあるが、 「食べなければ、損」という、何ともあさましい誘惑に襲われ、最後まで、料理を楽しむことがで きなかった。
このばあい、食べなければ損と考えるのは、ほんとうに、正しいのか。ほんとうに、損なのか。
必要以上にものを食べれば、かえって体に悪い。健康を害する。
健康を第一に考えるなら、粗食であればあるほうが、よい。大食より、小食のほうがよい。し
かし粗食をたしなむ人や、小食にしている人を、ふつう、ケチとは言わない。
そこで提案。
お金やモノにケチになるのは、それはそれとして、時間や健康に、もっと、ケチになろう。
つまらないことで時間をムダにしたり、健康を害するようなことをしたら、はっきりと、「損をし
た」と思うようにしよう。
・・・これは、私自身の努力目標ということにもなる。
【補記】
たまの日曜日。一度、コタツに足を入れたら最後。そこは天国。空は曇天。葉を落とした庭の
木は、冬のかわいた風の中で、揺れている。
ぼんやりと庭を見ながら、時間をつぶすのもよし。手元にある雑誌に目を通すのもよし。しか
し時間は、刻々と過ぎていく。
こういうとき、私は、よくこう思う。私の頭は、たとえて言うなら、会社の社長。体は、たとえて
言うなら、会社そのもの。会社の中では、無数のスタッフが、それぞれの仕事をもって、働いて いる。社長である私は、会社のスタッフに命令をくだす。
「体を動かして、働け!」と。具体的に指示を出すときもある。「足よ、立て」「手を、動かせ」
「外に出ろ」「自転車に乗れ」と。
しぶしぶながら、スタッフたちが、私の命令に従う。動き出す。ときどき、不平、不満を口にす
るのもいるが、それは無視。私はさらに命令をくだす。「早くしろ」と。
人間の脳みそというのは、本来、怠け者と考えてよい。常に楽な道を選ぼうとする。いやなこ
とは、避けようとする。だから脳みその言いなりになっていたら、体そのものも、怠け者になる。 が、それでは健康は、維持できない。
言い換えると、脳みその言うがままにしていたら、人間は、長生きはできない。つまりこれも
自然の淘汰(とうた)のひとつと考えることはできないか。
もう少しわかりやすく説明しよう。
「生きたい」という強い意思のある人だけが、この世界では、生き残ることができる。強い意
思をもつ人イコール、強い人間。つまり優秀な種族と考えてよい。一方、その意思の弱い人 は、自滅プログラムが働いて、やがて健康を害し、死ぬ。たとえばコタツの中に入り、それでよ いと思っている人は、(それだけでは決まらないが)、その分だけ、健康を害することになる。害 した分だけ、長生きできない。
そこで思い切って、自分の体に命令を下す。「動け」「動いて、自転車に乗れ」と。つまりそれ
がここでいう(強い意思)ということになる。
で、動き出すときは、たしかに、つらい。体も、思うように動かない。しかし自転車にまたがり、
冬の冷気を頬に感じたとたん、足に力が入る。こぐ。前に進む。とたん、そのつらさが、快感に 変わる。
体が命令どおり動くということ自体が、喜びに変わる。さらに言えば、それが(生きている)と
いう喜びに変わる。
自分の体を、(私の体)と考えてはいけない。「私の体」と思うのは、その人の勝手かもしれな
いが、実は、(私の体)の中で、(私)が、作ったものは、何ひとつ、ない。指一本、生命の流れ の中でできた、つまりDNAの構成物に過ぎない。
お金がなければ、不幸になる。それはわかる。しかし時間や健康は、お金では買えない。幸
福も生きがいも、お金では買えない。時間や健康には、限りがある。だったら、……同じことを 繰りかえすが、時間やお金に、もっとケチになろう!
(追記)
昨日、近所の男性が、1人、なくなった。回ってきた回覧板を見ると、満60歳だったという。
私は、同年齢の人がなくなるたびに、ズシン、ズシンと、それが胸に響く。どういうわけだか、
それが胸に響く。
あとでワイフや息子に聞くと、「心疾患だった」という。息子の同級生の父親だったという。
私「どうして心疾患とわかった?」
ワ「あら、新聞には、そう書いてあったわ」
私「新聞には、そんなことも書いてあるのか」
ワ「そうよ」
私「息子の友人の父親か?」
ワ「そうみたい。私も、名前だけ、どこかで聞いたような感じがするわ」と。
心疾患……おそらく心筋梗塞のような突然死ではなかったか。団塊の世代が、またこうして1
人、減った。懸命に戦後の時代を駆け抜けてきて、そして心疾患。私の世代には、会社人間、 仕事一筋という人が多い。何かを信じ、何かを求めて懸命に生きてきた。
回覧板を見ると、2x日に通夜。翌日の昨日、葬儀とある。
私「葬儀は、昨日、終わったみたいだよ」
ワ「早いわね」
私「回覧板が、遅いよ。これでは、回覧板にならない」と。
ついでながら、私は、新聞の志望者欄は、見ないことにしている。見始めると、クセになる。
気になる。仕事がら、そういう欄を毎日見ている人もいるようだが、私は、見ない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
【今朝・あれこれ】(11月30日)
●時刻表的生活
++++++++++++++
昨日は、佐鳴湖のそばにある、
カレー・レストランで、カレー
ライスを食べた。
おいしかった。
で、仕事が終わったのが、午後
8時半ごろ。ワイフが、車で
迎えにきてくれた。
この12月1日に封切りになる、
「マリア」のチケットを買うため。
私とワイフは、そのまま映画館に
向かった。
チケットは、買えた。やや後方の
中央席。ラッキー!
ついでに電光の案内板を見ると、
「マイティ・ウーマン」が始まる
ところだった。
「見ていこうか?」と声をかけると、
「ウン」とワイフ。
それでその映画を見てきた。
ブラッド・ピット監督映画だった
というが、騒がしいだけの映画。
星は1つの、★。しかし昼に
食べたカレーライスの味が
胃袋に残っていて、星は、2個。
「1日で、パキスタンを旅行した
ような気分になった」と私。
「パキスタンは行きたくないわ」と、
ワイフ。
+++++++++++++++
「時刻表的生活」というのがある。毎日、時刻表通りの生活をすることをいう。そういう生活を
している人は、少なくない。概して言えば、高齢者に多い。
が、私たち夫婦は、常に、「非時刻表的生活」。仕事そのものは、分刻みで、しなければならな
い。3時00分から3時50分……と。その反動からか、私は、それ以外の世界で、時刻に縛ら れるのが、いや。結婚当初、さらには子どものころから、時刻や時間を気にせず、自由、気ま まに生きてきた。
私もワイフも、もとを正せば、不良。ハハハ。これはほんとう! 今でこそ、まじめそうな顔をし
ているが、中身は、不良!
結婚当初は、ほんとうに自由だった。自由というより、メチャメチャ。午前中は幼稚園で仕事
をし、午後からは、そのまま香港や、台湾、シンガポールへ。夕方から夜にかけて商談をすま し、夜行便で羽田へ。そしてまた幼稚園へ。
夜中の1時、2時に、ワイフとドライブにでかけるのも、日課のようになっていた。帰ってくるの
は、いつも明け方。映画もよく見た。ラブホテルへもよく行った。その基本は、今も変わっていな い。
ただ子育てをしている間は、少し、まじめ(?)になった。が、子育ても終わった今、私たちを
束縛するものは、何もない。
私「若いころに、もどったみたいだね」
ワ「そう……」と。
ということで、昨夜も、深夜劇場へ。観客は、私たちを含めて、たったの5人! ワイフは、
「貸し切りよ」と、子どものように喜んでいた。(映画館の人には、申し訳ないが……。)
「♪……いくら足が長くても、前の席を蹴らない……」という注意に合わせて、私は、前の椅子
を、足で、ポンポンと蹴ってやった。ハハハ!
ところで昨夜見た、「マイティ・ハート」は、アカデミー賞の受賞候補になっていたという。今朝、
ワイフがそう言った。
私「アメリカ人の傲慢さだけが目立つ、イヤな映画だった」
ワ「そうね。アメリカ人は、世界中、どこでも大切にされるべきって、そんな雰囲気ね」
私「そう。もしあれが、日本人や、インド人なら、パキスタン政府は、ああまで動かなかっただろ
うね。それにアメリカ人ほど、強く、パキスタン政府に出なかったと思うよ」と。
しかしやはり星は1つの、★。ほとんど印象に残らない映画だった。最初から最後まで、ドタ
バタの連続。つまり、新手のドタバタ映画。(ごめん!)ハッピーエンドだったら、まだよかった が、それもなかった。
帰ってきたのは、12時、少し前。そのままふとんにもぐって、眠った。
●時刻表的生活
朝、5時に起床。朝5時半に、雨戸をあけて、カーテンを開ける。7時に洗濯をすまし、朝食は
きっかり、午前7時半……。夏も冬もない。晴の日も雨の日もない。
そういう生活を、「時刻表的生活」という。東洋医学でも、そういう生活は、健康のための第一
条件と教える。しかしものごとには、程度というものがある。ある程度の規則性は大切だが、そ れが5分刻み、さらには1分刻みになったら、「?」。へん。おかしい。異常。
つい先日亡くなったが、A氏(享年86歳)という男性がそうだった。毎日の生活のみならず、1
週間単位、さらには1か月単位でも、「時刻表的生活」を繰りかえしていた。晩年になると、家 から一歩も外に出ず、1分単位で、規則正しい生活を繰りかえしていた。
そのため近所の人には、「時計」というニックネームで呼ばれていた。その人の行動を見れ
ば、時刻がわかったからである。
で、ある種の認知症にかかると、生活習慣が、時刻表的になることはよく知られている。つま
り脳みそが硬直化し、がんこになる。私の兄も、そうだった。グループホームへ入る前は、誤差 にして、プラスマイナス10分前後の生活をしていた。
夏でも冬でも、午後6時ごろになると、カーテンをしめ、ドアにカギをかけた。7時になると、夕
食をせがんだ。「?」と思っている間に、認知症がどんどんと進んでしまった。そういうケースも あるから、時刻表的生活というのは、けっして、好ましいものではない。
ある程度は、フレキシブルに生きる。その(変化)が、脳みそに、よい刺激を与える。それに
時刻表的生活というのは、おもしろくない。本人はともかくも、まわりの人には、おもしろくない。
反対に考えると、生活が、どこか時刻表的になってきたら、要注意ということになる。子どもの
世界でも、(がんこ)は、クセモノ。自閉傾向(「自閉症」ではない)が、進むと、がんこな様子を 見せるようになる。
毎日、同じ青いズボンでないと幼稚園へ行かないとか、幼稚園でも、毎日、同じ席でないと座
らないとか、など。ひとつの(殻=から)の中にこもってしまう。こもると、本人自身も、身動きが 取れなくなってしまう。それが典型的な形で現れるのが、かん黙児ということになる。家の中な どでは、ふつうに会話ができるが、外の世界では、貝殻を閉ざしたかのように、黙ってしまう。
子どものばあいは、(情緒)の問題ということになる。高齢者のばあいは、(脳みそ)の問題と
いうことになる。
ではどうすれば、時刻表的生活を、私たちは、避けることができるか?
一般論からすれば、子どもの頭のよし悪しは、思考の柔軟性で決まる。臨機応変に、その場
であれこれ対処できる子どもは、頭がよい。伸びつづける。
同じように考えると、高齢を迎えて、思考性から柔軟さが消えたら、それだけ、脳の老化が進
んだと見てよい。言いかえると、高齢になってからも、新しい分野に挑戦していく。興味をもつ。 そういう前向きな姿勢が、脳の硬直化を防ぐ。
さて、私のこと。兄は兄だが、今のところ、私は、だいじょうぶなようだ。ワイフも、だいじょうぶ
なようだ。そのつど、臨機応変に、行動している。変化のある生活を楽しんでいる。
ついでに、子どもの(がんこ)について書いた原稿を、さがしてみた。
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●伸びる子、伸びない子
伸びる子どもには、いくつかの特徴がある。
(1)思考が柔軟で、
(2)好奇心が旺盛、それに
(3)生活力(忍耐力)がある。
思考が柔軟ということは、たとえばおとなの冗談が通ずる。反対に頭のかたい子どもは、おと
なの冗談が通じない。こんな会話をする。
私「今日はいい天気だね」
子「雲があるから、いい天気じゃない」
私「雲があってもいい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気じゃ、ない!」と。
好奇心が旺盛ということは、一人で遊ばせておいても、身のまわりから次々と、新しい遊びを
発見したりすることをいう。そうでない子どもは、「退屈だア」とか、「早くおうちへ帰ろうヨ〜」な どと言ったりする。また好奇心の旺盛な子どもは、新しいことを見せると、「やる! やる!」と 食いついてくる。趣味も多く、多芸多才。友だちも多い。
そして忍耐力。子どもの忍耐力は、「いやなことをがまんしてする力」のことをいう。たとえば
台所の生ゴミを手で始末できる。寒い夜、回覧板を隣へ届けることができる、など。忍耐力の ない子どもは、「いやだア」と言って、逃げる。よく「うちの子どもは、サッカーだと一日中してい ます。そういう力を勉強のほうに向けたい」と言う親がいるが、その子どもは好きなことをしてい るだけ。サッカーを一日中しているからといって、忍耐力がある子どもということにはならない。
反対に子どもを伸ばすには、この三つのことに心がける。たとえば頭をやわらかくするために
は、いつも子どもの周囲に何らかの変化を用意する。
ある母親は、娘のために一日とて同じ弁当を作らなかった。そういう姿勢が、その子を伸ばし
た。その娘はやがて女流作家になり、ある都市の教育委員長にまでなった。要するに、生活の ハバを広くせよということ。その一例というわけではないが、昔から転勤族の子どもは頭がよい という。つまり転勤という大きな環境的変化が、子どもによい影響を与えると考えられる。
好奇心を旺盛にするためには、親自身が自分の世界を広めるつもりで努力する。そして子ど
もにいつも、それを体験させる。子どもがある特定のものに執着したり、固執したりするのは、 あまり好ましいことではない。たとえば虫なら虫ばかりに興味をもつとか、あるいは特定のズボ ンでないと、幼稚園へは行かないとがんばる、など。
最後に生活力(忍耐力)をつけさせるためには、子どもを使って使って、使いまくる。もう少し
具体的には、家庭の緊張感の中に子どもを巻き込むようにする。「あなたがこれをしなけれ ば、家族の皆が困るのだ」というような雰囲気を、家庭の中に作る。親がソファの上に寝そべり ながら、子どもに向かって、「新聞を持ってきなさい」は、ない。
伸びる子どもは、ほかの子どもたちが伸びを止めるようなときでも、そのまま伸び続ける。そ
していやなことや困難なことがあっても、それを乗り越えていく。そして結果として、ほかの子ど もより伸びる。
ただしここでいう「伸びる」というのは、学習面で伸びるということではない。勉強ができるできな
いは、あくまでも、その結果でしかない。
+++++++++++++++
●がんこな子ども
「がんこな子ども」というときは、ふつう、つぎの二つのタイプを考える。(1)自分のカラにこも
り、かたくなな態度や様子を示す。ある男の子(年長児)は、幼稚園で、いつも同じ席でないと 座ろうとしなかった。また別の男の子(年長児)は、毎朝、いつも同じズボンでないと、幼稚園へ 行かなかった。ほかに二年間、毎朝迎えにきてくれる幼稚園の先生に、一度もあいさつをしな かった子どももいた。
もうひとつは、(2)「自分が絶対正しい」と、かたくなになることをいう。このタイプの子どもは、
その返す刀で、「相手は絶対にまちがっている」と主張する。そして結果として、自分の思いど おりにならないと気がすまない。あるいは自分の思いどおりにしてしまう。教える側からみると、 ともに何を考えているかわからないタイプの子どもということになる。ふつう心と表情が遊離す るため、柔和な表情や、穏やかそうな顔つきになることが多い。
こうした「がんこさ」は、子どもにとっては好ましくない。子どもの心に何か変調が起きると、子
どもはがんこになる。で、その対照的な位置にある子どもが、「すなおな子ども」ということにな る。
心と表情が一致している子ども、心のゆがみのない子どもを、すなおな子どもという。うれしい
ときは心底、うれしそうな表情をする。悲しいときは、心底悲しそうな表情をする。親切にしてあ げたり、やさしくしてあげると、その親切ややさしさが、そのままスーッと子どもの心の奥にしみ こんでいくのがわかる。なおここでいう「心にゆがみのある子ども」というのは、ひねくれたり、つ っぱったり、いじけたりしやすい子どもをいう。
子どもにこうしたがんこな様子が見られたら、子どもをなおそうと考えるのではなく、家庭環
境、とくに親子関係を反省する。もちろん生来の問題もあるが、コツは、今の状態をより悪くし ないことだけを考えて、一年単位で様子をみる。
私はこのタイプの子どもを預かったときには、とにかく大声で笑わせることだけを考えて指導す
る。実際、その「大声で笑う」という行為には、不思議な力がある。もしあなたの子どもが、ここ でいうような「がんこさ」を見せたら、どんな方法でもよいから、大声で笑わせることに心がけた らよい。大声で声を出させるのもよい。
(02−9−25)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 がん
こな子ども 子どものがんこ 子供のがんこ がんこな子供)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
******************************
さて、今日で、2007年度のマガジンは、おしまい。
次回は、1月1日、火曜日ということになる。
正月休暇のまっただ中だから、読んでくれる人も
少ないと思うが、私は、マイペースで、発行していきたい。
今までも、ずっと、そうしてきた。
で、2008年は、どういう年になるのか?
期待と、不安。プラス心配。私のばあい、現状を維持する
だけで精一杯。またそれができれば、御の字。
ただ新しいことには、どんどんと挑戦していきたい。
2007年は、毎月、4〜6万円分の本や雑誌を買った。
ボケ防止のためと考えれば、安い。
2008年度も、本や雑誌にだけは、惜しみなく、
お金を使いたい。私の知らないことは、目の前に、まだ、
山のようにある。
マガジンは、2月のはじめに1000号を迎える。
1000号だぞ! やっと目標の1000号だぞ!
自分でも、よくがんばったと思う。この4年間だけでも、
原稿用紙(40字x36行)で、2万1000ページもの
原稿を書いた。
2万1000ページといっても、ピンとこない。こないが、
500枚単位で売られている用紙に換算すると、42冊分。
1冊分が4〜5センチの厚さだから、2メートルくらいの高さに
なる。
もしだれかが、それらすべてをプリントアウトしてくれたら、
厚さ2メートル分にもなるということ。
そんな人はいない。いても、読む人は、いない。
不可能。読むだけでも、半年から1年はかかる。
……ということで、2007年度は、おしまい。
みなさん、ここまで読んでくれて、ありがとう。
ほんとうに、ありがとう。また来年も、がんばります。
浜松市 はやし浩司
********************************
【お願い】
1年以上、マガジンを読んでくださり、これからも読んでくださる
方は、どうか、どうか、まぐプレ(マガジン有料版、月額300円)の
購読をお願いします。
よろしく、よろしくお願いします。
申し込みは、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
で、していただけます。
********************************※
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2329)
●日本人の職業観
+++++++++++
日本人の職業観と、
欧米人の職業観は、
当然、ちがう。
それについて……
+++++++++++
高校生が使う英語の教科書に、「POLESTAR2」(数研出版)がある。その中に、「仕事を選
ぶ」(Choosing a career、プログラム8)というのがある。高校生のために書いた、いわば仕事 を選ぶためのガイドブックといったものだが、その中に、こんなことが書いてあった。
「……仕事を選ぶとき、たとえば生物学のような仕事を選べば、(いつも家から離れて仕事を
するので)、家族生活が犠牲になることを考えなければならない。もしとくにしたいことがなけれ ば、そのときできる仕事しごとをすればよい。しかしあなたに才能(タレント)があるなら、あなた はどこでもその才能を生かした仕事ができるだろう」と。
一読すると、何でもないことが書いてあるように思うかもしれないが、これらすべてが、日本人
にはない発想だけに、おもしろい。それを説明する前に、日本人がもつ職業観について書いて おく。
この教科書を説明しているとき、私は何人かの高校生に、こう聞いてみた。「君たちの先生
は、『仕事』と言うとき、コンビニや工場でするようなことを、仕事と考えていると思うか」と。する と、全員、「ううん」と答えた。はっきりとは言わなかったが、「そういうのは、仕事ではない」と。 実は、ここに日本人独特の、ゆがんだ職業観がある。そこでさらに私は聞いてみた。「君たち にとって、仕事とは何か」と。すると、それぞれが、「弁護士とか医者とか、まあそんなところか な」「みんなができないことをするのが仕事。だれでもできるようなのは、仕事ではない」「設計 士とか、建築家は仕事。科学者も仕事かな」と。
こうした職業観は、親たちももっている。目が「上」ばかり、向いている。そしてこうした職業観
が、結局は、学歴信仰の基礎になり、それがまわりまわって、日本の教育をゆがめている。そ こで改めて、先ほどの教科書の内容を読んでみる。そこには、こうある。
(1)「家族生活が犠牲になる」……ひところ昔よりは目立たなくなったが、単身赴任という制度
は、今でもしっかりと日本の社会の中で生きている。何かにつけて、仕事が優先される。私た ち日本人は、仕事を考えるとき、「家族の犠牲」という言葉はあまり使わない。最近、単身赴任 は、かえって仕事の効率を悪くするという意見があちこちから聞こえるようになったが、それと て、「仕事の効率」という視点からの意見である。
(2)「とくにしたいことがなければ……」……この日本では、それが大半の人にとってはそうで
あるにもかかわらず、こうしたものの考え方を認めない。少し前には、「フリーター撲滅論」を唱 える、高校の校長すらいた。仮に進路指導の先生が、「とくにやりたいという仕事がなければ、 店員でも工員でも、何でもいいではないか」などと言ったら、それだけでも問題になるのでは? この日本には、「よい仕事」と、「そうでない仕事」がある。江戸時代の身分制度のなごりと言 ってもよい。職業には格づけがあり、その職業によって、人間の価値が決まる。しかもほとんど の日本人は、無意識のまま、それをする。
(3)「才能(タレント)があれば……」……これを説明するためには、大学制度の違いについて
書かねばならない。今、アメリカでは、大学へ入学したあとでも、学部の変更はもちろん、ほか の大学への転籍さえも、自由になっている。公立、私立の区別はない。ヨーロッパでは、大学 は完全に、共通化されている。しかしこの日本では、何かの席で自己紹介するときは、必ずと いってよいほど、「○○大学を卒業後……」という言葉が出てくる。アメリカでは、最終的にどこ の大学で学位を認定されたかということは、重要だが、そういうわけで、いわゆる学歴(ブラン ド)は、ほとんど意味をもたない。博士号などにいたっては、その大学で一度も勉強したことが なくても、論文審査だけで認められる。(だから博士号を乱発する安っぽい大学も、一方にある にはある。)「才能(タレント)があれば……」という発想は、そういう大学制度を背景にして生ま れる。つまり欧米の大学生にとって大切なのは、学歴(ブランド)ではなく、中身ということにな る。
私の予想では、あと五〇年ほどで、日本人の考え方も、これに近くなると思う。すでに今、日
本人の意識そのものが大きく変わり始めている。それはそれとして、しかしまだ距離は遠い。 たとえば学校の先生が、あなたの子どもにこう言ったとする。そのとき、あなたはその先生の 言うことに納得するだろうか。
「仕事というのは、何でもいいのだよ。自分のできることをすれば。コンビニの店員でも、工場
の部品工でも、すばらしい仕事だよ。仕事に上下はない。大切なのは、一生懸命することだ よ。忘れていけないのは、仕事をする目的は、それで得たお金で、豊かな家庭生活を送ること だよ。そのために仕事をするのだからね」と。
日本人がこうした考え方を、当然のこととして、そして自然な形で、そうだと思えるようになる
のに、「あと五〇年ほど」かかる。……と私は思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 職業
観 子供の職業観 子どもの職業観)
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●正直な人、不正直な人
++++++++++++++++
介護センターへ行くと、そのつど、
いろいろな人に出会う。
そこでのこと。先日は、こんな
ことがあった。
人間の心理を知るのに、たいへん
おもしろい事実なので、そのまま
ここに書きとめる。
++++++++++++++++
介護センターへ行くと、そのつど、いろいろな人に出会う。先日も出会った。こんなことがあっ
た。仮に、その2人の人を、Aさん(女性、50歳くらい)と、B氏(60歳くらい)としておく。
Aさんと、こんな会話をした。
私「(施設にいる)お母さんのインフルエンザの予防注射は、どうしますか?」
A「私は、受けませんが……」
私「老人には、よくないのでしょうか?」
A「受けたところで、効果があるとはかぎりませんし……」
私「はあ……。で、お母さんは、どうなさいますか?」
A「母は、毎年、受けていません……」と。
一方、B氏とは、こんな会話をした。
私「よくここ(=介護センター)へおいでになるのですか?」
B「忙しいから来ません。……4か月に1回くらいかな」と。
AさんとB氏の会話の(ちがい)が、あなたには、わかるだろうか。Aさんは、私が、介護施設
にいるAさんの親の予防注射はどうしますか、と聞いたのに対して、「私は、受けません」と、答 えている。まず、自分のことを話している。つまり「私も受けていないから、母も受けない」と。
何か、やましいことでもあるのだろうか?
一方、B氏は、ありのままを、すなおに話している。4か月に1回というのは、回数としては、
少ない。少ないが、悪びれた様子もない。ありのままを、そのまま話している。
何でもない会話だが、そんな会話の中にも、その人の正直さが、そのまま表れる。Aさんは、
たいへん不正直な人とみてよい。いつも自分の心を偽り、飾っている。一方、B氏は、正直。事 実を、そのまま話している。
この話を家に帰ってからワイフに話すと、ワイフは、興味深そうに、私の話を聞いてくれた。
「きっとそのAさんね、予防注射を受けさせていないことを、どこかでうしろめたく思っているの
よ。それをあなたに指摘されたものだから、被害妄想のようなものが先に立って、そう言ったの だと思うわ」と。
ワイフの言ったことは、ズバリ、核心をついている。私は、何も、Aさんを責めるつもりで、そう
言ったのではない。が、Aさんは、自分が責められていると誤解した。だから、返事を、オブラ ートで包んだ。
ついでながら言っておくが、老人のばあい、予防注射といっても、1000円前後の費用でしても
らえる。たいした金額ではない。
私「ぼくはね、少なくとも、この10年以上、正直に生きてきたよ。努めて、そうしてきた」
ワ「そうね」
私「だから、そういうふうに、心を偽る人を見ると、心底、不愉快になる。一方、正直な人を見る
と、心が洗われるかのようなすがすがしさを覚える」と。
子どものころの私は、ここでいう不正直な子どもだった。だから今、よけいに、不正直な人を
見ると、不愉快になるのかもしれない。子どものころの自分を、見せつけられるように思うのか もしれない。
私「あのAさんにしても、お金がもったいないから、受けませんとで言えば、正直な人ということ
になる。でも、そういうことは言わないだろうね」
ワ「自分をよく見せるために、ね」
私「反対に、B氏が不正直な人だったら、どうだろう?」
ワ「きっと、こう言うと思うわ。……『できるだけ、時間を見つけて来るようにしています。母もさ
みしがるでしょうから』と、ね。4か月に1回という話は、ぜったいにしないと思うわ」と。
……ということもあって、私は、改めて、心に誓う。自分に言って聞かせる。「私は、正直に生
きるぞ」と。
ありのままの自分を、そのままさらけ出しながら生きる。そういう私を、人がどう思おうと、私
の知ったことではない。
Hiroshi Hayashi++++++++Nov 07++++++++++はやし浩司
●若者たちの活字離れ
+++++++++++++++++++
ネット・サーフィンをしていたら、こんなコラム
が目についた。
「テレビ、携帯電話、インターネットは、若者
たちから、考える力を奪う」「何としても、これらを
子どもに近づけてはならない」※と。
「活字離れ現象は、文化の崩壊を予言するもの」とも。
これを読んだとき、私は、「どうしてインターネットが?」と、
思ってしまった。
「ギャグ番組や携帯電話は、若者たちから・・・」
というのであれば、そのとおり。私納得する。
+++++++++++++++++++
何度も書くが、(情報)と(思考)は、まったく別のもの。情報が多いからといって、賢いというこ
とにはならない。たとえば幼稚園児が、掛け算の九九をペラペラと口にしたからといって、その 子どもに、算数の力があるということにはならない。
その人の賢さは、(考える力)によって、決まる。そこでこのコラム。こうある。
「テレビ、携帯電話、インターネットは、若者たちから、考える力を奪う」「何としても、これらを
子どもに近づけてはならない」と。
テレビといっても、内容はさまざま。携帯電話については、私も、同感。ただインターネットに
ついては、一概に、そうも言えないのではないか。親たちの中には、(インターネット嫌悪性)と いうのがあって、インターネット、イコール、「悪」と考えている人も少なくない。「子どもには、ぜ ったい、インターネットをさせない」とがんばっている親もいる。
しかしこと、「悪」ということになれば、悪は、さまざまなルートを通して、子どもの世界に入って
くる。インターネットだけを遮断しても、ほとんど、意味はない。
少し話がそれたが、「考える力」はどうか? ……私は、これも使い方の問題だと思う。BLO
Gにしても、読みごたえのあるのも、多くなった。他人の意見を読み、それに自分の意見を加え ていく。その過程で、考える力が、養われる。
もし「インターネットが、若者たちから考える力を奪う」というのであれば、それは一過性のも
のではないか。たとえて言うなら、インターネットの世界は、すでに世界の大河になっている。そ の大河の中に、棒を1本や2本立てたくらいで、水の流れを止めることはできない。要は、使い 方の問題ということ。
さらに「活字離れ」についても、一言。
この問題は、そのまま国語教育に直結する。日本でも最近、図書館教育に力を入れるように
なってきている。が、アメリカなどには、「ライブラリー」という時間がある。たいてい週1時間の 授業だが、先生が、それぞれの子どもに合った本を選び、貸し与えている。
この指導にあたるのは、修士号以上の資格をもった教師に限られている。つまりそれくらい、
ライブラリーの授業には、力を入れているということ。
むしろ現場で「活字離れ」を感ずるとしたら、コミックがあげられる。休み時間ともなると、子ど
もたちは、どこからもってきたのか、それぞれが無言のまま、コミックをよみふける。活字の本 を読んでいる子どもは、まず、いない。
だからといって、コミックを否定してはいけないが、この問題は、もっと根が深いということ。
少し気になる記事だったので、コメントしてみた。
(注※)日本最大手の学術出版社・岩波書店に40年間勤務し、うち6年間は社長を務めたベ
テラン編集者・OT氏(68)が来韓した。OT氏は03年に社長を退いた後、新聞社・出版社関係 者と活字文化推進委員会を設立、児童・生徒の朝読書や子ども読書奨励運動に携わってい る。
OT氏は「"考える力を抹殺するテレビやインターネットは何としてでも子どもに近付けてはな
らない"というノンフィクション作家・柳田邦男氏の主張に全面的に共感する」と語った。
「携帯電話・インターネット・テレビに取りつかれた日本の若者の活字離れ現象は、文化の崩
壊を予言するもの。このような没落の道を韓国が辿らないことを望んでいる」
(朝鮮N報、07年11月)
(付記)
上のエッセーを、S社の翻訳ソフトを使って、翻訳してみた。
結果は、以下のとおり。
+++++++++++++++
The type detached building of the ● young men
+++++++++++++++++++
If net, surfing is being done, such a column
It was attached in the eyes.
A 「 television, a cellular phone and the Internet are young men.
From たち, 」「 whatever that the power to think about is taken by force is taken, these
With 」※ which must not be drawn to the child near.
"A type detached building phenomenon predicts the collapse of the culture." too.
When this was read, as for me, 「, why, Internet?
With 」.
It thought.
"As for the gag program and the cellular phone, from the young men"
The same way that it says.
I understand it.
+++++++++++++++++++
Though it is written many times, as for (the information) (thinking) is really special.
Just because there is much information, it doesn't become smart.
It doesn't become a thing with the arithmetical power that child just because for example a
kindergartener moved the multiplication table of the multiplication to ペラペラ and the mouth.
That person's cleverness depends on (the power to think about).
So, this column.
It is here like this.
With "A television, a cellular phone and the Internet rob young men of the power to think
about." "Whatever is taken, you must not draw these to the child near."
Contents vary even if a television is said.
As for the cellular phone, I am agreement, too.
As for the Internet, can't generally you only say so, either?
There is a thing which says (Internet hatred) in the parents, and there are not a few people
thinking with the Internet, the equal, "the evil", either.
There are "A child is never made to have the Internet." and parents doing the best, too.
But, evil goes into the child's world through the various routes if it becomes the thing of the
thing, "the evil".
Even if only the Internet is interrupted, meaning doesn't almost have it.
Though a story strayed a little, as for "the power to think about", please?
…… I think that this is a matter of the way of using, too.
Though BLOG was taken, it increased that there were reading ごたえ, too.
Others' opinion is read, and the opinion is added.
The power to think about is developed in that process.
That that if it says "The Internet takes the power to think about from the young men by
force." is a transient thing.
If it is compared and it says, the world of the Internet is already the large river of the world.
The flow of water can't be stopped in that large river as much as to stand two sticks, one.
In short, the thing of a matter of the way of using.
More, as for "the type detached building" as well, word.
This problem is connected with language education directly as it is.
It has been coming to put the power in the library education recently.
But, there is time of "the library" in America and so on.
Though it is usually a class for one hour in a week, the book that a teacher was suitable for
each child is chosen, and lent, and it is being given to it.
The matter that it hits this guidance is limited to the teacher who has a qualification beyond
the master issue.
In other words, the thing that at least that puts the power in the class in the library.
Comics are given to it if "a type detached building" is rather made 感ずる in the spot.
Comics are read, and children are absorbed with something bringing it or each being silence
【 when a rest time is 】.
There is no child reading the book of the type first.
Therefore, this problem is more intimate a root though it says and you must not deny
comics.
It tried to comment because it was the article which it was a little anxious about.
It worked in learning publishing company, Iwanami Shoten, Publishers of the (note ※)
Japanese extreme big enterprises for 40 years, and Mr. expert editor, OT (68) that the inside served as the president for 6 years 韓する 来.
Mr. OT establishes a type cultural promotion committee with the persons concerned in a
newspaper company, publishing company, and he is concerned with reading and the child reading encouragement movement in the morning of the child, student after he retires from the president in 03.
Mr. OT told "It sympathizes with the assertion of Mr. nonfiction writer, Yanagida 邦男 of "
As for anything, you must not draw the television which erases the power to think about, and the Internet to the child near." completely."
The type detached building phenomenon of the young Japanese man where a 「 cellular
phone, Internet, television clung predicts the collapse of the culture.
」 South Korea is being wished not to follow the way of such ruin
(A Korean N report, November, 07)
++++++++++++++
このままでは、????。使い物にならないので、修正してみる。
++++++++++++++
●Few young men read books
+++++++++++++++++++
I happened to read such a column about the young men in Japan who reads less and less
books.
It says"televisions, a cellular phone and the Internet are young men have been depriving "
Thinking Ability" from Japanese young men.
Therefore these things should be avoided and you are suggested not to give them to young
men, especially children.
"These things would collapse of the culture." too.
When I read this, I just question myself, "why, Internet?"
It thought.
"As for the gag program and the cellular phone, what he says is right. "
I understand it.
+++++++++++++++++++
As I have written written many times, (the information) (thinking) is really different things.
Just because he or she has much information, it doesn't mean he or she is wise.
It doesn't become a child has arithmetical power if that child can recite just the
multiplication table.
A person's cleverness depends on (the power to think ).
So, this column should be like this:
With "A gag television program, a cellular phone and may rob young men of the power to
think." "Whatever is taken, you must not draw these to the child near."
As for television programs, it depends on its content. As for the cellular phone, I am
agreement, too.
As for the Internet, the problem is how to use it.
Many young mothers and fathers think "Internet is bad for kids and therefore theay are not
be used by them." But who can stop this big flow of water with some sticks o out into the water?
Evil goes into the child's world through the various routes if it becomes the thing of the
thing, "the evil".
Even if only the Internet is stopped,the probles can not be solved.
Though a story strayed a little, as for "the power to think about", please?
…… I think that this is a matter of the way of using, too.
Though BLOG was taken, it increased that there were reading ごたえ, too.
Others' opinion is read, and the opinion is added.
The power to think about is developed in that process.
That that if it says "The Internet takes the power to think about from the young men by
force." is a transient thing.
If it is compared and it says, the world of the Internet is already the large river of the world.
The flow of water can't be stopped in that large river as much as to stand two sticks, one.
This problem is connected with language education directly as it is.
Many schools have started "library lessons" and this is one of the solution.
In USA, almost all schools have "library" lesson in most cases once a week. A very expert
with MD degree is teaching children.
But as a mater of fact, comics are more read, and children are absorbed with something
bringing it or each being silence at schools.
There is few child reading books of the type.
Therefore, this problem is more intimate a root though it says and you must not deny
comics.
I tried to comment because it was the article which I was a little anxious about.
+++++++++++++++
2008年度からは、英文のBLOGに力を入れてみたい。
この12月期は、その準備期間としたい。
へたくそでも何でも、まず英語で書いてみること。まず、そこから始めたい。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●「マリア」「Maria」
++++++++++++++
今日の午後、市内の劇場で、
「マリア」を見てくる。
その前に、当時の状況を学習
してみたい。
This afternoon my wife and I am to see the movie "Maria" and here I would like to study
about its historical background of the movie.
++++++++++++++
「マリア」の公式紹介サイトには、つぎのように、ある。そのまま引用させてもらう。
「イエス・キリスト誕生の裏に秘められた、母マリアとその夫ヨセフの愛の物語を映画化。監
督は『ロード・オブ・ドッグタウン』のキャサリン・ハードウィック。ヨセフとの婚約中に身ごもってし まい、村人たちからさげずまれるマリアを、『クジラの島の少女』のケイシャ・キャッスル=ヒュー ズが演じる。『砂と霧の家』のショーレ・アグダシュルーらも出演。神学、歴史、政治など、あら ゆる専門家の協力を得て、忠実に描かれた作品世界に注目」と。
「神学、歴史、政治など、あらゆる専門家の協力を得て、忠実に描かれた作品世界に注目」
という部分が、気に入った。
This is the movie which is produced precisely based on studies of Maria and her husband
Joseph.
シネマ・トディには、さらに、つぎのようにある。
「ヘロデ大王の圧政に苦しむナザレで、家族とともにつましい暮らしを送るマリア。愛してもい
ないヨセフとの婚約話が整ったことを両親から知らされた彼女は、心を落ち着けるために逃げ 込んだ林で、天使ガブリエルから、「あなたは神の子を身ごもる」と告げられる」と。
People are suffering from the pressure of the King Herod( Herod the Great).
Maria is forced to get marry with a man whom she does not love. Then she runs out of the
village to a forest where she is told she gets pregnant by angel Gabriel.
つまり、マリアは、今でいう見合い結婚をさせられたということか。それで森の中に、逃げ込ん
だ。私は、マリアとヨセフは、たがいに愛し合って結婚したものだとばかり思っていた。
Acoording to this brief guidance, Maria is arranged to get married by her parents. I did not
know this. I though they got married loving to each other and then they had a baby. This may have been wrong.
となると、ヨセフの苦痛は、さらに倍加する。自分を愛していない女性と、しかもすでに身ごもっ
てしまっている女性と結婚することになる。私がヨセフなら、マリアとは結婚しない。こういう問題 は、現実の私に当てはめてみると、理解できる。あなたは、それでもマリアを愛することができ るか。
It means that Jpseph marries to a girl who does not love him and the girl who is pregnant
already. If I were Joseph I would not marry to such a girl. I can understand how much Joseph suffers from the pain, which is more understandable when you yourself is put into the situation. Can you still love Maria?
ついでにヘロデ王について。歴史の勉強にもなるので、ウィキペディア百科事典から、そのま
ま引用させてもらう。
+++++以下、ウィキペディア百科事典より++++Herod the Great
古代ユダヤにおいて再び独立を獲得したハスモン朝の末期の王アレクサンドロス・ヤンナイオ
スの息子ヒルカノス2世の側近に、イドマヤ(エドムのギリシャ語読み)出身のアンティパトロスと いう武将がいた(イドマヤはハスモン朝によってユダヤ教化させられた土地であり、ユダヤ人か らは軽視されていた、と書かれている)。ヘロデはこのアンティパトロスの息子である。父アンテ ィパトロスはローマ軍の軍事行動を積極的に援助することでユリウス・カエサルの信用を勝ち 取ることに成功した。
ヘロデはカエサル死後の混乱したローマの政治情勢を読みきって、ローマとの友好関係を維
持することに成功。ガリラヤ地方の知事として統治した。父アンティパトロスがマリコスというユ ダヤ人に毒殺されると、即座に彼を捕らえて処刑しているが、ヘロデの専制的なやり方はユダ ヤ人最高法院の反感を招くものであった。
ヘロデのチャンスは人生最大の危機によって訪れた。政教一致政権であるハスモン朝におい
て大祭司でもあった、ヒルカノスの甥アンティゴノスがパルティアの援助を受けて伯父に叛旗を 翻したのである。エルサレムにいたヘロデの兄パサエロスも捕らえられて、命を落とした。ヘロ デはマリアンネ1世を妻として、ハスモン朝との関係を作っていたが親ローマであったため身に 危険がおよび、ガリラヤから当時クレオパトラのもとにいたマルクス・アントニウスの援助を求 めて、アレクサンドリアへ逃れ、そこからローマに渡った。
ヘロデはローマにおいて元老院にアピール、父の代から続くローマへの忠誠を評価されて、ロ
ーマの軍勢を貸与され、エルサレムへ向かった。エルサレムはローマ軍の精鋭の前にあえなく 陥落。紀元前37年、ヘロデはついにローマ公認のユダヤ王となることができた。
アントニウスがオクタウィアヌスに敗北すると、ヘロデはすかさず勝利者へ乗り換えた。ヘロデ
はローマの指導層との友好関係こそが自らの政権の唯一の基盤であることを熟知していたの である。王位についたヘロデが徹底したことは、前政権ハスモン朝の血をひくものをすべて抹 殺することであった。アンティゴノスはローマ人によって処刑された。ヘロデは、妻マリアンネと その間に生まれた自分の二人の息子すら手をかけ、マリアムネの弟アリストブロス、マリアム ネの母アレクサンドラも殺害した。また自分に対して敵対的であったユダヤ教の指導層最高法 院の指導的なメンバーたちを、迷わず処刑している。これ以降最高法院の影響力は弱まり、 宗教的な問題のみを裁くようになる。
ヘロデは建築が趣味であった。人工港湾都市カイサリア、歴史に名を残す大要塞マサダ、アウ
グストゥスの名前を冠した新都市セバステ(サマリア)、エルサレムのアントニア要塞、要塞都 市ヘロディオン、マカイロスなどはすべてヘロデの時代につくられた。それだけでなくヘレニズ ム君主としてパレスティナや、小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供 している。この行為はギリシャ系住民の間でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはか えって反感を買うことになった。
しかし、なんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのは、ソロモン王を超える規模で行った
エルサレム神殿の大改築であった。神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、こ のヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や、非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサ レムをさかんに訪れるようになった。
ヘロデ大王の最晩年は後継者問題が彼の頭を悩ませた。また、エルサレム神殿に金の鷲を
すえようとしたため、ユダヤ教指導層と対立することになった。紀元前4年、死去。
新約聖書のマタイによる福音書では、新たな王(救世主)の誕生を恐れたヘロデ大王が、二歳
以下の幼児を虐殺(幼児虐殺)させたため、イエスと両親がエジプトに避難したという記事があ るが、歴史的な裏づけはない。ただし、この描写が福音書記者の時代のヘロデに対する、一 般的な認識を反映している可能性はある。
ヘロデの死後、遺言に従って息子のアルケラオスとヘロデ・アンティパス、フィリポスと三人の
兄弟たちが後を継いだ。ユダヤ人たちはローマに使者を派遣して、ヘロデ王家の支配を廃して くれるよう要請したが、聞き入れられなかった。しかし、アルケラオが王を名乗ることは許され なかった。後にアルケラオは失政を重ねたため、住民によってローマに訴えられ、解任され て、ガリアへ追放された。
その後のユダヤはローマ帝国の直轄領となった。他の兄弟たちも父のように王を名乗ることは
ゆるされなかったが、分封領主としてユダヤの周辺地域をおさめることを認められた。
+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++
ヘロデ王の別名は、「狂王」。それもそのはず。権力保持のため、妻や実の子ども2人をも殺
している。さらに救世主の出現を恐れたヘロデ王は、2歳以下の子どもたちをみな殺しにしよう としたともある。ゾーッ!
そこで、マリアとヨセフは、エジプトに避難した。
今度の映画でも、そういうシーンが出てくるだろう。
「オーメン」にせよ、その種の映画では、悪魔が生まれ、それを阻止しようとする善なる人たち
の闘いが、テーマになっていた。しかし今度は、キリスト誕生の映画である。どこかで「クリスマ スの本当の意味が、これでわかる」というような解説文を目にしたことがある。
またバチカンでの上映会では、最後の10分間は、みな、涙を流していたという。「マリア」とい
う映画は、どうやら、そういう映画らしい。ワイフは、映画に行くのを、たいへん、楽しみにしてい る。もちろん、私も……。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2330)
●父親、ヨセフ
++++++++++++++++
以前書いた原稿の中から、ヨセフに
ついて書いたものをさがしてみた。
さらに1作、見つかった。
++++++++++++++++
●存在感の薄い、ヨセフ
イエス・キリストの父親は、ヨセフである。しかし母親のマリアは、処女懐胎している。一説に
よると、ヨセフは、マリアと婚姻関係にはあったが、マリアとは性的関係はなかったとされる。ま た一説によると、処女懐胎のことは、マリアには、天使が知らせたが、ヨセフには、知らせなか ったという。
さらにヨセフは、イエス・キリストが、神の子としての活動を始める前に、死んでいる。ここでキリ
スト教、最大の謎にぶつかる。父親ヨセフは、では、いったい、何であったのか、と。
この議論は、キリスト教の世界では、すでにし尽くされているほど、し尽くされている。私のよう
な門外漢が、いまさら、論じても意味はない。そこでここでは、もう一歩、話を先に進めてみた い。
●母親は絶対
母親と子どもの関係は、絶対的なものである。それは母親が、出産、授乳という直接的な方
法で、子どもの「命」そのものにかかわるからと考えてよい。一方、父親と子どもの関係は、母 親とくらべると、もろく不安定なもの。わかりやすく言えば、「精液一しずく」の関係にすぎない。 このちがいは、そのあとの親子関係にも、色濃く反映される。
たとえば夫婦でけんかをしたとする。そのとき子どもは、たいてい母親の側にたつ。そればか
りか、子どもは、自意識が発達してくると、「自分は父親の子どもではないのでは」という疑いを もつようになる。「私の本当の父親は、もっと高貴な人物で、私もそれにふさわしい人物にちが いない」と。これをフロイトは、「血統空想」と呼んだ。
実際、男というのは、排泄が目的だけのためのセックスをすることができる。その気にさえな
れば、行きずりの女性と、数時間だけの性的関係をもつことだって可能である。一方、女に は、妊娠、出産、育児という責務がその時点から課せられる。もし男も女も、同等の快感であ ったとするなら、女はセックスなどしないだろう。そのあと予想される「重荷」を考えたら、とても 割にあわない。
たとえば男というのは、そのセックスの途中であっても、冷静に、女の反応を楽しむことができ
る。しかし女はそうではない。無我夢中というか、我を忘れてセックスの快感に酔いしびれる。 またクライマックスの長さも深さも、男のそれとは比較ならないほど、長く、深い。恐らく長い間 の進化の過程でそうなったのだろう。
つまり女にとっての快感は、そのあと予想される「重荷」を忘れさせるほど、すばらしいものであ
るらしい。またそれがあるから、女も、あと先のことを考えることなく、セックスに没頭することが できる?
となると、太古の昔の男女関係がどういうものであったかについて、こう推理することはでき
る。
●親は、母親だけ?
人間が、下等な哺乳動物の時代においては、あるいはそれよりもずっと先の時代において
は、男というのは、ただの「精液供給者」にすぎなかったのでは、と。結婚という形ができたの は、ずっとあとのことで、それ以前はというと、子どもにとって親というのは、母親でしかなかっ たのでは、と。その原始的な関係が、イエス・キリスとマリアの関係に、如実に示されていると 考えられなくもない。
で、インターネットで検索してみると、父親のヨセフをたたえる教会も、少なからず存在するこ
とがわかった。こうした教会では、父親のヨセフの苦悩や悲しみ、さらにはそれを克服した崇高 さを、ことさら美化している。しかしその視点そのものが、結婚観が確立し、父親像、母親像が 確立した、「現代」から見た視点にすぎない。つまり現代という視点から見れば、どう考えても矛 盾する。おかしい。おかしいから、どうしても父親のヨセフを、たたえる必要性が生まれた?
しかし当時といえば、社会秩序そのものが確立されていなかった。だから当然のことながら、
家族という概念も、まだ確立されていなかった。少なくとも、現在、私たちが考える家族観、… …つまり、父親がいて、母親がいて、そして子どもがいるという家族観とは、異質のものであっ たと考えるのが正しい。この日本でも、「家」中心の家族観から、「個」中心の家族観に改めら れたのは、戦後のことである。
●母親と父親は平等ではない?
こう考えていくと、母親と子どもの関係と、父親と子どもの関係は、決して平等でも、同一のも
のでもないことがわかる。このことは、母親の子どもに対する意識と、父親の子どもに対する意 識の違いとなっても現れる。自分の子どもを見ながら、「この子どもは私の子どもではない」と 疑う母親は、絶対にいない。しかし同じように自分の子どもを見ながら、「ひょっとしたら、この 子どもは、私の子どもではない」と疑う父親はいくらでもいる。そしてそれがちょうどカガミに映さ れるかのように、子どもの心となる。
つまり子どもにとって、親は、母親であったということは、一方で、「父親」という概念は、ずっ
とあとになって、生まれたと考えるのが正しい。少なくとも社会秩序が確立し、一夫一妻制度が 確立したあとに、その輪郭を明確にした。それ以前はというと、父親は、まさに「精液一しず く」。
そこで家庭では、まず父親の存在と、母親の存在は、平等ではないという前提で、考える。父
親の母親化、あるいは反対に母親の父親化ということは、ある程度はありえるが、子どもの意 識まで変えることはできない。いくら父親が母親らしくしても、父親の乳首を吸う子どもはいな い。
●母親は父親を立てる
で、ここから先は、母親の出番ということになる。母親は絶対的な立場を利用して、父親と子
どもの関係を、より強固にするという義務がある。具体的には、家庭では、(1)子どもが父親と の関係を疑わないようにする。子どもが「血統空想」(フロイト)をもつこと自体、すでに、父親と 子どもの関係は、ゆらぎ始めているということ。
つぎに(2)母親は、父親を自分より上位に置くことにより、父親の家庭における存在を高め
る。こう書くと、男尊女卑論だと騒ぐ人がいるが、そうではない。「平等」というのは、互いに相手 を高い次元においてはじめて、平等という。「父親を立てる」ということ。「大切な判断は、お父さ んにしてもらおう」「この話は、お父さんにも聞いてもらおう」と。そういう姿勢を通して、子ども は、父親像を学ぶ。身につける。
●父親ヨセフの苦悩
こうして考えてみると、イエス・キリストの父親である「神」は、イエス・キリストをもうけるために
マリアを選んだが、ヨセフは、選ぶという対象そのものにはなっていなかったのではということ になる。はっきり言えば、マリアとイエス・キリストのめんどうをみるなら、だれでもよかった? ……こう書くと、猛反発を受けそうだが、しかし事実を冷静に積み重ねていくと、そうなる。ある いは、あなたがヨセフならどうだったかという視点で考えてみるとよい。
妻が、ある日突然、妊娠した。自分には性交したという記憶がない。そこで妻を問いつめる
と、「神の子だ」という。半信半疑だったが、しかしやがて子どもは生まれてしまった。そういう状 況に置かれたら、あなたはどう考えるだろうか。ヨセフをたたえる教会では、「そうした苦悩を乗 り越えたところに、父親ヨセフの偉大さがある」というような論陣を張るが、それはあくまでも結 果論。結果的に、イエス・キリストが、偉大な人物になったから言えることであって、そうでなか ったら、そうでなかったであろう。
いやそれ以上に、イエス・キリストはどうであったのか。ヨセフを父としながらも、おそらく母親
のマリアからは、「あんたの父は、ヨセフではない。天にいる『主』である」と聞かされていた。イ エス・キリストは、そういう話を、どこでどう納得したのか。矛盾を感じなかったのか。あるいは それこそ、フロイトがいう、「血統空想」そのものではなかったのか?
「どうしてキリスト教では、父親のヨセフの影が薄いのか」、また「どうしてキリスト教会では、マ
リア像を飾るが、ヨセフとマリアを並べて飾らないのか」という、何気ない疑問をもったのがきか っけで、このエッセーを書いてみた。このつづきは、また今度、どこかの教会へ行ったときにで も、じっくりと考えてみる。
(03−1−15)
++++++++++++++
それにしても、「マリア」の中のヨセフは、むずかしい役がらだと思う。こうした愛と苦悩を、どう
描くか。たいへん見物である。こうした映画は、「演技」ではできない。体の奧の奧、心底からわ き出るような(誠実さ)がなければ、観客に見抜かれてしまう。つまり俳優自身が、マリアにな り、ヨセフになる。なりきる。なりきるだけでは、足りない。それを支える、知性や理性がなけれ ばならない。
ありのままをさらけ出しながら、それでいて、マリアはマリアでなければならない。ヨセフはヨセ
フでなければならない。ありのままをさらけ出すと言うことは、恐ろしいことでもある。並大抵の 俳優では、できない。
ますます、楽しみになってきた。このつづきは、「マリア」を見てきてから、書く。
(付記)
「マリア」を見てきた。静かな映画だった。見たあと、何とも言われない、暖かい気持ちに包ま
れた。映画としては、ふつうの(失礼!)映画だと思うが、私には、恐れ多くて、評価できない。 最後に、「♪清し、この夜」の曲が静かに流れていた。サントラ版のCDは、発売され次第、買う つもり。全体に、心休まる音楽がすばらしかった。
土曜日だったが、観客は、意外と少なかった。全体でも、10〜20%前後ではなかったか?
40人前後だった。どの人も、クリスチャンの方のように見えた。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●日韓経済戦争(12月1日版)
●奇妙なできごと
+++++++++++++++
今朝(12月1日)、実に奇妙な
ことが起きた。
中央N報だったか、朝鮮N報だったか、
日ごろから、韓国政府発表の大本営発表
の経済記事しか載せていない新聞社が、
「サブプライム・ローンの影響」と
題して、韓国経済への影響を特集記事と
して載せていた。
私は、この目で、しっかりとそれを読んだ。
午前8時ごろのことだった。
が、である。昼ごろ(午前11時30分)に
再び、その記事をさがしてみたが、
それは消されていた。
なぜか?
特集記事の内容は、「国債が売り戻され、
国債の金利が上昇」「外貨不足が発生」
「銀行の外貨保有が不足し、外貨取引に
支障が出始めている」という内容のもの
だった。
まさにデフォルト(=債務不履行)。これを
デフォルトと言わずして、何という。韓国の
銀行が、ドルで決済したくとも、そのドル
がないというのだ。
そういう内容の記事だった。が、その記事が
消えた! ……消された?
++++++++++++++++
今朝(12月1日)、実に奇妙なことが起きた。その奇妙なこととは、ここに書いた通りである。
で、私は先ほど、その記事を引用しながら、日韓経済戦争(12月1日版)を書きたいと思っ
た。思って、その記事をさがした。が、見つからなかった。
朝鮮N報だったか、中央N報だったかは、忘れた。(そのどちらかであることには、まちがいな
い。)東亜N報でなかったことだけは、確かである。
内容は、「銀行が外貨不足に陥り、決済がままならない状態になっている」というものだった。
まさに、デフォルト(=債務不履行、国家破綻)を意味する内容のものであった。
その一方で、短期外債(=銀行が、外国から短期で借り入れる借金)が、急増。その金を借
りて、投資家たちは、株取引に投資。韓国経済が、まさにマネーゲーム化している、と。
そういう内容の記事だったが、その記事が消えた。たった半日で、消えた。これはどうしたこ
とだろう? つまりこのあたりに、現在の韓国経済の深刻さが、うかがわれる。この記事は、韓 国政府にとっては、まことにもって、ま・ず・い。
が、それにかわって、韓国の中央N報の経済トップ・ニュースは、これ。
「日本トヨタ、燃料パイプ問題でレクサスなど大規模リコール
日本トヨタ自動車が29日、燃料パイプの不良問題で高級レクサスブランドをはじめ計26万4
000台のリコールを実施すると明らかにした。
リコール対象車は「クラウン」「マークX」と高級車ブランド「レクサス」で、2005年に輸出用と
して販売された高級セダン「GS350」「IS250」も含まれている。
トヨタ側は、燃料パイプの設計ミスで亀裂が入り燃料漏れにつながる可能性があると説明し
たが、これによる事故は報告されていない」(12月1日)と。
日本の車がリコールされたニュースが、どうして韓国では、トップ記事になるのか? メチャメ
チャな不公平関税で、日本の高級車は、ほとんど韓国には入っていない。そのため韓国に与 える被害は、微々たるもの。しかしこうしたニュースは、いつも、トップ!
いやな国。ほんとうに、いやな国。(日本が、逆のことをしたら、韓国は、どう反応するのか?
韓国の車など、相手にしていないが……。)
さらにシャープが、今度S市に、世界最大の液晶パネル工場を建てることになった。それにつ
いても、韓国では、「シャープ、打倒サムスンの旗印のもと、新工場建設」(東亜N報)などと報 道される。
日本の新聞で、「打倒」などいう言葉を使っているところは、どこにもない。ないが、韓国へ同
じニュースが入ると、そこに「打倒」という言葉が付け加えられる。
つまりこうして日常的に、反日感情を、育成している。……としか、私には思えない。
が、私は、あえて言う。私は公人でも何でもない。だから、あえて言う。
打倒、韓国! 思い知ったか、韓国!
負けるな日本! がんばれ、日本!
【付記】
●証拠が残っていた!
先の記事は、消されていたが、朝鮮N報ON−LINEのうほうに、その記事は残っていた。
「……◆ドル資金不足にあえぐ市場(朝鮮N報、ON−LINE、11月30日版)
……しかし、最近になってサブプライム問題による世界的金融不安が広がり、状況が変わり
始めた。信用不安で資金調達が困難になるや、外資系銀行は韓国国債を売り、資金回収に 乗り出した。このため、債券価格が急落し、金利は上昇した。国内外の債券投資家からは損 切りの売り物も出て、金利上昇に拍車を掛けた。
……債券市場では韓国銀行に対し、外貨準備を取り崩してでもドル資金不足を解消してほし
いとの声が上がっている。しかし、韓国銀行は、分別なく外貨を借り入れ、マネーゲームを楽し んできた投機筋を助ける「モラルハザード」に陥るとして、ドル資金の供給に難色を示してい る。
これまで市中銀行は、対外債務は輸出企業の将来的なドル収入に基づくもので問題はない
と主張してきたが、世界的な信用不安が広がり、ドル資金を容易に調達できない状況に陥った 格好だ」と。
(補記)
「記事が消された」と書いたが、ひょっとしたら、最初に、朝鮮N報ON−LINE版を読んだの
かもしれない。つまり「消された」のではなく、私の記憶ちがいかもしれない。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●今日から、2008年
新年、あけまして、おめでとうございます!
本年も、よろしくお願いします。
HP年賀状は、下記アドレスをクリックしてくだされば、
読んでいただけます。どうか、おいでください。
http://bwhayashi2.fc2web.com/page032.html
いろいろ書いてあります。
++++++++++++++++++++
この原稿は、マガジンの、2008年
1月2日号用。
(この原稿を書いている今日は、12月
1日だが……。)
1月2日でも、ひょっとしたら読んでくれる
人がいるかもしれない。そんな思いをこめて、
この原稿を書いている。
正月には、南オーストラリア州に
住むR君が、来日の予定。2月には、K君が
娘さんを連れてやってくる。
K君とは、京都へ行くつもり。
何かと、いそがしくなりそう!
++++++++++++++++++++
●BW教室の案内
1〜3月期は、BW教室の生徒さんの募集をしています。お子さん、お孫さん、ご近所でお知
り合いの方がいらっしゃれば、よろしくお伝えください。
BWの案内は、
http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page025.html
のほうで、しています。マガジン読者の方の紹介であれば、自由に見学していただけるように
します。遠慮なく、お申し付けください。
●それぞれの定年退職
私の友人、知人たちが、今年、満60歳を迎え、定年退職しています。みな、それぞれです
が、T氏は、今年、役所を退職し、「百姓」(T氏自身の言葉)に変身。もう10年以上前から、計 画していたとのこと。
畑も、購入済み。広いミカン畑もついています。明日、草刈り機をもって、T氏を応援に行って
きます。「草を刈ってやるよ」と言いましたら、「林さんが、草刈りをするの?」と驚いていました。
ところが、どっこい。私も、お百姓さんがする仕事なら、たいていのことはできます。まさに10
0の姓(かばね)。以前は、耕耘機(こううんき)まで自前でもっていました。(ホント!)
読者の方の中には、若い方も多いと思いますが、40歳を過ぎたら、定年退職後の下準備だ
けはしておいたほうがよいですよ。何か目標を決めて、それに向かって用意する。それをして おかないと、定年退職をしたとき、あわてふためくだけで、何もできなくなってしまいますよ。
「60歳になったら……」と考えるのではなく、今から、考えるのです。(いらぬ節介かもしれま
せんが、これも老後を豊かに生きるためのコツかもしれません。)
「まだ先……」と考えている方も多いかと思いますが、あっという間に、その時がやってきま
す。あえてアドバイスするなら、こういうことです。
(1)モノを目標にしない。心を目標にする。
(2)過去にぶらさがらない。いつも前だけを見て進む。
(3)したいことがあったら、今から、する。
(4)無私、無欲でできるものを、さがす。
(5)仕事は、お金のためと割り切り、何も期待しない。
(6)過去の肩書き、地位は、忘れる。捨てる。
そして定年退職したら、
(1)ものごとは、即、実行。やりたいことは、すべて前倒しでやる。
(2)年齢制限はなし。小さく生きなければならない理由は、どこにもない。
(3)時間にケチになる。健康にケチになる。
(4)孫の世話、庭いじりを、理想の老後生活などと考えてはいけない。
(5)いつも新しいことに挑戦する。言いたいことを言い、したいことをする。
(6)健康、第一。そのために運動、第一。脳みその健康を大切に!
これは私の努力目標でもあります。みなさん、いっしょに、がんばりましょう。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(2331)
●嫌韓感情
++++++++++++++
この原稿がマガジンに載るころには、
韓国の大統領選挙の結果も、出ている
ことと思う。
そのつどハプニング的な国民感情に動か
されて、金大中政権、それにつづく
N政権が誕生した。ともに支持率は、
任期中、10〜20%に前後にすぎな
かった。
これら大統領がもっている反日感情には、
一理ないわけではない。しかし行きすぎた
反日感情は、同時に、日本人の嫌韓感情
を生み出す基礎となる。
サッカーの試合にたとえてみるとよい。
スポーツはスポーツ。勝ち負けは別として、
ともに真剣に闘うという範囲では、終わった
あと、たがいに親睦を深めることもできる。
しかしもし相手が、一方的に憎しみというか、
敵意をむき出しにしてきたら、どうだろうか。
スポーツがスポーツでなくなってしまう。
勝っても負けても、後味の悪いものに
なってしまう。
今までの日韓関係を総合評価すれば、その
後味の悪さだけが、残る。かつて福沢諭吉は、
こう言った。
「我は心に於て、亜細亜東方の悪友と謝絶
するものなり」(脱亜論)と。亜細亜(アジア)
東方の国というのは、現在の韓国とK国のこと
をさす。
福沢諭吉のようなリベラリストですら、
そう結論づけている。なぜか?
韓国人にしてみれば、日本ごときが、
アジアでナンバー・ワンであることが、
気に入らないのだ。わかりやすく言えば、
逆差別意識。つまりそれがあるかぎり、
日韓関係は、好転しない。
しかしこれは日本人の問題というよりは、
韓国人の問題である。そのつど教科書問題
を取りあげ、従軍慰安婦問題を取りあげる
のは、(それ自体、日本側も反省すべき点は
多いが)、こうした逆差別意識があるからに
ほかならない。
「日本ごときの国に、(植民地という形で)、
蹂躙(じゅうりん)された」
「独立を、自分たちの手でなしえなかった」
(M氏談)と。
その不完全燃焼感が、現在の韓国の反日
感情の原点にある。言いかえると、それが
なくならないかぎり、日韓関係が好転する
ということは、ありえない。
仮にハンナラ党政権が誕生しても、この
事情は、変わらないだろう。
+++++++++++++++
かつては、私も、韓国大好き人間だった。UNESCOの交換学生として、韓国に渡ったことも
ある。
その私が、韓国を嫌いだしたのは、日本のバブル経済が崩壊したころからである。当時の韓
国の新聞各紙は、「日本は、これでおしまい」「韓国の時代がやってきた」と、連日、小躍りし て、それを喜んでいた。
金大中政権になってからは、毎朝、(毎朝だぞ!)、日本攻略のための閣議がもたれたとい
う。よく知られた話である。そして少しでも弱体化した日本企業を見つけると、買収、合併、提 携という形で、韓国内へ取り込んでいった。そのためのお金が、政府によって、惜しみなく注ぎ 込まれた。
こうして、造船、鉄鋼、自動車、電子、液晶の各産業が、つぎつぎと韓国へ移植されていっ
た。彼らには、「共同」とか、「共存」という理念はない。たとえばつぎの記事を読んでみてほし い。
少し前、米韓FTA交渉が妥結した。(あまりにも不公平な妥結内容なため、現在、アメリカ議
会では、批准をペンディングしている状態。)それについても、こう報道している。
「●米韓FTA妥結:「米国製日本車」が韓国襲来か(朝鮮N報)
韓米自由貿易協定(FTA)が締結されたことで、米国で生産された自動車が韓国国内に輸入
される場合、関税(8%)対象から除かれるため、米国製の日本車までもが安く輸入されるよう になる見通しだ」(07年8月)と。
自分たちは、世界中に、無関税で自動車を輸出しておきながら、外国からの輸入には、高い
関税をかける。自国の産業保護のためである。それはわかる。が、しかし内容が、すさまじい。
「アメリカ製の日本車が、襲来する」と。「襲来」という言葉を平気で使う。どうして米韓FTA交
渉の話の中に、「日本車の襲来」という言葉が出てくるのか?
これを私は、「行きすぎた反日感情」と呼んでいる。
「隣国だから、仲よくしたい」という気持ちは、私にもある。しかし彼らの鉄のように固まってし
まった心を溶かすのは、容易なことではない。それは何も、日本の統治時代から始まっている わけではない。福沢諭吉、さらには、驚くなかれ、秀吉の時代から始まっている。
国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。はっきり言えば、「仲よくしましょう」との
んきなことを言っている間に、それこそ日本は、「太平洋の海溝の向こうに」たたき落とされてし まう。時代のテンポと、政治のテンポはちがう。さらに経済のテンポとなると、もっと速い。
日本にはその気はなくても、向こうは、ちがう。その(ちがい)を忘れて、日韓関係を論じても、
意味はない。だから2008年も、私は、こう叫びつづける。
がんばれ、日本! 負けるな、日本!、と。
さて2008年、私の嫌韓感情が、少しでもやわらげばと、願っている。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●ベンチャー企業
++++++++++++++++++
オーストラリアへ行ってみて、
まず驚くのが、個人企業が多いこと。
「電話1本と、車1台あれば、仕事ができる」
というのが、オーストラリアの現状である。
「排水口のつまりをなおします」
「庭の芝生を刈ります」
「屋根の修理をします」と。
そういう看板を描いた車を、1ブロック
走るごとに、1〜2台は、かならず見かける。
問題もないわけではない。
「そのため組織的な大企業が育たない」(M大
某教授)とも。
一方、この日本では、事情が逆転する。
集団依存性が強く、個人企業を、むしろ
嫌う傾向が強い。「嫌う」というより、
「忌み嫌う」。「軽蔑する」。
少し前、ある女性(S新聞社記者)が、
私にこう言った。
「林さん、あなたのような人が成功する
のは、困るのですよ。あなたのような
人が成功すると、会社にいる人たちは、みな、
自己否定しなければなりませんから」と。
つまり組織にいる人たちは、私のような
立場の人間がそのつど失敗するのを
見届けながら、「やはり、俺たちの
選択は正しかったと思いなおすのだ」と
いう。
だから……。「日本では、ベンチャー企業は
育たない」という。
個人が個人でプレーするのを許さない。そればかりか、
そういう個人を、みなで、寄ってたかって、
たたきつぶそうとする。
ひょっとしたら、あなたにもそういう意識が
あるかもしれない。
「企業に属している人間は、信用できる」
「個人プレーで仕事している人間は、
信用できない」と。
しかしそれこそまさに、明治以来、国策として
作られた意識。けっして、世界の常識ではない。
++++++++++++++++++
映画『ロッキー・ザ・ファイナル』の中に、こんなシーンがある。息子が働く会社を、ロッキーが
訪れる。そのときのこと。会話の内容は忘れたが、ロッキーは、息子にこんなようなことを言う。
「こんな世界に埋もれるな」と。
超近代的なオフィスビルで働く、自分の息子に、である。日本的に考えれば、まさに「出世組」
(この言葉は、ほんとうに、いやな言葉だが)ということになる。
一方、ロッキーは、レストランの経営をしながら、チャンピオン・ボクサーとの対決を画策す
る。
……と書くと、「それは映画の中の話」と思う人も多いかと思う。しかし日本を離れた世界で
は、ロッキーのような生き方、考え方のほうが標準と思ってよい。日本的な会社人間など、どこ をさがしても、まず、い・な・い。
つい先日も、こんなことがあった。
私のオーストラリアの友人の娘が、相手の男との婚約を破棄した。相手の男というのは、資
源開発会社に勤める男性である。いわば、オーストラリアでは珍しい、大企業の社員ということ になる。
その理由が、おもしろい。いわく、「週に3、4日は、現地へ行っている。土日には、フットボー
ルばかりしているから」と。つまり「私との時間を作ってくれないから」と。
日本の女性なら、より大きな企業に勤める男性を、結婚相手に選ぶだろう。またそのほう
が、安心と考える。が、こうした意識は、オーストラリアでは理解されない。その理由を書き始 めたら、キリがなくなるので、この話は、ここまでにしておく。が、これだけは言える。
失敗しても、(失敗する確率のほうが高いが)、自分の人生は、自分で生きる。そのほうが、
「生きた」という実感が、ともなう。「やりとげた」という達成感を、自分のものにすることができ る。
……と書きながらも、ここにも書いたように、「この日本では、失敗する確率のほうが高い」。
しかしこういう日本のほうが、おかしい。まちがっている。日本人の私たちがまず、それに気づ き、これから先、それを是正していかねばならない。
話をもとにもどすが、「日本ではベンチャー企業が育たない」とは、よく言われる。その原因
は、日本人の意識そのものにあると考えてよい。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2332)
●英語で、BLOGを書く。
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翻訳ソフトを使うと、私は、日本語の
エッセーを、英語に翻訳することが
できる。
ただし元となる日本文が、翻訳しやすい
日本文でなければならない。
そのため日本文が、少し、ぎこちなく
なることもある。
(まず、ここまで、翻訳ソフトを使って
翻訳してみる。さあ、どうなるか?)
When translation software is used, I can translate a Japanese essay into English.
But, the Japanese which is the base is necessary with the Japanese which is easy to
translate. Therefore a Japanese sometimes becomes a little awkward. (First, it tries to translate by using translation software here. Well, what happens?
使ったソフトは、シャープ社製の(E/Jマネージャー)。おかしな英語だが、意味はわかる。
では、アメリカに向けて、私の意見を、いざ、発信! 日本語のが少しおかしいのは、許して
ほしい。
+++++++++++++++++++++
アメリカに住む、読者のみなさんへ、
私は日本に住む、日本人です。現在、日本人の対米感情が、急速に悪化しています。今朝の
新聞によれば、約20%の日本人が、アメリカを信用できないと思い始めています。理由は、ア メリカの拉致問題に対する、認識の甘さです。とくにヒル国務次官補の、北朝鮮寄りの外交政 策に対して、多くの日本人は、不満に感じています。ヒル国務次官補は、日本よりも韓国、北 朝鮮のほうが、信頼できる国と考えているようです。日本人の多くは、そういう印象をもち始め ています。
To everyone of the reader who lives in America.
I am the Japanese who lives in Japan. At present, a Japanese pair US emotion becomes
worse rapidly. According to the newspaper of this morning, about 20% of the Japanese begin not to think America to be trustworthy. A reason is vagueness of the recognition for American kidnapping problem. Many Japanese are specially impressed with discontent against the foreign policy toward North Korea of Hill state affairs Assistant Secretary. Hill state affairs Assistant Secretary seems to think with the country which can trust South Korea and North Korea from Japan. Japanese most begins to have such impression.
+++++++++++++++++++++
どうも、おかしい? やはり英文であるにせよ、自分の力で書いたほうが、よさそう。トンチン
カンな英文より、幼稚でも、意味のわかる英文のほうが、よい。今、そういう結論に達しつつあ る。
インターネットのすばらしい点は、言うまでもなく、日本国内はもとより、世界に向けて、自分
の意見が発信できること。そうなれば、読者対象は、一気に、50倍になる。考えてみれば、こ れは、すごいことだ。挑戦してみる価値はある。
方法としては、まず日本語で、書く。つづいてその翻訳文を載せる。しかし問題がある。私の
英語力は、すでにサビついている。恐らく脳梁(左脳と右脳をつなぐ太い電線)の機能が悪くな っているようだ。英語で考えるときは、右脳を使う。日本語を使うときは、左脳を使う。
とりあえずタイトルと、要略の部分は、英文で書くことにする。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2333)
●南京、大虐殺(Mass Murder in Nankin, China)
+++++++++++++++
日本人は、南京で、多くの
人たちを殺した。これは動かしがたい
事実である。
The Japanese army killed many people in Nan-kin in China. This is the fact which no one
can deny.
それを「30万人ではない。せいぜい
3万人だ」とか、「大虐殺は、中国側の
プロパガンダだ」と説く人たちがいる。
It is a very sad thing to know that there are some people who say "We killed at most 3
thousand people, not 30 thousands people", or therefore it is a kind of hostile propaganda of China to disgrace Japan".
3万人でも問題ではないか。3000人
でも問題ではないか。
What is the difference between 3 thousand and 30 thousands?
どうしてそのとき、日本軍が、中国に
いたのか?
Why and what for were the Japanese army in Nan-kin in China?
それについても、「近代的防衛戦だったから
しかたなかった」とか、「日本が植民地に
しなければ、欧米が植民地にしていた」、
さらには、「日本が大陸に進出していなかったら、
日本が植民地になっていた」と説く人たちが
いる。
As for this simple question, they say "it was a kind of defence war against European
countries", "if we didn't have done so, European countries would have put these Chine and Korea under their power and colonaized them."or, "Japan might have been colonized by European countries."
ならば、問う。
OK. If so then I would like to ask these people who say so;
だからといって、なぜ、日本がそれをしなけ
ればならなかったのか、と。
Why shoud Japan have done so? Did we have the right to do so? Or who asked us to do
so?
中国や朝鮮が欧米の植民地になりかけたら、
そのとき、日本は、それを阻止すれば
よかった。それが正義というものである。
We should have freed these countries such as China and Korea , in case these countries
might have been colonized. We could stop European countries to do so. This is the justice.
が、それでも、日本は正しかったというのなら、
日本よ、日本人よ、これだけは、覚えて
おくとよい。
Even then if you insist that "we were right and we did a right thing in the war", you should
remember that this fact.
いつか将来、中国や朝鮮が日本に対して
同じことをしても、日本よ、日本人よ、
文句を言うな。
Don't complain in case China and Korea would do the same thing as we did to them in the
next time.
つまりその覚悟ができているのか。
その覚悟があるなら、近代的防衛戦
という言葉でも何でも使って、自分を
正当化すればよい。
Are you ready? If so, you may say anything and you may say "We were right. We did a new
kind of Defence war."
++++++++++++++++++
●あなたは金xxを信頼できるか?(Can you simply trust Kim Jon Il of North Korea?)
+++++++++++++++++
6か国協議が、また始まる。
Six countries will gather together to disucuss about the North Korea's Nuclear weapon
development issue soon in China.
北朝鮮の核兵器開発問題が焦点になっている。
しかし本当の問題は、金xxが、信頼するに
足る人物であるかどうかということ。
The main theme of the conference is about its development of the nuclear weapons but
moreover we shoul pay attention to whether Kim, the leader of North Korea is the person who is enough to be trust wrothy.
その視点をはずして、北朝鮮の核開発問題を
論じても意味はない。
Without this point of view, the conferece will produce nothing but in vain.
無駄な会議をつづければつづけるほど、
北朝鮮は、時間を稼ぎ、その間に核兵器の
開発を進める。
During the meanwhile North Korea will gain the time to develop them more.
10月の終わりごろ、ヒル国務次官補は、
「1、2週間以内に、北朝鮮は、核開発の
リストを提出するはず」と言っていた。
At the end of this October Mr. Hill, vice-secrertary of US government said "North Korea
would produce the list of the development schedule", but now when it has been passed almost one month, the list is not yet produced.
しかし1か月以上たった今も、そのリストは、
提出されていない。
アメリカよ、ブッシュよ、ヒルよ、
いいかげんに、目を覚ませ!
USA! Mr, Bush and Mr Hill, wake up and open your eyes to see the fact!
++++++++++++++++++
●リンカーン・コンチオネンタル(Lincoln Continental)
++++++++++++++++++
私のワイフも、このマガジンの熱心な読者である。
だから、ウソは書かない。書けない。
My wife is also one of my earnest readers of my E-magazines and therefore I can't write
false things or tell lies in here.
ときどき本当のことは言わないことはある。しかし
ウソは書かない。書けない。
Sometimes I happen not to tell her the truth but I have never told her lies as far as it may
concern about me and my life.
ウソを書けば、その時点で、私は、ワイフの信用を
失う。
If I wrote a lie, it simply destroy her trust on me and cause a doubt about me, which I
should avoid in any case.
……という前置きで、こんなことがあった。
Then I hereby write about one fact.
今度、私の従兄弟(いとこ)が、BMWを買った。
それに奥さんを乗せて、浜松まで、遊びに来てくれた。
One of my cousins came to see me with his car, BMW, with his wife the other day.
うれしそうだった。私もうれしかった。
He looked happy and so was I.
しかしその車を見ながら、ふと、こう漏らした。
But I just said to him when I saw his brand new car;
「N君、ぼくね、君は信じないかもしれないけど、
20代の終わりころ、リンカーン・コンチネンタル
という車に乗っていたんだよ。運転手付きでね。
それで毎週のように、東京と浜松を往復していた」と。
"Mr N, you may not believe in me but it is true that when I was on 20's I was driving a car
called "Lincoln Continental" with a shoffer. I drove back and to between Tokyo and Hamamatsu almost every week."
リンカーン・コンチネンタルという車は、長さだけでも
バスほどもある。純白の車で、後ろには、大型のタイヤを
収納する丸形の箱もついていた。
Lincoln Continental is a car which is long as long as a bus. It was a pure white car and a
round tire-case on the back.
当時、日本テレビの「11PM」とか、川崎敬三という
人が司会をしていた、「アフターヌーンショー」という
番組の企画も手がけていた。
I was writing TV plans for "11PM" of Nihon TV and "Afternoon Show" of NET.
その関係で、よくタレントさんを、途中まで、乗せて
やったことがある。向こうは覚えていないかもしれ
ないが、その後、(つまり今)、その名を知らない
テレビタレントになった人もいる。
Sometimes I sent some TV talents on the way back to Hamamamstu, and some of them
became very well-known afterwards.
「それに君は信じないかもしれないが、美智子皇后陛下
のお父さんの、正田氏とも、いつも電話、一本で
会うことができた。当時のぼくは、そんな生活をして
いた」とも。
"You may not believe in me, but it is true I can meet Mr. Hidesaburo Shoda when I wanted
to see him anytime. My life used to be such a life."
その私が、大きく変化したのは、あの飛行機事故が
きっかけだったと思う。今にしてみると、それが
よくわかる。
My life, however, has changed a lot since I met an air-craft accident when I was about 29
years old at Haneda.
その直後、イタリアへ行く仕事と、ブラジルへ行く仕事を
2つかかえていた。ともに、ドタキャンした。
Just a week afterward I had a business to fly to Italy and Brazil, but I cancelled them all at
sudden.
以後、私は浜松という地方にひっこみ、東京へは、
出版社だけを目当てにでかけるようになった。私が
29歳のときのことである。
After that I stopped working as a businessman and stayed in Hamamatasu quietly. My life
has changed a lot since then.
その私が、今は、TOYOTAのビッツにに乗っている。
リンカーン・コンチネンタルから、ビッツに!
Now I am driving a Toyota's Vits, a smallest compact car. From Lincoln Continental to
Toyota Vits!
しかし私には、落ちぶれたという感覚は、まったくない。
むしろ、あの時代の、あの浮いたような生活のほうが、
異常だったと思う。うまく言えないが、「空」と「虚」。
Then you may ask me if I am a loser. But the answer is "No". I am not. The life of my 20's
used to be crazy. It was nothing with nothing. It means nothing. Whatever big car you are driving, it means nothing to me.
ただこういうことは言える。
But I can say now.
それ以後、私の近辺で、リンカーン・コンチネンタルに
乗っている人を見かけたことがない。(ときどき、町の
中を走っているのは、見かけるが……。)
Since then I have never met anyone who drives Lincoln Continental nearby me. (Sometimes
I happen to see the car running on the roads in this city.)
だからどこのだれが、最高級車と呼ばれる車に乗って
いるのを見ても、うらやましいとか、すごいとか、
そういうふうには、思わない。
I have never envied them or never envied anyone who have big cars.
が、従兄弟がBMWに乗ってきたときは、うれしかった。
人生の終わりになって、BMWに乗れる人は、少ない。
従兄弟は従兄弟なりに、自分の人生を、完投した。
それがうれしかった。
But my cousin's car is one of the exceptions. I was happy when I saw his happy smile. There
are few who can drive a BMW at the end of his life, which means he has spent his successful life. The car is the result of his life.
+++++++++++++++++++++
●友人の農園(Takahashi-san's Farm)
昨日(12月2日)、友人の農園へ行ってみた。が、そのあたりをうろうろするだけで、とうとう
見つからなかった。あとで電話をすると、M中学校の校舎のはずれを、右折しろと言ったのを、 「左折」とまちがえた。
来週、再び、行くつもり。
I went to Takahashi-san's farm yesterday. But I could not find his place, driving aroud in
vain. I called up him later when I got home, I knew that we turned left instead of turning to the right from the road. This was our mistake. Next week we will try to come to his place again, so did we promise to each other.
●新しい自転車
昨夜遅く、近くのショッピングセンターで、新しい自転車を買った。マウンテンバイク仕様で、た
ったの1万6000円! 「何年くらいもちますかね?」と聞くと、「2年は、だいじょうぶでしょう」と のこと。
これで家族みんなで、サイクリングすることができるようになった。ところで昨日、いろいろあっ
て、計10キロ近く歩いた。今朝は、ふとももが痛い。
Last night we went to a near-by shopping center, where I bought a new mountain bike. The
price is only 16000 yen (abt 180 US dollars). I was surprised at the price. So cheap! Then I asked the merchant if I can ride it for a long time, then he said "Well if you use it properly, you can ride around two years". Now our families can enjoy cycling together from now on.
By the way I happened to walk abt 20 kilometers yesterday for some reason. I feel my legs
aching a bit this morning.
●8〜10%が、外国人の子ども(Foreign Workers in Japan)
先日、静岡県のK町にある小学校で、講演をさせてもらった。そこで聞いた話だが、その小学
校では、8〜10%の子どもが、外国人という。
The school master of the school, where I made a speech, told me that 8~10% of its school
children are foreigners.
現在、この日本には、80万人(04年、厚生労働省)の外国人がいるという。これ以外に、相
当数の、不法入国者がいると言われている。が、こうした労働者を、責めることはできない。
Now we have 800 thousand foreign workers in Japan according to the government
statistics, and more we have so-called illegal immigrants.
2020年には、日本の労働者は、12%前後、減少すると言われている(OECD)。日本の産
業構造そのものが、大きく変化する。つまり日本は、こうした外国からの労働者を必要とする。 またそういう前提で、外国労働者を考えなければならない。
By the year of 2020, we would have lost 12% workers and suffer from the lack of workers,
which might cause a serious social problem. We need foreign workers and we have no choice but welcome them for us.
が、問題がないわけではない。
But there are some problems.
多くは「研修生」の名目で日本へやってくるが、実際には、さらに安い賃金で、働かされてい
る。検定試験に合格すれば、今度は「実習生」となるが、その段階で、会社をクビになるという ケースもある。
In most cases the come to Japan as "trainees students" but as a matter of fact they are
forced to work as a labor with less (in most cases, half) payment. After one year course of training, they meet a test and if the can pass it, they are admitted as a "Worker", but some of them are fired and forced to go back to their countries.
彼らの間では、「日本人はずるい」と、言われている。ちなみに、「人身売買報告書」(アメリカ
国務省発行、07年度版)によれば、日本だけが先進国の中で、上から2番目の「Tiel2」になっ ているそうだ(「日本の論点08」)。外国人に対する法整備や対策が、それだけ遅れているとい うこと。
They say "Japanese are sneaky". According to the Tiel Standard, issued by USA
government, Japan is ranked as a second. Japan is only one country among leading countries of the world because of the lack of legal services and etc.
一方、学校教育という現場での対応も、後手後手に回っている。外国人専用の指導者を置
いている学校は、大規模校にかぎられている。そのほかは、特別なカリキュラムすら用意して いない。
Also at schools there are few schools which prepares them with special teaching programs
for those children. (Only some big schools with a big number of children have special trainers for those children.)
講演をさせてもらったK町の小学校にしても、「何ら対策をとっていません」とのことだった。つ
まり日本語を話せない外国人を、そのまま普通学級に編入させている。外国人の子どもにして も不幸なことだが、同時に、教育レベルの低下は、避けられない。
As to the school where I made a speech last time, there is no such a program for those
children. Foreign childrens who have no knowledge of the Japanese language are also being taught as a normal children at usual classes. This may cause a kind of teaching troubles as well as to cause to lower the level of education.
これから先、日本の少子高齢化は加速する。それが是か非かと、論じているヒマはない。私
たちは、外国人労働者を必要とする。また外国人労働者がいなければ、日本そのものの存在 が、おびやかされる。
We would have more and more aged people together with less and less young people in the
near future. We need therefore more and more foreign workers soom and without them Japan would meet the crisis of collapse.
2020年まで、あと12年。間に合うか、日本!
We have only 12 years before the year of 2020. Are we ready?
Hiroshi Hayashi++++++++Dec 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2334)
●今朝・あれこれ(12月4日)(2008年を読む)
●マネーゲーム(Money Game)
Do you know the new type of money
investiment system called "FX trade"?
Nowadays more and more ordinary
housewives are involved and some
get huge amount of profits and others
lose it.
+++++++++++++++
FX取り引きという、投資運用法がある。
「外国為替証拠金」を略して、「FX」
取り引きという。「Foreign Exchange」
の略か?
一定金額の証拠金を、取り引き会社へ
差し入れることによって、為替変動で
生ずる差益の、数10倍から、数100倍の
利益を生み出すことができる。
株の信用取り引きに似ているが、FX
取り引きは、株ではなく、外貨に投資
する。
たとえば1ドルを、100円で買って、
110円になったときに売れば、利益は、
1ドルあたり、10円ということになる。
10万ドル分買い付ければ、利益は、100
万円ということになる。
その1例として、F証券のHPには、こうある。
「取引金額が10万ドルなので、総差益10万円。
手数料分0円を差し引き、それにスワップ
金利10日分16000円が加算され、総利益は
11万6000円となります」と。
FX取り引きというのは、たとえば証拠金を
はじめに、取り引き会社(多くは証券会社)に
100万円分、預けておく。
100万円分まで損をしてもよいというお金
である。
このお金で、100万ドル分の外貨を
購入する。仮に、ドルが1ドル=100円から、
110円になれば、それだけで利益は、
1000万円になる。大もうけである。
反対に、1ドルが100円から、99円になれば、
為替差損は、100万円。その時点で、取り引きは
終了する。
この方法を大量に繰りかえせば、円売り、ドル買い
がつづき、自動的に円安になる。つまりさらに
利益幅は大きくなる。
こうしたFX取り引きで、ふつうの主婦や、個人
投資家たちが、巨億の利益をあげている。
初回入金額ゼロ、証拠金1万円から、という外国為替
証券会社もある。
たとえば人気度ナンバー3に入っている、W証券の
ばあい、6万円の証拠金があれば、10万ドル分の
取り引きができるという。W証券のHPには、「レバレッジ
効果200倍、118円からの自動ロスカット、
117・12円……」などとある。
つまり6万円で、10万ドル分の取り引きができる。
仮に10円、円安になれば、それだけで、100万円
の利益!
昨今、巨額の利益をあげながら、脱税であげられた
事件が、たてつづけに報道されている。中には、
数億円から数10億円も稼いだ人がいるという。
しかも、ごくふつうの、家庭の主婦が、である。
が、うまい話には、かならず、ウラがある。
ここにも書いたように、円安に進んでいる間は、
巨額の利益を生むが、反対に、円高になったとたん、
取り引き会社は、強制的に決算をする。つまり証拠金は、
没収される。これをこの世界では、「ロスカット」と
いう。
今回の円高(07年11月末期)では、一時、1ドルが
107円まで進んだ。122〜3円であったときと
比較すると、約12〜3%の円高である。
5円、円高になると、FX市場全体では、3000億円
程度の損失が出ると言われている。この計算でいくと、
どこかのだれかたちは、今回の円高で、1兆円近い
損失をかぶったことになる。
「儲かった」「儲かった」と喜んでいた人たちも、
今回の円高で、すべてを失い、がっくりして
いるにちがいない。
……しかし、こういうことで、お金が動いて
よいものか? まさにそこはマネーゲームの
世界。
ちなみに、F証券会社のHPには、つぎのようにある。
「外国為替保証金取引は1998年の外為法改正や
インターネット技術の普及を受け生まれた、
比較的新しい取引です。 07年7月からは、
金融先物取引法の改正により、同法の適用を受ける
取引となり、取引業者の登録制や様々な業者規制が課され、
お客様の保護が図られるとともに、より公正で透明性
の高い取引となりました。
この取引では、一定の保証金を預けることで、
その数倍から十数倍の外貨の取引を行うことが
できます(レバレッジ効果)。 この、外国為替保証金
取引は異なる2国間の通貨を取引しますが、通常、
資産運用・投資には、まずまとまった資金が必要
となりますが、レバレッジを使うことにより、
小額の資金からはじめられる点が魅力となっています」と。
この世界も、どんどんと変化している。
新しい用語を覚えるだけで、たいへん。
ほとんどどこの証券会社も、24時間態勢で
客に対応しているので、今ごろも、刻々と変化
する為替相場を見ながら、眠られない夜を
過ごしている人も、多いはず。
……こういう記事を書いていると、なんだか、
まじめに働いている自分が、バカに思えてくる。
+++++++++++++++++++
●少子化問題(Decrease of Birthrate of Japan)
From now on Japan will lose one million of people every year, about which many economists
worry that Japan will lose its power and will have serious population problems in the near future. But is this correct?
Almost all countries except USA have, more or less, similar problems. China and Korea are
too. As to China the bad effect of "Only one kid policy" will appear and it will slowdown its economy power too. Also as to Korea, even after two Koreas are united, North Koreans workers would not be fit to modern society or would be rather a burdon upon South Korean' s economy.
The problem so-called "decrease of birthrate of Japan" would not be so serious if we
welcome more foreign workers and more aged people work a bit longer.
The Japanese will keep the No 1 in the world still longer!
+++++++++++++++
この先、日本は、毎年、約100
万人ずつ、人口が減っていく。
これは予測でもなんでもない。すでに
既定の事実である。
では、その日本が、この先、没落
していくかというと、そうとも
言えないのではないか。
この種の問題は、どこの国も
かかえている。深刻か、そうでないかの
ちがいはある。
その深刻さでみるかぎり、日本のケース
は、まだよいほう。
たとえば韓国にしても、中国にしても、
少子化問題をかかえている。とくに
中国は、「一人っ子政策」で、今後、
その影響が大きく出てくる。
韓国も、日本以上に、少子化問題を
かかえている。南北統一によって、
人口が、6〜7000万人になると
言われている。が、労働者としての「質」
の問題もある。
現時点では、北朝鮮の労働者は、労働者
としては、使い物にならないと言われている。
ゆいいつの例外は、アメリカで、
アメリカだけは、理想の人口ピラミッド
を維持したまま、経済発展をつづけていく。
もちろんほかにも、アメリカ型の
人口ピラミッドを形成している国は
あるが、基礎的な知的財産そのものが
ちがう。
(たとえばアフリカ諸国が、いくら、
理想的な人口ピラミッドを形成しているといっても、
日本の経済的優位をおびやかす存在とは
なりえない。)
日本は、この知的財産をうまく利用
し、労働力の不足を、外国人労働者
で補っていけば、少子化問題は、克服
できる。
プラス、団塊の世代の私たちが、あと
10〜15年、現役でがんばれば、
高齢化の問題も、霧散する。
「日本の将来は暗い」という話は、
信じないほうが、よい。
まだまだ日本は、アジアの先進国だ!
++++++++++++++++
(To English Readers)
●へたくそな英語でも……(It doesn't matter whether my English is poor or not.)
+++++++++++++++++
2008年……これからは、私の
意見を、世界に向かって発信して
いきたい。
From the year of 2008, I shall write articles in English to the open world.
いろいろな翻訳ソフトを試してみたが、
どれも、イマイチ!
I have tried some translation softwares which translate Japanese into English, most of
which works insufficiently with funny English. So I give up using them. I write things with my own ability of English.
へたくそでも何でも、書いていれば、
そのうち、うまくなるだろう。
I believe my ability in English would be improved some day if I keep writing.
要は、言いたいことが、相手に伝われば
よいのだ。
What is important is to just convey my thoughts to people who live outside Japan, not
Englsih itself.
この日本では、「東京発」でなければ、
意味がないという、おかしな偏見がある。
There is a funny prejudice in Japan that if not it is an information from Tokyo, it is
meaningless or worthless, but it is a prejudice.
しかし世界の人たちは、ちがう。
日本人がもっているような中央集権意識
そのものがない。
But I know people in the world are more broadly-minded in this sense. I am sure they don't
care if it is from Tokyo or not, or it is from Hamamatsu, a local city in Japan.
「浜松発」でも、受け入れてもらえるはず。
They will accept me, I am sure.
10年後には、まともな英語が書けるように
なることを願いながら、ともかくも、
一歩を踏み出した。
In about 10 years later I suppose I can write better English and for that purpose I just now
step forward to the future.
がんばろう。がんばります。
I shall do my best and I am doing the best for this.
++++++++++++++++++
●鈍感力(Less-sensitiveness)
++++++++++++++++++
人も批判されつづけると、批判に対して
鈍感になる。
The more we are criticized, the more we become less sensitiveness.
この世界を生きぬくためには、その鈍感力も
必要。……ということで、渡辺淳一氏が書いた
「鈍感力」(集英社)というエッセー集が、
ベストセラーになった。
To live in such a complicated society, we often need to be more "less-sensitiveness" about
things around us. A book "Less Sensitiveness" written by Junichiro Watanabe is one of the best sellers in Japan.
++++++++++++++++++
私も当初、自分が書いた記事について、批判されたり、批評されたりすると、かなり、それを
気にした。頭に、カチンときた。しかしそれも一巡すると、「どうぞ、ご勝手に!」という心境にな り、今では、まったくと言ってよいほど、気にしなくなった。
When I was to start writing in my blogs about me, I was very sensitive and nervous about
what other people say and think about me. But soon afterwards I became to care about them less and less and now I really don't care about them.
たとえばヤフーの検索エンジンか何かを使って、「はやし浩司」を検索してみればよい。中に
は、私のことを、ボロクサに書いている人もいる。カルト教団に属する、どこかの頭のおかしい 連中である。私は、もとから、そういう連中を相手にしていない。
Just refer to Yahoo's Search Engine to look up about me, then you will know that some
people are writing about me very badly. They belong to a Sect or Cult and I am sure that they are not "normal" in brain-system.
また私は毎日、ありのままを書いている。本当のことは書かないこともあるが、しかしウソは
書かない。そういう私をみなさんは、どう思うか。ちなみに、「はやし浩司」は実名である。「林浩 司」と書く。「はやし・ひろし」と読む。たいへんありふれた名前で、この浜松市だけでも、「はや し・ひろし」という名前の人は、12〜5人もいる。全国では、約200倍して、3000人前後という ことになる。
I am writing about me as I am with my real name, Hiroshi Hayashi. My name is very common
in japan and it's estimated about 3000 people in Japan have the same names as mine. Therefore I write my name half in Hirakana and half in Chinese Characters.
だから「はやし浩司」というペンネームにした。幼児を相手に、「はやし」といつも書いていたか
ら、いつの間にか、「はやし浩司」となった。
Also I have been writing HAYASHI in hirakana when teaching very young kids. This is the
reason why I use hirakana to write my name.
そんなわけで、私はこうして自分を、いつもさらけ出している。当初は、勇気が必要だった。
(さらけ出す)ということは、その分だけ、(敵をつくる)ことを意味する。だからほとんどの人は、 BLOGを発行するにしても、ペンネームとか、ハンドルネームを使う。偽名を使う人もいれば、 性別や年齢を隠す人もいる。
At the beginning, I needed some kind of courage to write about me as I am. To write about
me as I am often means to make enemies around me, enemies who dislike me to write about them.
しかしそこは鈍感力。
Then I needed "less-sensitiveness".
こういうことを長くつづけていると、だんだん、鈍感になってくる。まわりの人たちのことを気に
しなくなってくる。陰でいろいろ言っている人はいるのだろうが、そういう人たちさえ、視界から 消える。私は「現実逃避の一形態」と理解しているが、それもときとばあいによっては、必要な のかもしれない。
The more I write about me, the more I become "less-sensitiveness". I have become less
sensitive about people around me whatever they say and how they criticize about me. It may be a kind of "Escape from real world", but sometimes we need it to live in this world.
ただごく最近まで、親類のだれかは、気になった。中に、お節介焼きのバカがいて(失
礼!)、私の書いた記事について、「これはあなたのことを書いたものだ」とか何とか、告げ口 をして回っていた。告げ口をされた相手は、当然、それを不愉快に思ったり、時に、怒ったりし た。
I care, however, until recently about those relatives and people whom I know well. Some of
them read my articles and they let other people know what I am writing, saying, "Hiroshi is writing about you" or something like this. This may make other people uncomfortabale or sometimes may offend them.
この世界には、「炎上」という言葉がある。その炎上を避けるため、他人の話を自分の話にし
たり、他人の親類の話を、自分の親類の話に仕立てたりすることがある。いくつかの話を混ぜ ることもある。もちろん実名を使って、その人を批判するのは、相手が公人でないかぎり、タブ ー。そんなことは、常識。「親戚の話」と書いたところで、それは親戚の人の話とはかぎらない。
It is a taboo to write about them with real names or criticize them with real names for their
dignity. Then I write things, changing names and situations. This is a common sense which we should put into our mind when we write something. Otherwise it would cause some unexopected troubles, which I should avoid.
しかしそれも一巡すると、どうでもよくなってしまった。やはり、「どうぞ、ご勝手に」となった。い
ちいち弁解するのも疲れる。……と同時に、そういう相手とは、縁を切る。
But still then the more we are criticized, the more we become "less-sensitiveness".
そう言えば、江戸時代の終わりに、「ええじゃないか」という奇妙な踊りがはやったという。あ
れも、鈍感力のひとつだったかもしれない。
This article just has reminded me of the strange dancings which we did at the end of Edo
period. I collect hereby the article I wrote about the strange dancing.
その「ええじゃないか」について書いた原稿をさがしてみた。
+++++++++++++++++
●ええじゃないか(Don't care dancing)
慶応八年(1867)というから、まさに幕末のころ。名古屋市周辺で、奇妙な踊りが流行した。
In 1867, toward the end of Edo Period of japan, there occurred a strange and funny
danncings in Nagoya and places around Nagoya, called "E-jyanaika", which literally means " we don't care."
きっかけは伊勢神宮の御札が天から降ってきたためと言われているが、もちろんそれは言い
伝えに過ぎない。
Then beginning of the dancing started when shrine-papers came down from the sky but it
was a kind of rumour.
人々は狂ったように踊りだした。「ええじゃないか、ええじゃないか」と。
People started dancing crazily, shouting, "E-janaika""E-jyanaika".
「言い伝えによると、女は男装、男は女装し、太鼓や三味線をならし、踊り狂ったという。群集
が地主である庄屋や金持ちの商人の家へ土足で入り込む。で、なぜか押し込まれたほうは、 酒や肴(さかな)を際限なく振る舞った。押し入った人々は金品をまき散らし、これくれてもええ じゃないかともち去る。
People raushed into wealthy houses and took out money and food as they like and the
wealthy people gave money and food as they wanted. Women wore men's clothes and vice versa.
で、取られたほうは、それやってもええじゃないかとやってしまう。役人が止めようとしても、まっ
たく聞き入れない。踊りくたびれると、だれの家でもかまわず寝てしまい、目が覚めると、またえ えじゃないかと踊りだす。このええじゃないかはウワサはウワサを呼び、東海道筋から東に江 戸、横浜、静岡。西は京都、大阪、西宮にまで及んだ(マスダ組「歴史概論」)という。
This funny dancing spread from Nagoya to other places such as Tokyo(Edo) Yokohama,
Shizuoka, Kyoto and Nisino-miya. They slept in other people's houses as they like and when they woke up they started dancing again.
この「ええじゃないか」について、「この大騒動をカモフラージュして、倒幕派は着々と江戸幕
府打倒の動きを進めていた」(同「歴史概論」)という説もあるが、私はそういう政治的背景は、 当時の日本にはなかったと思う。
Some historian explains this dancing as a kind of anti-government movement but I don't
agree to this. In those days people were too obedient to think about the political regime.
結果として、倒幕運動に利用したという動きはあったかもしれないが、そうした高度な政治意識
というのは、近年になって生まれたもの。江戸幕府があった東京で起きたとか、薩摩、長州の 息がかかった京都で起きたというのなら話もわかる。しかしこのええじゃないかは、名古屋市 周辺で起きているということを忘れてはならない。
This dancing worked partially as a movement in accordance with the movement of anti-
government movement. But just think that this dancing occurred in Nagoya, not in Kyoto and Tokyo.
それはともかくも、その根底に、鬱積した民衆の不平や不満があったことは事実だ。しかし当
時の日本は、いくら幕末とはいえ、それを訴える自由もなければ方法もなかった。300年も続 いた封建体制の中で、民衆は骨のズイまで「魂」を抜かれていた。「自由」が何であるかさえわ からない状態で、この運動は起きた。
People might have a lot of complainmets agaist the Government but they did not know how
to solve the problem with no knowledge. As I write here they were so obedient that they have no idea but to dance crazily.
が、私はこの運動こそが、まさに現世逃避の象徴ではなかったかと思う。「この世はどうなって
もええじゃないか。あの世があるではないか」と。それはまさに前世、来世論で組み立てられた 日本の仏教の教えを、そのまま象徴していたともとれる。
What I think about this funny as well as crazy dancing is that they started it to
Escape from the real world of living or desperately, thinking, "we don't care about this world
but we hane another one after we die."
このええじゃないかが、幕末の話でないことは、映画化もされ、また日本各地で、イベントとし
て再現されていることでもわかる。「これこそ日本人のやさしさ」と美化する動きさえある。しかし 本当にそうか? そうあってよいのか? 「今」という現実を直視するのが苦手な日本人が、現 実逃避の新たなる手段として利用しているとも考えられるのだが、皆さんはどう考えるだろう か。
This dancing was filmed as a movie and some people take this dancing as a symbol of the
gentleness of the Japanese people, but I don't think so. At least this is not a beautiful story we can praise. They just wanted to escape from the real world into a fantasy.
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ええじ
ゃないか)
(付記)英語に翻訳するということは、ほんとうに、疲れますね!
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2335)
●妻と夫(Japanese Wife & Husband)
Meiji Insureance Company has revealed its recent researched date about wives and
husbands as follows:
*What husbands want their housewives:
(1)Clean-ups of rooms and houses
(2)Not easy-cooking
(3)Body-shaping
(4)Early rising in the morning
(5)More sensitiveness
*What wives want their husbands:
(1)Non-smoking
(2)Clean-ups
(3)Not too much drinking
(4)Not wasting money
(5)More sensitiveness
And also it is revealed that about half of wives and husbands have less than 30 minutes for
their daily conversation and one third of them feel lack of love to each other.
Japan has modernized very quickly, however, leaving some more important problems behind.
This is one the results of our modernization.
+++++++++++++++++
日経新聞に、こんな興味ある調査結果が
載っていた(日経新聞、12−4日号)。
夫が妻に感ずる不満、妻が夫に感ずる
不満についての調査である。
(明治安田生命保険が夫婦を対象に実施。)
それによれば……
●夫が妻に望むこと
(1)整理整頓ができない(25・6%)
(2)料理の手抜き(14・8%)
(3)体型が変わってきたところ(13・4%)
(4)朝寝坊(11・2%)
(5)気が利かない(9・7%)
●妻が夫に望むこと
(1)たばこ(22・9%)
(2)整理整頓(22・9%)
(3)お酒の飲み過ぎ(18・2%)
(4)浪費癖(16・9%)
(5)気が利かない(16・7%)
●夫婦の会話時間
男性40代……1日あたり、30分以下……50%
女性40代……1日あたり、30分以下……56・8%
そのほか、「30分以下の比率は男女とも40代が突出して高い。次は男女とも50代。男性は4
2・1%、女性は43・8%が30分以下と答えている。30分〜1時間も50代男性の37・2%、同 女性は22・5%を占めた。ほぼ3分の2が1時間以下しか夫婦の語らいの時間を持っていない という結果は、「あうんの呼吸」「以心伝心」と見るべきか、夫婦仲の冷え込み、相互無関心と 見るべきか」(産経)とある。
とくに気になるのは、つぎの数字。
●配偶者に愛情を感じているか
愛情を感じていない……33・4%
会話時間が30分以下の女性で、愛情を感じていない……41・1%
この調査結果をみるかぎり、40代の夫婦のうち、約半数が、1日あたり30分以下の会話し
かなく、全体の3分の1の夫婦が、愛情の冷え込みを感じているということ。とくに会話時間が3 0分以下という夫婦があぶないらしい(?)。
しかしこの数字には、2つの見方がある。
愛情が冷え込んだから会話が少なくなったとも考えられるし、会話が少なくなったから、愛情
が冷え込んだとも考えられる。
さらに「30分」といっても、中には、まったく会話をしない夫婦もいるだろう。しても朝と夕のあ
いさつ程度とか、など。そういえば、私の知人の中にも、そういう夫婦がいる。夫は、いつもこう 言っている。「ぼくたちは、形だけの夫婦ですよ」と。
しかしこういう夫婦を、夫婦と言ってよいのだろうか。たまたまおととい、山荘の近くでミカン農
園を営んでいるK氏を訪ねてみた。ちょうどみかんの収穫期で、Kさん夫婦(祖父母)、若夫 婦、それに孫2人が、総出でミカンの収穫をしていた。
夫婦というより、家族というのは、そういうものではないのか。日本は、近代化の下準備をす
ることもなく、近代化に向かって、いわば盲目的につき進んでしまった。それから生まれる弊害 が、こうした数字に表れているのではないか。
ちなみに、私たち夫婦のばあい、会話時間は、平均して、1日あたり、4〜5時間。夜中でも、
ふとんの中で、ペチャペチャと1時間ほど、おしゃべりをしている。が、それでも、ときどき夫婦 の危機を感ずる。30分以下というのは、異常と考えてよい。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(2336)
●異常な個人負債(critical personal debt of South Koreans)
The total debt which South Koreans is now estimated abt.611000 million US dollars, which
seems to be critical for South Korean national economy.
Can they pay back the debt? If not, South Korean national economy would collapse from
the botoom.
+++++++++++++++++
韓国の個人負債額が、とうとう
610兆ウォンを超え、611兆ウォン
弱になった※。
1世帯あたり、3820万ウォン。
日本円に換算すると、個人負債は、
0・102をかけて、73兆円!
1世帯あたり、460万円という
ことになる。
アメリカドルに換算すると、
個人負債は、6110億ドル、
1世帯あたり、4万6000ドルという
ことになる。(対米ドルレートで、0・001
をかける。)
日本のバブル経済期には、銀行が、
不良債権をかぶった。
韓国では、個人が、負債(まだ不良
負債というわけではないが……)を、
かぶっていることになる。
しかし個人が破産すれば、当然、その
ツケは、銀行に回る。銀行が、巨額の
不良債権をかぶることになる。
+++++++++++++++++++
(注※、東亜N報、12月4日)
銀行の家計貸出しが信用貸出しを中心に拡大し、韓国の国民の、家計の全体債務が初めて6
00兆ウォンを超えた。
12月3日(07年)、韓国銀行によれば、9月末の「家計信用」残額は6月比、14兆2031億ウ
ォン増えた、610兆6438億ウォンに集計された。家計信用は、一般家庭が銀行など金融機 関から借りたお金(家計貸出し)と、クレジットカードで物品を購入した債務(販売信用)を全部 含めたものだ。
統計庁の06年推計世帯数(1598万8599世帯)を基準にすれば、1世帯当たりの負債規模
は平均3819万ウォンに達する。
+++++++++++++++++++
先ごろ、60%以上もあった法定利息制限が、少しさげられた。が、韓国では、依然として、年
率、100〜200%の高利貸し業が、今の今でも、堂々と営業している。仮に60%として、460 万円の借金で計算しても、利息だけでも、年276万円。月額にして、23万円! 全世帯の4分 の3の人たちは、月収、15〜20万円の生活を強いられているという。貧富の差は、日本の比 ではない。
People in South Korea borrow money from banks and other non-banks with interest of 60%
or 100~200% per year. The average household has abt 46000 US dollars for debt, which means each household has to pay 2090 US dollars for interest every month.
Abt one-fouth of people are spending a life with income of less than 1800 US dollars. What
do you reckon about these data? I just wonder what would become of South Korea.
この数字を見ただけでも、韓国が、今、異常な状態にあることがわかる。
どうなるか、韓国!
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2337)
●民主主義の原点(The Principle of the democracy?)
++++++++++++++
国あっての民なのか、民あっての
国なのか。
(Should the people be existed before the government?
Or should the government be existed before the people?)
日本では、国あっての民と考える。
しかしそれは民主主義の原点では
ない。
In Japan we think people are existed because the government is existed.
But this is not a common sense of the world.
トーマス・ペインの有名な文章を
紹介する。
Here I introduce Thomas Paine's artcle about the Democracy.
++++++++++++++
Thomas Paine said it best.
"It has been thought," he wrote in The Rights of Man in 1791, "…that government is a
compact between those who govern and those who are governed; but this cannot be true, because it is putting the effect before the cause; for as man must have existed before governments existed, there necessarily was a time when governments did not exist, and consequently there could originally exist no governors to form such a compact with. The fact therefore must be, that the individuals themselves, each in his own personal and sovereign right, entered into a compact with each other to produce a government: and this is the only mode in which governments have a right to arise, and the only principle on which they have a right to exist."
1791年にトーマス・ペインは、「人間憲章」の中で、つぎのように書いている。
「政府(=国)は、統治するものと、統治されるものの協約であると考えられてきた。しかしこれ
は事実のはずはない。なぜなら因果関係が、逆だからである。人間は、政府が存在する前に すでに存在していた。政府が存在しなかった時代が、必然的にあった。このような協約のある 統治者はもともといなかった。それゆえに、それぞれが不可侵の権利をもった個人そのものが 存在し、それがそれぞれに協約を結び、政府を生み出した。そしてこのようなムードの中で、政 府は立ち上がる権利を擁し、またそれだけが政府が存在する権利をもつところの原則である」 と。
しかしいまだに、「国にあっての民」と考えている人は多い。さらに引き下がって、「家あっての、
家族」と考えている人も多い。ついでに言えば、「親あっての、子」と考えている人も多い。よい 例が、一家心中である。
(In Japan, even still now many people think that we can exist because the government
existes before people. Similarly at the same time families can exist because the "House" exists before the families. And also children can exist because Parents exist before the children. Take up "Family Suiside".)
死にたければ親だけが死ねばよい。子どもを巻き添えにするとは、卑怯だ! 子どもには子ど
もの人生がある。命がある。
(Why should children be involved in the Family Suicide in Japan? If you want to kill yourself,
you only kill yourself. Don't get children be involved in the Family Suicide in any case, since children themselves have right to live and life and the right to exisit?)
家族にしても、そうだ。江戸時代という封建時代ならいざ知らず、今どき、「家」のために家族が
犠牲になるなんて、バカげている。さらに言えば、民あっての、国である。それが民主主義の原 点である。
(Also as the the "House", we are not living in the world of feudal age called "Edo-Period"
and therefore it may be stupid for each member of the families sacrifice for the house. Moreover the government can exist because we, the people, exist before the government. This is the principle of the democracy.)
それとも日本は、今、この場に及んで、王政復古を成し遂げようとしているのか? 「武士道こ
そ、日本が誇るべき、精神的根幹である」と説く人がいる。そういった内容の本が、100万部 単位で売れている。
(Or are we about to repeat again the Restoration? It is very sad thing to know that more
people worship the Knight-ship (Samurai soldiers) and their spitits, saying "This is Japan",. Millions of books on this are being sold in Japan.)
それはそれで結構なことだが、封建時代の負の側面、負の遺産に目をくれることなく、一方的
に武士道なるものを礼賛するのも、どうか? こうした動きは、むしろ、民主主義の後退を招く だけ。
(We should pay attention also together on the dark side of the feudal age and its spitits at
the same time when we worship them. Or it would slow down the pace of Democracy.)
改めて、トーマス・ペインの「人間憲章」を読みなおしてみたい。
(Here again we would like to make sure what Thomas Paine writes in the "The Rights of Man
".
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Democracy in Japan the principle of the democracy Samurai Spirits samurai soldiers)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●愚かな人たち(People of No-brains)
Recently I have mails from such and such people of such and such sects or cults, like this
below;
"The God is ready to be witnessed by us in 2008."
Many times such prophecies are predicted in the past but none of them became real. And
each time after that they say Arumageddon is avoided by our faith."
We call these people, "People with no-brains."
What would become of us, if the God come down to the earth? Then what?
++++++++++++++++++++++++
このところ、つぎのような書き込みがつづいている。
差出人は、「マリア」とある。
反論するのもバカらしい。今までこうした降臨説で
当たったためしがない。
そのつど、ハズレ! しかし悪びれることもなく、
彼らは、こうつづける。
「私たちの信仰で、アルマゲドン(=終末)は、
回避されました」と。
++++++++++++++++++++++++
(掲示板の投稿より)(マリア)
「終末の前兆は2007年ですべて完了しました 来年か
ら世の終わりが始まります まもなく わたしたち
は キリストの降臨を見上げるでしょう」と。
++++++++++++++
こうした説を流布しているのは、あの団体である。日本でもよく知られた、あの団体である。そ
のつど終末論を唱え、そのつど降臨説を唱える。しかし未だかって、彼らの言う予言なるもの が、当たったためしがない。まったく、ない。
そして今日も、また、ここに書いたような投稿があった。
この投稿を読んで、まず感じたこと。「だからどうなの?」と。「それがどうしたの?」と。「だか
らといって、あなたがたとどういう関係があるの?」と。「なぜ、あなたがたが、それを私たちに 知らせなければならないの?」と。「だからといって、あなたがたが正しいということにはならな いのではないの?」と。
こういう投稿は、ストーカーにつけ回されているような感じで、不愉快。どういうわけか、気分
が悪い。そう、まさに文章による、ストーカー行為そのものと言ってよい。
どんな宗教を信ずるにせよ、それはその人の勝手。「自分は正しい」と思うのも、その人の勝
手。しかし、返す刀で、「あなたはまちがっている」と言ってはならない。
だいたいこの種のデマを流布しながら、未だかって、それについて責任を取った人が、ひとり
もいないというのは、おかしい。あの1999年の7月のときも、そうだった。もともと頭のおかし な人が書いた予言書なるものを本気で信じて、本を書いた人が、2ダースはいた。中には、そ の種の本を、計、数百万部も売った人もいる。
しかしすべて、ハズレ! アルマゲドンは起きなかった。神の降臨とやらもなかった。
2008年。何があるか、私にもわからない。アルマゲドンと呼ぶにふさわしいことが起きるか
もしれない。しかしだからといって、彼らの予言が当たったということにはならない。事故と災難 は、そのつど、繰りかえし、やってくる。
あなたたちはあなたたちで、勝手に幸福になればよい。……ということで、この種の書き込み
は、そのまま削除。ついでに、一言。少しは知性を磨いたら、どうか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Japanese cult sect)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2338)
●一瞬(A blink of light)
+++++++++++++++++++
遅々として進まなく見える人生も、
一瞬のできごとで、すべてが変わる。
そのとき平和は、途切れ、安穏は、消える。
平凡は美徳だが、その平凡からは
何も生まれない。しかしその平凡の価値は、
それを失って、はじめて、わかる。
何でもないこと。その何でもないことの中に、
私たちが、求める真理が隠されている。
目が見える。耳が聞こえる。話ができる。
歩ける。走れる。電車に乗れる。人と
会うことができる。
それが、一瞬で変わる。ほんの一瞬だ。
D氏が、交通事故で倒れた。ほんの
一瞬のできごとだった。そのD氏の
奥さんが、「一瞬」という言葉を使って、
その交通事故を、知らせてくれた。
人は、ときにその一瞬おののき、恐れる。
Sometimes life itself seems to go very slowly, as if it did not move.
But sometimes life itself changes all at once. Then peaceful life puts an end mark and
happiness turns to be the deepest sad.
Life with nothing is a virtue but such life will bring us nothing.
But people would know the value of such life when they lose it.
Life with nothing. The truth is hidden in such a life.
I can hear. I can see. I can talk. I can walk. I can run. I can ride a bike. I can meet with
people.
But such a life sometimes changes all at once.
Mr. D met an traffic accident. It was an accident. But the accident occurs within a blink of
light.
Mr. D's wife wrote to me, using a word " a blink of light". Sometimes a blink of light is so
harsh and severe that people can't bear it.
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2339)
●「国」とは何か?(What is "Kuni"?)
What is "Kuni" in Japanese?
In English "Kuni" is translated into "country", but it doesn't mean "Kuni". It means "Land".
Also when they say "Patriotism", it means "to love our Father's Land". How about "Nation "? When they say "Nationalism", it is not at all praised or rather despised because in most cases nationalism causes unwanted and cruel wars.
In the orienatal world, "Kuni" means "My land with my people for the Leader". It is one of
the most difficult word for the western people to understand.
Here again I would like to quote Thomas Paine's "the Rights of Man" to think about the
democracy.
By the way when I searched my name with Yahoo's search Engine, I found some blogs in
which they say, "Hiroshi Hayashi is a communist" or, in another blog, "Hiroshi Hayashi did a sexual abuse to two girls while he was researching his studies at K. University in Hyogo pref. " Of course these are lies! I am not a communist or I have never been to K. University before for my study.
Why are the people criticized like this in Japan, when we talk about the democracy? Do we
really want "the Restoration" again? The government can exist because we exisit as Thomas Paine said like this "for as man must have existed before governments existed".
Which will you take, "the Government for People" or "People for the Gopvernment"?
We say "Japan is a country of Democracy". But the democracy we know is quite different
one from the democracy they say in the western world. This is the point.
++++++++++++++++++
英語で、「国」というときは、「Country」と
いう言葉を使う。
しかし「Country」というときは、「領土」を
意味する。
また英語で、「愛国心」というときは、
「Patriotism」という。
しかし「Patriotism」という単語は、「父なる
大地を愛する」というラテン語に由来する。
さらに英語には、日本語で言う「国」に近い
単語として、「Nation」がある。しかしこの
「Nation」に、「Nationalism」と、「-ism」が
つくと、狭小な民族主義を意味するようになる。
「Nationalism」というのは、軽蔑されるべき
ものであって、決して賞賛されるべきものでは
ない。
では、日本を含めて、東洋でいうときの「国」
とは何か。
そこで昨日、トーマス・ペインの「人間憲章」
(The Rights of Man)を取りあげてみた。
「国あっての民なのか」「民あっての国」なのか。
同じ民主主義と言いながら、西洋でいう
民主主義と、東洋(日本を含む)でいう
民主主義には、大きなちがいがある。
日本では、「国あっての民」と、ほとんどの
人たちが考えている。
なおこの「人間憲章」が、1791年という年に
なされていることに注目してほしい。今から、
ほぼ200年以上も前のことである。
+++++++++++++++++++
驚いたことに、ほんとうに驚いたことに、昨日、「幼児教育家」で検索してみたら、この私が、
共産党員(?)と書いてあるBLOGを発見した。いわく「共産党員とは確認されていないが…… その疑いは、濃厚である」と。
さらに驚いたことに、この私が、「K大学で、幼児研究をしている際、2人の女児にわいせつ
行為を働いた」※というのもあった。
これらのBLOGには、コメント欄があったので、私は、即刻、削除するよう書いておいた。
念のため申し添えるが、私は共産党員ではない。選挙のたびに支持政党が変わるので、自
分では、「浮動票の王様」と呼んでいる。自民党にも、公明党にも、民主党にも票を入れる。率 直に言って、共産党に票を入れることは、めったに、ない。
K大学での研究中に、2人の女児にわいせつ行為を働いたというのは、事実無根もよいとこ
ろ。だいたいK大学(兵庫県、国立大学)には、一度も行っていない。15年ほど前、その大学 から、講師にならないかという話はあったが、それは、断った。
その上で、もう一度、考えてみたい。
どうしてこの日本では、民主主義を訴えると、共産党員ということになるのか? 封建主義を
否定し、王政復古に反対すると、どうして共産党員ということになるのか? 何か、まずいこと でもあるのか?
「民あっての国(Governmnet=政府)」などということは、何も、トーマス・ペインの言葉を引用
するまでもなく、当たり前のことではないか。
日本でいう民主主義は、西洋でいう民主主義とは、まったく異質のものと考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist democracy nationalism patriotism)
(注※)私のHPのいちばん下、(Hiroshi Hayashi)で検索すると、数ページ目に、この問題のBL
OGがある。興味のある人は、読んでみたらよい。プラス、笑ってほしい。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
*Dec. 6th、2007
●風邪?(Catching a cold?)
++++++++++++++
ここ数日、風邪をひいたような
状態がつづいた。
月曜日に、小雨の中を自転車で
走ったのが、まずかった。
最後まで走りきってしまえば、
まだよかったのかもしれない。
途中で、橋の下で雨宿りをして
してしまった。そのとき、体を
急に冷やしてしまった。
おかげで昨日(水曜日)は、自分の
体をささえるだけで、精一杯。
頭の中も、からっぽ。ほとんど
一日中、ぼんやりとして、過ごした。
I may have caught a cold and feel dull these few days. I went out for cycling on the last
Monday when it was raining a bit. I stopped over unde a bridge to have a wait which was bad for me. It might suddenly cooled my body. I should have come back without stopping on the way.
●知人(A man whom I know)
ところで昨日、近くのショッピングセンターへ行ってみた。そこで、1人の男性に出会った。明ら
かに認知症、といった感じだった。よく知っている男性だった。近くの郵便局で、長い間、郵便 局長をしていた男性である。お世話になった。
声をかけようと思ったが、それができなかった。ショックだった。頭もキレて、テキパキと仕事を
していた人だった。
「私も10〜15年先にはああなるのか?」と思った。そう思ったので、声をかけることができな
かった。
By the way I went to a near-by shopping center with my wife where I met a man. He used
to be working as a Post master in a post office. He seemed to have senility and was wandering around there. I tried to say hello to him, but I couldn't. I thought in about 10 or 15 years or so, I would be like him. This is why I couldn't talk to him. I was shocked, since he was such a type of man who was sharp in thinking and quick in his business.
●健康(Tough Body)
++++++++++++++
健康は、つくるものではなく、
維持するもの。
今、健康なら、その健康を維持する。
そのためには運動ということになるが、
運動そのものよりも、大切なのは、
運動するという習慣。
その習慣が、その人の健康を維持する。
++++++++++++++
Tough body is not the one we can make, but it is the one which we can maintain. If you
have a tough body now, just think about it to maintain. Physical exercises is essential to keep your tough body but it is more important to have a habbit to do some exercises daily in your life, rather than exercises itself.
●外国から見る日本「In Japan, rural economies wane as cities thrive」
+++++++++++++++
英語でBLOGを書くようになった
せいか、このところ、あちこちの
英語サイトをのぞくようになった。
今は、外国人が、日本をどのように
見ているか、それにたいへん興味が
ある。
ヘラルド・トリビューン紙を読んで
みた。
題して、「In Japan, rural economies wane as cities thrive」
(日本では、都市の経済は栄え、地方の経済は衰退する)。
The only outward sign of conflict here is the red flags of protest, but this small logging city
on Japan's remote northern coast is seething. A proliferation of national chain stores outside town has already forced the closing of about half of the city's once teeming central shopping district. Now, many in this normally restrained rural community see the megamall being built nearby, by a company based near Tokyo, as the final nail in the coffin of their economy.
ヘラルド・トリビューン紙(12月5日付)は、ある地方都市の空き地を写真で紹介している。か
つては商店街として栄えたところである。
「抗議のための赤い旗」と、記事にはある。全国的なチェーン店や大型店が進出してきて、地
方の商店街は、壊滅的な打撃を受けている。そういう事実をいくつかあげながら、「日本では、 都会を中心とする勝ち組と、地方の負け組が、はっきりしてきた」と。
私が住むこの地域でも、50年近くも昔からあった商店街は、ほぼ壊滅状態。全滅といっても
よい。それにかわって、東海イチとも言われる大型ショッピングセンターができ、それが夜中で も、こうこうと不夜城のように輝いている。
Almost all shops and stores on the streets around my area where I live are being closed,
shops and stores which are here over 50 years or more. Huge shopping centers or chain- stores have replaced them witheir own ones.
こうした大型ショッピングセンターは、外国から安い商品を大量に仕入れて、薄利多売という
よりは、暴利多売で、私たちにものを売りつける。そういう事実を知ってか知らずか、地元の人 たちは、みな、そういう店に向かう。自分で自分のクビをしめながら、そのしめているという意識 すらない。
These shopping ceters and stores import cheap goods in bulk from overseas and they sell
us (not with small profits) but with big profits in large scale. Town people around me go to these shopping centers and chain stores with or without knowing these facts.
わかりやすく言えば、地方は今、都会の植民地となってしまった。
This means that local towns have been colonaized by urban big cities.
モノだけではない。文化にしてもそうだ。都会から地方へ、一方的にたれ流されるだけ。だい
たい地方にいる人たちが、地方の価値を認めていない。地方の人材を認めていない。都会人 のマネをしただけで、自分も都会人になったつもりでいる。このおかしさ、バカ臭さ。いつになっ たら、私たちは、それに気づくのか。
Not only goods but also culture itself comes to the local towns like floods on one-way.
Moreover town people do not value our own culture and people. They wear clothes which come from Tokyo and think and behave themselves as if they were also urban people. When shall we recognize such a stupitidy?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Japan from outside)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2340)
●サビた英語を使う(I use my rustred English.)
++++++++++++++
恩師の田丸先生は、50歳を
過ぎてから中国語を勉強し、
中国化学会で、中国語で
記念講演までしてみせた。
My teacher, Prof. K. Tamaru started learning Chinese after he was 50 years old and finally
he made a speech in Chinese at China Chemistry Academy.
すごい人だ。
He is a great man!
私も負けじと(?)、60歳を
過ぎてから、英語でBLOGを
書くことにした。
Now I am trying to write my blog in English to challenge myself as well as Prof. K. Tamaru
when I just became over 60 years old.
何しろ私の英語は、すでに
サビついている。
My English ability has been, frankly, rusted already.
が、それを始めて、5日目。
すでに大きな変化が現われた。
But I feel something very different in these 5 days since I started writing things in English.
今までは、外国のサイトも、
日本語版をさがして読んでいたが、
英語版を読むようになった。
I had been reading overseas' websites written in Japanese by that time but now I am
reading English ones directly.
これはすごいことだ。しかも
昔の私のように、理解できる!
It is a big change! I can follow and understand the websites written in English.
パソコンショップをうろうろ
しながら、翻訳ソフトをさがして
いた自分が、バカみたい。
I was wandering to seek a translation soft in computer shops but I know myself I was stupid.
今、頭の中で、まるで夏の夜の
花火大会のように、火花が
飛び散っている。
In my brain many sparks are shining like fire-works of summer nights.
これはとてもおもしろい現象だ。
This is a wonderful phenomenon.
+++++++++++++++
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2341)
●今日・あれこれ
●戦国自衛隊(Japanese Soldiers who made a time-slip to the feudal war time)
++++++++++++++++++
「戦国自衛隊」(2005年版)を、少し
見る。鈴木K香さんの映画ということで、
かなり期待していたが、星はつけようが
ないほど、(?)。
I just had a time to see a Japanese film named "Japanese soldiers in feudal war time",
about soldiers who made a time-slip to the feudal war time in fifteenth century.
見るのもついらいというか、それでも1時間
ほど、見てしまった。
The movie was a kind of one that I couldn't bear to see. Or I felt as if I had lost one hour in
vain for the movie.
内容は、2年前にタイムスリップした仲間の
自衛隊員のために、再び、別の自衛隊員たちが
救出に向かうというもの。
The story is; another team of Japanese army soldiers are sent to the past again to rescure
the former soldiers who went to the past first by accident.
しかしその2年間で、戦国時代の状況は
大きく変わっていた。
During these two years the former soldiers who went to the past first, had killed Nobunaga
and changed the history.
先にタイムスリップした自衛隊員たちは、
信長を殺し、斎藤道三の家来になっていた。
そしてその2年間で、核兵器なみの兵器を
開発していた! いわく、「日本を強大な
国にして、日本をつくりなおす」とか、何とか。
Also the former soldiers had developed weapons which is as powerful as nuclear ones and
the leader said, "we would make Japan much stronger and reconstruct Japan."
日本の俳優たちは、みな、力(りき)みすぎ。
自然ぽさが、ない。見ていて、肩がこる。
One thing that I don't like about Japanese films is that Japanese actors and actresses act
as they acted Kabuki plays. Too much exaggerations with meaningless explanations in their talking, which make me dull.
それに無駄なセリフが多すぎる。俗な言い方を
すれば、ゴタクばかり並べて、中身がない。
ついでにもう1本、日本映画を借りてきた。
「日本沈没」。こちらの映画は、韓国では、
評判がよかったらしい。
わかる、わかる、その気持ち。
I borrowed another film named "Japan-Sinking", which is about the huge earthquake that
attacks Japan. The earthquake destroys whole Japan.
その映画を見た韓国の小学生たちは、「いつ
日本は沈没するのか」と、おとなたちに
聞いていたという(韓国紙報道)。
According to the Korean newspapers, this film was well-reputed in Korea and some children
asked their parents when Japan would sink down into the sea.
今夜、時間があったら、少し見るつもり。
日本人の私たちにとっては、あまり楽しい
映画ではなさそうだが・・・。
It is not at all a funny film for us, Japanese, but I will try to see it a bit.
へたくそな英語で、すみません。そのうちじょうずに書けるようになると思います。いましばらく、
暖かく、見守ってください。しかし私が書く日本語は、第一級の日本語です。どうか、お忘れな く!
I feel sorry about my poor English. My ability in English has become worse every year since I
seldom have chances to use it. But I will keep writing in English, wishing some day I can write it in better way. Until then please be generous. (Or I am writing poor English to make you laugh and be happy. So please laugh if you wish. I don't care. But please keep it in your mind that my Japanese I write is the first-class one. You may trust me.)
+++++++++++++++++++
●涙、ホロリ(Drops of tears)
++++++++++++++++++
昼ご飯を食べた。そのあと、コタツの I had my lunch. After that I slipped into
中で、横になった。寒気を感じた。 A Kotatsu. I felt a shivering.
寝室へ行き、ふとんにもぐった。 I went to the bedroom and lay down.
そのときのこと。涙が、ホロリとこぼれた。Then some drops of tears came to my eyes.
このところ何かにつけて、自信がない。 I sometimes lose confidence in some way these days.
風邪がつづいて、気力が落ちている。 I have had a cold and am weak in mind.
「この先、だいじょうぶだろうか?」と I just happened to think "Am I all right?"
思ったとたん、涙が、ホロリとこぼれた。No sooner had I thought so, than some drops of
tears did come down.
体を丸めて、目を閉じた。涙は止まったが、I held my body like a sleeping cat
さみしかった。 I closed my eyes and tears were stopped. I felt lonely.
腰が痛かった。足が冷えた。軽い頭痛。 I had a aching around the waist, cold feet and
しばらくすると、夢を見た。 A slight headache. Then I started having a
dream.
うれしかった。眠ったのだと、自分で、I felt relaxed. I could make sure that I could
わかった。 Sleep.
時計を見ると、午後2時。 I saw a watch. It showed "2 o'clock".
仕事のしたくをした。 I made myself ready for my work.
そのまま外に出た。歩いた。街まで歩いた。I went out. I walked. I walked to the city.
距離は7キロ。 7 kilometers to the city.
まだまだ負けたくない。 I don't like to give up.
まだまだ現役でいたい。 I want to be as I have been.
軽い汗をかく。体がほてる。 I had a slight sweat. I felt hot.
ウィンドウに映った自分の姿が、どこか Me on the show-windows looked like an old man,
ジジ臭い。 A miserable old man.
背筋を伸ばす。足をまっすぐ前にのばす。I stretched my body up. I walked with more
力を入れて歩く。 Power on my steps.
あの涙は、何だったのか? What were the tears I saw on the bed?
歩きながら、ふと、そんなことを考えた。I just thought about it on the way.
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2342)
●学力低下(Learning Ability of Japanese students)
+++++++++++++++
OECD(経済協力開発機構)が、06年度に、
15か国、15歳、約40万人を対象にした、
「生徒の学習到達度調査」結果が、このほど、
公表された。
それによると、日本の高校1年生(15歳)は、
前回2003年度にくらべ、読解力が、14位から、
15位。数学応用力が、6位から10位になった。
科学応用力も、2位から6位に後退した。
実施3分野すべてで、順位が低下。前回につづき、
高校生の学力低下傾向が、数字で示された形と
なった。(中日新聞07−12−5、要約)
The result of "student's ability of learning", which made 15 countries, 15 years old and
about 400thousand students done by OECD is announced on Dec. 5th 2007.
According to the result, Japanese the 1st grade (15 years old) in the high school was
compared with 2003 last time, and reading comprehension ability was downed from the 15th from the 14th.
The mathematical application ability was the 10th from the sixth prize.
The science application ability was downed in the sixth from the second prize, too.
All decreases in the execution in 3 fields .
It became clearer that the learning abiluity of Japanese students have been downed in
three fields.
++++++++++++++
●世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)
(読解力)(Reading Ability)
1位 韓国(Korea)
2位 フィンランド(Finland)
3位 香港(Hong-Kong)
……
15位 日本(Japan)
(数学的応用力)(Math Application)
1位 台湾(Twaiwan)
2位 フィンランド(Finland)
3位 香港(Hong-Kong)
……
10位 日本
(科学的応用力)(Science Application)
1位 フィンランド(Finland)
2位 香港(Hong-Kong)
3位 カナダ(Canada)
……
6位 日本(Japan)
++++++++++++++
この結果を、小学5年生の子どもたち(6人)に話してみた。子どもたちは、読書について話し
始めた。
I talked about this result to some six kids of Grade 5th of school. They started talking about
themselves.
驚いたことに、その中の2人が、1年に、300冊近くも本を読んでいることを知った。300冊と
いえば、1日に、ほぼ1冊ということになる。
With my surprise I know two of them are reading 300 books per year. Almost one book a day!
「どうしてそんなにたくさん読むの?」と聞いたら、「学校で、読書競争があるから」と。中に1
人、親から、読書時間を制限されている子どもがいることもわかった。その子どもは、1日に、 1時間までと決められているそうだ。
I asked them why you read so many books a year and one of them told me that there is a
class-competition of reading. Moreover I was surprised to know that one of them is limitied to read books less than an hour a day!
読書は、あらゆる学力の基本である。社会科にしても、理科にしても、読書が基本。とくに小
学生のばあい、社会科は、社会科的な国語、理科は、理科的な国語と理解するとよい。
Reading is essential and we say in Japanese "reading is the pillar of education". As for
socioloy and scienace, they are only parts of reading.
が、それだけではない。
But it is not all.
読書を日常的にしている子どもには、ある種、独特の(深み)がある。沈思黙考タイプという
か、目つきが、いつも静かに落ち着いている。理知的というか、じっと周囲の様子を観察してい るといった雰囲気がある。
Those kids who read books in their daily life look different from those who do not. Those kids
who read more books have a kind of a very special mood and they give us an impression of deep-thinking. They are more logical and even when we do our conversation, they always try to observe things around them.
読書がいかに大切かは、今さら言うまでもない。欧米では、読書(reading)を、教育の柱にし
ている。学校教育は、読書に始まり、読書に終わると言っても過言ではない。
It is no use to say that reading is so important. In western world, reading is one of the most
important subject to learn. School education starts from reading and it is everything.
一方、読書をまったくと言ってよいほど、しない子どももいる。このタイプの子どもは、どこか、
軽い。中身がない。バラエティ番組の中のタレント風といった感じ。ものの考え方が、表面的。 直感的。よくしゃべる。小学5、6年生になると、その差がはっきりとしてくる。
On the contrary there are some who do not read books at all. This type of kids also have a
kind of special mood. They are "light" in thinking and we feel no deepness in their thoughts just like TV talents of cheap varaiety programs. They talk a lot. The difference comes clear when they are about the age of thre grade 5th.
さらに日常的に作文をしている子どもは、ものの考え方が論理的。言葉の使い方そのもの
が、ちがう。読書、作文は、子どもの教育の(要=かなめ)と考える。
And also there are some who write things in their daily life. They are more logical and when
they talk they use more proper words to express themselves. Reading and writing are the " pillar" of education, I am quite sure.
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist reading writing learning ability of the Japanese students)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●英語で考える(Thinking in English)
I am facing a very funny phenomenon in me, that I am thinking in English even while I am
wrting things in Japaese, which I mean that I am translating what I am writing into English at the same time. This may be the reason why my essays I write in Japanese seems to be like ones which school kids write at schools. I am trying unconsciousnessly to avoid difficult words and expressions in Japanese. I hope this may be a kind of a phenomenon everybody experience on the way. I shall keep doing this and then I will know the answer.
++++++++++++++
またまたおかしな現象に
直面している。
12月に入ってから、英語でも
BLOGを書き始めた。
そのせいだろうが、日本語を
書きながらも、別の頭で、すでに
英文を考えながら書くようになった。
そのため自分の書いている日本語が、
まるで小学生の書く作文のように
なってしまった。
できるだけ難解な言葉を避けようと
している。内容も、簡単になってきた。
そんな感じがする。
これも一過性のものか。
今しばらく、このままの状態を
つづけてみたい。
+++++++++++++
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(2343)
●今朝のニュースから(Herald Tribune紙より、12月8日・Dec 8th)
++++++++++++++++++++++
ヘラルド・トリビューン紙の中の、2つの記事が
目にとまった。
ひとつは、香港に寄港しようとした、アメリカ空母の
キティフォークが、寄港を拒否され、そのままUターン
して、佐世保に向かったこと。
もうひとつは、コソボの独立に関する外交が、
「行きづまってしまった」(CRICE次官)こと。
++++++++++++++++++++++
●キティフォーク問題
アメリカのキティフォークを中心とする艦隊が、香港に入港しようとしていた。香港には、先
に、その家族たちが行っていた。ともに感謝祭の休暇を過ごすつもりでいた。
しかし寄港、数時間前に、中国政府は、突然、寄港を不許可とした。キティフォークを中心と
する艦隊は、そのままUターン。日本の佐世保港に向かった。
そのときアメリカの艦隊は、台湾海峡を通過した。中国側は、台湾海峡は、かねてより、自国
の領海であると主張している。アメリカ側は、国際海峡であると主張している。
が、アメリカの艦隊がUターンして日本に向かっているとき、突然、中国政府は、「人道的な観
点から、香港への寄港を許可する」と発表。しかし2度目のUターンは、なかった。
(以上、ヘラルド・トリビューン紙より。)
Ships are not supposed to turn on a dime, especially American aircraft carriers that travel
in large convoys.
But that's exactly what happened with the USS Kitty Hawk as it approached Hong Kong for
a long-scheduled Thanksgiving visit.
Hours before the ship was to dock, with the families of many of the crew members having
flown to Hong Kong for reunions, the Chinese authorities notified the U.S. Navy that permission to dock had been revoked.
Surprised by the measure but eager to salvage something of the holiday, the Kitty Hawk
made a quick U-turn and steamed toward Japan, saving time and returning China's slight by sailing through the narrow Taiwan Strait, which the United States regards as international waters but China claims as its own.
Before the battle group had reached that point, though, the Chinese authorities radioed
again announcing a change of mind: for "humanitarian reasons," the Kitty Hawk would be welcome after all.(Herald Tribune)
●危険な台湾海峡
「一触即発」という状況ではないにしても、台湾海峡がアジアの火薬庫と言われるゆえんは、そ
こにある。多くの評論家は、朝鮮半島問題よりも、台湾海峡問題のほうが、深刻であるという。
朝鮮半島で戦争が起きても、アメリカと中国が直接対決するということはない。しかし台湾海
峡で戦争が起きれば、そのままアメリカと中国が直接、対決することになる。当然のことなが ら、日本も、そのままその戦争に巻き込まれる。
中国の軍事力が増強される中、中国は、今までのようにおとなしくはしていないだろう。それ
が今回の、キティフォーク問題に集約されている。
"One touch to explode" is our saying. But similar accident would be occurred between USA
and China, especially Taiwan Strait. So the Strait is called "Powder Magazine"in Asia.
Even still in the worst critical situation, USA would not fight agaist China directly in Korea
Peninsula but things are different in the Taiwan Strait. Once they have started a war, the war would invole Japan as well as USA and China.
China
Would not be a calm Panda anymore, for its military presence has been forced very rapidly
these years.
●コソボ問題
ライス国務長官は、金曜日、コソボの未来に関する、国際的な外交交渉は、行き詰まった(a
dead end)と確信した。コソボの新しい首相は、コソボは、来年はじめまで、セルビアからの 独立を求めないということらしい。
NATOの外務大臣たちと会ったあと、ライス長官は、外交は消耗し、ワシントンは、つぎのステ
ップに進む用意があると示唆した。(ヘラルド・トリビューン紙より)
Secretary of State Condoleezza Rice affirmed Friday that international negotiations over
the future of Kosovo had reached a dead end, even as its likely new prime minister said that Kosovo would not seek independence from Serbia until early next year.
After a meeting of NATO foreign ministers here, Rice indicated that diplomacy had been
exhausted and that Washington was ready to move to the next phase.
●不安定化するヨーロッパ
同じ記事には、「コソボは、NATOの裏庭(Back Yard)」とある。NATOは、コソボ問題に
は、無関心ではいられないという意味らしい。
そのコソボ問題が、行き詰まった、と。
もちろんその背景には、ロシアとEUの対立がある。さらに言えば、ロシアとUSAの対立があ
る。
ライス長官は、「つぎのステップに進む」と示唆しているが、それが何であるかは、この記事か
らはわからない。
これは私の印象だが、ライス長官という人は、アメリカ型合理主義者で、またそれが世界の
標準であると信じているような人ではないか。YES・NOを、いつも相手に明確に求めようとす る。どこか狂信的ですら、ある。自分が正しいと決めたら、一歩も譲歩しない。
それはそれで結構なことだが、しかしそれは世界の標準ではない。とくに、このアジアでは、
通用しない。
In other part of the article, it says, "Kosovo is the backyard of EU", which means EU can
not remain indifferent from the problems of Kosovo.
But Secretary of State Condoleezza Rice affirmed Friday that international negotiations
over the future of Kosovo had reached a dead end.
Behind this dead end, there is a strong influence of Russia against EU including USA. Then
Rice indicated the USA will move to the next phase. We don't know what the next phase is.
This is my very personal impression about Rice, but I think Rice is too much USA-type
rationalist and she believes herself it is the justice as well as it is the standard of the world. She is always fond of making things clear, YES or NO. There is no "between" for her. Sometimes she seems to be fanatical to her belief.
But as far as I just guess about the affairs around the world especially in Asia, it is NOT the
standard, which she may not be able to understand.
●住みやすくなった東京(Tokyo's peace behind the glitter)
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東京へ来た外人は、地下鉄の静けさに驚き、
平和な住宅街の通りに驚く。
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These days, years of low inflation and a healthy exchange rate mean that Tokyo is far
cheaper than it used to be and often astonishingly good value. The streets are safe, the restaurants consistently excellent and the transport system the most efficient of any major city. The service is outstanding, as is the attention to detail - whether it's in the presentation of food or gift wrapping in shops. Even the most critical travellers are likely to be charmed by the courtesy they encounter.
近年、低いインフレ率、健全な為替レートにより、以前より、物価がずっと安くなった。
通りは安全で、レストランの料理はよく、交通手段も効率的で、すぐれている。とくに包装などに
みる、サービスはきわだっている。もっとも批判的な旅行者ですら、彼らが出会うもてなしに、 魅惑づけられる。
Leaving Japan is like emerging from a cosy cocoon into a harsh, brusque world. Well-heeled
foreign residents, frankly, have the best of all worlds: the low crime, the good food and service and the high standard of living, without the social and family obligations that the Japanese often wish to escape from.
日本を離れてみると、居心地のよい繭(まゆ)から、乱暴な世界へ飛び出したかのようである。
金持ちの外国人たちは、日本では、世界で最高のもの(生活)をしている。犯罪発生率は低く、 食べ物やサービス、生活水準は、高い。日本人がしばしば逃げたがっている、社会的、家族的 義務も、ない。
There are certain irritations - limited green space being one - but overall they are a small
price to pay to live in this unique city. The Tokyo region is vast, with a population of 12.5 million people, or 10 per cent of Japan's total population.
緑が少ないという不満はあるが、全体としてみると、この都市に住むのは、安価である。東京
には1億2500万人の人口のうちの10%が、住んでいる。
It is a 2,187-square-kilometre prefecture of its own, comprising 23 special wards, 26 cities,
five towns and eight villages. Tokyo proper (the central district of 23 wards) is a mystery in some ways. Just how has an industrialized city of 8.5 million people, with the highest population density in Japan, come to where it is today without suffering all the usual social ills, the crime and inefficiency, of urban living? Long may it remain so.
広さは、2187平方キロメートル。その中に、23の区と、26の都市、5つの町と、8つの村が
ある。23区についていえば、神秘的ですらある。高密度の850万人もの人がどうして、社会的 な病気に苦しむこともなく、犯罪や非効率に苦しむこともなく、都市生活を営むことができるの か。長く、そうであればよいことを願う。(以上、ヘラルド・トリビューン紙より)
●日本のよさ(good aspect of Japan)
日本に住んでいると、ときどき、息苦しく感ずることがある。管理と規則。制約と資格。そうい
うもので、私たちはがんじがらめになっている。
しかしそういうものは、外人の目には、とまらない。ある意味で表面的な部分だけを見て、日
本を判断する。そして「日本は、いい国だ」と言う。
このことは、田舎に住んでみるとわかる。見た目には、農村地域の人たちは、おだやかで、
都会から来た人を、いつでも歓迎してくれるように見える。しかし実際には、そうではない。そう ではないことは、日本人なら、みな、知っている。
都会から来た人が、農村地域に住むのは、不可能と考えてよい。たいていは、そのまま、は
じき飛ばされてしまう。「見るのと、住むのは、別問題」ということになる。
外人が外人として、外人の世界に住んでいるかぎりは、日本は、よい国だろうと思う。……と
いうようなことを、この記事を読みながら、感じた。
I feel often to be choked because of too much rules and restrictions in Japan. Numberless
threads tie us up too tight to move.
But foreigners living in Japan, especially temporary visitors to Japan can not see the things
inside Japan. And most possibly they would say "Japan is a nice country".
Let's me take an example, saying, country people looks generous to urban people when
urban people come into country side. But "Seeing and living are quite different things". For urban people it is almost impossible to live in together with country people or they are rejected to live in.
I have an impression after reading this article, that, Japan may be a good country for those
who come to Japan as visitors or who live in Japan as foreigners. But it is not everything.
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●それぞれの退職(everyone's retirement)
I talked with my friend, Mr. O over the phone this morning. It has been almost 20 years
since the last talking. He has retired from his job this November. He sounded all right and he said," I shall do what I have wanted to do."
Like me who have lived after the war have been always bearing something in somewhere in
our mind. We have been good workers like soldiers in the camp. So I could understand him well enough to agree with him, simply answering, "let's do so."
Tomorrow something will be changed or tomorrow I will have something good. This is the
hope. We live for the hope, which I believe in.
+++++++++++++++++
今朝、大阪に住む、O君と電話で話をした。
20数年ぶりの電話である。
O君も、この11月に、会社を退職した。
元気そうな声だった。「これからは、
したいことをするよ」と言った。
「今まで、できなかったことを、する」とも。
そう、私たちの年代は、いつもじっと、
何かに耐えて生きてきた。いつも心のどこかで、
したいこともしないで、がまんしてきた。
自分の中の(まじめさ)が、そうさせたのかも
しれない。その(まじめさ)で、体を
自らしばり、今まで生きてきた。
O君の気持ちが、よくわかった。
「そうだね、これからはしたいことをしなくては」と、
私は、答えた。
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退職の仕方は、人、それぞれ。ワイフの友人たちの夫の中にも、今年、退職を迎えた人が、
何人かいる。「これからは、寝て暮らす」と宣言した人もいるそうだ。「世界中を旅行をする」と 宣言した人もいるそうだ。もちろん、すでにつぎの仕事を始めた人もいる。
少し前だが、「四国八十八か所を回る」と宣言した人もいた。そのときは、「何と、ジジ臭いこ
とを考えるんだろう」と思った。が、自分がその年齢になってみると、「それもいいなア」と思うよ うになった。
退職する直前に病気になる人もいる。10数年前だが、がんになった人がいた。その人は、
それから自動車の運転免許証を手に入れ、1年間で、10万キロもあちこちを走ったという。 (土日だけで、1年間に、10万キロだぞ!)
もっともじゅうぶんな退職金を手にし、企業年金も加算される人は、幸福な人だ。私のように
退職金もなく、年金も、国民年金だけという人も少なくない。私のような人間は、死ぬまで働くし かない。老後生活とはいうものの、老「後」、そのものがない。
……これはグチかな?
だから前向きに生きていくしかない。死ぬまで現役。過去を振り返らない。過去を引きずらな
い。そこに何があるかわからないが、何かがあると思って、生きていく。希望がないわけではな い。ワイフに、「そのうちいいこともあるよね」と言うと、ワイフはこう言った。「私は楽しかった わ」と。
それを聞いて、うれしかった。
退職の仕方は、人、それぞれ。1000人いれば、1000通りの退職の仕方がある。老い方が
ある。仕事をつづける人にしても、それまでの仕事とは、まったくちがった仕事に就く人もいる。 友人のT氏は、来年3月に役所を退職するが、「百姓をする」と、がんばっている。
それも人生。あれも人生。そして人は、人、私は、私。
……たった今、横にいたワイフに、私は、こう言った。「ぼくは、どうするのかなア?」と。
しかしいつ答は、同じ。「今のまま、がんばるしかない」と。まあ、あえて言えば、今の私の生
きがいは、ホームページをいじったり、電子マガジンを発行することか。あるいはこうして何か、 文を書くこと。
今日も、どこか、風邪気味。気が弱くなっている。庭の落ち葉を見ているだけで、気が滅入
る。
●パソコンの修理
My wife's computer is out of order and I tried to fix it up this morning. This was a pretty
hard job, since I brought up my old computer and took out its mother-board and hard-disk and I replaced them with wife's ones. I spent whole morning today to kill my Sunday half.
+++++++++++++++++
簡単に言えば、ワイフのパソコンが
こわれた。
そこで私の古いパソコンをもちだし、
使える部品(ハードディスクとマザーボード)
を、ワイフのパソコンのそれと交換する
ことにした。
1+1=1、というわけ。
が、これが結構、めんどうな作業だった。
一方は、N製。もう一方は、F社製。
相性があまりよくない。
(N社製のほうに、F社製のハードディスクを
つけかえたら、分解色数が16色のみになって
しまったりした。)
そこであれこれ悪戦苦闘。せっかくの日曜日
なのに、午前中は、それでつぶれてしまった。
が、こうして私は、またひとつ、賢くなった。
プラス、楽しかった!
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パソコンという怪物も、中身は、CPUを積んだマザーボードの性能で、決まる。あとのハード
ディスクとか、DVD何とかとか、メモリーなどといったものは、いわば飾りのようなもの。
それがわかれば、あとはこわくない。中には、パソコンというと、得体の知れぬものという印象
をもっている人がいる。(そういう人は、多い。)実際、そういう面がある。突然、パソコンが動か なくなったりすると、何をどうしてよいかわからなくなる。しかし基本的には、先に書いたとおり。
だからN社製のパソコンも、F社製のパソコンも、中身は、同じ。マザーボード以外は、相互に
交換しても、どうということはない。もちろんそのつど、再セットアップ(リカバリーともいう)は、し なければならない。
で、午後からは、高橋さんの農園へ。帰りに、パソコンショップへ寄って、ウィルス対策ソフト
を購入。ほかにもいろいろすることがあったので、作業が終了したのが、午後6時ごろ。
今日は、ワイフが風邪気味だったので、夕食の料理、洗い物は、私がした。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●国旗と民族主義(National Flag and Nationalism)
日本の国旗は、白地に赤丸。赤い太陽を表す。しかし国旗とは何か? たとえば日本の中で
見る日の丸と、外国で見る日の丸は、たしかに、ちがう。日本の中で見る日の丸は、いわば空 気のようなもの。そこにあって、当たり前。しかし外国で見る日の丸は、たしかに美しい。それ を見たとき、ほっとするような、やすらぎを覚えることも多い。
その国旗について、ヘラルド・トリビューン紙に、こんな記事が載っていた。改めて、国旗につい
て、考えさせられた。
Our national flag is the Red Sun on the White background, but what is the national flag?
The impression we have about the flag is apparently different, the impression when I see it inside Japan is a kind of "air" and the impression when I see it outside Japan is another thing. The flag I see outside Japan often makes me comfortable or some kind of warmness.
I found a small article in Herald Tribune, regarding the flag, the article which reminds me of
the siginificance of the National Flag.
「When Kosovo recently held a contest to design a flag, the organizers insisted that it reflect
the multi-ethnic population, shunning the nationalist symbols of the past.
But dozens of artists chose to ignore that edict. They submitted variations of the red and
black Albanian flag, whose two-headed eagle has for decades been proudly displayed at weddings and on the battlefield, while being equally reviled by many Serbs, who make up a minority in this breakaway province of Serbia.」(Herald Tribune,Dec. 9th 2007)
「コソボは、国旗をデザインするにあたって、過去のナショナリスト(民族主義者)のシンボルを
廃して、多民族国家を反映したものでなければならないと主張した。
しかし何十人もの芸術家たちは、それを無視した。彼らは、双頭のワシのある赤と黒のアルバ
ニアンの旗を基調としたものを採用した。それは、長年にわたり、結婚式や戦場で、誇らしくも かかげられた旗である。しかしそれは同時に、セリビア人たちによっては、ののしられてきた旗 でもある」(ヘラルド・トリビューン紙)。
コソボは、今、新しい国家を作ろうとしている。その象徴として、新しい国旗をかかげようとして
いる。コソボの中には、少数派だが、セルビア人もいる。このままコソボの、セルビアからの分 離独立がすんなりといくとは思わないが、その旗に寄せるコソボの人たちの思いが、この記事 からも伝わってくる。
(付記)
人間には、本能的の一部として、集団帰属性があるのかもしれない。私は、はからずも、先
日、こんな経験をした。
どこかの通りを歩いているときのこと。ある食品店の前に、行列ができていた。たまたまそこ
を通りがかったこともあるが、私とワイフは、思わず、その行列に加わってしまった。みなが、 何を買おうとしているのか、それもわからずに、だ。
集団の中にいれば、安心感を覚え、そうでなければ、不安になる。そういった心理は、「依存
性」という言葉で説明される。日本人というのは、国際的にみても、その依存性の強い民族で ある。
またこれとは別に、集団の中に埋没することによって、身の安全を図ろうとする心理も、人間
にはある。たとえば特定の宗教団体の人たちは、同じようなユニフォーム(?)を着ることが多 い。「体は異なっても、心はひとつ」というわけだが、そうすることによって、自分の「力」が、何 倍も大きくなったように感ずる。
それはたいへん居心地のよい世界でもある。孤独そのものが、癒される。が、何も、宗教の
世界だけにかぎらない。スポーツの世界でも、よく見られる。選手と観客が、同じ色のユニフォ ームを着たりする。
こうして「個」は、「集団」を求めて、やがてそこに帰属していく。こうした一連の流れを、「一体
化」と呼ぶ。
国旗は、あくまでも、「国」の象徴でしかない。が、しかしここでいう集団帰属性と結びつけて考
えることも、できなくはない。「同じ、旗印のもとに……」というわけである。
しかし基本的には、本能に根ざす部分であるだけに、こうした集団帰属性は、そのものが、
原始的であると考えてよい。「個」の確立が進めば進むほど、人間は、また別の考え方をする ようになる。
私の印象に残っているできごとに、こんなことがあった。
学生時代に、メルボルンにいたときのこと。日本の海上自衛隊の艦船が、3隻、メルボルン
港へやってきた。領事からの連絡で、私も含めてメルボルンに住む日本人が、その歓迎のた めに、かり出された。
私たちは、日本の国旗をもって、メルボルン港の埠頭に立った。私や、私といっしょについて
きてくれたオーストラリア人の学生にとっては、祭りのようなものだった。ワーワーと声を出して 騒いだ。が、ふと周囲を見ると、直立不動のまま、敬礼をしている人もいた。中には、バンザー イを繰りかえし、涙まで流している人もいた。
その日の日記を読むと、私のように、祭り騒ぎになる日本人が、3分の1。直立不動のまま敬
礼を繰りかえす人が、3分の1とある。残りの3分の1は、そのどちらでもない人ということか。
1970年のことだから、今は、日本人の意識もだいぶ変わったと思う。当時は、まだそういう
時代だった。
実は、私もオーストラリアへ渡った当初は、自分が日本人であることを、たいへん強く意識し
ていた。つまりそれだけ集団帰属性が強かったと思う。しかしあるときから、それが薄れ、やが て消えた。海上自衛隊の艦船がメルボルン港へやってきたのは、その消えたころのことだっ た。
理由を話せば長くなるが、そのころの私は、「私はアジア人」と言うようになっていた。今から
思うと、私という「個」が、日本を離れ、より広い、「アジア」という集団に帰属していたことにな る。
言いかえると、こうした集団帰属性は、そのつど、拡大することもできるし、ばあいによって
は、縮小することもできるということ。「拡大」というのは、「ワクを広げる」という意味。「日本」か ら「アジア」へ。その「アジア」から「世界」へ、そして「地球全体」へと。
一方、「縮小」というのは、「ワクをせばめる」という意味。「日本」から「地域」へ。その「地域」
から「家」へ、そして「家族」へと。
拡大するのがよいとか、縮小するのが悪いとか言っているのではない。人間には、双方向性
があるということ。またそのバランスを保つことが大切ということ。どちらか一方だけを極端化す るのは、好ましくない。
たとえば国旗についても、それがすべてと、国粋主義者的に考えるのもどうかと思うし、国旗
など意味がないと、燃やしてしまうのも、どうかと思う。
ヘラルド・トリビューン紙の記事は、つぎのように、しめくくっている。
「"How we create a Kosovar identity is a critical question," said Migjen Kelmendi, a former
rock star who is now a linguist and editor. Kelmendi is leading the effort to fashion a new self -image for Kosovo. The Albanian Muslims who form the large majority of Kosovo, he said, " think of themselves in terms of their Albanian ethnicity - and they think that questioning that makes them a traitor."
「コソボのアイデンテティをいかに作るかということは、深刻な問題である」と、元ロック・スター
であり、現在は言語学者でもあり、編集者でもある、Migjen Kelmendiは、言う。彼は、コソ ボの新しいイメージを創作するために、先頭に立って努力している。彼、いわく、「コソボで大多 数を占めるアルバニア系イスラム教徒たちは、自分たちを、アルバニア民族という観点でとら えている。そしてそれに疑問をもつことについて、裏切り行為であると考えている」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 民族主義 国旗 National Flag of Japan Nationalizm Nationalism)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2344)
●がんばる("Ganbaru", bear to fight)
++++++++++++++++++++
私の英語力のなさを暴露するようで、
心恥ずかしいが、「がんばる」というのは、
英語で、何と書くか?
What do they say to mean "Ganbaru" in English?
With the knowledge of my poor English, I suppose
"bear to fight" would be the most adequate one.
「Bear to Fight(戦うために耐える)」という
言葉が、まっさきに頭に浮かんだ。
辞書などをひくと、「Do one's Best(最善を尽くす)」
とかあるのだろう。が、それでは、ニュアンスが
合わない。
When you refer to (Jaoanese-English dictionary), you may find words, "do one's best".
But it doesn't fit what I am now. I have been bearing to fight agaist my age.
I like these words and
少なくとも、今の私の心境には、合わない。
やはり、「Bear to Fight」がよい。私は、今日も
がんばった。
昨日も、2時間、歩いた。今朝は、自転車で佐鳴湖を
1周。距離にすれば、6〜7キロくらいか?
そして街へ行くときも、途中でバスをおり、30分
ほど、歩いた。
I bear to fight against my age!
(年齢と戦うため、私は耐える!)
+++++++++++++++++++++
健康というのは、ガラス箱のようなもの。壊れるときは、簡単に、壊れる。友人のK君(満55
歳)は、ほとんど毎朝、ジョギングをしていた。が、先日会ったときに聞くと、糖尿病を患ってい るとか。健康に注意している人でも、そうなる。
子育てが終わると、そこにあるのは、老後。老後が、ドカッとやってくる。平均寿命からする
と、私はまだ、あと25、6年は生きなければならない。若い人にたとえるなら、満20歳から、満 45、6歳前後までということになる。長い!
しかしこのところ、健康に自信がなくなってきた。疲れやすい。疲れが取れない。風邪が長引
く、などなど。集中力や気力も、衰えてきた。ときどき、「こんなことで、80歳まで生きられるだろ うか」と心配になる。
「健康寿命」という言葉がある。平均寿命から10年ほどを引いた年齢をいう。つまり最後の1
0年は、病気との闘いということになる。そして死ぬ。
だから戦うために耐える。つまり、がんばる。
2008年の1月からは、週3回、佐鳴湖の周囲を走る。すでにプログラムに組み込んだ。実
行に移しつつある。
しかしほんとうの問題は、どう長生きするかではなく、なぜ生きるか、だ。「だからそれがどうし
たの?」という解答のないまま、長生きしても、意味はない。
それについては、また別の機会に考えてみたい。
Let's bear to fight!
●子育て論
I have not written much about education at home these days.
I have written so much about them in the past and I feel dull or have been boring to
Write about it.
I have some themes about which I'd like to write but I feel less confidence in me.
So may be the readers、too!
+++++++++++++++++++
このところ、子育て論をほとんど、書いていない。
「飽きた」というより、「書き尽くした」。
書きたいテーマは、いくつかあるが、どうも
うまく、まとまらない。自信がない。
++++++++++++++++++++
●信仰(Belieifs)
In Japan, we have different types of Gods. Some worship foxes and others worship snakes.
The other day I happened to see a news program on TV, in which they reported "Daikoku- sama". It is the God of money.
My mother used to be a very earnest believer in several Gods. She, however, has stopped
believing in them anymore. So one day I asked her the reason why, but she only said, "no more for something" or "I have nothing to say".
By the way when we depart from someone, there are roughly four stages.
(1)speaking ill of each other
(2)quarrelling or arguing
(3)ignoring or indifferent to each other
(4)rejection
When we say something like this, "I have nothing to say anymore", it means they are on the
(4) stage. This theory can be applied to a couple, friends, relatives and families.
She was on the (4) stage and she stopped in believing in her Gods.
My wife and I have talked about my mother a lot.
"There's a big difference between religion and beliefs.", said I.
"Religion has its own philosophy, but beliefs don't.",said my wife.
"What my mother did is just to believe in Gods who brings her profits"
"Most of the Gods in Japan are like that, I think."
"Then what shall we do with the new year's first visit to shrine?"
"I hate the crowdies of people."
"So what shall we do? Shall we go to a shrine before the new year's days?"
"That is one of the ideas."
「信仰」と言えるものなのか、どうか、わからない。わからないが、年末になると、全国のあち
こちで、「・・・祭」というものが、開かれる。数日前は、大黒様を祭った、「大黒様祭」というの が、どこかであった。テレビのニュース番組の中で、紹介されていた。
で、話はそれるが、私の母の話になるが、実は、私の母は、たいへん信心深い人だった。
(「信仰」というよりは、「信心」。「信心」というよりは、「迷信」?)店先には、神棚と稲荷様がま つってあった。通路の奥には、大黒様がまつってあった。もちろん、仏壇もあった。
毎年、毎月、母は、同じことを繰り返した。祖父母、親類の人たちの命日には、毎月(毎年で
はないぞ。毎月だぞ!)、墓参りもしていた。
その母が、今は、まったく信仰していない。信仰のカケラも、感じさせない。現在の特別擁護
老人ホームへ入る前、私の家に6か月、寝泊りしたが、その気配すら、なかった。そんな母を 見ながら、私とワイフは、よく「あの母が・・・」と、顔を見合わせた。
で、ときどき、私は、母に聞いた。「仏様に参らなくてもいいのか?」と。すると母は、決まっ
て、こう言った。「いまさら、もうええ」「拝んでも、無駄や」と。
母には母なりの思いがあって、そう言ったのだろう。
ところで(別れ話)には、段階がある。
(第一段階)・・・グチ、悪口(グチをこぼす)
(第二段階)・・・喧嘩、口論(言い争う)
(第三段階)・・・無口、無視(たがいの間から会話が消える)
(第四段階)・・・拒絶、拒否(関係を拒否する)
第一段階から、第三段階までの間なら、まだ元(もと)に戻る可能性がある。夫婦でも、親子
でも、また職場での人間関係も、みな、同じ。
しかし第四段階へ進むと、もう、あと戻りできない。修復、不能。夫婦なら、離婚。親子なら、
絶縁。会社なら、退職となる。「もう何を話しても無駄」という状態が、第四段階ということにな る。
母が信仰をしなくなったのは、母なりに、この第四段階にまで進んでしまったためではない
か。「神様や仏様と話しても、無駄」と。
が、信仰というのは、心でするもの。もとを正せば、「心の問題」。信仰をやめるということは、
(自分自身との決別)、もしくは、(自分自身の否定)ということになる(?) 「今まで熱心にして きたことが、無駄であった」と知らされることは、自己否定そのものにつながる。
となると、母のしてきたことは、信仰ではなく、信心。もっと言えば、「迷信」ということになる。
今でも大黒様はもちろん、稲荷様を信じている人は多い。私には、それらがどういうものかは
わからない。わからないが、信仰というのは、(教え)に従ってするもの。利益や、損得を考えて するものではない。「これを拝めば、願いがかなう」「お金がもうかる」というのは、信仰ではな い。その多くは、迷信と考えてよい。
そんなことに(力)を貸す神様や仏様など、いるはずがない。
・・・というようなことを、私は、すでに子どものころ、考えていた。「Aさんの家が、信仰によって
繁盛するなら、その分だけ、同業者のBさんが、衰退するだけではないか」「もし、そうなら、そ の神様(仏様でもよいが)は、まちがっている」と。
ずいぶんと回りくどい言い方になってしまったが、その一方で、神様や仏様に頼らず生きてい
くというのも、たいへんなこと。毎日、断崖絶壁の淵(ふち)を、恐る恐る、歩いているようなも の。そういった不安感が、いつも、闘わねばならない。
このところワイフとこんな会話がつづく。
「初詣は、どうする?」
「どこに、しようか?」
「正月は混雑するから、今年も、年末に、どこかへ行こうか」
「そうねえ。どこにしようか?」と。
しかしこういうのは、信仰とは言わない。自分でも、それがよくわかっている。つまりは、気分
転換? それとも、気休め? ただの行事?
(付記)
夫婦でも、親子でも、社員でも、「もう、何も話すことはない」「話し合っても、無駄」という状態
になったら、おしまい。どこかの離婚相談員の女性も、以前、そんなようなことを書いていた。 たがいの心が修復不能なほどまで離れてしまうと、人は、そうなる。
つまりある一線を越えると、人は、自分の心を、どこかへ投げやってしまう。そしてその世界
で、固い殻(から)をつくり、その中に閉じこもってしまう。長い時間をかけて、そうなる。10年と か、20年とか、そういう時間をかけて、そうなる。その殻を溶かすのは、容易なことではない。 ふつうは、不可能。
が、世の中には、節介焼きの人がいる。他人の人間関係の間に、ズカズカと入り込んでき
て、説教したりする。「夫婦だから……」「夫だから……」「男だから……」と、安っぽい、『ダカラ 論』をぶつけてくる。「何とかなるでしょう」「子どもがいるでしょう」「離婚しても、何も残らないわ よ」とか、何とか。
私も似たような経験を、何度かしたことがある。で、私のばあい、そういう人たちとは、絶縁す
ることにしている。それなりの人ならまだしも、またこちらの事情をよく知っている人ならまだし も、そうでないなら、そのまま絶縁することにしている。
つまり「話しても、無駄」。もっと言えば、「時間の無駄」。だから絶縁することにしている。(ちょ
っと、冷たいかな?)
(付記2)
他人の家庭問題について、頼まれもしないのに、ズカズカと入り込んでいって、何かの説教を
するというのは、よほどのバカかアホのすること。ふつうは、しない。しては、ならない。
その家には、その家の、その家族には、その家族の事情というものがある。それを一方の側
だけの意見を聞き、これまた一方的に、自分の意見を組み立てる。そしてあとは、ここにも書 いたように、安っぽい、『ダカラ論』で、自分の意見を補強する。
以前、こんなことがあった。
ある女性(当時、60歳くらい)からの相談だった。「息子夫婦が、離婚することになった。つい
ては、ひどい嫁だったから、財産分けをしたくない。どうすればいいか」と。その女性は、嫁の悪 口を、あれこれと、1時間以上も話した。
しかしこの相談は、基本的な部分で、おかしい。離婚する、しないは、当人どうしの問題。親
が割って入るような問題ではない。つぎに「財産分けをしたくない」というのも、おかしい。いくら 気に入らない嫁であっても、それとこれは、別問題。それに私が聞いているのは、その女性か らの一方的な意見にすぎない。そういう一方的な意見を聞いて、自分の意見を組み立てること はできない。
私は、その女性からの申し出を断った。「私ではなく、一度、家庭裁判所のほうで、話し合っ
てみたらどうでしょうか」と。
(注)「belief」というと、日本語でいう「信念」という意味になってしまう。「信念」というのは、ここで
いう「信心」とは、少し意味がちがう。やはりここは、「faith」とすべきか?
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2345)
【今朝・あれこれ】(Dec. 10)
●映画「日本沈没」(Sinking of Japan)
++++++++++++
「日本沈没」という映画を
見た。日本映画にしては(ごめん!)、
なかなかよくできた映画だった。
I saw a film, "Sinking of Japan". It was not so bad for the Japanese movies.
しかし構成が、陳腐。日本が沈没
するのを防ぐために、若い1人の男性が、
自ら犠牲となって、海の底に
沈んでいく。愛する女性に、別れを
告げながら…、と。
But the story itself is not so impressive. A young Japanese man became a sacrifice, and
died.
が、これは映画の世界の話。
今、現実に、国全体が沈没しつつ
ある国がある。
オーストラリアとハワイのちょうど
中間あたりに、ツバルという国
がある。
This is the movie, but there a small country, called "Tuvalu" just between Hawaii and
Australia, with a population of only 11thousands. This island is sinking because of the global warming. Many houses are flooded at the time of the high tide. Then the Tuvalu government asked Australia and New Zealand to accept immigrants from its country. But both of these countries are refusing them. As to Australia, the country is also suffering from the lack of water and drought of these years.
面積は26平方キロメートル。
人口は、1万1000人にすぎない、
小さな環礁島である。
環礁島というのは、サンゴ礁でできた
島ということ。
何しろ、平均標高が2メートルしか
ない。このところの地球温暖化現象と、
それにともなう海面上昇で、満潮時に
は、多くの家々が、冠水する事態に
なっている。
そこでツバル政府は、「環境変化に
より生活基盤をなくしつつある難民」
であるとして、オーストラリアや
ニュージーランドに、自国民の受け入れを
要請した。
「環境難民」という言葉も、そこから
生まれた。
が、オーストラリアもニュージーランド
も、それを拒否。「環境難民」という
概念そのものを認めていない。
私は、映画「日本沈没」を見ながら、
ツバルのことを思い浮かべていた。
「日本沈没」の中でも、多くの日本人が、
外国へ移住していく様子が、繰りかえし
出てくる。
In the movie, many Japanese were escaping to other countries by boat and by plane. "But
is this possible?" Will they accept so many Japanese as so-called "ecological refugee"? I am afraid that the answer may be "No".
「たった1万人でもむずかしい。1億人
もいる日本人は、どうするのだろう」と。
一方、ニュージーランドのことは、
よくわからないが※、オーストラリアには、
オーストラリアの事情がある。
オーストラリアというと、広大な国と
いうことになっているが、実際には、
人の住める場所は、かぎられている。
最大の問題は、水、である。ここ数年の
あいつぐ干ばつを見るまでもなく、
オーストラリアはオーストラリアで、
水不足に苦しんでいる。
地球温暖化が進めば、この問題は、
さらに深刻さを、ます。
で、ふと今、考えたのだが、では
この日本では、だめなのか?
Then an idea occurs to my head. In the near future we will be losing 1 million population
each year, which will cause a serious problem of the lack of workers. Then why don't we think about accepting more ecological refugee from these isilands? I don't think it to be a so much difficult problem. In this city, Hamamatsu, now more than 30 thousands of foreign workers mainly from South America are working. We have had already some knowledge to do well with these people.
この先、日本の人口は、毎年100
万人ずつ減っていく。つまりその
分だけ、労働力が不足していく。
1万人程度の受け入れなら、それほど
難しくはないのではないか、と。
現に今、この浜松市だけでも、約3
万人近い外国労働者を受け入れている。
いろいろと問題はあるようだが、今の
ところ、何とか、うまくやっている。
少しずつでも、このワクを広げて
いけばよい。
+++++++++++++++++
(注※)ニュージーランド政府は、2002年度から、ツバルから毎年75人程度の移民を認めて
いる。ただし18歳から45歳までという、年齢制限などがある。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司※
最前線の子育て論byはやし浩司(2346)
【教育の自由化】(Liberalization of Education in Japan)
The liberalization of the education is the tide of the world. On the contrary education in
Japan is at least 30 or 50 years behind the world tide. Still now we have the government screening of textbooks and whole schools are governed by the central government. In Japan we have much less freedom in education.
OECDが発表した、全世界の子どもの学力調査の結果を、もう一度、見てほしい。それがつぎ
の表である(06年)。
Please have a look at the table underbelow, surveyed by OECD 2006,and just pay an
attention to the name of Finland.
【世界の子どもたちの学力(learning Ability of the youth of the wrorld)】
(読解力)(Reading Ability)
1位 韓国(Korea)
2位 フィンランド(Finland)
3位 香港(Hong-Kong)
……
15位 日本(Japan)
(数学的応用力)(Math Application)
1位 台湾(Twaiwan)
2位 フィンランド(Finland)
3位 香港(Hong-Kong)
……
10位 日本
(科学的応用力)(Science Application)
1位 フィンランド(Finland)
2位 香港(Hong-Kong)
3位 カナダ(Canada)
……
6位 日本(Japan)
++++++++++++++
この表を見て驚くのは、フィンランドが、どの分野でも、上位1〜2位に入っているということ。
以下、「imidas」(special版、集英社)の記事を、箇条書きに、まとめさせてもらう。
フィンランドでは、
(1)経済不況の中で、行政改革法を迫られ、規制緩和の方法を選んだ。
(2)中央政府の権限を小さくした。
(3)ほぼすべての権限を現場に渡すことにした。
(4)こうすることで中間管理のコストをさげた。
(5)教科書検定を廃止した。
(6)学校査察も中止した。
(7)政府は教育水準を維持するための情報を提供した。
(8)学校と地方自治体が、カリキュラムを決め、個々の教師が教育方法を決めている。
(9)16歳までは、他人と比較するテストは、行われていない。
(10)教師の仕事は、正解を教えることではなく、学びを支援することである。
(11)フィンランドの教師たちは授業以外に、ほとんど負担がない。
(12)学級定員は、20人程度。(小学校は16人程度)
(13)社会が勉学条件の格差を埋め、ひとりも落ちこぼれをつくらないという教育体制をとって
いる。(以上、要約)
Accorinig to the IMIDAS published by Shuiei-sha Japan, it explains as follows:
(1)Finland chose the way of "deregulartion " in the field of education.
(2)The authority of the central government was eased.
(3)The authority was given to each teacher who teaches children at schools.
(4)Then the Finland government succeeded in reducing the budget.
(5)The government stopped screening the textbooks they use at schools.
(6)The government abolished schoo; inspections.
(7)The government give necessary informations.
(8)Schools and local governments decide what they teach children at schools.
(9)They don't have any examinations on children until the age of 16.
(10)The job of teachers is not teach but to educe how to learn from children.
(11)Teachers have no other jobs but teaching at schools.
(12)They limit the capacity of school is abt 20. (16 kidas at elementary schools.)
(13)They avoid the gap between the poor and the rich and they are trying to make no drop-
outs.
つづくつぎの段落には、こうある。そのまま抜粋させてもらう(P147)。
「フィンランドの学習理論は、社会構成主義であると説明されている。子どもが置かれた状況に
応じ、自ら意欲をもち、知り得たことや考えで整理したものが知識であるとみなす。したがって、 教育の仕事は、子どもたちが知識を編成していく方法(メタ知識)を育てることだとみなされてい る」と。
+++++++++++++
教育の自由化については、今まで、何度も、かつ繰りかえし書いてきた。たとえばスペインで
は、社会科の授業にしても、教科書のようなものはない。中学校レベルでも、それぞれの子ど もに、テーマが与えられる。「あなたはフランス革命について調べなさい」「あなたはトラファルガ ーの海戦について調べなさい」と。
子どもたちは、1年をかけて、それを勉強し、1年の終わりに、みなの前で発表する。
またカナダでは、教師は教室内でのことについてはすべての責任を負うが、子どもが教室を
一歩でも離れたら、いっさい、責任をもたなくてもよいしくみが、すでにできている。学校の設立 も、自由化されている。教える言語についても、不問。(アメリカは、言語は英語にかぎられて いる。)
アメリカでは、大学生の学部変更、転籍、転学は、自由である。小学校教育については、学
校ごとに、カリキュラムを編成できるようになっている。公立学校であっても、州政府からの、お おまかなガイダンスがあるのみ。もちろん日本でいうような「教科書」はない。当然のことなが ら、「教科書検定」もない。
これが世界の流れであるということを、私は、何度も書いてきた。訴えてきた。どうして日本人
よ、目を覚まさないのか! 明治以来、富国強兵策の中で作られてきた、「もの言わぬ従順な 民づくり」が、教育ではない! またそれを教育と思ってはいけない!
こうしたおかしさを、フィンランドの教育が、すべて語っている。今までに書いてきた原稿の中
から、いくつかを選んでみる。まず。スペイン在住の、Iさん(日本人)からのメールを紹介する。 このメールでは、それぞれの子どもがテーマを与えられ、それについて学習している点に、注 目してほしい。
+++++++++++
【スペイン在住のIさんより】
+++++++++++++++++++++
スペイン在住のIさんより、こんなメールが届きました。
転載許可をいただけましたので、紹介し
ます。
++++++++++++++++++++++
皆様 お元気ですか。
久しくご無沙汰しています。筆不精で、最近、メールを出していないので、
近況報告方々、メールを書いています。
Y子(娘)はYear 8(中学2年レベル)がもうすぐ終わりで、
期末試験の勉強に追われています。
科目別ですと、historyではフランス革命を勉強しています。日本語でも
難しいテーマを、英語で勉強するのですから、本人も大変です。
Englishはシェークスピアと日本でも話題になったHoles(日本名:穴)
が教科書で、毎日、宿題が結構出るので、日本の通信教育のワークまでなかなか手が回
らないので、日本に戻った時、苦労しそうです。
Y子は最近、コンピューターのマイクロソフトのメッセンジャーで友達と毎日、
チャット(英語、スペイン語、その略語が氾濫していて、
ちょっと大人には解読不能)をするのが日課でかなり、はまっています。
私は友達になったスペイン語の先生と油絵を描きながら、スペイン語を
習っています。
最近(2週間前)、ポール・マッカートニーのコンサートが近くのサッカー場で
あり、家族3人で行ってきました。久しぶりのロック・コンサートで、
盛りあがりました。幸代には初めてのロック・コンサートでしたが、クラスの友達も
大勢、見に来ていました。
ウィングス時代のJetで始まり、半分くらいはビートルズ時代の歌で、
Long and winding road や Hey.Judeなど、感激しました。
コンサートはいわゆるスペイン時間で、始まったのが夜の10時15分で終わったの
は夜中の1時過ぎでした。これはスペインでは普通です。
スペインはとにかく、日本に比べ、2〜3時間くらいすべて遅いのです。
今では我が家の夕飯もいつも9時から9時30分くらいです。
郷に入れば、郷に従えです。
早いもので、スペインに来て、もうすぐ3年になります。
6月末で幸代の学校が夏休みに入りますので、私と幸代は7月の中旬に日本に
一時帰国する予定です。
いろいろ予定があるので、会えるかどうか、わかりませんが、
時間があれば、お会いしましょう。
皆様の近況も、メールで教えてくださいね。
ではまた。
+++++++++++++++++
つぎの原稿は、日本人がもつ常識、
とくに教育にもつ常識について
批判的に書いたものです。
+++++++++++++++++
【常識が偏見になるとき】
●たまにはずる休みを……!
「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと えば……。
●日本の常識は世界の非常識
★学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が
教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州 政府が家庭教師を派遣してくれる。
日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で ふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。
それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、 こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。
★おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位 (※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。
そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年 調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日 本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職 するまで、最長二七歳まで支払われる。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対 する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。
そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文 化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。
★進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に 話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私が、では、オーストラリアで はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。
「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを 組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行 き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。
●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身 の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ るべきか。さらには子育てとは何か、と。
その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世 界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない まま、仮想の価値に振り回されている……。
●解放感は最高!
ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に 行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。
※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ とができる。
●「自由に学ぶ」
「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」を
引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。
「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。 それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政 治を行うための手段として用いられてきている」と。
そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を 破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。
いわく、「民主主義国家においては、国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始
まっているではないか」「反対に軍事的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるというこ とを忘れてはならない」と。
さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき ではないのか」と(以上、要約)。
日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。
++++++++++++++++
制度を変えるためには、意識を変えなければならない。ところが教育というのは、なかんずく
教育観というのは、親から子へと、代々と引き継がれるという要素が強い。そこでその意識を 変えるためには、その意識を見直すという作業が必要となる。
そのもっとも簡単な方法は、日本という国を、一度、外からながめてみること。すると、そのお
かしさが、よくわかる。
フィンランドの教育法にも、いろいろな問題点があると聞いている。しかし教育の自由かは、
もう世界の流れ。この(流れ)を止めることは、だれにもできない!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 教育の自由化 自由化 自由な 教育 フィンランド 教育自由化論)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
【子育て・ONE POINT】
++++++++++++++
教育の自由化を家庭で考えるとき、
参考になるのではないかと思いますので、
いくつか、そのポイントをあげてみます。
++++++++++++++
●自意識を育てる
小学三、四年生をさかいとして、自意識が急速に発達してくる。「自意識」というのは、わかりや
すく言えば、自分で自分をコントロールしようとする意識である。この自意識をうまく利用すれ ば、それまで問題のあった子どもでも、それ以後、症状が収まってしまう。
たとえばADHD児にしても、そのころをさかいにして、症状が急速に収まってくる。「そういうこ
とをすれば、みんなに迷惑がかかる」「そういうことをすれば、仲間はずれにされる」という思い (自意識)が働いて、無意識の世界からわき起こる行動パターンを抑制しようとするためであ る。
ほかにたとえば吃音(どもり)や、発語障害にしても、それ以前の子どもには、まだその自意
識がじゅうぶん発達していないため、指導が、たいへんむずかしい。しかしこの時期をすぎる と、自分の姿や問題点を客観的にとらえることができるようになるので、指導ができるようにな る。
そこで大切なことは、この時期までに、何か問題があるとしても、症状をこじらせないこと。A
DHD児にしても、無節制な多動性があることが問題ではない。問題は、それまでの強引な指 導や、威圧的な指導が、症状のみならず、子どもの心までゆがめてしまうということ。つまりそ れまでの不適切な指導が、かえって自意識による改善を、はばんでしまうことがある。
子どもの問題は、子ども自身の意識でどうにかなる問題と、そうでない問題がある。その意
識でどうにかなる問題でも、ここに書いたように、それができるようになるのは、小学三、四年 生をすぎてから。その時期までは、とにかくていねいに。とにかく根気よく。子どもの自意識をつ ぶさないように指導する。
●幸福な家庭環境で包む
「子育ては本能ではなく、学習である」と。つまり、子育てというのは、本能的にできるのでは
なく、自分が親に育てられたという経験があってはじめて、自分も親になったとき、子育てがで きる。しかし実のところ、それだけでは足りない。「子育ては学習だけでは足りない。経験であ る」と。
つまり子どもは、「家庭」というものを肌で経験しなければならない。家族がやすらぎ、いたわ
りあう家庭である。そういう経験があってはじめて、今度は、自分が親になったとき、自然な形 で、その家庭を再現することができる。そうでなければ、そうでない。イギリスの格言に、『子ど もを幸福にするのが、最高の教育』というのが、ある。「幸福」の中身も大切だが、しかしこの格 言は正しい。
まず、子どもの豊かな心は、絶対的な安心感のある家庭で、はぐくまれる。「絶対的」というの
は、「不安や心配をいだかない」という意味。この安心感がゆらいだとき、子どもの心もゆらぐ。 そういう意味で、絶対的な安心感のある家庭は、子育ての基盤ということになる。
●親の心は、子の心
親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ 方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。
「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、 娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。
私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。
こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の 経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。
言いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいも
のと悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、 自分自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というよ り、あえて伝える必要はない。
あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生きザマになる。親子という
のは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと
いうことになる。
●家庭の緊張感を大切に
ほどよい緊張感が、子どもを伸ばす。反対に、のんべんだらりとした、だらしない生活は、子
どもを育てる環境としては、決して好ましいものではない。親は親で、自分のすべきことをキビ キビとする。子どもは子どもで、自分のすべきことをキビキビとする。何をどの程度すればよい とか、させればよいという話ではない。そういう緊張感の中に、子どもを巻きこんでいく。子ども の目線で言うなら、「ぼくが、これをしなければ、家族のみんなが困るのだ」という雰囲気を大切 にする。
しかしこれは言うはやすし、なすはかたし。緊張感というのは、強すぎてもいけない。そのへ
んのかねあいも、家族によってちがう。どの程度あればよいという問題ではない。これは家族 全体が、みんなで考える、大きなテーマということになる。
●温もりのある園を
保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ
がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。
まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい
る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子 どもをやらないほうがよい。
●園は、先生を見て選ぶ
保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園
は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという ような園は、さける。
園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な
のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、 よい。
●男児は男児
男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子
は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取 っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって いる。
とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない
かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ とと決めてかかってはいけない。
●負けるが勝ち
子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子
どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まず最初にこちらから、 「すみませんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるよう に見えるときも、あるいは言い分があっても、負ける。
理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の
ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ れなりに深刻なケースと考えてよい。
さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。ほかの世界でのことなら、ともかくも、あ
なたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子どもにとって、すみやすい世界を、何よ りも優先する。だから、『負けるが勝ち』。
●我流に注意
子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」
「他人の育児論は役にたたない」と。
子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気
づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と 思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない… …」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。
子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求
める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。
その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。
●二番底、三番底に注意
子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと
考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの 世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを 繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。
子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三
番底がある。では、どうするか?
そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え
て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。
●信仰に注意
よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。
……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫
婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊 状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、 行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。
とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した
上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集 団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始 めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした りする。
信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた
めの、大原則。
●機嫌を取らない
親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし
た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない ことは、言うまでもない。)
そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、
あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの 親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子 どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育 児観は、捨てたほうがよい。
あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き
なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた と子どものパイプを太くする。
●いつも我が身をみる
子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、
子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。
身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう
な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって ほしいです」と。
要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと
を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て をするときの、コツ。
●本物を与える
子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」
というのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそ うする」。
たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ
りも、ファーストフードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。
こうした低俗、軽薄文化が、今、この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかとい
うこと。このままでよいかということ。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれ ば、子どもには、できるだけ本物を与えたり、見せたり、聞かせたりする。
●親が生きがいをもつ
子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は
ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。
伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す
るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは 結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言 える。
退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響
を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。
それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな
る。
●仮面に注意
心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの
に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見 られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。
遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ
る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト レスをためやすい。
一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども
のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。
あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな
ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。
●聞き上手になる
子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして
他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ レーションする。そうでない親は、そうでない。
親と話していて、(教える立場で)、何がいやかといって、すぐカリカリすること。
私「最近、元気がありませんが……」
親「うちでは元気があります」
私「何か、問題がありませんか?」
親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。
子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した
いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ になる。
●親の悪口は言わない
あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に
したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結 果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。
父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ
バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家 族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。
●無菌状態に注意
子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子
は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、 つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学 ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。
子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ
り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も 身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。
●子どもは削って伸ばす
『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。
たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも いる。
問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で 考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように なる。
子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。
●「偉い」を廃語に
日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと
だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い 人。わかるかな?」と言っていた。
しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という
言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、 ほとんど問題にならない。
この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用
される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。
そこでどうだろう。もう「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かって
は、「偉い人になりなさい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのよう だが、こうした小さな変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることが できる。
●訓練(指導)と教育は別
この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま
り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、 教育ではない。
訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す
ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い 込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教 育の最大の悲劇がある。
一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ
けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも 訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。
教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。
私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を
繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。
むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、
混同してはいけない。
●アルバムは見せよう
子どものいつも手や目が届くところに、アルバムを置いておく。アルバムというのは、楽しい
思い出がつまった、宝石箱。子どもはそのアルバムを見て、心をいやす。それだけではない。 おとなは、過去をなつかしんでアルバムを見るが、子どもは、未来を知るためにアルバムを見 る。ある子どもは、父親の子ども時代の写真を見て、「これはお兄ちゃんだ」と言い張った。自 分が成長していく、喜びを、その中に見る。
アルバムには、不思議な力がある。どう不思議かは、あなた自身が発見してみればよい。
●ベッドタイムゲームを大切に
子どもは毎晩寝る前に、同じ習慣を繰りかえして眠りにつくという習性がある。これを英語で
は、「ベッドタイムゲーム」という。このベッドタイムゲームのしつけが悪いと、子どもは眠ること に恐怖心をいだいたりする。ばあいによっては、情緒不安の原因ともなる。
コツは、毎晩、同じことを繰りかえすようにする。本を読んであげたり、軽く添い寝をしてあげ
たりするなど。まずいのは、いきなり子どもをベッドに押し込め、電気を消すような乱暴な行為。
子どもは眠ることそのものに、恐怖心をもつようになる。
●冷蔵庫をカラにする
子どもの小食で悩んでいる親は多い。食が少ない、遅い、好き嫌いがはげしいなど。そういう
ときは、まず冷蔵庫をカラにする。身の回りから食料を片づける。徹底して、それをする。とくに 菓子類、甘い食品など、俗に言うジャンクフードなどは、思い切って捨てる。「もったいない」と 思ったら、なおさらそうする。その「思い」が、つぎからのまちがった買い物習慣を改める。
そして母親が料理で作ったもの以外、食べるものがないという状態にする。これを数か月〜
半年、つづける。たいていの小食は、それでなおる。
●カルシウムを大切に
子どもの食生活では、カルシウム分、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。要する
に、海産物を中心とした献立にする。
とくに子どもの情緒が不安定になったら、まずカルシウム分の多い食生活にする。ちょっとし
たことでピリピリしたり、怒ったり、反対にわけもわからないままぐずったりするようなとき、効果 がある。戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていたという。
●歩かせる
子どもは、何かにつけて、歩かせる。歩くことが、体力をつける基本と考える。
昔、オーストラリアの友人が、こう教えてくれた。「旅は、歩け」と。つまり歩くことにより、もちろ
ん健康になるが、それだけ印象も深くなる。まわりの景色や状況が、より鮮明に記憶に残る。
ウソだと思うなら、あなた自身の記憶の中をさぐってみればよい。あなたの記憶の中には、無
数の思い出があるが、その中でも、そういうときの思い出が、より印象強く残っているかを、知 ればよい。歩くことにより、五感(見る、聞く、感ずる、かぐ、考える)全体が、より強く刺激される ためである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子育てONE POINT 一口メモ ワンポイント)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2347)
●団塊ブルース(Young Old men's Blues)
We, those who were born just after the War are now retiring from our jobs. We have been
the people who worked for the companies or organizations, in most cases sacrificing ourselves. Before the War young people were educated to be obedient soldiers but after the War we were educated to be also obedient workers who work for the companies and organizations.
Meanwhile we could experience this dynamic change of our country, from the bottom of
poverty to one of the countries of highest standard. But at the same time we have many thing that we have lost. Some people say that "What was my life?", when they are fired and retire from the companies.
This is the story about this;
++++++++++++++++
戦前の「国のため」が、戦後は、「会社のため」となった。
それもそのはず。敗戦で日本は大きく変わったが、
ときの文部省だけは、変わらなかった。敗戦と
同時に、クビになった官僚は、ひとりもいない。
制度も、そっくりそのまま残された。
私たちは、戦前とそれほどちがわない教育を、そのまま
受けた。もっと言えば、明治以来の、富国強兵をめざした、
あの教育をそのまま受けた。
結果として、私たちは、当時の私たちになった。
私たち団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちは、
何らためらうことなく、企業戦士となっていった。
それは恐ろしいほどの忠誠心であった。
たとえば私が勤めたことがある、M物産という
会社では、当時は、6か月以内の海外出張は、
「短期出張」と呼ばれ、単身赴任が原則だった。
今のようにリッチな時代ではなかった。一度海外に
赴任すれば、最低でも、6か月は、日本に帰って
来られなかった。
が、その単身赴任には、単身赴任のハシゴというの
があった。任地先から、さらに別のところに単身赴任
するということも珍しくなった。中には、こうした
単身赴任のハシゴで、2年近くも、日本を離れて
いた人もいた。私の直接の上司だった、K氏もそうである。
その団塊の世代、それにつづく戦後派の人たちが、
今、つぎつぎと職場を離れている。民間会社だと、
50歳を過ぎるころから、肩たたきが始まる。子会社へ
移動できる人は、まだラッキーなほう。たいていは、
そのまま会社の外へ、放り出された。
で、そのとき、ほとんどの人は、こう気がつく。
「今までの私の人生は、何だったのか?」と。
会社人間の悲しさ。会社を離れれば、存在価値
そのものがない。その世界ではエキスパート
だったかもしれないが、それは社会全体からみると、
小さな、どこまでも小さな特殊分野でしかない。
つぶしがきくとか、応用がきくということは、
まず、ない。
それまで頭をさげていた人まで、顔をそむけるように
なる。それもそのはず。まわりの人たちは、その人
に、頭をさげていたのではない。その人が
もつ肩書き、あるいはその背後にある会社という
組織に頭をさげていた。
退職と同時に、それに気がつく。と、同時に、深い後悔と、
反省の念に包まれる。
「これからオレは、何をすればいいのか?」と。
+++++++++++++++++++++++
●1クラス、55人
私たちの時代には、1クラス55人が、当たり前だった(中学時代)。「すし詰め教育」とよく呼
ばれた。が、すしでも、あそこまでは詰めない。しかしそうした教育に疑問をいだく子どもは、い なかった。疑問をいだく親も、いなかった。
で、あの時代を振り返ってみて、そうした過密教育の弊害は何だったのかと問われると、そ
れがよくわからない。私は私であり、私たちは、私たちであった。しかしたしかに弊害はあっ た。あったはずである。その結果が、今である。
私たちは社会人になると、何も疑わず、サラリーマンの道を選んだ。今でこそ、「ベンチャー
企業」などという言葉があるが、当時、ベンチャー企業のようなものを考える学生は、まずいな かった。サラリーマンになること。それが第一。しかも都会の大企業ほど、「出世組」と考えられ ていた。
●作られた意識
つまり弊害の第一は、ここにある。こうした意識こそが、あの時代の、あの流れの中でつくら
れた意識でしかなかった。しかしそれは「今」という、あとになってわかったこと。当時の私たち の中で、それに気づいていた人は、いったい、どれだけいただろうか。
そして結果として、私たちは、会社に貢献し、日本という国の繁栄に貢献した。「貢献した」と
いう意識は、ほとんどないかもしれないが、今に見るこの繁栄は、その結果であることには、ま ちがいない。
もちろん悪い面ばかりではない。日本のみならず、世界の歴史の中でも、生涯にわたって戦
争を経験しなかった世代というのは、そうはない。日本だけを見ても、明治以来、日本は、常に 他国との戦争を繰り返してきた。
それに戦後直後はともかくも、私たちの世代ほど、ダイナミックな変化を経験した世代もな
い。日本は、どん底の貧乏国にから、世界でもトップクラスの先進国へと躍り出た。そんな日本 を直接、経験することができた。
●一(社)懸命
が、同時に、失ったものも多い。「私の人生」というときの、「私」を失った。たいした冒険もせ
ず、たいした夢も果たせず、たいした結果も出せず、家と会社を往復した。「仕事のため」と、 家族を犠牲にした人も多い。犠牲にしているという意識もないまま、犠牲にした。家庭を預かる 妻にしても、自分が犠牲になっているなどとは思わなかった。
M物産に話にもどるが、夫が単身赴任で外地へ赴くとき、家族は、みな、あの伊丹空港(大
阪)で夫を見送った。私も、数度、そういう現場に立たされたことがある。そのときのこと。「がん ばってくるからなあ。あとのことは頼むぞ」と言って夫は、飛行機に乗り込んだ。「がんばってき てね。うちのことは、心配しないでね」と言って、妻はそれに手を振った。中に、「お国のため」と いう言葉を使った人もいたように思う。「会社のため」という言葉だったかもしれない。
その姿は、まさに、戦前のあの様子を想像させるものだった。戦地におもむく夫。それを送る
妻。「国」と「会社」のちがいこそあったが、中身は、そのまま。つまり私たちの意識は、何も変 わらなかった。
それがあの時代の、「弊害」だったということになる。
が、これについても、それに気づいた人は、少ない。私たちは、それがあるべき道と信じて、
その流れに従った。
しかし、だ。改めて、問う。私たちの人生は、何だったのか、と。
●自由に生きる
実際、こんな人がいる。私の友人のT氏・・・「T氏」と書いたのでは、ウソと思われる。だから、
実名を書く。高橋Y氏である。その高橋Y氏の義兄(妻の兄)は、50歳前後で退職。そのあと単 身、マレーシアに渡り、そこでヨットを購入。そのヨットで世界を数周した。
以前、その男性について、「今ごろは、フランス人の女性と、インド洋を航海中」と書いた。高
橋Y氏から聞いた話を、そのまま書いた。
で、今は、タイに向かっているという。タイには、以前買った土地があるそうだ。そこにそのま
ま永住するつもりらしい。この話は、つい先日の、07年12月9日に聞いた話である。興味があ る人がいたら、その男性を紹介してもよい。
つまり世の中には、そういう人生を、あたかも自由に空を舞う鳥のように送っている人がい
る。そういう人生と比べると、「私の人生は、何だったのか」となる。「まじめ」と言えば、聞こえ はよいが、中身は、ただの「歯車」。
そういう「歯車」に仕立てられながら、仕立てられたという意識すら、ない。ないから、その弊
害に気づくこともない。カルトにハマっている信者が、自分をおかしいと思わないのと同じ理由 で、そういう自分がおかしいとは、思わない。
●「これからは自分のしたいことをするよ」
先日も、学生時代からの友人のZ君は、こう言った。つい先月、定年で、会社を退職した。い
わく、「これからは自分のしたいことをするよ」と。
その言葉の中に、私たち団塊の世代、そしてそれにつづく戦後生まれの人たちの悲しみ、わ
びしさ、むなしさが、集約されている。心理学的に言えば、(自己概念)と(現実自己)を一致さ せることもできず、悶々とした気持ちで、一生を終えた。自己の同一性の確立さえままならなか った。
その不完全燃焼感には、相当なものがある。割と自由に生きてきた私ですら、その不完全燃
焼感とは、無縁ではない。「何かができたはず」「何かやりのこした」「何かをしたかった」と、ふ と我にかえったとき、そう思う。
が、「これでいいのか?」と叫んだところで、この話は、おしまい。いまさら、どうしようもない。
いくら後悔しても、また反省しても、人生は、もどってこない。ただこれからは、ちがう。これから は、そうであってはいけない。残りの人生がそこにあるなら、それに自分をかける。燃やせるも のがあれば、それを燃やす。
・・・しかし、実のところ、私たちは、そのキバさえ抜かれてしまっている。あのすし詰め教育の
中で、もの言わぬ従順な民に、育てられてしまっている。いまさらキバをむけと言われても、そ のむきかたすら、わからない。結局は、死ぬまで、まじめ(?)に生きていくしかないのか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 団塊世代ブルース ブルース)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●『ダカラ論』(Because-theory)
In Japan we sometimes hear someone say, "Because you are a man", or "Because you are
a female". I name this way of saying, "because -theory". It looks like a theory but it is not. For example we use this theory like this. "You should do that, because you are a man.",or " You should look after your father because you are the eldest brother." Those who use this kind of expression in their conversation often are the people with no-brains. They say so because they don't have a power or knowledge to think things by them selves. It is much easier to say so than to think by themselves. Most of this "because-theory" is based on the traditional thought way of Japan. Man is superior to Woman. Husband is superior to Wife, etc. But this is quite nonsense. Here I'd like to write about its stupidity.
+++++++++++++++++
『ダカラ論』ほど、便利で、使いやすい
論理(?)は、ない。
「夫だから……」「妻だから……」「男だから……」
「女だから……」「長男だから……」「親だから……」と。
こうした言い方を日常的に用いる人は、それだけ
ノー・ブレイン(=思考力なし)の人とみてよい。
ここで私は「論理」と書いたが、『ダカラ論』は、
論理でも何でもない。ただの(こじつけ)。
つまりこうした言い方を頻繁に用いる人というのは、
ある一定の(形)を、頭の中につくる。つくるというよりは、
過去を踏襲する。自分で考える力がないから、世俗的な
常識を、そのまま引きずる。
その上で、『ダカラ論』を使って、相手をしばる。
最近でも私に、「浩司君は、男だから……」と言った人が
いた。私にはその意味が、よくわからなかった。
ついで、「だから、それがどうしたの?」と思ったが、それは
言わなかった。
『ダカラ論』をよく用いる人と議論をしても、意味は
ない。時間の無駄。彼らは世俗的な常識を背中に負っている。
だから、強い。だから、がんこ。だから、曲げない。
BLOGのコメントのほうに、こんな書き込みがあった。
ある男性からのものだった。いわく、
「姉たちの身勝手には、うんざりしています。
今まで、『あなたは長男だから……』と言って、
実家の世話など、金銭的な支出は、すべて私に負担
させてきました。
ところが最近、父親がなくなりました。とたん、
今度は、『私も子どもだから……』と、遺産分けを
要求してきました。
先生が言われる『ダカラ論』を、そのつど、巧みに
使い分けるのですね。卑怯だと思います」と。
さらに『ダカラ論』が進むと、「本家(ほんや)だから……」
「新家(あらや)だから……」となる。
『ダカラ論』を振り回す人は、あなたの周辺にも、1人
や2人は、いるはず。そういう人たちを観察してみるとよい。
たいていは、頭の中は、カラッポ。思想と言えるようなものは
何もない。
一方、『ダカラ論』を言われるほうも、これまた不愉快。真綿で
クビを絞(し)められるような圧迫感を覚えることもある。
自分自身の中にも、先に書いた世俗的な常識がしみこんで
いるためと考えてよい。知性や理性が、その世俗的な常識と
頭の中で衝突する。
つまり私たちは、『ダカラ論』を言われるたびに、自分自身
の内部に潜む、世俗的な常識と闘わねばならない。
「浩司君、君は男だから……」と言われたときも、そうだ。
一方で、「それがどうしたの?」と思いながらも、「たしかに
そうだな」と思ってしまう。この自己矛盾が、私の心を
圧迫する。
たとえば男女平等を唱え、その活動をしてきた女性に向かって、
「あなたは女だから……」と言ったら、どうなるだろうか。
さらに「女のくせに……」とか、「女は女らしくせよ」とか、
言ったら、どうなるだろうか。
たぶん、その女性は、猛烈にそれに反発するにちがいない。
私が感じた自己矛盾も、それに近かった。
人間に男も、女もない。夫も、妻もない。『ダカラ論』の
多くは、差別、偏見、権威主義、意味のない風習や伝統に結びついている。
『ダカラ論』をよく用いる人は、まず、それに気づくべきである。
つぎに『ダカラ論』を口にしたら、自らに、ブレーキをかけてみる。
子育ての場でも、同じことが言える。
よく自分の子どもに向かって、「あなたはお兄ちゃんだから……」
とか、「あなたはお姉ちゃんだから……」と話している親を
見かける。子どもに、年長者としての自覚をもたせるために、
そう言う。
しかしこういう言葉が、いかに、その子ども自身を追いつめて
いるか、親はそれに気づいていない。その重圧感は、相当な
もので、ときに親子関係を破壊することもある。兄弟、姉妹
の関係すら破壊することもある。
ついでながら、兄弟、姉妹でも、「兄」「姉」ではなく、名前
で呼び合っている兄弟、姉妹ほど、仲がよいということが
わかっている。上下意識がないため、(つまり平等意識がある
ため)、その分だけ、「友」として、仲がよくなる。
『ダカラ論』……まさに極東の島国独特の言い方と考えて
よい。少なくとも、英語国には、こうした言い方というより、
発想、そのものがない。
そんなことも頭に入れながら、日本人も、そろそろこの『ダカラ論』
と決別する時期に来ているのではないだろうか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 『ダカラ論』 だから論 ダカラ 論)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●今日・あれこれ(Dec. 12th、2007)
+++++++++++++++++
Yesterday we received a package of crabs, which my son sent to us from Kushiro, Hokkaido.
They are so big crabs that three of us couldn't eat even one of them. My wife looked so happy, which made me happy too.
(昨日、息子が、釧路からカニを送ってくれた。大きなカニで、3人でも、1匹食べただけで、お
なかがいっぱいになった。ワイフは、とてもうれしそうだった。それで私もうれしくなった。)
+++++++++++++++++
●日韓関係(Japan and Korea)
Even in the small column in a newspaper we can feel their hostility against Japan. According
to the Chuo-N, the leading Korean Newspaper, Japanese companies have united together to fight agaist Korea but all of them is false, written with persecution mania. You will know what it is if you read this:
この原稿がマガジンで配信されるころには、韓国では、新大統領が誕生しているはず。現在
の予想では、ハンナラ党の、I氏が最有力候補だが、何が起こるかわからないのが韓国。先の 金大中前大統領も、現在のN大統領も、ハプニング的に、大統領になった。
が、ハンナラ党のI氏だから、日韓関係が改善すると考えるのは、早計である。韓国人の対
日感情には、常に、2面性がある。(あこがれ)と(憎しみ)、この2つが同時にウズを巻いてい る。そのつど、このどちらかが、表に顔を出す。
たとえばつぎのコラムを読んでみてほしい。これは韓国の中央N報(12月11日版)に載った
記事である。経済記事だが、中央N報という、韓国第一の新聞社でも、こうした記事を堂々と掲 載している。
++++++++++以下、転載
日本経済産業新聞は、最近、日本の半導体メーカーのある幹部の発言を引用、「機密費波紋
でS星が"経営空白"危機に陥った」と報道した。この新聞はまた、他の半導体市場分析家の 話を引用し「新製品の買い替え時期が早い半導体特性上、投資延期は致命的損失はもちろ ん、国際競争から追い出される原因となる」と分析した。
同新聞は今回の事態を通じて日本の半導体メーカーが起死回生するチャンスに期待してい
ると報道した。日本の半導体メーカーのある関係者は「(S星を除いた)主要半導体会社が大 幅の赤字に苦しんでいるが、S星の投資が延期になればDRAM半導体需給が一時的に支障 を来たし、価格上昇の要因となることがある」と述べた。
S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカーが「相手の不幸は私の幸
せ」という本音を表したのだ。
米国調査会社であるアイサプライによるとDRAMはS星電子が今年の7〜9月、世界市場シ
ェア27・7%で1位となった。現在DRAMは供給過剰状態で、一部主力製品は1個当たり0・8 〜0・9ドルで6年ぶりに1ドルを下回っている。
日本で「S星叩き」はあちこちで目撃されている。日本のoh my newsは「S星が揺れるだ
けで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそうだ。」 と報道した。
産経新聞は先月、S星電子が日本家電製品市場から一部撤収すると「安物というイメージか
ら脱することができなかった」と報道している。
S星に対する虚偽の主張が書かれた本も出回っており「S星電子は国内で営業利益の87・
2%をあげ、国外は12・8%にすぎない」と主張した。国外市場で安く売りながら国内市場で利 益を搾取しているという、事実とは正反対に歪曲した内容を記している。
++++++++++以上、転載
私は、この記事を読んだあと、「日本経済産業新聞」の中で、ほんとうにそんなことを書いて
いるのか、たしかめてみた。
まず、「日本経済産業新聞」というのは、「日経産業新聞」のことであることがわかった。しか
しここ数日分の記事にざっと目を通してみたが、私が読んだ範囲では、その記事は、見あたら なかった。
それはそれとして、この記事を、もう一度、整理してみよう。
(1)「機密費波紋でS星が"経営空白"危機に陥った」と報道した。
(2)この新聞はまた、他の半導体市場分析家の話を引用し「新製品の買い替え時期が早い半
導体特性上、投資延期は致命的損失はもちろん、国際競争から追い出される原因となる」と分 析した。
朝鮮N報という大新聞社が、S星という一会社の、そのまた一商品について、ここまで肩入れ
した記事を書くということのおかしさ、最初に、それに気づいてほしい。
その上で、この記事を読みなおしてみる。が、この日本側の記事は、当然のことを、客観的
に書いただけで、どこにも反韓的なニュアンスは、ない。
が、つづくつぎの部分では、「同新聞は今回の事態を通じて日本の半導体メーカーが起死回
生するチャンスに期待していると報道した」とある。やや反韓的かな思えなくもないが、「決死回 生」は、オーバー。ここ数年、シェアこそ、韓国製、台湾製に押されているが、死んでいるわけ ではない。
むしろ、(3)。「(S星を除いた)主要半導体会社が大幅の赤字に苦しんでいるが、S星の投
資が延期になればDRAM半導体需給が一時的に支障を来たし、価格上昇の要因となること がある」と、つまり価格上昇を心配していると、韓国側にむしろ好意的な意見を述べている。さ らに言えば、日本側は、価格の高騰を心配しているのであって、それを喜んでいるのではな い。
が、ここから先、例によって例のごとく、韓国独特の(ひがみ節)が始まる。ウソと被害妄想、
それらがごちゃまぜになる。
(4)S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカーが「相手の不幸は私の幸
せ」という本音を表したのだ、と。
「相手の不幸は、私の幸せ」とは、日本側は、だれも言っていない。(そう思う人はいるかもし
れないが……。)ここでいう「本音」というのは、そのまま、彼ら自身の「妄想」と考えてよい。
そしてその妄想を、「S星叩き」と結びつける。いわく、
(5) 日本で「S星叩き」はあちこちで目撃されている。日本のoh my newsは「S星が揺れる
だけで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそう だ。」と報道した。
「ohmynews」の記事を読んでも、みなさんもわかるように、どこにも、「S星叩き」のニュアン
スはない。どうしてこの記事が、S星叩きになるのか? 「ohmynews」は、ただ「S星が揺れる だけで終わるのか、それとも完全に崩れるのか。日本でも注目してみる価値は十分ありそう だ」と書いているだけである。
が、さらに、こうつづける。
(6) 産経新聞は先月、S星電子が日本家電製品市場から一部撤収すると、「安物というイメー
ジから脱することができなかった」と報道している。
この部分については、私はこの記事を読んだ記憶がある。しかしこれについても、何も日本
の消費者が、韓国製品を閉め出したというわけではない。この記事で気になるのは、「一部撤 収すると」という部分。勝手に、「一部」という文言を、加筆している。
私が読んだ記事では、「家電製品市場から全面撤退」とあった。それが「一部撤収すると」と
なる。この記事を読んだ韓国の一般市民たちは、あたかも日本人が、撤収したのを喜んでい るかのような印象を受けるだろう。つまり、それこそが、朝鮮N報のねらいということになる。
が、最大のウソは、つぎの部分。
(7) S星追い討ちのための連合戦線を形成した日本半導体メーカー
自意識も、ここまで過剰になると、「?」。とてもついていけない。日本が、「 S星追い討ちのた
めの連合戦線を形成した」だと!
悲しいかな、韓国の製造器機のほとんどは、(一説によれば、携帯電話にしても、80%)、日
本製である。つまり韓国は、この日本から製造器機を輸入し、それでもって、いろいろな製品を 製造している。輸出している。半導体にしても、日本は、現在は、台湾やマレーシアに生産拠 点を移し、そこで生産している。
いつ日本は、「 S星追い討ちのための連合戦線を形成した」のか? 記事の根拠は、どこに
あるのか。それこそまさに、カルテル。事実なら、大事件!
仮にそうであっても、そんなことを口にする人はいない。被害妄想も、ここにきわまれりといった
感じすらもつ。繰りかえすが、韓国の一会社の、一製品を、追い討ちするために、連合戦線を 形成しなければならないほど、日本の企業連合は、まだ落ちぶれていない。さらに、まだある。
(8)S星に対する虚偽の主張が書かれた本も出回っており「S星電子は国内で営業利益の8
7.2%をあげ、国外は12.8%にすぎない」と主張した。国外市場で安く売りながら国内市場 で利益を搾取しているという、事実とは正反対に歪曲した内容を記している。
この「87・2%」「12・8%」という数字は、朝鮮N報(05年、5月18日付)に出ていた数字で、
ウソでも何でもない。「事実とは正反対に歪曲した内容を記している」というくらいなら、朝鮮N 報のほうへ、抗議でも何でもしたらよい。
つまり韓国の国策企業は、韓国内で高く売り、利益をあげている。一方、外国では安く売り、
シェアを伸ばしている。
たとえば自動車にしても、現在、韓国製の自動車は、アメリカなどでは、ダンピング価格で売
られている。一方、韓国国内では、ここにあげた数字程度の利益幅を見込んで売られている。 たとえば韓国の「グレンジャー」(現代自動車)は、韓国内では、480万円前後で売られてい る。同じ車が、アメリカでは、300万円前後。価格差は、全体的に、100〜150万円程度とな っている。
こういう記事を分析してみると、韓国の人たちが日本人の私たちのもつ憎悪の念には、相当
なものがあるということがわかる。この憎悪の念は、私が韓国に渡った1967年以来、ほとん ど変わっていない。
だから仮にハンナラ党のI氏が大統領になったところで、彼らの反日姿勢がすぐに変化すると
は、とても思われない。現在のN大統領ほどではないにしても、日本人の私たちとしては、警戒 したらよい。
がんばれ、日本! 負けるな、日本! しばらく新大統領が、どのような行動に出るか、様子
を見て、このつづきを書いてみたい。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2348)
●環境と遺伝(Environment and heredity)
Children's intellectual faculty is decided by the environment and by the heredity.
++++++++++++++
子どもの知的能力の発達は、(1)環境的要因と、
(2)遺伝的要因の、2つの相互作用によって、
決定される。
環境の影響によるものが大きいのは、
好奇心、探求心、創造性、論理性、
思考能力など。一般に技術的能力の
取得が必要な能力(たとえば、楽器
演奏、音感)は、環境による影響が
大きいとされている(シュテルン)。
こうした環境が総合されて、子ども
の方向性が決まる。
遺伝の影響のよるものが大きいのは、
集中力、記憶力など、基本的な知的
能力がある。
++++++++++++++
●子どもの知的能力
子どもの知的能力は、(1)環境的要因と、(2)遺伝的要因の、2つの相互作用によって、決
定される。いくら環境がすぐれていても、遺伝的能力が伴わないばあい、あるいは反対に、いく ら遺伝的能力がすぐれていても、環境が伴わないばあい、子どもの知的能力は、じゅうぶんな 発達を遂げることはできない。
対照的な2つの能力、つまり言語表現力と、音感を例にあげて考えてみる。
●言語能力
先日、1年間で300冊近い読書をしている女児(小4)のことを書いた。その子どものばあ
い、家庭での読書時間を、むしろ反対に、1時間に制限されているという。で、最近は、中学 1、2年の子どもたちがする国語のテストを、いっしょにさせている。ときどき難しい漢字の読み 方を教えることはあるが、言語能力は、平均的な中学生以上にある。
ここでいう言語能力とは、つぎのような能力をいう。
(1)適切な言葉づかい(あいまいな表現をしない)
(2)言葉の理解力の深さ(おとなとの会話が理解できる)
(3)すぐれた会話能力(ポンポンと、軽快な返事が返ってくる)
(4)思考力の深さ(何か話すと、じっと考える様子を見せる)
(5)微妙な表現力(デリケートな問題について、巧みな言い方で、それを表現する)
(6)読書力(速さ、流ちょうさを含む。自然な抑揚をつけて本を読むなど)
その言語能力の中で、私はとくに(5)の微妙な表現力に注目している。それには、こんな事
情がある。
●衰える言語能力
満50歳を過ぎるころから、会話能力が極端に劣ってくる人がいる。多弁であるとか、ないと
か、そういうことではない。使う語彙(ごい)の数が少なくなり、会話そのものが、ぶっきらぼうに なる。全体に、ズケズケというか、ガサツな感じがする。
私の印象では、脳の言語中枢が、退化するか、あるいは、飲酒や喫煙、微細脳梗塞などに
より、脳そのものが、ダメージを受けるためではないかと思っている。たとえばこんな話し方を する。
「アウー、エートだねエ〜。人間は、親孝行がイチバンだヨ〜。親孝行オ〜、しないようなヤツ
はア〜、アウ〜、エ〜トだねエ〜、人間のクズ。クズだヨ〜」と。
ただ誤解してはいけないのは、ペラペラと、脳に飛来する情報を間断なく話す(=多弁)という
のは、言語能力ではない。あえて言えば、発声能力ということになる。
一般的には、おしゃべりの人は、女性に多いと言われている。最近の研究によれば、女性の
ばあい、右脳側にも言語中枢らしきものがあるということがわかってきた。そのため、女性ほ ど、おしゃべりが多いということになるが、もちろん男性にも多い。
その見分け方は、ここでいう「微妙な表現力」ということになる。仮に静かで落ち着いた会話で
あっても、微妙な言い回しのできる人は、それだけ言語能力のすぐれた人とみる。繰りかえす が、ペラペラとしゃべるから、それでよいというわけではない。
こうした言語能力の基本となる、論理力、分析力は、読書と思考力によって決まる。その思
考力は、(ものを考えて書く)という習慣によって養われる。
●音感
他方、音感の発達については、環境が重大な影響を与えるが、しかし環境がすぐれているか
らといって、音感が発達するわけではない。ある音楽教室の先生が、昔、こんな話をしてくれ た。
「音感にすぐれた能力があるかどうかは、教え始めて、数か月でわかる。『この子は、天才的
な才能をもっている』とわかる子どももいれば、『そこそこにはピアノを弾けるようにはなるだろ うが、そこまで』とわかる子どももいる」と。
その(差)はどこからくるかと言えば、遺伝ということになる。
たとえば学習指導という面においても、学習障害児(LD児)は別として、鋭い切り込みを見せ
る子どももいれば、そうでない子どももいる。ひとつのことを教えると、発展的に、四方八方へと 知識を広めていく子どももいれば、反対に、教えても教えても、ザルで水をすくうような感触しか ない子どももいる。
その(差)は何かということになれば、やはり遺伝的要素ということになる。
●見極め
そこで重要なことは、見極め(みきわめ)ということになる。しかしこれは子どもの問題というよ
り、親の問題ということになる。もちろん教師の問題でもない。教師というのは、そこにいる子ど ものために全力を尽くすという義務を負う。その子どもに、その能力があるとかないとか、そう いうことには、関知しない。
だから親の問題ということになる。えてして親は、その能力のない子どもに、その能力を強い
たりする。その方向性のない子どもを、その方向に向かわせたりする。この(無理)が、かえっ て子どもの伸びる芽をつんでしまう。そういう例は多い。
しかしこの問題は、日本の教育そのものがもつ問題ともからんでくる。日本の教育は、子ども
の多様性を認めるしくみには、なっていない。いろいろと改善はされてきているが、それでも不 十分。いまだに受験競争が、家庭教育の(柱)になっていることをみれば、それがわかる。
親たちの選択肢は、それほど、広くない。だから無理をする。「いやだ」「やりたくない」と泣き
叫んで抵抗する子どもを、勉強机に座らせたりする。自分では1冊も本を読んだことがない親 が、子どもに向かっては、「本を読みなさい」「漢字を覚えなさい」と言う。
●環境と遺伝
子どもの能力の発達には、「環境的要因」と、「遺伝的要因」がある(シュテルン)。基本的に
は、子どもを良好な環境で包む。良好な環境で包めば、自然と、その中で、子どもは、自分の 進むべき方向性を見つける。
その先、さらに伸びるかどうかということについては、遺伝的要因が大きくからんでくる。が、
それは子ども自身が、取捨選択しながら、考えて判断すること。水が、やがて流れるべき場所 を求めて流れていくように、子どもも、その場所に落ち着く。
その(流れ)を知るひとつの方法が、ここでいう「環境的要因」と「遺伝的要因」ということにな
る。
あなたの子どもには、その環境があるか? あなたの子どもには、その遺伝があるか? 一
度そういう視点で、子どもの能力を考えてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 環境的要因 遺伝的要因 遺伝 的素質 言語能力 環境と遺伝 environment and heredity child' intellectual faculty )
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●消える、日本!(Japane loses the leverage in the world.)
Herald Tribune is reporting 48 columns about business on Dec. 12. But only three of them
are about Japan. Japan is losing the economical leverage with the world rapidly.
One of them about Japan is that Sony has produced a new TV, saying "Sony Chief
Executive Howard Stringer talked proudly Tuesday about Sony's latest TV technology."
This may be why Sony sells its technologies to other countries including South Korea, I
guess. The chief executive may not be not a Japanese.
++++++++++++++
ヘラルド・トリビューン紙の
経済 (Business) 欄を読む。日本に関する
記事をさがす。
しかし大見出し13、小見出し
35の中で、日本に関する記事は、
3つだけ。
シャープが液晶技術の特許侵害で、
韓国のサムスンを訴えたという記事。
原油価格の高騰が、日本の会社を
圧迫し始めているという記事。
それにソニーが新製品を発表した
という記事。
現在、ソニーの頂点に立つ代表取締役は、
Howard Stringer氏。名前からして
日本人ではない。
道理で、ソニーは、惜しげもなく、
日本の技術を、韓国に、どんどんと
売りさばいていた(?)。今度は、
有機液晶テレビ技術まで(?)。
いいのか、ソニー? いいのか、日本?
それはともかくも、48項目中、3つ
だけというのは、さみしい。それに
かわって、中国関連の記事が目立つ
(07年12月12日版)。
++++++++++++++
英語の勉強のため、記事の一部を、日本語に翻訳してみる。(経済記事というのは、翻訳す
るのが、むずかしいぞ!)
「A spike in oil prices lifted Japanese wholesale inflation to its highest level in more than a
year, but that hardly helped the central bank's case for a rate increase as rising costs threaten to strain profits at Japanese companies.
原油価格のトゲは、卸売り価格のインフレを、1年そこそこのうちに、もっとも高いレベルまで
あげた。(金利)コスト上昇が、日本企業の利益を減らすということもあり、中央銀行が、金利を あげるということは、ほとんど考えられない。
The price data suggests that consumer prices, too, will likely rise in coming months as firms
pass on part of their rising costs, after a long period of tame advances.
But most economists said consumer prices are unlikely to accelerate sharply in view of
limited wage growth.
物価動向をみると、長い間、停滞していたが、つぎの数か月の間、消費者価格も、上昇する
傾向を見せている。しかしほとんどのエコノミストたちは、賃金上昇もかぎられているため、消 費者価格が、急速にあがるということはないだろうと言った。
"The uptrend in wholesale price inflation is strengthening," said Takehito Sato, an economist
at Morgan Stanley. "That could worsen terms of trade of Japanese firms, especially at small and midsized ones."
「卸売価格の上昇圧力は、強化されつつある」と、モーガン・スタンレーのエコノミストのサトー・
タケヒト氏は言う。「それは日本企業貿易条件を悪化させるだろう。とくに中小企業において」 と。
The corporate goods price index, which tracks wholesale prices, rose 2.3 percent in
November from a year earlier, the sharpest annual jump since September 2006.
物価は、卸売価格に連動するが、11月に、今年のはじめから、2・3%上昇した。これは200
6年以来の、1年としては、急上昇(ジャンプ)である。
+++++++++++++++
日本の物価が、2・3%も上昇していたとは! 知らなかった! 1000万円のタンス預金をし
ていた人は、それだけで、23万円分、失ったことを意味する。これから先、外国にバラまかれ た日本の(円)が、日本に環流してくるとなると、さらにインフレ=物価の上昇は進むだろう。
話をもとにもどす。
これから先、日本は、その影響力を失う分だけ、世界の経済に動向に振り回されることにな
る。アメリカを見て、中国を見て、EUを見て、そしてインドやブラジルを見てから……、となる。
世界第2の経済大国の地位を失うまで、あと数年。それを前提で、これからの日本の経済を
考える。その一端が、ヘラルド・トリビューン紙にも、現れ始めた(?)。
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2349)
●仮面(ペルソナ)
Each man has its own mask, or "persona", in our daily life. Doctors have their own masks,
priests have their own mask, and teachers have their own masks. Important thing, however, is that we wear masks depending on time and occasions, but not to forget to take off the masks when apart from the jobs. Otherwise we often lose ourselves and we get lost to know where we are.
++++++++++++++
だれしも、そのときどきに応じて、仮面をかぶる。
かぶりながら、その仕事をする。
医師は医師の仮面。
牧師は牧師の仮面。
教師は教師の仮面。
仮面をかぶることは、悪いことではない。
仮面をかぶることによって、人は、自分の仕事をスムーズに、こなすことができる。
仮面は、いわば、人と人をつなぐ、潤滑油のようなもの。飛行機に乗り込むとき、客室乗務員
のあのやさしい笑顔を見たとたん、心がなごむ。
反対に、仮面をかぶれない人というのもいる。
世辞を言ったり、じょうずを言ったり、あるいは、冗談を言ったりすることができない。
このタイプの人は、しばしば他人との関係で、不適応症状を起こしやすい。
たとえば引きこもりの子どもがいる。
このタイプの子どもは、仮面をかぶることができない。
万事に、ぎこちない。
まじめすぎるというか、何ごとにつけ、YES・NOを、はっきりさせたがる。
そのぎこちなさから生まれるストレスが、その子どもの心をゆがめる。
しかし仮面は、仮面。それを忘れてはいけない。
仮面をかぶるのは、しかたないとしても、大切なことは、どこかでは仮面を脱ぐこと。
仮面をぬいで、自分にもどること。
が、中には、仮面を仮面と気がつかないまま、仮面を脱ぎ忘れてしまう人がいる。
このタイプの人は、常に(ほんとうの自分)と、(ニセの自分)の間のギャップに苦しむ。さらにひ
どくなると、どれがほんとうの自分で、どれがニセの自分か、わからなくなる。
実は、この私が、あぶなかった。
ちょうど30歳になる前のこと。私は、数週間ごとに、はげしい偏頭痛に悩んだ。
当時は、まだ偏頭痛に対する理解もない時代だった。
頭痛薬をのんでも、かえってゲーゲーとそれを吐き出してしまうだけで、意味がなかった。
そのころの私は、親たちの前に立っただけで、ものすごい疲労感を覚えた。
自分では「母親恐怖症」などと言っていたが、相手を「お母さん」と呼んだだけで、心のどこか
で、ゾッとしたのを覚えている。
しかしあるとき、気がついた。
親たちを前にした私と、家に帰ったあとの私は、まったくの別人間だった。
だれでもある程度の(差)があるものだが、私のばあいは、ちがった。
まったくの別人間だった。
そこである日から、私は、反対に、親たちの前で仮面をかぶるのをやめた。
ありのままの自分を、さらけ出すことにした。
つい昨日も、子どもたち(小学低学年児)が、私にこう聞いた。
「先生は、おっぱいをのんでいるか?」と。
それに答えて、「ときどきのんでいるよ」と答えてやった。
といっても、それができるようになるまでに、それから何年もかかった。
で、今はどうかというと、ほとんど、ありのまま。
ありのままの自分で、親たちと接することができるようになった。
話はそのころに戻るが、自分らしさを取り戻したとき、あの偏頭痛が、うそのように軽くなった。
今にして思えば、私は仮面をかぶりながら仕事をし、その仮面の下にある自分に苦しんだとい
うことになる。
で、先にも書いたように、仮面をはずし忘れると、ほんとうの自分がわからなくなってしまう。
ときどき、そういう人に出会う。
表面的には、欠点のつけようがないほど、善人なのだが、何を考えているかわからない。
不気味。
不可解。
会うたびに、おだやかな口調でこう言う。
「奥様はお元気ですか?」「お兄様は、いかがですか?」と。
いつも意味のわからない笑みを浮かべている。
ニンマリというか、ニタニタというか……。
ほんとうにこちらのことを思って、そう聞くのではない。
それがその人のあいさつ言葉になっている。
仮面を飾るための、道具になっている。
中身が、まるでない。
心に伝わるものが、何もない。
仮面をはずし忘れると、人も、そうなる。
人間らしさが消え、人形のようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 仮面 persona ペルソナ 仮面 型人間 ペルソナ人間)
はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
●高理と世俗(High Ideology and Common Way of Living)
We are always between the high ideology and the common way of living. We sometimes
swing to the high ideology and in other times we swing to the common way of living. To live with the high ideology is not easy but it is more important for us not to get harmed by the common of living. What shall we do if we wish to live unharmed by the common way of living. My teacher Kenzi Tamaru teaches me, the other day, "Just appreciate that we are here and we are living." Yes! We are here and living, seeing, hearing, acting, and thinking. From this point of view, everything around us looks tiny things, which brings us up to the higher ideology.
++++++++++++++++++
高い理念を、「高理」という。
私が勝手に、そう名づけた。
その正反対の位置にあるのが、「世俗」
人は、この高理と世俗の中間あたりで、いつも、どちらかに行ったり来たりする。
引っ張られる。
それは綱引きの綱のようなもの。
高理に揺れたり、世俗に揺れたりする。
わかりやすい例で、説明しよう。
たとえば寒い朝、仕事に向かう。
そのとき、自動車の乗って行くという方法がある。
そのほうが楽だし、冬の冷気を避けることができる。
しかし一方、健康のためなら、自転車で行くほうがよい。
青い空、白い雲、そういうものを見ながら、思いっきりペダルをこぐ。
その瞬間、生きている喜びを覚える。
ものが見える。ものが聞こえる。体が動く。
それが喜びとなって、はね返ってくる。
世俗的な視点からみれば、大型車をゆうゆうと運転していくほうが、かっこよい。
反対に、自転車で、道路の隅を、ユラユラと走るには、かっこ悪い。
しかし健康、もう少し大げさな言い方をすれば、生きているという視点からものを見ると、自転
車に乗って行くほうが、意味がある。
プラス、すばらしい。
私のばあいだが、どちらかひとつを選べと言われたら、このところ、自転車に乗って行くほう
を、選ぶ。
実は、今日も、そうだった。
朝、家族で、サイクリングをした。
ちょうど、40分。
1単位の運動をこなしたことになる。
それを知っているから、ワイフがこう言った。
「今日は、車で、送っていくわ」と。
しかし私は断った。
自転車に乗って行くほうが、ずっと、楽しい。
気持ちよい。
そういう私だから、大型の高級車に乗っている人が、うらやましいと思ったことはない。ほんとう
に、ない。
むしろうらやましいと思うときは、こんなときだ。
先日も、ある小学校で講演をさせてもらった。
その学校でのこと。
その小学校の校長が、精悍(せいかん)な顔つきをしていた。
引き締まった顔立ち、体格。ピンと伸びた背筋。
キビキビと、校長室と職員室を行ったり来たりしていた。
年齢は、私より、たった数歳、若いだけ。
だから私は、思わず、こう聞いた。
「何か、運動をなさっているのですか?」と。
するとその校長は、こう言った。
「私は、体育系ですから」
「毎朝、子どもたちと、30分、運動場を走っています」と。
その校長を見たとき、「うらやましい」と思った。
校長の全身から飛び散るような健康さを感じた。
それを「うらやましい」と思った。
長い話になってしまったが、大型の高級車をうらやましいと思うのは、「世俗」、健康な肉体をう
らやましいと思うのは、「高理」ということになる。
健康や、時間の使い方、文化や伝統に関する考え方は、わかりやすい。
ボランティア活動を生きがいにしている人は、多い。
真・善・美の追求に、情熱を燃やしている人も多い。
しかしこと、お金の問題となると、世俗に毒されている人は、多い。
多いと言うより、ほとんどが、そうではないか。
たとえば親の遺産をめぐって、言い争っている人は、多い。
分配をめぐって、たがいに不愉快な思いをしている人は、さらに多い。
お金(=マネー)そのものが、(世俗)の象徴と考えてよい。
実際、この世界は、そのお金で成り立っている。
お金で幸福は買えないが、お金がなければ、不幸になる。
そのため人は、ますます世俗に毒されるようになる。
少し前のことだが、ある知人の家に遊びに行ったとき、こんなことがあった。
10数年ぶりに会ったのだが、話すことと言えば、お金のことばかり。
「あの男は、自分の家を、x千万円で、改築した」
「あの男は、投信で、x千万円、もうけた」と。
この程度の話はしかたないとしても、帰り際、私が、「タクシーを呼んでいただけますか」と聞く
と、こう言った。
「タクシー代を、オレに払ってもらえないか。駅まで送っていく」と。
私は、そのあさましさに、心底、驚いた。
がっかりした。
人も、お金に窮すると、そこまで言うようになる。
世俗に毒されると、そこまで言うようになる。
と、同時に、私との人間関係は、それで消えた。
しかし貧しいから、世俗に毒されるとか、反対に、金持ちだから、高理になるというわけではな
い。
貧しくても、高理の人はいくらでもいる。
金持ちでも、世俗に毒されている人も、これまたいくらでもいる。
遺産の話になるが、世の中には、数億の金融財産をもちながら、わずか数百万の遺産問題
で、兄弟たちと、はげしく言い争っている人もいる。
大切なのは、生きざまということになる。
心のもち方ということになる。
では、高理に生きるためには、どうすればよいのか。
先月、恩師の田丸謙二先生が、こんなメールをくれた。
「お元気ですか?」と書いた、メールへの返信だった。
「老いと戦うすばらしさ。感謝、感謝」と。
私は、この言葉に感動した。
「感謝」という言葉に、感動した。
目が見える、ものが聞こえる、体を動かすことができる。
生きていること自体が、すばらしい。
アインシュタインは、それを「奇跡」と呼んだが、まさに奇跡。
この世界で生きている以上、世俗から自分を切り離すことはできない。
しかし高理に生きることによって、世俗との間に、一線を引くことは、できる。
その一線を引けば、世俗に毒されることを、防ぐことができる。
人は、この高理と世俗の中間あたりで、いつも、どちらかに行ったり来たりする。
引っ張られる。
それは綱引きの綱のようなもの。
高理に揺れたり、世俗に揺れたりする。
それはしかたのないことかもしれないが、そのつど、自分がどこにいるか、それを知ることは、
とても大切なこと。
今朝は、それを発見した。
07年12月15日
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 世俗 高理 世俗的な生き方)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司※
【今日・あれこれ】(Dec. 15, 2007)
●"I am Legend"
My wife and I went to the theater to see the film,"I am Legend", acted by Will Smith last
night. No so good or not so bad, I mean, I can't take it or leave it. How come do Americans like zombies so much like this? How come does my wife movies so much like that? "I am Legend" itself is a kind of "Male Biohazard 3" and nothing is new more than "Biohazard 3". Will Smith acted very well. Then I can give this movie three stars.
++++++++++++++
昨夜、ウィル・スミス主演の
「アイ・アム・レジェンド」を、
見てきた。
星は、3つの★★★?
「バイオ・ハザード」の男性版
といった感じで、どこか陳腐。
アメリカ人って、どうして
ああも、ゾンビが好きなのか?
ワイフは、どうしてこうも、
映画が好きなのか?
またまたゾンビ映画!
ウィル・スミスの熱演で、星は
3つ。
「今度は、〜〜を見たい」と、
ワイフは、言っている。
しかしもうゾンビ映画は、あきた!
++++++++++++++
●会話(Conversation with my wife)
実名を出して恐縮なのだが、今度、山荘の近くの町に、「バロー」というショッピングセンター
ができることになった。
「バーロウ」と言えば、「バカヤロー」とも聞こえる。実に個性的なネーミングである。それにつ
いてワイフが、そう聞いたので、「たぶん、ハローを濁音にして、バローにしたんじゃなア〜イ」と 私は、答えた。よくわからないが……。
しかしそこにバローができることには、大賛成! ぐんと、便利になる。バローさん、よろしく!
で、途中、ドラグストアに寄ったら、もう鏡餅を売っていた。それを見て、またワイフがこう言っ
た。「もう、鏡餅を売っているわ」と。私は、「うちじゃあ、去年、買ったよ」と答えた。
実は、2年前(05年末)に買い、06年1月に使った鏡餅を、冷凍しておいたら、今年の正月
(07年1月)も使えた。それでそう言った。
ワ「今年は、ちゃんと、買うわよ」
私「正月が終わったら、冷凍しておけばいい。また来年、使える」と。
我が家の正月は、毎年、こんなもの。どこか緊張感に欠ける。やるべきことはやるのだが、ど
こか、いいかげん。こうして今年(08年)も、もうすぐ終わる。
●2008年の極東アジア・拉致問題(North Korea's Abduction Problem)
The only one to solve the North Korea's Nuclear-weapon development problem is to let the
country collapse by itself, though South Korea as well as China doesn't want it. But this is not our problem. USA government seems to have already abandoned or given up the problem, since the North Korean's nuclear weapons are not a threat to USA. Moreover it is important to keep justice. Justice, named "Democracy". The year 2008 would be the year when our justice is on judge. If South Korea will continue assisting North Korea, we have to make South Korea collapse too.
簡単に言えば、アメリカにしてみれば、K国の核兵器開発問題など、もう、どうでもよいという
こと。アメリカに与える脅威は、ほとんど、ない。(ただし、核拡散は別。アメリカのブッシュ大統 領も、そう言っている。)
一方、K国は、核兵器開発を放棄しない。あの国から核兵器開発を取り除いたら、何も、残ら
ない。それこそ世界の、最貧国。金xxも、それをよく知っている。
2008年も、K国は、ああでもない、こうでもないと、ささいなことにこだわり、6か国協議をノラ
リクラリと、かわしていくだろう。その間に、援助だけをしっかりと受け取る。その裏で、核兵器 の開発を進める。
日本の拉致問題は、その間、棚上げ(?)。この問題は、K国が崩壊でもしないかぎり、解決
しない。だったら、K国を崩壊させるしかない。が、中国や韓国は、それを望まない。つまりこの あたりで、6か国の、つばぜり合いがつづく。
中に、「拉致問題は切り離して、K国を援助すべき」と唱える学者もいる。東京大学環教授の
KS氏など。「拉致問題解決を前提条件とせず、日朝正常化交渉の中で、現実的な解決をすべ し」(日本の論点2008)と。
バカめ!
「救う会・全国協議会」(拉致被害者家族会)の人たちの気持ちが、まったくわかっていない。
KS氏は、こう説く。いわく、「……以上のように考えれば、日本政府は何よりもまず、K国の核 放棄を進めていく多国間協議のプロセスを推し進めていくことに積極的に関与し、第二段階の K国に対する重油供給でも応分の役割を果たすべきである。日本は、明らかに、非核化の受 益者でもあるからだ」(同書・P194)と。
この「受益者」という言葉を読んだとき、私は、体が震えた! 怒りで、体が震えた!
KS氏は、日本人名ではない。それはわかるが、どこからこういう発想がわいてくるのか?
悪党が、悪事をやめるのは、当然のこと。やめてくれたからといって、どうして「ありがとう」と言 わなければ、ならないのか。相手に、プレゼントを渡さなければ、ならないのか。いわんや、こ の私たちが、「受益者」とは!
私も当初から拉致問題と、制裁問題をからめることには、反対だった。何度も、そう書いてき
た。しかし国会という場で、それが決まってしまった以上、日本は、日本としての正義を貫く。貫 かねばならない。それが民主主義の大原則ではないのか。
私も以前、息子が乗った飛行機が日本へ着かなかったとき、たった一晩だったが、眠られぬ
夜を過ごしたことがある。あのとき感じた、不安感、焦燥感は、言葉では言い表せない。それを 表す、適切な日本語すら、ない。が、あえて言うなら、身を粉々に切り刻まれるような絶望感。 それに近いものだった。
拉致被害者家族会の人たちは、毎日、一日とて気が晴れることもなく、そういう気持ちのまま
過ごしている。それを忘れてはいけない。しかも、あのK国は、それまで、「知らぬ」「存ぜぬ」と ウソばかりついていた。ときには、会議の席で、激怒までしてみせた。「ありもしない拉致問題 を、テーマにするな!」とか、何とか。
その上、遺骨と称して渡してきたものは、偽物。さらに最近では、「日本側が、偽物とウソをつ
いている」とまで言っている。
私はいつしか、K国は、崩壊させるしかないと考えるようになった。恐らく、このエッセーを読
んでいる読者のみなさんも、同感だろう。
しかし崩壊しそうになると、韓国が出てきて、あれやこれやとK国を助ける。今では、韓国イコ
ール、K国。そう考えてもよいような状態になっている(07年12月、N政権下の韓国)。私が 「日韓経済戦争」を書くようになったのは、そのためである。
拉致問題が解決するまで、K国はK国。金xxは、金xx。抗議の念をこめて、「xx」。そうする。
……またまた頭が熱くなってしまった。が、こと6か国協議について言えば、日本のほうから
先に抜けたところで、いまや、おかしくない状態になっている。しかしそうするならそうするで、日 本も核武装するしかない。6か国の中で、核兵器をもっていない国は、この日本だけということ になる。
が、こんな愚かなレースに加わってはいけない。日本は、核武装など、してはいけない。だっ
たら、またまた結論は、同じ。K国を崩壊させるしかない。韓国がK国を助けるというのなら、韓 国も、また同罪。韓国も、同時に、崩壊させるしかない。日本は日本で、ノラリクラリと、6か国 協議に顔だけ出しておけばよい。もともとK国など、本気で相手にしなければならないような国 ではない。国力にしても、山陰地方にある、S県というひとつの県程度でしかない。
拉致問題といいながら、この問題には、日本の正義のみならず、日本の命運がかかってい
る。
がんばれ、日本! 負けるな、日本! 拉致被害者家族会のみなさん、がんばれ!
(以上、07年12月15日記)
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
最前線の子育て論byはやし浩司(2350)
●生と死のはざまで……(Between the life and the death)
++++++++++++++++
「生と死のはざま」というと、何も健康だけの問題ではない。
生き方の問題でもある。
しかも濃いか薄いかのちがいはあるが、すべての人たちの問題でもある。
老いも若きもない。
例外はない。
It is not a problem only about our health, when we say "between the life and the death." It
is a problem of how we live. Everyone has the problem though there is a small difference between someone's is serious or some other one's is not. There is no difference between the young and the old. There's no exception.
生きていても、意味はない。
かと言って、死ぬこともできない。
そんなはざまで、ただぼんやりと日々を過ごしている人がいる。
それは私かもしれない。
それはあなたかもしれない。
No matter how much we realize it is a meaningless life to live but we can't die either. There
are some people who live just vacantly between the life and the death. It may be me. It maybe you.
私はこのことを、特別養護老人ホームの老人たちを見ていて、知った。
そこにいる老人たちは、毎日、何かをするでもない。
何もしないでもない。
ぼんやりと、うつろな目で空を見つめながら、その日、その日を、生きている。
I knew it when I was in the Care Center for oldest people. The oldest people there live
without doing anything or with doing nothing. They are staring at the air above just meaninglessly day after day.
生きているというよりは、「息(いき)」ている。
They just breathe rather than they live.
最初は、それはこうしたところにいる老人たちだけの問題かと思った。
老人たちの人生は、短い。
一方、私の人生は、老人たちよりは、長い。
それはわかる。
At the beginning I thought it was a problem only for the oldest people. Their lives are short
but our lives seem to be much longer. I know it.
しかし長い、短いということは、あくまでも相対的なもの。
老人たちの5年は短く、私の20年は長いと、どうして言えるのか。
密度にしても、そうだ。
あくまでも相対的なもの。
老人たちはぼんやりしていて、私はぼんやりしていないと、どうして言えるのか。
But what is the difference? We say "short" or "long", but we can just say so. There is no
short life nor long life. How come can we say that 5 years is short, and 20 years is long? As to the density itself is the same. How come can we say that our lives is full of life and their lives is not. How come can we say oldest people there live vacantly and we are not.
老人たちにしても、それを見る私にしても、生と死のはざまで生きている。
しかしそれは、恐ろしく、孤独な世界でもある。
The oldest people there live between the life and the death. So do I who see them in the
Care Center.
まさにそこは、生きることもできない。
しかしさりとて、死ぬこともできない。
そんな世界。
私たちは、死がやってくるのを、じっと待つ。
あるときは、楽しいフリをしながら。
またあるときは、生きているフリをしながら。
しかしいつもそこに死があることを、忘れることはできない。
It is a kind of world where people cannot live or cannot die. We are just waiting for the day
to come when we die. In some moments we pretend to be happy in another moments we pretend that we are living. But we never be able to forget that the death is there.
もしこの世に地獄があるとするなら、そのはざまこそが、地獄。
それほどまでに恐ろしい世界はない。
そして「孤独」とは何かと問われれば、それはそのはざまで、もがき苦しむことをいう。
If the hell is in this world, the world between the life and the death is it, "The Hell". Nothing
is more fearful than this in this world. And when we are asked what the solitude is, I would say it is the world between the life and the death, where we suffer from agony and despair.
私を求める人は、だれもいない。
あなたを求める人は、だれもいない
私に心を開く人は、だれもいない。
私が心を開ける相手は、だれもいない。
There is no one who wants me. There is no one who wants you. There is no one who opens
his or her mind to you. There is no one to whom you can open your mind.
生きる目的も、夢も、希望もない。
他人に生きる喜びや、夢や、希望を与えることもない。
私は、ただそこにいるだけ。
あなたは、ただそこにいるだけ。
There is no purpose to live for, no dream nor hope. You never give other people the purpose
to live for, no dream nor hope. I am just here and you are just there.
生きているだけ。
ただ生きているだけ。
We are just breathing. Only just breathing.
唯一の救いは、バカになること。
ノーブレインになること。
Only one way to save up from this hell is just to become senile or to become one with no-
brain to think.
「ボケ」は、差別用語だと、人は言う。
ボケることは、悪いことだと、人は言う。
しかしボケることで、人は、この孤独から遠ざかることができる。
"Stupidity" is a bad word to use, they say, but to become stupid is not always bad. People
can separate themselves from this hell by becoming stupid. To become senile is one of them.
もしあの老人たちに、ほんの少しでも考える力があったら、どうなるか。
おそらくあの老人たちは、その孤独の中で、もがき、苦しむにちがいない。
自分の境涯を、のろい、うらむにちがいない。
生きていること自体が、そこでうごめく人たちにとっては、地獄。
さりとて、死ぬこともできない。
If the oldest people have a bit of brain to think by themselves, what would become of them?
The oldest people would suffer from the solitude under the agony and despair. They curse themselves and their lives. To live is so harsh for them but they can not die.
しかしそれは私の、今の姿。
あなたたの、今の姿。
But there is no difference between the oldest people and us. It is you as well as you.
「生と死のはざま」というと、健康だけの問題ではない。
生き方の問題でもある。
しかも濃いか薄いかのちがいはあるが、すべての人の問題でもある。
例外はない。
It is not a problem only about our health, when we say "between the life and the death." It
is a problem of how we live. Everyone has the problem though there is a small difference between someone's is serious or some other one's is not. There is no difference between the young and the old. There's no exception.
そこで今、私は自分に問う。
あなたはあなた自身に問う。
Then we ask ourselves if we are really living to live? And also you ask yourselves if you are
living to live?
「私は生きているか」と。
"Am I living to live?"
もしそうであれば、それでよし。
そうでなければ、私は、そしてあなたは、すでに、あの老人たちの仲間になっていることを意味
する。
If the answer is "Yes", it is all right but if not, it is not. This means you are belonging to the
oldest people in the Care Center.
長いか、短いか、それは問題ではない。
濃いか、薄いか、それも問題ではない。
Long or short? That doesn't make any sense nor differnece. Much or litter? That doesn't
make any sense nor difference.
Hiroshi Hayashi++++++++DEC 07++++++++++はやし浩司
●風邪(Catching a cold)
My wife caught a cold last night. She had a bad coughing. We had not good medicine here at
the mountain house. I dissolved medicine on the market in the hot water. Her coughing became more and more severe when it got later. It was around 2 or 3 o'clock in the morning when I got a sleep.
++++++++++++++
昨夜、ワイフが風邪をひいた。
夜、遅くまでテレビをみていたのが、たたった。
最初は、咳。
その咳がだんだんとひどくなった。
よい薬がなかった。
市販の感冒薬をお湯に溶かして、飲ませた。
咳はますますひどくなり、ワイフは、そのたびに、顔をゆがめた。
体を丸めた。
夜中の2、3時ごろまで、咳はつづいた。
そのころ、私は、眠った。
目をさますと、時計は、午前7時を少し回ったところだった。
ワイフは、安らかな寝息をたてていた。
私は、ほっとした。
再び、まぶたを閉じた。
つぎに目を覚ますと、時計は、午前9時半を示していた。
居間へ行く。
温度計を見る。
気温は、5度。
山荘の冬は、寒い。
私は朝食の用意をする。
自宅からもってきた白いご飯に、漬け物をのせ、お茶をかける。
それに頭痛薬をお茶に溶かして、ワイフに届ける。
「どう?」と聞くと、「熱はさがったみたい」と。
私は、再び居間に戻って、パソコンに電源を入れた。
++++++++++++++
よく私は、「ワイフが死んだらどうしよう?」と考える。ワイフはワイフで同じことを、考えるらし
い。昨夜、ふとんの中で、互いに、そんな話をした。
私「お前が病気になると、ぼくは、不安になる」
ワ「あなたが病気になると、私だって、不安になるわ」
私「そうかア? 気がつかなかった……」
ワ「だいじょうぶかしらって、ね」
私「そうだなア……」と。
私がしているような仕事は、体が資本。私が倒れたら、万事休す。おしまい。毎日が、運試
(だめ)しのようなもの。ワイフが感ずる不安は、私が感ずる不安より、大きい。
私「これからは、できるだけ、お前に心配をかけないようにするよ」
ワ「いいのよ、あなたはあなたで……」
私「でもさア、ぼくが倒れたら、どうなるんだろう……」
ワ「そうねエ……。何とかなるわよ」
私「ぼくも気をつけるから、お前も気をつけろよ」
ワ「うん……」と。
ワイフの頭を腕の中で抱いてやった。薄暗い明かりの中で、ワイフの顔が、よけいに歳をとっ
たように見えた。「バアさんみたいになったなア」と思ったが、それは言わなかった。ワイフは、 相変わらず、苦しそうに咳をしていた。一度、「あなた移るわ」と言った。私は、「もともとはぼく の咳だから……」と答えた。
2、3度、睡魔が襲ったが、そのつど、ワイフの咳で目が覚めた。と、同時に、眠気がどこか
へ消えた。枕元の時計を見ると、午前2時を示していた。が、おかしなことに、それを最後に、 記憶がとだえた。そのころ、私も眠ってしまったらしい。
そんなわけで、今朝は、せっかくの日曜日だが、とても、GOOD MORNING!と言う気分に
はなれない。
そうそう言い忘れたが、たった今、ワイフが床から起きてきた。「だいじょうぶ?」と声をかける
と、「頭痛はなくなった」と。よかった!
2007年12月16日、午前10時。みなさん、改めて、おはようございます!
●ニセ科学(pseudo science)
In Japan very strangely most of the young people believe that each man's personal
character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely spread throughout Japan.
++++++++++++++++
家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、その店員
は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。
私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。
血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!
++++++++++++++++
「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左巻健男氏の
書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。
左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオン。
(1)マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科学の「負イ
オン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イオンだが、これが 健康によいという根拠はない。
プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄化し、吸
うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症にも効き、健康に もいい」というのである。
これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジテレビ
系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能がうたわれた。
そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、冷蔵
庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場に出される に至った(以上、P162)、と。
ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行くと、た
しかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだわっていた わけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。
しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発掘、
あるある大辞典」だったとは!
左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、数10万
個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないことに注意を要す る」(同書)と。
だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見を全面的に信
ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である左巻氏の意見を尊重し たい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。
左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。
もうひとつ、こんな例をあげている。
(2)容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書いた紙を張
り、その水を凍らせる。
すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水は、崩
れた汚い形の結晶になるか、ならない。
ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本勝著)という本が話題になっ
た。
水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。
こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。しかし、
だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が広まったとい う。
理由は、「人間の体の6〜7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した教育団
体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道徳)の授業が 行われている」(同書)と。
しかし、『水からの伝言』とは何か? 江本勝という人物は、どんな人物なのか? 少し前、麻
薬を所持していて逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持たせろ」 「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。
その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、自
説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを思い浮 かべていた。
で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、それは、そこにあった。いわく、「私
たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化させるということ を、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もきれいになり、健康を取り 戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が変われば世界が変わります。 いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの伝言」HPより)と。
どうやら、本気らしい。
しかし……? 「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。その数
は、約3x10の22乗!(ヤフー・知恵袋参照)
数字で表してみると、こうなる。
300,0000,0000,0000,0000,0000個!
しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あの占星術にして
も、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!
これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。けっして、
軽く考えてはいけない。
**********以上、2350作、終了*************
【本文中・検索・キーワード集】(順次、収録していきます)
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