最前線の子育て論byはやし浩司(18)

最前線の子育て論byはやし浩司
(2700  〜  )
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最前線の子育て論byはやし浩司(2700)

●今朝・あれこれ(6月21日)
I bought a lap-top personal computer long time ago and I was surprised to know that I did it 
only 9 years ago! I seems to me it has passed a long time since then, at least I can't believe 
that I bought it only 9 years ago, which means my life has been full of many dramas in these 
ten years. I AM HAPPY!

++++++++++++++++++

このところ、睡眠調整がうまくいかない。
夜中に目が覚めてしまうことがある。
いつもだったら、そのまま目を閉じていれば、
そのまままた、眠ってしまうのだが、今朝は、
そうではなかった。
ますます、頭が冴えてしまった。

「起きた方がいい」ということで、起床。
時計を見たら、午前3時。
今日は、K市での講演会がある。
昼ごろには終わる予定なので、帰ってきたら、
昼寝をしよう。

そう自分に言いきかせながら、パソコンに
向かう。

+++++++++++++++++

●充実した10年

居間に、今は使わないノートパソコンがある。
そのパソコンのことはよく覚えている。
そのパソコンについてのエッセーを書いたこともある。
(この原稿のあとに、添付。)

当時、17万円で買ったパソコンである。
が、(英語式キーボード配列)というので、使い勝手は、
たいへんに悪かった。
とくにエンターキーが小さく、かつその右に、スクロール
キーがついていた。
使いにくかった。
しょっちゅう、まちがえて、ほかのキーを押してしまった。
それでいつしか、そのまま使わなくなってしまった。

そのせいか、今でも、見た感じは、新品に近い。

が、私が書きたいのは、そのことではない。
私は新しい電子製品を買うと、製品のどこかに、買った日付を
書くクセがある。
とくに意味はない。
ないが、その日付を見て、驚いた。
「1999年8月」となっていた。

遠い昔のような感じがする。
それから何十年もたったような気がする。
しかし実際には、たったの9年。
それから9年しか、たっていない!

ワイフに、「おい、なあ、たったの9年だってエ!」と声を
かける。

私「99年に買ったということだから、9年前だよ。信じられない!」
ワ「それだけ、この9年間が充実していたということね」と。

そうかもしれない。
そうであると、信じたい。
この10年間、私は猛烈に原稿を書いた。
朝起きると、そのまま書斎へ。
平均して、1日10枚(40x36)の原稿を書いたことになる。
そういう日々がつづいた。
書いたという実感は、あまり残っていないが、9年前が遠い昔の
ように思える。

それが今、「たったの9年前!」という驚きとなって、返ってくる。

で、もしだれかに、「今までの努力は何のためにしたのか?」と聞かれたら、
私はこう答えるだろう。
「この充実感のため」と。

+++++++++++++++++

そのパソコンについて書いた
原稿です。
このとき通販で買ったパソコンが、
先に書いたパソコンのことです。
(中日新聞、発表済み)

+++++++++++++++++

●気になる新築の家のキズ

 新築の家のキズは、気になる。私も少し前、ノートパソコンを通販で買ったが、そのパソコン
には、最初から一本のすりキズがついていた。それがそのとき、私は気になってしかたがなか
った。

子育てもそうだ。子どもが年少であればあるほど、親は子育てに神経質になる。「英語教室の
先生はアメリカ人だが、日系二世だ。ヘンな発音が身についてしまうのでは」「こっそりと参観に
行ったら、一人で砂場で遊んでいた。いじめにあっているのでは」「授業中、隣の子と話をして
いた。集中力がないのでは」など。

それはわかるが、度を超すと、先生と親の信頼関係そのものを破壊する。いろいろなケースが
ある。

 ある幼稚園の若い先生は、電話のベルが鳴るたびに、心臓が止まる思いをしていた。また別
のある幼稚園の園長は、一人の親からの小型の封筒の手紙が届くたびに、手を震わせてい
た。こうした症状がこうじて、長期休暇をとっている先生や、精神科の医師の世話になっている
先生は多い。どこの幼稚園にも一人や二人は、必ずいる。

 親から見れば、子どもを介しての一対一の関係かもしれないが、先生から見ると、三〇名の
生徒がいれば、一対三〇。一人や二人の苦情には対処できても、それが四人、五人ともなる
と、そうはいかない。しかも親の欲望には際限がない。できない子どもが、ふつうになったとして
も、親は文句を言う。自分自身に完ぺきさを求めるならまだしも、先生や教育に、完ぺきさを求
める。そしてささいなことを大げさにしては、執拗に、先生を責めたてる。ふだんは常識豊かな
人でも、こと子どものこととなると、非常識になる人は多い。

私もいろいろな経験をした。私が五月の連休中、授業を休んだことについて、「よそのクラスは
月四回の指導を受けている。私のクラスは三回だ。補講せよ」と言ってきた父親(歯科医師)が
いた。私がそれを断わると、その親は、「お前を詐欺罪で訴えてやる。ワシは顔が広い。お前
の仕事をつぶすことぐらい、朝飯前だ」と。

また別の日。たまたま参観にきていた父親に、授業を手伝ってもらったことがある。しかしあと
で母親(妻)から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「よくもうちの主人に恥をかかせてくれた
わね! どうしてくれるの!」と。ふつうの電話ではない。毎日、毎晩、しかもそれぞれの電話
が、ネチネチと一時間以上も続いた。この電話には、さすがに私の女房もネをあげた。電話の
ベルの音がするたびに、女房はワナワナと体を震わせた。

 あなたが園や学校の先生に、あれこれ苦情を言いたい気持ちはよくわかる。不平や不満も
あるだろう。しかし新築の家のキズはキズとして、あきらめることはサッとあきらめる。忘れるこ
とはサッと忘れる。子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、神経質な過関心は、思
い出を見苦しくする。あなた自身や子どもの健康にも、よくない。

よけいなことかもしれないが、子どもはキズだらけになってはじめて、たくましくなる。キズつくこ
とを恐れてはいけない。私のパソコンも、今ではキズだらけ。最初のころは毎日、そのつどカバ
ーをかけてしまっていたが、今では机の上に出しっぱなし。しかし使い勝手はぐんとよくなった。
子育ても、それと同じ。今、つくづくとそう思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●死者のあいさつ
(A dead woman came to meet me last night to say hello. I never believe in spirits but it 
made my heart warm. The woman used to be my girl friend when I was a university student. 
Whether you believe it or not, it was just a dream, but a dream which is very romantic, as 
my wife said.)
 
++++++++++++++++++

霊の存在を信じているわけではない。
それに夢は夢。
しかしそんな夢に、ときとして、ある種の現実味を覚えてしまう。
ありえないことだが、ありえることとして、
自分を納得させてしまう。

もともとどうでもよいこと。
私がそれで影響を受けるわけでもない。
それはちょうど、霊の映画を見るようなもの。
あえて言えば、ブルース・ウイリスが主演した
『シクス・センス』のようなもの。

そのときそれなりに楽しめれば、それでよい。

昨日見た夢は、そんな感じの夢だった。

++++++++++++++++++

昨日、目を覚ます前、こんな夢を見た。

私はそのとき、G県の実家にいた。
まわりには、数人の人がいた。
雑然とした雰囲気だった。

いつもなら主演は、私のワイフということになるのだが、
ワイフは、少し離れたところで、炊事をしていた。

と、そのとき、学生時代の恋人がやってきた。
学生のとき、数か月間ほど、交際した女性である。
背が高く、丸顔の、美しい人だった。

ふだんは、夢の中には、ぜったいに、出てこない人である。
「そこにいる?」とは感ずるのだが、追いかけると、
そのままどこかへ消えてしまう。
夢の中では、いつも、そうだった。

若いときは、とくにそうだった。

その女性が、夢の中に出てきた。
それ自体が、私にとっては、ありえないことだった。
おだやかで、やさしい顔をしていた。
ただ顔は、やはり、60歳前後の表情だった。
シワもあり、それなりにオバチャン風の顔立ちになっていた。
が、若いころの面影がしっかりと残っていた。
私はすぐ、その女性とわかった。

その女性がこう言った。
言ったというより、雰囲気でわかった。
「死にましたから、あいさつに来ました」と。

私はだまって、その女性を見つめた。
見つめながら、「これからどこへ?」と声をかけると、
その女性は、にっこりと笑って、「Gまで……」と
答えた。

「G」というのは、その女性が結婚して嫁いで
いった町である。

「駅まで、送っていこうか?」と声をかけると、
その女性は、うれしそうに、またにっこりと笑った。

私はその女性の1、2歩あとを歩いた。
背中がよく見えた。
美しい髪の毛は、そのままだった。

古い町並みで、通りにはだれもいなかった。
白い光が、あたりを包んでいた。
私はだまって、歩いた。
彼女も、何も言わなかった。
と、そのとき、彼女が、そっと、私の腕に、自分の
腕を通してきた。

とたん、あのころの甘ずっぱい思いが、心の中に
充満した。

「学生のときみたい……」と思った。
思ったが、お互いに、やはり何も言わなかった。

で、夢は、そのあたりから、ぼんやりとしてきた。
夢といっても、不思議なほど現実味のある夢だった。
不思議な夢だった。

あとでワイフに、つまり朝食のときに、それをワイフに
話すと、ワイフは、こう言った。

「本当に亡くなったのかどうか、調べてみたら?
あなたには、不思議な霊感があるから」と。

私「ハハハ、夢だよ、夢。それにその人が今、どこに
住んでいるか、知らない」
ワ「それにしても、ロマンチックな夢ね。昔の恋人が
あいさつに来るなんて……」
私「うん……。ぼくもそう思う」と。

本来なら、さみしいはずなのに、そのさみしさがなかった。
むしろ、ほのかな温もりだけが、心の中に残った。

が、どうであるにせよ、つまり本当に亡くなったにせよ、
ただの夢であるにせよ、私は、二度と、その女性に
会うことはない。

心の隅に、「会ってみたい」という気持ちもないわけではないが、
会ったところで、話すこともないだろう。
それにワイフも、いやな思いをする。

だから、あの女性は、昨日、本当に亡くなった。
亡くなって、この世界からも、そして私の心の中からも消えた。

今は、そう信じている。

さようなら、Tさん!
私はまだまだ現役のまま、がんばりますよ!
死ぬのは、ずっと先の話です!


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●死に神?

++++++++++++++++++++

今月(=08年6月)17日に宮崎勤死刑囚(45)ら3人の死刑執行を指示した鳩山邦夫法相
を、朝日新聞が18日付夕刊で「死に神」と報道した。

それについて、鳩山法相は20日の閣議後会見で、「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によっ
て執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対す
る侮辱だと思う」と強く抗議した(以上、産経新聞より、抜粋)。

当然である!
つまり朝日新聞社の記事は、常識を逸脱している。

いくら死刑に反対であっても、それが現に、法で認められている以上、天下の公器が使ってよ
い言葉と、そうでない言葉がある。しかも相手は、日本の法務大臣。

それにしても、「死に神」とは!

+++++++++++++++++++++

●ヒルさん、さあ、あなたのショータイム!(Meaningless Show Time!)

*It's a Show Time, Mr. C. Hill!
But we are not cheated by you.
Why do you haste to blow up such an old junk yard in Yon-Byong in North Korea?
Is it only for your own fame? Or is it to hide your failures in the past?
You may think we, the Japanese, are stupid enough but as a matter of fact, we are not.
Mr. C. Hill, wake up your mind and know the fact there lying before you. 
Kim Il Jong is not such and such person as you may think.
Please don't forget that Kim Il Jong may have killed over 200 thousands political prisoners 
inside the country.
You are the one who has been assisting the tyrant.
You will know in the near future that you have wasted time and money as Soviet did, China 
did and Japan did in the past.

We in no way can accept such a procedure as you intend, leaving nuclear weapons as they 
are, which is surely a critical problem for us, the Japanese. 
We in no way can give North Korea a bit of money as long as they have nuclear weapons, 
with which they will threaten us for more money.

Or, you will know, you will lose the best partner in Far East.
 I have been a pro-USA for long time but not now anymore like more and more other 
Japanese.
You are being destructing the relationship between USA and Japan very rapidly
Mr. G. Bush and C. Rice also should know this fact.

Hiroshi Hayashi, an ordinary Japanese, Japan

●核兵器は後まわし?

韓国の聯合ニュースは6月20日(08)、外交筋の話として、北朝鮮が26日ごろに核計画の申
告書を6カ国協議の議長国・中国に提出する見通しだと報じた。

申告書提出に合わせ、米国が北朝鮮のテロ支援国指定を解除する手続きに着手するとの日
程で米朝両国が一致したという。

聯合によると、北朝鮮が申告書を26日に提出すれば、数日間の検討期間を経て7月第1週に
6カ国協議を再開。これに先立ち北朝鮮は申告書提出後の27、28日ごろに原子炉の冷却塔
を爆破することを計画しているとされる(以上、時事通信より抜粋)。

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●爆破ショーにだまされるな!

もともと老朽化して使い物にならない核施設を、爆破してどうする?
どうなる?

それはただのショーにすぎない。

そういうショーを演ずるということ自体、子どもじみていて、話にならない。
バカげている。

既存の核兵器については、後まわしだと!
日本にとっては、とんでもない話。

既存の核兵器を不問にしたまま、北朝鮮への援助会議(=6か国協議)だけが先行したら、
この日本は、どうなる?
この先、核兵器の存在にビクビクしながら、日本は、北朝鮮の言いなり!

さらにヒル氏にしても、今まで拉致問題について、さんざん日本を裏切って
おきながら、この場に及んで、何が拉致問題だ。

ヒル氏は、この日本を、北朝鮮への(金づる)くらいにしか、思っていない。
安倍元総理大臣が、異議を唱えて、当然である。 

日本のみなさん、意味のない爆破ショーにだまされるな!
そんなショーを見せつけられて、6か国協議が前進していると、思うな!

なおこの文章は、英文にして、アメリカ国防省のBLOGのコメントに張りつけてやる。
私は、だまっていないぞ!

抗議の送付先:acsok@gol.com


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2701)

●今夜・あれこれ(6月21日、2008)

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●コンビニ・ブック

コンビニで、「日本史・意外すぎる、
この結末!」(河出書房新社刊)という
本を買った。

定価は税込みで、500円。
最近、この類の本を、よく買う。

「超怪奇UFO現象」
「超古代オーパーツ」
「超古代文明」
「日本史おもしろBOOK」などなど。
どれも、すべてコンビニで買ったもの。
テレビ台の横に並んでいる。

「コンビニの本だから……」
「安い本だから……」という偏見は
もってはいけない。

どれもよく書けている。
おもしろい。
ためになる。
読んでいて、脳みそがバチバチと
ショートするのが、何よりも楽しい。

パラパラとめくって読んでみる。

たとえば、

(1)あの『忠臣蔵』で、実際、討ち入りに
参加したのは、たったの6人?

47人ではなく、6人!

家老の大石内蔵助良雄、足軽頭の吉田忠左衛門、
原惣右衛門らの6人!

浅野家の上級武士は58人もいたという。
「つまり身分の高い武士、58人中、52人は
討ち入りに参加しなかったのである」(同書)と。

フ〜〜ン!

(2)ねずみ小僧が、義賊というのはウソ?

そのねずみ小僧次郎吉は、1832年(天保3)に
御用となっている。
が、そのときの取り調べで、「盗んだ金は、みんな、
バクチですったと証言している」(同書)と。

また「悪徳商人から金を盗んだ」というのも
事実ではないらしい。
「ねずみ小僧がおもなターゲットとしていたのは、
商家ではなく、武家屋敷」(同書)だった、とも。

「……といっても、侍を憎んでいたわけではなく、
当時は商家よりも武家屋敷のほうが警備が緩く、
楽に仕事ができたからだ」(同書)という。

フ〜〜ン。

(3)最後の将軍、徳川慶喜(よしのぶ)は、道楽三昧(ざんまい)?

「大政奉還し、最後の将軍となった徳川慶喜は、
その後、明治時代を生き抜いたばかりか、大正時代
まで長生きした」(同書)とある。

33歳で隠居生活に入ってからは、道楽三昧。
その中でもとくに、のめりこんだのが、カメラとのこと。

「33歳の若さで隠居したこともあって、夜の
生活もがんばり、ふたりの側室とのあいだに、
10男11女、合わせて21人もの子どもをもうけた」
とある。

フ〜〜ン。

「逆賊の汚名を着せられた彰義隊や、会津の白虎隊が、
最後まで悲しい抵抗を試みたのに、その象徴である天下の
将軍は、ずいぶんとお気楽な人だったようだ」(同書)とも。

●歴史は、おもしろい

歴史は、おもしろい。

ほかに、「北斎は、生涯、93回も引越しをした」
「禅僧の良寛は、もの忘れがひどかった」
「40歳になったら、接しても(=セックスをしても)、
漏らしてはいけない(=射精してはいけない)」と説いた、
貝原益軒は、実は39歳のとき、17歳の女性と結婚
したとか、など。

この本に書いてあることがすべて事実であるとは、
かぎらないが(失礼!)、しかし半分事実であると
しても、おもしろい。

ほかにもいろいろなことが書いてある。
私は、そのつど、フ〜〜ン、フ〜〜ン、と読んだ。

言いかえると、私たちがもっている「歴史の常識」
ほど、あてにならないものはないということか。
「作られる」とまでは言わないが、部分だけが
ひとり歩きして、それが「全体の事実」となってしまう。
改めて、それを知った。

ついでに本書の帯に書いてあることを、そのまま
紹介させてもらう。

(1)大親分「清水次郎長」は維新後、英語のセンセイになっていた。
(2)「小野妹子」は隋からの帰国後、じつは罪人扱いされていた。
(3)天才発明家「平賀源内」は、晩年に人を斬って、獄中死していた。
(4)「大隈重信」はテロで切断された足を、自宅でアルコール保存していた。
(5)「生類憐れみの令」を出した5代将軍「徳川綱吉」は、妻に殺されていた。

フ〜〜ン、フ〜〜ン、フ〜〜ン、ハハハ。

興味ある人は、ぜひ、この本を読んでみたらよい。

(補記)

全体を読んでみて……。

昔……といっても、私の子ども時代は、まだその延長線上にあったのだが、
昔の(男たち)は、それなりの人物になると、みな、愛人をもった。
昔は、「もった」というより、「囲(かこ)った」という言葉を使った。
私の耳にも、そういう言葉が残っている。
まだ40年前には、幼稚園の児童の中にも、そういう愛人の子どもというのが、
何%かはいた。
で、ここに書いた、貝原益権にも愛人がいたし、本居宣長にも愛人がいた。

本居宣長のばあい、妻の「たみ」のほか、「お染」(手伝い)、「お時」(側室)、
「お芳」(秘書)などがいたという。

最高は、何といっても、徳川慶喜。
幕末といっても、それでも、大奥には、上は「御台所(みだいどころ)」
から、下は女中まで、約400人もの女性がいたという。
その女中も、上は「上臈」から下は「御小姓」まで、20の身分に区分されて
いたという。

フ〜〜ン。

となると、権力者とは何か、知識人とは何か、正義の使者とは何か、
そこまで考えてしまう。

(愛人をもつこと)イコール、(悪)というわけではない。
もちろん(愛人)イコール、(悪)というわけでもない。
ときとして(心)は、その人を超えたところで、その人を支配する。
ときとして(本能)は、その人を超えたところで、その人を支配する。
妻がいても、あるいは夫がいても、別の人を愛してしまうということは、
(それが本物の愛であればという条件つきだが……)、人間である以上、
しかたのないこと。

もしそれがまちがっていると言うのなら、人間であること自体が、
まちがっているということになってしまう。

その上で、男のほうにそれだけの責任能力があれば、愛人が「愛人」として、
それなりの立場を確保したとしても、おかしくない。

当時は、女性のほうも、そういう(社会)を認めていた。

が、もちろんこうした(常識)は、現代には、通用しない。
夫婦というのは、ほかの人間関係とはちがった、強い絆(きずな)で
結ばれている。
それがこれまたほかの人間関係とはちがった、信頼関係を築きあげる。

もしそうでないというのなら、すでにその夫婦は、夫婦としての
機能を失いつつあると考えてよい。
実際、そういう夫婦も少なくない。
が、そこで「即、離婚!」というわけでもない。

非公式の統計によれば、現実に30〜50%の夫婦は、1度以上の
浮気を経験しているという。
実際には、もっと多いかもしれない。

「性(セックス)」というのが、享楽のための手段としてひとり歩き
しはじめたこともある。

私の知人(女性、40歳くらい)は、毎月、2〜4度、別の男性(70歳
くらい)と、浮気を重ねている。
「援助交際」というよりは、「契約不倫」のようなものらしい。
この世界には、常識はない。
要は、それぞれの人たちが、それぞれの形で、納得すれば、それでよい。
(もちろん、相手が18歳未満の未成年は、論外だが……。)

私とて、ふつうの「男」だから、それなりの性欲もあり、それなりの
欲望もある。
しかしその女性と対峙したとたん、(責任)を感じてしまい、それ以上の
関係になることは、ない。
「結婚は、一度で、たくさん」
「子育ても、一度で、たくさん」
「人生も、一度で、たくさん」と。

ついでに「妻も、1人で、たくさん」と。

さらに言えば、私自身は、(愛人をもっている男)は、信用しない。
妻ですら裏切っているような男である。
そういう人間が、私のような人間を裏切るのは、朝飯前(?)。
そう考える。

ということで、当然のことながら、私は一夫一妻制を支持する。
(心)の問題がからむなら、一度、しっかりと(?)、離婚し、
けじめをつけてから、再婚という形にもちこめばよい。

……それにしても、昔の人たちは、(女性)というのを、どう
考えていたのだろう。
一方、そういう社会を、女性たちは、どう考えていたのだろう。

私などは、若いころから、女性にもてなかったこともあるから、
愛人を何人ももっていた人の話を知ると、あまりおもしろくない。

つまりその分だけ、妻をもてなかった男もいたはず。
今から100年前に生まれていたら、私もそうなっていたかもしれない。

……ところで、そういう社会に、敢然と戦いをいどんでいった女性もいた。

「藤原てい」という人物も、そのひとり。
戦後の女性人権問題で、先頭に立って戦った人物である。

その藤原ていの息子氏が、『国家の品格』を書いた、藤原M氏。
恩師、田丸謙二先生の嫁婿氏である。
どうでもよいことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ブルーツース(BLUETOOTH)

今日の午後、私の携帯電話に、ブルーツースのキーボードを
取りつけようとした。
携帯電話は、イーモバイル社製の「S11HT」。
知る人ぞ知る、最先端を行く、モバイル端末機である。

携帯電話というよりは、超小型パソコン。
もちろんブルーツース機能つき。
が、キーボードが小さすぎて、つかい勝手が悪い。
そこで、外付けのキーボードを取りつけることにした。

が、悪戦苦闘すること、2時間〜。
イーモバイル社の相談窓口の人とあれこれやってみたが、
結論は、「(キーボードの)メーカーに問い合わせてくれ」。
どうやら無駄な買い物をしたみたい。

あさっての月曜日に、メーカーに問い合わせてみて、
それでダメなら、あきらめる。
しかし頭の運動にはなった。
プラス、疲れた。

夕食を食べるとき、「今日の講演よりも、ずっと疲れた」と
ワイフに言うと、ワイフは、ケラケラと笑った。

ブルーツースというのは、「無線通信技術」のひとつ。
対応機種であれば、無線で、パソコンと、それぞれの機種を
つなぐことができる。

しかし「ブルーツース(青い歯)」というのは、
おもしろいネーミングだ。
どうして「ブルーツース」なのか?
正しくは「ブルーツゥス」なのだが……。

一度、調べてみよう。


●サル

今朝は。屋根の上を飛び回るサルの足音で目が覚めた。
最初に目を覚ましたのは、ワイフ。
つづいて、私。

ドスン、ドスン、と。

ワイフはすぐ外へ出ていった。
あとで、「これくらいの大きさだった」と、両手で、50センチくらいの
幅をとって見せてくれた。

「ニホンザルだね」と、私。

で、そのあと私も外に出てみた。
山荘のまわりを歩いてみた。
屋根の上には、何もいなかった。

が、屋根から下へ水を落とす、樋(とい)が2か所、壊れているのがわかった。
サルは樋をつたって、屋根の上に登ったらしい。

ほかに……。

ビワは全滅。
サクランボも全滅。
桃と柿はこれからだが、それも時間の問題。

こうした山の中で、果物の木を育てること自体、バカげている。
サルか野鳥のエサになるだけ。
イノシシもいる。

畑も、ごくかぎられた、たとえば、ニンニクのようなものしか、
栽培できない。

「向こうの山の尾根には、サルが出る」という話は、村の
人たちから聞いて知っていた。
しかし手前の、私の山荘のある尾根にまで出るとは、思わなかった。

ワイフはこう言った。

「第二東名の開発が進んでいるから……」と。

このあたりも、サルにとっては、住みにくい山になってきたようだ。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親の参観

++++++++++++++++

私の教室は、すべて公開している。
そうすることによって、教室の
運営を透明化している。

だからほとんどどの教室にも、それを
参観する親たちがいる。

が、問題がないわけではない。

たとえば親が参観しているときと、
そうでないとき、まったく様子が
変化する子どもがいる。

「まるで別人?」と思うこともある。

よくある例は、親が参観していると、
おとなしく、ハキそのものがなくなって
しまう子ども。

表情も暗い。
チラチラと親のほうを見る視線も気になる。

あるいは、反対に、親が参観していると、
ちょっとしたことで、ぐずったり、いじけたりする。
突然、泣き出す子どももいる。

親への依存性が、露骨に表に出てくる。

こういうケースのばあい、親の参観を
遠慮してもらうようにしている。
が、そのタイミングと言い方がむずかしい。

親は親で、親が見る子どもの姿が、(すべて)と
思いこんでいる。

こんな例もある。

+++++++++++++++

●母因性萎縮児

 小児科医院で受け付けをしている、知人の女性から、こんな話を聞いた。

 何でも、その子ども(現在は、中学男子)は、幼児のころから、ある病気で、その医院に通っ
ているという。そして、2週間ごとに、薬を受け取りにくるという。

 その子どもについて、その知人が、こんなことを話してくれた。

 「ひとりで病院へくるときは、結構、元気で、表情も、明るい。薬の数を確認したり、看護婦さ
んたちと、あいさつをしたりする。冗談を言って、笑いあうこともある。

 しかしときどき、母親がその子どもといっしょに、来ることがある。そのときの子どもは、まるで
別人のよう。

 玄関のドアを開けたときから、下を向いて、うなだれている。母親が何かを話しかけても、ほ
とんど返事をしない。

 そこで母親が、その子どもに向って、『ここに座っているのよ!』『診察券は、ちゃんと、出した
の!』『あの薬も、頼んでおいてね!』と。

 そのとたん、その子どもは、両手を前にさしだし、かがんだまま、うなだれてしまう。もちろん
だれとも、会話をしない。

 あるとき先生(医師)が、見るに見かねて、その母親に、『子どものやりたいように、させてあ
げなさい。そんなうるさいこと、言ってはだめです』と、諭(さと)したこともあるという。

 ああいう母親を見ていると、いったい、母親って何だろうと、そんなことまで考えてしまう」と。

 こういう子どもを、母因性萎縮児という。教育の世界では、よく見られるタイプの子どもであ
る。

 子どもだけのときは、結構、活発で、ジャキシャキと行動する。しかし母親がそばにいると、と
たんに、萎縮してしまう。母親の視線だけを気にする。何かあるたびに、母親のほうばかりを、
見る。あるいは反対に、うなだれてしまう。

 が、母親には、それがわからない。「どうして、うちの子は、ああなんでしょう。どうしたらいい
でしょう?」と相談してくる。

 私は、思わず、「あなたがいないほうがいいのです」と言いそうになる。しかし、それを言った
ら、お・し・ま・い。

 原因は、言わずと知れた、過干渉、過関心。そしてそれを支える、子どもへの不信感。わだ
かまり。愛情不足。

 いや、このタイプの母親ほど、「私は子どもを愛しています」と言う。しかし本当のところは、自
分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。子どもを自分の支配下において、自分の思
いどおりにしたいだけ。こういうのを、心理学の世界でも、「代償的過保護」という。

 今、この母因性萎縮児は、結構、多い。10〜15人に1人はいるのではないか。おかしなこと
だが、母親自身が、子どもの成長を、はばんでしまっている。そしてここにも書いたように、「う
ちの子は、ここが悪い。どうして……?」「うちの子は、あそこが悪い。どうして……?」と、いつ
も、悩んでいる。

 そうこの話も、あのイランの笑い話に似ている(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言った。「ドクター、私は腹を指で押さえると、腹
が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いったい、どこ
が悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えた。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れているだけ
ですよ」と。

 そう、子どもには、どこにも、問題はない。問題は、母親のほうにある。

 しかしこの問題は、私のほうから指摘するわけには、いかない。この文章を読んだ、あなた自
身が、自分で知るしかない。
(はやし浩司 母因性萎縮児 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育
 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 萎縮する
子ども 待合室 病院の待合室 薬の数 母原性)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2702)

●問題のない家族(Each Home has got each own problems)

 例外なく、問題の家族は、いない。金持ちも、貧乏人もない。地位や肩書きの、あるなしも、
関係ない。どんな家族も、それこそすべて、何らかの問題をかかえている。それも、それぞれ
の家族にとっては、深刻な問題ばかり。

 一見、他人の家族には問題がないように見える。しかしそれは、そう見えるだけ。だれも、自
分の家族の問題を話さない。話す必要もない。意図的に隠すことも多い。だから、外からはわ
からない。見えない。

 ほとんどの人は、自分の家族の中で問題が起きたりすると、「どうして私だけが……」と思う。
自分の運命や境遇を、のろったり、うらんだりする。

 ある母親の子どもは、20歳を過ぎてから、うつ病を発症し、そのまま家の中に引きこもってし
まった。
 
 その子どものことで、病院へ行き、その待合室で待っていたとき、その母親は、こう思ったと
いう。「どうして、うちの子だけが……」と。

 そう思うのは、ごく自然なこと。そこでそういうときは、まず、二つのことを頭に置く。

 一つは、問題があるという前提で、生きるということ。生きることには、問題はつきもの。もし
今、あなたが「うちには問題がない」とい思っているなら、それこそつかの間の休息。ゆっくり
と、それを楽しめばよい。

 もう一つは、仮にその問題で悩んでいるとしても、それが最悪ではないということ。さらにその
下には、二番底、三番底がある。そしてあなたが上から落ちてくるのを、「おいで、おいで」と言
いながら、待っている。

 そういう意味で、人生というのは、薄い氷の上を、恐る恐る、歩くのに似ている。ちょっと油断
すると、すぐ氷は割れて、私たちはその下へと落ちていく……。

 子どもの問題とて、例外ではない。子どものできがよければよいで、悪ければ悪いで、親は
そのつど、悩んだり、苦しんだりする。これは子育てのまつわる宿命のようなもの。子育てをす
る以上、親は、その宿命から逃れることはできない。

 では、どうするか?

【人生は、下から見る。子どもは、下から見る】

 「下を見ろ」というのではない。下から、見る。もっと言えば、「生きている」という原点に視点を
置いてみる。「ああ、生きているではないか」と。

 その視点から見ると、ほとんどの問題は、そのまま解決する。

【すべてを、あきらめ、あとは許して、忘れる】

 「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、安穏たる日々はやってこない。子
どもも、伸びない。しかし反対に、「まあ、うちの子は、こんなもの」と思ったとたん、気が楽にな
る。子どもの表情も、明るくなる。

 そしてここが子どもの不思議なところだが、親が、そうあきらめたとたん、子どもというのは、
伸び始める。

【他人の子どもに、やさしく】

 自分の子どものことで悩むというのには、実は二面性がある。一つは、自分の子どもに問題
があることを悩む。それはそのとおり。

 が、もう一つの面がある。それは「問題のある子どもを認めない」という自分自身の中に潜
む、邪悪な一面である。

 わかりやすい例で考えてみよう。

 ことさら子どもの学歴にこだわる親がいる。だから子どもの成績(でき、ふでき)に、異常なま
でに神経質になる。

 では、なぜそうなるかといえば、そういう親にかぎって、日ごろから、他人を学歴で判断してい
ると思ってよい。あるいは学歴のない人を、下に見ていると思ってよい。

 人というのは、自分がもつコンプレックス(劣等感)を、裏がえす形で、それに気づかないま
ま、その問題に振りまわされやすい。私がここでいう、(もう一つの面)というのは、それをいう。

 だから、自分の子どものことで悩むのはしかたないとしても、本当にそれと戦うためには、もう
一つの面とも、戦わねばならない。「どうしてうちの子は勉強ができないのか」「こんなことでは、
いい中学へ入れなくなってしまう」と悩んだら、同時に、自分の中に潜む、邪悪な面とも戦う。

 が、これがむずかしい。自分の中に、そういう邪悪な一面があることに気づくだけもむずかし
い。

 で、どうするかといえば、日ごろから、他人や他人の子どもに、暖かくするということ。やさしく
するということ。問題のある人や子どもを理解し、そういった人たちを、自分の中に受け入れて
いくということ。

 その結果として、その邪悪な一面を、自分の中から消すことができる。そしてそれがあなたの
かかえる問題を、根本から、解決する。

【補足】

 ここに書いた話は、わかりにくい話なので、もう少し補足しておく。

 親がかかえる問題には、(表の問題)と、(裏の問題)がある。私は、このことを、ある老人の
話を聞いたときに知った。

 その老人(女性、82歳)は、そのとき体も弱くなり、介護なしでは、トイレにも行けないような
状態になっていた。

 そこでその娘が、その老人を、自分の家に引き取ろうとした。が、その老人は、がんとしてそ
れを拒否した。

 「私は、どんなことがあっても、この家を出ない!」と。

 みなは、住み慣れた家だから、その老人はそう言うのだと思っていた。私も、そう思ってい
た。が、その娘にあたる女性は、私にこう話してくれた。

 「母が、今の家を出たがらない本当の理由が、別にあるのです。実は、母は、若いときから、
その町から出て行く人を、心底、軽蔑し、いつもあざ笑っていました。それで自分が、今度は反
対に、そうなるのを、いやがっているのです」「本当のところは、だれも、笑ってはいないので
す。つまり母は、自分がつくった妄想に、とりつかれているだけです」と。

 こうした例は、子育ての場でも、よく経験する。それが先に書いた、学歴の話である。

 ある母親は、いつも他人を、その出身高校で判断していた。(このH市では、学歴で人を判断
する傾向が強い。)「あの人は、C高校なんですってね」「あの人は、A高校を出たのに、あの程
度の人なんですね」と。

 自分自身は、市内でもナンバー2と言われているB高校を卒業していた。

 で、自分の娘がいよいよ高校受験となったときのこと。が、娘には、その力がなかった。だか
ら毎晩のように、「勉強しなさい!」「ウルサイ!」の大乱闘を繰りかえしていた。

 子どものことで何か問題を感じたら、その問題もさることながら、私がここでいう(もう一つの
面)についても、考えてみるとよい。「なぜ、その問題で悩むのか」と。

 先にも書いたように、(もう一つの面)というのは、なかなか姿を現さない。しかし一度、その正
体を知れば、あとは時間が解決してくれる。

 そういう冷めた見方も、ときには、必要ということである。
(040602)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司※

●鋤(すき)と鍬(くわ)

中学2年のMさんが、こう聞いた。
「センセイ、『スキ』という漢字を書ける?」
「『クワ』という漢字を書ける?」と。

私は、「書けない」と答えた。
「読むことはできるけど、書けないよ」と。

するとMさんが、すかさず、こう言った。

「そんな漢字が書けないんじゃあ、ただのオジサン
だよ」と。

口の悪い子どもだが、憎めない。
サバサバしていて、イヤミがない。
サラサラと書けないようであれば、こういうばあい、
すなおに「書けない」と答えたほうがよい。

と、同時に、学生のとき、大学の教授がして
くれた話を思い出していた。

昔、憲法学の世界に、Mという教授がいた。
憲法学の第一人者である。
東大の教授だった。

その教授が、どこかの小学校で講演をしたらしい。
憲法の話をしたのだろう。
で、そのあと、1人の小学生が、その教授に、こう質問
したという。

「憲法は、いくつ(何条)あるのですか?」と。

Mという教授はその質問に答えられず、側近の
人に、六法全書をもってこさせて、その場で調べて
答えたという。

大学の教授は、「憲法学の第一人者でも、ときとして、
そういうこともある」と言った。

あのアイン・シュタインにも、似たようなエピソードがある。

……が、だからといって、私の漢字能力の不足を弁解する
つもりはない。

私「あのね、そんな漢字は、辞書を調べればすぐわかるよ」
M「じゃあ、センセイは、ただのオジサンだ」
私「あのね、センセイというのは、辞書の調べ方を教える
のが仕事なんだよ。漢字を教えるのは、仕事ではない」
M「そんなのおかしいわよ」
私「おかしくないよ」と。

多分、学校のテストか何かで、そんな問題が出たのだろう。
私はMさんの目を盗んで、電子辞書で漢字を調べた。
「鋤」と「鍬」という漢字であることがわかった。
が、すかさずMさんが、こう言った。

「センセイ、今、辞書で調べたでしょ?」と。

私「そうだよ。ぼくが思っていたとおりの漢字だった」
M「だったら、はじめっから、そう書けばいいのに……」
私「そうだね。ところで、鋤と鍬は、どこがどうちがうか
知っている?」
M「知らないわよ、そんなの……」
私「それはおかしいよ。ちがいもわからないで、漢字だけ
知っているなんて!」と。

鋤(すき)と鍬(くわ)は、形がちがう。
使う目的もちがう。
私も家庭菜園で、鋤と鍬の両方を使っている。
漢字はあいまいだが、使い方は知っている。

私は簡単な図を描いて、どこがどうちがうかを示してやった。

私「畑を自分でたがやしたことはあるの?」
M「ないわよ、そんなの!」
私「一度、たがやしてみるといいよ。楽しいよ」と。

そのあと、いつものような静けさが教室を包んだ。

鋤と鍬……。
鋤を「鋤」と書くのは、よくわかる。
「畑をたがやすの助ける、鉄」という意味らしい。
が、なぜ鍬を「鍬」と、書くのか?
きっと、秋に使うことが多いから、鍬と書くのではないか。
勝手にそう想像してみたが、それは言わなかった。
ひょっとしたら、当て字かもしれない。

私の住む世界には、こんな大鉄則がある。

「あやふやなことは教えない」。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●『奇跡のシンフォニー』

+++++++++++++++++

今日の午後、何もすることがなかったので、
ワイフと映画を見に行ってきた。

日曜日。
それに雨。

いつもとちがい、劇場は、『インディ・ジョーンズ』を
見る人たちで、ごったがえしていた。

で、私たちは、『奇跡のシンフォニー』を
見ることにした。

よかった!
泣いた!

部分的には、「?」と思うところもなかったわけでは
ない。

しかし星は5つの、★★★★★。

見終わってから、「もう一度、見たいね」と言うと、
ワイフもすなおに同意してくれた。

音楽がすばらしかった!

+++++++++++++++++

いろいろ言いたいことはある。
あるが、映画は、こうでなくては……
というような内容の映画だった。

ハッピーエンドで終わる映画は、よい。
見終わったあと、ほっとする。

娯楽映画としては、すばらしい。
あまりむずかしく考えない。
すなおに感動すれば、それでよい。

帰りに、ワイフとレストランで食事をした。
その料理を食べながら、ワイフがまた言った。

「いい映画だったわ」と。

主演のカーステン・シェリダンが、
どことなく孫の誠司に似ていたので、
ついつい必要以上に、感情移入してしまった。

これはジジバカのなせるワザか?


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●梅雨

++++++++++++++++

このところずっと、はっきりしない天気が
つづいている。
おかげで、運動不足。
体が、なまってしかたない。

「なまる」というのは、学生時代に覚えた
言葉。

「すっきりしない」という意味が含まれる。
「体がシャキシャキと動かない」という
意味も含まれる。

ついでに、頭の活動も鈍くなる。
(6月23日記、08)

++++++++++++++++

【一事が万事論】

+++++++++++++++++

人間の脳みそは、それほど器用には
できていない。

ある一面で、だらしない人は、
別の面でもだらしない。

子育てについても、また、同じ。
こんな調査結果が、公表された。
(毎日新聞、08年6月20日)

+++++++++++++++++

●ゴミ屋敷が、育児放棄に関連している!

+++++++++++以下、毎日新聞の記事より抜粋++++++++++++++

福岡県内の18歳未満の子供がいる家庭で、家の敷地内や室内にゴミをため込み生活に支障
をきたす「ゴミ屋敷」が、30世帯に上ることが西南学院大の安部計彦(かずひこ)准教授(児童
福祉)らの調査で分かった。

このうち6世帯で子供が学校に行っておらず、9世帯で予防接種などを受けさせていなかった。
安部准教授はゴミ屋敷がネグレクト(育児放棄)に密接に関連していると指摘している。【高橋
咲子】

 安部准教授のゼミが07年7〜8月、県内の全78市区町村の児童福祉担当者を対象に無記
名で実施したところ、35市区町村から実態を踏まえた回答があった。30世帯(15カ所)のう
ち、親が昼間不在▽ゴミを片付ける意思がない▽家庭への介入を拒否する−−の3項目に該
当する24世帯について分析した。

 ゴミ屋敷では、就労率が7割(17世帯)にもかかわらず、公共料金を滞納している家庭が8
割(19世帯)に上った。子供との関係では、25%(6世帯)が学校に行っておらず、3〜6年間
も登校していない子供が2人いた。

また、予防接種など保健上のケアを受けさせてない9世帯のうち、公共料金滞納が8世帯に上
るなど、さまざまな形で世間とのかかわりを避ける傾向が浮かび上がった。

 親が社会ルールを無視することが、子供の成育にも影響を与えている。ゴミ屋敷があると回
答した15カ所中、衣服や体が不潔だったり、基本的な生活習慣の遅れがある事例がそれぞ
れ9カ所であり、低体重・低身長の事例も2カ所であった。

(中略)

 福岡県久留米市では07年度の虐待相談が120件あり、うちネグレクトに関する相談が半数
近くの50件。同市家庭子ども相談課の浦部伸子技術主査は「身体的・性的虐待などと異な
り、ネグレクトの親は程度の差こそあれ、『ゴミ屋敷』状態に陥っていることが多い」と指摘す
る。

 こうした家庭の多くは、予防接種や、4カ月から3歳まで4回ある定期健診も子供に受けさせ
ていないという。理由を尋ねると、母親の多くは「バスを使ってまで、なかなか行けない」「他の
兄弟を連れてはいけない」と釈明するという。

 浦部さんは「子供が食事を十分にとっていなかったり、言葉の遅れがある場合が多い。民生
委員や児童委員、学校とともに、『ゴミ屋敷=ネグレクト』という共通認識をもって対応にあたる
ようにしている」と話している。

+++++++++++++++以上、毎日新聞より抜粋+++++++++++++


西南学院大の安部計彦(かずひこ)准教授(児童福祉)らの調査によれば、「(30世帯のう
ち)、6世帯で子供が学校に行っておらず、9世帯で予防接種などを受けさせていなかった」と
いう。

それぞれの家庭にはそれぞれの事情というものがあり、「だからゴミ屋敷は悪」と決めてかかっ
てはいけない。
それはそれとして、この記事を読んで、私は私の書いた原稿の、『一事は万事論』を、思い出し
た。

+++++++++++++++

【一事は万事】

●子どもの指導

 子どもを指導するときは、当然のことながら、子どもの心理を知らなければならない。そこで
家庭でも応用できる心理操作法をいくつか、思いつくまま、あげてみる。

●服従心理

 子どもには、元来、服従心理がある。「だれかに従って、その命令どおり動いてみたい」という
心理である。

 が、これには、コツがある。

 相手を服従させるためには、「納得」が必要である。

 たとえば学校の先生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言ったとする。
そのとき、その子どもは、その場の雰囲気を感じながら、「はい」と言って、それに従う。

 しかし見知らぬ大学生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言っても、そ
の子どもは、それには従わない。

 そこで子どもに何かをさせるときは、それなりのお膳立てをしなければならない。そのお膳立
てが、そのときの雰囲気ということになる。

 子どもを納得させるものとして、ここでいう(1)雰囲のほか、(2)権威づけ(先生の命令なら聞
くが、そうでない人の命令には、従わない)、(3)理由づけ(合理的な理由や、自分にとって必
要なことなら従う)、(4)同調性(その人の意見に、同調するときは従う)などがある。子どもの
側からみて、納得できる状態ということになる。

 こうしたお膳立てをうまくしながら、子どもを指導する。

 しかし、すでに親の言うことを聞かないというのであれば、親自身がもつ権威は、すでに失墜
しているとみる。(権威で子どもをしばるのは、もちろんよくないが……。)

 まずい例としては、(1)親が寝そべってテレビを見ながら、「夕刊を取ってきて!」と言う。(2)
夫婦げんかばかりしている親が、子どもに向かって、「友だちと仲よくしなさい」と言う。(3)交通
ルールなど、自分では社会的ルールを平気で破っておきながら、子どもに向かっては、「約束
を守りなさい」などと言うなど。

 親の身勝手は、親の権威を破壊する。

 ただしこうした服従心理は、年齢によって、かなり異なるし、個人差もある。ふつう自我の発
達とともに、自己意識が育ってくる。そうなると、子どもは、自分自身の中の服従心理と戦うよう
になる。服従的な態度がよいというわけではない。あくまでも、子どもを見ながら、判断する。

●動機づけ

 子どもの指導は、動機づけのよしあしで、そのあとのほとんどが決まると言ってもよい。動機
づけがうまくいくと、そのあとの、学習などが、うまくいく。しかし失敗すると、親も子どもも、その
何倍もの苦労をすることになる。

 とくに乳幼児期の動機づけは、慎重にする。この時期、一度動機づけで失敗すると、(逃げ
る)→(やらない)→(ますます嫌いになる)の悪循環を繰りかえすようになる。

 たとえば本読み。

 まず、親が何度も子どもをひざに抱き、子どもに本を読んで聞かせる。そういう(温もり)が、
子どもを、本好きにする。「本は楽しい」「本はおもしろい」という思いが、子どもを前向きに引っ
張っていく。

 まずいのは、いきなり本を与えて、「読みなさい!」と命令するような行為。「まだ読めない
の!」「ここまで読まなければ、夕食はなし!」などという、無理、強制、条件。一時的な効果は
あっても、あくまでも一時的。

 ついでに、読書はあらゆる学習の基礎となる。「本が嫌い」というのは、あらゆる分野に悪い
影響を与える。たとえば理科、社会という科目にしても、小中学生のころは、理科的なことが書
いてある国語、社会科的なことが書いてある国語と理解すると、わかりやすい。

 乳幼児期は、本読みの動機づけを、とくに大切にする。

●手本

 自分では本を読んだこともない親が、子どもに向かって、「本を読みなさい」は、ない。こうした
身勝手は、子育てにはつきもの。

 たとえば何か大きな事件が、近くで起きたとする。どこかの子ども自身が、事件を起こすこと
もある。そういうとき、たいていの親は、「うちの子はだいじょうぶかしら?」と心配する。事件に
もいろいろあるが、この日本では、基本的にはルールさえしっかりと守っていれば、事件に巻き
こまれることは、まず、ない。

 そのルールだが、親が、子どもの目の前で、破るだけ破っておいて、子どもには、「守りなさ
い」は、ない。

 こんな例がある。

 ある中学生が、友だちから、CDを借りた。が、しばらく、それを返さなかった。で、それを学校
の先生から連絡を受けた父親は、その中学生を、スリッパの裏で、はり倒した。

 その中学生の顔には、ちょうどスリッパの形のアザができた。

 それを見て、私がその父親に、「何もそこまでしなくても……!」と言うと、その父親は、こう言
った。「オレは、まちがったことが大嫌いだ。人からものを借りて返さないなどということは、許さ
ない。そういうまちがった根性は、今のうちにたたきのめしてやる!」と。

 では、その父親が、そこまで自分にきびしい人だったかというと、それは疑わしい。国産車だ
が、最高級の車に乗っていた。しかしタバコの灰や、吸殻は、すべて窓の外に捨てていた。本
業は、土建業だが、業者の中では、「スルイ男」と呼ばれていた。「小ずるい男」という意味で、
そう呼ばれていた。

 最近、私は、ときどき、こんなふうに思う。

 よく赤信号になってから、交差点を猛スピードで走りぬけていく車がある。その中には、ときど
き、母親が運転し、横に子どもを乗せているケースもある。そういうのを見ると、「いいのかな
あ?」と。

 親は、多分、「これくらいのことならいいだろう」と思って、そうしているのだろう。しかし一事は
万事。そういう母親というのは、生活のあらゆる面で、そういう小ズルイことをしているにちがい
ない。で、母親は、それでいいとしても、そういう母親の姿を、日常的に見て育った子どもは、ど
うなるのか? 実のところそれを考えると、ぞっとする。

 子どもに向かって、「宿題をしなさい」「勉強をしなさい」と言うくらいなら、まず、親がそれをし
てみせる。それは子育ての基本といってもよい。子どもに向かって、「人に迷惑をかけてはいけ
ない」「悪いことをしてはいけない」と言うくらいなら、まず、親が、ルールを守ってみる。

 ……と、きびしいことを書いてしまったが、よい手本を見せるのが、子育ての基本ということに
なる。

 ……ここまで書いたとき、もう一つ、こんな話を思い出した。

 学生時代、B君というオーストラリアの友人と、ドライブをしていたときのこと。乗っていた車
が、州境(ざかい)までやってきた。

 そのとき私は、パンか何かを食べていた。それをB君が見て、「ヒロシ、パンを捨てろ」と。

 当時、オーストラリアでは、州を越えるときは、すべての食べものを、そこで捨てることになっ
ていた。病害虫の移動を、させないためだった。そのための、巨大なゴミ箱が、そこに置いてあ
った。

 私は、「いいじゃないか、パンぐらい……」というようなことを言ったと思う。しかしB君は、一歩
もゆずらなかった。「南オーストラリア州で買った食べものは、ビクトリア州へは、持ちこめない
ことになっている。ここで捨てろ!」と。

 かなりの間、押し問答がつづいた。「捨てろ!」「いいじゃないか!」と。

 私は、B君の杓子定規(しゃくしじょうぎ)なものの考え方に、あきれた。州境といっても、大平
原のど真中。人が立って見ているわけではない。途中で、検査されるわけでもない。しかしB君
は、「捨てろ!」と。

 しかしそれから35年。今、B君は、私のもっとも信頼のおける友人になっている。と、同時
に、私は、B君に対しては、とくにきちんと、どんな約束でも、それを守るようにしている。人間
関係というのは、そういうもの。

 親子関係といっても、つきつめれば、そこは純然たる人間関係。長い時間をかけて、親子と
いうワクを超えた関係になる。そういうことも考えながら、今のあなたのあり方を、少しだけ反省
してみるとよい。10年や20年ではない。30年、40年先には、どうなるか、と。

 ついでながら、欧米では、子育ての基本は、「心を開いて、誠実に」(Open your heart and 
be honest.)だそうだ。何かのビデオ映画の中で、だれかがそう言っていた。子どもには、心を
開いて、誠実に接する。それがあなたの子どもを、よい子にする、と。

 何か大きな事件が起きるたびに、「心配だ」と思うなら、一度、あなた自身の子育てのあり方
を反省してみるとよい。ふつう「心配だ」と思うということは、すでに、あなたの子育ては、危険な
状態に入っているとみてよい。

+++++++++++++++++++

 同じく30年ほど前。結婚していたにもかかわらず、女遊びばかりしている男がいた。私を「友
だち」と呼んでいたが、そのあと、私は、何度も裏切られた。お金を貸したこともあるが、一円も
返してくれなかった。

 で、そういう男を信じた、私が愚かだった。妻でさえ裏切るような男である。私のような友人
(?)を裏切ることなど、何でもない。朝飯前。

 そんな男が、今から10年ほど前、また私に接近してきた。何かビジネスをいっしょにしよう。
ついては、私にも、出資をしないかというような話だった。しかし私には、なつかしさは、まったく
起きなかった。もちろんそのビジネスは、断わった。

 オーストラリア人のB君とくらべると、その男は、私にとっては、正反対の位置にいた。いくら
誠実そうなことを言っても、私は、まったく信用しなかった。もちろん、その男との関係は、その
ときだけ。それで、おしまい。以後、私のほうからは、その男とは、連絡をとっていない。

 親子関係も、同じように考えてよいのではないだろうか。

【追記】

 ウソはつかない。約束は守る。たったそれだけのこと。簡単なことである。そういう日々の積
み重ねが、月となり、年となり、やがてその人の人格になる。

●同調作用
  
 人間は、太古の昔、群れをなして共同生活をしていた? この傾向が、今でも、人間の中に
残っている。それが同調作用と呼ばれる現象である。

 たとえばAさんが、「あの店の料理はおいしい」と言ったとする。それに合わせて、Bさんも、
「そうよ」と言ったとする。するとその場にいたCさんまでもが、実際には、その店に行ったこと
がないにもかかわらず、「そうみたいねえ」と、相づちを打つ。

 こうした同調作用は、子どもの世界にもある。

 以前、ポケモンが全盛期のころ、子どもたちはみな、狂ったようにポケモンの歌を歌い、ポケ
モングッズを、ほしがった。私がピカチューの絵をまねて描いてみせただけで、教室全体が異
様な興奮状態になってしまったこともある。

 こうした同調作用は、まさに両刃の剣。うまく使えば、子どもを望ましい方向に導くことができ
る。そうでなければ、そうでない。

 そこで大切なのは、そのバランスということになる。同調作用が強過ぎてもいけないし、しかし
まったくないというのも、困る。

 そこで一つのポイントは、服従性。服従的な同調性が見られたら、家庭教育のあり方を、か
なり深刻に反省する。

 一般論から言えば、自我の発達の遅れた子どもほど、自尊心が弱く、自己主張も弱い。親の
過干渉で、内閉したり、萎縮した子どももそうである。このタイプの子どもは、いわゆる人の顔
色を見て行動するようになる。さらにひどくなると、だれかの指示や命令がないと、行動しなくな
る。

 が、そうでなければ、同調作用は同調作用として、適当に理解する。「みんなとうまくやろう
ね」程度のアドバイスは、悪くない。大切なことは、譲るべきところは、譲る。しかし重要なことに
ついては、その信念を貫くということ。

 そういうメリハリのきいた子どもにすることである。
 
【追記】

 その同調作用について、S県のSY子さん(母親)から、今朝(5・28)、こんな相談のメールを
もらった。

 「息子(5歳児)のことだが、私は私という子育てをしている。しかし隣人の女の子の家に行く
と、目移りがするほど、おもちゃがいっぱいある。

 そういうのを見て、うちの息子も、ほしいと言う。このままでは、仲間はずれにされてしまうか
もしれない。どの程度まで。親は許すべきか」と。

 こうした相談は、少なくない。「テレビゲームには、反対。しかしそのため、うちの子は、友だち
から、のけ者にされている」「うちの子どもだけ、テレビゲームをもっていない。そのため、いつ
も友だちの家に、入りびたりになっている」と。

 親として、どこまでほかの子どもたちに同調(迎合?)させたらよいかという問題である。

 しかしここで注意しなければならないことは、(同調)と、(迎合)は、もともと異質のものである
ということ。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 私はもともとかなりいいかげんな人間だから、適当にその場をごまかしながら生きるのが、う
まい。しかしだからとって、信念(あまりそういうものは、ないかもしれないが……)をまげてま
で、相手に合わせるようなことはしない。

 この(適当につきあう部分)が、同調ということになる。しかし(自分の信念までまげてつきあう
部分)が、迎合ということになる。

 子どもをみるばあいも、それが同調なのか、迎合なのかを見極める必要がある。

 みなが祭に行くから行く……というのは、同調である。しかしみなが、酒を飲むから、飲むとい
うのは、迎合である。「飲んではいけない」と思ったら、そこで自分にブレーキをかける。

 このブレーキをかける部分が、自己規範ということになる。この自己規範を育てるのが、家庭
教育ということになる。

 そこでテレビゲーム。

 以前、子どもにテレビゲームを与えるべきかどうかで、真剣に悩んでいた祖母がいた。さらに
どんなゲームソフトを与えるべきかでも、悩んでいた。「今のままでは、うちの孫は、のけ者にな
ってしまう」と。その祖母は、おかしいほど、真剣に心配していた。

 しかしこうした問題は、適当に考えればよい。「これが家庭教育」と、構えるような問題ではな
い。その時期がきて、予算に余裕があれば、買ってあげればよい。ムダと思うなら、買わなけ
ればよい。

 買ってあげたから、子どもの心がゆがむとかそういうことはない。買わなかったから、のけ者
にされて、心がゆがむとか、そういうこともない。絶対にない。

 大切なことは、その子どもが、(してはいけないことをしないかどうか)(すべきことはするかど
うか)である。

 えてして、多くの親たちは、表面的な、どうでもよい問題に振りまわされる。そして本来考える
べき、重要な問題を見落としてしまう。この子どももがもつ同調作用にも、似たような問題が含
まれる。

【追記2】

 日本人がもつ同調作用というのは、一種独特のものがある。「みんなと渡れば、こわくない」と
か、「長いものには、巻かれろ」とか言う。「出るクギは、たたかれる」というのもある。

 こうした同調作用は、若い母親には、とくに強い。子育てにまつわる不安や心配が、それに
拍車をかける。

 どうして、そうなのか?

 基本的には、それだけ自分がないということになる。ないから、周囲に振りまわされる。

 が、若い母親を責めても意味はない。ほとんどの親は、その準備もないまま、結婚し、親にな
る。あたふたとしているうちに、数年が過ぎ、子どもも、数歳になる。自分がないからといって、
それは仕方のないことかもしれない。

 実際、この日本では、「私は私」という生きザマを貫くのは、むずかしい。自由があるようで、
ない。その自由は、まさに(しくまれた自由)(尾崎豊)でしかない。

 「コースに乗っていれば安心」「コースからはずれたら、心配」と、だれしも考える。S県のSY
子さんの悩みも、そのあたりから生まれている。

 では、どうするか?

 子育てをしながら、大切なことは、自分自身の生きザマを確立すること。「自分はどうあるべ
きなのか」「どう生きたらよいのか」、それを模索すること。

 「テレビゲームを買ってあげるべきかどうか」と悩むことは、一見、子どもの問題に見えるかも
しれないが、実は、それはその親自身の生きザマの問題でもある。

 「テレビゲームは、子どもの脳に悪影響を与える」という情報を手に入れたら、買わないこと。
心を鬼にして、買わないこと。しかし「のけ者にされそうだ」と感じたら、買ってやること。しかし
そのときでも、テレビゲームをさせる時間と場所を、子どもとよく話しあうこと。……などなど。

 こうして親は、試行錯誤を繰りかえしながら、自分の生きザマを確立していく。つまりこういう
親の生きザマが、子どもの中に、「私は私」という自己意識を育てる。そしてそれが同調はして
も、迎合はしないという子どもを育てる。

 テレビゲームを買ってあげればよいかどうかというような、単純な問題では、決してない。

 これから先、子どもは、(どんな子どもでも)、無数の問題をかかえるようになる。問題のない
子どもなど、絶対にいない。問題のない子育てなど、絶対にない。

 問題があることが、問題ではない。大切なことは、問題があるという前提で、子育てをするこ
と。立ち向かうこと。そういう姿勢が、あなたを育て、同時に、あなたの子どもを育てる。

【追記3】

 ここまで書いて、先ほど、ワイフとこんなことを話しあった。

 近所に、定年退職をした老夫婦が住んでいる。近所づきあいは、まったくといってよいほど、
ない。訪問客も、年に数人あるかないかということだそうだ(隣人談)。

 その夫婦について、ワイフが、「あの人たちは、何のために生きているの?」と。

 実は、ここではその老夫婦のことを論ずるのが目的ではない。私やあなたの生活にしても、
その老夫婦とそれほど、ちがわないということ。基本的には、同じ。

 ただ生きる目的はある。子育て真っ最中のあなたなら、子育てをすることが、その目的という
ことになる。私は、ワイフにこう言った。

 「ぼくだって、家族がいると思うから、がんばる。もし家族がいなかったら、今ごろは、ホーム
レスになっているか、寝こんでいるかの、どちらかだ。

昨日も、歩くだけもでも、つらかった。体が重かった。しかし『ここで負けてはダメだ』 と歯をくい
しばって、自転車に乗った。運動に出かけた。家族がいるということは、そういうことだ。

 ただし、では家族がいて、子育てをすることが、生きる意義かというと、ぼくは、そうは思わな
い。目的と、意義は、ちがう。別のもの。

 あの老夫婦には、生きる目的は、もうない。問題は、生きる意義だが、それも、ないように思
う。ただ生きているだけというか、死に向って、まっしぐらに進んでいるだけ。そういう人生から
は、何も生まれない。

 同じように、ぼくたちも気をつけないと、あの老夫婦と同じことをしてしまう。目的と意義を混同
してはいけない」と。

 ……といっても、生きる意義を見出すことは、簡単なことではない。「私たちは何のために生
きているか?」という問題である。

 もちろん子育てをすることが、生きる意義ではない。子育てをすることは、目的にはなるが、
しかし意義ではない。また意義にしては、いけない。それはあなた自身のこととして考えてみれ
ば、わかるはず。

 あなたの親が、あなたに向って、こう言ったとしたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。

 「私は、あなたを育てるために、自分の人生のすべてを賭(か)けました。私の生きる意義
は、あなたを育てることでした」と。

 多分そのとき、あなたは、きっとこう答えるにちがいない。「私のことはいいから、お父さん、お
母さん、どうか、あなたの人生を生きてください」と。

 親は子そだてをしながら、その一方で、自分の生きる意義を模索する。それも子育てに隠さ
れた目的の一つかもしれない。
(040528)

++++++++++++++++

では、どうするか?

常日ごろから、そこにだれかがいるとか
いないとかに関係なく、(一事)を
大切にしていく。

それがその人の(万事)になる。

少し脱線しますが、同じく、以前
書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++

●日々の積み重ねが人格 
 人も50歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病がどっと表に出てくる。60歳を過ぎると、
その人の人格がどっと表に出てくる。

若いころは気力で、自分の人格をごまかすことができる。しかし歳をとると、その気力そのもの
が弱くなる。 
私の知人にこんな女性(80歳)がいる。その女性は近所では「仏様」と呼ばれていた。温厚な
顔立ちと、ていねいな人当たりで、そう呼ばれていた。が、このところ、どうも様子がおかしい。
近所を散歩しながら、他人の植木バチを勝手に持ちかえってくる。あるいは近所の人の悪口を
言いふらす。しかしその女性は昔から、そういう人だった。が、年齢とともに、そういう自分を隠
すできなくなった。  

で、その人格。むずかしいことではない。日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年と
なり、その人の人格となる。ウソをつかない。ルールを守る。ものを捨てない。そんな簡単なこ
とで、その人の人格は決まる。たとえば…。 
信号待ちで車が止まったときのこと。突然その車の右ドアがあいた。何ごとかと思って見ている
と、一人の男がごっそりとタバコの吸殻を道路へ捨てた。高級車だったが、顔を見ると、いかに
もそういうことをしそうな人だった。

また別の日。近くの書店へ入ろうとしたら、入り口をふさぐ形で、4WD車が駐車してあった。横
には駐車場があるにもかかわらず、だ。私はそういうことが平気でできる人が、どんな人か見
たくなった。見たくなってしばらく待っていると、それは女性だった。

しかしその女性も、いかにもそういうことをしそうな人だった。こういう人たちは、自分の身勝手
さと引き換えに、もっと大切なものをなくす。小さなわき道に入ることで、人生の真理から大きく
遠ざかる。 
 さてこの私のこと。私は若いころ、結構小ズルイ男だった。空き缶を道路に平気で捨てるよう
なタイプの男だった。どこかの塀の上に、捨てたこともある。そういう自分に気がつくのが遅か
った。だから今、歳をとるごとに、自分がこわくてならない。「今にボロが出る……」と。 
 ついでに……。こんな悲しい話もある。アルピニストの野口健氏がこう言った。

「登山家の中でも、アジア隊の評判は悪い。その中でも日本隊は最悪。ヒマラヤをゴミに山にし
ている。ヨーロッパの登山家は、タバコの吸殻さえもって帰るのに」(F誌〇〇年六月)と。

写真には酸素ボンベが写っていた。それには「二〇〇〇年H大学」とあった。 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●しつけは普遍

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。

しかもそれはその人が、幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころには、すで
にその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途中で変
わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴ
ミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果し
かない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりす
る。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。

してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときに
は、どこか心が不安定になる。不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教
えればよい。そしてそれを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは
普遍」という。
(はやし浩司 しつけ 人格 人格論 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼
児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist し
つけとは 子供のしつけ 子どものしつけ)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもの補償作用

 子どもは、(おとなもそうだが)、自分に何か欠点や、コンプレックスがあったりすると、それを
解消するために、さまざまな行動を、代償的にとることが知られている。その一つが、「補償」と
いう作用である。

 たとえば容姿があまりよくない女の子が、ピアノの練習に没頭したり、あまり目だたない男の
子が、暴力的な行動によって、目立ってみせるなど。

 運動が苦手な子どもが、勉強でがんばるのも、そのひとつ。あるいは内気な子どもが、兵隊
の服を着て、おもちゃの銃をもって遊ぶのも、その一つ。強くなったつもりで、自分の中の(弱
さ)を、補償しようとする。

 こうした補償作用は、意識的にすることもあるし、無意識的にすることもある(「心理学小事
典・岩波」)。

 つまり子どもは何らかの形で、他人の目の中で、自分を反映させようとする。自分の存在感
をつくり、最終的には、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

 が、こんなケースもある。こうした補償が、子どもの中でうまく作用する子どもは、まだ幸せな
ほう。が、その補償が、ことごとく、裏目に出る子どもだ。子どもの心を考える、一つのヒントに
は、なると思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 補償 補償作用 
補償心理)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2703)

●公務員の給料カット!

+++++++++++++++++

どこかの県で、その県の県知事が、
職員の給料をカットしようと考えた。
財政再建策の一環である。

会社で言えば、負債がふくらみ、
にっちもさっちもいかない状態らしい。

で、この案を提示すると、一般職員
のみならず、部長級の管理職クラスの
職員まで、猛反発!

まだ就任して間もない県知事に向かって、
「職務怠慢」「県の責任」と。
(以上、内容は、少し変えた。)

しかしこの話は、どう考えてもおかしい。

部長級の管理職クラスといえば、
一般の会社でいえば、役員クラスに相当する。
つまりその県の財政がにっちもさっちも
いかなくなったことについて、自分たちの
責任を棚上げにした上、「責任はオレたちには
ない!」「責任は、県知事にある!」と。

本来なら、部長級の管理職クラスが率先して、
自らの給料をカットするなど、部下に対して手本を
示さなくてはいけない。
県知事の意向をくんで、一般職員の説得に
努めなければならない。

それを知事に向かって、逆攻撃するとは!

……私には、こういう公務員感覚というのが、
どうしても理解できない。

バカげているというか、ズレているというか、
どうしても理解できない。

こういう人たちは、いったい、「公務」という
のを、どのように考えているのか。

恐ろしいほどの依存性。
恐ろしいほどの自己中心性。
こういう人たちが公務をしているということ
自体、恐ろしい。

自分たちの給料は、天から降ってくるものだと
思っているらしい?

いったい、この日本は、どうなってしまったのか。

なおこの話には、おまけがついている。

どこかのノーブレインの男が、その知事の
殺害予告をネットの掲示板に書き込んだ。
立派な脅迫行為である。

逮捕されて当然。

が、その男は取り調べ官に対して、
こう言っているという。
「○○(=県知事)は、独裁者だ」と。
(以上、内容は、少し変えた。)

この感覚も、おかしい。
ズレている。
だから、もう一度、繰りかえす。

いったい、この日本は、どうなってしまったのか。


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2704)

●人形子(にんぎょうし)

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A小学校のA先生と、電話で話す。
その中で、東京のA原で起きた、凶悪事件が、
話題になった。

あの事件を起こした男性は、中学生のころまで、
非のうちどころのない、優等生であったという。
成績は優秀で、まじめで、従順で……、と。

そんな男性が、トラックを借り、通行人の中に
突っ込んでいった!
何人かの人を殺した。

そんな話をしながら、私は「人形子」という言葉を使った。

++++++++++++++++++++

ペットというよりは、人形。
そんな子どもが、10人のうち、1〜2人はいる。
イプセンの『人形の家』にならって、私は「人形子
(にんぎょうし)」と呼ぶ。

できは、よい。
見た感じ、人格の完成度も高い。
ものわかりもよく、先生の指示に対しても、すなおに
従う。

やることに無駄がなく、ソツがない。
宿題もきちんとやってくる。
何か質問をしても、いつも模範解答が返ってくる。

先生「拾ったお金は、どうしますか?」
子 「交番へ届けます」
先生「自分で使ってしまう人もいますが・・・」
子 「そんなことをすれば、落とした人が困ります」と。

学習面でもすぐれている。
「あなたは家から帰ったら、何をしているの?」と
聞くと、「お母さんが買ってくれた、本を読んでいます」
などと答える。

そんなわけで、幼稚園でも学校でも、「いい子」という
評価を受ける。(・・・受けやすい。)

冒頭で、「10人のうち、1〜2人はいる」と書いたが、
もちろん程度の差もある。
もし基準をさげたら、10人のうち、2〜3人に
なるかもしれない。

が、反対に、「これではいけない」と思う子どもも、いる。
そういう子どもが、20人に1人とか、30人に
1人とかいる。

というのも、人形子になるには、ひとつの条件がある。
子ども自身、ある程度、できがよくなければならない。
できがよいから、親が、子どもの教育にますます
のめりこむ。

つまり子どもは、親の期待にこたえようと、ますます人形子に
なっていく。
「いい子」を演ずることによって、自分の立場を確保しよう
とする。
わかりやすく言うと、仮面をかぶる。
が、そのうち、その仮面をはずせなくなってしまう。
幼稚園や学校に教師に対しても、そうである。

こうして幼稚園の年長期を迎えるころには、独特の
雰囲気をもった子どもになる。

一口で言えば、子どもらしさそのものが、ない。
子どもっぽさを、感じない。
子どものはずなのに、妙に、おとなびている。
が、親は、そういう自分の子どもを見ながら、むしろ
できのよい子どもと思ってしまう。
反対に、そうでない子どもを、できの悪い子どもとして、
遠ざけてしまう。

親の過関心、過干渉、それに溺愛が混ぜんいったいとなって、
その子どもの世界を包む。
明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。

「ゲームのような低劣なものは、家には置きません」
「うちの子は、受験勉強とは無縁の世界で育てます」
「歌は、プロの先生に指導していただいています」
「毎週、1冊は、本を読ませています」などなど。

「ある程度は、俗世間に融和させないと、お子さん
自身が、つらい思いをするのでは?」と、教師がアドバイスしても、
聞く耳、そのものをもっていない。

自ら厚いカプセルの中に入ってしまっている。
その狭い世界の中だけで、独自の教育観(?)を、
熟成させてしまっている。

「英語の先生は、ネイティブでないと困ります」
「理科教育は、何でも実験を先にしてから、教えてほしい」
「備え付けの楽器は、不潔だから、使わせないでほしい」などなど。

学校の教育についても、あれこれと注文をつけていく。

しかしこういう親が一人いるだけで、その教室の教育は
マヒしてしまう(A先生)。

では、どうするか?、・・・という問題よりも、そういう
親は、一度、先に書いた、イプセンの『人形の家』を
読んでみたらよい。

が、その程度ではすまない。
幼児期から、思春期前後まで、「いい子」で通した子どもほど、
あとがこわい。

何度も書いているが、子どもというのは、その発達段階ごとに、
昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。
第一次反抗期には、第一次反抗期の子どものように、
中間反抗期には、中間反抗期の子どものように・・・。

非行が好ましいというわけではないが、非行を経験した
子どもほど、あとあと常識豊かな子どもになるということは、
この世界では常識。

(そもそも「非行」とは何か? その定義もあやしい?)

たとえば思春期前後から、はげしい家庭内暴力を繰りかえす
ようになる子どもがいる。

このタイプの子どもほど、それまで、「いい子?」だった
というケースがほとんどである。
だから子どもが家庭内暴力を繰りかえすようになると、
ほとんどの親は、泣きながら、こう叫ぶ。

「どうして?」「子どものころは、あんないい子だったのに!」と。

しかしそれは親の目から見て、「いい子?」だったにすぎない。

(以上、A先生の許可をいただき、A先生の話の内容を、
まとめさせていただきました。08年6月23日。)

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【引きこもりvs家庭内暴力】

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将来的に、引きこもったり、家庭内暴力を
起こす子どもというのは、その前の段階で、
独特の雰囲気を、もつようになる。

それについては、何度も書いてきたので、
ここでは省略する。

問題は、そういう雰囲気を感知したとき、
それをどこまで親に告げるべきか。
教師は、その問題で、悩む。

この段階では、たいていの親たちは、
「自分の子どもはできがいい」とか、
「うちの子にかぎって」とか思っている。
大半は、「私の育児のし方こそ、ぜったい」と
思っている。

思っているというよりも、信じている。
そういう親に向かって、「お宅のお子さんには
問題があります」などとは、言えない。
言ったとたん、親はパニック状態になる。
ついで、教師と親の人間関係は、終わる。

そんなわけで、たいていの教師は、「もしまちがっていたら・・・」
という迷いもあり、かたく口を閉ざす。

つまりここに書いた、人形子も、そうである。
人形子とわかっていても、それを口にするのは、
タブー中のタブー。

が、このタイプの子どもほど、思春期を迎えるころ、
はげしく豹変する。
年齢的は、12〜14歳前後か。

ふつうの豹変ではない。
ある日を境に、突然、狂ったように暴れだしたりする。
「オレをこんなオレにしたのは、テメエだア!」と。

中には、豹変しないで、人形子のまま
おとなになる子どももいる。
イプセンの『人形の家』の中の主人公が、
その一例かもしれない。

そういう意味では、この時期にはげしく親に
抵抗する子どものほうが、まだマシという
ことになる。
心の内にたまったエネルギーは、できるだけ
早い時期に吐き出したほうがよい。

が、反対に引きこもるタイプの子どももいる。
よく誤解されるが、引きこもるから暴力をふるわない
ということではない。

ちょっとしたことで錯乱状態になって、暴れたりする。

そこであなたの子どもは、どうか?

あなたの前で、子どもらしく、自由に、伸び伸び
しているだろうか。
言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

もしそうなら、それでよし。
が、反対に、「うちの子は、できがいい」と思っているなら、
ここに書いたことを、もう一度、読みなおしてみてほしい。

子育てというのは、自分で失敗してみて(失礼!)、
はじめて失敗と気づく。
これは子育てそのものがもつ、宿命のようなものかも
しれない。

賢い親は、それに事前に気づき、そうでない親は、
失敗(失礼!)してから、それに気づく。
(「失敗」という言葉を使うのは、好きではないが・・・。)

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●「人形の子」論

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●あるお母さんからのメール

++++++++++++++++++

親から受けた子育てが原因で、
長い間、大きな心のキズに苦しんでいた
お母さんから、こんなメールが
届いています。

読者のみなさんの力になればと、
公開してくださいとのこと。
喜んで、そうさせていただきます。

お名前を、Vさん(母親)としておきます。

Vさんは、子どものころ、親からきびしい
教育としつけを受け、それが原因で、
心に大きなキズを受けてしまいました。

Vさんは、「私がしたような経験を、ほかの
子どもたちにはしてほしくない」と言っています。

本当に、そうだと思います。

最近の研究によれば、うつ病の(種)のほとんどは、
その人の乳幼児期にあるということまで、
わかってきました。

乳児期から幼児期にかけては、
(1)心豊かで、穏やかな家庭環境、
(2)愛情豊かで、静かな親子関係、
この2つが、とくに重要かと思います。

Vさんからのメールをお読みください。

++++++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ】

はやし先生、こんばんは!

今日はレッスン前に、少しだけしたが、私がかかえる障害のお話を聞いてくださって、
ありがとうございました。

私は 先生のEマガによる「自己開示」でいえば4〜5レベルに入るほど、
まわりの人たちに、いろいろなことを話しています。

隠していなくてはならないことなど、そんなにはないし、
自分を知ってもらうことは 息子であるY男にとっても
良いことのように思ったりするからです。

先生が、私の経験を多くの人たちにお話してくださるのももちろん、歓迎です
良い例として、あるいは悪い例として、
私の経験してきたことが今、どんな風に私の人生で活かされているのか、
また、少女時代の私と同じ思いを、今まさにしている子供たちが今いるとしたら、
保護者の方に気づいていただきたいからです。

両親の教育が厳しく 過干渉で 私にとっては、長くて、辛い少女時代でした。
特に厳しかったのは母でした。しかし母だけを責めているのではありません。
母は 明治生まれの姑の前で、私たち姉妹を懸命に育て、
社会に出ても恥ずかしくない子に育てをしなくては……という使命のもとでの
思いだったわけです。

当時は今のように、相談できる機関や話を打ち明けられる相手もなく、
母も苦しんだと思います 父も相談相手にはならなかったようです。

というのも 父は自分の父親を第二次世界大戦で亡くし、
顔を見た事もないまま育ったそうです。
私は今でも、ラバウル上空を通過するときは 胸が苦しくなります。

そして実の母は 姑に父を残して 再婚して出て行ってしまったそうです。
どれほどの想像を絶する悲しみを乗り越えたでしょう。

父は曾祖母に対して異常なまでの執着心を持ち妻より子供より、曾祖母
という感じでした。

そんな生活の中で 母は私たちを厳しく育てることと、しつけることで、
自分なりのアピールをしていたのかもしれません。

また 別の観点からすると 母は私たちの子育てを、はけ口としていたかも
しれません。そのことも否定できないと思っています。

では、姉にはなぜ私のような障害が起きなかったか。

私の姉は3歳年上のキャリアウーマンですが、
何をするにも要領がよく、賢く、そして心優しく 暖かい人間で、
身内の私が言うのも恐縮ですが 尊敬しています。

母やきびしい習い事の先生がおっしゃる非道徳的な言葉ですら、
「あの人、なにいってるんだろ。私のどこまでしってるっていうの?」と
冷静な受け止め方が子供の頃からできたようです。

私はといえば、まったく正反対。

母の期待にこたえよう。今、Dropoutしてしまえば お母さんが悲しむかとか、
そんなことばかり考えていました。

生真面目で いつも良い子でいなくてはならない。いつも良い点を取らなくてはならない。
お母さんが悲しむから。クラス代表に選ばれなくてはならない。母が望むから、と。

小学校3年生のとき、サンタさんに手紙を出しました。
サンタさんの存在を信じていたころ書いた、最後の手紙だったと思います。

内容は、「お願いです プレゼントはいりません ただ習い事を全部やめさせてください」
というものでした。

サンタさんが願いをかなえてくれなかったのは、これが初めてでした。

心療内科の先生はおっしゃいました。

「あなたのお父様もお母様も 強迫性障害 の可能性がある」と。

思い当たる節はいくつもありました これは遺伝する可能性のある
障害だそうです。

今年前半は、T市にある児童心療内科まで、Y男をつれて、月に一度通っていました。
Y男のためというよりは 私が息子と、どう向きあえばよいのか、
どう育てていけばよいのか、全くわからなくなり、心は八方塞になったからです。

今思えば あの半年間の通院は 心療内科の先生に会って私がカウンセリングを受ける
私のいわば治療であったように思います。

時がたつにつれて、私は私の方法で Y男と向き合っていけばいいと思うように
なりました。

なぜなら、私はY男の母親なのだから……。

こんなシンプルな答えにたどり着くのに 随分と遠回りをしたし、
これからもしてしまうことがあるのかもしれませんが、今は 安定した気持ちで、
Y男に接しています。

父はY男がおなかにいるときに脳内出血で倒れ、現在は、右半身不随の生活をしています。
それがわかった当時は、みんな私のBabyではなく、
父の病気のことにばかり関心をもって、情緒不安定になり、
母や夫に当たったこともありました。

しかし母は立派に父のパートナーとして、父の治療に徹底的につき合っています。

ひところは東京のホテルに3か月ほど暮らして、有名な先生の治療を受けていました。
けれど回復には限度があり 今は良くも悪くもならないように、
リハビリとして、朗読や華道、陶芸など様々なことにチャレンジしています。

また 現在では障害者対応の施設も多く 年に3回ほど旅行に出かけています
障害者仲間の皆様との出会いも 両親を大きく支えてくださっていると思います

で、父もあきらかな強迫性障害者です。

強迫行為といって 鍵を閉めたか、ガスの元栓は締めたか、
冷蔵庫はちゃんとしまっているか、
出かける前もふだんの生活の中でも、あまりにもしつこいこれらの行為に
私たちは障害のことは何も知らずに、へきえきしていました。

私には強迫行為はありません。
主な症状は 不安がとめどなく押し寄せて眠れないとか、そんなことです。

朝起きてまず初めに思い浮かぶことは、
今日の予定の嫌な部分です。不安が押し寄せると、過喚起を起こしてしまう。
これではちゃんとY男を育てることができないと感じたこともあります。

03年の4月 Y男が入園した直後、お願いするのならばこの先生と決めていた
先生のところへ夢中で向かっていました。

ふら〜と先生の前にお伺いして、
私は「うつ病」だといわれるのを恐れていました。
 
そのために今まで躊躇して、治療を受ける勇気が無かったのです。
いま、抗うつ剤も飲んではいますが、今のお薬はとても私にあっていると感じ、
快適に過ごしています。もちろん体調の良悪によって効き目が違ったり、
沈んでしまうこともありますが……。

そこから抜け出すには散歩をしたり 本をむさぼり読んだり、
ひたすら英語で独り言を言ったり、大好きな音楽を聴いたり、
一心不乱にピアノを弾いたりしています。

自分の力で抜け出す術を身につけることができるようになってきました。
化学物質を使っての治療に、初めはとても抵抗がありましたが、
お薬で生活をよりよいものにすることができるのならば、
甘えて使ってもいいんだというふうに、解釈するようになりました。

ドクター曰く、「おばあちゃまが飲むような弱い薬よ。副作用もないゎ」と。
あれから約3年 いま、最高の組み合わせのお薬にめぐり合えました。

とにかく私は 私が過去に味わった苦しみも含めて、そして今があることに
心から感謝しているし、あの苦しみがなければ、
Y男に同じ思いをさせていたかもしれないと思うと、ぞっとします。

そのことに比べれば、今の状態など、なんということはありません。
どんな経験からも苦しみからも、そして喜びからも学ぶことは際限なく多く、
そしてすべての出会いと、想いと、天国の大切な存在たちに守られて、
私たちは あたたかな蜜月を(?)すごしています。

Y男の人生はY男が決めればいい。
どうしても辛くて何かをやめたくなったとき、
逃げるのでなく決断なのであれば私は応援します。
そしてまた 新しい道を探していけば きっときっと、
something wonderful+special for him に
出逢えると信じています。

来週のレッスンの頃はグアムで思い切りガムをかんでいる(?)と思うので、
おそらく2x日のレッスンを受けさせていただくと思います。
3時まで別の習い事があるので終わってから行くと、Y男が決めました。

x曜日は私の仕事納めの日で、見学には行かれないので、
これはとても良い機会ですし、母に付き添いで行ってもらうつもりでいます。

母は今は、仏様のような(?)穏やかな人間になり、
私の仕事のx曜日とy曜日には、両親そろって、Y男との夕食、
お風呂、カードゲームなど、とても楽しみにしてくれています。

こんな私ができた 一番の親孝行が、Y男なのかもしれません。

はやし先生にこんなにいろいろとお話できるのは、
Y男も私も、先生が好きだからです。

聞いていただきたいと思ったので、一方的に長いメールを送ってしまいましたが、
不要であればどうぞ聞き流してください。

でももし機会があれば、固有名詞を伏せて、こんな体験でこんな子供が育ち、
こんな母親になったと、はやし先生のお力で、
少女時代の私のような毎日が苦悩と苦痛で満ちていた生徒さんを、お母様を
開放して差し上げられるきっかけになったら、どんなに良いことだろうと思っております。

母は、いっそ本でも書いたら?、のんきなことを言っておりますが、
今の私にそんな時間がいったいどこにあるでしょうか。

さて夜もふけてまいりました
来週3年ぶりの国際線に乗るのに、全く準備ができておりません。
残ったworkも山済みで、何とか乗り切らなくては!
でも忙しいのが性分にあっているのでしょうか。

12月の私は毎日が楽しくて忙しくて、友達と会って力をもらったり、
このうえなく充実しています。

話の続きや枝葉はまだまだありますが、今宵はここまでとさせていただきます。
長文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

oh! 日付が変わって、今日はY男の誕生日です
6歳だなんて! あんなに小さな赤ちゃんだったY男が、(Born on xxxx、.2000)、
今こうして育っていることを、誰よりもY男の父に感謝しています。
 
彼は本当に素晴らしい父親です。
運命が私たちを離してしまったけれど、空き箱に迷路を作ってビー玉で転がして遊んだり、
お父さんの小さい頃はこんなことをして遊んだよと話をしたり、
当たり前のことかもしれませんが、でもこんなことになってしまって今もなお、
Y男に愛情を注いでくれていることに、心から感謝しています。

それでは2x日は Y男の祖母、あのスパルタだった(笑い)私の母が、
お伺いするかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

結果として両親にはもちろん感謝しています。産んでくれたこと。育ててくれたこと。
Y男のシッターをしてくれていること。それをenjoyしてくれていること。

ps

障害のことで何かお役に立つことがあればどんなことでもお話しますので、
どうぞお声をかけてくださいませ。 

ホルモンバランスやセロトニンの分泌調整知らなかったことを多く学ぶ機会でありました。
必要な方には、詳しくお話しさせていただければ、うれしいです。

++++++++++++++

【はやし浩司より、Vさんへ】

メール、ありがとうございました。
現在、私の周囲でも、同じような問題をかかえ、悩んだり、苦しんだりしている人が、何人かい
ます。

またそういう人たちの力になってあげてください。

よろしくお願いします。

                       はやし浩司
++++++++++++++

【Vさんより、はやし浩司へ、追伸】

改めて自分の書いたメールを、先生がまとめてくださったものを読んでみると、
これを読んで ひとりでもいい、気持ちが楽になってくれる
お母様、お父様、生徒さんがいらしたら、どんなに良いことだろうと思います。

ただ、話の続きや枝葉はまだまだあると書いたように、
もっともっと様々なことが、私には起きました。
今回の公開に載せていただくことはなくても、
またの機会にでも広く知っていただければと思います。

大きくは二つの話題です

ひとつめ。

先生は 親への反抗で処理したという趣旨のことをおっしゃいましたね。
実は、私もそうでした。

反抗期、ひどかったと思います とくに習い事が辛くて辛くて、
ピークの小学校高学年の頃から中学2年生くらいまで、そうでした。

何を言っても、「ああいえばこういう」式で、
ねじ伏せられてしまうことがわかっていた私は、
母に直接、反抗するということが、あまりできませんでした。
 
仏頂面のままダイニングで家族と食事をしたり、無言のまま誰の顔をも見ず、
さっさと食事を済ませて、勉強部屋に逃げこんだりしました。

その仏頂面の私の唇を見て、母はこう言うのです
「右下の唇が少し上に上がってゆがんでいる。
不満のあるときはいつもそんな顔をする」と。

そして 相手が他人であれば 失礼なほどに 私の顔を、目ジーッと見る。
そんなことをされれば、だれだって、気分を悪くします。で、気分を悪くした私が、
「もういやだ。くそばばぁ」と言って、
勉強部屋へ逃げ隠れしたことがありました。

このときばかりは母も相当なショックだったのでしょう。
その日以降は、話題といえばそのことばかり。
何時間もかけてそれがどんなにいけないことか、
私に説教しようとするのです。しかし私はそれを知っていたからこそ、
そんな言葉を言ってしまったのです。

母が悲しむといけないから、お稽古を頑張らなくてはならない自分がいる半面、
母が悲しむことをして束縛されていることにたいして、ささやかな抵抗をしたかった。

もうこの世から消えてしまいたいとさえ思ったことも、何度もありました
「今度の期末試験の頃は私はもういないんだから、心配することないんだ」と、
そんなばかげたことも考えたこともあります。

母が悲しむだろうから、わざと悪い成績を取ってやろうと考え、
解答用紙にあえて正しくない答えを書いたり 空欄にしたりしたこともあります。
で、それを見て、母はがっかりし、こう言ったこともあります。
「私があなたの学年の頃は、クラスで何番にはいつも入っていた。
なぜあなたはできないの? できるはずでしょう? 
あなたはやればできるのだから言っているのよ」と。

「できるって誰が決めた? 誰が知ってるの? 私、どこまで頑張ればいいの?
今、交通事故で死んじゃったりしたら やりたいこと何にもできずに人生終わっちゃって
悔しいよ」と。
そんな会話が何度も繰り返されたと思います。

母への反抗心は、ある日、ふと薄いものへと変化してゆきました。
希望の高校に入学を果たし、あわただしく身支度をしていた春の朝のことです。
私のためにお弁当を作ってくれている、私よりも背の低い小さな母の背中が、
それを気づかせてくれました。

母も、私を育てるのは初めての経験だということ。
涙が溢れました。でも見つかるのも恥ずかしくて、
「コンタクトが合わなくて…」などとごまかしましたが、
「ひどいことしてごめんね、おかあさん」と、そう、あの時言いたかったのだと思います。
高校を卒業し、進学で実家を離れてからは、なおさら私と母の間の心の距離は縮まり、
一人暮らしが、私を成長させてくれたとも言えると思います。

「あなたは私の芸能マネージャーではないのだから、ぴったりとついてこないで。
誰と連絡を取っているのか、どんな友達とどんな話をしているのか、
50メートル先の自販機までジュースを買いに行くのに、
こっそりついてくるようなことをしないで。
まるで本当にジュースを買いに行くかどうか、確かめにきているみたいではないか」と、
そんな内容の、私にとっては、革命的手紙を渡したのは、
私が高校1年の夏ごろのことだったと思います。

そういうことがあって、母の過干渉も少しずつ薄れていったように思います。

さて もうひとつの話題

これは 今の世の中にも深く関わる重大な問題です。
母から束縛や過度の期待を受けてstressfulになった私がとった行動は、
恥ずかしくも クラスメイトへのいじめでした。

いじめの根源がこんなところにも潜んでいるのです。
もちろん私の心が弱かったので、そんな方向へ向かってしまったのは確かです。
しかし あれほどにまでのストレッサーがなければ、
子供の頃から転校生には進んで声をかけていた私が
あんなことはしなかったと言えると思います。

私自身もがき苦しんでいたけれど 人を苦しめることで憂さ晴らしをしようとは、
なんと愚かなことでしょう。

だから お父様、お母様、お子様がそんな風になってしまうほど
過度の干渉や期待、子供なりのプライベートへの介入をしないでほしい。

どこかで全く関係の無い誰かが、傷ついてしまう引き金になってしまう可能性があるから。
いまでも私は心を傷つけてしまったお友達のことを時折思い出し、
「ごめんね。今はどうか暖かくしあわせな毎日を送っていてほしいよ」
と思うことがあります。

ある女の子は ひどく私がいじめをしたのにもかかわらず、
私がいじめのターゲットになったときには、
惜しげもなく私に救いの手を差し伸べてくれました。

彼女は今、専門分野で世界的に活躍する立派な女性兼母になったと、
風の便りで聞きました。

彼女の成功を心からお祝いし、これからの活躍をも心からお祈りしています。

上記のいじめに関する文章は、同じ出来事を、違う言葉でしたが、あるテレビ番組の
「いじめについて考える」番組に、投稿したことがあります。

うまくまとめられたかわかりませんが以上になります。
もっと続きも枝葉もありますが、今日のところは、ここまでとします

先生、ありがとう。
私の話に耳を傾けてくださってありがとう。
私の気持ちを汲んで 皆さんにこんなできごとがあるということを、
知らせてくださって、ありがとう。

私は先生の尊敬に当たる人間ではとてもありませんよ。巨大リップサービスです
でも、生き方を認めていただけたことは、心から嬉しく思います。
ありがとうございました。

上記の文章の掲載についても、先生にお任せします

でもね先生、私、仲の良いお母様方には全く同じ話をしています。
「私、頭が弱いからね〜 薬の時間なのょ」なんて、
どこか冗談めかしながら。いえ、本当に大笑いしながら、どんどん話題にしています。

ですので、これを読んで あのVさんのことじゃないかな?、と思う
お母様は、少なくともK幼稚園のお母様ならなおさら、
5本の指でおさまるかどうかという気持ちです。アハハ。

でも今の私には、「そうなの、わたしのこと! スパルタ教育の話、
はやし先生にしちゃったぁ」と笑って答えることができます。

だから 気にしません。
誰かの心や命が、助かるのかもしれないのであれば、
どうぞはやし先生のお力で、きっかけ作りをして差し上げてほしいと思います。

ああ、2学期も明日でおしまい。明日じゃない、もう今日になってしまった!
まだまだ幼稚園児でいてほしいなぁ。
これからまた、どんな出会いがあるだろう。
小学生になったY男は どんな困難や挫折を味わうだろう。

けれど私は Y男へのバースデーカードにこう書き添えました。

「その手でゆめをつかみなさい。
 そのあしで ゆきたいところへどこにでもいきなさい。
 そうしておとうさんのような りっぱなひとになるのよ」と。

どこか照れくさいメッセージですが、本心です

Y男の父からも、日付指定で、カードが郵便物として届きました。
誕生日の数字を Y男の好きな迷路にイラストしてあり、
おわりのところには、「おかあさんをたいせつにしなさい」とありました。

久しぶりに声を上げて泣きながら、音楽のボリュームを大にして、
車を運転しながら仕事に向かいました。
彼という人間の子供を産んだ私は、とても幸せです。

長文を読んでくださってありがとうございました。
先にも書きましたとおり掲載については先生にお任せします。

今度は 祖母から聴いた私の心にいつもある「幸せのおどんぶり、かなしみのおどんぶり」
のお話を聞いていただきたいと思っています。

長文乱文にお付き合いくださいましてありがとうございました。

Vより。

+++++++++++++++

【はやし浩司より、Vさんへ】

●代償的過保護

 親の過干渉、過関心、プラス過剰期待が、子どもをいかに苦しめるものであるか。親は、「子
どものため」と思ってそうしますが、子どもにとっては、そうではないのですね。その苦しみは、
苦しんだものでないと、わからないものかもしれません。

 発達心理学の世界にも、「代償的過保護」という言葉があります。一見、過保護なのだが、ふ
つう過保護には、それがよいものかどうかは別として、その基盤に親の愛情があります。その
愛情が転じて、過保護となるわけです。が、中には、愛情のともなっていない過保護がありま
す。それが「代償的過保護」ということになります。言うなれば、過保護もどきの過保護を、「代
償的過保護」といいます。

 たとえば子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと思うのが、代償的過
保護です。そして親自身が感ずる、不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 「こんな成績で、どうするの!」「こんなことでは、A学校には、入れないでしょ!」「もっと、勉
強しなさい!」と。

 その原因はといえば、親の情緒的未熟性、精神的欠陥があげられます。親自身が、心にキ
ズをもっているケースもありますし、それ以上に多いのが、親自身が、自分の結婚生活に対し
て、何か、大きなわだかまりや不満をもっているケースです。

 わかりやすく言えば、満たされない夫婦生活に対する不満を、子どもにぶつけてしまう。自分
の果たせなかった夢や希望を、子どもに求めてしまう。明けても暮れても、考えるのは、子ども
のことばかり、と。

 しかし本当に子どもの立場になって、子どもの心を理解しているかといえば、そういうことはな
い。結局は、自分のエゴを、子どもに押しつけているだけ。よい例が、子どもの受験競争に狂
奔している母親です。(父親にも多いですが……。)

 このタイプの親は、子どもには、「あなたはやればできるはず」「こんなはずはない」「がんばり
なさい」と言いつつ、自分では、ほとんど、努力しない。いつだったか、私が、そんなタイプの母
親に、「では、お母さん、あなたが東大に入って見せればいいじゃないですか」と言ったことがあ
ります。すると、その母親は、はにかみながら、こう言いました。「私は、もう終わりましたから…
…」と。

そして、すべてのエネルギーを、子どもに向けてしまう。それが親として、あるべき姿、もっと言
えば、親の深い愛情の証(あかし)であると誤解しているからです。

●親の過剰期待

 が、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはありませ
ん。子どもは、その重圧感の中で、もがき、苦しみます。それを表現したのが、イプセンの『人
形の家』ですね。それについては、もう何度も書いてきましたので、ここでは省略します。子ども
は子どもで、まさに「人形」のような子、つまり「人形子」になってしまいます。

 「いい子」を演ずることで、自分の立場をとりつくろうとします。しかし人形は人形。どこにも、
「私」がない。だから、このタイプの子どもは、いつか、その成長段階で、自分を取りもどそうと
します。「私って、何だ!」「私は、どこにいる!」「私は、どうすればいいんだ!」と。

 それはまさに、壮絶な戦いですね。親の目からすれば、子どもが突然、変化したように見える
かもしれません。そのままはげしい家庭内暴力につながることも、少なくありません。

 (反対に、親にやりこめられてしまい、生涯にわたって、ナヨナヨとした人生観をもってしまう子
どももいます。異常なまでの依存性、異常なまでのマザコン性が、このタイプの子どもの特徴
のひとつです。中には、40歳を過ぎても、さらに50歳を過ぎても、母親の前では、ひざに抱か
れたペットのようにおとなしい男性もいます。)
 
 ……だからといって、Vさんがそうだったとか、Vさんのお母さんが、そうだったと言っているの
ではありません。ここに書いたのは、あくまでも、一般論です。

 ただ注意したいことは、2つあります。

●批判だけで終わらせてはいけない
 
ひとつは、Vさんは、自分の母親を見ながら、反面教師としてきたかもしれませんが、自分自身
も、自分の子ども、つまりY男君に対して、同じような母親になる可能性が、たいへん高いという
ことです。「私は、私の母親のような母親にはならない」と、いくらがんばっても、(あるいはがん
ばればがんばるほど)、その可能性は、たいへん高いということです。

 子育てというのは、そういう点でも、親から子へと、伝播しやすいと考えてください。今はわか
らないかもしれませんが、あとで気がついてみると、それがわかります。「私も、同じことをして
いた」と、です。どうか、ご注意ください。

●基本的信頼関係

 もうひとつは、情緒的未熟性、精神的な欠陥の問題です。(Vさんが、そうであると言っている
のではありません。誤解のないように!)

 最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のばあい、そのほとんどは、原因
は、乳幼児期の育てられ方にあるということがわかってきました。とくに注目されているのが、
乳幼児期のおける母子関係です。

 この時期に、(絶対的な安心感)を基盤とした、(基本的信頼関係)の構築に失敗した子ども
は、不安を基底とした生き方をするようになってしまうことが知られています。「基底不安」という
のがそれです。おとなになってからも、ある種の不安感が、いつもついてまわります。それがう
つ病の引き金を引くというわけです。

また、ここでいう(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)
を言います。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味です。

 つまり子どもの側からみて、「どんなことをしても、許される」という、絶対的な安心感のことを
いいます。これが(心)の基本になるということです。心理学の世界でも、こうして母子の間でで
きる信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼んでいます。

(あくまでも、「母子」です。この点においては、父親と母親は、平等ではありません。子どもの
心に決定的な影響を与えるのは、あくまでも母親です。あのフロイトも、そう言っています。)

 そのためには、子どもは、(望まれて生まれた子ども=wanted child)でなければなりませ
ん。(望まれて生まれた子ども)というのは、夫婦どうしの豊かな愛情の中で、愛情に包まれて
生まれてきた子どもという意味です。

 が、そうでないケースも、多いです。たとえば(できちゃった婚)というのがありますね。「子ども
ができてしまったから、しかたないので結婚しよう」というのが、それです。夫婦の愛情は、二の
次。だから生まれてきた子どもへの愛情は、どうしても希薄になります。

それだけですめばまだよいのですが、そのため親は親で、(とくに母親は)、子育てをしながら、
そこに犠牲心を覚えるようになる。あるいは、そのまま自分の子どもを、溺愛するようになる。

●絶対的な母子関係

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」を、口ぐせにする親は、たいていこ
のタイプの親と考えてよいです。もともと夫婦の愛情が基盤にあって生まれた子どもではない
からです。

 一方、子どもは子どもで、そういう母親でも、親であると、自分の脳みその中に、本能に近い
部分にまで刷りこみます。やはり最近の研究によれば、人間にも、鳥類(殻から出てすぐ二足
歩行する鳥類)のような、(刷りこみ=imprinting)があることがわかってきました。これを「敏
感期」と呼んでいます。

 つまり子どもは子どもで、そういう環境で育てられながらも、「産んでいただきました」「育てて
いただきました」「大学まで出していただきました」と言い出すようになります。

 つまり、親の子どもへの依存性が、そのまま、今度は、子どもの親への依存性へと変化する
わけです。

 これがここでいう「伝播」ということになります。わかりますか?

 そしてそれは、先にも書きましたように、今度は、あなたという(親)から、あなたの(子ども)へ
と伝播する可能性があるということです。そういう意味では、『子育ては本能ではなく、学習』と
いうことになります。あなたの子どもはあなたという母親を見ながら、今度は、それを自分の子
育て観としてしまう!

 では、どうするか?

●「私」をつくる3つの方法

 自分の親を反面教師とするならするで、批判ばかりでは終わってはいけないということです。
また今は、「仏様」(Vさん)のようであるからといって、過去の母親を、許してはいけないという
ことです。

 あなたはあなたで、親というより、人間として、別の人格を、自分でつくりあげなければなりま
せん。それをしないと、結局は、あなたは、自分の親のしてきたことを、そっくりそのまま、今度
は、自分の子どもに繰りかえしてしまうということになりかねません。
 
そのために、方法はいくつかありますが、ひとつは、すでにVさん自身がなさっているように、
(1)過去を冷静にみながら、(2)自己開示をしていくということです。わかりやすく言えば、自分
を、どんどんとさらけ出していくということです。そしてその上で、(3)「私はこういう人間だ」とい
う(私)をつくりあげていくということです。

 いろいろ事情はあったのでしょうが、またほとんどの若い母親はそうであると言っても過言で
はありませんが、あなたの母親は、そういう点では、情緒的には、たいへん未熟なまま、あなた
という子どもを産んでしまったということになります。(だからといって、あなたの母親を責めてい
るのではありません。誤解のないように!)

 子どもから見れば、どんな母親でも、絶対的に見えるかもしれません。が、それは幻想でしか
ないということです。ここに書いた、(刷りこみ)によってできた幻想でしかないということです。

 それもそのはず。子どもは、母親の胎内で育ち、生まれてからも、母親の乳を受けて、大きく
なります。子どもにとっては、母親は(命)そのものということになります。しかし幻想は幻想。心
理学の世界では、そうした幻想から生まれる、もろもろの束縛感を、「幻惑」と呼んでいます。

 で、私もあるとき、ふと、気がつきました。自分の母親に対してです。「何だ、ただの女ではな
いか」とです。私も、「産んでやった」「育ててやった」という言葉を、それこそ、耳にタコができる
ほど、聞かされて育ちました。だからある日、こう叫びました。私が高校2年生のときのことだっ
たと思います。

 「いつ、オレが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

 それが私の反抗の第一歩でした。で、今の私は、今の私になった。もしあのとき反抗していな
ければ、ズルズルと、マザコンタイプの子どものままに終わっただろうと思います。(もっとも、
それで家族自我群がもつ重圧感から、解放されたというわけではありませんが……。)

●Vさんへ、

 ……とまあ、Vさんに関係のないことばかりを書いてしまいました。Vさんからのメールを読ん
でいるうちに、あれこれ思いついたので、そのまま文にした感じです。ですから、どうか、仮にお
気にさわるような部分があったとしても、お許しください。

 子育てを考えるということは、そのまま自分を考えることになりますね。自分を知ることもあり
ます。私も多くの子どもたちに接しながら、毎日、それこそいつも、「私って何だろう」「人間って
何だろう」と、そんなことばかりを考えています。

 以上、何かの参考になれば、うれしいです。また原稿ができまたら、送ってください。いっしょ
に、(自己開示)を楽しみましょう! どうせたった一度しかない人生ですから、ね。何も、それ
に誰にも、遠慮することなんか、ない。

 だって、そうでしょ。私も、Vさんも、「私」である前に、1人の人間なのですから……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族
自我群 幻惑 過干渉 過関心 代償的過保護 自己開示 はやし浩司 親の過干渉 過干
渉児 はやし浩司 人形のような子ども 人形のような子供 人形子)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司※

●言葉の暴力(Violence by Words)

+++++++++++++++

先日、T市の教育会館で、講演を
させてもらった。
そのときのこと。

約束の時刻まで、まだ少し時間が
あったので、私とワイフは、その
あたりを歩いた。

裏手に、農業用の用水池があって、その
向こうは、新興の住宅団地になっていた。
緑の多い地域で、それ以前は、森で
あったらしい。

が、その団地に一歩、足を踏み入れて、
驚いた。
看板だらけ!

「建設反対」の旗にまざって、
「○○建設会社は、恥を知れ!」
「暴利会社、行く末は倒産!」
「地域住民は、お前たちを許さない!」と。

どうやらマンションの建設に反対している
人たちの看板らしい。

「地獄マンション」
「ここは不幸町1丁目」
「のぞき魔マンション、建設反対!」と。

さらにこんなのもあった。

「飛び降り自殺者、続出マンション!」
「呪われた死者の館(やかた)!」
「震度5で、倒壊マンション!」と。

もちろん大半は、ふつうの(?)看板。
その間にあって、ここに書いたような
手書きの看板が並んでいた。

しかしこうした看板は、ひとつまちがえば、
営業妨害になる。
それによって具体的に被害が認定されれば、
損害賠償請求事案の対象になる。

さらにマンションが完成し、入居する人たちが、
それによって精神的苦痛を味わえば、
慰謝料請求事案の対象にもなる。

地域の住民の人たちは、そういうことを
知っているのだろうか。
つまり、暴力にも二種類ある。

物理的な暴力と、言葉の暴力である。
精神的な苦痛という意味では、物理的な
暴力も、言葉の暴力も、同じ。
暴力は暴力。
こうした看板は、立派な暴力である。

私「かなり、こじれているみたいだね」
ワ「何が?」
私「住民と建設会社・・・」
ワ「そうね」
私「ここまでこじれると、あとがたいへんだね」
ワ「・・・シコリも残るでしょうね」
私「そうだね」と。

建設会社は、当然、法にのっとった手順を
踏んで、建設にとりかかっているはず。
となると、住民側の立場は、弱い。
特別な条例でもないかぎり、こうした建設を
止める手立てはない。

が、一方、こんなことも言える。
たしかに言葉の暴力だが、そういうことを
しなければならないところまで追い込まれた
住民の感情も、理解しなければならない。

こうした反対運動をするというだけでも、
かなりのエネルギーと神経を使う。
毎日、イライラしている人もいるだろう。
不眠に苦しんでいる人もいるだろう。
こうした運動から受ける精神的苦痛には、
相当なものがある。

直接的に不愉快な思いをしているのは、
住民の人たちである。

私「地域ぐるみで議会に働きかけて、環境
条例のようなものを制定してもらえばいい」
ワ「それによって、マンションの建設を
差し止めるわけね」
私「しかし、今からでは遅い。すでに一部
だが、建設が始まっているようだ。法には、遡及適用
の禁止※という大原則がある。過去にさかのぼって、
法を適用することはできない」

ワ「じゃあ、どうすればいいの?」
私「マンションを建設することによる被害を、
最小限に食い止めるしかない。たとえば8階建て
であったら、5階建てにしてもらうとか・・・」
ワ「でも、ここまでこじれていると、それも
むずかしいわね」
私「たぶん、ね」と。

しかし・・・。
言葉の暴力には、注意したほうがよい。
先にも書いたように、書き方をあやまると、
損害賠償、さらには、慰謝料請求事案の
対象になる。

看板のある家の人が、その責任を問われる。
「頼まれたから、看板を置いただけです」という
口実は、こういうケースでは、通用しない。

「看板」という手段を使って、公(おおやけ)
に向かってものを書くときには、じゅうぶん、
注意したほうがよい。

(注※)憲法39条に「何人も,実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為につい
ては刑事上の責任を問われない」と明記されている。
処罰規定を過去に遡って適用することは、一部の行政法上の手続きを除いて、原則として憲
法違反ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 遡及適用 遡及適用の禁止 看
板 言葉の暴力)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2705)

To Ms. C. Rice and Mr. C. Hill,(ライス氏とヒル氏へ)

According to this morning newspaper issued on June 26th, you mentioned that USA will not 
ignore the kidnappings by North Korea and will not forget about it. But should we say thank 
you for that?

The answer is NO! Both of you have already betrayed Japan so much and now again. 
Whatever you say, it sounds just vacant, since nothing has been solved by YOU. What you 
have done is just to give North Korea, time, money, oil and music. What did you receive? 
What did we receive? Mr. Fukuda, our Prime Minister of Japan has to start negotiating with 
G. Bush directly over these two pro-North Korean secretaries.

Ms. C. Rice and Mr. C. Hill, how much do you know about Asia and Asians? Here in Asia your 
American rationalism is not useful about everything. When you cancel the punishment 
toward North Korea, North Korea will get more reluctant to solve the problems of 
kidnappings. North Korea will try to cheat you again. Why can't you know such an easy 
matter?

I know both of you have families inside USA, but when one of them is kidnapped by 
someone, what would you say? What would you do? We have been cheated by North Korea 
over and over again. Now you are about to be cheated too. Kim Jong Il is not such a person 
but only a tyrant, who have killed more than 200 thousand people inside his own country.

We. the Japanese, have been very much disappointed by USA as well as by YOU.

Hiroshi Hayashi, Hamamatsu, Japan June 25th, 2008

今朝の新聞によれば、ライス米国務長官は23日、北朝鮮の核計画の申告に伴い、同国への
テロ支援国家指定解除を近く米議会に通告することについて、「米国は日本人拉致事件を無
視したり、忘れたりはしない」と述べ、北朝鮮に拉致事件の解決を迫る考えを示した。

これに対して日本は、感謝すべきなのか。
答は、「ノー」。

今まであなたがたは、さんざん日本を裏切っておきながら、今さら、こんな言葉はない。あなた
がたのしたことは、北朝鮮に、時間と金と原油と、音楽を与えただけ。その結果、あなたがた
は、何かを受け取ったのか? 日本は何かを受け取ったのか?

日本の福田首相は、ライス国務次官、ヒル次官補を越えて、ブッシュ大統領と直接交渉すべき
である。

ライス氏、ヒル氏は、どこまでアジアのことがわかっているのか。ここアジアでは、アメリカ式の
合理主義は、すべての面で有効であるとはかぎらない。もし北朝鮮への制裁を解除すれば、
拉致問題は、ますます遠ざかってしまう。北朝鮮は、再び、あなたがたをだまそうとしている。ど
うしてこんな簡単なことがわからないのか。

この問題は、もしあなたがたの家族のだれかが、北朝鮮に誘拐されたらという視点で考えてほ
しい。私たちは、何度も北朝鮮にだまされた。金正日は、あなたがたの思っているような人物で
はない。国内だけでも、20万人以上もの人たちを殺したという独裁者である。

私たち日本人は、あなたがたのみならず、アメリカ合衆国にたいへん失望しつつある。


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2706)

●思想の偏(かたよ)り

+++++++++++++++

この浜松市にも、女性実業家と
呼ばれている人は多い。
その中でも、かなりの成功者として、
名を馳せている人がいる。

今日会った、S氏も、その1人。
愛知県から静岡県にかけて、10
店舗近い宝飾店を経営している。

そのS氏と、2時間ほど、話を
させてもらう。

おもしろかった。
ためになった。
このタイプの女性には、独特の
雰囲気がある。

負けん気が強く、どんな話題についても、
スパスパと切り込んでくる。

その女性が、話の途中で、ふと、
こんなことを言った。

「バランス感覚が大切」と。

私の持論でもあるが、そういう女性に
言われると、ドキッとする。
鋭く、心の奥に突き刺さる。

「バランス感覚のない人と接していると、
やがて洗脳されて、とんでもない思想を
もつようになるわよ」と。

+++++++++++++++

●バランス感覚

ものを書くとき、バランス感覚ほど大切なものはない。
偏(かたよ)った思想は、それ自体が、時間の無駄。
回り道をしている間に、自分を見失ってしまう。

だからものを書きながら、いつも自分に問いかける。
「私は、バランスを保ちながら、ものを書いているか?」と。

といっても、それは簡単なことではない。
人はいつも何かを信じているものだし、住む世界によって、ものの考え方も変化する。
自分にとって心地よい響きがするものには耳を傾けるし、そうでないものは遠ざける。
ほんの少しずつでも軌道がずれれば、その先で、その人のものの考え方は大きく変わる。

ささいなことだが、昨夜もワイフとこんな会話をした。
ワイフは、ことあるごとに、こう言う。
「80歳まで、自分の歯を20本残すわ」と。

それについて、私は、こう反論した。
「ぼくは、80歳まで、自分の黒髪を20本残す」と。

ワイフの兄弟は、みな、歯がじょうぶ。
義姉の1人は、全国大会で表彰されている。
ワイフも、虫歯は、ほとんど、ない。
だから自分の歯を自慢するかわりに(?)、いつも、そう言う。

一方、私は、60歳を過ぎた今も、見た目には、黒々とした髪の毛を保っている。
はげる心配も、なさそう。
だから、いつも、そう反論する。

つまりワイフはワイフで、私は私で、それぞれ、そういう話をする。

(私は歯が弱く、健康な歯は、もう数えるほどしかない。
一方、ワイフは、オール白髪。毎週のように髪の毛を染めている。)

わかりやすく言えば、バランス感覚といっても、それはその人のバランス感覚に
すぎないということ。

もっと言えば、この世界には、絶対的に正しいものはないということ。
反対に、絶対的にまちがっているものも、ないということ。
言いかえると、バランス感覚というのは、いつも自分を疑う感覚ということになる。
それを忘れたとたん、冒頭に書いたように、「とんでもない思想」をもつようになる。

極右、極左、それとも、カルト?
私が「極端主義」と呼んでいる思想は、こうして生まれる。

が、それだけではすまない。

自分が洗脳されるのもこわいが、他人を洗脳するのは、もっとこわい。
「とんでもない思想」をもったとしても、被害者が、私1人ですむなら、実害は、
ほとんどない。
しかしそれが他人に及べば、ときとして(ゆがんだパワー)をもつようになる。
それが全体として、ばあいによっては、国や人類の進むべき道を、誤らせることもある。

日本の歴史を見ても、そういう例は多い。

●子どもと接することの重要性

いかにすれば、バランス感覚をみがき、それを保つことができるか。
冒頭に書いたS氏は、こう教えてくれた。

「私は、毎日、いろいろな人と会うことで、バランス感覚を養っています」と。

人と話をすることの重要性は、恩師の田丸謙二先生も、よく口にする。
が、私のばあい、その「人」というのは、「子ども」ということになる。
私は、よくこんな経験をする。

改めて言うまでもないことだが、子どもの世界は、純粋。
ウソやインチキが通用しない。
たとえて言うなら、子どもの世界というのは、汚れのない鏡のようなもの。
自分の心の状態を、ありのまま、そのまま映してくれる。
そのとたん、自分の心が、ザザーッと洗われていくのを感ずる。

そう言えばS氏も、こう言っていた。

「私は宝飾店を経営しながら、毎日、いろいろな人と会っている。そういう人たち
からエネルギーをもらっている」と。

私のばあいも、どんなに落ちこんでいても、子どもたちの顔を見たとたん、それが
吹き飛んでしまう。
いつもの私に戻って、いっしょに、ワイワイと騒ぎ出す。
それを「エネルギー」と呼ぶなら、エネルギーということになる。

……しかし、ほめてばかりいてはいけない。
S氏は、S氏の世界では成功した人である。
ふつうの女性たちよりは、何倍も、努力をした。
苦労もした。
それはわかる。

が、「だから、それがどうしたの?」と問いかけたところで、言葉が詰まってしまう。
よい例が、あの『おしん』である。
小さな八百屋から身をおこし、やがて日本中にチェーン店をもつにまで成功する。
いつか書いたことがあるが、当初、おしんは、「生きるために働く」。
しかしそれがある時点から、働くために生きるようになる。
ダイナミックな人生であったにはちがいないが、やはり、「だから、それがどうしたの?」
という部分で、言葉が詰まってしまう。

一説によると、そのおしんは、10年ほど前に巨額の負債をかかえて倒産した、
Y・ジャパンの社長の母親がモデルであったという。
であるとするなら、なおさら言葉が詰まってしまう。

だからといって、私は、S氏のような生きザマが無駄とか、つまらないとか、そんな
ことを言っているのではない。
これは私自身の問題でもあるわけだが、「だから、それがどうしたの?」という部分を
置き去りにしたまま、あえて言うなら欲望の追求だけを目的としても、そこにはいつも、
限界があるということ。

教室が100教室になった……だから、それがどうしたの?
学校を設立した……だから、それがどうしたの?
巨億の財産を蓄えた……だから、それがどうしたの?、と。

そこで重要なことは、その中から、(やるべきこと)を発見し、その(やるべきこと)と、
自分の行動を一致させていく。
エリクソンが説く、『自己の統合性』という言葉をもちだすまでもない。
その操作を誤ると、「それだけの人生」で終わってしまう。

……が、ともかくも、私は久しぶりに、生き生きと生きる女性に会うことができた。
60歳を過ぎて、そういう生き方ができること自体、うらやましい。
日々に、(やりたいこと)(やるべきこと)があるというだけでも、すばらしい。
たいはんの女性たちは、(男性もそうだが)、それができなくて、悶々としている。
何よりも恐ろしいのは、「用なし」という言葉。
そのレッテルを張られるのを恐れて、それらしく生きている。
あるいは自分がそういう立場にあることにさえ、気がついていない。

そういう人には、自己の統合性など、望むべくもない。

●再び、バランス感覚

話が脱線したが、ここまで書いて、自分の文章を読みなおしてみる。
「私は、バランス感覚を保っているか」と。
さらに言えば、「自分にとって、都合のいいことだけを書いていないか」と。

たとえば今、私は、たいへん恵まれた生活環境の中で生きている。
過去において、借金とは無縁の世界で生きてきた。
人を使わず、人に使われず、自分なりの生きざまを貫くことができた。
何よりも感謝しなければならないことは、健康に恵まれたこと。
家族にも恵まれた。

そういう幸福な世界に住んでいる私が、自分の立場だけを基本にして、ものを
書いている。

世の中には、生きていくだけで精一杯という人たちがいる。
死ぬほどお金がほしいと願っている人たちがいる。
健康を害して、日々に闘病生活を送っている人たちがいる。
そういう人たちを頭の中で想像しながら、「私でなくてよかった」と思うことは、
自己愛以外の何ものでもない。

ここに書いた、『自己の統合性』の問題にしても、見方を変えるなら、ただの「道楽」
となってしまう。
それがしたくても、その余裕のない人となると、それこそ、ゴマンといる。

と考えていくと、やはり、私にはバランス感覚が、欠けている?
ここに書いたことだけでも、穴だらけ?

……実は、これから山荘のまわりの草刈りをしなければならない。
時刻は、午前7時、少し前。
このつづきは、その草刈りがすんでから、また書くことにする。
あるいはここで書き止めてもよい。

●草刈り

たった今、草刈りを終え、一息ついたところ。
汗を拭き、扇風機に当たる。
この爽快感が、たまらない。

ところで草を刈るといっても、完全防御。
(まだエンジンの振動が手に残っていて、キーがたたきにくい!)
ズボンは2枚、はく。
その上に、ひざまで届く、長い靴。
これはマムシ対策。

シャツも2枚。
タオルを首に巻き、フードを頭にかぶせる、
これはハチ対策。

あとは眼がねとゴーグル。
はねた石が、目に当たると、あぶない。

40分ほどで、裏庭の土手が、きれいになった。
そうそうもうひとつ、注意しなければならないことがある。
土手の上のほうに、ウルシの木がある。
へたに切ると、その汁で、かぶれることがある。
草を刈りながらも、そのつど木を見分けなければならない。

で、今は、さっぱり。
早朝の一汗は、健康にもよい。

●ふつうの生活

ごくふつうの人間として、ふつうの生活をする。
何でもないことのようだが、そういう生活の中から、ふつうの思想が生まれる。
その(ふつう)を保つことが、バランス感覚ということになる。

東洋医学でも、そう教える。

『八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨み怒り
の気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの崇高性
を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的にも悩み
はなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする』(上古天真論篇※)と。

東洋医学では、肉体と精神の区別をしない。
「病気」という言葉にしても、「気を病む」と書く。
肉体の健康イコール、精神の健康、精神の健康イコール、肉体の健康ということになる。

……ということで、S氏の話は、ここまで。
近く、また会うつもり。
再開を約束して、別れた。

Sさんへ、
これからも、よろしく。
このエッセーを、メールに張りつけて、送ります。

(注※)

●子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これ
を読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、
子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを
求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ
くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ
に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ
るほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。

子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に
順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気
調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育
てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、な
ど。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。

Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●秀吉と浜松(Hideyoshi & Hamamatsu)
Do you know the fact that Hamamatsu city has produced many well-known people such as  
Honda, Suzuki and Toyota. Tokugawa-Ieyasu once lived in this city. But few know that 
Hideyoshi lived here for three years when he was about 15 years old.

私が住む浜松市は、不思議な町である。
古くは徳川家康の住んだ町として知られている。
そのため浜松城は、別名、「出世城」とも呼ばれている。

現在にいたっては、ホンダ、スズキ、それにトヨタの創始者は、
すべて、この浜松市周辺で生まれ育っている。

が、忘れてならない人物に、もう1人、いる。
豊臣秀吉である。

「当時、15歳だった秀吉は、生まれ故郷を飛び出して、
行商をしながら東海地方を転々としていた。

そして浜松で、松下加兵衛(かへい)と出会う。
江戸時代に書かれた『太閤記素性記』によれば、
加兵衛はそのとき、『猿かと思えば人、人かと思えば猿』
という印象を秀吉に抱いたという」(日本史・河出書房新社)
とある。

そのあとの話は省略するが、もしこのとき秀吉が加兵衛に
会っていなければ、その後の秀吉は、なかったと
断言してもよい。

秀吉は加兵衛に、3年間奉公し、生まれ故郷の尾張に帰っていく。
つまり、秀吉も、この浜松に住んでいたことがある!

なお秀吉は天下を取ったあと、「……そこで1585年(天正13)ごろ、
秀吉は昔の恩に報いるため、加兵衛を招き、丹波国に2000石、伊勢国内に
1000石を与えた」(同書)そうだ。

秀吉と加兵衛、それに浜松とのつながりには、相当なものが
あったようだ。

……ということで、私も、この事実を、はじめて知った。

ついでながら、私を幼児教育の世界にはじめて導いてくれたのが、
恩師、故松下哲子(のりこ)先生である。
同姓であるところが、少し気になる。

フ〜ン。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2707)

【6月27日】(June 27th, 2008)

●引っ越し(Shifting)
Soichi started his job at the university on Monday. My classes start in 
a couple of weeks. The kids like it here. Bloomington seems to be a 
nice town with a lot of cultural influences.

++++++++++++++

誠司(孫)の家族が、それまでの
アーカンソー州から、今度は、
インディアナ州へと、引っ越した。

新しい住所(家)も決まったらしい。
今朝、その連絡が届いた。

新しい住所は、
インディアナ州、ブルーミングトン。

デニーズ(=嫁さん)は、2、3週間後
から、インディナ州立大学の
ロー・スクールに通い始めることになっている。

息子は、同じ大学の中で、コンピュータ
技師として働くことになっている。

……こういうことが、自由にできるところが、
すばらしい。
プラス、うらやましい。

デニースは、全額、学費を、奨学金で
まかなうという。

一方、息子は、一度は、主夫業を覚悟した。
2人の子どもが、まだ幼いからである。

そういうことも配慮してくれたのかどうかは
知らないが、大学側が、二男を雇ってくれた。
ゆるやかな勤務態勢で、子育てにも支障は、
ないそうだ。

日本的に言えば、「夫が妻のために、犠牲になる」
ということだが、息子夫婦には、そういう発想は
まったくない。

この前日本へ来たとき、息子は、こう言っていた。
「デニーズの夢をかなえさせてあげたい」と。

そのため息子は、カルフォルニアにあるグーグル社
への入社を断念した。
息子には息子の、コンピュータ技師としての
夢があった。

私の気持ちは、複雑だった。
「嫁というのは、自分の娘と考えてよいのか、
それとも、基本的には他人なのか」と。
しかし孫の誠司と、芽衣を起点にものを考えたとき、
その迷いは氷解した。

繰りかえしになるが、……こういうことが、
自由にできるところが、すばらしい。
プラス、うらやましい。

「やっぱり、アメリカだなア」と思う。

この日本で、一介の家庭の主婦が司法試験に
合格して、弁護士をめざすというようなことは、
考えられるだろうか?

しかも子育て真っ最中の主婦が!

加えてデニーズは、首席で卒業はしている
ものの、文学部出身である。

そのことを二男に確かめると、二男は、
こう教えてくれた。

「デニーズは大学でのスコア(成績)が
よかったら、合格できた」と。
しかしそれだけではないと思う。

そのデニーズについて、息子が、こんな
BLOGを書いている。

++++++++++++++

この前結婚したばかりのような気がしていたのだけど、今月でもう結婚生活6年目になる。

今日友達の家族が行っているモルモン教の教会で、「トラック・オア・トリーティング」っていう、
教会の駐車場でお菓子を配るイベントがあったので、家族を連れて行ってきた。今年の誠司は
カウボーイ、芽衣は数年前、誠司が嫌がって着てくれなかったスーパーマンの衣装を、「スーパ
ーガール」ということにして無理やり着せて行くことにした。(明日のトリック・オア・トリーティング
でもこの衣装にする予定。)

早めに行ったのだけど、もうすでにキャンディーがなくなりかけているトラックがあった。それを
見てディニースが、「キャンディーは誠司だけもらうことにして、芽衣のはいらないわ。他の子供
達がキャンディーをもらえなくなってしまうから」と言った。

僕はこういう妻が誇りに思えてならない。他人のことをまず先に思いやり、どんなにくだらない
約束でも必ずそれを守る。道徳とか、誠実さとか、そういうのはいくら本を読んで考えても、誰
かから話を聞いても、簡単に身に付けられるような物ではないと聞く。しかし彼女の日ごろの何
気ない行動にはいつも色々教えられてばかりだ。

これからも彼女と一緒に生きていきたい。

+++++++++++++++

当初は、「アメリカ人の女性だから……」と
思ったこともないわけではない。
しかしデニーズの誠実さは、私も直接、
肌で感じている。

いつも私にワイフにこう言っている。
「あんな誠実な女性を、ぼくは知らない」と。

きっとすばらしい弁護士になることだろう。
これから2年間、きびしい勉学が待っている。

がんばれ、デニーズ!


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●感想(Impressions)

+++++++++++++++++++++

人はなぜ生きるか……?
私のばあい、なぜ、こうして毎日ものを書いているか……?
それは、私が今生きているという感動を、
ほかのだれかと共有するためではないか。

もしそれがなかったら、私はただの抜け殻。
死の待合室で、死を待つ、ただの老人。

+++++++++++++++++++++

昨日、家に帰ると、先日掛川市の保健センターで
した講演の感想記が届いていた。

遅い夕食を食べながら、それを読んだ。
ジンと胸が熱くなった。
うれしかった。

このところ日程が合わなくて、講演を断ることが
多くなった。
体力的な限界を感ずることもある。

そうそう、私はどんな講演でも、引き受けたときは、
その数日前から、コンディションを整えるため、
運動量をふやすことにしている。
ボンヤリとした頭では、講演はできない。

いつも真剣勝負。

感想記を届けてくれた、KSさん、ありがとう!

本当にうれしかったです。

(感想記は、HPの講演の記録のところに
掲載しておきます。)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

【日本人にとっての、拉致問題】

●意識のズレ(A difference in consciousness)(To: USA Embassy of Japan)
Ms. C. Rice of the White House has apparently got a different consciousness from ours. She 
seems to be a very smart lady but she believes in herself too much and has no ears to 
listen to the voices of other world. It is OK for her to believe that she is right, but it is not 
OK for her to think all except her are wrong. She has not yet recognized that she has 
destroyed the relationship between Japan and USA. Here I'd like to explain about the 
difference of consciousness between two countries.

++++++++++++++

意識のちがいというのは、
相対的なもの。

こちらが相手の意識はおかしいと
思っているときは、相手もまた、こちらの
意識はおかしいと思っているもの。

大切なことは、そうした意識の
ちがいを感じたら、たがいに
認めあうこと。

それができる人を、協調性の
ある人といい、人格の完成度が
高い人という。

意識のちがいを説明する前に、
まずつぎの原稿を読んでほしい。

もうこの原稿を書いてから、
10年になる。

+++++++++++++

●忠臣蔵論

 浅野さん(浅野内匠頭・あさのたくみのかみ)が、吉良さん(吉良上野介・きらこうずけのすけ)
に、どんな恨みがあったかは知らないが、ナイフ(刀)で切りかかった。傷害事件である。

が、ただの傷害事件でなかったのは、何といても、場所が悪かった。浅野さんが吉良さんに切
りかかったのは、もっとも権威のある場所とされる松之大廊下。今風に言えば、国会の廊下の
ようなところだった。浅野さんは、即刻、守衛に取り押さえられ、逮捕、拘束。

 ここから問題である。浅野さんは、そのあと死刑(切腹)。「たかが傷害事件で死刑とは!」
と、今の人ならそう思うかもしれない。しかし300年前(元禄14年、1701年)の法律では、そ
うなっていた。

が、ここで注意しなければならないのは、浅野さんを死刑にしたのは、吉良さんではない。浅野
さんを死刑にしたのは、当時の幕府である。そしてその結果、浅野家は閉鎖(城地召しあげ)。
今風に言えば、法人組織の解散ということになり、その結果、429人(藩士)の失業者が出た。

自治体の首長が死刑にあたいするような犯罪を犯したため、その自治体がつぶれた。もともと
何かと問題のある自治体だった。わかりやすく言えばそういうことだが、なぜ首長の交代だけ
ですませなかったのか? 少なくとも自治体の職員たちにまで責任をとらされることはなかっ
た。……と、考えるのはヤボなこと。

当時の主従関係は、下の者が上の者に徹底的な忠誠を誓うことで成りたっていた。今でもそ
の片鱗はヤクザの世界に残っている。親分だけを取り替えるなどということは、制度的にもあり
えなかった。

 で、いよいよ核心部分。浅野さんの子分たちは、どういうわけか吉良さんに復讐を誓い、最終
的には吉良さんを暗殺した。「吉良さんが浅野さんをいじめたから、浅野さんはやむにやまれ
ず刀を抜いたのだ」というのが、その根拠になっている(「仮名手本忠臣蔵」)。そうでもしなけ
れば、話のつじつまが合わないからだ。

なぜなら繰り返すが、浅野さんを処刑にしたのは、吉良さんではない。幕府である。だったら、
なぜ浅野さんの子分たちは、幕府に文句を言わなかったのかということになる。「死刑というの
は重過ぎる」とか、「吉良が悪いのだ」とか。

もっとも当時は封建時代。幕府にたてつくということは、制度そのもの否定を意味する。自分た
ちが武士という超特権階級にいながら、その幕府を批判するなどということはありえない。そこ
で、その矛先を、吉良さんに向けた。

 ……日本人にはなじみのある物語だが、しかしオーストラリア人にはそうでなかった。一度、
この話が友人の中で話題になったとき、私は彼らの質問攻めの中で、最終的には説明できな
くなってしまった。ひとつには、彼らにもそういう主従関係はあるが、契約で成りたっている。つ
まり彼らの論理からすれば、「軽率な振るまいで、子分の職場を台なしにした浅野さん自身に、
責任がある」ということになる。

 さてあなたなら、こうした疑問にどう答えるだろうか。彼らにはたいへん理解しがたい物語だ
が、その理解しがたいところが、そのまま日本のわかりにくさの原点にもなっている。「日本異
質論」も、こんなところから生まれた。

++++++++++++

オーストラリアも、基本的には、白人の国。
しかしアメリカ人なら、もっと合理的に
ものを考えるだろう。

(1)なぜ浅野内匠頭の家臣たちは、復讐の矛先を、被害者である吉良上野介に向けたのか。

わかりやすく言えば、酒場で浅野さんが吉良さんにナイフで斬りかかった。
そのため浅野さんは、障害致傷罪で逮捕され、有罪になった。

浅野株式会社の社員たちは、吉良さんへの復讐を誓った。

(2)なぜ浅野内匠頭の家臣たちは、復讐劇へと走ったのか。

バカなことをして、逮捕されたのは、自分たちのボスである。だったら、第一義的には、ボス
に、その責任を問えばよい。

つぎに死罪では罪が重すぎるというのであれば、裁判所もしくは、その上の政府に、抗議すれ
ばよい。「何がなんでも、ナイフを振り回したくらいのことで、切腹はないだろう」と。

(3)吉良上野介を暗殺したところで、何が、どう解決するのか。

すでに浅野株式会社は、倒産している。社員たちは失業状態。そんな中、当の被害者である
吉良さんを暗殺したところで、何が、どう変わるというのか。

社員たちは、浅野さんのことは早く忘れて、再就職を考えたほうがよい。

 が、この日本では、そうは考えない。とくに江戸時代の人たちは、そうは考えなかった。つま
り、ここに意識のズレがある。

●アメリカ流合理主義のかたまり

 アメリカのC・ライス国務長官の一連の言動を見ていると、アメリカ合理主義のかたまりのよう
な気がする。

 何もかも合理的なのだが、どこかピントがずれている。ときに狂信的であるようにさえ感ず
る。中東問題にしてもそうだが、日本の拉致問題にしてもそうだ。

 だから、中東政策でも失敗。そして今度は、北朝鮮問題で失敗しようとしている。日本人に向
かって、今ごろ「拉致問題は忘れない」は、ない。日本人の怒りというものが、どういうものか、
まるでわかっていない。

 もっともC・ライス国務長官の脳みそでは、わからないだろうと思う。「自分たちの考え方がぜ
ったい正しい」と思う、その返す刀で、「あなたがたにとっても、それがいちばん」と切りこんでく
る。

 日本人には日本人の意識がある。

 ここに書いた忠臣蔵についても、合理的にものを考えれば、そうかもしれない。しかしあわせ
て日本には日本の歴史というものがある。それから生まれる民族意識というのも、ある。「忠臣
蔵の家臣たちは、バカだった」と言われれば、日本人なら、みな、頭にカチンとくるだろう。

 アメリカ流の合理主義だけで、ものごとを考えてもらっては、困る。

 C・ライス国務長官、C・ヒル次官補の一連の言動を見ていると、では今までの日米同盟は何
だったのか、と、そこまで考えてしまう。

 それほどまでに北朝鮮は重要な国なのか。譲歩に譲歩を重ね、ハードルをさげにさげてま
で、国交を回復しなければならない国なのか。

 しかも最大の同盟国である日本を、裏切ってまで! 

 そういう点でも、意識のズレというのは、恐ろしい。いや、ズレがあるならあるで、しかたのな
いこと。C・ライス国務長官は、もう少し、日本人のもつ意識に耳を傾けてほしい。頭のよい人
かもしれないが、あなたの人格の完成度は、残念ながら、きわめて低い。

+++++++++++++++

もう一作、「世にも不思議な留学記」
からの原稿を紹介します。

意識のズレについて、もう一歩
踏み込んで理解していただければ、
うれしいです。

+++++++++++++++

●珍問答

 私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。中には、「空手を教え
てくれ」「ハラキリ(切腹)の作法を教えてくれ」というのもあった。あるいは「弾丸列車(新幹線)
は、時速150マイルで走るというが本当か」「日本では、競馬の馬は、コースを、オーストラリア
とは逆に回る。なぜだ」と。さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあっ
た。話を聞くと、「カルピス」という飲料を誤解したためとわかった。カウは、「牛」、ピスは、ズバ
リ、「小便」という意味である。

●忠臣蔵論

 が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、4、5人の学生が私を囲んで、こう
聞いた。「忠臣蔵を説明してほしい」と。いわく、「浅野が吉良に切りつけた。浅野が悪い。そこ
で浅野は逮捕、投獄、そして切腹。ここまではわかる。しかしなぜ、浅野の部下が、吉良に復
讐をしたのか」と。加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。そ
れに死刑を宣告したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府に
抗議すればよい。また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。どうしてボ
スに責任を追及しないのか、と。

 私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本人は、
水戸黄門に頭をさげるのか。水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるのか」と。私が、
「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。

 イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになっている。たと
えばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。体中を鉄板でおおい、たった一人
で、総督府の役人と戦った男である。イギリスにも、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウォレスという
人物がいた。

●日本の単身赴任

 法学部でもこんなことが話題になった。ロー・スクールの一室で、みながお茶を飲んでいると
きのこと。ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。「日本には単身赴任(当時は、短期出張と
言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)という制度があるが、法的な規制はないのか
ね?」と。そこで私が「何もない」と答えると、まわりにいた学生たちまでもが、「家族がバラバラ
にされて、何が仕事か!」と叫んだ。

 日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでいるか
ぎり、絶対にわからない。が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が日本へ帰
ってきてからのことである。

●泣き崩れた母

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのときす
でにM物産を退職し、教師になっていたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩
れてしまった。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア
〜」と。

だからといって、母を責めているわけではない。母は母で、当時の常識に従って、そう言っただ
けだ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支えてくれると思っていた。が、その一言で、私
はすっかり自信をなくし、それから30歳を過ぎるまで、私は、外の世界では、幼稚園の教師を
していることを隠した。一方、中の世界では、留学していたことを隠した。どちらにせよ、話した
ら話したで、みな、「どうして?」と首をかしげてしまった。

 が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、ほかな
らぬ、オーストラリアの友人たちである。みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらしい仕事だ」と。そ
の励ましがなかったら、今の私はなかったと思う。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 意識のズレ 浅野内匠頭 吉良
上野介 忠臣蔵 意識論)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●盗作事件・立松W氏のばあい(Plagiarism doubt by Wahei Tatematsu)
Wahei Tatematsu, a well-known writer in Japan, plagiarized someone's else book in 1993 and 
this time again. When his plagiarism was disclosed, he was crying against TV monitors, "I was 
forgiven (by the author)". This is not the matter which may be forgiven or not forgiven. 
Whatever he is, he is such a writer on such a level.

++++++++++++++++

テレビ画面に向かって、「許してもらえました」と、
泣きじゃくっていた。
当時の立松W氏は、そういう作家だった。

盗作を、「許してもらえた」というのも、おかしな
話である。
相手に「許してもらう」とか、「許してもらえない」とか、
そういうレベルの問題ではない。

ことの発端は、『1993年に、小説「光の雨」を
文芸誌に連載中、小説が連合赤軍事件の坂口H死刑囚の
自伝的著作に、酷似していた』(毎日新聞)こと。

坂口H氏の支援者たちは、「盗用だ」と、立松W氏に、抗議した。
で、立松W氏は、坂口氏と直談判。
冒頭の謝罪会見となった。

が、それから15年。

今度は、『小説「二荒(ふたら)」(新潮社)の記述の一部が、
栃木県日光市職員、福田Kさんの著書「日光鱒釣紳士物語」
(山と渓谷社)と類似していることが分かった』(同紙)という
(08年6月27日)。

『「二荒」は、日光市を舞台に、実在の人物をモデルにした、
恋愛小説。昨年9月に刊行され、今年2月、福田さんが、
自分の本に似ていると指摘。新潮社が調査したところ、
第2章の冒頭、登場人物のせりふなどが、福田作品の
創作部分と似ていた。新潮社は「参考文献として挙げて
いたものの、参考の域を超えて使用していると判断せざるを
得ない」と、4月末に絶版を決めた』(同紙)という。

++++++++++++++

同じ盗作でも、有名な人が、無名の人の作品を盗作するというのは、
タチが悪い。
許せない。

立松W氏は、自然派作家を売り物にしているが、どこかウサン臭い。
テレビ画面に向かって泣きじゃくる、あの顔を見ながら、私は
そう感じた。

(当時の私は、泣きじゃくるという、子どもじみたその様子に
驚いたが……。)

で、今回の盗作疑惑。

今度は、日光市の職員、福田Kさんという人の著書から。

こうした盗作が発覚するのは、偶然に、さらに偶然が重なった
ばあいのみである。
つまりめったに発覚することはない。
言いかえると、2度も発覚したということは、立松W氏は、
かなり常習的に盗作を繰りかえしていたとみてよい。

(当の立松W氏は、新聞社の記者の質問に答えて、あれこれと
弁解しているが……。)

というのも、これは(もの書き)と呼ばれる人たちの共通の心理と
言ってもよい。
自分の名誉にかけて、盗作だけはしたくないというブレーキが、常に働く。

「一度、したら、おしまい」というプレッシャーもある。
つまり私のような、まったく無名の(もの書き)ですら、
いつも心のどこかで、それを念じながら、ものを書く。

いわんや、立松W氏のような、有名な作家だったら、なおさら。
盗作すれば、発覚する可能性は、はるかに高い。

が、そのブレーキは、ない人にはない。
自分の文章であろうが、他人に文章であろうが、それを平気で
金儲けにつなげていく。

新潮社が、「参考文献として挙げていたものの、参考の域を超えて、
使用していると判断せざるを得ない」、そのため、「絶版を決めた」と
判断したほどだから、盗作と断定してよい。

が、立松W氏には、そのブレーキが働かなかった?
「たまたま今回、一度だけ」という弁解は、もう通用しない。

作家が、盗作をするというのは、教師が女子トイレをのぞき見る
ようなもの。
一方でいくら高邁な人生論を説いても、その時点で、作家生命は
終わる。

さあ、どうする、立松W氏?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Plagiarism doubt Wahei 
Tatematsu Tatematu立松和平 盗作疑惑 盗作作家)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●Game Addiction Similar to Autism
(ゲーム中毒は、自閉症に似ている)

+++++++++++++++++++++++

イギリス心理学学会は、つぎのような研究結果を
公表している(2008年4月3日)。

つまりビデオゲームに中毒的な兆候を見せる人は、高機能自閉症の症状に似た振る舞いを見
せる、と。

++++以下、「The British Pyschological Society」HPより、要約++++++

Research presented at the British Psychological Society's Annual Conference this week 
suggests that people who show signs of being addicted to videogames exhibit many of the 
same symptoms as those with Asperger's syndrome, a form of high-functioning autism.

The University of Bolton's Dr. John Charlton and Ian Danforth of Whitman College 
questioned 391 gamers, focusing on the relationships (if any) between addiction, "high 
engagement" and personality. "Our research supports the idea that people who are heavily 
involved in game playing may be nearer to autistic spectrum disorders than people who 
have no interest in gaming," said Charlton.

ボルトン大学の研究者らによると、「過度にゲームに熱中する人は、そうでない人よりも、自閉
症スペクトラムに、より近いということがわかった」という。

The more intense the gaming addiction, the more likely the subject was to display three 
character traits commonly associated with Asperger's: neuroticism, a lack of agreeableness, 
and a lack of extroversion. In other words, people who do nothing but play videogames tend 
to be obsessive, shy, and unpleasant. Well, duh.

たとえば(過度にゲームに熱中する人は)、アスペルガーに似た3つの症状を示す。(1)神経
症、(2)同調性の欠如(a lack of agreeableness)、(3)外向性の欠如(内向性)(a lack of 
extroversion)。

Those afflicted with Asperger's often have trouble relating to other people, finding 
themselves unable to pick up on subtle social cues or understand humor. Charlton and 
Danforth believe that gaming addicts have similar difficulties, and find it easier to relate to 
games than to real people.

アスペルガーでは、他者との関わりにおいて、しばしばトラブルを起こす。たとえば微妙な問題
や、ユーモアが理解できない、など。
研究者らは、ゲーム中毒の人も、同じような問題をもっていると信じている。

Charlton and Danforth aren't suggesting that gaming addiction is also a form of autism, 
merely that those who can't put down the controller are "nearer to the non-empathising, 
systemising, end of the spectrum," along with "engineers, mathematicians and computer 
scientists." Well, at least they're in fairly brainy company.

ゲーム中毒が自閉症を引き起こすということではない。ただゲーム中毒の人は、技師、数学
者、コンピュータ科学者と並んで、他人に対して、共鳴性が欠落(the non-empathising, 
systemising)しやすいということ。

++++以上、「The British Pyschological Society」HPより、要約++++++

ゲーム中毒が、自閉症を引き起こすということではない。
(近年、自閉症の原因は先天的なもので、後天的な環境によるものではないという説が、定説
化している。)
しかしゲームに夢中になりすぎると、自閉症スペクトラムに似た症状が現われるということらし
い。
「スペクトラム(濃淡の幅)」というのは、自閉症といっても、幅が広く、症状も千差万別であるこ
とをいう。

隣の韓国では、ゲームも含めて、ネット中毒が、社会問題化している。
学校ごとにカウンセラーも配置し、子どもの指導にあたっている。
が、この日本では、いまだに野放し。
いいのか、日本!
このままで!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム中毒 ネット中毒 自閉
症 自閉症スペクトラム)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2708)

●『告発のとき』+言葉感覚
My ability in my language has been getting worse? 

++++++++++++++++

トミー・リー・ジョーンズ主演の映画、
『告発のとき』を見てきた。

原題は『In the Valley of Elah』?

さらに原題は、『Death and Dishonor』?
『Death and Dishonor』は、雑誌・プレイボーイに
掲載されたときの原題。

「死と不名誉」という意味である。

どうであるにせよ、『告発のとき』という題名は、
おかしい?
映画の内容と一致しない?

映画を見終わったあと、「どうしてそんな題名なのか?」と思った。
そう思ったところで、私の思考は停止状態になってしまった。

(あるいは私の言葉感覚がおかしいのかもしれない。)

内容は、「アメリカで怒った実在の事件を
モデルにした人間ドラマ」(Anemo
Movie・HP)だ、そうだ。

同じHPには、つぎのようにある。

「……退役軍人(トミー・リー・ジョーンズ)の息子(ジョナサン・タッカー)は、イラクの最前線から
アメリカに帰国した直後に、軍隊から脱走する。地元警察の捜査官(シャーリーズ・セロン)の
助けを借りて、父は息子を探しだそうとするが、そこにはある秘密が隠されていた。真実を追
い求めるにつれて、父親の知らない息子の素顔が明らかになっていく……」(同HP)と。

「秘密」といえば、秘密ということになるが、
しかし「告発」という言葉とは、どう考えても
結びつかない。

その映画を見てから、今日で3日目になるが、
いまだに、その疑問が解けないでいる。

どうして『告発のとき』なのか?
原題の『イーラの谷で』でもよかったのでは?
あるいはプレイボーイ誌に載った、『死と不名誉』でも
よかったのでは?

ただし、私がスクリーン上で見た原題(英文)は、
別のものだったように気がする。
だれかの個人名を含んだ原題だったように
記憶している。

(このあたりがあいまで、ゴメン!)

ともかくも、『告発のとき』を見てきた。
星は、3つの★★★。

よい映画だとは思うが、娯楽映画ではない。
(Anemo Movie)が解説しているように、
「人間ドラマ」。

私は基本的には、娯楽映画を好む。
劇場まで、お金を払って見に行く以上、
それなりに楽しみたい。
ハハハと笑いながら、楽しみたい。

というわけで、深刻な映画は、どうも肌に合わない。

その映画についても、全体としてみると、退廃的で、殺伐としている。
殺人、麻薬、酒、女……、と。

で、星は、3つ。
2つでもいいかな……?

私が「やっぱり、インディ・ジョーンズのほうにすればよかった」
と言うと、ワイフも、「そうね。次回の楽しみよ」と応じてくれた。

……しかしどうしてインディ・ジョーンズは、
あれほどまでにはげしい戦闘を経験しながら、
PTSD(心的外傷後ストレス障害)にならないのだろう?

屈強なアメリカ兵でも、インディ・ジョーンズの
ような経験をしたら、数日で、PTSDになってしまうだろう。
『告発のとき』の中のマイク(息子)のように……。

ついでながら、時事通信は、たまたま今日、こんな事実を
伝えている(6月30日)。

+++++++++++以下、時事通信より抜粋+++++++++++++

【ワシントン29日時事】米陸軍で昨年自殺した兵士は、前年より約13%増の115人だったこ
とが29日、わかった。1990年以降最悪という。米主要メディアが伝えた。

 イラクやアフガニスタンでの戦いが長期化し、兵士の心的外傷後ストレス障害(PTSD)が深
刻化。米国防総省内では対策が緊急の課題となっている。

 陸軍の調査では、43%が帰国後に、24%が最初の派遣で自殺していた。自殺者には州兵
と予備役も含まれている。また、935人が自殺を試みた。

+++++++++++以上、時事通信より抜粋+++++++++++++

戦争は、純朴な若者を、悪魔へと変えていく。
『告発のとき』という映画は、それを私たちに
伝えたかったのだろう。

それはよくわかるが……。

++++++++++++++++

●私の言葉感覚

++++++++++++++++

私の言葉感覚がおかしいのか?
それとも、世間一般の言葉感覚の
ほうが、おかしいのか?

「言葉感覚」という話が出たので、
ついでに、こんな話も書いてみたい。

++++++++++++++++

私の言葉感覚がおかしいのか?
それとも、世間一般の言葉感覚の
ほうが、おかしいのか?

まず、つぎの文章(詩)を読んで
みてほしい。

この詩は、ある青年が、26歳
のとき、書いたものである。
そのまま紹介する。

++++++++++++++++

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い証明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの古い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

++++++++++++++++

失礼があってはいけないので、一字一句、誤りがないように、
私自身がタイプして転写してみた。

この詩について、ある女性は「電撃に打たれた
ような衝撃と感動を覚えた」と書き、また
別の男性は、「人と人の交流の大切さを教える
すばらしい詩」と評している。

ウィキペディア百科事典の中にも、「特筆すべきは、
作者の特異で旺盛な自然との交感力である」とある。

私は、「フ〜〜ン」と思っただけで、そのあとの
言葉がつづかない。

もし私の身近で、こういう詩を書く人がいたら、
私は、まずその人の脳みその状態を疑うだろう(失礼!)。
相手が中学生か高校生だったら、「C」をつけた上、
書きなおしを勧めるかもしれない。

それとも私の言葉感覚がおかしいのか?

もちろんこんなことを書けば、私の脳みその状態の
ほうが疑われる。

そこで再度、この詩を読みなおしてみる。
(読者のみなさんも、どうか読みなおしてみてほしい。)

私以外の人たちは、「すばらしい」「すばらしい」と
この詩を賞賛する。
が、私には、どうにもこうにも理解できない。
理解できないばかりか、読めば読むほど、
気が変になっていくようにすら感ずる。

読者のみなさんは、どうであろうか?

ということで……実は、この詩は、あの宮沢賢治
(1896〜1933)が、26歳のときに書いたものである。
出典は「春と修羅」序文。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

『詩集では制作日として(1922・4・8)という注記がある(賢治の場合、発表までの間に何度も
書き直しを行う場合がほとんどであるため、第一稿を着想ないしは執筆した日付と考えられて
いる)。また、タイトルに"mental sketch modified"という副題が付されている。なお、本詩集中
の「青い槍の葉」「原体剣舞連」にも同じ副題が付いている』と。

この詩のみならず、私は同じような印象を、
あの『注文の多い料理店』を読んだときにも、もった。

『二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、
白熊のような犬を二疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云い
ながら、あるいておりました。

「ぜんたい、ここらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、
早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ……」という、あの『注文の多い料理店』である。

みなは「すばらしい」「すばらしい」と絶賛する。
学校で使う教科書にも載っている。
英文のみならず、いろいろな言語に翻訳されて、世界中に紹介されている。

さらに宮沢賢治個人については、記念館もある。
作品館もある。
宮沢賢治の作品を研究する学会まである。

そういう宮沢賢治のような「国民的作家」(某HP)の
代表作に「?」マークをつけるのは、たいへん勇気の
いることである。

むしろ私のほうが、袋叩きにあってしまう。
あの『注文の多い料理店』にしても、「宮沢賢治が、
都会から来たハンターに敵意をもっていたことがわかる、
秀作」(某HP)というのが、一般的な評価である。

やはり私は、「フ〜〜ン」と思っただけで、そのあとの
言葉がつづかない。

もう一作、『春と修羅』より、紹介する。

+++++++++++++++

心象のはいいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の濕地
いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
(正午の管楽(くわんがく)よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき) 
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
碎ける雲の眼路(めじ)をかぎり
 れいらうの天の海には
  聖玻璃(せいはり)(せいはり)の風が行き交ひ
   ZYPRESSEN春のいちれつ
    くろぐろと光素(エーテル)(エーテル)を吸ひ
     その暗い脚並からは
      天山の雪の稜さへひかるのに
      (かげらふの波と白い偏光)
      まことのことばはうしなはれ
     雲はちぎれてそらをとぶ
    ああかがやきの四月の底を
   はぎしり燃えてゆききする
  おれはひとりの修羅なのだ
  (玉髄の雲がながれて
   どこで啼くその春の鳥)
  日輪青くかげろへば
   修羅は樹林に交響し
    陥りくらむ天の椀から
    黒い木の群落が延び
      その枝はかなしくしげり
     すべて二重の風景を
    喪神の森の梢から
   ひらめいてとびたつからす
   (気層いよいよすみわたり
    ひのきもしんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSENしづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく
 修羅のなみだはつちにふる) 
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみぢんにちらばれ)
いてふのこずえまたひかり
ZYPRESSENいよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ 

++++++++++++++

一説によると、宮沢賢治自身は、生きている間は、
著作による収入は、ほとんどなかったと言われている。
彼が有名になるのは、むしろ死んだあとからのことらしい。

ウィキペディア百科事典にも、「死の直後から、
主に草野心平の尽力により、多数の作品が刊行された」とある。

どうであるにせよ、やはり私の言葉感覚のほうが、
おかしいようである。

ただ私のワイフだけは、こう言った。
「私たちは作られた虚像に振り回されているだけじゃ、ないの?」と。

そうかもしれない。
そうでないのかもしれない。

……それとも私やワイフの脳みその能力が低下したの
かもしれない。

あとの判断は、読者の皆さんに任せる。

+++++++++++++++++

●再び『告発のとき』

結論というわけでもないが、私は、どうしても
『告発のとき』というタイトルに違和感を覚えてしまう。

どうして『告発のとき』なのか?

フ〜〜ン。

やはり私の言葉能力のほうが、おかしいのかもしれない。
あるいは少しボケてきた?
そういう心配もあるので、よけいに気になるのかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 宮沢賢治 春と修羅 注文の多
い料理店 告発のとき はやし浩司 言葉感覚 言語能力 言語感覚)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●都市伝説(The Legend made by TV Stations)

+++++++++++++++++

2008年5月から6月にかけて、韓国で、
常識では理解できないデモが発生した。
先週の6月26日にも、デモが発生したという。

連日、キャンドルを片手にした数万人単位の
群衆が、「アメリカ産牛肉輸入禁止」の
デモを繰り広げた。

が、やがてそれが暴徒化。
新聞社を襲撃したり、機動隊員や民間人に対して
無差別暴力を繰りかえすようになった。

その中には、多くの小中学生までもが加わっていた。
「まだ15歳なのに死んでいくしかないのか」と、将来を悲嘆する
子どもまで現われたという(朝鮮N報)。

そのため連日のデモにより、イ大統領は、
青瓦台の人事刷新、内閣改造という事態にまで追い込まれた。

当初は左派系の政治団体が、右派系の
大統領府を攻撃するために、政治的にしくまれた
デモを疑われた。

それにしても、なぜにこれほどまでに過激な(?)デモに
なってしまったのか?

「たかが……」というと、叱られるかもしれないが、
たかが牛肉問題ではないか。

「米国で米国産牛肉を食べて狂牛病に
かかった人は一人もいない」
「狂牛病が人に感染したと考えられている
変異型クロイツフェルト・ヤコブ病の発症例は、
今年に入り世界で1件もない」(朝鮮N報)
という事実があるにもかかわらず、
韓国の人たちは、デモに走った。

なぜか?

私は一連のデモ騒動についての報道を見ながら、
あのH・G・ウェルズの『宇宙戦争』を
思い浮かべていた。

「ひょっとしたら韓国の人たちは、だれかに
踊らされているだけではないのか?」と。

+++++++++++++++++

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

+++++++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より++++++++

ラジオドラマ『宇宙戦争』(うちゅうせんそう、The War of the Worlds)は、オーソン・ウェルズが、
H.・G・ ウェルズ作『宇宙戦争』を、ラジオ番組化したものである。

1938年10月30日にハロウィン特別番組として、アメリカのラジオ番組Mercury Theatre on the 
Airで放送された。この生放送は多くの聴取者を恐怖させ、実際の火星人侵略が進行中である
と信じさせた。侵略がフィクションである旨を告げる「お断り」が何度もあったと言われるが、そ
のうちの1度は放送開始直後、残り2度は終了間際であったため、その間、聴取者側から見れ
ば、混乱と恐怖のための時間が充分残っていた。

オーソン・ウェルズの翻案は、おそらく歴史上最も成功したラジオドラマ作品であろう。それは、
Radio Projectの最初の研究課題のひとつとなった。

ただし、このパニックについては、疑いも持たれている。当時新興メディアであったラジオに対
して警戒心をあらわにしていた新聞がことさらにバッシングを行ったことが都市伝説化したもの
だとする説も有力である。

+++++++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++

デモの様子について、毎日新聞は、つぎのように伝える。

+++++++++++++以下、毎日新聞より+++++++++++++++++

【ソウル中島哲夫】韓国の米国産牛肉輸入反対デモが過激化し、機動隊と衝突するだけでな
く、デモに批判的な保守系大手紙の本社を襲撃したり、取材カメラマンや一般市民に暴行する
といった事例が相次ぎ始めた。

 5月に始まった一連のデモは機動隊との衝突や警察車両の破壊へと次第にエスカレート。李
明博(イミョンバク)政権が米国との追加交渉を受けて牛肉輸入再開の手続きに踏み切ると、
一気に過激化した。

 26日から27日にかけて、いずれも夜間にデモ隊の一部がソウル都心にある朝鮮日報、東
亜日報の社屋に押しかけ、ハンマーなどで正面玄関の社名ロゴや大型回転ドアのガラスを破
壊、周辺にゴミを積み上げたり汚物をまくなどした。

 朝鮮日報社屋と接続しているホテルも植木鉢や入り口のガラスを割られたうえ、ロビーに大
量のゴミを投げ込まれ、職員3人はデモ隊から殴るけるの暴行を受けた。

 東亜日報カメラマンは取材中、デモ隊に引きずり回されたあげく殴られて失神、病院に運ば
れた。朝鮮日報カメラマンも酒ビンを投げつけられて負傷した。

 28日付の朝鮮日報によると、ホテル被害の現場で抗議した女性市民がデモ隊に取り囲ま
れ、乱暴を止めようとした男性市民とともに殴られた。ホテル襲撃を主導した男を追跡し逮捕し
ようとした刑事も周辺のデモ隊の暴行で妨害され、容疑者は逃走した。

 デモの規模は6月10日をピークに縮小傾向にあるが、一般市民の参加激減に伴い、本気で
李政権退陣を求める戦闘的メンバーの比率が増大。左派系の新聞や、政府の官業民営化方
針に反発する公営や半官半民の主要放送局は「警察の過剰鎮圧」を強調するなどデモ隊に好
意的な報道を続けているが、もはや「非暴力の市民デモ」とは主張しにくい状況になっている。
(毎日新聞6・29)

+++++++++++++以上、毎日新聞より+++++++++++++++++

また朝鮮N報は、つぎのように伝える。

+++++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++++

米牛肉交渉が妥結したのは4月18日のことだった。当時、韓国で「米国産牛肉を食べたら狂牛
病(牛海綿状脳症〈BSE〉)になる」という都市伝説はほとんど聞かれなかった。だが、2週間も
過ぎた5月2日、「まだ15歳なのに死んでいくしかないのか」と中学生や市民がキャンドル集会を
始めた。

 落ち着いていた民心に火を付けたのは、4月29日に放送されたMBCの報道番組『PD手帳』
の「米国産牛肉、果たして狂牛病から安全なのか」だった。これをきっかけに、テレビ局は「米
国産牛=狂牛病」という認識を植え付けるような主張を「じゅうたん爆撃」のように一斉に放送
した。

『PD手帳』の主張の核心は故意の歪曲(わいきょく)やねつ造だったことが白日の下にさらされ
たが、これらの無責任な主張はネットで増幅され、今は世界のどこにも存在しない「狂牛病騒
動」を生み出した。

 MBC『ニュースデスク』では『PD手帳』放送後の三日間、米国産牛肉の危険性を取り上げた
連続企画を放送し、多い日は全ニュース25項目のうち13項目をこの問題に充てた。また、所々
に狂牛病でもない「へたり牛」(自力で歩けずへたり込んだ牛)の映像を挿入し、「米国産牛=
狂牛病」と視聴者を洗脳した。5月4日には「へたり牛は狂牛病が疑われていたが食用と判定さ
れた」という無責任な『PD手帳』の主張を繰り返した。

 KBS『ニュース9』も多いときは全ニュース28項目のうち16項目を米国産牛肉の問題に割い
た。ここでもまた、へたり牛の映像を随時流し、恐怖をあおった。「他国には輸出できない危険
部位が韓国に送られる」「インスタントラーメンのスープ・薬のカプセル・化粧品も安心できない」
という科学的に証明されていない話も放送した。

 KBS『時事トゥナイト』は5月5日、「今年2月に米国で"狂牛病が疑われる牛肉"6万4000トンに
ついて過去最大のリコール(回収)があった」と報じた。だが、このリコールは狂牛病とは関係
なかった。こうした誇張やうそ、都市伝説が朝の主婦向けワイドショー・芸能番組・ラジオでも
次々と流された。ごく常識的だと思われる人々も米国産牛肉と聞くと顔をしかめるほどだった。

 テレビ番組はこうした報道をしながらも、「米国で米国産牛肉を食べて狂牛病にかかった人
は一人もいない」という基本的かつ核心的な事実から目を背けた。申し訳程度に、韓国政府関
係者の発言を1〜2回取り上げただけだった。「狂牛病が人に感染したと考えられている変異
型クロイツフェルト・ヤコブ病の発症例は今年に入り世界で1件もない」という事実も、テレビで
は報じられなかった。

 数日前、カナダで狂牛病にかかった牛が発見されたが、カナダのどこにも狂牛病騒動は起き
ていない。騒動をあおるメディアがないのだ。2000年代初めに世界中を巻き込んだ狂牛病の
恐怖は、このように世界のほとんどの国で合理的な線で落ち着きつつある。だが、韓国のテレ
ビ局の暴力的なパワーは、世界のどこにもない「集団的な狂牛病の恐怖」を韓国だけに生み
出した。その真の目的が何なのかについては、今後一つ一つ明らかになっていくだろう。

++++++++++++++++++

最近、キャンドル集会の規模は大きく縮小しているが、その一方で集会が一層過激さを増して
いるのは、「デモ専門家」といわれる彼らの割合が大きくなっていることが大きな原因と警察は
分析している。

しかし、実際に過激な行為で連行されたり逮捕状が請求されているのは、そのほとんどが大学
生や失業者たちだった。先月24日以降、違法に道路を占拠したり暴力デモで警察に連行され
た768人のうち、363人が大学生と失業者だった。

暴力行為で逮捕された6人も、失業者3人と大学生一人、日雇い労働者二人だった。警察のあ
る関係者は「デモに参加した経験の少ない人間はすぐに連行される。

デモ専門家たちは過激な行動をとる一方で、警察による取り締りが本格的に始まる前にその
ほとんどが安全な地域に逃れている」と述べた。
李吉星(イ・ギルソン)記者

+++++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++++

朝鮮N報の記事によれば、「(テレビ局の)うそとねつ造番組が、
狂牛病騒動を引き起こした」ということらしい。

それにしても、テレビの力には、ものすごいものがある。
改めて、その「力」に驚く。……と同時に、そのお「恐ろしさ」も
覚える。

はたしてこの日本は、だいじょうぶか?

少し前に書いた原稿を紹介する。

++++++++++++++

●インチキ放送

 大阪にあるKテレビ放送局が、またまたインチキ番組を流した。「糸引き納豆は、ダイエット効
果がある」(「あるある大辞典2」)という番組だった。

 たまたま私も、その番組を見た。しかしその番組は、すべてインチキだったというから、すご
い! ……と同時に、静かな怒りが私の心の中に充満した。「また、やられた!」と。

 たしか番組の中では、毎日納豆を食べた人と、食べなかった人の体重を、比較していたと思
う。ともに3人ずつ出演したと思う(私の記憶)。

 結果、毎日食べた人は、3キロ前後の減量に成功。そうでない人は、変化なし、と。

 しかしこれらすべてが、やらせだったとは!

 新聞報道によれば、

(1)中性脂肪が正常値になった……実際には、測定などしていなかった。
(2)納豆を食べた人と、食べなかった人の血液比較……架空のデータ。
(3)アメリカの大学教授の意見……別の研究者の論文を発表。
(4)出演者の写真……まったく無関係の人たちの写真を発表、だそうだ(中日新聞)。

 とくに注意をひくのは、「日本の方々にも身近な食材で……」と、あたかも、その教授が述べ
たかのようなコメントを、日本語訳で流したこと。「アメリカに住む教授だから、アメリカまで、耳
に届くことはないだろう」という、制作者の思惑が、よく見てとれる。

 私もだまされたという点で、このインチキ番組を見過ごすことができない。しかもそれがインチ
キと発覚したのは、何かの偶然によるという。つまりこうしたインチキは、氷山の一角と考えて
よい。

 中日新聞は、「納豆ダイエット、ねつ造」「データ測定なし」と見出しにかかげている。しかしそ
れにしても、悪質! だからといって、これからも納豆を食べるのをやめるわけではないが、し
かしそれを食べている自分が、アホに見えてきた。

 その番組のあと、納豆を食べながら、「納豆って、ダイエット効果があるんだよ」とワイフに話
した私。そんな私に対して、だれが、どう責任を取ってくれるというのか。

(付記)

 日本人は、小ズルイね。ホント。正義なんて、子どものころから、教えていないもの。へたに
正義感を燃やしたら、受験競争そのものから、はじき飛ばされてしまう。そんな体質が、こうし
た事件に集約されている。

+++++++++++++++

ついでにもう一作。
「ニセ科学」について書いた原稿。

+++++++++++++++

●ニセ科学(pseudo science)

In Japan very strangely most of the young people believe that each man's personal 
character is decided by the blood type. It is only one of pseudo science, which widely spread 
throughout Japan.

++++++++++++++++

家具屋の店員に、重い家具を搬入してもらった。
そのとき、私が「こんな家具、地震で倒れたら、たいへんだなア」と、ふと漏らすと、その店員
は、こう言った。
「重いから、倒れません」と。

私は、その言葉を聞いて、あっけに取られた。

血液型による性格判定についても、しかり。
つまり科学性、ゼロ!

++++++++++++++++

 「Imidas、時事トレンド」の中に、こんな記事が載っていた。同志社大学教授の左巻健男氏の
書いたものだが、「人はなぜ、ニセ科学を信ずるのか?」というのが、それ。

 左巻氏は、ニセ科学として、いくつかの例をあげている。そのひとつが、マイナスイオン。

(1)マイナスイオンとは、化学で学ぶ「陰イオン」ではなく、これに近いのが、大気科学の「負イ
オン」である。「滝にマイナスイオンが発生している」と言うばあいには、負イオンだが、これが
健康によいという根拠はない。

プラスイオンは「吸うと心身の状態が悪くなる」のに対して、マイナスイオンは空気を浄化し、吸
うと気持ちのイライラが解消し、ドロドロ血はサラサラに、アトピーや高血圧症にも効き、健康に
もいい」というのである。

これは「納豆ダイエット」でねつ造が発覚したテレビ番組「発掘、あるある大辞典」(フジテレビ
系)が火付け役で、1999年から2002年にかけて、特集番組で驚くべき効能がうたわれた。

そこから有名企業までが、マイナスイオン類似の効果をうたう商品を製品化し、エアコン、冷蔵
庫、パソコン、マッサージ機、ドライヤーや衣類、タオルなど、広範囲の商品が市場に出される
に至った(以上、P162)、と。

 ニセ科学は、血液型による性格判定だけではなかったというわけである。電気店へ行くと、た
しかにその種のうたい文句を並べた商品は多い。私はマイナスイオンにとくにこだわっていた
わけではないが、今度、新しく購入した冷蔵庫にも、それがあった。

 しかし左巻氏に言わせると、それもニセ科学だったとは! しかも火付け役が、あの「発掘、
あるある大辞典」だったとは! 

 左巻氏は、こうつづける。「マイナスイオン測定器でこれらを測定すると、1ccあたり、数10万
個との数値を示すが、空気の分子数とくらべると、微々たる数値にすぎないことに注意を要す
る」(同書)と。

 だからといって、つまりImidasにそう書いてあったからといって、左巻氏の意見を全面的に信
ずるのもどうか、ということにもなる。しかしここは、やはり科学者である左巻氏の意見を尊重し
たい。相手が、「発掘、あるある大辞典」では、話にならない。

 左巻氏も書いているが、本当の問題は、こうしたニセ科学にあるのではなく、「人はなぜ、
ニセ科学を信ずるのか?」という部分。

 もうひとつ、こんな例をあげている。

(2)容器に入った水に向けて、「ありがとう」と「ばかやろう」の「言葉」(文字)を書いた紙を張
り、その水を凍らせる。

すると「ありがとう」の水は、対称形の美しい六角形の結晶に成長し、「ばかやろう」の水は、崩
れた汚い形の結晶になるか、ならない。

ゆえに「水が言葉を理解する」と主張する『水からの伝言』(江本勝著)という本が話題になっ
た。

水という物質が、言葉によって影響を受けるということはない(同書)、と。

 こんなアホなことは、だれにでもわかる。何も、左巻氏の説明を借りるまでもない。しかし、
だ。こんなアホな説を根拠に、教育界でも、「きれいな言葉を使いましょう」運動が広まったとい
う。

 理由は、「人間の体の6〜7割は水だから」と。が、批判が高まると、「それに加担した教育団
体は、ホームページからその授業案を削除したが、いまもどこかで、こうした(道徳)の授業が
行われている」(同書)と。

 しかし、『水からの伝言』とは何か? 江本勝という人物は、どんな人物なのか? 少し前、麻
薬を所持していて逮捕された教育評論家がいた。彼は以前、「子どもにはナイフを持たせろ」
「親が子どもを信頼している証になる」と説いていた。

 その教育評論家は、都会で子どもたちによるナイフ殺傷事件がつづくと、いつの間にか、自
説をひっこめてしまった。私は、左巻氏の意見を読みながら、その教育評論家のことを思い浮
かべていた。

 で、さっそくヤフーの検索エンジンを使って調べてみると、それは、そこにあった。

いわく、「私たちは、水の結晶写真技術に基づいて、愛・感謝の気持ちが水を美しく変化させる
ということを、実証してきました。水をきれいにすることにより、私たちの心身もきれいになり、
健康を取り戻し、本来持っている才能を開花することができるのです。水が変われば世界が変
わります。いっしょに波動と水の可能性を探究しましょう」(「水からの伝言」HPより)と。

 どうやら、本気らしい。

 しかし……? 「?」マークを、1ccあたりに存在する水の分子の数ほど、つけたい。その数
は、約3x10の22乗!(ヤフー・知恵袋参照)

 数字で表してみると、こうなる。

300,0000,0000,0000,0000,0000個!

 しかし、左巻氏ではないが、どうして人は、こんな珍説を信ずるのだろう。あの占星術にして
も、そうだ。科学性は、さらに低い! ゼロどころか、ゼロにもならない!

 これも教育の欠陥といえば、それまでだが、その先には宗教があり、カルトもある。けっして、
軽く考えてはいけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ニセ科学 非科学 納豆ダイエ
ット マイナスイオン マイナス・イオン 水からの伝言 水の結晶)

++++++++++++++++

「みんな、もっと自分の頭で考えよう」。
それがこのエッセーの結論ということになる。

……しかし今回の一連のデモ騒動を見ながら、
いちばんそれを喜んでいるのは、実は、テレビ局
自身ではないかとも思った。

改めてテレビのもつ力を、再認識した……。
うまく操れば、民衆全体を洗脳することができる。
思うがまま操ることができるようになる、と。
(実際、すでに操られているが……。)

とても恐ろしいことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2709)

●今朝・あれこれ(6月30日)

●認知症への道

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昨日、地元のバス会社が運営する
Bツアーを利用して、滋賀県まで
行ってきた。

で、バスに乗ったとたん、ムッと
するような悪臭!
強烈な悪臭!
……ニンニクと酒の臭い!

私たちは、西インターというところで
バスに乗り込んだが、それまで
そのバスは、あちこちで乗客を
集めながら、1時間ほど、走っている。

乗客の中に、ニンニクを食べた人が
いたらしい。
加えてバスの中には、すでに酒
(日本酒や焼酎)を飲んでいる人もいた!

幸い、私たちの席は、最後部。
席につくと、すぐ窓をあけた。

しかしそれにしても、すごい悪臭!

+++++++++++++++

●内側の人格

加齢とともに、内側に潜んでいた人間性が、そのまま
表に出てくるようになる。

若いときは、気力で、それをごまかすことができる。
それらしい人物に、振る舞うことができる。

しかし加齢とともに、その気力が弱くなる。
そのため、ここに書いたように、内側に潜んでいた人間性が、
そのまま表に出てくるようになる。

バスの乗客のうち、55〜60歳くらいの人が、3〜6人。
ほとんどの人は、70〜75歳前後の人たちだった。

7〜8割の人は、静かな会話をしていたが、そうでない人たちもいた。
ギャーギャー、ワハハ、ケタケタ……と。

おまけに冒頭に書いたように、ニンニクと酒の臭い。
臭いというより、強烈な悪臭!
プラス、乗ったときは気づかなかったが、加齢臭!

そういう人たちを見ながら、私は改めて、こう考えた。

「人は、ある日突然、老人になるのではない。
少しずつ、時間をかけて、老人になる」と。

それはそのとおりで、だれもこの説を疑う人はいない。

が、ここでいう「老人」というのは、「認知症の老人」のことをいう。
つまりバスの中の人たちは、ケア・センターにいる老人と、
若い人たちの、ちょうど、中間あたりにいるということになる。
(あるいは半分、ケア・センターに足を踏み入れている?)

中には、すでにヘベレケに酔っぱらっている男性(75歳くらい)もいた。
そういう男性が、呂律(ろれつ)の回らない言い方で大声で話す。

「ヤーヤー、事故だヤー」
「ありゃあ、死んでるわナ〜」
「事故だヤー、事故だヤー」と。

見ると、路肩に、2台、壊れた自動車が停まっていた。

私とワイフは、耳にイヤホーンを押し込んで、目を閉じた。

●近未来の私たち

そういう老人を見ながら、けっして笑ってはいけない。
直前に座っていた老人(70歳くらい)は、人間というよりは、
サルのような感じがした。
キョロキョロとせわしなくあたりを、見回しながら、そのつど、
意味のないことを口にしていた。

しかし、そういう老人は、私たち自身の、近未来の姿でもある。
私たち自身が、やがて、好むと好まざるとにかかわらず、
そのサルのような感じの人間になる。

私はその老人を、ななめうしろから見ながら、「では、どうすれば
そういう老人にならないですむか」を考えた。

私「あの人たちは、本を読むだろうか?」
ワ「読まないわよ」
私「じゃあ、音楽を聴くだろうか?」
ワ「聴かないわよ、きっと」
私「じゃあ、映画館で映画を見るだろうか?」
ワ「それは、ぜったいに、ありえないわよ」と。

子どもたちと接しているとき、ときどき(距離)を感ずることがある。
「こういう話をしても、理解できないだろうな」と。

そういうときは、話の方向性だけを話して、そでですます。
やがて子供自身が、私の話したことを起点にして、自分で
考えるようになる。

しかし相手が老人のばあいには、それがない。
(距離)というより、(絶望感)に近いものを覚える。
「こういう話をしても、無駄」と。

つまりその未来性がないことが、老人の特徴ということになる。
が、さらに運の悪いことがつづく。

そういう老人を見ながら、若い人たちは、この私たち夫婦まで、
その老人の仲間に押し込んでしまう。
そのときのバスガイドも、そうだった。
雰囲気で、それがわかった。

ガイドといっても、低劣な話を、ペラペラと口にしているだけ。
それが間断なく、つづく。
加えて昨日は、帰りのバスの中では、またまたあのビデオ。
「釣りバカ日誌」。

もうこれであのビデオは、3回目!
しかも同じビデオ!
大音響!
それを私たちを老人だと思って、(たしかに老人だが……)、
天井からガンガンと流す。

Bツアーで旅行するときは、騒音軽減防止つきのイヤホンは、
必需品。

●進む、社会の高齢化

そのうち、3人に1人が、満65歳以上の老人になる。
予想ではない。
計算上、確実にそうなる。

しかし、これは深刻な問題である。
もしバスの中にいるような老人が、巷(ちまた)にあふれるように
なったら、そのとき若い人たちは、私たち老人を、どんな目で
見るようになるだろうか。

あたりかまわず、ニンニクの臭いを吐きだし、酒を飲む。
それにあの独特の加齢臭。

そう、加齢臭にしても、自分では、それがわからない。
そういう老人たちが、観光バスから外に出て、旅館に入る。
映画館に入る。
レストランに入る。

やがてニンニクの臭いを発している老人が、どの人かわかった。
トイレで、横に並んだとき、それがわかった。
たぶん、横にいる妻にうながされたのだろう。
始終、マスクを口にかけていた。
しかしニンニクに臭いは、マスクで防げるようなものではない。

老人問題というと、老人の側からしか考えない。
しかし若い人たちの立場から、つまり「どうすれば若い人たちに
嫌われないですむか」という立場でも、考える必要がある。

でないと、前から書いているように、私たちはそのうち、
社会の粗大ゴミになってしまう!
つまり私たちは若い人たちに、絶望感を覚えさせてはいけない!

私たちは若い人たちに、未来を与えなければならない。
未来を語らなければならない。
自分たちの経験や知識を伝えなければならない。
そういう老人を目指さなければならない。

今回は、運悪く、おしゃべりなバスガイドに当たってしまったが、
バスガイドを責めてもしかたない。

私たち乗客が、そうされるにふさわしい老人にしか見えなかったのだ。

(付記)
●全国のみなさんへ

この浜松市は、別名、「ギョーザの町」としても知られている。
駅の売店でも、ギョーザを売っている。
最近では、街中の肉屋まで、ギョーザを売るようになった。
そのため、浜松へ来るときは、消臭剤付きのマスクを忘れずに!
駅を降りたときから、ムッとするようなニンニクの臭いがするはず。

それがいやなら、すかさず駅前のラーメン店へ飛び込み、
あなた自身もギョーザを食べること。

●嫌われない老人になるために

老人といっても、「これだけは若い人に負けない」という
一芸をもとう。
その一芸を磨こう。
その一芸を光らせよう。
その一芸が、粗大ゴミになることから、あなたを防ぐ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 老人問題 加齢臭)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●物欲のメカニズム

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子どもの物欲を満たすのは、慎重に。
それに慣れた子どもは、さらに強い
刺激を求めて、やがて物欲の奴隷に
なる。

子どもの心をモノで釣るようなことは
してはいけない。

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孫の誠司を、あちこちに連れていってみて、驚いた。
ショッピングセンターにも連れて行った。
みやげもの屋にも連れて行った。
コンビニにも連れて行った。
もちろんおもちゃ屋にも、連れて行った。
しかしどこへ連れて行っても、モノをほしがらない。

ただその場で、手に取ってみるだけ。
「ほしい」とか、「買って」とか、言わない。
で、私のほうが、「買ってあげようか?」と声をかけるのだが、
だまっているだけ。
つまり、そういう習慣そのものが、ない。
まったく、ない!
日本の子どもなら、「あれ、買って!」「これ、買って!」と言いそうな
場面でも、そういうことは、いっさい、口にしない。

これは息子の影響というより、嫁のデニーズの影響と思われる。
何回か、デニーズと誠司の買い物に、同行したことがある。
そういうときでも、デニーズと誠司は、そういう会話をいっさい、しない。
「必要なものは買う。しかしそれ以外のものは、いっさい買わない」。
そういう姿勢が徹底している。
つまり先にも書いたように、そういう習慣そのものが、ない。

そういう一例だけをみて、こう判断するのも危険なことかもしれない。
しかし『物欲というのは、習慣によって作られる』。

が、この日本では、モノで子どもの心を買うという習慣が、日常化している。
子どものほしがるものを先に予想して、それを買い与える親は少なくない。
またそれをすることによって、親子の絆(きずな)は太くなると考える。

しかし実際には、逆効果。
感謝されるとしても、一時的。
つぎに今度は、子どものほうから、それを請求してくるようになる。
が、それですまない。

物欲というのは、それを満たせば満たすほど、エスカレートする。
脳の中では、つぎのようなメカニズムが働くためと考えてよい。

何か目新しいものを見たとき、脳の中で、「ほしい」という欲求が生まれる。
(このときすでに条件反射行動(=条件づけ反応)が起きているとみる。)
視床下部あたりから脳に向かって、強力なシグナルが送られる。
それに応じて、ドーパミン(ホルモン)が放出される。
そのドーパミンが、線条体を刺激する。

「この刺激は強烈で、このとき線条体は、『目的達成に向けた行動を起こせ』
というメッセージを受けとる。この刺激は強力で、意志の力だけでこの
衝動を克服するのは、非常に難しい」(K・ローットワイラー・オゼッリほか、
「サイエンス」)という。

喫煙者がタバコの煙をかいだり、アルコール依存症の人が、酒の臭いを
かいだときと同じような現象が、脳の中で起こる。

とたん、子どもは(おとなも)、そのモノを強烈にほしがるようになる。
それはふつうの反応ではない。
ふつうでないことは、たとえばタバコをやめられない人や、酒をやめられない
人のことを考えてみればよい。

しかしこのとき、ドーパミンの働きを打ち消そうという働きも、同時に発生する。
これを大脳生理学の世界では、「フィードバック」と呼んでいる。
つまり、感覚がマヒしてくる。
マヒしてくるから、つぎのときは、さらに強い刺激を求めるようになる。

(実際には、「薬物依存患者などは、線条体に見られる(D2ドーパミン受容体)
の数が少ないのがふつう。……これはおそらく、麻薬などを何度も摂取するたびに
繰りかえされるドーパミンの急増を、脳が何らかの形で相殺しようとしている
のだろう」(同、K・ローットワイラー・オゼッリほか)とのこと。)

こうして物欲は、かぎりなくエスカレートしていく。

だから、子どもにモノを買い与えるのは、最小限にしたほうがよい。
できれば、そういう習慣は、やめたほうがよい。

わかりやすく言えば、一度、物欲にとらわれた子ども(人)は、
それを断ち切るのは容易なことではない。
ばあいによっては、物欲の奴隷となる。
ちょうど喫煙者がタバコの奴隷になり、アルコール依存症の人が、アルコール
の奴隷になるように、だ。

だから、先にも書いたように、モノを買い与えても、感謝するのは
そのときだけ、ということになる。

が、さらに恐ろしいことは、つぎのステップで起こる。

こうした欲望の奴隷になった子ども(人)は、それが満たされないとわかると、
パニック状態になる。
狂乱状態になることもある。

ときどきショッピングセンターなどで、「あれ、買ってエ!」と、泣き叫ぶ
子どもを見かけるが、それもその一例ということになる。

「実際には逆効果」というのは、そういう意味である。

で、だからといって誠司が理想的というわけではない。
現代という社会は、物欲を中心になりたっている。
その物欲が、経済活動の原動力にもなっている。

もし現代という社会で、物欲を否定してしまったら、
社会そのものが、崩壊してしまう。
子ども(人)の立場でいうなら、社会そのものに同化できなく
なってしまう。

「欲しい」という意欲があるからこそ、そこから勤労意欲が生まれる。
だから「ある程度は・・・」ということになる。
ある程度の物欲は必要だし、そのための教育(?)も必要ということになる。
が、あくまでも「ある程度」。
その「程度」を超えたとき、その子どもは、かぎりなくドラ息子化する。

結果として、結局は苦労するのは、その子ども自身ということになる。

それだけは、注意したほうがよい。

(補記)

ドーパミン……快楽追求行動を調整している神経伝達物質
条件づけ反応……報酬と喜びに関連する脳の刺激に対する反応。これによって
       条件づけ反応が生じ、その環境に身を置いただけで、反応が起こる
       ようになる(以上、日経「サイエンス」07−12、p54) 

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 物欲 物欲のメカ
ニズム 子どもの物欲 子供の物欲 線条体 ドーパミン受容体 視床下部)

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この原稿に関連して、「100倍論」
について。

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【100倍論】

●年長から小学二、三年にできる金銭感覚
 子どもの金銭感覚は、年長から小学二、三年にかけて完成する。この時期できる金銭感覚
は、おとなのそれとほぼ同じとみてよい。が、それだけではない。子どもはお金で自分の欲望
を満足させる、その満足のさせ方まで覚えてしまう。これがこわい。

●一〇〇倍論

 そこでこの時期は、子どもに買い与えるものは、一〇〇倍にして考えるとよい。一〇〇円のも
のなら、一〇〇倍して、一万円。一〇〇〇円のものなら、一〇〇倍して、一〇万円と。つまりこ
の時期、一〇〇円のものから得る満足感は、おとなが一万円のものを買ったときの満足感と
同じということ。そういう満足感になれた子どもは、やがて一〇〇円や一〇〇〇円のものでは
満足しなくなる。中学生になれば、一万円、一〇万円。さらに高校生や大学生になれば、一〇
万円、一〇〇万円となる。あなたにそれだけの財力があれば話は別だが、そうでなければ子
どもに安易にものを買い与えることは、やめたほうがよい。

●やがてあなたの手に負えなくなる

子どもに手をかければかけるほど、それは親の愛のあかしと考える人がいる。あるいは高価
であればあるほど、子どもは感謝するはずと考える人がいる。しかしこれはまったくの誤解。あ
るいは実際には、逆効果。一時的には感謝するかもしれないが、それはあくまでも一時的。子
どもはさらに高価なものを求めるようになる。そうなればなったで、やがてあなたの子どもはあ
なたの手に負えなくなる。

先日もテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた。何でもその朝発売になるゲーム
ソフトを手に入れるために、六〇歳前後の女性がゲームソフト屋の前に並んでいるというの
だ。しかも徹夜で! そこでレポーターが、「どうしてですか」と聞くと、その女性はこう答えた。
「かわいい孫のためです」と。その番組の中は、その女性(祖母)と、子ども(孫)がいる家庭を
同時に中継していたが、子ども(孫)は、こう言っていた。「おばあちゃん、がんばって。ありがと
う」と。

●この話はどこかおかしい

 一見、何でもないほほえましい光景に見えるが、この話はどこかおかしい。つまり一人の祖
母が、孫(小学五年生くらい)のゲームを買うために、前の晩から毛布持参でゲーム屋の前に
並んでいるというのだ。その女性にしてみれば、孫の歓心を買うために、寒空のもと、毛布持
参で並んでいるのだろうが、そうした苦労を小学生の子どもが理解できるかどうか疑わしい。
感謝するかどうかということになると、さらに疑わしい。苦労などというものは、同じような苦労し
た人だけに理解できる。その孫にすれば、その女性は、「ただのやさしい、お人よしのおばあち
ゃん」にすぎないのではないのか。

●釣竿を買ってあげるより、魚を釣りに行け

 イギリスの教育格言に、『釣竿を買ってあげるより、一緒に魚を釣りに行け』というのがある。
子どもの心をつかみたかったら、釣竿を買ってあげるより、子どもと魚釣りに行けという意味だ
が、これはまさに子育ての核心をついた格言である。少し前、どこかの自動車のコマーシャル
にもあったが、子どもにとって大切なのは、「モノより思い出」。この思い出が親子のきずなを太
くする。

●モノに固執する国民性

日本人ほど、モノに執着する国民も、これまた少ない。アメリカ人でもイギリス人でも、そしてオ
ーストラリア人も、彼らは驚くほど生活は質素である。少し前、オーストラリアへ行ったとき、友
人がくれたみやげは、石にペインティングしたものだった。それには、「友情の一里塚(マイル・
ストーン)」と書いてあった。日本人がもっているモノ意識と、彼らがもっているモノ意識は、本質
的な部分で違う。そしてそれが親子関係にそのまま反映される。

 さてクリスマス。さて誕生日。あなたは親として、あるいは祖父母として、子どもや孫にどんな
プレゼントを買い与えているだろうか。ここでちょっとだけ自分の姿勢を振りかってみてほしい。
(中日新聞掲載済み)
(030716)

+++++++++++++++++

物欲によって、破壊される
親子関係について……

+++++++++++++++++

●バラバラになる親子

 Aさんは会社のリストラで職をなくした。企業診断士の資格をもっていたので、市内のマンショ
ンを借りてコンサルタント事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまってしま
った。しかしそれが悲劇の始まりだった。

 まず大学一年生になったばかりの長女が、Aさんを責めた。「大学だけは出してもらう。あん
たに責任をとってもらう」と。次に二女もそれに加わり、「お父さんが勝手なことばかりしている
から、こうなったのだ」と。本来ならここで母親が間に入って、父と娘たちの調整をしなければな
らないのだが、その母親まで、「生活ができない」と言って、家を飛び出してしまった。家族とい
っても、一度歯車が狂うと、どこまでも狂う。狂ってバラバラになってしまう。Aさんはこう言っ
た。「妻の家出のことで助けを求めたとき、長女に『自業自得でしょ』と言われました。そのとき
は背筋が凍る思いがしました」と。

 Aさんは何とか親戚中からお金をかき集めて、長女の学費を工面した。が、そういう苦労など
どこ吹く風。長女は妻が身を寄せている三重県の実家へは帰るものの、Aさんのところには寄
りつかなくなってしまった。仕送りが遅れたりすると、長女から矢の催促が届くという。

 こう書くとAさんをだらしない男のように思う人もいるかもしれないが、ごくふつうの、しかも典
型的なまじめ型人間。日本人の何割かが、彼のような人物といってもよい。人一倍家族思い
で、また家族のためならどんな苦労もいとわない。Aさんはこう言う。「朝早く仕事にでかけ、い
つも帰るのは真夜中。家族はそれで満足してくれていると思っていました。しかし妻も娘たち
も、自分とはまったく違ったとらえ方をしていたのですね」と。
 そのAさんは今は、二女の進学問題で悩んでいる。「お金がないから……」と言いかけると、
次女は「今ごろそういうことを言われても困る」と。「そういう話は前もって言ってもらわなければ
困る」とも。

 イギリスの格言に、『子どもに釣り竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け』というのがあ
る。親というのは、子どもに何かものを買ってあげることで、親としての義務を果たしたかのよう
に思うかもしれない。が、それでは子どもの心をつかむことはできない。子どもの心をつかみた
かったら、「釣りに行け」と。何でもないことのようだが、親子の意識のズレはこうして始まる。
「してあげた」と思う親。それを「当たり前」と思う子ども。そしてそのズレが無数に積み重なっ
て、Aさんのようになる。いつか気がついてみたら、家族の心がバラバラになっていた、と。つい
でに一言。

 私たち戦後の団塊世代は、あのひもじさを知っている。だから子どもたちには、そのひもじい
思いをさせたくないとがんばってきた。結果、今の子どもたちは、「ひもじい」という言葉の意味
そのものすら知らない。しかしそれが今、あちこちの家庭で裏目に出ようとしている。Aさんの
家庭もそんな家庭だが、皮肉と言えば、これほど皮肉なことはない。
(中日新聞掲載済み)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●他責型ママ、自責型ママ

母親にも他責型と自責型がある。

たとえば自分の子どもに何か問題を発見したようなとき、
即座に、「子どもを何とかしよう」と考えるのが、他責型。

一方、「自分の育て方に問題がある」と考えて、いつもその
責任を自分に求めるのが、自責型。

子育てでは、自責型ママのほうがよい。
また自責型ママの子どもは、それほど大きな問題を起こさない。

さらに最近では、「子どもは家族の代表にすぎない」、だから
「子どもに何か問題があったら、それは家族全体の問題」と
考えるようになってきた。

たとえば子どもに、ドラ息子症状が現われてきたとする。
わがままで、自分勝手。享楽的で、感情的。
自己中心性が強くなり、他者との協調性が失われる・・・。

それを母親に、それとなく指摘すると、即座に、「子どもをなおそう」と
考えるのが、他責型ママということになる。
「では、どこの病院へ行けばいいのですか?」と私に聞いた親もいた。
他責型ママほど、自分は完成された母親であり、自分には
問題がないと考える。

それだけ自己中心性が強いから、子どもの心がわからない。
わからないから、ますます悪循環の世界に入ってしまう。

これに対して自責型ママは、自分に責任を求める。
だから会話のし方そのものが、ちがってくる。

「そういう子どもにしたのは、自分自身」と考えて、
それまでの子育てのあり方を反省したり、見なおしたりする。
だから悪循環に陥ることもなく、子どもも、そのまま
よい方向に向かう。

……ということで、こんな例がある。

私の知人だが、3人の息子をもっている人がいる。
その3人だが、3人も、高校を退学させられている。
長男は、無免許でバイクを運転して、警察に逮捕された。
二男は、同じく無免許で車を運転していて、事故を起こした。
(このとき同乗していた高校生が、軽いけがをしている。)
三男は、ガールフレンドを妊娠させてしまった。
(相手の親は、「強姦だった」と主張した。)

3人のうち、1人くらいなら・・・、というケースは多い。
しかし3人とも・・・、というケースは少ない。
その母親は、「子どもたちが悪い」といつも言っていた。
しかしその遠因は、実は、母親自身にあった。

かなりわがままな女性で、他人の話など、ほとんど聞かなかった。
ここでいう他責型ママ。
学校の教師が何かをアドバイスしても、いつも即座に反論ばかり
していた。

「うちでは、ふつうです」「ほかの子にそそのかされただけです」と。

だからいつしか、教師のほうが、その母親を敬遠するようになった。
・・・ということが重なって、3人も、退学させられてしまった。

そこでクエスチョン。

あなたは他責型か、それとも自責型か?

こと子育てにおいては、つねに自責を心がけたらよい。
子どもに何か問題が起きたら、それは自分の問題、家族の問題と考える。
そういう姿勢が、子どもを、結局は守るということになる。

++++++++++++++

●他責型と自責型

たとえばテーブルの上にあったコップを落として、そのコップを割ったとする。
そのとき、すかさず、「だれ、こんなところにコップを置いたのは!」と、
責任を他人に求めるのが、他責型。

だれかがその人の不注意を指摘したりすると、即座に反論する。
「私は、手がすべっただけ」
「だれだって、ときには、失敗することもあるでしょ」と。

一方、自責型は、他人がコップを落として割っても、「ごめん、ごめん、
私がこんなところにコップを置いたのがいけなかった」と、即座に、自分に責任を求める。

そのコップを落とした人が、「ごめん」とあやまっても、「いいの、あなたは
誤らなくても・・・。私が悪いんだから」と言ったりする。

ただし、他責型が悪く、自責型がよいとも、言えない。
一般論から言うと、他責型ママは、他人に責任を転嫁するのがうまく、
うつ病にはならない。・・・なりにくい。
一方、自責型ママは、いつも自分を責める分だけ、うつ病になりやすい。

他責型は楽天的。
そこに大きな問題があっても、それに気づかないこともある。

自責型は、ものごとを深刻にとらえがち。
ささいなことを、針小棒大に考えて、悩んだり苦しんだりする。
神経質になったり、過干渉、過関心になったりしやすい。
こうしたちがいが、子育てに反映されることもある。

(はやし浩司 自責型ママ 他責型ママ 他責人間 自責人間)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●なぜ、今、ウォン安? (危機的状況の韓国経済)
(The Second Crisis is now attacking South Korea)

+++++++++++++++++

世界的に、現在、ドル安。
だから日本円も、それにつられて、円高。
半年前には、1ドル=120円前後だった。
それが今日現在は、106円前後。
それはわかる。

が、韓国のウォンは、半年前には
1ドル=900ウォン前後だった。
が、今日現在は、1044円ウォン!

どうして韓国のウォンだけが、世界の
流れに対して逆行しているのか?

理由は簡単。
ドルの価値がさがる以上に、ウォンが売られている。

朝鮮N報は、つぎのように伝える(6月30日)。

『原油高のショックで韓国経済が全体的に難局に直面する中、外国人投資家による韓国株式
市場での売り越し規模が4兆ウォン(約4100億円)を超えた。

 年初来の外国人による売り越し規模は27日時点で17兆4570億ウォン(約1兆7920億円)に膨
らんだ。このまま推移すれば、1992年の株式市場開放以降最高だった昨年の24兆7117億ウォ
ン(約2兆5360億円)を超えるのは確実だ。

 さらに6月の貿易収支は20日までの暫定集計で50億ドル(約5320億円)の赤字となり、韓国
経済の困難が増大している』と。

わかるかな?

外国人投資家たちが、ウォンを売って、ウォン以外の
外貨に交換している。
ウォンが必要以上に売られているから、ウォン安。
つまり韓国を見捨て始めている!

具体的には、今年になってから、170億ドル(約1兆
8000億円)もの株式を、売り越している(朝鮮N報)。

その結果、どうなる?

朝鮮N報は、『雪だるま式に膨らむ、貿易赤字』と出して
つぎのように伝えている(同、6月30日)。

『原油高で原油の輸入単価が上昇し、貿易収支は通貨危機当時の1997年(85億ドル〈現在の
レートで約9000億円〉の赤字)以降初めて赤字に転落する見通しだ。年初来6月20日までの貿
易赤字は106億9694万ドル(約1兆1380億円)に膨らんだ。政府は当初、今年の貿易収支を
130億ドル(約1兆3800万円)の黒字と予測していた』と。

つまり当初韓国政府は、08年度は、130億ドルの黒字を予想していた。
それが一転して、08年度は、6月末までだけで、107億ドルの赤字!
このまま赤字が膨らめば、朝鮮N報が伝えるように、「雪だるま式に」、貿易赤字は
増大する。

……が悪いことは重なる。

現在、韓国では、アメリカ産牛肉問題で、国内情勢が
きわめて不安定になっている。
「今のところだいじょうぶ」と、韓国政府はがんばっているが、
その異常さは、ふつうではない。

恐らく外国人投資家たちも、そう見ている。
現在の韓国に、積極的に投資する外国人投資家は、いない。
この先、外国人投資家の逃避はつづく。

ますますウォン安になる。
貿易赤字が膨らむ。

あとは、想像するだけでも、ゾッとする。
第2のデフォルト(=国家破綻)が、ここまで現実化してくると、
その言葉を使うのも、恐ろしい。
(2008年6月30日記)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 韓国経済 危機的状況の韓国 
デフォルト 国家破綻 債務不履行)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2710)

●子どもの虚言vsルール破り

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掲示板に、つぎのような書き込みがあった。

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【Mさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。うちの小6男子のことでご相談があります。
うちの子供は約束事が守れません。そして、約束を守れなかったことをウソをついたりしてかく
すというよりは、うその上塗りをしていきます。

内容はさまざまで、「学校の宿題を私が帰宅するまでやっておく」なんてことは、一度も
達成したことがありません。
学校に忘れ物をしてきたときも、「ランドセルのふたがあいていてなくなった」などと、平気でわ
かるウソをいいます。

「ヨーカドーでお金を拾って? カードを買った1パック」本当は2パックだった。(拾ったお金は
後日返しにいきましたが、何が本当だかわかりません。)
そんなことを毎日。

以前は私の財布からお金を盗んだこともありました。もちろん指摘して、主人も私もおこりまし
た。そんなことが3度くらい。
一人でリビングにいさせることも、なんだかおそろしくなっています。

お金を盗むことはなくなったように思うのですが、約束を守らない→ウソ→ウソの上塗りの構図
は毎日で、私はもう子供を捨てたいとまで思っております。
主人は根気良く教えるしかないとも言いますが、私は限界です。

気休めの言葉はもう聞き飽きました。教育センターの相談員の方にも相談をしたり、私自身も
心療内科に通って精神安定剤を飲んでおりますが、怒ることも止まらず、なんとか医学的にま
たは、科学的に根本治療する方法はないのかなと思って探していたところ、このHPに出会いま
した。

家族構成は父、母、本人(小6)妹(小4)です。
3歳のころには(今思えば)赤ちゃん返りでお漏らし、その後、夜尿症になり、ネットの掲示板で
あるお医者様に相談にのってもらい、1年間かかって、夜尿症を治療した経験があります。妹
はちゃんとできます。

親子で楽しく?「約束を守らない→ウソをつく→ウソの上塗り」の構図を無くすことができたらよ
いのですが、なにか良い飲み薬?、等ありますか?

夜尿症を治すときに「トフラニール」とうつ病の薬も飲ませました。もちろん膀胱の容量を増や
すために毎日オシッコを量ったして、なんとか治すことができました。

そんなことをしてまで、とお思いになるかもしれませんが、こちらは大真面目の治療そして今回
のご相談です。

もちろん先生のQ&Aも読ませていただきました。

明日にでも、いや今すぐにでも、楽しい生活が欲しい。その一心です。
息子がいなければ家族は穏やかに過ごせます。私のわがままでしょうか?
母親がなんとか怒らずにいれば。いいだけなのでしょうか?

ぜひ、具体的な方法があればぜひご教示いただきたいのです。
どうかよろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Mさんへ】

●(虚言癖)と(ルールを守らない)は、分けて考える

子どもの虚言癖と、ルールを守らないは、分けて考えます。

虚言癖については、たびたび書いてきました。
私のHPの「子育てあいうえお」に収録してありますので、どうかお読みください。

子どものウソのばあい、いわゆる空想的虚言(妄想的虚言)でなければ、それほど心配するこ
とはありません。
子どもは親にウソを言うことによって、親の優位性に打ち勝とうとします。
年齢的には、2歳前後から始まるとされています。
ウソ寝、ウソ泣きが、それです。

(ルールを守らない)は、率直に言えば、子育ての失敗(失礼!)とみます。
子どもに原因があるのではなく、また問題があるのではなく、今までの、(そして現在の)、あな
たや、あなたの家族の育児法に問題があるとみます。

一貫性のなさ、連続性のなさ、加えて、脅しと短気の入り混ざった育児法など。
これはMさんのことではありませんが、たとえば、親が交通ルールを平気で破っておきながら、
子どもに向かって、「ルールを守りなさい」は、ないですね。

私たちはひょっとしたら、子どもの目の前で、それに気がつかないまま、ルールを破っているの
かもしれません。
そういう意味では、子どもは、おそろしいですね。
親が隠しもっているシャドウ(=影の陰湿な部分)を、そのまま引き継いでしまいます。

で、掲示板の記事を読んで、何よりも気になるのは、子どもに問題があると、すかさず、それ
を、子どもに向かって「直そう」と考える、Mさん自身の育児姿勢です。

たとえば赤ちゃん返りということまでわかっていながら、夜尿症を、「1年がかりでなおした」「トフ
ラニールとうつ病の薬も飲ませました」「膀胱の容量を増やすために毎日オシッコを計った」と
いう部分です。

ふつうは、そこまではしない。
むしろ、おねしょくらい、自由にさせてやったら、よかったのです。
3歳の子どもなら、なおさらです。

3歳の子どもに、うつ病の薬をのませて、夜尿症をなおす親というのは、そうはいない(失
礼!、「気休めはもういい」ということですので……。)
毎日、尿の量を量るとは?!

私はこの投稿を見て、Mさんの子どもに対する、愛情を疑いました。

また今どき、親の言うことを聞いて、「ハイハイ」と、学校の宿題などする子どもはいませんよ。
小学6年生なら、なおさらです。

そういう子どもがいたら、むしろその従順さのほうが、心配になります。

むしろいまだに子離れができない、あるいはその準備をしていない、Mさん自身のほうに問題
があると思います。

いいですか、あなたが子どもに不信感をもつのは、それはあなたの勝手です。
しかし親にいつも疑われている子どもの気持ちが、あなたには、理解できますか?
私があなたの子どもなら、「この、バカヤロー」と叫んで、家を出て行くでしょう。
やることなすこと、すべて、疑われ、ケチをつけられるのですから、たまりません。

原因を順に考えていきましょう。

(1)母子関係の不全

あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に生まれ育った可能性があります。
そのため(親像)が、育っていない?
あるいは不幸にして、不幸な結婚生活を始めてしまった?

どうであるにせよ、心配先行型の子育てがそれで始まってしまったわけです。
「うちの子は、何をしても心配」と。
それが転じて、過関心、過干渉に……。
それが今でも、つづいています。

「学校で忘れ物」をしたくらいのことで、子どもを問い詰める親も、少ないですよ。
子どもといっても、小学6年生ですから……。
ふつうは、軽く叱る程度で、それですませます。

で、今さら、「あなたの子どもをもっと信じなさい」と言っても、遅すぎますね。
ただこのまま進めば、親子断絶は時間の問題。
さらにこうした問題には、二番底、三番底があります。

悪循環が悪循環を呼び、Mさんの子どもは、非行→さらなる非行へと発展していく可能性もあ
ります。
今の状態を、けっして「最悪」と思わないこと。

それがいやなら、今からでも遅くはないから、「自分の子どもを、もっと進ずること」。

(2)あなたの描く子ども像が見えてこない

Mさんが、自分の子どもを、いったい、どのようにしたらよいのか、その子ども像が、書き込み
記事だけでは、よくわかりません。
わかりませんが、Mさんは、いったい、どういう子どもを望んでいるのですか?
あなたの子どもに、どういう子どもになってほしいのですか?

ウソをつかない子どもなんて、いません。
盗みをしない子どもなんて、いません。
拾ったお金を使わない子どもなんて、いません。

私も小学生のころは、拾ったお金は、すべて自分のために使っていました。
私の息子たちも、そうです。

そういうとき私は、見て見ぬフリ。
一応叱ったこともありますが、それですましました。

「ウソ、ウソ、ウソ……」ではなくて、「疑う、疑う、疑う」、あなたの育児姿勢のほうに問題があり
ます。

「私自身も心療内科に通って精神安定剤を飲んでおりますが、怒ることも止まらず……」とMさ
ん自身が書いておられるように、この問題は、子どもの問題ではなく、Mさん自身の問題です。

ここまで書いて、こんな話を思い出しました。

イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。

ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押さえると、
腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いったい、
どこが悪いのでしょうか?」と。

するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れてい
るだけですよ」と。

書き込みの記事を読むかぎり、Mさんの子どもは、ごくふつうの、どこにでもいるような子ども
のように思います。
ちがうでしょうか?

(3)子どもは家族の「代表」

「(ウソをなおすために)、なにか良い飲み薬?、等ありますか?」などという、バカなこと(失
礼!)は、考えてはいけません。

2、3年前にも、こんな相談がありました。

1人、手がつけられないようなドラ息子(小3)がいました。
わがままで、自分勝手。
少しでも気にいらないことがあると、泣き叫んで、机を蹴飛ばしたりしていました。

で、最後は、とうとう手に負えなくなり、(それまで1年近く、母親を指導したのですが……)、指
導を断ることにしました。
そのときのことです。

私が、「申し訳ありませんが、私の指導にも限界があります」と言うと、その母親は、すかさず、
こう言いました。

「どこの病院へ連れて行けばいいですか?」と。

自分の子育ての失敗を棚にあげて、また私のアドバイスなど、ことごとく無視しておいて、「どこ
の病院へ?」はないですね。

最近では、「子どもは家族の代表」と考えるのが、常識です。
つまり子どもに何か問題が起きたら、それは子ども自身の問題ではなく、子どもは家族を代表
しているにすぎないという考え方です。

またそういう視点をもたないと、子どもの問題は、いつまでたっても、解決しません。
解決しないばかりか、より悪い方向に向かって、そのまま進んでいっていまいます。
ここでいう「二番底」「三番底」というのは、そういう意味です。

(4)では、どうするか?

「ほどよい親」「暖かい無視」を柱に、その一方で、「求めてきたときが与えどき」と考えて、Mさ
ん自身が、子育てから遠ざかることです。

といっても、直接的な方法で、遠ざかることはむずかしいです。
そういうときは、こうします。

Mさんは、親でもなく、妻でもなく、また女でもなく、ひとりの人間として、自分でしたいことを追求
します。
仕事でも、ボランティア活動でも、さらにサークル活動でも、何でもよいでしょう。
あなたが自分で(すべきこと)を見つけて、それを追求します。
その結果として、子育てから離れます。

またそのほうが、あなたの子どもにとっても、よいでしょう。
(あなたは、実に、神経質で、うるさい親ですから……。)

あなた自身も、気づいておられないかもしれませんが、欲求不満のかたまりのように見受けら
れます。
毎日、悶々とした気分で、過ごしている。
もしそうなら、もう子どものことなど相手にせず、自分のしたいことをしたらよいのです。
人生は、短いですよ。

もしあなたが自分の子どもを、神様のような子どもにしたいのなら、それはまた話は別ですが
……。

(5)各論

子どもが約束を守らないようであれば、最初から約束などしないこと。
約束するとしても、数をぐんと減らすこと。
それに重要なことだけで、約束をし、それが守れるまで、きちんと見守ること。
たかが学校の宿題程度のことで、「約束」「約束」と騒がないこと(失礼!)。

約束の乱発をしながら、(たいていは、親からの一方的な約束であることが多いわけですが…
…)、「約束を守らない」は、ありませんね。

またウソについては、よくある自己正当化のウソですから、それほど心配しなくてもよいと思い
ます。
空想的虚言については、どこかの検索エンジンを使って、「はやし浩司 空想的虚言」を検索し
てみてください。
いくつかをヒットできるはずです。
対処法も、併せて書いておきました。

(6)最後に……

きびしい意見を書きましたが、こう考えてください。
まず親であるという気負いを取ること。
「……息子がいなければ家族は穏やかに過ごせます」などと、気負うことはありません。
そう思うなら、思うで、それでよいのです。

「あなたはあなたで、勝手にやってください」と言って、あなたはあなたで、好き勝手なことをす
ればよいのです。

現に、子どもがこの年齢になると、大半の親たちは、そう感ずるようになります。
それが子離れです。
子離れすることを、恐れる必要は、まったくないのです。
つまりそういうふうに、わざわざ考えなければならないところに、あなたの気負いがあるわけで
す。

あなたの子どもは、雲が自然と風に乗って流れていくように、すばらしいおとなになっていきま
す。
ひょっとしたら、あなたの望む方向とはちがった方向に進むかもしれませんが、それでもちゃん
と、すばらしいおとなになっていきます。

が、条件があるとするなら、「自分の子どもを信ずること」です。

方法としては、つぎのような方法があります。
以前、書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++

●ほめる

++++++++++++++++

子どもは、ほめて伸ばす。
これは家庭教育の大鉄則!

++++++++++++++++

●灯をともして引き出す

 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。

 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。そのせ
いか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参観している私の
ほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。

 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。

●脳内ホルモンが脳を活発化させる

 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときには、脳
内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化
し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。

 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつぶ
る。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳内ホルモ
ンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始め
る。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象
である。が、それだけではない。

ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことがあった。

●子どもをほめるときは本気で

 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当
たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。

 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休みになる少
し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。

 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。ウソや仮
面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思
う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あな
たのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉があ
る。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。相手の
好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ばす。

●「先生、肩もんでやるよ。」

 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助手席
に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。

 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれませんが、
今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。

 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解した。頭も
よい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。

 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。

 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。

 私はだまって、K君の好意を受けた。
(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児
教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 好
意の返報性)

+++++++++++++++++

この原稿の中で、とくに「好意の返報性」という言葉に注目してください。
日本でも、昔から、『魚心あれば、水心』と言いますね。
それと同じです。

これについても、たびたび書いてきましたので、このあとに、その原稿を貼り付けておきます。

これを読んでくだされば、Mさん、あなたのお子さんが今、いかに窮屈な思いをしているか、理
解できると思います。

+++++++++++++++++

●好意の返報性

 心理学の世界に、「好意の返報性」という言葉がある。あなたに好意をもっている人には、あ
なたはよい印象をもち、反対に自分に反感をもっている人には、悪い印象をもつようになる。つ
まり相手の心の状態が、こちらがもつ印象に影響を与える。それを好意の返報性という。

 こうした好意の返報性は、子どもには、とくに強く現れる。「この子はいい子だ」と、親や教師
が思っていると、子どもも、その親や教師に、よい印象をもつようになる。反対に、そうでないと
きは、そうでない。この性質をうまく利用すると、子どもを伸ばすことができる。

 私も若いころ、初対面で、「この子は、教えにくい子どもだ」と思ったことがある。そういう子ど
もはたいてい、半年、一年もすると、「林先生なんて、嫌い」「幼稚園へ行きたくない」と言い出し
た。

 そこで私は、初対面のとき、仮にそういう思いが心の中を横切っても、それを打ち消すように
している。そして心底から、「この子はいい子だ」と思いなおすようにしている。すると子どもの
ほうも、やがて私に対してよい印象をもつようになり、「林先生が、好き」と言い出す。しかしそ
れはその子どものためというよりは、私自身のためでもある。私はそうすることで、自分の仕事
をしやすくする。

 そこで教訓。もしあなたが自分の子どもに対して、「うちの子はダメ」「うちの子は心配」と思っ
ているなら、そういう思いは、今すぐ、改める。そして最初はウソでも構わないから、「うちの子
は、すばらしい」「うちの子は、いい子」と思うようにする。これはあなたの子どものためというよ
りは、あなた自身のためである。

+++++++++++++++++++

●好意の返報性(2)

 あなたが周囲の人を嫌ったり、批判したりすると、そのときはあなたに同調する人も現れるか
もしれないが、やがてあなた自身も、嫌われたり、批判されたりするようになる。こうした現象
も、好意の返報性で、説明される。

 たとえばあなたが園や学校の先生を、嫌ったり、批判したりしたとする。あるいは先生の悪口
を言ったとする。その人があなたと親しい人なら、あなたの意見にそのときは、耳を傾けるかも
しれない。しかしやがて、今度は、あなたが嫌われたり、批判されたりするようになる。

 そこであなたが皆に、好かれるためには、この反対のことをすればよい。あなたがあなたの
周囲の人を好きなったり、ほめたりすればよい。そのときは多少、反発する人もいるかもしれ
ないが、やがてあなたは、皆に好かれるようになる。

 家庭では、こんなことを注意する。

 あなたは子どもの前では、夫や家族を、ほめる。楽しいできごとだけを口にして、それを喜
ぶ。そして夫や家族の前では、子どもをほめる。子どものすばらしい面だけにスポットをあて、
それを皆で、たたえる。こうした相互作用が、あなたの評価を高める。それだけではない。家庭
全体が、温もりのある家庭になる。

++++++++++++++++++++

●好意の返報性(3)

英語の格言に、『友を責めるな、行為を責めろ』というのがある。仮にあなたの子どもが、あな
たからみて好ましくない友だちと交際していても、その友だちを責めてはいけない。名前を出し
てはいけない。その友だちの行為の、どこがどう悪いかだけを指摘して、あとは子どもの判断
に任せる。

 それについて以前、こんな原稿(中日新聞発表済み)を書いたので、ここに転載する。この中
で書いた、「遠隔操作」も、好意の返報性の一つと考えてよい。

++++++++++++++++++++

●友を責めるな、行為を責めよ

 あなたの子どもが、あなたから見て好ましくない友人とつきあい始めたら、あなたはどうする
だろうか。しかもその友人から、どうもよくない遊びを覚え始めたとしたら……。こういうときの
鉄則はただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』、である。これはイギリスの格言だが、こうい
うことだ。

 こういうケースで、「A君は悪い子だから、つきあってはダメ」と子どもに言うのは、子どもに、
「友を取るか、親を取るか」の二者択一を迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよ
し。しかしそうでなければ、あなたと子どもの間には大きな亀裂が入ることになる。友だちという
のは、その子どもにとっては、子どもの人格そのもの。友を捨てろというのは、子どもの人格を
否定することに等しい。あなたが友だちを責めれば責めるほど、あなたの子どもは窮地に立た
される。そういう状態に子どもを追い込むことは、たいへんまずい。ではどうするか。

 こういうケースでは、行為を責める。またその範囲でおさめる。「タバコは体に悪い」「夜ふか
しすれば、健康によくない」「バイクで夜騒音をたてると、眠れなくて困る人がいる」とか、など。
コツは、決して友だちの名前を出さないようにすること。子ども自身に判断させるようにしむけ
る。そしてあとは時を待つ。

 ……と書くだけだと、イギリスの格言の受け売りで終わってしまう。そこで私はもう一歩、この
格言を前に進める。そしてこんな格言を作った。『行為を責めて、友をほめろ』と。

 子どもというのは自分を信じてくれる人の前では、よい自分を見せようとする。そういう子ども
の性質を利用して、まず相手の友だちをほめる。「あなたの友だちのB君、あの子はユーモア
があっておもしろい子ね」とか。「あなたの友だちのB君って、いい子ね。このプレゼントをもっ
ていってあげてね」とか。そういう言葉はあなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わ
る。そしてそれを知った相手の子どもは、あなたの期待にこたえようと、あなたの前ではよい自
分を演ずるようになる。つまりあなたは相手の子どもを、あなたの子どもを通して遠隔操作する
わけだが、これは子育ての中でも高等技術に属する。ただし一言。

 よく「うちの子は悪くない。友だちが悪いだけだ。友だちに誘われただけだ」と言う親がいる。
しかし『類は友を呼ぶ』の諺どおり、こういうケースではまず自分の子どもを疑ってみること。祭
で酒を飲んで補導された中学生がいた。親は「誘われただけだ」と泣いて弁解していたが、調
べてみると、その子どもが主犯格だった。……というようなケースは、よくある。自分の子どもを
疑うのはつらいことだが、「友が悪い」と思ったら、「原因は自分の子ども」と思うこと。だからよ
けいに、友を責めても意味がない。何でもない格言のようだが、さすが教育先進国イギリス!、
と思わせるような、名格言である。

+++++++++++++++++++++++

●好意の返報性(4)

 子育ての要(かなめ)は、こういうわけで、子どもの叱り方にあるということになる。これについ
ても、以前、こんな原稿(中日新聞発表済)を書いたので、ここに転載する。

+++++++++++++++++++++++

子どもの叱り方、ほめ方

 子どもを叱(しか)るとき、最も大切なことは、恐怖心を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの
耳』と覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているか
ら、そうしているのではない。怖いからそうしているだけ。親が叱るほどには、効果はない。叱
るときは、次のことを守る。

(1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)

(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」
と覚えておく。説教が脳に届くには時間がかかる

(3)相手が幼児の場合は、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線を外さない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固定
し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。特に頭部への体罰は、タブ
ー。体罰は与えるとしても「お尻」と決めておく

(4)子どもが興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、

(5)叱ったことについて、子どもが守れるようになったら「ほら、できるわね」とほめてあげる。

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも『忠告は秘(ひそ)かに、賞賛は公(お
おやけ)に』と書いている。子どもをほめるときは、少しおおげさにほめる。そのとき頭をなで
る、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。特に子どものやさ
しさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔やスタイルについては、ほめないほうがよい。
幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見てくれや、かっこうばかりを気にするようにな
る。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女子中学生がいた。

また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので慎重にする。頭をほめすぎ
て子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。すでに悩んだり、苦しんだり、さらには頑張っ
ている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。意味がないばかりか、かえって子どもから、
やる気を奪ってしまう。「やればできる」式の励まし、「こんなことでは!」式の脅しもタブー。結
果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなときはなおさら「あなたはよく頑張った」式の前向きの
理解を示してあげる。

++++++++++++++++++++++++

●好意の返報性(5)

 「好意」といっても、それがいつも好ましいものとはかぎらない。好意をもたれることで、かえっ
てその人に嫌悪感を覚えることだってある。

 たとえばあなたが財産家であったとする。そういうあなたに、何かのセールスマンが近寄って
きて、あれこれあなたをほめたとする。しかしそういうときあなたは、そのセールスマンの言うこ
となど、信じないだろう。あるいは反対に、そのセールスマンを毛嫌いするかもしれない。この
ばあい、あなたは、セールスマンの行為に、下心があるのを知るからである。

 好意が好意として、返報性をもつためには、同調性が必要である。「同調性」というのは、こ
ちら側もまた、相手の好意に対して、同調するということ。もう少しわかりやすく説明してみよ
う。

 たとえばあなたが、絵を描いて、何かの賞をもらったとする。そのときまったく絵のことを知ら
ないAさんが、その絵を見て、「あなたの絵はすばらしい」と言ったとする。するとあなたは、
「何、言ってるのよ!」と思うかもしれない。あるいは日ごろからあなたの悪口ばかり言っている
Bさんが、同じようにほめたとする。するとそのときも、あなたは、「何、言ってるのよ!」と思う
かもしれない。つまり同調性がないことになる。

 ほかにたとえば、ここでいう下心を、ほめられたほうが感ずると、同調性が消える。つまりそう
いう状態で、相手が、いくら好意を表現しても、効果がない。ないばかりか、かえって逆効果に
なることもある。子どもも、また同じ。

 子どもをほめるときは、それなりに、ほめる側にも、同調性がなければならない。そこでつぎ
のことに注意するとよい。

○おせじ的なほめ方はしない。へつらわない。機嫌をとらない。

○子どもに同調するために、こちら側のレベルもあげる。子どもをほめるときには、なぜほめ
るかという理由を、はっきりともつ。「レベルをあげる」というのは、ほめる側も、それなりの知識
をもつということ。具体的には、なぜほめるか、その理由を、しっかりと子どもに伝えられるよう
にするとよい。「あなたの絵は、見る人をほっとさせるような、やさしさがあるわ。そういうところ
が、審査員の先生たちの心をとらえたのね」と。

○好意には、下心をもたない。心底、無の状態で、子どもをほめる。親にとっては、なかなかむ
ずかしいことかもしれないだが、努めて、そうする。

このように「好意の返報性」といっても、奥が深い。家庭で子どもを指導するときの、一つのコツ
として覚えておくと、役にたつ。
(030407)

++++++++++++++++++

では、これで今日は、失礼します。

心を解き放ちなさい。
体はあとから、ついてきますよ。
(アメリカの教育格言より)


Hiroshi Hayashi++++++++jun.08++++++++++はやし浩司

●K市保健センターでの講演感想より
(08年6月)

++++++++++++++++++

K市で行った、講演の感想が届いている。

「批判的なものがあっても構いませんから、
感想がわかったら、送ってくださいね」と
頼んでおいた。

それで主催者の方が、すべて届けてくれた。

私にとっては、貴重な記録(?)である。
そのとき、そこに私がいて、60数名という
人に、話をした。

数か月もすれば、たいはんの人が、私の話した
ことのほとんどを忘れてしまうだろう。

(はやし浩司)の名前など、数週間も
残らない。

私が今まで聴いた講演にしても、みな、そうだった。

しかしたしかに私は、そこにいた。
そこにいて、話をした。
こういう感想文を読むと、その実感を、自分の
手でつかむことができる。

批判?

そんなことは当然の事ではないか。
10人の人がいれば、10人の人全員に
満足してもらえるなどということは、こと
講演については、ありえない!

しかし、うれしかった。
K市のKSさん、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2629535098/" title="img618 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3175/2629535098_
de8360e2b0_b.jpg" width="770" height="1024" alt="img618" /></a>

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2628717253/" title="img619 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3039/2628717253_
29216b470c_b.jpg" width="770" height="1024" alt="img619" /></a>

<a href="http://www.flickr.com/photos/86343436@N00/2628718243/" title="img620 by 
bwhayashibw, on Flickr"><img src="http://farm4.static.flickr.com/3184/2628718243_
b5c33fd4c4_b.jpg" width="770" height="1024" alt="img620" /></a>

(読みづらい方は、HP→プロフィール→講演の感想へとおいでください。)


+++++++++++++++++++++

最前線の子育て論byはやし浩司(2711)

●青少年を取り巻く環境
The environment around the youth has been getting worse, as pointed out by the board of 
education of Shizuoka Pref., Japan. The problem is not how to control the environment but 
how to punish the adult people around the youth.
 
++++++++++++++++

ほんの30年前には、携帯電話など、
夢のまた、夢だった。
ドラエもんの『どこでも電話』を
みれば、それがわかる。

インターネットにしても、しかり。

今では、若者たちは(私たちも)、
いつでも、どこでも、だれとでも
話ができる時代になった。

++++++++++++++++

静岡県教育委員会が、このほど、こんな調査結果を公表した。

『青少年を取り巻く環境』と題して、「回答者の89%が、
『環境は10年前と比べて悪化している』と答えている」と。

また悪影響を与える要因として、「携帯電話やインターネットを
あげる答が、最多の30%にのぼった」(中日新聞・08年6月25日)とも

+++++++

(静岡県教育委員会・アンケート調査より)

●青少年を取り巻く環境

(調査は、県のインターネットモニター、計478人を対象に、
5月26日〜6月8日に実施。
20〜80代の452人が回答した)(同紙)。

(注:数字は、回答者の数)

有害映画や有害図書……40人
有害がん具類……14人
有害図書の自動販売機……12人
インターネットカフェやカラオケボックスなど、
深夜営業の娯楽施設……188人
自動販売機による、たばこや酒類などの販売……15人
携帯電話やパソコンなどによるインターネット……262人
テレビ番組やテレビゲーム・携帯ゲームの
内容および過度の視聴など……133人
保護者をはじめとする大人のモラルの低い行動……190人

++++++++++++++

この調査結果をふまえて、静岡県教育委員会は、
「規制強化に対する反発も予想したが、多くの県民から
理解をいただいた」として、県議会12月定例会に、
条例改正案を提出する方針という(同紙)。

++++++++++++++

●妊娠した女子高校生

浜松市内のA私立高校で、最近も1人、退学させられた生徒(高1女子)がいる。
理由は、「妊娠」?
学校側は、明確な説明を避けている。
しかし生徒の間では、「あの子は、妊娠したから退学させられた」と言いあっている。
学校側としても、「妊娠したから、退学させました」とは、言いにくい(?)。

しかしいまどき、高校生の妊娠など、珍しくも何ともない。
同じく浜松市内のB中学校だけでも、毎年、妊娠中絶する子どもが、1〜2人はいるという(同
校、教師談)。
(中学校だぞ!)

数年前の非公式統計だが、都会地域では、約60%の女子高校生が、セックスを経験している
という(某週刊誌調査)。
男子の数が、これに追いつきつつある。

今では、たいていの男子高校生は、サイフやポケットに、コンドームを忍ばせている。
これはまた浜松市内の別の進学高校の話だが、「放課後の教室は、ラブホテルみたい」(同高
校の生徒談)とのこと。

校門前でのキスシーンにしても、これまた珍しくも何ともない。

現在は、そういう世の中である!

……と考えていくと、「青少年を取り巻く環境」とは、何かということになる。

そんなことを考えていたら、1人の女子中学生(中2女子)が、勉強中に、突然、私にこう聞い
た。
「先生は、ヘンタイか?」と。
そこで私が、「正常なスケベだよ」と答えると、「それならいい」と。

話を聞くと、彼女が小学生のときの担任教師が、昨年末、わいせつ行為で警察に逮捕されたと
いう。
名前を教えてくれたので、さっそくインターネットで検索してみると、その教師の名前がズラリと
出てきた。
囲碁の世界では、かなり活躍していた教師らしい。
が、私は、同じ浜松市内に住みながら、その事件のことは知らなかった。
つまり、この種の事件も、やはり、今どき、珍しくも、何ともない。

今朝(7月2日)の朝刊にも、熊本県の中学教師によるわいせつ事件が、載っていた。
何でも「マッサージ」と称して、10数人の女子中学生に、いかがわしい行為を繰りかえしていた
という。
中には下着姿にされ、胸を触れられた女子中学生もいたとか。

そういえば、先週も、やはりどこかの中学校教師が、女子中学生を下着姿にして、四つんばい
にさせて歩かせたという事件があった。

「環境による影響」ということになったら、教師自身のハレンチ行為のほうが、はるかに影響力
が大きい。
私に、「先生はヘンタイか?」と聞いた、その女子中学生にしても、私のみならず、おとな社会
全体に対して、不信感をもってしまったらしい。
あるいは「おとなの男というのは、そういうことをするものだ」と思ってしまっている(?)。

こうした誤解を解くためには、どうすればよいのか?

私「それならいいって……?」
子「すなおに認めればいい」
私「認めなかったら……?」
子「そういう男は、ヘンタイって、こと」

私「ヘンタイって、どういう男のこと?」
子「そういうことには興味ありませんというような顔をしている男」
私「ハハハ、そうか。なら、いい。ぼくは、興味、ある」
子「あの教師(ハレンチ事件を起こして逮捕された元担任)は、クソまじめな顔をしていた。キモ
イ!」と。

●欲望に対する抵抗力

欲望が渦巻く社会。
それが私たちが今住む、現代社会ということになる。
「環境が悪化した」というよりは、子どもたちの側からみれば、「欲望に対する抵抗力を失った」
とみるべきではないのか。

大脳生理学的に言えば、「D2ドーパミンが過剰に分泌されるようになった」ということか。
「D2ドーパミン」というのは、「快楽追求行動を調整している神経伝達物質」をいう。
もしそうなら、ことはやっかい。

喫煙者が禁煙をしたり、アルコール中毒の人が、アルコール断ちをするのと同じくらい、子ども
の世界を是正することは、むずかしい。
静岡県の教育委員会が言うような「規制」で、規制できるような問題ではない。

では、どうするか?

こういうときは『押してだめなら、思い切って、引いてみる』。

「携帯電話やインターネットがだめ」と決めつけるのではなく、「携帯電話やインターネットの正
しい使い方」を、教えていく。
携帯電話はともかくも、インターネットについて言えば、さらに無限の可能性を秘めている。
インターネットによって、今、私たちの住む世界が、大きく変わりつつある。
「第2の産業革命」と位置づけている人も、多い。

だったら、ソロバンや計算機の使い方を教えるのではなく、コンピュータやインターネットの使い
方を教えたらどうなのか。
教育のカリキュラムそのものを、現実に合わせていく。

さらに言えば、何をもって、「悪化」というのか、私には、よく理解できない。

静岡県教育委員会の調査によれば、「環境は10年前と比べて悪化している」と答えた人が、8
9%もいるという。
しかしそう答えた人は、ほんとうに10年前のことがわかっていて、そう答えているのか?
私自身は、「これが世の中の流れ」と思っているから、「悪化した」という意識は、あまりない。
(だいたい、10年前のことを、よく覚えていない。)

むしろ10年ほど前から、「高校でも、託児所が必要になる時代は、そこまできている」と書いて
いた。
そのため「コンドームの正しい使い方を教えたらいい」とも。

もし「規制」ということになれば、何度も書くように、「厳罰主義」しかない。
「18歳未満の子どもと性的関係をもったら、問答無用に、懲役2年に処す」とか。
イギリスやオーストラリアなど、ほかの欧米諸国のように、そういう関係を見聞きしたら、通告義
務を課す。
その義務を怠った人も、同罪として、処罰する。

が、現実は、甘い。

学校の教師によるハレンチ事件にしても、それによって刑務所へ入った教師は、ゼロ。
「教職を追われるなど、すでに社会的制裁を受けている」などという、理由にもならないような理
由で、みな、執行猶予がついて、(無罪?)放免にされている。

こんなバカな国が、ほかに、どこにある?

「規制」だけでは、この問題は、解決しない。
あるいは焼け石に水?
それとも気休め?
やらないよりは、やったほうがマシ?
結果は、すでに見えている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 青少年と取り巻く環境 規制問
題)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

【こどもたちへ】(Songs for Children, written by Hiroshi Hayashi)

●たった一度の人生だから

たった一度しかない人生だから、思う存分、生きてみようよ。
海は広いんだ、空は広いんだ、宇宙は、もっと広いんだ。
だれにも遠慮することは、ない。何も恐れることはない。
心を解き放(はな)とうよ。
海に向かって、空に向かって、宇宙に向かって。
体はあとからついてくる。

でもね、自由に生きるということは、そんなに楽なことではないよ。
「自由」というのはね、もともと「自らに由(よ)る」という意味だよ。
自分で考えて、自分で行動して、そして自分で責任をとるということ。
だから自由でいるということは、とってもきびしいことだよ。

ちっぽけな肩書きや地位に満足してはいけないよ。
名誉や名声を先に求めてはいけないよ。
そんなことをすれば、君の人生は、見苦しくなるだけ。
つまらなくなるだけ。
今やるべきことを、懸命にやろう。
それでいいのさ。
人がどう思うと、そんなこと気にしてはいけない。
君の人生は、どこまでいっても、君のもの。
だれのものでもない。だから思う存分、生きてみようよ。

君を判断するのは、君自身だよ。ほかのだれでもない。君自身だよ。
そういう意味でもね、自由に生きるということは、孤独なことだよ。
勇気がいることだよ。
でもね、結局はそのほうが、自分の人生を生きることになるんだよ。


●成績

成績が悪かった、て?
そう……。いやなもんだね、成績って。
でもね、成績は、あくまでも勉強について、だよ。
君の価値とはまったく関係ないよ。
だから大切なことは、
成績が悪いからといって、
自分の価値まで否定してはいけないということ。
君は君だしね。
まあ、また、やってみようよ。
まだまだ、つぎがあるからね。
めげないでさ。
いちいち気にしていたら、
人生、つまらないよね。
……そう、ぼくなんか、
今、成績つけられたら、
ひどい成績だと思うよ。
老人度……82点
ボケ度……90点
嫌われ度……98点
……なんてね。
笑った?
笑ったら、先へ進もうよ。
そうそう、君は、「宝島」という本を知っているかな。
「ジキル博士とハイド氏」でもいい。
あれを書いた、スティーブンソンという人は、
こう言っているよ。
『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進む事だ』とね。



●悩み

悩みにも、二種類あるよ。
どうしようもない悩みと、
何とかなる悩みだよ。
どうしようもない悩みは、
あきらめようよ。しかたないもん、ね。
でもね、何とかなる悩みは、
……むずかしいね。
ぼくにも、わからない。
だってね、ぼくはね、
そういう悩みを、山のように
もっているからね。
ありすぎて、
どうしたらいいか、
わからないでいる。



●810年後

君がいつか、おとなになり、結婚したとするだろ。
そして二人の子どもをもったとするだろ。
そしてその二人の子どもが、
またおとなになって、結婚したとするだろ。
そしてまた二人ずつの子どもをもったとするだろ。
そうすると、ね、27代目には、君の子孫は、
1億3000万人を超えるんだよ。
今の日本の人口とほぼ、同じになるというわけ。
わかるかな。そしてね、一世代を30年で
計算するとね、つまり30かける27で、
810年後には、そうなるんだよ。
たった810年後には、日本中が君の子孫になるというわけ。
すごいことだね。
……こう考えると、「自分だけは」とか、
「自分の子どもだけでも」と考えることが、
いかにつまらないことか、わかるよね。
ときどきは、そういうふうに考えてみてごらん。
世界が、ぐんと広くなるよ。



●正直に言ってみようよ

言いたくないことも、あるさ。
かくしたいことも、あるさ。
だまっていたいことも、あるさ。
ウソをつきたいことも、 あるさ。
知られたくないことも、あるさ。
でもね……。
正直に、言ってみようよ。
勇気がいることだけれど、
思い切って、言ってみようよ。
つらいし、苦しいし、いやかもしれないけれど、
正直に、言ってみようよ。
するすると、ね。
……
ずっと、ずっと、心が軽くなるよ。



●いやだったら……

いやだったら、「いやだ」って、
言えばいいんだよ。
無理することないよ。
でもね、一つだけ、
こんなことに注意してよ。
君の「いや」は、わがままではないか、と。
もし、そうなら、君の「いや」には、
意味がないよ。
その「いや」は、よくないよ。



●なくすもの

おとなになるにつれてね、
なくすものも、あるんだよ。
何だと思う?
それはね、
感動と、純粋な心だよ。
たとえば虹を見たときね、
君は、ワーッて、歓声をあげるよね。
でもね、おとなになると、
そういうふうに感動しなくなるよ。
とってもさみしいことだけれどね。
それにね、
純粋な心もなくなるよ。
とってもさみしいことだけれどね。
でもね、
君たちは、大切にしようね。
いいか、よく「子どもっぽい」と
笑う人がいるだろ。
しかしね、
子どもっぽいということは、
とてもすてきなことなんだよ。
すばらしいことなんだよ。
だから恥ずかしく思うことはなんだよ。
いつまでも、いつまでも、
感動と、純粋な心を大切にしようね。
おとなになるとき、
なくしちゃあ、だめだよ。
ワーズワースという人は、
こんな詩を書いているよ。

子どもは人の父

空に虹を見るとき、
心ははずむ。
私が子どものころもそうだった。
おとなとなった、今もそうだ。

願わくば私は、
歳をとって、死ぬときも、
そうでありたい。
子どもは人の父。
自然の恵みを受けて
それぞれの日々が、
そうであることを、
私は願う。



●君の価値

君の価値は君が一番よく知っている。
だから、ね。だれも認めてくれなくても、
気にしてはだめだよ。
大切なことは、だれも認めてくれなくても、
自分をそまつにしないこと。
ぼくたちは、いつでも、どこでも、
気高(けだか)く生きようよ。
ぼくは世界中で、ただ一人。
君は世界中で、ただ一人。
ぼくは世界中で、最高の人間。
君は世界中で、最高の人間。
これは事実だよ。



●希望

人は、悪いこともするけれど、
努力によって、
神様のような人にもなれる。
それが「希望」だってさ。
みんな天使のような人に
なってしまったら、
この世界、つまらないよね。
いろんな人が
いろんなドラマを展開するから、
この世界、おもしろいんだよ。
聖書の中の説話だけど、
ぼくの好きな説話だよ。



●バカな人

バカな人は、賢い人にかみつくよ。
しかしね、賢い人は、バカな人を
相手にしないよ。無視するよ
それがバカな人と、賢い人の違いだよ。



●荷物をもってあげようよ

お母さんが、買い物から帰ってきたよ、ね。
お母さんは、重い荷物をもって いるよね。
そういうとき、君はどうしてる?
だまって見ている?
知らないフリをする?
いけないよね。
そういうときはね、お母さんの荷物を
もってあげようよ。
きっとね、君はね、あとで、胸の中が
スーッとするのを感ずるよ。
ウソじゃないよ。本当だよ。
一度、ためしてみてごらん。
本当に、胸の中が、スーッとするよ。



●将来

10年後の君は、どうなっているかな?
20年後の君は、どうなっているかな?
そんなことを考えると、いろいろ不安になるかもしれないね。
でも、心配、いらないよ。
きのうがあって、今日があるように、
必ず明日があるよ。
そして明日があるように、
10年後の君はいるよ。
20年後の君はいるよ。
だからそんな先のことは心配しないこと。
今できること。今しなければならないこと。
それを一生けんめいに、しようよ。
それでいいんだよ。
明日になれば、明日のことはわかるから、ね。
今日一生けんめいしておけばね、
明日のことが楽しみになるよ。



●自分の力で生きようよ

神様や仏様に祈って、
それで自分の願いをかなえようという人がいるよね。
それぞれの人が、それぞれの思いをもって、
真剣にそう願っているのだから、
ぼくには、何とも言えないけど、
君たちは、自分の力で生きようね。
だれかに助けてもらうとね、
何かを成しとげたとき、
喜びが半分になってしまうよ。
「神様のおかげで、1等賞をとりました」と言うのは、
どこか、さみしいね。
失敗しても、1等賞がとれなくても、
君は君。いいじゃない。
それで……。



●願い事

ぼくもね、実のところ、子どものころ、
よく神様に願いごとをしたよ。
でもね、「原爆の少女、偵子(さだこ)」を
読んでから、考え方が変わったよ。
「ぼくより、ずっと真剣に祈った人がいる」
「ぼくよりずっと、神様の力を必要としている人がいる」って、
そんなふうに考えたら、
もう神様や仏様に向かって、
「〜〜してください」などとは、
祈れなくなってしまった。
そのかわり、
「ぼくよりずっとあなたの力を必要としている人がいる。
もしあなたに力があるなら、ぼくはいいから、
そういう人のために、あなたの力を使ってください」と
思うようになった。つまりね、
それからは、神様や仏様には、
願いごとをしなくなったというわけ。
これはぼくの個人的な意見だよ。
君は君で、考えればいいよ。



●地球

知っているかな。
太陽を直径15センチのボールにたとえるとね、
地球はそこから10メートル離れたところにある、
直径0・5ミリ(1ミリの半分)の大きさの玉なんだよ。
宇宙船で太陽系を飛んでいてもね、
地球に気がつく人はいないかもしれない。
地球はそれほど小さい……?
目の前には、砂丘の砂の数ほどの太陽があるからね。
ぼくは「人間」を考えるとき、
いつもこのことを頭におくよ。
でもね、だからといって、
「人間はつまらない」と言っているのではないよ。
誤解しないでね。
ときどき、そういうふうに、
ものごとは宇宙からみた視点でかんがえるといいということ。
そうするとね、人間のことがよくわかるよ。



●時の流れ

時の流れは風のようなものだよ。
どこからともなく吹いてきて、
またどこかへ去っていく。
つかもうとしても、つかめないよ。
そしてね、
風は時に強く、
また時に弱く、止まるときもあるよ。
そういうときはね、
また風が吹き始めるのを待つんだよ。
あせってもしかたないもん、ね。
時の流れは、そういうものだよ。



●友だち

無理して、みんなと仲よくしようなどと、
思わなくてもいいんだよ。
英語のことわざにもね、
「二人の人に、同時によい顔はできない」
というのがあるよ。
気楽にいこうよ。
気楽に考えようよ。
無理して、いい子ぶることはないよ。
そんなことをしていると、
疲れるもんね。
でもね、一つだけ、お願いがあるんだ。
それはね、君のまわりに、
友だちがいなくて、
さみしそうにしている人はいないかな?
もし、いたらね、その人とは
仲よくしてあげてね。
「こんにちは」とか、「遊ぼうよ」と
声をかけてみてあげてね。
それはとっても、大切なことだよ。
それは、とっても楽しいことだよ。
このお願いだけ聞いてくれるなら、
あとは、無理しなくてもいいよ。



●男と女

「男だから」とか、「女だから」とかいう言葉は、
まちがっているよ。
「男のくせに」とか、「女のくせに」とかいう言葉も、
まちがっているよ。
そんなふうに考えている人がいたら、
「それはおかしい」と、言ってあげよう。
これからは、もう、そういう時代ではないよ。



●チャレンジ精神

何にでも、チャレンジしていこうよ。
それでいい。結果はあとからついてくる。
ついてこないかもしれない。
気にすることはないよ。
まず、チャレンジ。
それでいい。



●相手のこと

イギリスのことわざに、ね、
「相手は、自分が相手を思うように、自分を思う」というのが、あるよ。
つまりね、
君が、AさんならAさんを、「いい人だ」と思っていると、
Aさんも、君のことを、「いい人だ」と思っているということ。
君が、AさんならAさんを、「いやな人だ」と思っていると、
Aさんも、君のことを、「いやな人だ」と思っているということ。
そういう意味でね、人間の心は、カガミのようなものだね。

だからね、みんなと仲よくしたかったら、みんなのことを「いい人だ」と
思うようにするといいよ。そうするとね、みんなも、君のことを
「いい人だ」と思うようになるよ。やってみたら?


●家族

家族を大切に、ね。
家族は、一緒に住むんだよ。
家族は、みんな、助け合うよ。
家族は、守りあうんだよ。
あのね、幸せは、ね。
そんなに遠くにあるんじゃ、ないよ。
君のそばにあって、
君に、見つけてもらうのを、息をひそめて、
そっと待っているんだよ。
君の、すぐそば、でね。
ほら、知っているかな?
ボームという人が書いた、
「オズの魔法使い」さ。
あの中でね、ドロシーという女の子と、
トトという犬が、虹の向こうにあるという
幸せを求めて、旅をするだろ。
そしてエメラルド・タウンをめざすんだ。
しかし、ね。
本当の幸せは、カンザスのいなかの、
自分の家の中にあることを
知るんだよ。
幸せっていうのは、
そういうもの。
わかった?
わかったら、家族を
大切にしようね。



●偉い人

偉い人なんて、いないよ。
人間は、皆、平等だよ。
でもね、尊敬できる人はいるよ。
地位や、肩書きには関係なく、ね。
君のすぐそばにいるよ。
そういう人をさがしてみてごらん。
君だけが知っている、
君が尊敬できる人だよ。
必ず、君のすぐそばにいるよ。



●仕事

人間に上下はないよ。
仕事にも上下はないよ。
君がしたい仕事。
君がしなければならない仕事。
君ができる仕事。
それをさがせばいい。
そして、ね。
一度それを見つけたら、
それを一生かかってするんだよ。
人が何と言おうが、
気にすることはない。
気にしてはだめだ。
君は君の道を信じて、
まっすぐ前に
進めばいい。



●勉強部屋

勉強はね、一番したいところですればいい。
勉強部屋の机に向かってするなんて、
だれが決めたのかな?
そんなルールはないよ。
オーストラリアのぼくの友人は、
いつもベッドにねそべって、勉強していたよ。
そのほうが、よく考えられるからだって、さ。
つまりね、勉強には「形」はないの。
わかる?
だからしたいところで、したいようにすればいいんだよ。



●消しゴム

ぼくは、よく「消しゴムは使わないほうがいい」と言うだろ。
それはね、まず、君たちに、
考えてから書く習慣を、身につけてほしいからだよ。
消しゴムと仲よしになるとね、
書いてから考えるようになるよ。
そうするとね、考えがまとまらなくなる。
それだけではないんだよ。
消しゴムと仲よしになるとね、
時間がうんと、ムダになるよ。
消しゴムばかり使っていてね。
まちがえたら、一本、線を引いて、
それで消したことにすればいい。
それにね、
消せばなおるという人生観、
いやだね。
人生というのは、
一度過ごしたら、
消せないんだよ。
だから、「いつか消そう」などというふうに、
思って生きてはいけないよ。
「いつか消せる」と思っても、
いけないのだよ。
いつも真剣勝負だよ。
だから、消しゴムとは、
仲よしにならないほうが、いいよ。



●迷信

うらないや、まじないっていうのがあるね。
ああいうのは、みんなウソだよ。インチキだよ。
信じちゃ、だめだよ。ああいうのを信ずるとね、
自分が自分でなくなってしまうよ。
いつの間にか、ね、
自分で考えられなくなってしまうよ。

ぼくが神様ならね。
あるいは仏様でもいい。
いちいちみんなのことを、
そこまでこまかく、気にしないよ。
めんどうだもん。

自分の未来や運命は、自分で決めるものだよ。
だれでもない、自分自身が決めるんだよ。わかった?


大切なもの

生きるときに大切なものは、
自由と、平等と、正義さ。
この三つは、守ろうね。



●やさしさ

ほかの人を喜ばすことが、
自然な形で、できる人を、
やさしい人と、言うんだよ。
君はどうかな?
それができるかな?
方法は簡単だよ。
何かを買うときでもね、
「これがあったら、
パパが喜ぶだろう」
「これがあったら、
ママが喜ぶだろう」と、
考えて、買えばいいんだよ。
そうすれば、
君も、そのやさしい人に
なれるよ。

 

●邪悪なもの

心がゆがんでくるとね、
邪悪なものに、興味をもつようになるよ。
「殺す」「命」「悪魔」「戦争」とか、
そういう言葉にひかれるようになるよ。
それは病気のようなものさ。
心の、ね。
だから、もし君が、そういうものに、
ぐんぐんと心がひかれたら、ね、
それは君の心が、病気になり始めたということ。
風邪をひいて、熱を出すように、ね。
そういうときは、心を休めよう、よ。
無理をすることはないよ。
そして、ね。
少しは自分と戦って、
そういうものから、遠ざかるようにしようね。
でないと、心というのは、
もっと、もっとゆがんでくるよ。
病気は、どんどんと重くなるよ。


●悲しくなったら……

悲しくなったら、
空を見て、
星を見て、
大声で泣けばいい。
ぼくは、いつも
そうしてきた。
広い空はね、
きっと
君の
悲しみを、
なぐさめてくれるよ。



●家庭

君は、どこで心を休めているのかな?
家の中。そう家の中だよね。
でも、その家の中のどこかな?
居間かな? 台所かな?
「トイレの中」と言った人もいたよ。
「お風呂の中」と言った人もいたよ。
あるいは「ふとんの中」と言った人もいたよ。

でもね、もし君が、家族のいる、
みんなの中が、一番安心できるとしたら、
それはすばらしいことだよ。
君は、すばらしい家族をもっているということ。
うらやましい、ね。
もしそうなら、君は、君の家族を、
大切にしたらいいよ。
自信をもって、ね。


●まじめな人

言われたことを、しっかりとする人のことを、
まじめな人と思っている人がいるよね。
しかしそれは誤解だよ。
まじめな人というのはね、自分で決めたことを、
しっかりと守れる人のことをいうよ。
他人に言われたことをするのではない。
自分で決めたことを、だよ。
人が見ていようが、見ていまいが、
そういうことは関係ないよ。
あくまでも自分の問題だよ。
まじめか、どうかということは、ね。
だから、まじめな人になるというのは、
実は、とってもきびしいことなんだ。

ぼくはどんな寒い日でも、風が強い日でも、
自転車で仕事に通っているよ。
健康のためだけど、ね。
そういう意味では、ぼくも、結構、まじめな人だよね。
多分……?


●約束

簡単に約束はしないこと。
そのかわり、
約束をしたら、必ず守ること。
どんなことでも、ね。
約束って、本当のところ、
とても重いものだよ。
苦しいものだよ。
だから、
簡単に約束はしないこと。
  

●心

心を解き放とうよ!
空に向かってね。
モヤモヤしたら……。
重苦しく感じたら……。
行きづまりを覚えたら……。
体はあとから、ついてくるって、
昔、ぼくの友人が、
いつも、そう言っていたよ。



●考えること

考えることは、もともと苦しいことだよ。
だからたいていの人は、考えることを
無意識のうちにも、避けようとする。
めんどうだし、ね。
しかし考えるから、人間の、人間としての
価値が、生まれるのだよ。
昔、パスカルという人も、
「考えるところに、人間の偉大さがある」
と、言ったよ。

そうそう、ペラペラと調子のよいことを、
しゃべる人がいるよね。
ああいう人は、本当は何も考えていないよ。
ただ頭の中の情報を、適当に加工して、
それを言葉にして、しゃべっているだけ。
考えているんじゃ、ないんだよ。

いいかな、考えるということと、
情報を加工して外に出すということは、
まったく別のことだよ。
わかった? 


●本物を、ね

本物を見ようね。
本物を聞こうね。
絵でも、音楽でも、何でも、だ。
ニセモノばかり見たり、聞いたりしているとね、
君自身まで、ニセモノになってしまうよ。
美術館へ行こうよ。
コンサートに行こうよ。
でもね、もっと大切なことは、
図書館へ行くことだよ。
図書館にはね、
本物が、山のように、あるよ。
だから、「本」というのかな?
これは、シャレかな?



●正直に生きようよ

いやだったら、いやだと言おうよ。
できなかったら、できないと言おうよ。
飾ることはないよ、ね。
ウソをつくことはないよ、ね。

自分を飾れば飾るほど、疲れるよ。
ウソをつけばつくほど、疲れるよ。
でも、それだけでは、すまないよ。

飾れば飾るほど、見苦しくなるよ。
ウソをつけばつくほど、見苦しくなるよ。

英語にも、『正直こそ、最善』ということわざが、あるよ。
何でもね、正直であることが、一番いいということさ。
だから、
……飾ろうかとか、ウソをつこうかと迷ったら、
この言葉を思い出してよ。
そうすれば、おのずと答えが出てくるよ。
そして、ね。
思い切って正直に、自分を表現してみてごらん。
思い切って正直に、話してみてごらん。
そうするとね、
心の中を、スーッと風が通るのを感ずるよ。
とっても気持ちのよい風が、ね。


●バカなおとなたち

電車の中で騒ぐおとな
車の外にゴミを捨てるおとな
ツバを道路にはくおとな
排気ガスを平気で出すおとな
赤信号をつっ走るおとな
大声でどなりあうおとな
バカなおとなは、いくらでもいるね。
今、そういうおとなたちを、
しっかりと見ておくといいよ。
そういうおとなが、バカだとわかればわかるほど、
君は、賢い人になるということさ。

……そう、おとなになればなるほど、
バカになっていく人はいくらでもいるよ。
君はどうかな?


●その人の価値

その人の価値は、友だちの数で決まるんだってさ。
友だちが多ければ多いほど、その人の価値があがるということだって。
アメリカ人の友人が、ぼくにいつもそう言っていた。

でもね、友だちを作るって、むずかしいね。
本当に、むずかしいね。
君はどうかな?



●前に進もう

学校というところはね、ただ勉強するだけじゃ、ないんだよ。
学校というところには、友だちがいっぱい いるだろ。
そういう友だちを見ながらね、「人」の勉強をするところだよ。
どんな「人」がいて、どんなことをしているか、見てごらん。
たとえば、ね。

前に進んでいる人は、輝いているよ。
何でもいいんだ。どんなことでもいいんだ。
前に向かって努力している人は、すてきだよ。

君はね、そういう人を目標にするといいよ。
つまり、ね、「人」を見るときは、
前の人ばかり見ていけば、いいんだよ。
うしろの人を見ないこと。
うしろを気にしないこと。
そして、ね。その人と一緒に、前に進めばいいんだよ。
学校というところは、そういうことも勉強するところだよ。



●許して、忘れな

友だちとのことでね、
いやなことがあったら、
許しちゃいな。
忘れちゃいな。
あとは気にしない。

人間ってね。
同じレベルの人のことで、悩むものさ。
もしいやな人がいて、その人のことで悩んだら、
君自身も、その人と同じレベルということ。
わかるかな?

だったら、ね。その人を超えればいい。
そうすると、ね。その人との問題は、
解決するよ。

だって、ね。
君のほうが、その人の上になるんだもん。
動物園のサルが、君に向かって、
アッカンベーしても、君は気にしないだろ。
それと同じことだよ。

君が上になればなるほど、
相手のことが気にならなくなるよ。
そのためにも、ね。
許しちゃいな。
忘れちゃいな。
あとは気にしない。


●勉強で苦しんでいる君へ

勉強って、いやなものだよ。
だから勉強が嫌いな、君は、ちっともおかしくない。
あんな勉強、好きな人のほうが、どうかしている。

それにね、
勉強ができるから、頭のいい人ということにはならない。
勉強ができないから、頭の悪い人ということにはならない。
勉強ができるから、すぐれた人ということにはならない。
勉強ができないから、劣った人ということにはならない。
勉強と君の価値は、まったく関係ないよ。
君は君だ。君の価値は、君が一番よく知っている。

だからね、
自分を信じて、自分の道を進むんだよ。
君にも、したいことがあるだろ。
君にも、できることがあるだろ。
それが君の価値になる。

今はまだ石に包まれて、光っていないかもしれないが、
いつか光り出す。宝石のように光り出す。
そういうときが必ずくるから、その日を信じて、
今は、その準備のとき。今は、勉強を通して、
じっくりと自分をさがしたらいい。
自分の中の宝石をさがしたらいい。

勉強ができないからといって、あせってはだめだよ。
失望したりしたりしてはだめだよ。
もともと勉強というのは、そういうものだから、ね。
ぼくらは、気楽に行こうよ。気楽に、ね。

そうそう英語ではね、こう言うよ。
テイク・イッツ・イージィってね。
「Take it easy!」と書くよ。
「気楽にしなさいよ」という意味さ。
いい言葉だね。



●文を書こうよ

「考える」ということは、「文にまとめる」ということだよ。
だから、いつもどこかで、文を書いてみようよ。
文を書くことのいい点はね、同じことでは、悩まなくなることだ。
つまりね、一つの問題にぶつかったら、文を書く。
書いて、結論を出す。そうするとね、その問題では
もう悩まなくてすむようになる。つまり、ね。
時間をムダにしなくて、すむということさ。
これをしないとね、いつまでも同じ問題で
悩むことになるよ。

そうそう「考える」ということはね、
ちょうど、だれも歩いたことがない荒野を、一人で歩くようなものだよ。
いくら先へ進んでも、その前にまた別の道がある……。
でもね、それは、とってもスリリングなことだよ。
いつも新しい景色が、そこで待っていてくれる。
それはいわば、頭の中の冒険のようなものだよ。
ひょっとしたら、頭の中は、この宇宙よりも広いかもしれない。
君も、その冒険に乗り出してみてごらん。
おもしろいよ。



●好きな人ができたらね……

好きだったら、「好き」って
言えばいいよ。
絶対に後悔しないよ。
言わないほうが、後悔するよ。
だけどね、一つだけルールがある。
相手の人が、「ノー」と言ったときはね、
さっと、引きさがること。
相手の人が、一番いいようにしてあげるのが、恋なのさ。
それが「本当に好き」という意味なのさ。
相手の迷惑になるようなことはしてはいけないよ。
いくら、フラれてもね。
……そういう気持ちでいるとね、
つぎには、もっとすてきな人が現れるよ。
そしてね、そのときは、うまくいくよ。



●意地悪(いじわる)

ぼくも、いつも意地悪をされているよ。
何かを話しかけても、口をきいてくれない人もいるよ。
かわいそうな人だね。自分では、一人前のつもりでいるから。
そういう人に限って。ぼくはね、おもしろいから、その人に 
わざと あいさつをしてやるよ。そうするとね、ますます
ぼくを無視するよ。それがおもしろいのさ。
だって、そういうことをする人は、かわいそうな人だもんね。
心がせまいというか、住む世界がせまいというか。
ぼくは全然そういう人を相手にしてないのにね……。

もしいじめにあったら、そのときこそ、
自分が大きくなるときだと思えばいいよ。
大きくなって、大きくなって、その人を
乗り越えるのさ。それは簡単にできるよ。
だってね、意地悪する人というのはね、
もともとちっぽけな人間だから、ね。
ちっぽけな人間だから、人に意地悪をして喜んでいるのさ。



●友だち

君を、前にひっぱっていく友だちがいるよ。
しかしね、君を、うしろへ、ひっぱっていく友だちも、いるよ。
君に、夢や希望を話し、君と一緒に歩こうとうする友だちが、いるよ。
しかしね、君に悪いことを教え、君と一緒に逃げようとする友だちも、いるよ。
賢い君は、もうわかるね。どちらの友だちが、本当の友だちか?
あとは、君自身の判断に従えばいい。

それからね。ここが大切なところだけれど、
君は、君の友だちを、前にひっぱっていく人になるんだよ。
そうするとね、君のまわりには、すてきな人が集まってくる。
それはとっても、すばらしいことだよ。



●知恵

考えるから人間だよね。
しかしね、その考えることを、
悪いことに使う人がいるよ。
せっかく、すばらしい知恵をもちながら、ね。
そういう人は、知恵のゴミを、
社会にまき散らしているのさ。
かわいそうな人たちだけど、
自分では、それに気づいていない……
君にも知恵はあるだろ。
その知恵はね、
みんなのために使おうね。
せっかく、この宇宙に、
人間として生まれたんだから、ね。
たった一度の人生だから、ね。
大切に、その知恵を使おうね。



●流行

マーク・ツウェィンという人を知っているかな?
「トム・ソーヤの冒険」という本を書いた人だよ。
彼がね、こんなことを言っているよ。
「皆と同じことをしていると感じたら、
そのときは自分が変わるべきとき」とね。
皆と同じことをするということは、
ぞれだけでも時間のムダだよ。

君は君の時間を、君のものとして生きる。
いいかな、皆と同じことをするというのは、
とても楽な生き方かもしれないけど、
本当はずるい生き方なんだよ。
自分に対して、ずるい生き方なんだよ。
だからね、流行には、できるだけ抵抗すること。
少したいへんかもしれないけど、
がんばってみてごらん。
「私は違う」「ぼくは違う」という生き方のほうが、
ずっとすてきだよ。



●ごみは捨てない

毎日の積み重ねが、月になるよ。
月々の積み重ねが、年になるよ。
そしてね、その年が積み重なって
その人の人格になるよ。
むずかしいことではない。
簡単なことだよ。日々の積み重ねというのは、ね。
たとえばゴミを捨てない。
ツバをはかない。
人にウソをつかない。
お金やものを借りない、などね。
そういうことで人格が決まるよ。
ウソだと思ったらね、
車の窓から、タバコの吸いがらを
外へ捨てる人の顔をみてごらん。
ツバをはく人の顔を見てごらん。
その程度の顔しかしてないよ。
君たちも、ああいう人になりたくなかったら、
ゴミを捨てないこと。
たったそれだけのことだけど、
長い時間をかけて、「私」という君が
できるよ。



●目標

したいことは、いっぱいもっていたほうがいいよ。
君にもあるだろ。したいことが……。
そのしたいことを懸命にすればいい。
結果はあとからついてくる。

それから目標はもったほうがいいよ。
君にもあるだろ、目標が……。
その目標に向かって、努力する。
それはとても大切なことだ。

ぼくにも、子どものころ、一つの大きな目標があった。
それはね、外国へ行くことだった。
今から思うと、ちっぽけな目標だったかもしれないけどね。
でも、ぼくが子どものころは、飛行機に乗ることすら、
夢のような話だった。本当だよ。だから外国へ行くということは、
たいへんなことだった。
でもね、ぼくはその目標を達成したよ。
ぼくが最初に、外国へ行ったのは、韓国だった。
あのときは、うれしかったよ。
本当にうれしかったよ。
今でもそのときの感激を忘れないよ。
目標というのは、そういうものだよ。
君の人生に、大きな喜びを与えてくれるよ。
それはとっても、すばらしいことだよ。



●死後のこと

死んだあとも、
あの世があると
言う人がいるけど、
ぼくは、知らない。
見たことないもんね。
でもね、
あれば、楽しい、ね。
死んだあとも、またみんなに
会えるからね。
でも、本当に
あるのかな?
君は、どう思う?
それとも、
本当にだれか、
あの世を見たことが
あるのかな?



●めざせ、プロ!

君はプロになる。
プロだ。
いいか、どんな道のプロでもいい。
「これだけは絶対、人に負けない」というのが、
プロ、だ。
そのプロをめざせ。

ぼくもね、幼児教育については、
自信があるよ。
ぼくはね、この道では、
絶対に、人に負けないよ。
だから、ね。
この世界では、いつも優越感を覚えるよ。
何というか、ずっと先を、走っているような優越感さ。
これは実に、楽しいことだよ。
人に認められるとか、認められないとか、
そういうことは全然、気にならないよ。
ぼくはぼくだし、ね。
プロというのは、そういうものではないのかな。

プロになるんだよ。
どんな道でもいい。
それは本当に楽しいことだから。



●低俗な番組は見ないほうがいいよ

夜になると、低俗な人たちがテレビで騒いでいるね。
バラエティ番組という名前がついている、あれだよ。
意味もないことを、ギャーギャーと言ったり、騒いだりしている。
ああいう人たちはね、実際には頭の中はカラッポ。
自分の知っている情報を、右から左へと、適当に流しているだけ。
思いついたことを、ペラペラと話しているだけ。
ときどきもっともらしいことを言うけどね、たいていは、人の受け売り。
だからいくらああいう人の意見を聞いても、君たちのためにはならないよ。
時間をムダにするよ。人生をムダにするよ。

いやね、それだけではない。
ああいう番組を見れば見るほど、君たちも、愚かになるよ。
言い方や、しぐさまで、似てくるよ。

今度ね、ゆっくりと、ああいう番組に出てくる人を観察してみてごらん。
ぼくには、どう見ても、スーツを着たサルにしか見えない。
ぼくがおかしいのかな。それともテレビがおかしいのかな。
でも、少しだけ、冷静に考えて見てごらん。
君たちは、本当にああいうおとなになりたいかい。
本当にああいうおとなが、理想のおとなと思うかい。
できれば、一度、音を切って、見てみてごらん。
顔や口の動きだけを見てごらん。
ぼくの言っている意味がわかるはずだよ。



●幸せの目標

幸福なんてものはね、
そんなに遠くにあるんじゃ、
ないんだよ。
君たちのすぐそばにあって、
君たちに見つけてもらうのを、
息をひそめて
静かに待っているんだよ。
「早く見つけてくれ」ってね。

何だと思う?
幸福って。
それはね、
「家族」だよ。
家族が、一番大切なものだよ。

家族にはね、
三つの役目がある。

(1)家族は助けあう。
(2)家族は守りあう。
(3)家族は理解しあう。

今日からね、大声で
こう言おうよ。
「私にとって、一番、大切なものは
家族です!」って。
「家族を一番大切にします!」って。
家族を大切にするということは、
とってもすばらしいことなんだよ。
そしてね、
それが結局は、
幸福の原点なんだよ。



●賢明な人、愚(おろ)かな人

賢明な人はね、なくす前に、その価値に気づくんだよ。
しかしね、愚かな人は、なくしてから、その価値に気づくんだよ。
たとえば健康。たとえば時間。たとえば家族。

それからね、愚かな人とは、つきあってはダメだよ。
愚かな人とつきあっていると、君たちまで、愚かになるよ。
いいかな。
自分よりすぐれている人を見つけて、
その人をいつも目標にするといいよ。

賢明な人はね、いつも自分より、より賢明な人をみつけて、
自分の力のないことを、嘆くのさ。
愚かな人はね、いつも自分より、より愚かな人をみつけて、
それで自分をなぐさめるのさ。
 
それからね、賢明な人は、愚かな人を相手にしない。
でもね愚かな人は、賢明な人に、あれこれ文句を言ってくる。
自分が愚かだとわかっていないからね。

だからちょうど、図書館で本を選ぶように、
君たちも、友や仲間を選ぶんだよ。
これはとても大切なことだよ。



●バカな人
ついでにね、

「フォレスト・ガンプ」という映画の中で、
フォレストのお母さんが、こう言うよ。
「バカなことをする人を、バカと言うのよ。頭じゃ、ないのよ」と、ね。
いい映画だから、一度は見てごらん。

いいかな。バカなことをする人を、バカというんだよ。
勉強ができないとか、成績が悪いとか、そういうことではないよ。
バカなことをする人を、バカというんだよ。
タバコを吸ったり、バイクで夜中に騒いだり、
ゴミを平気で捨てたり、道路にツバをはいたり、
人をキズつけるようなことを平気で言う人を
バカって、いうんだよ。
人をいじめたり、いやがらせをしたり、仲間ハズレをしたりして
おもしろがっている人を、バカっていうんだよ。
君は、そのバカな人ではないんだよ。
だってね、
この文を読んでね、バカの本当の意味がわかったからね。



●懸命に生きようね

「今」を、懸命に生きようね。
あとのことは、考えなくてもいい。
「今」を懸命に生きて、あとのことはあとに任せようよ。
結果はいつも、あとから、勝手についてくる。
気にしなくていい。心配しなくていい。
ぼくもね、この文を、今、懸命に書いているよ。
だれかが読んでくれるかどうか、わからないけれど、
懸命に書いているよ。でもね、大切なことは、
だれかに読んでもらえるかどうかなどということではないよ。
気にしないことだ。ぼくはぼくだし、君は君だ。
でもね、君は、ここまで読んでくれた。
心から「ありがとう」と言うよ。
本当に、ありがとう。
君のことを、心から愛しているよ。
君はね、決して、ひとりぼっちじゃ、ないよ。
心から愛しているよ!
ではね。
またいつか、このページを読んでね!



●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

前線の子育て論byはやし浩司(2713)

【今日・あれこれ】(7月5日)(July 5th)

●ハンド・トップ・パソコン

+++++++++++++++

今、ミニ・パソコンがおもしろい!
手のひらに載るような、小さなパソコンである。
言うなれば、「ハンド・トップ・パソコン」。

10年前にも、この種のミニ・パソコンは、あるにはあった。
私が買ったのは、TOSHIBAの「SS・3100」。
しかし値段が高かった。
当時、24万円くらいしたように記憶している。

が、台湾製の「イー・PC」で、火が付いた。
つづいて、HP社が、出した(6月下旬発売)。
今度は、MSI社が出した(7月5日発売)。

現在日本にも、KOHJINSHAという
会社がある。
職人的な技術が光る、すぐれたパソコンを出している。
しかし今度は、台湾製で、火が付いた。

KOHJINSHAをのぞいて、どれも、
値段は5〜7万円。
KOHJINSHAので、同程度のものが、
10万円前後。

一方、日本のメーカーのパソコンは、高い。
F社でも出しているが、20万円前後。
「どうしてこんなに値段がちがうのか?」と
思えるほど、高い!

私はMSI社のミニ・パソコンをねらっているが、
今のところ品薄。
発売と同時に、売り切れ状態がつづいている。

がんばれ、日本!
このままでは、日本製は、沈没してしまうぞ!

+++++++++++++++

●またまた6か国協議?
(What is the 6-nation conference for? Mr. C. Hill has already destroyed the basic scheme of 
the conference. The tragedy is that we, the Japanese, have no choice but to follow him 
whatever he is and whatever he does for North Korea.)

+++++++++++++++

まわりの人たちが、見るに見かねて
助けを出している。
見るに見かねて、だ。
にもかかわらず、当の本人は、それを拒否する。
拒否するばかりか、逆に、まわりの人たちを
ののしる。
「オレたちと、もっと仲よくしろ!」と。
仲よくしたいから、助けを出している。
が、当の本人には、それも理解できない。
つまり言うことなすこと、メチャメチャ!
今のK国を見ていると、そんな感じがする。

+++++++++++++++

●いじけた心

7月5日の読売新聞に、こんな記事が載っていた。

『……韓国とK国は首脳会談合意を受け、今年2月の実務接触で、南北各300人ずつ、計60
0人の合同応援団派遣で一致していた。

 論評は李政権の融和政策見直しにより、「今年上半期に予定された南北首相会談など20件
以上の南北対話と協力事業がすべて破たんした」と非難。その上で、合同応援団派遣も「実現
できなくなった」と指摘した』(読売新聞・7月5日)と。

何も、好き好んで、韓国は、合同応援団を派遣したい
というわけでも、なさそうだ。
見るに見かねて、つまり何とか外の空気を
吸わせてあげたいと思って、そうしてきた(?)。
今までも、渡航費用は、韓国もち。
応援団が身につけるユニフォームも、韓国もち。

ところで、同じく今日、こんなニュースもあった。

たとえて言うなら、隣に住んでいる暴力団の男が、
こう言っているようなもの。
「ピストルを半分捨ててやったから、光熱費を
もっとよこせ」と。

「捨ててやった」と騒ぐところが、恐ろしい!

読売新聞の記事から抜粋する。

『……「われわれ(=K国)の核施設無能力化は現在80%以上進捗(しんちょく)し、正確で完
全な核申告書を提出、合意事項を履行した」「実験用原子炉の無力化を超越した冷却塔爆破
措置まで行った」と、自らの正当性を主張。一方で「5者(他5カ国)の経済保証義務は40%し
か履行されていない」と、「行動対行動」の原則に反すると指摘した』(読売新聞・5月7日)と。

何をもって「80%」といい、何をもって「40%」
というのか?
こういうあいまいな数字をもちだすところが、実に
K国らしい。
が、それはともかくも、核兵器で周辺の国々を脅かし
ながら、「援助が少ない」とは?

……という話なら、だれにでもできる。
だれもが「おかしい」と思っている。
「へん」と思っている。

で、ここでは、話を先に進める。
つまり、どうしてこうまで常識ハズレの国が、
現実に存在するかということ。

言い方をかえるなら、どうしてK国は、こうまで
常識ハズレな国になってしまったかということ。

あるいは、私たちがもっている(常識)のほうが、
おかしいのか?

その問題を解くカギは、(貧困)にある。
というのも、貧困が長くつづくと、人の心までゆがむ。
心まで貧しくなる。

「貧困による公害」という言葉さえある。
「公害」というのは、良識の範囲を超えた「害」ということ。
個々の貧困が集合されると、公害的な要素をもつようになる。
昔、大学の講義で、耳にした言葉である。

たとえばある脱北者は、韓国でこう証言している。
「子どもを誘拐して殺し、その子どもの肉を店で
売っている人がいた」と。

何ともおぞましい話だが、食べ物に困ると、
人は、そこまでするようになる。
が、問題は、その先。

では、私たちは、だいじょうぶなのか?
つまり日本が、現在のK国の国のようになったとき、
「私たちは、そういうことはしない」と、
本当に断言できるか?

答は、「ノー」。
私自身も、その自信はない。
子どもを誘拐して殺す……ということまではしないにしても、
生きるために、泥棒くらいは、するかもしれない。
つまりそういう(心の貧しさ)が集合されて、
その国の(姿)をつくる。

それが現在のK国ということになる。
つまり私たちがもっている(常識)で、現在のK国を
理解しようとしても、無理ということ。
言いかえると、K国を理解するためには、
一度、K国という、つまりは(貧困の集合された国)に、
視点を置いてみる必要がある。

たとえばこんな例で考えてみよう。

あなたの父親は、経済感覚がなく、何をしても
失敗ばかり。
おかげで借金だらけ。
おまけに女性にだらしなく、家の中はゴタゴタつづき。

あなたやあなたの兄弟たちは、食べるものもなく、
学校へ払う給食費さえ、手元にない。
電話はもちろん、電気も止められ、車はあるが、ポンコツ。
ガソリン代が払えないから、道端でほこりをかぶっている……。

そんなとき、隣の家を見ると、こうこうと明かりが灯り、
みなが娘の誕生日パーティをしている。
豪華な料理に、山のようなプレゼント……。
ガレージには、高級車が何台も並んでいる。

それを見たあなたは、嫉妬とも、怒りとも
区別のつかない感情が、メラメラとわき起こってくるのを感ずる。
そこであなたは、あなたの父親を責めることを忘れ、
あなたの隣人に向かって、こう叫ぶ。

「お前たちが、富をひとり占めするから、オレたちは
こんなに貧しいのだ」と。

もちろんそう考えるのは、その人の身勝手。
それはわかる。
わかるが、その(常識)を超えたところに、あなたの、
つまり現在のK国の(常識)がある。
(だからといって、K国を擁護しているわけではない。)

では、どうするか?
私たちはK国をどう考えたらよいのか。
K国とどうつきあったらよいのか。

答は簡単。
あの国を、かろうじて支えているのは、恐怖政治。
その恐怖政治で、(形)を保っている。
外部との通信を遮断し、国に反抗する人たちは、
ことごとく政治犯として、収容所送り。
つまり体制そのものが、異常。

「つぶせ!」とまでは言えないにしても、そういう
体制の維持に、手を貸すことだけはしてはいけない。
いわんや、こちらから助けを申し出ることはない。

が、現在、6か国協議という協議は、名前だけ。
すでに形骸化している。
実質、米朝会談の、追認会議でしかない。
あるいは、ただの「K国援助会議」。

しかし、だ。
どうして、あんな国を、援助しなければならないのか。
拉致問題があろうとなかろうと、そんなことは
関係ない。
(拉致問題があるから、なおさらだが……。)

それを、「日本だけが取り残される」とか、
「日米韓は、ワンボイスでなければならない」とか。
どこかトンチンカンな意見ばかり。

取り残されて困るのは、K国ではないのか。
仲間ハズレにされて困るのは、K国ではないのか。
何もあんな国にビクビクしながら、ワンボイスに
する必要はない。

ところで話がそれるが、このところ、韓国経済が、おかしい。
先週は、イ大統領が、韓国経済が危機的状況に
あることを国民に伝えた。
「これは脅しではない」と。

そして先週末、ウォンを買い支えるため、韓国政府は、
「爆弾的な」(朝鮮N報)為替介入を試みた。
取り引き終了まぎわになって、ドル売り、ウォン買いの
まさに爆弾的な為替介入。
そのおかげで(?)、1ドル=1050を超えた
ウォンが、1ドル=1045ウォンにまで、ウォン高
になった。(韓国では、「ウォン安」と表現する)

しかしこんな状況は、長くはつづかない。
韓国経済が破綻するのは、時間の問題。
ゆいいつの助けは、造船業ということになる。
しかしそれだけで韓国経済を支えるのは、むずかしい。

つまり朝鮮半島は、この先、ますます混沌としてくる。
今すぐどうこうということはないにしても、
日本は、その準備だけはしておかねばならない。
韓国が2回目のデフォルト(債務不履行=国家破綻)に
陥れば、日本の韓国向けの輸出業者は、手痛い損害を
こうむることになる。
その救済措置も考えておかねばならない。
(韓国の救済措置ではなく、日本の輸出業者の、だ。
誤解のないように!)

この際、日本は日本のことだけを最優先に考えればよい。
朝鮮半島で何が起ころうとも、日本には関係ないこと。
責任もない。

本来なら、「隣人のために……」と、ここできれいごとを
並べるべきかもしれないが、しかし今の私は、
とても、そういう気にはなれない。

で、話を戻す。

ことK国について言えば、そういう国だから、
相手にしないのが、いちばん、よい。
仮に相手が殴りかかってきたとしても、ニッコリと笑いながら、
やんわりと、それをかわせばよい。
少なくとも、日本が本気で相手にしなければならないような
相手ではない。
その経済力にしても、アフリカの最貧国と並ぶ、最貧国。
経済力は、日本の地方の、一県あたりほどもない。

ただし拉致問題は、別。
そのため「人権問題」だけを最前面に出し、人権問題だけで
K国を攻める。
攻めて攻めて、攻めまくる。

(私は、当初から「制裁」に、賛成したことは一度もない。
「制裁しなければならないような国ではない」とは書いてきた。
残念なのは、拉致被害者の人たちが、率先して、「制裁」という
言葉を使ったこと。
その言葉を使ったことにより、拉致問題が、人権問題から
政治問題に置きかえられてしまった。
少なくとも世界の人たちはそう見ている。
「あの人たちは、政治活動をしている」と。
制裁するかどうかは、結果として、国際世論が決めること。)

その結果、K国は、自己崩壊するだろうが、
それも日本の知ったことではない。
この世界には、「自業自得」という言葉がある。
自己崩壊したところで、「国」や「民」がなくなるわけではない。
それが結局は、K国の民衆のためにもなる。
核開発問題も、それで解決できる。

この私の主張は、この3年間、まったく変わっていない。
が、もし私のこの意見を過激と思う人がいるなら、
一度でよいから、東京のど真ん中で核爆弾が炸裂する様子を
頭の中で思い描いてみることだ。

また韓国については、イ大統領になったからといって、
親日国家になったというわけではない。
あのノ前大統領時代の反日姿勢を思い出すなら、
しばらくは静観したほうがよい。
韓国は今でも、日本にとって、たいへん危険な国であることには、
ちがいない。

……しかし、それにしても、オメデタイのが、あの
C・ライス氏と、C・ヒル氏。
結局、この2年間で、アメリカがしたことは、K国に
金と原油とお金と時間、プラス、音楽を与えただけ。

反対に、アメリカが受け取ったものは、ゼロ。
ゼロであるばかりか、あの独裁者を延命させただけ。
その間、K国の民衆を、より苦しめただけ。
日米関係の破壊という、おまけまでつけて……!

私はあのC・ヒル氏を見ていて、あるとき、こう感じたことがある。
「3年B組の金八先生、そっくり」と。

独善的な教育論。
それをぶらさげて、生徒の家にあがりこむ。
「私が、この家庭の問題を解決してみせる」と。
そして最後は、父親と酒まで飲み交わす。
夜の道路を、みんなで歌を歌いながら、歩く。
しかし、そんなことをしても、何も問題は解決しない。

相手がワルすぎる。
心理学的にみても、あれほどまでのワルが、「ここで
心を入れ替えて……」ということは、ありえない。
もともと若い国務次官補の手に負えるような相手ではない。
その上、アジアのことが、まるでわかっていない。
言うなれば、ド素人。
そのド素人が、K国の手玉に取られて、いいように、
もてあそばれているだけ。

もっと言えば、C・ヒル氏らのしたことは、
かつてのソ連、中国、韓国、アメリカ、そしてこの日本がした
失敗を、繰りかえしているだけ。

この7月10日に、6か国協議が開かれるというが、
いったい、何をどう話しあうつもりなのか。

すでにK国は、「実際にテロ国家指定解除がなされるまで、
何もしない」と宣言している(7月5日)。
一方、パキスタンのカーン博士は、「K国に、高性能の
ウラン遠心分離器を渡した」と認めた※(7月5日)。

「何のための6か国協議?」と。「?」マークをつけたところで、
この話は、おしまい。
(この原稿は、08年7月5日の夜に、書いたものです。)

(注※)韓国中央N報は、つぎのように伝える(7月5日)。

『 カーン博士はこの日、AP通信とのインタビューで、「P1型遠心分離機や流量計サンプルな
どを北朝鮮に提供した」とし「この機械は00年夏に北朝鮮の飛行機便で運ばれ、当時パキス
タン軍当局が積載を監視した」と明らかにした』と。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2714)

●経穴(ツボ)(Acupoints)

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私は、若いとき、『東洋医学・経穴編』(学研)
という本を書いた。
「本」というよりは、「辞典」に近い。

しかしその本を書くのに、私は7年も、費やして
しまった。
(7年だぞ!)

毎日が、「書くのをやめようか」「しかしここで
やめたら、今までの努力が、水泡に帰す」の
繰りかえし。
が、7年もかかったのには、別の理由がある。

当初私は、中国式の取穴法で本をまとめていた。
日本には、さしたる文献も資料もなく、それで
「中国式で」となった。

原稿は、半年足らずで完成した。
で、出版社に原稿を渡す段階で、それに「待った!」を
かけてきたのが、「日本K穴委員会」。

本といっても、出版社が1億円近い予算をかけて
つくる本である。
ふつうの本ではない。

で、当時、WHOを舞台に、日本と中国は、その取穴法
について、はげしく対立し始めていた。
日本は、当然、「日本式」を主張した。
中国は、当然、「中国式」を主張した。

日本の取穴法は、あまりにも杓子定規的。
体のそれぞれの部位から、「〜寸」という取穴法を採用していた。

一方中国の取穴法は、実用的。
体の各部位を折り曲げたりして、その凹みなどに、経穴(ツボ)を求めていた。
どう考えても、日本式には勝ち目がなかった。

が、日本K穴委員会は、私が書いた本をたたき台に、
中国とやりあうつもりでいたらしい。

で、取穴法が、二転三転した。
そのたびに、私は原稿の書きなおしを迫られた。
それで7年もかかってしまった!

が、私にとっては、貴重な7年である。
私がちょうど30歳のときから、37歳のときまで。
私は、そんなくだらない本のために、7年も
無駄にしてしまった!

「日本式」とはいうものの、科学性はゼロ。
先にも書いたように、文献など、求めようもない。
私が子どものころには、「針・灸・按摩」というのは、
主に身体に障害のある人たちが、する仕事ということになっていた。
当時も、まだその流れの中にあった。

それをどこからか、いきなり「権威者?」たちが現われて、
「ああでもない」「こうでもない」と言い出した。

経穴(ツボ)というのは、その位置が、個人の体格に
応じて、微妙に異なる。
日本式のように、杓子定規的に求めても、意味はない。
ないから、結局は、日本式は、少なくともWHOという舞台では、
認められなかった。
当然である。

で、それからほぼ、23年。
今度は、中国と韓国の間で、経穴論争が起きているという。
ともに、「うちが元祖だ」「いや、うちこそが元祖だ」と。

今朝(08年7月6日)の朝鮮N報は、つぎのように伝える。

『はり治療の元祖はどこかをめぐり、韓国と中国が論争を繰り広げている。

 論争は世界保健機関(WHO)が2003年から韓国、中国、日本の伝統医学専門家との議論
を経て、361個の経穴(つぼ)の位置に関する国際標準を定め、昨年公式本が発行されたこと
がきっかけだ。

(中略)

しかし、韓中日3カ国の医学界では経穴の位置に違いがあり、異なる名称を使用してきた。こ
のため、3か国の専門家はWHOの要請に従い、中国の古代文献を参照しながら、各国の経穴
の位置を比較調査した。

その結果、361個の経穴のうち4分の1に相当する94個の位置が、異なることが分かった。こ
れを統一するため、WHOは国際標準を定めることを決定。3か国は11回の協議で標準案をま
とめ、昨年発表した。

 大韓韓医師協会は先月18日、WHOが定めた鍼灸(しんきゅう)経穴部位に関する公式本
の出版行事で、「WHOが公認した361個の経穴の99%近い357個が韓国の韓医学におけ
る経穴の位置に従ったものだ」と指摘し、韓国の伝統医学の安全性と信頼度が国際的に評価
されたと主張した。

 これに対し、中国が激怒した。4日の中国国営・新華社通信によると、中国中医科学院鍼灸
研究所の黄竜祥副所長は「361個の経穴の位置はほぼ100%が中国の基準に従ったもの
だ。359個は中国の経穴の位置とまったく同じだ」と主張した。

同通信はまた、WHOが最近韓国をけん責し、非公式ルートで韓国が中国側に遺憾の意を伝え
てきたと伝えた』(以上、朝鮮N報より)と。

経穴(ツボ)はともかくも、経穴と経穴をつなぐ経絡(けいらく)に
ついては、神経介在説が、今では常識。
経絡イコール、神経と考えてよい。
だから韓国式のように、「解剖学的基準」が、ひとつの基準となっても、
何ら、おかしくない。
そういう点では、韓国式の取穴法は、より科学的ということになる。
で、今回の論争となったらしい。

……この記事を読んで、私は久々に、私が書いた『東洋医学・経穴編』
という本を思い出した。
出版元は、学研。
定価は、2万円〜。

著者は別の2人になっているが、(私は、著者兼企画構成者)、当時は、
そういう形で、本に権威づけをして売るのが習わしになっていた。
どうでもよいことだが、その本の人体モデルになってくれたのが、
当時の私の生徒であった、M君である。
私はそのM君を写真に撮り、その写真の上に経穴(ツボ)を書き込んで
いった。

なお私はこの本を書き終えたあと、『目で見る漢方診断』(飛鳥新社)を
書き、東洋医学、つまり漢方の世界から、足を洗った。
戸棚いっぱいあった参考書や文献などは、数冊をのぞいて、
すべてを処分した。

『目で見る漢方診断』は、HPのほうに、全文、収録して
あるので、興味のある方は、ぜひ、見てほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 東洋医学 経穴 経絡 ツボ)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●今朝・雑感(7月6日)

●女子高校生と競争(A Bike Race with a High School Stuident)

数日前、帰宅するとき、1人の女子高校生と自転車競争をした。
「した」というより、たがいに、暗黙の了解のもとで、そうなった。

最初、ひとつの信号機の前で並んで止まった。
その信号が青になったとき、私がまず飛び出した。
が、やがてすぐその女子高校生に追い抜かれた。
「チクショウ!」と思った。
それで私がダッシュ。
女子高校生を追い抜いた。
つぎの信号機のところで止まったとき、うしろからその女子高校生が
並んでとまった。

私は、「まだまだ……」と思ったが、相手の顔は見なかった。

が、信号が青になると、その女子高生が、今度はダッシュした。
私が、それにつづいた。
が、猛烈なスピードである。
私はギアチェンジを「HIGH(ハイ)」にして、足に力を入れた。
腕で、ハンドルを引いた。

が、つぎの信号まで追い抜けなかった。
私の負け。

しかし今度は、3回目。
青になったところで、両方がダッシュ。
私はピッタリと、その女子高校生のうしろについた。
距離は2〜3メートル。
うしろからプレッシャをかける。
同時に、女子高校生が、私の風切りになる。

3回目の道路は、長かった。
距離にして、700メートルくらい。

で、最後のところで、私が追い抜いて、ゴール!
うしろを振り返ると、その女子高校生は、
横断歩道を左手に曲がって、その向こうに消える
ところだった。

どこかゆうゆうとした走り方だった。
私も苦しい息をごまかしながら、そのあとは、ゆうゆうと
走ってみせた。

家に帰って、ワイフにその話をした。
「今夜は、2勝1敗だった……」と。


●パソコンの故障(My Computer is Broken)

サブメインに使っている、XPパソコンの調子がおかしい。
HP用更新用に使っているパソコンである。
ときどき電源を入れても、立ち上がらない。
立ち上がっても、マウスを使い始めたとたん、フリーズしてしまう。

予備に全コピーをしておいたハードディスクと差し替えてみる。
が、状態は同じ。

どうやらマザーボードがいかれたらしい。

市内のパソコンショップに電話をすると、
検査、修理をしてくれるという。

で、今日は、これからそのパソコンをもって、その店まで行くつもり。
めんどうな作業だが、しかし、こういう作業が楽しい。

ついでだから、より高性能のマザーボードに取り替えてみよう。

(追記)
おかしなことだが、パソコンショップで検査してもらおうと
したら、そのパソコンがスイスイと作動するではないか!

店の人も、「どこもおかしくないですね」と。
?????

しかし再び家で設置すると、やはり同じ症状が現われる。
これはいったい、どういうことなのか?
今しばらく、様子をみることにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●「週刊B春・7月10日」号を読む
(Poor Translation of "Harry Potter".)

+++++++++++++++

以前は、毎週のように、「週刊B春」か、
「週刊S潮」を買っていた。
アメリカに住む息子に送るために、である。

が、このところ、その回数が、とんと減った。
今は、月に1、2冊。
よほど目につく記事がないと、買わない。
それで月に1、2冊。

しかしそれではいけない。
世俗の動きを知るには、週刊誌がいちばんよい。
……ということで、昨夜、「週刊B春・7月10日」
号を、コンビニで買った。
パッと開いたページに、「ハリー・ポッターの
翻訳は、やっぱりおかしい」(P139)と
いう記事があったからだ。

「ハリー・ポッターの翻訳は、やっぱりおかしい」。

実は、私も、かねてから、そう感じていた。
もう10年ほど前になるが、そういう原稿を
書いたこともある。

週刊B春のほうでは、誤訳を問題にしているが、
私は、文章そのものが、おかしいと感じた。
それには、理由がある。

私がハリー・ポッターの第一巻を手にしたのは、
アメリカのある空港内での売店だった。
「一度は読んでおこう」と思って、それを買った。
で、私はその本を、飛行機の中で読んだ。

そのときの印象は、「ゼンゼン、おもしろくない」
だった。
ただ英文は、読みやすかった。トントン……というか、
ポンポン……というか、読んでいて、気持ちよかった。

が、驚いたのは、日本へ帰ってから、日本語版を
読んだときのこと。
本には、それぞれ、言葉を通して流れてくるリズム感
がある。
音楽でいえば、調子のようなもの。
その調子が、英語版と日本語版では、まるでちがって
いた。

日本語版は読みづらく、ところどころで、「?」と
考えながら、一休止しなければならなかった。
翻訳者のMY氏には悪いが、「へたくそな翻訳だなあ」と
思った。
というのも、誤訳はともかくも、じょうずな翻訳家と
なると、文の調子まで、原書に合わせてしまう。
ハリー・ポッターには、それがなかった。

で、第一巻は、そんなわけで、3分の1ほどを読んだところで、
ギブ・アップ。
子どもたちに、「どうしてあんな本がおもしろいの?」と
聞くと、一人の子ども(当時、小3)は、こう言った。

「先生、ハリー・ポッターがおもしろくなるのは、
そこからだよ」と。
つまり3分の1を過ぎたあたりから、おもしろくなる、と。

が、それから10年。
一度、映画館で映画を見ただけで、私はハリー・ポッター
からは遠ざかった。
「読むに値しない本」と、判断した。

(今でも、そう思っている。「読むに値しない本」
というよりは、「くだらない本」と言ってもよい。
出まかせ、出まかせの、作り話……。
よくもまあ、ああいう出まかせの作り話ができるものだと、
私は、むしろ、そちらのほうに感心している。)

そう、そんなことは、ほんの少し冷静になってみれば、
わかること。
「魔法」というテーマそのものが、インチキ。
いくらもっともらしいことが書いてあっても、
そのインチキを乗り越えることはできない。
だから、「読む価値なし」。

世間の人たちは、売れた部数だけを見て、本の
価値を考える。
しかし(売れる本)イコール、(すばらしい本)
といういうことではない。
一方、(売れない本)イコール、(つまらない本)
ということでもない。
本というのは、(時流)に乗れば、売れる。
そうでなければ、売れない。
(中身)ではない。
言うなれば(ファッション)のようなもの。
ハリー・ポッターは、きわめてじょうずに、その(時流)に
乗った(?)。

20年前だったら、初版も売り切れずに、絶版に
なっていただろう。
20年後でも、よい。

……ということで、週刊B春の記事には、元気づけ
られた。
ずっと、「私だけが異端児」と思っていた。
もっとも、週刊B春は、「翻訳がおかしい」と書いて
いるだけで、ハリー・ポッターの内容について、
どうこう言っているのではない。

しかし、逆に言えば、誤訳があっても、どうと
いうことはないではないか。
神様の書いた本というわけでもないだろう。
もともと、デタラメな本なのだから……。
(ゴメン!)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●アルツハイマー病(Alzheimer's disease, as to the case of Mrs. K)

++++++++++++++++

私の近くに、アルツハイマー病では
ないかと思われている人(女性、65歳
くらい)がいる。
名前を、Kさんとしておく。

たびたびその人については、原稿を
書いてきた。
少し前には、一貫性のなさ、連続性の
なさについて書いた。

一貫性のなさというには、会うたびに、
受ける印象が、コロコロと変化することを
いう。
妙に寛大な人だなと思っていると、
つぎに会ったときには、その寛大さが
消えているなど。
時に別人のように事務的で、冷たく
感ずることがある。

こんなことがあった。

「私は、ひとり住まいの老人の家庭訪問
をしています」と、Kさんは言った。
穏やかで、やさしい言い方だった。
ときどきそういう老人を見舞って、様子を
見たり、ときには、使い走りもするという。
私はその女性に、たいへん感動した。

が、つぎに会うと、今度は、こんなことを
言った。

何でもKさんの隣に、今年85歳になる
老人(女性)が住んでいるという。
その女性が、このところ認知症か何かに
なって、少し様子がおかしいという。

その85歳になる女性について、Kさんは、
あれこれ悪口を言い始めた。
「風に乗って、老臭が、伝わってくる」
「窓をあけて掃除するから、ホコリが、
風に乗って、うちの洗濯物に付着してしまう」
「車で近くの店まで連れていってやったが、
車のシートを、小便で汚された」などなど。

そんな話を、立ち話だったが、ワイフに、
1時間あまりも、話す。
話すというより、グチの連続。
(1時間だぞ!)

そこで私が、ワイフに、「どうして1時間も?」
と聞くと、ワイフは、こう話してくれた。

「こまかいことを、一方的に話すからよ」と。

私「Kさんって、あのKさんだろ?」
ワ「そうよ」
私「……信じられない?」
ワ「そう。私も、いい人だと思っていた」と。

しかし事件が重なった。
町内で集めた町会費を、紛失してしまった。
これについては、以前、書いた。
が、夫がそれを指摘すると、パニック状態に
なってしまったという。

ワーワーというより、ギャーギャーと泣き叫ぶ
といったふうだった。
その場にいあわせた知人は、そう言った。

こうした一貫性のなさに併せて、連続性の
なさがある。

たとえば電話で、近所の人たちの苦情を
伝えてくる。
「Bさんがね……」「Bさんがね……」と。
いつものように長々と、1時間あまりも
それを話す。

が、1週間後にまた電話があると、そのことは、
ケロリと忘れている。

ワイフが、「Bさんの、あの話はどうなり
ましたか?」と聞いても、反応がないという。
で、ワイフが、「ほら、近所のBさんの話です」
と促しても、「ああ、Bさん……?」と。

そしてあの事件が起きた。

これについては以前にも書いたが、こういう
ことだ。

Kさんから、ある夜電話がかかってきた。
ワイフに、今度、X町にある、バラ園へいっしょに
行かないかという、誘いの電話だった。

ワイフは、その場で、「X町のバラ園」とメモを
した。

で、電話の終わりごろになって、ワイフが、
「X町のバラ園ですね」と復唱すると、突然、
Kさんが、パニック状態になってしまった。

「私、X町だなんて、言っていません。
X町は、私の実家のある町です。バラ園は
Y町です!」と。

ワ「でも、先ほど、X町と言われましたよ」
K「言っていません。あなたもいやな人ね。
X町とY町を、私がまちがえるはずはありません」
ワ「……でも、私、ちゃんとメモしましたが……」
K「林さん、どうしてそういうウソをつくのです
かア!」と。

電話口の向こうで、ギャーギャーと泣き叫ぶ
声が、私にも聞こえた。

結局、バラ園へいっしょに行くという話は、
そのまま流れてしまった。

私「おそらく、Kさんの夫は、奥さんの異変に
すでに気がついていると思うよ」
ワ「そうね……」
私「当人がアルツハイマー病になるのは、しかた
ないとしても、その過程で、周囲の人たちが、
えらい迷惑をする。それも大きな問題だね」

ワ「そうね。初期のころは、当人ももちろん、
周囲の人たちも、それを隠そうとするから……」
私「まさか、『うちのワイフは、アルツハイマー病
です』と、宣言するというわけにもいかないしね」
ワ「ひょっとしたら、治るかもしれない……。
アルツハイマー病ではないかもしれないという
迷いもある。そんな思いがあると、なかなか人には、
言えないわね」と。

アルツハイマー病にかぎらない。
老人になるのはしかたないとしても、認知症になると、
周囲の人たちは、大きな迷惑をこうむる。

私の知っている人は、裏の住人に、毎晩のように
石を投げられたという。
夜中になると、カラカラと、石が瓦屋根をころがる
音がしたという。

あとでその裏の住人が、何かの認知症になっていたこと
がわかったという。
しかしそれがわからない間は、そうでない。
つまり、石を投げられた人は、毎晩、眠られぬ
夜を過ごした。

……こうした病気は、否応なしに、周囲の
人たちを、巻きこんでいく。
そういう視点からも、こうした病気について
考える必要はあるのではないか。

Kさんのことを思い浮かべながら、今、
私は、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●息子の盗癖(Stealing)

+++++++++++++++

兵庫県K市に住んでいる、
KNさんという母親から、
こんな相談が届いている。

+++++++++++++++

【KNさんより、はやし浩司へ】

HPを読ませていただきメールを書きました。

今日相談させていただくのは中2になる息子のことです。この2月に4年間の海外転勤から帰
国し、日本の公立中学に通っています。部活動に入り頑張っているのですが、なかなか新しい
生活に、溶け込めないでいるようです。

その息子が朝、試合に出かけた後、主人の財布がなくなっていたのに気がつき、部屋を探した
らクローゼットから財布と共に、主人のいろいろな電化製品が出てきました。

実はこれが最初ではなく5月中旬に、やはりI・potを買うため家族の財布からお金を抜き取り
購入していました。この時は本人と話をし、金額が3万円と高価なため、私がお店に出向き、
親の知らぬところで買った旨を伝え、返品をさせていただきました。

そしてつい先週、やはり隠していた主人の財布からお金を抜き取り、サッカーシューズを、黙っ
て購入したのが発覚したばかりです。

そして今日、これを見つけ本当にどうしたらよいのか、このまま家族の中だけで済まなくなり、
お店のものを盗むようになったらどうしようか不安でなりません。

本人に注意をした時はもうしないというのですが、サッカーシューズの件以来、またやるのでは
ないかと私は感じていました。

なぜなら本人は悪いことをしていると意識があまりないように感じたからです。貯金からかえせ
ばいい、家族のお金、はっきりは言いませんがそのような受け取り方をしているようです。

子供には買うことを禁止しているわけではありません。ほしいと言った時には意見を聞いてい
ますが、高いものを欲しがるので、相応なものを提案しています。でも多分それでは不満なの
でこういう行動にでてしまったのでしょう。

そのつどどうしたらわかってもらえるかときつく叱ったり、じっくり話しあったりしてみましたが効
果はありません。いま試合に行っていますが帰ってきたらどう話を切り出したらよいか……。自
分が何を言い出してしまうかわからないのです。

突然メールをだし、ずうずうしいことは承知です。
ですがどうかお返事をいただけますようお願いいたします。

【はやし浩司よりKNさんへ】

かなり物欲の強い子どもですね。

最近の研究によれば、(「サイエンス」誌、Kロートワイラー・オゼッリほか)、物欲の「根」は、私
たちが考えているより、はるかに深いことがわかってきました。

たとえばそこに(新しいモノ)があると、最初の信号は、脳の中心部にある視床下部というところ
に送られます。その信号を受けた視床下部は、ドーパミンという、快楽追求行動を調整してい
る神経伝達物質を放出します。これが脳の中の線条体を刺激します。

この反応メカニズムは、アルコール中毒患者が、酒の臭いをかいだり、酒のコマーシャルを見
たときと同じと考えられています。喫煙者が、タバコをやめられないのも、そのひとつです。

つまり本人でも、どうにもならない問題と、まず考えてください。もし説教でなおるような問題で
あれば、この世界には、アルコール中毒患者も、喫煙者もいないということになります。KNさん
のお子さんについていえば、(そのモノ)を見たとたん、猛烈な物欲が働き、自分でもコントロー
ルできない状態になると考えてください。

(そもそもそうした物欲を高めてしまったのは、家庭教育の失敗とみます。幼いころ、物欲をう
まく利用しながら、子どもをしつけてきたという経緯があるはずです。「これを買ってあげるか
ら、勉強しようね」とか、など。)

その猛烈な物欲が、KNさんのお子さんを裏から操っている……。それが盗癖とつながってい
ます。(ふつうの盗癖とちがうところは、盗むこと自体には、快感を覚えていないということで
す。)

性格的にもかなりわがままで、自分勝手かもしれません。俗にいう、「ドラ息子症候群」がほか
にあれば、それも疑ってみてください。

ではどうするか?

こうしたケースでは、子どもを叱っても、あるいは説教しても、あまり(=ほとんど)意味はありま
せん。先にも書いたように、子ども自身も、自分でどうしたらよいか、わかっていないからです。

そこで親がとるべき方法は、ただひとつ。
管理を強化するということです。徹底した管理をします。

(1)子どもの目の届くところに、お金を置かない。
(2)サイフ、バッグの置き場所に注意する。
(3)大金を持ち歩かない。

夜の睡眠中も、お金の入ったバッグ類は、手元に置きます。またそういう習慣を確立します。
夫の協力も、不可欠です。メールを読ませていただいた範囲では、KNさんの家庭は、裕福と
いうこともあり、お金の管理が、かなりルーズな感じがします。サイフのお金は、特別なことがな
いかぎり、3000円までとか、あるいは、それ以下にします。

またもうひとつ気になるのは、「私がお店に出向き、親の知らぬところで買った旨を伝え、返品
をさせていただきました」という部分です。

子どもの名誉、プライドをどのように考えていますか?
店の人が受ける迷惑を、どのように考えていますか?

あなた自身が、甘いというか、依存性が強いというか、あるいはあなたの子ども自身を、私物
化している(ゴメン!)。自分が盗まれるかもしれないようなところに、3万円もの大金を置いて
おきながら、それが盗まれたからといって、大騒ぎする。

では、どうするか?

まず、あなた自身が、おとなになることです。同時に、あなたの子どもを、(子ども)ではなく、(1
人の人間)として認めることです。そして友として、あなたの子どものした行為については、あな
たも共同責任を負います。あなた自身が、子どもと同じレベルになってしまっているのが、たい
へん気になります。

店に行って、3万円を取り返した段階で、すでにKNさんと、子どもの信頼関係は、崩壊してい
るとみます。はっきり言えば、あなたはしてはいけないことを、してしまった。相手が幼児ならと
もかくも、中学生ですよ! (あるいはそれ以前から、破壊されていると考えてもよいでしょう。)
で、こういうときは、(子どもを責める)のではなく、(そういうスキを与えた自分)、さらには、(そ
ういう子どもにした自分)を、もっと反省してください。一方的に子どもだけを責めるのは、あな
たの身勝手というものです。

あなたにはつらいことかもしれませんが、あなたがすべきことは、ただひとつ。『許して、忘れ
る』です。

これについては原稿を書いてきましたので、「はやし浩司 許して忘れる」で、検索してみてくだ
さい。いくつかの原稿がヒットできるはずです。

今からでも遅くないなどという気休めは言いたくありません。むしろ、私が言いたいのは、その
逆です。

こうした問題には、かならず二番底、三番底があります。「今が最悪」などと思ってはいけませ
ん。すでにあなたの子どもは、常習的に万引きをしていると考えてください。今の状態をこじら
せば、さらにそれがエスカレートする可能性があります。非行、夜遊び、家出、不登校……、さ
らには家庭内暴力と、それが進んでしまう可能性もあります。

ですから、何としても、今の状況を、これ以上悪くしないことだけを考えて、対処してください。は
げしく叱ったり、説教すればするほど、逆効果ということです。先にも書いたように、病的な(?)
盗癖であれば、なおさらです。

とくに現在、あなたの子どもは、思春期の真っ最中。そうでなくても、心の中では、もろもろの欲
望がウズを巻いています。そのウズは、あなた自身の力では、どうにもならないものです。もち
ろん子ども自身も、それをもてあましている。

盗癖は、あくまでも症状のひとつです。インフルエンザにかかった子どもの、「熱」のようなもの
です。熱だけをおさえたところで、インフルエンザが治るということではありません。

きびしいことを書きましたが、メールを読んだ範囲では、「今が序の口」と感じました。へたをす
れば悪循環が悪循環を呼び、さらにKNさんのお子さんは、深くて暗い袋小路に入ってしまうで
しょう。

親のサイフからお金を盗んだことを叱るのではなく、(というのも、そんなことはだれでもしてい
ることですから……。私も中学生のとき、しましたよ!)、まだまじめに(?)学校へ行き、試合
に出ている息子さんを、喜びなさい。感謝しなさい。

またそのうち万引きも発覚するでしょうが、それも覚悟しておくことです。そのときはそのとき
で、友として、堂々と、相手の方と接してください。(というのも、万引きにしても、この時期の子
どもにとっては、熱病のようなものですから)。子ども自身に責任を取らせればよいのです。子
離れを今のうちにしっかりとしておきます。そしてそのときの自分の態度を、シミュレートしてお
きます。

「自分でしたことは、自分で責任を取りなさい!」「私は知りません!」と。

それが今のあなたの取るべき、態度です。(まちがっても、相手の人に許しを乞うたりしてはい
けませんよ!)

以上ですが、何かの参考になればうれしいです。
メール、ありがとうございました。

なおこの原稿は、HPに収録しますが、どうかお許しください。
不都合な点があれば、至急、お知らせください。書き改めます。

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【KNさんより、はやし浩司へ】

> はやしさま

> お忙しい中、早急にお返事いただいていながら遅くなり申し訳ありません。
> 今後の向き合い方・不安などいろいろなものが頭を駆け巡り手つかずの状態になってしまい
ました。
> メールの転載の件ですがお使いください。
> お答えいただいた内容が、同じように悩んでいらっしゃる方に少しでもお役にたてればと思い
ます。
> と書きながらも、私はまだ確固たる信念・方針は何も決まっていません。
> お返事をいただいてから昨日までどうしたらよいのか考え悩みとにかく苦しい毎日です。 

> 夕べくらいから少し長期戦になる心構えができてきたくらいです。
> 前回のメールはとにかくどうしたらよいか気ばかり焦り、バーっと書いてしまいました。 

> もう少し息子についてくわしく書かせてください。

> 小さい頃より転勤が多くだいたい1〜3年おきに日本国内を住んできました。
> 小学校の中学年になると引っ越すときには嫌がっていたのを覚えています。
> また、転校先では口には出しませんがそれなりのストレスはあったようで、
> 仲間として認めてもらい自分らしく振る舞えるようになるのに4ヶ月くらいかかっていたと思い
ます。
> 5年生の時にフランスに転勤になり、インターナショナルスクールに転校となったのですがこ
の頃までは物欲等がなく、
> みんながゲームを買っていても強くほしがることもなくたまに友達とするくらいでした。 

> 私自身も必要以上のもの・年相応と思えないもは、簡単には買い与えてきませんでした。 

> 物に対する執着はほとんどないといってもよいくらいでした。
> フランスに移ってからは、中学1年生くらいまでは海外の友達もでき楽しく学校に通っていま
した。 

> ただ、生活面では中学2年のころから甘いものに執着を示しだし自分で買って食べるように
なりました。

> 同時に物に対する欲の始まりだったように思えます。
> 思春期を迎え少し経った頃から変わってきたと思います。
> 今思えば1年くらい前から兆候があったのかもしれません。
> 住んでいた国も多少影響があったかもしれません。

> フランスという国は管理されていないものは自分のものされてしまいます。
> 要するにしまっていなければ自分が取っても良いという意識なのです。
> もちろんみなではないとも思いますがほとんどの人はそう思っているでしょう。
> 主人の会社でも、パソコンを持って帰るのを忘れたら次の日には無くなっていたとか、
> 学校の図書室で調べ物をしている間に電子辞書が無くなっていたり,
> 娘が学校で iPot を置き忘れ、2分後にすぐに取りに行ったけれど
> なくなって見つからなかったなど。
> そんな環境で人の物に対する常識が少しずれてきていたのかもしれません 。
> (ほかの日本人みんなが感化されるわけではありませんから個人の問題ですが。)

> そして、今回の帰国に関しては、今までの中で一番厳しいようです。
> 年頃のせいかなかなか仲間に認められるのが大変なようで
> 仲良くなれてきたなと思っていた友達から急に、「お前なんかフランスに帰れ」と言われたり
> 二人の時は普通に話しても何人かが集まると仲間外れされ始め、なかなか難しいようでし
た。
> 心の支えとしていたサッカーもコーチとそりが合わないようではずされてしまいました。 

> 最近イライラしているのがよくわかります。
> > 
> 今書いたことが今回のことの原因とは思ってはいません。
> 考慮はしながら切り離して考えていこうと思っています。
> というのはアドバイスいただいたように本人にもどうにもならない物欲でコントロールできない
状態でもあるからです。

> 注意したそのときは理解しているし反省もしているけれどすぐ忘れて私物化してしまいます。
 
> この先エスカレートしたらどうやって対処していけばよいのか、いつか治るのか、本当に不安
だらけです。
> もしかしたら大したことではない はしか のようなもの。
> もしかしたら警察沙汰になるようなもの。
> 頭の中がぐるぐる回ってしまいます。

> 「許して忘れる」それで快方に向かうのでしょうか。
> 私たち夫婦もお金の管理が甘かったことを反省し今は徹底して目の届くところにはおかない
ようにしています。
> 物については持ち歩くことができないので見つけたつど
> 「これ、私のだよね。使いたいときには一応貸してって言おうね。使ってもいいから」 

> となるべくさりげなく言葉をかけるようにしています。

> また、前回のメールで ipot を返品した件。言い訳がましいですが、
> ipot を返品したのはレシートから発覚したものでまだ買った時の袋も開けていない状態で
す。
> それでもお店の方に迷惑をおかけしたことには変わりはありませんが。
> 見つけた段階で、私はどういう行動をとっていたらよかったのでしょうか。
> 一緒に返品することは息子のプライドが傷つくと思い私が行きました。
> 本人が行くべきだったのでしょうか。

> とても恐ろしいし頑張っていけるか自信はなく今まで落ち込んできましたが、
> これからが二番底、三番底と続くのなら落ち込んではいられないので覚悟をきめなければい
けないですね。
> 自分の子供なんだからしっかりしなくては。
> また、ご相談をさせていただくことがあるかもしれません。

> その折はよろしくお願いいたします。
> はやしさんにアドバイスをいただいていなければ、もっと自分を追い込んでいたと思います。
> 心より感謝をいたしております。
> ありがとうございました

【はやし浩司より、KNさんへ】

おはようございます。
 
メールありがとうございました。
 
「KN様」というのが、ご本名であることを知り
うれしく思いました。送信者名から、わかりました。
(ほとんどの方は、偽名で相談においでになります。)
 
もちろんお名前が外に漏れるということは、
ぜったいにありませんので、ご安心ください。
 
原稿として残すときは、内容をすべて改変します。
メールもしばらくしたあと、削除しています。
 
またご事情を詳しく話してくださり、感謝しています。
よい勉強になりました。
 
基本的には、前回、書いたとおりですが、
神経症としての盗癖と考えてください。
お子さんは、そういう形で、(親から見れば心配
ですが)、自分の心を懸命に支えようとしています。
幼児のおねしょと同じように考えてやってください。
 
ものを所有することで、脳内にモルヒネ様の物質
(エンドロフィン、エンケファリン)を充満させます。
 
それはとても心地よいものです。
対処の仕方さえ誤らなければ、一過性のもので終わります。
習慣化すると、ずっと先まで残ります。
 
家庭の中では、心の開放を大切に、のんびりと
させてやるのがコツです。
 
では、今朝はこれで失礼します。

なお「フランスの事情」は、たいへん興味深く読ませていただきました。
私も思い当たることが、いくつかあります。

また先日、アメリカで研究生活を送っている、HTさん(女性、50歳くらい)
もこう言っていました。

「研究室に新しい機械が入っても、その使い方は、だれも教えて
くれない」とです。
「使い方を知りたかったら、自分で勉強しろ」という姿勢なのですね。
「冷たい」というか、向こうでは、弱肉強食的な人間関係が固定化している
ため、そういうことが起きるのだと、話してくれました。
 
はやし浩司
 

Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2715)

●韓国経済、最前線(Japan-South Korea Econimic War in Front-Line)
South Korea is now on the cliff of crisis, whose economic dondition has been much worse 
and worse.

+++++++++++++++++

韓国の経済状況が、ますます悪化している。
ここまで現実味を帯びてくると、
「国家破綻」という言葉を使うことすら、
気が引ける。

が、私たち日本人の心は、複雑……。

韓国は、つい去年まで、「最悪の
反日国家」と目されていた。

たとえば世界でも最大級の揚陸艦を
建造した。
その名もズバリ、「独島」。
「竹島」の別名である。

ノ大統領から、イ大統領に変わった。
イ大統領は、一応、親日派という
ことになっている。

しかし「?」。

私たち日本人の国民感情としては、
「わかりました」「では私たちも嫌韓感情を
捨てます」というわけにはいかない。

韓国の人たちがもつ反日感情に、
ぞっとした人も多いはず。

だから、私たち日本人の心は、複雑……。

+++++++++++++++++

●破綻は時間の問題

誤解があるといけないから、韓国政府が発表した数字のみを使って、韓国経済の内情をさぐっ
てみたい。

+++++++++++++以下、朝鮮N報より++++++++++++++++

●10ぶりの高さとなった、物価上昇率。
●11年ぶりの経常赤字。
●非経済活動人口(失業者を含む)は、1532万人(08年、1〜5月)。
●08年6月の消費者物価は、前年度に比較して、5・5%上昇。
●08年5月の輸入物価上昇率は、44・6%。この数字は、98年12月(49%)以来、28年ぶ
りの高さ。
●農林水産物の輸入物価は、44・8の上昇。
●一般家庭における家計負債は、過去最高の640兆ウォン(約65兆円)。
●企業投資は、過去7年間で、最悪。08年5月期で、前年度比で、2・5%減少。
●国民総所得(GNI)は、1〜3月期は、0・2%にとどまった。今年の所得指数は、マイナスに
転ずると予想されている(LG研究所)。

+++++++++++++以上、朝鮮N報より++++++++++++++++

この数字の中で、とくに注目すべきは、「一般家庭における家計負債は、過去最高の640兆ウ
ォン(約65兆円)」という部分。

日本のバブル経済がはじけたときには、銀行が多額の不良債権(=負債)をかかえた。韓国で
は、個人が、多額の不良債権をかかえている。その額、約65兆円。日本の人口は、韓国の人
口の約3倍だから、日本の経済規模に換算すると、65x3=195兆円となる。もうメチャメチャ
な数字である。

こうした現状の中で、庶民生活にも、大きな影響が出始めている。

朝鮮N報の記事を、そのまま抜粋させてもらう。

+++++++++++++以上下、朝鮮N報より++++++++++++++++

7月4日午後、ソウル広津区江辺テクノマート3階の大型家電売り場を訪れたが、買い物客は
数えるほどで閑散としていた。入居テナントの従業員(38)は「最近は大型家電を求める客が
ほとんどおらず、開店休業状態だ」と顔を曇らせた。テクノマート関係者は「消費心理の冷え込
みが深刻で、10か月無利子ローンなど破格のキャンペーンを延長している」と話した。家電量
販大手のハイマートも「6月のエアコン販売は前年同期に比べ、30%前後落ち込んだ」とため
息をついた。

 韓国経済を下支えしてきた電子、自動車など主力産業まで成長が止まり、後退の兆しを見せ
ている。内需はもちろん、輸出も揺らいでいる。

+++++++++++++以上、朝鮮N報より++++++++++++++++

さらに暗いニュースがつづく。

+++++++++++++以下、朝鮮N報より++++++++++++++++

韓国を代表する企業であるサムスン電子の生活家電は、国内向け販売が1990年代末のア
ジア通貨危機以来、はじめて減少に転じている。同社役員は「6月中旬から洗濯機、エアコン
など生活家電の国内向け販売量が、前年に比べ20%急減した。7〜9月期も好転の兆しはな
く、販売減に備えた対策を準備している」と話した。

 内需だけではなく家電製品の主要輸出先である米国の状況も思わしくない。サブプライム問
題の波紋と原油高で消費が急速に落ち込み、米国での洗濯機販売量は昨年の980万台か
ら、今年は950万台へと減少する見通しだ。韓国企業の輸出にも、相当の打撃が避けられな
い見通しだ。

(中略)

 特に昨年の韓国の自動車輸出で24・6%を占めた主力市場の米国の不振は、底が見えな
い。米自動車市場は2000年に過去最高の1740万台の販売を記録して以降、06年までは
1700万台以上を維持してきたが、今年上期は741万4000台にとどまり、前年上期(824万
8694台)に比べ、10・1%減少した。

(中略)

自動車の国内販売台数も3月をピークに減少に転じた。3月の国内販売台数は11万2855
台だったが、6月は10万6267台に落ち込んだ。


+++++++++++++以上、朝鮮N報より++++++++++++++++

不景気といえば、この日本も、不景気。しかしそれ以上に恐ろしいのが、今、韓国で起りつつあ
る、「外資の逃避」。経済指標を並べてみる。

●(08年)6月9日から、20日間連続で、証券先物取引所では、売り越しがつづいている。そ
の額、6兆2000億ウォン(約6340億円)。
●韓国株式市場でも、外国人による売り越しが、今年のはじめからだけでも、21億ウォン(約
2億1460万円)に達している。

わかりやすく言えば、外国が、韓国を見放し始めているということ。そのため、韓国銀行がいく
ら金利(=外資を呼び込むためのエサ)を高くしても、ウォン売りの勢いは止まらない。

そこで、再び、「個人負債」。

韓国では、今、貸し金業者が、猛烈な勢いでふえているという。が、驚いていけないのは、その
日本でいう、利息制限法による、法定最高利率。それが、何と、49%! (49%だぞ!)日本
のばあい、「基本的には、元本が10万円未満の場合は年20%、10万以上100万未満の場
合は年18%、100万以上の場合は年15%、延滞の損害金は、この1・46倍までが認められ
る」(ウィキペディア百科事典)。

が、貸金業者による実際の平均利率は、72%という(韓国金融監督院)。もちろんヤミ金融で
は、上限がない。現在の49%にさげられるまで、韓国では、100%〜200%というのが、常
識だった。

(それでも人々は、金を借り、株式投資に走ったが……。)

わかりやすく言えば、元手として1000万円あれば、それを貸し付けることによって、年、約50
0万円の利息を手にすることができる。一家がじゅうぶん、生活できる利息である。そのため、
韓国では、「猛烈勢いで、貸し金業者がふえている」(朝鮮N報)。その数、何と、「ソウル市だけ
で、6373社」(同)。

『消費者金融市場が爆発的に拡大している。長引く不景気により信用が悪化し、銀行から資金
を調達できなくなってしまった人が増えたことで、これら不良債務者をターゲットとした貸付業者
が雨後のたけのこのごとく増えているのだ。

 年俸1億ウォン(約1000万円)以上の証券アナリストが貸付業者の「社長」に変身するかと
思えば、留学経験のあるエリートまでが開業に関心を示す。銀行や保険会社もブランドイメー
ジの低下を懸念しつつ、貸付専門の子会社を設立している』(同)と。

+++++++++++++

ここまで読めば、ぞっとしない人は、いないはず。しかも、韓国政府の発表する経済指標は、イ
ンチキだらけ。たとえば日本の日銀にあたる韓国銀行ですら、借金に借金を重ねている。「通
貨安定証券」というのが、それ。あるいは短期外債(=借金)まで、韓国では、資本収支の中で
は、「投資」と位置づけている、などなど。

が、問題は、この日本。

韓国の経済構造は、加工貿易。韓国の主力輸出製品である携帯電話にしても、その主要部
品のほとんどは、日本から輸入している。つまり輸出がふえればふえるほど、その分だけ、対
日貿易赤字がふくらむことになる。

言いかえると、韓国経済がコケるようなことにでもなれば、日本の韓国向け輸出業者は、手痛
い被害をこうむることになる。とくに機械産業など。へたをすれば、連鎖倒産ということにもなり
かねない。

……ということで、日系の銀行各社は、韓国向けの融資をしぶり始めている。(当然である。)
が、これが悪循環となって、さらに韓国から外資が逃げる。さらにウォン安が進む。

私の印象では、どうやら韓国政府は、1ドル=1500ウォンを死守ラインと設定しているようで
ある。私のような素人にもそれがわかるところが、恐ろしい。というのも、それがわかれば、あ
とは、外人投資家たちの思うがまま。わかりやすく言えば、(餌食=エジキ)。

1ドルが1400ウォン近くになれば、ウォンを売り、1ドルが1500ウォンを超えそうになったら、
ウォンを買う。何といっても、韓国政府の保証つき! あとはこれをこまめに繰りかえしていれ
ば、まちがいなく、億万長者! が、そのたびに、韓国経済は、やせ細っていく……。

今でも、韓国の大統領が、ノ大統領なら、私はまちがいなく、こう言うだろう。「思い知ったか、ノ
大統領!」と。しかし今の私の心は、揺れ動く。かつて日本の小泉首相は、こう言った。

「後悔するのは、韓国のほうだ」と。

それに呼応するかのように、その直後から、日本から台湾への直接投資が、豪雨のように始
まった。台湾に、日本の代理戦争をさせるために、である。韓国と台湾の経済構造は、たいへ
んよく似ている。

その(結果)が「今」とみるなら、韓国の心配をするのも、おかしい。しかしこの(流れ)は、もう変
わらない。今すぐ、変えることもできない。ただここで言えることは、現在、韓国にモノを輸出し
ている企業は、厳戒態勢に入ったほうがよいということ。いつ何時、売掛金がパーになるか、
わからない。くれぐれも、ご注意!
(この原稿は、08年7月8日、早朝に書いたものです。)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2716)


●今日(7月X日)のこと

++++++++++++++++++++

今日、言葉クラブで、パソコンを使って、
ワープロの使い方を練習させてみた。

7人に子どもたちに、1台ずつ、パソコンを
貸し与えた。

が、指導をはじめてすぐ、事故、発生!

M君が、ひとつ離れた別の子が使っている
パソコンのキーボードを指でひっかけた。
ふざけて、ガリガリとやった。

T社のダイナブック。
キーが2つ、はじけて、飛んだ。

デスクトップ用のキーボードは、キーが
はずれても、そのまま押し込めば、もとにもどる。
しかしノートパソコンのキーは、作りがちがう。
ヒンジの部分が、もとから折れて、はじけた!

で、私が「ア〜ア」と、嘆き声をあげていると、
別の子どもが、それをまねして、同じように
キーボードをこすった。

とたん、またキーがはじけた。

まさに『猫に小判』。(ゴメン!)
パソコンの価値がまるでわかっていない。
使い方も、まるでわかっていない。

ダイナブックは、古いパソコンだが、現役で使っている。
「ア〜ア」と、また嘆き声。

しかしこうした事故は、子どもの世界では、
日常茶飯事。

昨日も、購入したばかりの鉛筆削りに、小さな
コンパスをつっこんで、壊してしまった子ども(小2)がいた。
ネジ穴が三角形になっていて、修理不能。
ふつうのドライバーでは、開けることもできない。
しかたないので、細い千枚刺しで、中の鉛筆を粉々に割って出した。

その少し前には、椅子に、鉛筆の先で、プツプツと
穴をあけてしまった子どももいた。

椅子は、ビニールシートで覆われている。
それに鉛筆で穴をあけると、プチプチと音がする。
その音を、私の目を盗んで、楽しんでいたらしい。

・・・こういう事故が起こるたびに、
「責任を取ってもらう」とか、「弁償してもらう」
とか、一応、叱ることにしている。
が、いまだかって、責任を取ってもらったことはない。

教室内での事故は、私の責任。
子どもが何をしても、それは私の責任ということになる。

「私の指導のし方が、不十分だったのだ」と。
要するに、『許して、忘れる』。
それしかない。

で、パソコンのレッスンは、1回で、おしまい。
こりごり。
レッスンのあと、そのまま片づけた。

++++++++++++++++++++

●騒々しい朝

我が家の朝は、リスの鳴き声で始まる。
まだ夜も明けやらぬ早朝から、カン、カン……と鳴く。
つづいてカラス、ハト、ヒヨドリ、スズメたち。
ほかに名前のわからない鳥。
ピヨピヨよ、せわしく鳴く。
最近は、トンビまでやってくるようになった。
ピーヒョロロ、と。


●新型パソコン

ほぼ1年に1台は、パソコンを取り替えている。
今は、VISTA・Ultimateマシン。
調子は悪くないが、どこか物足りない。
この世界は、半年ごとに、どんどんと進化していく。

OSは、VISTAでよいとしても、CPUは、
今では、ダブル・コア・デュオが常識。(欲しい!)
メモリーも4GBの時代。
加えて、チップセットも、インテルから「EXPRESS―35」
が発売された。(欲しい!)
さらにグラフィック・ボード。

私はゲーマーではないが、しかしグラフィック・ボードが
高性能だと、たしかにパソコンの動きは、速くなる。

「ボケ防止のためには、必需品だよ」と言うと、
ワイフは、すんなりと同意してくれた。

……というわけで、最近は、M社のHPを毎日のように
ながめている。


●夏前肥満

私は毎年、決まって夏の前に太る。
適正体重は、63キロ前後だが、それがこの時期になると、
68キロになることもある。

そこであわててダイエット。
これも毎年の恒例になっている。

で、私のばあい、食事を減らすと、数日後には、1〜2キロ、減る。
さらに1週間後には、3キロ前後まで、減る。

が、ここからが苦しい。
65キロ前後が、ひとつの壁になっている。
この65キロの壁を破ることが、なかなか、できない。

どうしてだろう?
……ということで、今日も、苦しい戦いが始まる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●週刊B春(2)
(My personal review on Shu−kan Bunsyu (July 1oth Editon), one of the le
ading Japanese weekly magazine.)  

+++++++++++++++

出版業界は、目下、真冬状態。
出版社の倒産、書店に閉店、それに
読者離れがつづいている。

こんなことは、もう15年近くも
前から言われていたことだが、この
ところテレビ業界も、雲行きが
あやしくなってきた。

インターネットの登場で、広告収入の
激減。制作費の削減。質の低下。
その悪循環の中で、今では、視聴率が
20%を超えるテレビ番組は、めったに
ないという。

新聞業界も、10年以上も前から、
下降につづく、下降。

……という視点で、もう一度、「週刊
B春(7月10日号)を読み直してみる。

+++++++++++++++

●週刊誌のバラエティ化

週刊B春を一読してまず気がついたこと。週刊誌までもが、バラエティ化している。個人名の入
ったコラムだけでも、15編前後。「あれもあり、これもあり」といった感じ。ほかに制作費を節約
するためか、対談形式の記事が、2編。週刊B春が独自の取材をして、記事として書いている
のは、「地に堕ちた偽装列島」と、「短期集中連載」と銘打った「日本の飢餓」の、2編だけ。(荒
っぽい数え方で、まちがっているかもしれない。)

「父を、恋人の母を惨殺する、恐るべき十代」という記事は、かなり期待はずれ。ひところ昔の
低俗週刊誌の記事そのもの。つっこみが甘いというか、事件の表面だけを、さっと手でこすっ
ただけの内容。何の参考にもならなかった。

で、あちこちを気が向くまま拾い読みしてみたが、どこか思考が、バラバラになっていくのを感
じた。これは多分に私の脳みその老化によるものかもしれない。(脳梗塞になった、オシム)→
(名物の産地を追え)→(日本の飢餓)→(退職金を守る、7つの鉄則)→……と。若いときのよ
うに、脳みその切り替えをするだけで、たいへん。それだけで疲れてしまう。

コラムは、1作を読んで、おしまい。TK氏の書いた、「国際紛争になってもおかしくない」(P75)
だけ。しかし読むに耐えないというか、ただの痴話話。一部を紹介しよう。

●矛盾だらけのコラム

『……妻はロクに英語はできないが、腹を立てると英語が話せるから不思議である。わたしと
妻がイギリスに滞在していたときもそうだった。サイレントピアノを借りに行き、ピアノの電源ア
ダプターが「ジー」と雑音を立てるのに気づいた。店員は「どれもこういう音がするんです」と説
明した。わたしが仕方がないかと思っていると、妻が突然、「ノー!!」と叫び、「チェンジ、チェ
ンジ!」と流暢な英語で怒鳴った。
 大声を上げる妻に恐れをなした店員は、新しいものを取り寄せると約束し、数日後、雑音の
ないサイレントピアノが届いた。
(中略)
 妻と友人のイギリス旅行の間、妻は毎日のように怒っていたらしい。同行した友人も、「今日
も喧嘩するんだからしっかり食べてね」と励まし、喧嘩のために食事をするようになったという。
よく国際紛争にならなかったものだ。(次回へつづく)』(以上、原文のまま)と。

 こういうばあい、英語で、「チェンジ、チェンジ!」と叫べば、相手には、「お釣り、お釣り!」と
いう意味になるのでは? つまり「お釣りをよこせ、お釣りをよこせ!」と。正しくは、「イクスチェ
ンジ(=交換)」である。加えて、「チェンジ、チェンジ!」と叫ぶことを、「流暢な英語」とは言わな
い。私の住む世界では、ヘタクソな英語という。

 気になるのは、「毎日のように怒っていた」という部分。こういう恥さらしなことを平気でするか
ら、日本人は、いつまでたっても、イギリス人にバカにされる。それにこの部分を読んだだけで
も、話の内容に矛盾がある。

 「ジー」と音を出したのは、電源アダプターである。エッセーの中には、そう書いてある。
 で、「交換?」ということになって、「数日後、雑音のないサイレントピアノが届いた」とある。

 電源アダプターが「ジー」と音を出したとは、どういうことなのか? 電源アダプターには、音が
でるしくみそのものがない。中身は、小型の変圧器。分解しても、コードやコンデンサーがぎっ
しりと詰まっているだけ。

 仮に音が出たとしても、電源アダプターなど、いくらでもあるはず。(私の家にも、20〜30個
はあるぞ!)それがどうして、「サイレントピアノの交換」ということにつながるのか。交換すると
しても、電源アダプターの交換だけで、すむはず。

しかもこれはまだ、店でサイレントピアノを借りる前の話である。音が出るなら、その場で、借り
るのをやめればよい。まだ借りてもいないのに、つまり、お金も払っていないのに、怒って、「チ
ェンジ、チェンジ!」と叫ぶほうが、どうかしている。

 「店員が恐れをなして……」とあるから、ふつうの怒鳴り方ではなかったらしい。

 が、つぎのところでは、いつの間にか電源アダプターの話はどこかえ消え、「雑音のないサイ
レントピアノが届いた」となっている。作者は、お茶のM大学の教授となっている。たぶん文科
系の教授だと思う。理科系の教授なら、こんなお粗末な原稿は、書かない。

 ……ということで、ほかのコラムを読むのは、やめた。読んで不愉快になるくらいなら、読まな
いほうがよい。で、最後に一言。だいたい、「国際紛争になってもおかしくない」というタイトルが
おかしい(?)。どこかのオバチャンが、ワーワー騒いだくらいで、国際紛争にはならない。だれ
もそんなオバチャンなど、相手にしない。

 少し自意識過剰ではないのかな?

 それにしても、週刊B春も、質が堕ちた。しばらく、もう買わない。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(7月9日)

●6か国協議
Mr. C.Hill's another Coup d'etat is now again on the course. We never hesitate to call him "
Kim Jong-Hill".

++++++++++++++++

朝起きると、パソコンを立ち上げる。
メールに目を通す。
つづいてニュースに目を通す。
それが私の日課になっている。

まず、目についたのが、6か国協議。
明日、7月10日から、6か国協議が
開かれるという。

が、驚いたのは、あのC・ヒル氏が、
それに先だって、K国の金代表と、
核の検証法について、事前協議を行う
という。

??????

日米、もしくは米韓が事前協議を
行うというのなら、まだ話がわかる。
あるいは中朝でもよい。

どうして米朝が、事前協議を行うのか?

つまりここにC・ヒル氏の欺瞞性が潜んでいる。
C・ヒル氏は、この方法で、この日本を、
ことごとく裏切ってきた。
そして今回も、また……?

C・ヒル氏は、K国の利益を代弁する形で、
6か国協議を進めようとしている。
ならば、何のための6か国協議なのか?

拉致問題にしても、K国が約束した「再調査」
については、動きは、まったく、なし!

C・ヒル氏は、いったい、何を考えて
いるのか?
私には、さっぱり、理解できない。

++++++++++++++++

●上下意識

東洋には東洋独特の、上下意識がある。
身分、年齢、職業、続柄、男女、夫婦、親子……など。
あらゆる面に、その上下意識がある。
たとえばこの日本では、たった1〜2歳年上というだけで、親分風を吹かす。
そういう人は多い。

一方、欧米には、それがない。
まったくないとは言わないが、ない人には、まったく、ない。
こういうことを書くと、「そんなこと、ないでしょう?」と反論する人もいるかもしれない。
しかし、ない人には、まったく、ない。

反対に、上下意識のない人には、東洋独特の上下意識が理解できない。
とたえば(教師)と(学生、生徒)の関係においても、そうである。
欧米では、たがいに、ファースト・ネームで呼びあっている。
親子もそうだし、夫婦も、そうだ。
兄弟も、そうである。
だいたい、「兄」「弟」「姉」「妹」の区別をしない。
みな、ブラザー。
みな、シスター。

……なぜ、こんなことを書くか?

あの米朝会議を見ていると、若いC・ヒル国務次官補が、老獪(ろうかい)な金K外務次官に、
よいようにもてあそばれている。
そんな印象をもつ。
言うまでもなく、あのK国では、あらゆる面において、上下意識が徹底している。
政府高官には、すべて順位がつけられている。
国民も、成分(?)に応じて、徹底的に差別されている。
金K外務次官にすれば、C・ヒル氏など、とるに足りない、ただの若造ということになる。

つまり最初から、話しあいにならない。
少なくとも、金K外務次官には、その気はない。
C・ヒル国務次官補を利用しようという気はあるかもしれないが、対等には見ていない。
上下意識というのは、そういうもの。

が、ただの「上下意識」ではない。
人間の価値まで、その上下意識で決まる。
日本人には、それがわかる。
昔から、葵の紋章を見せつけられ、「控えおろう」と一喝されただけで、みな、頭をさげる。
が、アメリカ人のC・ヒル国務次官補には、それがわからない。

尊大に構えて、ニタニタというか、ニヤニヤというか、席にふんぞりかえって座る金K外務次
官。
大きな額をギラギラさせながら、金K外務次官に翻弄(ほんろう)されるC・ヒル国務次官補。

今回の6か国協議でも、その構図は、何ら変わらないだろう。

ところでこの原稿の英文のタイトルは、「Mr. C.Hill's another Coup d'etat is now again on the 
course. We never hesitate to call him "Kim Jong-Hill"」。

訳すと、「C・ヒル氏の、もう一度のクーデター、進行中。我々は、彼を、『キム・ジョン・ヒル』と呼
ぶことに、何ら躊躇しない」である。
(2008/07/09記)

+++++++++++++++++

●教育と政治(Political Apathy itself is to be ashamed.)

++++++++++++++

教育と政治は分離する。
当然のことである。
私も、子どもたち(生徒たち)と
接するときは、政治の話は、
いっさい、しない。
してはならない。

しかし教師であるなら、当然、
政治に関心をもつべきである。
それが教育の場でないなら、
政治の話をして、当然。
意見を述べて、当然。

子どもの未来を考えていくと、
その向こうに(政治)がある。
政治抜きに、子どもの未来を
語ることはできない。

が、この日本には、おかしな
偏見が蔓延している。
高校生あたりに「6か国協議を
どう思う?」と問いかけても、
即座に、「ダサイ!」とはねのけられて
しまう。

あるいは政治的に無関心である
ことが、(常識的な人間の条件?)と
思われている。

しかしこんなバカげた民主主義国家
が、どこにある?
税金の使われ方すら知らない国民が、
どこにいる?

私が10年間に書いた原稿を、
もう一度読んでみてほしい。

++++++++++++++

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Political Apathy)」というのは、それだけで軽蔑の対象になる。
非難されることも多い。だから「あなたは無関心な人だ」と言われたりすると、その人はそれを
たいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、それに猛烈に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)ということ
になっている。だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さない。関心もな
い。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。ほとんどの子どもは、「セイジ
……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。(実際、どの部分がどのようにダ
サイのか、私にはよく理解できないが……。「ダサイ」という意味すら、よく理解できない。)

●政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
●社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
●あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。今のこの日本が、そ
の結果であるといってもよい。これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。

●文部省からの三通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、三通の文部省通達である(たった三通!)。文部省が一九
六〇年に出した「文部次官通達」(六月二一日)、「高校指導要領改定」(一〇月一五日)、それ
に「初等中等局長通達」(一二月二四日)。

 この三通の通達で、中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、生徒会活動
から、政治色は一掃された。さらに生徒会どうしの交流も、官製の交流会をのぞいて、禁止さ
れた。当時は、安保闘争の真っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなりの理由があ
ったが、それから四〇年。日本の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」に改造された。
その結果が、「ダサイ?」ということになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。どんな生活であるにせよ、一度その生活に入る
と、どんな人でも保守層に回る。そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、それである。
構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう一〇年以上になるが、結局は、ほとんど何も改
革されていない。このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きくなる。いや、すでに、
日本は、現在、にっちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。あとはいつ爆発し、崩
壊するかという状態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった三通の、次官、局長クラスの通達で、日本の
教育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。そしてその恐ろしさを、どうか理解して
ほしい。日本の教育は、(日本人の心も)、こういう形で、中央官僚の思うがままにあやつられ
ている。

+++++++++++++

もちろん、極右であることも、極左であることも、
望ましいことではない。(否定はしないが……。)

ものごとは、常識を基点にして考える。
あるいは常識の上に常識を重ねながら、考える。
私たちが何よりも警戒しなければならないのは、
「極端化」である。
「先鋭化」ともいう。
とくに政治の世界では、警戒した方がよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●聖火台への着火

++++++++++++++

来月、北京オリンピックが
中国で開催される。
今朝の新聞(中日新聞)に、
それについての記事と、
聖火台への着火方法についての
記事が載っていた。

どうやらUFO型のヘリコプター
を使って、着火するらしい。
(あくまでも予想だが……。)

その記事を見て、では、日本でなら、
どんな方法があるかを考えてみた。

+++++++++++++++

(次々回、東京オリンピックでは……。)

(1)参加国と同じ数だけの、ロボットに、
行進させる。
衣装は、映画『スターウォーズ』に出てきた
ロボットのに、すればよい。
ただし手にもつのは、銃ではなく、各国の
旗。

『スターウォーズ』の行進音楽に合わせて、
行進する。
♪バンバンバン、バババ〜ン、と。

(2)聖火台の前あたりまで来たら、ロボット
たちは二手に分かれて、花道をつくる。

(3)やがて後方から、聖火をもったロボットが、
駆け足で、ヒョコヒョコやてくる。そしてそれが
みなに、あいさつなどをしたあと、聖火台の階段を
のぼり、聖火台に聖火を着火する。

(4)ほかのロボットたち、それを見て、拍手する。
あとは、入ってきたときのように、出口に向かって
行進しながら退場する。

次々回の開催地が東京に決まれば、8年後。
ロボットも、それまでにさらに改良されるに
ちがいない。

「介護ロボット」も実用化されるという。
であるなら、こんな演出はどうだろう。

(5)聖火をもったロボットが、階段の
途中で、こけて、倒れる。そのとき、足を
負傷したかのような様子をしてみせる。それを
見た別のロボット2体が、階段をかけのぼり、
そのロボットを助けながら、頂上までいっしょに
のぼる。

想像するだけでも、楽しい!


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2717)

●XPパソコンがおかしい?

+++++++++++++++++

私のXPパソコンが、おかしい。
ときどき、理由もなく(?)、フリーズ
してしまう。

いろいろやってみたが、ダメだった。
それにどこも悪くない?

人間でいえば、不定愁訴。
あるいは自律神経失調症。

そこであちこち、ネット上で検索してみると、
どうやら、原因は、「SP3の導入」に
あることがわかった。

「XP SP3 フリーズ」で検索
してみると、関連項目が、ズラリと
出てきた。

そう言えば、「SP3」をインストール
した直後から、おかしくなった。

しかしここからがたいへん。
「SP2」に戻せばそれでよいという
問題でもなさそうだ。
簡単には、戻らない。
「起動ディスク用のフロッピーを6枚
用意して……」(MS社のHP)とか、
何とかある。

しかしこんなトラブルが出ることがわかって
いるなら、MS社にしても、「SP3」など、
世に出さなければよい。

だれが責任を取ってくれるのだ!、と
叫んだところで、この話は、しばらく
お預け。

またそのうち、夏休みにでもなったら、
作業をしてみよう。
それまで、何とか、だましだまし、
使ってみる。

+++++++++++++++++

現在、XPパソコン(SP2)を
使っている人は、(SP3)の導入には、
くれぐれも、ご注意!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●おとなになろうよ、日本政府!

+++++++++++++++++

週刊誌などの情報によると、
今回のサミット(08年7月、北海道・洞爺湖)では、警備費だけでも、
600億円も使われたとか(報道)。
それはしかたないとしても、加えて、何からなにまで、超豪華!
料理にしても、山のようなごちそうが並んだという。

イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙は、つぎのように
報じている。

『英紙フィナンシャル・タイムズが8日に報じたところによると、第34回主要国首脳会議(北海
道洞爺湖サミット)初日の7日、各国首脳が味わったメニューは、ホワイトアスパラガス、世界
三大珍味の一つ・トリュフ、毛ガニなどを使った六つの美食コース料理だった。この日の夕食
会のメニューはさらに豪華で、牛乳を飲ませて育てた子羊のロースト、和牛冷しゃぶ、大トロな
ど、8コース・18種の料理が供された。

 同紙は「毎年開かれるサミットの中でも、今年のように貧困や気候変動に焦点を合わせた各
首脳の(掛け声)と、各首脳が会議期間中に享受する(ぜいたくさ)の格差が大きいケースはま
れだ」と指摘した』(朝鮮N報指摘)と。

いったいいくらの税金が、浪費されたのか?
結局は、こうした醜態をさらけ出すのは、それだけ日本政府に、
ポリシー(=正義)がないことを意味する。

日ごろから、ポリシー(=正義)があれば、こんなバカなことはしない。
つまり日ごろから何もしていないから、(=何も考えていないから)、
こういうバカげたことをしても、何ら疑問に思わない。

朝鮮N報は、「食糧の心配は、口先だけ」と見出しをつけているが、
まったく、同感。

もう20年も前になるだろうか、ある人物が、こう話してくれたのを
覚えている。
その人物のところには、ときどき日本の首相が、お忍びで意見を
求めにくることもあった。
いわく、「あの人たち(=首相を含む、政府高官)は、いったい、
いつ、どこでものを考えているのでしょうね」と。

つまり朝から分刻みのスケジュールに追われ、静かに考える時間
すら、もっていないと。

その結果が、こうしたサミットの(様子)となって、現われてくる。
「豪華であれば、それでよい」というものでもないだろう。
しかし政府ばかり、責めていてはいけない。
総じてみれば、日本人はみな、同じような感覚をもっている。
とくに50代以上〜の人はそうである。

世間体、見栄、メンツを気にする。
外国からの賓客となれば、なおさらだ。
なけなしのサイフをはたいても、見栄を張る。
そういう人は、少なくない

つまり国民の意識の中から、もっと言えば、私たち1人ひとりの意識の
中から、こうした意識を消さないかぎり、こうした愚行はこれからも
つづく。
政府といっても、つまるところ、私たちの(代表)にすぎない。

首相といっても、タダの人ではないか。
大統領といっても、タダの人ではないか。
こういう言い方が悪いというなら、「私たちと、どこもちがわない」と
言いかえてもよい。

「今、世界中の人が食糧不足と価格高騰で苦しんでいます。サミットでは、
そういう人たちの苦しみを分かち合うため、質素な食事をしていただきます」と、
どうして堂々と言えないのか。

その言えないところが、問題。
つまりポリシー(=正義)がない。

で、ほとんど成果がないまま、タダお祭り騒ぎで終わってしまった
今回のサミット。

大規模化するのか、それとも小規模化するのか。
大規模化するなら、国連がある。
小規模化するなら、やがて日本は、はずされる。

日本政府は、どう考えているんだろ?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist サミット 豪華なサミット 北海道
 洞爺湖 第34回 主要国首脳会議 北海道洞爺湖サミット)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2718)

●うれしい便り

ーーーーーーーーーーーーーーー

秋田県にお住まいのGUさんから、
メールが届いた。

先月、子ども(6歳男児)のことで
相談があった。

私が返事を書いたことで、「救われました」と。

たいていの方は、返事を書いても、そのまま。
みなさん、自分の子育てで精一杯。
それがわかるから、私も返事を期待していない。

またたいていの方は、「転載しないでほしい」
と書いてくる。

その事情もよく理解できる。
子育ての問題は、そのまま家庭問題と直結
している。

家庭にとっては、トップシークレット。
中には、「清水の舞台から飛び降りるつもりで、
相談します」と書いてくる人もいる。

「そうだろうな」と思う。
私という見知らぬ相手に、家庭の事情を話すのは、
たいへん勇気がいること。
だから私のほうも、相手の方が話してくれる以上の
ことは聞かない。

しかしときどき、GUさんのような方もいる。
メールの転載は許してもらえなかったが、ていねいな
礼状が届いた。

うれしかった。
またこういう人がいるから、相談に答える私も、
熱くなる。

ありがとうございました、GUさん!
また何かあれば、連絡してください。

(約束)

みなさんからのメールを、ハードディスクの中に残すときは、
かならず、住所、名前、年齢、家族構成、職業などを変えたり、
アルファベットにしています。

万が一、ハードディスクが他人の手に渡っても、みなさんの
プライバシーが外部に漏れるということは、ありません。

(そのため、しばらくしたあとなど、「先日、相談しました、
○○県の△△ですが……、その件で……」というメールをもらうと、
ハタと困ってしまうことがあります。私自身の記憶からも消えてしまって
いるからです。

そういうときは、前回のメールを、そのまま転載してくださると、
うれしいです。
毎日、少ない日でも、3〜4通の相談が届きます。どうか、こちらの
事情も、ご理解ください。

よろしくお願いします。)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

【今日・あれこれ】7月9日

とうとう買ったぞ、HPのミニパソコン。
MINI−NOTE PC、HP2133!
東京あたりでは、売れきれ続出というが、ここ浜松のNショップには、在庫があった。
値段は、東京での価格と同じ。
即、購入!

メモリーは2GB。VISTA搭載。画面は、8・5インチ。
MSI社の同企画のものは、10インチだが、その分だけ、バッテリーの消耗も早いかも?
(OSにATOMを使っているので、バッテリーのもちがよいという話もあるが・・・。)

HPの身にパソコンには、大小2個のバッテリーが付属しているのが、うれしい。
ただしワードが入っていないので、今は、メモ機能を使って、この文章を書いている。
言うなれば、試運転。


ーーーーーーーーーーーーー

●物欲について

「〜〜がほしい」という欲求を、物欲という。
これは物欲にかぎらないが、「欲望」には、定型がない。
定型はないが、脳内で起こるメカニズムは、同じ。
たとえば「パソコンがほしい」と思うのと、「新しい車がほしい」と
思うのは、同じ。

それもそのはず。
脳の中で放出されるドーパミンに、種類があるわけではない。
「これはパソコン用のドーパミン」「これは車用のドーパミン」と。
(ただしドーパミンを受け止める受容体に、変化が見られるという。
そういうことはある。)

では、どういうときにドーパミンが放出されるかというと、それには「条件づけ」
が必要。

わかりやすい例では、アルコール中毒者がいる。
私自身は、アルコール類は一滴も飲めないから、アルコール中毒者の気持ちは
わからない。
が、ものの本によると、そういう人たちは、酒のにおいをかいだだけで、
ムラムラと酒が飲みたくなるのだそうだ。
酒のテレビコマーシャルを見ただけで、そうなる人もいるという。

これが「条件付け反応」と呼ばれているものである。

このときも、視床下部あたりで指令を受けた脳が、大量のドーパミンを放出する。
それが線条体というところを刺激し、(猛烈な欲望)となって、その人を襲う。

が、そのときもドーパミンに、種類があるわけではない。
「これは酒用のドーパミン」「これはタバコ用のドーパミン」と。

わかりやすく言えば、欲望の形は、みなちがうが、脳の中で起こる反応は同じということ。
言い換えると、「パソコンがほしい」という欲望も、「酒が飲みたい」という欲望も、
形こそちがえ、中身は同じということ。

・・・ここまで話したらワイフがこう聞いた。
「性欲はどうなの?」と。

同じ欲望の中でも、生存、種族保存に関する欲望は、本能に根ざしているだけに、
それだけ強力と考えてよい。
私も、大学生のとき、初体験がすんでから間もなくのころだったと思うが、
道路で、若い女性の太ももを見ただけで歩けなくなってしまったのを覚えている。
たった一度の経験だけで、強力な「条件付け」ができてしまったことになる。

しかし欲望は、欲望。
基本的には、中身は、同じ。
「ちがう」と考えるほうが、おかしい。

そこで問題は、性犯罪。
たまたま今日も、教師によるハレンチ事件が報道されていた。
高校の教師が、生徒と長年にわたって性的関係をつづけていたという。

(ついでながら言うと、こういう事件が発覚するのは、例外中の例外。
氷山の一角の、そのまた一角。
非公式な調査によれば、学校の教師、もしくは部活の指導員と性的関係にある
女子学生(生徒)は多いという。
親からの相談もときどきある。
だからといって、女子学生が被害者とはかぎらない。
今では、女子学生のほうから、教師を誘うケースも少なくない。
もちろんだからといって、教師の行為が正当化されるわけではない。
誤解のないように!)

もちろん性犯罪は、別である。
数年前、手鏡で女性のスカートの中をのぞいていた大学の教授がいた。
日本でも一流の大学の、その大学の現役教授である。
当時は、毎週のようにテレビに出ていて、評論活動をつづけていた。

私たちはそういう事件を知ると、「どうして?」と、つづく言葉を
失ってしまう。
が、その教授が例外というわけではない。

「欲望」という視点で考えるかぎり、「パソコンがほしい」という欲望も、
「スカートの下をのぞきたい」という欲望も、欲望は欲望。
どこも違わない。
少なくとも、脳内での反応は同じ。
強弱のちがいはあるかもしれないが、同じ。
一流大学の、(こういう言い方は好きではないが)、教授職という、知性の
かたまりのような人ですら、そういうことをする。

ただこうした反応のこわいところは、先にも書いたように、「条件づけ」
されやすいということ。
新しいパソコンを見たとき、ムラムラと「ほしい」という欲望がわいてくるのも、
若い女性を見たとき、同じようにムラムラと「スカートの下をのぞいてみたい」
という欲望がわいてくるのも、同じ条件づけ反応ということになる。

私は私で、そういう条件づけができてしまった。

よく覚えているのは、中学2年生のとき、オリベッティ社のタイプライター」を
買ってもらったこと。
私はあのときの感動を今でも忘れない。
つまりそれが、今の(パソコン)につながった(?)。

もちろんだからといって、性犯罪者を擁護するつもりは、みじんもない。
ただ欲望が本来的にもつ性質上、それを理性の力でコントロールするのは、
たいへんむずかしいということ。

そのことは、アルコール中毒患者や、喫煙者を見ればわかる。
性犯罪者が犯罪を繰り返す理由は、そんなところにある。

言い換えると、話はずっと教育的になるが、「子どもの条件づけ」には、
注意したほうがよいということ。
一度、脳の中で条件づけ反応ができてしまうと、それがよい条件づけであれば
問題はないが、そうでなければ、問題となりやすい。

分厚い本を見ただけで、ゾクゾクとした感動を覚えれば、すばらしい。
(私も、分厚いマニュアルを手にしただけで、ゾクゾクするので、その気持ちは
よく理解できる。)

ただし私には、ロリコン趣味はない。
マゾ的趣味も、サド的趣味もない。
下着趣味もない。
ないことについては、私のワイフが証人である。

先日もその話になったとき、ワイフもこう言った。
「あなたには、(そういう趣味は)ないわねえ」と。

「正常なスケベ」という言い方が適切かどうかは知らないが、私は自分では
正常なスケベだと思っている。

私にとって、女性が一番美しく見えるのは、30〜35歳前後。
ただ私は若いころから、風呂上りの女性に弱い。
女性の肌に、石鹸のにおいをかいだだけで、今でもムラムラと感じてしまう。

(しかし私のばあい、どこでそのような条件づけができてしまったのだろう・・・?
ひょっとしたら、銭湯の中ではないか。
学生のころ銭湯へ行くたびに、女湯が気になってしかたなかった。
一度でよいから、番台に座ってみたかった。
ときどき番台のほうから裸の女性を見たことがある。
あのときの感動が、条件づけにつながった。
たぶん?)

話が脱線したが、「欲望」というものがどういうものであるか、それを説明してみた。
そして話をぐんと戻すが、結局は「物欲」も、その中のひとつにすぎないということ。

繰り返すが、脳の中で起きている反応は同じ。
区別するほうが、おかしい。


ーーーーーーーーーーーーーーーー

・・・ということで、試運転はおしまい。
最近書いた原稿の焼き直し版ということになってしまったが、許してほしい。

で、このパソコンの使い勝手だが、よくても悪くても、しばらくはこれを
使うしかないので、あえて評価はしない。

使いにくいところもあるが、しばらく使っていれば、そのうち慣れるだろう。

これは私が説く運命論に似ている。
そこに「運命」があるなら、それは、受け入れるしかない。
それが運命なら、不平、不満を並べても、しかたない。
そんなことをすれば、かえって自分がみじめになるだけ。
それと同じ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(補記)

ところで先ほど、無料ソフトの、「Star Suit 8」というのを、
無事インストールした。
Ms社のワード(Office)は、買えば、OM版でも、2万円前後もする。
それと同等のソフトが、こうして無料で使えるところが、うれしい。

Google社さん、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

●幼稚園選び(How to select a kindergarten)

+++++++++++++++++

京都府にお住まいのUYさんという
母親から、幼稚園選びの相談が届いて
います。

+++++++++++++++++

【UY様より、はやし浩司へ】

暑中お見舞い申し上げます。

以前、2年保育についてご相談させていただいたUYです。
カナダの幼稚園について、少しでもお役にたてようで良かったです。

さて、不躾ですが、またご意見を伺いたく以前のメールからご相談させていただくことをお許しく
ださい。

2年保育を考えて・・・とはいえ、来年の幼稚園入園に向けて動き出さなければいけない時期と
なりました。
現在、2つの幼稚園まで候補を絞ったのですが、だんだん判らなくなっています。

先日、「3年保育が主流ですので・・・」と言われた私立幼稚園に見学に伺いました。 

園長先生とお話をしたところ、週数回、午前だけの通園から始めて、徐々に慣れていくような
形でも受け入れてくださるとのことでした。 園内は明るい雰囲気で、感じが良かったです。
体育、英語などの先生が来て、カリキュラムに組まれているなどの教育型?のようです。 

見学の時は、ちょうど体育のクラスでしたが、横でやってみたくてウズウズして見ていました。
(参加はさせてもらえませんでしたので) 子供が楽しい遊びの中のひとつとしてできるならば、
素晴らしいと思いました。

もうひとつは、国立大学の付属幼稚園です。 

先日、幼稚園についての講演会に行ってきました。(説明会ではありません。)副園長先生の
お話は、子供に対して、幼児教育に対して、納得できる部分が多く、幼稚園の環境はとても自
然の中で素晴らしいというのが感想です。木登りをしたり、草の中の昆虫みつけたり、木の実
を取って食べたりなどと言った体験が園内でできる環境でした。

私は、四国育ちなのですが、嬉しくなるようなキレイな遊具より、自然の中で自分達で遊びを作
ったり、発見する楽しさを我が子にも味わって欲しいと思っています。

現在、3年保育に通っているお友達から聞いていたのですが、父母が園の教室まで送り、子供
が納得するまで、園内にいても構わないということでした。2年保育でも同じ状況なのか伺いた
くて、実質、副園長先生に説明会の後、少しお話をさせていただきました。(園長先生よりも副
園長先生が現場?、と言う感じでしたので)2年保育でも3年保育でもその子の状況に応じてで
構わないということで、2年保育から入った場合でも、本人が納得するまで全く構いませんとの
ことでした。

「数ヶ月もたたずに離れる子もいれば、一年間お母様が見ていらした方もいます。お子さんの
発達や心の状況はそれぞれ違いますから、個々に対応するべきです。うちの幼稚園以上に細
やかな所は他にありません」ということでした。

園児の様子などは説明会の時しか見られないので、わかりませんが、説明会も大人のみとな
っており、実際に入園前に子供自身が園内に入れることはないのが、疑問です。

いろいろと他にも幼稚園の開放日、または支援センターの催しなどに息子を連れて行って様子
をみていますが、先生にも自分から行ってご挨拶して、いつもとても楽しそうに遊んでいます。

でも、いざ、またどこか幼稚園に行ってみようかという話をすると、「僕は幼稚園行かないよ。マ
ミーとずっといる。一緒に行ける幼稚園なら行きたいけど・・・」と言います。 他のお友達もみん
なお母さんと一緒じゃないけど、みんな同じようにお母さんと一緒がいいということ。みんな楽し
い時間を過ごしているということ。離れていても、いつも愛しているしまた帰ってきたらすぐに会
えるということ・・・など色々話しているのですが、息子から返ってくる言葉はいつも同じです。 
甘えているだけなのか、どう話せばいいのかわかりません。

分離不安といっても、通っているお稽古のお友達とは私を置き去りにして遊びに走って行くし、
近所の1、2年生の子供達とも一緒になって走り回り見えなくなって、私が逆に危なくないかと
ハラハラする程です。

どのように、息子に接したらいいでしょうか?

息子の様子から考えて、玄関前で引き裂かれるようなことがなく、納得できる状態で対応でき
るなら附属幼稚園がいいのかなぁと思っています。

でも、受験に受かるかどうかはわかりません。以前、あるお受験対策塾のようなところにお話
を伺いに行きました。息子に数種類の問題をさせた結果、能力・学力的な問題はないと思いま
すが、当日親から離れられるかが問題ですと言われました。それはそうだと思ったのですが、
そこの塾の先生からこんなお話をされました。

「附属幼稚園に通わせる方の多くは、その後の小学校を視野に入れています。単純に附属幼
稚園、小学校、中学校、某有名進学高校へというコースを考えての方もいらっしゃいますが、
現実はかなり違いますと。 

現在、附属幼稚園・小学校は、自由とか個人の尊重とうたってはいますが、放任そのもので
す。もちろん、他ではできない体験も待っていることとは思いますが、能力・学力が優れ活発な
子供にとっては楽しいかもしれませんが、そうでない子は置き去りにされます。 学校は遊ぶ
所、勉強はご家庭や塾がメインです。

小学校では、教科書を開き何ページという授業ではなく、チャイムがなっても生徒が座らずに
廊下にいるのは普通ですし、それについて先生も何も咎めません。ゆえに、2年生でカタカナ
が書けないという子もたくさんいます。また、幼稚園においても、以前附属幼稚園の先生をなさ
っていたR幼稚園園長は、今の附属幼稚園の保育はどうかしているということで、この間OBを
集め話し合いをなさったそうですよ。

いざ、入ってから、こんなはずではなかったと話してこられるお母様が多いので、いちおう現実
をお話しているだけす。また幼稚園に関しては特に、極端な言い方ですが国立は来ても来なく
ても構いませんが、私立は経営ですので至れりつくせりのところが多いということもあります。

このようなことから、昨今は一貫した教育をきっちりしてくれる私立の方が人気を集めています
し、小学校に関しては、どうせ塾に行かせなければいけないなら、いっそのこと学区の小学校
でいいという方も増えています」とのことでした。

ここの塾には、息子は通っていません。 教室の雰囲気が暗く、楽しく学ぶというよりは「お受
験のための勉強」という感じで自分だったら通いたくないと思うだろうなぁという感覚でした。(そ
ういうものなのかもしれませんが・・・)息子は、「問題は楽しかったけれど、あの場所は楽しくな
かった」と言っていました。 

でも、聞いてきた話については、かなり考えさせられました。

進学について何も考えず、どこでもいいさぁ〜!、と思っている訳ではありません。学力は無い
よりある方がいいと思っています。 私はいちおう進学校を出ているのですが、もっと勉強しと
けば良かったと思っています(笑)。

とはいえ、私は進学校にもかかわらず大学受験せず、高校卒業と同時にアメリカの大学に行
ったので、日本で進学校が目指している大学社会とは無縁でした。得られた物は、大きかった
と思っていますが。

息子には、本人が自分の方向を決めようとする中で、選択範囲が広い状態にしてあげたいと
いうだけです。

いわゆる私立と国立附属の幼稚園・・・根本的な方針が違うのかもしれませんが、はやし先生
はどのように思われますか?

いつも長くなってしまい、申し訳ありません。
お忙しい事と思いますが、お返事いただければ幸いです。

【はやし浩司よりUY様へ】

おはようございます。

そういうふうに迷われましたら、

(1)現場で直接、園児に接している先生の様子を見ることです!

若い先生が、やる気で生き生きと指導している幼稚園を選んでください。
何よりも大切なのは、その(活気)です。
その(活気)の中で、子どもは、伸びていきます。

とくに若い先生(新入りの先生でもよい)が、大きな声で、率先して
指導している幼稚園は、すばらしい幼稚園です。
先生どうしが、和気あいあいと、楽しそうに指導している幼稚園は、よい幼稚園です。
幼稚園は、看板、つまり園長の謳い文句ではなく、現場の先生を見て選びます。

これは大鉄則です。
園の隅から、遠巻きに観察してみると、それがわかります。

あとの問題は、はっきり言って、どうでもよい問題です。

(2)行ってはならない幼稚園は、先生たちが沈んでいる幼稚園です。
どこかタラタラした雰囲気になっていますから、それがわかります。
やる気なさそそうに、(ただ言われたことだけを、無難にやりこなしている)
というような幼稚園は、最悪です。

(3)またよい幼稚園には、(子どもの臭い)がします。
どこかしこに、その(臭い)がしみついています。
壁には落書きのあとがあり、それを先生が懸命に消したようなあとがあるとか……。
先生が子どもを楽しませようとか、そういう努力のあるなしもみてください。

(4)さらに言えば、園長でも、副園長でも、自ら率先して園児の中へ入って
指導している幼稚園を選びます。
園長が、スーツを着て、ふんぞり返っているような幼稚園には、疑問をもってください。
(スーツを着ていても、子どもたちの手で汚されたようなあとがあればいいのですが……。)

つまり看板にだまされないこと。
どこの幼稚園も、生徒募集のために、看板に四苦八苦しています。
ですから派手な指導方針を並べたり、見た目に派手な教育をしたがります。
もちろん園の方針も大切ですが、それ以上に、この時期、幼児に
とって大切なのは、直接子どもたちと接している、(現場の先生の活力)です。

園長の話など、あまりアテにしてはいけません(失礼!)。
美辞麗句が多いですから……。

これは私の経験からの意見です。

なおいただきましたメールですが、内容を大幅に改変したのち、
HPに収録しますが、お許しください。

最後に、「赤ちゃん返り」「母子分離不安」については、私のHPの中のQ&Aコーナー
を参考にしてください。

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2719)

【今朝・あれこれ】(7月11日)

++++++++++++++++++

今度、岐阜県の山中を、7キロも歩くことになった。
そういうツアーに参加することになった。
で、そのためのシューズを、昨日、買ってきた。
今、使っているのは底が薄く、デコボコ道を
長く歩いていると、足が痛くなる。

値段は、私のが3000円弱、ワイフのが4000円弱。
「安い」というより、私は、4000円以上の靴は、
買わないようにしている。
もの持ちが悪いというか、そのほうが気楽に使える。
「これは(値段が)高い靴で……」「あれが安い靴で……」と
考えているだけで、疲れてしまう。

++++++++++++++++++

●雨つづき

このところの雨つづきで、運動不足を強く感ずる。
昨日も1単位しか、運動をしていない。
体がかたいというか、朝起きても、スッキリしない。

パソコンの前に座っても、モヤモヤするだけ。
頭の中の(考え)が、表に出てこない。
どうしたらよいものか?

ニュースを読んでも、「ああそう……」という感じで、
脳の表面を上すべりしてしまう。
「どうでもいいや」「勝手にどうぞ」と思うだけ。

窓の外を見る。
涼しいのはよいのだが、灰色の曇天が、空を覆っている。
「今日は2単位、運動をする」と心に誓うが、
どうなることやら?


●介護問題

介護のし方も、県、あるいは市や町単位で、かなりちがうようだ。
もちろん、個人によってもちがう。

先日、私の知人(男性)が、90歳という年齢でなくなった。
元内科医である。
その知人のばあい、病院付属のケア・センターに入居してからまもなく、
そのまま、亡くなってしまった。
半年もそこにいなかったのでは……?

「食事が食べられなくなった」「やせた」という話を聞いている
うちに、亡くなってしまった。

一方、同じような状態になりながらも、喉(のど)や腹にパイプを
通して、生きながらえている老人もいる。
集中治療室で、完全看護の手厚い介護を受けている。
どうしてこういう(差)が生まれるのだろう?
それよりも、「生きていたい」というその人の(思い)は、
どのように評価されるのだろう?

その年齢になってみなければわからないが、私がそういう状態に
なったら、無理に生きていたいとは思わない。
家族への迷惑を考えるなら、なおさらである。

昨日もワイフと車の中で、こんな会話をした。
ケア・センターにいる母を見舞いに行く途中でのことだった。

「なあ、ぼくが死んでも、息子たちは呼ばなくてもいいよ」と。

ワイフも同じ気持ちでいるらしい。

「そうね、みんな遠いところに住んでいるから、また来られるとき、
ゆっくり来ればいいわよね」と。

が、こういう意見は、少数派らしい。
少し前だが、母の葬儀のし方について、親戚の1人に相談すると、
その人はこう言った。

「浩司君、どんなことがあっても、葬式は、(郷里の)M町ですべきだよ」と。

「すべき」と断言するところが、恐ろしい。
で、それについて、私が、「霊柩車で、何時間もかかりますが……」と
答えると、「親の葬式だろ!」と、一喝されてしまった。

残念ながら、私の母は、若いときから、その親戚の人と同じような
考え方をする女性である。
今は、頭の活動もほとんど停止状態にあるが、最後の最後まで、
そういう考え方を改めたという話は、聞いていない。

つまり、「お前たちに世話(=迷惑)をかけたくないから、
質素にやってくれ」と願うようなタイプの女性ではない。
むしろ逆で、若いころから、どこかの葬儀から帰ってくるたびに、私に
こう言った。

「あんなみすぼらしい葬式はなかった」と。
そう言いながら、母は、言外で、そういう葬儀をする家族を、非難した。
さらに言外で、「お前たちは、私の葬式を、きちんとせよ」と迫った。

だから私は、その親戚の人に、何ら反論ができなかった。
母の中に、一本のスジの通った生きざまでもあれば、反論もできたであろうが、
それがない。

ところで、私自身は、新聞の「死亡欄」を見たことがない。
ああいうのは見始めると、やめられなくなる。……と思う。
オーストラリアの新聞にも「死亡欄」というのはあるが、同時に「結婚欄」
というのもある。
ちゃんとバランスを保っている(?)。

私「やっぱり、みんなに迷惑をかけたくないから、ぼくは、静かに死にたい」
ワ「そうね。私もそう思うわ。冠婚葬祭というと、世間体やメンツばかり、
みな、気にするでしょ。ああいうのは、イヤね」と。
私「(お別れ)とか何とか、おおげさに考える必要はないと思う。あとになって、
『ああ、あの林は、死んでいたのか』でも、いいのではないだろうか。本当に、
私の死を悲しんでくれる人たちだけで、葬式は、質素にすませばいい」と。

当人にとっては、(死)は極限問題かもしれない。
しかし周囲の者をそれに巻きこむのは許されない。
古代エジプトや中国では、生きたまま、墓の中に道連れにされた人もいたという。
そこまで極端ではないにせよ、息子たちは、息子たちの現在の生活を、
優先すればよい。
仕事を休んでまで、私の葬式には来てほしくない。……来る必要はない。
無駄なお金を使う必要は、ない。

私「何も、死んだ直後に顔を合わせる必要はない。1か月後でも、あるいは
1年後でもいい。葬式というのは、そういうものだよ」
ワ「そうね……」
私「1年を長いといい、10年を短いという。そんなのは、感覚の問題だよ」
ワ「どうせ、私たちも、あっという間に死ぬのだから……」と。

しかし……。
私たちがそう思うのと、他人の葬儀は、話は別。
私たちが「葬儀なんて、意味がない」と思うのは、私たちの勝手。
だからといって、「他人の葬儀も意味がない」とまでは、思ってはいけない。

この問題だけは、人それぞれ。
その人に合わせて、妥協すべきところは妥協する。
協調すべきところは、協調する。
もっと言えば、相手の立場になって、その相手がよいようにしてやる。

どうせ、ただの「儀式」なのだから(失礼!)、そこはもっと気楽に考えればよい。

介護の話から、葬儀の話になってしまった。
しかし介護の先には、葬儀がある。
いわば葬儀は、介護のしめくくりのようなもの。
勝手なこじつけをしたところで、この話は、おしまい。

みなさん、元気で生きている間が、人生は花ですよ。
さあ、今日もがんばって、その人生を、思う存分、謳歌しようではありませんか!


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●息づまる攻防戦(ウォン防衛)

+++++++++++++++

韓国政府は、自国のウォンを
防衛するため、現在、息づまる
ような攻防戦を繰り広げている。

「爆弾的」(朝鮮N報)と表現
する人もいる。

つまり韓国政府は、まさに「集中
豪雨的な」ドル売り、ウォン買いを
つづけている。

その額、100億ドル!

7月2日、8日、99日の3日間だけでも、
100億ドル(約約1兆700億円)
前後、売ったと推定されている(朝鮮N報)。

しかし効果は一時的。

今週のはじめ、1ドル=990ウォン
程度までウォン高になったが、今日
(7月11日)は、1004ウォンと、
再び、ウォン安に向かっている。

韓国政府は、手持ちの外貨で、「堤防を
築いた」(同紙)ことになるが、今年中
に返さなければならない借金(対外債務)が、
2156億ドルもある。

この額は、外貨準備高として保有している
外貨の、「80%」(同紙)にあたるという。

そういう外貨を、現在、韓国政府は、
湯水のごとく使っている。

が、こうなると、為替差益で利益を得ている、
通称、「ヘッジファンド」の、格好の餌食(えじき)。

韓国政府の攻防ラインがわかれば、ウォンを
買ったり売ったりすることで、莫大な利益を
手にすることができる。

何しろ、韓国政府の保証つき!

……というわけで、目下、韓国政府は、
自国のウォンを防衛するため、現在、息づまる
ような攻防戦を繰り広げている。

注視!
(この原稿は、平成20年7月11日(金)に
書いたものです。)

(補記)

現在の韓国の外貨準備高は、2581億ドル。(=貯金)
今年中に返済しなければならない対外債務は、2156億ドル。(=借金)
原油の高騰で、昨年よりも、500億ドルも、輸入コストの増加が見込まれる。(=負担)
その上、経常収支は、今年(08年)、100億ドルの赤字。(=収入源)

これだけの数字を並べただけでも、現在、韓国がどういう状況にあるか、わかるはず。

加えて現在、外資が猛烈な勢いで、韓国から逃避し始めている。
韓国の株式市場でも、今年に入ってから、すでに20兆ウォン(約2兆円)も、売り越されてい
る。

そこへもってきて、政情不安。
「ローソク・デモ」に見られるように、あの国は、何かが、おかしい。

かんたんに説明すると、こうだ。

あなたには、260万円の貯金がある。
しかし今年中に、220万円の借金を返済しなければならない。
しかし子どもの教育費で、今年は、さらに50万円の負担増。
加えて夫の給料だけでは、赤字。
仕事も減ってきた。
夫婦関係も、おかしい?

あとは、どうなるか?
みなさん、ご想像のとおり!


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2720)

【心豊かな人生】


そこに人生があるなら、それは受け入れるしかない。
「あきらめろ」ということではない。
そこを出発点にして、前に進む。

『われらが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことである』(スティーブンソン)。

まずいのはいつまでも重い過去に引きずられて、「今」を、無駄にすること。
悶々とした日々の中で、自分を見失うこと。

その今には、無限の価値がある。
賢明な人は、その価値を失う前に気づき、そうでない人は、それを失ってから、その価値に気
づく。


●使うしかない

今、そこにあるものを、受け入れていく。
それがどんなものであれ、それはそれとして、認めていく。
それが、心豊かに生きる、コツではないか。

たとえば、私はおととい、新しいパソコンを買った。
ミニ・パソコンと呼ばれる小型のパソコンである。
本当は……という言い方は適切でないかもしれないが、
私は、このパソコンと、もう一台のパソコンで、
どちらにするか、迷った。

このパソコンは、HP 社の、2133という機種。
もう一つは、今度、MSI社から発売になった、U100という機種。
U100のほうは、発売されたばかりとあって、現在、入手困難。
東京の秋葉原でも、発売と同時に、売り切れてしまっている。
この2つのパソコンの大きな違いといえば、2133のほうは、英語式キーボードになっているこ
と。
アメリカ製である。
U100のほうは、日本語式キーボード。
台湾製である。
値段は、2133は、8万円弱。
U100は、6万円弱。
2万円の差はあるが、性能的には、2万円以上の差がある。
それで2133にした。

が、いろいろと問題が起きている。
英語式キーボードだから、キーと文字(とくに記号)が、一致しない。
ワードを使いなれた私には、打ちにくい。
それにやはりミニ・パソコンはミニ・パソコン。
どこかおもちゃ的?

そういうパソコンと対峙したとき、私はこう考える。

「せっかく買ったのだから、使い倒そう」と。
あるいはこうも考える。
「使いにくい面はあるが、使う私がそれに慣れればいい」と。

不平や不満を並べても、しかたない。
「使うしかない」と。

●生きるしかない

……実は、人生も、これに似ている。
いろいろやり残したこともある。
今の今も、何かにつけて中途半端。
この先のことを考えたら、不安でならない。

しかし今の私には、今のこの人生しかない。
だったらこの人生を受け入れて、前向きに生きていくしかない。
私のほうから、今の人生に慣れていくしかない。

……こう書くと、誤解する人がいるかもしれない。
つまりこう書くからといって、「あきらめる」という意味ではない。
あきらめるのではない。
その逆。
こういう人生がそこにあることを、喜び、感謝する。
多少の不便さはあるが、生きるドラマはそこから生まれる。
大切なのは、そのドラマ。
そのドラマこそに、生きる価値がある。

たとえば私は、最近、こう考えることがある。
サイクリングしているようなときだが、自分の体がスイスイと動くことが、うれしい。
「私は目が見える」
「私は音が聞こえる」
「私は走ることができる」
「私はものを考えることができる」と。

その喜びにくらべたら、身のまわりの問題など、何でもない。
すべて、ささいなものに思えてくるから不思議である。

●損とは何か?

たとえば私は、自分の人生の中で、人にだまされたことはあるが、だましたことはない。
とくに金銭問題においては、そうである。
若いころは、それなりに悔しい思いもした。
相手を恨んだりもした。
しかしそんなことを引きずっていたら、これからの人生を心豊かに生きていくことはできない。
できるだけ早くそういう過去とは決別して、前向きに生きていく。

というのも、損をしたと考えること自体、損。
もっと言えば、金銭的な損など、損でも何でもない。
本当に損なのは、(時間を無駄にすること)。
(時間)イコール(人生)と置き換えてもよい。
どのみちあと10年もすれば、みな、頭の活動も鈍る。
健康も衰える。
それに20年もすれば、みな、死ぬ。
(これは私の年代の人のことだが……。)

そしてその先、死ねば、この宇宙もろとも、私は煙のように消える。

金銭的な損得に毒されて、ああでもない、こうでもないと悩むほうが、どうかしている。
大切なことは、今日というこの(与えられた1日)を、心豊かに、楽しく、ほがらかに過ごすことで
ある。
そういう意味では、人生は、金の砂時計のようなもの。
刻一刻と、金の砂が、上から下へ落ちていく。

こんな話を聞いた。

●ある人の遺産相続問題

近所の人の話だが、父親が死んだとき、遺産問題がこじれて、はげしい兄弟戦争になってしま
ったという。
その父親は、このあたりに、千坪単位の土地(もともとは農地)を、もっていた。
それが宅地開発で、黄金の土地に変身した。
その父親がなくなったのは、その直後のことだった。

3人の兄弟と2人の姉妹がいた。
実際には、その中の二男にあたる人が、死ぬまで父親の世話をしていた。
だから本来ならその二男が父親の財産を受け継いでも、何らおかしくはなかった。
が、これにまず長男と長女が、「待った!」をかけた。
つづいて、三男と二女が、「待った!」をかけた。

半端な財産ではない。坪40〜50万としても、10億円以上になる。
(10億円以上だぞ!)
で、こうして泥沼の遺産相続争いとなっていった。
毎週のように、父親の仏壇の前で、怒鳴りあい、殴り合いの騒動がつづいたという。

で、最終的には、二男が、3〜4割の財産を。
残りをほかの4人の兄弟姉妹で均等に分けることになったという。

が、それからその兄弟たちに異変が起きた。
もちろん兄弟、姉妹関係は、こなごなに破壊された。
「財産分けがすんでから、たがいの行き来は途絶えてしまった」と。
それは当然のことだが、そのうち、2人が脳卒中で倒れ、もう1人は、心筋梗塞で倒れた。
1人は、そのあと癌になり、入退院を繰り返している。
残りはもう1人だが、体調を崩してしまったと聞いている。

が、悲劇はそこで終わったわけではない。
今度は、それぞれの息子や娘の間で、財産の分与をめぐって、何かともめ始めているという。

言い忘れたが、みな、年齢は、現在、65歳前後(当時)。
この話をワイフにしてくれた人は、こう言ったという。

「棺おけに足を半分つっこんだような人が、どうしてそんなにも、お金に執着するのでしょうね」
と。
「騒動が長かったから、それから生まれたストレスが、悪かったのでしょう」とも。

●得るものより、失うもの

……というような例は多い。
私もお金は嫌いではないから、(あえて嫌う必要もないが……)、10億円ともなれば……?
そういう騒動に巻き込まれるかもしれない。
しかしどう生きたところで、あと20年。
が、そんな騒動に巻き込まれたら、寿命を縮めてしまうだろう。
脳梗塞で倒れたら、それこそ、お金の話どころではなくなってしまう。

さらに言えば、仮に100万円であろうが、10億円であろうが、この宇宙に視点を置いてみれ
ば、ただの数字。
子どもがもつゲームの中の得点と、どこもちがわない。
仮に相続問題が起きたとしても、事務的に処理して、それですます。
1億の取り分を、2億にしたいと思うから、騒動に発展する。
が、それによって失うものは、もっと大きい。
あるいは騒動を起こして、得になることは、何もない。

では、心の豊かさとは何か?

●自己の統合性

大切なことは、『自己の統合性』ということになる。
(自分がやるべきこと)を見つけ、(そのやるべきことに自分を一致させていく)。
生きがいも、そこから生まれる。
生きる喜びも、そこから生まれる。
生きがいや、生きる喜びの大きい人を、心の豊かな人という。

それがわからなければ、自分にこう問うてみればよい。

大きな高級車を買った……だから、それがどうしたの?、と。
大きな家を買った……だから、それがどうしたの?、と。
どこかの会社の社長になった……だから、それがどうしたの?、と。

自己の統合性が確立してくると、そういうことの無意味さが、つくづくと身にしみてわかるように
なる。
(だからといって、私は、そういうことを否定しているのではない。誤解のないように!)

さあ、あなたも、勇気をもって、まず、あなた自身に納得しよう。
あなたの住んでいる環境に納得しよう。
あなたを囲む、人間関係に納得しよう。

それを「運命」というのなら、運命と呼んでもよい。
まずあるがままの自分を受け入れる。
そしてここが重要だが、今、ここにいて、ここに生きていることを、喜び、感謝しよう。

それが自分の人生を、心豊かに生きていくための必要条件ということではないか。

(付記)

私たち戦後、戦時中生まれの人間は、程度の差こそあれ、みな、「金権教」の信者と考えてよ
い。
「お金がいちばん大切」「お金があれば幸せ」「お金があれば安心」と。
それが転じて、人間の価値まで、お金で決めるようなところがある。

あの貧しい時代を思い浮かべれば、だれが、それをまちがっていると言えるだろうか。
みな、懸命に生きてきた。
あの独特の(ひもじさ)と闘ってきた。
おまけに当時の日本人は、敗戦と同時に、精神的なバックボーンを、失ってしまった。
それまでは「天皇」が神であり、「陛下」「陛下」と言っていれば、何も考えなくてもよかった。
現在の北朝鮮のようなもの。
(戦時中の日本が、あそこまでひどかったとは思いにくいが……。)

敗戦と同時に、日本人は、「金権教」へと走った。
事実、「信仰すれば、庭木に札の花が咲く」と教えた宗教団体があった。
その宗教団体は、戦後、日本でも最大の宗教団体になっている。

が、同時に失ったものも多い。
「心の豊かさ」である。

私がオーストラリアへ留学したとき、何よりも驚いたのは、農家の人たちのレベルの高さ、だっ
た。
友人の父親は、夕食後にチェロを演奏してみせてくれた。
母親は4年生の大学を卒業していて、マナーも洗練されていた。

とても残念なことだったが、1970年当時の日本は、そうではなかった。
農家といっても、GHQによって農地解放される前は、そのほとんどが、「小作人」と呼ばれる人
たちだった。

その(差)を、直接肌で感じたとき、私はこう思った。

「日本が、オーストラリアのようになるためには、50年はかかる。
あるいは永遠に不可能かもしれない」と。

しかしその後の日本の経済的発展は、ものすごかった。
その後、20年を待たずして、経済的には、オーストラリアを追い抜いた。
生活のレベルもそれほどちがわないところまで、追いついた。

しかし(モノ)はそれでよいとしても、(心)は、そうでない。
今の今でも、金権教は、いたるところにはびこっている。
程度の差こそあれ、私もあなたも、みな、その信者といってもよい。

もちろん先にも書いたように、だからといって私は(マネー)を否定しているのではない。
お金で幸福は買えないが、しかしお金がなければ、みな、不幸になる。
問題は、その稼ぎ方と、使い方ということになる。
その視点を見失うと、結局は人生、……というより、「命」そのものを、棒に振ることになる。

【Mさんより、はやし浩司へ】

ありがとうございます。
何度も読み返しました。

先生のおっしゃることあたっております。
私は、不幸にして不幸な家庭で育ちました。
中学のときに進路を決める際、私は体育科の高校へ進学したかったのですが、
父親に猛反対を受け、また、大学進学の際にも猛反対を受け、
結局地元の短大へ進学することになりました。

小学校のころから運動が得意で、父親もほめてくれておりましたが、
進学先のことや、また、体育の先生になることは反対でした。
理由は、通学が遠かったこと、寮など、家を出ることを許さなかったこと、
体育の先生は長く続けられないと思ったこと、などだと思います。

それならほめてくれなければよかったと思います。
いまでは、スポーツとは一切関わりたくないと思っています。
そのことを考えるだけで、涙がでてきますし、いまだに父親にはそのことを
持ち出して喧嘩となります。一生反抗期です。
母も反抗期がなく過ごしたからこうなったと言っています。
いわゆるいい子だったのだと思います。

極論は、私は早く父親がいなくなればいいと思っております。
ただ、その時は怒りをぶつける相手がいなくなって放心状態になるのでしょうか?
言い方は悪いですが、被害者の家族が、加害者が死刑になってしまったあとは
どこへ怒りや悲しみをぶつければよいのかということです。
その方たちには失礼なことかもしれませんが、私もきっと苦しむと思います。

不幸な結婚かどうかはまだわかりません。

おねしょの件は、赤ちゃん返りとわかったのは、治ってからそう思えたことです。
姉の子供が5年生になっても人前でおもらしをしていたのを見て、おそろしくなりました。
それで、治療という形をとったのです。

本論に入りますが、ほめそだては一般論です。
私は、うちの息子はほめることができません。
ほめる内容がないのです。なんでもいいからと教育センターの方にも
いわれました。

私も息子から離れたいのです。仕事もフルタイムで働いていますし、
学校の役員をやったこともありますし、剣道の役員、当番なども引き受け
何かと忙しくしており、また、エステにいったりして気分転換をはかったり・・・。
また、妹もおりますので、ほかにやることはたくさんあります。
ただ、主人が遅い帰宅なので、夕食のために定時で帰らなければなりません。

これ以上はなにができますか?

私は自分と同じ目に遭わないでほしいのです。
少なくとも、やりたいことがあればなんでもさせてやりたい。
過保護はごもっともです。
でも、自分自身の今が本当につらい、自分の親や、主人に理解されない。

たまたま、私とおなじ境遇の人、友人の弟さん(行きたい大学に受験させてもらって合格までし
たのに、結局地元の大学に行かせられてしまった人)の話を聞きました。
その人は親と全く連絡を取らない、実家にも帰らないそうです。電話をして、母親がでたときだ
け少し話しをするようです。

そんなことで、私を理解してくれる人(女性)がいます。
それが、どうということではないのですが、先生にも理解できますか?
子供がやりたい道をみつけて、親もそのことをほめてくれたのに、
進学はだめ。そんなのってありますか?

私自身それを解決しないかぎり、学歴コンプレックス&仕方なく今の仕事をしている姿勢
=毎日の生活は変わらないと思います。
子供にも教えています。
先生になりたければ先生の資格をとらなければいけないし、
ピアノの先生になりたければ音楽大学。
今からお母さんは体育大に行っても体育の先生にはなれない。
採用がないから。と
ばかげた会話かしれませんが、親から世の中を教えてもらえなかった
子供は不幸です。

以上が現在の私です。
私は旅行も大好きでした。
今は、子供と家のローンで、旅行にも行けません。

趣味はと聞かれたら、子育てと答えるでしょう。
それがいけないといわれそうですが・・・(笑)

もう少しヒントをください。
ほめ育ては一般論です。

ほんとに感謝しています。このような私にアドバイスしていただけること
うれしいです。
でも、涙がでるほどです。
よろしくお願いいたします。

【はやし浩司より、Mさんへ】

たまたま今朝(7月12日)に書いた原稿を、下に添付します。
(まままま様)を意識したわけではありません。
ただ少し参考になるのではないかと思いましたので、添付します。

で、メールを読んで、第一声。
「あなたは幸福ですよ」です。

ただ不完全燃焼症候群というか、それが転じて、もろもろの不満、不平につながっていると考
えられます。
あなたは何も失っていない。
すべてがうまくいっている。
「不幸な家庭」といっても、あなたが経験したような家庭は、珍しくもなんともない。
ごくふつうの家庭です。

が、あなたにも夢があり、希望もあった。
能力もあった。
しかしそういうものが、(実は父親が原因ではなく)、あなたの意志の弱さによってくじかれてし
まった。
子どものころから、あなたは親の人形になることによって、自分の立場を築き上げてきた。
そういう自分に対する嫌悪感、憎悪感が、姿を変えて、父親への反抗となっているのです。

こういうケースも少なくありません。
あなたは自分ひとりだけが、不幸だと思っているかもしれませんが、「不幸」というのは、そんな
ものではありません。

「思うようにならなかった」というのは、不幸とは言いません。

で、もしあなたにその力と、やる気さえあるなら、あなたが感じている不幸など、あっという間に
吹き飛ばすことができます。
今からでも、なんら遅くはないのですから、自分のしたいことをすればよい。
子どもを愛せないなら、愛せないで、よいのです。
世の中の10%前後の母親は、みな、そうです。
「あなたはあなた」「私は私」と、割り切って子育てを考えればよいのです。
もちろん(やるべきこと)は、やる。
その「限度のをわきまえている親を」(バートランド・ラッセル)、むしろすばらしい親というので
す。

気負わないこと。

あなたはすべてをもっている。
家族も、夫も、子どもも、健康も、若さも……。
いったい、それ以上、あなたは何を望むのですか?

私も日々に、自分の体と脳みそをいたわりながら、まるで薄氷の上を恐る恐る歩くような人生
を歩んでいます。
生徒たちには、「ジジイ」と呼ばれ、夜な夜な思いをはべらすことは、去っていった息子たちのこ
とばかり。
朝起きたとき、あのころのあの子どもたちの姿が見え、歓声が聞こえたら、どんなにすばらしい
ことだろう……。
あなたはその最中にいるから、その価値にまだ気がついていない!

ぜいたくを言うんじゃ、ない!

あなたも、外の空気を思いっきり吸ってみなさい。
呼吸ができる。
目が見える。
音が聞こえる。
歩ける、走れる、踊れる……。
そのすばらしさを、まず体感しなさい。

あなたは今、こうしてここに生きている。
そのすばらしさを、まず体感しなさい。

そして思う存分、心を解き放つのです。
過去にずるずると、いつまでも引っ張られていたら、損ですよ。
今を原点に前に向かって進むのです。
何だってできるでしょう。

不平、不満があったら、こうした掲示板に、自分の気持ちをたたきつけたらいいのです。
読むくらいのことしかできませんが、私だけは、まちがいなく、読んであげます。
(ほとんどアクセスのない掲示板ですが……。)

同じ仕事でも、いやいやしていれば、その辛苦は、倍加します。
しかし前向きにしていれば、その辛苦は霧散します。
子育てもしかり。
親子関係もしかり。

いいですか、あなたの運命は、受け入れなさい。
それが重病であるとか、あなたが闘うことができないものであるなら、それはあきらめるしかあ
りませんが、どれも、あなたの「力」で何とかなるものばかりです。

繰り返します。
ぜいたくを言んじゃ、ない!

また不完全燃焼症候群については、多かれ少なかれ、家庭に閉じ込められた妻たちが、み
な、感じているもの。
暇があったら、『マジソン郡の橋』(ウォラー)でも、読んでみたらどうでしょう。
「かさぶたになったような人生」です。
映画でもいいですが、映画のほうは、ラブロマンスになりすぎています。

あなたのような若い方が、過去を引きずって、その鎖の中でもがいているのを知ると、かわい
そうというより、あわれでなりません。
あなたの夫は、そういうあなたに、気づいていますか。

これは自慢話ではありません。

私の嫁は、2人の子どもをかかえながら、日本で言う司法試験に合格し、今月から、インディア
ナ州立大学のロースクールに通っています。
息子は、グーグル社への入社をあきらめ、現在は、半主夫業をしています。
もっと自由にあなたの人生を組み立てることはできませんか。
夫の協力は不可欠ですが……。

あなたはすばらしい人ですよ。
文面から、それがよくわかります。
活動的で、家族思い。
知的能力も高く、好奇心も旺盛。
健康だし、家族をよくまとめている。
犠牲心も人一倍ある。

そういう自分を信じて、とにかく前に向かって進むしかない。
それが何であるかは、私にもわかりませんが、あなたには、あなたのすべきことがあるように
思います。
母ではなく、妻でもなく、女でもなく、1人の人間として、です。

まず心を解き放つこと。
過去と決別すること。
体は、あとからついてきます(アメリカの格言)。

がんばれ、声援します!

はやし浩司

【はやし浩司より、Mさんへ】(追伸)

ワイフに意見を求めました。
そのワイフが言うには、「Mさんは、がんばっているわ」でした。
学校のことも、家庭のことも、よくやっている、と。

私もそう思います。

不完全燃焼症候群について書いた原稿を添付します。
この問題は、ほとんどの母親に共通する問題かと思っています。


++++++++++++++++++++

子どもの自立

 ある母親(埼玉県U市在住のRYさん)から、こんなメールが届いた。 

「私には二人の子どもがおります。
一番上の娘が中学二年生、下の男の子が小学校の四年です。
とても優しい子ども達に恵まれ毎日幸せに暮らしています。
 
私は自分の子どもに、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を
自分で考えて歩いてゆける人間に育って欲しい と思っていますが
子どもの自立のために、何かよいアドバイスがあれば、いただけませんか。

いくら頭で考え、子どもの人生や価値観を尊重しようと思っても、
実際問題として、日本の社会は目立つものは排除する社会に思えます。
馬鹿な親ですが、自分の子どもには苦労をさせたくない、
社会に適応し、周りとうまくやって欲しい……と
おろかな望みを抱いてしまいます」

 この母親のメールを読んで、最初に感じたことは、「これは子どもの問題ではなく、母親自身
の問題」ということ。その母親自身はまだ気づいていないかもしれないが、母親自身が、自分
の住む世界で、窒息している。

 以前、こんな原稿(中日新聞経済済み)を書いた。

++++++++++++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親
 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。

結婚したのは二四歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃
に打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と
何となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋
 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群
 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。「女を買う」
と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩年の今氏
は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏の「生」へ
の執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の中で、い
つまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む
 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが
新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進
む。方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それで
また風は吹き始める。人生は動き始める。

++++++++++++++++++++++

【RYさんへ】

 それがよいことなのか、悪いことなのかは別にして、アメリカ人の生きザマを見ていると、実
に自由を謳歌しているのがわかります。それだけにきびしい世界を生きていることになります
が、そういうアメリカ人や、アメリカとくらべると、日本の社会は、まさに「ぬるま湯社会」というこ
とになります。

 この「ぬるま湯」の中で、人生の入り口で権利を得た人は、たいていそのままずっと、その権
利をなくすことなく保護されます。それがRYさんが、おっしゃる、「日本の社会は目立つものは
排除する社会に思えます」ということではないでしょうか。社会そのものが、見えない糸で、がん
じがらめになっています。

 たとえば私の友人のユキコさん(三一歳女性、日系人・アーカンソー州リトルロック在住)は、
今、アメリカで、老人福祉の仕事をしています。日本でいう公務員ですが、こう言っています。
「アメリカでは、公務員といっても、どんどん自分から進んで何かをしていかないと、クビになっ
てしまう。また自分で何かアイディアを出したり、新しいことをしたいというと、上司が、もっとや
れと励ましてくれる」と。

 本当は、ユキコさんは、もっと過激なことを言っていますが、日本の社会の現状とは、あまり
にもかけ離れているため、ここでは控えめにしました。ユキコさんは、「社会のしくみそのもの
が、そうなっている。日本のように、上から言われたことだけをしていれば、安心という考え方
は、通用しない」とも言っていました。

 こうした傾向はオーストラリアにもあって、私の友人の多くは、生涯において、何度も職種そ
のものを変えています。またそういうことをしても、不利にならないしくみそのものが、できあが
っています。あのヨーロッパでは、EU全体で、すでに大学の単位は共通化されていて、どこの
大学で学んでも、みな同じという状態になっています。

 世界は、どんどん先へ行っている。アメリカだけでも、学校へ行かないで、家庭で学習してい
る、いわゆるホームスクーラーと呼ばれる子どもは、現在、二〇〇万人を超えたと推計されて
います。もっと世界の人は、自分の人生を、子どもの人生を、自由に考えている。あるいは自
由という基本の上に置いている。日本人の悪口を言うのもつらいですが、この程度の自由を、
「自由」と思いこんでいる、日本人が、実際、かわいそうに見えます。

 RYさん、これはあなたの子どもの問題ではありません。あなた自身の問題です。あなたが魂
を解き放ち、心を解き放ちます。そしてあなた自身が、大空を飛びます。それはちょうど、森へ
やってくる、鳥の親子連れと同じです。子どもの取りは、親鳥の飛び方を見て、自分の飛び方
を覚えます。あなたが飛ばないで、どうして子どもが飛ぶことができるでしょうか。

 「自分の子どもには苦労をさせたくない。社会に適応し、周りとうまくやって欲しい」ですか
あ? しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのでしょうか。私は、一片の魅力も感
じません。しかたないので、そういう人生を、私も送っていますが、しかし心意気だけは、いつ
も、そうであってはいけないと思っています。RYさんが言う「社会」というのは、戦前は、「国」の
ことでした。「お国のため」が、「社会のため」になり、「お国で役立つ人間」が、「社会で役立つ
人間」になりました。今の中国では、「立派な国民づくり」が、中国の教育の合言葉になっていま
す。日本も、中国も、それほど違わないのではないでしょうか。

 今、行政改革、つまりは日本型官僚政治の改革は、ことごとく失敗しています。奈良時代の
昔からつづいた官僚制度ですから、そう簡単には変えることができません。それはわかります
が、この硬直した社会制度を変えないかぎり、日本人が、真の自由を手に入れることはないで
しょう。今も、子育てをしながら、RYさんのように悩んでいる人は多いはずです。小さな世界
で、こじんまりと、その日を何とか無事に過ごしている人には、それはわからないかもしれませ
んが、しかしこれからの日本人は、そんなバカではない。「しくまれた自由」(尾崎豊「卒業」)
に、みなが、気づき始めている……。

 これは子どもの問題ではないのです。RYさん、あなた自身の問題なのです。ですからあなた
も勇気を出して、一歩、足を前に踏みだしてみてください。何かできることがあるはずです。そし
てあなた自身をがんじがらめにしている糸を、一本でもよいから取りのぞいてみるのです。

 私は母ではない!
 私は妻ではない!
 私は女ではない!
 私は、一人の人間だア!、と。

 いいですか、RYさん、母として、妻として、女として、「私」を犠牲にしてはいけませんよ。自分
を偽ってはいけませんよ。あなたはあなたの生きザマを、自分で追求するのです。それが結局
は、あなた自身の子育て観を変え、あなたの子どもに影響を与えるのです。そしてそれが、
今、あなたが感じている問題を解決するのです。

 家庭は、それ自体は、憩いの場であり、心や体を休める場です。しかしそれを守る(?)女性
にとっては、兵役の兵舎そのもの※。自分の可能性や、夢や希望、そういうものをことごとく押
しつぶされ、家庭に閉じ込められる女性たちのストレスは、相当なものです。(もちろん、そうで
ない女性も、約二五%はいますが……。)仕事をもっている男性には、まだ自由は、あります
が、女性には、それがない。

 だから家庭に入った女性たちほど、自由を求める権利があるのです。その中の一人が、RY
さん、あなたということになります。

 私たちは、ともすれば、自分の隠された欲求不満に気づかず、そのはけ口を子どもに求めよ
うとします。子どもを代理にして、自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに果たさせようと
するわけです。しかしそんなことをしても、何ら解決しないばかりか、不完全燃焼の人生は、不
完全燃焼のまま終わってしまいます。

子どもにしても、それは負担になるだけ。あるいは子どもがあなたの期待に答えれば、それで
よし。しかしそうでなければ、(その可能性のほうが大きいのですが……)、かえってストレスが
たまるだけです。あるいはそれがわかるころになると、あなたも歳をとり、もうやり返しのできな
い状態になっているかもしれません。

 だから私は、「これはRYさん、あなた自身の問題だ」と言うのです。さあ、あなたも勇気を出し
て、その見本を、子どもに見せてやってください。

 「私は、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を自分で考えて歩いているのよ。あんたたち
も、私に見習いなさい!」とです。それは、とっても、気持ちのよい世界ですよ。約束します。
(030625)

※「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
(J・ハーマン)。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●7月12日(July 12, 2008)

愚劣な『ダカラ論』

●キャリアを中断する女性たち

大半の女性は、結婚と同時に、それまでのキャリアを失う。
ただし、失うことにみな、抵抗しているというわけではない。
公式の調査によっても、約30%弱の女性は、「それでよし」としている。
「家庭に入って、夫の帰りをまちながら、夕食の支度をする」と。

が、そうでない女性は、そうでない。
キャリアどころか、せっかく始めた仕事にしても、夫の転勤とともに、そこで中断される。
私が今まで出会った女性(母親)の中にも、こんな人がいた。

東京の玩具メーカーで、デザイナーをしていた人。
卓球の世界では、国体で優勝するほどの力をもっていた人。
自動車会社のモデルとして働いていた人。
大学院を出て、研究生活を始める一歩手前までいっていた人、などなど。

こうして多くの人材が、家庭という「監獄」(イギリスの格言)に入ることによって、失われていく。
が、それから受けるストレスには、相当なものがある。
ときに、その後の夫婦関係、親子関係をゆがめる原因になることもある。
「夫や家族のために犠牲になった」という思いが、ずっと心をふさぐ。

●子育てに幻想は禁物

一方、子育てに過大な期待をもつのは、正しくない。
正しくないことは、(親に育てられたことがある人)なら、だれにもわかるはず。
たとえば、この私にしても、親に育てられたことがある。
とくに私の母親は、ことあるごとに、私に向かって、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで
出してやった」と言った。
それこそ耳にタコができるほど、そういう言葉を聞かされて育った。

私の母親は、それだけ私に何かを期待していたのだろう。
それはわかる。
しかし私の親が願うほど、私が親に感謝しているかとなると、それはない。
むしろ事実は逆で、私はごく最近まで、その言葉に苦しめられた。
今でも、心ない人たちは、「それでも、お前の親だろ」とか、「どんな親でも、親はおやだ」と、私
を責める。

中には、森進一が歌う『♪おふくろさん』のようなすばらしい母親をもっている人もいるだろう。
しかしそういう母親は、少ない。
少なくとも私は、「♪世の傘になれよ」と子どもに諭した母親を知らない。

多くの母親たちは、(そして父たちも)、子育てに幻想をもっている。
「これだけのことをしてあげたのだから、私の子は、私に感謝しているはず」とか、「私と子ども
のとの間の絆は、絶対的」と。

しかしそれが幻想であることは、実は、ここにも書いたように、あなた自身が、いちばんよく知っ
ていること。

そこであのバートランド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベル文学賞受賞者)は、こう書き残し
ている。

『子どもを尊敬し、子どもから尊敬され、必要なことはするけれども、決して限度を超えないこと
を知っている両親のみが、真の家族の喜びを与えられる』と。

●ほどよい親に心がける

親は親としての義務がある。
その義務を果たすのは、それは当然である。
しかし子どものために、自分の人生(=命)まで犠牲にしてはいけない。
一見それは子どものためのように見えるかもしれないが、自分のために犠牲になっている親
の姿を見て喜ぶ子どもはいない。

私もあるとき、私の母親にこう思ったことがある。

「母さんは、母さんで、自分の人生を生きてほしい」と。

話はずっと具体的になるが、そのほうが子どものためにもよい。
子どもというのは、生き生きと前向きに生きている親を見ながら、成長する。
またそのほうが、子どもに安心感を与える。
さらに皮肉なことに、「親孝行なんか、考えなくていい」と言われて育った子どもほど、親思いの
子どもになる。

私も今のワイフと生活を始めるようになってから、収入の約半額を、実家に仕送りした。
それ自体は、無駄ではなかった。
そのたびに、それがつぎにがんばる、原動力となった。
が、金銭的な負担感よりも、精神的な負担感のほうが、大きかった。
毎月、毎年、(ときには、毎日が)、その負担感との闘いだった。
心理学でいうところの「幻惑」との闘いということになる。
(家族である)という重圧感には、相当なものがある。
私はいつしか、「いつになったら、この重圧感から解放されるのか」と思うようになった。

だから、親類に、「お前は親孝行な息子だ」とほめられたり、母に、「ワッチは、お前のような親
孝行の息子をもって幸せだ」と言われるたびに、実家を爆弾か何かで破壊したい衝動にから
れた。

ともかくも、家族は家族だが、過大な期待をもたないこと。
幻想は、さらにもたないこと。

●人間の刷り込み

あなたは子どもをもうけたかもしれないが、親子といっても、つきつめれば、他人の始まり。
親子と、ほかの人間関係のちがうところは、脳の奥深くまで、(刷り込み)がなされている点だ
けである。
最近の研究によれば、人間も、鳥類のように、(刷り込み)がなされることがわかってきている。
その(刷り込み)をもって、「親子の縁は特別」などと、思ってはいけない。

さらに言えば、こういう事実もある。

子どもについての話だが、子どもを愛している親は、多い。
しかし親を、愛の対象と考えている子どもはいない。
依存性はあるかもしれないが、それは愛とは、まったく異質のものである。
たとえとしては、あまりよくない話かもしれないが、私の調査によっても、祖父母が死んだとき、
涙をこぼした子どもは、ゼロだった。
(反対に、孫が不慮の事故か何かで死ねば、祖父母は狂ったように泣くだろうが……。)

最近、私の掲示板に、こう書いてきた女性もいる。
「あんな父親、早く死んでしまえばいい」と。

親絶対教の信者の人にすれば、とんでもない考えというこになるが、しかしそういう女性を、だ
れが、石もて、打てるだろうか?
言い換えると、親子であるがゆえに、一度その関係が破壊されると、他人以上の他人の関係
になる。

話がどんどんと脱線してしまった。
いつものことだが、これには理由がある。

私は今、この原稿を、私のミニ・パソコンを使って書いている。
そのため文字を大きくした分だけ、前後12行しかひ表示されない。
全体をながめながら、文章を書くということができない。
それで話が、どんどんと脱線してしまう。

●不完全燃焼症候群と闘うために

……ということで、家庭に入った母親の話にもどる。

今まではどうだったかは知らないが、これからは、女性が、家庭に入ってキャリアを失う時代で
はない。
またそうであってはいけない。
またそういう社会を目指さなければならない。

「女だから……」「妻だから……」「母親だから……」という、『ダカラ論』が、いかに愚劣なもので
あるか、これでわかってもらえたと思う。

それがなくならないかぎり、多くの母親たちが現在感じている、不完全燃焼症候群の問題は、
解決しない。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●言葉


最近、子どもたちの言葉が、ますます乱れているように感ずる。

数日前も、私にこう言った子ども(年中男児)がいた。

「先生、幼稚園で、プールあったア」と。

私「プールがあったの?」
子「あったア」
私「どこに?」
子「幼稚園」
私「幼稚園にプールがあったの?」
子「そう、あったア」

私「幼稚園には、ブランコはないの?」
子「ブランコはある」
私「じゃあ、プールもあるの?」
子「……?」と。

最近の子どもの言葉の特徴としては、(1)言葉の単語化、(2)直観化、(3)言葉の飛翔化など
がある。

この中で、「単語化」というのは、わかりやすく言えば、言葉になっていないこと。
「直観化」というのは、(丸い)(黄色い)(すっぱい)という言葉を並べて、(レモン)を意味するよ
うな言い方をいう。
つまり、語彙力が低下しているということ。
的確な言葉が使えない。
あるいは正確にものごとが表現できない、など。

「飛翔化」というのは、脈絡なく、使う言葉が、どんどんと飛躍していくことをいう。
話の内容が、話している先から、ポンポンと飛んでいってしまう。
以前、『(脳が)乱舞する子ども』というタイトルの原稿を書いた。
それが最近は、さらにひどくなってきた。

理由は、母親の言葉能力の低下があげられる。
「母親」でありながら、正しい言葉を適切に使える女性は、少ない。
幼稚園バスがやってきても、「ほら、ほら、バス、バス、バスよ」というような言い方を日常的にし
ている。
どうしてこういう言葉環境の中で、子どもの国語能力が育つというのか。

そういうときはめんどうでも、こう言う。
「ほら、向こうから、あなたの乗るバスがやってきました。あなたはあのバスに乗って幼稚園へ
行きます。わかりましたね」と。

それができないというのなら、将来、「どうしてうちの子は、(算数の)応用問題を読み間違える
のでしょう」などとは、悩まないこと。
それこそ、親の身勝手というもの。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの言葉能力 言語能力)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

●明日から月曜日

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

明日から月曜日。
フ〜〜〜ン?
やや気が重い。
来週は、忙しい。
それに今夜中に、今度の講演会のレジュメを作成しなければならない。
静岡県教職員組組合HN支部での講演会である。
学校の先生たちが集まってくれる。
それだけに緊張する。

それに懇談会もある。
今年度は、12人で、定員を締め切らせてもらった。
椅子が12席しかない。
それで12人。
今月に入ってから申し込んでくれた人には、申し訳ないことをした。
2回に分けて、24人……ということにしてもよかった。
しかしこのところ、体力の限界を強く感ずるようになった。

今の私には、2講座は、無理。
若いときは4講座もしたことがあるが……。

で、それが終われば、夏休みということで、7月の後半に、4日つづきの連休がある。
とくに予定はないが、そのうち1日は、伊吹山に登ってくるつもり。
中学2年生のとき登って以来のこと。
あのときは早朝、日の出を見ることができた。
メンバーの中に、淡い恋心をもった女の子もいた。
いっしょにみなで記念写真を撮った。
遠い遠い昔のできごとのようでもあり、つい先日のできごとのようでもある。

記憶というのはそういうもので、古い記憶も、新しい記憶も、ごちゃまぜになって、脳みその中
に入っている。
古いのから順に、層になっているわけではない。

よい例が、眠っているときに見る夢。
10年前に見た夢も、数日前見た夢も、夢は夢。
新しい、古いはない。
(夢日記といって、見た夢の内容を記録している人は別だが……。)

記憶が古いか新しいかは、その内容に応じて、脳みそが判断しているかにほかならない。
「中学2年のときの記憶だから、古い」
「40歳のときの記憶だから、新しい」と。

もしそれがなかったら、古い記憶とか、新しい記憶とか、区別できないはず。

ただ記憶といっても、(記銘)→(保持)→(想起)というプロセスを経て、脳みその中に残り、思
い出すことができる。
「思い出せないから」といって、記憶が消えたわけではない。
たとえばロンドン大学のメルツォフという教授は、7、8年前、「乳幼児にも記憶がある」という論
文を発表して、話題になったことがある。

「乳幼児にも記憶があるが、記憶として、想起できないだけ」と。

現象的に考えれば、当然のことである。
が、それをメルツォフは、科学的に証明した。

ということで、もう一度、あの日のことを思い出してみる。
よく覚えているのは、帰りは自由行動ということで、目的地まで、みな、走って山をくだったこと。
それほど急な坂ではなかったように思う。
あるいは私の身が軽かったのか?

あとは、あの山の近くを、電車や車で通るたびに、「あの山に登ったことがある」と、思ったこ
と。
そうそう山頂の山小屋で、仮眠をしたことも覚えている。
仮眠といっても、数時間のことではなかったか。
木造の粗末な山小屋で、多くの人で、ごったがえしていた。
みなでとった写真の中で、私は眠そうな顔をしているので、かなり眠ったのでは?
杖の上に頭を載せて、うつろな目つきでカメラのほうを見ている。

私にははじめての登山だった。
楽しかった。
今でも「伊吹山」と聞いただけで、あのときの(心)が、そのままよみがえってくる。
その伊吹山に、今度、登る。

楽しみ!


●付知峡(つけちきょう)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

7月x日、日曜日。
岐阜県の山奥、付知峡というところへ行ってきた。
「つけちきょう」と読む。
往復、約7キロ強の、ハイキング・コースである。
同じ7キロでも、山あり、谷あり、急な坂ありの、結構、たいへんなコースだった。
おまけに気温は、30度を軽く超えていた。
昨日は、このあたりでも、36度前後もあったという。

行きはよいよい、帰りは……、ということで、私とワイフは、
ヒーヒーとあえぎながら、最後の坂道を登って、目的地の不動滝というところまで戻ってきた。
が、そこは峡谷。
暑いといっても、木陰にすわると、森の冷気がさっと、体をいたわってくれる。

白い日差し。
森の緑。
そして青い空。

私「なんだか、ぼくたちの人生みたいだね」
ワ「何が?」
私「いつもこうして、ヒーヒー言いながら、生きてきた」

ワ「そうねエ……」と。

こうして月に1、2度は、地元のバス会社が企画する旅行会に参加するようになって、もう3、4
年になる。
今日は、「付知峡ハイキング」というのに、参加した。
旅行というよりは、体を鍛えるための(運動コース)。
料金も、1人、5000円弱と、安い。

私「今日、がんばったから、今月は何とか元気で、仕事ができるよね」
ワ「そうね。今月は、だいじょうぶね」
私「毎月、毎月、こうしてその月を生きていく……」
ワ「来月は、来月で、また何かをすればいい」
私「そうだね」と。

私たちにとって運動というのは、「貯金」のようなもの。
「楽しむ」というよりは、(もちろん、それもあるが……)、そこにはいつも、別の切実感がともな
う。
「今月はいいかもしれないが、来月はわからない」
「今年はいいかもしれないが、来年はわからない」と。

こうして付知峡へやってきたが、とくに来たくてやって来たわけではない。
だいたい私たちは、「付知峡」にしても、「ふちきょう」と読んでいた。
岐阜県の山奥にあるということは知っていたが、木曽川の上流だったということまでは、知らな
かった。
かい間見た表示板に、「下呂まで23キロ」とあったのを思い出した。

目的は、やはり運動だった。
よく、「成人病を予防するためには、週2回、30分程度の運動をするといい」という。
私は50歳を過ぎたら、それでは足りないと思っている。
が、同じように、こうも言える。

「成人病を予防するためには、月、1、2回、3〜4時間の運動をするといい」と。

今日が、その月、1、2回のうちの1回ということになる。

私「今月は、もう1回、どこへ行くことになっていたっけ?」
ワ「ほら、伊吹山(いぶきざん)に登ることになっているわ」
私「そうだったなあ」と。

ところで私はここ数年、こんなことに心がけている。
とくに仕事から帰ってきてから床につくまでの数時間のことだが、
できるだけワイフのそばにいてやること。
若いころは、そのまま書斎へ入って、夜遅くまで仕事をしていた。
が、それではよくない。
よくないということに、最近、気がついた。

私「ほら、E(三男)が、富士登山のとき、泣いていたというだろ」
ワ「ああ、あのことね」
私「あのときぼくは、背負ってでも、Eを、頂上まで連れていくべきだった」
ワ「だって、あれはEが、足が痛いから、もうこれ以上、歩けないと言ったからよ」
私「そうかもしれない。でも、それでも、ぼくはEに、『ここに残れ』と言い残して、自分たちだけで
登ってしまった」
ワ「……」
私「いつだったか、Eが富士登山をやりとげたとき、ハガキをくれただろ。『雪辱を果たしました』
と。あのとき、ぼくは、心底、あの日のことを悔やんだ。それが今の今も、心のトゲとなって、ぼ
くを苦しめる」と。

こうしてワイフと旅行ができるのも、あと数年かもしれない。
うまくいっても、10年だろう。
今日は無事に行ってきたから、来月も、たぶん、だいじょうぶだろう。
そう、私に見えるのは、そのあたりまで。
来年のことになると、自信がない。

だから……1日でも多く、1時間でも長く、ワイフのそばにいてやる。
ワイフにはかえってありがた迷惑かもしれないが、今、そんなことに心がけている。

……ところでこの原稿は、帰りのバスの中で書いている。
今度買った、ミニ・パソコンで書いている。
バッテリーのもちは、スペックよりも、やや短いかなという感じ。
2つのバッテリーで、計7時間近くもつということだが……?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 付知峡)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●ポケモン・カルト

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

今から10年ほど前、私は『ポケモン・カルト』(三一書房)という本を書いた。
異常な……ともいえるポケモン・ブームの中に、私は、カルト性を見た。
わかりやすく言えば、「凶人的な集団性」。

そのカルト性を追及したのが、『ポケモン・カルト』ということになる。

が、その直後から、ものすごい抗議の嵐。
電話による抗議はもちろんのこと、はがきや手紙によるものもあった。
出版元の三一書房にも、あった。

「子どもの夢をつぶすのか!」
「ゲームの楽しさを、お前は知らないのか!」と。

驚いたのは、抗議といっても、子どもたちからではない。20歳を過ぎたおとなたちからのもの
だったこと。
しかも私が書いたのは、ポケモンそのものではなく、ポケモン・ブームの中に見られるカルト性
についてである。
当時、いくつかのカルト教団による、反社会的行動が問題になり始めていた。
大学の理学部を出たような人が、「地獄」とか「天国」とかいう言葉を、平気で口にしていた。

子どもたちの世界にも、明らかに異変が起きていた。
私が「ピカチューのどこがかわいいの?」と一言、口にしただけで、教室中がパニック状態にな
ってしまったのを覚えている。

が、それから10年。

今の今も、ポケモン・カルトで、私を攻撃している人は、あとを絶たない。
ためしに、グーグルの検索機能を使って、「はやし浩司 ポケモン」で検索してみるとよい。

「トンデモ本」「こじつけ本」などなど。
本そのものを、頭から否定する文言が並ぶ。

最初のころは私も頭にカチンときたが、そういうふうに書いている人たちが、その程度の人た
ちであることを知って、そのうち相手にしなくなった。

で、さらにおかしなことだが、……というより私が書いたことを自ら証明するようなできごとが、
それからもつづいた。
最近でも、『ゲーム脳』という言葉を使った研究者がいた。
その研究者のところにも、連日連夜、抗議の嵐が襲ったという。

どうしてこの日本では、ゲームを批判すると、嵐のような抗議を受けるのか?

一方、しばらくすると、今度は、「ゲーム脳というのはありません」と主張する研究者が現れた。
その研究者は、現在、ゲーマーの間では、神様的存在になっている。

ゲームのもつ危険性は、すでに世界では常識。
フランスなどでも、規制の動きが出てきた。
が、この日本では、野放し。
野放しであるばかりか、ゲームを批判しただけで、袋叩きにあう。
そこには一片の知性も理性もない。
感情論だけ。
これをカルトと呼ばずして、何という。

……ということで、私は改めて、ここでポケモン・カルトについて考えてみたい。
また本書は、近く、全文、私のHPに収録するつもりでいる。
つまりこの原稿は、ポケモンというよりは、カルト教団への挑戦状ということになる。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

●進むカルト化

誤解があってはいけないので、明確にしておきたい。
「占星術」「スピリチャル」というのは、立派なカルトである。
その前駆的段階の「占い」「まじない」「迷信」も、立派なカルトである。

それらが集合化され、組織化されたのが、「カルト教団」ということになる。

それがどんな信仰であれ、信仰の範囲にとどまっているなら、問題はない。
信仰の自由は、日本国憲法によっても、保障されている。
「何人も、その自由を奪うことはできない」。

が、その宗教が宗教のワクを超えて、反社会性を帯びたとき、あるいは政治の世界に介入し
てきたとき、それが問題となる。
(アメリカでは、宗教団体による収益活動まで、きびしく制限されている。)

カルト教団の信者たちは、まさにノーブレイン(脳みそなし)の状態になる。
教団幹部のロボットとなって、思うがまま操られるようになる。
その危険性は、あのオウムS教に、例を見るまでもない。
というのも、この段階になると、カルト教団の信者たちは、「私たちはぜったい正しい」と思う、そ
の返す刀で、「あなたがたはまちがっている」と切り込んでくる。
あるいは自分たちの属する宗教団体以外の人たちを、否定する。

で、それから10年。
その間に、日本人は、より賢くなったのだろうか。
一連のカルト教団が起こした事件を見ながら、何かを学んだのだろうか。

答は、ノー。
最近の占星術ブームも、そのひとつ。
あのS・ホーキング博士も、占星術の無意味性を指摘している(「ホーキング、未来を語る」・ソ
フトバンク)。

考えてみれば当然のことで、星座といっても、地球から見た星の位置にすぎない。
宇宙船か何かで、数万光年も先に行けば、星座も地球で見るのとまったく異なったものにな
る。
あるいは複雑な動きを見せる、水星や金星、火星や木星にしても、太陽の周辺を回る惑星で
あるから、そう見えるにすぎない。

そういう星座や惑星の動きを見ながら、個々の、あるいは全体でもよいが、運命がどうのこう
のということ自体、ばかげている。
が、「ばかげている」だけでは、すまない。

天の運行と人の運命が連動しているというのは、まったく根拠のない迷信である。
原始の時代には、それなりの説得力もあったかもしれない。
事実、あのイスラム教は、占星術とは切っても切れない関係にある。

そういう占星術をぶらさげて、(ほんとうはどこまで勉強したかは、あやしいものだが……)、ど
こかのオバチャンが、こう言うから、たまらない。

「あなたの背中には、蛇がついている。毎朝、シャワーで、10回ずつ、タオルでこすりなさい」
と。

つまりこういうカルト、もしくはカルトの宣伝まがいのことを、テレビという天下の公器を使って、
堂々と全国に垂れ流す。
その異常さ。
私たちは、まず、それを知らなければならない。
ついで、こうした愚劣な番組が、子どもたちに、どのような影響を与えるか、それを考えなけれ
ばならない。

そのひとつが、10年ほど前の、ポケモン・ブームであり、現在のスピリチュアル・ブームというこ
とになる。
さらにさらに驚いたことに、最近では、「スピリチュアル・育児法」(仮称)という本まで現れた。

スピリチュアル・育児法だと?

またそういう本のほうが、何10万部も売れたりする。(これは私のひがみか?)
科学性の否定というよりは、理性の否定といってもよい。

わかりやすく言えば、日本人全体が、ますます考えない国民になってきているということ。
先にも書いたように、「ノーブレイン」の状態になってきているということ。

「ノーブレイン」というのは、英語の言い方である。
「ばか」とか「あほ」という意味ではない。
「何も考えない、ノー天気な」という意味である。

が、それはそのまま恐ろしい未来を暗示する。
戦時中の日本が、そうだった。
現在の北朝鮮も、そうではないか。
……こう書くと、「私たちはちがう」と思うかもしれない。
しかし本当にそうか?
そう言いきれるのか?

たとえば最近の子どもたちは、情報量だけはやたらと多い。
もの知りで、反応も速い。
しかし論理性、分析性となると、10年単位で、低下している(?)。
とくに政治の話になると、話しかけただけで、「ダサイ!」と言って、それをはねのけてしまう。
地球温暖化(地球火星化)の問題にしても、(おとなたちもそうだが……)、いくら問いかけて
も、会話そのものが、かみあわない。
まるで他人ごとのような反応しか返ってこない。
あるいは政治は政治家がするもの、地球温暖化の問題は科学者が考えるものと、どこかで割
り切ってしまっている。

話を戻す。

カルトがカルトとして危険性を帯びるのは、先にも書いたように、信者がノーブレインの状態に
なって、ロボット化すること。
政治の世界にも大きな影響力を及ぼすことにもなりかねない。
そうなると、民主主義など、そのままどこかへ吹き飛んでしまう。
言い換えると、民主主義を守ろうとするなら、同時に私たちがもつカルト性と、心のどこかで闘
わねばならない。

これは健康論に似ている。

私たちが健康を保とうとするなら、病気の予防と治療に心がけることは当然のことだが、同時
に、体の抵抗力も高める。
その両者がかみあってはじめて、私たちは、それなりの健康を維持することができる。

私は『ポケモン・カルト』の中で書きたかったことは、(ポケモン)の攻撃ではない。
(ポケモン)といっても、ただのゲーム。
そんなものを本気で相手にしても、しかたない。
そのゲームが、テレビ、雑誌、ゲームの3方向から、子どもたちを包んだ。
当時は、「マルチ・メディアによる成功例(?)」として、もてはやされた。

その結果、子どもたちは、町でも学校でも、そして家の中でも、ピカチューのあの黄色い色を見
ただけで、興奮状態になってしまった。

お茶漬けにしても、菓子にしても、ピカチューの絵を載せただけで、売り上げが、倍増したとい
う。
詳しくは、『ポケモン・カルト』に書いた。

子どもたちは、まさにポケモンによって、洗脳されたことになる。
つまりここに、私はポケモン・ブームの恐ろしさを見た。
そしてそれがその本の主題になった。

本を読みもしないで、表面的な批評に踊らされて、「とんでも本」とか、「こじつけ本」と批評する
のは、その人たちの勝手。
しかし私はそういう趣旨で、あの本を書いたのではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ポケモン・カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●八つ当たり

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

今朝、こんなことがあった。

いつものようにパソコンを立ち上げ、メールを読んで、
ニュースに目を通す。
今朝はついでに、みなが私のことをどう批判しているか、
「はやし浩司」を検索してみた。

その中に、私が書いた『ポケモン・カルト』があった。
「とんでも本」とか、「こじつけ本」とかいう文言が
読めた。

とたん私の心の中に、ムラムラと闘志がわいてきた。
サッカーでいうなら、相手チームから、攻撃を受けたような状態である。
が、それはすぐに中断された。
階下からワイフが、朝食の用意ができたと私を呼んだ。

が、そのあとのこと。
テーブルについて新聞を読んでいるとき、どこか自分がイライラしているのを知った。
「拉致問題は棚上げ」
「日本は、6か国協議で、置いてきぼり」
「アメリカが、3か国(日本を除く)による検証活動を提案」と。

つまりインターネットで検索したとき感じたムラムラ感が、そのまま新聞記事を読んでいるとき
も、わいてきた。

それもそのはず。

脳みそというのは、それほど器用にはできていない。
場所が変わったからとか、あるいたテーマが変わったからといって、脳みその中身まで、変化
するわけではない。
もう少し正確には、アドレナリン(興奮)にせよ、サイトカイン(ストレス※)にせよ、はたまたドー
パミン(快楽)にせよ、一度脳内の充満した脳間伝達物質は、すぐには消えない。

興奮性は、そのままつづく。
イライラも、そのままつづく。
ほんわかした気持ちも、そのままつづく。

そういう状態を、子どもたちは、「モード」という言葉を使って説明する。
「先生、ぼくは今、戦闘モードになっている」とか、「睡眠モードになっている」とか言う。
ゲームに、そういう言い方があるらしい。

似たような経験は、私もする。
たとえばザルソバが食べたくなって、ワイフと出かけたとする。
が、いつも行きつけの店が休みだったとする。
そういうとき、「では、ほかのものにしよう」とだれしも考えるかもしれないが、そうは簡単ではな
い。
胃袋(=食性)そのものが、「ザルソバ・モード」になってしまっている。
簡単に切り替えることができない。
そこで私とワイフは、別のソバ店を求めて、車を走らせる……。

ということで、それぞれの状況に応じてモードがあるのは、しかたないとしても、そのモードに振
り回されてはいけない。
インターネットを見てイライラしたとしても、そのイライラを、ワイフや子どもにぶつけてはいけな
い。
頭の切り替えをしなければいけない。

その切り替えをするのが、脳の前頭部(前頭前野)ということになる。
いわば「理性のコントロール・センター」ということになる。
このセンターの機能がすぐれている人を、「人格の完成度の高い人」という。
EQ論(人格指数論)でも、それを基準にして、その人の人格の完成度を計る。

が、それには、どうしたらよいのか。
とくに私のように、人格の完成度が低い人間は、どうすればよいのか。

……というような話を、朝食を食べながら、ワイフとした。

私「理性によるコントロールを高めるためには、どうすればいいのかねえ」
ワ「……?」
私「ぼくのばあいはね、意外と簡単な方法でできるよ」
ワ「……?」
私「ぼくのばあいはね、目を閉じて、口を閉じれば、それでいい」と。

そう、目を閉じて、口を閉じればよい。
しばらくすると、脳の中では、フィードバック現象というのがおきる。それぞれのホルモンを中和
し始める。
そうなると、子どもたちがいうところの(モード)状態が、解除される。

ということで、新しい考え方をゲット!

人格の完成度を高めるためには、そのときどきに、目を閉じ、口を閉じる。
それでよい。

それをワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

「ナーンダ、そんなことでいいの?」と。
そう、そんなことでよい。
あとは脳みそが、勝手に処理してくれる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人格の完成度)

(注※)
サイトカインについて

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、どん
なにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶものは、その(わず
らわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人間が、
原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何
かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。

そのため副腎機能の更新ばかりではなく、「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低
体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井康允氏)が引き起こされるという。その反応は「うつ
病患者のそれに似ている」(同)とも言われている。

そこで人間は、自分の心を調整するため、(1)攻撃、(2)防衛のほか、つぎの3つの心理的反
応を示す。(3)同情(弱々しい自分をことさら強調して、同情を求めようとする)、(4)依存(ベタ
ベタと甘えたり、幼児ぽくして、相手の関心をひく)、(5)服従(集団の長などに、徹底的に服従
することで、居心地のよい世界をつくる)、ほか。。

(1)攻撃というのは、自分の周囲に攻撃的に接することにより、居心地のよい世界をつくろうと
するもの。具体的には、つっぱる子どもが、それに当たる。「ウッセー、テメエ、この野郎!」と、
相手に恐怖心をもたせたりする。(自虐的に、自分を攻撃するタイプもある。たとえば運動を猛
練習したり、ガリ勉になったりする。)

(2)防衛というのは、自分の周囲にカラをつくり、その中に閉じこもることをいう。がんこになっ
たり、さらには、行動が自閉的になったりする。症状がひどくなると、他人との接触を避けるよう
になったり、引きこもったり(回避性障害)、家庭内暴力に発展することもある。

大切なことは、こうした心の変化を、できるだけその前兆段階でとらえ、適切に対処するという
こと。無理をすれば、「まだ、前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、症状は、一気に
悪化する。症状としては、心身症がある。

こうした心身症による症状がみられたら、家庭は、心をいやす場所と考えて、(1)暖かい無視
と、(2)「求めてきたときが与え時」と考えて対処する。「暖かい無視」という言葉は、自然動物
愛護団体の人が使っている言葉だが、子どもの側から見て、「監視されていない」という状態を
いう。

また「求めてきたときが与え時」というのは、子どもが自分の心をいやすために、何か親に向か
って求めてきたら、それにはていねいに答えてあげることをいう。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2721)

●興味ある事実

++++++++++++++

脳の中で、麻薬反応!
はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、
自分の子どもの笑顔を見たとき、
麻薬を服用したときと似たような
反応が起きるという。

++++++++++++++

時事通信、2008年7月13日は、つぎのように伝える。

『はじめて赤ちゃんを産んだ母親が、わが子の笑顔を見たときには、麻薬を服用した際と似た
ような脳の領域が活発に働き、自然に高揚した状態になるとの実験結果を、アメリカ・ベイラー
医科大の研究チームが、13日までにアメリカ小児科学会誌の電子版に発表した。母親の子
への愛情を脳科学で分析すれば、育児放棄や虐待の背景にあるかもしれない病理の解明に
役立つと期待される』と。

これに関して、以前、こんな原稿を書いたのを思い出した。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものオナニー(自慰)

 受験をひかえた受験生が、毎晩(毎日)、オナニーにふけることは、珍しくない。

 財団法人、「日本性教育協会」の調査(1999年)によれば、

 マスターベーションの経験者  中学生……41・6%
                高校生……86・1%
                大学生……94・2%(以上、男子)

                中学生…… 7・7%
                高校生……19・5%
                大学生……40・1%(以上、女子)

 ということだそうだ。この割合は、近年増加傾向にあるが、とくに若年化が進んでいることが
知られている。

 たとえば男子中学生のばあい、マスターベーション経験者は、87年には、30・3%だったの
が、99年には、41・6%に増加している。性交経験者も、男子高校生だけをみても、11・5%
(87年)から、26・5%(99年)へと、増加している。

 そのオナニー(自慰、マスターベーション、手淫などとも呼ばれている)について、ある母親か
ら、相談があった。「中学3年生になる息子が、受験をひかえ、オナニーばかりしているようだ
が……」と。

 オナニーをすると、脳内で、麻薬様物質が放出されることがわかっている。現在、数10種類
ほど、発見されているが、大きく分けて、エンドロフィン系と、エンケファリン系に大別される。

 わかりやすく言えば、性的刺激を加えると、脳内で、勝手にモルヒネ様の物質がつくられ、そ
れが陶酔感を引き起こすということ。この陶酔感が、ときには、痛みをやわらげたり、精神の緊
張感をほぐしたりする。

 問題は、それが麻薬様の物質であること。習慣性があるか、ないかということになる。

 モルヒネには、習慣性があることが知られている。しかしエンドロフィンにしても、エンケファリ
ンにしても、それらは体内でつくられる物質である。そのため習慣性はないと考えられていた。
が、動物実験などでは、その習慣性が認められている。つまり、オナニーも繰りかえすと、「中
毒」になることもあるということ。

 その相談のあった中学生も、受験というプレッシャーから、緊張感を解放するため、オナニー
にふけっているものと思われる。そして相談のメールによれば、中毒化(?)しているということ
になる。

 オナニーの害については、「ない」というのが、一般的な意見だが、過度にそれにふけること
により、ここでいう中毒性が生まれることは、当然、考えられる。

 男子のばあいは、手淫(しゅいん)ということからもわかるように、好みの女性の裸体を思い
浮かべたり、写真やビデオをみながら、手でペニスを刺激して、快感を覚える。

 女子のばあいは、好みの男性に抱きつかれる様子を想像しながら、乳首や、クリトリス、膣を
刺激しながら、快感を覚える。

 男子のばあい、中に、肛門のほうから前立腺を刺激して、快感を得る子どももいる。

 さらに病的になると、依存症に似た症状を示すこともある。中学生や、高校生については、知
らないが、セックス依存症のおとな(とくに女性に多い)は、珍しくない。「セックスしているときだ
け、自分でいられる」と言った女性がいた。

 しかしこうした、エンドロフィンにしても、エンケファリンにしても、オナニーだけによってつくら
れるものではない。

 スポーツをしたり、音楽を聞いたりすることでも、脳内でつくられることが知られている。善行
を行うと、脳の辺縁系にある扁桃体でも、つくられるこも知られている。スポーツをした人や、ボ
ランティア活動をした人が、そのあと、よく「ああ、気持ちよかった」と言うのは、そのためであ
る。つまり、同じ快感を得る方法は、ほかにもあるということ。

 私のばあいも、夜中に、自転車で、30分〜1時間走ってきたあとなど、心地よい汗とともに、
気分がそう快になる。さらに翌朝、目をさましてみると、体中のこまかい細胞が、それぞれザワ
ザワと、活動しているのを感ずることもある。

 こうした方向に、子どもを指導しながら誘導するという方法もないわけではない。しかし中学
生ともなると、親の指導にも、限界がある。私の意見としては、子どもに任すしかないのではな
いかということ。

 こと、「性」にまつわる問題だけは、この時期になると、もう、どうしようもない。子ども自身がも
つ自己管理能力を信ずるしかない。現在の私やあなたがそうであるように、子どももまた、この
問題だけは、だれかに干渉されることを好まないだろう。
(はやし浩司 マスターベーション 自慰 オナニー 子どもの自慰 子供の自慰)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

もう一作、添付します。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●やる気

+++++++++++++++++++

このところ、忙しい。
そのせいか、疲労気味。
こうしてパソコの前に座っても、
ものを書く気があまり起きない。

気力の減退。
それについて、記録する。

+++++++++++++++++++

 東洋医学(漢方)では、体力と気力は、同一源のものとして考える。天の気(呼吸)と、地の気
(飲食物)が、合体して、人精となる。

 この人精(じんせい)が、エネルギーの根源というわけである。「精」は、「精力の精」「精神の
精」と考えると、わかりやすい。少し前まで、何かのことでがんばっている人を見かけると、「精
が出ますねえ」と、声をかけたりした。(最近は、この言い方を、あまり耳にしないが……。)

 だから体力や気力が落ちてきたときは、第一義的には、おいしいものを食べて、適度な運動
を繰りかえすのがよいということになる。

 が、やる気は、それだけで起きてくるというものではない。伊藤氏の「思考システム」によれ
ば、思考は大脳新皮質部の「新・新皮質」というところでなされるが、それには、帯状回(動機
づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという(伊藤正男)。

 さらに最近の研究によれば、脳内のカテコールアミンと呼ばれるホルモンが、やる気に大きく
関係していることもわかった(澤口俊之「したたかな脳」)。その中のノルアドレナリンは、集中
力、ドーパミンは、思考力に関係しているという(同書)。

 つまりこうした作用が総合的に機能して、やる気が決まるということらしい。

 で、私の今の状態は、どうか?

 何を考えても、「どうでもいいや」という思いが、先に立ってしまう。めんどうというより、むなし
さが先に立ってしまう。ラマンチャの男(ドンキホーテ)が、風車を相手に、ひとりで戦っているよ
うなもの。所詮(しょせん)、相手は、風車!

 実際、「あなたの書いていることは、学問的には一片の価値もない」と言ってきた、大学の教
授がいた。(この話は、本当だぞ!)。「田舎のおばちゃんたちを相手に、講演をして、どういう
意味があるのか」とも。(この話も、本当だぞ!)

 そのときは、怒り、心頭に達したが、今になって思うと、「そのとおりだな」と納得する。私のし
ていることは、どうせ、その程度。

 そういう思いが、私から、どんどんとやる気を奪っていく。

 だから、やる気がないのではなく、書く気がわいてこないということになる。そのほかの面で
は、やる気はある。気力はある。

 今朝も、犬のハナの体を、シャップーで洗ってやった。午後に客人がくるので、居間の掃除も
した。腕につけるブレスレットの修理をした。言うなれば、書くのを、後まわしにしただけ。しかし
こうしてパソコンに向かって座っていると、「ああ、これが私の時間だ」という思いは、強くもつ。
それにおかしなことだが、こうしてサクサクと動くパソコンを相手にしていると、気持ちよい。

 ……ということで、昼まで、まだ3時間弱もある。今日から、マガジンの6月号の原稿を書くこ
とにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気 気力 帯状回 カテコールアミン 動機づけ)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最近の大脳生理学の進歩には、めざましいものがある。
ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)とか、ファンクショナルMRI(機能的磁気共鳴映像)いう、
脳の活性度を映像化する装置を使うと、脳の働きが、リアルタイムで観察できるという。

今回の、アメリカ・ベイラー医科大の研究チームによる発見も、そうした機器を用いてわかった
ものだろう。

それにしても、すごいことがわかるようになってきたものだ。
わかりやすく言えば、「心」の状態が、科学的かつ計数的に把握できるようになった。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 赤ちゃんの笑顔 母親の反応 
脳科学)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2722)

●うちの子、自閉症?(Autistic Disorder)

+++++++++++++++

「うちの子は自閉症ではないか?」という
相談が届いた。

私の立場では、資料を提供することしか
できない。

最終的な判断は、専門医に診断してもらう
しかない。

+++++++++++++++

 自閉症の最大の特徴は、スムーズな人間関係が、結べないこと。「机をはさんで、向かいあ
った人に、ささやき声で話すかと思えば、ぎょっとするほど、近くに寄って、突然、大声で質問し
たりする。人が指でさしたもののほうには、目をやらず、その人の指先を見つめる」(京都大
学・十一教授指摘)と。

 十一教授は、「基本的な、人間関係という、本能というべき部分に、問題がある」と述べてい
る。さらに最近の研究では、脳の中の、扁桃体(へんとうたい)に問題があるということまで、わ
かってきている。つまり脳の機能障害説が有力になってきている。

 滋賀県のHさん(母親)より、「うちの子は、自閉症ではないか」という相談をもらった。

 いろいろ症状が書かれていたが、心配なら、一度、専門の機関に相談してみるとよい。つぎ
のような機関がある。

 日本自閉症協会……電話(03―3232−6355)
 
 ホームページも用意されている。

 http://www.autism.or.jp/images/index1.jpg

++++++++++++++++++++++++

自閉症の診断基準について……
(日本自閉症協会・案内パンフより、転載)

●自閉性障害 (Autistic Disorder)

A.(1),(2),(3)から合計6つ(またはそれ以上)、うち少なくとも(1)から2つ、(2)と(3)から1つずつの
項目を含む。

(1)対人的相互反応における質的な障害で、以下の少なくとも2つによって明らかになる:

(a)目とめで見つめ合う、顔の表情、体の姿勢、身振りなど、対人的相互反応を調節する多彩
な非言語性行動の使用の著明な障害。
(b)発達の水準に相応した仲間関係をつくることの失敗。
(c)楽しみ、興味、成し遂げたものを他人と共有すること(例:興味のあるものをみせる,もって
来る、指さす)を自発的に求めることの欠如。
(d)対人的または情緒的相互性の欠如。

(2)以下のうち少なくとも1つによって示される意志伝達の質的な障害:

(a)話し言葉の遅れまたは完全な欠如(身振りや物まねのような、代わりの意志伝達の仕方に
より補おうという努力を伴わない)。
(b)十分会話のある者では、他人と会話を開始し継続する能力の著明な障害。
(c)常同的で反復的な言葉の使用または独特な言語。
(d)発達水準に相応した、変化に富んだ自発的なごっこ遊びや、社会性を持った物まね遊びの
欠如。

(3)行動、興味および活動が限定され、反復的で常同的な様式で、以下の少なくとも1つによっ
て明らかになる:

(a)強度または対象において異常なほど、常同的で限定された型の、1つまたはいくつかの興
味だけに熱中すること。
(b)特定の、機能的でない習慣や儀式にかたくなにこだわるのが明らかである。
(c)常同的で反復的な衒奇的運動(例えば、手や指をぱたぱたさせたり、ねじ曲げる、または複
雑な全身の動き)
(d)物体の一部に持続的に熱中する。

B.3歳以前に始まる、以下の領域の少なくとも1つにおける機能の遅れまたは異常:
(1)対人的相互作用、(2)対人的意志伝達に用いられる言語、または(3)象徴的または想像的遊
び。

C.この障害はレット障害または小児期崩壊性障害ではうまく説明されない。
(DSM−IV 精神疾患の分類と診断の手引より)
(はやし浩司 自閉症 診断基準 DSM―IV)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2723)

●7月14日(月曜日)(Juky 14, 2008)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

今日は、焚き火で1日が始まった。
庭の枯れ木が気になっていた。
が、このところの雨続き。
風がないのを見はからって、「焚き火をするよ」と、ワイフに声をかけて、庭に出る。

やがて枯れ木は勢いよく燃え始めた。
が、湿った葉っぱの下を見て、ビックリ。
体長が12〜15センチもあろうかと思われるミミズが、何十匹もいるではないか。
生まれたばかりの小さなミミズもいた。
子どものころは、それを餌にして、よく川へ釣りにでかけたものだ。

そんなことを考えながら、ミミズたちは、そのまま畑へ移動。
湿った葉っぱも、そのまま畑へ。
どうせ荒れ放題の畑。

そうそう肥料がよいのか、先日、60センチほどもある、大きなキュウリが収穫できた。
お化けのようなキュウリだった。
「どうやって食べるの?」と聞くと、ワイフは、「漬物にするしかないわね」と。

夏、まっさかり!
こういう朝は、吉田卓郎の『♪夏休み』の曲が、よく似合う。
暑中、お見舞い申し上げます。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

●迷信

どんな不幸がつづいたのかは知らないが、最近、自分の名前を変えてしまった人がいる。
家族ともども、みなだ。
同じ宗教団体に属していた知人(女性)がいた。
高校の同窓生だったが、彼女もまた、家族ともども、みな、名前を変えてしまった。

どうやらその宗教では、そうするらしい。
名前からして、どこか日本的ではない。
外国名の当て字のような感じがする。
(詳しい内容は、知らないが……。)

名前を改名したくらいで、不幸が去るわけではない。
そもそも「不幸」とは何か?

たぶん、私が想像するところ、こういうことではないか。

その知人は、その宗教団体の熱心な信者だった。
が、その宗教団体にはあってはならない(?)不幸が、つづいた。
そこで何らかの原因さがしが始まったらしい。

「どうして?」「どうして?」と。

そこで「名前が悪い」ということになった(?)。
追い詰められた幹部が、最終的に、身も心も、そして金も出せ。
ついでに名前も変えろと、迫ったのだろう(?)。
「あなたに不幸がつづいたのは、信仰が足りなかったからだ」と。

迷信というのはそういうもの。
それにハマると、知性も理性も失う。
失いながら、それが正しい、あるべき道と思い込んでしまう。
そして信者たちは、ますます、その信仰にのめりこんでいく。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

●HP 2133

リカバリーディスクが作成できない!
どうにもこうにも、できない。
HP付録のマニュアルどおりに、何回試しても、やっぱりできない!

こうして土日の、何時間が無駄になってしまった。
そう、私には、トラウマがある。
こういう状態になると、軽いパニック状態になってしまう。
以前は、徹夜でデータの回復などを試みた。
冷や汗をタラタラと流しながら……。

それがトラウマになった。

だから今でも、こういう状態になると、ヒヤヒヤする。
(それを楽しんでいる面も、ないわけではないが……。)

で、月曜日の朝、一番に、HP社に電話をした。
電話口の若い男性は、こう言った。

「2133では、リカバリーディスクはできないことになっています。
マニュアルの操作方法は、誤記です。
当社のHPのほうには、訂正記事を載せてあります」と。

ナーンダ、ということで、この話はおしまい。
HP社では、リカバリーディスクは、必要に応じて、実費で販売しているとか。
またそのときになったら、購入すればよい。

しかし「誤記」とは!
私はその誤記で、何時間も、時間を無駄にしてしまった!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●金xxの口臭

+++++++++++++

ときどき、子どもたち(幼児)が、
私に、こう言う。
「先生の口、臭い!」と。

私は子どものころから、歯が
弱い。
加えて、慢性的な歯肉炎で
悩んでいる。

行きつけの歯科医院へ行くたびに、
いまだに、歯の磨き方を教えられる。

数日前も、そうだった。
「どこも悪くありません。歯の磨き方です」と。

若い看護士の人が、ていねいに磨き方を教えてくれた。
それを習いながら、ふと、こんなことを思った。

あのK国の金xxに口臭があったとしたら、だれが、それを教えるか、と。
(拉致問題に抗議の念をこめて、「金xx」と呼んでいる。)

「将軍、あなたの口は臭いです」と言ったとたん、収容所送り。
あるいは公開処刑。

あとでワイフにそのことを話すと、「奥さんじゃあ、な〜い?」と。

私「奥さんでも、ビクビクしていると思うよ」
ワ「そうねえ……」
私「みんな神様の臭いと思って、がまんしているのではないかな?」
ワ「じゃあ、歯医者さんかしら?」
私「とんでもない。ぼくにだって、歯医者さんは、言わないよ」
ワ「そうねえ……。やっぱり、孫とか、子どもじゃない?」
私「孫はいたっけ? 子どもでも、あの国では処刑だよ、たぶん」
ワ「恐ろしい国ね」
私「ホント!」と。

子どもは正直。
『裸の王様』という物語も、ある。
私はいつも、子どもたちには、丸裸にされる。
そのたびに、歯科医院へ向かう。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●母親と床につく中学生(A High School Boy who sleeps with his Mother)
A boy (age 14) has been sleeping with his mother every night in the same bed. His mother 
seems to have a kind of mental disorder.

+++++++++++++++++

R氏の長男(中学2年生)は、
今でも、母親と毎晩、抱き合うように
して寝ているという。

+++++++++++++++++

R氏(父親、45歳)からの相談。
相談というより、グチ?
現在、「妻とは、形だけの夫婦」とか。
息子(中2)と娘(小5)がいる。
が、「子どもたちは、今でも、妻といっしょに、
『川』の字になって寝ている』とのこと。

同じフトンの中で、だ。

R氏は、夕方からの仕事(=運送会社での
荷物の仕分け)をしている。
いつも帰宅するのは、朝の6時ごろ。

「離婚したくても、いろいろ事情があり
まして・・・」と、R氏は言葉を濁す。

「長男のヤツは、中学2年生というのに、
いまだに母親とくっついて寝ています。
よくないとは思いますが、どうしようも
ありません。
妻には、こわくて、何も言えません」と。

「どうしたらいいか?」という相談では
なく、「あきらめています」という
雰囲気の話だった。

+++++++++++++++++

母子分離不安、夫婦分離不安というのは、ある。
しかし母子分離不安というのは、あくまでも
子ども側の問題。

これに対して、母親のほうが、子どもと離れられない
というケースもある。
中学2年生のその息子(=R氏の長男)にしても、
スポーツマンで、見た感じは、ごくふつうの
子どもである。

R氏の話から想像するような、ナヨナヨとした
印象は、まるで受けない。

R氏は、「母親のヤツが、放さないのです」と
言った。

こういうケースのばあい、子どもが、心の隙間
を埋める代用品になっていることが多い、
心の緊張感をいやすために、代償的に子どもを
常にそばに置く。・・・置きたがる。

あるいは本来、夫に向けるべき愛(?)まで、
子どもに注いでしまう。

たいていは母親側に、情緒的欠陥、もしくは
何らかの心の病気があると考えてよい。
そのため無理に母子関係を引き裂くようなことをすると、
母親の症状はさらに悪化する。

が、母親はそれでよいとしても、子どもに与える
影響は無視できない。
依存性は相互的なもので、母親が子どもに依存性を
もてばもつほど、子どももまた、母親に依存性を
もつようになる。

しかし(依存性)は、けっして、(愛)ではない。
ベタベタに依存しあっているからといって、
たがいの(愛)が、濃密ということにはならない。
(見た目には、仲がよく、たがいに深い愛情で結ばれて
いるように見えるが・・・。)

R氏の妻が子どもに示している、こうした愛を、「代償的愛」
という。
が、「愛」ではない。
「子どもを愛している」と言いながら、その実、
子どもを自分の支配化において、自分の思いどおり
にしたいだけ。
かんたんに言えば、「愛もどきの愛」ということに
なる。
一見、愛に見えるが、愛ではない。
似たようなケースに、ストーカーが見せる愛(?)がある。
相手の迷惑を顧みず、相手を追いかけまわす。

どこまでも自分勝手で、自己中心的な愛ということになる。

子育ての目標は、子どもを自立させること。
こうした依存性は、子どもの自立の妨げになることは
あっても、自立を助けることは、ない。

本来なら、母親は、子どもの親離れを促しながら、
子どもを自立させなければならない。
一般論からしても、親の添い寝は、子どもに情緒的な
問題がなければ、長くても小学2、3年生ごろまで。

そのころになると、子どもの自己意識が急速に発達
してくる。
子どもが親離れする時期とも重なる。

で、ふつうこういうケースでは、つまり、ベタベタの
親子関係がつづけば、子どもは、マザコン化する。

(マザコンについては、たびたび書いてきたので、
ここでは省略する。)

一方、R氏は、父親としての役割を、すでに放棄
してしまっているかのようである。
(1)母子関係の是正と、(2)社会性の構築、である。
わかりやすく言えば、「母子の間に割って入り、
子どもに狩りのし方を教える」。

加えてR氏のばあい、夫婦関係は、すでに冷え切って
しまっている。
(だからこそ、母親は、子どもを溺愛していると
いうふうにも、考えられる。)

似たようなケースに、昔、Y君という子どもがいた。
当時、中学3年生の男子だった。

Y君の母親は、Y君が恋心をいだいただけで、狂乱状態に
なってしまった。
「今は、受験で大切な時期だから、何とか交際を
やめさせてほしい」と。
が、それはまさに嫉妬に狂った女の姿だった。

で、私が、「それだけは、この私にもできません」と
言うと、Y君の母親は、その女の子の写真を、パラパラと
机の上に並べて、こう叫んだ。

私が、「かわいい子じゃないですか」と言ったのが
まずかった。

「先生、こんな女ですよ、こんな女ですよ! こんな
女のどこがいいですかア!」と。
Y君の母親は、私の目の前で、ワーワーと泣いた。

では、どうするか?

具体的に何か問題がないかぎり、この世界には、
『内政不干渉の大原則』というのが、ある。
R氏のケースでも、母親(=R氏の妻)から、「どうしたら
いいでしょう?」という相談がないかぎり、私としては
アドバイスのしようがない。

母親がそれでよいと言うなら、それでよい。
子どもがそれでよいと言うなら、それでよい。
マザコンはよく話題になるが、それほど深刻な問題ではない。
(最近では、多かれ少なかれ、つまり程度の差こそあれ、
たいはんの男児は、マザコン化しているとみてよい。)

つまり、そうでない人から見て、「どこかへん?」といった程度の
問題。

・・・というわけで、私はR氏に話を聞きながら、
「はあ、そうですか」と相槌を打つことしか、できなかった。

以上、記録として、ここに書きとめる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2724)

●私の健康法

今日、1単位の運動をした。
だから明日は、だいじょうぶだろう。
今週、5単位の運動をした。
だから来週は、だいじょうぶだろう。
今月は、(歩け運動)に、1回、参加した。
だから来月は、だいじょうぶだろう。

しかしそのあとのことはわからない。
モヤモヤとした闇に包まれている。
来年のこととなると、さらにわからない。
ただ確実に言えることは、来年は、
今年より、よいということはないということ。

では、どうするか?

運動量を、1日、1単位から2単位へとふやす。
1週間で、5単位から10単位にふやす。
(歩け運動)については、1回から、月2回にふやす。

それが無理だというのなら、・・・やがて
運動量をふやすといっても、限界に達するだろうが、
そうなったときには、不健康であることを嘆かない。
それがそのまま「命」の限界ということなる。

それに、この世界には、『自業自得』という、恐ろしい
言葉がある。
どんな結果であるにせよ、それは(今)が決める。

若いときはそれほど気にしなかったが、
このところ、その言葉が、ズシリと、胸に響く
ようになった。

運動をサボるだけサボりながら、「健康でいたい」は、
ない。

そういう意味では、健康というのは、作るものではない。
守るものでもない。
維持するもの。
今、ここにある健康を、何とか,明日に、来週に、
来月に、そして来年につなげる。

つなげ、つなげしながら、何とか、生き延びていく・・・。

頭の体操も、しかり。

今夜は、これからワイフと深夜劇場に行く。
何を見るかは、ワイフに任せてある。
「楽しむ」というよりは、そこには、ある種の
悲壮感が漂うになった。
(もちろん、楽しみたいが・・・。)
「行かなければならない」という思いで、
深夜劇場に行く。

映画というのは、脳みそに刺激には、たいへんよい。
家でビデオを見るという方法もあるが、迫力がちがう。
その迫力が、脳みそを刺激する。

が、これも回数をふやすしかない。
今のところ、週1回と決めているが、そのうち、
週2回にするかもしれない。
あるいは、ほかの方法があれば、それも試してみたい。

それが今の私の健康法ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●ある塾長の死

K県内で、30教室あまりの進学塾を
経営していた、1人の塾長が、去る5月に死んだ。
(私たちは、昔から「塾長」と、その塾長が
引退してからも、一目置いて、そう呼んでいた。)

享年、75歳。
がんから、肺炎を併発し、あっけない死だった。
一線を退いてから、10年以上になる。

同じ私塾連盟に属していたが、その人だけは、
別格だった。
若いときから、派手な生活を楽しんでいた。
10年ほど前に会ったときにも、1000万円超もする、
ベンツを乗り回していた。

その葬儀に出た、別の友人が、こう言った。
「なあ、林君、さみしい葬式だったよ。親族のほうは、
家族と、その孫たちだけだった」と。

私「教え子たちは来なかったか」
友「来るわけないだろう。こういう仕事だからなア」
私「そうかア……。じゃあ、教師たちはどうだった?」
友「すでに一線を退いていたからなア……。受付には、
(塾関係者)というコーナーもあったが、記帳したのは、
ぼくと、ほかに数名だけだった」
私「彼の下で働いていた教師たちは、来なかったのか」
友「来なかったと思うよ。来れば、わかったはずだから……」と。

その塾長で覚えているのは、いつだったか、
こんな話をしてくれたこと。

塾長……彼の名前を、M氏としておく。
M氏には、ほかに4人の兄弟がいた。
生まれはみな、東北のI県だったという。
が、みな、M氏を頼って、M氏の周辺に
集まってきた。

その兄弟たちの面倒を、M氏は、よくみた。
「ぼくはね、甥っ子や姪っ子の学費まで、
全額出してやったんだよ」が、M氏の自慢話
だった。
「こういう仕事をしていると、進学の話になると、
断れないもんだよね」とも。

それだけではない。

兄弟たちには、進学塾での仕事も与え、生活の
面倒もみていた。

「一応、理事ということで給料は払っているけど、
仕事らしい仕事は、してくれない」と、M氏は、
ときどきこぼしていた。

……と、まあ、そういう話をしながら、今日、
ワイフが私にこう言った。

「みんな、冷たいのね。それだけ世話になって
おきながら、どうして葬式に来なかったのかしら?」と。

私「あのね、そういう見方は正しくないよ。
塾長にしてみれば、『助けた』と思っているかも
しれないけど、助けられたほうは、そうは思っていない」
ワ「あら、どうして?」
私「貧者には貧者の論理が働く。塾長の自宅は、F市に
あるけど、(住まい)というよりは、(豪邸)だよ。
庭の端には、総ひのき造りの離れまである。そういうのを
見せつけられると、『ありがたい』と思う前に、
その人をねたむようになる。この(ねたみ)がこわい」
ワ「そうね……」と。

別の進学塾の塾長も、こう言っていた。
「ぼくは、今まで、仲人はともかくも、教え子の
結婚式に招待されたことすらない」と。

「そういうものかあ」と返事をためらっていると、
その塾長は、こう言った。

「いいか、林君、しょせん、ぼくらのしている
仕事というのは、そういうものだよ。父母に
しても、息子や娘が進学塾に通っていたという
話は、隠したがる……」と。

「そうであってはいけない」と、私は思うが、
月謝という(マネー)がからむと、人間と人間と
つなぐ紐は、かわいた藁(わら)のようなもの。
あっという間にボロボロになって、切れる。
『金の切れ目が、縁の切れ目』と。

だからその友人は、こうも言った。
「だから、ぼくらの仕事には、幻想をもたないことだ。
いくらきれいごとを並べても、親たちが求めて
いるのは、別のものなんだ」と。

彼が言う(きれいごと)というのは、いっぱしの
「教育論」をいう。

私「考えれば考えるほど、さみしくなるね」
友「ハハハ、ぼくたちだけではないよ。開業医を
している高校時代の友だちも、同じようなことを
言っていたよ」と。

話をもとにもどすが、他人がもつ(ねたみ)には、
警戒したほうがよい。
原始的な感情であるがゆえに、扱い方をまちがえると、
かえって反感を買ってしまう。

えてして成功者は、それをことさら他人に
誇示したがる。
「私は、これこれしかじかの成功者である」と。

しかし中には、その日、その日の生活で、
精一杯という人もいる。
そういう人は、その人をうらやむ前に、
はげしい憎悪の念すらもつかもしれない。

と、同時に、自分が覚える(ねたみ)にも、警戒した
ほうがよい。
他人をねたむことによって、自分の心を貧しくする。
あるいは、ゆがめる。
先にも書いたように、原始的な感情であるがゆえに、
一度ゆがむと、それを元にもどすのは、たいへん。
ばあいによっては、それがその人のものの考え方の
基本になってしまう。

友人はこう言った。

「昔は、医は、仁術と言った。それだけ患者たちに
感謝され、尊敬された。が、今は、ちがう。医者たちが
特権階級になってしまった。中には、すばらしい医者も
いるかもしれないが、たいはんの医者たちは、庶民とは
かけ離れた生活をしている。それが他方で、ねたみの
原因となっている」と。

……ここまで書いて、私は昔見た、華僑の家を
思い出した。

マレーシアでも、インドネシアでも、華僑の家は
見た目には、ものすごくみすぼらしい。
鉄格子のような扉が、道路を隔てている。
その鉄格子をとおして見える、部屋も、これまた
みすぼらしい。

が、案内されて廊下を通り抜けると、様子が一変する。
壁も、そして部屋の床も、すべて本物の大理石!
家具も調度品も、それにふさわしいものばかり!

あとで別の人に理由を聞くと、その人はこう話してくれた。
「現地の人にねたまれると、暴動が起きたような
とき、イの一番に、攻撃されるから」と。

人にねたまれるということは、そういうことをいう。

もっとも私のばあいは、相手が幼児だし、
進学を目的とした指導は、していない。
人間関係など、作りようがない。

が、立場は、冒頭に書いた塾長と同じ。
どこもちがわない。
派手な葬式など、望みようもない。
死ぬときは、かぎりなく孤独だろう。
長生きをすればするほど、そうで、ひょっと
したら、ワイフのほうが先に、あの世へ
行ってしまうかもしれない。

やはり大切なのは、「今」ということになる。
今というこの時を、どうやって心豊かに
生きていくか。
それだけを考えて生きていけばよい。

明日のことは、明日に任せればよい。
結果は、あくまでも結果。
そんな結果を気にしていたら、とても心豊かに
生きていくことはできない。

しかし……。あの塾長は、私にとってはよい人だった。
明るく快活で、いつも自信に満ち溢れていた。
一度、鉄板焼きをごちそうになったこともある。

ご冥福を、お祈り申し上げます。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

●わけのわからないストライキ

現在、日本中の漁船が、操業を停止しているという(08年7月)。
理由は、燃料費の高騰。
漁民の人たちは、政府に対して、「燃料費の補填(ほてん)をしてほしい」と。

しかし考えれば、考えるほど、このストライキはおかしい。
理解できない。

たとえば航空輸送産業がある。
そこでも同じように、燃料の高騰に苦しんでいる。
事情は、日本各地の運送業も同じだろう。

が、どうして漁業だけが、「補填しろ」と言うのだろう。
……言えるのだろう。
私はこの言葉の裏に、「漁業をしてやっている」という、常識では考えられないような
高慢さを感じてしまった。

今さら説明するまでもなく、日本の農業と漁業、それに林業は、補助金漬けになっている。
このあたりの農家の人たちも、農業そのものの話ということよりも、集まれば、補助金の話ば
かりしている。
今では補助金なくしては、農業そのものが成り立たないしくみが、できあがってしまっている。
おそらく、漁業もそうなのだろう。
(詳しくは、あとで自分なりに調べてみたい。)

で、現在、日本の漁業には、「形」しか残っていない。
日本の港へ入ってくる漁船のほとんどは、外国船籍の船ばかり。
また沖合いで、外国の漁船と取り引きして、そこで魚を売買するという方法も、恒例化してい
る。

ふつうなら、燃料費が高騰すれば、その分だけ、魚の値段に上乗せすればよい。
現に航空輸送産業のほうでは、そうしている。

が、それをしないで、「補填しろ」と?
何かのカラクリが隠されている?
臭いぞ!
におうぞ!
漁民の人には失礼かと思うが、漁民の人たちも信用できないが、農林水産省は、もっと信用で
きない。
その結果が、今回のわけのわからないストライキとなった?

私の今の感覚にすれば、「なんて、甘ったれたことを言っているのだ!」ということになる。
しかし一方、補助金に慣れすぎてしまった漁民の人にしれば、「燃料費の高騰にともなう被害
は、政府が補償すべき」となる。
このあたりの意識のズレは、いったいどこから生まれるのか。
どうしてこうなってしまったのか?

ちなみに、今日も近くの開店寿司を食べたが、値段は同じ。
ネタもいつものとおり。
(今朝の新聞によれば、魚の入荷が減り、魚市場での魚のセリは、いつもの半分の時間で終
わったとある。)

日本の漁船が操業を停止しても、日本人の食卓から魚が消えることはないらしい。
つまりそれが現在の日本の漁業を象徴している。
もっと言えば、日本の漁業など、あってもなくても同じ?
(だからといって、なくてもいいと言っているのではない。誤解のないように!)

さらにわかりやすく言えば、とっくの昔に、日本の漁業は、全体として倒産状態にあった?
それを無理に無理を重ねて、日本政府は、生かしてきた。
(だからといって、それがまちがっていたと言っているのではない。誤解のないように!)
こうした過保護行政は、たとえばあの「捕鯨」にも、みられる。

ほんの一部の捕鯨業者と、高級化割烹でクジラを食べる金持ちを守るためだけに、いまだに、
捕鯨をつづけている。
「調査捕鯨」などという、それこそわけのわからない理由をこじつけて……。
おまけに世界中の人たちから、袋叩きにあっている!

何かおかしい。
どう考えてもおかしい。

このつづきは、私なりにもう少し調べてみてから、書いてみたい。
その結果、「やはり政府は、補填すべき」と書くかもしれない。
反対に、「補填など、とんでもない話」と、書くかもしれない。
どうであるにせよ、何かおかしい?
今は、保留としておく。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜H. Hayashi

●HP者の2133、ミニ・パソコン

最初は少しとまどったが、今は、2133が気に入っている。
使い勝手も悪くない。
が、ひとつ問題が発生。

ディスクドライブを内蔵していない。
そのため外付けのドライブを使用しているが、ソフトによって、インストールできるのと、できな
いのがある。

そこでインターネットを調べてみると、今、私がもっているドライブは、ビスタには対応していな
いのがあった。

しかたないので、さっそく、一台、購入。
チラシに出ていた、いちばん安いのを選んだ。
値段は、6800円。

で、この話とは別に、2133を使ってみて気づいたことがある。
2133は、ワープロとして使っている間は、まったく問題ない。
しかしインターネットにつないで、メールのやりたりをしたり、ウェブをのぞいてみたりすると、能
力の差を、たいへん強く感ずる。

もっとも今、私がデスクで使っているパソコンは、2台とも、最先端のCPUと、グラフィック・ボー
ドを搭載している。
メモリーも、4Gと3G。

ところが、大半の人は、この2133と同じレベルか、あるいはそれ以下のマシンを使っている。
とくに家庭の母親たちは、そうだろう。

私は、それがよかれと思って、ホームページなども最新の技術を使って更新したりしている。
しかし古いパソコンだと、画面を開くことさえできないかもしれない。
あるいはモタモタと時間ばかり、かかるかもしれない。

とたん、なんだか、申し訳なくなってきた。
つまり自分のしていることに自信がなくなってきた。
「私だけ、高性能のパソコンを使っていいものか?」と。

2133は、能力的には、お世辞にも、すぐれたパソコンとは、とても言いがたい。
最初の画面をたちあげるだけでも、2分40秒もかかる。
ワードを開こうとすると、さらに1分程度もかかる。
どこか、かったるい。
(一方、私が使っているデスクトップパソコンは、1分弱で、作業を始めることができる。)

しかし値段が値段だから、こんなものかとあきらめるしかない。
ぜいたくを言えば、キリがない。
とにかく今は、このパソコンを使い倒し、願わくは1年以内に故障させて、修理に出せるように
したい。
保証期間は、1年。
少なくともパソコンというマシンは、使って使って、使いまくる。
みがいて床の間に、飾っておくようなものではない。
(と書きながらも、実際には、毎日ピカピカにみがいて、枕元に置いて眠っているが……。しか
しこの考え方は、どこか、セコイね。)


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●『幻影師・アイゼンハイム』を見る

昨夜、深夜劇場で、『幻影師・アイゼンハイム』を見た。
星は、3つの★★★。プラス★。4つでもよい。

なかなか楽しかった。
おもしろかった。

結局、最初から最後まで、すべてがxxxxだった。
そういう映画だった。
(「xxxx」の部分は、映画を見てからのお楽しみ。)

で、アイゼンハイムが舞台で見せたのは、エジソンが
発明した活動写真のようなものではなかったか。
「そんなもので人をだませるか」と思う人もいるかも
しれないが、当時としては、そういうものだったに
ちがいない。

事実、はじめて活動写真なるものを見た人の中には、
あまりの衝撃で、気を失った人もいたという記録も
残っている。
テレビがはじめて現れたころもそうだった。
みな、テレビの前で正座して、それを見ていた。
アナウンサーが、「こんにちは」とあいさつ
したりすると、私の祖父などは、頭をしっかりと
さげて、「こんにちは」とあいさつをしていた。

祖父は真顔で、私にこう説明した。

「浩司、こちらから向こうが見えるということは、
向こうからも、こちらが見えるはず」と。

で、『幻影師・アイゼンハイム』は、最初から最後まで、謎、謎、謎……という映画だった。
が、最後の最後で、どんでん返し。
そのどんでん返しが、おもしろかった。
見て、損はない映画である。
とくにボケ防止には、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日々に精進

今日、こんなことがあった。
山荘へ向かう途中、一台の大型トラックターが、右前方を走っているのが見えた。
少し変わった形をしていた。
運転台が、4面大きなガラス窓になっていた。
まるで宇宙船のようだった。
で、そのトラックターに見とれていると、ちょうど交差点のところで、何かの上に乗り上げた。
ドスンと大きく揺れて、その瞬間、どこかにたまっていた畑土が、ドドッと道路にこぼれた。
私とワイフはそれを見ながら、その交差点を、左に曲がった。

私「あの運転手は、土が落ちたのを見ていたよ」
ワ「どうしてそれがわかるの?」
私「だって、バックミラーをしっかりとのぞきこんでいたもの」と。

それから私たちはいつものように山荘へ向かい、数時間を過ごした。
昨日と変わって、涼しい風が吹いていた。
ワイフは、昼寝。
私は、パソコン雑誌を読んだ。

で、いつものように、いつもの道を通って帰った。
そして途中、先ほどの交差点へやってきた。

見ると、畑土は、きれいに消えていた。
道路を、ほうきで掃いたような跡も残っていた。

私「あの運転手、ちゃんと片づけていったよ」
ワ「あら、いい人ね」
私「今どき、珍しい人だよ。ちゃんと責任を取っていった」
ワ「ああいう人は、きっとみんなに信頼されているはずよ」
私「そうだね。一事が万事だからね。きっと友だちも多いはず」
ワ「そういう人は、幸福になれるわね」と。

まさに瞬間、瞬間が日々の積み重ねになる。
その日々が積み重なって、週となり、その週が積み重なって月となる。
さらに月々が積み重なって年となり、やがてその人の人格となる。

私「誠実な人は、いつでも、どこでも誠実だよ」
ワ「だからみんなに信頼されるようになるのよ」
私「が、油断してはいけない。ときに『まあ、いいや』と思ってしまうと、そのとたん、それまでの
自分が、総崩れになってしまう」
ワ「こわいわね」
私「だから日々に、精進あるのみ。その緊張感を忘れたら、おしまい」と。

人も50歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病が、どっと表に出てくるようになる。
人間性もそうで、それがそのまま表に出てくるようになる。
それまでは気力で、他人の目を欺くことができる。
その気力そのものが弱くなる。

さらにこわいことに、人も50歳をすぎると、健康はどんどんと下り坂に向かう。
同じようにそれ以後、その人の人間性が、向上するということは、ありえない。
よほどの努力をしないかぎり、そういうことは、ありえない。
加えて頭の活動も、鈍くなってくる。
醜い人は、醜い人のまま。
心の貧しい人は、貧しい人のまま。

よく「老人になればなるほど、人格に円熟味が生まれる」と説く人がいる。
しかしそれはまっかなウソ。
ウソということは、自分がその年齢になってみて、はじめてわかった。

もちろん老人の中には、高邁な人格を保った人もいる。
しかし、たいはんは、「?」。
中には、電車やバスの中で、ゲラゲラ、ギャハハハと騒いでいる老人さえいる。
悲しいかな、文化性はゼロ。
知性も、ゼロ。
人間というよりは、サルに近い。(ホント!)
ウソだと思うなら、ほんの数分でよいから、彼らの会話に耳を傾けてみることだ。
聞くに耐えないというか、よくもまあ、ああいう会話ができるものだというような会話をする。

つまり人は、ある日突然、ケア・センターにいるような老人になるのではない。
日々に少しずつ、ああなっていく。

では、どうしたらよいのか?

結局は、『日々に精進あるのみ』ということになる。
その努力を怠ったとたん、とても残念なことだが、人も、サルになる。
(もちろんだからといって、人間としての価値をなくすという意味ではない。誤解のないように!)

ある人は、『ケータイをもったサル』という本を書いた。
若い人たちを酷評した本だが、ベストセラーになった。
しかし今の私なら、こんな本を書く。
『ケータイをもたないサル』。
いつか思い切って、老人たち(=私たち自身)を酷評してみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争・再燃

+++++++++++++++

またまた書くぞ、「日韓経済戦争」(PART2)。
やはり韓国は、日本にとっては、最悪の反日
国家だった。

李大統領は、竹島問題にからみ、こう述べた。
(朝鮮N報・7・17)

「国論分裂を狙う北朝鮮と日本の思うつぼにはまる」と。
「思うつぼ」とは、何か?

思わず本音が出たということか?

+++++++++++++++

朝鮮N報、7・17日は、竹島問題にからんで、つぎのように報道している。

+++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++

李大統領は日本で中学校の新学習指導要領解説書に独島(日本名竹島)の問題が盛り込ま
れたことについて、「日本が長期的、戦略的に独島を紛争地域にしたいという意図に基づき一
つ一つ着実に動いている点を念頭に置き、韓国も短期的、臨機応変式ではなく、戦略的な次
元で長期的な視野を持って対処すべきだ」と指摘。その上で「東北アジア歴史財団の活動を強
化し、中国だけでなく日本の歴史に対しても長期的な研究と対策立案を進めるべきだ。中国、
日本とともに東北アジアの歴史教科書を共同で作るプランも積極的に進める必要がある」と述
べた。

李大統領は「独島に対する実効的支配を強化するとともに、国際的な広報活動も強化し、歴史
を歪曲(わいきょく)する日本の企てに、具体的かつ積極的な対応策を取るべきだ」と強調し
た。

 李大統領は同時に「日本の独島に対する領有権明記と、金剛山観光客射殺事件は超党派
的に対応すべきだ。政界がこれを政略的に利用すれば、国論分裂を狙う北朝鮮と日本の思う
つぼにはまる」と警告した。

+++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++

李大統領は、「日本は長期的、戦略的に独島を紛争地域にしたいという意図に基づき、一つ一
つ着実に動いている点を念頭に置き……日本が国論分裂を画策している」と述べている。

一方的に、つまりなし崩し的に、竹島を自国の領土にしようと画策してきたのは、韓国のほうで
はないのか。
日本はそのつど、国際裁判所で裁定してもらおうではないかと、提案しつづけてきた。
もし本当に竹島(独島)が韓国の領土だと信じているなら、姑息な小細工などする必要はない。
ここまで過剰に反応する必要もない。
さらに言えば、国際裁判所に出てきて、堂々と持論をぶつければよい。

大統領就任から、約半年。
ここにきて、李大統領の心の内というか、本音が露呈し始めた。

もし日本の福田首相が、逆の立場で、同じようなことを口にしたら、韓国政府は、どのように反
応するだろうか。
ほんの少しでよいから、韓国の人たちも、それを想像してみることだ。

「韓国は長期的、戦略的に竹島を紛争地域にしたいという意図に基づき、一つ一つ着実に動
いている点を念頭に置き……韓国が国論分裂を画策している」と

こうした挑発的な発言は、(敵対国)に対してするものであって、(仲間)に対してするものでは
ない。

私はこの記事を読んで、再び、ムラムラと自分の中に、嫌韓感情がわき起ってきたのを感じ
た。

いつ日本が、竹島を紛争地域にしたいと願った?
どこで日本が、韓国の国論の分裂を画策した?

バカも休み休み、言え!

……ということで、「日韓経済戦争」(PART2)再開。

負けるな、日本!
がんばれ、日本!

ちなみに、15日、ソウル証券市場でコスピは、前日比49.29ポイント(3.16%)安の1、50
9.33で引け、ここ1年で最低をつけている。
(日本の日経平均株価は、前日比255.60ポイント(1.96%)安の12、754.56で引けてい
る。)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2725)

【ものを書く】

●私の母(My Mother)


私の母は、容赦なく、私からお金を
むしり取っていった。


 目やにで閉じたまぶたを、そっと濡れたガーゼで拭く。その細い目の下で、黒い瞳が左右に
動く。もう話すこともできない。耳もほとんど聞こえない。大声で話しかけると、左手だけが、か
すかに反応する。
 母がセンターに入って、1年半。寝たきりになって、6か月。この2月に救急車で病院へ運ば
れたとき、担当のドクターはこう言った。「次回からは、延命処置はしません」と。死の宣告だっ
た。「そういうものかなあ」「そういうものだろうな」と思いながら、私は納得した。
 私の母は、容赦なく、私からお金をむしり取っていった。「取った」ではなく、「むしり取っていっ
た」。長男が生まれたときも、「代わりに貯金をしておいてやるから」と言って、当時のお金で、2
4万円を私から受け取り、そのまま実家へ帰っていった。私の全財産だった。また私が預けて
おいた土地の権利書を、他人に売り渡してしまったこともある。私が泣いてそれに抗議すると、
母は、平然とこう言ってのけた。「親が先祖を守るため、息子の財産を使って、何が悪い!」
と。
 世の中にはいろいろな母親がいる。いるが、私の母は、そういう母親だった。他人の前では
仏様のように演じながら、私たち息子には、いつも暴君だった。いつしか私の母への思いは消
えた。実家へ帰るのさえ苦痛だった。しかし親類の年長者たちがそれを許さなかった。そのつ
ど「親を捨てるとは、どういうことだ」と、私をはげしく責めた。私はその板ばさみになって、もが
いた。苦しんだ。
 しかしその母も、92歳。私の家には半年ほどいたが、便の世話は、私の日課だった。顔に
小便をかけられたこともある。その世話をしながら、私はこう言ってやった。「あのなあ、100歳
までは、めんどうをみてやる。しかし100歳以上はいやだぞ」と。何もわからない母は、それに
答えて、「そうやなあ」と言って、ニタニタと笑っていた。
 「命」というのは、そういうものか。介護ベッドに横たわる母の顔をみながら、ふとこう思う。「こ
れが、あの母か?」と。やすらかというよりは、そこにあるのは無邪気な赤子の顔。何度か、電
話で言い争ったあの元気な面影は、もうどこにもない。が、それに代わって、母の顔を見ている
と、子どものころの楽しかった思い出だけが、どんどんと上書きされていく。
 母は母で、懸命だった。古いしきたりと世間体。それに見え、メンツ。あの田舎町で、母は母
なりに、自分の常識を貫いた。家計など、あって、ないようなもの。いつ閉店してもおかしくない
ような状態だった。そういう母をだれが責めることができるだろうか。もっと言えば、それぞれの
人には、無数の糸がからんでいる。家族の糸、社会の糸、親類縁者の糸などなど。そういう糸
がからみあいながら、その人の進んでいく道を決める。もしそれを「運命」と呼ぶなら、だれにも
その運命はある。
 2月に救急車で運ばれたときのこと。病院からの帰りは、寝台付きのタクシーだった。ベッド
を片手で支えながら、ふと母の顔を見ると、母は目をさましていた。私が「ここは(母の郷里の)
板取だぞ」とからかうと、母はこう言った。「ウソつくな。そんなにボケていないぞ」と。
 その声を聞いて、私は笑った。運転手も、笑った。その向こうには、窓越しに、佐鳴湖の美し
い湖面が、夕日に光っていた。私は、どういうわけかその母の言い方がおかしくて、笑いつづ
けた。
(080718記)


●巣立ち(Chilfren who leave their nests)


これも子離れ、親離れ


 少し前、息子の1人に、こう言って怒鳴られた。「お前の言っていることは、矛盾だらけだ! 
ママは、お前の奴隷みたいだ!」と。何かの拍子に、ささいな口論が、そのまま大喧嘩になって
しまった。 
 私はそのつど心の中で、「ちがうんだよ」「そうではないんだよ」と思ったが、息子にはその気
持ちは通じなかった。本当のところ、理由はよくわからない。が、息子は私を嫌っている。嫌っ
ているというより、恨んでいる。ふだんはよき親子に見えるかもしれないが、何かあると、そうな
る。
 私がヘラヘラと息子の怒りをかわしていると、そのうち息子は本気になった。本気になってま
すます大声で怒鳴った。が、私は動じなかった。「殴りたければ殴れ」と思いながら、顔を差し
出した。息子はわかっていないが、息子に殴られても、私にとっては、痛くもかゆくもない。私は
三人の息子たちを、みな尊敬している。ついでに言えば、愛している。
 が、その歯車がどこかで狂った。最初は小さな亀裂だったかもしれない。しかしその息子が
中学生になるころには、会話もほとんどなくなってしまった。先ほど「理由はよくわからない」と
書いたが、思い当たることはある。そのころ私のワイフは、私の知らないところで、ある新興宗
教団体に入信してしまった。それで私とワイフの口論が絶えなかった。ときにテーブルをひっく
り返して、喧嘩したこともある。
 そういう私たちの姿をその息子は、いつも遠巻きにして見ていたにちがいない。私はともかく
も、ワイフは、本気で離婚を考えていた。息子たちを連れて、家を出て行ってしまったこともあ
る。
 ……と書いても、あえて言うなら、この程度の離婚騒動なら、どこの家庭にもある。私たち夫
婦だけが特殊ということはない。むしろ平均的(?)。今まで、離婚騒動をしたことがないという
夫婦のほうが、珍しい。おかしい。
 そういった事情は、中学生だった息子には理解できなかったかもしれない。息子の常として、
息子は、いつも母親であるワイフのほうについた。結果として、私を嫌い、やがて恨むようにな
った。
 その翌日、私が「仲直りしよう」と息子に手を差し出した。しかし息子は腕組みをしたまま、手
を出さなかった。それを見たとき、息子が、私の手の届かないところに行ってしまったのを感じ
た。
 考えてみれば、これも子離れ。親離れ。そこに残るのは、純然たる1対1の人間関係。親子と
いう(血縁)にこだわる必要は、ない。つまり子どもは両親がいて、生まれ育つ。が、やがて親
子の関係を超えて、対等の人間として、たがいを見るようになる。
 で、その結果として、私がいくら親であっても、飽きられるときは、飽きられる。いつまでも親で
あるという幻想にしがみついて、親である私のほうが、子どもを縛ってはいけない。
 が、これとて、何も私たち親子が特殊というわけではない。どこの親子も似たようなもの。とく
に父親というのは、そういうもの。言うなれば、孤独な存在。しかし一言。
 子どもも、やがて親になり、その年齢になると、親の気持ちが理解できるようになる。が、今
はわからない。目が自分の息子や娘、つまり下ばかりを見ている。ほとんどの親は、「私はだ
いじょうぶ」「私たち親子にかぎって、そういうことはない」と思っている。実は、私も、そう思って
いた。
 ただ大切なことは、親である者は、窓をあけて、子どもたちがいつ帰ってきてもよいようにして
おくこと。そのとき親である私は、この世の人間でないかもしれない。が、それはそれで構わな
い。
 「愛」の深遠さは、表面的な関係だけでは、推し量ることはできない。
(080718記)


●自分(I write Myself)


私たちは何のために生きてきたのか?
何のために生きているのか?


 自分が健康なときというのは、自分の年齢がわからない。年齢といっても、ただの数字。だか
らときどき、昔出会った、私の今の年齢の男たちを、頭に思い浮かべる。「あの人も、あのとき
60歳だった」と。
 しかしどの人も、そのあと、まもなくして、死んでいる。時の流れというのは、そういうもの。ふ
と油断していると、10年、20年などという年月は、あっという間に過ぎ去ってしまう。そして気
がついてみると、その人は、もうそこにはいない。
 しかしそれは何も他人の話ではない。私自身の話である。私自身も、やがて「まもなく」、この
世から消える。が、今はわからない。ほどほどに健康だし、60歳といっても、体の調子は、40
代のころよりも、よいかもしれない。
 が、こうしたものの見方も、病気になると、一変する。とたん、それまで前に見えていた道が、
深いモヤに包まれる。「まもなく」が、不気味な現実となってそこに現れる。不安と悔恨、恐怖と
絶望。そういったものが、こん然一体となって、心に重くのしかかる。
 「私は何のために生きてきたのか」と。
 しかしやがて精密検査の結果が出る。ドクターは笑いながら、こう言う。「何でもありません
ね」「夏風邪でしょう」と。とたん、私の頭の中から、「60歳」という数字が消える。と同時に、そ
の先に、再び道が現れる。
 ……あとは、その繰り返し。ただ言えることは、加齢とともに、その繰り返しが多くなったという
こと。若いときは、数年に一度だったものが、60歳になると、年に1度とか、そうなる。
 もちろん個人差もあるだろう。すでに大病を患っている人も少なくない。そこで私は、今、ふと
こう考える。
 「私は何のために生きているのか」と。
 私が書いてきた文章は、どれも駄作ばかり。言うなれば、化粧に化粧を塗り重ねてきたよう
な文章ばかり。読むに耐えないというか、読めば読むほど、時間を無駄にしてきたことがわか
る。
 しかし私に残された時間は、あまりにも短い。そのうちこの脳みそも、ボケて使いものになら
なくなるだろう。「まもなく」、本当に大病を宣告されるかもしれない。だったら、結論は、ひとつ。
 私は「私」を書く。ありのままの「私」を書く。そんな私を他人がどう思うが、私の知ったことで
はない。私とて、他人の一部。他人だって、私の一部。私と他人を区別するほうが、おかしい。
 先ほど、私は私の母のことを書いた。私のワイフの新興宗教とのかかわりについても、書い
た。ついでながら言うと、ワイフがその宗教団体とかかわったことは、その宗教団体にとって
は、不幸なことだった。私はものを書くことで、その宗教団体の虚構性を暴いてやった。何冊
か、本も書いた。
 それはワイフを取り戻すための、壮絶な闘いでもあった。
 結果、私の家には、再び平穏な日々が戻ってきた。
 ……ともかくも、今の私には、「60歳」というのは、ただの数字でしかない。こんな数字にまど
わされて、自分を見失うことはない。少なくとも今の私は、そうだ。ただ、またそのときが来た
ら、今度こそ、「私は何のために生きてきたのか?」という思いは、最小限にとどめたい。
(080719)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●子どもたちへ(改)

***************


(1)いじめのこと

●常識を大切に

魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って、言うんだよね。

みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が、聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。

ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何十万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。

そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。

●子どもたちへ

無理して、みんなと仲よくしようなどと、思
わなくてもいいんだよ。英語の格言にもね、
『二人の人に、同時によい顔はできない』と
いうのがあるよ。気楽にいこうよ。気楽に考
えようよ。無理して、いい子ぶることはない
よ。そんなことをしていると、疲れるもんね。

でもね、一つだけ、お願いがあるんだ。それ
はね、君のまわりに、友だちがいなくて、さ
みしそうにしている人はいないかな? もし、
いたらね、そういう人と仲よくしてあげてね。
「こんにちは」とか、「遊ぼうよ」と声をかけ
てみてあげてね。

それはとっても、大切なことだよ。それは、
とっても楽しいことだよ。うそだと思うなら、
一度でいいから、ためしてみてごらん。心の
中が、ポッと暖かくなるよ。うそじゃないよ。
ほんとうだよ。このお願いだけ聞いてくれる
なら、あとは、無理しなくてもいいよ。

そうそう英語には、もうひとつ、こんな格言
もあるよ。『相手はあなたが思うように、あな
たのことを思う』というのがね。これはね、
君が、相手のことを「いい人だ」と思ってい
ると、相手もまた君のことを、「いい人だ」と
思っているものだという意味だよ。

だからどんな相手でもいい。まず君が、みん
なを「いい人だ」と思うこと。そうすると、
みんなも、君のことを「いい人だ」と思うよ
うになるよ。これもほんとうだよ。

(2)成績のこと

●成績

テストの点が悪かった、て?
そう……。いやなもんだね、テストって。
でもね、テストは、あくまでも勉強について、
だよ。
君の価値とはまったく関係ないよ。
だから大切なことは、
テストの点が悪いからといって、
自分の価値まで否定してはいけないというこ
と。
君は君だしね。
まあ、また、やってみようよ。
まだまだ、つぎがあるからね。
めげないでさ。
いちいち気にしていたら、
人生、つまらないよね。
……そう、ぼくなんか、
今、点つけられたら、
ひどい成績だと思うよ。
父親力……28点
夫力……33点
稼ぎ力…19点、……なんてね。
笑った?
笑ったら、先へ進もうよ。
そうそう、君は、「宝島」という本を知ってい
るかな。
「ジキル博士とハイド氏」でもいい。
あれを書いた、スティーブンソンという人は、
こう言っているよ。
『我らが目的は、成功することではない。
失敗にめげず、前に進むことだ』とね。

●子どもたちへ

勉強って、つらいものだよ。だから勉強が嫌
いな君は、ちっともおかしくない。だれにだ
って、好き嫌いはあるしね。それにね、勉強
ができるから、すぐれた人ということにはな
らない。勉強ができないから、劣った人とい
うことにもならない。だからといって、怠け
るのもよくないけどね。ハハハ。でもね、君
は君だ。君の価値は、君が一番よく知ってい
る。

だからね、自分を信じて、自分の道を進むん
だよ。君にも、したいことがあるだろ。君に
も、できることがあるだろ。それが君の価値
になる。今はまだ土に包まれて、光っていな
いかもしれないが、いつか光り出す。宝石の
ように光り出す。そういうときが必ずくるか
ら、その日を信じて、今は、その準備のとき。
今は、じっくりと自分をさがしたらいい。自
分の中の宝石をさがしたらいい。テストの点
が悪かったからといって、あせってはだめだ
よ。失望してはだめだよ。勉強しても、その
効果が出てくるのは、半年とか一年後だから
ね。

そう、半年とか、一年後。もともと勉強とい
うのは、そういうものだよ。すぐには、効果
は出てこない。だからぼくらは気楽に行こう
よ。気楽に、ね。そうそう英語ではね、こう
言うよ。テイク・イッツ・イージィってね。「T
ake it easy!」と書くよ。「気楽
にしなさいよ」という意味だよ。
いい言葉だね

(3)恋のこと

●好きな人ができたらね……

好きだったら、「好き」って、
言えばいいよ。
いっしょにいたかったら、「いっしょに、いた
い」って、言えばいいよ。
絶対に後悔しないよ。
言わないほうが、後悔するよ。

だけどね、一つだけルールがある。
相手の人が、「ノー」と言ったときはね、
さっと、引きさがること。
相手の人が、一番いいようにしてあげるのが、
恋なのさ。
相手の人を、やさしさで包んであげるのが、
恋なのさ。
それが「本当に好き」という意味なのさ。
相手の迷惑になるようなことはしてはいけな
いよ。
いくら、フラれてもね。

……そういう気持ちでいるとね、
つぎには、もっとすてきな人が現れるよ。
そしてね、そのときは、うまくいくよ。

●子どもたちへ

大切なことは、心を解き放つこと! 空に向
かってね。モヤモヤしたら……。重苦しく感
じたら……。行きづまりを覚えたら……。体
はあとから、ついてくるって、昔、ぼくの友
人が、いつも、そう言っていたよ。

好きだったら、好きだと言おうよ。いやだっ
たら、いやと言おうよ。飾ることはないよ、
ね。ウソをつくことはないよ。

自分をごまかせばごまかすほど、疲れるよ。
ウソをつけばつくほど、もっと疲れるよ。で
も、それだけでは、すまないよ。

自分をごまかせばごまかすほど、見苦しくな
るよ。ウソをつけばつくほど、見苦しくなる
よ。英語にも、『正直こそ、最善』という格言
が、あるよ。どんなことでもね、正直である
ことが、一番いいということさ。

だから、……ごまかそうとか、ウソをつこう
かと迷ったら、この言葉を思い出してよ。そ
うすれば、おのずと答えが出てくるよ。そし
て、ね。思い切って正直に、話してみてごら
ん。思い切って正直に、生きてみてごらん。
そうするとね、心の中を、スーッと風が通る
のを感ずるよ。とっても気持ちのよい風が、
ね。

そうそうひとつ言い忘れたけど、自分を飾る
のもよくないよ。大切なのは、中身。中身だ
よ。もっとわかりやすく言えば、「これがぼく
だ」「これが私よ」と、相手に誇れるもの! こ
の実力がないと、せっかく実った恋でも、長
つづきしないよ。相手の人がね、「なんだ、こ
の人は、こんな人だったんだ」と思ったら、
それで恋も、お・し・ま・い。フラれるのも
つらいけど、相手の人に飽きられることは、
もっとつらいことだよ。これはぼくの経験だ
よ。ハハハ。

(4)将来のこと

●たった一度の人生だから

たった一度しかない人生だから、思う存分、
生きてみようよ。
海は広いんだ、空は広いんだ、宇宙は、もっ
と広いんだ。
だれにも遠慮することは、ない。何も恐れる
ことはない。
心を解き放とうよ。
海に向かって、空に向かって、宇宙に向かっ
て。
体はあとからついてくる。

でもね、自由に生きるということは、そんな
に楽なことではないよ。
「自由」というのはね、もともと「自らに由
(よ)る」という意味だよ。
自分で考えて、自分で行動して、そして自分
で責任をとるということ。
だから自由でいるということは、とってもき
びしいことだよ。

ちっぽけな肩書きや地位に満足してはいけな
いよ。
名誉や名声を、先に求めてはいけないよ。
そんなことをすれば、君の人生は、見苦しく
なるだけ。
つまらなくなるだけ。
今やるべきことを、懸命にやろう。
それでいいのさ。
人がどう思うと、そんなこと気にしてはいけ
ない。
君の人生は、どこまでいっても、君のもの。
だれのものでもない。君のもの。だから思う
存分、生きてみようよ。

君を判断するのは、君自身だよ。ほかのだれ
でもない。君自身だよ。
そういう意味でもね、自由に生きるというこ
とは、孤独なことだよ。
勇気がいることだよ。
でもね、結局はそのほうが、自分の人生を生
きることになるんだよ。

●子どもたちへ

人間に上下はないよ。仕事にも上下はないよ。
君がしたい仕事。君がしなければならない仕
事。君ができる仕事。それをさがせばいい。

方法は簡単。まず、どんなことをしていると
きが、いちばん楽しいか、それを知ればいい。
つぎに何をしたいか、それを知ればいい。そ
してその中から、自分ができることを、さが
していく……。するとね、その中に、キラリ
と光るものを、君は見つけるはず。つまりね、
それが君の仕事!

そして、ね、一度それを見つけたら、それを
一生かかってするんだよ。人が何と言おうが、
気にすることはない。気にしてはだめだ。君
は君の道を信じて、まっすぐ前に進めばいい。

大切なことは、プロになること。「これだけは
ぜったいに、だれにも負けない」というプロ
になること。プロになって、それを一生、つ
づけること。そのプロをめざそうね。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

【子どもの人格論】(特集)

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。
 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。
 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。
 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まっ
て、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容
体が形成されるかによって決まる。たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それ
ぞれ別の受容体が形成されることがわかっている。
 では、どうするか? そこでEQ論の登場ということになる。

●EQ論

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional 
Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。
(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性
 この中でとくに重要なのが、(1)の自己管理能力ということになる。その自己管理能力は、ど
こまで(1)自分で考え、(2)自分で行動し、(3)自分で責任を取るかによって決まる。
 アメリカでは、どこの小学校に行っても、ドアのところなどに、「Independent・・・」
という言葉が張ってある。「独立した……」という意味である。「Independent Thinker(自分で考
える人)」というような使い方をする。
 では、あなたの子どもは、どうか?

●子どもの人格テスト(自己管理能力)

(A)小遣いを手にしたとき、将来の自分の夢を達成するために、それを貯金に回す。あるいは
ささいなことでも、ルールを守り、約束を守る。疲れていても、家事の手伝いなど、やるべきこと
は、きちんとやる。
(B)小遣いを手にしても、そのときどきに欲しいものがあると、使ってしまう。家庭の中でもルー
ルなど、あってないようなもの。約束を守るということは、まずない。「疲れている」「やりたくな
い」という言葉をよく使い、家事を手伝わない。
 (A)のようであれば、あなたは自分の子どもを、「すばらしい子ども」と自信をもってよい。

+++++++++++++++++

●最後に5つの提言

(1)「許して、忘れる」
 親の愛の深さは、どこまで子どもを許して忘れるかで、決まる。英語では、『for・give & for・
get 』という。
 この単語をよく見ると、「与えるために、許し、得るために忘れる」とも訳せる。(forgive= 許
す、 forget=忘れる。「フォ・ギブは、与えるため」、「フォ・ゲッは、得るため」とも訳せる。)
 子どもに愛を与えるために、親は許し、子どもから愛を得るために、親は忘れるということに
なる。
 子育てをしていて、袋小路に入り、行きづまりを覚えたら、この言葉を思い出してほしい。心
が軽くなるはずである

(2)子どもの横を歩く
親には、三つの役目がある。ガイドとして、前を歩く。プロテクター(保護者)として、うしろを歩
く。そして友として、子どもの横を歩く。
 いつも子どもの意思を確かめること。(したいこと)と、(していること)が一致している子ども
は、どっしりと落ちついている。夢や希望もある。当然、目的があるから、誘惑にも強い

(3)ほどよい親である
 やりすぎない。子どもが求めてきたら、与えどきと考えて、そのときは、ていねいに答えてや
る。昔から『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。
 いつも、「子どもがそれを求めているか」ということを、自分に問いかけながら、子どもに対処
するとよい。手のかけすぎ、サービス過剰は、かえって、子ども自身が自ら伸びていく芽をつん
でしまうことになる。
 
(4)暖かい無視
 親の過剰期待、過関心、過干渉ほど、子どもの負担になるものはない。「まあ、うちの子は、
こんなもの。親が親だから……」という割りきりが、子どもを伸ばす。
 親は、いつも子どもから一歩退いた位置で、子どもを見守る。野生動物保護団体には、『暖
かい無視』という言葉がある。その言葉は、そのまま、子育てにも当てはまる。
 ちょっと心配のしすぎかな? 手のかけすぎかな? と、感じたら、心のどこかで、暖かい無
視を思い浮かべる。子どもを暖かい愛情で包みながら、無視する。

(5)使えば使うほど、よい子
使えば使うほど、子どもは、すばらしい子どもになる。家事、仕事、手伝いなど。身近なところ
から、どんどん、使う。
 使えば使うほど、子どもには忍耐力(いやなことをする力)が身につく。この力が、子どもを伸
ばす。もちろん学習面でも、伸びる。もともと学習には、ある種の苦痛がともなう。その苦痛を
乗りこえる力が、忍耐力ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

【EQ論からみた、子どもの世界】

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(246)

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(4)自己管理能力
(5)良好な対人関係
(6)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●欲望の根源

かつて、私もそうだった。あなたもそうだった。が、今、子どもの心の中では、猛烈な「性的エネ
ルギー」(フロイト)が、わき起こっている。「生的エネルギー」(ユング)でもよい。
 最近の研究によれば、脳の中の視床下部というところが、どうやらそういった信号の発信源
ということがわかってきた(サイエンス誌・08年)。その視床下部からの命令を受けて、ドーパミ
ンという脳間伝達物質が放出される。
 このドーパミンが、脳の中の線条体(報酬と行動要求に関する中枢部)というところを刺激す
ると、猛烈な(欲望)となって、その子ども(もちろんおとなも)を支配する。ふつうの反応ではな
い。最終的には、そうした欲望をコントロールするのが、大脳の前頭前野(理性の中枢部)とい
うことになる。が、「意志の力だけで、こうした衝動を克服するのはむずかしい」(N・D・ボルコ
フ)という。
 線条体が刺激を受けると、「あなたは、目的達成に向けた行動を起こせというメッセージを受
けとる」(同誌)。
 もちろん欲望といっても、その内容はさまざま。食欲、性欲、生存欲、物欲、支配欲に始まっ
て、もろもろの快楽追求もその中に含まれる。わかりやすく言えば、脳の中で、どのような受容
体が形成されるかによって決まる。たとえばアルコール中毒患者やニコチン中毒患者は、それ
ぞれ別の受容体が形成されることがわかっている。
 では、どうするか? そこでEQ論の登場ということになる。

●EQ論

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional 
Intelligence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。
(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性
 この中でとくに重要なのが、(1)の自己管理能力ということになる。その自己管理能力は、ど
こまで(1)自分で考え、(2)自分で行動し、(3)自分で責任を取るかによって決まる。
 アメリカでは、どこの小学校に行っても、ドアのところなどに、「Independent・・・」
という言葉が張ってある。「独立した……」という意味である。「Independent Thinker(自分で考
える人)」というような使い方をする。
 では、あなたの子どもは、どうか?

●子どもの人格テスト(自己管理能力)

(A)小遣いを手にしたとき、将来の自分の夢を達成するために、それを貯金に回す。あるいは
ささいなことでも、ルールを守り、約束を守る。疲れていても、家事の手伝いなど、やるべきこと
は、きちんとやる。
(B)小遣いを手にしても、そのときどきに欲しいものがあると、使ってしまう。家庭の中でもルー
ルなど、あってないようなもの。約束を守るということは、まずない。「疲れている」「やりたくな
い」という言葉をよく使い、家事を手伝わない。
 (A)のようであれば、あなたは自分の子どもを、「すばらしい子ども」と自信をもってよい。(つ
づく)

●常識を大切に

魚は陸にあがらないよね。
鳥は水の中に入らないよね。
そんなことをすれば死んでしまうこと、
みんな、知っているからね。
そういうのを常識って、言うんだよね。

みんなもね、自分の心に
静かに耳を傾けてみてごらん。
きっとその常識の声が、聞こえてくるよ。
してはいけないこと、
しなければならないこと、
それを教えてくれるよ。

ほかの人へのやさしさや思いやりは、
ここちよい響きがするだろ。
ほかの人を裏切ったり、
いじめたりすることは、
いやな響きがするだろ。
みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
あとはその常識に従えばいい。
だってね、人間はね、
その常識のおかげで、
何十万年もの間、生きてきたんだもの。
これからもその常識に従えばね、
みんな仲よく、生きられるよ。
わかったかな。

そういう自分自身の常識を、
もっともっとみがいて、
そしてそれを、大切にしようね。

●それから10年
 この詩を書いてから、もう10年になる。と、同時に、この10年の間の脳科学の進歩には、め
ざましいものがある。ポジトロンCTや、ファンクショナルMRIなどという装置を使うと、脳の活動
がリアルタイムでわかるという。
 で、最近では、善悪の価値判断すらも、脳の一部が分担していることがわかってきた。
 たとえば 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるの
が、大脳辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬も
この中にあるが、ほかに動機づけを決める帯状回という組織、価値判断をする扁桃核などが
あるという(伊藤正男・日本実業出版社「脳のしくみ」)。
つまり「善悪の価値判断」も、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明される
ようになってきている。
 たとえば人に親切にしたり、やさしくしたりすると、そのシグナルは、扁桃核に伝えられ、そこ
で扁桃核は、モルヒネ様の物質(エンドロフィン、エンケファリン)を放出する。脳の中を、甘い
陶酔感で満たす。
 そして子どもは、(おとなもそうだが…)、「人に親切にしたり、やさしくしたりすることは、気持
のよいことだ」と知る。
 そしてさらに言えば、こうした一連の反応は、「条件づけ反応」によって、条件づけされやすい
ということまでわかってきている(ND・ボルコフ・「サイエンス・07・12」)。
 つまりそれを習慣化することによって、やさしい子どもは、ますますやさしくなり、親切な子ども
は、ますます親切になる。
 詩の中に書いた、「ほかの人へのやさしさや思いやりは、ここちよい響きがするだろ」の意味
がわかってもらえば、うれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 常識 常識論 扁桃核 扁桃
体)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2726)

●木の箱

++++++++++++++++++H.Hayashi

教室に小さな木の箱があった。
どこかで宝石箱として買ったものだ。
それを小2のIさん(女児)が目ざとく見つけた。
「これ、何?」と。

++++++++++++++++++H.Hayashi

私「どこかの女の人がくれた箱だよ」
子「どこかの女の人って、だれ?」
私「いやね、少し前、海のそばを歩いていたら、子どもたちがカメをいじめていたんだ。それで
ね、ぼくが、『いじめてはだめだよ』と言って、カメを助けてあげたんだ。そしたらね、ある日、魚
を釣っていると、そのカメが大きくなってやってきた……」
子「それって、浦島太郎の話じゃん?」

私「あら、そう? ぼくは知らなかった。それでね、カメが背中に乗れというから、背中に乗った
んだよ」
子「竜宮城へ行ったんでしょ?」
私「そう、そんなような名前だったかな? そこでごちそうを食べたり、魚のダンスを見たり…
…。そのうち退屈になって、『帰る』と言ったら、その女の人が、おみやげにといって、この箱を
ぼくにくれた」
子「で、どうなったの?」
私「それで家に帰って、箱のふたを開けたらね、ぱっと白い煙が出てね……。

子「だから、それでそうなったの?」
私「見ればわかるだろ。こんなジイちゃんになってしまった」と。

私はその子の前で、自分の顔を指さして見せた。

子「おじいさんになってしまったんだア」
私「そうだよ。あっという間に、ね。……本当はぼくは、若い先生なんだよ」
子「ウソだあ……」
私「本当だよヨ〜」と。

浦島太郎については、諸説が氾濫している。
それについては以前に、詳しく書いたことがある。
で、私はその話をしながら、ふと心のどこかで、こう思った。
「時間の流れを煙にたとえたのは、すごい文学的才能だ」と。
そしてつづいて、「ぼくも、あっという間に、ジジイになってしまったなア」と。
まるで煙のように、自分の過去が消えてしまっている。
とくに記憶があいまいなのは、40代のころ。
夢中で仕事をしたのは覚えているが、これといった記憶が、あまり残っていない。
何かをしたはずなのに、実感として、それが残っていない。
どうしてだろう?

あるいはその反対に、今というこの時は、40代の上にあるはず。
しかし今の私は、20代のままのような気がする。
その間の進歩は、ゼロ。
むしろ人格も知力も、40代のころより劣っているかもしれない。
30代のころよりも、劣っているかもしれない。
いったい、私の40代は、どこに消えてしまったのか?
まるで煙のように……。

私「あの女の人が、こんな箱をくれるから、ぼくはジイさんになってしまった」
子「どこかの女の人じゃないわよ、乙姫様でしょ」
私「みやげなら、もう少しマシなものをくれればいい」
子「たとえば……?」
私「竜宮城饅頭とか、イルカ・パイとか……」
子「そんなものないわよ」
私「そうだね、ハハハ」と。

そのあと、その箱は、そのIさんにあげた。
手をパンパンとたたきながら、「さあ、始めるよ」と、掛け声をかけながら。


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●HP 2133

HP 2133(ハイスタンダード・モデル)を買って、ちょうど10日が過ぎた。
いろいろと使い勝手の悪いところが、目立つようになってきた。
そこで昨日、USB接続の外付けキーボードを購入してきた。
外付けキーボードは、キー幅が、19ミリ。
ふつうのデスクトップと同じ基準である。
とたん、使い勝手が、みちがえるほど向上した。
つまりふつうのデスクトップと同じになった。

「これならいける」とワイフに言うと、「フ〜ン」と。
今、その外付けキーボードを使って、この文章を書いている。


●パソコン未亡人
 
私がパソコンに夢中になるのは、私の勝手。
しかしこの世界には、「パソコン未亡人」という言葉がある。
夫がパソコンばかりに夢中になっていて、妻が、未亡人と同じような立場になることをいう。

で、たった今も、私はワイフにこう聞いた。

「……ぼくは、いつもパソコンばかり相手にしているから、退屈じゃないか?」と。

ワイフはそれに答えて、「あなたの趣味なんだから、いいんじゃないの」と。

が、私は、常に心がけていることがある。
原稿は、朝の早い時間か、夜の遅い時間に書く。
あるいはワイフが昼寝をしているときに書く。
そうでないときは、できるだけ、ワイフをひとりぼっちにしない、と。

私「ぼくはね、子どものころから、モノいじりをよくしていた」
ワ「今が、パソコンというわけ?」
私「それだけ、情緒が不安定だったんだろうね。モノをいじることで、自分の情緒を安定させよ
うとしていた。指しゃぶりや、若い女性の髪いじりと同じだよ」
ワ「いじっていると、どんな感じがするの?」
私「そうだなあ、若い女性のおっぱいをにぎっているような感じかな」
ワ「あら、握ったこと、あるの?」
私「ストリップ劇場なんかへ行くとね、向こうから握らせてくれるよ」と。

そんなわけで、私はパソコンを選ぶときは、キータッチの感触を、何よりも大切にしている。
たとえばあくまでも、これは私の印象だが、感触がよいのは、パナソニックのレッツ・ノート系。
キーを押したときの心地よさは、旧IBMのTHINK・PAD系。(現在は中国企業に買収されて、レ
ノボというメーカーになっている。)
HP 2133は、キーがスベスベしすぎて、どこかものたりない。
パンタグラフ形式のキー入力を採用しているが、クリック感がやさしすぎる。
キーボードをたたいていると、指先が、はがゆさを覚えることもある。
それで今回、外付けのキーボードにした。
こちらは日本語式キーボード。
Enterキーも大きく、たいへん使いやすい。
ということで、ここまで試しにキーを叩いてみた。

ワ「ところで、そういうストリッパーの人たちは、今ごろ、どうしているのかしら?」
私「ふつうのオバチャンになっていると思うよ」
ワ「若いころ、ストリッパーをしていたことを、何とも思っていないのかしら?」
私「思っていないよ。外国じゃあ、何でもない仕事だし……。何でもないというより、偏見をもっ
ちゃ、いけないよ。立派な職業だよ。ぼくのオーストラリアのガールフレンドなんかは、アルバイ
トに、ヌードモデルをしていたよ」
ワ「子どももいるのかしら?」
私「結婚していれば、子どももいるだろうね」
ワ「フ〜ン」と。

……これから昼食。
土曜日の午後。
今日も暑い!


●HPの改造

++++++++++++++++++H.Hayashi

現在、HPの更新を考えている。

(1)幼児教室の風景を、そのまま紹介する。
(2)無料電子マガジンの内容を、HP上に、直接、収録する。
(3)お楽しみコーナーをふやす。

もうすぐ、HPは、満6歳になる。
孫の誠司が生まれたとき、トップページをその写真で飾った。
それ以前も、実験的に制作していたが、本格的にHPの制作に取り組むようになったのは、そ
のときから。
以来、6年。
当時は、アクセス数は、多くても1日、10〜30件どまり。
それが今では、1日に、300〜500件を超えるようになった。
各ページへ直接ハイパーリンクしてくる人まで含めると、その数は、1000人を超えるかもしれ
ない。
あるいはもっと多いかも?
(実際、私のHP上の『音楽と私』コーナーには、毎日、500〜1000件ほどのアクセスがあ
る。)

この2月に、そのHPとBLOGへアクセスしてくる人の数を、合計してみた。
HPは、現在、6〜8か所で発行している。
それをリンクでつないでいる。
BLOGは、4〜5本、書いている。
その合計が、月に10万件を超えた。

加えて電子マガジンがある。
こちらのほうは、現在、読者数は頭打ちになっているが、それでも3000人。

毎月それだけ多くの人の目にとまっていると思うだけで、大きな励みになる。
そこでまたまた今度、私のHPを、大きく更新しようと考えている。
夜、床にはいってから、頭の中で、そのデザインを考えているだけで、楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2727)

●不安な子育てに悩む

+++++++++++++++

掲示板のほうへ、
こんな相談がありました。
毎日子育てをしながら、
不安でならない……。
そんな内容の投稿です。

+++++++++++++++

小学一年生(6歳)の娘と、私自身のことで毎日、戸惑っています。

私自身も自分の心に問題、(わがまま、恩着せがましい依存性など、幼児的願望が強い)を抱
えていることを自覚しています。まだ、それを克服することができず心の中で、のた打ち回って
いるのが現状です。

そのこともあり、娘には三歳まで私の母や姉、主人の手を借りて何とか一切怒ることはもちろ
ん、叱ることもせず過ごしました。(娘を出産した病院の院長先生に、三歳までは何があっても
怒ってはいけないと忠告されたためです。)

けれど、娘が四歳を過ぎてからそれまでのがまんが限界にきたのか、自分でもどうしようもなく
ヒステリックに娘に怒ることが多くなり、このままでは娘が壊れてしまうような危機感を感じてい
たところ、はやし先生のこのリンクに出会い、近ごろは娘と距離を置くようにしています。

ただ、そうすればそうするほど娘が私に、絡んでくるのです。例えば、ひらがなの『や』が、「これ
は『か』に見えるから直しなさい。」と言うと、「やだ、これでいい。」とか、「お母さんがこんな風に
教えた」とか、そこから始まり、その後の食事もお風呂もそれ以後ずっと機嫌が悪くなり、手が
つけられなくなるのです。

また、娘がふてくされていたり、つまらなそうな顔をしていても、その心をうまく汲み取れず、い
つもどおりに「帽子もちゃんと片付けなさい」など言ってしまい、それでもぐずぐずしている娘に、
「はやくしなさい」などと、追い討ちをかけてしまうのです。そうなると、その日はそれでもう何も
かも動かなくなるのです。

今朝娘が、「今日もお父さんは夜遅いから嫌だな、怒りんぼ母さんと一緒は嫌だ」と涙をためて
言う姿を見ると、私は私自身を蹴飛ばしてやりたい気持ちで一杯になりました。何故でしょう
か。気負いが強すぎるのでしょうか。

『1日1回、娘をゲラゲラ笑わせてやる』という私自身の目標も、全然実現しないし、本当に私は
娘に優しくないんです。いつも何かに追いかけられているような気がして、(ゆっくり)ができない
のです。

夕方娘と庭に水をまき、ゆっくり娘が育てているアサガを見ながら、冗談でも言ってゲラゲラ笑
いたいのに、「さ、早く手と足を洗って部屋に入ろう」などと言ってしまうのです。何か、いつも自
分がガツガツ急き立てられていて、心にゆとりがもてない。こんなことしていたら娘もそうなる。
だから「急き立てたり、『早くしなさい』を言わずにいよう」と、そう毎日心で唱えていても、極端な
話、口が勝手に言ってしまう感じで・・・その後、自己嫌悪で胸が苦しくなります。その繰り返しで
す。

娘に優しくゆったり接することができない私と、一度こじれたら修復できない娘のぐずぐず・・・。
『こんな母親死んでしまえ』と心で自分に怒鳴りつけているのですが、どうしていいのかわかりま
せん。

林先生がおっしゃる「一貫性」は本当に難しい、と言うより苦しいです。毎日、朝と学校から帰っ
てきたら、娘を抱きしめています。けれど、娘にしていることはそれだけです。私の心のどこを
どう整理をしたら、優しい母親、娘に優しく接することができる母親になるのか、私自身がわが
ままで、甘えているのは重々わっているのですが、何か一筋のくもの糸でもかまいません。何
か助言がありましたらどうか教えて下さい。お願いします。

【はやし浩司より、UNKNOWN様へ】

あなたを、Uさんとしておきます。
Uさん自身も、不幸にして不幸な家庭環境で、育っているとみてください。
「不安」の原因は何かわかりませんが、恐らくUさんが0〜2歳前後ごろ、その(種)ができたも
のと思われます。

Uさんからみて、安心して、のんびりと過ごせる家庭環境になかった。
とくに母子関係(Uさんと、Uさんの母親の関係)を疑ってみてください。
Uさんの母親もいつも不安で、その不安を、Uさんにぶつけていたと思います。
それが今の、Uさんのパニック障害(少し前まで、「不安神経症」と呼ばれていました)につなが
っていると考えられます。

(心の緊張感が取れないことを、以前は、不安神経症と呼んでいました。
いつも心は緊張状態にあって、その状態のところへ何らかの不安や心配が重なると、一気に、
緊張状態が加速され、そこでパニック状態になるというわけです。)

ショッキングなことを書きましたが、まずUさん自身の過去と、真正面から向き合うことが大切で
す。
Uさん自身の心の奥深くを、自分でのぞいてみることです。
この問題は、そういった問題があるということではなく、Uさん自身が、自分の過去に気づくこと
なく、その過去に振り回されるところに問題があります。

Uさんは、心豊かで、愛情に満ちた乳幼児期を過ごしましたか?
全幅の(さらけ出し)をしながら、幼児期を過ごしましたか?
恐らく、そうではなかったと思います。
Uさんは、親の前で、いつも(いい子)でいた(?)。

もっとはっきり言えば、あなた自身の中に、(母親像)が育っていないということです。
あるいはUさんは、いつも母親を拒絶してきたというケースも考えられます。
その結果が、「今」ということです。

この問題は、子どもの問題ではありません。
Uさん自身の中の、(不安)の問題です。
この(不安)がなくならないかぎり、Uさんは、つきからつぎへと自分で問題をつくり、それに振り
回されることになります。
取り越し苦労とぬか喜びの繰りかえし……というわけです。

で、さらに問題をほりさげると、何が、今、Uさんを不安にさせているかということになります。
もちろん子育てについての不安もあるでしょう。
家庭問題? 夫婦問題? 経済問題? 家族の問題?

こういうケースでは、夫の協力が不可欠です。
しかしUさんは、その協力をじゅうぶん、得られず、それ故にさらに悶々と悩んでしまっていま
す。
袋小路に入ってしまっているのかもしれません。

実のところ私にも似たようなところがありますので、Uさんの精神状態がよく理解できます。
で、私のばあい、できるだけ食生活で、自分の心を安定させるようにしています。
海産物中心の献立にするなど。
Ca、Mg、Kが効果的です。
私の友人は、精神が不安定になると、いつもポケットからカルシウム剤を取り出して、ボリボリ
と口の中で、それをかんでいます。

あとは薬局で売っているハーブ系の安定剤を、よく口にします。
内科でも、副作用の少ない安定剤を処方してくれますので、一度、そういうところで相談なさっ
てみられたらどうでしょうか。
薬名はここでは書けませんが、私はときどき、それを2つに割って、口の中で溶かしながら、服
用することもあります。
(本当は1錠なのだそうですが、こうした精神薬は、いつも半分にして、口の中で溶かして服用
することにしています。
このあたりのことは、医師とよく相談して決めてください。)

Uさんにはつらいでしょうが、この問題は、これから先、一生つづきます。
たまたま今は、それが小1の子どもに向かっているだけ、ということです。
ではどうするか?

あとはそういう自分とうまくつきあうだけです。
「治そう」とか、「直そう」と思う必要はありません。
うまくつきあうのです。
みんな、どんな人でも、その程度のキズというか、トラウマというか、そういうものをもっていま
す。
Uさんだけが特別というわけではありません。
Uさんが言っておられるように、Uさんは、心配先行型、不安先行型の子育てをしています。
ちゃんとした(母親像)が入っていないため、どうしても気負いが強くなります。
「いい母親でいよう」という思いが強すぎるため、かえってそれが重荷になってしまうというわけ
です。
それが今のような、どこかギクシャクとした子育てにつながっている。

そういうときは、肩の力を抜くことです。
(本当は、Uさんが子育てから離れて、自分の好きなことをし、その結果として、子育てから離
れられるようにするのが、よいですが……。)

「ほどよい親」「暖かい無視」を繰りかえしながら、あなたはあなたで、好きなことをすればよい
のです。
仮に子どもを愛せないなら、愛せないでも構わないのです。
実際、約10%の母親たちは、(10%ですよ!)、子どもを愛せないということも、わかっていま
す。
万事、自然体で、子育てをすればよいのです。
頭の中で、「こうでなくてはいけない」とか、「そうであってはいけない」とか、思う必要はないので
す。
「子どもを愛せないから、私は失格人間」と思う必要もありません。

あなたはあなた。
子どもは子ども。

毎日、学校から帰ってきた子どもを抱く……それだけでじゅうぶん、Uさんは、すばらしい母親
です。
私など、一度も、そういうことはありませんでした。
あとは「求めてきたときが、与えどき」と心得てください。
Uさんの子どもが何かを求めてきたら、すかさず、与える。
それでよいのです。

それから投稿にありました、子どもの反抗ですが、この時期の子どもに、ごくふつうに見られる
反抗ですから、気にしてはいけません。
いわゆる(口答え)です。
(幼児期から、少年少女期への移行期に見られる、ふつうの口答えです。)
いちいち本気にするから、おおげさになってしまいます。
(このあたりにも、あなた自身の母親像のなさが、見受けられます。)

私の書いた原稿で参考になるようなものとしては、(好意の返報性)(親像)(育児ノイローゼ)
(悪玉親意識)(気負い先行型)などがあります。
ヤフーなどの検索エンジンを使って、「はやし浩司 好意の返報性」というように検索してみてく
ださい。記事をいくつかヒットできるはずです。

Uさん、あなたはすばらしい母親ですよ。
これほどまでに、自分をみつめ、真剣に悩む母親は、そうはいない。
まず、そういうあなた自身に自信をもってください。
その自信が、あなたの子どもに伝わったとき、あなたの子どももまた、安心感をあたなにもつよ
うになるでしょう。

どのみち、あと2、3年で、あなたの子どもは、親離れを始めます。
今はがまんのとき。
じょうずに子どもが親離れできるように、子どもをし向けます。

繰りかえしますが、Uさんが今経験しているような、親子騒動(?)は、珍しくも何ともありませ
ん。
ごくふつうの、一般の親たちが経験する、何でもない問題です。
(みんな、外から見ると、うまくやっているように見えますが、そう見えるだけです。)
できれば小学2、3年の子どもをもつ親に相談してみることです。
「うちもそうですよ」というようなアドバイスをもらって、たいていそれで解決するはずです。

そしてここが大切ですが、Uさんも子どもが親離れするのに合わせて、自分のしたいことを追求
します。
あなたにはあなたの人生があります。
子どものために犠牲になるのは、美徳でも何でもありません。
そういう姿を見て、あなたの子どももまた、たくましく成長していきます。

子どもの機嫌など、取らないこと。
嫌われてもいいじゃないですか。
中学生でも、約60%の子どもは、「親のようになりたくない」「尊敬できない」と答えていますよ。

それでよいのです。
子育てに幻想をいだかないこと。
子どもに尊敬されようとか、好きになってもらおうとか、思わないこと。
それともあなたは、自分の母親や父親を尊敬していますか。
好きですか。
文面を読むかぎり、答は「ノー」のはずです。

ついでに「はやし浩司 レット・イット・ビー」という原稿も読んでみてください。
参考になると思います。
(たった今、自分で検索してみたら、18件、ヒットしました。)

「レット・イット・ビー」というのは、「あるがままに……」という意味です。

では、また。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2728)

●バスガイドについて

++++++++++++++

このところ観光バス会社が
運営する、バスツアー客が
ふえているという。
安全で、値段も手ごろ。
とくに60歳以上の人に
とっては、バスツアーは、
ありがたい。
目的地まで、私たちを、
そのまま運んでくれる。

が、そのバスツアーには、
バスガイドはつきもの。
しかし今、そのバスガイドの世界に
に異変が起きつつある。

産経新聞は、つぎのように
伝える(7月20日)。

『……後部座席のシートベルト着用が義務づけられた、6月の道交法改正から1カ月半が過
ぎ、観光バスのバスガイドに変化が生じている。シートベルトの着用が義務化されたことで、
「右に見えますのは…」と案内するおなじみのスタイルを変更する会社が出始めた』と。

私自身は、バスガイドは
不要と考えている。
とくに私たち夫婦のように、
月、1、2回ほど、利用している
者にとっては、そうである。

理由の第一。
「無駄なおしゃべりが多すぎる」。

たとえば浜松市から西へ向かう
バスに乗ると、かならずといって
よいほど、揖斐川のところでは、
定番の(養老の滝)に話になる。

以前は、そういう話を毎回
聞かされた。
(ここ3、4か月ほどは、養老の
滝の話は、聞かなくなったが……。)

あとは見ればわかるような話
ばかり。
あるいは聞いても、すぐ忘れるような
話ばかり。

「車が渋滞し始めましたね……
事故でしょうか……事故ですね……
警察のライトが見えてきました……
事故ですね……」と。

もちろん重要な話もある。

シートの倒し方、後部座席の人に
そのときは、一言、許可を求める
とか、など。

そういう話なら、飛行機の中での
ように、ビデオ化すればよい。
バスに乗ったら、すぐそのビデオを
流せばよい。

ついでにこんな文言も入れて
ほしい。

「せっかくのご旅行ですが、中には
静かな旅を望んでいる方も
いらっしゃいますから、お互いの会話は
まわりの方のことも考えて静かに
なさってくださいね」とか。

(映画館での冒頭の注意事項をまねた
ビデオにすればよい。)

30〜40人もいると、たいてい
中には、数組、ギャーギャー、
ワイワイ、ゲラゲラとあたり構わず、
騒ぐ人たちがいる。

しかも大声で!

そういう人たちがいかに、ほかの
乗客の迷惑になっているか。

が、それ以上にうるさいのが、
バスガイドの独り言。
中には、前列付近、3〜5列までの
人たちと、マイクを使って、
会話をしているガイドもいる。

おまけにいつもボリュームは最大。
そういう声がガンガンと耳に響く。

(注文)

「全国のみやげもの、ナンバーワンが
どうのこうの」とか、「高速道路がどうの
こうの」とか、そういう話は、まったく
無用。

また地元のBツアーのばあい、帰りには、
かならずといってよいほど、ビデオを
流す。

定番は、釣りバカ日誌。
あるいはその類の邦画。
釣りバカ日誌・能登編は、そんなわけで、
私は3回も見させられた!
(4回かもしれない。)

どうして軽音楽ではだめなのか。
市内を走るバスは、交差点では
エンジンオフになる。
そのとき軽音楽を流す。

私たちが聞きたいのは、そういう
音楽である。

つまり若いガイドから見れば、老人は
みなバカに見えるかもしれない。
しかし私たちから見ると、若いガイドが
みなバカに見える。

そうしたたがいの思いちがいが、とても
残念なことに、バスツアーの(質)を
落としている。

バスガイドの質を落とし、客の質を
落とす……。

オーストラリアでもアメリカでも、
観光バスに乗ると、乗客たちは、
本を読んだり、音楽を聞いたりしている。
パソコンをたたいている乗客すらいる。

ガイドは、たいてい運転手がしてくれる。
しかし無駄なことは言わない。
言っても、人を笑わせるような、機知に
富んだジョークが多い。

では、どうするか?

産経新聞は、バスガイドが立って話をするのが
できなくなると、書いている。

だったら、カメラをつけて、モニターに
流せばよい。
しかしそれとて、あいさつ程度にして
ほしい。
大音響で、キャッキャッ、ワイワイと
やられたら、せっかっくの旅も
台なしになってしまう。

昔は、あのBツアーも、タバコの煙と、
カラオケが定番だった。
今は、バスガイドのおしゃべりが定番。
しかしそれもやがて、なくなるだろう。
なくなって当然。

もちろん先ほども書いたように、必要な
情報もある。

時刻の指定とか、集合場所の連絡など。
それはそれとして、きちんとしてほしい。
問題は、バスガイドの意味のないおしゃべり
である。

産経新聞は、つぎのようにも書いている。

『同社営業部の青木憲之次長は「バスの燃料となる軽油価格も高騰している」と指摘したうえ
で、「今後価格を上げざるを得ない状況になったとき、バスガイドは要らないというお客さまが
増えるのではないか」と不安げだ』と。

目的地でのガイドは必要かもしれない。
しかしたとえば高速道路を走っている
ときの、あのガイドは、まったく不要。

さらに若い人はともかくも、帰りの
道中になると、大半の人は、もうクタクタ。
60歳以上にもなると、昼寝を日課にして
いる人も多い。

「静かに休ませてほしい」と願っているのは、
けっして私たち夫婦だけではないだろう。

そうそう、ケアセンター(特別養護老人ホーム)
へ行くと、一日中、テレビがかけっぱなしに
なっている。
「テレビを見せておけば、老人は
退屈しないだろう」という発想による。

どうかどうか、私たち乗客を、ケアセンターの
老人と同じにしないでほしい。

(要望)

●バスガイドの仕事は、おしゃべりではなく、
サービスである。

お茶のサービスを、2回から、3回にふやして
ほしい。
あるいは口ではなく、体を使ったサービスを
もっと考えてほしい。

たとえばシート間を回りながら、客の
要望や状態を、こまめに聞いたり見たり
するなど。

マイクを使って、いっせいに、「クーラー
はいかがですか?」ではなく、ひとつずつの
席を回りながら、「寒くありませんか」
「気分はいかがですか」「マイクの音量は
どうですか」と聞いて回る、などなど。

ひどいときは、みなが、グーグーと眠って
いるようなとき、「ビデオでもかけましょうか」
「どれにするか、採決で決めます」と、
突然、言い出す。

そういう(気配り)が、残念ながら、
地元の観光バス会社には、ない。
まったく、ない。

●ビデオはまったく、不要である。

ひところ昔のカラオケが、ビデオに
なった。
しかし見たい映画などというのは、個人の
好みによって、大きくちがう。
しかもたいてい安っぽい邦画。
そういうものを否応なしに見せつけられる
乗客は、まるで拷問にあうようなもの。

もし見せるなら、音声のない、(あるいは
BGMに音楽だけの)、ビデオのほうがよい。

以前だが、一度だけ、各地の山岳めぐりの
ビデオをバスの中で見たことがある。
ああいうのだったら、ほとんどの乗客に
受け入れられるのでは?
(眠っていたい人は、眠っていられる。)

そうした不快感を、どうか、理解してほしい。

ともかくも、私たちは小学生や中学生
ではない。
バスガイドよりも、はるかに多くの
人生経験と、旅の経験を積んだ、熟年
である。

その地にまつわる、「詩」を朗読するとか、
バスガイドも、もっと勉強すべきではないか。

長野でそのあたりへ行ったら、「千曲川旅情」の
一節でも読むとか……。

それを「天気はどうでしょうか」「今朝の
予報によれば、晴だそうですね」「晴れる
といいですね」……「昼食はバイキングです」
「バイキングって、ご存知ですか」「時間制限が
あるんですね」と。

バスガイドのあの無駄なおしゃべりが
なくなったら、私は、月2回の利用を、
3回にしてもよい。

約束する。

(この原稿は、地元のBツアーの掲示板に、そのまま転載しておく。
Bツアーの営業部のみなさん、よろしく!)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2729)

●水産物自給率(Fishery Basic Law)

++++++++++++++++

少し前、燃料費高騰により、全国の
漁船、約20万隻が、操業を停止した。
ストライキに打って出た。

「採算が合わなくなったから、政府が
燃料費を補填(ほてん)しろ」と。

常識で考えれば、こんなおかしな話は
ない。
そこで私なりに調べてみたら、やはり
日本の水産業も、政府の補助金漬けに
なっているのがわかった。
その根拠となっているのが、1999年
12月に制定された、「水産基本法」。

これによって政府は、「漁業生産の現象と自給率
の低下、従業者の減少と高齢化」の問題
を解決しようとした。

「水産物の安定供給の確保と水産業の
健全な発展を図るという基本的理念の
もと、漁業のみならず、加工・流通などの
関連産業も含めた水産業全体の振興を
図る」と。

その結果、

(1)自給率目標を盛り込んだ水産基本計画の
策定。

(2)水産資源の管理と持続的利用。

(3)担い手育成、漁業経営支援。

(4)漁村、水産基盤整備などの施策が、
矢継ぎ早に、実行に移された(以上、参考、
IMIDAS 2005)。

2000年の段階で、水産物自給率は、
約53%。
それをこの計画によって、2012年までに、
魚介類で、66%にまで高めようというもの
だった。

それ自体は、悪いことではない。
食糧の自給率を高めることは、国の政策として
柱にすべきことがらである。

では、現状ははどうか?

2005年……57%
2006年……59%(農水省資料、2007年)

が、「自給率があがった」と思うのは、
ちょっと待ってほしい。

水産物自給率は、「水産物消費に占める国産水産物の割合であるが、算式的には、生産から
輸入超過を引いて、在庫変動を加味した上で、消費量で割って計算される」(社会実情データ
実録)とのこと。

つまり消費量が減れば経るほど、自給率は高くなる
ということになる。
が、ご存知のように、このところ魚類を
食べる人たちが、少なくなってきた。
2001年をピークに、水産物(=魚介類)
の消費量は、約8800トンから、2006年の
7300トンへと、減少している(同)。

同じように生産量、輸入量も、減少傾向にある。

私自身は、魚派で、肉類は、ほとんど口にしない。
だからこういう統計を見ると、「では、いったい、
日本人は何を食べているのか」と、ふと考えて
しまう。

もちろんその分だけ、日本人の食生活が、
ますます欧米化していることを意味する。

で、その分だけ、先にも書いたように、
水産物自給率は、高くなる。
ひょっとしたら、2012年までに、66%
を達成できるかもしれない。

しかしこうした基本法に基づく、補助金行政は、
まさに両刃の剣。
一方で水産業を支えることになるかもしれないが、
それから生まれる弊害もある。
いわゆる(依存性)の問題である。

水産業については知らないが、農業分野に
おいては、今や補助金なくして、農業そのものが
成り立たない。
と、同時に、農家の人たちは、補助金をアテにして、
自助努力をしなくなってしまった。

以前書いた、このあたりのミカン農家についての
原稿をここに載せる。

もともとは日本人の職業意識について書いた
原稿である。
やや趣旨が脱線するかもしれないが、許して
ほしい。

+++++++++++++++

【日本の農業+教育事情】

++++++++++++++++++

横浜に住む友人のM氏が、山荘に泊まりながら、こんな話をしてくれた。
それに私見も加えながら、メモとして、ここに記録する。

M氏は、日本でも最大手の食品会社の部長という重職を経て、
今は、東京にあるT社の事業開発室の室長をしている。
東京都内に流通する果物の60%は、彼の管轄下にあるという。

+++++++++++++++++

●山荘で

 山荘の周辺は、少し前までは、豊かなミカン畑に包まれていた。しかしここ5〜10年のあい
だ、減反につづく減反で、そのミカン畑が、どんどんと姿を消した。

 理由は、この静岡県のばあい、(1)産地競争に負けた、(2)ミカンの消費量が減少した、
(3)農業従業者が高齢化した、それに(4)外国からの輸入ミカンとの価格競争に負けた。加え
て、この静岡県の人たちには、「どうしても農業をしなければならない」という切実感がない。

とくにこの浜松市は、農業都市というよりは、工業都市。それなりに栄えている。「農業がだめ
なら、工場で働けばいい」という考え方をする。

 産地競争というのは、この静岡県は、愛媛県、熊本県との競争のことをいう。ミカンは暖かい
地方から先に、出荷される。静岡県のミカンは、季節がら、どうしても出荷が遅れる。遅れた分
だけ、価格がさがる。だからどうしても価格競争に負ける。

 ミカンの消費量が減ったのは、それだけミカンを食べなくなったということ。「皮をむくのがめ
んどう」と言う人さえいる。皮をむくことで、「手が汚れる(?)からいやだ」という人さえいる。

 農業従事者の高齢化の問題もある。ミカン栽培は、基本的には、重労働。ほとんどのミカン
畑は中間山地にある。斜面の登りおりが、高齢化した農業従事者には、きつい。

 最後に、このところ、外国からの輸入が急増している。あのオーストラリアからでさえ、温州
(うんしゅう)ミカンを輸入しているという。

 そこで、静岡県のミカン産業は、どうしたらよいのかということになる。

●外国との競争

 オーストラリアでのミカン栽培は、そもそも規模がちがう。大農園で、大規模に栽培する。しか
も労働者は、中国人やベトナム人を使っている。もともと日本にミカンに勝ち目はない。

 本来なら日本も、その時期には、外国人労働者を入れて、生産費用を安くすべきだった。し
かし日本の農業、なかんずく農林省のグローバル化が遅れた。遅れたばかりか、むしろ、逆に
グローバル化に背を向けた。が、それだけではない。

 現在の農業は、まさに補助金づけ。それはそれで必要な制度だったかもしれないが、この半
世紀で、日本の農家は、自立するきびしさを、忘れてしまった。

このあたりの農家の人たちでさえ、顔をあわせると、どうすれば補助金を手に入れることがで
きるか、そればかりを話しあっている。

 ここでは省略するが、農家の補助金づけには、目にあまるものがある。農協(JA)という機関
が、その補助金の、たれ流し機関になっていると言っても、過言ではない。が、それ以上に、も
う一つ、深刻な問題がある。

 実は農業に従事する人たちの、レベルの問題がある。M氏は、「おおっぴらには言えない
が、しかしグローバルなものの考え方ができる人が、あまりにも少ない」(失礼! もちろん知
的レベルとか人格的レベルのことを言っているのではない。誤解のないように!)と。それを話
す前に、こんなことがあった。

●オーストラリアでは

 私が学生で、オーストラリアにいたころ、私は、休暇になると、友人の牧場に招待された。そ
こでのこと。友人の父親は、夕食後、私たちに、チェロを演奏して聞かせてくれた。彼の妻、つ
まり友人の母親は、アデレード大学の学士号を取得していた。

 私は、ほかにも大卒で、農業をしている人はいくらでもいた。私は、あくまでも1970年当時
のことだが、大卒の人が農業をしているという話は、この日本では聞いたことがなかった。だか
ら、この友人の両親の「質」の高さには驚いた。接客マナーは、日本の領事館の外交官より、
なめらかで、優雅だった!

 これには、本当に、驚いた!

 つまりこうした学識の高さというのが、オーストラリアの農業を支えている。が、とても残念なこ
とだが、日本には、それがない。(最近、若い農業経営者の中には、グローバルなものの見方
ができる人がふえてきているが……。)

 一方、この日本では、M氏の話によれば、戦前には、大学の農学部門にも、きわめてすぐれ
た研究者がいたという。しかし戦後、機械工業優先の社会風潮の中で、農学部門には目もくれ
ず、優秀な人材ほど、ほかの部門に流れてしまった。

 このことは、大卒の就職先についても、言える。

 私が学生のころでさえ、地方に残った若者たちは、負け組と考えられていた。その中でも、農
業を継いだ若者たちは、さらに負け組と考えられていた。たいへん失礼な言い方だとは思う
が、事実は事実。当時は、だれもが、そう考えていた。M氏は、さらにつづけてこう言った。

 「農繁期には、中国や東南アジアから、季節労働者を呼び、仕事を手伝ってもらえばよい。農
業を大規模化するため、産業化、工業化すればよい。

しかしそういうグローバルなものの見方や、経営的な考え方をすることができる人が、この世界
には、いない。それがこの日本の農業の、最大の問題だ」と。

●おかしな身分制度

 ところで江戸時代には、士農工商という身分制度があった。江戸時代の昔には、農業従事者
は、武士についで2番目の地位にあったという。それがどういうものであったかは、ただ頭の中
で想像するだけしかない。しかしまったく想像できないかといえば、そうでもない。

 私が、子どものころでさえ、「?」と思ったことがある。

私の実家は、自転車屋。士農工商の中でも、一番、下ということになる。それについて私は、
子どもながら、「どうして商人が、農家の人より下」と思ったのを覚えている。

 もちろん仕事に上下はない。あるはずもない。ないのだが、しかし私が子どものころには、は
っきりとした意識として、それがあった。「農業をする人は、商業をする人よりも、下」と。

 こうした社会的な偏見というか、意識の中で、日本の農業は、国際化の波に乗り遅れてしま
った。今の日本の農業は、国からそのつどカンフル注射を受けながら、かろうじて生きながらえ
ているといった感じになってしまった。それが実情である。

●職業観の是正 

 もう一つ、話が脱線するが、今でも、おかしな職業観をもっている人は、少なくない。私も、そ
うした職業観に、いやというほど、苦しめられた。

 私が「幼稚園で働いている」と話したとき、高校時代の担任のT氏は、こう言った。「林、お前
だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。

 近所のS氏も、酒の勢いを借りて、私にこう言ったことがある。「君は、学生運動か何かをして
いて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。

 私の母でさえ、「幼稚園の先生になる」と話したとき、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア」と、
電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。

 そういう時代だったし、今でも、そうした亡霊は、この日本にはびこっている。いないとは言わ
せない。つまりそういう亡霊が、私が子どものころには、もっと強くはびこっていた。農業従事者
を「下」に見たのは、そういう亡霊のなせるわざだった。

 が、もう、そういう時代ではない。またそういう時代であってはいけない。大卒のバリバリの学
士が、ミカン畑を経営しても、何もおかしくない。仕事で山から帰ってきたあと、ワイングラスを
片手に、モーツアルトの曲を聞いても、何もおかしくない。

●結論

 私は、M氏の話に耳を傾けながら、これは農業だけの問題ではない。静岡県だけの問題で
もない。日本人が、広くかかえる問題であると知った。もちろん教育の問題とも、関連してい
る。さらにその先では、日本独特の学歴社会とも結びついている。

 が、今、日本は、大きな歴史的転機(ターニング・ポイント)を迎えつつある。それはまさに「革
命」と言ってよいほどの、転機である。

 出世主義の崩壊。権威の崩壊。それにかわって、実力主義の台頭。

 そこであなた自身は、どうか、一度、あなた自身の心に、こう問いかけてみてほしい。

 「おかしな職業による上下意識をもっていないか」と。

 もしそうなら、さらに自分自身にこう問いかけてみてほしい。

 「本当に、その意識は正しいものであり、絶対的なものか」と。その問いかけが、日本中に広
がったとき、日本は、確実に変る。
(040509)

【追記】

 その人がもつ職業観というのは、恐らく思春期までにつくられるのではないか。職業観という
よりは、職業の上下観である。

 この日本には、(上の仕事)と、(下の仕事)がある。どの仕事が(上)で、どの仕事が(下)と
は書けないが、日本人のあなたなら、それをよく知っているはず。

 こうした職業の上下観は、一度、その人の中でつくられると、それを変えるのは、容易なこと
ではない。心境の大きな変化がないかぎり、そのまま一生の間、つづく。

 もっともこの問題は、あくまでも個人的なものだから、その人がそれでよいと言うのなら、それ
までのこと。しかしだからといって、その価値観を、つぎの世代に押しつけてはいけない。

 さてここでクエスチョン。

 もしあなたの子どもが、あなたが(下)と思っている仕事をしたいと言い出したら、そのとき、あ
なたは何と言うだろうか。そのことを、少しだけ、あなたの頭の中で、想像してみてほしい。

+++++++++++++++++

先ほども書いたように、これは農業の話。
おそらく水産業でも、同じようなことが
起きているはず。

そのひとつの証拠が、「燃料費の高騰を
補填せよ」という、そのストライキに
集約されている。

もしこんな論理がまかり通るなら、
トラック業者だって、タクシー業者だって、
同じストライキができるはず。
「ガソリン代があがったから、ガソリン代を
補填せよ」と。

「農業や漁業は別」と考える人もいる
かもしれないが、その分だけ、値段を
あげるという方法もないわけではない。

が、それについても、「値段をあげれば
外国から安い水産物が入ってきて、
日本の水産業は深刻な打撃を受ける」と
反論する人がいる。

しかし現実に、洋上取り引き(公海上で
外国の漁船から、直接魚介類を買う)が、
日常化している今、何が輸入か、という
ことになる。

私は「補填(ほてん)」という言葉を
聞いたとき、即座に、ドラ息子症候群の
ひとつを思い出した。

成績がさがった子どもが、ある日、
学校に向かってこう言う。

「成績がさがったのは、クーラーの
ない教室で、勉強させられたからだ。
その分だけ、得点を加算せよ」と。

話が飛躍したが、私が受けた印象は
それに近い。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 水産資源 水産基本法 日本の
水産業)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2730)

●竹島問題

+++++++++++++++++

今朝(7月21日)(月曜日)は、1時間ほどかけて、
竹島問題についてのBLOG、HPを読んでみた。
「竹島 領有権 歴史」で、検索した記事を
読んでみた。
詳しくは外務省ほか、何十もの団体が、この問題を
取り扱っているので、興味のある人は、そちらを
読んでみたらよい。

竹島は日本の領土なのか、それとも韓国の領土なのか。
結論から先に言えば、竹島は日本の領土である。
それが、私の得た結論ということになる。

それを韓国側は、過去の植民地政策とからめて、いわば
なし崩し的に、竹島を自国の領土として、既成事実化
しようとしている。
しかしそれ以前から、竹島は日本の領土であり、日本側
が管理管轄してきた。
ちゃんとした文書も残っている。

だからそのつど日本は、国際司法裁判所で話しあおう
と提案しつづけている。

が、どういうわけか、韓国側は、それを拒否、拒否、また拒否。
今に見る感情論だけを先行させて、ワーワー、ギャーギャー
と騒いでいる。

つまりこうした文書がしっかりと残っている以上、
日本側が教科書に、「竹島領有権」を明記するのは、
当然のことではないか。
しかし、韓国側は、それを「挑戦」と取る。
まさに過剰反応!
こうした過剰反応こそが、結局は、自国が不利な立場であることを
認めているようなもの。

本当に自国の領土であると信じて疑わないのなら、
もう少し、堂々としていることができるはず。

ところで話は変わるが、韓国のサムソンは、有機液晶パネルの
量産を、開始している。
「有機液晶パネル」というのは、もともと日本のソニーが
開発したものである。
どうして韓国のサムソンが、日本のメーカーに先立って、量産を
開始することができたのか?

「日本文化チャンネル・桜」サイトは、このあたりのいきさつを、
端的に説明している。
そのまま文だけを、紹介させてもらう。

++++++++++以下、日本文化チャンネル桜より++++++++++

アホのS(日本のメーカー)が、ますます凋落していく。
売国D会長は、逃げた。

(日本の)S社が、(韓国の)S社に、抜かれています。
文系のD会長になってから、ろくな新製品開発もしていないし、やったのは中高年リストラで、な
んとか利益確保をしたくらいだが、売り上げが減り続けるなか、それも限界にきて、辞任した。

国内他社メーカーが反対したのに、日本の液晶技術を韓国に売ってしまって、(韓国の)S社か
ら輸入するようになってしまったD会長は、(日本の)S社を、商社にしてしまった。

++++++++++以上、日本文化チャンネル桜より++++++++++

きびしい言葉が並ぶが、大筋はまちがっていない。
ソニーは、自社の技術を、韓国のサムソンに売ることによって、
生き延びようとした。
その結果が、今である。

韓国側に言わせれば、「ちゃんとした対価を支払って手に入れた技術だから、
文句はないはず」ということになる。
しかし日本の大会社には、大会社を超えた使命というものがある。
それだけ税金面などでの優遇政策を受けてきたではないか。
そういう使命を忘れて、日本の基本技術を、外国へ平気で売り飛ばしてしまう。
が、こんなことが許されてよいものか。
しかも相手は、日本にとっては、当時も今も、最悪の反日国家である。

液晶技術にしても、いったい、どれほどの技術が、ソニーを通して、
韓国へ流れたことか?

そこでこの日本も、遅らばせながら、反撃に出ることになった。
NIKKEI NETは、つぎのように伝える。

++++++++++以下、NIKKEI NET++++++++++

 東芝と松下電器産業は共同で、携帯電話などに使う高画質な中小型有機EL(エレクトロ・ル
ミネッセンス)パネルの本格的な量産に踏み切る。

2009年秋に石川県に新たな生産ラインを作り、月間100万枚(2.5型換算)生産する。同規模で
量産するのは国内で初。すでに量産体制に入っている韓国のサムスンSDIなどを追う。

東芝・松下は中小型でコスト低減や品質安定化の技術を磨き、テレビ用の大型パネルの量産
につなげる。 

 東芝が6割、松下が4割を出資するパネルメーカー、東芝松下ディスプレイテクノロジー(TM
D、東京・港)の石川工場(石川県川北町)に、150億円を投じて量産ラインを作る。当初は2―
3型前後の小型画面の製品を生産する。(08年7月21日)

++++++++++以上、NIKKEI NET++++++++++

負けるな、日本!
がんばれ、日本!、と書いたところで、再び竹島問題。

ゆくゆくは、この東アジアも、一つの「共和国」になる。
現在のEUのように、である。
またそうでもしないと、生き残ることはできない。

そういう長いビジョンに立てば、日比谷公園ほどの大きさしかない島くらいの
ことで、こうまで大騒ぎするほうが、おかしい。
おかしいが、残念ながら、韓国には、その度量はない。

朝日新聞社のセスナ機が近づいただけで、戦闘機を送ってくるような国である。
ならば日本は、日本で、「経済」という武器を使って、対抗するしかない。
ここにきて、現在のイ大統領も、反日感情をむきだしにしてきている。
日本が、これ以上、遠慮しなければならない理由はない。
いい子ぶる必要もない。

過去はともかくも、造船、鉄鋼、自動車、電子産業などなど。
今度は有機液晶産業。
この日本から奪えるものは、すべて奪っておきながら、「竹島が奪われた」は、ない。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2731)

●単位交換(どうして今ごろ?)(ERASMUS PROJECT)

+++++++++++++++++

EUでは、大学生たちが、自由に各大学間を
渡り歩いている。

日本でいえば、早稲田大学で1年間、履修。
翌年は、韓国の大邱大学で、1年間、留学。
それから中国の南京大学で、1年間、履修。
最後は、静岡大学で1年間履修して、そこで学位を
認められ、卒業……というようなことを、
平気でしている。

が、この日本でも、そういう動きが出てきた。
今朝(7月21日)の読売新聞は、つぎの
ように伝える。

+++++++++++++++++

+++++++++++以下、読売新聞より転載+++++++++++++++++

(読売新聞・7月21日)

アジア・太平洋地域で、単位互換制度を中心に大学生や教員の留学・交流を進める政府の
「アジア版エラスムス計画」の概要が20日、明らかになった。

 日本、中国、韓国と東南アジア諸国の大学間で来年秋にも試験的に事業を開始し、5年間で
最大約5000人の交流を目指す。全体で数十校程度の参加を見込んでいる。月内にも内閣
官房に有識者による研究会を設置し、具体策の検討を始める。

 12月にタイで開かれる東アジア首脳会議で、福田首相が各国に参加を呼びかける方向で調
整している。当面は日中韓3国を軸に計5、6か国でスタートさせ、東南アジア諸国連合(ASE
AN)諸国の参加を徐々に増やす。首相が東アジア首脳会議で提案する際、参加国で共同して
基金を設置する構想も明らかにする方針だ。

 その後、来年秋までに各国の実務者間で、参加大学や制度の詳細、予算などを協議する。
日本では、主要な国立大学や私立大学に参加を呼びかける。

 「エラスムス計画」は、欧州連合(EU、当時は欧州共同体)が1987年から実施しているもの
で、加盟国内の大学間で単位を相互互換できる制度。現在、EU加盟国と周辺のノルウェーな
ど約30か国の約2000校、学生約15万人と教員約2万人が参加している。複数の国の大学
を転学しても単位が取得でき、卒業が可能になることから、多数の参加者を獲得した。

「エラスムス」とは、制度の英語名の頭文字(ERASMUS)から名付けられた。

+++++++++++以上、読売新聞より転載+++++++++++++++++

日本の大学制度は、あまりにも閉鎖的すぎた。
鎖国主義。
一言で言えば、そういうことになる。

今度この日本でも、「エラスムス計画」なるものが、実行に移されようとしている。
しかしこんな制度は、1970年当時、私がオーストラリアの大学にいたときから、世界の常識だ
った。

だから同じ留学生たちと、こんな会話をしたことがある。

私が、各国の留学生たちに、「どうして日本へ留学しないのか?」と聞いたときのこと。
彼らは、みな、こう言った。
「日本へ留学しても、意味がないから」と。

たとえば日本で、医師免許や、建築士資格、会計士の資格などを取得しても、それぞれの自
国内ではもちろんのこと、日本以外の国々では通用しない。(現在も、基本的には、この構図
は変わっていない。)

一方、オーストラリアでそれぞれの資格を取れば、自国内でもそれぞれの資格が通用するの
みならず、(ただし国によって、追加的単位の取得が義務づけられているところはあるにはあっ
たが)、アメリカ、イギリス、カナダなど、主立った欧米諸国では、そのまま通用した。

大学での履修単位についても、そうである。

私の友人のD君にしても、メルボルン大学で2年間中国語を学んだあと、北京大学へ1年間留
学。帰国後は、4年生になり、1年間、再びメルボルン大学で学び、そのまま卒業している(19
70年当時)。

アメリカでは、それがもっと進んでいる!

……というような事実を、さておいて、今ごろ、「エラスムス計画」?
この読売新聞の記事だけを読むと、日本が率先して、単位の交換を申し出ているように見える
が、それはおかしい。
日本は、やっと重い腰をあげて、世界の常識の仲間に入ろうとしているだけ。
今ごろこんな提案をしても、ほかの国々の責任者たちは、こう言って笑うだろう。
「今ごろ?」「なぜ?」と。

むしろ立場は逆で、日本はこう言うべきである。
「どうか、あなたがたの仲間に、日本を加えてください」
「日本も、あなたがたの国の単位(資格)を認めますから」と。

世界の潮流から遅れること、半世紀!
文科省の門戸開放は、あまりにも遅すぎた!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 単位交換 エラスムス エラスム
ス計画 大学の開放 開放政策)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2732)

●下り坂を下るとき

++++++++++++++++++

それまでは前だけを見ながら、登りつめてきた道が、
50〜60歳になると、今度は、下り坂になる。
「下る」というよりは、「先細り」といったほうが、
正確かもしれない。
それまでの道が、突然、途切れ、その先が、暗い
モヤに包まれる。

そんなとき、自分にこう言って、問う。
「健康は、だいじょうぶか?」
「仕事は、だいじょうぶか?」と。

健康と仕事さえあれば、何とか生きていかれる。
夢や希望があれば、さらによい。
しかしぜいたくは言っておれない。
今、ここに生きているというだけでも、御の字。
「明日は何かあるかもしれない」と思えるだけでも、御の字。
ほかに何を望むことができるのか?
ほかに何ができるというのか?

ワイフはこう言う。
「私たちは幸せなほうよ」と。

そうかもしれない。
そうでないかもしれない。
こういうばあい、他人との比較は、あまり好きではない。
私たちより不幸な人たちは、いくらでもいる。
だからといって、私たちが幸福とは、思いたくない。

他人は他人。
私は私。
人、それぞれ。

で、こういうときは、自分にこう言って聞かせる。
「とにかくがんばるしかない」
「今日、できることを、やるしかない」
「どうせやるなら、懸命にやろう」と。

あとは、日々に、この繰りかえし。
繰りかえしながら、明日に、命をつなげていく。

人生は今は、下り坂。
あとはそれを認めて、あくせくせず生きていく。
とにかく(その日)が来るまで・・・。

この人生観、少し暗いかな・・・?


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●カルト

+++++++++++++++++

昨日も、G―BLOGへのアクセス数が、
1000件を超えた。
(G−BLOGだけだぞ!)
その分、コメントも、いろいろ寄せられた。

そのコメントを読みながら、ふとこんな
ことに気づいた。

+++++++++++++++++

まずAさん(文の感じからして、若い女性)
のコメント。

「S」というグループ・シンガーについて書いた
エッセーについて、(その「S」を批判したわけではないが)、
「結成した年月日がまちがっている」「あなたの
書いていることは、意味不明」と。

つまり一部がまちがっていることを理由に、
私の書いた原稿を、全否定している。

同じようなコメントだが、「あなたは武士道を否定
しているようだが、教育者として資格なし」
というのもあった。

このコメントも、やはり一部が気に入らない
ことを理由に、私のすべてを、全否定している。

こうした傾向……つまり、一部が気に入らないことを
理由に、ほかのすべてを否定するというのは、
カルト教団の信者によく見られる特徴の一つである。
「誇大視化」という。
「巨大視化」ともいう。

少し前だが、こう言ったある仏教系カルト教団の信者がいた。

「キリスト教はまちがっている。キリストは、最期は、
十字架に張りつけになっている。その無惨な死に方が、
キリスト教がまちがっているという証拠だ」と。

こうして考えてみると、(カルト)と呼ばれているものは、
何も信仰の世界だけの話ではないということになる。

ここにもある、そこにもある、どこにでもある。

……となると、もう一度、ここでカルトについての定義を
再確認しておかねばならない。

以前書いた原稿の中から、それをさがしてみる。

++++++++++++++++++++++

●誇大視化

 カルト教団の指導法には、いくつかの特徴がある。その一つが「誇大視化」。「巨大視化」と呼
ぶ人もいる。ささいな矛盾や、ささいなまちがいをとらえて、ことさらそれを大げさに問題にし、さ
らにその矛盾やまちがいを理由に、相手を否定するという手法である。

 しかしこうした手法は、何もカルト教団に限らない。教育カルトと呼ばれる団体でも、ごくふつ
うに見られる現象である。あるいは教育パパ、教育ママと呼ばれる人たちの間でも、ごくふつう
に見られる現象である。つい先日も、こんなことがあった。

 私はときどき、席を立ってフラフラ歩いている子どもに、こう言うことがある。「パンツにウンチ
がついているなら、立っていていい」と。もちろん冗談だし、そういう言い方のほうが、「座ってい
なさい」「立っていてはだめ」と言うより、ずっと楽しい(?)。そのときもそうだった。が、ここでハ
プニングが起きた。

そばにいた別の子どもが、その子ども(小二男児)のおしりに顔をうずめて、「クサイ!」と言っ
てしまったのだ。「先生、コイツのおしり、本当にクサイ!」と。

 で、そのときは皆が、それで笑ってすんだ。が、その夜、彼の父親から猛烈な抗議の電話が
かかってきた。「息子のパンツのウンチのことで、恥をかかせるとは、どういうことだ!」と。私
はただ平謝りに謝るしかなった。が、それで終わったわけではない。

それから3か月もたったある日のこと。その子どもが突然、私の教室をやめると言い出した。
見ると、父親からの手紙が添えられてあった。いわく、「お前は、教師として失格だ。あちこちで
講演をしているというが、今すぐ講演活動をやめろ。それでもお前は日本人か」と。

 ここまで否定されると、私とて黙ってはおれない。すぐ電話をすると、母親が出たが、母親
は、「すみません、すみません」と言うだけで、会話にならなかった。で、私のほうも、それです
ますしかなかったが、それがここでいう、「誇大視化」である。

たしかに私は失敗をした。しかしそういう失敗は、こういう世界ではつきもの。その失敗を恐れ
ていたら、教育そのものができない。教育といっても、基本的には人間関係で決まる。で、そう
いう一部の失敗をことさら大げさにとらえ、それでもって、相手を全否定する。ふつうの否定で
はない。全人格すら否定する。

 そういえば、あるカルト教団では、相手の顔色をみて、その人の全人格を判断するという。
「死に際の様子を見れば、その人の全生涯がわかる」と説く教団もある。それはまさに誇大視
化である。皆さんも、じゅうぶん、この誇大視化には、注意されたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 誇大
視 誇大視化 巨大視 巨大視化)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心を解き放て!

 今、人知れず、家庭内宗教戦争を繰り返している家庭は多い。たいていは夫が知らない間
に、妻がどこかのカルト教団に入信してしまうというケース。しかし一度こうなると、夫婦関係は
崩壊する。価値観の衝突というのはそういうもので、互いに妥協しない。

実際、妻に向かって「お前はだれの女房だ!」と叫んだ夫すらいた。その妻が明けても暮れて
も、「K先生、K先生」と言い出したからだ。夫(41歳)はこう言う。「ふだんはいい女房だと思う
のですが、基本的なところではわかりあえません。人生論や哲学的な話になると、『何を言って
いるの!』というような態度をして、私を無視します」と。では、どうするか?

 宗教にもいろいろある。しかしその中でも、カルトと呼ばれる宗教には、いくつかの特徴があ
る。

排他性(他の思想を否定する)、
情報の遮断性(他の思想を遮断する)、
組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)、
迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)、
利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。
巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する学
者もいる。

 信仰のし方としては、

催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)、
反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)、
隔離性(ほかの世界から隔離する)、
布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)、
献金の奨励(結局は金儲け?)、
妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)な
ど。

その結果、カルトやその信者は、一般社会から遊離し、ときに反社会的な行動をとることがあ
る。極端なケースでは、ミイラ化した死体を、「まだ生きている」と主張した団体、毒ガスや毒薬
を製造していた団体、さらに足の裏をみて、その人の運命や健康状態がわかると主張した団
体などがあった。

 人はそれぞれ、何かを求めて信仰する。しかしここで大切なことは、いくらその信仰を否定し
ても、その信仰とともに生きてきた人たち、なかんずくそのドラマまでは否定してはいけないと
いうこと。みな、それぞれの立場で、懸命に生きている。その懸命さを少しでも感じたら、それ
については謙虚でなければならない。「あなたはまちがっている」と言う必要はないし、また言っ
てはならない。私たちがせいぜいできることといえば、その人の立場になって、その人の悲しみ
や苦しみを共有することでしかない。

 冒頭のケースでも、妻が何かの宗教団体に身を寄せたからといって、その妻を責めても意味
はない。なぜ、妻がその宗教に身を寄せねばならなかったのかというところまで考えてはじめ
て、この問題は解決する。

「妻が勝手に入信したことにより、夫婦関係が破壊された」と言う人もいるが、妻が入信したと
き、すでにそのとき夫婦は崩壊状態にあったとみる。そんなわけで夫が信仰に反対すればす
るほど、夫婦関係はさらに崩壊する。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルト
の特徴 カルト カルト信仰の特徴 2006年11月記)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

これらの原稿の中で、とくに重要なのは、
つぎのところ。
少し、補足してみたい。

【カルトの特徴】

●全体的な特徴としては、

(1)排他性(他の思想を否定する)

「私は絶対正しい」と言いながら、その返す刀で、「あなたは絶対に
まちがっている」と切り返す。
他者との価値観の融和性がない。

(2)情報の遮断性(他の思想を遮断する)

他者との接触はもちろん、その教団に対して批判的な団体、もしくは
批判的な記事のある雑誌や本を、極端なまでに排斥する。
「接しただけで、地獄へ落ちる」と教える教団もある。

(3)組織信仰化(個人よりも組織の力を重要視する)

徹底した上位下達方式による組織を形成する。
そのため信者は、ロボット化されているとも気づかず、
ロボット化する。

(4)迷信性(外から見ると?、と思うようなことを信ずる)

常識をはずれた行為をしながら、それが常識からはずれている
ことさえ気づかない。
かなり前のことだが、電柱に巻いてあるコイルは、人間を殺すための
新兵器であると説いた教団もあった。
(電柱に巻いてあるコイルは、電設会社の人たちが、予備として、
そうしているだけである。)

(5)利益論とバチ論(信ずれば得をし、離れるとバチが当ると教える)など。

カルトは、たいてい利益論(これを信ずれば、こういう利益があると教える)と、
バチ論(信仰を途中でやめると、恐ろしいことになる)を、ペアにしている。

(6)巨大視化(自説を正当化するため、ささいな事例をことさらおおげさにとらえる)を指摘する
学者もいる。

一部のまちがいを理由に、その相手を完全に否定する。
極端な自己中心性が見られることもある。

●信仰のし方としては、

(1)催眠性(呪文を繰り返させ、思考能力を奪う)

(2)反復性(皆がよってたかって同じことを口にする)

(3)隔離性(ほかの世界から隔離する)

(4)布教の義務化(布教すればするほど利益があると教える)

(5)献金の奨励(結局は金儲け?)

(6)妄想性と攻撃性(自分たちを批判する人や団体をことさらおおげさに取りあげ、攻撃する)
など。

+++++++++++++++++

こうしたカルト性は、何も、カルト教団と呼ばれる、信仰団体だけに
見られるものではない。

「マルクス・レーニン主義」というのも、どこかカルト化している。
最近では、「血液型正確判定」「占星術」「スピリチュアルブーム」も、
どこかカルト化している。
ゲームについても、そうである。
さらに健康法についても、さまざまなカルト性が見られる。

批判めいたことをBLOGに書いたりすると、翌日、ドッと、攻撃的な
コメントが送られてくる。

こうしたカルト化と闘う、ゆいいつの方法は、(1)自分で考え、
(2)常識に従う、である。
できれば自分の考えを文章化してみるとよい。
文章化することによって、自分の考え方の欠陥や、矛盾を自分で知ること
ができる。

あとは、常識に従う。
もっとも、ここでいう常識というのは、世俗的な常識のことではない。
広い視野の常識というか、「おかしいものは、おかしい」と、すなおに
思う常識をいう。

そのために、常に、常識人であることに心がける。
日々に、いろいろな思想に触れ、日々に、いろいろな人の話を聞き、
日々に、音楽を聴き、本を読み、自分の住む世界を広めていく。

こうした努力を怠り、ふと油断したそのとき、私たちはそのままカルトの
世界に入ってしまう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist カルト カルト性 カルト化 狂信
 誇大視化 巨大視化)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2733)

●幸福は長く延ばして、使うもの

++++++++++++++++++H.Hayashi

幸福は、細いゴムひものようなもの。
幸福を感じたら、できるだけそれを長く、延ばして使う。
おそるおそる、慎重に、かつ、ていねいに延ばして使う。

++++++++++++++++++H.Hayashi

幸福というのは、どのみち、長続きしない。
不幸と不幸の間にあるもの。
それが幸福ということになる。

だから心のどこかで幸福を感じたら、できるだけそれを長く、延ばして使う。
あせってはいけない。
無理をしてもいけない。
まちがっても、コップの中の水を、ぐぐっと飲み干すようなことはしてはいけない。
少しずつ、少しずつ、あふれた水をなめるようにして飲む。

一方、不幸を感じたら、動いてはいけない。
ジタバタしてもいけない。
熊が冬眠するように、じっと穴の中で、時間が過ぎるのを待つ。
不幸は、夏の終わりの嵐のようなもの。
長くはつづかない。
長くつづくと思ってもいけない。

愚かな人ほど、(ヌカ喜び)と(取り越し苦労)の中で、自分を見失う。
幸福のヒモを、自ら、断ち切ってしまう。
不幸を、さらに倍加させてしまう。


●観光地

伊吹山へ行く途中、「醒井(さめがい)」という観光地に寄った。
中仙道の街道宿場町で、その街道に沿って流れる地蔵川が、
そのあたりでも名所になっている。

透明度の高い川で、川の中には、ちょうど梅香藻という川藻が、5ミリ前後の
小さな花を満開させていた。
それが陽光を浴びて、キラキラと輝く水に流されていた。
都会の観光客の人たちにとっては、たまらないほど魅力的な景色かもしれない。
古い板壁の家。
木の格子戸。
石垣で組んだ小川などなど。

しかし残念ながら、私には、そうではない。
私は同じような町に、生まれ育った。
むしろあまりにも似ていることに驚いた。
「M町(=私の故郷)そっくり」と、ワイフに何度か言った。

観光地は、それぞれの特色を売り物にして、観光客を集める。
私の故郷のM町は、「うだつの町」として、売り出している。
隣のS 町は、「刃物の町」として、売り出している。
しかし「うだつ」など、私にとっては、何でもない。
ただの瓦屋根。
珍しくも何ともない。

(うだつの説明は、あえて省略。)

むしろ、私は、玄関先で涼を取っていた70歳前後の男性のほうに
興味をひかれた。
コンクリートの階段のところで、両手を前にたらして座っていた。
私の祖父に似ていた。
視線が合うと、その男性が、「ごくろうさま」と言った。
私は「暑いですね」と答えた。
白いランニングシャツと、それがつくる人影の、くっきりとしたコントラストが
美しかった。

私の祖父も、暑いときは、そうして玄関先で涼を取っていた。
通りを歩く人たちに、気軽に声をかけていた。

おそらくその男性にすれば、「どうしてこんな町に……」と
思っているにちがいない。
私自身も、そうだった。
若いころ、観光客の人たちが私の町へくると、こう思った。
「何が楽しくて、こんなところへ来るのだろう?」と。
というのも、こうした古い町並みの中に住んでいる人たちは、
それほどその町を気に入っているわけではない。……と思う。
むしろ嫌っている人も多いはず。
(一方、『住めば都』という諺もあるにはあるが……。)
私のワイフにしても、ときどき遊びに行くのはよいとしても、
住むのは、ぜったいにいやと言っている。

家と家が隙間なく軒を並べ、しかも古いしきたりが、クサリの
ようにからんでいる。
その重苦しさ、息苦しさは、外からはわからない。

そう言えば、私の母なども父と結婚して、そのM町に70年近く
住んだが、認知症が始まるころから、M町の話をまったくしなくなってしまった。
記憶から、その部分がすっぽりと抜けたような状態になってしまっている。
醒井の町を歩きながら、そんなことを考えた。

そんなわけで、観光地としては、星1つの、★。
先日訪れた、近江八幡は、星3つの、★★★。
彦根城は、評価できない。
このあたりでお勧めの観光地としては、長浜がある。長浜は、星4つの、★★★★。


●伊吹山

「伊吹山」は、どうやら「いぶき・やま」と読むようだ。
パンフレットでは、みな、そうなっている。
私は子どものころから「いぶき・さん」と読んでいた。

その伊吹山。
標高は1377メートル。
中学2年生のときに登って以来、47年ぶり。
山小屋でしばらく時間をつぶしたが、女主人に、「40年前のままですか」
と聞くと、「ありましたよ」と。
「50年前のままですか」と聞くと、「ありましたよ」と。

とたん、なつかしさが、ぐぐっと胸の中に充満してきた。
私はその山小屋で仮眠を取り、翌朝のご来光を拝んだ。

ワイフに、「タイムスリップしたみたい」と言うと、
「よかったね」と。

伊吹山へ来てみて思い出したことが、いくつかある。
夜の山道を、ライトを照らしながら登ったこと。
その光の帯が、細く、長くつづいていたこと。
私たちは「ロッコー……何とか」と、掛け声をかけながら、
みなで山に登ったこと、など。

山小屋では、(現在は、床をはずされ、小屋全体がレストランに
なっていたが)、自分がどのあたりに眠ったかまで思い出した。

帰りは、みなで走りながら山道をくだった。
そんな思い出が断片的だが、つぎつぎとよみがえってきた。

山小屋でワイフは、伊吹牛乳というのを飲んだ。
私はソフトクリームをなめた。
なめながら、こんな話をした。

私「なあ、タイムスリップして、あのときのぼくに戻ったら、どうする?」
ワ「映画みたいね……」
私「そう映画みたいだ。……でね、中学生のぼくが、お前を訪ねていくという
話はどうだ?」
ワ「訪ねてきて、どうするの?」
私「ぼくは将来、君と結婚することになっていると告げる」
ワ「私、気味悪がって、逃げるかもしれないわ」

私「そうだな。……だったら、お前とぼくしか知らない話をすればいい」
ワ「なんて?」
私「一升瓶をもって、角の酒屋まで、酒や納豆を買いにきた話というのは
どうだ?」
ワ「私の兄弟なら、みんな知っているわ」
私「だったら、小学2年生のとき、近所の友だちと、お医者さんごっこを
したという話はどうだ?」

ワ「いやねえ……。よけい、気味悪く思うわよ」
私「そうだな。やっぱりそのときが来るまで待つしかないね」
ワ「その時って?」
私「ぼくたちが乗馬クラブで出会ったときの日だよ」
ワ「なかなかロマンチックね」と。

伊吹山はすっかり変わっていた。
今では最後の200メートルを残して、バスで登れるようになった。
しかし先にも書いたように、あの山小屋は、50年前のまま、そこにあった。

「このあたりだよ、たぶん……。みんなで記念撮影をしたのは……」と。

2度と、伊吹山に登ることはないだろう。
つぎの50年後には、私は110歳になっている。
生きてはいないだろう。

駐車場まで下りたとき、もう一度、あのどこか平らな伊吹山を、もう
一度、脳裏に深く刻み込んだ。

(追記)

ところで海抜1300メートルの伊吹山山頂で、なんと、あのツバメが
飛んでいた。
自由自在というか、まるで行き交う流星群のように飛び回っていた。
速い!
私はツバメというのはこの時期、人間の民家までおりてきて、そこで
巣をつくり、子育てをするものだとばかり思っていた。
ジェット戦闘機でも、あれだけの速度感は、ない。
ヒョイと身をかわすと、そのまま数百メートル飛び、そこでまたヒョイと
身をかわすと、別の方向に、そのまま数百メートルは飛ぶ。
そんな飛び方だった。

「同じツバメでも、ちがうものだな」と思った。
街中をチョコマカ、チョコマカ飛び回るツバメもいれば、抜けるような
天空を、思うがまま飛び交うツバメもいる!
「私なら……」と思った。
「私なら、街中よりも、こうした山の頂上付近を飛び回るツバメになる」と。
だれのためでもない。
自分のため、と。

眼下を見ると、白いモヤにかすんで、小さな民家が点在しているのが見えた。
ひょっとしたらツバメたちのネグラは、あの民家かもしれない。
ツバメの運動能力にすれば、1300メートルの高さなど、何でもない。
山頂まで来るのに、数分もかからない?
朝になるとここまでやってきて、夕方、また戻っていく?

いずれにしても、すごい運動能力!
私は、しばらくぼんやりと、ツバメの動きに見とれていた。


++++++++++++++++++H.Hayashi

●多数決という、非民主主義

++++++++++++++++

帰りの観光バスの中で、ガイドさんが、
「ビデオを見るかどうか、採決をします」と切り出した。
定番である。

「これからビデオを見るかどうかで、多数決を取ります。
ビデオを見たい人……手をあげてください。
ハイ、11人。
ビデオを見たくない人……手をあげてください。
ハイ、13人……」と。

よかった!
またまたあの『釣りバカ日誌』を見せられたら、私は発狂していたかもしれない。
私は、同じビデオを、もう3回も見せられた。

しかしこういうのを、民主主義とは言わない。
「多数決」には、限界がある。
それについて、説明したい。

たとえばここに、20人の人がいる。
ビデオを見たいと思っている人が、その中の15人。
しかしビデオを見ることで、迷惑する人が、5人。

採決をすれば、当然、ビデオを見たい人が多いわけだから、ビデオは、かけられる
ことになる。
が、こういうのを、民主主義とは言わない。
多数決イコール、絶対的な正義ではない。
もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえばここに20人の人がいる。
そのうち、記念碑を作りたい人が、15人。
記念碑が作られることによって、迷惑を受ける人が、5人。
「15人」というのは、建設業がらみの人たちである。
「5人」というのは、その地域の人たちである。
そこである人が多数決を取ることにした。

「記念碑の建設に賛成な人……手をあげてください。
ハイ、15人。
記念碑の建設に反対の人……手をあげてください。
ハイ、5人」と。

こういうケースのばあい、それによって迷惑を受ける人が1人でもいたら、
その人がこうむるであろう不利益を、優先して考えなければならない。
記念碑というのは、なくても構わないものである。

ビデオについての採決についても、そうである。

たまたま今日は、「見たくない人」が多かった。
しかしそれは客のほとんどが、50〜60代以上の人たちであったことによる。
伊吹山に登ったあとで、みな、クタクタ。
ガイドさんは若いから、まだ老人の生理というものがよくわかっていない。
この年齢になると、大半の人が、昼寝をする。
帰りの旅というのは、ちょうどその昼寝時間と重なる。

が、もし半分以上の客が、若い人たちだったら、採決の内容はちがったものに、
なっていたはず。
「では、ビデオを見ることにします」とか、なんとか。

一応、この日本は民主主義国家ということになっている。
多数決が意思決定の、大原則になっている。
しかしものごとすべてを、その多数決だけで決めていたら、それこそ、たいへんな
ことになる。
そのつど、弱者や少数者が、犠牲になる。

そこで民主主義の世界では、弱者や、少数者に、いかにやさしいかで、その
熟成度を知る。
当然のことながら、弱者や、少数者に、やさしい社会を、完成度の高い社会という。
そうでない社会を、そうでないと言う。

このばあい、ビデオをかけられることで、迷惑をする人がいたとしたら、(何も
ビデオというのは、見なければならないものではないのだから)、
ビデオはかけるべきではない。
「ビデオを見なければ、退屈で、気が変になる」という人がいれば、話は別だが、
そんな人はいない。
しかしここにも書いたように、ビデオなど、見なければ見なくても、すむはず。
また見なければならないものでもない。
だったら、「安眠を妨害されて迷惑する人」を、優先すべきである。
そういう人が、たとえ3人でも、4人でもいたら、ビデオの上映は、
やめるべきである。

それが民主主義である。
より完成された民主主義である。

わかるかな?

が、若いガイドさんには、それがわからない。
わからないから、単純に多数決を取ることで、ものごとを決めようとする。
つまりそれだけ、未熟ということ。

ガイドさんが未熟というより、日本の民主主義が、未熟ということ。


●通俗性

++++++++++++++++++H.Hayashi

いかにして、自分の中に、通俗性を確保するか。
通俗であれということではない。
この通俗性の大切さは、老人たちを観察してみるとわかる。

++++++++++++++++++H.Hayashi

老齢になると、極端に偏屈になる人がいる。
小さな殻(から)にこもり、その世界だけで生きる。

社会適応性がなくなるのは、しかたないとしても、
協調性、融和性、同調性がなくなる。
が、それですめばまだよいほう。
さらに症状が進行すると、奇行を繰り返すようになる。

たぶんに脳の老化による部分もあるのだろうが、
それによって迷惑するのは、その周囲の人たちという
ことになる。

だから心の一部は、常に、通俗に向けて開いておく。

こんな経験をしている。

この年齢になると、観光バスによるバス・ツアーは、
たいへんありがたい。
ありがたいが、その中は、通俗そのもの。
先日は、バスに乗り込んだとたん、ムッとするような
ニンニクのにおいがした。
乗客の一人が、ニンニクを食べて、旅行に参加したらしい。

あるいは、こまかいところでマナーを守らない人もいる。
酒を飲んで、騒ぐ人や、大声でしゃべりあう人たち。

しかしそういう人たちに、いちいち腹をたてていたら、旅行も
旅行でなくなってしまう。
つまりこちらも、そうした通俗性に合わせるしかない。
(私たち自身も、気がつかないところで、他人に迷惑をかけて
いるかもしれない。)

このことは子どもの世界をみていても、わかる。

すばらしすぎるほどすばらしい家庭環境で(?)育てられた子どもがいる。
それこそ、毎日、クラシック音楽で目覚めるような子どもである。
(これは少し、おおげさかな……。)

このタイプの子どもは、集団生活の中に押し込むと、その
ストレスから神経疲れを起こしやすい。
実際、こんな例がある。

Nさん(小1)は、いつもていねいな話し方をする子どもだった。
ほかの子どもたちが乱暴な話し方をするときでも、Nさんだけは、
「わかりました」「そうします」というような言い方をしていた。

Nさんの母親も、そういうNさんに満足していた。
私も、そういう言い方を、ほめ、励ました。
が、小学校へ入学してすぐ、異変が起きた。

Nさんのそういう言い方に対して、ほかの子どもたちが、
「お前の言い方は、へん」と、Nさんをいじめ始めたというのだ。
Nさんは、それほど器用な子どもではなかった。
そのまま不登校児になってしまった。

子どもを育てるとき、ある程度の通俗性は必要ということになる。
「ゲームは絶対に、だめ」
「コミックは、禁止」
「携帯電話は、もたせない」と。
頭から子どもを押さえつける親も、少なくない。
そういう意味では、子育てには、その親のもつ哲学観、教育観、
人生観がすべて集約される。
それはそれでしかたのないことだが、それをそのまま子どもに
押しつけてしまってはいけない。

子どもには子どもの世界がある。
大切なことは、子どもがその世界で、みなと楽しく過ごすこと。
そのためには、親自身も、ある程度の通俗性を受け入れる。
子どもの世界を、ほかの世界から隔離してしまえば、かえって
子ども自身が、苦しむことになる。
子どもは無菌状態になってしまう。

「学校」という場ではそれでもよいかもしれないが、一歩、
その場を離れたとき、抵抗力がない分だけ、『温室育ち、すぐ
風邪をひく』という状態になる。

……ということで、私たちはいつも、どこかで通俗との接点をもつ。
その努力を怠ってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●うるさい、オバチャンたち

今日もそのバスの中で、うるさいオバチャンたちに、出会った。
うるさい。
本当に、うるさい。
バスに乗るやいなや、ギャーギャー、ゲラゲラ、ワーワーと騒ぎ出した。

旅行というのは、そういうものだと思っているらしい。
またそうすることが、旅行を楽しむ方法だと思っているらしい。
しかしこれはたぶんに、学校教育によるものだと思う。
私たちは、学生のころ、遠足といえばバス。
バスといえば、その中で騒ぐのが、旅行の仕方と学んだ。

欧米の方式がよいというわけではないが、欧米の人たちは旅行といえば、
いつも本を片手に、あちこちを歩き回っている。
一方日本では、少し前まで、観光地といえば、どこでも、
ガンガンと音楽が鳴らされていた。
「騒音」に対する感覚そのものがちがう。

数年前だが、エレベータに乗って驚いた外人の話が何かの雑誌に載っていた。
「日本は、どこへ行っても、騒音だらけ」
「エレベータの中でさえ、音声ガイダンスがあった」と。
ついでに言うなら、バスガイド。
もう、こんなバカげたサービスは、やめたらよい。
市内観光とか、どこかの観光地を回るときは、それなりにガイドも必要かも
しれない。
しかしくだらない無駄話ばかり。

今日乗ったバスのガイドも、こんな話をしていた。
「高校野球がどうの……」
「今年の気温はどうの……」
「交通渋滞はどうの……」と。

そういう話を、甲高い声でキャッキャッ、キンキンと間断なく話す。
それはまさに、拷問。
「携帯電話はオフに」と言いながら、自分ではそれ以上の騒音をがなり
立てている。

そのバスガイドの声に負けないようにと、乗客のオバチャンたちは、
さらに大きな声で話す。

アアアアア……!

しかしそういった通俗性に、私たちは耐えなければならない。
「日本という国は、まだこのレベルなのだ」と。

しかし、一言!
日本のオバチャンたちよ、もう少し、自分の知性を磨け。
理性を磨け!
本を読んで、絵画に親しめ。
でないと、あっという間に、ケアセンターに、足をつっこむことになるぞ!
粗大ごみになってしまうぞ!


●オバチャンのたわごと

ついでに、オバチャンたちが、どんな話をしていたかを、ここに記す。

うしろの席のオバチャンたちは、こんな話をしていた。
どこかのレストランへ行ったらしい。

「あそこのレストランは、おいしい」
「あそこは、値段の割に、まずい」
「Aさんが、勧めてくれたから行ってみたが、その日は休みだった」
「行くならB店がいい。B店は、量も多い」と。

こんな話が、いつまでもつづく。
キャッキャッ、ワイワイと、いつまでもつづく。

そのたびに、私は心の中で、こう反論する。
「だから、それがどうしたの?」と。
「おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?」
「値段の割にまずい……だから、それがどうしたの?」

その答がつづかない会話は、無駄。
つまりは、欲望を無意味に追求しているだけ。
言葉を話すというだけで、そこらのサルと、どこもちがわない。(失礼!)


●暑い

7月23日、水曜日、暑い。
午前中は、中元のあいさつ回り。
4〜5か所回ったところで、ダウン。
昼ごろ家に帰ると、気温は、家の中で32度。
道理で暑いはず。

今日あたり、40度近くなったところがあるかも。
昼食後少し横になるが、ジリジリと、身の置き場がない暑さが、
ふとんの下から伝わってくる。

このところ日本語の豊かさについて考える。
基本的には、日本語の自由度は低い。
英語は、高い。

「暑い」を表現するにしても、ここに書いたように、「ジリジリ」とか、
そういう言葉に限られる。
またそういう言い方をしないと、読者のほうも、安心しない。

そこで私も、いろいろ考えてみる。

肌の穴から空気がもれたように、体がだるい。
額の上で、汗がにじみ出るのがわかる。
フ〜ッと吸い込む空気が、肺の中を焦がす。
胸を押さえつける、くすんだ鉛のような重苦しさ。
それをかきむしるようにして、身を起こす。

だいぶ、豊かになってきたようだ。
が、「豊か」では、つまらない。
「言葉の奥の扉が開いたようだ」では、どうだろうか。

この先、もっともっと訓練して、私自身のもつ
国語力を、磨いてみたい。


●脳みその老化

++++++++++++++

このところ、ふとしたときに、
脳みその老化を感ずる。

脳みそというのも、年齢とともに、
弾性疲労を起こしやすくなるものらしい。
つまり融通がきかなくなる。
緻密なつながりのあちこちに、
小さな盲点ができる。
俗な言い方をすれば、「スキ」ができる。
もっとわかりやすく言えば、「ミス」が多くなる。

++++++++++++++

このところ、ときどきミスが多くなった。
自分でもそれが、よくわかる。
注意力が散漫になったというよりは、ふとしたときに、何かを
し忘れたりする。
「これをしなくては……」と思いつつ、別の行動に移ったりすると、
それをするのを忘れてしまう。

ところで私はよく夢の中で、擬似認知症を経験する。
夢の中の景色を見ながら、ここがどこであるか、わからなくなってしまう。
「この先を行けば、自宅に帰れる」というところまでは、何となくわかる
のだが、その先がわからない。
そういう夢である。

そのくせ、議論になると、つぎからつぎへと言葉が出てくる。
昨夜は、どこかのカルト教団の幹部と、議論をする夢を見た。
「もう少しで相手をやりこめることができたのに……」というところで、
目が覚めた。
残念!

ほかの人の脳みその中までのぞくことはできないが、これは私だけの
現象なのか?


●パイロット

おとといアメリカにいる息子に電話をした。
どこか沈んでいた。
「思うように操縦できない」と言った。

世の中には、車の運転も、飛行機の操縦も同じと説く人がいる。
しかしそういう人は、飛行機の操縦というのが、どういうものであるか、
わかっていない。

飛行機の操縦といっても、晴れた日に、限られた範囲の、限られた高度の下で、
ゆらゆらと飛ぶのもある。
この程度の操縦免許なら、趣味の範囲。
が、それが第一歩。
それからはじまって、双発機操縦免許、計器飛行免許……、事業者用航空免許と
つづく。
さらに大型機ともなると、飛行機ごとの免許が必要となる。
ふつう1人のライン・パイロットを育てるためには、数億円程度の費用が
かかるという。
期間は、4〜5年程度。
そのためか、それぞれの段階で、チェック・テストがあり、それに不合格に
なると、そのまま退学、もしくは配置転換。
容赦なし。

が、それで大型機を操縦できるようになるというわけではない。
副機長として、5年程度の訓練が課せられる。
その上、毎年の適性検査と身体検査。
最近では、英語の試験も課せられるようになった。
ひとつでもひかかると、もう飛行機の操縦はできない。

息子の話では、すでに何人かが、チェック・テストで落とされ、日本へ
帰されたという。

そして今日、再び、息子に電話をしてみた。
今度は明るい声だった。

「おととい、声が沈んでいたから、電話したよ」と言うと、
「あら、そう? そうだっけエ?」と。
「うまく進んでいるのか?」と聞くと、「今日は、うまくいったよ」と。

息子「アメリカの空は、飛行機が、四方八方から飛び交っていて、無法地帯みた
いだよ」
私「どういうことだ?」
息子「管制官も不親切で、しょっちゅうミスをしている」
私「日本では考えられないね」
息子「でも、それが世界の空だよ。中国も似たようなものだそうだよ」と。

息子を見ていると、パイロットという職業を、「職業」としてではなく、
「空を飛ぶ手段」と捕らえているような感じがする。
息子は、心底、空が好きらしい。
画家が美の向こうに理想郷を見るように、音楽家が自分の旋律に酔いしれるように、
息子は、青い空と、白い雲に、生きがいを見いだしている。

それもひとつの職業観かもしれない。
私には、想像はできても、よく理解できないが……。


●なぜ、女性は、オバチャンになるのか

美しい女性も、加齢とともに、女の匂いが消え、やがてオバチャンになる。
私たちが「オバチャン」というときは、あのオバチャンをいう。

デリカシー、ゼロ。
色気、ゼロ。
センス、ゼロ。
知性と理性、ゼロ。

しかし生命力だけは、やたらと強力。
あたりかまわず、ギャーギャー、ゲラゲラと騒ぐ。
卑猥な言葉を平気で口にして、ワイワイ喜ぶ。
年齢的には、早い人で、40歳くらいから。
ピークは、50歳〜60歳。

もちろんすべての女性が、オバチャンになるのではない。
女性でも、オバチャンになる人とそうでない人がいる。
その(ちがい)は、どうして生まれるのか?

その原因の大半は、夫がつくる。
夫が、自分の妻から、(女)を奪っていく。
その結果、女性は、自ら自分の中から、(女)を消していく。

いつだったか、女性のオシャレは、性的エネルギーのなせるワザと書いた。
もちろんオバチャンたちも、精一杯、オシャレをしている。
しかしそれは異性を意識したものというよりは、見栄、メンツ、世間体、
さらに言えば、仲間を意識したもの。

少なくとも世の男たちは、オバチャンたちのオシャレには、見向きもしない。
色気を感ずることなど、ぜったいに、ない。
オバチャンたちも、それをよく知っている。

で、それを防ぐのは、やはり夫ということになる。
夫たるもの、つねに自分が男であることを意識する。
そして夫たるもの、つねに自分の妻に、女を感じ、女を意識する。
日常のさりげない行動の中から、女性は、自分が「女」であることを意識する。

が、何よりも大切なことは、女性自身が、知性と理性を磨くこと。
この努力を怠ったとたん、女性は、あのオバチャンになる。
オバタリアンになる。

(付記)オジチャンも、同じ!


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2734)

●7月25日(金曜日)

++++++++++++++++

久々に、書斎に、もどった。
昨日までは、新しく買ったノートパソコンを手に、
あちこちの部屋を移動しながら、原稿を書いていた。

やはり、原稿を書くには、この部屋がいちばん、よい。
このデスクトップがいちばん、よい。
電源を入れて、1〜2分後には、ビスタで作業ができる。

++++++++++++++++

●K国の核開発問題

シンガポールで行われていた、ASEAN地域フォーラム
(ARF)閣僚会議が、7月24日、終わった。
期間中、米朝の外務大臣どうしが、秘密会談を行ったようだ。
しかし結果は、「不発」。
拉致問題についても、ゼロ声明。
「K国の核計画申告書の検証の重要性を強調する議長声明を採択した」
(TBS)程度で終わってしまった。

来月8月11日に、K国のテロ国家指定解除が発効する。
それまでに核計画申告書の検証作業が具体化する予定だが、
このままでは、むずかしい。
K国は、さらにああでもない、こうでもないと、難グセをつけて、
引き延ばし戦術に出てくるはず。

期間中、C・ライス国務長官が、日本の高村外務大臣に、「検証
作業の具体化を急ぐよう、K国圧力をかけてほしい」という
要請があったという。

しかしC・ライスさんよ、今ごろ気がついても、遅い!
拉致問題を棚上げし、既存核兵器を切り離し、その上、検証作業
メンバーから日本をはずした。
何もかも、K国の言いなり。
原油もあげた、食糧もあげた、時間もあげた、音楽もあげた……。
しかしK国がしたのは、すでにジャンク・ヤード化していた冷却塔を
爆破しただけ。
あなたはK国に、完全に、ナメられている。


●調査書改ざん

TBS―iニュースは、つぎのように伝える。

++++++++++++++++++++++++++++++

静岡県H市にある県立高校で、大学受験する生徒2人の調査書が改ざんされた問題で、県の
教育委員会は、当時の校長を虚偽公文書作成などの疑いで警察に刑事告発しました。

(中略)

 この問題はT林業の教師4人が。去年卒業した2人の生徒について、推薦入試を受ける際の
基準を満たすよう、大学に提出する調査書の成績を改ざんしていたもので、4人は懲戒処分を
受けています。

 静岡県の教育委員会は、4人の話などから、当時の校長の働きかけで改ざんが行われたと
判断し、今月24日に虚偽の公文書作成などの疑いで警察に告発し、受理されました。

+++++以上、TBS−iニュースより+++++++++++

ニュースの記事だけでは、調査書のどの部分を、どのように「改ざん」したかまでは、わからな
い。
成績という数字だけの改ざんなのか、それとも、活動記録という記録の改ざんなのか。
雰囲気としては、「数字」の改ざんであったように感ずる。
そこでここでは、あくまでも、「数字の改ざん」という前提で、考えてみたい。

たとえばアメリカなどでは、いくら成績がよくても、成績だけでは、ハーバード大学などの名門校
には入学できない。
人物像、性格、人間性などを総合的に判断した、学校長などの推薦文がなければ、入学でき
ない。
この「推薦文」にあたる部分が、この日本には、ない。
成績一辺倒というか、数字一辺倒。
(人物評価欄というのは、あるにはあるが……。しかしそれは各大学でも、形式的なものとしか
とらえていない。)

そこで今では、テストの点数だけで、成績をつけるということは、あまりしない。
「頭の中で、その子どもの印象を思い浮かべながら、成績をつける」(某、中学校教師談)とい
う方法が、一般化している。
さらに、小学校レベルでは、「あっちの子の成績をさげて、こっちの子の成績に上乗せする」と
いうことが、ごく当たり前のこととしてなされているという。
そういう話を、うわさとして聞いている。

ただ今回の事件は、校長が指示して(?)、4人の教員がそれに応じて動き、懲戒処分を受け
ているという点で、きわだっている。
不正は不正なのだから、どこかで歯止めをかけておかないと、調査書そのものが、さらに形骸
化してしまう。
だから「事件」になったのだろう。

しかし教育には、ハンドルの(遊び)のような部分が、必要である。
わかりやすく言えば、「まあ、いいじゃないか」という、おおらかさである。
(たとえば、成績はあまりあがらなくても、がんばったという姿勢が見られたら、その子どもを励
ますという意味で、成績をあげたりする、など。)
その(遊び)の中で、子どもは自ら、伸びていく。
ギスギスは、かえって子どもの伸びる芽を摘んでしまう。

調査書改ざんを擁護するつもりは、まったくない。
ないが、しかしこの事件は、大分県で起きた、教員不正採用試験とは、まったく異質のもので
ある。

要するに、「推薦」という部分を、「数字」ではなく、もっと別の方法で表現できないかということ。
そうすれば、「推薦入学制度」も、もっと実のあるものになっていくと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 調査書改竄 改ざん)


●鮎料理

先日、あるところで、ある料理を食べた。
「料理」と言えるようなものか、どうかは、わからない。

看板には、「ジャンボエビフライ、牛肉ステーキ、鮎の塩焼き、食べ放題」とあった。

しかし入ってみて、驚いた。
食べ始めてみて、驚いた。

まず、(1)ジャンボエビフライ。……というのは、まっかなウソ。
コロモだけがやたらと厚く、中のエビは、ヒモのように長く伸ばされていた。
(コロモの暑さは、1センチ程度。その中のエビは、太くても5〜8ミリ。)

つづいて(2)ステーキ。どれも硬くて、歯が立たなかった。

が、最悪なのは、(3)鮎の塩焼き。

私は子どものころから川魚を食べ慣れているから、そうでもなかったが、ワイフには、ちがっ
た。
あの川魚独特の生臭さは、海の魚には、ない。
人によっては、ムッとするような臭い。
おまけにあの、ヌルヌル感。
それだけで食欲をなくす人も多いはず。

それを丸いコンロの上で、いっしょに、焼く。
言い忘れたが、「塩焼き」と言いながら、鮎には、塩がまぶしてなかった。
そういう生の鮎が、金属製のトレイの中に、串をさして並べてあるだけ!

私はいろいろな料理を食べてきたが、あれほどまでに最悪の料理を食べたことがない。

ほかの客たちは、鮎の焼き方もわからないから、コンロの上に、そのまま置いた。
そのため皮だけが真っ黒にこげ、中は、生焼き。
口に入れたとたん、ゲーゲーと、口から吐き出している客もいた。

あとで聞いたら、店員に抗議した人もいたとか。

それにしても、ひどい料理だった。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●幸せに慣れた者は、不幸の意味がわからない

+++++++++++++++++++++

時代は変わった。
若者たちも変わった。
ものの考え方も、変わった。

+++++++++++++++++++++

最近の若い人たちは、「ぼくたちは不幸だった」と言う。
これだけ恵まれた世界に住みながらも、そう言う。
「こんな世の中、生まれてこなければよかった」と言った若者もいた。
心のすみに、そういういじけた心を閉じこめておく、牢屋のようなものがあるらしい。
何かの口論になったようなとき、そういう言葉が、ふと口から漏れる。

そういう言葉を聞くたびに、私はこう思う。
「何が、不幸だ」「不幸の意味も知らないくせに」と。

私たちが子どものころには、家族旅行などという言葉すら、なかった。
私の家が特別というわけでもないが、私の家族が家族旅行なるものをしたのは、
私が小学4年生のときが、はじめて。
数えてみれば、たったの1度だけ。
それも行った先は、伊勢。
その伊勢で、父は酒をあおってしまい、旅館で、大暴れ。
私たちは泊まることもなく、そのまま夜中に、家に帰ってきてしまった。
無惨な、あまりにも無惨な、家族旅行だった。

しかし私は親たちに向かって、「不幸だった」とか、「生まれてこなければよかった」などと、言っ
たことはない。
そういう発想そのものが、私たちにはなかった。

日本が今にみるような豊かな国になったのは、ここ20〜30年のこと。
不幸と言えば、それ以前の日本がどういう国であったかを知らないことほど、不幸なことはな
い。
「今の状態」を当たり前と思うあまり、そこにある「幸福」に気づかない。

食事を口にすることができる。
寝泊まりする家がある。
洗濯された服が、そこにある。

今では高校生でも、親に感謝しながら高校に通っている子どもは、ゼロ。
大学生にしても、口では「ありがとう」とはいうものの、本当に感謝しているかどうかとなると、疑
わしい。
「高校へ行くのは、当たり前」「大学へ行くのは、当たり前」という前提で、ものを考える。
へたに、「進学をあきらめてくれ」などと親が言おうものなら、即座に子どものほうが、それに反
発する。

私は私で、生きていくだけで、精一杯だった。
それこそ身を粉にして働いた。
ある時期は、休みは、月に1度しかなかった。
今の若い人たちは、そういう(過去の現実)を知らない。

だからこう言った若者がいた。
「ぼくのおやじは、金儲けばかりしていた」と。
そこで私が、「君たちが大学へ行くのだって、お金がかかったんだよ」と言うと、こう反論する。

「子どものときから、勉強、勉強と、勉強で追われた。その責任を取るのは、親の義務」と。

もし当時、当時の日本人が、アメリカ人のような父親、たとえば『名犬ラッシー』に出てくるような
父親を演じていたら、その翌年には、一家心中……ということになっていたかもしれない。
そういう過去の(現実)が、まったくわかっていない。

だからある日、私は自分がしてきたことが、バカらしく思えたことがある。

私の時代には、息子というのは、収入の半分を、実家へ仕送りするというのが、ひとつの習わ
しになっていた。
みながみなではないが、私の周囲にも、同じようなことをしている人が、何人か、いた。
盆や正月には実家へ帰り、親に金銭を渡したり、贈り物をするという習慣も残っていた。

が、今では、それが逆転している。
親のほうが息子や娘、それに孫に金銭を渡したり、贈り物をしている!
いろいろな調査結果を見ても、「将来、親のめんどうをみる」と考えている子どもは、40%もい
ない。
「めんどうをみる」という意味すら、わかっていない。
へたにそういう話題をもちだすと、「そんなのは親の責任」と言われそう。
つまり死ぬのも、私たち自身の責任で死ねということか。

その点、私のワイフなんかは、ずいぶんと前に、割り切ってしまっている。
たとえば私が息子たちにいくらかの金銭を渡すたびに、「そんなことはしなくてもいい」と、ブレ
ーキをかける。

とは言うものの、息子たちから何かの贈り物が届くというのは、うれしいもの。
三男は大学生のころから、旅の先々から、その土地の名物を送ってくれる。
その三男が、おととい、電話で、こう言った。

「パパ、NAPA(=アメリカ)での訓練が終わったら、1か月、休暇がもらえる。いっしょに旅行に
行こう」と。

うれしかった。
楽しみがふえた。

私たちには、その「幸福」が、よくわかる。
身にしみる。

ワイフはさっそく、旅行先を選び始めた。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

【宇宙人は、存在する!】(改)(Aliens are definitely out there!)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

驚くべきニュースが、伝えられた。
時事通信、7月25日、ニューヨーク発は、
つぎのように伝える。
その記事を、そのまま紹介する。
まさに驚愕すべきニュースである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

++++++++++以下、時事通信より+++++++++++++

【ニューヨーク 25日時事】米航空宇宙局(NASA)の元宇宙飛行士が英国の音楽専門ラジオ
局のインタビューで、政府は宇宙人の存在を隠ぺいしていると発言。米英メディアが相次いで
報じる騒ぎに発展した。

 この元宇宙飛行士は、1971年に打ち上げられたアポロ14号の元乗組員、エドガー・ミッチ
ェル氏(77)。

 同氏は23日の放送で、政府は過去60年にわたり宇宙人の存在を隠してきたが、「われわ
れのうちの何人かは一部情報について説明を受ける幸運に浴した」と説明。宇宙人は「奇妙で
小さな人々」と呼ばれているなどと語った。(ヤフー・ニュースより転載) 

++++++++++以上、時事通信より+++++++++++++

この記事の信憑性を確かめることにした。
が、それは今日(7月25日)、オーストラリアの友人が送ってくれた情報の中に、含まれてい
た。

それをそのまま紹介する。
訳は急いで私がつけたが、あえて、原文に忠実に訳してみた。
(荒っぽい訳なので、後日、改めて訳し直してみたい。)

++++++++++++++以下、NEW.COM.AUより+++++++++

FORMER NASA astronaut and moon-walker Dr Edgar Mitchell - a veteran of the Apollo 14 
mission - has stunningly claimed aliens exist.
月面歩行者であり、元NASAのベテラン宇宙飛行士である、エドガー・ミシェル博士(アポロ14
号のベテラン飛行士)が、「宇宙人は存在する」と強く主張した。

And he says extra-terrestrials have visited Earth on several occasions - but the alien 
contact has been repeatedly covered up by governments for six decades. 
彼が言うには、外惑星人は、地球を、何度かに渡って訪問しているとのこと。しかし宇宙人との
コンタクト(接触)は、この60年間、政府によって繰り返し、隠蔽されてきた、という。

Dr Mitchell, 77, said during a radio interview that sources at the space agency who had had 
contact with aliens described the beings as 'little people who look strange to us.' 
77歳のミシェル博士は、ラジオ・インタビューの中で、宇宙人と接触したことのある宇宙局(の
係官)は、その生き物を、『ワレワレには奇妙に見える小さな人々』と表現したと語った。

He said supposedly real-life ET's were similar to the traditional image of a small frame, large 
eyes and head. 
ミシェル博士は、本物のETは、小さな体の、大きな目と頭をもった、あのよく知られている(=
伝統的な)イメージに似ていると思っていると語った。

Chillingly, he claimed our technology is "not nearly as sophisticated" as theirs and "had 
they been hostile", he warned "we would be been gone by now". 
ミシェル博士は、ワレワレ人間の技術力は、彼らのものととても同程度のものではなく、「もし彼
らが敵対的であるなら、人類は、今ごろは絶滅していただろう」と、警告した。

Dr Mitchell, along with with Apollo 14 commander Alan Shepard, holds the record for the 
longest ever moon walk, at nine hours and 17 minutes following their 1971 mission. 
ミシェル博士は、アポロ14号のアラン・シェパード船長とともに、1971年のミッションでは、9
時間17分の最長月面歩行をしたという記録を保持している。

"I happen to have been privileged enough to be in on the fact that we've been visited on 
this planet and the UFO phenomena is real," Dr Mitchell said. 
ミシェル博士は、「ワレワレは宇宙人によってこの惑星を訪問され、またUFO現象は事実であ
るという事実に関して、それをじゅうぶん知りうる立場にあるという特権を、私はたまたまもっ
た」

"It's been well covered up by all our governments for the last 60 years or so, but slowly it's 
leaked out and some of us have been privileged to have been briefed on some of it. 
「過去60年間、私たち政府すべてによって、それは隠蔽されつづけてきた。しかし少しずつ、
外に漏れてきた。そしてワレワレの中の何人かは、それらのいくらかの部分について、述べる
という特権を与えられた」

"I've been in military and intelligence circles, who know that beneath the surface of what 
has been public knowledge, yes - we have been visited. Reading the papers recently, it's 
been happening quite a bit." 
「私は軍と情報部に属してきた。軍と情報局は、一般的に知られているその表面下で、(そうだ
とも)、ワレワレは訪問を受けていたということを知っている。最近の新聞を読めば、それがた
いへんしばしば起きてきたということがわかる」と。

Dr Mitchell, who has a Bachelor of Science degree in aeronautical engineering and a Doctor 
of Science degree in Aeronautics and Astronautics claimed Roswell was real and similar 
alien visits continue to be investigated. 
ミシェル博士、つまり航空工学分野の科学学士号、ならびに、航空力学ならびに宇宙船学の
博士号をもっているが、ロズウェルは現実にあったと主張し、同様の宇宙人の訪問は、調査さ
れていると語った。

He told the astonished Kerrang! radio host Nick Margerrison: "This is really starting to open 
up. I think we're headed for real disclosure and some serious organisations are moving in 
that direction." 
ミシェル博士は、驚いているケラング・ラジオ局のホストである、ニック・マーゲリソンにこう語っ
た。「これは情報開示の第一歩であり、私たちがその開示の先頭にいる。いくつかの重要な組
織が、その方向で動きつつある」と。

Mr Margerrison said: "I thought I'd stumbled on some sort of astronaut humour but he was 
absolutely serious that aliens are definitely out there and there's no debating it." 
マーゲリソンは、語った。「私は宇宙船乗組員のユーモアと思ったが、(ミシェル博士は)、まっ
たく真剣だった。彼は宇宙人は、確実にそこにいて、議論の余地はないと語った」と。

Officials from NASA, however, were quick to play the comments down. 
しかしNASAの高官はすかさず、つぎのようなコメントを発表した。

In a statement, a spokesman said: "NASA does not track UFOs. NASA is not involved in any 
sort of cover up about alien life on this planet or anywhere in the universe. 
その中で、スポークスマンは、「NASAは、UFOの存在を確認していない。NASAは、この惑星
上の宇宙生命体について、この惑星においても、また宇宙においても、どこでも、いかなる隠
蔽にも関与していない」。

'Dr Mitchell is a great American, but we do not share his opinions on this issue.'
「ミシェル博士は、偉大なアメリカ人だが、ワレワレ(=NASA)は、この問題について、彼の意
見と共にすることはない」と。

++++++++++++++++++以上、NEW.COM.AUより++++++++

+++++++++以下、オーストラリアUFO研究団体のHPより++
A RECENT spate of UFO sightings around the world has believers in a frenzy, but even the 
inside scoop from a former astronaut is not enough to sway the sceptics.
Yesterday, aliens popped up in the news again as NASA sought to distance itself from 
former Apollo 14 astronaut Edgar Mitchell who claimed extra-terrestrials have been coming 
to visit for decades. 

Dr Mitchell, 77, said governments had been covering it up for 60 years.

"I've been in military and intelligence circles, who know that beneath the surface of what 
has been public knowledge, yes - we have been visited. Reading the papers recently, it's 
been happening quite a bit," he said. 

Dr Mitchell's former bosses were quick to distance themselves from the renewed buzz.
"NASA does not track UFOs. NASA is not involved in any sort of cover up about alien life 
on this planet or anywhere in the universe," the agency said. 
But the Australian Skeptics were not impressed by what Dr Mitchell - or anyone else - 
thought they saw.  Skeptic spokesman Barry Williams said today the truth was closer to 
home: it's all in your head, and you're wrong. 
"We love mysteries and we love solving them, just look at how popular crime fiction and 
crime TV shows are," Mr Williams said. "The brain needs to find answers, it can't stand not 
knowing, so it comes to an explanation and quite often it's wrong." 

+++++++++以下、オーストラリアUFO研究団体のHPより++

+++++++++++++++はやし浩司

しかし私はこの記事を読んだとき、肩から、スーッと力が抜けていくのを感じた。
「やはり、そうだったのだ」と。

私とワイフは、35年近くの前の夜のこと、散歩中に、巨大なUFOを目撃している。
以来、「あの夜、私たちが見たものは何だったのか」と、それをずっと考えてきた。
が、「考える」といっても、相手は、煙のような存在。
手でつかまえようとしても、いつもそのままどこかへ消えてしまう。
この35年間、その歯がゆさとの闘いだった。

しかしとうとう、告白者が現れた。
アポロ14号の元乗組員、エドガー・ミッシェル氏である。
これ以上の証言者が、ほかにいるだろうか。

しかも、60年前といえば、「1947年のロズウェル事件」と、重なる。
60年前、アメリカのロズウェルというところに、UFOが墜落している。
エドガー・ミッシェル氏がいう「60年前」と、「1947年のロズウェル事件」とを結びつけるのは、
まだ早計かもしれない。
しかしほかに結びつく話が、ない。

で、「奇妙で小さな人々」とは、どんな人々をいうのか。
ロズウェルでのUFO墜落事件では、「グレイ」とそののち呼ばれるようになった、小さな体の宇
宙人が、アメリカ軍によって収容されている。
エドガー・ミシェル氏が言うところの、「小さな人々」というのは、その「グレイ」のことをさすの
か。

今のところ詳細は不明だが、エドガー・ミッシェル氏の勇気に、敬意を表したい。
おそらくこれからしばらくの間、エドガー・ミシェル氏は、アメリカ政府内の、そのスジに人たちに
よる、猛攻撃にさらされるにちがいない。
ばあいによっては、逮捕、投獄されるかもしれない。
しかしそんなことをすれば、かえってエドガー・ミシェル氏の正当性が、証明されるようなもの。

……私は何度も、この記事を読みなおした。
「UFOを見た」というだけで、この日本では、奇人扱いされる。
しかし見たものは、見た。
記憶の中で、もう何千回も、反復してみたが、見たものは見た。
たったそれだけのことだが、そのつど、同時に私は、(私のワイフもそうだろうが……)、自分の
脳みそを疑わねばならなかった。

が、この記事で、私はその重圧感から、解放された。
「やはり、そうだったのか」と。

私たちがあの夜見たものは、やはりUFOだった。
宇宙人が操縦する、UFOだった。
今まで、私やワイフを奇人扱いしてきた者どもよ、悔しかったら、この記事を自分で読んでみる
ことだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 宇宙人 宇宙人は存在した ア
ポロ14号 エドガー・ミシェル Dr Edgar Mitchell ET ALIEN エイリアン ロズウェル グレ
イ 宇宙人 はやし浩司)

++++++++++++++++

私たちが見たUFOについて書いた
記事がつぎのものです。
地元の中日新聞に掲載してもらいました。

++++++++++++++++

●見たぞ、巨大なUFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが一、二キロはあった。しかも私と女房の二人で、
それを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ二十五年近くも前のことで「ひょっとした
ら…」という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。
「まちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の十二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見上げると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思
った。そう思って、その数をゆっくりと数えはじめた。

あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを五、六個まで数えたとき、私は背筋が
凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこ
に現れたからだ。私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出
すと、その物体は突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFOと
は思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、ま
さかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。が、このことを矢追純一氏(U
FO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を届けてくれた。

当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝っていた。矢追氏はそ
の番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でもある。私と女房
はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のUFOがあった
からだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくない
し、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 …とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は教
育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と言
う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといって
も、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。
東洋医学に関する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語に
も翻訳されている。

 そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界
では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書い
てみた。

(補記1)

私とワイフの見たUFOは、いわゆる「ブーメラン型」のもので、後に、アリゾナ州のフェニックス
で目撃されたUFOと同型のものと思われる。

しかし喜んでばかりは、いられない。
UFOが公然と語られるようになり、それを操縦する宇宙人の存在が明らかになるということ
は、それだけ人類滅亡の危機が迫っていることを示す。

いつだったかこれについて詳しく書いたことがあるが、人類に希望があるかぎり、宇宙人は、
人類の前に姿を現すことはない。

しかしその希望がなくなったとき、宇宙人は、自らの姿を、私たち地球人の前に現すであろう。
そのことは、宇宙人という外惑星人に視点を置いてみるとわかる。
近い将来、絶滅するとわかっている地球人に対して、どうして自分たちの存在を隠さなければ
ならないのか。

言うまでもなく、地球温暖化(Global Warming)の問題は、それほどまでに深刻になりつつあると
いうこと。
2100年までに、地球の平均気温は、4〜6度も上昇するというが、しかし気温上昇が、2100
年で止まるわけではない。
仮にここで今、化石燃料の使用を停止したところで、その後も、不測の事態がさらなる不測の
事態を招き、地球の平均気温は、さらに上昇する。
2200年までに、さらに4〜6度(この数字とて、控えめなものだが……)上昇すると考えるの
は、甘い。
一説によると、その後、地球の平均気温は、二次曲線的に上昇し、最終的には、400度Cに
まで上昇するという。

私が「地球火星化」という言葉を使うのは、そのためである。
そう、まさに地球は、火星化する。

エドガー・ミシェル博士の告白を、「希望」ととるか、それとも「絶望」ととるか。
とても残念なことだが、私は、「絶望」ととる。

(補記2)

宇宙人の存在が、ここまで確定的に断言されると、つぎに私たちは、こう考える。
「では、現在、エイリアンたちは、どこに住んでいるか」「またどんな生き物なのか」と。

これについては、すでに多くの研究家たちが、つぎのような推論をくだしている。

(1)彼らは、月などの衛星内部をくりぬいて、その中に居住している。

ほかにも、火星や木星の衛星が考えられている。
地球へ自由にやってくることからもわかるように、彼らは、すでに地球上の細菌やウィルスに対
して、免疫性をもっているか、あるいは人間の兄弟的存在であると考えてよい。

地球上で二足歩行できるということであれば、彼らが住む居住空間の重力は、この地球とほと
んど変わらないということになる。
少なくとも、無重力状態ではないらしい。

(2)地球よりは弱い重力の世界で、そこは薄暗い空間である。

巨大な目と瞳をもっているということから、(あくまでも人間と比較しての話だが……)、かなり暗
い空間に住んでいるものと想像される。
恐らく地球の夜程度の光があれば、あたかも私たちが日中に、景色を見るように、夜の景色を
見ることができるはず。
反対に、日中は、光がまぶしくて、何も見えないかもしれない。
そのため眼球に直接張りつける、黒いサン・スクリーンのようなものを、装着している。

また頭が巨大であることから、人間のように、母体の産道を通り抜けて生まれるタイプの生物
ではないらしい。
恐らく体外受精による、人工胎盤によって育成されるタイプの生物と考えてよい。

(3)性格はきわめて温厚で、平和的である。

エドガー・ミシェル博士も述べているように、「もし彼らが人類に対して敵対的であるなら、人類
は、とっくの昔に絶滅していただろう」ということになる。
またそうであるからこそ、彼らもまた、ここまで進化するにまで、存在することができた。
仮に人間のように、好戦的で、挑発的であったとしたら、宇宙人といえども、その進化の過程
で、戦争を繰りかえし、絶滅していたはずである。

が、これから先のことはわからない。
「このまま地球人を生かしておいたら、人類どころか、地球そのものが、火星化してしまう」とわ
かれば、宇宙人のほうも、遠慮していないだろう。
私の印象では、この太陽系の中で、彼らの食糧を生産できるのは、この地球だけということに
なる。
地球が火星化すれば、彼らとて、絶滅の危機に直面することになる。

彼らが公然とその姿を、地球人の前にさらけ出したとき、すなわちそのときこそが、地球人の
最期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist エイリアン ET 宇宙人)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2735)

●多治見で39度!

++++++++++++++++++H.Hayashi

今日(7月25日)、岐阜県多治見市で、最高気温39・0度を記録した。
猛烈な暑さである。
この浜松市でも、37・5度!
ちょうどその時刻に、私とワイフは、街中を歩いていた。
乾いた、肌を貫くような白い太陽光が、容赦なく天から降っていた。
「暑い」というよりは、「熱い」。
そんな感じだった。
私とワイフは、駐車しておいた車に飛び乗ると、クーラーをガンガンと
回した。

++++++++++++++++++H.Hayashi

●宇宙人(ET)の話、PART2

●人間と宇宙人

昨日、久しぶりにUFOの話を、書いた。
あえて言うなら、「夏の夜のロマン」というところか。
UFOについて書けば、かえって変人扱いされるだけ。
「君は教育評論家を名乗っているのだから、そういうことを書くのは、
やめたほうがいい」と忠告してくれた人もいた。

が、あのE・ミシェル元宇宙飛行士が、「UFO現象は、現実(real)である」
「宇宙人(ET)は存在する(real)」と断言した。

久々に、胸の内がスカッとする、ビッグ・ニュースである。

しかし問題がないわけではない。
私はかねてから、こう書いてきた。
「宇宙人がおおっぴらに、人間の前に姿を現すのは、人類最期のときである」と。
宇宙人にしても、自ら身を隠す必要がある間は、身を隠す。
少なくとも、存在を明らかにする必要がないときは、身を隠す。
あえて地球人である人間を、混乱させる必要はない。

それは自然動物園を守る、管理者の心理に共通する。
動物園内の動物は、できるだけそっとしておいてやるのがよい。
自然動物保護の世界には、『暖かい無視』という言葉さえある。
あれこれ人間が手出しするのは、最低限がよいという意味である。

しかしもし動物園の中が混乱し始めたとしたらどうだろうか。
動物たちがともに殺しあったり、施設を勝手に破壊し始めたとしたら……。
当然のことながら、自然動物園の管理者たちは、園の中に割って入り、動物たちを
隔離したり、保護したりするだろう。

それだけではない。

宇宙人にしても、この地球が、太陽系の中でも、食糧が確保できるゆいいつの惑星と
考えてよい。
一説によれば、宇宙人たちは、海草を中心とする、ヨード系の食物を口にしている
と言われている。
地球の温暖化が進んで、そうした食物の確保がむずかしくなるということになれば、
彼らにとっても、重大問題ということになる。
だまって見過ごすわけにはいかない。

●どこに住んでいるか?

すでに40年ほど前から、『月空洞説』(「月の先住者たち」)というのがあった。
旧ソ連の2人の科学者が言い出した説だが、根拠はいろいろある。
その第一は、月が体積に比して、比重が軽すぎるということ。
また月全体がまるで釣鐘のようになっていて、人工的に起こした地震波が、
いつまでも月の表面を伝わるなどの現象がみられる、など。

この月空洞説に、UFO基地説に重ね合わせてみると、今まで合点のいかなかった
ことが、頭の中ですっきりする。
ジグソーパズルをしていて、コマがぴったり重なったときのような気分である。

一方、宇宙人にしても、月の内部ほど、快適な居住空間はない。

重力は、地球の6分の1、あるいは場所によっては、それ以下。
(だから穴を掘るのも、楽?)
太陽からの有害な放射線は、月の厚い岩石が防いでくれる。
一見荒唐無稽な話に聞こえるかもしれないが、考えれば考えるほど、つじつまが
合ってくる。

事実、アポロ飛行士の中には、月のクレーターの間から出入りするUFOを
目撃した人もいるという。
さらに太古の昔、チベットには、天に使者に連れられて、月の内部の世界を見たという
伝説まで残っている。
私たちが今に見る、絵曼荼羅は、その月の内部の世界を表現したものだと説く研究家も
いる。

今の段階では、すべて風説ということになっているがUFOの存在が
確認され、宇宙人の存在が確認されれば、そのひとつひとつが、人類の
歴史をひっくり返すような(事実)となって、表に出てくる。

アメリカのNASAが心配するまでもなく、人間に与える衝撃には、はかり
しれないものがある。

●人類は、宇宙人の子孫なのか?

若いころ中国に伝わる『黄帝内経(こうていだいけい)』という本を調べているとき、
そのとほうもない科学性に驚いたことがある。
「地球は球である」「地球は虚空の宇宙を回転しながら浮かんでいる」という記述にも
出会った。
(詳しくは、私のHP上で紹介。)

宇宙人がそこにいたとするなら、当然のことながら、私たちは常に、宇宙人の監視と
指導を受けてきたと考えるのが、自然である。
(そうでないと考えるのは、その数百倍も、不自然である。)

「指導」といっても、直接的な会話によるものもあっただろうが、もう少し高度な
立場では、たとえば遺伝子操作による人間の改造も、考えられる。
直接人間の脳みその中に、情報チップを埋め込むという方法も、あるだろう。
「将来的にはそういう方法も可能になる」と、あのホーキング博士も書いている。

少なくとも、今から5500年前を境として、人類は、それまでの新石器時代から、
青銅器、鉄器時代へと、飛躍的に進化している。
このころ、黄河文明が生まれ、チグリス・ユーフラテス文明生まれた。
文字の発明も、このころと考えてよい。
で、先にあげた「黄帝内経」の「黄帝」というのは、司馬遷の「史記」の第1ページ目を
飾る黄帝である。

●超高度な文明?

宇宙人がもっている技術力は、人間のそれをはるかに超えたものと考えるのが自然である。
すでに数十世紀にわたって、このあたりの宇宙を自由に航行していたであろうということ。
それだけでも、彼らのものすごさがわかる。
私とワイフが目撃した巨大なUFOしても、頭上にきたあとは、猛スピードで、
東の空に消えていった。
まるで空に溶け込むかのように、だ。

人間が乗っている飛行機とは、比べものにならない。

一方、今、私たちが最先端の技術として手にしている、コンピュータ技術、遺伝子工学、
宇宙工学などにしても、この半世紀の歴史しかない。
おそらく宇宙人の目に映る人間は、チンパンジーか何かのようではないか。

E・ミッシェル博士が指摘するまでもなく、「もし彼らが敵対的であるなら、人類は
とっくの昔に、滅びていただろう」ということになる。
考えるだけでも恐ろしいことだが、宇宙人がその気にさえなったら、人類など、
部屋の中のハエを殺虫剤で殺すほど簡単に、殺してしまうかもしれない。

●なぜ、今なのか?

しかしなぜ、今なのか?
5500年前から人類にかかわってきたとしても、彼らはけっして、その姿を
おおっぴらに、私たちの前に現すことはなかった。
が、なぜ、今なのか?

E・ミッシェル博士は「さらに重大な開示が予定されている」と述べている。
言葉通りに解釈すれば、もっとはっきりとした証拠なり事実が示されるということに
なる。

だとすると、さらに「なぜ、今なのか?」という疑問が膨らんでくる。

が、今さら、言うまでもない。
この問題は、地球温暖化と、深くかかわりあっている。
現在考えられている対策がすべて実行されたとしても、2100年までには、日本の
気温についてだけをみても、4〜5度も上昇するという。

中には、「たった4〜5度?」と思う人もいるかもしれないが、4〜5度もあがれば、
真冬でも、現在の夏のような気候になる。
地球温暖化の影響は、赤道付近よりも、南北の極地方、また季節で言えば、寒い冬の
ほうに、より大きく現れる。

が、そこで地球温暖化が止まるわけではない。
2100年以後も、また2200年以後も、つづく。
2300年以後もつづく。

そのとき、地球は、どうなっているか?

地球温暖化の問題よりも、私は人類の精神の荒廃のほうを危惧する。
自暴自棄になった人々が、それこそどんなことをしでかすようになるか、
私はそれを心配する。
それこそ地獄絵図そのままの世界が、そのまま具現化される。

●宇宙人の視点で……

そんなとき、もしあなたが宇宙人なら、どうするだろうか?
それをだまって見ているだろうか。
それとも、人間の世界に、積極的に介入していくだろうか。

人間の私が、自分たちの心理状態を基本に、彼らの心を推し量るのは正しくない。
彼らは、私たち人間とはまったくちがった、思考回路をもっている。
感情の中身もちがうだろう。
精神構造もちがうだろう。
ひょっとしたら、人間がもっているような、喜怒哀楽の感情はないかもしれない。
あるいは反対に、たいへん愛情深く、慈愛に満ちた生物かもしれない。

ひょっとしたら、旧約聖書の中に出てくる、「ソドムとゴモラ」のように、
一気に、人間を焼き払ってしまうかもしれない。

が、反対に、ひょっとしたら人間の愚かさを指摘し、人間を指導し、
さらには地球温暖化防止のための知識を分け与えてくれるかもしれない。
が、そこまで期待できるかどうかというと、それはむずかしい。
反対の立場で、「私たち人間は、生き延びる価値があるかどうか」ということを
考えみれば、それがわかる。

あるいは、あなたならどうだろうか。
だれかに、「あなたは生き延びる価値があるかどうか」と聞かれたら、
あなたは何と答えるだろうか。

●宇宙人の限界

が、宇宙人が、全知全能かというと、私は、そうは思わない。
絶対的な(数)、つまり人口そのものが少ないということも考えられる。
あるいは、宇宙人と呼ばれる(人)は、実は(人)ではない可能性もある。

もっとメカニックな、つまり人間が手にした人工知能のかたまりのようであるかも
しれない。

……と書くと、「あのグレイは何か?」と思う人もいるかもしれない。
あのグレイ(本物かどうかは別として)、どこか人間的な体をしている。
しかしあのグレイをもって、宇宙人とするには、少し、無理がある。
私は、親分格の宇宙人は、もっと別の場所にいるのではないかと思っている。
別の場所にいて、グレイのような手下を、ロボットのようにして使っている?

つまりこのあたりに、宇宙人のもつ力の限界がある。
「なぜ人間の前に姿を現さないのか?」という問題にしても、単純に考えれば、
「それができないから」ということになる。
その(できない)部分が、そのまま彼らの(限界)ということになる。

●事実の一端

E・ミシェル博士のような人の発言を聞いて、私は、ほっとしている。
「いつか、そういう人が現れて、真実を語ってくれるだろう」とは思っていた。
しかしその一方で、「私が生きている間に、それをしてくれるだろうか」という
不安もあった。

「間に合った」という言い方は、どこかおかしいかもしれないが、間に合った。
あの夜以来、ずっと私とワイフは考えてきた。
ときどき「夢だった」と、自分にそう思い込ませようとしたこともある。
しかし私たちの結論は、いつも同じだった。
「見たものは、見た」。

そこで私はいつしか、「自分が死ぬまでに、あの夜見たUFOの正体を知りたい」
と思うようになった。
E・ミシェル博士の発言は、その一端を、私につかませてくれたことになる。
「私は、やはり、見たのだ」と。

●心の準備

この先、E・ミシェル博士が語っているように、「さらに重大な(serious)な発表」
がつづくかどうか、今の私にはわからない。
しかしそれよりも重要なことは、そういう発表があるという前提で、私たち自身が、
それに備えて、心の準備をしておくということ。

これは映画の中の話ではない。
現実の話である。

もし宇宙人の存在が確実になったとしたら、宗教はもちろん、歴史すらも、その
根底からひっくり返ることになる。
そうした混乱に、人間は、どう対処したらよいのか。
また対処できるだけの度量はあるのか。
これはあくまでも仮定の話だが、仮に、(あくまでも仮に)、あのイエス・キリスト
ですら、宇宙人とかかわりをもっていたとしたら、それだけで、キリスト教その
ものが、ひっくり返ってしまう。

「今までの歴史は何だったのか」ということにもなるだろう。
あるいは今の今、神に救いを求めている人もいるはず。
そういう人たちは、信仰の基盤を、根元から破壊されてしまうことにもなりかねない。
この問題だけは、「宇宙人がいます」「はい、そうですか」というレベルで片づけられ
るような、単純なものではない。

夏の夜、あなたも、あの月を見ながら、そんなことを考えてみるとよい。
そこには、とてつもないほど壮大なロマンが隠されている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 壮大なロマン


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2736)

●真の愛

 「子育てが生きがい」という人は多い。明けても暮れても、頭の中は、子どものことばかり。し
かしそういう人は、子どもの奴隷になっているだけ。親は親で、それで構わないかもしれない
が、それから受ける子どもの負担感には、相当なものがある。
 あるときある中学生は、母親に向かって、こう叫んだという。「お母さん、ぼくのことはもういい
から、お母さんはお母さんで、自分の人生を生きてよ!」と。
 親が子どもに感ずる愛には、三種類ある。(1)本能的な愛、(2)代償的愛、そして(3)真の
愛。本能的な愛というには、赤子のオギャーオギャーと泣くのを聞いたときに、親が感ずるよう
な愛をいう。親はその声を聞くと、いたたまれない気持ちになる。
 代償的愛というのは、いわば「愛ももどきの愛」をいう。子どもを自分の支配下において、自
分の思いどおりにしたいという愛をいう。親自身の情緒的欠陥、精神的未熟性が、その背景に
あることが多い。
 たとえば子どもの受験競争に狂奔する親というのは、「子どもを愛している」とは言うものの、
その実、自分勝手な愛を、子どもに押しつけているだけ。自分が感ずる不安や心配を解消す
るための道具とて、子どもを利用しているだけ。
 では、真の愛とは何か。…実は、「愛」ほど、実感しにくい感情はない。何かあったときに、顔
を出すことはあるが、日ごろは、「平凡」の中に、埋もれてしまっている。が、真の愛を知る方法
はないわけではない。『許して、忘れる』。つまりその度量の深さで、真の愛の深さを知ることが
できる。
 『許して、忘れる』というのは、英語では、「FOR・GIVE & FOR・GET」という。この単語をよく見
ればわかるように、「FOR・GIVE(許す)」は、「与えるため」とも訳せる。同じように「FOR・GET
(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。つまり『許して、忘れる』は、「子どもに愛を与えるため
に許し、子どもから愛を得るために忘れる」ということになる。その度量の深さによって、真の
愛が決まる。
 が、誤解してはいけないのは、「許して、忘れる」と言っても、子どもに好き勝手なことをさせろ
という意味ではない。子どもがどんな子どもであっても、その苦しみや悲しみを共有し、それを
許し、忘れるということ。
 親は子どもを産むことで親になるが、真の愛にたどりつく道は、遠い。険しい。何度も道に迷
いながら、ときに袋小路に入って、もがく。苦しむ。「ああ、もうだめだ」と思うこともある。
 そういう幾多の山を越え、谷を越えて、やがて親は、真の親にたどりつく。そのときの言葉
が、これ。『許して、忘れる』。いつかあなたも子育てで行きづまりを感ずることがある。そんなと
き、この言葉を、思い出してみてほしい。あなたはその先に、「真の愛」を見出すはず。心が救
われるはず。

●『許して、忘れる』

 「パパ、もうダメだ!」と、息子のHが、電話をかけてきた。それまでに聞いたことがないよう
な、悲痛な声だった。私は異常さを感じ、すかさず、こう言った。「帰っておいで!」と。
 が、驚いたのは、その翌日の夜のこと。見ると、Hが、玄関先に立っていた。まさか、その翌
日に帰ってくるとは、思ってもいなかった。
 H…「日本へは二度と帰ってこない」という捨てゼリフを残して、アメリカへと旅立っていった。
しかしHには、何もかも、合わなかったらしい。水も食事も、生活も……。2年間の留学期間を
終え、これから専門の勉強に入るという矢先、精神的に、崩れてしまった。まだインターネットも
ない時代である。私たちはHの心の変化に気づかなかった。
 で、日本へ帰ってきてからのHは、自分の部屋に引きこもるようになってしまった。夜と昼が
逆転。訪れてくる友人は、ただ1人。小学時代からの友人の、Z君だけだった。
 挫折感がよほど大きかったのか、私たち夫婦と口をきくことも、ほとんどなかった。が、ゆい
いつの救いは、私はこのタイプの子どもへの対処法を熟知していたこと。『ほどよい親』『暖か
い無視』『求めてきたときが与えどき』。この3つの原則を貫いた。
 が、苦しまなかったといえば、ウソになる。泣きたいときは、ワイフと車で、山の中まで行き、
そこで涙を流した。そんなとき、いつか、オーストラリアの友人が教えてくれた言葉が、私を救っ
てくれた。その友人は私が悩んだり、苦しんでいると、いつもこう言った。「ヒロシ、許して、忘れ
ろ!」と。
英語では、「FOR・GIVE & FOR・GET」という。この単語をよく見ればわかるように、「FOR・GIVE
(許す)」は、「与えるため」とも訳せる。同じように「FOR・GET(忘れる)」は、「得るため」とも訳
せる。つまり『許して、忘れる』は、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。その度量の深さによって、真の愛が決まる。
 Hの闘病生活は、それから丸3年近くもつづいた。何種類かの薬を処方してもらったこともあ
るが、どれも副作用が強く、Hには合わなかった。が、そんなある日、Hが、突然、「仕事に行
く」と言い出した。それはそれでうれしかったが、「どんな仕事だ?」と聞くと、「工事現場での旗
振りの仕事」と。
 たまたま夏の暑い日がつづいていた。私はこう言った。「何もいきなり、そんなきびしい仕事で
なくても……」と。で、私たちがしたことは、日焼け止めクリームを、Hの部屋の前にそっと置い
ておくことでしかなかった。
 そうそう一度だけ、Hがどんな仕事しているか、それを見に行こうとしたことがある。しかし途
中まで来たところで、ワイフが「やめよう」と言った。見るとワイフの頬を、幾筋もの涙が、伝って
流れて落ちているのがわかった。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2737)

【月は、巨大な宇宙船か?】

●『月の先住者』(Secrets of our Spaceship Moon)
written by Don Wilson 昭和58年発刊、たま出版)  

++++++++++++++++++H.Hayashi

ドン・ウィルソン著、『月の先住者』という本を
読み直す。
昭和58年7月発刊、ということだから、今から約
24年前の本ということになる。
私が36歳のときである。

月にまつわる謎は多い。
その謎について書かれた本だと思えばよい。

++++++++++++++++++H.Hayashi

 ドン・ウィルソン著、『月の先住者』という本を読み直す。原題は、『Secrets of the Spaceship 
Moon』である。「宇宙船、月の秘密」と訳せる。

 この本の中では、各章ごと冒頭で、月にまつわる謎を、箇条書きにしてある。

 全体では19章。339ページ。文字が小さいから、かなりボリュームのある本と思ってもらえば
よい。

 その中のいくつかを紹介する。

+++++++++++

●第7章 月軌道を決定した動力

次の疑問点について考えてみたい。

○NASAは、月がなぜ地球の衛星となったかを、最大の疑問としている。
○あるノーベル科学賞受賞者の告白のように、月の起源や地球の衛星となった理由につい
て、「どう説明してもありえない」と述べているのは、なざだろう。
○NASAの科学者が、「月は存在しないといったほうが説明しやすい」と発言した真意は?
○なぜ今日の科学者は、起源を説明できないからといって、月は存在しない、などと提議する
のか。
○科学者の中には月を、「自然のなせる宇宙のいたずら」とし、月が地球の衛星にしては大き
すぎると主張しているのは、なぜだろう。
○現在定説となっている、"自然捕獲説"でさえ、一般の科学者は充分に説明できないのだろう
か。
○天文力学の権威者でさえ、地球の引力が月を引き寄せたことを「不可能」「とてもありえな
い」としているのは、なぜか。
○月の軌道が正確であるはずなのに、自然に地球の衛星となったと説明できない理由は?
○天文学者の中には、「ある力が月を地球の軌道に乗せた」という者もいる。「ある力」とはい
ったい、何なのか。
○なぜ月の公転面は、太陽とまったく同じ公転面に配置され、月食が起きる位置にあるのか。
○月が信じられないほど正確な位置にあるということはわかっているが、"月宇宙船説"以外の
方法ではその理由が説明できないのは、なぜだろう。
○天文力学の知識や月計画による実際の研究成果によって、月が地球の軌道に「乗せられ」
「操縦されている」と説明されることになるのだろうか。

++++++++以上、「月の先住者」より、転載++++++++++

 わかりやすく説明しよう。

 まず、夜の空に輝く、月を見てほしい。あの月は、地球の周囲を、(1)ほぼ真円に近い軌道
上を、回っている。
 つぎにあの月は、(2)地球から見ると、太陽とほぼ同じ大きさに見える。もちろん太陽のほう
がはるかに大きいが、(みかけの大きさ)は、ほぼ同じ。だから、皆既月食、皆既日食を、数年
おきに、世界のどこかで観測することができる。
 さらにあの月の(3)公転面は、太陽の公転面とまったく、同じである。

 ほかにも(4)月の自転周期と公転周期が、1秒の狂いもなく、一致しているということもある。
だから月は、地球に対して、(月の表側)だけを見せ、いわゆる(月の裏側)を、見せることはな
い。(私たちは、常に、月の表側のみを見ていることになる。)

 こうした月の存在について、現在の今も、(1)捕獲説と、(2)地球からの分離説、さらには
(3)隕石の衝突説などが、意見を戦わせている。(最近の学説によれば、太古の昔、地球に隕
石が衝突し、その衝撃で飛び出した地球の一部が、月になったというのが、定説になりつつあ
る。)

 しかしこの説に従っても、なぜ月の軌道が、真円に近いのか。月の(みかけの大きさ)が、太
陽と同じなのか。さらに月の公転面が太陽の公転面と一致しているのかということは、説明で
きない。

 偶然というには、あまりにも偶然すぎるのである。

 もちろん「捕獲説」にしても、大きな矛盾がある。「太古の昔、月が遠い別の天体からやってき
て、地球の重力によって捕獲された」という説である。しかしならばその軌道面は、楕円形にな
るはず。ぜったいに、真円にはならない。

 そこで「乗せられた」という説が出てくる。
 
 太古の昔、月は、だれかによって、その位置に、「乗せられた」と。つまり月自体が、巨大な
宇宙船というわけである。

 そこでこの説を補完するのが、『月内部、空洞説』である。つづく第8章の冒頭には、つぎのよ
うにある。

++++++++++++++

 ……さらにじれったい疑問を投げかけてみよう。

○月の不思議な密度は、月が空洞であるどのような証拠になるか。
○なぜ英国天文学協会。月面課の主任を努めた、"月の権威"が、「何もかもが、月の20〜3
0マイル下が空洞であると示しているようだ」と結論したのか。
○なぜ有能な第一線の科学者たちが、自然の衛星は空洞であるはずがない、という意見で一
致しているのか。では、月が空洞だというのは、人工的だからだ、とはいえないのか。
○NASA の第一線の科学者によるアポロ計画以前の研究は、なぜ月の動きが空洞の球体み
たいだと結論したのか。
○重力場の研究は、月が空洞であるという裏づけにはなりえないのか。なぜこの結果が驚くべ
きものなのか。
○宇宙飛行士が持ち帰った、"月の石"は、月が空洞であると、どう説明しているのか。
○人工的に作られた月面地震(月着陸船やロケットなどによる)の時、月はなぜゴングのよう
に4時間も鳴りつづけたのか。このことが、どうして空洞の球体であることを説明しているか。
○米国の宇宙局が、月内部が巨大な空洞であるかもしれないと、秘密裡に調査を行ったの
は、どういう証拠があってのことだろうか。
○月の密度が一番高いのは、月面近くである(月が空洞であるという証拠)という月の研究(質
量の中心運動)は認められなかったのか。このような科学的証拠が、宇宙船説を引き起こさな
かったのか。
○数々の証拠がどのように"空洞の月"を証明しているのか?

それでは、ここでショッキングな証拠を提示することにしよう……。

++++++++以上、「月の先住者」より、転載++++++++++

 簡単に言えば、月の内部は空洞であり、おかしなことに、つまり常識に反して、月の外郭部ほ
ど、密度が高く、重金属でおおわれているということ。

 ……こう書くと、「月は巨大な岩石のかたまりではないか。宇宙船という(船)と考えるには、無
理がある」と考える人がいるかもしれない。
仮に巨大な宇宙船であるとしても、それは映画、『スター・ウォーズ』に出てくる、デス・スターの
ようなものではないか、と。

 しかし残念ながら、宇宙を航行するとき、もっとも安全な乗り物といえば、それなりの大きさの
隕石や衛星をくりぬいた船ということになる。
外壁を、厚い岩石で覆われているため、小さな隕石程度の衝突では、びくともしない。
が、何よりもすばらしいことに、危険な放射線類から、乗り組員を守ってくれる。
仮に映画『スター・トレック』に出てくる、エンタープライズ号のような宇宙船だったら、隕石の衝
突や放射線類から、乗り組み員を守ることはできない。

 では、動力源は何か。

 これも隕石や衛星をくりぬいた宇宙船であれば、方法は簡単。
緻密に計算をしながら、その上のどこかで、何かを爆発させればよい。
それでその宇宙船は、その反動によって、目的の方向に向かって、まっしぐらに進んでいく。
もちろん宇宙船を止めるときには、その反対のことをすればよい。

 こうして考えて見ると、月が宇宙船であっても、なんらおかしくはない。
ないばかりか、実に精巧、かつ科学的に作られた乗り物ということになる。

 ちなみに月空洞説を裏付ける、ひとつの事実を紹介しよう。

 「月に人類が到達する以前解明されていたのは、『月の密度は地球の半分くらいだ』というこ
とぐらいだった。実際、月の密度は、地球の約6割だった。月の土、1立方センチメートルと、地
球の土1立方センチメートルでは、地球の方が、約2倍も重いということだ」(同書、111P)と。

 言い換えると、月の内部の40%は、空洞ということになる。

+++++++++++++++

 改めて『月の先住者』を読んで、私は、ふと、こう思った。
「私はこの24年間、何をしていたのか」と。

 この地球には、いろいろな問題がある。
教育問題からはじまって、時事、環境、宗教、哲学、医学問題などなど。
しかし私たちが住む、この地球のそばに宇宙人がいて、それが月に住んでいるかもしれないと
いう話については、ほとんど考えてこなかった。

 さらにとても残念なことに、この日本では、UFO問題にしても、幽霊や心霊と同格の、「超常現
象」として位置づけられている。
そのためこの日本では、「UFOを見た」というだけで、奇人、変人扱いされる。

 しかしUFOは、「科学」である。少なくとも科学的に解明されうる世界の乗り物である。また科
学の対象と考えて、なんらおかしくない。
それを一部の良識派(?)と呼ばれる科学者たちは、UFOを否定することによって、自分たち
の良識性を誇張する。
 
 が、もしいつか、(やがてその日は来るだろうが)、UFOなるものが、その姿を私たちの前に
姿を現したとき、そういった人たちは、どう自分たちの(非良識性)を弁解するのだろうか。

 私とて、「見たものは見た」というだけで、どれだけ、白い目で見られたことか!
これからも、自分が納得するまで、この問題を追求してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 UFO 
超常現象 はやし浩司 月空洞説 月宇宙船説)

(付記)

私とワイフが見たUFO と同じものを見た人が、この浜松に、2人いる。
BT氏(男性、現在54歳)と、その弟氏である。
見た時期と、飛んでくる方向はちがったが、ほとんど同型のUFOである。
私が私の見たUFOについて中日新聞に書いたのを、BT氏が読んだ。
それで知り合いになった。

そのBT氏と、今夜(7月27日)、電話で、1時間ほど、話す。
私はこう言った。

「私は、あのUFOを見て以来、ずっと、自分の中のもう一人の自分と闘わねば
なりませんでした。
『私が見たのは、幻覚だ、夢だ、見まちがいだ』と言う私自身。
しかし一方で、『見たものは見た』とがんばる私自身。
ときに、『見たものは見た』という私自身が負けそうになりましたが、そういうとき、ワイフが、『私
も見た』と言のです。
それでまた話が、振り出しにもどってしまう……。
毎回、その繰り返し。
記憶も、時間とともに、どこか薄れてきます。
もし見たのが私ひとりだけだったら、私はもう一人の自分に負けてしまっていたかもしれませ
ん。
今ごろは、『やっぱり、あれは幻覚だったのだ』と、自分を納得させてしまっていたでしょう。
私は死ぬまでに、何としても、あの夜に見たものが何であるか、それに決着をつけておきたい
のです」と。

BT氏についても、事情は同じ。
BT氏もこう言った。
「私も弟と2人で見ました。私も、もし私ひとりだけで見ていたら、今ごろは、『やっぱり
あれは夢だったのだ』と自分を納得させてしまっていたでしょう」と。

しかしE・ミシェル博士の言葉で、私は、救われた。
肩の荷がはずされたというか、スーッと心が軽くなるのを感じた。
と、同時に、大きな使命感のようなものを覚えた。

私ももう60歳。
世間に遠慮しなければならない年齢ではない。
書きたいことを、書く。
伝えたいことを、伝える。
私のことを、奇人だとか、変人だとか、そういうふうに思いたければ思うがよい。

……しかし、この爆発的なエネルギーはどこから生まれてくるのか。
つい先日まで、私はものを書くということそのものに、嫌気すら覚えていた。
その私が、何かに取りつかれたように、今、こうして文章をたたいている。

……で、この話とは別に、私には、こんな奇妙な体験がある。
それについて書く前に、この話に出てくる、DK君について書いておく。

DK君は、現在、オーストラリアのM大学で、教授職級の地位にいる。
そのDK君が、この2月に日本へ、娘さんといっしょに、来た。
そしてあの日のことについて、話し合った。
DK君も、あの日のことをよく覚えていた。
そしてその話になると、「ヒロシは、その話をよくするが、たしかに、あの日のことは、
理解できない」と言った。

当時の私たちは、UFOについて、ほとんど興味はなかった。
知識もなかった。
(アダムスキー型のUFOについては、俗説程度には、知っていたが……。)
いわんや、それがUFO現象と関係あるなどとは、思ってもみなかった。
「アダプション(誘拐)」という言葉にしても、それを耳にしたのは、それから
10年以上もたってからのことである。

以前書いた原稿を、そのまま紹介する。

+++++++++++++++++++

●奇妙な体験

+++++++++++++++++++

●秋の夜のロマン、UFO

●資質を疑われるから、書かないほうが……

 私は超自然現象というものを信じない。まったく信じない。信じないが、UFOだけは別。信ず
るも信じないもない。私は生涯において、三度、UFOを目撃している。一度は、ワイフと一緒に
目撃している。(あとの二度については、目撃したのは私だけだから、だれにも話したことがな
い。文として書いたこともない。ここにも書かない。)

 が、私には、こんな不思議な体験がある。結婚したとき、ワイフにだけは打ち明けたが、こう
してものに書くのははじめて。だから前もって断っておくが、これはウソではない。ここにはウソ
は書かない。こういう話は、書けば書いたで、私の評論家としての資質が疑われる。損になる
ことはあっても、得になることは何もない。事実、「林君も自分の仕事を考えたら、そういうこと
は人には言わないほうがよいよ」とアドバイスしてくれた人もいる。それはわかっているが、しか
しあえて書く。

●不可解な体験

 オーストラリアに留学していたときのこと。あと一か月ほどで、日本へ帰るというときのことだ
った。オーストラリアの暑い夏も、終わりに近づいていた。私は友人のD君にビーチハウス(海
の別荘)で、最後の休暇を過ごしていた。ビーチハウスは、ローンという港町の手前、一〇キロ
くらいのところにあった。避暑地として有名なところで、そのあたりには、「グレートオーシャンロ
ード」という名前の街道沿いに、無数の別荘が点在していた。

 ある日のこと。D君の母親が、サンドイッチを作ってくれた。私とD君は、そのサンドイッチをも
って、ピクニックにでかけた。「ビクトリア州の最南端にある、オッツウェイ岬(Cape Otway)に行
こう」ということになった。時刻は忘れたが、朝、ほどよい時刻に出かけたと思う。あともう少し
で、オッツウェイ岬というところで、ちょうど昼食時になったのを覚えている。小高い山の中に入
って、私たちは車の上に座って、そのサンドウィッチを食べた。

 そこからオッツウェイ岬までは、車で半時間もかからなかったと思う。彼らがいうブッシュ(や
ぶ=雑木林)を抜けてしばらく走ったら、オッツウェイ岬だった。

 私たちは岬へつくと、百メートルくらい先に灯台が見える位置に車を止めた。そして車の外へ
出ると、岬の先のほうへと向かって歩き出した。そのときのこと。どちらが言ったわけではない
が、「記念に大地に接吻をしよう」ということになった。背丈の短い雑草が、点々と生えているよ
うな殺風景な岬だった。ほかに見えるものといえば、灯台だけだった。たしか、「オッツウェイ
岬」「オーストラリア、最南端」というような表示だけは、どこかにあったように思う。私たちは地
面に正座してひざまづくと、そのまま体を前に倒した。そして地面に顔をあてたのだが、そこで
記憶がとだえた。

 気がつくと、ちょうど私が顔を地面から離すところだった。横を見ると、D君も地面から顔を離
すところだった。私とD君は、そのまま車に戻り、帰り道を急いだ。ほとんど会話はなかったと
思う。

 そのオッツウェイ岬からは、舗装された道がつづいていた。そしてほどなく、アポロベイという
港町に着いた。港町といっても、波止場が並ぶ、小さな避暑地だった。私たちはそのひとつの
レストランに入って、ピザを食べた。日はとっくに暮れていた。まっ暗といったほうが正確かもし
れない。

 この話はここで終わるが、それからほぼ一週間後のこと。そのとき私とD君は、D君の両親
の住むジーロンの町の家にきていた。そこで、ベッドに入って寝る前に、私はD君に、こう切り
出した。胸の中でモヤモヤしているものを、吐き出したかった。

 「D、どうしてもわからないことがある……」
 「何だ、ヒロシ?」
 「いいか、D、あの日ぼくたちは昼食を食べたあと、オッツウェイ岬に向かったね」
 「そうだ」
 「サンドイッチを食べたあと、すぐオッツウェイ岬に向かった。時間にすれば、三〇分もかから
なかったと思う」
 「そんなものだな、ヒロシ」
 「でね、D、そのオッツウェイ岬で、同時に二人とも眠ってしまった。そんな感じだった。あるい
は眠ったのではないかもしれない。同時に地面に顔をつけ、同時に地面から顔を離した。覚え
ているだろ?」
 「覚えている……」
 「それでだ。ぼくたちは、オッツウェイ岬から帰ってきた。そしてあのアポロベイの町で、夕食
を食べた。ぼくはそれがおかしいと思う」
 「……?」
 「だってそうだろ。オッツウェイ岬から、アポロベイまで、どんなにゆっくりと走っても、一時間
はかからない。が、アポロベイへ着いたときには、あたりはまっ暗だった。時刻にすれば、夜の
七時にはなっていた。ぼくたちは、同時にあの岬で眠ってしまったのだろうか」と。

 昼過ぎにオッツウェイ岬に着いたとしても、午後一時か二時だったと思う。それ以上、遅い時
刻ではなかった。が、そこからアポロベイまで、一時間はかからない。距離にしても、三〇キロ
くらいしかない。が、アポロベイに着いたときには、もうとっぷりと日が暮れていた! どう考え
ても、その間の数時間、時間がとんでいる!

 私はその話をD君にしながら、背筋がどこかぞっとするのを感じた。D君も同じように感じたら
しい。さかんに、ベッドの上で、首をかしげていた。

 そのオッツウェイ岬が、UFOの有名な出没地であることは、それから数年たって、聞いた。D
君が、そのあたりで行方不明になったセスナ機の事件や、UFOが撮影された写真などを、そ
のつど届けてくれた。一枚は、あるカメラマンが海に向けてとったもので、そこには、ハバが数
百メートルもあるような巨大なUFOが写っていた。ただしそのカメラマンのコメントによると、写
真をとったときには、それに気づかなかったという。

 さらにそれから五、六年近くたって、私たちと同じような経験をした人の話が、マスコミで伝え
られるようになった。いわゆる、「誘拐」(アブダクション)というのである。私はあの日のあの経
験がそれだとは思いたくないが、どうしてもあの日のできごとを、合理的に説明することができ
ない。

簡単に言えば、私とD君は、地面に顔をつけた瞬間、不覚にも眠ってしまったということにな
る。そして同時に、何らかのきっかけで起きたということになる。しかも数時間も! しかし現実
にそんなことがあるだろうか。私はその前にも、そのあとにも、一度だって、何の記憶もないま
ま、瞬間に眠ってしまったことなど、ない。電車やバスの中でもない。寝つきは悪いほうではな
いが、しかし瞬間に眠ってしまったようなことは、一度もない。

 私とD君は、UFOに誘拐されたのか?

 今になってもときどきD君と、こんな話をする。「ぼくたちは、宇宙人に体を検査されたのかも
ね」と。考えるだけで、ぞっとするような話だが……。

●再びUFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、前にも書いた。繰り返すが、私たちがあの夜見たものは、
絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛び去るとき、あ
たかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのようにして消えていった。飛
行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。その原稿
につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点については、
ワイフも同意見である。つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並んで飛んでいるのに
気づいた。そのときは、黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、しばらくすると、その窓を
取り囲むように、ブーメラン型の黒いシルエットが浮かびあがってきた。そのときは、夜空に目
が慣れてきたために、そう見えたのだと思ったが、今から思うと、空から浮かびあがってきたの
かもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●造反したのは、E・ミシェル博士だけではなかった!

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月表面のみならず、この地球上でも、
またその間の宇宙空間においてでさえも、
今までに厖大な数の、UFO目撃例が
ある。

しかしどういうわけか、NASAは、それら
すべてを否定している。

UFOに関する情報は、NASAの中でも、
極秘中の極秘、最高度のトップ・シークレット
扱いということは、容易に推察できる。
が、今回、E・ミシェル博士は、あえて、その
暴露戦術に、うって出た。

が、ほかにも、いた。

「月面に9番目に人類として足跡を残した、宇宙飛行士のジョン・アームストロングは、
月でのUFOの存在について、こう語った。『もし君が(UFOが)存在しないと思うなら、勝ち目の
ない勝負をしているようなものだ』と。

また同じく宇宙飛行士のユージン・サーナンは、『UFOは、どこか他の文明から来たと信じてい
る』といっている」(以上、「月の先住者」)と。

E・ミシェル博士自身の言葉も、収録してある。

「月での6番目の人類となった宇宙飛行士、エドワード・ミッチェル(本書では、「ミチェル」となっ
ている)は、UFOについて、こう述べている。『UFOに関して、あとわからないのは、どこからや
ってきたのか、ということだけだ』」と。

 私は、月での不可思議現象を、ひとつずつ、検証してみたい。
が、その中でも、とくに私の注意をひいてやまないのが、『オニール橋』である。
私は子どものころ、(小学3年生前後ではあなかったかと思うが、記憶は定かではない)、
何かの博覧会で、そのオニール橋について知った。

 そこには大きなパネルで、月のクレーターからクレーターにまたがってかかる、巨大な
岩石のアーチが描かれていた。
見た感じは、大きな洞窟のような感じだった。
子どもが泥で作る、橋のようなものを想像すればよい。
が、そのオニール橋はその後、その場所から、こつ然と姿を消す。
一説によれば、巨大なUFOが、2つのクレーターの山の上にまたがって、着陸していた
ということだが、真偽のほどはわからない。

「月の先住者」のなかにも、そのオニール橋に触れた箇所がある。
それをそのまま紹介する。

「……そのころのもっとも驚くべき記事は、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の
科学部門編集者であった、ジョン・オニール氏が、1954年に危難の海に、巨大な橋のような
建築物が見えると発表したときだった。

 おもしろいことには、他の著名な天文学者にも各自の望遠鏡で、その橋らしきものが確認さ
れたことだった。ある者は、その橋は全長12マイル(約20キロ)にも達するといった。

 はたしてその(橋)が建築物であったのか、それとも単に自然のなせる技だったのだろうか。
英国の有名な天文学者である、H・P・ウィルキンス博士(英国天文学協会、月面課主任)は、
BBCのラジオ番組の中で、『(橋)らしきものは、建造物のようだ』(『UFOの陰謀』、ドナルド・キ
ーホー、1975)と発言した。

 さらにその番組で、『建造物とは具体的にどういうことなのですか』と質問され、『つまり、それ
は技術的に作られたものだということです』と答えている。

 そしてその(橋)は地面に影を落としていて、外観もふつうの(橋)のようだと付け加えた。
またこの月の権威者は、『橋の下に太陽光が差し込んでいるのさえ、よく見える』と述べ、人々
をびっくりさせた。

 このラジオ番組の中で、ウィルキンス博士は、この(橋)が、『自然にできたものである』とは一
度も言わないばかりか、『人工のものらしい』と、何度も述べたのだった。

 危機の海自体、かつて何度もよく観察され、研究されつくした場所だけに、以前この(橋)が
存在しなかったことは事実である。
そればかりか、この(橋)は近年になって、他の惑星の人類(?)によって建設された可能性が
大となった。

 他にも、たくさん、知的生物によって、四角形、あるいは三角形の壁状のものや、ドームのよ
うなものでさえ造られつづけ、どこからともなく現れては消えた……」(同書、P17〜18)と。

 現在の今、そのオニール橋なるものは、存在しない。
また1954年に発見されたというのだから、私が、満7歳のときのことである。
私がどこかの博覧会で、その橋の想像図を見たのは、その直後のことということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 UFO
 月面 危機の海 オニール橋)

Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●月は、巨大なUFO?

 このところ毎晩、眠る前に、「月の先住者」(ドン・ウィルソン著・たま出版)を読んでいる。かな
り前に買った本だが、それが結構、おもしろい。なかなかよく書けている。要するに、月には、
謎が多いということ。そしてその謎を集約していくと、月は、巨大なUFOということになる、とい
う。

 私が子どものころには、月の危難の海というところに、オニール橋というのがあった。オニー
ル(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニール)という科学者が
発見したから、「オニール橋」というようになった(一九五三年七月)。どこかの科学博覧会に行
ったら、その想像図まで展示してあった。一つの峰からつぎの峰にまたがるような、端から橋ま
で、二〇キロもあるような橋だったという。

 が、そんな橋が、月の上にあること自体、おかしなことだった。しかもそんな橋が、それまで発
見されなかったことも、おかしなことだった。それまでに、無数の天文学者が、望遠鏡で月をの
ぞいていたはずである。

 しかし、最大の謎は、その後まもなく、そのオニール橋が、その場所から消えたということ。な
ぜか。その本によれば、あくまでも、その本によればの話だが、それは巨大なUFOだったとい
う。(ありえる!)

 そこでインターネットを使って、オニール橋を調べてみた。ヤフーの検索エンジンを使って、
「月 オニール」で検索してみると、いくつか出てきた。結局、オニール橋は、一部の研究者の
「見まちがい」ということで、公式には処理されているようだ。(残念!)

 私自身は、信じているとかいないとかいうレベルを超えて、UFOの存在は、確信している。ワ
イフと私は、巨大なUFOを目撃している。私たちが見たのは、幅が数キロもあるような巨大な
ものだった。だからオニール橋が、巨大なUFOだったとしても、驚かない。

 しかしこういうのを、私たちの世界では、「ロマン」という。つまり、「夢物語」。だからといって、
どうということもないし、また何ができるということでもない。またそれを基盤に、何かをすること
もない。ただの夢物語。しかし心地よい夢を誘うには、この種の話が、一番。おもしろい。楽し
い。それはちょうど、子どもたちが、かぐや姫の話を聞いて、夜の空に、ファンタジックな夢をは
せるのと同じようなものではないか。

 興味のある人は、その本を読んでみるとよい。しかしあまりハマらないように! UFOの情報
は、インターネットで簡単に手に入るが、そのほとんどのサイトは、どこかの狂信的なグループ
(カルト)が、運営している。じゅうぶん注意されたし。
(030702)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●UFO

Have you ever seen an UFO? My wife and I did. It was a midnight after 12:00 o'clock. We 
were walking in a narrow street near our flat. It was a huge one, which might be 2 or 3 
kilometers in width. Of course it was not a plane. It was so huge. Then if someone asks me if 
I believe in UFO's, I would say, "Yes". These days at the Parliament House of Japan, some 
congressmen discuss about UFO's in the public. Does this have something to do with "
Kaguya", a Japanese moon-search rocket? Kaguya is now on the orbit of the moon, taking 
photos from the space. I hope the government show us everything about the Moon. Some 
scientists as well as people say that the Moon is a giant space-craft for the aliens. Do you 
think so too? 

+++++++++++++++++

このところ、国会議員たちが、「UFO」
という言葉を、よく口にする。

国会という、公式の場でも、この問題
が取りあげられた(07年12月)。

一応、政府見解は、「存在しない」だが、
一部の議員たちは、「信じている」、「いる
と思う」などと発言している。

こうした一連の発言は、日本が打ちあげた
月探査衛星「かぐや」と、どこかでつながって
いるのではないだろうか?

「かぐや」は、とんでもない映像を地球へ
送り届けてきた(?)。

「とんでもない」というのは、「ありえない」
という意味であり、私はそれがUFOであって
も、少しも、おかしいとは思わない。

アポロ宇宙船で、月の裏側に回ったある宇宙
飛行士は、こう言ったという。

「まるでラッシュ・アワーのように、UFO
が飛び交っている!」と。

+++++++++++++++++++

 月の内部には、巨大な空間がある。その中心部では、プラズマの人工太陽が、さんさんと輝
いている。月の内側に住む住人たちは、地球人の私たちと同じような生活をしている。

 一見、荒唐無稽(むけい)のような話だが、こうした説を信じている人は多い。科学者の中に
も、いる。たとえば私が子どものころには、月には、オニール橋※というのがあった。「オニー
ル」というのは、その橋を発見した人物の名前である。

 オニールは、ある日、望遠鏡で月を見ていたとき、斜め方向からの太陽光線を浴びて、そこ
に橋のような影ができているのを発見した。それでそれを「オニール橋」と名づけた。

 私はその橋のことを、どこかの博覧会に行ったときに知った。巨大なアーチ型の橋で、全長
はたしか、20キロ近くあると聞いたのを記憶している。

 しかし、だ。今、同じところをさがしても、その橋はない。「ない」というより、「消えた」。今にし
て思えば、その橋というのは、山から山へと、ちょうどそれらにまたがるように着陸していたUF
Oではなかったかと思う。

 私自身も、巨大なUFOを目撃している。ブーメラン型のUFOである。全長が2〜3キロはあっ
たかと思う。あるいはもっと長かったかもしれない。よく「葉巻型UFO」が話題になるが、葉巻型
UFOともなると、全長が20〜30キロもあるという。

 こういう話を聞くと、月へのロマンが、かぎりなく、ふくらむ。

 月の住人たちは、どこから来たのか?
 月の住人たちは、何をしているのか?
 月の住人たちは、地球人の私たちを、どうしようとしているのか?

 あの月をくりぬいて住むほどの宇宙人だから、かなり頭のよい人たちとみてよい。私たち人
間より、ひょっとしたら、何千年も、何万年も進化しているかもしれない。あのUFOにしても、光
速に近いスピードで、宇宙空間を自由自在に動き回れるという。

 私が見たUFOにしても、空にそのまま溶け込むかのようにして、消えていった・・・。

 「かぐや」は、どんな映像を送ってきているのか? その一部は、インターネット上でも公開さ
れているが、どれも高・高度からのものでしかない。私(=私たち)が見たいのは、もっと低高
度で撮った、倍率の高い写真である。
 
 そこには、月に住む住人たちの、その直接的な証拠が写っているかもしれない。どうかウソ
隠しなく、(=修正しないで)、すべての写真を公開してほしい。

(注※)(月探査情報ステーションの公式HPより、転載)

オニール橋事件を振り返ってみます。1953年7月、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の
科学部長であったJ・J・オニール氏は、月面の「危難の海」の西側に人工的に作られた橋のよ
うなものを発見したと発表しました。この橋は二つの峰をまたぐような形で、20kmにもおよ
び、日没時には観測できましたが、日の出の時には見えなかった、ということです。

同年8月、英国天文学協会の月研究部長だったH・P・ウィルキンス氏らも同じ構造を確認した
と発表しました。しかし、その後この構造は観測できなくなり、見まちがいだったのではないかと
いう批判が起こりました。ウィルキンス氏はその批判に抗議し、月研究部長を辞任したそうで
す。

当時、オニール橋はかなりの話題を呼び、一部UFO研究家などからは巨大なUFOが一時的
に着陸していたのではという推測もされたそうです(以上、「月探査情報ステーションの公式H
P」より)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist UFO オニール オニール橋)

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オニール橋と並んで、私が知った
月の2つのクレーターについて。

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●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の二つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真円
である。

 そこで二つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の直
径は、数一〇キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数一〇万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセント
にすぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレ
ーターまでは、消せない。それが、ここに書いた、二つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上にいて、それこそ地上のカビのような存在でしかない私。その私がはいつくばって東
洋医学の勉強をした。その私が、天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
だ。

 この二つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の二つが、
合体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約五五〇〇年前に起きた変化」ということになる。

 その五五〇〇年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、少し前に書いた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷
の「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書か
れたものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにそこらのサルに知
恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間は宇宙のカ
ビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自分の中で、
ウズを巻く。

 あさって(二七日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、
どこまでも明るい。
(030925)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2738)

(今日・あれこれ)(7月28日)

++++++++++++++++

ここ数日、UFOについて考えている。
と、同時に、「自分はとんでもないことを
書いている」という気分から、抜け出る
ことができない。

向こう岸の見えない、湖に飛び込んだ
ような気分とでも書くべきか?

つかみどろこがない。
直接、そうした問題と取り組んでいる
わけでもない。
ゆいいつの接点は、かつて、巨大なUFO
を見たことがあるというだけ。

まるで雲をつかむような話というのは、
こういうことを言うのか。

しかしこれは重大な問題と言ってもよい。

もし月が空洞で、人工的に建造された
宇宙船であるとするなら、人間の
歴史そのものがひっくり返ってしまう。
過去のありとあらゆる出来ごとが、すべて
UFO現象と関連づけて考えられるように
なるかもしれない。

そうなったときの混乱と騒動には、
想像を絶するものがある。
その前に、人間は、そうした混乱と
騒動に耐えることができるだろうか。

++++++++++++++++

●気分転換

……ということで、今朝は、少しUFO問題から、離れてみたい。
で、今、興味があるのが、「竹島(独島)問題」。
それに「6か国協議の行方」。

●最悪の反日国家

韓国政府は今度、竹島を刷り込んだ記念切手を発行することにしたそうだ。
韓国政府がどんな切手を発行しようが、日本の知ったことではない。
が、どこまで日本を挑発したら、気が済むのだろう。
しかもその図柄というのは、古い地図(古地図)のものだというが、元の
地図の、その写本のほうの地図のものだという。
元の地図には、竹島(独島)が載っていないからだという。
(……ということは、自ら、竹島は、韓国の領土ではなかったということを、証明する
ようなものではないのか。論理的に考えれば、そうなる。)

彼らが、「竹島(独島)は韓国の領土である」と主張する、最大の根拠が、古地図は古地図
でも、その写本では、話にならない。
ならないばかりか、今度は、対抗策として、「対馬は韓国の領土だ」と言い出した。

いわく「対馬は韓国領説に、歴史的根拠あり」(朝鮮N報、社説、08・7・27)と。

フ〜〜〜ン?

おまけに数日前の韓国の新聞には、こうあった。
「日本政府は、(竹島問題についての)歴史的資料を、隠ぺいしている」と。

フ〜〜〜ン?

さらに「日本は、地域紛争の火種を残すことに懸命である」とも。
「日本はいつか、竹島を理由に、地域紛争をしかけてくるはず」とでも言いたげな
論調である。

そこで朝鮮N報は、「独島:韓日戦わば」という長文の特集記事まで載せている(7・27)。
日本と韓国の兵力の差を紹介しながら、「半日で、独島は占領される」とか、何とか。
まるで臨戦気分?

フ〜〜〜ン?

ところで現在、日本と韓国の間の、交流事業が、ほとんど中断している。
この静岡県でも、毎年、日本と韓国の子どもたちが、サッカーの交流試合をしていた。
が、それも韓国側の一方的な通告で、中止!

フ〜〜〜ン?

韓国は、やはり韓国。
大統領が替わったくらいでは、何も変わらない。
最悪の反日国家?
それが韓国の実像ということになる。


●6か国協議

どうやらアメリカは、北朝鮮を、核保有国として認める方向で動いているようである。
日本にとっては、とんでもない話だが、アメリカにとっては、なんでもない。
視点をワシントンに置いてみればわかる。

アメリカにとって、アジアの最大の脅威といえば、北朝鮮ではない。
中国である。
中国の核兵器とミサイルである。
その数、数百発とも、数千発とも言われている。
北朝鮮が、8発くらい核兵器をもったところで、どうということはない。
(大切なことは、その8発を、北朝鮮内にとどめておくこと。
北朝鮮の核兵器がテロリストたちに渡ったら、それこそ、たいへんなことになる。
だから「拡散の防止」ということについては、アメリカは神経質になっている。)
次期大統領と目されているオバマ氏も、そんなようなことを演説の中で、ふと臭わした(08年7
月末)。

で、今、核の検証問題で、米朝会談は山場を迎えつつある。
「検証を具体化せよ」と迫るアメリカ。
「テロ支援国指定解除が先」とがんばる北朝鮮。

しかしこういうのを、茶番劇という。
冷静に考えてみよう。

「テロ支援国家指定」が解除されたところで、何も変わらない。
言うなれば、ラベルのようなもの。
ラベルをはがしたところで、それで世界が、それに追従するわけではない。
そのことを北朝鮮は、百も承知のはず。

つまりどうでもよい、ささいな問題にこだわりながら、ああでもない、こうでもないと
難グセをつける。
それが北朝鮮のやり方。
先のB銀行問題を例にあげるまでもない。

あのときも、「B銀行に凍結されている資金を解除せよ」と北朝鮮はがんばった。
で、アメリカは、北朝鮮の言いなりになって、それを解除した。
北朝鮮は、現金をいつでも引き出せる状態になった。
が、北朝鮮は、現金を引き出さないばかりか、「もっと、自由に送金できるようにせよ」と
言い出した。

しかしいくらアメリカでも、それはできない。
それを判断するのは、世界の銀行各社。
それぞれの銀行が、「北朝鮮の資金は扱いたくない」と言えば、それまで。
事実、現在、北朝鮮の資金を扱う銀行は、皆無。
みんな、いやがっている。
中国の銀行だって、いやがっている。
というわけで、資金の凍結は解除されたが、状況は以前のまま。

同じように、テロ支援国指定が解除されても、それで世界が動くということは、
ありえない。

「アメリカが解除したのだから、もうだいじょうぶ」と、北朝鮮と交易を開始する
国はない。
つまり、北朝鮮は、理由にもならない理由をこじつけて、ダダをこねているだけ。
もっとはっきり言えば、「テロ支援国解除」などという問題は、もともと北朝鮮にとって
は、どうでもよい話。

むしろ、北朝鮮は、アメリカが、解除を延期するのを望んでいる(?)。
そうなれば、まさに、それこそ、北朝鮮の思うツボ。

「アメリカが約束を破った」とか何とか言って、大騒ぎすることができる。
さらにさらに時間を稼ぐことができる。

が、ひとり、そんな事情も理解できず、孤軍奮闘している人がいる。
北朝鮮の言い分を真に受けて、交渉をつづけている人がいる。
国務次官補のC・ヒル氏である。

どうしてあの人は、こんな簡単なことがわからないのだろう?
金xxの手の上で、ただ踊らされているだけ?
私には、ただのおバカにしか見えない(失礼!)。

ここまで書いたところで、朝食。
その席で、ワイフが私にこう聞いた。

「どうして北朝鮮は、B銀行から、資金を引き出さないのかしら?」と。

北朝鮮は、その気にさえなれば、いつでもB銀行から、現金を引き出せるはず。
その現金をカバンに詰めて、北朝鮮へもって帰ることもできるはず。
しかしどういうわけか、北朝鮮は、その資金をB銀行に預けたまま。
預けたままで、「外国の銀行に、自由に送金できるようにしろ」と、アメリカに迫っている。

が、これには理由がある。

私「簡単に言えば、もともと偽札(にせさつ)だからさ」
ワ「どういうこと?」
私「いいか、これはあくまでもぼくの推理によるものだけど、B銀行のトップと、北朝鮮のトップ
が、グルだったということ」
ワ「……?」
私「ある日、北朝鮮が、10億ドルの偽札をB銀行に持ちこんできた。B銀行はそれが偽札であ
ることを知っていた。そこでその偽札を使えるようにするためには、一度、その偽札を洗浄(ロ
ーンダリング)する必要があった」

ワ「どうやって、洗浄するの?」
私「簡単だよ。一度そのお金を、外国のどこかの銀行へ送金すればいい。たとえば日本の三
菱銀行なら、三菱銀行でもいい。で、一度三菱銀行に送金したあと、そこで現金を引き出す。
三菱銀行には、偽札はないからね。今度は、再び、その現金をカバンか何かに詰めて、B銀行
へもってくる。それで洗浄は、完了」
ワ「往復するだけでいいの?」
私「そう」
ワ「でも、B銀行は、どうやって、儲けるの?」
私「最初の段階で、10億ドルのうちから、たとえば5億ドルを自分のものとすることもできる。あ
るいは洗浄が終わったあと、手数料として、5億ドル分を自分のものとすることもできる」

ワ「B銀行は、どうしたのかしら?」
私「あくまでもこれはぼくの推理だけど、恐らく洗浄が終わったあと、手数料を受けとるつもりで
はなかったのかな。が、その洗浄が、うまくいかなかった。だからB銀行としても、額面どおりの
現金を、北朝鮮に払い戻すことができないでいる」
ワ「北朝鮮に払えば、その分だけ、B銀行の損失ということになるわね。まさか偽札のまま、払
い戻すというわけにはいかないから……」
私「そう。だから今でも、北朝鮮の資金は、B銀行に預けられたまま……ということになってい
る」と。

何からなにまで、訳のわからない国、それが北朝鮮ということになる。
まともな常識が通ずる国ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2739)

【新生児の謎】

●人間の脳の大きさは、母体の産道(骨盤)の大きさに比例する

+++++++++++++++++

進化の過程で、人間の脳は、より
大きくなってきた。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクゥス) ……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容量……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

+++++++++++++++++

胎児は母体の産道(骨盤の間)をくぐり抜けて、生まれる。
そのときもし胎児の頭の大きさが、産道よりも大きければ、胎児は、母胎の産道をくぐり抜ける
ことができない。

だから『人間の脳の大きさは、母体の産道の大きさに比例する』。

胎児の頭が大きくなればなるほど、母体の産道の直径は大きくなければならない。
もし胎児が産道をくぐり抜けることができなければ、胎児が死ぬか、反対に母親が死ぬかのど
ちらかになる。
が、反対に、母体の産道が大きくなればなるほど、胎児の頭も大きくなるかといえば、それは
言えない。

たとえば人間以外のほかの動物のばあい、頭よりも体のほうが大きい。
またその多くは、2体以上の子どもを出産する。
頭の大きさが問題になることは、ない。
つまりほかの動物のばあい、母体の産道の大きさは、頭というより、体の大きさによって決ま
る。(その反対でもよいが……)。

が、人間だけは、いびつなまでに、頭だけが大きい。
なぜか?

●頭を大きくするために

人間の脳を、今以上に大きくするためには、母体の産道を大きくするか、胎児そのものを、人
工胎盤で育てるしかない。
よくSF映画の中にも、そういうシーンが出てくる。
大きな水槽の中で、胎児が人工飼育(?)されているシーンである。

水槽の中に胎児が浮かび、へその緒は、水槽外の栄養補給装置とつながっている。

この方法であれば、胎児は何の制約も受けず、自分の頭、つまり脳を大きくすることができる。
いくら大きくなっても、出産時の問題は起きない。

「あれはSF映画の中の話」と思う人もいるかもしれないが、現在の科学技術だけをもってして
も、けっして、不可能ではない。
現在でも、一度体外に取り出した女性の卵子に、人工授精させ、再び母体に戻すという方法
は、ごくふつうのこととしてなされている。
あと50〜100年もすれば、こうした方法、つまり人工胎盤を用いた育児法が、ごくふつうのこ
ととしてなされるようになるかもしれない。

●2つの問題

が、ここで2つの問題が起きる。
厳密には、3つの問題ということになるが、3つ目は、このつぎに書く。

ひとつは、こうして生まれた子どもは、頭が大きくなった分だけ、つぎの代からは、自然分娩に
よる出産がむずかしくなるだろうということ。
代を重ねれば重ねるほど、むずかしくなるかもしれない。

「ぼくは人工胎盤で生まれたから、ぼくの子どもも、人工胎盤で育てる」と。
そう主張する子どもがふえることも考えられる。

もうひとつの問題は、『頭が大きくなればなるほど、脳の活動は鈍くなる』ということ。

脳というのは、コンピュータの構造に似ている。
とはいうものの、シナプス間の信号伝達は、電気的信号ではなく、化学反応によってなされる。
この(化学反応)という部分で、脳は大きくなればなるほど、信号伝達の速度が遅くなる。
言いかえると、脳は小さければ小さいほど、信号伝達の速度が速い。
このことは昆虫などの小動物を見ればわかる。
こうした小動物は、知的活動は別として、人間には考えられないような速い動きをしてみせる。

つまり頭を大きくすることによって、より高度な知的活動ができるようになる反面、たとえば運
動能力をともなう作業的な活動になると、かえって遅くなってしまう可能性がある。
歩くときも、ノソノソとした動きになるかしれない。
ひょっとしたら、頭の反応も鈍くなるかもしれない。

これら2つの問題は、克服できない問題ではない。
が、もうひとつ、深刻な問題がある。

●豊かな感情は人間の財産

人工胎盤で育てられた子どもは、はたして人間的な感情をもつだろうか?

豊かな感情は、安定した母子関係の中ではぐくまれる……というのが、現在の常識である。
とくに生後直後から、満2歳前後までに、その子どもの感情、つまり情緒的発達は完成される。

しかし胎児のばあいは、どうだろうか。
胎児は母親の母体内にいる間、母親の愛情を感ずることはないのだろうか。

が、これについては、「感じている」と考えるのが、自然である。
最近の研究によれば、誕生直後の新生児ですら、実は母親に向かって(働きかけ)を行ってい
ることがわかってきた。
たとえば新生児は新生児で、本能的な部分で、自らの(かわいさ)を演出することによって、親
の愛情を自分に引きつけようとする。
つまり新生児の側からも、働きかけがあるということになる。
それまでは、たとえば愛情表現にしても、母親から新生児への一方的なものと考えられてき
た。
「母親から新生児への働きかけはあっても、新生児からの働きかけはない」と。

母親から新生児へ、新生児から母親へ。
こうした相互の(働きかけ)を、「ミューチュアル・アタッチメント(Mutual Attachment)」という。

が、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、誕生直後から始まると考えるのには、無理があ
る。
あらゆる生物は、もちろん人間もだが、その成長過程において、連続性を維持しながら成長す
る。
誕生と同時に、突然、「ミューチュアル・アタッチメント」が始まるというわけではない。
胎児は胎児であるときから、「ミューチュアル・アタッチメント」は始めていると考えるのが、自然
である。

となると、人工胎盤のばあい、胎児は、その「ミューチュアル・アタッチメント」が、できないという
ことになる。
人工胎盤の中の胎児は、暗くて冷たい、孤独な世界でもがき、苦しむということになる。
いくら働きかけをしても、それに応えてくれる母親は、そこにいない!

仮に100歩譲って、何とか情緒面の問題を克服して誕生したとしても、今度は、そういう子ども
に対して、卵子の提供者でしかない母親が、母親としてのじゅうぶんな愛情を感ずることができ
るかどうかという問題もある。

母親は10か月という長い期間、自分の胎内で子どもを育てるうちに、母親としての愛情を自覚
する。
あるいは出産の苦しみをとおして、その愛情を倍加させる。
もちろん夫の役割も無視できない。
妻の出産を喜ぶ夫。
そういう姿を見て、母親である妻は、さらに子どもへの愛情を倍加させる。

こうしたプロセスを省略した子どもが、はたして、感情豊かな子どもに成長するかどうかというこ
とになると、あ・や・し・い。

●人間の脳

ところで進化の過程で、人間の脳は、より大きくなってきたと言われている。

ちなみに、猿人、原人、旧人、新人、現代人の脳容積はつぎのようになっている。

350万年前の猿人(アウストラロピテクス) ……約 375cc
190万年前の原人(ホモハビリス)     ……約 750cc
150万年前の人間の祖先(ホモエレクトゥス)……約 950cc
25万年前の人間、現代人(ホモサピュエンス)……約1500cc
(現代人の平均的脳容積           ……約1600cc)
(参考、チンパンジーの脳容積……約350〜400cc)
(出典:別冊日経サイエンス、「るい・NETWORK」)

ここで私は、「進化」という言葉を使ったが、実のところ現代人の祖先というのは、定かではな
い。
ただ言えることは、人間(ヒト)は、猿(サル)から進化したのではないということ。
反対に、たとえばチンパンジーにしても、やがて人間のように進化するということは、ありえな
い。
人間は、人間。
猿は、猿。
それぞれが、完成された個体である。

もちろん人間がここまで進化する過程の中では、猿人→原人→旧人→新人のそれぞれの段
階で、無数の新種が生まれ、そして絶滅していった。
たとえばよく知られた例として、ネアンデルタール人がいる。
ネアンデルタール人は、人間の祖先であるホモサピエンスとそれほど能力的には差がなかっ
たものの、今から1万数千年前に、絶滅している。

●未熟化する新生児

仮に産道の大きさはそのままで、胎児の頭だけが大きくなったら、どうなるか。
先にも書いたように、胎児は、母親の産道をくぐり抜けることができなくなる。
そうなれば母体である母親が死ぬか、胎児が死ぬかの、どちらかしかない。

が、ほかに方法がないわけではない。

胎児の頭がまだ、産道をくぐり抜けることができる大きさの段階で、出産するという方法であ
る。
つまり新生児としては未熟だが、その段階で母体から離され、そのあと、母体の外で育てる。
現に新生児の体重は、3200グラム弱(平均)とされているが、(平均体重は、この10年、
年々減少傾向にあるが……)、その1か月後には、体重は、約1・5倍に増加する。
2か月で2倍になる新生児も少なくない。

つまり人間の子どもの出産は、きわめて微妙な時期を選んでなされることが、これでわかる。
もし出産時が、1か月早ければ、新生児は、特別な介護なくしては生きていくことすらむずかし
い。
一方、もし1か月遅ければ、体重が増加し、ついで頭も大きくなり、出産そのものがむずかしく
なる。

ちょうどよいころに、ちょうどよい、……というギリギリのところで母親は子どもを出産する。子ど
もは、うまく産道をくぐり抜ける。

が、疑問は、残る。

なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか、という疑問である。
新生児のばあい、少なくとも生後6か月まで、保護者による手厚い保護がないかぎり、自分で
生きていくことはおろか、動き回ることすら、できない。

●進化論への疑問

ここにも書いたように、人間は人間として、今に見る人間に進化した。
「今の今も進化しつづけている」と説く人もいるが、反対に、「同時に退化しつづけている」と説く
人もいる。

突然変異というのは、まさに両刃の剣。
突然変異によって進化することもあるが、それまでの重要な遺伝子を喪失することもある。
つまり進化と退化は、相互に関連し合いながら、同時進行的に進むと考えてよい。

が、それはさておき、人間が今に見る人間になるについて、「ダーウィン的な進化論では説明
できない進化」と説く学者も少なくない。

進化論の世界では、「10万年に1回の、ささいな変化」でも、「突然変異」とみるのだそうだ。
が、こと人間に関していえば、ほぼ20万年単位で「大・突然変異」を繰りかえし、今に見る人間
になった。

たとえば「人類の祖先は、420万年前からずっと二足歩行していたにもかかわらず、350万年
前の猿人の脳容量は、ほとんどチンパンジーと変わっていない」(「るい・NETWORK・生物
史」)そうだ。

「二足歩行するようになったから、脳容積が大きくなった」という従来の常識にも、よくよく考えて
みればおかしいということになる。

そこで現われたのが、「作為説」。
「つまり人間は、その進化の過程で、何ものかによって、作為的に改良された」という説であ
る。

この説を説く学者も少なくない。

『……スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラーク氏は、進化論についてこう述
べています。

「人間が下等な生命形態から、段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形において
も人間をサルに関連づけるものは何もない。人間は突然に、今日と同じ形で出現した」』(指
摘:「宇宙GOGO」HPより)と。

「なぜ人間だけが、こうまで未熟な状態で、母体から生まれるのか」という疑問についても、未
熟なまま生まれるというように、だれかによって操作されたとも、考えられなくはない。

そのだれかとは、だれか?

このあたりから、話が、SF的になる。
あるいはどこか宗教的になる。
実際、こうした説に基づいて活動しているカルト教団もある。
だから私の話は、ここまで。

この先のことは、皆さんの判断に任せるが、UFOが存在し、当然、宇宙人が存在するというこ
になれば、私たち人間が、その宇宙人によって何らかの(作為的な改良)を受けたことがある
のではないかと考えても、おかしくない。

とくに(脳)については、そうである。
なぜ私たちの脳は、こうまで飛躍的に進化してしまったのか?
わずか5500年以前には、私たちは火の使い方すら知らない新石器人間であったことを考え
るなら、この疑いは大きくなることはあっても、小さくなることはない。

(注)自分で読み返しても、稚拙な内容の文章だと思う。
文章もへたくそだし、つっこみも甘い。
が、私はここを出発点として、さらにこの問題について、考えてみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 産道 胎児の大きさ 胎児の頭
 人間の脳)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ、お詫びと、警告】(My Aologizes and a Warning to my Readers)
This is a Warning Message to my Readers regarding on the UFO problems.
Here I receive a message from a friend of mine who lives in Australia
about the website, from which I quoted some informations on UFO's.

++++++++++++++++++++

●読者のみなさんへ、

ここ数日、UFO問題についての原稿を書いて
います。
その中で、私は、あるウェブサイトに載っていた、
いくつかの資料を、参考として引用しました。

そのウェブサイトについて、オーストラリアの
友人のDK氏より、つぎのような警告文が届きました。

+++++++++++++

Hiroshi,

This website is produced by the Rxxxxx religion which is a dangerous 
group. The leader is a Frenchman. Be careful of them.

ヒロシへ、

(君が引用している)このウェブサイトは、Rxxxxx 宗教と呼ばれる、
危険な団体です。リーダーは、フランス人です。彼らには注意しなさい。

+++++++++++++

UFO研究団体の多くは、宗教団体を形成し、それらの中には「カルト」と呼ばれる、狂信的な
団体もあります。

UFO問題を考えるときは、読者のみなさんも、この種のサイトには、くれぐれもご注意ください。

私もあちこちのサイトから安易に引用したりするのを、今後、慎むことにします。
ここにおわび申し上げます。
すみませんでした。

はやし浩司

Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2740)

【7月30日・雑感集】(今日から9月号)
(Short Essay on July 39th)

+++++++++++++++++

このところ曜日をよくまちがえる。
ボケのせい?
それとも暑さのせい?

体をだるく感ずる分だけ、集中力が
つづかない。
しかし今日も、はじまった!

がんばろう!
がんばるしかない!

+++++++++++++++++

●賢い子ども

A君(小6)とB君(小6)が、夏休みの宿題をもって、私の教室へ来た。
算数の宿題で、全体で、30ページほどのもの。
2ページごとに、(1)(2)(3)……と、(15)まで、番号がつけられていた。

A君は、すでに(8)まで家ですましてきた。
だからA君は、(9)からスタート。
B君は、まったくやっていなかった。
だからB君は、(1)からスタート。

が、最初からB君は、やる気満々といった感じだった。
「1時間で、すませてやる!」と、宣言した。

私「わかった、じゃあ、1時間ですませてみろ。
君が1時間ですませたら、みんなに、来週は、アイスクリームをご馳走しよう」
B「ようし、やってやる!」
私(A君に向かって……)「だけどB君、君も、1時間ですませてしまいなよ。途中でB君に追い
抜かれたら、君のアイスクリームは、なしだよ」
A「ゲーッ!」と。

ということで、A君とB君は、猛烈な勢いで、宿題に取り組み始めた。
が、算数の力では、A君はB君にかなわない。
B君は、学校でもトップクラスを走っている。

やがて差が縮まってきた。

A君……(11)、(12)……
B君……(10)(11)……と。

あと少しでB君がA君を追い抜くかなと思ったそのとき、B君が、機転をきかした。
(12)になる一歩手前で、いきなり、B君は、(15)の最後からやり始めた。
その宿題の最後のページである。

そして(15)(14)……と、進み始めた。

ほかの子どもたちも、自分たちのアイスクリームがかかっているから、ハラハラしながら、B君
を見つめている。
が、やがて、(13)あたりで、A君とB君が、交差した。

ナルホド!

こうすれば、B君は、A君を追い抜いたことにはならない。
しかもA君は、宣言どおり、宿題をすべてすますことができる。

あと1、2分でレッスンがおしまいというところで、B君が叫んだ。
「終わったア!」と。
ほかの子どもたちも、「やったア!」と。
A君だけは、どこか心配そうに、「ぼくも、アイス、もらえる?」と。

私「もらえるよ。だって、B君は、君を追い抜いてはいないからね」
A「そうだね」
私「B君はね、うしろからやって、君と出会ったことになる。
追い抜いたのじゃ、ない。
出会ったんだ」と。

改めて私はB君の賢さに、驚いた。


●『マンデラの名もなき看守』

昨夜、仕事からの帰りに、深夜劇場に足を運んだ。
見たのは、『マンデラの名もなき看守』。
あのネルソン・マンデラの獄中生活を描いた作品である。
(ネルソン・マンデラ……南アフリカ初の、全体選挙で選ばれた黒人大統領。)

星は、3つの、★★★。

どこかN・マンデラに遠慮したような映画だった。
娯楽映画というよりは、どこかプロパガンダ的?
そのため星は、3つ。

私はあの映画を見ながら、昔、M物産という会社にいたときのことを思い出していた。
私は、南アフリカとオーストラリアが担当地域だった。

その南アフリカから出張で帰ってきた上司が、私にこう言った。
「日本人は、(オナラブル・白人)と呼ばれていてね、日本人だけは、白人と同等の扱いだった」
と。
「オナラブル」というのは、「名誉(=例外)」という意味である。
しかしバスに乗っても、レストランへ入っても、落ち着かなかったという。
そこでその上司は、JALからもらったカバンを、いつも胸の前にぶらさげて歩いていたという。

(当時は、JALに乗ると、赤い日の丸が描かれた、バッグがもらえた。)

アパルトヘイト(人種差別政策)の不快感は、それを経験したものでないとわからない。今でこ
そ、若い人たちは、我が物顔で、世界中をかっ歩しているが、私たちの時代は、そうではなか
った。
白人の国へ行くと、どこでも、その(偏見=プレジュディス)を感じた。
相手の国の人から見れば、日本人もアジア人も、同じ。
区別のしようがない。

N・マンデラのすごいところは、そのつど、おいしい妥協策を示されたにもかかわらず、いっさ
い、それに応じなかったところ。
最後の最後まで、妥協しなかった。
そして最後は、南アフリカの大統領にまでなった!


●ボケのはじまり

++++++++++++++

ボケのはじまりには、視野が狭くなる(?)。
いろいろな人を見ていると、そんな感じがする。
そのことにハマると、それしか見えなくなる。
融通性が消える。
思考の柔軟性が消える。
そのため、初期のころには、家族との衝突が
ひんぱんに起こるようになる?

++++++++++++++

私も、私のワイフも、どこか、あぶない?
ともにこのところ、融通性を失ってきたように感ずる。
がんこになった。
機転がきかなくなった。
臨機応変にものごとに対処することができなくなった。

つまり脳みそ全体が、硬くなってきたように感ずる。
(こういうばあいは、「固く」と書くのか?)

一般的に言えば、家庭に閉じ込められた主婦というのは、欲求不満のかたまりとみてよい。
ほとんどの女性は、結婚することによって、それまでのキャリアを放棄する。
「したいこともせず」「やりたいこともできず」という状態で、やがて子育てという重労働を課せら
れる。

最近の若い妻たちは、自分なりに生活を楽しむことができるようになった。
しかし私たちの時代には、そうではなかった。
問答無用式にというか、否応なしに、家庭に閉じ込められた。
家庭といっても、実際には、狭いアパート。

つまり私たちの年代の女性たちは、多かれ少なかれ、不完全燃焼症候群のかたまりとみてよ
い。
子育てが終わった女性なら。なおさらである。

で、私のワイフもそうで、何かあると、その(憎しみ)を真正面から、私にぶつけてくる。
私が何をしても、また何を言っても、それに対して拒絶反応を示すことがある。
ときどき、「この人は、本当に私を憎んでいるのだなあ」と思うときがある。

が、それに最近、加齢的な問題が加わってきたように思う(?)。
それが冒頭に書いた、ボケの問題である。
視野が狭くなってきた(?)。

ささいな、どうでもよいような問題についても、ときどき、私にからんでくるときがある。
が、本人には、その自覚がない。
私が何かのことでワイフに注意すると、ワイフは、すかさず。「あなただって……!」とやり返し
てくる。
ほかに、たとえば昨夜も、私が戸棚からパンを取り出して、それを食べようとしたときのこと。
横からワイフが、すかさず、「それはH(=息子)のよ!」と言った。
言い方にもいろいろあるのだろうが、ワイフのそれは、いつもストレート!
ほかにもパンはあったので、私はそちらを食べたが、ワイフはワイフで、そのパンを、息子のも
のと決めていたようである。

こうした頭の硬さは、私の世代の人間には、だれにでも見られるものなのか。
それともボケの始まりなのか。
私にはよくわからないが、ここしばらくは、要観察といったところか?

ときどきやりにくく感ずることがある。
ホント!


●日韓関係

日韓関係が、予想以上に今、悪化している。
日本側はともかくも、韓国側の反日感情のもりあがりには、ものすごいものがある。
原因は竹島問題だが、ここにきてアメリカ側が、「竹島は無人の島(だからどの国のものでもな
い)」と言い出したから、さあ、たいへん。
アメリカに攻撃の矛先を向けるかと思っていたら、「日本がそういうふうにアメリカに言わせるよ
う、工作をした」と。

韓国という国は、(そして北朝鮮も)、不完全燃焼症候群、被害妄想、それに欲求不満のかた
まりとみてよい。

「自分たちの手で独立を成し遂げることができなかった」というのが、不完全燃焼症候群につな
がっている。
「日本ごときの国に、植民地にされた」というのが、被害妄想につながっている。
そして「何をしても、日本に負ける」というのが、欲求不満につながっている。

日本は日本で反省すべき点は多い。
しかしそれはそれ。
それにも、限度というものがある。
つまりだからといって、韓国が(北朝鮮が)、日本に対して、何をしても許されると考えるのは、
正しくない。

今回の反日感情の盛り上がりにしても、そうだ。
自分たちは、さんざん、やりたい放題のことをしておきながら、日本が、教科書に、「竹島は日
本の領土である」と書いただけで、大騒ぎ!
あろうことか、今度は、「対馬は韓国の領土である」とまで、言い出した。

(「対馬」を、「ツ・シマ」と読むのは、日本語なのか、それとも韓国語なのか?)

ともあれ、こうした動きをしっかりと日本は、胸に留めておくべき。
とくに、日本のS社よ、よく覚えておくべき。
つぎつぎと日本の先端技術を韓国に売り飛ばし、最後は、日本の企業連合の反対を押し切っ
て、有機液晶技術まで、売り飛ばしてしまった。

この日本には、韓国の産業スパイたちが、全国津々浦々、村レベルにまで入り込んでいること
を忘れてはいけない。

が、同時に、韓国経済は、火の車。
つい先週も、多額債務者のために、日本でいう「徳政令」のような政策を発表した(08年7
月)。
一世帯あたり、平均、約600万円(日本円)を上回る負債をかかえている。
そういう人たちが、年率約50%(法定)の利息を払っている。
(闇金融では、100〜200%と言われている。)

仮に50%としても、利息だけで。毎年、300万円!
そのこともあって、毎年、1万数千社の個人企業が姿を消している。
つまり現在の韓国にとって、反日運動は、損になることはあっても、得になることは何もない。

いざというとき、泣きつくことができるのは、この日本だけ。
日本をおいて、ほかにない。
ないが、日本よ、日本人よ、今度は、バカなことをしてはいけない。

97年に韓国がデフォルト(債務不履行)したとき、頼まれもしないうちから、日本は、韓国に援
助の手を差しのべた。
アメリカの反対を押し切ってまで、だ。
その額、400〜500億ドルとも言われている。
が、韓国は、それに対して、感謝の「か」の字もしていない。

彼らの論理によれば、「韓国をデフォルトに追い込んだのは、日本」ということになる。
(こういうのを被害妄想というが……。)

最近にいたっては、「日本には全額、借金は返した」と、ふんぞり返っている。

本来なら、日本の銀行各社が、韓国の銀行の支配権(経営権)を握ってもおかしくはなかった
のだが、韓国政府は、それを嫌った。
そのため韓国の銀行のほとんどは、現在、アメリカの銀行の支配下にある。

というわけで、日韓経済戦争は、水面下で、今の今も、熾烈な戦いを繰り広げている。
勝つか、負けるか。

韓国政府は昨年(07年)、アジアでも最大級の揚陸艦を建造した。
その名もズバリ、「独島」。
ワーワー騒いで、ものごとをなし崩し的に既成事実化していく。
自分たちは、そうとは思っていないだろうが、外から見ていると、韓国も北朝鮮も、精神構造は
同じ。

どうしてあの2つの国は、こうまで(思い込み)がはげしいのだろう?
……ということで、今日の日韓経済戦争の話は、おしまい。

がんばれ、日本!
負けるな、日本!

(付記)そんな中、韓国軍は、7月末、大規模な軍事演習にうって出た。
聯合ニュースは、つぎのように伝える。

「訓練には海軍の3000トン級駆逐艦など艦艇6隻、海上哨戒機、対潜ヘリと空軍のF15K戦
闘機2機、海洋警察の警備艇2隻が参加。日本海側から竹島に接近する国籍不明船をキャッ
チし、海空両面作戦で追い返すというシナリオで実施された」と。


●究極の採決

仮に、あなたが宇宙人だったとする。
月の内部に住んでいる、宇宙人だったとする。
高度な理性と知性を、兼ね備えた宇宙人だったとする。

過去、20万年近く、あなたの祖先たちは、その月の内部で、静かに生活してきた。
今もあなたは、その月の内部で静かに暮らしている。

もちろん娯楽がないわけではない。
最大の娯楽は、地球人の目を通して、地球人の生活を楽しむこと。
地球人になりきって、地球人とともに、地球人の生活を楽しむこと。
もちろんその気になれば、火星や金星など、ほかの惑星への観光旅行もできる。
少したいへんだが、太陽系の外に飛び出すこともできる。

が、このところその地球の様子が、おかしくなってきた。
「地球温暖化」という問題である。
このまま放っておけば、地球も、やがて火星のようになってしまうかもしれない。
となると、ひとつ深刻な問題が生まれてくる。

あなたは食糧の多くを、その地球に頼っている。
地球の海から採取するコンブ系の食物は、あなたの主要食物のひとつになっている。
ほかにも代替食物がないわけではないが、月を現在の月の位置に(置いた)のも、もとはとい
えば、その食糧確保が目的だった。

そこであなたは会議に召集された。
で、今日の議題は、「地球人たちを、存続させるべきか、否か」である。
その席で、その採決が行われる。

もちろんその中間的な方法もないわけではない。
一部の地球人を、選択的に存続させる。
地球人を再改良する。
が、全体として、「どうするか?」と。

もしあなたがその宇宙人なら、どういう採決をくだすであろうか。

「地球のことは、地球人に任せて、最後の最後まで、静かに見守る」か、
それとも「地球を地球人の手から奪うため、地球人たちを抹殺する」か。

もしあなたがその宇宙人なら、どういう採決をくだすであろうか。

……というのは、あくまでもSF(サイエンス・フィクション)の世界の話。
ハリー・ポッターの世界の話と同じ。
しかしこの問題は、人間世界のすばらしさ、愚かさを同時に考えるには、すばらしいテーマであ
る。

「私たち人間は、どうすれば存続するに値する生き物になれるか」
「私たち人間が、原罪的にもっている愚かさとは何か」と。

もし今夜も、月を空に見ることができたら、私もその月を見ながら、この問題を考えてみたい。
地球人の運命は、清き、あなたの一票にかかっている!


●身辺整理

どこかの旧家のように、代々、子孫がその家を引き継ぐということであれば、私が今、考えてい
るような問題は、起きない。
(だからといって、それがうらやましいわけではないが……。誤解のないように!)

しかし私の家のばあい、私の代で、すべてが終わる。
息子たちは息子たちで、勝手に生きていけばよい。
私は私で、それまで勝手に生きる。

となると、現在住んでいる家や、財産は、どうなるのか?
どうしたらよいのか?
(処理の仕方をまちがえると、息子たちの関係がバラバラになってしまうし……。)

先日、私の知人が他界した。
彼は巨億の遺産とともに、6畳間いっぱいの書籍を残した。
自費出版だが、その知人が書き残した本も、10冊近く、ある。
原稿となると、その数十倍以上は、ある。

土地や建物、証券や現金などの遺産はともかくも、私は、「あの本や原稿はどうなったのだろ
う?」とときどき、考える。
(とくに諸橋先生が書いた、大辞典はどうなったのだろう?)
それにその知人は、晩年になってからは、世界中を旅していた。
あちこちで買い集めたみやげものが、棚に、無数に並んでいた。
(その知人は、細工のこまかい、小物を買い集めるのが趣味のようだった。)
「あのみやげ類も、どうなったのだろう?」と。

先日、盆供養に行ってきたが、奥さんとは、そんな話はしなかった。
しなかったが、気になった。

というのも、この問題は、「では、私はどうすればいいか」という問題と重なる。
数ではその知人には及ばないが、私にも、無数の書籍がある。
過去の思い出とつながる品々も多い。
土地も家も、自分名義のものがある。
書いた原稿は、この10年間だけでも、2万枚を楽に超える。
「そういうものは、どうなるのだろう?」と。

……というわけでもないが、このところ、どこへ行っても、みやげと言えば、食べ物ばかり。
知人の趣味をよく知っていたので、何かの小物を買うということは、まず、ない。
「ああいうものは、買っても、結局は無駄になるだけ」と。
問題は、原稿である。

私は、「私の墓は、原稿」と思っている。
野原の石に、私の魂は、ない。
またそんなところに、私の魂を置いても、意味はない。
少し前まで、「私の墓は、私の本」と思っていたが、そのあとインターネットという、とんでもない
怪物が現れた。
「やがて第二の産業革命と呼ばれるようになるだろう」と言われているが、私は100%、その
意見に同意する。

書いたものは、インターネット上に、どんどんと公開していく。
読んでくれる人がいても、いなくても、私には関係ない。
読んでくれる人がいればうれしいが、読んでくれなくても、かまわない。
で、「私の魂とは何か」と聞かれれば、それは(私の思い)ということになる。
骨や灰などに、自分の思いをこめることはできない。

……ということで、このところ自分の身辺整理を考えることが、多くなった。
「まだ先のことではないか」と思う人もいるかもしれないが、身辺整理といっても、まだ10年や2
0年はかかるかもしれない。
そのうち頭のほうが、ボケてしまうかもしれない。
そうなれば、そこで身辺整理は、おしまい。
だから時間との勝負。

手始めに、子どもたち(生徒たち)に、自分が集めた小物類を、渡している。
(先日、タイで買ってきた、純金の仏像を渡しそうになったこともあるが、これは直前でやめた。
これは余談!)

あとは、息子たちや孫たちに、いろいろな機会を通して、そのつど渡そうと考えているが、それ
はもう少し先になりそう。

そうそう、そのうち、「ネット墓地」というサービスも始まるかもしれない。
生前に、その人の記録や業績、作品などを、すべて「墓地」として収録しておく。
遺族たちは、そのつどその墓地を訪れて、故人を偲ぶ。

しかしこういうサービスは、半永久的なものが望ましいという点で、公的な機関が管理するのが
よい。
どこかの寺や教会がしてもよい。
もしそういうサービスが始まれば、私はまっさきに加入うるだろう。

これも余談。

(補記)
もうひとつ真剣に考えていることが、ある。
いつか自分が死ぬとき、(死ぬ前でもよいが)、私は自分の生涯のすべてを、たとえば、USBメ
モリーのようなものに残し、それをほしい人に、渡したい。
今は、USBメモリーにしても、2GBのもので、2000〜3000円はするが、そのうち、10GBの
もので、500円以下になるかもしれない。

10年後には、100GB〜1TBのものもできるようになるかもしれない。
そうなれば、原稿はもちろん、過去の写真すべてを収録することができる。
が、大きさは、神社でもらうお守り程度。
あるいはもっと小さくなるだろう。
「何かあったら、このUSBメモリーを開いて見てください」と。
つまりそれが私の遺品ということになる。
位牌でもよい。

想像するだけでも、楽しい!


●HP 2133

ヒューレッド・パッカード社の、ミニ・パソコンを買って、ちょうど1か月になる。
今のところ、まだ気に入っている。
が、使い勝手はあまりよくない。
英語式キーボードのため、日本語ワードが、たいへん使いにくい。
記号の位置と、キーの表示が一致しない。
「enter」キーが小さく、やや下方にあるため、打ち(打鍵)ミスが多い。
さらにキーがすべすべしていて、しかもピッチが浅く、ソフト。
バンバンとキーを叩くことに慣れている私には、まるでかゆいところを、羽か何かにさわられて
いるような感じ。
つまり、「歯がゆい」。

もう少し、クリック感を強くしてくれないと、キーとキーがくっついている分だけ、叩きミスが多い。

そこで家の中で使うときは、USB接続の外付けキーボードを接続して、使用している。
これは日本語式キーボードだから、通常のデスクトップと同じようにして使える。

が、何と言っても、画面が小さい。
8・5インチしかない。
そこでこのHP2133専用の老眼鏡を用意し、それを使っている。

まあ、近く、このミニ・パソコンは、息子に払い下げるつもり。
そこで今、新しく狙っているのは、MSI社のU100。
白モデルが、M社から8月に発売になる。
ただ残念なのは、バッテリーのもちが、2時間弱程度とか。
実際には、カタログ値の70%ということだから、1時間40分程度しかもたない。

バッテリーを使っている人ならみな知っていると思うが、バッテリーが、残りの10%とか、20分
以下になってくると、落ち着いて作業ができなくなる。
実際、HP2133のばあい、10%以下になると、警告文が出て、そのまま自動終了してしまう。

そんなわけで、U100については、買うとしても、予備のバッテリーを同時に購入するしかな
い。
(その点、HP2133には、2本のバッテリーが付属していた。
合計で、7時間あまり、連続使用ができる。)

さあ、どうしようか?
目下、あれこれと迷っている。


●バッテリー

そのバッテリーだが、このところどんなカタログにも、「バッテリーは消耗品です」と書いてある。
つまり使えば使うほど、性能が落ちてくるということ。
そこで雑誌などを読むと、こうある。

「バッテリーを長くもたせるには、(1)満タン(=100%充電)にしないこと。(2)長期に渡って使
わないときは、10〜20%前後の充電にして保存すること。(3)自然放電を防ぐため、サランラ
ップなどでしっかりと密封しておくとよい、(4)使う直前になって、90%前後まで充電するとよ
い」(某パソコン雑誌)と。

しかし10年前には、私は、それを知らなかった。
ノートパソコンにしても、バッテリーを装着したまま、いつも使っていた。
そのため、数か月もしないうちに、バッテリーとしての機能を果たさなくなってしまった。
無知だった。
で、新しいバッテリーを繰り返し購入したが、値段も、結構高かった。
1個2万円前後はしたかな?

そんなわけで、今は、しっかりとバッテリーを本体からはずして、使っている。
余計なことかもしれないが、ノート型パソコンを使っている人は、この原則を、しっかりと守った
ほうがよい。


●帰宅拒否

私は子どものころ、帰宅拒否児だった。
それに気づいたのは、自分が35歳も過ぎたころのことだったが、ともかくも、そうだった。

が、今でもその亡霊が、私の中に残っている。
何か仕事でいやなことがあると、「逃げ出したい」というよりは、「家に帰りたくない」という思い
が、顔を出す。
家がいやというのではなく、仕事で何かいやなことがあったりすると、そうなる。

で、そういうときは、街道沿いのパソコンショップや、書店で、1〜3時間、過ごして帰る。
義兄たちの家に、寄ることもある。
しかし実際には、そういうときというのは、あまり人にも会いたくない。

で、ワイフが心配するといけないから、一応電話をすることにしている。
ひどいときには、そのままどこかのホテルにでも泊まりたい気分。
が、ひとりで泊まるのも、さみしい。
で、「こういうとき、愛人でもいたらなあ」と思うときがある。
そばにいて、話し相手になってくれるだけでよい。
(そういう点では、私も、かなりマザコン的?
情緒が不安定になると、そうなりやすい?)
が、残念ながら、そういう便利な人はいない。

だからパソコンショップに寄ったり、書店に寄ったりする、となる。

で、数日前も、こんな男性の手記を、何かの本で読んだ。
その男性は、リストラか何かで、職を失ったのだが、そのことを家族には話さず、(=話せず)、
毎日、それまでどおり、会社に出勤するフリを繰り返していたという。
その間、公園で時間をつぶしたり、映画を見たりしていたという。


私には、その男性の気持ちがよくわかる。
たいへんよくわかる。
私も仕事をしていて、いやな気分になることは多い。
この仕事は、「教育」とはいうものの、その底流では、おとなたちのどす黒い欲望が渦を巻いて
いる。
そういう渦に、ときとして、こちらが望まなくても、巻き込まれてしまう。

そういうとき、家に帰りたくなくなる。
考えてみれば、これはおもしろい心理ではないか。
どうしてだろう?

単純に考えれば、仕事で不愉快なことがあれば、家に戻って、家族とともに、その疲れを癒せ
ばよいということになる。
が、実際には、それができない。

私自身に自閉傾向があるせいか?
悩みや苦しみがあると、それを内へ内へとためこんでしまう。
つまりその分だけ、自分の心を開放することができない?
だからそれが帰宅拒否へと、つながっていく(?)。

もちろん帰宅拒否をしたからといって、問題が解決するわけではない。
ときには、かえって落ち込んでしまうこともある。
最終的には、ワイフに、「あのなア……」と、話すことで、気分が楽になる。
が、そこまで自分をもっていくのが、たいへん。
何かしら負けを認めるようで、つらい。
自分の無能、無価値ぶりを、さらけ出すようなもの。
おそらく、会社へ行くフリをして家を出る男性も、同じような心理状態ではないか。
私ももし、同じような状況に立たされたら、同じようなことをするだろうと思う。

ワイフといっても、こと今の私がしている仕事については、まったくの部外者。
教育の経験も、ほとんどない。
「あなたの気持ち、よくわかる」とは言ってくれるが、本当のところ、何もわかっていない。
だから一方的に私がグチを言い、ワイフが聞き役に回るということになる。

……実は、昨日も、そういう状態になった。
いやな気分だったから、深夜劇場に足を運んだ。


●理解不能のコメント

数日前、Y・Blogに、こんなコメントが寄せられていた。

「バカめ。子どもの写真は、もらったぞ」(原文のまま)と。

「子どもの写真」というのは、「孫の誠司の写真」のことだと思う。

Y・Blogのプロフィール・コーナーには、私の写真の代わりに、誠司の写真を載せている。

しかし「バカめ」とは何か。
「子どもの写真は、もらったぞ!」とは何か。

少なからず不気味なものを感じたが、そのコメントは、そのまま削除。
しかしいろいろ考えた。

現在、私は孫の写真などを、HP上などで公開している。
かなりの枚数になる。
たいした写真ではない。
すべてスナップ写真。

そういうことをするのに、何か、問題でもあるというのだろうか。
孫の誠司の身に、何か危険でも及ぶということでもあるというのだろうか。
それとも、ほかにまずいことでもあるというのだろうか。

いろいろ考えてみたが、やはり理解不能。

それよりも、こうしたコメントは、多い。
「今日のあなたの文章力、20点」(いらぬお世話!)とか、「あなたも人生観を豊かにしたほう
がいい」(ご馳走さま!)とか、「あなたの言っていること、意味不明」(自分の読解力はどうなの
か?)とか、など。
いちいち気にしていたら、モノなど、書けない。
HPやBlogなど、公開できない。

しかしY・Blogのばあい、相手も会員登録していないと、こうしたコメントは書き込めないはず。
仮に脅迫めいたコメントであれば、そのまま警察に届けることもできる。

しかし「バカめ……」では、それもできない。
まあ、この種のコメントは、無視、即、削除。
言うなれば、言葉のゴミ。


●今回から、9月号

この原稿から、マガジンの9月号用ということになる。
数日前、8月号最後のマガジンの配信登録をすませたところ。

9月……どんな月になるだろうか?
今年も残暑きびしい9月になるだろうか。
それとも涼しい9月になるだろうか。

何でも昨日(7月29日)のニュースによると、中国では、今年は冷夏とか。
エアコンの売れ行きが、極端に悪くなっているという。
私は冷夏のせいもあるが、それ以上に中国経済が悪化しているためではないかと思ってい
る。

で、今、気になっているのは、8月11日までに、「北朝鮮のテロ支援国指定」が、解除になるか
どうかということ。
(9月までには、結果が。はっきりしていると思うが……。)
アメリカがどこまで妥協するかによって決まるが、同じく昨日のニュースによれば、「第三段階」
どころか、北朝鮮は、「第七段階……」「第八段階……」まで念頭に置いているとか。
さらに最終的には、北朝鮮は、北朝鮮を核保有国として認めさせ、アメリカと平和友好条約を
締結するところまで目ろんでいるとか(中国筋)。

まさにとんでもない話だが、ここまで北朝鮮を、図に乗らせたのは、C・ライス氏であり、C・ヒル
氏ということになる。
もちろん拉致問題など、闇のかなたに吹っ飛んでしまった。

ほかに北京オリンピックがあるが、日本の成績はあまり期待できそうにもない。
まあ、それもしかたない。
スポーツというのは、本来、楽しみながらするもの。
中国選手たちのように、命がけでするものではない。
その分、日本のほうが、おとなということ。


●雑感

今朝(7月30日)は、あれこれ雑感をまとめてみた。
枚数を見ると、ここで19ページ目。
毎回マガジンには、20ページ以上を載せることにしているので、あと1ページ。
一気にここまで書いたが、私の集中力もそろそろ限界。
ジリジリとした暑さが、伝わってくる。
頭の中が、ぼんやりとしてきた。

一休みしてから、最後の1ページを書いてみたい。
では、みなさん、おはようございます。
+ああ、楽しかった!
+ここまで目を通してくださって、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●孤独(Loneliness)&孤独論(About Loneliness)

+++++++++++++++++

孤独の恐ろしさは、それを経験した者でないと
わからない。
仏教の世界では、「無間地獄」ともいう。
つまり、地獄のひとつ。
地獄そのもの。
私もそう思う。

The terror of Loneliness is the one which could be understood only by those people who 
have experienced. In Buddhism world the loneliness is defined as the most terrible hell, to 
which I agree.

+++++++++++++++++

だれにも愛されない。
だれにも求められない。
だれにも相手にされない。

心を開いて話す相手もいない。
相談にのってくれる人もいない。
信じられる人もいない。

そこにポツンとたたずむのは、自分ひとりだけ。
まわりを見ても、そこにいるのは、
他人、そしてまた、他人。

+++++++++++++++++

孤独は無間地獄。
それを疑う人はいない。
あのイエス・キリストだって、孤独と闘ったという。
マザーテレサだって、孤独の恐ろしさを語っている。

言うなれば、生きるということは、孤独の連続。
その孤独と闘うことが、生きるということになる。
言い換えると、孤独こそが、私たちの真の敵ということになるし、その孤独に敗れたとき、私た
ちの人生も、そこで終わる。

が、中には、「私は孤独ではない」と言う人もいるかもしれない。
しかしそういう人でも、そのほとんどは、今、そこにある孤独に気づかないまま、その日、その
日を、ごまかしながら生きているだけ。
孤独の意味すらわかっていない。

たとえば家族といっしょに旅行をする。
友といっしょに酒を飲んで騒ぐ。
ベッドの上で、裸になって抱きあう。

しかしそんな方法で、孤独を癒すことはできない。
孤独を忘れることはできるかもしれないが、孤独と決別することはできない。
孤独は、いつも私たちのそばにいて、私たちの心の隙間を、虎視眈々とねらっている。
そしてひとたび、あなたがそのワナにかかると、容赦なく、あなたに襲いかかってくる。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、人は、この孤独から解放されるのか。
その方法として、儒教では「仁」を説く。
仏教では、「慈悲」を説く。
キリスト教では、「愛」を説く。
それが何であれ、これだけは、確かである。

人は、ひとり、つまり孤独なままでは、生きていかれないということ。
孤独の火に焼かれるくらいなら、だれだって望んで死を選ぶだろう。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、私たちは、孤独から解放されるのか。
どうすれば、私たちは、真の自由を手にすることができるのか。

しかしその道は、遠い。
キリスト教でも、「真理=自由」であり、「自由=真理」であると説く。
私のような凡人が、ここらで逆立ちをして見せたところで、そんな真理にたどりつけるわけがな
い。
 
しかしこういうことは言える。

孤独を知ってはじめて、私たちは生きる目的を知る。
意味を知る。
孤独が人生の終わりを告げるのではなく、孤独が人生の入り口を教える。
孤独なら孤独でよい。
その恐ろしさを知ったら、つぎにそういう状況になったときのことを考えて、準備する。
それがそのまま生きる意味につながる。

私にしても、無数の親たちと出会い、同じ数だけの子どもたちと出会ってきた。
しかし今に残っている親や、子どもは、ほとんどいない。
ゼロと言ってもよい。
友にしてもそうだし、家族にしてもそうだ。
孤独を乾いた砂漠にたとえるなら、今まで私がしてきたことは、コップいっぱいの水にもならな
い。
そんな水で、どうして砂漠のような孤独を癒すことができるというのか。

「仁」とは、何か。
「慈悲」とは、何か。
「愛」とは、何か。

たとえば私のワイフにしても、息子たちにしても、私という夫や、私という親がもっているだろう
「呪縛」から、解放してやることこそが、仁であり、慈悲であり、愛ではないのか。

ワイフにしても、(ワイフは、それを望んでいないとは言うが)、私が離婚してやれば、どんなに
か、気が楽になることだろう。
息子たちにしても、ひょっとしたら、私という(存在)がないほうが、よいのかもしれない。
私は亭主関白だし、それに、悪玉親意識も強い。

で、その引き換えに、私自身は無間地獄の中をさまようことになるが、それこそ、まさに自業自
得というもの。
結果、「死」という選択肢を選んだとしても、それもまた、まさに自業自得というもの。
そういう意味では、私は敗残者。
失敗者。
負け犬。

私は孤独というものが、いつもそこにあることを知りつつ、その孤独と闘うことすらしてこなかっ
た。
ちょうど酒飲みが酒を飲んで、自分をごまかしてきたように、私は私で、その日の刹那的な楽し
みで、自分をごまかしてきた。

もっとひどいことに、そこに孤独な人がいるときでさえ、見て見ぬフリをしてきた。
ときにそういう人を、人生の失敗者をあざ笑った。

が、今、そのツケが、自分のところに回りつつある。
今度は、私がその孤独という無間地獄の中で、もがき、苦しみ始めている。
生きる目的さえ、見失い始めている。

そうでないというなら、いつか、(かならずその日はやってくるだろうが)、
たとえばワイフが先に死に、友たちが先に死に、さらに息子たちが私の手の届かないところに
いってしまったようなとき、私は、その孤独に耐えられるだろうか。

その答は、「NO!」。
私にはその孤独には、耐えられないだろう。
その自信も、ない。
まったく、ない。

そんな弱い私を、ゆいいつ支えてくれるものがあるとするなら、それが宗教ということになる。
が、今さらそれを信じたところで、神や仏は、こう言うにちがいない。

「今まで、さんざん、勝手なことをしておきながら、何を今さら!」と。

私は神や仏にすら、見放されている。
私のような人間を相手にする神や仏など、いるはずもない。

……ということで、私は、今日もがんばるしかない。
健康だし、頭のほうも、まだ何とか動いている。
「今日こそは、何かをしてみよう」と。
いつか襲いくる、孤独と立ち向かうために!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孤独
 孤独論)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司※

【自立と自律】(分科会、レジュメ)

●自立と依存

++++++++++++++++

自立と依存は、相克(そうこく)関係にある。
「相克」というのは、「相対立した」という意味。
自立性の強い子どもは、依存性が弱い。
自立性の弱い子どもは、依存性が強い。

一方依存性には、相互作用がある。
たとえば子どもの依存性と、親の依存性の間には、
相互作用がある。

一方的に子どもが依存性をもつようになるわけではない。
子どもの依存性に甘い環境が、子どもの依存性を強くする。
わかりやすく言えば、子どもの依存性は、親で決まるということ。

たとえばよく「うちの子は、甘えん坊で……」とこぼす親がいる。
が、実は、そういうふうに甘えさせているのは、親自身ということになる。
たいていのばあい、親自身も、依存性が強い。

++++++++++++++++

たとえばM氏夫婦を見てみよう。
M氏が、ある日、こんな話をしてくれた。

「私の妻は、病気になったりすると、自分でさっさと病院へ行き、診察を受けたりしています。
私に病気のことを、相談することは、めったにありません。
しかし私は、病院が好きではありません。
かなり症状が悪くならないと、病院へは行きません。
だから病気へ行くときは、妻にせかされて行きます。
そんなわけで、たいていいつも妻がついてきてくれます」と。

ひとりで病院へ行く、M氏の妻。
たいへん自立心の強い女性ということになる。
一方、ひとりでは病院へ行けない夫。
たいへん自立心が弱い男性ということになる。

M氏は、こうも言った。
「妻は、6人兄弟の真ん中くらいでした。
子どものころから、何でも自分でしていたのですね。
が、私はひとり息子。
祖父母、両親に溺愛されて育ちました」と。

が、ここで誤解してはいけないのは、だからといって、M氏が依存性の強い男性と考えてはい
けない。
(えてして、「自立心が弱い」というと、どこかナヨナヨして、ハキのない人を想像しがちだが…
…。)
M氏は、現在、小さいながらも、コンピュータを使ったデザイン事務所を経営している。

これは夫婦のばあいだが、親子となると、少し事情が変わってくる。

親子のばあい、依存性というのは相互的なもので、親の依存性が強いと、子どももまた依存性
が強くなる。
たとえば「うちの子は、甘えん坊で困ります」とこぼす母親がいる。
しかしそういうふうに甘えん坊にしているのは、実は、母親自身ということになる。
母親自身も、依存性が強く、その分だけ、どうしても子どもの依存性に甘くなる。

「うちの子は、甘えん坊で困ります」と一方でこぼしながら、実は、子どもが「ママ、ママ」と自分
に甘えてくるのを、その母親は喜んでいる。

あるいは(家庭の基準)そのものが、ちがうときがある。

ある家庭では、子ども(幼稚園児)に、生活のほとんどを任せている。
そればかりか、父親がサラリーマン、母親が商店を経営しているため、スーパーでの買い物な
ど、雑務のほとんどは、その子どもの仕事ということになっている。
が、母親はいつも、こうこぼしている。
「うちの子は、何もしてくれないのですよ」と。

一方、ベタベタの親子関係を作りながら、それが「ふつう」と思っている親もいる。
T君は、現在小学6年生だが、母親といっしょに床で寝ている。
一度父親のほうから、「(そういう関係は)おかしいから、先生のほうから何とか言ってください」
という相談を受けたことがある。
が、母親は、そういう関係を、(理想的な親子関係)と思っている。

だから子どもの自立を考えるときは、その基準がどこにあるかを、まず知らなければならない。
さらに言えば、こと依存性の強い子どものばあい、子どもだけを問題にしても、意味はない。
ほとんどのばあい、親自身も、依存性が強い。

そんなわけで、子どもの自立を考えたら、まず、親自身がその手本を見せるという意味で、親
自身が自立する。
その結果として、子どもは、自立心の旺盛な子どもになる。

さらに言えば、この自立と依存性の問題には、民族性がからんでくることがある。
一般的には、日本人のように農耕文化圏の民族は相互依存性が強く、欧米人のように牧畜文
化圏の民族は、自立心が旺盛と考えてよい。

ただ誤解していけないのは、自立心は旺盛であればあるほどよいかというと、そうでもないよう
だ。

オーストラリアの友人(M大教授)が、こんな話をしてくれた。

「オーストラリアの学校では、子どもの自立を第一に考えて教育する。
それはそれでよいのかもしれないが、それがオーストラリアでは、大企業が育たない理由のひ
とつになっている」と。

●自立と自律

自立は常に、依存性と対比して考えられるのに対して、自律は、あくまでもその人個人の、セ
ルフ・コントロールの問題ということになる。

さらに自律心は、人格の完成度(ピーター・サロベイ、「EQ論」)を知るための、ひとつの大切な
バロメーターにもなっている。

自律心の強い子どもは、それだけ人格の完成度が高いということになる。
そうでない子どもは、それだけ人格の完成度が低いということになる。
ものの考え方が、享楽的で、刹那的。
誘惑にも弱い。

その自律をコントロールするのが、脳の中でも、前頭前野ということが、最近の研究でわかって
きた。
自分の思考や行動を律するための、高度な知的判断は、この前頭前野でなされる。
(反対に、この部分が、何らかの損傷を受けたりすると、人は自分を律することができなくなる
と言われている。)

さらに言えば、この自律心は、0歳から始まる乳児期に決定されると考えてよい。
私はこのことを、2匹の犬を飼ってみて、知った。

++++++++++++++++

6年前に、それについて書いた原稿が
ありますので、紹介します。

++++++++++++++++

●教育を通して自分を知る

 教育のおもしろさ。それは子どもを通して、自分自身を知るところにある。たとえば、私の家
には二匹の犬がいる。一匹は捨て犬で、保健所で処分される寸前のものをもらってきた。これ
をA犬とする。もう一匹は愛犬家のもとで、ていねいに育てられた。生後二か月くらいしてからも
らってきた。これをB犬とする。

 まずA犬。静かでおとなしい。いつも人の顔色ばかりうかがっている。私の家に来て、一二年
にもなろうというのに、いまだに私たちの見ているところでは、餌を食べない。愛想はいいが、
決して心を許さない。その上、ずる賢く、庭の門をあけておこうものなら、すぐ遊びに行ってしま
う。そして腹が減るまで、戻ってこない。もちろん番犬にはならない。見知らぬ人が庭の中に入
ってきても、シッポを振ってそれを喜ぶ。

 一方B犬は、態度が大きい。寝そべっているところに近づいても、知らぬフリをして、そのまま
寝そべっている。庭で放し飼いにしているのだが、一日中、悪さばかりしている。おかげで植木
鉢は全滅。小さな木はことごとく、根こそぎ抜かれてしまった。しかしその割には、人間には忠
実で、門をあけておいても、外へは出ていかない。見知らぬ人が入ってこようものなら、けたた
ましく吠える。

●人間も犬も同じ

 ……と書いて、実は人間も犬と同じと言ったらよいのか、あるいは犬も人間と同じと言ったら
よいのか、どちらにせよ同じようなことが、人間の子どもにも言える。いろいろ誤解を生ずるの
で、ここでは詳しく書けないが、性格というのは、一度できあがると、それ以後、なかなか変わ
らないということ。A犬は、人間にたとえるなら、育児拒否、無視、親の冷淡を経験した犬。心に
大きなキズを負っている。

一方B犬は、愛情豊かな家庭で、ふつうに育った犬。一見、愛想は悪いが、人間に心を許すこ
とを知っている。だから人間に甘えるときは、心底うれしそうな様子でそうする。つまり人間を信
頼している。幸福か不幸かということになれば、A犬は不幸な犬だし、B犬は幸福な犬だ。人間
の子どもにも同じようなことが言える。

●施設で育てられた子ども

 たとえば施設児と呼ばれる子どもがいる。生後まもなくから施設などに預けられた子どもをい
う。このタイプの子どもは愛情不足が原因で、独特の症状を示すことが知られている。感情の
動きが平坦になる、心が冷たい、知育の発達が遅れがちになる、貧乏ゆすりなどのクセがつ
きやすい(長畑正道氏)など。

が、何といっても最大の特徴は、愛想がよくなるということ。相手にへつらう、相手に合わせて
自分の心を偽る、相手の顔色をうかがって行動する、など。一見、表情は明るく快活だが、そ
のくせ相手に心を許さない。許さない分だけ、心はさみしい。あるいは「いい人」という仮面をか
ぶり、無理をする。そのため精神的に疲れやすい。

●施設児的な私

実はこの私も、結構、人に愛想がよい。「あなたは商人の子どもだから」とよく言われるが、どう
もそれだけではなさそうだ。相手の心に取り入るのがうまい。相手が喜ぶように、自分をごまか
す。茶化す。そのくせ誰かに裏切られそうになると、先に自分のほうから離れてしまう。

つまり私は、かなり不幸な幼児期を過ごしている。当時は戦後の混乱期で、皆、そうだったと言
えばそうだった。親は親で、食べていくだけで精一杯。教育の「キ」の字もない時代だった。…
…と書いて、ここに教育のおもしろさがある。他人の子どもを分析していくと、自分の姿が見え
てくる。「私」という人間が、いつどうして今のような私になったか、それがわかってくる。私が私
であって、私でない部分だ。私は施設児の問題を考えているとき、それはそのまま私自身の問
題であることに気づいた。

●まず自分に気づく

 読者の皆さんの中には、不幸にして不幸な家庭に育った人も多いはずだ。家庭崩壊、家庭
不和、育児拒否、親の暴力に虐待、冷淡に無視、放任、親との離別など。しかしそれが問題で
はない。問題はそういう不幸な家庭で育ちながら、自分自身の心のキズに気づかないことだ。
たいていの人はそれに気づかないまま、自分の中の自分でない部分に振り回されてしまう。そ
して同じ失敗を繰り返す。それだけではない。同じキズを今度はあなたから、あなたの子どもへ
と伝えてしまう。心のキズというのはそういうもので、世代から世代へと伝播しやすい。

が、しかしこの問題だけは、それに気づくだけでも、大半は解決する。私のばあいも、ゆがんだ
自分自身を、別の目で客観的に見ることによって、自分をコントロールすることができるように
なった。「ああ、これは本当の自分ではないぞ」「私は今、無理をしているぞ」「仮面をかぶって
いるぞ」「もっと相手に心を許そう」と。そのつどいろいろ考える。つまり子どもを指導しながら、
結局は自分を指導する。そこに教育の本当のおもしろさがある。あなたも一度自分の心の中
を旅してみるとよい。
(02−11−7)

●いつも同じパターンで、同じような失敗を繰り返すというのであれば、勇気を出して、自分の
過去をのぞいてみよう。何かがあるはずである。問題はそういう過去があるということではな
く、そういう過去があることに気づかないまま、それに引き回されることである。またこの問題
は、それに気づくだけでも、問題のほとんどは解決したとみる。あとは時間の問題。

++++++++++++++++

心理学の世界には、「基本的信頼関係」という言葉がある。
この「基本的信頼関係」の中には、「基本的自律心」という意味も含まれる。

心豊かで、愛情をたっぷりと受けて育てられた子どもは、それだけ自律心が、強いということに
なる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自立 自律 子どもの自立
子供の自律)


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2741)

●7月31日、木曜日(July 31st, 2008)

●金魚の糞(ふん)

++++++++++++++++++

昨日は、いろいろあって、合計で10キロ
前後、歩いた。
今日も、いろいろあって、合計で、5キロ
前後、歩いた。
歩いていると、頭の中のモヤモヤが消えるから
不思議である。

ワイフは、「そんなことをしていると、倒れる
わよ」と言う。
私はそれに答えて、こう言う。
「一度、ぶっ倒れるまで歩いてみたい」と。
しかし夏の炎天下を歩くのは、危険である。
靴の底が焼けるように熱くなる。
汗も枯れて、意識がぼんやりとしてくる。

そんなわけで、私は徘徊する老人の気持ちが
よくわかる。
私の兄も、グループホームへ入る前、たびたび
自転車に乗って、あちこちを徘徊した。

++++++++++++++++++

●徘徊

痴呆老人の中には、徘徊する人が多い。
M氏もそうだった。
当時、85歳くらいだった。
家の高い塀を乗り越えて、外へ出て行ってしまったりした。

M氏のばあい、その数年前、脳梗塞を起こしている。
そのため方向感覚がなくなり、自宅へ帰る道を忘れてしまったという。
徘徊が始まったのは、そのころだという。
M氏の妻が、「どこへ行きたいの?」と聞いたことがあるという。
M氏は、「群馬の実家に帰りたい」と答えたという。

いくら何でも、浜松市から群馬県のO市までは、歩いては行けない。
行けないが、認知症が始まると、そういう判断もできなくなるらしい。

で、徘徊だが、私も、痴呆老人になれば、まちがいなく徘徊をするようになるだろう。
(歩くことの快感)を知っている。
歩いていると、悲しみやさみしさを、忘れることができる。
身のまわりのわずらわしさから、解放される。
さらに歩いていると、たぶん、脳の中にモルヒネ系のホルモンが分泌されるのだろう。
甘い陶酔感を覚えることもある。

●K氏のケース

たまたま昨日、群馬県に住んでいる、K氏という人から、相談のメールが届いた。
年齢は、私と同じ、60歳だという。
私は最近、ときどき離婚問題について書く。
それについて、「同感です」と。

K氏も(?)、見た目には、仲のよい夫婦で通っているという。
56歳でリストラされ、それ以後は、近くの公的な娯楽施設で、窓口業務をしている。
勤務時間は楽で、午前10時ごろ出勤。
いつも午後5時前には、帰宅している。
(それまでは、セブン・イレブン・・・つまり午前7時出勤、午後11時帰宅。)
つまり妻と過ごす時間が、それまでの「2倍以上」(K氏談)になった。

が、そのころから妻との関係が、おかしくなり始めたという。

「ふだんは、やさしい女性だと思うのですが、何かあると、すかさず私を否定します。
私がすることは、何もかも、気に食わないみたいです。
私がタンスから赤いシャツを取り出すと、『それはダメ!』とか、
あるいは風呂に入ろうとすると、『まだ早いでしょ』とか。

そのときの目つきというか、表情は、私を完全に軽蔑しきっているのですね。
瞬間のことですが、それが私の脳裏にピタリと張りついてしまうのです。
息子の前で、『パパは、金魚の糞よ』と言われたことがあります。
妻が『金魚』で、私は、妻の『糞』というわけです」と。

で、現在、K氏は離婚の準備をしているが、それすらも、妻に見透かされてしまっているという。
「どうせ、あんたなんかに、離婚できないわよ」と。

「先日もそこまで言うなら、アパートを借りて、出て行くと言ってやったのですが、妻は、平然と、
『借りらア・・・』と答えました」と。
(以上、M氏からのメールを要約。)

●たがいの欲求不満

妻は結婚と同時に、それまでのキャリアを失う。
それから生まれる欲求不満には、相当なものがある。
一方、夫は、結婚と同時に、家族の犠牲になる。
犠牲になっていると気づかないまま、犠牲になる。

が、子育てが終わり、ほっとしたところへ、突然、(老後)がやってくる。
そのとき、良好な夫婦関係、親子関係ができあがっていればよし。
が、そうでないとき、「犠牲」という言葉が、重く、自分にのしかかってくる。
「私は、今まで、何をしてきたのだろう?」と。

実は、この私とて、ワイフとの関係を支え、家族を維持するのに、精一杯。
たとえて言うなら、波打ち際に作った、砂上の楼閣のようなもの。
繰りかえしやってくる波で、楼閣が削られるたびに、懸命にそれを修復する。
手を抜いたとたん、楼閣は、根底から崩れさっていく。
あとはその繰りかえし。
その恐怖との闘い。
「家族」「家庭」と言いながら、心の休まる日は、ほとんどない。

だから私は、歩く?
歩きながら、わずらわしいことを忘れる?

恐らく徘徊する老人も、自分を追いかけてくる何かから逃れるため、歩きつづける?
その証拠に、徘徊する老人は、そのあたりをぐるぐる回るというよりは、前へ前へと、歩きつづ
ける。

幼児にも似たような現象が見られることがある。
同じ「家出」でも、目的が感じられる家出は、それほど心配しなくてもよい。
しかし一方向に、どんどんと歩いていく家出は、警戒したほうがよい。
かばんの中に、ありとあらゆるものを、手当たり次第、詰めて、家出する。
(これに対して、目的のある家出は、その目的に合わせたものをかばんに詰めて、家出する。)
こうした家出を繰りかえす子どもは、家庭のあり方を猛省する。

私はワイフに、どこか冗談ぽく、「ぶっ倒れるまで歩いてみたい」と言うが、それは本心かもしれ
ない。
「死んでもかまわない」という思いが、そこにある。
徘徊する老人がそこまで考えているかどうかはわからない。
しかし動物の中には、どんどんと歩きつづけて、最後には海の中へ集団で入っていくのもい
る。
人間にも、そういう原始的な習性があるのかもしれない。
認知症になると、管理能力が極端に低下する。
それで原始的な習性が、表に出てくる(?)。

つまりそこまで理解できるようになったということは、私も、その(仲間)に入りつつあるというこ
とか。

なお離婚について言えば、何も民法に書き並べてある離婚事由だけが、離婚理由ではない。
K氏のようなケースもある。
ただK氏のことはメール以上のことについては、わからないが、私の印象では、K氏は、離婚し
ないと思う。

(離婚したい)という思いと、(実際に離婚する)ということの間には、大きな距離がある。
ものすごいエネルギーが必要である。
そのエネルギーがまだ足りない。
K氏が言っている程度では、離婚できない。
だから離婚しない。

K氏へ、

また何かあれば、メールをください。
書くことで、自分の胸のうちがスッキリすることもあります。
私はいつもそうしています。

●付記

家庭内別居をするようになったら、あぶない?
心が通い合わなくなる。
とたん夫婦関係は冷却化する。
顔を合わせても、あいさつだけ。

口論もなければ、喧嘩もない。
一見、平和な家庭になる。

しかし人はこういう状態に、それほど長くは耐えられない。
そのうち相手の息をかぐだけでも、不愉快になる。
そばにいると思うだけで、わずらわしくなる。

本来なら、そうなる前に、たがいに修復すればよい。
しかしそこに至るまで、たがいに、つっぱってしまう。
意地を張る。
がんこになる。
「私はあやまらない」
「ぼくは悪くない」と。

で、一気に、家庭内別居となる。

が、この段階で、「それでもいい」と、同居をつづける夫婦も少なくない。
たがいに、それを割り切る。
中には、「子どもが大学を卒業するまで」とか何とか、何かの目標を
作って、がんばっている人もいる。
しかし人間関係は、目標どおりには、いかない。
何かのきっかけで、夫婦関係は、そのまま崩壊する。

……あとは、お決まりのコースをたどって、離婚。

夫婦といっても、所詮、他人と他人。
その(他人)を感じたら、夫婦も、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++July.08++++++++++はやし浩司

●今日から8月、8月1日(金曜日)

●日韓経済戦争

+++++++++++++++

朝起きて、ニュースをいくつか、読む。
相変わらず韓国は、ウォン防衛に必死のようだ。
今のところ、死守ラインを、1ドル、1010ウォンに
置いているようだ。

ウォンを売りまくる、外資。
ドル売りを買いまくる、韓国銀行。

今朝(午前7:00現在)は、1ドル=1012ウォン。

昨日、タクシーに乗ったが、タクシーの運転手が、こう言った。
「最近は、韓国の女性も強くなったね」と。

ときどき韓国の女性をタクシーに乗せることがあるのだそうだが、
乗るといきなり、「○○マンション」とだけ言うのだそうだ。

そこで運転手が、「それはどこですか?」と聞くと、すかさず、
「あんた、○○マンションも、知らないの!」と。

現在の日韓関係を象徴しているような話である。
で、ついで話は、竹島問題になった。

韓国国内の反日感情もさることながら、日本人の怒りにも相当なものがある。
タクシーの運転手は、こうも言った。

「個人タクシーでないから、それもできませんが、『韓国人の客、お断り』の
張り紙を張りたいくらいです」と。

わかる、わかる、その気持ち……ということで、日韓経済戦争。

ウォン安になればなるほど、ウォン資産をもっている外資は、
ウォンを売って、韓国から待避しようとする。
もっていればいるほど、目減りする。

が、ウォン安になればなるほど、輸出には有利だが、その分だけ、輸入物価が
上昇する。
これは経済のイロハだが、そのため現在、韓国の貿易収支は赤字に転落。

そこで日本に残された選択肢は、2つ。

(1)朝鮮半島の不安定化を覚悟で、韓国経済を転落させるか。
(2)朝鮮半島の不安定化を避けるため、ウォン安防衛に手を貸すか。

私の印象では、日本の世論は、(1)のほうに傾きつつあるように感ずる。
もちろん日本とて、無傷というわけにはいかない。
それなりの覚悟と準備が必要である。
とくに韓国向けの輸出業者は、手痛い被害をこうむることになる。

しかしこれは戦争なのだ。
「経済戦争」という戦争なのだ。

イ大統領は、今週、竹島で、おおがかりな軍事演習をしてみせた。
が、これほどまでに強烈な挑発行為が、ほかにあるだろうか。

日本は(軍事力)を使うわけにはいかない。
だったら、(経済)という武器を使って、韓国と対峙するしかない。
恐らくそういう指示が、日本政府あたりからも出ているのだろう。

現在、ウォンを売りまくっている国というのは、韓国最大の債権国、
そう、この日本である。

負けるな、日本!
がんばれ、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【雑学】

●謎のアポロ11号

+++++++++++++++++

1969年、7月20日、
アポロ11号計画で、アメリカの
月着陸船イーグルは、月面に着陸
したことになっている。

着陸船の詳しい着陸の模様は、
ウィキペディア百科事典などにも
紹介されているので、興味の
ある人は、そちらを見たらよい。

で、このアポロ11号による月
着陸については、現在、「本当は
着陸していなかったのではないか」
という疑惑がもちあがっている。

同じく、ウィキペディア百科事典には、
つぎのようにある(要約)。

++++++++++++++++

(1)月着陸はでっちあげだった?

(2)飛行士たちは、月面での活動中、何者かによって監視されていた?、と。

ウィキペディア百科事典によれば、(アポロ11号による月着陸は存在したという前提に立って
いるので)、これらの疑惑がもちあがった背景として、つぎのように説明している。

(1)「月着陸はでっちあげだった?」については、「火星着陸のでっちあげを試みる姿を描いた
映画、『カプリコーン』の公開以来、それを信ずる人がいる」と。

(2)「飛行士たちは、月面での活動中、何者かによって監視されていた?」についても、「これ
は……都市伝説によるもので、この説を紹介した『Someone else is on our Moon』※という本
が出てから、この説を信ずるものもいる」と。

つまりアポロ11号の月着陸を疑う人たちは、1本の映画や、1冊の本による影響を受けたもの
だという。

しかし本当にそうか?

映画『カプリコーン』については、私も見たことがあるが、見るに耐えないというか、三流映画。
また『Someone else is on our Moon』については、その種の数多くの本の中の、1冊に過ぎな
い。
そんな映画や本の影響を受けて、あれほどの大事業を疑う人が現われると考えることに、無
理がある。

「アポロ11号計画」につて、ウィキペディア百科事典は、つぎのように書いている。

+++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より+++++++++++

●アポロ11号を巡っては主に二つの陰謀論がある。アポロ計画陰謀論も参照のこと。 

(1)一つは月着陸がでっち上げだったとする説である。この説は一般的には無視されている
が、NASAが火星着陸のでっち上げを試みる姿を描いた映画『カプリコン1』(1978年)の公開以
来、テレビやネットなどでも取り上げられるようにもなり、この説を信じる人々もいる。 

(2)第二は、飛行士達は月面での活動中何者かに監視されており、また月面で異星人を目撃
した、という都市伝説である。この説を紹介した Someone else is on our Moon という本が出版
されてから、この説も信じるものもいる。 

(3)また、「1980年代にモロッコで行なわれた調査で、多くの人々が人類が月に行ったとは考
えていないという結果が出た。これは陰謀論を信じているためではなく、単に月着陸のことを聞
いたことがなかったからだ」― という伝説もある。 

(4)月着陸船の離陸の際、アポロ11号は月面に立てた星条旗を噴射によって吹き飛ばしたと
いう説がある。 

++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++++

アポロ11号による月面着陸が疑われている理由には、いくつかある。

(1)月面の宇宙飛行士らの影が、多方向に流れている。
月面では、影はすべて一方向のはず。

(2)月面に立てられた星条旗が、風にゆれてはためいていた。
月には空気がないから、旗ははためかない。

(3)重力が6分の1であるなら、宇宙飛行士たちがジャンプしたとき、もっと体が高くあがるは
ず。

(4)当時の技術では、地球と月の間にある、バンアレン帯(強力な放射能帯)を、通過できなか
ったはず。人間は放射能で真っ黒焦げになっていたはず。

(5)当時の技術では、ロケットを逆噴射しながらの着陸は無理だった、などなど。

(6)さらにアポロ11号で撮られた写真の背景が、別の写真とまったく同じであったということも
指摘されている。

アポロ11号による月面着陸には、「?」な点がほかにもある。
映画『カプリコーン』や、『Someone else is on our Moon』という本によって、疑問がわき起こっ
たというわけではない。

(注※:『Someone else is on our Moon』というのは、1978年に、George H. Leonardという人に
よって書かれた本をいう。イギリスで発刊された、ペーパーバック版である。が、この本は、何
も、アポロ11号の月面着陸について書かれた本ではない。題名を訳すと、「月には、ほかにだ
れかがいる」となる。)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2742)

●壮大な思いこみと迷信

++++++++++++++++++H.Hayashi

日本の仏教を、一言で言えば、壮大な思いこみと迷信。
その(かたまり)といってもよい。
もちろん(教え)は、(教え)として、ある。
しかし本当に(教え)を求め、(教え)に従っている
人は、いったいどれだけいるだろうか。

++++++++++++++++++H.Hayashi

これは信者の側の問題かもしれない。
が、(儀式)を仏教の教えと誤解している人も多い。

私の母にしても、寺では、たいへん熱心な信者として
知られていた。
ある時期は、家にいる時間よりも、寺にいる時間の
ほうが長かった。

そんな母でも、今は、信仰の「し」の字もしていない。
私の家に来たときも、そうだった。
まだ自分で何とか歩けるような状態だったが、
仏壇には、目もくれなくなった。
私は昔の母をよく知っていたので、そのときは、
そういう母を見て、本当に驚いた。

その母のばあい、信仰といっても、実にささいなことにこだわった。
仏壇にかかげる戒名札のかけ方が、少しでもおかしいとか、そういうことだった。
位置が少しでもずれていたりすると、文句をつけた。

で、今度は僧侶側の問題だが、宗派によっては、小僧の段階から
修行に修行を重ね、僧職につく僧侶もいる。
しかしそうでない僧侶のほうが、実は多い。

たいはんの僧侶は親の職業を受け継ぎ、それほど修行らしい
修行を、ほとんどしないまま、僧職に就く。
親が僧職にあるという理由だけで、だ。
こういうばあい、「会費」(?)なるものを毎年、本山へ納めれば、
僧籍を失うことはない。

私の友人(当時45歳)は、こう言った。
「俺は、失業したら、寺の坊主にでもなるよ。僧籍だけは残してあるからな」と。
驚いて私が、「おまえが坊主をするのか?」と聞くと、その友人はこう言った。
「おやじが、会費だけは払っていてくれるから」と。

宗教があるから、信者がいるのではない。
それを求める信者がいるから、宗教がある。
だから、現実がそうであるかといって、日本の仏教を
批判しても意味はない。

端的に言えば、僧侶に読経してもらわなければ、成仏できないと、
ほとんどの人は、そう思いこんでいる。
が、これなどは、まさに迷信のきわまり。
そんなことは、釈迦は、一言も言っていない。

だいたい「成仏」とは何か。
この日本では、「死んだ人は、すべて仏になる」と教える。
つまり釈迦という「仏」と、同格になるという。
大乗仏教の教えによれば、そうだ。

……と書いたところで、私は何も日本の仏教を否定しているのではない。
(批判はしているが……。)
「死」は、その人の理性や知性を乗り越えたところで、私たちを襲ってくる。
道理や合理だけで、「死」を処理できる人は少ない。
病気にしてもそうだ。
「あなたはがんです」と宣告されて、平静でいられる人は、いったい、どれだけいるだろうか。
(私も、がんを宣告されたら、かなり狼狽すると思う。)

同じように、肉親や家族、兄弟の死であれば、なおさらだ。

で、私も数日前、実の兄を亡くした。
享年、70歳(数え年)だった。
いろいろ考えるところもあった。
言いたいこともあった。
しかし私は、すべて、その地域のしきたりに、そのまま従った。
具体的には、義兄と姉の指示にすなおに従った。
(おかげでかなり派手な葬儀になってしまったが……。)

私はこう考えた。

あれこれ抵抗して波風たてるくらいなら、静かにしていたほうがよい、と。
ついでに言うなら、「どうせ意味のない儀式なのだから」と。
あのアインシュタイン博士も、そう書き残している。
「宗教というのは、100%の迷信である」(ある人物への私信)と。
しかしそれで遺族の悲しみや苦しみが、多少なりとも癒されるなら、それはそれでよいことでは
ないか。

ただ私の兄のばあい、子どものころからいっしょに遊んだという記憶が、ほとんどない。
年齢も離れていた。
さらに晩年は、病気との闘い。
寝たきりの状態で、半年以上も過ごした。
僧侶による読経の最中、私は、こう感じた。
「兄は、孤独やさみしさ、すべてを背負って逝ってくれた」と。

だとするなら、葬儀のしかたにも、もっと別の方法があってもよいのではないのか。
大切なのは、「形」ではなく、「中身」。
が、現在の葬儀には、大きな疑問が残る。
率直に言えば、僧侶にお金を儲けさせるためだけのもの。
私の家の宗派は、たいへん良心的な宗派で、姉たちの言葉を借りるなら、
「安い」。
が、それでも、戒名に応じて、30〜80万円。
寺の格式(?)に応じて、上限はない。

もちろん葬儀社への支払いもある。
その額が、100〜120万円。
これとてミニマムな価格だそうだ。
少し派手な葬儀ともなると、300〜500万円が相場とか。

一方、香典などによる収入は、おおむね3分の1から2分の1。
残りは、遺族個人の負担ということになる。
ただ私は、こう考えた。

「兄は生涯、健康にも恵まれず、家族や家庭にも恵まれなかった。
葬式くらい、一人前に出してやろう」と。

そのとたん、心が晴れた。
気が楽になった。

が、それにしても……。
現在、都会地域では、約30%の家族が、「直葬(ちょくそう)」という方式で、葬儀を行っている
という。
「直葬」というのは、死亡した病院や施設などから、直接火葬場へ運ばれ、そこで火葬に付され
ることをいう。
そのあと、葬儀は個人の家で行う。
僧侶を呼ぶケースもあるそうだが、呼ばないケースもふえているという。
家族だけで、静かな(お別れ会)をして、それでおしまい。

で、遺骨は、どうするか?
今では、散骨という方法を選ぶ人も、ふえてきた。
故人の思い出の地に、遺骨をまく。

そうでなくても、それまでの介護で疲れ切っている人も多い。
介護費用もかさみ、葬式費用などどこにもないという人も多い。
中には、「親の葬式は、借金をしてでもやれ」と説く人もいる。
しかし私もその「親」だが、そんなことを息子たちには、させたくない。
私の葬式など、どうでもよい。
だから散骨でも、よい。
が、「それでは成仏できない」とは!
しかも戒名の「号」によって、差がつくだと!

もしこれが事実とするなら、日本の仏教は、根底からインチキと断言してよい。
だいたいすべてが、釈迦仏教の精神に反する!

が、(伝統)を踏襲する人たちは、まさにノーブレイン(=思考力ゼロ)。
「あの家は、こうした」
「あの宗派は、ああした」と。
それだけを金科玉条のごとくにふりかざして、それに従わない人を否定する。
攻撃する。

あとは見栄、メンツ、世間体。

つまりこういう人たちが、何も考えることなく、そのまま過去を踏襲していく。
が、これでは何も変わらない。
変わらないばかえりか、ますます仏教を儀式化してしまう。
形骸化してしまう。

どうしてみんな、もっと自分の頭で、考えないのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++July 08++++++++++はやし浩司

●兄の死

++++++++++++++++++H.Hayashi

8月2日、日曜日の早朝、私の兄が死んだ。
享年70歳(数え年)だった。
若いといえば、若い。
しかし兄は、生まれたときから体が弱かった。
とくに亡くなる前は、グールプ・ホームに3年、そのあと、病院に、1年あまりもいた。
最後は意識もほとんどなく、寝たきりの状態だった。

++++++++++++++++++H.Hayashi

兄弟といっても、いろいろある。
家族によってもちがう。
年齢差も影響する。
しかし私にとっての兄は、私の負担でしかなかった。

私が高校生のとき、私の実家はすでに火の車。
大学を卒業すると同時に、実家を支えるのは、私の役目ということになった。
兄は思考力も弱く、生活力も、ほとんどなかった。

こうして40年近く。
晩年になればなるほど、私への負担はふえていった。
経済的負担というよりは、社会的負担。
その重圧感には、ものすごいものがあった。

が、だからといって、私は、兄を恨んでいたわけではない。
むしろ逆で、いつも私は、「兄は私の代わりに犠牲になった」と
考えていた。
もし私が兄で、兄が私なら、立場は逆転していただろう。
兄がああした兄になったのは、遺伝子によるものというよりは、
環境によるものだった。
詳しくは書けないが、事実は事実。

私は、葬儀の席の(礼の言葉)で、こう述べた。
「今にしてみると、こうして私が人並みの幸福な家庭を築くことができたのは、
兄のおかげです。
家庭にも恵まれず、家族にも恵まれず、兄は私たちの犠牲になってくれました。
この場所に立ってみると、それがよくわかります」と。
この私の言葉には、一片の偽りはない。

ともかくも、兄は死んだ。
正直に言えば、兄が死んで、私はほっとしている。
前回、見舞ったときも、あまりにも痛々しそうな様子に、身が震えた。
食事は口からとれないため、腸に穴をあけ、そこから栄養分を注入していた。
話しかけても、うつろな目をかすかに動かすだけ。
兄は生きているというよりは、生かされているだけ。
その苦痛から、兄は、やっと解放された。
だから、ほっとした。

兄は「家」の犠牲になった。
兄は「父」や「母」の犠牲になった。
とくに母は、兄を監視し、兄が家から離れるのを許さなかった。
だから同じ(礼の言葉)の中で、私はこう言った。

「今ごろ兄は、足元も軽やかに、心も軽やかに、鼻歌でも歌いながら、金の橋を渡っていること
と思います」と。

が、ともかくも、兄は死んだ。
何も残さず。
何も語らず。
静かに、どこまでも静かに、
「無」の境涯というのは、そういう境涯をいうのか。
そういう兄だからこそ、極楽へ入って当然。
何も、思い残すことはなかっただろう。

さようなら、準ちゃん!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●8月6日

++++++++++++++++++H.Hayashi

コンビニで、「アメリカの陰謀」とかいうような本を買った。
コミック本で、信頼性はほとんどない。
が、おもしろかった。

たとえばアポロ11号は、やらせだった。
ケネディ大統領暗殺は、政治的陰謀だった。
ロズウェルUFO墜落事件は、真実だった。
9・11、ニューヨーク・貿易センタービルテロは、ブッシュ大統領の陰謀だった。
……などなど。

どのひとつをとっても、もしそれが事実であるとするなら、大事件というか、歴史そのものがひっ
くり返るようなものばかり。
人間がもつ魔性をそのままえぐりだすようなものばかり。

日本がうちあげた月探査衛星の「かぐや」にしても、アメリカの横槍で、計画の1000万画素の
カメラから、200万画素のカメラに取り替えられてしまったという。

なぜか、なぜなのか。
その前に、それは事実なのか。

本の中には、ブッシュ大統領とC・ライス長官が、対日戦略を練るシーンもある。
「北朝鮮のテロ指定国家を解除すると、日本を脅してやれ」「そうすれば、日本は(アメリカの)
言うことを、(あわてて)聞きますよ」とか何とか。

きわめて反米色の濃いコミック本だが、内容を10分の1にして読んでも、興味深い。
あのゴア前副大統領にしても、環境問題(地球温暖化)を利用して、莫大な利益をあげたとか
……?

何を信じてよいのか?
読んでいるうちに、何がなんだか、わけがわからなくなってしまった。
たとえば先に書いた、9・11事件のときには、1機の飛行機が
ペンタゴンにつっこんでいる。
この事件については、その直後から「?」と思われていた。
窓のない飛行機だったとか、両翼がビルにぶつかった形跡がなかったとか、など。
遺体がひとつも見つかっていないのも、おかしいと言えば、おかしい。
が、その一方で、3メートルの厚さもある壁が損傷を受けたとか……?

まさに陰謀。
恐るべき、陰謀。

今回の一連の6か国協議の流れを見ていると、「ありえない話でもない」と思えてくる。
「アメリカという国をまともに信じていると、たいへんなことになるぞ」と。

ところで8月11日が近づいてきた。
その日までに、北朝鮮は、核査察の立ち入り検査の計画書を出すことになっている。
しかし今のところ(8月6日)、北朝鮮には、その気配はまったくない。
ないばかりか、日本では、「立ち入り検査」と訳されているが、原文では、「VISIT」と
なっているという(某・経済誌)。
「VISIT 」だぞ!
わかるか?
強制力のない、「訪問」だぞ!

こんな人をバカにしたというか、日本をバカにした話がどこにある?

今、急速に日米関係は悪化の一途をたどっている。
それもそのはず。
アメリカは、日本を繰り返し、裏切っている。
直近では、韓国に遠慮して、「竹島は韓国領土である」とまで発言している。

もし8月11日に、北朝鮮が何も行動を起こさなかったら、私は、C・ライスと、C・ヒルにこう言っ
てやる。

「ヤ〜イ、ざま〜見ろ! バカやろう!」と。

話を戻す。
先のコミック本によれば、あの9・11事件のとき、アメリカは、「純粋水爆」という爆弾が使った
という。

水爆は、今までは、起爆剤に原爆をもちいていた。
しかし純粋水爆なら、原爆を用いないから、放射能の心配は、まったくないという。
その純粋水爆で、ニューヨークの貿易センタービルは、破壊された?

最初は「?」と思って読んでみたが、あちこちの記事を数回読みかえすうちに、「ありえなくはな
いな」と思うようになった。
アメリカは、まさに陰謀の国?
今も昔も、陰謀の国?
もしそうなら、アメリカのやることをまともに信じていると、たいへんなことになるぞ……というの
が、私の読後感。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●世界同時株安

++++++++++++++++++H.Hayashi

中国、インドの株安が止まらない。
年初来(2008)の株価指数下落率をみると、
中国は45弱%、インドは25%強も、株価を
下げている(「東洋経済」・8月9日号)。

日本の株価も下がったが、下がったといっても
10%強。

++++++++++++++++++H.Hayashi

オリンピック直近になって、中国を取り巻く経済環境が
急速に悪化している。
オリンピック特需どころか、オリンピック後も、株価は
下がり続けるだろうと言われている。
つまりそれだけの底力はなかった?

かわってブラジルが台頭してきた。
もっか世界の投資団は、猛烈な勢いでブラジルに向かっている。
やはり資源国は強い。
株価の下落率も8%前後に押さえている。

ところで数日前、証券会社に立ち寄ったら、店頭の女子店員にブラジル投資を勧められた。
年率10%の利息がつくという。
しかしレアル(ブラジル通貨)は、現在、高止まり。
(だからこそ、こういうときを選んで、ブラジル政府は、債権を発行するのだが……。
外国政府が債権を発行するときというのは、たいていその国の通貨が強いとき。
反対に満期が近づくと、意図的に通貨の価値をさげる。
ときにはこの方法で、利息分を帳消しにする。)

そんなわけで、為替差損を考えるなら、今は、慎重になったほうがよい。
……というのが、今の私の結論。


●日韓経済戦争

日本のみなさん、韓国から目を離すな!
目下、韓国はウォン防衛のため、猛烈なドル売り、ウォン買いをつづけている。
外貨準備高では、台湾についで、世界で6位となっているが、それもあぶない。
この7月だけで、107億ドルも、外貨を減らしている。
(全体では、2473億ドル。)

(しかし外貨準備高が大きいからといって、国力があるということにはならない。
外貨というのは、外国に再投資ししてこそ、意味をもつ。
そうでない外貨は、ただのタンス貯金。
もともと外貨というのは、為替決済のために蓄えるもの。
必要以上にためこんでも、意味はない。)

それはともかくも、その外貨そのものが減っている。
直近の貿易収支は、赤字。
「原油高が原因」とさかんに宣伝しているが、韓国の貿易赤字は、もっと構造的なもの。
その証拠に、火事場のネズミよろしく、外貨がどんどんと逃げを決め込んでいる。

日本の経済にも赤信号がともったという(8月8日、NHK定時ニュース)。
勝つか負けるか、この試合に共存はない。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2743)

【8月9日】
●ボーイング777

+++++++++++++++++

久しぶりに、書斎に座った。
6日ぶりではないか?
兄の死、葬儀、あと始末などなど、
いろいろあった。

で、6日ぶりに書斎に座ってみて、
自分の手が重いのには、驚いた。

たった6日なのに、勘が鈍ったというか、
こまかいところで、手先がうまく動かない。
幸いにも、作業を始めて半時間ほどで、
また以前の状態に戻った。
が、しかしたった6日で、こうなるのか?

文章というのは、毎日、書いてこそ、
書けるもの?

その思いを新たにした。

++++++++++++++++

●我が家の、超ビッグ・ニュース!!

息子の搭乗機が決まった。
今朝、早く、息子から連絡があった。

ナント、ボーイング・777(トリプル・セブン)!
J社の中でも、最新鋭の大型旅客機である!

飛行機の操縦許可証というのは、機種ごとに、みなちがう。

「やったね、おめでとう!」と言うと、あの息子が、声を震わせて、
「うん」とだけ言った。

横浜国大→フリンダース大学→航空大学→JAL入社→NAPAでの訓練。
ここまで7年間。
さらにこれから1年間の訓練が待っている。

よかった。
うれしかった。

さっそく、ネットで、777を見る。
コックピットはすべて電子化されている。

どこまでも空が好きな男。
「飛んでいるときだけが幸せ」と言う男。
息子は息子で、夢を果たそうとしている。
頂点を極めようよしている。

さっそく、インディアナ州立大学にいる息子夫婦に連絡する。
息子は、インディアナ州立大学でコンピュータ技師、嫁は同じ大学のロー・スクールに。

あれやこれやと、このところ、我が家にはビッグ・ニュースがつづく。

親は、こうして息子たちに励まされながら、生きるものか?

さあ、私もがんばるぞ!
息子たちに、負けてなるものか!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2744)

●子どもによる平和宣言(Declaration for Peace by Children)

+++++++++++++++++

今年も、広島、長崎で、子どもを使った
平和宣言がなされた。

それについて、私はかねてより、「子どもに
そんなことをさせてはいけない」と書いて
きた。

平和を守るのは、おとなである私たちの
責任。
子どもたちの未来を守るのも、おとなで
ある私たちの責任。

子どもを使うのは、卑怯だ!

+++++++++++++++++

8月8日、韓国で奇妙な事件が起きている。
どこかに立てこもった一群の中の子どもたちが、韓国の大統領である、イ大統領を
口汚く、ののしっているという。

文章を簡潔にして、紹介させてもらう。

+++++++++以下、朝鮮N報++++++++++++

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」 

 先月23日、体験学習のためソウルにやってきた地方の小学生たちが、曹渓寺(ソウル市鍾
路区)に立てこもっている、「狂牛病(BSE)の危険のある米国産牛肉の全面輸入に反対する
国民対策会議」(以下、対策会議)の芳名録に書いた、文や動画が公開され、韓国社会は衝
撃を受けた。

この小学生たちは10歳前後、小学3〜5年生の子どもたちだった。「立てこもっている人たち
がけしかけた」という学校側の主張と、「自発的に書いた」という対策会議側の主張は食い違っ
ている。

これについては警察の捜査で明らかになるだろう。

+++++++++以上、朝鮮N報++++++++++++

少しわかりにくい話なので、解説してみる。

現在、ソウルの曹渓寺というところに、アメリカ産の牛肉の輸入に反対する団体が、立てこもっ
て、それに反対しているという。
その寺の芳名録に、その小学校を訪れた子どもたちが、芳名録に書き込みをした。
それが冒頭にあげた、文章である。

「李明博(イ・ミョンバク)、なんでそんなやり方で国を治めるんだ」
「お前が死んだら僕は気持ちよく笑えるだろう。この××野郎よりダメなやつ!」
「お前がそんなことをするなら、僕はお前を殺してやる」と。

これについて、(1)立てこもっている人たちが、子どもたちにけしかけた。(2)子どもたちが自
主的に書いたと、意見が分かれているという。

が、どちらであるにせよ、つまりけしかけられたにせよ、自主的に書いたにせよ、その背後に
は、(おとなたちの意思)が、感じられる。
少なくとも、こうした言葉は、子どもたちだけの発想では生まれない。

そこで日本の子どもたちによる、平和宣言。
私は、平和宣言がまちがっているというのではない。
それ自体は尊いものであり、世界に向かって宣言して、当然である。

しかし、子どもを使って、それをしてはいけない。

5年前(03年)に、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++++++

●子どもによる平和宣言

 よくどこかの会場で、小学生くらいの子どもが、平和宣言をすることがある。「私たちは、平和
を守り……。戦争に反対し……。核兵器を廃絶し……」とか。たいていは、……というより、ほ
とんどは、おとなたちが用意した原稿を、子どもが読みあげているだけ。たまたま、この原稿を
書いている今日も、「地雷をなくそう、全国子どもサミット」(03年2月8日)があった。疑問がな
いわけでもないが、しかしそういうのなら、私も、まだ理解できる。

 しかし子どもを使って、平和宣言など、子どもに言わせてはいけない。子どもをそういうふうに
利用してはいけない。それはあまりにも酷というもの。だいたいそんな子どもに、戦争だとか、
平和がわかるわけがない。だれだって、戦争より平和のほうがよいと思っているに決まってい
る。

しかし平和というのは、それを求めて積極的に戦ってこそ、得られるもの。皮肉なことに、戦争
のない平和はない。ただ「殺しあいは、いやだから」という理由だけで、逃げまわっている人に
は、平和など、ぜったいにやってこない。世界は、そして人間が本来的にもつ性(さが)は、そん
な甘いものではない。

 たとえば戦後、つまりこの58年間、日本がかろうじて平和を保つことができたのは、日本人
がそれだけの努力をしてきたからではない。日本人が平和を愛したからでもない。日本が、戦
後、58年間という長きにわたって平和を保つことができたのは、アメリカという強大な軍事力を
もった国に、保護されていたからにほかならない。

もし日本がアメリカの保護下になかったら、60年代には、中国に。70年代には、韓国や北朝
鮮に、そのつど侵略されていただろう。台湾やマレーシアだって、だまっていなかった。フィリッ
ピンに袋叩きにされていたとしても、おかしくはない。日本は、そういうことをされても文句は言
えないようなことを、ほかの国に対して、してしまった。

しかももっと悪いことに、いまだに、公式には、日本はその戦争責任を認めていない。中には、
今でも「あの侵略戦争は正しかった」と言う日本人すら、いる。今の北朝鮮を容認するわけでは
ないが、彼らが日本を憎む理由には、そういう時代的背景がある。

 わかりやすく言えば、子どもが平和宣言をして、それで平和な国がやってくるというのは、まっ
たくの幻想。平和というのは、それ自体は、薄いガラスでできた箱のように、もろく、こわれやす
い。ときには、戦争そのもののように、毒々しく、醜い。仮に今、平和であるとしても、その底流
では、つぎの戦争を求めて、人間のどす黒い欲望が渦巻いている。つまり、平和を口にするも
のは、一方で、そういうものと戦わねばならない。その戦う意思、その戦う勇気のあるものだけ
が、平和を口にすることができる。

子どもを使って平和宣言をさせるというのは、子どもを使って宣戦布告するのと同じくらい、バ
カげている。それがわからなければ、子どもに、援助交際反対宣言をさせてみればよい。子ど
もに、政治家の汚職追放宣言をさせてみればよい。あるいは覚せい剤禁止宣言でもよい。環
境保護宣言でもよい。

そういうものが何であるかもわからないまま、無知な子どもに、そういうことを言わせてはいけ
ない。そうそう、あのK国では、幼児までもが、「将軍様を、命がけで守ります」などと言っている
という。幼児が自分の意思で、自分で考えてそう言うのなら話はわかるが、そんなことはありえ
ない。繰りかえすが、子どもを、そういうふうに利用してはいけない。

 そんなわけで、私は、小学生や中学生が、片手を空に向けて平和宣言をしている姿を見る
と、正直言って、ぞっとする。あるいはあなたは、アメリカやヨーロッパや、オーストラリアの子ど
もたちが、そういうふうに宣言をしている姿を、どこかで見たことがあるとでもいうのだろうか。
残念ながら、私はないが、ああいうことを子どもに平気でさせる国というのは、全体主義国家
か、あるいはその流れをくむ国と考えてよい。

 「地雷をなくそう、全国子どもサミット」では、ある子ども(滋賀の小学生)は、つぎのように話し
ている。

「地雷でケガをした人を見るのは初めてで、結構びっくりしたからそんなにしゃべったりできなか
ったけれど、何かちょっとずつだけど、声がかけられるようになったからよかったと思っていま
す」(TBS報道)と。私たちが聞きたいのは、子どもたちのそういう生の声である。

子どもたちのために平和を守るのは、私たちおとなの義務なのだ。どこまでいっても、私たちお
となの義務なのだ。それを忘れてはいけない。
(030209)

++++++++++++++++++

さらに進むと、自爆攻撃がある。
テロリストたちは、まだあどけない子どもを利用して、アメリカ軍などに対して、ゲリラ攻撃をし
かけている。
一度、その指導風景がテレビで紹介されていたが、指導者らしき男は、子どもたちに向かって
こう説明していた。

「死んでも、この世とまったく同じ世が、向こうの世界にある。だから恐れるな」と。

もしそうなら、テロなどしても意味はないということになるのだが、それはともかくも、子どもを使
うということは、そういうことをいう。

平和宣言だからよい。
ゲリラ戦だからよくない。
そういうふうに線引きすること自体、まちがっている。
それぞれのおとなたちは、それぞれの思惑をもって、子どもを利用する。

それがわからなければ、もう一度、最初に引用した、朝鮮N報の記事を読みなおしてみること
だ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子供による平和宣言 子どもの
平和宣言)

(補記)

++++++++++++++++++++

 この原稿を書いて、4か月になる(03年)。いろいろな原稿を書いているが、4か月前に書い
た原稿という気がしない。遠い昔に書いたような気がする。ただ子どもに平和宣言させること
に、全面的に反対というわけではない。子どもに戦争の悲惨さを教え、ついで平和の尊さを確
認させるという点では、意味がある。しかしそれでも、私は、「それでいい」とは、どうしても思え
ない。

 いつだったか、どこかのカルト教団の取材に行ったときのこと。全国大会とかで、全国から数
万人の信者が集まっていた。その席でも、やはり小学生代表が、こう叫んでいた。

「私たちは、○○導師様の教えを守り、この信仰を、世界に広めていきます!」と。小学生によ
る平和宣言などというものは、私には、その延長線上にあるとしか思えない。

 繰りかえすが、平和を守り、子どもたちを守るのは、私たちおとなの義務である。しかしその
平和というのは、自ら戦って、勝ち得るもの。「殺しあいはいやだ」と逃げてまわっていては、平
和は絶対に守れない。

 同じく繰りかえすが、平和主義には、二つある。「殺されても、抵抗しません。文句を言いませ
ん」という平和主義。もう一つは、「平和のためなら、命すらおしくない。いざとなったら、戦争も
辞さない」という平和主義。ここにも書いたように、「殺しあいはいやだ」と逃げてまわるのは、
平和主義でも何でもない。ただの逃避主義でしかない。

 また先の原稿の中で書いたように、戦後の日本がかろうじて平和を保つことができたのは、
それだけ日本人が平和を守ったからではない。また日本人が平和を愛したからでもない。日本
がかろうじて平和を保つことができたのは、たまたまアメリカという国に占領され、その保護下
にあったからである。

 私は60年代に、交換留学生として、韓国に渡ったが、彼らがもつ反日感情というのは、感情
というレベルを超えた、「憎悪」そのものだった。今でも基本的には、その構図は、変わってい
ない。仮に北朝鮮が日本にめがけて核ミサイルを撃ち込んだとしても、それを喜ぶ韓国人はい
ても、悲しむ韓国人はいない。そういう現実を前にして、小学生を仕立てて平和宣言をする。そ
のオメデタサは、いったいどこからくるのか。(だからといって、私が戦争を求めているのではな
い。どうか誤解のないように!)

今朝の報道によれば、あの北朝鮮は、すでに核兵器を数個もち、さらに今後、半年の間に、5
〜6発の核兵器を製造する能力があるという。さらに今年の終わりには、核実験もするかもし
れないという(クリントン政権時代の北朝鮮担当官・ケネス・キノネス氏)。そうなれば日本は、も
うおしまい。金XXの影におびえながら、毎日ビクビクしながら、生活をしなければならない。

 小学生による平和宣言の話を書いているうちに、またまた頭が熱くなってしまった。私の悪い
クセだ。しかし、これだけは言える。どんな形であるにせよ、おとなたちは自分たちの政治的エ
ゴを追求するために、子どもを利用してはならない。子どもには、子どもの人権がある。その人
権だけは守らねばならないということ。決して、子どもたちを、猿まわしのサルのように利用して
はいけない。
(030628)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●夏休み

++++++++++++++++

今日から、1週間、夏休み。
……ということで、本屋で、雑誌や本を
どっさりと買ってきた。
(ついでにDVDも、2本!)

心理学書、1冊
プレジデント誌、YOMIURI―PC誌、東洋経済誌、エコノミスト誌、4冊、
オーパーツの本などなど。
心理学書が高価だったので、しめて1万円弱。
さっそく、寝床で横になって読み始めた。

どういうわけか、今は、経済関連雑誌と、超古代ミステリーに興味がある。
オーパーツの本というのは、「オーパーツ、超古代ミステリー」(双葉社)
という題の本。
寝床で読むには、よい本である。

冒頭に、映画『インディアナ・ジョーンズ』(最新作)にも出てきた
水晶ドクロの写真が載っていた。

世の中には、常識だけでは理解できない、不思議なことがたくさんある。
オーパーツという物証があるだけに、おもしろい。

+++++++++++++++++

●水晶ドクロ

1927年に発見された水晶ドクロは、通称「ヘッジス・スカル」と呼ばれているという。
紀元前300〜800年ごろ作られたという。きわめて精巧に作られているという(同書)。

水晶の細工は、むずかしいらしい。
が、謎は、それだけではない。つぎのようにある。

「……ドクロの下から光を当てると、頭が発光する現象が起こる。……光を受けると神秘的な
虹色に包まれるプリズム効果まで、施されている。さらにドクロの下に紙を敷くと、紙の文字が
曇ることなく見える。それも頭頂部から見ると、拡大鏡のように紙の文字が大きくなるように成
形されているという」(同書)と。

フ〜〜ン!

●日本経済

わかりやすく言えば、今まで、日本経済は中国経済に支えられてきた。
中国特需のおかげで、何とか、生き延びてきた。
が、ここにきて、中国経済がおかしくなってきた。
とたん、日本経済もおかしくなってきた。

本来ならこういうチャンスを生かして、日本は構造改革、つまり行政改革、さらに言えば、官僚
制度の是正を急ぐべきだった。
が、成果は、ほとんど、ゼロ!

ひとつの例として、空港問題がある。
エコノミスト誌は、「日本ほど、外国人からみて、不便な国はない」というようなことを書いてい
る。
「(日本では)ほとんどの空港は、夜8時前後には、閉じられてしまう」と。

いまや空港の24時間営業は、世界の常識。
その常識にひとり背を向けて、小さな世界に閉じこもっているのが、この日本ということになる。
おかげで世界の飛行機は、日本を通り越して、韓国、香港、シンガポールへ向かっている。
こういう現実を、日本人は、もっと知るべきではないのか。

●YOMIURI―PC

「夏休み3日間で、リカバリー大作戦」という見出しが気に入った。
実は、私のサブ・パソコン(XP)が、どうも調子が悪い。
SP3を導入してから、ときどき、まったく予想外のところでフリーズしてしまう。

今はだましだまし使っているが、リカバリーも視野に入れつつある。
と、同時に、新しいパソコンの購入も考え始めている。

で、この夏休みに、サブ・パソコンのほうを、一度、リカバリーしてみようと思う。
かなりの作業になりそうだが、この際、しかたない。


●調子

夕方になって、やっと調子が戻ってきた。
サクサクと指が動く。
気持ちよい。
楽しい。
頭の働きも、少しよくなってきたようだ。

……で、そういう私自身を振り返りながら、こう考える。

私はこうして毎日、ものを書きながら、頭を使っている。
だから、それなりにものが書けるのは当然。

しかし、書いていない人は、どうなるのか。
こんな私でも、もし3か月とか、半年も、ものを書かないでいたら、恐らく、文章そのものが書け
なくなってしまうだろう。
つまり頭がサビついてしまう?

ということは、日ごろ、ものを書いていない人は、どうやって自分の頭をみがいているのかとい
うことになる。

中には、「私は毎日新聞を読んでいるからいい」と言う人がいる。
しかし読むだけでは、足りない。
読んだら、自分なりに情報を整理して、処理しなければいけない。
そのためには、文章を書いてみる。
書くことによってはじめて、自分の(考え)をもつことができる。

テレビを見たり、映画を見たりするのも、同じ。
もし文章を書くのがいやだということであれば、だれかと話しあうのもよい。
「ああでもない、こうでもない」と、批評しあうだけでも、脳みその刺激になる。

……ということで、ここまで一気に書いた。
すっきりした。
楽しかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2745)

●日本語(若い人の日本語)

 若い人が発行している電子マガジンを、いくつか購入している。これが結構おもしろい。内容
もさることながら、日本語がおもしろい。少し、まねてみる。これからは、こういう日本語になる
のかもしれない。

++++++++++++++++++

 これから、洗濯機の掃除、つうか、清掃。
 オーストラリアの友人夫妻が、長期滞在すんので、
 山荘のほうに、一台、置いとこって、感じ。
 で、自宅にも一台、ほし〜ぃ。
 て、言ったのは、ワイフさま。で、もう一台、
 近くのスーパーで、買ってきた。
 値段は、二万八〇〇〇円。
 五キロで、この安さ。
 信じられな〜ぃ。
 もう少し安いのもあったけど、韓国製。
 韓国、がんばってのね。
 しかし、どこか心配。
 やっぱ、電気製品は、日本製にかぎるよね、ホント。

 で、問題は、どうやって、山荘まで、運ぶかっていうこと。きぃい!
 軽のバンがあるから、それで行こ。
 しかし今朝の天気、ホントにさわやか。
 気持い〜ぃ。
 しかしどこかフラフラすんの。
 三半規管が、どこか不調?
 よく寝たのに、まだ眠い?
 あくびばかり、出んの。
 朝ごはんを食べて、お茶飲んで、
 それから一休みして、行動開始。

+++++++++++++++++++++

 しかしこの日本語、おかしいと思う前に、正直言って、楽しい。この日本語で、一つ、子育てエ
ッセーを書いてみることにする。どんなエッセーになることやら……? つぎのエッセーが、そ
れ。

+++++++++++++++++++++

●父親の役割

そもそも、父親像のない父親に、父親らしくしろって、言っても、ムリなんの。
あまりムリすると、父親だって、自己否定になるわさ。
だって、そうだろ。みんながよってたかって、「あんたは、父親らしくないわさ」なんて言われて
さ、気持いいはずねえもんね。

役割形成っていう言葉を、知ってるか? 人間っていうのはさ、長〜〜〜〜〜ぃ時間かけてさ、
自分らしい自分をつくっていくというわけ。わかりやすい例で言うとさ、男が男らしくなるのは、こ
の役割形成という作用によるもの。わかる?
女だって、そう。ほとんどは、見ようみまねで、男は、男に、女は、女に、なるっていうわけ。つう
か、そういうふうに、仕立てられていくって、いうわけ。
こういうのを、観察学習っていうわけ。知ってた?

わかりやすく言うとさ、自分が、その父親に授業参観してもらったことがない父親に、「参観日
に出てきなさい」と言ってもさ、ストレスがたまるだけ、っていうこと。炊事や洗濯をしたことがな
い父親に、「家事を手伝え」と言っても、ストレスがたまるだけ。わかる、この気持?

しかしさ、その程度では、すまないの。「あんたはダメ」と、あんまり父親を責めると、父親だっ
て、自己否定の世界に陥ってしまうよ。こういうのを、役割混乱と、いうわけ。これがこわいよ。
きぃい!

わかりやすく言うとね、トラックの運転手に、リカちゃんの洋服を着せるようなもの。「あんたの
服装、ダサいから、今度、この洋服にしな」と言われても、困るでしょ。役割混乱を起こすと、人
間っていうのは、情緒がたいへん不安定になるの。もちろん自信喪失にもなるけどさ。

だからあんま、父親に、あれこれ言わないほうが、いいよ。やめときな。どうせ、ムリだもんね。
そういうもの。人間って、いうのはさ。

そのかわり、各論のほうから、少しずつ、攻めるのがいいよ。たとえば、さ、何か、子育てらしき
ことをしたらさ、「パパ、なかなか、やるじゃん」とか、何とか言って、おだててさ、そういうこと。

あんたの夫は、夫。どうせ、簡単にはなおらね〜〜〜〜〜よ。だったらさ、あきらめな。あきら
めて、つぎの世代に、望みを託しな。そのほぉが、いいよ。わかりやすいし、さ。

ほほほ。ケツロンを言えば、そういうこと。わかった?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 役割形成)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2746)

●8月9日(土曜日)

【家族葬】

葬式……かくも偽善と欺瞞に満ちた儀式が、ほかにあるだろうか。
心の中では、「バンザ〜イ」と叫びながら、みなの前では大泣きしてみせる。
悲しみにくれた遺族を演じてみせる。
しかし涙は、出ない。
出るはずもない。
葬儀そのものが、エセ。
インチキ。
ウソ。

夫を殺害しておきながら、葬儀の場では、おいおいと泣いて見せた女性がいた。
自分の実の娘を殺しておきながら、「娘を返して」と泣き叫んだ女性もいた。
これらは極端な例かもしれないが、似たような話は、どこにでもある。

ある女性(嫁、50歳くらい)は、裏では義父を虐待しながら、表では、献身的な嫁を演じてい
た。
心理学の世界にも、「代理ミュンヒハウゼン症候群※」というのがある。
言うなれば、「逆・代理ミュンヒハウゼン症候群」と言うべきか。
見舞いの訪問客が来たりすると、義父の背中を、ことさらていねいに、さすって見せたりしてい
たという。

一方、こんな思いで、死者を送る人もいる。
私の友人は、昨年、妻を亡くした。
それについて私が、「悲しかったか?」と聞くと、その友人は、こう言った。
「うれしかった」と。
驚いた表情をしてみせると、その友人は、こう言った。
「2年間も、痛みで苦しんだ。それから妻が解放された。だからうれしかった」と。

で、今年、その友人が娘に連れられて日本へやってきた。
そんなある日、その友人に「学生のときのように、歌をいっしょに歌おう」と言うと、
その友人は、こう言った。
「ヒロシ、ぼくはもう5年以上、歌など歌ったことがない」と。

妻ががんを宣告されて以来、歌を歌ったことがない、と。

愛する人を失うということは、そういうことをいう。
儀式ではない。
形ではない。
心だ。

私も、ワイフが死んでも、葬式などしない。
僧侶の読経も、断わる。
そんなもので、自分の心をごまかしたくない。
ごまかされたくもない。
私は、一晩でも二晩でも、事情が許すかぎり、ワイフのそばで寝る。
遺骨になったら、私が死ぬまで、私の手元で、私が預かる。
だれにも渡さない。
寺にも渡さない。

ただ、私が死んだあとのことは、知らない。
息子たちに、処分を任す。
海へ捨てたければ、捨てればよい。
だからといって、私はだれも、うらまない。
それによって息子たちに、バチが当たるとか、成仏できないとか、
そういうアホなことを言う人がいたら、私があの世で笑ってやる。
息子たちよ、堂々と、遺骨は、海へ捨てなさい。
だれにも遠慮する必要はない。
私はお前たちの手によって、海へ捨ててもらうことを、誇りに思う。
またそれによって私が成仏できないというのなら、私はあの世へ行ったら、
まっさきに、釈迦だろうが、閻魔大王だろうが、彼らに抗議する。

何なら、みなで力を合わせて、『家族葬の会』というのを、つくってもよい。

形式はない。
その人の愛情の度合いに応じて、それぞれの人が、それぞれの葬儀の仕方を考えればよい。
私がここに書いたような送り方でもよいだろうし、直葬でもよい。
僧侶も戒名も、不要。
みなで心を開いて、それぞれの思いをこめて、死者に別れの言葉を告げればよい。

「バカ野郎!」と叫びたかったら、そう叫べばよい。
さみしかったら、「さみしい」と言えばよい。
詩を朗読したかったら、詩を朗読すればよい。
もちろん従来どおりの葬儀がよいというのなら、それはそれでよい。
お別れ会をして、翌日あたり、火葬すればよい。
あとはみなで、おいしいものでも食べて、おしまい。

で、そのあと火葬ということになるのだろうが、遺骨の保管の仕方は、それぞれの遺族が
考えればよい。
墓に入れるのもよし、寺に預けるのもよし。
家に仏壇を置いて、その中に安置するのもよし。
小さな容器に入れて、保管するのもよし。
さらに散骨もよし。

そのためには、それぞれの人が、自分の意思を、遺書という形で、しっかりと残しておく必要が
ある。

この世界には、かならず、あれこれと文句を言う人がいる。
過去をそのまま踏襲しながら、それが正しいことと信じて疑わない人たちがいる。
彼らの化石のように、こりかたまった思考回路を変えるのは不可能と考えてよい。
だからこそ、故人のかたい意思が大切ということになる。

【私の遺書】

(1)葬儀という形だけの儀式は、いっさい、するな。
(2)お別れ会をして、みな、一言ずつ、言葉で自分の気持ちを語ってくれればよい。
(3)僧侶の読経は、不要。かわりに音楽をかけてほしい。
(4)戒名も、不要。私は「はやし浩司」のまま死ぬ。
(5)遺骨は、私が先に死んだら、始末はワイフに任す。
(6)ワイフが死んだら、私とワイフの遺骨は、息子たちに任す。
(7)墓は不要。思い出の地に、散骨してほしい。
(8)遺骨の一部は、メルボルンのアルバート公園の一角に。
残りは、中田島の砂丘から海にまいてほしい。

(補)ワイフが先に死んだら、私が死ぬまで、遺骨は、私のそばに置く。
   毎日、さみしくなったら、その遺骨に向かって、話しかける。

【息子たちへ】

以上のような葬儀の仕方(?)をして、それについて、「おかしい」とか、何とか
言う連中がいても、相手にするな。
そのときは、この私の遺書を、前にかかげよ。
私の葬儀にも、ワイフの葬儀にも、いっさい、無駄なお金を使うな。
集まってくれた人から、霊前とか仏前とか、そういうわけのわからない金を受け取るな。
花輪も不要。
いっさい断われ。

以上が、私が説く、家族葬ということになる。

●成仏

日々に精進に精進を重ね、法を悟った人を「仏」という。
その「仏」が、「島」となって、さらに法を広める。
それが釈迦の教えということになる。

一方、この日本では、「死ねば、みな、仏」と教える。
結構な教えだが、この安易な「仏思想」が、日本の仏教を堕落させた。

で、私は一度、ある寺の住職に、こう聞いたことがある。
「戒名はどうして必要なのですか?」と。
するとその住職は、こう答えた。

「俗名にまつわるしがらみを捨て、清廉潔白な身分で、浄土へ行くためです」と。

この考え方によれば、この人間社会そのものが、汚れた世界ということになる。
もし汚れた世界というのなら、仏教は、生きることそのものを否定しているという
ことになる。
が、そんなことはありえない。

私たちは懸命に生きてきた。
今も懸命に生きている。
これからも懸命に生きていく。

その(懸命さ)の中に、生きる価値がある。
無数のドラマもそこから生まれる。
その(ドラマ)そのものが、私たちなのだ。

それを「俗」とは!
何をぬかすか!
自分たちこそ、俗のしがらみ、そのものではないのか。

私たちは私たちの名前で死ねばよい。
生きるのも私たちなら、死ぬのも、私たち。
それがだめだというのなら、浄土思想そのもののほうが、まちがっている。

私たちの親兄弟はともかくも、私たち自身は、勇気をもって、「家族葬」を
唱えよう。
私たちの前の世代はともかくも、こんなバカげた風習は、私たちの世代で
終わりにしよう。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族
葬)

++++++++++++++++

(注※:代理ミュンヒハウゼン症候群)

●フリをする母親

 昔、自分を病人に見たてて、病院を渡り歩く男がいた。そういう男を、イギリスのアッシャーと
いう学者は、「ミュンヒハウゼン症候群」と名づけた。ミュンヒハウゼンというのは、現実にいた
男爵の名に由来する。ミュンヒハウゼンは、いつも、パブで、ホラ話ばかりしていたという。

 その「ミュンヒハウゼン症候群」の中でも、自分の子どもを虐待しながら、その一方で病院へ
連れて行き、献身的に看病する姿を演出する母親がいる。そういう母親を、「代理ミュンヒハウ
ゼン症候群」という(以上、参考、「心理学用語辞典」かんき出版)。

 このタイプの母親というか、女性は、多い。こうした女性も含めて、「ミュンヒハウゼン症候群」
と呼んでよいかどうかは知らないが、私の知っている女性(当時50歳くらい)に、一方で、姑
(義母)を虐待しながら、他人の前では、その姑に献身的に仕える、(よい嫁)を、演じていた人
がいた。

 その女性は、夫にはもちろん、夫の兄弟たちにも、「仏様」と呼ばれていた。しかしたった一
人だけ、その姑は、嫁の仮面について相談している人がいた。それがその姑の実の長女(当
時50歳くらい)だった。

 そのため、その女性は、姑と長女が仲よくしているのを、何よりも、うらんだ。また当然のこと
ながら、その長女を、嫌った。

 さらに、実の息子を虐待しながら、その一方で、人前では、献身的な看病をしてみせる女性
(当時60歳くらい)もいた。

 虐待といっても、言葉の虐待である。「お前なんか、早く死んでしまえ」と言いながら、子どもが
病気になると、病院へ連れて行き、その息子の背中を、しおらしく、さすって見せるなど。

 「近年、このタイプの虐待がふえている」(同)とのこと。

 実際、このタイプの女性と接していると、何がなんだか、訳がわからなくなる。仮面というよ
り、人格そのものが、分裂している。そんな印象すらもつ。

 もちろん、子どものほうも、混乱する。子どもの側からみても、よい母親なのか、そうでないの
か、わからなくなってしまう。たいていは、母親の、異常なまでの虐待で、子どものほうが萎縮し
てしまっている。母親に抵抗する気力もなければ、またそうした虐待を、だれか他人に訴える
気力もない。あるいは母親の影におびえているため、母親を批判することさえできない。

 虐待されても、母親に、すがるしか、ほかに道はない。悲しき、子どもの心である。
(はやし浩司 ミュンヒハウゼン症候群 代理ミュンヒハウゼン症候群 子どもの虐待)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●迷信

私が学生のころ、迷信のかたまりのような女性(当時50歳くらい)がいた。
「何でも信じればいい」と、常時、3、4つの教団に顔を出していた。
天R教、Mジー、創K学会、などなど。
実際、そういうふうに教える教団もある。
つまり神と仏を、いっしょにしたような教団である。

たいへん説教が好きな女性で、会う人ごとにあれこれ説教していた。
私も何度か、説教されたことがある。
印象に残っているのは、「先祖を大切にしなさい」「親を粗末にすると、バチが当たる」
という言葉だった。

一度、何冊か、私に本を送り届けてきたことがある。
これには驚いた。
私のようなもの書きに、本を送り届けるという行為そのものが、非常識。
どこかの料理店のおやじに、料理を送り届けるようなもの。
読むに耐えないというか、何も参考にならなかった。

で、こうした思い込みのはげしい女性というのは、たしかにいる。
「これが正しい」と信じたら、それしか見えなくなってしまう。
自分の視野そのものが狭くなってしまう。
それはそれで結構なことだが、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と切りかかってくるか
ら、やっかい。
が、晩年は恵まれなかった。
先日、兄の葬儀に出て、その女性の消息をたずねた。
すでに10年ほど前に他界したとのこと。
最後の10年は、寝たきり状態になり、病気との闘いだったとも聞いた。

だからといって、つまり寝たきりになったからといって、その人の人生観がまちがっていたと言
っているのではない。
病気と事故は、運と確率の問題。
人知を超えたところで、その人を左右する。
「死」については、どんな善人であっても、それを避けることはできない。

ただその女性は、体をこわしてからというもの、毎日、毎晩、世間をうらみ、信仰をうらみ、泣き
わめいていたという。
人づてに聞いたところによると、家族の人たちでさえ、手がつけられなかったとのこと。
何度か施設に入れようとしたが、そのつど、「そんなところへ入るなら、死ぬ」と、首をつるしぐさ
をしてみせたという。

(こういうのを「狂言自殺」といって、それで自殺する人は、ぜったいにいない。)

しかたないので、結局、最後の1年ほどをのぞいて、家族が、その女性の介護をしたという。
最後の1年は、病院で過ごした。
まだ介護制度の整っていなかった時代で、何かとたいへんだったようだ。

で、私はその女性の話を聞きながら、「迷信というのは、そういうものだろうな」と思った。
迷信では、人は救われない。
人を救うこともできない。
自分を救うことすら、むずかしい。
いくら説教を重ねても、相手に感動を与えることもない。

私たちがなぜ信仰するかといえば、そこに(真理)を求めるからである。
しかし真理などというものは、向こうからやってくるものではない。
信仰したからといって、手に入るものではない。
それは画家が(美)を求める姿に似ている。

美術学校で絵画の描き方を習うことはできても、絵を描くのは、あくまでもその人自身というこ
と。

私の母も、体が不自由になる前は、ちぎり絵を描いていた。
相当の腕前だった。
しかし模写が専門で、それゆえに美術的価値は、ほとんどない。
きれいはきれいだが、そこまで。
絵を見ても、こちら側に伝わってくるものは、何もない。

信仰もそれと同じ。
どこかの教団に属して、そこで教えを受けたとしても、それを自分の中で消化し、さらに昇華し
てはじめて、信仰としての意味をもつ。
思想を注入されたまま、それをもって、(思想)と、けっして思い込んではいけない。
大切なのは、自分で考えること。
画家にたとえるなら、自分で絵を描いてみること。

さらに端的に言えば、いくら信仰しても、神や仏に依存してはいけない。
このことは逆の立場で考えてみれば、わかる。

もしあなたが神や仏であったとしよう。
学校の教師でもよい。

そういうあなたのところへきて、だれかが、「○○大学へ合格させてください」「病気を治してくだ
さい」「お金を儲けさせてください」と言ったら、あなたはどうするだろうか。

たぶんあなたはこう答えるだろう。

「私は勉強の仕方を教えます」「病気の治し方を教えます」「経済についての話はします」「しか
しそれをどう生かしていくかは、あなた自身の問題です」と。

勉強もロクにせず、運動もロクにせず、仕事もロクにせず、信仰だけでそれを成し遂げようとす
ること自体、ムシのよい話ではないか。

冒頭に書いた女性には悪いが、その女性は迷信を信じただけ。
その迷信の虜(とりこ)になっただけ。
だから今、その女性を振り返っても、私たちに残したものは何もない。
いや、ひとつだけあるとするなら、その女性は、私にこう教えてくれた。

「迷信というのは、こういうものです」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●平均葬儀費用、313万円!

+++++++++++++++++

平均葬儀費用は、313万円だそうだ。
「フ〜ン」と思ってみたり、「そんなものかな?」と
思ってみたり……。

死ぬのもたいへん。結構、お金がかかる?

+++++++++++++++++

 平均葬儀費用は、313万円。財団法人の日本消費者協会が、関東地方で調べたところ、そ
ういう数字が出てきたそうだ(2003年)。

 しかしこれはあくまでも平均的な額。葬儀には、ご存知のように、ピンからキリまである。その
気にさえなれば、葬儀も、最低は、10万円から、できるそうである(「世の中の裏事情」PHP)。
もちろん上限はない。仏式で葬儀をするばあい、戒名に必要な(お布施)にしても、これまたピ
ンからキリまである。戒名が3文字ふえただけで、ふつう、30〜50万円が上乗せされる。

 たとえば戒名は、ふつうは、6文字か9文字。6文字だと、10万円前後。しかし9文字になる
と、50万円前後。

 さらに「院」とか、「大」の文字がつけてもらうと、戒名も12文字になって、(お布施)だけ、軽
く、100万円を超える。

 火葬にしても、公共施設ですれば安くすませることができる。無料のところも多い。が、私営
の火葬場だと、そうはいかない。いくつかのクラスに分かれているところが多い。これにも、ま
た、上限がない。

 しかし、問題は、なぜ、人は、こうまで「葬儀」にこだわるのかということ。本人自身がこだわる
ことも多い。いつも口ぐせのように、「私が死んだら、葬式にだけには来てくださいよ」と、会う人
ごとに、頼んでいた知人(当時、80歳くらい)もいた。

 一方、通俗的な世間体にしばられて、(世間体ほど通俗的なものはないが……)、派手な葬
儀をする人もいる。傍(はた)からみていると、「何もそこまでしなくても……」と思うのだが、そ
の人には、その人の事情というものがある。とくこの葬儀には、その人の死生観、人生観、哲
学、さらには、人格そのものが、からんでいる。

 簡単に割り切ることができない。

 そこで私たち……というより、私は、どうあるべきかということを考える。実は、昨夜も、夕食
のあと、ワイフとそれについて、話した。私が、「葬式は、どうする?」と聞くと、ワイフは、「そん
なものは、しないわ」と。

私「しかしお前の兄弟たちが、許さないかもね」
ワ「いいじゃない、私が、それでいいと言っているのだから……」
私「だけど、ぼくが冷たい目で見られる」
ワ「遺書にはっきりと、そう書いておくからいいわよ」

私「ぼくも、葬式は、いらない」
ワ「だったら、あなたも、遺書にはっきりと、そう書いておいてよ。私も、あなたの親戚に、冷た
い目で見られるのは、いやだから」
私「ぼくたちだって、結構、世間体を気にしているのだね」
ワ「世間体じゃあなくて、私は、うるさいことを言われたくないのよ。わずらわしいでしょ」と。

 それなりの死生観、人生観、哲学のある人から、文句を言われるのは、しかたない。しかし、
そうでない人に、あれこれ言われるのは、不愉快。バカげている。この日本、「私は私」と思っ
て生きるのは、結構、たいへん。それを貫くのは、もっとたいへん。

 で、私が死んだあと、(順番でいけば、私のほうが先)、家の中で、ひっそりと葬式をしたら、
みんな何と言うだろうか。どう思うだろうか。まあ、どう言われようが、どう思われようが、私の知
ったことではないが……。

 もちろん、僧侶も呼ばないし、墓もつくらない。遺灰のあつかい方については、息子たちに任
す。いつか、海にまいてくれてもいいし、一部は、山荘の周辺とオーストラリアのアルバート・パ
ークにまいてくれてもいい。決して「葬儀代を、安くあげよう」と考えているわけではない。

 私は、裸で生まれ、裸で生きてきた。だから死ぬときも、裸で死にたい。これが私の生き方だ
といえるような、そんな生き方を最後まで貫きたい。だから葬式にしても、本当に悲しんでくれる
人だけに集まってもらい、その人たちが静かに慰めあうようなものにしてほしい。

 墓については、私の書いた文章が、墓だと思ってほしい。私は、いつも、そういう思いをこめ
て、自分の文章を書いている。だから、もし私のことを思い出してくれる人がいたら、いつでも
気が向いたとき、どのページでもよいから、私の書いた文章を読んでほしい。

 簡単にすませば、10万円ですますことができる葬儀。そんな葬儀に、313万円もかけること
はない。もしそんなお金があるなら、今、生きている人たちが、有効に使えばよい。できれば、
食料もなく、飢えて苦しんでいる人に、あげればよい。

 ……とまあ、話がどんどんと脱線してしまったが、だからこそ、「今」というこのときを、一日、
一日、大切にして生きる。そして毎晩、床に入って目を閉じるときが、私の葬式。そのまま眠り
につくのも、そのまま死ぬのも、原理的には、同じ。翌朝、生きていたら、生きているということ
になる。翌朝、死んでいたら、死んでいるということになる。

本当に死んだときだけ、313万円もかけて、なぜ、大騒ぎしなければならないのか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 葬儀 葬儀代 密葬 家族葬)

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2年(06)前の6月に書いた
原稿を添付します。

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【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

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過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

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 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。学校の社会科の
勉強で使ったような歴史の年表のようなものでもよい。過去から、現在、そして未来へと、ちょう
ど、蒔絵のように、それがつながっている。それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像する人も
いるかもしれない。過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。あるいは上書
きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。瞬間の、そのまた瞬間に、未来は
そのまま過去となっていく。そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業を、何千回も
繰りかえす。が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となっていく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出された映
像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思うだけの
話。本当は、どこにもない。つまり私にとって、時の流れというのは、どこまでいっても、研(と)
ぎすまされた、(現実)でしかない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インドでは、そ
れがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。つまり未来は、やがて過去とつなが
り、その過去は、また未来へとつながっていく、と。ちょうど、車輪の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。現代
に視点をおくと、理解できない。たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)というもの
が、ほとんどなかった。「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、100年一律のご
とく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人と同じ
ような生活を始める。同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。人の動きもない。話す言
葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかもグルグ
ルと回転しているかのように見えるはず。死んだ人がいたとしても、しばらくしてその家に行っ
てみると、死んだ人が、そのまま若返ったような状態で、つまりその子孫たちが、以前と同じよ
うな生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、みなが、
生活している。それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリはいる。しかしその
アリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえしている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という概念が生
まれた。輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。それが輪廻思想へと、発展
した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。現代社会では、
古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。10年一律どころか、数年単位
で、すべてが変わっていく。数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。している仕事もちがう。こうした社会では、時の流れが、グル
グルと回っていると感ずることはない。ものごとは、すべて、そのつど変化していく。流れてい
く。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。もっとわかりやすく言えば、冒頭に書い
たように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長い帯のようになった年表である。しかし
ここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在をとらえ、そして未来を考
えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないということ。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私あたちは、過去、現在、未来のとらえかたを、
見誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。それが発展して、前世思想、来世思想となった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。しかし釈迦自身は、
一言も、そんなことは言っていない。ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』(釈迦生
誕地の残る原始仏教典)を読んでみることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自身は、そ
れについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年を経てか
ら、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称(仏の生まれ変わりたち)によって、書かれた
経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。

 (それについて書いた原稿は、このあとに添付しておく。)
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知れぬ
真理が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見することが
できるかもしれない。

 そこでその第一歩。あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えているか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【家庭内宗教戦争】

 福井県S市に住む男性(47歳)から、こんな深刻な手紙が届いた。いわく「妻が、新興宗教の
T仏教会に入信し、家の中がめちゃめちゃになってしまいました」と。長い手紙だった。その手
紙を箇条書きにすると、だいたいつぎのようになる。

●明けても暮れても、妻が話すことは、教団の指導者のT氏のことばかり。

●ふだんの会話は平穏だが、少し人生論などがからんだ話になると、突然、雰囲気が緊迫し
てしまう。

●「この家がうまくいくのは、私の信仰のおかげ」「私とあなたは本当は前世の因縁で結ばれて
いなかった」など、わけのわからないことを妻が言う。

●朝夕の、儀式が義務づけられていて、そのため計二時間ほど、そのために時間を費やして
いる。布教活動のため、昼間はほとんど家にいない。地域の活動も多い。

●「教団を批判したり、教団をやめると、バチが当る」ということで、(夫が)教団を批判しただけ
で、「今にバチが当る」と、(妻は)それにおびえる。

●何とかして妻の目をさまさせてやりたいが、それを口にすると、「あなたこそ、目をさまして」
と、逆にやり返される。

 今、深刻な家庭内宗教戦争に悩んでいる人は、多い。たいていは夫が知らないうちに妻がど
こかの教団に入信するというケース。最初は隠れがちに信仰していた妻も、あるときを超える
と、急に、おおっぴらに信仰するようになる。そして最悪のばあい、夫婦は、「もう一方も入信す
るか、それとも離婚するか」という状況に追い込まれる。

 こうしたケースで、第一に考えなければならないのは、(夫は)「妻の宗教で、家庭がバラバラ
になった」と訴えるが、妻の宗教で、バラバラになったのではないということ。すでにその前から
バラバラ、つまり危機的な状況であったということ。それに気がつかなかったのは、夫だけとい
うことになる。

よく誤解されるが、宗教があるから信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、宗
教がある。とくにこうした新興宗教は、心にスキ間のできた人を巧みに勧誘し、結果として、自
分の勢力を伸ばす。しかしこうした考え方は、釈迦自身がもっとも忌み嫌った方法である。釈
迦、つまりゴータマ・ブッダは、『スッタニパータ』(原始仏教の経典)の中で、つぎのように述べ
ている。

 『それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法を
よりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ』(二・二六)と。

生きるのはあくまでも自分自身である。そしてその自分が頼るべきは、「法」である、と。宗派や
教団をつくり、自説の正しさを主張しながら、信者を指導するのは、そもそもゴータマ・ブッダの
やり方ではない。ゴータマ・ブッダは、だれかれに隔てなく法を説き、その法をおしみなく与え
た。死の臨終に際しても、こう言っている。

 「修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちは、それを良く知ってたも
って、実践し、盛んにしなさい。それは清浄な行いが長くつづき、久しく存続するように、というこ
とをめざすものであって、そのことは、多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のため
に、世間の人々を憐(あわ)れむために、神々の人々との利益・幸福になるためである」(中村
元訳「原始仏典を読む」岩波書店より)と。

そして中村元氏は、聖徳太子や親鸞(しんらん)の名をあげ、数は少ないが、こうした法の説き
方をした人は、日本にもいたと書いている(同書)。

 また原始仏教というと、「遅れている」と感ずる人がいるかもしれない。事実、「あとの書かれ
た経典ほど、釈迦の真意に近い」と主張する人もいる。

たとえば今、ぼう大な数の経典(大蔵経)が日本に氾濫(はんらん)している。そしてそれぞれが
宗派や教団を組み、「これこそが釈迦の言葉だ」「私が信仰する経典こそが、唯一絶対である」
と主張している。それはそれとして、つまりどの経典が正しくて、どれがそうでないかということ
は別にして、しかしその中でも、もっとも古いもの、つまり歴史上人物としてのゴータマ・ブッダ
(釈迦)の教えにもっとも近いものということになるなら、『スッタニバータ(経の集成)』が、その
うちのひとつであるということは常識。

中村元氏(東大元教授、日本の宗教学の最高権威)も、「原始仏典を読む」の中で、「原典批
判研究を行っている諸学者の間では異論がないのです」(「原始仏典を読む」)と書いている。
で、そのスッタニバータの中で、日本でもよく知られているのが、『ダンマパダ(法句)』である。
中国で、法句経として訳されたものがそれである。この一節は、その法句経の一節である。

 私の立場ではこれ以上のことは書けないが、一応、私の考えを書いておく。

●ゴータマ・ブッダは、『スッタニパーダ』の中では、来世とか前世とかいう言葉は、いっさい使っ
ていない。いないばかりか、「今を懸命に生きることこそ、大切」と、随所で教えている。

●こうした新興宗教教団では、「信仰すれば功徳が得られ、信仰から離れればバチがあたる」
と教えるところが多い。しかし無量無辺に心が広いから、「仏(ほとけ)」という。(だからといっ
て、仏の心に甘えてはいけないが……。)そういう仏が、自分が批判されたとか、あるいは自分
から離れたからといって、バチなど与えない。

とくに絶対真理を求め、世俗を超越したゴータマ・ブッダなら、いちいちそんなこと、気にしな
い。大学の教授が、幼稚園児に「あなたはまちがっている」とか、「バカ!」と言われて、怒るだ
ろうか。バチなど与えるだろうか。ものごとは常識で考えたらよい。

●こうしたケースで、夫が妻の新興をやめさせようとすればするほど、妻はかたくなに心のドア
を閉ざす。「なぜ妻は信仰しているか」ではなく、「なぜ妻は信仰に走ったか」という視点で、夫
婦のあり方をもう一度、反省してみる。時間はかかるが、夫の妻に対する愛情こそが、妻の目
をさまさせる唯一の方法である。

 ゴータマ・ブッダは、「妻は最上の友である」(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一
巻三二頁)と言っている。友というのは、いたわりあい、なぐいさめあい、教えあい、助けあい、
そして全幅の心を開いて迎えあう関係をいう。夫婦で宗教戦争をするということ自体、その時
点で、すでに夫婦関係は崩壊したとみる。

繰りかえすが、妻が信仰に走ったから、夫婦関係が危機的な状況になったのではない。すでに
その前から、危機的状況にあったとみる。

 ただこういうことだけは言える。

 この文を読んだ人で、いつか何らかの機会で、宗教に身を寄せる人がいるかもしれない。あ
るいは今、身を寄せつつある人もいるかもしれない。そういう人でも、つぎの鉄則だけは守って
ほしい。

(1)新興宗教には、夫だけ、あるいは妻だけでは接近しないこと。
(2)入信するにしても、必ず、夫もしくは、妻の理解と了解を求めること。
(3)仏教系の新興宗教に入信するにしても、一度は、『ダンマパダ(法句経)』を読んでからにし
てほしいということ。読んで、決して、損はない。
(02−7−24)

【注】
 法句経を読んで、まず最初に思うことは、たいへんわかりやすいということ。話し言葉のまま
と言ってもよい。もともと吟詠する目的で書かれた文章である。それが法句経の特徴でもある
が、今の今でも、パーリ語(聖典語)で読めば、ふつうに理解できる内容だという(中村元氏)。
しかしこの日本では、だいぶ事情が違う。

 仏教の経典というだけで、一般の人には、意味不明。寺の僧侶が読む経典にしても、ほとん
どの人には何がなんだかさっぱりわけがわからない。肝心の中国人が聞いてもわからないの
だからどうしようもない。

さらに経典に書かれた漢文にしても、今ではそれを読んで理解できる中国人は、ほとんどいな
い。そういうものを、まことしやかにというか、もったいぶってというか、祭壇の前で、僧侶がうや
うやしく読みあげる。そしてそれを聞いた人は、意味もなくありがたがる……。日本の仏教のお
かしさは、すべてこの一点に集約される。

 それだけではない。釈迦の言葉といいながら、経典のほとんどは、釈迦滅後、数百年からそ
れ以上の年月をおいてから、書かれたものばかり。中村元氏は、生前、何かの本で、「大乗非
仏説」(チベット→中国→日本へ入ってきた大乗仏教は、釈迦の説いた仏教ではない)を唱え
ていたが、それが世界の常識。こうした世界の常識にいまだに背を向けているのが、この日本
ということになる。

たとえば法句経をざっと読んでも、「人はどのように生きるべきか」ということは書いてあるが、
来世とか前世とか、そんなことは一言も触れていない。むしろ法句経の中には、釈迦が来世を
否定しているようなところさえある。法句経の中の一節を紹介しよう。

 『あの世があると思えば、ある。ないと思えば、ない』※

 来世、前世論をさかんに主張するのは、ヒンズー教であり、チベット密教である。そういう意味
では、日本の仏教は、仏教というより、ヒンズー教やチベット密教により近い。「チベット密教そ
のもの」と主張する学者もいる。

チベット密教では、わけのわからない呪文を唱えて、国を治めたり、人の病気を治したりする。
護摩(ごま)をたくのもそのひとつ。みなさんも、どこかの寺で僧侶が祭壇でバチバチと護摩を
たいているところを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、仏教
の儀式ではない。釈迦自身は、そうしたヒンズー教の儀式を否定すらしている。

『木片を焼いて清らかになると思ってはいけない。外のものによって、完全な清浄を得たいと願
っても、それによっては清らかな心とはならない。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、
内部の火をともす』(パーリ原点協会本「サニュッタ・ニカーヤ」第一巻一六九ページ)と。

仏教は仏教だが、日本の仏教も、一度、原点から見なおしてみる必要があるのではないだろう
か。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過去
論 前世論 未来論 来世論 はやし浩司 仏教論 日本の仏教 法句教)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●子どもに励まされる親

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まだ暑さがどかっと残る夕刻、息子が
汗で顔を光らせながら、仕事先から帰ってきた。

たまたま私は夏休みで、そのときぼんやりと
雑誌を読んでいた。
が、息子のそういう顔を見たとたん、
申し訳ない気持ちにかられた。

私たちの年代というのは、そういうふうに
感ずる人が多いのでは?
犠牲心が強く、ぼんやりと時間を過ごしているだけで、
心のどこかで罪の意識を覚える。

(これはたぶんに、私自身の強迫観念によるものか?
私たちの世代は、いつも何かに追い立てられるようにして
生きてきた。)

しかし息子たちががんばっている姿を見て、励まされない
親はいない。
私もそういう息子の姿を見て、そのまま書斎に入った。
今の私には、1秒たりとも、無駄にできる時間はない。


●ボーイング・777(トリプル・セブン)

息子の操縦訓練機が決まった。
ボーイング・777である。
「トリプル・セブン」の愛称で親しまれている。

ライン航空機の世界では、飛行機の機種ごとに、操縦免許が必要。
しかもその操縦免許をもっている間は、ほかの飛行機を操縦することはできない。
だからたとえばトリプル・セブンの操縦免許をもっていても、767やエアバスなどの操縦はでき
ない。

そこで一般的な操縦訓練が終わるころ、つぎにどの機種の操縦訓練をするか、会社のほうか
ら指定される。
「君は、767」「君は、トリプル・セブン」と。

先週、息子は、チェック・テストで不合格になった。
航空大学以来、はじめての不合格である。
それですっかり自信をなくしていたらしい。
電話で話すと、「ぼくはXXXXになるかもしれない……」と漏らした。
XXXXというのは、リア・エンジンの古い機種である。

私は「いいじゃないか、どんな飛行機でも。空を飛べるのだから」と。
が、結果は、トリプル・セブン。
J社にとっても、最新鋭機である。
今年も、新たに3機、新規に購入することになっているという。

「よかったね」と言うと、「うん……」と、声をつまらせた。
よほどうれしかったとみえる。

トリプル・セブン……ジャンボ・ジェット(747)よりは、胴体の長さは6メートルほど短いが、胴
体の幅は同じ。
超大型のエンジンを2基搭載している。
国内でも使用されているが、主に長距離の国際線用。

……ということで、昨日も書店で、その種の雑誌に読みふける。
読みふけりながら、自分が空を飛んでいるような気分になった。
私も、ある時期、パイロットにあこがれた。
空を飛びたかった。
そういう過去が、グググッと、胸の中に充満してきた。

航空大学に入学が決まったとき、私は息子にこう言った。

「お前は、事故のとき、最後の最後まで、飛行機の中にとどまって、乗客を助ける覚悟はできて
いるか」と。
すると息子は、迷わず、「できている」と断言した。
私はそういう息子が、むしろいじらしかった。
本心を言えば、「批判されてもかまわないから、真っ先に逃げろ」と言いたかった。
しかし私が機長なら、やはり最後の最後まで、飛行機の中にとどまって、乗客の救出をするだ
ろう。

パイロットといっても、10年で、身も心もボロボロになるという。
「太平洋を飛ぶときは、音楽でも聴きながら飛ぶのか?」と聞くと、息子は、こう言った。
「とんでもない。常に無線を聞いていないと、事故につながる」と。

航空大学での訓練もきびしかったようだが、J社における訓練にも、想像を絶するものがある。
だからあえて私は、言う。

みなさん、飛行機に乗るなら、JALにしなさい!
命が大切だと思うなら、JALにしなさい!
少しぐらい運賃が高くても、JALにしなさい!
息子自身も、いつもそう言っている。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2747)

【We are angry, Ms. C. Rice and Mr. C. Hill】

●またまた、だまされた! ヤーイ、ザマーミロ!
You are cheated again, Mrs. C. Rice and Mr.C. Hill!
ライス氏よ、ヒル氏よ、またまただまされた!
日本を脅し、日本を裏切って、その結果がこれ!
Be ashame will you? What both of you done is just to give them money, oil, food, time and 
music!
I used to be a pro-USA member but now I am surely an anti-USA member. C. Rice and C. 
Hill has destroyed the relationship between Japan and USA. How many times do they need 
to betray us before they realize that North Korea is not such a country as they can handle 
with. 

++++++++++++++++++++

時事通信は、つぎのように伝える。

+++++++++++++++++++++

【北京8月9日時事】ブッシュ米大統領に随行して訪中しているホワイトハウス当局者は9日、米
政府が11日に北朝鮮のテロ支援国指定を解除する可能性について、「実現しそうもない」との
見通しを明らかにした。
 北朝鮮が提出した核計画の申告書に対する検証手順に関して合意が得られないためで、見
返り措置となる指定解除の正式決定を先送りする。 

+++++++++++++++++++++

(裏切り行為1)……6か国協議を、事実上、米朝の2か国協議にしてしまった。つまり日本を、
完全に、カヤの外に置いた。(USA has always ignored Japan in the 6-nation conference.)

(裏切り行為2)……日本に拉致問題を棚上げし、北朝鮮への援助に加わるよう圧力を加え
た。(USA has forced us to assit North Korea.)

(裏切り行為3)……既存の核兵器を黙認したまま、核開発の廃棄と、核拡散の停止だけを、
議題にした。(We can admit the exisitence of nuclesr weapons in NO way.) 

(裏切り行為4)……日本に、「アメリカの言うことを聞かなければ、テロ支援国家指定を解除す
る」と、脅しをかけてきた。(C.Hill has threatened us to dissolve the Terrorist-list unless 
Japan will follow USA.)

(裏切り行為5)……日本の制裁行為を、骨抜きにしてしまった。原油50万トン、食糧50万トン
の援助を、勝手に始めてしまった。(USA has started assisting North Korea against Japan.)

(裏切り行為6)……竹島を、韓国領と認めてしまった。(The President, Mr. Bush admitted 
that Take-shima belongs to South Korea.)

(裏切り行為7)……以上の流れの中で、C・ヒル氏は、交渉の過程の中で、北朝鮮にこう約束
したと推察される。「アメリカの言うことを聞きなさい。日本からがっぽりと、お金を取ってあげる
から」と。

(裏切り行為8)……拉致問題について話しあった形跡、なし。もちろん成果、ゼロ。

C・ヒル氏というより、C・ライス氏は、よほど日本が、嫌いとみえる。
毛嫌いしているといった感じ。
日本にも非ががないわけではないが、しかしこうまで露骨に裏切られつづけると、何が6か国
協議かということになる。

さらにC・ヒル氏は、あろうことか、北朝鮮と、「友好条約」を結ぶことまで画策している。
その上今度は北朝鮮のオーケストラを、ワシントンに招く話まで、裏で進めている。

そこで日本の立場だが、今、この状況で、北朝鮮に現金を渡したら、この日本はどうなる?
『敵に塩を送る』どころか、『敵にミサイルを送る』ことになる。
さらに既存の核兵器を黙認するなどということは、日本としては、ぜったいに容認できない。
アメリカにとっては何でもなくても、この日本にとっては、死活問題である。

北朝鮮のような国を、まともに相手にするほうが、おかしい。
結局、C・ヒル氏がしたことは、北朝鮮に、原油と食糧、時間と音楽を与えただけ。
加えて私のように親米派であった人間でさえも、反米派にしてしまった。
そのことからもわかるように、日米関係は、戦後最大の危機を迎えつつある。

私たち、日本人は、今、怒っている!
(We are angry with C. Rice and C. Hill.)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2748)

●8月10日、日曜日(雑感)

+++++++++++++++++

昨夜は、ワイフと、『ハムナプトラ3』を
見てきた。
娯楽映画としては、最高!
文句なしの星5つ。★★★★★。
よくもまあ、あれほどまでに奇想天外な
映画が、できるものだ。
動きもよかった。
おもしろかった。
『インディアナ・ジョーンズ』がかすんで
しまうほど、楽しかった。

帰りに、浜松でもいちばんおいしいと
言われる、「某ギョーザ店」に寄った。

が、こちらは値段ばかり高くて、味は、
イマイチ!
というより、ごくふつうのギョーザ。

小ぶりのギョーザ10個で、780円!
このあたりの相場の、3倍!

有名になったことをよいことに、値段を
あげたらしい。
客は、ガラガラ。

雰囲気も悪かった。
チンピラ風(ごめん!)の若い女性が、
ウェートレスをしていた。
「水は、冷蔵庫にあるから、(勝手に)どうぞ!」と。

某テレビ局に紹介されたのがきっかけらしい。
一時は、毎日行列ができるほどの盛況ぶりだった。
が、今は、閑古鳥が鳴いている。

「二度と来ないぞ」と宣言して、店を出る。
私たち夫婦に嫌われた飲食店は、先は短い。
どの店も、そうなる。

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●拉致問題

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雑誌『エコノミスト』(8・19)は、こう伝える。

「……結局、日朝実務者協議は、日本の世論と米議会向けに、拉致問題が進展しているかの
ように見せて、テロ国家指定解除を進展するための、"仕掛け"でしかなかった。それも見破れ
ず、米朝の作戦に乗せられたのは、完全に日本の『外交敗北』だった」(重村智計氏、P74)
と。

つまり日本は、C・ライス氏、C・ヒル氏に、まんまとだまされた。
わかりやすく言えば、そうなる。

が、ここで忘れてならないのは、「テロ国家指定」うんぬんは、北朝鮮独特の難グセのひとつに
すぎないということ。
それが「解除」されたところで、北朝鮮を取り巻く経済的環境は、何も変わらない。
北朝鮮は、それを百も承知の上で、時間稼ぎのために、「テロ国家指定」を、問題にしているに
すぎない。
アメリカにしてもそうだ。
「テロ国家指定」というのは、ただの紙切れにすぎない。
つまり茶番劇。

現に「中国は、テロ国家指定が解除されれば、石油開発などの大型案件の送金を認めると約
束していたが、最近になって反古(ほご)にしたという」(同誌)と。
「テロ国家指定が解除されても、送金停止を含む金融制裁が解除されなければ、北朝鮮に外
貨は入ってこない」(同誌)。

仮に金融制裁が解除されても、それに応ずる金融機関は、皆無とみてよい。
中国銀行ですら、北朝鮮関連資金の取り引きを停止している。
そこで今、日本が取るべき道は、ただひとつ。

「ヒルさん、私たちはもう、あなたの言いなりには動きませんよ」と、明確に意思表示することで
ある。
具体的には、「制裁の一部解除をやめる」(同誌)ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●日本経済沈没(エコノミスト)

++++++++++++++

「日本経済沈没」?
雑誌「エコノミスト」は、表紙にこんな
大見出しをかかげている。

いわく、
(1)個人消費の低迷
(2)設備投資は、昨年(07)でピークアウト。
(3)住宅投資は冷え込んだまま。
(4)外需の息切れ
(5)アメリカの信用収縮と所得減少
(6)中国、インドの急成長に陰りが見える、と。
(以上、同誌を要約)

++++++++++++++

バブル経済崩壊以後、この日本が何とかもちこたえたのは、
中国特需があったからにほかならない。
そういう意味では、まさに「中国様・様」。
こうしたチャンスがあったにもかかわらず、日本は、それをよいことに、
構造改革のペースをゆるめてしまった。
本来なら、「今」というときを見据えながら、構造改革を、さらに推進すべきだった。
が、何も変わらなかった。
何も変えなかった。
公務員の人件費が、総額で40兆円。
これは国家税収(約45兆円前後)の、90%!
こんなメチャメチャな国が、ほかにどこにある?

超低金利政策と言えば、聞こえはよいが、中身は、国民からの搾取。
その搾取したお金で、官僚たちは、まさにやりたい放題。

小さな政府、小さな行政機関、効率のよい行政事務……。
その分、税金を安くして、民需を活性化させるべきだった。
が、今となっては、すべてが後手後手。
中国、インドの成長に陰りが見えたとたん、このザマ。

この数か月、経済雑誌の記事は、どれも悲観的。
「エコノミスト」も、「……以上のようにみてくると、日本経済が
来年にかけて景気後退局面に突入するリスクは、かなり高いと
言わざるをえない」(白川浩道氏)と結んでいる。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●グルジア問題

+++++++++++++++

グルジアとロシアが、現在、戦争状態に
あるという。

さっそく、グルジアについて調べてみる。

+++++++++++++++

グルジアは、トルコとロシアの両国境に挟まれた、日本の面積の約5分の1ほどの国(外務省
HP)。

人口は440万人(07年)。

グルジア人(70・1%)、アルメニア人(8・1%)、ロシア人(6・3%)、アゼル人(5・7%)他
(2005年CIS統計委員会)ということらしい。

以下、外務省の資料をそのまま転載させてもらう。

++++++++++++++以下、外務省の資料より++++++++++++++


●ガムサフルディア初代大統領は、反政府勢力との武力衝突等により、1992年1月に失脚、3
月新しい最高権力機関として国家評議会(約60%で構成、メンバーの大半は反共活動家)が
創設。同評議会議長にシェヴァルナッゼ元ソ連外相が就任。10月には最高会議議長に選出さ
れた。 

●テロ行為などが繰り返されてしばらく情勢は不安定であったが、1995年11月、新憲法のもと
で大統領選と議会選挙が同時に行われ、シェヴァルナッゼが圧倒的支持を得て大統領に当選
(2000年4月再選)、議会選挙でも同大統領派「グルジア市民同盟」が第一党となった。 

●しかし、経済の低迷と政府の腐敗を背景として国民の不満が蓄積、2003年11月には議会選
の結果を不服とする野党勢力が議会及び大統領府を占拠、結果としてシェヴァルナッゼ大統
領が辞任に追い込まれた(バラ革命)。2004年1月に実施された大統領選挙では、政変の中心
人物であるサーカシヴィリ氏が圧倒的支持を得て当選した。同年3月には議会比例区の再選
挙で与党ブロック「国民運動・民主党」が圧勝。サーカシヴィリ大統領は汚職根絶など改革を積
極的に推進。 

●2007年11月、大統領と議会の選挙実施時期を巡って政府と野党側が対立し、野党側デモ隊
と治安当局が衝突して多数の負傷者が出た。これを受け政府は非常事態令を発出したが、サ
ーカシヴィリ大統領が、2008年1月5日に大統領選挙を繰り上げ実施し、議会選挙実施時期は
国民投票にかける等の方針を発表して事態を収拾し、鎮静化した。 

●2008年1月、大統領選が実施され、サーカシヴィリ大統領が野党候補を破り、当選した。ま
た2008年5月、議会選挙が実施され、与党統一国民運動が、150議席中119議席を獲得した。 

●アブハジア(アブハズ人はイスラム教徒)、南オセチア(オセット人はイラン系民族、キリスト
教徒)の民族紛争を抱え、両地域には中央政府の実効支配が及んでいない。 

++++++++++++++以上、外務省の資料より++++++++++++++


ロシアとしても、グルジアを手放すわけにはいかないのかもしれない。
その向こうは、NATO軍事同盟の一員である、トルコがひかえている。
そこで反ロシア勢力を抑えるため、空爆を含む、軍事行動に出た。
……と私は考えた。

が、外務省の資料を読むと、内情は、かなり複雑なようである。
「アブハジア(アブハズ人はイスラム教徒)、南オセチア(オセット人はイラン系民族、キリスト教
徒)の民族紛争を抱え、両地域には中央政府の実効支配が及んでいない」とある。
単純な独立戦争というのでも、なさそうである。

今朝の読売新聞によれば、「グルジアからの分離独立を求める親ロシアの南オセチア自治州
に進攻したグルジア軍と、同州で平和維持活動を行うロシア軍の戦闘は9日、グルジア領内各
地に拡大した」とのこと。

その一方で、フランスが停戦に向けた動きに出てきた。
時事通信は、つぎのように伝える。

「欧州連合(EU)議長国のフランスは9日、グルジアとロシアの停戦を呼びかけるため、クシュネ
ル外相が至急両国を訪問すると発表した。また事態打開を目指し、EU外相理事会を週明けに
パリで開くことを明らかにした。

 フランスは同日発表した声明で、ロシアに対してグルジアの主権と領土保全を尊重するよう
訴えるとともに、同国への軍事行動はEUとロシアの関係に影響を与えると指摘した」と。

以上の流れからすると、グルジア政府のほうが、親ロシア勢力である南オセチアを抑えこむた
めに、軍を進攻させたことになる。
その進攻に対して、現地で、平和維持活動をしていたロシア軍が反発した。
それでその戦闘が、一気に全土に及んでしまった。
……ということらしい。

人口440万人ということだから、この静岡県(379万人)より、10%ほど多いだけ。
それほどちがわない。
そんな小さな国に、ロシアという大国が、強大な軍隊を送り込んだ!
常識で考えれば、この戦争では、グルジアには勝ち目はない。
が、ロシアにも勝ち目はない。
民族紛争、さらには宗教戦争がからんでいるから、そうは簡単には解決しない。
延々とつづく泥沼戦争になる可能性が高い。

日本から見れば、グルジア人、アルメニア人、ロシア人、アゼル人は、みな、同じ。
区別すらできない。
(向こうの人たちから見れば、日本人、韓国人、北朝鮮人、中国人は、みな、同じ。区別すらで
きないだろう。)
が、たがいにいがみあっている。

つまりここに人間が本来的にもつ(愚かさ)の原点がある。

日本だって、周辺の国々との摩擦を解決できないでいる。
その日本の日本人である私が、どうして彼らの平和を願うことができるだろうか。

……というようなことを、グルジアについて調べながら、別の心でふと考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2749)

●悪魔論

+++++++++++++++++

あるものの本によれば、悪魔というのは、
情け容赦なく、相手を苦しめるという。

たとえば悪魔が、A氏ならA氏を苦しめよう
としたとする。

そういうとき、悪魔は、A氏には直接、
手をくだすようなことはしない。
(最終的には、A氏にも、手をくだすが……。)

まずA氏にとって、最愛の人、たとえば妻や
子どもに手をかける。
が、そのとき、情け容赦しない。
妻を殺したり、子を自殺に追い込んだりする。

A氏を生きたまま、苦しめる。
つまり悪魔というのは、相手を精神的に
追いつめるのを目的とする。

で、そのとき、A氏が自分の境涯をのろい、
ついで自ら破滅の道を選ぶなら、それこそ
悪魔の思うつぼ。
悪魔はますますキバをむいて、その人に
襲いかかってくる。

ここで重要なことは、悪魔は、A氏を苦しめる
にあたって、直接的な理由は、問題としない。
理由がなくても、(遠因はあるのだろうが)、
悪魔はA氏ならA氏を、苦しめにかかる。

では、その悪魔からの攻撃をさけるには、
どうしたらよいのか。

ものの本によれば、まず悪魔の正体を知る
ことだそうだ。
そして運命を受け入れ、自分の周辺を「愛」で
満たすことだそうだ。

そうすれば、悪魔は、向こうのほうから、
シッポを巻いて逃げていく。

+++++++++++++++++

善悪論の果てにあるもの。
それが「悪魔論」である。
悪魔といっても、映画に出てくるような実体のある存在ではない。
もし悪魔の存在が認識できるとすれば、あくまでも、それは結果。
「結果的にみて、そうだった」とわかるに過ぎない。

……というようなことが、あるものの本に書いてあった。

しかしまったくの空想かというと、そうでもないような気がする。
私たちの心の中には、いつも善と悪が同居している。
善人、悪人といっても、バランスの問題でしかない。
善の割合の大きい人を、善人という。
悪の割合の大きい人を、悪人という。

しかしその「悪」が、その人の思いも知らないところで膨張し、「悪魔」となって、
その人を襲うことがある。

たとえば世の中には、常識では考えられないような不幸な人がいる。
家族がいる。
家系がある。

ただ誤解してはいけないのは、そのものの本によれば、悪魔というのは、
その人の財産や名誉や地位には、目もくれないそうだ。
あくまでもその人に、精神的なダメージを与えるのを、目的とする。

たとえば私たちが最大の敵とする(孤独)についても、財産や名誉や地位などと
いったものは、まったくの無力でしかない。
悪魔も、それを熟知している。
だから目もくれない。

そこで「愛」ということになるのだそうだが、しかし人間には、もうひとつ、
重要な武器が用意されている。
悪魔と戦うための武器である。

それが「英知(Wisdom)」ということになる。
たとえばここに、常識では考えられないような不幸な家系があったとする。
兄弟姉妹の家族に、例外なく、若くして自殺したり、不慮の災難で死んだ人がいる。
しかしこういうケースでも、心理学的な立場で分析していくと、ある共通した
事実が浮かび上がってくることがある。

結果(果)には、かならず原因(因)がある。
それをていねいにほぐしていくと、その先に、「では、どうすればよいか」ということが
見えてくる。
それが(英知)である。

ここでいう(ものの本)というのは、かなり宗教的な色彩の濃い本である。
ときどきその類の映画の中に、登場することがある。

言いかえると、そうした(ものの本)というのは、人間にじゅうぶんな英知が備わって
いないときに書かれたものと考えられなくもない。
が、今は、ちがう。
私たちは、自ら考えることによって、自分の足で立ち上がることを覚えた。
学んだ。

悪魔論の中身まで、読み取ることができるようになった。
……ということで、悪魔論の話はここまで。

もし今、あなたや、あなたの家族や兄弟姉妹が、得体の知れない不幸に見舞われて
いるとするなら、ここに書いたことを参考にしてみてほしい。

運命は、暖かく、愛情をもって受け入れる。
それだけで、悪魔は、向こうからシッポを巻いて、逃げていく!
つまり悪魔は、恐ろしいこともするが、そのくせ、小心で、気が小さく、臆病。
何ら、恐れることはない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 悪魔 悪魔論)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●ヘリコプター・ママ(Helicopter Mothers in South Korea)

++++++++++++++++++

韓国には、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれる
母親たちがいるそうだ。

「ヘリコプターのように子どもの周囲を駆けずり回り、
あれこれ世話をする母親」(朝鮮N報)という意味だ
そうだ。

++++++++++++++++++

朝鮮N報、8月10日付け(2008)に、こんな興味深い記事が載っていた。
少し日本語を読みやすくして、紹介する。

+++++++++++++以下、朝鮮N報より+++++++++++++

ある名門大学の経営学科に通うキム某君(19)は、夏休みを利用してソウル・鐘路にある有名
な公認会計士試験予備校に通っている。母親が「次の学期の"会計原理"の授業で良い成績
を取らなければならないから、夏休みに予備校へ通っておく必要がある」という話を周囲の人
たちから聞き、どの予備校が良いか調べた上で、登録までした。

キム君の母親は、息子が次の学期に履修する科目をすべて決めていた。「公認会計士試験に
向け、徹底的に準備するためには、会計分野の専門教育科目が重要だから、この科目は英
語ではなく国語の授業として臨めばよい。○○教授の講義は上手いというから、必ず取らなけ
ればならない」といった形だ。

 大学1年のチェ某君(19)は、ある金融機関でインターンとして働いている。まず大学の就職
情報センターや学科のホームページで情報を集めた後、「ここ(金融機関)で働いた経歴は、
就職の際に一番プラスになるだろうから、ここへ行きなさい」という母親のアドバイスを聞き、そ
の通りにしている。チェ君の母親は、息子に代わって自動車教習所の登録もしている。

 キム君やチェ君の母親のような人が最近増え、「ヘリコプター・ママ」と呼ばれている。ヘリコ
プターのように子どもの周囲を駆けずり回り、あれこれ世話をする母親という意味だ。自分の
子どものことを何でもしてあげることで、子どもを「マザコン」に仕立て上げているともいえる。

 ソウル大宗教学科のユ・ヨハン教授は「成績を出した後、教授に直接会って"うちのこの成績
が良くないと、専攻を決める際に人気のない学科に行かされるかもしれないから、成績を上げ
てくれ"と懇願する母親もいた」と話す。

 釜山に住む主婦のユン某さん(49)は、大学1年の息子が「ほかの人よりも早く司法試験の準
備をしたい」と言ったため、その願いを叶えるために東奔西走した。息子の軍隊への入隊や大
学の休学の時期をすべて調整し、さらに自らソウルへ行って、司法試験の合格者を多く出して
いるという冠岳区新林洞一帯の予備校を探し歩いた。

 京畿道に住む主婦キム某さん(54)は、31歳になる会社員の息子の「金融アドバイザー」だ。
銀行や不動産鑑定士に依頼して綿密な分析をし、利回りが良いファンドや株式投資、積立口
座などを選んで、息子に代わって加入するとともに、毎月の収益実績をチェックして資金の運
用までしている。息子の月給の管理も母親の役目だ。息子が女性と会えば、条件や趣向など
を把握し、引き続き会ってもよいかどうかを息子に言い聞かせてもいる。

 問題はこうした「ヘリコプター・ママ」の下で過保護に育てられた子どもたちが、困難な状況に
直面したとき、自らの力で問題を解決していく経験が絶対的に不足しているということだ。その
子どもたちもまた、「マザコン」になってしまうのではないかという不安を感じているという。

 高麗大社会学科の玄宅洙(ヒョン・テクス)教授は「就職難が続き、"ニート"が増える中、子ど
もが大学を卒業した後の進路を決めることも、親(特に母親)の役目になっている。母親の"行
き過ぎた親心"が、成人した子どもの親への依存度を高め、"一人では何もできない"大人に仕
立て上げている」と苦言を呈した。

+++++++++++++以上、朝鮮N報より+++++++++++++

日本でいう「モンスター・ママ」に似ている。
少し前は、「教育ママ」と読んだ。
要するに、過干渉、過関心、過保護、それに溺愛を複合した母親ということになる。
本来なら、社会や自分自身に向けるべき生きがいまで、すべて子どもに向けてしまう。
その結果、朝鮮N報にもあるように、子どもは、マザコン化する。
50代、60代になっても、母親のうしろを、いそいそとついて歩いたりする。

が、もちろん、本人自身に、その自覚はない。

自分では、「親孝行の、すばらしい息子」と思っている。
あるいは「自分の親は、自分がそうするに足る、すばらしい親」と思いこんでいる。

問題は、なぜ、こういう母親が生まれるかということ。
それには、社会の不備があげられる。

女性は結婚し、家庭に入ると、その時点から、子どもを産み、子どもを育てる(道具)としか見ら
れなくなってしまう。
いくら才能やキャリアがあっても、家庭の中では、それを生かすこともできない。
またその途中で、自分を磨くこともできない。
勉強といっても、せいぜい資格試験のため。
その先がない。

約30%の女性は、それでよいと考えている(某、調査)。
しかし大半の女性は、不完全燃焼症候群の中で、悶々とした日々を過ごす。
それから生まれるストレスは相当なもので、「家庭は、女性にとっては監獄である」と説いたイ
ギリスの評論家さえいた。

つまりそうしたエネルギーを、すべて子どもに向けてしまう。

モンスター・ママにせよ、ヘリコプター・ママにせよ、ゆがんだ男女差別観が生んだ、犠牲者に
すぎない。

韓国も日本も、この点では、よく似ている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ヘリコプターママ ヘリコプター・
ママ モンスター・ママ モンスターママ)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●気温、6・4度上昇で、人類は滅亡?

+++++++++++++++++

2007年2月、イギリスの「インディペンデント」紙は
こう伝えた。

『このまま(地球温暖化に対して)手をこまねいていたばあい、
今後100年間で、地球の温度は最大6・4度上昇し、人類滅亡は
避けられない』(「アメリカの陰謀2」より)と。

20度とか、10度ではない。
たったの6・4度!

それにしても、「滅亡」……とは、恐ろしい!

が、滅亡するのはしかたないとしても、そこに至る過程で、人類は
まさに地獄を経験する。
地獄絵図そのままの世界!
餓鬼が人肉をむさぼり、群れをなした暴徒は、たがいに殺し合う……。
私は、それを心配する。

+++++++++++++++++++

不測の事態が、別の不測の事態を引き起こす。
こういう悪循環を繰り返しながら、人類は、底なしで、泥沼の世界へと、突入していく。

たとえば気温と脳みその関係を考えてみよう。
(今のところ、これに関する文献は、見当たらない。)
つまり気温が高くなればなるほど、脳みその活動は鈍る。
鈍るだけならまだしも、どこかで自滅プログラムのようなものが作動
するようになるかもしれない。

行動が破滅的になる。
凶暴化する。
自暴自棄になる。
前頭前野の活動が低下し、理性を喪失する、などなど。
その結果、人間は、たとえば集団自殺を試みるようになるかも
しれない。

「頭だけクーラーで冷やせばいい」と考える人もいるかもしれない。
しかし現在使っているクーラーなる冷房機は、気温が45度以上に
なると、効力がなくなるそうだ。
室内で吸収した熱を、室外で放出できなくなるためである。
かえって室外で吸収した熱を、室内へ逆流するようになるかもしれない。

いや、その前に、人間は、何度までの気温になら耐えられるのだろうか?

砂漠地方では、今年も、45度〜を超える気温がつづいているという(中国)。
「45度」と聞いてもピンとこない。
しかし風呂でも、42〜43度が限度。
45度の湯では、足を入れることもできない。

で、今年の1月、あの気候が温暖な都市として知られていた、オーストラリアの
メルボルン市でも、気温40度を超える日がつづいた。
友人に、「そういうときはどうしていたか?」と聞くと、その友人は、
「部屋の中で寝ていた」と。

フ〜〜ン、これは深刻な問題である。

が、さらに深刻な問題は、先に書いたように、滅亡に至る過程の中で、人類は、
まさに地獄を経験するということ。

第一に、社会秩序が崩壊する。
食糧危機、水不足は当然。
そうなったとき、人は、自らを律することができるだろうか。
ひとつの例だが、あの北朝鮮では、90年代末の食糧危機のとき、
子どもを誘拐して、殺し、その肉を売っている露天商まであったという。
「日本人はそこまでしない」と考えるのは、早計である。

人は絶望的な精神状態の中で、殺戮に殺戮を重ね、最後には、
核兵器をあちこちで暴発させるかもしれない。

問題点を、ざっと洗いだしてみる。

(1)社会秩序の崩壊(行政、教育、警察システムの崩壊)
(2)食糧危機、水不足問題(飢餓、飢饉の続発)
(3)道徳、倫理の崩壊(モラル、人間性の崩壊)
(4)気温が脳活動に与える影響(まだ不確実だが、攻撃的、自暴的になるなど)
(5)狂信的なカルト集団の続発(すでに活動を始めている団体がある)
(6)偶発的な戦争の拡大(大量殺戮兵器の無分別な使用)
(7)人間の集団自殺(哺乳動物が本能的にもつ自滅プログラム)

これらの問題を総合的に解決するためには、宗教的倫理観の確立、もしくは、
哲学観の確立しかない。
人類が滅亡するとしても、それが自業自得であるなら、しかたのないこと。
大切なことは、それまで、いかに心安らかに、かつ心豊かに生きるかということ。
(マズローの死の受容段階論※)を、人類全体にあてはめて考える。

つまり「人類の滅亡」を、私たちはすなおに受け入れる。
そのうえで、なすべきことをし、残すべきものは、残す。

地下奥深くに居住地を作って、一部の人をそこへ退避させる、
『第三の選択』よろしく、宇宙基地へ退避させるなどという方法もないわけではない。
(すでに秘密裡に、実行に移されている可能性も高いが……。)
しかしそういう方法で生き残れる確率は、数十万分の1とか、数百万分の1でしか
ない。
この浜松市でいえば、人口が82万人だから、浜松市民で生き残れるのは、
せいぜい1〜10人ということになる。

考えれば考えるほど憂うつになる。
しかしつぎのような方法も、ないわけではない。

人間といっても、(主体)は、脳みそである。
だったら、その(脳みそ)をそっくりそのままコピーしてしまえばよい。
今は不可能だが、現在の速度で電子工学が進歩すれば、あと数十年で、それも
可能になるだろう。
そうなったとき、(本体である私たちの肉体)は滅びるが、「私」そのものは、
後世に残すことができる。
どこかSF的な発想だが、「私」は、小さなマイクロチップになり、それこそ
月の地面下で、永遠に生き残ることもできる。
もちろんマイクロチップとマイクロチップは、光ファイバーのようなもので
つながれる。
たがいに会話をすることもできる。
たがいの姿を確認しあうこともできる。

つまりこの時点で、人類は、つぎのステップの新人類へと進化する。
そういうことも視野に入れながら、人類の未来を考える。
滅亡イコール、絶望と考える必要はまったく、ない。

なお現在の予測では、かりに温暖化防止策がうまく進んだとしても、地球の気温は、
2100年までに、4〜5度も上昇するそうだ。
6・4度とは、それほど、ちがわないと思うのだが……。

(注※マズローの死の受容段階論……人は死を宣告されると、いくつかの段階を経て、やがて
死を受容するようになるという説。)

(補記)自分の脳みそをコピーしたからといって、そのコピーは、もちろん(あなた
自身)ではない。他人から見れば、(あなた)だが、しかし(あなた自身)ではない。
つまりどのみち、あなた自身の(死)は、避けられない。

Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

●謎の「かぐや」

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日本が打ち上げた、月周回衛星(かぐや)は、
なぜか当初の予定の、1000万画素カメラから、
200万画素カメラに、変更されてしまったという。
その変更は、「アメリカの意向だった」(宇宙航空
研究開発機構―JAXA、元関係者)とか。

「何か、月には見られたくないものがあったのか」
(同氏、「アメリカの陰謀2」)と。

この事実は、確認してみる必要がある。

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簡単に言えば、1000万画素から200万画素へと、より低位のカメラに
付け替えさせられたということ。
「市販のカメラでも、今では1000万画素が常識」(同誌)という、この時代に
あってである。

(あるいは、実際には、その双方を積載していて、一般向けには、200万画素の
ほうで撮った写真を送ってきた可能性もある。)

月には、あまりにも謎が多い。
秘密も多い。

NASAにしても、数十万枚〜以上もの写真を撮っているはずなのに、現在
公開されている写真は、数%以下とも言われている。
しかもその大半は、修正されたものだという。
もし何もやましいことがなければ、すべてを公開すればよいのだが……。
公開して、損になることは、なにもないはず。
(かぐや)についても、同じ。

JAXAにしても、一部の写真や映像をNHKテレビなどで公開したが、
そのあと、すべて非公開。
写真集でも出てば購入するつもりでいたが、その気配すらない。
(これは私の情報不足かもしれないが……。)
一説によれば、「資源獲得競争」のために(?)、こうした写真は公開できないとのこと。
どこにどんな資源があるかは、国益のためにも、極秘事項というわけである。

なぜか?
どうして?
臭いぞ!
匂うぞ!

さらに今回も、(かぐや)によって、アポロ15号のエンジン噴射によってできた
「噴射跡」(ハドレー谷)が紹介されたが、なぜ15号なのか。
なぜ11号のそれではなかったのか。

(現在、アポロ11号については、実際には、月へは行っていなかったというのが、
定説になりつつある。)

何かしら私たち庶民だけが、私たちの知らない力によって、もてあそばれているだけ……
そんな感じさえする。
(かぐや)については、もっと別の方向から、これからも調べてみたい。

(注)「がぐや 月 写真集」で検索してみたところ、JAXAの公式サイトをヒット。
しかし「打ち上げ写真集」のコーナーはあったが、肝心の「月面写真」の紹介はなかった。
考えてみれば、これもおかしなことではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 08++++++++++はやし浩司

【8月11日】(月曜日)
Aug 11th Monday 2008
My wife and I have been to "Nyu-kasa-yama" mountain.

●リカルド

++++++++++++++++++

メルボルン大学のIH カレッジにいたとき、しばらくすると、隣の部屋に
「リカルド」という名前の学生が入居してきた。
「ベネズエラの石油王の息子」というような、紹介を受けた。
背の高い、いかにもスペイン系の男という感じだった。
(ついでに、アルジェリアから来ていた、レミという名前の男もいた。
彼もまた、石油王の息子と呼ばれていた。)

当時、私をのぞいて、オーストラリアあたりまで私費で留学してくる
学生というのは、そのレベルの、超の上に超がつく、金持ちばかりだった。

で、最近、ベネズエラの歴史に興味をもつようになった。
リカルドのこともあった。
で、当時の名簿で、本名を調べてみると、リカルド・ビエテ(Viete)
 ということがわかった。
住所は、カラカス Axxxxx 10xxとなっていた。

今ごろはどうしているのか。
ベネズエラは、1970年以来、政変につづく政変で、当時からの糸は、ズタズタに
切れた。
だから今は、どうなっているかわからない。

今、よく覚えているのは、私が日本へ帰ると告げた日のこと。
リカルドは、あの大きな体で、私を包んだ。
何度も握手を繰り返した。
今、生きていれば、私と同じ、60歳くらいになっているはず。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●バスの中で……

++++++++++++++++++H.Hayashi

今、この原稿は、バスの中で書いている。
「入笠湿原」というところに向かっている。
諏訪湖(すわこ)を回るということだから、長野県の
どこかでだろう。
目的は、湿原散策。
2時間ほど、歩く。
つまり健康増進のため。
体力維持のため。
プラス、景色がすばらしければ、なおよい。

ところで「入笠」は、どう読むのか?
「いるかさ?」「にゅうかさ?」。
そのうちわかるだろう。

++++++++++++++++++H.Hayashi

私はもともと怠け者だから、何か必然性を感じないと、体を動かさない。
2,3度、スポーツジムとかスイミングクラブに通ったりしたこともあるが、
結局は、長続きしなかった。
散歩にしてもそうで、目的もなく、そのあたりを歩けと言われても、私にはできない。
だから、こういう旅行は、ありがたい。
……というより、旅行はワイフの趣味。

私のワイフは、若いときから、活動的。
「旅行が大好き」と、公言してはばからない。
一方、私は、旅行は、あまり好きではない。
仕事であちこちへ行くのは、それなりに楽しい。
が、今は、ワイフに主導されて、月に2、3度は、あちこちを旅行している。
で、今日は、入笠湿原。
ゴンドラに乗るのも、楽しみ。

その旅行だが、ここ10年ほどは、ほとんど国内旅行。
飛行機恐怖症の私には、海外旅行は、つらい。
息子がJ社でパイロットをしているおかげで、航空券がただで自由に手に入る。
にもかかわらず、旅行は、国内だけ。
バスか電車だけ。

言うまでもなく、気分転換には、旅行がいちばんよい。
が、それだけではない。
そのつど、サビつき始めた脳みそが、活性化する。
視野も広くなる。
ところどころにかいま見る家を見ながら、「ああいう家にも、さまざまなドラマがあるの
だろうな」とか思う。
そう思うだけで、自分の家のドラマが、よりしっかりとした輪郭をもって見えるように
なる。

そう、流行というのは、風景を楽しむためにするのではない。
その風景にとけ込んでいる人々を見るためにする。
そこにとけ込んでいるドラマを知るためにする。
また、それが楽しい。

(付記)
「入笠山」とは、「にゅうかさ・やま」と読むのだそうだ。
標高1955メートル前後の山だという。
「清里の反対側」と、ガイドさんは言った。
「南アルプスをはさんで、反対側」という意味か?
すいぶんと遠いところへ行くらしい。

……スヤスヤ……

この間、約1時間半ほど、私は眠った。


++++++++++++++++++H.Hayashi

●HP2133

今、バスの中で使っているパソコンは、HP2133。
バッテリーが2本ついて、計7時間前後の作業ができる。

今までいろいろなパソコンを使ったが、どれも半年を待たないで、
バッテリーが使えなくなってしまった。
いつもパソコンに装着して使っていたのが、まずかった。
正しくは、「使う直前になって装着するのがよい」そうだ。
知らなかった。

が、今は、7時間も使える!
CDも、30〜40枚分、収録した。
ゲームも、いくつか入れた。
ひまなときは、それで楽しめる。


●ガイドさん

今日のガイドさん(あえて、〜さん付けで呼ばせてもらう)は、最高だった。
8月11日(月曜日)、「入笠山コース」のガイドさんである。
名前を杉本さんと言った。

Bツアーにも、すばらしいガイドさんが、いる。

そこで私のガイド論。

(1)中にはハイオクターブで、キャンキャンしゃべるガイドがいる。
うるさいのなんのといったら、ない。居眠りさえできない。

(2)中には同じ話を何度も、繰り返すガイドがいる。
脳に飛来する情報を、口にしているだけ。
しかも情報の内容が安っぽい。
「日本のみやげもの、ナンバー・ワンは、〜〜」
「ほら、交通事故です」
「バイキングって、時間が決まっているんですよね」とか、など。

(3)ひどいのになると、マイクを使って、最前列付近の客と個人的な
会話をするのがいる。「携帯電話は遠慮してくれ」と言いながら、自分では
携帯電話以上の騒音をがなりたてている。

(4)ガイドの中には、定番以下の安っぽい話しかしないのがいる。
たとえば滋賀県が近づくと、必ずといってよいほど、「養老の滝」の話をするとか、など。
私などは、その話を、もう何十回も聞いた。

が、今日のガイドさんは、話し方も落ち着いていて、内容も専門的。
ときどき私は話を聞きながら、居眠りもしたが(失礼!)、それがかえって気持ちよかった。
まさに「おとなのガイドさん」だった。

見ると、今日の客の中には、外国人もいた。
専門書を読んでいる人もいた。
目を閉じてイヤホンで、音楽を聴いている人もいた。
田舎のおばちゃんたちがいなかったのも幸いした。
いつもだったら、かならずといってよいほど、そういうおばちゃんたちがいて、
ワイワイ、ギャーギャー、ゲラゲラと騒ぐ。

Bツアーを、今年も、すでに10数回以上利用させて
もらっている。
このあたりでは「遠鉄Bツアー」という。
その中でも、今日のガイドさんは、最高。
星は5つ。★★★★★。

【Bツアーの方へ】

先日、担当者の方といろいろ話させていただきましたが、
私の意見が、即、実行されたのは、たいへんうれしかったです。

(1)ガイドさんが、マイクでガンガンとしゃべるのではなく、
各席を回りながら、小さな声で、それぞれの客の意向を確かめてくれた。
この気配りが、うれしかった!

(2)お茶の配膳が、従来の2回から、4〜5回にふえた。

(3)余計なガイドがほとんどなく、ノートなどを見ながら、専門的なことを
話してくれた。安心して話が、聞けた。

(4)ガイドさんの言い方が、始終、ていねいで、敬語の使い方が正しかった。
(中には、やたらと「お」「ご」をつけるガイドさんがいるが……。)

(5)2〜3人、客の中に、大きな声でしゃべる人がいたようだが、今回は、ガイド
さんが、じょうずに注意してくれたよう。(いつもは、私が注意していた。)

(6)帰りのバスの中で、定番の「釣りバカ日誌」を見せられなかったのには、ほっと
した。(ガイドさんの口から、「釣りバカ日誌」の名前が出たときには、ドキッとし
たが……。「今日は『釣りバカ日誌』はやめます。静かにお休みください」と言った。

(7)私の聴力は悪い(左耳が難聴)が、それでも、スピーカーの音が、抑え気味
だったのは、うれしかった。いつもだったら、キャンキャンと若い女性の声が、
耳障りだった。しかもボリュームは、最大!

が、今回は、こうした問題をすべてクリア。
客たちは、みな、静かな様子で、旅の疲れをほぐしていたようだ。
(帰りのバスの中では、東名に入るまで、60〜70%の人たちが眠っていた。
東名へ入ってからは、目を覚ました人が多かったが……。)

ガイドさんは、そのつど必要なことを言ってくれたが、低音で、居眠りを妨げる
といったこともなかった。

あえて言うなら、いきなりマイクの音が飛び出すのではなく、飛行機の中でのように、
軽い低音のチャイム音を先に流してからにしてくれるとよい。
「ポン……○○サービス・エリアにやってきました」とか、など。(これはぜいたくか?)

ともかくも、Bツアーを利用するになって40年近く。
はじめて、おとなの、静かな旅を経験することができた。

ガイドさんは、さかんに「何も説明しなくすみません」と謝っていたが、「沈黙の
価値」は、「おしゃべりの情報」とは比較にならないほど、尊い。

杉本さん、ありがとう!
あなたは今までで、最高のガイドさんです。


●長野県

長野県に住んでいる人は、そうは思っていないかもしれない。
私の友人の1人は、会うたびに、「長野から(ほかの県へ)出たい」と言う。
そう言う人もいるが、しかし私は、長野県は、すばらしい県だと思う。
一時は、長野県で、温泉旅館を開くことを夢見たことさえある。
実際、地元の不動産屋に、手ごろな物件をさがしてもらったことがある。

同じ山岳地方でも、岐阜県というと、どこか暗い(失礼!)。
低い山々に囲まれて、どこへ行っても、息苦しい。
が、長野県というと、全体が高原のようになっている。
山々がなだらかに開け、明るい。
その向こうに、美しい山脈が連なっている。
奥行きが深く、スケール感そのものが、ちがう。

私は岐阜県人だが、どちらに住むかと聞かれれば、私なら迷わず、長野県を選ぶ。

そういうことも関係しているのか、長野県ではいろいろな工業が発展した。
一方、岐阜県のほうは、これといって目立った産業は、ほとんどない。
先日も兄の葬儀のとき、岐阜の山奥に住むいとこたちが集まってくれた。
しかしたがいの会話を横で聞いていて、少なからず、驚いた。

長老がどうの、村のしきたりがどうのと、まるでアメリカ・インディアンの
話を聞いているような錯覚にとらわれた。
「今どき、こういう世界が現実にあるのか?」と。

内容は、ダム工事にからんで、補償金の分配で、村の人たちがもめているという。
それについて、1人のいとこが、「昔なら、村の長老が一喝して、それで話が
すんだ」と。

(いまどき、「長老」という言葉が飛び出すところが、おそろしい!)

しかしこれでは岐阜県の、とくに岐阜県の山間部の発展は、望みようもない。
岐阜県のその地域が発展するためには、「よそ者」意識を捨て、都会と同化すること。
地域エゴにしがみついているかぎり、未来はない。

私はその会話を聞きながら、体中がしめつけられるような圧迫感を覚えた。

長野県も、内部では同じような問題をかかえているかもしれない。
しかし見た感じでは、岐阜県よりも、ずっと開けている。
観光地のセンスも、都会的。
若者たちの活動的な姿も、目立つ。

今回訪れた、富士見高原にしても、冬場はスキー場、夏の今は、マウンテンバイク
に乗った若者たちや、パラグライダーで遊ぶ若者たちで、にぎわっていた。
ゴンドラも、楽しかった。

どうして岐阜県のほうでは、それができないのか。

ひとつには岐阜県のほうは人の出入りが少ないということ。
その分だけ、保守的ということ。
こんな話がある。

その人は40歳前後で、岐阜県のS村に移り住んできた。
そこで酒屋を始めた。
仕事が軌道に乗ったら、都会(名古屋市)に住む家族を呼び寄せるつもりだった。
が、店を始めて1年になっても、客はゼロ。
値段も都会のスーパー並にしたが、それでもゼロ。
理由はすぐわかった。

村には、もう一軒、昔からの酒屋があった。
その酒屋の主人が、その村の「長老」だった。
村の人たちは、その長老に遠慮して、その人の酒屋で酒を買うことができなかった。

結局、その男性は、2年で酒屋を閉め、そのあとしばらく地元の建築会社で
再就職したあと、また都会にもどってしまった。
彼の家族はその村に移り住むことはなかった。

「田舎に住むのはむずかしい」というのは、そういうことをいう。
とくに岐阜県の山間部では、むずかしい。

(教訓)「田舎暮らし」という言葉にあこがれて、安易に田舎に引っ越すと、
やけどをするぞ!
田舎の人たちは、私たちが考えているほど、甘くない!


●田舎暮らし

「定年後は、田舎で暮らす」が、一時、マスコミの話題をさらったことがある。
村おこし、あるいは村の再生、過疎化対策として、脚光を浴びたこともある。
しかし現実は、どうか?

都会の人たちは、田舎へ行けば、自分たちは歓迎されると思っている。
都会人独特の優越感もある。
しかし現実は、甘くない。
いくら村役場あたりが、甘い言葉を並べても、現実に移住者が接するのは、その村の
住人たち。
役所の役人たちではない。
その村の人たちの意識が変わらないかぎり、移住しても、村の人たちとの同化はむずかしい。
たいていのばあい、そのままはじき飛ばされてしまう。

では、どうするか?

私たちのばあいもそうだったが、「同化しよう」などとは、思わないこと。
よそ者はよそ者として、その範囲で、居直ること。
またそれだけの覚悟をもつこと。
いろいろな面で、のけ者扱いを受けるが、気にしないこと。

いつだったか、こう教えてくれた人がいた。

田舎暮らしができる人は、(1)医者、(2)校長、それに(3)芸
術家(=変わり者)だそうだ。
そういう人たちは、村でも一目置かれるらしい(?)。

要するに日本も近代化されたとはいえ、中身は、極東の島国。
そこに住む私たちは、大和原住民。
まだまだ道は遠い。


●再び冠婚葬祭

日本の悪口ばかり書いたが、それがもっとも顕著に現れるのが、冠婚葬祭ということに
なる。
とくに田舎では、葬儀といっても、親族、縁者が集合する重要な儀式のひとつとなっている。
私の母についても、静かな密葬を望んでいるが、親族、縁者が、それを許してくれるかどうか。
先日他界した兄の葬儀にしても、私は家族だけの静かな葬儀を望んでいた。
しかし実際には、会館を借り切っての派手な葬儀となってしまった。
しかし、参列者は、通夜、本葬を合わせても、40人前後。

 
ガラガラの広い会場が、かえってうらめしく思われた。

いや、それ以上に心苦しかったのは、この不景気。
「みんな、たいへんなのに……」と思った。
香典を受けとるたびに、申し訳ない気持ちにかられた。

しかしどうして田舎の人たちは、こうまで冠婚葬祭に神経質になるのだろう。
気をつかうのだろう。
みなの動きを見ていると、人生の最重要事といった感じすらする。
死者を送るということは厳粛なことかもしれないが、もっと(心)を大切に
したい。

……こういう私の意見に賛成の人は、私がここに書いたようなことを、近くの他人に
話してみてほしい。
そういう(語りかけ)が、この日本を変える、大きな原動力となっていく。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●死

死ぬと宣告されてから、あわてて生きるか。
死ぬと宣告される前に、あわてて生きるか。

賢い人は、そのものの価値を、なくす前に気づく。
愚かな人は、そのものの価値を、なくしてから気づく。

「命」もそうで、賢い人は、その価値をなくす前に気づく。
愚かな人は、その価値をなくしてから気づく。

方法は簡単。
「今日が最後」「今が最後」と思って生きる。
明日はない。
そう自分に言い聞かせながら、生きる。

そのためにも、まず、何が大切で、何が大切でないかを、知る。
「形」ではない。
「中身」だ。

ある男性は、死の宣告をされる直前まで、過去の経歴をひけらかして生きていた。
が、死の宣告を受けたとたん、おそらく、自分には何もないことを知ったのだろう。
狼狽し、あわてふためいた。
で、その男性がしたことは、(自分さがし)。

しかし75歳を過ぎた男性に、(自分さがし)は、きつい。
「私はいったい、何をしてきたのだろう」という思いの中で、日々に悔恨と絶望の
繰りかえし。

……というような例は、多い。
ほとんどの人がみなそうではないかと思えるほど、多い。
賢い人は少ないし、賢くなることは、さらにむずかしい。

だからこそ、まだ健康なうちから、つまり死の恐怖とは無縁のうちから、
「命」の価値をしっかりと自覚しながら、生きる。
私たちには、一瞬、一秒たりとも、無駄にする時間はない。

とりあえずは、まず、それを自覚すること。
それがここでいう「賢い人」になる、第一歩である。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2750)

●6か国協議(Wake up, Mr C.Hill!)
(How come is Mr C. Hill so stupid? When does he wake up to see the real world in
Asia? We do not need Kim Jon-HILL anymore. He has already destroyed the Japan-
USA relationship so badly enough. But even now he is trying to protect North Korea 
for his own fame.)

++++++++++++++++++++++++

C・ヒル国務次官補は、この場に及んでもまだ、
「11日は指定解除の最終的な時限ではない」と、北朝鮮を
かばっている。

++++++++++++++++++++++++

●流れた、制裁解除

テロ支援国家指定解除について、C・ヒル国務次官補は、そのつど、「2か月後には……」
「今月末には……」「2週間後には……」を繰りかえしてきた。

しかし北朝鮮側の動きは、そのつど、いっさい、なし。
(ジャンク・ヤードと化した、ヨンビョンの冷却塔を、アメリカ側の費用負担で、爆破
しただけ。)

で、8月11日に予定されていた、テロ支援国家指定解除は、延期された。
それについても、C・ヒル氏は、こう述べている。

「11日は指定解除の最終的な時限ではない。数日内に妥協し、テロ指定解除が可能になるだ
ろう」(8月12日、韓国・中央日報)と。

C・ヒル氏は、どこまでオメデタイ人なのだろう。
単細胞というか、はっきり言えば、ノーブレイン。
今さら、「今までの交渉が無駄でした」とは、言えない。
その気持ちは、ヨ〜クわかる。
しかし他人(日本など)の意見には、耳を傾けず、独善と独断、「話せばわかる」式の
手法で突っ走ってしまった。

その結果が、今。

しかも最近になって、C・ヒル氏の言う、「立ち入り検査」が、原文の英語では、「vis
it」(訪問)になっていたことも判明(エコノミスト誌、重村氏指摘)。

強制力もなく、サンプル採取もない。
相手方が「NO」と言えば、何もできない。
「訪問」というのは、そういう意味である。

が、こんなバカげた合意がどこにある。

今ごろも北朝鮮は、手にした原油とマネーで、せっこらせっこらと核兵器を増産している。
だからこそ余計に、アメリカが主張するような査察など、させない。
させるわけがない。

こんなことは、小学生でもわかること。
つまりC・ヒル氏は、それもわからない、BAKA!

私はいろいろな外交官を見てきたが、これほどまでにド素人の外交官を知らない。
自分の名聞名利達成のためだけに、6か国協議を利用しているだけ。
しかもさらに北朝鮮をかばって、「11日は指定解除の最終的な時限ではない」とは!

もし「数日中に」何も起らなければ、C・ヒル氏よ、今度こそ、自分の言葉に責任を
取れ!
あなたが言う、「〜〜日中に……」は、もう聞き飽きた!

日本の制裁を骨抜きにしたあと、逆に、拉致問題を棚上げにし、北朝鮮への援助に加わる
よう日本に圧力をかけてきた。
しかも「指定解除をする」という、脅しのおまけつき!

アジア人の心が、まったくわかっていない。
日本人の心が、まったくわかっていない。
だから単細胞!

「アメリカから提供された、原油50万トンと、食糧50万トンで、とりあえず、今年は
だいじょうぶ」と、北朝鮮は考えているらしい(某・雑誌)。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

【8月12日】

●不安(兄の死に際して)

++++++++++++++++++

私は子どものころ、毎日、不安でならなかった。
どういうわけか、不安でならなかった。
本来なら、家庭や家族が、心のより所であったはずのなのだが、
私には、その居場所すらなかった。

まず、家の間取りが悪かった。
たとえば学校などから帰ってきたようなときでも、自分の体を
ドカッと置いて、休めるような場所さえなかった。
居間の横が、土間になっていて、それが店と、台所を
つなぐ通路になっていた。

つぎに私の父と母は、結婚当初から、心がバラバラだった。
数日おきに父は酒を飲んで暴れ、私たちは、それがこわくて、
ときには親類の家に逃げていったりした。

そんな私が、かろうじて(私)でいられたのは、祖父母が
同居していたからに、ほかならない。
祖父が、私の父代わりになってくれた。
実際、祖父は私を、孫というよりは、実子のようにかわいがってくれた。

家の中では、父に遠慮してそういうことはしなかったが、祭などに
出ると、祖父は、片時去らず、私の手を握っていた。
小学校の高学年になっても、寒い夜などは、祖父母のふとんの中に
もぐって眠ったこともある。

心理学的には、私は基底不安タイプの人間ということになる。
私は母子関係の間で、基本的信頼関係の構築をすることができなかった。
わかりやすく言えば、私は、そのまま心の開けない人間になってしまった。

+++++++++++++++++++++

フロイトは不安を、(1)現実不安、(2)神経症的不安、(3)道徳的不安の3つに分けて
考えた(「心理学」・ナツメ社)。

心理的不安というのは、「勉強しないと試験に落ちるというような不安」(同書)、
神経症的不安というのは、「だれかに魔法をかけられているというような、了解不能な不安」
(同書)、
道徳的不安というのは、「自分が何か、悪いことででもするのではないかという
ような不安」(同書)を、それぞれいうのだそうだ。

この不安学説を読んでいて、まず思い起こされるのが、先日他界した、兄のことである。
兄は、始終、何かしらの不安を訴えていた。
病気、仕事、将来、家庭、家族などなど。
たまに鼻歌を歌いながら、パチンコに行くことはあったが、そういう兄の姿は、例外的なものだ
った。

その兄は、フロイトの説によれば、(というのも、不安学説というのは、無数にあって、定型がな
いので)、これら3つの不安を、同時にかかえていたことになる。
すべき仕事がないと、「仕事がない」と言っては不安になり、反対に、いくつか仕事が重なったり
すると、「仕事ができない」と言っては、不安になったりした(現実不安)。

また何かのことで落ちこんだりすると、かならず仏壇の前で手を合わせていた。今から思うと、
それが神経症的不安だったのかもしれない。

が、最大の不安は、何をしていても、あるいは何もしていなくても、心の安らぎを得られなかっ
たということ。
ちょっとした失敗をだれかに指摘されただけで、すかさず「ごめんなさい」とか、「母ちゃんに叱
られる」とか、言った。
私はかろうじて祖父母に救われたが、兄のばあい、私にとっての祖父母に当たる人がいなか
った。

孤独だった。
本当に兄は、孤独だった。

その孤独感が、そばにいる私にも、ひしひしとよくわかった。

そこで兄が選んだ道は、レコード集めだった。
兄にとっては、レコードがすべて。
命だった。

兄はレコードを集め、それに耳を傾けることで、自分をなぐさめ、孤独をいやした。
私は子どもながらに、「兄のレコードだけには、手を触れてはいけない」ということを、
学んだ。

手を触れることは、タブー中のタブー。
ほんの少しでもレコードの位置がずれていたりすると、それだけで兄は、よくパニック状態にな
った。

……かく言う、私も、つねに不安との闘いだった。
いつも心のどこかに、何かしらの不安をかかえていた。

たとえば生活するのに、20万円にお金が必要だったとする。
しかし同額の20万円の収入では、私は、安心感を覚えられなかった。
倍の40万円、あるいはそれ以上にないと、落ちつかなかった。

フロイトが説くところの、現実不安という不安である。
ほかにも、原因のわからない不安感に襲われたこともある。
が、これについては、前に何度も書いてきたので、ここでは省略する。

一方、道徳的不安というのは、ほとんどなかった。
私はどちらかというと、自己愛者。
若いころは、とくにそうだった。
自分勝手で、わがまま。
自己中心性が、人一倍、強かった。
だから「何か悪いことでもするのではないか」とか、「自分のしていることがまちがって
いるのではないか」ということは、ほとんど考えたことがない。

私は、常に正しかった(?)。

むしろ、40歳を過ぎるころから、他人に対して謙虚になった分だけ、自信をなくした。
今の今でさえ、私の知らない世界が、あまりにもあるということについて、恐れをなす
ことが多い。

が、ここで異変が起きた。
それは自分でもはっきりと自覚できるほどの異変である。

兄の本葬をしている最中のことだった。
私は自分の心がどんどんと軽くなっていくのを覚えた。
不思議な感覚だった。

だからといって、兄の死を喜んでいたわけではない。
むしろその逆。

私の家庭環境を振り返ってみると、私が兄で、兄が私であっても、何らおかしくない。
一時は、父や母に、家業を継ぐように強要されたこともある。

だからあるときから、痛いほど、兄の気持ちが理解できるようになった。
兄が不安がるのを見ながら、その不安が、私が感じているのと同じであることを知った。

兄と私は、どこもちがわない。

ゆいいつのちがいといえば、兄は、その不安に押しつぶされてしまったということ。
私は、その不安を押しのけながら、生きてきたということ。
生命力のちがいというよりは、ほんのわずかな運命のちがいでしかなかった。

兄は、そうした不安を、私から抜き取り、それをあの世へいっしょにもっていってくれた。
それが実感として、私には、よくわかった。
だからおかしなことだが、兄の死を悲しむというよりは、私は、兄の心が解放されたのを喜び、
同時に、私の不安をぬぐい去ってくれた、兄に感謝の念を覚えた。

今の私は、おだやかで、とても安らいでいる。
兄の死後、ワイフも驚くほど、睡眠時間が長くなった。
早朝に目を覚ますということもない。
ワイフも、「あなたは別人のように穏やかになった」と言う。

今、やっと私は、家族自我群による幻惑から解放された!

葬儀の席で、「準ちゃん(=兄の名)、ありがとう」と言ったのは、そういうところから出た言葉だ
と思う。

準ちゃん、ありがとう。
安らかに眠れ。
しばらくしたら、ぼくも、そちらへ行くから……。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●自分さがし

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私は何のために生まれたのか。
何のために生きているのか。
私はこの先、どう生きていくべきなのか。

それを「自分さがし」と、いう。

しかし一朝一夕に、できるものではない。
またそれがわかったとしても、現実の
自分をそれに一致させていくことは、
並たいていの努力ではできない。

エリクソンという学者は、40歳を、
「人生の正午」と呼んだ。
そのころ「自分さがし」を始めたとしても、
遅いかもしれない。
できれば30代……。
そのころから始める。

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(自分がすべきこと)を発見し、(現実にそれをする)。
それを「自我の統合性」という。
が、(自分がすべきこと)を知るのは、容易なことではない。
それこそ10年単位の努力と積み重ねが必要。
「定年退職になりました。明日から、ゴビの砂漠で、柳の木を
植えてきます」というわけには、いかない。

いわんや死の宣告をされてから、自分さがしをしても、遅い。
大切なことは、今日1日を、常に最後と思い、真剣に生きる。
あとは、ない。
明日も、ない。
そういう真剣さの中から、やがて私という人間の輪郭(りんかく)が見えてくる。
(何をすべきか)、それが見えてくる。

は、たいていのばあい、(すべきこと)には、ある種の苦痛がともなう。
できれば、避けたいと思う。
それに(すべきこと)は、常に「無」でなければならない。
損得を考えたとたん、(すべきこと)は、煙のように消える。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●男尊社会(Shoubnists)

兄の葬儀でのこと。
そのつど、大きな会食を3回、した。
が、驚いたことに、男たちは、テーブルの前に、デンと座って、
何もしようとしない。
何もしない。

何という男尊社会!

お茶を作ったり、味噌汁を椀にそそいでいる男は、この私だけ!
そういう私を見て、ほかの女の人たちは、「浩司さんは、いいから
あっちで座っていて」と。

しかし私は、弁当を並べ、お茶を出し、味噌汁を並べた。

改めて、岐阜の田舎の後進性を見せつけられた。

一方、都会地域では、家事を分担する男たちが、ふえている。
若い夫婦はとくにそうで、半々という家庭も多い。
9年ほど前に私がした調査では、約30%の夫婦がそうしている(2000年)。

で、私の家でも、料理はワイフがすることが多いが、洗いものなどは、
私もしている。
山荘やレストランでは、私が、ワイフにサービスをすることにしている。
そういう姿を、岐阜の人たちが見たら、どう感ずるだろうか。
私が葬儀で受けたショックと同じショックを、反対の立場で覚えるに
ちがいない。

しかしそれにしても、遅れている!

今どき、こういう世界があること自体、信じられない。
……という思いで、兄の葬儀をながめていた。

男たちよ、いいかげんに『ダカラ論』を捨てろ!
「男ダカラ……」「女ダカラ……」と言っていると、そのうち、自分の
子どもにさえ、相手にされなくなるぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●深夜のデート(非時刻表的生活)

退屈そうな顔をして、ワイフが私の書斎へ
入ってきた。

「どこかへ行こうか?」と声をかけると、
うれしそうに「うん」と答えた。

「買い物がいい」とワイフは言ったが、
私は、夕食の食べなおしを望んでいる。

今夜食べた、信州麺なる麺は、最悪。
まずかった。
長男も、半分食べたところで、ギブアップ。

少し前食べた、北朝鮮製の冷麺ほど、ひどくは
なかったが、それに近かった。

……ということで、これから外出。

世の中には、時刻表的生活をしている人がいる。
分単位で、正確な生活を繰りかえしている。
しかし私たちの生活は、結婚当初から、
非時刻表的生活。

時間に束縛されるのが、何よりもいや。
たとえばよく、夫や妻の朝寝坊が問題に
なる。
が、私は結婚して以来、ワイフの
朝寝坊を問題にしたことはない。

ワイフも、何も言わない。

起きたいときに起きる。
寝たいときに寝る。

それが私たちの生活の基本になっている。
これからも、その基本だけは、しっかりと(?)、
守りたい。

(補記)
イタリヤとかポルトガルへ行くと、(アルゼンチンも、ブラジルもそうだが)、
私たちと似たような生活を、みな、している。
たとえば深夜を過ぎても、街角から、子どもたちの声が聞こえてくる。
コンサートにしても、夜10時〜からというのも、多い。
夕食の時間も、遅い。
午後9時とか、10時から……。

(世界には、日の出とともに起き、日没とともに眠るという民族もいるそうだ。
私は直接的には、知らないが……。)

日本人だけが、どこか、へん。
おかしい。
日本だけに住んでいると、それがわからない。
けっして日本の生活が、世界のスタンダードと思ってはいけない。

では、これから出かけてきます!
時刻は、午後9時半!

ビバ、ママ・ライフ!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●「オレオレ詐欺」(なりすまし詐欺)

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いまだにオレオレ詐欺の被害者が、
後を絶たないという。
それについて、こんなことに気づいた。

私のところにも、2、3か月に一度
ほどの割合で、「?」な電話がかかって
くる。

たいてい若い女性の声で、「○○さん
(=息子の名前)は、いますか?」と。

そういうとき私たち夫婦は、きっぱりと、
「どちらさんですか?」
「何の用件ですか?」と聞きかえすように
している。

私のばあい、「こちらから電話をかけなおさせ
ますから、電話番号をどうぞ」と言う。

つまりこうした言い方が、大切では
ないか、と。
つまりこの段階で、相手の詐欺師たちは、
私たちの応答のし方をみながら、
だませる相手かどうかを、即座に判断する。

だからそういう電話を受けたとき、
間の抜けたような言い方で、
「アウ〜、息子ですかア〜。息子ねエ〜」
などと言おうものなら、そのまま詐欺師の
仲間に、電話を引き継がれるかもしれない。

「実は、お宅の息子さんの○○さんがですね、
会社の金を使い込みましてね……。
今、うちの会社に捜査員が来ているところです」
とか、何とか……。

で、私たちのばあい、きっぱりと言い返すと、
向こうの方から、「じゃあ、いいです」(ガチャン)とか
何とか言って、電話を切ってしまう。

しかしこれから先のことはわからない。
いくらがんばっても、脳みその働きは鈍くなっていく。

やがてすぐ私たちも、「アウ〜……」という
話し方をするようになるかもしれない。

では、どうするか?

電話番号を変えて、非公開にするしかない。
あるいはナンバー表示付きの電話にする。
常時留守番方式にするのも、ひとつの方法かも
しれない。

……というようなことを、今朝、考えた。
つい先ほども、そういう「?」な電話が
かかってきたので……。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●小銭の奴隷たち

私の実家は、昔からの自転車屋だった。
祖父の話では、岐阜県でも、1、2番目に古い自転車屋だった……とか。
(祖父の自慢話は、あまりアテにならない……。)

明治時代には、岐阜県のM町から名古屋まで、歩いて自転車を買いに行ったという。
帰りは、その自転車を、肩にかついでもって帰ったという。

私は子どものときから、そういう環境の中で、商売というのがどういうものか、
それを見ながら育ってきた。
つまりこの世界では、ウソが当たり前。
ウソが当たり前だから、何もかもが、ウソとなる。
「ウソ」という言葉に語弊があるなら、「駆け引き」と言いかえてもよい。
しかし「駆け引き」というのは、基本的には、「だましあい」をいう。

とくに自転車というのは、定価がわからない。
パソコンやカメラなら、カタログを見比べることによって、ある程度の
売値がわかる。
が、自転車には、それがない。

で、そういう点でも、人間の脳みそは、それほど器用にはできていない。
商売のうまい人というのは、口がうまい。
相手に取り入るのが、うまい。
そしてそのつど、相手をだます。
客だけではなく、家族、親類まで。
ついでに友人まで。

それができないと、この世界では、生きていくことができない。
私の父が、そうだった。

私の父は、実直な人で、学者肌の人だった。
まともな教育を受けていたら、まちがいなく学者になっていただろう。
晩年の父は、暇さえあれば、今の私のように、いつもノートに
何かを書いていた。

だから商売は、へただった。
私が高校生になるころには、家計はあってないようなものだった。
そういう父を、当時の私は半ば軽蔑していた。
が、今になってみると、かえってそういう父のほうが、
心の中で光り輝いているから、不思議である。

で、その商人で、いちばん警戒しなければならないこと。
それが「小銭の奴隷」になることである。
みながみな、そうなるわけではないが、商売をしていると、
小銭の奴隷になりやすい。
明けても暮れても、考えることと言えば、小銭を稼ぐことだけ。
小銭を稼ぐことだけに、汲々(きゅうきゅう)としている。
「頼れるのは、マネーだけ」と。
こうなってくると、人間性にまで、影響を与えるようになる。

ケチで計算高く、小ずるい。

が、それだけではすまない。
人生そのものを、棒に振る。

キリスト教でも、「奴隷」という言葉を使って、そうした生き方を、強く戒める。
つまり何かの奴隷になればなるほど、真理(自由、叡智)から遠ざかる、と。
人間は、努力しだいでは、神のような人間にもなれる。
しかしその努力を怠ると、畜生以下の人間になってしまう。

では、どうするか……、という問題よりも、今、全国の街角から、
その商店が姿を消しつつある。
中小都市の駅前の商店街などといったものは、今は、どこも、見る影もない。
この世界ほど、弱肉強食の論理が、露骨に現われる世界はない。

たとえば自転車屋にしても、今どき、20〜30台の自転車を並べて
いたのでは、商売にならない。
最低でも、50〜60台……と、少し前まで言われていたが、それが今では100台
単位になっている。

で、浜松市程度(人口82万人)の大都市ともなると、200〜300台も
並べる自転車屋が、いくつかある。
しかしその自転車屋も、さらに大型のショッピングセンターには、かなわない。
内情はわからないが、客の出入りを見るかぎり、経営はきびしいのではないか?

つまり近代ビジネスというのは、「ウソ」を排除したところから始まる。
「ウソ」が残るところには、近代ビジネスは、その居場所すら、ない。

話がそれたが、こまかいウソを重ねていると、いつの間にか、「小銭の奴隷」になる。
いくら商売をしていても、それだけには、警戒したほうがよい。


●認知的不協和

+++++++++++++++++

HP2133を買って、1か月あまりが過ぎた。
で、今のところ、何となく使っているが、どうも使いにくい。

英語式キーボードというのは、あくまでも英文を
打つ人用にできている。
たとえば日本語式キーボードでよく使う、「Enter」
キーが、小さい。

それにワードで作業するばあい、キー上の記号と、打ち出される
記号が一致しない。

文字をカタカナになおすには、「F7」キーを押せばよい……
というようなことにしても、説明書には、どこにも、
書いてない、などなど。

「やっぱりU100にすればよかった……」とか、
「K社のミニ・パソコンにすればよかった……」とか、など考える。

こういう心理状態を、「認知的不協和」という。

++++++++++++++++++++++++++

認知的不協和……「個人のもつ認知に、矛盾やアンバランスが生ずること」(「心理学」・
ナツメ社、P172)とある。

で、その解決方法には、4つあるそうだ。

(1)使いこなせば、そのうち、慣れてくるだろうと慰める。
(2)買い換えるのは無理なので、がまんして使う。
(3)できるだけほかのパソコンを使って、緊急のばあいのみ使うようにする。
(4)HP2133について、評判のよい記事を読みあさる(以上、同書、応用)。

もっとも、相手がパソコンだから、それほど深刻に考える必要はない。
私のばあい、すでに次期デスクトップパソコンの選定に入っている。
気に入らなかったら、つぎのを買えばよい。

が、これが結婚だったら、どうなるのか?

相思相愛で、すべてメデタシ、メデタシという結婚であれば、問題はない。
が、しばらく生活をつづけるうちに、認知的不協和が起きたとしたら……?

(1)共同生活をしていれば、そのうち、慣れてくるだろうと慰める。
(2)離婚するのは無理なので、がまんしてつきあう。
(3)適当に浮気でもして、ストレスを解消する。
(4)自分の配偶者のよいところを懸命にさがして、それを信ずる(以上、同書、応用)。

私たち夫婦も、常に、認知的不協和と闘ってきたような気がする。
もともと他人なのだから、しかたない。
生まれも、育ちもちがう。
おまけに岐阜県人(私)と静岡県人(ワイフ)とでは、何かと考え方もちがう。

今から思うと、それほど相思相愛でなかったのが、かえって幸いしたのかもしれない。
たがいに、ほどほどのところで満足し、ほどほどのところで納得した。
どんな大恋愛をしても、それを司る脳内ホルモン(フェニルエチルアミン)は、
3〜4年で寿命が尽きる。
(私の経験では、2年程度。他人の話では、長くても、4年程度。)
つまり遅かれ早かれ、どんな夫婦でも、私たちのようになる。

が、それを(終わり)と考える必要はない。
そこを(出発点)として考えればよい。

さて、再び、パソコンの話。

言うなれば、私たち夫婦は、巨大な「認知的不協和」にさらされていることになる。
だからというわけでもないが、パソコン程度の「認知的不協和」など、何でもない。
むしろ、それを楽しむことさえできる。

……ということで、この話は、おしまい!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 認知的不協和 はやし浩司)

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ついでに恋愛の寿命について

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●恋愛の寿命

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心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

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 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまう。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。恋愛と、
結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎのステップへ進
むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、別の新し
い人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りかえし、
恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年ごとに、離
婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかもしれな
い。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書いたよう
に麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ますますはげし
い刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くということにも
なりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじめての恋のとき
は、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の恋のときは、1年間。3
度目の恋のときは、数か月……というようになる。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しかも、はげ
しければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回を重ねれ重ね
るほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフェニルエチ
ルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルアミンという麻薬様の
物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横で聞きな
がら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?
(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性 はやし浩
司 恋の寿命 恋の命 恋愛の命 脳内ホルモン フィードバック)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●北京オリンピック、口パク騒動

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今月8日夜に行われた北京五輪開幕式。華やかな開幕公演に続いて、照明が落とされたメー
ンスタジアムに髪の毛を束ねた少女が登場した。少女は透き通った声で「五星紅旗(中国国
旗)がたなびけば勝利の歌声響きたり」という歌詞で始まる、愛国歌曲『歌唱祖国』を披露し
た。(以上、朝鮮N報)

しかしこれは、「口パク」だった。
実際、歌ったのは、「歌声の主は妙可ちゃんより2歳年下の楊沛宜ちゃん(7)だった」(同紙)と
のこと(2008年8月13日)。

++++++++++++++++++++

この記事を読んだ人は、だれしも、「やっぱり……」とか、
「中国らしい……」と思うにちがいない。
BLOGなどへの書き込みを見ると、鬼の首でも取ったかのように、
中国を非難している人もいる。

しかしこんなことは、少し前の日本でも、常識だった。

私が29歳のときに出版した、「東洋医学・基礎篇」(G研)は、
前書きと、本文の中の1ページをのぞいて、すべて私が書いたものだった。

しかし編集者が、「君の名前では本は売れない」と言い、当時の
著名な医家を2人、その本の著者にした。

そのあと1度、G研に対して、「名誉を回復してほしい」と手紙で
頼んだことがあるが、担当者からは、いっさい、返事はもらえなかった。

これと、今度の北京オリンピックでの「口パク」と、どこがどうちがう
というのか。
どこも、ちがわない。
言いかえると、中国は、かつて日本が歩んだ道を、そのまま歩いて
いるだけ。

それを知っている私たち世代が生きている間は、日本よ、日本人よ、
偉そうなことを言うな!

つまり当の中国人たちには、罪の意識はない。
ちょうど、30年前に、出版社の編集者たちが、何ら罪の意識を感じなかった
ように、だ。

しかしこんなバカげたことは、今回の「口パク」を他山の石としながら、もうやめよう!
日本人も、中国人も!

そこに生きているのは、私という個人。
あなたという個人。
その個人を、もっと大切にする世界を、めざそう!

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Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 東洋医学基礎篇 東洋医学基
礎編 はやし浩司 東洋医学・基礎篇 東洋医学・基礎編)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug.08++++++++++はやし浩司

●金価格の暴落

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この1か月で、金価格(グラム・売り渡し価格)が、
3500円あまりから、3000円弱まで
暴落している。

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この1か月で、金価格(グラム・売り渡し価格)が、
3500円あまりから、3000円弱まで
暴落している。

500円あまりの暴落ということになる。
北京オリンピックまで、あがりつづけるというデマは、
あえなくツユと消えた。

今ごろ中国では、絶望的な悲鳴をあげている人が、
ゴマンどころか、ゴジューマンはいるにちがいない。

で、今が買い時かというと、そうでもない。
こうときは、ほかの金属の価格変動を見る。

「メタル・エコ・ネット」HPによると、ニッケル、
アルミ、銅も、同時にさげている。
(もちろんプラチナも……。)

とくに銅の暴落が、ひどい。
……ということは、金価格も、まだしばらくさがりつづける
ということ。

原因はいろいろある。

(1)中国経済が失速した。
(2)原油価格がさがった。
(3)アメリカのドルが一時的ではあるにせよ、強含みに展開している。

つまり金への投資資金が、ほかに回り始めたということ。
金だけの価格変動を見て、金を売買していると、やけどする。

……とまあ、偉そうなことを書いたが、こんなことは、この世界では
常識。

……ワイフがクラブから帰ってきたので、今朝の原稿書きは
ここまで。

これから母を見舞ったあと、ワイフの叔父の盆供養に行ってくる。
(以上、平成20年8月13日(水)記)


**************以上、2750*****************
2008/08/13







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