最前線の子育て論byはやし浩司(16)

最前線の子育て論byはやし浩司
(2500  〜  )
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*************2008年2月24日***************

最前線の子育て論byはやし浩司(2500)

●時空を超えて……(Beyond Space and Distance)
To Mae and Sage and other G-sons and daughters, I am talking to you beyond time and 
distance. Can you hear me? Can you feel me? In case when you wish to meet me, please 
visit my websites where you can meet me. Now is the year of 2008, when I am just 60 years 
old. Time flies quick. Don't waste your time! Hiroshi, your G-father.

+++++++++++++++++

この数日間、ヒマをみつけては、
「MUSIC & I」のコーナーを
充実させている。

YOU TUBEで配信されている
音楽や動画へ、私のHPから、直接
ジャンプできるようにしている。

その編集をしながら、ふと、こんなことを考えた。

もし私か、ワイフか、どちらか、ひとりが残されたら、
このコーナーは、役に立つだろうな、と。
つまりどちらかが先に死んでしまったら、
残されたほうにとって、役にたつだろうな、と。

どちらか一方が、認知症か何かに
なったようなばあいでもよい。

きっとこのコーナーを見て、過去を思い
出すにちがいない。
脳みそにとって、よい刺激になるかも
しれない。

とくに2人でいっしょに見た映画などは、
そうである。
いくらそのときは感動しても、そのまま
にしておいたら、その映画の題名はもちろん、
内容まで忘れてしまう。

ときどきその断片でもよいから見たり、聞いたりして、
思い出す。感動を新たにする。

そこで私は、インターネットの新しい
使い方を考えついた。

60歳をすぎるころになったら、思い出の
写真や映像を、どんどんとYOU TUBE
などの、画像登録サービスに載せておく。

そしてその映像や画像を、自分のHP上から
いつでも見られるようにしておく。

こうすれば、どちらか一方が、ひとりぼっち
になっても、さみしく思うことはない。

たぶん、年齢からして、また男の平均寿命は
女より短いから、私の方が、先に、あの世へ
行く。

認知症についても、私より、ワイフのほうが、
あぶない?

だったらなおさら、将来のワイフのために、
そういうコーナーを用意しておくことは、
悪いことではない。

さらにこんなことも考えた。

いつか息子たちや孫たちが、ひょっとしたら、
私のHPをのぞいてくれるかもしれない。

そんなとき、そういうコーナーがあれば、
息子たちや孫たちは、そこに収録されて
いる私の画像や声を聞いて、何かの参考に
してくれるかもしれない。

言うなれば、今、私は未来の息子や孫たちに、
そしてひょっとしたら、ひ孫たちに、時空を
超えて、語りかけていることになる。

こんなケースを考えてみよう。

西暦2080年。私のひ孫たちの世代が、
壮年期を過ぎて、老年期にさしかかる。

そのときインターネットをとおして、
私のHPを見る。私の映像を見たり、
声を聞いたりする。

そのとき、孫やひ孫たちが、「おじいちゃんだ」
「これはぼくの、ひいおじいちゃんだ」と言う。
英語では、「Oh, this is my grand grandfather!」と。

あるいは自分自身の未来に語りかけることもできる。
10年後の自分、あるいは20年後の自分自身に、
である。

いろいろな使い方が考えられる。

が、ひとつだけ、問題がある。
そうしたHPをしっかりと管理してくれる
会社なり、組織が必要だということ。

私は現在、無料のHP配信サービスをいくつか
使っている。が、3か月以上、アクセスがなければ、
廃止するという規約がある(N社)。

3か月以上、だれも見てくれなければ、廃止される
ということ。

さらに携帯電話用HPについては、3か月以上、
更新がなければ廃止されてしまう(F社)。

もちろん有料のHP配信会社のばあいは、
まさにカネの切れ目が、縁の切れ目。

こういう問題を、どう克服するか?

方法としては、未来の人たちにも役立つような
HPにすること。
そうすれば、だれかが見てくれる。アクセスが
1〜2件でもあれば、HPが廃止されてしまう
ということはない。
しかしそれは可能なのか?

ところで、2008年になって、原稿に、英文のガイダンスを
書き加えるようになったのは、言うまでもなく、
孫たちのために、である。

父親(=私の息子)が日本人だからといって、
孫たちが日本語を話せるようになるとはかぎらない。
ときどき、インターネット電話(Skype)で
彼らと話すが、日本語がまったく、通じない。

日本語の読み書きなどは、夢のまた夢。

それで私は、英語のガイダンスを書き加えるようにした。
いつか孫たちが、読んでくれるかもしれない
からである。

……とまあ、いろいろ考えている。考えながら、
いろいろな方法を試している。

今は、何とか元気だから、その元気なうちに、
いろいろなことをしておこう。

とりあえず、「MUSIC & I」コーナーを
充実させる。

つぎに、孫やひ孫たちのコーナーも用意する。
アルバムの写真を、スライド化して、それを
YOU TUBEに載せておく。

……どこか、死ぬ準備をしているような感じも
しないではないが、ここは明るく前向きに
とらえていこう。

(補記)

「HPの50年間、保存サービス会社」というような会社を作れば、
新しいビジネスになると思う。
50年もすれば、また別の新しい方法が考えられるようになる
だろう。だから今のところ、「50年」でよい。

聞くところによれば、政府主導で、日本中のHPを、そっくり
そのまま保存するというしくみも、考えられつつあるそうだ。

本などは、すでにそういう方法が実行に移されている。

なお有料のHP登録サービスについては、登録料の先払いができない
ものかどうか、今度、確かめてみる。
「50年分、先払い」というのは、どうだろうか?

(補記2)

インターネットは、(距離)という垣根を取り払ってくれた。

以前は、手紙を交換するだけでも、4、5日はかかった。外国の
ばあい、10〜14日は、かかった。
が、それが今では、瞬時、瞬時にできる。

しかしそれだけではない。

今や、インターネットは、(時間)という垣根すら、取り払おうと
している。

私は、こうして未来に向かって話しかけている。未来の孫やひ孫
たちに向かって話しかけている。

もう少しすれば、簡単な会話さえできるようになるかもしれない。
相手の質問などに応じて、用意しておいた返事を選んで、表示
するとか、など。

たとえば、ひ孫が、「ひいおじいちゃん」と語りかけてくれたら、
「何だ?」と答えるなど。

もちろんそのとき、私は、もうこの世にいない。しかし孫やひ孫
たちは、あたかも私がそこにいるかのように感ずることができる。

これは考えるだけでも、ワクワクするほど、楽しいことではないか。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Sage Hayashi Mae Hayashi 林
誠司 林芽衣)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●老後(+老化)との闘い
(Young Old men should fight against getting old.)

晩年の母は、毎日、仏壇の仏具ばかり、磨いていた。
私はそれを見るたびに、「老後は、そうであってはいけない」と、
いつも、そう思っていた。

母には、母の思いというものがある。それはわかる。
そういう行為がまちがっているというのではない。
しかし同時に、人は、歳をとればとるほど、新しい
記憶を忘れてしまうものらしい。
忘れるというよりは、消えてしまう?

たとえば今、母の記憶の中には、私の父と結婚してからのものは、
ほとんど、ない。
見舞いに行くたびに、「家へ帰る」という。
母にとって、「家」というのは、自分が生まれ育った、K村にある
実家をいう。

そういう母の姿は、そのまま、私の未来像でもある。
私もそうなる。あなたもそうなる。私のワイフもそうなる。
例外はない。

そこでひとつの試みとして、新しい記憶を、古い記憶に負けないほど、
強烈に、自分の脳みそに焼きつけてみるというのは、どうだろうか。

その方法のひとつとして、新しい記憶を、繰りかえし呼び戻す。

たとえばアルバムを繰りかえし見る。
くりかえし見るというのがたいへんなら、スライド化して、パソコン上で
いつでも見られるようにしておく。

そうすれば、ちょうど母が仏壇の仏具をみがいていたように、
自分のアルバムを見ることができる。
見ることによって、最近の記憶を、呼び戻すことができる。

これはまさに、脳の老化との闘いといってもよい。
自分の脳みそを、けっして、腐らせてはいけない。
いつも新しい情報に触れ、刺激を与える。
どこまでできるか、実のところ、私にも自信はない。
自信はないが、しかしやるしかない!

……そういう点でも、パソコン+インターネットというのは、役に立ちそう。
おおいに活用して、老後を、心豊かに送りたい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●インターネット遺言+墓地(Graveyard in Virtual Reality)

In near future we will have a kind of virtual graveyard where we can store our own whole life 
in it. The bereaved will open the files and read and see them whenever and wherever they 
want to do it. When I die, please come and see me in the files stored in the internet. I am 
not in the grave. 

ついでにインターネット遺言とか、インターネット墓地というのは、
どうだろうか。

どこかのインターネット会社に、遺言を管理してもらう。
「遺言」といっても、財産の管理だけではない。
自分の(思い)や(願い)を、管理してもらう。

遺族は、それを読んだり、見たりする。
あるいは葬儀の席で流してもらう。

葬儀屋「これから故人自らが制作したビデオを流します。一同、礼拝!」
とか何とか……。(楽しいね!)

歳を取ってヨボヨボになってからでは遅い。
まだ元気なうちに、ビデオを制作して、それをインターネットのどこかに
ストーレッジ(保管)しておく。

さらに、インターネット墓地というのも、考えられる。
その人の過去、経歴、実績などを、やはりインターネットのどこかに、
ストーレッジしておく。

故人に会いたくなったら、その墓地を訪問すればよい。

「やはり遺骨が大切……」と考える人には、この方法は向かない。
しかし大切なのは、中身。その人自身。思想、信条、哲学、生きざま……。

……ということで、インターネットの発達は、現在、私たちが
もっている死生観まで変えてしまう可能性がある。

さらに宗教観まで変えてしまうかもしれない。

インターネット墓地というのは、ずっと先の話かもしれないが、
インターネット遺言というのは、そのうちどこかのサービス会社が
始めるかもしれない。

けっして荒唐無稽なことを書いているのではない。
この私にしても、この5年間だけでも、2万枚(40x36字)
以上もの原稿を書いた。
しかしそんな原稿にしても、1枚のDVDディスクに、軽く収まってしまう。

たった1枚だぞ!

あと10年もすれば、マッチ棒の先ほどの大きさの記録メディアに、
その人の一生の記録さえ残せるようになるかもしれない。

それがその人の「遺骨」ということになる。
それをどこかのインターネット・サービス会社が保管、管理する。
そういう時代は、すぐそこまで来ている!

個人的な意見を書き添えるなら、私は、自分の遺骨には意味はないと思う。
もし私が死んだあと、私のことを思い出してくれるというのなら、墓ではなく、
パソコンの前に座ってほしい。
パソコンをたちあげて、「はやし浩司」を検索してほしい。
そこに少しでも私の原稿が残っているなら、それを読んでほしい。

遺骨について言えば、散骨でも何でもよい。
もちろん仏壇もいらないし、墓もいらない。
葬式にしても、「いつ死んだかわからない」というような雰囲気で、
こっそりとしてほしい。

「千の風」をもじるなら、こうなる。

♪私のお墓の前で、泣かないでください。
 そこに私は いません。
 眠ってなんかいません。
 パソコンの中にいて、無限の
 電子の世界にいます。

 もし私に会いたくなったら、
 パソコンを開いてください。
 いつでも、私は、あなたと話をすることが
できます。

たぶん、私が先に死ねば、ワイフが寂しがるだろうから、(あるいは
喜ぶかな?)、今のうちに、私の記録を、できるだけたくさん残して
おこうと考えている。

「MUSIC & I」というコーナーを更新しながら、
そんなことを考えた。

My wifeへ、

お前と見た映画は、すべて収録しておくよ。
お前が好きだった音楽も、すべて収録しておくよ。
いつかぼくが死んだあと、さみしくなったら、
このコーナーを見てほしい。

ついでに、お前の好きな音楽を載せて、
アルバムの中の写真をスライド化しておくよ。

ぼくは、お墓の中なんかにはいないよ。
死んでもいないよ。
ぼくはいつも、ここにいて、お前のそばにいるよ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist インターネット墓地 インターネッ
ト遺言 バーチャル墓地 バーチャル天国)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2501)

【今朝・あれこれ】(2月25日)
More than 100 thousands accesses to my websites and blogs have been counted, for which 
I thank you very much. It encourages me a lot.

●BGM

ビデオを制作するとき、いちばん困るのが、BGM。
バックにどのような音楽を使うかで、けっこう、悩む。

編集ソフトに付録でついてくる音楽を使うことが多いが、
どこか物足りない。安っぽい。
そこで30年とか、40年前に発表された音楽を使う。

日本のばあい、著作権は、「保護期間」として考えられている。
原則として、その保護期間は、著作権者の死後、50年。
音楽著作物も同じように考えられている。

さらに映画や写真については、「公表してから何年」という
ふうに考えるのが一般的だそうだ(Yahoo知恵袋)。

原則として、50年以上。映画については、70年以上
ということらしい。

そこで音楽などを借用する人は、BGMに少し手を加えたり
することが多い。わざと雑音を挿入したり、途中で音楽が
切れるようにしたりする。
「雑音」というのは、人の声や、風の音などをいう。

もちろん個人として許された範囲で、使ったり、楽しんだり
する分については、問題はない。
問題は、YOU TUBEなどの配信サービスを使って、ビデオを
公開するばあいである。

もっともYOU TUBEで配信すると、音質が、かなり落ちる。

で、YOU TUBEのばあい、そのせいか音楽については、それほど
うるさくない。が、画像については、かなりシビア。
性的描写などが一部でもあると、即、削除される。

が、それでもいざ借用するとなると、気が引ける。

そこで今日から、BGMには、息子たちが作曲、演奏した音楽を
使うことにした。これなら、だれにも文句は言われないはず。

で、二男のBLOGから、15曲あまりを、今日、ダウンロードしてみた。
CDに一度、焼いた。が、それに喜んだのが、ワイフ。
そのあと、ずっと、そのCDに耳を傾けていた。

今夜あたり、そのうちの一曲を使って、ビデオを編集してみるつもり。

●時間がない!

が、ここでまた別の問題。
こうしてワクを広げていくと、それが、どんどんと、際限なく広がってしまう。
「あれもしたい」「これもしたい」となる。

おかげで、昨夜は午前1時ごろまで、パソコンと格闘した。
今朝は、なんと、6時起き。
こんな日が、このところ毎日のようにつづく。

忙しいというより、時間がない。

で、ひとつ心配なことがある。
このところ、またまた乱視が進んでいるようだ。
先日、DVDを見ていたら、画面上の文字が二重に見えた。
メガネをかえて、まだ半年くらいしかたっていない。
目をあまり酷使すると、失明!、ということにもなりかねない。
そういう話も、よく聞く。

ただそれも、ストレスがあるばあい。
私のように、楽しんで(?)、目を使っているばあいには、
だいじょうぶ(?)。
自分にそう言い聞かせながら、パソコンに向かっている。

●励み

先日、私のHPやBLOGへのアクセス件数を計算してみた。
結果、月間で、軽く10万件を超えているのがわかった。
たとえば1月に開設した、「音楽と私」のコーナー(ページ)だけでも、
毎日500件〜ものアクセスがある(08年2月)。

月になおすと、そのコーナーだけで、1万5000件ということになる。
BLOGは、「楽天日記」のほか、「GOO BLOG」、「はてな」など、
4か所から発行している。
それぞれに、毎日300件近いアクセスがある。
月になおすと、約3万6000件となる。

もちろんHPへのアクセスもある。
現在、メインのHPと、ハイパーリンクでつないでいるHPが、6つほどある。
それぞれに、毎日、200〜400件ほどのアクセスがある。
300件で計算しても、300x6x30で、約5万4000件。

以上で、計、10万件以上!

ほかにカウンターでは把握できないアクセスも、ある。
たとえば何か、別の検索文字で検索して、どこかのページに
ジャンプしてくる人もいる。
だから実際には、もっと多いはず。

そこでHPサービス会社によっては、アクセス件数ではなく、ダウンロードした量で、
それを表示してくれるところもある。
たとえば同じ1件でも、あちこちのページをていねいに読んで
くれた人がいたとすると、ダウンロード量は大きくなる。
件数よりも、ダウンロードした量こそ、大切というわけである。

また同じ1人の人が、毎日、何回もアクセスしてくれるということもある。
だからもちろん10万件イコール、10万人ということではない。

それはわかっているが、しかしそれにしても、すごいことだと思う。
実感はないが、すごいことだと思う。

HPをはじめて、開設したころは、1日、多くて、30件とか40件だった。
それが今では、1日、3300件以上!

ますますやる気が出てきた。ホント!

●だからどうなの?

件数がふえたからといって、それがどうなの?、と思う人もいるかもしれない。
それには、こんな悲しい物語がある。

今から30年ほど前には、本というと、初版でも、6000部とか、1万部は
印刷してくれた。

しかし年を追うごとに、どんどんと部数が少なくなり、多くて3000部という
時代になった。

大手の出版社では、今でも、1万2000部とか、それ以上のところもある。
しかしそれは実績のある人の本についての話。
私のように実績のない者については、そうはいかない。
それでいつの間にか、3000部ということになってしまった。

しかし3000部というのは、最低限。
全国の書店に1冊ずつ、やっと並べてもらえるか、もらえないかという
部数である。

「3000」という数字は、そういう数字をいう。
それがまた、私が「3000」という数字にこだわる理由でもある。

わかりやすく言うと、「せめて3000部は売りたい」という思いが、
「1日に、3000件もアクセスがある」という喜びにつながっている。

「だから、それがどうしたの?」と言われると、私も困るが、
私にとって、「3000」という数字は、そういう数字である。

わかってもらえましたか? プラス、みなさん、ありがとう!

●音質

YOU TUBEの音質については、これはもっぱら、スピーカーの
性能によるところが大きい。

良質の音質を楽しみたかったら、それなりのスピーカーにする。
これはこの世界での、常識。

というのも、ときどき私のワイフが私の書斎をのぞいて、こう言う。
「同じ曲なのに、どうしてあなたのは、そんなにも音質がいいの?」と。

ワイフのパソコンのスピーカーは、外付けだが、4、5000円のもの。
私のは、値段は忘れたが、2万円前後はした。音の深みがちがう。
低音部では、ビリビリと腹の底まで、音がしみこんでくる。

ノートパソコンでは、よい音は楽しめない。
「どうも音が割れる」と感ずる人は、一度、外付けのスピーカーの購入を
考えてみては?

●「♪そよ風をあなたに」

昨夜、息子が作曲、演奏した曲を使って、新しいビデオを作ってみた。
勝手に、私のHPのテーマ曲にしてしまっている。

短い曲だが、秀作だと私は、思っている。(親ばかかな?)
息子はこの曲を、高校3年生のとき作曲した。

で、この曲を聴くたびに、私は、こう思う。
「どうしてもっと、こういう才能を伸ばしてやれなかったのか」と。

興味のある人は、どうか聴いてみてください。(↓クリック)

http://www.youtube.com/watch?v=akhdJvb4pkM&eurl=http://hiroshihayashie.ninja-web.net/
page023.html
(♪そよ風をあなたに)

<object width="425" height="355"><param name="movie" value="http://www.youtube.com/
v/akhdJvb4pkM&rel=1"></param><param name="wmode" value="transparent"></param><
embed src="http://www.youtube.com/v/akhdJvb4pkM&rel=1" type="application/x-
shockwave-flash" wmode="transparent" width="425" height="355"></embed></object>


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(2月24日)
Who killed his wife? We are very much interested in the MK' case.

The American investigation authorities arrested MK for the murder suspicion. His suspicion 
has been proved innocent in the Japanese court but why now? According to today's 
morning newspaper he was arrested because the investigation authorities have found a new 
proof about his case.

+++++++++++++++++

昨日は、「子育てはじめの一歩」(PHP版)を、
そのままホームページにUPLOADした。

生協ルートで販売した本なので、書店には並ばなかった。
で、発刊日付を見ると、1995年となっていた。

ちょうど13年前に出した本ということになる。
「長いようで、短かった」「短いようで、長かった」。
私にとっての、「13年」というのは、そういう
年月である。

第1章と第2章を、とりあえず、公開した。
それでも作業が終わるのに、3時間ほどかかった。

一度、スキャナーで1頁ごと、スキャンする。
それをFrickrにUPLOADする。
登録画像から、埋め込みようのアドレスを取得して、
1頁ずつ、HPに張りつける。

直接HPに載せるという方法もあるが、画像の質が
悪くなる。
HPに負担がかかりすぎる。……ということで、
私は、この方法を使っている。

興味のある人は、(はやし浩司のHP)→(ここが
子育て最前線)→(子育て、はじめの一歩)を
のぞいてみてほしい。

++++++++++++++++++

●ロス疑惑(Who killed his wife in L.A.?)

 今朝の新聞に、MKという男性が、アメリカのサイパン島で身柄を拘束されたという記事が載
っていた。MKといえば、あの「ロス疑惑」の主人公である。当時私たちは、毎日、テレビのワイ
ドショーに釘づけになった。

 が、ロス疑惑については、無罪。最高裁でも、無罪が確定している。無罪ということは、無罪。
事件そのものがなかったということになる。だからここでも、本来なら、MK氏と、「氏」をつけて
書かねばならない。しかしどうも、すっきりしない?

 話は変わるが、「思考回路」という言葉がある。大脳生理学の本などには、「思考プロセス」と
書いてあることが多い。それぞれの人は、みな、それぞれちがった思考回路をもっている。

 たとえば私のような(もの書き)は、何か問題が起きると、それを文章にして解決しようとす
る。(問題)と(ものを書くこと)を、直接的に結びつける。

 一方、たとえば暴力団の男は、(たぶん?)、何か問題が起きると、それを暴力によって解決
しようとする。(問題)と(暴力)を、直接的に結びつける。

 これが思考回路である。

 そこで私の頭の中をさがしてみる。さがしてみるが、どこをどうさがしても、(殺人)という思考
回路はないことがわかる。今までにも、心底、憎く思った人は、何人かいた。が、そういうときで
も、「死ねばいい」とは思ったが、「殺してやる」とまでは、思わなかった。

 さらに「殺してやる」と思うことと、それを実行に移すということの間には、距離がある。その距
離がある間は、人は、殺人など、しない。つまり殺人を実際に実行する人というのは、そういう
点で、ふつうの人とは、かなりちがう人と見てよい。どこがどうちがうかということは、私にもよく
わからないが、ともかくも、ちがう。

 だからといって、MKという男性が、どうこうというのではない。繰りかえすが、MKという男性
は、無罪である。無罪であるということは、事件そのものが、なかった。そういう前提で、考え
る。しかしこと、思考回路ということになると、MKという男性は、ふつうの人とは、少しちがった
思考回路をもっていると考えたほうがよい。

 事実、妻殴打事件では、有罪になり(※1)、6年の刑に服している。その事件では、1人の女
優と共謀して、妻を殺害しようとしたという。ロス疑惑は、その殴打事件の延長線上に浮かんで
きた。「延長線上」というよりは、ロス疑惑を追及していたら、殴打事件も出てきたというほう
が、正しい。

 さて、どうなるか? 明日あたりから、再びテレビのワイドショーは、にぎやかになることだろ
う。新聞の報道によれば、「新証拠が出てきたから、身柄拘束に踏み切った」(中日新聞2・2
4)とある。新証拠とは何か? 

 ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える(2月24日)。

「アメリカ・ロサンゼルス市で1981年に起きた妻銃撃事件で、同市警に殺人容疑などで逮捕
されたMK容疑者(60)について、アメリカ捜査当局が日本の捜査当局に『新証拠が見つかっ
た』と説明していたことが24日、分かった。

 日本では2003年に無罪が確定したが、ロス市警は地道に捜査を継続。新たな証拠で一気
に進展し、逮捕に至ったとみられる。

 MK容疑者の逮捕は23日夜、米紙ロサンゼルス・タイムズ(電子版)が報道し、その後、市
警も正式発表した。

 日本の捜査当局が説明を求めた際、アメリカ当局側は、逮捕理由について、新証拠が見つ
かったことを明らかにしたという。

 MK容疑者は22日午後、サイパン島の空港で逮捕された。ロス市警の未解決事件担当班
が同容疑者のサイパン入りの情報を入手、サイパンとグアムの地元当局と共同で捜査してい
たとされる」と。

(※注1)60年5月元女優がKさん(妻)殺人未遂事件への関与を公表、元女優とともに同年9
月、Kさん殴打事件の容疑者として逮捕される。
 
62年8月Kさん殴打事件に関して、東京地裁により懲役6年の実刑判決が下る。のち同事件
に関して東京高裁より再び懲役6年の実刑判決が下る。MKという男性は、現在、その服役を
終えている。

(追記)

 ついでながら、なぜ、MKという男性は、日本では、無罪になったか?

 MKという男性は、日本での控訴審では、「共犯者との謀議や実行犯が解明されていない」と
いうことが理由で、無罪になった(平成10年)。

 つまり共犯者とどの程度、謀議を重ねたのか。どちらが実行犯だったのか。それが解明され
なかったから、無罪になった(産経新聞2月24日※2)。

 こんな事例がある。

 2人の、どこからどう見ても、そっくりな双子の姉妹がいた。

 その2人のうちの1人が、1人の男を殺した。もう1人は、そのとき、その現場にいなかった。
ちゃんとしたアリバイがあった。

 双子の姉妹は、2人とも、「私は殺していない」と主張した。2人とも、「その現場にはいなかっ
た」と主張した。

 こういうケースのばあい、日本の刑法によれば、2人も、無罪になる。かりに2人の間に、謀
議があったとしても、実行犯が特定できないからである。

 が、アメリカのカルフォルニアの州法によれば、2人が共謀したことさえ立証できれば、2人も
有罪ということになる。カルフォルニアの州法によれば、実行犯の特定は不要だかである(同
紙)。

(注※2)

「カルフォルニア州では、2人以上が犯行を共謀したことを立証できれば、実行犯の特定は不
要で殺人共謀が成立。日本では『共犯者との謀議や実行犯が解明されていない』(平成10年
控訴審判決)ことが無罪の理由とされただけに、カルフォルニア州の低いハードルの殺人謀議
が適用されたことで有罪立証が現実的になった、との見る向きも出ている」(産経新聞)

(補記)(2月26日)

 やはり予想していたとおり、MK事件は、がぜん、騒がしくなってきた。MKという男性に殺害
されたかどうかは別にして、被害者であるKさんの母親は、こう言っている。「よかった」「MKの
顔は見たくもない」(中日新聞)と。

 MK事件というのは、そういう事件である。

 で、それにしても驚いたのは、そんなMKという男性にも、支援者がけっこう、いるということ。
そういう支援者たちが、「不当逮捕」と、息巻いている。「ヘエ〜?」と思っただけで、私にはつぎ
の言葉が出てこない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司※

●涙、ボロボロ

YOU TUBEで、サーフィンしていたら、
突然、「♪若者たち」をヒットした。

偶然だった。

以前にも何度か検索したことがあったが、ヒット
できなかった。

見ると、最近、だれかが、UPLOADしてくれた
らしい。

見たとたん、聴いたとたん、涙、ボロボロ。
学生時代の自分に、そのままタイムスリップしてしまった。

うれしかった。何度も聴いた。何度もいっしょに、歌った。


●法の番人とは何か?
*What is the watchman of the Law?
We, the Japanese, support the arrest of K. Miura by the L.A. Police Headoffice. If it is 
wrong, then we will ask what the watchman of the Law? We can not forget that one woman 
was murdered by someone. All of us know who murdered her, but no one can speak out of 
his name. Is this fair? Please do your job and make clear who murdered her. This is the 
justice we want, and the justice we, the Japanese could not do. According to a eyewitness 
of the place, a white ban stopped in front of him and when the ban went away, there had 
left two men there, one was lying on the ground and the other was crying for help. How can 
K. Miura explain about this fact? The ban was there, since the part of the car photoed by 
his own camera. This is the fact. Here again we support your having arrested his for the 
suspicion of the murder.

++++++++++++++++

MK事件では、当初から、MKなる人物自身の
犯行が疑われていた。

それについて、ロス市警のジャクソン捜査官は、
会見の席で、「殺人現場を目撃していた、第3者
がいた」と、つぎのように述べている(産経ニュース)。

「彼のあずかり知らないことだが、現場から
1ブロックに位置する高層ビルから、事件の
一部始終を目撃していた第三者がいた。彼らの
車両に関する証言は、MK容疑者の供述と
全面的に異なっていた。これが、当時の捜査の
詳細である。そして基本的に、これが現在の
流れである」と。

記者の「その目撃者らは、実際の銃撃を見たのか?」
という質問に対しては、

「現時点でいえるのは、1台の車が止まり、
視界をブロックしていた。その後、バックして、
そして2人が倒れていた、ということだ」と。

つまりその目撃者の話によれば、1台のバンが
止まった。
そしてそのバンが立ち去ったとき、MKという
男性と、その妻が、そこに倒れていたということ
になる。

この目撃した男性は、当時のテレビ報道などでも、
同じような証言を繰りかえしてしていた。

が、ひとり、「無実だ」「えん罪だ」と、息巻いて
いるのが、MKという男性の弁護をしてきた、
HN弁護士。

「あってはならない不当なことだ。前の刑事事件の時に
日本とアメリカの捜査当局が連絡しあっていたことを
含めて言えば、ダブルでやるのはおかしな話」(産経ニュース)と。

MKという男性が、日本の裁判所で無罪になったのは、
要するに、物的証拠がなかったこと、実行者が特定できな
かったことによる。

しかし当日、(白い)バンは、そこにあった!
MKという男性自身が撮った写真の中に、そのバンの
一部が写っていた。

もちろんMKという男性自身は、そのバンのことを否定
している。

ならば私は、HN弁護士に問いたい。
「いったい、法とは何か?」「法の番人とは何か?」と。

「法的正義とは何か?」と言いかえてもよい。

枝葉末節の法論議に始終し、事実そのものを見ようとしない。
そして法を武器に、事実を押し隠して、被告人の利益だけを
優先させる。

大切なことは、1人の人間が、実際に殺害されているという
その事実。
そのすぐそばに、MKという男性がいたという事実。
だったら、MKという男性に、真実を話させるようにし向ける
のが、弁護士、つまり法の番人の役目ではないのか。
その真実を明らかにすることこそ、法の番人の役目ではないのか。
あるいは百歩譲って、その「矛盾」を説明するのが、法の
番人に役目ではないのか。

何も被告人の不利益になるようなことをせよというのではない。
もう少し、1人の人間が殺害されているというその事実に、
謙虚になるべきではないかと、私は言っている。

「私はあなたを弁護士として弁護したが、ここから先は、あなた
自身の良心の問題だ」と。

裁判所の中で法的正義を貫くのは、それは職務。しかし裁判所を一歩
出て、一般社会の中で、MKという男性の無罪を主張するのは
どうか?

HN弁護士は、「MKさん」と(さんづけ)で呼びながら、
「弁護士が決まるまでの間も、言うことはきちんと言って、
向こうの言いなりになってロスで裁判することを認める必要はない
と伝えた」とか、「当然、選ばれた弁護人は逮捕の不当性を訴えて
いくことになる」とか、述べている(※)。

またHN弁護士は、「あってはならないこと」と言っているが、
では、殺された妻は、どうなのか?
それはあってはならないことではないのか?

繰りかえすが、1人の人間が殺されている。
その事実は、どうなるのか? 「30年近くもたってから、再裁判は
おかしい」と言うことこそ、おかしい。
30年たったら、死んだ人は生き返るのとでもいうのか?

私は、ロス市警の再裁判を、支持する。
その声を届けるため、英文で、この原稿を、ロス市警の掲示板に
送る。

(付記)

最近では、子どもたちにカメラを向けただけで、子どもたちは
こう叫ぶ。

「肖像権の侵害だ」「慰謝料を請求する」と。

悪しきテレビ番組の影響である。

「法」というのは、何かあったときに、表に出てくるもの。
「最初に法ありき」という考え方は、法律家たちの
ゆがんだ意識から生まれる。まちがっている!

「法」を信奉するあまり、法を本尊よろしく、カルト化する。

私たちは、法を盾に取る前に、人間である。
それを忘れて、法は、ない。

たとえば常識で考えて、「おかしい」と思ったとき、
そこに法が登場する。

常識をゆがめるために、法を利用してはいけない。
それは法律の専門家を自称する人たちの、
最低限のモラルではないかと、私は思う。

(注※)産経ニュース(2・26)
 『MK容疑者(60)の日本での弁護を担当していたHN弁護士は27日、MK容疑者のサイパ
ンでの弁護士選定作業について「MKさんは手持ちの金をそれほど持っているわけではなく、
(私選で選ぶとすると)もう少し長引くだろう」との見解を示した。

 その上で「弁護士が決まるまでの間も、言うことはきちんと言って、向こうの言いなりになって
ロスで裁判することを認める必要はないと伝えた」と説明し「当然、選ばれた弁護人は逮捕の
不当性を訴えていくことになる」と語った』。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2502)

【自分を見失う子どもたち】(Spoiled Children)
Where should I go? What should I do? What do I want to do? These children don't know 
even what they really are.

●ドラ息子、ドラ娘

 ドラ息子症候群というのがある。自分勝手でわがまま、ものの考え方が、享楽的で(=その
場だけの快楽を求める)、ぜいたく。自己中心性が強く、対人、対物許容範囲が狭い。好き嫌
いを平気で口にし、相手やものの「非」をとらえて、不平、不満を並べる。

 このタイプの子どもについては、たびたび書いてきたので、ここでは、その先を考える。ずい
ぶんと前だが、こんな子ども(中学生、女子)がいた。……といっても、架空の中学生と考えて
ほしい。いくつかの事例を、ひとつにまとめてみる。名前を、Yさんとしておく。

 ある日のこと、Yさんが、突然、こう言った。「帰ります」「タクシーを呼んでください」と。あまり
にも突然のことなので、驚いた。が、私はその場の雰囲気に負けて、タクシーを呼んだ。

 あとで理由を母親に聞くと、母親は、こう言った。「あの子は、よそのトイレが使えないのです」
と。つまり「よその家では、大便ができない」と。

 こういうケースは珍しくない。わがままというより、ぜいたくざんまいに育てると、子どもは、そう
なる。いやなことはしない。きたない仕事はしない。つらい経験はしない。世界が自分を中心に
回っているかのように錯覚する。また世界の中心にいないと、気がすまない。

 そのYさんは、よくこう言った。「先生は、教室の消毒をしていますか?」と。「どうして?」と聞く
と、「机の上に、ホコリがたまっています」「壁にゴキブリのウンチのシミがついています」と。こ
まかいことを、そのつど指摘しては、おおげさに騒いだ。

 で、このタイプの子どもは、学習面でも伸び悩む。「学習」には、ある種の苦痛がともなう。そ
の苦痛を乗り越える「力」がない。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、ここではさらにその先を書く。

●自己同一性の危機

 このタイプの子どもは、やがて、自分を見失う。発達心理学の世界には、「自己の同一性」と
いう言葉がある。その「同一性」が、バラバラになってしまう。

 自分で何を、どうしたらよいかも、わからなくなってしまう。自分が何をしたいかも、わからなく
なってしまう。自己中心性が強いから、他人から、どのように見られているかも、わからなくなっ
てしまう。

 たとえて言うなら、糸の切れた凧のような状態になる。フラフラと風任せ。あるいはそのままド
スンと下に落ちてくる。つまり非行の道へと、まっしぐら。

 Yさんは、教室へ入るやいなや、よくこう言った。

 「あんた(=私のこと)も、おかしな顔をしているね」
 「奥さんがかわいそう」
 「こんな暑苦しい部屋じゃ、勉強なんかできない」と。

 もちろん勉強など、しない。能力的には、かなり恵まれた子どもだった。頭もよかった。しかし
それだけに、扱い方がむずかしかった。自分の非を棚にあげて、「ああでもない」「こうでもな
い」と、他人を批判した。

 Yさん自身も、「私はできるはず」という部分で、葛藤していたと思う。(プライド)と(現実)のギ
ャップの中で、もがいていた。

 一度、こう言ったことがある。「そんなにここへ来るのがいやだったら、お母さんに、そう話して
あげようか」と。

 しかしそれについては、Yさんは、がんこに拒否した。心の中では、不満と不平が、ウズを巻
いていた。それから生まれる怒りを、私にぶつけていた。私を口汚くののしることで、欲求不満
を解消させようとしていた。私にも、それがよくわかっていた。

●非行

 で、このタイプの子どもは、一度、非行の道に入ると、そのまま、まっしぐらにその道へと入っ
てしまう。(だからといって、非行が悪いというのではない。またそれでもって、子育てに失敗し
たというわけでもない。誤解のないよう。)

 Yさんは、中学2年になるころには、性的経験をもつようになった。私には、雰囲気から、それ
がよくわかった。ある日、筆入れの中に、子どもがもつようなものでない装飾品が入っていた。
それを私が指でつまんで、「これは何?」と聞くと、Yさんは、艶(なまめ)かしい声で、こう言っ
た。「ウフン……。いいじゃん……」と。

 私は親に話すべきかどうかで、迷った。しかし言わなかった。言えば、私と子どもとの間の信
頼関係は消える。信頼関係が切れた状態で、子どもの指導はできない。親の側から相談でも
あれば話は別だが、こういうケースのばあい、知って知らぬフリをする。性的経験にしても、「疑
わしい」というだけで、確証があるわけではない。

 では、どうするか?

●二番底に注意

 このタイプの子どもは、進むべき方向性をいっしょにさがしてやるのがよい。しかし先にも書
いたように、自分でも、どうしたらよいか、それがわかっていない。「あなた何をしたいの?」と
聞いても、「遊びたい」とか、「お金がほしい」とか、言う。そこでさらに、「どんなことをして遊びた
いの?」「お金があったら、何を買うの?」と聞いても、その答がない。「わかんない……」とか
言う。

 別の方法としては、スポーツや運動で、自分を燃焼させるというのがある。しかしこの段階に
なると、それもしない。「いやだ」「できない」「したくない」の悪循環の中で、ますます遠ざかって
いく。

 ……と書くと、「お先、真っ暗」ということになる。が、ここで待ってほしいのは、このタイプの子
どもは、その状態が、最悪の状態ではないということ。その「最悪」の下には、さらにその最悪
がある。これを私は「二番底」と呼んでいる。

 (この「二番底」「三番底」論は、はやし浩司のオリジナルである。どうか、無断で流用しないで
いただきたい。)

 たとえば非行といっても、いろいろある。(門限破り)→(外泊)→(家出)と進む。さらに(長期
家出)→(同棲)→(性病、妊娠)と進む。

 わかりやすく言えば、「直そう」とは思わないこと。それ以上、状態を悪くしないことだけを考え
て、対処する。あとは、時間を待つ。この段階で、あせって、何かをすればするほど、逆効果。
私が言う、二番底、三番底へと落ちていく。

 その期間は、驚くほど、短い。ほとんどの親は、こう言う。「あっという間でした」と。それこそ、
1、2か月の間に、そうなる。それだけに、親が気づくということもない。「非行に走る」という言
葉がある。まさに「走る」という状態になる。

 で、子どもが非行に走ると、ほとんどの親は、「うちの子は誘われただけです」と言う。「友だ
ちが悪い」と。しかしよく調べてみると、その子ども自身が中心核になっているというケースは多
い。

●変化に注意

 さらに問題がつづく。子どもというのは、ウソをつく。仮面をかぶる。一方、親のほうは、「まさ
か……」「うちの子にかぎって……」と、子どもの変化を見逃してしまう。私の経験からして、こう
いうケースで、子どもの姿を正確にとらえている親は、まずいない。

 Yさんにしても、父親の前では、借りてきた猫の子のように、おとなしかった。が、その一方
で、母親は、Yさんを溺愛していた。一度、こんなことがあった。

 私がYさんの希望進学校を聞いたときのこと。母親は、私にこう言った。「私からは聞けませ
んので、先生(=私)のほうから、聞いてください」と。私は、「ハア……」と言っただけで、何も言
うことができなかった。
 
 そのYさんについて言えば、極端にきびしい父親、極端に甘い母親の間で、(三角関係)がで
きていた。つまり家庭教育そのものが、崩壊していた。

 結局、この問題は、行き着くところまで行く。行かなければ、親も気がつかない。この問題だ
けは、子どもの問題というよりは、親の問題。親問題というよりは、家庭の問題。子どもは、そ
の(代表)にすぎない。

 が、だからといって、それでその子どもが、ダメになるわけではない。先に、「非行が悪いわけ
ではない」と書いたが、それは、そういう意味である。多かれ少なかれ、子どもというのは、同じ
ような道をたどりながら、やがておとなになっていく。この時期の失敗(?)が、そのまま一生つ
づくということはない。

 さらに言えば、ドラ息子、ドラ娘ということになれば、日本の子どもたちは、みな、ドラ息子、ド
ラ娘ということになる。世界的な水準からすれば、そうである。ある母親は、こう言った。

 「先生は、ドラ息子の話をしますが、私の夫が、そのドラ息子です。どうしたらいいでしょう
か?」と。

 しかし……。

 よいか悪いかということになれば、子どもは、ドラ息子、ドラ娘にしないほうがよい。苦しむの
は、結局は、子ども自身ということになる。それこそおとなになる過程で、「長くて曲がりくねった
道」(ビートルズ)を歩かなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●心の矛盾(Contradiction of Mind)

When we see dead bodies of cats or raccoons, we avert our eyes from them. But in the 
house we don't hesitate to cook meat or pork without thinking anything. Isn't this a kind of 
contradiction of mind? Are human-beings a creature like this?

++++++++++++++

熱帯魚を飼うようになって、
もう25年近くになる。

が、その水槽が、突然、音を
たてて割れた(ワイフの言葉)。
中の水が、外に漏れた。

原因は、不明。

「どうしようか?」とワイフが
聞いた。
「もう、飼うのをやめようか」と
私。

生き物を飼うのは、たいへん。
それだけで、何かと束縛される。
それをこのところ、負担に思う
ようになっていた。

が、問題は、住んでいた魚たち。
ネオンテトラにコリドラスなど。

まさか殺すわけにはいかない。

ワイフは鍋の中に、熱帯魚を
移した。

「毎朝、小魚の佃煮を食べているのに……」
と私。

この矛盾!

この心の矛盾は、いったい、どこから
どう生まれるのか?

+++++++++++++

 道路で、タヌキかネコの死骸を見ると、思わず、目をそむける。その同じ私が、家の中では、
牛肉をまな板の上で、調理する。こうした心の矛盾を、いったい、どう理解したらよいのか。数
日前も、私の家で、こんなことがあった。

 熱帯魚を飼うようになって、25年近くになる。最初、飼い始めたのは、三男だった。いや、私
の方が先だったかもしれない。三男は三男で、私は私で、熱帯魚を飼うようになった。たがい
に教えあい、いっしょに育てた。

 その間に、水槽は、数回、取り替えた。当初は、幅が80〜90センチもある大きな水槽だっ
た。が、だんだん小さくなって、そのときは、45センチくらいのものになっていた。その水槽が、
突然、音をたてて割れた。

 ワイフの話では、「突然、バリッという音がして割れた」とのこと。原因は不明。内外の温度差
に、ガラスが耐えられなかったのだろう。このところ、庭では毎朝、氷が張っている。

 書斎にいると、ワイフから電話。「どうしようか?」と。つまり水槽を買い換えようか、と。

 生き物を飼うのは、けっこう、たいへん。1泊旅行のときなども、エサのことなど、だれかにあ
れこれと頼んでおかねばならない。このところ、それを、少し重荷に感ずるようになっていた。
「エサをあげた?」「まだよ」というような会話は、毎日、している。時として、エサをやり忘れるこ
ともある。

私「もうやめようか」
ワ「そうね……」
私「たいへんだしね……」
ワ「魚は、どうする?」
私「焼いて食べようか」
ワ「冗談でしょ」
私「うん」と。

 もちろん冗談でそう言ったが、そのとき、ふと、心の中で矛盾を感じた。その朝も、私は、小
魚の佃煮を、パクパクと食べた。数にすれば、100〜200匹近く食べたのでは? その同じ私
が、ほぼそれと同じほどの大きさの熱帯魚の始末に、困っている。

ワ「だれか、もらってくれる人がいればいいけど……」
私「あの熱帯魚屋は、もう店を閉めてしまったしね」
ワ「どうしよう……?」と。

 こうした矛盾は、日常生活の中で、よく経験する。冒頭に書いた、(肉)の話も、そうだ。

 たとえばワイフは、テニスクラブに行くとき、車で行く。歩いても、10分もかからない距離であ
る。「歩いていったほうが、ずっと運動になるのに」と思う。

 ほかにもダイエットがある。モリモリとたくさん食べたあと、下剤をのんだりする。

私「人間の脳みそも、いいかげんなものだな」
ワ「うん」
私「矛盾したことをしながら、それを矛盾とも思わない」
ワ「そうね。でも、やっぱり、ペットは殺せないわ。情が移っているから」と。

 で、あとで聞いたら、ワイフはその熱帯魚を、ペットショップにもっていったそうだ。「鍋に入れ
たままもっていったから、笑われちゃったア」と。

 よかった。……ということで、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2503)

●今日あれこれ(2月28日)

●私の義務(What I should do now for the children of the future)

+++++++++++++++

私にはやらなければならないことがある。
「死ぬまでに……」ということになるが、
はっきり言えば、そういうことになる。

家族の記録を残すこと。

いつかその日はやってくる。
明日かもしれない。
20年後かもしれない。

その日のために、今できることを、
しっかりとしておく。残しておく。

昨夜、ワイフにこう言った。
「いつかぼくが先に死んで、さみしく
なったら、ぼくのHPを見るんだよ。

ぼくは毎日お前が見ても、見きれないほどの
思い出を、そこに詰めておくから」と。

ワイフは、すなおに「うん」と言ってくれた。

+++++++++++++++

「♪千の風」も、よい歌だが、あれは幽霊の歌。幽霊でもない人間が、幽霊の歌を作って、どう
する? 子どもたちに、「あれは幽霊の歌だね」と声をかけると、みな、「そうだよ」と言った。子
どもたちでも、そんなことは知っている。

 ……とまあ、辛辣(しんらつ)な批評はさておいて、私にとって「千の風」とは何かと問われれ
ば、「千の原稿」と答える。「千のビデオ」でもよい。「千の音楽」「千の思い出」でもよい。

 今、生きている私が、将来の家族のために、何かを残しておく。残すといっても、「風」のよう
な、つかみどころのないものではなく、記録。その記録を残す。役にたつかどうかはわからない
が、そのとき私の気持ちが、時空を超えてワイフや子どもたち、さらには孫たちに伝われば、う
れしい。「お前たちを、心底、愛しているよ」と。

 「今」は大切だが、私は、もう「今」にこだわらない。時として、私は20年後、30年後の私に飛
ぶ。もちろんそのとき、私はすでにいないかもしれない。が、それはそれでかまわない。そう言
えば、昨日、小6の子どもたちと(お別れ会)をした。みなに、写真を渡した。私はその中に、こ
う書いた。

 『2050年1月1日、午後1時に、浜松城の前で会おう』と。

 2050年といえば、60+42=102で、私は102歳になっている。すかさず計算して、子ども
たちがみな、こう言った。「先生は、生きているの?」と。私は、「生きているよ。心配しなくても
いいよ」と。

 今、こうして書いている文にしても、ひょっとしたら、子どもたちは、20年後、30年後にどこか
で読むかもしれない。そのとき、私の今の心と、子どもたちの心が、時空を超えてつながる。そ
れが重要。

 私はここにいる。この文章を読んだ君たちも、ここにいる。そう、私は、「♪眠ってなんかいな
い!」。

 いつかその日はやってくる。明日かもしれない。20年後かもしれない。それは私にもわから
ない。しかし、ともかくも今は、今を燃やしつくす。

 そのために私に残された時間は、あまりにも少ない!

★下Kさん(姉)へ、……あなたは予言どおり、幸福になっているよ。
★飯Nさんへ……あなたは予言どおり、長生きをするよ。
★K本さんへ……あなたは予言どおり、すばらしいお医者さんになっているよ。
★下Kさん(妹)へ、……あなたは予言どおり、日本一の作家になっているよ。
★O川さんへ、……あなたは予言どおり、ものすごくすてきな女性になっているよ。

Sage Hayashi and Mae Hayashi

Some day I wish you can read my articles when you grow up. Then my mind and your minds 
would be connected. Remember that your grandfather and grandmother once lived in 
Japan. We are with you now. Time is now Feb. 28th 2008.

誠司と芽依へ

いつかこれらの原稿を読んでくれるかな。お前たちの祖父母は、かつて日本に住んでいたよ。
お前たちがこの文章を読むとき、ぼくとお前たちの心はつながるよ。今、ぼくたちは、お前たち
とともにいるよ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Sage Hayashi Mae Hayashi)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2504)

●私の中の「私」(Me in "Me")

+++++++++++++++

私の中には、もう1人の「私」がいる。
たしかに、いる!

たとえばだれかが私に親切にしてくれたとする。
すると、私は、それをうれしく思う。
そういう私は私。それが私。

しかし私の中には、もう1人の私がいて、
こう考える。

「この人は、何が目的なのだろう?」と。
あるいは、
「この人は、何を求めているのだろう?」と。

すなおにそれを喜べばよいのに、
いつももう1人の「私」が、それをじゃまする。

こうした現象は、どの人にも共通しているのか?
それとも、私だけに起こる現象なのか?

ワイフにそれを聞くと、ワイフには、それがないという。
私には、むしろ、そういうワイフが信じられない。

「もう1人の自分がいないのか?」と聞くと、
「いない」と答える。

「ほんとうにいないのか?」と聞くと、
やはり「いない」と答える。

が、私の中には、もう1人の「私」がいて、それが
私を操作する。

いじけさせたり、ひねくれさせたりする。
ときに自虐的な行為に走らせることもある。

そういうもう1人の「私」と、どうすれば、私は決別できるのか?
それをこのところ、よく考える。

恐らく、もう1人の「私」は、私が幼児期のころ、
生まれたものだと思う。

私の父は、よく酒を飲んで暴れた。
その恐怖が、私の中に、もう1人の「私」を作った。
言うなれば心のキズ。
そのキズが今も、深く、自分の心の中に残っている。

よく、「心のキズは消えますか?」と聞く人がいる。
だから私は、そう聞かれるたびに、私は、こう答えるようにしている。

「一度、ついたキズは、消えません。忘れることは
できますが、消えません」と。

私自身が、その経験者ということになる。

しかし方法はないわけではない。
まず、自分の心の中にあるキズを知る。敵を知る。
知れば、あとは時間が解決してくれる。
キズの程度にもよるが、時間が解決してくれる。

そしてもう1人の「私」が顔を出したら、自分にこう言って
聞かせる。
「これはほんとうの私ではないぞ」と。

あとは忘れる。あとは、仲よく、つきあう。

心のキズというのは、そういうもの。

が、私のワイフのような人間のほうが、少ないのではないか?
このことは、子どもたちを見ているとよくわかる。

いじけたり、ひねくれたり、ひがんだり、嫉妬したり……。
そのつど別の「私」に、操作される。
そんな子どもは、多い。

みんな、多かれ少なかれ、何らかのキズを引きずりながら、
生きている。

これは自己弁護か?


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●育児ノイローゼ
When mother suffers from child-care neurosis.

++++++++++++++++

育児ノイローゼについては、たびたび
書いてきました。

原稿のほうは、ヤフー、グーグルの
ほうで、「はやし浩司 育児ノイローゼ」を
検索してくだされば、読んでいただけます。

以前、中日新聞で発表した原稿を、そのまま
紹介します。

++++++++++++++++

( 夫よ、妻を理解せよ!)

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(2歳児)が、大やけどを負うところだった。

次に店にやってきた客へのつり銭をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかっ
た。あせればあせるほど、頭の中で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、36歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。

そういうAさんを、夫は「だらしない」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの
米屋だったが、店の経営はAさんに任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょう
か」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。

(1)生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
(2)思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
(3)精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、
日常活動への興味の喪失)、
(4)睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
(5)風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
(6)「ムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
(7)ささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
(8)同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなく
なる(感情障害)、
(9)他人との接触を嫌う(回避性障害)、
(10)過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
(11)また必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。

こうした兆候が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。

+++++++++++++++

ここでは、さらにつぎの段階に
ついて考えてみます。

+++++++++++++++

 当然のことながら、育児ノイローゼ、つまり、心がうつ状態になると、ものごとへの(こだわり)
が、強くなる。ささいなことを気にして、それについて悶々と悩んだりする。悩むだけならまだし
も、ときに、人との接触を避けたり、反対に、周囲の人たちに、当たり散らしたりする。

 ある日、突然、Cさんという女性から、電話がかかってきた。見知らぬ女性である。私の電話
番号は、近くの交番までやってきて、そこで知ったらしい。

 その声からして、ふつうではなかった。オドオドというか、サメザメというか、息子(21歳)のこ
とについて、あれこれ言った。

 「よくない女性とつきあっている」
 「コンビニで万引きをした」
 「タバコを吸っている」
 「酒もよく飲む」
 「仕事は、高校を出てから、4回も変わった」などなど。

私「タバコを吸っている人は多いですよ」
C「でも、うちの子は、17歳くらいから吸っています」
私「みんなそれくらいからですよ」
C「20歳未満からタバコを吸うようになると、肺ガンになるといいます」
私「そういう説もあります」
C「私たちが生きているうちなら、何とかなりますが、私も、もうすぐ50歳です」
私「……」と。

 こういう押し問答が、延々とつづく。まさにああ言えば、こう言う式の相談がつづく。

私「で、よくない女性というのは、どういう女性ですか?」
C「夜は、スナックで働いています」
私「はあ〜。いまどき、そういうことを言ってはいけません」
C「水商売です」
私「だからね、それが偏見だということです。どうしてスナックで働くことが悪いことなのですか」
C「……今は、そういう時代ですか? 私が古いのですか?」
私「そうですね。古いですね。戦前の考え方ですね。あるいは封建時代の身分制度の名残か
な? 職業によって、相手の価値まで判断してしまう」と。

 私は何度も電話を切ろうとしたが、こちらの都合など、まるで意に介さない。自分のことだけ
を、ペラペラといつまでも話しつづけた。

 電話は、その翌日もかかってきた。そのまた数日後もかかってきた。朝、夜の区別もなかっ
た。

 こういう相談のときは、とにかく聞き役に徹するしかない。Cさんは、私に話すことで、自分を
整理する。心の中にたまったうっぷんを晴らそうとする。しかし私にも、(時間)というものがあ
る。

 いつだったか、どこかの小児科のドクターがこう言っていたのを思い出した。私が、「カウンセ
リングはどこまでしていますか?」と聞いたときのこと、そのドクターは、こう言った。

 「うちではしていません。看護婦も、10人いますから、そういう人たちの給料も稼がねばなり
ませんから」と。

 つまりカウンセリングといっても、1人あたり、最低でも30分ほどかかる。しかもお金にならな
い。そのドクターは、それを言った。「現実には、不可能です」と。

 では、どうするか?

 育児ノイローゼといっても、たまたま対象が、「育児」、つまり「子ども」というだけで、中身は、
うつ病と考えてよい。心の病気。そういう前提で、子どもの問題というよりは、母親自身の心の
問題と考える。

 私は、Cさんの夫に電話をかわってもらった。幸い、おだやかで、静かな口調の人だった。私
は、「一度、心療内科かどこかへ、相談したらよいのでは……」と話した。夫も、すなおにそれ
に同意してくれた。

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Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist はやし浩司 育児ノイローゼ う
つ うつ病)


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2505)

●心のトゲ
Ignorance is itself a sin. But we cannot blame anyone since he or she is ignorant.

無知は、それ自体、罪悪だが、
だからといって、その無知を責めることはできない。

程度の差こそあれ、人は、あなたも私も、例外なく、
無知の世界で生きている。

遠い昔、こんなことがあった。

J君(当時、17歳くらい)は、レコードを集めていた。
レコードというレコードは、すべてもっていた。
J君は、中学を卒業すると、家業の小間物屋を手伝い始めた。
給料はなかったが、ときどき小遣いをもらっていた。
その小遣いで、J君は、レコードを買いつづけた。

何しろ昭和40年代のころのことで、診断方法すらなかった。
もちろん診断基準もなかった。

しかし今なら、こう診断されたであろう。
「自閉症」と。

J君は、今でいう自閉症の症状を、すべて合わせもっていた。
そのひとつが、異常なまでの(こだわり)。
その(こだわり)が、レコードに向いた。
J君は、レコード一枚一枚に、メモをつけ、それを整理していた。
番号をふり、あいうえお順に、きちんと、一寸の狂いもないほどに
並べていた。
J君のゆいいつの楽しみだった。
それが、J君の世界の、すべてだった。

が、母親も、父親も、またJ君の妹も、弟も、あまりにも無知だった。
とくに母親は、「精神病」というレッテルを張られることを、
何よりも恐れた。世間体を気にした。

いつしかJ君は、家の中に閉じこめられるようになった。
J君自身も、外には出なかった。
回避性障害、対人障害、対人恐怖症、先端恐怖症などなど、J君の障害に診断名を
つけたら、10以上になったかもしれない。

さらに不幸なことに、両親は不仲で、毎日のようにいがみあっていた。
J君は、家族の愛にも恵まれなかった。

そんなある日、J君にとって、一大事件が起きた。

母親が、J君の集めたレコードを見て、激怒した。
それまではレコードは、その家の目立たないところに、隠されていた。
とくに隠したというわけではなかったが、J君は、そこにしまっておいた。
誰からも見えないところ、に。
誰からも触れられないところ、に。

母親は、J君のレコードを片っ端から、箱に詰めた。
そしてその箱を、倉庫がわりに使っていた、別棟の二階にしまってしまった。

その夜から、J君の様子が変わった。
変わったというより、おかしくなった。

オドオドしていたかと思うと、突然、ニタニタと笑い出すなど。
突然、階段の上から両手をのばしたまま、下に落下するということもあった。

その異変に驚いた伯母が、J君の母親をたしなめた。
が、母親は、こう言ってのけたという。

「何百枚もレコードはいらない。2、30枚もあればじゅんぶん」と。

しかしJ君にとっては、レコードには、特別の意味があった。
家族を愛する人の、家族のようなもの。
芸術家にとっての、芸術のようなもの。
「命」そのものだった。

その後、J君がどうなったか、……それを書くのは、ここでの
目的ではない。最初の話にもどる。

無知は、それ自体、罪悪である。
キリスト教の単語を使うなら、「sin(宗教的な罪)」である。
もちろん刑法上の罪悪とはちがう。
だからといって、その罪悪を責めることはできない。

だれしも、例外なく、その無知の世界に生きている。
この世界では、「私がいちばんよく知っている」と豪語する人ほど、あぶない。
そういう人ほど、罪悪のワナにはまりやすい。

J君のケースにしても、J君の母親を責めることはできない。
もちろん父親を責めることもできない。

しかしJ君の自我は崩壊し、人間であることそのものを、
やめてしまった。
そのあと、四六時中、カギのかかった病院の一室で、死を待つだけの
生活をするようになったという。

……で、こうした無知は、いたるところにある。
そういう無知に、しばしば出会う。
おとといも出会ったし、昨日も、出会った。
だからといって、私が無知ではないということではない。
私だって無知である。
しかしときとして、その相手の無知が、手に取るようにわかるときがある。
しかしそれを口に出すことはない。
とくに教育の世界では、そうである。

「どうせ言っても無駄」という思いが、口をふさぐ。
とくに相手がそれを望んでいないときは、口をふさぐ。
この世界には、「10%のニヒリズム」という言葉がある。
「20%」でもよい。

昔、どこかの会合で、だれかが口にしていた言葉である。

最後の10%は、自分のために残しておく。
けっして全力投球は、しない。
全力投球をすれば、この世界では、身も心もズタズタにされてしまう。

いや、「ひょっとしたら、私だってまちがっているかもしれない」という
思いもある。
他人の無知を指摘する私自身が、無知ということもありえる。
そのためにも、10%は、自分のために残しておく。

が、それがこのところ、心のトゲとなって、私を苦しめる。
そのJ君について、こんな思い出がある。

J君の妹にあたる女性から相談があった。
そのときJ君は、40歳くらいになっていたのではなかったか。
相変わらず、家の中に引きこもっていた。
J君の父親は、他界していた。
私はJ君に会った。

が、何よりも驚いたのは、J君の母親の態度だった。
表面的には、柔和でやさしい顔をしていが、時折見せるJ君への視線には、
ぞっとした。
鋭く、心を射貫くような視線だった。

しばらくJ君と話したあと、私がJ君に、「つらいのか?」と声を
かけると、J君は、ポロポロと涙をこぼした。
私は自分がもっていたハンカチを、J君に渡した。

その日はそれで終わったが、J君の症状が、一気に悪化したのは、
それから数か月ほどたったときだったという。
そしてそれからさらに5年後、J君は、50代半ばという若さで
他界してしまった。直接の死因は、肺炎だったという。

私はワイフにこう言った。

「ぼくの人生には、いろいろなことがあった。無数の人に出会い、
いろいろな経験をした。しかしあのJ君のことだけは、どうしても
心からぬぐいさることができない。どうしてあのときぼくは、J君を、
助けることができなかったんだろう」と。

方法はいくらでもあったと思う。
病院へ連れていくこともできた。
専門医を紹介することもできた。
父親を説得することもできた。
いや、J君と母親を切り離すこともできた。
J君の母親は、陰に隠れて、J君を虐待していた。

それが今、それからもう15年以上にもなろうというのに、
心のトゲとなって、ときにつけ、シクシクと胸の中で痛む。
痛んでは、私を苦しめる。

ワイフはそういう私を横で見ながら、「しかたないのよ。
みんな、一生懸命したのだから……」と。

そうかもしれない。そうでないのかもしれない。
が、これだけは言える。

世の親たちよ、よく聞いてほしい。
「無知は罪悪である」。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 無知という罪悪 無知 罪悪)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●士気(Morale of the Soldiers)

+++++++++++++++++

もともと士気がたるんでいたから、ああいう事故が
起きた。私もそう思う。

しかし今回の事件を通して、その士気が、さらに拍車をかけて、
ますますさがることになりやしないか。

私は、それを心配する。

+++++++++++++++++

海上自衛隊のイージス艦「A」と漁船「S丸」の衝突事故は、
防衛大臣の辞任問題にまで、発展している。
昨日は、日本国の最高責任者であるF首相までもが、遺族宅を訪問して、陳謝した。

もともと士気がたるんでいたから、あの事故は起きた。私もそう思う。
しかし今回の事件を通して、ますますその士気が、
さらに拍車をかけて、さがることになりやしないか。

……何とも、気の抜けた話である。
まるで気の抜けたビールのよう。
あの防衛省まで!
これで、ほんとうに、日本の平和と安全は守れるのか。

やることはやる。しかし余計なことはしない。
言われたことはやる。しかし余計なことはしない。
万事、ことなかれ主義。
もっと悪く言えば、役人根性丸出し。サラリーマン的。

自衛隊員の士気は、しばしば問題になる。「ほんとうに死ぬ覚悟はあるのか」と。
今までの士気もさることながら、これでは、ますます士気はさがる。

「戦争」とまではいかなくても、「国を守る」ためには、士気が必要。
その士気なくして、国を守ることはできない。
サッカーの試合に、たとえるまでもない。

「勝ちたい」という強い意思があってはじめて、サッカーの試合は試合としての
意味をもつ。
はじめから、「言われたことはやる。しかしそこまで」では、もとから
試合にはならない。

遺族の方には、ほんとうにお気の毒だと思う。思うが、事故は事故。大切なのは、
現場の責任者を、徹底的に処罰すること。当然、国は国としての責任を取る。
が、問題は、そこから。
今回の事件で、防衛大臣が辞任し、総理大臣までもが頭をさげるよう
であれば、現場の士気は、ますますさがる。さがるだけ。

それらは、ただのパフォーマンス。
自衛隊員の気持ちになってみれば、それがわかるはず。

いくら上からの命令がなくても、現場の自衛官は、自分の判断で、漁船の
乗組員たちを助けるべきだった。それをイチイチ、上へ、上へと、(おうかがい)を
たてているから、こういう不幸な結末になってしまった。

中には、「オレが海へ飛び込む……」と考えた自衛官もいたかもしれない。
「オレが助けてやる」と考えた自衛官もいたかもしれない。

もし今回の事件で、問題があるとするなら、この一点に集約される。
どうしてそういう自衛官が、海へ飛び込めなかったのか?
助けることができなかったのか?

つまり、これが私が言う、「士気」の問題である。
もっとわかりやすい言葉を使えば、「やる気」の問題ということになる。

これからは自ら船を止め、海へ飛び込む自衛官は、ますます少なくなるだろう。
「言われたことはやる。しかしそこまで」と。

自衛官「隊長、向こうが機関銃を撃ってきました!」
隊長 「本国に連絡して、指示を請え」
自衛官「隊長、今度は対艦ミサイルです!」
隊長 「それも本国に連絡して、指示を請え」と。

やる気のない自衛官。そこへもってきて、ますますやる気をなくす自衛官。
しかも不幸なことに、そのやる気のない自衛官から、ますますやる気を奪っている。
上官からして、責任逃れのウソばかりついている!

これでは、国どころか、自分の船さえも、守れない!

何か、おかしいぞ、日本。日本の防衛省。そして自衛官!

総理大臣は、遺族の前で、「2度とないよう頑張りますから」と再発防止を誓った
という(Yahooニュース)。

が、防衛大臣が辞任したからといって、また総理大臣が謝罪したからといって、
今回の事件のような事件が、防げるわけではない。
どこかピントがズレている?

たまたま今朝(3月2日)の新聞によれば、国土交通省だけでも、
1200あまりの役人が、その先で、道路財源から、
約2000億円の補助金や事業発注名目の支出を
受け取っていたという(2006年度)(中日新聞)。

公僕意識など、どこ吹く風。こういう問題を一方で放置しておいて、
自衛官だけに、「やれ!」と言っても意味はない。
問題の「根」はもっと深い。別のところにある!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2506)

●二男のBLOGより

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このところ、二男が、鋭いというか、
私にはない感覚で、原稿を書くように
なった。

おもしろい!

……ということで、ときどき、
二男のBLOGもよろしく!

+++++++++++++++

●パレイト・プリンシプル
 
パレイト・プリンシプル、もしくは80/20ルールという言葉がある。

多くのできごとにおいて、80%の結果は20%の原因に因る、というのがその基本的理論。と
りあえずプログラミングで言うなら80%の処理時間は、全体の20%のコードによって占められ
ている、とか、ビジネスの世界では、80%の利益は、20%のクライエンとから来る、とかいう
のがよく知られていると思う。

ソローを読んだ後、子供の頃から思いつづけてきた事がある。80%の努力は、20%の生活
の質の向上のために占められているのではないか、ということ。

例えば、明日給料が80%カットされて、その結果影響を受けるのは、生活の質のたった20%
なのではないか、ということ。たった20%の給料でも、イラクのように毎日身の回りの知人が爆
弾で吹っ飛ばされたり、ウズベキスタン政府のような腐敗だらけの政府から迫害されたり、キリ
スト教徒でないからといって、火あぶりにされることはない。

ボロ家であっても、おそらくまともな水を飲むことができ(スーダンの一部ではおそらく無理)、基
本的人権は守られ、切り詰めればなんとか生きていける。

もう少し極端過ぎない例としては、家の掃除がある。20%の労力で80%の「きれいさ」を保つ
ことができるのではないか? 残り80%の労力は、床をピカピカにしたり、チリ一つない本棚
にするなど実際の「きれいさ」からみれば、20%の向上に満たないことに費やしている。潔癖
症の人の行動を見れば、それがよくわかる。

つまり、人生、ありとあらゆる活動において、この80%の価値が分かれば、たった20%の労
力でも、満足できる人生が送れるのでは、と感じる。

(語句の使い方などは、私の文調に合わせた。)

++++++++++++++++

なるほど!

よいことを教えてもらった!
「そういうことだったのだ」と、改めて納得。

私たちはえてして、20%のものを失うにすぎないのに、
すべてを失ってしまうかのように、あわてたり、騒いだりする。

その愚かさに、気がついた!

ところで、「パレイト」とは、どうつづるのか?
そういう説明もしてくれると、ありがたい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【家族自我群による幻惑】

●今朝・あれこれ(3月3日)(March 3rd)
My mother was carried to a hospital by ambulance car, since she lost consciousness in that 
morning. She received some medical checks but she recovered her consciousness around 
that time. And in the next day I sent her back to the Center. In the car with my mother, I 
thought a lot of things. My mother is me myself of 20 0r 30 years later. 

+++++++++++++++

このところ母の容体が、よくない。
今年に入ってから、これで2回、
救急車で、病院へ運ばれた。

今朝は、朝食後、意識がなくなって
しまったという。

あわててかけつけると、母は、酸素
吸入器を口につけ、ハーハーと
あえいでいた。血圧は、90弱〜70
前後。

母にしては、異常な低さである。

大声で声をかけると、意識はもどった。
つきそいの看護士の方が、「一時的
だといいですね」と言った。

母を見ていると胸が詰まった。
姉だけには連絡を……と思って
電話をかけたが、つぎの言葉が出て
こなかった。

「今朝まで、ちゃんと朝食をとって
いました」とのこと。
午後からはワイフに任せた。
私は自宅にもどった。

……この静けさは何か?
この穏やかで、やわらいだ気分は何か?

カーテンを見ると、白い光が、
木々の小枝の影を、くっきりと
映し出している。

その向こうで、隣の屋根瓦が、キラキラと
光っている。

風もない。
寒さも、やわらいだ。

ワイフからの連絡を待つ。
今の私には、それしか、することがない。
静かに、静かに、どこまでも、静かに。

+++++++++++++++

(3月5日)

幸い、母は、たいしたこともなく、
「様子見入院」だけですんだ。

で、病院に1泊して、翌日(=昨日)、センターに戻った。
帰りは、タクシー会社の、寝台つきバンだった。
そのバンの中で、いろいろ考えた。

センターでは、母は、(お荷物)に
なり始めているらしい。
今年に入って、寝たきりの状態がつづいている。
だからといって、センターの人を責めているのではない。
センターとしても、できることには限界がある。
それはわかる。

一方、病院側には、病院側の論理がある。
治療が目的。
「治る見込みのある患者を治すのが、病院の役目」。
どこかの医師も、そう言っていた。老人を預かる施設ではない。

とくに母のように、とくにどこかが悪いという
わけでもない老人は、患者ではない。

医師もこう言った。「何かあっても、延命措置は
取りません」「寿命ですから」と。

その日の午後には、心電図検査を予定して
いたが、私がキャンセルした。

私が「しても意味はないですね」と言うと、
医師も、すんなりと、「そうですね」と。

……私たちも、いつかは、母のようになる。
母のようになるのが、どうこうというのではない。
現在の母が置かれているのと、同じような、立場に置かれる。

そのとき、医師も含めて、周囲の人たちは、
私たちを、どう扱うか。

「いつ死んでも仕方ない」という扱い方をするだろう。
治療といっても、治療の方法すらない。

一方、たとえば病院に、1週間も入院していると、
センターのほうでは、母の居場所が末梢されてしまう。
そうでなくても、入居を待っている人は多い。

医師もこう言った。

「そうなったら、どこかのセンターに再入居する
しかないですね」と。

しかし今度は、そうは簡単にいかない。
再入居するのに、数か月待ちということになったら、
その間、母は、どこにいればよいのか。

「やはりセンターに戻してもらったほうがいい」という
ことで、母は、センターに戻してもらった。

老人介護、老人医療には、いろいろ問題があるようだ。
そんなことを帰りのバンの中で、考えた。

見た目には、スヤスヤと眠っている母を見ながら……。

+++++++++++++++

介護のコツは、介護のことを考えているときと、
そうでないときで、頭の切り替えを、しっかりと
すること。

仕事にもどったり、家庭にもどったりしたら、
介護のことは忘れる。母のことは、忘れる。

「死んだら、死んだとき」と。

なかなかむずかしいことかもしれないが、
そこまで割り切らないと、気苦労だけが倍加してしまう。

ものごとは、なるようにしかならない。
「なるようにしかならない」と自分に言い聞かせて、
心の中を、サッと洗う。

ところで、こんな話を聞いた。

参観に来ていた母親に、「親の介護もたいへんですよ」と、
私がふと漏らすと、その母親は、こう言った。

「私の夫なんかは、母(=夫の実の母親)を見舞ったことは、
めったにありませんよ」と。

その母(=夫の実の母親)というのは、入院して、2年になるという。
事故で頭をけがしてからというもの、認知症に
なってしまったという。

年齢を聞くと、その母(=夫の実の母親)は、まだ60歳とか。

私「若いのに……。60歳で、寝たきりですか……」
母「そうですね」
私「でも、また、どうして? どうして、2年も……?」
母「いろいろありましたから」と。

親子の間で、私には想像もつかないような確執があったらしい。

私「親子関係といっても、さまざまですからね」
母「そうですね」
私「……」と。

+++++++++++++++++++

それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。
外からでは、ぜったいにわからない。
だからあなたがもっている(常識)だけで、
その家庭を判断してはいけない。
一方的な話だけを聞いて、判断するのも正しくない。

仏教の世界にも、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という
言葉がある。

「憎い相手と会う苦しみ」という意味だが、
親子であっても、どこかで歯車が狂うと、そうなる。
親子であるがゆえに、その苦しみも大きい。

さらに兄弟、姉妹となると、憎しみ合っている人は、
ゴマンといる。
遺産問題、金銭問題がからんでくると、兄弟、姉妹でも、
それこそ、血みどろの争いになる。
そういう例も、これまたゴマンとある。

そういう相手と会う……それはまさに、「怨憎会苦」。
「四苦八苦」のひとつにもなっている。

では、どうするか?
そうしたトラブルから、いかにして自分を救出するか?

つまりは、相手が、サルかイヌに見えるまで、
自分を高めるしかない。
(言葉はキツイが、それくらいに思わないと、この問題は
解決しないので、そう書く。)
が、「サルだと思え」「イヌだと思え」と言っても、
それはむずかしい。

だから自分を高める。
芸術に親しみ、本を読み、教養のある人と話をする。
その結果として、相手が、サルかイヌに見えるまで、
自分を高める。

私のばあいも、同じような立場に立たされたことが、
何度か、ある。
そういうときは、心の中で、歌を歌っていた。

(一度は、思わず、口が動いてしまい、相手に
バレそうになってしまったこともあるが……。)

言いたい人には言わせておけばよい。
思いたい人には、思わせておけばよい。

相手は、サルはサル。イヌはイヌ。どうせその程度の人間。
人間と言うよりは、サルかイヌ。
あなたが相手にしなければならないような人ではない。
また「わからせよう」と思っても、ムダ。
それだけの知恵もない。頭もない。

あとは無視。適当につきあって、それですます。

++++++++++++++++++

こんな例を、ワイフが話してくれた。

「2年どころか、10年間、一度も、実の母親を
見舞っていない人もいるわよ」と。

その人を、Z氏(50歳、男性)としておく。

実の母親というのは、10年前に認知症になり、
今年85歳になるという。

「どうして、そうなったの?」と聞くと、ワイフが、
こう話してくれた。

ワ「もとはと言えば、Z氏が、今の奥さんと結婚するため、
家を出たのが始まりみたい。
1人息子だったのね。
そこでZ氏の母親が、猛反対。『結婚して家を出るなら、
今までお前にかけた、養育費を全部、返せ!』という
ことになったのね。
一時は、裁判沙汰にまでなったそうよ。
で、親子の関係は、それで切れてしまったというわけ」

私「養育費を返せというのも、ふつうではないね」
ワ「でも、そういう親も、多いわよ。私の知っている
別の人(=男性)なんか、いまだに実の親に、『お前にかけた、
学費を全部、返せ」と言われているそうよ。額は、
3000万円だってエ!」
私「でも、そんなことを親のほうが言えば、親子関係は、
おしまいだよ」
ワ「そうね。親もそのつもりではないかしら。Z氏の
母親にしてもそうよ。つまり親のほうから、先に縁を
切ってきたというわけ。だから、それでおしまい」

私「Z氏が家を出たというのも、わかるような気がする。
そういう親だから、家にはいたくなかったんだろうね。
つまりそういうことをしそうな親だということが、Z氏には
わかっていたんだよ」
ワ「そう、Z氏が家を出たから、親子関係が切れたのではなく、
すでに、Z氏が家にいるころから、切れていたのね。
それにZ氏の母親は、気づかなかっただけなのね」と。

表面的な部分だけを見れば、Z氏は、「子らしからぬ子」と
いうことになる。

事実、ごく最近まで、Z氏は、母親の兄(伯父)に、「お前は
親不孝者」と、ののしられていたそうだ。

Z氏の苦しみも、また大きい。……大きかった。

ワ「だから、今でも、Z氏は、実家の近くにさえ近寄らない
そうよ」
私「わかるね、その気持ち。とても、よくわかる」
ワ「Z氏にしてみれば、子どものときからの積み重ねも
あるから……。私の友だち(女性)にも、結婚して以来、
一度も実家に帰っていない人がいるわよ」
私「何年くらい?」
ワ「私より10歳くらい若いから、ざっと計算しても、
20年近くじゃ、ないかしら……」
私「20年ネエ〜。よほどのことがあったんだろうね」
ワ「そうね……。よほどのことがあったんでしょうね」と。

そんなわけで、もし今、あなたが、どこかのだれかに、
その家の家庭問題であれこれ言っているようなら、
すぐやめたほうがよい。

あなたは気がついていないかもしれないが、
言われたほうの人は、死ぬほど苦しい思いをしているはず。
あなたは親切心のつもりで言っているかもしれない。
もしそうなら、おカネを出してやったらよい。

それができないなら、だまっていること。
口を出すことくらいなら、だれにだって、できる!

ともかくも、これから母を見舞いに行ってくる。

+++++++++++++++

その前に、以前、「親捨て」と、親類の人からだけではなく、
近所の人たちにも、呼ばれている人がいました。
その人について書いた原稿を、ここにあげてみます。

+++++++++++++++

●親捨てる子ども(Son and daughters who abandon their parents)

 今でもある地方へ行くと、「親捨て」という言葉が残っている。「親のめんどうを見ない、親不孝
者」の人のことを、そう呼ぶのだそうだ。

 ただ単なる言葉だけの問題ではない。その地方では、一度、親捨てと呼ばれたら、親戚づき
あいができなくなるのは、もとより、近所の人たちからさえも、白い目で見られるという。現実に
は、「郷里へ帰ることさえできなくなる」(ある男性からのメール)とのこと。

 その地方では、そういう形で、むしろ子どもを積極的に、自我群のもつ束縛の中に、組みこも
うとする。それは自分自身の老後のためかもしれない。親を捨てた子どもをきびしく排斥するこ
とによって、その一方で、自分の息子や娘に対して、「親を捨てると、たいへんなことになるぞ」
と、警告することができる。

 が、それだけではない。

 「親捨て」のレッテルを一度張られた子どもは、その重圧感に、一生、悩み、苦しむことにな
る。 

 こんなメールが、Nさんという方から、届いた。

++++++++++++++++

●Y市のNさんよりメール
 
 Y市に住んでいる、Nさんより、母親(実母)についての相談があった。

 Nさんは、現在、31歳。2児の母親。

 Nさんの母親(実母)は、プライドの高い人で、人から、何か指摘されたりすると、カッとなりや
すい人のようである。そしていつも、夫(Nさんの実父)の顔色をうかがって、生活しているような
ところがあるという。

 Nさんにとって、Nさんの生まれ育った家庭は、とても「暖かい家庭」とは言えなかったようであ
る。一度、Nさんが家出をしたとき、こんなことがあったという。Nさんが、高校生のときのことで
ある。

 Nさんの母親は、Nさんを迎えにきたとき、Nさんに、「私がかわりに家出をするから、あなた
はもどってきなさい」と言ったという。その一件で、Nさんは、母親との信頼関係が、崩れたよう
に感じたという。

 「私は恵まれた家庭に育っていない。しかし自分の子どもたちには、家族の温もりを教えてあ
げたい」「幸福な気持ちで、生きてほしい」「どうしたらいいか」「また、両親に、もっと自分たちの
ことを気づいてほしい。どうしたらいいか」と。

【Nさんへ……】

 エッセー形式で、返事を書いてごめんなさい。Nさんのかかえておられる問題は、広く、つまり
あちこちの家庭で起きている問題です。そういう意味で、エッセー形式にしました。どうか、ご理
解ください。

【家族自我群からの解放】

 「家族意識」には、善玉意識と悪玉意識がある。これについては、すでにたびたび書いてき
た。

 「家族だから、みんなで助けあって生きていこう」というのが、善玉家族意識。「家族として、お
前には勝手な行動は許さない」と、家族同士をしばりあげるのを、悪玉家族意識という。

 この悪玉家族意識には、二面性がある。(ほかの家族をしばる意識)と、(自分自身がしばら
れる意識)である。

 「お前は、長男だから、家を守るべき」「お前は、息子なのだから、親のめんどうをみるべき」
と、子どもをしばりあげていく。これが(ほかの家族をしばる意識)ということになる。

 一方、子どもは子どもで、「私は長男だから、家をまもらなければならない」「息子だから、親
のめんどうをみなければならない」と、自分自身をしばりあげていく。これが、(自分自身がしば
られる意識)である。

 問題は、後者である。

 それなりに良好な親子関係ができていれば、自分で自分をしばりあげていく意識も、それなり
に、良好な親子関係をつくる上においては、プラス面に作用する。しかしひとたび、その親子関
係がくずれたとき、今度は、その意識が、その人を、大きな足かせとなって、苦しめる。

 ばあいによっては、自己否定にまで進む。

 ある男性は、実母の葬儀に出なかった。いろいろ事情はあったのだが、そのため、それ以
後、自らに、ダメ人間のレッテルを張ってしまった。

 「私は親を捨てた、失格者だ」と。

 その男性の住む地方では、そういう人のことを、「親捨て」と呼ぶ。そして一度、「親捨て」のレ
ッテルを張られると、親戚はもちろんのこと、近所の人からも、白い目で見られるようになると
いう。

 こうした束縛性を、心理学の世界でも、「家族自我群」と呼ぶ。そうでない人、つまり良好な親
子関係にある人には、なかなか理解しにくい意識かもしれない。しかしその意識は、まさにカル
ト。家族自我群に背を向けた人は、ちょうど、それまで熱心な信者だった人が、その信仰に背
を向けたときのような心理状態になる。

 ふつうの不安状態ではない。ばあいによっては、狂乱状態になる。

 家族としての束縛性は、それほどまでに濃厚なものだということ。絶対的なものだということ。
親自身も、そして子ども自身も、代々、生まれながらにして、徹底的に、脳ミソの中枢部にたた
きこまれる。

 こうした意識を総称して、私は「親・絶対教」と呼んでいる。日本人のほとんどが、多かれ少な
かれ、この親・絶対教の信者と考えてよい。そのため、親自身が、「私は親だから、子どもたち
に大切にされるべき」と考えることもある。子どもが何かを、口答えしただけで、「何だ、親に向
かって!」と、子どもに怒鳴り散らす親もいる。

 私がいう、悪玉親意識というのが、それである。

 ずいぶんと、回り道をしたが、Nさんの両親は、こうした悪玉家族意識、そして悪玉親意識を
もっているのではないかと、思われる。わかりやすく言えば、依存型人間。精神的に未熟なま
ま、おとなになった親ということになるのかもしれない。Nさん自身も、メールの中で、こう書いて
いる。

 「(母も)、そろそろ自分の人生を生きることを選んで欲しいと、心から願っています」と。

 Nさんの母親は、いまだに子離れができず、悶々としている。そしてそれが、かえってNさんへ
の心理的負担となっているらしい。

 実際、親離れできない子どもをかかえるのも、たいへんだが、子離れできない親をかかえる
のも、たいへんである。「もう、私のことをかまわず、親は親で、自分の道を見つけて、自分で
生きてほしい」と願っている、子どもは、いくらでもいる。

【親であるという幻想】

 どこかのカルト教団では、教祖の髪の毛を煎じて飲んでいるという。その教祖のもつ霊力を、
自分のものにするためだそうだ。

 しかし、そういう例は、少なくない。考えてみれば、おかしなことだが、実は、親・絶対教にも、
似たようなところがある。

 ……という話はさておき、(というのも、すでに何度も触れてきたので)、私も、すでに56歳。
その年齢になった人間の一人として、こんなことが言える。

 「親という言葉のもつ、幻惑から、自分を解放しなさい」と。

 子どもから見ると、親は絶対的な存在かもしれない。が、その親自身は、たいしたことがない
ということ。そのことは、自分がその年齢の親になってみて、よくわかる。

 多分、20代、30代の人から見ると、56歳の私は、年配者で、それなりの経験者で、かつそ
れなりの人格者だと思うかもしれない。しかしそれは、幻想。ウソ。

 ざっと私のまわりを見ても、50歳をすぎて、40代のときより、進歩した人など、一人もいな
い。人間というのは、むしろある時期を境に、退化するものらしい。惰性で生きるうち、その範
囲の生活的な技術は身につけるかもしれない。が、知性にせよ、理性にせよ、そして道徳観に
せよ、倫理観にせよ、むしろ自ら、退化させてしまう。

 わかりやすく言えば、歳をとればとるほど、くだらない人間になる人のほうが、多いというこ
と。それはまさに健康や体力と似ている。よほどの訓練をしないと、現状維持すら、むずかし
い。

 これは現実である。まちがいのない現実である。

 しかし親に対する幻想をもつ人は、その幻想に、幻惑される。「そんなはずはない」「親だから
……」と。

 Nさんも、どうやら、そうした幻惑に苦しんでいるようである。

 だから、私は、こう言いたい。「Nさん、あなたの母親は、くだらない人です。冷静にそれを見
抜きなさい。親だからといって、遠慮することは、ない」と。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、Nさんの母親をどうこうと言っているのではな
い。親・絶対教の人にこう書くと、かえって猛烈に反発する。以前、同じようなことを書いたと
き、こう言ってきた人がいた。

 「いくら何でも、他人のあなたに私の母のことを、そこまで悪く言われる筋あいはない」と。

 私が言いたいのは、親といっても、その前に一人の人間であるということ。そういう視点から、
親を見て、自分を見たらよいということ。親であるという幻惑から、まず、自分を解放する。

 この問題を解決するためには、それが第一歩となるということ。

【親のことは、親に任せる】

 Nさんのかかえるような問題では、子どもとしてできることには、かぎりがある。私の経験で
は、親自身に、特別な学習能力があるなら話は別だが、それがないなら、いくら説得しても、ム
ダだということ。

 そもそも、それを理解できるだけの、能力的なキャパシティ(容量)がない。おまけに脳細胞そ
のものが、サビついてしまっている。ボケの始まった人も、少なくない。

 さらにたいていの親(親というより、親の世代の年配者)は、毎日を惰性で生きている。進歩
などというのは、望みようもない。

 そういう親に向かって、「あなたの人生観はまちがっている」と告げても意味はないし、仮にそ
れを親が理解したとしたら、今度は、親自身が、自己否定という地獄の苦しみを味わうことにな
る。

 つまり、そっとしておいてあげることこそ、重要。カルトを信仰している、信者だと思えばよい。
その人が、その人なりに、ハッピーなら、それはそれでよい。私たちがあえて、その家の中に、
あがりこみ、「あなたの信仰はまちがっている」などと言う必要はない。また言ってはならない。

 この世界では、そうした無配慮な行為を、「はしごをはずす行為」という。「あなたはまちがって
いる」と言うなら、それにかわる、(心のよりどころ)を用意してあげねばならない。そのよりどこ
ろを用意しないまま、はしごをはずしてはいけない。
 
 要するに、Nさん自身が、親自身に幻想をいだき、その幻惑の中で、もがいている。家族自
我群という束縛から、解放されたいと願いつつ、その束縛というクサリで体をしめつけ、苦しん
でいる。

 だから、Nさん自身が、まず、その幻想を捨てること。「どうせ、くだらない人間よ」「私が本気
で相手にしなければならない人間ではない」と。

 「親だから、こんなはずはない」と思えば思うほど、Nさん自身が、そのクサリにからまれてし
まう。私は、それを心配する。

 ある男性(50歳くらい)は、私にこう言った。

 「私の父親は、権威主義で、いつもいばっていました。『自分は、すばらしい人間だ』『私は、
みなから、尊敬されるべきだ』とです。しかし過去をあれこれさぐってみても、父が、他人のため
に何かをしたということは何もないのですね。それこそ近所の草刈り一つ、したことがない。そ
れを知ったとき、父に対する、幻想が消えました」と。

 あえて言うなら、Nさんの母親は、どこか自己愛的な女性ということになる。かわいいのは自
分だけ。そういう自分だけの世界で、生きている。批判されるのを嫌う人というのは、たいてい
自己愛者とみてよい。自己愛者の特徴の一つにもなっている。

 幼児的な自己中心性が肥大化すると、人は、自己愛の世界に溺れるようになる。Nさんのメ
ールを読んでいたとき、そんな感じがした。

【お子さんたちのこと】

 Nさんは、子どもへの影響を心配している。「子どもたちに、幸福な家庭を見せてあげたい」
と。

 心配は無用。

 Nさんの子どもたちは、Nさんの子どもたちへの愛情の中から、自分たちの進むべき道を見
つけていく。つまりそうして子どもたちの将来を心配するNさんの愛情こそが、大切ということ。

 たしかに子どもというのは、自分の置かれた環境を再現する形で、おとなになってから、子育
てをする。しかしそれは、決して、物理的な環境だけではない。

 もちろん問題がないわけではない。しかしどれも克服できる問題ばかり。現に今、Nさんは、
私にメールをくれることで、真剣に子どもたちのことを考えている。

 こういう姿勢があるかぎり、子どもたちは、必ず、自分の進むべき道を自分で見つける。

 大切なのは、「形」ではなく、「自分で納得できる人生」である。

 だから子どもたちに対する愛情だけは、見失わないように。

【改めてNさんへ……】

 以上、大急ぎで返事を書きました。あちこち何かしら言い足りないところもありますが、参考
にしていただければ、うれしいです。

 Nさんの問題をテーマにしてしまいましたが、どうか、ご了解の上、お許しください。x月x日号
を今夜配信しなければならないのですが、この数日、ほとんど原稿を書いていません。

 それでx月x日号の原稿とかねて、返事を書かせてもらいました。お許しください。

 では、今夜は、これで失礼します。未推敲のまま原稿を送ります。よろしくお願いします。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

●子どもの自立

+++++++++++++++

Yさん(女性、母親)からのメール
が届いた。

夫のカードローンが、家計を圧迫している。
子どもが、タオルを一日中、吸っている。
夫に、おかしな性癖(?)があるなどなど。

そのため離婚を考えているが、どうしたら
よいか、と。

+++++++++++++++

 子育ての究極の目標は、子どもを自立させること。それは常識だが、その自立のカギをにぎ
るのは、そんなわけで、母親ということになる。わかりやすく言えば、母親が、自分自身のもつ
(限界)に気づき、その(限界)と、戦うこと。

 さらに言えば、子どもがその年齢に達したら、母親自身が、子どもの自立をうながしながら、
子ども自身が、親離れできるように仕向ける。たとえて言うなら、親鳥が、ヒナを、巣から追い
出すような行為をいう。これはただ単なる子離れとは、異質のものである。

 親が子離れするのは、子どもが親離れしたあと、必然的な結果として起こるもの。

 当然、父親の強力も必要となる。先にも書いたように、父親の役割は、ともすれば濃密になり
やすい母子関係に、クサビを打ちこむこと。そして、子どもを外の世界に連れ出し、(狩りのし
方)を教えること。

 もっと言えば、母親が、その母性本能に溺れ、母親だけの子育てをするのは、危険なことで
すら、ある。その危険さに、母親自身が気づく。それがここでいう(限界)ということになる。

●Yさんのケース

 Yさんのメールを読むと、Yさんの周辺には、さまざまな問題が、くもの巣のようにからんでい
るのがわかる。(メールは、掲載許可がいただけなかったので、ここでは紹介できません。)

 Yさんには、つらい話かもしれないが、順に、Yさんの問題点を整理してみよう。

(1)恵まれなかった、幼少時代。貧弱な愛情問題。
(2)父親不在の家庭環境。父親像の薄い、家庭環境。
(3)濃密な親子関係。個人化の遅れ。自我群の束縛。
(4)心を開けない、家庭環境。母子関係の不全。
(5)母親への強度な依存性。マザーコンプレックス。
(6)両親の離婚。それにともなう、心の葛藤。
(7)Yさん自身の信頼関係の不足。そして仮面。
(8)不安神経症と、基底不安。基本的不信関係。
(9)夫の単身赴任。どこか心さみしい結婚生活。
(10)夫や子どもにさえ、心を開けない心の閉鎖性。

 Yさんには、心の状態を正確に知ってほしかったから、あえて書き出してみた。Yさんに与える
衝撃には、はかり知れないものがある。それはわかっている。しかしこの問題だけは、自分が
何であるか、それをまず知る必要がある。「私」を超えた、「私」を、である。それがわからない
と、いつまでも、私であって私でない部分に、振りまわされるだけということになる。

●時は心の癒(いや)し人

 「私」がわかれば、あとは、時間が解決してくれる。『時は、心の癒(いや)し人』という言葉は、
私が考えた。すぐには、解決しない。しかし「私」が何であるかがわかれば、あとは、はやい。

 あるいは「私」が何であるかわれば、別の「私」が、それをコントロールするようになる。「これ
は本当の私だ」「これは本当の私ではないぞ」と。Yさんも、心に大きなキズをもっている。その
キズが、今のYさんをつくりあげた。

 「勉強が好きだった」と言うYさん。しかし本当のところは、勉強が好きだったというよりは、勉
強を通して、自分にとって、居心地のよい世界をつくっていただけなのかもしれない。どこか自
虐的な勉強をしながら、母の関心をひき、母の期待に答えようとした。

 しかし本当にYさんは、もっと、安心して、つまりは不安なく暮らせる、安定した家庭を求めて
いたのかもしれない。が、その希望は、うまく、かなわなかった。

 ……と、いろいろ考えられる。が、ここで重要なことは、「過去は、過去」として、明確に割り切
ること。実のところ、Yさんは、もう一つの問題をかかえている。「世代連鎖」という問題である。

●世代連鎖

 こうした問題は、世代連鎖しやすい。事実、Yさんの母親は、Yさんに離婚をすすめている。周
囲に離婚の経験のない人は、こういうケースでも、「離婚」という言葉を、安易に口にしない。そ
ういう発想そのものがない。一方、身近で離婚を見聞きした人ほど「離婚」という言葉を、口に
しやすくなる。

 そのYさんの両親は、Yさんが、子どものときに離婚している。離婚することが悪いというので
はない。離婚する人には、離婚するだけの理由がある。「結婚」という形にこだわる必要はな
い。しかし問題は、その離婚にまつわる心の葛藤、家庭内の騒動、そして「心」の崩壊である。

 Yさんの子どもは、今、まさに、Yさんが少女時代に体験したのと同じ体験を、繰りかえそうと
している。そのことにYさんは、まだ気づいていない。実のところ、Yさんが、心を開けないなら開
けないで、それは構わない。

 しかしそういうYさんを母親にもち、人知れず、一番悲しみ、苦しんでいるのは、子ども自身で
ある。それを忘れてはいけない。もっと言えば、Yさんの子どももまた、人に対して心の開けな
い人になってしまっている可能性がある。しかも悲劇的なことに、そのことに、Yさん自身が気
がついていない可能性がある。

 言うまでもなく、心の開いている人からは、心の開いていない人がよくわかる。しかし心を開
けない人からは、心の開いていない人がわからない。他人も、自分と同じようだと考えてしま
う。

 こうして、親から子へと、心が伝わっていく心が、心として、世代を超えて伝わってしまう。これ
を世代連鎖という。行為や行動が伝わるのではない。行為や行動は、あくまでも、その結果で
しかない。

【Yさんへ……】

●あなたはすべてをもっている

 かなりきびしいことを書いてしまいました。どうか、冷静に読んでください。私はあなたを怒ら
せるつもりも、不愉快にするつもりも、ありません。

 あなたに、心の平安を取りもどしてほしいのです。安らかで、落ちついた世界です。

 今、あなたはすべてをなくし、不幸のどん底にいると思っているかもしれません。しかしこれ
は、たいへんな誤解です。

 実は、今、あなたは、(すべてのもの)をもっているのです。やさしく、子ども思いの夫。家庭と
家族。健康。若さ。人生。やさしい母親。あなたの母親には、どこか問題はありますが、しかし
この日本では、平均的というより、平均以上!

 あなたはすべてをもっているのです。あなた自身も、です。聡明な知恵、知識、学識、経験、
常識。すべてです。

 ただ一つ、問題があるとするなら、あなたは、自分だけの世界に閉じこもってしまっている。あ
なたの夫ですら、信じていない。あなたの子どもですら、信じていない。

 ここが最大の問題です。あなたは自分のことしか考えていませんが、(たしかにそういう意味
では、自己中心的ですね)、そういうあなたを妻にもち、母にもち、さみしい思いをしているの
は、あなたの夫であり、子どもです。

●借金など、何でもない問題

 はっきり言いましょう。カードローンによる借金など、大きな問題ではありません。事業に失敗
し、破産しても、夫婦で助けあいながら、懸命に生きている人は、この世界には、ゴマンといま
すよ。深刻な子どもの問題をかかえながら、懸命に生きている人は、さらに五万といますよ。い
ちいちそんなことを離婚事由にしていたら、この世の中には、結婚する人などいなくなります。

 (あなたが離婚を考えていることについて、あるいはもっとほかにも、理由があるのかもしれ
ませんが……。夫が単身赴任をしていたという事実が、どうも心にひかかります。どうして単身
赴任など、させたのですか? あるいはその前から、夫婦関係が、おかしくなっていたのです
か? 私は単身赴任などいう制度そのものに、若いときから、猛反対してきました。「家族がバ
ラバラにされて、何のための仕事か!」とです。)

 それにしても、今、あなたにとって大切なことは、命を削るような転機を迎えることではなく、や
るべきことを自分に向ってすることです。

 もしあなたにまだ、いちるの望みがあるなら、そして夫に対する愛が残っているなら、負けを
認めなさい。心を開いて、負けを認めなさい。がんばる必要はありません。勇気を出して、心を
空に向って、解き放つのです。勇気を出して、です。体は、あとからついてきます。

●もっとさらけ出して生きる

 がんばってはいけません。プライドにしがみついてはいけません。ありのままを、あなたの夫
や子どもの前で、さらけ出すのです。それでダメなら、ダメでいいではないですか。ダメで、ダメ
もと。

 「子どもを白目でにらんだり、指を吸ったり、バスタオルが離せなかったり……」と、あなたは
書いています。

 いいじゃないですか、白目でにらみたかったら、にらめば。どうしてそれが悪いことなのです
か。

 いいじゃないですか、指を吸いたかったら、吸えば。どうしてそれが悪いことなのですか。

 いいじゃないですか、バスタオルが離せなかったら、もっていれば。どうしてそれが悪いことな
のですか。

 私も、神経が不安定になると、ワイフのおっぱいをずっと吸っていますよ。ある雑誌の告白手
記に書いてありましたが、毎晩、夫のペニスを吸わないと眠られない若妻だっているそうです。
毎晩、チューチューと吸いながら、眠るのだそうです。

 さらに私の知人(もちろん男性)の中には、一流企業の役員をしているのがいますが、その彼
の密かな趣味は、大きな尻をもった女性に、その尻で、顔を踏みつけられることだそうです。わ
かりますか? みな、それぞれです。人、それぞれです。

 みんなそれぞれの方法で、自分の心の問題と戦っているのです。「これはいいことで、これは
悪いこと」と、決めてかからないこと! したいことをしなさい。言いたいことを言いなさい。あな
たの夫や子どもには、したいことをさせてあげなさい。言いたいことを、言わせてあげなさい。
他人にはできないかもしれませんが、夫婦や家族に対してならいい。だから、夫婦であり、家
族なのです。

 おかしな基準をもつこと自体、Yさん、あなたには、家族像が入っていないということです。勝
手な空想で、理想の夫婦像などつくらないこと。

●あとは、居直る

 あなたはあなた。どこまでいっても、あなたはあなた。居直りなさい。仮におかしな性癖があっ
たとしても、(ぜんぜん、おかしくないですが……)、そんなこと気にすることはありません。

 Yさんが、今、かかえている問題は、一見、Yさんを包む家族の問題に見えますが、ひょっとし
たら、Yさんがほんの少しだけ、心の向きを変えれば、すべて、解決する問題のように思いま
す。ある意味で、何でもないですよ!

 どこにでもある。だれしもかかえている。多かれ少なかれ、みな、です。

 イランの笑い話に、こんなのがあります(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言いました。「ドクター、私は腹を指で押さえる
と、腹が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いった
い、どこが悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えたそうです。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れて
いるだけですよ」と。

 いいですか、あなたは今、すべてのものを持っている。(すべてのもの)です。(私は生きてい
る)という原点から、もう一度、自分をながめてみてください。それですべてが、解決しますよ。

●すばらしい母親

 Yさんは、若いのに、じゅうぶん、自分を冷静に見つめる視点をもっておられます。すばらしい
ことです。そこらのママ(失礼!)とは、中身もできもちがいます。メールの内容から、それがわ
かります。

 それに子どもが男児だから、よけいに戸惑っておられるのかもしれません。Yさんには、「男
像」というのが、脳の中に、インプットされていないのです。しかし、それは仕方のないこと。大
半の母親がそうです。

 方法があるとしたら、頭の中で空想することによって、あなたの子どもの中に、自分を置いて
みることです。子どもの目を通して、自分がどう見えるかを、空想してみるのです。

 たとえば今、私のワイフイは、居間で、あれこれあと片づけしています。そのワイフの視点の
中に、自分を置いてみます。そうすると、ワイフの目を通した、自分が見えてきます。

 ワイフはきっとこう思っているはずです。「何も、手伝ってくれないで、パソコンの画面にばかり
向っている」と。

 こうして相手の心の中に入ることによって、あなた自身の自己中心性を、克服することができ
ます。意外と簡単ですから、一度、試してみてください。

 Yさんの心をふさいでいる重石(おもし)は、相当なものです。しかしもう、あとは時間の問題で
す。なぜなら、すでに、Yさんは、その重石が何であるか、気づいているからです。

 あとは、勇気を出して、自分の心を空に向って、解き放ってください。体はあとからついてきま
す。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2507)

●『生きる』
When we say, " We live" or "We are alive", what does this really mean? I hereby think about 
this theme.

●自己の統合性

少し前、「自己の統合性」についての原稿を書いた。
それが、最近になって、気になってしかたない。
自分で書いた原稿が気になるというのも、どこか
おかしな話だが、時として、自分は自分に教えられる
ものなのか?

まず、そのとき書いた原稿をそのまま紹介する。
日付は、2007年10月になっている。

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キング・Jrである。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キングは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther 
King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティ
ン・ルーサー・キング・Jr)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せ
て、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎
日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれ
ない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガー
は、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ
日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一
夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が
必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかど
うかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そ
うではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私に
は、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画
大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに
紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初
めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は
親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最
期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心
は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼
女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の
仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の
原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞してい
る。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求め
る。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾
hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!

+++++++(以上、07年10月に書いた原稿より)+++++++

この原稿を読み返してみて、「では、今の私はどうなのか?」と自問する。
私は、すべきことをしているのか、と。
その前に、私には、命がけでしなければならないことがあるのか、と。

何度も書くが、(命がけでしなければならないこと)というのは、
そうは、簡単に見つからない。

見つかっても、それを命がけでするようになるまでには、10年とか20年とかいう、
熟成期間が必要である。

「定年退職になりました。明日からボランティア活動に専念します」という
わけにはいかない。

そこでもう一度、黒澤明監督の『生きる』を思い浮かべる。
死の宣告を受けた渡邊勘治(市の職員)は、最後の仕事として、
小さな公園作りに、生きがいを求める。
まるで人が変わったかのような猛烈な仕事ぶりを発揮する。

脚本はだれが書いたか知らないが、つまり、この映画は、それが「生きる」という
ことだということを、私たちに教えている。

で、実は、こんなことがあった。

私は、子どもたちを教えるということに、このところ、少なからず、
自信を失い始めていた。
いくら声高に叫んでも、またその弊害を説いても、私の教室のような小さな教室は、
大手の進学塾にはかなわない。

年齢というより、このところ体力的な限界を感ずることも多くなった。
そんな中、私にとっては、ありえないことが起きた。
地元のタウン誌が、私の教室を、広告費無料で、紹介してくれた※。
うれしかった。が、それ以上に、驚いた。
「こんな教室でも、応援してくれる人がいるんだな」と。

とたん、おかしなことだが、それまでの迷いが消えた。
私は何も変わっていない。
10年前、20年前の私とくらべても、むしろ今のほうが、体の調子もよい。
頭の回転が鈍ったという感覚も、ない。

むしろ、精神面では、人間的に丸く(?)なったような感じがする。
今では、どんなドラ息子でも、またドラ娘でも、笑って対処できる。
笑って対処しながら、その子どもを、私のリズムに乗せてしまうことができる。

若いころの私なら、「お前は、退塾!」と叫んでいたかもしれない。
そんな子どもでも、私は自由に操ることができる。

何も年齢など気にすることはない。

そうそうたまたま昨日(2月7日)は、こんなこともあった。

先月、地元の小学校で講演をさせてもらった。
自分では、ひどいできだったとばかり思っていた。
集中力も弱くなった。
聞きにきてくれた人の心も、うまくつかめない。
それに話す内容も、どこか、陳腐。つまらない。
その講演のあとも、「ぼくの講演は、もう、みなに、あきられ始めている」と思った。
「そろそろ潮時かな?」とさえ思った。

が、家に帰ってみると、その感想が届いていた※。
「一部……」ということだが、24人の方からの感想がコピーしてあった。
私はそれを読んでいるうちに、目頭が熱くなった。

うれしかった。
どういうわけか、うれしかった。

「まだまだがんばれる」という思いは、「私は何も変わっていない」
「何も変える必要はない」という思いに変わった。

人生には天井(=限界)があるのかもしれない。
が、今は、そんなことを気にする必要はない。
気にしてはいけない。
やるべきことを、まずやる。
その先に何があるか、私にもわからないが、とにかく、前に進む。

「♪若者は、また、歩き始める」(「若者たち」より)、である。

注※……「中日ショッパー、県西部、豊橋版」
注※……感想は、HP→プロフィール→講演の感想に収録しておきました。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【雑感、あれこれ】

●笑いのない世界(A world where no laughter is heard)

久しぶりに大病院へ行った。驚いた。

まず、臭いが消えていたこと。
少し前までは、どこの大病院でも、よどんだ病臭が、鼻をついた。
とくに外科病棟は、ひどかった。
消毒薬の臭いと体臭……。

が、それ以上に驚いたのは、(笑い)がないこと。
病院という性格上、それは当然としても、その(落差)に驚いた。

私の住む世界には、いつもその(笑い)がある。
子どもたちの声がする。

その(落差)に驚いた。

「こんなところで働いていたら、私なら、1か月でうつ病になるな」と思った。


●6か国協議(6 Nation Conference)
Wake up, Ms. Rice and Mr. Hill! North Korea is not such a nation as you think of but only a 
dictatorship. While only very limited class of North Koreans enjoyed American music but 
even now many have been killed under the name of public execution. Don't you know this 
fact while you enjoy drinking wine with North Koreans in Peking.
(ライス国務長官、ヒル次官補よ、いいかげんに目を覚ませ。NKは、あなたがたが考えている
ような国ではない。ただの独裁政権国家。ごく限られたNKの人たちが、アメリカの音楽を楽し
んでいる間、多くのNKの人たちが、公開処刑の名のもとで、殺されている。あなたがたがペキ
ンで、NKの代表とワインを飲むとき、この事実を忘れないでほしい。)

++++++++++++++

6か国協議が、霧散する気配を帯びてきた。
アメリカが提案していた連絡事務所の開設を、K国が拒否したという。
「連絡事務所」というのは、大使館や領事館を開くための、その前段階的な事務所をいう。

今さら改めて言う必要もないが、K国は、核兵器をぜったいに放棄しない。
核兵器そのものが、恐怖政治を執行するための本尊になっている。
たとえば昨日のニュースを見ても、公開処刑は、頻繁(ひんぱん)に行われているという。
群衆の見守る中、後頭上部から口の方に向けて、銃を発射するのだそうだ。
遺体の損傷をできるだけ少なくするために、そうするとか。ゾーッ。

こういうメチャメチャな処刑が行えるのも、バックに、その本尊があるからである。
でなければ、とっくの昔に、K国は、崩壊している。
K国に向かって、核兵器を放棄しろと迫ることは、恐怖政治をやめろと言うに等しい。
そのあたりのことが、ライス国務長官も、ヒル次官補も、まったくわかっていない。

結局は、金xxと韓国の前大統領のNに、踊らされただけ。
金xxに、核兵器開発のための時間を与えただけ。

そのK国だが、アメリカの国防白書によれば、6〜12個の核兵器をもっているという。
これはたいへんな数といってよい。

中には、東京に1発ぐらい核兵器が落とされても、日本はビクともしないと説く人がいる。
何かの雑誌に、そう書いていた(07年)。

しかしこれはとんでもない誤解。
核兵器の威力は、YOU TUBEでも紹介されている。
興味のある人は、見てみたらよい。

「YOU TUBE」→「Nuclear Bomb」で検索すればよい。
(ただし気の弱い人は、見ないほうがよい。)

http://jp.youtube.com/watch?v=kLqkgxwa1Hk&feature=related

たった1発で、瞬時に、200万人の人が死ぬと言われている。
もちろんその時点で、日本の経済は、奈落の底へとたたき落とされる。
日本の社会機能そのものも、停止する。

で、今ごろになって、アメリカ政府は、K国の体制崩壊をうんぬんし始めている。
金xxの急死、それに伴う体制崩壊、さらに核兵器の拡散問題などなど。
「平和的解決」とは言うものの、すでにその時期を逸してしまった。

もちろん日本も、たいへんな迷惑をこうむる。

しかしここは腹を決めて、K国に臨むしかない。
K国の体制崩壊を導きながら、そのときがきたら、一気にK国を押さえ込む。
それがまた、結局は、K国の一般民衆にとっても、最良の方法である。

つまるところ、ヒル次官補がしたことは何だったのか。
何度も日本政府を裏切り、裏工作に裏工作を重ねただけ。
今の今も、その裏工作を重ねている。
あげくの果てには、拉致問題を棚上げしてしまった。

いいかげんに、目を覚ましたらどうか?


●鼻くそ(Picking one's nose)

子どもは、よく鼻くそをほじる。
ほじって、食べてしまう子どももいる。

昨日も、A子さん(年中女児)が、レッスン中に、
鼻くそをほじっていた。
それを指先で丸めて、机の下に落していた。

私「あ〜ア、もったいない! だめだよ、下へ捨てては……」
A「……?」
私「あのね、鼻くそは、おいしいんだよ。ご飯にかけて食べると、
おいしいんだよ」
A「……?」
私「だから、今度は、その鼻くそを、机の上に集めておいてね。
あとで、ぼくがもらって帰るから……」

A「おいしくないよ」
私「おいしいよ。ごはんにかけて食べるんだよ。わかった?」
A「食べないよ」
私「ぼくは子どもの鼻くそが、大好きなんだ。だから捨てないでよ。
ちゃんと、ここに集めておいてね」
A「いや!」と。

こういう会話を、2、3度、繰りかえす。
子どもは、それで鼻くそをほじらなくなる。
いや、ほじりそうになったら、舌なめずりをして見せる。
おもしろそうに……。
おかしそうに……。
それを見て、子どもは指をパッと鼻先からはずす。

……ということで、子どもに何か注意するときは、「〜〜してはダメ」式
の禁止命令は、できるだけ避ける。
鼻をほじることにしても、ほじること自体は、悪いことではない。
だれだって、している。みんな、している。私もしている。

ただし、人の前では、しない。
それはエチケット。
だから、そこはユーモア。子どもに罪悪感をもたせない。
おもしろ、おかしく指導する。
指しゃぶりも、同じようにして、指導する。

「先生にも、あなたの指、しゃぶらせてよ」と。

これは幼児を指導するときの、コツ。


●認知症のはじまり(The beginning of the Senile Dementia)

60歳になると、天井が見えてくる。
それまで見えなかった、天井が見えてくる。
70歳の人、80歳の人。

介護度が、2とか、3になる人もいる。
この世界では、「私はだいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。
自分では、それがわからない。
が、そうでない人からは、それがわかる。

今、私の周辺で、あぶないのは、Kさん(67歳、女性)と、
それにM氏(70歳、男性)。
ともに、どこか、ヘン。おかしい?

まずKさん。

ものの視野が狭い。極端に狭い。目先のことしか、わからない。
それだけに振りまわされている。
一貫性がなく、ワーワーと騒ぐ。そのつど、内容が変化する。
言っていることが、支離滅裂。めちゃめちゃ。取り越し苦労の連続。
ささいなことを大げさにとらえては、ああでもない、こうでもないと騒ぐ。
ことこまかく説明しながら、どんどんと自分の世界に入ってしまう。

つぎにM氏。

時刻表的生活。雨戸を開ける時刻、閉める時刻などが、1分きざみで、正確。
道路の車が気になるらしく、だれかがほんの少しでも車を自分の家の
前に止めたりしただけで、パトカーを呼びつける。
がんこで、融通がきかない。
他人と接しているときは、まともな感じがする。
応対のし方も、ふううの人と変わらない。
が、同じ行動を、何度も繰り返す。
庭先を、用もないのに、言ったり来たりする。

ともに(こだわり)が強い。

ただ認知症と、うつ病は、この時期、区別がつきにくい。
認知症から、うつ病になる人もいるというし、反対に、うつ病から
認知症になる人もいるという。

どちらでも構わないが、周囲の者こそ、よい迷惑。

その人がそういう病気であるということがわかっていればよいが、
そうでないと、その人に引きずられてしまう。

Kさんについては、「?」と思うようになったのは、数年前から。
M氏については、5、6年ほど前から。

M氏についてはよくわからないが、Kさんについては、
夫も、気づいていないのではないかと思う。
それとなく話題にしてみるが、いつもヘラヘラしている。

夫のほうも、このところ少し、おかしくなってきた?
こういうケース、つまり夫婦ともにおかしくなるケースも少なくない。

だからこのところ、Kさんからの電話も、M氏からの電話も、
適当に聞き流すようにしている。
まともに聞いていると、こちらまで、気がヘンになる。
あるいは、話を聞きながら、心の中で、歌を歌っている。

しかしこの問題は、私自身、ワイフ自身の問題でもある。

ときどきワイフを横から観察してみる。
で、私が見たところ、とくにおかしいと思うところはない。
が、私自身も、同じように認知症になったとしたら、どうなのか。
ワイフの変化はわかるのか。

このところ、そんなことが心配になってきた。
それが冒頭に書いた、「天井」ということになる。
つまりこの世を生きる人間の、「限界」ということ。


●友人の申し出(To live in New Zealand)

ニュージーランドに住む友人から、メールが届いた。
海の見える別荘をいっしょに借りて、住まないか、という。
彼は、30年ほど前、彼は、オーストラリアから、
現在のニュージーランドに移り住んだ。
オークランドから車で、2時間ほどのところである。

「週、300ドルで、借りられる」と。
彼も、今年、定年を迎える。

300ドルというのは、日本円になおすと、
2万5000円。
月額になおすと、10万円。
高いか、安いか?

為替レートが、つりあっていない。
去年、オーストラリアへ行ったが、何もかも、
日本のものより割高な印象をもった。
とくにホテル代が、高かった。

反対に、先週、オーストラリアへ帰った友人は、
こう言っていた。
「日本の物価は、安い」と。

現在、1オーストラリアドルは、100円前後だが、
1ドル、80円くらいでもよいのでは?

で、その申し出を読んで、しばらく考えた。
いっしょに住むといっても、たがいに妻がいる。
仕事はどうするのか?
生きがいはどうするのか?

「いっしょに住む」といっても、現実は、そこにある。
その現実は、どうするのか?
夢やロマンだけでは、生活はできない。

いろいろ考えたが、やはり今は、行けない。
だから「NO」という返事を書いた。


●犬のクソと運命

庭掃除をしながら、「運命」について考える。

その庭には、ハナ(=犬)の糞が、ゴロゴロしている。
ハナは庭で放し飼い。
しつけもしていない。
だから、当たりかまわず、糞をする。
一応、庭のはずれでしているが、それでも庭掃除は、欠かせない。

その糞の始末をしながら、ふと、運命について考える。

「運命とは、それを受け入れてしまえば、悪魔は、向こうから
退散していく。しかしそれを避けようとすると、キバをむいて、
向こうから、襲いかかってくる」。

……というのは、私が考えた格言だが、こういうこと。

ときどき、失敬な人がいて、私の家の玄関先で、犬の糞をさせて
いく人がいる。
玄関のまん前で、である。

そういうとき、それを見つけた、ワイフが、こぼす。
ついで、私が怒る。

しかし、そこでふと立ち止まる。
犬の糞など、珍しくも何ともない。
先ほども書いたように、私の家の庭には、ハナの糞がごろごろしている。

数日も始末しないで放っておくと、結構な量になる。
しかしハナの糞については、何も感じない。
ごく当たり前の、日常茶飯事として、その糞を始末することができる。
が、玄関先の糞は、そうではない。

つまりここに運命に対する考え方のヒントがある。

私は、ハナの糞については、受け入れてしまっている。
だから気にならない。
一方、玄関先の糞については、それを避けようとしている。
だから腹が立つ。

同じ糞、なのに!
しかも量のことを言えば、玄関先の糞など、ハナの糞の何十分の一にも
ならない。

どうしてか?
……というより、ものごとは、前向きに受け入れていく。
そこにあるものを、そのまま受け入れていく。
とたん、ものの見方が、180度変わる。

たとえば……

今、ここに生きていることを原点に、ものごとを考えてみよう。

ものが見える。
ものが聞こえる。
体が動く。
食事がおいしい。

日ごろの何でもないことの中に、実は、すばらしい価値が隠されている。

そこに子どもがいる。
子どもといっしょに遊ぶ。
子どもといっしょに風呂に入る。
子どもといっしょに、本を読む。

その何でもないことの中に、実は、すばらしい価値が隠されている。

私について言えば、仕事ができるというだけでも、ありがたい。
仕事があるというだけでも、ありがたい。

ものごとは、そこから考える。
つまり今、私を取り巻く、無数の「糸」を、前向きに受け入れていく。
とたん、心が軽くなる。気が楽になる。

犬の糞について言えば、それを始末できるというだけでも、ありがたい。
それこそまさに、私が生きているという証(あかし)そのもの。


●時は、金の砂時計

前にも書いたが、「時」は、金の砂時計。
刻一刻と過ぎていく時間には、黄金ほどの価値がある。
……というたとえは、あまり好きではない。

現在、金は、1グラム3400円前後(08年3月)。
だからといって、1秒がいくら……というわけではない。
お金に換算するのは、正しくない。

ただこういうことは言える。

お金にこまかい人でも、時の使いかたにルーズな人は、
いくらでもいる。
よい例が、パチンコ。

半日、パチンコ店にいて、5000円、稼いだとする。
その人は、「5000円、儲けた」と思うかもしれない。
が、その人が過ごした半日は、どうやって取り返せばよいのか。

同じ1日でも、賢く使う人もいれば、そうでない人もいる。
が、どう過ごせば「賢い」といい、どう過ごせば、そうでないと
いうのか。
その判断が、むずかしい。

その上、加齢とともに、脳みそは、どんどんと萎縮していく。
知恵や知識は、こぼれるように、脳みその中から消えていく。
言うなれば、穴のあいたバケツのようなもの。

補っても補っても、それでも足りない。どんどんと外へ漏れていく。
そんな脳みそを、補わないでいたら、どうなるか?

その先は、まさにあの世界。恍惚(こうこつ)の世界。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2508)

【今日・あれこれ】(3月8日)

●3月31日号

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この原稿は、3月31日号用の
原稿ということになる。

予定より遅れること、8日!

本来なら、今ごろは、4月9日号用の
原稿を書いていなければならない。

いろいろあった。

忙しかった。

……ということで、今日は、3月31日号用の
原稿をまとめることにした。

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●「Yahoo Internet Guide, Japan」(04)

昨日、「Yahoo−04」という雑誌を購入してきた。
350もの無料サイトが紹介してあった。
どれも、すばらしい!

いくつかを選んでみる。

(1)400種類の辞書を横断検索できるサイト
(2)翻訳結果を10パターン表示するサイト
(3)病名や病院、処方薬を探すサイト
(4)書き順を調べるサイト、などなど。

どれもすぐ役立つサイトばかり。

中には、膨大な書籍ライブラリーを提供しているサイトもある。
何と、その数、18000冊。
すべての作品が、立ち読みできるというから、スゴイ!

もちろん子育てにそのまま役立つサイトもある。
この先、順を追って、私のサイトでも、紹介していきたい。


●「子育てはじめの一歩」(PHP版)

先ほど、「子育てはじめの一歩」(PHP版)を、まるごと一冊、私のHPに収録した。
その作業を終えた。
1995年に、生協ルートで販売した本である。

……ということで、少し説明をしておきたい。

(モノを書く)というのは、だれにでもできる。
しかし書いたモノを、本にするためには、出版社を通さなければならない。
その出版社で、(本)になる。
出版社を通さない自費出版という方法もあるが、そういう本は、書店に並ばない。
取次店が扱ってくれない。

(本)というのは、基本的には、(商品)である。
売るためには、(書店)という(店)に並べてもらわなければならない。

が、自分で並べることはできない。
書店に並べてもらうには、取次店を通さなければならない。
その取次店が、全国の書店に、本を配本してくれる。

これが一般的な、本の販売のし方である。

が、本の販売のし方は、書店経由だけではない。
いろいろな方法がある。
そのひとつが、生協ルートと言われる、生協組合を通して売る販売方法である。
全国の生協組合を通して、本を販売する。
その組合員数が、全国で、2000万人もいるという。(当時の担当者の話)。
巨大な組織である。

「子育てはじめの一歩」(PHP)は、そういうルートで販売された本である。
だから一般書店には並ばなかった。

言い忘れたが、この世界には、おかしな縄張り意識がある、……らしい(?)。

書店販売されている本は、生協ルートでは流してもらえない。
反対に生協ルートで流されている本は、取次店が取り扱ってくれない。
(これも当時の担当者の話。)

そんなことはどうでもよいが、「子育てはじめの一歩」は、そういう生協ルートで
販売された本である。

結果は、黒星。初版で絶版。
つまりまったくといってよいほど、売れなかった。
しかしこの種の子育て本は、息が長い。
「5年とか、10年かけて売り切ればいい」ということらしい。

(書店に並べてもらっていたら、もう少し売れたのではないかと思っている。
生協ルートのように、本の性質上、カタログだけで売るというのは、むずかしい。)

が、初版から、すでに13年。「絶版になった」という連絡は受けていないが、
常識的には、絶版ということになる。

というわけで、先ほど、その本を、まるごと1冊、HPに収録した。
その作業を終えた。
私のトップ・ページより、読んでもらえるようにした。

若いときに書いた本なので、随所に心恥ずかしいか所もあるが、それは許してほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2509)

【信頼関係vs不信関係】(Confidential Relationship between Parents and Children)

Can you open your heart to other people including your husband or wife? If not, please read 
this article and know yourself.

++++++++++++++

あなたは他人に対して、心を
開くことができるか?

もしそうでないとするなら、
一度、この原稿を読んでみて
ほしい。

さみしい思いをするのは、あなたの
勝手だとしても、あなたの周囲の
人たちまで、さみしい思いを
しているはず。

++++++++++++++

●乳児期に形成される信頼関係

乳児期においては、母子の関係は、絶対的なものである。
それもそのはず。
乳児は、母親の胎内から生まれ、その母親から乳を受ける。命を育(はぐく)む。
その絶対的な関係を通して、乳児は、母子との間で、信頼関係を結ぶ。
「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。

こうしてできる太い絆(きずな)を、「ボンディング」と呼ぶ。

この信頼関係が基本となって、乳児はやがて、他人との信頼関係を結ぶことができるようにな
る。
成長するにつれて、その信頼関係を拡大する。
父親との関係、保育園や幼稚園での教師との関係、さらには、友人との関係など。

そういう意味で、この母子との間にできる信頼関係を、「基本的信頼関係」という。

その信頼関係は、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)があってはじめて成り立つ。

乳児の側からすれば、「どんなことをしても許される」という、疑いすらもたない安心感ということ
になる。

母親の側からすれば、「どんなことをしても受け入れる」という、疑いすらもたない包容力という
ことになる。

が、この信頼関係の構築の失敗する例は、少なくない。
何らかの原因で、この絶対性がゆらぐ。
育児拒否、親の否定的な育児姿勢、無視、冷淡。
夫婦不和、家庭不和、家庭騒動などなど。

子どもの側からすれば、絶対的な安心感をもてなくなる。
母親の側からすれば、絶対的な包容力をもてなくなる。

こうして乳児は、母親に対して不信感をもつようになる。
ただの不信感ではない。
自分の母親ですら信ずることができない。
乳児は、そして子どもは、その不信感を常に抱くようになる。

こうした心理的な状態を、「基本的不信関係」という。
が、一度、その不信関係ができると、子どもは、いわゆる「心の開けない子ども」になる。
その可能性は、きわめて高くなる。

が、不幸は、それで終わるわけではない。

結婚してからも、配偶者にすら、心を開くことができない。
さらに自分の子どもにすら、心を開くことができない。
あなたはそれでよいとしても、あなたの周囲の人も、さみしい思いをする。

そしてそれがさらに世代連鎖して、その子ども自身も、心を開くことができなくなる可能性も高く
なる。

「基本的信頼関係」というのは、そういうもの。
決して、軽く考えてはいけない。

……ということで、今、ここで、もう一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。

あなたは、あなたの子どもや夫を、何の疑いもなく、信じているか?
あなたは、あなたの子どもや夫に、何の疑いもなく、心を開いているか?

反対に、こうも言える。

程度にもよるが、母子との間の基本的信頼関係の構築に失敗した人は、万事に、疑り深く、猜
疑心が強く、ついでに嫉妬心も強い。
もちろん他人に対して心を開けない分だけ、孤独。寂しがり屋。

そこで孤独であることを避けようと、人の中に入っていくが、心を許すことができない。
ありのままの自分をさらけ出すことができない。
自分をつくる。飾る。見栄を張る。虚勢を張る。世間体を気にする。
そのため、人と接触すると、精神疲労を起こしやすい。
人と会うのがおっくうで、会うたびに、ひどく疲れを覚える人というのは、このタイプの人と、まず
疑ってみる。

もしそうなら、まずあなた自身の心の中を静かにのぞいてみるとよい。

あなた自身の乳児期の様子がわかれば、さらによい。
あなたは両親の豊かな愛情に恵まれ、ここでいう基本的信頼関係を構築することができた
か?
あなたの両親は、そういう両親であったか?
先に述べた、ボンディングは、しっかりとできていたか。

もしそうでないとするなら、あなたはひょっとしたら、基本的信頼関係の構築に失敗している可
能性がある。
だとするなら、さらに今、あなたは自分の子どもとの関係において、基本的信頼関係の構築に
失敗している可能性がある。

しかしこの問題は、あなた自身の問題というよりは、今度は、あなたの子ども自身の問題という
ことになる。

親から子へと世代連鎖していくものは多いが、その中でも、こうして生まれる基本的不信関係
は、深刻な問題のひとつと考えてよい。

たとえば、母子の間の基本的信頼関係の構築に失敗すると、子どもは、「母親から保護される
価値のない、自信のない自己像」(九州大学・吉田敬子・母子保健情報54・06年11月)を形
成することもわかっている。

さらに、心の病気、たとえば慢性的な抑うつ感、強迫性障害、不安障害の(種)になることもあ
る。最近の研究によれば、成人してから発症する、うつ病の(種)も、この時期に形成されるこ
ともわかってきている。

わかりやすく言えば、その子どもの心の、あらゆる部分に大きな影響を与えていくということ。
だからこの問題は、けっしてあなた自身だけの問題に、とどまらないということ。

基本的信頼関係のできている人は、自然な形で、当たり前のように、心を開くことができる。
が、そうでない人は、そうでない。だれに対しても、心を開くことができない。

では、どうするか?

この問題だけは、(1)まず、自分がそういう人間であることに気づくこと。(2)つぎに機会をとら
えて、自分をさらけ出すことに努めること。(3)あとは時間を待つ。時間といっても、10年単
位、20年単位の時間がかかる。

それについては、何度も書いてきたので、別の原稿を参考にしてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 基本的信頼関係 ボンディング
 母子関係 はやし浩司)

+++++++++++++++

この原稿に関して、いくつか
お役に立てそうな原稿を
集めてみました。

+++++++++++++++

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基本で
す。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与えるという
行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなくても育つという
ことになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできません。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわる仕事
といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、女性が
男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な意味
で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となります。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることになります。「結
婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあるのは、やはりより
優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、こと出産
に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、子
どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。つまり
「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人だったか
もしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまりそれだけ、父子
関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。この信
頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だから「基本
的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自分の
住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、分かれる
ということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな人間関係を結ぶ
ことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる…
…。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間関係を結
ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」という安心感が、
子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、赤ん
坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、母親は、
赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さない。あ
るいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展することもありま
す。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、依存
型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自分に集め
る)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な方法
として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となることも
あります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタベタしあ
うというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということです。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定なも
のです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありません。あるい
は、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。どんなに
がんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。そのちがいを
乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、父親の役割がない
わけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教育、で
す。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性から、の
がれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影響を与えてし
まうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、ともす
ればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくというのが、父親
の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、倫理、
道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決まり」を教えてい
くのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えていきま
す。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁のし方を教え
るのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはできませ
ん。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きていくことも
できません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと言って
いるのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありません。「たがい
の立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割にとっ
てかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、「平等」とは
言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進出も
目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』だけでもの
を考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたのも事
実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、ありませ
ん。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解するのと、
そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えてみまし
た。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改めてここ
に書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶ
ことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今では、常識で
す。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原因となる
こともあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりません。
穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、子どもを叱
ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関係」の範囲内でしま
す。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全幅に心を
開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反省してみてくださ
い。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他人に対し
て、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょうか。外
の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信頼関係」を疑
ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過去があ
ったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失敗をすることで
す。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これについては、
また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包まれ、何一つ不
自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけません。大
切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少し時間はかか
りますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもをよい子にする、三大鉄則

 子どもを、よい子にする、三大鉄則。

【1】親子の信頼関係
【2】子どもの生活力
【3】善なる心の育成

 親子の信頼関係は、母子関係の中ではぐくまれる。母子の間の(さらけ出し)(受け入れ)が
基本となり、その上で、信頼関係が築かれる。

 子どもの生活力は、子どもを使うこと。日常生活の中で、使って使って、使いまくること。そう
いう(生活)を通して、身につく。

 善なる心の育成は、つまりは親がその見本を見せる。しかし見せるだけでは足りない。親自
身が、それを実践し、その中に、子どもを巻きこんでいく。

++++++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から、【1】【2】【3】に
関するものを、いくつか選んでみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++

【1】信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じ
ようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと
安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の
基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していく。
しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を
築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だ
から「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ど
もは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。
これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」を
いう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といっ
てもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいも
のがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人が
いる。A氏(六〇歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言
う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的で
あったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかなら
ない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、い
かにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どう
して子どもが育つかということになる。

++++++++++++++++++

【2】子どもの心

 「家庭教育」というと、「知識教育」だけを考える人は、多い。ほとんどが、そうではないか。し
かしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、「情操教育」である。わかりやすく言え
ば、「心を育てる教育」ということ。

 ……と、書くと、「そんなのは、何でもないこと」と思う人は多い。が、それはとんでもない誤解
である。今、生まれても泣かない子ども(サイレント・ベービー)や、表情のない子どもが、ふえ
ている。年中児で、約二〇%の子どもが、大声で笑うことができない。感情が乏しい子どもとな
ると、何割かがそうであるというほど、多い。

 そこでつぎのようなポイントをみて、あなたの子どもの「心」が、正しく発達しているかどうか、
判断してみてほしい。

●すなおな感情……うれしいときには、うれしく思う。悲しいときには悲しく思う。たとえばペット
が死んだようなとき、悲しく思う、など。こうしたすなおな感情が消えると、うれしいはずと思うよ
うなときでも、反応を示さなかったり、悲しいはずだと思うようなときでも、悲しまなかったりす
る。以前、父親の葬式のとき、葬式に来た人と、楽しそうにはしゃいでいた子ども(小一男児)
がいた。

●すなおな感情表現……こうした感情の動きにあわせて、こまやかな表情ができる。うれしい
ときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。そうした微妙な表情が、
だれの目にもわかるほど、すなおに表情で表現する。それができないと、仮面をかぶったりす
るようになる。さらにひどくなると、親が見ても、何を考えているかわからない子どもになる。

●豊かな表情……つぎに、その感情表現が豊かであるかどうかということ。たとえば父親が仕
事から帰ってきたようなとき、「ワーイ!」と歓声をあげて、父親に抱きつくなど。ただしギャーギ
ャーと大声を出して騒ぐなど、必要以上に興奮するというのは、豊かな表情とは言わない。今、
その表情の乏しい子どもがふえている。

●ゆがみのない心……ひねくれる、つっぱる、いじける、すねる、ひがむなどの、いわゆる「心
のゆがみ」がないことをいう。心がゆがむ、そのほとんどの原因は、愛情問題と考えてよい。幼
児のばあい、とくに注意しなければならないのが、「嫉妬(しっと)」。たとえば下の子どもが生ま
れたようなとき、上の子どもの心のケアをしっかりとすること。「あなたはお兄(姉)ちゃんでしょ」
式の押しつけは、してはいけない。

●大きくて、明るい声……心の伸びやかさは、そのまま声の調子となって、外に表れる。大き
い声で、ハリがあり、腹に力を入れ、息をしっかりと出し、口を大きく動かして話ができれば、よ
し。幼稚園や保育園、あるいは学校から帰ってきたようなとき、明るい声で、「ただいま!」と言
えるようであれば、問題ない。

●自分を飾らない心……正直な心をということになる。子どものばあい、とくに注意したのが、
いい子ぶること。「お母さんが、料理をしています。あなたはどうしますか?」などと質問すると、
ふだんは、ほとんど手伝いなどしていないにもかかわらず、「手伝います」などと、心にもないこ
とを言う。しかし、そういう姿勢は、子どもの姿としては、決して望ましいことではない。イヤだっ
たら、正直に、「イヤ!」とはっきり言う。そういう姿勢を大切にする。伸ばす。

●迎合しない姿勢……へつらう、こびを売る、相手に取り入るなど。この時期、愛想がよいと
か、あるいは愛想がよすぎるというのは、決して望ましいことではない。愛想のよい子どもは、
それだけ自分の心をごまかしていることになる。こういう姿勢が定着すると、やがて心が二面
性をもつようになる。まわりの人からみても、いわゆる何を考えているか、わかりにくくなる。

●心を開く……心を開いている子どもは、親切にしたり、やさしくしたりすると、その親切ややさ
しさが、そのままスーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。そうでない子どもは、
そうでない。そういった親切ややさしさが、はねかえされるような感じになる。ふつう子どもは、
抱いてみるとそれがわかる。心を開いている子どもは、抱いた人に対して、体の力を抜き、身
を任せる。そうでない子どもは、抱く側の印象としては、体をこわばらせるため、何かしら丸太
を抱いているような感じになる。

●年齢にふさわしい人格……その年齢に比して、子どもっぽい(幼稚っぽい)というのは、好ま
しいことではない。人格の「核」形成の遅れた子どもは、その分、子どもぽいしぐさや様子が残
る。全体の中で比較して判断するが、親の溺愛や過干渉が日常化すると、人格の核形成が遅
れる。

●考える姿勢……何かテーマを出したとき、ペラペラと調子よく答えるのは、決して望ましい姿
ではない。多くの人は、「知識」と、「思考」を混同している。とくにこの日本では、昔から、物知り
の子どもほど、頭のよい子と評価する傾向が強い。しかし知識が多いからといって、頭のよい
子ということにはならない。頭のよい子というのは、深く考えて、新しい考えに、自分でたどりつ
くことができる子どもをいう。子どもが何か考えるしぐさを見せたら、静かにそれを見守るように
して、それをさらに伸ばす。

●受容的な態度……何か新しい考えを示したとき、すなおにそれを受け入れる姿勢を見せれ
ばよし。そうでなく、かたくなに、それを拒否したり、がんこに否定するようであれば、注意する。
とくにこの時期、カラにこもり、がんこになる様子を見せたら、注意する。頭から叱るのではな
く、子どもの立場で、心をほぐすように、話して聞かせるのがよい。

●融通がきく思考……いつまでも伸びつづける子どもは、それだけ頭がやわらかい。臨機応
変に、ものごとに対処したり、つぎつぎと新しい考えを生み出す。たとえば親どうしが会話をして
いても、まわりのものから、新しい遊びを発明したりするなど。そうでない子どもは、「退屈〜
ウ」「早く帰ろう〜ウ」とか言って、親を困らすことが多い。

●自然な動作……心がゆがみ、それが恒常化すると、動作そのものが、どこかぎこちなくな
る。さらに言動がおかしくなることもある。動作が緩慢になったり、不自然な反応を示すこともあ
る。

●強い意志……意味もなく、かたくなに固執するのを、がんこという。しかしそれなりの理由や
目的があり、それに従って自分の行動を律することを、「根性」という。子どもにその根性を感じ
たら、そっとしておく。根性は、いろいろな意味で、子ども自身を伸ばす。

●忍耐力……好きなことをいつまでもしているのは、忍耐力とは言わない。たとえばテレビゲ
ームならテレビゲームなど。幼児教育においては、忍耐力というのは、「いやなことをする力」
のことを言う。ためしに台所のシンクにたまった、生ゴミを子どもに始末させてみてほしい。風
呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハイ」と言って、平気でできれば、かなり忍
耐力のある子どもということになる。

●親像……ぬいぐるみを与えてみれば、子どもの中に、親像が育っているかどうかを、判断で
きる。もしそのとき、さもいとおしそうに、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せるようであれば、親
像が育っているとみる。そうでない子どもは、無関心であったり、反対に足で蹴ったりする。ち
なみに、約80%の幼児は、「ぬいぐるみ、大好き」と答え、残りの約20%の子どもは、無関心
であったり、足で蹴っ飛ばしたりする。当然のことながら、親の良質な愛情に恵まれた子どもほ
ど、心が温かくなり、ここでいう親像が育つ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 信頼関係)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(2510)

●捕鯨をやめよう!(I am against Whaling and we should stop whaling right now! We, the 
Japanese has been doing whaling under the name of "Research", about which all of us know 
it is a fake. One of my boys whom I have been teaching said, he has eaten a whale in 
somewhere in a very expensive restaurant. Then I asked him where he ate, but he said, "My 
dad told me it is a secret between us and Dad told me not to tell anyone about it." We have 
been killing whales for food. Australian people are angry, very angry about the Japanese 
whaling. Stop whaling right now or you should see the film "Earth", produced by BBC in 
England. You will know it is really a matter of stupidity after seeing the film. They are highly 
intelligent creatures like us, human-beings. How come are we so stupid?

++++++++++++++++++

オーストラリアから来た友人に、こう聞いた。
日本へ来て、何に驚いたか、と。
彼にしてみれば、15年ぶりの来日である。
その彼(56歳)が、こう言った。

オーストラリアでは、毎日、日本の捕鯨問題が
新聞のトップ記事になっている。
日本では、それがほとんどといってよいほど、
報道されていない。それに驚いた、と(08年2月)。

捕鯨問題は、現在進行形で、日豪関係に、
暗い影を落としつつある。たいへん暗い
影である。

「調査捕鯨」というバカげた名前の捕鯨は、
やめよう。「調査」だと?

結局は、食用のためではないか。

こんな話もある。

私は封切り日に、「EARTH(アース)」という
映画を見てきた。
それについて、子どもたちに、「クジラを食べるの
はもうやめよう」と言うと、1人の子ども(小学生)
がこう言った。

子「ぼく、クジラを食べたことがある」
私「どこで?」
子「だめだよ。パパが、内緒だって、言ってた」
私「浜松で食べたの?」
子「だから、言えないの。パパに怒られる」と。

雰囲気からすると、どこかの高級料亭で、料理として
出されたらしい。

日本人にとって、クジラというのは、そういうもの
である。

+++++++++++++++++++

(3月8日、ヤフーニュースより)

水産庁に入った連絡によると、7日午後1時すぎ(日本時間午後0時半すぎ)、南極海を航行
中だった調査捕鯨母船「日新丸」に、米国の反捕鯨団体「シー・シェパード」の「スティーブ・アー
ウィン」号が接近し、約1時間10分にわたって計4回、薬品入りの瓶6〜7個と白い粉の入った
袋約10個を投げつけた。無線で警告したがやめなかったことから、日新丸に乗船している海
上保安官が警告弾を7発投げた。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●自我の統合性と世代性(我々は、どう生きるべきか?)
(Do we have what we should do? If you have something that you should do, your life after 
you retire from your job, would be fruitful. If not, you will despair in a miserable age.)

+++++++++++++++++

乳児期の信頼関係の構築を、人生の
入り口とするなら、老年期の自我の
統合性は、その出口ということになる。

人は、この入り口から、人生に入り、
そしてやがて、人生の出口にたどりつく。

出口イコール、「死」ではない。
出口から出て、今度は、自分の(命)を、
つぎの世代に還元しようとする。

こうした一連の心理作用を、エリクソンは、
「世代性」と呼んだ。

+++++++++++++++++

我々は何をなすべきか。
「何をしたいか」ではない。
「何をなすべきか」。

その(なすべきこと)の先に見えてくるのが、エリクソンが説いた、「世代性」である。
我々は、誕生と同時に、「生」を受ける。
が、その「生」には、限界がある。
その限界状況の中で、自分の晩年はどうあるべきかを考える。

その(どうあるべきか)という部分で、我々は、自分たちのもっている経験、知識、哲学、倫理、
道徳を、つぎの世代に伝えようとする。
つぎの世代が、よりよい人生を享受できるように努める。

それが世代性ということになる。

その条件として、私は、つぎの5つを考える。

(1)普遍性(=世界的に通用する。歴史に左右されない。)
(2)没利己性(=利己主義であってはいけない。)
(3)無私、無欲性(=私の子孫、私の財産という考え方をしない。)
(4)高邁(こうまい)性(=真・善・美の追求。)
(5)還元性(=教育を通して、後世に伝える。)

この世代性の構築に失敗すると、その人の晩年は、あわれでみじめなものになる。エリクソン
は、「絶望」という言葉すら使っている(エリクソン「心理社会的発達理論」)。

何がこわいかといって、老年期の絶望ほど、こわいものはない。
言葉はきついが、それこそまさに、「地獄」。「無間地獄」。

つまり自我の統合性に失敗すれば、その先で待っているものは、地獄ということになる。
来る日も、来る日も、ただ死を待つだけの人生ということになる。
健康であるとか、ないとかいうことは、問題ではない。

大切なことは、(やるべきこと)と、(現実にしていること)を一致させること。

が、その統合性は、何度も書くが、一朝一夕に確立できるものではない。
それこそ10年単位の熟成期間、あるいは準備期間が必要である。

「定年で退職しました。明日から、ゴビの砂漠で、ヤナギの木を植えてきます」というわけには
いかない。
またそうした行動には、意味はない。

さらに言えば、功利、打算が入ったとたん、ここでいう統合性は、そのまま霧散する。
私は、条件のひとつとして、「無私、無欲性」をあげたが、無私、無欲をクリアしないかぎり、統
合性の確立は不可能と言ってよい。

我々は、何のために生きているのか。
どう生きるべきなのか。
その結論を出すのが、成人後期から晩年期ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人生の統合性 世代性 統合性
の確立)

(追記)

(やるべきこと)の基礎をつくる時期は、「人生の正午」(エリクソン)と言われる40歳前後であ
る。もちろんこの年齢にこだわる必要はない。早ければ早いほど、よい。

その時期から、先にあげた5つの条件を常に念頭に置きながら、行動を開始する。

この問題だけは、そのときになって、あわてて始めても、意味はない。
たとえばボランティア活動があるが、そういう活動をしたこともない人が、いきなりボランティア
活動をしたところで、意味はない。身につかない。

……ではどうするか?、ということになるが、しかしこれは「ではどうするか?」という問題ではな
い。
もしそれがわからなければ、あなたの周囲にいる老人たちを静かに観察してみればよい。

孫の世話に庭いじりをしている老人は、まだよいほうかもしれない。
中には、小銭にこだわり、守銭奴になっている人もいる。
来世に望みを託したり、宗教に走る老人もいる。
利己主義で自分勝手な老人となると、それこそゴマンといる。

しかしそういう方法では、この絶望感から逃れることはできない。
忘れることはできるかもしれないが、それで絶望感が消えるわけではない。

もしゆいいつ、この絶望感から逃れる方法があるとするなら、人間であることをやめることがあ
る。
認知症か何かになって、何も考えない人間になること。
もし、それでもよいというのなら、それでもかまわない。
しかし、だれがそんな人間を、あるべき私たちの老人像と考えるだろうか。

(付記)

統合性を確立するためのひとつの方法として、常に、自分に、「だからどうなの?」と自問して
みるという方法がある。

「おいしいものを食べた」……だから、それがどうしたの?、と。
「高級外車を買った」……だから、それがどうしたの?、と。

ところがときどき、「だからどうなの?」と自問してみたとき、ぐぐっと、跳ね返ってくるものを感ず
るときがある。
真・善・美のどれかに接したときほど、そうかもしれない。

それがあなたが探し求めている、「使命」ということになる。

なおこの使命というのは、みな、ちがう。
人それぞれ。
その人が置かれた境遇、境涯によって、みな、ちがう。

大切なことは、自分なりの使命を見出し、それに向かって進むということ。
50歳を過ぎると、その熱意は急速に冷えてくる。
持病も出てくるし、頭の活動も鈍くなる。

60歳をすぎれば、さらにそうである。

我々に残された時間は、あまりにも少ない。
私の実感としては、40歳から始めても、遅すぎるのではないかと思う。
早ければ早いほど、よい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●老人力(Young Old Man)

+++++++++++++++++++++

母の介護をするようになって学んだものは多い。
それはそれ。
しかしその半面、私は老人になることに、恐怖感を
抱くようになってしまった。

それがわからなければ、半日でもよいから、
あのケア・センターに身を置いて、あそこにいる
老人たちを観察してみることだ。

みな、それぞれ、それなりの過去をもった人たちである。

中には、東京のあのK大学を卒業したあと、
ヨーロッパのある大学に留学した経験のある人まで
いる。

そういう老人たちが、人間であることをやめてしまって
いる。

あの世界では、「私だけはだいじょうぶ」と思って
いる人ほど、あぶない。……そうだ。
今の私もそうかもしれないが、健康であっても、
(あるいは健康で長生きをすればするほど)、
みな、例外なく、ああなる。

しかしものごとは、暗いほうばかりを見て
いてはいけない。考えてはいけない。

「老人力」(瀬川原平)という言葉もある。
老人になること、結構。
バカになって、アホになること、これまた結構、と。

老人になることを恐れるのではなく、
老人であることを前向きに受け入れていく。

それが老人力。

我々は、ヤング・オールド・マンなのだア!

しかし、一方でこの恐怖感と、どう戦えばよいのか。
ワイフに相談すると、ワイフはこう言った。

「まだ30年も先の話でしょ。そんなこと、今から
心配しても、しかたないでしょ」と。

どうして私のワイフは、いつも、ああまで
楽天的なのか?
楽天的でいられるのか?

うらやましい!

+++++++++++++++++

(参考)

2015年には、老人性痴呆症、つまりボケ老人と言われる人は、
200万人に達するだろうと言われている。
(現在は、160万人と言われている。ウィキペディア百科事典)

老人性痴呆症は、血栓性の痴呆症と、アルツハイマー型痴呆症に
大別される。

血栓性の痴呆症というのは、脳の血管が詰まって起こる痴呆症をいう。
脳欠陥障害型痴呆症とも言われる。脳梗塞や脳内出血が原因となると
言われているが、脳梗塞による多発性痴呆が、そのほとんどをしめる。

症状としては、
(1)がんこになる。
(2)自己中心的になる。
(3)抑うつ感が強くなる。
(4)睡眠障害が起こる。(以上、初期症状)
(5)健忘障害
(6)道に迷う
(7)高度の知的障害が起こるようになる。(以上、「心理学用語」かんき出版)

さらにウィキペディア百科事典のほうでは、「軽度認知障害の症状」として、つぎのものをあげ
る。

「加齢関連認知低下とは、6か月以上にわたる緩徐な認知機能の低下が、本人や家族などか
ら報告され、客観的にも認知評価に異常を認めるが、認知症には至っていない状態である。

認知機能低下は、

(1)記憶・学習
(2)注意・集中
(3)思考(例えば、問題解決能力)
(4)言語(例えば、理解、単語検索)
(5)視空間認知、のいずれかの面に該当する」と。

+++++++++++++++

こうした初期症状が、自分自身に現れたとき、それを自分で認識できるかどうか。
理屈で考えれば、「できない」ということになる。
脳のCPU(中央演算装置)が、おかしくなるわけだから、自分がおかしいということすら判断で
きなくなる。

よい例がADHD児である。

小学3年生前後以下の子どもに、「あなたが騒ぐと、みなが迷惑するんだよ」と説明しても意味
はない。
「騒いでいる」という認識すらない。
「迷惑をかけている」という認識は、さらにない。

が、小学3年生以後、このタイプの子どもは、急速に落ち着きを取り戻してくる。
自己認識力が育ち、自分自身を客観的に見ることができるようになるからである。

「自分が騒げば、みなが迷惑する」ということが、自分でもわかるようになる。
とたん、自分で自分をコントロールするようになる。

では、老人性痴呆症のばあいは、どうか。

私の周辺にも、「?」と思われる人は、何人かいる。
このところ急速にがんこになり、自己中心的になってきた。
自分でもうつ病を自認し、薬も服用している。

しかしそういう人でも、「おかしい?」と思うのは、周囲の人たちであって、本人ではない。
むしろ本人は、「私は、ふつう」と思いこんでいる。
何かのことで、それを指摘すると、逆に、「あなたのほうがおかしい」とやり返される。

こと老人性痴呆症に関しては、「病識」をもつことはないようだ。

では、どうしたらよいのか。
どうすれば、自分の姿を自分で、客観的にとらえることができるようになるのか。

前にも書いたが、私のばあいは、自分の書いた文章を比較することで、ある程度、その変化を
客観的に知ることができる。

5年前に書いた文章、10年前に書いた文章を読み返してみる。
そのとき、「最近書いた文章は、つまらない」と思うようであれば、痴呆症が進んでいるというこ
とになる。
反対に、「以前は、鋭い文章を書いていたな」と思うようであっても、痴呆症が進んでいるという
ことになる。

……ということで、実は、私は最近書いている文章が、以前の文章より、かったるくなっている
のを感ずる。
体裁を変えたこともある。

以前は、学校で教える作文形式の体裁で、文章を書いていた。
今は、インターネット上で読みやすくするため、このように文章を、一文ずつ、一行で表現する
ようにしている。

それもあるが、このところつっこみが甘くなったように感ずる。
言うなれば、駄文につづく駄文。

たしかに私の脳みそも老化しているようだ。
ゾーッ!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2511)

●エリクソンの心理社会的発達

+++++++++++++++++

渋谷昌三氏が書いた「心理学用語」の中に、
興味ある表が載っていた。

そのまま転載させてもらう(P175)。
(「心理学用語」・渋谷昌三・かんき出版)

*********************
エリクソンの心理社会的発達
*********************

段階        心理社会的危機

―――――――――――――――――――――

乳児期        信頼 対 不信
乳児前期      自律性 対 恥、疑い
乳児後期      自主性 対 罪悪感
児童期       勤勉性 対 劣等感
青年期     自我同一性 対 同一性拡散
成人前期      親密性 対 孤独
成人後期      世代性 対 停滞
老年期     自我の統合 対 絶望

*********************

 この中でとくにわかりやすいのは、(あくまでも現在の私の立場での話だが……)、老年期で
ある。

 エリクソンは、老年期は、「自我の統合」を構築すべき時期だとする。いろいろに解釈できる
が、要するに、老齢期を前向きにとらえて、その中で、(自分のすべきこと)と、(現実にしている
こと)を統合させていく。

 それが「自我の統合」、もしくは、「自我の統合性」ということになる。

 が、その構築に失敗すると、その先で待っているのは、「絶望」ということになる。

 そこでもう少し、過去にさかのぼってみる。エリクソンは、成人前期には、「親密性」の構築を
しなければならないと説く。わかりやすい例では、恋愛、さらにそれにつづく結婚がある。その
親密性の構築に失敗すれば、「孤独」になる。もちろん親密性の追求は、何も、恋愛や結婚だ
けにかぎらない。友との友情でもよい。近親者とのつながりでもよい。

 さらに進んで、成人後期には、「世代性」の構築をしなければならないと説く。

 世代性というのは、「私」というワクを超えて、私がもつ価値観、経験、知識を、つぎの世代に
伝えようとすることをいう。

 たとえば私にしても、ある時期から、「私の子ども」「他人の子ども」という垣根が消えたように
思う。年齢的には、45歳前後ではなかったか。それまでの私は、「私の子どもは、私の子ども」
「他人の子どもは、他人の子ども」というような考え方をしていた。

 が、この世代性の構築に失敗すると、悶々たる日々を過ごすことになる。それをエリクソンが
「停滞」と言ったかどうかは知らないが、「明日も今日と同じ」「来年も今年と同じ」という日々が
つづくことになる。

 そして老年期。

 これについては冒頭に書いたとおりだが、この時期、「絶望」は、まさに「地獄」。私の祖父は
いつも口ぐせのように、こう言っていた。「地獄も極楽も、この世にある」と。絶望は、この世の
地獄ということになる。

 その先に、ほんのわずかでも希望があれば、人間は生きていくことができる。しかしその希
望をなくしたら……。

 生きているといっても、生かされているだけ。死ぬこともできず、さりとて、殺してくれる人もい
ない。死の待合室で、死に神が来るのを、ただじっと待っているだけ……。

 では、どうすればよいのか?

 実は心理学では、「どうすればよいのか」という部分については、教えない。エリクソンにして
も、「自我の統合性こそ重要」と説くが、ではどうすれば、私たちは、絶望から逃れることができ
るのかというところまでは、説かない。

 ここから先は、哲学、宗教の関する世界ということになる。わかりやすく言えば、私たち1人ひ
とりの(生きざま)の問題ということになる。というのも、大半の人は、そこまで考えない。

 考えても、孫の世話と庭いじり。それが老後のあるべき姿と考える。もちろんそれを否定して
いるのではない。しかしそれはあくまでも一部であって、すべてではない。またそれができる人
は、今の世の中では、幸福なほうの人かもしれない。

 孫といっても、親子がそのものが断絶しているケースも少なくない。庭といっても、庭すらない
家庭も多い。

 さらに一歩進んで、「大人旅」(=数か月から数年をかけてする大旅行をいう)とか、「楽農生
活」(=趣味で農業を営みながら、自然を楽しみながら生きることをいう)とかいう言葉も、あ
る。

 もちろん宗教に走る人もいる。布教活動に専念する人もいる。が、それでも「絶望」から救わ
れない人も多い。 

 「自我の統合性」の問題は、それほどまでに大きな問題であるということ。何度も繰りかえす
が、一朝一夕にできるものではない。

 エリクソンの「心理社会的発達」の表を見ながら、改めて、そんなことを考えた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2512)

●捕鯨に反対!(I oppose to whaling under the name of "research".)

I am strongly to oppose to the Japanese whaling and protest against the government. Mr. 
Nakagawa, a high-official of Japanese government said that we should sink the boats with 
military weapons, if they continue to disturb our whaling on the public ocean. How come 
could he say such a stupid and brain-less opinion? As a matter of fact, who are eating 
whales in Japan? Only very limited rich people can eat them, not people like me. Whales are 
being served as food at very expensive restaurants. We should not be stubborn about this 
matter, since the relationship between Japan and Australia is now under very critical 
situation. We don't need any more "Research". Why should we kill whales for the "Research
"? We, the Japanese, are taught we have been whaling for the research. But we know this is 
a fake. Nikkei Newspaper also says, "whaling is our culture". This is also a fake or a lie. 
Whaling is not our culture. Stop whaling right now. They are not fish, but creatures with very 
high intelligent wisdom and brains.

+++++++++++++++

自民党の中川昭一元政調会長は
こう言った(NIKKEI NET・3月9日)。

南極海で調査捕鯨中の母船が、アメリカ
環境保護団体「シー・シェパード」から、
薬品入りの瓶などを投げつけられた事件に関して、
「海賊行為だ。日本人も負傷している」と。

「海賊行為」?

そしてその上で、
「調査捕鯨妨害については、武器で威嚇か撃沈を」
(3月9日、フジテレビ番組の中で)と。

とうとうでてきた、とんでもない意見!

こうした流れを受けて、日経新聞は、つぎの
ような社説を掲げている。

(1)反捕鯨団体の活動は、海賊行為である。
(2)シー・シェパードは、崇高な行為であると錯覚している。
(3)反捕鯨を理由に、豊富な資金を集めている。
(4)(日本は)、持続可能な海洋生態系の保存と利用を目的としている。
(5)したがって無法な挑発には、毅然と立ち向かうべきである、と※。

 日経新聞の社説は、「異質な文化を理解しない偏狭と非寛容は、
必ず衰退する」と結んでいる。

 つまり日本が捕鯨をするのは、「文化」である。
その文化を理解しない反捕鯨国は、「必ず衰退する」と。

 ここまで言い切ってよいものか。また言い切れるものか。

 世界中の人たちが、捕鯨に反対している。捕鯨国と呼ばれる国は、
数えるほどしかない。

 そこで日本が考えた苦肉の策は、「調査捕鯨」という名前の捕鯨。
「調査」という名前を、堂々とつけるところが、恐ろしい!
しかし中身は、食用を目的とした、捕鯨。しかも現在、クジラの肉は、
超高級食材として、そういうレベルの人たちだけが、そういう割烹
でしか、口にすることはできない。

 前にも書いたが、オーストラリアでは、連日、日本の
捕鯨船の記事が、新聞のトップページを飾っているという。
つまりこのままでは、日豪関係に、取り返しのつかないキレツを
入れることにもなりかねない。

 仮に今、中川氏が言っているように、「撃沈」ということまで
すれば、そのまま戦争になってしまうかもしれない。オーストラリア
海軍だって、だまってはいないだろう。つまり今、それくらい
オーストラリア人たちのテンションン(緊張感)は高まっている。

 私たちが子どものころは、クジラは、ただのサカナだった。
学校の給食にさえ、クジラの肉が並んだ。しかし今は、ちがう。
クジラは、おそろしく知的な動物であることがわかってきた。
数千キロ離れたところでも、言葉による会話もできるという。

 クジラの生態がわかればわかるほど、クジラというのは、殺しては
ならない生き物だということがわかってくる。この問題は、
「世界中の海に鯨があふれても……」(産経新聞・社説)という
視点だけで考えてはいけない。あるいはクジラがふえたことで、
人間は、どのような迷惑を受けているというのか。

 さらに「シー・シェパードは自らの不法行為を、
崇高な使命を帯びた英雄的な行動のごとく見せ、
資金を集めている。その術中にはまってはなるまい」(日経新聞)とあるが、
たとえそうであるにせよ、相手は、比較にならないほど、
小さな団体。捕鯨船の大きさと、彼らが乗っているボートを
比べただけでも、それがわかる。

 そういう相手に向かって、海上保安庁の船まで出して、
「撃沈せよ」とは! つまり日本はそうまでして、捕鯨を
守らなければならない理由は、どこにあるのか? 
またそうまでしなければならない理由は、どこにあるのか?

 冷静になるべきは、我々、日本人のほうではないのか?
改めて、日本の捕鯨、つまり殺鯨に反対する。

+++++++++++++++++

(注※)日経新聞・社説(CNBC)を転載

 今回の一連の事件は、明らかな国際法違反であり、今後さらに重大な被害が発生するのを
防ぐ意味でも、常習的な海賊行為として、徹底的に捜査・究明すべきである。団体の本部があ
る米国、活動拠点のオーストラリア、船籍があるオランダ、それぞれに捜査協力と再発防止を
求めるのが、日本政府の課題だろう。

 三国とも政府は反捕鯨を掲げているが、船舶襲撃の刑事事件として、冷徹な処理を求めれ
ばいい。シー・シェパードは自らの不法行為を、崇高な使命を帯びた英雄的な行動のごとく見
せ、資金を集めている。その術中にはまってはなるまい。

(中略)

 捕鯨問題について私たちは、持続可能な海洋生態系の保存と利用をめざし、思い込みや非
難・中傷ではなく、あくまで科学を論拠にすべきだと主張してきた。国際捕鯨委員会(IWC)で
は、これまで議論を積み重ね、新しい商業捕鯨の仕組みを科学委員会がまとめ上げている。

 改訂管理方式と改訂管理制度からなる新しい仕組みは、合理的な監視システムの下で、個
別の生物種も海洋生態系全体も保全される形で商業捕鯨を行うのがねらい。反捕鯨国の科
学者も納得したこの制度を、総会では反捕鯨国が導入に反対して、事態は止まったままだ。い
まだ商業捕鯨再開のメドは立っていない。

 「世界中の海に鯨があふれても、商業捕鯨では1頭もとらせない」と宣言する反捕鯨国もあっ
て、まともな議論が通じにくい状況なのは確かだ。しかし、ここが正念場である。鯨の個体数を
しっかり調べたことで、世界的な環境保護団体が、海洋生態系の保全という観点から、合理的
な捕鯨制度に関心を示している。

 無法な挑発は毅然(きぜん)と退け、理不尽に対しては、共生の科学と寛容の哲学で辛抱強
く説得するしかない。異質な文化を理解しない偏狭と非寛容は必ず衰退する。

+++++++++++++++++

●調査捕鯨?(Research Whaling?)
The Japanese government explains that whales eat too much fish and mollusk and it is 
damaging Japanese fishing in the oceans. But is this true?

 日本政府というより、日本側の言い分は、こうだ。

 「クジラは、食物連鎖の頂点にいる。そのクジラがふえすぎると、海洋生物全般に影響を与え
る。日本は、その調査のために、捕鯨をしている」と。おおまかに言えば、そういうことらしい。

 しかしクジラが食物連鎖の頂点にいるというのは、まっかなウソ。クジラが食用としているの
は、マグロでもカジキでもない。クジラにもいろいろな種類がいるが、南極に住むクジラが主食
としているのは、ナンキョクオキアミ。マッコウクジラは肉食もするが、深海の軟体動物。まず、
内閣広報室の言い分をそのまま紹介する。

+++++++++++++++

●クジラの餌の生態についての周知度

 クジラの餌の生態について、知っているものを聞いたところ、「クジラはオキアミなどのプラン
クトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、サケなどを主要な餌として食べている」を挙げた者の割
合が、52%と最も高く、以下、「漁業者が漁獲する前に、はえ縄にかかったマグロをクジラが
食べてしまうなど、クジラにより漁業が妨げられる事例がある」(12・9%)、「イルカやクジラが
餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産量の3倍から5倍にのぼる量である
と推定されている」(10・4%)などの順となっている。なお、「わからない」と答えた者の割合が
41・4%となっている。

+++++++++++++++

 つまり内閣府の言い分は、こうだ。イルカやクジラが食べる魚の量には、たいへんなものが
ある。推定で、2・8〜5億トン。これは「世界中の人間が食べる、魚の消費量の9000万トン
の、3〜5倍の量」(日本鯨類研究所)。だから捕鯨することによって、クジラの数を制限する必
要がある、と。

 (イルカやクジラと、「イルカ」も、含めていることに注意してほしい。)

 しかしこれは、ウソ。南極でエサをとるクジラは、ナンキョクオキアミを主食としている。マッコ
ウクジラは、肉食もしているが、深海の軟体動物を主に食用としている。財団法人「日本鯨類
研究所」ですら、「人間の漁業と直接は競合していない部分の方が、遙かに大きい」(同、HP)
と述べている。

 なおナンキョクオキアミにしても、年間数千万トンもの余剰資源があるとされる(同、HP)。

 もちろんイカなどを食べる、「歯クジラ」もいる。しかし数は少ない。こうしたクジラ、さらにはイ
ルカまで、いっしょくたにして、「クジラは……」と論ずるところが、恐ろしい。

 さらに言えば、内閣府は日本の漁業を心配しているようにも見えるが、実際には、日本の港
に入ってくる魚の大半は、外国の漁業船団がもちこんでくる魚である。海上で、外国の漁業船
団と交渉して、日本の漁船が魚を買い受けるというケースも少なくない。人件費という面から
も、日本の漁業船団は、少なくとも現在は、外国の漁業船団には、太刀打ちできない。開店休
業状態にある。

 本音の本音を言えば、捕鯨をすることで利益を得る、ほんの一部の漁業関係者を保護する
ために、調査捕鯨をしている。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(参考資料)(内閣広報室の資料より転載)

 都市規模別に見ると、「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁
業生産量の3倍から5倍にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は大都市で
高くなっている。

 性別に見ると、「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、サケなど
を主要な餌として食べている」、「漁業者が漁獲する前に,はえ縄にかかったマグロをクジラが
食べてしまうなどクジラにより漁業が妨げられる事例がある」、「イルカやクジラが餌として食べ
ている魚介類の量は,世界の海面漁業生産量の3倍から5倍にのぼる量であると推定されて
いる」を挙げた者の割合は男性で高くなっている。

 性・年齢別に見ると、「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、サ
ケなどを主要な餌として食べている」を挙げた者の割合は、男性の40歳代から70歳以上で、
「漁業者が漁獲する前に,はえ縄にかかったマグロをクジラが食べてしまうなど、クジラにより
漁業が妨げられる事例がある」を挙げた者の割合は、男性の30歳代、40歳代で、「イルカや
クジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産量の3倍から5倍にのぼる
量であると推定されている」を挙げた者の割合は、男性の40歳代から60歳代で,それぞれ高
くなっている。

 職業別に見ると,「クジラはオキアミなどのプランクトンだけでなく、サンマやイカ、タラ、サケな
どを主要な餌として食べている」を挙げた者の割合は自営業主、管理・専門技術・事務職で、
「イルカやクジラが餌として食べている魚介類の量は、世界の海面漁業生産量の3倍から5倍
にのぼる量であると推定されている」を挙げた者の割合は、管理・専門技術・事務職で、それ
ぞれ高くなっている。 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


 絶滅の危機に瀕している生物は、多い。もちろんその原因は、私たち人間にある。そういう巨
大な問題をさておいて、「クジラがふえすぎている」は、ない。食料としての魚も必要かもしれな
いが、海の生物くらい、そっとしておいてやってもよいのではないか?

 クジラにしても、ふえすぎれば自然淘汰されるだろう。大切なことは、自然との共存である。人
間があえて、その自然に手を入れる必要はない。日本人がもつ(自然観)は、けっして、世界の
常識ではない。

 それについて、以前、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++

●ゆがんだ自然観

 もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよ
う」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を
見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育
が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコ
ン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには1740年に
始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、
日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんど
ん破壊された。埼玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住
む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつこと
である。

少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしまし
ょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2513)

【今朝・あれこれ】(3月10日)

●雷鳴

今朝は、雷鳴で、目が覚めた。本当は、その少し前から
目を覚ましていたが、雷鳴で、床から起きあがってしまった。

一度、遠くで鳴ったあと、つぎに近くで、ゴロゴロ、ドシャン!、と。

あわてて書斎へ飛び込み、パソコンの電源を抜いた。が、そこまで。
そのあとは、そのまま静かになった。

温暖前線が北上したのだろう。そのあと、生暖かい風を感じた。
私は書斎に、どっかりと座った。
今日も始まった。

3月10日、月曜日! おはようございます。


●鼻歌検索

鼻歌で歌を歌うと、それが何の曲かを検索してくれるサービスがある。
「MIDOMI」というサービスである。

さっそく試してみた。

(1)マイクに向かって、鼻歌で歌を歌う。
(2)それをアップロードする。
(3)しばらくすると、いくつか、似ているとされる曲が、リストとなって画面に現れる。
(4)その中のどれかをクリックする。
(5)どこかのだれかが歌っている曲が、流れてくる。

私の評価は、イマイチ。

(1)かなり有名な曲でないと、検索できない。
(2)検索されて出てきた曲も、鼻歌程度。(音楽ではなく、鼻歌、あるいは独唱。)

これから先、さらに充実することを願いながら、そこまで。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●近代性と人間の幸福(Modernization of the Society and its pursuit of Happiness)
Modernization of the society does not promise us to be happy, or rather more often 
modernization of the society brings us to get lost. For one of the examples of the 
modernization, Tokyo is always understood as a corrupted city in the Hollywood movies, 
where all kinds of desires have been wound whirlpool, desires such as drugs, sex, and money. 
Is this the future that we wish to pursuit? The answer should be No.

++++++++++++++++++++

社会の近代性が、人間を幸福にしたかというと、
それは、疑わしい。

逆に言うと、それ以前の人間は、みな、
不幸だったのかということになる。

一方、私たちは半世紀前の人間からしても、
夢のような生活をしている。が、それでいて、
より幸福になったという実感は、あまりない。

逆に言うと、この先、半世紀後の人たちが、
より幸福になるという保証は、どこにもない。
へたをすれば、今より、不幸になるかもしれない。
むしろ、その可能性のほうが、高い。

……となると、社会の近代性とは何かということに
なる。
もっとつきつめて言えば、現在の私たちは、
いったい、何を求めて生きているのかという
ことになる。さらに言えば、何のために生きて
いるのかということになる。

ここに社会の近代性がもつ、構造的な欠陥というべきか、
きわめて深刻な問題が、隠されている。

++++++++++++++++++++

●近代的な都市国家

 日本が外国に与えている印象は、あまりよくない。ハリウッド映画に出てくる日本を見れば、
それがわかる。少し前、「KILL BILL」という映画があった。最近でも、「バベル」という映画が
あった。これらの映画に共通する点は、日本、とくに東京は、いつも退廃した都市として描かれ
ているということ。

 内心では、「?」と思うのだが、外国の人たちもまた、日本に、そういう日本像を求めている。
外国で賞を取るような日本映画は、退廃的なものばかり。どこか薄汚く、どこか貧しい。ビートT
氏が監督する映画を、例にあげるまでもない。

 で、そういう映画を通してこの日本をながめると、この私ですら、この日本に住むことに、嫌悪
感を覚える。

 東京では、まさに人間の、ありとあらゆる欲望が渦巻いている。モノ、金、セックス、電子製
品、食べ物、何でもござれ。映画、「バベル」の中では、麻薬を楽しむ若者たちのほか、パンテ
ィを脱いだ女子高校生が、男子高校生たちに、それをのぞかせるというシーンまであった。

 そういうシーンが、何ら違和感なく、……というか、東京というのは、そういう都市であると、当
然のように描かれている。それを見る私たちも、「そうではないのだがなア」と思いつつも、画面
からあふれ出てくる迫力の前では、無力でしかない。そこにあるのは、確かに東京である。どこ
かのスタジオやセットではない。で、やがてこの私ですら、「東京って、そういう都市だったんだ」
と、自分で自分を納得させてしまう。

 が、そういう東京、つまり東京がもつ近代性は、私たちが求めてきたものかどうかというと、答
は、NO! 私たちは、東京を現在の東京にするために、生きてきたのではない。子どもたち
を、今の子どもたちにするために、生きてきたのではない。

 どこか、おかしい。狂っている。

 10年前には、援助交際が問題になった。しかし今では、それを問題にする人すら、少ない。
ごく当たり前の、日常的な光景にすら、なってしまった。それがわからなければ、夕方のコンビ
ニをのぞいてみることだ。

 どこかあやしげな雰囲気で、女子高校生や女子中学生たちが、携帯電話で話をしている。そ
のすぐ外には、車を止めた男たちが、ニヤニヤと笑いながら、同じように携帯電話で話をして
いる。そうやってたがいに連絡を取りあいながら、女の子たちは、やがて車の中へと消えていく
……。

 しかしそれを「進歩」と呼ぶ人は、いない。「退廃」と呼ぶ。私たちが求める「幸福」とは、似て
も似つかぬものである。

 ……といっても、だからといって、この私が聖人というわけではない。つい昨日も、K市のK高
校校長が、交際していた女性(20歳)を脅迫したとかで、逮捕されるという事件が起きた。報道
によれば、その女性は、その校長の教え子だったという。その教え子が高校生のときから、つ
きあい始めたらしい。

 そういう事件が明るみになると、みな、「ここぞ」とばかり、校長を責めたてる。しかしこういう
世界で、だれが、そういう校長を、石をもって打てるのか。S県の教育委員会の幹部たちがズ
ラリと並んで、いっせいに頭をさげていたが、だからといって、そういう幹部たちが、聖人かとい
うと、それはない。そういうことは、ぜったいに、ありえない。

 この私だって、相手とチャンスがあれば、若い女性とそういう関係をもちたいと、いつも心の
中で願っている。願っているというよりは、いつも空想している。脳みその奥にある、視床下部
から発せられる信号には、ものすごいものがある。辺縁系や大脳の前頭前野くらいで、コント
ロールできるような代物では、ない。

 肉体が健康であればなおさらで、私の年齢で、若い女性に興味がないという人がいたら、糖
尿病かうつ病か、そんなような病気を疑ってみたほうがよい(失礼!)。

 ……話がそれたが、だからといって、そうした欲望の追求を、野放しにしておいてよいというこ
とではない。欲望の追求は、原始の世界への退行を意味する。つまり私たちが求める近代性
とは何かと問われれば、まさにこの一点に集約される。

 つまり、近代性とは、欲望の追求であってはいけないということ。その視点を見失うと、冒頭
に書いたように、私たちは、何を求めて生きているのかということになってしまう。さらに言え
ば、何のために生きているのかということになってしまう。

 ここに書いた携帯電話にしても、それが援助交際の手段として使われたとたん、欲望を追求
するための道具になってしまう。DVDにしても、インターネットにしても、そうだ。便利な機器で
あるならなおさら、心のどこかで一線を引く。引いて、欲望の追求から遠ざける。

 そのちょっとした心理的操作が、日々に積み重なり、月となり、年となって、やがて私やあな
たを、より豊かな世界へと導く。それで私たちが、より幸福になるというわけではない。しかし、
より幸福な世界に近づくことだけは、できる。もちろん、そうでなければ、そうでない。

 悪人になるのは簡単なことだ。ほんの少しだけ気を緩(ゆる)めれば、それでなれる。

 で、この年齢になってはじめて気がついたことがある。つまりこの時期になって、「絶望感」を
味わうことくらい、恐ろしいことはないということ。一時の欲望に身を任せたとたん、私たちは遠
い、遠い、回り道をすることになる。時間を無駄にすることになる。

 それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 ともかくも、社会の近代性イコール、幸福の追求ではないということ。それだけは確かであ
る。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2514)

●今日こそは……!

++++++++++++++++

毎朝、起きては、同じことを考える。
「今日こそは!」と。

「今日こそは、充実した1日を送るぞ!」と。

健康だ。食事もおいしい。
体の調子もよい。
が、何よりもすばらしいのは、死の恐怖と無縁でいられること。

まずワイフにあいさつをする。
お茶を飲む。
新聞を読む。

そしておもむろにパソコンに電源を入れ、
画面を開く。

ニュースに目を通す。
音楽を聴く。
その音楽を聴きながら、雑誌を読む。

そして頭の中で、おおまかな計画を立てる。
返事を書かねばならない手紙も、数通、ある。
原稿も書きたい。
やりたいことは、山のようにある。

あああ、時間が足りない。
時間がほしい。

今の私には、無駄にできる時間など、一瞬、一秒もない。

そこに真実があるのに、手が届かない。
どうしても、手が届かない。
このもどかしさ。この歯がゆさ。

とりあえず、過去に出した本を、HPにアップロードしよう。
昨日、第2章まで載せたから、今日は、第3章だ。
うまくいけば、1時間ほどで、作業は終了するはず。

+++++++++++++++++

●不安神経症(Panic Disorder)

ワイフの友人に、不安神経症の人がいる。
いつもあれこれ悩んでは、取り越し苦労ばかりしている。
そこでワイフが、その人にこう言った。

「運命は、あきらめて、受け入れればいいのよ」と。

これは私の言葉である。

しかしそれでその人の不安神経症が収まるわけではない。
年齢は、今年、55歳になるという。
女性である。

その人のばあい、人前に出ただけで、体が緊張するという。
全身に汗をかき、手が震えることもあるという。
病院で薬をもらっているらしいが、しばらくのみつづけていると、
効かなくなるという。

不安神経症。ウィキペディア百科事典によれば、つぎのようにある。

以前は、急性不安神経症、もしくは全般性不安障害と呼ばれていたが、
1980年にアメリカの精神医学会は、「パニック障害」(DSM−III)という
呼称に統一した、と。

「パニック障害は、強い不安感を症状とする、精神疾患のひとつ」
(ウィキペディア百科事典)ということらしい。

定型的なパニック障害の症状としては、

(1)突然生ずる、パニック発作。
(2)つづいてその発作が起きるのではないかと恐れる「予期不安」。
(3)さらに長期化すると、症状から逃れられない恐怖感から、
生活範囲を限定することなどだそうだ(同)。

パニック発作時には、(1)突然、動悸などの自律神経症状と強い不安感に
襲われる。(2)自律神経症状には、めまい、動悸、手足のしびれ、吐き気、
息苦しさなどがある。

また(3)不安感には、ばくぜんとした不安と、死ぬのではないか、
気が狂うのではないかという恐怖感もある。
しかし(4)これらの症状は、とくべつな処置がなくても、1時間以内、
長くとも数時間のうちに回復するという(同)。

こうした症状を、ワイフに読んで聞かせると、「あの人も、そのとおりの
ことを言っていたワ」と。

表には出てこないが、パニック障害の人も、多いようだ。
そう言えば、私も、似たような症状を経験することがある。
言いようのない不安感に襲われ、その不安感が、頭の中にペッタリと
張りついてしまうような感じになる。

しかしそれほど長つづきしない。たいてい2、3日のうちに、
消える。軽い動悸はあると思うが、それ以外の症状は、あまりない。

私「みんな、不安なんだね」
ワ「そうみたいね」と。

ところでYOU TUBEには、すばらしい音楽も収録されている。
私のHPの「音楽と私」のところからも楽しんでもらえるようにしてある。
とくにお勧めなのが、「いやし系音楽」。

心が疲れている人は、どうか一度、のぞいてみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●見栄や体裁(Vanity often makes us blind in our lives)
Some people insists on vanity even after he becomes 50, 60 or 70 years old. For those who 
do not, these sorts of people looks stupid, but he himself can't see himself.)

見栄や体裁を気にする人というのは、50歳になっても、60歳になっても、
はたまた70歳になっても、気にするものらしい。

「自分はすばらしい人間」と思うのは、その人の勝手。しかしこのタイプの人は、
他人も、そういう目で自分を見ていると思いこんでいる。錯覚している。
そこで他人の目に応えようと、見栄や体裁を気にする。

そうでない人から見れば、バカげた、実にバカげた行為なのだが、自分では
それがわからない。わざと大物に見せるために、気をつかう。苦労する。

「先日、名古屋市の助役(そんな人はいたかな?)と会食をしたとき、
市の道路行政について、一言、苦情を言っておいたよ」とか、何とか。

私たちは、その人を判断するとき、その人の中身を見る。
少なくとも、私は、そうしている。
地位や肩書きではない。そんなものは、カラスの羽をかざる、ゴミにもならない。
経歴にしても、大切なのは、「何をしたきたか?」だ。

個人の欲得の追求など、いくら重ねても、他人である私には意味はない。
前にも書いたが、昔、こんな人がいた。

当時、私の家は、斜陽につづく斜陽で、いつ店を閉めてもおかしくない状態だった。
そんな私の家にやってきては、金儲けの自慢話ばかりしていた。

「昨日は、株で、10万円、儲けたよ」、
「税務署と交渉して、50万円、税金を安くさせたよ」とか。

こんなことも言った。この話は、今も強く私の印象に残っている。

「私が、このあたり(=町内)で、所得税の支払額では、一番なんだよ」と。

私が中学生くらいのときのことではなかったか。私の母は、ああいう女性だから、
表では、にこやかにそういう話を聞きながら、その裏で、「あのXXめ!」と、
その人が帰るたびに、玄関に塩をまいていた。

で、ある日、私は、母にこう言った。

「そんなに不愉快な相手なら、つきあわなければいいのに」と。

しかしその人は、定期的にやってきては、自慢話をした。
きっとその人にしてみれば、そういう話をするのが、楽しかったのだろう。
とくに、私の家のような、サビれかかった家では、そうだ。
自分の優越感を、この上なく、満足させられる。

こういうバカ(「バカ」と呼んでもさしつかえないと思うが……)は、
どこにでもいる。

価値観、人生観そのものが、幼稚で未熟。

が、50歳も過ぎたら、できるだけ早く、こうした亡霊とは決別したほうがよい。
見栄、体裁という亡霊である。
でないと、私であって、私でない部分に毒されて、自分の人生そのものを見失う。

たとえば私が子どものころには、まだこんなことを自慢している人がいた。

「私の叔父は、海軍の中佐だった」とか、何とか。

さらに言えば、こうした価値観、人生観は、国によって、みなちがう。
たとえばあのオーストラリアでは、外交官といっても、外国に駐在する
公務員程度の意味しかなかった。
日本では、「外交官」というだけで、周囲の人たちは、大騒ぎしたが……。

銀行員にしても、オーストラリアでは、高卒の人たちが就く仕事ということに
なっていた。当時の日本では、大卒のエリートが就く仕事ということに
なっていたが……(1970年当時)。

反対に、ユンボやブルドーザーなどを操作して土木工事をする人は、
「工事技術者」と呼ばれ、大卒工学部卒業程度の資格がないと、それを
することができなかった、などなど。

このあたりのことは、「世にも不思議な留学記」に書いておいたから、
興味のある人は、ぜひ、呼んでみてほしい。HPのトップページから
読んでもらえるようにしてある。

要するに、最後に残るものは、「私」でしかない。
私たちは、裸で生まれ、そして裸で死ぬ。
目の前にある、モノや財産にしても、「私」を支える力にはならない。
それこそ、爪楊枝(つまようじ)にも、ならない。

私の母にしても、あれほどまでに小銭に執着した人だったが、今は、
財産といえば、お茶を飲むコップや、身のまわりの衣服くらいなもの。

元気なときは、テーブルの前に座った女性と、テイッシュ・ペーパーを
投げあって、喧嘩ばかりしている。

大切なことは、できるだけ早い時期に、「私」を知り、その私を
追求すること。
その時期を逸すると、繰りかえすが、結局は貴重な時間を無駄にし、ついで
自分の人生を無駄にすることになる。

そういう人を、私は、すでに、何人も見てきた。

方法は簡単。つまりそうならないための方法は、簡単。
いつも「だから、それがどうしたの?」と、自分に問いかけながら
行動するとよい。

もちろん人の話を聞くときも、そうだ。
「だから、それがどうしたの?」と。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2515)

●近代性と幸福の追求
(Modernization and its pursuit of Happiness -2-)

大切なことは、近代性の追求は、必ずしも
幸福にはつながらないということ。
つまり人間生活が近代化するからといって、
我々、人間が、幸福になるというわけではない。

人間生活の近代化と、幸福の追求は別のものである。
そういう前提で、近代性を考える。

近代性に、過剰な期待を寄せるのは、正しく
ない。

幸福感の確立は、もっと別のところにある。
そこで重要なことは、幸福感は幸福感として別のところで
確立しながら、近代性をその中に取り込んでいくということ。

この操作を誤ると、何のための進歩かということになる。
ばあいによっては、私たちが近代的社会と呼ぶところのものは、
かえって退廃する。


●本を読む老人たち
(Old men who enjoy reading books)

今日、あるところへ行った。その一室に、20人ほどの
老人たちがいた。年齢は、70〜80歳くらいか。

驚いたことに、その中の2人が、単行本を手にし、
それを読んでいた!

1人は男性で、推定年齢、75歳くらい。
もう1人は女性で、推定年齢、70歳くらい。

男性のほうは、どこかたどたどしい読み方をしていた。
女性のほうは、私たちが本を読むのと変わらない様子で、
読んでいた。

近寄って、どんな本を読んでいるか確かめたかったが、それはできなかった。
ただ男性の読んでいた本は、挿し絵からして、軍記ものだということがわかった。

すばらしい!

2人は、ほかの老人たちとは、明らかに、様子がちがっていた。

ともに頭脳明晰(めいせき)という感じがした。
頭脳が明晰だから本を読むのか、それとも、
本を読んでいるから明晰なのか、それは私にもわからない。
わからないが、その年齢で、本を読んでいる人は珍しい。
すばらしい。
そのすばらしさを、改めて痛感した。

が、ふとこうも思った。

せっかく本を読むのだから、それを消化して、(昇華でもよいが)、モノを書けばよい。
小型のパソコンか何かをもっていれば、さらによい、と。

いろいろな老人を見てきたが、単行本を読む老人は、少ない。
ざっと思い出しても、私の祖父母も、両親も、叔父、叔母たちも、
「読書」とは、まったく無縁の世界に住んでいた。

姉夫婦にしても、本を読んでいるという姿は、見たことがない。
ビデオすら見たことがない。

「それではいけない」とは思うが、だからといって、どうしようもない。
姉夫婦は姉夫婦。つまり人は人。それぞれ。

そこで私は、こう決めた。

これからはどこへ行くにも、小型のパソコンをもって歩こう、と。
今、この文章を書いているのは、ToshibaのダイナブックSS・3010。
買った当時は、25万円ほどした。
小型ノートパソコンのハシリで、買った当初から、故障の連続。
今も、夏の暑い日には、暴走を繰りかえす。
しかしその(人間ぽさ)が、楽しい。
裏面に1998年、購入とある。
もう10年も使っていることになる。
古いパソコンだが、いまだに手放せない。


●読書
(Reading Books)

再び、読書の話。

「読書をまったくしない」という人は、珍しくない。
しかしそういう人は、どこか底が浅い。
それもそのはず。
人は、読書を通してのみ、他人の深い思想に触れることができる。
そのことは、自分で文章を書いてみると、わかる。

文章を書いているときというのは、そのつど、考える。
ときにつぎつぎと、新しい発見をすることもある。
こうした現象は、ふつうの会話では経験できない。
いわんやそのレベルの人と、いくら会話をかわしても、意味はない。
思想が深くなるということは、ありえない。
ばあいによっては、ループ状態にはいる。
10年前、20年前に考えたのと同じことを、口にしたりする。

だから読書をする。
読書をすることによって、ループ状態から、抜け出ることができる。

たとえば私はたった今、「内部目標、外部目標」について書いた本を読んだ。
「大脳というのは、生きがい感としての内部目標を、最上位の目標としてすえ、
それに基づき、外部の状況と時間変化に対応する」とある。
「そこでは、脳の外部世界の状況に対応するため、外部目標を必要とする」と。

「ナルホド」と同意できる部分もあるが、「?」と思う部分もある。

この文章の筆者は、ひとつの例として、たとえばエベレスト登頂をあげている。
「エベレスト登頂」を内部目標とするなら、そのための準備をしなければならない。

体を鍛えたり、費用を捻出したりする。それが外部目標ということになる。

内容はともかくも、つまりこうして私自身も、脳みそを使う。考える。
こうした一連の脳みその活動こそが、重要である。
そうした刺激というのは、人は、読書のみによって得られる。

反対に、読書をしない人は、どうなるか?
言うまでもなく、通俗的になるだけ。
通俗が悪いというわけではないが、通俗性は、多くのばあい、凡人性につながる。
ハイデッガーが定義した、「ただの人(Das Mann)」というのは、そういう人を指す。

つまり「ただの人」になるか、ならないかは、
読書が、重要な役割をなす。
もちろん作文や、それにつづく思索でもよい。
ほかにも方法はあると思うが、読書が、もっとも手っ取り早い。

アメリカでも、「読書(Reading)」を、教育の「柱」にしている。
日本でも、ここ5年ほど、読書の重要性が、再認識されつつある。
とてもよいことだと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++FEB.08++++++++++はやし浩司

●仏教聖典
(Buddah's Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1)正見 ……正しい見解
(2)正思惟……正しい思い
(3)正語 ……正しい言葉
(4)正業 ……正しい行い
(5)正命 ……正しい生活
(6)正精進……正しい努力
(7)正念 ……正しい記憶
(8)正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

+++++++++++++++

●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過
言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もな
い、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世
界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そ
のキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの
光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳
に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀
元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕
年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以
上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経
典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い
始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何
もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私な
のかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏
教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あら
やしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのでは
(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部
分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそう
か?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年
の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大
地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしま
う。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(む
な)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。
私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振り
まわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)があ
る。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、
正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布
施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布
施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした
教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定され
てしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではな
いか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中に
は、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必
要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、
自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくこ
とではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になると
か、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとた
ん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲
気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たち
は、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる
必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを
考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともす
るかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、
「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる
意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみた
い。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++

●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということにな
る。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」
である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」
が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)
正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努
力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々
の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感
がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進について
も、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いてい
る。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、
そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分
の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいた
バケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョ
ギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考える
という行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」
「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの
子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考える
という行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中
でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20
年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚
かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人が
わからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからな
い。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていない
だろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キー
キーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ず
る差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教
団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶
対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨て
る。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。と
くに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つ
の重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、正
命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2516)

【生・老・病・死】

+++++++++++++++++

生きていくのもたいへん。
老いていくのも、これまたたいへん。
病気はこわい。
死ぬのは、さらにこわい。

+++++++++++++++++

●損をすることの美徳

損をすることの美徳。
最近、そのすばらしさが、よくわかるようになった。
私のばあい、とくに、金銭面においては、損ばかりしてきた。
今も、している。

投資で失敗したとか、そういうことではない。

一方、金銭面で得をしたという話は、ない。
ただ一度だけ、ワイフの実父がなくなったとき、
現金で、10万円の遺産が入ったことがある。

あとにも先にも、そういう形で、「得?」をしたのは、それだけ。
しかし私たちは、その10万円で、庭石を買った。
義父の思い出ということで、そうした。

こうなってくると、わずかな損得など、どうでもよくなってしまう。
寛大になったというわけではない。
どうでもよくなってしまう。

そのかわり、(時間)というか(命)の大切さが、よくわかるようになった。
どうせ死ねば、この世もろとも、すべてのものが、私の目の前から消える。
そうそう、子どものころ、こんなことがあった。
何歳のときだったかは、覚えていないが、たぶん、私が小学5、6年生の
ころのことではなかったか。

私は夢の中で、自分がほしかったものを手に入れた。
それが何だったのかは忘れたが、ほしかったものを手に入れた。
が、そのとき同時に、どういうわけか、それが夢だと、わかった。
「これは夢だ」「それはわかっているが、しかしこれがほしい」と。
そこで私は、その(もの)を、しっかりと手で握った。
夢の中で、握った。目をさましてからも、手放さないために、である。

が、目がさめてみると、その(もの)は消えていた。(当然である!)
自分の手を見たが、その(もの)はなかった。

この世界のものも、すべて、それと同じと考えてよい。
「あの世がある」と信じている人もいるかもしれないが、だったら、
なおさら、そうである。

そこにある(モノ)にしても、光と分子が織りなす幻覚でしかない。
大切なのは、それを私が、今、見ているという(時間)。
そしてその(実感)。

その(時間)は、刻一刻とすぎていく。
その大切さに、病気になってから気づいても、遅い。
老いてから気づいても、遅い。

もしあなたが今、若くて健康なら、今から、それに気づく。
そして今というこの(時点)から、命のかぎり、自分を燃やす。
燃やして燃やしつくす。

が、それでも、(真実)に近づくことはむずかしい。
不可能かもしれない。
しかしその前向きな姿勢こそ、大切。
そこに生きる意味がある。価値がある。

で、「老」がやってきたら、どうするか?
私もその入り口に立ったわけだが、もしそのとき健康であるなら、
老など、気にしなくてもよい。
年齢というのは、ただの(数字)にすぎない。

(病気)については、どうか?
それが一時的なものであれば、治せばよい。
心の病気も、同じ。

ただ病気というのは、あくまでも(過去)の結果としてやってくるもの。
もし今、あなたが健康なら、「健康とは作るものではなく、守るもの」と
考えて、運動を大切にしたらよい。
運動をする習慣を大切にしたらよい。

怠惰な生活を繰りかえしていて、どうして健康を維持できるというのか。
10年後、20年後をいつも念頭に置きながら、運動を大切にする。
もちろんタバコは吸わない。酒は飲まない。

言いかえると、たいした運動もせず、喫煙、飲酒を繰りかえしているなら、
病気になっても、あわてないこと。それこそ身勝手というもの。

あとは、その日がくるまで、毎日、感謝して生きる。
感謝しながら、その心を、社会に還元していく。
「死」がやってきたら、そのときは、そのとき。
じたばたしない。

法句経の中にもこんな一節がある。

ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。
どうすればこの死の恐怖から逃れることができるか」と。

それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。
私も一度、脳腫瘍を疑われて、死を覚悟したことがある。
そのとき私は、この釈迦の言葉で救われた。

それからすでに30年になるが、それからの30年間は、まさに(もらいもの)。
その(もらいもの)と比べたら、金銭的な(損)など、何でもない。
むしろ損をすることによって、(執着)から、自分を解放させることができる。

その解放感がたまらない。

冒頭で、「損をすることの美徳」と書いたのはそういう意味だが、
損をすることを恐れないこと。
あえて自分から損をする必要はないが、すべきことはする。
その結果として、損をするなら、損をすることを恐れないこと。

むしろ反対に、時間を無駄にしている人を見るたびに、私は、こう思う。
「ああ、もったいないことをしている!」と。
その人が若くて、健康なら、なおさらである。

それぞれの人は、(やるべきこと)をもっている。
それは人によって、みなちがう。
心理学の世界では、真・善・美の追求が、それであると教える。
が、それにこだわる必要はない。私も、こだわっていない。

ついでに「希望論」について。

人は何もなくても、希望さえあれば生きていくことができる。
しかしその「希望」とは何か。
旧約聖書の中に、こんな説話が残っている。

ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。
(洪水で滅ぼすくらいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、
神に聞いたときのこと。

神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという
希望をなくしてしまう。
つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。

旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 生・老・病・死 四苦論 損
論 希望論)


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●ある選択(A Final Choice)
G-san's husband is going to a city in Saitama-pref for his new job, and asked for my advice 
whether it is better for her to go with her husband or let her husband go alone. She has one 
daughter and one son. They are elementary school pupils. Which do you think it is better for 
her? The school teacher said to her, "It is better for your husband to go alone and leave 
your daughter and son here in Hamamatsu for their studies".

Gさんが、こう相談してきた。

「夫が、今度、埼玉県に転勤することになりました。
ついて、私や子どもも同行すべきかどうかで、悩んでいます」と。

Gさんが悩むには、それなりの理由がある。

現在、娘(小6)と、息子(小2)が通っている学校が、子どもたちに
たいへん適した学校であるということ。「環境がすばらしい」と、Gさんは言った。

埼玉県は、受験競争がはげしく、のんびり屋の娘と息子には向かないのでは
ないかと心配している。
よい学校や、よい先生にめぐり会えるかどうか、それも心配している、と。

そこで学校の先生に相談すると、担任(小6の娘)の先生は、こう言ったという。
「お父さんだけが、単身で赴任をしたほうがいいのでは……」と。

学校の先生は、「転校したからといって、今より、よい学校に入れるとはかぎらない」
という意味で、そう言ったらしい。

わかりやすく言えば、Gさんは、(1)子どもの教育を中心にものを考えるか、
(2)家族のつながりを大切にしてものを考えるか、その選択に迫られている
ということになる。

夫が埼玉県へ単身で赴任すれば、その時点で、家族はバラバラになってしまう。
Gさんは、「だからどうしたら、いいか?」と。

で、私は、こう言った。
「夫婦の問題だから、夫婦のきずなを最優先にして考えたらいいのでは?」と。
というのも、こうした相談そのものが、たいへん日本的である。

もしアメリカあたりで、夫が単身でどこかへ赴任すると言いだしたら、妻のほうから
離婚を申し出るだろう。いわんや子どもの学校のために、夫婦がバラバラに暮らすと
言ったら、笑い話にもならない。

もし、それでも……ということになれば、子どもだけを、現地の寄宿舎学校に
残すという方法を選択するかもしれない。
さらに言えば、こうしたケースでは、子どもの意思も尊重しなければならない。
子どもは、どう望んでいるのか?

しかしこの日本では、そうはいかない。
「現実」がそこにある。
学校を離れて道はない。
学校に背を向けたら最後、コースの外にはじき飛ばされてしまう。
Gさんも、それをよく知っている。

そこで究極の選択。あなたならどうする?

子どもの教育を考えて、夫には、単身で赴任してもうか?
それとも、家族、とくに夫婦のきずなを優先させるか?


●沈黙の価値
The value of Silence
In western world they say, "Don't speak out unless you know the value of silence".
In Japan we also say that "Silence is Gold" or "The mouth is the beginning of a trouble".
These proverbs mean that we had better not speak out unsure things in the public, or it 
often hurts other people's minds unexpectedly. But I have found another meaning in the 
proverb while I am talking with a care-manager of old men. This is an article I write about 
the another meaning of it.

『沈黙の価値がわからぬものは、しゃべるな』という格言がある。
どこかで読んだ、西洋の格言である。
同じような格言だが、日本では、『沈黙は、金なり』という。
『口は災いのもと』というのもある。

要するに、つまらないこと、くだらないことは、しゃべるなという意味である。
が、最近、『沈黙の価値がわからぬものは、しゃべるな』には、もっと
別の意味があることを学んだ。

結論を先に言えば、ものごとは、考えてから、しゃべれということ。
さらに、知ったかぶりをするな。わかったフリをするな。
へたな同情をするな。だれかの不幸を、酒の肴(さかな)にするな。

さらに『沈黙の価値』がわかるようになると、相手の本心まで見ぬけるようになる。
相手がよく考えてしゃべっているか。本当にそのことを知っていてしゃべっているか。
本当にこちらの苦労が、わかっているか。本当に私に同情しているか。
本当に私の秘密を守ってくれるか。

ケアセンターでケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人が、こんな話を
してくれた。

その女性(60歳)は、その地域でも、すばらしい女性と評価されていた。
ヒマを見つけては、ひとり住まいの老人宅を訪れて、そういった老人の世話を
していた。
ときには、一日がかりで、1人の老人のために、車を走らせることもあったという。

が、その女性の父親(当時、80歳くらい)が、認知症になってしまった。
その女性の介護を必要とするようになった。
とたん、その女性の様子が変わった。

あれほどにまで、こまめに他人のめんどうをみていた女性だったが、
ことそれが自分の親となったとき、今度は、虐待に近い行為をするようになったという。
たまたまそのケアマネの人が、訪れたときも、朝食も、昼ご飯も、
ご飯とみそ汁だけだったという。夕飯も、それに近いものだったという。

つまりその女性は、自分をよく見せるために、善人のフリをしていた。
もっと言えば、老人を、自分の(飾り)に使っていた。

だから会う人ごとに、それとなく自分の行為を吹聴していた。
方法は、こうだ。

まず、さもある老人に同情しているかのようなフリをする。
そして「かわいそうだ。あの人は、本当にかわいそうだ」と言う。
「ひとり住まいで、家族にも見捨てられている」と言う。
ときに、涙声になることもあったという。
そして相手が、自分の話術の中に入ってきたのを見届けると、おもむろに、自分の
自慢話をその中に混ぜる。

「私ね、見るに見かねて、書類を作ってあげたのよ。書類といっても、
隣町に住む息子さんのところまで、行かねばなりませんでしたよ」とか。

ケアマネの人は、こう言った。
「そのときはわかりませんでした。あの女性が、そういう人だったとはね」と。

こういう例は、多い。ウソで塗りかためたような善人である。

……ということで、つまりそういう話を聞いたあと、実は、私自身も、他人に対して、
その女性と同じようなことをしているのに気がついた。
ここでいう「へたな同情」というのが、それに当たる。

それほど悲しくもないのに、悲しんでいるようなフリをする。
それほどつらくもないのに、つらがっているようなフリをする。

そういうときの自分は、思い出しても、ぞっとする。
自分の醜さを、見せつけられるようで、ぞっとする。

一方、こんなこともある。

二男の嫁のことだが、生粋の南部生まれ。南部育ちのアメリカ人である。
その嫁のことを見ていると、「よくまあ、ここまで真正直に生きられるものだ」と、
感心することが多い。

日本的な、(おじょうず)や(体裁)を、まったく言わない。
言わないものは、言わないのであって、まったく言わない。
白人の世界のことはよく知っているつもりだったが、そんな私でも、
最初は、嫁の姿勢に面食らった。とまどった。

日本的に言えば、裏表がない。見たまま、言ったままが、嫁ということになる。
が、つきあうようになって、6年。

今では、もっとも信頼できる友人(?)の1人になっている。
ウソや隠しごとが、まったくない。
一度、「あなたにも恋人がいただろうに、どうして(アジア人の)息子なんかと
結婚したの?」と聞いたことがある。
すると嫁は、過去につきあった男性のことを、ことこまかく、まるでレポートの
ように書いて、私にメールで送ってきた。

これには私も驚いた。ワイフも驚いた。「別に、そこまで聞くつまりはなかったの
に……」と。

つまり嫁にすれば、何でも、ウソや隠しごとなく相手に伝えることが、親密さの
表れと取ったようだ。
またそれが嫁の住む世界では、常識だったのかもしれない。

やがて私たち夫婦も、自分たちのことを、ウソや隠しごとなく、話すようになって
いた。

で、その結果だが、私も、嫁に対してだけは、ウソをつかない。
どんな約束でも、きちんと守る。
嫁は嫁で、私が頼んだことについては、きちんとこたえてくれる。
どんなささいなことでも、だ。

そういう嫁を見ながら、ワイフはいつもこう言う。
「アメリカ人って、本当にわかりやすくていいわね」と。
と、同時に、私たちの周囲の人たちが、あまりにもわかりにくいので、驚く。
とくに郷里のG県のM町の周辺の人たちは、そうである。
(みなが、みな、そうというわけではないが……。)
ときに、何が本当で、ウソかまったくわからなくなるときがある。
いつもキツネとタヌキの化かしあい。そんな印象すらもっている(失礼!)。

表ではニコニコ笑いながら近づいてきて、話を聞く。裏では、こっそりとそれを
酒の肴にしたり、私の悪口を言ったりする。
「油断もスキもあったものではない」というのは、ああいう地方で、使う言葉
なのかもしれない。

だからあえて言う。『沈黙の価値のわからぬものは、しゃべるな』と。
それは同時に、私とあの郷里の決別を意味する格言でもある。

(あ〜あ、これで私はますます郷里へ帰りにくくなるぞ!)


●「がんばれ!」の意味("Ganbare" and "Take it easy")
We say in Japan, "Ganbare!", in case they would say "Take it easy", but these does not 
mean the same. I found it while I was running with my dog, Hana this morning.

言葉というのは、おもしろい。
たとえば日本語で、「おはよう」は、英語で、「GOOD MORNING
(よい朝)」という。

しかし実際には、その意味まで考えて、あいさつする人はいない。
つまり意味はちがっても、目的、内容は、同じ。言う人の気持ちは、同じ。

いくら遅く起きても、「おはよう」は、「おはよう」。
いくら悪い天気でも、「GOOD MORNING」は、「GOOD
MORNING」。「よい朝」は、「よい朝」。

……というふうに、考えていたのだが、こんな場面に出くわした。

いつものようにハナ(=犬)と散歩に出かけたときのこと。
ハナは、人間にたとえると、もう80歳を過ぎている。
このところ、毎月のように体力が落ちていくのが、わかる。

私は自転車で走る。
ハナはその横を走る。

近くに佐鳴湖という、周囲が、7〜8キロの湖がある。
その湖を一周するのだが、最後の4分の1くらいになると、私のほうが
ハナを引っ張って走るようになる。

ハナはハーハーと、苦しそうに、あえぎながら走る。

そんなとき、私は、思わず、こう言ってしまう。
「ハナ、がんばれ!」と。

と、そのときのこと。「こういうとき英語では、『TAKE IT EASY!』
と言う」と思った。

「がんばれ」も、「TAKE IT EASY」も同じような意味だとばかり
思っていた。いや、意味はちがっても、使う場所、それを言う人の気持ちは、
同じと思っていた。

が、である。

「ハナ、がんばれ!」と言ったときは、私のほうが、ペダルに力を入れる。
「ハナ、TAKE IT EASY」と言ったときは、私のほうが、ペダルから、
力を抜く。

内心、ふと、おもしろい現象だなと思った。

「TAKE IT EASY」というのは、「気を楽にしろ」という意味である。
言っている私は、同じ私なのに、ペダルに力を入れたり、抜いたりする。
繰りかえすが、「TAKE IT EASY」と言いながら、私はペダルに力を
入れることはできない。

で、子育ての話になるが、日本人が、日本語で、「がんばれ」というときは、
そこに「力」入れる。
子どもに向かっては、「もっと、力を入れなさい」となる。

一方、英語国で、「TAKE IT EASY」というときは、そこから「力」を
抜く。
子どもに向かっては、「もっと力を抜きなさい」となる。

このちがいは、大きい。……というより、では英語で、「がんばれ」は、何と
言うのか。子どもに、もっと力を入れてほしいときには、何と言うのか。
改めて考えなおしてみたが、私の貧弱な英語力では、それがわからない。

日本語の「おはよう」は、「GOOD MORNING」なのだが……。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Take it easy TAKE IT EASY が
んばれ がんばれ論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2517)

●自転車通勤(Eco-cycling)
In Japan we have too many road which do not have even sidewalks for walkers. Then 
cyclists on bikes have no choice but to run on the sidewalks together with walkers, which 
causes accidents more often as the number of bicycles is increasing. Then a new road 
traffic act is planning to restrict cyclists from the sidewalks. But this is completely against 
the flow of the age. To prepare suitable circumstances for cyclists would be better for the 
Global Warming problem.

++++++++++++++++

自転車に対する風当たりが、このところ、急に
強くなってきた。

自転車は、現在、指定歩道、通称「自歩道」
のみ、通行を許可されている(道路交通法
63条4項)。

もとはと言えば、自転車対自動車の事故が
急増したことが、理由である。

が、原則として、自転車は、軽車両。走行空間は
一般車道ということになっている。

こうした一般論をふまえて、「自転車は
車道を走れ!」と。

言うまでもなく、歩道を歩く歩行者を保護
するために、である。

しかしいきなり「車道を走れ!」は、ない。

その第一。

この浜松市について言えば、そもそも、
歩道すらない道が、多い。

たとえば浜松市の西に、N高校がある。
その横が私の通勤路になっているが、
そこにも歩道はない。

あるとすれば、道路脇に引かれた一本の
白い線だけ。

幅は、50センチ、あるかないかというところ。
しかも片側だけ。

N高校の先には、N中学がある。
小学校も、いくつかある。
その道路は、約1・5キロにわたって、文教地区と
いうことになっている。

その歩道(?)にしても、ところどころ電柱や、
道路標識で、さえぎられている。

あえて「車道を走れ」と言われるまでもなく、
車道を走るしかない。

そういう現状を一方で放置しておきながら、
歩道のあるところで、「車道を走れ」と
言われても、どうもすっきりしない。

それまでは、命がけで走ってくる。(ホント!)
歩道のある道路に出て、やっとほっとする。

さらに言えば、新しくできたバイパスには、
歩道がある。が、こんどは極端すぎるほど、
極端に立派な、歩道。
歩道の幅は、4メートル以上もある。
しかも両側に!

そういう歩道が、歩行者のためだけというのは、
どう考えてもおかしい。

オーストラリアなどのように、歩道を2つに
分けて、「歩行者用の歩道」と、「自転車用の
走行道(lane)」にするということは、できないのか。

それがだめなら、つまり歩道もないような狭い路地は、
思い切って、一方通行にし、その分、歩道や自転車用
の走行道にしたらよい。

たとえば長野県の飯田市などは、市内については、
一方通行道路をふやし、歩道を整備している。
やろうと思えば、この浜松市だって、それが
できないはずはない。

自転車は、環境にもやさしい。
地球温暖化が叫ばれている現在なら、なおさらである。
つまり自転車が走行しやすい道路を用意することは、
これからの地球を守るためにも、必要、かつ不可欠!

自転車を「悪」とするのではなく、自転車は「善」
であるという前提で、ものを考える。

たとえばフランスなどでは、すでに「自転車シャアリング」を
実施しているとこともあるという。
パリ市のばあい、カード1枚で、市内750か所の
サイクルポートで、自由に自転車を乗り降りすることが
できるという。

「発足して1か月で、利用者数が165万人に達し、
通勤、通学の足を自転車にかえる人もふえたという」
(「日本の論点」2008、P741)と。

その上で、歩行者の安全をどう守るかを考える。

そこで私からの提案。

(1)歩道のない道路は、原則として一方通行化する。
(2)一方通行化し、片側を、歩行者用の歩道と、自転車用の車道に分ける。
(3)現在ある歩道についても、歩行者用と自転車用に分ける。

さらに言えば、自転車に乗ることは、健康にもよい。
もし日本人の約30%が、自転車通勤を始めたら、
いったい、どれくらいの医療費が助かることか。

たとえば、1週間に2000kcal以上の運動をする人は、
500kcal以下の人に比べて、

冠動脈疾患は 25・7→ 16・4人
脳卒中は    6・5 → 2・4人
呼吸器疾患は  6・0 → 1・5人
がん     25・7 → 19・0人へと、死亡者数が、
減るということがわかっている。
(ハーバード大学卒卒業生、16939人の、16年間にわたる
追跡調査結果。1万人あたりの死亡者数)

歩行のばあい、20〜30分で、100kcal、
自転車のばあい、17〜40分で、100kcalの
エネルギーを消費するという(参考:「コアラ通信」)。

毎日、1時間前後、自転車に乗って、軽く汗をかくだけで、
いわゆる成人病と言われている疾患が、約3分の1から2分の
1にまで、減るということになる。

つまりその分、おおざっぱに計算すれば、国による医療費負担も、
3分の1から2分の1に減るということになる。

「自転車は歩行者にとって危険だから、歩道から締めだそう」と
考えるのではなく、「どうすれば自転車に乗る人たちが
より安全で便利になるか」という視点で、もう一度、この
問題を考えなおしてみてほしい。

地球の環境を守るため。
個人がより健康になるため。
そして日本の医療費負担を軽減するため。

ちなみに私は、この40年近く、自転車通勤をしている。
おかげで、成人病とは、まったく、無縁。
いつも同年齢の人たちより、10歳は若く見られている。

自転車通勤は、健康にもいいですよ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自転車 自転車通勤 歩道 
自転車道 浜松市 道路行政 提言 自転車道 提言 歩道)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●「スピリチュアル」という????(Spiritual Boom in Japan)
More and more people believe in Spirits, a kind of uncertain superstition in Japan. They 
believe the former existence or life after death. But where are they? Does it really exist? 
Books written by E-bara, a founder of this spiritual boom in Japan has succeeded in having 
sold more than 7 million copies of his books. I would rather say here that it is very 
dangerous to believe in such and such the existence of Spirits, since it is closely connected 
with Cult or Sect, a very radical religions. We have to be more careful about them.

かつての「霊」ブームが、「スピリチュアル」ブームに変わった。
????も????、どうしてそういった????が、こうまで
堂々と、この世の中で、大手を振って歩くのか。歩くことができ
るのか。

「前世」だの、「オーラ」※だの、はては、「守護霊」だのと、科学性
はゼロ。ただの迷信。「守護霊」という言葉にしても、ほんの30〜
40年前に、この日本に現れた。何かのオカルト・ブームがきっかけ
だった。

雑誌などを読むと、「スピリチュアルと、宗教とは、ちがう」と説く人
は多い。「スピリチュアルは、宗教ではない」「だから危険性はない」と。

当然ではないか。

宗教には、まだ哲学がある。スピリチュアルには、それがない。
ないから、迷信。ただ、それだけに、ヘタなカルトより、タチが悪い。

思考性を他人に預けてしまうことの恐ろしさを、なたは、知っているか?
他人ならまだしも、わけのわからないものに預けてしまう恐ろしさを、
あなたは、知っているか?

「あなたはキツネの生まれ変わり」だの、「ヘビの生まれ変わり」だの、
はては、「あなたの先祖は、人を殺している。そのタタリ」だのと、
とんでもないことを言われ、それを真に受けてしまう。

そのおかしさ、バカらしさ、まず、それに私たちは、気づくべきでは
ないか。

……と書いても、私がひとりで叫んでも、意味はない。大河の中に
クイを一本打つ程度の効果しかない。

スピリチュアル・ブームの火付け役となった、E原氏の本は、総発行
部数で、700万部を超えているという(「日本の論点」2008)。
Aテレビ系列の彼の番組では、毎回、2けた台の視聴率を稼いでいるという。

700万部だぞ! 私のBLOGやHPへのアクセス件数は、累計で、
先月、月間ベースで、やっと10万件を超えた。が、それでも、70分の1! 
テレビの視聴率と比べたら、かないっこない。

単純に計算しても、10%の視聴率としても、それだけで、1200万人。
そういう人たちが、????を????とも気がつかず、テレビという
巨大マスメディアに、言いように操られている。
いったい、日本の良識は、どこへ消えた!

だから私は、あえて叫んでやる! 

こんな????を野放しにしておいたら、やがて日本は再び、たいへんな
ことになるぞ!

スピリチュアル・ブームくらいなら、まだよい。思考力を失った人間が
どうなるか? あのO真理教によるサリン事件を思い出してみればよい。
あるいは、現在のK国でもよい。さらには戦前の日本でもよい。

共通してそこにいるのは、思考力を失った人間たちだ。さらに言えば、
思考力を失った、若者たちだ。子どもたちだ。

……実は、今、私も、こうした迷信との戦いに直面している。

実家の仏壇を、私の家に移そうと考えているのだが、それについて、
親類縁者の人たちから、「ショウ抜きをしなさい」「ショウ入れをしなさい」と
言われている。

「ショウ」って、何? どんな漢字をあてるの?

つまり仏壇といっても、ただの箱。そこで所属宗派の僧侶に来てもらい、
「魂」を抜いたり、入れたりしてもらえということらしい。

バカげた迷信だが、それを口にしている人たちは、本気らしい。
「ショウを抜かないで仏壇を移動すると、バチが当たる」とか、
「ショウ入れをしないと、位牌をまつっても意味がない」とか、
さらには「故人が成仏できない」とか言う。

結構なご意見だが、そういう人たちは、一度、YOU TUBEで、
世界の音楽なり、民族舞踊なりを見てみたらよい。
つまり一度、世界から日本を見てみることだ。そして日本人のほかに、
どこのバカがそんなことを口にしているか、一度、調べてみたらよい。

釈迦だって、そんなことは、一度も言っていないぞ! バカヤロー!

さらにあえて言うなら、日本の仏教も、そんなことばかりしているから、
若い人たちに、ソッポを向かれる。「葬式仏教」と揶揄(やゆ)される
理由も、そこにある。結局は、スピリチュアルと中身は、同じ。

話をもどす。

「考えること」には、ある種の苦痛がともなう。難解な数学の問題を
前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。

そのとき横にいた人が、そっと、解答の出ている用紙を見せてくれたら、
あなたはどう感ずるだろうか。あなたは、ある種の陶酔感すら覚える
かもしれない。

だからほとんどの人は、できるだけ考えることから、遠ざかろうとする。
避けようとする。考えたところで、答が出てこないかもしれないという
不安があるなら、なおさらだ。

スピリチュアル・ブームは、そういう人たちの上に乗っている。
だから私は、「危険である」という。

前世も来世もない。この100年は、何とかもちこたえるとしても、
200年、300年後には、人類はもちろん、あらゆる生物が、この
地球上から消える。このままでは、そうなる。

そういう(現実)を前にして、「前世」だの、「来世」だのと、それを
口にする、おかしさ。そのおかしさに、まず気づいたらよい。

大切なことは、自分の脳みそで考えて、自分で行動することだ。
不完全で未熟かもしれないが、そこに人間が生きる意味そのものが、
隠されている。

だから1人でも多くの人が、私と声を合わせて、こう言ってほしい。
「あんなのは、????だよ」と。その一声が、私たちの良識となって
若者たちや、子どもたちの未来を明るくする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist スピリチュアル スピリチュアル・
ブーム 精霊 聖霊 霊 カルト 迷信 オーラ論 オーラ)

(注※)
私が「オーラ」(?)なるものに出会ったのは、1970年のはじめごろのことだった。
(今、計算してみたら、1974、5年ごろのことだった。その記録は
京都大学理学部のほうには、残っているはず。)
京都大学に、ソ連のある科学者(?)がやってきて、それを実演してみせて
くれた。
その科学者は、科学的にオーラを光の映像にすることに成功したという
ことだった。
私は、地元の医師と連れだって、それを見るために、わざわざ京都大学
まで出かけていった。
(たしか当時、鍼灸の世界ではよく知られていた、良導絡研究所の研究所の
人が、声をかけてくれたように記憶している。)
そのときの実験は、こういうものだった。
(細部は記憶によるものなので、正確ではない。)
たとえば内臓のどこかに病変があると、その人が発するオーラの色が変わる
というものだった。
たとえば健康な人のオーラは、美しいxx色をしている。しかし肝臓が悪く
なったりすると、その色がxx色に変化する、と。
(色が変化するだけではなく、オーラの形や現れ方まで変化するという。)
体のあちこちに電極をつけていた。今から思うと、静電界か、電磁場を人工的
につくり、それを暗室で、発光させることによって、オーラ(?)を観察する
というものではなかったか。
もちろん、そのあと、それは手品に近い、????と証明された。
人間にオーラなど、ない。あっても、見ることも感ずることもできないはず。
ものごとは、常識で考えたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2518)

●悪化する韓国経済(その後)(3月15日版、2008)
(South Korean Economy which is getting worse and worse.)

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「日韓経済戦争」を書くようになって、
もう5、6年になる。

彼らの「反日」には、「嫌韓」で応えるしか
なかった。

N前大統領は、公式の場で、「日本よ、いい気に
なるな」と言った。

それに応えて、日本のK首相(当時)は、
「後悔するのは、韓国のほうだ」と。

その前後から、日本は、台湾への猛烈な投資を開始した。
韓国と台湾は、経済構造がよく似ている。
多くの産業で、競合部分も多い。

韓国をたたくには、台湾に代理戦争をしてもらうしかない。

で、その結果。つい先ごろ(3月はじめ)、IC関連
の売上高で、台湾は、韓国を抜いた。

この流れは、大統領がかわっても、止まらない。
韓国経済は、ますます悪化の一途をたどっている。

「親日」とまではいかないにしても、「反日でもない」
現在の大統領だが、「助け」を出すのは、ここは
慎重になったほうがよい。

東亜N報は、つぎのように伝える(3月15日)。

(1)雇用情勢が悪化し、全国の売れ残りの分譲マンションが、通貨危機以来最多の水準
に増えた。
(2)韓国経済の現状が悪化し続けている。国際原油価格の最高値更新が続く中、ウォン
安が進み、物価上昇の勢いもしばらく続くものと見られる。株価も下がった。 
(3)13日、統計庁によると、非経済活動人口のうち「休職」に当たる人は、今年2月
現在162万8000人で、初めて160万人を超え、関連統計を取り始めた03
年以来、月別基準では史上最高値を記録した。 
(4)また、企業への入社や公務員試験などを準備する「就職準備者」も、2月現在60
万7000人となり初めて60万人を突破した。 
(5)2月現在、81万9000人の失業者に休職や就職準備者を合わせた「事実上の就
職浪人」は305万4000人に上る。これは昨年2月の297万1000人に比
べて、8万3000人(2.8%)増加したものだ。 
(6)売れ残りのマンションが増え、資金力の弱い中小建設会社の相次ぐ倒産への懸念も
高まっている。 
(7)13日、国土海洋部によれば、今年1月末現在、全国の売れ残りのマンションは1
2万3371戸で、過去最多だった11万6433戸(1998年7月の通貨危機
当時)を上回っている。 

規模こそ小さいが、アメリカのサブプライム問題と、
韓国のマンション問題は、構造が、たいへんよく似ている。

さらに不気味なのが、失業者問題。
数字だけを見ると、合計で、たったの305万人ではないか
ということになる。総人口比でみるかぎり、6・2%。
(韓国の人口を4900万人、外務省、'07で、計算。)
が、統計の取り方そのものが、日本とは、ちがう。

韓国では、1か月のうち、たった1時間でも働いたら、
失業者(休職者)とみなされない。

ちなみに、日本と韓国では、失業者の定義は、つぎのように
なっている(労務安全情報センター)。

日本……労働力調査。調査週において仕事がなく、かつ求職活動を行い、就業可能であった
15歳以上の者。過去の求職活動の結果を待っている者を含む。

韓国……労働力調査。仕事がなく、就職の意志があり、求職活動を行っている15歳以上の
者。悪天候あるいは一時的な病気のために求職活動ができなかった者や、新しい仕事を始め
るために待機中の者を含む。

中小の建設業者の倒産がはじまったときが、最後。
韓国経済は、ドミノ倒しのようになって、崩壊する※。

ドル安で、世界の通貨は、その反動として、高騰している。
日本の円も、昨年(07)の120円台から、100円台にまで
上昇した。

しかし韓国のウォンだけは、1ドル=905ウォン前後から、
何と、1000ウォン近くにまで、さがっている!

アメリカのドル以上に、ウォンが猛烈な勢いで、売られて
いることを示す。

(注※)
民間の投資家たちは、(マンションを購入)→(そのマンションを担保に、銀行からお金を借り入
れる)→(そのお金で、またマンションを購入)→(そのマンションを担保に、また銀行からお金
を借りる)→……ということをつづけている。これを「レバレッジ」という。

マンションの価格が上昇しつづければ、投資家たちは、利益を享受することができる。しかしマ
ンション価格が低下し始めたとたん、こんどはドミノ倒しのように、巨額の負債を抱え込むこと
になる。

アメリカのサブプライム・ローン問題も、こうして起きた。アメリカでは、住宅が対象であったの
に対して、韓国では、マンションが対象になっている。上記(6)と(7)に、とくに注目してほしい。
「マンションが売れ残りはじめた」という。つまり「マンション価格が、さがり始めた」ということに
なる。ゾーッ!

(注※)(韓国S経済研究所発表報告書より・08年3月)

「報告書によると、1997〜2006年世界IT企業3351社の国家別経営成果を分析したとこ
ろ、台湾企業の売上は12.6倍、純利益は5.5倍増となり、世界の平均(売り上げ2.0倍、
純利益2.7倍)を大きく上回った。 

また、同期間の年平均売上げの伸び率も32.5%と、韓国(22.5%)と中国(31.5%)を抜
いていることがわかった。 

これを受け、世界IT企業の売上げに占める割合も台湾は10.5%で、米国(31.5%)と日本
(30.0%)に次いで3位に上がり、韓国(6.5%)を追い越している。売上高の世界IT企業トッ
プ100のうち、台湾企業は13社で、韓国(5社)より多い」(以上、報告書より)。 


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●何か、臭うぞ、米朝会談!
(Something is strange! Really strange! US and N. Korea discussed about North Koreans 
Nuclear weapon development in Geneve. But did the conference come to rapture?)

+++++++++++++++++

何か、おかしいぞ!
何か、へんだぞ!
何か、臭うぞ、米朝会談!

「怪談」それとも、「会談」?

まずヤフー・ニュースを分析して
みよう※。

(1)K国側の希望で、ジュネーブで米朝会談が開かれた(13日)
(2)終日、にこやかな雰囲気で、「実質的な会談」(ヒル氏談)が行われた。
(3)K国側も、「満足している」と述べた。
(4)しかし会談は、そこまで。
(5)14日に予定されていた会談は、流れて、ヒル氏は、シュネーブを離れた。
(6)ヒル氏の部下と、K国側の代表(金氏)が、ジュネーブに残った。
(7)K国側は、ウラン濃縮、海外への核拡散については、否定。
(8)ヒル氏は、日本人の拉致問題もとりあげたという。

これだけ読めば、今回の会談は、合意点を見いだせないまま、
またまた流れたということになる。

ほんとうにそうか? そう読んでよいのか?

もともと今回の会談について、ヒル氏は、二段階構えで臨んでいる。
ウラン濃縮と海外への核拡散については、「過去の話」として、不問にするとした。
K国側のメンツを立てるために、である。

一方、2月終わりの米朝会談を、K国側は、すっぽかしている。
「?」と思っていたら、K国側から、ジュネーブでの会談の申し入れがあった。
K国側に、何らかの変化があったとみるのが、自然である。

ところがフタをあけてみたら、この始末。

「当初会談は14日も続けられる予定だったが、
アメリカ側は『いまのところ(K国側と)会うつもりはない』としている」
(ヤフー・ニュース)と。

私は今回の会談は、最初から最後まで、世界をだますための茶番劇では
なかったと思っている。

つまり表の議題(=K国内の核開発問題)も、裏の議題(=ウラン濃縮と
核拡散問題)も、すでに双方で決着している。
少なくとも、ヒル氏と金氏の間では、決着している。

が、なぜか、会談の決裂を演出してみせた。

なぜか? なぜか? なぜか?

理由の第一。

今回の会談について、最初から(二段構え)ということが、バレてしまっている。
ならば、(裏の会談)イコール、(秘密会談)は必要ないはず。

そこでへたに、表の議題について合意すれば、国際世論は、当然、「アメリカは
K国と裏取引をした」ということが、明白になってしまう。

そこでアメリカは、(表の議題)も決裂したと見せかけることで、
「会談そのものの決裂」を演出する必要に迫られた。
わかりやすく言えば、表向き、会談そのものが、決裂した、と。
予定されていた14日の会談がなされなかったのは、そういう理由による。

が、実は、会談は、成功していた!
そう考えると、今回のヒル氏の不可解な行動が理解できる。
ヒル氏は、14日、たいした用事もないのに、腹心の部下を残して、ジュネーブを去った。

決裂したのなら、部下を残す必要はない。
また今のヒル氏にしてみれば、米朝会談にまさる重要な任務はないはず。

この謎を解くヒントは、K国側の金氏自身の言葉にある。
15日、金氏は、ジュネーブを去るにあたり、記者団にこう述べている。

「見解(の差)は大いに縮まった。もう少し前に進めればいい。妥協は可能だ」(同)と。

やはり合意はなされている。
でなければ、金氏が、こんなことを口にするはずはない。
あとは、その発表の時期をうかがっているだけ。

ヒル氏が何を考えているか、私にはわからない。
わからないが、またまたこの日本は、裏切られた。
アメリカは、裏の議題、つまりウラン濃縮問題と核拡散問題を優先させた。
K国内の核兵器など、アメリカにとっては、問題ではない。
(日本にとっては、死活問題だが……。)
ほんとうの問題は、ウラン濃縮問題と核拡散問題である。
もちろん拉致問題を会談で取りあげたというが、そんなのはヒル氏にしてみれば、
日本へのリップ・サービスでしかない。

もうひとつの可能性は、ヒル氏も金氏も、ポスト金xx(金xx死後)のK国を
念頭に置いているのではないかということ。
双方とも言葉には出せないのかもしれないが、当然、そういう前提で話しあっている。
その可能性も、まったくないとは言えない。

金xx亡きあとは、金氏が、K国の実権をにぎる?
アメリカは、それを後押しする?

私の予想では、今月(3月末)あたりか、4月のはじめに、電撃的な米朝会談が
開かれ、その合意が発表されると思う。
そのとき今回の謎が、解明されると思う。

注視!

+++++++++++++++

(注※)(以下、ヤフー・ニュース・3月15日より)

K国の核問題をめぐる6カ国協議の米朝首席代表による会談が13日、ジュネーブで行われ
た。K国は焦点の核計画の申告問題について、ウラン濃縮、海外への核拡散ともに否定する
など米朝の溝は埋まらず、合意には至らなかった。

 会談は米朝それぞれの国連代表部で計5時間行われた。ヒル米国務次官補(東アジア・太
平洋担当)とK国の金桂寛外務次官は昼食、夕食も共にした。

 金次官は会談後、記者団に対し、ウラン濃縮と核拡散について「これまでも、いまもやってい
ないし、これからもしない」と全面否定した。ヒル次官補も会談後の記者会見で、「K国は拡散と
ウラン濃縮でこれまでの立場を維持した」と述べ、対立が解消されなかったことを認めた。

 ヒル次官補は日本人拉致事件も提起し、K国側に解決に向けて取り組むよう促したことを明
らかにした。

 会談では申告内容のほか、申告の形式、今後の協議の進め方などについて、「実質的な話
し合いをした」(ヒル次官補)という。ヒル次官補は「一定の進展があった」と述べたが、具体的
には言及しなかった。金次官も「(会談に)満足している」と語った。

 当初会談は14日も続けられる予定だったが、米側は「いまのところ(K国側と)会うつもりは
ない」としている。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2519)

●好きな子、嫌いな子(Those whom we like, those whom we don't like)
Here I introduce an easy way to know its each relationship between children, developed by 
Morea. Just advice children to write the names, with whom he or she wants to sit next or 
with whom he or she doesn't want to sit next. Then we can know who is suitable as a leader 
of the class or who is supposed to be bullied in the future. Then we can apply this for 
preventing of bullying among children.)

+++++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
この原稿が、思わぬところで、
反響を呼んでいる。

「反響」といっても、
たいしたものではないが、
まず一読してほしい。

++++++++++++++++

【あなたは過関心ママ?】

●過関心は子どもをつぶす

 子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、しかしそれが度を超すと、過関心になる。
こんなことがあった。

ある日一人の母親が私のところへやってきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、
『好きな子どうし、並んでいい』と言ったが、うちの子(小二男児)のように友だちがいない子ども
はどうすればいいのか。そういう子どもに対する配慮に欠ける行為だ。これから学校へ抗議に
行くので、あなたも一緒に来てほしい」と。さらに……。

 子どもが受験期になると、それまではそうでなくても、神経質になる親はいくらでもいる。「進
学塾のこうこうとした明かりを見ただけで、カーッと血がのぼる」と言った母親もいたし、「子ども
のテスト週間になると、お粥しかのどを通らない」と言った母親もいた。しかし過関心は子ども
の心をつぶす。が、それだけではすまない。母親の心をも狂わす。

●育児ノイローゼ

 子どものことでこまかいことが気になり始めたら、育児ノイローゼを疑う。症状としては、ささ
いなことで極度の不安状態になったり、あるいは激怒しやすくなるのほか、つぎのようなものが
ある。(1)どこか気分がすぐれず、考えが堂々巡りする、(2)ものごとを悲観的に考え、日常生
活がつまらなく見えてくる。さらに症状が進むと、(3)不眠を訴えたり、注意力が散漫になったり
する、(4)無駄買いや目的のない外出を繰り返す、(5)他人との接触を避けたりするようにな
る、など。

 こうした症状が見られたら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながること
も珍しくない。子どもが間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●汝(なんじ)自身を知れ

 過関心にせよ、育児ノイローゼにせよ、本人自身がそれに気づくことは、まずない。気づけば
気づいたで、問題のほとんどは解決したとみる。そういう意味でも、自分のことを知るのは本当
にむずかしい。『汝自身を知れ』と言ったのはキロン(スパルタの七賢人の一人)だが、哲学の
世界でも、「自分を知ること」が究極の目的になっている。

で、このタイプの親は明けても暮れても、考えるのは子どものことばかり。子育てそのものにす
べての人生をかけてしまう。たまに子どものできがよかったりすると、さらにそれに拍車がかか
る。いや、その親はそれでよいのかもしれないが、そのためまわりの人たちまでその緊張感に
巻き込まれ、ピリピリしてしまう。学校の先生にしても、一番かかわりたくないのが、このタイプ
の親かもしれない。

●生きがいを別に

 子育ては人生の「大事」だが、しかし目標ではない。そこでこう考える。『子育ては子離れ』と。
子育てを考えたら、一方で手を抜くことを考える。手を抜くことを恐れてはいけない。子どもとい
うのは不思議なもので、手を抜けば抜くほど、たくましく自立する。

要するに「程度を超えない」ということだが、それがまた親子のきずなを深める。あのバートラン
ド・ラッセル(イギリスの哲学者、ノーベル文学賞受賞者)もこう言っている。『子どもに尊敬され
ると同時に子どもを尊敬し、必要な訓練はほどこすけれども、決して程度を超えない親のみ
が、家族の真の喜びを与えられる』と。

●一人の人間として

 あなたが母親なら、母親ではなく、妻でもなく、女性でもなく、一人の人間として、生きがいを
子育て以外に求める。ある母親は、娘が小学校へ入学すると同時に手芸の店を開いた。また
別の母親は、医療事務の講師をするようになった。地域の会に積極的に参加するようになった
人もいるし、何かのボランティア活動をするようになった人もいる。

そういう形で、つまり子育て以外のところで、自分を燃焼させる場をつくり、その結果として子育
てから遠ざかる。

+++++++++++++++++++++

●ソフト開発

この中で、私は、「好きな子どうし並ばせてみる」ということについて、書いた。
ここに書いた母親は、それを問題にした。

しかしこの方法、つまり「好きな子どうし並ばせてみる」というのは、
心理学的に、子どもどうしの人間関係を知るひとつの方法として、
たいへん有効である。子どもの深層心理を知り、さらには、(いじめの問題)
を解くカギになる。

もっと言えば、この方法は、モレノという学者が考えた、「ソシオメトリー」
として、心理学の世界では、確立された方法のひとつである。

具体的に方法を説明しよう。

私の教室に、7人の子どもがいる。全員、小4である。
その子どもたちに、一枚の紙を渡す。

「あなたはだれと並んで座りたいですか。名前を1人書きなさい」
「またあなたは、だれと並んで座りたくないですか。名前を1人書きなさい」と。

「秘密は守ります」「だれにも見せない」ということを、何度も念を押す。
この方法を応用するためには、何よりも、教師と生徒の間の信頼関係が大切。
その信頼関係がなければ、この方法を、応用することはできない。

で、7人の子どもがこう書いたとする。

A:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……F

B:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……C

C:いっしょに座りたい人……A
  いっしょに座りたくない人……F

D:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……G

E:いっしょに座りたい人……D
  いっしょに座りたくない人……G

F:いっしょに座りたい人……C
  いっしょに座りたくない人……E

G:いっしょに座りたい人……E
  いっしょに座りたくない人……F

そこでこれらの関係を図表化してみる。
A、B、C、D、E、F、Gの7人を、それぞれ線でつないでみる。

すると、Cに、人気が集まり、一方、Fが人気がないのがわかる。
Cとライバル関係にあるBは、Dに好意を寄せている。
Gも孤立しているが、Bの仲間に入れることは可能である……などなど。
そういうこともわかる。

つまりこの方法によって、そのクラスが、どういう人間関係で構成されているか、
おおまかに知ることができる。
同時に、人気のある子どもや、そうでない子どもを知ることによって、どの子どもを
リーダーにすると、クラスがまとまり、またどの子どもが、仲間はずれにされているかが、
わかる。

仲間はずれにされている子どもは、当然、将来、いじめの対象になることも考えられる。
またその相関図がわかれば、どうすれば、いじめを防ぐことができるかもわかる。

ここでは7人の子どもを例にあげたが、簡単なプログラミングで、
50人単位、100人単位の人間関係を知るソフトも可能である。

(二男に頼めば、すぐソフトを開発してくれると思うが……。
BASIC言語でもよければ、私にもできる。EXCELでは無理だと思う。
どなたかスポンサーになってくれる人は、いないか?)

プリグラミングの条件として……。

(1)「座りたい人」を(+1)にする。
(2)「座りたくない人」を(−1)にする。
(3)(+)の得点の多い人を、青い円で表示する。
   得点に応じて、円の大きさを変える。
   たとえば(+3)の人は、円の半径を30ドットにする。
   (+5)の人は、円の半径を50ドットにする。
   (−)の得点の多い人を、赤い円で表示する。
(4)それぞれの相関関係を、図表化する。
たとえば、いっしょに座りたい人に向かっては、青線表示。
座りたくない人に向かっては、赤線表示。
(5)その相関関係を、シャッフルしながら、まとめていく。
(方法としては、赤線、青線の長さが最短になるように表示する。)
(6)こうして人気のある人、人気のない人が一目でわかるようにする。
ライバル関係(派閥の長関係)にある人は、黄色の線でつなぐ。
その人を救済する立場にある人を、緑の線でつなぐ。

教育関係(学校)では、この方法で、教師は、いじめの対象となりやすい子どもを
事前に知ることができる。
またどうすれば、その子どもを、ワクの中に取り込めるかもわかる。

時間があれば、ソフトの開発をぜひやってみたい。

(私はこう見えても、20代の終わりごろから、30代のはじめ、自分で
ソフトを開発して遊んでいた。一度だけだが、私が開発した、「宇宙空間移動
ゲーム」は、地元のパソコンソフト会社が、買いあげてくれた。)
(これは自慢話!)

ともかくも、そういうこともあるから、学校の先生が、「好きな子どうし並んでみなさい」
と言っても、親は、過剰に反応しないこと。
子どもの人間関係を、それによって、簡単に知ることができる。
ひょっとしたら、その先生も、この方法を試してみたのかもしれない。

……ということで、以前書いた原稿を、ここで再度、とりあげてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【3月15日の終わりに……】

+++++++++++++++++

今日も、終わった。
時刻は、午後10時20分。
静かな夜だ。

で、今日の反省。

運動は1単位(40分)のみ。
ワイフと長男と3人で、佐鳴湖を
一周した。プラス、ハナ(犬)も。

そのあと山荘で昼寝。
パソコンショップに寄って、
それから夕食の買い物。

夜になって、ビデオ編集。
今夜は、「嵐の夜に」をYOU TUBE
にアップロードした。

息子の音楽に、孫たちの写真を載せた。

夕方三男から電話。
アメリカでの訓練を受ける前に、
浜松へ来るという。

1週間もいるという。

「そんなに長くいるのか?」と聞くと、
「うん」と。

この先、1年以上、また会えない。

今度は、カルフォルニアのNAPA
というところに行くという。
ワインの産地として知られている。

考えてみれば、私も若いときは、
毎週のように世界を飛び回っていた。

そういう時期も、あっという間に過ぎた。

私がした経験や、知恵を、できるだけ、
三男に伝えたい。

1週間で足りるかな?

アメリカには二男もいる。
子どものときから仲のよい兄弟だった。
すでに連絡を取りあっていると思う。

二男は喜んでいるはず。

末永く、仲よく暮らしてほしい。

3人とも、みな、いつまでも元気でいてほしい。

ところでハナ(犬)の様子が少しおかしい。
このところ日に日に、体力が落ちていくのがわかる。

今朝も佐鳴湖をいっしょに一周したが、
最後の4分の1は、自転車のカゴに乗せて走った。

どこかぐあいでも悪いのか?
見た目には元気そうなのだが……。
一度、病院へ連れていってみよう。

+++++++++++++++++

(追記)

眠る前に、ワイフと、私のHPを見る。
「音楽と私」を見る。
YOU TUBEで、音楽を聴く。
ときどきいっしょに歌うこともある。
このところは、毎晩のように、そうしている。

それで……というわけでもないが、
床に入ったのが、12時ごろ。
おかげで今朝は、7時、起き。
今日は日曜日。
いろいろやることがある。

母の見舞いと、畑の種まき。
時間があったら、HPのトップページの
写真を替えてみたい。

みなさん、おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●一事不再理(Double Jeopardy)
Double jeopardy is the most important principle in its criminal prosecution laws. Otherwise 
law system itself would be collapsed. But how about the criminal act committed outside 
Japan, and by a Japanese? The victim was also a Japanese. Mr. MK was arrested in Japan 
for suspicion of murder in USA. He was innocent in the judgment in Japan. 

産経新聞は、つぎのように伝える。

「アメリカ・ロサンゼルスで、1981年に起きた銃撃事件で、日本での無罪確定後にサイパンで
逮捕された元会社社長、MK容疑者(60)のロサンゼルスでの弁護人、マーク・ゲラゴス氏は1
4日、逮捕は、『一事不再理』の原則を定めた米憲法修正第5条に反するとして、逮捕状の無
効確認を求める申し立てをロス地裁に行った」と。

「一事不再理」というのは、それぞれの国内においては、もっとも重要な大原則のひとつ。
もしこの原則を崩してしまうと、法秩序そのものが、崩壊する。
それはわかる。

しかしこんな例で考えてみよう。これは極端なケースということになるが、
たとえば、どこかの国のバカが、この日本へやってきて、日本人を拉致したとする。
日本側の捜査の結果、その拉致実行犯たちが特定できたとする。
隣のK国なら、K国でもよい。拉致実行犯たちは、K国で生活していた。

そこでK国政府は、日本からの報告に基づき、その拉致実行犯たちを逮捕し、
裁判にかけたとする。(もちろん形だけの裁判だが……。)
が、結果は、無罪。

さて、ここからが問題。

その拉致実行犯たちが、のこのこと、この日本へやってきたら、どうなるか?
日本の警察は、どうするか?
当然、日本の警察は、拉致実行犯たちを逮捕するだろう。
逮捕したあと、当然、日本の刑法に従って裁判にかけようとするだろう。
が、そのとき、拉致実行犯たちは、こう叫ぶ。
「一事不再理だア!」と。

A国人が犯した犯罪は、世界のどこで犯したとしても、A国国内で処罰する。
これを属人主義という。
B国国内で起きた犯罪は、どこの国の人間であろうとも、B国国内で処罰する。
これを属地主義という。

K国は、属人主義なのか、属地主義なのかは知らない。

日本の刑法は、原則として、属地主義を採用している(刑法第1条第1項)。

「日本国内で犯された犯罪については、何人に対しても刑法の適用される」と。

だからK国の拉致実行犯たちが、のこのこと日本へやってくれば、
K国内での裁判結果はともかくも、日本の警察は、彼らを逮捕することになる。

問題は、日本人がアメリカで犯した犯罪である。
今回のMK事件が、それに当たる。

本来なら、この事件は、アメリカ国内で起きた事件だから、(同時に、
日本国内で起きた事件ではないのだから)、同じく属地主義をとるアメリカに
裁判権がある。当初から、アメリカ側に裁判を任せればよかった。

何も、被疑者であるMKという男を、本来なら、日本で裁く必要はなかった。

が、これについては、日本の法律は、属地主義を採用ながらも、重大犯については、
属人主義を採用するという、二段構えの考え方を採用している。
ほかに保護主義、あるいは世界主義という考え方をするときもある。

MK事件では、被害者も、日本人だった。
それで属人主義が、すんなりと(?)、通ってしまった。

たとえばあのMK事件で、被害者がアメリカ人であったら、どうであっただろう。
アメリカ側は、属地主義を前面に出して、MKという男をアメリカに引き渡すよう、
強く要求していたであろう。
当然、MKという男は、アメリカ国内で、裁判を受けた。

で、日本での裁判結果は、無罪。
かぎりなくクロに近いが、日本では、状況証拠には、原則として、
証拠能力はないということになっている。
さらに2人(以上?)いたであろう人物のうち、どちらが実行犯なのか、
特定できなかったこともある。
それで無罪になった。

さて問題は、カルフォルニア州へ護送されるMKという男は、一事不再理を理由に、
無罪放免になるかどうか、である。

(1)アメリカで起きた犯罪は、アメリカ側に裁判権がある。
(2)外国で受けた裁判は、一事不再理に当たらない。

この2点だけをとれば、MKという男は、再度、アメリカで裁判を受けることについては、
何ら問題ないということになる。

が、ひとつ大きな問題がある。
恐らくこのあたりを、MK側の弁護士がついてくると思われるが、
ならば、なぜアメリカ側は、MKなる男を、アメリカ側に引き渡すよう
要求しなかったのかということになる。

(要求しなかった)ということは、(裁判権を放棄した)、あるいは、(MKという
男がしたであろう犯罪行為については、不問に処す)という意思表示をしたことに
なる。

そのあたりの書類がどうなっているか? つまりMKという男を日本側に引き渡す
ためにやりとりしたであろう書類が、どうなっているか?

今ごろMKという男の弁護士は、血眼(ちまなこ)になって、その書類を
探し回っているにちがいない。
仮に両国間でやりとりされたであろう、MKという男の引き渡しに関する約文が
一枚でも出てくれば、一事不再理の原則にのっとって、
MKという男が、無罪放免になる可能性は、きわめて高くなる。
日本側の最大の盲点は、この一点に集約される。

(日本側は、そうした書類を開示することはないと思われるが……。
しかし裁判の成り行きによっては、わからない。)

注視!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2520)

●モノで釣る(Tempted by a Thing)
It is a kind of taboo to tempt children by a thing, which he or she wants to get, while we are 
teaching. But it is sometimes very efficient to make them calm or to educe his or her self-
control ability.

++++++++++++++++

ADHD児と呼ばれる子どもは、
たとえばカルタ取りのようなゲームが苦手。
集中力そのものが、つづかない。

一方、こんなこともある。

同じように騒がしい子どもでも、
時と場合によって、静かに落ち着くという
のであれば、ADHD児ではない。

ADHD児は、定例的に騒ぐ。
強く制止しても、その瞬間だけの効果しかない。

簡単な見分け方としては、(モノで釣る)
という方法がある。

この方法は、教育の世界では、邪道という
ことになっている。

私もそれを認める。
しかし子どもによっては、自己管理能力を
引き出すには、たいへん効果的な方法で
あることも事実。

この方法によって、子どもの自己管理能力を
引き出すことができる。

こんなことがあった。

T君(小2)という騒々しい子どもがいた。
父親はADHD児ではないかと、悩んでいた。
しかしADHD児ではなかった。

私たちの世界では、「あなたの子どもはADHD児です」
と、診断するのは、タブー。

しかし「ADHD児ではないと思います」と
言うのは、自由。

私はT君の父親に、こう言った。
「ADHD児ではないと思います」と。
それには、理由がある。

ある日のこと。
T君が、テーブルの上にあるミニカーを目ざとく見つけて、
こう言った。「ほしい!」と。

T君は、ミニカーを集めていた。

しかしこういうとき、子どものほしがるものを、
すぐに与えてはいけない。
しばらく、子どもをじらす。じらしながら、こう
言う。

「じゃあ、今日のレッスンで、一度も注意されなければ、
このミニカーをあげる。どうだ?」と。

T君は、その取り引きに応じた。

いつもならワイワイと騒ぐ。ときに教室中を、
ひっくり返してしまうこともある。

が、その日は、別人のようにまじめに(?)、
私の指示に従った。

つまりADHD児なら、こういうことはありえない。
ADHD児は、先にも書いたように、
自己管理能力を超えたところで、暴れたり、騒いだりする。

だからT君の父親には、こう言った。
「T君は、ADHD児ではないと思います」と。

子どもをモノで釣るのはよくない。
しかし時と場合によっては、効果的である。
さらに言えば、小学2〜3年にかけて、
自己管理能力が、急速に発達してくる。

現実検証能力というか、自己認識能力というか、
自分を客観的にながめ、判断する能力が、
急速に発達してくる。

この時期をうまくとらえると、ADHD児であっても、
急速に落ち着いてくる。

その力を引き出すためにも、(モノで釣る)という
方法は、時と場合によっては、有効である。

その一例として、T君のことを記録しておく。

(付記)

この指導には、こんな余談がある。
レッスンのあと、T君にミニカーを渡すと、
ほかの子どもたちが騒いだ。
「どうしてT君にだけ、ミニカーをあげるのか」と。

実は、その数だけ、私はミニカーをほかに用意しておいた。
私は引き出しからミニカーを取り出すと、
それをほしいと言う子ども全員に、ミニカーをあげた。

こういう配慮も、必要である。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

【3月17日】(March 17th)
I have been enjoying writing very much. Only when I am writing, I feel alive! To live means as 
for me, to write and think. Thinking is one of the most important part of my life.

+++++++++++++++

昨日は、午後から偏頭痛。
夜になって、薬をのみ、そのまま就寝。

今朝は、午前4時起き。

マガジンの配信を確かめる。
読者は、4人、ふえた。

そのほとんどは、近くのW医院のみなさんに
よるものだと思う。

その医院では、受付に、私のマガジンの申し込み用紙を
置いてくださっている。

ありがとうございます!

++++++++++++++

ところで私の知人に、パソコンは使わないという人がいる。
公認会計士をしている人だが、失明の危険があるからだという。
「きっと、ストレスからだと思います」と言うと、「そうだ」と。
その知人は、右目の視力を、ほとんど失った。
そのため現在は、公認会計士の仕事は、休業中。

パソコンを使っているから、失明するということではない。
原因は、やはりストレス。
私も30歳のはじめごろ、過労で(?)、片側の耳の聴力を、完全に
失っている。

「神経が焼き切れた」と、私は、自分ではそう思っている。

が、これだけ毎日パソコンに向かっていて、なぜ私は、だいじょうぶなのか?
ふつうなら、その知人のように、視力を失っていたとしても、おかしくない。

答は簡単。

ストレスをためないからである。
最初から、無私、無欲。
パソコンに向かうのを、楽しんでいる。
損得を考えていたら、マガジンなど、発行できない。
損得を考えていたら、ストレスばかりたまり、気がへんになってしまうだろう。

こうして文章を打ちながらも、その先のことは、何も考えていない。
だれかのために書くのではない。
あえて言うなら、自分のため、ワイフのため。
さらに言うなら、頭のジョギングのようなもの。
毎日、こうして文章を打つことで、私は、頭の健康を維持している。

だからこうして毎日、文章を打つことができる。

そんな私だが、ゆういつの励みは、こうして読者の方がふえること。
1人でも2人でも、うれしい。
4人というのは、ほんとうに、うれしい。

3月17日に、読者登録してくれた4人のみなさん、
ほんとうにありがとうございます。
おかげで、今朝は、頭痛も消え、たいへん気持ちよく、こうして文章を
打つことができます。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●バッハのCanon+言語学(Canon de Pachelbel and Linguistics)

++++++++++++++++

ワイフが、すてきな演奏を見つけた。
ヨハン・セバスチアン・バッハのCanonを演奏したものだった。
さっそく、「音楽と私」のワイフのコーナーに、
それを収録した。

それはそれとして、その下のコメント欄に、
こんな書き込みがあった。

演奏の崇高さもさることながら、その内容の
深さに驚いた。
どこかのだれかと、どこかのだれかが、ギリシア語に
ついて、書き込んだものである。

そのまま紹介させてもらう。

【K】Really. If you aren't too retard to search by internet, you'd discover all greek culture 
and religion are based on India's one. You'd discover that antique greek language is derived 
from sanskrit.

もしあなたが、インターネットで遅れていないなら、すべてのギリシア文化と宗教は、インドに基
づいていることを知るでしょう。古代ギリシア語は、サンスクリットから分岐したものです。

【I】But you're a retard, and won't see this at all.
Greek doesn't derive from sanskrit. Sanskrit and Old-Greek derive from the old indo-
european language, the mother of all languages of europe (except finnish, ungarian, estonian 
and bascian), persia and northern India. Greek, Sanskrit, Old persian, Old german, Latin, the 
celtic and slawic languages are brothers, the roman, german, slawian and iranian languages 
their childs. We are all cousins. No one is superior or older. So, excuse me, but first you 
have to inform you, than you can go on to post

しかしあなたのほうが遅れている。そんなことはない。
ギリシア語は、サンスクリットから分岐していない。サンスクリットと古いギリシア語は、古いイン
ドーヨロピアン言語、つまり(finnish, ungarian,Estonian,bascianをのぞく)すべてのヨーロッパ言
語、ペルシア語、北インド語の母体、から派生したもの。
ギリシア語、サンスクリット語、古代ペルシア語、古代ドイツ語、ラテン語、ケルト語、それに
Slawic語は、兄弟です。ローマ語、ドイツ語、イラン語は、その子どもです。私たちはみな、いと
こというわけです。
どれが優性で、古いということはありません。
ですから失礼ながら、(こうした書き込みをする前に)、あなたはまず自分で勉強なさることで
す。

【K】Not at all, Indo-european is a colletion of dialects and antique languages, not a language 
by itself.

ちがいます。インドーヨーロピーアン言語は、方言と古典言語の集まりで、言語そのものではあ
りません。

【I】No. I talk about the theoretical Indogerman/Indo-European language. So please, first 
study the material of the proto-language, if you want, the mother of all languages. This 
faculty was founded by the Study of F. Sassetti. He swa, that latin and sanskrit are similar. 
Out of this studys, derives the field of Indo-European studies, founded in the 19th century. 
If you went to university, and talk with the professors, you will hear, that Sanskrit, Latin and 
Old Greek are equal.

いえ、私は、理論的なindogerman/indo―ヨーロピーアン言語について書いているのです。それ
でまず最初に、もしお望みなら、すべての言語の母体である試作言語の資料を勉強してくださ
い。
この学部は、F.Sassettiによって、創立されました。彼は、ラテン語とサンスクリット語は、類似し
ていると言いました。これらの研究から、19世紀に始まったインドーヨーロピーアン語の研究
が派生しました。大学へ行き、教授たちと話をするなら、サンスクリット語、ラテン語、それに古
代ギリシア語は、平等であるということを耳にするでしょう。

++++++++++++++++++

ここに出てくる、【K】さんは、英語国の人だと思う。
【I】さんは、英語からみて、英語国の人ではないと思う。

しかし、たかが(失礼!)、YOU TUBEの1ページで、
こういう論争をするところがすばらしい!

で、この書き込み(POST)を読んでいて、昔、カレッジにいた、
講師のことを思い出した。

名前は、ジョン・ダナムと言った。彼も言語学者だった。
で、ある日、こんなことを教えてくれた。

言語を分類するとき、(あくまでも彼の理論によるものだが)、「ない」という
否定語を見るとよい、と。

たとえば、日本語で、「私はリンゴが好きではないことはない」と、「ない」を
2度重ねると、肯定の意味になる。

(マイナス)x(マイナス)=(プラス)というわけである。

しかし英語で、(NOT)を重ねると、強調になる。
たとえば「I don't don't like you.」と言えば、大嫌いという意味になる。

ジョン・ダナムは、大学構内のどこかの芝生の上に座りながら、そんな話をしてくれた。
そのときの様子を思い出した。

ところで、John Danum(?)は、今ごろ、どうしているのだろう。
「ダナム」には、「h」という文字があったように、思う。
「Danhum」だったかもしれない。あるいは「Dunham」だったかもしれない。

さっそく、インターネットで調べてみた。

結果……かなりありふれた名前ということもあって、ジョン・ダナムには、
たどりつけなかった。
生きていれば、今ごろは、70歳くらいになっているはず。
大の日本びいきで、私にたいへん親切にしてくれた。

いつかジョン・ダナムが、私のことを検索したとき、この原稿が
すぐ目にとまるようにしておこう。

Hiroshi Hayashi Melbourne Uni. Australian John Dunham a linguist International house 1970 
Please contact me if you see this Dear John Dunham, how are you going? Do you remember 
me? I am Hiroshi Hayashi, a college student of I.H. 


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【今日・あれこれ】(3月17日)

●命(Life)
We often say "life" is important. But what does this actually mean? I take up three 
elements in "Life" itself. They are "Time", "health" and "reason to live".

「命を大切に」とは、よく言われる。
子どもにそう言うときもある。
しかし「命」とは、何か。

私は、つぎの3つをあげる。

「時間」「健康」、それに「生きがい」と。
この3つを、重ねあわせて、「命」という。

まず(1)時間。

時間には限りがある。
その時間を、どう使うか。
年数ではない。
使い方。
20年を短いと言う人もいる。
1年を長いと言う人もいる。
生き方によっては、20年も一瞬で終わる。
1年を、100年にすることもできる。

さらに最近では、健康寿命という言葉もある。
平均寿命から、10年ほどを引いた年齢を、健康寿命という。
晩年の10年間は、病気との闘いということになる。
さらに50歳を過ぎると、健康な人でも、体力、気力がぐんと落ちてくる。
30代の人にしても、残された時間は、ほどんどない。
40代の人にすれば、なおさらだ。

つぎに(2)健康。

健康には、2つの意味がある。
肉体の健康。それに精神の健康。
東洋医学では、これら2つを、同じものと考える。
西洋でも、「健康な肉体に、健康な精神が宿る」という。
その反対でもよい。

その健康は「作る」ものではない。
「守る」もの。
今日、健康なら、その健康を明日につなげる。
が、大切なのは、運動。
さらに言えば、運動するという習慣。
その習慣が、その人を健康にする。

さいごに(3)生きがい。

人は、何もなくても、夢や希望があれば生きていかれる。
夢や希望がないと、ほかでどんなに満たされていても、生活は空虚。
よい例が、老人たちが住む、ケア・センター。

豪華な設備の整った一室で、3食、昼寝つきの生活をしている。
先日も、ボランティアの人たちが、そこで歌を歌っていた。
が、それを聞きながら、かろうじて反応している老人は、ひとりだけ。
残りの老人たちは、うつろな目つきで、空をながめていた。

生きているというよりは、生かされているだけ。
だれかが、「死の待合室」と呼んだが、健康な人なら、みな、そう思うだろう。
私の母にしても、先週、医師に、(とうとう)、こう言われた。
「今後は、治療しない」「延命処置もしない」と。
「とうとう」というのは、救急車で、運ばれることがつづいたことによる。

夢も希望もない。
それがあの待合室にいる老人たちである。
しかし夢や希望があれば、その先に目標が生まれる。
目標が生まれれば、生きがいも、生まれる。
「生きがい」、つまり「私は生きている」という実感、それが大切。

以上、「命を大切にする」ということは、
時間、健康、そして生きがいを大切にすることをいう。
「命を大切にする」といっても、ばくぜんとしていて、わかりにくい。
だからこうして、その中身を分析してみた。


●記憶(memory)
We are losing memories so easily especially when we stand at the doorway of old men.

今朝、ぞっとすることがあった。
けっして大げさなことを言っているのではない。
本当にぞっとした。
こんなことだ。

今朝、パソコンの中で写真をさがしていた。
息子の結婚式のときの写真が、どこかへいってしまった。
そのときのこと。

少し前に教えた子どもたちの写真が、何枚か出てきた。
日付を見ると、2002年となっていた。
たった6年前である。

そこには、5人の幼児の顔が写っていた。
私が教えた子どもに、ちがいない。
が、うち4人には、まったく見覚えがなかった。
「こんな子、いたっけ?」と思ってしまった。
それで、ぞっとした。

教えたということは、少なくとも1年間はつきあったはず。
にもかかわらず、名前どころか、教えたという記憶すら残っていない。

いや、どこかで見た顔だな……という程度には、覚えている。
しかし、そこまで。

記憶というのは、そういうものか。
子どものころに出会った人は、今でもよく覚えている。
しかしこの年齢になると、たった6年前の子どもたちのことですら、
(よほど何かのことで印象に残らないかぎり)、
そのまま忘れてしまう。

加えて、ぞっとしたのには、もうひとつ理由がある。

もし記憶というのが、そういうものであるとするなら、では、私は
この6年間、何をしてきたのかということになる。
6年前の「私」でもよい。

無駄に過ごしていたとは思わないが、言うなれば、穴のあいたバケツに、
水を汲んでいただけ。
汲んで入れた分だけ、穴から、水がこぼれ出て行った。

私が教えたはずの子どもたちでさえそうなのだから、ほかの記憶、
たとえば読んだ本とか、見た映画、旅行、会話、それに私が書いた文章とか、
そういうものも、そうであるにちがいない。

何もかも、ポッカリと記憶の中から消えてしまっている。
その可能性は、ないとは言わない。

認知症のはじまりなのか。
それとも私の年代の人たちは、みな、そうなのか。
ただ、「中には覚えている子どももいる」という点で、認知症ではないと
信じたい。
もし認知症のはじまりなら、全員、忘れてしまっているはず。

ともかくも、私は、ぞっとした。
この先、こういうことは、もっと多くなるにちがいない。
今、教えている子どもにしても、5、6年後には、きれいに忘れてしまう。
もしそうなら、「今」という時間は、いったい、何なのか。
言い方を変えるなら、「今」という時間そのものが、無駄になってしまう。

では、それを防ぐためには、どうしたらよいのか。

ひとつの方法は、常に、自分の記憶を刺激するというのがある。
アルバムだけではなく、その子どもの様子や特徴を、そのつど思い出す。
文章にして残して、あとで読みなおしてもよい。
思い出しながら、記憶を新しくしていく。

けっしてぼんやりとしたまま、その日、その日を、送ってはいけない。
自分では、「私は私」と思っていても、5、6年後には、その私が
消えてしまう。
半分とか、さらに10分の1になってしまう。

私のばあい、5人のうち、4人まで忘れてしまっていたから、80%の
記憶が消えたことになる。

言いかえると、2002年のあの時代の、80%を失ったことになる。

だからぞっとした。

そう言えば、私の母にしても、結婚してからの記憶がほとんどないことがわかる。
夫、つまり私の父のことすら、覚えていない。
ときどき口にするのは、母が子どもだったときのこと。
つまり子どものときから、今の時代まで、その間の記憶がどこかへ消えてしまっている。

が、もし母が、その過程で、つねに自分の記憶を刺激していたら、
そういうことはなかったかもしれない。
母は、忘れるまま、忘れてしまった。
私には、そんな感じがする。

「今」を生きるということは、今というこの「時」を、しっかりと脳みそに
刻みながら生きることをいう。
その努力を怠ると、あとは認知症の世界に、まっしぐら!
肉体の健康と同じように、脳みその健康も、維持しなければならない。

しかしそれは可能なのか……?

さあ、新しい本を読もう。新しい音楽を聴こう。
今という時間を、文という形で、しっかりと残しておこう。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2521)

●私が残りの人生で、すべきこと(What I should do in the rest of my life)
What I should do in the rest of my life is to make my wife happy and not to let her worry 
about. I shall keep working until the day comes when I can't work anymore. 

+++++++++++++++

私がすべきこと。
第一に、仕事。
これは死ぬまでやる。
やるしかない。

ワイフや家族に、心配をかけたくない。
だから最後の最後まで、元気でがんばる。
苦しくても、つらくても、がんばる。

そう、ワイフには、もう、これ以上、心配をかけたくない。
だからカラ元気でも何でもよい。
ワイフの前では、バカ話をして、
楽しく過ごす。

ジジ臭い話は、やめた。
精神的にガタガタするのも、やめた。

ワイフの前では、いつも新鮮な夫(?)でありたい。

そのときがきたら、そのとき。
そのときまで、元気でがんばる。

これが今朝の誓い。
いつまでつづくかな?

+++++++++++++++++++

●インディアナ大学(Univ. of Indiana)
My daughter-in-law passed the exam to enter Law School and she will attend classes at 
Indiana University in Indiana from this summer, with full scholarship. Sage and Mae, you 
have a great mother! 

嫁のデニーズの大学が決まった。
インディアナ州にある、インディアナ大学だという。
アメリカ東部では、名門校。
そこで法曹になるための訓練を受ける。

当初、LAW SCHOOLに合格したと聞いたとき、
私は、我が耳を疑った。

ふつうLAW SCHOOLへ入学するためには、
4年生の大学で法学部を修了し、その試験に合格
しなければならない。
日本でいう、司法修習制度にあたる。

しかも学費は、全額、奨学金でまかなうという。

誠司と芽衣という2人の子どももいる。

今朝(3月18日)、その連絡が、二男からあった。

……とたん、私の中にも、闘志がムラムラとわき起こってきた。
「負けてはいられない!」と。

あのデニーズが、私ですらできなかったことを、した!
なしとげた!

浜松の田舎で、グズグズしていて、どうする?
どうなる?

まだまだ私の人生は、長い。
できることは、山のようにある。
しなければならないことも、山のようにある。

私には、これといった財産はない。
しかし息子たちが、財産だ。
私が落ちこんでいると、いつもかならずといってよいほど、
こうして息子たちに励まされる。

がんばれデニーズ、宗市!

誠司、芽衣、お前たちは、すばらしいママをもっているよ!

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border:0" /></a><br /><a href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818012">P1060676
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<a href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818013"><img src="http://art4.photozou.jp
/pub/641/3641/photo/7818013.jpg" alt="P1060675" width="450" height="338" style="
border:0" /></a><br /><a href="http://photozou.jp/photo/show/3641/7818013">P1060675
</a> posted by <a href="http://photozou.jp/mypage/top/3641">(C)BWのはやし</a>
(インディアナ大学)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●テレビと子ども(TV's & Children)
According to the recent survey done by South Korea Broadcasting Institute, the more a 
family get rich, the more the hours that children watch TV get short. Those children who 
lives in a bigger house watch TV for a shorter time.

++++++++++++++++

韓国の、法曹映像産業振興院が、このほど、
こんな興味ある調査結果を、公表した。
「両親の経済、教育水準が高いほど、
子どもの視聴時間が短くなる」という。
(朝鮮N報)

++++++++++++++++

韓国の放送映像産業振興院(KBI)は、このほど、
こんな興味ある調査結果を、公表した。

両親の経済および教育水準が高いほど、子どものテレビ視聴時間が短くなるという。
(08年3月17日)

「青少年のテレビ視聴行動および利用者の特性分析」と題する報告書によると、

(1)66平方メートル未満の住宅に住む青少年は、1日平均で67分間、
地上波テレビを視聴しているのに対し、
(2)264平方メートル以上の住宅に住む青少年は、5分の1水準の
わずか13分にとどまっていることが分かったという。

 また、

(1)借家で暮らす青少年は1日平均69分間、地上波テレビを視聴しているが、
(2)実家で暮らす青少年の視聴時間は平均52分と、親の経済水準と子どもの
テレビ視聴時間との間には、少なからず関係があることが分かった。

さらに、

(1)最終学歴が、中卒の世帯主の元で育つ青少年の地上波テレビの
平均視聴率(全番組に対する青少年の1年間の平均視聴率)が6・45%だった
のに対し、
(2)大卒以上の世帯主の元で育つ青少年のテレビ視聴率は3・02%と
実に半分にとどまった。同調査は昨年(07年)、1年間にわたって
ソウル地域、1550世帯を対象に実施された。

今回の研究を進めたKBIのパク・ウンジン研究員は「経済および教育水準の高い両親は、
子どものテレビ視聴を慎むよう指導しているためと分析される」と話した。

一方、テレビを消すと、新聞や本に接する時間が長くなるという実験を、
EBSテレビが行った。

EBSの「リアル実験プロジェクトX」という番組が、13世帯32人の住民が
暮らす全羅南道莞島郡タラン島で40日間にわたって「テレビを消す実験」を
行ったところ、

(1)実験前に「新聞を全く見ない」と答えた人の割合(92・8%)が、
実験後には57・1%にまで減ったほか、
(2)「週に1、2回見る」と答えた人の割合(7・1%)は、35・7%にまで増えた。
(3)また「週3日」と答えた人は、実験前には一人もいなかったが、実験後には
実に7・1%にまで増えた。

(以上、朝鮮N報・3月17日版より転載。私のほうで、箇条書きに修正)

++++++++++++++++

わかりやすくいえば、収入が少なく、家が小さい家庭では、子どものテレビ
視聴時間が長くなる。
反対に、収入が多く、家が大きい家庭では、子どものテレビし長時間が、短く
なる、ということ。

(高学歴)→(収入が多い)→(大きな家に住む)→(?)→(テレビ視聴時間
が短くなる)
……というように関連しているということらしい。

問題は、この(?)の部分である。

(大きな家に住む)→(ほかに娯楽も多い)
(大きな家に住む)→(開放感がある)
(大きな家に住む)→(相対的にテレビのある部屋が小さくなる)など。

いろいろ考えられる。

また興味のあるのは、EBSが行った調査。
(しかしこの種の番組には、「ヤラセ」が多いので、そのまま信用するわけには
いかないが……。日本にも似たような番組があった?)

「13世帯32人の住民が行った実験」。
なんと、「40日間、テレビを消す実験」をしてみたという。

その結果、新聞を読む人がふえ、回数もふえたという。
当然といえば当然の結果だが、その前に、「新聞をまったく見ない」という
人が、92・8%もいたのには、驚いた。

「92・8%」といえば、ほぼ100%とみてよい。
最近、この日本でも、「本どころか、新聞さえも読まない若者たち」が、
問題になっている。
しかし、それは若者たちの話。
今回の調査とは別に、「韓国の人は、新聞を読んでいない」ということを改めて、
知った。プラス、驚いた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist テレビと子ども テレビ視聴時
間)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●高額教材を違法販売(中日新聞)(A Swindle Business…10 million yen =1 million US dollars, 
for one-year course of lesson!)
Shizuoka Prefectural Government has disposed one "learning center" company in Shizuoka 
to stop working for three months.

+++++++++++++++++++++++

静岡県は、(3月)18日、高額な学習教材を不適切な
方法で販売したとして、特定商取引法に基づき、
「家庭教師のF」を名乗って営業している家庭教師
派遣業・学習教材販売の「W」をに対し、19日から
3か月の業務停止にすると発表した。

…(中略)…

家庭教師と高額な学習教材をセットにする業者をめぐる
トラブルは、全国各地で相次いでいる。

中には家庭教師が辞めても、解約に応じなかったり、
高額な解約料を求めたり、つぎつぎと学習指導と称する
教材購入をもちかけられ、中には、1000万円以上に
金額がふくらんだケースもある
(以上、中日新聞、3月19日、朝刊より)

+++++++++++++++++++++++

あのね、こういうトラブルは、もう15〜20年前から、あったの。
私が直接、見聞きしたのは、こういうケース。
このケースとて、20年近くも、前の話。

浜松市内に、K・スタディ(仮称)という教材販売会社があった。
(現在も、どこかにあるかもしれない。)
家庭教師と教材を、セット販売するという会社だった。

契約料は、年間120万円弱(当時)。
「月4回、家庭教師を派遣して、子どもを指導する」というものだった。

が、その教材たるものが、スゴイ!
ダンボール箱、一箱分もあった。

それを見ただけで、その子ども(小6男子)は、おじけづいてしまった。
そこで解約、ということになったが、そのとき、その子どもの母親が
私に相談してきた。「解約できないが、どうしたらいいか?」と。

K・スタディは、こう説明したという。

「教材は、一度、封を開けられたら、商品価値がなくなる。
家庭教師は、あくまでも、教材の指導員として、会社のほうから
無料で、派遣するもの。だから解約はできない」と。

たまたま同じころ、別の親から、そのK・スタディについて相談があった。
やはり「解約したいが、解約に応じてくれない」と。
その親を、Bさんとしておく。

話を聞くと、こうだ。

「2、3か月、家庭教師に来てもらったが、子ども(中1男子)との相性が悪かった。
そこで家庭教師をかえてもらった。が、それでもうまくいかなかった。
で、解約しようと、K・スタディに行ったが、解約に応じてもらえなかった」と。

私は、そのK・スタディに電話を入れた。

担当者は、私に、こう説明した。

「私の方では、1年契約で、家庭教師と雇用契約を結んでいます。子どもとの
相性が悪いときには、教師をかえていますが、中途で解約はできません。

Bさんの件では、うちの家庭教師に問題があったというよりは、お子さん自身の
ほうに問題があるように思います。

当然、1年分の家庭教師料金は、払ってもらいます」と。

また教材については、こう言った。

「うちは家庭教師の派遣が、主な仕事です。教材は、あくまでも、そのための
ものです。費用の大半は、家庭教師代と考えてください」と。

つまり教材をつつけば、家庭教師を理由にして、解約に応じない。
家庭教師をつつけば、教材を理由にして、解約に応じない。

彼らの常套手段である。

そののち、K・スタディは、事務所を別のところに移した。
最近は名前を耳にしていない。恐らく、名前を変えて、どこかで営業
しているのだろう。

で、今朝の新聞。

今回営業停止処分をくだされたのは、静岡市に本社(?)を置く、
「W」だったという。
中日新聞の報道記事によれば、「2003年以降に保護者から、
県民生活センターに寄せられた苦情が、計135件に達した」
「それで処分に踏み切った」と。

しかしこんなことをしても、モグラ叩きのモグラのようになるだけ。
彼らは、所在地を変え、名前を変えるだけ。
教材にしても、表紙の1枚を取り替えるだけで、すむ。
(中規模クラスの進学塾では、どこでもやっていることだが……。)

要するに、親のほうが賢くならないと、この問題は、解決しないということ。

そうそう先の、K・スタディの件のときは、私は、親たちからの相談を
受けながら、こう思ったのを覚えている。

「月額8000円の月謝で教えている私は、バカみたい」と。

しかも私のばあい、今でも、毎月、月割りの月謝として、親たちから、直接、
手渡しで受け取っている。

(毎月だぞ! こんな良心的な教室が、ほかにどこにある?
どこの教室でも、3〜6か月分の前納式が常識。教材費、テスト代、講習費は
銀行からの自動引き落とし。途中で退会しても、そうした費用は、いっさい、
返してくれない!)

最近になって、私の教室でも、やっと、「退会届は、前月の3週目まで」
という規約を作ったが、当時は、月末の最後の週になって、
「今日でやめます」式の、やめ方をする親も珍しくなかった。

それを、前納で、120万円も払うとは!
私は、むしろ、そちらのほうに驚いた。

親の気持ちもわからなくもないが、こうした教材会社には、じゅうぶん注意した
ほうがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●マガジン・4月11日号

このマガジンは、4月11日号ということになる。
(これを書いているのは、3月19日。マガジンは
1か月前に、配信予約を入れることになっているので、
約1週間遅れということになる。)

いろいろあった。

昨日は、朝方、はげしい悪寒。
私は子どものころから、扁桃腺炎になりやすい。
悪寒は、その前兆。
昨日のも、たぶん、それだった。

「インフルエンザか?」と、かなり心配したが、
症状は昼前には、治まった。ホッ!

いろいろある。あるが、ともかくも、今日もこうして
元気でいられることに感謝、感謝、また感謝!

ここまで読んでくださった、読者のみなさん、
ありがとうございます!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2522)

●3月xx日
Today is the worst day even for me. I had a small meeting with young mothers about my 
class. Several mothers came to the meeting, where one of mothers asked my principle of 
education. Another mother asked me if there is an elevator service or not. When I 
showed some medical books which I wrote, a mother asked me if I have a license of a 
medical doctor or not. I said there is no problem to write a medical book for doctors even 
though I am not a medical doctor. There are some prejudice and misunderstandings. I 
felt so bad with a headache on the way. So I say today was the worst day of my life, or I 
felt rather despair.  
 
今日は、私の生涯において、最悪の日だった。
「絶望」という言葉があるが、それに近いものを感じた。

教室の説明会をした。
何人かの母親たちが集まってくれた。

その席でのこと。
1人の母親が、こう質問した。
「この教室には、エレベーターはないのですか?」と。

私の教室は、ビルの3階にある。
「ありません」と答えるのが、精一杯だった。

「あなたの教育方針を示してほしい」
「あなたはどういう子ども観をもっていますか」とも。

また私が書いた東洋医学の本を見せたときも、
こんな質問が出た。

「あなたは医師の免許をもっているのですかア?」と。
どこか、「そんな本は、書くべきではない」というような
言い方だった。

それについても、「医師の免許をもっていなくても、
医学の本を書くのは、自由です」と。

ほかにもいろいろあった。
自分の気力の限界を感じた。
「年齢」という壁も感じた。

で、帰り際、何人かの母親たちは、こう言った。
「うちへ帰って、(入会するかどうか)、子どもと
よく相談してから決めます」と。

4歳の幼児と相談する?
いや、だからといって、親たちを批判しているのではない。
私のようなジジイ教師は、お呼びではない。
どこかモウロクしている?
私も若いころは、50歳以上の人は、みな、ジジイに見えた。

所詮(しょせん)、私のしている仕事というのは、
その程度のもの。
この世界では、誠意や実力など、何の意味もない。
エレベーターも駐車場もないから、月謝を、安くしている。
またこの私ほど、最前線で幼児を見てきた教師もいない。

私は、投げ出しそうになる気持ちを懸命に抑えて、
一応、最後まで、説明会をこなした。
途中からは、偏頭痛との戦いだった。

結果、何人かの人が、入会してくれることになった。
うれしかった。
「いい子にしますよ」と約束した。

わかってくれる人は、わかってくれる。
が、そうでない人は、そうでない。
私は、その何人かの人のために、がんばる。
あとの人は、こちらから入会を断る。
たとえ申し込みがあっても……。

昔から、こう言うではないか。
『一寸の虫にも、五分の魂』と。

教育の自動販売機論が言われるようになって、もう
20年になる。
「教育は、お金さえ出せば、だれでも買えるもの」と。
今の母親たちは、そういう世界で、育った人たちで
ある。

私のような小さな教室でも、「入会はお断りします」などと
言うと、たいていの母親は、販売拒否にでもあった
かのように、怒り出す。

実際、「どうしてうちの子が、入れないのですかア!」と、
電話口の向こうで、怒鳴り散らした母親もいた。

で、家へ帰るとき、こう考えた。

「私がこの36年間、してきたことは、何だったのか」と。

そのとき、ふと、冒頭に書いた絶望感を味わった。
重い煙が、心をおしつぶした。
ため息も出なかった。

ついでにニヒリズムも……!
「もう、こんな仕事、やめてしまおうか」とか、
「無料マガジンの発行なんか、やめてしまおうか」とも。

しかし……私は、めげないぞ!
こういう日本にしてしまったのは、ほかでもない、この私たちだ。
私たちに、その責任がある。
「若者は、また、歩き始める」(♪「若者たち」)だ。

ハハハ!

学生のころは、いつもこの歌で救われた。
またまた今日も、この歌を歌うことで、救われた。
ザ・ブロードサイド・フォーのみなさん、ありがとう! 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悲しき子どもの心
There was a child treated by mother cruelly….

母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護す
る。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのとこ
ろに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、「子どもの心は悲しいです
ね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、いつもこの悲
しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、
職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌
っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「もう、生き
ているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来なさい」と。しかし私
は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったにちがいな
い。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。それはとりもなおさず、こ
の世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた生活の
中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人もいる。あるいは
生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会というワクの中で、虐待を受け
ている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻
りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NW君という友人がいた。10年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円空
(えんくう・17世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。その彼と、金沢の野田山
墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬんだね」と言うと、彼はこう言
った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派な
希望だよ」と。

 それから35年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし今、こ
こで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にいないNW君に、こ
う言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。何がどうあるかわからないし、どうな
るかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きてみる。そこに人間の尊さがある。生
きる美しさがある。だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけか
もしれない……。ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこの
ところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、
抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思
ってしまった。
(02−11−20)

Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2523)

【善も悪も、紙一重論】(Good Man & Bad Man)
There is not much difference between good men and bad me. Good men become good men 
because he is in good world. Bad men become bad men because he is in bad world. There is 
not much difference.)

●よい子論

 善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違っただ
け。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。同じように、よい子もそうでない子も、大きな違い
があるようで、それほどない。ほんの少しだけ育て方が違っただけ。そこでよい子論。

 この問題ほど、主観的な問題はない。それを判断する人の人生観、価値観、子育て観など、
すべての個人的な思いが、そこに混入する。さらに親から見た「よい子」、教師から見た「よい
子」、社会から見た「よい子」がすべて違う。

またどのレベルで判断するかによっても、変わってくる。たとえば息子が同性愛者になったこと
を悩んでいる親からすれば、女友だとち夜遊びをする女の子はうらやましく思えるもの。(だか
らといって、同性愛が悪いというのではない。誤解がないように。)それだけではない。どんな子
どもにもいろいろな顔があって、よい面もあれば悪い面もある。こんなことがあった。

K君(小5)というどうしようもないワルがいた。そのため母親は毎月のように学校へ呼び出され
た。小さいころから空手をやっていたこともあり、腕力もあった。で、相談があったので、私は月
に一、二回程度、彼の勉強をみることにした。

そうして一年ぐらいがたったある夜のこと、私はK君と母親の3人でたまたま話しあうことになっ
た。が、私はK君が悪い子だとはどうしても思えなかった。正義感は強いし、あふれんばかりの
生命力をもっていた。おとなの冗談がじゅうぶん理解できるほど、頭もよかった。

それで私は母親に、「今はたいへんだろうが、K君はやがてすばらしい子どもになるだろうか
ら、がまんしなさい」と話した。で、それから一週間後のこと。私が一人で教室にいると、いつも
より30分も早くK君がやってきた。「どうしたんだ?」と聞くと、K君はこう言った。「先生、肩をも
んでやるよ」と。

 よい子かそうでない子かというのは、結局はその子どもの生きザマをいう。もっと言えば、子
ども自身の問題であって、ひょっとしたそれは親の問題ではないし、いわんや教師の問題では
ない。まずいのは、親や教師が「よい子像」を設計し、それにあてはめようとすることだ。そして
その像に従って、子どもを判断することだ。そんな権利は、親にも教師にもない。

大切なことは子ども自身がどう生きるかで決まる。つまりその「生きザマ」が前向きな方向性を
もっていればよい子であり、そうでなければそうでないということになる。たいへんわかりにくい
言い方になってしまったが、よい子、悪い子というのも、それと同じくらいわかりにくいというこ
と。もっと言えば、この世の中によい人も悪い人も存在しないように、よい子も悪い子も存在し
ないということになる。

 ……これが私の今の結論であり、しばらくは「よい子」論を考えるのをやめる。それを考えて
も、意味はない。まったくない。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●善人と悪人

 人間もどん底に叩き落とされると、そこで二種類に分かれる。善人と悪人だ。そういう意味で
善人も悪人も紙一重。大きく違うようで、それほど違わない。私のばあいも、幼稚園で講師にな
ったとき、すべてをなくした。

母にさえ、「あんたは道を誤ったア〜」と泣きつかれるしまつ。私は毎晩、自分のアパートへ帰
るとき、「浩司、死んではダメだ」と自分に言ってきかせねばならなかった。ただ私のばあいは、
そのときから、自分でもおかしいと思うほど、クソまじめな生き方をするようになった。酒もタバ
コもやめた。女遊びもやめた。

 もし運命というものがあるなら、私はあると思う。しかしその運命は、いかに自分と正直に立
ち向かうかで決まる。さらに最後の最後で、その運命と立ち向かうのは、運命ではない。自分
自身だ。それを決めるのは自分の意思だ。

だから今、そういった自分を振り返ってみると、自分にはたしかに運命はあった。しかしその運
命というのは、あらかじめ決められたものではなく、そのつど運命は、私自身で決めてきた。自
分で決めながら、自分の運命をつくってきた。が、しかし本当にそう言いきってよいものか。

 もしあのとき、私がもうひとつ別の、つまり悪人の道を歩んでいたとしたら……。今もその運
命の中に自分はいることになる。多分私のことだから、かなりの悪人になっていたことだろう。
自分ではコントロールできないもっと大きな流れの中で、今ごろの私は悪事に悪事を重ねてい
るに違いない。

が、そのときですら、やはり今と同じことを言うかもしれない。「そのつど私は私の運命を、自分
で決めてきた」と。……となると、またわからなくなる。果たして今の私は、本当に私なのか、
と。

 今も、世間をにぎわすような偉人もいれば、悪人もいる。しかしそういう人とて、自分で偉人に
なったとか、悪人になったとかいうことではなく、もっと別の大きな力に動かされるまま、偉人は
偉人になり、悪人は悪人になったのではないか。

たとえば私は今、こうして懸命に考え、懸命にものを書いている。しかしそれとて考えてみれ
ば、結局は自分の中にあるもうひとつの運命と戦うためではないのか。ふと油断すれば、その
ままスーッと、悪人の道に入ってしまいそうな、そんな自分がそこにいる。つまりそういう運命に
吸い込まれていくのがいやだからこそ、こうしてものを書きながら、自分と戦う。……戦ってい
る。

 私はときどき、善人も悪人もわからなくなる。どこかどう違うのかさえわからなくなる。みな、ち
ょっとした運命のいたずらで、善人は善人になり、悪人は悪人になる。今、善人ぶっているあな
ただって、悪人でないとは言い切れないし、また明日になると、あなたもその悪人になっている
かもしれない。

そういうのを運命というのなら、たしかに運命というのはある。何ともわかりにくい話をしたが、
「?」と思う人は、どうかこのエッセイは無視してほしい。このつづきは、別のところで考えてみ
ることにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●すばらしい人たち、二人の知人

●二人の知人

 石川県金沢市の県庁に、S君という同級生がいる。埼玉県所沢市のリハビリセンターに、K
氏という盲目の人がいる。親しく交際しているわけではないが、もし私が、この世界で、もっとも
すばらしい人を二人あげろと言われたら、私は迷わず、この二人をあげる。この二人ほどすば
らしい人を、私は知らない。

この二人を頭の中で思い浮かべるたびに、どうすれば人は、そういう人になれるのか。またそ
ういう人になるためには、私はどうすればよいのか、それを考えさせられる。

 この二人にはいくつかの特徴がある。誠実さが全身からにじみ出ていることもさることなが
ら、だれに対しても、心を開いている。ウラがないと言えば、まったくウラがない。その人たちの
言っていることが、そのままその人たち。楽しい話をすれば、心底、それを楽しんでくれる。悲し
い話をすれば、心底、それを悲しんでくれる。子どもの世界の言葉で言えば、「すなおな」人た
ちということになる。

●自分をさらけ出すということ

 こういう人になるためには、まず自分自身を作り変えなければならない。自分をそのままさら
け出すということは、何でもないようなことだが、実はたいへんむずかしい。たいていの人は、
心の中に無数のわだかまりと、しがらみをもっている。しかもそのほとんどは、他人には知られ
たくない、醜いものばかり。

つまり人は、そういうものをごまかしながら、もっとわかりやすく言えば、自分をだましながら生
きている。そういう人は、自分をさらけ出すということはできない。

 ためしにタレントの世界で生きている人たちを見てみよう。先日もある週刊誌で、日本の四タ
ヌキというようなタイトルで、四人の女性が紹介されていた。元野球監督の妻(脱税で逮捕)、
元某国大統領の第二夫人(脱税で告発)、元外務大臣の女性(公費流用疑惑で議員辞職)、
演劇俳優の女性の四人である。

四番目の演劇俳優の女性は別としても、残る三人は、たしかにタヌキと言うにふさわしい。昔
風の言い方をするなら、「ツラの皮が、厚い」ということか。こういう人たちは、多分、毎日、いか
にして他人の目をあざむくか、そればかりを考えて生きているに違いない。仮にあるがままの
自分をさらけ出せば、それだけで人は去っていく。だれも相手にしなくなる。つまり化けの皮が
はがれるということになる。

●さて、自分のこと

 さて、そこで自分のこと。私はかなりひねた男である。心がゆがんでいると言ったほうがよい
かもしれない。ちょっとしたことで、ひねくれたり、いじけたり、つっぱったりする。自分という人
間がいつ、どのようにしてそうなったかについては、また別のところで考えることにして、そんな
わけで、私は自分をどうしてもさらけ出すことができない。ときどき、あるがままに生きたら、ど
んなに気が楽になるだろうと思う。

が、そう思っていても、それができない。どうしても他人の目を意識し、それを意識したとたん、
自分を作ってしまう。

 ……ここまで考えると、その先に、道がふたつに分かれているのがわかる。ひとつは居なお
って生きていく道。もうひとつは、さらけ出しても恥ずかしくない自分に作り変えていく道。いや、
一見この二つの道は、別々の道に見えるかもしれないが、本当は一本の道なのかもしれな
い。もしそうなら、もう迷うことはない。二つの道を同時に進めばよい。

●あるがままに生きる

 話は少しもどるが、自分をごまかして生きていくというのは、たいへん苦しいことでもある。疲
れる。ストレスになるかどうかということになれば、これほど巨大なストレスはない。あるいは反
対に、もしごまかすことをやめれば、あらゆるストレスから解放されることになる。人はなぜ、と
きとして生きるのが苦痛になるかと言えば、結局は本当の自分と、ニセの自分が遊離するから
だ。そのよい例が私の講演。

 最初のころ、それはもう20年近くも前のことになるが、講演に行ったりすると、私はヘトヘトに
疲れた。本当に疲れた。家に帰るやいなや、「もう二度としないぞ!」と宣言したことも何度かあ
る。もともとあがり症だったこともある。私は神経質で、気が小さい。しかしそれ以上に、私を疲
れさせたのは、講演でいつも、自分をごまかしていたからだ。

 「講師」という肩書き。「はやし浩司」と書かれた大きな垂れ幕。それを見たとたん、ツンとした
緊張感が走る。それはそれで大切なことだが、しかしそのとたん、自分が自分でなくなってしま
う。精一杯、背伸びして、精一杯、虚勢を張り、精一杯、自分を飾る。ときどき講演をしながら、
その最中に、「ああ、これは本当の私ではないのだ」と思うことさえあった。

 そこであるときから、私は、あるがままを見せ、あるがままを話すようにした。しかしそれは言
葉で言うほど、簡単なことではなかった。もし私があるがままの自分をさらけ出したら、それだ
けで聴衆はあきれて会場から去ってしまうかもしれない。そんな不安がいつもつきまとった。そ
のときだ。私は自分でこう悟った。「あるがままをさらけ出しても、恥ずかしくないような自分にな
ろう」と。が、今度は、その方法で行きづまってしまった。

●自然な生活の中で……

 ところで善人も悪人も、大きな違いがあるようで、それほどない。ほんの少しだけ入り口が違
っただけ。ほんの少しだけ生きザマが違っただけ。もし善人が善人になり、悪人が悪人になる
としたら、その分かれ道は、日々のささいな生活の中にある。

人にウソをつかないとか、ゴミを捨てないとか、約束を守るとか、そういうことで決まる。つまり
日々の生活が、その人の月々の生活となり、月々の生活が年々の生活となり、やがてその人
の人格をつくる。

日々の積み重ねで善人は善人になり、悪人は悪人になる。しかし原点は、あくまでもその人の
日々の生活だ。日々の生活による。むずかしいことではない。中には滝に打たれて身を清め
るとか、座禅を組んで瞑想(めいそう)にふけるとか、そういうことをする人もいる。私はそれが
ムダとは思わないが、しかしそんなことまでする必要はない。あくまでも日々の生活。もっと言
えば、その瞬間、瞬間の生きザマなのだ。

 ひとりソファに座って音楽を聴く。電話がかかってくれば、その人と話す。チャイムが鳴れば
玄関に出て、人と応対する。さらに時間があれば、雑誌や週刊誌に目を通す。パソコンに向か
って、メールを書く。その瞬間、瞬間において、自分に誠実であればよい。人間は、もともと善
良なる生き物なのである。だからこそ人間は、数十万年という気が遠くなる時代を生き延びる
ことができた。

もし人間がもともと邪悪な生物であったとするなら、人間はとっくの昔に滅び去っていたはずで
ある。肉体も進化したが、同じように心も進化した。そうした進化の荒波を越えてきたということ
は、とりもなおさず、私たち人間が、善良な生物であったという証拠にほかならない。私たちは
まずそれを信じて、自分の中にある善なる心に従う。

 そのことは、つまり人間が善良なる生き物であることは、空を飛ぶ鳥を見ればわかる。水の
中を泳ぐ魚を見ればわかる。彼らはみな、自然の中で、あるがままに生きている。無理をしな
い。無理をしていない。仲間どうし殺しあったりしない。時に争うこともあるが、決して深追いをし
ない。その限度をしっかりとわきまえている。そういうやさしさがあったからこそ、こうした生き物
は今の今まで、生き延びることができた。もちろん人間とて例外ではない。

●生物学的な「ヒト」から……
 
で、私は背伸びをすることも、虚勢を張ることも、自分を飾ることもやめた。……と言っても、そ
れには何年もかかったが、ともかくもそうした。……そうしようとした。いや、今でも油断をする
と、背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自分を飾ったりすることがある。これは人間が本能として
もつ本性のようなものだから、それから決別することは簡単ではない(※1)。

それは性欲や食欲のようなものかもしれない。本能の問題になると、どこからどこまでが自分
で、そこから先が自分かわからなくなる。が、人間は、油断をすれば本能におぼれてしまうこと
もあるが、しかし一方、努力によって、その本能からのがれることもできる。大切なことは、そ
の本能から、自分を遠ざけること。遠ざけてはじめて、人間は、生物学的なヒトから、道徳的な
価値観をもった人間になることができる。またならねばならない。

●ワイフの意見

 ここまで書いて、今、ワイフとこんなことを話しあった。ワイフはこう言った。「あるがままに生
きろというけど、あるがままをさらけ出したら、相手がキズつくときもあるわ。そういうときはどう
すればいいの?」と。こうも言った。「あるがままの自分を出したら、ひょっとしたら、みんな去っ
ていくわ」とも。

 しかしそれはない。もし私たちが心底、誠実で、そしてその誠実さでもって相手に接したら、そ
の誠実さは、相手をも感化してしまう。人間が本来的にもつ善なる心には、そういう力がある。
そのことを教えてくれたのが、冒頭にあげた、二人の知人たちである。

たがいに話しこめば話しこむほど、私の心が洗われ、そしてそのまま邪悪な心が私から消えて
いくのがわかった。別れぎわ、私が「あなたはすばらしい人ですね」と言うと、S君も、K氏も、こ
ぼれんばかりの笑顔で、それに答えてくれた。

 私は生涯において、そしてこれから人生の晩年期の入り口というそのときに、こうした二人の
知人に出会えたということは、本当にラッキーだった。その二人の知人にはたいへん失礼な言
い方になるかもしれないが、もし一人だけなら、私はその尊さに気づかなかっただろう。

しかし二人目に、所沢市のK氏に出会ったとき、先の金沢氏のS氏と、あまりにもよく似ている
のに驚いた。そしてそれがきっかけとなって、私はこう考えるようになった。「なぜ、二人はこう
も共通点が多いのだろう」と。そしてさらにあれこれ考えているうちに、その共通点から、ここに
書いたようなことを知った。

 S君、Kさん、ありがとう。いつまでもお元気で。

●みなさんへ、

あるがままに生きよう!
そのために、まず自分を作ろう!
むずかしいことではない。
人に迷惑をかけない。
社会のルールを守る。
人にウソをつかない。
ゴミをすてない。
自分に誠実に生きる。
そんな簡単なことを、
そのときどきに心がければよい。
あとはあなたの中に潜む
善なる心があなたを導いてくれる。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
いや、それとてむずかしいことではない。
音楽を聴いて、本を読んで、
町の中や野や山を歩いて、
ごく自然に生きればよい。
空を飛ぶ鳥のように、
水の中を泳ぐ魚のように、
無理をすることはない。
無理をしてはいけない。
あなたはあなただ。
どこまでいっても、
あなたはあなただ。
そういう自分に気づいたとき、
あなたはまったく別のあなたになっている。
さあ、あなたもそれを信じて、
勇気を出して、前に進もう!
心豊かで、満ち足りたあなたの未来のために!
(02−8−17)※

(追記)

※1……自尊心

 犬にも、自尊心というものがあるらしい。

 私はよく犬と散歩に行く。散歩といっても、歩くのではない。私は自転車で、犬の横を伴走す
る。私の犬は、ポインター。純種。まさに走るために生まれてきたような犬。人間が歩く程度で
は、散歩にならない。

 そんな犬でも、半時間も走ると、ヘトヘトになる。ハーハーと息を切らせる。そんなときでも、
だ。通りのどこかで飼われている別の犬が、私の犬を見つけて、ワワワンとほえたりすると、私
の犬は、とたんにピンと背筋を伸ばし、スタスタと走り始める。それが、私が見ても、「ああ、か
っこうをつけているな」とわかるほど、おかしい。おもしろい。

 こうした自尊心は、どこかで本能に結びついているのかもしれない。私の犬を見ればそれが
わかる。私の犬は、生後まもなくから、私の家にいて、外の世界をほとんど知らない。しかし自
尊心はもっている? 

もちろん自尊心が悪いというのではない。その自尊心があるから、人は前向きな努力をする。
私の犬について言えば、疲れた体にムチ打って、背筋をのばす。しかしその程度が超えると、
いろいろやっかいな問題を引き起こす。それがここでいう「背伸びをしたり、虚勢を張ったり、自
分を飾ったりする」ことになる。言いかえると、どこまでが本能で、どこからが自分の意思なの
か、その境目を知ることは本当にむずかしい。

卑近な例だが、若い男が恋人に懸命にラブレターを書いたとする。そのばあいも、どこかから
どこまでが本能で、どこから先がその男の意思なのかは、本当のところ、よくわからない。

 自尊心もそういう視点で考えてみると、おもしろい。


++++++++++++++++++++

以上、善人論、悪人論について書いた原稿を
掲載してみた。

理由は、実は、つぎの2つの記事を読んで
ほしかったからである。

2つも、ヤフー・ニュース(3月20日)に
載っていた記事である。

++++++++++++++++++++

●ヤフーの記事より転載(要約)

まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。そうわかってはいて
も、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある。

 18日、東京地裁の初公判。女性の顔面を殴るなどして手提げバッグを奪ったとして、強盗致
傷の罪に問われた男性被告(35)もその1人だった。

 起訴状によると、被告は今年1月8日、東京都足立区の路上を歩いていた女性=当時(50)
=を路上に押し倒し、ガードパイプに女性の後頭部をたたきつけるなどした上で、現金約6万5
000円やキャッシュカードなどが入った手提げバックを奪った。女性の頭部などに全治10日
のケガを負わせた。罪状認否で被告は起訴事実を認めた。

 被告は、郷里の家族とは音信不通の状態だったという。
 弁護人「家族は父母と兄、妹がいる?」
 被告「母は中学3年のときに死にました」
 弁護人「父親とは18年間、会っていない?」
 被告「はい」

 父親との折り合いが悪かった被告は、中学校を卒業すると、東京の寿司屋で働き始めた。そ
れ以降、職を転々としながら働き続けた。犯行前に勤務していたのは警備会社だった。

 弁護人「12月28日にもらった給料はどうした?」
 被告「その日は家賃と弁護士費用を払った」
 弁護人「いくらですか?」
 被告「家賃は3万8000円、任意整理の弁護士費用が1万5000円」

 被告はその後、パチスロでさらに2、3万円を浪費した。次の勤務日、被告は出社しなかっ
た。
 被告は消費者金融に約210万円の借金があったほか、上司にも2、3万円の借金があっ
た。

 弁護人「なぜ(上司への)2、3万円の借金で行くのをやめた?」
 被告「何度も怒られて、注意されて、もう無理かなと思って」

 年末年始はゲームセンターでのゲームや、パチスロをして過ごした。自宅に帰るのも面倒だ
ったので、新宿の漫画喫茶に寝泊まりした。

 弁護人「そのうち金がなくなるのは目に見えている。どんなことを考えていたの?」
 被告「どうなってもいいや」
 弁護人「どうなると思った?」
 被告「死ぬか、犯罪を起こすか」

 なぜ被告は犯罪の引き金を引いたのだろうか。

 弁護人「なぜ決意した?」
 被告「おなかがすいたし、自殺する勇気がない」
 弁護人「頭を下げて仕事に戻るという選択肢は?」
 被告「その時点ではどうなってもいいやと」
 被告は犯行を「後悔している」と述べ、弁護人からの問いに泣きじゃくった。
 弁護人「時計の針を戻せたら、どこでどうすればよかった?」
 被告「生まれてこなければよかった。どこでって、生まれたこと自体がもう…」

 検察側の求刑は懲役7年だった。客観的な犯行事実を見れば、「金がほしい」という犯行の
動機は短絡的で、ガードパイプに頭部をたたきつけるという犯行の態様も危険極まりなく、求
刑が重いのも理解できる。金がなくなった経緯も自業自得だ。だが、心の中でそう単純に切り
捨てられなかった。

 中学校を卒業したらすぐ故郷を離れて上京し、家族の愛情も知らず、ただ働いて生きていく
だけだった被告の「生まれてこなければよかった」という言葉が心に引っかかった。罪滅ぼしが
済んだ後は、これからの人生で「生まれてきてよかった」と思える瞬間を自分の力で見いだして
ほしい。

 判決は3月28日に言い渡される。(末崎光喜)

+++++++++++++++++

同じく、3月19日に、こんな記事も載っていた。

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●でも思うようにもうからず…

 東京地裁の被告人席に座った熟年夫婦。サラリーマンとして勤め上げて定年退職した夫(6
3)と、その妻(57)の第二の人生は、夫唱婦随の乱交パーティー主催だった。

 夫婦が問われたのは売春防止法違反罪。起訴状によると、夫婦は平成19年11月15日、
東京都品川区五反田のホテルにいた4人の男性に3人の女性を派遣して、売春を斡旋(あっ
せん)。罪状認否で夫婦は「間違いありません」と起訴事実を認めた。

 検察側の冒頭陳述などによると、夫婦は昭和52年に結婚。夫は広告代理店を定年まで勤
め上げた。妻は専業主婦だった。

 夫婦には月20万円の年金収入があったが、夫は16年4月ごろ売春斡旋業をスタート。一人
で続けるのは難しくなり、約1年後に妻を引き入れた。妻は嫌がったものの、結局は夫の求め
に応じた。インターネットで客を募集し、月に2回ほど乱交パーティーを主催していた。

 男性被告が代理店に勤務している間は、どこにでもある普通の家庭だった。それがなぜ売
春斡旋のような裏の仕事に手を染めるようになったのか。

 弁護人「どうして売春斡旋を始めたのか」
 夫「売春クラブをやっている女性の友人から誘われて」
 弁護人「その女性とはどうやって知り合ったのか」
 夫「会社時代に飲み屋で知り合った」
 裁判官「よりによってなぜこんな仕事を」
 夫「友人ができるなら自分にもできると思った」

 乱交パーティーの売り上げは20万円。このうち、ホテル代、食事代、避妊具代などに2万
円。派遣する女性への支払いが3人で12万円。純利益は6万円にしかならなかったという。

 「思ったほどもうからなかった」。夫は法廷でうなだれた。

 弁護人は妻に一緒にやり始めた理由を聞いた。

 弁護人「嫌だと思っていたのになぜ一緒に始めたのか」
 妻「家が古いから立て替える資金ができるといわれて。そんなに怖いと思っていなかった」

 生活費と家の建て替え資金。この2つの理由で飛び込めるほど気軽な稼業ではない気がし
たが、それ以上の理由は、被告人の口からは語られなかった。

 弁護側証人として、夫婦と同居していた二男が出廷。「こんなことをしていたなんて、まったく
知らなかった」と絶句した。

 妻は「両親がこんなことをして、裁判所に来てもらうことは、何とも言いようがない」と述べ、お
えつを漏らした。

 最後に裁判官は妻を諭した。「夫を止めるべきだった。二度とないように、あなたがしっかりし
ないといけない」。

 検察側は夫婦いずれにも懲役2年、罰金30万円を求刑した。判決は29日に言い渡される。
(末崎光喜)

++++++++++++++++++

以上が、ヤフー・ニュースに載っていた2つの
記事である。

あなたは、これら2つの記事を読んで、どう感じたで
あろうか。

もちろん犯罪にもいろいろある。同じ犯罪でも、
被害者や遺族の立場で見ると、まるでちがって
見えるということもある。

冒頭で、記事を書いた末崎氏が述べているように、
「まれない環境に育ったからと言って、犯罪が正当化されるわけではない。
そうわかってはいても、被告の境遇に同情を禁じ得ないときがある」というのは、
まさに正論である。

善人と呼ばれる人でも、そのうちの何割かは、「悪」である。
一方、悪人と呼ばれている人でも、そのうちの何割かは、「善」である。

要は、バランスの問題。
ときに善が崩れて人(=子ども)は、悪人になり、
悪が暴走して人(=子ども)は、悪人になる。
根っからの善人など、いない。
根っからの悪人など、いない。
むしろ善人ぶっている人のほうが、不気味。
仮面をかぶりながら、かぶっていること自体に、気がついていない。

……話が脱線しそうなので、ここまで。
子どもを見るときの参考になれば、うれしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 善人論 悪人論 善悪 子ども
の善悪)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2524)

●形だけの人間関係(Formal relationship between people)

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形だけの人間関係がどういうものか、それを知りたかったら、
老人ホーム(=特別養護老人ホーム)をのぞいてみるとよい。
そこにあるのは、すべて「形」だけ。

形だけの言葉。
形だけの世話。
形だけの心配。
形だけのやさしさ。
形だけの人間関係。

老人ホームのスタッフの人たちを責めているのではない。
むしろ、その逆。

老人ホームにいる老人たちと、心を交わすのは、不可能。
とくに要介護度4とか5の老人については、そうである。
まともな会話すら、できない。
そういう老人たちと、(形だけではない人間関係)を
築くのは、もとから、不可能。

それにそこにいる老人たちは、先が短い。
「もうすぐ死ぬ」という前提で、スタッフの人たちは、世話をする。
心の準備をする。

そうでもしなければ、つまりへたに心を入れてしまえば、
みな、ズタズタにされてしまう。
ひとりの老人が亡くなるたびに、みなが大泣きをするという
わけにはいかない。

教育の世界には、「10%のニヒリズム」という言葉がある。
どんなに教育に没頭しても、最後の10%は、自分のために
とっておく。
それがないと、教師たるもの、やはり身も心も、ズタズタに
されてしまう。

しかし老人ホームでは、「99%のニヒリズム」ということになる。
またそれがないと、あの仕事は、できない。

で、私は、この数日、ふと気がついた。
実は、この私自身が、形だけの人間関係にあるのではないか、と。

数日前、風邪で(?)、少し、寝込んだ。
そのときのこと。
ワイフがときどきやってきて、「どう?」と聞く。
そのとき、ふと、こう思った。思ったというよりは、知った。

「形だけだな……」と。

本気で心配しているというよりは、うるさい旦那だから、
適当に様子を見にくるといった感じ。
それが私にも、よくわかった。

私は、そういう夫である。
それを認めるのはつらいことだが、事実は、事実。

つまり恐らくワイフは、私との夫婦生活をつづけながらも、
30〜60%のニヒリズムをすでに用意しているのかもしれない。
ワイフの口癖は、ただひとつ。
「結婚は、こりごり」
「来世では、別の男性と結婚する」と。

そういう視点で、ワイフを観察してみると、老人ホームで働く
女性たちと、様子がよく似ているのがわかる。

やるべきことはやります。しかしその範囲。
ひょっとしたら、私はともかくも、ワイフのほうは、私への
愛情は、とっくの昔に冷え切っているのかもしれない。
たとえばワイフは、毎週、2つのクラブに通っている。
定期的に、みなと、食事会などを楽しんでいる。
しかしそういうところへ、私を誘ってくれたことは、一度もない。
メンバーの中には、夫婦で来ている人も多い。
そんなわけで、話をしても、うわべの話だけ。
あるいは、あまり話をしたがらない。

私は、それに気がつかなかっただけ。
おめでたいといえば、これほど、おめでたい話はない。

しかしこれも夫婦。
いろいろな夫婦を見てきたが、夫婦に定型はない。
だから私たち夫婦は、だめだとか、そういうことではない。
要するに夫婦といっても、共同体なのだから、共同できる部分では共同し、
それ以外の部分では、おたがいに割り切って生活する。

「私たちは私たち」と、納得することこそ、重要。
もちろん離婚の可能性もないわけではない。
しかしどうせどちらか一方が先に死ねば、結果的に
離婚したのと同じ状況になる。

ここは逆に、60%のニヒリズムを利用して、淡々と生きるしかない。
80%でも、90%でもよい。
まあ、私も、そのうち、離婚の話がワイフのほうから、
切り出されるかもしれない。

その覚悟だけは、いつでもしている。ホント!


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

●熟年(定年)離婚(The Retirement age divorce)
More and more wives are to state divorce upon her husband's meet the retirement at age 
limit in Japan.

++++++++++++++++

熟年(定年)離婚がふえている。
ふえているというより、多い。

一般的には、妻の方が、それまで
ためこんできた欲求不満を、そこで
爆発させる。そのために、離婚に至るケース
が多いと説明される。

しかしどうもそれだけでも、ないように
思う。
私自身が、その年齢になって、わかった
ことがある。

その第一は、夫側の情緒がたいへん
不安定になるということ。
(仕事)を失った夫というのは、
いわば糸の切れた凧のような状態になる。

その状態で、精神的な安定を保てと
言われても、そうは簡単にできない。
そのままうつ病になる人だって、いる。

そういう夫と四六時中、顔をつきあわせる。
日経新聞にこんな記事が載っていた(05年
12月4日付)。

++++++++++++++

いわく、「定年退職した男性の8割は、『何もしない人』に
なってしまう。いつも家にいる引きこもりの夫が、
妻の最大の不満原因になる」という。企業戦士だった夫が
くたびれ果て、家庭に戻ってきた時から、妻の日常は激変する。
夫が定年を迎える時、妻の平均年齢は54、5歳だ。
老いはまだ遠く、エネルギーに満ちあふれている。

仕事をもっていたり、地域や福祉・文化活動で忙しい。
夫の方は妻の進化を知らず「めし」「風呂」「寝る」しかいわない、
「三語族」になる。「妻が外出する日は、何時に帰るのか、
とくに食事がどうなるのか心配でたまらない。
そのため妻の外出を禁止する夫もいる」(西田氏)と。

++++++++++++++

そして「引き続いて、夫が家にいることのストレスが、
妻の病気を引き起こすこともあるという」(心療内科医、
黒川順夫氏、「主人在宅ストレス症候群」)と。

++++++++++++++(以上、日経新聞)

「主人在宅ストレス症候群」ねエ……?

で、その結果、夫婦の間のキレツも深くなる。
衝突もする。
その結果として、妻の、それまでの
欲求不満に火がつく。

「仕事、仕事って、あなたの頭の中には、
仕事しかないの!」と。

残念ながら、この段階で、夫の精神状態の
変化に、寛大な妻というのは、そうはいない。
「夫は、うつ病だから……」と、一歩、退いて
夫を客観的に見ることができる妻となると、
さらに少ない?

その場だけの夫を見て、自分の将来の
あり方を、考えてしまう。
「こんな夫と、これから先、いっしょに
生活することは、できない。だから離婚!」と。

つまり私が言いたいのは、熟年(定年)離婚と
いうのは、妻側の欲求不満だけが、原因では
ないということ。

定年で生ずる夫側の混乱が、離婚の引き金を引く。
そういうケースも多いのではないか?
わかりやすく言えば、夫たるもの、安易に、
うつ病にもなれないということ。

寅さんではないが、「男もつらいよ」となる。
ホント!

ちなみに、厚生労働省の人口動態統計03年版によれば、
離婚件数は28万9838組で、前年の28万5911組より、
3927組増加し、離婚率(人口千対)は2・30、
前年の2・27を上回り、離婚件数とともに、明治32年以降、
最高となった。結婚が42秒に1組なのに対して、1分49秒に
1組が離婚していることになるという(All about セカンドライフHPより)。

また、02年は、結婚20年以上の熟年世代、約45500組が離婚。
熟年離婚は、この27年で約3倍にふえたという(同HP)。

(付記)

よくわからないが、私のワイフも、私の知らないところで、
懸命に離婚を模索している(?)。
最近、そんな感じがする。
まあ、もともと私と、好きで結婚した人ではないから、
それもしかたない。

私がワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に
離婚していただろう。
それがよくわかるから、私も、強く言うことはできない。
今まで、私のような夫に、よく堪え忍んでくれたと思う。ホント!

まだワイフの気持ちを確かめたわけではないが、
もうそろそろ、ワイフを自由にしてあげるのも、
私の努めかもしれない。

と、同時に、私も、心の準備をしておかねばならない。
何も離婚は悪と、決めつける必要はない。

この先、離婚問題について、いろいろ書いてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2525)

●地上オゾンの恐怖(Photochemical Oxidant)
Photochemical Oxidant is to affect the growth of plants and vegetables on earth. According 
to the recent research done by Agricultural Environment Technical Center of Japan, in 
China the production of cereals would be dropped abt . 40%~60% by the year of 2020.

+++++++++++++++

TK先生から、地上オゾンの話を
聞いてから、もう7、8年になる。

中国から流れてきた排気ガスが、
光化学オキシダントとなって、植物の
光合成に影響を与えるというのだ。

TK先生は、当時、すでに沖縄などでは、
20%近く収穫量が落ちているという
ような話をしてくれた。
(聞き覚えなので、この数字は不正確。)

しかしそれがますます現実味を帯びてきた。

読売新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++以下、読売新聞++++++++++

 中国大陸からの大気によって、光化学オキシダントの濃度が上昇する
「越境汚染」問題で、日本海沿岸部のある地点のコメの収量を調べたところ、
内陸部との比較で、約1割少なくなっているとする研究結果を、
農業環境技術研究所(茨城県つくば市)が、20日、山口県で
開かれた日本農業気象学会で発表した。

 光化学オキシダントは近年、日本海の離島などで、高濃度で観測され、
昨年は新潟、大分県で注意報が発令された。
農作物の収量減少は実験から推測されてはいたが、部分的とはいえ、
実際に濃度と収量の関連が裏付けられたのは初めて。

 研究は、長谷川利拡主任研究員によるもの。品種と肥料水準は、
同一の日本海沿岸部の1地点と約30キロ内陸に入った1地点を選び、
1980年からの収量データを比較した。両地点の近くで測定された
光化学オキシダントの5〜9月の平均濃度は、2001〜05年の
平均では沿岸地点が0・045ppmで、内陸地点の0・031ppm
より高かった。

 濃度は沿岸、内陸ともに上昇していたが、沿岸では96〜05年にかけて、
毎年、内陸部の2倍にあたる0・001ppm高くなっていた。

 両地点の玄米の1平方メートル当たりの収量は、
沿岸は80〜96年は平均588グラムだったのが、
97〜05年は560グラムに減った。逆に内陸では、
577グラムから609グラムに増えた。
80年代は沿岸の方が内陸よりも多かった収量が、
90年代半ばから逆転し始め、2000年以降は内陸が沿岸を常に上回った。

 沿岸では、内陸と異なり、夜になっても光化学オキシダント濃度が下がらなかった。
夜間に海からオゾンが流れ込み、昼間の高濃度を保ったとみられる。

 小林和彦東大教授(農学)によると、収量が減るのは、
光化学オキシダントの主成分であるオゾンが植物の葉の中に入り、
光合成作用を妨げるため。農作物への影響について、
中国では研究者らが「2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少する」と推定している。

+++++++++以上、読売新聞(3月20日)+++++++++++++

とくに気になるのは、最後の部分。そこには、こうある。

「中国では研究者らが、2020年には濃度が0・055ppmを超え、
大豆、トウモロコシ、小麦の収量が40〜60%減少すると推定している」と。

わかりやすく言えば、光化学オキシダント濃度(地上オゾン)がふえるため、
中国では、2020年には、大豆、トウモロコシ、小麦の収穫量が、半減する
というのだ。

しかしこれは何も、中国だけの話ではない。

読売新聞によると、すでに新潟県、大分県では、「注意報」まで発令
される状態になっているという。

今では酸性雨による木々の立ち枯れなど、珍しくも何ともない。
この日本でも、ごくふつうの景色になってしまった。

そこへ今度は、光化学オキシダント!

さらにそれに加えて隣の韓国では、中国からの黄砂による健康被害まで
報告されるようになっている。
黄砂は、大気汚染とは、直接には関係ない。
しかし(大気汚染)→(温暖化)→(砂漠化)→(黄砂の大量発生)と
つなげてみると、元凶は、やはり大気汚染ということがわかる。

不測の事態が、また別の不測の事態を生み出す。
このドミノ倒しによって、地球環境は、爆発的に悪化する。
ほんの7、8年前には、科学者の間では、ほんのうわさ話にしか過ぎなかった。
「地上オゾン」という名前すら、世間ではほとんど知られていなかった。

私が5年前に書いた原稿を載せる。日付は、03年の4月になっている。

+++++++++++++++++

●異常気象

 このところ、SARS(新型肺炎)だとか、北朝鮮問題とか、何かと世相が、騒がしい。で、そう
いう騒がしさにまぎれて、おととい(4月17日)、静岡県のS町で、31・5度という、観測史上は
じまって以来という、気温を記録した。たしか昨年(02年)は、5月末に、30度を超えたと思う。
そのときも、「観測史上はじめて」という言葉を聞いたような気がする。(あいまいな記憶で、申
し訳ありません。)それが今年は、去年より、約40日も、早まったことになる!

 私が子どものころは、30度を超えるのは、毎年梅雨あけの、7月に入ってからだった。それ
がふつうだった(岐阜県)。30度を超えると、「真夏日」ということになり、川で泳ぐのが許され
た。しかしそれとて、梅雨があけてからのこと。だいたい7月10〜15日過ぎのことだった。しか
し今では、4月の中旬に、30度を超える!? ゾーッ!

 気象庁には、「平年並み」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんな言葉はな
い。気象庁がいう平年並みというのは、過去30年間の平均気温をいう。だからもし30年ごと
に5度ずつ気温が上昇したとしても、平年並は、平年並になってしまう? 「今年の気温は平年
並みです」と。

 しかし地球温暖化は、確実に進行している。しかも予想より、はるかに早いペースで進行して
いる。数字の上では、この半世紀で、1度前後しか上昇していないというが、実感は、とてもそ
んなものではない。気象庁は、ひょっとしたら、世界の指導者と申しあわせて、ウソを言ってい
るのではないのか? ……つまりそう思ってもおかしくないほど、実感気温とかけ離れている。

 たとえば気象庁の記録によれば、2000〜02年度においてさえ、この浜松市での最高気温
は、31度前後(8月)ということになっている。しかしこんなのは、まっかなウソ。昨年は、わりと
涼しかったほうだが、それでも浜松市内では、連日、40度近くは、あった。「今日の最高気温
は、32度でした」などと報道されるたびに、私は温度計を見ながら、「どこの気温のことを言っ
ているのか?」と思った。

 しかしそれにしても、深刻な話である。地球温暖化が進めば、やがて地球は火星のようにな
ると言う人もいる。今のまま温暖化が進めば、その可能性は、きわめて高い。そこまでいかなく
ても、あと10年もすれば、2〜3月期に、30度を超えるようになるかもしれない。そうなれば日
本の気象状態は、完全に狂う。

……と、まあ、地球温暖化の問題を考えていると、SARSや北朝鮮の問題が、小さく見えてくる
から不思議である。それにSARSや北朝鮮の問題は、まだ人間の力で何とかなる。が、地球
温暖化はそうではない。人類滅亡どころか、すべての生物が死滅する。

だから、地球温暖化を考えていると、「どう解決するか」ということよりも、「どう静かに滅亡する
か」という問題になってしまう。いや、滅亡するなら滅亡するで、かまわない。問題は、それまで
のプロセス。人間は、決して静かには滅亡しないだろう。恐らく(というより、確実に)、まさに地
獄を経験するに違いない。秩序やモラルは崩壊し、殺人や暴力が、日常的に横行するようにな
る。略奪や殺人が、日常的に横行するようになるかもしれない。知能が高い分だけ、「末期」
は、悲惨(ひさん)なものになる。

 そこで人類には希望がないのかというと、方法がないわけではない。一つは宇宙へ飛び出す
という方法。もう一つは、人類がたくわえた知識や知恵を、コンピュータの形で後世に残すとい
う方法。地球の周辺に、何かのガスをまいて、それで太陽光線をさえぎるという方法。あるいは
太平洋のど真ん中で、数千発の核兵器を爆発させて、地球の大気に「穴」をあけるという方法
などがある。

どこかSF的だが、しかしすでにそういう方向で考えている科学者もいるという。いざとなれば、
方法はいくらでもある?

 しかしまあ、人間も、好き勝手なことをしたものだ。もっとも、私たちおとなは、自業自得として
の結果だから、あきらめることができるが、かわいそうなのは、子どもたちである。これから
先、どういう未来を経験することやら? 申し訳ないことをしたと思うのと同時に、考えれば考え
るほど、気が重くなる。たいへん悲観的なことを言うが、この問題だけは、もうくるべきところま
できたような感じがする。単純な問題ではないだけに、どこから手をつけてよいのかさえわから
ない。たとえばこんなこともある。

 ところで「地上オゾン(対流圏オゾン)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。種々の排気ガ
スや煙が化学的に反応して、それが地上オゾンになるという。温室効果ガスの一つだが、その
地上オゾンが、5%ふえると、農作物が約20%減少するという※。そこであの北朝鮮だが、近
年、農業生産が慢性的に不振状態にあるという。その原因のひとつが、地上オゾンではない
かと言われている。

もちろん韓国も影響を受けているらしい。もちろんその発生源は、中国、ロシア。日本も、沖縄
あたりに影響が出始めているという。農作物だけではない。森林も影響を受ける。そしてその
結果として、ますます地球の温暖化は進む……。あああ。
(030419……この原稿は、去る、4月19日に書いたものです。)

※……この数値は、ある科学者から直接、会話の中で聞いたもので、確たる根拠があるわけ
ではありません。ただ沖縄地方における地上オゾン濃度の上昇率と、農作物の減少率が根拠
になっていると、その科学者は言っていました。(了解をもらっていないので、名前を出すことが
できません。)

(注)ここでいうTK先生というのは、光合成、触媒の世界ではよく知られた、田丸謙二先生をい
います。

+++++++++++++++++

最後に、昨日、こんなニュースが新聞に載っていた。
何でもあの火星から、塩のかたまりが、見つかったという。
しかもその塩のかたまりが、何百か所から見つかったという。

つまりかつては、火星にも海があったということ。

このことが何を意味するか?
一説によれば、火星にも人間のような知的生物がいたという。
その知的生物たちが、現在の地球人と同じように、発展とともの(?)、
火星温暖化を招いてしまったという。

もちろんこれはSF的な話でしかない。

……とまあ、いろいろ考えられるが、そこでどうだろう。
このあたりで、名前を変えてみたら……?

「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」と。
そうすれば、もう少し、ことの深刻さを、より多くの人にわかって
もらえるようになるかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 地球温暖化 地球火星化 光化
学オキシダント 地上オゾン はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2526)

【家族】(Spellbinding of Family)
Family works as a home base for each man, but also it works as a burden for each man in 
case its relationship is collapsed.
 
●家族がもつ二面性

常に「家族」には、二面性がともなう。
「家族のためにがんばる」というのが、正の自我群。
「家族であるがゆえに、追いつめられる」というのが、負の自我群。
発達心理学的に言えば、正の自我群というのは、その人を前向きに
引っ張る。
そういう意味で、強化の自我群と表現できる。

一方、負の自我群というのは、それ自体が大きなストレスとなって、
その人を後ろ向きに引っ張る。
そういう意味で、弱化の自我群と表現できる。

「正の自我群」「負の自我群」「強化の自我群」「弱化の自我群」という名称は
私が考えた。どこかで同じ文句を見られた人は、はやし浩司からのパクリと
思ってほしい。(ついでに連絡もしてほしい。)

ところで、どうして「群」という文字をつけるのか?
つまりそれだけ親子の関係が、複雑であることによる。
もろもろの要素が複雑にかみあって、「群」を形成する。
その群、つまりかたまりが、その人の心に影響を与える。
けっして、単純ではない。

同じ自我群でも、正になったり、負になったりする。
そのポイントは、つまるところ、人間関係によって決まる。
良好な人間関係が成立していれば、同じ自我群でも、「正の自我群」となる。
家族の犠牲になりながらも、むしろそれを楽しむことができる。

反対に、ひとたびその人間関係が崩れると、
同じ自我群でも、「負の自我群」となる。
ささいなことでも、大きなストレスとなって、その人を苦しめる。

夫婦関係、親子関係、兄弟関係、親戚関係、すべてについて、そうである。

●ある騒動

正の自我群はともかくも、負の自我群については、どうするか?

私のばあい、「時間」という視点から、こう考えるようにしている。
つまり楽しく過ごすのも、人生。
いやな思いをして過ごすのも、人生。
その人生には、時間という限りがある。
言うなれば、時間というのは、金の砂時計のようなもの。
お金に換算するのは正しくないかもしれないが、へたな遺産より、
はるかに価値がある。それに尊い。

どうせ過ごすなら、楽しく過ごしたほうがよい。
もっと言えば、お金の問題ではない。
いや、負の自我群というのは、たいていのばあい、何らかの形で、その底流で、
金銭問題がからんでいる。物欲がからんでいる。
私の知人の中には、親の遺産問題で、兄弟姉妹で、三つ巴(どもえ)、四つ巴の喧嘩を
くり返した人がいる。
「近所中に聞こえるほどの怒号が、毎晩のように聞こえた」という。
そういった状態が1年近くも、つづいた。

で、その結果だが、うち2人の人は、それから2年足らずの間に、
がんと、脳卒中で他界している。
もう1人は、現在、心臓の動脈硬化症で手術を受けている。

ワイフはその話をしながら、こう言った。
「きっとそのときのストレスが原因で、そうなったのよ」と。

言い忘れたが、その知人の「家族」では、長女が実家と土地を引き継ぎ、
長男と二女、三女が、金銭を受け取った。
受け取った金額は、1人あたり、7000万円だったという。

私「しかしね、7000万円受け取っても、そのあと死んでしまったのでは
意味ないね」
ワ「そうね」と。
私「でもさ、その人たち、7000万円も、どう使ったんだろうね」
ワ「そうね。1人は、家を新築したそうよ」と。

7000万円といえば、はんぱな額ではない。
しかしたとえ小銭でも、騒動の原因となることもある。
汲々(きゅうきゅう)としている人はいくらでもいる。
それが自我群の問題とからむと、とたんに負の自我群に変身する。
人間関係そのものを破壊することも珍しくない。

先の知人にしても、遺産分けがすんだあと、たがいの行き来は、
まったくなくなってしまったという。

兄弟姉妹でも、一度リズムが狂うと、兄弟姉妹であるが故に、憎しみあう。
他人以上の他人になる。そういう例は、ゴマンとある。

●割り切る

では、どうするか?

親子や兄弟はともかくも、親類については、はなから他人と思えばよい。
私の親類にしても、口を出してくる人は多いが、いまだかって
金銭的な援助をしてくれた人は、ひとりもいない。
そういう人たちは、最初から、自我群の(外)置けばよい。
つまり相手にしない。
相手が何を言っても、「ああ、そうですか」と、ヘラヘラと笑っていればよい。

ずいぶんと辛らつな言い方に聞こえるかもしれないが、
そうでもしないと、この自我群による幻惑(=呪縛感)から解放されることはない。
言いかえると、自我群による幻惑は、それほどまでに強力であるということ。
本能に近い部分にまで、情報がインプットされているから、
少しぐらい抵抗したところで、ビクともしない。

ともかくも、よき人間関係は、それ自体が、すばらしい財産である。
それを維持するには、コツがある。
(失敗ばかりしている私が、こういうことを言うのも、おかしなことだが……。)

(1)家庭問題には、干渉しない。
(2)金銭問題については、いつも明確にしておく。
(3)グチ、悪口は、タブー中のタブー。

なおこれは余談だが、加えて、加齢とともに、脳みそそのものが硬直する。
硬直した頭で、ぶつかりあうから、たがいに譲らない。
結果として、大騒動に発展する。……発展しやすい。

私も似たようなケースに遭遇しているが、ときどき、その相手との間に、
どうしようもないほど、遠い距離感を覚えることがある。
「この人に説明して、わからせるためには、数年かかるかもしれないな」とか、
「不可能に近いだろうな」とか。

とくに冠婚葬祭の問題がからんでくると、そうである。
「それは迷信だと思います」とでも言おうものなら、
狂ったように、反発してくる。

「お前は、ご先祖様を、どう考えているのかア!」と。

価値観というより、人生観。人生観というより、哲学そのものがちがう。
いや、そういう人には、もとから哲学など、ない。
過去を踏襲しているだけ。

だから私のばあい、適当に合わせて、それですますようにしている。
この世の中、角を立てれば、何かと、やりにくい。住みにくい。

●子育ての中で……

仲がよく見える兄弟・姉妹でも、そこに利害関係がからむと、とたんに様子が一変する。
それが兄弟・姉妹と考えてよい。

一般論から言うと、名前で呼びあう兄弟、姉妹は、仲がよい。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん」ではなく、「太郎くん」「花子さん」と呼びあう。
上下関係をつくらない、あるいは上下意識をもたせない。

たとえばアメリカやオーストラリアなどでは、こうした上下関係は、いっさい、ない。
親子でも、ない。夫婦でも、ない。先生と生徒、社長と社員にしても、
学校や会社を一歩離れたら、(対等)となる。

しかしこの日本では、そうはいかない。
とくに権威主義的なものの考え方をする人ほど、そうである。
「ぼくは長男だから」「あなたは男だから」と。
安易な『ダカラ論』をもちだして、自分の立場を正当化しようとする。

このダカラ論が、その関係をより複雑にする。
「私は二男なのに、両親のめんどうをみた」
「私は、嫁で出た身分なので、関係ない」とか、など。

話がそれたが、子どもが複数いるときは、「常に平等」を心がける。
ただ農村地域については、(農業を、後継者に伝えていく)という立場から、
何もかも平等というわけにはいかないかもしれない。
そのため昔ながらの長子存続という習慣も、残っている。
が、その一方で、その習慣にしばられ、もがき苦しんでいる人が多いのも事実。

親類、縁者の目。
近所のつきあい。
年老いていく両親の問題、などなど。
そうした自我群の中で、がんじがらめになっている。
自我群の中で犠牲になった人の苦悩も、これまた大きい。

が、親としては、こうした苦しみを子どもに残すことは、最小限にしたい。
その準備というか、努力は、怠ってはいけない。
とくに今、(財産)と言えるものをもっている人ほど、そうではないか。
「子育て」というと、えてして、(親子関係)を中心に考える。
しかしそれ以上に大切なのは、(兄弟関係)ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 家族 家族論 家族という自我
群 正の自我 正の自我群 幻惑)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【3月21日】

●離婚問題(Divorce for My Case)

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恐る恐る、聞いた。
とうとう、聞いた。

「お前なあ、ぼくと別れたいなら、別れてやってもいいよ。
いろいろ苦労もかけたし……。
ぼくのほうが、この家を出ていっても、いいんだよ」と。

するとワイフは、こう言った。

「何、言っているのよ。
私は、そんなこと、ゼンゼン、考えてないわよ」と。

私「ゼンゼンって?」
ワ「あなた、どうかしてるんじゃない、ない? そういうふうに考えるのは、
うつ病だからじゃ、ない?」
私「でも、お前って、そういう雰囲気をもっているよ」
ワ「ないわよ……」
私「だってさあ、結婚なんて、こりごりとか、そういうふうに言うじゃない」
ワ「そりゃあ、そういうふうに言うこともあるけど、そのときは、そのときよ」と。

ホ〜〜〜ッ! クビがつながった?

熟年離婚というのは、私の年代の男たちにとっては、深刻な問題。
ほとんどのばあい、夫である男たちが気がつかないところで、
妻である女のほうが、先に心の準備を始めてしまう。

で、ある日、突然、妻の方から、別れ話を切り出される。
夫のほうが、狼狽(ろうばい)する。うろたえる。

まあ、夫のほうがビクビクしながら生きるのも、よいのではないか。
つまりワイフの前では、夫たるもの、それくらい謙虚に生きた方がよい。

私「ぼくね、お前に離婚されたら、ひとりぼっちになってしまうよ」
ワ「わかっているわよ。あなたって、かわいそうな人ね」
私「うん」と。

今しばらくは、私の家庭も、安泰なようだ。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●新製品(iPod Touch)

+++++++++++++++++

S社のW−マンを買って、数か月になる。
で、たまたまパソコンショップへ足を運んでみると、
そこにA社の、iPod Touchというのが目にとまった。

何となくすごいとは思っていたが、これほど、すごいものだとは、
思っていなかった。

三男がたまたま帰省していたので、「買ってあげようか?」と
声をかけると、英語式に、「Thank you」と。

それでそれを買ってやった。
メモリーは、(8GB)のでよいと言ったので、それにした。

+++++++++++++++++

いったい、この世界は、どこまで進歩するのだ!

こんどのiPod Touch は、YOU TUBEをそのまま
ダンロードできる。インターネットの端末機としても、
もちろんそのまま使える。

驚いたことに、世界の地図が、まるごと、そのまま入っている。
1時間ほど、さわらせてもらったが、驚きの連続。

フ〜〜ン、ヘ〜〜エ、と。

大きな画面で、タッチ操作できるところも、すばらしい。
軽くトントンと2度たたくと、画面が拡大されたり、
あるいは2本の指で、画面をはさむようにこすると、
縮小したりする。

S社には悪いが、これでは勝ち目はない。
デザインも、劣る。
改めて、自分のW―マンをながめる。
そしてこう思った。

「かつての日本は、こういうヒット作を、つぎつぎと売り出し、
現在の地位を確立した。その元気は、どこへ消えたのか」と。

タッチパネルにしても、もとはといえば、日本の技術者の
発明である。

「ぼくもほしいなあ」と思ったところで、おしまい。
今しばらくは、W−マンを使うしかない。

心のどこかで引け目を感じながら……。


●若い人たちのBLOG

このところよく若い人たちのBLOGを読む。
参考になる。おもしろい。

「そういうものでもないんだがなあ」と思う半面、
同時に、「私も若いころは、そうだったなあ」と思う。

若い人たちは若い人たちなりに、懸命に模索している。
そこにある何かをつかもうと、がんばっている。

一方、私について書いているBLOGも、ある。
数年前までは、そういうのを読むのが、こわかった。
できるだけ読まないようにしていた。

が、最近は、一歩退いて、醒(さ)めた目で読むことが
できるようになった。

もちろん中には、私のことをボロクサに書いているのもある。
「まだ、あのオッサン、がんばっているようだな」とか、何とか。
私が書いた「ポケモン・カルト」が、よほど気にくわなかったらしい。

しかしそれも、一面。
そういう一面が無数に集まって、今の私がある。
そこは謙虚に反省しよう。

ところでその「ポケモン・カルト」だが、あの本は、ポケモンという
ゲームを通して、人間がもつカルト性を問題にしたもの。
ポケモンそのものは、コミック雑誌の主人公にすぎない。

その本の冒頭の部分を紹介しよう。

+++++++++++++++++++++

●はびこるカルト信仰

 ある有名なロックバンドのHという男が自殺したとき、わかっているだけでも女性を中心に、3
〜4名の若者があと追い自殺をした。家族によって闇から闇へと隠された自殺者は、もっと多
い。自殺をする人にはそれなりの人生観があり、また理由があってそうするのだろうから、私
のような部外者がとやかく言っても始まらない。しかしそれがもし、あなたの子どもだとしたら…
…。

 1997年の3月、ヘールボップすい星が地球に近づいたとき、世にも不可解な事件がアメリカ
で起きた。「ハイアーソース」と名乗るカルト教団による、集団自殺事件である。

当時の新聞記事によると、この教団では、「ヘールボップすい星とともに現われる宇宙船とラン
デブーして、あの世に旅立つ」と、教えていたという。結果、39人の若者が犠牲になった。

この種の事件でよく知られている事件に、1978年にガイアナで起きた人民寺院信徒による集
団自殺事件がある。

この事件では、何と914名もの信者が犠牲になっている。なぜこんな忌まわしい事件が起きた
のか。また起きるのか。「日本ではこんな事件は起きない」と考えるのは早計である。子どもた
ちの世界にも大きな異変が起きつつある。現実と空想の混濁が、それである。

あの「たまごっち」にしても、あれはただのゲームではない。あの不可解な生きもの(?)が死ん
だだけで、大泣きする子どもはいくらでもいた。そして驚くなかれ、当時は、あのたまごっちを供
養するための専門の寺まであった。ウソや冗談で供養しているのではない。本気だ。本気で供
養していた。中には手を合わせて、涙を流しているおとなもいた(NHK『電脳の果て』)。

さらに最近のアニメやゲームの中には、カルト性をもったものも多い。今はまだ娯楽の範囲だ
からよいようなものの、もしこれらのアニメやゲームが、思想性をもったらどうなるか。

仮にポケモンのサトシが、「子どもたちよ、21世紀は暗い。一緒に死のう」と言えば、それに従
ってしまう子どもが続出するかもしれない。そうなれば、言論の自由だ、表現の自由だなどと、
のんきなことを言ってはおれない。あと追い自殺した若者たちは、その延長線上にいるにすぎ
ない。

 さて世紀末。旧ソ連崩壊のときロシアで。旧東ドイツ崩壊のときドイツで、それぞれカルト教団
が急速に勢力を伸ばした。社会情勢が不安定になり、人々が心のよりどころをなくしたとき、こ
うしたカルト教団が急速に勢力を伸ばす。終戦直後の日本がそうだったが、最近でも、経済危
機や環境問題、食糧問題にかこつけて、急速に勢力を拡大しているカルト教団がある。

あやしげなパワーや念力、超能力を売りものにしている。「金持ちになれる」とか「地球が滅亡
するときには、天国へ入れる」とか教えるカルト教団もある。

フランスやベルギーでは、国をあげてこうしたカルト教団への監視を強めているが、この日本で
はまったくの野放し。果たしてこのままでよいのか。子どもたちの未来は、本当に安全なのか。
あるいはあなた自身はだいじょうぶなのか。あなたの子どもが犠牲者になってからでは遅い。
このあたりで一度、腰を落ちつけて、子どもの世界をじっくりとながめてみてほしい。

++++++++++++++

これだけ読んでもらっても、「ポケモン・カルト」の本旨というか、
書いた目的がわかってもらえるはず。

が、その読解力もない(?)。

この種の読者は、(ポケモンを批判された)ことを、そのまま(自分が
否定された)と勘違いしてしまうらしい。
あるいはタイトルしか、読んでいない?
もう少し中身までじっくりと読んで、その上で、批評してほしかった。

ともかくも、先ほども、いくつかのBLOGをのぞいてみた。
おもしろかったのは、ある女性の書いている料理レシピのBLOG。

「なかなかおいしそうだな」と感心して、そのBLOGを閉じようとして、
そのとき気づいた。

表題に、「ワンちゃんのレシピ」と書いてあった。
何と、ペットの犬の料理法について書いたBLOGだった!

「みんな、一生懸命なんだなあ」と思って、今度はほんとうにそのまま
BLOGを閉じた。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2527)

●よき日、3月22日(土曜日)(Spring has come!)

++++++++++++++++

今日は、三男とワイフと3人で、
ペンダント作りに挑戦してみた。
舘山寺の温泉街の一角に、それを
体験させてくれる店がある。

そこへ行った。

三男が作るのを見ながら、私は、
ワイフのために、1個作った。

午後からは、家に帰り、長男と、
ビデオ談義。
長男の制作したビデオを見ながら、
ああでもない、こうでもない、と。

夕食は、お好み焼き。それに三男が
料理した、スパゲッティ。
みんなで食べた。

おいしかった。
楽しかった。
久々に、家族の温もりを感じた。

ところで二男夫婦が、今度、
インディアナ州のインディアナポリスへ
引っ越すことになった。

スーパーマンの本拠地は、
インディアナポリス(市)。
関係ないかな?
それとも関係あるのかな?

あとで調べてみる。

インディアナ州へ引っ越すのは、
嫁のデニーズのインディアナ大学への
入学が決まったため。

二男は、しばらく(主夫業)をする
かもしれないという。
妻は大学通い。夫は、子育て。
だから主夫業!

私はそれに賛成した。
「お金は(=生活費は)?」と聞くと、
貯金で何とか、まかなえるとのこと。

ここはLAW SCHOOLへの入学が
決まった、デニーズの勉学が最優先。

とにかくすごいことを、デニーズは、
してくれた!

いつか二男は、デニーズの法律事務所で、
事務員として働くようになるかもしれない。
仕事は、夫婦で力を合わせてするのが、
一番よい。

ふと頭のどこかで、そんなことを考えた。

息子たちよ、嫁と、そして孫たちよ、
いつも私とワイフに、夢をくれてありがとう。
励ましてくれて、ありがとう。

(このところ、何かと落ちこむことが多くて、ね。)

二男は、明日、一度、成田に戻り、
4月7日に、カルフォニア州のNAPAに
転勤することになっている。

しばらく会えないが、しかたない。

……どこか私まで、心がウキウキしてくる。
ああ、もうすぐ春ですねエ〜〜。

もう春かな?

(追記)

インディアナポリス市(Indianapolis)について、市のHPには、
つぎのようにある。

「アメリカのどの州よりもハイウェーが集中して交差していることから、
『アメリカの十字路(Crossroads of America)』と呼ばれている。
インディアナ州の州都が、インディアナポリス。
世界的に有名なスピード・イベント、『インディー500』で
よく知られているこの街は、プロ&アマチュアスポーツキャピタルと
言っても過言ではないほど。バスケットボール(NBA)のペイサーズや
アメリカンフットボール(NFL)のコルツ等、手に汗にぎるスポーツ
観戦を満喫できます。また、近代的な都市インディアナポリスから
少々車を走らせると、そこはもう別世界。コーン畑や大豆畑が一面に
広がります」と。

やはりスーパーマンの本拠地だった!

こんど「スーパーマン」の映画を、もう一度、見てみよう。


++++++++++++++++++

●Deniseからのメール

●Supermanについて

 From this article, it seems that in the comic book series, Smallville, 
USA was originally not listed as being in any state, but the Superman 
movies and television shows place it in Kansas. I think Indiana and 
Kansas are very similar, so one show or movie might have placed it in 
Indiana.

この原稿(ウィキペディア百科事典)によると、(スーパーマンの故郷の)
Smallvilleは、どの州にもないようです。
しかしスーパーマンの映画やテレビの中では、それがカンザス州にあることに
なっています。インディアナもカンザスもたいへんよく似ています。それで
映画の中では、その町を、インディアナ州に置いたのではないでしょうか。

+++++++++++++++++

●そして日曜日(3月23日)(Sunday, March 23rd)
Eiichi has gone back to Narita and he is to leave Japan for Napa, Calif. This coming April to 
have intense training of flight. We saw him off at the near-by station.

三男が、中部国際空港から、成田へ帰った。
ワイフと2人で、近くの駅で見送った。
少し、さみしかった。
つぎに会えるのは、今年の終わり。

「サンフランシスコへ来たら、飛行機に乗せて
あげるよ」と言ってくれた。

三男は、事業者用航空免許をもっている。
アメリカでも、そのまま使えるという。

一度、家に帰ってから、センターの母を見舞う。
今は、個室で、小康状態を保っている。

私たちは、その足で、そのまま山荘へ。

春の匂いが、若葉の上を漂っていた。
「モクレンの匂いだ」と言うと、
ワイフが花の中に、顔を入れた。
「いい匂いね」
「いい匂いだね」と。

昼ご飯を食べて、音楽を聴く。
レモンとキンカンを収穫する。
椅子に寝そべる。また音楽を聴く。

ちょうどそのとき、薄曇りの空を、一機の大型飛行機が、
通過した。
まっすぐな飛行機雲を、うしろに、たなびかせていた。
飛行機雲は、ほぼ真西から真東に延びていた。
その先端に、白い機影。

時計を見ると、午後2時15分。
三男は、午後2時発の飛行機に乗ったはず。

「あの飛行機、Eが乗っているよ」
「そうね」と。

私は窓際に立って、手を振った。
「Eよ、元気でナ……」と言いかけたが、
最後のところで、のどがつまって、声にならなかった。

しばらく私は、空を見あげていた。

ワイフが、「今日はパソコンショップへ寄らないの?」と。
「今日は、いい」と、私は答えた。

ところで、二男の転居先が決まった。

今度は、ブルーミングトンという町らしい。
ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「Bloomington is a city in south central Indiana. 
Located about 50 miles southwest of Indianapolis, 
it is the seat of Monroe County.」
(ブルーミングトンは、インディアナ中央南部の町。
インディアナポリスから。南西に50マイルに位置する。
それはモンロー郡の行政所在地である。)

日本にいる私から見ると、アーカンソー州も、インディアナ州も、
隣り町のようなもの。

インディアナポリスから50マイル(約80キロ)といっても、
向こうの人たちにとっては、ショッピング範囲。

それはわかるが、デニーズは、毎日、その距離を、
大学まで通うことになる。
「だいじょうぶかな?」と、今ふと、そう思った。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●子は父になる(A Child becomes a Father and the Father returns a Child.)

+++++++++++++++++++++++++++++++++

スーパーマン・リターンズ(最新作)の最後で、スーパーマンは、
こう言う。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』と。

父親というのが何であるかと問われれば、この一言に尽きる。
私たちは子どもからおとなになり、家庭をもち、子どもをもうける。
その子どもも、やがておとなになり、父親になる。

そのとき、私という(父親)は、父親としての役目を終えるのではない。
私という(父親)は、最後の仕上げとして、子どもたちの中に、
自分の命を伝える。心を伝える。生きざまを伝える。

こうして私は自分の命を、私の父親から引き継いだ命を、子に伝え、
子は、さらにその子へとつなげていく……。

『子は父になり、父は、子に還(かえ)る』。

この言葉については、いろいろな解釈のし方があるだろうが、今の私は、
そう思う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

目が見える。
音が聞こえる。
春の風を肌で感ずることができる。
私は、今、ここにいて、そして生きている。

その確かな実感こそが、私が今、生きているという証(あかし)。

昨夜、ワイフが布団(ふとん)の中で、こう聞いた。
「あなたは、何のために生きているの?」と。

私は、ある医師の話をした。
その医師は、記者のインタビューに答えて、こう言った。

「私は、どうせ死ぬなら、がんで死にたい。
脳出血や心筋梗塞で死ぬのはいやだ。

がんだったら、死ぬまでに、しばらくの時間的猶予がある。
その間に、最後にやり残した仕事をすべてする」と。

私「どうせ死ぬなら、がんで死ぬ方がいいという意見は、はじめて聞いた」
ワ「自分が、この世界に生きてきたという証(あかし)を残すためにかしら?」
私「どうも、それだけではないような気がする。もしそうなら、墓石を残せばいい」
ワ「じゃあ、何かしら……」と。

話はそれるが、老年期の入り口に立ってみて、ひとつ気がついたことがある。
つまりその入り口というのは、夢や希望に満ちた、明るい通路への入り口ではない。
その先は、細く、暗闇に包まれた通路への入り口である。
夢や希望など、もちようもない。
またもったとしても、そのままつぎの瞬間には消えてしまう。

このスイッチング(転換)をどうするか?

そういう意味で、今、子育てで夢中になっている人は、まだ救われる。
自分が年老いているという(現実)を、忘れることができる。
が、その子育てが終わったとたん、そこに待っているのは、(老後)。
その老後が突然、目の前に、パッと姿を現す。

多くの人は、そこであわてふためく。狼狽(ろうばい)する。取り乱す。
その先に見える世界は、今まで生きてきた世界とは、まるでちがう。
ちがうから、そこでそれまでの自分の生きざまを、変えなければならない。
が、しかしそんな生きざまなど、どこにも用意していない。
変えようにも、変えようがない。
ないから、ここに書いたように、あわてふためく。

そこでほとんどの人は、その時点で、老後のあり方を模索し始める。
「どう、生きたらいいのか」「どう、生きるべきなのか」と。

しかし同時に、それは(空しさ)との闘いでもある。

享楽的な生き方が、その人の心の隙間を埋めるということは、ありえない。
庭いじりも結構。孫の世話も結構。旅行するのも、これまた結構。
しかしそんなことを繰りかえしたところで、かえってみじめになるだけ。
もっとはっきり言えば、時間の無駄。
刻一刻と、砂時計の砂がこぼれ落ちていくように、時間だけは過ぎていく。

そんな中、息子たちのニュースが、私を励ましてくれる。

私「おかしなことだが、息子たちが、私のできなかったことを、つぎつぎとしてくれる」
ワ「私も、それを感じているわ」
私「だろ……。ぼくは中学生のころには、パイロットにあこがれた」
ワ「どうしてパイロットを目指さなかったの?」
私「メガネをかけている人は、パイロットになれないと聞かされて、あきらめた」

ワ「若い人は、みな、パイロットという職業に、あこがれるわよ」
私「かもしれない……。でもね、今度デニーズが弁護士になると聞いて、ほんとうに
うれしかった」
ワ「それも、そうね。どこかであなたの(命)が、子どもたちに伝わっているみたい」
私「そうなんだよ。そこが不思議なところなんだよ」
ワ「子どもたちは、いつの間にか、あなたの影響を受けていたのね」

私「うん……。E(三男)も、外国に住みたいと言い出したしね」
ワ「それも、あなたができなかったことよね」
私「……できなかった。勇気がなかったのかな……?」と。

そのとき私は、ふと、私の(命)が、息子たちに伝わっているのを感じた。
肉体は別々だが、私自身が、もっと大きな(命の流れ)というか、
そういうものの中にいるように感じた。

何も、私という(肉体)にこだわることはない。
所詮、この世界は、光と分子の織りなす世界。
実体があるようで、その実、それはどこにもない。

もちろんだからといって、息子たちの人生イコール、私の人生というわけではない。
私は、どこまでいっても、私。
息子たちの人生は、息子たちのもの。

私「ぼくのもつ価値観というのは、あまりにも金銭的な欲得に、毒されすぎている」
ワ「カルトのようなものよ。戦後生まれの人たちは、徹底的にそう洗脳されているから」
私「そう。その人の金銭感覚は、年長児から小学1、2年生ごろには完成する」
ワ「それを、ずっと引きずっているわけね」
私「その価値観を、どうやって、打ち崩したらいいんだろう?」

ワ「へたに崩せば、かえって混乱してしまうわね」
私「そう、仏教はいやだから、今度からキリスト教にしますというわけには、いかない」
ワ「カルト教団から抜け出た人を知っているけど、かえって精神不安になってしまったわ」
私「ハハハ、今のぼくがそうかもしれないよ」
ワ「それも困るわ」と。

……とまあ、今しばらく、この混乱は、つづきそう。
私自身も、この先、どうなるか、よくわからない。
「混乱の最中」とまではいかないにしても、混迷している。
ただもし今、「何をすべきか?」と聞かれたら、私は、こう答えるだろう。

「ともかくも懸命に生きてみる。そこに何があるかわからないが、何かがあると
信じて、懸命に生きてみる。今でもそうしてきたし、これからも、そうする」と。

きっと、その先で、何か答が見つかるだろう。今は、それを信ずるしかない。

……しばらくしてからワイフに声をかけてみたが、返事はなかった。
私もそのまま眠気に、心を任せた。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2528)

●ネット中毒(Internet poisoning)
According to the newspaper of today, about 210000 young people (6-19 years old) in Korea 
are under the condition they need some kind of medical treatment for the internet poisoning.

韓国の東亜N報が、こんな記事を載せている(08年3月24日)。

+++++++++++++++++

米オレゴン健康科学大学のジェラルド・ブロック博士は、
米精神科学会誌の3月号のコラムで、「インターネット中毒は、
精神障害診断マニュアル(DSM―V)に含まれるべきだ」
という韓国青少年保護委員会の昨年のシンポジウム資料などを引用して、
韓国の事例を紹介した。 

ブロック博士は、「韓国ではインターネットカフェでの10件の
心肺関連死亡事故や、1件のゲーム関連殺人事件が起きた後、
インターネット中毒を最も深刻な公衆保健問題と思うようになった」と述べ、
「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、190の病院や治療センターが
学校と連携をとっている」と紹介した。 

同氏はまた、「韓国政府の資料によれば、6〜19歳の青少年のうち約21万人が、
(インターネットのため)苦しんでおり、治療が必要だ」と述べ、
「そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要かもしれない」と明らかにした。 

ブロック博士はまた、「韓国の高校生たちは1週間に平均23時間を
ゲームに費やし、(現在のインターネット中毒者のほか)、120万人ぐらいが
追加で中毒になりかねない危険性をはらんでいるという」と紹介した。 

+++++++++++++++++

日本での調査はないが、この日本でも、事態は、同じようなものと思ってよい。
死亡事故や関連殺人事件が、起きてからでは遅い。早急に、日本でも対策を
立てるべきではないのか。

韓国の状況を、もう一度、整理してみる。

(1)6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である。
(2)そのうち80%は心理学的な薬物投与が、また20〜40%は、
入院や治療が必要と推定される。
(3)そのため韓国には、「韓国には1043人の専門カウンセラーがおり、
190の病院や治療センターが学校と連携をとっている

あまりよく知られていないが、この日本では、テレビゲームを批判しただけで、
たいへんなことになる。抗議の嵐が殺到する。私自身も、経験している。

テレビゲームそのものが、カルト化している。常識で考えれば、おかしなことだが、
その常識が狂い始めている。テレビゲームといっても、それに没頭している人に
とっては、ただのゲームではない。

だから「6〜19歳の青少年のうち約21万人が、治療が必要な状態である」と
いっても、その治療を求めているのは、当の青少年たちではない。恐らく、これらの
青少年たちは、治療そのものを、がんこに拒否するはず。

自分がおかしいという認識(=病識)すら、ない。

もちろんインターネット、イコール、ゲームということではない。
反対に、ゲーム、イコール、インターネットということでもない。

さらに言えば、たとえば「検査で正常である」と診断されたからといって、
「問題ない」ということでもない。
テレビゲームを支持する学者たちは、「検査」という言葉をよく使う。
ゲーム脳を否定する学者もいるが、彼らは決まってこう言う。
「検査してみたが、どこにも異常は見られない」と。

しかし教育の現場では、少しちがった見方をする。子どもの微妙な変化をとらえて、
おかしいと言う。様子や行動を観察して、「おかしい」と言う。
それについてはたびたび書いてきたので、ここでは省略する。

子どもの世界では、常に、『疑わしきは、罰する』。
先手、先手で守ってこそ、はじめて、子どもの世界を守ることができる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳、ネット中毒、インター
ネット中毒)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●「金権教」というカルト(Money is Everything.)
Most of us believe that money is everything, some consciously and some unconsciously. But 
it is a kind of cult (or sect), or we would know it when we are involved in it. So I call it "
Money-ism", or "Money Cult".

++++++++++++++++++++++

私はカルト(狂信的な信仰)とは無縁と
思っている人でも、ちょっと、待ってほしい。
そういう人でも、無数のカルトを信仰している。

学歴信仰に始まって、親絶対教、学校神話、男尊女卑思想、
家父長意識、民族主義に国粋主義などなど。

人は、ひとつのことを信仰することによって、思考を放棄することができる。
それは同時に、たいへん甘美な世界でもある。

思考、つまり(考えること)には、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのことを、思い浮かべてみればよい。
カルトを信仰することによって、その苦痛から、自らを解放することができる。
過去や世俗的習慣を踏襲するのも、そのひとつ。
「昔はこうだった」「みなは、こうしている」と。

金権教について、考えてみたい。
……といっても、どんなカルトでもそうだが、
その中にいる人には、自分のおかしさがわからない。

そのおかしさを知るためには、一度、そのカルトの外に出てみなければならない。
あるいは、やめてみる。
長い間、カルト信仰をしてきたある女性(当時、45歳くらい)は、こう言った。

「退会してみて、はじめて、おかしさがわかった」と。

金権教もそうである。

たまたま現在、隣の中国が、20年前、30年前の日本を再現している。
何もかも、マネー、マネー、一色。
少し前だが、こんな話を、何かの雑誌で読んだことがある。

あるところで、1人の少年が川に落ちて、溺れた。
少年の母親は、まわりの人に、助けを求めた。
狂乱状態だったという。
それを見ていた一人の男性が、こう言ったという。
「〜〜元、出せ。そしたら助けてやる」と。
金額は、忘れた。

戦後の日本も、ひどかった。
が、しかしそこまでは、ひどくなかった。
(……と信じたい。似たような話はあるが……。)
それにしても、溺れる子どもを横目に、金額交渉とは!

心もマネーに毒されると、人は、そこまで言うようになる。
そのおかしさは、日本人の私たちには、よくわかる。
しかし当の中国の人たちには、わからない。

こうした「金と権力がすべて」という世界を、金権教という。
かなり宗教的な色彩が濃いから、「金権教」と呼ぶ。

その金権教の信者は、少なくない。

医師、弁護士に始まって、教師、役人、職人、はては牧師に僧侶にいたるまで。
職種に、関係ない。

しかし自分が金権教の信者であることに気づいている人は、少ない。
が、それを知る方法が、ないわけではない。

(1)金銭的な利益のある仕事だけをする。利益第一主義。
(2)金銭的に損な仕事はしない。ボランティア活動をしない。
(3)貧しい人を、いつも(下)に見る。人の価値を財産で決める。
(4)損得勘定に敏感である。計算高い。
(5)とくに損をしたとき、過剰なまでに反応する。落胆する。
(6)「信じられるのは、金だけ」を、よく口にする。
(7)仕事(=金儲け)中心主義で、家族、家庭を犠牲にしても平気。
(8)周囲の人間を、平気で利用する。その分だけ、いつも孤独。

これらの項目のうち、ほぼすべてが当てはまれば、金権教の信者と考えてよい。
もちろん程度の差もあるが……。

が、その金権教も、やがていつか、行きづまる。
短期的には、事業が失敗したとき。
長期的には、加齢による事業の縮小など。
そういったとき、マネーという本尊が、(イワシの頭)だったことを、思い知らされる。

カルトがこわいのは、ここから。
それを信じている間は、カルトは、その人を側面から支える。
生きる目標になることもある。
しかしそれを疑ったとたん、その人は、その内部から崩壊する。
「自己否定」という言葉があるが、それに近い状態になる。
「私は、何だったのか」と。
それまでの人生が無意味だったことを、思い知らされる。
とたん、大混乱に陥る。

こういうケースのばあい、つぎの2つから、進むべき道を選ぶ。

(1)そのまま金権教に固執する。
(2)新たな価値観を模索する。

このどちらでもないとなると、そこで待っているのは、「破滅」。
自殺という手段を取る人もいるが、それは論外。

こういうケースがある。

あるところに、手かざしで、病気を治すと教えている教団があった。
「手かざし」というのは、患部に手をかざして、病気を治すことをいう。
N氏夫婦は、その教団の熱心な信者だった。
で、あるとき、N氏の長男が、腹痛を訴えた。
(あとで盲腸炎だったということがわかったが……。)
N氏は、長男を病院へ連れていかなかった。
手かざしで治してみせると、がんばった。
しかし長男は、そのまま死んでしまった。
いや、最後の最後のところで、病院へ運ばれたが、そのときは手遅れだった。

こういうケースのばあい、「私たちの信仰はまちがっていました」と認めることは、
自分の子どもを、自分たちで殺してしまったことを認めることに等しい。

実際、N氏夫婦は、そのあと、ますますその信仰にのめりこんでいった。
またそれしか進むべき道がなかった。

……金権教にも、似たようなケースがある。
これは金権教で破滅した、ある男性の話である。

K氏は、昔からの資産家の二男だった。
長男の兄と2人で、事業を起こした。
建売を専門とする、建築会社だった。
高度成長期の、あの波に乗り、事業はトントン拍子で拡大した。
K氏は、有頂天になった。
毎晩、札束を切りながら、豪遊に豪遊を重ねた。

が、そのころから兄(=長男)との折りあいが悪くなった。
利益の配分をめぐっての、争いがつづいた。

そこで会社を2分することにした。
建設部門を兄が、不動産部門を二男のK氏が引き継いだ。

が、とたん、あのバブル経済がはじけた。
K氏は破産。
無一文になった。

その後、1年ほどの期間があったが、私が再びK氏の消息を聞いたときには、
K氏は、精神病院に長期入院しているということだった。
その1年間に、何があったか、それを想像するのは難しくない。
妻とは離婚。2人の娘がいたが、2人とも兄の家に引き取られていた。
人伝えに聞くところによると、「想像を絶する、家庭内騒動がつづいた」とのこと。

金権教の信者の末路(失礼!)は、あわれ。
マネーの切れ目が、人生の終わり。
そうなる。

が、これは、何も特別な人たちだけの問題ではない。
先にも書いたように、「程度の差」こそあれ、みなの問題と考えてよい。
ほとんどの人が、それを信じている。
「信じている」という意識がないまま、信じている。

私自身もそうだったし、今もそうかもしれない。
いつも心のどこかで、それと戦っている。

しかし金権教は、カルト。
宗教で教えるような教義など、どこにもない。
つまりは、人間が本能的にもつ(欲望)と深く、からみあっている。
欲望そのものかもしれない。
だから余計に、タチが悪い。

しかし、これだけは言える。
マネーで幸福は買えない。
しかしマネーがないと、人は、不幸になる。
それはわかる。
が、その一方で、マネーに毒されると、人生そのものを棒に振る。
仮に金持ちのまま終わったとしても、だ。

一度、勇気を出して、自分の心の中をのぞいてみるとよい。

+++++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、掲載します。
日付は、06年4月になっています。
ちょうど2年前に書いた原稿ということになります。

+++++++++++++++++

【金銭的価値観】

●損の哲学

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべきこと
である。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよんだら、さらに
悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、それ
ぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという番組であ
る。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作品か
ら、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござれ! が、
私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だった。そ
のころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもないが、おとなにな
ると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるようになった。それはある
意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、カトラン、ピ
カソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。こ
のリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラフ)ほど、よい
絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって決ま
る。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、ほとんど知ら
れていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、この日本でのみ通
用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、うまく
宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」とか、何とか宣
伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、ごく当たり前のようにな
されている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心とい
うのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、値段を見
て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段が安かったりす
ると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお金で
は、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということは、そ
れ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。もちろ
ん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重ねていくと、
やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるようになる。ときに、そ
の人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかしそのボラ
ンティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お金
……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってしまっている。
とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまった。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、ものにお
よばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてその幸福感も、相
対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小さな車に乗っているか
ら、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするようになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。反対
に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ幸福感ま
で、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわけで
はない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組となる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組によっ
て、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうして日本人の心は、
ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はどうなる
か? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレビ番組が嫌
いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言われ
ている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、そのときでさえ
も、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして何ら恥
じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになってしまった。意識
というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒されると、自分がもっている
意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そして本来、価値のないものを価値
あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるものと思いこむ。そして結局は、自分の感
性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にする。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこの世界で
は、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 金権教 金万能主義 カルト)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2529)

●スキンシップ

+++++++++++++++++

とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!

赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!

さらに「抱き癖がつくと、子どもに
依存性がつく」と教える育児書もある。

「抱き癖」と「依存性」は、まったく
別のもの。

そんな区別もつかない人が、
空想だけでモノを書いている?

????

+++++++++++++++++

 母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。このスキン
シップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。

 が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」な理由によ
り、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。

 スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」と
いうのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味である。
そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。

 もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベイビ
ー」という言葉を使った。

 (1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子どものこと
を、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」の表現
ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能面のように無
表情な子どもさえいる。

 軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。

 印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能面のように
無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。そのままというより、
こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私はSさんが、泣いていることが
わかったこともある。

 Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。

 「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育園へ預け
ました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。

 わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられたということ
になる。

 子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすらしないとし
たら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。それだけではな
い。

 母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかってき
た。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ球、大食細胞
を活性化させるという。 

さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳児が、母
親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラクチンなど)が刺激
され、より乳が出るようになるという。

 こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。

 まだ、ある。

 私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍数が、自
分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親のほうが、子ども
に合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何か別の作用が働いて
いると考えるのが、妥当である。

が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象が、よく
見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。たとえば母親が体を丸
めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、右を向いて眠っていたりす
る。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説明する学者もいる。

 こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべきように
育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。するとそのと
き、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それがスキンシップであ
る。

 もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めてきたとき
が、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとするのはよくないが
(※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じてやる。間を置かない。そ
してぐいと力を入れて抱く。

 しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小魚を放す
要領で、そっと体を離す。

 なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事情があ
る母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊かな心をはぐく
む。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供 母子相
互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキンシップ)

【補記※】

 母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケースもあ
る。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキンシップとは、
分けて考える。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【今日・あれこれ】(March 25th)
3300 accesses to one of my blogs were counted yesterday. It is a great thing for me.

●3300件!

昨日、G・Blog、ひとつだけで、アクセス数、3300件を記録した。
1日の記録しては、今までの中でも、最高。
もちろん3300件イコール、3300人というわけではない。
重複閲覧も、その中に含まれる。
しかし、これはものすごいことだと思う。

月間ベースでみれば、3300x30=10万件となる。

ほかに私は、毎日、5つのBLOGを発行している。
そちらのほうも、平均して、毎日、300〜500件のアクセスがある。

もちろんHPへのアクセスもある。
しかしこちらのほうは、実数は、わからない。
アクセス・カウンターをつけているのもあるし、ないのもある。

またメインのHPと、ハイパーリンクでつないでいるHPが、6〜7つある。
ページ数だけでも、数百ページ以上。
合計で、500MB前後。

その中でも、最近、人気があるのが、「音楽と私」。
このコーナーだけでも、毎日、300〜600件ものアクセスがある。(毎日だぞ!)
この1月に開設したばかりのコーナーなのだが……。

が、何といっても、私にとって重要なのが、電子マガジン。
こちらのほうは、読者数が、合計で、3000人になった。
毎月、12〜13回、発行しているから、延べにして、約4万人。

毎回、20〜30枚分(40x36)の原稿を載せているから、
原稿枚数(400枚詰め)に換算すると、1回分が90枚。
1か月で、1125枚。
それに読者数の3000を掛けて、340万枚。
つまり340万枚の原稿を、毎月、配信していることになる。

「ものすごいことだと思う」というのは、数字ばかりではない。
こんなことが、浜松という地方都市に住んでいて、できるということ。
しかもそういうことが、東京を通り越して、全世界に向けてできる。

が、おかしなことに、本当におかしなことに、その(実感)が、ほとんどない。
私の目の前にあるのは、パソコンの画面だけ。

今、その画面をながめながら、「この画面の向こうにねエ〜」と、思った。
この画面の向こうに、この地球と同じくらい広い、世界がある?


●TK先生(My Friend, Prof. TK)

TK先生の体の具合が、あまりよくないらしい。
昨夜も、メールが届いた。
「憂うつです」と、それにはあった。
私も、先生のメールを読んで、憂うつになった。

TK先生との出会いは、1970年。
ちょうどあの三島由紀夫が割腹自殺を遂げた前後のころのことだった。
ラジオか何かのニュースでそれを知り、TK先生にそれを告げたのを覚えている。

以来、今年で、38年目になる。
近くもなく、遠くもなく、それでいて、たがいに言いたいことを、言いあっている。
実のところ、TK先生は、「先生」というよりは、「友」。
身分も立場も、まるでちがうのに、そんな関係でつきあってきた。

こんなことがあった。

いつものように東大の理学部へ遊びに行くと、こう言った。
「5時まで、遊んでいきなさいよ」と。

そのときは、へんに時刻にこだわる人だなあと思った。
が、その5時になって、理由がわかった。
TK先生、専用の黒塗りの乗用車が、理学部の玄関の前に横付けになった。
今は知らないが、東大の副総長(早朝特別補佐)になると、そういう車があてがわれる。
それがちょうど5時にやってきた。

TK先生は、それに私を乗せたかったらしい。
TK先生も私も、車の中では、一言も話さなかった。
が、車を出ると、たがいにゲラゲラと笑いあった。
笑いながら、東京駅の下にあったレストランで、食事をした。
あのとき私は、生まれてはじめて、マンゴーなる果物を口にした。

私がまだ、30歳になる前のことではなかったか?

……こうして書き始めると、思い出はつきない。
しかしそのTK先生が、私の生き方を決めた。
私はTK先生に会ったのがきっかけで、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で
生きてやる」と決めた。
その経緯を話せば長くなるが、ともかくも、TK先生との出会いは、それほどまでに
大きな影響を、私に与えた。

そのことを昨夜もワイフに話すと、こう言った。

「TK先生と出会ったのが、あなたにとってよかったのか、悪かったのか、
わからないわね」と。

TK先生の父親の、TS氏は、日本学士院の院長まで務めている。
「親子2代、つづけて、日本化学会の会長をしました」と、いつだったか、
TK先生が話してくれたのも覚えている。

TK先生のばあい、地位や肩書きだけでも、今では数百以上になるのでは……?
上は国際触媒学会の前会長に始まって、下は鎌倉テニスクラブの会長まで。
ときどき天皇陛下も、そのクラブにやってきて、テニスをする。

それで私は、TK先生に反発した。
反発して、「一生、肩書きや地位とは無縁の世界で生きてやる」と。

……以来、38年。

先生との出会いが、遠い昔のことのようにも思われるし、つい先日のことのようにも、
思われる。

昨夜の返事に、こう書いた。

「一度、そちらへ行きますよ」と。

私はいつもTK先生を追いかけてきた。
今も追いかけている。
だから今度ばかりは、どうしても会わなければならない。

「ひとりで行きます。そうればパジャマ姿でも、先生は気になさらないでしょうから」と、
メールには書いた。

+++++++++++++++

こんな原稿を書いたことがある。
(中日新聞、発表済み。
「世に無不思議な留学記」より。

+++++++++++++++

処刑になったT君【12】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレ−シアン中国人で、経済学部に籍
をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの
祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのT君。ある日私にこう言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で
書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、
マレー人そのものを、どこか「下」に見ていた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にま
ちがえられると、もっと怒る。T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街
を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、地面を足で蹴飛ば
しながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガ−ルフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとしな
かった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。
が、やがて卒業式が近づいてきた。

 T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのT君
が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニ−は……」と。喉の
奥から絞り出すような声だった。「ジェニ−は42歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫か
ら訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授の
部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授
はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレ−シアで処刑された
と聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、それはそ
れですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T君は、マレ−シ
アで、1980年ごろ処刑されている。T君は大学を卒業すると同時に、ジェニ−とクアラルンプ
−ルへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみた
が、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた
新聞記事によるものだ。

 その後、T君は、マレ−シアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして
処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポ−ルの墓地に埋葬されているという。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、
さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私は日本人だ」と
言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きてい
る。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2530)

●ミラー反応(mirror phenomenon)
When a boy or girl wants to leave a learning center or a Jyuku, he or she would never say 
straightly "I want to quit it". Or he or she starts speaking ill of teachers, in order to let their 
parents think "Stop going there." This is a common phenomenon but recently I have found 
a kind of "Mirror Phenomenon" in a boy or a girl. He or she reacts badly against teachers 
at the same time they start speaking ill of their teachers. So I call it "Mirror Phenomenon".

++++++++++++++++++

子どもというのは、塾や、おけいこ塾を
やめたくなっても、「やめたい」とは
言わない。

そういうときは、まず塾や、おけいこ塾の先生の
悪口を言い始める。

「教え方が悪い」
「ていねいに教えてくれない」
「先生が、サボっている」など。

親をして、「そんな塾などやめなさい」と
言わせるように、しむける。

こうした現象は、学校教育の場では、顕著に
現れる。

それについては、たびたび書いてきた。

が、最近、これとは別に、もうひとつ、
興味ある現象が起きることを発見した。
称して、「ミラー反応」。

子どもというのは、親をして、そういう
ふうに思わせる一方、今度は、先生当人に
対しては、ぞんざいな態度を示すようになる。

子どもなりに、一貫性を保とうとするわけ
である。

つまり、親には、先生の悪口を言いながら、
その一方で、先生に対しては、「私も親も
怒っている」という様子をして、見せる。

だから、ミラー反応。

先生に対して、反抗的になる。
つっぱったしぐさを、して見せる。
言い方が乱暴になる。
先生の指示に従わなくなる。
すなおさが、消える、など。

つまりこういうプロセスを経て、子どもは、
塾や、おけいこ塾を去っていく。

このタイプの子どもは、(親もそうだが)、
あたかも教室を蹴飛ばすかのようにして
去っていくので、それがわかる。

親は、子どもの言い分のみを、一方的に
信じてしまう。

で、このタイプの子どもが、もっとも
恐れるのは、先生と親が直接対話をすること。

「一度、お母さんと話がしたい」などと
言ってみると、それがわかる。

ああでもない、こうでもないという理由を
並べて、取りあってくれない。

「お母さんは、仕事をしている」(ウソ!)
「夜は、おばあちゃんの家に行っている」(ウソ!)
「携帯電話の番号は知らない」(ウソ!)と。

「電話をかけてもいいか」と言って、受話器を
取ったとたん、それに飛びかかってきた子ども
(小5女児)もいた。

『子どもを信じる』ことは、大切なことだが、
ことこういうケースでは、まず子どもを疑って
みること。

で、私のばあい、こうしたケースを毎年の
ように経験している。
だから、その流れが、おおまかにわかる。

(1)まず私に対して、反抗的になる。理由は、
いろいろあるのだろうが、この時期の子どもの心理は、
かなり複雑。

過負担、親の過剰期待、過干渉などが、子どもの
心をゆがめることもある。
それに家庭事情が、からんでくる。

外からでは、理由は、わからない。

(2)親に対して悪口を言い始める。
悪口の内容は、さまざま。かなり知的な操作をするので、
親には、それが見抜けない。

反対に、「私は、もっと勉強したい」「あの教室では
勉強できない」などと言うこともある。

親の態度が、ぐんと冷ややかになることもある。

(3)親から連絡がある。
子どもの言い分だけを聞いているから、いつも
一方的。

先にも書いたように、「蹴飛ばすようにして」やめていく。
たがいの(あいさつ)すら、ないことも多い。
子どもが、そういうふうになるよう、しむけてしまう。

……ということは、何も珍しい現象ではない。
たいへんよくある現象と言っても、よい。

若いころは、それなりに気にしたが、今は、ちがう。
年の功というか、(フン)と笑って、それで
すますことができる。

ときに、「なかなか、やるなあ」と感心することもある。

というのも、この年齢になると、おかしなことだが、
子どもも、親も、同年齢に見えるようになる。
子どもだから、親より劣っているというふうには、
見えない。
親だから、子どもよりすぐれているとも、これまた
見えない。

親に説明して、誤解を解いたところで、どうこうなる
問題ではない。
その時点で、子どもの心は、すでに私から離れて
しまっている。

だからこういうミラー反応を子どもが示し始めた
ときには、私は、こう言うようにしている。

「ここ(=私の教室)をやめたかったら、やめたいと
先生(=私)に話してよ。お父さんとお母さんに、うまく
話してあげるから」と。

ほとんどのばあい、それに応ずる子どもはいない。
いないが、そういうふうに、こちらが一歩、退いて、
話をする。

子どもを追い込むのだけは、私は、避けたい。

++++++++++++++++++++

8年前に書いた原稿を、そのまま載せる。
(中日新聞、発表済み)

++++++++++++++++++++

●単純でない子どもの心

 ある朝、通りでAさんとすれ違ったとき、Aさんはこう言った。「これから学校へ抗議に行くとこ
ろです」と。話を聞くと、こうだ。「うちの息子(小4)の先生は、点の悪い子どものテストは、投げ
て返す。そういうことは許せない」と。しかし本当にそうか?

 子どもは塾などをやめたくなっても、決して「やめたい」とは言わない。そういうときはまず、先
生の悪口を言い始める。

「まじめに教えてくれない」「えこひいきする」「授業中、居眠りをしている」など。

つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思うようにしむける。ほかに、学校の先生に、「今
度、君のお母さんに、全部、本当のことを話すぞ」と脅かされたのがきっかけで、学校の先生
の悪口を言うようになった子ども(小3女児)もいた。

その子どもはいわば先手を打ったわけだが、こうした手口は、子どもの常套手段。子どもの言
い分だけを聞いて真に受けると、とんでもないことになる。こんな例もある。

 たいていの親は「うちの子はやればできるはず」と思っている。それはそうだが、しかし一方
で、この言葉ほど子どもを苦しめる言葉はない。B君(中1)も、その言葉で苦しんでいるはずだ
った。そこである日私は、B君にこうアドバイスした。

「君の力は君が一番よく知っているはずではないか。だったら、お父さんに正直にそう言ったら
どうか」と。

しかしB君は、決してそのことを父親に言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなっ
てしまう。B君は、親に「やればできるはず」と思わせつつ、いろいろな場面で自分のわがまま
を通していた。あるいは自分のずるさをごまかすための、逃げ口上にしていた。

 子どもの心だから単純だと考えるのは、正しくない。私の教育観を変えた事件にこんなのが
ある。幼稚園で教師になったころのことである。

 Kさん(年長児)は静かで目立たない子どもだった。教室の中でも自分から意見を発表すると
いうことは、ほとんどなかった。が、その日は違っていた。Kさんの母親が授業参観にきてい
た。Kさんは、「ハイ!」と言って手をあげて、自分の意見を言った。そこで私は少し大げさにK
さんをほめた。ほめてほかの子どもたちに手を叩かせた。

と、そのときである。Kさんがスーッと涙を流したのである。私はてっきりうれし泣きだろうと思っ
たが、それにしても合点がいかない。そこで教室が終わってから、Kさんにその理由を聞いた。
するとKさんはこう言った。「私がほめられたから、お母さんが喜んでいると思った。お母さんが
喜んでいると思ったら、涙が出てきちゃった」と。Kさんは、母親の気持ちになって、涙をこぼし
ていたのだ!

 さて話をもとに戻す。Aさんは、「テストを投げて返すというのは、子どもの心を踏みにじる行
為だ」と息巻いていた。が、本当にそうか? 先生とて、時にふざけることもある。その範囲の
行為だったかもしれない。子どもを疑えということではないが、やり方をまちがえると、この種の
抗議は、教師と子どもの信頼関係をこなごなに砕いてしまう。

私はAさんのうしろ姿を見送りながら、むしろそちらのほうを心配した。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ミラー反応 ミラー現象 先生の
悪口を言う子ども 教師の悪口を言う子ども)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●心と表情のミスマッチ(mismatch between mind and facial expression) 
 
 子どもの心は風船玉のようなものだ。「家庭」で圧力を加えると、「園や学校」で荒れる。反対
に「園や学校」で圧力を加えると、「家庭」で荒れる。友人との「外の世界」で荒れることもある。

問題は、荒れることではなく、こうした子どもたちが、いわゆる仮面をかぶり、二重人格性をも
つことだ。親の前では、恐ろしくよい子ぶりながら、その裏で、陰湿な弟や妹いじめを繰り返
す、など。家庭内暴力を起こす子どもなどは、外の世界では、信じられないほど、よい子を演ず
ることが多い。

 一般論として、情意(心)と表情が遊離し始めると、心に膜がかかったかのようになる。教える
側から見ると、「何を考えているかわからない子ども」、親から見ると、「ぐずな子ども」ということ
になる。あるいは「静かで、おとなしい子ども」という評価をくだすこともある。ともかくも心と表情
が、ミスマッチ(遊離)するようになる。

ブランコを横取りされても、笑みを浮かべながら渡す。失敗して皆に笑われているようなときで
も、表情を変えず平然としている、など。「ふつうの子どもならこういうとき、こうするだろうな」と
いう自然さが消える。が、問題はそれで終わらない。

 このタイプの子どもは、表情のおだやかさとは別に、その裏で、虚構の世界を作ることが多
い。作るだけならまだしも、その世界に住んでしまう。ゲームのキャラクターにハマりこんでしま
い、現実と空想の区別がつかなくなってしまう、など。

ある中学生は、毎晩、ゲームで覚えた呪文を、空に向かって唱えていた。「超能力をください」
と。あるいはものの考え方が極端化し、先鋭化することもある。異常な嫉妬心や自尊心をもつ
ことも多い。

 原因の多くは、家庭環境にある。威圧的な過干渉、権威主義的な子育て、親のはげしい情
緒不安、虐待など。異常な教育的過関心も原因になることがある。子どもの側からみて、息を
抜けない環境が、子どもの心をゆがめる。子どもは、先ほども書いたように、一見「よい子」に
なるが、それはあくまでも仮面。この仮面にだまされてはいけない。

 子育ては、『まじめ八割、いいかげん二割』と覚えておく。これは車のハンドルの遊びのような
もの。子どもはこの「いいかげんな部分」で、羽をのばし、自分を伸ばす。が、その「いいかげ
ん」を許さない人がいる。許さないというより、妥協しない。外から帰ってきたら、必ず手洗いさ
せるとか、うがいさせるなど。

このタイプの親は、何ごとにつけ完ぺきさを求め、それを子どもに強要する。そしてそれが子ど
もの心をゆがめる。が、悲劇はまだ続く。このタイプの親に限って、その自覚がない。ないばか
りか、自分は理想的な親だと思い込んでしまう。中には父母会の席などで、堂々とそれを誇示
する人もいる。

 子どもの二重人格性を知るのは、それほど難しいことではない。園や学校の参観日に行って
みて、家庭における子どもと、園や学校での子どもの「違い」を見ればわかる。もしあなたの子
どもが、家庭でも園や学校でも、同じようであれば、問題はない。

しかし園や学校では、別人のようであれば、ここに書いた子どもを疑ってみる。そしてもしそうな
ら、心の開放を、何よりも大切にする。一人静かにぼんやりとできる時間を大切にする。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●生命力を大切に(Whatever your child is, it is your child.)

 昔から、『できの悪い子どもほど、かわいい』という。それはその通りで、できのよい子どもほ
ど、自分で勝手に成長していく。……成長してしまう。そのためどうしても親子の情が薄くなる。
しかしできの悪い子は、そうではない。

 I君(小二)は、そのできの悪い子どもだった。言葉の発達もおくれ、その年齢になっても、文
字や数にほとんど興味を示さなかった。I君の父親は心やさしい人だったが、学習面でI君に無
理を強いた。しかしそれがかえって逆効果。(無理をする)→(逃げる)→(もっと無理をする)の
悪循環の中で、I君はますます勉強から遠ざかっていった。

 時に父親はI君をはげしく叱った。あるいは脅した。「こんなことでは、勉強におくれてしまうぞ」
と。そのたびにI君は、涙をポロポロとこぼしながら、父親にあやまった。一方、父親は父親で、
そういうI君を見ながら、はがゆさと切なさで身を焦がした。「泣きながら私の胸に飛び込んでき
てくれれば、どれほど私も気が楽になることか。叱れば叱るほど、Iの気持ちが遠ざかっていく
のがわかった。それがまた、私にはつらかった」と。

 このI君のケースでは、母親がおだやかでやさしい人だったのが幸いした。父親が暴走しそう
になると、間に入って、父親とI君の間を調整した。母親はこう言った。「主人は主人なりに息子
のことを心配して、そういう行動に出るのですね。息子もそれがわかっているから、つらがるの
でしょう」と。

形こそ多少いびつだが、それも親の愛。子どものできが悪いがゆえに燃えあがる、親の愛。そ
の父親が私を食事に誘ってくれた。私はその席で意を決して、父親にこう告げた。

 「お父さん、もうあきらめましょう。お父さんががんばればがんばるほど、I君は、ますます勉強
から遠ざかっていきます。心がゆがむかもしれません。しかし今ならまだ間にあいます。あきら
めて、I君の好きなようにさせましょう」と。

 そのとき父親の箸をもつ手が、小刻みに震えるのを、私は見た。

「先生、そうはおっしゃるが、このままでは息子は、ダメになってしまいます」
「しかしI君の顔から、笑顔が消えたら、どうしますか」
「私は嫌われてもいい。嫌われるぐらいですむなら、がまんできます。しかしこのまま息子が、
落ちこぼれていくのには耐えられません」
「落ちこぼれる? 何から落ちこぼれるのですか」
「先生は、他人の子どもだから、そういうふうに言うことができる」
「他人の子ども? 実は私はその問題で、10年以上も悩んだのです。自分の子ども、他人の
子ども、ということでね。しかし今は、もうありません。今は、そういう区別をしていません」

 いかに子どものできが悪くても、子ども自身がもつ生命力さえ残っていれば、必ずその子ども
は自立する。そして何十年後かには、心豊かな家庭を築くことができる。しかし親があせって、
その生命力までつぶしてしまうと、ことは簡単ではない。一生ナヨナヨとした人間になってしま
う。立ちなおるということは、たいへん難しい。I君はそのとき、その瀬戸ぎわにいた。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●3月26日(March 26th, 2008)

++++++++++++++++++

このところTK先生のことが心配で、
どうも気が晴れない。

昨日もメールを打ったが、返事がない。
いつもなら、半日以内に、かならず
返事をくれるのだが……。

++++++++++++++++++

●ハッピー・ウェンズディ

私は、水曜日のことを、「Happy Wednesday(楽しい水曜日)」と
呼んでいる。
月曜日を、「Blue Monday(憂うつな月曜日)」、
金曜日を、「Dark Friday(いやな金曜日)」と呼んでいる。

月曜日は、仕事がはじまる日。だから憂うつ。
水曜日は、調子が出てくる日。だから楽しい。
しかし金曜日になると、1週間の疲れが、そこにシワ寄せされる。
だから、「Dark Friday」!

が、今日は、水曜日というのに、どうも気分が晴れない。
恐ろしい夢も見た。

理由はいろいろある。
このところ精神状態が、あまりよくない。
ときどき「うつ病って、こういう状態をいうのかな?」と思う。
(あるいはすでにうつ病かも?)
で、そういうときは、幼児を相手に、思いっきり、大声を出して遊ぶ。
たいていは、それで気分が晴れる。

そうそう、こういうときは、何か新製品を買うと、私のばあい、スッキリする。
これは私だけの現象なのか。
それともみなに、共通した現象なのか。
今、ねらっているのは、C社の薄型デジタルカメラ。
昨日、パソコンショップでみかけたが、あの金属感が、たまらない。
脳みその奧まで、ゾクゾクっとした。

しかしデジタルカメラだけでも、4台もある。

それにこのところ私のもっている株の価値は、低迷中!
ここはぐっとがまんするしかない。
が、その分だけ、ストレスがたまる。

ほしいものが手に入らないというのは、それだけでもストレッサーになる。

カタログを読みながら、自分をなぐさめる。

何とか、今日も、ハッピー・ウェンズディになればよいが……。


●いとこ

春休みに、いとこ夫婦が、2組、遊びに来ることになっている。
楽しみだ。

とくに何かを予定しているわけではないが、話しているだけで楽しい。

それとN先生と、会食もしよう。
数日前、電話をしたが、奥さんは元気そうだった。
(あいにくとN先生は、不在だったが……。)


●春休み

私のばあい、春休みが、10日前後もある。
計画はいくつか、ある。

ワイフとの旅行も、予定している。
今度は京都方面と紀伊半島方面へ、旅をしてみたい。

あとは、絶版になった私の本を、HPに収録すること。
これが結構、たいへん!

1ページずつスキャナーで読んで、それをFrickrに
アップロード。
そのあと今度は逆に、1ページずつ、アドレスを読み込んで、
HPに張りつける。

1冊の本を、無事(?)、HPに収録するのに、5〜6時間は
かかる。

「無事」というのは、ときどきソフトがヘソを曲げる。
フリーズしてしまうこともある。
HPのソフト会社に、先日も電話を入れると、こう言った。

「そのソフトは、ビスタには対応していません」と。

しかたないので、今は、騙(だま)し、騙し、使っている。


●バカ番組

昨夜、久しぶりに、テレビで、アホ・バカ番組を見た。
どこかのバラエティ番組だった。

相変わらず、この種の番組は、繁盛しているようだ。
サルのような人間が、ギャーギャー、ゲラゲラ、ワーワーと
騒いでいた。

「おもしろい」と思う前に、「これが同じ人間か」と思って、
さみしくなった。

「低俗」という言葉があるが、まさに低俗。
コメントするだけの価値もないほど、低俗、低劣、下劣。

ああいう番組は、東京だけの範囲で流して、それで
おしまいにしてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2531)

●社会科の春休みの宿題(浜松市、某中学校)
(Edo period was one of the most dark and terrifying period even in the world as well as in 
the history of Japan. Only 6~7% of Samurai warriors governed the rest of people and 80~
85% of Japanese population was farmers. The farmers should provide Samurai warriors with 
40~50% (sometimes 60%) of their products. Farmers did not at all have freedom of moving or 
changing their jobs, of course no freedom of speech. So it was one of the most dark and 
terrifying period.

+++++++++++++++++++++++

(1)共通テーマは、武士、700年間の時代の中で、
人々が、幸せに暮らしたのは、いつか。

(2)社会の安定、自由、繁栄、平和、家族という視点
の中から、ひとつ選んで、追究する。

+++++++++++++++++++++++

中学1年生のKさんが、こんな宿題をもってきた。
春休みの宿題だという。

日本の教育も変わってきた。
もちろん宿題の内容も変わってきた。
これを見たとき、私は、「日本の教育は確実に欧米化している」と感じた。

(暗記)から(思考力)へ。
(ジェネラリスト)から(スペシャリスト)へ。
(従順な子ども)から(問題意識をもった子ども)へ。

その変化は、いろいろな言い方で説明できる。
しかし教育というのは、「学校で学んだことを、すべて忘れてしまったあとに
残っているもの」とするなら、こうした教育は、その(残るもの)を目指した
教育と言える。

すばらしいことだと思う。

で、Kさんには、こう説明した。

(1)武士の時代といっても、きびしい身分制度が敷かれていた。
武士の立場で考えるか、農民の立場で考えるか、それによって、
見方が大きく変わる。

(2)「幸せ」の定義をしっかりとしておくこと。何をもって「幸せ」というか。
   それによっても、見方が、大きく変わる。

(3)「安定、自由、繁栄、平和、家族」の中から、何を選ぶか。
   もちろんそのうちのどれを選ぶかで、見方が、これまた大きく変わる。

私「基本的には、あの江戸時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの
暗黒かつ恐怖政治の時代だった。それを忘れてはいけない」
K「結構、みな、楽しそうだったみたい」
私「だれが、そう教えたの?」
K「……教科書……?」

私「移動の自由もなく、職業選択の自由もない。もちろん言論の自由もない。
きびしい身分制度の中で、生まれながらにして、みな、職業が決まっていたんだよ」
K「武士にとっては、住みやすい時代だったかもしれないわね」
私「そう、武士にとってはね。でも、その武士は、6〜7%。農民は、80〜85%。
その農民たちは、武士に虐げられていた」
K「そう? 武士って、そんなに少なかったの?」と。

ちなみに、ヤフー・知恵袋によれば、つぎのようにある。

「幕末の人口約3200万人のうちわけは、諸藩の統計を平均して、武士6〜7%、農民
80〜85%、工商を含む町人5〜6%、神官・僧侶1.5%、穢多・非人1.6%と、
推測されている」と。

つまり人口の6〜7%に過ぎない武士が、人口の80〜85%もいる農民を虐げ、
好き勝手な生活を楽しんでいた。
「好き勝手」というのは、農民の納める年貢にしても、収穫高の4〜5割を自分たちの
ものにしていたことをいう。

身分制度については、こんな話が残っている。

浜松市の西に、江戸時代に代々、庄屋として栄えた農家がある。
そんな農家ですらも、上から下まで、厳格な身分制度が敷かれていた。
小間使いは、一生、小間使い。
代々、小間使い、と。

また恐怖政治については、こんな話が残っている。

私の山荘のある地域では、明治時代に入ってからも、士族たちは、
刀をさして歩いていたという。
歩くたびに、刀の鞘(さや)が、カチャカチャと音をたてたという。

農家の人たちは、その音が聞こえてくると、道路の脇に正座して、頭をさげ、
その氏族という人が通り過ぎるのを待ったという。

この話は、10年ほど前、90歳でなくなった女性から、直接、私が
聞いた話である。

こういう(事実)をすべて無視して、「江戸時代は、自由な時代だった」とは、
私はぜったいに言わせない。

Kさんが、どんなレポートを書くかは、私は知らない。
しかしそれが、江戸時代を考える、新しいきっかけになればよい。

……私はKさんが数学の問題を解いている間、「幸せな暮らし」と何か、
それを考えていた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 武士 農民 比率 江戸時代)

++++++++++++++++++

前にも取りあげたが、あの信長ですら、
この日本では、英雄(?)になっている。
それについて書いたのが、つぎの原稿。
(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

「偉い」を廃語にしよう

●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう

日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人」と言う。よく似たよ
うな言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉
い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、
こう言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」
と聞くと、「信長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長は
古い体制や社会を打ちこわし、…関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業がで
きるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読むと、信長があたかも自由社会の創始
者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?  
  
実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民(とく
に農民)は極貧の生活を強いられた。

もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」
でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、
「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラ
ム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、
彼に都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、
あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこで
あなた自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。
もしあなたが地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊
を、いまだに心のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人を
めざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだ
しも、政治にそれが利用されると、とんでもないことになる。「私、日本で一番偉い人」
と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主義は完成しない。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

(今日・雑感・3月27日)

●ボケていく頭(Brains that is rusted)
I saw a movie last night with my wife, which is about Alzheimer's disease. It was a nice one 
and I thought about again what is the brain.)

昨夜、渡辺健、樋口可南子主演の「明日の記憶」(邦画)を見た。
若年性アルツハイマー病をテーマにした映画だった。
よい映画だった。
(あえて星はつけないでおく。)

ヤフーの映画紹介欄には、つぎのようにある。

『第18回山本周五郎賞を受賞した、荻原浩の同名長編を原作に、
『トリック』や『ケイゾク』の堤幸彦監督が映画化した人間ドラマ。
若年性アルツハイマー病に侵された男と、ともに喪失を乗り越えようとする
妻の夫婦の情愛をたおやかに描く。互いを受け止め合い、痛みを共有する
熟年夫婦を、渡辺謙と樋口可南子が好演。人を愛することの根源的な意味を
問いかける重厚なテーマを、ソフトな語り口でつづる堤監督の演出手腕が
冴え渡る感動作』と。

その映画を見ながら、随所で、「明日は、わが身」を実感した。

ただ、私もこのところ、アルツハイマー病になった人たちを、見る機会がよくある。
が、症状は、もっと深刻。
顔つき、そのものが、変化する。
顔じゅうから、緊張感が消え、ダラーッとした感じになる。

映画の中の渡辺謙は、最後の最後まで、りりしい(?)表情をしていたが、
そのあたりでは、少し違和感を覚えた。

で、そのあと、私とワイフは、脳みその検査をしあった。
ああでもない、こうでもない、と。

私「なあ、最近、ぼくの様子、少し、ヘンじゃないか?」
ワ「ヘンじゃ、ないわよ」
私「ボケたとか、そういうふうに思うことはないか?」
ワ「ないわねエ……」
私「でもさ、お前も、同じようにボケ始めていたら、たがいにそれがわからないよ」と。

映画の中でも、最初、渡辺謙は、自分が病気であることに、強く反発する。
ものを投げつけたり、机を蹴飛ばしたり、怒鳴ったりして、反発する。
それもそのはず。
脳みその中枢部分が変化する。
パソコンでいえば、クロック数そのものが、落ちる。
だから自分で自分の変化を知るのは、(理論的には)、不可能。

これは何も、アルツハイマー病にかぎらない。

加齢とともに、脳みその機能が低下する。
しかし低下したことを自分で知るのは、(理論的には)、不可能。
ほとんどの人は、低下していることにすら気づかない。
気づかないだけならまだしも、「私はふつう」「私はまとも」と、がんばる。

それを繰り返しながら、徐々に、5年、10年単位で、ボケていく。

で、最近、私は、こんな経験をした。

6年前の生徒たちの写真を見たときのこと。
全員、幼児教室の生徒たちである。
そこには、5人の子どもたちの顔が写っていた。
が、うち4人まで、名前どころか、そういう子どもがいたことすら、思い出せなかった。

たった、6年前である!

この数字で計算すると、私は、6年前の記憶のうち、80%を失ったことになる。
6年前といえば、2002年。
「2002年には、どんなことをしたか?」と聞かれると、さらに困る。
何があったかさえも、思い出せない。

言い換えると、今という(現在)にしても、6年後には、そのうちの80%が
消えることになる。
さらにその2倍の12年後には、残りの20%のうちの、さらに80%を失う。
ざっと計算してみると、残っているのは、たったの4%!
私が、72歳になるころには、今という(現在)の記憶は、4%しか、残っていない?
生徒数で考えると、100人の生徒のうち、4人しか、覚えていない?

この数字を見て、ゾーッとしない人は、いないと思う。
いや、中には、「私はだいじょうぶ」と思っている人もいるかもしれない。

しかしほんとうに、そうか?
そう信じてよいのか?
むしろ、そういう人のほうが、あぶない?

……と書いただけで終わったのでは、エッセーにならない。
問題は、では、どうしたらよいか、ということ。
どうすれば、ボケていく自分の脳みそと、戦うことができるかということ。

映画「明日の記憶」の中では、妻を演ずる樋口加奈子が、アルバムから写真を
抜き取って、それを部屋中に、張ったり、並べたりする。
この方法は、アルツハイマー病には効果は、あまりないかもしれない。
しかしボケ防止には、よいかもしれない。
記憶を繰り返し再燃させることによって、脳みそ活性化する。
が、問題がないわけではない。
活性化できるとしても、その部分だけ?
ほかの記憶は、どうしたらよいのか?

さらに思考力の維持となると、もっとむずかしい?
思考力が低下すれば、表面的な会話しか、できなくなる。
現在の私の母が、そうである。
「元気?」
「元気だよ」と。
それでおしまい。

(そう言えば、あの母にしても、ほんの5、6前までは、「私はボケていない!」と
がんばっていたゾ。
私が、「おまえ、少しボケたんじゃ、ない?」と言ったときも、そうだった。
母は、ムキになって、それに反発した。)

……ということで、この問題だけは、考えれば考えるほど、袋小路に入ってしまう。
わけがわからなくなってしまう。

そこで映画の中で、だれかが、こう言う。
私のボケかけた脳みその記憶によるものなので、不正確かもしれないが、こう言う。

「ものごとには、始まりがあれば、終わりがある」と。
つまりそういう状態になることを、(終わり)ととらえれば、よい、と。

「終わりねエ……」と思ったところで、この話は、おしまい。
考えたところで、どうにもならないし……。

++++資料++++++++++++++++

●若年性アルツハイマー病の初期症状(NPO 朝日ネットワークHPより、抜粋)

こんな症状があったら要注意

若年性アルツハイマーの初期症状としては

●頭痛やめまい   
●不眠
●不安感       
●自発性の低下
●抑うつ状態

などがあります。

発症すると、
自己中心的になったり、
以前より頑固になったり、
他人への配慮がなくなったりします。

●以前よりも自己中心的になった
●以前よりも頑固になった
●他人への配慮(気配り)が、なくなった

(こういう症状がみられたら、専門医に相談したらよい、と。)

(注)なお若年性アルツハイマー病の患者は、推定で、10万人以上
いると推定されている(厚生労働省、補助事業調査)。

さらに、武田病院画像診断センターのHPによれば、つぎのようにある。

認知症の自覚……ないことが多い
進み方……ゆっくり単調に進む
神経症状……初期には少ない
身体の持病……持病との関係は少ない
特徴的傾向……落ち着きがなかったり、深刻味がないことが多い
認知症の性質……全般的認知症(全般的に能力が低下している)
人格・人柄……変わることが多い

+++++++++++++++++

これらの診断基準を見ると、すべて、私に当てはまるから、恐ろしい!
つまり私も、あぶない? とくに気になるのは、「深刻味がないことが多い」
という部分。
このところ他人の不幸話を聞いても、どこかサバサバしている。
相手の深刻味を、自分のものとして聞くことできない。

気をつけよう!


Hiroshi Hayashi++++++++Mar 08++++++++++はやし浩司

●保守点検(Maintenance Check)

先ほど、家電の保守点検の人が、やってきた。
知らなかった。

その保守点検の人が、階下で、電源を落としてしまった。
知らなかった。

パソコンの画面が、一瞬、暗くなった。
パソコンのパイロットランプも、みな消えた。

「パソコンの故障?」と思った、つぎの瞬間、
顔から血の気が引いていくのが、わかった。
3〜4時間分の原稿が、すべて消えた!

こういうときパソコンを使っている人は、
「真っ青」という言葉を使う。
たとえばパソコンの故障でも、ブルー画面(青い画面)が
出ることほど、恐ろしいものはない。

パソコンを使っていて、そのブルー画面が出たら、
パソコンの(臨終)と考えてよい。

私は、真っ青になった。

が、電源はもどった。
しかしデータは、すべて紛失。
その状態で、階下へおりていくと、そこに保守点検の人が!

「電源を落としたでしょ!」と言うと、「すみません」と。

ハア〜〜〜〜〜〜〜!

私「すみませんで、すむ話ではありませんよ、これは!」
男「すみません」「すみません」
私「だから、すみませんで、すむ話ではないのです」と。

書斎に入って、パソコンを立ち上げてみると、データの
90%は、残っていた。
ビスタが、勝手に、データを保存しておいてくれた。

よかった。
ホ〜〜〜〜〜〜〜!

(ビスタって、すごいね!)

あとの心配は、ハードディスク。
突然(=瞬間的に)、電源を落とすと、たまにハードディスクにキズがつくことがある。
ハードディスクが針を落としたまま、フル回転しているときが、ヤバイ!
ハードディスクにキズがついた可能性もないわけではない。

しかしこれについては、一度、検査(ハードディスクのエラーチェック)
をしてみなければわからない。
その検査に、2時間弱は(320GB)、かかる。

私「これだけは、すみませんですむ話ではありませんから、そのときは、
責任を取ってくださいよ」
男「わかりました」と。

しかしそれにしても、不注意な人だ。
電源盤をいじるならいじるで、一言、警告してくれればよかった。

言い忘れたが、保守点検の人は、嘱託で働いている、65歳くらいの男性だった。
そういう人だから、パソコンには、うといのだろう。
それに同年齢ということもあって、同情心ばかり、先に立った。

……ということで、1時間分(ぶん)ほど、今朝は、時間を無駄にした。

なお、エラーチェックの結果は、つぎのようにして、知ることができる。

(ビスタ)のばあい

(1)コンピュータを右クリック
(2)「管理」を選択
(3)コンピュータの管理画面から、(イベントビューワー)→(Windowsログ)
→(アプリケーション)へと進む。
(4)右側の(ログ一覧表)から、(Wininit)をダブルクリック
(5)その下に、「Windows has checked the file system and found no problems」
と記載されていれば、OK.

心配な人は、一度、そこまで調べてみるとよい。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

【生の源泉】

●生(なま)のエネルギー(Raw Energy from Hypothalamus)
In the middle of the brain, there is hypothalamus, which is estimated as the center of the 
brain. This part of the brain shows the directions of other parts of the brain. But it is not all. 
I understand the hypothalamus is the source of life itself.

++++++++++++++++++++

おおざっぱに言えば、こうだ。
(あるいは、はやし浩司の仮説とでも、思ってもらえばよい。)

脳の奥深くに視床下部というところがある。

視床下部は、いわば脳全体の指令センターと考えるとわかりやすい。
会社にたとえるなら、取締役会のようなもの。
そこで会社の方針や、営業の方向が決定される。

たとえば最近の研究によれば、視床下部の中の弓状核(ARC)が、人間の食欲を
コントロールしていることがわかってきた(ハーバード大学・J・S・フライヤーほか)。
満腹中枢も摂食中枢も、この部分にあるという。

たとえば脳梗塞か何かで、この部分が損傷を受けると、損傷を受けた位置によって、
太ったり、やせたりするという(同)。

ほかにも視床下部は、生存に不可欠な行動、つまり成長や繁殖に関する行動を、
コントロールしていることがわかっている。

が、それだけではない。

コントロールしているというよりは、常に強力なシグナルを、
脳の各部に発しているのではないかと、私は考えている。
「生きろ!」「生きろ!」と。
これを「生(なま)のエネルギー」とする。
つまり、この生のエネルギーが(欲望の根源)ということになる。(仮説1)

フロイトが説いた(イド)、つまり「性的エネルギー」、さらには、ユングが説いた、
「生的エネルギー」は、この視床下部から生まれる。(仮説2)

こうした欲望は、人間が生存していく上で、欠かせない。
言いかえると、こうした強力な欲望があるからこそ、人間は、生きていくことができる。
繁殖を繰りかえすことが、できる。
そうでなければ、人間は、(もちろんほかのあらゆる動物は)、絶滅していたことになる。
こうしたエネルギー(仏教的に言えば、「煩悩」)を、悪と決めてかかってはいけない。

しかしそのままでは、人間は、まさに野獣そのもの。
一次的には、辺縁系でフィルターにかけられる。
二次的には、大脳の前頭前野でこうした欲望は、コントロールされる。(仮説3)

性欲を例にあげて考えてみよう。

女性の美しい裸体を見たとき、男性の視床下部は、猛烈なシグナルを外に向かって、
発する。
脳全体が、いわば、興奮状態になる。
(実際には、脳の中にある「線状体」という領域で、ドーパミンがふえることが、
確認されている。)

その信号を真っ先に受けとめるのが、辺縁系の中にある、「帯状回」と呼ばれている
組織である。

もろもろの「やる気」は、そこから生まれる。
もし、何らかの事故で、この帯状回が損傷を受けたりすると、やる気そのものを喪失する。
たとえばアルツハイマー病の患者は、この部分の血流が著しく低下することが、
わかっている。

で、その(やる気)が、その男性を動かす。
もう少し正確に言えば、視床下部から送られてきた信号の中身を、フィルターにかける。
そしてその中から、目的にかなったものを選び、つぎの(やる気)へとつなげていく。
「セックスしたい」と。

それ以前に、条件づけされていれば、こうした反応は、即座に起こる。
性欲のほか、食欲などの快楽刺激については、とくにそうである。
パブロフの条件反射論を例にあげるまでもない。

しかしそれに「待った!」をかけるのが、大脳の前頭前野。
前頭前野は、人間の理性のコントロール・センターということになる。
会社にたとえるなら、取締役会の決定を監視する、監査役ということになる。

「相手の了解もなしに、女性に抱きついては、いけない」
「こんなところで、セックスをしてはいけない」と。

しかし前頭前野のコントロールする力は、それほど強くない。
(これも取締役会と監査役の関係に似ている?
いくら監査役ががんばっても、取締役会のほうで何か決まれば、
それに従うしかない。)

(理性)と(欲望)が、対立したときには、たいてい理性のほうが、負ける。
依存性ができているばあいには、なおさらである。
タバコ依存症、アルコール依存症などが、そうである。
タバコ依存症の人は、タバコの臭いをかいただけで、即座に、自分も吸いたくなる。

つまり、ここに人間の(弱さ)の原点がある。
(悪)の原点といってもよい。

さらに皮肉なことに、視床下部からの強力な信号は、言うなれば「生(なま)の信号」。
その生の信号は、さまざまな姿に形を変える。(仮説4)

(生きる力)の強い人は、それだけまた、(欲望)の力も強い。
昔から『英雄、色を好む』というが、英雄になるような、生命力の強い人は、
それだけ性欲も強いということになる。

地位や名誉もあり、人の上に立つような政治家が、ワイロに手を染めるのも、
その一例かもしれない。

つまり相対的に理性によるコントロールの力が弱くなる分だけ、欲望に負けやすく、
悪の道に走りやすいということになる。

もちろん(欲望)イコール、(性欲)ではない。
(あのフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使って、性欲を、心理学の中心に
置いたが……。)

ここにも書いたように、生の信号は、さまざまな姿に変える。
その過程で、さまざまなバリエーションをともなって、その人を動かす。

スポーツ選手がスポーツでがんばるのも、また研究者が、研究で
がんばるのも、そのバリエーションのひとつということになる。
さらに言えば、女性が化粧をしたり、身なりを気にしたり、美しい服を着たがるのも、
そのバリエーションのひとつということになる。

ほかにも清涼飲料会社のC社が、それまでのズン胴の形をした瓶から、
なまめかしい女性の形をした瓶に、形を変えただけで、
現在のC社のような大会社になったという話は、よく知られている。
あるいは映画にしても、ビデオにしても、現在のインターネットにしても、
それらが急速に普及した背景に、性的エネルギーがあったという説もある。

話がこみ入ってきたので、ここで私の仮説を、チャート化してみる。

(視床下部から発せられる、強力な生のシグナル)
      ↓
(一次的に辺縁系各部で、フィルターにかけられる)
      ↓
(二次的に大脳の前頭前野で、コントロールされる)

こう考えていくと、人間の行動の原理がどういうものであるか、それがよくわかる。
わかるだけではなく、ではどうすれば人間の行動をコントロールすることができるか、
それもよくわかる。

が、ここで、「それがわかったから、どうなの?」と思う人もいるかもしれない。
しかし自分の心というのは、わかっているのと、わからないのでは、対処のし方が、
まるでちがう。

たとえば食欲を例にあげて、考えてみよう。

たとえば血中の血糖値がさがったとする。
(実際には、食物の分解物であるグルコースや、インスリンなどの消化器系ホルモン
などが、食欲中枢を刺激する。)
すると視床下部は、それを敏感に関知して、「ものを食べろ!」というシグナルを
発する。
食欲は、人間の生存そのものに関する欲望であるだけに、そのシグナルも強力である。

そのシグナルに応じて、脳全体が、さまざまな生理反応を起こす。
「今、運動をすると、エネルギー消費がはげしくなる。だから動くな」
「脂肪内のたくわえられたエネルギーを放出しろ」
「性欲など、当座の生命活動に必要ないものは、抑制しろ」と。

しかしレストラン街までの距離は、かなりある。
遠くても、そこへ行くしかない。
あなたは辺縁系の中にある帯状回の命ずるまま、前に向かって歩き出した。

そしてレストラン街まで、やってきた。
そこには何軒かの店があった。
1軒は、値段は安いが、衛生状態があまりよくなさそうな店。それに、まずそう?
もう1軒は。値段が高く、自分が食べたいものを並べている。

ここであなたは前頭前野を使って、あれこれ考える。

「安い店で、とにかく腹をいっぱいにしようか」
「それとも、お金を出して、おいしいものを食べようか」と。

つまりそのつど、「これは視床下部からの命令だ」「帯状回の命令だ」、さらには、
「今、前頭前野が、あれこれ判断をくだそうとしている」と、知ることができる。
それがわかれば、わかった分だけ、自分をコントロールしやすくなる。

もちろん性欲についても同じ。

……こうして、あなたは(私も)、自分の中にあって、自分でないものを、
適確により分けることができる、イコール、より自分が何であるかを知ることが、
できる。

まずいのは、視床下部の命ずるまま、それに振り回されること。
手鏡を使って、女性のスカートの下をのぞいてみたり、トイレにビデオカメラを
設置してみたりする。
当の本人は、「自分の意思で、したい」と思って、それをしているつもりなのかも
しれないが、実際には、自分であって、自分でないものに、振り回されているだけ。

それがわかれば、そういう自分を、理性の力で、よりコントロールしやすくなる。

以上、ここに書いたことは、あくまでも私のおおざっぱな仮説によるものである。
しかし自分をよりよく知るためには、たいへん役に立つと思う。

一度、この仮説を利用して、自分の心の中をのぞいてみてはどうだろうか?

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 視床下部 辺縁系 やる気)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●仮説(Hypothesis)
In the middle of the brain, there may be a center which gives orders to the whole brains. 
The limbic system filters these orders to the one, which may be understood by other brains. 
Then brains give orders to each part of the body. The orders are controlled by the frontal 
part of the brain. This is my hypothesis. …sorry about my improper use of words )

+++++++++++++++++

電車の中。
春うららかな、白い光。
その白い光の中で、1人の若い女性が
化粧を始めた。
小さな鏡をのぞきこみ、
口紅を塗っていた。

私はその光景を見ながら、
ふと、こう思った。

「彼女は、自分の意思で化粧をしているのか?」と。

私がその女性にそう聞けば、100%、その女性は、
こう答えるにちがいない。

「もちろん、そうです。私の意思で、化粧をしています」と。

しかしほんとうに、そうか?
そう言い切ってよいのか?

ひょっとしたら、その女性は、
「私でない、私」によって、操られているだけ。

+++++++++++++++

昨日、新しい仮説を組み立てた。
人間の生命と行動に関する仮説ということになる。
それについては、昨日、書いた。

仮説(1)

人間の脳みその奥深くに、(生命力)の中枢となるような部分がある。
最近の研究によれば、視床下部あたりにそれがあるらしいということが、わかってきた。
視床下部というは、脳みその、ちょうど中心部にある。

仮説(2)

その(生命力の根源)となるような部分から、脳みそ全体に、常に、
強力なシグナルが発せられている。
「生きろ!」「生きろ!」と。

生命維持に欠かせない、たとえば食欲、生存欲、性欲、支配欲、闘争欲などが、
そのシグナルに含まれる。

これらのシグナルは、きわめて漠然としたもので、私は、「生(なま)の
エネルギー」と呼んでいる。

仮説(3)

この生のエネルギーは、一次的には、辺縁系という組織で、フィルターに
かけられる。
つまり漠然としたエネルギーが、ある程度、形をともなったシグナルへと
変換される。

やる気を司る帯状回、善悪の判断を司る扁桃核、記憶を司る海馬などが、
辺縁系を構成する。

つまりこの辺縁系で一度フィルターにかけられた生のエネルギーは、志向性を
もったエネルギーへと、変換される。
このエネルギーを、私は、「志向性エネルギー」と呼んでいる。

仮説(4)

この志向性エネルギーは、大脳へと送信され、そこで人間の思考や行動を決定する。
ただそのままでは、人間は野獣的な行動を繰りかえすことになる。
そこで大脳の前頭前野が、志向性エネルギーをコントロールする。
この前頭前野は、人間の脳のばあい、全体の28%も占めるほど、大きな
ものである。

以上が、私の仮説である。

具体的に考えてみよう。

たとえばしばらく食べ物を口にしていないでいたとする。
が、そのままでは、エネルギー不足になってしまう。
自動車にたとえるなら、ガス欠状態になってしまう。

具体的には、血中の血糖値がさがる。
それを視床下部のセンサーが感知する。
「このままでは、ガス欠になってしまうぞ」
「死んでしまうぞ」と。

そこで視床下部は、さまざまな、生のシグナルを中心部から外に向かって発する。
そのシグナルを、一次的には、視床下部を包む辺縁系が、整理する。
(これはあくまでも、仮説。こうした機能を受けもつ器官は、ほかに
あるかもしれない。)

「食事行動を取れ」
「運動量を減らせ」
「脂肪細胞内の脂肪を放出せよ」と。

その命令に従って、脳みそは、具体的に何をするかを決定する。
その判断を具体的にするのが、前頭前野ということになる。
前頭前野は、脳みそからの命令を、分析、判断する。

「店から盗んで食べろ」「いや、それをしてはいけない」
「あのリンゴを食べろ」「いや、あのリンゴは腐っている」
「近くのレストランへ行こう」「それがいい」と。

そしてその分析と判断に応じて、人間は、つぎの行動を決める。

これは食欲についての仮説だが、性欲、さらには生存欲、支配欲、所有欲
についても、同じように考えることができる。

こうした仮説を立てるメリットは、いくつか、ある。

その(1)……「私」の中から、「私であって私である部分」と、
「私であって私でない部分」を、分けて考えることができるようになる。

たとえば性欲で考えてみよう。

男性のばあい、(女性も同じだろうと思うが)、射精(オルガスムス)の
前とあととでは、異性観が、まったくちがう。
180度変わることも珍しくない。

たとえば射精する前に、男性には、女性の肉体は、狂おしいほどまでに魅力的に見える。
女性の性器にしても、一晩中でもなめていたいような衝動にかられることもある。
しかしひとたび射精してしまうと、そこにあるのは、ただの肉体。
女性器を目の前にして、「どうしてこんなものを、なめたかったのだろう」とさえ思う。

つまり射精前、男性は、性欲というエネルギーに支配されるまま、「私で
あって私でない」部分に、操られていたことになる。

では、どこからどこまでが「私」であり、どこから先が、「私であって
私でない」部分かということになる。

私の仮説を応用することによって、それを区別し、知ることができるようになる。

こうして(2)「私であって私である」部分と、「私であって私でない」部分を
分けることによって、つぎに、「私」の追求が、より楽になる。
さらに踏み込んで考えてみよう。

たとえばここに1人の女性がいる。

朝、起きると、シャワーを浴びたあと、毎日1〜2時間ほどもかけて化粧をする。
その化粧が終わると、洋服ダンスから、何枚かの衣服を取りだし、そのときの自分に
合ったものを選ぶ。
装飾品を身につけ、香水を吹きかける……。

こうした一連の行為は、実のところ「私であって私でない」部分が、
その女性をウラから操っているために、なされるものと考えられる。

もちろんその女性には、その意識はない。化粧をしながらも、「化粧を
するのは、私の意思によるもの」と思っている。
いわんや本能によって操られているなどとは、けっして、思っていない。

しかしやはり、その女性は、女性内部の、「私であって私でない」部分に操られている。
それを意識することはないかもしれないが、操られるまま、化粧をしている。

++++++++++++++++++

こう考えていくと、「私」の中に、「私であって私」という部分は、
きわめて少ないということがわかってくる。

たいはんは、「私であって私でない」部分ということになる。
あえて言うなら、若い女性が口紅を塗りながら、「春らしいピンク色にしようか、
それとも若々しい赤色にしようか?」と悩む部分に、かろうじて「私」があることに
なる。

しかしその程度のことを、「私」とはたして言ってよいのだろうか?
「ピンク色にしようか、赤色にしようか」と悩む部分だけが、「私」というのも、
少しさみしい気がする。

さらにたとえばこの私を見てみたばあい、私という人間は、こうして
懸命にものを考え、文章を書いている。

この「私」とて、生存欲に支配されて、ものを書いているだけなのかもしれない。
つまり、私の脳みその中心部から発せられる、生のエネルギーに操られているだけ?
……と考えていくと、「私」というものが、ますますわからなくなってくる。

しかしこれが、「私」を知るための第一歩。
私はやっと、その(ふもと)にたどりついたような気がする。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私論 私で会って私でない部分
 視床下部 大脳前頭前野)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

【私とは?】(What is "Me"?)
At last I have come to an conclusion or I just feel it that I have come. Here is what I have 
found in these ten years. 

●いよいよ核心?

++++++++++++++++++

「私」の中には、(私であって、私でない部分)と、
(私であって、私である部分)がある。

大半の「私」は、(私であって、私でない部分)と
考えてよい。

食事をするのも、眠るのも、仕事をするのも、
また恋をして、結婚して、子どもをもうけるのも、
結局は、視床下部の奥深くから発せられる、強力な
シグナルによって、そう操作されているだけ。
それを「本能」と呼ぶなら、本能という名称でも、
構わない。

では、(私であって、私である部分)は、どこに
あるのか。

実は、こうしたシグナルに逆らうところに、
「私」がある。

こんな例で考えてみよう。

毎年、その時期になると、私の家の庭には、2羽の
ドバトがやってくる。
巣をつくり、雛(ひな)をかえす。

そのときのこと。
ドバトは、たいてい2羽の雛をかえす。
が、そのうち雛が大きくなると、
より強い雛が、より弱い雛を、巣から押し出して、
下へ落としてしまう。

つまり1羽だけが、生き残る。
(たまに2羽とも生き残ることがあるが……。)

雛は、雛なりに、生存をかけて、もう一羽の
雛を、巣から落とす。

が、それはその雛自身の意思というよりは、
雛自身の、生まれもった、本能によるものと
考えるのが正しい。

もしその雛が、人間と会話ができるなら、
きっとこんなふうに言うにちがいない。

私「君は、どうして、もう一羽の雛を、巣から
落としたのだ?」
雛「親が、エサをじゅうぶんにくれないからだ」
私「君の意思で、そうしたのか?」
雛「もちろん。やむをえず、私は、そうした」と。

が、雛は、自分の意思で、そうしたのではない。
もう少し正確には、これはあくまでも私の
仮説だが、こうなる。

「生きたい」という強力なシグナルが、雛の
視床下部から発せられる。
そのシグナルは、雛の辺縁系と呼ばれる部分で、
「形」のあるシグナルに変換される。
このばあい、「嫉妬」という感情に変換される。

つまりそこで2羽の雛は、たがいに嫉妬し、
巣の中で、闘争を開始する。
「出て行け!」「お前こそ、出て行け!」と。

結果的に、より力の強い雛が、弱い雛を、巣から
追い出して、落とす。
落とされた雛は、野犬などに襲われて、そのまま死ぬ。

わかりやすく言えば、雛は、こうした一連の行為を
しながら、(私であって、私でない部分)に操られた
だけということになる。

では、その雛が、(私であって私である部分)をつかむ
ためには、どうすればよいのか。

ここから先は、人間を例にあげて考えてみよう。

2人の人がいる。
砂漠かどこか、それに近いところを歩いていた。
2人も、もう数日間、何も食べていない。
空腹である。

で、2人が歩いていると、目の前に、パンが一個、
落ちていた。
1人分の空腹感を満たすにも足りない量である。

もしそのとき、2人が、一個のパンを取りあって、
喧嘩を始めれば、それはドバトの雛のした行為と
同じということになる。

基本的には、視床下部から発せられたシグナルに
操られただけ、ということになる。

が、2人の人は、こう話しあった。

「仲よく、分けて食べよう」
「いや、ぼくはいいから、君のほうが、食べろよ」
「そんなわけにはいかない。君のほうが、体も細いし、
元気がない……」と。

もう、おわかりのことと思う。
(私であって、私である部分)というのは、
(私であって、私でない部分)を、否定した
部分にあるということ。

もっとわかりやすく言えば、先に書いた、「本能」を
否定したところに、「私」がある。

さらに言えば、一度(私であって、私でない部分)から、
抜けでたところに、「私」がある。

その究極的なものは何かと問われれば、それが「愛」
であり、「慈悲」ということになる!

「愛」の深さは、「どこまで、相手を許し、忘れるか」、その
度量の深さで、決まる。

「慈悲」については、英語で、「as you like」と訳した
人がいる。
けだし名訳! 「あなたのいいように」という意味である。
つまり「慈悲」の深さは、どこまで相手の立場で、「相手に
いいようにしてやる」か、その度量の深さで、決まる。

たとえば殺したいほど、憎い相手が、そこにいる。
しかしそこで相手を殺してしまえば、あなたは、
視床下部から発せられるシグナルに操られただけ、
ということになる。

が、そこであなたは、あなた自身の(私であって、
私でない部分)と闘う。闘って、その相手を、
許して忘れたとする。
相手の安穏を第一に考えて、行動したとする。
つまりその相手を、愛や慈悲で包んだとする。

そのときあなたは、(私であって、私である部分)を、
手にしたことになる!

「私」とは何か?

つまるところ、(私であって、私でない部分)を否定し、
その反対のことをするのが、「私」ということになる。

もちろん、人間は生きていかねばならない。
視床下部から発せられるシグナルを、すべて否定したのでは
生きていかれない。

しかし、そのシグナルの奴隷になってはいけない。
シグナルの命ずるまま、行動してはいけない。
闘って、闘って、闘いぬく。
その闘うところに、「私」がある。
そのあとに残るのが、「私」ということになる。

繰りかえすが、その究極的なものが、「愛」であり、
「慈悲」ということになる!

さらに言えば、「私」とは、「愛」であり、「慈悲」
ということになる。

言いかえると、「愛」や「慈悲」の中に、(私であって、
私である部分)が存在する、ということになる!

+++++++++++++++++

【補記】

ここに書いたのは、私の仮説に基づいた、ひとつの意見のすぎない。
しかし、おぼろげならも、やっと私は、「私」にたどりついた。
「私」とは何か、その糸口をつかんだ。
長い道のりだった。
遠い道のりだった。
書いた原稿は、数万枚!

ここまでたどりつくために、ほぼ10年の月日を費やした。
(10年だぞ!)

先ほど、ドライブをしながら、ワイフにこの仮説について説明した。
ワイフは、そのつど、私の仮説に同意してくれた。

で、それを説明し終えたとき、私の口から、長い、ため息が出た。
ホ〜〜〜〜〜ッ、と。
うれしかった。
涙がこぼれた。

この先は、私の仮説を、もう少し、心理学、大脳生理学、教育論の
3つの分野から、同時に掘りさげ、補強してみたい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私とは 私論 愛 慈悲 愛論 
慈悲論 仮説 視床下部 辺縁系 はやし浩司の私論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●子どもとゲーム(Children & their TV Games)
TV games apparently affect children badly. The English Government has submitted a report, 
regarding TV games and its possible dangerousness to children.)

+++++++++++++++++

「ゲームは安全だ」と、がんばっている、愚か者どもよ、
少しは、世界に目を開き、世界の人の意見を聞け!

イギリス政府は、つぎのような報告書を提出した。
まず、それをそのまま紹介する。

+++++++++++++++++

【ロンドン27日・時事通信】

イギリス政府は3月27日(2008)、ビデオゲームやインターネットが、子どもに及ぼす影響に
関する報告書を公表、産業界や家庭と協力して対策に取り組む方針を明らかにした。

ゲームのパッケージに「子どもの健康を害する恐れがある」といった警告文が印刷される可能
性もありそうだ。

報告書は政府の委託を受けた臨床心理学者が作成。ゲームによって子供は暴力に対して鈍
感になるなどと結論づけた。また、英国では性と極端な暴力描写を含むゲームについてのみ、
年齢制限が設けられているが、制限の拡大を求めた。(ヤフー・ニュースより抜粋)

+++++++++++++++++

この日本でも、「ゲーム脳」という言葉を使って、
その危険性を説いた教授がいた。

が、その直後から、その教授のところには、抗議の
嵐!

どうして? 

一方、「ゲーム脳というのは、ない」「安全です」と
説く教授も現れた。
こちらの教授は、ゲームの世界では、今、神様の
ような存在になっている。

どうして?

危険か、危険でないか、そんなことは、ゲームに
夢中になっている子どもを見れば、わかる。
(もちろんゲームの内容にもよるが……。)

明らかに、どこかヘン。おかしい。
様子もおかしいが、目つきもおかしい。
そうなる。

あるいはあなた自身が、あのテレビゲームを
してみればよい。

数分もしないうちに、頭の中がクラクラしてくるはず。

「殺せ!」「やっつけろ!」と騒ぐ子どもは、まだよいほう。
ほとんどは、無表情のまま。
無表情のまま、うつろな目つきで、指先だけを動かしている。

隣の韓国では、その中毒性が問題になり、各学校に、
カウンセラーまで配置される状況になっている。
(知っているか?)

が、この日本では、野放し! まったくの野放し!

私が書いた「ポケモン・カルト」(三一書房)にしても、
書いてから9年にもなるのに、いまだに、抗議の書き込みが
あとを絶たない。

どうして?

いったい、この日本は、どうなっているのだ!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ゲーム脳 子どもとゲーム 子
供とゲーム ゲームの危険性 テレビゲーム)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2532)

【君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)】
Japan has been originally a royal bureaucratic country since the Nara Period and still now it 
is. From now on children at schools would be forced to sing an anthem to worship the 
Emperor's Family. 

●愛国心?

++++++++++++++++++

中央教育審議会のある委員は、こう
言った。

「今までの議論は、何だったんだ。
非常に気分が悪い」(中日新聞・3月28日
朝刊)と。

最後の最後の土壇場になって、突然、
文科省は「字句修正」(?)を行った。

そしてそこに「我が国を…愛し」という文言を
挿入し、「(君が代を)歌えるよう指導する
こと」とした。

文科省は、「政治家の圧力」を臭わせて
いるが、審議会そのものがもつ性質上、
それはありえない。

自分たちのよいように審議会を誘導し、
それがうまくいかなくなると、今度は、
外部の圧力を理由にする。

いつもの常套手段である。

国際基督教大学のFH教授も、
「愛国心重視の文言を最後の修正で
加える手法はけしからん。

改正教育基本法は強行採決で成立した。
パブコメ(=パブリック・コメント)は
民意を代表していない。

こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは
まちがっている」(同)とコメントを寄せている。

まったく、……100%、同感である!

++++++++++++++++++

日本の中央教育審議会の答申は、海外ではどのように受け取られているか。
まず、韓国の朝鮮N報の記事を紹介しよう。

『日本の文部科学省は28日、義務教育の小中学校での教育内容に直接影響を与える学習指
導要領を、愛国心を強調する方向で見直し、正式に発表した。

政界の圧力を受け、新指導要領には総則に、「我が国と郷土を愛し」という文言が新たに加え
られ、音楽の教育方針には「(君が代は)いずれの学年においても歌えるよう指導する」と明記
した。

2月に発表された改訂案には、「愛国心」に関する記述はなかった。また、(君が代)をめぐって
は「指導する」としただけで、「歌えるようにする」との文言はなかった。朝日新聞は「保守系の
国会議員らから改訂案への不満が出ていたこともあり、文科省は異例の修正に踏み切った」
と伝えた。

一方、渡海紀三朗文部科学相は、27日、国公立小中学校の生徒たちの靖国神社訪問などを
禁じた1949年の政府通達について、「既に失効している」と明言した。靖国神社は太平洋戦
争の戦死者を祭る宗教施設で、日本の戦争史を正当化する戦争博物館(遊就館)が境内にあ
る』(東京発、N報特派員・朝鮮N報・3月29日)と。

++++++++++++++++++

もう少し修正内容を、詳しく見てみよう。

(小中学校総則)では、

【改正案】「道徳教育は…伝統と文化を継承し、発展させ、…道徳性を養うことを目標とする」。

【修正案】「道徳教育は…伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、
…道徳性を養うことを目標とする」。

(小・国語)では、

【改正案】「昔話や伝説などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりすること」。

【修正案】「昔話や神話・伝承などの本や文章の読み聞かせを聞いたり、発表し合ったりするこ
と」。

(小・音楽)では、

【改正案】「君が代」は、いずれの学年においても指導する。

【修正案】「君が代」は、いずれの学年においても、歌えるように指導する。

(中・社会)では、

【改正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化を…理解させる」。

【修正案】「日本列島における農耕の広まりと生活の変化や当時の人々の信仰…を理解させ
る」など。(以上、中日新聞・08・3月28日より)

++++++++++++++++++

これだけ並べてみてもわかるように、修正案なるものは、全体として、「天皇中心の神話国家」
を目指していることがわかる。
その意図が、見え見え。
つまり「国を愛する」という言葉を使いながら、何とかして、それを「天皇家を愛する」ことにもっ
ていこうとしている。

が、どうして(君が代)を歌うことが、愛国心につながるのか?
(君が代)を歌うから、愛国心があるということにもならないし、反対に(君が代)を歌わないか
ら、愛国心がないということにもならない。

たかが、ひとつの(歌)ではないか。

もしそれほどまでに国民の愛国心なるものを確かめたかったら、北朝鮮のように、バッジ制に
すればよい。
階級、功績、レベルに応じて、色分けするのもよい。何度も繰りかえすが、(君が代)の「君」
は、「天皇」を指す。

だったら、思い切って、改正案をこう修正すればよい。
「バッジは、いずれの学年においても、胸に着けるように指導する」と。
そのほうが、よほどわかりやすいし、いずれ、日本もそうなるだろう。

で、かつてあの小泉首相は、「君が代の(君)は、(国民)をさす」と説明したが、私はこれほどま
での珍解釈を、聞いたことがない。

そこで(君が代)を擁護する人たちは、「君が代は、日本独特の古典音階を使用している、世界
に類のない曲である」と主張する。
それは私も認める。
世界の国家を並べて聞いても、日本の(君が代)には、独自性がある。
すばらしい!

しかし私たちが問題にしているのは、(曲)ではない! 
(歌詞)である!
つまり(君が代)を擁護する人たちは、こうして巧みに、(曲)と(歌詞)を混同させながら、私た
ちを煙に巻いている、などなど。

さらに憲法を改正して、天皇を現行の(象徴)から、(元首)にするという動きも、目立ってきてい
る。
それが「国としての品格である」と説く人もいる。

しかし21世紀の今、どうしてこの日本で、王政復古(Restoration)なのか?
その必要はあるのか? 
どうして(象徴)であっては、いけないのか? 
その前に、天皇家の人たちが、それを望んでいるのか? 
その了解を取っているのか?

日本が民主主義国家だと思っているのは、悲しいかな、私たち日本人だけ。
ウソだと思うなら、外国の人たちに聞いてみることだ。

日本は、奈良時代の昔から、君主官僚主義国家(Royal Bureaucratic Country)。
今の今も、君主官僚主義国家。
あの北朝鮮だって、一応、「民主主義国家」ということになっている。
(北朝鮮の正式国名は、「朝鮮民主主義人民共和国」だぞ!)

「審議会」なるものは、彼らの行動を正当化するための、道具。方便。
だいたいどういう基準でメンバーが選ばれるか、それすら明確ではない。
たいていのばあい、YES・MANだけを集め、自分たちにとって都合のよいように、結論を出さ
せる。
これを「答申」というが、あとはその答申に基づいて、好き勝手なことをする。
そのためにも、答申の文言は、おおざっぱであればあるほど、また抽象的であればあるほど、
よい。
いかようにも解釈できる。

あとはその答申に基づいて、「控えおろう!」と。
が、今回は、そんな審議会から出された答申ですら、さらに修正した!

……というわけで、たかが【修正案】と、あなどっていてはいけない。
文科省は、こうした答申が出たことをよいことに、これから先、矢継ぎ早に、(君が代)の強制
を、全国津々浦々の学校にまでしてくるはず。
ついでに靖国神社参拝を、修学旅行の日程に入れるよう強要してくるはず。
各学校では、「天照大神」の神話が、堂々と語られるようになるはず。

徐々に徐々に、少しずつ、しかし長い時間をかけて、日本という国は、そういう方向に導かれて
いく。

もちろんその目的は、ただひとつ

天皇を頂点にいだく、官僚主義国家の完成!

もう一度、国際基督教大学のFH教授の言葉を、かみしめてみよう。

「こんな形で、国が心を支配する方向に踏み出すのは、まちがっている」と。

+++++++++++++++++

●日本の神話

(修正案)の中に出てくる「神話」とは何か。
ウィキペディア百科事典から、そのまま抜粋、引用させてもらう。

+++++++(以下、ウィキペディア百科事典より)++++++++++

『古事記』においては、イザナキがイザナミの居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流
した際に、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれたツクヨミ、鼻から
生まれたスサノオと共に、三貴子と呼ばれる。このときイザナキは天照大御神に高天原を治め
るように指示した。

海原を委任されたスサノオは、イザナミのいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため、イ
ザナキによって追放された。スサノオは根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に
上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。スサノオ
の潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、スサノオの物実から
三柱の女神が生まれ、スサノオは勝利を宣言する。

天照大神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神である。

 アメノオシホミミ 
 アメノホヒ 
 アマツヒコネ 
 イクツヒコネ 
 クマノクスビ
 
これで気を良くしたスサノオは高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸に隠れて
しまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。(知恵の神様の秩父の神様天の八意思
金命(やごころおもいかねのみこと)と天の児屋根命など八百万の神々は天照大御神を岩戸
から出す事に成功し、スサノオは高天原から追放された。

葦原中国に子のアメノオシホミミを降臨させることにし、天つ神を派遣した。葦原中国が平定さ
れ、いよいよアメノオシホミミが降臨することになったが、その間にニニギが生まれたので、孫
に当たるニニギを降臨させた。

+++++++++以上、ウィキペディア百科事典より++++++++

こうした神話をもとに、紀元後645年の大化の改新以後、天皇家は、天照大神をまつるように
なる(ウィキペディア百科事典)。

「……ちなみに、男神アマテルとは、アマテラスの孫のアメノホアカリの別名で、アメノホアカリ
は尾張氏・津守氏・海部氏の始祖でもある。また、このアメノホアカリの弟がニニギで、神武天
皇の曽祖父にあたる」と。

やがてすぐ、小学校で、こうした神話について、読み聞かせが始まることになる。
子どもの受験勉強に熱心な親たちは、今から、しっかりと予習しておいたほうがよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 中央教育審議会 愛国心 国歌
 国歌論 神話 神話教育 官僚主義 官僚主義国家)



Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●依存宗教(Religion to depend on)

++++++++++++++++

何かの宗教を信仰し、その宗教に
依存する。
それを依存信仰という。
母体となる宗教を、依存宗教という。

たとえば「病気が治りますように」
「お金が儲かりますように」
「子どもが目的の大学に合格しますように」
と祈るのが、それ。

またそれを受け入れる宗教を、
依存宗教という。

++++++++++++++++

日本でいう宗教の多くは、依存宗教と考えてよい。
信仰することによって、信者は、その宗教団体に、絶対的な忠誠を誓う。
彼らの世界で言うところの「熱心な信者」というのは、「従順で、もの言わぬ信者」をいう。
で、その反射的効果として、何らかの利益(りやく)を受け取る。

こんな例で考えてみよう。

現在、私の母は、介護度5で、あるケア・センターに入居している。
そこでのこと。

このところ見るたびに、テーブルをはさんで、別の女性と喧嘩ばかりしている。
よほど相性が合わないらしい。
ときに物を投げあったりする。
私が見たときには、ティッシュペーパーを丸めて、投げあっていた。
ともに耳が悪いので、大声を出して叫びあうこともある。

理由は、ささいなことである。
母は、そういう状態になりながらも、食欲だけは旺盛。
相手の女性が食べようとしている菓子などが、ほしくてたまらない……らしい。

「それは、あんたのじゃない!」「お客さんのだから、食べるんじゃない!」とか言いながら、相
手の女性に向かって、ティシュペーパーなど投げつける。

私はそういう光景を見ながら、ふと、こんなことを考えた。

「神は、母を助けるか?」と。
仮に母が敬虔なクリスチャンで、神に熱心に祈ったとする。
「そのとき神なら神がいて、母を助けるか」と。

たとえば母は母なりのレベルで、こう祈ったとする。

「何とか、あの菓子がほしい」「相手の女性から、それを奪ってほしい」と。
ついでに、「何とか、相手の女性をこらしめてほしい」と、祈るかもしれない。

しかし、残念ながら、そんなことに耳を貸す神などいない。
いたら、????。

母にとっては、「地獄のようなところ」(母の言葉)かもしれないが、365日、室温は一定に保た
れている。
食事も、それぞれの入居者に合わせて調理されている。
もちろん24時間態勢で、看護してもらっている。
もちろん費用だって、かかる。

今、この瞬間においても、この世界には、飢えで死んでいく人や子どもは、多い。
そういう状況と比較すれば、母が置かれている境遇は、きわめて恵まれていると考えてよい。
母1人に、1か月かける費用だけで、アフリカの貧しい国でなら、数百人が1年間は暮らせるか
もしれない。

そんなわけで、もし神の立場で優先順位をつけるなら、母を助けるのは、最後の最後ということ
になる。

……というふうに考えながら、今度は、私自身を見つめてみる。
「もし、私が神に祈ったら、神は、私の言うことを聞いてくれるか?」と。

答は、「NO!」。
第一、私の方が遠慮する。
私は健康だし、いろいろあったが、とにかくここまで無事に生きてくることができた。
60歳という年齢にしても、江戸時代なら、とっくの昔に死んでいた年齢である。
そんな私が神に祈って、それで私の言うことを聞いてくれたとしたら、その神は、????。

この世界には、私よりもっと神の助けを必要とする人たちがいる。
私よりも、はるかに熱心に、神に祈っている人たちがいる。
私がする信仰など、仮にしたところで、遊びのようなもの。

さらに中には、「この信仰をすれば、アルマゲドン(ヨハネの黙示録による終末)のとき、神によ
って救われる」と説く宗教団体もある。
しかし日本のような、(アメリカでもよいが)、これほどまでに恵まれた国で、どうして、アルマゲド
ンなのか?

仮に巨大隕石の衝突や、巨大地震のような天変地異が起きたとしても、それを悪と決めてか
かるほうがおかしい。
私やあなたが、今、ここにいるのも、自然現象。
仮に巨大隕石の衝突や、巨大隕石のような天変地異が起きたとしても、それも自然現象。
それをアルマゲドンというのなら、では、いったい、私たちは何かということになってしまう。

ものごとを人間中心に考えてはいけない。
また人間が宇宙の中心にいるわけでもない。

地球温暖化(地球火星化)にしても、そうだ。

神に祈ったところで、どうこうなるような問題ではない。
またどうにもならない。
さらに言えば、ヌクヌクと恵まれた環境の中で生活をしながら、「救われる」も、何もない。

少し話が脱線したが、信仰は、思想でするもの。
もし宗教団体がすべきことがあるとするなら、思想で、信者を指導する。
おかしなパワーや、超自然現象を信じ込ませて、信者を誘導してはならない。
いわんや利益(りやく)を目的として、信者を誘導するとしたら、その宗教団体は、????。

さらに愚劣なバチ論をふりかざし、「この信仰を(途中で)やめた者は、地獄へ堕ちる」と脅すと
したら、その宗教団体は、????。

こんなことは常識で考えれば、だれにだってわかる。
子どもにだって、わかる。

さらに、そのことは、ケアセンターにいる老人たちを見れば、よくわかる。
私たち自身が、地球という巨大なケアセンターの中にいるようなもの。
たしかに私たちから見れば、母たちは、レベルが低い。
しかし神の目から見れば、私たちも、そしてケアセンターにいる老人たちも、同じように見える
はず。

たとえばあのK国は、せっこらせっこらと、核兵器ばかり、作っている。
一方で民を飢えさせて、みじんも、恥じない。
その姿は、菓子を取りあって喧嘩している母たちの姿と、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

さて、冒頭の話。
それについて、私は、こんな説話を思い出した。

法句経にこんな話がのっている。
ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずねる。
「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることができ
るか」と。
それに答えて釈迦は、こう答える。
「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私のエッセーで、よく取りあげる説話だが、この説話をもう少していねいに読むと、こういうふう
にも、解釈できる。

釈迦のそのときの気持ちになってみると、それがよくわかる。
釈迦は、こう言ったのだ。

「今まで、お前は生かしてもらったではないか。
まず、それに感謝しなさい。
それを忘れて、いつまでも、私に頼ってもらっては困る。
もういいかげんにしなさい」と。

さて、結論。

依存宗教は、どこまでいっても、依存宗教。
それを信仰したからといって、中身は、気休め。
またその程度の意味しかない。

宗教を信ずるのは、それぞれの人の自由。勝手。
しかし宗教に依存してはいけない。

もし祈ることがあるとするなら、自分を離れたところで、他人のために祈る。
宇宙や自然のために、祈る。

どこまでも生きるのは、私であり、あなたである。
それを忘れて信仰をしては、いけない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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 宗教論)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2533)

●自己の統合性(The integration of ourselves)
When we get old, we should integrate ourselves to what we should do.

+++++++++++++++

どうすれば、(自分のすべきこと)と、
(していること)を一致させることが
できるか。

それが統合性の問題ということになる。

が、それを一言で言い表した人がいた。

マルチン・ルーサー・キングである。

少し前に書いた原稿だが、気になる。
自分で自分の書いた原稿を、もう一度、
読みなおしてみる。

+++++++++++++++

 マルチン・ルーサー・キング・Jrは、こう述べた。

If a man hasn't discovered something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther 
King Jr.
死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していないということ。(マーティ
ン・ルーサー・キング・Jr)

わかりぬくい言い回しだが、キング牧師はこう言っている。

「私は何をすべきか、それをつかむのに失敗した人は、生きている価値はない」と。
(きびしい言葉だ!)

 そこで自問してみる。私には今、命がけでしなければならないようなことがあるか、と。併せ
て、私は今、命がけでしていることがあるか、と。

 老後の問題とは、まさに、その(命がけ)の問題と言いかえてもよい。のんべんだらりと、毎
日、釣りばかりをしている人生など、とんでもない人生で、そういった人生からは、何も生まれ
ない。残らない。ハイデッガーの言葉を借りるなら、そういう人は、「ただの人」。ハイデッガー
は、軽蔑の念をこめて、そう言った。「DAS MANN(ただの人)」と。(わかったか、『釣りバカ
日誌』の浜ちゃん!)

 しかし老後の統合性というのは、実は、たいへんな問題と考えてよい。何度も書くが、一朝一
夕に確立できるような代物(しろもの)ではない。それこそ10年単位、20年単位の熟成期間が
必要である。その熟成期間を経て、始めて、そこに根をおろす。芽を出す。花を咲かせるかど
うかは、これまた別問題。

 命がけでしても、花を咲かせないまま終える人となると、ゴマンといる。いや、たいはんが、そ
うではないか?

 「私はただの凡人」と居直る前に、みなさんも、ぜひ、自分に一度、問うてみてほしい。「私に
は、命がけでしなければならない仕事があるか」と。

 ここまで書いて、昔見た映画、『生きる』を思い出した。第7回毎日映画コンクール(日本映画
大賞)受賞した作品である。毎日映画コンクールのblogより、内容を抜粋して、そのままここに
紹介させてもらう。

「……市役所の市民課長である渡邊勘治(志村喬)は30年間、無欠勤だったが、その日、初
めて欠勤した。病院で胃ガンと診察され、あと4か月の命だと宣告されたからである。勘治は
親を思わない息子・光男(金子信雄)夫婦にも絶望し、預金を下ろして街に出る。

 勘治は屋台の飲み屋で知り合った小説家(伊藤雄之助)と意気投合、小説家は、勘治に最
期の快楽を味わってもらおうとパチンコ屋、キャバレー、ストリップと渡り歩く。だが、勘治の心
は満たされない。朝帰りした勘治は、市民課の女事務員小田切とよ(小田切みき)と出会う。彼
女は退職届を出すところだった。

 「あんな退屈なところでは死んでしまう」との、とよの言葉に、勘治は事なかれ主義の自分の
仕事を反省。目の色を変えて仕事を再開する。その勘治の目に止まったのが、下町の悪疫の
原因となっていた陳述書だった……」と。

 この映画は、黒澤明監督の傑作として、1953年、ベルリン映画祭で、銀熊賞を受賞してい
る。

そのあと渡邊勘治は、残された人生を、町の人のためと、小さな公園作りに、生きがいを求め
る。最後に、公園のブランコに乗りながら、「生きることの意味を悟って死んでいく」(「きれい塾
hp」)と。

 今でもあの歌、「ゴンドラの歌」が、私の耳に、しみじみと残っている。

+++++++++++

●ゴンドラの歌(吉井勇作詞、中山晋平作曲)

1 いのち短し 恋せよ乙女
  朱き唇 褪せぬ間に
  熱き血潮の 冷えぬ間に
  明日の月日は ないものを


2 いのち短し 恋せよ乙女
  いざ手をとりて 彼(か)の舟に
  いざ燃ゆる頬を 君が頬に
  ここには誰れも 来ぬものを


3 いのち短し 恋せよ乙女
  黒髪の色 褪せぬ間に
  心のほのお 消えぬ間に
  今日はふたたび 来ぬものを

++++++++++++

 私も、そろそろ、そういう年齢になりつつある。がんばります!

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自己の統合性 老後の統合性 
生きざま)


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2534)

●いじけるK国(Sulky North Korea)
South Korea on Sunday reacted calmly to North Korea's threat to suspend all inter-Korean 
dialogue in protest over remarks by Seoul's top general.(UPI)

+++++++++++++++++

「テロ支援国家指定を解除しなければ、
核開発リストを提出しない」と、
理由にもならない理由をこじつけて、
ノラリクラリと、約束を反故(ほご)
にしようとしているK国。

テロ支援国家指定といっても、国連という
国際的な機関が、そう指定しているわけで
はない。

アメリカという一国が、その国内で、
いわば勝手に、そう指定しているに
すぎない。

もしそれが気にくわないというのであれば、
K国はK国で、たとえば「金権腐敗国家」
として、アメリカを指定したりすればよい。

それに仮に解除したところで、国際社会が、
それで同調するわけではない。
国際社会は、国際社会として、独自の
判断で、独自に行動する。

こうした、つまり理由にもならない理由を
こじつけて、ああでもない、こうでもない
とゴネるのが、K国の常套手段。
そのゴネ方は、うつ病質の人のゴネ方と、
どこか似ている?

ささいなことにこだわり、それを針小棒大に
問題にして、おおげさに騒いだりする。

そこへもってきて、このところ、南北関係
が、少し、おかしくなってきた。

おかしくなってきたといっても、韓国が
おかしくなったわけではない。
韓国は韓国として、やっと(まとも)な
ことを言い出した。

それにK国が、反発し始めている。
例によって例のごとく、理由にもならない
理由をこじつけて……。

++++++++++++++++++

ことの発端は、韓国の統合参謀本部議長が、「K国に核攻撃のきざしがあれば、
先制攻撃も辞さない」と発言したことにあるとされる。

しかし当の統合参謀本部議長は、そんなことは言っていない。

正確に統合参謀本部議長の言葉を、拾ってみる。
統合参謀本部議長は、つぎのように言っている。
朝鮮N報の記事をそのまま紹介する(3月29日付)。

++++++++++++以下、朝鮮N報+++++++++++++++

K議長は26日、就任前の国会人事聴聞会で、「K国が核兵器で韓国を攻撃しようとした時、ど
う対応するか」との質問に、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃すること
で、その次にミサイル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにす
ること」と答弁し、緊急時の軍事攻撃の可能性を示唆した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++

K国はこれを、「宣戦布告も同然の無分別な挑発行為」と解釈し、韓国の先制攻撃の動きに対
しては、「より迅速かつ強力な先制打撃で応じる」と断言したという(同)。

++++++++++++++++++

核攻撃を受ければ、ソウルの市民は、一瞬にして、その600万人が命を失うとされる(アメリカ
国防省の推算)。

問題は、「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次にミサ
イル防御対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」の部分。

同じく朝鮮N報は、30日付のほうでは、つぎのように報道している。

「最も重要なことは核を持っているような場所を確認し攻撃することで、その次にミサイル防御
対策を行い、核がわれわれの地域で作動されることがないようにすること」と。

30日付の記事のほうが、正確ということになる。

この発言をよく読んでも、「先制攻撃」という感じは、あまりしない。
少なくとも「先制攻撃する」とは、言っていない。
しかも核兵器をもたない韓国としては、常識的な発言ということになる。
今の今ですら、もしK国が韓国を核攻撃する様子を見せたら、韓国としては、
K国のその場所を攻撃するしかない。

何しろ、たった一発で、600万人の人たちが命を失う。
ソウル市はそれで壊滅し、韓国経済は、そのまま崩壊する。
それを「だまって見ていろ」というほうがおかしい。

つまりは、核兵器というのは、それほどまでに恐ろしい武器であるということ。
その(おそろしさ)を棚にあげて、「先制攻撃は許さない」とがんばるK国のほうが、
おかしい。
狂っている。

自分たちは、「ソウルを火の海にする」「東京を火の海にする」などと、さんざん言いたい
放題のことを言っておきながら、ほんの少し、その反対のことを言っただけで、
大騒ぎする。
その身勝手さ。
その自己中心性さ。
そしてその幼稚さ。

で、そのあと、K国は、矢継ぎ早に、ケソン工業団地から当局者を撤退させ、
ミサイルを東シナ海に発射し、さらに今度は、韓国当局者が、軍事境界線を渡る
ことを禁止するという措置に出た(08年3月)。

どれも、自分で自分のクビを絞めるような行為ばかりである。
だれが得をして、だれが損をするか、もう少し冷静な頭で考えてみたらよい。

……ということで、K国は、今、完全に、現実検証能力を、喪失している。
つまりまるで自分のことが、わかっていない。
この08年には、穀物だけでも、150万トン以上もの不足が
予想されている。

こうしたK国の動きに対して、韓国政府は、今のところ、正式に返答するか
どうかを検討しているという。
2、3日のうちに、その結論を出すという。

まったくもって、わけのわからない国、それがK国ということになる。
が、言いかえると、それだけK国内部が、今、大混乱しているということになる。
恐らくもう、収拾がつかない状態になっているのでは?

「殿、ご乱心!」と。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

●4月1日(火曜日)、2008(April 1st, 2008)
I think of an un-seeable world beyond this seeable world.

+++++++++++++++++

今朝、ワイフより少しだけ早く起きて、
ワイフにこう言った。

「オ〜、外は雪だ。
雪が積もっている!」と。

それを聞いて、ワイフがフトンの中で、
首をすくめながら、こう言った。

「おかしな天気ね」と。

エイプリル・フール!

……という冗談が通じるほど、
今朝は寒かった。
冬に逆戻り?

そんな感じがした。

+++++++++++++++++

●姫路城

昨日(3月31日)は、兵庫県は、姫路城まで行ってきた。
朝方、天気が心配されたが、行ってみると、晴。
ほどよく白い雲が浮かんでいて、写真撮影には、申し分なし。

おまけに桜が、部分的に、満開。
さすが、世界遺産。天下の名城。
まるで夢を見ているかのような、(ホント!)、景色だった。

あとでYOU TUBE用に、動画を編集してみるつもり。

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●光と分子の織りなす世界で……(Un-seeable Another World)
There may be another un-seeable world beyond this seeable world. What we can see now is 
not everything. Or we had better not think this seeable world is all.

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今、こうして見えるものだけを見て、
「これがすべて」と思ってはいけない。

この(見えるもの)の向こうには、
まったく別の世界がある?

+++++++++++++++

昨日、バスの中で、こんなことを考えた。
「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」と。

たとえば長野県の野辺山には、電波望遠鏡というものがある。
電波望遠鏡というのは、その名のとおり、宇宙からの電波をとらえて、それを(見る)
望遠鏡である。

もちろん人間の目では、電波を見ることはできない。
一度その電波を、人間の目にも(わかる)ように、画像に変換して、(見る)。

さらに(見る)といっても、実際には、大脳の後頭部にある視覚野に映った映像を、
脳が感知しているにすぎない。
わかりやすく言えば、視覚野というのは、パソコンのモニターのようなもの。
そこに映った映像を、脳が、(見る)。

そこにある物体にしても、そうだ。

どれも分子のかたまり。
かたまりというよりは、集まり。
しかし分子ということになれば、その間にある、空気(酸素や窒素)にしても、
これまた分子の集まり。

が、私たちは、空気を、直接見ることはできない。
「見ることができない」というよりは、「見えないようにできている」。

こうしておおざっぱに考えてみると、「見る」ということにしても、「そこに
物がある」ということにしても、たいへんあやふやなことであることがわかる。
私たちは、すべてのものを見ているように思っているかもしれないが、
その実、私たちのまわりには、見えないものも多い。

そこで私は、あらためて、周囲にある(物)を見てみる。

青い空、白い雲、若葉を吹き始めた山の木々……。
そこにある(色)にしても、これまたたいへん、あやふやなものである。
どうして青が、青なのか。
どうして緑が、緑なのか。
どうして白が、白なのか。

たとえば昆虫などは、人間にとっては同じ赤でも、いろいろな赤に見分けることが
できるという。
中には、人間には見えない、紫外線や赤外線を見ることができる動物もいるという。
つまり、私たちが見ている(色)にしても、絶対的なものではない。

……というふうに考えていくと、「ぼくたちは、見えるものを、見ているだけではないか?」
ということになってくる。
このことを逆に言うと、「見えているものだけがすべてではない」イコール、「見えて
いるものの向こうに、もっといろいろなものがある」ということになる。

このことをバスの中でワイフに話すと、ワイフはこう言った。

「でも、物は、ちゃんと、そこにあるわよ」「手でつかむことができるから」と。

それは、そうだ。

物は分子の(集まり)なら、手も分子の(集まり)。
ほどよく(硬さ)が同じなら、私たちは、その物を手でつかむことができる。
しかし「ほどよい」と言っても、たいへん微妙なもの。
たとえば空気などは、手でつかむことはできない。

反対に、人間の手が、空気のようなものだったら、これまたそこにある物を、
手でつかむことはできない。

(物)といっても、人間にとっての(物)であって、そこに「物がある」と断言
するのは、どうか?

たとえばこの宇宙には、電波の集合体のような、巨大な生物がいるかもしれない。
もしそんな生物がいたとするなら、地球など、スルスルとすり抜けてしまう
かもしれない。

……というのは、荒唐無稽な話だが、たとえばイルカなどは、超音波を発信して、
その反射波をとらえて、脳の中に映像らしきものを映し出すことができるという。
(見る)といっても、いろいろな見方があるということ。
またそれによって、見えるものも、すべてちがうということ。

つまり人間について言うなら、私たちは、人間という生物の目を通して、
それを見ているにすぎない。
しかもその見えるものと言えば、あくまでも人間にとって、見えるものにすぎない。

もし人間が、紫外線まで見ることができたとするなら、青い空は、紫色に見えるはず。
そしてそこにオゾンホールのようなものがあれば、私たちが白い雲を見るように、
紫色の雲を、そこに見るはず。

さらに赤外線まで見ることができたとするなら、光のない真夜中でも、熱を発する
生物を見ることができるはず。
ちょうど軍隊が使っている、赤外線スコープのように、だ。

(物)といっても、光が反射しているから、物としてわかるにすぎない。

私「この世界は、映画、『マトリックス』の世界のようなものかもしれないね」
ワ「どういうこと?」
私「つまりね、ぼくたち自身が、実は仮想現実の世界で生きているかもしれない
ということ」
ワ「別のところに、別の世界があるということ?」

私「そうかもしれない。しかしその別の世界というのは、この世界とは、まったく
異質の世界かもしれないよ」
ワ「まるで、ホーキング博士みたい……」
私「何が?」
ワ「ホーキング博士も、私たちが住んでいるような大宇宙は、ここにも、そこにも、
無数にあると言っているわ」

私「そう……。でもぼくたちは、それを見ることができない。さわることもできない」
ワ「不思議な世界ね」
私「いやね、そういう世界が不思議というわけではないんだよ。ぼくたちが生きている、
この世界もまた、不思議な世界だということだよ」
ワ「……?」
私「いいか。こちらから向こうの世界を見ると、不思議な世界と思うかもしれないが、
向こうの世界からこちらの世界を見ると、不思議な世界に見えるはず」と。

考えれば考えるほど、私たちは、不思議な世界に生きている。
この大宇宙にしても、もとはと言えば、(無)がふたつに分かれてできたという説が
ある。(線)のような世界が、爆発してできたという説もある。

どうやってこの宇宙が生まれたかは別にして、ともかくも、私たちは、風船
(=バブル)のような大宇宙の中で生きている。

この風船のような大宇宙の向こうには、何があるのか。
その向こうは、どうなっているのか。
あるいはひょっとしたら、私たちは、(無)の世界で、生きているのかもしれない。
繰りかえすが、あのホーキング博士は、そうした大宇宙が、ここにも、そこにも、
無数にあると説いている。

しかしそうした世界は、人間が見るかぎり、(無)である。
仮に私の横に、そうした大宇宙があるとしても、私は見ることも、さわることもできない。

さらに仮にその大宇宙の中に、無数の銀河があり、その銀河の一角に地球に似た惑星
があり、そこに生物がいるとしても、それを見ることも、さわることもできない。
私たちにしてみれば、その大宇宙も、世界も、そこに住む生物も、(無)ということになる。

しかし反対に、向こう側の宇宙から見れば、私たちが住む大宇宙も、世界も、ここに
住む私たちも(無)ということになる。

今、私たちが見ている世界の向こうに、いったい、どんな世界があるのか?
それは私にもわからない。
わからないが、これだけは事実である。

そこには、私たちの知らない、まったく別の世界がある。
想像もつかないような、まったく別の世界で、ある。
私たちが見ているこの世界だけを、けっして、すべてと思ってはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++MAR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2535)

●とても、すばらしい話(A Wonderful Story)
My son has written a wonderful story, which was actually happened in one of schools in 
USA. Here I would like introduce it.

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息子がこんな記事を、自分のBLOG
に書いた。

そのまま紹介させてもらう。

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●ピンクのシャツ 

幼稚園と小学校が普通一緒になっているここアーカンソーでは、
誠司が今年8月から行く幼稚園/小学校へ、今ぐらいから登録の
手続きをしなければいけない。知人とよく小学校の話をしてい
て気になるのは、皆そこへ行っている子供の親の平均収入の話
だったり、NCLBで行っている統一テストの平均点だとか、そう
いうくだらない話が多い、ということだ。

前までは高校でそんな話を聞くことが多かったと思うのだけど、
今では幼稚園からそんな感じなのだろうか。

学校の良し悪し、というのはそこでどんな友達を作り、彼らと
どんな経験をするか、ということに尽きる。

去年の9月の年度始めに起きた(北米の学校は9月に始まる)、
どこにでもある普通の中、高校での出来事。

ある最年少の生徒が、ピンク色のシャツを着て初めてこの学校
へ登校して来た。年上のいじめっ子がその少年を見つけ、「お前、
ホモだろう、明日から毎日ぶっ飛ばしてやる。」などと脅した。
それを見つけた2人の生徒が、僕を含め北米全土が注目する行動
を起こす。

「もういじめなんて沢山だ、と思ったんです。」
後のインタビューでそのうちの一人が話したコメント。

いじめを目撃した次の日、彼らは地元の安売り店でピンク色の
シャツ50着を買い、いじめられた生徒の側に立とうと、翌日
そのシャツを着て登校。Eメールなどで他の友人に呼びかけ、
反いじめの為に賛同するよう促した。次の日、彼らが登校すると、
予想していた10、20人の参加を遥かに上回る数百人もの生徒が
ピンク色のシャツを着て登校し、クラス、学年を超えて学校中が
ピンクだらけになったのだそうだ。

そんな中、いじめられた生徒が学校へ登校してきた時の光景を
目撃したクラスメート達は、「とても感動的な光景だった」と
話している。そのクラスでの模様を想像する度にいつも鳥肌が経つ。

「いい学校」とはどこかに住所付きで存在するのではない。
平均点だとか、いくら予算があるだとか、くだらないデータを
元にアタフタせず、僕はただ誠司によい友達とかけがえのない
思い出を沢山作って欲しいなあ、と願うのみ。
(08年4月1日)

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●『No Country』

たまたま今、『No Country』という映画を見てきた。
07年度、アカデミー賞・4部門を獲得したとか。
期待が大きすぎた分だけ、がっかり。
ただの殺人映画。
頭の狂った殺し屋の、ただの殺人映画。

「どうしてあんな映画が、アカデミー賞?」と、叫びたくなる
ような映画だった。

ただ一点、ところどころに、ベトナム戦争の話が出てきたのが、
気になった。
みな、あの戦争の犠牲者(?)ということか。

星は、ひとつの★。が、本当は、ひとつもつけたくない。
帰り際、「二度と見たくないね」と言うと、ワイフも
すなおに、それに同意してくれた。

で、そのとき、こんな会話もした。

私「どうしてあんな映画が、アカデミー賞で、4部門も獲得
したんだろ?」
ワ「アメリカの世相を、そのまま反映しているからじゃ、ない?」
私「あんなに、殺伐としているんだろうか?」
ワ「かもね……?」と。

で、家に帰って、息子のBLOGをのぞく。
読んで、ほっとする。

いつだったか、息子の友人のスミスという男性が、私たちを
車で空港まで送りながら、こんなことを言ったのを思い出す。

「Mr & MRs ハヤシ、ハリウッド映画だけを見て、
これがアメリカだと思わないでほしい」と。

今、その言葉が、しみじみと胸の中で、響く。

アメリカといっても、広い。このアジアがスッポリと入るくらい
広い。
だからいろいろな人がいて、いろいろなドラマを展開する。
それはわかるが、『No Country』は、たとえそれが
事実ではあっても、いちばん見たくない映画の部類に属する。
(きびしい批評で、ごめん。)

あえて言うなら、だれだって小便をする。大便もする。
しかしだれが、小便する男の映画や、大便をする男の映画を
見たがるだろうか。
とくに子どもには、見せてはいけない!

私「日本にも、昔、緒方拳が主演した、『復讐するは我にあり』
という映画があった。ぼくは、あの映画のほうが、凄味(すごみ)
があったように思う」
ワ「そうね。あの映画のほうが、凄かったわね」と。

そのとき道路で、知りあいの女性が、「こんにちは」と声を
かけてくれた。
その瞬間、私たちは映画の世界から解き放された。我にかえった。

息子へ、

すばらしい話、ありがとう!


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●やはり、私の予想通りだった!

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決裂したかのように見えた、ジュネーブでの
米朝会議。

すべてのマスコミも、そう報じていた。

しかしその裏で……!

私が、3月14日に書いた原稿をまず、読んで
みてほしい。

++++++++++++++++++++++

(3月14日、記)

●何か、臭うぞ、米朝会談!
(Something is strange! Really strange! US and N. Korea discussed about North Koreans 
Nuclear weapon development in Geneve. But did the conference come to rapture?)

+++++++++++++++++

何か、おかしいぞ!
何か、へんだぞ!
何か、臭うぞ、米朝会談!

「怪談」それとも、「会談」?

まずヤフー・ニュースを分析して
みよう※。

(1)K国側の希望で、ジュネーブで米朝会談が開かれた(13日)
(2)終日、にこやかな雰囲気で、「実質的な会談」(ヒル氏談)が行われた。
(3)K国側も、「満足している」と述べた。
(4)しかし会談は、そこまで。
(5)14日に予定されていた会談は、流れて、ヒル氏は、シュネーブを離れた。
(6)ヒル氏の部下と、K国側の代表(金氏)が、ジュネーブに残った。
(7)K国側は、ウラン濃縮、海外への核拡散については、否定。
(8)ヒル氏は、日本人の拉致問題もとりあげたという。

これだけ読めば、今回の会談は、合意点を見いだせないまま、
またまた流れたということになる。

ほんとうにそうか? そう読んでよいのか?

もともと今回の会談について、ヒル氏は、二段階構えで臨んでいる。
ウラン濃縮と海外への核拡散については、「過去の話」として、不問にするとした。
K国側のメンツを立てるために、である。

一方、2月終わりの米朝会談を、K国側は、すっぽかしている。
「?」と思っていたら、K国側から、ジュネーブでの会談の申し入れがあった。
K国側に、何らかの変化があったとみるのが、自然である。

ところがフタをあけてみたら、この始末。

「当初会談は14日も続けられる予定だったが、
アメリカ側は『いまのところ(K国側と)会うつもりはない』としている」
(ヤフー・ニュース)と。

私は今回の会談は、最初から最後まで、世界をだますための茶番劇では
なかったと思っている。

つまり表の議題(=K国内の核開発問題)も、裏の議題(=ウラン濃縮と
核拡散問題)も、すでに双方で決着している。
少なくとも、ヒル氏と金氏の間では、決着している。

が、なぜか、会談の決裂を演出してみせた。

なぜか? なぜか? なぜか?

理由の第一。

今回の会談について、最初から(二段構え)ということが、バレてしまっている。
ならば、(裏の会談)イコール、(秘密会談)は必要ないはず。

そこでへたに、表の議題について合意すれば、国際世論は、当然、「アメリカは
K国と裏取引をした」ということが、明白になってしまう。

そこでアメリカは、(表の議題)も決裂したと見せかけることで、
「会談そのものの決裂」を演出する必要に迫られた。
わかりやすく言えば、表向き、会談そのものが、決裂した、と。
予定されていた14日の会談がなされなかったのは、そういう理由による。

が、実は、会談は、成功していた!
そう考えると、今回のヒル氏の不可解な行動が理解できる。
ヒル氏は、14日、たいした用事もないのに、腹心の部下を残して、ジュネーブを去った。

決裂したのなら、部下を残す必要はない。
また今のヒル氏にしてみれば、米朝会談にまさる重要な任務はないはず。

この謎を解くヒントは、K国側の金氏自身の言葉にある。
15日、金氏は、ジュネーブを去るにあたり、記者団にこう述べている。

「見解(の差)は大いに縮まった。もう少し前に進めればいい。妥協は可能だ」(同)と。

やはり合意はなされている。
でなければ、金氏が、こんなことを口にするはずはない。
あとは、その発表の時期をうかがっているだけ。

ヒル氏が何を考えているか、私にはわからない。
わからないが、またまたこの日本は、裏切られた。
アメリカは、裏の議題、つまりウラン濃縮問題と核拡散問題を優先させた。
K国内の核兵器など、アメリカにとっては、問題ではない。
(日本にとっては、死活問題だが……。)
ほんとうの問題は、ウラン濃縮問題と核拡散問題である。
もちろん拉致問題を会談で取りあげたというが、そんなのはヒル氏にしてみれば、
日本へのリップ・サービスでしかない。

もうひとつの可能性は、ヒル氏も金氏も、ポスト金xx(金xx死後)のK国を
念頭に置いているのではないかということ。
双方とも言葉には出せないのかもしれないが、当然、そういう前提で話しあっている。
その可能性も、まったくないとは言えない。

金xx亡きあとは、金氏が、K国の実権をにぎる?
アメリカは、それを後押しする?

私の予想では、今月(3月末)あたりか、4月のはじめに、電撃的な米朝会談が
開かれ、その合意が発表されると思う。
そのとき今回の謎が、解明されると思う。

注視!

+++++++++++++++

(注※)(以下、ヤフー・ニュース・3月15日より)

K国の核問題をめぐる6カ国協議の米朝首席代表による会談が13日、ジュネーブで行われ
た。K国は焦点の核計画の申告問題について、ウラン濃縮、海外への核拡散ともに否定する
など米朝の溝は埋まらず、合意には至らなかった。

 会談は米朝それぞれの国連代表部で計5時間行われた。ヒル米国務次官補(東アジア・太
平洋担当)とK国の金桂寛外務次官は昼食、夕食も共にした。

 金次官は会談後、記者団に対し、ウラン濃縮と核拡散について「これまでも、いまもやってい
ないし、これからもしない」と全面否定した。ヒル次官補も会談後の記者会見で、「K国は拡散と
ウラン濃縮でこれまでの立場を維持した」と述べ、対立が解消されなかったことを認めた。

 ヒル次官補は日本人拉致事件も提起し、K国側に解決に向けて取り組むよう促したことを明
らかにした。

 会談では申告内容のほか、申告の形式、今後の協議の進め方などについて、「実質的な話
し合いをした」(ヒル次官補)という。ヒル次官補は「一定の進展があった」と述べたが、具体的
には言及しなかった。金次官も「(会談に)満足している」と語った。

 当初会談は14日も続けられる予定だったが、米側は「いまのところ(K国側と)会うつもりは
ない」としている。

++++++++++以上、3月15日、記+++++++++++

しかし、だ、
こんなニュースが、先ほど、飛び込んできた。
朝鮮N報発、聯合ニュース。

そのまま紹介させてもらう!

+++++++++++++

【ソウル3日聯合】
北朝鮮と米国が外交ルートを使い核開発申告と関連した大詰めの協議を行っており、この結
果により双方の6カ国協議首席代表による会合開催時期が決まるものとみられている。

 双方はまず、核開発申告書の形式を、プルトニウムとウラン濃縮、すべての形態の核協力
の3つの項目に区分し、内容は北朝鮮がウラン濃縮計画(UEP)と、シリアとの核協力疑惑に介
入していたことを間接的に認めることを骨子としているもようだ。

 政府消息筋は「米朝協議が先月のジュネーブでの協議以来、大きな進展を見せているが、
まだ本質的な部分で調整すべきことが残っている。ウラン濃縮もそうだが、核協力の部分でも
双方が折衝と文案整理作業をさらにしなくてはならない」と話している。別の消息筋は、「ジュネ
ーブでの協議以降、大枠については共感に達しているが、一部項目で詰めの調整が残ってい
ると考えればよい」とし、今週中に米朝首席代表による会合を開くのは困難だとの見通しを示
した。

 米朝が協議している「間接的な是認」は、米国が北朝鮮との話し合いを基に「北朝鮮がウラ
ン活動と核拡散活動に介入したということが米国の理解事項」と明記し、北朝鮮側はこうした
内容に「反論しない」とすることを骨子としていると伝えられている。

双方はこうした趣旨に合う文案作成に入っており、プルトニウムの項目はほとんど整理され、
UEPと核協力の一部をめぐって駆け引きが行われているようだ。

 政府消息筋は、ウラン活動と核拡散活動という大きな項目は簡単だが、その中に盛り込まれ
る細部の内容をどうするかがとても難しいことだとし、「これは後に検証の対象になるため、北
朝鮮としてもむやみに同意するのは難しい問題だ」と話している。

+++++++++++++++++

やはりヒル氏と金氏の間で、密約がなされていた。

(4月3日、記)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(4月4日)

++++++++++++++++

昨夜は、軽い頭痛。
このところ、何かと、睡眠不足。
それがどこかに、たまってきたらしい。

だから昨夜は、午後9時に、就寝。
が、今朝は、その分だけ早起き。
時刻は、午前5時。

一応、8時間、眠ったことになる。
が、起きてからも、あくびの連続。

私の体は、いったい、どうなって
いるのか?

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●「後退」という恐怖

人間の目は、顔面前部についている。
うしろが、盲点。死角。
そのため、人間は、前に向かって進むのが得意。
また前に向かって進んでいないと、不安。
少なくとも、前に向かって進んでいるときは、うしろから襲われるという
心配はない。

たとえば子どもの鬼ごっこを見る。
逃げる子どもは、一目さんに、前に向かって走る。
「全力で、前に向かって走れば、(鬼)は追いつけない」と。

うしろを振り返るということは、めったにしない。
うしろを振り向いたとたん、その分だけ、速度が落ちる。
子どもも、それをよく知っている。

さらに言えば、前向きに走ることはできても、後ろ向きに走ることはできない。
(練習すれば、後ろ向きでも、速く走れるようになれるという説もあるが……。)

こうした人間の特性のせいか、人間は、後退するのが苦手。
後退を強いられただけで、言いようのない不安感に襲われる。
顔を前に向けたまま、後ずさりするときのことを思い浮かべてみればよい。
うしろに何があるかわからないまま、後ずさりするのは、こわい。

……という話を、車の中で、ワイフとする。
どこかの商店街の中を走っていたときのこと。
その地域も、郊外に大型店ができたせいか、毎年、見るたびにさびれていく。
シャッターをおろした店も、目につく。

「かわいそうだね」「そうね」と。

私の実家も、大正時代からの自転車屋だったとはいえ、私が中学に入ることから、
斜陽につづく斜陽。
高校生になるころには、いつ店を閉めてもおかしくない状態だった。
また大学時代も、仕送りといっても、下宿代の1万円だけ。それだけ。
その1万円にしても、母は、毎月、「講」※という組織を使って、
工面してくれていた。

「斜陽」のもつ恐怖は、子どものときから、いやというほど、経験している。
さらに言えば、「後ろ向きに歩く」ことの恐ろしさを、いやというほど、
経験している。

私「ああいうところの店の人たちは、つらい思いをしているもんだよ」
ワ「……」
私「明日が今日より悪くなるというのは、いやだね」と。

きっとその内では、「どうしたらいい?」「どうしよう?」という会話が、
毎日のようになされているはず。

私「商店主というのは、意外とつぶしがきかない。ほかに仕事をさがすと
いっても、それができない。50歳を過ぎると、なおさらできない」
ワ「……そのまま、つづけるわけ?」
私「そう、それしかない。毎月のように、家計を切りつめながらね」
ワ「でも、それにも限界があるのでしょう?」
私「あっても、さらに切りつめるしかない」と。

ある段階までは、虚勢や虚栄を張って生きることができる。
しかしそれも枯れるときには、枯れる。
最後は、枯れた木がポキリと折れるようにして、店はつぶれる。

人間の「目」の話が出てきたのは、そのときのこと。
「ほら、人間の目って、前についているだろ。だから後ろ向きに歩くということが、
苦手なんだよ」と。

たとえば……。

私も、現在、こんな問題に直面している。

ワイフが言うには、老後は、家や土地を売って、そのお金で、そういった施設に
入って過ごせばよいと。
「そのために、家や土地を買ったのだから」と。

前向きに(?)、家や土地を買ったころは、それなりに楽しかった。
しかし「売って、そのお金で、老後を過ごす」というのには、ある種の恐怖感が
ともなう。
「さみしさ」とは、内容がちがう。「恐怖感」だ。
断崖絶壁に追いつめられたかのような、恐怖感である。
その恐怖感の中身が、ここでいう、「後退」ではないか?

ワ「あなたは、いつも前しか見てこなかったから、こわいのよ」
私「そうかもね。これからは、うしろも見ながら、歩いていくよ」と。

ところで母が、いつも口癖のように言っていた、「講」とは、何か。
正確には、「頼母子講(たのもしこう)」という。

ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

「……21世紀となった現在でも、日本各地(主に農村・漁村地域)に、無尽や頼母子、模合と
呼ばれる会・組織が存在している。メンバーが毎月金を出し合い、積み立てられた金で宴会や
旅行を催す場合もあれば、くじに当たった者(くじと言いながら実際は順番であることが多い)
が、金額を総取りする形態のものもある。多くは実質的な目的よりも、職場や友人、地縁的な
つき合いの延長としての色彩が強く、中には一人で複数の無尽に入っている人もいる。沖縄で
は県民の過半数が参加していると言われるほか、九州各地や山梨県などでもよく行われてい
る」と。

毎週、どこかの家に集まって、1000円とか2000円を出しあう。
そのお金を、順番で、だれかが手にする。
それを「講」という。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2536)

●行きすぎた指導(Excessive Teaching)
In one of elementary schools in Japan, a young woman teacher forced a second grader to 
sit and study on the floor, since the girl had forgotten her homework at home. This hurt the 
girl and she started suffering from a mental problem and she refused to attend school since 
then. The teacher has continued visiting her home and trying to hand letters to her, but all 
her actions are refused. This is a sad story for a teacher as well as for a girl and for the 
mother.

++++++++++++++++++

廊下に、土下座させて指導?

しかしそんなのは、指導ではない。
もちろん教育でもない。

江戸時代の昔なら、いざ知らず、
いまどき、廊下で、土下座?

「行きすぎた指導」(校長)で
あることは、事実。

その教師に弁解の余地はない。
ないが、ここでは、一歩、
退いた視点で、子どもの指導に
ついて、考えてみたい。

++++++++++++++++

何といっても子どもの指導で難しいのは、
子どもといっても、千差万別。
生まれ育った環境もさることながら、
「心」の内容も、さまざま。
親の価値観も教育観もちがう。

つまり同じ指導をしても、
それを受け取る子どもによって、
その受け取り方は、みなちがう。

私は、こうした指導を受け取る部分を、
「レセプター」と呼んでいる。

そのレセプターは、みな、ちがう。
このレセプターを無視して指導すると、
たいへんなことになる。

……ということを改めて知らされた
事件が、F県で、起きた。

ふつうの状況なら、ひょっとしたら、
何でもない指導だったかもしれない。

子どもによっては、笑ってすんだ話かも
しれない。

あるいは教師と父母の間に、
一定の信頼関係があれば、別の解決方法が
あったかもしれない。

さらに言えば、教師にしても、まさか
そこまでことが深刻になるとは、
思っていなかったのかもしれない。

「軽い罰(ばつ)」のつもりでした罰が、
子どもの心に大きな傷を残してしまった。

今回の事件は、そんな事件である。

+++++++++++++++++

スポーツ報知は、つぎのように伝える(4月4日、ヤフー・ニュースより)

+++++++++++以下、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

F市立H小学校で3月、20代の女性教諭が当時2年生の女児(8)に対し、忘れ物を理由に教
室で授業を受けさせず、廊下でプリントの問題を解かせ、女児が精神的苦痛を理由に不登校
になっていたことが3日、わかった。

年度末の総まとめに燃える教諭が、女児の週3回の忘れ物に激怒した末に至った「行きすぎ
た指導」(同校校長)。女児の母親からは学校に「(女児が)自傷行為をした」との連絡も入って
いるという。

F市教育委員会やH小学校によると"事件"が起きたのは3月14日。始業前、算数のプリント
の宿題を「忘れました」と申告した女児に対し、教諭が「今はまとめの時期なのに、それでは3
年生になれない」「あなたは2年生ではない」などとしかった。

教諭は女児を、同じ階の1年生の教室の前に無理やり連れて行き、放置。同校は廊下と教室
の間に段差や仕切りがない「オープン教室」建築を採用しており、女児の姿は1年生や、水飲
み場で清掃活動をしていた6年生らに見られていた。

1時間目の途中、女児はクラスの記念撮影のため教諭に呼ばれ、教室横の「フリースペース」
に入ったが、再び教諭から「1年生からもう一度やり直さないといけない」などと諭され、廊下に
戻った。2時間目、算数のプリントを配布されると、女児はその場でひざをつき、木の床にはう
ような姿勢で問題を解いた。

始業前から2時間目の終わりまで約2時間、女児は廊下にいたことになる。3時間目からは通
常通り授業に参加。女児はこの週、算数のプリントの宿題を忘れたのが3回目で、教諭は「年
度末で、しっかりまとめていこうとクラスの意識を盛りあげたかった」と、「廊下でプリント」指導
に至ってしまった心境を説明しているという。

学校には、14日夜に女児の母親から抗議の電話があった。女児はそのまま不登校になり、
春休みに突入。母親から学校に入った連絡によると、女児は病院で「強迫性障害」の疑いと診
断された。女児は「死にたい」「眠れない」と話し、髪の毛を抜くなどの「自傷行為を繰り返して
いる」との連絡も入ったという。

教諭は「申し訳ない」と、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、女児と
は会えずにいる。関係者によると、教諭は先生になって今年で3年目。「厳しいところもあるけ
ど、熱心」という。

+++++++++++以上、ヤフーニュースより転載++++++++++++++

記事の内容をまとめると、こうなる。

(1)ある女児(小2)が、忘れ物を繰り返した。
(2)担任の教師が、激怒した。
(3)罰として、廊下で、その女児に学習をさせた。
(4)女児は、自傷行為を伴う、「強迫性障害の疑い」と診断された。
(5)女児は、3月に入って以来、不登校を繰りかえしている。
(6)教師は、毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函している、と。

まず、忘れ物について。

子どもによっては、(この女児がそうというわけではないが)、いくら注意しても、
それをなおせない子どもというのは、いる。

集中力そのものが散漫というか、反対に、いつも四方八方に、触覚がのびていて、
そのため、ことの重要度が適確に判断できない。あるいはひとつのことに集中しすぎて、
ほかの面がおろそかになる。

ふつうは、このタイプの子どもは、メモ用紙にメモを残させるなどという方法で
指導するが、学年があがるとともに、症状は、軽減する。
(中学生くらいになると、忘れ物はぐんと減るが、それでも、なおったという
状態にはならない。)

で、こうした症状は、生来的なもので、叱ったくらいでは、なおらない。
そのため、叱っても意味はない。
その子は、そういう子どもと認めた上で、指導するしかない。

全体としてみると、このタイプの子どもは、10〜15人に、1人はいる。
知的能力との関連も指摘されるが、私の知るかぎり、それはない。

その教師は、たぶん、経験も浅いということもあって、そういうことを知らなかった
のではないか。

もちろん繰りかえすが、その女児がそうであったと言っているのではない。

私が言いたいのは、子どもの世界では、忘れ物は当たり前ということ。
みんな忙しい。子どもだって、忙しい。親は、さらに忙しい。
何もかも教師の指導どおりに……というわけにはいかない。
そういうことも知った上で、つまり「忘れ物は当たり前」という前提で、
子どもの指導に当たっていたら、こういう不幸な事件は起きなかったかもしれない。
その教師には、そうした(おおらかさ)が欠けていた?

つぎに、「廊下で学習させた」ということについて。

その教師を批判して申し訳ないが、その教師は、かなり権威主義的なものの
考え方をする教師のように思う。
「謝るときは、土下座」式の、古風な教育観をもっているのかもしれない。

仮に反対の立場で、そういうことをされたら、その教師は、どのように感ずるだろうか。
子どもに土下座をさせてはいけない。
子どもを廊下に土下座させて学習させてはいけない。

武士道とやらを信奉する人にとっては、そうではないかもしれないが、こんなことは、
指導のイロハ。

(もっともアメリカの小学校などでは、図書館などでも、みな、寝ころんで本を
読んでいたりするが……。)

しかし何よりも問題なのは、信頼関係。
教師と子ども、教師と親の間の信頼関係がしっかりしていれば、こうした事件は
起きなかった。
仮に起きたとしても、別の解決方法があったはず。
ばあいによっては、たがいに、笑ってすんだ話かもしれない。

「私、廊下で勉強させられちゃった」
「バカねエ」
「ハハハ」と。

さらに冒頭に書いたように、レセプターはみな、ちがう。
児童心理学の世界にも、「過敏児」「鈍感児」という言葉がある。
繊細な感覚をもっている子どももいれば、そうでない子どももいる。
(もちろんその女児が、敏感児だったと言っているのではない。誤解のないように!)

A君に有効だった方法が、B君にもそのまま有効とはかぎらない。
ばあいによっては、とんでもない方向へと、ことが進んでしまうかもしれない。
今回の事件も、そういう経緯をたどった可能性がある。

ただ、だからといって、一方的に、その教師を責めるのもどうか?
無知はそれ自体、罪だが、そこまでオールマイティな教師を求めるのも、むずかしい。
「子どもの忘れ物なんて、何でもないですよ」という指導ができるようになるまでには、
10年とか20年の経験が必要。

幼稚園の世界でも、「親がなっていない」「親の顔が見たい」などと言うのは、
たいてい自分で子どもを育てたことのない若い教師。
自分で子どもを育ててみると、そうはいかない。
そうはいかないことを、さんざん、思い知らされる。
と、同時に、こういう生意気な(ゴメン!)言い方は、消える。

その教師にしても、「教師になって3年」とか。
その教師は教師なりに、「熱心に指導」(報道)したのかもしれない。

で、気になるのは、「毎日のように女児の家に行き、謝罪の手紙を投函しているが、
女児とは会えずにいる」という部分。
女児はもちろんのこと、親にも会えない状態がつづいているということか?
親の気持ちもわからないではないが、もしそうなら、親のほうも、ほんの少し、
心を開いてほしいと願う。

大切なのは、子ども。子どもの心。
子どもの立場で見て、親と教師が緊張関係にあるのは、たいへん、まずい。
その緊張関係が、子どもの心をさらに悪い方へもっていってしまう。
その危険性は、ないとは言えない。

……ということで、今度は、教育についての一般論。
こういう事件を見聞きする教師の立場で、考えてみたい。

現在、「教育」そのものが、たいへんやりにくい時代になっている。
今回の事件は別として、どこの学校へ行っても、「萎縮する教師」が話題になる。
今では、子どもに向かって、命令したり、怒鳴ったりすることは、タブー。
「掃除をしなさい!」(=命令型)はだめ。
このS県でも、「掃除をしてください」(=お願い型)、「掃除をしましょう」(=提案型)
という言い方に変わってきている。
プリントを丸めて子どもをたたいただけでも、「そら、体罰!」と、問題になる。

「教師の萎縮」イコール、「教師のやる気の喪失」と考えてよい。

その上、目が回る忙しさ。
子どもが家出をしたときでも、親たちが真っ先に電話をするのが、担任の教師。
学校でもない。自治会でもない。学校の教師、だ。

ある女性が、こんなメールをくれたことがある。

「夫(=中学校教師)は、昨晩も、家出した生徒を捜し回って、家に帰ってきたのは、
午前2時です」と。

こんな事件を見聞きしたら、あの産婦人科医問題と同じように、この先、学校の
教師になる人は、いなくなってしまう(?)。

もちろんだからといって、その教師のしたことを擁護しているのではない。
校長が言っているように、「行きすぎた指導」であることには、ちがいない。
その教師は、してはいけないことを、してしまった。
それは事実。
どうか、誤解のないように!

……ということで、この話は、ここまで。

しめくくりとして、この報道だけでは、これ以上のことはわからない。
今回の事件にいたるまで、何があったのか? またなかったのか?
ただただ残念な事件であることには、ちがいない。

子どもの気持ちもよくわかる。
教師の心痛も、これまたよくわかる。
その間に立って、その親は、本当に苦しんでいる。
本来なら、愛しあい、助けあい、慰めあう人たちが、たがいに袋小路に入って、
もがいている。
これを悲劇と言わずして、何と言う。

早く、その女児が、立ちなおってくれることを、心から願う。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 行きすぎた指導 体罰 廊下で
学習 強迫性障害)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2537)

【特集・東洋医学】

●目で見る漢方診断

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みなさんは、「漢方(医学)」をご存知ですね。
広くは、「東洋医学」とも言います。

最近では、「東洋医学」と呼ぶほうが、
一般的になっているようです。

その「漢方」、ルーツは、「黄帝内経・素問」と、
「黄帝内経・霊枢」という、2冊の書物です。
それぞれ、「こうていだいけ・そもん」
「こうていだいけい・れいすう」と読みます。

「書物」というよりは、「バイブル」と呼んだ
ほうが、正しいかもしれません。

私たちが現在、東洋医学と呼んでいるものは、
これら、黄帝内経・素問、黄帝内経・霊枢に
始まり、同じく、黄帝内経・素問、黄帝内経・
霊枢に終わると言っても過言ではありません。

今度、私のHPのほうで、私が若いときに
書いた、『目で見る漢方診断』を、全ページ、
公開することにしました。

そのこともあって、かつて黄帝内経について
書いた原稿を、ここに再録することにしました。

「漢方!」と、どうか、逃げないでください。
黄帝内経には、日常で役立つ健康法が、
いっぱい書かれています。

もしみなさんが、ここに再録した原稿を
読んでくださり、またHPに収録した
『目で見る漢方診断』に目を通してくだされば、
あなたは、ちょっとした、漢方の「通(つう)」
になれますよ。

おもしろい世界です。
どうか、一度、ドアをたたいてみてください。

Welcome to Chinese Medical Science!

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●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。

黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文明を築いた、シュメール人には、と
もに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、ここの目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな変
化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、サ
ルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の2つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真円
である。

 そこで2つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の直
径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数10万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセントに
すぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレー
ターまでは、消せない。それが、ここに書いた、2つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なことで
はないか。

 この2つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の2つが、合
体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。たとえば、「キング・ジェ
ームズ」とか、など。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにそこらに群れるサ
ルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、私の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく。そしてその一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間
は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自
分の中で、ウズを巻く。

 あさって(27日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、ど
こまでも明るい。
(030925)

+++++++++++++++

ついでにもう1作!

日付を見ると、2004年の
原稿ということになっています。

内容が一部、ダブりますが、
お許しください。

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【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ
ても、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった7
500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、新石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇
に包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大きな
変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの方舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれてい
る。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく似
ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似た
土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つながっ
ている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シュ
メール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、ほ
ぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってきたとさ
れる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてから、
こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(たぐ
い)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。何か、目
標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがっている
かもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、いつ
の間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、中
国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)


+++++++++++++++++

そして「黄帝内経」へ……。

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●神々の言葉

 私はどういうわけか、黄帝内経(こうていだいけい)という書物に興味をもっている。漢方(東
洋医学)のバイブルと言われている本である。東洋医学のすべてがこの本にあるとは言わない
が、しかしこの本がその原点にあることは間違いない。

 その黄帝内経を読むと、最初に気づくのは、バイブルとは言いながら、聖書の記述方法と逆
であること。黄帝内経は、黄帝という聖王と、岐伯(きはく)という学者の問答形式で書かれてい
るが、黄帝はもっぱら聞き役に回っているということ。そしてその疑問や質問、さらには矛盾に
つぎつぎと答えているのは、岐伯のほうであるということ。

 一方聖書(新約聖書)のほうは、弟子たちが、「主、イエスキリストは、このように言った」とい
う形式で書かれている。つまり弟子たちが聞き役であり、キリストから聞いた話をその中に書い
ている。

 そこでなぜ、黄帝内経では、このような記述方法を使ったかということ。もし絶対的な権威と
いうことになるなら、「黄帝はこう言った」と書いたほうがよい。(そういう部分もあるが……。)岐
伯の言葉ではなく、黄帝の言葉として、だ。しかしこれには二つの理由がある。

 黄帝内経という書物は、医学書として分類されている。前一世紀の図書目録である、漢書
「藝文志」に医書として分類されていることによる。ここで医書として分類されたことが正しいか
どうかという疑問はある。さらに「医書」という言葉を使っているが、現代流に、だからといって
「科学、化学、医学」というふうに厳密に分類されていたかどうかという疑問はある。

が、それはさておき、仮に医書であるとしても、それは今で言う、科学の一分野でしかない。科
学である以上、絶対的な権威を、それにもたせるのは、きわめて危険なことでもある。その科
学に矛盾が生じたときのことを考えればよい。矛盾があれば、黄帝という聖王の無謬性(一点
のまちがいもない)にキズがつくことになる。ここが宗教という哲学と大きく違う点である。つまり
黄帝内経の中では、岐伯の言葉として語らせることによって、「含み」をもたせた。

 もうひとつの理由は、仮に医書なら医書でもよいが、体系化できなかったという事情がある。
黄帝内経は、いわば、健康医学についての、断片的な随筆集という感じがする。しかし断片的
な随筆を書くのと、その分野で体系的な書物を書くのは、まったく別のことである。たとえばこ
の私は、こうして子育てについての随筆をたくさん書いているが、いまだに「教育論」なるもの
は、書いていない。これから先も、多分、書けないだろうと思う。

もう少しわかりやすい例で言えば、日々の随筆は書くことはできても、人生論を書くことはでき
ない。できないというより、たいへん困難なことである。つまり黄帝内経は医学書(科学書でもよ
いが)といいながら、体系化できるほどまでに完成されていない。これは実は聖書についても同
じことが言えるが……。

+++++++++++++++++

謎はつづきます……。

+++++++++++++++++

●黄帝内経(こうていだいけい)の謎

 私が黄帝内経(こうていだいけい)という書物に、最初に興味をもったのは、その中につぎの
ような記述があることを知ったときのことだ。

 黄帝が岐伯(ぎはく)に、「この宇宙はどうなっているか」と聞いたときのこと。岐伯は、「岐伯
曰地為人之下太虚之中者也」(「五運行大論篇」)と答えている。

これを訳すと、「地は人の下にあります。しかも宇宙の真中に位置します」(小曾戸丈夫氏訳)、
あるいは「地は人の下にあり、虚空の中央にあるものです」(薮内清氏訳)となる。

しかしもう少し、漢文に厳密に翻訳すると、こうなる。「地は、人の下にあって、太虚の中にあ
る」と。「地が、人の下にある」というには、常識だが、(またなぜこうした常識をあえて付け加え
たかというのも、おもしろいが)、「太虚の中にある」というのは、当時の常識と考えてよいの
か。漢書「藝文志」という図書目録が編纂されたのは、前一世紀ということになると、少なくと
も、それ以前の常識、あるいはこの部分が仮に唐代の王冰(おうひょう)の増さんによるものだ
としても、西暦七六二年の常識ではなかったはずである。

ここでいう「太虚」というのは、「虚」の状態よりも何もない状態をいう。小曾戸氏も薮内氏も、
「太虚」の訳をあいまいにしているが、太虚というのは、空気という「気」もない状態と考えるの
が正しい。「空気」というのは、読んで字のごとく、「カラの気」という意味。気のひとつである。そ
の気がない状態を、虚。さらに何もない状態を太虚という。今風に言えば、まさに真空の状態と
いうことになる。

 もしここで王冰の増さんによるとするなら、なぜ王冰が、当時の常識的な天文学の知識に沿
って、この部分を書かなかったかという疑問も残る。当時の中国は、漢の時代に始まった、蓋
天(がいてん)説、こん天説、さらには宣夜説が、激論を戦わせていた時代である。

恐らく事実は逆で、あまりにも当時の常識とはかけ離れていたため、王冰は、この部分の増さ
んには苦心したのではなかろうか。(あくまでも王冰の増さん説にのっとるならの話だが……。)
その証拠に、その部分の前後には、木に竹をつぐような記述が随所に見られる。つまりわざと
医学書らしく無理をして改ざんしたと思われるようなところがある。

さらに百歩譲って、もしこの部分が、大気の流れをいうものであるとするなら、こんなことをこん
なところに書く必要はない。この文につづくつぎのところでは、気象の変化について述べている
のである。王冰としても、散逸した黄帝内経を改ざんしながらも、改ざんしきれなかったのでは
ないかと思う。

 話はそれたが、私はこの一文を読んだとき、電撃に打たれるような衝撃を受けた。当時の私
は、「黄帝」を、司馬遷の「史記」の第一頁目をかざる、黄帝(「五帝本紀第一」)の黄帝ととらえ
た。その黄帝との問答であるとするなら、その時代は、推定でも、紀元前参五〇〇年。今から
五五〇〇年前ということになる。

(だからといって、黄帝内経がそのころの書物というのは、正しくないが……。)少なくとも、この
一文が、私が漢方にのめりこむきっかけになったことには、まちがいない。

+++++++++++++++++

もう少し、深く考えてみましょう!

+++++++++++++++++

●黄帝内経(こうていだいけい)は改ざんされたか

 黄帝内経(こうていだいけい)は、時代によって、そして写本化されるたびに、改ざんされた。
それぞれの研究家や医家たちが、自分たちにつごうがよいように、古い文句を削り、新しい文
句を付け加えた。これは動かしがたい事実である。

 たとえば「五運行大論篇」においても、天地の動静を岐伯(ぎはく)が説明したあと、薮内氏の
訳した本のほうでは、「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたも
との位置にもどる」とあるが、王冰が編さんとしたとされる黄帝内経を訳した、小曾戸氏のほう
では、「歳運は五年で交替するのに六気は六年で交替するのですから、運と気のめぐり方には
一年のずれを生じます……」とある。

薮内氏のほうは、中国本土にも残っていない黄帝内経(京都の仁和寺所蔵)を翻訳したものと
思われる。つまり、より原書に近いとみてよい。

一方、王冰の黄帝内経は、無理に医書に位置づけようとした痕跡が随所に見られる。この部
分もそうだが、さらにこれはとても残念なことだが、翻訳した小曾戸氏の翻訳にも、その傾向が
見られる。たとえば小曾戸氏は、随所に、「気」という言葉を補って翻訳している。たとえば……

 「上者右行」を、「司天の気は右にめぐり」と訳すなど。(原文には「気」などという言葉はどこ
にもない!)

 こうした改ざんは、意味不明で、難解な文章を何とか理解しようしたために改ざんされたとも
とれるが、もうひとつは当時の常識に当てはめようとしたためになされたとも考えられる。

中国には、地球説はおろか、地動説すらなかったという常識に従ったとも考えられる。そういう
時代に、地球説を唱え、地動説を唱えたらどうなるか。ヨーロッパでそれをしたため、弾圧され
た人すらいた。コペルニクスが、その人である(一五四三年「天球の回転について」)。宇宙創
造に関する記述は、それ自体が宗教と密接に結びついている。さらに中国では、中国式権威
主義がはびこり、その権威からはずれた学説は、容赦なく排斥された。そういう時代的背景を
忘れてはいけない。

 が、それでも地動説の片りんが残った! 私たちが黄帝内経を科学書として着目しなければ
ならない点は、まさにこの一点にある。そして今、私が黄帝内経の中の地動説を唱えるについ
て、多くの人は、「解釈の曲解だ」「なるほどそういうふうに考えれば考えられないこともない」と
いうように反論する。しかしこの視点はおかしい。

もしこの部分が、あからさまに地球説をいい、地動説をいっていたとしたら、まっさきに削除さ
れたであろうということ。それにゆえにあいまいに改ざんされたともとれるし、あいまいであるが
ゆえに、今に残ったというふうに考えられる。今、あいまいだからといって、さらにその内容を負
(マイナス)の方向に引くことは許されない。

私たちが今すべきことは、そのあいまいな部分を、よりプラスの方向に引きつけて、その向こう
にある事実を見ることなのである。「そういうふうにも解釈できる」という言いかたではなく、「改
ざんしてもしきれなかった」という言いかたにすべきでなのである。


+++++++++++++++

いよいよ核心部分です!

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●三六五日余で、もとに戻るものは何か

 黄帝内経(こうていだいけい)には、黄帝が、天地の動静はどうかと聞いたことに対して、「上
の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右から三六五日余でまたもとの位置にもどる」とあ
る。ここで考えることは、「何が、戻るか」である。

 今、高校生に、「天地の動きの中で、三六五日余でもどるものは、何か」と聞けば、彼らは迷
わずこう答える。「地球」と。そう、地球の公転である。地球は、太陽のまわりを、三六五日余で
一周し、またもとの位置に戻ってくる。こんなことは常識。

 しかし黄帝内経読むときは、あえてこの常識は否定される。第一、私たちは黄帝内経は、医
学書であって、科学の本ではないという前提で読む。第二、私たちは黄帝内経の時代に、そん
な常識はなかったという前提で読む。しかしもう一度、この部分を、すなおに読んでほしい。こう
ある。

 「黄帝は問う。天地の動静はどうかと」。この部分をすなおに読めば、黄帝は地球の動きにつ
いて聞いたものだということがわかる。季節の移り変わりを聞いたものではない。いわんや大
気の変化を聞いたものではない。そういうふうに思わせるように改ざんされただけ、と考えるほ
うが正しい。その理由はいくつかある。

 もし季節の変化や大気の変化を述べるためになら、この文章を地球説、地動説のあとに書く
必要はない。関連性がまったくなくなってしまう。

 つぎにもし季節の変化大気の変化を述べているとしても、そんなことは当時の常識で、改め
て書くまでもないことである。仮に季節の移り変わりを書いたものであるとするなら、それこそま
さに木に竹をつぐような文章になってしまう!

 ただ翻訳自体もわかりにくくなっている。これを訳した薮内氏自身も、「中国には地球説はお
ろか、地動説すらなかった」(「中国の科学」)と述べている。薮内氏自身も、そういう前提で訳し
ている。だからあえて、わかりにくく訳した。とくに私の頭を悩ましたのは、「左右から」という部
分である。何が、左右から、なのか。あるいは薮内氏は、「……から」と訳したが、本当にそれ
は正しいのか。「左右に」もしくは、「左右に(回って)」と訳したらいけないのか。もし「左右に(回
って)」と訳すと、意味がすっきりする。

 「上の司天は右転し、下の在泉は左転し、左右に回って三六五日余でまたもとの位置にもど
る」と。

 地球の公転するさまを、南の位置(上の司天)からみると、時計回りに回っている。つまり右
転している。北の位置(下の在泉)からみると、時計とは反対回りに回っている。つまり左転し
ている。こうして右転、左転しながら、回る、と。黄帝内経のこの部分は、まさにそれをいったも
のである。

++++++++++++++++++

ここから先は、ロマンです。
壮大なロマンです。

++++++++++++++++++

●火星探査機

 二〇〇四年一月五日。アメリカ航空宇宙曲の無人火星探査機『スピリット』が、火星への着
陸に成功した。

 アメリカから日本のどこかにホールインワンをしたようなものだと、マスコミは書いていた。着
陸地点はかつて湖があったと推測される、赤道付近のグセフ・クレーターだ、そうだ。水があっ
たとするなら、生物がいた可能性は、きわめて高い。

 このニュースを聞いたとき、またまた私のロマンが、かぎりなくふくらんだ。火星には、生物が
いたのではないか。しかもその生物は、自ら、火星そのものを破壊してしまうほど、高度な文明
をもっていたのではないか、と。

 一説によれば、火星が今のような火星になってしまったのは、そこに住む生物によって、環
境破壊が進んだからだという。ちょうど、今の地球で起きていることと同じようなことが、火星で
も起きたということになる。

 この地球も、あと一〇〇年とか、二〇〇年もすると、温暖化がさらに加速され、ゆくゆくは、今
の火星のようになるかもしれないと言われている。つまり、火星にも、かつて環境破壊を起こす
ほどの生物がいたということになる。

 犬やネコのような生物ではない。人間のような生物である。

●人間は、火星人の子孫? 

 ここから先は、荒唐無稽(こうとうむけい)な、ロマン。空想。そういう前提での話だが、しかし
もし、人間が、それらの火星人によって作られた生物だとするなら、これほど、楽しい話は、な
い。

 最近、人間は、遺伝子の中のDNAを組みかえる技術を、身につけた。この方法を使えば、
陸を歩く魚だって、作れることになる。空を飛ぶ、リスだって、作れることになる。

 もし火星人たちも同じような技術をもっていたとしたら、自分たちの脳ミソをもった、サルを作
ることなど、朝飯前だっただろう。いや、ひょっとしたら、人間は、そうした技術によって、火星人
ではないにしても、だれかによって作られたのかもしれない。

 そこで、これはあくまでも、仮定の話だが、もし火星人たちが、地球に住んでいたサルを見つ
け、そのサルの遺伝子の中に、自分たちの遺伝子を組みこんだとする。そしてこの地球上に、
新しい生物が生まれたとする。で、そのあとのこと。火星人たちは、その新しく生まれた生物
に、何をするだろうか。

 私が、火星人なら、その生物たちを、教育しただろうと思う。言葉を教え、文字を教え、そして
生活に必要な知識を教えただろうと思う。

 もちろんこれは、ロマン。空想。しかし順に考えていくと、どうしても、そうなる。つまり、私が若
いころ出あった、東洋医学、なかんずく黄帝内経(こうていだいけい)は、こうして生まれた本で
はないかと、いつしか、私は、そう考えるようになった。

●壮大なロマン

 私は、いつでも、どこでも、コロリと眠ってしまう割には、よく、夜、ふとんの中に入っても、眠ら
れないときがある。

 そういうとき、私は、この壮大なロマンを、頭の中に描く。

 かつて仰韶人と、シュメール人は、同一の「神」をもっていた。仰韶人の神(帝王)は、黄帝。
シュメール人の神は、エホバ。天を駆けまわる神々は、黄河流域に住む仰韶人に、科学を。そ
してチグリス・ユーフラテス川にすむ、シュメール人には、宗教を与えた。

 こうして地球上で、人間による文明は、始まった……。

 しかしこういう話をまともに書くと、まず、私の脳ミソが疑われる。実際、こうした荒唐無稽な話
をかかげて、おかしな活動をしている宗教団体は、いくつか、ある。

 ただ私のばあい、こうした話はこうした話として、生活の一部に、しまっておくことができる。ロ
マンは、ロマン。空想は、空想。いつもいつも、頭の中で、考えているわけではない。

 が、こういう壮大なロマンを頭の中でめぐらせていると、いつの間にか、眠ってしまう。それは
ちょうど、私が子どものころ、『鉄腕アトム』や、『鉄人28号』を、頭の中で想像しながら眠ったと
同じ。そのころの習慣が、そのまま残っている。そう、私には、その種の話でしか、ない。また
読者のみなさんも、そういうレベルの話として、このエッセーを読んでほしい。

 では、おやすみなさい!
(040105)

+++++++++++++++++

謎の民族、それがシュメール人です。
何でも乾電池まで使っていたという説
があります。

よくオーパーツの一つとして、あちこちの
雑誌にもよく登場します。

しかし知れば知るほど、不思議な民族で
あるのは、事実です。

+++++++++++++++++

●シュメール人

 古代メソポタミアに、不思議な民族が住んでいた。高度に知的で、周囲文化とは、かけ離れ
た文明を築いていた。

 それがシュメール人である。

 彼らが書き残した、「アッシリア物語」は、そののち、旧約聖書の母体となったことは、よく知ら
れている。

 そのシュメール人に興味をもつようになったのは、東洋医学を勉強していたときのことだっ
た。シュメール人が使っていた楔型(くさびがた)文字と、黄河文明を築いたヤンシャオ人(?)
の使っていた甲骨文字は、恐ろしくよく似ている。

 ただしメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人だが、黄河文明を築いたのが、ヤンシャ
オ人であったかどうかについては、確かではない。私が、勝手にそう思っているだけである。

 しかしシュメール人がいう「神」と、甲骨文字で書く「神」は、文字の形、発音、意味が、同じで
あるということ。形は(米)に似ている。発音は、「ディンガー」と「ディン」、意味は「星から来た
神」。「米」は、「星」を表す。

 ……という話は、若いころ、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という、私の本の中で書いた。
なぜ、東洋医学の中で……と思われる人も多いかと思うが、その東洋医学のバイブルとも言
われている本が、『黄帝内経(こうていだいけい)・素問・霊枢』という本である。この中の素問
は、本当に不思議な本である。

 私は、その本を読みながら、「この本は、本当に新石器時代の人によって書かれたものだろ
うか」という疑問をもった。(もちろん現存する黄帝内経は、ずっとあとの後漢の時代以後に写
本されたものである。そして最古の黄帝内経の写本らしきものは、何と、京都の仁和寺にある
という。)

 それがきっかけである。

 で、このところ、再び、そのシュメール人が、宇宙人との関係でクローズアップされている。な
ぜか?

 やはりシュメールの古文書に、この太陽系が生まれる過程が書いてあったからである。年代
的には、5500年前ごろということになる。仮に百歩譲って、2000年前でもよい。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていたのか。そ
ういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹介しよう。

 出典は、「謎の惑星『ニビル』と火星超文明(上)(下)・ゼガリア・シッチン・ムーブックス」(学
研)。

 この本によれば、

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、と。

 シュメール人の説によれば、地球と月は、太陽系ができてから、ずっとあとになってから、ティ
アトマという惑星が、太陽系の外からやってきた、ニビルという惑星の衛星と衝突してできたと
いうことになる。にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動説よりは、ずっと、ど
こか科学的である。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができない天王星や海王星、さら
には冥王星の話まで書いてあるところが恐ろしい。ホント。

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。

 ここから先のことを書くと、かなり宗教的な色彩が濃くなる。実際、こうした話をベースに、宗
教団体化している団体も、少なくない。だからこの話は、ここまで。

 しかしロマンに満ちた話であることには、ちがいない。何でも、そのニビルには、これまたとん
でもないほど進化した生物が住んでいたという。わかりやすく言えば、宇宙人! それがシュメ
ール人や、ヤンシャオ人の神になった?

 こうした話は、人間を、宇宙規模で考えるには、よい。その地域の経済を、日本規模で考え
たり、日本経済を、世界規模で考えるのに似ている。視野が広くなるというか、ものの見方が、
変わってくる。

 そう言えば、宇宙へ飛び出したことのある、ある宇宙飛行士は、だれだったか忘れたが、こう
言った。「人間の姿は、宇宙からはまったく見えない。人間は、地上をおおう、カビみたいなも
のだ」と。

 宇宙から見れば、私たち人間は、カビのようなものらしい。頭の中で想像できなくはない。た
だし、カビはカビでも、地球をむしばむ、カビ? が、そう考えていくと、日本人だの、中国人だ
のと言っていることが、おかしく見えてくる。

 それにしても、周期が、3600年。旧約聖書の時代を、紀元前3500年ごろとするなら、一
度、そのころ、ニビルは、地球に接近した。

 つぎにやってきたのが、キリストが誕生したころということになる。

 で、今は、西暦2005年だから、この説に従えば、つぎにニビルがやってくるのは、西暦360
0年ごろ、つまり1600年後。

 本当にニビルには、高度な知能をもった生物がいるのだろうか。考えれば考えるほど、ロマ
ンがふくらむ。若いころ、生徒たちを連れて、『スターウォーズ』を見に行ったとき感じたようなロ
マンだ。「遠い、遠い、昔、銀河系の果てで……」というオープニングで始まる、あの映画であ
る。

 ワイフも、この話には、たいへん興味をもったようだ。昨日もいっしょに書店の中を歩いてい
ると、「シュメール人について書いた本はないかしら」と言っていた。今日、仕事の帰りにでも、
またさがしてみよう!

 待っててよ、カアーチャン!(4・29)

【付記】

 しかし空想するだけで、ワクワクしてくるではないか。

 遠い昔、別の天体から、ニビルという惑星がやってきて、その惑星の衛星が、太陽系の別の
惑星と衝突。

 地球と月が生まれた。

 そのニビルという惑星には、知的生物、つまり私たちから見れば、宇宙人が住んでいた。ひ
ょっとしたら、今も、住んでいるかもしれない。

 そのニビルは、3600年周期で、地球に近づいてきて、地球人の私たちに、何かをしてい
る? 地球人を改造したのも、ひょっとしたら、彼らかもしれない? つぎにやってくるのは、多
分、1600年後。今は、太陽系のはるかかなたを航行中!

 しかしそう考えると、いろいろな、つまりSF的(科学空想小説的)な、謎が解消できるのも事
実。たとえば月の年代が、なぜ、この地球よりも古いのかという謎や、月の組成構造が、地球
とはなぜ異なっているかという謎など。

 また月が、巨大な宇宙船であるという説も、否定しがたい。「月の中は空洞で、そこには宇宙
人たちの宇宙基地がある」と説く、ロシアの科学者もいる。

 考えれば、考えるほど、楽しくなってくる。しかしこの話は、ここまで。あとは夜、月を見なが
ら、考えよう。ワイフは、こういう話が大好き。ほかの話になると眠そうな表情をしてみせるが、
こういう話になると、どんどんと乗ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎のシュメール

 『謎の惑星(ニビル)と火星超文明』(セガリア・シッチン著)(北周一郎訳・学研)の中で、「ウ
ム〜」と、考えさせられたところを、いくつかあげてみる。

 メソポタミアの遺跡から、こんな粘土板が見つかっているという。粘土板の多くには、数字が
並び、その計算式が書いてある。

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1296万の3分の2は、864万
1296万の2分の1は、648万
1296万の3分の1は、432万
1296万の4分の1は、324万
……
1296万の21万6000分の1は、60

++++++++++++

 問題は、この「1296万」という数字である。この数字は、何か?

 その本は、つぎのように説明する(下・78P)

++++++++++++

 ペンシルバニア大学のH・V・ヒルプレヒトは、ニップルとシッパルの寺院図書館や、ニネヴェ
のアッシュールバニバル王の図書館から発掘された、数千枚の粘土板を詳細に調査した結
果、この1296万という天文学的数字は、地球の歳差(さいさ)運動の周期に関するものである
と結論づけた。

 天文学的数字は、文字どおり、天文学に関する数字であったのである。

 歳差とは、地球の地軸が太陽の公転面に対してゆらいでいるために発生する、春分点(およ
び秋分点)の移動のことである。

 春分点は、黄道上を年々、一定の周期で、西へと逆行していく。このため、春分の日に太陽
のうしろにくる宮(ハウス)は、一定の周期で、移り変わることになる。

 ひとつの宮に入ってから出るまでにかかる時間は、2160年。したがって、春分点が1周して
もとの位置に帰ってくるには、2160年x12宮=2万5920年かかるのである。

 そして1296万とは、2万5920x500、つまり春分点が、黄道上を500回転するのに要する
時間のことなのだ。

 紀元前4000年前後に、歳差の存在が知られていたということ自体、すでに驚異的である
が、(従来は、紀元前2世紀にギリシアのヒッパルコスが発見したとされていた)、その移動周
期まで求められていたいうのだから、まさに驚嘆(きょうたん)に値する。

 しかも、2万5920年という値は、現代科学によっても証明されているのだ。

 さらに、春分点が、黄道上を500回転するのに要する時間、1296万年にいたっては、現
在、これほど長いビジョンでものごとを考えるのできる天文学者は、何人いることだろう。

+++++++++++++++

 シュメールの粘土板の言い方を少しまねて書いてみると、こうなる。

3153万6000の12分の1は、262万8000
3153万6000の720分の1は、4万3800
3153万6000の4万3200分の1は、730
3153万6000の8万6400分の1は、365……

 これは私が、1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日として、計算したも
の。これらの数字を掛け合わせると、3153万6000となる。つまりまったく意味のない数字。

 しかしシュメールの粘土板に書かれた数字は、そうではない。1年が365日余りと私たちが
知っているように、地球そのものの春分点の移動周期が、2160年x12宮=2万5920年と、
計算しているのである。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

地球という惑星に住んで、春分の日の、たとえば午前0時JUSTに、夜空を見あげてみよう。そ
こには、満天の夜空。そして星々が織りなす星座が散らばっている。

 しかしその星座も、毎年、同じ春分の日の、午前0時JUSTに観測すると、ほんの少しずつ、
西へ移動していくのがわかる。もちろんその移動範囲は、ここにも書いてあるように、1年に、2
万5920分の1。

 しかしこんな移動など、10年単位の観測を繰りかえしても、わかるものではない。第一、その
時刻を知るための、そんな正確な時計が、どこにある。さらにその程度の微妙な移動など、ど
うすれば観測結果に、とどめることができるのか。

 たとえていうなら、ハバ、2万5920ミリ=約30メートルの体育館の、中央に置いてある跳び
箱が、1年に1ミリ移動するようなもの。100年で、やっと1メートルだ。

 それが歳差(さいさ)運動である。が、しかしシュメール人たちは、それを、ナント、500回転
周期(1296万年単位)で考えていたというのだ。

 さらにもう一つ。こんなことも書いてある。

 シュメール人たちは、楔形文字を使っていた。それは中学生が使う教科書にも、書いてあ
る。

 その楔形文字が、ただの文字ではないという。

●謎の楔形文字

 たとえば、今、あなたは、白い紙に、点を描いてみてほしい。点が1個では、線は描けない。し
かし2個なら、描ける。それを線でつないでみてほしい。

 点と点を結んで、1本の線が描ける。漢字の「一」に似た文字になる。

 つぎに今度は、3個の点にしてみる。いろいろなふうに、線でつないでみてほしい。図形として
は、(△)(<)(−・−)ができる。

 今度は、4個で……、今度は、5個で……、そして最後は、8個で……。

 それが楔形文字の原型になっているという。同書から、それについて書いてある部分を拾っ
てみる(92P)。

++++++++++++++

従来、楔形文字は、絵文字から発達した不規則な記号と考えられているが、実は、楔形文字
の構成には、一定の理論が存在する。

 「ラムジーのグラフ理論」というものを、ご存知だろうか?

 1928年、イギリスの数学者、フランク・ラムジーは、複数の点を線で結ぶ方法の個数と、点
を線で結んだ結果生ずる図形を求める方法に関する論文を発表した。

 たとえば6個の点を線で結ぶことを考えてみよう。点が線で結ばれる、あるいは結ばれない
可能性は、93ページの図(35)に例示したような図形で表現することができる。

 これらの図形の基礎をなしている要素を、ラムジー数と呼ぶが、ラムジー数は一定数の点を
線で結んだ単純な図形で表される。

 私は、このラムジー数を何気なくながめていて、ふと気がついた。これは楔形文字ではない
か!

+++++++++++++

 その93ページの図をそのまま紹介するわけにはいかないので、興味のある人は、本書を買
って読んでみたらよい。

(たとえば白い紙に、4つの点を、いろいろなふうに描いてみてほしい。どんな位置でもよい。そ
の点を、いろいろなふうに、結んでみてほしい。そうしてできた図形が、楔形文字と一致すると
いう。

 たとえば楔形文字で「神」を表す文字は、漢字の「米」に似ている。4本の線が中心で交わっ
ている。この「米」に似た文字は、8個の点をつないでできた文字ということになる。)

 つまり、楔形文字というのは、もともと、いくつかの点を基準にして、それらの点を結んででき
た文字だというのだ。そういう意味では、きわめて幾何学的。きわめて数学的。

 しかしそう考えると、数学などが生まれたあとに、文字が生まれたことになる。これは順序が
逆ではないのか。

 まず(言葉)が生まれ、つぎにその言葉に応じて、(文字)が生まれる。その(文字)が集合さ
れて、文化や科学になる。

 しかしシュメールでは……?

 考えれば考えるほど、謎に満ちている。興味深い。となると、やはりシュメール人たちは、文
字を、ニビル(星)に住んでいた知的生命体たち(エロヒム)に教わったということになるのだろ
うか。

 いやいや、その知的生命体たちも、同じ文字を使っているのかもしれない。点と、それを結ぶ
線だけで文字が書けるとしたら、コンピュータにしても、人間が使うような複雑なキーボードは
必要ない。

 仮に彼らの指の数が6本なら、両手で12本の指をキーボードに置いたまま、指を動かすこと
なく、ただ押したり力を抜いたりすることで、すべての文字を書くことができる。想像するだけで
も、楽しい! 本当に、楽しい!

 ……ということで、今、再び、私は、シュメールに興味をもち始めた。30年前に覚えた感動が
もどってきた。しかしこの30年間のブランクは大きい。(チクショー!)

 これから朝食だから、食事をしながら、ワイフに、ここに書いた二つのことを説明してやるつも
り。果たしてワイフに、それが理解できるかな?

 うちのワイフは、負けず嫌いだから、わからなくても、わかったようなフリをして、「そうねえ」と
感心するぞ! ハハハ。
(はやし浩司 楔形文字 ラムジー グラフ理論 ニビル エロヒム 地球の歳差運動 運動周
期)

【付記】

 食事のとき、ワイフに、ここに書いたことを説明した。が、途中で、ワイフは、あくびを始めた。
(ヤッパリ!)

私「ちゃんと、聞けよ。すごい謎だろ?」
ワ「でもね、あまり、そういうこと、書かないほうがいいわよ」
私「どうして?」
ワ「頭のおかしい人に思われるわよ、きっと……」
私「どうしてだよ。おかしいものは、おかしい。謎は、謎だよ」
ワ「どこかの頭のおかしい、カルト教団の信者みたいよ」
私「ちがうよ、これは数学だよ。科学だよ」
ワ「でも、適当にしておいたほうがいいわよ」と。

 以上が、ワイフの意見。

++++++++++++++++++

さてどうですか?

東洋医学に興味をもってくださいましたか?

よろしかったら、『目で見る漢方診断』を
一度、ご覧になってみてください。

私のHPのトップページより、お読み
いただけるようにしてあります。

現在、改訂版を、HPにアップロードして
います。
より読みやすく、編集しています。

よろしく!

+++++++++++++++++++
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 黄帝内経 素問 霊枢 漢方 
目で見る漢方診断 はやし浩司 東洋医学 経穴編)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2538)

●Albert Einsteinの言葉
Here are some words, written or spoken by Albert Einstein, which teaches us a lot.

+++++++++++++++++

Einstein(アインシュタイン)の
言葉を集めてみた。

どれもよく知られた言葉である。
(出典:YOU TUBE)

+++++++++++++++++

●A perfection of means and confusion of aims, seems to be our main problem.

方法の完ぺきさと、目的の混乱、この2つが、私たちの主な問題に見える。(手段の完ぺきさを
求め、一方で、目的が混乱する。この2つが主な問題である。)(目的がわからないまま、方法
論ばかり説いているから、問題なのだ。)

●A person who never made a mistake never tried anything new.

まちがいを犯したことのない者は、新しいことに挑戦したことのない者だ。(挑戦する者は、まち
がいを犯すことを恐れるな。)

●Everything should be made as simple as possible, but not simpler.

すべてのものは、できるだけシンプルに作られるべきだ。しかしよりシンプルであってはいけな
い。(ものは、シンプルでなくてはいけないが、手抜きであってはいけない。)

●I have no special talent. I am only passionately curious.

私には特別の才能はない。ただ私は、情熱的に好奇心が旺盛なだけだ。(みなは、私のことを
天才と言うが、私は、ただ好奇心が旺盛なだけだ。)

●Imagination is more important than knowledge.

空想は、知識より重要である。(知識だけにしばられていると、新しい発見はできない。)

●Insanity: doing the same thing over and over again and expecting different results.

異常な人……それはちがった結果を期待しながら、同じことを何度も何度も繰りかえす人だ。
(何かあるだろうと、同じことを繰りかえしても、意味がない。)

●It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.

それは私が頭がよいからではなく、ただ私は問題と、人より、より長く取り組むからにほかなら
ない。(みなは、私のことを天才と言うが、私はただ、みなより、より長く、ひとつの問題に取り
組んでいるだけだ。)

●Keep on sowing your seed, for you never know which will grow-perhaps it all will.

種を蒔きつづけよ。なぜならあなたはどれが育つかわからないからだ。しかし実際には、すべ
て育つだろう。(種は、どんどんと蒔いていけ。どれが育つかはわからないが、実際には、み
な、育つ。)

●Love is a better teacher than duty.

愛は、義務より、よい教師である。(教育者は、義務を子どもに押しつけるのではなく、愛をもっ
てせよ。)(「〜〜しなさい」式の教育よりも、愛情をもって子どもに接することのほうが、重要で
ある。)

●No problem can be solved from the same level of consciousness that created it.

どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。(問題を解こう
とするなら、それが創られたレベルを越えなければならない。)

●Once we accept our limits, we go beyond them.

限界を認めれば、私たちはその向こうへ行く。(限界を認めることが、先へ進む方法である。)

●Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I am not sure about 
the former.

無限のものは、2つだけ。宇宙と人間の愚かさ。私は前者については、確かではない。(無限
につづくものに、2つある。宇宙と人間の愚かさだ。人間の愚かさは、無限につづくが、宇宙に
ついては、私はよくわからない。)

●The important thing is not to stop questioning.

重要なことは、問うことをやめないこと。(重要なことは、問いつづけること。)

●There are two ways to live: you can live as if nothing is a miracle; you can live as if 
everything is a miracle.

2つの生き方がある。奇跡などまったくないかのように生きること。もうひとつは、すべてのもの
が奇跡であるかのように生きること。(奇跡など、どこにもないと思って生きる生き方がある。す
べてのものが奇跡であると思って生きる生き方もある。)

●Try not to become a man of success, but rather try to be a man of value.

成功者になろうとするな。価値のある人になろうとせよ。(成功することを考えるな。価値のある
人間になることを考えろ。)

+++++++++++++++++++++

先にも書いたが、どれも、よく知られた言葉である。
私のHPでも、何度か、とりあげたことがある。

●A perfection of means and confusion of aims, seems to be our main problem.

方法の完ぺきさと、目的の混乱、この2つが、私たちの主な問題に見える。(手段の完ぺきさを
求め、一方で、目的が混乱する。この2つが主な問題である。)(目的がわからないまま、方法
論ばかり説いているから、問題なのだ。)

科学者がよく陥るジレンマ。
それがこれである。
「何を研究しているかわからないまま、方法論ばかりを議論する」。

こんなことがあった。

文科省に、理科予算を決定する部課がある。
毎年、数百億円の研究助成金は、そこから配分される。
研究機関などからの申告をもとに、どの分野のどの研究者に、どれだけの予算をつけるかを、
決定する。

が、実際に決定するのは、文科省から委託を受けた、評議員たちである。
評議員たちが、研究目的や意義などを検討して、助成金の金額を決める。

が、実際には、おおざっぱに言えば、東大が、全体の2分の1。
残りの2分の1を、京大(=全体の4分の1)。
残りの4分の1を、全国の大学で、分けあっている。

その評議員の1人が、こんな話をしてくれた。

「中には、こんな研究をして何になるのかと、首をかしげるようなものも、ありますよ」と。

その評議員は、一例として、『南中国における民族打楽器の研究』(改変)というのをあげた。
つまり「それがわかったところで、それがどうなの?」と。

アインシュタインがそういうことを考えながら、この言葉を書いたのかどうかは知らない。
しかし、「研究」にも、いろいろある。
人類全体に役立つ研究もあれば、そうでない研究もある。

一般論として、最近の研究者たちは、細部の、そのまた細部をほじくり返すことによって、その
道の専門家になろうとする。
ほかにライバルがいない状態をつくりながら、専門家としての地位を守ろうとする。
しかしこれでは、(目的)を見失う。
つまりそういう研究には、意味がない。

まず遠大な目的をもつ。
その目的に向かって進む。
方法論などというものは、あとからついてくる。
それが真の研究ということになる。

アインシュタインは、たぶん、それが言いたかったのではないかと思う。

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●A person who never made a mistake never tried anything new.

まちがいを犯したことのない者は、新しいことに挑戦したことのない者だ。(挑戦する者は、まち
がいを犯すことを恐れるな。)

小さな世界に閉じこもって、無難な人生を送ることほど、楽なことはない。
何かをしているようで、結局は、何もしていない。
そんな人生である。

先日も、こんなことを言う人に出会った。
私にこう言った。

「林君、老後になったらね、生活をコンパクトにすることだよ」と。

しかし、どうして?
どうしてコンパクトにしなければならないのか?

その人が言うには、蓄(たくわ)えと、年金だけで生活できる態勢をつくり、こぢんまりとした生活
を旨(むね)とすべき、と。

そのときがくれば、そのとき。
しかしそれまでは、年齢など忘れて生きていきたい。
アインシュタインのこの言葉を読んだとき、私は、そう考えた。

++++++++++++++++++++++++++

●Everything should be made as simple as possible, but not simpler.

すべてのものは、できるだけシンプルに作られるべきだ。しかしよりシンプルであってはいけな
い。(ものは、シンプルでなくてはいけないが、手抜きであってはいけない。)

「シンプル」という言葉を使って、アインシュタインが何を言おうとしたのか、私にはよくわからな
い。

ふつう「simple(シンプル)」というときは、「単純、明快、簡素な」という意味である。
アインシュタインは、「made(作られる)」という言葉を使ったが、(モノ)にこだわる必要はな
い。
たとえば、あの有名な(E=mc2)という公式にしても、シンプルすぎるほど、シンプル。
この公式、つまり4元運動量の公式が、世界の物理学を変えてしまった!

アインシュタインがいう、「シンプル」というのは、そういう意味か?

+++++++++++++++++++++++

●I have no special talent. I am only passionately curious.

私には特別の才能はない。ただ私は、情熱的に好奇心が旺盛なだけだ。(みなは、私のことを
天才と言うが、私は、ただ好奇心が旺盛なだけだ。)

アインシュタインについて、ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

 「非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、灰皿に食
事を盛りつけるという行動もあったといわれている。 
 
 最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスは、カリフォルニア大学バークレ
ー校で流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは、医学生時代に統合失調症を発
し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資料では、ミレーバとの破局は、ア
インシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気を患った息子に対しても、非常に冷淡な態度
を取り続けたことが公表されている。 
 
 ミレーバへの離婚の条件はノーベル賞を取って賞金をあげるというもので、2年後に本当に受
賞し賞金をあげたとされている」と。

こうした人物像を読むかぎり、アインシュタインが、特別の人であったという雰囲気はない。
アインシュタイン自身も、自分は、ごくふつうの人間と考えていたようである。

++++++++++++++++++++

●Imagination is more important than knowledge.

空想は、知識より重要である。(知識だけにしばられていると、新しい発見はできない。)

自分のもっている知識だけを、絶対と思ってはいけない。
ときとして、自分の知識は、自分自身をしばってしまう。
自分をして、そのワクの中でしか、考えられなくしてしまう。
だから何らかの方法で、その(ワク)から、飛び出してみる必要がある。
アインシュタインは、そのひとつとして、(空想)をあげた。

別のところで、アインシュタインは、「常識ほどアテにならないものはない」というような
ことを言っている。
つねに私たちがもつ常識を疑ってみる。
とくに私たち日本人は、「型」にこだわりやすい。
「形」でもよい。
その代表的な例が、冠婚葬祭ということになるが、これについては、たびたび書いて
きたので、ここでは省略する。

つまり私たちがもっている常識ほど、私たちの進歩の障害となるものはない。

+++++++++++++++++

●Insanity: doing the same thing over and over again and expecting different results.

異常な人……それはちがった結果を期待しながら、同じことを何度も何度も繰りかえす人だ。
(何かあるだろうと、同じことを繰りかえしても、意味がない。)

これを読んで、「今の私がそうかもしれない」と思った。
毎日、私は、「この先にきっと何かがあるだろう」と思って、同じことを繰りかえしている。
しかしその日が終わると、いつもこう思う。
「今日も、何もなかった……」と。
あとは、この繰りかえし。

私は、「異常な人(Insanity)」なのかもしれない?

++++++++++++++++++++

●It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer.

それは私が頭がよいからではなく、ただ私は問題と、人より、より長く取り組むからにほかなら
ない。(みなは、私のことを天才と言うが、私はただ、みなより、より長く、ひとつの問題に取り
組んでいるだけだ。)

日本でも、『継続は力なり』という。
継続するところに、意味がある。

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●Keep on sowing your seed, for you never know which will grow-perhaps it all will.

種を蒔きつづけよ。なぜならあなたはどれが育つかわからないからだ。しかし実際には、すべ
て育つだろう。(種は、どんどんと蒔いていけ。どれが育つかはわからないが、実際には、み
な、育つ。)

「種を蒔く」ということと関係があるのかないのかは知らないが、無私、無欲で、他人のために
何かをしてやることの尊さを、このところ、よく実感する。
あのマザーテレサもこう書いている。

I have found the paradox that if I love until it hurts, then there is no hurt, but only more 
love.(私はこんなパラドックスを発見した。それが心を痛めるまで(人を)愛すると、痛みは消
え、さらなる愛を感ずる)」と。

「痛めつけられても、痛めつけられても、人を愛しつづけていると、その痛みは消え、さらなる愛
を手にすることができる」と。

アインシュタインの言葉と、少し本旨がズレているように思うが、「種を蒔く」ことの重要さを疑う
人は、いない。

++++++++++++++++++++

●Love is a better teacher than duty.

愛は、義務より、よい教師である。(教育者は、義務を子どもに押しつけるのではなく、愛をもっ
てせよ。)(「〜〜しなさい」式の教育よりも、愛情をもって子どもに接することのほうが、重要で
ある。)

アインシュタインという人は、子ども時代、かなり(ひどい?)教育を受けたのではないかと思
う。
ほかにも、それを思わせるような言葉を、いくつか残している。

それはともかくも、アインシュタインは、心のどこかで、いつも既存の教育に反発していたのか
もしれない。
一説によれば、アインシュタインは、アスペルガー、もしくは学習障害児であったかもしれないと
いう(ウィキペディア百科事典)。

当時は、そうした子どもに対する理解も知識もない時代だったから、その分だけ、アインシュタ
インは、つらい子ども時代を送ったのかもしれない。

+++++++++++++++++++

●No problem can be solved from the same level of consciousness that created it.

どんな問題も、それが創られたのと同じレベルの意識では、解くことはできない。(問題を解こう
とするなら、それが創られたレベルを越えなければならない。)

私は、よく、「利口な人からは、バカな人がよくわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわか
らない」と書く。
あるいは、「賢い人からは、愚かな人がよくわかる。しかし愚かな人からは、賢い人がわからな
い」でもよい。
だからといって、私が利口だとか、賢いと言っているのではない。
利口とバカ、賢さと愚かさは、あくまでも相対的なものにすぎない。

そのため、つねに私たちは、より利口になり、より賢くならねばならない。
立ち止まるのも、よくない。
立ち止まったとたん、その人は、後退する。
後退するのみならず、相手のレベルにまで、落ちてしまう。

きっとあるとき、アインシュタインも、ある人から、何かの問題を提起されたのだろう。
そのときアインシュタインも、こんなふうに考えたにちがいない。
「その問題を解くためには、その人の意識のレベルを超えなければならない」と。
つまりその人と、同じレベルでは、その人がその問題を解けないように、私も、解けない、と。

ところで最近、私の身近でも、こんな事件が起きた。

ある女性(70歳くらい)が、私に、長々と説教をした。
「年上」というだけで、偉そうな顔をする人は、この日本には、ゴマンといる。
低俗な論理に、低俗な人生観。
まさに低俗のかたまりのような内容だった。
もっと言えば、演歌の歌詞を集めたような説教だった。
そこで私は、こう言った。

「私は、あなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と。
するとその女性は、突然、声を荒げてこう叫んだ。
「私だって、バカではない!」と。

本物のバカというのは、そういう人のことを言う。(失礼!)

++++++++++++++++++++++++

●Once we accept our limits, we go beyond them.

限界を認めれば、私たちはその向こうへ行く。(限界を認めることが、先へ進む方法である。)

限界を認めることの恐ろしさ……。
それを私も、このところ毎日のように実感している。

敗北感などという生やさしいものではない。
限界を認めるということは、多くのばあい、自己否定につながる。
「今までの私は何だったのか?」と思うことほど、恐ろしいものは、ない。

そこで人は、2つのうち、どちらかを選択するように迫られる。

そのまま最後の最後まで、「私は私」と、つき進むか。
それとも限界を認めて、とことん自己否定を繰りかえして、その向こうに出るか。

前者は、むしろ楽な道ということになる。
それまでの自分を、そのまま踏襲すればよい。
しかし後者は、並大抵の人間では、できない。
ほとんどの人は、その前で、震えあがってしまう。

+++++++++++++++++++++

●Only two things are infinite, the universe and human stupidity, and I am not sure about 
the former.

無限のものは、2つだけ。宇宙と人間の愚かさ。私は前者については、確かではない。(無限
につづくものに、2つある。宇宙と人間の愚かさだ。人間の愚かさは、無限につづくが、宇宙に
ついては、私はよくわからない。)

大きなニュースサイトでも、このところBLOGへの書き込みが自由にできるようになっている。
昨日も、Y・ニュースの下の方に、こんな書き込みがあった。
米朝会談についての書き込みだが、いくつかを拾ってみる(要約)。

「どうしてアメ公が、極東アジアで、のさばっているのか。アジアの問題に、アメ公が、口を出す
な」
「K国など、日本の航空戦力だけで、こなごなに粉砕できる。さっさとやってしまえ」
「ただちに海上封鎖して、K国を兵粮攻めにしろ」と。

ほかにもいくつかあった。
が、このレベル!

愚かさと闘うための、ゆいいつの方法は、(思考する)こと。
しかし思考することには、いつもある種の苦痛がともなう。
難解な数学の問題を前にしたときのような苦痛である。
しかしその苦痛を乗り越えないかぎり、自分の愚かさと闘うことはできない。

言いかえると、愚かな人というのは、いつも安易な道を選んで歩いている人ということになる。

で、アインシュタインの言葉。

この先、永遠に、愚かな人は、なくならないだろう。

+++++++++++++++++++++++

●The important thing is not to stop questioning.

重要なことは、問うことをやめないこと。(重要なことは、問いつづけること。)

アインシュタインの言葉の中でも、とくによく知られた言葉である。
「問いつづけること」と。

生きるための究極の目標は、真・善・美の追求に、集約される。
もちろんほかにもあるだろうが、わかりやすく言えば、この3つ。
真実の追求、絶対的善の追求、そして究極の美の追求ということになる。

学者や研究者は、真を追求し、哲学者や宗教家は、善と追求し、芸術家は、美を追求する。
が、生涯において、どの分野においてもそれができない、あるいはそれができなかったという
のであれば、私やあなたは、「ただの人(das Mann)」(ハイデッガー)、あるいは「ただの人だっ
た」ということになる。

ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、「ただの人」という言葉を使った。

では、どうするか?
「ただの人」にならないためには、どうするか?

答は、アインシュタインが教えてくれた。
つまり「問いつづけること」と。

+++++++++++++++++++++++

●There are two ways to live: you can live as if nothing is a miracle; you can live as if 
everything is a miracle.

2つの生き方がある。奇跡などまったくないかのように生きること。もうひとつは、すべてのもの
が奇跡であるかのように生きること。(奇跡など、どこにもないと思って生きる生き方がある。す
べてのものが奇跡であると思って生きる生き方もある。)

ものが見える。
音が聞こえる。
歩ける。
話せる。
仕事ができる。
そこに妻がいて、家族がいる。
健康だ。
食事がおいしい……。
すべてが奇跡である。

アインシュタインは2つの生き方を対比させながら、当然、「すべてのものが奇跡である」という
生き方を選択している。
私も、まったく、同感である。

+++++++++++++++++++++

●Try not to become a man of success, but rather try to be a man of value.

成功者になろうとするな。価値のある人になろうとせよ。(成功することを考えるな。価値のある
人間になることを考えろ。)

日本では、子どもに向かって、「偉い人になれ」と教える親は、今でも、少なくない。
日本では、地位や肩書きのある人、さらには金持ちの人を、「偉い人」という。
そうでない人は、「偉い人」とは、あまり言わない。

こういうとき英語国では、「respected man(尊敬される人)」という言葉を使う。
「尊敬される人」という意味である。
親たちは、子どもにこう言う。
「尊敬される人になりなさい」と。
「尊敬される人」というときには、地位や肩書きは関係ない。
金持ちであるかどうかも、関係ない。

ということで、「偉い人」というのと、「尊敬される人」というのでは、その間には、天地ほどの開
きがある。

アインシュタインのこの言葉を読んだとき、私の頭の中では、そんなことが思い浮かんだ。

+++++++++++++++++++++

●アインシュタインの人物像について(ウィキペディア百科事典より転載)(参考資料)

アインシュタインの人物像について、
ウィキペディア百科事典には、かなり詳しく
載っている。

その一部を転載させてもらう。

この中で、いくつか気になる点がある。

そのひとつ。

世界的な玩具販売チェーン店に、「TOYZARUS」(トイザラス)
というのがある。

お気づきの方も多いと思うが、その店の名前の「R」の部分は、
鏡文字になっている。

私は長い間、「どうしてRが鏡文字なのか?」と思っていた。
が、この記事を読んで、その謎が解けた。(たぶん?)

直接、アインシュタインと関係あるかどうかはわからないが、
アインシュタインは、「R」を、いつも鏡文字で書いて
いた。

「TOYZARUS」は、どこかでアインシュタインを意識して、
そういうふうに書くようにしたのかもしれない。

これはあくまでも私の、個人的な推測によるものだが……。

++++++++++++++以下、ウィキペディア百科事典より転載+++

 非常に臆病で、生真面目でありながらも気さくな性格であった。 
 彼は常に発明はユニークな発想と考えており、自身を天才であるとはいささかも思っていなか
ったという。 
 
 ヴァイオリンの演奏を好んだ。しかしピアニストで友人のアルトゥール・シュナーベルとアンサン
ブルを行った際、何度も拍の勘定を間違えるため、シュナーベルから「君は数も数えられない
のか」と呆れられたという。 
 
 靴下を履かない。当時の靴下は脆く、すぐに破れてしまうため嫌いだった。そのため、常に靴
を素足のまま履いていたという。 
 
 睡眠時間は1日10時間と言われている。 
 
 非常に面倒くさがりであったとされる。洗濯用石鹸で顔を洗い、雑巾で顔を拭い、灰皿に食事
を盛り付けると云う行動もあったといわれている。 
 
 最初の妻だったミレーバとの間に息子が二人。長男のハンスはカリフォルニア大学バークレ
ー校で流体力学関係の教授を勤めた。二男のエドゥアルトは医学生時代に統合失調症を発
し、生涯回復せず、精神病院で亡くなった。後年公開された資料では、ミレーバとの破局はア
インシュタインの家庭内暴力が一因であり、病気を患った息子に対しても非常に冷淡な態度を
取り続けたことが公表されている。 
 
 ミレーバへの離婚の条件はノーベル賞を取って賞金をあげるというもので、2年後に本当に受
賞し賞金をあげたとされている。 
 
 笑わない。しかし、自身が舌を出している最も有名な写真は、1951年3月14日、アインシュタイ
ンが72歳の誕生日に、INS通信社カメラマンだったアーサー・サスの「笑ってください」というリク
エストに応えてした表情を撮ったものである。さらにその写真はアインシュタイン本人もお気に
入りで、9枚焼き増しを頼んだほどである。この写真は、1951年度のニューヨーク新聞写真家
賞のグランプリを受賞した。また、切手にもなった。 
 
 ノーベル賞受賞後、ニューヨークで、ある少女に数学を教えていたことがあった。少女の母親
が、娘の家庭教師がアインシュタインと知って、慌てて彼の元を訪れたが、そのとき彼は「私が
彼女に教える以上のことを、私は彼女から教わっているのだから、礼には及びません」と返答
した。 
 
 
Oren J. Turnerによる写真1947年

 小学生のようにスペルを間違えることがままあったという。また、「R」の大文字を生涯鏡字で
書き続けた。 
 
 簡単な数字や記号を記憶することが苦手だったとされる。ある新聞社のインタビューの中で、
光速度の数値を答えられず、記者から揶揄されると「本やノートに書いてあることをどうして憶
えておかなければならないのかね?」と、やりかえしたという。 
 
 幼年時の学習状況、成人してからの振る舞いなどから、アインシュタインには何らかの障害
(アスペルガー症候群、学習障害)と共通していることが指摘されているが、医学的な検証はな
されていない。 
 
 彼は手紙好きであり、有名になってからも一万通以上も手紙をやり取りしていたらしい。 

+++++++++++++++以上、ウィキペディア百科事典より転載++++

アインシュタインの言葉や映像については、
私のHPより、(音楽と私)→(命について考える)で、
楽しんでいただけるようにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist Einstein アインシュタイン アイ
ンシュタインの言葉)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2539)

●介護難民(Refugee from Hospitals)
Old men and women are to be exiled from hospitals to care centers where no medical 
doctors are. But here in Japan the number of care centers itself is not sufficient. Then 
where will these old men and women go when they are exiled from hospitals? The national 
government has announced that they will reduce beds for old men and women from 350 
thousands beds to 150 beds in hospitals.

++++++++++++++++

この問題は、けっして他人ごとではない。
近未来に起きる、あなた自身の問題である。

その問題とは……!

今、介護施設に入ることもできず、さりとて、
その一方で、家族からも適切な介護を受けられ
ないでいる老人が、たくさんいる。

厚労省の発表した数字などを参考に推計してみると、
そうした老人が、現在、10〜20万人程度は
いるということになる。

が、ここにきて、さらに厚労省は、現在ある
35万床の「療養病床」を、ゆくゆくは、
15万床にまで、減らすつもりという。

わかりやすく言えば、病院から、老人たちを
閉めだすということ。

結果、そういう老人たちは、介護療養型老人
保健施設へということになるが、今の今でも、
数そのものが足りない。

入居待ちが、半年、1年というのは、常識。
よくて1年半。
健康の状態にもよるが、中には、2年たっても
入居できないという老人もいる。

そこで在宅治療ということになるが、実際には、
問題も多い。不可能とさえ言える。
そういう家庭も多い。

私も介護度4(当時)の母を介護した経験が
あるが、「あやうく!」という事故を、半年の
間に、3回も経験している。

それでも、私の母は、楽なほうだった。
一度、「介護とは、便との闘いである」と
書いたことがあるが、その程度。

中には、毎晩、大声で泣き叫んだり、
怒鳴り散らしたり、さらには徘徊する老人も
いる。

広い家でならまだしも、マンションのような
集合住宅であったら、介護の苦労は倍加する。
周囲の家族が受ける心苦労には、相当なものがある。
親の介護をめぐって、息子や娘たちが、大げんかを
するという例も、少なくない。

が、さらにこんなことも……。

母は現在、介護療養型老人保健施設、つまり
ケア・センターに入居しているが、何かあるたびに、
救急車で病院へ運ばれている。

費用も1回ごとに、2〜4万円はかかる。
(入院費、検査費、個室代、帰りの寝台つき
タクシー代など。)

しかし最近、その病院のドクターに、こう
宣言された。

「これからは、(救急車で連れてこられても)、
延命処置はしません」「治療もしません」と。

「天命」とか「寿命」という言葉も出てきた。
「もう天命ですから…(あきらめてください)」と。

私は、「そういうものかあ」とか、「そういう
ものだろうなあ」と思ったりした。

また最近では、母を風呂へ入れるたびに、
ケア・センターのほうから、「万が一のことがあっても、
よろしいですか」というような内容の電話がかかってくる。

風呂へ入れたとたん、命を落とす老人もいるとか……。

が、この問題は、冒頭にも書いたように、
私たち自身の問題でもある。

10年後、20年後、さらには、30年後の
私たち自身の問題でもある。

だからそういう電話がかかってきたとしても、
「わかりました。どうせ老人ですから、死んでも
構いません」などとは、言えない。

もしそんなことを言えば、将来、逆に私たちが
同じ立場に立たされたとき、だれかに
そう言われることになる。

あるいはだれかがあなたのベッドの横で、こんな
会話をしたとしたら、あなたは、それに耐える
ことができるだろうか。

「この人は、死んでもしかたないですね」
「そうですね」と。

そのためにも、母にはできるだけ長生きをしてほしい。
それはとりもなおさず、「今」という時間を、
私自身が、できるだけ長く生きることを意味する。
つまり母が生きている間は、私は、少なくとも、
そのときまでは、生きていられることになる。

何かとたいへんはたいへんだが、今の私には、
母が生きているだけでも、ありがたい。

++++++++++++++++++

(参考資料)

●ヤフー・ニュース(4月6日より)(08年)

厚生労働省は、慢性病の高齢者などが長期入院する「療養病床」を再編し、平成24年度末ま
でに現在の35万床(リハビリ用を除く)を約15万床にまで減らす計画だが、都道府県ごとに策
定した削減計画の総計で、必要なベッド数が約22万床あることが産経新聞社の調べで分かっ
た。厚労省の計画通りに削減を進めれば、多くの"介護難民"が生じることになりかねず、計画
の見直しを求める声が強まりそうだ。

……

【用語解説】療養病床削減計画

 約35万床(平成18年10月現在)あった療養病床を、介護保険適用の介護型約12万床は
23年度末までに全廃、医療保険適用の医療型約23万床は24年度末までに約15万床に削
減する。代わりに、医師の配置数が少なく、低コストの介護療養型老人保健施設などへの入
所や在宅治療に移行させる。厚生労働省は、療養病床入院患者の半分近くは治療の必要性
が低いにもかかわらず、長期入院する「社会的入院」とみている。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2540)

●今日・あれこれ(08年4月8日)
We have no CHOICE but to follow the US foreign diplomacy whatever it is. This is the "Real
" on which Japan stands. US and North Korea would be coming to an agreement about 
North Korean's nuclear weapons, but only for their own profits. 

++++++++++++++++++++

この数日間、いろいろあった。
いろいろあって、ほとんど原稿を書いていない。

気になっていることは、いくつかある。

その中のひとつ。

昨日、『BEN HUR』を演じた、チャールトン・
ヘストン氏が死んだ。

映画でだけでしか知らなかった人だが、さみしい。
どうしてだろう?
ひとつの時代が、また去っていった?
今は、そんな感じがする。

で、今度、久しぶりに、『BEN HUR』を
一度、見てみよう。

それに今日は、シンガポールで、米朝会議が
開かれることになっている。

6か国協議とは言いながら、日本や韓国は、
完全にカヤの外。

アメリカは、自国の国益だけを最優先に、
協議を進めている。

日本にその力があれば……。
日本にそれだけの外交能力があれば……。
今こそ、6か国協議をボイコットすべきとき。
しかし日本には、その力はない。

結局は、アメリカの言いなり。
K国の言いなり。
日本は、それでもアメリカに頭をさげて、
アメリカに追従していくしかない。
裏切られても、裏切られても、追従して
いくしかない。

こうした現実に、いったい、どれだけの
日本人が気がついているのか。

……ともあれ、今日も始まった。
みなさん、おはようございます。

+++++++++++++++++++

●6か国協議

アメリカの国益……核拡散と、プルトニウムの生産。
この2つだけを押さえれば、それでよし。

核兵器? 
そんなものは、アメリカにとっては、どうでもよい。
それがわからなければ、ワシントンに視点を置いて、
考えてみることだ。

アメリカにとって(核兵器)というのは、中国の
核兵器をいう。
その中国はすでに、数百発以上ものICBMを完成
させている。
K国の核兵器など、ものの数ではない。

こわいのは、K国の核兵器が、たとえばアルカイダのような
テロ組織に渡ること。
核兵器を手にしたアルカイダは、どんな方法を使ってでも、
ワシントンで、それを爆発させるだろう。

プルトニウムについても、同じ。
そのまま(汚い爆弾)として、核兵器と同じように使える。

で、一連の米朝会議で、アメリカ側は、既存の核兵器
については、不問にするという姿勢を見せている。

しかしそれこそが、日本に対する最大の裏切り。
「日本の安全など、もうどうでもいい」ということか?
運搬方法などは、いくらでもある。

飛行機に載せて、東京につっこむという方法。
漁船に載せて、東京湾につっこむという方法。
何もミサイルだけが、運搬方法ではない。

この先、日本や韓国は、K国の核兵器の影に
おびえながら、K国と対峙していくしかない。

むしろ今ごろヒル氏は、こう言ってK国を説得しているに
ちがいない。

「アメリカの言うことを聞きなさいよ。
日本から、がっぽり、賠償金を取ってあげるから」と。

拉致問題を議題にしたとは言うが、そんなのは、
日本に対するリップ・サービスにすぎない。

その証拠に、K国側からの反応は、ゼロ。
まったくのゼロ!

ああああ……。


●ドバト

私の家の庭に、ドバトが住みつくようになって、
かれこれ20年以上になる。

毎年、庭の木の上に巣をつくる。
いつも私の庭へやってきて、休んでいる。

「きっとここが、ドバトにとっては、故郷なんだね」と
ワイフに言うと、ワイフも同意してくれた。

ときどき庭に餌をまいてやる。
それをドバトは、遠巻きにして、見ている。
フェンスに止まったまま、逃げようともしない。

今では、すっかり、私たち家族の一員になった。

そうそう昨日は、そのドバトが、子連れで
私の庭にやってきた。

ちょうど昼食時で、私たちは食事を取るのも
忘れて、ドバトの子どもを見ていた。


●息子たち

昨日、息子のEが、アメリカに向かって旅立った。
これから半年、サンフランシスコ郊外のNAPA
というところで、飛行訓練を受けることになっている。

電話があった。

「無茶、するなよ」と言うと、Eは、「パパ、ビジネス
クラスに座れるよ」と。
列車で言えば、グリーン車。

私「どうしてお前が、ビジネスクラスだ?」
E「一応、出張扱いだから……」と。

私だって、ビジネスクラスには座ったことがない。
「お前のような若造が」と思ったが、それは言わなかった。
かわりに、「豪勢だな」と言った。
息子は、それを聞いて、勝ち誇ったかのように、カラカラと
笑った。

で、そのあと、折り返し、もう1人の息子のSから
電話があった。

「連休に、日本へ帰るかもしれない」と。

とたん、ポーッと、心の中に灯がともるのを感じた。
息子夫婦というより、孫たちに会いたい。

電話が終わって、ワイフに、「今度こそ、ディズニー
ランドへ連れていってやろう」と言うと、ワイフも
うれしそうに笑った。

誠司、芽衣、楽しみにしていろよ!
じいちゃん、ばあちゃんが、日本中を連れていって
やるからな!


●挿入モード

先ほど、ふとした拍子に、ワードが、挿入モードから
置換モードに切り替わってしまった。

以前のバージョンだったら、ツールから元に
戻せたが、今、使っているのは、ワード2007。

あちこちいじってみたが、元に戻せない!
で、こうなると、お手あげ。

「どうしたらいいのだ!」……ということで、書庫から
マニュアルを取り出す。

……が、マニュアルを読みながら、画面の下をふと見ると、
そこの(置換モード)と!
試しにクリックしてみると、簡単に、挿入モードに
変わった。

「ナ〜ンだ」と思ったとこころで、この話は、おしまい。

いや、ついでによく見ると、その横に、「nero Search」と
いうのが、あった。
検索窓らしい……。
試しに、文字を打ち込んでみた。
とたんその文字を含むファイルが、ズラズラと表示された。

すごい!
知らなかった!

ワード2007を使うようになって、もう1年以上になると
いうのに、いまだに新発見の連続。

「何かに使えそう」と思ったところで、この話は、本当に、
おしまい。

たった今、ワイフが、お茶を届けてくれた。


+++++++++++++++++++++++

最前線の子育て論byはやし浩司(2541)

【私論】

●意思(Will…"Me", which is not "Me" myself)
What part of myself is "Me" myself and what part is not. 99.9% of ourselves are "Me", 
which is not "Me" myself. We are controlled and moved by "Me" which is deep inside of the 
brain. Then where is "Me", which is myself? The answer is here:

++++++++++++++++

少し前、「意思」について書いた。
それをもう一度、読みなおしてみる。

++++++++++++++++

 最近の研究によれば、「自分の意思」ですらも、実は、脳の中で、作られるものだということが
わかってきた(澤口俊之氏「したたかな脳」日本文芸社)。

 たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。あなたは、そのミカンに手をのばし、それ
を取って食べようとする。

 そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

 が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、行動しているだけ、というのだ。

詳しくは、「したたかな脳」の中に書いてあるが、意思を決める前に、すでに脳の中では別の活
動が始まっているという。

たとえばある人が、何らかの意思決定をしようとする。すると、その意思決定がされる前に、す
でに脳の別のところから、「そういうふうに決定しないさい」という命令がくだされるという。

 (かなり大ざっぱな要約なので、不正確かもしれないが、簡単に言えば、そういうことにな
る。)

 そういう点でも、最近の脳科学の進歩は、すごい! 脳の中を走り回る、かすかな電気信号
や、化学物質の変化すらも、機能MRIや、PETなどによって、外から、計数的にとらえてしま
う。

 ……となると、「意思」とは何かということになってしまう。さらに「私」とは、何かということにな
ってしまう。

 ……で、たった今、ワイフが、階下から、「あなた、食事にする?」と声をかけてくれた。私は、
あいまいな返事で、「いいよ」と答えた。

 やがて私は、おもむろに立ちあがって、階下の台所へおりていく。そのとき私は、こう思うだろ
う。「これは私の意思だ。私の意思で、台所へおりていくのだ」と。

 しかし実際には、(澤口氏の意見によれば)、そうではなくて、「下へおりていって、食事をす
る」という命令が、すでに脳の別のところで作られていて、私は、それにただ従っているだけと
いうことになる。

 ……と考えていくと、「私」が、ますますわからなくなる。そこで私は、あえて、その「私」に、さ
からってみることにする。私の意思とは、反対の行動をしてみる。が、その「反対の行動をして
みよう」という意識すら、私の意識ではなくなってしまう(?)。

 「私」とは何か?

 ここで思い当たるのが、「超自我」という言葉である。「自我」には、自我を超えた自我があ
る。わかりやすく言えば、無意識の世界から、自分をコントロールする自分ということか。

 このことは、皮肉なことに、50歳を過ぎてみるとわかる。

 50歳を過ぎると、急速に、性欲の働きが鈍くなる。性欲のコントロールから解放されるといっ
てもよい。すると、若いころの「私」が、性欲にいかに支配されていたかが、よくわかるようにな
る。

 たとえば街を歩く若い女性が、精一杯の化粧をし、ファッショナブルな服装で身を包んでいた
とする。その若い女性は、恐らく、「自分の意思でそうしている」と思っているにちがいない。

 しかし50歳を過ぎてくると、そういう若い女性でも、つまりは男性をひきつけるために、性欲
の支配下でそうしているだけということがわかってくる。女性だけではない。男性だって、そう
だ。女性を抱きたい。セックスしたいという思いが、心のどこかにあって、それがその男性を動
かす原動力になることは多い。もちろん、無意識のうちに、である。

 「私」という人間は、いつも私を越えた私によって、行動のみならず、思考すらもコントロール
されている。

 ……と考えていくと、今の私は何かということになる。少なくとも、私は、自分の意思で、この
原稿を書いていると思っている。だれかに命令されているわけでもない。澤口氏の本は読んだ
が、参考にしただけ。大半の部分は、自分の意思で書いている、と。

 が、その意思すらも、実は、脳の別の部分が、命令しているだけとしたら……?
 
 考えれば考えるほど、複雑怪奇な世界に入っていくのがわかる。「私の意識」すらも、何かの
命令によって決まっているとしたら、「私」とは、何か。それがわからなくなってしまう。

 あああ! 

+++++++++++++++

●「私」論

そこで改めて、「私論」。

私の中には、(私であって私でない部分)と、(私であって私である部分)がある。
たいはんは、……というより、99・9%は、(私であって私でない部分)ということになる。99・9
9%でもよい。

そういう点では、人間は、動物そのもの。
動物とちがうと考えるほうが、おかしい。
言いかえると、私たち人間も、フロイトの言葉を借りるなら、「性的エネルギー」の奴隷に過ぎな
い。
「私は私の意思で動いている」と思っている人でも、実は、その奧から発せられるシグナルによ
って、「私であって私でない部分」によって、動かされているにすぎない。

そのことがわからなければ、庭で遊ぶスズメたちを見ればよい。
北海道にいるスズメも、沖縄にいるスズメも、スズメはスズメ。
その範囲を超えて、スズメが、別のスズメになることはない。
どのスズメも自分の意思で行動していると思っているかもしれないが、そんなスズメにしても、
(私であって私でない部分)に動かされているだけ。
だから、北海道にいるスズメも、沖縄にいるスズメも、スズメはスズメ、ということになる。

そこで私とは何か……ということになるが、それについては、先週、私は、こう書いた。
(私であって私でない部分)と闘う部分が、「私」と。

たとえば腹が減ったとする。
目の前に食物があったとする。
もしそのとき、その食物を手に取り、食べたとするなら、あなたは(私であって私でない部分)に
動かされただけということになる。

が、もしそのとき、その食物を袋か何かに入れて、冬空に震えるホームレスの人かだれかに届
けたとするなら、それが「私」ということになる。

さらに言えば、究極の「私」、つまり(私であって私である部分)は何かと問われれば、それが、
キリスト教でいう「愛」であり、仏教でいう「慈悲」であり、また儒教でいう「仁」であるということに
なる。

さらにつきつめて言うなら、視床下部あたりから発せられるシグナルを、大脳の前頭前野でコ
ントロールするところに、「私」があるということになる。
けっして、シグナルの奴隷になってはいけない。言いなりになってはいけない。
奴隷になったとたん、私は(私であって私でない部分)に、動かされてしまう。
そして結果として、「ただの人(das Mann)」(ハイデッガー)になってしまう。

もう少し、この話をかみくだいて説明してみよう。

先ほど、私はスズメの話を書いた。
そのスズメが、もし、こんな行為をしたらどうだろうか。

一羽のスズメが、食べている餌を、「それを食べたい」という意思を押し殺しながら、さらに細か
くかみ砕き、年老いて元気のないスズメに分けてやったとしたら……。
とたん、そのスズメは、スズメであるという(ワク)を超えたことになる。
ただのスズメではない。
(私であって私でない部分)から、脱したスズメということになる。

しかし現実のスズメは、自分の餌を食べることで、精一杯。
それ以上のことは考えない。しない。
だから繰りかえすが、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメということになる。
またその(ワク)から一歩も、外に出ることはない。

が、悲しいかな、先ほども書いたように、私たち人間も、その(ワク)の中で生きているに過ぎな
い。
その(ワク)の中で生きているだけなのに、「私は私」と思いこんでいる。
(ワク)の中で生かされていること自体に、気がつかない。
しかも、だ。
私たちが自分の意思と思いこんでいる「意思」にしても、澤口俊之氏によれば、実は、脳の中
で、前もって作られるものだという(「したたかな脳」日本文芸社)。

わかりやすく言えば、(まず脳の中で、何らかのシグナルが発せられる)。しかしその脳の中の
動きを、外から知ることはない。
自分で知ることもない。
こうした操作は、無意識下でなされる。
そのシグナルに応じて、(自分の意思が作られる)、と。

たとえば庭を見ながら、食事をしていたとする。
庭の木々は、昨夜の雨で、しっとりとその葉先を濡らしている。
そのとき私は、ふと、テーブルの上にある、大学イモを箸でつかむ。
そのとき私は「私の意思で、大学イモを箸でつかんだ」と思うかもしれない。
が、その意思にしても、すでに、私がぼんやりと庭を見ているときに発せられたシグナルによっ
て作られたものにすぎないということ。

別の脳は、そこに大学イモがあることを、すでに認識していたはず。
私はテーブルについたとき、その大学イモを目で見ている。
においも嗅いでいる。
そこで無意識下において、脳の中で、さまざまな反応が起きる。
「食べたい」という意識が起きるのは、そのあとのこと、……とういうことになる。
つまりこうして常に、私たちの内部では、(私であって私でない部分)が作られていく。
「自分の意思ですらも、実は、脳の中で、作られるも」(澤口)というのは、そういう意味である。
で、そしてこうした一連の心理操作は、人間もスズメも、同じということになる。
ちがうと考えるほうが、おかしい。

が、ここでまた別の新たな問題にぶつかる。

(私であって私でない部分)がわかり、(私であって私である部分)が、それから分離できたとし
て、「それがどうした」という問題である。

しかしその答も、庭で遊ぶスズメの中にある。

北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
スズメがそれでよいと思っているなら、それもよいだろう。
もしあなたも、そう考えているなら、私とて、もう何も言う必要はない。
俗世間に埋もれ、俗人として生きるのがよい。
99・99%の人間は、みな、今まで、そうして生きてきたし、今も、そうして生きている。これから
も、そうして生きていく。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 私であって私論 私論 意思論
 作られる意思 操作される意思 はやし浩司 私とは)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●子どもの言語能力(Language Ability of Children)
What is the difference between men and apes? T. Sawaguchi says it is the difference 
between men who has language ability and the apes which do not have language ability. It 
means to improve the language ability is an essential part of education, especially when the 
boys or girls are at the proper age for the education.

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ついでに……、
澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」
と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

私も、そう思う。

++++++++++++++++

澤口俊之氏は、「言語能力こそが重要」と説く(「したたかな脳」日本文芸社)。

 私も、そう思う。

 言語能力のあるなしで、その人の知性が決まる。「ヒトとサルの違いは、この言語能力のある
なしである」(同書)という。

 私も、そう思う。

 つまりその言語能力を喪失したら、ヒトは、ヒトでなくなってしまう。ただのサルになってしまう。

 が、最近、その言語能力のない人が、ふえてきた。いろいろな原因が考えられているが、要
するに、人間、なかんずく日本人が、それだけ「バカ」(養老孟子)になってきたということか。

 先日も、コンビニで立ってレジがすむのを待っていたら、前に立っていた母親が、自分の子ど
もに向かって、こう叫んでいたという。

 「テメエ、騒ぐと、ぶっ殺されるぞオ!」と。

 これは、ある小学校の校長先生が話してくれたエピソードである。服装や、かっこうはともかく
も、その母親の頭の中は、サル同然ということになる。

 つまりは思考能力ということになるのだろうが、それを決定づけているのが、大脳の中でも前
頭連合野である。最近の研究によれば、この前頭連合野が、「人格、理性と深いかかわりがあ
ることがわかってきました」(同書、P34)という。

 その前頭連合野の発達のカギを握るのが、ここでいう言語能力である。しかもその発達時期
には、「適齢期」というものがある。言語能力は、ある時期に発達し始め、そしてある時期がくる
と、発達を停止してしまう。「停止」という言い方には語弊があるが、ともかくも、ある時期に、適
切にその能力を伸ばさないと、それ以後、伸びるといことは、あまりない。

 それを「適齢期」という。

 私の経験では、子どもの、論理的な思考能力が急速に発達し始めるのは、満4・5歳から5・
5歳と、わかっている。この時期に、適切な指導をすれば、子どもは、論理的に考えることがで
きる子どもになるし、そうでなければ、そうでない。

 この時期を逸して、たとえば小学2年生や3年生になってから、それに気がついても、もう遅
い。遅いというより、その子どものものの考え方として、定着してしまう。一度、定着した思考プ
ロセスを修正、訂正するのは、容易なことではない。

 で、言語能力については、何歳から何歳までということは、私にはわからない。わからない
が、その基礎は、言葉の発達とともに、小学生のころから、大学生のころまでに完成されるの
ではないか。

 この時期までに、ものを考え、言語として、それを表現する。そういう能力を養っておく必要が
ある。

 澤口氏は、「日本人の脳の未熟化が進んでいる」(同書、P130)と、警告しているが、このこ
とは、決して笑いごとではすまされない。
(はやし浩司 言語能力 大脳 前頭連合野 適齢期 したたかな脳)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●自転車は、健康にいいぞ!(Bicycles)
Riding bicycles is very good for your health, which has been proved by some researchers 
who work at Shimano co., Japan

+++++++++++++++++

自転車通勤をするようになって、35年
以上!

自転車が、健康によいことは、自転車に
乗っている人だけにわかる。
私には、わかる!

どうしてか?

自転車にしばらく乗らないでいると、体の
あちこちが変調してくる。

だから健康によい。

このほど、自転車部品の大手メーカーである、
シマノという会社が、興味深い検証実験を
した。

まず、それをそのまま紹介させてもらう。

++++++++++以下、産経新聞、4月8日付より、抜粋++++++++

自転車部品の大手メーカー「シマノ」(堺市堺区)が、社員を対象にメタボリックシンドローム(内
臓脂肪症候群)対策に、自転車通勤が役立つかどうかの検証実験を行ったところ、効果があ
ったことがわかり、9月に大分県別府市で開かれる「第63回日本体力医学会」で発表すること
になった。

同社は「企業イメージの向上のほか、健康面、さらには自動車通勤を減らし、地球環境改善に
も役立つ」と"一石三鳥"の効果を強調。今月から始まった厚生労働省の特定健診・特定保健
指導制度など、企業にとってのメタボ予防の先進事例となりそうだ。

(中略)

実験に参加したのは、30歳から56歳までの社員約50人。昨年8月から3カ月間、胸に心拍
数の測れる装置を付け、1日30分以上、週3回以上は通勤などで自転車に乗ってもらった。
対象者の最長通勤距離は新大阪駅周辺からで片道27キロ、最短は3キロだった。

 実験では体重、血圧、体脂肪率なども測定。参加社員の体重は平均1・7キロ、体脂肪率は
1・6%減っていた。特に医師から糖尿病と血圧の薬を処方されていた52歳男性は体重が9
4・1キロから89・2キロに、体脂肪率は27・8%から26・5%に減少した。

実験をアドバイスした名古屋市立大学大学院の高石鉄雄准教授は、「自転車は過体重の人で
も、ひざ、腰への衝撃が少ない。比較的強い運動が継続できたため、測定項目の改善にプラ
スしたようだ」と分析する。

新大阪からの出勤者は、地球環境面にも配慮し、自動車通勤の場合の排ガスを換算しながら
走ったそうだ。同社では「健康面の好影響だけでなく、環境意識も強く芽生えた。デスクワーク
で腰痛に苦しんだ人も治ったと聞きます」とアピールした。

+++++++++++以上、産経新聞より++++++++++++++

どうだい、わかったか!、と私は言いたい。

自転車のよいところは、高石教授も言っているように、「ひざ、腰への衝撃が少ない」こと。
それに自転車は、足だけの運動と思っている人もいるかもしれないが、けっして、足だけの運
動ではない。

坂道などでは、両腕に力を入れて、ちょうどボートを漕ぐようにして、走る。
つまり上半身の運動にもなる。
私など、そのためか、今でも筋肉マンのように、胸の筋肉を、ピクピクと動かすことができる。

さらに道路にだれもいないようなときには、大きく体を左右にくねらせて走るようにしている。
(おかしな走り方になるので、人がいるようなところでは、避けるようにしている。)
そういう走り方をすると、腹→腸の運動にもなる。

自転車は、体によい。
環境にもよい。

……ということで、もっともっと、みなさんにも自転車に乗ってほしい。
そうすれば、自転車の専用道も、もっとふえると思う。
自転車の走りやすい道も、もっとふえると思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 自転車 自転車通勤 自転車と
健康 メタボ予防)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2542)

●子どもの脳が乱舞するとき

+++++++++++++++++

話し方に統合性がなく、支離滅裂。

ADHD児や、自閉症児特有の症状は、
ほかにない。

今、そんな子どもがふえている。

+++++++++++++++++

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。

頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一
貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔
をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感
情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほ
うがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。

三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一
児で、一〇人に二人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子ども
が、一クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒
ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病
欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一名以上いる」と回答し
ている。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九
〇%以上の先生が、経験している。

ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、
「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのも
のに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてそ
の結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ず
る」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、
アメリカでも起きている。

実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビや
ゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静
かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もい
た。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっ
きりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。

一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどる
のは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲーム
は、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子ど
もの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳
が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 思考が乱舞する子ども 会話に
統合性がない子ども 乱舞 乱舞する子供)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●子どものやる気

●静岡県K市のMT氏(父親)から、こんな質問をもらった。それについて、考えてみる。

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……2才の娘がいます。

「自発性」は人生を前向きに、また、何かを成し遂げる際に必要な素養として重要であると思い
ます。

今日のお話では幼稚園児の「お花屋さん」と、御自身の高校時代の進路の話をされておりまし
たが、小さい頃に形成されるものと大人になるまでをひとつの話として理解して良いのでしょう
か?

つまり、小さい頃に「自発性」はある程度形成、定着されるものなのか、あるいは大人になるま
でにゆっくりと形成されるものなのでしょうか?

個人的には自発性は自信とともに、ちょっとした事で(たとえ大人になってからでも)失いがちな
ので、長い時間をかけて「育てていく」必要があるかも知れないという思いもあります。

金銭観は思いのほか小さい頃に形成されるという事でびっくりしましたが、本来労働の対価とし
て得られるお金の価値は子どもには理解できないでしょうし、健全な金銭価値を教えるのは大
変難しいと思いました。

お金の大切さを教えると言っても小さいこどもがお菓子を目の前にした時の欲求に対しては難
しいと思いますし、欲求を常に否定するのもどうかと思います。

「金銭感覚」を「欲求コントロール」と捉えると、お小遣いが管理でき計画的に使える(今これを
買うとあれを我慢しないといけないとか)様になるまでお金をあまり意識させない様にしたら(親
がお金の事由でいい/悪いを決めない。高いから/安いからと言わない)などとも考えてしま
いました。

(最近娘は2才にしてお金の存在に気付き、執着している風なので…)

以上、アドバイス等何かいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします……。

++++++++++++++++

 こうした質問をもらうたびに、正直言って、講演がもつ限界を、いつも感ずる。「言い足りなか
った」「説明不足だった」という思いである。

 講演というのは、たとえて言うなら、映画で言えば、あらすじだけを話すようなもの。いつも、
結論だけを話し、それで終わってしまう。

 しかしその点、インターネットができて、本当に便利になった。道端で会話をするように、ごく
気軽に、こうして膨大な情報を、簡単に交換できる。……と、考えながら、(1)子どものやる気
と、(2)金銭感覚について、考えてみたい。

++++++++++++++++

●子どものやる気

子どもの「やる気」は、かなりはやい時期に、決定される。新生児から、乳児期にかけて、決定
されるというのが、通説である。年齢的には、〇歳から一、二歳前後ではないか。

 この時期、子どもの主体性が育つ。「主体性」というのは、「求めること」。そして「求めて満足
させられること」。この二つで、決まる。

 たとえば空腹になる。そこで新生児は、泣く。その泣いたとき、母親がそれに答え、その空腹
感を満足させる。……子どもは、それで満足する。

 これが主体性のはじまりである。

 この時期に、親が拒否的な姿勢や、態度を示すと、子どもの心には、大きなキズがつく。たと
えばこの時期、もとめてもじゅうぶんな乳が与えられないとすると、子どもの中に、基底的な不
安感が増大すると言われている。そしてその不安感が、生涯にわたって、その人の心のあり方
に、大きな影響を与えると言われている。

 この主体性が原動力となって、子どもは、自分の潜在的能力を、前に引き出すことができ
る。この潜在的能力を、R・W・ホワイトという学者は、「コンピテンス」と名づけた。

 つまり主体性のある子どもは、そのつど、要求し、そしてそれを満足させることによって、自
分の潜在的能力を、自ら、引き出していくというわけである。

 たとえば目の前に、きれいに輝く三つのビンがあったとする。それらのビンは、窓から差しこ
む日光によって、明るくキラキラと輝いている。

 そのとき、主体性のある子どもは、そのビンを手に取ろうとする。これが空腹なとき、泣いて
乳を求める行為である。

 そこでその子どもは、そのビンを手に取り、いろいろな方向から、ながめたり、光の変化を楽
しむようになる。そしてある程度、一連の行動を繰りかえしたあと、満足して、それを手放す。こ
れが母親から、乳を与えられ、満足した状態である。

 このとき、子どもの中から、ビンを通して見た、美しいものへの感性、つまり潜在的能力が引
き出される。

 こうした行為を繰りかえしながら、子どもは、その主体性を、「やる気」へと、育てることができ
る。つまり自分で達成感を、楽しむことができる。

 これをチャート化すると、こうなる。

 (主体的行動)→(満足する)→(達成感を覚える)→(さらなる主体的行動を求める)→……、
と。こうした一連の行為を繰りかえしながら、子どもは、自分の潜在的能力を、自ら引き出して
いく。

 どんな子どもにも、この主体性がある。そしてその主体性は、ちょうど、ループを描いて増大
するように、年齢とともに、増大し、加速する。少年少女期にしても、またおとなにしても、やる
気のある人と、そうでない人は、結局は、この時期の方向性によって決まるということになる。

 言いかえると、この時期に、主体性をつぶしてしまうと、やる気を引き出すのは、(不可能とは
言わないが)、そののち、たいへん困難になる。私は、講演では、それを説明した。

 私が言う、「主体性」と、そののちの、子どもの心理の発達は、別のもの。だからといって、子
どもの自主性が、すべて乳幼児期までに決まってしまうというのではない。つまりそこに「教育」
が介在する余地があるということになる。

 それについては、また機会があれば、説明したい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 子どものやる気 やる気のある
子供 コンピテンス)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2543)

●A Home in the meadow(牧場のホーム)

やっと見つけた!
とうとう見つけた!
涙が出た!
うれしくて、涙が出た!

デビー・レイノルズの歌う、「A Home in the Meadow」!
映画『西部開拓史』の中で、目的地の
カルフォルニアを前にして、馬車の中でみなが歌う。
あのシーンが、今でも脳裏に、しっかりと焼きついている。

YOU TUBEさん、ありがとう!
ほんとうに、ありがとう!

やっと、ほんとうに、やっと、私は、
この歌にたどりつくことができた!

Away away come away with me
Where the grass grows wild
Where the wind blows free
Away away come away with me
And I will view a home in the meadow….

メロディーは「グリーンスリーブズ」だが、
歌詞は、ここに書いたとおり。

「♪さあ、行こう、私といっしょに
草が生い茂り、風が吹く地へ。
さあ、行こう、私といっしょに
そして牧場に、私たちの家を見るでしょう……」

この歌が見つからなくて、あきらめること、45年〜。
1962年の作品ということだから、私が、15歳のとき。
私は、いつしかその代用として、「Green sleeves」ばかりを、
聞いていた。

今でも「グリーンスリーブズ」は好きだが、
しかし私がほんとうに聴きたかったのは、
この曲、この歌詞、そしてデビー・レイノルズの
この声。

ありがとう!
ほんとうにありがとう!
(080408)

(付記)

反対に、私が制作したYOU TUBEに感謝の言葉が
書き込まれることがある。

「交換学生として浜松に住んだことがあります」とか、
「このあたりをよく散歩しました」とか。

外国の人は、日本を見る。
何でもない画像が、彼らを喜ばせる。

そのやりとり……というか、たがいのコミュニケーションが
すばらしい。

「A home in the meadow」をポストしてくれた人には、
さっそく、礼の書き込みをしておいた。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【10月11日、08年】(April 11th, 2008)

+++++++++++++++++

おとといは、どしゃ降り。
昨日は、快晴。
そして今朝は、またまた雨。

私の気分も、それに応じて、変わる。

+++++++++++++++++

●京都・嵐山(Arashi-yama, Kyoto)

4月9日、ワイフと嵐山へ行ってきた。
よかった。
すばらしかった。
感動した。

水色の空を背景に、
風のそよぐ若葉。
桜も満開。

「夢のよう……」と、何度も独り言。

(当日撮った写真は、「音楽と私」→「その他」で
お楽しみいただけます。どうぞ!)


●米朝会議(Mr. C. Hill has betrayed Japan many times in the past and again this time too. 
Then what is the 6-nation conference?) 

「成果があった」と、はしゃぐK国。
「進展はったが、時間が必要」と、がんばるアメリカ。

ワーワー騒いで、ものごとを既成事実化しようとするK国。
失敗を、なかなか認めないアメリカ。

そんな中、K国の食糧事情が悪化している。
聯合ニュースは、つぎのように伝える。

「K国の全域で食糧難が悪化する中、
比較的食糧事情が良好とされるP市でも、
今月から6か月間にわたり配給が中断されるなど、
5月以降に大量の餓死者が発生するとの懸念が出ている。
K国の人権状況をウォッチする人権団体の
「良き友人」がニュースレターで明らかにした。
平壌市の一部幹部は、1990年代後半に最悪の経済難に
見舞われた「苦難の行軍」の時期でさえ、これほど
長期の配給中断はなかったとコメントしている」と。

当時、つまり1990年代の終わり、日本の政府は、
120万トンという、めちゃめちゃな食糧をK国に
提供している。

K外務大臣(当時)は、こう言い切った。
「これでK国が動かなければ、責任を取る」と。

しかしK国は、何も動かなかった。
K外務大臣も、何も責任を取らなかった。

そして今、同じような状況が、生まれつつある。
聯合ニュースも、「1990年代よりも、ひどい」と。

さて、米朝会議。

「何としても成果を出したい」とあせるヒル、そしてライス。
気持ちはわかるが、そもそも相手を読みまちがっている。
金xxは、もともとまともな人間ではない。
そんな人間を相手に、まともな交渉ができると思うほうが、
おかしい。

K国側の代表の金xxにしても、たぶん、上にあげるのは、
ウソの報告ばかり?
あるいは取り巻きも、こわくて、金xxに事実を
伝えられないのではないか?

アメリカとK国だけで、こうして会議を重ねること自体、
日本に対して、たいへんな背信行為。
日本は、事前の連絡と、事後の報告だけをもらうだけ。
当のアメリカは、とっくの昔に、日本を切り捨てている。
韓国も、切り捨てている。

日本にとって、K国の既存核兵器は、最大の脅威。
おまけに拉致問題もある。
この2つをさておいて、米朝だけで、勝手に話が
どんどんと進んでしまう。

あのね、K国の最大の目的は、米朝相互平和条約、もしくは
相互不可侵条約なの。

わかる?

これさえ結べば、もうアメリカなどこわくない。
その時点で、日米安保条約、米韓軍事同盟は、死文化する。
自由に日本や韓国を、攻撃できる。

今のところ、それはありえないとしても、核兵器は、
そのためのもの。
ヒル氏ががんばったくらいで、金xxは、核兵器を、
簡単には手放さない。

金xxにとっては、核兵器は、パワーの象徴。
カルト教団の本尊のようなもの。

韓国や中国はいやがるとしても、この際、日本が取るべき
方法は、ただ一つ。

K国を自己崩壊させる。
あとの管理は、韓国や中国にやらせればよい。
日本の知ったことではない。
今まで、さんざん脅かされたのだから、その責任は、韓国や
中国に取ってもらえばよい。

核開発問題も、拉致問題も、それで解決する。
K国の民衆も、それで解放される。
今が、そのチャンスの時ではないのか。

ノラリクラリと6か国協議をかわしながら、
時間を稼げばよい。


●感動(Strong Emotion)
To be deeply moved in one thing is an essential part of our life. If not, our life itself becomes 
miserable and rather meaningless. Those who are deeply moved are also moved in other 
parts of their lives. Therefore it is very important for us to listen beautiful music and see 
beautiful flowers. These sorts of emotion will broaden you mind and your world in which we 
live.

+++++++++++++++++

美しい音楽を聴いて、感動する。
それはそれ。
しかし同じように、美しい花を見ると、
同じような感動が、よみがえってくる。

音楽を聴いて、感動する。
美しい花を見て、感動する。

一見、別々の反応のように見えるが、実は、中身は同じ。
人間の脳は、それほど器用にはできていない。
たぶん、そのつど脳の中で、モルヒネ系の
ホルモンが分泌されるためではないか。

エンドロフィン系とか、エンケファリン系の
ホルモンである。

ほかにもある。

美しい景色を見たり、内容のある本を読んだり
するときも、そうだ。

やさしい人や、心の温かい人に出会ったときも
そうだ。

そのつど、感動する。

つまり感動する手段はさまざまであっても、
脳が示す反応は、同じということ。

このことは、ひとつの重要な教訓を含む。

つまり感動というのは、レベルの問題、ということ。

ひとつのことに感動する人は、同じように、
ほかの分野でも感動する。

ひとつのことに、たいへん感動する人は、
同じように、ほかの分野でも、たいへん感動する。

反対に、ものごとにあまり感動しない人は、
ほかの分野でも、あまり感動しない。

だから子どもでも、あるひとつのことに、
大きく感動させるということは、とても重要である。

音楽でも、絵画でも、本でも、何でもよい。
それから受ける感動が、連続性をもって、
ほかの分野でも、子どもは感動するようになる。

言いかえると、その感動の度合いが、その人の
心の深さを示す、バロメーターということになる。

たとえば同じような景色を見ても、たいへん
感動する人もいれば、そうでない人もいる。
たいへん感動する人は、それだけ心が深い
ということになる。

このタイプの人は、音楽を聴いても、絵画を見ても、
本を読んでも、人と会っても、そのつど、たいへん
感動する。

そうでない人は、そうでない。
中には、音楽など、聴いたことがないという人がいる。
本すら、読んだことがないという人がいる。
驚くべきことに、この時代にあって、映画はもちろん、
DVDすら見たことがないという人がいる。

「何を見ているのですか?」と聞くと、
「テレビかな……? 野球中継はかならず見る」と。

心の深さというのは、相対的なもの。
心の深い人からは、浅い人が、よくわかる。
しかし浅い人からは、深い人がわからない。

さらに、心の浅い人には、深い人が、バカか、お人好しの
ように見えるのかもしれない。
あのマザーテレサについて、「あんな何も得にならない
ようなことを、よくできるな」と言った、高校生がいた。

しかしひとたび、心が広くなると、それまでの
世界が一変する。
人生観も一変する。
生きている世界が、その分だけ、広くなる。
広くなった分だけ、人より、何倍も豊かな人生を
送ることができる。

だから……。

すばらしい音楽を聴こう!
すばらしい景色を見よう!
すばらしい本を読もう!
すばらしい人に出会おう!

くだらない音楽は、遠ざけよう!
くだらないテレビ番組は、遠ざけよう!
くだらない雑誌は、遠ざけよう!
くだらない人たちとは、遠ざかろう!

わかりやすく言えば、いつも本物だけを
相手にする。

小さな心がけかもしれないが、その心がけが、
私やあなたの人生を、何倍も、何倍も、
豊かなものにする。

そう、その分だけ、私やあなたは、長く生きる
ことができる。

……これが今日の、私の努力目標ということに
なる。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●ギャグ化する子ども世界(Those children who make everything gags)
Less and less children think things serious, or make them all gags. For example when I give 
them a subject in which I ask them what sort of movie they wish to make, if they are the 
producer of the film. They give me back funny and strange stories which have no serious 
stories. Is this the phenomenon which occurs only in Japan?

++++++++++++++++++

ますます子どもの世界が、ギャク化している。
恐ろしいほど、ギャグ化している。
作文などを書かせても、まじめに考えよう
とすらしない。

ギャーギャーと騒いでいるだけ。
そしてその勢いで、突飛もないことばかり書く。

先日も、こんなテーマで作文を書かせてみた。

「あなたが映画の監督なら、どんな映画を
作りますか。あらすじを書いてください」と。

それに対して、「悪魔が、人間の骨を食べる」
「バカがバカの頭をたたいて、脳みそをつぶす」
「ゴジラが海で、スイミングする」とかなど。

思考性に連続性もなければ、統合性もない。
脳の表面に飛来する情報を、そのつど、音声に
しているだけ。

こうした現象が起きる原因を、すべてテレビの
ギャク番組のせいにすることはできない。
しかし「そうでない」とは、もっと、言えない。
あるいは、相乗効果なのかもしれない。
さらに言えば、日本人全体がギャク化しているため、
テレビでもその種の番組が、もてはやされるのかも
しれない。

どうであるにせよ、こうした現象を、いったい、
どれだけの人たちが知っているだろうか。
文科省の役人にしても、このことにどれだけ、気づいて
いるだろうか。

最近の子どもたちは、ますますものごとを、まじめに
考えなくなってきている。
反対に、まじめに考える人を、バカにし始めている。
そんな現象すら見られる。

まさに、一億、総ギャグ化!

右を見ても、ギャグ、左を見ても、ギャグ。
こんなことで、いいのか、日本!

++++++++++++++++++

●破壊的行動障害

 その子どもの破壊的、挑戦的、突発的、衝動的、否定的、拒否的な行動が、一定の秩序あ
る環境になじまない状態にあること、「破壊的行動障害」という。多くは多弁性や、多動性をとも
なう(DSM−Wの診断基準を参考)。

 ADHD児についての関心は大きくなり、各方面で研究がなされ始めているが、この「破壊的
行動障害児」についての研究は、今、日本でも始まったばかりといってよい。軽重の問題もあ
るが、私の経験でも、二〇〜三〇人に一人前後の割合で経験する。U君(小五)という子ども
がそうだった。

 U君は、私が何を注意しても、すべてをギャク化してしまった。まじめな会話ができないばかり
か、私が、まじめか、そうでないかも、判断できなかった。瞬間的なひらめきは鋭いため、学習
面での遅れはそれほど目立たなかった。が、少し目を離すと、周囲の子どもたちを巻きこん
で、騒いでばかりいた。

私「U君、静かにしなさい! 先生は、怒っているんだぞ!」
U「怒ってる、怒ってる、タコみたい」
私「あのな、先生は、今、まじめに怒っているんだぞ!」
U「ははは、怒れば、脳の血管、破れて、先生は、あの世行き」
私「静かに、私の話を聞きなさい!」
U「聞いてる、聞いてる、きいてるのは、肩の湿布薬」と。

 このタイプの子どもの指導のむずかしいのは、叱っても、一時的な効果しかないこと。つぎに
教室という「場」がもつ秩序を、破壊してしまうこと。それにたいていは、家庭できびしいしつけを
受けているため、家庭では、それなりに「いい子」ぶっていていること。そのため親にその認識
がないことなどがある。

 原因については、いろいろいわれているが、性格や性質というより、もっと機質的な部分に原
因がるような印象を受ける。脳の微細障害説を唱える学者(福島章氏ほか)もいるが、じゅうぶ
ん疑ってみる価値はある。

 このタイプの子どもの、もう一つの特徴としては、自己意識によるコントロールができないこと
がある。ふつう、小学三、四年生を境として、自己意識が発達し、子どもは自らをコントロール
するようになる。そして外からは、その症状がわかりにくくなる。が、このタイプの子どもには、
それがない。あたかも意図的に、自ら騒々しくしているといった印象を受ける。

 本来なら、親の協力が不可欠なのだが、ここにも書いたように、たいていは家庭でのきびし
いしつけが日常化していて、家では、それなりに「いい子」であることが多い。(むしろ明るく、活
発な子どもと誤解するケースが多い。)またこうした行動障害は、集団教育の場で現れることが
多く、そのため、家庭では、ほとんど目立たない。しかし家庭でのしつけがきびしければきびし
いほど、その反動として、外の世界で、強く、その症状が現れる。

 対処方法としては、まず親の理解と協力を得るしかない。つぎに、家庭でのきびしいしつけ
を、軽減してもらう。頭ごなしの説教や、威圧、暴力がよくないことは、言うまでもない。このタイ
プの子どもは、「叱られる」ことについて、かなりの免疫力をつけていることが多い。つまりそう
いう免疫力をつけさせないようにする。たとえばこのタイプの子どもは、ふつうの叱り方では、
効果がない。そこで勢い、大声を張りあげて……ということになるが、それは集団教育の場で
は、できるだけ避けなければならない。

 いろいろ問題はある。私のばあい、もう少し若ければ、こうした子どもと直接対峙して、マンツ
ーマンの教育をしてみるだろうが、このところ、その体力の限界を感ずるようになった。これか
らの若い先生方に、解決の方法を考えてもらいたい。
(030724)

Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●やるせない虚脱感

 少し前、ある小学校で、一人の子どもが、学校で飼っていたうさぎを、二階のベランダから落
として殺すという事件があった。この事件は、新聞にも報道された。そのため、教育者のみなら
ず、親たちにも、大きな衝撃を与えるところとなった。

 こういう事件が起きると、現場の教師たちは、最初は、はげしい怒りに襲われる。しかしつぎ
の瞬間、今度は、一転して、同じくはげしい無力感に襲われる。「やるせなさ」と言ったらよいか
もしれない。その事件を直接見聞きた、ある先生も、そう言っていた。

 怒り……それは当然だ。問題は、無力感。私にも、何度か、経験がある。

 もう三〇年ほど前になるだろうか。こんな事件があった。そのとき、私はある予備校で、講師
のアルバイトをしていた。そこでのこと。控え室へ戻って、飲みかけたお茶を飲もうと思って、席
に座った。気がつくと、三、四人の中学生が、ニヤニヤ笑いながら、私を見つめているではな
いか。「どうしたの?」と聞いても、ただ笑っているだけ。

 で、一気に、お茶をぐいと飲んだ。おかしな臭(にお)いはしたが、私は、割とそういうことには
無頓着。で、飲んでしまって、茶碗を下に置くと、一人の中学生が、こう言った。

 「先生、へんな味はしなかった?」と。

 とたん、ピンときた。「君たち、ぼくのお茶の中に……」と。そこまで言いかけて、もう一人の中
学生の手を見ると、彼は殺虫剤のスプレー缶をにぎっていた。私は、カーッとなって、こう叫ん
だ。

 「バカヤロー。冗談でしていいことと悪いことがある。お前たちには、それを判断する能力もな
いのか。出て行け!」と。

 あとでマネージャーになだめられたが、私の腹のムシは収まらなかった。「即刻、退塾させて
ほしい」と私は迫ったが、「それは待ってほしい」と。

で、そのあとである。私を、はげしい無力感が襲った。それは虚脱感と言ってもよかった。そう
いうバカ(脳ミソのできふできを言うのではない。常識に欠ける行為をする人間を、「バカ」とい
う)を相手に、知恵をつけなければならない虚(むな)しさ。相手にしなければならない虚しさ。教
えなければならない虚しさ。そういうものが、どっと私を襲った。

 恐らく、その虚しさは、この世界の外にいる人には、理解できないものだろう。「教育を否定さ
れたかのような虚しさではありませんか?」とわかったようなことを言う人もいるが、そんなもの
ではない。それは自分のしていることを、のろいたくなるような虚しさである。

 で、それでこの種の事件は終わったわけではない。それからも、つぎつぎと起きた。最近でも
起きた。それもその回数が、以前より、多くなった? 子どもたちの「質」が、明らかに変化して
いる。ものの考え方が、ギャグ化し、言動が、ゲーム化している? うさぎを二階のベランダか
ら落として殺したというのも、その一つにすぎない? まじめに考えることを、今の子どもたち
は、「ダサイ」と言う。そういう子どもたちに、いちいち腹をたてていたら、仕事そのものが成りた
たない。

 で、なぜ、こういう非常識な子どもが、ふえつつあるか、である。常識がないというか、道理が
わかっていない。自分で考える力さえ、ない。そのときの気分と、はずみで、メチャメチャなこと
をしてしまう。頭のよし、あしには、関係ない。勉強ができる、できないにも、関係ない。

 えてして親は、教師は、そして世間一般は、勉強がよくできる子どもイコール、人格者と考え
る。学歴のある人イコール、人格者と考える。しかしこれはまったくの誤解。ウソ。デタラメ。は
っきり言えば、幻想。むしろ頭がよい分だけ、タチ(性質)が悪い。有名進学高校ほど、陰湿な
いじめが多いというのは、そういう理由による。

 最近の子どもたちは、何かを見落としたまま、知識や知恵を身につけている。親たちも、その
知識や知恵だけをみて、子どもを判断しようとする。こうしたイビツな教育観が、おかしな子ども
を、どんどんと生産している。

 で、私のばあい、腹を立てることは、少なくなったが、虚しさだけは、どんどんとふくらんでい
る。それはたとえて言うなら、小さな苗を植えたところから、巨大なブルドーザーで、踏み荒らさ
れるような虚しさである。ときどき、この世界から足を洗いたくなることもある。私一人の力で
は、どうにもならない。いや、もし私に、それなりの退職金と年金が入るなら、明日にでも足を
洗うかもしれない。

 こうした現象を防ぐために、子どもには、静かに考える場所と、時間を提供すること。一日、
一時間や二時間では足りない。数時間単位で、ひとりで考えられるようにすること。そのために
は、テレビ、ゲームなどは避ける。少なくとも夕食後は、ひかえる。そしてあとは、自分で行動さ
せ、自分で責任をとらせる。こうした積み重ねが、子どもを常識豊かな子どもにする。

 そう、今、その常識豊かな子どもが、減ってきている。それは事実だ。
(030923)

【ギャグ化現象】

 日本語でも、昔から、「茶化す」「はぐらかす」「おちょくる」「からかう」「とぼける」「ごまかす」な
どという表現がある。要するに、ものの本質から逃げて、相手を煙に巻くことをいう。

●逃避……たとえば「環境汚染が進んで、空気が汚染されたらどうする?」と問いかけると、
「パソコンで、青い空をつくればいい」と答えるのが、それ。

●仰天……相手の言っていることに対して、突飛もないことを言って、その場を、はぐらかす。
「地震がやってくるかもしれないね」と言ったことに対して、「巨大隕石が落ちてくると、地球はこ
なごなになる」と言うのが、それ。

●飛来……思いついたことだけを、ペラペラと言う。「ラーメン、食べたい」「Xメンだ」「からし明
太子(めんたいこ)」と。前後の脈絡がない話を、つぎつぎとつなげていく。

●奇声……「どひゃー」「ウエウエ」「ドギドギ」というような、意味のわからない言葉で、その場を
ごまかしてしまう。「明日の遠足のしたくはできているの?」と聞くと、「ジャジャ〜ン」と答えるな
ど。

 こうしたギャク化現象は、三〇年前には、なかった。こうしたギャクを口にすれば、それだけで
軽薄な人間と思われた。英語にも似たような現象はあるが、質が違う。オーストラリアの友人
に、このことを話すと、その友人は、こう言った。

 「オーストラリア人は、ジョークを言うのが好きだ。しかし日本人は、ジョークを言わない。その
分だけ、ギャク化するのではないか」と。この問題は、また別の機会にほりさげて、考えてみた
い。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●多弁児

 昔も、よくしゃべる子どもというのは、たしかにいた。しかしここ一〇〜二〇年、少し様子が変
わってきた。意味のないおしゃべりを、絶え間なくつづける子どもがふえてきた。一〇人のう
ち、二〜三人に、その傾向が見られる。

 「ヒント、ほしいな」「ははは、これだ、これだ」「S君、やってくれ」「計算の神様、どうか、お助
けを」「無限だ」「答は、無限だ」「チャンスはいっぱい」「ははは」「おれは、お客だ」「一か月のお
客だ」「それならいい」「できた、できない、多分、まちがっている」「孫はときどき、天才になる」
「おいらは、アホだ」「合っていれば、丸々」「丸々ちゃん」と。

 これは実際、ある子ども(小四男児)のひとり言を、そのまま収録したものである。

 原因としては、テレビゲームが、まず疑われる。

 小学三、四年生についてみると、かなり大雑把(ざっぱ)な調査だが、こうした多弁性が強い
子どもは、一方で、ほとんどがテレビゲーム漬けになっているのがわかる。とくに多弁性が強い
子どもは、まちがいなく、そうである。このタイプの子どもは、脳に飛来する情報を、そのまま口
にする。思考力や判断力、とくに抑制力が、ほとんど働かない。まさに脳が乱舞したような状態
になる。その状態で、しゃべりつづける。

 いわゆるADHD児でも、同じような傾向が見られるが、いわゆる多動性は、あまり目立たな
い。

 こうしたひとり言を放置すると、授業そのものが崩壊してしまう。うるさいというより、騒々し
い。まともに耳を傾けていると、気がヘンになる。そこでさらに強く注意して、それを制止しようと
する。が、効果は一時的なものでしかない。

 さらにきつく注意すると、今度は、まわりの子どもたちが、神経質になってしまう。だから、そ
れもできない。本人も、騒々しい割には、神経質で、気が小さい。あまり強く叱ると、先生をおび
えるようになることがある。そんなわけで、指導にも、限界がある。

 こうした多弁性のある子どもを、私は勝手に「多弁児」と呼んでいる。「支離滅裂型多弁児」と
いうのが、正確かもしれない。もしあなたの子どもに、以下のような傾向がみられたら、少なくと
も、テレビゲームは避ける。

●意味のないひとり言を、間断なく話す。
●制止しても、その場の効果しかない。
●ひとり言を言っている間、視線が目まぐるしく動く。
●始終、落ちつかない様子を見せる。小刻みな動きがみられる。
●突発的に、思いついた行動に走ることが多い。

 静かに人の話を聞く。……それは教育の基本でもある。しかしそれができないとなると、教育
そのものが、成りたたなくなる。そんなわけで、今、現場の教育は、危機的な状況にあるといっ
てもよい。一クラス、一人、二人ならまだしも、このタイプの子どもが、三人、四人もいると、もう
静かな授業などできない。たがいにしゃべりあうなどの、相乗効果が起きてしまう。それにその
周囲の子どもが、巻きこまれる。そのため授業は、崩壊する。
(030923)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●内気、依存的な子ども

 内気、依存的な子どもについて、それは「性格」だとか、「性質」だとかと、誤解している人は
多い。しかし誤解は、誤解。

 人間の心的エネルギー(リピドー)は、みな、共通である。その心的エネルギーを、前向きに
出すか、あるいは反対にブレーキをかけるかで、積極的な子どもと、消極的な子どもに分かれ
る。

 もう少しわかりやすい例で考えよう。

 ここに100CCのバイクがある。良質な燃料をつんで、それなりの道で走れば、軽く150キ
ロ・時のスピードが出る。しかしそのバイクでも、もし車輪にヒモやロープがからんでいると、車
輪は回らない。回らない分だけ、スピードは遅くなる。ばあいによっては、止まってしまう。

 この車輪にからむヒモやロープが、子どもを、内気にしたり、依存的にしたりする。思いつい
たままで恐縮だが、そのヒモやロープになるものを、ざっと書いてみる。

●過干渉……子どもの意思的な活動を阻害する。強度の過干渉は、子どものやる気を奪うの
みならず、自我を軟弱にする。

●設計図……「こうあるべき」という親の設計図が、子どもの自我をつぶす。子どもは、自信の
ない、ハキのない子どもになる。

●過保護、溺愛……子どもから社会性をうばう。社会を生きるために必要な問題解決の技法
を、身につけられなくなる。

●威圧、暴力……親への恐怖心は、子どもの住む世界を、かぎりなく小さくする。とくに親の情
緒不安ほど、子どもの心に悪影響を与えるものはない。

●過関心……子どもの心を射抜くような視線、過関心は、子どもからハツラツとした「子どもら
しさ」を奪う。

●マイナスのストローク……「あなたはやはりダメな子」式の暗示がかかってしまうと、子どもは
その暗示の呪縛から抜け出られなくなる。

もちろん子ども自身の問題もある。いろいろな恐怖症、強迫観念など。同じ過干渉でも、それ
を受け取る側の子どもによっては、過干渉になったり、しないこともある。たとえばデリケートな
子ども(例、過敏児、敏感児など)ほど、同じ刺激でも、より大きく反応する。

 ほとんどの親は、「どうしてうちの子は、内気なのでしょう。もっとハキハキさせる方法はない
のでしょうか」という。しかしその原因のほとんどは、家庭教育の失敗(失礼!)である。だから
子どもだけをみて、子どもをなおそうとしても意味がないばかりか、かえって症状を悪化させて
しまう。

 改めるべきは、親の育児姿勢、育児態度、それに家庭環境である。……こう言い切るのは
危険なことだが、しかしそれくらいの覚悟を、今の若い母親たちはもってほしい。
(030724)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist ギャグ ギャグ化する子どもの
世界 子どもとギャグ まじめに考えない子ども 破滅的行動障害 破滅行動 破滅構造障害
 破滅行動障害児 行動障害児 破滅的行動障害児 はやし浩司)

(参考)

●アメリカ内科医学会は、「学校拒否症」の要因となる、不安障害(Anxiety disorders)として、
つぎのものをあげている。 

Separation anxiety (分離不安)
Anxiety disorder(不安障害)
Generalized anxiety disorder (不安障害全般)
Social phobia (社会恐怖症)
Simple phobia (孤立恐怖症)
Panic disorder (パニック障害)
Panic disorder with agoraphobia (広場恐怖症をともなうパニック障害)
Post-traumatic stress disorder (PTSD)
Agoraphobia(広場恐怖症) 
Mood disorders(気分障害) 
Major depression (うつ病)
Dysthymia(抑うつ症)

●また同じく、「学校拒否症」の要因となる、破滅行動障害(Disruptive behavior disorders)に
ついては、つぎのようなものをあげている(同)。 

Oppositional defiant disorder (反抗障害)
Conduct disorder (行為障害)
Attention-deficit/hyperactivity disorder (注意力散漫、過集中障害)
Disruptive behavior disorder,(破滅的行為障害) 
Other disorders(他の障害) 
Adjustment disorder (with depressed mood or anxiety) (うつをともなう、適応障害)
Learning disorder (学習障害)
Substance abuse 
Other

The evaluation should include interviews with the family and individual interviews with the 
child and parents. Assessment should include a complete medical history and physical 
examination, history of the onset and development of school refusal symptoms, associated 
stressors, school history, peer relationships, family functioning, psychiatric history, 
substance abuse history, and a mental status examination. Identification of specific factors 
responsible for school avoidance behaviors is important. Collaboration with school staff in 
regards to assessment and treatment is necessary for successful management (Table 5) . 

School personnel can provide additional information to aid in assessment, including review of 
attendance records, report cards, and psychoeducational evaluations. 
 
The School Refusal Assessment Scale includes a child, parent, and teacher form and is 
reported to have a high reliability and validity. 

学校拒否症の診断基準は、高い信頼性と、有効性が報告されています。
 
Several psychologic assessment tools (e.g., teacher and parent rating scales, self-report 
measures, clinician rating scales) have been developed to provide additional information 
about the child's general functioning at home and at school. These tools may be used by a 
physician, but because of time constraints, a school psychologist or mental health counselor 
should administer these scales whenever possible. Generalized scales (e.g., Child Behavior 
Checklist, 21 Teacher's Report Form 22 ) identify areas of difficulties. Specific rating scales 
assess for symptoms and severity of psychiatric problems, including anxiety and depression. 

Although these scales are used frequently in children with school refusal, their clinical 
usefulness in developing effective treatment strategies has not been demonstrated. 

More specific assessment scales to measure symptoms of school refusal have been 
developed recently. They provide functional and symptomatic assessment of refusal 
behaviors and therefore provide more valuable information. The School Refusal Assessment 
Scale (Table 6, online) 23 includes a child, parent, and teacher form and examines school 
refusal in correlation to negative and positive reinforcers. This scale has been reported to 
have high reliability and validity. 23,24 
 

Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2544)

●ヒル氏の「2、3週間」(Another 2 or 3 weeks?)
Mr. Hill says, in another 2 or 3 weeks, there will be a possible movement of North Korea, 
regarding the 6-nation conference of Nuclear weapons of North Korea. He repeats the 
same words again and again, saying, "in another two weeks". He seems to like these words. 
But nothing has been changed. Nothing has been different.

++++++++++++++++

ことあるごとに、ヒル氏は、こう言う。
「2、3週間のうちに、動きはある」と。

07年の11月ごろから、同じような
発言を繰りかえしている。

しかし何も、起こらなかった。
何も変わらなかった。

今回(4月11日)も、こう言った。

【ワシントン10日聯合】

「北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議で、米国の首席代表を務めるヒル国務次官補は、10日、
シンガポールでの米朝協議が、6カ国協議合意2段階措置の履行に大きな助けになったとし、
早ければ、向こう2〜3週間以内に、2段階措置を完了するための方策がまとまる可能性があ
ることを示唆した」と。

……もう、うんざり!
希望的予想のオンパレード。
……というより、アジア人的思考性が、
まったく理解できていない。

アングローサクソン的な(YES・NO)は、
このアジアでは、通用しない。
とくにあのK国では、通用しない。

今日は4月11日だから、2、3週間後
というと、4月25日〜5月2日という
ことになる。

もしそれまでにK国が動かなければ、
(動くはずはないが……)、ヒル氏よ、
今度こそ、責任を取ってほしい。

交渉のための交渉は、もううんざり!

5月2日になったら、このつづきを、
書いてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2545)

【4月12日・土曜日】(April 12, Saturday)

●二男が、やってくる!(My son with their families will come back to Japan)
My son with their families will come to Japan during the days of Hamamatsu Festival. Akiko'
s sister agrees to provide them with whole sets of clothes to wear for the festival. 
Nowadays only registered people in the district can participate the festival. They are very 
lucky! Akiko's sister is in charge of the festival of the district.

二男が、孫たちを連れてやってくる。
ちょうど連休中なので、浜松祭りを見せてやることができる。
二男も、いつか、そう言っていた。
「家族に浜松の祭りを見せてやりたい」と。
で、何とか、祭りの法被(はっぴ)を、息子夫婦に着させてやりたい……ということになった。
私の町内にも、屋台はあるが、浜松の中心部までは行かない。

……ということで、義兄たちに相談する。

が、今では、それが簡単ではない。
いわゆるモグリの参加は、できないしくみになっている。
つまり祭りの参加者は、登録制。
しかも前年度までに、登録しておかねばならない。

年々、浜松祭りは、盛大になる一方。
見物人だけでも、50〜100万人。
その分だけ、管理がきびしくなった。
服装にしても、提灯から足袋(たび)まで、既定のものでなければならない。
義兄も、あちこちへ相談してくれた。
が、ダメだった……!

……とあきらめていたら、ワイフの妹が、その町内の祭りの世話役を、長年、しているとのこ
と。
つまり「親分」。
ワイフが相談すると、イチもニもなく、「いつでも、どうぞ」「法被は、ぜんぶ、そろえてあげるか
ら」と。

バンザーイ!

二男夫婦は、祭りに参加できることになった!

その浜松祭り。
「凧(たこ)祭り」とも言う。
毎年5月3日、4日、5日に行われる。
とくに、4日、5日の夜の練り(ねり)が、おもしろい。
おもしろいが、浜松祭りは、見る祭りではない。
参加して楽しむ祭り。
参加しなければ、ただの野次馬(失礼!)。

さっそくデニーズに連絡すると、デニーズも喜んでくれた。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●制限設定(J・マスター)(My Personal Law)
To limit my own life is often very important for us to habe a better life, for example, not tell 
a lie, not to break even a smallest rule or pay back all debt in less than a week.

++++++++++++++++

自分の行動に、制限をもうける。
これは何かにつけて、大切なことである。
とくに、「私は人間関係の調整がへただ」
「だれとでも、結局は、仲たがいしてしまう」などと、
対人関係で悩んでいる人には有効である。

少し前、子育てをしていて不安でならないと
訴えてきた母親がいた。

そのとき書いた原稿の一部が、つぎのものである。

【不安なあなたへ……】

 ……もしあなたが、ここでいうような不安な親なら、自分の行動に、制限をつけるとよい。すべ
きことと、してはいけないことを分け、そのしてはいけないことについては、夫なり、妻なりに任
す。

 たとえば子どもを叱るのは、夫(妻)に任す。説教するのは、夫(妻)に任す。大切な判断をす
るのは、夫(妻)に任す。子どもの勉強をみるのは、夫(妻)に任す、など。ふつう子どもと接して
イライラするようなことなら、それから遠ざかるようにするとよい。

 こうした制限をもうける接し方は、「制限設定」という名で、心理学の分野でも、治療法の一つ
として確立されている(J・マスターほか)。

要するに、苦手なことはしないこと。だれにも、得意、不得意がある。親だから万能でなければ
ならないと、そういうふうに、自分を追いこんではいけない。自分を改めようと、思ってはいけな
い。無理をしてはいけない。

+++++++++++++++++

私も私自身に、いくつかの制限設定をしている。

(1)落ち込んだときは、重要な判断はしない。
(2)近所の人や身内とは、言い争わない。喧嘩をしない。(無視はするが……。)
(3)他人の家庭問題に、口を出さない。干渉しない。
(4)生徒(OB)たちの進学先などを、詮索しない。
(5)支払いなどは、支払いを1週間以上、延ばさない、などなど。

そのつど制限設定をしているので、数えたら、キリがない。

子育てについてもそうで、「これは親として、する」「これは子どもの友として、する」「しかし〜〜
はしない」と、そのつど、自分の行動に制限をつけるとよい。

一方、「これだけは、ぜったい、守る」というのもある。
とくに私のように、もともとどこか、いいかげんな人間には、大切なことである。
生まれも育ちも、あまりよくない。

たとえば、

(1)金銭的な約束は、かならず、守る。
(2)借金はしない。支払いは、1週間以内に、どんなことがあってもすます。
(3)安易な約束は、しない。したら、かならず、守る。
(4)信号など、社会のルールは、守る。
(5)ウソはつかない。ウソをつきたいときは、黙っている。
(6)おじょうずを言わない。お世辞を言わない。世間体を気にしない、などなど。

これも数えたら、キリがない。

言うなれば、これは自分自身の「法」のようなもの。
自分で制定して、自分で守る。
称して、『自分法』。

++++++++++++++++++++++++++

【自分法】(Personal Law)

第1条(生活規範)

(1)ウソはつかない。言い訳はしない。弁解はしない。
(2)約束は守る。安易な約束はしない。いいかげんなことは言わない。
(3)どんなささいなことでも、ルールは守る。
(4)人に迷惑をかけない。ゴミは捨てない。

第2条(健康規範)

(1)週5単位(40分x5)以上の運動をする。
(2)毎日、文章を書いて脳を鍛える。週3回のマガジン発行を、守る。
(3)不健康なものは、口に入れない。食べ物は注意して選ぶ。
(4)適正体重を守る。過食、運動不足は、いつもコントロールする。

第3条(行動規範)

(1)ありのままを、いつもさらけ出して生きる。
(2)嘘はつかない。いいかげんなことは言わない。
(3)グチ、悪口は、言わない。言ったら、その人とは、つきあわない。
(4)愚劣な人たちとは、交際しない。時間を無駄にしない。

第4条(家族規範)

(1)どんなことがあっても、妻や子どもは守る。
(2)妻や子どもには、常に誠実を心がける。
(3)妻や子どもには、心配をかけない。不安にさせない。
(4)家事は平等に分担する。山荘では、家事はすべて私がする。

第5条(仕事規範)

(1)いつも全力を出す。手抜きをしない。
(2)いつも仕事の前には、「今日が最後」「今が最後」と自分に言って聞かせる。
(3)同じことを繰りかえさない。
(4)いつも前だけを見て、進む。振り返って、クヨクヨしない。

++++++++++++++++++++++

こうした制限設定、つまり行動制限をもうけることによって、自分の近辺を整理することができ
る。
もちろん(絶対法)ではないから、そのつど、臨機応変に考える。
あくまでもそのときの状況を見ながら、判断する。
なにごとも、がんこになり過ぎるのは、よくない。

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Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●不可解な米朝会議(Un-understandable US-N.Korea Conference)
What is going on with the US-N. Korea Conference? Here is an answer. President Kim is 
under very bad condition of health.

+++++++++++++++

アメリカのヒル氏は、K国の金氏と、
いったい、何をどう話しあったのか?

たがいに「満足した」「前進した」と
言いあっている。

が、その一方で、南北関係は、悪化の
一途。

そんな中、アメリカのワシントン・ポスト
紙は、米朝は「あいまい決着」をめざした
と報じた。

が、それでもわからない。
理解できない。

どうしてか?

あいまいにすること自体、K国の思うつぼ。
どうしてアメリカは、こうまでK国に
気をつかい、妥協に妥協を重ねるのか。
しかも同盟国(?)の日本や韓国を
裏切ってまで……?

実は、その答は、金xxの健康問題に
あった。

毎日新聞は、こう伝える。
「高額なドイツ製の心臓治療機器が、
K国に運ばれている」と。

なるほど、そうだったのか。
そういうことだったのか!

++++++++++++++++++

まず南北関係の悪化について、朝鮮N報は、
つぎのように伝えている(4月12日)。

++++++++++

(朝鮮N報)K国は10日午後、金剛山の離散家族面会所工事現場に勤務していた韓国の調達
庁職員一人を追放した。K国は先月27日に開城工業団地の韓国側当局者11人を追放して
以降、「韓国側当局者の軍事境界線通過を許可しない」という立場を表明してきた。

++++++++++

一方で、わけのわからない米朝会議。
両国は、いったい、何を話しあっているのか。
時事通信は、つぎのように伝える。

++++++++++

(時事通信)11日付の米紙ワシントン・ポストは、K国の核計画申告をめぐり、米朝両国がプル
トニウム問題を最優先課題とし、K国によるウラン濃縮やシリアへの核協力疑惑については、
あいまいさを残した形で決着を図る方向で大筋合意したと報じた。

++++++++++

大前提として、金xxは、核兵器、および
核兵器開発を放棄しない。

金xxにとっての核兵器は、K国という巨大
カルト教団の本尊。本尊そのもの。
力の象徴。力の根源。
もっと言えば、恐怖政治の根幹。

金xxから核兵器を奪ったら、金xxは、ただの
カラス。
K国にしても、ただの最貧国。
国力にしても、日本の山陰地方の1県ほどもない。
だれにも相手にされない。

金xxも、それをよく知っている。

その核兵器、核兵器開発を放棄しろと迫る5か国。
金xxが、「うん」と言うはずがない。
ないが、「うん」と言い始めた。

(あいまいな言い方)かもしれないが、「うん」と
言い始めた。

なぜか?

実は、金xxの健康状態は、きわめて悪化している。
毎日新聞は、つぎのように伝える。

++++++++++

(毎日新聞)K国の平壌に先月下旬から今月初旬までの間、高額なドイツ製心臓治療機器や
心臓病関連の研究書などが集中して搬入されていたことが11日、わかった。北京の複数の外
交関係者が明らかにした。金xx総書記(66)を含む最高幹部の治療に使われるのではないか
との観測が出ている。

++++++++++

それにもう一つ。

++++++++++

(毎日新聞)故金日成(キムイルソン)国家主席の誕生日(15日)にあわせて毎年、平壌で開
かれてきた国家的行事、「4月の春 親善芸術祭典」が突如、隔年開催となり、この春は見送
られた。

++++++++++

つまり金xxにしてみれば、6か国協議どころでは、
ないということになる。
「4月の春」など、とても開催できない。

別の報道によると、金xxは、すでに執務能力を
失いつつあるという。

とすると、米朝の一連の不可解な行動が、論理的に
理解できる。

それは、こうだ。

すでにK国側の金氏(米朝会議の当事者)は、ポスト
金xxをにらみながら、協議に臨んでいる。

アメリカもその情報を得ている。

アメリカは、金xx亡き後は、金氏(米朝会議の当事者)を
後押しして、K国での実権を握ろうとしている。

ならば、なぜその一方で、南北関係が悪化しているか、
ということになる。

理由は簡単。

金xxを側近で支える軍部と、金氏(米朝会議の当事者)、
つまり外交部との間に、キレツが入っている。
つまり主導権争いが激化している。

そこで金(米朝会議の当事者)は、国内向けに、その
(成果)を、ことさら誇張して伝える必要がでてきた。
軍部をなだめるために、である。

つまり金氏(米朝会議の当事者)は、軍部をなだめながら、
金xx亡き後のK国の実権を握ろうとしている。

だからアメリカにしても、「ここはあわてず……」と
なる。
(あいまい決着)でも、何でも構わない。
様子を見る。
時間を稼ぐ。

今ごろ、ヒル氏は、ライス国務長官にこんな話を
しているにちがいない。

ヒ「金xxの命も、時間の問題です」
ラ「そのようですね」
ヒ「だから、ここはあわてず、ひとまず金氏(米朝会議の当事者)の顔を立てておくことにしまし
ょう」
ラ「そうね。今、金氏をつぶしてしまったら、アメリカは、K国とのパイプを失うことになるわね」

ヒ「そこなんですよ、国務長官。今は、そのパイプを大切にする」
ラ「でも、金xxは、核兵器を放棄するかしら?」
ヒ「もちろん、今は無理です。ですから、そこはあいまいにしたまま、金xxの死を待つしかありま
せん」
ラ「そうね……。でも金xxが死んだあと、金氏は、核兵器開発をどうするつもりかしら」

ヒ「多額の補償金と交換に、金氏は、核兵器と核兵器開発を放棄するはずです」
ラ「だれが、そのお金を出すの?」
ヒ「もちろん、日本です。4兆円は、もくろんでいます」
ラ「4兆円ねえ。それなら軍部も黙るわね」
ヒ「そうですよ、ライス国務長官。そのあと、アメリカは、金氏について、K国に介入していけば
いい」と。

金xx亡き後、K国内では権力後継問題が、起きる。
しかし金氏をのぞいて、みな、中国派とみてよい。
アメリカとしては、そのために、何としても、金氏を自分の手中に収めておきたい。

……という構図で、現在の動きをながめると、それなりに説明がつく。
すでに世界は、ポスト金xxのK国を念頭に、動き始めている。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2546)

【私の中の私】("Me" in me)
There are two "Me" in me. One is "Me", which is not myself. Another "Me" is me which is 
myself. Sadly 99.99% of "Me" is me which is not myself, or controlled by the brain deep 
inside myself. Then how can we seek and seize "Me", which is myself.

●スズメはスズメ

(私)の中には、(私であって、私でない部分)と、(私であって、私である部分)がある。
そのことは、庭に遊ぶ、スズメを見ればわかる。

北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
それぞれのスズメを見ていると、それぞれに個性があり、自分勝手なことをしているように見え
る。
が、どのスズメも、スズメという(ワク)の中でしか、生きていない。

あるいは江戸時代のスズメも、現在のスズメも、スズメはスズメ。
その時代、時代に、生きた環境は多少異なっているかもしれない。
が、どの時代のスズメも、スズメという(ワク)の中で、生きてきただけ。

もう少しわかりやすい例で、説明してみよう。

●遅れている?

15年近くも前のこと。
子ども(生徒)たちと、こんな会話をした。

1人の子ども(中1、女子)が、私にこう聞いた。
「先生、TOKIOって、知っている?」「SMAPって、知っている?」と。

こういう質問を受けたときには、私は、知っていても、「知らない」と答えるようにしている。
とくに理由は、ない。
そういう質問に答えるのが、面倒だからだ。

すると子どもたちは、こう言った。
「先生って、遅れているウ〜」と。

そこで私は子どもたちに、こう言った。

「ぼくたちの時代にも、西郷輝彦とか舟木一夫とかいうのがいたよ」と。

子「そんな人、知らな〜イ」
私「だろ……。でもね、10年後か、20年後か、いつかはわからないが、君たちも、自分の子ど
もと、同じような会話をするかもしれないよ」
子「私たちは、遅れていないわよねエ〜」
私「いいや、そうじゃない。君たちの子どもが、こう言う。『ママ、UPJOP(ユプジョップ)って知っ
ている?』と。そのとき君が、「そんなの知らない」と答えたら、きっと君たちの子どもも、こう言う
よ。『ママって、遅れてるウ〜』とね」

子「何?、先生、そのユプジョップって?」
私「『TOKIO』のアルファベットを、1文字ずつ、つぎの文字に置き換えたものだよ。Tのつぎ
は、Uだろ。Oのつぎは、Pだろ……」
子「そんなグループは、ないわよ」
私「ううん、ひょっとしたら、いつかそういうグループができるかもしれない」と。

私たちの世代が、西郷輝彦や舟木一夫に夢中になったのも、そのときの子どもたちが、TOKI
OやSMAPに夢中になったのも、一歩退いて見れば、同じ。
同じ(ワク)の中で、そのつど、同じように動かされていただけ。

●化粧を始めた女性

もう一つ、例をあげてみよう。

先日も電車に乗るやいなや、座席に座って、化粧を始めた若い女性がいた。
バッグから鏡と小物入れを取り出し、せわしそうに、顔をいじり始めた。

そのときもし、私がその女性にこう聞いたら、きっと、その女性は、こう答えるにちがいない。

私「あなたは、自分の意思で、化粧をしているのですか?」
女「はい、もちろん、そうです」と。

しかし実のところ、その女性は、もっと内なる力によって、動かされているにすぎない。
自分では意識しない、もっと内なる力によって、だ。

澤口俊之氏(「したたかな脳」日本文芸社)によれば、「私の意思」と思っているその意思ですら
も、実は、そのつど、前もって、脳の中で、先に作られているそうだ。

たとえばテーブルの上に、ミカンがあったとしよう。あなたは、そのミカンに手をのばし、それを
取って食べようとしたとする。

そのとき、あなたは、こう思う。「私は自分の意思で、ミカンを食べることを決めた」と。

が、実は、そうではなく、「ミカンを食べよう」という意思すらも、脳の中で、先に作られ、あなた
は、その命令に従って、自分の意思を決めているにすぎない、と。

つまり意思を決める前に、すでに脳は、前もって、その意思を決めるための活動を始めている
ということになる。

今では、脳の中を走り回る、かすかな電気信号や化学物質の変化などもは、機能MRIや、PE
Tなどによって、外から、計数的にとらえることができる。

つまり(私の意思)と思っている(意思)ですらも、繰りかえすが、実は、それ以前に、脳の中で
先に作られているということ。

先の若い女性の例で言うなら、その女性は、自分の意思で電車の中で化粧を始めたつもりで
いるかもしれないが、実は、それ以前に作られた命令によって動かされているだけということに
なる。

その意思を前もってつくる部分、それがここでいう(私であって、私でない部分)ということにな
る。

●99・99%

こうして考えてみると、(私)の中のほとんどの部分は、(私であって私でない部分)ということに
なる。
計数的に表現するのは正しくないかもしれないが、99・99%は、(私であって私でない部分)と
考えてよい。

私やあなたしても、その(ワク)の中で、生きているだけ。
生かされているだけ。

北海道の人も、沖縄の人も、人間は人間。
それぞれの人を見ていると、それぞれに個性があり、自分勝手なことをしているように見える。
が、どの人も、人間という(ワク)の中でしか、生きていない。

あるいは江戸時代の人も、現在の人も、人間は人間。
その時代、時代に、生きた環境は多少異なっているかもしれない。
が、どの時代の人も、人間という(ワク)の中で、生きてきただけ。

●私自身のこと

たまたま今日の午後、古いビデオを見た。
アメリカ映画だったが、猛烈社員をテーマにした映画だった。
その猛烈社員は、寸陰を惜しんで、仕事をする。
恋人とデートをする時間もない。
どこへ行くにも、携帯電話とパソコンをもって歩く。

そのビデオを見ていたとき、ふと、私は横にいたワイフに、こう漏らした。
「若いころのぼくに、そっくり」と。
するとワイフが、すかさず、「そうね。あなたみたいね」と。

そう、あのころの私は、いつも何かに追い立てられるように、仕事ばかりしていた。
1か月で、休みが、1日だけという月も、何年も、つづいた。

もちろんそれがムダだったとは思わない。
私は私なりに懸命に生きた。
が、不思議なことに、それほどまでに懸命に生きたはずなのに、今、思い出してみると、何も残
っていない。
部分的に、(事実)が、記憶としては、残っている。
アルバムに張られた写真のように、事実としての思い出は、残っている。

が、それだけ。
それ以外に何もない。
そこで私はワイフにこう言った。

「この男性も、いつか、自分のしていることの空(むな)しさに気づくだろうか」と。

●では、(私)はどこに?

私「どうしてだろ?」
ワ「どうしてって?」
私「いいか、ぼくはみなより、何倍も、濃い人生を生きたと思う。でもね、何も残っていない。どう
してだろ?」
ワ「あなたがいつも言っているように、あなた自身が、操られていただけだからよ」

私「……そう、そう思う。このビデオを見ながら、それに気がついた。この男性にしても、自分の
意思で、仕事をしていると思っているかもしれない。しかし実際には、(私であって、私でない部
分)に、操られているだけ」
ワ「もっと大きな力によって?」
私「大きな力というより、もっと内に潜む力によって、だ」と。

さらに最近の研究によれば、たとえば私たちが感ずる食欲にしても、脳のある部分が、コントロ
ールしていることがわかってきた(ハーバード大学、J・S・フライヤー、E・マトラス・フライヤ
ー)。

脳のある部分というのは、視床下部のことだが、その視床下部が、血中のグルコースやインス
リン、コレシストキニン(CCK)、さらには消化器系由来のホルモンなどを監視しながら、そのつ
ど、脳のほかの部分に向かって、シグナルを出す。

そのシグナルに応じて、脳が(意思)を決め、それをさらにつぎの段階へと、シグナルを送る。
私たちが、「おなかがすいた」「何かを食べたい」と意識するのは、そのあと、ということになる。

これは食欲のメカニズムだが、こうしたシグナルは、何も食欲にかぎらない。
もちろん性欲も、その中に含まれる。

●性的エネルギー

あのジークムント・フロイトは、人間の生きる源泉に、性的エネルギーがあると説いた。
言いかえると、性的エネルギーこそが、人間の生きる源泉である、と。

これに対して、フロイトの弟子の、ユングは、「生的エネルギー」という言葉を使い、この見解の
相違が、2人の間を決定的に遠ざける結果となった。

それはともかくも、生存欲が人間の生きる原点であるとするなら、フロイトの学説は、まさにそ
の要点をついたことになる。

(生存欲)イコール、(性的エネルギー)ということになる。
そして私たちの日常的な行動のほとんどは、この(性的エネルギー)によって支配されている。

若い女性が化粧をするのも、若い男性が、スポーツで励むのも、そこにいつも異性を意識する
からにほかならない。「意識する」というよりは、「性的エネルギーに操られて意識する」と言い
かえたほうが、正確かもしれない。

で、この性的エネルギーには、ものすごいパワーがある。
大脳には前頭前野という部分があって、この部分に、理性の中枢があるとされている。
が、理性などでコントロールされるような代物ではない。

たとえば若い男性が、美しい女性の裸体を見たとする。
そのとき若い男性の脳の中では、ドーパミンというホルモンが大量に分泌される。
それが脳の線状体という部分を、刺激する。
線状体というのは、(報酬と行動欲求に関係する部分)、つまり条件反射を司る部分と考えると
わかりやすい。

その反応がいかにパワフルなものであるかは、たとえばタバコ中毒になった人や、アルコール
中毒になった人を見ればわかる。

もし理性だけの力で、タバコをやめたり、酒をやめたりすることができるようなら、この世の中
には、タバコ中毒の人も、アルコール中毒の人も、いないということになる。

若い男性が、美しい女性の裸体を見たときも、脳の中では、まったく同じ反応が起きる。空腹
なとき、食物を見たときも同じ(同、ハーバード大学、J・S・フライヤー、E・マトラス・フライヤ
ー)。

だから、知性や理性もじゅうぶんあるような大学の教授ですらも、セクハラ事件を起こしたりす
る。
手鏡で、若い女性のスカートの中を、のぞいたりする。

●では「私」はどこに?

となると、たとえ0・01%ではあるにせよ、(私であって私である部分)は、どこにあるかというこ
とになる。

それを説明するために、もう一度、スズメに登場してもらう。

今一度、庭で遊ぶスズメを、よく見てほしい。

それぞれのスズメには、たしかに個性がある。
それぞれがそれぞれに、好き勝手なことをしている。
キーウィの枝の間を飛び回るスズメ。
畑の脇をチョンチョンと跳ねながら、餌をさがすスズメ、などなど。

しかしスズメは、スズメ。

が、もしそのとき1羽のスズメが、スズメであるという(ワク)を超えて、たとえば水瓶の中に潜っ
て、水遊び始めたとしたら、どうだろうか。
あるいは、花の花びらを一枚ちぎり、それで身を飾ったとしたら、どうだろうか。

そのスズメは、(ワク)を超えて、自分らしさを追求し始めたということになる。
が、それだけでは足りない。

水瓶に潜るにしても、花の花びらを一枚ちぎり、身を飾るにしても、スズメの中の(性的エネル
ギー)によって、操られただけかもしれない。

そこでそのスズメがつぎに、こうしたとする。

餌をついばみ、その餌を、近くにいる年老いたスズメのところへもっていったする。
そしてその餌を、その年老いたスズメの前に、置いたとする。
そのときそのスズメは、あえて(私であって、私でない部分)に逆らったことになる。
(私であって、私でない部分)は、いつも、自分勝手でわがまま。
もともと生存欲、つまり性的エネルギーといったものは、そういうもの。
それがわからなければ、子どもの受験勉強で狂奔している親たちを見ればよい。

彼らとて、また、性的エネルギーの奴隷に過ぎない。
「うちの子さえよければ、それでいい」
「他人をけ落としてでも構わない」と。

……ということで、答は、もうおわかりのことと思う。

つまり(私であって、私である部分)というのは、(私であって、私でない部分)に逆らった部分に
あるということ。
もっと言えば、(私であって、私でない部分)が、「したい」と思うことを、否定する。その否定する
ところから、(私であって、私である部分)が、生まれる。

●「私」を知る実益

こう書くと、では何のために、(私であって、私である部分)を知るのかという疑問をもつ人がい
るかもしれない。

実は、ワイフも私にそう聞いた。

「それがわかったからといって、それでどうなるの?」と。

実は、この問題は、「どうなるの?」程度では、すまない。
生きることの根幹に関わる問題が隠されていると言っても、過言ではない。

もし私やあなたが、いつも(私であって、私でない部分)に操られるまま生きているとするなら、
私やあなたは、「ただの人(das Mann)」(ハイデガー)ということになる。
わかりやすく言えば、(ワク)の中で生きているだけ。
生かされているだけ。

江戸時代のほとんどの人が、そうであったように、明治時代のほとんどの人が、そうであったよ
うに、私やあなたは、「ただの人」。

自分ではそう思っていないかもしれないが、あるいは自分では、「私だけはちがう」と思っている
かもしれないが、そう思っているのは、私やあなただけ。

それがわからなければ、あなたが死んだあとのことを、ほんの少しだけ頭の中で、想像してみ
ればよい。
死んだあとの、10年後とか、20年後でも、よい。
あるいは反対に、10年前、20年前に死んだ、あなたの知人や友人を思い浮かべてみればよ
い。

「ただの人」というのは、そういう人をいう。

つまり(私であって、私である部分)を知ることによって、その「ただの人」であるという(ワク)を
超えることができる。が、それだけではない。

●2つの実益

もう少し具体的に言えば、(私であって、私である部分)を知ることには、2つの実益がある。

ひとつは、自分らしく生きることができるということ。
「私は私」として生きることができる。
いつか「私は私の人生を生きた」という実感を、自分のものとすることができる。

この価値は大きい。
それを説明する前に、もう一度、私の若い時代の話を思い出してほしい。
私は、ビデオの中の男性のように、猛烈に働いた。
一時は、まさに餓鬼のかたまりのような人間だった。

しかし今、振り返ってみると、そこには、何も残っていない。
先ほども書いたように、(事実=記憶の1コマ)としての思い出はある。

たとえば少し前も、私が、TOYOTAのビッツ(もっとも安い車)に乗っていることを知って、1人
の子ども(小5男児)が、こう言った。

「ビッツ〜ウ?」と。
明らかに、私をバカにした言い方だった。

そこで私はこう言ってやった。

「ぼくはね、君たちは信じないかもしれないが、30歳のころは、リンカーン・コンチネンタルとい
う車に乗っていたよ。運転手つきだったよ。どんな車か、知っているか? 当時は、バスほども
ある長い車だったよ」と。

私はその車で、東京と浜松の間を、週に1、2度は往復した。

そういう思い出は、(事実)として残っている。
が、しかしそれだけ。
何も残っていない。
恐ろしいほど、何も、残っていない。

●私が私であったとき

ただそのとき、(私であって、私である部分)が、ひとつだけあった。
「これは私だ」と言える部分である。
それはワイフが指摘してくれた。
ワイフがこう言った。

「あなたが社会の流れに背を向けて生き始めたときが、そうね」と。

結果としてみると、それがよかったのか悪かったのかはわからない。
しかし私はあるとき、こう心に決めた。
「私ひとりくらい、社会に背を向けて生きる人間がいてもよいのではないか」と。

今でこそ、フリーターという言葉がある。
しかし当時の日本で、あえて(流れ)に逆らって生きる人間は、ほとんどいなかった。
私が三井物産という会社をやめて、幼稚園の講師になったときも、私を知っている人たちは、
みな、こう言った。
「あの林は、頭がおかしくなった」と。

当時は、そういう時代だった。
そういう時代の中で、私は、あえて心に誓った。

「生涯、肩書きや地位とは無縁の世界を生きてやろう」と。

ワイフは、それを指摘した。

「そのときのあなたは、(私であって、私である部分)をつかんだのかもしれないわ」と。

●生きがい

そして、もうひとつの実益。

もし「ただの人(das Mann)」で生きるなら、それでは生きたことにはならない。
仮に20年を生きたとしても、30年を生きたとしても、20年とか、30年を、1日にして生きたに
すぎない。

しかし「私であって、私である部分」で生きた人は、たった1日でも、その1日を、20年として、
あるいは30年として生きることができる。
けっして、大げさなことを言っているのではない。

(生きる)ということは、(死を乗り越えて生きる)ことをいう。
死ぬことを恐れてビクビクして生きるというのであれば、すでにその人は死んでいることにな
る。

私がそう言うのではない。
あのキング牧師が、そう言っている。

「死ぬための何かを発見できなかった人は、生きる価値はない(If a man hasn't discovered 
something that he will die for, he isn't fit to live. ー Martin Luther King Jr.)」と。

もう少しわかりやすい訳をつけると、こうなる。

「命がけでできることを発見できない人は、生きていてもしかたない」と。

この言葉を逆に読むと、こうなる。

「そのために死ぬことができる、何かを発見した人こそが、本当に生きていることになる」と。

さらに「命がけでできることを発見した人は、死すらも克服できる」とも読める。

わかりやすく言えば、私たちは死ぬことを恐れる必要はない。
恐れなければならないことは、死ぬことではなく、死ぬまでにどう生きるか、それがわからない
こと。
命がけでできることを、発見できないこと。
それこそ、まさに恐怖。
生き地獄!

(私であって、私である部分)を知ることによって、ひょっとしたら、私やあなたは、(死の恐怖)
すらも、乗り越えることができる。

●愛、慈悲、そして仁

99・99%の人は、99・99%の生活の中で、(私であって、私でない部分)に振り回されている
だけ。
振り回されていると気づくこともなく、振り回されているだけ。
その(ワク)の中で、生かされているだけ。

そういう意味では、私たち人間も、庭に遊ぶスズメと、どこもちがわない。
あるいは、どこがどうちがうというのか。

そこでもう一度、(私であって、私でない部分)を考えてみる。
考えてみるが、輪郭(りんかく)が、なかなか見えてこない。
それもそのはず。

(私)を知るということは、それほどまでにむずかしい。
そう簡単にはできない。
ソクラテスもそう言っているし、ギリシアのターレスもそう言っている。
『汝自身を、知れ』と。
私を知ることは、哲学の世界でも、究極の目標にもなっている。

しかし、その反対側にあるものなら、わかる。
(私であって、私でない部分)の反対側にあるもの、である。

そのためには、まず、(私)から(私)を取り去ってみる。
徹底的に、取り去ってみる。
その結果残るのが、「無私の世界」。
この無私の世界から、もう一度、私をながめてみる。

(私であって、私でない部分)をすべて取り去り、その上で、あえて、(私であって、私でない部
分)が求めることと、反対のことをしてみる。
わかりやすく言えば、(私であって、私でない部分)がしたがること、つまり人間が本来的にもつ
(どん欲さ)に対して、あえて、反対のことをしてみる。

(どん欲)さの反対側にあるものを、「自己犠牲」というのなら、自己犠牲でもよい。
その自己犠牲の中でも、究極の自己犠牲が、キリスト教でいう、「愛」であり、仏教でいう、「慈
悲」ということになる。儒教でいう、「仁」にも通ずる。

●終わりに……

ここに書いたことにしても、私個人にとっては、いわば努力目標のようなもの。
だからといって、私は、生きがいを手にしたことにはならない。
死を克服したことにもならない。
キリスト教でいう「愛」がわかったわけでも、仏教でいう「慈悲」がわかったわけでもない。

もちろんそれらを実践しているわけでもない。

道のりは、まだまだ遠い。
やっと山のふもとの、その入り口にたどりついたようもの。
しかし、ここに書いたことは、おおかたの点では、まちがっていないと思う。

あのサルトルにしても、意識から、自我(=私)を取り除こうとし、死を克服する手段として、最
終的に、「無の概念」に到達する(『存在と無』1943)。

そのために、いかにして「無私」の状態をつくるかということ。
それが(私であって、私である部分)を知るための、第一歩ということになる。
そこにほんの少しでも打算が混入すれば、その時点で、「無私」は、霧散する。
(私であって、私でない部分)に操られた奴隷に、なりさがる。

ともかくも残り少ない人生。
私の人生も、秒読みの段階に入った。
今のままでは、この先、20年とか30年を、1日にして生きることになってしまうかもしれない。

何としても、そういう無様(ぶざま)な人生を送ることだけは、避けなければならない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 無私 愛 慈悲 仁 私であって
私でない部分 私論 はやし浩司)

(付記)

今日(4月12日)、ワイフとドライブをしながら、こんなことも話した。

ワイフが、「あの世ってあるの?」と聞いた。
それに対して、私は、「不治の病か何かになって、生きる可能性が、1000に一つもないと言わ
れたら、ぼくは、あの世が、1000に一つあるという可能性に、自分の希望をつなぐよ」と。

ひょっとしたら、あの世はあるのかもしれない。
この世そのものが、大宇宙という、(ありえない世界)であるとするなら、あの世のほうが、ずっ
と現実味のある世界ということになる。

その可能性は、1000にひとつどころか、もっと高い。
反対にこの世のほうが、幻覚(?)ということも考えられる。
私たちは光と分子の織りなす、幻覚の世界で、生きている(?)。

「謎は、死んだときにわかるかもね」
「それまでのお楽しみね」と。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2547)

●今朝・あれこれ(4月13日)

●「無」の世界(The World of "Nothing")
This universe was born from nothing, or the smallest dot or line. Whatever it is, if so, our 
exisitance stands on this "Nothing". Then we ask ourselves, what we are. Some people say, 
there is another world beyond this world. But from that another world, this world where we 
live is another world itself. Is there another world beyond this world?

+++++++++++++++++

昨夜、こんなことを書いた。

「ひょっとしたら、あの世というのは、
あるのかもしれない」と。

私にとっては、生まれてはじめて書いた
言葉である。

理由がある。

私たちは今、大宇宙と呼ばれる、この宇宙の
中で生きている。
空の星々を見れば、それがわかる。

しかしこの大宇宙は、一説によると、
ビッグバンと呼ばれる、大爆発によって
生まれたものだという。

この説を疑う学者はいないが、問題は、
それ以前の宇宙は、どうであったかということ。

これについては、いろいろな説がある。
あるが、共通している点は、最初は、
「無」もしくは、それに近い状態であったということ。
それが爆発して、現在のような大宇宙になった?

何とも不可思議な世界だが、言いかえると、
私たちの存在そのものも、その不可思議な世界を基盤と
しているということになる。

逆に、こんなふうに考えてみてもよい。

よく「宇宙には果てがない」という。
しかし宇宙の向こうに、別の宇宙があるというわけでも
ないらしい。
ホーキング博士によれば、私たちが住んでいるような
大宇宙は、ここにも、そこにも、どこにでもあるという。
しかも、それが無数にあって、まるで泡(バブル)の
ようになっているという。

そこに見えないからといって、簡単に否定してはいけない。

そもそもこの宇宙では、時間も、空間も、アテにならない。
「時間」といっても、それは人間にとっての時間であって、
絶対的な時間ではない。

人間がいう「1秒」の間に、誕生から死まで繰りかえす
生物だっているかもしれない。
もし人間が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、
私たちは、その「1秒」を使って、3100万年分も
生きることができる※。

(3100・万・年だぞ!)

空間にいたっては、さらにアテにならない。

私たちが見ている、この世界にしても、
「見ている」と思っているだけで、
実は、何も見ていないのかもしれない。
わかりやすく言えば、「見ている」と思っているのは、
脳の後頭部にある視覚野に映し出された
電気的信号を、大脳が知覚しているにすぎない。

「見えないから何もない」と言うのは、
幼児のたわごとにも、ならない。

が、ホーキング博士が言う、別の宇宙を、
私たちは、知ることも、見ることもできない。
私たちの宇宙から見れば、そこは「無」の
世界ということなる。

(この宇宙にしても、もともと「無」であった
ものが、2つに分かれて、今の大宇宙を作った
という説もある。)

が、このことを反対に言えば、向こうの宇宙から見れば、
私たちの宇宙のほうが、無の世界という
ことになるのでは?

どちらが「無」なのかと論じても、意味はない。
それはたとえて言うなら、日本人とアルゼンチン人の、
どちらが逆さまに立っているかを論じるようなもの。

日本人から見れば、アルゼンチン人は、逆さまに
立っていることになる。
アルゼンチン人から見れば、日本人のほうが、
逆さまに立っていることになる。

もう少しわかりやすく言えば、こうだ。

日本からアルゼンチンを見れば、アルゼンチンは
外国(=あの世)ということになる。

しかしアルゼンチンから見れば、日本は外国(=あの世)
ということになる。

しかし、現実には、私はここにいる。
あなたは、そこにいる。
この世であろうが、あの世であろうが、
私は、ここにいる。
あなたは、そこにいる。

……と考えていくと、何がなんだか、わけが
わからなくなってくる。

もっと言えば、私たちの存在すらも、わけの
わからないものになってくる。

私たちが住むこの宇宙が無であるとするなら、
私という存在も、無ということになってしまう。

が、現実に、私は、この世に住んでいる。
「無」ではない。
だとするなら、私があの世にいても、何も、おかしくない。

(ゾーッ!)

つまりあの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

もっとはっきり言えば、この世があるなら、
あの世があっても、何もおかしくないということになる。

ただ誤解しないでほしいのは、ここでいう(あの世)
といっても、どこかのカルト教団の人たちが
好んで使う(あの世)ではないということ。
天国とか、極楽とかいう概念とも、ちがう。

さらに仮に死んだあと、あの世へ行くにしても、
今、私たちがもっている意識が、そのまま
連続性をもって、つながっていくとはかぎらない。

「意識」といっても、脳の中をかけめぐる
電気的信号に過ぎない。
死ねば同時に、こうした信号は、光となって空中に霧散する。
その時点で、「私」という意識は、消滅する。

私がここでいう「あの世」というのは、
そこにある「無」の世界の中の、別の大宇宙ということ。

するとまた、謎が振り出しに戻ってしまう。

あの世がこの世かもしれない。
この世があの世かもしれない。

今住んでいる、この世界が、すでにあの世かも
しれない。
となると、私たちは、かつてこの世に住んでいたことになる?

????????????????

わけがわからなくなってきたので、この話は、ここまで。

アインシュタインは、「問いつづけることこそが
大切」と言った。

私も、この先、この問題については、問いつづけて
みたい。

この世はあの世なのか。
あの世はこの世なのか、と。

+++++++++++

※「フェムト秒」という言葉を
最初に教えてくれたのは、
田丸謙二先生です。

それについて書いた原稿です。

+++++++++++

●フェムト秒

 ある科学の研究者(田丸謙二先生のこと)から、こんなメールが届いた(02年9月)。いわく…


「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独のジョ
イントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノーベル
賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 今は固体表面に吸着し
た分子一個一個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起こさせたり、フェムト秒
単位(一秒を10で15回繰り返して割った短い時間)でその挙動を追っかけたり、大変な技術が
発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェムト秒
単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。

ただ、(1)の分子を見ることについては、もう二〇年前から技術的に可能という話は、その研
究者から聞いていたので、「へえ」という驚きでしかなかった。しかし「フェムト秒単位の観察」と
いうのには驚いた。

わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒
になるという時間である。反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらにかみくだい
て言えば、1000兆秒というのは、この地球上の3100万年分に相当する。計算するだけで
も、わけがわからなくなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察で
きる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題を、考えざるを
えなくなってしまう。もし人間が、1フェムト秒を、1秒にして生きることができたら、そのたった1
秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だった。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中がガ
チガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけでも、地球
の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から数百万年も
かかる。

しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たちがゆっく
りと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自然に動いて
いると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとしても、
あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間に、地球上
の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅しているかもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私は今、カチカ
チカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短い時間だが、もしフ
ェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチまでの間に、3100万年を過
ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチまでを一秒と、だれが、いつ、どのよう
にして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在することがわ
かっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次元、そし
てそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できない。)ここでい
う時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。たとえばロケットに
乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。

しかしその宇宙の果てに近づけば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケットに乗っ
ている人の動きは、(たとえば地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめまぐるしくな
る。地球の人間が、一回咳払いする間に、ロケットの中の人間は、数百回も世代を繰り返す…
…、あるいは数千回も世代を繰り返す……、つまりいつまでたっても、ロケットの中の人間は、
地球から見れば、ほんのすぐそばまで来ていながら、宇宙の果てにはたどりつけないというこ
とになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者からメール
を受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。

私のような素人でもわかることは、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。これを人
間にあてはめてみると、よくわかる。たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分過ごすのと同
じくらい、密度の濃い人生にすることができる人がいる。

反対に一〇年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりやすく言うと、不治の
病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その一年を、ほかの人の三〇年分、
四〇年分に生きることも可能だということ。反対に、「平均寿命まで、あと三〇年。あと三〇年
は生きられる」と言われながらも、その三〇年を、ほかの人の数日分にしか生きられない人も
いるということ。どうも時間というのは、そういうものらしい。

いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万年分の人生を
送ることができたらと思う。もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を長くすることはでき
る。仮にもしこの1秒を、たったの2倍だけ長く生きることができたとしたら、私は自分の人生
を、(平均寿命まであと30年と計算して)、あと60年、生きることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。幼児が
過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人がもつ時間の
単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる1秒は、私たちの感ずる1
秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、たった1日で
も、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいはもっとかもしれな
い。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく理解
するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。
(02−9−17)※


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2548)

●人間主義vs自然主義(Humanism vs Naturalism)
Human-beings are not the superior to other animals. Human-beings are also a part of 
nature and therefore human-beings can not exisit apart from the nature. Now is the time 
when it is very important for the Japanese to take Naturalism instead of Humanism.

++++++++++++++++++

人間は、万能?
万物の霊長?
人間だけが、最高の生物?

とんでもない!

そういう発想が支配的になったのは、
イギリスでの産業革命以降のこと。
その代表格となったのが、フランシス・
ベーコン。
1561〜1626年の人物である。

フランシス・ベーコンは、「自然征服論」
を書き、「知識と科学で、自然を支配、
征服することができる」と唱えた。

『知は力なり』という有名な言葉も、
残している。

その流れは、やがてアメリカに伝わり、
戦後、日本にそのまま移植された。

その象徴となったのが、田中角栄の
「列島改造論」。
その結果、小さな小川ですら、コンク
リートで埋め尽くされた。

私たち日本人がもっている自然観は、今でも、
おおかた、その(流れ)の中にある。
だからこの日本では、「近代化」といえば、
立ち並ぶビルや、その間を縫うように
して走る、高速道路のことをいう。

が、こうした常識は、けっして世界の
常識ではない。

たとえば、ミシェル・フーコがいる。
1926〜1984年の人物である。
彼はいわゆる「人間主義」に疑問を
いだき、その人間主義からの訣別を
唱えた。

ミシェル・フーコが自然主義の代表格というわけ
ではないが、こうして人間主義と自然
主義が、今、するどく対立している。

が、一度、作られた意識というのは、
そうは簡単に、変えられない。
5、6年も前のことになるが、1人の
オーストラリア人が、私にこう聞いた。

「ヒロシ、どうして日本では、山を
コンクリートで覆うのか」と。

日本人には見慣れた景色でも、オースト
ラリア人にとっては、そうでない。
それにそのオーストラリア人は、驚いた。

そこでミシェル・フーコは、こう説いた。
「人間は、それほどまでに完全な動物
なのか」と。

答は、「NO!」。

むしろ、知恵が働く分だけ、人間は
ほかの動物たちより、邪悪な生物かも
しれない。
さらに優劣ということになると、何を
もって、「優」といい、何をもって、
「劣」というか、その基準がよくわからない。

人間が優秀なのは、人間に対してだけ。
そういう意味では、つまり人間という
動物を総合してみると、人間ほど、
自己中心的な生物はいないということに
なる。

よい例が、捕鯨問題である。

「クジラがふえれば、水産資源が減る」と
説く日本政府。
「だからクジラは殺してもいい」と説く
日本政府。

そうした発想は、山を切り刻み、谷を埋め
尽くし、高速道路ばかりを作る、あの列島
改造論の延長線上にある。

そうそう、その人間主義で思い出したが、
ほとんどの幼稚園児は、人間は、他の動物たち
とはちがうと考えている。

「人間も、動物の仲間だよ」と教えても、
「ちがう」と言う。
「人間は、動物ではない」と。

人間も、動物の仲間である。
それ故に、人間も自然の一部である。
人間は、自然を離れて、人間では、ありえない。

で、冒頭に書いたことに話がもどるが、
人間は、万能ではない。
万物の霊長でもない。
人間だけが、最高の生物というのは、
明らかに、まちがっている。

だから山の中に、一本の道路を通すに
しても、私たち人間がまずすべきことは、
そこに住む動物たちに許可を求める
ことである。

もちろん動物たちは何も言わない。
しかしそうであるならなおさら、私たちは
動物たちに謙虚でなければならない。

捕鯨問題にしても、「クジラがふえれば、
水産資源が影響を受ける」というのは、
あまりにも短絡的。
身勝手。
自己中心的。

タイトルに、「人間主義vs自然主義」と
書いたが、現在深刻な問題となりつつある
地球温暖化(火星化)の問題にしても、
結局は、人間主義がもたらした弊害と
いうことになる。

人間主義に洗脳されてしまった私たち
日本人。
その日本人の私たちには、むずかしいこと
かもしれないが、今こそ、自然主義に立ち返る
べきときに、来ている。

最後に、一言。
あの長岡半太郎ですら、「(自然に)抗するものは、
容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

今一度、長岡半太郎の言葉を、ここで読み返して
みようではないか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 人間主義 自然主義 長岡
ベーコン ミシェル フーコ)

+++++++++++++++

少し前にも取りあげましたが、
原稿を一作、掲載します。

私が9年ほど前に書いた原稿
です。

+++++++++++++++

●ゆがんだ自然観

 もう二〇年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよ
う」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を
見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育
が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。

が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコ
ン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには一七四〇年
に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、
日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんど
ん破壊された。埼玉県では、この四〇年間だけでも、三〇%弱の森林や農地が失われてい
る。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住
む動物や植物の了解を求めてからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつこと
である。

少なくとも森の中の高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしまし
ょうね」は、ない。そういう人間の身勝手さは、もう許されない。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●入学金未納で、入学式に出られず(Two students couldn't attend its entrance ceremony, 
since the payment is not finished. But why?)

++++++++++++++++

C県の、ある県立高校で、こんな
事件が起きた。

その高校で、入学金が未納だった
2人の男女の学生が、入学式に
出られなかったというのだ。

TBS―iニュースは、つぎのように
伝える。

『この高校はC県立Y高校です。この高校では、
新入生に対し、今月8日の入学式に入学金や
教材費など9万円を持ってくるように伝えて
いましたが、男女2人の生徒が、経済的な理由などで
当日お金を持ってきませんでした。

このため高校では、2人の入学手続きが済んで
いないとして式に出席させず、別の部屋で待機
させました』(TBS−i・ニュース、4月
13日)と。

学校側は、「入学金を納入された時点で入学を
許可するという規則に従って、やむを得ず
こういう措置をとらせて頂きました」(Y高校
S教頭)と説明している(同・ニュース)。

また県の教育委員会も、「生徒と保護者には
つらい思いをさせてしまったが、やむを得ない
判断だった」(同)と。

++++++++++++++++++

ここに書いてある以上のことは、私にはわからない。
わからないが、入学室の当日、その2人の学生は、高校へ来ていたわけだから、その2人の
学生は、当然、入学許可がおりたものと思っていたらしい。
またその旨の通知も、学校側からあったということになる。

しかし学校へ出かけてみると、「君たちは、入学金を払っていないから、入学式には出られま
せん」と。

学校側は規則を盾にとって、「やむを得ず」という言葉を使っている。
それに呼応して、教育委員会のほうも、「やむを得ない判断だった」と。

しかし……。
その2人の学生に与えたショックは、いかばかりのものであったか?
入学式にも出られず、別室で小さくなっている2人の姿を、想像してみればよい。
さぞかし、つらい思いをしたことだろう。
それにどういう事情があったかは知らないが、「入学金が払えなかった学生」という汚名は、し
ばらくは消えない。

もっとも、今、こうした事件とは反対に、授業料を払わない学生も、急増している。
授業料を6か月以上滞納した学生については、出席停止処分にしている県もある(北海道な
ど)。
貧困が理由だけではない。
中には、授業料を払えるにもかかわらず、払わない親もいるという。

T県の(給食費未納問題)に関するデータだが、「経済的な理由での未納者は、未納者のうち
の、33・6%。保護者の責任感や規範意識の問題と思われるのが、何と60・3%。まさに保護
者としての責任放棄と言っても過言ではありません」(T県、県議会報告書より)と。

何と60%の親たちは、払えるにもかかわらず、払っていないというのだ。

もちろん先の2人の学生の親たちが、そうであったと言っているのではない。
しかし学校側からすると、経済的な理由によるものなのか、親の責任放棄によるものなのか、
その時点では、区別できない。
(報道によれな、「経済的な理由」とはなっているが……。)
「やむを得ない判断だった」という言葉は、そういうところから生まれたのだろう。

が、現実は、さらにきびしい。

「受けていた奨学金も家の生活費に回され、高校に行きたくても授業料が払えないからやめざ
るを得ないという高校生」(同、県議会報告書)も多いとか。

つまりこの問題は、それぞれの家庭の事情と、学校側の事情が複雑にからみあっている。
ニュースの記事だけを読んで、どちらがどうのと、安易に判断をくだすことはできない。
できないが、これだけは言える。

仮に貧困が理由であったとするなら、(だからといって、その2人の学生がそうであったと言って
いるのではない。念のため)、貧困であることは、その学生たちの責任ではない。
ひょっとしたら、親の責任でもない。

この世の中には、働いても働いても、どうにもならない人というのは、ゴマンといる。
ザルから水がこぼれるように、お金のほうが逃げていく人は、ゴマンといる。
不運と不幸が、さらに追い打ちをかけることもある。

「入学金が未納だから、入学式には出られません」ではなく、そのあたりの事情を、もう少して
いねいに、学校側は、調べるべきだった。
電話一本ですむ話ではなかったか?

学生たちに与えるショックの大きさを考慮するなら、それくらいの配慮はあってもよかったので
はないかと思う。

さらにつけ加えるなら、この事件は、県立高校で起きたという点である。
私立高校ならまだしも、こうした入学金や授業料が未納になったからといって、校長以下、教
職員の給料に影響が出るというわけではない。
だったらなおさら、(だからといって、親たちがそれに甘えてもいけないが)、もう少しおおらかに
構えればよかった。

ちなみに私の教室では、両親のうち、どちらか一方が、病気や事故で亡くなったばあい、高校
3年生まで、無料で教えることにしている。
(しかし実際には、無料にするというと、生徒のほうがそれを負担に感ずるようなので、半額に
するというケースが多い。)
今までもそうしてきたし、これからもそうする。

公的な援助を1円も受けていない私だって、そうしている。
いわんや「県立」高校をや!

それくらいの(やさしさ)は、みな、もってほしい。
言うまでもなく、その国のレベルは、弱者にいかにやさしいかで決まる。
教育のレベルも、また同じ。

(付記)

成功者も、そうでない人も、ちがいは、(紙一重)。
今、成功者と思っている人でも、明日のことはわからない。
事故や病気にしても、確率の問題。

「学校の教師」という、きわめて恵まれた職場環境にいる人にはわからないかもしれないが、世
の中は、もっと別の基準で動いている。

「規則だから……」という理由だけで、世の中は、動いているのではない。
規則のない世界で生きている人のほうが、はるかに多い。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●親が子育てできなくなるとき 

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。

あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母親す
らいた。また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸
な家庭を経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」
のない人とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押
しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九八年の夏、一度妊娠したことがある。
が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで
きるかどうか」(新聞報道)だった。

人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができない。チンパンジーのような、頭のよい
動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回るのもいるという。いわんや、人間を
や。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分
でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。……と言っても、今、これ以上のこ
とを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、猛烈な抗議が殺到する。

先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような記事を書いただけでそ
の翌日、一〇本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭の子ども
がかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」など。「離婚家庭を差別する
発言で許せない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸にな
ると書いたのではない。離婚が離婚として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。こ
の家庭騒動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問
題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類
の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくした
が、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくった。また別の人は、ある作家に
傾倒して、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。そういう体験があってはじめ
て、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てができるようになる。

と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかっていても、なかなか
できない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考えてほしい。

(付記)
●なぜアイは子育てができるか
 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。これについて、つまり
アイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを見せられたり、ぬいぐ
るみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説明されている(報道)。
しかしどうもそうではないようだ。

アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によって、
まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育というワクを超えて、子育ての情報
をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てができる本当の理由ではないのか。

(参考)
●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇
〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一
点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待
あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%
であった。この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしてい
るのがわかる。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで
の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二
五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実
母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三
七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%と
なっている。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 

二〇〇〇年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約三年間、アメリカ国務省のス
ポークスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を
決意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(五三歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、六年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫
は、いくらでもいる。その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。
「日本では単身赴任に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲に
いた学生までもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、一九九九年の九月、次のような判決
を言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。
つまり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親
はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こ
しただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービ
ン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくま
でには、まだまだ道は遠い。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

親が子どもをだますとき  
●世間体を気にする人 
 夫が入院したとき、「恥ずかしいから」という理由(?)で、その夫(五七歳)を病院から連れ出
してしまった妻(五一歳)がいた。あるいは死ぬまで、「店をたたむのは恥ずかしい」と言って、
小さな雑貨店をがんばり続けた女性(八五歳)もいた。

気持はわからないわけではないが、しかし人は「恥」を気にすると、常識はずれの行動をする
ようになる。S氏(八一歳)もそうだ。隣の家に「助けてくれ」と電話をかけてきた。そこで隣人が
かけつけてみると、S氏は受話器をもったまま玄関先で倒れていた。隣人が「救急車を呼びま
しょうか」と声をかけると、S氏はこう言ったという。「近所に恥ずかしいから、どうかそれだけは
やめてくれ!」と。

●日本の文化は、恥の文化? 
 恥にも二種類ある。世間体を気にする恥。それに自分に対する恥である。日本人は、世間体
をひどく気にする反面、自分への恥には甘い。それはそれとして世間体を気にする人には、独
特の価値観がある。相対的価値観というべきもので、自分の生きざますら、いつも他人と比較
しながら決める。そしてその結果、周囲の人よりよい生活であれば安心し、そうでなければ不
安になる。それだけではない。

こういう尺度をもつ人は、自分よりよい生活をしている人をねたみ、そうでない人をさげすむ。
が、そのさげすんだ分だけ、結局は自分で自分のクビをしめることになる。先の雑貨点を営ん
でいた女性は、それまで近所で店をたたんだ仲間を、さんざん悪く言ってきた。「バチがあたっ
たからだ」「あわれなもんだ」とか。また救急車を拒否したS氏も、自分より先に死んでいった人
たちを、「人間は長生きしたものが勝ち」と、いつも笑っていた。

●息子の土地を無断で転売

 こうした価値観は、そのまま子育てにも反映される。子育てそのものが、世間体を気にしたも
のになる。当然、子どものとらえ方も、常識とは違ってくる。子どもが、その世間体を飾る道具
に利用されることも多い。たとえばYさん(七〇歳女性)がそうだ。

Yさんは言葉巧みに息子(四二歳)から土地の権利書を取りあげると、それをそのまま息子に
無断で、転売してしまった。が、Yさんには罪の意識はない。息子が抗議すると、「先祖を守る
ために親が子どもの財産を使って、どこが悪い」と言ったという。「先祖を守るのは子どもの義
務だ」とも。Yさんがいう「先祖」というのは、世間体をいう。もちろんそれで親子の縁は切れた。

息子はこう言う。「母でなければ、訴えています」と。ふつうに考えればYさんのした行動は、お
かしい。おかしいが、価値観がズレている人には、それがわからない。が、これだけは言える。

 恥だの世間体だのと言っている人は、他人の目の中で人生を生きるようなもの。せっかくの、
それもたった一度しかない人生を、ムダにすることにもなりかねない。が、同時に、それも皮肉
なことに、他人から見て、それほど見苦しい人生もない。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2549)

【ただの人(das Mann)】
Along with getting old, most people is to become just a "man", so-called "das Mann". But 
nobody agree that this is the goal of our lives. We have what we should have to do toward 
the of the lives. Then how can we find it?

●生きているだけもありがたい

若いときの20歳。
壮年期の終わりにやってくる60歳。
これら2つの年齢は、人生にとって、大きな節目となる年齢である。

20歳という年齢を、人生への入り口とするなら、
60歳という年齢は、人生からの出口ということになる。
民間企業では、50歳を過ぎるころからリストラが始まり、60歳になると、ほとんどの人は退
職、ということになる。
役所の人たちも、60歳を境に、それぞれの天下り先へと転職していく。

もっとも60歳まで、無事生きてこられたというだけでも、ありがたい。
御の字。
感謝しなければならない。
すでにこの世を去った人も多い。
ざっと見ても、約5%の人が、亡くなっているのではないか。
健康や精神を病み、生きていくだけで精一杯という人も多い。
経済的に行きづまった人となると、もっと多い。

さらにこの年齢になると、それまで隠しもってきた持病が、どんと前に出てくる。
持病だけではない。
人間性そのものも、そのまま前に出てくる。
わかりやすく言えば、化けの皮が、はがれる。

が、それだけではない。
そのころになると、それまでの人生観を変えることなど、夢のまた夢。
小ズルイ人は、死ぬまで小ズルイ。
守銭奴は、死ぬまで守銭奴。

●老後の人間性

よく誤解されるが、そしてほとんどの若い人たちは、そう思っているかもしれないが、歳をとれ
ば、人間性が豊かになるというのは、ウソ。
むしろ、人間性は、後退する。

その年齢になった私が言うのだから、まちがいない。
ただ人づきあいが、見た感じ、丸くなるということはある。
しかしそれとて、進歩してそうなるのではなく、生命力そのものが弱体化して、そうなる。
よい例が、老人ホームにいる老人たちである。
みな、穏やか過ぎるほど、穏やかな顔をしている。
だからといって、そういう老人たちが人格者などとは、だれも思わない。

が、それだけではない。
さらに恐ろしいことがある。

●老化する脳

そのころになると、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、知識がどんどんと消えて行く。
年齢に比例して、その量は多くなる。
しかしそうなりながらも、その人自身は、それに気がつかない。
脳のCPU(中央演算装置)のクロック数そのものが低下するから、脳の働きが鈍くなったこと
すらわからない。

先日も、どこか(?)な女性(65歳くらい)に会った。
話している内容に、一貫性がなかった。
そこで私が、「私はあなたが思っているほど、バカではないと思いますが……」と言ったときの
こと。
その女性は、何を思ったか、こう叫んだ。
「私だって、バカではありません!」と。

このように脳の機能全体が低下してくると、低下していること自体、わからなくなる。
そしてあとは加速度的に、老化だけが、どんどんと進んでいく。
脳の病気にかかれば、なおさらである。

が、それで終わるわけではない。
最後の最後に、とどめの一発がある。

生きがいの喪失である。

●統合性と生きがい

この日本では、「庭いじりと孫の世話をすること」を、理想の老後生活と考える人は多い。
そういう理想像(?)が、いつしかできあがってしまった。
しかしそれはとんでもない、まちがい!
少なくとも、世界の常識ではない。

では、どうあるべきか?

老後を迎えたら、(すべきこと)を見つけ、それに向かって、前に進む。
(したいこと)ではない。
(すべきこと)に向かって、前に進む。
それをエリクソンという学者は、「統合性の確立」と呼んだ。

この統合性の確立に失敗すると、老後は、あわれでみじめなものになる。
それこそ「死の待合室」に放り込まれたような状態になる。
もっとも、この段階で、それに気づく人は、まだよいほう。
救われる。
大半の人は、死の待合室にいることさえ気づかないまま、ささいな夢や希望に、自分をつなぐ。
自分をなぐさめる。
あきらめる。

つまらない人生を送りながら、それをつまらないとも思わない。
というのもこの問題は、あくまでも相対的なもの。

●統合性の内容

統合性といっても、程度の差がある。
それこそマザーテレサのように、崇高な統合性を確立した人もいる。
私のように、HPの更新程度のことに、生きがいを求める人もいる。

程度……、つまり統合性の次元は、より自分の次元が高くなってはじめて、より低い人の次元
がわかるようになる。
わかりやすく言えば、次元の高い人からは、低い人がよくわかる。
しかし次元の低い人からは、次元の高い人は、わからない。
恐らく、理解もできないのではないか?
中には、「そんなことは、むだ」と否定してしまう人もいる。
先日会った、O氏(65歳)もその1人。
O氏は、こう言った。

「あのね、林さん、総理大臣をやったような人でも、死ねばおしまいだよ。10年もすれば、みな
に忘れられてしまう。残るのは、印刷された名前だけだよ」と。

「だから、人生というのは、したいことをして楽しむにかぎる」と。

しかしO氏のような生き方では、さらに何も残らない。
「生きた」という実感すら、もてないのではないか?

真理の探求を例にあげてみる。

●感動のある人生

こんな私でも、ものを書いていて、何か新しいことを発見したときには、ゾクゾクするほど、感動
する。
その感動こそが、私の生きがい。
生きがいとなって、私を支えてくれる。
研究者や芸術家なら、なおさらであろう。

しかもそうすることによって、自分の(命)を、つぎの世代に伝えることができる。
わかりやすく言えば、自分を超えて、さらにつぎの世代の中で、生きることができる。
だから私は、O氏には悪いが、こう思った。

「かわいそうな人だ」「たったひとつしかない人生を、無駄にしている」と。

さて、60歳。
この年齢になると、闘わなければならないものが、いくつかある。

肉体の健康もそうだが、脳の健康も、維持しなければならない。
しかし何よりも大切なのは、統合性を確立し、その統合性に、自分を一致させていくこと。
その努力を怠ると、それこそ、そこらのオジチャン、オバチャン(失礼!)と同じ運命をたどるこ
とになる。

繰りかえすが、ハイデガーは、軽蔑の念をこめて、そういう人たちを、「ただの人(das Mann)」と
呼んだ。

「ただの人」になることだけは、何としても避けなければならない。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(4月15日)(April 15th, 2008)
We, the Japanese, say "Yes", when we want to say "No". We are the people of far east, 
where we have fostered a very unique culture. One of them is "Hon-ne" and "Tate-mae".

+++++++++++++++

小ずるい人と接していると、
気分が悪くなる。

その小ずるさが、手に取るように
よくわかる。

私も、子どものころは、その小ずるい
人間だった。
だから、よけいに、よくわかる。

+++++++++++++++

私の周辺にも、何とか、私をごまかしてすまそうとする人たちが、何人かいる。
そうでない人には、信じられないような話だが、以前、こんなことがあった。

話の内容は、少し、変える。

レストランでいっしょに食事をして、さあ、帰ろうというときになったときのこと。
相手の男性が、こう言った。

「林君、悪いが、ビール代だけは、私に払わせてほしい」と。

つまり、「ほかの費用は、君が払え」と。

……ということを、以前、書いたら、それを読んだ人が、こんなメールを送ってくれた。
「私の姉なんか、もっと、ずるいですよ」と。

父親の葬儀が終わって一息していると、そこへその人の姉がやってきて、こう言ったという。

「悪いけど、花輪代だけは、私に払わせてね」と。

こういうことを平気で言える人は、相当の「ワル」と考えてよい。
小ずるく、猿知恵ばかりが働く。

さらに上には、上がいる。

ある男性が、実家を新築してやったときのこと。
総額で2000万円弱もかかったという。

で、いよいよ完成というときに、その男性の姉がやってきて、こう言ったという。

「悪いけど、クーラーだけは、私につけさせてね」と。

クーラーといっても、5万円にもならない。
つまり「クーラーだけはつけさせてね」と言いながら、他方で、「私は1円も払わない」と。

実は、先にも書いたように、私も、もともとは、そのタイプの小ずるい人間だった。
口がうまく、ペラペラと口先だけで、その場をごまかすということを、平気でしていた。
たぶん、私も子どものころは、ここに書いたようなことを、平気で言っていたにちがいない。

そういう自分は、今でも、私の中にいる。
けっして、消えたわけではない。
だから余計に、小ずるい人間が、どういう人間か、よくわかる。
私を口先だけでごまかそうとする人に出会ったりすると、まるで自分の過去を見せつけられた
かのように思う。

だから不愉快になる。
ついでに、気分も悪くなる。

一方、白人というのは、ほんとうにストレート。
日本人のように、本音と建て前を使い分けるということをしない。
とくに、二男の嫁が、そうだ。

わかりやすいと言えば、わかりやすい。
言ったまま。
すべてが言ったまま。

日本人のように、(おじょうず)を言わない。
私にへつらったり、遠慮したりもしない。

だからといって、日本人が悪くて、白人がよいというのではない。
それぞれに一長一短がある。

しかし両者の生きざまを比べてみたばあい、白人のほうが、つきあいやすい。
日本人しか知らない人には、それがわからないかもしれない。
ひょっとしたら、「世界中、みな、同じ」とさえ、思っているかもしれない。
しかし、ちがう。
明らかに、ちがう。
日本人は、白人とは、明らかにちがう。

だから……。

白人とつきあうときは、いいかげんなことは言ってはいけない。
また彼らも、いいかげんなことは言わないから、言ったことは、そのまま信じてよい。
たとえば「遊びにおいで」と相手が言ったら、本気で誘ってくれていると思ってよい。

一方、「遊びにおいで」とあなたが言ったら、相手は、それを本気でとらえる。「ただのあいさつ
でした」では、すまない。

そういう(ちがい)をテーマにしながら、今朝、ワイフとこんな会話をした。

私「デニーズは、ほんとうにわかりやすいね」
ワ「そうね。ウラがないから……。それに私、あんな正直な人を知らないわ」
私「ぼくも、知らない。……あれで、よく生きていかれるね」
ワ「全体が、そういう世界だからよ」
私「でもね、つきあうようになって、もう6年になるけど、今、いちばん信頼できる人といえば、デ
ニーズかもしれない」
ワ「私も、そう」と。

「日本は極東の島国だ」と言うと、反発する人は多い。
しかし島国は、島国。
まちがいなく、極東の島国。
その極東という(へき地)で、日本は、特異な文化を発展させた。
そのひとつが、これ。
本音と建て前。

アメリカ人とくらべてみると、それがたいへん、よくわかる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 本音と建て前)

+++++++++++++++

本音と建て前について書いた原稿を
4作、集めてみます。
どれも5年ほど前に書いたものです。

+++++++++++++++

【自分をさらけ出して生きる】

●ある母親からの相談より

++++++++++++++++++

子どもとの不協和音。
子どもに気をつかい、
思ったことを言うこともできず、
毎日、悶々としているという。

++++++++++++++++++

【Fさんより、はやし浩司へ(1)】

掲示板に書く勇気がありませんでした。何度もすみません。読んでいただくだけで。

私が今までやっていたことは、ほとんど虐待でした。手をあげたことも何度もあります。感情に
まかせて怒鳴るなんてことは、しょっちゅうでした。

ヒステリックに泣いたりしました。夫はそこまで私がしているとは、思ってないようです。

学校ではあまり目立たないほうで、問題なく見える息子。このところとにかく物事の負の部分し
か見ない感じで、習い事などでも、楽しかったことより、いやだったことを口にして、悪態ばかり
つきます。

学校も習い事もすべて嫌だ、やめたいと、今夜も言っていました。それをずっと優しく聞き出し
ていたのは夫です。先日、夫に初めて激しく怒られてから、息子は、特にわがまま、無理難題
を、夫に対して言うようになりました。次から次へ、といった感じです。

あまりのことに夫は病院へ連れていった方がいいのかなと思っているようです。しかし異常な
のは私。外ヅラだけがよく、ウソばかりついています。そのため子どもをドラ息子にしてしまった
私。

息子が万引きをしたのは、私への罰の始まりかもしれません。これ以上酷い状態にならないよ
うに、こんな私でもできることはあるのか。息子を愛してきたという自信がもてないでいます。本
当の自分もよくわかりません。


【Fさんより、はやし浩司へ(2)】

 掲示板はやはり落ち着かなくて、こちらに書くことお許しください。いただきましたご助言を胸
に刻んで、2週間過ごしてきました。自分との戦いは、始まったばかりなのに不安です。

まず心配なのが、子どもの様子です。習い事へ、三つ通っているのですが、それには、行かな
い、と言っています。

遅く寝て、朝、早く起きる、夕食後の風呂にはじまって、就寝までが、なかなかうまくいきませ
ん。

お父さんがかってくれた、N社のゲーム機器で、毎日、ゲーム三昧です。

その後、万引きはしていないようです。(先週私の財布から抜いたお金で、内緒で買い物はし
たようですが……。) 

怒りやすく、ワガママを言い出すと、あとへひかない。たいていお父さんがいる時ですが、ダダ
こねがひどい。

たとえばお父さんに、「会社を休んで欲しい、ゲームを買って」「学校がいやだ」と、強く言い出
すようになりました。

以前と変わらず、体をゆだねて、甘えてくる時もあり、私(達)を避けるようなことはありません。
ただ、夫がいる時は、以前と明らかに違う感じです。

今夜も夫に、「会社を休んで欲しい」とぐずぐずと泣き、私が抱きしめてとんとんして寝かしつけ
ました。三人でいると何かまた言い出すのではと、なんだか子どもの心を探るような雰囲気に
なってしまいます。

私のせいだとわかっていても、その私を責めもしない夫に本当に申し訳ない気持ちです。子ど
もがそこに「いる」だけでいいと、本当に心から思える時もある反面、私は結局夫にも「すべて
をさらけだし」をしていないように思います。もちろん子どもにも、です。

うそつきの私が、このままではどんどん悪い方向にいくのではと、心配で、胸が塞がったりしま
す。一日中とも言えるゲームの電子音を聞きながら、苦悩しています。

ご助言があれば、いただきたく存じます。お時間のない中、長々と失礼しました。

 
【はやし浩司より、Fさんへ】

 Fさんは、いわゆる「気負い先行型ママ」ということになります。「いい母親でいよう」「いい家庭
を作ろう」という気負いばかりが強くて、それで結果として、自分で自分を苦しめてしまっていま
す。

 息子さんについて言えば、親意識過剰というか、「いい子にしよう」という意識が、これまた強
すぎるように感じます。加えて、心配過剰、さらには育児ノイローゼ気味(?)。

 前にも書きましたが、この時期の子どもの万引き、盗みは、珍しくもなんともありません。一
応、言うべきことは言いながらも、あとは、『許して、忘れる』です。あまりおおげさに考えないこ
と!

 おけいこごとについても、そうです。いちいち子どもの機嫌をうかがって、子どもの言うこと
に、振りまわされてはいけません。無視すべきことは、無視。「そうね、たいへんね」と聞き役に
回って、それでおしまいにします。これを「ガス抜き」と、私たちは呼んでいます。

 子どもが、グチを言ったら、グチは聞いてあげれば、それでよいのです。

 そしてここが重要ですが、どうしてあなたは、子どもに嫌われるのを、それほどまでに恐れて
いるのですか? 嫌われてもいいと、もうそろそろ、居直りなさい。どうせ、嫌われるのですから
……。結論を先に言えば、あなた自身が、たいへん依存性の強い方だと思います。子育てをし
ながら、いつも無意識なまま、何かの見返りを求めている。それが回り回って、今の育児姿勢
になっていると考えられます。

 ゲームの音がうるさかったら、「うるさいわねえ」と言えばよいのです。それで子どもに嫌われ
ても、遠慮することはありません。つまりこれが(心のさらけ出し)ということになります。

 ただ、お子さんは、あなたに絶対的な安心感を求めています。が、それを得られないでいる
……。そういう状態です。あなた自身もわかっているように、あなたの育児姿勢には、一貫性
がありません。

 そこでこうします。『求めてきたときが、与えどき』と。

 子どもがあなたにスキンシップなり、甘えるなり、何かの愛着行動を示したら、すかさず、(こ
こが重要です。「すかさず」です)、子どもを抱きかかえてあげてください。そして力いっぱい、抱
いてあげてください。

 たいていものの数分もすると、子どものほうから体を放そうとしますので、そっと、水の中に魚
を逃がす要領で、子どもの体を放します。

 決して、「あとでね」とか、「今、忙しい」などと、言ってはいけません。「すかさず」そうします。

 子どもの心は、それで安定するはずです。「会社を休んでほしい」と、父親に甘えたときも、そ
うです。その旨、お父さん、つまりあなたの夫に、よく言い伝えておいてください。ぐいと抱いて
あげるだけで、じゅうぶんです。理由を言ったり、弁解したりする必要はありません。

 ホント、外づらをよくするのも、疲れますね。わかります、その気持ち!

 私も、若いころ、それなりの教師に見られたくて、苦労しました。しかしある日、気がつきまし
た。クソ食らえ!、と。

 それからは気が楽になりました。あるがままの自分を、さらけ出しながら生きるようになりまし
た。Fさんにも、今すぐは無理かもしれませんが、少しずつ練習すれば、それができるようにな
りますよ。

 ためしに、あなたの夫に向かって、(YES)(NO)をはっきりと言ってみては、どうでしょうか。
いやだったら、いやだと言えばよいのです。してほしかったら、してほしいと言えばよいのです。

 「あんた、今夜、セックスでもする?」「xxxxでもなめてあげようか!」と。(少し、ショックでした
か?)

 ハハハ。そういう形で、自分をさらけ出していきます。あとは、練習です。つまりね、あなたが
心を閉ざしていて、どうして子どもが、あなたに心を開くことができるでしょうか? 

 お子さんの年齢からして、もう、何でも、あなたの思い通りにはならないということを、肝に銘
じてください。夜更かしをして、翌朝困るのは、息子さんです。ですから、こまごまとしたことは、
あまり気にしないで、子どもに任せなさい。

 原因をたどれば、つまりなぜあなたが今、そうなのかという原因をたどれば、あなた自身の幼
児期から子ども時代に、問題があったとみます。権威主義的な親をもち、家父長意識の強い
家庭環境の中で、あなた自身が、いつも、(いい子)を演じていた。

 さらに言えば、あなたとあなたの父親との関係が、あまりうまくいっていなかったことも考えら
れます。そのため、(男)の扱い方が、わからないまま、今日に至っている……。

 一度、自分の過去を冷静に見つめてみる必要があります。で、この問題は、そうした自分の
過去を客観的に見ることができるようになっただけでも、問題の大半は解決したとみます。勇
気を出して、自分の過去と対峙してみてください。

 もっと肩の力を抜きなさい。カエルの子どもはカエル(失礼!)。それ以上高望みしないこと。
過剰に、子どもに期待をしないこと。「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめなさい! こ
の世界には、『あきらめは、悟りの境地』という格言があります。私が考えた格言ですが、あき
らめたとたん、あなたも、そして息子さんも、表情が明るくなるはずです。

 「こんなはずはない」「まだ何とかなる」とがんばれば、がんばるほど、逆効果ですよ!

 そしてあなたは、もう子どものことは忘れて、自分のしたいことをしなさい。息子さんは、すで
に親離れを始めていますよ。年齢的にも、その時期に来ています。この時期、親はさみしい思
いをするかもしれませんが、それに耐えるのも、親の務め。

 あとはCA、MG、Kの多い食生活に切り替えてみてください。海産物中心の献立にします。そ
れでも、(こだわり)が消えないようでしたら、一度、心療内科のドクターに相談なさるとよいでし
ょう。今では、すぐれた薬があります。

 あまりくよくよしないこと。少なくとも、万引きの問題は解決したのですから……。つぎからつぎ
へと、あれこれと問題をさがしだし、悩まないこと。「前よりもよくなった」ことだけを実ながら、あ
とは、前向きに生きていきます。

 では、また。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
の悩み 育児ノイローゼ 子供の問題 育児問題)

【補記】

●自分をさらけ出して生きる

++++++++++++++++++++

自分をさらけ出して生きるということは、
口で言うほど、簡単なことではない。

そのことは、子どもの世界を見ればわかる。

子どもの中にも、あるがままの自分を、
すなおにさらけ出しながら生きている子どももいれば、
そうでない子どももいる。

いつも他人の目を気にしながら、いい子ぶる
タイプの子どもである。

このタイプの子どもは、いつも自分を飾る。
ごまかす。作る。偽る。

だから本人も疲れるが、教える側も疲れる。
何を考えているのか、何を望んでいるのか、
それが正確にわからないから、ときとして、
どう教えたらよいのかわからなくなる。

そこで私の教室では、年中児で入ってきた
子どもについては、とにかく、大声で、
声を出させ、大声で笑わせるという指導を
大切にしている。

心の中のものを、すべて吐き出させるように
している。

しかし本当の問題は、母親にある。

母親の中にも、自分を飾る、ごまかす、作る、
偽る人は少なくない。

が、母親のばあい、問題は、本人だけにとどまらない。
その影響は、子どもに現れる。

もちろん夫婦関係も、ギクシャクしてくる。

だから……。

もし、あなたが、ここでいう、心のさらけ出しが
苦手のタイプの人なら、思い切って、
心を開いてみよう。

心を開いて、自分の思いや願いを、空に
向かって、解き放ってみよう。

方法は、簡単。

まず、YES、NOを、はっきりと言ってみよう。

したかったら、YES!
したくなかったら、NO!

自分をすなおに表現してみよう。

自分を飾らないで、
自分をごまかさないで、
自分を作らないで、
自分を偽らないで……。

心を解き放てば、体は、あとからついてくる。

++++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の原点になっている、核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをい
かに確立するかも、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的反応が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、世代を経て、引き継が
れる。S君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

 (このつづきは、別の機会にまた考えてみる。つづく……。)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 この原稿を書いてから、ずいぶんになる。「交番へ届けます」と答えた子どもは、すでに成人
になり、結婚もした。以来、会ったことはないので、今ごろは、どういう考え方をしているか知ら
ない。

 しかしまじめな、いい生徒だった。それは認める。だから今、こうしてそのときのことを思い出
してみると、そういう生徒をからかったわたしの方がまちがっていたのかもしれない。「交番へ
届けます」と彼が言ったとき、私もすなおに、「そうだね。それがいいね」と言うべきだった。それ
で終わるべきだった。

 多かれ少なかれ、私たちはみな、仮面をかぶって生きている。もしみながみな、あるがままの
(私)をさらけ出して生きたら、それこそ、この社会は、動物の世界のようになってしまう。私は
私で、あなたはあなたで、いい人ぶりながら、生きていく。たとえそれが仮面であるとわかって
いても、だまされたフリをして、相手に合わせて生きていく。

 それでよいのかもしれない。

 ただこれだけは、書いておきたい。

 自由とは、自分をさらけ出して生きること。つまり自分をさらけ出して生きることを、自由とい
う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 仮面
 コアアイデンティティ 人格の核 さらけ出し すなおな人間 はやし浩司 世間体 見栄 体
裁 虚栄)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
 
●虚栄

 「見栄。うわべだけの栄誉」「外見ばかり飾って、実質以上に見せること」を、「虚栄」という(日
本語大辞典)。

 英語では、「vanity」という。

 しかし、日本語で、「虚栄」というときと、英語で、「vanity」というときとでは、感じ方が、ちが
う。なぜだろう?

 ひとつには、そこに宗教的意味がこめられること。キリスト教では、「vanity」を、人間がもつ
原罪のひとつとして、それを強く戒めている。

 小学館の(ランダム・ハウス・英和辞典)によれば、こうある。

 Vanity……(1)うぬぼれ、慢心、虚栄心、(2)うぬぼれの表出、(3)ひどく自慢する、(4)無
価値、つまらなさ、(5)価値のないもの、つまらないもの、と。

 だから日本では、「お前は虚栄心が強い」と言われても、それほど、気にならないが、英語
で、「vanity」と言われたれたりすると、ぞっとする。何か、とんでもないまちがいを犯したかのよ
うにさえ思うこともある。

 そこで改めて考えてみる。「虚栄とは何か?」と。

 「飾る」といっても、それを意識している間は、虚栄ではない。たとえば美しいネックレスを買
い、それで身を飾るというのは、虚栄ではない。

 しかしそのネックレスを身につけ、さも、私は金持ちですと言わんばかりに振る舞うのは、虚
栄ということになる。さらに、その虚栄を使って、相手をだますようなことをすれば、詐欺(さぎ)
ということになる。

 が、虚栄の恐ろしさは、ここでとどまらない。虚栄が長くつづくと、「私」そのものが、なくなる。
「私」がないということは、その時点で、自分の人生を、カットすることになる。もっと言えば、
「私」でない、私に、操り人形となって、操られるだけ。そういう人は、少なくない。

 Nさん(女性)は、今年、80歳を過ぎた。そのNさんは、買い物に行くとき、サイフの中に、札
をいっぱい詰めていくという。しかも、一番前と一番うしろに、1万円札。その間に、1000円札
を詰めていくという。

 そしてレジなどで、お金を出すときは、レジの女性に、これみよがしに、札束を見せて、お金
を払うという。

 それを見ていた、実の娘(60歳くらい)は、こう言った。「うちの母は、昔から、そういう女性で
す。本当は、貧乏なのに、外では、いつも、金持ち風に振る舞うのです」と。

 そういう話を聞くと、私は、すぐ、「80歳も過ぎているのにねエ〜?」と思ってしまう。あわれと
いうより、こっけいですら、ある。虚栄に毒されると、人は、そこまでするようになる。しかも80
歳を過ぎても、それをつづける。

 自分がない人というのは、そういう人のことをいう。言いかえると、「生きる」ということは、その
時点、時点で、「私」をつかみながら生きることをいう。それができない人は、生きていることに
は、ならない。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、虚栄に毒されると、生きていると
いう実感をもてないまま、その日、その日を、ただ無益に過ごすことになる。

 あるがままに、自分を保ちながら、生きる。自分をさらけ出しながら、生きる。そういう生き方
を、「善」とするなら、虚栄に満ちた生き方は、「悪」ということになる。キリスト教のことは、よくわ
からないが、多分、そういう意味で、「虚栄」を、「vanity」と言うのではないか。

 一度、オーストラリアの友人に、問いあわせてみようと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虚栄
 vanity)

+++++++++++++++++

本音と建て前について書いた原稿を
いくつか添付します。

+++++++++++++++++

●本音と建て前

 「すなおな考え方」とは何か。5、6年も前のことだが、小学1年生の生活科のテストに、こんな
のがあった。

 あなたのお母さんが、台所で料理をしています。あなたはどうしますか。つぎの三つの絵の中
から、答を選んでください。

(1)そのままテレビを見ている絵。
(2)お母さんを手伝う絵。
(3)本を読んでいる絵。

 この問題の正解は、(2)のお母さんを手伝う絵ということになる。しかしほとんどの子どもは、
(1)もしくは、(3)に丸をつけた。このことを父母との懇談会で話題にすると、ひとりの母親がこ
う言った。「手伝ってほしいとは思いますが、しかし実際には、台所のまわりでウロウロされる
と、かえってじゃまです。テレビでも見ていてくれたほうが、楽です」と。つまり建て前では、(2)
が正解だが、本音では、(1)が正解だ、と。

 そこで本題。冒頭にあげた絵の問題では、子どもたちは私の意図した答とは、別の答を出し
た。正解か正解でないかということになれば、正解ではない。また小学一年生のテストでは、本
音と建て前が分かれた。こういうとき、どう考えたらよいのか。

●正解のない世界

 ……と考える、必要はない。悩む必要もない。もともとこの世の中に、「正解」などというもの
は、ない。ないにもかかわらず、私たちは何かにつけて、正解を大切にする。正解を求めようと
する。とくに教育の世界ではそうで、その状態は、高校三年生までつづく。が、それで終わるわ
けではない。

ある東大の教授が、学生たちに、答のない問題を出したときのこと。一人の学生が、「答のな
い問題を出さないでくれ」と、その教授に、くってかかったという。その教授は、「この世界ので
きごとは、九九・九九%、正解のないことばかり。なぜ今の学生は、正解にこだわるのか」と笑
っていた。

 そこで今、教育の世界では、「答のない問題」が、クローズアップされている。私立大学だが、
T理科大学の面接試験では、こんな問題が出された。「塩と砂糖と砂が混ざってしまった。この
状態で、塩と砂糖と砂を分離するには、どうしたらよいか」と。

 こうした問題を与えられたとき、日ごろから、考えるクセのある子どもは、あれこれ分離方法
を言うが、そうでない子どもは、そうでない。さらに入学試験のとき、教科書や参考書もちこみ
OKという大学もふえてきた。「知識」よりも、「考える力」を大切にするというもくろみがある。

当然のことながら、これからはこの傾向は、ますます強くなる。さきの教授は、こう話してくれ
た。「これだけインターネットが発達してくると、知識の価値は、ますますさがってくる。大切なの
は、いかにその知識を組みたて、新しい考えを生みだすか、です」と。

 私たちは子どもたちと接しながら、あまりにも、答を押しつけすぎているのではないだろうか。
そしてそういうのが、教育と思いこみすぎているのではないだろうか。子どもたちにかぎらず、
私たちは、もっと自由な発想で、自由な答を求めてもいいのではないだろうか。私は子どもたち
の前で、爆笑してしまったが、爆笑そのものの中に、未来につながるものの考え方の、大きな
ヒントが隠されているような気がする。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 本音
と建て前 子供の本音)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●疲れる子どもたち

 本音と建て前。本当とウソ。正直とごまかし。今の子どもたちは、幼いときから、この二つを使
い分けることを教えられる。その結果、その両方を、うまく使い分けられる子どもほど、「学校」
という社会を、スイスイとうまく生きていかれる。そうでない子どもは、そうでない。

 もちろんだからといって、A君のように、拾ったお金を使ってよいというのではない。ないが、A
君のような生き方のほうがわかりやすい。子ども自身も疲れない。心もゆがまない。しかしB君
のような生き方をしていると、それだけで疲れてしまう。その結果、心がゆがむこともある。

 自分の内部に潜む誘惑に打ちかち、拾ったお金を交番へ届けるというのは、かなりむずかし
いことである。強い精神力と、それを支える道徳性が必要である。そしてその道徳性は、たえ
まない反省と思考によって、はぐくまれる。そこらの中学生くらいに、それができるわけがない。
私が「本当のことを言え!」と迫ったとき、もしB君がそれでも、「交番へ届ける!」と言ったら、
私はB君の道徳性を認める。しかしそれとて、私という「他人の目」を感じているから、そう言う
にすぎない。

 ……と書いて、実は、これは親たちの問題でもある。子育ての問題と言ってもよい。たとえば
ある親が自分の子どもに向かって、「学校では、友だちと仲よくするのですよ」と言ったとする。
しかしこの言い方は、「拾ったお金は、交番へ届けるのですよ」という言い方と、どこも違わな
い。

 が、その親が、子どもがもちかえったテストを見ながら、「何だ、この点数は! あのC君は、
何点だった? もっと勉強しろ!」と言ったとする。これは母親の本音と考えてよい。親は、こう
言っているのだ。「C君は、あなたの敵だ。そのC君を負かせ」と。

 かわいそうなのは、そう言われた子どものほうである。一方で、「仲よくしなさい」と言われ、他
方で、「敵と思え」と言われる。拾ったサイフにたとえるなら、一方で、「交番へ届けろ」と言わ
れ、他方で、「拾ったお金は自分のものにしろ」と言われるのに似ている。「同じ」とは言わない
が、「似ている」。

 こうした相反する矛盾の中で、要領のよい子どもは、その二つを、うまく使い分ける。が、そう
でない子どもは、そうでない。そして底なしの自己矛盾の世界へと落ちていく……。しかしそれ
はきわめて不安定な世界でもある。子どもによっては、その不安定さに耐えかねて、非行に走
ったり、引きこもったり、あるいは家庭内暴力を起こしたりする。そこまで進まなくても、自分の
中で葛藤(かっとう)する子どもは、いくらでもいる。

 それはさておき、要領の悪い子どもは、この段階で二つの道に分かれる。徹底して、よい子
ぶるか、それとも居直るか、のどちらかである。冒頭にあげた、B君が、そのよい子ぶっている
子どもということになる。それに対して、A君は居なおっているということになる。

●本音で生きる

 子どもの世界を見ていると、それはそのまま、私たちおとなの問題であることがわかるときが
ある。この問題もそうだ。私たちおとなも、昔は、子どもだった。そしてほとんどの人は、その子
ども時代の自分を、みな、そのまま引きずっている。たとえばあなた自身は、どうだったか。さ
らには、あなた自身はどうかということになる。

「今」という時点で考えてみよう。今、あなたは本音で生きているだろうか。あなたが妻なら、夫
や子どもに対して、本音で生きているだろうか。それとも、あなたは、ここでいうような「いい子」
ぶってはいないだろうか。

 が、これだけは言える。もしあなたが他人との世界の中で、「疲れ」を覚えるようなら、あなた
は、いつも心のどこかで自分をごまかして生きていないかを、少しだけ反省してみるとよい。あ
なたのそうした気負いは、あなた自身を疲れさせるだけはなく、あなたの夫や、子どもまでも疲
れさせてしまう。要は、ありのままの自分を生きるということ。飾ることはない。気負うことはな
い。ごまかすこはない。ありのままでよい。

 一〇万円が入ったサイフを拾い、お金がほしいと思えば、そのまま中身を抜いて、サイフだ
けを捨てればよい。が、もしそれを「よし」としないのなら、交番へ届ければよい。そしてそのサ
イフのことは忘れる。自分にすなおに生きるというのは、そういう意味で、わかりやすい人生を
送ることを意味する。

 そうそう、先のB君も、私が「正直に言え」と迫ると、最後にこう言った。「やっぱり、先生、お金
がほしいから、もらってしまうよ」と。私はその意見を聞いて、安心した。B君には、まだ自分を
取り戻す力が残っていた。すなおな気持ちが、残っていた。私は最後に、B君にこう言った。

 「自分に無理をしてはいけない。先生は、今でも、サイフを拾うたびに、迷う。しかし今は、そう
いうふうに迷う自分がいやだから、何も考えないで、近くに交番があれば、交番に届けるように
している。先日は、コンビニの前で拾ったから、コンビニに届けた。よいことをしているとか、悪
いことをしているとか、そんなふうに考える必要もない。要するに気負わないこと。

 しかしね、誠実に生きることは、とても気持ちがよいことだよ。ウソだと思ったら、一度、拾っ
たお金を交番へ届けてみてごらん。そのあと、ものすごく、気持ちがよくなる。その気持ちのよ
さは、お金では買えないよ」と。
(030319)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のバランス感覚

駅構内のキオスクで、週刊誌とお茶を買って、レジに並んだときのこと。突然、横から二人の女
子高校生が割りこんできた。

 前の人との間に、ちょうど二人分くらいの空間をあけたのが、まずかった。

 それでそのとき私は、その女子高校生にこう言った。「ぼくのほうが、先ですが……」と。する
とその中の一人が、こう言った。「私たちのほうが、先だわよねえ」と。

 私「だって、私は、あなたたちが、私のうしろで、買い物をしているのを、見ていましたが……」
 女「どこを見てんのよ。私たち、ずっと前から、ここに並んでいたわよねエ〜」と。

 私は、そのまま引きさがった。そして改めて、その女子高校生のうしろに並んだ。

 で、そのあと、私がレジでお金を払って、駅の構内を見ると、先ほどの二人の高校生が、10
メートルくらい先を、どこかプリプリした様子で、急ぎ足に歩いていくところだった。

 事件は、ここで終わった、が、私は、この一連の流れの中で、自分の中のおもしろい変化に
気づいた。

 まず、二人の女子高校生が、割りこんできたときのこと。私の中の二人の「私」が、意見を戦
わせた。

 「注意してやろう」という私と、「こんなこと程度で、カリカリするな。無視しろ」という私。この二
人の私が、対立した。

 つぎに、女子高校生が反論してきたとき、「別の女子高校生と見まちがえたのかもしれない。
だからあやまれ」とささやく私と、「いや、まちがいない。私のほうが先に並んだ」と怒っている
私、。この二人の私が、対立した。

 そして最後に、二人の女子高校生を見送ったとき、「ああいう気の強い女の子もいるんだな。
学校の先生もたいへんだな」と同情する私と、「ああいう女の子は、傲慢(ごうまん)な分だけ、
いろいろな面で損をするだろうな」と思う私。この二人の私が対立した。

 つまり、そのつど、私の中に二人の私がいて、それぞれが、反対の立場で、意見を言った。
そしてそのつど、私は、一方の「私」を選択しながら、そのときの心のあり方や、行動を決め
た。

 こういう現象は、私だけのものなのか。

 もっとも日本人というのは、もともと精神構造が、二重になっている。よく知られた例としては、
本音と建て前がある。心の奥底にある部分と、外面上の体裁を、そのつど、うまく使い分ける。

 私もその日本人だから、本音と建て前を、いつもうまく使い分けながら生きている。こうした精
神構造は、外国の人には、ない。もし外国で、本音と建て前を使い分けたら、それだけで二重
人格を疑われるかもしれない。

 そこで改めて、そのときの私の心理状態を考えてみる。

 私の中で、たしかに二人の「私」が対立した。しかしそれは心のバランス感覚のようなものだ
った。運動神経の、行動命令と、抑制命令の働きに似ている。「怒れ」という私と、「無視しろ」と
いう私。考えようによっては、そういう二人の私が、そのつどバランスをとっていたことになる。

 もし一方だけの私になってしまっていたら、激怒して、その女子高校生を怒鳴りつけていたか
もしれない。反対に、何ら考えることなく、平静に、その場をやりすごしていたかもしれない。

 もちろんそんなくだらないことで、喧嘩しても、始まらない。しかし心のどこかには、正義感も
あって、それが顔を出した。それに相手は、高校生という子どもである。私の職業がら、無視で
きる相手でもなかった。それでどうしても、黙って無視することもできなかった。

 こうした状態を、「迷い」という。そしてその状態はというと、二人の自分が、たがいに対立して
いる状態をいう。だからこうした現象は、私だけの、私特有のものではないと思う。

もともと脳も、神経細胞でできている。運動に、交感神経(行動命令)※と副交感神経(抑制命
令)があるように、精神の活動にも、それに似た働きがあっても、おかしくない。

 そして人間は、その二つの命令の中で、バランスをとりながら、そのつどそのときの心の状態
を決めていく。そのとき、その二つの命令を、やや上の視点から、客観的に判断する感覚を、
私は、「心のバランス感覚」と呼んでいる。つまりそのバランス感覚のすぐれた人を、常識豊か
な人といい、そうでない人を、そうでないという。

 キオスクから離れて、プラットフォームに立ったとき、私はそんなことを考えていた。
(040224)(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし
浩司 心のバランス感覚 心のバランス)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【虚栄について、B君からの返事】

In Australia being vane is not well liked. I would not say it is very 
bad though. We are more inclined to think someone who is vane is being 
rather silly.

オーストラリアでは、(飾る)ことは、それほど嫌われていない。そんなに悪いことだとは思わな
い。自分を飾る人を見ると、ぼくたちは、愚かな人だなと思うが、その程度。

Being 2 faced is another matter. That can get you despised. 

2つの顔をもつというのは、別。それは軽蔑されるべきことだ。

However there different levels of being 2 faced.

しかし2つの顔をもつといっても、程度の問題もある。

For instance if I am nice and smiling to someone's face but are nasty, 
uncomplimentary or sabotage them "behind their back", I will be 
despised by people who see this.

たとえば、ぼくが、だれかいやなやつに対して、よくしながら、そして微笑みながら、その裏で、
その人の悪口を言ったりすれば、ぼくはそれを知った人に軽蔑されるだろう。

On the other hand, if I really don't like someone but I am polite to 
them in public, this will be seen as being diplomatic. That is people 
who see this will understand and see it as not causing unnecessary 
social friction.

一方、本当はその人が嫌いでも、公(おおやけ)の場所で、その人にていねいにしたとしても、
それは外交的なものと受けとめられるだろう。それを見た人も、そうであると理解し、不要な社
会的摩擦を起こさないためのものと、わかってくれるだろう。

So maybe Australia is not that much different to Japan.

そんなわけで、多分、オーストラリア人も、日本とそんなにちがわないと思う。

Cheers,

バイ

Bより

+++++++++++++++

ついでに1作……
これは4年前に書いた原稿です。

+++++++++++++++

●正直

 京都府にある、A農産F農場(養鶏場)で、鳥インフルエンザが発生した。同時に、大量のニ
ワトリが、死んだ。

 その農場では、そのときすでに数千羽のニワトリが、不審な死に方をしていたにもかかわら
ず、それをあえて無視して、ニワトリを出荷しつづけたという※。そのため、その二週間後に
は、鳥インフルエンザウィルスは、ほぼ西日本全域に広がってしまった(3月2日朝刊※)。

 当の責任者は、「まさか鳥インフルエンザだとは思わなかった」「静かに眠るように死んでいっ
たので、おかしいなとは思っていたが……」などと、テレビの報道記者に答えている。

 しかし同じころ、つまりその養鶏場で、ニワトリが不審な死に方をしていたころ、私の地元の
小学校でも、鳥インフルエンザの話は、子どもたちでさえ知っていた。学校で飼っていたニワト
リが死んだだけで、学校は、そのニワトリを、保険所へ届けていた。いわんや、養鶏場のプロ
が、そんなことを知らぬはずはない。「おかしいな?」ではすまされない話なのである。

 ……という話を、書くのがここでの目的ではない。

 人間の正直さは、どこまで期待できるかという問題である。朝食をとりながら、ワイフと、それ
について話しあった。

私「もしぼくだったら、正直に届け出ただろうか?」
ワ「いつ?」
私「最初にニワトリが死に始め、鳥インフルエンザにかかっているかもしれないと思ったときだ」
ワ「むずかしいところね」と。

 新聞の報道によれば、「通報の遅れが、被害を拡大させた」(Y新聞)ということらしい。そして
農水省の次官も、「(通報が遅れたのが)残念でならない」とコメントを出している。さらに京都
府の知事は、「被害について、県のほうで補償することになっているが、しかし(補償するのは)
考えざるをえない」と述べている。

 「不正直もはなはだしい」ということになるが、本当に、そうか?

 はっきり言えば、日本人は、子どものころから、そういう訓練を受けていない。アメリカの親な
どは、子どもに、「正直でありなさい(Be honest.)」と、日常的によく言う。しかしこの日本で
は、そうでない。むしろ「ずるいことをしてでも、うまく、すり抜けたほうが勝ち」というような教え
方をする。そのさえたるものが、受験競争である。

 それはさておき、今でも『正直者は、バカをみる』という格言が、この日本では、堂々とまかり
とおっている。『ウソも方便』という言葉さえある。「人を法に導くためには、ウソも許される」と。
どこかの宗教団体の長ですらも、「ウソも100ぺんつけば、本当になる」などと言っている。

 これらのことからもわかるように、世界的にみても、日本人ほど、不誠実な民族は、そうはい
ない。ほかにも、たとえば、日本人独特の、「本音(ほんね)と建て前論」がある。

 つまり口で言っていること(=建て前)と、腹の中(=本音)は、ちがう。またそういう本音と建
て前を、日本人は、うまく使い分ける。だから反対に、アメリカ人やオーストラリア人と接したり
すると、「どうしてこの人たちは、こうまで、ものごとにストレートなのだろう」と思う。

 つまりそう「思う」部分だけ、日本人は、正直でないということになる。

 誤解がないように言っておくが、「建て前」とういうのは、「ウソ」ということ。とくに政治の世界
には、この種のウソが多い。

 本音は「銀行救済」なのだが、建て前は、「預金者保護」。本音は「官僚政治の是正」なのだ
が、建て前は、「構造改革」などなど。言葉のマジックをうまく使いながら、たくみに国民をだま
す。

 が、その原因を掘りさげていくと、戦後の日本の金権体質がある。もともと金儲けの原点は、
「だましあい」である。とくに商人の世界では、そうである。そういう「だましあい」が、集合して、
金権体質になった。(……というのは、少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、大きくみれ
ば、そういうことになる。)

 というのも、この話になると、私より古い世代の人は、みなこう言う。「戦前の日本人のほう
が、まだ正直でしたよ」と。「正直というより、「純朴」だった? どちらにせよ、まだ温もりを感じ
た。

 私が子どものころは、相手をだますにしても、どこかで手加減をした。が、今は、それがな
い。だますときは、徹底的に、相手をだます。それこそ、相手を、丸裸にするまでだます。

 つまり「マネー」万能主義の中で、日本人は、その「心」を見失ったというのだ。

 いろいろ意見はあるだろが、もしあなたなら、どうしただろうか。飼育していたニワトリが何千
羽も死んだ。行政側に報告すれば、処分される。鳥インフルエンザではないかという疑いはあ
る。しかしはっきりしているわけではない。今なら、売り逃げられる。うまく売り逃げれば、損失
をかなりカバーできる。そんなとき、あなたなら、どうしただろうか。

 正直に、行政側に報告しただろうか。それとも、だまってごまかしただろうか。

 こうした一連の心理状態は、交差点で赤信号になったときに似ている。左右の車はまだ動き
出していない。しかし今なら、走りぬけることができる、と。それともあなたは、交差点で、信号
を、しっかりと守っているというのだろうか。

 もしそうなら、あなたは多分、F農場のような立場におかれても、行政側に報告したかもしれ
ない。報告するとはかぎらないが、報告する可能性は高い。

しかし赤信号でも、「走れるうちは走れ」と、その信号を無視するようなら、あなたは100%、行
政側に報告などしないだろう。あなたは、もともとそういう人だ。

つまりこれが、私が前から言っている、『一事が万事論』である。

 日々の行いが月となり、月々の行いが年となる。そしてその年が重なって、その人の人格と
なる。そしてそれが集合されて、民族性になり、さらに人間性になる。

 その日々の行いは、「今」というこの瞬間の過ごし方で決まる。

私「ぼくなら、F農場の責任者のように、だまっていたかもしれない。もともと、そんな正直な人
間ではない」
ワ「でも、やはり正直に報告すべきよ」
私「わかっている。だからぼくは、できるだけ、そういう状況に、自分を追いこまないようにして
いる」と。

 おかしな話だが、私は、道路を自転車で走っているときも、サイフらしきもの(あくまでも、…
…らしきもの)が落ちていても、拾わないで、そのまま走り去ることにしている。拾うことにより、
そのあと迷う自分がこわいからだ。正直に交番へ届ければ、それですむことかもしれない。
が、それもめんどうなことだ。

 だからそのまま見て見ぬフリをして、走り去る。「あれは、ただのゴミだった」と。

 だから私は、F農場の責任者を、それほど責める気にはなれない。責める側に立って、さも
善人ぶるのは簡単なことだが、私には、それができない。「とんだ災難だったなあ」「かわいそう
に……」と、同情するのが、精一杯。

それが私の本音ということになる。
(040302)(はやし浩司 正直)

※……「同農場は2月20日から鶏の大量死が始まっていたのに、府に届けず、25、26日に
は生きた鶏計約1万5000羽を兵庫県の食肉加工会社処理場に出荷、感染の拡大につなが
り、強い批判を浴びていた」(中日新聞)

「当初、行政側が把握していた情報は、結果的にどれも誤りでした。実際にはA農産の養鶏場
から大量死が発覚した後の、先月25日と26日に、あわせておよそ1万羽の生きたニワトリが
兵庫県八千代町の鳥肉加工業者「AB」に出荷されていました。
 
 「AB」で加工された1万羽は、京都、兵庫、島根など14の業者に出荷され、ほとんどは返品
されたり、業者が廃棄しましたが、少なくとも150キロの肉がスーパーや飲食店などに、卸され
ていました」(TBS inews)と。

●『金によってもたらされた忠実さは、金によって裏切られる』(セネカ「アガメムノン」)

【追記】

 正直に対する、国民の意識は、国によって、かなりちがう。オーストラリアでは、親は、いつも
子どもに向かって、「正直でいなさい」と言っている。うるさいほど、それを言っている。

 しかしこの日本で、私は、親が子どもにそう言っているのを、聞いたことがない。「あと片づけ
しなさい」とか、「静かにしなさい」というのは、よく聞くが……。

 これは「誠実さ」に対する感覚が、国によってちがうためと考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司※

●ふつうの基準(ケアセンターで)What is "normal"?
What is "normal"? And what is not "normal"? It is often hard to tell which is which. But 
when we see a person who is apparently not "normal", we will know what sort man is "
normal". Here is a short story what I thought when I was seeing a man in a Care Center.

+++++++++++++++++

認知症の症状には、いろいろある。
その中のひとつに、連続性の喪失というのも
あるのでは?

あるケアーセンターで、こんな老人(80歳
前後・男性)を見かけた。

その老人を、M氏としておく。
M氏は、みなといっしょに、粘土を使って、
何かを作っていた。
そのときのこと。

M氏が突然、立って、茶碗をもったまま、
うしろにやってきた。

「何をするのかな?」と思って見ていると、
M氏は、それにポットからお茶を注いだ。

「お茶をくみにきたのだ」と思った。
M氏は、茶碗にお茶を注いだ。
が、そのとき別の何かが、M氏の注意を
ひいたらしい。

M氏は、茶碗をもったまま、別のテーブルに
向かって歩き出した。

コセコセとした、落ち着きのない歩き方だった。

「?」と思って見ていると、M氏は、その
茶碗を、そのテーブルに置き、目の前にある
水槽の魚を、じっと見つめ始めた。

「魚を見ているんだ」と、私は思った。

が、その時間は長くはなかった。
ほんの5〜6秒?

M氏は突然、思い立ったかのように、
またセカセカと歩き出した。
自分のテーブルに戻っていった。
茶碗は、水槽の前に置いたままだった。

M氏は、自分のテーブルの上にあった作りかけの
粘土を、両手でつぶすと、また別のものを作り始めた。

++++++++++++++++++

M氏の行動には、連続性がなかった。
茶碗をもって、お茶をくみに行った。
しかしつぎの瞬間には、水槽の魚を
ながめていた。

その時点で、お茶のことは、すっかり
忘れてしまったらしい。

そして最後は、自分の席に戻っていった。

+++++++++++++++++++

「ふつう」とは何か。
「ふつうの子ども」とは何か。
そのひとつのヒントとして、ここで「行動の連続性」
について、考えてみたい。

たとえば……。

「行動の連続性」とは何かと聞かれると、
それがよくわからない。

しかし連続性のない人を見ると、「行動の
連続性」というのが、どういうものか
わかる。

ここに書いたM氏の行動には、明らかに、
その行動の連続性がなかった。

よく似た問題に、「正常」という言葉がある。
何をもって「正常」といい、何をもって、
「そうでない」というのか。
それがよくわからない。

しかし「正常でない人」を見ると、「正常な人」
というのが、どういうものか、よくわかる。

「正常でない人」を見ていると、そうでない
状態の人を、「正常な人」というということがわかる。

(最近の心理学によれば、「正常」の定義は
ないことになっている。念のため。)

さらに同じような問題に、「ふつうの
子ども」という言葉がある。

どういう子どもを、ふつうの子どもというのか。
またどういう子どもを、そうでないというのか。
実は、これもよくわからない。

しかし「ふつうでない子ども」を見ていると、
そうでない状態の子どもを、「ふつうの子ども」
という、ということがわかる。

そこで教育の世界では、消去法によって、
子どもの問題点をさぐっていく。

たとえば落ち着きのない子どもがいたとする。
明らかに、ふつうでなかったとする。

そういうときは、まず、AD・HD児を
疑ってみる。
しかしAD・HD児でなければ、つぎに
活発型の自閉症児を疑ってみる。
さらに過剰行動児や破滅型行動児なども
疑ってみる。

が、どれでもない……ということであれば、
最後に家庭環境や、食べ物を疑ってみる。

これは医師の診断法に似ている。

重篤(じゅうとく)なケースから順に、
軽いケースへと、診断目的を移動していく。

教育の世界では、診断名を口にすることは
許されない。
しかし親(保護者)からの質問に答えて、
「AD・HD児ではないと思います」
と言うことは、許される。

話がそれたが、その子どもが、ふつうか
どうかは、結局は、「経験」ということになる。
できるだけ多くの子どもに接し、経験を積む。
その結果として、(ふつうの子ども)と、
(そうでない子ども)を、区別することが
できるようになる。

そのばあい、できるだけ、(ふつうでない子ども)に
接してみることが大切。
その結果として、(ふつうの子ども)が、浮かび
あがってくる。

そういう意味では、教育の世界では、経験がすべて。
経験に始まって、経験に終わる。
教科書どおりの子どもなど、ぜったいに、いない。

ケアー・センターのうしろに座って、老人たちを
ながめているとき、私は、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【4月16日】(April 16th, 2008)
I purchased a large size of speakers for my computer. I can produced heavy low sound 
which makes my room like a theater. 

●大型スピーカー

昨日、近くのパソコンショップへ行って、大型のスピーカーを買ってきた。
ドスンドスンと、重低音が響く。

このところYOU TUBEを使って、音楽を聴くことが多くなった。
私につられて、ワイフも自分のパソコンで、よく聴いている。

それで私のスピーカーをワイフに払い下げて、私のは私ので、別のを買うことにした。

結果……。

ワイフの言葉を借りるなら、「部屋中が映画館みたい」とのこと。
今、そのドスンドスンという音を聴きながら、この原稿を書いている。


●鳥インフルエンザ(H5N1)

気になるニュース。

とうとうというか、ついに、鳥インフルエンザが、人から人へと感染するようになった。
世界各地で、その感染例が報告されるようになった。

で、厚生労働省も、1000万人分のワクチンを用意することにしたという(08年4月16日)。
近く、海外との窓口に立つ職業の人たちから順に、接種を開始するという。

何か恐ろしいことが起きそうな気配。
それがジワジワと、この日本にも迫ってきている。

これに対して、「日本は清潔な国だから、だいじょうぶ」という意見もある。
しかし清潔であるがゆえに、かえって、あぶないという意見もある。
つまりその分だけ、未知のウィルスに対して、抵抗力が弱い?

ともかくも、みなさん、注意しましょう!

外出時は、マスクをかけましょう!


●恐怖症(Phobia)

昨日は、一日中、気分が重かった。
理由がある。

おとといの夜、交差点のところで急カーブをしてきた車があった。
「あやうく」というほどのものではなかったが、あぶなかった。

とたん、いつものあの発作。
恐怖症の発作が起きた。
そこから家まで、数百メートルの距離だったが、私は自転車をおり、歩いて帰った。

私が恐怖症になったのは、29歳のとき。
飛行機事故に遭遇してからである。
それ以前、つまり子どものころから、高所恐怖症や閉所恐怖症などの症状はあった。
それが転じて、飛行機恐怖症、さらには、事故恐怖症になってしまった。

こうした恐怖症は、そのつどターゲットを変えて、連続性をもちやすい。
ひとつのことで恐怖症になると、つぎつぎと、別のことでも恐怖症になる。
私が、そのよい例である。

で、ワイフなどに言わせると、「気のせい」ということになるが、そんな簡単なものではない。
脳みそそのものが、勝手に反応してしまう。
気分そのものが、ガクンと落ちこんでしまう。ペタッと、脳みそ全体に、湿布薬か何かが、張り
ついたような状態になる。
意思の力で、コントロールできるような問題ではない。

で、そういうときは、原稿書きは、なし。
書いても、どうせよいものは、書けない。
何を書いても、どこか、憂うつぽいものになってしまう。
(今も、少しどこか、憂うつぽいのは、そのため。)

どうせ生きるなら、明るく、楽しく、生きたい。

+++++++++++++++++

子どもも、この恐怖症になりやすい。
学校恐怖症が、不登校の原因となることも多い。
けっして、安易に考えてはいけない。

+++++++++++++++++

●子どもが恐怖症になるとき

●九死に一生

 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして
文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れ
た。

夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じ
た。私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった…
…。恐怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。

 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたく
ない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがったことがあ
る。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」という子どもが続
出した。

これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐
怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、ふつう、次
の三つに分けて考える。

(1)対人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程
度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注
意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着で、はじめて行ったような場所
でも、わがもの顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、
顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(学校恐怖症)な
どの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会えない、人と話せないなど
の症状が表れることもある。

(2)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗
れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。

これはある子ども(小一男児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始
めるという。親から相談があったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにあ
る、トンネルらしいということがわかった。その子どもは閉所恐怖症だった。

実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すことができなかった。それと関係があるかどう
かは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚え
る。

(3)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわが
る、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。何かのお面をかぶって見せただけ
で、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、15人に1人はいる(年中児)。

ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもなかなか原
因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前後に出ることが多
い。

これも私のことだが、私は30歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そのため
それ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることはできるが、い
つも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」という不安が不眠症の原
因になる。

また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表れる。
高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パターン)ができ
るためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖症が飛行機恐怖症に
なり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。

●忘れるのが一番

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱っても意
味がない。一般に「心」の問題は、1年単位、2年単位で考える。子どもの立場で、子どもの視
点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。無理をすればするほ
ど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、
できるだけそのことを忘れさせるようにする。症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。

私のときも、その事故から数日間は、車の速度が50キロ前後を超えると、目が回るような状
態になってしまった。「気のせいだ」とはわかっていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと
汗をかいていた。が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言い
きかせることで、克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、
夜中でも興奮状態になってしまう。

恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。そういう前提で、
子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学(School Refusal)

不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症とは区別
する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと考える学者も
いる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因となると考えるとわかりや
すい。

(付記)

●人獣共通感染症(ズーノーシス)

「人獣共通感染症」というのがある。何もH5N1
(=鳥インフルエンザ)だけが
人獣共通感染症というわけではない。

ざっと並べてみる。

ニパウィルス
ハンタウィルス
SARSコロナウィルス
西ナイル熱
ラッサ熱
エボラ・マールブルグ・出血熱
出血性大腸菌症
肺ペスト
レプトスピラ病、ほか。

現在1709種類の感染症が確認されているが、
そのうちの約半数が、人獣共通感染症と言われている。

もともとは自然宿主である、特定の獣とだけに共存していた
ウィルスが、地球温暖化や環境の変化により、変異して、
人間を襲うようになったと考えるとわかりやすい。

SARSコロナウィルスもそのひとつだが、今ではあの
ときの騒動を覚えている人は、少ない。

しかしこれで驚いてはいけない。

この自然界には、「生きていて代謝機能を維持しているが、
培養できない状態の菌」(藤田紘一郎・日本の論点08)が、
まだ「いっぱい、いる」という。

「これらの中には、よく知られた病原性大腸菌O157や
コレラ菌」がある、と。

こうした菌が、ひとたび人類を襲い始めたら、人類は
どうなるか。「まさに絶滅の危機に迎えるという」(同氏)。

地球温暖化は、何も、環境だけの問題ではすまないと
いうことらしい。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2550)

●極楽浄土(Heaven)
We live in the world which is heaven.

++++++++++++++++

死んだあと、極楽世界に生まれ変わる
ことを、「極楽往生」という。
「浄土往生」ともいう。

その極楽往生という言葉は、「浄土信仰」
とともに生まれた言葉である。
「浄土」というのは、もともと仏や菩薩
が住んでいる、理想郷をいう。

で、その理想郷は、どこにあるのか。

仏教によれば、十方それぞれに、諸仏の
理想郷があるとされる。
が、この日本では、阿弥陀仏の住む西方こそに、
その浄土があると教える。

私も子どものころ、「天竺(てんじく)」と
いう言葉を、よく聞いた。
天竺というのは、インドをさす。
国語大辞典にも、「日本・中国で、インドを
さす古語」とある。

母の母、つまり祖母も、よくこう言っていた。
「死んだら、天竺へ行く」と。

しかし少なくとも今という現在、インドが
理想郷などとは、だれも思わない?
マザーテレサの生きていた時代を思い浮かべて
みればよい。

つまり浄土といっても、観念的なもので、
実在の場所をいうのではない。
(当たり前のことだが……。)

では、実在(?)しないのかというと、
どうもそうではないようだ。

が、このところ、ものの考え方が、少し
変わってきた。
私自身のものの考え方が、である。
「ひょっとしたら、あの世は、あるかも
しれない」と考えるようになってきた。

まず、この宇宙を見渡してみてほしい。
夜の星空が、わかりやすい。

しかし天空にまばたく星の多くは、
1個の星とはかぎらない。
その1個が、無数の星のかたまり、
つまり銀河であることが多い。

そういう銀河が無数に集まり、この
大宇宙を形成している。

よく私は、子どもたちに、「宇宙の星の
数は、中田島砂丘(浜松市にある、日本の三大砂丘
のひとつ)にある砂の数よりも多い」と
教える。

(ただし地球は、惑星であって、ここでいう
星には含まれない。)

しかし実際には、それよりも、はるかに多い。
「数」で考えることができないほど、多い。

そんな大宇宙でも、最初は、小さな点、もしくは線、
さらにもしくは(無)から、生まれたという。
「ビッグ・バン」と呼ばれる、大爆発によって、
生まれたという。

しかも、こうしたビッグバンが、私たちの
知らないところで、常に、無数に起きている
という。

もちろん私たち人間は、私たちが住む、この
大宇宙しか知らない。
この大宇宙しか、見ることができない。
そのため、この大宇宙だけが、大宇宙だと思っている。

が、「そこに見えないから」という理由だけで、
ほかの大宇宙を否定してはいけない。

私たちが今もっている、時間や空間の概念ほど、
これまたアテにならないものはない。
私たちがいう1秒にしても、別の天体では、
数万年かもしれない。

私たちがいう数万年にしても、別の天体では、
ほんの1秒かもしれない。

空間にしてもそうだ。

この大宇宙で、「遠い」「近い」という言葉を
使うこと自体、ナンセンス。

また「光の速度以上の速度は不可能」という。
しかしこの大宇宙の果てには、その光の速度以上の
速さで、この地球から遠ざかっている星がある。

もしそうだとするなら、その星から見れば、
私たちの住むこの地球が、光の速度以上の速さで
遠ざかっていることになる。

私たちの常識を基準にして、この大宇宙を考えては
いけない。
別の大宇宙については、さらに、そうだ。

そうした大宇宙は、ホーキング博士によれば、
ここにも、そこにも、どこにでもあるという。

けっして、荒唐無稽な話をしているのではない。

私たちが住んでいるこの大宇宙そのものが、
荒唐無稽な世界といえば、これほど荒唐無稽な
世界とうこと。

荒唐無稽というより、「不可思議」?

それがわからなければ、宇宙の(果て)に、
思いをはせてみたらよい。

この大宇宙には、(果て)がないという。
(果て)がないこと自体、不可思議なこと
ではないか?
つまり私は果てのない宇宙に住んでいる。
そのこと自体が、荒唐無稽な話ではないか?

話がそれたが、しかし現実に、私たちはここに
いて、ここで生活をしている。
わかりやすく言えば、(ありえない世界)で、
こうして生きている。

アインシュタインの言葉を借りるまでもない。
「この世界すべてが、奇跡」ということになる。

つまり私たちがいう、(あの世)は、今の
今も、つぎからつぎへと生まれている。
(同時に、消滅もしているが……。)

となると、私たちが住んでいる(この世)が、
(あの世)であっても、何もおかしくない。
同時に、何も(あの世)が理想郷である必要は
ない。
私たちが住んでいる(この世)こそが、理想郷
であっても、何もおかしくない。
この世こそが、「浄土」といってもよい。

つまり(この世)自体に、阿弥陀仏が住んでいる!
もっと言えば、私たちは、極楽往生して、(この世)
にやってきた!

……とまあ、荒唐無稽(?)なことを考える。
あとは、私たちが与えられたこの(奇跡)を、
どう使うとかということ。

私たちは死んで、極楽浄土へ行くのではない。
この世が極楽浄土なのだ!
この世を、極楽浄土にするのだ!

極楽浄土という言葉にかこつけて、「生きる」ということが
どうあるべきかを、もう一度、考えてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 浄土 浄土論 極楽 極楽浄
土)


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【母子分離不安について】

++++++++++++++++++

O市のGさん(30歳・母親)から、満1歳4か月に
なる子ども(男児)の、分離不安についての相談が
あった。

掲載許可をもらえたので、まず、それをそのまま
紹介させてもらう。

++++++++++++++++++

【Gさんより、はやし浩司へ】

突然のご相談で失礼いたします。(メルマガ等は一切購読しない方針のため、申し訳ございま
せん。ホームページは普段よりよく拝見し、子育てに際し何より参考にさせていただいておりま
す。)

私共の長男(1歳4ヶ月)の分離不安のことで悩んでおります。

我が家は長男が誕生して以来、私が在宅勤務という形態での、一応の共働き家庭です。この4
月からは出勤を視野に入れ、長男を保育園に預けることとなりました。それまでは実は私の仕
事の都合上、私の実家で母子が生活し、主人は週に何度か通ってくる生活が1年以上続いて
いました。ですので、長男にとっては現在の自宅は何度か訪れたことのある家に引越しをした
ような状況です。そこへ加え、初めての集団保育ということになりました。

先週(4月第2週)から、午前のみの慣らし保育がはじまりました。案の定、本人の受けたショッ
クは相当なものだったようです。毎朝泣くのはもちろんですが、まもなく、家の中でもちょっと私
の姿が見えないと、たとえ私が声をかけながらでも、火がついたように泣き出すようになりまし
た。

それくらいなら致し方ないかとも思うのですが、しだいに寝てもさめても常に情緒不安定のよう
な状態が続き、よく寝る子だったのに近頃は昼夜を問わず睡眠中も突然泣き出して収まらな
いことが増えました。

つい先々週までは天真爛漫でやんちゃだけがとりえのような子供だったのに、人への警戒心
が顕著になり、笑顔が減り、すぐに私に抱きついてくるようになりました。私に対しても、これま
では何かできると得意げに笑顔でアピールしてきたのに、それも明らかに減ってしまいました。

実は風邪をもらってきてしまったこともあり、今週頭から保育園は欠席し、母子密着していまし
た。すると多少は元気を取り戻した気もするのですが、やはり以前の彼とは違ってしまっていま
す。主人は「それは一過性。誰しも経験することで、それがたとえ半年先でも同じこと。慣れる
もの。だったら今、ほかの子と足並みそろえさせてやるのが一番。欠席させたら彼がかわいそ
う」と考えているようですが、私にはこのまま彼の何か大事な部分が失われてしまうようで悲し
く、不安がつのります。

はやし先生の「子どもを考える」等、いくつか分離不安について触れた記事を拝読し、ますます
悩んでいます。ことの次第によっては、私の仕事を見直して保育園は見合わせもいいと思って
いますが、取り越し苦労でしょうか。またそうしたところで天真爛漫で無邪気だった彼が取り戻
せるのか、アドバイスいただけませんでしょうか。よろしくお願い申し上げます。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、Gさんへ】

まず、いくつかの参考となる資料を添付します。

+++++++++++++

【参考(1)】

●子どもが分離不安になるとき

●親子のきずなに感動した!?     

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラム
ニストの書いたものだが、いわく、「うちの娘(3歳)をはじめて幼稚園へ連れていったときのこ
と。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さに感
動した」と。

そのコラムニストは、ワーワーと泣き叫ぶ子どもを見て、「親子の絆の深さ」に感動したと言うの
だ。とんでもない! ほかにもあれこれ症状が書かれていたが、それはまさしく分離不安の症
状。「別れをつらがって泣く子どもの姿」では、ない。

●分離不安は不安発作

 分離不安。親の姿が見えなくなると、発作的に混乱して、泣き叫んだり暴れたりする。大声を
あげて泣き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイ
ナス型)に分けて考える。

似たようなタイプの子どもに、単独では行動ができない子ども(孤立恐怖)もいるが、それはと
もかくも、分離不安の子どもは多い。4〜6歳児についていうなら、15〜20人に1人くらいの割
合で経験する。

親が子どもの見える範囲内にいるうちは、静かに落ちついている。が、親の姿が見えなくなっ
たとたん、ギャーッと、ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけたりする。

●過去に何らかの事件

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのがわかる。

はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病気で入院したことや、置き去り、迷子を経験し
て、分離不安になった子どももいる。さらには育児拒否、冷淡、無視、親の暴力、下の子ども
が生まれたことが引き金となった例もある。

子どもの側からみて、「捨てられるのでは……」という被害妄想が、分離不安の原因と考えると
わかりやすい。無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状
だけを見て、「集団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいるが、無理を
すればかえって症状をこじらせてしまう。

いや、実際には無理に引き離せば混乱状態になるものの、しばらくするとやがて静かに収まる
ことが多い。しかしそれで分離不安がなおるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた
心は、そんなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し症状が表れ
る。

●鉄則は無理をしない

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに
説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子
を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったり、怒ったりしている
のがわかる。「いいかげんにしなさい」「私はもう行きますからね!」と。

こういう親子のリズムの乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます強く被害妄想をもつよう
になる。分離不安を神経症の一つに分類している学者も多い(牧田清志氏ほか)。

 分離不安は4〜5歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここに書いたように、
一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が予
定より遅くなっただけで、言いようのない不安発作に襲われます」と。姿や形を変えて、おとな
になってからも症状が表れることがある。

(付記)
●分離不安は小児うつ病?

子どもは離乳期に入ると、母親から身体的に分離し始め、父親や周囲の者との心理的つなが
りを求めるようになる。自我の芽生え、自立心、道徳的善悪の意識などがこの時期に始まる。
そしてさらに3歳前後になると、母親から心理的にも分離しようとするが、この時期に、母子の
間に問題があると、この心理的分離がスムーズにいかず、分離不安を起こすと考えられてい
る(クラウスほか)。

小児うつ病の一形態と考える学者も多い。症状がこじれると、慢性的な発熱、情緒不安症状、
さらには神経症による諸症状を示すこともある。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【参考資料(2)】

子どもの心が不安定になるとき 

●情緒が不安定な子ども

 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育の発達
度、それに(4)運動能力。

このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときをみて、判断する。運
動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無口(以上、マイナス
型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなければ、情緒が安定した子
どもとみる。子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。

子どもが「疲れた」というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん
弱い。それこそ日中、五〜一〇分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マ
イナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。

表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。この
タイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしよう
ね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的
な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親自身
の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒
動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、祖父には
げしく叱られたのが原因で、自閉傾向(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また
別の子ども(三歳男児)は、母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不
安(親の姿が見えないと混乱状態になる)になってしまった。

 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体の不調
のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チッ
ク、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖
症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子ど
もの側からみて神経質で、気が抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家
庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされている
なら、子どもにはそれほど大きな影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与え
る。子どもは愛情の変化には、とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけれ
ばならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、
カボチャの頭』と書いている。人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボ
チャの頭の上に座ったほうが気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。
わからないまま、家庭を「しつけの場」と位置づける。

学校という「しごきの場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、家の中でも「勉強しなさい」
と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だったの」「こんなことでは、いい高
校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)
●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの
神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。

(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【参考資料(3)】

子どもの情緒不安

●原因は家庭に ●神経症の原因になることが多い

子どもの情緒の安定度は、子どもが体力的に疲れていると思われるときをみると、わかる。た
とえば運動会や遠足のあとなど。そういうときでも、不安定症状(ぐずり、ふさぎ、イライラなど
の精神的動揺)がなければ、情緒の安定した子どもとみる。あるいは子どもは寝起きをみる。
不機嫌なら不機嫌でも構わないが、毎朝様子が同じというのであれば、やはり情緒が安定した
子どもとみる。

 子どもは二〜四歳の第一反抗期、思春期の第二反抗期に、特に動揺しやすいことがわかっ
ている。経験的には、乳幼児から少年少女期への移行期にあたる満四〜五歳、および小学二
〜四年生にかけて不安定になることがわかっている。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。

 情緒が不安定な子どもは、心がいつも緊張状態にある。外見にだまされてはいけない。柔和
な表情を浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているということは、よくある。このタイプ
の子どもは、気を許さない。気を抜かない。他人の目を気にする。よい子ぶる。そういう状態の
中に、不安や心配ごとが入り込むと、それらを解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が
不安定になる。

症状としては、(1)攻撃的、暴力的になるプラス型と、(2)周囲に溶け込めず、ひきこもったり、
怠学、不登校を繰り返したりするマイナス型にわけて考える。プラス型は、ささいなことで激怒し
たり、さらに症状が進むと集団的な非行行動をとったりする。マイナス型は慢性的な下痢、腹
痛、体の不調を訴えることが多い。

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。家庭騒動や家
庭不和、恐怖体験、暴力、虐待、神経質な子育て、親の拒否的な態度など。

 子どもが情緒不安症状を示すと、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原因の
第一は、家庭にあると考えて反省する。過干渉、過関心、過負担、過剰期待など。心を束縛し
ているものがあれば、解きほぐす。一番よいのは、子どもの側から見て、親の存在を感じさせ
ないほどまでに、子どもが一人になれる時間と場所を用意すること。あれこれ気をつかうの
は、かえって逆効果。あとはスキンシップを多くして、温かい家庭作りに努める。

 なお一般的には、情緒不安は神経症の原因となることが多い。強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、
緩慢行動、恐怖症、虚言癖、収集癖、夜尿症など。症状は千差万別で定型はない。


Hiroshi Hayashi++++++++APR.08++++++++++はやし浩司

【参考資料(4)】

●子どもの情緒

【SSさんより、はやし浩司へ】

「先生、ご無沙汰しております。
以前、四歳の息子のかん黙について相談させていただきました岐阜のSSです。
現在は五歳六か月になりました。

その後、保母に「言ってごらん」等の声かけをやめてもらったところ、たった三日で彼に笑顔が
戻り、保育園へ行かないというのも治りました。

しかし、慣れるとまたしゃべらそうとしたりの繰り返しで、なかなかうまくいきません。
一度ぽつりとしゃべったのを聞いたパートの先生がうれしくて、「もっと聞かせてよ」という具合
に朝夕のあいさつを強要し、おかげでまた、登園拒否になってしまいました。

先月、口唇裂の修正手術のために二週間入院したのですが、そのことを保母が、ほかの子ど
もたちに伝えたところ、「しゃべれるようになる?」と聞かれ、「そうかもよ」と言い、子どもたちは
「手術をしたらしゃべれる」という認識となったようです。

本人もです。「手術したらしゃべれるようになるよね!」と張り切っていました。

構造的なことと精神的なものは関係ありません。もともと発語について構造的な問題はありま
せん。本人が「しゃべれる」という気持ちになって、本当に他の人としゃべれたら本当にうれしい
ことです。

でも、逆のことを考えたら・・・。

術後、「まだしゃべられないよ」、しばらくして「テープが取れたらしゃべれるよ」と。

抜糸も終わった今はもう、このことにはふれません。

でも、保育園へ行くと私も子どもたちに「しゃべれるようになった?」と聞かれるので、本人もき
っと聞かれているのだろうと思います。

三歳までの間に一〇回以上の入院(完全看護)を経験しているので、母子分離不安が強く、風
邪、入院、冬休みと続き、「保育所へ行かない!」と、かなりの抵抗をするようになりました。

毎朝、布団から出ない、服を着せる→脱ぐ、カバンの中身を出して投げる→入れるの繰りかえ
しを、一時間から二時間ほど、母子で行います。もちろん食事なんて取れません。

やってるうちに私も悲しくなり泣いたり、怒ったり。
だんだん手を上げるまでの時間も短くなってきています。
ここまでして保育園に連れて行く理由を探しても見つからないのですが、保育園に行って、私
の姿が見えなくなると朝の準備もできるし、保育園での生活も楽しんでいるそうです。

今日は服も首を通しただけの状態で、裸足で連れて行きました。
見えなければ見えないで楽しくできるのならば、一度休ませたらクセになる・・・と思って、何とか
やっていますが、毎朝保育所から一人で帰宅すると、ものすごい疲労感と脱力感に教われま
す。

いつまでつづくのか、これで本当にいいのだろうか?

以上のことを保母と懇談などで話をしても「過保護な親」のレッテルを貼られていますので、言
えば言うほど悪い方へ向いているようです。

子どもがどうこうよりも、見えない障害を解ってもらえない、障害をもっているお子さんをお持ち
の母親どうしでも、「親としゃべれるだけ、いいじゃない」と相談も聞いてもらえない。

自分自身の心の余裕の問題のような気がします。

「待つ」ことができなくなってきました。

保育園が悪いわけではなく、私と離れるのが保育園だけなので、母子分離不安だと思います。

ほか、通院や母子通園などは、自分から起きてきて、着替えもちゃんとできます。

公立の保育園をやめ、最初からやり直した方がいいのでしょうか?
強制的に分離されていたあの頃の時間に立ち戻って、徐々に手を離していく。
それも必要なのかと思ったりします。

「生きてるだけでいいじゃない」と思っていたあの頃。
病院を出て、健常者の社会で生きていくためにはそれだけではいけないようです。
精神面が置き去りのまま、就学まであと一年という中で頑張っています。

「お母さんがいなくても、全然平気でしたよ」と、保母さんは言います。
本当に平気なのだろうか。見えなくなって気持ちの切り替えがちゃんとできているのなら、保育
園をやめないほうがいいし、無理にでも連れて行けばいい。

どっちつかずの態度が一番悪いと知りつつも、迷ってばかりの毎日です。
何かアドバイスを頂けたらと思い、メールしました。
どうぞよろしくご指導ください。」
(岐阜市SSより)

++++++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、SSさんへ】

 メール、ありがとうございました。

 以前いただいたメールはさておき、ここではかん黙症と分離不安を中心に考えていきます。
少しSSさんの相談の件とは離れますが、お許しください。

 かん黙も含めて、「ふつうでない(何も、どこかにふつうがあるわけではないのですが……)症
状」を子どもが見せても、まず第一に、子どもには、その自覚はないということです。自分を客
観的に見ることができないからです。だから「しゃべりなさい」「どうしてしゃべらないの」「ほかの
子は、みんなしゃべっているでしょ」式の言い方をしても、無意味だということです。

 しかしもうすぐ、子どもに自意識が育ってきます。自分の姿を、客観的に見ることができる能
力と言ってもよいでしょう。だいたい小学三、四年生ごろだと思ってください。そのころになると、
自分と他人の違いを、自分で判断できるようになります。「ぼくは、ほかの子と違うぞ」「こんなこ
とをしていると、損をするぞ」とです。

 そういう自意識が育ってくると、自分で自分をコントロールするようになります。そうなると、こ
の種の心の問題は、急速に改善します。ほとんどのかん黙症の子どもが、この時期を境に、
症状が消えるのは、そのためです。ただ、情緒不安症状(心の緊張感が取れない、取りにく
い、緊張しやすい)は、そのまま残ります。しかしこれは多かれ少なかれ、だれにでもあること
で、しかたのないことですね。

 問題は、今、そういう症状があることではなく、この時期、あれこれ無理をして、症状をこじら
せてしまうことです。かん黙児(こう診断名をつけることは許されませんが、一般論として)のば
あい、自信喪失になったり、かん黙とは別の失語症になったりすることもあります。ですから今
は、こじらせないことだけを考えて、気楽に構えてください。ここに書きましたように、時期がくれ
ばなおります。そしてその時期まで、あと三、四年です。

 そんなわけで、今、「あなたはおかしい」式のラベルを張らないこと。子どもに、わからせない
ことです。残念ながら、保育園では、ほかの子どもたちが、「しゃべれるようになる?」とか、勝
手に騒いでいるようですが、これは、少しまずいですね。保育園でも話題にしないよう、つまり
無視してくれるよう、保母さんに話してみられてはいかがでしょうか。

 育児は、そうでなくても、たいへんな重労働です。「ものすごい疲労感と脱力感に教われます」
というのは、何もSSさんだけのことではありません。いろいろな調査によっても、約七〇%強
の母親たちが、そう感じています。つまり育児というのは、もともとそういうものだという前提で
つきあうしかないようです。

 で、かん黙にせよ、分離不安にせよ、ポイントは、いかにして子どもの心の緊張感をとるかと
いうことです。それには、まず子どもを絶対的な安心感、全幅的な愛情で包むことです。「絶対
的」というのは、子どもの側からみて、「不安や疑いをいだかない」という意味です。最近の研究
では、こうした子どもの情緒の問題は、生後まもなくから乳児期の、親の接し方のどこかに問
題があったからということがわかってきました(イギリス、ボウルビー、ケンネルほか)。しかし過
去をとやかく言っても、はじまりません。

 今もそうで、子どもに示す愛情の質、とくにスキンシップの質を高めます。濃厚なスキンシップ
が効果的なことは言うまでもありません。多少の抱きグセがつくかもしれませんが、子どもが望
む間は、手をつなぐ、抱っこしてあげる、添い寝をしてあげるなど、そのつどスキンシップを農
耕にしてください。

中に「依存心がつくからダメだ」という人もいますが、スキンシップと依存心は関係ありません。
むしろスキンシップを繰りかえすことにより、ストレスが多いと出るホルモンが、抑制されること
がわかっています(マイアミ大学、T・フィールド博士ら)。さらにサイレントベビーの名づけ親で
ある、柳沢さとし氏は、こう述べています。

「母親たちは、添い寝やおんぶをしなくなった。抱きグセがつくからよくないという誤解も根強
い。(泣かない赤ちゃんの原因として)、育児ストレスが背景にあるようだ」(読売新聞)と。

 概してみても、日本人は、スキンシップの少ない民族です。ですからSSさんが、思い切ってス
キンシップを多くしても、国際標準からは、まだほど遠いほど少ないとみてよいのです。遠慮せ
ず、お子さんを抱きなさい。今しかないですよ。子どもの肌のぬくもりを感ずることができるの
は!

 「健常者」という言葉は、いやですね。日本人がアメリカ人を見て、「ガイジン」というのに似て
います。

 私の長男は、今、知的な障害者のある人たちが集まって運営する会社で、指導者としての仕
事をしています。彼が自ら選んだ仕事ですが、「みんな、まじめな人たちばかりだ。一日だっ
て、休む人はいない」と言っています。まじめにまさる美徳はありませんね。長男は、障害のあ
る人たちに、むしろいろいろなことを教えられているようです。

つまりですね、今日があり、明日があるように、一〇年後にも、二〇年後にも、「今日」はありま
す。まったく今と同じような「今日」があります。ですから、恐れないで、必要以上に心配しない
で、前に進んでください。世間の人たちは、決して冷たい人ばかりではないですよ。このマガジ
ンを読んでいる読者の方々みな、(多分)、SSさんの味方ですよ。みんなが、あなたのお子さ
んを守ります。またそういう社会を作ります。みんなで、めざそうではありませんか! 心豊か
な、弱者に温かい社会を、です!

 今日は今日で、やるべきことをやりましょう。懸命に、です。虚脱感や脱力感を覚えたら、「よ
くやった」と自分で自分をほめてあげましょう。それでいいのです。「これでいいのか?」と迷っ
たら、すかさず、「やるべきことはやった」と自分をなぐさめます。私はいつもそうしています。だ
って、先のことを悩んでも、しかたないですよね。どうせ生きていかなければならないのですか
ら……。

 あまりよい回答になっていないかもしれませんが、もしまだマガジンをお読みでないようでした
ら、ぜひ、ご購読ください。無料です。申し込みは、「はやし浩司のホームページ」から、「マガジ
ンコーナー」へ。どうぞおいでください。

 なお、勝手にメールを転載させていただくことにしましたが、どうかご了解ください。一月二六
日号に掲載させていただく予定です。つごうの悪いところがあれば、至急、お知らせください。
改めます。
(03−1−18)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【参考資料(5)】

【Q4】私(母親)が、家計を支えるため、仕事に出ることになりました。子どもがまだ2歳と1歳
なので、このまま家をあけるようになって、よいものかどうか悩んでいます。子どもと接する時
間が少なくなりますが、とくに注意したらよいことはどんなことでしょうか。私が仕事をしている
間、私の父と母が、子どものめんどうをみてくれることになっています。

【A、はやし浩司より】
 親子のふれあいは、量ではなく、質の問題です。量が多いからよいということにもなりませ
ん。また少ないから、心配ということにもなりません。以前書いた、二つの原稿を、どうか参考
にしてください。

+++++++++++++++++++++++

●愛情は、量ではなく、質

 スキンシップについて、どの程度が適量なのかという具体的な調査はない。ないが、全体とし
てみると、日本人は欧米の人とくらべても、極端に少ない。親子のみならず、夫婦、友人の間
でも少ない。日本人は肌を合わせるということについて、独特の文化をもっていて、それがこう
した違いを生みだしたとも言える。

 ただこういうことは言える。スキンシップは量ではなく、質の問題である、と。こんなことがあっ
た。その子ども(年長男児)の家庭は、母親の言葉を借りるなら、「擬似母子家庭」。父親は仕
事が忙しく、子どもと接する時間がほとんどなかった。が、その子どもには、母子家庭の子ども
に見られるような心のゆがみがほとんどなかった。で、ある日、私は母親にその秘訣を聞いて
みた。すると母親はこう教えてくれた。「夫は日曜日になると、子どもをいつも抱いています。ま
たたまに朝や夜、顔をあわせるときがあると、夫は子どもを腕に寄せ、力いっぱい抱いていま
す」と。

 もちろんベタベタのスキンシップがよいわけではない。ときどき一日中ペットの犬を胸に抱い
ている人を見かける。あのタイプの人は犬をかわいがっているというより、自分自身の情緒的
欠陥を「抱く」という行為で補っているに過ぎない。こういうのを代償的行為というが、子どもの
爪かみ、指しゃぶりと同じに考えてよい。もっとも相手が犬というペットなら、それほど弊害はな
いが、子どもだと、その弊害は子どもに表れる。精神や情緒の発育そのものが遅れることもあ
る。

 子どもをどの程度抱けばよいかという質問はよくある。しかしここにも書いたように、スキンシ
ップは質の問題。抱く側が、「愛していますよ」「安心していいのよ」という明確な意思をもって抱
くようにすればよい。またそういう意思を表示するためのスキンシップであれば、回数は多くて
もかまわない。

 なおこのスキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。「人知を超えた」というのも、少
しおおげさに聞こえるかもしれないが、私はその不思議な力に驚かされることがしばしばある。
そんなことも考えながら、子どもへのスキンシップを考えるとよい。

+++++++++++++++++++++++

●ある母親の相談

 今日、一人の母親から、こんな相談を受けた。何でも三歳になる娘が、父親になつかなくて、
困っているというのだ。「父親は、子どもが起きる前に仕事に行き、いつも子どもが寝てから、
仕事から帰ってきます。それで父子が接触する時間がないのです」と。

 しかしこの母親は、大きな誤解している。娘が父親になつかないのは、接触時間が少ないか
らだと、この母親は言う。これが誤解の第一。

 ずいぶんと前だが、私は接触時間と、子どもへの影響を調べたことがある。その結果、「愛
情は、量ではなく、質の問題である」という結論を出した。こんな例がある。

 その子ども(年中男児)は、やはり父親との接触時間がほとんどなかった。母親は、「うちは
疑似母子家庭です」と笑っていたが、そういう環境であるにもかかわらず、その子どもには、心
のゆがみが、ほとんどみられなかった。そこで母親にその秘訣(ひけつ)を聞くと、こう話してく
れた。

 「夫(父親)は、休みなど、たまに顔をあわせると、子どもを力いっぱい、抱きます。そして休
みの日などは、いつもベタベタしています」と。

 要するに子どもの側からみて、絶対的な安心感があるかどうかということ。この絶対的な安
心感があれば、子どもの心はゆがまない。「絶対的」というのは、その疑いすらいだかないとい
う意味。そういうわけで、愛情は、量ではなく、質の問題ということがわかった。

 で、冒頭の母親の話だが、子どもの様子を聞くと、こう話してくれた。

 「私のひざなら、何時間でもじっと座っているのですが、夫(父親)のひざだと、すぐ体を起こし
て逃げていきます。そこでエサで魚を釣るように、娘がほしがりそうなものを見せて、抱っこしよ
うとするのですが、それでも、うまくいきません」と。

●心を開く

 ふつう子どもがスキンシップを避けるという背景には、親か、子か、あるいは両方かもしれな
いが、たがいに心を開いていないことがある。このことがわからなければ、男女の関係を思い
浮かべてみればよい。夫婦でも、こまやかな情愛が行き交い、たがいに心を開きあっていると
きは、抱きあうと、体がしっくりとたがいになじむ。しかしそうでないときは、男の側からみると、
何かしら丸太を抱いているような感じになる。抱き心地がたいへん悪い。

 子どももそうで、たがい心を開いているときは、子どもを抱くと、子どもはそのままベッタリと親
に体をすりよせてくる。さらに心が通いあうと、呼吸のリズム、さらには心臓の鼓動のリズムま
で同調してくる。こういう状態のとき、子どもの心は、絶対的な安心感に包まれていると考えて
よい。もちろん情緒も安定している。

 が、抱いても、抱き心地が悪いとか、あるいは抱っこしても、子どもがすぐ逃げていくというの
であれば、どちらかが心を開いていないということになる。このケースのばあい、子どもが心を
開いていないということになるが、実は、その原因は、子どもにあるのではない。父親のほうに
ある。子どもが心を開けない状態を、父親自身がつくりだしている。もっとはっきり言えば、父
親が、心の開き方を知らない。子どもは、それに応じているだけ。

●原因は父親の幼児期に

 このケースでは、私はここまでしか話を聞かなかったので、これ以上のことは書けない。しか
し一般論として、こういうケースでは、父親自身の幼児期を疑ってみる。たいてい、父親自身
が、何らかの理由で、その親から、じゅうぶんな愛情を受けていないことが多い。そういう意味
で、親像というのは、親から子へと、代々、受け継がれていく。よくあるケースは、その親の親
が、昔風の権威主義的なものの考え方をしていたようなとき。

 A氏(四〇歳)の父親は、昔からの醤油屋を経営していた。祖父は、旧陸軍の少将にまでなっ
た人だった。そういう家風だから、家族の序列も、厳格だった。風呂でも、祖父が一番、ついで
父が二番、そのA氏(長男)が三番が……と。祖父はおろか、父親にさえ口答えするなどという
ことは、考えられなかったという。

 そういう家庭でA氏は、生まれ育ったから、「親子の間で、心を開きあう」ということなどという
ことは、ありえなかった。この話を私がA氏に話したときも、A氏は、「心を開く」という意味すら
理解できなかった。そればかりか、自分自身も、そういう権威主義的なものの考え方にどっぷ
りとつかっていて、「父親には、父親としてのデンとした権威が必要でではないでしょうか」など
と、私に言ったりした。

 たしかに権威主義は、「家」の秩序を守るには、たいへんうまく機能する。しかし「人間」を考
えると、権威主義は、弊害になることはあっても、利点は何もない。

 だからA氏の子育ては、いつもギクシャクしていた。A氏の妻が、現代的な女性で、権威を認
めないような人だったから、ときどき夫婦ではげしく対立したこともある。A氏は家事はもちろん
のこと、子どもの世話も、まったくといってよいほどしなかった。子どもの運動会や遊戯会、さら
には父親参観会にも、一度も顔を出したことがない。それはA氏の体にしみこんだ「質」のよう
なものだった。「父親がそんなことするものではない」という意識があったのかもしれない。い
や、その意識以前に、そういう親像そのものが、頭の中になかった。

●親像がない?

 これは私の推察だが、冒頭にあげた父親にしても、父親としての親像の入っていない親とみ
てよい。不幸にして、不幸な家庭に育ったのかもしれない。あるいは今の年代の親の親たち
は、日本がちょうど高度成長期を迎え、だれもかれもが、仕事、仕事で、子育てなどかまってい
るヒマさえなかった。そういうことがあったのかもしれない。ともかくも、親像がないため、どうし
ても子育てが、ギクシャクしてくる。(これとは反対に、自然な形で親像が入っている親は、これ
また自然な形で子育てができる。)

 こういうケースでは、「子どもが親になつかない」という視点で考えるのではなく、親自身が、
子どもに対して、いかにして心を開くかという視点で、問題を考える。とくにここに書いたように、
心のどこかで権威主義的なものの考え方をする人は、つい「親に向かって」とか、「私は親だ」
という親意識を出してしまう。その親意識が、子どもの心を閉ざしてしまう。

 ……と書いても、この問題の根は深い。本当に深い。日本人が、民族の基盤としてもってい
る土台にまで、その根がおよんでいる。だから、そんなに簡単にはなおらない。「では明日か
ら、権威主義を捨て、対等の立場で、子どもには心を開きます」とは、いかない。私もその母親
と別れるとき、一応言うべきことは言ったが、内心では、「むずかしいだろうな」と思った。ただ
最後にこう言った。「今度、父親を相手にした講演会で、そういう話をしてください」と。

+++++++++++++++++++++++++

 お子さんは2歳のお子さんについては、人見知りの時期も過ぎているので、心配はないと思
います。しかし、1歳のお子さんについては、私はまだ、母親の温もりが重要な時期だと思いま
すので、働きに行くにしても、慎重にしたらよいかと思います。WHOも認めているように、満2
歳までは、親が、親の手で子どもを育てるのが望ましいことは、言うまでもありません。

 そこでどうしても働きに行くということであれば、子どもの側からみて、絶対的な安心感を覚え
られるような環境づくりを大切にします。「絶対的」というのは、「疑いを抱かない」という意味で
す。安定した、穏やかな家庭環境を何よりも大切にします。あなたの夫や、両親の理解が、不
可欠なことは言うまでもありません。コツは、「母親が急にいなくなった」というような不安感を、
子どもに与えないようにすることです。

 子どもが不安にならなければよいのですが、無理をすれば、母子分離不安になったり、それ
が原因で、将来にわたって、「基底不安」を、子どもが覚えるようになるかもしれません。そうい
う心配はあります。

(基底不安の状態になると、生きザマのあらゆる部分で、不安を覚えるようになります。何をし
ても、何をしていても、不安、という状態です。それこそ、せっかくの休日に、旅行に行っても、
その旅行先で、休み明けの仕事のことを、不安に思ったりする、など。そういう人は、多いです
よ。)

 これ以上のことは私には言えませんので、ご家族の方と、よく話しあってみてください。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【参考資料(6)】

【YKさんの相談より】

 今年から、幼稚園へ通うようになりました。現在、三歳です。毎日のように、幼稚園へ行きたく
ないと、ぐずります。「ママといっしょにいたい」と言います。以前は、泣きながら幼稚園へ行きま
したが、今は、やっと泣かなくなりました。外の世界では、思ったことも、言えなく、がまんしてし
まうので、それではないかと思います。見ていると、それなりに友だちと、遊んではいますが…
…。どのように接したらよいのか、私自身もわからなくなりました。

【はやし浩司より、KYさんへ】

 こういう相談では、最悪のケースから考えていきます。それはドクターの診断に似ています。
「この病気か? でないとするなら、この病気か?」とです。

 KYさんのケースでは、いくつか、疑われます。思いついたままですが、たとえば、(1)母子分
離不安、(2)対人(集団)恐怖症、(3)強迫症など。下にお子さんがいるなら、(4)赤ちゃんが
えりによる、情緒不安や、神経症なども疑ってみます。

 いただいた文面だけでは、何とも判断しかねますが、よい方向に向っているのは事実のよう
ですから、(1)無理をしない、(2)質の高い愛情表現、(3)食生活の改善、(4)暖かい無視を
組み合わせて、対処します。

 「無理をしない」というのは、お子さんの心を大切に、という意味です。心理学(カウンセリン
グ)の世界でも、(1)自己一致、(2)肯定的尊重、(3)共感を大切にします。しかしこれは同時
に、子育ての世界でも、そのまま応用できます。

 自己一致……要するに、お子さんをだますためのウソは言わないということ。「幼稚園へ行か
ないと、先生に怒られる」式のおどしがよくないことは、言うまでもありません。

 肯定的尊重……よき聞き役になれということです。そしてお子さんが何を言っても、「そうね」
「ママもそう思うわ」と、お子さんの心をくみあげてやります。

 共感……お子さんの立場で、考えてあげるということです。「幼稚園へ行きなさい!」と突き放
すのではなく、「毎日、たいへんね」と、ねぎらってあげます。

 つぎに「質の高い愛情表現」ですが、お子さんが求めてきたときには、濃密なスキンシップで
こたえてあげます。ぐいと力強く抱くなどが、効果的です。お子さんに、安心感を覚えさせるよう
にするのが、コツです。

 「食生活の改善」は、お子さんの心がどこか不安定になったら、CA、MGの多い食生活にこ
ころがけます。海産物、魚類がよいことは、言うまでもありません。同時に、甘い食品を一掃し
ます。

 最後に「暖かい無視」ですが、幼稚園から帰ってきたら、こまごまとしたことは言わないで、お
子さんの側から見て、くつろげる家庭環境を用意します。とくに神経疲れを起こしているような
ら、家の中では、ゆるめます。多少生活態度がぞんざいになっても、「ああ、うちの子は、外の
世界でがんばっている」と思いなおすようにします。

 ここに「神経症のチェックシート」を同封しておきますので、一度、家庭で、自己診断してみてく
ださい。得点が平均点より、高いようでしたら、ここに書いたことを参考にしてみてください。し
かし平均点より下ということであれば、今のところ、心の問題はないものと思われますから、お
子さんを暖かく見守る程度で、よいかと思います。

 いくつか参考にしていただけそうな原稿を、ここにはりつけておきます。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【参考資料(7)】

【掲示板の投稿より】

息子が、小学校に入学してからそろそろ2ヶ月になりますが、ひとりで(友達がいても)、私が玄
関まで送っていかないと、学校へ行けません。

玄関で私の手を握ってなかなか離れないこともあります。しばらくは仕方ない事と思って続けて
きましたが、まわりの子供たち(同級生)が、羨(うらや)ましがっています。

今朝、玄関で同じクラスの子が、「ウチのお母さんは来ないもん」と言って、玄関の戸を押さえ、
私を外へ出さないようにしていました。

もう一人の子がそれをやめさせようとして、その子とケンカになりそうになったんです。

長女は「ママ早く来て」と泣きそうな顔で見ていました。このまま私が付いていけば、友達とも仲
良くできなくなるのでは?と。でもいっしょに行かなければ学校へは行けないし、どうすればい
いのか困っています(Yより)。 

+++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 軽い母子分離不安かと思われます。無理をしてもいけないので、自然体で、対処するしかな
いようです。

 ただ相談の内容とは別に、私には、ほほえましい光景が浮かんできます。「うちの息子たちも
そうだったなあ」と、です。

 「ああいう楽しいときは、どこへ消えてしまったのだろう?」と思うときさえあります。そのとき
は、何かと問題があるように思われ、あれこれ四苦八苦したものですが、子育ても終わってみ
ると、そういう光景が、たまらなく、いとおしく思われてきます。

 母親として、負担が大きいようであれば、少しずつ手を抜いていくという方法もありますし、ま
あ、あまりおおげさに考えないほうが、よいのではないかと思います。

 子どもが学校へ入学すると、親も、何かにつけ神経質になります。今のあなたが、そうかもし
れませんが、少し、子どもから目をそらすということも考えてみてください。あまり深く意味を考
えないで、それが儀式になっているなら、そのままつづけても、さほど、問題はありません。

 私も職場に行くときは、必ず、ワイフが玄関先まで出てきます。夫妻分離不安?……というよ
り習慣的な儀式になっています。今では、ほとんど意味はありません。たまにワイフが玄関先
まで出てこないときもありますが、そういうときは、多少、気分が落ちつかないということはあり
ます。

 しかし外へ出て数分もしれば、忘れます。

 今は、そういう楽しい思い出をたくさん充電しておいてください。ついでに写真でもとってあげ
たらいいですよ。やがて、生意気な子どもになりますから、そのとき、「あなたね、偉そうなこと
を言うけど、1年生のとき、ママのそばから離れなかったのよ」とか何とか、言って、そのとき、
からかってあげなさい。

 私の書いた原稿を、1作、添付します。

++++++++++++++++++++++++++

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。

そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、
ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちの
ために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそう
だから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもという
よりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。

うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。

そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。そのときはわからなかった。その「何でもな
い」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは! 

子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 

++++++++++++++++++++++

 あなたも、今をもっと、楽しんでください。子育ては、すばらしいですよ!!

 では!

++++++++++++++++++++++

【参考資料(8)】

【子どもを愛せない親たち】

 その一方で、子どもを愛せない親がいる。全体の10%前後が、そうであるとみてよい。

 なぜ、子どもを愛することができないか。大きくわけけて、その理由は、二つある。

 一つは、自分自身の乳幼児期に原因があるケース。もう一つは、妊娠、出産に際して、大き
なわだかまり(固着)をもったケース。しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される。

 乳児には、「あと追い、人見知り」と言われるよく知られた現象がある。生後5〜7か月くらい
から始まって、満1歳半くらいまでの間、それがつづく。

 ボウルビーという学者は、こうした現象が起きれば、母子関係は、健全であると判断してよい
と書いている。言いかえると、「あと追い、人見知り」がないというのは、乳児のばあい、好まし
いことではない。

 子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくむ。その安心感を与えるのは、母親の役目だ
が、この安心感があってはじめて、子どもは、他者との信頼関係(安全感)を、結ぶことができ
るようになる。

 「あと追い、人見知り」は、その安心感を確実なものにするための、子どもが親に働きかけ
る、無意識下の行動と考えることができる。

 で、この母子との間にできた基本的信頼関係が、やがて応用される形で、先生との関係、友
人との関係へと、広がっていく。

 そしてそれが恋愛中には、異性との関係、さらには配偶者や、生まれてきた子どもとの関係
へと、応用されていく。そういう意味で、「基本的(=土台)」という言葉を使う。

 子どもを愛せない親は、その基本的信頼関係に問題があるとみる。その信頼関係がしっかり
していれば、仮に妊娠、出産に際して、大きなわだかまりがあっても、それを乗りこえることが
できる。そういう意味で、ここで、私は「しかし後者のケースも、つきつめれば、前者のケースに
集約される」と書いた。

 では、どうするか?

 子どもを愛せないなら、愛せないでよいと、居なおること。自分を責めてはいけない。ただ、一
度は、自分の生い立ちの状況を、冷静にみてみる必要はある。そういう状況がわかれば、あな
たは、あなた自身を許すことができるはず。

 問題は、そうした問題があることではなく、そうした問題があることに気づかないまま、その問
題に引き回されること。同じ失敗を繰りかえすこと。

 しかしあなた自身の過去に問題があることがわかれば、あなたは自分の心をコントロールす
ることができるようになる。そしてあとは、時間を待つ。

 この問題は、あとは時間が解決してくれる。5年とか、10年とか、そういう時間はかかるが、
必ず、解決してくれる。あせる必要はないし、あせってみたところで、どうにもならない。

【この時期の乳児への対処のし方】

 母子関係をしっかりしたものにするために、つぎのことに心がけたらよい。

(1)決して怒鳴ったり、暴力を振るったりしてはいけない。恐怖心や、畏怖心を子どもに与えて
はならない。
(2)つねに「ほどよい親」であることに、心がけること。やりすぎず、しかし子どもがそれを求め
てきたときには、ていねいに、かつこまめに応じてあげること。『求めてきたときが、与えどき』と
覚えておくとよい。
(3)いつも子どもの心を知るようにする。泣いたり、叫んだりするときも、その理由をさぐる。
『子どもの行動には、すべて理由がある』と心得ること。親の判断だけで、「わがまま」とか、決
めてかかってはいけない。叱ってはいけない。

 とくに生後直後から、「あと追い、人見知り」が起きるまでは、慎重に子育てをすること。この
時期の育て方に失敗すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。そして一度、この時期
に不安定になると、その後遺症は、ほぼ、一生、残る。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【はやし浩司より、O市のGさんへ】

 以上、今まで書いた原稿の中から、いくつかを選んでみました。どうか、参考にしてください。

 この中にも書いたように、母子分離不安を、(1)小児うつ病の一様態ととらえる学者もいま
す。ですから、けっして、安易に考えないこと。「集団に慣れさせること」で、「治る」というような
問題ではありません。

 無理に集団生活の中に放り込めば、表面的には、症状は消えたかのように見えますが、「消
えた」のではなく、「潜った」とみます。また場面が変われば再発しますし、とても残念なことです
が、「根」は、生涯にわたって残ります。

 さらに対処のし方が悪いと、一義的には、神経症などの諸症状、かんしゃく発作、さらには情
緒不安、情緒障害の引き金を引くこともあります。くりかえしますが、決して、安易に考えてはい
けません。満1歳4か月という年齢は、そういう年齢です。

 (一般的には、満1歳半〜2歳までが、とくに重要な時期と言われています。「後追い、人見知
り」についても、生後半年前後から、満1歳半前後までつづくことが知られています。この時期、
乳幼児は、濃密な母子関係を通して、基本的信頼関係の基礎をつくります。)

 では、どうするか?

(1)「求めてきたときが与えどき」と考えます。

 子どもの方から、スキンシップを求めるなど、何かのアクションがあったら、すかさず、(間髪
を入れず)、抱いてあげます。「あとでね……」「忙しいから……」という言葉は、タブーです。

 抱いてあげると、ほんの短い時間で満足しますので、子どものほうが体を放すしぐさを見せた
ら、そっと放してあげます。(たいてい数秒ですみます。)

(2)「治す」「直す」と考えるのではなく、「忘れさせる」ことを大切に

 この問題は、「時期がくれば治る」という問題ではありません。先ほども書いたように、「潜る」
だけです。

 最近の研究によれば、おとなになってから(うつ病)になるケースのほとんどは、この時期の
親の対処のし方のまずさにあることがわかってきました。(今年(08年)になってから、そういう
記事を見かけました。どこかに記録したはずですが、見つかりません。またさがしておきま
す。)

 ですから、「直そう」と考えるのではなく、「忘れさせる」ことを第一に考えて、対処します。この
時期は、同じような状況を作らないことに心がけます。こじらせればこじらせるほど、あとあと、
心のキズ(=トラウマ)が深くなります。

(3)「今よりも悪くしないことだけを考えながら、半年単位で、様子をみる」です。

 年齢からして、あせって集団生活の中に、子どもを放り込むような乱暴なことをすれば、かえ
って症状は重くなります。

 子どもの心は、ある意味ではタフですが、こと、愛情問題がからむと、きわめてデリケートな
反応を示します。たった1〜2日、母親から離されたことが原因で、母子分離不安になってしま
った子ども(1歳・男児)もいます。

 仕事の問題は、私には何とも言えません。お子さんの様子の程度にもよります。濃密な愛情
を注ぎ、お子さんが、安心感を覚えれば、それでよし。そうでなければ、この時期は、「無理をし
ない」を大鉄則に、考えられた方がよいかと思います。仕事の問題は、お子さんの症状に見な
がら、Gさんのご主人とよく相談して、決めてください。

 その時期は、先にも書きましたが、遅くとも満2歳までです。その前後に、子どもは、乳児期
から幼児期への脱皮をはかります。このころ、少しずつ、親のほうが、子どもの親離れを誘導
していきます。

(4)Gさんのお子さんだけではない、みな、そうです。

 といっても、母子分離不安そのものは、たいへん多く、程度の差もありますが、大部分の子ど
もが何らかの形で、経験します。「うちの子だけが……」と、深刻に悩まないこと。

 またそれだけをもって、「子育てに失敗した」とか、そんなふうに、おおげさに考えてはいけま
せん。どんな親も、こうした問題をかかえ、それを克服しながら、成長しいきます。大切なこと
は、これを機会に、子どもの心を真正面からとらえるようにすることです。それは同時に、あな
た自身の心を知る手がかりにもなります。

 また分離不安になったからといって、お子さんの天真爛漫な様子が消えるということはありま
せん。Gさんとの愛情に、安心感を覚えているときは、(=疑っていないときは)、天真爛漫な様
子を、いつでも見せてくれます。ご安心ください。

 つまりこの程度の問題は、みな、共通してかかえる問題だということです。「うちの子も、母子
分離不安になりました……」というふうに考えて、どうか前向きに対処してください。どんな子ど
もも、こうした問題を、1つや2つ、あるいは3つや4つはかかえながら、成長していきます。(同
時に、母親も成長していきます。)

 以上、どこか荒削りの原稿ですが、詳しくは、私のマガジンの5月16日号前後で取りあげさ
せていただきます。あくまでも参考資料として、ご利用ください。

 相談、ありがとうございました。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 分離不安 母子分離不安 後追
い、人見知り あと追い 小児うつ)

****************2550終了*****************
2008年4月18日


















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浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイ
ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育
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