最前線の子育て論byはやし浩司(13)

最前線の子育て論byはやし浩司
(2200  〜  )
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最前線の子育て論byはやし浩司(2200)

●英会話、2つの壁

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本格的に英語を勉強していると、
そこに2つの壁があることがわかる。

一、発音の壁
二、表現の壁、である。

++++++++++++++

 本格的……つまり海外留学で、本格的に英語を勉強していると、そこに2つの壁があること
がわかる。(1)発音の壁と、(2)表現の壁である。

 発音の壁というのは、それまでに身につけた日本語式の発音を、かなぐり捨て、現地の発音
に自らを浸透させることをいう。

 表現の壁というのは、日本式の「型」にはまった表現方法から脱却し、英語式の自由な表現
方法に、自らを浸透させることをいう。私の経験を話す。

 それまで私は、どういうわけか、日本で学んだ、日本式の発音にこだわっていた。あのメラメ
ラとした現地の英語に、どうしてもなじめなかった。で、私は私と思い、もっと言えば、日本人に
は日本人の英語があると思い、いわゆるジャパニーズ英語を、そのまま話していた。

 が、私の英語は、彼らにはかなり聞きづらかったらしい。それがやがてわかり、あるときか
ら、私は、思い切って、彼らの話す英語式の英語を口にしてみた。が、これがおもしろいほど、
彼らに通じた。

 「アイ・アム・ヒロシ」ではなく、「ウアイ・エム・ヒロウシー」と。

 これが発音の壁である。

 つぎの表現の壁。このことは、先日、息子に教えた。

 たとえば、息子(三男)は、電話でこう言った。「I WILL GO TO NIIGATA NEXT WEE
K.(ぼくは来週、新潟へ行く)」と。

 息子たちとは、よく英語で話す。そのとき、そう言った。パイロットのオブザーバー(コックピッ
トの見学者)として、新潟へ行くという意味で、息子は、そう言った。

私「あのなあ、英語というのは、もっと自由な言葉だよ」
息「自由って?」
私「型はないということ。感性でものを話す」
息「……?」
私「たとえば、『ぼくは新潟へ行く』でも、『ぼくは新潟へ、空を横切る』とか、『新潟へ白い雲を突
っ切る』とか、あるいは『ぼくは新潟へ鳥になる』とかなど。いろいろな表現を、そのときの感性
で、自由に話していい」
息「そう言えば、そうだね」
私「またそういう言い方ができる人を、英語国では、感性が豊かな人という。理知的な人とい
う。言葉が、生活を豊かにする」と。

 「I WILL GO TO NIIGATA.」ではなく、「I WILL BE A BIRD TO NIIGATA CR
OSSING SUMMER BLUE SKY.(ぼくは夏の青い空を横切って、新潟へ鳥になるよ)」
と。

 日本語と英語には、いろいろとちがいはあるが、これもそのひとつ。またそうした自由な表現
に、英語国の人たちは、寛大である。日本人のように、「キザだ」とか、そういうことは言わな
い。

 この2つの壁を越えてはじめて、その人は、英語を話せる人ということになる。

 「I WILL GO TO NIIGATA.」は、英語でもなんでもない。ただの単語を並べただけ。そ
れがわからなければ、一度は、シェークスピア文学に目を通してみればよい。悲しいかな、日
本には、そういう自由な表現方法を許す寛容さそのものがない。いつも(型キリ文句)にこだわ
る。そしてそれがそのまま、世界の言葉と思いこんでしまう。

 しかしそれはたいへんな誤解。日本ではそれでよいとしても、外国ではちがう。それを息子に
話した。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●子どもの状況判断

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子ども自身が、自分で
状況を判断できないようなときは、
周囲の人、(とくに母親)の
様子をみて、状況を判断
する。

そういう意味では、『母親の
心は、子どもの心』と覚えて
おくとよい。

よく知られた実験に、J・ソース
という学者がした実験がある(1981)。

子ども(乳幼児)のそばに、おもちゃを
置いておく。

そのとき、母親が安心した表情を
して見せると、75%の子どもは、
そのおもちゃを手にしたという。

反対に、母親が不安そうな表情
をして見せたところ、子どもは、
だれもそのおもちゃを手にしな
かったという。

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 うつ病質タイプで、かつ神経質な母親がいた。当然のことながら、子どもは、その母親の影響
をモロに受ける。ハキがなく、いつもオドオドしている。が、こういうケースでも、自分に原因があ
ると思う母親は、まず、いない。

 「どうしてうちの子は、ハキがないのでしょう?」と、私に相談してくる。「どうすれば、うちの子
も、みなのようにハキのはる子どもにすることができるでしょうか?」と。

 こういうときは、『母親の心は、子どもの心』と心得ておくとよい。よく知られた実験に、J・ソー
スという学者がした実験がある(1981)。

 J・ソースは、乳幼児のそばに、おもちゃを置き、そばに母親を立たせてみた。そのとき、母
親が安心した表情をして見せると、75%の子どもは、そのおもちゃを手にとってみたという。反
対に、母親が不安そうな表情をして見せたところ、おもちゃを手にした子どもはゼロ、つまりい
なかったという。

 その瞬間、瞬間において、子どもは自分で状況を判断できないときは、まわりの人、とくに母
親の表情、しぐさ、雰囲気を観察しながら、状況を判断する。母親の心は、モロに、子どもに伝
わる。

 少し話は飛躍するが、母親が日常生活において、慢性的に不安感を覚えていると、子ども自
身も、(日常生活)に対して、不安感を覚えるようになる。その不安感が、自信喪失、自己否
定、自己評価の損傷へとつながっていく。結果的に、ここでいうような、ハキがなく、いつもオド
オドした感じの子どもになることも、珍しくない。

 では、子どもを伸ばすには、どうしたらよいかということになるが、答は、もうおわかりのここと
思う。

 母親自身が、前向きに、ハキハキと、ものごとに自信をもって、明るく生きていく。そういう姿
を見ながら、子どもは、(日常生活)に自信をもち、同じように、前向きに生きていくことができる
ようになる。つまり、これは子どもの問題ではなく、親の問題であるということ。

 そこでテスト。

 あなたは今の今、前向きに、ハキハキと、ものごとに自信をもって、明るく生きているか? も
しそうなら、それでよし。そうでないというのなら、あなたの子どもに何か問題があっても、文句
は言わないこと。子どもだけを見て、子どもだけを直そうと思わないこと。それこそ、親の身勝
手というもの。

 さらに、もし今、あなたが、「うちの子は、何をしても心配だ」「不安だ」「だいじょうぶかしら?」
などと思っていたとしたら、そういう気持ちとは、できるだけはやく、決別すること。方法は簡
単。

 最初はウソでもよいから、「あなたはすばらしい子」「あなたはいい子」を、念仏のように子ども
に向かって唱える。つまりそういう形で、自分の心を作りかえる。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面だけを見せようとする。そういう子
どもの性質を使って、子どもを伸ばす。やがてあなたが自然な形で、「あなたはすばらしい小」
「あなたはいい子」と言えるようになったとき、あなたの子どもは、そのすばらしい子、いい子に
なっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 J・ソ
ース 状況判断 状況判断能力 子供の状況判断)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司※

●勇気

+++++++++++++++

昨夜、コンビニの前を通ると、
小さなサイフが落ちていた。

イヤ〜ナ気分だった。
私はそれを拾うと、自転車の前の
かごに入れた。

途中、信号待ちのところで、サイフを
開いてみると、何枚かのカードが
入っているのが、わかった。
住所と名前が書いてあった。

イヤ〜ナ気分だった。本来なら、
そのままコンビニの店員に渡すべき
だった。

悶々とした気分。
「もらっちゃえ」と言う、自分。
「落としたヤツが悪いんだ」と言う、自分。
そんな自分が、そこにいた。

そんな自分を感じながら、家に着いた。
ワイフがそこにいて、「お帰り!」と
声をかけてくれた。

明るい声だった。

私「サイフを拾っちゃった」
ワ「どこで?」
私「あの○○のコンビニの前」
ワ「……」
私「名前と電話番号が書いているから、
そこへ電話して!」
ワ「うん」と。

あとの処理は、ワイフに任せた。
いくら入っているかは、見なかった。
知りたくもなかった。

かばんをかけて、書斎へ入るとき、
振り返ると、ワイフは、どこかへ
電話をかけていた。

よかった……。

夜、床についてから、私は、ワイフに
こう言った。

「サイフを拾うたびに、いまだに迷う。
子どものころの、あの邪悪な小ズルサ、
それが、いまだに、ぼくの心の中で生きている。

ぼくが子どものころには、拾ったお金は、
そのまま自分のものになった。

ぼくはそういう時代に生きていた」と。

+++++++++++++++

 ほかのことでは迷わない私でも、どういうわけか、拾ったお金については、そうではない。迷
う。私が子どものころには、終戦直後ということもあって、拾ったお金は、拾った子どものものだ
った。当時は、そういう時代だった。

 モラルもルールも、なかった。親たちにしても、食べていくだけで、精一杯。家庭教育の「か」
の字もないような時代だった。

 だから今でも、迷う。「返そう」という自分と、「もらっちゃえ」という自分。その2人が、自分の
中で、はげしく対立する。一度、心にしみついた(汚れ)は、そう簡単には消えない。昨夜もそう
だった。

 で、ここに書いたように、今回は、処理は、ワイフに任せた。数年前にも一度、同じようにコン
ビニの前で拾ったことがある。そのときは、コンビニの店員に届けた。しかし今回は、自転車の
かごに入れて、もち帰ってしまった。

 つまり、このあたりに、私の善人としての限界がある。が、限界といっても、このところ、輪郭
(りんかく)が、ぼやけてきた。以前は、コンクリートの壁のようだったが、今は、木の柵のように
なった。簡単に乗り越えられる。

 おかげで、今朝は、どこかすがすがしい。さわやかな気分。心の中で、掃除機をかけたような
気分といってもよい。それに少しだが、自分に自信がついた。

 世の中には、こわいものはいくらでもある。子どもたちは、「お化け」「幽霊」というが、それも
そうかもしれない。

 しかしほんとうにこわいのは、自分自身である。自分自身の中に潜む、邪悪な自分である。こ
の邪悪な自分に毒されると、人生そのものを無駄にしてしまう。前にも書いたが、「今、生きて
いる」という、その一時(いっとき)一時の時間ほど、貴重な財産はない。その財産を、無駄にし
てしまう。

 その邪悪な自分と戦うためには、勇気がいる。どういうわけだか、勇気がいる。しかしその勇
気を実感したとき、それが今度は、喜びに変わる。ここに書いた、「自信」も、そこから生まれ
る。

 「よかった!」と思ったところで、この話は、おしまい。今日(8月31日)も、始まった。

 みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●生意気な子ども

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とんでもないほど、生意気な
子どもというのは、いる。

私に向かって、「あんたは、
ほんとうにどうしようもないジジイだね」と
言った子ども(小6女子)がいた。

子どもらしい、冗談めいた言い方では
ない。憎しみをこめた言い方で、そう言う。

しかしそういうとき、表面的な様子に
まどわされてはいけない。

子どもは、そういう言い方をすることに
よって、一義的には、自分の優位性を
確保しようとする。

思春期の子どもによく見られる現象
である。

それにもう一つは、こういうケースの
ばあい、私に、だれかを投影させて
いるばあいが多い。

その女の子ばあいは、きびしい父親を
私に投影させていた。「きびしい」というよりは、
冷酷? そういう父親を、私に投影させて、
私に反抗していた。

わかりやすく言えば、父親には反抗できない
から、その下位にいる私に向かって反抗する。
そして自分の中にたまった欲求不満を
それによって解消する。

では、私は、どうすべきなのか?

相手は、どうせ、子ども。こういうケースでは、
けっして、本気になって対峙してはいけない。

適当にあしらって、適当にすます。

子どもはムキになって、ますます
言いたいことを言うが、言わせておけばよい。

10年ほど前だが、私にこう言った子ども(中2・
女子)もいた。

「あんたも、くだらねえ仕事してるね。
私しゃ、おとなになっても、あんたのしている
ようなくだらねえ、仕事なんかしないよ。
もう少し、マシな仕事をすっから……」と。

その子どもも、そういう形で、ガス抜きを
していた。

が、ひととおりガスが抜きがすむと、
また静かに落ち着く。

私は私で、言うべきことは言って、それで
すます。

あとはいつもの、のんびりとした時間。
くつろいだ時間。30分もすると、おだやかな
雰囲気に包まれる。

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 「優位性」については、たびたび、書いてきた。「子どもの優位性」をつぶしてしまうと、それを
子どもは、「劣等感」としてしまう。それについて書いたのが、つぎの原稿。

+++++++++++++++

【劣等感と依存性】

●劣等感を克服する二つの方法

 本来なら、劣等感(コンプレックス)などというものは、少なければ少ないほどよい。しかし人
はだれしも劣等感をもっている。多かれ少なかれ、劣等感のない人はいない。その原因は、人
間が、ある時期、子どもであったことによる。

つまり子どもの世界からみると、おとなたちは常に、支配者でしかない。子どもであるがため
に、いくらがんばっても、おとなには勝てない。体も小さい。体力も弱い。知識や経験では、とて
も勝てない。そういう「思い」が、長い時間をかけて、子どもの心の中に蓄積される。そしてそれ
が劣等感の原型となる。

 だれしも劣等感をもっているとしても、その劣等感と戦う方法として、人は取りあえず、二つの
道から選択する。ひとつは、前向きに、つまりプラス方向に戦う方法。何とか、周囲のものを見
返してやりたいと思うのがそれ。このタイプの人は、名誉や地位、肩書きを求め、他人より優位
に立つことで、その劣等感を克服しようとする。

 もうひとつは、反対に、自分をより下位に置くことにより、相手の同情を誘ったり、援助を求め
る方法。前向きに戦う方法を、プラス型というなら、こちらはマイナス型ということになる。こうい
う傾向は、女性に多い。

ある女性(60歳)は、ことあるごとに、自分の息子や娘にこう言っていた。「お母さんも、歳をと
ったからねエ〜」と。このタイプの女性は、そう言いながら、言外で、「だから何とかしてほしい」
と言う。つまりそう言いながら、相手が、「では、何とかしてあげますよ」と言うのを待っている。

●マイナス型の克服法

一見、正反対に見える方向性だが、プラス型にせよ、マイナス型にせよ、この二つのタイプに
は、大きな共通点がある。それはともに、相手を支配したいという欲望である。つまりプラス型
は、自分を相手よりより優位な立場に置くことによって、相手を支配しようとする。一方、マイナ
ス型は、相手に同情させ、援助させることにより、相手を自分の支配下に置こうとする。

 こうした心の反応を、「優位性の確保」という。しかし時として、その優位性の確保が、ゆがむ
ときがある。

 ある母親は、息子(40歳)から、電話がかかってきて、息子が、「お母さん、生活費はあるの
か?」と聞くと、いつもこう言っていた。「お母さんはね、イモを食べていればいいんだよ。近所
の友だちが、先週、イモを届けてくれてね。それを毎日食べているから、心配しなくていいよ」
と。

 つまりこの女性は、「心配しなくていいよ」と言いながら、その実、子どもに心配させている。心
配させながら、子どもから援助を引き出そうとしている。が、それだけではない。そういう息子
を、一方的に、「親思いの、いい息子」と位置づけることによって、自分の親としての優位性を
保とうとしている。

 こういう心理、つまり、自分の劣等性を、何らかの形で補おうとする心理を、心理学の世界で
は「補償」という。こうした補償は、多かれ少なかれ、ほとんどの人に見られる。が、その中で
も、自立心の弱い、つまりは依存心の強い人ほど、その傾向が強い。

 それをさらに説明するために、二人の人を想定してみる。

●二つのタイプ

 一人(A氏)は、仕事人間。明けても暮れても、考えることは、仕事のことばかり。出世が生き
がいで、いつも「いつかは自分もそれなりの人間になって、社会から認められたい」と願ってい
る。

 もう一人(B氏)は、いわゆるダメ人間。何をしても失敗ばかり。仕事もうまくいかない。努力も
しない。まわりの人が、「あなたは本当は、やればできるはず」と励ませば励ますほど、怠(な
ま)けてしまう。

 この二人も、見たところ、まったく正反対の人間に見える。A氏はたいへん自立心が旺盛。生
活態度も、積極的で、攻撃的だ。それにくらべてB氏は、自立心が弱く。生活態度も、消極的
で、防衛的。

しかしA氏もB氏も、自分の劣等感を克服しようとしている点では、共通している。A氏は、「何と
か認められたい」と思って、そうしている。「私はすばらしい人間なのだ。だから人が私に従うの
は当然だ」と思うことで、自分の優位性を保とうする。一方、B氏も、相手に「やればできるは
ず」と思わせて、自分の立場をとりつくろっている。「やればできるのだが、自分がダメなのは、
やらないからだ」と、そう相手に思わせることで、自分の優位性を保とうとする。

 少しわかりにくいかもしれないが、B氏のようなケースは、子どもの世界ではよく見られる。

●「やればできるはず」と思わせて、自分の立場を守る

 たとえばC君(小5)は、たいへん学習態度が悪い。授業中も、ふざけて遊んでばかりいる。
先生が何かを注意しても、それを茶化したり、あるいは適当にごまかしてしまう。もちろん成績
も悪い。

そういうC君をよく観察すると、ふざけることによって、自分の立場をとりつくろっているのがわ
かる。まじめに学習し、まじめに取り組んで、それで勉強ができなければ、自分はバカだという
レッテルを張られてしまう。そこでC君は、自らふざけることによって、そのレッテルが張られる
のを避けようとする。先生やまわりの仲間に、「ぼくは本当は、やればできる人間なのだが、で
きないのは、まじめにやっていないからだ」と思わせる。思わせることによって、自分の立場を
守ろうとする。

 こんなケースもある。N君(小6)は、親の期待と、自分の実力のギャップの中で、悩んでい
た。……悩んでいるはずだった。親は「何とかA中学へ」と言っていた。しかしN君には、その力
がなかった。多分そのとき、C中学どころか、D中学ですら、あぶなかったかもしれない。そこで
私はN君に、こうアドバイスした。「君の力は、君が一番よく知っているはずだ。だったら、一
度、お父さんに君の力を、正直に話したほうがよい」と。

 しかしN君は、決して、自分の実力のことは話さなかった。話せば、自分の立場がなくなってし
まうからだ。N君は、父親や母親には、「やればできる」と思わせることで、自分の立場を守って
いた。自分のわがままをとおしていた。「成績が悪いのは、先生の教え方が悪いからだ」「成績
が悪いのは、部活動が忙しく、勉強時間がないからだ」と。

●結局は依存性の問題

 こうした劣等感を、なぜもつかといえば、結局は、その人の依存性の問題に行きつく。もし真
の意味で、自立心が旺盛であるなら、そもそも劣等感など、もたない。「私は私。人は人」という
生きザマをつらぬく。が、依存性の強い人は、それができない。できない分だけ、劣等感をも
つ。

 わかりやすい例では、容姿コンプレックスがある。鼻が低い、肌が黒い、足が短い、など。そ
ういう劣等感をもつ人というのは、結局は他人に依存したいという思いが転じて、劣等感とな
る。この時点で、「私は私。人は人。人が何と思おうが、私には関係ない」という姿勢があれ
ば、容姿コンプレックスなど、吹っ飛んでしまうはず。

 が、その依存心を払拭(ふっしょく)できない。だからたとえば、顔を整形をしてみたり、あるい
は、人前に出るのを避けたりするようになる。ある女性は、テレビの番組の中で、こう話してい
た。「整形をしたおかげで、人生が、バラ色になりました。生きザマも前向きになりました。それ
までの私は、人前に出るのもいやで、家の中にずっと引きこもったままでした……」と。その女
性は、その番組の中で、整形手術を受けていた。

しかしその女性は、何も変わってはいない。「変わった」と思っているのは、彼女の脳の中で
も、表面的な部分だけ。もっとはっきり言えば、彼女自身の本質、つまり依存性は、何も変わっ
ていない。「生きザマが前向きになった」といっても、依存性そのものが消えたわけではない。
先の例でいうなら、B氏的だった彼女が、A氏的になっただけにすぎない。

 要するに、表面的な症状には、だまされてはいけないということ。とくに子どものばあいはそう
で、一見、正反対に見える子どもでも、その中身は同じということは、よくある。その一つの例と
して、ここでは劣等感を考えてみた。

【教訓】

●子どもたちに、一方的に、おとなの優位性を見せつけたり、押しつけてはいけない。おとなの
力で、子どもをねじ伏せたり、やりこめてもいけない。子どもに不要な劣等感をもたせないため
には、ときには、バカなフリをしたり、負けたフリをして、子どものほうを優位な立場に立たせ
る。そしてそうすることによって、子どもに依存心をもたせることを防ぐことができる。
(030216)

【追記】
 この原稿を読んで聞かせると、ワイフはこう言った。「整形する人というのは、整形する前も、
そして整形したあとも、他人の目を気にしているのね。つまりは他人への依存性という点では、
何も変わっていないのね」と。

 ワイフのこの言葉は、よく的(まと)をとらえているので、ここに追記として、記録しておく。それ
にワイフはこうも言った。「本当に自立心のある人は、他人の目など気にしない。他人に認めら
れるとか、認められないとか、そういうことは関係なく、マイペースでいくものね」と。この言葉
も、たしかに的をとらえている。そしていつしか話は、鈴木M氏という政治家の話になった。昨
年、贈収賄事件で逮捕された政治家である。

「ああいう政治家を見ていると、劣等感のかたまりのような気がする」と私。
「そうね、ああいう政治家は、自分の劣等感をごまかすために、政治家になったようなものね」
とワイフ。
「出世欲、名誉欲にとりつかれた人というのは、たいていこのタイプの人と見てよい」
「自分の劣等感を克服するために……?」
「いいや、そのやり方では、本当のところ、克服はできない」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「劣等感というのは、心という内面世界の問題だろ。いくら外の世界で自分をとりつくろっても、
克服はできない」
「自分をつくれということ?」
「そういうことになる」

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 優位
性の確保 子どもの優位性 優位性 子供の優位性 劣等感 コンプレックス 反抗する子供
 反抗期 思春期の反抗)


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●赤ちゃん言葉

++++++++++++

子どもには、それが赤ちゃんで
あっても、正しい言葉で、正しい
発音で話す。

相手が子どもだからといって、
言葉を変える必要は、まったく
ない。

ないばかりか、あとあと、弊害も
生まれてくる。

++++++++++++

 日本語には幼稚語という言葉がある。たとえば「自動車」を「ブーブー」、「電車」を「ゴーゴー」
と言うなど。「食べ物」を「ウマウマ」、「歩く」を「アンヨ」というのもそれだ。英語にもあるが、その
数は日本語より、はるかに少ない。

 こうした幼稚語は、子どもの言葉の発達を遅らせるだけではなく、そこにはもうひとつ深刻な
問題が隠されている。

 先日、遊園地へ行ったら、60歳くらいの女性が孫(5歳くらい)をつれて、ロープウェイに乗り
込んできた。私と背中あわせに座ったのだが、その会話を耳にして私は驚いた。その女性の
話し方が、言葉のみならず、発音、言い方まで、幼児のそれだったのだ。「おばーチャンと、ホ
レ、ワー、楽チィーネー」と。

 この女性は孫を楽しませようとしていたのだろうが、一方で、孫を完全に、「子ども扱い」をし
ているのがわかった。一見ほほえましい光景に見えるかもしれないが、それは同時に、子ども
の人格の否定そのものと言ってもよい。

もっと言えば、その女性は孫を、不完全な人間と扱うことによって、子どもに対するおとなの優
位性を、徹底的に植えつけている! それだけその女性の保護意識が強いということになる
が、それは同時に、無意識のうちにも孫に対して、依存心をもたせていることになる。ある女性
(63歳)は、最近遊びにこなくなった孫(小4男児)に対して、電話でこう言った。「おばあちゃん
のところへ遊びにおいで。お小づかいをあげるよ。それにほしいものを買ってあげるからね」
と。これもその一例ということになる。結局はその子どもを、一人の人間として認めていない。

 欧米では、とくにアングロサクソン系の家庭では、親は子どもが生まれたときから、子どもを
一人の人間として扱う。確かに幼稚語(たとえば「さようなら」を「ターター」と言うなど)はある
が、きわめてかぎられた範囲の言葉でしかない。

こうした姿勢は、子どもの発育にも大きな影響を与える。たとえば同じ高校生をみたとき、イギ
リスの高校生と、日本の高校生は、これが同じ高校生かと思うほど、人格の完成度が違う。日
本の高校生は、イギリスの高校生とくらべると、どこか幼い。幼稚っぽい。大学生にいたって
は、その差はもっと開く。

これは民族性の違いというよりは、育て方の違いそのもの。カナダで生まれ育った日系人の高
校生にしても、日本の高校生より、はるかにおとなっぽい。こうした違いは、少し外国に住んだ
経験のある人なら、だれでも知っていること。その違いを生み出す背景にあるのが、子どもを
子どものときから、子ども扱いして育てる日本型の子育て法にあることは、言うまでもない。

 何気なく使う幼稚語だが、その背後には、深刻な問題が隠されている。それがこの文をとお
して、わかってもらえれば幸いである。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●日本人の笑い

++++++++++++

我ら、極東アジアの島国
原住民。その原住民には、
世界の人たちに、どうにも
こうにも理解されない風習
がある。

それがあの「笑い」。

++++++++++++

 先日、横道から飛び出した車と、あやうく衝突しようになった。見ると、30歳くらいの女性だっ
た。「あぶない!」と思ってその女性を見ると、女性は視線をそらしたまま、ニヤニヤ笑ってい
た。いわゆる苦笑い(?)である。

 この笑いほど、世界で理解されない笑いはない。ほかにプラットホームで、電車に乗り遅れた
人が笑う、打者にデッドボールを当てたピッチャーが笑う、テストの点で悪い点をとった子ども
が笑う、など。外国では、日本人の苦笑いは、相手をバカにした笑いととらえられる。それが原
因で、けんかになることもある。

 なぜ、こういうとき日本人は笑うかということを考える前に、こんな笑いもある。

 日本語を覚えたての外国人は、当然のことながら、よくまちがえる。この前もテレビを見てい
たら、「辛抱する」というべきところを、「チン棒する」と言っていた外国人がいた。お笑い番組だ
ったので、わざとまちがえて視聴者を笑わせていたのだろう。が、こういうとき日本人は実によ
く笑う。ゲラゲラと笑う。しかし、外国人は笑わない。こういうとき笑うと、相手をバカにしたことに
なる。私にもこんな経験がある。

 留学時代、みなの前で歌を歌うことになった。私は「七つの水仙」(ブラザーズフォーの名曲)
を歌った。がその中で、「crust(パンの耳)」と歌うべきところを、「xxxxx(股の隠語)」と歌って
しまった。私は友人のギター演奏で気持ちよく歌っていたのだが、その箇所になると、オースト
ラリアの友人たちはみな、一斉に口を押さえた。あとでその理由を聞いて笑ったのは、むしろ
私のほうあった。彼らにしてもれば、他人の失敗を笑うことは、タブー中のタブーなのだ。

 日本人は自分の失敗をごまかすために笑う。同時に相手がまちがえると、自分の優位性を
示すために笑う。これもルーツをたどれば、長くつづいた封建時代にある? 抑圧された環境
の中で、民族としての心までゆがんでしまった。今の若い人には信じられないような話だが、私
が子どものころには、たとえば身体に障害のある人をも、蔑視語を使って、平気で笑ってい
た。ごく最近まで、外国の人を見ると、「ガイジン、ガイジン」と笑っていた。

 何でもないようなことだが、「笑い」も国によって、違う。そして日本人の笑いは、決して世界の
標準ではない。少なくとも、外国では、「他人の不幸や失敗を笑ってはいけない」と、親は子ども
に教える。しかしこんなことは、人間として常識ではないか。

 日本人の笑いについて、考えてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

【人種差別と国際性(アジア人は第二級人種)】

●人種差別

++++++++++++++

「民族」とは何か。

「我が民族はすぐれている」と思うのは
その人の勝手。そう思いたければ、
そう思えばよい。

しかしその返す刀で、「相手は劣って
いる」とは思ってはいけない。

++++++++++++++

 大学のカフェで食事をしていると、私を取り囲むようにして、4、5人のオーストラリア人がすわ
った。そして手にしたスプーンの腹で、コツコツとテーブルをたたき始めた。「立ち去れ」という
合図である。気まずい時間が流れた。私はすでに食事を始めていた

が、そのとき、身長が1メートル90センチはあろうかという大男が、私の横に座った。長い髪の
毛で、顔中、ヒゲでおおっていた。その男が、スプーンをならしている学生たちに向かって、低
い声でこう言った。「ワット・アー・ユー(お前たちは何だ)」と。その一言で、学生たちはスプーン
をたたくのをやめた。やめて、その場を離れた。その大男というのが、デニス君だった。本名
は、デニス・キシアという。今でも私の無二の親友だ。

●皿に口をつけてズルズルとスープを飲んだ

 同じころK大学医学部の講師たち三人が、一週間の予定で、メルボルン大学へやってきた。
そしてハウスのゲストルームに滞在した。豪快な人たちだ……と、最初はそう思った。しかし品
位に欠けていた。スープ皿に口をつけてズルズルとスープを飲んだり、ハウスの飯はまずいと
言っては、どこで手に入れたのか魚の目刺しを買ってきて、それを部屋の中で焼いて食べたり
していた。

その中の一人が、こう言った。「オーストラリアも、ギリシャ人やイタリア人なんか、移民させるも
んじゃないよな。雰囲気が悪くなる」と。

 当時の日本人で、自分がアジア人だと思っている日本人は、ほとんどいなかった。世界の人
は、半ば嘲笑的に日本人を、「黄色い白人」と呼んでいた。が、日本人は、それをむしろ光栄な
こととしてとらえていた。

しかしアジア人はアジア人。オーストラリアでは、第2級人種として差別されていた。結婚して
も、相手がアジア人だったりすると、そのオーストラリア人も、第2級人種に格下げされた。その
法律は、それから10年ほどしてから撤廃されたが、オーストラリアはまだ、白豪主義(ホワイ
ト・ポリシー)にこだわっていた。

つまりもしこの医師の話をイタリア系オーストラリア人が聞いたら、怒る前に吹き出してしまうだ
ろう。そういう常識が、その医師たちには、まったくわかっていなかった。いや、医師だけではな
い。当時、アボリジニーと呼ばれている原住民を見ると、日本の若い女性たちはキャーキャー
と声を出して騒いでいた。

なぜ騒いでいたかは、ここには書けない。書けないが、日本人ならその理由がわかるはずだ。
しかし念のために言っておこう。あのアボリジニーは、四〜五波に分けて、アジア大陸から移住
してきた民族である。そのうちの一波は、私たち日本人と同じルーツをもっている。つまり私た
ち日本人は、白人よりも、はるかにアボリジニーに近い。騒ぐほうがどうかしている。

●民族の優位性など意味がない

 人種差別。それがどういうものであるか、それはされたものでないとわからない。「立ち去れ」
という合図を受けたときの屈辱感は、今でも脳に焼きついている。それはそれだが、問題はそ
の先だ。人種差別をされると、人は二つの考え方をするようになる。

一つは、「だから自分の属する民族を大切にしなければならない」という考え方。もう一つは、
「民族という名のもとに、人間を分類するのはおかしい」という考え方。

どちらの考え方をもつにせよ、一つだけ正しいことがある。それは人種や民族の優位性などと
いうものは、いくら論じても意味がないということ。大切なことは、互いに相手を認め、尊重しあ
うことだ。それがあってはじめて、日本を、そして世界を論ずることができる。が、そうした世界
観は、当時の日本人にはまだ育っていなかった。同じアジア人でありながら、日本人は自らを
欧米人と位置づけることによって、ほかのアジア人とは一線を引いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

●運動

++++++++++++++

今週の運動量(8月31日)

月 2単位
火 1単位
水 1単位+30分のウォーキング
木 2単位
金 2単位(予定)

1単位=40分の自転車運動+通勤

++++++++++++++

 今週は、今日(金曜日)の分まで含めると、8単位の運動ということになる。平均な運動量で
ある。先週は5単位。何かと体の調子が悪かった。この浜松市でも、35度を超える猛暑がつ
づいた。

 ところが今日は、一転、寒さを感ずるほど、涼しい。バンザ〜イ! 運動の季節! 9月は講
演の季節でもある。あちこちへ講演に行くたびに、ワイフと散策をすることにしている。最近で
は、それが楽しみで、講演に行くようなもの。

 たとえば講演が朝の10時からだったとする。私たちは現地には8時ごろ着く。あちこちを歩
き回る。反対に、講演が終わったあと、食事もかねて、あちこちを歩き回ることもある。講演先
の情報を手に入れるのは、ワイフの役目。

 ところが、である。最近は、その運動量にも不足感を覚えるようになった。体のほうが、運動
よりも先に弱っていく。たとえば若いときは、1週間、何も運動をしなくても、それなりに体が動
いた。しかし今は、1週間、2〜3単位の運動量では、足りない。それなりに健康を維持しようと
思ったら、最低でも6〜8単位は必要である。

 友人たちの話を聞くと、意外と習慣として運動をしている人は少ない。毎日(毎週)、運動を欠
かさないでしている人は、3人に1人くらいではないか。「それでよく体がもつなあ」と感心する
と、「まあね」などと答えたりする。

 運動というのは、しなければしないで、すむものなのか? しかしまったくしない、というのも、
よくない。わかりきったことだが……。

 来週は、10単位を目標にする。

(付記)

 健康といっても、(1)肉体の健康、(2)脳みその健康、(3)精神の健康の3つがある。これら
3つは、相互に深く関連しあっている。運動をサボると、むずかしい数学の問題が解けなくな
る。イライラしたり、いじけやすくなる。

 そう言えば、数日前に、名前がよく知られていた作家が死んだ。享年78歳だったという。私
はその作家の写真を見て、驚いた。

 顔がボロボロ。何というか、不健康に不健康を重ね、さらにその上に不健康を重ねたような
顔をしていた。映画『スターウォーズ』に出てくる、ジャバ様のような顔をしていた。写真を撮った
のは何歳のときか知らないが、78歳よりは若かったはず。

 たぶん、忙しくて、運動もしなかったのだろう。それがありありとよくわかる顔をしていた。

 そこで究極の選択。

 著名(=金持ち)になることと、健康、どちらかを選べと言われたら……? 私はやはり、迷わ
ず健康を選ぶ。お金は嫌いではないが、不健康になったら、私は私でなくなってしまう。とくに脳
みその健康は大切にしたい。

 ただし一言。50歳を過ぎたら、「健康になろう」などとは思わないこと。「今ある健康の維持」
だけを考える。それで精一杯。維持できれば、御の字。

 大切なのは、それまでにいかにして、運動の習慣をつくるかということ。私の知人の中には、
「さあ、定年退職!」ということで、スポーツジムに通い始めた人がいる。公民館でのスポーツク
ラブに入った人もいる。(歩け歩けの会)に入った人もいる。「週2回は、ゴルフ」と決めた人も
いる。

 しかしそういうのは、長つづきしない。しても1〜2年。長くて3年。だんだん運動をサボるよう
になり、あとは老後へとまっしぐら。それがわからなければ、老人介護施設を一度は、のぞいて
みることだ。

 あそこにいる老人たちとて、私たちと寸部ちがわない人生を送っていた。同じことを考えてい
た。が、やがて支援や介護が必要となった。私やあなただけが、例外ということは、ありえな
い。


Hiroshi Hayashi++++++++Aug 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2201)

●まだまだつづく、日韓経済戦争

+++++++++++++++++

韓国の中央N報は、こう伝える。

「 旅行収支赤字は増えたが、7月の経常収支は
16億4000万ドルの黒字を記録した」と。

しかしこれはウソ。こうしたウソには、じゅうぶん、
注意されたし。

+++++++++++++++++

 まず中央N報(9月1日付)を読んでみよう。そこには、こうある。

『韓銀の関係者は、「7月の韓国人出国者数は、前月比21.9%増となり、旅行収支赤字が増
えた」と説明した。 韓銀は今年の旅行収支赤字は過去最高の150億ドルに達すると見込んで
いる。 これは前年(129億ドル)比16%増。 

  旅行収支赤字は増えたが、7月の経常収支は16億4000万ドルの黒字を記録した。 商品
輸出入による商品収支黒字が減少し、旅行収支を含むサービス収支も赤字となったが、海外
投資家に対する配当金支給が減り、所得収支が黒字を記録したからだ』と。

 この記事の中で、注目すべき点は、「旅行収支は赤字になった」という点。理由として、「7月
の韓国人出獄者数は、前月比21・9%増」であったからだという。

 が、ここでも、数字のマジック。わかるかな?

 「前月比」という文字と、「前年比」という文字に注目してほしい。

 「出国者数は、……前月比で、21・9%増えた」
 「旅行収支の赤字は、……前年比で、16%増の予定」と。

 この記事を読むと、あたかも韓国の景気はよく、そのため旅行者が増えて、赤字がふくらん
だかのような印象をもつ。しかし実際に内容をよく調べてみると、旅行収支が赤字になったの
は、旅行客が増えたことだけが原因ではない。

 韓国の若者たち(30歳未満)の海外流出は、止まらない。05年度だけでも、韓国からの長
期出国者数は、8万人を超えている。(毎年8万人だぞ!) その数は、毎年、倍々でふえてい
る。こうした若者たちには、帰国の意思はほとんどない。

 そういう若者たちへの仕送りも含めて、「旅行収支」としている。

 が、最大のウソは、つづく、そのあと。もう一度、よく読んでほしい。

 『 旅行収支赤字は増えたが、7月の経常収支は16億4000万ドルの黒字を記録した。 商
品輸出入による商品収支黒字が減少し、旅行収支を含むサービス収支も赤字となったが、海
外投資家に対する配当金支給が減り、所得収支が黒字を記録したからだ』と。

 所得収支について、統計の取り方は、国によってちがう。

 韓国では、資本収支の中に、(1)直接投資収支、(2)証券投資収支のほか、(3)その他の
投資収支も含めている。

 前にも書いたが、この(3)の「その他の投資収支」というのが、クセモノ。中身は、外国からの
短期借入金をいう。つまり、「借金!」。もっとわかりやすく言えば、韓国では、外国からの借金
まで、「収支」に加えてしまっている。当然のことながら、借金をすればするほど、「その他の投
資収支」は、黒字になる。

 その額が、06年だけでも、約470億ドルの黒字?、ということになっている(韓銀)。

 「借金」と「投資」は、中身的には、よく似ている。たとえばあなたが銀行から1000万円を借
りて、店舗を改装したとしよう。借金は借金だが、見方によっては、銀行による投資ともとれる。
「銀行が、店舗の改装のために、1000万円、投資してくれた」と。

 しかし借金は、借金。いつかは返済しなければならない。これに対して、投資のばあいは、損
失は、投資家に転嫁される。事業に失敗しても、返済する義務はない。こうしたカラクリをたく
みに操りながら、「7月の経常収支は16億4000万ドルの黒字を記録した」と。

 では、実際には、どうか?

 実は、それがますますわかりにくくなってきている。韓国のN大統領は、マスコミの取材の規
制を、強めている。東亜N報は、『……財政経済部は、現政府の取材統制案に合わせ、「新事
実」についてのマスコミの個別取材に事実上応じない動きを見せている』と報じている。

 いったい、韓国の国家経済は、どうなっているのか? 貿易収支による黒字幅は、この数
年、激減し、07年〜08年には、とうとう赤字に転落すると言われている。N大統領は、「外貨
準備高は世界○○位」と豪語しているが、外貨などというものは、ためこんでも意味はない。

 世界に投資して、はじめて、生きる。家計における貯金によくたとえられるが、貯金とは、意
味がちがう。しかも、これにもカラクリがある。

 あなたは国際舞台で活躍する投資家だ。そのあなたは、まず、どこかでお金を借りなければ
ならない。そのとき、あなたはどうするだろうか。

 金利の安いJ銀行で借りるだろうか。それとも金利の高いA銀行で借りるだろうか。当然、あ
なたは、J銀行からお金を借りる。

 が、そのお金は、一度、アメリカドルに交換しなければならない。「交換」というのは、このばあ
い、円を売って、ドルを買うことを意味する。

 さあ、そのドルが、国際社会で、ジャブジャブになっている。

 そこで今度は、韓国のN大統領の立場で考えてみよう。(N大統領に、それだけの経済知識
があるとは、とうてい思えないが……。)あなたはそのお金がほしくて、たまらない。何としても、
韓国国内に呼び込みたい。しかし世界の投資家たちは、簡単には動いてくれない。

 そこでN大統領は、政策金利を高く設定する。つまりこれは魚釣りのエサのようなもの。現
在、韓国の政策金利は、年5・0%だが、日本のそれと比べたら、20倍も高い。

 世界の投資家たちは、当然、そのエサに飛びついてくる。が、このとき、今度は、アメリカドル
を、韓国ウォンに変換しなければならない。このばあい、「変換」というのは、ドルを売って、ウォ
ンを買うことを意味する。

 だからウォン高になる。韓国側から見れば、みなが、ウォンを買ってくれるわけだから、その
分だけ、アメリカドル、つまり外貨がふえることになる。しかしこの外貨は、使うことのできない
外貨である。(だから「貯金」とは、意味がちがう。)

 売ったとたん、今度は、その分だけ、ウォン安になってしまう。

 では、現実は、どうか? 数年前、韓国のH自動車製造会社は、莫大な投資をして、中国本
土に、自動車製造工場を建てた。が、その直後から、経営不振。経営不振と言うより、日本車
が本格的に乗り込んできた。

 結果、今年(07)は、昨年度より、18%近くも売り上げが減り、とうとうトップ10からも脱落し
てしまった。

 だったら、ウォン安にすればよい。ウォン安にして、国際競争力を強化すればよい。……とだ
れしも、考える。常識のある人なら、そう考える。が、そうはいかない。いかないところに、韓国
のジレンマ、つまりアキレス腱がある。

 ここでへたにウォン安になれば、とたんに外資が逃げる。逃げたとたん、70兆円とも80兆円
とも言われる個人負債が、爆発する。バブル経済が崩壊する。

 その危機は、刻一刻と、迫ってきている。

 韓国のマスコミが発表する、派手なアドバルーン、誇大広告にだまされてはいけない。もちろ
んこうした記事は、慎重に読まなければならない。

【参考資料】

(朝鮮N報・9月1日)
 韓国人が海外旅行や留学などで使った金額は19億8330万ドル(約2296億円)だったのに対
し、外国人観光客と留学生が韓国で使った金額は4億3060万ドル(約498億円)にとどまった。
これにより、旅行収支は15億5270万ドル(約1797億円)の赤字となり、赤字幅は今年1月の14
億7000万ドル(約1702億円)を更新した。1ー7月の旅行収支累積赤字は88億ドル(約1兆187
億円)、前年同期(70億ドル=約8103億円)に比べ25%増加した。

(東亜N報・9月1日)
財政経済部が、現政府の取材統制案に合わせ、「新事実」についてのマスコミの個別取材に
事実上応じない動きを見せている。 

これは、政府がすべてのマスコミに新しい政策を共同で発表するまで、マスコミの独自取材行
為を無力化するという意味を含んでおり、国民の「知る権利」と言論の自由を深刻に脅かす可
能性が高い。 


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●脳みその体操

+++++++++++++

昨日は、ADSLモデムの取り替えを
行った。

今日は、EーBankの開設の手続きを
行った。

ともに、たいへんだった!

まずADSLモデムの取り替え。
モデムの設定が、かなりめんどう。
金曜日の夜ということもあって、
プロバイダーの相談窓口は、閉まっていた。

孤立無援。奮闘、悪戦苦闘!

インターネットがやっとつながったのは、
午後9時を回ったころ。1時間も
つぶした。

そして今日はEーbankの開設。

仮IDだの、仮パスワードだの、それが
すんだら本登録だのなんの、と。

手続きを始めたのが、1か月ほど、前。
その間に、身分を証明する書類を
送ったり、なんのと、たいへんだった。

で、何度、IDやパスワードを入力しても、
拒否、また拒否!
(1か月も前のことなど、すっかり
忘れてしまっていた。メモも残して
おかなかった。)

そのIDやパスワードの再登録だの、
なんので、これまた1時間ほども
かかってしまった。

しかし脳みその体操には、なった。

結構疲れた、イコール、楽しかった。
今、しみじみと、Eーbankのカードを
手にして、どう使おうかと、思案中。

+++++++++++++

 このところ、ときどき、自分の脳みそに自信がもてなくなるときがある。今日も、そうだった。E
ーbankの開設手続きをしているとき、肝心のパスワードを忘れてしまった。銀行関係のパスワ
ードは特殊なものを使っている。それを入力しても、登録を拒否されてしまった。

 「?」と思いつつ、何度もトライ。で、結局それがわからず、仮IDと仮パスワードを再発行して
もらった。それを使って、再手続き……ということで、1時間ほど、かかってしまった。

 ところで、私の知人にこんな人(65歳くらい、女性)がいる。

 見た感じでは、どこもボケていない。話し方もシャキシャキしている。が、ときどき、脳みその
一部が欠けたかのように、記憶が消えてしまう。そんな人である。その前後のことは、よく覚え
ている。こまかいことも、よく覚えている。しかし、ときどき、ちょうど網膜の盲点のように、記憶
の一部が消えてしまう。

 たとえば、クラブの会費を渡す。本人は、それを茶封筒に入れて、バッグの中にしまう。しか
し後日、その会費のことを話すと、「もらっていない」と言う。私が「茶封筒の中に入れたのを見
ていましたが……」と言っても、本人は首をかしげるばかり。

 とぼけているのか、それともウソをついているのか……、とも疑ってみるが、ふだんは誠実な
人である。様子からして、ウソをついているふうには、とても見えない。

これは脳みそのどういう欠陥によるものなのか。……これはあくまでも私の推察だが、脳みそ
の中で、微細脳梗塞が起きているためではないか。CTスキャンなどでは、発見できない血栓
性の脳梗塞をいう。

 私のばあい、そこまでひどくはないが、(自分でそう思っているだけかもしれないが)、似たよ
うなことがある。ただその女性とちがうところは、指摘されれば、思い出すということ。指摘され
ても思い出せないようであれば、その女性と同じということになる。

 こわいね、脳の病気は!


●今日から9月

++++++++++++++

今日は9月1日、土曜日。
日中は暑かったが、朝夕は、
寒さを感ずるほど、涼しくなった。

これから秋に向かって、まっしぐら?

昨夜は山荘に泊まったが、
夜中に寒くて、目が覚めた。

ところで今、興味があるのが、
UFO。とくに、「月空洞説」。

今日も、書店で1時間ほど、
立ち読みをした。おもしろかった。

何でも月の中は空洞になっていて、
そこに宇宙人たちが住んでいる
というのだ。

荒唐無稽(こうとうむけい)な
話のようにも聞こえるが、
科学者の中には、本気でそれを
信じている人もいる。

いろいろな現象を総合すると、
けっしてありえない話でもないような
気がする。

まあ、私にとっては、ロマン。
秋の夜の、ロマン。そんなことを
考えながら床につくと、いつも
そのまま眠ってしまう。

++++++++++++++

●月空洞説

 月空洞説は、もう30年近く前からある。もともとは2人の旧ソ連科学者が言い出したのが、
始まりである。

月の中は、空洞になっていて、そこに宇宙人(地球外生命体)たちが居住しているという説であ
る。つまり天に浮かぶあの月は、巨大な宇宙船というわけである。

 何とも楽しい話ではないか。もしそれが事実だとするなら、私たちは、毎日、UFOを見ながら
生活していることになる。ハハハ。

 そこでヤフーの検索エンジンを使って「月空洞説」を検索してみた。66件ほどヒットした。興味
のある人は、そちらを読んでみたらよい。


●DVD『善(よ)き人のためのソナタ』

++++++++++++++

久々に、よいDVDを見た。
星は、文句なしの、5つ星。★★★★★。

旧東ドイツを舞台にしたドイツ製のドラマ。
最初は、淡々としたドラマ展開がつづく。
「どうしてこんなのが、アカデミー賞?」
と思わせるような映画。

30〜40分も過ぎるころには、
「もうやめようか……」とも。
ちょっと退屈?

しかしそこはがまんして見てほしい。

エンディングにかけて、「それから
2年後……」「それから2年後……」と、
ドラマは1シーンごとに、年が飛ぶ。

「荒っぽい展開だなあ……」と思った、
その直後……。

この映画を見て、涙をこぼさない
人はいないと思う。いっしょに見ていた
長男ですら、ウォーと声をあげて
泣いた。私も泣いた。ワイフも
泣いた。

タイトルは、『善き人のためのソナタ』。

ドイツもすばらしい映画を作るように
なったものだ。

2時間半という長編。秋の夜に、じっくりと
見るには、よい映画。

ただしこの映画は、年配の男性向きかな?
流した涙は、まさに(男の涙)。

++++++++++++++

 DVD『善き人のためのソナタ』という映画を見た。よかった。すばらしかった。星は文句なし
の、5つ星。★★★★★。07年アカデミー外国映画賞を受賞している。ドイツでも、ローラ賞(ド
イツ映画賞)7部門を受賞している。

 1984年、壁崩壊直前の東ベルリン。
 盗聴器から聞こえてきたのは、
 自由な思想、愛の言葉、そして美しいソナタ……。
 それを聴いた彼は、生きる歓びにうち震えたーー。
    (『善き人のためのソナタ』公式HPより転載。)

 ……ということで、このあとの言葉がつづかない。というより、映画を見て、改めて、「自由の
尊さ」を考えさせられた。

 こうして自由にものを考え、自由にものを書けるということだけでも、実は、すばらしいこと。そ
の歓びを、今、しみじみと感じている。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●学歴詐称

++++++++++++++

お隣の韓国では、学歴詐称が
大問題化している。

まさに「あの人も……」「この人も……」
という感じになっている。

その中には、大学教授はもちろん、
政府高官、さらにはテレビキャスター、
テレビタレントまで含まれている。
その数、今までにわかっただけでも、
500〜600人以上とか!

外国(主に、アメリカ、カナダ)の
大学から、博士号や学位をお金で
買い、それを肩書きに並べ、仕事に
使っていた。

しかしこの問題は、何も韓国だけの
問題ではない。この日本にも、「?」
と思われるような人がいる!

++++++++++++++

 私のところにも、ときどきあやしげな手紙が届く。「あなたを教育学博士として推薦し、あなた
に博士号を授与します。ついては、当大学へ、○○万円の寄付をお願いします。この寄付は、
当大学に通う学生たちのための奨学金として、使われるものです」(要約)と。豪華な大学案内
書が、それに添えられている。

 相場は、学位号授与で、50万円前後。博士号授与で、80〜100万円前後ということらし
い。こうしたインチキ肩書きのほか、名誉博士号というのもある。ただしこの名誉博士号授与に
ついては、どこの大学でもしている。一定金額以上の多額の寄付をすると、相手先の大学から
自動的に与えられる。

 で、私のところに届いた手紙だけでも、カナダのM大学、E大学、アメリカのH大学、C大学の
4校がある。その中には、日本にも分校があるというという大学もあった。しかも学生が、ちゃ
んと在籍しているという。しかし???

 どうしてこの私が、博士号? そんな肩書きなど、もとから興味ない。

 お隣の韓国では、こうして得た肩書きを利用して、それなりの地位につき、仕事をしている人
が多いという。上は大学教授から政府高官、ニュースキャスターまで。そのニュースキャスター
(女性)については、テレビで自らそれを告白し、つい先週、降板したという。

 が、この問題は、何も韓国だけの問題ではない。この日本にも、「?」と思うような人がいる。

 たとえばX氏。「教育学博士」の肩書きを並べて、よくテレビにも出てくる。(……出てきた。最
近は体調を崩したとかで、急に出てこなくなったが……。)しかし「教育学博士」という肩書きを
もつにしては、話している内容が浅い。専門用語も、まったくと言ってよいほど、口から出てこな
い。

 「おかしいぞ」ということで、私は、HPから、X氏の博士号取得先を知り、数回、その大学へ問
い合わせてみたことがある。しかし「X」という名前は、いわばタレント名。本名がわからない。H
Pにも、それが書いてない。

 そこで私はX氏のこまかい経歴、博士号を取得したと推定される年月日、現住所などを書い
て、問い合わせた。

今のところ、その大学から返事はない。が、ないところが、おかしい。ふつうは、こうした問い合
わせについては、どこの大学でも、ていねい答えてくれる。それが大学の重要な仕事のひとつ
にもなっている。ないばかりか、逆に、大学のほうが、私を調べた形跡がある。私のHPやBLO
Gでは、アクセスしてきた人の、@マーク以下のアドレスがわかるようになっている。

 私が大学に問い合わせた直後、その大学のアドレスがズラズラと連なった。つまり流れから
すると、こういうことではないか。

 (私が、大学の実体やX氏を調べた。ついでにX氏に授与された博士号は本物かどうかを調
べた)→(大学は、そうした問い合わせがあったことを、X氏に連絡した)→(大学とX氏との間
で、何かのやりとりがあった)→(反対に、大学が、私を調べた。あるいはX氏が、私を調べさせ
た。X氏については、個人のメールアドレスを知らないので、X自身が私を調べたかどうかにつ
いては、わからない。一方、私はいつも実名を出して、調査している)。

 大学そのものは、HPで見るかぎり、実体はあるようだ。森に囲まれた立派な学舎が並んでい
る。(だからといって、インチキでないと思ってはいけない。私のところに手紙を送ってきた、カ
ナダのM大学、E大学、アメリカのH大学、C大学にしても、それらしい学舎の写真で案内書を
飾っていた。)

 X氏とはだれか? まだこの段階ではそれは書けないが、「○○国○○大学○○博士号取
得」とか、「○○学博士」という、あの肩書きだけは、じゅうぶん、疑ってみたほうがよい。中に
は、高校も出ていないような人が、いきなり大学の学位を手にしたり、あるいは修士号も取得し
ていないような人が、いきなり博士号を取得したりしているようなケースもある。

 (ただし欧米の大学では、博士号だけは、論文審査だけで授与することも珍しくない。必ずし
も、その大学の在籍している必要はない。X氏については、その可能性もあったので、私は、X
氏の書いた論文を手に入れようとした。が、それについても、今のところ、まったくのナシのつ
ぶて。大学側からの返事はまったくない。)

(提言)

 テレビ局制作部の方へ……よく「○○博士」を肩書きにしてテレビに出てくる人がいますが、
一度、どういう経緯で博士号を取得したか、直接本人に確かめるなり、あるいは先方の大学に
問い合わせる程度のことは、してみるべきではないでしょうか。

 あとあと問題になったとき、「当テレビ局は知らなかった」では、すまされない問題かと思いま
す。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司 

最前線の子育て論byはやし浩司(2202)

●小ズルイ人

+++++++++++++++++

小ズルイ人は、小ズルイ。こんな話を
ワイフから聞いた。

その家の兄弟たち(男3人、女1人)が集まって、
何かの法事をすることになった。その席でのこと。

長女格のHがしばらく成り行きを見守っていた
あと、こう言ったという。

「悪いけど、花輪代だけは、私に払わせてね」と。

(「だけは……」と言うところが、恐ろしい!)

つまり「法事の費用は負担しない」「私は(女
だから)何も払う必要はない」「だが、花輪代
だけは、払わせてほしい」と。

一見、長女のHは、ほかの3人の兄弟たちの
ことを思いはかって発言したようにもみえる。
しかしよくよく考えてみると、この話はおかしい。

1人の兄弟(男)が、ワイフにこう言ったという。

「花輪代など、1万円にもならない。法事の
費用は、全部で、100万〜150万円近くもかかる。
つまり姉のHは、言外で、『私は1万円しか
払わない』と言ったのと同じです」と。

私はその話をワイフから聞いて、驚いた。
そういうことが平気で言える人(女性)というのは、
そうはいない。相当な人とみてよい

こんな例で考えてみよう。

みなで飲み食いをした。さあお開きとなったところで、
その中の1人が、こう言ったとする。

「悪いが、みんなが飲んだコーヒー代だけは、
私に払わせてほしい」と。

あなたはその言葉を聞いて、どう思うだろうか。

++++++++++++++++++

 小ズルイ人は、小ズルイ。一事が万事というか、小ズルサが、一貫している。口がうまい。相
手の言葉尻をつかまえて、そのまま既成事実化するのも、そのひとつ。「君が、そう言ったか
ら、私はそうしただけだ」とか何とか。

 このタイプの人は、どうでもよいような話の中に、重要な話を混ぜて話す。あるいは電話だっ
たりすると、終わりがけにチョコチョコと重要な話を織り混ぜ、「ではね、よろしくね」と言って、そ
のまま電話を切ったりする。

 とぼける、忘れたフリをするなどということは、朝飯前。母が入居している介護施設で知り合
った男性が、こんなことを話してくれた。

 その男性には、その男性も含めて、3人の兄弟がいる。実家には、母親と三男夫婦が住んで
いた。が、80歳をすぎた母親の様子がおかしくなってきた。便をもらすようになった。夜中に徘
徊するようになった。

 それについて三男の妻が、不平、不満を漏らすようになった。そこで長男のその男性が、「し
ばらく……」ということで、母親を預かることにしたという。

 「私は、あくまでもしばらく……ということで預かったのですが、こんなことがありました。3、4
か月もたったある夜のことです。三男の妻から突然、電話がかかってきました。話を聞くと、『お
母さんの夏物の服がないはずですから、少し送ります』と。

 そのときは、私は、それに感謝して、ありがとうと言ったのですが、その翌日のこと。母親の
衣類が、いっさいがっさい、大きな箱で、4箱も送られてきました。それには驚きました。つまり
電話をかけてきた時点では、すでに荷物を発送していたのですね」と。

 わかるかな?

 三男の嫁は、そういう形で、母親をその男性に押しつけたことになる。小ズルイ人は、どこま
でも小ズルイ。姑息と言うか、狡猾(こうかつ)。

 しかたないので、その男性は、母親を介護施設に入居させることにした。たまたま母親には、
財産があった。現在、三男夫婦が住んでいる土地と家も、母親名義のものになっていた。こう
した財産があると、介護費用の控除が受けられなくなる。満額のばあいは、月額にして、20万
円近い負担になる。

 そこでその男性は、介護費用の分担を二男や三男に申し出たのだが、「お金がない」「うちも
退職者で、年金生活をしている」とか何とか言って、だれも払わないという。だからその男性は
こう言った。

 「兄弟といってもですね、つごうの悪いときは、『お前は長男だから』といって、何でも私に押し
つける。つごうがよいときには、『ぼくたちは同じ兄弟だから』と言って、分け前に預かろうとす
る。すでに遺産分けの問題も出ています。

 三男は、『今まで実家のめんどうをみてきたのは、ぼくだから、実家はぼくのもの』という。さら
に『ぼくは実家の犠牲になった』とか、『兄たちは、外へ出て、自由なことができたが、ぼくはで
きなかった』とか言うこともあります。一方、二男は、『遺産は、平等に分けるべき』と言う。

 兄弟は他人のはじまりと言いますが、他人以上の他人になることもありますよ」と。

 つまるところ、こうした話で一貫しているのは、小ズルサということになる。みながみな、小ズ
ルイ。その小ズルサが、やがて不協和音となって、家族の絆を破壊する。

 では、どうするか?

 私のばあいは、「相手にしない」という方法で対処している。またそれにまさる対処方法はな
い。やりたいようにやらせ、言いたいように言わせておく。一方、やるべきことはやるやるべき
ことはやる。あとは考えない。無視。

 兄弟にしても、それなりの人物であれば、話も別。しかし私には、もうそういう兄弟はいない。
年も年だし、それなりに、おかしくなってきている。だからますます相手にしない。相手にしても
しかたない。

 どうせあと20年もすれば、(10年かもしれないが……)、みんなこの世から消えてなくなる。
大切なことは、そこにある運命は前向きに受け入れていく。運命にさからえば、運命はキバを
むいて、私たちに襲いかかってくる。しかし運命を笑えば、運命は向こうからシッポを巻いて逃
げていく。

 さらに大切なことは、今日一日を、愉快に楽しく生きること。

 そんな話を介護施設で知り合った男性に話すと、その男性も、そうしているとのこと。「やって
もらおう、やってくれないと考えていると、気分が悪くなりますから、そういうことは考えないよう
にしています」と。

 私も最近、その人の中に小ズルサを感じたら、その人とはつきあわないようにしている。そう
いう人との交際は、時間の無駄。人生の無駄。つきあっても、得るものは、何もない。

 人がどう思うが、私の知ったことではない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2203)

●小ズルイ人

+++++++++++++++++

小ズルイ人は、小ズルイ。こんな話を
ワイフから聞いた。

その家の兄弟たち(男3人、女1人)が集まって、
何かの法事をすることになった。その席でのこと。

長女格のHがしばらく成り行きを見守っていた
あと、こう言ったという。

「悪いけど、花輪代だけは、私に払わせてね」と。

(「だけは……」と言うところが、恐ろしい!)

つまり「法事の費用は負担しない」「私は(女
だから)何も払う必要はない」「だが、花輪代
だけは、払わせてほしい」と。

一見、長女のHは、ほかの3人の兄弟たちの
ことを思いはかって発言したようにもみえる。
しかしよくよく考えてみると、この話はおかしい。

1人の兄弟(男)が、ワイフにこう言ったという。

「花輪代など、1万円にもならない。法事の
費用は、全部で、100万〜150万円近くもかかる。
つまり姉のHは、言外で、『私は1万円しか
払わない』と言ったのと同じです」と。

私はその話をワイフから聞いて、驚いた。
そういうことが平気で言える人(女性)というのは、
そうはいない。相当な人とみてよい

こんな例で考えてみよう。

みなで飲み食いをした。さあお開きとなったところで、
その中の1人が、こう言ったとする。

「悪いが、みんなが飲んだコーヒー代だけは、
私に払わせてほしい」と。

あなたはその言葉を聞いて、どう思うだろうか。

++++++++++++++++++

 小ズルイ人は、小ズルイ。一事が万事というか、小ズルサが、一貫している。口がうまい。相
手の言葉尻をつかまえて、そのまま既成事実化するのも、そのひとつ。「君が、そう言ったか
ら、私はそうしただけだ」とか何とか。

 このタイプの人は、どうでもよいような話の中に、重要な話を混ぜて話す。あるいは電話だっ
たりすると、終わりがけにチョコチョコと重要な話を織り混ぜ、「ではね、よろしくね」と言って、そ
のまま電話を切ったりする。

 とぼける、忘れたフリをするなどということは、朝飯前。母が入居している介護施設で知り合
った男性が、こんなことを話してくれた。

 その男性には、その男性も含めて、3人の兄弟がいる。実家には、母親と三男夫婦が住んで
いた。が、80歳をすぎた母親の様子がおかしくなってきた。便をもらすようになった。夜中に徘
徊するようになった。

 それについて三男の妻が、不平、不満を漏らすようになった。そこで長男のその男性が、「し
ばらく……」ということで、母親を預かることにしたという。

 「私は、あくまでもしばらく……ということで預かったのですが、こんなことがありました。3、4
か月もたったある夜のことです。三男の妻から突然、電話がかかってきました。話を聞くと、『お
母さんの夏物の服がないはずですから、少し送ります』と。

 そのときは、私は、それに感謝して、ありがとうと言ったのですが、その翌日のこと。母親の
衣類が、いっさいがっさい、大きな箱で、4箱も送られてきました。それには驚きました。つまり
電話をかけてきた時点では、すでに荷物を発送していたのですね」と。

 わかるかな?

 三男の嫁は、そういう形で、母親をその男性に押しつけたことになる。小ズルイ人は、どこま
でも小ズルイ。姑息と言うか、狡猾(こうかつ)。

 しかたないので、その男性は、母親を介護施設に入居させることにした。たまたま母親には、
財産があった。現在、三男夫婦が住んでいる土地と家も、母親名義のものになっていた。こう
した財産があると、介護費用の控除が受けられなくなる。満額のばあいは、月額にして、20万
円近い負担になる。

 そこでその男性は、介護費用の分担を二男や三男に申し出たのだが、「お金がない」「うちも
退職者で、年金生活をしている」とか何とか言って、だれも払わないという。だからその男性は
こう言った。

 「兄弟といってもですね、つごうの悪いときは、『お前は長男だから』といって、何でも私に押し
つける。つごうがよいときには、『ぼくたちは同じ兄弟だから』と言って、分け前に預かろうとす
る。すでに遺産分けの問題も出ています。

 三男は、『今まで実家のめんどうをみてきたのは、ぼくだから、実家はぼくのもの』という。さら
に『ぼくは実家の犠牲になった』とか、『兄たちは、外へ出て、自由なことができたが、ぼくはで
きなかった』とか言うこともあります。一方、二男は、『遺産は、平等に分けるべき』と言う。

 兄弟は他人のはじまりと言いますが、他人以上の他人になることもありますよ」と。

 つまるところ、こうした話で一貫しているのは、小ズルサということになる。みながみな、小ズ
ルイ。その小ズルサが、やがて不協和音となって、家族の絆を破壊する。

 では、どうするか?

 私のばあいは、「相手にしない」という方法で対処している。またそれにまさる対処方法はな
い。やりたいようにやらせ、言いたいように言わせておく。一方、やるべきことはやるやるべき
ことはやる。あとは考えない。無視。

 兄弟にしても、それなりの人物であれば、話も別。しかし私には、もうそういう兄弟はいない。
年も年だし、それなりに、おかしくなってきている。だからますます相手にしない。相手にしても
しかたない。

 どうせあと20年もすれば、(10年かもしれないが……)、みんなこの世から消えてなくなる。
大切なことは、そこにある運命は前向きに受け入れていく。運命にさからえば、運命はキバを
むいて、私たちに襲いかかってくる。しかし運命を笑えば、運命は向こうからシッポを巻いて逃
げていく。

 さらに大切なことは、今日一日を、愉快に楽しく生きること。

 そんな話を介護施設で知り合った男性に話すと、その男性も、そうしているとのこと。「やって
もらおう、やってくれないと考えていると、気分が悪くなりますから、そういうことは考えないよう
にしています」と。

 私も最近、その人の中に小ズルサを感じたら、その人とはつきあわないようにしている。そう
いう人との交際は、時間の無駄。人生の無駄。つきあっても、得るものは、何もない。

 人がどう思うが、私の知ったことではない。


●孤独

 私のような愚かな人間は、毎日が、孤独との闘い。仕事の上では、毎日、何十人という子ど
もたちと接している。同じ数だけの父母と接している。そのときはそのときで、結構忙しい。楽し
い。自分を忘れる。

 しかしふとひとりになったとき、ひしひしと孤独感を覚える。

 理由はわかっている。私は、子どものときから、他人に対して心を開くことができない。もっと
言えば、人を信ずることができない。表面的には社交的で、明るく振る舞っている。が、それは
まさに仮面。ペルソナ。

 加えて、このとこと、自分がすべきことがよくわからない。仕事をしている最中ですら、「こんな
ことをしていてはいけない」と思うことが、よくある。私の人生は、刻一刻と、短くなりつつある。
健康だって、いつまでもつかわからない。

 だから時間を惜しんで、原稿を書く。遊ぶ。ワイフとでかける。今できることは、今、する。とく
に楽しいことは、ぜったいに、後回しにしない。が、それでも一日が終わると、ふと、むなしさを
覚える。

 知識や知恵にしても、バケツの穴から水が漏れるように、どこかへ漏れて消えていく。油断す
れば、すぐ邪悪な自分が顔を出す。名誉や地位とは、とっくの昔に縁を切ったはずなのに、い
まだに、未練たっぷり。お金だって、嫌いではない。

 昨日も、介護施設にいる母を見舞った。あの母を見ていて、おもしろいことに気づいた。

 会えば、私やワイフがだれだかはわかる。「お前は、浩司や」などと言う。しかしその前のこと
は覚えていない。私の家に6か月いたことなど、すっかり忘れてしまっている。「ぼくの家にいた
ことを覚えているか?」と聞いても、「お前の世話にはなっていない」などと答える。

 しかしそんな母をだれが笑うことができるだろうか。

 私と母のちがい。それは濃いか薄いかのちがいでしかない。この私だって、薄いが、つまり母
を薄めた形で、同じことをしている。同じことを言っている。

私だって、「今」のことはよくわかる。しかし過去は、どんどんと、そのままどこかへ消えていく。
気がつくと、そこにいるのは、今の私だけ。私が作りあげたものは、何もない。どこにもない。

 たとえて言うなら、絶壁に囲まれた山の頂点に立たされているようなもの。まわりでは、ヒュー
ヒューと冷たい風が吹いている。

 この孤独感は、死ぬまでついて回るものなのか。

 ……たった今、『♪アメイジング・グレイス』を口ずさんだ。ついでに以前書いた原稿を思い出
す。

+++++++++++++++

●山荘ライフ

 窓をいっぱいにあける。
 空気を、胸いっぱいに吸いこむ。
 そして、シャルロット・チャーチのアルバムを聞く。
 以前、NHKでシャルロットが紹介されたとき、
 声がすてきだったので、それで買った。
 
 しばらく聞いてなかったが、オーストラリアのR君が、
先日、「もっているなら、聞いたら?」と言ってくれた。
 彼は、敬虔(けいけん)な、クリスチャンだ。

 その中でも、私が好きなのが、この曲。 
 「I vow to Thee, My Country」(わが郷土よ、我はあなたにひざまずく)

 「♪わが郷土よ、我はあなたにひざまずく。
  その上にある、ありとあらゆるものを、
  すべての完ぺきなものを、そして愛の営みを……」

 私はこの曲が、好きだ。
 一度聞き始めると、何度も繰りかえし聞く。
 山荘の前に広がる山々の雰囲気、そのものと言ってもよい。
 
 ……ときどきシャルロットの清らかな声が、
 オーケストラに負けそうになる。
 が、シャルロットは、懸命に、
 空に向かって、声をはりあげる。
 そのかけあい(?)が、すばらしい。
 人間が生きる「力」そのものを、感ずる。

 「♪もうひとつの郷土があると、私は、昔、聞いた。
  それを愛するものに、親愛であれ。
  それを知るものに、偉大であれ……」

 若い女性なのに、ここまで歌うとは!
ここまで哲学のある歌を歌いこなせるとは!
 その違和感が、まったくない。  
 その力量が、ただただ、すばらしい。
  
 「♪汝に向かう敵はなし。
  汝を支配する王はなし。
  汝の要塞は、信仰深い心。
  そして人の魂から魂へと、
  汝の輝く絆は太くなり、
  汝の道は、やさしさへの道。 
  そしてすべての道は、やすらぎへとつづく……」

 何曲か曲がつづいたあと、今度は、
 「Amazing Grace」※になった。
 何と、日本語に訳したらよいのだろうか。
 「驚くべき優雅さ」では、まったく感じがつかめない。
「神の優しさ」とでも、訳すのだろうか。
 アメリカでは、第二国家のようにもなっているというが、
 「アメージング・グレイス」として、
 そのまま日本でも、よく知られている。
 
……去年、となりの豊橋市で、
 結婚式場を開いた友人がいた。
 その結婚式のオープニング・
 セレモニーに招待されて行ったが、
 そこでも、この曲が披露された。
 チョコレートというより、
 ショコラ・チョコのようなすてきな結婚式場だ。
 私が「おいしそうな感じがしますね」と言うと、
 支配人のS氏は、うれしそうに笑った。
 今、シャルロットの曲を聞きながら、
 それを思い出した……。

 空はどんよりと曇り、
 風はない。
 すべてが、死んだように
 静まりかえっている。
 どこか肌寒い風が、
 心地よい。

 先ほど、ワイフが私を呼んだ。
 何か用があるようだ。
 最後の一曲を聞き終わったら、
 行くつもり。

 ……今、その最後の曲。
 『When at Night, I go to sleep』
 (夜とともに、私は眠る)

 「♪夜とともに、私は眠る。そのとき、
  一四人のエンジェルが、私を見守る。
  二人が、私の頭の上で、私を守り、
  二人が、私の足を案内し、
  二人が、私の右手を導き、
  二人が、私の左手を導き、
  二人が、暖かく私を包み、
  二人が、さまよう私を導き、
  二人が、そのとき、私を、
  天国へと、導く……。」

 この曲は、臨終を迎えたとき、自分で歌う歌らしい?
曲が終わったとき、
 外では、ウグイスが、鳴いていた。

 ……今日の私は、何となくクリスチャンになったような気分がする。
 神々しい気分になるのは、決して悪いことではない。
 心が、そのまま洗われる感じがする。
 それに死んだとき、一四人もの天使が迎えにきてくれたら、
 きっと、さみしさも消えるだろう。

 しかし、残念ながら、私には、天使はやってこない。
 私はもともと、それに値する人間ではない。
 それに、だいたいにおいて、私はクリスチャンではない。
 が、今だけは、アーメン! みなさんにも、安らぎを!
(030719)

DVD【シャーロット・グレイ】

 シャルロット・チャーチと同じ名前の映画に、『シャーロット・グレイ』というのがある。(読み方
で、シャルロットにもなるし、シャーロットにもなる。)最近ビデオ化された、ユニバーサル映画だ
が、この映画は、まさに★★★★★(五つ星)!

 思いっきり感動してみたい人には、お薦め。とにかくよい映画だった。最後のシーンでは、思
わず、涙がポロポロとこぼれた。(ボロボロかな?)「私はあなたに伝えたいことがある……」
と。このつづきは、どうかビデオのほうを、見てほしい。映画『タイタニック』に、まさるとも劣らな
い映画……と、私は思う。

 そう、映画のオープニングは、マリー・ローランサンの絵画を思わせる、夢のように美しいシ
ーンから始まる。(私は一時期、ローランサンが好きで、リトグラフを、何枚か買い集めたことが
ある。)それでよけいに釘づけになってしまった。……やはりここから先は、ビデオのほうを見て
ほしい。

※……アメージング・グレイス

Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now am found 
Was blind, but now I see
'Twas grace that taught my heart to fear
And grace my fears relieved
How precious did that grace appear
The hour I first believed
Through many dangers, toils, and snares
I have already come
'Tis grace has brought me safe thus far
And grace will lead me home
The lord has promised good to me
His word my hope secures
He will my shield and portion be
As long as life endures

アメージング・グレイス……何とやさしい言葉か。
みじめな私を、その言葉が救ってくれた。
私はかつて道に迷ったが、今、それを見つけた。
私はかつて、暗闇にさまよったが、今は見る。
それが神のやさしさだった。それが私の心に恐れを教え、
そしてその言葉が、その恐れから私を救った。
何と、やさしさの尊いことよ。
あぶないこともあった。苦労もあった。誘惑もあった。
それをとおして、はじめてその言葉を信じたとき、
神のやさしさが、ここまで私を守ってくれた。
主は、私に、善なるものを約束した。
彼の言葉が、私の希望をたしかなものにした。
私の人生がつづくかぎり、神が私を守り、
私の苦しみや悲しみを、分けもってくれるだろう。
(訳、はやし浩司)

+++++++++++++++

 神に接すれば、ほんとうに、この孤独感から救われるのか。もしそうなら、今すぐにでも、私
はクリスチャンになる。

 ああ、今朝の私は、かなり弱気。やはり昨夜の睡眠不足がたたっているようだ。たった今、ワ
イフが台所から私を呼んだ。これから朝食。

 おはようございます!

 ところで今朝、マガジンの読者が6人もふえていた。うれしかった。9月3日に読者になってく
れたみなさん、ありがとう! これからもよろしく!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2204)

●F県のYさん(65歳)より(9月3日)

++++++++++++++++

育児マガジンがいつの間にか、
介護マガジンになってしまった。

そんな反省もあって、このところ、
できるだけ介護問題については
書かないようにしている。

が、この問題は、育児とペアに
なっている。

私たちは育児をしながら、自分の
過去を見る。

しかし親の介護をしながら、自分の
未来を見る。

どちらか一方だけでは、足りない。

F県のYさんより、こんなメールが
届いている。

+++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

朝晩 大分涼しくなりました。
いつも メルマガありがとうございます。

林先生の介護のお話は 実家の父がこの夏 認知症で入院しましたので、とても参考にさせて
いただいておりました。

父は家族に大事にされ、幸せな毎日を送っていました。
家が古く(建築50年)、バリヤフリーの過ごし易い家に立て替えてから、急に認知症の症状が
出始めました。

昔戦争に行っていたときの恐怖がよみがえるのか、死刑になると言って怖がっています。

父は 満州に行っていました。
特に 戦争で虐殺行為をしたわけでもないのですが、経済成長著しい中国をニュースなどで知
っていますので、「戦争に参加した人たちは、銃殺か絞首刑にする」と言う声が、聞こえてくるそ
うです。

幻聴ですが、認知症になると一番辛かったことが最後に出てくるのかもしれないと、私は感じて
います。

「生きて虜囚の辱めを受けず」の思想も染み込んでおり、「捕まって殺される前に自決を」と、手
首を切ったりすることもあります。

そのため家族は24時間目が離せなくなりましたが、幸い認知症専門のとても良い病院が見つ
かり、入院できました。

医師から、海軍士官だった患者が、「部下に申し訳ない。申し訳ない」と言い続けていること
や、戦争の恐怖で、父のように話す患者が沢山いるという話を聞きました。

戦争は 94歳になる父に、今も大きな影を落としていることを知り、切なく思います。

文章力がなく読みづらいと思いますがどうぞお許しください。

これからも林先生のお話楽しみに読ませていただきます。ありがとうございました。

【はやし浩司より、Yさんへ】

 戦争は終わっても、その後遺症は、代を超えて残ります。私は戦後の生まれですが、父が受
けたPTSDを、そのまま引き継いでいます。

 戦争というのは、そういうものですね。戦争を直接経験しなかった子どもにも、深い傷あとを
残すということです。もちろん戦争を経験した当事者たちも苦しみますが……。メール、ありが
とうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2205)

●血統空想

++++++++++++++

「私だけは特別でありたい」という
思いは、だれにでもある。そのひとつ
が、「血統」。

「私の血統は、特別だ」「だから私は
特別な人間」と。

あのジークムント・フロイトは、
そうした心理を、「血統空想」という
言葉を使って説明した。

年齢で言えば、満10歳前後から
始まると考えられている。

しかしそう思うのは、その人の勝手。
それはそれでかまわない。しかし、その
返す刀で、「私以外は、みな、劣って
いる」と考えるのは、まちがっている。
自己中心性の表れそのものとみる。

EQ論(人格完成論)によれば、
自己中心性の強い人は、それだけ
人格の完成度の遅れている人と
いうことになる。

わかりやすい例でいえば、今でも
家系にこだわる人は多い。ことあるご
とに、「私の先祖は、○○藩の家老だ
った」とか何とか言う。

悪しき封建時代の亡霊とも考えられる。
江戸時代には、「家」が身分であり、
「家」を離れて、個人として生きていく
こと自体、不可能に近かった。

日本人がいまだに、「家」にこだわる
理由は、ここにある。

それはわかるが、それからすでに、
約150年。もうそろそろ日本人も、
そうした亡霊とは縁を切るべきときに
来ているのではないのか。

+++++++++++++++

 かつて福沢諭吉は、こう言った。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」(「学問
のすすめ」)と。

その「天は人の上に……」という名言が、生まれた背景として、国際留学協会(IFSA)は、つぎ
のような事実を指摘している。そのまま抜粋させてもらう。

 『……さらに諭吉を驚かせたことは、家柄の問題であった。

諭吉はある時、アメリカ人に「ワシントンの子孫は今どうしているか」と質問した。それに対する
アメリカ人の反応は、実に冷淡なもので、なぜそんな質問をするのかという態度であった。誰も
ワシントンの子孫の行方などに関心を持っていなかったからである。

ワシントンといえば、アメリカ初の大統領である。日本で言えば、鎌倉幕府を開いた源頼朝や、
徳川幕府を開いた徳川家康に匹敵する存在に思えたのである。その子孫に誰も関心を持って
いないアメリカの社会制度に、諭吉は驚きを隠せなかった。

高貴な家柄に生まれたということが、そのまま高い地位を保障することにはならないのだ。諭
吉は新鮮な感動を覚え、興奮した。この体験が、後に「天は人の上に人を造らず、人の下に人
を造らずと言えり」という、『学問のすすめ』の冒頭のかの有名な言葉を生み出すことになる』
と。

 意識のちがいというのは、恐ろしい。恐ろしいことは、この一文を読んだだけでもわかる。い
わんや明治の昔。福沢諭吉がそのとき受けた衝撃は、相当なものであったと考えられる。そこ
で福沢諭吉らは、明六社に合流し、悪しき亡霊と闘い始める。

 明六社……明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人で
ある。教育家でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した人でもある。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。
その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運
動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)その100年の間に、この日
本は、本当に変わったのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人
たちまで現われた。中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までい
る。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、武士の立場で、武士道を礼さんするから、おかしい。悲しい。そして笑える。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかるはず。そういったことを、反
省することもなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時
代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であった
ことを忘れてはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本に、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている人は多い。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んで
いる。たとえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人
となると、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、わからない。そ
れが精神的バックボーンになっていることすら、ある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し
てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ
り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人
には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて
しまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建
時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。

 ……と話が脱線してしまったが、これだけは覚えておくとよい。

 世界広しといえども、「先祖」にこだわる民族は、そうは、いない。少なくとも、欧米先進国に
は、いない。いわんや「家」だの、「血統」だのと言っている民族は、そうは、いない。そういうも
のにこだわるということ自体、ジークムント・フロイトの理論を借りるまでもなく、幼児性の表れと
考えてよい。つまりそれだけ、民族として、人格の完成度が低いということになる。

(付記)

 この問題は、結局は、私たちは、何に依存しながら、それを心のより所として生きていくかと
いう問題に行き着く。

 名誉、財産、地位、学歴、経歴などなど。血統や家柄も、それに含まれる。しかし釈迦の言葉
を借りるまでもなく、心のより所とすべきは、「己(おのれ)」。「己」をおいて、ほかにない。釈迦
はこう説いている。

『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』(法句経)と。「自由」という言葉も、もともと
は、「自らに由る」という意味である。

 あなたも一言でいいから、自分の子どもたちに、こう言ってみたらよい。「先祖? そんなくだ
らないこと考えないで、あなたはあなたはで生きなさい」と。

 その一言が、これからの日本を変えていく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 血統
空想 封建時代 武士道)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●あやうし、日本!(9月4日号)

+++++++++++++++++++

すべては、アメリカの裏切りで始まった。
しかし今さら、過去を悔やんでもしかたない。

日本のM外相は、9月3日午後、外務省で
記者団に対し、北朝鮮が米国に求めている
テロ支援国家指定の解除問題に関し、こう
言った。

「日米関係を犠牲にしてまで米朝関係を
進めることはない、と米側から連絡が来
ている」(ヤフー・ニュース)と。

裏切られても、裏切られても、アメリカに
すがるしかない日本。その切々たる悲愴感。
それが、M外相の言葉の中に、にじみ出ている。

おそらくその裏で、日本は、アメリカに
泣きついたのだろう。「私を、見捨てない
でエ!」と。

その回答(=連絡)が、これである。

しかし今のアメリカの頭の中には、日本など、
ない。ないことは、アメリカのワシントン市に
視点を置いてみれば、わかる。

今のアメリカの頭の中にあるのは、中国。
すでにアメリカは、10年後、20年後のアジア
情勢を見据えながら、国際戦略を考え始めて
いる。

そのひとつ。すべては昨年(06年)夏の、
あのキッシンジャー元国務長官の訪中で
始まった。つまりそのときから、アメリカの
対極東アジア戦略は、大きく変わった。

あやうし、日本!

これから先、日本は、孤立無援のまま、
中国、そして韓国=K国という、反日国家と
ひとりで対峙していかねばならない。

すでにK国は、中国を介して、40兆円とも、
あるいはそれ以上とも言われる戦後補償費を
日本に打診してきている。

もうメチャメチャな額だが、おそらくアメリカ
(=ヒル氏)は、水面下で、K国(=金氏)に
こう言っているにちがいない。

「拉致問題を何とかしなさいよ。日本から、
お金を取ってあげるから」と。韓国のN大統領
ですら、「南北会談で、拉致問題を取りあげる」
と言い出している。

あのN大統領が……?、である。しかしそれも
ジャパン・マネーが目的と考えると、スンナリと
理解できる。

要するにK国は、日本との交渉を前にして、
何とか、アメリカを押さえておく必要がある。

「いざとなったら、戦争」ということを口にすれば、
K国は日本から、いくらでもしぼり取れる。
米朝交渉など、その前座でしかない。

では日本は、どうしたらよいのか。

日本がもつ、ゆいいつの武器といえば、
「経済」でしかない。その経済を使って、
経済戦争を発動するしかない。「戦争」
という言葉が悪いなら、「競争」でもよい
……ということになるが、今の日本には、
その度胸もない。知恵もない。戦略もない
その前に、正義もない。「日本は、どうある
べきか」という形すらない。

間に合うかどうかわからないが、今の
日本にとって最良の道は、K国を自己崩壊に
追いこむこと。同時に、韓国を、デフォルト
(=国家破綻)に追いこむこと。

今や、日韓経済戦争は、最終局面に突入
しつつある。

中国においてですら、韓国の現代自動車は、
前年度同月比で、この7月、32%も売り上げ
を減らしている。そのため、「北京現代自動車は、
非常経営体制に転換した」(中央日報)と。

あと一息。あと一息で、日本は、韓国、K国の
口を封ずることができる。

……という私をどうか、過激派とは思わないで
ほしい。

今、この日本は、勝つか負けるか、その瀬戸際
に立たされている。サッカーの試合とはわけが
ちがう。勝つか負けるか、である。引き分けは
ない。

もしこの戦争に敗れれば、日本には、明日はない。
これから先何十年も、日本は、極東アジアのすみで、
ビクビクしながら生きていかねばならない。

だから私はそのつど言ってきた。書いてきた。

拉致問題と制裁問題をからめてはいけない、と。
対米追従外交反対論に警戒しろ、と。
安倍総理は就任直後に訪米すべき、と。

今となっては、これらすべてが、むなしく
秋の空にこだまする。

おかしな極右思想にそまった、ヘタクソ外交。
その結果が、今と考えてよい。

++++++++++++++++++
 
最前線の子育て論byはやし浩司(2206)

【今日・あれこれ】(9月4日)

●古いパソコン

昨日(9月3日)、古いパソコンを修理した。どうしようもないほど、古いパソコンである。OSは、
「98」。電源を入れるたびに、BIOSで日付の設定をしなければならない。西暦2000年以後
は、使えないという設定になっているらしい。

が、私には愛機。シャープのPN・15Z、メビウス・スタイル。買った当時は、それでテレビが見
られるという、つまりテレパソの第一号機。当時の値段で、24万円もした。

ワイフは何度も「処分したら?」と言うが、私にはできない。テカテカになったキーボードを見る
と、そのときの喜びが、ジンと胸にこみあげてくる。私はまず、再セットアップ(メーカーによって
は、リカバリーともいう)を試みた。

が、何度BIOS画面にしようとしても、反応がない。「やはりだめか」と思って、パソコンの背部
を見ると、キーボードコードがはずれていた。よくある失敗である。ハハハと笑いながら、再セッ
トアップはしないことにした。ワープロ機として動けば、それでじゅうぶん。

昨日はそんなわけで、そのパソコンの前で、1時間ほど、原稿を書いてみた。反応は鈍い。遅
い。ときどき文字がジャンプする。いろいろ問題はあるが、私には、かわいいパソコンである。


●チャドクガ(茶毒蛾)

このあたりでは、「おこぜ」ともいう。数日前、庭木の中に入ったとき、そのチャドクガの幼虫の
毛に触れたらしい。そのときは何ともなかったが、1時間もしないうちに、赤く腫れあがり、ヒリヒ
リと痛みだした。つづいて、ギリギリっと、ときおりはげしい痛みが始まった。

チャドクガが年に2回、孵化するという。春と、今ごろの季節。春に消毒をしなかったのが、悪
かった。それで秋になって、大発生。

そこで調べてみると、この痛み+かゆみは、2〜3週間もつづくとか。いやな虫だ。息子たちが
小さいころは、ちゃんと消毒していたが、最近は、それもしなくなった。今度、庭中の木を消毒
するつもり。待ってろよ、チャドクガどもよ!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●都会人vs田舎人

++++++++++++++

都会人は、都会人のほうが田舎人より
すぐれていると思う。

一方、田舎人には、都会コンプレックス
というものがあって、「東京からきた」と
いうだけで、何でもかんでもありがたがる。

が、それでいて、都会人を尊敬している
というわけでもない。内心では、バカに
している。

つまり都会人にも、田舎人にも、優劣は
ない。もっとわかりやすい例で、考えて
みよう。

よく知られた論争に、西欧主義と人間主義の
対立がある。

西欧文明を発達させた西欧人と、その発達
から取り残された原住民との対立と考える
とわかりやすい。

サルトルとレヴイ・ストロースの論争が
よく知られている。

++++++++++++++

●ヘラクレスカブトムシ

 少し前、テレビで、南米に住むというカブトムシをつかまえるという番組を放映していた。何で
もチリには、体長が15センチを超えるカブトムシがいるという。ヘラクレスカブトムシという名前
のカブトムシである。アンデス山脈の、標高1500メートル前後の樹林帯に住んでいるという。

 その捕獲作戦に、日本のある大学の教授が、参加した。昆虫博士としてよく知られた博士で
ある。おそらくテレビ局から出演依頼があったのだろう。いくらなんでも、ヘラクレスカブトムシだ
けをつかまえるために、南米のチリまで出かけていくような教授はいない。

 が、ヘラクレスカブトムシは、なかなか見つからなかった。が、ここで教授は、致命的なミスを
犯していた。カブトムシというと、ふつうは夜行性。しかしヘラクレスカブトムシは、夜行性ではな
かった。だから夜中に電灯をつけて捕獲するという作戦は、もののみごとに失敗した。

 そこで現地に住む住人に、ヘラクレスカブトムシの捕獲に協力してもらうことにした。テレビで
見た感じでは、30歳前後の若い男性だった。その男性のあとについて、一行は、樹林帯の中
に入っていった。

 しばらく行くと、その男性は、すぐにヘラクレスカブトムシを見つけた。が、教授たちには、どこ
にいるかさえわからなかった。「あそこだ」「どこだ」「あそこだ」というような会話が、数回つづい
た。そのあと、一行はヘラクレスカブトムシを見つけた。撮影に成功した。ヘラクレスカブトムシ
は、夜行性ではなかった。昼間に、堂々と、食事を楽しんでいた。

 私は当然、視聴者の1人だから、日本という国から、日本人として、つまりその教授の目を通
して、その番組を見ていた。が、そのとき、ふと、私はその視点を、現地に住む住人の中に置
いてみた。その住人から見たら、日本からやってきた一行は、どのように見えるか、と。

●田舎人の怒り 

 同じような経験は、山の中に住んでいるときにも、ときどきする。私は週末はいつも、山の中
で過ごすようにしている。浜松市の中心部での生活と山の中での生活の、二重生活をするよう
になって、もう13年+6年になる。(「6年」というのは、山荘を実現するために要した年月。)

 わかりやすく言えば、私は、都会人としての「目」と、田舎人としての「目」の両方をもってい
る。だからときどき、同じ事象を、都会人としての目から見るときもあれば、反対に、田舎人とし
ての目から見るときもある。が、そのつど、見える世界が、まるでちがう。おもしろいほど、ちが
う。

 たとえばこんなことがあった。この話は、長野県でりんご栽培をしている、学生時代の友人か
ら聞いた話である。彼はこう言った。

 「林君、何が頭にくるかってね、都会の連中がハイヒールで田舎へやってきて、家庭菜園をす
ることくらい、頭にくることはないよ」と。

 最初、私は彼の怒りが理解できなかった。私も家庭菜園をしている。ときに、革靴をはいたま
ま、畑をたがやすことがある。そこで私は聞いた。「どうして?」と。

友「あいつら、ぼくらの仕事をバカにしている」
私「バカにしているって?」
友「オレたちは、命がけで、りんご園を経営している。そういうところへ、日曜日ごとに車でやっ
てきて、畑仕事のまねごとをしている」

私「いいじゃないか。そういうのを楽しむ人がいても……」
友「だったら、田舎では、大きな顔をするなって、言うの」
私「大きな顔って?」
友「平気でズカズカとオレたちの世界に入ってくる。ピカピカの車でね。オレにはそれが、許せ
ない」と。

 しかしそれからほぼ10年。最近になって、やっとその友人の怒りが理解できるようになった。

●西欧主義vs人間主義

 さらに大きな視点では、西欧主義と人間主義の対立がある。よく知られた論争に、サルトル
と、レヴィ・ストロースの論争がある。

 レヴィ・ストロースが、サルトルに論争をいどんだ。サルトルらが説く西欧主義がもつ優越感
に、がまんできなくなったのだろう。「何も西欧主義が、たとえば未開の民族たちの生き方より
も、すぐれているということにはならない」と。

 わかりやすく言えば、西欧主義というのは、西欧文明という世界で生まれた主義に過ぎない。
しかしたとえば狩猟民族にしても、西欧文明とは異なる文明をもち、狩猟に関する知識や経験
を豊富にもっている。独特の「言葉」すらもっている。海洋民族にしても、そうだ。

 「西欧主義は、西欧で生まれた言葉にすぎない」「だから、人間には優劣はない」と。

 その「人間には優劣はない」というものの考え方を総称して、「人間主義」という。

 これに対してサルトルは、「自由なる意思決定をする西欧人と、そうでない民族とは、けっして
平等でない」と説いて、反論した。わかりやすく言えば、「狩猟民族にしても、海洋民族にして
も、彼らはその世界で生かされているだけで、自由なる意思決定をしていない」と。

 そこで冒頭に書いた、ヘラクレスカブトムシの話に、もどってみよう。

 日本からやってきた一行は、ここでいう「西欧主義者」ということになる。すぐれた科学技術を
もち、マネーももっている。知識も豊富である。自分たちの自由意思でもって、ヘラクレスカブト
ムシをつかまえるために、わざわざ南米のチリまでやってきた。

 一方、ヘラクレスカブトムシの捕獲に協力した現地の男性は、少なくとも日本からやってきた
一行の目から見れば、原住民の1人に過ぎない。もっと言えば、ヘラクレスカブトムシと同列
の、1人の人間にすぎない。自由意思によって行動しているというよりは、マネーで雇われたガ
イドにすぎない。

 が、そのガイドにしてみれば、ヘラクレスカブトムシなど、私たちが街の中でパチンコ屋を見
つけるくらい簡単なことにちがいない。だからもし私がその男性なら、ヘラクレスカブトムシを見
つけて、「いた!」「いた!」と喜んでいる連中を見たら、こう思うにちがいない。「こいつら、バカ
じゃない!」と。

●どちらがすぐれているか?

 どちらがどうというのではない。ただ私は、西欧主義と人間主義の対立だけに焦点を当てて
言うなら、どちらかに優劣をつけるのは、まちがっていると思う。

 この日本だって、西欧主義文明の中にありながら、アホな人はいくらでもいる。知識や経験は
豊富でも、頭の中はカラッポという人は少なくない。自分で考えて行動している人となると、いっ
たい、どれほどいるというのか。

 見かけの派手さだけに、だまされてはいけない。

 一方、私が知る田舎の人たちの中には、都会人にはない、誠実さをもった人が多い。(もちろ
んインチキ臭い人もいるが……。)とくに哲学という哲学はもっていないかもしれないが、心の
温かい人も多い。もっと言えば、西欧主義にかぶれたからといって、幸福になれるというわけで
はない。西欧主義を知らないからといって、不幸になるということでもない。

 えてして西欧主義は、物質文明に直結しやすい。その物質(車や家電など)が多いからといっ
て、幸福とはかぎらない。「人間」という視点で考えるなら、私たちはもっと別の尺度で、私たち
自身を判断する必要がある。

 ただここで誤解してほしくないことは、だからといって、私は、西欧主義を否定しているのでは
ないということ。私自身は、学生時代から、サルトルを信奉し、自称、実存主義者を唱えてき
た。今にいたるまで、その道を、一度たりとも、踏み外したことはない。

 一方、人間主義を、全面的に支持しているわけでもない。もし優劣を決める尺度があるとす
るなら、(思考力)ということになる。思考する人は、その分だけ、優れている。そうでない人は、
そうでない。それには、都会人も、田舎人もない。西欧主義者も、人間主義者もない。

●都会人のもつ傲慢さ

 が、このところ、私自身も含めてだが、都会人のもつ、あの鼻持ちならぬ傲慢さに、がまんで
きないことが多い。

 少し前、片山さつき氏という国会議員について書いた。片山さつき氏は、少し前、地元の自治
会が主催する花火大会にやってきた。派手なパフォーマンスだけをして、再び、東京という中
央に帰っていった。本部席から、「片山さつきで〜す」と、マイクを使ってあいさつもした。

 片山さつき氏は、その東京で、「田舎者は、私が土下座すれば、イチコロよ」(雑誌「諸君」)と
発言していたという。おそらく片山さつき氏から見る、私たちのこの地方は、取るに足りない、
小さな世界に見えるのだろう。もちろんそこに住む住人など、野原に住む、アリか虫のようなも
の。

 そういった意識を逆に感ずれば感ずるほど、(これは私の被害妄想かもしれないが……)、
私は、どうしてもあの片山さつき氏が許せなくなる。どこでどう地元のために働いているか、私
は知らない。知らないが、少なくともこの2年、片山さつき氏が、庶民レベルの世界で何かをし
たという話を耳にしたことがない。

 片山さつき氏が西欧主義者だとは思わないが、しかしあの片山さつき氏なる国会議員を見て
いると、なぜレヴィ・ストロースがサルトルにかみついたか、その理由がわかるような気がす
る。レヴィ・ストロースも、どこかで、西欧主義者というよりも、都会人、都会人というよりも自称
知識人たちのもつ傲慢さに、がまんできないものを感じたのかもしれない。

 ちょうどハイヒールをはいて家庭菜園にやってきた都会人に、怒りを感じた私の友人のよう
に、である。

 むずかしい話になってしまったが、ここで重要なことは、「自由なる意思決定をすることは、人
間として、必要不可欠な条件」であるとしても、それをできない人を、「下」に見てはいけないと
いうこと。

 「自由なる意思決定をするということは、同時に、それをしない人たちをも啓蒙していくという
意味も含まれる」ということ。その啓蒙活動そのものが、「自由なる意思決定」ということにな
る。わかりやすく言えば、自由なる意思決定というのは、外に向かってしてはじめて、その意味
をもつということ。もっと言えば、「私も考える」「だからみなさんも、考えよう」と、外の世界に向
かって働きかけてはじめて、それを「自由」という。

 それには都会人も、田舎人もない。西欧主義者も、人間主義者もない。

 最後に一言。

 日本は奈良時代の昔から、中央集権国家。「中央意識」が、ほかの国々の人たちより、強
い。強いというより、異常。だから都会人、とくに東京人のもつ、優越意識には、特別なものが
ある。そして一方、地方に住む私たちには、都会コンプレックスというものがある。何でもかん
でも、「東京から来た」というだけで、ありがたがる。

 この問題を考えるときは、そういう「意識」のちがいも、心のどこかに置いて考えなければなら
ない。サルトルらがいたフランスと、この日本とでは、文化的背景がちがう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 構造
主義と人間主義 西欧主義 都会人 田舎人 サルトル レビ・ストロース)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(9月5日)

++++++++++++++

今朝は、これから病院へ行ってくる。

数日前、毛虫に刺されたあと、おかしな
抗原・抗体反応がつづいている。

刺されたのは、脇の下だが、それが
昨日から、左腕、左脇、それに左の
肩のほうまで、痛みや腫れが広がって
きた。

ときどき、発作的に、ギリギリと激痛が
走ることもある。

症状は、この数日間、少しずつだが、
収まりつつある。しかしインターネット
で調べたかぎり、こうした症状は、
2〜3週間はつづくとのこと。

ゲッ!

2〜3週間もつづいたら、たまらない。

……ということで、病院へ。

+++++++++++++++

 昨日、小5クラスで教えているときのこと。時折、激痛が私を襲った。毛虫に刺されたあたりを
中心に、そこからチクチクと、外に向かって痛みが走る。痛みそのものは、瞬間で終わるが、
そのときは息もできないほどになる。

 ざっと数えてみたら、30〜40か所以上、刺されていた。おそらく毛虫の幼虫を、脇の下では
さんでしまったのだろう。

 だから子どもたちに、「今日のぼくは、元気がない」と告げると、ここで意外なことが起きた。

 いつもは「林なんか、早く死んでしまえ」などと言っていた子どもたちだが、みな、神妙な顔つ
きになって、こう言った。

 「先生、だいじょうぶ?」
 「病院へ行ってきなよ」
 「ぼくのパパに話して、薬をもらってきてあげようか?」と。

 私が冗談まじりに、「いいや、今夜あたり、激痛が心臓を貫いて、ぼくは死ぬかもしれない」と
言うと、「死んでもらっては困るよ」「死んじゃあ、だめだよ」と。泣き顔になった子どももいた。

私「だけど、人間というのは、死ぬ人は、ポックリと死ぬもんだよ」
子「先生が死んだら、この教室は、どうなるの?」
私「いつもどおり、来なよ」
子「どうして?」
私「ぼくは幽霊になっても、ちゃんとここへ来るから」
子「いやだな」

私「幽霊になっても、教えるからさ。足はないと思うけど、スカートか何か、はけばいい」
子「男がスカート?」
私「この際、文句は言っておられない」
子「動くときは、どうするの?」
私「スーッと、飛ぶように動くよ」
子「楽だね」

私「そうさ。それにね、幽霊になったら、あの世のことを、みんなに話してあげるよ。楽しみにし
ておきな」
子「どんな世界?」
私「みんなの知らない世界だよ。ぼくも知らない。だからみんなに話してあげるよ」と。

 子どもたちが心配してくれたのが、うれしかった。私は子どもたちに嫌われているとばかり思
っていた。

 子どもたちの、意外な、ほんとうに意外な面を知って、うれしかった。で、そのことを家に帰っ
からワイフに話すと、ワイフはこう言った。

 「みんな、口は悪いけど、あなたのこと好きなのよ」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2207)

●輪廻(りんね)

++++++++++++++

生まれ変わることができるというのは、
たしかに希望である。

生まれ変われないにしても、30歳とか、
40歳、突然、若くなれるとしたら……。

が、ここで私は、ふと、思いとどまる。

生まれ変わるとしても、条件がある。
今の生活環境以上に、よい生活環境
に生まれ変わるとしたら、それはそれで
よい。

しかしそうでなければ、どうするか?
たとえば現在のK国のような国で
生まれ変わるとしたら、私はごめん。

戦前の日本のような国も、いや。

さらに、だれかが、こう言ったとしたら、
私は、たぶん、それを断るだろう。

「林、もう一度、20歳に戻してやる。
同じ人生を歩んでみろ」と。

人生は一度でたくさん。私はそこまで
は思わないが、中には、こりごり
という人だっているかもしれない。

そんなふうに考えていくと、こうした生まれ
変わり、つまり輪廻(りんね)思想の生まれた
インドでは、輪廻そのものを、大衆は
支持していなかったのではないか?、という
疑問がわいてくる。

カースト制度というきびしい身分制度。その
身分制度の中で、奴隷(シュードラ)は
生まれながらにして奴隷であり、一生、
死ぬまで、奴隷であった。

そんな奴隷の1人に、輪廻思想を説いても、
はたしてその奴隷は、その思想を受け入れる
だろうか。たぶんその奴隷は、こう言うだろう。

「人生なんて、一度で、こりごり」と。

そこでウパニシャッド哲学(インド哲学)では、
輪廻転生から離脱し、宇宙(神)と一体化する
ことを、「解脱(げだつ)」と呼んだ。

(ちゃんと逃げ道が用意してあるところが、
すごい!)

私たちの魂は、生きたり死んだりを繰り返す。
その魂を、瞑想、つまりヨーガによって、宇宙の
神と一体化させる。

そうすればだれでも、解脱の境地に達する
ことができる。つまり、輪廻転生の輪から、
自分を解放させることができる。

+++++++++++++++

 インド哲学を理解するときは、一度、私たちを文明の世界から切り離さなければならない。私
たちが現在もっている常識で、インド哲学を理解しようとしても、理解できない。そういう部分
は、多い。

 これはあくまでも私の推察だが、当時のインドでは、時間についての観念そのものが今とは
ちがっていたのではないか。たとえば30年、一昔というが、当時のインドでは、100年単位、2
00年単位で、時代が動いていた。

 あるときあなたはひとつの村を訪ねる。そこで何人かの村人に会う。が、それから30年後。
再び、あなたはその村を訪ねる。あなたはそこにいる人たちを見て、驚く。生活もしきたりも、3
0年前とまったく同じ。

 生活やしきたりばかりではない。そこに住んでいる人たちも、30年前とまったく同じ。30年前
に会った人たちが、そっくりそのまま新しい人たちと置き換わっている。

 私は輪廻思想が生まれた背景には、そういった時代的背景があったと思う。つまりあなたか
ら見れば、時間の流れというのが、くるくると回っているかのように見える。そのくるくると回って
いるという部分から、「輪廻」という言葉が生まれた。

 それについて以前、書いた原稿が、つぎのものである。一部、重複するが許してほしい。

+++++++++++++++++

【過去、現在、未来】

●輪廻(りんね)思想

+++++++++++++++++++++

過去、現在、未来を、どうとらえるか?

あるいは、あなたは、過去、現在、未来を、
どのように考えているか?

どのようなつながりがあると、考えているか?

その考え方によって、人生に対する
ものの見方、そのものが変わってくる。

+++++++++++++++++++++

 時の流れを、連続した一枚の蒔絵(まきえ)のように考えている人は、多い。学校の社会科の
勉強で使ったような歴史年表のようなものでもよい。過去から、現在、そして未来へと、ちょう
ど、蒔絵のように、それがつながっている。それが一般的な考え方である。

 あるいは、紙芝居のように、無数の紙が、そのつど積み重なっていく様(さま)を想像する人も
いるかもしれない。過去の上に、つぎつぎと現在という紙が、積み重なっていく。あるいは上書
きされていく。

 しかし本来、(現在)というのは、ないと考えるのが正しい。瞬間の、そのまた瞬間に、未来は
そのまま過去となっていく。そこでその瞬間を、さらに瞬間に分割する。この作業を、何千回も
繰りかえす。が、それでも、未来は、瞬時、瞬時に、そのまま過去となっていく。

 そこで私は、この見えているもの、聞こえているもの、すべてが、(虚構)と考えている。

 見えているものにしても、脳の中にある(視覚野)という画面(=モニター)に映し出された映
像にすぎない。音にしても、そうだ。

 さらに(時の流れ)となると、それが「ある」と思うのは、観念の世界で、「ある」と思うだけの
話。本当は、どこにもない。つまり私にとって、時の流れというのは、どこまでいっても、研(と)
ぎすまされた、(現実)でしかない。

 その(時の流れ)について、ほかにもいろいろな考え方があるだろうが、古代、インドでは、そ
れがクルクルと回転していくというように考えていたようだ。つまり未来は、やがて過去とつなが
り、その過去は、また未来へとつながっていく、と。ちょうど、車輪の輪のように、である。

 そのことを理解するためには、自分自身を、古代インドに置いてみなければならない。現代
に視点をおくと、理解できない。たとえば古代インドでは、現代社会のように、(変化)というもの
が、ほとんどなかった。「10年一律のごとし」という言葉があるが、そこでは、100年一律のご
とく、時が過ぎていた。

 人は生まれ、そして死ぬ。死んだあと、その人によく似た子孫がまた生まれ、死んだ人と同じ
ような生活を始める。同じ場所で、同じ家で、そして同じ仕事をする。人の動きもない。話す言
葉も、習慣も、同じ。

 そうした流れというか変化を、一歩退いたところで見ていると、時の流れが、あたかもグルグ
ルと回転しているかのように見えるはず。死んだ人がいたとしても、しばらくしてその家に行っ
てみると、死んだ人が、そのまま若返ったような状態で、つまりその子孫たちが、以前と同じよ
うな生活をしている。

 死んでその人はいないはずなのに、その家では、以前と同じように、何も変わらず、みなが、
生活している。それはちょうど、庭にはう、アリのようなもの。いつ見てもアリはいる。しかしその
アリたちも、実は、その内部では、数か月単位で、生死を繰りかえしている。

 こうして、多分、これはあくまでも私の憶測によるものだが、「輪廻(りんね)」という概念が生
まれた。輪廻というのは、ズバリ、くるくると回るという意味である。それが輪廻思想へと、発展
した。

 もちろん、その輪廻思想を、現代社会に当てはめて考えることはできない。現代社会では、
古代のインドとは比較にならないほど、変化のスピードが速い。10年一律どころか、数年単位
で、すべてが変わっていく。数か月単位で、すべてが変わっていく。

 住んでいる人も、同じではない。している仕事もちがう。こうした社会では、時の流れが、グル
グルと回っていると感ずることはない。ものごとは、すべて、そのつど変化していく。流れてい
く。

 つまり時の流れが、ちょうど蒔絵のように流れていく。もっとわかりやすく言えば、冒頭に書い
たように、社会科で使う、年表のように、流れていく。長い帯のようになった年表である。しかし
ここで重要なことは、こうした年表のような感じで、過去を考え、現在をとらえ、そして未来を考
えていくというのは、ひょっとしたら、それは正しくないということ。

 つまりそういう(常識?)に毒されるあまり、私たちは、過去、現在、未来のとらえかたを、見
誤ってしまう危険性すら、ある。

 よい例が、前世、来世という考え方である。それが発展して、前世思想、来世思想となった。

 前世思想や、来世思想というのは、仏教の常識と考えている人は多い。しかし釈迦自身は、
一言も、そんなことは言っていない。ウソだと思うなら、自分で、『ダンマパダ(法句)』(釈迦生
誕地の残る原始仏教典)を読んでみることだ。

 ついでに言っておくと、輪廻思想というのは、もともとはヒンズー教の教えで、釈迦自身は、そ
れについても一言も、口にしていない。

 言うまでもなく、現在、日本にある仏教経典のほとんどは、釈迦滅後、4〜500年を経てか
ら、「我こそ、悟りを開いた仏」であるという、自称「仏」(仏の生まれ変わりたち)によって、書か
れた経典である。その中に、ヒンズー教の思想が、混入した。
 
 過去、現在、未来……。何気なく使っている言葉だが、この3つの言葉の中には、底知れぬ
謎が隠されている。

 この3つを攻めていくと、ひょっとしたら、そこに生きることにまつわる真理を、発見することが
できるかもしれない。

 そこでその第一歩。あなたは、その3つが、どのような関連性をもっていると考えているか。

 一度、頭の中の常識をどこかへやって、自分の頭で、それを考えてみてほしい。

+++++++++++++++++

 再び輪廻について。

 たとえば輪廻というほどではないにしても、毎日が毎日の繰り返し……という人生に、どれほ
どの意味があるというのか。そのことは、老人介護センターにいる老人たちを見ればわかる。
(だからといって、そこに住む老人たちの人生に意味はないと言っているのではない。誤解の
ないように!)

 毎日、毎日、同じことを繰り返しているだけ。同じ時刻に起きて、同じ時刻に食事をして、あと
は一日中、テレビの前に座っているだけ。

 これは老人介護センターの中の老人たちの話だが、私たちの生活にしても、似たようなも
の。今日は、昨日と同じ。今年は、去年と同じ、と。

 これもひとつの輪廻とすると、私たちがつぎに考えなければならないことは、どうすれば、この
輪廻を断ち切ることができるかということ。

 まさか瞑想(ヨーガ)をすればよいと説く人はいないと思う。(ヨーガというと、あのO真理教を
連想し、どうもイメージがよくない。)しかしだれも、このままでよいとは思っていない。

 そこでひとつのヒントとして、サルトルは、こう説いた。「自由なる意思で、自由を求め、思考
し、自ら意思を決定していくことこそ重要」と。つまりこの輪廻を断ち切るためには、「私は私」
と、その「輪」の中から飛び出すことではないか。

……と書いたところで、「ウ〜ン」とうなって、筆が止まってしまった。そのことをワイフに話すと、
ワイフも、そう言った。

私「思いきって、オーストラリアへ移住しようか?」
ワ「移住でなくても、2〜3年なら、いいわ」
私「このままだと、ぼくたちの人生も、このまま終わってしまう」
ワ「そうね。自分たちがどうあるべきか、まず、それを考えなくては……」と。


+++++++++++++++++

【未来と過去】

++++++++++++++

前向きに生きるということは、
未来に展望性をもって生きること。

今すべきことは、今する。自分から
取り組んでいく。

生き方が後ろ向きになったとたん、
その人の人生は、萎縮し始める。

++++++++++++++

●回顧と展望

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。ある
心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかしこれには、当然、
個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反対に、40
歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんどちらがよいとか、
悪いとかいうのではない。ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が
半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど毎日、幼児
や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、な
い。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。10年後、あるいは20
年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしか
ない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※をいくら読
んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、天国の話はした
が、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏教典のほ
とんどは、釈迦滅後四、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてできた
経典である。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教で
ある。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あればもうけも
の」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわからないが、私には見
たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手に
しない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。大きな正義を貫く勇気も、度
胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づ
けないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。それしかな
い。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。体力や気力
が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉に
ぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そう
いう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。わかりやすく言えば、仏の境地な
ど、ないということになる。そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私も
そう思う。人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。過去で
はない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

【前向きの人生、うしろ向きの人生】

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そ
うなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしでき
るなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だ
った。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を五人ほ
ど雇うほどまでになった。

が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで
追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから2年後に他
界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の
娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。「母は、異常なまでにケチになりました」と。

たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出し
たという。「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。値段も、2000円とか30
00円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大
波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければ
ないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわか
らなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意
味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がい
る。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、
いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだ
というのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演を
させてもらったが、その会を主宰している女性が、80歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療
費の無料化運動を推し進めている女性だった。

私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞
くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。「長い間、この問題に関わってきましたから」と。
保育園の元保母だったという。そういうすばらしい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそうい
う航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そ
してそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば
少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その
波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまで
も信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなけれ
ば、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって
説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとした
ら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別
の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間にな
るということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、
今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもた
らしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなか
ったのかということになる。数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数1
0万年など、マバタキのようなものだ。

お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。しかし数10万円では、パソコ
ン1台しか買えない。数億年と数10万年の違いは大きい。モーゼがシナイ山で十戒を授かっ
たとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年ほど前のこと。たったの6000年であ
る。それ以前の数10万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多
い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。そしてそ
の論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、
あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといっ
て、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こす
ようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではな
い。

ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つ
まり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわからないが、キ
リスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そ
こに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎
晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その1人と言ってもよい。同じようなことは
子どもたちの世界でも、よく経験する。

たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。そう
いうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎
晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。もしそういう人がい
れば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格で、その時点からさ
らに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言っ
たのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(75歳くらい)だった。

が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその
女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生き
ザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずす
ようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。何ら
かのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言
ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どう
すれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生き
なくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人
生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、
毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私
とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をくいし
ばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世
界に、吹き飛ばされてしまう。

しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値もそこから生まれる。もっと言
えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。……つまり、
そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察す
る。先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる
目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考
えているのだろう」と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまで
わかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと
考えている人も多い。

中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャになったレースの出番表
を大切そうに読んでいるような老人もいる。人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、
大半の人はかえって愚かになる。愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうと
して、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か
自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世
界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなけ
れば、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々
に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進
(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始
める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、
その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(030613)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2208)

【今朝・あれこれ】(9月6日)

++++++++++++++

今日、台風6号が、東海から
関東に接近するそうだ。

すでにこのあたりも、台風模様。
低く鉛色の雲。時折、激しい雨。
あやしげな暖気を含んだ風。

窓の外を見ると、栗の木の葉が、
体を細く丸めて、風に揺れている
のがわかる。

++++++++++++++

●鮎

 毎年、岐阜県のG市に住むいとこが、鮎を送ってくれる。大きな鮎だ。「木曽川の鮎は、長良
川の鮎より、一回り大きい」と、いとこは言う。川が大きいせいか? それとも鮎のエサが豊富
なせいか? 実際、木曽川の鮎は、大きい。

 私はその鮎が届くと、まっさきに、義兄のところに何匹かを届けることにしている。天然の鮎
は、身がしまっていて、おいしい。


●中1のOさん

 昨夜のクラスで、中1のOさんと、数学の問題を解きあう。Oさんが見つけてきた、難解な問
題を、競争で解くというもの。

 昨日の成績は、2勝2敗。そういうみじめな成績になったのには、いろいろ理由がある。しか
し弁解は、無用! そこで5回目の勝負。

 「ようし、真剣勝負だぞ!」と声をかけて、最終戦。時間も迫っていた。

 頭がぼんやりとしていると、うっかりミスがどうしても多くなる。ミスをしないように、ポイントをて
いねいに攻めながら、問題に取り組む。早くできればよいというものではない。

 結果、当然、私が勝った。

 しかし頭のよい子だ。中1なのに、すでに中3の勉強を、すべて終えてしまった。今は高校の
勉強へ進もうか、どうかで迷っている。

 率直に、言おう。私は、このタイプの子どもを教えるのが、大好き。何よりも楽しい。だから生
徒数2人だけのクラスにしている。経営的には成り立たないクラスだが、私にとっては、それが
生きがいになっている。生きがいと言うより、生きるエネルギーそのものを、私のほうが、もらっ
ている。

 Oさん、ありがとう。昨夜は、睡眠不足で、コンディションが悪かった!

【Oさんへ】

 いつかおとなになって、ぼくの原稿を読むようなことがあるだろうか? 今、ふと、そんなこと
を考えた。君がこの文を読むときには、ぼくは、この世の人間でないかもしれない。あるいはボ
ケてしまって、どこかのケア・センターに入っているかもしれない。

 しかし君のようなすばらしい女の子に巡り会えて、ぼくはラッキーだったよ。君を尊敬している
よ。時の流れを超えて、この気持ちが、君に伝われば、ぼくはうれしい。

 2007年9月6日記。O・Sさんへ。


●高校生を平手打ちした警察官

 どこかの警察官が、乗車マナーの悪い高校生を平手打ちした。それに対して、警察官への
同情のメールが殺到しているとか。

「殴ったのはよくないが、注意できる大人が少ない中、警察官の行動は安心できる」「大人とし
て正しい行為」「逮捕は大げさでは」「あまり厳しく処分するな」など巡査長に同情的な意見が大
半を占め、送り主は県内だけでなく、北海道や山口県、香川県など全国に広がっているという
(以上、ヤフーニュースより)。

 そのときの状況がわからないので、何とも言えないが、制服を着ていたのなら、しっかりと声
をかけるだけでも、効果があったのでは? 私も乗車マナーの悪い高校生には、よく出会う。
先日も、ドアの前で、円陣をかいて座り込んで騒いでいる高校生たちを見かけた。

 床の上に、ペタッと座り込むことが、かっこいいとでも思っていたのか。しかし私と警官とで
は、見方が少し、ちがうようだ。

 私は、(おそらく学校の先生たちもそうだろうが)、そういう子どもたちの姿を見ると、それを私
たちの責任ととらえる。子どもたちを責める前に、自分を責めてしまう。だから注意するにして
も、どうしても低姿勢になってしまう。

 たとえばニッコリと笑いながら、こう言う。「あのね、電車の床って、あまりきれいじゃ、ないよ。
トイレの汚水だって、いっぱいついていると思うし……」とか、何とか。いや、今では、それ以上
に手がつけられないことが、多くなった。

 そのときも、「今時の高校生たちは、まあ、こんなものだろうな」と思って、私は無視した。

 ……ここまで書いて、こんなことを思い出した。この話は少し前、私のBLOGに書いた。

 少し前、電車に乗っていたら、高校生どうしが、空き缶を使い、通路をはさんで、たがいにけ
り合って遊び始めた。雰囲気的には、サッカーのパス練習でもしているかのようだった。

 私はそういうとき、いつもやり方が決まっている。

 そのときも高校生たちを無視して、空き缶をさっと取りあげた。こういうときは、高校生たちに
心のスキを見せないのがコツ。動揺している様子を見せたとたん、彼らはそのスキにつけこん
でくる。一見バカおやじのフリをしながら、堂々とそれをするのがコツ。

 30年近くも高校生を教えてきたから、そのへんのタイミングというか、要領は、よく心得てい
る。高校生といっても、中身は、幼児にぜい肉をくつけた子ども。

 で、冒頭に書いた警察官だが、どういう状況で平手打ちにしたのかは、よくわからない。逮捕
されたということだから、平手打ちをしたあと、どこかで心のスキを見せてしまったのかもしれな
い。ひょっとしたら、ジロッとにらみ、堂々としていれば、こんな大げさな事件には発展しなかっ
たかもしれない。

 いろいろ考えられるが、平手打ちにするのは、最後の最後。私もいろいろな場面で、高校生
たちを注意することはある。が、平手打ちも含めて、暴力というのは、私の脳みその中には、プ
ログラム化されていない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2209)

●日韓経済戦争(9月6日版)

+++++++++++++++++

韓国の個人負債額が、たったの73億円!
(朝鮮N報・9月4日)

記事をよく読むと、これは73兆円のまち
がい。

73億円と73兆円とでは、中身が1万倍も
ちがう!

ふつうなら、即、訂正するはずだが、73
億円のままになっているところが、恐ろしい。

+++++++++++++++++

 韓国では、法定利息(上限)は、年利66%となっている。日本では、18%(10万円以上100
万円未満)。

 66%だぞ! わかるか! しかしこの数字は、あくまでも、表向きのもの。実際には、100%
とか、200%とかいう利息で、個人は、借金をしまくっている。まさに国中が、「借金地獄」。

 悪徳サラ金でも、日本では、66%も取らない。

 そうした借金が雪だるま式にふくれにふくれあがり、それが73兆円。(朝鮮N報がいう、73億
円というのは、ウソというより、誤記。)

 朝鮮N報(9月3日)には、つぎのようにある。原文のまま、紹介する。

 『韓国の家計の負債残高が600兆ウォン(約74億円)に迫ることが分かった。韓国銀行は3
日、「第2四半期家計信用動向」で、6月末現在の家計負債残高が3月末より9兆9238億ウ
ォン(約1兆2265億円)増の596兆4407億ウォン(約73兆7184億円)になったと発表し
た』と。

 途中から、73兆円になっている。

 しかし73兆円という額が、どういう額か。日本の人口規模に換算すると、3・5倍して、255兆
円! あの日債銀という都市銀行が倒産したとき、4兆円という国税が投入された。言いかえ
ると、たった4兆円で、あの銀行は、つぶれた。が、73兆円。その額は今の今も、急速にふく
れあがっている。たった3か月で、1・2兆円もふえた!

そんな国が破綻しないで、国としての「体(てい)」を保っている方がおかしい。朝鮮N報は、つぎ
のようにつづける。
 『家計の負債は、銀行や保険会社など金融会社から借り入た融資金、クレジットカード・ロー
ン会社を通じた掛け売り残高を含み、6月末基準で1世帯当たり、平均3730万ウォン(約46
1万円)の借金を負っている計算になった』と。

 わかりやすく言えば、いわゆるサブプライムローンの激増である。韓銀のイ課長もそれを認
め、「家計の負債が増えた理由は、政府の住宅関連貸出規制により銀行で個人融資が停滞し
たものの、銀行からお金を借りられない人が銀行以外の金融機関から融資を受けたため」(朝
鮮N報)と話している。

 サブプライムローン問題は、何もアメリカだけの問題ではない。現実に今、韓国でも起きてい
る。アメリカほど規模は大きくないにしても、もしどこかで火がつけば、韓国など、ひとたまりもな
い。

 それを知ってか、今、韓国から外資が猛烈な勢いで逃避し始めているのみならず、一方、韓
国への投資が、激減している。

 同じく朝鮮N報は、つぎのように伝える。

 『トムスン・ファイナンシャルの統計によると、今年に入って8月末の時点でアジアのうち最も
多くの私募債ファンドを誘致した国は豪州で、182億4000万ドル(約2兆1200億円)だっ
た。2位はインドの95億ドル(約1兆1000億円)、3位は日本の86億6000万ドル(約1兆
円)だった。
 以下台湾、ニュージーランド、シンガポール、香港、中国、フィリピン、ベトナムと続いた。
 一方、韓国はインドネシアと共に、2億ドル(約233億円)を誘致し、アジアで私募債ファンド
の投資額が最も少なかったことがわかった』と。

 アメリカが、4625億ドルも集めているのをみると、韓国は、その2000分の1以下。日本の
40分の1以下。いくら金利を高くしても(=エサをばらまいても)、世界の投資家たちは、韓国
の実情をみて、二の足を踏んでいる。……というのが、現在の韓国の置かれた状況と考えてよ
い。

 何も私は韓国のことを心配して、こう書いているのではない。私がもっとも恐れるのは、日本
のすぐそばに、強大な軍事力(+核兵器)をもった、最悪の反日国家が誕生すること。それだ
けは、日本としては、何としても阻止しなければならない。

 で、こうした韓国が生き残るゆいいつの方法は、K国を経由して、ジャパンマネーを取り込む
こと。日本は日朝交渉が軌道に乗れば、莫大な戦後補償費(=賠償金)をK国に支払うことに
なる。ここにきて、突然、韓国のN大統領が、日本寄りの姿勢を見せ始めたのも、そのためと
考えてよい。まさに韓国崩壊は、時間の問題。その時間との戦いが、南北会談ということにな
る。

 この際、日本は何も、アメリカや韓国に気がねする必要はない。ノラリクラリと日朝交渉をか
わしながら、時間を稼げばよい。時間は、確実に日本の味方についている。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●介護保険料

+++++++++++++

社保庁の不正問題は、いったい、
どこまで行くのか? まさに底なし。

私はもう10年以上も前から、
社保庁などいらないと主張してきた。

もし社保庁が必要だというのなら、
どうして、育児支援庁がないのか?
交通安全庁でもよい。介護保険庁
でもよい。どうして社保庁だけが、
社保庁なのか?

もとからこうなることはわかっていた。
社保庁の職員ですら、それを知っていた。

人口のすべてを、その動きまで含めて、
ひとつの庁が管理できると考える
ほうが、おかしい。

欧米のように、その年齢になったら、
一律の年金を平等に支払えばよい。
欧米のように、それ以上に必要な人は、
個人として、保険会社と契約すれば
よい。

わけのわからない制度を一方で
作っておきながら、こうした問題が
起きるたびに、大騒ぎする。

おまけに、今度は、介護保険?

++++++++++++++

 00年に3・6兆円だった介護保険が、08年度には、7・1兆円になるという。そのため国民が
負担する介護保険料は、2911円(00〜02年、40歳以上)から、3293円(03〜05年)とな
った。しかしこれで足りるわけがない。

 単純に計算しても、介護保険が約2倍になっているのに、介護保険料が、たったの400円前
後の増額ですむはずがない。

 そこで05年10月から、施設の食費や居住費は、原則自己負担となった。ほかにも介護予
防制度など、国はあれこれと手を打っているようだが、介護保険料が1人あたり、5000円を
超えるのは時間の問題。

 とくに私たち団塊の世代が、満65歳を迎える2015年ごろには、どうなっていることやら? 

 まわりくどい言い方はやめよう。

 簡単に、しかもわかりやすく言えば、「官」が、自分たちにつごうのよいように、日本の社会を
ここまで複雑化してしまった! 年金問題に例を見るまでもない。本来なら、平等化に向けて、
制度を簡素化すべきだった。「複雑化」ということは、それをねじ曲げるための道具にしかすぎ
なかった。

 年金にしても、下は6万円(国民年金)から、上は、27万円(共済年金)まで、4倍以上もの格
差ができてしまった。

 介護保険とて例外ではない。どこの介護施設へ行っても、まず驚くのが、その豪華さ。「ここ
まで豪華にする必要があるのか」と思えるほど、豪華である。が、そのくせ、人間的な暖かみ
を、ほとんど感じない。

 おかしなところにお金を使い、肝心の必要なところには、お金を使っていない。その結果が、
介護保険の不足である。今は、社保庁職員による年金横領が問題になっているが、不必要な
施設(箱物)を作ることだって、見方を変えれば、立派な横領である。

 そこで提言。社会を、もっと単純化しよう。簡素化しよう。称して、「シンプル・システム運動」。
略して、「SS運動」。

 手始めに、年金制度に手をつけたらよい。年金の一元化などということは、当然のこと。その
上で、その年齢になったら、国民には平等に、一律一定額の年金を支給する。「あなたは満6
0歳になりましたから、毎月3万円ずつの年金がもらえます」「満65歳になりましたから、毎月5
万円ずつの年金がもらえます」「70歳になりましたから、毎月8万円ずつの年金がもらえます」
と。

 複雑化すればするほど、それだけ組織もふえ、人員もふえる。つまり経費もかかる。

 先日も私は、市内にある子ども館へ行ってきた。そこでのこと。

 子どもの入場料は100円(小・中・高)。おとな200円。(幼児は無料。)そのチケットを受け
取るところに、2人の職員が座っていた。

 仮に、2人の人件費を、月計80万円とすると、それだけの人件費を稼ぐためには、おとな1
人、子ども1人の300円で、2600組の入場者がなければならない。

 2600組を、月25日で割ると、1日、106組である。ふだんは閑古鳥が鳴いている。土日だ
って、100組入っているか、どうか?

 だったら、2人の職員をやめさせ、入場を無料にすればよい。そのほうが、ずっと安上がりに
すむ。実際には、オープン時には、17人近い職員と、それと同じ数だけのボランティアがい
た。(私はちゃんと数えたぞ!)

 ……というような計算を、みんがもっとする。そして社会の制度を、もっと単純化し、簡素化す
る。ニュージーランドのように、役人の仕事を、民営化するということも視野に入れる。でない
と、今の社会保険制度、介護制度に例をみるまでもなく、日本中の制度という制度が、やがて
破綻する。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2210)

【いろいろな子ども】

++++++++++++++

〜〜症という診断名こそつかないが、
いろいろと、問題をもった子どもは
多い。

思い浮かぶまま、いろいろなタイプの
子どもを書いてみる。

++++++++++++++

●さがしものができない子ども

 さがしものができない子どもがいる。何かをさがさせると、すぐパニック状態になってしまう。
かんしゃく発作を引き起こすこともある。……というより、かんしゃく発作を引き起こしやすい子
どもは、さがしものが苦手。頭の中が混乱状態になったとたん、イライラが増幅する。そんなわ
けで、静かにものをさがすことができない。


●整理のできない子ども

 カバンなど、持ち物の中を見れば、わかる。いくら注意しても、カバンの中は、ゴチャゴチャ。
大切なものの、そうでないものもない。古いテスト用紙の間に、学校からの連絡表がはさまって
いたりする。見た感じ、まるでゴミ箱のよう。ときどきいっしょにカバンの中を整理するが、効果
は一時的。


●忘れ物が多い子ども

 集中力、あるいは緊張感そのものが、抜けたように欠けている子どもがいる。学校への提出
物を忘れるなどということは、日常茶飯事。反対に、学校には、いつも忘れ物してくる。その前
日、筆箱を忘れて置いていったから、それを渡しながら、「筆箱をちゃんともって帰ってよ」と声
をかけると、そのときは、「うん、わかった」と返事をする。しかしそのとき今度は、ノートを忘れ
ていく。親や教師がいくら注意しても、効果はその場だけ。


●騒々しい子ども

 いつもガサガサしている。静かな落ち着きがなく、始終、何かをしゃべっている。「静かにしな
さい」と言っても、効果はその場だけ。数秒から10秒もすると、またしゃべり始める。話してい
る内容は浅く、テーマもクルクル、目まぐるしく変わる。アメリカではADHD児と考えられてい
る。女児に多い。


●動作の鈍い子ども

 臨機応変に機敏な行動ができない。何かを言いつけても、ノソノソといった感じになる。緊急
時とわかっていても、動作が、それについていかない。「緩慢行動」「緩慢動作」といって、神経
症による症状のひとつに考えられている。


●表情のない子ども

 表情がなく、能面のような子どもをいう。喜怒哀楽の情をほとんど、示さない。無表情のまま、
涙だけをスーッと流したりする。全体的に静かで、大声を出して騒いだりするということもない。
集団の中でも、いるかいないかわからないほど、存在感が薄い。


●字の汚い子ども

 乱雑な文字で、しかもワクから平気で飛び出したような字を書く。「きれいに書こう」と指示す
ると、そのときだけはきれいな文字を書くが、その分だけ、異常に時間がかかってしまう。が、
しばらくすると、またもとの文字に逆戻り。よく観察すると、手の動きがぎこちなく、なめらかな動
作ができないのがわかる。細かい作業が苦手という症状をあわせもつことが多い。


●SHY(シャイ)な子ども

 恥ずかしがりやで、はにかみや。いつも柔和な表情を絶やさず、存在感がない。大声を出し
て騒いだり、人の前に立って、何かをするということもない。日本ではあまり話題にはならない
が、アメリカでは、SHY(シャイ)な子どもは問題児ということになっている。「日本では、SHYは
美徳」と言うと、それを話してくれたアメリカ人の教師(公立小学校校長)は、目を白黒させて驚
いていた。

(付記)

 大切なことは、その子どもはそういう子どもであると認めた上で、その子どもにあった指導を
するということ。どんな子どもにも、それぞれ、弱点、苦手な面、欠点というのがある。ない子ど
もはいない。そういうふうに考えて対処する。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(9月7日)

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台風は去った。今ごろは関東北部を
北に向かっているとか。

今のところはまだよくわからないが、
大きな被害は出ていないようだ。
先ほどテレビのニュースを見たが、大波が
防波堤をたたきつけるシーンとか、
街を歩く人が傘をクシャクシャにされる
シーンとかが、報道されていた。

私が子どものころとは、台風の「質」
が変わったように感ずる。つまり
それだけ、家のつくりもがんじょうに
なった。

私が子どものころは、台風が近づいて
くると、どこの家でも、雨戸をハンマーで
打ちつける音が、カンカンと聞こえたもの。

それに台風ともなれば、家がゴーゴー
と揺れたりした。窓ガラスを突き破って、
風が中に入ってきたこともある。
屋根瓦が飛んだり、天井が落ちてきたり
したこともある。

今は、そういうことはない。

++++++++++++++

●伊勢湾台風

 ちょうど去年の今ごろ、この静岡県を、台風15号が襲っている。そのとき書いた原稿が出て
きた。

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●台風15号

 非常に強い台風、15号が、日本の九州地方をめがけて、目下北上中。気象庁の予報どおり
とするなら、17日から18日にかけて、九州地方に上陸する恐れさえ、出てきた。

 「15号」と言えば、あの「伊勢湾台風」も、15号だった。

伊勢湾台風(いせわんたいふう)……1959年9月26日に紀伊半島に上陸し、東海地方を中
心に、近畿から東海の広範囲で大きな被害を及ぼした台風をいう。私が11歳のときのことで
ある。

死者・行方不明者は5098人、負傷者3万9000人にのぼり、明治以来最大の被害をもたらし
た。ほかに、3000人以上の犠牲者を出した台風として、室戸台風、枕崎台風があり、これら3
つを合わせて、昭和の3大台風という。

 たまたまその台風15号は、私の郷里のM町を直撃した。台風の目に入ったとき、一時的だ
が、青い空が見え、無風状態になったのを、今でもよく覚えている。が、その私といえば、風力
計を回して、遊んでいた。まさかそんな巨大な台風だとは、思っていなかった。

 が、やがて私が住むG県も、家を根こそぎ揺らすような暴風雨圏に入り、窓が吹き飛んでしま
った。少し窓をあけておいたのがまずかった。そのときのはずみで、棚の上の人形ケースが落
ち、私は右足におおけがを負った。そのときの傷は、今でも残っている。

 今度の台風にも、いやな予感がする。このままでは、九州地方に、大きな被害が出るかもし
れない。どうか、どうか、別のところへ行ってほしい。どこかとは言えないが、どうか、別のところ
へ行ってほしい。


++++++++++++++++

 その伊勢湾台風で大きな被害を
受けたのが、愛知県のT村。木曽川
沿いにある村である。村というより
近郊都市。そのT村へ、講演に
行ってきた。

++++++++++++++++

●愛知県T村

 たった今、愛知県T村から、帰ってきたところ。そこの教育委員会から招かれて、講演をして
きた。I教育長以下、みなさんが、暖かく、私を迎えてくれた。うれしかった。

 当然のことながら、名古屋を越えると、私の知名度は、ほとんど、ない。だからいつも、観客
はガラガラ。……と思って行ったが、結構、みなさん、集まってくれた。ほっとした。

 こういうとき、私は、全力を尽くすことを誓う。「どうせつまらない講演だろう……」と思って来て
いる人も、多いはず。(実際、つまらないが……。)そういう気持ちがわかるから、なおいっそ
う、がんばる。

 愛知県T村は、木曽川をはさんで、岐阜県との県境にある、細長い村である。「村」といいって
も、地名だけで、実際には、名古屋市の近郊都市。「村」から連想する、田んぼや畑は、少な
かった。

 タクシーの運転手と、伊勢湾台風の話をする。運転手は、私より一歳、年上だった。「私が、
小学5年生のときでした」と運転手。「私が、小学4年生のときでした」と私。

 講演の演題は、『親が変われば、子どもも変わる』。はじめての演題だった。親が変われば、
たしかに子どもも変わる。しかし問題は、どうやって変えるか、だ。そしてその前に、どうすれ
ば、「私」に気がつくか、だ。今日の、講演では、それについて話した。

 電車の中で、簡単な旅行記を書きたかったが、時間がなかった。雑誌を2冊買って、それを
読んだ。それでT村に着いてしまった。帰りも同じようなものだった。ウトウトとしそうになったと
ころで、浜松駅に着いてしまった。

 カメラ付きの携帯電話をもっていったが、写真をとることもなかった。会場に、私の名前と写
真がのった、大きな垂れ幕があったので、それをとりたかった。が、そのチャンスも、なかっ
た。どちらかというと、あわただしく講演をして、あわただしく帰ってきたという感じ。

 しかしどういうわけか、今でも、岐阜の近くに行くと、親しみを覚える。「この先が、木曽川です
ね」と、主催者の方に言っただけで、どこか、ほっとする。その向こうは、長良川。私はその長
良川のほとりで、生まれ育った。

 みやげに、箱いっぱいの、レンコンをもらった。教育活動の一環として、子どもたちと掘ったも
のだという。家で箱をあけてみたら、大小さまざま、7本くらいが入っていた。「食べやすそう」
と、ワイフが喜んでいた。どういう意味で、ワイフがそう言ったかは、よくわからないが……。

 しかしそれにしても、今日は、疲れた。ここちよい眠気が、先ほどから、私を襲っている。どう
しよう? もう寝ようか? しかしまだ午後7時20分。ワイフは、近所の人の通夜から帰ってき
てからは、その人の話ばかり。

 「まだ62歳だったてエ。ガンみたいだったヨ」と。

 若くして死んだ人の話を聞くと、「つぎは、私」と、へんなことを考えてしまう。こういうときは、気
が滅入りやすい。だから、この話は、ここまで。

 服を着がえて、今夜は、早く寝る。では、みなさん、おやすみなさい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2211)

【今朝・あれこれ】

●9月8日

 マガジンHTML用の写真が、切れた。つまり品切れ。ここ10日以上、ほとんど写真を撮って
いない。そのため9月10日以後のマガジンには、まだ写真を載せていない。

 外を見ると、あいにくの曇天。それにどうも気分が重い。運動不足? 体もだるい。どうしよう
かと考えながら、今日もはじまった。


●平和条約?

 K国の核の動きによっては、米朝は、平和条約を結ぶかもしれないという。しかしそれこそ日
本にとっては、一大事。日米安保条約(=軍事同盟)そのものが、死文化することになる。

 アメリカは、アメリカ本土が攻撃されないかぎり、アメリカは、K国に手も足も出せなくなる。か
りにK国が日本を攻撃してきても、それは日本の問題。アメリカは関係ない、ということになる。
しかしそれこそK国の思うつぼ。

 日本がもっとも恐れていたシナリオである。


●生徒による暴力行為

 ふざけと、暴力行為は、明確に区別される。ふざけは、(遊び)の範囲。同じ暴力行為でも、
そこにはある種の(なごやかさ)がある。

 しかし暴力行為には、それがない。暴力をふるいながら、相手に対して容赦しない。暴力をふ
るわれるほうは、恐怖感すら覚える。

 05年度に公立の小学校で起こした児童による暴力行為は、その前年度より6・8%もふえた
という。その数、2018件。しかも教師への暴力は、3年連続で、毎年30%以上もふえている
という(文科省)。

 ここでいう「2018件」という数字には、ほとんど意味がない。氷山の一角というか、たいてい
の事案は、そのまま闇から闇に葬られている。重要なことは、毎年7%前後でふえ、その中で
も、教師に対する暴力行為がふえているという事実。

 ……こういう話を書くと、「おとなが、子どもに暴力をふるわれる?」と、驚く人がいるかもしれ
ない。しかし現実は、そんな甘いものではない。

 暴力をふるう子どもは、繰りかえし、暴力をふるう。しかもここに書いたように、相手(教師)に
対して、容赦しない。本気で、たとえば足で蹴りあげてくる。小学2、3年生の児童でも、足で蹴
りあげられたら、たまらない。大のおとなでも、しばらく息が止まってしまう。

 暴力をふるう子どもは、私の経験でも、男児より女児のほうが、多い。つまりまだ幼さの残
る、小さな女児が、大の教師を相手に暴力を繰りかえす。

 そういうとき教師というのは、(当然だが)、手で自分の頭や体をおおうのが、精一杯。強く叱
ればよいという意見もあるが、実際には、クラスの雰囲気もあり、それもできない。教師として
は、その場を茶化し、何ごともなかったかのようにしてすませようとする。が、そのことがさら
に、このタイプの子どもを激怒させる。

 私も何例か経験している。その瞬間、子どもの顔が能面のように無表情になり、目つきが鋭
くなる。顔は鉛色に青ざめ、怒りというより、憎しみをそのままぶつけてくる。私が経験した子ど
もの中で、最年少の子どもは、小学2年の女児だった。

 で、こういうケースのばあい、親に報告しても、あまり意味はない。ことの深刻さを理解できな
いまま、子どもを一方的に叱ったりする。そのため、かえって暴力行為をエスカレートさせてし
まう。

 直接的な原因のほとんどは、過負担、親の過干渉、過関心。それが慢性的に積み重なって、
子どもの心をゆがめる。それ以上のことについては、「キレる子ども」に準じて考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの暴力 子供の暴力 暴力行為)


●論理的な思考

 文科省は指導要領の全面的な改定をめざし、その中で、とくに「言葉の力」を重視しようとし
ている(朝日新聞)。

 子どもたちの国語力の低下は、著しい。

 たとえば「3・30」という数字がある。これは私が考えた数字だが、「小学3年生で、算数の文
章題が理解できない子どもは、30%」という意味である。

 「お皿が3枚あります。10個のりんごを、同じ数ずつのせます。1つのお皿には何個のりんご
がのりますか。またあまったりんごは、何個ですか」と。

 割り算ができるとかできないとかいうレベルの問題ではない。文章の内容そのものを、読み
取ることができない。適当に数字だけ適当に拾って、それで足し算をしてみたり、引き算をして
みたりする。

 さらに、社会科や理科という科目にしても、小学校の段階では、「社会科的な国語」「理科的
な国語」と考えた方がよい。つまり「言葉の力」は、すべての科目に大きな影響を与える。

 が、それだけではない。言葉の力は、そのまま文章表現力と直結している。わかりやすくいえ
ば、(ものを書く力)イコール、(論理的な思考力)と考えてよい。ものを書くことによって、子ども
は、(おとなもそうだが)、分析力にあわせて、論理的な思考力を養うことができる。

 言葉の力は、すべての学習の基本、というわけである。

 その言葉の力は、実は、乳幼児期に、母親が養うものである。その原稿を、ここに転載して
おく。

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【子どもの国語力が決まるとき】

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう30年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

三、使う言葉がだらしない……ある男の子(小2)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい
うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。
四、
五、たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と
聞くと、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘ
リコプター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかっ
た。
六、
七、使う言葉の数が少ない……ある女の子(小4)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。
八、
九、正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。
十、
十一、
 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。

毎日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をして
いて、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめん
どうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言って
あげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、
本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。

また年中児ともなると、それこそ立て板に水のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。し
かしたいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。なお文字を覚え
たての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を自分の耳で聞
いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」として認識するた
め、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。

そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には
「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(54歳)はこう言っ
た。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 国語
力 子供の言葉の力 言葉の力 言語能力)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●ニューヨーク・ダウ、暴落。つづく円高……

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昨日(9月6日)も、ニューヨーク株式相場は、250ドル近くも値をさげた。時事通信によれば、
「雇用情勢の悪化で米経済が、リセッション(景気後退)入りするとの懸念が強まり、大幅反落」
ということだそうだ。

一方、円高も急速に進んでいる。昨日、外為市場では、1ドル=113円台を記録している。今
現在(9月7日早朝)も、113・776円。つい先ほどまで、115円台だったので、為替相場とし
ては、もう「メチャメチャ」。そんな大変動が、目下進行中ということになる。

 そう言えば、同じく昨日、金が1オンス、700ドルを超えたというニュースも伝わっている。つ
い先日まで、650ドルが「壁」と言われていたが、あっさりと、それを超えてしまった。わかりや
すく言えば、ドルから金へ、資金をシフトさせている人がふえているということ。

 中国特需とアメリカの好景気に支えられてきた日本経済。その日本経済を、大型ハリケーン
並の暴風雨が襲い始めた。9月10日以後、日本の株価はさらに暴落する。へたをすれば、そ
のまま日本のミニ・バブル経済は、崩壊するかもしれない。

 円高になれば、しばらくタイム・ラグ(=時間的なずれ)を経たのち、世界にバラまかれた円
が、日本へ逆流することになる。そうなれば今度は、猛烈な円安へと進む。ハイパーインフレ
の引き金を引いてしまうかもしれない。昔なら1年単位で起きていたことが、今では、1週間単
位で起きる。

 目まぐるしいというより、狂っている!
(07年9月7日、早朝記)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2212)

●死刑廃止

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死刑制度に、死刑制度としての
意味があるかどうかというと、
それは疑わしい。

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たとえば死刑に値するような犯罪を犯している最中に、その犯罪者は、「死刑」という刑罰の重
大性を認識しているかどうかというと、答はNOではないか。ふつうの状態であれば、「こんなこ
とをすれば死刑になるかもしれない」という思いが、犯罪行為に走るのを、思いとどまらせる。

 しかしふつうの状態でないから、ふつうでないことをしてしまう。

言うまでもなく、刑罰には、2面性がある。

ひとつは、本人に対する、罰としての「刑」。Aという悪いことをしたら、A罪。Bという悪いことを
したら、B罪というように、あらかじめ決めておく。わかりやすく言えば、「これこれ、こういう悪い
ことをしたら、それなりの責任を取ってもらいますよ」という意味。

もうひとつは、世間一般に対する、見せしめとしての「刑」。これによって、犯罪の発生を予防す
る。わかりやすく言えば、世間一般に対して、「これこれ、こういう悪いことをしたら、こうなりま
すよと教える」意味。

死刑には、見せしめとしての意味はあっても、当の本人(=主体)を抹殺してしまうという点で、
罰とての「刑」の意味はない。罰を与えたとたん、その犯罪者は、この世から消えていなくなっ
てしまう。

そこで改めて、この問題の原点について考えてみる。

「公」としての組織体、つまり「国」に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限はあるのか。

わかりやすい例で考えてみよう。

ひとりの男が、窃盗をしたとする。その男に対して、「窃盗は悪いことだ」「その窃盗をしたの
は、右手」ということで、右手を切断したとする。そうした行為が、果たして刑罰として、許される
ものかどうかということ。

このばあいは、(1)罰としての刑と、(2)見せしめとしての刑の、双方がまだ成り立つ。本人
は、右手を切られて、何かと不自由することだろう。また多くの人は、右手を切り取られた人を
見て、「窃盗するということは恐ろしいことだ」と知る。

しかし死刑のばあいは、脳みそも含めて、体そのものを(切り取る)行為に等しい。右手を切り
取るという行為自体、ほとんどの人は、残酷な行為と考える。「いくらなんでも、それはひどい」
と。だったら、肉体全体は、どうなのかということになる。

 そこで最高裁は、ひとつの基準をもうけた。最高裁が83年に定めた「永山基準」というのが、
それ。それによれば、つぎのようにある。

十二、犯罪の罪質
十三、動機
十四、殺害の手段方法の執拗性、連続性
十五、結果の重大性、ことに殺害された被害者の数
十六、遺族の被害感情
十七、社会的影響
十八、犯人の年齢
十九、前科
二十、犯行後の情状

 これらの「情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大で、罪刑の均衡の見地からも、一
般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められるばあいは、死刑の選択も許される」
(永山基準)と。

 が、最近の傾向としては、この基準が拡大解釈、つまり、基準がゆるやかに適応されるよう
になってきている。つまり死刑判決が、乱発される傾向にある。犯罪そのものが凶悪化してい
るという理由もある。

 しかし繰りかえすが、罰すべき(主体)を残しておいてこそ、刑罰は刑罰としての意味をもつ。
罰すべき(主体)を殺してしまったのでは、刑罰は刑罰としての意味を失ってしまう。

 中には、「死という恐怖感を味あわせること自体、社会が与えることができる最大の罰であ
る」と説く人がいる。

 しかしほんとうに、そうだろうか。反対に、「死ねば、楽になる」と考える人だっているかもしれ
ない。たとえば今の私にしても、若いころとはずいぶんと、「死」に対する考え方が変わってき
た。「疲れ」を感じたようなとき、「このまま死ねば楽になるのだろうか」と、ふと思うことが多くな
った。ヨボヨボになって、みなに、迷惑をかけるようになったら、それ以上に長生きをしたいとは
思わない。

 反対に生きているから、刑が軽いということにもならない。死刑に値する凶悪犯であるならな
おさら、生かしながら、罪の重さで苦しませる。刑罰としては、そちらのほうがずっと重い。

 さらに中には、短絡的に、「悪いヤツは、生かしておいてもしかたない」と考える人もいるかも
しれない。しかしそれこそまさに、幼稚的発想。思考力がまだじゅうぶん発達していない子ども
が、ゲームの中で使う言葉である。

 が、もうひとつ、死刑には、重大な問題がある。

 K国のような独裁国家、言いかえると、国民がすべての権限をひとりの独裁者に付託したよう
な国なら、いざ知らず、日本のような民主主義国家において、「公」としての組織体、つまり「国」
に、見せしめとして、1人の人間を抹殺する権限はあるのかということ。

 独裁国家では、死刑にするのは、独裁者個人である。しかし民主主義国家では、死刑にする
のは、国民1人ひとりである。つまり私たち自身が、その人を殺すことになる。私や、あなた
が、だ。もしあなたが「国のやることだから、私には関係ない」と考えているなら、それこそ、民
主主義の放棄ということになる。

 こうして考えていくと、死刑を肯定する理由が、どこからも浮かんでこない。ゆいいつ残るとす
れば、(5)の遺族の被害感情である。

 その犯罪者によって、人生そのものが、大きく狂ってしまうこともある。愛する人を奪われ、深
い悲しみのどん底にたたき落とされる人もいる。犯罪者を殺したいほど憎く思うこともあるだろ
う。あるいは「国が殺してくれなければ、私が殺す」と思う人もいるかもしれない。

 そうした被害者の救済は、どうするかという問題もある。が、それこそ国が考えるべき問題で
はないだろうか。金銭的な被害はもちろんのこと、精神的苦痛、悲しみ、怒り、そうした心情
を、私たちみなが、力を合わせて、救済していく。それとも犯罪者を抹殺したところで、その人
は、救済されるとでもいうのだろうか。

 さらに言えば、これは暴論に聞こえるかもしれないが、犯罪者といっても、ふつうの人と、紙
一重のちがいでしかない。どこかで人生の歯車が狂い、狂ったまま、自分の意思とは無関係
に、深みにはまってしまう。私たちが生きているこの社会では、善と悪の間に、明確な一線を入
れることすら、むずかしい。

 ……長い間、私なりに死刑について考えてきたが、このあたりが、私の結論ということにな
る。つまり死刑について、これからは、明確にその廃止を訴えていきたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 死刑
 死刑廃止 死刑廃止論)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●全国学力調査

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07年度から、全国の小学6年生と
中学3年生、全員を対象に、学力
調査が行われている。

1964年まで、毎年中学2年生、3
年生を対象に行われていたが、
1966年を最後に、打ち切られた。

しかし現実には、ほとんどの都道府県
では、独自の学力調査をしているので、
2007年から始まった学力調査は、
いわばその全国版ということになる。

学力調査は毎年4月になされ、結果は、
「不開示情報」とされている。つまり不公表。

その調査結果が、9月、都道府県単位
に公表されているという。

もちろん私の知るところではないが、
学校によっては、平均点を公表して
いるところもある。

ただし学力テストそのものは、中学
3年生であれば、2年生までの範囲。
小学6年生であれば、5年生までの
範囲ということになっている。

ふつうの子どもが、ふつうに勉強
していれば、簡単にできる内容と
考えてよい。

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 欧米では、(教育)→(評価)は、いつもペアになっている。それが、カリキュラムの柱になって
いる。たいていの学校、大学では、月曜日から金曜日の午前中までは教育、金曜日の午後に
試験(テスト)を実施している。もちろんこのほか、学期単位、年末単位の、大きな試験(テスト)
がある。

 こうした試験(テスト)は、生徒(学生)に緊張感をもたせるためという意味もあるが、一方で、
教師がそれなりの成果を出しているかどうかを知る手段としても、利用されている。わかりやす
く言えば、教師の成績表としても、利用されている。

 だから生徒(学生)にしても、試験(テスト)というのは、当たり前のことと考えている。それにつ
いてとやかく言う生徒(学生)はいない。親たちもその結果を見ながら、自分の子どもの学力を
知る。

 が、この日本では、学力調査に対する風当たりは、強かった。学校間、地域間の競争を過熱
させるという批判が、相次いだ。1960年代当時のことだが、教師たちがピケを張って、学力
調査の実施を阻止したという学校もある。今でも、一部の教師の間ではそうした批判は根強
い。が、その声は昔ほど、強くない。なし崩し的に消滅しつつあるとさえ言える。

 私立学校の登場である。地域間の競争など、どこ吹く風。学校どうしが、し烈なまでの競争を
繰りかえしている。

 どこの私立中・高校でも、「進学実績」として、生徒の卒業後の進学先を公表している。A大学
……10名、B大学……15名、C大学……18名、と。

 こうした風潮が常識化した現在、何が学力調査かということになる。学校が進んで、競争を過
熱させている。子どもたちを包む、社会的環境そのものが、変わってしまった。

 しかも学力調査といっても、先に書いたように、ごく基礎的な内容である。半数以上の子ども
が、90〜100点を取る。これだけ簡単な試験(テスト)になってくると、試験(テスト)は、試験
(テスト)としての意味はない。つまり、実施しても、無駄。

 もっと言えば、やらないよりは、まし、という程度。親も、教師も、そして子どもたちも、そう考え
ている。

 が、これから先のことはわからない。最初は、無駄のように見せかけておきながら、少しず
つ、軌道修正を加えていく。結果として、何かの目的のために使う。これは官僚の家芸のひと
つである。今は、その(ならし運転中)?

 今、多くの親や教師は、「何だ、全国学力調査といっても、こんな程度のことだったのか」と思
っている。私もそう思っている。しかしだからといって、油断してはいけない。

08年度も実施されるということだから、ここは慎重にその動きを見ていこう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学力
調査 学力調査一考)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2213)

●山荘で昼寝

+++++++++++++

昨日、愛用のパソコン(デスクトップ)が、
故障してしまった。

それで今日、2度もパソコンショップに
足を運んだ。

ついでに新しいハードディスクを購入。
160GBで、6700円。プラス、外付け
用ケース。

これから先、めんどうな作業がいくつか
つづく。

しかしこの(めんどう)が楽しい。パソコン
との知恵比べ。それが楽しい。

私はビョーキか?

+++++++++++++

 だれにでもビョーキはある。私の義兄などは、ゴルフにこって、今は、クラブを自作している。
設計図を自分で引き、材質まで指示し、それを業者に製造させている。そうそうビョーキといえ
ば、オーストラリアの友人がいる。

 P・Lという名前の男だが、彼は、40歳そこそこの若さで、自分の会社を、売上高、オーストラ
リア・ナンバーワンにまで育てた。政府からも表彰されている。が、そのあと、自分の会社を売
却。そのまま隠居かと思っていたら、イギリスへ出かけていって、レーシングカー(ロータス・E)
を、10台も買って帰った。

 今はチームを経営し、世界中をまたにかけて、レースに出場している。自分でも運転してい
る。学生時代から車が好きな友人だったが、ここまで好きだったとは、知らなかった。(頭文字
がP・Lだから、その名前を知っている人も多いはず。)

 それにくらべたら、私のビョーキなど、かわいいもの。店で、6700円のハードディスクにしよう
か、5500円のバルクもの(=大量生産、ノーブランドの安物)にしようかと、30分近くも迷っ
た。

 結局、安全を考えて、日本のメーカーが、中国で生産しているハードディスクにした。(韓国製
は、ぜったいに買わないぞ!)

 そのあと、山荘へ行き、昼寝。今日は、イタリアのテノール歌手、ルチアーノ・パバロッティの
歌ばかりを聴いた。つい先日70歳そこそこの若さで、亡くなってしまった。近くイタリアでは、国
葬級の葬儀がなされるという。

 それにふさわしい人物である。私もCDを何枚かもっている。06年のトリノ冬季五輪開会式で
歌った、「誰も寝てはならぬ」は、今でも耳の中に、さわやかに残っている。

 あとは、いつもの日曜日。介護センターにいる母を見舞おうと思ったが、突然の豪雨で、中
止。「母さん、ごめん!」。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2214)

●老後が不安?

++++++++++++++

数日前の新聞(中日新聞)に、
「70%近い人たちが、老後に不安を
覚えている」というような記事が
載っていた。

あまりにも当然と思われる内容だったので、
むしろそちらのほうに驚いた。

「不安か、不安でないか」と聞かれれば、
だれだって「不安」と答える。不安で
ない人などいない。

もし「不安でない」と答える人がいたとする
なら、よほど恵まれた人か、それとも
何も考えないノー天気な人と、思って
よい。

あるいは、バリバリと仕事をこなしている
若い人?
 
++++++++++++++

 介護施設の職員は、はっきりとは言わない。言わないが、介護度によって、介護施設では、
フロアが分けられている。たとえば要介護度4前後の人は、1階の西、要介護度4〜5の人
は、1階の東、要介護度5の人は、2階の西、さらに重度の人は、2階の東、と。

 母は、一番重度の人たちが集まる、2階の東にいる。同じ部屋の隅には、鼻から管(くだ)を
通して、一日中眠っている人もいる。

 介護施設で見る老人たちの姿は、そのまま私たち自身の近未来図である。私たちは段階的
に老化し、そして最終的に、死を迎える。

私「君たちは、幼稚園(ヨーチエン)か? ぼくは、もうすぐ要支援(ヨーシエン)だ」
子「先生、ヨーシエンではなくて、ヨーチエンだよ」
私「フーン。でね、幼稚園が終わったら、どこへ行くの?」
子「小学校だよ」
私「ぼくは、要介護(ヨーカイゴ)学校だよ」

子「ヨーカイ(妖怪)? そこはヨーカイが住んでいるの?」
私「住んでいるよ。とてもこわい学校だよ。みんなね、自分のウンチで、粘土細工をして遊んで
いるよ」と。

 私が教室でよく使うギャグである。

 が、後ろ向きに考えてばかりいては、いけない。老後はだれにでもやってくる。が、それまで
は、老後ではない。老後などというものは、心の戸棚の、その一番奥に押し込めておけばよ
い。

 大切なのは、それまでどう生きるかということ。老後について言えば、すべきことを、どう、しな
がら、生きるかということ。したいことではない。すべきことを、だ。これを心理学の世界では、
「統合性」と呼ぶ。

 したいことをしているだけでは、やがて自ら、限界にぶつかる。これを「自由の限界」(サルト
ル)と呼ぶ。そこで人は、やがて自分は何をすべきかを模索し始める。そのターニングポイント
は、心理学の本によれば、「人生の正午」と呼ばれる、満40歳前後だという。

 この時期から人は、その基盤と方向性を模索し始める。そしてそれから後、10年とか20年
とかいう長い時間をかけて、それを熟成させる。「自己の統合性」は、青年期の「自己の同一
性」とちがい、一朝一夕にできあがるものではない。熟成期間が必要である。

 が、ここから先は、人によって、みな、ちがう。

 老後を迎えて、(すべきこと)と、(現実にしていること)を一致させる人もいれば、そうでない人
もいる。そのレベルも内容も、これまた人によって、みな、ちがう。しかしひとつのヒントとして、
つまり老後を心豊かに生きるためのヒントとして、この統合性の問題がある。

 自己の統合性をその時期までに確立した人は、心豊かな老後を、老後と意識することなく、
過ごすことができる。そうでない人は、そうでない。

 たとえば恩師のT先生は、80歳前後で、ある国際学会の長となっている。フランスで開かれ
た大会には、世界中から2000人もの、最先端をいく学者が集まったという。つい先日は、アメ
リカの化学の本を翻訳出版している。そして80数歳という年齢にありながらも、天下国家を論
じ、日本の教育についてあちこちで意見を発表している。講演活動もしている。

 私たちが見習うべき老人というのは、T先生のような人をいう。生き様そのものが前向きとい
うよりは、自己の統合性をしっかりと確立している。で、そのことを先日会ったときに、直接先生
に話すと、先生は、「統合性ねえ?」と言った。

 T先生のような人にしてみれば、統合性など、ごく当たり前のことということになる。もう40年
近いつきあいになるが、その40年前から、先生は、自分のすべきことを、しっかりと自覚して
いた。

 私がある日、「先生、食糧危機がきたら、人類はどうなるのですか?」と聞いたときのこと。当
時は、地球温暖化の問題よりも、人口爆発による食糧危機のほうが深刻な問題となっていた。

 が、それに答えてT先生は、こうはっきりと断言した。「そのために私たち科学者がいるので
す」と。「いざとなったら、合成タンパク質だって、できるのです」とも。

 私は20歳そこそこの学生だったが、その言葉に、感動した。視野そのものが、私の想像で
きないほど、広く、大きかった。たしかに食糧危機の問題は、遺伝子工学の驚異的な進歩によ
って、今のところ、何とかなっている。さらにT先生がめざしていた、水を水素と酸素に分解する
触媒の研究にしても、かなりのところまできているという。

 もし水を触媒によって、つまり電力を使わないで分解できるようになったら、それこそ人類
は、無公害のエネルギーを無尽蔵に手にすることになる。

 といっても、何度も書くが、「すべきこと」には、常に、苦労と困難がつきまとう。その苦労と困
難を乗り越えることなしに、統合性の確立は、ありえない。簡単に言えば、したいことだけをし
て、楽な生活をしている人には、統合性など夢のまた夢。その老後もまた、あわれでみじめな
ものとなる。

 そこで……実は私自身も含めてだが、「老後が不安」などと言っている人は、それだけで甘い
人間ということになる(失礼!)。本来なら、そんなことを考えるヒマなど、ないはず。楽天的な
言い方をすれば、そのときがきたら、また、そのとき考えればよい。

 ……ということで、私は、今日もがんばる。これから熱海まで行き、夕方は、伊東市の小学校
で講演をしてくる。明日も袋井市での講演会が待っている。体の調子はあまりよくないが、電車
の中で眠っていけば、だいじょうぶだろう。

 2007年9月10日、みなさん、おはようございます!


林様:

  「老いる」ということは「生きている」ことです。 「老いて初めて老いを経験 
するのです。 若いうちは分からなかったことを。 それだけ「学ぶ」ことになるの 
です。 めきめき老いながら、毎日感謝です。 有り難うございました。

  田丸謙二


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2215)

●息子の転職

+++++++++++++++

アメリカにいる息子が、転職を考えている。

ラスベガスに本社のあるウォール・マート
社か、カルフォルニア州にあるグーグル
社へ、移籍するつもりだという。

アメリカでは、こうした転職は、ごく当たり前
のことらしい。より高い給料と、よりやりがい
のある仕事を求めて、若者たちは、そのつど
世界をさまよい歩く。

「コンピュータ・ソフトの会社を自分でたち
あげたい」と言っていたので、「一度、グーグル
で働いてみてからしたら」と、私はアドバイスした。

あとあとそれがキャリアになる。

そうそうつい先月、日本政府の統合的
管理ソフトを開発したのは、今、息子が
在籍している、アメリカのA社だそうだ。

新聞に、息子が在籍している会社名を
見たとき、うれしかった。

今日、息子は、グーグル社で、最終面接を
受けている。

うまくいけば、よいが……。

+++++++++++++++

 SKYPEで英会話をしている人なら、お気づきかと思うが、息子がSKYPEで使っている教材
表示ソフトは、息子が独自に開発したものである。「独自」というのは、おおげさだが、息子はそ
ういうことが、片手間でできる。高校生のときには、自分で、ウィルス対策ソフトをつくり、自分
のパソコンを守っていた。

 こんなことがあった。

 私の記事を、ある新聞社のHPに掲載してもらっていたことがある。しかし私の記事へのアク
セス数は、微々たるもの。1日に、多くて、10件とか、20件止まりだった。

 そこで息子に相談すると、すぐC++言語で書かれた、意味不明のプログラムを送ってきてく
れた。行数にすれば、40行足らずの簡単なものだった。

 電話で聞くと、「それをパパのパソコンにインストールすればいい。数字を入力できるようにな
っているので、好きな数字を入力すればいい。1000と入力すれば、アクセス数は、1000に
なる」と。

 つまり新聞社のHPへのアクセス数を、自由にコントロールできるというのだ。しかしこれに
は、驚いた。「バレないか?」と聞くと、「ぜったい、だいじょうぶ」と。が、私は、どうしてもそのプ
ログラムを使うことができなかった。インチキはインチキ。そんなインチキをして、アクセス数を
あげても、意味はない。

 しばらくあとになって、「どうだった?」と聞いてきたので、私は「使わなかった」と答えた。息子
はいつも口癖のように、こう言う。「コンピュータの世界では、不可能なことはない」と。

 この世界は、どうもそういう世界らしい。よくわからないが……。

 そのグーグル社の社長は、ラリー・ページと、セルゲイ・ブリン。息子と同年齢というのも、気
になる。世の中には、すごい若者がいるものだ。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2216)

●血統空想

++++++++++++++

あのジークムント・フロイトは、
「血統空想」という言葉を考えた。

血統空想というのは、もとはと言えば、
「自分だけは特別でありたい」という、
潜在意識下の中の願望が具現化したもの
と考えてよい。

「私の父親は、今の父親ではない。
私の父親は、もっとすばらしい人で
あったにちがいない」と。

さらに……。

「私の祖先は、すばらしい人だった」
「それゆえに、その血の流れをひく
私は、特別である」と。

自己中心性の1バリーエションと
考えると、わかりやすい。

年齢的には、思春期以前、たとえば
6、7歳頃から、11、12歳前後
の子どもによく見られる現象である。
この時期、多くの子どもは、自分と
父親との関係を疑う。

こうした血統空想は、年齢とともに、
つまり社会性が育つとともに、消滅する。

他人との共鳴性、協調性が充実してくると、
自分も、多数の人たちの1人に過ぎない
ということを知る。

「自分だけは特別」と思うのは、その
人の勝手かもしれないが、その返す刀で、
「自分以外の人は、みな、劣っている」
と考えるのは、まちがっている。

年齢とともに、そのまちがいに気づく。

が、中には、こうした幼児性を持続した
ままおとなになる人がいる。40歳になって
も、50歳になっても、「私の祖先は、旧○○
藩の家老だった」とか、何とか言う。

自己中心性が残っているという点で、
精神的に未熟なおとなと考えてよい。

++++++++++++++++++

●「私は○○藩家老の子孫だ」

 私の知人に、家系を調べて、全国を歩き回っている人がいる。その人の先祖は、江戸時代、
旧○○藩の家老を代々、勤めていたという。またその一族は、○○藩おかかえの医家として栄
えたという。今風に言えば、その一族が、その地域の病院という病院の「長」を独占していたと
いうことになる。

 たいへんな権勢を誇っていたらしい。その知人にしても、その家系のはしくれのはしくれであ
るにもかかわらず、墓は、ある寺の門横にある。つまり別格。今でも、その苗字を名乗っただ
けで、その地域では、一目置かれる存在という。

 しかしその知人のすばらしいところは、そういうことをしながらも、はっきりとそれを「自己満足
のため」と自覚している点である。私にもそう言った。「だれのためでもないよ。道楽だよ、道
楽」と。そんなことは、簡単な計算をしてみればわかる。

 徳川、300年という時代の中で、30年ごとに、結婚、出産を繰りかえし、仮にぞれぞれの夫
婦が平均3人ずつの子どもをもうけたとすると、300年後には……。

●1400万人の子孫

 1代目で、3人の子ども。
2代目で、3の2乗の9人の子ども。
3代目で、3の3乗の27人の子ども。
4代目で、3の4乗の81人の子ども。
……
10代目で、3の10乗、つまりその数は、5万9049人の子どもとなる。
それに明治以後の140年(約5代)を加えると、

15代目には、1434万8907人の子どもとなる。つまりその県(藩)全体の人口を超えてしま
う。

 縦系列に、自分だけの先祖だけを、上へ上へとたどっていけば、それほど膨大な数にはなら
ないかもしれない。しかしそれを知ったところで、それがどうだというのか? しかも家系という
のは、都合のよい人だけを選んで、さかのぼっていくのがふつう。

●都合で選ばれる先祖

 たとえば3代前の母親が、百姓出身であっても、ほとんどの人は、「私の先祖は、○○村の
百姓でした」とは言わない。つまり当然、そこには、封建時代独特の、権威主義が介在してく
る。封建時代に地位の高かった人、つまり「偉かった人」ほど、その対象になりやすい。またそ
こへそこへと、自分を結びつけていく。

 ○○藩の家老ともなれば、文句なし、である。そういうことは代々、親から子へと伝えられる。
「お前の先祖は、あの○○藩の家老だった」と。それを告げられた子どもは、そういう先祖に、
興味をもつ。調べるようになる。

 それが悪いというのではない。調べたい人は調べればよい。しかし私のように、「林」という苗
字からもわかるように、そういう世界とは無縁だった人間は、どうするのか。一度、私の祖父
が、祖父の生まれ故郷へ連れていってくれたことがある。

 小さな、窓もないような粗末な家だった。屋根は覚えていないが、土がむき出しの、土壁の家
だった。大きさは、3間x4〜5間ほどだった。私にはそれが家には見えなかった。家というより
は、小屋? そんな感じだった。しかもその家が、長い間、無人のまま放置されていて、半分傾
いていた。

 祖父はその家のそばに、しばらく黙ったまま立っていた。

 で、そのあとしばらくして、今度は、ひとりでその家に行ってみた。家はまだそこにあった。最
初に見たとき受けた印象は、そのままだった。私の祖先は、まちがいなく、百姓であった。しか
も小作人。「林」という苗字は、明治以後になって、つけられたものらしい。

●私の祖先は武士?

 一方、母方の先祖は、武士だったという。武士といっても、落人(おちうど)。もともとは岐阜城
を守っていた斎藤道三の家来だったという。姓は、「長屋」。大永5年(1525年)、織田信長に
追われて、岐阜の山中に逃げ入った。

 そこで私は、子どものころ、父方ではなく、母方の先祖を自慢していた。「ぼくの先祖は、武士
だった」と。が、それこそまさに血統空想。「ぼくは父方の人間ではない。父方の血は流れてい
ない。ぼくの先祖は、高貴な武士であった」「つまり父は、ぼくの本当の父ではない」と。

 しかしやがてそれも限界にきた。私の姓は「林」。母方の「長屋」という姓ではない。それを知
ったとき、私の頭の中から、先祖意識が急速に消え始めた。だからあるときから、私は居直る
ようになった。先祖意識の強い人に出会うたびに、「ぼくの先祖は、江戸時代、ずっと、どん百
姓だった」と。

 たいてい私がそう言うと、相手の人は、だまってしまう。

 というわけで、先祖を自慢する人には、今でも違和感を覚える。そういう人に出会うたびに、
「だから、それがどうしたの?」と言いたくなる。いや、中には、その返す刀で、自分の血統以外
の人たちを、「下」に見る人さえいる。しかしこれは先にも書いたように、まちがっている。幼児
性の表れ、そのものとみてよい。あるいは自己中心性の表れそのものとみる。はっきり言え
ば、人格の完成度がそれだけ遅れている。

●民族意識

 こうした血統空想の延長線上にあるのが、いわゆる民族意識である。「我が民族」というとき
の民族意識である。

 しかしその民族意識も、ここでいう血統空想と同じように考えていくと、それ自体、精神的未
熟性の表れということになる。はっきり言えば、民族意識など、相対的価値観の中で作られた
幻想でしかない。

 よい例が、高校野球。私たちは高校野球では、同郷の県出身の高校を応援する。しかしそ
の野球も、国際試合ともなると、日本代表のチームを応援する。さらに、もし宇宙人と野球……
ということにでもなれば、私たちは地球人代表のチームを応援するにちがいない。

 この日本でも、少し前まで、薩摩だの長州だのと言っていた。つまり民族意識などというもの
は、世界が広がれば相対的な立場で変化する。

 が、だからといって、先祖意識にしても民族意識にしても、まったく否定することができないの
は、その(世界)では、それなりに居心地がよいからにほかならない。

 言葉、習慣、風俗、ものの考え方など。身体的な顔つきにしても、見慣れたもののほうが、親
近感を覚える。そういう点では、家族、一族、民族には、それなりの意味をもつ。しかしつきつ
めて考えれば、それらも結局は、自己満足のためということになる。

 自分の家系がすばらしいと思えば、思えばよい。
 自分の民族がすばらしいと思えば、思えばよい。
 自分の国がすばらしいと思えば、思えばよい。

 それはその人の勝手。……という問題でしかない。わかりやすく言えば、どうでもよい。そうそ
う、こんなことを話してくれた男性(当時、60歳くらい)がいた。

 「私は実は、父親の子ではないようです。私は祖父と母の間に生まれた子どもなんですね。
若いころそれを知って、母をうらんだこともあります。しかし今は、もうどうでもよいことだと思っ
ています。だれの子であるにせよ、私は私ですから」と。

 さらにアメリカへ行ってみればよい。私の息子の嫁にしても、父と母はアメリカ人だが、祖父、
祖母の代になると、めちゃめちゃ。フランス人に、ドイツ人、イギリス人に、ウクライナ人……と
いうように、いろいろな血が混ざっている。アメリカでは民族を問題にしただけで、人種差別とと
らえられる。

 ……ということで、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●熱海

++++++++++++

伊東市のM小学校での講演に
行く途中、熱海で、数時間を
過ごした。

熱海は、少なくとも駅前は、
かつての活気を取り戻していた。

駅をおりると、そのままアーケード
街になっていた。月曜日の午後
というのに、かなりの人で混雑
していた。

が、物価の高いのには、驚いた。

ざっと見たところ、干ものにしても、
浜松市で見る価格の、1・5〜2倍。

何を見ても、「高いなあ〜」と。
私とワイフは、何度も顔を見合
わせた。

++++++++++++

 こうした観光地では、たいていどこでも、「東京価格」で、価格が設定されている。つまり、「高
い」。

 もう少し具体的に数字を、見てみよう。

 1人あたりの名目県民所得(単位:百万円・内閣府・04)でみると、東京都だけが、ダントツに
高いことがわかる。

 東京都……4・6弱
 
 愛知県が、3・4強、大阪府が、3・0強だから、ほかの都市圏とくらべても、1・5倍も、所得が
高いということになる。

 さらに北海道が、2・5強、最低の沖縄が、2・0。つまり東京都沖縄とでは、2・3倍以上もの
格差があることがわかる。よく「東京のひとり勝ち」ということが言われるが、この数字を見る限
り、ひとり勝ちというよりは、不公平! 「中央にいる連中は、中央にいることをいいことに、好
き勝手なことをしている」。そう批判されても、しかたない。

 その東京価格が、熱海でも、反映されている。

 まあ、メチャメチャと言えば、メチャメチャ。

 つい先日も、東京都の都心にある、ティファニー銀座本店ビルが、坪1億8000万円で、売買
されたという。総額で380億円! その価格は、この4年で、2倍以上になったという(「週刊ダ
イアモンド」9・15)。

 バブル経済とはいうが、バラまかれたお金が、東京都だけに集中し、その恩恵(?)を、東京
都だけが受けている。(一方、バブル経済がはじければ、その被害をまっさきに受けるのが、
地方ということになる。)

 しかしどうしてこの日本では、人々が、こうまで静かなのだろう。だれも怒らない。怒らないと
いうよりは、こうした問題について、考えようともしない。考えるための脳みそすらもっていな
い。

 わかるか?

 毎日一生懸命働いても、大半の人たちは、月に数万円の貯金しかできない。その一方で、土
地をころがすだけで、4年間で、190億円(380億円の半分)も手にする人たちがいる。もっと
もそういう人たちなら、熱海へ来ても、「安い、安い」と言って、ものを買いあさるかもしれない。

 そう、私たちがもっている不公平感は、爆発寸前! 小泉内閣から安倍内閣へ。富者と貧者
の格差は、ますます広がっている。「勝ち組」「負け組」などという、なまやさしいものではない。
先にも書いたように、もうメチャメチャ!

 一口で言えば、政治が悪いということになるが、それ以前の問題として、国民が悪い。政治そ
のものを、ギャグ化している。ギャグ化しながら、それにすら気づいていない。

 熱海では、そんなわけで、かまぼこしか、買わなかった。あとは友人や知人に、みやげを少
し。そうそう駅前にあった、あるホテルで、岩盤風呂なるものに入った。料金は、1人2500円。
これも「高いな〜」と思ったが、まあ、それなりの価値はあったと思う。

 そのあとスッキリとした気分で、講演ができた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●アメリカのバブル経済崩壊(?)

+++++++++++++++

手元に、「週刊ダイアモンド」誌がある。
経済雑誌である(07年9月15日号)。

それによれば、どうやらアメリカのバブル
経済が、崩壊しつつあるということらしい。
今回のサブプライム問題が、そのきっかけに
なった。

つまり、ことは、きわめて深刻!
日経新聞サイトの中にも、「崩壊」
という文字が、並ぶようになった。

私も数年前から、あぶないと感じて
いた。その一方で、「どうして好景気?」と、
それが不思議でならなかった。

しかしここで、は・じ・け・た!

+++++++++++++++

 毎月50万円の収入しかない人が、毎月60万円の生活をしている。差額の10万円は、借
金。家を担保にして、カードで借金。

 ふつうの常識のある人なら、こんなバカな生活はしない。しかし今までのアメリカでは、それが
できた。住宅価格の暴騰で、資産価値が、それだけあがっていたからである。

 しかしどこか、おかしい。へん。それがバブル経済である。

 そこでアメリカは、ドルをどんどんと印刷して、世界中にバラまいた。その結果は、原油価格
の暴騰に反映されている。現在、原油価格は、1バレルあたり、70ドル前後。80ドルをめざし
て、まっしぐらに進んでいる。つまりその分だけ、ドルの価値がさがった。(ひょっとしたら、今月
あたり、80ドルを超えるかもしれない。)

 当然、日本は、その影響をモロに受ける。……受けつつある。株価はさがったままで、反発
力は、弱い。少し前だったら、「安くなったから、買い」という心理が働いた。が、今は、様子見。
こういうときへたに動くと、(私のような)素人は、大やけどをする。

 原油価格があがれば、物価は上昇する。株価が暴落すれば、経済は萎縮する。ついでにバ
ブル経済が崩壊すれば、そのあとまたまた、長期不況。再び日本は、暗くて、長いトンネルに
入る。

 「ああ、私も公務員になっておけばよかった」と、また私は同じことを思うのだろうか。いやだ
な〜。

【付記】

 このところ暗い話ばかりで、すみません。

 まあ、こういう世相ですが、私たち夫婦は、仲よく、つつましく生活しています。昼は、ほとんど
外食ですが、2人で1000円と、決めています。

 2人で1000円!……ですよ。ハハハ。その工夫をするのが結構、楽しい。

 たとえば、100円寿司では、1人、5皿まで。計9皿まで。あとはショウガをたっぷり食べて、
お茶を飲んでごまかす。

 たとえば、近くに「コーラクxx」という、全国チェーンのラーメン屋があります。そこでミニ・チャ
ーハンとラーメンセット、それにギョーザとミニ・チャーシュー丼で、計900円弱。

 ほかにランチ480円という、これまた全国チェーンのファーストフードの店もあります。

 今までの最低記録は、2人で、780円だったかな?

 今度やはり近くに、こんな店ができました。食べたいものを自分で選んで、会計するという店
です。

 ふつうライスは、1人分ずつ注文するのですが、ワイフは、おかずだけ。私は、おかずとライ
スを大盛り。(おかしな店で、大盛りでも、並でも、値段は同じ。)席についてから、ライスを2人
で分けました。

 店を出て、「780円だぞ!」「記録を作った!」と、2人で笑いあいました。

 どこの店でどう食べれば、どう安く+おいしく食べられるか……今朝も、食事をとりながら、ワ
イフと、そんなことを話しあいました。

 だけど不思議なことに、私たちがしげく足を運ぶ店は、どこも繁盛しています。一方、「ここは
だめだ」と思った店は、そのあとしばらくして閉店します。つまり私に嫌われたら、おしまい。私
は、こわいぞ〜。

 そうそうこんなことも。

 先日、知り合いの市議会議員の男性と会ったら、その男性がこう言いました。

 「いやあ、先生、この前、○○ラーメン屋で、実は先生の隣の席に、私はいたのです。先生で
も、こんな安いラーメン屋に来るのかと思って、驚きました。で、声をかけるのも悪いと思って、
声をかけられませんでした」と。

 ハハハ、残念ながら、私は、そんな人物ではありません。それに世間体など、まったく気にし
ません。ワイフも気にしません。見栄や体裁など、もとから頭の中にありません。私たちはいつ
も、ありのままで生きてきました。生きています。これからも生きていきます。

 この話も、どこか、暗いかな?


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2217)

【今朝・あれこれ】(9月12日)

++++++++++++++

このところ、ものがよく壊れる。

昨日は、デジカメの液晶にヒビ
が入ってしまった。

店にもっていくと、「液晶の故障は
修理代が高くなります」とのこと。

修理はあきらめた。

がまんしてもう少し使ったあと、
そのとき、最新型のデジカメを
購入しよう。

それと、T社のノートパソコン2台
が、同時に立ち上がらなくなって
しまった。

リカバリーをすればよいのだが、
CDは、外付け。そのCDとパソコン
をつなぐケーブルを紛失して
しまった。

したがって、今日は修理できず。

ワイフに、「ぼくほど日本のパソコン
業界に貢献した男も少ないだろうね」
と話すと、「そうね」と。

毎年、1〜2台は、パソコンを買って
いる。プラス関連機器やソフトなどなど。

デスクのまわりには、液晶モニターが、
4つも並んでいる。
手は2本しかないのに……。

++++++++++++++

●人間の脳みそ

 人間の脳みそは、大きく、外から3層に分かれている(P・D・マクリーン※)。

二十一、最表層部……新ほ乳類脳(新皮質部)
二十二、中層部  ……旧ほ乳類脳(大脳辺縁系)
二十三、中心部  ……は虫類類脳(脊髄や中脳) 

 このうちの(1)新ほ乳類脳というのは、「感覚情報の処理、精密な運動制御、創造的活動、
遺伝的制約を超えた自由な活動」(同)を司る。

 つぎの(2)旧ほ乳類脳というのは、「喜怒哀楽と記憶、定型的なは虫類的働きを柔軟にす
る」(同)を司る。

 一番中心部にある(3)は虫類脳というのは、「呼吸や生殖、闘争や支配など、個体と種の保
存に関わる機能」(同)を司る。

 PDマクリーンの説によれば、人間の脳みそは、(は虫類脳)の上に、(旧ほ類脳)→(新ほ乳
類脳)が重なるようにして、進化してきたということになる。

 この説は、たいへんおもしろい。この説を逆にとらえると、太古の人間(人間というより、は虫
類のような生物)には、喜怒哀楽の情や記憶がなかったということになる。喜怒哀楽の情や記
憶は、旧ほ乳類脳が司る。

 さらに人間は頭がよいとされるが、そのことと、私たちがいうところの(人間性)とは、別の問
題であるということになる。人間の知的活動は、新ほ乳類脳が司る。

 さらに私たちが「本能的」と呼んでいる活動のほとんどは、人間の脳みその中心部にある、は
虫類脳が司っていることがわかる。考えてみれば、これは当然である。あらゆる生物は、その
起源において、個体と種の保存を最優先にした。もしそうでなければ、その生物は一代で、絶
滅していたということになる。

 P・D・マクリーンは、そのは虫類脳の機能に、「闘争や支配」を加えた。言いかえると、闘争
心や支配心の強い人は、それだけ原始的な人ということになる(?)。

 そこで最近、にわかに注目され始めたのが、(2)の旧ほ乳類脳と呼ばれる「大脳辺縁系」。
たとえば喜怒哀楽の情は扁桃核(扁桃体)、記憶は海馬、やる気などは帯状回が司るというと
ころまで、最近の研究でわかってきた。

 たとえば何かよいことをすると、大脳の新皮質部から信号が送られ、扁桃核は、その内部
で、エンドロフィンやエンケファリンなどのモルヒネ様の物質を分泌する。これが脳内に放出さ
れ、脳を心地よい陶酔感を生む。これが「善なる感情」の基本になる。

 が、ここでひとつの問題が起きる。「心地よい陶酔感」イコール、「善」ではないということ。

 たとえば1人の銀行強盗がいたとする。その強盗が、数千万円もの大金を、手に入れたとす
る。

 そうした情報も扁桃核に送られ、そこで心地よい陶酔感を生むということも考えられる。強盗
に問題があるとするなら、馬券を当てた人でもよい。その心地よい陶酔感は、たとえばサッカ
ー選手が、みごとなゴールを決めたときと同じと考えてよい。つまり「心地よい陶酔感」イコー
ル、「善」ということにはならない。

 さらにP・D・マクリーンの説によれば、(頭のよさ)と(人間的な感情)、さらに(動物的な本能)
とは、別物ということになる。

 このことも、現実に起きていることを例にあげると、「なるほど」と合点がいく。たとえば少し
前、テレビで経済解説をするようなどこかの教授が、手鏡で、女性のスカートの中をのぞいて
逮捕されるという事件があった。

 その教授のばあい、新ほ乳脳の発達もすぐれていたが、同時に、は虫類脳の働きも活発だ
ったということになる。

 さらに……。どちらがどちらを支配しているかという問題もある。

 P・D・マクリーンの説に従えば、(は虫類脳)→(旧ほ乳脳)→(新ほ乳脳)の順に、は虫類脳
は旧ほ乳脳を支配し、旧ほ乳脳は新ほ乳脳を支配しているということになる。これも臨床的に
(?)考えると、納得がいく。

 たとえば性欲(=は虫類脳)にしても、理性(=新ほ乳脳)で支配するのは、不可能と考えて
よい。ある程度のコントロールはできるかもしれないが、それには限界がある。言いかえると、
生殖、つまり個体と種の保存にかかわる本能は、それほどまでに強力であるということ。

 だから教師によるハレンチ事件にしても、あとを絶たない。

 しかし「不可能」と言い切ってこのエッセーを結んだのでは、エッセーとしての意味を失う。そ
こで私なりにどうすればよいかということを考えてみる。方法がないわけではない。

 ひとつは、生殖、ならびに個体と種の保存についての本能は、そのまま自然な形で、表に出
していくという方法。食事をするとき、それを隠す人はいない。それに罪悪感を覚える人もいな
い。生殖も同じように考えていく。深い意味を、考えない。もっと言えば、生殖イコール、排泄と
考えていく。

 もうひとつは、自分の中の(本能)に気づく。そのメカニズムがわかれば、それを自分でコント
ロールすることができるようになる。メカニズムがわからないから、本能に振り回される。

 は虫類脳は頭の中にあるわけだから、それを消すことはできない。できないというより、この
は虫類脳があるからこそ、人間の世界では、さまざまなドラマが生まれる。そのドラマが、人間
の世界を楽しいものにする。

 前にも書いたが、あの映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいなければ、ただの船
の沈没映画で終わってしまっていただろう。

 さいごに、こういうことも言える。人間を、どの部分の脳みその働きが強いかによって、大きく
3つのタイプに分類することができるのでは……?

二十四、新ほ乳脳型人間
二十五、旧ほ乳脳型人間
二十六、は虫類脳人間、と。

 どのタイプがどうかということについては、今さら、ここに書くまでもない。大切なことは、この3
つの脳が、それぞれバランスを保ちながら、ほどよく協調しあうということ。またそういう人を、よ
り人間的な人という。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 新ほ
乳脳 新哺乳脳 旧哺乳脳 爬虫類脳 P・D・マクリーン 大脳新皮質部 辺縁系 脳幹 脊
髄 中脳)

※P・D・マクリーン……アメリカの脳生理学者(発達心理学、ナツメ社)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●知識と思考

+++++++++++

知識と思考は、まったく
異質のものである。

そのことは、一匹の
ハチを見ればわかる。

ハチにはハチの知識がある。
特異ですぐれた知識である。

がそれがあるからといって、
ハチに思考力があるという
ことにはならない。

+++++++++++

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あ
ぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階
で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。

この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳という
ことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起
こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。

で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわ
かってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」
というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値
判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
 知識 思考力)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2218)

●馬に水を飲ますことはできない

++++++++++++++

子どものやる気を問題にする人は
多い。

しかし「やる・やらない」も能力の
うち。

++++++++++++++

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中に
あるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるとい
う(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されて
いる。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維
持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら
大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は
得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気 子供のやる気 帯状回)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●水槽の中の魚

+++++++++++

『井の中の蛙(かわず)』という
ことわざがある。

私たちは油断すると、すぐ、
その蛙になってしまう?

+++++++++++

 水槽で熱帯魚を飼うようになって、もう18、9年目になる。平成元年に飼い始めたから、この
数字にはまちがいはない。その熱帯魚たち。ときどきその熱帯魚を見ながら、私はこう考え
る。「この魚たちにとっては、この水槽が全世界なのだろうな」「生まれから死ぬまで、一生、水
槽の中に住んでいるから、外の世界を知る由(よし)もない」と。

 考えてみれば、人間の意思も似たようなものだ。たとえば「自由」にしても、自由な世界を知っ
てはじめて、不自由な世界がどういうものかがわかる。

たとえば江戸時代という時代。あの時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒か
つ恐怖政治の時代であった。それは客観的にみれば事実なのだが、ではその時代に住んだ
人がそう感じていたかどうかは疑わしい。

あの時代の人は、徹底した鎖国制度のもと、外国へ出るということすら許されなかった。だから
外の世界など、知る由もなかった。それはちょうど、今のK国の人たちのようなものではない
か。日本という外の世界からみると、ずいぶんと窮屈な感じがするが、では当のK国の人たち
がそう感じているかどうかは、疑わしい。

彼らは彼らで、結構自分たちの国は自由な国だと思っているかも知れない。聞くところによる
と、首都のピョンヤンに住めるのは、ごく一部のエリートだけという話だ。それに旅行すら自由
にできなという話も聞いている。

 が、だからといって、日本が自由の国だとか、また日本人がもっている意識は、グローバルな
意味で、世界の標準だと思うのは危険なことである。

ひょっとしたら私たち日本人とて、水槽の中の熱帯魚と同じかもしれない。そういう例は、実は
教育の世界には多い。たとえば私が、三井物産という会社をやめ、結果的に幼稚園の講師に
なったとき、みなは、「はやしは頭が狂った」と笑った。母まで、電話口でオイオイと泣き崩れて
しまった。

しかしそんな中でも、私を支えてくれたのが、オーストラリアの友人たちだった。「ヒロシ、すばら
しい選択だ!」と。

こうした意識の違いというのは、それがない人には理解できないものであり、それがある人に
は、外で呼吸をするくらい当たり前のことなのだ。そういう意味でも、意識の違いというのは恐
ろしい。

たとえば今の「私」ですら、ひょっとしたら私という範囲の中だけで「私」なのかもしれない。ほん
の少し意識が変われば、私は私でなくなってしまう可能性だってある。絶対的に正しいものなど
というのは、ないということか?

 今日も水槽の中の熱帯魚を見ながら、私はそんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●離婚問題

+++++++++++++

離婚を考えている人は多い。
しかし子どもをかかえての離婚は、
慎重に。

母親の経済的自立を最優先に
して考える。

そのためには、まず情報を集める。

+++++++++++++

【子育て支援・助成金】

 現在、子どもをもつ親に、国や自治体は、以下のような
子育て支援・助成金を支給している。受領が可能と思われる
方は、遠慮せず、各窓口へ、相談してみたらよい。


●私立幼稚園就園奨励費

 資格……私立幼稚園へ通っている園児のいる家庭
 金額……年額、5万6500円(所得制限あり)
     (国と自治体から)
 届け出先……幼稚園、もしくは、各市町村村役場
       申請書を提出する。
     (現在、各私立幼稚園で代行。幼稚園に問いあわせてみること。)


●児童手当

 資格……小学校3学年修了前
金額……月額5000円
     第3子以降……月額1万円(所得制限あり)
 届け出先……各市町村村役場


●児童扶養手当

 資格……ひとり親
 金額……第1子……4万1880円
     第2子……プラス5000円
     第3子……プラス3000円
 届け出先……各市町村役場


●児童育成手当て

 資格……ひとり親
 金額……1万3500円前後(自治体によってちがう)
 届け出先……各市町村役場


●特別児童扶養手当

 資格……身体障害者1級手帳の子ども
 金額……月額5万1550円
 届け出先……各市町村村役場
 

 ほかに、乳幼児医療費助成金、ひとり親家庭医療費助成などがある。助成金の額は、自治
体によって、異なる。医療費の全額もしくは、ほとんどを助成してくれる。

 すべて届け出先は、各市町村村役場になっているので、こまめに足を運んで相談することが
大切。これらの中には、届け出を出さないと受領できないものもが多く、また届け出を出した時
点からしか支給されないものもある。

 上限の年齢制限もあるので注意。児童扶養手当、児童育成手当ては、子どもが満18歳にな
るまで。子どもが生まれたらすぐ、相談してみる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
手当て 児童手当て 育児補助金 子育て支援 助成金 補助金 はやし浩司 保存資料)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●ハロー効果

++++++++++++

心理学の世界には、「ハロー効果」
という言葉がある。

要するに、美人、美男子は、得、
ということ。もっとはっきり言えば、
人も、外見で、その中身の価値が
判断されるということ。

外見のよい人は、聡明で、精神力も
強じんで、なおかつ性格もよいと判断
されやすい。人格者と見られることも
多い。

一方、そうでない人は、そうでない。

++++++++++++

 昔、「男は、一にマスク、二にマスク、三に親の財産」と言った、女子高校生がいた。そこで私
が、「心はどうするの?」「心が大切だよ」と言うと、そこに居合わせた女子高校生が、みな、こ
う言った。

 「マスクのいい男は、心もいいに決まっているじゃん」と。

 マスク……つまり、顔のこと。

 昨日(9月12日)、安倍首相が、突然辞任を申し出た。健康問題も含めて、いろいろあったら
しい。政界の内情をよく知る人は、「クーデターだ」などとも言っている。

 で、つぎの総理大臣は、あのA氏になりそうである。もしそうなら、クーデターの仕掛け人は、
A氏自身ということになる。

 心理学の世界には、「ハロー効果」という言葉がある。「ハロー」というのは、「後光」のこと。
「光背効果」と呼ぶ人もいる。つまり外見のよい人は、それだけ中身もよいと判断されやすいと
いうこと。そうでない人は、そうでない。

 その第一が、マスク(顔)であり、身長であるという。それはたしかにそうで、安倍首相(まだ首
相なので……)と、A幹事長(まだ幹事長なので)を、比較してみれば、それがわかる。

 いかにも育ちのよさを感じさせる安倍首相。一方、いつもにがり虫をかみつぶしたような顔を
しているA氏。2人の人物が私たちに与える印象は、まるでちがう。

 が、これが偏見かというと、どうもそうとも言い切れないらしい。

 渋谷昌三氏の「心理学」(西東社)によれば、「美人は子どものころからまわりの人にかわい
がられ、素直な性格に育つ」とある。

 さらに「(教授に)魅力的であると評価された学生ほど、学業の成績がよいということもわかっ
ている」とか。また「大統領の候補者のばあい、背が高い候補者ほど有利」「背が高い社員の
ほうが、1割程度、給料が高い」というデータもあるとか。

 この「ハロー効果」を、まったく無視することもできないようだ。私のワイフも、「あのA氏が、次
期総理だってエ」と、どこかがっかりしたような言い方で、そう言っている。これはあくまでも見た
感じだが、そのA氏を見ていると、「美人は子どものころからまわりの人にかわいがられ、素直
な性格に育つ」の、ちょうど反対のことが起きているのではないかとさえ、思われる。

 マスクは、お世辞にも、よいとは言えない。背も低い。つまりそれが積み重なって、あの独特
の「にがり虫をかみつぶしたような顔」になったのではないか。もしそうだとするなら、性格も、
かなりゆがんでいる? 実際、A氏の発言は、どこかおかしい。

 Y神社問題についても、「天皇が行けばよい」とか、あるいは、憲法改正についても、「天皇を
元首に」とか述べている。イラクのアメリカ軍を揶揄(やゆ)して、「ドンパチ」と表現したこともあ
る。最近でも、公の場で、「ロシア」と「ソ連」を言いまちがえている。右寄りというよりは、極右
的。

 だいじょうぶか、日本?、と書いたところで、この話は、おしまい。日本という国が、どんどんと
おかしな方向に進んでいるような気がしてならない。自衛隊のインド洋上での燃料補給につい
ても、民主党は、「反対」「中止」で勢いづいている。

 しかし前回の参議院議員選挙で、民主党が大勝したのは、民主党の政策に賛同したからと
いうよりは、自民党への批判票が、民主党に回っただけにすぎない。一番、大きな問題は、社
保庁の年金問題、それに各閣僚の不適切発言。インド洋上での燃料補給は、争点にもなって
いなかった。

 それを、つまり大勝したことをよいことに、突然、奥の院から、O代表が顔を出してきて、言い
たい放題のことを言っている。言い忘れたが、A氏の印象もよくないが、O代表の印象も、さら
によくない。

 民主党が今、総力をあげてすべきことは、年金改革問題ではないのか。それもしないでおい
て、どうして今、燃料補給問題なのか。

 ハロー効果……おそらく、世界の人たちも、(無意識ではあるにせよ)、そういう効果を感じな
がら、この日本を見ているにちがいない。

 だいじょうぶか、日本?、と、書いたところで、この話は、ほんとうに、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2219)

【今朝・あれこれ】(平成19年9月13日(木))

++++++++++++++++

昨日は、何と、3日ぶりに、自転車を
こいだ。

雨、また雨。晴れた日もあったが、
ちょうどその時間に、また雨。

それで昨日ということになった。

そのせいで、夜中に筋肉痛。横にいた
ワイフが、しばらくマッサージして
くれた。

今日から、またがんばろう!

++++++++++++++++

●Kさん

 昨日、6年生のKさんが、私の顔をしげしげと見ながら、こう言った。「先生って、若いときは、
どんな顔だったの?」と。そこで私が、「若いときは、かっこよかったよ」と答えると、「ゼンゼン、
想像つかナ〜イ! 若いときから、ひげを生やしたおっさんだった感じ〜イ」と。

 わかる、わかる、その気持ち。私の時代は、もう終わった。とっくの昔に、終わった。

私「あのね、あんただって、おばあちゃんになるんだよ」
K「私は、おばちゃんではない」
私「イ〜ヤ、未来のおばあちゃんだ。未来のババアかな?」
K「うるさいわね。私は、少なくとも今は、ババアじゃないわよ」と。

 若さとは、燃えさかる炎のようなもの。Kさんを見ていると、そんな感じがする。ときに生意気
になり、ときに自信をなくし、それでいて、懸命に自分の人生を模索している。そういうエネルギ
ーに触れられるだけでも、ありがたい。

 そうそう、ついでにこうも言った。いつものセリフである。どうして私の生徒たちは、みな、同じ
ことを言うのだろう?

 「先生の奥さんって、かわいそう! こんなジーサンといっしょにいるなんて!」と。

 実は、私もそう思っている。最近は、とくに強く、そう思うようになった。晃子、ごめんね!


●小寒い朝

 前線が南下したのか? 今朝は、涼しいというより、小寒い。「そろそろコタツの季節かな?」
と、ふと思う。しかし気象庁によると、10月の終わりまで、残暑が残るとか。

 しかしこういう季節は嫌いではない。あさっては、山荘のほうで、栗の収穫を予定している。今
年は、大豊作。それに秋の虫の声は、すばらしい。そのままワイフと一泊するつもり。

 そうそう、おととい、いとこと、電話で1時間ほど話す。話題はもっぱら、健康について。60数
人いたいとこだが、今、親しくしているのは、そのいとこのほかに、1人、2人だけ。『去る者、
日々にうとし』ということか。離れて住んでいると、心まで疎遠になってしまう。

 昨年、父方の方のいとこ会を開いてもらったが、親類というだけで、心の交流は、なかった。
そのあと、再び、交流を始めたという人もいない。なつかしいというよりは、「そう言えば、そうい
う人もいた」という感じだった。中に、「親類だから……」と、『ダカラ論』をぶつけてくる人もい
た。私はかえって違和感を覚えてしまった。

 自分の子ども時代が、(自分の一部)というよりは、映画か何かで見た過去の世界のような感
じがする。

 が、そのいとことは、近く、会うつもり。よろしく、Y君!


●パソコン

 昨日、1台、パソコンを修理した。P社のレッツノートというのである。買ったときは、22万円も
した。が、日付を見て、驚いた。パソコンの裏に、1999年2月購入とあった。「たった8年しか
たっていないのか」と。

 そこで修理することにした。修理といっても、パソコンの世界では、再セットアップ(リカバリー)
を意味する。

 何とかワープロ専用機としては、使えそうなので、今、しばらく使ってみるつもり。

 それと、今日、別の1台を修理しなければならない。メーカーに問い合わせたら、再セットアッ
プ用のCDを届けてくれるとか。それが今日、届く。

 ほかに、T社のノートパソコン2台が修理の順番を待っている。こちらは、CDとパソコンをつ
なぐケーブルを紛失してしまった。目下、お手上げ状態。

 にもかかわらず、ビョーキというのは、こわい。

 このところ、新しいパソコンがほしくてたまらない。ねらっているのは、ズバリ、工人舎の小型
パソコン。昨日電車の中で、私の横に座った男性が、それを使っていた。いいね、あのパソコ
ンは!

 ほしい! ワイフは、「今度の誕生日プレゼントね」と言ってくれている。


●金価格

 久しぶりに金価格を調べてみたら、今日(9月13日)、グラム・2775円になっていた(田中貴
金属調べ)。この円高環境で、この価格。

 ちなみに、今日は1ドル=114円だから、少し前の1ドル=122円で計算してみると、グラ
ム・2970円ということになる。

 アメリカでの需要がふえているせいらしい。それに今日、原油が、とうとう1バレル、80ドルを
超えた。ドルの暴落ということになるが、さらにその理由としては、アメリカのバブル経済の崩
壊ということがある。少し前まで、うわさにすぎなかったが、いよいよ現実のものになりつつあ
る。

 どうなるのか……?、と、私のようなものが思い悩んでも、どうしようもない。そのどうしようも
ないところから、不気味さが生まれる。


●パソコンを送る

 今まで、サブ・メインで使っていたパソコンが、ほんとうに、壊れた。メーカーに電話して、あれ
これ教えてもらったが、最後には、ギブアップ。メーカーの指示により、メーカーのほうで、修理
してもらうことにした。

 で、Y運輸に電話をすると、パソコン運送用の箱が用意してあるとのこと。早速、昼食をかね
て、Y運輸まで、パソコンを運んだ。そこでのこと。

 その箱というのは、2枚のビニールシートで、箱の中でパソコンを中空に浮かす構造になって
いた。ときどきあちこちで見かける。で、係の女性が、「私たちのほうでやっておきますから…
…」というから、代金を払って出ようとしたが、……そこで、おかしな胸騒ぎ。

 しばらく作業を見届けることにした。

 箱というのは、中空で、パソコンを浮かす構造になっていた。箱の中に、ビニールシートを張
った2つの中箱を入れ、そのビニールシートで、パソコンを上下から、はさむ。が、見ていると、
そのビニールシートの中箱を、何と、反対向きに入れているではないか。つまりそれでは、クッ
ションとしての役目を果たさないばかりか、パソコンが直接、外部のダンボール箱に触れてしま
う。軽い衝撃でも、そのままパソコンを傷つけてしまう。

 そこで私が、「中箱の向きが反対です」と横で言うと、あからさまに不愉快な顔をしてみせた。
しかし私とて無視するわけにはいかない。私が自分で梱包をすることにした。が、箱のサイズ
がぜんぜん、合わない。

 それもそのはず。その女性は、私のパソコンよりやや大きいサイズの箱をもってきた。箱の
サイズは、AサイズからEサイズまである。

私「この箱では、サイズがあいません」
女「ちゃんと、(メジャーで)計りました」
私「中空で浮かす構造になっていますから、かなり余裕がなければなりません」
女「……大きいのもありますが、幅が合いません」と。

 係の女性は、パソコンの厚みに、上下の中箱の厚みをそのまま足し算していた。ビニールで
上下からはさむわけだから、パソコンの厚みは関係ないはず。

私「あのね、パソコンを上下からはさんで、パソコンを中空で浮かす構造になっているのです
よ。だからパソコンの厚みは、関係ありません」
女「だから、幅が合いません」
私「いいですから、いちばん大きい箱をもってきてください。サイズは何ですか?」
女「Eサイズです」
私「じゃあ、それをお願いします」と。

 係の女性は、ますます不機嫌な顔をしてみせた。が、私とて、引き下がるわけにはいかな
い。

 ……ということで、私が自分で梱包することになった。途中、奥の方から、男性が出てきて、
私を手伝ってくれた。私の予想通り、私のパソコンは、その箱に、すっぽりと収まった。それを
横で見ていて、係の女性がこう言った。「すみませんでした」と。

私「あのね、これはすみませんでしたで、すむ話ではありませんよ。もしあのままパソコンを梱
包されていたら、私のパソコンは、運送の途中で、壊れていたことでしょう。何10万円という損
害です」と。

 私は直感的に、その人(子ども)の知的能力を見分ける能力を、身に備えている。即座に、そ
れができる。40年近くも、そういう仕事をしてきた。そのときも、そうだった。おかしな胸騒ぎ
は、それで感じた。

 それにしても……? だいじょうぶか、Y運輸!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●チェホフの、「賭(かけ)」と「かわいい女」

++++++++++

アントン・チェホフといえば、
ロシアを代表する文豪。

私が学生のころは、「チェホフを
読んでいる」と言っただけで、
その人は、みなから、一目置か
れた。

しかし……。

++++++++++

 チェホフ、つまりロシアの文豪、アントン・チェホフの書いた、「賭」と「かわいい女」を読む。と
もに短編小説。文学小説を読むのは、久しぶり。翻訳がへたなのか、難解な言い回しだけが
つづく、読みづらい本だった。

 「賭」は、死刑について考えるには、参考になる本だった。また「かわいい女」は、女性の心理
を考えるには、参考になる本だった。しかしともに、どこか締めくくり方が、へん。何となく「?」な
気分で、読み終えた。

 「賭」というのは、若い男と銀行家が、賭をするという話。死刑は是か非かという論議から始ま
り、若い男が15年間、幽閉生活をしたら、銀行家が200万ルーブルを払うという話(=賭)に
発展する。

 そこでその若い男は、15年間の幽閉生活に入る。そしてその15年間、若い男は、書物とい
う書物を、読みあさる。最後は、聖書を読む。

 が、15年間で、銀行家の周辺は大きく変わる。200万ルーブルも支払ったら、自己破産とい
う状態になっていた。そこでいよいよ15年目というそのとき、銀行家は、若い男(もう若い男で
はなかったが)の家に忍び込み、その若い男を殺そうとする。

 若い男は、そこで眠っていた。が、机には、一通の手紙がおいてあった。銀行家は、それを
読む。その手紙には、こう書いてあった。

 「私は、賭を中断して、この家を出る。200万ルーブルなんか、いらない。この世すべてが、
愚かしく見えようになった」と。

 若い男は、ありとあらゆる本を読むうち、東洋的に言えば、悟りの境地に達したことになる。
それを知って、銀行家は、若い男の部屋を出た。つづいて若い男も、その部屋から、どこかへ
消えていなくなった。

 また「かわいい女」というのは、1人のきわめて依存性の強い女性について書かれた短編小
説である。今風に言えば、共依存性の強い女性ということか。いつもだれかに依存しないと生
きていかれないタイプの女性をテーマにしている。

 このタイプの女性は、少なくない。もっとも、そういう女性をさして、「かわいい女」と言うべきか
どうかについては、異論もあると思う。

 先にも書いたが、翻訳がへたなのか、「これが世界的に有名な文学作品?」と思うような内容
の短編だった。テーマもテーマだが、内容も、展開も、稚拙。「チェホフ」という名前だけが、先
に有名になってしまった? 2編を読み終えたあと、私はそんな印象をもった。同時に、チェホ
フの本は、そのまま書庫にしまった。

 
●A幹事長の淺知恵

++++++++++++

安倍総理大臣が健康問題
で倒れた。

++++++++++++

 安倍総理大臣が過労で倒れた。そのあと、その安倍総理大臣を一番側近で支えなければな
らなかったはずのA幹事長の、はしゃぎようといったら、なかった。その夜のこと。たまたまパー
ティ会場での様子がテレビに流れた。A幹事長は、体を大きく振って、何かにじゃれるようにし
て笑いこけていた。

 A幹事長は、間髪を入れずして、総理の席につくつもりだったらしい。また安倍総理大臣の辞
任宣言直後は、そういう雰囲気になっていた。

 が、それに待ったをかけたのが、自民党議員たち。一転、今日は、F前官房長官が、その
(流れ)に乗った。A氏とF氏との一騎打ちということになっているが、A氏には勝ち目はない。雪
崩を打って、自民党各派閥は、F氏支持に動き出している。

 当然である。右派というより、極右。A幹事長が使う言葉は、どれも右翼の街宣車が、通りで
がなりたてている言葉そのもの。言っている内容も恐ろしいほど、一致している。

 それにしても、がっかりなのは、民主党。どうして今、O代表なのか? あの人が出てきただ
けで、イメージが悪くなる。そういうことが、民主党は、まったく、わかっていない。鳩Yさんや、K
直さんだったから、みなは、民主党に一票を入れた。O代表だったら、入れなかった。

 選挙に勝ったとたん、闇の奥から、ゾロリと出てきた。O代表には、私はそんな印象をもって
いる。
(平成19年9月14日(金)記)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●国際政治

+++++++++++++++++

いろいろ言い分はあるだろう。
「戦争反対」の気持ちもよくわかる。

しかしまず、現実の数字を見てほしい。

【現実の数字】

 日本の原油、中東依存度は、2002年……85・3%
                    2003年……88・5%

 さらにそのうちわけは、

     アラブ首長国連邦 ……22・9%
     サウジ      ……22・4%
     イラン      ……13・8%
     カタール     …… 9・2%
     クウェート    …… 6・9%
   (以上、経済産業省、02年「エネルギー生産・需給統計年表」)

わかるか?

 今、日本の自衛隊が、中東から手を引いたら、
この日本は、どうなる?

 あるいはその先のことでもよい。今、アメリカが
中東から手を引いたら、この日本は、どうなる?

+++++++++++++++++

 日本は、90%近い原油を、中東地域に依存している。その中東から、インド洋を通って、タン
カーで原油を運んでいる。

 これが現実。まぎれもない現実。その中東から、「私たち日本人は関係ありません」と日本が
逃げたら、この日本は、どうなる?

 民主党よ、O代表よ、少しは、頭を冷やせ。「国連……」「国連……」というが、その国連が、
K国の核開発問題を解決してくれるのか? その力はあるのか? 先のことはわからないが、
今という(現実の世界)では、その力はない。

 だったら、今は、たとえ金魚のフンと揶揄(やゆ)されようが、アメリカに追従していくしかな
い。

 インド洋上で、補給艦を担当しているある自衛官の談話が、ある雑誌に載っていた。その自
衛官は、こう言っていた。

 「私たちの行動が、いつか、日本有事の際、何かの助けになると思い、がんばっている」と。

 「アメリカは日本を助ける義務がある」「しかし日本はアメリカを助ける義務はない」と、もしあ
なたが考えているとしたら、それは甘い。少なくとも、国際政治の場では、通用しない。

 国際政治は、すべて現実に始まって、現実に終わる。現実を見失った国際政治論には、意
味はない。またそれこそ、まさに亡国の論理。

 この11月から、自衛隊の補給艦が、インド洋から消えることになっている。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2220)

●なぜか?

+++++++++++++++

『なぜか一般企業より深刻、
地方自治体職員の「心の病」 』と題して、
ヤフーにこんな記事が載っていた(9月14日)。

そのまま紹介させてもらう。

「県庁や市役所など地方自治体で、
職員の(心の病)が、一般企業以上に
深刻になっていることが、社会経済
生産性本部メンタル・ヘルス研究所
(東京都渋谷区、小田晋所長)の調査
で分かった。この研究所は自治体に
求められる役割が急速に変化する中で、
活力ある組織づくりが課題としている」と。

+++++++++++++++

 『なぜか一般企業より深刻、地方自治体職員の「心の病」 』と題して、ヤフーにこんな興味あ
る記事が載っていた(9月14日)。

 「県庁や市役所など地方自治体で、職員の(心の病)が、一般企業以上に深刻になっている
ことが、社会経済生産性本部メンタル・ヘルス研究所(東京都渋谷区、小田晋所長)の調査で
分かった。この研究所は自治体に求められる役割が急速に変化する中で、活力ある組織づく
りが課題としている」と。

 どうして、こうまで分析力が浅いのかと、私は、思う(失礼!)。この記事だけを読むと、一般企
業よりも、公務員のほうが、職務がきびしく、そのため(心の病)になる人が多いと、だれしも思
う。

 が、ものごとは、(現実)の中で考えてみよう。

 一般企業の従業員が、(心の病)になったら、どうなる? ふつうの会社の従業員なら、しばら
くの療養期間を経たのち、まちがいなく、クビ。

 一方公務員が(心の病)になったら、どうなる? 2年でも3年でも、さらに5年でも10年でも、
診断書さえあれば、仕事をしなくても、給料だけはもらえる。ぜったいに、クビにはならない。

 だから一般企業の従業員たちは、たとえ(心の病)になっても、それを表に出すことはできな
い。隠しに隠しまくって、人知れず、治療に通う。あるいはかなり重篤(じゅうとく)な状態になっ
てはじめて、(心の病)を訴える。

 一方公務員たちはちがう。(心の病)をよいことに、仕事をサボっている人は、ゴマンといる。
私が言っているのではない。こんなことは、公務員の世界では、常識。ときどきマスコミの世界
でも問題になる。が、ああいうのは、まさに例外。氷山の一角。

 そういう一般企業の従業員の立場とのちがいを無視して、『なぜか一般企業より深刻、地方
自治体職員の「心の病」 』とは!

 ……あとは、何も書きたくない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2221)

●月探査衛星

++++++++++++++++

三菱重工業と宇宙航空研究開発機構、
14日午前10時31分、日本初の本格的な
月探査衛星「かぐや(セレーネ)」を、
種子島宇宙センター(鹿児島県)から、
H2Aロケット13号機で打ち上げたという。

この記事を書いている今、午前10時
50分には、打ち上げ成功かどうかの
確認は取れていない。

NHKテレビをのぞいてみたが、その報道は
なかった。あちこちのニュースサイトを
のぞいてみたが、今のところ、それに関する
記事はない。

成功したのだろうか?
それとも失敗したのだろうか?

++++++++++++++++

 月には、謎が多い。たいへん多い。あの月は、ただの月ではない。そこまでは私にもわか
る。が、その先が、わからない。NASAも無数の写真などを公表している。その写真にしても、
これはという写真には、すべて修正がほどこしてあるという。そういう、つまり修正がほどこして
あるという証拠写真は、私も、何枚か見たことがある。

 「かぐや」には、14種類の観測機器が積んであるという。月面の鉱物や地形などを詳しく調
べるという。月の誕生や進化の謎の解明を目ざすという。約20日後に月を周回する軌道に入
り、12月から約10か月の観測を始める予定だという。

 先日も、私のワイフが、私にこう聞いた。「いったい、あなたは、若いころ、どんな仕事がした
かったの?」と。

 若いころはともかくも、もし今、「何をしたいか?」と聞かれたら、私はまちがいなく、こう答え
る。「かぐやから送られてくる情報の分析の仕事をしたい」と。

 私は、どうしても知りたい。あの夜、ワイフと見たあの巨大なUFOの正体を知りたい。あのU
FOが、何者で、どこから来たのか、どうしても知りたい。

 それを知る手がかりが、あの月にあると思う。月が、あのUFOの前進基地であるとだれかが
言っても、私は驚かない。が、その確証がない。

 しかし日本の宇宙航空研究開発機構は、本当のことを公表するのだろうか。あるいは、すで
に各国との間で、秘密の取り決めを交わしてしているのかもしれない。「月の秘密は、庶民に
はバラすな」と。

 これから先、「かぐや」の名前には、注目したい。がくやは、どんな情報を月から送ってくるの
だろう。楽しみだ。

 そうそう、あの「かぐや姫」。あれは宇宙人だったのかもしれない。人間と宇宙人との交配に
よって、生まれた。かぐや姫を、おじいさんとおばあさんに、わざわざ地上で育てさせたのは、
地球上の重力に耐えられるような生物にするためだった? そういう例も、ないわけではない
そうだ。

 これも秋の夜のロマン。毎晩、空を見あげるたびに、私とワイフは、かぐやと、かぐや姫、そ
れにUFOの話をするだろう。

【追記】
 
打ち上げは、成功だったそうだ。よかった!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(9月15日)

++++++++++++++

昨夜は夜中の12時ごろまで、
家族でテレビの報道番組を
見ていた。

ニヤニヤというか、ニタニタというか、
正体不明の笑みを浮かべて話す、
A幹事長。

一方、どこか自信なさそうに、
視線を動かしながら話す、F元
官房長官。

自民党の各派閥(政策研究会)は、
たった一晩で、雪崩をうつかのように、
F氏支持に回ったという。

いろいろ理由は言われているが、
だれしもこう考えた。

「あんな男に、総理はさせられない」
「あんな男が総理になったら、この
日本は、どうなる?」と。

それが雪崩につながった(?)。

++++++++++++++

 少し前、「総理の任命責任」という言葉がよく使われた。だったら、「幹事長の支持責任」とい
うのは、ないのか? 突然の辞任表明のあと、日本中が安倍総理大臣を非難した。だったら、
その責任の一端は、A幹事長にもあるはず。が、当のA幹事長は、どういう理由かは知らない
が、はしゃぎまくった。

 どこか、おかしい。どこかズレている。

 報道番組でも、A幹事長は、始終、ニヤニヤというか、ニタニタというか、正体不明の笑みを
浮かべていた。ひとつの番組では、こんなシーンもあった。

 キャスターが、「今回の(安倍総理の)辞任劇の裏には、あなた(=A幹事長)の裏切り行為が
あったからと言う人もいますが……」と質問を投げかけたときのこと。幹事長は、ニヤニヤとい
うか、ニタニタと笑いながら、「そういうことはありません」(NS番組にて)と。

 会話の内容は、記憶によるものなので正確ではないかもしれない。しかしふつうなら、こういう
場面では、ニヤニヤというか、ニタニタとは笑わない。自分が疑われているのだから、ふつうな
ら、こういう場面では、だれしも、怒る。潔白なら、怒る。

 私は似たような場面を、かつて何度か見たことがある。和歌山県で起きた、あの毒入りカレ
ー事件のときもそうだった。のちに刑事被告人となる林M(女性)は、テレビ局のインタビューに
答えて、やはり、始終、ニヤニヤというか、ニタニタと、正体不明の笑みを浮かべていた。

 私がワイフに、「よく似ているね」と話すと、ワイフも、「そうね」と。

 私には、A幹事長が、政治家というよりは、出世欲、権力欲にとりつかれた、ただの野心家の
ように見えた。年齢がそれほどちがわないこともある。同じ時代を生きた人間ということもあ
る。総理の座をねらって、政治の世界を、まるで国盗り物語の舞台のように使っている。そんな
印象を強くもった。

で、自民党の各派閥(政策研究会)は、たった一晩で、雪崩をうつかのように、F氏支持に回っ
た。それまでは、だれしも、流れからして、「次期総理大臣はA氏」と思っていた。

いろいろ理由は言われているが、自民党の議員たちが、それに対して、「NO!」の意思表示
をした。

「あんな男に、総理はさせられない」「あんな男が総理になったら、この日本は、どうなる?」と。

それが雪崩につながった。A幹事長は、地方票を期待しているということらしいが、結果は同じ
だろう。ふつうの常識のある人なら、自民党総裁への立候補をとりやめる。A幹事長自身も、
当初はこう言っていたではないか。「政治的空白をつくることは、許されない」と。

 自ら、その政治的空白を長引かせて、みじんも恥じない? 

 どこか、へん。どこかズレている。

【付記】

 問題は、なぜああいうA幹事長のような政治家が、時代をおいて、つぎからつぎへと生まれる
か、である。ここにも書いたように、政治の世界を、まるで国盗り物語の舞台のように使ってい
る。

 私は、その責任の一端は、私たち自身にもあると思う。ああいう人物を、「偉い人」ともちあげ
てしまう。その「偉い」という部分で、このタイプの政治家は、自分を見失ってしまう。

 まともな政治家なら、仲間のほとんどが、「お前ではダメだ」と言ったら、静かに引きさがる。
本人自身も、「政治空白は許されない」と言っていた。であるなら、なおさら、今は、引きさがる
べきではないのか。A幹事長には、その常識すらない。ないばかりか、ある番組の中では、こう
言って居直っていた。「ここで私が引きさがれば、それこそ派閥談合と言われますよ」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●台風11号

+++++++++++++++

台風11号は九州の東を、目下、北上中。
韓半島をめざして、まっしぐら!

そのため韓半島では、「レーダー雨雲監視」
(気象庁)で判断するかぎり、目下、大雨が
降っているらしい。

今日14日は、南北首脳会談に疑問を抱く
人たちが、首都ソウルで、大規模な抗議
行動を予定しているという。

この大雨にいちばん喜んでいるのが、
N大統領。それにK国の金xxではないのか。

しかし大雨にも、程度というものがある。

台風11号の直撃を受けて、韓国はもちろん、
K国は再び、大被害をこうむるかもしれない。

そうなればまたまた、南北首脳会談どころでは、
なくなってしまう。

+++++++++++++++

 今日現在、1ドル=115円。1ドル=928ウォン。日本の円高は、ほぼ適正水準で停止して
いるが、韓国のウォン高は、危険ラインをすでに突破している。(危険ラインは、1ドル=950
ウォンと言われていた。)「このままでは輸出をあきらめる企業が続出するだろう」(韓国各紙)
とさえ言われている。

 だったら、ウォン安に誘導すればよいとだれしも考える。簡単に言えば、政策金利をさげれば
よい。現在、韓国の政策金利は5%。日本の20倍。

 が、ここで金利をさげたら、韓国はたいへんなことになる。すでに個人負債額は、日本円にな
おして、70兆円以上。75兆円をうかがいながら、雪だるま式にふえつつある。こういうことだ。

 あなたは韓国の金さん。毎月の給料は20万円。しかし毎月、5万円の借金をしながら、25
万円相当の生活をしている。カードを使えば、いくらでもお金を借りられる。借金の額よりも早
く、土地やマンションの価格が値上がりしている。

 が、なぜ土地やマンションの価格が、値上がりしつづけているかって? それは外資、つまり
外国(とくに日本)のお金が、どんどんと韓国に流れ込んでいるからにほかならない。

 しかしもし、ここで政策金利をほんの少しでもさげたら、とたん、外資が韓国から逃げ始め
る。同時に土地やマンションの価格がさがる。まさにアメリカのサブプライムローン問題と同じ
ことが、韓国でも起きる。

 韓国の法定利息はすごい。年率66%までOK。しかし実際には、庶民の間では、100〜20
0%という高金利で、お金が動いている。もしここで外資の流入が止まったら、韓国はどうな
る? 想像するだけでも、恐ろしい。

 それにもうひとつ問題がある。

 直近の貿易収支をみると、韓国の貿易収支は、すでに赤字に転落している可能性が高い。
もしここで少しでもウォン安になれば、原油高が、韓国経済を直撃することになる。現在、1バ
レル=80ドル前後。ほんの1か月前には、70ドル前後だったから、この1か月で14%近くも
高騰したことになる。

 韓国の産業構造は、急激な原油高にもろい構造になっている。

 そんな中での、南北首脳会談である。N大統領は、決死挽回策として、南北首脳会談に打っ
て出た。K国にすりよるあまり、メチャメチャな約束をする可能性もある。が、それに危惧感を
いだいたのが、韓国の野党勢力。

 今日14日、その野党勢力が、南北首脳会談で勝手な合意をしてもらっては困ると、反対集
会をソウルで開くという。

 しかし、この雨雲。韓国の天気予報によれば、週末はソウルでは、10〜40ミリ前後の雨が
降るという。集会を霧散させるには、じゅうぶんな雨である。天はN大統領に味方したのか。

 ……と考えたいが、台風11号が韓半島に向かっている。直撃コースといってもよい。もし台
風11号が韓半島を直撃すれば、韓国はともかく、K国は、再び甚大な被害をこうむることにな
る。治水整備がほとんどなされていない国である。

 降れば洪水、降らなければ干ばつ。南北首脳会談どころでは、なくなってしまうかもしれな
い。

 どうなるか、韓国。K国。そして南北首脳会談。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●格差

++++++++++++++

次期総理大臣になると思われる
F元官房長官は、テレビでのインタビュー
番組の中で、ときどき「格差」という
言葉を使っていた。

「富と権力が、中央(=東京)に
集中しすぎている」「中央と地方の
格差が広がっている」と。

そこで、1人あたりの名目県民所得を
調べてみた。

東京都が、460万円弱。
愛知県が、340万円強。
大阪府が、300万円強。

北海道が、250万円強。
沖縄県が、200万円弱。

(内閣府資料・04年)

++++++++++++++

 1人あたりの名目県民所得(内閣府)を見ただけでも、ナルホドと思う。東京都の人たちの所
得は、愛知県や大阪府の人たちの、約1・5倍。沖縄県の人たちの、約2・3倍!

 これを不公平と言わずして、何という?  「格差が広がっている」のは、この数字を見ただけ
でもわかる。

 そんなわけで、東京都に住んでいる人たちにすれば、旅行などで、地方へ行けば行くほど、
物価が安く、楽しいかもしれない。どこへ行っても、東京都の約半額。それだけでも王様気分に
なれる。

 が、反対に地方に住んでいる私たちにとっては、そうではない。少しでも人気のある観光スポ
ットへ行くと、どこも「東京価格」。実感として、この浜松市の物価とくらべても、2倍近い。

 が、それだけではない。

 このあたりにも、有数の漁港がいくつかある。そこで聞いた話だが、高級魚ほど、東京へ向
かうそうだ。私たち地方の人間が食べる魚は、二級品? 同じことを、農家の人たちも言って
いた。高級生花ほど、東京へ向かう、と。

 一方、悲しいかな、地方には、地方の、田舎根性というものがある。この浜松市でも、「東京
から来た」というだけで、何でもありがたがる。近くの幼児教室でも、こう宣伝している。「教材
は、東京の偉い先生が考えたものを使っています」と。

 バカめ! 東京の偉い(?)先生が、教材など作るか! そういう教材は、かつての私のよう
な教材屋がつくる。それにどこかの大学の教授の名前を載せて売る。そんなことは、この世界
では常識。

 さらに政治家となると、このあたりでは、みな、東京からやってくる。今度はじめて、地元出身
の男性が浜松市長になったが、少し前までは、元中央官僚。知事も、副知事も、元中央官僚。
国会議員の大半も、元中央官僚。

 つまりそれがF元官房長官の言うところの、「権力」ということになる。そのほとんどが、東か
ら、この地方へやってくる。「地方分権」とは、聞いて、あきれる。ホント! しかしこれは制度の
問題というより、意識の問題。日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。中央集権国家。

 ……こう書くからといって、何も私は、東京都の人たちに、うらんでいるわけではない。東京都
に住む人が悪いと言っているのでもない。東京都に住む人は住む人なりに、いろいろ苦労が
ある。当然、その分だけ、物価も高い。競争もはげしい。住環境もよくない。だから1人あたり
の名目県民所得が多いからといって、しかたのないこと。

 しかし、あの優越感だけは、何とかしてほしい。無意識のうちにも、地方を、「下」とみる。東京
都に住んでいる人にはそれがわからないかもしれないが、私たちには、それがわかる。「あ
あ、私たちをバカにしているな」と。

 F元官房長官は、とてもよいことを言う。総理大臣になったら、どうか、中央と地方の格差を、
少しでもよいから、縮めてほしい。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2222)

●実用的なことを教える

++++++++++++++

この日本では、実用的なことを
教えるのは、邪道であるというふうに
考えている教師は多い。

統計的な数字があるわけではないが、
そういう風潮は、たしかにある。

このことは、アメリカの中学校で
使う教科書と比較してみると、
よくわかる。

アメリカの中学校では、「中古車の
買い方」(代数)というテーマから
数学の学習に入る(プレンティス版、
「代数」)。

金利計算(=小数の計算)、さらには
小切手の切り方などまで、その(流れ)
の中で教えている。

どうして教育が実用的であっては
いけないのか。アカデミックな部分も
必要かもしれないが、みながみな、
その道の学者になるわけではない。

+++++++++++++++

 「勉強は役に立たない」と考えている子どもは、多い。このほどベネッセが発表した「学習基
本調査」によると、「役に立つ」と答えた小学生の割合は、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシ
ントンDC、ヘルシンキの中で、最低だったという。

 希望の進学段階も、北京の小学生の65・2%が、「大学院まで」と答えているが、東京の小
学生は、「高校まで」という回答が、相対的に多かったという。

 さらに学習時間数についても、東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半以上
が、18・1%いるそうだ。

 全体の平均も、

 東京 ……101・1分
 ソウル……145・8分
 北京 ……131・6分、とか。
(以上、「学習基本調査の国際比較」、ベネッセ、東京、ソウル、北京、ロンドン、ワシントン、ヘ
ルシンキの、小学5年生(10〜11歳、公立校)で調査。06年6月〜07年1月、産経新聞より)
 
 私が住むこのあたりでも、「高校は部活動を一生懸命やって、推薦で高校へ入る」という中学
生が多い。北区にある、ある中学校の校長は、「そういう子どもが、全体の60%はいる」と話し
てくれたのを覚えている。

 最近の子どもたちは、勉強をしなくなった。……というより、勉強する子どもと、しない子ども
の二極化が、ますます進んでいる。その一方で、進学を目的とした受験競争は、はげしくなって
いる。それが「東京では1時間以下が、49・3%いる一方で、3時間半以上が、18・1%」という
数字になって、表れている。

 なぜ学校の勉強はおもしろくないか? それについては、今まで繰りかえし書いてきた。

+++++++++++

【日本の教育が遅れるとき】 

●英語教育はムダ?

 D氏(65歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英語
を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。

しかしこの論法がまかり通るなら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅
行をするのはムダ」「地球のこともよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」
と。私がそう言うと、D氏は、「国語の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとし
た日本語が身についてから、英語の勉強をしても遅くはない」と。

●多様な未来に順応できるようにするのが教育

 これについて議論をする前に、こんな事実がある。アメリカの中南部の各州の小学校では、
公立小学校ですら、カリキュラムを教師と親が相談しながら決めている(※1)。

たとえばルイサ・E・ペリット公立小学校(アーカンソー州・アーカデルフィア)では、4歳児から子
どもを預かり、コンピュータの授業をしている。近くのヘンダーソン州立大学で講師をしている
知人にそのことについて聞くと、こう教えてくれた。

「アメリカでは、多様な社会にフレキシブル(柔軟)に対応できる子どもを育てるのが、教育の目
標だ」と。

事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館のS・ジャック氏も次のように述べている。「(教
育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※2)」(長野県経営者協会会
合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、子どもたち
は学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、「英語を教え
る必要はない」とは!

●文法学者が作った体系

 ただ英語教育と言っても、問題がないわけではない。日本の英語教育は、将来英語の文法
学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も国語もそうだ。将来その道の学者になる
には、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もともとその道の学者が作った体系だから
だ。だからおもしろくない。だから役に立たない。

こういう教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわい
そうだ。

たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意思
を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、3人称単数だの、そんなことばかりにこだわ
っているから、子どもたちはますます英語嫌いになる。ちなみに中学1年の入学時には、ほと
んどの子どもが「英語、好き」と答える。が、1年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、
嫌い」と答える。

●数学だって、無罪ではない 

 数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次方程式にしても、それほど大切なものな
のか。さらに進んで、三角形の合同、さらには二次関数や円の性質が、それほど大切なものな
のか。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのか。

こうした教育を正当化する人は、「基礎学力」という言葉を使って、弁護する。「社会生活を営
む上で必要な基礎学力だ」と。

もしそうならそうで、一度子どもたちに、「それがどう必要なのか」、それを説明してほしい。「な
ぜ中学一年で一次方程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないの
か」と、それを説明してほしい。その説明がないまま、問答無用式に上から押しつけても、子ど
もたちは納得しないだろう。

現に今、中学生の56・5%が、この数学も含めて、「どうしてこんなことを勉強しなければいけ
ないのかと思う」と、疑問に感じているというではないか(ベネッセコーポレーション・「第三回学
習基本調査」2001年)。

●教育を自由化せよ

 さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こうい
う議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい
親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから学び
たくない子どももいる。早くから英語を教えるべきだという人がいる。早くから教える必要はない
という人もいる。

要は、それぞれの自由にすればよい。そのためにはオーストラリアやドイツ、カナダのようにク
ラブ制にすればよい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、
「はじめに子どもありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないの
か。それでほとんどの問題は解決する。

※1……州政府は学習内容を六つの領域に分け、一応のガイダンスを各学校に提示している
が、「それはたいへんゆるやかなもの」(同小学校、オクーイン校長)とのこと。各学校はそのガ
イダンスの範囲内で、自由にカリキュラムを編成することができる。

※2……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在日イ
ギリス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている。「イギリスでは、一九九〇年代半
ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結果、国家の誇りが失われた認識があ
った。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」「さらに、現代社会はIT(情報技術)革
命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社会的価値の変化に直面しているが、こ
れも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり子どもたちが急激に変化する世界で生
活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応できる教育制度が必要と考えたからであ
る」(長野県経営者協会会合の席で)と。そして「当初は教師や教職員組合の抵抗にあった
が、国民からの支持を得て、少しずつ理解を得ることができた」とも。イギリスでの教育改革
は、サッチャー首相の時代から、もう丸4年になろうとしている(2001年11月)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【実用的な教育】

●すべての国民は、国の教育機関で、平等な教育を受ける権利がある。……ということで、学
校教育は発達した。しかしそれが達成されたあとは、「教育」そのものに対する考え方は変わ
ってくる。変わって当然である。それはちょうど、食事に似ている。貧しい時代には、腹がふくれ
れば、それでよかった。しかし人々の意識が、ある一定のレベルを超えると、それは必要なこ
とかもしれないが、それでは足りない。料理が発達し、人々が食生活に楽しみを求めるように
なったのと同じように、親や子どもたちは、教育に、「中身」を求めるようになった。

+++++++++++++++

●何のための歴史教育

 生きた歴史教育は、「今」という時点で考えて、はじめて可能である。それはたとえて言うな
ら、料理の教育に似ている。料理にしても、自分で作ってみて、はじめてそれがわかる。

 昨夜も高校受験をひかえた中学生と話しあってみた。彼はこのあたりでも一番と呼ばれる進
学校を受験することになっている。たまたまアヘン戦争の話をしたが、こう言った。

「道光帝が、林則徐を広州に派遣した。で、アヘンを没収し、イギリス貿易を中止したんだ。そ
れで一八四〇年に、イギリス議会が、清に対して宣戦を布告した……」と。

 そんな彼でも、私が「では、どうして今の北朝鮮が日本を目の仇(かたき)にしているのか」と
聞いても、「知らない」「わからない」と言う。「あんな国は、あっという間にやっつけてやる」とも
言う。「しかし向こうは、100万人の兵隊をもっているよ。日本は20万人だよ」と、私が言うと、
「アメリカが、核兵器で始末してくれるさ」と。

●実用的でないのが教育?

 こうした例は、英語にも、国語にもある。恩師のT教授も、理科もそうだという。(私には理科
教育はよくわからないが……。)日本の教育は、伝統的に、どこかおかしい? 本当におかし
い? 教えるべきことを教えないで、教えなくてもよいようなことばかり、教えている? 何かしら
役にたたないようなことを教えるのが教育と、誤解しているような面すらある。反対に、実用的
なことは教えてはいけないというような風潮すら、ある。

 アメリカでは、中学校での上級数学(Advance Math)では、中古車の買い方から教え始め、
小切手の切り方まで教える。高校で車の運転のし方を教えるところも多い。もちろん免許も学
校で取れる(地方の高校など)。

●学者になるには、すぐれた体系
 
が、この日本では、その道のエラーイ先生がたが、教科書をつくる。だから日本の教科書は、
将来、数学者や歴史学者、英語の文法学者になるには、きわめてすぐれた体系をもっている。
しかしみながみな、数学者や歴史学者、さらには、英語の文法学者になるわけではない。そう
いう道に進むのは、全体の1%もいないのでは? 

 歴史教育にしても、なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去を学び、未来にその経験や失
敗を生かすためである。頭でっかちのモノ知りを育てるためではない。少し前だが、こんなこと
を暗記している中学3年生がいた。

 「富山のチューリップ、長野の高原野菜、浜名湖のウナギ……」と。

そこで私が、「高原野菜って何?」と聞くと、「知らない……」と。さらに「浜名湖でウナギの養殖
なんか、もうしてないよ。みんな台湾や中国から輸入しているよ」と言うと、「いいの、そんなこと
は!」と。こういう教育の現実を、いったい、どれほどの人が知っているだろうか。

英語にしても、学校で習う英語は、まったく役にたたない。そんなことは、40年も前から言われ
つづけてきた。50年かもしれない。しかしやっと重い腰をあげたのは、ほんの数年前。その成
果が出てくるのは、これから先、さらに20年後?

●教育の自由化を

 みなさん、もっと教育を自由化しよう。もっと教育を自由に考えよう。もっと教育を自由の流れ
の中に置こう。ドイツやイタリアのように。カナダやオーストラリアのように。今の日本の教育
は、いまだに戦前のあの軍国主義時代の亡霊を引きずっている。学校万能主義。第一主義。
絶対主義などなど。私たちは、あの北朝鮮の教育体制を見て笑うが、どこがどう違うのか。私
には、その「違い」がわからない。

 たとえばドイツでは、子どもたち(中学生)は、たいてい午前中で授業を終え、そのあと、好き
なクラブに通っている。いろいろなクラブがある。月謝は1000円程度。費用はチャイルドマネ
ーによって、国によって補助されている。イタリアもそうだ。

大学についても、ヨーロッパは、全体として、すでに完全に共通化された。こういう時代が、もう
世界の常識だというのに、いまだに、学歴社会だのなんのと、バカみたい。いい学校だの、い
い大学だのと、バカみたい。学生たちは、その道のプロになるために大学へ行く。大学院へ行
く。しかも、だ。欧米では、奨学金を手にした学生たちは、自由に大学間を渡りあるいている。

●人間選別の弊害

 今ごろ教育改革しても、遅い。遅過ぎる。この日本では、せっかくすぐれた才能をもっていて
も、進学という関門を通りすぎるたびに、ふるい落されていく。つい先日も、O君というマレにみ
る、優秀な子ども(小学生)がいた。小学3年生のときには、中学3年生でもできないような難解
な数学を、自分で考えた方法で解いていた。

しかしこういう子どもを伸ばす機関が、日本にはない。理解もない。そこで東京の私立中学を
受験したが、残念ながら、どこも不合格。「社会ができなかったから……」と、O君は言った。

 こういうO君のような例は、本当に多い。が、これからは、もうそういう時代ではない。貧しい
時代の学校教育から、豊かな時代の学校教育へと変身しなければならない。その豊かな時代
とは何かといえば、それぞれの人が、自分の個性を光らせて生きる時代をいう。

これに対して、「全教科、まんべんなくできる子どものほうが、望ましい」という意見もある。しか
しその「全教科」にしても、本当に全教科なのか。私は以前、毎年、冬に刊行される「時事辞
典」※を調べてみたが、学校で習う勉強など、その辞典の20分の1から30分の1にもならな
い。「全教科」「基礎学力」といいながら、何をもって全教科というのか。何をもって、基礎学力と
いうのか。

 たとえばオーストラリアのグラマースクールでは、中学1年レベルで、外国語にしても、ドイツ
語、フランス語、中国語、インドネシア語、日本語から選択できる。芸術にしても、美術、音楽、
演劇などが、それぞれ独立している。ほかに宗教もあれば、読書、キャンピング、コンピュータ
などもある。全体に広く浅く教えながら、子どもの多様性を認める教育システムになっている。
そして学外クラブも発達していて、それ以上に学びたい子どもは、それぞれのクラブに通ってい
る。

●自由度で決まる、国の力

 国家の力は、いかに民衆が自由であるかによって決まる。教育とて例外ではない。すぐれた
教育というのは、いかに多くの、将来への選択肢を子どもに与えることができるかで決まる。

 話がぐんぐんと脱線してしまったが、なぜ私たちが子どもを教育するかといえば、子どもたち
が将来、多様性のある社会の中で、柔軟(フレキシブル)に、力強く生きていくことができるよう
にするためである。

とくに歴史教育は、先にも書いたように、過去を学び、未来にその経験や失敗を生かすためで
ある。しかしその歴史教育一つとっても、子どもたちの世界では、まったく役にたっていない。
日本よ、日本の親たちよ、本当にこんなことでよいのか?

注※「イミダス」の索引の中から、学校の授業(英数国社理)で扱うような項目と、そうでない項
目を分けてみた。その結果、ここでいう20分の1から30分の1という数字を算出した。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2223)

【今朝・あれこれ】(9月16日)

+++++++++++

今朝は、午前4時に目が覚めた。

昨夜、床につく前に飲んだ、2杯の
ジュース+スポーツドリンクが
悪かった。

口の中が、甘かった。胃の調子も、
それでおかしくなった?

考えてみれば、寝る前に、白砂糖を、
小カップ1杯分、胃の中に押し込んだ
ようなもの。

バカだった……。体によいはずが
ない。

+++++++++++

●スポーツドリンク?

みなさんも、あのスポーツドリンクには、注意したほうがよい。「スポーツで流した汗を……」と
か何とか、それを謳(うた)い文句にしている。中には、栄養剤と誤解している人もいる。が、そ
れはただの清涼飲料にすぎない。中身は、コーラと同じ。つまり白砂糖たっぷり。

 仮に10%の糖分ということであれば、1リットルあたり、100グラムの白砂糖ということにな
る。100グラムという量がどの程度のものであるかは、一度、はかりで量ってみればわかる。
それを見たら、みなさんもぞっとするはず。

 とくに運動もあまりしない人で、40代〜以後の人は、避けたほうがよい。あんなのを毎日飲
んでいたら、糖尿病になるのは、時間の問題。大切なことは、そういうものは、身近に置かない
こと。買わないこと。

 ああいうまぎらわしい名前をつけた、清涼飲料は、やめてほしい。ついでに「果糖」などという
言葉でごまかすこともやめてほしい。「成分……果糖」などと、表示してある。中身は白砂糖。
今朝起きたとき、つくづくそう思った。


●考える人

 大切なことは、そのつど考える人になること。そのクセさえあれば、ちょっとした買い物のとき
でも、それを働かすことができる。その力が積み重なって、その人を賢い人と、そうでない人に
分ける。

 わかりやすく言えば、賢くなるかどうかは、習慣の問題ということ。どこか健康論に似ている。

 その人が健康かどうかは、運動する習慣があるかないかで決まる。その習慣のある人は、
長い年月を経て、健康になる。そうでない人は、そうでない。

 
●健康

 健康というのは、失ってはじめて、その価値がわかる。賢い人は、その価値を失う前に知る。
そうでない人は、失ってはじめて、その価値を知る。

 そこでその健康だが、健康というのは、作るものではなく、維持するもの。今がどういう状態で
あれ、「今以上に悪くしないことだけを考えながら、維持する」。漢方では、1年かけてなった病
気は、1年かけて治せ。10年かけてなった病気は、10年かけて治せと教える。

 これはひとつのたとえにすぎない。つまり健康を考えるときは、(時の長さ)が必要ということ。

 私の近くに、たいへんだらしない生活をしている女性(40歳くらい)がいる(失礼!)。すでに
5、6年前から、ひざが痛いと言っていた。一度、散歩などの運動を始めたが、長続きしなかっ
た。

 40歳といえば、女性でも、円熟の輝きがますころ。しかしその女性は、一日中、家の中にひ
きこもったまま。そのため体重はますます増加。今では階段の上り下りも、ままならない状態と
いう。

 しかしこういう状態になると、精神状態もおかしくなる。ときどき見かけるが、表情はいつも、
暗く沈んでいる。

 ……で、このままいけば、どうなるか? 最悪のばあいには、50歳を待たずして、歩行がむ
ずかしくなる。その前に、いろいろな病気にかかる(?)。

 そんなわけで、こと健康に関して言えば、いつも10年先を考えながら、行動する。それがここ
でいう(時の長さ)ということになる。


●思考と情報

 情報量の多いことと、賢さは、関係ない。日本中のラーメン屋さんの名前と味を知っているか
らといって、その人を賢い人とは、言わない。

 が、ほとんどの人は、情報量と思考を、混同している。また思考することには、いつも苦労と
苦痛がともなう。そのためほとんどの人は、思考することを、自らやめてしまう。中には、「私は
ものごとを深く考えないタチです」などと言う人がいる。

 楽天的な生き方をしているという意味で、そう言う。しかしこれも誤解。

 深く考えることイコール、深刻な生き方をするということではない。深く考えながら、楽天的な
生き方をしている人は多い。むしろこわいのは、思考のループ。妄想性の強い人は、おなじこ
とを何度も何度も、繰りかえし考える。悶々と考える。

 つまりこのタイプの人は、考えているのではなく、思考がループしているだけ。そのためそれ
が原因で、うつになったりする。生き方も当然、悲観的になる。

 さらに私の近くに、いつもペラペラとしゃべってばかりいる人(60歳くらい、女性)がいる。間
断なくよくしゃべる。ほんとうによくしゃべる。ひとつのテーマを持ちだすと、それについて、いつ
までもしゃべりつづける。

 しかし話の内容は、浅い。脳の表層部分に飛来する信号を、音声信号にかえているだけ。話
を聞いていると、そんな感じがする。が、当の本人は、自分では、「私が頭がいい」と思いこん
でいる。

 その思考力は、分析力と論理力。この2つが柱になっている。他人がどこかで言ったことを受
け売りするのは、思考ではない。ただの情報の交換という。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【子どもの道徳・道徳の完成度】

●地球温暖化

+++++++++++++

子どもたちほど、地球温暖化の
問題を真剣に考えているという
のは、興味深い。

他方、おとなほど、この問題に
関して言えば、無責任(?)。

「何とかなるさ」という言い方をする
おとな。「だれかが何とかしてくれ
る」とか、「私ひとりが、がんばって
も、どうしようもない」とか。

そんなふうに考えているおとなは、
多い。

+++++++++++++

 道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、その2
点で判断される(コールバーク)。

 いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分がその立場
にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動できるかどうかで、その人
の道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点とするな
ら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、その人の道徳的完成
度は決まる。

 たとえばひとつの例で考えてみよう。

 あなたはショッピングセンターで働いている。そのとき1人の男性が、万引きをしたとする。男
性は品物をカートではなく、自分のポケットに入れた。あなたはそれを目撃した。

 そこであなたはその男性がレジを通さないで外へ出たのを見計らって、その男性に声をかけ
た。が、あなたは驚いた。他人だと思っていたが、その男性は、あなたの叔父だった。

 こういうケースのばあい、あなたなら、どう判断し、どう行動するだろうか。「叔父だから、その
まま見過ごす」という意見もあるだろう。反対に、「いくら叔父でも、不正は不正と判断して、事
務所までいっしょに来てもらう」という意見もあるだろう。

 つまりここであなたの公正さが、試される。「叔父だから、見過ごす」という人は、それだけ道
徳の完成度が低い人ということになる。

 またこんな例で考えてみよう。

 今、地球温暖化が問題になっている。その地球温暖化の問題について、いろいろな考え方
がある。コールバークが考えた、「道徳的発達段階」を参考に、考え方をまとめてみた。

(第1段階)……自分だけが助かればばいいとか、自分に被害が及ばなければ、それでいいと
考える。被害が及んだときには、自分は、まっさきに逃げる。

(第2段階)……仕事とか、何か報酬を得られるときだけ、この問題を考える。またそのときだ
け、それらしい意見を発表したりする。

(第3段階)……他人の目を意識し、そういう問題にかかわっていることで、自分の立場をつくっ
たりする。自分に尊敬の念を集めようとする。

(第4段階)……みなでこの問題を考えることが重要と考え、この問題について、みなで考えた
り、行動しようとしたりする。

(第5段階)……みなの安全と幸福を最優先に考え、そのために犠牲的になって活動すること
を、いとわない。日夜、そのための活動を繰りかえす。

(第6段階)……地球的規模、宇宙的規模で、この問題を考える。さらに、人類のみならず生物
全体のことを念頭において、この問題を考え、その考えに沿って、行動する。

 この段階論は、子どもたちの意見を聞いていると、よくわかる。「ぼくには関係ない」と逃げて
しまう子どももいれば、とたん、深刻な顔つきになる子どももいる。さらに興味深いことは、幼少
の子どもほど、真剣にこの問題を考えるということ。

 子どもも中学生や高校生になると、「何とかなる」「だれかが何とかしてくれる」という意見が目
立つようになる。つまり道徳の完成度というのは、年齢とかならずしも比例しないということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の道徳 道徳の完成度 道徳 完成度 はやし浩司 道徳の完成度 コールバーク 道徳完
成度 完成度段階説)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2224)

【極東のミステリー】

+++++++++++++

ミステリー映画を地でいくような、
あるいはそれ以上のミステリーが、
今、現実に、この日本とK国の
間で起きている。

ことの発端は、拉致被害者を調べている「特定失踪(しっそう)者問題調査会(=調査会)」が持
ち帰った、一枚の写真。

 その写真の一部に、昭和63年に日本海で行方不明になった、鳥取県米子市のY氏(失踪当
時、36歳)らしき男性の顔が写っていた。

場所は



 昭和63年に日本海で行方不明になった鳥取県米子市の矢倉富康さん=失跡当時(36)=
と、北朝鮮の放送局の日本語アナウンサーが酷似していることが分かり、同一人物である可
能性があるとして、日本政府が独自に写真鑑定などを進めていることが13日、分かった。矢
倉さんは、拉致被害者を調べている「特定失踪(しっそう)者問題調査会」(荒木和博代表)が
「拉致濃厚」とする1人。政府は、分析結果によっては、外交ルートを通じて北朝鮮側に情報を
照会する方針だ。

 調査会によれば、矢倉さんは元エンジニアで、63年8月2日、日本海へ1人で漁に出たまま
消息を絶った。調査会は平成15年1月、北朝鮮による拉致の可能性を捨てきれないとして矢
倉さんの名前や写真を公表。今年6月には、漁船に不自然な衝突痕があったことなど新たな
情報が得られたため、「拉致濃厚」に切り替えた。
 一方、矢倉さんに似た男性の写真が撮影されたのは今年3月15日。平壌・高麗ホテルで訪
朝した日本人らとともに撮影された。調査会は7月上旬に写真を入手した。調査会によると、
男性は、訪朝した日本人らの通訳として応対、朝鮮中央放送委員会に所属する日本語アナウ
ンサー「慎範(シン・ボム)」と名乗ったという。

 面会した1人は、「日本語はネイティブだが、朝鮮語はかなり下手だった」と証言。「『日本人
か?』とたずねたが、答えなかった」と話しているという。
 写真については、北朝鮮側が横田めぐみさん=拉致当時(13)=のものとして提供した遺骨
を「別人のもの」と鑑定した東京歯科大の橋本正次教授(法人類学)が鑑定。その結果を踏ま
え、調査会は7月9日に「男性は矢倉さんである可能性が高い」と発表した。橋本教授は「顔や
身体の特徴が一致、酷似しており、矛盾点がほとんどない。(写真の男性は)矢倉さんと同一
人物である可能性が極めて高い」としている。

 調査会とは別に、政府も写真による顔の鑑定や、アナウンサーの肉声の鑑定、平壌で撮影
された写真に合成など不自然な点がないかなど多角的な鑑定に着手。鳥取県警など捜査当
局は、無人で見つかった矢倉さんの漁船に残されていた衝突痕などを注視し、周辺海域での
船舶航行など、当時の状況や情報の洗い直しを進めている。
 一方、矢倉さんの家族は今月下旬にも、地元の海保や、鳥取県警に被疑者不詳のまま国外
移送目的略取・誘拐罪で刑事告発する方針。海上での失踪事案のため、一次捜査は海保側
が中心となって行われる見込み。




拉致被害者を調べている「特定失踪(しっそう)者問題調査会」(荒木和博代表)は21日、昭和
63年に日本海で行方不明になった鳥取県米子市の矢倉富康さん=失跡当時(36)=と酷似
する北朝鮮の放送局の日本語アナウンサーの声が、矢倉さんの父と似ているとする音声鑑定
の結果を発表した。

 矢倉さんは元エンジニアで、日本海へ1人で漁に出たまま消息を絶った。調査会が「拉致濃
厚」とする一人。調査会は先月、矢倉さんに似た朝鮮中央放送委員会に所属する日本語アナ
ウンサー「慎範(シンボム)」と名乗る男性の写真を公表。

 ラジオ放送で流された「慎範」氏の肉声の鑑定を、東京大学先端科学技術研究センターの村
岡輝雄客員研究員(音響工学)に依頼していた。

 鑑定では矢倉さんの父の声と比較し、「共通の甲高い部分があり、似ている」(村岡研究員)
との結果が得られた。

 村岡研究員によると、発声器官は遺伝的特徴を持つため、声帯で出た音を比較することで、
親族関係を推定できるといい、同じ手法で平成17年には、別の拉致被害者親族の音声鑑定
も実施している。

 一方、写真についても、東京歯科大の橋本正次教授(法人類学)によって「(写真の男性は)
矢倉さんと同一人物である可能性が高い」との鑑定結果が出されている。荒木代表は「音声鑑
定の結果が写真鑑定を否定するものではなかったことは重要な意味を持つ」としている。

 また、政府も、これとは別に写真と音声の鑑定を独自に行っている。





昭和63年に日本海で行方不明になった鳥取県米子市の矢倉富康さん=失跡当時(36)=
と、北朝鮮の放送局の日本語アナウンサーとされる男性が似ているとして、同一人物かどうか
を調べている政府が、「2人は別人」との見方を強めていることが14日、分かった。男性は北
朝鮮に渡った在日朝鮮人の可能性があり、政府が鑑定した男性が写った写真は合成の疑い
も浮上している。

 公安当局は、写真が日本側にもたらされた背景に、北朝鮮側の何らかの意図があるとみて
分析を進めている。

 矢倉さんは、拉致被害者を調べている特定失踪(しっそう)者問題調査会が「拉致濃厚」とし
ている一人。元エンジニアで、63年8月2日、日本海へ1人で漁に出たまま消息を絶った。

 調査会は、訪朝した平壌放送の愛聴者らが平壌・高麗ホテルで撮影されたスナップ写真を、
7月上旬に入手。そこに写っていた男性の一人が矢倉さんと酷似していたことや、専門家が
「同一人物の可能性が極めて高い」との鑑定結果を出していたことなどから、男性の顔写真を
公表し、「男性が矢倉さんである可能性が高い」と発表した。

 調査会によれば、男性は朝鮮中央放送委員会に所属する日本語アナウンサーで、「慎範(シ
ンボム)」と名乗ったといい、訪朝した日本人らの通訳として応対したとされる。

 一方、政府も同じ写真を入手しており、矢倉さんの写真との鑑定や、男性の人物調査を独自
に進めていた。政府関係者によると、写真には「2007・3・15」の日付がついており、男女6
人が写っている。「慎範」は左端。

 だが、「慎範」と他の数人にはピントにずれがみられるなど複数の画像合成のような痕跡が
みられることが判明した。さらに、「慎範」についての関係当局の調べで、帰国事業で北朝鮮に
渡った在日朝鮮人男性である可能性が高まっており、現在も北朝鮮に住んでいるのかなど、
詳しい調査を進めている。政府関係者は「矢倉さんと男性を同一人物とみるには相当の疑念
が残る」としている。

 矢倉さんと「慎範」をめぐっては、漆間巌・前警察庁長官が8月の離任会見で、「(北朝鮮で撮
影された写真の男性と)似ているとの指摘があるが、多少間違いがあるだろう。拉致と認定す
る材料はなく、それ以外の材料を持っている」と述べていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2225)

●リタリンは安全か?

++++++++++++++

現在、ADHD児と診断された
多くの子どもたちが、リタリンという
名前の薬を処方され、服用している。

しかしそのリタリンは、安全なのか。

M県に住んでいる、Kさん(母親)から、
質問があったので、アメリカのサイトから、
検索してみた。

アメリカでも、リタリンの服用について、
多くの臨床医たちが疑問を感じ始めて
いる。

出典は、アメリカ「Data Search Worldwide, Incまる」

こうした精神薬の子どもへの投与は
慎重であったほうがよい。

ADHD児についても、その年齢に
なると、表面的には、それがわからなく
なる。

++++++++++++++

【Psychiatric Disorders】(情緒障害)

The "solution" to ADHD – Ritalin and similar drugs (ADHD治療薬ーリタリンと類似し
た薬物)

The Drug Enforcement Administration (DEA) has established 5 schedules (or classes) of 
controlled substancesまる Random House Dictionary defines a controlled substance as, "
any of a category of behaviorーaltering or addictive drugs, as heroin or cocaine, whose 
possession or use are restricted by lawまる" Drugs in Class I (or Schedule I) have the 
highest potential for abuse and dependence and, "typically, the only use for these 
substances are for research purposesまる Examples include LSD and heroinまる" Class II 
(Schedule II) includes drugs, "that have the highest abuse and dependence potential for 
drugs with medicinal purposesまる Examples include analgesics (drugs used to relieve pain) 
like morphine and Demerolまる" The above quotes are from The Essential Guide to 
Prescription Drugs, by Drsまる Rybacki and Longまる As the authors also point out, the 
DEA has classified Ritalin as a Class II drugまる
"Stimulants are the drugs most frequently prescribed for ADHD in the hope of controlling 
behaviors described as hyperactivity, impulsivity, and inattentionまる With their chemical 
names in parentheses, the drugs include:

まるRitalin (methylphenidate) (リタリン)
まるDexedrine and DextroStat (dextroamphetamine or dーamphetamine) 
まるAdderall (dーamphetamine and amphetamine mixture) 
まるDesoxyn and Gradumet (methamphetamine) 
まるCylert (pemoline) 

"Except for Cylert, all of these drugs have nearly identical effects and side effectsまる (Cy
lertを除いて、リタリンなどすべての薬には、特有の効果と、副作用がある。)Ritalin and the 
amphetamines can for most purposes be considered one type of drugまる"
Drまる Peter Breggin, from his book Talking Back To Ritalin                 
"Perhaps the best known effect of chronic stimulant administration is psychosisまる (長期
にわたる刺激剤投与の、もっともよく知られた副作用は、精神障害である。)Psychosis has 
been associated with chronic use of several stimulants; eまるgまる, amphetamines, 
methylphenidate (Ritalin), phenmetrazine and cocaine…(This) psychosis mimics paranoid 
schizophrenia or paranoia so closely that it has been misdiagnosed as such by experienced 
clinicians many timesまる"
Predicting Dependence Liability of Stimulant and Depressant Drugs
by Drまる Klaus Unna, MまるDまる and Travis Thompson, PhまるDまる

"Ritalin is structurally related to amphetamine…Its pharmacological properties are 
essentially the same as those of the amphetaminesまる"
Goodman and Gilman's The Pharmacological Basis of Therapeutics (1985)  

The side effects of Ritalin on our childrenまるまるまる(リタリンの子どもへの副作用)

The following list of Ritalin side effects has been culled from 35 references and studies 
discussed in the book Talking Back To Ritalin by psychiatrist Drまる Peter Bregginまる  
They are in no particular orderまる Some of these side effects are very common, others 
not as frequent, while others are rare: (以下の副作用は、ありふれたものもあれば、頻繁に
現れるものでもないもの、あるいはまれに現れるものである。)

★ pacing(歩きまわること)
★ impulsivity(衝動性)
★ agitation(錯乱、興奮性)
★ personality changes(性格の変化)
★ depression(落ち込み、抑うつ感)
★ "zombie" behavior(ゾンビのような行動)
★ inhibition of emotional feeling(感情の抑制)
★ blurred vision(ぼんやりとした幻覚)
★ muscle cramping(筋肉痙攣)
★ sadness(悲しみ)
★ tachycardian (abnormal increase heart rate)(異常な心拍数の増加)
★ psychosis (general term for any serious mental disorder)(一般的な意味での精神障害)
★ nausea(吐き気、むかつき)
★ dry mouth(口乾)
★ hair loss(頭髪が抜ける)
★ withdrawal symptoms(引きこもり症状)
★ skin disorders(皮膚障害)
★ oculogyric crisis (spasms of the eye muscles)(目の筋肉痙攣)
★ confusion(混乱)
★ stupor(知覚麻痺)
★ euphoria(多幸症……感情の病的高揚状態)
★ obsessive focusing on a routine task(日常的業務に関する、強迫観念)
★ increased weepiness(悲哀感の増大)
★ grimacing(しかめ面)
★ feelings of great power(強大感情)
★ fearful behavior(恐怖行動)
★ seeing and feelingsmall creatures, especially bugs(虫のような小生物を見たり感じたりする)
★ incessant talking(絶え間ない会話)
★ loss of sensation in fingers(指の感覚の喪失)
★ enuresis (loss of control of urination)(遺尿……遺糞尿コントロールの喪失)
★ marked blotches(おでき、吹きでものなど)
★ worsening of ability to think and learn(学習能力の悪化)
★ abnormal physical movements(異常な肉体的動き)
★ handwringing(手を握ること)
★ inattention(集中力欠如)
★ restlessness(落ちつきなく動くこと)
★ irritability(短気、かんしゃく)
★ social withdrawal(社会的引きこもり)
★ a pinched, somberexpression(陰湿感)
★ leukopenia (reduced white blood cell count)(白血球の減少)
★ heart palpitations
★ increased blood pressure(血圧増加)
★ dizziness(めまい)
★ headache(頭痛)
★ tic syndromes*(チック)
★ vomiting(吐き気)
★ weight loss(体重減少)
★ dependency symptoms(依存的症候群)
★ addiction symptoms(常習症候群)
★ liver disorders(肝機能障害)
★ severe convulsions(重度のひきつけ)
★ hallucinations(幻覚症状)
★ emotional instability(情緒不安定)
★ nervousness(神経質)
★ paranoia(パラノイア)
★ dysphoria (painful emotions)(精神不安……苦痛感情)
★ loss of "sparkle"(活力喪失)
★ paranoid schizophrenia(偏執分裂病)
★ body distortions(体のゆがみ)
★ ringings in the ears(耳鳴り)
★ tiredness(疲労感)
★ dopiness(不活発さ)
★ armーwaving(腕振り)
★ footーtapping(足で床をたたくこと)
★ aggressive behavior(過激行動)
★ feeling hot(高熱感)
★ diarrhea(下痢)
★ hyperventilation(過呼吸)
★ excessive hugging and clinging(過度なしがみつき、抱きグセ)
★ suppression of the production of the hormone prolactin(プロラクチンの過剰分泌)
★ foot jiggling(足をせかせかと動かす、貧乏ゆすり)
★ anxiety(不安感)
★ insomnia(不眠)
★ memory problems(記憶障害)
★ constriction of mental activity(精神活動の緊縮)
★ inhibition of spontaneity(自発性の抑制)
★ anemia (a blood disorder
thrombocytopenic purpura (loss of factors for blood clotting)(無気力、虚脱感)
★ excessive central nervous stimulation, possible causing convulsions
★ "Tourette's symdrome**(ツーレット症候群)
★ loss of appetite(食欲減退)
★ stomach pain(胃痛)
★ growth suppression (including brain growth)(成長抑制、脳の発達抑制)
★ twitching(びくびくする)
★ abnormal thinking(異常な思考性)
★ hostility(敵意)
★ amnesia(記憶喪失)
★ neurosis (general term for any minor mental disorder)(精神神経症)
★ hypoactive (opposite of hyperactive)(過剰行動)
★ babbling(無駄口)
★ arching of the arms and legs(腕や脚のひきつり)
★ listlessness(ものうげ)
★ dazed feeling(ぼんやりとした感じ)
★ teeth grinding(歯ぎしり)
★ continuous, involuntary(持続的な無気力)
★ tremulous tongue movements(舌の震え)
★ wild, outーofーcontrol behavior(制御できない暴力行為)
★ mottled skin (skin w/spots and disruption of growth hormone(斑紋)
★ visual disturbances(見た目の騒々しさ)
* tics is a general term which includes a wide variety of abnormal movements, including 
facial twitches and grimaces, eye blinking, and various abnormal movements of the feet, 
hands, arms, and legs
** Tourette's syndrome involves a combination of tics with spontaneous, uncontrollable 
vocalizations often in the form of a single word that may be obscene or offensive.

What the experts have to say about Ritalin...(リタリンについての専門家の意見) 

"The latest survey showed that about 7 percent of Indiana High School students had used 
Ritalin nonmedically at least once, and 2.5 percent of high school students use it monthly or 
more frequently…Used nonーmedically, it often is ground into a powder and snorted like 
cocaine, or diluted and injected like heroin."
Indianapolis Star article, "Teen abuse of Ritalin taking root," 5 August 1998

"Sufficient data on safety and efficacy of longーterm use of Ritalin in children are not yet 
available." (Note: Ritalin was first introduced in 1956)
CibaーGeigy Pharmaceuticals (makers of Ritalin) info sheet on the drug

"The mode of action (of Ritalin) in man is not completely understood, but Ritalin 
presumably activates the brain stem arousal system and cortex to produce its stimulant 
effect. There is neither specific evidence which clearly establishes the mechanism whereby 
Ritalin produces its mental and behavioral effects on children, nor conclusive evidence 
regarding how these effects relate to the condition of the central nervous system."
CibaーGeigy Pharmaceuticals (makers of Ritalin) info sheet on the drug

"In clinical practice, children are routinely diagnosed with ADHD and treated with Ritalin if 
they display one, two, or three of these characteristics, or even a few behaviors that 
resemble these traits. While the most recent edition of the diagnostic manual added the 
requirement that the symptoms appear in two or more settings, children are commonly 
diagnosed on the basis of their behavior in school or a single classroom."
Dr. Peter Bregginー, from his book Talking Back to Ritalin 

"Through these criteria, describing common, everyday behavior of children, the rhetoric of 
science transforms them into what are purported to be objective symptoms of mental 
disorder. On closer inspection, however, there is little that is objective about the diagnostic 
criteria."
S. Kirk and Kutchins from "The Selling of DSM: The Rhetoric of Science In Psychiatry"
 
"I wrote to the Food and Drug Administration (FDA), the Drug Enforcement Administration 
(DEA), to CibaーGeigy (manufacturer of Ritalin), to Children and Adults with Attention 
Deficit Disorders (CH.A.D.D.) and four times to leading ADHD researchers at the National 
Institute of Mental Health, requesting that they direct me to one or a few articles in the 
peerーreviewed, scientific literature that constitutes proof of a physical or chemical 
abnormality in ADHD, thus making it a 'disease'. I have yet to receive anything which would 
constitute proof of an abnormality ー one that could be tested for patient by patient ー one 
proving that we are not drugging entirely normal children."
Dr. Fred Baughman, M.D., Neurologist, from the booklet Psychiatry ー Betraying and 
Drugging Children published by the Citizens Commission on Human Rights

"The driving force behind the overーdiagnosis (of ADHD) is a system that is out of control.  
Teachers want compliant, wellーbehaved children. Parents eager to see children succeed 
take them to mental health professionals who are quick to diagnose ADHD and seek drug 
treatment. Under an insurance system that favors drugs over therapy, ADHD is an easy 
label to apply to undesired behavior; drugs are a quick fix. …

"Children who are creative, having a different learning style or are oppositional, angry, or 
depressive all have been diagnosed as having ADHD. Many of these problems can be found 
only by talking with patients at length."
Sharon Collins, pediatrician (1997)

"It's well known among research of the gifted, talented, and creative that these individuals 
exhibit greater intensity and increased levels of emotional, imaginational, intellectual, sensual 
and psychomotor excitability and that this is a normal pattern of development.
"These characteristics, however, are frequently perceived by psychotherapists and others 
as evidence of a mental disturbance… ADHD and ADD are a few of the diagnostic labels 
mistakenly used."
Lynne Azepeitia and Mary Rocamora (February 1997), from Misdiagnosis of the Gifted, in 
the newsletter of the National Association for the Fostering of Intelligence

"Sadly, it is often the more creative and enthusiastic kids who are slapped with a mental 
disorder label. Even Albert Einstein, if he had been born in the last decade or so, would 
have perfectly fit the profile of someone having attention deficit and supposedly needing 
Ritalin. (悲しいことに、より創造的で情熱的な子供ほど、精神障害のラベルを張られる。アル
バート・アインシュタインですら、もし現在に生まれていたら、AD児と診断され、リタリンの服用
をさせられていたであろう。) He didn't speak until he was 7(アインシュタインは、7歳までしゃ
べらなかった。); his teacher described him as mentally slow, unsociable, and adrift in his 
foolish dreams. (彼の先生は、アインシュタインは、先進的に鈍く、非社交的で、おかしな空想
にふけると評している。)(You can rest assured that today there would be an allーout effort 
to have him medicated; and he certainly wouldn't have been alone. In school, Thomas Edison
's thoughts often wandered and his body was perpetually moving in his seat. His teacher 
said he was unruly and too stupid to learn anything…Walt Disney had several of the 
characteristics used to diagnose ADHD, as did Alexander Graham Bell, Leonardo da Vinci, 
Mozart, Henry Ford, Benjamin Franklin, Abraham Lincoln, and the Wright Brothers. The list 
goes on…every one of these great minds and thousands of others like them would probably 
have been labeled with a mental disorder and put on Ritalin if they had gone to grade school 
today…What about our children? Do we want to stunt their initiative and creativity by 
drugging them? Wouldn't it be wiser instead to find out what is really stopping each of these 
young people from doing their very best in school?"
Dr. Erwin Gemmer, from his taped lecture Conspiracy Against Our Children

"A boy was brought to the home, diagnosed as ADD (Attention Deficit Disorder). The 
treating psychologist said that we wouldn't want to take him. So, I interviewed him. As he 
supposedly had ADD, I asked him some basic questions: 'What's the longest time you've ever 
talked to a girl on the phone?' 'Three to five hours,' he replied. 'Do you remember what she 
said?' He could remember it all. I asked how long he could play a Nintendo (video) game.  
He told me he'd played it eight hours straight. What about books? Could he read? He said 
he read books from beginning to end ー the ones he liked reading. He'd also played full 
games of basketball and football. So it appeared to me that he could pay attention to 
anything that he was interested in."
(AD児として薬が処方されている少年が、ホームに連れてこられた。臨床精神科医は彼を連
れて行きたくなかった。それで私はその少年に、質問をした。「ガールフレンドと最長、何時間
話したことがあるか」と。すると彼は、「3時間から5時間」と答えた。そこで「彼女が言ったことを
覚えているか」と聞くと、彼はすべてを覚えていた。つぎに「ニンテンドーのゲームはどれくらい
しているか」と聞くと、「8時間休みなくしている」と答えた。本はどうなのか? 彼は読書はでき
るのか? 彼は最初から最後まで読んだ。バスケットやフットボールは、フル・ゲームでしてい
た。だから私には、彼が、彼が興味もつものしか注意力を示さないように思えた。
Fred Shaw, Jr., owner and manager of several California group homes for boys as an 
alternative to prison            
              
"I became an expert in treating hyperactive children with stimulant drugs. Then I 
discovered that many children developed their unacceptable behavior because of the food 
they were eating. Along the way I found that I could stop allergies, lift depression, control 
some of the symptoms of schizophrenia, lower blood pressure if elevated, assuage asthma, 
control insomnia, and stop addiction and a great deal of criminal behavior. All with few or no 
drugs."
Dr. Lendon Smith, Oregon pediatrician

"Possible side effects of Ritalin: chronic rash, stunted growth, weakened immunity, anorexia, 
anemia, depression, anxiety, insomnia, withdrawal. Possible side effects of natural 
therapies: emotional stability, peace of mind, strengthened immunity, peaceful sleep, clarity 
of thought, ability to focus, more patient, enjoy life more, more loving."
Nina Anderson and Howard Peiper, from "ADD ー The Natural Approach"                     

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Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●格差(2)

++++++++++++++

東京都に住む人と、地方に住む人の
収入格差が広がっている。

それについては少し前に書いたが、
ここでひとつの疑問にぶつかった。

まずその格差の実態について、
もう一度、数字を並べてみる。


つぎの数字は、1人あたりの名目
県民所得である。

東京都が、460万円弱。
愛知県が、340万円強。
大阪府が、300万円強。

北海道が、250万円強。
沖縄県が、200万円弱。

(内閣府資料・04年)

++++++++++++++

 この数字を見て、「1人あたり」という文句が気になる。これは「就業者1人あたり」という意味
なのか、それとも、「県民全員(子どもも老人も)含めて、1人あたり」という意味なのか?

 「1人あたり」をどうとらえるかによって、中身は、まるでちがう。

 たとえば就労者1人あたりということになれば、イコール、1世帯あたりの所得ということにな
る。が、県民全員の1人あたりということになれば、格差は、ぐんと広がる。平均的な4人家族
で考えてみよう。

 東京都は、460万円x4=1840万円、
 北海道は、250万円x4=1000万円、ということになる。

 その差は、何と、840万円!

 そこで再び疑問。「名目県民所得」とは、何か?

 あちこちのサイトを調べてみると、(県民所得)を、(県の人口)で割ったものが、(1人あたり
の名目県民所得)ということがわかった。県民の実収入ということではないらしい。

 たとえば山梨県の例を見てみよう(平成17年度)。

"経済成長率        名目2.0%増 実質2.1%増                      
           
"県内総生産(生産側)   名目3兆1,800億円 
"県民所得(分配)      2兆3,131億円、1人当たり県民所得2,615千円 
"県内総生産(支出側)   名目3兆1,800億円 実質3兆3,230億円 
 
 が、疑問は残る。では、「名目」とは何か? 日本語大辞典によれば、「実質」とある。すると
またまたわからなくなる。

 「実質」ということは、実質である。県民1人あたりが、それだけの収入を得ているという意味
になる。しかし東京都の人たちは、家族4人で、ほんとうに1840万円もの収入を得ているのだ
ろうか。家族2人でも、920万円!

 一方、北海道の人たちは、家族4人で、ほんとうに1000万円もの収入を得ているのだろう
か。家族2人でも、500万円! 

 県の所得がそれだけあっても、人口で割った分だけ、個人のふところに入るわけではない。
超高所得者がいる。闇から闇へと消えていくお金もある。それにしても、よくわからない。

 よくわからないが、「東京都に富が集中している」ということだけは、事実のようである。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(9月18日)

【今日・あれこれ】

●日本語の話

+++++++++++++

美しい日本語って、どういう
日本語のことを言うのか。

+++++++++++++

 学生時代のこと。あるパーティで、2人の学生がけんかを始めた。けんかは、たがいに、
「What are you?」と言い合うところから始まった。が、その直後、一方の学生が、相手の学
生に、パンチをくらわせた。

 そのとき、殴ったほうの学生が、手を前に出すと同時に、こう叫んだ。

 I will paunch shit out of you!、と。

 言い終わったとき、相手の顔面で、パンチがはじけた。

 日本語に訳すと、「私はお前を殴って、クソを外へ出してやる」という意味になる。それだけの
内容を、手を出した瞬間から言い始め、顔に届いたときには、言い終えていた。しかしいくら日
本語で早く言っても、英語にはかなわない。ためしに、あなたも英語と日本語の両方を言い比
べてみてほしい。

 つまり話し言葉としては、英語はすぐれている。日本語で話すと、どうしても遅くなる。理由の
ひとつは、日本語は、そのすべての音に、母音を入れなければならないということ。そのつど口
腔の形を変えて、アイウエオの音を入れなければならない。が、英語は、そのほとんどを、子
音だけで話す。

 このちがいは大きい。つまり英語では、それだけ早口で話すことができる。

 一方、日本語には日本語のよさがある。しかし言語としては、それほどすぐれた言語とは、言
えないのではないか。方言が多いのもそのひとつ。それに時代とともに、あまりにも大きく変化
しすぎる。

 今、江戸時代の文章を自由に読みこなせる人は、学者をのぞいて、そうはいない。いわんや
平安時代や奈良時代の文章をや、ということになる。

 これからも日本語は、どんどんと変化していく。つまり変化するということ自体、未完成な言語
ということになる。

 それにもうひとつある。

 書き言葉としての日本語だが、日本語は、本当にむずかしい。漢字の使い方にしても、「早
口」なのか、「速口」なのか。これは私の不勉強のせいもあるが、文章を書くとき、いまだに迷
う。迷いの連続といってもよい。

 語法も乱れている。「学校があった」でも、意味は通ずる。「学校で授業があった」でも、意味
は通ずる。しかし「授業」というのは、「あった」ではおかしい。正しくは、「子どもたちは授業を受
けた」ということになる。が、それでは文章が長くなってしまう。そこでまた、「学校があった」とな
る。

 こうした迷いが、いつもついて回る。
 
 一方、では英語はどうかというと、文法に沿って単語を並べていくと、そのまま文章になってし
まう。そのつど主語をきちんと入れるので、読んでいて、「だれが〜」という部分で迷うことはな
い。話し言葉としての方言はあるが、書いた文章には、方言はない。国ごとによって、使う単語
がちがうということはある。使い方のちがいというのはある。

たとえば「How are you?」にしても、オーストラリアでは、「はじめまして」という意味で使う。ほ
かの国では、「いかがですか?」という意味で使う。そういうちがいはある。しかしその程度。

 ところでこんなことがある。

 ときどきおかしな英語に出会うときがある。高校生がもってくる受験英語に、それが多い。私
が「こんな英語は、訳せないよ」と言ったりすると、みな、驚く。しかしおかしいものは、おかし
い。英語だから、みな、同じと考えると、まちがい。書く人によって、当然、じょうず、へたがあ
る。

 へたな英語は、へた。とくにドイツ系の人が書いた英文は、まわりくどい。ドイツ語というの
は、もともとそういう言語らしい。英語でいうところの関係代名詞が、多い。

 同じようなことが日本語についても言える。私でも読みづらいと思うのは、宗教哲学者の書い
た文章。やたらと難しい言葉や漢字を使いたがる。難しいというより、意味不明。「形而上の神
秘主義が、独歩的な東洋哲学と遡及的に一体化した」などと書く。

 I文科大臣は、「美しい日本語」という言葉を使った。しかし私には、どういう日本語を美しい日
本語というのか、よくわからない。語法的に正しい日本語というのなら、それは当然のことであ
って、あえて美しい日本語という必要はない。

 それとも詩的な表現のある日本語を、美しい日本語というのか?


●幸せ

 Sさん(小4)が言った。「先生の顔は、シワだらけ」と。だから私も言い返してやった。「君たち
は、不幸になるよ」と。

S「どうして?」
私「シワを笑ったから」
S「だから、どうして?」
私「あのね、シワが多い人ほど、幸福になれるの」
S「だから、どうして?」
私「だってね、シワあせ(=幸せ)と言うだろ」と。

 たしかに私の顔には、シワが多い。理由はわからないが、多いのは事実。たぶん、笑うとき
も、怒るときも、表情をよく使うせいではないか。

 その表情だが、これは人間がもつひとつの財産と考えてよい。表情は、人間関係の潤滑油。
表情が、人間関係を、心豊かにする。

 が、その一方で、表情のない子どもがふえている。喜怒哀楽の情を、ほとんど顔に示さない。
表情を顔に示さないから、教える側としては、何を考えているかわからない。何を考えているか
わからないから、教えにくい。

江戸時代には、侍たちは、みな無表情であったという。そんな話を、どこかで聞いたことがあ
る。今でも、「情を顔に出すことは、恥ずかしいこと」と考えている人は多い。

 が、今は時代がちがう。どんどんと表情を表に出す。子どもの世界でも、「すなおな子ども」と
いうときは、情意(=心の状態)と、表情が一致している子どもをいう。表情を顔に出すことは、
恥ずかしいことでも何でもない。


●暑い!

 今日(9月18日)、いざ運動!、と思って、自転車の近くまで行ったら、足がふらついた。はじ
めての経験だった。

 うしろにいたワイフに、「?」というような顔をして見せると、「今日は、暑いわ」と。居間にもど
って気温計を見ると、何と、32度! 外では軽く34度を超えているはず。

 空はまぶしいほどに、明るく輝いていた。

 「今日は、やめた」と私が言うと、「無理しないで」と。

 そのかわり、夜になったら、1時間ほど歩いてみよう。このところ、膝(ひざ)が弱くなったよう
に感ずる。


●MSのパブリシャー
 
 ビスタ・パソコンにした。いくつかのソフトが動かなくなった。パブリシャーもそのひとつ。文章
をデザインするには、たいへん便利なソフトである。

 しかたないので街まで行って、パブリシャーにUPDATE版(パブリシャー・2007)を購入。1
万5500円。家に帰ってさっそく、インストール。今度は、うまく立ち上がるようになった。よかっ
た。

 使い勝手は、それほど大きく変わっていない。ただ、図(=イラスト)などは、そのつど、インタ
ーネットを介してダウンロードして使うようになった。その数というか、量がぼう大。これなら使え
そう。この世界は、どんどんと進化している。いったい、どこまで進化するのか。


●「はやし浩司」のヒット数が、10万件?!

 ヤフーやグーグルで、「はやし浩司」を検索すると、ヒット数が、軽く10万件を超えるようにな
った。10万件といっても、実際には、数万ページ。さらに実際には、数千HP。

 多くの人が、どこかで「はやし浩司」と書いている。それがこういうヒット数となって、表れる。た
とえばあなたが、あなたのHPあるいはBLOGに、「はやし浩司」と書いたとする。すると、ヒット
数は、10万+1件となる。もう一度、「はやし浩司」と書いたとする。すると、ヒット数は、10万
+2件となる、

 もっとも、だからといって、みなが、みな、私に好意的な意見を書いているというわけではな
い。中には、私のことをボロクサに書いている人もいる。ときどき見かける。最近は、それが結
構、楽しい。まあ、世の中には、いろいろな人がいる。いちいち気にしていたら、HPやBLOG
の公開など、できない。どうぞ、ご勝手に!

(付記)私はときどき、カルト教団をたたく。それがおもしろくないらしい。身に覚えのある団体
が、私を攻撃してくる。文句があるなら、堂々と私に挑戦してきたら、どうか。いつでも私は受け
て立つ。


●立花T氏が、脳梗塞?

 文芸春秋の今月号によれば、あの立花T氏が、軽い脳梗塞を起こしていたという。日本を代
表する評論家である。

 立ち読みだが、その記事(手記)を読んで、いろいろ考えさせられた。「そう言えば・・・」と思い
当たるフシもないわけではない。しかしあの立花T氏が?

 私たちの世界では、神様のような存在の人である。全身が脳みそのかたまりのような人であ
る。そういう人でも、脳梗塞? 今回の記事を読んでもそうだが、とても脳梗塞を起こしたような
人が書いた文章には見えない。言いかえると、病気は、万人に共通してやってくる。立花T氏に
しても、ほかに糖尿病や血便などの症状もあるという。それに動脈硬化も。

 その記事を読んで、「私もすでに脳梗塞を起こしているかもしれない」と思った。立花T氏も、
検査でそれがわかるまで、気がつかなかったという。そういうものかなあと思ってみたりする。

 「明日はわが身」というより、私たちの年齢の人間は、みな、そうかもしれない。すでに脳みそ
の何%かは、使いものにならなくなっている。


●自己診断

 脳みそだって、老化する。それはしかたのないこと。で、そのとき、自分で自分の脳みその老
化に気づくかどうかということ。

 もちろん答は、NO!

 気づくようであれば、まだ症状は軽い。精神疾患でいう「病識」のようなもの。病識がある・・・
つまり「私の脳みそはおかしい」とわかっている人は、まだ軽い。精神疾患でも、重症になれば
なるほど、それがわからなくなる。「私はだいじょうぶだ」「まともだ」「病院へ行く必要はない」と
がんばる人ほど、実は、あぶない。

 脳みそも、同じように考えてよいのでは?
 しかし・・・私の知り合いに、40数歳で脳梗塞になった人がいる。その人は、当時、こんなこと
を言っていた。

 「林さん、私はどうしても時計が読めない」と。脳梗塞を起こしたため、いろいろな症状が現わ
れた。時計を読めなくなったのも、そのひとつ。が、その人は、(時計が読めない)という自分
を、別の自分が客観的に判断していたということになる。

 そういうことはあるらしい。

 私は、今の私を、本当に把握しているか? わかっているか? が、自分ではわからない。そ
こでワイフに聞く。「最近のぼくは、ボケたと思わないか?」と。ワイフは、「別に・・・」と言ってく
れるが、ここでも、別の問題が起きる。もしワイフも私と同じようにボケ始めていたら、ワイフに
も、それがわからないことになる。

 こわいね、年を取るということは!


●再び、立花T氏

 要するに、立花T氏は、不摂生をしすぎた? そんな感じがする。あるいは運動をするヒマも
ないほど、原稿書きに追われた? うらやましいような、うらやましくないような話だが、それで
体の調子を悪くした?

 人間ドックという検査方法もあるが、その人が健康かどうかは、顔の様子を見ればわかる。と
くに脳みその様子は、顔の様子でわかる。

 ぽてっとした感じで、肌につやのない人は、同じように、血栓性の脳梗塞を起こしている可能
性が高い考えてよい。話し方も、どこかかったるい。反応も、にぶい。立花T氏について言え
ば、見るからに運動不足といった感じがする。

 ということで、これから私は1時間ほど、歩いてみよう。Y書店までは、片道3・5キロ。往復7
キロ。ちょうど歩いて1時間の距離である。

 
●「私はバカではない!」

 ついでにもうひとつ。

 先日、知り合いの女性とこんな会話をした。その女性というのは、見るからに知的能力に欠
けると思われる女性である。ペラペラとよくしゃべる。が、中身がない。浅い。脳に飛来した情
報を、そのまま音声にかえているだけ。

 人間の価値は、ご先祖様をどれだけ大切にするかで決まる、というようなことを言った。

 私が「うん、うん」とうなずいていると、その女性は、私にあれこれ説教がましいことまで言い
出した。私が「私は、そんなバカではないと思うのですが・・・」と言うと、いきなり何を思ったか、
こう叫んだ。「私だって、バカではない!」と。

 言い忘れたがその女性は、私より3歳年上。年長意識が、たいへん強い。それでそう言っ
た。

 私はその言葉を聞いて、「バカとは何か」と、改めて考えさせられた。その女性から見ると、私
はかなりのバカに見えるらしい。しかし私から見ると、その女性がバカに見える。お互いが、お
互いをバカだと思っている。

 となると、いったい、バカとは何かということになる。絶対的な尺度というのはない。大学であ
れば、成績が、ひとつの尺度ということになる。が、その尺度もない。(だからといって、成績が
よい学生が利口で、悪い学生がバカといっているのではない。誤解のないように!)

 私はその女性から見ると、どんなバカに見えるのか。私はその女性と話しながら、そのことば
かりが気になった。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●道徳の完成度(2)

+++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、
二十七、いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)という。

 いかに公正であるか……相手が知人である
とか友人であるとか、あるいは自分がその立場
にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、
公正に判断して行動できるかどうかで、その人の
道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児
が見せる原始的な自己中心性を原点とするなら、
いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的
であるかによって、その人の道徳的完成度は決
まる。

+++++++++++++++++++

 この2日間、「道徳の完成度」について、考えてきた。「言うは易(やす)し」とは、よく言う。しか
し実際に、どうすれば自己の道徳を完成させるかということになると、これはまったく別の問題
と考えてよい。

 たとえば公正性についても、そのつど心の中で揺れ動く。情に動かされる。相手によって、白
を黒と言ってみせたり、黒を白と言ってみせたりする。しかしそれでは、とても公正性のある人
間とは言えない。

 またその視野の広さについても、ふと油断すると、身近なささいな問題で、思い悩んだり、自
分を取り乱したりする。天下国家を論じながら、他方で、近隣の人たちとのトラブルで、醜態を
さらけだしたりする。

 コールバークの道徳論を、もう一度、おさらいしてみよう。

(1)「時、場所、そして人のいかんにかかわらず、公正に適応されるという原則」
(2)「個人的な欲求や好みを超えて、個人の行為を支配する能力」(引用文献:「発達心理学」
ナツメ社)。

 そこで重要なことは、日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要、ということになる。常に公正
さを保ち、常に視野を広くもつということ。が、それがむずかしい。ときとして問題は、向こうから
飛びこんでくる。こんな話を聞いた。

 よくある嫁ー姑(しゅうとめ)戦争だが、嫁の武器は、子ども。「孫がかわいい」「孫に会いた
い」という姑の心を逆手にとって、その嫁は、姑を自分のよいように操っていた。具体的には、
姑のもつ財産をねらっていた。

 いつしか姑が、息子夫婦の生活費を援助するようになっていた。嫁の夫(=姑の息子)の給
料だけでは、生活が苦しかった。質素に生活すれば、できなくはなかったが、嫁には、それが
できなかった。嫁は、派手好きだった。

 そのうち、姑は、孫(=嫁の息子、娘)の学費、教育費まで負担するようになった。しかし土地
などの財産はともかくも、現金となると、いつまでもつづくわけではない。そこで姑が、支出を断
り始めた。「お金がつづかない」とこぼした。とたん、嫁は、姑と息子と娘(=姑の孫)が会うのを
禁止した。

 息子(小4)と娘(小1)は、「おばあちゃんに会いたい」と言った。
 嫁は、「会ってはだめ」「電話をしてもだめ」と、自分の子どもにきつく言った。
 姑は「孫たちに会いたいから、連れてきてほしい」と、嫁に懇願した。
 嫁は間接的ながら、「お金がなかったら、土地を売ってお金をつくってほしい」と迫った。

 ……という話を書くのが、ここでの目的ではない。こういう話は、あまりにも低レベルという
か、あさましい。できるなら、こういう話は聞きたくない。話題にしたくもない。が、現実の世界で
は、こうした問題が、つぎからつぎへと起きてくる。いくら道徳的に高邁(こうまい)でいようとして
も、ふと気がつくと、こうした問題のウズの中に巻き込まれてしまう。

 言いかえると、道徳の問題は、頭の中だけで論じても、意味はないということ。この私だって、
偉そうなことなら、いくらでも言える。それらしい顔をして、それらしい言葉を口にしていれば、そ
れでよい。それなりの道徳家に見える。

 しかし実際には、中身はガタガタ。私はその嫁とはちがうと思いたいが、それほどちがわな
い。そこで繰りかえすが、「日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要」ということになる。

 私たちは常に試される。この瞬間においても、またつぎの瞬間においても、だ。何か大きな問
題が起きれば、なおさら。そういうときこそ、日々の鍛錬が、試される。つまりその人の道徳性
は、そういう形で、昇華していくしかない。

(道徳性について、付記)

 高邁な道徳性をもったからといって、どうなのか……という問題が残る。たとえばこんな例で
考えてみよう。最近、実際、あった事例である。

 あなたは所轄官庁の担当部長である。今度、遠縁にあたる親類の1人が、介護施設を開設
した。あなたは自分の地位を利用して、その親類に、多額の補助金を交付した。その額、数億
円以上。

 そのあなたが、ある日、その親類から、高級車の提供をもちかけられた。別荘の提供ももち
かけられた。飲食して帰ろうとすると、みやげを渡された。みやげの中には、現金数百万円が
入っていた。

 こういうケースのばあい、あなたならどう判断し、どう行動するだろうか?

 「私はそういう不正なことは、しません」と、それを断るだろうか。その勇気はあるだろうか。ま
た断ったところで、何か得るものは、あるだろうか。

 私はそういう場に立たされたことがないので、ここでは何とも言えない。しかし私なら、かなり
迷うと思う。今の私なら、なおさらそうだ。いまだに道路にサイフが落ちているのを見かけただ
けで、迷う。

不運にも(?)、この事件は発覚し、マスコミなどによって報道されるところとなった。しかしこう
した事例は、小さなものまで含めると、その世界では、日常茶飯事。それこそ、どこでも起きて
いる。

 つまり道徳性の高さで得られるものは、何かということ。それがこの世界では、たいへんわか
りにくくなっている。へたをすれば、「正直者がバカをみる」ということにもなりかねない。

 ところで、今朝の新聞によれば、中央教育審議会は、道徳の教科化を見送ることにしたとい
う(9月18日)。当然である。

 「学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会は、18日、道徳の授業を教科としな
い方針を固めた。政府の教育再生会議は、規範意識の向上を目的に、第二次報告で道徳を
『徳育』としたうえで、教科化するよう求めていた。もともと中教審の内部では、教科化に慎重な
意見も強かったが、安倍首相の辞任後、『教育再生』路線との距離の置き方も、明確になった
格好だ」(中日新聞・9月19日)とある。

 わかりやすく言えば、安倍総理大臣が辞任したこともあり、安倍総理大臣が看板にしていた
徳育教育(?)が、腰砕けしたということ。

 閣僚による数々の不祥事。加えて、安倍総理自身も、3億円の脱税問題がもちあがってきて
いる。「何が、道徳か!」、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 道徳
 道徳教育 徳育 徳育教育)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2226)

●ある読者の方からのメール

+++++++++++++

大阪府にお住まいの方から、
マガジンのほうに、こんな
メールが届いている。

紹介してもよいということなので、
ここに紹介させてもらう。

ありがとうございました!

+++++++++++++

小学生の二人の子どもが反抗期で荒れたときに、
どんなに林先生に力づけられたことでしょう。

「許して忘れる」の言葉を胸に刻んで、ここ数年がんばってきました。
一番底、二番底、と数えながらまだまだ、と今も思っています。
泣きながら先生のマガジンを読んだことが昨日のようです。

中2、小4の(男子)子ども達は思春期入り口、これからが本番です。
先生の一言一言をかみしめながら、自分のことも見つめています。

基本的には私はとても前向きなので、毎日が楽しくて幸せなのですが、
子どもの反抗期だけはどうにもならないです。
それでも、先生のマガジンとともに進んでいきます。

先生の貴重なアドバイス、ユニークな観点のエッセイ、人間くさい話、などいつも楽しみにしてお
ります。

お体に気をつけてお過ごしくださいませ。
本当にいつもありがとうございます。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●私はA(幹事長)にだまされた

+++++++++++++++++

ときとして外国の新聞社は、思い切った
スクープ記事を書く。

韓国の東亜N報は、「私はA幹事長に
だまされた」と題して、つぎのように伝える。
(9月19日)。

+++++++++++++++++

 韓国の東亜N報は、「私はA幹事長にだまされた」と題して、つぎのように伝える。内容が内
容だけに、そのまま転載させてもらう。

++++++++++

●私は、A幹事長にだまされた

12日に電撃的に辞意を表明した日本の安倍晋三首相の辞任の背景について、少しずつ流れ
ている話が総合され、論議を呼んでいる。 

当時、安倍首相が側近に「A幹事長、Y官房長官にだまされた」と吐露したという話が、一足遅
れてマスコミに取り上げられている。 

同じ時期に、いわゆる「小泉チルドレン」の一人であるK自民党広報局長が、テレビ朝日の番
組で、「これはクーデターだ。支えると言いながら、後ろから刺してる人がいる」と述べ、同様の
情況を伝えた。 

これはA幹事長が、安倍首相の辞任後に首相有力候補に名前が挙がったが、わずか1日で
墜落した背景とも関係がある。日本のマスコミが伝えた前後の事情は以下のようだ。 

M元首相、AK自民党衆議院会長、NG直幹事長などの自民党の長老たちは、参議院選挙(7
月29日)の数日前、「安倍首相の退陣、福田康夫元官房長官の推戴」で合意した。自民党の
惨敗が明らかな状況だったためだ。 

しかし選挙惨敗当日、このような建議を聞いた安倍首相は、A外相(当時)の勧誘によって政
権維持の方針を固めた。 

その後、A外相は、8・27党政改編を主導して幹事長になった。また、自分の人脈を主要ポス
トに配置するなど、選挙を狙って布石を打ったという。いっぽう、徹底して重鎮中心で構成され
た内閣で、安倍首相は宙に浮いた孤立状態だった。 

特に、安倍首相は側近に「内閣改造の過程で、徹底的に無視されただけでなく、A幹事長はテ
ロ特措法と関連して、誤った情報まで与えた」と吐露したという。 

日本のマスコミは、安倍首相が12日に辞意を表明して、A幹事長を後継に指名しない理由も
ここにあると解釈した。さらに、A幹事長が、安倍首相の辞意発表を2日前に聞いても引き止
めなかった事実が伝えられ、「首相への欲望のため」という批判まで出ている。 

いっぽう、「機能性胃腸障害」で入院中の安倍首相には、入院3日目から見舞い客も訪れず、
すでに「忘れられた人物」になっていると毎日新聞は伝えた。 

新首相の指名は、25日に行われる予定だ。(以上、東亜N報・記事、原文のまま)

+++++++++++

 東亜N報の記事を、よく読むと、今回の政変劇の裏が、少しだが見えてくる。

二十八、7月29日の選挙前、M前首相らは、安倍首相退陣→福田元官房長官の首相への推
戴を考えていた。

(2)7月29日の参議院議員選挙で、自民党は大大敗をする。

二十九、安倍首相が退陣すれば、自分の立場があやうくなると知ったA幹事長は、安倍首相
に強く続投を進言。その一方で、自分の人脈を主要ポストにすえた。このとき、安倍首相は、
「内閣改造の過程で、徹底的に無視されただけでなく、A幹事長はテロ特措法と関連して、誤っ
た情報まで与えた」と漏らした。

三十、安倍首相は、「A幹事長、Y官房長官にだまされた」と側近にもらしたあと、辞意を表明す
る。
三十一、
三十二、この時点では、だれもがA幹事長が、次期総理大臣と考えた。
三十三、
三十四、が、その翌日、福田元官房長官が急浮上。形勢は一気に逆転した。

+++++++++++++

 簡単に言えば、最初からA幹事長は、総理大臣のポストをねらって、安倍首相を利用してい
ただけ、ということになる。考えてみれば、恐ろしいことではないか。党利党略どころか、日本と
いう国の政治が、個人の私利私欲追求の場として、利用されている。

 報道番組などによると、A幹事長の公用車の中には、マンガ本が山になっているという。愛読
書は、コミックの「ゴルゴ13」だという。自称、「お宅族」であるとも。

 政治というより、民主主義そのものが、ギャク化されている。しかしこんなバカげたことが、こ
の日本で、ほんとうに許されてよいものか。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●自己愛

+++++++++++++++++

自己中心性が、極端に肥大化した
状態を、「自己愛・Narcissistic personality」
という。

極端な自己中心性にあわせて、完璧主義、
他人の批判などを許さない、などの特徴
がある。

で、その自己愛が、さらに極端化し、
通常の社会生活がむずかしくなった
状態を、自己愛性人格障害と呼ぶ。

DSM(アメリカ精神医学会(APA)、
『精神障害の診断・統計マニュアル』
(Diagnostic and Statistical Manual of 
Mental Disorders)は、つぎのように
定義する。

●自己愛性人格障害 

A.自己の重要さ、まはユニークさをおおげさに感じること。
(例:業績や才能の誇張、自己の問題の特殊性の強調)

B.再現のない成功、権力、才気、美貌、あるいは理想的な愛の空想に夢中になること。

C.自己宣伝癖。
  (例:絶えず人の注意と称賛を求める)

D.批判、他者の無関心、あるいは挫折に際しての反応がそ知らぬふりであるか、憤激、劣等
感、羞恥心、屈辱感、または、空虚感といった目立った感情である。

E.以下のうち少なくとも2項目が対人関係における障害の特徴である。

(1)権利の主張:それに見合っただけの責任を負わずに、特別の行為を期待すること、
   (例:望むことを人がしてくれないと言って驚き、怒る)

(2)対人関係における利己性:
   自己の欲求にふけるため、または自己の権力の拡大のために他者を利用する。
   他者の自己保全や権利を、ないがしろにする。

(3)対人関係で、過剰な理想化と過小評価との両極端を揺れ動く特徴を持つ。

(4)共感の欠如:他者がどう感じているかわからない。
   (例:重症の病気にかかっている人の苦悩を感じ取れない)
(DSM日本語版より抜粋)

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 「自己愛」というと、この日本では、どこか美しい(?)響きを感じながら、それをとらえる人は
多い。しかし自己愛は、軽蔑すべきものであって、けっして、賞賛されるべきものではない。

 要するに自分勝手でわがまま、自己中心的で、自分がいつも舞台の上の主人公でいないと
気がすまない。他人の心を思いやる余裕もなければ、共感性、共鳴性がない。つまりは、どう
しようもない人間。

 が、このタイプの人ほど、外の世界では、そうでない人間として振る舞う。他人の不幸話に、
それらしい顔をして耳を傾ける、わざと控えめな自分を演ずる、など。しかしそれは仮面(ペル
ソナ)。相手が自分の意図したとおりの反応を示さなかったりすると、激怒してみせたり、その
人をこきおろしてみせたりする。

長い時間をかけて、「それでは損」と、学習するためと考えるとわかりやすい。つまり自分の中
の自己愛を隠すために、その反対の人間を演じてみせる。しかし仮面は仮面。心の底から伝
わってくる人間味がない。

 子どもの世界でも、こうした自己愛的性格は、小学の低学年から現れ始める。中学生になる
ころには、それが「性格」として定着する。

 一般に子どもの自己中心性は、年齢とともに、修正されていく。大きく分けて、内容は、つぎ
の2つに分けて考える。

三十五、空間的自己中心性……「自分は世界の中心にいる」と思いこむ。
三十六、精神的自己中心性……「私だけが絶対である。自分だけが正しい。ほかはまちがっ
ている」と思いこむ。

 この段階にまで進むと、他人に対する共感性、共鳴性が、極端に低下する。そのため、ズケ
ズケと言いたいことを言ったりする。あるいは反対に、同情したフリをしながら、他人の不幸
話、失敗話を楽しむ。が、その一方で、他人が自分に対してそれをするのを許さない。そのた
め、他人の心がわからなくなる。他人の立場や置かれた状況が、的確に判断できない。

 たとえば突然電話をかけてきて、「明日、そちらへ行くから」などと言ってきたりする。こちらの
都合など、まるで構わない。「私が行けば、あなたは喜ぶはず」という前提でものを考える。

 そこで私が、たとえば、(あくまでもたとえばの話だが……)、「明日は仕事があるので、1時
間くらいしか時間が取れない」などと答えたりすると、とたんに不機嫌になったりする。

 話がそれたが、こうした自己中心性は、そのつど他人とのかかわりの中で、修正されていく。
言いかえると、(他人とのかかわりがない)→(自己中心性が肥大化する)→(ますます他人と
のかかわりがもてなくなる)の悪循環の中で、やがて自己愛におぼれるようになる。

 子どもの世界では、そういう点でも、「お宅族」というのは、けっして好ましい状態ではないとい
うことになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
愛 自己愛性人格障害)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争(9月20日版)

(未成年の出国者、昨年10万人を超える) 

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韓国の統計庁が9月18日発表した、
「06年国際人口移動統計結果」
によれば、3か月以上海外に滞留した
全体出国者の中で、19歳以下は
計10万691人で、03年に統計が
作成されてから初めて10万人を超えた
という。 

そのうち、9歳以下の韓国人は何と、
計4万611人で、前年の3万5876人
より13.2%増え、10〜19歳の
出国者も5万978人から6万80人
に17.9%増加したという。

わかるかな?

9歳……つまり日本でいえば、
小学3年生以下の子どもが、
約4万人、10〜19歳の若者が、
約6万人、計10万人もの子ども
たちが、韓国を捨てて、外国に
渡っている(06年度)。

「捨てて」というのは、「帰国の
意思はない」という意味。

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●韓国から逃げる子どもたち

韓国統計庁が9月18日(07)発表した「06年国際人口移動統計結果」によれば、3か月以上
海外に滞留した全体出国者の中で、19歳以下は計10万691人で、03年に統計が作成され
てから初めて10万人を超えた。 

うち9歳以下の韓国人は計4万611人で、前年の3万5876人より13.2%増え、10〜19歳
の出国者も5万978人から6万80人に17.9%増加したという(東亜N報、07ー9ー19)。

 驚くべき数字といってもよい。韓国にとっては、脱北者どころの問題ではない。19歳以下の
子どもたちをみただけでも、毎年、その10倍以上もの韓国の人たち自身が、韓国を捨てて外
国に渡っている。(脱北して韓国に渡った人たちは、累計で、約1万人。)その数、0〜19歳だ
けで、約10万人。つい昨年までは、8万人と言っていたから、06年度は、約2万人もふえたこ
とになる。

 わかるかな?

 9歳以下の子どもたちが、毎年、約4万人も、国を離れているということ。(毎年だぞ!) 親
の転勤などによる移住も、その中に含まれているが、その多くは、帰国の意思はない。親にも
帰国させる意思はない。

 韓国では、まず母親と子どもが外国に出る。以前はアメリカやオーストラリアが多かったが、
このところ行き先は、全世界におよんでいる。で、父親は韓国に残り、学費と生活費を送りつ
づける。これを称して、「逆単身赴任」という。韓国ではそう呼んでいる。で、ころあいをみはか
らって、父親も、財産を処分して、外国へ渡る。

 ことは深刻である。

 日本の人口規模に換算すると、3倍して、約12万人の子どもたちが、毎年国を離れているこ
とになる。19歳までの子どもについて言うなら、約30万人の子どもたちが、国を離れているこ
とになる。

 もし日本でこんなことが起きれば、どうなるか。それだけで、大きな社会問題になる。

 理由はある。今、韓国では、大卒でも、4人に1人しか、就職できない。そのくせ、学費は高
く、受験競争ははげしい。貧富の差は、ますます広がっている。大企業の社員たちは、日本の
大企業の社員以上の給料を手にしている。その一方で、大半の人たちは、毎月、5〜6万円レ
ベルの生活を強いられている。加えて過酷な徴兵制度もある。そんな国で、だれが子どもを育
てたいと思うだろうか。

 韓国は今、内部から崩壊し始めている。

 ついでに外貨準備高というウソについて。

●外貨準備高

 韓国は、ことあるごとに、「外貨準備高が増えた、増えた」と喜んでいるはしゃいでいる。韓国
の大本営発表である。

韓国銀行、つまり」韓国の中央銀行が、9月4日(07)発表した、8月末時点の外貨準備高は、
前月比4億6000万ドル(0.2%)増の、2553億ドルとなったという。

 外貨準備高を「貯金」にたとえる人は多い。韓国もその仲間だが、しかし……?

 ちなみに、外貨準備高をみると、中国が1位の1兆ドル(06年10月)、日本が2位の8700
億ドル(06年10月)。数字でみるかぎり、韓国は日本の3分の1にまで迫っているということに
なる。

 各国が外貨を準備するのには、大きく、つぎの2つの理由がある。

 ひとつは、国際決済のバッファー(緩衝材)とするため。たとえば貿易するときは、そのつど、
円とドルを交換しなければならない。そのとき国内でドル不足が起きると、支払いがとどこおっ
たりする。そのために、どこの国でも、外貨、つまり多くはドルを自国に保有する。

 もうひとつは、自国の通貨を安定させるため。たとえば円安に行きすぎたようなとき、その円
安を修正するため、外国から円を買う。そのための資金として、外貨、つまり多くはドルを自国
に保有する。

 外貨をもつということは、それ自体に大きな意味はない。むしろ外貨を多くもつことによって、
その管理がたいへんになる。そのコストもバカにならない。それ自体が、貯金のように利息を
生むわけでもない。

 貿易で稼いだ外貨は、運用してはじめて、意味がある。それを示す数値が、資本収支だが、
それについてはもう何度も書いてきたので、ここでは省略する。つまり、外貨が多いといって
も、適正水準を超えた外貨の保有は、それ自体、まったく意味がない。へたをすれば、ドル安
になった分だけ、そのまま損失ということになる。

 では、どの程度が適正かというと、諸説があるが、中国や日本は、明らかに、もちすぎ! も
っと外国に投資して、その利ざやを稼いだ方がよい。

 で、韓国はどうかというと、これがおかしなことが起きている。貿易立国を自負するくらいな
ら、ウォン安に誘導した方が得。が、韓国政府は、自らウォン高を維持するために、政策金利
を高止まりにしたままにしている。07年9月現在、5%。日本の20倍!

 つまり外国の投資家たちは、韓国での利ざやを稼ぐため、ドルを売って、ウォンを買ってい
る。そのため貿易収支は赤字スレスレでも、(直近の貿易収支は、すでに赤字に転落している
と推定されている)、外貨だけがどんどんとふくれあがっていくという、珍現象が起きている。

 その結果が、先に書いた、2553億ドルという数字である。

 政策金利を今のまま維持すれば、ウォン高になる。しかし貿易、とくに輸出には、不利。しか
しウォン安にすることもできない。今、ここでウォン安にすれば、アメリカで起きた、サブプライ
ムローン問題と同じことが、韓国でも起きる。その時点で、韓国のバブル経済は、大崩壊! 2
回目のデフォルト(債務不履行=国家破綻)。

 つまり韓国は、今、にっちもさっちもいかない状況に追い込まれている。多くの専門家は、雑
誌などでは、2009年まで、韓国はもたないだろうと予測している。

 そこでゆいいつの頼みの綱は、この日本ということになる。このところ韓国のN大統領の反日
発言は、なりをひそめている。それもそのはず。今、ここで日本に嫌われたら、韓国というよ
り、韓国経済は、そのまま奈落の底へ落ちていくことになる。

 日本は韓国なしでも、やっていかれる。しかし韓国は日本なしでは、やっていかれない。N大
統領もやっとそれに気づきはじめた? が、今さら、それがどうだというのか。遅すぎた。小泉
内閣時代に始まった日韓経済戦争は、もうあともどりできないほどまでに、進んでしまった。

 がんばれ、日本! 負けるな、日本! あと一歩だ!

 みなさん、今度の南北会談の隠された目的は、ズバリ、JAPANマネーだぞ。韓国は、K国に
投下されるであろう、日本からの戦後補償費をアテにしている。その理由は、ここに書いたこと
を読めば、わかるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●金で成績を釣る?

+++++++++++++++++

このほど、テストの成績の伸び率に応じ、
学校予算を傾斜配分する仕組みについて、
東京都A区の教育委員会は、
「好ましくない」とする報告書案を
まとめた。

バカめ!

こんなことは、当然のこと。その前に、
「テストの成績の伸び率に応じ、
学校予算を傾斜配分するという仕組み」
そのものが、へん。おかしい。異常!

+++++++++++++++++

 バカさかげんもここまでくると、あいた口がふさがらない。少し前、東京都A区の教育委員会
は、テスト(公立小学校の学力テスト)の結果に応じて、学校予算を、傾斜配分すると言い出し
た。

 わかりやすく言えば、成績のよかった学校には、予算をふやし、そうでなかった学校には、予
算を減らす、と。

 こういう時代錯誤というか、とんでもない意見が、教育委員会という場で、考えられること自
体、異常である。

 こうした批判が続出したのか、あわてて、同区の学力調査委員会(委員長・T足立区教育委
員会事務局次長)は、この案(仕組み)を撤回した。いわく、「好ましくない」と。その報告を受け
て、A区の教育委員会は、「傾斜配分を廃止する見通し」とか。

 成績は重要だが、成績だけが、すべてではない。成績は重要だが、しかし教育の場には、そ
れ以上に、大切にすべきものがある。成績だけをみて、その学校をみてはいけない。評価して
はいけない。その理由の第一。

 成績というのは、あくまでも個人的なもの。学校でいえば、生徒1人ひとりのもの。それが総
合されたからといって、個人の成績がどうかなるというものではない。わかりやすい例で説明し
よう。

 あなたの子どもが、成績下位で悩んでいるとする。クラスでもビリに近い。しかしクラス全体の
成績は、よい。そのためあなたの子どもは、クラスの中では、のけ者。落ちこぼれ。

 そんなとき担任の教師が、祝賀会を開いた。「今度、うちのクラスが、総合成績でトップになり
ました。みなさん、喜んでください」と。

 あなたはそれを聞いて、喜ぶ気になるだろうか。「成績というのは、あくまでも個人的なもの」
という意味は、そこにある。そうした成績を総合的にみて、予算をふやすとか、減らすとか、そう
いう発想そのものが、ゆがんでいる。おかしい。へん。異常!

 そのおかしさがわからなければ、進学塾をみればわかる。

 進学塾では、その季節になると、S中学50人合格、A中学60人合格……の張り紙を、玄関
先に張る。しかしその陰で、その倍以上の子どもたちが、不合格になっていたとしたら、どう
か。それでもあなたはその進学塾は、すばらしいと言うだろうか。

 あなたの子どもは、不合格になった。そのあなたが、進学塾に、「おめでとうございます。あり
がとうございました」などという、祝電を打つだろうか。

 教育というのは、弱者にいかにやさしいかで、その真価が問われる。今回の東京都A区の、
予算傾斜配分案には、そうした(やさしさ)がどこにもない。おかしな資本主義的発想に、その
まま毒されている。

 私はこうした案が撤回されたのは当然だとしても、こうした案が、出てきたこと自体に、驚いて
いる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2227)

●Tさん(群馬県)からのメール

++++++++++++++

体に障害をもつ子どもをもつ、Tさん。
そのTさんから、こんなメールが届いた。

++++++++++++++

はじめて相談いたします。 今悩んでいるのは、3男(中2)のことです。

生まれつき右足が不自由で、2才のときに手術をしました。現在、歩行には問題がありません
が、速く走ったりなどは、できません。自分はみんなと違い、自由に運動ができないと知ったこ
ろ(4年生)から、なんで俺だけ・・・という気持ちが強くなったようです。

中学で職業調べを始め、運動に制約があると、資格をとる上での第一条件(主に航海士など)
と知り、ショックを受け、私に向かい、お前のせいで俺の夢が奪われた・・責任とれ・・と、くどく
ど言いつづけたり、暴力を振るったりするようになりました。

また、寝起きなどは特に悪く、お前の声がキモイ出て行けなどと言い、腕や背中を殴ったりしま
す。塾や学校に遅刻するのも、お前のせいだ・・と何事も自分は反省せず、私のせいにしま
す。

俺の右足を奪ってどうする気だ・・何かいうことはないのか、と毎日のように怒鳴ります。私は、
わざとじゃないけどごめんね、と謝るだけです。夢がなくなったから、勉強してもしょうがない、と
いい、宿題はしません。成績は悪いです。

去年、仲の良かった友達とけんかしてから、親友もいないようです。家で会話するのも、私だけ
で、夫や兄弟とはほとんど会話しません。

二学期になり、学校行かないといい、5日ほど休みました。 言いがかりと暴力で、毎日がとて
も不安です。どうしたら、息子の心が平和になってくれるのでしょうか。将来にもっと夢と希望を
持ってほしいのですが・・・障害をもってなかったら・・と私もいまさらながらに思ってしまうことも
あります。家族で笑い会える日心待ちにしています。アドバイスをよろしくお願いします。
(07年9月)

【はやし浩司よりTさんへ】

拝復

こんばんは!

メールを読みました。

読んで、こう思いました。

愛し合うべき人たちが、たがいに憎しみ合っている。
キズつけ合っている、とです。とても悲しい話ですね。

お子さんは、反抗期(燃え上がってくる、エネルギー)
+自我の同一性の危機的(自分で何をしたらよいか
わからない)状況で、情緒的にも混乱していると
考えてください。

障害のことは、半ば口実にすぎません。

私も個人的に似たような場面を経験していますが、
『許して、忘れる』です。

この言葉だけを念じて、この時期を過ぎてください。

あなたの思いは、必ず、お子さんに届きます。
時間はかかりますが、そのときあなたたちは、
真の親子関係を築くことができます。

不登校の問題も同時進行の形で起きていますが、
この際、子どもの心だけを考え、最優先します。

不登校など、何でもない問題です。

運命は受け入れましょう。運命にさからうと、
運命はキバをむいて、あなたの襲いかかってきます。
しかし運命というのは、受け入れてしまえば、
何ともありません。運命のほうが、シッポを巻いて
逃げていきます。

そういうものです。

子どもの混乱は、今しばらくつづきますが、今こそ
あなたの愛がためされているときだと思ってください。
そしてあなた自身が、「十字架のひとつやふたつ何だ!」と、
いっしょに背負う姿を見せてあげてください。

ここが正念場ですよ。逃げてはいけませんよ。

「あなたはさみしいのね」「孤独なのね」「つらいのね」と
子どもに話しかけてみてください。そしてどんなことが
あっても、子どもを見捨てない……今はその混乱期
です。

このタイプの子どもは、一度、どこかで自分の運命を
受け入れてしまえば、ウソのように静かになります。
その時期は、近いと思います。というのも、
こういう状態で、いちばんつらい思いをしているのは、
あなたの子ども自身だからです。

そのつらさに、子ども自身が耐えられなくなります。
心理学にも、(フリップ・フロップ理論)というのがあります。

心が不安定な状態では、本人自身が疲れるため、
やがてどちらかに転ぶ……という理論です。

そのとき、静かになります。

以前、書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++++++++

【子育てのすばらしさを学ぶ法(許して忘れろ!)】


子育てのすばらしさを教えられるとき


●子をもって知る至上の愛    


 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。


●自分の中の命の流れ


 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ
かに父の面影があるのを知って驚くことがある。



 先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。し
かしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなも
のがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自分
も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。 



●神の愛と仏の慈悲


 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。



 すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし
子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見
せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教
えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれな
い。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の
愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な
心をいやしてくれる。


●神や仏の使者


 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわか
る。



 子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして
生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわ
たって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう
意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた
自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ
らい、子育てですばらしいことはない。


+++++++++++++++++++++++++++

【子どもへの愛を深める法(子どもは下から見ろ!)】


親が子どもを許して忘れるとき


●苦労のない子育てはない


 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。



 よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。親は子育てをしながら、それこそ幾多の
山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へと、いやおうなしに育てられる。



 たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確かに若くてきれいだが、どこか
ツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊事室のおばさんにだと、あ
いさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が
実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。


●子どもは下からみる


 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。


 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。



 私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。私は海に飛び込み、
何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。



 私は舟にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それも
できなかった。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人
が、海から二男を助け出すところだった。


●「こいつは生きているだけでいい」


 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。



 昔の人は、いつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上
ばかりみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行
きづまったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という
原点から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。


●子育ては許して忘れる 


 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。 




 英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」と
も訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるため
に許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていた
ように思う。が、ある日。その意味がわかった。


 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。



 つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るた
めに忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の
愛の深さが決まる。



 もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども
をあるがままに認めるということ。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に
問題があったとしても、その問題を自分のものとして認めるということをいう。


 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。


***************************

あなたはけっしてひとりではないし、またほとんどの親が
それぞれ問題をかかえて、がんばっています。

外からは、それが見えないだけです。

また気が向いたら、いただいたメールを、みなさんに
紹介させてください。よろしくお願いします。

マガジンでは、いろいろな方の問題をよく取りあげます。
また参考にしてください。

おやすみなさい。

どうか、心安らかに!

そうそうもし荒れがあまりひどいようでしたら、
まずTさんだけで、心療内科を訪れて
みてください。アドバイスがもらえるはずです。

今は、よい薬もあります。

ひとりで悩まないこと。

では、

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●やはり、そうだったのか!

++++++++++++++++

K国の金xxが、認知症になっている
という情報が飛び込んできた。

「やはり、そうだったのか!」と、私は
思った。

K国のような独裁国家では、その独裁性が
強ければ強いほど、独裁者個人の人間性が
そのまま、外に表れてくる。

その人間性(人間性と言ってよいかどうか
わからないが)は、もうメチャメチャ。

一貫性のなさ。枝葉末節へのこだわり。
予見不可能な行動パターン。突飛もない
言動。支離滅裂な大本営発表。おかしな
復古主義などなど。

こうして書き上げたら、キリがない。
しかしそれが認知症によるもので
あるとするなら、すべて合点がいく。

報道によれば、1年前からその疑い
があったということだが、私は、この
4〜5年前からそうではないかと思って
いた。

何度も、「金xxは、まともではない」と
書いてきた。

しかしK国の民こそ、あわれ。そういう
独裁者であっても、ただひたすら従順に
従っていくしかない。

+++++++++++++++++

読売新聞は、つぎのように伝える。いわく……

『韓国のK国専門インターネット新聞、「デーリーNK」は、9月20日(07年)、K国の金xxに認
知症の初期症状が見られるとの情報を、米政府が入手、確認作業に入っていると伝えた。

 日本の消息筋が米政府高官から確認した情報として伝えたという。

 情報は1年前に入手され、K国の権力中枢だけが知る極秘事項。具体的な症状の程度は不
明だが、判断力の低下により、金xxが行ってきた文書決裁の一部を側近らが代行するなど、
国政運営全般に少しずつ支障が出ているという。

 金xxの発言や行動が統制できないため、身辺や生活を補佐する金xx個人の書記室が国政
運営に関与し始めているとされる』(読売新聞)と。

 認知症といっても、内容はさまざま。この記事によれば、(1)判断力の低下、(2)発言や行動
が統制できないということだから、血栓性の脳梗塞などによるようなものではなく、もう少し重篤
な認知症ではないかと思われる。

 脳の器質そのものが、変化している? たとえばアルツハイマー型の認知症など。突飛もな
い行動と言えば、先に、小泉首相と会談したおりには、飛行機いっぱいの松茸を、みやげとし
てくれたという話もある。

 その少し前には、ロシアの大統領には、やはり飛行機いっぱいの羊をもたせたという話も伝
わっている。ロシアの大統領が、「羊の肉はうまい」と言ったのが、そのきっかけだったという。
(この話は伝聞なので、不正確。馬だったかもしれない。)

 あとはみなさん、ご存知の通り。突然、ミサイルを発射してみせたり、核実験をしてみせたり
……。思い立ったように、おかしな建物を建造してみせたり……。最近では、突然、サッカー場
の建設や、オリンピック競技クラスの水泳場の建設を命じたりしている。

一貫性のなさ。枝葉末節へのこだわり。予見不可能な行動パターン。突飛もない言動。支離滅
裂な大本営発表。おかしな復古主義などなど。そうした一連の動きを、日本という外からなが
めていると、かえってこちらのほうが、気がへんになってしまうほどだった。

 とくに気になるのは、「統制できない行動」という部分。まさか? 徘徊が始まった?

 しかしこれらすべてに、「認知症」という病気を重ね合わせてみると、納得がいく。私たちは最
初から最後まで、まともでない人間を相手にしていた。そんな人間に振り回されていた。本気で
相手にして、ああでもない、こうでもないと、論じていた。

 本当のバカは、私たちだったということになる。

 報道によれば、「1年前」とあるが、私は、もっと前から疑っていたぞ。……ということで、この
話はここまで。

しかし韓国のN大統領は、そんな金xxを相手に、南北会談で、何を話し合うつもりなのだろう
か? 韓国のN大統領の言動も、どこかおかしい。へん。常識をはずれている。会談では、ひ
ょっとしたら、こんな会話が交わされるかもしれない。「おたがい、同じ病気なんて、いやです
な。がんばりましょう」と。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●姉が来た

++++++++++++++

介護施設に入った母を見舞うため、
郷里から姉夫婦が来た。
突然の来訪で、道案内しかできな
かった。母にしても、9か月
ぶりの再開である。

施設では、母と姉は、何やら会話
らしきものをしていた。

静かな時だった。穏やかな時だった。

私たち夫婦と、義兄は、少し遠くにある
椅子に座って、その様子をながめていた。

++++++++++++++

 時の流れは、そのときは、恐ろしくのろい。ときによどんだ川の流れのように、動きさえ止め
てしまう。

 しかしそれでも終わってみると、あっという間のできごと。そんなこともあったのかと、思うこと
も多い。すべては闇に消える。その過ぎ去った時の流れに驚く。10年を一瞬に思うこともあ
る。20年を一瞬に思うこともある。そしてこの時の流れは、つぎの瞬間には、私たちを例外な
く、「過去」という名の、無の世界へと追いやる。

 母は、もうすぐ92歳になる。介護施設でのケアがよかったのか、入所後3か月だが、以前よ
りはるかに元気になった。頭の回転も、速くなった。姉を見ると、すぐ名前を言い当てた。義兄
の顔もわかった。少しだが、冗談も理解できる。

 「そういうものだろうな」と思いつつ、静かな会話を遠くから見やる。私たちは私たちで、世間
話をつづける。が、やがてこの会話も終わり、姉夫婦は、帰る。一日は終わる。そして今、母と
姉の再会も、どこかへ消える。

 残るものは、何か? こうした過去から、残るものは、何か? それが「今」ということか。そ
う、そこにあるのは、「今」だけ。過去は今の中に残り、その今が、未来を作っていく。そしてそ
の未来も、今となった瞬間、過去のものとなっていく。

 いつか、少し先のことになるが、私も死ぬ。死んで、この世から消える。私が死んだあと、ひょ
っとしたら、この文章を読む人がいるかもしれない。私にとっては、「今」だが、その人にとって
は、過去ということになる。しかしこの文書を読んだ段階で、私の過去と、その人の今がつなが
る?

 考えてみれば、これはすばらしいことではないか。言うなれば、タイムマシーンということにな
る。反対に考えれば、私たちは過去に書いた人の文章を読んで、その過去にもどることができ
る。今のあなたが、そうしているように、だ。

 ・・・とまあ、話が脱線したが、母と姉の姿を横で見ながら、ついでにそんなことも考えた。

 今はその「今」だが、母も、つぎの瞬間には、この世から消えていなくなる。それを見ている私
も、この世から消えていなくなる。で、あるとするなら、私たちは、何のために生きているのか?
 ただ消えるために生きているのか? 答はNO!

・・・今は、何かとたいへんだが、そのたいへんさの中から、ドラマが生まれる。ほっと安らぐ時
など、一日のうちで、何時間もない。あとの時間は、そのためのもの。そのために、がんばる。
しかしそこから生まれるドラマこそが、人間の生きる意味へとつながっていく。今を生きる人た
ちに、勇気と希望を与える。

 つまりそのために、私は生きている。あなたは生きている。みんな、生きている。

 さあ、今日もがんばろう! 負けてなるものか!

 
はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi
 
●浜松百撰

+++++++++++++++++++

「浜松百撰」という、まれに見るというか、
全国でもよく知られたタウン雑誌がある。

おそらく・・・というより、まちがいなく、
その質の高さは、日本でも有数と考えてよい。

内容もすばらしいが、構成、デザインともに、
群を抜いている。しかも、そういう雑誌が、
今から40〜50年前に生まれたということ。
それが今につづいているということ。

浜松に住む人たちのみならず、文芸人と呼ばれる
人たちにまで、これほどまでに大きな
影響を与えたタウン誌は、ほかにない。

率直に言う。昔から、よく言われる。「浜松には
文化がない」と。たしかにそうで、そのことは、
ほかの文化都市と呼ばれる都市とくらべてみると、
よくわかる。

そういう中で、浜松百撰というタウン誌は、燦然
(さんぜん)と輝いていた。

・・・「いた」というのは、今は、少し時代が
変わった。以前は、どの店に入っても、その雑誌
が目についた。そしてどの人も、その雑誌に
読みふけっていた。

今は、情報そのものが、氾濫している。種々雑多
な情報が、容赦なく、私たちを襲う。洪水のように
襲う。そうした氾濫の中で、浜松百撰の陰が、少し
薄くなった?

それに、書いている人の世代も変わった。昔は、
浜松百撰を中心に、ひとつのサークルができた。
知り合いも、それでできた。が、今は、私は
ジジババの仲間。私を知る人はいない。知っている
人も、少ない。

残念なことだが、それにさみしいことだが、
これも時代の流れかもしれない。

しかしこれだけは覚えておくとよい。浜松百撰は
浜松の歴史に残るタウン誌である。その地位だけは
これから先も、ずっと残る。消えことはない。

その浜松百撰が、今年、50周年を迎えるという。
先週、その連絡が届いた。

浜松百撰の変わらぬ愛読者の一人として、浜松百撰
50周年記念を、心から祝いたい。プラス、
Y前編集長さん、おめでとうございます!

これからもますます元気な浜松百撰を提供して
ください。

++++++++++++++++++++

●心が破壊される子どもたち

+++++++++++++++

はげしい受験競争。過負担。慢性的な
欲求不満。それがしばらくつづくと、
子どもの心は、破壊される。

やさしい思いやりの心は消え、乾いた
砂漠のようになる。

言いたいことをズケズケと言う。したい
ことを、容赦なくする。それには、当然、
いじめも含まれる。

印象に残っている子どもに、Sさん(中2)
という女の子がいた。

そのSさんが、ある日、私の顔を見て、こう
言った。

「あんたも、くだらねえ仕事、してるね。
私しゃ、おとなになったら、もう少しマシな
仕事をすっからね」と。

が、悲劇は、自分の子どもがそうなりな
がらも、親はそれに気づかないということ。

たいていのばあい、親は、子どもの言い分
だけを鵜呑みにする。自分の子どもが、
「A君が悪い」と言えば、A君が悪いと
決めつけてしまう。「B先生が悪い」と
言えば、B先生が悪いと決めつけてしまう。

こうして親は、自分の子どもを見失う。

昔、こんなことを相談してきた母親がいた。
話を聞くと、その母親の子ども(小5)が、
学校でいじめにあっているという。

私はそれを聞いて、心底、驚いた。何を
隠そう、その母親の子どもこそが、いじめ
グループの中心核にいたからだ。ほかの
父母からの相談もつづいた。その子どもが
こわくて、転校した生徒も、いたほどで
ある。

その子どもも、受験競争に巻きこまれる前
までは、心のやさしい、ほがらかな子ども
だった。笑顔も、青い空に抜けるように、
明るかった。

そんな子どもが、小学5年になると同時に、
分厚い問題集をかかえて、私の教室に来る
ようになった。とたん、人が変わった。

私は何度か、その子どもの母親に相談しよう
とした。しかし、いつも答はひとつ。

「学校でいじめにあっています。それでうち
の子は、イライラしているのです」と。

結局、その子どもは、6年になると同時に、
私のところを去っていった。

生意気な態度。おとなをおとなとも思わない
言動。私に対する一片の畏敬の念もなかった。

私が、「そういう態度をつづけるなら、君の
お母さんに言いつける」とおどしたのが、
まずかった? その日から、その子どもは、
家で私の悪口を並べた。つまり先手を打った。

だからその子どもも、母親も、私をうしろ足で
蹴飛ばすかのようにして、私のもとを去った。

今なら、もう少し別の指導ができたかもしれない。
そのとき私は、40代のはじめ。

怒りとむなしさで、私の心はボロボロになった。
しかし本当に犠牲者は、私ではなく、その
子ども自身だったかもしれない。

破壊された心は、簡単には修復されない。
乾いた心は、たいていはヒビ割れたまま、
その子どもの心のキズとなって、一生、残る。

が、悪いのは、その子どもではない。進学塾が悪い
のでもない。

悪いのは、格差。社会的格差。親たちはその格差を
毎日、いやというほど、見せつけられている。
その格差が、親をして、子どもの受験競争に駆り立
てる。

そしてそれが子どもの心を破壊する。

Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2228)

●今日・あれこれ(9月21日)金曜日

++++++++++++++

正月に、アメリカに住む二男夫婦が
浜松に来る。

孫の誠司と芽依も来る。いろいろ
計画を立てる。真っ先に考えたのが、
ディズニーランドへ行くこと。

ついでにユニバーサル・スタジオにも
行こう。

二男夫婦は、その間、京都か奈良へ
でも行ってくればいい。

殺風景な景色に、ポッと花が咲いた
ような気分。

床についてからも、ワイフと話すのは
そのことばかり。

そうそう一度、私の教室で、誠司を
教えてみたい。私にとっては、夢の
ようなできごとになるにちがいない。

生涯でいちばんすばらしいレッスンを
して見せてやろう。誠司は、日本では、
年中児ということになる。

++++++++++++++

●気温45度

 少し前、ある温泉で、岩盤風呂なるものに入った。薄い浴衣を着て、ワイフと2人で入った。
室温は45度。湿度80%。猛烈な熱さである。(暑い、ではなく、熱い!)

私「今年、中国北部では、気温が45度にもなったそうだ」
ワ「ここと同じね」
私「そう。でも湿度は、そんなに高くなかったと思う」
ワ「ここは80%よ」
私「ワーッ、それにしてもすごい。45度なんて、とても耐えられないよ」と。

 私たちは、50年後の日本を模擬体験したことになる。あるいは10年後かもしれない。入浴
方法の注意書きどおり、10分入浴、10分休憩。それを3回繰りかえした。が、それでダウン。

 ふつうの風呂でも、43度が限界。中に45度でも平気という人がいる。しかし私のばあい、適
温は40〜41度。43度の風呂には入れない。

 が、45度とは! もし気温が45度になったら、人間はどうやってその日を過ごすのだろう。
今年、あのメルボルン市でも、気温が40度を超えたという。そこで「どうやって過ごしたか?」と
聞くと、その友人は、「家の中で寝ていた」と。

 友人の家もそうだが、オーストラリアでは、クーラーのない家が多い。その分、家の壁は厚く、
天井が高い。

私「気温が45度にもなったら、人間は、生きていかれないよ」
ワ「気が狂う人も出てくるわね」
私「クーラーも45度あたりが限界らしい。いくら熱を外で放熱するといっても、外気が45度で
は、どうしようもない」

ワ「どうしたらいいのかしら?」
私「クーラーの外部装置そのものを、水冷化するとか、そういう方法がある」
ワ「クーラー自体を一度冷やして、それで室温を外へ放熱するという方法ね」
私「そう。それしかない。しかしコストがかかる。つまりその分だけ、電気を余計につかう。つま
りますます温暖化は進む」と。

 今はまだよい。しかしそのころになると、私たち夫婦も、70歳とか80歳になっている。体力も
弱くなるだろう。今でもヒーヒー言っている。45度になったら、もう死ぬしかない。

ワ「50度になったら、どうなるのかしら?」
私「急速に水の蒸発が始まるようになる」
ワ「海の水も、涸(か)れるのね」
私「まあ、そういうこと。空を暑い雲がおおい、気温はますます上昇する。それこそ蒸し風呂み
たいになるだろうね」
ワ「毎日、サウナに入っているようなものね」と。

 45度という気温は、そういうのをいう。深刻な話なのだが、どうもその深刻さに実感が伴わな
い。私たちは、笑いながら、そんな会話をした。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●20の難し

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「この世の中に、悟りへの道を始める
にあたって、成し難いことが20ある」
と、仏教では教える(四十二章経)。

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一、貧しくて施すことは難く、
二、慢心にして道を学ぶことは難く、
三、命を捨てて道を求めることは難く、
四、仏の在世に生を受けることは難く、
五、仏の教えを聞くことは難く、
六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、
七、よいものを見て求めないことは難く、
八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、
九、辱(はずかし)められて怒らないことは難く、
十、事が起きても無心であることは難く、
十一、広く学び、深く究めることは難く、
十二、初心の人を軽んじないことは難く、
十三、慢心を除くことは難く、
十四、よい友を得ることは難く、
十五、道を学んでさとりに入ることは難く、
十六、外界の環境に動かされないことは難く、
十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、
十八、心をいつも平らかに保つことは難く、
十九、是非をあげつらわないことは難く、
二十、よい手段を学び知ることは難い。(以上「仏教聖典」より)

 釈迦が、こうしてものごとを教条的、つまり箇条書きにしてものを説いたかどうかは別として、
(私は後世の学者たちが、まとめたものだと思うが)、ここに書いてあることは、たいへん参考
になる。

 その第一。私がもっている視点とは、まったく異なった視点で、書かれていること。読んだ瞬
間、バチバチと脳みその中で、火花が散るのを感じた。

 たとえば同じ問題でも、大脳生理学的な視点で見たばあい、心理学的な視点で見たばあい、
さらに教育的な視点で見たばあいとでは、それぞれ見方が分かれる。ここに書かれている、「2
0の難し」について言えば、宗教的な視点で書かれている。

 私なりの解釈を加えてみる。

一、貧しくて施すことは難く、(自分が困っているのに、他人を助けるのは、難しい。)
二、慢心にして道を学ぶことは難く、(ものを学ぶには、謙虚でなければならない。)
三、命を捨てて道を求めることは難く、
四、仏の在世に生を受けることは難く、(仏が生きているときに、生まれるのは、難しい。)
五、仏の教えを聞くことは難く、(仏の教えに接することができるのは、難しい。)
六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、(本能をコントロールするのは、難しい。)
七、よいものを見て求めないことは難く、(物欲を抑えるのは、難しい。)
八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、
九、辱(はずかし)められて怒らないことは難く、
十、事が起きても無心であることは難く、(重大事のとき、平静を保つのは、難しい。)
十一、広く学び、深く究めることは難く、(視野を広くもち、深く探求するのは、難しい。)
十二、初心の人を軽んじないことは難く、(学び始めた人を、軽く見ないことは、難しい。)
十三、慢心を除くことは難く、(おごり高ぶった心を取り除くのは、難しい。)
十四、よい友を得ることは難く、
十五、道を学んでさとりに入ることは難く、(悟りの境地に入るのは、難しい。)
十六、外界の環境に動かされないことは難く、(自分を保つのは、難しい。)
十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、(相手に応じて、教えを説くのは難しい。)
十八、心をいつも平らかに保つことは難く、(いつも平静でいるのは、難しい。)
十九、是非をあげつらわないことは難く、(ささいなことを言い立てないのは、難しい。)
二十、よい手段を学び知ることは難い。(よい解決方法を学んで知るのは、難しい。)
(以上「仏教聖典」より)

意味がよくわからないのが、三の『命を捨てて道を求めることは難く』。ここでいう「道」というの
は、「仏道」のこと? 仏教の世界には、「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」という言葉がある。
「仏法を得るために、身命をささげて惜しまないこと」(日本語大辞典)という意味である。つまり
仏道を究めるためには、命がけでせよという意味。いいかげんな気持ちでは、究めることはで
きない、と。

  が、ここで『命を捨てたのでは、道を求めることは、難しい』と教える。翻訳がおかしいの
か? 仏典の多くは、サンスクリット語(ヒンズー語)で書かれたあと、最終的には漢語(中国)
→日本語へと翻訳されている。

 ……とまあ、重箱の底をほじくり返すような議論は、やめにしたい。仏教の世界では、こうした
議論が、あまりにも多すぎる。その道の人たちと議論していると、ときどき、何がなんだか、わ
けがわからなくなるときがある。

 こんなことがあった。

 ある宗教団体では、「南無妙法蓮華経」という題目を唱える。そこで私が、「どういう意味です
か」と聞くと、その人は、こう言った。「南無」の言葉だけでも、説明するのに、何か月もかかる、
と。(何か月、だぞ!)

 そこで私は、東京のインド大使館の領事部まで足を運び、意味を調べた。そのとき書いた原
稿が、つぎのもの。

+++++++++++

●絶対的な服従・帰依

 絶対的な帰依……あらゆる信仰に共通する条件。絶対的な服従・帰依なくして、信仰は成り
たたない。

 仏教の世界にも、「南無」という言葉がある。もともとは、サンスクリット語の「ナム」の当て字
である。その「ナム」もまた、「帰依する」という意味である。ついでながら、日本のある宗派で
は、「南無妙法蓮華経」という題目を唱える。

 南無は、ここに書いた、「ナム」の当て字。

 妙法は、「ミョウホウ」、同じくサンスクリット語で、「不思議な」とか、「因果な」という意味。それ
に「妙法」という漢字を当てた。

蓮華は、「レンゲ」、同じくサンスクリット語で、「物語」という意味。それに「蓮華」という漢字を当
てた。

 「経」は、「経典」の経。中国で、仏典として編纂されるときに、つけ加えられた。つまり、「南
無・妙法・蓮華・経」は、「不思議な物語に帰依する経典」ということになる。

 これらの事実は、私が直接、東京にあるインド大使館の領事部の人の協力を得て、調べたも
のである。

 ただ「ナム」が意味する「帰依」については、「帰依」というほど、深い意味で使われているので
はない。たとえばインドでは、あいさつとして、「ナマ(=ナム)・ステ」という言葉を使う。もともと
は、「あなたに帰依します」という意味だが、そんな深い意味を考えてあいさつをする人はいな
い。会ったときも、別れるときも、軽く両手を合わせて、「ナマステ!」と言いあう。

+++++++++++++

 つまり「説明するのに、何か月もかかる」というような、大げさな言葉ではないということ。ウソ
だと思うなら、インド大使館の領事部へ自分で行ってみたらよい。サンスクリット語の専門家も
いて、ていねいに教えてもらえるはず。

 話をもどす。要するに、謙虚に他人の教えには耳を傾け、日々に視野を広め、心穏やかに生
きろということか。

 今日一日だけでも、この「20の難し」を心にとめて、過ごしてみたい。(私でも、悟りの境地に
達することができるかな?)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●首相の健康診断

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K国の金xxが、認知症の初期症状
を示しているという。(拉致問題に
抗議の念をこめて、金xxとしている。)

認知症という病気(?)がどういう
ものか知らない人も多いかと思う。が、
認知症になると、その人がその人で
なくなってしまう。

私も身近で、その認知症の人たち
を見てきた。……見ている。

で、認知症になるのは、しかたの
ないことだが、あの評論家の立花
T氏が、脳梗塞を起こしていたという
手記を読んで、私は、即座にこう
思った。

首相、もしくは首相に立候補する
人は、必要最低条件として、脳の
検査だけは受けるべきではないか、
と。

首相という立場の人は、ふつうの
人以上の判断力が求められる。
その首相がもし、任期の途中で、
血栓性でも何でもよいが、認知症
になったら、それこそ、日本は、
たいへんなことになる。

そんなわけで、健康診断書を添えて、
首相に立候補すべきではないか、と。

+++++++++++++

 今では、どんな会社に入社するにも、健康診断書が必要である。私の息子にしても、パイロッ
トという職業的な特殊性もあるが、数回にわたって、そのつど、泊まりがけで、健康診断を受け
た。もちろん脳みそは、徹底的に検査された。

 だったら、首相、つまり日本の「長」たるべき地位を目指す人も、そうすべきではないのか。個
人的には(=内密には)、健康診断を受けているのだろうが、それを公表してから、首相候補
者として立候補する。

 とくに脳みその検査は、徹底的にしてもらいたい。その悪例というか、現実の問題が、あのK
国で起こりつつある。韓国のK国専門インターネット新聞、「デーリーNK」によれば、K国の金x
xに認知症の初期症状が見られるとの情報を、米政府が入手、確認作業に入っているそうだ
(9月20日)。

 道理で……、と思い当たるフシが、いくつかある。この4〜5年、金xxは、おかしなことばかり
している。しかしこれはK国の問題。K国が、それでよいと思うのなら、どんな指導者を選ぼう
が、それはK国の勝手。しかしこの日本では、困る。

 もし認知症の人物、あるいは認知症の初期症状をすでに示している人物が首相にでもなった
ら、それこそ、たいへん。この日本は、メチャメチャになってしまう。

 私が見たところ、候補者の1人のA氏は、少しあぶないのではないか。たまたまテレビを見て
いたときも、「留年」と「留任」という言葉を、言いまちがえていた。その少し前は、「ロシア」と「ソ
連」を、言いまちがえていた。もちろん、A氏がそうだというわけではないが、認知症が進むと、
こうした言葉の取り違えが起きることは、よく知られている。

 認知症の初期症状……メディカル・トリビューンのHPでは、「認知症の初期症状」として、つ
ぎのものをあげている。

★同じことを言ったり、聞いたりする。
★ものの名前が出てこなかったりする。
★置き忘れやしまい忘れが目立つ。
★以前はあった関心や興味が失われた。
★日課をしなくなった。
★だらしなくなった。
★時間や場所の感覚が不確かになった。
★慣れているところで道に迷った。
★財布が盗まれたと言う。
★計算のまちがいが多くなった。
★ささいなことで怒りっぽくなった。
★蛇口やガス栓の締め忘れが目立った。

 もっとも認知症といっても、(1)脳血栓性によるもの、(2)脳腫瘍によるもの、(3)うつ病によ
るもの、(4)アルツハイマー型によるものなどに分類される。このうち多いのが、(1)の脳血栓
性によるものと、(4)アルツハイマー型によるものだそうだ(同)。

 脳血栓性によるものというのは、脳梗塞をいう。(ただし脳梗塞イコール、認知症というわけで
はない。誤解のないように!)その脳梗塞でも、通常の検査ではわかりにくい微細脳梗塞とい
うのもある。末端の細い血管がつまり、それが原因で脳梗塞を起こす。

 そうした検査結果、微細脳梗塞も含めた検査結果を公表してから、首相候補者として立候補
する。もしそれがいやなら、あるいは、すでに脳梗塞を起こしているようなら、立候補すべきで
はない。

 さらに言えば……。国会議員の定年がよく話題になる。が、定年という(数字)ではなく、やは
り健康問題を重視すべきである。とくにここに書いた、脳の病気、認知症については、厳格にし
たらよい。

 またその心配のある人が、国会議員になるのだけは、やめてもらいたい。そこで……。

(1)首相候補者の健康診断書の公表を義務づける。(脳と全身)
(2)国会議員の健康診断書の公表を義務づける。(脳)

 ぜひ、ぜひ、やってもらいたい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(9月24日)

++++++++++++++

政治から権威が消えた。それは
それとして歓迎すべきことかも
しれない。

しかしその政治が、今、ギャグ化
し始めている。ギャグはギャグで
も、お笑い化。

よい例が、宮崎県のS知事。お笑
いタレントが、そのまま知事にな
ってしまった。

今回の首相選もそうだ。

福田氏(71)が、330票。対立候補
のA氏(67)が、197票。福田氏は
そのまま首相に指名された。

A氏が行くところ、どこでも、若い
人たちの、「Tチャン」「Tチャン」の
大合唱が聞こえたという。

だれもこういう現象を、おかしいと
思わない? ごくふつうのこととし
て、受け入れてしまっている?

わかりやすく言えば、日本中が、
ノーブレイン状態。自ら考えること
そのものを放棄してしまっている。

政治とお笑い番組、もっと言えば、
民主主義とお笑い番組の区別すら
つかなくなってしまった?

そのうち、あのビートT氏が首相、
みの・M氏が幹事長、タモリ氏が
衆議院議長になる時代がやって
くるかもしれない。

それはそれで、楽しい時代かもし
れない。が、政治は大混乱。そのスキ
をねらって、今度は政治は、一気に、
ファシズム化する危険性がある。

かつてのドイツがそうだった。日本も
そうだった。大正デモクラシーとか
何とかもてはやされたあと、日本は
一気にファシズムへの道を進み始め
た。

テレビでも、こんな場面が流された。
A氏がどこかへ行ったときのこと。
1人の女性(45歳くらい)が、「Aさん
にサインをしてもらった」と、まるで
10代はじめの女の子のように、はしゃ
いで喜んでいた。

頭の中は、からっぽ。恐ろしいほど
からっぽ。

そんなからっぽの人たちが、選挙
で代表を決めていく。日本が進む
べき道を決めていく。

選挙は、ますますショー化し、政治
はますますギャグ化する。そして
その先、日本は、大混乱。「いいのか、
日本!」と叫んだところで、この話は
おしまい。

++++++++++++++

●私にとって、考えること

 考えることには、ある種の苦痛がともなう。たとえて言うなら、中学校で勉強する数学の問題
に似ている。二次関数、合同、相似など。さらに言えば、高校で勉強する微分、積分、あるいは
三角関数の問題に似ている。難解な論文にも、似ている。

 だからたいていの人は、考えることそのものを放棄してしまう。できるなら、考えないですまそ
うとする。中にはカルト教団の信者のように、考えることそのものを、他人に預けてしまう人もい
る。

 その結果として、その人は、ノーブレインの状態になる。わかりやすく言えば、からっぽ。恩師
の田丸先生は、そういう脳みそを称して、「昆虫のような脳みそ」と言った。ずいぶんときびしい
言葉だが、そう評されてもしかたないような、からっぽの人は多い。

 さらに脳みその底に穴があいたような人さえいる。50代、60代の人の話ではない。20代、3
0代の人でも、そういう人はいる。情報が洪水のように頭の中に入ってくる。しかしそれを分析
したり、論理的にまとめる力はない。ないまま、一方的に、外にたれ流してしまう。

 だからますますからっぽになる。

 こういう人たちは、あえて言うなら、地図をもたないまま、山の中に入るようなもの。そのつど
道に迷って、右往左往する。そのときどきの欲望にまどわされ、右往左往する。わかりやすく言
えば、人生の放浪者。損をするのは、結局は、その人自身ということになる。

 仏教でも、「悟りへの道」(仏教聖典)として、つぎのように説明する(パーリ。中部二、一切漏
経)。

 『第一に、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのも
とは、煩悩(ぼんのう)であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現れることを
正しく知るのである。
 見方を誤るから、我という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、このまちがっ
た考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる』(仏教伝道協会)と。

 一方、考えることには、ほかにはない、すばらしさがある。私はよく、考えることを、荒野を歩く
ことにたとえる。それはそのとおりで、ひとりで考えていると、あたかも自分が、どこか広い荒野
をさまよい歩いているかのように思うことがある。

 あるいはときには、背の高いアシを手でかき分けながら進んでいるように思うこともある。

 そんなとき、まれに、その下に小さな輝く石を見つけることがある。私はそれをよく宝石にたと
える。小さな宝石だが、私はそれを見つけると、すかさずその宝石に向かって進んでいく。その
とき覚える感動や喜びといったものは、ほかの世界では、絶対に経験できないものである。

 またそれがあるから、考えることをやめることができない。趣味といえば、趣味ということにな
る。それが現実の世界で、利益を生むことは、まずない。私のしていることは、その程度のこと
かもしれない。しかしそれが今、私の生きがいになっている。時間を惜しんで考える、その原動
力になっている。

 人はなぜ生きるか? 一般論に従えば、真・善・美の追求の中に、人は最終的な生きがいを
見いだすという。その大前提が、「考える」ということである。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●「マッチ棒4本で、81を作れ」

+++++++++++

小学5年のMさんが、こんな
問題を出した。

「マッチ棒4本で、81を作れ」と。

しばらく考えて答を言うと、
「さすが、先生!」と言ってくれ
た。

どこかのテレビ番組で、そういう
クイズが出たのだろう。

「君が考えた問題か?」と
聞くと、「友だちから聞いた」と。

「自分で考えたというのなら、
それはすばらしい。しかし友だち
から聞いたというのでは、意味が
ない。そういう問題は、自分で
考えなくちゃあ」と。

+++++++++++

 以前書いた原稿を読みなおしてみる。「またか!」と思われる人も多いかと思うので、今日は
自分の書いた原稿に注釈を加えてみたい。

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思考と情報を混同するとき 

●人間は考えるアシである

パスカルは、『人間は考えるアシである』(パンセ)と言った。

『思考が人間の偉大さをなす』とも。

よく誤解されるが、「考える」ということと、頭の中の情報を加工して、外に出すというのは、別の
ことである。たとえばこんな会話。

A「昼に何を食べる?」
B「スパゲティはどう?」
A「いいね。どこの店にする?」
B「今度できた、角の店はどう?」
A「ああ、あそこか。そう言えば、誰かもあの店のスパゲティはおいしいと話していたな」と。

 この中でAとBは、一見考えてものをしゃべっているようにみえるが、その実、この二人は何も
考えていない。脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話として外に取り出し
ているにすぎない。もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

たとえば一人の園児が掛け算の九九を、ペラペラと言ったとする。しかしだからといって、その
園児は頭がよいということにはならない。算数ができるということにはならない。

●考えることには苦痛がともなう

 考えるということには、ある種の苦痛がともなう。そのためたいていの人は、無意識のうちに
も、考えることを避けようとする。できるなら考えないですまそうとする。中には考えることを他
人に任せてしまう人がいる。あるカルト教団に属する信者と、こんな会話をしたことがある。

私が「あなたは指導者の話を、少しは疑ってみてはどうですか」と言ったときのこと。その人は
こう言った。「C先生は、何万冊もの本を読んでおられる。まちがいは、ない」と。

●人間は思考するから人間

 人間は、考えるから人間である。懸命に考えること自体に意味がある。

デカルトも、『われ思う、ゆえにわれあり』(方法序説)という有名な言葉を残している。

正しいとか、まちがっているとかいう判断は、それをすること自体、まちがっている。こんなこと
があった。

ある朝幼稚園へ行くと、一人の園児が、わき目もふらずに穴を掘っていた。「何をしている
の?」と声をかけると、「石の赤ちゃんをさがしている」と。その子どもは、石は土の中から生ま
れるものだと思っていた。

おとなから見れば、幼稚な行為かもしれないが、その子どもは子どもなりに、懸命に考えて、そ
うしていた。つまりそれこそが、パスカルのいう「人間の偉大さ」なのである。

●知識と思考は別のもの

 多くの親たちは、知識と思考を混同している。混同したまま、子どもに知識を身につけさせる
ことが教育だと誤解している。「ほら算数教室」「ほら英語教室」と。

それがムダだとは思わないが、しかしこういう教育観は、一方でもっと大切なものを犠牲にして
しまう。かえって子どもから考えるという習慣を奪ってしまう。もっと言えば、賢い子どもというの
は、自分で考える力のある子どもをいう。

いくら知識があっても、自分で考える力のない子どもは、賢い子どもとは言わない。頭のよし悪
しも関係ない。

映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母はこう言っている。「バカなことをする人のこ
とを、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。ここをまちがえると、教育の柱そのものがゆがん
でくる。私はそれを心配する。

(付記)

●日本の教育の最大の欠陥は、子どもたちに考えさせないこと。明治の昔から、「詰め込み教
育」が基本になっている。

さらにそのルーツと言えば、寺子屋教育であり、各宗派の本山教育である。つまり日本の教育
は、徹底した上意下達方式のもと、知識を一方的に詰め込み、画一的な子どもをつくるのが基
本になっている。もっと言えば「従順でもの言わぬ民」づくりが基本になっている。

戦後、日本の教育は大きく変わったとされるが、その流れは今もそれほど変わっていない。日
本人の多くは、そういうのが教育であると思い込まされているが、それこそ世界の非常識。

ロンドン大学の故森嶋通夫名誉教授も、「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。
自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判
断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」(「コウとうけん」・98
年・田丸先生指摘)と警告している。

●低俗化する夜の番組

 夜のバラエティ番組を見ていると、司会者たちがペラペラと調子のよいことをしゃべっている
のがわかる。しかし彼らもまた、脳の表層部分に蓄えられた情報を、条件に合わせて、会話と
して外に取り出しているにすぎない。

一見考えているように見えるが、やはりその実、何も考えていない。思考というのは、本文にも
書いたように、それ自体、ある種の苦痛がともなう。人によっては本当に頭が痛くなることもあ
る。また考えたからといって、結論や答が出るとは限らない。そのため考えるだけでイライラし
たり、不快になったりする人もいる。だから大半の人は、考えること自体を避けようとする。

 ただ考えるといっても、浅い深いはある。さらに同じことを繰り返して考えるということもある。
私のばあいは、文を書くという方法で、できるだけ深く考えるようにしている。また文にして残す
という方法で、できるだけ同じことを繰り返し考えないようにしている。

私にとって生きるということは、考えること。考えるということは、書くこと。モンテーニュ(フラン
スの哲学者、1533〜92)も、「『考える』という言葉を聞くが、私は何か書いているときのほ
か、考えたことはない」(随想録)と書いている。

ものを書くということには、そういう意味も含まれる。

+++++++++++

 こういう文章をいつも書いているので、ときどき、こう言われる。「先生は、夜のバラエティ番
組が嫌いのですか?」と。

 好きとか、嫌いとかという問題ではない。ああいうのを見ていると、「これが同じ人間か」「これ
が同じ日本人か」と思って、悲しくなる。あえて言うなら、情報の洪水。その洪水は、頭の上から
入ってきて、そのまま下へと流れ落ちていく。

 ロンドン大学の森嶋先生は、この原稿を書いたあと、しばらくして亡くなった。全国紙にも、そ
の訃報が載っていた。恩師田丸先生の親友であったとも聞いている。だからここでは「故」をつ
けて、「故森嶋……」とした。

 その故森嶋名誉教授は、こう言っている。「日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育であ
る。自分で考え、自分で判断する訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自
己判断のできる人間を育てなければ、2050年の日本は本当にダメになる」と。

 こう言われても、ピンとこない人も多いかもしれない。とくにこの日本で生まれ育ち、日本で生
活している人には、それがわからない。(……と思う。)ただこういうことは言える。

 (考える人)からは、(考えない人)がよくわかる。「よくわかる」というより、はっきりとした(差)
を感ずる。

 しかし(考えない人)からは、(考える人)がわからない。が、その(差)は相対的なもの。たとえ
ば田丸先生や故森嶋先生レベルから見ると、私など、まったくものを考えない人間に映るかも
しれない。しかしそんな私でも、ときどき(考えない人)が、どういう人か、わかるときがある。

 ……というより、これは極端なケースかもしれないが、そのことは老人介護センターへ行って
みると、よくわかる。あそこで日々を過ごしている老人たちは、何も考えていない。まったく、何
も考えていない。

 ではそこにいる老人たちと、私が、どれほどちがうかと言えば、それほど、ちがわない。中
に、「私は考えている」と言う人はいる。(私もその部類だが……。)しかしその実、何も考えて
いない。多くは、日々の生活を繰りかえすように、毎日、同じことを繰りかえし考えているだけ。

 思想の進歩など、もとから望むべくもない。そこでああのマーク・トウェーン(「トム・ソーヤの冒
険」の著者)はこう言った。

『皆と同じことをしていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。マーク・トウェーン
は、「皆と違ったことをするのが、自由」という意味で、そう言ったが、この言葉を拡大すると、こ
うなる。

 『昨日と同じことを考えていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』と。あるいは、
 『みなと同じことを考えていると感じたら、そのときは自分が変わるべきとき』でも、よい。

 考えるということは、まさに日々の研鑽(けんさん)のみによって、磨かれるもの。そしてそれ
には、際限がない。目標もなければ、ゴールもない。あるいは日々の研鑽をやめたとたん、考
えはしぼみ、後退する。

 それはまさに、健康論に似ている。究極の健康法など、ない。「これをしたから、一生、健康」
と言うような健康法はない。体を鍛えるのをやめたとたん、その人は、不健康に向かって、まっ
しぐらに進む。

 さて、今、多くの子どもたちもまた、思考と情報を混同している。何度も書くが、思考は、分析
と論理によって成り立つ。分析や論理をともなわない思考は、一見、思考に見えても、思考でも
何でもない。よい例が、冒頭にあげた、「マッチ棒4本で、81を作れ」という問題である。

 答は、マッチ棒を2本ずつ使って、「く」を2つ作る。それで「くく(九九)」とし、「九九、81」とな
る。

 私はこの問題を解くとき、「81」という数字に着目した。かけ算の「81」を連想した。だから、
「九九」→「クク」となった。その「クク」が、「くく」となった。しかしこんなのは、知恵の(遊び)でし
かない。英語で言えば、リドル(とんち)。あえて言うなら、ヒラメキ! ここでいう思考とは、本質
的に別のものである。

 現にそのあと、その問題を出したMさんは、今度は血液型による性格判断の話を、し始め
た。「O型の人は、ジコチューなんだってエ」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
 思考論 思考と情報)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●韓国のガソリン事情

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韓国の燃料効率は悪いと
よく言われる。つまり社会構造
そのものが、省エネ構造になって
いない。

だから原油の価格があがると、
その影響を日本よりも大きく
受ける。

簡単に知るためには、韓国での
ガソリン1リットルあたりの
価格を見ればよい。

それによると、9月24日現在、
韓国では、1リットルあたり、
約198円!

日本と韓国では税制も異なるので、
一概に比較はできないが、
約198円というのは、日本の価格の
1・5倍。

「高いなア〜」というのが、私の
実感である。

+++++++++++++

東亜N報は、以下のように伝える。

『ガソリン価格は7月の第4週(1557.38ウォン)以来、下がり気味を見せたが、最近、再び2
週間連続で上昇した。 
地域ごとにみると、ソウルが1リットル=1584.83ウォンでもっとも高く、△大田(テジョン)=
1559.86ウォン、△蔚山(ウルサン)=1557.00ウォン、△光州(クァンジュ)=1554.50
ウォンの順だった』と。
 
日本円に換算すると、1585ウォン=1585x0・125=約198円(9月24日レート)、つまり1
リットルあたり、約198円となる。

 高い!、……ということは、韓国の経済構造は、原油高には、弱いということ。たまたま今
は、(意図的ではあるにせよ)、ウォン高であるから、何とかもちここたえている。が、ここで仮
に5%でもウォン安ということにでもなれば、それはそのまま原油価格にはねかえってくる。

 ここに韓国経済最大のアキレス腱がある。

 円安で、輸出産業を刺激したい。しかし円安になれば、原油高の影響をモロに受ける。貿易
収支は、そのまま赤字。そうなればN大統領の失政が、白日のもとにさらけ出されることにな
る。

 あやうし、韓国経済!


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2229)

●ある老夫婦の自殺

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フランスの左派系哲学者で、エコロジストの
アンドレ・ゴルツ氏(84)と妻のドリーヌさん(83)が、
パリ南東のオーブ県にある自宅で、並んで
死亡しているのを近親者が発見した。
心中したとみられている(AFP)。

++++++++++++++++++++

 「アンドレ・ゴルツ」という名前は、はじめて知った。「裏切者」「エコロジスト宣言」「労働のメタ
モルフォーズ」など、資本主義に批判的な著書を書いていたことも、はじめて知った。しかしAF
P電の小さな記事を読んだとき、ジンと胸が熱くなった。

 アンドレ・ゴルツ夫妻は、自宅で並んで死んでいたという。ゴルツ氏が、84歳。妻のドリーヌさ
んは、83歳。

 最近、「リビング・ウイル」という言葉を、よく耳にする。「生きる意思」と訳すのか? 安楽死の
問題とからんで、使われることが多い。

 そのリビング・ウイル。

(1)医学的に不治の状態で、死期が迫っているばあい、延命措置を断る。
(2)ただし苦痛を和らげる処置は最大限実施してほしい。
(3)数か月以上にわたって植物状態に陥ったときは、生命維持装置を取りやめてほしい、の3
つから成り立っている(日本尊厳死協会)。

 宗教の世界では、「自殺は悪」という前提で、ものを考える。「自己殺人」という言葉を使う人
もいる。しかし自殺は、絶対的な悪かというと、そうとも言えないのではないか。アンドレ・ゴルツ
夫妻の心中記事を読んだとき、ふと、そんなことを感じた。心中の理由は、病気がちの妻だっ
たという。

 自殺をけっして美化してはいけない。それはよくわかっている。しかし私はこの記事を読んだ
とき、その背景に、何とも言えないいとおしさのようなものを、覚えた。老いゆくものの、心さびし
さ。生活疲れ。看護疲れ。それ以上に、夫婦がたがいを思いやる、愛情の深さ。ゴルツ氏にし
てみれば、妻を失うという喪失感に耐えられなかったのかもしれない。あるいは、妻の方が、安
楽死を望み、ゴルツ氏が、それに応じたのかもしれない。

 2人の間で、どんな会話がなされたかについては、知るよしもない。しかし2人がベッドの上
で、並んで亡くなっていたという事実が、すべてをもの語ている。私の胸がジンと熱くなったの
も、そのためである。

 ……と書きながら、実は、この問題は、私たち夫婦の問題でもある。ときどき、私は、ワイフ
にこう言う。「お前が死んだら、ぼくも死ぬよ」と。するとワイフはいつもこう答える。「あなたは、
あなたで生きていかなくちゃあ」と。

私「でもさ、お前が死んだら、ぼくはどうやって生きていけばいいんだ?」
ワ「だいじょうぶよ。息子たちもいるし……」
私「あんなの、だめだよ。何も助けてくれないよ」
ワ「そんなことないわよ。ちゃんと、助けてくれるわよ」
私「そうかなあ……?」
ワ「もっと、みんなを信じなくちゃあ」と。

 リビング・ウイルというのは、何も末期を迎えた人たちだけに使う言葉ではない。生きていても
「末期」ということは、ある。夢も希望も失い、生きる目的すら失ったら、人は、どうやって生きて
いけばよいのか。孤独という苦痛を、毎日味わいながら、人は、どうやって生きていけばよいの
か。さらに自分が生きることで、みなに迷惑をかけるようになったら、人は、どうやって生きてい
けばよいのか。

 ……浜松に住むようになったころ、私には定職がなかった。だから私とワイフは、夜中に、ア
パートの近くの電柱に、張り紙を張って歩いた。「翻訳をします。電話xxーxxxx」と。私たち夫婦
の原点は、そこにある。そしてその原点は、今も、つづいている。何も変わっていない。

 もしワイフが死んだら、私は、リビング・ウイルそのものをなくすだろう。くだらないことかもしれ
ないが、私は生命保険に加入している。死亡時には、ワイフに死亡保険が入るしくみになって
いる。しかし私は、ワイフの生命保険の加入には、今でも、反対している。反対まではしていな
いが、まだ加入していない。

 ワイフの命を、お金で換算するなどということは、私にはできない。

 ……尊厳死の世界では、患者の自己決定権としての尊厳死の法制化を求める動きもあると
いう。しかしこれにも問題がないわけではない。

 患者自身の意思をどうやって、確かめるのか。私の母(92歳)をみても、すでに判断力は、
ほとんどない。つい1〜2時間前のことすら、忘れてしまっている。そういう母が、「死にたい」と
言っても、だれも本気にしないだろう。

 あるいは、たとえ母の意識がしっかりしていたとしても、私という近親者がそれを承諾するに
も、たいへんな勇気が必要である。実際には、できない。「母を静かに死なせてやってください」
とは、とても言えない。

 が、自分の問題となると、それこそ「自己決定権」の問題ということになる。ゴルツ夫妻は、ま
さにその権利を、自ら行使したことになる。夫婦そろって、たがいに納得した上で、命を絶っ
た。しかしそれこそ、まさに本物の尊厳死ではないのか。

 ところで、これは私の、たいへんプライベートな考え方だが、私は、自分が死んでも葬儀など
してほしくない。家族には集まってもらいたいと思うが、それとて、何も葬儀の日でなくてもよ
い。それぞれが都合がつく日に、来てくれればよい。

 そんな思いが強いから、私自身も、他人の葬儀には、意味を感じない。実際には、あれこれ
理由を並べて断っている。死んでいく人は、静かに死んでいく。だからといって、他人の死を軽
んじているわけではない。葬儀など、何も、葬儀場という「場」へ行かなくても、いくらでもでき
る。

 葬儀に出るときに感ずる、あの(義理立て感)ほど、不愉快なものはない。ああいう場に並ん
でいると、自分が自分でなくなってしまう。むしろ逆で、ほんとうにその遺族の悲しみがわかれ
ば、(中には、故人の死を喜んでいる人もいるぞ)、そっとしておいてあげることも、大切。通夜
だ葬儀だと、みなで騒ぎたてて、どうしてそれが故人の死を悼むことになるのか。

 いろいろな考え方があるだろう。この問題だけは、人それぞれ。私は私。あなたはあなた。そ
れぞれが自分の考えで、自分の意思を決定すればよい。

 ……ということで、繰りかえしになるが、ゴルツ夫妻の心中を聞いて、それがまったく知らない
人たちの死であるにもかかわらず、ジンと胸が熱くなった。ご冥福を、お祈り申し上げます。

+++++++++++++

この原稿を書いているとき、
一磨君という1人の少年の
死を思い出しました。

+++++++++++++

●「ぼくは楽しかった」・脳腫瘍で死んだ一磨君

 一磨(かずま)君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生
活のあとに、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。「先生は、魔法が使えるか」
と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法で、ぼくをここから出してほし
い」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた
ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。皆でワイワ
イやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。

しかしそれが一年たち、手術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望
感をもつようになった。彼の苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。
実際には申しわけなくて、彼の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまった
かのように感じた。

 葬式のとき、一磨君の父は、こう言った。「私が一磨に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、一磨は、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる
し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」
と。そんな不幸な病気になりながらも、一磨君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、
私だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。私は一磨君の
遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じた。この年齢に
なると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くなる。人生の
折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わったとして
も、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴るなりや。
汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そして一磨君のことを知り、一磨君の両
親と心がつながる。もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文
を読むとき、ひょっとしたら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったと
き、私はあなたの心の中で生きることができるし、一磨君も、皆さんの心の中で生きることがで
きる。それが重要なのだ。

 一磨君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕
事もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その
瞬間はあまりにも短かった。そういう一磨君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きて
いることを確かめたい。それが一磨君への何よりの供養になる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●ギャグ化する子どもの世界

+++++++++++++

「IQサプリ」という言葉がある。
いわば、「トンチ」のことだが、
そのトンチが、明らかに子どもたちの
世界を侵襲し始めている。

わかりやすく言えば、子どもたち
の世界も、ギャグ化し始めている。

たとえば作文を書かせても、
「ぼくの夢は、ゴジラと戦って、
ゴジラの肉を食べること」などと、
平気で書いたりする。

昨日も、こんなことがあった。

+++++++++++++

【問】
14人の友だちに、4分以内で連絡が届くように、連絡網をつくりたいと思っています。連絡は、
電話でします。また電話は、1人、1分かかるものとします。どのような連絡網を作ればよいで
すか。(たとえば、A→Bで、1分。B→Cで、1分、計2分……かかります。)(浜松市内N高校中
等部・07年出題問題より)

 この問題を、小5の子どもたちにやらせてみた。学校ではみな、トップクラスの子どもたちであ
る。が、この問題を出すやいなや、みなが、こう言い始めた。

A「電話を14台、もってくればいい」
B「でも、やっぱり、14分、かかってしまう」
A「だったら、3分以内に、みなに電話をかけ、受話器を並べておいて、残りの1分で、大声で、
しゃべればいい」
C「電話を14台も、もってこれないよ」
A「どこかの病院の電話を借りればいい。病院になら、電話がたくさんある」と。

 つまり数学の問題ですら、彼らはすぐギャグ化してしまう。

私「もう少し、まじめに考えろ!」
D「だったら、1分もかけないで、早口で、30秒ですませばいい」
私「これはそういう問題ではないの!」
A「私だったら、早口だから、30秒で、できる」
私「だったら、答にそう書けばいい。ぼくがバツをつけてあげる」
D「どうしてバツなの?」と。

 多くの人は、思考と情報を混同している。情報量の多い子どもを、「賢い子ども」と錯覚してい
る。さらにこうしたトンチ的発想のできる子どもを、「賢い子ども」と錯覚している。

 何度も書くが、思考力は、分析力と論理力で決まる。子どもたちが言っていることは、論理で
はなく、トンチである。トンチは、「頓知」と書く。国語大辞典には、「即座の知恵、機転、機知、
ウィット=quick wit」とある。

 子どもの賢さは、(おとなの賢さもそうだが)、思考力で決まる。トンチではない。思考力であ
る。トンチなら、まだよいが、それが最近では、ここにも書いたように、ギャグ化している。つまり
ものごとを、まじめに考えようとする前に、それを茶化してしまう。

 で、私は、本気で怒った。

私「お前たち、もっとまじめに考えろ。電話は1台しかない。連絡するのに、1人、1分、かかる。
それが条件だ」
A「もし、友だちが、外出していたら、どうするの?」
私「そういう偶然性は、考えないの。もし外出していたら、留守番電話に伝言を残しておけばい
い」
A「留守番電話がなかったら?」
私「そんなこと、知らない。だまって考えろ!」と。

 こうした傾向は、冒頭に書いた、「IQサプリ」という言葉が耳に入るようになってから、大きくな
った。ある時期は、毎晩のように、こうした番組がテレビで流されるようになった。たしかに頭の
体操にはなるだろう。しかしだからといって、つまりそれを繰りかえしたからといって、「賢い子
ども」には、ならない。

 それに(機転)程度のことだったら、私の飼っている犬のハナにだって、できる。追いかけてい
たトカゲが柵の中にもぐったようなとき、ハナは、先回りして、柵の向こうへ行く。が、そういうこ
とができるからといって、私は、ハナに思考力があるとは思わない。頭はよいが、それと思考
力とは、まったく異質のものである。

 それがわからなければ、最初の問題を、あなた自身で解いてみたらよい。かなり難解な問題
である。

 たとえば……

 (A)→(B)→(C)→(D)→(E)で、4分、かかる。

 そこで、

(A)→(B)→(C)→(D)→(E)
↓  ↓   ↓   ↓
(F)→……
 ↓
(G)
 ↓
(H)
 
 ……というように連絡網をつくっていく。たいていの人は、この段階で、「ああでもない」「こうで
もない」と頭をかかえ始めるだろう。つまりその(苦しみ)こそが、思考の特徴ということになる。
条件といってもよい。最近の子どもたちは、その苦しむということをしない。あるいは、それを意
図的に避けようとする。

 その結果が……。話が飛躍するが、大阪府の元知事の、横山N氏であり、宮崎県の知事
の、S氏ということになる。昨日も、こんなニュースが伝わってきた。

 自民党の総裁選挙で敗れたA氏は、こう言ったという。「これから家に帰って、たまったコミッ
ク本(ゴルゴ13)を、みんな読む」と。政治そのものが、ギャグ化している。が、悲しいかな、日
本全体がギャグ化しているから、それをギャグとは、だれも気づかない。

 日本人、1億、総ギャク化!、……と、子どもたちを見ながら、私は、そんなことを考えてい
た。

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これに関連して、以前書いた
原稿を、ここに添付します。

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●右脳教育

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右脳教育は、果たして安全なのでしょうか?
まだその安全性も、確認されていない段階で、
幼児の頭脳に応用する危険性。みなさんは、
それを、お考えになったことがありますか。

たった一晩で、あの百人一首を暗記してしま
った子ども(小学生)がいました。

しかしそんな能力を、本当にすばらしい能力
と安易に評価してよいのでしょうか。

ゲームづけになった子どもたち。幼いころか
らテレビづけになった子どもたち。今さら、
イメージ教育は必要ないと説く学者もいます。

それに右脳と左脳は、別々に機能しているわけ
ではありません。その間は、「交連繊維」と呼ば
れる神経線維で結ばれ、一番大きな回路である、
「脳梁(のうりょう)」は、2億本以上の繊維
でできています。

右脳と左脳は、これらの繊維をとおして、交互
に連絡を保ちながら、機能しています。

脳のしくみは、そんな単純なものではないよう
です。

そうそう、言い忘れましたが、一晩で百人一首
を暗記したのは、あの「少年A」です。

イメージの世界ばかりが極端にふくらんでしま
うと、どうなるか。そのこわさを、少年Aは、
私たちに教えてくれました。

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 アカデミックな学者の多くは、「右脳教育」なるものに、疑問を抱いています。渋谷昌三氏もそ
の1人で、著書「心理学」(西東社)の中で、こう書いています。

 「なにやら、右脳のほうが、多彩な機能をもっていて、右脳が発達している人のほうが、すぐ
れているといわんばかりです。

 一時巻き起こった、(現在でも信者は多いようですが)、「右脳ブーム」は、こういった理論から
生まれたのではないでしょうか。

 これらの説の中には、まったくウソとはいえないものもありますが、大半は科学的な根拠のあ
るものとは言えません」(同書、P33)。

++++++++++++++++++++++++++

●右脳教育への警鐘

 論理的な思考力をなくす子どもたち。ものの考え方が直感的で飛躍的。今、静かにものを考
えられる子どもが、少なくなってきています。

 そうした危惧感を覚えながら書いたのが、つぎの原稿です(中日新聞発表済み)。

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親が右脳教育を信奉するとき

●左脳と右脳

 左脳は言語をつかさどり、右脳はイメージをつかさどる(R・W・スペリー)。その右脳をきたえ
ると、たとえば次のようなことができるようになるという(七田眞氏)。

(1)インスピレーション、ひらめき、直感が鋭くなる(波動共振)、
(2)受け取った情報を映像に変えたり、思いどおりの映像を心に描くことができる(直観像
化)、
(3)見たものを映像的に、しかも瞬時に記憶することができる(フォトコピー化)、
(4)計算力が速くなり、高度な計算を瞬時にできる(高速自動処理)など。こうした事例は、現
場でもしばしば経験する。

●こだわりは能力ではない

たとえば暗算が得意な子どもがいる。頭の中に仮想のそろばんを思い浮かべ、そのそろばん
を使って、瞬時に複雑な計算をしてしまう。あるいは速読の得意な子どもがいる。読むというよ
りは、文字の上をななめに目を走らせているだけ。それだけで本の内容を理解してしまう。

しかし現場では、それがたとえ神業に近いものであっても、「神童」というのは認めない。もう少
しわかりやすい例で言えば、一〇〇種類近い自動車の、その一部を見ただけでメーカーや車
種を言い当てたとしても、それを能力とは認めない。「こだわり」とみる。

たとえば自閉症の子どもがいる。このタイプの子どもは、ある特殊な分野に、ふつうでないこだ
わりを見せることが知られている。全国の電車の発車時刻を暗記したり、音楽の最初の一小
節を聞いただけで、その音楽の題名を言い当てたりするなど。つまりこうしたこだわりが強けれ
ば強いほど、むしろ心のどこかに、別の問題が潜んでいるとみる。

●論理や分析をつかさどるのは左脳

 そこで右脳教育を信奉する人たちは、有名な科学者や芸術家の名前を出し、そうした成果の
陰には、発達した右脳があったと説く。しかしこうした科学者や芸術家ほど、一方で、変人とい
うイメージも強い。つまりふつうでないこだわりが、その人をして、並はずれた人物にしたと考え
られなくもない。

 言いかえると、右脳が創造性やイメージの世界を支配するとしても、右脳型人間が、あるべ
き人間の理想像ということにはならない。むしろゆっくりと言葉を積み重ねながら(論理)、他人
の心を静かに思いやること(分析)ができる子どものほうが、望ましい子どもということになる。
その論理や分析をつかさどるのは、右脳ではなく、左脳である。

●右脳教育は慎重に

 右脳教育が脳のシステムの完成したおとなには、有効な方法であることは、私も認める。し
かしだからといって、それを脳のシステムが未発達な子どもに応用するのは、慎重でなければ
ならない。脳にはその年齢に応じた発達段階があり、その段階を経て、論理や分析を学ぶ。右
脳ばかりを刺激すればどうなるか? 一つの例として、神戸でおきた『淳君殺害事件』をあげる
研究家がいる(福岡T氏ほか)。

●少年Aは直観像素質者

 あの事件を引き起こした少年Aの母親は、こんな手記を残している。いわく、「(息子は)画数
の多い難しい漢字も、一度見ただけですぐ書けました」「百人一首を一晩で覚えたら、五〇〇
〇円やると言ったら、本当に一晩で百人一首を暗記して、いい成績を取ったこともあります」
(「少年A、この子を生んで」文藝春秋)と。

 少年Aは、イメージの世界ばかりが異常にふくらみ、結果として、「幻想や空想と現実の区別
がつかなくなってしまった」(同書)ようだ。

その少年Aについて、鑑定した専門家は、「(少年Aは)直観像素質者(一瞬見た映像をまるで
目の前にあるかのように、鮮明に思い出すことができる能力のある人)であって、(それがこの
非行の)一因子を構成している」(同書)という結論をくだしている。

 要はバランスの問題。左脳教育であるにせよ右脳教育であるにせよ、バランスが大切。子ど
もに与える教育は、いつもそのバランスを考えながらする。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●才能とこだわり

 自閉症の子どもが、ふつうでない「こだわり」を見せることは、よく知られている。たとえば列
車の時刻表を暗記したり、全国の駅名をソラで言うなど。車のほんの一部を見ただけで、車種
からメーカーまで言い当てた子どももいた。クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけ
で、曲名と作曲者を言い当てた子どももいた。

 こうした「こだわり」は、才能なのか。それとも才能ではないのか。一般論としては、教育の世
界では、たとえそれが並はずれた「力」であっても、こうした特異な「力」は、才能とは認めない。
たとえば瞬時に、難解な計算ができる。あるいは、20ケタの数字を暗記できるなど。あるいは
一回、サーッと曲を聞いただけで、それをそっくりそのまま、ピアノで演奏できた子どももいた。
まさに神業(わざ)的な「力」ということになるが、やはり「才能」とは認めない。「こだわり」とみ
る。

 たとえばよく知られた例としては、少し前、話題になった子どもに、「少年A」がいる。あの「淳
君殺害事件」を起こした少年である。彼は精神鑑定の結果、「直観像素質者※」と鑑定されて
いる。直観像素質者というのは、瞬間見ただけで、見たものをそのまま脳裏に焼きつけてしま
うことができる子どもをいう。

少年Aも、一晩で百人一首を暗記できたと、少年Aの母親は、本の中で書いている(「少年A、
この子を生んで」文藝春秋)。そういう特異な「力」が、あの悲惨な事件を引き起こす遠因になっ
たとされる。

 と、なると、改めて才能とは何かということになる。ひとつの条件として、子ども自身が、その
「力」を、意識しているかどうかということがある。たとえば練習に練習を重ねて、サッカーの技
術をみがくというのは才能だが、列車の時刻表を見ただけで、それを暗記できてしまうというの
は、才能ではない。

 つぎに、才能というのは、人格のほかの部分とバランスがとれていなければならない。まさに
それだけしかできないというのであれば、それは才能ではない。たとえば豊かな知性、感性、
理性、経験が背景にあって、その上ですばらしい曲を作曲できるのは、才能だが、まだそうし
た背景のない子どもが、一回聞いただけで、その曲が演奏できるというのは、才能ではない。
 
 脳というのは、ともすれば欠陥だらけの症状を示すが、同じように、ともすれば、並はずれ
た、「とんでもない力」を示すこともある。私も、こうした「とんでもない力」を、しばしば経験してい
る。印象に残っている子どもに、S君(中学生)がいた。

ここに書いた、「クラッシック音楽の、最初の一小節を聞いただけで、曲名と作曲者を言い当て
た子ども」というのが、その子どもだが、一方で、金銭感覚がまったくなかった。ある程度の計
算はできたが、「得をした」「損をした」「増えた」「減った」ということが、まったく理解できなかっ
た。

1000円と2000円のどちらが多いかと聞いても、それがわからなかった。1000円程度のも
のを、200円くらいのものと交換しても、損をしたという意識そのものがなかった。母親は、S
君の特殊な能力(?)ばかりをほめ、「うちの子は、もっとできるはず」とがんばったが、しかしそ
れはS君の「力」ではなかった。

 教育の世界で「才能」というときは、当然のことながら、教育とかみあわなければならない。
「かみあう」というのは、それ自体が、教育できるものでなければならないということ。「教育する
ことによって、伸ばすことができること」を、才能という。が、それだけでは足りない。その方法
が、ほかの子どもにも、同じように応用できなければならない。またそれができるから、教育と
いう。つまりその子どもしかできないような、特異な「力」は、才能ではない。

 こう書くと、こだわりをもちつつ、懸命にがんばっている子どもを否定しているようにとらえられ
るかもしれないが、それは誤解である。多かれ少なかれ、私たちは、ものごとにこだわること
で、さらに自分の才能を伸ばすことができる。

現に今、私は電子マガジンを、ほとんど2日おきに出版している。毎日そのために、数時間。
土日には、4、5時間を費やしている。その原動力となっているのは、実は、ここでいう「こだわ
り」かもしれない。

時刻表を覚えたり、音楽の一小節を聞いただけで曲名を当てるというのは、あまり役にたたな
い「こだわり」ということになる。が、中には、そうした「こだわり」が花を咲かせ、みごとな才能と
なって、世界的に評価されるようになった人もいる。あるいはひょっとしたら、私たちが今、名前
を知っている多くの作曲家も、幼少年時代、そういう「こだわり」をもった子どもだったかもしれ
ない。そういう意味では、「こだわり」を、頭から否定することもできない。
(02ー11ー27)※
(はやし浩司 右脳教育 右脳教育への疑問 こだわり 少年A イメージが乱舞する子ども 
子供 才能とこだわり 思考のバランス)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(9月26日)

++++++++++++

今年の誕生日プレゼントは、
何にするか?

毎年、プレゼントの内容は、
自分で決めている。

ワイフは、「ノートパソコンに
したら?」と言ってくれるが、
ノートパソコンは、いらない。

デジカメも、イマイチ。

あえて言うなら、RAID・HD。
ハードディスクをいくつか
重ねて、同時に使用するという
ハードディスクである。

いろいろと、ものすごいことが、
できる。

++++++++++++

●福井で、カニ食べ放題!

 10月に、ワイフと2人で、福井へ行ってくる。カニ食べ放題というサービスのついた、パッケー
ジ・ツアーである。1人、1万2000円前後。

私「食べ放題といっても、いくらも食べられないよ」
ワ「そうね」と。

 食べなければ損……と思って食べれば食べるほど、体によくない。ヘタをすれば、そのままコ
レステロールが血管につまって、あの世行き。

 それに私は、あの(食べ放題)というのが、あまり好きではない。先月も、御殿場へ、「ビール
飲み放題」というツアーに行ってきた。私は、アルコール類は、一滴も飲めない。その私が、で
ある。

 おかげで帰りのバスの中の酒臭さといったら、なかった。酒臭いというより、酔っぱらい独特
の、胃液の混ざった、生臭い、あの臭(にお)い。

 今度は、カニ。私たちは、適当に食べて、それですますつもり。……そう言いながら、結構、
ガツガツ食べてしまうかもしれないが……。


●チケット切り

 うちの三男が、テレビに映ったという。M元首相が、ニューヨークの国連へ出かけるとき、成
田空港でJAL便に乗った。そのとき最終カウンターで、M首相のチケットをちぎったのが、うち
の息子だったらしい。

 「テレビを見てよ」と息子から電話がかかってきた。が、あいにくと、7時の定時ニュースは、
見逃してしまった。あとから別の人から、「映っていた」と、連絡があった。

 言い忘れたが、息子は、今、地上勤務の訓練を受けている。来年早々から、カルフォルニア
での飛行訓練が始まるとのこと。それまでは成田空港で働いている。機会があってJALに乗る
人は、カウンターあたりをのぞいてみてほしい。そのあたりで、フラフラと仕事をさぼっているの
が、私の息子。

 (チケットの半券は、記念にもらったとのこと。いいのかな?)


●新しいHP

 今度、新しいHPを開設した。NINJAという会社が出している、フリーサービスのHPである。
ふつう、フリーのHPというと、1ファイルあたりの容量が、50MBとか、その程度に制限されて
いる。しかしNINJAには、それがない。

 私のHPのように文章量が多いサイトにとっては、たいへんありがたい。

 全体として、1GBまでだそうだが、「必要に応じて、増量します」とのこと。これもありがたい。
現在のサイトづくりが一段落したら、もうひとつ、NINJAで開設するつもり。

 新しいHPは、

http://hiroshihayashi.ninjaーweb.net/

で、よろしく!


●パソコンが破損!

 OSが立ち上がらなくなった、XPパソコンをメーカーに送ったら、「マザーボードも破損してい
ます」とのこと。

 そんなはずはない! 送る前には、BIOSの設定もできた。マザーボードが破損していたら、
パソコン自体、起動しないはず。それが破損している? しかたないので、マザーボードを交換
してもらうことにした。修理費は、x万円。高い修理費になってしまった。

 運送してくれたY運輸に、その旨、電話をした。納得できなかった。が、それに対して、「検討
するから待ってほしい」とのこと。で、翌日、つまり昨日電話があり、明細がわかった段階で、弁
償しますとのこと。

 ホ〜ッ! さすがY運輸。決断が早い。これからもずっと、Y運輸を利用する。こうしたサービ
スは、そのまま安心感につながる。(郵便局だったら、こうはいかないぞ!)


●保険

 このところ保険会社から、立て続けにパンフレットが送られてきたり、電話がかかってくる。私
はいくつか保険会社に加入している。ワイフはしていない。それを先日、ワイフが不安がった。

 それで新聞に折り込みで入っていた会社に電話をした。「した」というより、「してみた」という
感じ。とたん、パンフレットと電話。(パンフレットが速達で3通。電話が、計4〜5回。)

 ところがそのパンフレットときたら、やたらと複雑。こまかい文字で、ぎっしりと書き込んであ
る。パソコン関連グッズの説明書より、難解。読んでも、よく理解できない。で、電話で、あれこ
れ聞く。その時間が、毎回、30分ほど。

 先方は、「9月いっぱい案内させていただきます」と言う。どういう意味かわからない。「9月末
まで、しつこく電話するぞ」という意味なのか、「10月になったら、もう知らないぞ」という意味な
のか。

 今夜あたり、結論を出さなければならない。そんな雰囲気になってきた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●「斎藤J」という評論家

++++++++++++++

子どもにはナイフをもたせろ。
親が子どもを信頼していると
いう証(あかし)になる。

そう説いたのは、斎藤J氏で
ある。

A新聞社の発行する、冊子型
文庫本の中に、そう書いてあった。

その斎藤J氏が、今度、大麻
取り締まり法違反(所持)で、
息子のM氏とともに、現行犯
逮捕された。

斎藤J氏の年齢は、68歳だった
という。

++++++++++++++

 どこか、へん? どこか、おかしい? ……私は斎藤J氏の教育評論を、いつもそんな目で読
んでいた。

 その第一。臨場感がない。子どもの息を感じない。頭の中だけで、教育論を組み立ててい
る。それを氏自身も感じたのか、斎藤J氏は、55歳という年齢で、青森県のある小学校で1年
間、生徒として、授業を受けている。小学校4年生のクラスであった。マスコミでも、話題になっ
た。

 それについては、私はたびたび批判してきた。どこか、へん? どこか、おかしい? どこか、
常識をはずれている?

 ほかに、「子どものオムツをはめてみろ。子どもの心理がわかる」と説いた評論家もいた。
で、その評論家は、たぶん老人用のオムツだと思うが、それをはいていた。その写真は、その
評論家のHPにも載っている。

 その斎藤J氏が、こんど大麻取り締まり法違反(所持)で、現行犯逮捕された。あろうことか、
長男のM氏も、同時に逮捕されたとか。私はこの記事を読んで、最初に感じたことは、「ありえ
る」だった。

 斎藤J氏の評論で、もっとも印象に残っている記事が、冒頭に書いた、「子どもにはナイフを
もたせろ」である。とんでもない意見というか、またそんなことで、親子の絆(きずな)が太くなる
というものでもない。

 バカげている! そのバカげているという部分で、今回の大麻取り締まり法違反と、一貫性を
もって、つながっている。

 で、そのしばらくあと、中学生によるナイフ殺傷事件がつづいた。同時に、斎藤J氏のこの意
見もなりを潜めた。

 それにしても、教育界は、今、いったい、どうなっているのだろう。

 この数日間だけでも、あちこちの教頭(副校長)や教師たちが、ハレンチ事件を引き起こし、
逮捕されている。ヤフー・ニュースに載っただけでも、3人! うち1人は、この静岡県の教師。
そして今度は、斎藤J氏!

 「教育者」と呼ばれる人がいちばん警戒しなければならないのは、仮面。ペルソナ。ある程度
の仮面は、だれしもかぶるものだが、その仮面をはずし忘れると、内面世界が分裂する。その
分裂した一部が、シャドウとなって、その人の「影(シャドウ)」(ユング)になる。

 これがこわい。

 3月にオーストラリアへ行ってきたが、そのときも、こんな話を聞いた。

 オーストラリアでは、牧師による少年、少女への性的虐待事件が、あとを絶たないという。毎
月のように問題になるという。日本では、それが教師? ともに聖職意識が強い? その聖職
意識が、心をゆがめる。

 ついでに一言。

 静岡県で逮捕された男性教師(52歳)は、こう弁解したという。「親の介護づかれで……」と。

 記事をよく読むと、その教師の親は、最近、老人介護施設に入居したとある。となると、介護
疲れは、理由にならない。

 それに私も経験しているが、介護疲れイコール、憂さ晴らしのために、ハレンチ行為というの
は、筋が通らない。親の介護は疲れる。それは事実だが、しかしそれは(怒り)。親に対する怒
りもあるが、自分自身に対する、怒り。

 親の介護をしていると、その怒りが心の中に、充満する。たとえば下痢で汚れた母の尻を拭
いているようなとき。それを許せない自分に、怒りを覚える。その怒りとの戦い。しかしそれは、
「介護疲れ」とは、まったく異質のもの。

 「親の介護疲れで……」という記事を読んだとき、即座に、私はこう思った。「そのように言え
ば、同情されるとでも思ったのだろう」と。

 さて、今ごろ、斎藤J氏は、取り調べで、どのような弁解をしているのだろう。

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「子どもにはナイフを渡せ」について。
以前、書いた原稿を転載します。

+++++++++++++++

●暴論は疑う

++++++++++++++

子育ての世界には、暴論と
呼ばれるメチャメチャな
育児法がある。

そうした暴論には、みなさん、
くれぐれも、ご注意!

++++++++++++++

 少し前、子どもの不登校や情緒障害を、怒鳴り散らして「治す(?)」という指導者がいた。テ
レビでも何度か紹介されたことがあるが、ただただ(?)クェスチョンマークだけが並ぶような指
導法だった。

 ときとしてこういう暴論が、世間をにぎわす。少し前には、Tヨットスクールというのがあった。
死者まで出す、めちゃめちゃな指導法だったが、当初は、マスコミにも取りあげられ、結構話題
になった。
 
 私はずっと子育てや、育児論を最前線で見てきたが、結論はただひとつ。「暴論は疑う」だ。

 子どもの心は、ときとしてガラス箱のように、デリケートでこわれやすい。そしてこわれた心
は、こわれたガラス箱のように、簡単には、もとに戻らない。それこそ一年単位の時間と努力
が必要。それを数回、怒鳴っただけで治す(?)とは! 私もその指導者が書いた本を、二冊
買って読んだが、正直言って、「?」の本だった。一冊は、自分が高校生のとき、父親の車を盗
んで、無免許で乗り回したとか、そういう話が書いてあった。つまり「そういう経験が、今、役に
たっている」と。

 それ以上のことは私にはわからないので、反論のしようがないが、子育てには、近道も抜け
道もない。あるとすれば、あなたがそこにいて、子どもがそこにいるという事実。その事実だけ
を冷静に見つめて、子育てをすればよい。仮に子どもに問題があったとしても、「なおそう」と
か、「なおしてやろう」とか、さらには、「なおさなければ」と思う必要はない。今ある事実を、ある
がままに受け入れて、その中で、あなたとあなたの子どもの人間関係をつくればよい。

 つぎの原稿は、こうした暴論について書いたもの。

+++++++++++++++++++++++

(暴論1)

●スパルタ方式への疑問

 スパルタ(古代ギリシアのポリスのひとつ)では、労働はへロットと呼ばれた国有奴隷に任
せ、男子は集団生活を営みながら、もっぱら軍事教練、肉体鍛錬にはげんでいた。そのきびし
い兵営的な教育はよく知られ、それを「スパルタ教育」という。

 そこで最近、この日本でも、このスパルタ教育を見なおす機運が高まってきた。自己中心的
で、利己的な子どもがふえてきたのが、その理由。「甘やかして育てたのが原因」と主張する評
論家もいる。しかしきびしく育てれば、それだけ「子どもは鍛えられる」と考えるのは、あまりに
も短絡的。あまりにも子どもの心理を知らない人の暴論と考えてよい。やり方をまちがえると、
かえって子どもの心にとりかえしのつかないキズをつける。

 むしろこうした子どもがふえたのは、家庭教育の欠陥と考える。(失敗ではない!)その欠陥
のひとつは、仕事第一主義のもと、家庭の機能をあまりにも軽視したことによる。たとえばこの
日本では、「仕事がある」と言えば、男たちはすべてが免除される。子どもでも、「宿題がある」
「勉強する」と言えば、家での手伝いのすべてが免除される。こうした日本独特のおかしさは、
外国の子育てと比較してみると、よくわかる。

ニュージラーンドやオーストラリアでは、子どもたちは学校が終わり家に帰ったあとは、夕食が
すむまで家事を手伝うのが日課になっている。こういう国々では、学校の宿題よりも、家事の
ほうが優先される。が、この日本では、何かにつけて、仕事優先。勉強優先。そしてその一方
で、生活は便利になったが、その分、子どものできる仕事が減った。

私が「もっと家事を手伝わせなさい」と言ったときのこと、ある母親は、こう言った。「何をさせれ
ばいいのですか」と。聞くと、「掃除は掃除機でものの一〇分ですんでしまう。料理も、電子レン
ジですんでしまう。洗濯は、全自動。さらに食材は、食材屋さんが届けてくれます」と。こういうス
キをついて、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。で、ここからが問題だが、ではそういう形でドラ
息子、ドラ娘になった子どもを、「なおす」ことができるか、である。

 が、ここ登場するのが、「三つ子の魂、一〇〇まで」論である。実際、一度ドラ息子、ドラ娘に
なった子どもをなおすのは、容易ではない。不可能に近いとさえ言ってもよい。それはちょうど
一度野性化した鳥を、もう一度、カゴに戻すようなものである。戻せば戻したで、子どもはたい
へんなストレスをかかえこむ。本来なら失敗する前に、その失敗に気づかねばならない。が、
乳幼児期に、さんざん、目いっぱいのことを子どもにしておき、ある程度大きくなってから、「あ
なたをなおします」というのは、あまりにも親の身勝手というもの。子どもの問題というより、日
本人が全体としてかかえる問題と考えたほうがよい。だから私は「欠陥」という。いわんやスパ
ルタ教育というのは! もしその教育をしたかったら、親は自分自身にしてみることだ。子ども
にすべき教育ではない。

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(暴論2)

●「親だから」という論理

 先日テレビを見ていたら、一人の評論家(五五歳くらい)が、三〇歳前後の若者を叱責してい
る場面があった。三〇歳くらいの若者が、「親を好きになれない」と言ったことに対して、その評
論家が、「親を好きでないというのは、何ということだ! お前は産んでもらったあと、だれに言
葉を習った! (その恩を忘れるな!)」と。それに対して、その若者は額から汗をタラタラと流
すだけで、何も答えられなかった(〇二年五月)。

 私はその評論家の、そういう言い方は卑怯(ひきょう)だと思う。強い立場のものが、一方的
に弱い立場のものを、一見正論風の暴論をもってたたみかける。もしこれが正論だとするな
ら、子どもは親を嫌ってはいけないのかということになる。親子も、つきつめれば一対一の人間
関係。昔の人は、「親子の縁は切れない」と言ったが、親子の縁でも切れるときには切れる。
切れないと思っているのは、親だけで、親はその幻想の上に安住しているだけ。そのため子ど
もの心を見失うケースはいくらでもある。仕事第一主義の夫が、妻に向かって、「お前はだれの
おかげでメシを食っていかれるか、それがわかっているか!」と言うのと同じ。たしかにそうか
もしれないが、夫がそれを口にしたら、おしまい。親についていうなら、子どもを育て、子どもに
言葉を教えるのは、親として当たり前のことではないか。

 日本人ほど、「親意識」の強い民族は、そうはいない。たとえば「親に向かって何だ」という言
い方にしても、英語には、そういう言い方そのものがない。仮に翻訳しても、まったく別のニュア
ンスになってしまう。少なくとも英語国では、子どもといえども、生まれながらにして対等の人間
としてみる。それに子育てというのは、親から子への一方的なものではない。親自身も、子育て
をすることにより、育てられる。無数のドラマもそこから生まれる。人生そのものがうるおい豊
かなものになる。

私は今、三人の息子たちの子育てをほぼ終えつつあるが、私は「育ててやった」という意識は
ほとんどない。息子たちに向かって、「いろいろ楽しい思い出をありがとう」と言うことはあって
も、「育ててやった」と親の恩を押し売りするようなことは絶対にない。そういう気持ちはどこにも
ないと言えばウソだが、しかしそれを口にしたら、おしまい。

 私は子どもたちからの恩返しなど、はじめから期待していない。少なくとも私は自分の息子た
ちには、意識したわけではないが、無条件で接してきた。むしろこうして子育ても終わりに近づ
くと、できの悪い父親であったことを、わびたい気持ちのほうが強くなってくる。いわんや、「親
孝行」とは? 自分の息子たちが私に孝行などしてくれなくても、私は一向に構わない。「そん
なヒマがあったら、前向きに生きろ」といつも、息子たちにはそう教えている。この私自身が、そ
の重圧感で苦しんだからだ。

 私はそんなわけで、先の評論家の意見には、生理的な嫌悪感を覚えた。ぞっとするような嫌
悪感だ。しばらく胸クソの悪さを消すのに苦労した。

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(暴論3)(少し前に掲載した原稿です)

子どもにはナイフを渡せ!

●墓では人骨を見せろ?

 ある日、一人の母親(三〇歳)が心配そうな顔をして私のところへやってきた。見ると一冊の
本を手にしていた。日本を代表するH大学のK教授の書いた本だった。題は「子どもにやる気
を起こす法」(仮称)。

 そしてその母親はこう言った。「あのう、お墓で、故人の遺骨を見せたほうがよいのでしょう
か」と。私が驚いていると、母親はこう言った。「この本の中に、命の尊さを教えるためには、お
墓へつれていったら、子どもには遺骨を見せるとよい」と。その本にはほかにもこんなことが書
いてあった。

●遊園地で子どもを迷子にさせろ?

 親子のきずなを深めるためには、遊園地などで、子どもをわざと迷子にさせてみるとよい。家
族のありがたさを教えるために、子どもは、二、三日、家から追い出してみるとよい、など。本
の体裁からして、読者対象は幼児をもつ親のようだった。が、きわめつけは、「夫婦喧嘩は子
どもの前でするとよい。意見の対立を教えるのによい機会だ」と。これにはさすがの私も驚い
た。

●子どもにはナイフをもたせろ?

 その一つずつに反論したいが、正直言って、あまりのレベルの低さに、どう反論してよいかわ
からない。その前後にこんなことを書く別の評論家もいた。「子どもにはナイフを渡せ」と。「子
どもにナイフを渡すのは、親が子どもを信じている証(あかし)になる」と。そのあとしばらくして
から、関東周辺で、中学生によるナイフ殺傷事件がつづくと、さすがにこの評論家は自説をひ
っこめざるをえなかったのだろう。ナイフの話はやめてしまった。しかし証拠は残った。その評
論は、日本を代表するM新聞社の小冊子として発行された。その小冊子は今も私の手元にあ
る。

●ゴーストライターの書いた本

 これはまた元教師の話だが、数一〇万部を超えるベストセラーを何冊かもっている評論家が
いた。彼の教育論も、これまたユニーク(?)なものだった。「子どもの勉強に対する姿勢は、筆
箱の中を見ればわかる」とか、「たまには(老人用の)オムツをして、幼児の気持ちを理解する
ことも大切」とかなど。「筆箱の中を見る」というのは、それで子どもの勉強への姿勢を知ること
ができるというもの。たしかにそういう面はあるが、しかしそういうスパイのような行為をしてよ
いものかどうか? そう言えば、こうも書いていた。「私は家庭訪問のとき、必ずその家ではトイ
レを借りることにしていた。トイレを見れば、その家の家庭環境がすべてわかった」と。たまたま
私が仕事をしていたG社でも、彼の本を出した担当者がいたので、その担当者に話を聞くと、
こう教えてくれた。

 「ああ、あの本ね。実はあれはあの先生が書いた本ではないのですよ。どこかのゴーストライ
ターが書いてね、それにあの先生の名前を載せただけですよ」と。そのG社には、その先生専
用のライター(担当者)がいて、そのライターがその評論家のために原稿を書いているとのこと
だった。もう二〇年も前のことだが、彼の書いた(?)数学パズルブックは、やがてアメリカの雑
誌からの翻訳ではないかと疑われ、表に出ることはなかったが、出版界ではかなり話題になっ
たことがある。

●タレント教授の出世術

 先のタレント教授は、つぎのようにして本を書く。まず外国の文献を手に入れる。それを学生
に翻訳させる。その翻訳を読んで、あちこちの数字を適当に変えて、自分の原稿にする。そし
て本を出す。こうした手法は半ば常識で、私自身も、医学の世界でこのタイプのゴーストライタ
ーをした経験があるので、内情をよく知っている。

 こうした常識ハズレな教授は、決して少数派ではない。数年前だが私がH社に原稿を持ちこ
んだときのこと、編集部の若い男は遠慮がちに、しかしどこか人を見くだしたような言い方で、
こう言った。「あのう、N大学のI名誉教授の名前でなら、この本を出してもいいのですが……」
と。もちろん私はそれを断った。

が、それから数年後のこと。近くの本屋へ行くと、入り口のところでH社の本が山積みになって
いた。ワゴンセールというのである。見ると、その中にはI教授の書いた(?)本が、五〜六冊あ
った。手にとってパラパラと読んでみたが、しかしとても八〇歳を過ぎた老人が書いたとは思わ
れないような本ばかりだった。漢字づかいはもちろんのこと、文体にしても、若々しさに満ちあ
ふれていた。

●インチキと断言してもよい

 こうしたインチキ、もうインチキと断言してよいのだろうが、こうしたインチキは、この世界では
常識。とくに文科系の大学では、その出版点数によって教官の質が評価されるしくみになって
いる。(理科系の大学では論文数や、その論文が権威ある雑誌などでどれだけ引用されてい
るかで評価される。)だから文科系の教官は、こぞって本を出したがる。そういう慣習が、こうし
たインチキを生み出したとも考えられる。が、本当の問題は、「肩書き」に弱い、日本人自身に
ある。

●私の反論

 私は相談にやってきた母親にこう言った。「遺骨なんか見せるものではないでしょ。また見せ
たからといって、生命の尊さを子どもが理解できるようにはなりません」と。一応、順に反論して
おく。

 生命の尊さは、子どものばあいは死をていねいに弔うことで教える。ペットでも何でも、子ども
と関係のあったものの死はていねいに弔う。そしてその死をいたむ。こうした習慣を通して、子
どもは「死」を知り、つづいて「生」を知る。

 また子どもをわざと遊園地で迷子にしてはいけない。もしそれがいつか子どもにわかったと
き、その時点で親子のきずなは、こなごなに破壊される。またこの種のやり方は、方法をまち
がえると、とりかえしのつかない心のキズを子どもに残す。分離不安にさえなるかもしれない。
親子のきずなは、信頼関係を基本にして、長い時間をかけてつくるもの。こうした方法は、子育
ての世界ではまさに邪道!

 さらに子どもを家から二、三日追い出すということが、いかに暴論かはあなた自身のこととし
て考えてみればよい。もしあなたの子どもが、半日、あるいは数時間でもいなくなったら、あな
たはどうするだろうか。あなたは捜索願だって出すかもしれない。

 最後に夫婦喧嘩など、子どもの前で見せるものではない。夫婦で哲学論争でもするならまだ
しも、夫婦喧嘩というのは、たいていは聞くに耐えない痴話喧嘩。そんなもの見せたからといっ
て、子どもが「意見の対立」など学ばない。学ぶはずもない。ナイフをもたせろと説いた評論家
の意見については、もう書いた。

●批判力をもたない母親たち

 しかし本当の問題は、先にも書いたように、こうした教授や評論家にあるのではなく、そういう
とんでもない意見に対して、批判力をもたない親たちにある。こうした親たちが世間の風が吹く
たびに、右へ左へと流される。そしてそれが子育てをゆがめる。子どもをゆがめる。

++++++++++++++++++++++

 こうした暴論がなぜ生まれるか。その背景には、独断と独善がある。だからといって、私の意
見が正論とは思わないが、私のばあい、すべての授業を公開することで、つまりいつも親の視
線と監視のもとに自分の教育を置くことで、そのつど軌道修正してきた。いまだかって、非公開
で授業をしたことはないし、参観を断ったことがない。これは教育を組みたてるときには、たい
へん重要なことだと思う。あえていうなら、世間的な常識の注入ということになる。これがない
と、教育者も評論家も、軌道を踏みはずすことになる。理由は、簡単。英語でも、教師のこと
を、「子どもの王(King of Kids)」という。つまり独裁者。世間的な常識の注入がないと、その独
裁者になりやすい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
者の暴論 暴論 ナイフを渡せ ナイフをもたせろ)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【満60歳の誕生日に】

●もうすぐ60歳!

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私も、もうすぐ満60歳!
その満60歳に際して、ここで
自分自身を特集してみたい。

題して、「満60歳の私」。

どこかくすぐったい感じがしないでも
ない。が、年齢だけは、みな平等に、取る。

「ああ、いやだ!」といくら叫んでも、
その時はやってくる。やってきた。

誕生日は、10月2x日。1947年
生まれ!

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●時間性

 ワイフが言う。「いやだったら、気にしなくていいのに」と。しかし気になる。世間では、「還暦」
とか何とか言う。気になる。が、何、それ?

 ところで、その人がもつ時間性というのは、個人によって、みなちがう。世の中には、1年を1
日のようにして過ごす人もいれば、1日を、1年のようにして過ごす人もいる。そのことがわから
なければ、台所のテーブルに止まる、ハエを見ればよい。せわしなく手足を動かし、あっという
間にやってきて、あっという間に去っていく。

 もしあれと同じ行動を人間にしろと言われたら、1時間、かかるかもしれない。あるいはこんな
ことも。

 一匹の蚊がやってきた。その蚊が、私の足の先から頭のところまで、スーッとあがってきた。
人間の高さに換算すると、約500メートル。(疑う人は、自分で計算してみたらよい。)つまり蚊
は、人間にすれば500メートルの高さの山を、数秒のうちに、あがったり、さがったりしている。

 もし人間が同じことをしようとしたら、ヘリコプターを使っても、5〜10分はかかる。歩いて、登
ったりおりたりすれば、1日、かかるかもしれない。

 つまり人間のもつ時間性は、蚊のもつ時間性の、数百分の1ということになる。蚊にすれば人
間は、恐ろしく動きが鈍く見えることだろう。

 これは人間と蚊の話だが、同じ人間どうしでも、時間性は、みな、ちがう。わかりやすく言え
ば、時間性は、その密度で決まる。時間性の濃い人もいれば、そうでない人もいる。

●濃密な人生

 限られた人生なら、時間性は濃ければ濃いほど、得ということになる。平均的な人が10日か
かってすることを、1日で、できる。単純に計算すれば、自分の人生を、10倍にすることができ
る。

ここでいう「得」という実感を得るのは、なかなかむずかしい。他人より10倍分濃い人生を送っ
たからといって、その10倍を実感するのは、むずかしい。が、反対に、時間を無駄にしたとき
に、それがわかる。くだらないテレビ番組などを、つい見るとはなしに見てしまったようなばあい
である。そういうとき、私のばあい、「しまった!」と思う。

だからその人に与えられた時間の長さは同じでも、それをどう使うかは、それぞれ個人の問題
ということになる。ダラダラと、だらしない時間の過ごし方をすれば、時間だけが無益に過ぎて
いく。

 それはたとえて言うなら、貯金のようなもの。「時間」という貯金である。時間イコール、「命」と
置き換えてもよい。その貯金にはかぎりがある。浪費すれば、あっという間になくなってしまう。
有効に使えば、それなりに長く使うことができる。

●脳みその穴

 が、ここでひとつの問題が起きる。

 年を取ればとるほど、脳みその底に穴があくということ。多くの人は、一度頭の中に入った情
報や知識は、そのままの状態でいつまでも脳みその中に残ると考える。しかしこれは誤解。あ
る年齢を超えると、あたかも脳みその底に穴があいたかのように、情報や知識は、どんどんと
下へこぼれ落ちていく。

 私も、パソコンを使って数か月前にできたことが、できなくなることが、しばしばある。たとえば
ソフトの使い方、など。英語の単語にしても、40歳を過ぎて覚えた単語というには、数えるほど
しかない。

 さらに思考そのものが、ループ状態になることもある。毎日、同じことを考えているだけ。毎
週、同じことを考えているだけ。さらに毎年、同じことを考えているだけ、と。

 一度、こういう状態になると、進歩など、望むべくもない。そういう状態のときに、脳みその底
に穴があくと、今度は、一気に、脳みその働きは鈍くなる。

 が、さらに悲劇はつづく。そういう状態になりながらも、その人自身が、それに気づくということ
はない。脳みそのCPU(中央演算装置)そのものが鈍くなる。コンピュータにたとえるなら、CP
Uのクロック数そのものが少なくなるため、全体に脳の働きそのものが全体として、遅くなる。
だから自分では、気づかない。

 ひとつの例だが、脳のCPUが鈍くなると、話し方そのものが、遅くなる。同時に、早口で話す
人の言葉が理解できなくなる。

●精進

 そこで釈迦は、「精進(しょうじん)」という言葉を考えた。「死ぬまで、精進あるのみ」と。

 脳みその底に穴があくなら、それはしかたのないこと。だれでも、そうなる。体の筋肉が衰え
るように、脳みその機能も衰える。そこで重要なことは、漏れ出る以上のものを、上から補うと
いうこと。

 10の情報が漏れ出たら、20の情報を補う。100の情報が漏れ出たら、200の情報を補う。

 つぎに思考のループ性。同じことを、毎日、同じように考える。そういうループ性をどこかで感
じたら、そのループ性から抜け出ること。が、実際には、これがむずかしい。そこで人は常に、
新しい世界に興味をもち、それに挑戦していく。その結果として、ループ性から抜け出る。

 新しい思想に接する。新しい分野に挑戦する。新しい人に出会う。

 もっともこんなことは、私が書くまでもなく、常識と考えてよい。つまり新しい世界を知ることに
より、その反射的効果として、自分のループ性に気がつくことができる。ループ性から、抜け出
ることができる。

●生きるということは、考えること
 
 さて、虫の話に戻る。

 虫がもつ時間性が、かりに人間のもつ時間性の10倍であるとする。(「10倍」でも、ひかえめ
な数字だが・・・。)もし虫が時計を考えたとしたら、時針、分針、秒針のほかに、もうひとつ、1
秒で1周する、細い針を考えるかもしれない。虫の動きは、人間の動きとくらべても、明らかに
10倍は、速い。

 が、その虫が、では人間とどこがちがうかといえば、答はひとつ。虫には、思考能力がないと
いうこと。与えられた情報をもとに、それを加工し、利用していく能力はあるかもしれないが、思
考能力はない。

 思考能力というのは、分析力、そして論理力で構成される。だからいくら脳のCPUのクロック
数が速いからといっても、それがそのまま、虫の脳みその性能につながるとは、考えられな
い。たとえて言うなら、ソフトのインストールされていない、パソコンのようなもの。

 思考能力というのは、それほどまでに高度なもの。かつ、思考するには、時間がかかる。こ
れもパソコンにたとえていうなら、パソコン自らがプログラムを組んでいくようなものかもしれな
い。虫の目からすると、思考している人間は、まるで眠っているかのように見えるかもしれな
い。

 しかし、だからといって、その分だけ、虫の人生が、人間のそれより密度が濃く、その分だけ
長いというかというと、そういうことはない。虫は虫として、(思考といえるようなものがあるかど
うかは、わからないが)、思考をループさせているだけ。

 そういう点では、虫は、「息(いき)ている」かもしれないが、「生(いき)ている」ことにはならな
い。ただこういうことは言える。

 人間から見れば、虫の一生は、数週間から数か月かもしれないが、虫自身は、それを短い
などとは思っていないということ。活動の量ということになると、かりにここに書いたように、10
倍とするなら、虫にとっての1年は、人間の10年分ということになる。

が、それでも虫は、「息ているだけ」。言い換えると、「息ているだけ」では、虫と同じ。人間がな
ぜ虫とはちがうかといえば、(考える)ところにある。その(考える)という部分が、人間と虫を分
ける。また考えるからこそ、人間は人間としての価値を維持することができる。

●長く生きる 

 平均寿命という言葉がある。それに対して、健康寿命という言葉もある。健康寿命というの
は、健康でいられる寿命をいう。ふつう(平均寿命)ー10が、(健康寿命)と言われる。たとえば
平均寿命が84歳なら、84ー10=74歳が、健康寿命ということになる。

 残りの10年は、不健康年齢ということになる。病気を繰り返したり、頭がボケたりする。つま
りそれまでが勝負。

 この計算式に従えば、私の健康寿命は、残り、10数年しかないということになる。(たったの
10数年だぞ!)「60歳」という年齢を気にするとすれば、むしろそちらの方である。「還暦(か
んれき)」とか何とか、そんなくだらない言葉に、振り回される必要はない。「残り、10数年しか
ない」という視点で、自分に緊張感を奮(ふる)い立たせる。

●これからの人生

 ではどうすれば、私は、残りの10数年を、有意義に過ごすことができるのか。人間として、
「生きる」ことができるのか。ただこのばあいも、「10」とか、「20」とかいう数字に、まどわされ
てはいけない。冒頭に書いたように、世の中には、1年を1日のようにして過ごす人もいれば、
1日を、1年のようにして過ごす人もいる。

 もし1年を10年にして生きることができれば、私の人生は、10倍の10年に延びることにな
る。

 そのひとつの方法が、「考える」ということになる。私のばあい、「真」の追求ということになる。
ほかにも、「善」の追求をする人もいるだろう。「美」の追求をする人もいるだろう。人は、人そ
れぞれだが、してはいけないことだけは、はっきりとしている。

 明日も今日と同じ。来月も今月と同じ。来年も今年と同じ・・・という人生には、意味はない。そ
んな人生の送り方だけは、してはいけない。それこそ、10年を1年にして生きるだけ、というこ
とになる。もっと言えば、ただ死を待つだけの人生ということになる。

●人間は中身
 
 60歳になったからといって、60歳らしく生きなければならないということはない。またそんなこ
とを、考える必要もない。中には、「コンパクトな人生論」を説く人もいる。生活のレベルをさげ、
範囲を狭くする。しかしどうしてコンパクトでなければ、ならないのか。

 どうせ死ねば、私もろとも、この宇宙すべてが消えてなくなる。だったら、それまでの人生。そ
れまで生きて、生きて、生き抜く。未練の痕跡を残さないほどまでに、燃やし尽くす。私はひと
り。そのたったひとりの私が、どうして他人に遠慮しなければならないのか。自分という人間に
遠慮しなければならないのか。

 バカめ!

 恩師の田丸謙二先生は、先日、私にメールをくれた。その中で、先生は、「老いと戦うすばら
しさ。感謝、感謝」と書いていた。

 人は老いることにより失うものも多い。それは事実だし、避ける方法もない。しかし同時に得
るものも多い。その第一。人は老いてはじめて、生きることのすばらしさを知る。生きることの
価値を知る。あのアインシュタインは、かつて、こう言った。『生きていること自体が奇跡』と。そ
れが実感としてわかるようになる。

 私にしても、今の命が、あと何年つづくかわからない。ひょっとしたら、あと数か月かもしれな
い。が、それまで燃えて燃えて、燃やし尽くす。明日、死の宣告をされても、ジタバタしないよう
に、今日を懸命に生きる。来年、死の宣告をされても、ジタバタしないように、今年を懸命に生
きる。10年後に死の宣告をされても、ジタバタしないように、この10年間を懸命に生きる。

 私の人生は、満60歳から、始まる! さあ、ここはしっかりと、はちまきを締めなおしてがん
ばろう!

【団塊の世代へ】

 私たちが満75歳までがんばれば、つまり何らかの形で現役として働けば、少子化の問題は
解決する。元気で働ける人だけでよい。それで少子化の問題は、解決する。仮に団塊の世代
と呼ばれる人の中の30%の人が、75歳まで働いたとすると、日本の労働人口は、私の試算
では、2015年から、労働者人口は、増加に転ずる※。

 だから元気で働けるうちは、元気で働こう。それは義務というより、特権である。元気で働け
る者の特権である。元気で働ける者が働けば、そうでない人たちの分まで、カバーする。

 不運にも、50代、60代で、大病をわずらう人もいるかもしれない。認知症になる人もいるか
もしれない。そういう人たちのためにも、元気で働ける人が働けば、回りまわって、結局は、そ
ういう人たちのためになる。

 元気で働ける人が、庭いじりや、孫の世話などで、時間をつぶしてはいけない。年金をアテに
して、遊んで暮らしてはいけない。生活の合間にするのは、それはそれでかまわない。しかしそ
れが決して、あるべき老後の姿ではない。またそういう生活を、理想の老後と思ってはいけな
い。

注※

 乱暴な計算だが、団塊の世代(昭和22年〜26年生まれ)、200万人x5年分x0・3=600
万人。つまり30%の人たちが働きつづければ、600万人の労働人口を、団塊の世代だけで、
カバーすることができる。これらの人たちが、満70歳〜75歳の間も働けば、2015年以後、
少子化で減少する労働人口、約500万人分をカバーすることができる。

 さらに私たちのあとにつづく者たちが、同じように75歳まで働けば、少子化の問題は、その
まま霧散する。

 私たち団塊の世代は、戦争を経験することもなく、豊かな繁栄の時代を生きることができた。
それなりにきびしい時代ではあった。が、世界的に見れば、私たちはたいへん恵まれた時代を
生きたと言える。そこで私たちに残された責務は、ただひとつ。次の世代の人たちに、その豊
かさを、遺産として残すことである。還元することである。

 繰り返すが、元気で働ける者が、元気で働けるというのは、まさに特権である。その特権を、
おおいに楽しもう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 60歳
 還暦 満60歳)


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

●今朝・あれこれ(9月28日)

+++++++++++++++++++

楽天のほうで、日記風エッセーを書いている。
それが昨日、500件のアクセスを記録した。

500件といっても、ダブってアクセスしてくれた
人も多い。それにそのうちの何割かは、私の
日記を読むためではなく、読んで自分のサイト
の宣伝のためにアクセスしてくれた人。

だから500件といっても、実際には、アクセス
し、私のエッセーを読んでくれた人は、200〜
300人程度ということではないか。

それにしても、すごい!

そこで今朝は、その記録に挑戦してみることに
した。

650件を超えれば、アクセス数上位30位以内に
ランクされる。

ランクされたところで、私にはメリットは」ない。
しかしおもしろそう。

早朝からエッセーをUPLOADすれば、その
分だけ、読者数がふえる。だから今朝は、
4時半起き。(4時半だぞ! ハハハ!)

で、今は、午前7時半。さきほど楽天日記の
アクセス数を調べたら、160件になっていた。

この分なら、今日は、600件を超えるかも
しれない。がんばろう!

まったく意味のない挑戦だが、一度はしてみる
価値がある?

どうかみなさん、私の楽天日記を読んでください。
よろしくお願いします。

+++++++++++++++++++

【ヤング・オールド・マン】

●価値

 賢い人は、失う前に、その価値を知り、愚かな人は、失ってから、あわてて、その価値を知
る。

 わかりやすい例では、健康がある。健康のときは、健康の価値というのがなかなかわからな
い。病気になったり、けがをしたりしたときに、その価値を知る。

 同じように、仕事がある。仕事をしているときは、仕事をしていることに価値というのが、なか
なかわからない。「早く休みになればいい」とか、「できるだけ楽をしたい」とか、考える。

 しかしその仕事がなくなると、とたんに心の中に、ポッカリと穴があいたような状態になる。そ
れがわからなければ、その反対の状態を想像してみればよい。もしあなたがこう言われたとし
たら、あなたは、どう思うだろうか。

 「あなたはもう、何もしなくていい。あなたの役目は終わった。あなたには用はない」と。

 あなたはそれを喜ぶことができるだろうか。「長い休暇を手にした」と、喜ぶことができるだろ
うか。答は、NO!、のはず。

 人間の価値は、他者とのかかわりの中で、決まる。同時に、生きる価値も、他者とのかかわ
りの中で、決まる。人間は、いつも他人というカガミに自分の姿を映しながら、自分を知る。そ
れもなく、いわんや、死を待つだけの人生に、いくら健康であっても、あなたは、それに耐えるこ
とができるだろうか。

 私の知人にこんな老人がいる。55歳で定年退職してからというもの、優雅な(?)年金生活。
一日とて、働いたことがない。間に、数年ほど、地区の補導委員のようなことはしたことがあ
る。が、それだけ。近所のゴミ拾いすら、したことがない。

 家の裏に70〜80坪ほどの畑をもっているが、まさに庭いじり三昧(ざんまい)。健康なとき
は、朝から夕まで、その庭で遊んでいる。

 が、このところ健康が、思わしくなくなってきた。年齢は85歳を超えているのではないか。肥
満も重なった。歩くのもままならない。ときどき、妻に支えられて、庭の中を行ったり来たりして
いる。

 つまりその老人は、定年退職と同時に、死んだも同然という状態になった。一見、うらやまし
いような老後生活に見えるが、しかしそんな生活を、だれも、理想的な生活とは思わない。そ
の老人は、30年という年月を、1年、あるいは1か月にして過ごしただけ。

 (少し、言いすぎかな?)

 私も、ある時期、教材づくりに没頭したことがある。それなりに楽しかった。お金にもなった。
しかし今、振り返ってみると、そこに何もないことを知る。反対に、だれかに利用されただけとい
う思いだけが、今になって、日増しに強くなってきた。

 つまり仕事といっても、中身の問題もある。そういうことはあるが、「時間を無駄にした」という
思いは、年齢とともに、ボディブロウのように、ジワジワと体に響く。もし「後悔」という言葉が当
てはめるとしたら、そういう状態を、「後悔」という。

 そこで改めて、仕事論。

 仕事ができるということは、まさに権利であり、それができる者にとっては、特権である。繰り
かえしになるが、賢い人は、失う前に、その価値を知る。

+++++++++++

(付記)

 ところで昨日、電車に乗ったら、こんなポスターを見かけた。歌舞伎俳優の顔写真を背景に、
「老人力……」うんぬんという文言が書いてあった。要するに、「老人よ、働こう」という内容のポ
スターだった。

 それを見て、私なら、「ヤング・オールド・マン」という言葉を使うのに思った。

 ニュアンスとしては、年を取っても、現役で働くことができる元気な老人という意味である。そ
れについて書いた原稿がある。

+++++++++++

●ヤング・オールド・マン

ワ「私たちは、おかげで、健康よ。私、よく思うの。こうして無事、今まで、生きてこられただけで
も、不思議な気がするわ」
私「そうだね。健康だったということは、ありがたいね。仕事も、いろいろあったけど、とにかく、
順調だった。ぜいたくはできなかったけれど、そこそこに、いい生活はできた」
ワ「そうよ、まず、それに感謝しなければいけないわよ」

 私たちは、通りに出ると、駅に向って歩き始めた。近くに水族館があった。が、火曜日は、休
館日ということだった。その少し向こうには、何かのテーマパークがあるということだった。しか
しそこへ行くのはやめた。時刻は、午後の2時になろうとしていた。

 私たちは、裏通りを歩いた。静かな裏通りだった。途中、1人の大工さんが道路で、角材を電
動ノコで切っていたが、私たちが見かけたのは、その男だけだった。

 空き地に「蒲郡定住促進事業」という立て札が立てられているのを見たとき、ふと、「この町
も、不景気でたいへんなんだな」と思った。

私「あのころぼくたちには、何もなかった。でも、今は、何でもそろっている。家もあるし、車もあ
る」
ワ「そうよ、やっとあなたの考え方が、前向きになってきたわ」
私「そうだよな。これが前向きの考え方って、言うんだよね」
ワ「そうよ、ものは、そういうふうに考えたほうがいいのよ」

私「子育ては、重労働だった。たいへんだった。でも、今は、それも終わった。もう孫育てなん
て、ごめん。クソ食らえ!」
ワ「そうよ、孫のことは、息子たちに任せればいいのよ。あなたが心配しても、始まらないのよ」
私「ぼくたちはぼくたちで、自分の人生を楽しめばいい」
ワ「そうよ、そうなのよ。私たちは、ヤング・オールド・マンよ」
私「そうだ、ぼくたちは、ヤング・オールド・マンだ」

 工事中の通路を、やけに長く感じた。私たちは、通路を抜けると、プラットフォームに出た。そ
して帰りの電車に乗った。

●第二の人生

 老後は、第二の人生の始まりという。姉も、少し前、私にこう言った。何かのことで、私がグチ
をこぼしたときだ。

 「浩ちゃん、何、言ってるのよ。これからが、一番楽しいときになるのよ。夫婦、2人だけで、
好きなことができるのよ。旅行でも、何でも、よ」と。

 その姉の話をワイフに言うと、「それみなさい」というような表情を、私にしてみせた。私は私
で、それを見て笑った。

 私の考え方は、たしかにうしろ向きだった。マイナス思考というのだ。しかし、年齢などに、ど
ういう意味があるというのか。そこには、青い空があり、晴れた陽光がある。何を、私は恐れ、
何を心配しているのか。

 おかげで、健康だ。自由だ。その気になれば、やりたいことを何だって、できる。私に命令す
る人はいない。命令できる人も、いない。

 浜松駅へ着くころ、私はワイフにこう言った。

 「いつも出かけるときは、今日はやめようかと思う。しかし帰ってくるころになると、出かけてよ
かったと思う。今度の土曜日も、どこかへ行こうか」と。

 それを聞いて、今度はワイフが、うれしそうに笑った。

 駅前では、青色申告会の人たちが、ビラを配っていた。それを見て、「あの人たち、みんな知
っているわ。いつもお世話になっている人たちよ」と。

 相変わらず、白い陽光が、かわいた路面を明るく照らしていた。私たちは、人目もはばから
ず、手をつないで歩いた。
(終わり)

【老齢問題】

 例外なく、だれもが直面する問題。それが老齢問題。

 その老齢問題について、私は今、大きな心境の転換期を迎えている。ただ単なる一時的な
思いこみかもしれない。あるいはやがてすぐ、またもとに戻ってしまうかもしれない。

 しかし、今、私は、たしかに、ものの考え方を変えつつある。

 その一。老齢は、人生の終わりの始まりではないということ。いつしか人間は、年齢を、時代
ごとに、区切って考えるようになった。幼児期、少年期、思春期……と。しかしこうした区切り方
そのものが、まちがっている。そしてその区切り方に応じて、自分の人生を考えることは、まち
がっている。

 50年も、自分の体だって、少しくらいは、ガタがくる。そんなことは、当然のことではないか。
しかしだからといって、私の目に映る空は、少し白っぽくなったかとは思うが、私が、30年、40
年前に見た、あの青い空と、どこもちがわない。

 木々の緑も、雲の白さも、そうだ。

 私は、何も失っていない。何も、なくしていない。

 むしろ、あの切なくて、わびしかった30年前とくらべただけでも、今は、(すべてのもの)が、そ
こにある。家族もいるし、家もある。仕事もある。その私が、どうしてマイナス思考をしなければ
ならないのか。

 もう一度、あのゲオルギウの言葉を、ここでかみしめてみようではないか。

ゲオルギウというのは、ルーマニアの作家。一九〇一年生まれというから、今、生きていれば、
一〇二歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 老齢を認めるかどうかは、その人の問題。しかし認めたところで、マイナス思考になることは
あっても、何も、よいことはない。だったら、認めないこと。気にしないこと。忘れること。頭の中
に置かないこと。

 さあ、これから私は、運動にでかけるぞ。途中、本屋とパソコンショップに寄るぞ。子どもたち
とワイワイと騒いでくるぞ。したいことをするぞ。
(041117)

【付記】

 「幼児だから……」「子どもだから……」と、私たちは、子どもを見るとき、安易に、そう決めて
かかる傾向がある。

 それについては、私は、常、日ごろから、「おかしい」と主張してきた。しかし何のことはない。
実は、その自分が、自分に向って、「団塊の世代だから……」「初老だから……」と、決めてか
かっていた。

 明らかに、私は矛盾している。その矛盾に、今日、気がついた。

【団塊の世代の仲間へ……】

 ……と書いても、私の原稿の読者には、団塊の世代の人は、ほとんどいないと思うが、あえ
て宣言。

 私たちは、ほとんど何もわからず懸命に生きてきた。今も、生きている。さあ、これからも懸
命に生きていこう。

 思い出してみようよ、あの貧しかった時代。あの時代から見れば、私たちは、今、夢のような
生活をしているではないか。

 まだ30年は、がんばれるぞ! がんばるぞ! そこらの若者たちなんかに、負けてたまる
か!

 
+++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●我ら、ヤング・オールド・マン!

 青春時代と、今の時代を比較する。その比較をしながら、人は、老齢期が近づくと、(失った
もの)をなつかしみ、そしてその反動として、自分のおかれた立場を嘆く。

 しかし本当に、そうだろうか? 私たちは、青春時代にもっていたものを、本当に失ったのだ
ろうか? そう思いこんでいるだけでは、ないだろうか?

 南こうせつとかぐや姫の歌う歌に、「神田川」がある。「♪あなたは、もう、忘れたかしら……」
という歌詞の、あの歌である。
 
 あの歌を耳にするたびに、涙を流す人も、多いはず。私もその一人だが、まさにあの歌詞の
ままの状況を、私も経験している。そういう時代を思い出すと、この「今」という時代は、夢のよ
うな時代ということになる。

 物質的な繁栄だけではない。当時、こんなことを思ったことがある。結婚当初、私たちは、6
畳1間のアパートに住んでいた。つぎに移ったアパートも、4畳と6畳、それに狭い台所と食堂
だけだった。

 仕事も不安定で、収入も、それ以上に、不安定だった。そんな私は、ある日、近くの家を見な
がら、こう思ったことがある。「ぼくたちも、いつか、あんな家が持てるのだろうか」と。

 そのときの私は、家をもつことなど、永遠に不可能に感じた。「家」というより、家がもつ家庭
的なぬくもりをもつことなど、永遠に不可能と感じた。私には、縁のない話だと思っていた。

 もちろん仕事も、そうだった。幼稚園の講師といったところで、今でいうフリーターのようなも
の。若い女性の先生にすら、軽んじられた。はっきり言えば、バカにされた。

 そんな私が、57歳になった。たいした人間にはなれなかったが、しかしそれでも、あの時代
の「私」とくらべれば、夢のような「私」になった。家もある。車もある。それに何よりもすばらしい
ことに、家族もある。家庭もある。若いときのように、もう私は、孤独ではない。

 そうして考えてみると、私が失ったものは、何もないことに気づく。もともと美貌とかスタイルな
どといったものは、私には、無縁のものだった。顔にシワがふえたところで、また髪の毛が白く
なったところで、私は、それを気にしたことはない。

 ただ女性に、年ごとに相手にされなくなったのは、感じている。が、だからといって、それがど
うなのか? 仮に今、私が、若い女性に好意をもたれたところで、私にとっては、レストランの
ウィンドウに飾られた料理のようなもの。手をのばすことすら、できない。

 平均寿命のことを言う人もいる。57歳といえば、残りの寿命は、約30年弱ということになる。
しかしその平均寿命にしても、若いから、長いとか、老齢だから短いと言うことにはならない。
「死」の恐怖は、世代をこえて、だれにでもある。

 その恐怖が、多少、大きくなっただけ。しかしその一方で、今まで生きてこられたことに感謝
する。そんな気持ちが生まれてきた。

 大切なことは、健康であるかどうかということよりも、健康管理ということになる。さらに言え
ば、「今」をどう生きるかということになる。

 私は今まで、老齢になる私を、少し、おおげさに考えすぎていた。まちがっていたというので
はない。しかし老齢を気にするあまり、もっと大切なものを、見落としていた。私は、それに今、
気づいた。

 我ら、ヤング・オールド・マン(YOM)は、若いのだ!

【YOMの規約】

第1条

 結婚生活20年以上、子育てが終わりに近づいた、あるいは終わった我らを、ヤング・オール
ド・マン(YOM)と称する。

第2条

 我らYOMは、(1)健康管理を第一とし、(2)日々に新しいテーマについて考え、(3)常に前
向きに生きていく。

第3条

 我らYOMは、(1)利他、つまり奉仕と還元の精神を大切にし、(2)自己管理を徹し、(3)他
者と良好な人間関係を築く。

第4条

 我らYOMは、日々に(1)やるべきことを完遂し、(2)やりたいことをし、(3)悔いを残さないこ
とを、モットーとする。
(はやし浩司 YOM規約 ヤングオールドマン ヤング オールド マン)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●会話術

+++++++++++++

自分の子がこわくて、何も言えない
という親は、少なくない。

ある学校へ講演会に行ったら、
1人の母親が、こう言った。

「うちの子(小6)は、歯をみがき
ません。そのため口臭がひどいの
ですが、それを言うと、大げんかに
なってしまいます。

実際には、こわくて言えません。
そういうときは、どう言ったらよい
でしょうか?」と。

+++++++++++++

 会話によって、人間関係がよくなることもあれば、悪くなることもある。こういうケースのとき
は、こうする。

 まず、新しい、少し変わった歯ブラシを買ってくる。子どもに渡す。「これはすごい歯ブラシらし
いわよ」と。

 そして数日後、再び、子どもにこう言う。「あの歯ブラシ、使ってみた?」と。そこで子どもがも
し、「ウン」と言ったら、すかさず、こう言う。「よかったわ。口臭が消えたわよ」と。

 ほかにもいろいろある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもを伸ばす、会話術

=====================================

(しつけ)

●「〜〜してはいけない」という禁止命令は、少なくする。そういうシツエーションで、いかにジョ
ークを混ぜるかは、親の、親としての技量の見せどころ。(日本人の子育ては、まだ世界的に
みても、発展途上国。蓄積された「子育て観」が、まだ少ない……。)たとえば指しゃぶりをして
いる子どもに、「指をしゃぶってはダメ」と言うのではなく、「あなたの指、おいしそうね。ママにも
しゃぶらせてね」とからかう、など。)

=====================================
心を伸ばす

●「がんばれ」ではなく、「調子はどう?」「気を楽にね」と言う。特に受験勉強などで、すでに心
がきずついている子どもには、「がんばれ」は禁句。

=====================================

学習面で伸ばす

●子どもの点数は問題にしない。「何点だった?」「平均点は何点?」ではなく、「どこをまちが
えたの?」「あとで一緒に考えてみようね」と言う。


=====================================

生活面で伸ばす

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「遊ぶときは、一つだけですよ」と言う。子どもは次の遊
びをしたがため、前の遊びを片づけるようになる。



=====================================

学校生活で伸ばす

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問して、
わかるまで聞くのですよ」と言う。

=====================================

そのほか……

●「家族を大切にしようね」と、いつも口癖にする。子どもの心から「人」を奪ってはいけない。
「家族」を奪ってはいけない。「いい高校へ入れ」「いい大学へ入れ」と言うことは、子どもの心
から「人」を奪うことになるから注意。今、おとなでも、営業成績しか心の中にいない人はいくら
でもいる。心さみしいおとなたちである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

(子どもを伸ばす会話術)

●「立派な人になれ」ではなく、「尊敬される人になれ」と言う。(価値観を変える)

●「社会で役立つ人になれ」ではなく、「家族を大切にしようね」と言う。

●「先生の話をよく聞くのですよ」ではなく、「わからないことがあったら、先生によく質問するの
ですよ」と言う。(親の指示に具体性をもたせる)

●「こんな点でどうするの!」ではなく、「どこをどうまちがえたか、あとで話してね」と言う。

●「がんばれ!」ではなく、「気を楽にしてね」と言う。(苦しんでいる子どもに、「がんばれ」は禁
句)

●「あとかたづけをしなさい」ではなく、「あと始末をしなさい」と言う。(あと片づけとあと始末は、
基本的に違う)

●「〜〜を片づけなさい」ではなく、「遊ぶときはおもちゃは一つよ」と言う。

●「〜〜しなさい」ではなく、「〜〜してほしいが、してくれる?」と言う。(命令はできるだけ避け
る)

●「友だちと仲よくしなさい」ではなく、「(具体的に)これを○○君にもっていってあげてね。きっ
と喜ぶわ」と言う。

●「(学校で)しっかりと勉強するのですよ」ではなく、「学校から帰ってきたら、先生がどんな話
をしたか、あとでママに教えてね」と言う。

●「はやく〜〜しなさい」ではなく、「この前より、はやくできるようになったわね」と言う。

●「どうしてこんなことをするの!」ではなく、「こんなことをするなんて、あなたらしくないね」と言
う。

●「あなたはダメな子ね」ではなく、「あなたはこの前より、いい子になったね」と言う。(前向き
のプラスの暗示をかける)

●「あなたは〜〜ができないわね」ではなく、「〜〜がうまくできるようになったわね」と言う。(欠
点を積極的にほめる)

 親の会話力が、子どもを伸ばす。(もちろんつぶすこともある。)ほかにもたとえば直接話法で
はなく、間接話法で。英語の文法の話ではない。たとえば「あなたはいい子だね」と言うのは、
直接話法。「幼稚園の先生が、あなたはいい子だったと言っていたよ」というのは、間接話法な
ど。あるいは会話を丸くしたり、ときにはユーモアをまぜる。たとえば指しゃぶりしている子ども
には、「おいしそうな指だね。ママにもなめさせてね」とか、「おとなの指しゃぶりのし方を教えて
あげようか」などと言う。コツは、あからさまな命令や禁止命令は避けるようにすること。何か子
どもに命令しそうになったら、ほかに言い方はないかを考えてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 会話
 会話術)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2230)

【謎の扁桃体(核)】(思考と心のメカニズム)

++++++++++++

脳の中心部に、辺縁系という
組織がある。その中に扁桃体
という組織がある。「扁桃核」と
呼ぶ人もいる。

この扁桃体が、実は、人間が
人間らしくあるための、カギを
にぎっている(?)ということが、
最近の研究でわかってきた。

今までに、それについて書いた
原稿を集めてみた。

一部、重複する部分があるかも
しれないが、許してほしい。

+++++++++++++

●思考のメカニズム

 古来中国では、人間の思考作用をつぎのように分けて考える(はやし浩司著「目で見る漢方
診断」「霊枢本神篇」飛鳥新社)。

 意……「何かをしたい」という意欲
 志……その意欲に方向性をもたせる力
 思……思考作用、考える力
 慮……深く考え、あれこれと配慮する力
 智……考えをまとめ、思想にする力

 最近の大脳生理学でも、つぎのようなことがわかってきた。人間の大脳は、さまざまな部分が
それぞれ仕事を分担し、有機的に機能しあいながら人間の精神活動を構成しているというの
だ(伊藤正男氏)。たとえば……。

 大脳連合野の新・新皮質……思考をつかさどる
 扁桃体……思考の結果に対して、満足、不満足の価値判断をする
 帯状回……思考の動機づけをつかさどる
 海馬……新・新皮質で考え出したアイディアをバックアップして記憶する

 これら扁桃体、帯状回、海馬は、大脳の中でも「辺縁系」と呼ばれる、新皮質とは区別される
古いシステムと考えられてきた。しかし実際には、これら古いシステムが、人間の思考作用を
コントロールしているというのだ。まだ研究が始まったばかりなので、この段階で結論を出すの
は危険だが、しかしこの発想は、先の漢方で考える思考作用と共通している。あえて結びつけ
ると、つぎのようになる。

 大脳皮質では、言語機能、情報の分析と順序推理(以上、左脳)、空間認知、図形認知、情
報の総合的、感覚的処理(以上、右脳)などの活動をつかさどる(新井康允氏)。これは漢方で
いう、「思」「慮」にあたる。で、この「思」「慮」と並行しながら、それを満足に思ったり、不満足に
思ったりしながら、人間の思考をコントロールするのが扁桃体ということになる。

もちろんいくら頭がよくても、やる気がなければどうしようもない。その動機づけを決めるのが、
帯状回ということになる。これは漢方でいうところの「意」「志」にあたる。日本語でも「思慮深い
人」というときは、ただ単に知恵や知識が豊富な人というよりは、ものごとを深く考える人のこと
をいう。が、考えろといっても、考えられるものではないし、考えるといっても、方向性が大切で
ある。それぞれが扁桃体・帯状回・海馬の働きによって、やがて「智」へとつながっていくという
わけである。 

 どこかこじつけのような感じがしないでもないが、要するに人間の精神活動も、肉体活動の一
部としてみる点では、漢方も、最近の大脳生理学も一致している。人間の精神活動(漢方では
「神」)を理解するための一つの参考的意見になればうれしい。
子育て ONE POINT アドバイス! by はやし浩司(375)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えることを放棄する子どもたち

 「考える力」は、能力ではなく、習慣である。もちろん「考える深さ」は、その人の能力によると
ころが大きい。が、しかし能力があるから考える力があるとか、能力がないから考える力がな
いということにはならない。もちろん年齢にも関係ない。子どもでも、考える力のある子どもはい
る。おとなでも考える力のないおとなはいる。

 こんなことがあった。幼児クラスで、私が「リンゴが三個と、二個でいくつかな?」と聞いたとき
のこと。子どもたち(年中児)は、「五個!」と答えた。そこで私が電卓をもってきて、「ええと、三
個と二個で……。ええと……」と計算してみせたら、一人女の子が、私をじっとにらんでこう言っ
た。「あんた、それでも先生?」と。私はその女の子の目の中に、まさに「考える力」を見た。

 一方、夜の番組をにぎわすバラエティ番組がある。実に軽薄そうなタレントが、これまた軽薄
なことをペラペラと口にしては、ギュアーギャアーと騒いでいる。一見考えてものをしゃべってい
るかのように見えるが、その実、彼らは何も考えていない。脳の、きわめて表層部分に飛来す
る情報を、そのつど適当に加工して、それを口にしているだけ。

まれに気のきいたことを言うこともあるが、それはたまたま暗記しているだけ。あるいは他人の
言ったことを受け売りしているだけ。そういうときその人が考えているかどうかは、目つきをみ
ればわかる。目つきそのものが、興奮状態になって、どこかフワフワした感じになる。(だからと
いって、そういうタレントたちが軽薄だというのではない。そういう番組がつまらないと言ってい
るのでもない。)

 そこで子どもの問題。この日本では、「考える教育」というのが、いままであまりにもなおざり
にされてきた。あるいはほとんど、してこなかった? 日本では伝統的に、「できるようにするこ
と」に、教育の主眼が置かれてきた。学校の先生も、「わかったか?」「ではつぎ!」と授業を進
める。(アメリカでは、「君はどう思う?」「それはいい考えだ」と言って、授業を進める。)親は親
で、子どもを学校に送りだすとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言う。(アメリカでは、「先生
によく質問するのですよ」と言う。)(田丸謙二先生、指摘)

その結果、もの知りで、先生が教えたことを教えたとおりにできる子どもを、「よくできる子」と評
価する。そしてそういう子どもほど、受験体制の中をスイスイと泳いでいく。しかしこんなのは教
育ではない。指導だ。つまり日本の教育の最大の悲劇は、こうした指導を教育と思い込んでし
まったところにある。

 大切なことは、考えること。子どもに考える習慣を身につけさせること。そして「考える子ども」
を、正しく評価すること。そういうしくみをつくること。それがこれからの教育ということになる。ま
たそうでなければならない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさん
がボールを投げた。このままでは顔に当たる。あぶないから手で受け止めろ」ということになっ
て、人は手でそれを受け止める。

しかしこの段階で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。この危険を
察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳ということになる。
人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起こしながら、
それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究で
は、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正
男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされ
るが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用す
るという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。認知記憶をつかさどる海馬もこの中に
あるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づけを決める帯状回という組織があるとい
う(伊藤正男氏)。

つまり「やる気」のあるなしも、大脳生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されて
いる。(もともと辺縁系は、脳の中でも古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維
持するための機関と考えられていた。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分
担しながら、有機的に機能している。いくら大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起
こらなかったら、その機能は十分な結果は得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を
飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のメカニズム

*****************

少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。

*****************

 まず、数か月前に私が書いたエッセーを読んでみてほしい。この中で、私は「気持ちよさ」と
か、「ここちよさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて五〇円、
余計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその五〇円を返す
と、店員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、
みんなが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。私の中には、私であって
私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱったり……。

先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。「家になん
か帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まるつもりでい
た。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まりたいの
か」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たかった。だ
から私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのも
のと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と
呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょう
ど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(た
いじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。その扁桃
体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究でわかってき
た。

もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に信号を送り、そ
れを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感に包まれるとい
うのだ。ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに五〇円のお金を渡したことが、扁桃体
に信号を送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひ
とつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を
経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私
は二三、四歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、
「教授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数十種類ほど発見されている。その麻薬様物
質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質
は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されるこ
とで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ず
るのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出す
るためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうし
て、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられて
いた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられた
こともある。しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維
持だけではなく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。

そうなると人間は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもっ
ていたということになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実
際、こんなことがある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別
としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもち
ろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。

たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突
然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何
か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そし
て誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人
間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた
信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということにな
る。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性
に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母
親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむとい
う内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病
院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。
が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふ
つうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人
のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書
いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働
きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反
応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」という
のも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によっ
て、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえば
ニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレ
スだと言われている。何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドと
いう物質が分泌される。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を
体の中で引き起こすことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづく
と、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与
える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまで
も「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレス
にさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。イギリスにも、『抑圧
は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があれば煮つめてみる
が、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるのがよい。そしてそれ
が、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が
重複するが、許してほしい。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小一担当女性)が、こんな話をしてくれた。「一年生のT君が、トカゲをつ
かまえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてき
て、トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう二〇年ほど前のことだが、一人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。

私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が凍りつくのを覚えた。よく見ると、
それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを口でかませ
る。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の頭だった。
また別の日。

小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さなトカゲだった。
「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカゲを足で踏ん
で、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。

要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景にあるとみる。
さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破壊することも
ある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する
能力のことをいう。これがないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。
昔、こう言った高校生がいた。

「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれば、ずっ
と住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊かな家庭環
境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もやさしくな
る。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される
が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入
ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結
果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを
渡すと、心の中が読める。子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れてい
る子どもは、おとなが見ても、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02ー11ー23)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数十万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚
そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返
す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、
よく出会う。たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれ
て、さまざまな感情をもつようになる。

よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。眠っている赤子が、何を思うのか、ニコ
ニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に繰り返しながら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁
桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。確かに知的活動(大脳連合野の新新皮
質部)と、情動活動は、違う。たとえば一人の幼児を、皆の前でほめたとする。するとその幼児
は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その表情を観察してみると、それは知的な判
断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つまり本能的な部分によってそうしているこ
とがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく四〜六歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であること
がわかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれなが
らにそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正し
い。子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもには
ならない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわか
る。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、
それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新
生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやが
れ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していた
はずである。つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人で
あるという証拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この一、
二年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によ
っては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地
面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば一〇分もたたないうちに、無数の小さなアリが
集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかってい
るのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの
幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っている
だけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではな
いように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行
為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が
楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。

同じように、私はアリたちにも、同じような作用が働いているのではないかと思った。つまりアリ
たちは、ただ単に行動本能に従っているだけではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感
じているのではないか、と。またその喜びがあるからこそ、そういった重労働をすることができ
る、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅し
ていたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じている
に違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をする
ことができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪
なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。
私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし
私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物
にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。
自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って
行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02ー8ー3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 扁桃
体 扁桃核 善悪 性善説 性悪説 心のメカニズム)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2231)

●多文化共生

++++++++++++++

外国人労働者がふえている。
当然、その子どもたちも、
ふえている。

日本が、この先、国際社会の中で
生き延びていくためには、外国人
労働者の存在を、否定することは
できない。

少子高齢化でできる穴を、こうした
外国人労働者たちが、埋めてくれる。
が、問題は、ないわけではない。

++++++++++++++

 先日(07年9月)、静岡県K町にある小学校で、講演をさせてもらった。昔からお茶の産地と
して知られる、田園風景の美しい街である。その席で、校長が、こんな数字を教えてくれた。校
長が話してくれたことをメモにしただけなので、数字的には、不正確かもしれない。

 校長は、こう言った。「私はこの地域で生まれ育ちましたが、この40年間で、学校の様子も、
すっかり変わりました」と。その上で、「ご存知ないかもしれませんが、実は、このK町が、外国
人比率では、静岡県、ナンバー・1です」と。

私「このK町がですか?」
校「そうなんですよ。そんなわけで、この学校にも、外国人の子どもたちが、たくさん来ています
よ」
私「どれくらいの割合ですか?」
校「全校生徒数452人のうち、外国人の子どもは、39人です」
私「39人も、ですか!」と。

 外国人というのは、ブラジルを中心とする、南米からの労働者の子どもをいう。452人中、3
9人といえば、約8・6%ということになる。おおざっぱに言えば、10人のうち、1人弱ということ
になる。

校「が、そのうち、つまり39人のうち、21人がほとんど日本語を理解できません。つまり日本
語指導が必要な子どもたちです」
私「学級を別にしているのですか?」
校「そうできればいいのですが、それができないから困っているのです」と。

 同じような問題を、浜松市の西にある、K市もかかえている。自動車部品を作る企業が、数
多く並んでいる。そのK市の中心部に、K小学校という、全校児童800人ほどのマンモス校が
ある。そうしたマンモス校では、こうした外国人の子どもたちのために、特別の予算がつけられ
ている。ポルトガル語のできる指導員も配属されている。私が見学させてもらったクラスでは、
3〜4人の子どもに、1人の教師がついて、マンツーマンの指導をしていた。

 つまり、こうした指導には、お金がかかる。

 が、たとえばブラジル人の子どもたちにかぎって言えば、ブラジル人学校がないわけではな
い。先のK町の子どもたちにしても、通えなくはない。しかし学費が高い。

 一般公立小学校のばあい、月1万円弱程度の学費で、通学できる。一方、ブラジル人学校
のばあい、学費は、月、6万円前後。中には、子どもを2〜4人、連れて日本へやってくる夫婦
もいる。そのため「どうしても学費の安い公立小学校で……」となるらしい。

 もちろん、問題もある。

 ほとんどの親たちは、子どもを学校へ連れてきて、こう言うという。「日本語を教えてほしい」
と。

 しかし現在の学校には、そういうカリキュラムは用意されていない。「しかたないので、ふつう
の学級で、日本の子どもたちといっしょに、学習させています」(K小学校談)とのこと。

 が、さらに問題はつづく。

 つぎの話は、私の地元で市議会議員をしている男性(40歳くらい)から聞いたものである。そ
の男性は、こう言った。ある市営団地(集合住宅)のほとんどが、外国人労働者たちによって、
支配されてしまったという。そういう話の中で、こう教えてくれた。

 「文化の破壊が進んでいます」と。

 たとえば南米からの労働者たちは、夜中でも、パーティを開く。大騒ぎする。信号無視は、当
たり前。交通ルールも守らない。黄色車線でも、平気で追い抜きをかけてくる。

学校教育についても、ブラジル人の子どもたちは、雨が降れば学校を休む。行事があっても、
土曜日には、学校へは来ない。ある日突然入学したかと思うと、またある日、突然、学校をや
めてどこかへ行ってしまう、など。

 だからといって、ブラジル人の子どもたちを責めているのではない。ブラジルにはブラジルの
伝統や、習慣というものがある。「彼らはそっくりそのまま、この日本に持ちこんでくるのです
ね」(市議会議員の男性談)と。

 それがさらに、このところ過激に(?)なってきた。以前はというと、南米からの労働者といっ
ても、少数派。目立たなかった。日本の社会の同化しようという意識も、まだあった。

 それがこのところ、先にも書いたように、全体の10%〜とか、地域によっては、それ以上に、
なってきた。しかも経済的に余裕のある外国人労働者がふえてきた。この浜松市でも、ここ数
年、外国人労働者の運転する車が、目立って多くなった。

 つまりその分、「ますます態度が大きくなってきた」(市議会議員の男性談)とのこと。そしてそ
れがそのまま学校教育という場に、反映されるようになった。

 冒頭に書いたK町の小学校の校長は、こう言った。「他文化共生も結構ですが、今、現場で
は、学校教育を守るのに必死です。このままでは、学校教育そのものが、崩壊してしまいます」
と。

 ことは深刻である。ゆいいつの解決策は、公立のブラジル人学校を開設することだが、それ
にもこれまた多くの問題がある。が、不可能ではない。

 カナダでは、学校の設立そのものが、自由化されている。しかも内部で教える言語は、自
由。日本も今すぐ……というわけには、いかないかもしれないが、日本がこの先、国際社会の
中で生き残っていくためには、教育の自由化、教育の国際化も、避けられないのでは?

 私はその小学校の校長の話を聞きながら、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●私は、もう知らない!

++++++++++++++

6か国協議は、すべて韓国と
K国の思惑通りに、ことが
運んでしまった。

「アメリカの脅威」という、ありも
しないK国の妄想の上に組み立
てられた、6か国協議。

「だから我々が核兵器開発する
のは、当然」と。

それを妄想と、百も承知の上で、
他の5か国は、いいように手玉に
取られてしまった。

これから先、日本は、単独で、
K国と対峙していかねばならない。

K国が提示してきた戦後補償費なる
賠償金は、40兆円とも、あるいは、
それ以上とも言われている。
(日本の国家予算にも匹敵する、
40兆円だぞ。しかもそれですむと
いう保証はどこにもない。)

K国に残された核兵器は不問の
まま。日本はその影におびえ、この先、
長い長い、日朝交渉を繰りかえして
いかねばならない。

その覚悟はあるのか?

今さら、「対米追従外交反対論は
まちがっていました」とは、口が
避けても言えまい。

そういえば、昨年、対米追従外交
反対論を唱えていた、あの威勢の
よかった評論家たちは、今は、
どこに姿を消した?

おかげでアメリカは、日本を完全に、
切り捨ててしまった。

しかし……ここにきて、K国の態度が、
急激に(まとも)になってきた?

その(まともさ)が、かえって不気味。

さて、日本はここで、韓国、K国という、
最悪の反日国家の誕生を許す
ことになる。

地上軍だけで、計160万。
彼らがまともに戦争をしかけてきたら、
日本の自衛隊など、数日ももたない。

私は、もう知らない。

++++++++++++++

 政治までもが、ギャグ化してしまった、この日本。昨日も、ビート・T氏司会で、「独裁国家も悪
くない」という番組が流されていた。内容は、「独裁国家でも、それなりにいいところはある。たと
えばキューバ。医療費は、すべて無料!」と。

 腹がふくれれば、それでいいのか? それなりにいい生活ができれば、それでいいのか?バ
カめ!

 人間にとってもっとも大切なもの。それが思想の自由であり、言論の自由。それなくして、何
が国家だ。人権だ。自由だ。人間が人間である証(あかし)は、思考にある。思想にある。人間
は、自ら考えるから、人間なのだ。

 あの番組を見た、若者たちは、きっとこう思ったことだろう。「独裁国家も、なかなかいいじゃ
ん。めんどくさくなくて……」と。

 思想がないから、正義もない。正義がないから、国際社会の中で、右往左往するだけ。その
結果が、今度の6か国協議。拉致問題にかこつけて、会議の隅で小さくなっているだけ。だか
ら、だれにも支持されない。相手にされない。

 私は、もう知らない。どうぞ、ご勝手に! 今となっては、この日本に、打つ手なし!
2007年9月30日記


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(9月30日)

●パソコンがなおった!

 いろいろあった。あったが、なおった。とうとう、なおった。今は、そのなおったパソコンを相手
に、こうして好きな文を書いている。楽しんでいる。気持ちよい。

 結局のところ、今回の故障は、OSファイルの破損と、マザーボードの故障ということになっ
た。ついでに、ハードディスクの不調。いろいろ重なった。今までの故障の中でも、いちばんの
重傷だった。

 しかし、なおった!


●ファイルの保存

 みなさんも、データファイルの保存だけは、大切に。そのつど、こまめに、保存しておくのがよ
い。私は、つぎのような方法で、データファイルを保存している。

(1)外づけハードディスクに、データファイルを保存。(これは常時)
(2)有料のインターディスクに、データファイルを保存。(これは週に、2、3度)
(3)ときどきDVDにデータファイルを、焼いて保存。(これは月に、1、2度)
(4)ほかに、原稿は、あちこちのBLOGに書き込むことで、保存。

 大きな故障だったが、今回も、そんなわけで、あわてずにすんだ。いつなんどき、パソコンと
いう怪物は、へそを曲げて故障するか、わかったものではない。

 そうそう言い忘れたが、IDやパスワードなどは、そのつど、ノートもしくは、フロッピーディスク
に書きこんでおくとよい。これだけは、こまめにしておいたほうがよい。今回も、それで助かっ
た。


●誕生日プレゼント

 誕生日が近いというのに、まだプレゼントが決まらない。ワイフが毎日のように、聞く。「何が
ほしいの?」と。

 それで今日、Nというパソコンショップへ行って、工J舎の超小型パソコンを見てきた。が、見
たとたん、「これはダメ!」と。文字が小さすぎて、私には読めない。若いときならまだしも、今
の私には、読めない。それにキーボードが小さすぎる!

 結局、今日は、接続用のコードを一本買って帰ってきた。「これでいいよ」と、私が言うと、わ
いふは、「?」と。

 何にしようか……? 今の私には、とくにない。今日の私は、パソコンがなおっただけで、大
満足。


●今回から11月号

 この原稿から、マガジン11月号用になる。マガジンも、11月2日で、957号になる。あと43
号で、1000号。その1000号まで、あと3か月と少し。

 よくがんばった……と自分でも、そう思っている。ここまで書いて、何が変わったのか? いろ
いろ考えてみるが、結局は、何も変わっていない。変わっていないが、しかし、楽しかった。

 朝、目を覚ますと、一番に書斎に入る。朝、目を覚ましたとき、することが決まっているのは、
楽しい。そこからその日が始まる。あるいはヒマなとき、「パソコンであれをしよう」「これをしよ
う」と考えているのも、楽しい。

 1000号を過ぎたら、アフィリエイトを本格的にしてみようかな? セカンドライフも、まだ手づ
かずのまま。やってみたいことは、山のようにある。

 読者のみなさん、今まで、あれこれ声援、ありがとう! たぶん、1000号を過ぎても、このま
ま書きつづけていくと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2232)

●前代未聞のHP

++++++++++++++++

ウソや冗談ではない。
本気らしい。

あのAT&A社(アメリカを代表する、電話会社
=日本のNTT)が、こんな条件を提示した。

「我が社を批判することがあれば、その人の
インターネット利用を、停止する」と。

++++++++++++++++

まずは、その記事から。

New AT&T terms of service: We'll cut off your Internet connection for criticizing us
(新しく、AT&T社は、つぎのような条項を定める。我が社を批判するばあい、その人のインタ
ーネット利用を、停止する。)

AT&T has brought down new Terms of Service for its network customers. From now on, AT&
T can terminate your connection for conduct that "tends to damage the name or 
reputation of AT&T, or its parents, affiliates and subsidiaries." So AT&T customers aren't 
allowed to write/podcast/vlog critical things about AT&T, its billingーpractices, or its 
cooperation with illegal NSA wiretapping, on pain of having their connections disconnected.

AT&T社は、つぎのような新しい条項を定める。今後、AT&T社の評価、名前などにダメージ
を与えるような行為があれば、我が社は、その人のインターネット利用を停止する。従って、A
T&T社の利用者は、AT&T社について、決済方法、違法なNSAによる盗聴、電話切断など
について、批判的なことを書いたり、報道したりすることを許さない。

詳しくは、
http://www.boingboing.net/2007/09/29/newーattーtermsーofーser.html

 たとえて言うなら、学校の生徒が、その学校の批判記事を、外の世界で公表したら、その生
徒は退学処分になるということ。それにしても、日本的に言えば、肝っ玉が小さい! わかりや
すく言えば、「我が社を批判するようなら、我が社のサービスを利用するな」ということ。

 あのAT&T社が、だぞ!

 しかしこれがアメリカ。日本の大臣たちが、アメリカのイラク政策を批判しただけで、アメリカ
は対日政策を180度、変更してしまった。そういうことがありえる国……ということが、このAT
&T社の記事を読んでもわかる。

 アメリカ人には、日本的な甘えは通用しない。

 しかし私も言いたい。

 私のHPに書いた記事について、あれこれ批判するような人は、HPへのアクセスを遠慮して
ほしい。私も、同じくらい、肝っ玉が小さい!


Hiroshi Hayashi++++++++OCT 07++++++++++はやし浩司

●内助の功?

+++++++++++++

「夫は仕事、妻は家庭」という
おかしな男尊女卑思想が、音を
たてて崩れはじめている。

よいことだ。

+++++++++++++

 このほど内閣府のした調査結果によれば、つぎのようだったという(産経新聞・9・29、07)。

++++++++

 「夫は仕事、妻は家庭」との日本の伝統的な家庭観に対する「反対派」が、この質問が始まっ
た昭和54年以来、初めて5割を超えたことが29日、内閣府の「男女共同参画社会に関する
世論調査」でわかった。 

「(女性は)子供ができても職業を続ける方がよい」……43・4%(過去最高)

「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきか」……「賛成」「どちらかといえば賛成」……44・8%。
(平成16年の前回調査から0・4ポイント減った)

「反対」「どちらかといえば反対」……52・1%だった。

「子供を持つ必要はない」「離婚容認」……男性は賛成50・7%、反対46・2%。女性は賛成3
9・9%、反対56・9%。

「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」……反対は59・4%(8・1ポイント増)、36・
8%(4・6ポイント減)。

「相手に満足できないときは離婚すればよい」……反対が47・5%(7・4ポイント増)、46・
5%。

調査は、今年7〜8月、全国の成人男女5000人を対象に実施した。回収率は62・4%。

内閣府は「夫や妻が、当事者同士だけではなく子供や家族を重視するようになっているのでは
ないか」と話している。(かっこ)内は、平成16年、前回調査結果との比較。
 
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この記事に関して、
以前書いた原稿を
添付。

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日本の常識、世界の非常識(2)

●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=
巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわ
からないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ
伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いこと
をしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ一九歳の舞妓を、「仕事のこやし」と称して、
手玉にして遊ぶこともできる。

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。


●「森Sのおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族
は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人
だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論には
じゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマ
ザコン性を正当化する傾向がある。

●「かあさんの歌」論……窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待
ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙
を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買
っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村の
みんなと温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二
三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、二三・三%もいることがわかった。

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●おふくろさん論

 森Sが歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし…
…。

日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日本人独
特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子ど
もに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では
昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が
旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意
識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男
児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできな
い。できないというより、じっと待っているだけ。

多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだ
が、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをその
ままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだ
が、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾け
たあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどう
だろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、そ
れである。

たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜(だから何
とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依
存心が強くなると、こういう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」
子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。
 
さて森Sの歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ……」
と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日本
人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(10月3日)

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たった今、世界のニュースに目を
通した。

何と言っても、韓国のN大統領と、
K国の金xxの、首脳会談。

2人も、実に不気味な顔をしている。
2人とも、まるでゾンビのよう。

私の知ったことではないが、こう
いう2人に先導される朝鮮半島の
人たちこそ、あわれ。

脳みそのほうは、だいじょうぶか?

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●人を信ずる 

 人を信ずることは難しい。信じよう、信じたいという気持ちはある。が、何かのことがあると、
すぐ疑ってしまう。「やっぱり……」とか、「あの人も……」と思ってしまう。

 では、どうしたらよいのか。

 大切なことは、気負わないこと。「信じよう」などと、自分に負担をかけないこと。もっと言え
ば、その人を乗り越えてしまう。つまり相手にしない。

 私は私で、自分の道を、勝手に進む。その姿勢さえしっかりともっていれば、相手に対して、
「どうぞ、ご勝手に」となる。あとは忘れる。

 要するに、「信じよう」「信じたい」と思うのは、その人の(甘え)にすぎないということ。そういう
人にかぎって、何かあると、「裏切られた」とか、「失望した」とか言って、大騒ぎする。(今の私
のように。)

 ……実は、この話には、重要な伏線がある。人も60歳をすぎると、脳みその働きが、悪くな
る。悪くなるだけならまだしも、どこか変調してくる。言動そのものが、おかしくなる。つまり私の
まわりにも、そういう人がふえてくる。

 だから本気で相手にしていると、とんでもないトラブルに巻き込まれてしまう。わかりやすく言
えば、認知症か何かになり始めた人を相手にして、信じようとか、信じたいとか言っても、土
台、無理な話ということ。

 まず、相手の脳みその状態を観察する。その人を信ずる、信じないは、そのつぎの話という
ことになる。


●クール

 英語(=アメリカ)で「クール(Cool)」というと、最上級のほめ言葉ということになる。日本流に
言えば、「冷たい」=「好ましくない性格」ということになる。

 私が学生のころには、「グルービー」という単語もあった。「かっこいい」という意味である。た
とえばあのビートルズは、「キング・グルーバー」と呼ばれていた。

 もっともこの種の単語は、年代ごとに、また国ごとによって、変化する。最近では、その「クー
ル」にしても、「とてもいい」程度の意味しかもたなくなったように感ずる。かわって、「スーパー」
という単語を、よく耳にする。

 で、たった今、アメリカの友人に、「It's a cool season now.(涼しい季節だね)」と書い
た。が、書いたところで、ふと迷った。「では、ほんとうに(涼しい)と言いたいときは、どう言えば
いいのか?」と。


●離婚

 友人夫婦が、離婚して、もう3か月になる。何度かメールを出しているが、返事がない。一
度、会いに行こうかと思っているが、それもどうか? こういうときは、そっとしておいてやるの
が、いちばん。ワイフは、「そのうち、返事がくるわよ」と言っている。

 この日本では、(常識的なコース)からはずれることを、(恥)と考える。(失敗)と考える。自分
に(ダメ人間)のレッテルを張ってしまうこともある。たとえば会社をクビになったような人は、自
己否定されたかのように思ってしまう。離婚もそうだ。

 その友人夫婦のケースでは、明らかに熟年離婚。奥さんのほうが、かなり以前から、離婚を
計画していたらしい。娘の結婚の直後に、奥さんのほうから、離婚を申し出た。友人の夫のほ
うは、雰囲気的にそれはわかっていたという。が、「まさか!」という状態だったらしい。

 一度、電話をすると、奥さんのほうが、最初に出た。生き生きと、明るい声だった。一方、友
人の夫の方は、暗く沈んでいた。その様子が、あまりにも対照的だったので、私はどう対応し
たらよいのか、わからなくなってしまった。

 私にすれば、2人も、私のよき友人である。

 が、あえて一言。クビにしても、離婚にしても、人生の1コマにすぎない。クビになったからとい
って、また離婚したからといって、(負け組)と思うことはない。大切なことは、運命は運命として
受け入れ、そこを原点に、また前に向かって進むこと。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むこと』(スティーブンソン)な
のだア!


●昇華

 結婚という形態そのものが、「性動機」(フロイト)のひとつということになる。あのフロイトは、
「行動は、すべて性動機と攻撃動機に還元できる」と説いた。

 しかし性動機にしても、攻撃動機にしても、野放しにしたら、たいへんなことになる。いくら「見
たい」と思っても、手鏡で、女子高校生のスカートの中をのぞいたら、犯罪になる。

 そこでこうした性動機や攻撃動機は、心の中で無意識化される。つまり脳みその中で、加
工、変形される。

 わかりやすく言えば、そうしたエネルギーを、それ以外の分野に向けるようになる。たとえば
スポーツや芸術、学問の世界に向けるようになる。こうした一連の心的過程を、心理学では
「昇華」と呼んでいる。

 ……ということを、自分自身に当てはめてみると、現在の私の心理状態が、よくわかる。

 私はもともとスケベな男だった。(今も、そうだが……。)それに攻撃的な性格は、この年齢に
なっても、収まらない。しかし、今の自分をそのまま表に出すことはできない。出したら、それこ
そ、「犯罪!」ということになってしまう。

 (ただ私には、手鏡で、スカートの下をのぞいてみたいとか、そういう趣味はない。割と、明る
くさわやかな性意識をもっている。)

 そこで私は、性動機と攻撃動機を無意識化し、それを今、こうして文として、パソコンの画面
にたたき出している。自分の中でモヤモヤする欲求不満を、こうした形で、解消している? わ
かりやすく言えば、そういうことになる。

 これぞ、まさしく「昇華」。ハハハ。

 ついでに、一言。若いときは、スケベなことを、やってやって、やりまくればよい。ただし、恋人
や配偶者を相手にして……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 昇華
 性動機 攻撃動機)


●動機

 食欲と性欲は、あらゆる動物が共通してもつ、2大本能である。生きていく基本となる、原動
力と考えるとよい。そのことは、たとえば老人介護施設を訪れてみると、よくわかる。脳みその
機能がほとんど停止してしまったような老人ですら、この2つだけは、しっかりとしている。

 が、そのままでは、人間は、社会生活を営むことができない。そこでこうした本能を、無意識
化する。変形し、加工する。そしてそれを、さまざまな方面で、形を変えて表現しようとする。つ
まり、それが、その人の生きる動機となる。それを「社会的動機」という。

 H・A・マレーという学者は、社会的動機を、つぎのように分類した(「心理学の基礎」・春木豊・
有斐閣)。

 服従
 達成
 親和
 攻撃
 自立
 中和
 防衛
 恭順
 支配
 顕示
 障害回避
 屈辱回避
 養護
 秩序
 遊戯
 拒絶
 感性
 性
 救援
 理解

 ……要するに、社会的動機は、それぞれ人によってちがうということ。たとえば冒頭にあげ
た、服従について。

 「服従……外的な力に服従し、罰を受け入れること」(同書)とある。

 そのことは、現在のK国を見ればわかる。K国の人たちは、まるでマスゲームでもしているか
のように、N大統領に向かって、紅白の花を振っていた。韓国の新聞報道によれば、こうした
歓迎行事のばあい、住んでいる地区ごとに、どこでどのように花を振るか、決められているそう
だ※。

 彼らは彼らで、生きていくために、そうしている。一見、居心地の悪い世界に見えるかもしれ
ないが、当の本人たちには、そうではない。

 だれかに服従して生きるというのは、その分だけ、気が楽。身分も保証されている。生きるの
も楽。自分で考えて行動する必要もない。そのわずらわしさから、解放される。そこは、まさに
(保護)と(依存)の世界。

 が、それは同時に(罰)の世界でもある。命令にさからえば、きびしい罰則が待っている。そう
いうことはあるが、それさえ受け入れてしまえば、あとは楽。天国。

 つまりK国の人たちは、自らの(生きる力)を、(服従)という形に置き換えてしまっている。し
かしそれも立派な、動機。ここでいう社会的動機ということになる。

 ……ということを、今朝のニュースを読みながら、考えた。

 いや〜だね、あんな国! 不気味! ホント! あんなふうに歓迎されても、私なら歓迎され
た気分には、なれない。みんな、ゾンビみたい!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 社会
的動機)

注※(東A日報・10・3)……『このような歓迎行事に動員される住民は、通例朝早くから定めら
れた区間へ行って、参加者名簿と身分証で身元の確認を受けた後、沿道に立つ。また、行事
が終わった後は組職別に集まり、評価会を行って出席をチェックした後、解散する。 
金総書記が登場する行事は、警備問題のため、周辺のアパートまで徹底的に統制し、窓から
眺めて摘発されれば、平壌から追放されることもある』と。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●P・トンプソン(Tompson)のおもしろい実験

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人間は、見慣れたものを、より
心地よく受け入れる。

目から入ってくる情報を、
キーにたとえるなら、
脳みその中に蓄えられた情報は、
カギということになる。

キーとカギがうまく合えば、
心地よく感じ、そうでないときは
そうでない。

ときに、理解できないときもある。

よい例が、日本地図。
日本地図を逆さまにして子ども
に見せてみるとよい。

ほとんどの子どもは、それが
日本地図であることにさえ、
気づかない。

P・トンプソンという学者は、
図形を逆さまにすると、ちがい
がわかりにくくなるという。

私も、それを実験してみた。
(参考:心理学の基礎、有斐閣)

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●P・トンプソンの実験

 A

 私の顔のイラストを2枚並べてみた(上、A)。左のイラストが、いつも使っているイラストであ
る。こうして並べてみると、そのちがいがよくわからない。両方とも、私の顔のように見える。

 そこでこの2枚の絵を、そのまま180度、回転させてみる(下、B)。するとどうだろう、顔のち
がいが、よくわかる。よくわかるというより、まったく別人のように見える。

 B

 P・トンプソンという学者は、ものは、さかさまにすると、そのちがいがよくわからなくなると説
く。ときに理解できないときもある。よい例が、日本地図。日本地図をさかさまにして、子どもた
ち(小3〜4児)に聞く。「これはどこの国の地図かな?」と。

 ほとんどの子どもは、「知らない」「わからない」と答える。で、その地図を、180度回転して見
せる。とたん、「な〜んだ、日本の地図か」と、なる。

●キーとカギ 

 外から入ってくる情報をキーにたとえるなら、それを受け入れる脳みそのほうは、カギというこ
とになる。キーとカギが、うまくかみ合えば、人間はそれを、それと理解できる。そうでなけれ
ば、そうでない。ときに不愉快に感ずる。あるいは理解できないこともある。

 目で見た情報だけにかぎらない。耳から入ってくる情報についても、同じことが言える。たとえ
ば音楽にしても、はじめて耳にしたような曲は、最初、ザワザワとした感じを受ける。が、しばら
くすると、あるいは2〜3回、繰りかえし聞いていると、脳みそになじんでいく曲と、そうでない曲
があるのがわかる。

 脳みそになじんでいく曲は、脳みそのカギに合った曲ということになる。が、これには、当然、
個人差がある。Xさんには、すばらしい曲でも、Yさんには、そうでないということもある。さらに
どんなにすばらしい名曲でも、同時に2曲聞いたら、騒音でしかない。

 さらにこんなこともある。

 日ごろから、不愉快な印象をもっていた人がいたとする。その人が、あるとき、あるところで、
すばらしい意見を述べたとする。が、いくらすばらしい意見でも、(すばらしければすばらしいほ
ど)、脳みその中に入っていかない。脳みそそのものが、拒絶反応を示すこともある。

 ……と考えてみると、脳みそというのも、ずいぶんといいかげんなものということがわかる。
「いいかげん」ということは、いいかげん。

●アクセルとブレーキ

 そこで大切なことは、脳みそというのは、いつも疑ってかかるということ。「そうだ」と思っても、
「そうではないのではないか」と。反対に、「ちがう」と思っても、「そうではないのではないか」と。

 こうした作業は、ものを書くとき、とくに大切である。神経の世界にも、交感神経と副交感神経
があることが知られている。交感神経をアクセルにたとえるなら、副交感神経は、ブレーキとい
うことになる。

 この2つがあるから、体の動きや運動は、なめらかになる。

 同じように、思考の世界にも、交感神経と副交感神経がある(?)。「書きたい」と思う心をア
クセルにたとえるなら、「書いてはダメ」と思う心は、ブレーキということになる。この2つがいつ
も同時に脳みその中で、機能する。

 そのブレーキのひとつ。それが「疑う」ということになる。

 「私は正しいことを書いているか」
 「私はまちがったことを書いてないか」
 「私の意見は、偏(かたよ)っていないか」など。

 ……と思いながらも、中には、(あるいはほとんどの人は)、「はやし浩司の意見は、偏ってい
る」と思っているかもしれない。私は、ものを書きながら、それをもっとも、恐れる。

●錯視

 青木豊氏著の「心理学の基礎」には、ほかにも、いろいろなことが書いてある。「錯視」もその
ひとつ。

 ツェルナー図形、エビングハウス図形、垂直水平図形、ヴント図形、ミュラー・リヤー図形、ボ
ンゾ図形などが紹介されている。どれも一度は、どこかでお目にかかったことがある図形であ
る。

 たとえば同じ円でも、大きな円に囲まれた円は、より小さく見える。反対に、小さな円で囲まれ
た円は、より大きく見える(エビングハウス図形)。

 思考の世界でも、同じような経験をする。

 たとえば死刑について考えているときも、実際に、凶悪犯罪に巻き込まれ、深い悲しみのど
ん底にいる人の話を耳にしたりすると、「死刑も仕方ないのではないか」と、思ったりする。

 反対に、死刑の執行におびえ、日々に懺悔(ざんげ)している死刑囚の話を耳にしたりする
と、「死刑はやはりいけない」と、思ったりする。つまりそのつど、思考そのものが、ゆらぐ。

 また平行線でも、斜線に包まれると、ゆがんだ直線に見えるようになる(ヴント図形)。

 同じように、自分では正しいことを書いているつもりでも、日々の生活に追われたりしたりして
いると、それがゆがむことがある。だれかに媚(こび)を売ったり、反対に、不必要に批判的に
なったりする。

 ……などなど。P・トンプソンの実験を見ながら、そんなことを考えた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 P・ト
ンプソン 錯視)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(10月5日)

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涼しい朝。このところ毎日、
しっかり運動をしている。

そのせいか、朝起きると、
細胞のひとつひとつが、
ピチピチとはじけるような
感じがする。

だるい筋肉痛はあるが、
それも心地よい。

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●ソニーよ、だいじょうぶか?

 ソニーは、次世代液晶テレビとして、有機ELを開発した。何でもすばらしい発明らしい。この
ところ毎日のように、そのニュースが、流されている。

 ところが、である。

 同じソニーは、韓国のサムスンとの合弁事業を、さらに推進しようとしている。今朝の日経新
聞には、つぎのようにある。

 「ソニーのデジタル家電部門を統括するI副社長は3日、日本経済新聞記者に対し、2008年3
月期に1000万台をめざす液晶テレビの販売計画について「達成できる」との見通しを示した。
また「液晶パネル需要のひっ迫を受け能力増強を急ぐ」と述べ、韓国サムスン電子との合弁会
社で増産を検討していることを明らかにした」と。

 つまりこうして日本の技術は、垂れ流し的に、韓国へ流れていく。日本政府が、いくら、自国
技術の保護を訴えても、企業は、利潤優先の論理で動く。業績が悪くなると、なりふり構わず、
自国技術を外国に売り、生き残ろうとする。造船も、自動車も、電子産業も、そして液晶産業
も、こうして韓国へと流れていった。

 同じ今日、韓国は、K国の核兵器(現存する核兵器)は不問のまま、K国との南北経済協力
を宣言した。これがどういうことか、ソニーの副社長にも、わからぬはずはないだろう。

 だいじょうぶか、ソニー? 


●教科書検定

 文科省(文部省)は、ことあるごとに、「教科書検定は、国定ではない。政府は教科書検定に
関与していない」と、ウソを並べてきた。

 検定も、国定も、同じ。時事通信は、つぎのように伝える。

 「高校日本史の教科書検定で、沖縄戦の集団自決に日本軍の強制があったとする記述が削
除された問題で、沖縄県のN知事らは3日、閣僚ら関係先への要請後に都内で記者会見し、
「県民の声は届いたと思う。どういう形で答えが返ってくるか待っている」と述べ、記述復活に期
待感を示した。

 N知事は、渡海紀三朗文部科学相の反応については、「評価するしないの段階に至らない」
としつつも、教科用図書検定調査審議会再開の可能性が浮上したことなどについて、「官邸や
文科省も敏感に反応されて、急速な動きが出てきた点がこれまでと違う」と評価。その上で、
「県民の反応をよく受け取っていただいて、県民大会の結果がいい結果になるよう願っている」
と話した」(時事通信・10月5日)と。

 「政府は検定に関与しない」というのなら、沖縄県のN知事が何を言っても、門前払いにすれ
ばよい。が、「官邸や文科省も敏感に反応されて、急速な動きが出てきた」とは! これはいっ
たい、どういうことなのか?

 表では、「関与しない」と言いながら、裏では、「しっかりと関与している」と言っていることにな
る。こういう口先だけのごまかしばかりしているから、だれにも相手にされなくなる。

 教科書の検定(国定でもよい)をしている国は、欧米先進国の中では、この日本だけ。中国
や、K国のような国ならいざ知らず、どうしてこの日本に、教科書検定制度が残っているのか?
 あるいは政府は、いったい、何を恐れているのか?

 オーストラリアにも検定制度はある。しかしまったくの民間団体。しかも検定項目は、暴力と
セックスだけ。「歴史については検定してはいけない」という制約が、ちゃんとつけられている。

 もちろんアメリカにもない。学校ごとに、自由にテキストを選んで使用している。(「テキスト」は
テキスト。私たちがイメージとしてもつ「教科書」とは、まったく異質のものである。)

 はからずも今回の事件で、政府は、「教科書検定には、国が関与している」ということを、間
接的に認めたことになる。

●教科書改革

 日本の子どもたちが使う教科書は、アメリカの高校生が使う教科書の、3分の1程度でみて
よい。つまり、薄い。

 私が調べた、プレンティス版の中学校用の数学のテキストにしても、日本の百科事典程度の
大きさと分量がある。

 アメリカでは、教科書は、学校の備品ということになっている。日本のように使い捨てではな
い。また当然のことながら、アメリカおよび欧米各国には、教科書検定制度は、ない。

 日本の文科省は、「教科書の検定制度は、世界の常識」などという、大ウソをついているが、
現在、検定制度を実施している国は、近くでは、韓国、K国、中国などの、全体主義国家の色
彩が強い国だけである。

 これについても、文科省は、「日本のそれは、外郭団体の検定であって、韓国や中国でいう
国定ではない」と、大ウソを言っている。検定も国定も、どこもちがわない。

 さらに一言。

 (教科書制作販売会社)→(政府)→(検定制度)は、巨大利益を間に、相互に、ふかく結びつ
いている。それも忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2233)

【雑感・あれこれ】

●暑い

 9月28日、土曜日。室内の気温計を見たら、30度。暑い。白く透き通った太陽の光。まぶし
いばかりに部屋の中を貫く。扇風機をかける。どっと汗が噴(ふ)きだす。9月ももう終わるとい
うのに、何だ、この暑さ!

 先ほど、コンピュータがメーカーから戻ってきた。修理費は、x万円。簡単なOSの故障(=フ
ァイルの破損)かと思っていたら、マザーボードが破損していたという。前もって電話であれこれ
相談しながら操作していたときには、電話口の向こうの人も、そう言っていた。「OSが破損して
いますね」と。それがマザーボードの故障とは!

 私のまわりには、パソコンが、10台以上。しかし私は、どれも、完璧な状態で動かないと気
がすまない。故障があれば、すぐなおす。これはビョーキか? 実は、本当は、なおすのが楽し
い。パソコン相手に、悪戦苦闘しているときが、何よりも楽しい。

 ところでパソコンというのは、暑さに弱いそうだ。とくにハードディスクが弱い。しかしめったに
壊れない。この10年で、ハードディスクを取り替えたのは、2回くらいかな。実際には、3〜4年
も使うと、故障する前に、新しいのと取り替えている。


●書斎の模様替え

 今日(10月1日)、急きょ、書斎を模様替えすることにした。先日、ある新聞社の女性が、取
材に来た。そのとき「書斎を見せてほしい」と言った。案内すると、その人自身も、驚いていた。
あまりの散らかりように、びっくりしていた。

 もっとも、パソコンが並ぶ部屋など、写真に撮らせるほうが、どうかしている。壁には、パスワ
ードや銀行のクレジット番号などが、ベタベタと張ってある。それに読んでいる本の種類まで、
わかってしまう。私は、「こんな部屋ですから・・・」と言うと、その人は、苦笑いしていた。

 だから、今日、模様替えした。ワイフに手伝ってもらって、2〜3時間ですんだ。スッキリした。

 「これなら、だれが来てもだいじょうぶだね」と言うと、ワイフもそれにうなずいてくれた。


●お宅族

 私のような人間を、「お宅族」と言うらしい。しかし、待ったア!

 もし私がお宅族なら、もの書きと呼ばれる作家たちは、どうなのか? 研究者と呼ばれる学
者たちは、どうなのか? 絵描きでもよい。工芸家でもよい。みんな、部屋に引きこもって、仕
事をしている。

 パソコンを相手にしているというだけで、お宅族と、決めつけないでほしい。

 パソコンはパソコンだが、それは窓のようなもの。その窓の向こうには、無限の世界が広が
っている。


●本物の虫

 今度、A社という出版社から、「本物の虫、コレクション」という雑誌が発売になった。初刊は、
190円。本物の虫が、透明樹脂の中に塗り固められている。それが付録でついている。初刊
は、サソリ。

 さっそく、50冊ほど、買った。虫の好きな子どもにあげようと考えた。

 ところが、である。気味悪がって、いらないと言う子どもがいるかと思っていたら、ほとんど全
員が、「ほしい!」と。中には、「かわいい」と、そんな言葉を口にする子ども(小2女児)もいた。
これには、驚いた。

私「サソリだぞ」
子「かわいい」
私「かわいいって、サソリだぞ。毒をもっているよ。刺されたら、死ぬよ」
子「知っている。だから、かわいい」と。

 一人、こんなことを聞いた子どもがいた。「ガラス(樹脂)を割って、サソリを取り出したら、生
き返るか」と。私は、「生き返らない」と答えた。しかし、毒はどうなのだろう。毒はそのままのは
ず。

 サソリを取り出して、針を手か何かに刺したら、毒がきくかもしれない。どうなっているんだ
ろ? だいじょうぶかな?

(あとで聞いた話だが、母親に、「どうしてこんなものを、もらってくるの!」と叱られた子どもも
いたそうだ。)


●カメラの色

 小型のデジカメは、カラフルになった。しかしその上のクラスのカメラは、みな、同じ。とくに一
眼レフカメラは、みな、同じ。黒色か、銀色。どうしてだろ?

 一眼レフカメラも、カラフルにすればよい。濃紺や、ワインレッドの一眼レフカメラがあっても、
おかしくない。一度できあがったイメージは、なかなか崩せない。そういうことか。


●裏切り

 その人だけに話した話が、回りまわって、こちらに伝わってくることがある。その人が裏切っ
たにちがいない。イヤーだね、そういうことは!

 そういうとき、私は、ひとつの選択に迫られる。その人と絶交すべきか、それとも、知らぬフリ
をして、交際をつづけるべきか、と。

 若いときなら、知らぬフリをしてつきあうということもできた。が、そういうことをするのも、疲れ
た。神経を使うのも、いや。なるように任せて、あとは無視。人生は、そうでなくても、短い。無
駄な人と交際して、時間を無駄にするヒマは、もう、ない。

 さようなら、Uさん!


●認知症、疑似体験

 書斎の模様替えをした。そのとき、パソコンを2台、左右、置き換えた。ともにM社のデスクト
ップ。OSは、XPとVISTAだが、外観は同じ。モニターも、19インチのワイドで、同じ。

 しかしこれが失敗のもとだった。

 一度できあがった思考回路は、簡単には変更できない。ファイルの保存、外付けディスクな
ど、2つのパソコンで使い分けていた。そのうち何がなんだか、わからなくなってしまった。・・・と
いうことで、今日は、認知症の模擬体験をした。

 しかし脳みそには、いつも刺激を与えたほうがよい。とくに50歳をすぎたら、そうだ。それを
怠ると、すぐ硬直してしまう。融通がきかなくなる。臨機応変に対処できなくなる。わかりやすく
言えば、バカになる! 

 とくに脳みその硬直化には、気をつけたほうがよい。規則正しい生活が大切だと説く人もいる
が、それ以上に大切なのは、変化のある生活だ。その変化が、脳みそに、よい刺激を与える。

 パソコンを左右、置き換えるだけでも、よい刺激になる。・・・なった。


●水橋晋氏という詩人

 少し前、水橋晋氏という詩人がなくなった。学研という出版社の、その幼児局にいた人であ
る。たいへん世話になった。いっしょに、伊豆の温泉へ遊びに行ったこともある。

 その水橋晋氏が送ってくれた詩集に、『きみとぼく』(沖積舎)というのがある。原作者は、ポ
ール・ジェラルディという人だ。

 その一節を紹介する。

「きみは言ったね。《わたしって、一日じゅうあなたを思っているの》と。
 でも、きみの思っているのは、ぼくというより
 むしろ恋なのだ。
 きみは言ったね、《あなたを忘れることができなくて
 涙で目がかすみ、
 床についても眠られないまま
 ずっとおきているの》と。
 でも、きみの心は酔っているというより
 楽しんでいるんだ。
 恋を囁く口のことより
 キスのことを考えているのだ。
 きみはちっとも苦しんでいない。」

 タイトルは、(うたぐり)である。

 どういうわけか、この詩を読んで、いろいろ考えさせられた。その一。水橋晋氏は、もうこの世
にいない。そのさみしさが、ぐっと胸をしめつけた。

 その二。この詩を読んで淡く、切ない思いが私の心に充満した。こういう詩を読むと、可憐
で、どこか幼さの残った、若くて美しい女性を想像してしまう。これは男の身勝手か。

 そういう女性が、「涙で目がかすみ・・・」と言えば、男たるもの、素直にそれを慰めてやれば
よい。・・・と、私は考えてしまう。

 たしかに若い男女の会話ほど、あてにならないものはない。はっきり言えば、いいかげん。そ
れはわかるが、その(いいかげんさ)こそが、若さの特権でもある。キズつけ、キズつけられな
がら、男も、女も、成長する。

 が、それから起きる切なさが、そのあとの人生を心豊かにする。詩集のあとがきに、「ジェラ
ルディは、1920代の恋を自分の色で染めあげた」とある。そして水橋晋氏は、「とりわけ」と、
わざわざ断りながら、つぎの一節を紹介している。

 『心と心で話すのは影なのか
  影のなかのほうが目がよく見える 
  もののかたちが はっきり見えないときのほうが。』(P173)

 なおこの『きみとぼく』は、豆本、小型本、絵入り本などを含めて、全世界で、数百万部も売れ
たという。私も、詩を書いてみる。

 
●自由

 一度、籠から外に出た鳥は、
 二度と、籠にはもどらない。
 もどれない。

 一度、自由を知った鳥は、
 二度と、不自由な世界には、もどらない。
 もどれない。

 自由を知った鳥には、
 不自由というものがわかる。
 よくわかる。

 しかし籠の中にいる鳥には、
 それがわからない。
 不自由な生活をしながら、
 それを不自由とも、思わない。

 籠の中から外を飛ぶ鳥を見ながら、
 きっとこう思うだろう。
「あいつら、なんてバカなんだろう」と。

 自由に生きるということは、
 孤独。さみしい。それにたいへん。
 できるなら、安楽をしたい。
 いつも心のどこかでそう願う。

 でも、自由か、安楽かと聞かれれば、
 私は迷わず、自由を選ぶ。
 一度、籠から外に出た鳥は、
 二度と、籠の中には、もどらない。
 もどれない。


●今日のこと(10月3日)

 10月に入って、この3日間、5単位も運動をした。(1単位=40分の自転車運動。)おかげ
で、足腰が、どこかだるい。とくに太ももが、だるい。

 しかし運動は欠かせない。これを欠かしたら、私はあっという間に、半病人になってしまうだろ
う。自分でも、それがよくわかっている。若いときは、10日くらいなら、運動をしなくても、健康を
維持することができた。が、今は、ちがう。1週間もしないでいたら、足そのものが、動かなくな
る。

 こわいのは、生活不活発病。生活が不活発になったとたん、それまでの持病がどっと表に出
てくる。

 私の持病は、偏頭痛? それにささいなことで、精神的に落ち込んでしまう。へたをすれば、
そのままうつに。若いころは、偏頭痛に苦しんだ。今も、ときどきあるが、仲よくつきあってい
る。


●誕生日プレゼント

 ワイフが、「誕生日に、カメラはどう?」と聞いた。・・・前もって書いておきたい。

 私の家では、お金の管理は、すべてワイフがしている。同棲していたときから、収入は、すべ
てそのままワイフに渡している。国によっては、夫と妻と、家計をしっかりと分けているところも
ある。そういう話を耳にすると、「ヘエ〜?」と感心するほど、私の家では、そういうことは、あり
えない。

 最初から捨て身というか、こと収入に関しては、「私の・・・」という意識はない。まったく、ない。
だから、私がほしいものがあるときは、ワイフから、「お金をもらう」。私だけではない。息子たち
も、何かのことでお金が必要になると、この私ではなく、ワイフにもらいにいく。私には、一応、
一円も財産がないことになっている。

 だから誕生日プレゼントにしても、「買ってもらう」ということになる。ワイフの立場からすると、
「買ってあげる」ということになる。考えてみればおかしな関係だが、30〜40年もそうしてき
た。私の家では、当たり前のことになってしまった。

ワ「カメラにしたら?」
私「2台、もっている」
ワ「新しいの、ほしいのでしょ?」
私「うん・・・」と。

 そこで今日の午後、2人でパソコンショップへ行ってきた。が、どれも、イマイチ。

 デザイン的には、キャノン製が気に入っている。性能的には、パナソニック。サイズ的には、
ソニー。迷っていると、隣のコーナーで、ラジコンのヘリコプターを売っていた。

私「あれがいい」
ワ「ゲリコプター?」
私「そう」と。

 それでヘリコプターを買った。

・・・その帰り道。私は、ワイフにこう聞いた。「お前さあ、ぼくのためにいつもパソコンショップへ
行ってくれるけど、お前は楽しいのか?」と。するとワイフはこう言った。

 「別に・・・。でも、あなたが楽しければ、それでいいの」と。

 家に帰ると、長男がたまたま庭に出ていた。私はヘリコプターをそのまま、長男にやった。


●裏切り(2)

 アメリカの議会で、従軍慰安婦問題について、「日本は謝罪しろ」という決議が採択された(0
7年)。

 これに対して、日本政府は、「静観する」と官房長談話を発表した。「静観する」は、英語で
は、「無視する」を意味する。

 その官房長談話に対して、アメリカの各紙は、「裏切り行為」と、日本政府の対応を非難し
た。

 問題は、ここである。みなさんは、どうしてそれが(裏切り行為)なのか、理解できるだろうか。
「裏切り」とは? ・・・実は、ここに意識の問題がある。

 アメリカ人の多くは、そしてとくに現在のブッシュ大統領は、「日本を民主主義国家に導いた
のは、アメリカである」という強い自負心をもっている。ブッシュ大統領自身も、いろいろな演説
で、よく日本を例にあげて、そう言う。

 わかりやすく言えば、日本は、戦後、ずっとできのよい生徒だった。生徒といっても、最優等
生。ことあるごとに、アメリカは、日本を誇りに思ってきた。その日本が、戦時中にしたことを何
も、反省していない。反省していないばかりか、「静観する」と、アメリカ議会での議決を無視し
た。

 それはアメリカにとっては、裏切り行為そのもの。「今まで、お前たちを育ててやったのは、オ
レたちではないか」「そのオレたちを無視するとは、何ごとか!」となる。

 戦争を擁護するということは、即、アメリカの行為を否定することになる。

 意識のズレというのは、恐ろしい。ときにそれが国の命運を左右することもある。現に今が、
そうだ。

 いくら日本政府が、「拉致問題の解決なくして・・・」と訴えても、今のアメリカ政府には、その声
は届かない。反対に、「日本を犠牲にしない」と言ってもらい、それに一喜一憂する。

 6か国協議の流れを見るまでもなく、日本は、アメリカという友人すら、失ってしまった。バカな
大臣たちが、公(おおやけ)の席で、つぎつぎとアメリカ批判をしたのだから、たまらない。安倍
前総理にしても、おかしな民族主義に毒され、舵を大きく右(=右派)に切ってしまった。アメリ
カ詣でをしたのは、何と、就任8か月後!

 私はこれほどまでに、愚かな国際外交を、見たことがない。これから先、日本はますます孤
立するだろう。『覆水、盆にかえらず』である。

 話をもどす。

 日本の官房長官が、アメリカ議会での議決を、「静観する」と発表したとき、アメリカの各紙
は、「裏切り行為」と、日本を非難した。

 なぜか? その理由は、もうみなさん、おわかりのことと思う。


●思考力の低下

 このところ、ときどき思考力の低下を感ずる。ときに、頭の中が、からっぽになる。パソコンに
向かっても、何を書いてよいのか、わからない。アイデアすら浮かんでこない。

 ・・・以前はというと、つぎからつぎへと、書きたいことが頭の中に浮かんできた。ときに収拾が
つかなくなったこともある。しかし今は、閑散としている。しかしこれはボケの初期症状か?

 それに今は、アイデアは浮かんできても、それが長つづきしない。たった今も、「裏切り(2)」
という題で、日本とアメリカについて書いた。本来なら、資料を添えて、もう少し詳しく書くべきだ
が、その意欲がわいてこない。

 日本非難の決議を採択したのは、上院か、下院か? いつのことか? 内容はどうだったの
か? 資料はもっているが、それを調べる気も起きてこない。とくにこの問題については、そう
だ。

 政治をギャグ・ショーか何かのように思っている人には理解できないだろう。お笑いタレントを
知事に選んでも、みじんも恥じない人には、理解できないだろう。しかしこと国際政治について
言えば、そこにあるのは、どこまでも研(と)ぎ澄まされた(現実)、あるのみ。

 正直なところ、私は、日本に、そして日本人そのものに、失望し始めている。ときどき「どうに
でもなれ」「なるようになれ」と思うことがある。大宅荘一は、「一億、総ハクチ化」という言葉を
使った。今の日本は、それがさらに進んで、「一億、総ギャグ化」となった。まじめにものを考え
ることすら、放棄してしまった。

 この先、この日本は、どうなるか? 私の予想では、一度、大混乱したあと、再び、ファシズム
が台頭する。『独裁国家も悪くない』(07年9月)という番組が、堂々と放送される国である。そ
うなってほしいというのではない。しかしその可能性は、高い。


●宇宙人

 「二種類の知的生命体は共存できない」(ホーキング博士)というのは、この宇宙の大原則の
ようである。だから、「宇宙人と、コンタクトを試みてはならない」(同、博士)と。

 それははじめてアメリカ大陸を発見した、ヨーロッパ人のようなものかもしれない。つまりヨー
ロッパ人が宇宙人、アメリカにいた原住民が人間ということになる。

 しかしこのばあいは、同じ人間ということで、長い時間はかかったが、たがいに同化すること
ができた。が、相手が宇宙人では、そうはいかない。民族同士の戦争も悲惨なものになるが、
(種)が異なると、さらに悲惨になる。たがいに容赦しない。相手を完全に抹消するところまで、
やる。やってやって、やりまくる。

 だから「宇宙人とコンタクトを試みてはならない」と。人間は人間だけの世界で、そっと、静か
に生きるのがよい。宇宙人に会って、知識や知恵をもらおうなどとは、考えてはいけない。

 おそらく宇宙人にしても、それをいちばん恐れている。人間のような邪悪な生物に、知識や知
恵を与えたら、どうなるか? 同種どうしでも、戦争ばかり繰り返している。それを知っているか
ら、彼らのほうが、コンタクトを拒否している(?)。少なくとも、私が宇宙人なら、人間など、相
手にしない。相手にしたとたん、たいへんなことになる。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【満60歳の誕生日に】

●もうすぐ60歳!

+++++++++++++++

私も、もうすぐ満60歳!
その満60歳に際して、ここで
自分自身を特集してみたい。

題して、「満60歳の私」。

どこかくすぐったい感じがしないでも
ない。が、年齢だけは、みな平等に、取る。

「ああ、いやだ!」といくら叫んでも、
その時はやってくる。やってきた。

誕生日は、10月2x日。1947年
生まれ!

+++++++++++++++

●時間性

 ワイフが言う。「いやだったら、気にしなくていいのに」と。しかし気になる。世間では、「還暦」
とか何とか言う。気になる。が、何、それ?

 ところで、その人がもつ時間性というのは、個人によって、みなちがう。世の中には、1年を1
日のようにして過ごす人もいれば、1日を、1年のようにして過ごす人もいる。そのことがわから
なければ、台所のテーブルに止まる、ハエを見ればよい。せわしなく手足を動かし、あっという
間にやってきて、あっという間に去っていく。

 もしあれと同じ行動を人間にしろと言われたら、1時間、かかるかもしれない。あるいはこんな
ことも。

 一匹の蚊がやってきた。その蚊が、私の足の先から頭のところまで、スーッとあがってきた。
人間の高さに換算すると、約500メートル。(それを疑う人は、自分で計算してみたらよい。)つ
まり蚊は、人間にすれば500メートルの高さの山を、数秒のうちに、あがったり、さがったりし
ている。

 もし人間が同じことをしようとしたら、ヘリコプターを使っても、5〜10分はかかる。歩いて、登
ったりおりたりすれば、1日かかるかもしれない。

 つまり人間のもつ時間性は、蚊のもつ時間性の、数百分の1ということになる。蚊にすれば人
間は、恐ろしく動きが鈍く見えることだろう。

 これは人間と蚊の話だが、同じ人間どうしでも、時間性は、みな、ちがう。わかりやすく言え
ば、時間性は、その密度で決まる。時間性の濃い人もいれば、そうでない人もいる。

●濃密な人生

 限られた人生なら、時間性は濃ければ濃いほど、得ということになる。平均的な人が10日か
かってすることを、1日で、できる。単純に計算すれば、自分の人生を、10倍にすることができ
る。

ここでいう「得」という実感を得るのは、なかなかむずかしい。他人より10倍分濃い人生を送っ
たからといって、その10倍を実感するのは、むずかしい。が、反対に、時間を無駄にしたとき
に、それがわかる。くだらないテレビ番組などを、つい見るとはなしに見てしまったようなばあい
である。そういうとき、私のばあい、「しまった!」と思う。

だからその人に与えられた時間の長さは同じでも、それをどう使うかは、それぞれ個人の問題
ということになる。ダラダラと、だらしない時間の過ごし方をすれば、時間だけが無益に過ぎて
いく。

 それはたとえて言うなら、貯金のようなもの。「時間」という貯金である。時間イコール、「命」と
置き換えてもよい。その貯金にはかぎりがある。浪費すれば、あっという間になくなってしまう。
有効に使えば、それなりに長く使うことができる。

●脳みその穴

 が、ここでひとつの問題が起きる。

 年を取ればとるほど、脳みその底に穴があくということ。多くの人は、一度頭の中に入った情
報や知識は、そのままの状態でいつまでも脳みその中に残ると考える。しかしこれは誤解。あ
る年齢を超えると、あたかも脳みその底に穴があいたかのように、情報や知識は、どんどんと
下へこぼれ落ちていく。

 私も、パソコンを使って数か月前にできたことが、できなくなることが、しばしばある。たとえば
ソフトの使い方、など。英語の単語にしても、50歳を過ぎて覚えた単語というには、数えるほど
しかない。

 さらに思考そのものが、ループ状態になることもある。毎日、同じことを考えているだけ。毎
週、同じことを考えているだけ。さらに毎年、同じことを考えているだけ、と。

 一度、こういう状態になると、進歩など、望むべくもない。そういう状態のときに、脳みその底
に穴があくと、今度は、一気に、脳みその働きは鈍くなる。

 が、さらに悲劇はつづく。そういう状態になりながらも、その人自身が、それに気づくということ
はない。脳みそのCPU(中央演算装置)そのものが鈍くなる。コンピュータにたとえるなら、CP
Uのクロック数そのものが少なくなるため、全体に脳の働きそのものが全体として、遅くなる。
だから自分では、気づかない。

 ひとつの例だが、脳のCPUが鈍くなると、話し方そのものが、遅くなる。同時に、早口で話す
人の言葉が理解できなくなる。

●精進

 そこで釈迦は、「精進(しょうじん)」という言葉を考えた。「死ぬまで、精進あるのみ」と。

 脳みその底に穴があくなら、それはしかたのないこと。だれでも、そうなる。体の筋肉が衰え
るように、脳みその機能も衰える。そこで重要なことは、漏れ出る以上のものを、上から補うと
いうこと。

 10の情報が漏れ出たら、20の情報を補う。100の情報が漏れ出たら、200の情報を補う。

 つぎに思考のループ性。同じことを、毎日、同じように考える。そういうループ性をどこかで感
じたら、そのループ性から抜け出ること。が、実際には、これがむずかしい。そこで人は常に、
新しい世界に興味をもち、それに挑戦していく。その結果として、ループ性から抜け出る。

 新しい思想に接する。新しい分野に挑戦する。新しい人に出会う。

 もっともこんなことは、私が書くまでもなく、常識と考えてよい。つまり新しい世界を知ることに
より、その反射的効果として、自分のループ性に気がつくことができる。ループ性から、抜け出
ることができる。

●生きるということは、考えること
 
 さて、虫の話に戻る。

 虫がもつ時間性が、かりに人間のもつ時間性の10倍であるとする。(「10倍」でも、ひかえめ
な数字だが・・・。)もし虫が時計を考えたとしたら、時針、分針、秒針のほかに、もうひとつ、1
秒で1周する、細い針を考えるかもしれない。虫の動きは、人間の動きとくらべても、明らかに
10倍は、速い。

 が、その虫が、では人間とどこがちがうかといえば、答はひとつ。虫には、思考能力がないと
いうこと。与えられた情報をもとに、それを加工し、利用していく能力はあるかもしれないが、思
考能力はない。

 思考能力というのは、分析力、そして論理力で構成される。だからいくら脳のCPUのクロック
数が速いからといっても、それがそのまま、虫の脳みその性能につながるとは、考えられな
い。たとえて言うなら、ソフトのインストールされていない、パソコンのようなもの。

 思考能力というのは、それほどまでに高度なもの。かつ、思考するには、時間がかかる。こ
れもパソコンにたとえていうなら、パソコン自らがプログラムを組んでいくようなものかもしれな
い。虫の目からすると、思考している人間は、まるで眠っているかのように見えるかもしれな
い。

 しかし、だからといって、その分だけ、虫の人生が、人間のそれより密度が濃く、その分だけ
長いというかというと、そういうことはない。虫は虫として、(思考といえるようなものがあるかど
うかは、わからないが)、思考をループさせているだけ。

 そういう点では、虫は、「息(いき)ている」かもしれないが、「生(いき)ている」ことにはならな
い。ただこういうことは言える。

 人間から見れば、虫の一生は、数週間から数か月かもしれないが、虫自身は、それを短い
などとは思っていないということ。活動の量ということになると、かりにここに書いたように、10
倍とするなら、虫にとっての1年は、人間の10年分ということになる。

が、それでも虫は、「息ているだけ」。言い換えると、「息ているだけ」では、虫と同じ。人間がな
ぜ虫とはちがうかといえば、(考える)ところにある。その(考える)という部分が、人間と虫を分
ける。また考えるからこそ、人間は人間としての価値を維持することができる。

●長く生きる 

 平均寿命という言葉がある。それに対して、健康寿命という言葉もある。健康寿命というの
は、健康でいられる寿命をいう。ふつう(平均寿命)ー10が、(健康寿命)と言われる。たとえば
平均寿命が84歳なら、84ー10=74歳が、健康寿命ということになる。

 残りの10年は、不健康年齢ということになる。病気を繰り返したり、頭がボケたりする。つま
りそれまでが勝負。

 この計算式に従えば、私の健康寿命は、残り、10数年しかないということになる。(たったの
10数年だぞ!)「60歳」という年齢を気にするとすれば、むしろそちらの方である。「還暦(か
んれき)」とか何とか、そんなくだらない言葉に、振り回される必要はない。「残り、10数年しか
ない」という視点で、自分に緊張感を奮(ふる)い立たせる。

●これからの人生

 ではどうすれば、私は、残りの10数年を、有意義に過ごすことができるのか。人間として、
「生きる」ことができるのか。ただこのばあいも、「10」とか、「20」とかいう数字に、まどわされ
てはいけない。冒頭に書いたように、世の中には、1年を1日のようにして過ごす人もいれば、
1日を、1年のようにして過ごす人もいる。

 もし1年を10年にして生きることができれば、私の人生は、10倍の10年に延びることにな
る。

 そのひとつの方法が、「考える」ということになる。私のばあい、「真」の追求ということになる。
ほかにも、「善」の追求をする人もいるだろう。「美」の追求をする人もいるだろう。人は、人そ
れぞれだが、してはいけないことだけは、はっきりとしている。

 明日も今日と同じ。来月も今月と同じ。来年も今年と同じ・・・という人生には、意味はない。そ
んな人生の送り方だけは、してはいけない。それこそ、10年を1年にして生きるだけ、というこ
とになる。もっと言えば、ただ死を待つだけの人生ということになる。

●人間は中身
 
 60歳になったからといって、60歳らしく生きなければならないということはない。またそんなこ
とを、考える必要もない。中には、「コンパクトな人生論」を説く人もいる。生活のレベルをさげ、
範囲を狭くする。しかしどうしてコンパクトでなければ、ならないのか。

 どうせ死ねば、私もろとも、この宇宙すべてが消えてなくなる。だったら、それまでの人生。そ
れまで生きて、生きて、生き抜く。未練の痕跡を残さないほどまでに、燃やし尽くす。私はひと
り。そのたったひとりの私が、どうして他人に遠慮しなければならないのか。自分という人間に
遠慮しなければならないのか。

 バカめ!

 恩師の田丸謙二先生は、先日、私にメールをくれた。その中で、先生は、「老いと戦うすばら
しさ。感謝、感謝」と書いていた。

 人は老いることにより失うものも多い。それは事実だし、避ける方法もない。しかし同時に得
るものも多い。その第一。人は老いてはじめて、生きることのすばらしさを知る。生きることの
価値を知る。あのアインシュタインは、かつて、こう言った。『生きていること自体が奇跡』と。そ
れが実感としてわかるようになる。

 私にしても、今の命が、あと何年つづくかわからない。ひょっとしたら、あと数か月かもしれな
い。が、それまで燃えて燃えて、燃やし尽くす。明日、死の宣告をされても、ジタバタしないよう
に、今日を懸命に生きる。来年、死の宣告をされても、ジタバタしないように、今年を懸命に生
きる。10年後に死の宣告をされても、ジタバタしないように、この10年間を懸命に生きる。

 私の人生は、満60歳から、始まる! さあ、ここはしっかりと、はちまきを締めなおしてがん
ばろう!

【団塊の世代へ】

 私たちが満75歳までがんばれば、つまり何らかの形で現役として働けば、少子化の問題は
解決する。元気で働ける人だけでよい。それで少子化の問題は、解決する。仮に団塊の世代
と呼ばれる人の中の30%の人が、75歳まで働いたとすると、日本の労働人口は、私の試算
では、2015年から、労働者人口は、増加に転ずる※。

 だから元気で働けるうちは、元気で働こう。それは義務というより、特権である。元気で働け
る者の特権である。元気で働ける者が働けば、そうでない人たちの分まで、カバーする。

 不運にも、50代、60代で、大病をわずらう人もいるかもしれない。認知症になる人もいるか
もしれない。そういう人たちのためにも、元気で働ける人が働けば、回りまわって、結局は、そ
ういう人たちのためになる。

 元気で働ける人が、庭いじりや、孫の世話などで、時間をつぶしてはいけない。年金をアテに
して、遊んで暮らしてはいけない。生活の合間にするのは、それはそれでかまわない。しかしそ
れが決して、あるべき老後の姿ではない。またそういう生活を、理想の老後と思ってはいけな
い。

注※

 乱暴な計算だが、団塊の世代(昭和22年〜26年生まれ)、200万人x5年分x0・3=600
万人。つまり30%の人たちが働きつづければ、600万人の労働人口を、団塊の世代だけで、
カバーすることができる。これらの人たちが、満70歳〜75歳の間も働けば、2015年以後、
少子化で減少する労働人口、約500万人分をカバーすることができる。

 さらに私たちのあとにつづく者たちが、同じように75歳まで働けば、少子化の問題は、その
まま霧散する。

 私たち団塊の世代は、戦争を経験することもなく、豊かな繁栄の時代を生きることができた。
それなりにきびしい時代ではあった。が、世界的に見れば、私たちはたいへん恵まれた時代を
生きたと言える。そこで私たちに残された責務は、ただひとつ。次の世代の人たちに、その豊
かさを、遺産として残すことである。還元することである。

 繰り返すが、元気で働ける者が、元気で働けるというのは、まさに特権である。その特権を、
おおいに楽しもう。


はやし浩司++++++++++++++++++++++Hiroshi Hayashi

【老齢期の統合性】

●生きる価値

 賢い人は、失う前に、その価値を知り、愚かな人は、失ってから、あわてて、その価値を知
る。

 わかりやすい例では、健康がある。健康のときは、健康の価値というのがなかなかわからな
い。病気になったり、けがをしたりしたときに、その価値がわかる。

 同じように、仕事がある。仕事をしているときは、仕事をしていることに価値というのが、なか
なかわからない。「早く休みになればいい」とか、「できるだけ楽をしたい」とか、考える。

 しかしその仕事がなくなると、とたんに心の中に、ポッカリと穴があいたような状態になる。そ
れがわからなければ、その反対の状態を想像してみればよい。もしあなたがこう言われたとし
たら、あなたは、どう思うだろうか。

 「あなたはもう、何もしなくていい。あなたの役目は終わった。あなたには用はない」と。

 あなたはそれを喜ぶことができるだろうか。「長い休暇を手にした」と、喜ぶことができるだろ
うか。答は、NO!、のはず。

 人間の価値は、他者とのかかわりの中で、決まる。同時に、生きる価値も、他者とのかかわ
りの中で、決まる。いわんや、死を待つだけの人生に、いくら健康であっても、あなたは、それ
に耐えることができるだろうか。

 私の知人にこんな老人がいる。55歳で定年退職してからというもの、優雅な(?)年金生活。
一日とて、働いたことがない。間に、数年ほど、地区の補導委員のようなことはしたことがあ
る。が、それだけ。近所のゴミ拾いすら、したことがない。

 家の裏に70〜80坪ほどの畑をもっているが、まさに庭いじり三昧(ざんまい)。健康なとき
は、朝から夕まで、その庭で遊んでいた。

 が、このところ健康が、思わしくなくなってきた。年齢は85歳を超えているのではないか。肥
満も重なった。歩くのもままならない。ときどき、妻に支えられて、庭の中を行ったり来たりして
いる。

 つまりその老人は、定年退職と同時に、死んだも同然という状態になった。一見、うらやまし
いような老後生活に見えるが、しかしそんな生活を、だれも、理想的とは思わない。その老人
は、30年という年月を、1年、あるいは1か月にして過ごしただけ。

 (少し、言いすぎかな?)

 私も、ある時期、教材づくりに没頭したことがある。それなりに楽しかった。お金にもなった。
しかし今、振り返ってみると、そこに何もないことを知る。反対に、だれかに利用されただけとい
う思いだけが、今になって、後悔の念ばかりが、胸をふさぐ。

 つまり仕事といっても、中身の問題もある。そういうことはあるが、「時間を無駄にした」という
思いは、年齢とともに、ボディブロウのように、ジワジワと体に響く。

●我ら、ヤング・オールド・マン!

 さあ、私は心に決めた。もうすぐ満60歳になるが、その日を、私の満30歳の誕生日とする。
その日を境に、私はもう一度、がむしゃらに働く。その日からではない。今日、今のこの瞬間か
ら、がむしゃらに働く。

 どうしてこの私が、老人臭く生きなければならないのか。老人臭くならなければならないの
か。老人らしく生きなければならないのか。

 私は自分がすべきことをやる。(とりあえずは、書きたいことを書く。)だれのためでもない。私
のためだ。私自身の命のためだ。

 「統合性」という言葉がある。私のエッセーでも、たびたび取りあげてきた。その統合性という
のは、(自分のすべきこと)と、(自分のしていること)を一致させることをいう。(自分のすべきこ
と)というのは、ほとんどのばあい、(自分のしたいこと)ではない。それはたとえて言うなら、寒
い夜に、ジョギングにでかけるようなもの。

 だれだって、コタツの中にうずくまっていたい。楽をしたい。しかしそれでは、自分の健康を維
持することはできない。

 統合性についても、同じ。「したくないから、しない」というのでは、もとから統合性など、望む
べくもない。

 そうの統合性の確立させる。それが老後を心豊かに生きる、秘訣ということになる。

 ただしそれには条件がある。

 統合性を確立するためには、無私無欲でなければならないということ。打算や功利が混ざり
込んだとたん、統合性は、そのまま霧散する。(結果として、それが利益につがったとしても、そ
れはあくまでも、結果。目的であってはいけない。)

 それにこの統合性は、一朝一夕に確立できるようなものではない。「人生の正午」と呼ばれ
る、満40歳前後から、その準備に入らなければならない。「定年退職をした。さあ、統合性を
確立しよう!」と考えても、遅いということ。よい例がボランティア活動。その基礎づくりは、40
歳でも遅すぎる。30歳でも遅すぎる。10代、20代のころからはじめて、その人の基礎にな
る。

【統合性、チェック・テスト】

(1)毎朝、起きると、すぐ、すべきことが、あるか?
(2)毎朝、起きると、すぐ、何かをし始めるか?
(3)毎日、したいこと、すべきことが、はっきりとしているか?
(4)毎晩、眠る前に、その日の充実感を覚えるか?
(5)毎晩、眠る前に、明日の計画が、思い浮かぶか?

 これらのテストで、5項目とも当てはまれば、統合性の確立した人ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 老齢期の統合性 老齢期の生きがい 統合性 チェックテスト チェック・テスト)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●コンフリクト

+++++++++++++

私たちは何をするにも、心の
中で葛藤(=コンフリクト)する。
葛藤の連続と言ってもよい。

多くのばあい、二律相反した作用が、
同時に心の中で起きる。

「運動はしたくない」「しかし
運動をしなければ、健康が
維持できない」と。

こうした心の葛藤を類型化した
のが、レヴィン(K・Lewin)と
いう学者である。

彼は、コンフリクトを、内容別に

(1)接近ー接近型
(2)回避ー回避型
(3)接近ー回避型
(4)二重の接近ー回避型
(春木豊・「心理学の基礎」)

の4つに分類した。

++++++++++++++

 たとえば、お金はたっぷりある。そのお金で、昼食を食べることにした。町へ出ると、2つの店
が並んでいた。フランス料理店と中華料理店である。どちらも食べたい。さあ、どうするか……
と悩むのが、(1)の接近ー接近型ということになる。できれば、両方とも食べたい。

 わかりやすく言えば、YESーYES型ということになる。

 つぎにたとえば、「働くのはいやだ」と仕事サボる。しかし仕事をしなければ、借金が返せない
という状況を考えてみよう。

 このばあい、「働くのもいやだが、借金取りに追いかけ回されるのもいや」という状況に追い
込まれる。さあ、どうするか……と悩むのが、(2)の回避ー回避型ということになる。できれば
両方とも避けたい。

 わかりやすく言えば、NOーNO型ということになる。

 またこんな状況はどうだろう。火の中に、栗が落ちている。おいしそうな栗だ。取って食べた
い。が、へたをすれば、やけどをするかもしれない。さあ、どうするか……と悩むのが、(3)の
接近ー回避型ということになる。何かをしたいのだが、その何かを、負の要因が取り囲んでい
る。

 わかりやすく言えば、YESーNO型ということになる。

 さらに、こうしたYESーNOが、2つ以上、複雑にからんでいるばあいを、(4)の二重の接近
ー回避型という。

 春木豊氏著の「心理学の基礎」では、こんな興味ある事例をあげて、回避ー回避型を考えて
いる。

 「学校へ行きたくない。しかし学校へ行かなければ、親に叱られる」と。

 このばあい、「学校へ行きたくない」という思いと、「親に叱られるのもいや」という思いが、同
時に心の中で作用する。そしてそのどちらが強いかによって、子どもの行動は決まるという。

 最終的に、「学校へ行きたくない」という思いの方が、「親に叱られるのがいや」という思いより
も強くなったとき、子どもは、学校へ行かなくなる。「親に叱られた方が、楽」と。

 そのバランスを、ミラーという学者は、「接近勾配と回避勾配」(同書)で表現した。経済でいう
ところの、損益分岐線に似ている。値段をあげれば、利益幅は大きくなるが、売れなくなる。値
段をさげれば、売れるが、利益幅は小さくなる。二本の直線は、あるところで、交差する。

 同じように、接近と回避を直線で表示すると、その直線は、あるところで、交差する。そしてそ
の作用の強い方に向かって、行動が開始される。

 「学校へは行きたくないが、親にガミガミ言われるのは、もっといや」ということであれば、その
子どもは、学校へ行く。

 「学校へ行きたくない。親にガミガミ言われる方が、マシ」ということであれば、その子どもは、
学校へ行かない。

 なるほどと思う理論なので、ここに書きとめておく。

 ……と考えていくと、冒頭に書いたように、私たちの行動には、つねにこのコンフリクトがつい
て回る。私が最近、経験したケースでは、こんなことがある。これは(4)の二重の接近ー回避
型ということになる。

 母を介護しているときのこと。

 たて続けに数回、事故が起きた。母は夜中に、ベッドの周囲を動き回る。そのとき、さかさま
にベッドと柵の間に頭をつっこんだりした。偶然にも、私たちが発見したからよかったようなも
の、もし発見が遅れていたら、母は死んでいたかもしれない。

 ケア・マネ(ケア・マネージャー)に相談すると、「添い寝をするしかありませんね」と。

 しかしそんなことをすれば、今度は私たちが不眠症になってしまう。ここでコンフリクトが始ま
る。

 「母の世話をしなければならない」「しかし添い寝はできない」と。

 さらに問題はつづく。そこで私たちは、介護施設に入居させることにした。が、費用は、ばか
にならない。兄も、現在、グループホームに入居している。

 「費用はだいじょうぶか」「しかし費用は負担しなければならない」と。

 が、最大の問題は、「子」として、「親」を施設に入れることには、大きな抵抗感を覚えたこと。
「できるなら自宅で、めんどうをみてやりたい」「しかし事故が起きてからでは、遅い」と。

 このようにいくつかのコンフリクトが同時多発的に起きた。まさにレヴィンの説くところの、(4)
二重の回避ー接近型ということになる。

 で、義理の兄夫婦に相談すると、一も二もなく、「入居させなさい」だった。「そんなことしてい
たら、あなたたちの健康にさしさわりが出てくる」と。「それに事故でも起きたら、警察ざたにな
る」とも。

 で、老人介護施設に入居届けだけは出しておこうと思って足を運ぶと、たまたまそこの所長さ
んが、応対に出てくれた。そして運よく(?)、「ちょうど明日、空きができますが、どうですか?」
とのこと。あとで知ったが、こんな例は、稀(まれ)だそうだ。ふつう半年待ち、長い人になると、
1、2年待ち。

 そこでまたまたコンフリクト。「もう少し自宅で、めんどうをみていてやりたい」という思いと、「こ
の機会をのがしたら、1、2年先になる」という思い。その2つがはげしく心の中で対立した。

 まさにコンフリクトの連続!、……ということになった。

 しかし大切なことは、コンフリクトはいつも起きるものだとしても、バランスをよく考えて判断す
るということ。その判断がじょうずにできる人を、良識のある人ということになる。そうでない人
を、そうでないという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 コンフ
リクト 接近 回避 レヴィン Lewin)

Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●アメリカは本気だぞ!

++++++++++++++

民主党の主張もよくわかる。
しかしアメリカは本気だぞ!

ここでインド洋上での補給活動を
やめたら、アメリカは、日本を
切り捨てる覚悟でいる。

日米安保条約そのものを、
アメリカ側から破棄するつもり
でいる。

アメリカ側からの報道を読んでいる
と、それがよくわかる。

「アメリカも、そこまでしない
だろう」と思っていたら、大間違い!

わかるか、日本よ、日本人!

甘えるのもいいかげんにして
おけ。……というのが、アメリカの
本音。

その覚悟があるなら、民主党よ、
最後の最後まで、給油反対を
唱えつづければよい。

あとになって、「給油活動を再開
します」では、遅すぎる。

+++++++++++++

 日本は、今、重大な岐路に立たされている。6か国協議の流れを見るまでもない。日本は、
今、たった1人の友人すら、失ってしまった。が、さらに、それに拍車をかけようとしている。

 アメリカは本気だぞ。おどしではない。本気だぞ。

 ワシントン発、ヤフー・ニュースも、つぎのように伝える。

 「……同盟国との関係に立脚した対テロ戦争の継続は、ブッシュ政権にとどまらず、来年11
月の大統領選に臨む与野党の有力候補も表明している。海上自衛隊による補給活動が中断
すれば、東アジア安保の基盤となってきた日米同盟への疑念を、現政権にとどまらず米指導
部に植え付ける結果を招く懸念が強い」と。

 日本政府、もしくは民主党は、「しばらく中断しても、やがて給油活動を再開するつもり」と思
っているかもしれない。が、(中断)イコール、(同盟国からの離脱)を意味する。少なくとも、アメ
リカは、そうとらえている。

 もしそうなれば、それを一番喜ぶのは、K国であり、韓国であり、中国ということになる。つま
り日本は、丸裸!

 民主党のO代表は、「国連決議があれば……」と、それだけを繰りかえしているが、その国連
が、K国の核開発問題を解決してくれるのか? 国際政治は、(現実)に始まり、(現実)に終わ
る。理想主義をかかげていたら、その前に、日本が破滅してしまう。

 アメリカは本気だぞ。

 どうしてこんな簡単なことが、わからないのか! 
(平成19年10月5日(金)記)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(10月6日)

++++++++++++

昨夜は、やや風邪気味?
しかし床についたのが、11時ごろ。

そのせいか、今朝は起きてからも、
あくびの連続。

淡い水色の空。厚ぼったい雲が
動きを止めて静かに、空に
浮かんでいる。

カーテンのすき間から見る今日の
天気は、晴。

++++++++++++

●論理

 論理とは何か? 簡単に言えば、証明された事実だけを組みあげて、ものごとに一定の結論
を与えることをいう。日本語大辞典(講談社)には、つぎのようにある。

 「(1)思考や議論の道筋。(2)法則的にものごとが、関連していること。(3)推論の運び方」
と。

 その論理は、思考力によって成り立つ。が、では、その思考力とは何かというと、これがま
た、よくわからない。あるいは反対に、その人の思考力は、何によって決まるのか?

 たとえば……。

 今朝、こんな夢を見た。インドのどこかを、旅行している夢だった。枯れた大地が、広がって
いた。遠くに丘が見えて、岩山をくりぬいた寺院が、そこにあった。私たちは汽車か何かに乗っ
ていた。

 だれかが言った。「こんなところで、のんびりと暮らしてみたい」と。すると、べつのだれかが言
った。「こんなところに住んでも、しかたないよ」と。私はそんな会話を、ぼんやりと聞いていた。

 列車はやがて、長野県か群馬県へと入ってきた。今度は、緑の山々が、眼下に見えてきた。
ところどころに、澄んだ水が流れる川が見えた。窓の少ない列車で、後部、半分ほどが倉庫の
ようになっていた。客は、私たちだけだった。つまり5〜6人の、ツアー客だけだった。

 先ほどまでいっしょにいた外人の客たちは、川で泳ぐため、みな列車をおりた。私たちは、そ
のまま旅をつづけた。列車は、飛行機のように高いところを走っていた。が、やがて、小さな駅
に着いた。

 時刻表を見ると、1時間に1本くらいしか、発着がない。1日を通しても、5、6本。見ると駅前
には、小さな店がいっぱい並んでいた。駅の名前は、「浜松」。私はそれを見て、「ああ、昔は、
浜松駅も小さかったんだな」と思った。

 ……という、何とも意味のわからない夢だった。が、夢を見ているときというのは、(論理)が
機能しない。そのつど、その直前のことを忘れている。夢の内容そのものが、記憶されていか
ないため、そうなるらしい。いや、記憶(=記銘)はされているのだろうが、(現に、今、こうして
夢の内容を覚えているのだから……)、想起されないまま、つぎのシーンへと移る。

 だから矛盾を、矛盾と判断することもできない。インドから突然、長野県へ。そして突然、現在
から過去へ……。夢の途中で、「おかしいぞ、たった今、インドにいたはずだ」「列車に乗ってい
るはずなのに、どうして空を飛んでいるのか?」「いつの間にか、過去にタイプスリップしてしま
ったぞ」などというようなことは、考えない。

 そこで思考力。私が今朝見た夢を例にあげると、思考力というのは、そのつど(今)から(過
去)(未来)へと、脳に飛来した信号を、照合する力ということになる。その時点で、矛盾を覚え
れば、修正、訂正する。つまりそれが思考力ということになる。

 夢の中では、その(照合する力)が機能しない。だから矛盾だらけの夢を見ながらも、それを
矛盾と感じない。つまり思考力、ゼロ。

 反対に、その照合する範囲の広い人を、思考力のある人ということになる。ここで「範囲」とい
う言葉を使ったが、照合する力は、その「範囲」で決まる。このことは、子どもの世界を見てい
ると、よくわかる。

 こんな話を、幼児(年長児)クラスでしてみる。

 「おばあさんが、杖をついて、歩いていました。右手には、カバンをもち、左手には、日傘をも
っていました」と。

 この話をしたとき、すかさず、「おかしい!」と叫ぶ子どもがいる。そうでない子どももいる。
「おかしい!」と叫ぶ子どもは、その話の最初から最後まで、つまり広い範囲で、私の話を聞い
ていたことになる。

 一方、そうでない子どもは、私の話を聞きながらも、そのつど、その部分(=狭い範囲)でしか
ものを聞いていない。だからこういう話を聞いても、矛盾を感じない。

 で、その範囲は、人それぞれ。範囲の広い人もいれば、そうでない人もいる。さらにいくら思
考力のある人でも、そこには限界がある。もちろん今の私にも、ある。こうして思考力について
書きながらも、今の私がわかるのは、ここまで。

 このあたりまでくると、その先が、薄いモヤに包まれているのがわかる。

 「思考力と論理を、同じに考えていいのか?」「では思考力というのは、記憶力によって決まる
のか?」「どうすれば範囲を広げることができるのか?」「論理というテーマで書いているのに、
いつの間にか、思考力の話になってしまった。これでは、インドから長野県へ列車が飛んだ、
夢の内容と同じではないか?」「論理と思考力は、どうちがうのか?」と。

 ただ、こういうことは言える。

 大切なのは、問題意識である。かりにここに書いたことがまちがっているとしても、気にするこ
とはない。あとで訂正すればよい。大切なことは、「問いつづけること」(アインシュタイン)。その
姿勢だけは、大切に。

 それがその人の「範囲」を広くする。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●今日、あれこれ(10月6日)

++++++++++++++++++++

今日も、1日、終わった。時刻は、午後9時20分。
階下の台所で、ワイフが最後の洗い物を
している。その音が、時折、聞こえてくる。

だらしない1日だった。午前中は、母が入居して
いる養護施設で、祭りがあった。2時間ほど、
顔を出した。その帰り道、パソコンショップ
へ寄った。あとは、庭で、ラジコンのヘリを
飛ばした。それだけ。

本も読まなかった。原稿も、午前中、1作書いた
だけ。

夕食前、DVDを見た。『パフューム(香水)』と
いうタイトルの映画だった。星は、2つの★★。

++++++++++++++++++++

●ハードディスクの取り替え

 今日、パソコンのハードディスクを取り替えてやろうと思った。しかし失敗。数度、試みたが、
だめだった。

 使ったソフトは、「コピー・コマンダー・8」。あとでメーカーのHPをのぞいてみたら、「VISTAに
は対応していない」とのこと。ナーンダ!

 パソコンショップへ行ったついでに、「ホームページ・ビルダー・11」(VISTA対応版)を買って
きた。ホームページ制作用のソフトである。3か月ほど前に、同じのを買った。VISTAには対応
していなかった。それでまた新しく、購入。さっそく、インストール。いろいろなことができる分だ
け、複雑? 私は分厚いマニュアルを手にすると、快感を覚える。ゾクゾクする。これは若いこ
ろからの、私のビョーキ(?)。


●夕食

 DVDを見たあと、夕食は、簡単にすませた。料理といっても、インスタントの焼きそばに、あと
2、3品。しかし消化は、あまりよくない。今もなんだか、腹の上の方が、腫れぼったい。あとで
消化薬でも、のもう。


●梨

 高知県のIさんという方が、見たこともないような大きな梨を2個、送ってくれた。長い間、私の
マガジンの読者だという。手紙には、そう書いてあった。うれしかった。読んだあと、手紙をたた
むと、家族の手紙を入れる棚の中にしまった。私にとっては、宝物。永久保存。

 Iさん、ありがとうございました! 山荘で、ゆっくりと返事を書きますね。


●今、したいこと

 新しいHPを開設してみたい。今度は、IBM社の(ホームページビルダー)というソフトを使っ
て、作ってみたい。今までのソフトではできなかったことが、これでできる。たとえばチェックテス
トなど。

 質問に答えながら、順に(レ)点を入れていくと、自動的に、たとえば母親診断ができたりす
る。ほかにパスワードの設定も、できる。

 苦労して、何かをやり終えたときの快感がたまらない。「ヤッター!」と叫び声をあげるときほ
ど、気持ちよいものはない。


●金

 金(きん)の価格が、昨日、グラム、2950円前後になった。若いころ、ときどき、金を買った。
買ったといっても、xxグラム単位。その金が、一時、6000円ほどになったこともあったという。
そのときは、知らなかった。が、あとは、1000〜2000円の範囲をウロウロ。

 金のことは忘れた。思い出したくもなかった。が、ここにきて、金の価格がジワジワと上昇しつ
づけている。

 中国、インドでの需要が旺盛だとか。それにアメリカ人も、国内で金を買い始めているとか。
加えて、原油価格の上昇。1バレルが、80ドル前後!

 もう少し、様子をみてみよう。3500円あたりまでは、行くのではないか。あるいは、そのうち、
ドスンとさがるかも? 


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2234)

【幼児教育とは】

●レディネス

+++++++++++

子どもに何かを学習させるとき、
そこに、「適切な時期」がある
ことがわかる。

その適切な時期のことを、
発達心理学の世界では、
「レディネス」という。

たとえば文字。

満4・5歳(4歳6か月)を境と
して、子どもは、急速に文字
への関心を深める。文字が書ける
ようになる。

それまでは文字になっていないような
文字、たとえばグニャグニャの
線を書いて、「字を書いた」などと
いう。

が、4・5歳を過ぎると、突然、
その線が、意味をもった文字へ
と変化する。

そのころ文字の読み書きを教える
と、子どもは、無理なく、文字を
学習する。

こうした時期を、レディネスと
いう。

「レディネス」は、「readiness」
とつづる。「準備、OK」という
意味である。

++++++++++++

●早期教育

 幼児教育というと、「早期教育」と誤解している人は多い。中には、「先取り教育」と誤解してい
る人さえいる。小学1年生で学ぶことを、幼児の段階で教えるのが、幼児教育である、と。

 しかし、これはとんでもない、誤解! まちがい! 

 たとえば文字学習を例にあげて考えてみよう。

 子どもが文字を読み書きできるようになるのは、満4・5歳(4歳6か月)である。それ以前はと
いうと、形の弁別すらむずかしい。たとえば三角形を、描き写させても、グニャグニャの形を描
いたりする。

 が、この時期に近づくにつれて、急速に形の弁別ができるようになる。三角形は、三角形らし
くなる。四角形は、四角形らしくなる。そうした時期を、「フォスタリング(=準備期間)」というな
ら、そのフォスタリングが熟成したときが、「レディネス」ということになる。

 言いかえると、この満4・5歳以前に、文字を教えようとしても、子どもはなかなか文字を覚え
ない。しかし満4・5歳前後に文字を教えると、それが子どもの頭の中に、スーッと子どもの頭
の中に入っていくのがわかる。スーッと、だ。

●「差」はない。

 たとえばこんなことがある。

 ある母親は、文字を学習させようと、満3歳くらいから、子どもに文字の読み書きを教えた。
で、1年ほどして、やっとひらがなを読み書きできるようになった。その母親は、「効果があっ
た」「成果があった」と、それを喜んだ。

 一方、子どもは、満4・5歳を過ぎると、急速に文字への関心を深め、自分でそれらしきもの
を書いて遊ぶようになる。自分で書いて、親の所へもってきて、「見て!」「見て!」と言ったりす
る。

 それを見て、親は喜び、感心して見せる。子どもをほめたりする。「すごいわね!」と。

 やがてその子どもも、ひらがなを読み書きできるようになる。先の子どもよりは、やや時期は
遅れるが、満5歳ごろになると、その(差)は、まったくわからなくなる。

 むしろ無理に学習させられた先の子どものほうが、文字に対する嫌悪感を覚えるようになる
ことが多い。その危険性は高い。文字を見ただけで、そのうしろに、親のガミガミ、イライラした
姿を思い浮かべるようになるかもしれない。

●フォスタリング(準備期間)

 だからといって、満4・5歳以前に、何もしなくてよいというわけではない。文字の読み書きの
学習をせる前に、親としてしておかねばならないことは、山のようにある。

(1)文字への関心を深める。……たとえば親が子どもを抱いて、本を読んでやる、など。子ど
もが文字を見たとき、その向こうに(親のぬくもり)を感じさせるようにするのが、コツ。その(ぬ
くもり)が、子どもを伸ばす原動力となる。
(2)形の弁別を教える……文字は複雑な図形である。いくつかの直線や円が組み合わさって
できている。たとえば「み」は、「フ」「○」「十」の組み合わせでできている。簡単な形の弁別につ
いては、遊びを通して、学習させておく。
(3)運筆能力を高める……手の動きを見てほしい。横線を書くときは、手の動きは単純であ
る。一方縦線を書くときは、手は複雑な動きをするのがわかる。幼児にとって難しいのは、曲
線である。(幼児の運筆能力を知るためには、円を描かせてみればわかる。運筆能力のある
子どもは、きれいな円を描く。そうでない子どもは、そうでない。)運筆能力の訓練としてすぐれ
ているのが、ぬり絵。ぬり絵に慣れてくると、こまかいところを、曲線、直線を織り交ぜながら、
きれいにぬることができるようになる。

 こうした積み重ねが、(基礎)となって、つぎの(レディネス)を迎える。

●強化の原理

 今さら言うまでもないが、子どもが文字らしきものを書いて、「見て!」「見て!」と言ってきた
ら、親は、それを心底、喜んでみせる。ほめる。その様子に励まされて、さらに子どもは文字へ
の関心を深める。

 これを「内発的動機づけ」と呼ぶ。(これに対して、賞罰などを与えて、子どもに動機づけをす
ることを、「外発的動機づけ」と呼ぶ。)言葉はともかくも、それが子ども自身を伸ばす、(強化
の原理)として働く。わかりやすく言えば、子どもの中に、前向きな姿勢が生まれる。

この段階で大切なことは、子どもに「文字を書く喜び」を教えること。形ではなく、中身を大切に
すること。

 文字を覚えたての子どもは、文字を下から上に向かって書いたりする。文そのものを、下か
ら上に書く子どももいる。逆さ文字、鏡文字は、この時期、当たり前。もちろん書き順は、めち
ゃめちゃ。 

さらに、たとえば年長児に、「昨日」と書かせると、「きのお」「きお」「きの」とか書く。「きのう」と
正しく(?)書ける子どもは、30%前後である(筆者経験)。が、だからといって、「きのお」をま
ちがっていると指摘する必要はない。

 文字を読んで、それで意味が通ずればよしとする。こうしたおおらかさが、子どもの文字への
関心を、さらに加速させる。

●型にこだわる日本人

 が、こうした自然発生的な学習能力に対して、異論を唱える人も多い。「書き順は、最初から
しっかりと教えた方がいい」「まちがって覚えると、あとで直すのがたいへん」と。

 そういう話を聞くたびに、私は、「どうして日本人は、こうまで型にこだわるのか?」と思う。言
うまでもなく、文字の使命は、こちらの意思や考えを相手に伝えること。それに始まって、それ
に終わる。アメリカでも、オーストラリアでも、つづりのまちがいについては、実におおらかであ
る。文法にしても、そうである。書き順などといったものすら、ない。

 それをトメだの、ハネだの、ハライだの……。さらに画数だの、書き順だの……。復古主義者
の人たちは、こういうとき必ず、こう言う。「日本語の美しさを守るため」と。

 が、そんなことばかりしているから、子どもはやる気をなくす。文字に嫌悪感を覚えるようにな
る。ついでに、作文嫌いになる。ものごとには、「ほどほど」というものがある。少なくとも、トメ、
ハネ、ハライくらいは、もう廃止にしたらよい。毛筆時代は、とっくの昔に終わった!

 が、「それでも……?」という人がいたら、こう覚えておけばよい。

 「テーマはひとつ」と。文字の形や書き順や気になったら、それはそれとして、また別の機会
に教えればよい、と。子どもの機嫌がよさそうなときを見はからって、「この字は、こう書くといい
よ」などと言って、教える。

●内発的動機づけ

 幼児教育とは何かと聞かれたら、答はひとつ。つまり、「方向性をつくること」。

 文字学習を例にあげるなら、「文字は楽しい」「おもしろい」「文字が書けると、本が読めるよう
になる」「文字で、相手を動かすことができるようになる」という喜びを、子どもの中で、目覚めさ
せること。

 子ども自身の内部で起きる動機づけという意味で、「内発的動機づけ」という。こうした無数の
動機づけを重ねることによって、やがて子どもは子ども自身がもつ力で、前向きに伸びていく。
あとは、子ども自身に任せればよい。

 子どもが「見て!」「見て!」と言ってきたら、すかさず、それを喜び、「あら、じょうずに書ける
ようになったわね」とほめて見せる。喜んでみせる。

 私も、子どもたちが字を書いたら、その懸命さをほめるという意味をこめて、こう言うようにし
ている。「おや、じょうずだねえ」「この前より、またじょうずに書けるようになったね」と。たとえグ
ニャグニャの文字であっても、そう言う。

 余談だが、中には、それを喜ばない親、とくに祖父母がいる。ときどき、今でも電話で、こう言
って抗議してくる。「先生は、どうしてああいういいかげんな丸をつけるのですか?」と。「林(=
私)の教え方は、おおざっぱ」という批評が、父母の間でも、定着している。

 文字学習というと、トメ、ハネ、ハライをきちんと教え、ついでに書き順を教えるものだと思っ
ている。

●才能

 子どもには、その段階ごとに、「適切な時期」というものがある。その時期の前に、あれこれ
無理をしても、あまり意味はない。一方、その時期を過ぎてしまうと、学習の機会を失うというこ
とも、これまた、よくある。

 よく例に出されるのは、たとえばピアノやバイオリンのレッスンである。

 その時期がくれば、だれでも、ピアノやバイオリンを弾けるようになるわけではない。その時
期については、いろいろな説があるが、かなり早い時期から、少しずつ教えたほうがよいと主
張する人もいる。興味づけや、動機づけについては、0歳からでもよいと説く人もいる。

 しかしその時期を過ぎてしまうと、学習そのものが、不可能になる。不可能ではなくても、学習
するのに、たいへんな努力とエネルギーを必要とするようになる。ことピアノやバイオリンのレ
スンということになると、小学校へ入学したあとからでは、遅い。

 さらに子ども自身の(才能)の問題もある。たとえばあのベートベンは、息子を作曲家にしよう
と、かなりの努力する。しかし息子自身は、音楽に対してほとんど才能を示すことはなかった。
反対に、音楽に対して拒否反応すら示すようになってしまった。

 子ども自身がもつ方向性、(それについても遺伝的要素があると説く学者もいるが)、それを
見誤ると、「労多くして、効少なし」ということになりかねない。

●方向づけ

 幼児教育は、早期教育のことをいうのではない。先取り教育のことでもない。さらに言えば、
小学校へ入るための、準備教育でもない。

 幼児は、幼児期にしておかねばならないことが、山のようにある。(その多くは、親の側で、し
ておかねばならないことだが……。)それが幼児教育ということになる。

 愚かな人は、(親が教えるのは構わないが……)、かけ算の九九を、幼児に暗記させてい
る。泣いていやがる子どもを正座させて、書道の練習をさせている。さらに小学校の入試問題
を解かせたりしている。

 今、年中児で、「文字を書いてみようね」と声をかけただけで、涙ぐむ子どもは、10人のうち、
2〜3人はいる。体がこわばってしまう子どもとなると、4〜5人はいる。家庭での、(あるいは外
部のおけいこ塾での)、無理な学習が、子どもをして、そういう症状を示させる。

 そういう子どもが、そのあとどうなるか? 今さら、ここに書くまでもない。

 つまり、その反対のことをするのが、幼児教育ということになる。わかりやすく言えば、子ども
自身の中に、(方向づけ)をつくる。それが幼児教育ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 幼児
教育論 レディネス 動機づけ 外発的動機づけ 内発的動機づけ)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●思考の範囲(2)

++++++++++++++++++++++

少し前、「論理」というテーマで、エッセーを
書いた。

その中で、論理的に照合する幅の広い人を、
思考力のある人という、反対に、その
幅の狭い人を、思考力のない人という、
……と書いた。

まちがってはいないと思うが、もう少し
視点を変えて、考えてみたい。

たとえばこんな話はどうだろう。

A:目の見えない人が、新しい眼がねを買い
ました。その眼がねをかけて、新聞を読みました。

この話を聞けば、ほとんどの人は、「おかしい」と
思う。「目の見えない人」という部分と、
「眼がねをかけて、新聞を読んだ」という
部分が、矛盾するからである。

が、つぎの話はどうだろう。何かのトンチの本に
出ていた話である。子どもたちから聞いた。

B:ナポレオンがある日、部下の兵士たちに
命令した。部下の兵士たちは、ナポレオンの
声がよく聞こえるところにいた。
が、いくらナポレオンが、「進め!」「進め!」と
命令をしても、部下たちは、ポカンとしている
だけで、だれもナポレオンの命令には従わなかった。
なぜだろう。

この話を聞いた人は、いろいろに考える。
「部下たちは耳が聞こえなかった」
「部下たちは、どこかに閉じ込められていて、
前に進むことができなかった」など。

正解は(?)、「だれも、『進め』という日本語を
理解できなかったから」だ、そうだ。部下に命令する
なら、フランス語で言わなければならない。

つまりAの話を聞いたときには、狭い(範囲)で、
論理的にその矛盾を知ることができる。が、Bの
話を聞いたときには、(範囲)をより広くしなければ
論理的にその矛盾を知ることができない。

同じように「私」を包む問題を考えてみよう。

自分のことしか考えない人を、自己愛者という。
そこを原点とするなら、その範囲を広げることで、
人は、より利他的になることができる。

さらにその範囲が広くなると、人生全体、
人類全体、生命全体、さらには地球全体へと、
その範囲を広げていくことができる。

「人は、何のために生きているのか」
「命とは何か」
「地球環境を守るためには、どうしたらいいか」と。

が、考えれば考えるほど、そこに壁(かべ)
があることを知る。

つまり(範囲)が、広がれば広がるほど、
そこに(限界)があることを知る。

もちろんその(限界)には、個人差がある。
「太陽は神だ」というレベルで、思考を停止して
しまう人がいる。その一方で、話を広げて、
宇宙論にまで思考を拡大する人もいる。

同じように、「老後は楽隠居」というレベルで、思考を
停止してしまう人がいる。その一方で、人生のあり方を、
死ぬまで追求する人もいる。

そこで重要なことは、その(限界)を、自らの努力
によって、より高次なものに、引きあげなければ
ならないということ。

つまりそれを決めるのが、思考力ということになる。

話がこみいったが、(限界を知る)→(思考によって
限界を破る)→(新しい限界を知る)を繰りかえす
ところに、思考する意味がある。

もう一度、数日前に書いたエッセーを読みなおし
てみる。

++++++++++++++++++

●論理

 論理とは何か? 簡単に言えば、証明された事実だけを組みあげて、ものごとに一定の結論
を与えることをいう。日本語大辞典(講談社)には、つぎのようにある。

 「(1)思考や議論の道筋。(2)法則的にものごとが、関連していること。(3)推論の運び方」
と。

 その論理は、思考力によって成り立つ。が、では、その思考力とは何かというと、これまた、
よくわからない。あるいは反対に、その人の思考力は、何によって決まるのか?

 たとえば……。

 今朝、こんな夢を見た。インドのどこかを、旅行している夢だった。枯れた大地が、広がって
いた。遠くに丘が見えて、岩山をくりぬいた寺院が、そこにあった。私たちは汽車か何かに乗っ
ていた。

 だれかが言った。「こんなところで、のんびりと暮らしてみたい」と。すると、べつのだれかが言
った。「こんなところに住んでも、しかたないよ」と。私はそんな会話を、ぼんやりと聞いていた。

 列車はやがて、長野県か群馬県へと入ってきた。今度は、緑の山々が、眼下に見えてきた。
ところどころに、澄んだ水が流れる川が見えた。窓の少ない列車で、後部、半分ほどが倉庫の
ようになっていた。客は、私たちだけだった。つまり5〜6人の、ツアー客だけだった。

 先ほどまでいっしょにいた外人の客たちは、川で泳ぐため、みな列車をおりた。私たちは、そ
のまま旅をつづけた。列車は、飛行機のように高いところを走っていた。が、やがて、小さな駅
に着いた。

 時刻表を見ると、1時間に1本くらいしか、発着がない。1日を通しても、5、6本。見ると駅前
には、小さな店がいっぱい並んでいた。駅の名前は、「浜松」。私はそれを見て、「ああ、昔は、
浜松駅も小さかったんだな」と思った。

 ……という、何とも意味のわからない夢だった。が、夢を見ているときというのは、(論理)が
機能しない。そのつど、その直前のことを忘れている。夢の内容そのものが、記憶されていか
ないため、そうなるらしい。いや、記憶(=記銘)はされているのだろうが、(現に、今、こうして
夢の内容を覚えているのだから……)、想起されないまま、つぎのシーンへと移る。

 だから矛盾を、矛盾と判断することもできない。インドから突然、長野県へ。そして突然、現在
から過去へ……。夢の途中で、「おかしいぞ、たった今、インドにいたはずだ」「列車に乗ってい
るはずなのに、どうして空を飛んでいるのか?」「いつの間にか、過去にタイプスリップしてしま
ったぞ」などというようなことは、考えない。

 そこで思考力。私が今朝見た夢を例にあげると、思考力というのは、そのつど(今)から(過
去)(未来)へと、脳に飛来した信号を、照合する力ということになる。その時点で、矛盾を覚え
れば、修正、訂正する。つまりそれが思考力ということになる。

 夢の中では、その(照合する力)が機能しない。だから矛盾だらけの夢を見ながらも、それを
矛盾と感じない。つまり思考力、ゼロ。

 反対に、その照合する範囲の広い人を、思考力のある人ということになる。ここで「範囲」とい
う言葉を使ったが、照合する力は、その「範囲」で決まる。このことは、子どもの世界を見てい
ると、よくわかる。

 こんな話を、幼児(年長児)クラスでしてみる。

 「おばあさんが、杖をついて、歩いていました。右手には、カバンをもち、左手には、日傘をも
っていました」と。

 この話をしたとき、すかさず、「おかしい!」と叫ぶ子どもがいる。そうでない子どももいる。
「おかしい!」と叫ぶ子どもは、その話の最初から最後まで、つまり広い範囲で、私の話を聞い
ていたことになる。

 一方、そうでない子どもは、私の話を聞きながらも、そのつど、その部分(=狭い範囲)でしか
ものを聞いていない。だからこういう話を聞いても、矛盾を感じない。

 で、その範囲は、人それぞれ。範囲の広い人もいれば、そうでない人もいる。さらにいくら思
考力のある人でも、そこには限界がある。もちろん今の私にも、ある。こうして思考力について
書きながらも、今の私がわかるのは、ここまで。

 このあたりまでくると、その先が、薄いモヤに包まれているのがわかる。

 「思考力と論理を、同じに考えていいのか?」「では思考力というのは、記憶力によって決まる
のか?」「どうすれば範囲を広げることができるのか?」「論理というテーマで書いているのに、
いつの間にか、思考力の話になってしまった。これでは、インドから長野県へ列車が飛んだ、
夢の内容と同じではないか?」「論理と思考力は、どうちがうのか?」と。

 ただ、こういうことは言える。

 大切なのは、問題意識である。かりにここに書いたことがまちがっているとしても、気にするこ
とはない。あとで訂正すればよい。大切なことは、「問いつづけること」(アインシュタイン)。その
姿勢だけは、大切に。

 それがその人の「範囲」を広くする。

++++++++++++++++++

話をもどす。

思考によって、思考の限界を知るということは、
恐らく人間がもつ認知力の中でも、最高度の
ものではないか。

人間というより、その人個人の問題と考えてもよい。
このことも子どもたちの世界を見れば、わかる。

ある男の子(小5)が、数日前、私にこう言った。
「先生(=私)は、ぼくたちの言うことを、何でも
頭から否定する」と。

そこで私が、「たとえばどんなことで?」と聞くと、
「血液型でも、先生は否定した」と。

少し前、「血液型による性格判断は、インチキだ」と
言った。それに対して、子どもたちは、「インチ
キではない」「当たっている」と、反論した。

子どもたちには、子どもたちの(限界)がある。
子どもたちは、「血液型と性格は関係がある」と
信じている。また信じるに足りる根拠(?)を
もっている。

が、そこまで。私がそれを否定したから、子ども
たちは、その(範囲)で、右往左往し始めた。中に、
「先生の言っていることは、まちがっている」と
言った子どもさえ、いた。

しかしそんな子どもたちに、血液型の話をしても
理解できないだろう。性格の話をしても理解でき
ないだろう。第一、性格というのが、どういうもの
かさえわかっていない。

子どもたちは、自分の限界すら知らない。それに
気づいてもいない。どこに限界があるかさえも、
知らないのだ。

が、それはそっくりそのまま、私自身についても
言える。

私は、「正しい」と思っていることを、こうして
文にしている。が、その私が、どこに限界がるかを
知っているかと問われれば、答は、NO!

レベルこそちがえ、私のしていることは、子どもた
ちがしていることと、それほど、ちがわない。

が、もしほんの少しでも、子どもたちに思考力が
あったら、どうだろう。子どもたちは、少しは
私の話に、謙虚に耳を傾けたかもしれない。そして
私の話を参考に、血液型による性格判定がもつ
矛盾に気がついたかもしれない。

つまりこの私にしても、さらなる思考力があれば、
自分の限界を知り、それを打ち破ることができる。

ずいぶんと混みいった話になってしまったが、
要するに、(1)自分の限界を知ることは、
むずかしい。(2)その限界を超えることを、
思考という。(3)また思考によってのみ、
その限界を超えることができる、(4)また
それができる人を、思考力のある人ということ。

(補記)

たとえば数学の問題でも、定理と公式を使って、
(解ける問題)を解くのは、それほど難しいこと
ではない。訓練を重ねれば、かなりのところまで、
だれにでもできるようになる。

しかし自分で定理や公式を発見しながら、(解ける
か解けないかわからない問題)を、解けないと
証明するのは、むずかしい。(もちろん解ければ、
それはそれでよし。)

解けない世界があることを知ることが、(限界)という
ことになる。

(補記2)

思考こそが、人間を高める唯一の方法である。
また思考するからこそ、人間は人間なのである。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2235)

●糸の切れた凧(たこ)

+++++++++++++

ただ勉強さえできれば、それで
いいと考えている親は、多い。

若い親たちは、ほとんどが、みな、
そうではないか。

しかし指針のない教育ほど、
恐ろしいものはない。それは
たとえて言うなら、糸の切れた
凧のようなもの。

風が吹くのに任せて、右往左往する
だけ。

やがて子どもは、ダメ人間に……。
親は親で、深い、絶望の谷底に
……。

+++++++++++++

 もう20年以上も前のこと。あるとき1人の母親が私のところへきて、こう相談した。「うちの息
子(5歳男児)が通っている英語教室の先生は、アイルランド人です。アイルランドなまりの、へ
んな発音が身につくのではないかと、心配です」「だからどうしたらいいでしょうか」と。

 この話は、ほんとうにあった話である。あちこちの本や雑誌にも、紹介させてもらった。

 たしかにアイルランド人は、やや独特の英語を話す。「W」の発音を、「ウォ〜」と延ばしたりす
る。オーストラリアやアメリカには、アイルランド系の移住者も多い。

 しかしネイティブは別として、日本人で、アイルランド英語を、ほかの英語と区別できる人は、
いったい、どれだけいるだろうか? 私はその相談を受けたとき、「そんな問題ではないのだが
なア」と思った。

 その子どもには、多動性に併せて、多弁性も見られた。きびしいしつけが日常化し、それが
原因と思われるチックと吃音(どもり)も見られた。幼児期はともかくも、小学校へ入学したあ
と、伸び悩むことは、明白だった。が、その母親は、英語教室の先生の、なまりを気にしてい
た!

 ……というような例は、多い。子育てイコール、(子どもが勉強ができるようにすること)と考え
ている。もっとはっきり言えば、進学競争のため。ほとんどの親は、「うちの子は、やればできる
はず」「うちの子にかぎって、今より悪くなるはずはない」と信じている。つまり、前しか見ない。
上しか見ない。

 が、子どもの世界には、うしろもある。下もある。幼児期の、あの穏やかさ、すなおさが、いつ
までもつづくと考えるのは、幻想以外の何ものでもない。やがてつぎつぎと問題が起こり、それ
が怒濤のように親を襲う。

 それには、理由がある。

 親の欲望には、際限がない。少し子どもができるようになると、「もっと」「もっと」と言って、子
どもを追いまくる。が、子どもとて、1人の人間。やがてその限界にやってくる。よく家庭内暴力
が問題になるが、子どもが暴力をふるうのは、何も、家庭だけではない。学校という場で、教師
に向かって暴力をふるう子どもが、近年、急速にふえている。

 いつだったか、私は『子どもの心は風船玉』という格言を考えた。学校でしめつけられた子ど
もは、家庭で荒れる。反対に、家庭でしめつけられた子どもは、学校で荒れる。

 ふつうの荒れ方ではない。「テメエ、この野郎!」と言って、本気で足蹴りを入れてくる。本気
だ。しかも高校生や中学生ではない。まだあどけなさの残る、小学生。それも、小学3、4年
生。たいていは、女児である。

 が、親というのは、悲しい。子どもがそういう状態になっても、気がつかない。気がつかないフ
リをする。私がそれとなく指摘しても、「まさか……」「そんなはずは……」と、それを否定してし
まう。ことの深刻さが、理解できていない。

 この時点で、子どもの心は、粉々に破壊されている。やさしい心は消え、心は、とげとげしくな
る。ささいなことでキレやすくなり、暴れる。「勉強どころの話ではないのだが……」と私は思う
のだが、親は親で、拍車をかけて、子どもの受験競争に狂奔する。症状も、この程度ですめ
ば、まだよいほう。さらに心をゆがめれば、行き着く先は、不登校、家庭内暴力、陰湿ないじめ
などなど。

 ……というような、その親子の未来像が、私には、手に取るようにわかる。40年近くも幼児を
見ていると、それがわかるようになる。が、それを口に出すことは、タブー。わかっていても、今
度は、私の方が知らぬフリをする。冷酷なようだが、その人の子育てには、その人すべての哲
学や人生観が集約されている。さらに、その人自身の過去が集約されている。

 仮に問題があったとしても、親自身がそれに気がつくのは、むずかしい。心理学の世界に
も、「メタ認知」という言葉がある。自分自身の思考プロセスを、意識化することをいう。人間が
もつ意識の中でも、最高度の意識といってもよい。

 「なぜ私は、子どもの受験競争に狂奔するのか」と。それが自分でわかる親は、まずいない。
どの親も、もっと深い部分からの命令によって、動かされているだけ。それを認知する力が、
「メタ認知」ということになる。

 私はその母親と別れるとき、「道は遠いだろうな」と思った。その母親が、自分の愚かさ(失
礼!)に気がつくことはあるのだろうかとさえ、思った。と、同時に、そのときほど、やる気をなく
したことはない。おかしな無力感だけが、いつまでも残ったのだけは、今でもよく覚えている。

 学生時代、私のガールフレンドは、そのアイルランド移民だった。若くして白血病でなくなって
しまった。今でもアイルランド英語を耳にするたびに、切ない思いにかられる。これは余談だが
……。

(補記)【メタ認知】

 医学の世界にも、「病識」という言葉がある。精神疾患を病んだような人が、「自分はおかし
い」と認識することを、病識という。

 この病識がある、なしで、精神疾患の重大さを判断することができるという。「私はおかしい」
「私は狂っている」と、認識できる病人は、まだ症状が軽いという。

 しかし病状が進むと、それすら、わからなくなる。「私はどこもおかしくない」「私の精神状態は
健康だ」とがんばる病人ほど、症状が重いという。

 自分で自分の(おかしさ)に気づくことは、それほどまでに、むずかしい。同じように、自分の
思考プロセスを、意識化することは、むずかしい。たとえばDV(家庭内暴力)がある。たいてい
は夫が妻に暴力をふるうケースだが、なぜ暴力をふるうのか。その思考プロセスを、夫自身が
気がつくのは、むずかしい。

 とくに心のキズというのは、そういうもの。無意識の世界から、その人を操(あやつ)り人形の
ように、操る。夫自身も、幼少時代、親に虐待されていたかもしれない。

 わかりやすく言えば、哲学の世界で、「今の自分を知る」ということが、心理学の世界では、
「メタ認知」ということになる。

 まず手始めに、「なぜ、私はこうまで、子どもの受験競争にカリカリするのか」と、自問してみ
るとよい。そこからメタ認知は、始まる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 メタ認
知 思考過程 思考プロセス 無意識下の意識)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●自分を知る

++++++++++++

ほとんどの人は、「私のことは
私がいちばんよく知っている」
と思っている。

しかしその実、自分のことは、
まったくわかっていない。そう、
自分で思いこんでいるだけ。

よい例が、「病識」。「私は病気で
ある」という意識があることを、
病識という。

精神疾患の世界でも、この病識
のあるなしで、病気の軽重が
決まるという。

同じように、心理学の世界には、
「メタ認知」という言葉がある。
自分の思考プロセスを客観的に
知り、それを意識化することをいう。

「なぜ、私はこう考えるのか」と。
考えている内容ではない。なぜ、
そのように考えるか、そのプロセスを
意識化することをいう。

さらに哲学の世界では、「汝自身を
知れ」が、究極の目標になっている。

精神医学、心理学、そして哲学の
世界で、それぞれ言っていることは、
みな、同じ。

つまり、「私を知ること」は、それほど
までにむずかしい。

……それでもあなたは、「私のことは
私がいちばんよく知っている」と、
言い張ることができるだろうか?

+++++++++++++

 たとえば若い女性が、胸や太ももをあらわにした服を着たとする。その女性にしてみれば、そ
れが流行であり、そのほうが自分に似合うと思うから、そうする。

 そこでさらに、店にでかけ、あれこれ迷いながら、自分に合った(?)服を買おうとする。そうい
う女性に向かって、「どうしてそういう服を買うのですか」と質問しても、意味はない。その女性
はその女性なりに、懸命に考えながら、色やデザインを選んでいる。

 が、もしその女性が、こう考えたらどうだろうか。

 「私はフロイトが説いたところの、イド、つまり性的エネルギーに支配されているだけ」と。

 そう、その女性は、無意識の世界からの命令によって動かされているだけ。そしてその命令
は、種の保存本能に根ざしている。胸や太ももをあらわにするのも、結局は、(男)という異性
をを意識しているからにほかならない。が、もちろんその女性には、その意識はない。

私「男を意識するから、そういう服を着るの?」
女「男なんて、関係ないわよ。ファッションよ」
私「ファッションって?」
女「自分に似合った服を選んで、身につけることよ」と。

 つまり精神疾患でいうところの「病識」が、その女性には、まったくないということになる。「私
は正常だ」「ふつうだ」と思いこんでいる。しかし若い男性にとっては、そうではない。あらわにな
った胸や太ももを見ただけで、性的な情欲にかられる。女性には、その意識はなくても、男性
は、そうなる。

 「どんな服装をしようとも、女性の勝手」というわけにはいかない。

 もっとも、その女性が、性的エネルギーにすべて支配されていると考えるのも、まちがいであ
る。動機の原点に、性的エネルギーがあるとしても、そこから先は、(美の追求)ということにな
る。ファッションショーに、その例を見るまでもない。

 しかしそのつど、もし私たちが、自分の思考プロセスを、客観的に認知することができるよう
になったら、またそういう習慣を身につけることができたら、自分の見方が大きく変わるかもし
れない。それを心理学の世界では、「メタ(高次)認知」という。

 たとえばこの私。毎日、ヒマさえあれば、こうしてパソコンのキーボードをたたいている。実際
には楽しいから、そうしている。頭の中の未知の世界を探索するのは、ほんとうに楽しい。毎
日、何か、新しいことを発見することができる。

 が、なぜ、そうするかというと、そこからが、「メタ認知」の領域ということになる。哲学の世界
でいう、「私自身を、知る」という世界ということになる。

 基本的には、大きな欲求不満があるのかもしれない。あるいは心のどこかで女性という読者
を意識しているのかもしれない。さらに言えば、(生)に対して、最後の戦いをいどんでいるのか
もしれない。フロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使ったが、弟子のユングは、「生的エネ
ルギー」という言葉を使った。

 「性」も「生」の一部と考えるなら、私は、今の自分が、その生的エネルギーによって支配され
ているということになる。

 その生的エネルギーが姿を変えて、私を動かしている。それを知るということが、つまりは、メ
タ認知ということになる。「私自身を知る」ということになる。

(補記)

 子どもの世界をながめていると、メタ認知というものが、どういうものか、よくわかる。

 たとえば心理学の世界にも、「防衛機制」という言葉がある。自我が危機的な状況に置かれ
ると、子どもは、(おとなもそうだが)、その崩壊を防ぐために、さまざまな行動に出ることが知ら
れている。

 たとえば学習面では目立たない子どもが、スポーツ面でがんばるなど。非行や暴力、つっぱ
りも、その一部として理解されている。

 が、当の本人たちには、その意識はない。「私は私」と思って、(思いこんで)、そういう行動を
繰りかえす。

 相手は子どもだから、ここでいうメタ認知を求めても、意味はない。心を知り尽くした心理学
者でもむずかしい。あのソクラテスですら、「汝自身を知れ」という言葉にぶつかってはじめて、
「無知の知」という言葉を導いた。

 しかしメタ認知は、同時に、他人をよく知る手助けにもなる。

 出世主義に邁進する人も、金儲けに血眼になっている人も、あるいはスポーツの世界で華々
しい成果をあげている人も、心のどこかで、何かによって動かされている。それが手に取るよう
に、よくわかるようになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 メタ認
知 認識 病識 汝自身を知れ 汝自身を、知れ)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(10月8日)

++++++++++++

たった今、ものすごい雨が
降った。大屋根の雨樋(どい)から
雨があふれ出るほどだった。

それを見てワイフが、「樋が
詰まっているのね。今度晴れたら、
ゴミを取り除くわ」と。

私は階下から棒をもってきて、
それを下からつついてみた。

そのつど、ザザー、ザザーと、
雨がこぼれた。

++++++++++++

●HDのコピー

 昨日、再々度、HD(ハードディスク)のコピーを試みた。使ったソフトは、「コピーコマンダー
9」。ビスタ対応版となっていたが、実際には、うまくできなかった。

 悪戦苦闘すること、3時間。途中で、メーカーのHPをのぞくと、UPDATE情報があることを知
った。それをダウンロードして、さらに挑戦してみた。が、やっぱり、だめだった。

 ワイフが途中でお茶をもってきて、「(5000円が)無駄になったわね」と言った。

 コピーコマンダーのUPDATE版は、4850円だった。ワイフはそれを言った。

私「ちがうよ。5000円で、3時間も楽しめれば、じゅうぶん」
ワ「でも、HDのコピーは、できなかったのでしょ?」
私「でも、楽しかった。それでじゅうぶん」と。

 パソコン相手に何か作業をしていると、何とも言えない緊張感を覚える。その緊張感が楽し
い。もちろん、備えはじゅうぶん。重要なファイルは、別の外付けHDや、DVDに保存してある。
さらにインターディスク(インターネット上の仮想HD)にも、保存してある。万が一、パソコンがク
ラッシュしても、被害はない。

 その上で、パソコンをいじる。それが楽しい。「5000円で、3時間も楽しめれば、安い」という
のは、そういう意味。が、もちろんあきらめたわけではない。これからメーカーにメールを送信
するつもり。

+++++++++++++

(株)Lボード、Eーmailサポート御中
 
前略、失礼します。

2年ほど前に、貴社のコピーコマンダー8を購入しました。製品番号は(PC801xxxxxx)です。
当時、XP搭載のパソコンのHD交換時に、使用させていただきました。

で、今回、VISTA搭載パソコンに乗り換え、予備のため、「ハードディスク・コピー」を試みまし
たが、初期設定のところで、作業が中断してしまいました。

そこで……。

(1)コピーコマンダー8のUPDATE版の、コピーコマンダー9を、昨日(10月7日)に購入して
きました。製品番号は、(PC912xxxxxxxx)です。ユーザー登録は、コピーコマンダー8をイン
ストールするとき、すんでいるはずです。

(2)で、作業を開始しました。が、何度しても、「パーティション試用中のため、操作を完了でき
ません」(コピーコマンダー9・小冊子P42)と表示されてしまいます。

(3)そこで指示に従って、(再起動して実行する)をクリックすると、再起動をして、ブルースクリ
ーンモードになり、途中までは、作業が進みます。が、そこでまたストップ。実際には「スクリプト
実行」までは終わりますが、その先の、サブ操作の進行までは進みません。

(4)貴社のHPをのぞいてみると、コピーコマンダー・VISTA対応のUPDATE情報があること
を知り、指示どおりに、一度、コピーコマンダー9を削除したあと、UPDATE情報を、ダウンロ
ードして、インストールしなおしてみました。現在は、そのダウンロード版が、パソコン上に載っ
ています。

(5)が、結果は、同じ。スクリプト実行が終わると、「OSが、使用中のため、……修正してくださ
い」というような表示が出て、そこで作業がSTOPしてしまいます。


 そこで質問は、

(1)作業中断の原因は、どこにあるかということ。
(2)この問題を解決するためには、どうすればよいかということ。
(3)「OSが、使用中のため……修正してください」というのは、どういう意味かということ。
(4)どこをどのように修正すればよいかということ。

 目的は、ハードディスク(C)のコピー版を、万が一のために、残すことです。現在のハードディ
スクがクラッシュしたら、それと取り替えるためです。

以上です。どうか、よろしくお教えください。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●カクテルパーティ効果

+++++++++++++

人間の耳というのは、騒音の
中でも、自分にとって必要な
音だけを選り分け、それを聞く
ことができるという。

たとえばカクテルパーティの
ような騒々しい席でも、その
ほかの人たちの声を無視して、
相手と会話をつづけることが
できる。

これを、「カクテルパーティ効果」
という。

しかし……。

+++++++++++++

 私の左耳は、まったくといってよいほど、聴力を失っている。30代のある日、突発性何とかと
いう病気になった。焼けるような痛みを、1〜2日間覚えたあと、聴力を失った。たぶん、耳と脳
をつなぐ神経が、それで焼き切れてしまったのだろう。

 以来、右耳とは、じょうずにつきあっている。が、いろいろと問題がある。

 子どもの声が聞こえたとする。しかし私のような人間には、その方向がわからない。どちらか
らその声が聞こえてくるのか、それがわからない。そういうときは、口が動いている子どものほ
うを見る。そしてその子どもが、話をしているのを知る。

 が、さらに深刻な問題がある。

 音は一方向からしか聞こえてこない。だから、耳の中で、音を区別することができない。たと
えば何かの講演会場で、子どもたちが騒いだとする。すると、ふつうの人なら、子どもたちの騒
いでいる音は脳の中に入る前に、シャットアウトすることができる。これを「カクテルパーティ効
果」という。が、私には、それができない。講演者の声も、騒音も、同じように耳の中に入ってく
る。

 だから私の教室でも、参観の親たちが何かを話していると、それが気になってしかたない。子
どもの声と親の声が混ざったまま、私の耳の中に入ってくる。だから教室では、親たちの私語
は絶対、禁止。……というふうにしている。

 で、クテルパーティ効果は、しかし、何も、耳だけの話ではない。視覚にもある。さらに、思考
の世界にもある。

 人間は、自分にとって心地よい響きのあるものだけを、無意識のうちにも選択しながら、見た
り聞いたりしている。考えたりしている。

 たとえば今、私は、K国問題、朝鮮半島問題について、あまり考えたくない。この問題は、私
が少しくらいものを書いてどうかなるというレベルを、すでに超えてしまっている。少し前、「打つ
手なし」と書いたが、そのとおり。考えれば考えるほど、敗北感のみが、心をふさぐ。

 ますます強硬になるアメリカ。今朝の新聞でも、「米軍基地に、もっと金を出せ」という内容の
記事が載っていた。本来なら、その数字をあげ、その正当性をここで考えなければならない。し
かし、今は、その気力も、消えかかっている。

 アメリカは、この先、さらに無理難題を、日本にふっかけてくるだろう。大臣や庁官たちの失
言につづく、失言。アメリカは「日本に裏切られた」と騒いでいる。が、日本人には、その意識は
ない。アメリカがなぜそう言うのか、それさえ理解できない。意識のちがいというのは、恐ろし
い。

 日米関係は、2007年の春を境にして、大きく変わった。あとはなるようにしか、ならない。

 つまり今の私は、無意識のうちにも、考えるテーマを選んでいる。これもカクテルパーティ効
果の一つといえば、その一つということになる。(あるいは「逆カクテルパーティ効果」?)


●人工衛星『かぐや』

 ところで楽しい話。

 今、日本が打ち上げた月探査機が、月への軌道に乗り、月に向かっている。アポロ以来、最
大の月探査プロジェクトだという。

 しかしこの計画は、ぜったいに、失敗する(?)。なぜなら、月の住人たちが、それを許さない
から……。ハハハ。

 ……という話を、昨夜、ワイフとした。

私「あのね、月に住む宇宙人たちが、今度の計画を妨害すると思うよ」
ワ「そうね。自分たちの世界が知られると、困るからね」
私「そうさ。あるいはアメリカあたりから、妨害が入るかもしれない」
ワ「それも考えられるわね」と。

 あの月は、ただの月ではない。何かが住んでいる。人間とは別の、知的生命体(ET)が住ん
でいる。それを宇宙人というのなら、宇宙人と呼んでもよい。

 私は、そう思っている。

 もし今回の探査計画が、すんなりとうまく行けば、その宇宙人はいないということになる。しか
し、そんなはずはない。衛星『かぐや』から送られてくる映像を見ながら、地上の科学者は、一
秒ごとに、度肝を抜かれるにちがいない。

 楽しみだ。

 日本は何もアメリカに遠慮する必要はない。月での(事実=写真)は、どんどんと公表してほ
しい。

さあ、宇宙人でも何でも、ござれ!


●メタ認知(追記)

 今日、ドライブしながら、ワイフに、メタ認知の説明をした。ワイフは、たいへん興味深そうに、
私の話を聞いてくれた。

 メタ認知……わかりやすく言えば、自分の思考プロセスを、客観的に意識化することをいう。
私が、「人間が知覚する意識の中でも、最高度のものだよ」と説明すると、「ふ〜ん」と。

私「なぜ、自分がそのように行動し、考えるかという、そのプロセスを知ることだよ」
ワ「それがわかったからといって、どうなの?」
私「自分で、自分をコントロールすることができるようになる」
ワ「そうねえ。自分がなぜ、そのように行動し、考えるかがわかれば、自分で自分をコントロー
ルするのは、簡単ね」
私「そうなんだよ」と。

 私が、なぜ、こうして毎日文を書いているかと言えば、その原点に、(生)があるからである。
その(生)を確認するために、文を書いている。それはまさしく、(生との闘い)と言ってもよい。
そういうプロセスを知ることが、メタ認知ということになる。それを話しているとき、若い男が運
転する、ランドクルーザーとすれちがった。横には、若い女性が、乗っていた。

私「ほら、あの男。自分では、自分で考えてあの車を買ったつもりでいる。しかし実際には、自
分の力不足を、ごまかすために、あの車を買ったのかもしれない。ランクルに乗っているだけ
で、大物になったような気分になれる」
ワ「でも、本人は、それには気づいていないわね」
私「気づいていない。自分の中の、奥深くに潜む意識によって、操られている。おそらく説明し
ても、あの男性には、理解できないだろうね」と。

 その男性は、(生的エネルギー)(ユング)というよりは、(性的エネルギー)(フロイト)のほう
に、強く操られていたかもしれない。常識で考えれば、あれほどまでに若い男が、600〜800
万円もするような高級車に乗れることのほうが、おかしい。

 言いかえると、性的エネルギーは、それほどまでに強力ということ。が、それはそのまま私た
ち自身の問題ということになる。

 私たちは、今、なぜ、今のような行動をし、今のように考えるか。行動の内容や、考えの内容
は、どうでもよい。問題は、なぜそのような行動をし、考えるかを知る。それがメタ認知というこ
とになる。

私「もし精神疾患をもった人が、自分を客観的にメタ認知できるようになったら、自分で自分の
病気を克服できるようになるかもしれないね」
ワ「すごいことね」
私「そう、すごいことだ。が、重度の患者ほど、『私は正常だ』『どこも悪くない』と言ってがんば
る。つまりメタ認知ができないということになる」と。

 こんな例が適切かどうかは、知らない。が、こんなこともある。

 空腹になってくると、血糖値がさがってくる。同時に脳間伝達物質が、減少してくる。すると、
精神的に不安定になる。人によっては、怒りっぽくなったり、イライラしたりするようになる。

 その怒りっぽくなったり、イライラしたようなとき、自分を客観的にメタ認知できたら、どうだろ
うか。「ああ、今、怒りっぽくなっているのは、空腹のせいだ」と。それが自分でわかる。そうす
れば、自分の感情を、その時点でコントロールすることができるようになる。

 で、そのときも、そうだった。私はそれを感じたので、ワイフに、「どこかで食事しようか」と声
をかけた。ワイフは、それに快く応じてくれた。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●効果的な学習法

++++++++++++

子どもに何かを学習させるとき、
そこにはいくつかのコツがある。

その中でもとくに重要なのが、
(1)動機づけと、(2)強化の
原理である。

ほかにもいろいろある。

(1)接近の原理
(2)効果の原理
(3)練習の原理
(4)集中・分散の原理
(5)分習・全習の原理など。
(参考:「心理学の基礎」・春木豊・
有斐閣より)

++++++++++++

 入り口のところで、子どもに、何をどう興味をもたせるか。興味をもてば、そのあとの学習が、
スムーズに進む。そうでなければそうでない。その入り口での興味づけを、動機づけという。

 たとえばいきなりいくつかの形を見せ、「どの角が、いちばん小さいですか?」と聞いても、子
どもたちは、まったくといってよいほど、反応を示さない。

 そこでいろいろな角(=形)を見せ、「刺したとき、いちばん痛いのはどのれかな?」などと問
いかけてみる。とたん、子どもたちは、「Aの角が痛い」「Bの角の方が痛い」などと言い出す。
その反応を見ながら、つぎの学習へとつなげていく。

 つぎに重要なのが、強化の原理。「できた」「ほめられた」「楽しい」という思いが重なると、子
どもは前向きに、自分で伸びていく。

 基本的には、この2つを大切にする。が、ほかにもいろいろある。

(1)接近の原理
(2)効果の原理
(3)練習の原理
(4)集中・分散の原理
(5)分習・全習の原理など。

(1)接近の原理

子どもが何かよいことをしたら、あるいはそれができたら、すかさず、それを評価し、ほめる。
その間隔は狭ければ狭いほどよい。間が延びると、あるいは間をおくと、その効果は、半減す
る。


(2)効果の原理

子どもが何かをしたら、それを何かの成果(=効果)に結びつけていく。「できた」→「効果があ
った」という思いが重なると、それが条件づけになり、さらに子どもを伸ばす。

(3)練習の原理

ものごとは練習によって上達する。それは常識だが、単なる反応作業では、子どもも疲れる。
春木氏は「(練習したあと)、それが正しかったかどうか、満足をもたらすものであったかどうか
を確かめることが本質」(P112)と説明している。

(4)集中・分散の原理

集中的にしたほうが効果的なのか、それとも、休み休みしたほうが効果的なのかについては、
「分散したほうが効果的」とある。「回転盤作業で、1日15回、10日間練習したのだが、50秒
の作業の間に5〜10秒の休みしか入れなかった場合(=集中型)と、65〜70秒(の休みを)
入れた場合(=分散型)とでは、はっきりと差が表れている」(P113)と。


(5)分習・全習の原理

子どもに何かを学習させるとき、内容をいくつかに分けて学習させるばあい(=分習)と、全体
を1つの学習として学習させるばあい(=全習)については、「どちらのほうが有利とは言えず、
条件によって左右される傾向がある」(同)と。

 私はほかに、こんな経験をしている。

 学習の前に、5〜10分程度、子どもたちに遊ばせたばあいと、いきなり学習に入ったばあい
を比較してみる。遊ばせたほうが、そのあと、はるかに集中的に子どもたちが学習してくれる。

 遊ばせると、時間的には、5〜10分のロスにはなるが、そのあと子どもたちは集中的に学習
に取りくんでくれる。全体としてみると、学習量は、明らかに違う。たとえば、遊びを入れないば
あいは、プリント学習で、5枚とすると、遊びを入れたばあいには、それが7〜10枚といったふ
うになる。とくに、勉強嫌いの子どもには、この方法は、効果的である。

 そこで私の実験教室では、学習の前に遊びを入れ、それを毎週、あるいは2〜3週ごとに、
内容を入れ替えるようにしている。たまたまこの原稿を書いている今週は、広いテーブルの上
で、ドミノ倒しをしている。

 これは遊ぶことにより、子どもの中に、(ものごとに前向きに取り組む)という姿勢が生まれる
ためと考えてよい。「楽しい」という思いは、そのまま「楽しみ」につながる。また遊びといっても、
紙工作、チェス、ゲームなど、できるだけ学習的に意味のある遊びにするよう心がけている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 効果
的な学習法 接近の原理 効果の原理 連取の原理 集中 分散の原理 分習 全習の原
理)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●謎の株価

++++++++++++++

日本の株価の低迷を尻目に、
韓国の株価は、この1か月、
猛烈な勢いで上昇している。

何かが、おかしい。へん。

外資は逃げる。ウォン高は
つづく。

日系の銀行は、韓国内で
貸し出しを渋り始めている。

にもかかわらず、株価だけが
どんどんと上昇している。

なぜか?

+++++++++++++

 現在、1ドルは、914ウォン。ここ数週間、ジリジリと値をあげている。少し前には、「950ウォ
ンが防衛ライン」と言われていた。それをあっさりと割り込んで、今や914ウォン(10月8日)。
韓国の輸出企業に与える影響は、はかり知れない。

 一方、日系の銀行は、韓国内での貸し出しを渋り始めている。東亜N報は、こんな記事を紹
介している。

 「……A銀行東京支店長のBさんは最近、生きた心地がしないという。10月末に満期が来る
外貨借り入れ、1億4000万ドル(約1300億ウォン=約161億3000万円)の返済資金を、
新たに借り入れなくてはならず、頭を抱えているのだ。B支店長は、「日系銀行と接触している
が、"われわれもどうなるか分からず、貸し出しを引き締めている"という返事があるだけ」と話
した」と。

 が、株価だけは、目下、上昇中。先月、記録的な大暴落を経験したあと、日本の株価低迷を
尻目に、韓国の株価だけは、急上昇。つい先日は、2000ポイントを超えたと、国をあげて、大
騒ぎしていた。

 が、それには、こんなカラクリがあった。私の恣意(しい)を加えないためにも、そのまま紹介
する(東亜N報・07・10月8日)。

 「……今年に入って、信用供与が急増したのは、株価が上昇し、融資を受けてでも株に投資
しようとする個人が大幅に増えたためだ。 

とりわけ、株式投資を行う際、購入株式を担保に投資資金を借りる信用融資の金額は、9月
末現在、4兆3000億ウォンと、03年3月末の7倍レベルに増加した。 

株式を担保に資金を借りる預託証券担保貸出しも、04年末、初めて1兆ウォンを超えた後、
増加の一途をたどり、今年9月末には4兆8000億ウォンへに増えている。 

証券市場の専門家たちは、信用融資を受ける人の相当数が、短期差益をねらって、実績が検
証されていない企業の株式を購入しているため、株価が下落すれば、融資金返済のための投
げ売り現象も起こりかねないと懸念している。 

陳議員は、「各証券会社のアグレッシブな営業で、株式の後払い取引が大幅に増えていること
を受け、株価下落の際は、大損の口座の発生で、投資家の被害が増大しかねない」とした上
で、「当局の適切な対策が必要だ」と指摘した」。 

 わかるかな?

 韓国では個人投資家が急増し、その投資家たちが、借金に借金を重ねて、そのお金を、株
の投資に回しているというのだ。

 この日本では、「未払い取り引き」や、「あと払い取り引き」は、禁止されている。が、韓国で
は、それが堂々となされている。

そのため、「信用供与金額は、△04年末=1兆3440億ウォン、△05年末=4兆10億ウォ
ン、△06年末=4兆8388億ウォン、△07年6月末=12兆2434億ウォンなど、毎年、増加
してきたが、最近、金監院の信用融資規制のため、やや減少した」(同)とある。

 つまり「未払い取り引き」や、「あと払い取り引き」は、規制したが、株証券を担保にした(信用
融資)は、そのままつづいている、と。形こそ、ややちがうが、「未払い取り引き」や、「あと払い
取り引き」と、どこもちがわない。

 もう少し詳しく説明しよう。

 あなたが証券会社で株を買うときは、(ネット取り引きでもよいが)、現金が必要である。個人
なら、なおさらである。

 「未払い取り引き」とか、「あと払い取り引き」というのは、その現金なしで、株を購入すること
をいう。つまり先に証券会社で借金をし、その借金で株を買う。

 株価があがれば、そのままもうけになるが、さがれば、投資家というより、その被害は、証券
会社がかぶることになる。

 そこで韓国政府は、それを規制した。が、抜け道はある。

 一般(個人)投資家たちは、買った株証券を担保に、金を借りる。その金で、また株を買う。
まさにレバレッジである。

 韓国の株価が上昇しつづける理由が、これでわかった。気になるのは、「実績が検証されて
いない企業の株式を購入しているため……」(同)という部分。つまり、狂っている! 信用供与
額にしても、04年の1兆3000ウォンから、07年の6月末の、12兆2000億ウォン(=年間に
換算すると、24兆4000億ウォン)と、何と、20倍近くにまで、ふくれあがっている。

 20倍だぞ! これを「狂乱」と言わずして、何という。

 私がここに書いたことがまちがっていると思う人は、もう一度、東亜N報の記事を、じっくりと
呼んでみてほしい。あなたも背筋が、ゾッとするはず。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2236)

●眠られぬ夜

+++++++++++++

今日、夕方、1〜2時間ほど、
仮眠を取ったのが、まずかった。

いつもの時刻に床に入ったのだが、
どうしても眠られない。

しかたないので、起きあがって、
また書斎に。時刻は、午前1時!

手元にある本をながめたり、
雑誌に目を通したり……。

あくびはひっきりなしに出る……。

今日、ワイフとこんなバカ話をした。

私が、アメリカの男子トイレには、
マスターベーション用の、小型便器が
置いてあると話すと、ワイフは、
「そんな話は、聞いたことがない」と。

私は、真顔で、「知らなかったの?」と。

で、あれこれもっともらしいウソを並べて、
小型便器の話をしてやった。

「今じゃ、常識だよ」
「男って、そんなことしてるの?」
「そう……」
「知らなかった……」
「だって、常識だよ」と。

+++++++++++++

●男の性欲

 男の性欲というのは、やっかいなものだ。ムラムラと、突然やってくる。その直後から、頭の
中は、「女」でいっぱいになる。

 一度、そういう状態になると、知性も理性も、どこかへ吹っ飛んでしまう。考えることは、「女」
のことばかり。年齢には関係ない。老いも若きも、ない。ただ歳をとると、回数がぐんと少なくな
る。穏やかになる。衝動性も少なくなる。若いときは、「突然」だが、歳をとると、じわじわとした
感じで、やってくる。

 が、射精すると、その直後から、周囲の世界が一変する。食欲と似ているが、食欲より、変化
がはげしい。スッキリする。とたん、「女」が頭の中から消える。

 だからムラムラとやってきたら、できるだけ早く、射精したほうがよい。セックスをするのがい
ちばんよいが、それには相手が必要。で、相手がそばにいないときは、どうするか?

 それがマスターベーションということになる。私がワイフに話した、小型便器というのは、その
ためのもの。そういものがあれば、男は、その場で性欲を解消することができる。

 「射精」とおおげさに構えるから、話がおかしくなる。射精も、排尿も、同じ。排便と同じ。快感
のあるなしを問題にする人もいるかもしれない。しかし排尿にも排便にも、それなりの快感をと
もなう。

 トイレの中に、マスターベーション用の小型便器があっても、おかしくない。ワイフはこう言っ
た。

 「どうして、小型なの?」と。

私「小便のように、飛び散らないから」
ワ「横にいる人に、恥ずかしくないの?」
私「アメリカ人は、平気みたい。みんな並んで、シコシコとやっているよ」
ワ「ふ〜ん」
私「それに、その便器は、同じトイレの中でも、端のほう。みんなから見えない位置にある」
ワ「今までだれも、そんな話をしてくれなかった……」と。

 ワイフをだますのは、簡単。しかしこんなウソを真に受けるとは? 私のワイフも少し、ボケて
きたのかもしれない。

……そろそろ眠い。では、今夜は、これで。みなさん、おやすみなさい。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●空腹のメカニズム

+++++++++++++

昨夜、床につく前、猛烈な空腹感
に襲われた。

「パンでも食べようか……」と思ったが、
やめた。

そういうときの空腹感は、幻覚の
ようなもの。

朝、起きると、空腹感は消える。
今までの経験で、それがよくわかって
いる。

それに寝る前に食べると、肥満に
つながる。

+++++++++++++

 人間の空腹感は、(ほ乳動物もみなそうだが)、2つの相反する作用によって決まるということ
がわかっている。「食べたい」という作用と、「食べたくない」という作用である。「食べたい」とい
う作用が、「食べたくない」という作用よりも強くなったとき、空腹感が起きてくる。順に考えてみ
よう。

 大脳の視床下部に、血糖値を感知するセンサーがある。一般的には、血糖値がさがると、そ
のセンサーが機能し、空腹感をもたらすと考えられている。

 しかし空腹感のメカニズムは、そんな単純なものではない。私の例で、考えてみよう。

 たとえば昨夜、私は寝る前に、猛烈な空腹感に襲われた。人間には、(ほ乳動物はみなそう
だが)、ホメオスタシス効果というのがある。「ホメオスタシス」というのは、人間内部の生理的
環境を一定に保とうとする機能を総称したもの(付記、参照)。

 もっともわかりやすい例が、食欲である。体内のエネルギーが不足してくると、生理的バラン
スを一定に保つために、ホメオスタシス効果が機能し始める。それが食欲につながる。

 猛烈な空腹感に襲われたのは、血中の血糖値がさがったため。それを大脳の視床下部のセ
ンサーが感知した。それが猛烈な空腹感へとつながった。

 しかしならば、朝になると、どうしてその空腹感が消えるのか? 血糖値は、昨夜のままのは
ず。あるいは睡眠中に、ホメオスタシス効果が機能して、血糖値を調整したのか。その可能性
は、ある。あるが、どうも合点がいかない。血糖値だけで、食欲の有無は、決まるのか?

 この謎を解くカギが、拒食症や過食症の患者にある。

 食欲……正確には、「摂食行動」というが、その摂食行動は、2つの相反する作用によって、
決まるという。ネズミの実験だが、ネズミの視床下部の外側野に電気刺激を与えると、摂食行
動が活発化し、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が停止するという(春木豊氏「心理学
の基礎」)。

 が、反対に、その視床下部の外側野に隣接した、腹内側核を刺激すると、摂食行動が起き
なくなり、反対にその部分を破壊すると、摂食行動が止まらなくなり、ネズミは過食し始めると
いう(同)。

 わかりやすく言えば、視床下部の外側野と、それに隣接する腹内側核が、たがいに相反した
機能をもちながら、人間の食欲を調整しているということになる。以上の話を、もう一度、まとめ
ると、こうなる。

(1)視床下部の外側野……(刺激すると)→(摂食行動が起きる)
               (破壊すると)→(摂食行動が停止する)

(2)視床下部に隣接する腹内側核……(刺激すると)→(摂食行動が起きなくなる)
                    (破壊すると)→(過食が始まる)   

 脳の機能も外部からの刺激で、変調しやすい。ここに書いたマウスの実験では、脳の一部を
破壊することによって、摂食行動の変化を確かめたが、機能が変調しても、同じことが起きると
考えるのは、ごく自然なことである。 

 たとえば拒食症の人は、視床下部の外側野の機能が、低下した人ということになる。一方、
過食症の人は、腹内側核の機能が、低下した人ということになる。(かなり乱暴な書き方で、ご
めん!)

 で、私のばあいは、どうか?

 昨夜、猛烈な空腹感が、私を襲った。原因として考えられるのは、夕食を、一気に食べたこ
と。つまり短時間で食べた。

 短時間で食べたため、血糖値が、急激に上昇した。それと並行して、(ややタイムラグ=時間
的なズレはあるが)、インシュリンが分泌された。昨夜は、それがやや多めに分泌されたらし
い。

 結果、血糖値はさがったが、インシュリンは、血中に残って、さらに血糖値をさげつづけた。
そのため寝る前に、私は、低血糖の状態になった。それを大脳の視床下部にあるセンサーが
感知した。そしてその信号を、視床下部の外側野に伝えた。

 私は猛烈な空腹感に襲われた。

 しかし私は、それをがまんした。一連のメカニズムがわかっていると、がまんするのも、それ
ほどつらいことではない。「この空腹感は、幻覚」と自分で自分に、言って聞かせることができ
る。

 眠っている間に、ホメオスタシス効果が機能した。体内の生理的バランスを調整した。結果と
して、朝起きたとき、空腹感は消えていた。

 ……というように、自分の欲望や行動を、客観的に意識化することを、「メタ認知」という。人
間がもつ認知力の中でも、最高度のものである。少し前、ワイフが、「それ(=メタ認知)ができ
たからといって、それがどうなの?」と聞いた。私は、それに答えて、「メタ認知ができるようにな
れば、さらに自分がよくわかる。自分で自分をコントロールできるようになる」と答えた。

 以上、「空腹のメカニズム」。おしまい!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 空腹
のメカニズム 過食症 拒食症 ホメオスタシス メタ認知 視床下部 外側野 腹内側核)

(付記)

ホメオスタシス……「平衡状態」「定常状態」の意。生物が環境のさまざまな変化に対応し、生
物体内の形態的、生理的状態を安定な範囲に保ち、生存を維持する性質。アメリカの生理学
者のキャノンが提唱(国語大辞典)。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

●ギャグ文化

++++++++++++++

今の若い人たちは、ほんとうに
バカになってしまった。(ごめん!)

知識はある。知恵もある。しかし
自分で考える力をもっていない。
その習慣もない。

バカならバカでいい。しかしものごと
を、まじめに考えようとすらしない。

脳みその表層部に飛来する信号が
命ずるまま、行動する。ものを
しゃべる。政治の話をしようとしても、
そのまま、はねのけてしまう。

「ダサイ!」と。

まさに今は、ギャグ文化、全盛期。

++++++++++++++

 少し前、……といっても、もう5、6年前になるが、携帯電話の占いコーナーへのアクセス数
が、1日、100万件を超えた。それが話題になった。が、そのときは、(占い)といっても、まだ
日陰的な存在だった。が、現在は、それが日向(ひなた)に出てきた。公認された。ある時期
は、毎晩のように、それらしいオバチャンが、テレビに出てきた。(今も、出てきているが…
…。)

 「あんたの背中には、ヘビがついている。毎朝、3回、シャワーを浴びなさい」「あなたは、3年
以内に結婚しなさい。それを過ぎると、天運が切れて、地獄に堕ちる」とか、など。ウソ、インチ
キ、デタラメ。私はそれを聞いて、「よくもまあ、こういうアホなことが言えるものだ」と、むしろ、
そちらのほうに感心(?)した。

 で、一方、言われた方の若い人たちは、中には涙までこぼして、「わかりました」「そうします」
と。演技ではない。ほんとうに体を震わせ、涙をこぼす。つまりそんな程度のウソ、インチキ、デ
タラメすら、見抜く力をもっていない。肉体はおとなでも、中身は、幼児以下。(幼児でも、そん
な話は信じないぞ!)

 日本人は、ほんとうにものを考えなくなった。考える力を失ってしまった。考えるという習慣も
ない。が、それは、日本の将来を考えるなら、たいへん危険なことでもある。実はその兆候が、
すでに見え始めている。「ギャグ」という兆候である。

 今や、ギャグ文化、全盛期! 

 ある小学校の校長が、こう話してくれた。

 「昔、どこかの番組で、こんな歌が歌われましたね。『♪からす、なぜ鳴くの? からすの勝手
でしょ……』と。あれも一種のギャグですが、今では、あの歌を、まじめに歌う子どもはいませ
ん。あの歌そのものが、死んでしまいました。が、それだけではありません。この『からすの勝
手でしょ』という部分だけが、ひとり歩きを始めています。

 私どもが『子どもの茶髪は、やめてください』と注意を促すと、親の方が、『そんなのは、私た
ちの勝手でしょ。だれにも迷惑をかけるわけではないから』と。そう言いかえされます」(静岡県
K町のK小学校校長談)と。

 その校長は、「学校が、最後の砦(とりで)になりつつあります」と、何度も繰りかえした。つま
り「ギャグ文化を食い止める、最後の砦」と。

 が、もうこの流れを止めることは、だれにもできない。大きなうねりとなって、日本中を洪水の
ように襲いつつある。とても残念なことだが、私や、この文を呼んだあなたくらいが、それに抵
抗しても、川の中に打ち込んだ杭(くい)程度の効果しかない。

 それがわからなければ、子どもたちに作文を書かせてみればよい。「地球温暖化が進んでい
ます。あなたはどう思いますか」というテーマでよい。

 半分近くの子どもたち(小4〜6)は、それなりにまともな意見を書く。しかし残りの半分近くの
子どもたちは、「冬でも泳げるからいい」とか、「アメリカが何とかしてくれる」とか、「ぼくは宇宙
へ逃げるからいい」などとか、書く。以前には、考えられなかった現象である。

 たった今も、森有正(1911〜76)という人が書いた、「いかに生きるか」(講談社現代新書)
を読んだ。その中で、森有正は、「日本は民主主義国家になったとは言っているが、その底流
を流れる日本人の体質は、変わっていない」というようなことを書いている。

 同感である。そして私がいちばん恐れている部分は、ここである。

 日本中がギャグ化するなら、するで、それはもうしかたない。しかたないというか、構わない。
が、そのあとこの日本は、どうなる? それを考えると、空恐ろしさすら覚える。たぶんというよ
り、まちがいなく、現在の官僚たちが政治の実験を握ることになる。この日本で、政治的に
(?)組織化された集団は、官僚組織をおいてほかにない。

 すでに天皇を、再び(元首)にしょうという動きすらある。(元首、だぞ!)もしそうなれば、日本
は、王政復古から、一気に、ファシズムの道を歩むことになる。

 もちろん日本が、そうなってよいというのではない。そうなってはいけない。だから私は、こうし
てものを書きつづける。犬の遠吠えかもしれないが、しかし書かざるをえない。

 で、こうした流れを止める唯一の方法は、一部の人たちだけではなく、私のように名もない、
力もない、一般の庶民たちがみな、考えることである。考えて、賢くなることである。おかしいも
のは、「おかしい」と声をあげていう。たったそれだけのことでも、みなですれば、この流れをく
い止めることができる。

 先の自民党総裁選挙のときには、A前外務大臣が行くところどこでも、「太郎ちゃん」「太郎ち
ゃん」の大合唱が聞こえたという。A前外務大臣のBLOGでかりたてられた、若者軍団である。
こういう現象を、ギャグと言わずして、何という? そのA前外務大臣は、総裁選挙に敗れるや
いなや、こう言った。「読みかけのコミック本が山になっているから、これから家に帰って読む」
と。こういう現象を、ギャグと言わずして、何という?

 もし日本人が、今の民主主義を、血と涙と汗で勝ち取ったものであるとするなら、民主主義に
ついて、そういう使い方はしない。もう少し、畏敬(いけい)の念をもって、接するはず。大切に
するはず。しかし悲しいかな、日本にはその歴史はない。だから民主主義を、ギャグにしても、
だれも疑問に思わない。おかしいとも思わない。

 しかしなぜ、日本人は、こうまで考えなくなってしまったのか? もう8年前になるが、こんな原
稿を書いたことがある(中日新聞発表済み)。

+++++++++++++

●無関心な人たち

 英語国では、「無関心層(Indifferent people)」というのは、それだけで軽蔑の対象にな
る。非難されることも多い。だから「あなたは無関心な人だ」と言われたりすると、その人はそ
れをたいへん不名誉なことに感じたり、ばあいによっては、それに猛烈に反発したりする。

 一方、この日本では、政治については、無関心であればあるほど、よい子ども(?)ということ
になっている。だから政治については、まったくといってよいほど、興味を示さない。関心もな
い。感覚そのものが、私たちの世代と、違う。

ためしに、今の高校生や大学生に、政治の話をしてみるとよい。ほとんどの子どもは、「セイジ
……」と言いかけただけで、「ダサ〜イ」とはねのけてしまう。(実際、どの部分がどのようにダ
サイのか、私にはよく理解できないが……。「ダサイ」という意味すら、よく理解できない。)

●政治に無関心であることを、もっと恥じよう!
●社会に無関心であることを、もっと恥じよう!
●あなたが無関心であればあるほど、そのツケは、つぎの世代にたまる。今のこの日本が、そ
の結果であるといってもよい。これでは子どもたちに、明るい未来はやってこない。

では、なぜ、日本の子どもたちが、こうまで政治的に無関心になってしまったか、である。

●文部省からの三通の通達

日本の教育の流れを変えたのが、3通の文部省通達である(たった3通!)。文部省が1960
年に出した「文部次官通達」(6月21日)、「高校指導要領改定」(10月15日)、それに「初等
中等局長通達」(12月24日)※。

 この3通の通達で、中学、高校での生徒による政治活動は、事実上禁止され、生徒会活動
から、政治色は一掃された。

さらに生徒会どうしの交流も、官製の交流会をのぞいて、禁止された。当時は、安保闘争のま
っ最中。こうした通達がなされた背景には、それなりの理由があったが、それから45年。日本
の学生たちは、完全に、「従順でもの言わぬ民」に改造された。その結果が、「ダサ〜イ」という
ことになる。

 しかし政治的活力は、若い人から生まれる。どんな生活であるにせよ、一度その生活に入る
と、どんな人でも保守層に回る。そしてそのまま社会を硬直させる。今の日本が、それである。
構造改革(官僚政治の是正)が叫ばれて、もう20年以上になるが、結局は、ほとんど何も改革
されていない。

このままズルズルと先へ行けばいくほど、問題は大きくなる。いや、すでに、日本は、現在、に
っちもさっちも立ち行かない状態に追い込まれている。あとはいつ爆発し、崩壊するかという状
態である。

 それはさておき、ここでもわかるように、たった3通の、次官、局長クラスの通達で、日本の教
育の流れが変わってしまったことに注目してほしい。そしてその恐ろしさを、どうか理解してほし
い。日本の教育は、こういう形で、中央官僚の思うがままに、あやつられている。

(付記)

 どうしてこうまで、子どもたちは、政治に関心をもたなくなってしまったのか? 数日前も、中
学生たちに、「K国が、日本にミサイルを打ちこんでくるかもしれないよ」と話すと、こう言った。

 「どうして?」
 「アメリカがいるから、だいじょうぶだよ」と。

 議論そのものが、かみあわないというより、議論そのものが、できない。まったく、話にならな
い。

 こうした愚民化政策というのは、為政者にとってはつごうがよいかもしれないが、日本の将来
を考えるときには、マイナスにこそなれ、プラスになることは何もない。

 子どもたちでさえ、目先の利益や話題ばかりを、追いかけている。しかも、ここが重要な点だ
が、親も、ときどき、「子どもに政治の話はやめてほしい」と、クギを刺してくる。

 私は共産主義者でも社会主義者でもない。民主主義者である。まちがいなく、民主主義者で
ある。それに、子どもたちを指導して、政治活動をしようなどという意図は、もとからない。

 だから私も、政治の話はしない。子どもたちのほうから質問があったときは、「おうちの人に
聞いてごらん」と言って逃げる。

つまりそういう日本全体の風潮が、政治的に無関心な子どもたちを作ったといえる。フランスの
高校生のデモのニュースを聞いたとき、内容はともかくも、その行動力のちがいに、私は、大き
なショックを受けた。
(注※) 「文部次官通達」(6月21日)、「高校指導要領改定」(10月15日)、それに「初等中
等局長通達」)


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2237)

●死後のこと

+++++++++++++++

今朝(10月10日)、朝食のとき、
法事のことが話題になった。
それについて、私はこう言った。

「ぼくも、20年後か、30年後でいい、
息子たちが、ぼくの書いたものを
読んでくれたら、うれしい」と。

自分が死んだあと、あとかたもなく
消えてしまうというのは、想像する
だけでも、ゾッとする。さみしい。

何か、残したい。この世に生きたという
証(あかし)を、何か、残したい。

そう願うのは私だけではないと思う。
それが、(法事)という行事につながって
いった。

「私が死んだあとも、私のことを
思い出してほしい」と。それが転じて、
生きている人たちが、法事をするように
なった。

中に、「供養をすれば、ご先祖様が、
喜ばれますよ」と言う人が、いる。

しかしこれはまったくの、ウソ。

死んで、この世にいない人、つまり
主体のない人が、喜んだり、悲しんだり
はしない。

「喜ぶ」というのは、あくまでもその
人自身の空想でしかない。空想的願望と
言ってもよい。

自分がそうしてほしいから、今、
自分でそうしているだけ。つまりは
自己満足のため。

ただ、だからといって、法事が無意味だとか
そういうことを言っているのではない。

愛する人が死んだら、その死を悲しを
癒すため、その人との思い出に浸(ひた)り
たいと思うこともあるだろう。

しかし何も、法事にかこつけることはない。

ある男性(当時60歳くらい)は、妻が
死んだあと、新婚旅行で行った地を、
ひとりで回ったという。しかも数か月も
かけて!

死者を悼む方法は、何もひとつではない。
それに型があるわけではない。

中に、「供養をしなければ、成仏できない」と
説く人もいる。

が、これもおかしい。

もしそんなバカげた制度が、あの世に
あるなら、私は、死んだら、まっさきに
それに抗議する。釈迦の前で、座り込みでも、
断食でも、何でもやってやる!

私たちがなぜ法事をするかといえば、
一義的には死者を悼むということに
なるが、「死」をていねいに弔(とむら)う
ことによって、生きている私たちの「生」
を大切にするためである。再確認するため
と言ってもよい。

たとえばペットの小鳥が死んだとする。
そのとき、その小鳥を、紙か何かに
包んで、ゴミ箱に捨てたとする。

そういう姿を、あなたの子どもが見たら、
あなたの子どもは、どう思うだろうか。
ひょっとしたら、「命」というのは、
そういうものだと思ってしまうかもしれない。

ついで「生きる」ということは、そういう
ものだと思ってしまうかもしれない。しかし
それこそ、悲しむべきことである。

言いかえると、「死」をていねいに
弔うということは、とりもなおさず、「生」
を大切にすることを意味する。

が、だからといって、法事を、そのまま
肯定するわけにはいかない。

先にも書いたように、その人の死の
弔い方には、定型はない。あくまでも、
その人個人の問題ということ。

また日本で法事というと、どうしてもそこに
「家」意識がからんでくる。死者を悼む
といっても、それは口実。わかりやすく
言えば、ただの儀式。

だから私はワイフにこう言った。

「いつかぼくが死んだあと、だれかが
ぼくの書いた文章を読んでくれれば、
うれしい。……だれも読んでくれない
かもしれない。だからといって、ぼくは、
だれも、うらまない」と。

こと私の息子たちについて言えば、
私が死んだあと、法事など、ぜったいに
しないだろう。そういう行事とは、まったく
無縁の世界で、育ててきた。

私もしてほしいとは、思わない。が、
だからといって、「生」を粗末にしている
わけではない。

生きるということは、「今」を生きること。
「今」を生きて生きて、生きまくること。
完全燃焼させること。あとに未練や後悔
を残さないこと。

私は私なりの方法で、「生」を大切に
している。息子たちにも、そう教えて
きた。

私の死を悼む人がいるかどうかは、
そんなことは、私の知ったことではない。
そんなことは、それこそ、あとの人たちの
勝手。あとの人たちに任せればよい。

私はそんな人物ではないし、これから
先も、そんな人物になれるとは思って
いない。

要するに、法事などというものは、
やりたい人がすればよい。
それが慣習的な(つきあい)であれば、
あまり深い意味など考えず、適当に
すればよい。

あれこれ逆らえば、角が立つ。まあ、
この世の中、すべてが完ぺきというわけ
ではない。どこもかしこも、不完全。不完全
だらけ。しかしその不完全さこそが、
これまたおもしろい。

……というような話を、ワイフとした。

一応、記録のために……。

++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司※

●帝国海軍vs米国海軍

++++++++++++++++

今朝の朝刊(10・10)を見たら、
下段、雑誌紹介コーナーに、文藝S秋
11月号の広告が載っていた。

「帝国海軍vs米国海軍……日本はなぜ
アメリカに勝てないのか」という、大見出し
が、目に飛び込んできた。

「大反響・一挙46頁掲載」とある。

弁士は、6人。どの人も日本を代表する
評論家たちである。

いわく、
★ルーズベルト家の策略
★山本五十六vsキング、ニミッツ
★戦艦大和、ゼロ戦vsヨークタウン、B29
★ミッドウェーと海軍乙事件
★東郷平八郎vsファラガット
★ニッポン型現場主義vs米国型独裁トップ、と。

しかし、何かがおかしい?
何かが、欠けている?

+++++++++++++++++

 1945年の8月、広島、長崎に原爆が投下された。日本はその直後、米英を中心とする連合
軍に、無条件降伏をした。が、その直後のこと。アメリカの調査団が、原爆が投下された広島
を訪れている。同じ、8月の下旬のことだった。

 アメリカの調査団たちは、かなり緊張していたにちがいない。いつどこで闇討ちにあったり、
暴徒に襲われてもおかしくない状態だった。

 が、意外にも意外。アメリカの調査団たちは、行く先々で大歓待を受ける。旅館に泊まって
も、一級の部屋をあてがわれ、大接待を受ける。

 そのたった数週間前まで、アメリカ軍、イギリス軍を、「米英鬼畜」と呼び、日本はその連合軍
と戦争をしていた。が、敗戦と同時に、コロッと、ほんとうにコロッと、それまでの主義主張をね
じ曲げてしまった。「私なら……」という言い方は、あまりしたくない。ないが、私なら、ゲリラ戦で
も何でもしかけて、アメリカ軍と戦ったであろう。原爆を落としたアメリカ軍なら、なおさらであ
る。原爆が落とされた広島でなら、なおさらである。

 つまりそこで登場するのが、「正義」の問題である。

 当時のアメリカには、正義があった。世界の自由と平和、それに民主主義を守るという正義
である。一方、日本には、それがなかった。わかりやすく言えば、軍の上層部はともかくも、そ
れ以下の一般民衆は、戦争に対して、辟易(へきえき)としていた。つまり、いやいや、命令に
従っていただけ。

 その一例が、アメリカの調査団に対する、当時の民衆の姿勢である。

 それがわからなければ、あのベトナムを見ればよい。現在のイラクやアフガニスタンを見れ
ばよい。あれほどまで強大かつ先端兵器を駆使しながらも、アメリカ軍は、ゲリラ戦で手を焼い
ている。焼いているばかりか、勝ち目のない戦いの中で、消耗戦を強いられている。

 わかるかな?

 ベトナムには、「共産主義」という正義があった。イラクやアフガニスタンには、「イスラム教」と
いう正義がある。一方、アメリカはその正義を見失ってしまった。戦うべき、目的を見失ってしま
った。

 文藝S秋・11月号は、「帝国海軍vs米国海軍」という大特集を組んでいる。今日、仕事の帰
りにでも、さっそく1冊、私も購入してこうようと思っている。しかし新聞の広告を見ただけで、内
容の90%までわかってしまった。日本を代表する評論家たちだが、表面的な、もっと言えば、
枝葉末節ばかりを論じている? 私には、そんな感じがした。

 日本が戦争にまけたのは、ヒトやモノではない。作戦でもない。「正義」だ。その正義がなかっ
た。もし正義があったなら、日本は、……というより日本人は、たとえ上層部が敗戦宣言をして
も、そのまま戦いつづけていたにちがいない。

 そこで、ここでは、もう一歩、踏み込んでみる。「今の、この日本には、正義はあるやいな
や?」と。

 答は、NO!、である。何のために生きているのかという、その目的すら、はっきりしていな
い。何をすべきかという、その目的すら、はっきりしていない。自由? 平等? 博愛? 平
和? それとも民主主義?

 どれもこれも、中途半端。あえて言うなら、マネー、マネーの一辺倒。つまりこれでは、政府
が、いくら愛国心を説いても、だれもついていかない。「何、それ?」となってしまう。

 たとえばK国の核兵器問題についても、いちばんその脅威を受けているのが、この日本。し
かしその日本は、拉致問題しか口にすることができない。拉致問題だけを前に押し出し、6か
国協議に臨んでいる。

しかもその拉致問題にしても、戦前に日本がしてきたことに対しての(うしろめたさ)があるの
か、空に向かって大声で叫ぶことすらできない。「お前ら、おかしいぞ!」と。そんな簡単なこと
すら、口に出して言うことができない。さらに、政府は、一方的にK国を責めるが、そういう犯罪
を、みすみす許してしまった当時の日本政府の責任はどうなるのか。だらしないというか、みっ
ともないというか……。

 当時の警察、自衛隊、海上保安庁は、いったい、何をしていたのだ!

 なぜ、帝国海軍が、米国海軍に負けたかって? 答は、簡単。日本には、正義がなかった。
こんなわかりきったことをさておいて、あれこれ論じても意味はない。だから、私は、どこかおか
しいと思った。何かが欠けていると、思った。あくまでも広告を見た範囲での感想だが……。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のキズ

+++++++++++++++++

07年度のノーベル生理医学賞に、
アメリカ、ユタ大学のマリオ・カペチ教授が
選ばれた。

遺伝子疾患の世界的な権威者である。その
カペチ教授は、「あなたの生い立ちは、あなたの
成功にどのような影響を与えたか」と質問
を受けるたびに、こう答えたという
(韓国・東亜N報)。

「人間は人為的に統制し操作できない存在だ」と。

この言葉のもつ意味は、重い。深い。

++++++++++++++++++

●「人間は人為的に統制できない存在」

 07年度のノーベル生理医学賞に、アメリカ、ユタ大学のマリオ・カペチ教授が選ばれた。遺
伝子疾患の世界的な権威者である。そのカペチ教授は、「あなたの生い立ちは、あなたの成
功にどのような影響を与えたか」という質問を受けるたびに、こう答えたという。

 『人間は人為的に統制し操作できない存在だ』と。

 この言葉の意味を知るためには、カペチ教授の過去を知らねばならない。東亜N報は、つぎ
のように伝える。

 「……カペチ教授は、1937年にイタリアのベローナで生まれた。母親は20世紀初めに芸術
家の夢を抱き、欧州に渡ってきた米国女性だった。ナチとファシズムに抵抗したボヘミアン芸
術家たちと交流していた母親は、イタリアの空軍将校に会って、カペチ教授を生んだ。 

しかし、2人は結婚しなかった。まもなく第2次世界大戦が勃発し、父親は戦闘の中で死亡。母
親は政治犯収容所に連行された。 

ゲシュタポに連れて行かれることを予感した母親はすべての財産を売り、田舎で農業を営む友
人にお金を渡し、息子の面倒を見てくれと頼んだ。カペチ教授が4歳の時のことだった。が、あ
る日、母親の友人は残ったお金がないといって、彼を追い出した。
 
この時から4年半の間、幼い少年は浮浪児として過ごさざるをえなかった。街で寝るか、ゴミ箱
をあさって食事を済ませた。飢え死にしかけたこともあったという。
 
3年半ほど、路頭をさ迷った彼は、栄養失調にかかった浮浪児を収容する施設に監禁された。
逃げることができないように、1年中裸のまま過ごすようにする施設だった。毎日小さなパン一
切れとコーヒーが出た。 

ナチの敗北で収容所から出た母親は1年間、彼を探し回った末に、9歳の誕生日に息子を捜
し出した。母子は直ちに米国のペンシルバニア州に住む、母方のおじを訪れるために大西洋
を渡った。 

米国での生活は全く違っていた。クエーカー教徒の共同体を率いていた叔父の助けで、クエー
カー学校に入った。彼は英語が一言もできなかったが、思う存分絵を描き、粘土をいじらせてく
れる教師の配慮で、学びの楽しみに気づいた。
 
幼い時に経験した生存闘争の影響だろうか。カペチ教授は特別な粘りと忍耐心をもっていた。
それを研究に生かした。

DNAの二重ラセン構造を明かしたジェイムズ・ワトソンの指導の下、1967年にハーバード大
学で博士の学位を取得した彼は、1980年「遺伝子ターゲット」(gene targeting、細胞の核
にDNAを組み込み特定遺伝子の変形を起こす技術)という新しい研究プロジェクトを出し、米
国立保健院(NIH)に支援を申し込んだ。しかし、NIHは「役に立たない研究」とし、それを拒ん
だ。
 
しかし、カペチ教授はこれに屈せず、研究を続け、4年後にNIHは「私たちの話を受け入れな
かったことに大変感謝する」と謝罪の手紙を送り、彼の研究を支援し始めた。現在、遺伝子タ
ーゲット技術は、医学史に一線を画する業績と評価されている」(以上、部分的に日本語を改
変)。

 この記事によれば、カペチ教授の幼少時代は、相当、悲惨なものであったことがわかる。

 4歳のとき母親と別れ、9歳のとき母親に見つけだされるまで、浮浪者と収容所生活を経験し
ていたことになる。心にどんなキズ(=PTSD)を負ったか、容易に察しがつく。

 そのカペチ教授は、「あなたの生い立ちは、あなたの成功にどのような影響を与えたか」とい
う質問を受けるたびに、こう答えたという。

 『人間は人為的に統制し操作できない存在だ』と。

 この言葉のもつ意味は重い。深い。いろいろに解釈できるだろう。が、私は、カペチ教授が、
「心のキズというのは、そういうものだ」と言ったように、感じた。あるいは「遺伝子疾患というの
は、そういうものだ」という意味で、そう言ったようにも解釈できる。しかしやはり、カペチ教授
は、こう言ったのだ。

 「私は心のキズと、ずっと闘ってきた。今も闘っている。私という人間の力では、どうにもなら
ない問題だ」と。

 カペチ教授の話は別として、心のキズというのは、そういうもの。ちょうど顔についたキズのよ
うに、生涯にわたって、消えることはない。それについては、私は今まで、何度も書いてきた。
心の奥深くに居座り、生涯にわたって、その人を裏から操(あやつ)る。

 現に今、私自身がそうで、60歳にもなろうというのに、幼児期の暗い思い出が、いまだに時
折、顔を出し、私を苦しめる。

 が、このキズと闘う方法は、ないわけではない。

(1)心のキズの正体を知る。

 心のキズはだれにでもある。しかし問題は、キズがあるということではなく、そのキズがあるこ
とに気づかず、そのキズに振り回されること。

(2)心のキズには、触れない。

 心のキズといっても、いろいろある。日常生活の中で、そのつど思い出されるキズもあれば、
そうでないものもある。たとえば私のばあい、酒臭い人に出会ったりすると、むっとした不快感
を覚える。私は子どものころ、父の酒乱におびえた。だから、私は、酒が嫌いだし、酒臭い人
は、もっと嫌いである。だから私のばあい、酒臭い人には、できるだけ近寄らないようにしてい
る。酒というより、一度胃の中に入った酒が放つ、あの独特の異臭をかぐと、精神状態そのも
のが、おかしくなる。

 だからもしあなたに心のキズがあるなら、そういうキズを思い出させるような場面には、できる
だけ近寄らないようにする。

(3)心のキズとは、仲よくつきあう。

 ここにも書いたように、心のキズはだれにでもある。ない人は、いない。そういう前提で、あと
は、仲よくつきあう。キズを消そうとか、忘れようとか、さらにそれでもって自分を責めても、意
味はない。「私は、私。それがどうした?」と居直る。

 酒が嫌いでもよいではないか。酒臭い人が嫌いでもよいではないか。そういう人を避けてもよ
いではないか、と。どうしてそれが悪いことなのか。

 話をもどす。

 カペチ教授が、そのとき、心のキズを意味したかどうかは、ほんとうのところは、この私にも、
よくわからない。ただ私はこの記事を読んで、私はカペチ教授の言葉に、強い衝撃を受けた。
「ひょっとしたら、カペチ教授は、子どものころついたキズと、今でも闘っているのではないか」
と。「しかもそれは壮絶な闘いではないか」と。

 ……あくまでも、これは私の勝手な推理によるものだが……。みなさんは、この東亜N報の
記事を読んで、どう感じただろうか。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心の
キズ カペチ教授 PTSD)


Hiroshi Hayashi++++++++OCT 07++++++++++はやし浩司

●HDのコピー

 ハードディスクのコピーができなくて、苦しんだ。悪戦苦闘した。万が一のときのために、私
は、メインで使っているパソコンのHDの、クローン(完全コピーHD)を作成しようとした。

 使ったソフトは、コピーコマンダー9。VISTA対応版である。が、何度やっても、うまくできな
い。

 メーカーに問い合わせると、「ファイル・チェックをしましたか?」と。

 ナヌ……?

 ファイル・チェックなど、してもしなくても、どちらでもよいものだと思っていた。「どうせ、完全コ
ピーをするのだから」と。

 これがまちがっていた。つまりこれが、コピーできない原因だった。ア〜ア!

 で、昨夜遅く、ファイル・チェック。そして今朝、コピー。今度はうまくできた。

 パソコンというのは、そういうもの。ときとして、きわめて初歩的なミスで、失敗を繰り返す。コ
ンセントがゆるんでいたとか、電源を入れたまま、機器を接続したとか、そして今回のように、
基本的な手順を踏まないまま、作業に移ったとか……。

 ともかくも、今朝、解決。クローンHDをそのまま本体に取り付けた。一方、本体にあったHD
は、戸棚の奥にしまった。それで完了。ああ、楽しかった。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2238)

●エクセル2007のバグ

++++++++++++++

息子のBLOGより

++++++++

計算ソフトのバグ、と聞いて一体何を思い浮かべるだろうか?

使用中にクラッシュ?
保存したファイルが開かない?
グラフの狂い?
などなど・・。

しかし世の中、表計算ソフトが絶対に起こしてはいけないバグがある・・・。

計算ミス。

もし運悪くOffice 2007なるものを会社で使わされている人がいたら、夜遅くに、一人こっそりと
次の計算をエクセルにさせてみよう。

=77.1*850

ちなみに正解は65535。

++++++++++++

 こわいね。あのエクセルに、こんなバグがあるなんて? つまりエクセルで、77・1x850を計
算してみると、65535になるのではなく、10万になるという。

 こんなバグが悪用されたら、たいへん。単位が、1万ドルだったら、どうするのだろう? たと
えば2つの会社がエクセル2007を使っていて、77・1万ドルの商品を、850個仕入れたとし
たら……。

 息子からの今朝のメールによれば、「エクセル2007は、やめたほうがいいよ」「できたら、O
penOfficeを使ったほうがいいよ」とのこと。

 あなたももしエクセル2007を使っていたら、上の計算をしてみるとよい。エクセル2007へ
の信頼感が、ふっとんでしまうはず。

 あなたがどこかの経理の担当者なら、みなにこのことを話して、警告したほうがよい。なお息
子の話では、「エクセルのシリアライザー(コンピュータ言語を、人間にも読める数値に変換す
るプログラム)が、いかれているのではないか」とのこと。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2239)

【今朝・あれこれ】(11月12日)

●頭痛専門医

+++++++++++

私は、自称、「頭痛専門医」。
頭痛の症状を聞いただけで、
それがどういう原因によるものか、
どんな薬をのんだら治るのか、
それがわかる。

私も若いころ、偏頭痛に苦しんだ。
飲めないくせに、酒を飲んで、
二日酔いならぬ、三日酔いに
なったこともしばしば。
最近では、仮面うつによる頭痛
まで起きるようになった。

ほかにもいろいろある。で、頭痛
が起きるたびに、……というより、
頭痛が起きると、その微妙な
ちがいがわかるようになった。

薬といっても、市販のものだが、
どれを、どうのめばよいかまで、
わかるようになった。

詳しくは立場上書けないが、そういう
こと。だから、私は、自称、「頭痛
専門医」。家族の頭痛は、いつも
私が治している。

で、今は、少し頭が重い。これは
風邪の初期症状の軽い頭痛。
こういうときは、「葛根湯」がよい。

あとで朝食の前に、飲むつもり。

+++++++++++++++

●ビョーキ

私が現在、メインで使っているのが、
M社の最新パソコン。このパソコン。
もちろん搭載OSは、ビスタ。

その横にもう1台。こちらもすごいが、
OSは、Xp。同じくM社製。

どちらも整備は完ぺき。

ところでご存知の方も多いと思うが、
ビスタは、自分の性能を、自己診断
ができるようになっている。
エクスペリエンス・インデックス
というのが、それ。

ゲーム用グラフィックの速度こそ、やや
点が低いが、あとは、5・7〜5・9。

つまりほぼ最高点。

パソコンという機械は、ほどよく動く
ときは、そのままの状態を守った
ほうがよい。

あちこちをいじると、それが原因で、
故障する。

わかっているが、それでもいじって
みたいのが、人の情。「もっと、何か
ができるのでは?」と考えてしまう。

……どこか、子育てに似ている?

それはともかくも、何かをしてみたい。
平凡は、つまらない。しかしやることが
ない。

こういうのを、この世界では、
ビョーキと言うらしい。

+++++++++++++++

 ホームページの編集用には、M社のパソコンを使っている。OSは、Xp。メモリーは、2GB。
そのパソコンだが、それまではHPのファイル保存に、12時間近くもかかっていた。が、今度、
HDを取りかえてみた。

 とたん、その時間が、3分の1に短縮。4時間ですむようになった。HDを取り替えただけで!

 一方、文書作成などには、このパソコンをつかっている。OSはビスタ。メモリーは3GB。プラ
ス、レディブースト用に、4GBのUSBメモリー。こちらも昨日、HDを取り替えた。とたん、エクス
ペリエンス・インデックス(自己評価)が、5・5から5・9に! (6・0が最高点と聞いているから、
ほぼ満点。)

 この程度の性能になると、2万枚の原稿用紙を並べて、同時に画像処理のソフトを起動して
も、ビクともしない。実に軽快に仕事をこなしてくれる。それが気持ちよい。

 この「気持ちよい」という感覚は、性能の悪いパソコンを使って苦労した人でないと、わからな
い。突然パソコンがフリーズしてしまい、何十枚もの原稿を、パーにしてしまったとか……。

 気のせいか、HDを取り替えてから、またまたこのパソコンの性能がよくなったように思う。とく
にワイフのパソコンと比べてみると、それがよくわかる。ワイフのパソコンは、たいした仕事もし
ていないのに、よくフリーズする。

 さあ、今日も、このパソコン相手に、原稿を書くぞ!


●マザーボード

 パソコンのマザーボードをながめながら、私は、しばし、考え込んでしまった。マザーボードと
いうのは、いろいろな基本電子部品を搭載した、プリント基板のことをいう。パソコンの側面パ
ネルを開くと、30センチ四方大に、そこに広がっているのがわかる。

 マザーボードとはいうが、そこはまさに、(都市)! 中央のCPU(中央演算装置)を中心に、
数ミリ単位の部品が、何百個と整然と並んでいる。それを見て、まず感心するのが、「よくもま
あ、こんなものを作ったものだ」ということ。その1個1個に、人間がもつ英知と技術が集約され
ている。

 無駄なものは、ひとつもない。仮に小さな部品1個が欠落しても、そのマザーボードは、その
まま廃品に。そういう世界である。

 つまりパソコンという機械を、キーボード側から見るときと、本体内部側から見るときとでは、
その姿は、まるでちがう。私たちは、たとえば何かの拍子に、モニターがブルー画面になったり
すると、それだけを見て、ドキッとする。(ブルー画面は、こわいね!)

 しかしそれはキーボード側から見た世界。しかし本体内部側から見ると、ものの考え方が、一
変する。わかりやすく言えば、マザーボード全体が、ひとつの(都市)として機能している。まとも
に動くこと自体、奇跡のようなもの。(まともに動いてもらわなければ、困るが……。)

 ……ということは、私たち人間の体についても、言える。脳みそから肉体まで。すべてがそう
だ。とくに脳みそは、(都市)以上の(都市)。一説によると、脳みそは、高性能のパソコン数千
台〜数万台、あるいはそれ以上の能力をもっているという。

 まともに動くこと自体、奇跡。いつ何時、変調したり、狂ったりしても、おかしくない。考えてみ
れば、これもまた、すごい。その脳みそがこうして機能して、文章を、モニター上にたたき出して
いる!

 ……とまあ、マザーボードをながめながら、そんな意味のないことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2240)

【BW教室の、みなさんへ、お願い】(立ち話について)

いつもお世話になっています。ありがとうございます。
今日は、いくつかお願いがありましたので、こうした
メールをさしあげることにしました。

どうか不愉快に思われないで、ご協力くださいますよう、
お願いします。お子さんの安全のためと、またBW教室を
気持ちよく運営するため、です。

実は、今日も近所の方から、苦情が届きました。声は
おだやかでしたが、かなり怒っておられるといった
様子でした。

お帰りになるとき、路上に車をとめたまま、あるいは
道路上や、駐車場で、おうちの方どうしが、話をされるこ
とについて、

(1)交通のさまたげになる、
(2)そばいにいる子どもたちが、あぶない、
(3)お声が大きく、近所に迷惑、ということです。

で、ときどき、こういうお願いをしているのですが、
1〜2年ごとに、繰りかえしになってしまいます。

で、お願いというのは、

(1)お子さんが、階下へおりてこられましたら、
すみやかに、車に乗って、お帰りくだされば、
うれしく思います。

(2)おうちの方どうしの、路上、もしくは、駐車場、階下
での、立ち話などは、かたくお断り申し上げます。
よろしくお願いします。

 以上、たいへん失礼なお願いかと思いますが、
くれぐれも、よろしくお願いします。

 なお、このマガジンは、登録してくださった方のみに
送信していますが、半数以上の方は、未登録の状態です。
ですからこの連絡をお読みになったかたは、お読みに
なっていない方に、くれぐれも、よろしくお伝えくださいます
よう、お願いします。

++++++++++++++++++++

【年長児クラスのみなさんへ】(退会について)

 幼児教室という性格上、受験とともに、1月いっぱいで
おやめになる方も、いらっしゃいますが、BW教室は、
1年単位で、運営しています。

 ですからご事情がお許しになるかぎり、できるだけ、
3月いっぱいまで、おいでくださいますよう、お願い
します。

 2〜3月は、数の学習を中心に、小学校へ入ってから、
必ず、お役にたてる知識を身につけていただくよう、
努力いたします。

 また規約にありますように、退会届は、前月の3週目
までにお願いします。(1月末退会の方は、12月の
3週目までに退会届けをお願いします。)

 その時期を超えたばあいには、翌月の月謝をいただく
ことになりますので、よろしくご協力くださいますよう、
お願いします。

 勝手なお願いに聞こえるかもしれませんが、おたがいに
気持ちよくお別れするために、これは大切なことかと
思っています。

+++++++++++++++++++++

【駐車について】

 BW教室の駐車場は1台分しかありません。しかも
あまり大きくありません。

 大型車でおいでになる方は、たいへん申し訳あり
ませんが、近くの駐車場へ駐車してください。

 ちょうど、1階の方のお住まいの勝手ドアのところに
あるため、大型の車が駐車されますと、その方が、
ドアを開くことができなくなります。

 そのおうちの方が、たいへん困っておられます。また
ドアがあいたとき、あなた様の車に、キズがつくことに
もなりかねません。

 くれぐれも、よろしくお願いします。

 また駐車は、できるだけ、交代で、みなさんで
譲り合って駐車していただければ、うれしいです。


++++++++++++++++++++

【参観について】

 2年目に入られた方は、特別な問題がないかぎり、
参観は、ときどきということで、ご調整ください。

 教室も狭いので、よろしくご協力ください。


++++++++++++++++++++

 以上、まとめて、いくつかのお願いをしました。

 不愉快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、
冒頭に書きましたように、お子さんのためでもあります。

 よろしくお願いします。

 インターネットをなさっておられない方に、以上の内容を
お伝えくだされば、うれしく思います。

 よろしく、よろしく、お願いします。

BW教室     はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2241)

●意識の差

+++++++++++++

昨夜、ワシントン・ポスト紙の
ダイジェスト版を読んだ。
(Japan Clipping、講談社版)

それを読んで感じたのが、
(意識の差)。

私たちは、拉致問題で、K国を
避難するが、では、この日本は
どうなのか? どうだったのか?

こうした問題を考えるときは、
いつも(意識の差)を、念頭に
置かなければならない。

+++++++++++++

 日本は、1941年12月7日、真珠湾を奇襲攻撃した。日本では、「奇襲」という言葉を使う
が、英語では、「surprise attack」。その奇襲攻撃を、当時のアメリカの大統領は、こう表現し
た。「もっとも恥ずべき日として、永久に記憶に残る日(a date whichwill live in infamy, "
December 7, 1941)」と。つづけてワシントン・ポスト紙は、「真珠湾のキズ(The Scars of Pearl 
Harbor)と題して、こう書いている。

 「しかし日本の子どもたちは、その日を覚えておくよう奨励されていない(…is not a date 
Japanese school children are encouraged to remember…)」と。

 「太平洋戦争では、日本は何もまちがったことをしていないと思っているたくさんの子どもたち
がいる。が、アメリカ人にとっては、真珠湾というのは、裏切りと二枚舌(dupulicity and 
treachery)の同義語(synonymous)だ」と。

 さらにこうも書いてある。

 「日本の歴史書には、奇襲に対する深い悔悟の色はみられない。が、もっとも深刻な不一致
は、真珠湾攻撃を引き起こす事態をめぐる解釈にある。

 西側の見解では、(アメリカは日本を西側とは見ていないことに注目)、日本は市場と原材料
を獲得するために、中国や他のアジア諸国の植民地化をもくろむ、盲目的に侵略を企てる軍
国主義者と拡張主義者の手に落ちたのだ。

 それに対して、現在の日本のほとんどの教科書は、戦争は失敗だったと認めるものの、それ
は、合衆国や他の国々による石油と経済の制裁によって強いられたとする」(1976年12月7
日)と。

 歴史認識問題というと、日本と中国や韓国の間だけの問題ではない。日本とアメリカの間に
も、ある。とくに真珠湾攻撃に対する解釈には、大きな隔たりがある。

 「真珠湾攻撃はしかたなかった」と主張する日本。「卑怯だ」とするアメリカ。「真珠湾攻撃をす
るよう仕組まれた」と主張する日本。「裏切った」と主張するアメリカ。

 さらに最近では、「近代的防衛戦(?)」なる奇語を使って、日本の軍国主義全体を擁護する
人たちまで現れた。「先に戦争をしかけていかなかったら、日本がどこかの国の植民地になっ
ていた」とか、「アメリカはドイツとの開戦をもくろんでいた。しかしその口実が見つからなかっ
た。真珠湾は、その口実になった」とも。

 こうした意見というか、意識の相違について、おおかたの日本人は、「日本は日本、アメリカ
はアメリカ」と考えている。が、もしそうなら、つぎのことだけは、覚えておいたほうがよい。

 いつか、(そんなに遠い将来ではないと思うが)、日本が、他国に同じことをされても、日本
よ、日本人よ、文句を言うな! 現に今年に入ってから、アメリカの各紙は、日本を名指しし
て、「裏切られた」という言葉を、頻繁に使っている。従軍慰安婦問題で、日本政府が、「静観
する(=無視する)」という声明を発表してからである。

 日本の政府というか、それを裏で操る官僚たちの動きは、どこかゆがんでいる。沖縄の集団
自決問題にしても、10万人の抗議集会が開かれ、あわてて教科書の修正に乗り出している。

 ……と書いて、私は何も、日本がどうなってもよいと思っているのではない。日本のことを心
底、心配しているから、そう書いている。とくに安倍内閣になってから、日本は、大きく右へ、舵
を切った。「天皇を元首に」「天皇がY神社を参詣するのがいちばん」(A前外務大臣ほか)とい
う言葉が、政府の間からも、ポンポンと聞かれるようになった。

 (一方、ノー天気な若者たちは、そういうA氏を、「太郎ちゃん」「太郎ちゃん」とラブコール。先
の総裁選挙での1コマである。)

 拉致問題についても、最近の国際世論は、「日本よ、何を偉そうなことを言うか」という風潮に
変化しつつある。つまり日本に同情して、日本のために動いてくれる国は、ない。アメリカにさ
え、見捨てられた。

 思考力を失ってしまった日本。政治そのものが、ギャグ化している。こういう日本に、いった
い、未来は、あるのか? どこに未来を求めたら、よいのか? あの江戸時代という封建主義
時代ですら、日本は、ただの一度も反省していない。反省していないばかりか、最近ではそれ
を反対に「国家の品格」と称して、美化する人まで現れた。おかしな復古主義が、それに拍車
をかけた。

 ここに紹介したワシントン・ポストの記事は、日付を見ると、1976年となっている。つまり今
から、31年前。

 この31年間で、日本は、何が変わったのか? また何が変わらなかったのか? それがわ
からなければ、拉致問題の政府の取り組み方を見ればよい。どうして被害者のこの日本が、
頭をペコペコさげ、「調査させてください」と、K国に頼まなければならないのか。乞われもしない
のに、救援物資という、みやげまでつけて……。

 この(おかしさ)の中に、日本の政治の(おかしさ)がすべて、集約されている。……ということ
を、ワイントン・ポスト紙を読んで、私は感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT 07++++++++++はやし浩司

●謎解き

+++++++++++++

ヤフー・ニュースを見ていたら、
こんな記事があった。(下に紹介。)

私はこの記事を読んだ。数回、読んだ。
しかし、どうにもこうにも、理解できない。

私がボケたのか?
それとも理解力が低下したのか?

大阪のあるところで、詐欺事件が
起きた。それはわかるが、その
詳しい手口が、理解できない。

ああああ!

+++++++++++++

 ヤフーのニュースに、こんな記事があった。まず、それをそのまま紹介する。この記事の中で
注意してほしい点は、いったい、その男(=詐欺犯)は、いったい、どういう手口で、窃盗を重ね
ていたかということ。一読して理解できた人は、かなりの読解力がある人とみてよい?

+++++++++

 万引きしたカミソリの替え刃を購入したように装って返品し、ホームセンターから金をだまし取
ったとして、住所不定、無職HS被告(58)が、大阪府警富田林署に逮捕、詐欺罪などで起訴
されていたことがわかった。

 実際に替え刃を買い、レシートを渡さずに返品して金を受け取った後、後日、別の店で盗ん
だ替え刃に、残しておいたレシートを添え、購入店に持ち込んで返金させる手口。(10月13日
付)

+++++++++

 たった今、4、5回目を読み終えた。で、やっとこの私にも理解できた!

 こういうことらしい。

 そのHSという男は、まずどこかの店で、カミソリの替え刃を買う。そしてその替え刃を返品す
る。お金は、再び、その男の手元に戻る。そのとき、レシートを店に渡さないでおく。「レシート
はなくした」とか何とか、言えばよい。

 つぎに今度は、別の店で万引きしてきた同じ替え刃を、先にとっておいたレシートを添えて、
返品する。「これはお宅の店で買ったものだ」とか何とか、言えばよい。

 ふ〜ん。

 で、こうして詐欺に詐欺を重ねて、得たお金は、10数万円とか。ヤフー・ニュースは、つぎの
ようにつづける。

 「府内のホームセンターばかりを狙い、今年6月までの半年間に店を変えては、約30件(被
害10数万円)の詐取を繰り返していたという」と。

 しかし万引きしてきたものを、店で返金させるとは! セコイというか、小ズルイというか。男
の年齢は、58歳。私より1歳、年下。この男は、過去58年間、何を学んできたというのだろう
か。残りの人生は、短い。こんなことで、自分の人生を汚して、この先、どうやって生きていくと
いうのだろうか。

 無職ということだから、お金に困って、そういう犯行を重ねたのだろう。その点には同情する。
が、しかしそれにしても……。

 ……ということで、最初の問題。あなたはこの文を一読して、その男の手口を理解できただろ
うか。残念ながら、私には、理解できなかった。

 ……そうだ、この問題を、今度、中学生たちに解かせてみよう。「このニュースを読んで、そ
の男の手口を詳しく説明せよ」とか何とか、そんな問題にすればよい。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2242)

●『量より、質』論

++++++++++++++

この年齢になると、すべてが先細り
になる。実際にはそうでなくても、
先細り感は、いつもついて回る。

健康面、精神面、収入面など。

どれをとっても、不可逆的に、悪化し、
低下する。

そんな中、つまりそうした先細り感と
どう、私たちは対処していったら、
よいのか。

それが、『量より、質』論である。

++++++++++++++

 安物ばかりだが、懐中時計ばかり、30〜40個も買い集めた。懐中時計を付録にした雑誌
が発売になったこともある。それが私の収集癖に、さらに拍車をかけた。

 が、しょせん、安物。つぎつぎと故障した。落として壊したのもある。「どうせ安物だから」と。
で、今は、そういう懐中時計が飾り棚に、何十個もぶらさがっている。私は、それを見ながら、
「人生も、これに似ている」と思った。私たちは時として、無駄なことを繰りかえしてしまう。たと
えば安物の時計ばかりを買い、並べ、いっぱしの収集家になったような気分になったりするの
が、それ。

 しかし今日、私は、時計屋で、1個の懐中時計を見つけた。最近では、懐中時計を並べてい
る時計屋は少ない。時計屋そのものが、少なくなった。そのガラスケースの中に、金色と銀色
の懐中時計が2個だけ並んでいた。私は電撃に打たれるようなショックを覚えた。

 RP社製の手巻き式懐中時計である。値段は、X万円。私がもっている懐中時計すべてを合
わせても、その1個分の価値には及ばない。とたん、家にある懐中時計が、すべて、ただのガ
ラクタに思えてきた。

 店で見せてもらう。手に取って、握らせてもらう。ズシリとした重量感。金属の厚み。文字盤の
精巧さ。下のほうに小さな小窓があって、そこから内部のムーブメント(機械部)がのぞける。
私は迷わず、その懐中時計を買った。金色のほうである。

 ところで話を戻すが、この年齢になると、すべてが先細りになる。実際にはそうでなくても、先
細り感がついて回る。健康面、精神面、収入面など。

どれをとっても、不可逆的に、悪化し、低下する。ときどきワイフと、「あと何年生きられるだろう
ね」と話す。できるだけそういう会話は避けようとは思っているが、何かのことで弱気なったよう
なとき、ふと、そういう言葉が口から出てきてしまう。

そんな中、つまりそうした先細り感とどう、私たちは対処していったら、よいのか。その問題を解
くカギが、『量より、質』論である。

 つまり、これから先、自分の人生をよりよく生きるためには、量より質を大切にする。懐中時
計にたとえるなら、安物の懐中時計など、何個集めても、意味はない。またそういうものを集め
るために、時間を無駄にしてはいけない。

 若いときは、それでもよい。10時間という時間をかけて、10個の懐中時計を買えばよい。し
かし人生に先細り感を覚えるようになったら、そうはいかない。1時間という時間の中で、10個
分の懐中時計を買わなければならない。それがここでいう『量より、質』論ということになる。ま
た『量より、質』にこだわれば、これからの人生を、今までの何倍も、濃く生きることができる。
ひょっとしたら、先細り感を、そのまま吹き飛ばすことができる。

 仕事、しかり。
 遊び、しかり。
 そして人間関係も、またしかり。

 たとえば人間関係。中には、「広く、できるだけ多くの友人や知人と交際するのがよい」と説く
人もいる。しかしEQ論(=人格の完成論)にせよ、道徳の完成論にせよ、それを説く学者たち
は、そうは言っていない。むしろ少数の人と、より深く交際することのほうが大切と教えている。

 もちろんそれには、相手を選ばなければならない。……が、実際には、「選ぶ」と言うより、自
分で生きざまを追求していくと、そこに一つの輪ができてくる。その輪の中で、人間どうしの交
際が始まる。と、同時に、その輪にふさわしい人たちが、その輪の中に残る。その輪にふさわ
しくない人たちは、その輪から去っていく。

 懐中時計は、1個でよい。1個あればよい。その1個を大切にする。それがここでいう『量よ
り、質』論ということになる。

(追記)

●「質」の追求

 「質」の追求の第一条件は、時間を無駄にしないということ。「財産」という言葉を耳にすると、
だれしも、「金銭的な財産」を思い浮かべる。しかしそれ以上に大切なのは、「健康という財
産」、それに「時間という財産」である。

 お金や健康を無駄にする人はいない。いないわけではないが、少ない。しかしどういうわけ
か、人間は、時間の無駄については、寛大。寛大というより、鈍感。(失礼!)ソファに寝そべ
り、バカ番組を見ても、時間を無駄にしたと思う人は少ない。子どもについて言うなら、意味も
ないPCゲームをしても、時間を無駄にしたと思う子どもは少ない。

 与えられた時間は同じでも、どうそれを使うかで、その人の生きざまが変わってくる。その人
の価値が決まってくる。もっとも、この分野でも、「賢い人からは、愚かな人はよくわかる。しか
し愚かな人からは、賢い人はわからない」。

 わかりやすく言えば、時間を大切に使っている人からは、時間を無駄にしている人がよくわか
る。しかし時間を無駄にしている人からは、時間を大切に使っている人がわからない。自分が
時間を無駄にしていることさえ、気づかない。

また時間を大切に使っている人にすれば、それがその人にとっては当たり前のことであり、だ
からといって、その実感があるわけではない。

 むしろ実際には逆で、時間を大切に使っている人ほど、日々に、時間を無駄にしたことを悩
む。後悔する。時間を大切に使っていると実感することなど、まず、ない。

 「質」の追求……、それはまず時間を無駄にしないこと。すべては、そこから始まる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●信用するほうが、どうかしている!

+++++++++++++

一度破壊された人格が、
そののち、修復されたという話は、
聞いたことがない。

ある年齢を超えればなおさら、
である。

頭のおかしな独裁者が、晩年になって、
(まとも)になったという話は、
古今東西、聞いたことがない。

今日のニューヨーク・タイムズ紙は、
つぎのように伝える(10月13日)。

『アメリカ政府当局者らの話として、
イスラエル軍機が9月に行ったシリア
への空爆は、建設中のK国型
原子炉を標的としたものだったもようだ
と報じた。

原子炉は、K国が核兵器用の
プルトニウム生産に利用した黒鉛
減速炉と同型とみられる」と。

あんな独裁者を信用するほうが、
どうかしている。韓国へ亡命した
F氏(K国の元高官。主体思想の
総責任者)も、繰りかえし、そう述べて
いる。

++++++++++++++

●6か国協議

 有名無実化してしまった6か国協議。実際には、米朝協議が、会議の柱になってしまった。も
ちろん日本は、カヤの外。K国自身が、「老朽化した」と述べている核開発関連施設。それを、
停止すると言っただけで、各国は、K国支援を始めてしまった。

 が、そのK国。こうした会議を一方でしながら、他方で、シリアの核兵器開発を援助していた
(?)。まさにとんでもない裏切り行為である。

アメリカのニューヨーク・タイムズ(電子版)は、つぎのように伝える。

「13日、アメリカ政府当局者らの話として、イスラエル軍機が9月に行ったシリアへの空爆は、
建設中のK国型原子炉を標的としたものだったもようだと報じた。原子炉は、K国が核兵器用
のプルトニウム生産に利用した、黒鉛減速炉と同型とみられる」と。
 
 このニュースを読むとき、2つのポイントに注意しなければならない。

(1)一度破壊された人格が、まともにもどるということはありえるのか。
(2)ヒル氏のような、あまりにも(まともな人物)に、そうでない人が理解できるのか。

 善人のフリをすることくらいなら、だれにだって、できる。私にだって、できる。それらしい顔を
して、それらしいことを口にすればよい。

 しかし自分の体に一度しみついた悪を、自分から取り除くのは、容易なことではない。『善と
悪は、神の左手と右手である』とは、よく言うが、そういう点では、善と悪は、けっして平等では
ない。

 で、あの独裁者。独裁者の独裁性が強ければ強いほど、その独裁者の人間性が、そのまま
国際政治の場に反映される。国中の人たちが、オール・イエス・マンなのだから、当然と言え
ば、当然。で、その人間性だが、拉致問題ひとつ見てもわかるように、メチャメチャ。一説によ
ると、K国国内だけで、約20万人以上の政治犯(?)と言われる人たちが、闇から闇へと処刑
されているという。

 一昼夜で、国家の方針が180度変わることも、ザラ。一貫性がないというのが、あの独裁者
の一貫性。そういう独裁者をまともな人物と評価し、まともにやりあうところに、そもそもの無理
がある。

 そこで最初の問題。一度破壊された人格が、その後、(まとも)にもどるということは、ありえる
のか。

 答は、NO!、と考えてよい。若い人ならともかくも、ある一定の年齢を超えた人のばあい、そ
れはまず不可能と考えてよい。「一定の年齢」というのは、満40歳とか50歳とかいう年齢をい
う。そのころになると、脳みそそのものが、融通性を喪失する。いわんやあの独裁者のように、
60歳を超えた人が、ある日突然、まともになるということはありえない。

 思考回路というのは、そういうもので、若い人でも、一度それができると、それを変更するの
は、容易なことではない。ふつうは、不可能。

 が、このところ6か国協議をながめていると、どこか、(まとも)? まともすぎる? そのまとも
すぎるところが、不気味。つまりその分だけ、独裁者の独裁性が弱まっていると考えてよい。も
っとはっきり言えば、独裁者に代わって、側近の者たちが政治を遂行し始めている?

 理由はいろいろ考えられる。その第一が、健康問題。「だいじょうぶだ」「問題はない」という、
K国の大本営発表が繰りかえされれば繰りかえされるほど、おかしい。一説によると、認知症
がすでに始まり、昨年(06年)の春ごろから、国政の運営にも影響が出始めているとのこと。

 そういう独裁者を信用して、まともな交渉など、できるはずもない。その一端が、はからずも、
シリアで証明された。冒頭に書いた、「K国型原子炉」の問題である。

 もしこれが事実だとするなら、(100%、事実とみてよいが……)、では今までの6か国協議
は、何だったのかということになる。ヒル氏をはじめ、世界各国の代表は、あの独裁者に弄(も
てあそ)ばれただけということになる。

 が、ヒル氏には、それが理解できない? ヒル氏は、あまりにも育ちがよすぎる。育ちがよす
ぎて、人間の心の裏というか、闇の部分が、理解できない。しかもアメリカ流合理主義者? オ
ープンな場所で、契約さえしっかりと結べば、それで問題は解決すると信じている?

 しかしそういうアメリカ流合理主義は、この極東アジアでは通用しない。とくに、あの独裁者に
は通用しない。結局は、一連の6か国協議を通して、他の5か国は、K国に、核兵器開発のた
めの時間を与えただけ。

 では、日本は、どうすべきか。一度は袋小路に入り、四面楚歌を経験した日本だが、一筋の
光明がさしこんできた。

 日本には、これだけは絶対にさせてはならないという死守目標がある。それは核兵器を温存
したまま、南北統一朝鮮という、最悪の反日国家を誕生させてはならないということ。現在の韓
国のN大統領が就任した直後、側近の1人が、こんな言葉を漏らしている。

 「K国の核兵器は、南北統一後の朝鮮にとっては、かえって有利になる」と。この発言は、あ
わてて取り消されたが、記録には残っている。しかしそれは、韓国の偽らざる本音と考えてよ
い。

 しかし、だ。日本は、それを絶対に、容認してはいけない。K国の核放棄には、当然、既存の
核兵器も含まれる。また含まれなければならない。既存の核兵器をさておいて、何が、6か国
協議かということになる。

 ……私の意見を過激と思う人もいるかもしれない。しかしこれから先、この日本は、K国の核
兵器におびえながら、単独でそのK国と対峙していかねばならない。すでに数年前、K国は、中
国を介して、40兆円という、とんでもない金額の戦後賠償金を打診してきている。(40兆円だ
ぞ!)しかもその金額ですむという保証は、どこにもない。

 日本がこの先、平和と安全を確保したいと願うなら、K国を自己崩壊させるしかない。そのあ
と、K国に韓国が入ろうが、中国が入ろうが、それは日本の知ったことではない。日本は、何を
さておいても、日本の平和と安全を確保するためにも、K国の核開発関連施設だけではなく、
既存の核兵器も、廃棄させなければならない。

 これは日本にとっては、絶対に譲ることのできない、死守目標である。

 が、つい先週まで、6か国協議の流れは、日本の思惑からはどんどんと離れるばかり。気が
ついてみたら、日本だけが、カヤの外。つまはじき。盟友と思われていたアメリカにさえ、見放
されてしまった。どうやら既存の核兵器については、うやむやのまますまされる公算が大きくな
った。そればかりか、何とも情けないことに、日本政府は、拉致問題について、「調査させてくだ
さい」と、K国に頭をさげる始末。しかも援助という、(みやげ)までつけて!

 が、ここにきて、シリアのK国型原子炉問題。日本政府としては、「ほら、見ろ!」と言いたい
のではないか。とくにこの言葉は、ヒル氏、韓国のN大統領に、ぶつけたい。「あなたたちは、こ
の問題に、どう責任を取るつもりなのか」と。

 繰りかえす。

 「戦争はいやだ」と逃げ回るのは、決して平和主義でも何でもない。「相手が攻めてきても、私
は戦いません。殺されても構いません」というのも、平和主義でも何でもない。そういうのは、
「卑怯」という。「いざとなれば、平和を守るために武器をもって戦う」というのが、平和主義であ
る。もしそれもダメだというのなら、あなたの妻や子どもが目の前で殺されても、文句は言わな
いこと。

 日本は現在、戦後、最大に危機を迎えつつある。この先、どうなるかということについては、
私にも、よくわからない。恐らく今ごろは、ブッシュ大統領をはさんで、ライス=ヒル氏(K国容認
派)と、チェイニー副大統領(K国否定派)が、激論を交わしているにちがいない。その結果は、
ここ数日中にわかるはず。その結果しだいで、日本の命運は決まる。

 注目、注目、ただひたすら注目!
(2007年10月14日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2243)

●今日・あれこれ(10月17日)

++++++++++++++

昨日は、地元のバス会社が運営する
Bツアーというのを利用して、福井県は
東尋坊まで行ってきた。

いつものガイドの意味のないおしゃべりには、
ただただ、うんざり!

まさにひとりしゃべり。くだらない情報の羅列。
たとえば、こう。

秋ですね……。今年は暑かったですね。
秋は遅いでしょうか。山のほうへ行けば、
紅葉が見られるかもしれませんねえ。

渋滞してますねえ。走るのが遅いとイライラ
しませんかあ。

私のこと、みんなが、太っていると言います。
先日は、横断歩道を歩いているとき、
自転車に乗った老人から、「太っているね」って
言われました。

いやですねえ……。見知らぬ人にああいうこと
言われるのは……。

おみやげは買いました。O型の人は、たくさん
買うんですって。ねばって買うんですって……と。

まさにひとりしゃべり。そういうおしゃべりを、
何と、計6時間以上!

言葉遣いも、おかしい?

「私のお仕事のことで、お話し合いをしました
が……」と。

改めて言おう。あんなガイドなら、不要。
何のためのガイドか、ということになる。

++++++++++++++

 昨日、地元のバス会社が運営するBツアーというのを利用して、福井県の東尋坊まで行って
きた。最初に驚いたのが、私たち夫婦より若い人は、1人だけ。あとはみな、見るからに私たち
より年配の人たちばかり。

 その1人というのは、老いた両親のつきそい(?)。ガイドにもよるが、昨日は、運が悪かっ
た。うるさいのなんのといって、最前列に座った、7〜8人の人と、マイクを使って、会話をして
いるだけ。(だったら、マイクなど使わなければいいのにと、私たちは思った。)言い遅れたが、
「私たち」というのは、私とワイフ。

 8〜9月は、3回ほど、Bツアーを利用させてもらったが、うち1回は、よかった。箱根へ行った
ときのガイドは、ノートを見ながら、専門用語を使って、ガイドしてくれた。あるいはこちらが疲れ
たようなときには、それを察して、「しばらく静かに、お休みください」「のんびりと景色をお楽し
みください」と。

 が、昨日のガイドは、よくしゃべった。ペチャペチャ、ペチャペチャ、と。しかも声の間に、キン
キンとハイオクターブの歓声を入れる。眠ろうとしても、その声で目が覚めてしまう!

 『沈黙の価値のわらかぬものは、しゃべるな』、というのは、西洋の格言である。

 その上、不運がつづいた。直後のうしろに座った男性(75歳くらい)が、バスに乗ったときか
ら、咳の連続。「ゴホン、ゴホン、ゲーッ、パッ!」と。私たちは、そのたびに生きた心地がしな
かった。で、どこかのサービスエリアでトイレ休憩をしたとき、その男性の妻に、話しかけた。顔
はにこやかに、声もおだやかに。

私「こんにちは!」
妻「……はあ」
私「ご主人の咳がひどいようですが、どこかお体でも悪いのでは?」
妻「……悪くない」
私「ずっと、咳をしておられますが……。お風邪でも? それとも喘息?」
妻「……悪くない。タバコ、タバコ!」

 妻は、そのまま不機嫌な顔をして、私たちから遠ざかろうとした。私は、くいさがった。私たち
の健康問題と直結する。「そうですか?」で、引き下がるわけにはいかない。

私「風邪だったら、私たちだって、困ります」
妻「風邪じゃ、ない!」
私「しかし咳の内容がわからなければ、私たちも困ります」
妻「気管支が細い」
私「まさか、結核ということでは……?」
妻「どこも悪くない!」と。

 まったく会話がかみあわなかった。妻のほうが、やや認知症? そんな印象をもった。おかげ
で私たちは、サービスエリアに着くたびに、うがい。あとは天井の通気穴を全開。少し寒かった
が、新鮮な空気を、座席に落とすしかなかった。

 このタイプの老人のマナーは、ほんとうに悪い。ときどき痰が、座席のうしろに飛び散るの
か、それを紙で、スースーと拭く音まで聞こえた。あるいは床をクツでこする音まで聞こえた。

私「これじゃ、まるで、ケア・センターにいる老人たちの親睦旅行みたいだ」
ワ「今度は、若い人たちが行くところにしたら?」
私「ホント。東尋坊では、若い人は行かないね」と。

 ……とまあ、悲劇的な旅行だった。これでBツアーとも、しばらくお別れ。こりごり!

 そうそうもうひとつ。

 帰りのバスの中では、定番のビデオ。例によって例のごとく、「釣りバカ、日誌」。第17作。舞
台は、石川県の能登。意味のない安っぽい、映画。最後は、スーさんが、旅館の女将と、白い
オープンカーでデートにでかけるシーンで終わり。「今夜はここ(=金沢)で一泊していくよ」と。

私「堂々と不倫シーンで終わる映画も、少ないね」
ワ「社長なら、何をしても許されるという発想ね」
私「そう、そういうところが、実に日本的」と。

 夫は、釣り三昧(ざんまい)プラス浮気三昧、妻は、芝居見物三昧。2人は、金持ちであること
をいいことに、したい放題。おそらく能登の観光協会と結託しているのだろう。意味のないプロ
パガンダが、それとなく、しかし意図見え見えに、織り交ぜてある。

 どうしてあんな映画が、日本では、国民的映画なのだろう?


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●情報、過剰社会

++++++++++++++

いつも音を聞いていないと、
落ち着かない……とまあ、
そんな人は多いですね。

何かの雑誌に書いてあったので
すが、日本では、エレベーターの
中、バス停でも、音声ガイダンス
が流れますね。それについて、ある
外人が驚いていたそうです。

日本人には、静かな環境で、静かにものを
考えるという習慣そのものがない?

あるいは、日本人は、静かに
ものを考えるという習慣そのものを
放棄してしまったのかもしれません。

情報、また情報。情報の洪水の中で、
情報が途切れたとたん、不安になって
しまう?

よい例が、バスガイドのガイドです。
聞いてもすぐ忘れるような情報を、
つぎからつぎへと流す。

またそれをもって、サービス?、と
考える。どこかおかしいですね。

++++++++++++++

●情報の洪水

 先日、パソコンで、メモリー診断をしようと思いついた。VISTAには、メモリー自己診断ツール
が標準でついている。以前には、何度か使ったことがある。

 が、である。その何度か使ったはずのツールがどこにあるかわからない。あちこちをさがして
みたが、結局は、見つからなかった。その説明をしてある雑誌をさがしてみたが、その雑紙も
どこかへなくしてしまった。

 たった数か月前にできたことが、できない? 私は改めて、脳みその底にできた(穴)に驚い
た。私たちは情報の洪水の中で生きている。それはわかる。が、一方で、その情報は、容赦な
く、脳みその底にできた(穴)から、外へ流れ出てしまう。

 情報の洪水は、つぎつぎとやってきて、またどこかへ消えていく。脳みその中に残る情報とい
うのは、ほんとうに少ない。その少ない情報も、時間とともに、どこかへ消えていく……。

●情報中毒

 いつも情報にさらされていないと落ち着かないという人は、多い。情報の流入が途切れたとた
ん、不安になるらいい。少し前まで、私の母がそうだった。

 実家に行くたびに、テレビはガンガンとかけっぱなしだった。私がそれを止めようとすると、母
は、がんこに抵抗した。「見ていないのだからいいだろ?」と言っても、母は納得しなかった。母
は、テレビの音が聞こえていないと、落ち着かなかったのだ。

 こういうのを、「情報中毒」という。意味のある情報とか、ない情報とか、そういうことは、考え
ない。選択することもない。料理番組、健康番組、ニュース……まさに、何でもござれ。そういう
情報を、つぎつぎと脳みその中に入れ、また出していく。

 何かの雑紙に書いてあったが、日本へ来た外人が、こんなことに驚いていた。日本では、エ
レベーターの中、バス停にすら、音声ガイダンスがある、と。その記事を最初に読んだときに
は、「どうして?」と私は、思った。「どうして、そんな程度のことで、驚いたのか?」と。

 少し前、観光バスで、オーストラリアの友人夫妻を長野県のほうへ連れていってやったのだ
が、そのときも、そうだった。オーストラリアの友人夫妻は、情報の洪水に驚いていた。バスガ
イドが、間断なくしゃべりつづけていたからだ。それにどこの観光地へ行っても、ガイド、ガイド、
またガイド。「右に見えますのが〜〜山、左に見えますのが、〜〜湖」と。

 一度、情報中毒にかかると、情報なしでは、落ち着かない。つまり音が聞こえていないと落ち
着かない。

●情報と思考

 何度も書くが、(情報)と(思考)は、まったく別のもの。情報量が多いからといって、その人に
思考力があるとはかぎらない。たとえていうなら、幼稚園児が、かけ算の九九を暗記して口に
するようなもの。それができたからといって、「算数ができる子ども」ということにはならない。

 しかしほとんどの人は、幼児が、かけ算の九九を口にしただけで、「算数のできる子ども」と
思い込んでしまう。しかしそれは誤解。まったくの誤解。

 同じように、バスガイドが、観光地にまつわる歴史的な話をしても、だれも、そのガイドが、歴
史のプロだとは思わない。(思う人もいるかもしれないが……。)どうせどこかのガイドブックに
出ていたような内容を、丸暗記しているだけ(失礼!)。

 先日も、紀伊半島のほうへ行ったときも、織田信長ゆかりの地を、あちこち回った。そのつ
ど、ガイドは、もの知り顔に、あれこれ説明してくれた。が、どれも、まちがいだらけ。しかしそう
いう話を聞いて、質問する人は、いない。かけ算の九九を暗記している幼児に向かって、その
意味を問いただしても意味はない。それと同じ。

●考えるという習慣

 考えるという習慣のない人に、(考える)ことの重要性を説いても意味はない。(考える)という
意味すら、理解できない。できないばかりか、情報の量をもって、つまりもの知りであることをも
って、「私は頭がいい」と思いこんでいる。

 しかし重要なのは、(考えること)。さらに言えば、(考えるという習慣)である。

 たとえば健康を維持するため、毎朝、ジョギングしている人がいる。毎日の運動が、健康にと
っていかに大切であるかを、そういう人たちは知っている。運動をした日と、しない日とでは、体
の調子はまるでちがう。運動したあとには、体の細胞のひとつひとつが、ピチピチとはじける音
すら、感ずる。

 しかしそういう習慣のない人に、運動の大切さを説いても意味はない。ないばかりか、たとえ
ばテレビの健康番組に流されるまま、「酢がいい」と聞けば、酢を買い、「ニンニクの焼酎漬け
がいい」と聞けば、自分でそれを作ってみたりする。無駄とは思わないが、そのつど情報に振り
回されているだけ。

 同じように、重要なのは、(情報)ではなく、(それを選択し、加工するという習慣)である。

●考えさせない社会

 日本の社会は、騒々しい。ほんとうに騒々しい。どこへ行っても、騒音、また騒音。情報の洪
水、また洪水。

 また観光バスの話にもどるが、うるさいのはガイドだけではない。静かな人も多いるが、その
一方で、おしゃべりな人も多い。バスに乗っている間中、となりの人と、ペチャペチャと間断なく
しゃべっている。概してみれば、女性に多いが、男性にもいる。

 話している内容といえば、たわいもない世間話。あるいはその繰りかえし。私はそういう人た
ちを見ながら、「こういう人たちは、どこでものを考えているのだろう」と思う。「あるいは、どこで
そういう時間をもっているのだろう」とも。

 もっと言えば、日本の社会構造そのものが、そうなっている。つまり、人が静かにものを考え
るという社会構造になっていない。さらにもっと言えば、教育の段階で、ものを考える子どもを
育てていない。

●情報の選択

 だからといって、情報が無駄であると言っているのではない。良質で、適確な情報は、思考の
基盤となる。その情報に上に、私たちは自分の思考を組み立てることができる。

 そこで私たちがすべきことは、情報の選択。洪水なら洪水でもよい。しかしその中から、情報
を選択していく。たとえて言うなら、無数の絵画の中から、名画と、そうでないものを選ぶのに
似ている。これはそれほどむずかしいことではない。ほんの少し訓練すれば、だれにでもでき
るようになる。

 私自身は、つぎのようにして選択している。

(1)その人自身の言葉であるか、どうか。
(2)その人自身が、どういう思想的背景をもっているか。
(3)その人自身が、どういう経験をしているか。
(4)その人自身が、どういう経緯で、その情報を手に入れたか。
(5)普遍性はあるのか。視野の広さはどうか、公正であるか、など。

 つまりその人自身の言葉でないと、意味がないということ。その人自身を見て、判断するとい
うこと。

 当然のことながら、苦労に苦労を重ねた人の言葉は、重い。意味がある。そうでない人の言
葉は、そうでない。人生も永遠なものであれば、無駄な情報も、それなりに生きることを楽しくし
てくれるかもしれない。しかし今は、もうそうではない。今さらパチンコの攻略本を読んで、それ
を応用してみようなどという気持ちには、とてもなれない。

●生きるということは、考えること

 人は、考えるから、人である。考えない人は、人というより、サル。だからといって、サルが人
より劣っているというのではない。サルのほうが、ひょっとしたら、人間より考えているかもしれ
ない。幼児だって、そうだ。

 私たちは、幼児イコール、幼稚と考えやすいが、これはとんでもない誤解。幼児は幼児なり
に、懸命に考えている。そういう幼児に出会うと、心底、感動を覚える。ずいぶんと前のことだ
が、こんなことがあった。

 ある日、幼稚園へ行くと、1人の子ども(年長男児)が、地面を掘っていた。「何をしている
の?」と聞くと、その子どもは、こう言った。「石の赤ちゃんをさがしている」と。

 その子どもは、石は、土の中で生まれるものと思っていた。だから地面を掘れば、石の赤ち
ゃんがそこにあると思っていた。その幼児は、その幼児なりに、懸命にそう考えて、穴を掘って
いた。

 レベルの問題ではない。たしかに私たちおとなから見れば、幼稚(?)な行動かもしれない
が、そこに、私は、生きる価値を見た。もしそれを否定するとなると、つまり私たち自身も、否定
されることになる。

 人間にしても、まだ進化の過程にある。1000年後、あるいは1万年後の人たちが、現在の
私たちを見て、幼稚だと思うかもしれない。しかしだからといって、それを批評することは、許さ
れない。それを許すということは、とりもなおさず、私たちが、私たち自身を否定することにな
る。

私たちは私たちで、懸命に生きている。考えている。内容は幼稚かもしれないが、そこに人が
生きる価値がある。それがわからなければ、ここに書いた幼児を頭の中で、もう一度、想像し
てみてほしい。

●考えることのすばらしさ

 ところで考えることは、宝さがしに似ている。ひとり荒野の中を歩いている。そこで小さな宝石
を見つけるのに似ている。小さな宝石かもしれないが、キラリと輝く。それを見つけたときは、う
れしい。ほんとうに、うれしい。

 が、考えることは、けっして、楽な作業ではない。難解な数学の問題を前にして、その問題を
解くようなもの。考えることには、苦痛や苦労がともなう。しかもその問題は、必ずしも、解ける
とはかぎらない。解答用紙もない。

 だからできるなら、考えないですませたいと思う。もっとも手っ取り早い方法は、宗教なら宗教
に身を寄せること。思想をだれかに注入してもらうこと。しかしそれは同時に、その人の「死」を
意味する。

 パスカルの言葉を借りるまでもなく、たとえか弱く、細いアシであっても、人は、自らの足で立
ち上がる。そこに人が生きる意味があるし、気高さも、そこから生まれる。しかし、その価値は
ある。

 考える人からは、考えない人がどういうものか、よくわかる。反対に考えない人からは、考え
る人がどういうものか、わからないだろう。だからいって、私がその考える人というわけではな
い。つまりは相対的な立場でしかない。

 私よりものをよく考える人は、いくらでもいる。そういう人たちから見れば、私など、何も考えな
い部類の人間でしかない。しかし一度、考える習慣を身につけると、それまで見ていた世界が
一変する。

 それは山登りに似ている。下から見ると低く見える山でも、登ってみると、意外と視野が広い
のには驚く。そのすばらしさは、山に登ったことがある人でないとわからない。

 同じように、考えることによって、だれでも、思考の山に登ることができる。そしてその視野の
広さに驚くことができる。

 さあ、あなたも勇気を出して、考えてみよう。あなたも、きっとそのすばらしさを、実感するは
ず。……という結論で、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●私の聖地

++++++++++++++++

私の聖地は、オーストラリアの
メルボルン。

そこは私の人生の出発点。と、同時に
私の人生のゴール。

ずっと心の中で、大切にしてきた。
そのメルボルンへ、今度、ワイフと
いっしょに、行く。行くというより、
私の聖地を、ワイフに見せてあげたい。

最愛なる、私のワイフ。今まで、いろいろと
ありがとう! お前のおかげで、ぼくは、
自分の人生を、今まで、かろうじてだが、
足を踏み外さす、送ることができた。

ありがとう! いちばん大切な人に、
私のいちばん大切な聖地を、
見せてあげよう。

2008年X月X日、出発。
航空券は、息子が、手配してくれるはず。

(X月X日)

浜松から、名古屋セントレア空港から、
アデレードへ。(機中泊)

(X月X日+1)

アデレード着。
午後、アデレードから列車で
メルボルンへ。(車中泊)

(X月X日+2)

メルボルン着。大学のカレッジの
ゲストルーム泊。市内観光。

(X月X日+3)

トラム(電車)で、市内散策。
大学で昼食。友人訪問は、予定なし。
(今回は、水入らずで、散策を楽し
みたい。)

ビクトリア・マーケット、
ボタニック・ガーデン、
市内各所、美術館などなど。
ゲストルーム泊。

(X月X日+4)

列車とバスで、ジーロンからローンへ。
ローンのホテルで一泊。

(X月X日+5)

ローンから、メルボルンへ。
市内、最高級のホテルで一泊。

(X月X日+6)

メルボルンから、シンガポール経由で、名古屋
セントレア空港へ。(機中泊)

(X月X日+7)

名古屋セントレア空港着。浜松へ。

短い旅行だが、今の私には、これが精一杯。まだまだ現役。欧米人のように、1か月単位のバ
カンスというのは、無理。それに今のところ、退職の予定はなし。私にとっての退職というの
は、イコール、人生の終わり、イコール、死ぬとき。その覚悟はできている。つまり死ぬまで、働
く。どうせ倒れるなら、教室の中か、パソコンの前。延命処置は、無用。

 これとて私の業績は。平凡な、どこまでも平凡な人生だった。しかし家族がみな、今までこうし
て無事に過ごせたことを感謝している。とくに私のワイフには、世話になった。私がワイフなら、
私のような男とは、とっくの昔に離婚している。数か月どころか、数週間ももたなかっただろう。

 夢はいくつかあった。その第一、山荘をもつこと。これは実現できた。土地づくりに、6年もか
かった。私とワイフで、毎週ユンボを借りてきて、土地を造った。石垣も、地元の業者と、いっし
ょに、組んだ。水道も自分たちで引いた。排水管も、自分たちで敷いた。楽しかった。おもしろ
かった。

ほかに世の中を動かすようなことをしてみたかった。が、残念ながら、それはできなかった。こ
れからも、できそうもない。

 しかし、だ。私の人生は、満60歳から。60歳から70歳まで、燃えに燃えてやる。そのとき健
康なら、75歳まで。さらにそのとき健康なら、80歳まで。何が還暦だ! バカヤロー! ・・・と
まあ、弱気になったり、強気になったり・・・。こうして迷ったり、不安定になったりするのも、歳の
せい?

 晃子へ、本当に長い間、いろいろとありがとう。愛しているよ! オーストラリアへいっしょに
行こうね! 


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●道徳完成論
 
+++++++++++++

子どもにとって、道徳とは何か。
子どもの道徳の完成度は、つぎ
の5つで決まる。

称して、はやし浩司の「道徳
完成論」。

(1)公正性
(2)普遍性
(3)一貫性
(4)正義性
(5)視野の広大性

+++++++++++++

(1)公正性

 たとえばあなたの親類の1人が、万引きしていたとする。そのときあなたは、その親類に対し
て、どう行動をとるだろうか。見て見ぬフリをするだろうか。あるいは、悪いことは悪いこととし
て、その親類を注意するだろうか。さらに店の人に通報するだろうか。相手がだれであれ、も
のごとを公正に判断できる人を、道徳の完成度の高い人という。

(2)普遍性

 ものの価値観が、世界的標準で、常識的であること。だれが聞いても、納得できる人生観、
哲学をもっている。おかしな思想に染まり、かたよったものの考え方をする人は、それだけで道
徳の完成度の低い人とみる。

(3)一貫性

 言っていることに、いつも一貫性があること。反対に、会うたびに言うことが変わったり、様子
が変わったりする人は、それだけで道徳の完成度の低い人ということになる。誘惑にも弱く、悪
事に染まりやすい。一方、一貫性のある人は、言動と行動が一致している。

(4)正義性

 視点がいつも弱者の側にあり、他人に対しても、また自分に対しても誠実であること。自分に
対して誠実ということは、心を偽らないこと。いつもありのままの自分を、外に出すことをいう。
また他人に対して誠実であるというには、ウソをつかない。約束を守る。この2つが、日常生活
の中で、自然な形で実行できることをいう。

(5)視野の広大性

 ものの考え方が、人間、生物、地球、宇宙・・・と、広いことを、「視野の広大性」という。一方、
卑近な問題に右往左往し、私利私欲にかられたり、利己的なものの考え方をする人は、視野
が狭いということになる。

 教育の場で、(家庭教育においても、そうだが……)、「道徳」を考えたら、この5つの柱を参
考にしてみてほしい。何かの役に立つはず。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 道徳
 道徳の完成 道徳の完成度 道徳完成度 子どもの道徳 子供のの道徳 道徳教育)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(10月18日)

++++++++++++++++++

昨夜は、床についたのが、11時ごろ。
暑いのか、寒いのか、よくわからない夜だった。
少し風邪っぽい?

ふとんをはいだり、ときどき寒気を感じて、
ふとんの中にもぐったり……。その繰り返し。

いそがしい夜だった。

で、今朝は、薄曇り。どこか湿っぽく、どこか肌寒い、
それでいて、秋らしく気持ちがよい。

10月19日、金曜日。おはようございます!

++++++++++++++++++

●懐中時計の販売会

 駅南にあるショッピングセンターで、懐中時計の展示販売会があるという。新聞にチラシが入
っていた。明日までの3日間だけの販売会とか。今日にでも行ってみるつもり。楽しみ。

 ところで私が懐中時計を使うのには、理由がある。理由の第一。腕時計が嫌い。重くて、(息
苦しい?)。私は若いころから、自分の体をしめつけるものが、大嫌い。夜寝るときも、本当
は、パンツもパジャマも脱ぎたい。あのゴムの締め付け感が、いや。

 しかしそれでは、ワイフがいやがる。だからゴムは、できるだけユルユルにしてもらっている。

 が、懐中時計は、好き。手でいじっている感触が、好き。そう、私は、懐中時計は、その感触
で選ぶ。私は子どものころから、手先で何かをいじっているのが好き。ADHD児や、自閉症児
にも、同じような傾向が見られることがある。情緒が不安定な子どもは、モノをいじることによっ
て、自分の精神状態を静めようとする。

 私も、その一人?

 しかし悪いことばかりではない。おかげで手先が、今でも、器用。老人特有の震えは、まだな
い。こまかい作業も、難なく、できる。それに指先に刺激を与えることによって、脳みその老化
を予防することができるという。手先には、無数の神経が集まっている。その神経が、脳みそ
に直結しているという。


●メガネを3個!

 昨日、近くのメガネ屋で、売り出しをしていた。レンズ付で、1個7000円〜1万円という。

 レストランで昼食をとったあと、その店に寄ってみた。このところ老眼鏡の焦点が、やや合わ
なくなった。老眼鏡というのは、距離が10〜20センチちがっても、見えにくい。

 で、店へ入ると、店員さんが、あれこれとていねいに説明してくれた。メガネ1個だと、1万円
〜2万円。3個だと、1個につき、7000円〜1万円、ということだった。

 それにしても安い。さっそく、3個、買うことにした。2個が外出用(近視用)。1個がパソコン用
(老眼用)。ついでにワイフも、1個。計、4個。しめて、計3万5000円!

 安い! それにしても、安い! この世界でも、価格破壊が起きている?

 で、そのあとレンズの話になった。店員さんは、「標準のレンズでは……」「UV(紫外線)カット
付ではどうですか……」と、しきりに値段の高いレンズを勧めた。意図は見え見え。しかしそれ
は予算外。「標準のレンズでいいです」と言って、その場を逃げた。(ゴメン!)


●スキヤキ

 ワイフにも得意料理と、そうでないのがある。ワイフが作る料理で、最高なのが、スキヤキ。
絶品。それにサバの味噌煮。

 昨夜は、そのスキヤキだった。おいしかった。「お前のつくるスキヤキは最高だよ」と言うと、う
れしそうに笑った。今も肉の甘さが、ほんのりと口の中に残っている。

 ワイフに「昨夜のスキヤキが残っているなら、朝食はそれでいい」と言うと、「野菜を少し入れ
ればいいよ」と言ってくれた。そんなわけで、今日は、朝食から、またまたスキヤキ!

 脳梗塞が少し心配になってきた!


●価格破壊

 自転車の世界でも、価格破壊が起きている。今では、1万円の自転車など、珍しくも何ともな
い。私が子どものころでさえ、(今から50年も前のことだが)、1万円の自転車は、なかった。と
きどき売り出しか何かで、1万円の自転車を店に並べたことはある。そういう自転車は、飛ぶよ
うに、売れた。

 が、1万円! 中には、7000円前後のものまである。結構な作りで、そこそこ乗って走るに
は、問題はなさそう。それにしても、1万円とは!

 自転車という商品は、より広い売り場面積を必要とする。値段をさげればさげるほど、(多売)
で勝負するしかない。つまり商品の回転を速くする。売れ行きがとどこおったとたん、赤字。

 そのためには、人が集まるところ、広い売り場面積が確保できるところに、店を構えるのがよ
い。つまり大型ショッピングセンターの中、もしくは近くがよい。昔は、大きな学校の近くとか、市
の中心部で店を構えるとよいと言われた。

が、今は、自転車の性能も、ぐんとよくなった。道もよくなった。自転車といえば、パンク、それ
にタイヤ交換ということになるが、最近の自転車は、めったにパンクしない。タイヤが擦り切れ
るまで同じ自転車に乗る人は少ない。

 私はもともと自転車屋の息子だから、今でも自転車には、たいへん興味がある。時間に余裕
があれば、自転車屋をやってみたいという気持ちは、ずっともってきた。今でもその気持ちは
残っている。

 が、今、とても残念なことだが、市中から、(町の自転車屋さん)が、どんどんと姿を消してい
る。経営者の高齢化も進んでいる。しかしこれも時代の流れか?


●ヘアースタイル

 昨日、ワイフとこんなことを話し合った。「満60歳になったら、ヘアースタイルを変えようか」
と。「ついでに、ヒゲも剃ろうか」と。

 私の顔は、まじめすぎる。ぜんぜん、面白みがない。平凡。魅力がない。自分でも、それがよ
くわかっている。

ワ「どんなスタイル?」
私「長髪にして、うしろで結ぶ」
ワ「いいわね」
私「ついでにヒゲも剃ろうか?」
ワ「どうして?」
私「記念に……。そうすれば、写真を見ただけで、60歳前のものか、60歳後のものか、すぐ
わかる」
ワ「なるほど」と。

 まだ本決まりではないが、いろいろと考えている。ヒゲはともかくも、長髪については、ほぼ決
定。一度、長髪にしてみよう。


●義理の伯父の死

++++++++++++++

10月16日に、ワイフの母の兄、
つまり義理の伯父が、亡くなった。
昨日、その葬儀があった。

おとといは、通夜。出棺は、昨日の
9時。そのまま火葬場へ。

火葬がすむまで、私たちは、
控え室でそれを待った。
時間は、1時間20分。

アナウンスで、火葬場へ行ってみると、
伯父は、白い遺骨に変わっていた、

雪のように白く、美しかった。
私たちは、与えられた箸で、遺骨を
骨壺に収めた。静かな葬儀だった。

++++++++++++++

 ワイフの伯父との思い出は、多い。私が浜松へ来てからのつきあいということになる。ミカン
農家を経営していたが、柔道は黒帯、バイオリンをたしなみ、ほかに趣味は多芸多才。農家の
お百姓さんというイメージは、まったくなかった。気品のある紳士だった。

 そのためか、私が本を出すたびに、伯父に届けると、伯父は、そのつど書評をくれた。私も
伯父を尊敬していたし、伯父も、私に敬意を表してくれていた。ことあるごとに、「晃子(=私の
ワイフ)のダンナは、教育者」と、私を自慢してくれた。

 そんな伯父だったが、結局は、山荘へは、一度も来てくれなかった。何度も誘ってはみたが、
そのつど、「家から出たくない」と断られてしまった。晩年の伯父は、家にずっと引きこもってば
かりいた。ときどき訪れたことがあるが、昼間から、雨戸が閉まっていることが多かった。

 認知症も、あった。ふつうの会話はできたが、つぎの瞬間には、その内容を忘れてしまってい
た。「電話がかかってきても、かかってきたことを忘れてしまうのよ」と、その家を預かる次女の
Kさんが言っていた。

 私はその雪のように白い遺骨を見ながら、脳裏に、伯父との思い出が、つぎつぎと重なって
いくのを感じた。一度は、伯父の家の数軒隣に家を買うことまで考えた。伯父の家は、浜名湖
の海に面したところにあった。ボートハウスもある。が、伯父は、こう言った。

 「ここは、よそ者のあんたたちが住めるような場所ではない。よしなさい」と。

 古いしきたりが山のようにある部落である。伯父は、それを言った。しかし柔道が黒帯で、バ
イオリンをたしなんでいたという話は、知らなかった。実は、昨日の葬儀の席で、それをはじめ
て知った。「道理で……」と、何度も、そのとき納得した。書き加えると、温厚で、知的な人だっ
た。その上、もの静かな人だった。遊びに行くたびに、ミカンや野菜を分けてくれた。

 ワイフは、子どものころ、毎年夏は、その伯父の家で過ごしたという。「死んだ人は、静かだ
ね」とワイフに言うと、ワイフは、「うん」と。

 静かな、どこまでも静かな、葬儀だった。


●HPを充実

+++++++++++++++

この1か月をかけて、HPを充実させた。

(タイプ別、子どもの問題)コーナーと、
(子育てQ&A)コーナーを新設した。

興味のある人は、HPのトップページから
来てみてほしい。

また現在、ヤフーで、「はやし浩司」を
検索すると、18万件近くヒットするように
なった。

インチキで、検索数をふやす方法は
いくらでもある。もっとも手っ取り早い
方法は、有料の検索エンジンに登録
を依頼する方法である。

しかしそれには費用が、安いところでも
3万円。ふつう7〜8万円程度、かかる。

あとはヤフーやグーグルに有料の
コマーシャルを載せるという方法もある。

しかし私は、そういうのを使わない。
そんな費用はない。必要もない。
だから18万件という件数は、そのまま
18万件ということ。

もっとも、みながみな、好意的に、
「はやし浩司」を取りあげてくれている
わけではない。悪口や中傷も多い。

そうそう電子マガジンの読者も、
2500人を軽く超えた。こちらのほうは、
すなおな気持ちで、喜んでいる。

これも読者の方たちの応援と声援が
あったからにほかならない。

私の生きがい。それはものを書くこと。
考えること。私は、それを読者のみなさんに
提供する。読者のみなさんは、私に
生きがいをくれる。

これもギブ&テイク!

これからもどうか、よろしく! 

++++++++++++++++

●再び、「釣りバカ日誌」論

 「釣りバカ日誌」という映画がある。いつごろから始まったかは知らない。しかし10年前と、現
在とでは、見方が、大きく変化した。

 10年ほど前に書いた原稿を添付する(中日新聞発表済み)。

+++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え
られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

++++++++++++++

 この中で、「釣りバカ日誌」の中の世界は、世界的に見れば、非常識な世界だと書いた。しか
し今は、少し見方が変わった。

 私自身が、その年齢になったこともある。その年齢というのは、自分の人生を考える年齢と
いうことか。私たちの年齢になると、(したいことをする)ことに、ある種の空しさを覚えるように
なる。「だから、それがどうしたの?」と。

 そのかわり、「私は残りの人生の中で、何をすべきか」を、強く考えるようになる。心理学の世
界でも、それを「統合性」と呼んでいる。

 若いときは、よい。(したいこと)をすれば、それで自己の同一性を確立することができた。し
かし今は、ちがう。(すべきこと)をする。それを「自己の統合性」という。

 この自己の統合性にくらべたら、自己の同一性など、何でもない。そのことが、この年齢にな
ると、よくわかる。

 そこで「釣りバカ日誌」。私は、先日、はからずも、つまり見たくはなかったが、見てしまった。
「釣りバカ日誌・17」。はっきり言おう。実に愚劣で安っぽい、映画だった。星など、つけようも
ない。

 無責任で無頓着。釣り三昧の人生に、どんな意味があるというのか。またそれが人生の晩年
を迎えた男たちの、あるべき姿なのか。まさに(釣りバカ)。人間も、あそこまでバカになりきれ
ば、たいしたもの。が、それ以上の意味はない。

 映画の中で、浜ちゃんは、若い女性を頼まれて、沖に魚釣りに行く。(毎度のことだが……。)
しかし実際に、そんなことが許されるのだろうか。現実の生活の中で、考えてみればよい。もし
あなたが妻なら、どうだろう。夫が、どこかの若い女性と一日、一対一で、魚釣りに行ったよう
なケースを考えてみればよい。

 前にも書いたが、最後のシーンにも、驚いた。スーさん(社長)は、切符をキャンセルして、旅
館の女将とデートにでかける。白いオープンカーで! 「ここ(=金沢)で、一泊するよ」という言
葉を残して……。ややあきれ顔の浜ちゃんの様子も映し出されていた。が、しかし私の頭の中
では、脳みそがバチバチとショートするのを感じた。

 一片の誠意すら、ない。ワイフは、「スーさんの奥さんは、知っているんじゃないの」と言ってい
たが、行く先々に、愛人がいるというということ自体、おかしい。異常。(これは愛人をもてない、
私のひがみではないぞ!)

 私たちは、その年齢になったら、すべきことをする。統合性を確立する。それは私たち自身
の老後を有意義にするためだけではない。それはこの世を生きてきた者の、義務と考えてよ
い。あとに残された人たちが、よりよく生きるための、義務と考えてよい。残りの人生を、けっし
て、自分たちのためだけに使ってはいけない。

 再度、問う。どうしたあんな映画が、この日本では、国民的映画なのか?


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

【子どものうつ病】

+++++++++++++++

小4〜中1で、「うつ」の子どもが、
4・2%もいるという。

このほど、北海道大学の研究
チームが、そんな調査結果を、
公表した。

+++++++++++++++

●子どものうつ病

 ものを書くときは、当然のことながら、(きっかけ)が、大切。きっかけがあってはじめて、もの
を書くことができる。

 それまでは、ただぼんやりとした状態がつづく。頭の中は、からっぽ。率直に言えば、考える
のも、めんどう。が、突然、頭の中で、何かが、ひらめく。キラリとひらめく。その(ひらめき)を感
じたら、それに向かって、書き始める。

 今は、「子どものうつ病」。

 少し前、・・・といっても、たった10年前には、子どものうつ病はないということになっていた。
「おかしいな?」と思いながら、当時、ある総合病院で、小児医科長をしていたドクターに、それ
について聞いたことがある。が、答は、同じ。「子どもに、うつ病はありません」と。

 そんなはずはない。たとえば学校恐怖症にしても、怠学にしても、子どもは、うつ病に似た症
状を示す。「うつ病」と診断しても、さしつかえないと思われる子どももいる。しかし、「子どもに、
うつ病はありません」とは? 

だからたとえば不登校児をもつ親に向かって、心の病気をにおわすようなことを口にするの
は、タブー中のタブー。そんなことを言えば、親たちが、反発した。ふつうの反発ではない。「う
ちの子が学校へ行けないのは、いじめが原因です!」と。

 もちろん(いじめ)が原因で学校へ行けなくなった子どもも多い。が、それ以上に多いのが、
心の病気で、学校へ行けなくなった子ども。うつ病もそのひとつ。学校恐怖症にしても、怠学に
しても、うつ病と区別するのは、むずかしい。印象に残っている子どもに、Sさん(私立高校1年
生、女子)という女の子がいた。

●Sさんのケース

 ある日、Sさんが、母親に連れられて、私の自宅にやってきた。幼児クラスで教えたことのあ
る子どもだった。そのSさんが、学校でいじめにあっているという。そのため、学校へ行けなくな
ってしまった、と。

 母親とSさんは、ことこまかく、いじめの内容について、私に説明した。

 Sさんとは、そのあと1年半近く、なんだかんだと、つきあった。そのSさん、印象的だったの
は、会うたびに、あれこれグチを並べたこと。それも一方的なグチ。時にそれが1時間以上も
つづいた。グチの内容が、会うたびに変化した。

たとえば最初は、「Xさんがいじめる」と言った。話を聞いていると、Xさんの行状を、ことこまかく
説明した。

 で、母親と相談し、ついで、母親が、学校側と相談した。学校側は、クラス変更に応じてくれ
た。が、しばらくすると、今度は、同じクラスのYさんの悪口を言い始めた。理由にもならない理
由を並べて、Yさんを非難した。

 「泥のついたテニスボールで、私にスマッシュをかけてきた」
 「掃除のとき、廊下の真中だけを掃除して、端のほうには、ゴミが残っていた」
 「先生が近くにいるときだけ、あいさつをすると返事をしてくれる。先生がいないと、私を無視
する」とか、など。

 Yさんと同じグループにいたこともある。「Yさんが、私に仕事を押しつけて、家に帰ってしまう」
「そのため、宿題をやる時間がなくなってしまう」というようなことを、言ったこともある。

 つまりひとつの問題が起きると、とことん、その問題にこだわる。しかしその問題が解決する
と、今度は、別の問題を持ちだす。が、その段階で、以前の問題は、ケロッと忘れてしまう。話
題にもならない。

あとは、この繰り返し。私はそのうち、Sさんが、本当の自分をごまかすために、そのつど、あ
れこれ、もっともらしい口実を並べているだけと気づいた。

 (本当の自分)・・・つまり、Sさんは、学校へ行きたくなかった。もっと言えば、心の内に潜む、
もっと大きな力によって、学校へ行くのをはばまれていた(行きたい)とか(行きたくない)という
レベルの話ではない。「行けない」のだ。しかし「行けない」という自分に心さえ、気づいていなか
った。

●北海道大学の調査結果

 このほど、北海道大学の研究チームが、こんな調査結果を公表した。何と、子どもの世界に
も、うつ病があるという! その調査結果で、何よりも驚いたのは、「子どものうつ病」という文
字が、前面に出てきたこと。これには驚いた。この言葉を口にするのは、先にも書いたように、
教育現場では、タブーとされていた。

 が、みなが内心では、「ある」と感じていた。「?」と思っていた。しかしだれも、それを口に出し
て言うことができなかった。私が驚いたのは、そのためである。

 子どもにも、うつ病はある。おとなに負けないほど(?)、立派なうつ病がある。こんなことは今
も昔も常識で、うつ病に、おとなも子どももない。聞いたところでは、犬やネコにもあるそうだ。

 要するに抑圧された精神状態が、慢性的につづくと、心だって風邪をひくということ。原因は
いろいろある。

 北海道大学の調査チームによれば、つぎのようになっている(小学4年〜中学1年の児童、
生徒、738人について、医師が面接方式で診断)。

 有病率では、中学1年(総数122人)で、10・7%! (10人に1人だぞ!) 研究チームの
一員である伝田准教授(北大・精神医学)ですら、「これほど高いとは驚きだ。これまでは子ど
ものうつは見過ごされてきたが、自殺との関係も深く、対策を真剣に考えていく必要がある」
(中日新聞)というコメントを寄せている。

 そのほかの数字は、つぎのようになっている。

 調査は、07年、4〜9月期に行われた。
 北海道内の小学4年から中学1年までの児童、計738人について、精神科医が各学校(小
学校8校、中学校2校)に直接出向き、問診調査。

 その結果、

 軽症のものも含め、うつ病と診断された児童……3・1%
             そううつ病と診断された児童……1・1%

 学年別では、小学4年生…… 1・6%
         小学6年生…… 4・2%
         中学1年生……10・7%

●家庭が原因

 子どものうつ病の原因は、ほぼまちがいなく家庭にあるとみる。さらに最近の研究報告によ
れば、5〜10歳までの離別体験が、うつ病の原因となりやすいという説もある(後述※)。つま
りそのころの家庭の(ひずみ)が、子どもの心に大きな影響を与えるという。

 が、問題はつづく。子どもがうつ病、もしくはうつ病に似た症状を示すと、親は一方的に、子ど
もに向かって、問題を解決しようとする。

 しかし子どもは、あくまでも(代表)にすぎない。子どもに何か問題が起きたら、親は、まず、
親自身、さらには家庭環境を疑ってみる。

 まだ、ある。

 かりに子どもがうつ病、もしくはうつ病に似た症状を示しても、家庭が家庭として機能していれ
ば、症状をその段階で、食い止めることができる。言うまでもなく、家庭の第一の役割は、(心
を休め、体を休める)こと。子どもは、(おとなもそうだが)、家庭で、心を休め、体を休めること
によって、心の疲れを癒すことができる。

●うつの診断

 うつ病といっても、うつ病特有の症状が5つ以上当てはまり、それらの症状が2週間以上つづ
く、「大うつ病(大うつ病性障害)」から、比較的症状の軽い、「小うつ(小うつ病性障害)」に区別
される。

 さらに軽症だが、症状が1年以上つづく、慢性の「気分変調性障害」もある(以上、中日新聞
記事より)。

 そううつ病は、双極性障害とも呼ばれ、うつ病期とそう病期を繰りかえす。なお厚生労働省研
究班の2004〜06年度の報告書によると、約2%が、過去1年に、大うつ病性障害を経験し
ているという(約4100人の地域住民について調査)。

 (東邦大学式抑うつ尺度、SRQーD)によれば、つぎのようになっている。

++++++東邦大学式・うつ病・自己診断(SelfーRating Questionnaire)+++++++

【質問】

1、体がだるく、疲れやすいですか。
2、騒音が気になりますか。
3、最近、気が沈んだり気が重くなることがありますか。
4、音楽をきいて、楽しいですか。
5、朝のうち、とくに無気力ですか。
6、議論に熱中できますか。
7、首筋や肩がこってしかたないですか。
8、頭痛もちですか。
9、眠れないで、朝早く目覚めることがありますか。
10、事故やけがをしやすいですか。
11、食事がすすまず味がないですか。
12、テレビを見て楽しいですか。
13、息がつまって胸苦しくなることがありますか。
14、のどの奧に物がつかえている感じがしますか。
15、自分の人生がつまらなく感じますか。
16、仕事の能率があがらず何をするのもおっくうですか。
17、以前にも現在と似た症状がありましたか。
18、本来は仕事熱心で几帳面ですか。

 以上の項目について、

(いいえ)     ……0点
(ときどき、はい)……1点
(しばしば、はい)……2点
(常に、はい)  ……3点で、自己診断する。

合計点数が、10点以下……問題なし
      11〜15点……ボーダーライン
      16点以上……軽いうつ病の疑い。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 この自己診断で、高得点だからといって、うつ病ということにはならない。自己診断というの
は、そういう点では、主観(思いこみ)に左右されやすい。あると言えばあるし、ないと言えばな
い。高得点の人は、「一応、その疑いがある」というふうに考えたらよいのではないか。

 子どもについて言うなら、ここに書いてあるような症状が、日常的に見られるようであれば、う
つ病を疑ってみるということになる。

●家庭内暴力

 子どものうつ病にからんで問題となるのが、家庭内暴力である。それについて、02年に書い
た原稿があるので、それをここに掲載する。

+++++++++++

家庭内暴力について

●思春期の不安

 思春期の不安感は、大きく分類すると、つぎのように分けられる。

抑うつ気分(気分が晴れない)、悲哀感(何を見ても聞いても悲しい)、絶望感、自信喪失、自
責感(自分はダメな人間と思い込む)、罪責感(罪の意識を強くもつ)など。これらが高じると、
集団に対する不適応症状(不登校、怠学)、厭世気分(生きていることが無意味と思う)感情の
鈍化、感情のコントロール不能(激怒、キレる)などの症状が現れる。

 またその前の段階として、軽い不安症状にあわせて、心の緊張感がほぐれない、焦燥感(あ
せり)などの症状にあわせて、ものごとに対して突発的に攻撃的になったり、イライラしたりする
こともある。(こうした攻撃性が、ときにキレる状態になり、凶暴的、かつ破滅的な行為に及ぶこ
ともある。)

●行為障害としての家庭内暴力

 こうした症状は、思春期の子どもなら、多かれ少なかれ共通してもつ症状といってもよい。
が、その症状が一定レベルを超え、子ども自身の処理能力を超えたとき、さまざまな障害とな
って、発展的に現れる。それらを大きく分けると、思考障害、感情障害、行為障害、精神障害、
身体的障害の五つになる。

 思考障害……ふつう思考障害というときは、思考の停止(考えが袋小路に入ってしまう)、混
乱(わけがわからなくなる)、集中力の減退(考え方が散漫になってしまう)、想像および創造力
の減退(アイデアが思い浮かばない)、記憶力の低下(英語の単語が覚えられない)、決断力
の不足(グズグズした感じになる)、反応力の衰退(話しかけても、反応が鈍い)などをいう。

 感情障害……感情障害の最大の特徴は、自分の感情を、理性でコントロールできないこと。
「自分ではわかっているのだが……」という状態のまま、激怒したり、突発的に暴れたりする。
こうした状態を、「そう状態における錯乱状態」と考える学者もいる。ただ私は、この「自分では
わかっているのだが……」という点に着目し、精神の二重構造性を考える。コンピュータにたと
えていうなら、暴走するプログラムと、それを制御しようとするCPU(中央演算装置)が、同時に
機能している状態ということになる。(実際には、コンピュータ上では、こういうことはありえない
が……。)

この時期の子どもは、感情障害を起こしつつも、もう一人の自分が別にいて、それをコントロー
ルするという特徴がある。その一例として、家庭内暴力を起こす子どもは、(1)暴力行為の範
囲を家庭内でとどめていること。また(2)暴力行為も、(事件になるような特別なケースは別と
して)、最終的な危害行為(それ以上したら、家庭そのものが破滅する行為のこと。

私はこれを「最終的危害行為」と呼んでいる)に及ぶ、その直前スレスレのところで抑制するこ
とがある。家庭内暴力を起こす子どもが、はげしい暴力を起こしながらも、どこか自制的なの
は、そのためと考える。

行為障害……軽度のばあいは、生活習慣の乱れ(起床時刻や就眠時刻が守れない)、生活
態度の乱れ(服装がだらしなくなる)、義務感の喪失(やるべきことをしない)、怠惰、怠学(無気
力になり、無意味なサボり方をする)などの症状が現れる。が、それが高ずると、社会的機能
が影響を受け、集団非行、万引き、さらには回避性障害(他人との接触を嫌い、部屋に引きこ
もる)、摂食障害(拒食症、過食症など)を引き起こすようになる。この段階で、家人は異変に
気づくことが多いが、この状態を放置すると、厭世気分が高じて、自殺願望(「死にたい」と思
う)、自殺企画(自殺方法を考える)、最終的には自殺行為に及ぶこともある。

精神障害……うつ状態が長期化すると、感情の鈍化(喜怒哀楽の情が消える)、無反応性(話
しかけてもボーッとしている)が現れる。一見痴呆症状に似ているので、痴呆症と誤解するケー
スも多い。しかし実際には、ほとんどのケースでは、本人自身が、自分の症状を自覚している
ことが多い。これを「病識(自分で自分の症状を的確に把握している)」という。ある青年は、中
学時代、家庭内暴力を起こしていたときのことについて、こう言った。「いつももう一人の自分
がそこにいて、そんなバカなことをするのをやめろと叫んでいたような気がする。しかしいった
ん怒り始めると、それにブレーキをかけることができなくなってしまった」と。

ほかにもう一つ、腹痛や頭痛などの身体的障害もあるが、一般的な病状と区別しにくいので、
ここでは省略する。

●情緒不安

 よく誤解されるが、情緒が不安定な状態を、情緒不安というのではない。情緒不安というの
は、心の緊張感がとれない状態をいう。「気を許さない」「気を抜かない」「気をゆるめない」とい
う状態を考えればよい。

その緊張しているところに、不安要素が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に心の緊
張感が高まる。このタイプの子どもは、どこか神経がピリピリしていて、心を許さない。そのこと
は軽く抱いてみればわかる。心を許さない分だけ、体をこわばらせたり、がんこな様子で、それ
を拒絶したりする。情緒が不安定になるのは、あくまでもその結果でしかない。

 家庭内暴力を繰り返す子どもは、基本的には、この情緒が不安定な状態にあると考えるとわ
かりやすい。そのためたいていは(親側からみれば)ささいな親の言動で、子どもは突発的に
凶暴になり、攻撃的な暴力を繰り返す。ある女子(中2)は、母親がガラガラとガラス戸を閉め
ただけで、母親を殴ったり、蹴ったりした。母親には理由がわからなかったが、その女子はあと
になってこう言った。「ガラス戸をしめられると、『もっと勉強しなさい』と、催促をされているよう
な気がした」と。

その女子の家は大通りに面していて、ふだんから車の騒音が絶えなかった。それで子どものと
きから、母親はその女子に「勉強しなさい」と言ったあと、いつもそのガラス戸をガラガラとしめ
ていた。母親としては、その女子の部屋を静かにしてあげようと思ってそうしていたのだが、い
つの間にか、それがその女子には「もっと勉強しなさいという催促」と聞こえるようになった……
らしい。

●暴力行為

 家庭内暴力の「暴力」は、その家人にとってはまさに想像を絶するものである。またそれだけ
に深刻な問題となる。その家庭内暴力に、私がはじめて接したケースに、こんなのがある。

 浜松市に移り住むようになってしばらくのこと。私は親類の女性に頼まれて、1人の中学3年
生男子を私のアパートで、個人レッスンをすることになった。「夏休みの間だけ」という約束だっ
た。が、教えて始めてすぐ、その中学生は、おとなしく従順だったが、まさに「何を考えているか
わからないタイプの子ども」ということがわかった。

勉強をしたいのか、したくないのか。勉強をしなければならないと思っているのか、思っていな
いのか。どの程度まで教えてほしいのか、教えてほしくないのか。それがまったくわからなかっ
た。心と表情が、完全に遊離していて、どんな性格なのかも、つかめなかった。

 が、その少年は、家庭の中で、激しい暴力行為を繰り返していた。その少年が暴力行為を繰
り返すようになると、母親は仕事をやめ、父親も出張の多いそれまでの仕事をやめ、地元の電
気会社に就職していた。そういう事実からだけでも、その少年の家庭内暴力がいかに激しかっ
たかがわかる。

その少年を紹介してくれた親類の女性はこう言った。「毎晩、動物のうめき声にも似た少年の
絶叫が、道をへだてた私の家まで聞こえてきました。その子どもが暴れ始めると、父親も母親
も、廊下をはって歩かねばならなかったそうです」と。

私は具体的な話を聞きながら、最初から最後まで、自分の耳を疑った。私が知るその少年
は、「わけのわからない子ども」ではあったが、家の中で、そのような暴力を働いているとは、と
ても思えない子どもだったからである。

●心の病気

 こうした抑うつ感が、うつ病につながるということはよく知られている。一般には家庭内暴力を
起こす子どもは、うつ病であると言われる。おとなでも、うつ病患者が突発的にはげしい暴力行
為を繰り返すことは、よく知られている。が、家庭内暴力を起こす子どもがすべて、うつ病かと
いうと、それは言えない。症状としては重なる部分もあるというだけかもしれない。

たとえば学校恐怖症というのがあるが、どこまでが恐怖症で、どこからがうつ病なのか、その
線を引くのがむずかしい。少なくとも、教育の現場では、その線を引くことができない。同じよう
に、家庭内暴力を起こす子どもと、うつ病との間に、線を引くことはむずかしい。そこで比較的
研究の進んでいる、うつ病についての資料を拾ってみる。(というのも、家庭内暴力という診断
名はなく、そのため、治療法もないということになっているので……。)

 村田豊久氏という学者らが調査したところによると、日本においては、小学2年生から6年生
までの1041人の子どもについて調べたところ、約13・3%に「うつ病とみなしてよいとの評点
を、得点していた」(89年)という。もちろんこの中には、偽陽性者(症状としてうつ病に似た症
状を訴えても、うつ病でない子ども)も含まれているので、13・3%の子どもがすべてがうつ病と
いうことにはならない。

最近の調査研究では、学童全体の約1・8%、思春期の学童の約4・7%が、うつ病ということ
になっている(長崎医大調査)。

が、この数字も、注意してみなければならない。「うつ病」と診断されるほどのうつ病でなくても、
それ以前の軽度、中度のうつ病も含めるとどうなるかという問題がある。さらに、うつ病もふく
めて、こうした情緒障害には、周期性、反復性がある。数週間単位で、症状が軽減したり、重く
なったりすることもある。そういう子どもはどうするかという問題もある。が、それはさておき、こ
こでいう「4・7%」というのは、おおむね、「今という時点において、中学生の約20人に1人が、
うつ病である」と考えてよい数字ということになる。

 で、この数字を多いとみるか、少ないとみるかは、別として、こうした子どもたちが、一方で不
登校や引きこもり(マイナス型)を起こし、また一方で家庭内暴力を起こす(プラス型)、その予
備軍と考えてよい。(あるいは実際、すでに起こしている子どもも含まれる。)

で、ここで問題は、二つに分かれる。(1)どうすれば、家庭内暴力も含めて、どうすれば子ども
のうつ病を避けることができるか。(2)今、家庭内暴力を起こしている子どもも含めて、どういう
子どもには、どう対処したらよいか。

●どうすれば防げるか 

 「すなおな子ども」というとき、私たちは昔風に、従順で、おとなの言うことをハイハイと聞く子
どもを想像する。しかしこれは、誤解。

教育の世界で、「すなおな子ども」というときには、二つの意味がある。一つは、心の状態と表
情が一致していること。悲しいときには悲しそうな顔をする。うれしいときにはうれしそうな顔を
する、など。が、それが一致しなくなると、いわゆる心と表情の「遊離」が始まる。不愉快に思っ
ているはずなのに、ニコニコと笑ったりするなど。

 もう一つは、「心のゆがみ」がないこと。いじける、ひがむ、つっぱる、ひねくれるなどの心の
ゆがみがない子どもを、すなおな子どもという。心がいつもオープンになっていて、やさしくして
あげたり、親切にしてあげると、それがそのままスーッと子どもの心の中にしみこんできくのが
わかる。が、心がゆがんでくると、どこかでそのやさしさや親切がねじまげられてしまう。私「こ
のお菓子、食べる?」、子、「どうせ宿題をさせたいのでしょう」と。

 ついでに、子どもの心は風船玉のようなもの。「家庭」で圧力を加えると、「園や学校」で荒れ
る。反対に「園や学校」で圧力を加えると、「家庭」で荒れる。友人との「外の世界」で荒れること
もある。問題は、荒れることではなく、こうした子どもたちが、いわゆる仮面をかぶり、二重人格
性をもつことだ。親の前では、恐ろしくよい子ぶりながら、その裏で、陰湿な弟や妹いじめを繰
り返す、など。家庭内暴力を起こす子どもなどは、外の世界では、信じられないほど、よい子を
演ずることが多い。

●こわい遊離と仮面

 一般論として、情意(心)と表情が遊離し始めると、心に膜がかかったかのようになる。教える
側から見ると、「何を考えているかわからない子ども」、親から見ると、「ぐずな子ども」ということ
になる。あるいは「静かで、おとなしい子ども」という評価をくだすこともある。

ともかくも心と表情が、ミスマッチ(遊離)するようになる。ブランコを横取りされても、笑みを浮
かべながら渡す。失敗して皆に笑われているようなときでも、表情を変えず平然としている、な
ど。「ふつうの子どもならこういうとき、こうするだろうな」という自然さが消える。が、問題はそれ
で終わらない。

 このタイプの子どもは、表情のおだやかさとは別に、その裏で、虚構の世界を作ることが多
い。作るだけならまだしも、その世界に住んでしまう。ゲームのキャラクターにハマりこんでしま
い、現実と空想の区別がつかなくなってしまう、など。ある中学生は、毎晩、ゲームで覚えた呪
文を、空に向かって唱えていた。「超能力をください」と。あるいはものの考え方が極端化し、先
鋭化することもある。異常な嫉妬心や自尊心をもつことも多い。

 原因の多くは、家庭環境にある。威圧的な過干渉、権威主義的な子育て、親のはげしい情
緒不安、虐待など。異常な教育的過関心も原因になることがある。子どもの側からみて、息を
抜けない環境が、子どもの心をゆがめる。子どもは、先ほども書いたように、一見「よい子」に
なるが、それはあくまでも仮面。この仮面にだまされてはいけない。こうした仮面は、家庭内暴
力を繰り返す子どもに、共通して見られる。

 子どもの心を遊離させないためにも、子育ては、『まじめ8割、いいかげん2割』と覚えておく。
これは車のハンドルの遊びのようなもの。子どもはこの「いいかげんな部分」で、羽をのばし、
自分を伸ばす。が、その「いいかげん」を許さない人がいる。許さないというより、妥協しない。
外から帰ってきたら、必ず手洗いさせるとか、うがいさせるなど。

このタイプの親は、何ごとにつけ完ぺきさを求め、それを子どもに強要する。そしてそれが子ど
もの心をゆがめる。が、悲劇はまだ続く。このタイプの親に限って、その自覚がない。ないばか
りか、自分は理想的な親だと思い込んでしまう。中には父母会の席などで、堂々とそれを誇示
する人もいる。

 なお子どもの二重人格性を知るのは、それほど難しいことではない。園や学校の参観日に行
ってみて、家庭における子どもと、園や学校での子どもの「違い」を見ればわかる。もしあなた
の子どもが、家庭でも園や学校でも、同じようであれば、問題はない。しかし園や学校では、別
人のようであれば、ここに書いた子どもを疑ってみる。そしてもしそうなら、心の開放を、何より
も大切にする。一人静かにぼんやりとできる時間を大切にする。

●前兆症状に注意

 子どもの心の変化を、的確にとらえることによって、子どもの心の病気を未然に防ぐことがで
きる。私なりに、チェック項目を考えてみた。

○ときどきもの思いに沈み、ふきげんな表情を見せる(抑うつ感)
○意味もなく悲しんだり、感傷的になって悲嘆する(悲哀感)
○「さみしい」「ひとりぼっち」という言葉を、ときどきもらす(孤独感)
○体の調子が悪いとか、勉強が思い通りに進まないとこぼす(不調感)
○「どうせ自分はダメ」とか、「未来は暗い」などと考えているよう(悲観)
○何をするにも、自信がなく、自らダメ人間であると言う(劣等感)
○好きな番組やゲームのはずなのに、突然ポカンとそれをやめてしまう(感情の喪失)
○ちょっとしたことで、カッと激怒したり、人が変わったようになる(緊張感)
○イライラしたり、あせったりして、かえってものごとが手につかないよう(焦燥感)
○ときどき苦しそうな表情をし、ため息をもらうことが多くなった(苦悶)
○同じことを堂々巡りに考え、いつまでもクヨクヨしている(思考の渋滞)
○考えることをやめてしまい、何か話しかけても、ただボーッとしている(思考の停止)
○何かの行動をすることができず、決断することができない(優柔不断)
○ワークなど、問題集を見ているはずなのに、内容が理解できない(集中困難)
○「自分はダメだ」「悪い人間だ」と、自分を責める言動がこのところ目立つ(自責感)
○「生きていてもムダ」「どうせ死ぬ」と、「死」という言葉が多くなる(希死願望)
○行動力がなくなり、行動半径も小さくなる。友人も極端に少なくなる(活動力低下)
○動きが鈍くなり、とっさの行動ができなくなる。動作がノロノロする(緩慢行動)
○ブツブツと独り言をいうようになる。意味のないことを口にする(内閉性)
○行動半径が小さくなり、行動パターンも限られてくる(寡動)
○独りでいることを好み、家族の輪の中に入ろうとしない(孤立化)
○何をしても、時間ばかりかかり、前に進まない(作業能率の低下)
○具体的に死ぬ方法を考え出したり、死後の世界を頭の中で描くようになる(自殺企画)

こうした前兆症状を繰り返しながら、子どもの心は、本来あるべき状態から、ゆがんだ状態へ
と進んでいく。

●家庭内暴力の特徴

 家庭内暴力といわれる暴力には、ほかには見られない特徴がいくつかある。

(1)区域限定的
 家庭内暴力は、その名称のとおり、「家庭内」のみにおいて、なされる。これは子どもの側か
らみて、自己の支配下のみで、かつ自己の抑制下でなされることを意味する。その暴力が、家
庭を離れて、学校や社会、友人の世界で起こることはない。

(2)最終的危害行為にまでは及ばない
 子どもは、自分ができる、またできるギリギリのところまでの暴力を繰り返すが、その一線を
越えることはない。(たまに悲惨な事件がマスコミをにぎわすが、ああいったケースはむしろ例
外で、ほとんどのばあい、子ども自身が、暴力をどこかで抑制する。)どこか子ども自身が、「こ
こまでは許される」というような冷静な判断をもちつつ、暴力を繰り返す。

これを私は「精神の二重構造性」と呼んでいる。

言いかえると、これを反対にうまく利用して、子どもの心に訴えるという方法もある。私もよく、
そういう家庭の中に乗り込んでいって、子どもと対峙したことがある。そういうとき、もう一方の
冷静な子どもがいることを想定して、つまりその子どもに話しかけるようにして、諭すという方法
をとる。「これは暴れる君ではない。もう一人の君だ。わかるかな。本当の君だよ。本当の君
は、やさしくて、もう一人の君を嫌っているはずだ。そうだろ?」と。大切なことは、決して子ども
を袋小路に追い込まないこと。励ましたり、脅したりするのは、タブー中のタブー。

(3)計算された恐怖
 
子どもが暴力を振るう目的は、親や兄弟に、恐怖を与えること。その恐怖を与えることによっ
て、相手を自分の支配下に置こうとする。方法としては、暴力団の構成員が、恐怖心を相手に
与えて、自分の優位性を誇示しているのに似ている。そしてその恐怖は、計算されたもの。決
して突発的、偶発的なものではない。

繰り返すが、ここが、子どもがほかで見せる暴力とは違うところ。妄想性を帯びることもある
が、たとえば分裂病患者がもつような、非連続的な妄想や、了解不能な妄想をもつことはな
い。このタイプの子どもは、どうすれば相手が自分の暴力に恐怖を覚え、自分に屈服するかを
計算しながら、行動する。そういう意味では、「依存」と「甘え」が混在した、アンビバレンツ(両
価的)な状態ということになる。

●家庭内暴力には、どう対処するか

 家庭内暴力に対処するには、いくつかの鉄則がある。

(1)できるだけ初期の段階で、それに気づく

家庭内暴力が家庭内暴力になるのは、初期の段階での不手際、家庭教育の失敗によるとこ
ろが大きい。子どもが荒れ始めると、親はこの段階で、説教、威圧、暴言、暴力を使って子ど
もを抑えようとする。体力的にもまだ親のほうが優勢で、一時はそれで収まる様子を見せるこ
とが多い。しかしこうした無理や強制は、それがたとえ一時的なものであっても、子どもの心に
は取り返しがつかないほどのキズを残す。このキズが、その後、家庭内暴力を、さらに凶暴な
ものにする。

(2)「直そう」とか、「治そう」と思わないこと

一度、悪循環に入ると、「以前のほうが、まだ症状が軽かった」ということを繰り返しながら、あ
とはドロ沼の悪循環におちいる。この悪循環の「輪」に入ると、あとは何をしても裏目、裏目と
出る。子どもの心の問題というのは、そういうもので、たとえばこれは非行の例だが、「門限を
過ぎても帰ってきた、そこで親は強く叱る」→「外泊する。そこで親は強く叱る」→「家出を繰り返
す、そこで親は強く叱る」→「年上の男性(女性)と、同棲生活を始める、そこで親は強く叱る」
→「性病になったり、妊娠したりする……」という段階を経て、状態は、どんどんと悪化する。

そこで大切なことは、一度、こうした空回り(悪循環と裏目)を感じたら、「今の状態をそれ以上
悪くしないこと」だけを考えて、親は子どもの指導から思い切って手を引く。「直そう」とか、「治
そう」と思ってはいけない。つまり子どもの側からみて、子どもを束縛していたものから子どもを
解き放つ。(親にはその自覚がないことが多い。)その時期は早ければ早いほどよい。また子
どもの症状は、数か月、半年、あるいは一年単位で観察する。一時的な症状の悪化、改善
に、一喜一憂しないのがコツ。

(3)愛情の糸は切らない

 家庭内暴力は、あくまでも「心の病気」。そういう視点で対処する。脳そのものが、インフルエ
ンザにかかったと思うこと。熱病で、苦しんでいる子どもに、勉強などさせない。ただ脳がインフ
ルエンザにかかっても、外からその症状が見えない。だから親としては、子どもの病状がつか
みにくいが、しかし病気は病気。そういう視点で、いつも子どもをみる。無理をしてはいけない。
無理を求めてもいけない。

この時点で重要なことは、「どんなことがあっても、私はあなたを捨てません」「あなたを守りま
す」という親の愛情を守り抜くこと。ここに書いたように、これはインフルエンザのようなもの。本
当のインフルエンザのように、数日から一週間で治るということはないが、しかし必ず、いつか
治る。(治らなかった例はない。症状がこじれて長期に渡った例や、副次的にいろいろな症状
を併発した例はある。)必ず治るから、そのときに視点を置いて、「今」の状態をみる。この愛
情さえしっかりしていれば、子どもの立ち直りも早いし、予後もよい。あとで笑い話になるケース
すらある。

(4)心の緊張感をほぐす

 一般の情緒不安と同じに考え、心の緊張感をほぐすことに全力をおく。そのとき、何が、「核」
になっているかを、知ることが大切。多くは、将来への不安や心配が核になっていることが多
い。自分自身がもつ学歴信仰や、「学校へは行かねばならないもの」という義務感が、子ども
自らを追い込むこともある。よくあるケースとしては、子どもの心を軽減しようとして、「学校へは
行かなくてもいい」と言ったりすると、かえって暴力がはげしくなることがある。子ども自身の葛
藤に対しては、何ら解決にはならないからである。

 だいたい親自身も、それまで学歴信仰を強く信奉するケースが多い。子どもはそれを見習っ
ているだけなのだが、親にはその自覚がない。意識もない。子どもが家庭内暴力を起こした段
階でも、「まともに学校へ行ってほしい」「高校くらいは出てほしい」と願う親は多い。が、それも
限界を超えると、そのときはじめて親は、「学校なんかどうでもいい」と思うようになるが、子ども
はそれほど器用に自分の考えを変えることができない。そこで葛藤することになる。「どんどん
自分がダメになる」という恐怖の中で、情緒は一挙に不安定になる。

 ただ症状が軽いばあいは、子どもが学校へ行きやすい環境を用意してあげることで、暴力行
為が軽減することがある。A君は、夏休みの間、断続的に暴力行為を繰り返していたが、母親
が一緒になって宿題を片づけてやったところ、その暴力行為は停止した。このケースでも、子
ども自身が、自分を追い込んでいたことがわかる。

(5)食生活の改善

 家庭内暴力とはやや、内容を異にするが、「キレる子ども」というのがいる。そのキレる子ども
について、最近にわかにクローズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。つまり脳
間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令を狂わ
すという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、「過剰行動児」として、もう20年以上も前から指摘されていることだが、もう少し
具体的に言うとこうだ。たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、イ
ンスリンが多量に分泌され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因と
なるという(岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。リン酸をとると、せっかく摂取したカル
シウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。一方、昔からイギリスでは、『カルシ
ウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カルシウムは精神安定剤として使われてい
た。

それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみ
る。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足してくると、筋肉の緊張感が持続できず、座って
いても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさせたりする。

 これはここにも書いたように、キレる子どもへの対処法のひとつだが、家庭内暴力を繰り返
す子どもにも有効である。

 最後に家庭内暴力を起こす子どもは、一方で親の溺愛、あるいは育児拒否などにより、情緒
的未熟性が、その背景にあるとみる。親は突発的に変化したと言うが、本来子どもというの
は、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐように、段階的に成長する。

その段階的な成長が、変質的な環境により、阻害されたためと考えられる。よくあるケースは、
幼児期から少年少女期にかけて、「いい子」で過ごしてしまうケース。こうした子どもが、それま
で脱げなかったカラを一挙に脱ごうとする。それが家庭内暴力の大きな要因となる。そういう意
味では、家庭内暴力というのは、もちろん心理的な分野からも考えられなければならないが、
同時に、家庭教育の失敗、あるいは家庭教育のひずみの集大成のようなものとも考えられ
る。子どもだけを一方的に問題にしても意味はないし、また何ら解決策にはならない。

(以上、未完成ですが、また別の機会に補足します。)
(02ー9ー1)※

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●子どものうつには、休養

 子どもがうつ状態、もしくはうつ病的症状を見せたら、鉄則は、ただひとつ。休養、あるのみ。
しかもそれには、半年〜1年単位の休養が必要である。が、これは子どもの問題というより、
親の問題と考えてよい。

 たとえば学習面においても、1年単位の休養が必要である。しかしそれを親に納得させるの
は、むずかしい。「それでは受験にまにあわない」「受験競争から脱落してしまう」と。そして結
果的に、行き着くところまで、行く。またそこまで行かないと、親も気づかない。

 が、コツがないわけではない。子どもが過負担によるうつ症状を見せたら、『負担は、少しず
つ減らす』(後述、参考)など 。急にすべてを減らすと、あとあと立ちなおりが、むずかしくな
る。それについても、以前、いろいろな原稿を書いてきた。もしあなたの子どもが、うつ的な症
状を見せたら、ここに書いたことを参考に、子どもを包む家庭環境を、猛省してみてほしい。

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子どもを無気力から回復させるための30の鉄則

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●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたと
する。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう
何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。
子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、
叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これ
を弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになる
と、学習効果が、著しく落ちるようになる。


●内面化

子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の
発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自
己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、
社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、
「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母
親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的
過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対し
ては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい
無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、
やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き
症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程
度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標
をもたせるようにする。


●子どもの恐怖症

恐怖症といっても、内容は、さまざま。対人恐怖症、赤面恐怖症、視線恐怖症、体臭恐怖症、
醜形恐怖症、吃音恐怖症、動物恐怖症、広場恐怖症、不潔恐怖症、高所恐怖症、暗所恐怖
症、閉所恐怖症、仮面恐怖症、先端恐怖症、水恐怖症、火恐怖症、被毒恐怖症、食事恐怖症
などがある。子どもの立場になって、子どもの視線で考えること。「気のせいだ」式の強引な押
しつけは、かえって症状を悪くするので注意。


●子どもの肥満度

児童期の肥満度は、(実測体重Kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗で計算する。この計
算式で、値が160以上を、肥満児という(ローレル指数計算法)。もっと簡単に見る方法として
は、手の甲を上にして、指先を、ぐいと上にそらせてみる。そのとき、指のつけねに腱が現れる
が、この腱の部分にくぼみが現れるようになったら、肥満の初期症状とみる。この方法は、満5
歳児〜の肥満度をみるには、たいへん便利。


●チック

欲求不満など、慢性的にストレスが蓄積すると、子どもは、さまざまな神経症的症状を示す。た
とえば爪かみ、指しゃぶり、夜尿、潔癖症、手洗いグセなど。チックもその一つ。こうした症状を
総称して、神経性習癖という。このチックは、首から上に出ることが多く、「おかしな行動をす
る」と感じたら、このチックをうたがってみる。原因の多くは、神経質で、気が抜けない家庭環境
にあるとみて、猛省する。
(はやし浩司 子供の肥満 肥満度 子どもの肥満)

 
●伸びたバネは、ちぢむ

受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓な
ど。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事
的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。『伸びたバネは
ちぢむ』と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、
水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほし
い。


●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、も
ってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中にな
っていれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、
いかに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成
度の低い子どもとみる。勉強のできる、できないは、関係ない。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子ども
の姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人よ
り、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」
と、相対的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴につい
て、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分
のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から
学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているのですが、
ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知るこ
と。一見簡単そうだが、これがむずかしい。ギリシアのターレスもこう言っている。『汝自身を、
知れ』と。哲学の究極の目標にも、なっている。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。

●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

 
●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分で自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。


●上下意識は、もたない

兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。


●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。た
とえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄弟
(姉妹)は、仲がよいと言われている。


●差別しない

長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。


●嫉妬はタブー

兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。


●たがいを喜ばせる

兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連れ
ていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買い
与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てるた
めにも、重要である。


●決して批判しない

子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。


●得意面をさらに伸ばす

子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえ
ば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始め
るということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そ
もそも、その発想からしてまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の
悪循環を繰りかえすようになる。


●悪循環を感じたら、手を引く

子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめ
て、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親
ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一
度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自
信喪失から、自己否定に走ることもある。


●子どもは、ほめて伸ばす

『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言え
ば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、
字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、
ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自
信が、子どもを伸ばす原動力になる。


●孤立感と劣等感に注意

家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼく
はダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方
は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれ
ば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。


●すなおな子ども

従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の
世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情
表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子ども
にやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがす
る。そういう子どもを、すなおな子どもという。


●自己意識を育てる
乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なこと
は、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばAD
HD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの
自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症
状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立
ちなおりが遅れる。


●まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子ど
もは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったよ
うなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向か
っては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身に
ある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


●「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「や
ってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子ども
を苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで
子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にし
てね)」と。


●「子はかすがい」論
たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、そ
れで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかか
っているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかな
い。日本には『子は三界の足かせ』という格言もある。


●「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では『子は親のうしろ姿を見て
育つ』というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せ
ろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは
見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、
お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。


●「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地
のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ、上のもの
の前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一
利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、
封建時代の遺物と考えてよい。


●「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、
子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えてい
る間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の
世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育
てにかこつける必要はない。


●「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに
求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子ど
もの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思
いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが
親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬され
る」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」
と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人
の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、
無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。


●「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといって、身
分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつか
りながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この
権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その
矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どん
なことでもできる。ご注意!


●「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は
仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世
界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻
の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんな
ことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本
にあるとみる。


●「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはい
ない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘
になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザ
コン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになって
いる。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほ
ど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭
に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは
居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくる
よ」だ。


●「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、『内助の功』という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉
ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題
は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女性が、「それでい
い」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と
いう考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


 ●子育ては、考えてするものではない

だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言う。子育てとい
うのは、もともと、そういうもの。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗をするとき
は、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわり)があれ
ば、まず、それに気づく。あとは時間が解決してくれる。


●子育ては、世代連鎖する

子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖する。またそう
いう部分が、ほとんどだと考えてよい。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によるも
の」と考える。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のうちに繰
りかえしているだけだということになる。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代に、残
さないということ。これを昔の人、『因を断つ』と言った。


●子育ての見本を見せる

子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せると
いうこと。見せるだけでは、足りない。子どもを包む。幸福な家庭というのは、こういうものだ。
夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、と。そういう(学習)があっ
て、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになる。


●子どもには負ける

子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしてもし
かたないし、本気で相手にしてはいけない。ときに親は、わざと負けて見せたり、バカなフリをし
て、子どもに自信をもたせる。適当なところで、親のほうが、手を引く。「こんなバカな親など、ア
テにならないぞ」「頼りにならない」と子どもが思うようになったら、しめたもの。


●子育ては重労働

子育ては、もともと重労働。そういう前提で、考える。自分だけが苦しんでいるとか、おかしいと
か、子どもに問題があるなどと、考えてはいけない。しかしここが重要だがが、そういう(苦し
み)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長する。そのことは、子育てが終わってみ
ると、よくわかる。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親に見せてくれる。
子育ての終わりには、それがやってくる。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立する。「あなたはあなたで、勝手に生
きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクとし
がちな、親子関係に、風を通す。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないというの
は、それだけその人の生きザマが、小さいということになる。あなたはあなたで、したいことを、
する。そういう姿が、子どもを伸ばす。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
もの。そういう前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない
株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、な
おさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言ったか
らといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言いな
がらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意
「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。


 ●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたと
する。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう
何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。
子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、
叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これ
を弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになる
と、学習効果は、著しく落ちるようになる。


●内面化
子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の
発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自
己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、
社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、
「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母
親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的
過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対し
ては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい
無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、
やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き
症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程
度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標
をもたせるようにする。

(補足)

●負担は少しずつ減らす

+++++++++++++++

子どもに課負担による症状が
見られると、親は、あわてて
負担を減らそうとする。

そのときのコツが、これ。

『負担は、少しずつ、減らす』。

+++++++++++++++

 ときに子どもは、オーバーヒートする。子どもはまだ後先のことがわからないから、そのときど
きで、あまり考えないで、「やる」とか、「やりたい」とか言う。しかしあまりそういう言葉は信じな
いほうがよい。子どもが、音楽教室などへ行くのをしぶったりすると、「あんたが行くと言ったか
らでしょ。約束を守りなさい」と叱っている親を、よく見かける。が、それは酷というもの。

 で、慢性的な過負担がつづくと、やがて子どもの心はゆがむ。ひどいばあいには、バーントア
ウトする。症状としては、気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念
が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴える
ようになるなどが、ある。もっともこれは重症なケースだが、子どもは、そのときどきにおいて、
ここに書いたような症状を薄めたような様子を見せることがある。そういうときのコツがこれ、
『負担は、少しずつ減らす』。

 たとえば今、2つ、3つ程度なら、おけいこ塾をかけもちしている子どもは、いくらでもいる。音
楽教室に体操教室、英会話などなど。が、体の調子が悪かったりして、1つのリズムがおかしく
なると、それが影響して、生活全体のリズムを狂わせてしまうことがある。そういうとき親は、あ
わててすべてを、一度にやめさせてしまったりする。A君(小二)がそうだった。

 A君は、もともと軽いチックがあったが、それがひどいものもらいになってしまった。そこで眼
科へ連れていくと、ドクターが、「過負担が原因です。塾をやめさせなさい」と。そこで親は、そ
れまで行っていた塾を、すべてやめさせてしまった。とたん、A君には、無気力症状が出てき
た。学校から帰ってきても、ボーッとしているだけ。反応そのものが鈍くなってしまった。

子どものばあい、突然、負担を大きくするのもよくないが、突然、少なくするのもよくない。こうい
うケースでは、少しずつ負担を減らすのがよい。おけいこごとのようなものについても、様子を
みながら、少しずつふやす。ひとつのおけいこが、うまく定着したのを見届けてから、つぎのお
けいこをふやすというように、である。そして減らすときも、同じように数か月をかけて、徐々に
減らす。でないと、たいていのばあい、立ちなおりができなくなってしまう。

 A君のケースでは、そのあと、無気力症状が、1年近くもつづいてしまった。もし負担を徐々に
減らしていれば、もっと回復は早かったかもしれない。さらにしばらくして、こんなこともあった。

以前のような子どもらしい活発さをA君が取り戻したとき、親が、「もう一度……」と、音楽教室
へ入れようとしたことがある。が、それについては、今度はA君は狂人のようになって暴れ、そ
れに抵抗したという。もちろんそのため、A君は、勉強全体から遠ざかってしまった。今も、も
う、それから数年になるが、遠ざかったままである。

 子どもというのは、一見タフに見えるが、その心は、ガラス玉のようにデリケート。そしてこわ
れるときは、簡単にこわれる。もしそれがわからなければ、あなた自身はどうなのか。あるいは
どうだったかを頭の中に思い浮かべてみるとよい。あるいはあなたならできるか、でもよい。た
いていその答は、「ノー」である。


(注※、子どもの離別体験)

●子どものうつ病

+++++++++++++++++

うつ病の素因(遠因)は、満5歳から
10歳ごろまでに、つくられるという。

しかもその主なる原因は、離別体験だ
という。

つまり幼少期に親と離別体験を経験した
子どもほど、のちにおとなになって
から、うつ病(抑うつ状態)に
なりやすいということがわかって
いる。

もし今、あなたがうつ病、もしくは
うつ病的な傾向があるなら、まず、
自分の過去をのぞいてみよう。

それがあなたの心を守る第一歩となる。

++++++++++++++++

●幼少期の離別体験

 児童期の喪失体験が、子どもの抑うつ状態と、深く関係しているという(社会精神医学、7;1
14ー118)。

 いわく「10歳以前の両親のいずれかと死別体験、もしくは、分離体験という喪失体験が、正
常対象群(9%)に対して、患者群(39%)に有意の差をもって多く認められた。

 しかし抑うつ状態の診断下位群、抑うつ状態の臨床結果とは特異な所見を得られなかった。

 さらに5〜10歳までが、喪失体験が抑うつ状態の素因を形成するための臨界期であろうと
推察した」と。

 わかりやすく言うと、こうなる。

10歳以前に、両親のいずれかと死別、もしくは分離体験をした子どもほど、のちにおとのなに
なってから、抑うつ状態になりやすいということ。

 同じような報告は、イギリスのバーミンガム病院でも、報告されている(精神医学、28;387
〜393、1986)。

 精神障害のある39人の患者について調べたところ、「15歳以前で、12か月以上の離別体
験をもった人」は、そうでない人よりも、明らかに関連性があることがわかったという。

 しかもこの報告で、興味深いのは、異性の親(男児であれば、母親、女児であれば、父親)と
の離別体験をもった人ほど、「有意な差」が見られたという。

 さらに報告書は、こう書いている。

 「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連を呈さなかったが、離別体験は家族歴の有無と
有意(exact probability test, p=0.026)の関連をもち、この傾向は、離別の対象が異性の親で
ある際に強いものであった。

 異性親からの離別を体験したものは、家族歴を有する20人のうち、7名(35%)であるのに
対して、家族歴を有さないもの19名では、皆無(0%)であった。

 このことから、うつ病発症に関与していると考えられる幼少期の離別体験は、一部には、家
族員の精神疾患から発生したものである可能性が示された」(北村俊則)と。

 以上を、わかりやすくまとめると、こうなる。

(1)10歳以前に親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(2)異性の親との死別体験や離別体験をもった人ほど、うつ病になりやすい。
(3)家族のだれかに精神疾患があった人ほど、うつ病になりやすい。

 かなり乱暴なまとめ方なので、誤解を招く心配もないわけではないが、おおざっぱに言えば、
そういうことになる。そしてこうした調査報告を、裏から読むと、こうなる。

(1)10歳以前に、子どもに、離別体験を経験させるのは、避けたほうがよい、と。

 しかし実際には、たとえば親の離婚問題を例にあげて考えてみると、離婚(離別)そのものが
子どもに影響を与えるというよりは、それにいたる家庭内騒動が、子どもに影響を与えるとみ
るべきである。バーミンガム病院での報告書にも、「死別体験は家族歴の有無と、有意の関連
を呈さなかった」とある。

 解釈のしかたにも、いろいろあるが、死別のばあいは、離婚騒動で起きるような家庭内騒動
は、起きない。

 だから離婚するにしても、(それぞれの人たちは、やむにやまれない理由があって離婚する
ので)、子どもとは無縁の世界で、話を進めるのがよいということになる。子どもの目の前で、
はげしい夫婦げんかをするなどという行為は、タブーと考えてよい。

 また、この調査結果は、もうひとつ重要なことを私たちに教えている。

 もし今、あなたがうつ病、もしくはうつ病的な傾向を示しているなら、その原因は、ひょっとした
ら、あなた自身の幼少期に起因しているかもしれないということ。(うつ病の原因が、すべて幼
少期にあると言っているのではない。誤解のないように!)

 そこであなたは、自分の過去を、冷静に、かつ客観的に見つめなおしてみる。

 しかし問題は、あなた自身が、そういう過去を経験したということではなく、そういう過去があ
ることに気がつかないまま、そういう過去の虜(とりこ)となって、その過去に操られることであ
る。

 そこでまず、自分の過去を知る。

 もしそのとき、あなたが心豊かで恵まれた環境の中で、育てられたというのであれば、それは
それとして結構なことである。が、反対に、ここでいうような不幸な体験(親との死別体験や離
別体験)を経験しているなら、あなたの心は、何らかの形で、かなりキズついているとみてよ
い。

 しかしそれがこの問題を克服する第一歩である。

 自分の過去を知り、自分の心のキズに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。5年とか
10年とか、あるいはもっと時間がかかるかもしれない。が、あとは、時間に任せればよい。少
なくとも、自分の(心の敵)がわかれば、恐れることはない。不必要に悩んだり、苦しんだりする
こともない。

 うつ病にかぎらず、心の問題というのは、そういうものである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
ものうつ病 鬱病 子供のうつ病 子供の鬱病 離別体験 心の風邪)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2244)

【今朝・あれこれ】(10月20日)

+++++++++++++++

10月らしい朝だ。
乾いた空気、小寒い感触、どこか空は
重ぼったい。

昨夜。はじめてコタツに電源を入れた。
ほんのりとした暖かさを感じながら、
「秋だなあ」と、しみじみと思う。

+++++++++++++++

●子どものうつ病

 昨日、子どものうつ病についての原稿をまとめた。

 村田豊久氏という学者らが調査したところによると、日本においては、小学2年生から6年生
までの1041人の子どもについて調べたところ、約13・3%に「うつ病とみなしてよいとの評点
を、得点していた」(89年)という。もちろんこの中には、偽陽性者(症状としてうつ病に似た症
状を訴えても、うつ病でない子ども)も含まれているので、13・3%の子どもがすべてがうつ病と
いうことにはならない。

また長崎大学医学部の調査研究によれば、学童全体の約1・8%、思春期の学童の約4・7%
が、うつ病ということになっている。

 さらに今回、北海道大学の研究チームが、つぎのような結果を出した。

 北海道内の小学4年から中学1年までの児童、計738人について、精神科医が各学校(小
学校8校、中学校2校)に直接出向き、問診調査した結果、

 軽症のものも含め、うつ病と診断された児童……3・1%
             そううつ病と診断された児童……1・1%

 学年別では、小学4年生…… 1・6%
         小学6年生…… 4・2%
         中学1年生……10・7%

 研究チームの出した結果には、大きなバラつきがあるが、おおむね、中学生で、10%前後
の子どもたちが、うつ、もしくはうつ病の状態にあると考えてよいようだ。約10人に1人というこ
とになる。

 このうつ、もしくはうつ病でこわいのは、外からの様子では、わかりにくいということ。明るく快
活だから、うつではないとも、また反対に、暗く沈んでいるから、うつであるとも言えない。うつ状
態にありながら、明るく快活な子どもはいくらでもいる。暗く沈んでいても、うつでない子どもも、
いる。

 私なども、外の世界では、結構明るく振る舞っているが、慢性的なうつ状態にある。慢性的だ
から、どこからどこまでがほんとうの私で、どこから先が、うつの私なのか、自分でもよくわから
ない。

 たとえばうつ病の特徴の一つに、「騒音が気になる」(東邦大学・自己診断)というのがある。
私のばあい、たしかにそうだ。しかし騒音が気にならない人というのは、よほど鈍感な人か、騒
音があってもかまわないような職業をしている人ではないか。

 だから騒音が気になるたびに、「これはうつによるものなのか、どうか」と、迷う。ほかにもあ
る。つまり正常か、正常でないかという判断は、一応の基準はあっても、たいへんむずかしい。
あえて言うなら、この世界では、正常者はいないという前提で、ものを考えたほうが、わかりや
すいのでは? だいたい、「正常者」というのは、どういう人を言うのだろう?

 うつ病にしても、よく(心の風邪)にたとえられる。風邪をひいているから、健康でないとも、反
対に、風邪をひいていないから、健康であるとも言えない。「健康」という尺度は、もっと別のと
ころにある。同じように、「正常者」という尺度も、もっと別のところにある。

 子どもにしても、そうだ。特異なケースは別として、「正常な子ども」というのは、いない。何か
をさがせば、必ず、何かがある。しかしその(何か)が、その子どもの個性となっているばあい
も、多い。

 ……とまあ、自分でも何を書いているか、よくわからないので、この話は、ここまで。

 どんな私であっても、またなくても、今日は今日で、がんばって生きていくしかない。みなさん、
おはようございます。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

【ドラ息子、ドラ娘】

●甘やかしと、きびしさ

+++++++++++++

甘やかしと、きびしさ。一貫性の
ない親の育児姿勢が、子どもを
ドラ息子、ドラ娘にする。

甘やかしで、規範そのものが
崩れる。一方、アンバランスな
きびしさが、子どもを反抗的に
する。

わがままで、自分勝手。
思うようにことが運ばないと、
キレる……。

+++++++++++++

 一方で甘やかす。しかしその甘やかしに手を焼き、ときとして、きびしく接する。はじめは、小
さなすき間だが、それが繰りかえされるうち、やがてすき間が広がる。(甘やかす)→(ますます
きびしく接する)→(甘やかす)の悪循環の中で、親の手に負えなくなる。一貫性のない親の育
児姿勢が、子どもをして、ドラ息子、ドラ娘にする。 

 このタイプの親には、共通点がある。

(1)溺愛性(生活のすべてが、子ども中心)
(2)育児観の欠落(どういう子どもに育てたいのか、その教育観が希薄)
(3)飽食とぜいたく(どちらかというと、余裕のある裕福な家庭)
(4)視野が狭い(目先のことしか、考えていない)
(5)見栄っ張り(世間体や外見を重んじる)
(6)代償的過保護(子どもを自分の思いどおりにしたい)
(7)親自身も、ドラ息子、ドラ娘的(自分がドラ息子、ドラ娘的であることに気づかない)

 これらの特徴と併せて、(8)一貫性がない。そのときの気分で、子どもに甘く接したり、きびし
く接したりする。A君(6歳、架空の子ども)を例にあげて、考えてみよう。

 A君の父親は、もの静かな人だった。一方、母親は派手好き。裕福な家庭で、生まれ育っ
た。ほしいものは、何でも買い与えられた。

 A君は、生まれたときから、両親の愛情に恵まれた。近くに祖父母もいて、A君の世話をし
た。A君は、まさに「蝶よ、花よ」と育てられた。

 母親は、A君に楽をさせること、楽しい思いをさせることが、親の愛の証(あかし)と考えてい
た。A君は、その年齢になっても、家の手伝いは、ほとんどしなかった。いや、するにはしたが、
とても手伝いとは言えないような手伝いをしただけで、みなが、おおげさに喜んでみせたり、ほ
めたりした。「ほら、Aが、クツを並べた!」「ほら、Aが、花に水をやった」と。

 が、やがて、A君のわがままが目立つようになった。あと片づけをしない、ほしいものが手に
入らないと、怒りを露骨に表現するなど。母親は、そのつど、A君をはげしく叱った。A君は、そ
れに泣いて抗議した。

 A君は、幼稚園へ入る前から、バイオリン教室、水泳教室、体操教室に通った。夫の収入だ
けでは足りなかった。A君の母親は、実家の両親から、毎月、5〜8万円程度の援助を受けて
いた。夫には内緒、ということだった。

 A君は、そこそこに伸びたが、しかしそれほど力のある子どもではなかった。そのためA君の
母親は、ますますA君の教育にのめりこんでいった。そのころすでにA君は、オーバーヒート気
味だったが、母親は、それに気づかなかった。「やればできるはず」式に、A君に、いろいろさ
せた。

 A君がだれの目にもドラ息子とわかるようになったのは、年長児になったころである。好き嫌
いがはげしく、先にも書いたように、自分勝手でわがまま。簡単なゲームをさせても、ルールを
守らなかった。そのゲームで負けると、大泣きしたり、あるいはまわりの人に乱暴を繰りかえし
たりした。

 人格の完成度が遅れた。他人の心が理解できない。自己中心的。ほかの子どもたちとの協
調性に欠けた。幼稚園の先生が何か仕事を頼んでも、A君は、機嫌のよいときはそれをした
が、そうでないときは、いろいろ口実を並べて、それをしなかった。

 小学2、3年生になるころには、母親でも、手に負えなくなった。そのころになると、母親にも
乱暴を繰りかえすようになった。母親を蹴る、殴るは、日常茶飯事。ものを投げつけることも重
なった。が、A君は、自分では、何もしようとしなかった。学校の宿題をするだけで、精一杯。そ
の宿題すら、母親に、手伝ってしてもらっていた。

 ……という例は、多い。今では、10人のうち、何人かがそうであると言ってよいほど、多い。
が、何よりも悲劇的なのは、そういう子どもでありながらも、母親が、それに気づくことがないと
いうこと。『溺愛は、親を盲目にする』。A君の母親は、ますます献身的に(?)、A君に仕えた。

 こういうとき母親がそれに気づき、私のようなものに相談でもあれば、私もそれなりに対処で
きる。アドバイスもできる。しかしそれに気づいていない親に向かって、「あなたのお子さんに
は、問題があります」とは、現実には、言えない。言ったところで、そのリズム、つまり子育ての
リズムを変えることは、不可能。親にとっても、容易なことではない。そのリズムは、子どもを妊
娠したときから、はじまっている。そんなわけで、わかっていても、知らぬフリをする。

 が、やがて行き着くところまで、行き着く。親自身が、袋小路に入り、にっちもさっちも行かなく
なる。が、そのときでも、子どもに問題があると気づく親は少ない。「うちの子にかぎって……」
「そんなはずはない……」と、親は親で、がんばる。

 A君のドラ息子性は、さらにはげしくなった。小学5、6年になるころには、まさに王様。食事
も、ソファに寝そべって食べるようになった。母親が、そこまで盆にのせて、A君に食事を届け
た。母親は、A君のほしがるものを、一度は拒(こば)んではみせるものの、結局は、買い与え
ていた。「機嫌をそこねたら、塾へも行かなくなる」と。

 本来なら、こうした異常な母子関係を調整するのは、父親の役目ということになる。が、A君
の父親は、静かで、やさしい人だった。家庭のことには、ほとんど関心を示さなかった。仕事か
ら帰ってくると、自分の部屋で、ひとりでビデオの編集をして時間をつぶしていた。
 
 ……というわけで、子どものドラ息子性、ドラ娘性の問題は、いかに早い段階で、親がそれに
気づくか、それが大切。早ければ早いほど、よい。できれば3、4歳ごろには、気づく。(それで
も遅いかもしれない。)

 というのも、この問題は、家庭がもつ(子育てのリズム)に、深く関係している。そのリズムを
変えるのは、容易なことではない。1年や2年はかかる。あるいは、もっと、かかる。さらに親自
身がもつ、子育て観を変えるのは、ほぼ不可能とみてよい。それこそ行き着くところまで行き、
絶望のどん底にたたき落とされないかぎり、親も、それに気づかない。

 ある母親は、自分の子ども(中3男子)が、万引き事件を起こしたとき、一晩で、事件そのも
のを、もみ消してしまった。あちこちを回り、お金で解決してしまった。また別の子ども(高1男
子)は、無免許で車を運転し、隣家の塀を壊してしまった。そのときも、母親が、一晩で、事件
そのものをもみ消してしまった。

こういうことを繰りかえしながら、親はドン底にたたき落とされる。で、やっとそのころになると、
自分の(まちがい)に気づく。それまでは、気づかない。ひょっとしたら、この文章を読んでいる
あなた自身も、その1人かもしれない。が、ほとんどの人は、こういう文章を読んでも、「私には
関係ない」と、無視する。これは子育てがもつ、宿命のようなもの。

 そこで教訓。

 あなたの子どもが、わがままで自分勝手なら、子どもを責めても意味はない。責めるべきは、
あなた自身。反省すべきは、家庭環境そのもの。あなたの育児姿勢。家庭のリズム。あなたの
人生観、それに子育て観。

 子どもだけを見て、子どもだけをなおそうと考えても、ぜったいになおらない。なおるはずもな
い。この問題は、そういう問題である。

+++++++++++++++

ドラ息子、ドラ娘について書いた
原稿を、いくつか添付します。

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子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君は、
日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、料理の手伝いはしない、食事のあと、食器を洗わ
ない。片づけない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさな
い」などなど。つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームス
テイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われ
るような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状として
は、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を
楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動す
ることができない、など。


●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。しかし一度この
時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。

ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省
する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」
とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつく
ってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん
が捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシー
で、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用
をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家
事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなく
なる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き
なことをしているだけ。

幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所の生ゴミを
始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛
玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。

こんな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのお
ばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、
こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれ
るのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして
も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える
力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき
ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋さ
んが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされ
ると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。
 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。

しかし知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省
したほうがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わ
ったら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。
さらに食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の
草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと
をいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それ
が、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)生活感
のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなう
ことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困る
のだ」という意識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。(3)忍耐
力をつけさせるため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを守らせる。(5)不自由である
ことが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、(6)バランスのある生活
に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの金銭感覚

 年長(6歳)から小学2年(8歳)ぐらいの間に、子どもの金銭感覚は完成する。その金銭感覚
は、おとなのそれと、ほぼ同じになるとみてよい。が、それだけではない。子どもはこの時期を
通して、お金によって物欲を満たす、その満たし方まで覚えてしまう。そしてそれがそれから
先、子どものものの考え方に、大きな影響を与える。

 この時期の子どものお金は、100倍して考えるとよい。たとえば子どもの100円は、おとな
の1万円に相当する。1000円は、10万円に相当する。

親は安易に子どもにものを買い与えるが、それから子どもが得る満足感は、おとなになってか
らの、1万円、10万円に相当する。「与えられること」に慣れた子どもや、「お金によって欲望を
満足すること」に慣れた子どもが、将来どうなるか。もう、言べくもない。

さすがにバブル経済がはじけて、そういう傾向は小さくなったが、それでも「高価なものを買って
あげること」イコール、親の愛と誤解している人は多い。より高価なものを買い与えることで、親
は「子どもの心をつかんだはず」と考える。

あるいは「子どもは親に感謝しているはず」と考える。が、これはまったくの誤解。実際には、逆
効果。それだけではない。ゆがんだ金銭感覚が、子どもの価値観そのものを狂わす。ある子
ども(小2男児)は、こう言った。「明日、新しいゲームソフトが発売になるから、ママに買いに行
ってもらう」と。そこで私が、「どんなものか、見てから買ってはどう?」と言うと、「それではおく
れてしまう」と。その子どもは、「おくれる」と言うのだ。

最近の子どもたちは、他人よりも、より手に入りにくいものを、より早くもつことによって、自分
のステイタス(地位)を守ろうとする。物欲の内容そのものが、昔とは違う。変質している。……
というようなことを考えていたら、たまたまテレビにこんなシーンが出てきた。

援助交際をしている女子高校生たちが、「お金がほしいから」と答えていた。「どうしてそういう
ことをするのか」という質問に対して、である。しかも金銭感覚そのものが、マヒしている。もって
いるものが、10万円、20万円という、ブランド品ばかり!

 さて、誕生日。さて、クリスマス。あなたは子どもに、どんなものを買い与えるだろうか。1000
円のものだろうか。それとも1万円のものだろうか。お年玉には、いくら与えるだろうか。与える
としても、それでほしいものを買わせるだろうか。それとも、貯金をさせるだろうか。いや、その
前に、それを与えるにふさわしいだけの苦労を、子どもにさせているだろうか。

どちらにせよ、しかしこれだけは覚えておくとよい。5、6歳の子どもに、1万、2万円のプレゼン
トをホイホイと買い与えていると、子どもが高校生や大学生になったとき、あなたは100万円、
200万円のものを買い与えなくてはならなくなる。

つまりそれくらいのことをしないと、子どもは満足しなくなる。あなたにそれだけの財力と度量が
あれば話は別だが、そうでないなら、子どものために、やめたほうがよい。やがてあなたの子
どもは、ドラ息子やドラ娘になり、手がつけられなくなる。そうなればなったで、苦労するのはあ
なたではなく、結局は子ども自身なのだ。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ドラ息子症候群

 英語の諺に、『あなたは自分の作ったベッドの上でしか、寝られない』というのがある。要する
にものごとには結果があり、その結果の責任はあなたが負うということ。こういう例は、教育の
世界には多い。

 子どもをさんざん過保護にしておきながら、「うちの子は社会性がなくて困ります」は、ない。
あるいはさんざん過干渉で子どもを萎縮させておきながら、「どうしてうちの子はハキハキしな
いのでしょうか」は、ない。もう少しやっかいなケースでは、ドラ息子というのがいる。M君(小3)
は、そんなタイプの子どもだった。

 口グセはいつも同じ。「何かナ〜イ?」、あるいは「何かほシ〜イ」と。何でもよいのだ。その
場の自分の欲望を満たせば。しかもそれがうるさいほど、続く。そして自分の意にかなわない
と、「つまんナ〜イ」「たいくツ〜ウ」と。約束は守れないし、ルールなど、彼にとっては、あってな
いようなもの。他人は皆、自分のために動くべきと考えているようなところがある。

 そのM君が高校生になったとき、彼はこう言った。「ホームレスの連中は、人間のゴミだ」と。
そこで私が、「誰だって、ほんの少し人生の歯車が狂うと、そうなる」と言うと、「ぼくはならない。
バカじゃないから」とか、「自分で自分の生活を守れないヤツは、生きる資格などない」とか。こ
うも言った。

「うちにはお金がたくさんあるから、生活には困らない」と。M君の家は昔からの地主で、そのと
きは祖父母の寵愛を一身に集めて育てられていた。

 いろいろな生徒に出会うが、こういう生徒に出会うと、自分が情けなくなる。教えることそのも
のが、むなしくなる。「こういう子どもには知恵をつけさせたくない」とか、「もっとほかに学ぶべき
ことがある」というところまで、考えてしまう。そうそうこんなこともあった。

受験を控えた中3のときのこと。M君が数人の仲間とともに万引きをして、補導されてしまった
のである。悪質な万引きだった。それを知ったM君の母親は、「内申書に影響するから」という
理由で、猛烈な裏工作をし、その夜のうちに、事件そのものを、もみ消してしまった。そして彼
が高校二2生になったある日、私との間に大事件が起きた。

 その日私が、買ったばかりの万年筆を大切そうにもっていると、「ヒロシ(私のことをそう呼ん
でいた)、その万年筆のペン先を折ってやろうか。折ったら、ヒロシはどうする?」と。

そこで私は、「そんなことをしたら、お前を殴る」と宣言したが、彼は何を思ったか、私からその
万年筆を取りあげると、目の前でグイと、そのペン先を本当に折ってしまった! とたん私は彼
に飛びかかっていった。結果、彼は目の横を数針も縫う大けがをしたが、M君の母親は、私を
狂ったように責めた。(私も全身に打撲を負った。念のため。)

「ああ、これで私の教師生命は断たれた」と、そのときは覚悟した。が、M君の父親が、私を救
ってくれた。うなだれて床に正座している私のところへきて、父親はこう言った。「先生、よくやっ
てくれました。ありがとう。心から感謝しています。本当にありがとう」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ドラ息
子 ドラ息子症候群 スポイルされる子どもたち)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2245)

●嫌われる老人たち

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「嫌われる老人たち」と書いたが、
これは、他人の話ではない。

私自身のことである。あなた自身の
ことである。

私もあなたも、いつか必ず、その老人に
なる。

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 今日、ドライブの途中で、ワイフとこんな話をした。題して、「嫌われる老人たち」。

 もっとも印象に残っている老人に、こんな老人がいた。年齢は、70歳くらい(当時)ではなか
ったか。何と、あろうことか、その老人は、スーパーの生鮮品売り場コーナーの前の通路で、痰
(たん)を、吐いていた。床に、(ゲー、ペッ)とだ。

 それには驚いた。で、そのあとどうするかと思って、遠巻きにして見ていたら、ポケットからテ
ィッシュ・ペーパーを取り出し、それを痰に上にかぶせた。足で、それを冷凍庫の下へ、押し込
んだ。とっさのことで、私は、声を失った。

私「あれは、ひどかったねエ」
ワ「本当! 私、信じられなかったわ」
私「ぼくも、声も出なかったよ」と。

 つぎにこんな老人も印象に残っている。その老人も、70歳くらいではなかったか。ショッピン
グセンターの自転車置き場で、つぎつぎと自転車を、放り投げるようにして、倒していた。

 先にそれを見つけたほかの客たちが、あきれ顔で、笑っていた。笑っていたのは、ブラジル
人の客だった。私が、うしろから、「どうして、そんなことをするのですか?」と声をかけると、そ
の老人は、怒った顔で、こう叫んだ。

 「オレの自転車が、出せねえだろオ!」と。

 その老人は自分の自転車が出せないことに怒って、他人の自転車を、投げ飛ばしていた!

 またこんなことも。

 同じくショッピングセンターで、ゆっくりとカートを押しながらワイフと歩いていると、突然、うしろ
から大声。「早く、行け!」「じゃまだ!」と。

 振り返ると、65歳くらいの老人だった。大柄な老人で、私たちを見おろるように、そこに立っ
ていた。(私はカートに身をかがめていた。)私とワイフは、その剣幕に驚いて、通路をあけた。
しかしそれにしても、威張った老人だった。

 ……とまあ、そんな話をしながら、話題は、数日前のバス旅行で出会った老人のことになっ
た。うしろの席で、咳をしていた老人である。年齢は、70〜75歳くらいだったと思う。あたりか
まわず咳をし、痰をティシュペーパーなどにペッ、ペッと吐いていた。

私「マナーも何も、あったものではない」
ワ「ああいう老人は、嫌われるわね」
私「そうだ。あんなことばかりしていると、ほんとうに、老人は、粗大ゴミになってしまう」
ワ「若い人たちが、いやがるわね」
私「そうだ。そのうちバス旅行も、60歳以上は、お断り……ということになるかもしれない。ある
いは反対に、シルバー専用とか……」と。

 この先10年を待たずして、日本人の3分の1程度が、65歳以上の老人になるという。3人に
1人だ! そうなったとき、私たち老人たちは、どのような扱いを受けるか、だ。スーパーの床
に痰を吐いたり、自転車を放り投げるような老人は論外としても、それに近いことをする老人と
なると、ゴマンといる。

 そのゴマンが、やがてゴ十万、ゴ百万になる!

私「老人になる前に、それぞれの人が人間性を磨いておかないと、たいへんなことになるよ」
ワ「そうね」
私「若い人たちに尊敬されるような老人になる必要がある。知性を磨き、自身の文化性を高め
る。ほら、あのバスの中にも、ヒワイな話を口にして、ゲラゲラ笑いこけていた女性たちがいた
だろ。年齢は、65〜70歳くらいだったと思う。ああいう老人には、なりたくないね」と。

 さあ、あなたもいつか老人になる。(私は、もうその玄関口に立っているが……。)いくら「私は
だいじょうぶ」と思っていても、歳を取れば取るほど、ごまかしがきかなくなる。内に潜んでいた
人間性が、外にモロに出てくる。

 それだけではない。

 脳みその底に穴があく。その穴から、記憶だけではなく、知性や理性が、容赦なく、外に漏れ
出る。もしあなたが40歳で、「私は50歳になってもこのままだ」と思っていたら、それはとんで
もないまちがい。もしあなたが50歳で、「私は60歳になってもこのままだ」と思っていたら、そ
れはとんでもないまちがい。

 それは健康と同じ。日々に鍛錬しなければ、その時点から、すべてが下り坂を下り始める。
認知症が加われば、なおさら。これには例外はない。むしろ「私はだいじょうぶ」と思っている人
ほど、あぶない。

 老人は老人として、存在感を示さなければならない。またそれなくして、私たちの老後はな
い。

(1)老人は、謙虚になろう。
(2)老人は、知性、理性を磨こう。
(3)老人は、若い人たちの見本になろう。
(4)老人は、紳士、淑女になろう。

 以上は、私とワイフの努力目標でもある。がんばります!


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(10月21日)

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この仕事も、そろそろ40年近く
になる。40年近くにもなるが、
いまだに、慣れないことがある。

ときどき、月末の最後のレッスン
が終わったとき、「今日でやめます」
と告げてくる親がいる。

子どもが小さなメモを渡すことも
ある。

「しょせん、私のしていることは、
この程度のこと」と、そのとき、
改めて、思い知らされる。

親や子どもにしてみれば、「退会」
ということになる。しかし私にとって
は、「首切り」以外の何ものでもない。

私と親の意識のズレを強く感ずる。

だから……。気持ちよく、お互いに
別れるために、私はひとつのルール
を作った。「作った」といっても、
どこの塾でも、常識的なルールだが……。

「退会届は、前月の3週目までに
お願いします」と。

しかしこうした規約を読んでいる親は、
少ない。だから今でも、ときどき、
そういう場面に出会う。

私はだまって、それに従う。

もともと私がしていることは、しょせん、
その程度のこと。私の仕事も、しょせん、
その程度のもの。

その瞬間、その親のことは忘れる。
その子どものことは、忘れる。

++++++++++++++

●意識のズレ

 日本では、盆暮れのその季節になると、石けんを贈ることがある。しかしアメリカでは、石け
んを贈る人はいない。アメリカでは、石けんを送るということは、「臭いから、これで洗え」を意味
する。アメリカ人の嫁が、少し前、そんな話をしてくれた。

 同じように、そのアメリカ人の嫁に、5万円程度の小遣いを渡し、「これで服でも買いなさい」と
話したら、その嫁は、ポロポロと涙をこぼして泣き出してしまった。あとで息子に話を聞くと、こう
説明してくれた。

 「アメリカでは、お金を渡して服を買えということは、あんたの服はみすぼらしいから、買い換
えろという意味になる」と。

 意識のズレというのは、恐ろしい。たがいに自分がもっている意識こそが常識と考えやすい。
そのため相手がもっている常識を、理解できない。最近でも、こんなことがあった。

 私の郷里の岐阜のほうでは、「メシ(=飯)、食(く)ってかんけえ?」「今、食べてきたところで
の」が、あいさつ言葉になっている。(岐阜といっても、北部の飛騨地方をさすが……。)

 このとき、「メシを食べていかんか?」と言うほうも、本気で食事に誘っているわけではない。
またそれを言われたほうも、それをよく知っているから、たとえ腹が減っていても、「今、食べて
きた」と答える。ウソといえばウソだが、本人は、ウソを言っているという自覚はない。あいさつ
は、あいさつ。

 では、本気で食事に誘うときは、どうするか? これはワイフから、私への質問である。

 そういうときは、しつこく押し問答を繰りかえす。

A「メシ、食ってかんけえ?」
B「今、食べてきたところでの」
A「いいから、食べてけや」
B「今、食べてきたところでの」
A「まあまあ、いいから、あがれ、あがれ(=家の中に入れ)」と。

 こうした押し問答を数回繰りかえしたところで、相手は家の中に入ってくる。

 で、最近、岐阜から知人がやってきた。で、その知人と、こんな会話をした。

私「時間があれば、いっしょに、食事をしませんか」
知「結構ですよ。今、ここへ来る前に、食べてきたところですから」と。

 私も岐阜を離れて、40年以上になる。「?」とは思ったが、その言葉を、そのまま受け取っ
た。横にいたワイフも、同じように受け取った。だから食事の話は忘れた。しばらく雑談をして、
そのまま別れた。

 が、今になってみると、その知人は、岐阜流のウソを言ったことになる。本来なら、私は、そこ
で押し問答をしなければならなかった。が、あっさりと、私のほうが引き下がってしまった。「あ
あ、そうですか」と。しかしこれは岐阜の流儀に反する。恐らく、その知人は知人なりに、不愉快
な思いをしたにちがいない。

 一方、この浜松には、そういう習慣がない。商店でもどこでも、値切ったり、交渉するというこ
ともない。つまり、岐阜の人のように、本音と建て前、裏と表を使い分けるということをしない。

 これも意識のズレといえば、ズレということになる。

 で、こんな話も聞いた。

 ある小学校の校長が、こう言った。「南米から来た子どもは、ある日、突然学校へやってき
て、入学させてくれと言います。が、入学するといっても、いろいろと煩雑な手続きがあります。
1週間ほど、その手続きにかかります。でもね、林先生、そういう子どもでも、ある日、突然、や
めるのですよ。来月やめるとか、来週やめるとかいう話なら、まだわかります。『今日で、バイ
バイ』 とか言ってやめるから、たまりません」と。

 この話を聞いて、みなさんは、その校長がそのつど感ずるショックを、どの程度、理解できる
だろうか。あるいは中には、「そんなことは、何でもないこと」と思う人がいるかもしれない。しか
しもしそうなら、あなたは、かなりジコチューな人と考えてよい。

 学校をやめるほうの人は、「やめるのは自分たちの勝手」と思うかもしれない。しかしやめら
れるほうは、そうではない。そのあとの手続きもたいへんだが、それを心の中で整理するの
は、さらにたいへん。

 学校ならまだしも、私の塾のような小さな教室では、そのショックはさらに大きい。親や子ども
にしてみれば、「退会」かもしれないが、私にとっては、「首切り」以外の何ものでもない。反対
の立場で考えてみればよい。

 あなたのボスが、月末の最後の日になって、あなたに、「あなたは明日から会社に来なくてい
い」と言ったら、あなたはどうするだろうか。どう感ずるだろうか。またそんなことが許されるだろ
うか。

 この点、日本人は、甘い。ほんとうに、甘い。

 このほどアメリカのAT&T社は、「AT&T社を批判するような記事を書くばあい、AT&T社を
利用するインターネットを停止する」という条項をもうけた。AT&T社といえば、アメリカを代表
する通信会社である。

 いわく、「New AT&T terms of service: We'll cut off your Internet connection for criticizing 
us
(新しく、AT&T社は、つぎのような条項を定める。我が社を批判するばあい、その人のインタ
ーネット利用を、停止する。)」と。

 つまり「当社を批判するくらいなら、当社を利用するな」と。

 この記事を読むと、ほとんどの日本人は、こう思うにちがいない。「何と、心の狭いことを!」
と。しかしそれこそ、まさに意識のズレ。世界の常識は、そんなに甘くない。

 さらに意識のズレはつづく。

 月末の最後のレッスンの終わりに、私のところへやってきて、「今日でやめます」と言うのは、
まだよいほう。中には、「弟のほうは、今までどおり、お願いします」とか、「また来年になった
ら、もどってきます」などと言う親もいる。(決して、親の悪口を書いているのではない。私は意
識のズレについて、書いている。)

 そういうとき、私は、何と答えればよいのか。この世界へ入って40年近くになるが、いまだに
この種の意識のズレだけは、いかんともしがたい。中には、私を、神様か仏様かのように思っ
ている人もいるかもしれない。が、私はただの人間。生身の人間。

 だから……。私も最近、自分のHPに、こう書いた。

 「私に対して批判的な人は、このHPの利用を禁ずる!」と。考えてみれば、これは当然のこ
とではないか!

(付記)

 これは私のHPにかぎったことではないが、その人のHPを読んで、気になったからといって、
陰でゴチャゴチャ言わないこと。そういうことを言うなら、最初から、その人のHPを読まなけれ
ばよい。

 もちろん実名を出して、あなたを批判したり、名誉を毀損しているばあいは、別。あるいは盗
作や、無断転載も、別。そうでなければ、ごちゃごちゃ言わないこと。文句があるなら、堂々と、
ペンで抗議をしてきたらよい。

 
Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2246)

●不気味なうねり

+++++++++++++++

G7、つまり7か国、財務省、中央総裁
会議が閉幕した(10月19日)。

「アメリカ住宅問題や原油高が、
世界の経済成長を減速させる」との
懸念を明記した共同声明を採択した。

その19日、アメリカのダウ工業株、30種
の平均が、366ドルも大幅に、さがって
いる。

円は、1ドル=114円(10月20日)前後。
原油は、1バレル=90ドル前後。

アメリカのバブル経済は崩壊しつつある、
……というより、よくここまでもった、という
のが、私の印象。

数年前から、「あぶない」「あぶない」と
言われてつづけていた。

で、明日からの世界経済。週明けの突破口
となる日本の株価がどう動くかだが、
頼みの綱は、中国。中国経済がこけるような
ことがあると、世界経済は、ほんとうに奈落の
底にたたき落とされることになる。

不気味なのは、中国の元が、ジリジリと
あがり始めているということ。

日本の株価も大切だが、中国の株価
(上海B株)の動向も、目が離せない。

そうそう、金(きん)の価格も、グラム
3000円を超えた(18日)。暴落した
ドルが、原油や金に向かい始めている。

今、世界中を、不気味なうねりが、
大波となって襲おうとしている。

注視!
(10月20日記)

+++++++++++++++

●風邪?

 せっかくの日曜日。しかし朝から熱っぽい。昼食後、ふとんの中に入ると、ドッと汗が出た。し
ばらく眠ったようだ。自分の鼓動で目がさめた。

 起きるとワイフが、ビタミンCを溶かして、もってきてくれた。私のばあい、風邪には、ビタミン
Cが、何よりも効く。あとは生ニンニクだが、明日から仕事なので、今日は食べられない。

 床につく前、『トリスタンとイゾルデ』というDVDを、少し見た。画面の美しさに、驚いた。1シー
ンごとが、「絵」になっていた。が、そこでダウン。あとで聞くと、ワイフは、「いい映画だった」と
言った。

 よい映画かどうかは、1シーン、1カットと見ればわかる。私のばあい、最初の数分で、ある程
度の結論を出す。よい映画は、作りそのものがちがう。俳優の動きも、なめらかで、自然。かい
ま見ただけなので、評価はむずかしいが、星は3つの、★★★。


●日本映画

 一方、日本映画は、つまらない。理由のひとつは、監督も俳優も、脚本家もみな、都会に住
んでいることではないか。都会がもつ異常さは、都会に住んでいる人には、わからない。そうい
うところで、どうしてよい映画ができるというのか?

 問題は、俳優にあると思う。その役を演ずるなら、その役にふさわしい(深み)がなければな
らない。ところが日本映画では、最初から、それが無視される。実にそれらしくない人が、無理
にその役を演ずるから、話がおかしくなる。

 たとえば木下恵介監督の、『喜びも悲しみも幾年月』に出てくる、佐田啓二や高峰秀子を見た
らよい。誠実さがにじみ出るような俳優が、誠実な灯台守夫婦を演ずるから、見る人の心をと
らえる。『寅さん』に出てくる、渥美清や笠智衆でもよい。

 こうした俳優は、まちがいなく日常生活のレベルから、誠実な人たちであった。その(誠実さ)
が積み重なって、その人たちの人格を作った。そうした人格が、そのまま画面の上で表現され
る。昔とちがって、画面の質もよくなった。私たちは、俳優の顔のシワの動きひとつひとつを見
ながら、俳優と俳優の役柄を判断する。

 一方、見るに耐えないのが、日本の刑事物映画。見るからに安っぽい俳優たちが、化粧に
化粧を重ねて、場違いな正義感を振りかざしたりする。怒鳴ったり、力んで見せたりする。とた
ん、興ざめ。見るたびに……というより、私は、ほとんど見ないが、がっかり。

 で、話を戻す。

 もちろん都会にも、誠実な人は、いくらでもいる。誠実さが消えたわけではない。しかし映画
の世界に入ると、どういうわけか、それが消えてしまう。生かされない。つまり映画の世界が、
それだけ(都会化)している。(特殊化)している。はっきり言えば、どこか薄汚い。ドロドロして
いる。

 だから皮肉なことに、日本映画といえば、薄汚く、ドロドロした映画は、得意? 外国で賞
(?)を取る映画といえば、たいていはこの種の映画ばかり。しかしこれでは日本映画に未来
は、ない。ないばかりか、日本人全体にとっても、悲しむべきことと言ってもよい。

 外国の人たちは、日本という国を、そういうイメージでしか見なくなる。ヤクザと暴力、金と女
……。あああ。


●60歳まで、秒読み!

 あと少しで、私も満60歳。江戸時代なら、もうとっくの昔に死んでいてもおかしくない年齢であ
る。よくもまあ、今まで、無事、生きてこられたものだと思う。病気らしい病気は、しなかった。病
院のベッドの上に寝たことすら、ない。(診察や、点滴を受けたときは別だが……。その点滴
も、生涯で、2度だけ。)

 病気で仕事を休んだのは、数回程度。その数回というのも、50代に入ってから。人は、「親
に感謝しろ」というが、実は、私は2人の兄を病気で失っている。三番目の兄は、現在、病院に
いる。食物は、管(くだ)を通して摂取している。

 そういう兄を思うと、自分だけが健康であることに、ある種の罪悪感を覚える。「親に感謝す
る」という気持ちには、とてもなれない。

 ラッキーだったのは、仕事が楽しかったこと。プラス楽(らく)だったこと。無理をしないで、生き
てきた。だれにも使われず、だれも使わず、ひとりで生きてきた。実際には、ワイフと2人で生
きてきた。気楽な人生だった。収入はほどほどにあった。一方で、常に最低限の生活を心がけ
てきた。今も、そうだ。

 加えて、事故もなかった。ワイフも、ときどき、こう言う。「私たちほど、いい人生を歩んできた
きた人も少ないのでは……」と。

 もちろんこれから先のことはわからない。明日のことだって、わからない。しかし現状維持。
努めて、現状維持。いつまでつづくかわからないが、とにかく現状維持。

 明日からも運動が始まる。1日、2単位(40分x2の自転車運動)。風邪は、今夜中に治して
おこう。(症状は、かなり楽になったようだ……。ありがたい。)

 それにしても、この私が、満60歳ねえ……? その実感が、まるでない。昔は、還暦だのな
んのといって祝ったというが、私は、ゴメン! そんなジジ臭い儀式など、だれがするかア!

 そんな中、ワイフがまたまた聞いた。「ねえ、あなた、プレゼントには何がほしいの?」と。

 今月は、誕生日にかこつけて、いろいろ買った。パソコン関連グッズのほか、懐中時計も買
った。ほかにほしいものは、ない。あるとすれば、新しいデジタルカメラだが、それは明日の株
価の動きを見て決める。株価があがれば、買う。さがれば、がまん。

 今日までの情報を総合すると、明日の株価は、大暴落するはず。様子を見て、底値を打った
ら、少し買いを入れてみよう。

 では、これから夕食。10月20日、午後5時45分。あたりは、真っ暗。私はこういう雰囲気
が、大好き。心が落ち着く。


●一枚の写真

 嫁の両親が、誕生日カードを送ってきてくれた。一枚の写真が、添えられていた。自宅の家
の前で撮ったものらしい。背景は、見慣れた景色である。

 それを見て、しばし、考える。「現実に、こういうところに住んでいる人がいるのだな」と。農業
といっても、夫のJIMは、養鶏業の指導員をしている。妻のDIANNEは、修士号をもって、学校
の教師をしている。

 同じ人間に生まれて、同じ地球に住んで、こうまで差があってよいものか。日本なども恵まれ
たほうだが、この写真に見る風景には、かなわない。


●風邪

 今朝(22日)になって、やっと風邪が抜けた。少し寒いが、爽快な朝だ。

 ところで、Eマガの配信が、おかしい。乱れている。今朝も、予約どおり配信されなかった。し
かたないので、手動で配信。Eマガ社にその旨、問い合わせるが、今のところ返事は、なし。

 どうしたのだろう……? 

 ということで、読者のみなさんにお願い。もしできれば、メルマ(無料版)を、どうか、申し込ん
でほしい。

 申し込み方は、

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html
をクリックして、ボックスの中に、あなたのメール・アドレスを書き込むだけ。

 無料で、みなさんへの負担は、まったくないので安心してほしい。よろしくお願いします。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2247)

●シソの実

 今朝、ワイフと、シソの実を収穫した。瓶(びん)、2個分。1つは、漬物用の出汁(だし)漬け
に、もう一つは、醤油漬けにした。明日から、少しずつ食べてみよう。楽しみ。

 そのあと、インターネットで株価を見る。今朝は、朝から600円近い、下げ。円も113円に急
上昇。指先にほんのりと残っているシソの香りとの落差に驚く。まるで別世界。……というより、
別世界。

 青い空の下、さんさんと輝く陽光を浴びながら、シソの実を取る。ワイフとあれこれと調理法を
考える。一方、薄暗い部屋に入って、モニター上の数字をながめる。底値を見定めながら、ね
らった株の、買い時をさぐる。

 ……といっても、誤解しないでほしい。私にとって、株というのは、ゲーム。その範囲のお金し
か、投資していない。儲けるのも、損をするのも、10万円程度。パソコン関連の機器は、それ
で買っている。

 いろいろな見方があるだろうが、私は、その(落差)が楽しい。どちらか一方だけでは、つまら
ない。家庭菜園も好き。パソコンも好き。

 そういえば、30年来の友人のH氏が、少し前、定年で退職した。自宅近くに畑を買った。老
後は、農業を営むという。もともと農大出身の人だから、そういうことが好きらしい。シソの実を
取りながら、ふと、そのH氏のことを思い出す。

 その株価。動きが、メチャメチャ。こういうときは、静観するにかぎる。私のような素人が、へ
たに手を出すと、やけどする。何事も、あぶないことは、適当に!


●アメリカの大学生

+++++++++++

たいていの日本人は、
日本の大学生も、アメリカの大学生も、
それほど違わないと思っている。
また教育のレベルも、
それほど違わないと思っている。
しかしそれはウソ。

+++++++++++
 たいていの日本人は、日本の大学生も、アメリカの大学生も、それほど違わないと思ってい
る。また教育のレベルも、それほど違わないと思っている。しかしそれはウソ。恩師の田丸先
生(東大元教授)も、つぎのように書いている。

 「アメリカで教授の部屋の前に質問、討論する為に並んで待っている学生達を見ると、質問
がほとんどないわが国の大学生と比較して、これは単に風土の違いで済む話ではないと、愕
然とする」と。

 こうした違いをふまえて、さらに「ノーベル化学賞を受けられた野依良治教授が言われてい
る。『日米の学位取得者のレベルの違いは相撲で言えば、三役と十両の違いである』と」とも
(02年8月)。もちろん日本の学生が十両、アメリカの学生が三役ということになる。

 私の二男も01年の5月に、アメリカの州立大学を学位を取って卒業したが、その二男がそ
の少し前、日本に帰国してこう言った。

「日本の大学生はアルバイトばかりしているが、アメリカでは考えられない」と。アメリカの州立
大学では、どこでも、毎週週末に、その週に学んだことの試験がある。そしてそれが集合され
てそのままその学生の成績となる。そういうしくみが確立されている。

そのため教える側の教官も必死なら、学ぶ側の学生も必死。学科どころか、学部のスクラッ
プ・アンド・ビュルド(廃止と創設)は、日常茶飯事。教官にしても、へたな教え方をしていれば、
即、クビということになる。

 ここまで日本の大学教育がだらしなくなった原因については、田丸先生は、「教授の怠慢」を
第一にあげる。それについては私は門外漢なので、コメントできないが、結果としてみると、驚
きを超えて、あきれてしまう。

私の三男にしても、国立大学の工学部に進学したが、こう言っている。「勉強しているのは、理
科系の学部の学生だけ。文科系の学部の連中は、勉強の「ベ」の字もしていない。とくにひど
いのが、教育学部と経済学部」と。理由を聞くと、こう言った。「理科系の学部は、多くても30〜
40人が一クラスになっているが、文科系の学部では、300〜400人が一クラスがふつう。て
いねいな教育など、もとから期待するほうがおかしい」と。

 日本の教育は、文部省(現在の文部科学省)による中央管制のもと、権利の王国の中で、安
閑としすぎた。競争原理はともかくも、まったく危機感のない状態で、言葉は悪いが、のんべん
だらりと生きのびてきた。

とくに大学教育では、教官たちは、「そこに人がいるから人事」(田丸先生)の中で、まさにトコ
ロ天方式で、人事を順送りにしてきた※。何年かすれば、助手は講師になり、講師は助教授に
なり、そして教授へ、と。それはちょうど、水槽の中にかわれた熱帯魚のような世界と言っても
よい。温度は調整され、酸素もエサも自動的に与えられてきた。田丸先生は、さらにこう書いて
いる。

 「私の友人のノーベル賞候補者は、活発な研究の傍(かたわ)ら、講義前には3回はくり返し
練習をするそうである」と。

 日本に、そういう教授はいるだろうか。

 グチばかり言っていてはいけないが、いまだに文部科学省が、自分の権限と管轄にしがみつ
き、その範囲で教育改革をしようといている。もうそろそろ日本人も、そのおかしさに気づくべき
ときにきているのではないのか。

明治の昔から、日本人は、そういうのが教育と思い込んでいる。あるいは思い込まされてい
る。その結果、日本は、日本の教育はどうなった? いまだに大本営発表しか聞かされていな
いから、欧米の現状をほとんど知らないでいる。中には、いまだに日本の教育は、世界でも最
高水準にあると思い込んでいる人も多い。

 日本の教育は、今からでも遅くないから、自由化すべきである。具体的に、アメリカの常識を
ここに書いておく。

(1)アメリカの大学には、入学金だの、施設費だの、寄付金はいっさいない。
(2)アメリカの大学生は、入学後、学科、学部の変更は自由である。
(3)アメリカの大学生は、より高度な教育を求めて、大学間の移動を自由にしている。つまり大
学の転籍は自由である。
(4)奨学金制度、借金制度が確立していて、アメリカの大学生は、自分で稼いで、自分で勉強
するという意識が徹底している。
(5)毎週週末に試験があり、それが集合されて、その学生の成績となる。
(6)魅力のない学科、学部はどんどん廃止され、そのためクビになる教官も多い。教える教官
も必死である。教官の身分や地位は、保証されていない。
(7)成績が悪ければ、学生はどんどん落第させられる。

 日本もそういう大学を、30年前にはめざすべきだった。私もオーストラリアの大学でそれを知
ったとき、(まだ当時は日本は高度成長期のまっただ中にいたから、だれも関心を払わなかっ
たが)、たいへんなショックを受けた。

ここに「今からでも遅くない」と一応、書いたが、正直に言えば、「遅すぎた」。今から改革して
も、その成果が出るのは、20年後? あるいは30年後? そのころ日本はアジアの中でも、
マイナーな国の一つとして、完全に埋もれてしまっていることだろう。

田丸先生は、ロンドン大学の名誉教授の森嶋通夫氏のつぎのような言葉を引用している。

「人生で一番大切な人間のキャラクターと思想を形成するハイテイーンエイジを入試のための
勉強に使い果たす教育は人間を創る教育ではない。今の日本の教育に一番欠けているのは
議論から学ぶ教育である。日本の教育は世界で一番教え過ぎの教育である。自分で考え自分
で判断するという訓練がもっとも欠如している。自分で考え、横並びでない自己判断のできる
人間を育てる教育をしなければ、2050年の日本は本当にだめになる」と。 

問題は、そのあと日本は再生するかどうかだが、私はそれも無理だと思う。悲観的なことばか
り書いたが、日本人は、そういう現状認識すらしていない。とても残念なことだが……。

(注※)「トコロテン方式」と書いたことについて、H大学の教授の1人から、猛烈な抗議のメー
ルをもらった。そのメールを田丸先生に見せると、田丸先生は、こう返事を書いてきた。「教授
の中に、外部から入ってきた教授が、何割いるか、それをみればわかるでしょう」と。つまり現
状では、「トコロテン方式」と批判されても、文句は言えないはず、と。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●自発的行動

 自ら進んでやるか。それとも、人に命令されてからやるか。その違いは、当然、大きい。

 たとえば勉強。自分がしたい勉強を、自分でする。学びたいから、学ぶ。その学びたいという
意思がしっかりしている。そういう形で、その人(子ども)の行動を強化することを、「正の強化」
という。

 一方、親にガミガミと叱られながら、勉強する。勉強しなければ、殴られるかもしれない。だか
ら勉強する。こわいから、自分の意思とは無関係に、する。いやいや、する。こういうふうに、外
からの圧力で、その人(子ども)の行動を強化することを、「負の強化」という。

 子どもの行動を強化するためには、二つの方法がある。自発的にさせる方法と、強制的にさ
せる方法の二つである。

 もっとも、こんなことは心理学で説明されなくても、常識。わかりきったこと。

 そこで「正の強化」を、育てるためには、一義的には、前向きな姿勢を育てる。ほめたりして、
自分に自信をもたせる。しかしこのとき、もっと大切なことは、子どもの夢を育てること。そして
その夢を、未来につなげていく。

 今の私の心境を書く。

 もう五、六年前になるだろうか。私はある人から、本を代筆するように頼まれた。若いころ、よ
くした仕事である。そこでその人の仕事を、一度は引きうけた。が、である。いざ原稿を書こうと
する段階になって、手が鉛のように重いのを知った。

 いろいろな思いが、胸をふさいだ。代筆、つまりゴーストライターの仕事というのは、体を売る
女性の仕事(?)に似ている。いわば魂を切り売りするようなもの。いくらその人の気分になっ
て書いても、どこかしこに、自分の思想が混入する。

 そこで「これはお金のためだ」と、何度も自分に言ってきかせた。が、当時は、それほどお金
には困っていなかった。で、結果的に、その仕事は、断ることにした。

 一方、私は、今、こうして少しの時間でもあれば、原稿を書いている。まったくお金にならな
い。雑誌社や出版社から、頼まれたわけでもない。しかし、こうして書いていると、楽しい。本当
に楽しい。

 それは未開拓の原野を、ひとりで歩いているような楽しさである。私が知らないものが、そこ
にあるような気がする。あるいは本当に、それまで私が知らなかったことを、発見することもあ
る。そういうときは、楽しくて、キーボードの上で、手先が、チョウのように軽く舞う。

 この違いがどこからくるかといえば、自発的にそれをするかしないかの違いといってもよい。
ただ私のばあいは、もう負の強化には耐えられない。人に命令されてするのは、大嫌い。実際
には、命令されたら、絶対にしない。

 少し前のことだが、デパートで、エレベーターに乗ったときのこと。うしろのほうに立っていた
男が、「四階!」と叫んだ。「四階のボタンを押せ」という意味である。私は返答するのもいやだ
ったから、その言葉を無視した。すると、その男はこう言った。「あんたが近くにいるのだから、
押してくれてもいいだろ」と。私は、それに答えて、こう言った。「自分のことは、自分でしたら」
と。

 私は決して、不親切な人間ではない。しかしそういう言い方をされると、本能的な部分で、抵
抗する。ここでいう「負の強化」に耐える度量は、もうない。

 子どもを伸ばすことを考えたら、同時に、いかにしてその子どもの中に、自発的な向学心を
育てるかを考える。命令したり、脅したりして、子どもに勉強させるのは簡単なこと。しかしそう
いう方法では、長つづきしない。あるいは子ども自身が、かえって反発してしまう。

 そこであなたの子どもは、今、どのような状態か、自己診断してみてほしい。毎日、やる気に
なって、がんばっているだろうか。それとも、逃げ腰になって、いやいや勉強しているだろうか。
もし後者なら、ここでいう正の強化をいかにつくるかだけを考えて、子どもを指導する。勉強を
する、しないは、つぎの問題と考える。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自発
的行動)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●古い原稿

++++++++++++++

これは私の特権のようなものだが、
古い原稿を読みなおすことによって、
私はその(時)に、そのままタイム
スリップすることができる。

おおかたの人は、その(時)を、その
まま忘れてしまう。記憶というのは
そういうもので、歳を取れば取るほど、
そうである。

脳みその底に穴があく。その穴から
記憶がどんどんと下へ落ちていく。
知識や経験も、そのまま下へ落ちて
いく。

が、私のばあいは、少し、ちがう。
その(時)に書いた原稿を読むことで
そのまま、そのときの(自分)に戻る
ことができる。

今も、そうだ。4年前に愛知県岩倉市
へ講演に行ったときの原稿が出てきた。

もしその原稿がなければ、岩倉市という
名前すら思い出さなかっただろう。
講演の内容も、またそのとき私が
どんなことを考えたかも、思い出さなかった
だろう。

+++++++++++++++

●愛知県岩倉市にて

 今日は、愛知県岩倉市にやってきた。総合体育センターというところで、話をさせてもらう。

 名古屋駅から、名鉄犬山線に乗り換え、二〇分ほどのところ。このあたりには、まったく土地
勘がない。一〇時三〇分の予定だが、九時三〇分に着いてしまった。だからひとり、こうしてロ
ビーのすみで、パソコンを開く。

 空は、あやしげな厚い雲がおおっている。その向こうから、飛行機の轟音がする。きっと小牧
空港に近いのだろう。ああ、道路が濡れているところを見ると、少し前に雨がふったのかもしれ
ない。

 今日の講演はそのセンターのホール。一〇人ほどの人が、何やら準備をしている姿が見え
る。遅刻するのもいやだが、しかし早く来すぎて、みなさんに迷惑をかけるのもいやだ。こうして
あまり意味のない文章を書きながら、時間をつぶす。

 おかしなことだが、長くのびすぎた髪の毛が気になる。床屋へ行こうと思いつつ、いつも限界
まで、がんばってしまう。床屋は嫌いではないが、めんどう。本当のところは、時間をつくるの
が、めんどう。だからついつい(のびのび)になってしまう。

 のびのび……「時間が延び延び」という意味と、「髪の毛が、伸び伸び」という意味。おもしろ
い掛け言葉だ。

 今朝は、五時に起きてしまった。おかげで、今、眠い。それに少し頭痛がする。朝食を抜いて
いるので、薬はのめない。こうした講演があるときは、朝食はとらない。頭がボーッとしてしま
い、使いものにならなくなる。

 岩倉市は、もちろんはじめて。駅から五分も車で走ると、静かな田園風景になる。このロビー
からも、周囲の畑が見える。センターそのものが、どこかポツンと、畑の中に建っている感じ。
「眠ろうか」と考えたが、パソコンをたたいているほうが、楽しい。今日は、こうしてパソコンをも
ってきた。

 今日は、「子どもの心」について話す。

 ほとんどの人は、自分自身にも子ども時代があったということで、子どもの心について、軽く
考えがち。つまり「子どもの心はよく知っている」と。

 しかしこれは誤解。実は、私たちの心の中には、(私であって私である)部分と、(私であって
私でない)部分が、共存している。このうち(私であって私でない)部分が、簡単に言えば、子ど
もの心ということになる。

 たとえばあなた自身の心の中をのぞいてみてほしい。

 あなたの中にも、(私であって私でない)部分がたくさんある。いじけやすい、ひがみやすい、
嫉妬しやすい、ねたみやすい、くじけやすいなど。こうした部分は、実は、あなたが子どものこ
ろ、あなたの中にできたものである。

 そのころできた心が、今もあなたの中にあって、あなたを裏から操っている。しかしここで、つ
ぎの問題が起きる。

 実はあなた自身が、そうした心に裏から操られながら、操られていることに気づかないでい
る。ひとつのわかりやすい例で考えてみよう。

 よく知られた子どもの心の変調に、「分離不安」というのがある。母子分離不安ともいう。母親
の姿が見えなくなっただけで、ギャーギャーと大声で泣き叫びならあとを追う(プラス型)と、混
乱状態になってオドオドする(マイナス型)がある。

 こうした分離不安は、成長とともに、表面的にはわからなくなる。子ども自身が、自己意識
で、コントロールするようになるからである。このコントロールする部分が、(私であって私であ
る)部分ということになるが、それはさておき、分離不安という、妄想性をともなった突発的な錯
乱性は、そのあとなくなるわけではない。その人の心の奥底にもぐる。

 まさに「もぐる」という言い方が適切である。消えるのではない。もぐる。

 ある女性(母親、四〇歳)は、こう言った。「今でも、夫の帰りが予定を一、二時間も過ぎると、
言いようのない不安にかられます」と。あるいは「夫を会社へ送り出すとき、あとを泣き叫んで
追いかけたい衝動にかられます」と。

 こうした母親に、「子どものころ、分離不安はありませんでしたか?」と聞いても、あまり意味
はない。ほとんどのばあい、その人自身は、それを覚えていない。ただひとり、こんなことを言
った男性(五〇歳)がいた。

 「ぼくは母親っ子でね。母がいないと、何もできなかった」と。

 覚えているとしても、その程度。つまり、ここに、(私であって私でない)部分がある。そしてそ
れが(子どもの心)ということになる。

 今日はここを導入部にして、子どもの心について話す。私の得意分野だが、しかし聴衆の受
けは、あまりよくない。だから……。今日は、どうしようかと、今、迷っている。

 こうした講演では、直前まで、つまり舞台に立つまで、話の内容が決まらないことがある。そし
て演壇に立ったとたん、話の内容を決めることがある。いいかげんなやり方に思う人がいるか
もしれないが、講演というのは、そういうもの。

 たとえばパッと見たとき、男性や年配の方が多いときは、そういう話に切りかえなければなら
ない。反対に、若い母親が多いときには、やはり、そういう話に切りかえなければならない。

 ホールの玄関があわただしくなってきた。「おはようございます」という、かけ声が多くなった。
時計を見ると、一〇時少し前。

 この原稿は、ここまで。そろそろ支度(したく)をしなければならない。洗面所へ行き、服装を
整えよう。体の調子は、あまりよくないようだ。しかしいつものように、がんばろう。がんばるしか
ない。では……。

+++++++++++++++++++++++

●帰りの電車の中で、こんなことを考えた。

 「報われる」という言葉がある。報酬の「報」ということになる。どんな仕事にも、報酬がともな
う。報酬のない仕事はない。しかしその「報」に慣れきってしまうと、いつも心の中で損得を考え
て行動するようになる。

 以前、これについては、かなり詳しく調べたことがあるが、この日本でも、貨幣が一般社会に
流通するようになったのは、江戸時代の中ごろだそうだ。貨幣そのものは、奈良時代からあっ
た。しかし今のような使われ方をするようになったのは、江戸時代の中ごろからだ、と。

 一方、私が子どものころには、戦後ということもあったが、まだ物々交換という風習が、残っ
ていた。(ホント!) 実際、私は、自転車の修理代とスイカ一個を交換している姿を見かけた
ことがある。ここまで日本人が「報」、なかんずく「お金」に敏感になったのは、ごく最近のことと
考えてよい。

 もちろん「報」というときは、お金にかぎらない。有形、無形、いろいろな報酬がある。そして私
たちは、何をするにも、心のどこかで、その有形、無形の報酬を考えながら行動している。無
我の境地で、まったく報酬を考えないで何かをするということは、ほとんど、ない。

 たとえば講演活動にしても、私はそれなりの講演料を受け取っている。こちらから金額を口に
することはない。ないが、無料ということではない。それは、その講演のために、それなりのお
金がかかるということもある。交通費はもちろんのこと、それに日当などなど。

 そのとき大切なことは、そうした報酬だけに気を取られていると、何のための講演なのか、わ
からなくなってしまうということ。本来、講演というのは、それを聞いてくれる人のためにするも
の。心や考え方を伝えるためにするもの。そういう精神が基本にあってはじめて、講演は成り
たつ。

 が、このところ、講演をするたびに、私はその「報」を考えるようになってしまった。ときどき、
「何の利益になるのだろうか」とさえ思う。私のばあい、講演料といっても、恐らく最低の金額で
はないか。たまたま今日の主催者のA氏は、前座で、こんなことを話していた。

 「東京大学の学生による家庭教師は、月額三〇万円が相場です」と。

 週に二回程度の家庭教師なのか。それとも一回なのか。そこは聞き漏らしたが、それにして
も、三〇万円とは! しかしこんな話を聞くと、講演など、バカ臭くて、できなくなる。

 しかし人間。損得だけで動くようになったら、おしまい。報われるにしても、報われないにして
も、それはあくまでも結果。結果がどうであれ、そのときは、そのときで、やるべきことを、懸命
に、全力ですればよい。講演にしても、呼んでもらえるだけでも、ありがたい。感謝すべきことな
のだ。

 何ともさみしい結論だが、私は、帰りの電車の中でそんなことを考えた。

++++++++++++++++++++

【追記】

 さらに家に帰ってから、講演の前に書いた文章と、そして帰りの電車の中で書いた文章を読
みなおしてみた。そして私は、こんなことに気づいた。

「思い」というのは、そのときの精神状態に左右されるということ。

 帰りの電車の中では、私は疲れていた。疲れていたから、内容が、どこかグチっぽくなった。

 前後が逆になったが、講演の前には、私は緊張状態にあった。だからものの考え方が、どこ
か理屈っぽくなった。

 これは私にとっては、重要な発見だった。つまり一見、確かと思える「思い」も、そのときどき
の心の状態によって、変化しうるものだということ。だからたとえば、同じテーマでも、心の状態
によっては、まったく別の結論になるかもしれない?

 そういう意味では、「思い」というのは、流動的なもの? そうであってはいけないと言う人もい
るが、しかしそういう前提で、自分の思想や他人の思想を考えてみることも、ときには、必要で
はないのか。少なくとも、文章というのは、そういうもの。書くときの心情で、どうにでもなる。あ
るいは書く人の技術で、どうにでもなる。

この先のことは、また別の機会に考えてみる。
(030913)

+++++++++++++++

日付は03年9月となっている。
自分で自分の書いた原稿を読みながら、
「そうだ!」「そうだった!」と、納得する。

そういう意味でも、これはものを書くとき
には当然のことだが、自分を偽っては
いけない。飾ってもいけない。もちろん
ウソを書いてはいけない。

あとで読み返したとき、そういう文章は
かえって自分を不愉快にする。あるいは
そういう文章というのは、価値がない。

ありのままを、ありのままに書く。が、
それには、大前提がある。

ありのままに書いてもだいじょうぶな
(自分)を、もたなければならない。
「あいつは憎いから、殺してやる」式の
文章では、困る。しかし一方、「私は
万人を愛します」式の文章でも困る。

4年前の私は、たしかにここに書いた
とおりの私だった。まだ講演料に、どこか
こだわっていた。

この原稿を読んで、そんな(過去)に、
私はタイムスリップすることができた。
(07年10月23日記)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●子どものスキンシップ

++++++++++++++

スキンシップには、魔法の
力がある。

++++++++++++++

 心の緊張感がとれない子どもが、ものに固執することがあるというのは、よく知られている。
たとえば毛布の切れ端、タオル、ボタン、金物、小物など。そういうものを、片ときも離さず、手
にもっていたりする。

 指先から得る快感で、緊張感を取ろうとする。もう少し専門的には、指先に刺激を与えると、
その刺激は神経をとおして、脳に伝わる。そのとき脳の中で、エンドロフィン系の麻薬様物質を
放出される。その麻薬様の物質が、陶酔感を引き起こす。この陶酔感が、緊張感をやわらげ
る。(このメカニズムは、針麻酔に似ている。)

 おとなでも、毎晩、眠る前にオナニー、もしくはマスターベーションする人は多い。私のワイフ
の知人の夫は、毎晩、奥さんに、ペニスのマッサージをさせるそうだ。マッサージといっても、奥
さんが夫のペニスを握っているだけだそうだが……。(いいのかなあ、こんな秘密を暴露して!
 Xさん、ごめんなさい!)
 
 少し前、母親の乳房や乳首にさわりたがる子どもの話をした。これについて書いたら、いろい
ろな人から、意見をもらった。

 乳房や乳首も多いが、ほかに母親のくちびる、耳たぶ、髪の毛などに触れたがる子どもがい
ることがわかった。子どもによって、それぞれ部位が違うが、決して珍しいことではない。(何と
なく、内容がポルノ風になってきた……。私は、こういう話は、あまり得意ではない。)

 こうした快感は、つまりとくに性的快感は、人間が感ずる快感の中でも、特別な快感といって
よい。その善悪論を説いても、意味はない。こうした快感は、人間に、「命」の一つとして備わっ
ている。またそれがあるから、人間はセックスをし、子孫を、次世代に残すことができる。

 で、こうした子どもの行為を、母親は、どこまで容認すべきか。それが問題である。

無理に拒否したり、否定したりすると、子どもは、そうした行為に罪悪感をもつばかりではなく、
緊張感がほぐせなくなり、その結果として、情緒が不安定になる。

 これは子育ての基本だが、どんなささいな行為でも、子どもがそれを繰りかえすときには、そ
れなりの原因や理由があると考える。親の考えだけで、それを判断してはいけない。とくにこう
したクセ、これを「習慣性性癖」というが、同じ行為を繰りかえすときは、頭ごなしに、それを否
定してはいけない。よく知られた性癖としては、指しゃぶりなどがある。

 コツは、子どもが求めてきたら、短時間でもよいから、ていねいにそれに応じてあげる。「恥
ずかしいこと」という意識をもたせないようにする。くすぐったかったら、くすぐったいと正直に言
えばよい。

 私も子どものころ、貝殻のボタンをいじるのが好きだった。指先でいじっていると、うっとりとす
るような陶酔感を感じたのを、今でもよく覚えている。で、そのせいかどうかは知らないが、(多
分、そのせいだと思うが……)、パソコンを選ぶときも、指先から得る感触を大切にしている。
私のばあい、どこかツルツルして、丸みをおびたキーボードを、好む。

 先のX氏の奥さんは、実にあっけらかんとした人だ。ケラケラと笑いながら、そういう話を、ワ
イフにしたそうだ。私も、何度か、会ったことがあるが、女性も、四〇歳をすぎると、羞恥心がな
くなる? その奥さんは、こうも言ったそうだ。「ほとんど毎晩なのですよ。夫は、神経をつかう
仕事をしているので、しかたないと思っています。ただ握っていればいいのですね。フニャフニ
ャになったら、眠ったのだと思って、手をはなします」と。

 こういう話を書いていると、書いている私まで、おかしな気分になる。その奥さんは、肌のきれ
いな人だ。へんな想像を、頭の中でしてしまう。(私だって、ふつうの男だぞ!)

 そう言えば、少し前、産婦人科医をしている、I氏がこんな話をしてくれた。「女性を診察してい
て、感ずることはありませんか」と聞いたときのこと。I氏は、こう話してくれた。「そりゃあ、ありま
すよ。三〇歳の中ごろまでは、よくありました」と。

 私のばあい、心の緊張感をほぐすために……。この話は、ここまで。この先は、ワイフ様の
許可がないと書けない。どうぞ、ご自由に、想像を! 私とて、あなた、もしくはあなたの夫と、
同じ。それほど違ったことをしているわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 スキ
ンシップ スキン・シップ 子どものスキンシップ)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●買い物グセ

+++++++++++++

一度身についたクセは、
なかなかなおらない。
思考回路というのは、そう
いうもの。

買い物ぐせも、そのひとつ。

だから一時は、私の指導に
従ってくれた親も、しばらく
時がたつと、それを忘れて
しまう。

そして同じクセを繰りかえす。
同じ失敗を繰りかえす。

+++++++++++++

●甘い食品

甘い食品、リン酸食品など、そういうものを毎日多量に摂取している子どもは、見た目にも、独
特の症状を示す。詳しくは「過剰行動児」を参考にしてほしい。で、そういう子どもをもつ母親
に、それなりの指導をすると、たいていの母親は、「では……」と言って、私のアドバイスに従っ
てくれる。

しかし長つづきはしない。理由は簡単。こうしたアドバイスは、一時的な効果しかない。やがて
母親は、もとの買い物習慣にもどってしまう。一、二か月もすると、スーパーなどで、また同じも
のを買い始める。つまり元の木阿弥(もくあみ)。

では、どうするか。

私はあわせて、つぎのようにアドバイスしている。

「家の中にある、甘い食品(ジュース、アイスクリーム、ジャムなど)、それにリン酸食品(かまぼ
こ、インスタントうどん、焼きそば、プリンなど)を、思い切って、袋に詰めて捨てなさい。もった
いないと思ったら、なおさら、そうしなさい。もったいないと思う気持ちが、ショックとなって、あな
たの買い物グセをなおします」と。

言うまでもなく、問題は子どもの食生活にあるのではなく、母親の買い物習慣にある。その買
い物習慣を改めないかぎり、子どもの食生活の問題はなおらない。子どもの小食(好き嫌い、
細い、遅い、少ないなど)に悩んだときも、同じように対処する。

●甘いものを食べて、低血糖?

甘い食品(白砂糖の多い食品)を食べると、低血糖になると話すと、多くの母親は、「?」と思う
らしい。しかしそれには、こんなメカニズムが働く。

一時的に、多量の白砂糖をとると、当然のことながら、急激に血糖値があがる。そのとき同時
に、その血糖値をさげようと、体内で、多量のインスリンが分泌される。で、そのインスリンが、
血糖を分解する。それで血糖値はさがるが、しかしインスリンだけは血中に残り、さらに血糖値
をさげようとする。そして結果として、今度は、低血糖にする。

低血糖になると、脳の抑制命令がうまく働かなくなり、行動が、カミソリでスパスパと切るよう
に、鋭くなる。突発的にキーキー声をあげて、興奮しやすくなる。

行動するときは、(思考するときにも)、二つの命令が同時に、脳より発せられる。ひとつは、行
動命令。もう一つは抑制命令。この二つの命令が、バランスよく保たれたとき、人間の行動や
思考は、スムーズになる。なめらかになる。見た目にも、おだやかになる。

しかし血糖値があがると、脳間伝達物質である、セロトニンが、異常に分泌され、脳の機能が
乱される。こうして低血糖児特有の症状が現れる。

私が見聞きした低血糖児に、こんな子どもがいた。

ある病院で、小児糖尿病の患者を見舞ったときのこと。当然のことながら、小児糖尿病の子ど
もは、人工的に砂糖断ちをしている。その結果、ここでいう低血糖児になる。話には聞いてい
たが、その症状のはげしさには、驚いた。

昼の給食時だったが、突発的に暴れて、トレイごと床にたたきつけてしまった子どももいた。そ
の暴れ方が、ふつうではない。まさに突発的。錯乱状態になって暴れた。

そんなわけで、もし、あなたの子どもに、つぎのような症状が現れたら、砂糖断ちをし、合わせ
て、CA、MGの多い食生活にこころがけてみるとよい。具体的には、魚介類、海産物を中心と
した献立に切りかえてみる。

★突発的に、キーキー声(超音波に近い声)をあげて、興奮する。暴れる。
★小刻みにイライラしたり、言動に落ち着きがない。
★精神疲労を起こしやすく、興奮しやすい。感情の起伏がはげしい。

 イギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。それについては、すでに何度も書いてき
たので、ここでは省略するが、子どもの心で、「?」と感じたときには、まずCA、MGの多い食
生活にこころがけてみる。

●ダラダラとした姿勢も……
  
 ついでに、ダラダラとした姿勢も、CA,MGでなおすことができる。子どもの学習風景をうしろ
から見ると、それが判断できる。

 子どもをうしろから見たとき、背骨がぐにゃぐにゃと曲がってしまい、姿勢が悪いようだった
ら、まずCA、MG不足を疑ってみる。子どもによっては、筋肉の緊張感が持続できず、机にお
おいかぶさってしまうこともある。

 言うまでもなく、筋肉の緊張感をつくるのは、CA、MGである。正確には、カルシウムイオンと
いうことになる。これが不足すると、筋肉が緊張感を持続できず、ここでいうように、姿勢が悪く
なる。

 よく私の教室でも、姿勢が悪い子どもを見つけると、あとで、「どうしてあなたは、ちゃんと座っ
ておれないの!」と叱っている母親を見かける。しかしこの問題は、叱ってどうにかなる問題で
はない。原因は、かたよった食生活にあるとみる。

 なお、一週間ほど、CA,MGの多い食生活にこころがけ、かつリン酸食品を避け、砂糖断ち
をすると、子どもの姿勢は、劇的になおる。一度、ためしてみてほしい。

 (注)「砂糖断ち」といっても、完全に断つ必要はない。今ではありとあらゆる食品に砂糖が含
まれているので、意識しなくても、子どもはじゅうぶんすぎるほどの砂糖を摂取していることにな
る。ちなみに幼児に必要な摂取量は、一日、一〇〜一五グラムと言われている。意識して与え
る必要はない。

 またよくレストランなどで、子どもの顔よりも大きなソフトクリームを食べている子どもをよく見
かける。それがいかに多い量かは、あなた自身が、自分の顔より大きなソフトクリームを食べ
てみればわかる。

 体重一五キロの子どもが、ソフトクリーム一個を食べる量は、体重六〇キロのおとなが、四
個食べる量に等しい。それともあなたは、四個のソフトクリームを食べることができるとでも言う
のだろうか。それだけの量を子どもに与えておきながら、「どうしてうちの子は、小食なのでしょ
うか」は、ない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 買い
物ぐせ 買い物癖 買い物グセ)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2248)

●心の内と外

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心には、内側と外側がある。
おかしな分類のし方だが、
心というのは、内側から作用
するばあいもあるし、反対に、
外側から作用するばあいも
ある。

つまり内側からの刺激で、
喜びを感じたり、怒りを感じたり
することもあれば、反対に、
外側からの刺激で、喜びを
感じたり、怒りを感じたりする
ことがあるということ。

+++++++++++++


●不愉快な気分

 たまたま私は、その日、2つの経験をした。

店で、3000円のものを買った。5000円札を出したので、おつりは2000円ということになる。
が、店の女性は、私におつりを、7000円もくれた。(こまかい数字は、省略。)

 「あのう……」言いかけたが、その女性の手を見ると、1万円札がしっかりと握られている。私
は「?」と思った。思ったとたん、言葉がひっこんでしまった。5000円札を渡したのに、どうして
……と考えているうちに、わけがわからなくなってしまった。そういうとき、「今、渡したのは、50
00円札です」と言うと、かえって話が、混乱してしまう?

 店から出るとき、何とも言えない不快感が心の中に充満した。「どうして正直に言わなかった
のだ」と、自分で自分を責めた。しかしその女性は、たしかに1万円札をもっていた。私が500
0円札だと思っていたのは、一万円札だったのか。それとも、途中で、その女性は、別の札とも
ちかえたのか。私とて、すべてを見ていたわけではない。

 その不快感は、ずっと消えなかった。ふつうなら、「得をした」と喜んでよいはずだが、そういう
感覚は、なかった。「いいのかなあ?」と思っている間にも、足は、どんどんと、その店から遠ざ
かってしまった。

 同じ日の夜。今度は、こんな経験をした。

 夜、帰るとき、車の列を横切って、向こう側の車線に出ようとしたときのこと。そのとき、ワイフ
が車を運転していた。私たちは信号のない十字路にいた。が、半分ほど車を出したところで、
車が反対方向から、何台かやってきた。私たちは、車の列の中で、立ち往生してしまった。

 とたん、横の車が、はげしくクラクションを鳴らした。「どけ!」という意味である。一度や、二
度ではない。何度も鳴らした。ワイフが頭をさげたが、それでも、クラクションは、鳴りつづい
た。助手席にいた私が体を乗りだしてその車を見ると、運転していたのは、二七、八歳の若い
女性だった。

 やがて車の流れが切れ、私たちは反対車線に出たが、私は、何とも言えない不快感に襲わ
れた。ワイフは、「しかたないわよねえ……」と笑っていたが、私は、車から飛び出し、その女性
を怒鳴りつけたかった。

 たまたまその日は、私の精神状態がよくなかったのかもしれない。どこかピリピリしていた?
 が、そのままにしておくわけにはかない。夜、家に帰ると、ワイフにこう切り出した。

私「今日、お前がぼくに渡してくれたお金はいくらだった?」
ワ「旅費とお弁当代で、1万9000円だったわ。バッグの一番外のポケットに入れておいたわ」
と。

 そこで私は、おつりの話をした。するとワイフは、「じゃあ、いくら使ったか明細を言ってよ。そ
れで計算できるわ」と。

 で、その結果、ワイフはこう言った。「やっぱり、あなたは、1万円札を渡したのよ。自分で50
00円札と思いこんでいただけよ。でなと、計算が合わないもん」と。

 「ああ、よかった」と思ったとたん、胸の中のしこりが消えた。そしてつづいて、あの女性の話
をした。

私「お前は、ああいう女性を、どう思う?」
ワ「ああ、あの人ね。せっかちな人ね」
私「それだけ?」
ワ「それだけよ」
私「ぼくは、車から出て行って、怒鳴りつけてやりたかった」
ワ「あんな人、相手にしなければいいのよ」
私「そのあと、気にならなかったか?」
ワ「すぐ忘れたわ」
私「ぼくには、それができない。いつまでも気になる」
ワ「そうね。あなたは、そういう人ね」と。

 なぜ人間は、不愉快になるか。自分で自分を不愉快にすることもある。反対に、他人が自分
を不愉快にすることもある。私はその日、同時に二つの経験をした。しかしこうした不愉快は、
心の健康にもよくない。

 では、どうするか。もっとも、その日は、疲れていた。それでささいなことが気になった? 注
意力も、欠けていた。それでそういうことになった。しかし、私が感じた不快感は、まったく同質
のものだった。何でもないようなことだが、考えてみれば、これはおかしなことだ。

 一方は、自分で作りだした不快感。もう一方は、他人から与えられた不快感。その二つが同
質? 意識の上では、別の不快感かもしれないが、脳の中へ入ると、同じものになってしまう?
 あるいは、脳は、そこまでは区別できない? 

それはちょうど、たとえて言うなら、食べ物が胃袋に入るようなものか。フランス料理と日本料
理を別々に食べても、胃袋の中へ入れば、みな、同じ。もう区別できない?

私「人間の感情なんて、単純なものだね」
ワ「……何の話?」
私「いいの。どうせ、お前に話しても、お前には理解できないから……」
ワ「わけのわからないことを、言わないでよ」
私「ぼくと、お前とでは、脳ミソの質が違うということ」と。

 しかしその日は、よい経験をした。このつづきは、また別の日に考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●子どもの進学競争

+++++++++++++++

あちこちの学校で、オープンテスト
という名前の、模擬テストが行われて
いる。

なかなか……というか、よくこういう
名称を考えるものだと、感心する。

今までは、どこかの予備校や、私塾
連盟が、そういったテストをしていた。
が、今は、政府から補助金をたっぷり
ともらっている学校が、それをする。

オープンテスト……つまり、学校側の
金儲けにほかならない。
費用も、2000〜3000円。予備校や
私塾連盟がするテストの費用と同じ
である。

ふつうそうした費用のうち、60%程度
は、予備校や私塾の収入となる。

が、学校がそれをすれば、まるまる、
学校の利益となる。

500人の子どもが集まれば、それだけ
で、100万円。

学校そのものが、進学塾化している。

いいのかなあ……?

++++++++++++++++

●進学

 よい高校から、よい大学へ。そしてよい就職先へ。しかし人間というのは、そんな単純なもの
なのか? 

 何も考えない。何も疑問に思わない。どこか単純な子どもには、そういうコースもあるのだろう
が、しかしすべての子どもに、それを押しつけてはいけない。

 むしろ自分で考える子どもは、こうしたコースから自ら、はずれていく。それは子ども自身に
問題があるというよりは、そうした多様性に応ずることができない、システムのほうに問題があ
るとみる。

 二男の例を出して恐縮だが、二男は、この地元でも、A、B、C、D、E……ランクの中でも、E
ランクの高校を卒業している。それにはいろいろないきさつがあるが、このクラスの高校になる
と、国立大学へ進学する子どもどもは、数年に、一人いるかいないかという程度になる。

 しかし二男の能力は、私は認めていた。だから二男がEランクの高校へ入学すると決めたと
きも、すべて二男に任せた。

 が、この日本では、このあたりで人生のすべてが決まってしまう。事実、高校を卒業するとき
になって、二男には、進学できる大学がなかった。それでアメリカへ渡ったが、はからずも、私
はここで日本とアメリカの教育システムの違いを、思い知らされるところとなった。

 アメリカでは、やる気と力があれば、人生のどの段階からも、そこを基盤として、前に伸びる
ことができる。二男は、私立大学で二年間学んだあと、今度は、州立大学へ移った。そしてそ
こで学位を得て、卒業した。

 こういうことは、日本では、可能なのか? 答えは、「NO!」

 名もない小さな私立大学へ入った学生は、その段階で、いくら猛勉強しても、すべてそこま
で。そのあと国立大学へ移籍するなどということは、常識で考えてもありえない。その「ありえな
い」という部分に、日本の教育の最大の欠陥がある。

 二男は、幼いころから、自分で考えて行動する子どもだった。私も、意識して、それを助け
た。伸ばした。しかしこういう子どもは、この日本では、損をすることはあっても、得をすることは
何もない。従順に体制に従う子どもほど、この日本では得をする。またそういう子どもほど、生
きやすい環境が、すでにできあがっている。まさに官僚主義国家と言われる理由は、こんなと
ころにもある。

 今、その二男を思いやりながら、ときどき、こんなことを考える。もしあのまま二男が、日本に
いたら、二男はどうなっていたか、と。コンピュータについては、天才的な思考能力をもってい
たが、今ごろは、どこかのパソコンショップで、パソコンの販売をしているのが、関の山ではな
いか、と。

 事実、二男は、小学三年生のときには、すでに自分でベーシック言語使って、ゲームを作っ
て遊んでいた。中学一年生のときには、C言語をマスターし、高校生のときには、アンチウィル
スのワクチンを自分で開発して、どこかのソフト会社に送っていた。

 日本には、そういう子どもを伸ばすシステムがない。同時に、勉強しかしない、勉強しかでき
ないような、どこか頭のおかしい子どもほど、得をする。スイスイと受験競争という階段をのぼ
っていく。こういうシステムの中で、いかに多くの日本人が、社会の底辺にうずもれたまま、損を
していることか。しかしそれは個人の「損失」というよりは、社会そのものの「損失」と考えたほう
がよい。

 教育を否定してはいけない。しかしそれと同じほど、教育を盲信してはいけない。盲信して、
学歴信仰や、学校神話に陥(おちい)ってはいけない。人間は、そんな単純なものではない。ま
た、単純であってはいけない。そしてそれを受け入れる教育システムは、もっと大胆に、多様化
すべきである。でないと、本当に日本の未来は、このまま、終わってしまう。

 たとえばアメリカの小学校では、クラス名(ふつうはその教室を管理する教師名)はあっても、
学年はない。中学校でも単位制度を導入している。学校へ行かないホームスクーラーも、二〇
〇万人を超えたとされる(〇二年末)。また四、五年の飛び級を繰りかえし、大学で学んでいる
子どももいる。

 その大学にしても、入学後の転学、転籍は自由。学科、学部の、スクラップ&ビュルドは、自
由。そうそう公立小学校にしても、学校が独自にカリキュラムを組んで教えている。ほかにチャ
ータースクール、バウチャースクールなどもある。

 ドイツでは、大半の中学生は午前中だけで授業を終え、あとはクラブに通っている。ヨーロッ
パ全域では、大学の単位は、ほぼ共通化された。今では、日本のように出身大学にこだわる
学生は、ほとんどいない。いないというより、こだわっても意味がない。

 世界は、そこまできているというのに、この日本は、いったい、何をしている? いまだに地方
新聞の中には、「我が母校」「母校の伝統」だとか何とか、意味のない記事を連載しているのが
ある。江戸時代の身分制度が、あるいは家元制度が、母校意識に置きかえられただけ?

 ……というのは、少し言い過ぎだが、しかしこれだけは言える。

 生きザマには、コースなど、ない。人間よ、日本人よ、生きる原点にもう一度立ちかえって、
教育システムを、見なおそうではないか。

【追記】
 静岡県でもナンバーワンと言われる進学高校でのこと。

 それくらいの進学高校になると、それぞれの部活にも、OB会というのがあって、総会のたび
に、壇上に、そのOBたちが、ズラリと並ぶ。そして言わなくてもいいのに、「私は○○回の卒業
生です」などと、自己紹介をする。

 かわいそうな人たちだ。あわれな人たちだ。自慢するものがないから、学歴をひけらかして、
生きている? 学歴にしがみつきながら、生きている? あるいは士農工商の身分制度が、学
歴制度に置きかわっただけ? いろいろ考えられるが、こうした封建時代の亡霊はまだ、日本
のあちこちに残っている。

+++++++++++++++++
これに関連して、以前、こんな原稿
(中日新聞掲載済み)を書きました。
ここに再掲載します。
+++++++++++++++++

常識が偏見になるとき 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が
多いが、それは誤解。

アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一
五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと言われている。そ
れを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家
庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いた
り、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こ
うした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラ
ブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。

学習クラブは学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後
(二〇〇一年調べ)。こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二
三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の「子どもマネー(Child Money)」が支払われてい
る。この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも
つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。

そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が
先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文
化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話を
します。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い
た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は
さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー
ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行
き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではな
い。

学校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにし
ても、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」
と。それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが
仮想の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●老後の統合性

++++++++++++++++++++++

老後をどうすれば有意義に生きることができるか。
それは、『自己の統合性』で決まる。

それがこの4年間で得た、私なりの結論である。

つまり(自分がすべきこと)と、(現実に今していること)
を一致させる。これが「統合性」である。

若いときは、(したいこと)と(していること)を一致させれば、
それでよかった。自己の同一性を確保できた。

今、その最中にいる若い人たちにはたいへんなことかも
しれないが、老後の統合性とくらべたら、何でもない。

というのも、(したいこと)と、(すべきこと)の間には、
大きな距離がある。

たとえば釣りが好きだからといって、毎日釣りをして
いても、その人の空虚感が、満たされることはない。

ふつう(すべきこと)は、自分のしたくないことのほうが、
多い。ある種の苦痛や苦労がともなう。

しかしその(すべきこと)の追求なくして、老後はない。

まず、4年前に書いた原稿を紹介する。このとき私は
まだ、自分の老後を、実感として、自分のものにする
ことができなかった。

++++++++++++++++++++++

【4年前の原稿より】(03年9月作)

●不安

 日本人の80%近くが、老後に不安を感じているという。少し前、何かの調査で、そんなことが
わかった。

 私も、実は、その中の一人。そのうちどこかの老人ホームに入るつもりでいるが、かなりのお
金が必要だという。ワイフは、「土地と家を売れば、何とかなるわ」と言っているが、私の感じて
いる不安は、そんなものではない。

 問題は、老後の生活ではない。問題は、どうやって老後の孤独、絶望、疎外、空虚と戦うか、
だ。死への恐怖もある。どう考えても、その方法がわからない。それまでに人生観が確立でき
ればよいが、今のままでは、それも無理だろう。
 
 とくに私のように、戦後の高度成長期を生きてきた人間は、豊かな生活と引きかえに、もっと
大切な「心」を、犠牲にした。すべてを「マネー」に結びつけて生きてきた。今さら、「友だちの数
こそ、真の財産」「我を捨てて、慈悲の心をもて」と言われても、どこでどうすればよいのかさ
え、わからない。

 そう、私たちの生活には、「だからどうなの?」という部分がない。豪華な車に乗って、これま
た豪華なレストランで、おいしいものを食べる。しかしそのとき、ふと、こう考える。「だからどう
なの? それがどうしたの?」と。

オール電化の、便利な家を建てる。風呂の温度も、湯の量も、すべて自動化されている。暑け
ればクーラーをつければよい。しかしそのときも、ふと、こう考える。「だからどうなの? それが
どうしたの?」と。

つまり私たちは、「だからどうなの?」という部分を、置き去りにしたまま、ただがむしゃらに生き
てきた。たとえばそのことは、美術館で巨匠たちの描いた絵画を見たときに、思い知らされる。
「すばらしい絵だ」と思うのだが、「だからどうなの?」という部分で、その絵を、自分と、どうして
も結びつけることができない。そしてあろうことか、「この絵は、一億円の価値がある」「二億円
だ」と、そんなふうに考えてしまう。

私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 もし生きるだけなら、死ぬまで生きればよい。うまくいけば、ベッドの上で、寝たきりでも何で
も、数年間は生きられる。しかし、そんな人生に、どんな意味があるというのか。もっと言えば、
明日が今日と同じ。あるいは明日は、今日より、もっと悪くなるという人生に、どんな意味があ
るというのか。ただ生き長らえているという人生に、どんな意味があるというのか。

 若いとか、年をとっているとか、そういうことは関係ない。肉体などというものは、ただの入れ
物。パックに入っていようが、グラスに入っていようが、ミルクはミルク。問題は、そのミルクの
味、中身、それに鮮度なのだ。

 今の私には、孤独、絶望、疎外、空虚と戦う自信は、まったく、ない。このまま行けば、やがて
孤独という無間地獄の中で、気が狂ってしまうかもしれない。その可能性は大きい。そこで聖
書をひもとき、仏教の経典を開き、「心」をさがす。しかし頭の中では理解できても、それが実
践できない。実践しても、どうも身につかない。

 昨日も、ある親から、子育てについて、相談があった。二時間近く、電話で話した。このところ
毎日のように、電話がかかってくる。居留守をつかうという方法もあるが、ウソをつくのは、もっ
といやだ。だから電話に出る。

 で、こうした行為が、私の心に何かの「うるおい」をもたらすかというと、そういうことは、まった
く、ない。客観的に見れば、私は人助け(?)をした。よい思いをもって当然なのに、それがな
い。相変わらず、孤独は孤独のまま。絶望感も、疎外感も、空虚感もそのまま。

 私のどこが、どうまちがっているのだろう。おかしいのだろう。何かの見返りを求めているの
だろうか。ノー。感謝されることを願っているのだろうか。ノー。自分の優位性を楽しんでいるの
だろうか。ノー。

 一つ理由があるとすれば、私は、相手の立場になりきっていないということがある。口では、
「たいへんですね」と、同情したフリをするかもしれないが、それはあくまでもフリ。私はいつも、
そのフリだけで生きている。だからそういう相談に答えながらも、いわばハウ・ツー的な知識を
説明しているにすぎない。

 これではいけない。このままでは、さらにいけない。私の老後は、まちがいなく、悲惨なものに
なる。……私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 さあ、時間がないぞ。私はどうしても急がねばならない。あと五年か。それとも10年か。い
や、とても10年は、もたないだろう。それまでに、何としても、自分を立てなおさなければならな
い。
(030914)

+++++++++++++++++++++++

 この原稿を書いてから4年。私は『自己の統合性』という言葉を知って、自分の老後に、ある
種の光がさし込んだのを知った。わかりやすくいえば、「おぼろげながらも、道が見えた」。

 もちろんこの言葉は、心理学では常識的な言葉で、私が考えたものではない。若い人につい
ていえば、『自己の同一性(アイデンティティ)』という言葉がある。それと対比させて考えてみる
と、わかりやすい。多くの若い人は、(自分のしたいこと)を模索しながら、やがてそれと自分を
一致させていく。それが『自己の同一性』。

 が、「統合性」というのは、そんな生やさしいものではない。というのも、先にも書いたように、
(すべきこと)には、ふつう、苦痛や苦労がともなう。できるなら、そういう苦痛や苦労は、避けた
い。統合性を確立するためには、そういう苦痛や苦労を乗り越えなければならない。

 しかも、その統合性は、一朝一夕には確立できない。エリクソンという学者が言っているよう
に、その時期は、「人生の正午」と呼ばれる、満40歳前後。そのころから、老後に向けて、準
備する。計算すると、老後を迎える、20〜30年前から、ということになる。

 「60歳になりました。これからはボランティア活動に精を出します」「ゴビの砂漠で、ヤナギの
木でも植えてきます」というわけにはいかない。その下地がない人が、まねごとだけで、それら
しいことをしても、意味はない。長続きしない。

 で、私にとって(すべきこ)とは何か? 言い忘れたが、(すべきこと)というのは、無私、無欲
が前提である。功利、打算が入ったとたん、その(すべきこと)は、霧散する。つまり(すべきこ
と)というのは、「なぜ私たちは生きるか」「何のために生きているか」「何のために生きてきた
のか」という問題と直結している。

 その(生きること)は、まさに(無)の世界。どこまでも純粋で、透明。濁った心が入り込んだと
たん、(生きること)は、台なしになってしまう。

 ……しかしそこまで、無私、無欲になりきれるものなのか。が、これだけは言える。「人間は
死ぬときは、無に還(かえ)る」ということ。死なないまでも、死がちかづけば近づくほど、無に近
くなる。話はぐんと現実的になるが、そのことは、ケア・センターに通う老人たちを見ればわか
る。

 あのケア・センターでは、老人たちが、20〜30歳前後の若い人の指導で、粘土細工をした
り、折り紙をしたりして、時間をつぶしている。若いときには、みな、それぞれ、それなりの人た
ちだったはずである。

 私の母にしても、今では、8〜10畳間の部屋とベッドが、すべての財産。若いころは、勝ち気
で、負けず嫌いだった。親戚の人たちと、遺産の取り合いまでしたことがある。しかし今、残っ
ているものは、何もない。

 だったら、それに早く気づけばよい。どうせ私たちは、みな、「無」に還る。遅かれ、早かれ、
そうなる。無になることを恐れるのではなく、無を前提として生きる。そうすれば私利、私欲も消
え、その分だけ、より早く自分の統合性を確立することができる。

 この原稿を、また4年後に読み返してみたい。そのとき私は、何を発見しているだろうか。私
は、どうなっているだろうか。
(07年10月23日、満60歳まで、あと少し!)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2249)

●親子の信頼関係

+++++++++++++

信頼関係は、たがいにどこまで
じぶんをさらけ出せるかによって、
決まる。

つまりどこまで自己開示できるか。
その度合いによって決まる。

親子とて例外ではない。

+++++++++++++

●親子のさらけ出し

 親子で、どこまでたがいに、さらけ出しができるか。その度合いによって、信頼関係が決ま
る。

 子どもも、小学3年生くらいを境に、急速に親との間に距離を置くようになる。いわゆる「親離
れ」が始まる。

 このとき親が、それなりの覚悟と、そして子離れの準備をしていればよいが、そうでないとき、
いろいろな問題が起きる。子どもが幼児のころの親子関係にこだわり、その状態に戻そうとあ
がく親も、少なくない。

 とくに溺愛ぎみの親や、子育てを生きがいにしている親ほど、その傾向が強い。このタイプの
親にとっては、子離れそのものが、考えられない。中には、子どもが親離れを始めたとたん、
その絶望感(?)から、自己否定、自己嫌悪に陥(おちい)ってしまう親もいる。

 親子でも、たがいのさらけ出しが、信頼関係の基本だが、しかしその信頼関係は、子どもの
年齢とともに、質的に変化する。具体的に考えてみよう。

 以前、こんなことを相談してきた母親がいた。

 何でも最近、その母親の息子(小3)が、学校であったことを話してくれなくなったというのだ。
それまでは学校であったことを、あれこれ話してくれたが、それがなくなった。「それで、どうした
らいいか?」と。

 この時期を境に、子どもは急速に交友関係を広める。同時に、親子の関係は、希薄になる。
こうした関係の変化は、子どもの成長期には、よく見られる。が、それをもって、親子の信頼関
係が崩壊したと考えるのは、誤解である。

 この時期を境に、親子の関係は、「親子」から、「一対一」の人間関係に変化する。いつまで
も親が、親風を吹かし、上下意識をもつほうがおかしい。一方、子どもにしても、いつまでも、
「ママ、ママ……」「パパ、パパ……」と甘えるほうが、おかしい。

 そこで問題となるのが、自分の子どもであっても、いかにして、子どもを、一人の人間として見
ていくかということ。そして子どもではなく、一人の人間として、どこまで信頼していくかというこ
と。私が先に書いた、「質的な変化」というのは、そのことをいう。

 そこで自己診断。

【自己診断】

●信頼型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、すばらしい」と思っている。「うちの子が
できなければ、ほかの子にできるはずはない」と思うこともある。子どもの失敗や、生活態度の
悪さは、ほとんど気にならない。

●不信型ママ……いつも心のどこかで、「うちの子は、何をしても心配だ」と思っている。「何か
失敗するのではないか」とか、「人に笑われるのではないか」と思うこともある。ささいなことが
気になって、それをよく叱る。

少し前も、「食事中、子どもがよく食べ物をこぼす。どうしたらいいか」と相談してきた母親がい
た。その母親は、子どものしつけを心配していたが、問題は、その「しつけ」ではない。母親自
身が、子どもに対して、大きな不信感をもっている。それが姿を変えて、こうした相談になった。
もし子どもを信頼していれば、子どもが食べ物をこぼしても、「あら、だめよ」と、軽くすますこと
ができるはずである。

 そこであなた自身はどうか、少し振りかえってみてほしい。あなたは子どもの前で、自分をさ
らけ出しているだろうか。あなたはさらけ出しているとしても、子どもは、どうだろうか。あなたの
前で、言いたいことを言い、したいことをしているだろうか。

 このとき、たいていの親は、「うちの子は、私の前では、伸び伸びしています」と言う。「言いた
いことも言っています。態度も大きいです。したいことも、もちろんしています」と。しかし本当に
そうだろうか。あるいはひょっとしたら、あなたがそう思いこんでいるだけではないだろうか。

 こういうケースでは、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私と子どもの関係は、
すばらしい」と思っている親ほど、あぶない。親が傲慢であればあるほど、子どもは、その心を
閉ざす。

 一方、「どうもうちの子のことがわからない」「親子関係は、これでいいのか」と思っている親ほ
ど、子どもに対して謙虚になる。その謙虚さが、子どもの心を開く。このことがわからなけれ
ば、反対の立場で考えてみればわかる。もしあなたが、あなたの親に、つぎのように言われた
ら、あなたは、どのように反応するだろうか。

●「あなたはどう思う? 私は掃除したほうがいいと思うけど、ね。お客さんも来るし」と、相談を
もちかけられる。

●「掃除をしっかり、しなさい。お客さんが来るでしょ。こんなことではどうするの!」と、命令さ
れる。

もしあなたの子どもが、あなたの前で、小さくなっていたり、よい子ぶっていたりしたら、あなた
の親子関係は、かなりあぶない状態にあるとみる。表面的にはうまくいっているように見えるか
もしれないが、それはあくまでも「表面的」。たいていのばあい、あなたという親がそう思ってい
るだけと考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親子
の信頼関係 さらけ出し 自己開示)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

【今週の幼児教室から】

●おかしな話?

 聞きなれた話でも、よくよく考えると、「おかしい?」と思うような話は、多い。たまたま今日は、
こんな話をした。

 私が、「うさぎさんと、カメさんが、かけっこをしました。で、うさぎさんは、猛スピードで走って、
はやくゴールに着きました。うさぎさんが勝ちました」と。

 すると子どもたちが、「その話は、おかしい」「カメさんが、勝つことになっている」「うさぎさん
は、途中で、居眠りをすることになっている」と。

 そこで私は、こう話しかけてみた。

私「どうしてうさぎさんが、途中で、居眠りなんか、するの?」
子「だって、カメさんが遅いから、それで木のそばで、一休みをするの!」
私「かけっこの途中で、居眠りするなんて、おかしいよ」
子「おかしくないよ。うさぎさんは、居眠りをするの。その間にカメさんが、うさぎさんを追いぬい
て、カメさんが、かけっこで、勝つの!」

私「それはおかしいよ。じゃあ、どうして、カメさんは、うさぎさんを、起こしてあげなかったの?」
子「起こしたら、カメさんが、負けてしまうよ」
私「それなら、カメさんは、ずるいよ。やはり起こしてあげるべきだと思う。『うさぎさん、眠ってい
てはだめだよ。起きなさい』と言うべきだったと思う」
子「きっと、うさぎさんは、起きなかったよ」
私「どうして?」

子「起こしたら、『うるさいなあ。寝させてよ』と、怒るかもしれない。それでカメさんは、うさぎさん
を起こさなかった……」
私「なるほど。そうか。しかし、ね。この話は、最初からおかしいよ」
子「どうして?」
私「足のはやいうさぎさんが、のろいカメさんとかけっこするところが、おかしい。はじめから、ど
っちが勝つか、決まっている」
子「どうして?」

私「うさぎさんが勝つに決まっているでしょう。ぼくがうさぎさんなら、カメさんと、かけっこなんか
しないよ。勝つに決まっているもの。ぼくがカメさんでも、かけっこなんか、しないよ。負けるに決
まっているもの」
子「……」
私「君たちだったら、お父さんと力くらべするかな?」
子「するよ。する、する」

私「お父さんに勝てなくても、するの?」
子「ううん、ぼくのほうが強いよ」
私「ああ、君のほうが強いの?」
子「そうだよ。パパのほうが、『降参、降参!』って、逃げていくよ」
私「なるほど、そういうことか」と。

 子どもたちがワイワイ言い始めたので、最後は、こう言ってしめくくった。

 「もしカメさんが、うさぎさんを起こしていたらね、どうなっていたと思う? うさぎさんは、きっ
と、カメさんに、こう言ったと思うよ。『カメさん、ありがとう。いっしょに、歩いて行こうね』と、ね。
つまりうさぎさんとカメさんは、仲よくゴールに着いたと思うよ」と。

 もし私がうさぎさんで、カメさんに起こしてもらったなら、そこで競争はやめただろうと思う。起
こしてもらったことをよいことに、そこからまた猛スピードで走るようなことはしない。あるいはそ
の時点で、負けを認める。さらに競争をつづけるにしても、そのあとは、カメさんの走るはやさ
で歩く。そして、多分、こんな会話をする。

う「やあ、カメさん、ぼくはうかつにも眠ってしまったよ」
カ「うさぎさん、それはまずいよ。本当は君が、勝った競争なんだから」
う「わかっているよ。だけど、起こしてくれてありがとう。起こしてくれなかったら、きっと、ぼくは、
君に、負けていたよ」
カ「ぼくだって、そんな方法で、勝ちたくないもんね」
う「そうだな。そうだよね。これからも仲よくしようね」
カ「うん」と。

 イソップ物語では、最初、うさぎさんが、カメさんを、「のろま!」とか呼んで、カメさんをバカに
する。そしてこの競争は始まる。が、うさぎさんは、油断したため、最後には、カメさんに負け
る? もしそうなら、話の流れはわかるが……。

 ……こうした指導で大切なことは、(1)常識を押しつけないこと。(2)常識を疑わせること。
(3)自分で考えさせること。そして(4)自分なりの結論をもたせること。そして結果として、どん
なことにでも、何らかの問題意識をもたせるように指導する。コツは、子どもに意見を言わせ、
それがどんな意見であっても、ほめるようにする。

 大切なのは、意見の内容ではない。その方向づけをすること。考えるクセをもたせること。そ
してその時期は、早ければ早いほどよい。小学校へ入ってからだと、遅すぎる。

 で、レッスンが終わるとき、一人、「あとで、パパに聞いてみる」と言った子どもがいた。「何
を?」と言うと、「やっぱり、あの話はおかしい」と。そういう子どもが、一人でも現れたということ
だけでも、喜ぶべきこと。今日のレッスンは、大成功だったということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 考え
る子ども 子どもに考えさせる 子どもと思考)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●親の気負いvs子の気負い

+++++++++++++

どうせ生きるなら、無駄な
気負いは少なくしたい。

大切なことは、心を解き放つ
こと。

体は、あとからついてくる。

アメリカの格言である。

+++++++++++++

 「親だから……」と気負うのを、親の気負いという。それはよく知られているが、「子だから…
…」という気負いもある。これを子の気負いという。

 Sさん(長野市在住・女性)も、その「子の気負い」で苦しんでいる。両親と祖母の問題。それ
に伯父、伯母の問題。こうした問題は、クモの巣のようにからんでいて、一筋縄ではいかない。
ときどき私は相談を受けるが、どこからどう手をつけてよいのか……? 

 そのSさん。今は、毎日、悶々と悩んでいる。祖母のボケが進んでいる。そのこともあって母
親が沈んでいる。うつ病かもしれない。父親とうまくいっていない。実家へ帰っても、父親と会話
をするだけで、疲れてしまう。祖母の介護のことで、伯父が口を出して、困る、などなど。

●相互依存性 

 こうした気負いは、相互的なもの。決して、一方的なものではない。親としての気負いの強い
人ほど、一方で、子としての気負いが強い。「よい親であろう」と思う反面、「よい子どもであろ
う」とする。だからどちらを向いても、疲れる。

 こうした気負いの背景にあるのが、依存性。もう少しわかりやすい言葉でいうと、「甘え」。親
に対しては、しっかりと親離れできていない。一方、子どもに対しては、しっかりと子離れできて
いない。結果として、どこかベタベタの人間関係になる。

 このベタベタの人間関係が、祖父母→親→自分→子へと、脈々とつながっている。だからふ
つう、その中にいる人は、それに気づかない。それがその人にとっては、ふつうの人間関係で
あり、またたいていのばあい、それが「あるべき人間関係」と考える。

●Sさんのケース

 Sさんのケースでは、Sさんが、親のグチのはけ口になっている。とくにSさんの母親は、何か
につけて、Sさんにグチをいう。「望まない結婚であった」「したいこともできなかった」「夫(Sさん
の父親)が何もしてくれない」と。

 こうした母親の不平、不満を聞きながら、Sさんは、ますます悶々と悩む。「両親たちは、見た
感じは、一見、仲のよい、理想的な夫婦に見えるのですが……」「友人がうらやましがることも
ありました」と。

 しかしそういうグチを、母親がSさんという子どもにぶつけること自体、おかしい。仮にぶつけ
たとしても、子どもが悩むところまで、子どもを追いこんではいけない。Sさんは、たいへん生真
面目(きまじめ)な人なのだろう。そういう母親のグチを聞きながら、適当にそれを聞き流すとい
うことができない。

●未熟な人間性

 依存型家庭につかっていると、依存性が強い分だけ、代々、子どもは精神的に自立できなく
なる。自立できないまま、それがひとつの「生活習慣」として定着してしまう。

 たとえば日本には「かわいい」という言葉がある。「かわいい子ども」「子どもをかわいがる」と
いうような使い方をする。

 しかし日本語で「かわいい子ども」と言うときは、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子
どもという。自立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、かわいい子どもとは、あまり言わ
ない。

 また「子どもをかわいがる」というのは、子どもに楽をさせること。子どもによい思いをさせるこ
とをいう。

 こういう子ども観を前提に、親は子どもを育てる。そしてその結果として、子どもは自立できな
い、つまりは、人間的に未熟なまま、おとなになっていく。

●親の支配

 依存型家庭では、子どもが親に依存する一方、親は、子どもに依存する。その依存性も、相
互的なもの。自分自身の依存性が強いため、同時に子どもが自分に依存性をもつことに甘く
なる。その相互作用が、たがいの依存性を高める。

 しかし親が、子どもに依存するわけにはいかない。そこで親は、その依存性をカモフラージュ
しようとする。つまり子どもに依存したいという思いを、別の「形」に変える。内容としては、(1)
命令、(2)同情、(3)権威、(4)脅迫、(5)服従がある。

(1)命令……支配意欲が強く、親のほうが優位な立場にいるときは、子どもに命令をしなが
ら、親は子どもに依存する。「あんたは、この家の跡取りなんだから、しっかり勉強しなさい!」
と言うのが、それ。

(2)同情……支配意欲が強く、親のほうが劣位な立場にいるときは、子どもに同情させなが
ら、結果的に、子どもに依存する。「お母さんも、歳をとったからね……」と弱々しい言い方で言
うのが、それ。

(3)権威……封建的な親の権威をふりかざし、問答無用に、子どもを屈服させる。そして「親
は絶対」という意識を子どもに植えつけることで、子どもに依存する。「親に向かって、何てこと
言うの!」と、子どもを罵倒(ばとう)するのが、それ。

(4)脅迫……脅迫するためによく使われるのが、宗教。「親にさからうものは、地獄へ落ちる」
「親不孝者は、不幸になる」などという。「あんたが不幸になるのを、墓場で笑ってやる」と言っ
た母親すら、いた。

(5)服従……子どもに隷属することで、子どもに依存する。親側が明らかに劣位な立場にた
ち、それが長期化すると、親でも、子どもに服従的になる。「老いては子に従えと言いますから
……」と、ヘラヘラと笑って子どもに従うのが、それ。

●親であるという幻想

 人間の自己意識は、三〇歳くらいまでに完成すると言われている。言いかえると、少し乱暴
な言い方になるが、三〇歳をすぎると、人間としての進歩は、そこで停滞すると考えてよい。そ
うでない人も多いが、たいていの人は、その年齢あたりで、ループ状態に入る。それまでの過
去を、繰りかえすようになる。

 たとえば三〇歳の母親と、五歳の子どもの「差」は、歴然としてあるが、六〇歳の母親と、三
五歳の子どもの「差」は、ほとんどない。しかし親も子どもも、それに気づかない。この段階で、
「親だから……」という幻想にしがみつく。

 つまり親は、「親だから……」という幻想にしがみつき、いつも子どもを「下」に見ようとする。
一方、子どもは子どもで、「親だから……」という幻想にしがみつき、親を必要以上に美化した
り、絶対化しようとする。

 しかし親も、子どもも、三〇歳をすぎたら、その「差」は、ほとんどないとみてよい。中には、努
力によって、それ以後、さらに高い境地に達する親もいる。しかし反対に、かなり早い時期に、
親よりはるかに高い境地に達する子どももいる。

 そういうことはあるが、親意識の強い親、あるいはそういう親に育てられた子どもほど、この
幻想をいだきやすい。この幻想にしばられればしばられるほど、「一人の人間としての親」、
「一人の人間としての子ども」として、相手をみることができなくなる。

●Sさんのケース

Sさんのケースの背景にあるのは、結局は、親離れできないSさん自身といってもよい。Sさん
は、実家の両親の問題に悩みながら、結局は、その実家にしがみついている。そういうSさん
にしたのは、Sさんの両親、さらにはSさんの祖父母ということになる。つまり大きな流れの中
で、Sさんは、Sさんになった。

 なぜ、Sさんは、「両親の問題は、両親の問題」と、割り切ることができないのか? 一方、S
さんの両親は、「私たちの問題は、私たちの問題」と、割り切ることができないのか? Sさん
は、両親の問題を分担することで、結局は両親に依存している。一方、Sさんの両親は、自分
の問題を娘のSさんに話すことで、Sさんに依存している。

 本来なら、Sさんは、両親の問題にまで、首をつっこむべきではない。一方、親は、自分たち
の問題で、娘を悩ませてはいけない。どこかで一線を引かないと、それこそ、人間関係が、ドロ
ドロになってしまう。

●批判

 こうした私の意見に対して、「林の意見は、ドライすぎる」と批判する人がいる。「親子というの
は、そういうものではない」と。「君の意見は、若い人向きだね。老人向きではない」と言ってき
た人(七五歳男性)もいた。

少し話はそれるが、ここまで書いて、こんな問題を思い出した。親は子どものプライバシーの、
どこまで介入してよいかという問題である。ある母親は、「子どものカバンの中まで調べてよい」
と言った。別の母親は、「たとえ自分の子どもでも、子ども部屋には勝手に入ってはいけない」
と言った。どちらが正しいかということについては、また別の機会に考えるとして、私が言ってい
ることは、本当にドライなのか? このことは、反対の立場で考えてみればわかる。

 あなたは、いつかあなたの子どもが、あなたの問題で、今のSさんのように悩んだとする。そ
のときあなたは、それでよいと思うだろうか。それとも、それではいけないと思うだろうか。Sさ
んは、メールで、こう書いてきた。

 「娘(中学一年)には、今の私のように、私の問題では悩んでほしくありません」と。

 私は、それが親としての、当然の気持ちではないかと思う。またそういう気持ちを、ドライと
は、決して言わない。

●カルト抜き

 こうした生きザマの問題は、思想の根幹部分にまで、深く根をおろしている。ここでいう依存
性にしても、その人自身の生きザマと、密接にからんでいる。だからそれを改めるのは容易で
はない。それから抜け出るのは、さらに容易ではない。

 しかも親子であるにせよ、そういう人間関係が、生活のパターンとして、定着している。生きザ
マを変えるということは、そういう生活のあらゆる部分に影響がおよんでくる。

 これは一例だが、Y氏(五〇歳男性)は、子どものころ、母親に溺愛された。それは異常な溺
愛だったという。そこでY氏は、典型的なマザコンになってしまったが、それに気づき、自分の
中のマザコン性を自分の体質から消すのに、一〇年以上もかかったという。

 親子関係というのは、そういうもの。それを改めるにしても、口で言うほど、簡単なことではな
い。それはいわばカルト教の信者から、カルトを抜くような苦痛と努力、それに忍耐が必要であ
る。時間もかかる。

●因縁を断つ

 そんなわけで、私たちが親としてせいぜいできるここといえば、そうした「カルト」を、子どもの
代には伝えないということ程度でしかない。少し古臭い言い方になるが、昔の人は、それを「因
縁を断つ」と言った。

 Sさんについていえば、仮にSさんがそうであっても、同じ苦痛や悩みを、子どもに伝えてはい
けない。つまりSさん自身は、親離れできない親、子離れできない子どもであったとしても、子ど
もは、親離れさせ、ついでその子どもが親になったときには、子離れできる子どもにしなければ
ならない。

 しかしこと、Sさんの子どもについて言えば、ここに書いたような問題があることに気づくだけ
でも、問題のほとんどは解決したとみてよい。このあと、多少、時間はかかるが、それで問題は
解決する。

 私はSさんに、こうメールを書いた。

 「勇気を出して、自分の心の中をのぞいてください。つらいかもしれませんが、これはつぎの
代で、あなたの子どもに同じような悩みや苦しみを与えないためです」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 気負
い 気負い論 親の気負い 子の気負い 子どもの気負い 子育ての気負い)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●人間関係を築けない若者たち

+++++++++++++++++

人間関係は、絶対的な(さらけ出し)と、
絶対的な(受け入れ)で決まる。

「絶対的」というのは、「疑いすら
もたない」という意味である。

この絶対的な(さらけ出し)と、
絶対的な(受け入れ)があってはじめて、
基本的な信頼関係が築かれる。

4年前にあったある事件をテーマに、
この問題を考えてみたい。

+++++++++++++++++

●新潟県M市で、中学三年の少女を、若い男が誘拐するという事件があった。これについて、
当時、静岡県K市の母親から、「どう考えたらいいですか」という、質問をもらった。それを考え
る前に、事件の概要について引用しておく。

+++++++++++++++++++++

●新潟・少女連れ去り男の素顔に迫る 

 新潟県 M市で中学三年生の女子生徒が連れ去られた事件で、逮捕された26歳の男は、紐
で縛ったり、ナイフで脅すなどして連れ回していた。この26歳の男は、どのような人物だったの
か、その素顔に迫ってみた。

 未成年者略取の疑いで逮捕されたKJ容疑者(26歳)は、新潟県 佐渡にある中学校を卒
業。しかし、学校にはほとんど行っていなかったという。
 
Q.近藤容疑者について
 「内向的で消極的で、いじめられていた。成績は全く良くなくて、家にひきこもっていて、たまに
学校へ行く程度」(中学時代の同級生)
(TBS・news i、より)

+++++++++++++++++++++

●原因と考え方

新生児期から乳幼児期にかけて、とくに母子の関係で、基本的信頼関係を結ぶことに失敗し
た子どもは、そののち、他人との人間関係をうまく結べなくなる。そのため、(密着)と(離反)を
繰りかえすようになる。それをうまく説明したのが、ショーペンハウエルである。

●ショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」

 寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつ
きすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけてしまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。
そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体
を温めあった。

 これがショーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話である。しかしこれと同じようなことは、
夫婦の間でも、そして親子の間でもある。

 男と女は、結婚する。電撃に打たれるような衝撃を受け、相思相愛で結婚したというケースは
別として、中には、孤独からのがれるために結婚する人も珍しくない。もともとは他人への依存
性が強い人で、心のスキ間を埋めるために結婚する。しかしこのタイプの人は、一方で、人づ
きあいが苦手。結婚はしたものの、結婚生活そのものが、わずらわしくてしかたない。だから、
たがいにつかず離れずを繰りかえしながら、ほどよいところで関係を保つ。

 親子でも、似たようなケースがある。子どもがそばにいないと不安でならない。「ママ、ママ」と
甘えてくれる間は、うれしい。しかしそれが一定の限度を超え、子どもがずっとそばにいると、う
るさくてしかたない。「子どもを愛している」という自覚はどこかにはあるが、しかし一方で、「で
きるだけ早く、子育てから解放されたい」と願っている。そのため親子関係も、どこかつかず離
れずの関係になる。

 奈良県のHYさん(母親)からの相談に、こんなのがあった。何でも夫がそばにいないと、さみ
しく思うのだが、しかしたまの日曜日など、夫が一日中、家の中でゴロゴロしているのを見る
と、わずらわしくてならないというのだ。いわく「ときどき私は、夫なんかいてもいなくても、どちら
でもよいと思うことがあります。しかしそのくせ夫が、そばにいないとさみしくて、気がへんになっ
てしまうのです」と。

 結論を先に言えば、このタイプの人は、乳幼児期の家庭環境に問題があったとみる。ふつう
子ども(人)というのは、絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境の中で、心をはぐくむことが
できる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味。そういう環境があってはじめ
て、子ども(人)は心の開き方を学び、そこから、たがいの信頼関係の結び方を学ぶ。が、何ら
かの理由で、その「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」が阻害されると、子ども(人)は
心を開けなくなり、ついで人との信頼関係を、じょうずに結べなくなる。

ここでいうHYさんは、まさにそのタイプの女性と考えてよい。HYさんは、夫や子どもにすら、心
を開くことができない。つまり信頼関係を結ぶことができない。そしてそれが夫婦関係や、親子
関係にまで影響を与えている。

 一般的に、心を開くことができない子ども(人)は、人と接するのが苦手。表面的には、快活
にふるまい、社交的になることはあるが、その分、精神疲労を起こしやすい。数時間、町内の
人といっしょに活動しただけで、ヘトヘトに疲れてしまったりする。しかしその一方で、心を開くこ
とができないため、孤独。さみしがり屋。ここにも書いたように、もともと他人への依存性も強
い。近くにだれかがいないと、自分の心を保つことさえできない。つまり、ここでショーペンハウ
エルの「二匹のヤマアラシ」の話にもどる。このタイプの人は、孤独(寒さ)から逃れるために人
(温もり)を求める。しかし人に近づきすぎると、自分がキズつく。それを恐れるあまり、今度は
そばには近寄れない。つまりつかず離れずの関係になる。

●「密着」と「離反」

このタイプの子ども(人)の最大の特徴は、そのため人づきあいが、どこかぎこちなくなること。
ほどほどのところで、ほどよい人間関係を築くことができない。あるとき急に接近してきたかと
思うと、今度は、同じように急に離れていく。これを心理学の世界では、「密着」「離反」という。

幼稚園の世界にも、『急速になれなれしてくる親には、要警戒』という言いまわしがある。たとえ
ばある日突然、幼稚園へやってきて、「ここの幼稚園が気に入りました。すばらしい幼稚園で
す。来年からうちの息子をここへ入れます。下にももう一人、子どもがいますが、その子どもも
ここに入れます」などとワーワーと騒ぐ。しかしそういう親ほど、離れていくのも早い。

 つまりこのタイプの子ども(人)は、相手を自分の思わくだけで、引きずりまわしてしまう。引き
ずりまわすほうは、それでかまわないが、引きずりまわされるほうは、たまらない。私も若いと
き、こんな経験をしたことがある。

 ある会社の社内報の編集を手伝っていた。社長じきじきの依頼で、それなりに張り切って仕
事をしていた。が、その社長は、大の電話魔。真夜中であろうが、早朝であろうが、電話をかけ
てきて、あれこれ私に指示してきた。それだけではない。そのつど怒涛(どとう)のように、「君
はすばらしい」「今度香港へ出張してほしい」「私がもっているアパートを君に使ってもらいたい」
「君の作る会報は一級だ。ついては予算を倍増したい」などと言う。

 最初のうちはそれを真に受けて、ワイフと二人で喜びあったが、そのうちどうも様子がおかし
いのに気がついた。私がそれらの話を煮つめるため、社長の自宅へ行くと、今度は、ああでも
ない、こうでもないと私の仕事にケチをつけて、「だから約束は守れない」と言い出した。まさに
私が遠ざかれば、近づいてきて、私が近づいていけば、遠ざかる……という感じだった。

 その社長は、いわゆる心を許さないタイプの社長だった。俗な言い方をすれば、コロコロと気
分が変わる。私の立場からすると、つかみどころがない。その社長は、まさに密着と離反を繰
りかえしていたことになる。
 
●さらけ出す
 
 信頼関係を結ぶためには、自分をさらけ出す。さらけ出しても、平気である。そういう自分へ
の確信をもつ。本来ならこうした信頼関係の原型は、乳幼児期に形成される。それが先に書い
た、「絶対的に安心できる、心豊かな家庭環境」ということになる。子ども(人)は、そういう環境
の中で、とくに親子関係の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。またさらけだしても、安心できる
ことを学ぶ。

 が、それが阻害されることがある。原因はいろいろあるが、その原因はともかくも、子ども
(人)側からみて、自分をさらけ出せなくなってしまう。さらけ出すことに自信がなくなるケースも
あるが、さらけ出すことに恐怖感を覚えることもある。母親に向かって「ババア」と言ってみた。
とたん、母親に殴られたとかなど。そういう無数の経験が積み重なって、自分をさらけ出せなく
なることもある。

 こういうことが重なると、子ども(人)は、仮面をかぶるようになる。自分を隠すようになる。た
いていは「いい子」ぶりながら、無理をするようになる。よくある例は、幼児期に、園の先生たち
に「いい子だ」「いい子だ」とほめられるようなケース。このタイプの子ども(人)は、いい子ぶる
ことで、自分の身の保全をはかる。相手(親や教師)に取り入るのがうまくなり、またその分、相
手の期待にこたえようとする。この無理が無数に重なって、やがて子どもの心をゆがめる。

 そういう意味では、幼児期から少年少女期にかけて、「いい子」で通った子どもほど、心配と
いうことになる。勉強もよくできる。言われたことは、ソツなくやりこなす。園でも学校でも、いつ
もリーダー格で、問題を起こすということもない。もちろん本来的に「いい子」というケースもない
わけではないが、たいていは「無理をしている」と考えたほうがよい。

 しかし問題は子ども(人)というより、あなた自身かもしれない。あなた自身は、夫(あるいは
妻)や子どもの前で、自分をさらけ出すことができるかということ。わかりやすい例では、あなた
は夫(あるいは妻)の前でも、平気でプリプリっと、おならを出すことができるか。あるいは悲し
いときやさみしいとき、自分の心を、すなおにそのまま表現できるか。それができればよし。し
かしそれができないようであれば、当然のことながら、子どももそれができなくなる。

 人というのは、自分がしていることには、寛容になる。していないことには、寛容になれない。
常、日ごろから、自分をさらけ出すことになれている親は、子どもがそれをしたとき、それを自
然な形で受け止めることができる。しかし自分をさらけ出すことができない親は、子どもがそれ
をするのを許さないばかりか、子どもが自分をさらけ出したりすると、それを悪いことだと決め
てかかってしまう。おさえてしまう。そしてその結果として、親が、子どもに仮面をかぶるようにし
むけてしまう。

●チェックテスト

 そこであなた自身をチェックテストしてみよう。

(1)あなたは夫(あるいは妻)の前で、したいことをし、言いたいことが言えるか。
(2)あなたは他人の中でも、それほど気をつかわず、自分をさらけ出すことができるか。
(3)あなたはあなたの親に対して、したいことをし、言いたいことをズケズケと言えるか。
(4)あなたは自分の子どもに対して、したいことをし、言いたいことを言えるか。
(5)あなたの子どもはあなたに対して、したいことをし、言いたいことを言っているか。

 このテストで、四〜五個、「YES」と答えたあなたは、いつもみなに、心を開いている人という
ことになる。信頼関係の結び方もうまく、人間関係もスムーズ。そのため友人も多いはず。

 しかしそうでなければ、まず「心を開く」ことから、始める。あなたの心を取り巻いている無数
のクサリを、一本ずつ解き放していく。根気のいる作業だが、しかし不可能ではない。もしあな
たがこのタイプの子ども(人)なら、夫(もしくは妻)の協力を得て、少しずつ心を開く訓練をす
る。

方法としては、夫(あるいは妻)の前で、したいことをする。言いたいことを言う。自分をさらけ出
してみる。というのも、この問題だけは、決してあなただけの問題ではすまない。そういう心の
開けないあなたといっしょに住むことによって、さみしい思いをしているのは、実はあなたの夫
(妻)であることを忘れてはいけない。さらにあなたという親が、そういう状態であるのに、どうし
て子どもに、「心を開け」と言えるだろうか。

 何でもないことのようだが、心を開くことができる人は、それをいとも簡単に、しかも自然な形
でできる。そうでない人には、そうでない。この問題は、その子ども(人)の乳幼児期までさかの
ぼるほど、もともと「根」の深い問題である。

 夫婦にせよ、親子にせよ、その基本は、ゆるぎない信頼関係で決まる。その信頼関係を結ぶ
ためにも、まずあなたは、あなたの心を開き、その心を空に解き放ってみる。勇気を出して、自
分をさらけ出してみる。自分を飾ることはない。自分をつくることはない。気負う必要もない。あ
なたはあなたのままでよい。そういう自分を、すなおにさらけ出してみる。

 そこはすがすがしいほど、広い世界。青い空がどこまでも、どこまでもつづく、広い世界。あな
たも心を取り巻いているクサリを解き放ち、その広い世界を、思う存分、羽ばたいてみよう! 
もし今、あなたが心の開けない人ならば……。

●攻撃型の子ども

他人との人間関係がうまく結べない子どもは、独特の症状を示すことが知られている。

大きく、(1)攻撃型、(2)服従型、(3)同情型、(4)依存型に分けられる。

攻撃型というのは、暴力や威圧をつかって、相手を自分の支配下におくというタイプ。ツッパリ
児が、その典型的な例ということになるが、この攻撃型にも、いろいろある。ガリガリの猛勉強
をする子どもも、この攻撃型の一つということになる。他人に対して攻撃的になるか、自分に対
して攻撃的になるかの違いと考えてよい。

 服従型というのは、服従する相手を決めて、その相手に徹底的に服従しようとする。親分、
子分の関係でいうなら、子分の立場ということになる。思考能力や判断力を、すべて相手に渡
す。集団非行を繰りかえす子どもの中に、このタイプの子どもが多いのは、そのためと考えて
よい。

 同情型というのは、弱い自分をわざと演じたり、人前でわざと病弱であることや、けがを強調
することで、自分の立場をつくる。相手が「どうしたの?」「だいじょうぶ?」と声をかけてくれる
のを、待っている。このタイプの子どもは、たとえば先生の前でも仮面をかぶり、よい子を演ず
ることが多い。

 依存型というのは、親や先生に、ベタベタ依存することで、自分の立場をつくる。俗にいう甘
えん坊ということになる。全体に人格の「核」形成が遅れ、見た感じ、その年齢に比して、子ども
っぽくなる。みなに、「かわいい子ね」と、あれこれ手をかけてもらうことを、無意識であるにせ
よ、求める。

 これら四つのタイプの子どもは、こうした環境を自分の周囲につくることによって、自分にとっ
て、居心地のよい世界をつくろうとする。だからたとえばツッパリ児に向って、「そんなことをす
ると、あなたはみんなに嫌われるよ」と説教しても、意味がない。このタイプの子どもは、わかり
やすく言えば、みなに恐れられることによって、自分の立場を作っている。

●冒頭の事件

 さて、未成年者略取の疑いで逮捕されたKJ容疑者(26歳)という男は、ここでいう(1)攻撃
型ということになる。

 KJ容疑者は、他人とうまく、人間関係が結べない。そのため攻撃的に、中学生を略取した。
そしてその原因は、ここにも書いたように、彼自身の幼児期にある。はからずもTBSのnew・i
は、こう報道している。

「Q.近藤容疑者について、内向的で消極的で、いじめられていた。成績は全く良くなくて、家に
ひきこもっていて、たまに学校へ行く程度だった」(中学時代の同級生)と。

 この一文が、すべてを語っている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本
的信頼関係 さらけ出し 受け入れ)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●思考の停止

+++++++++++

思考をしていてこわいのが、
思考のループ性。

思考がループし始めたら、
その人の思考は、停止状態に
あるとみてよい。

+++++++++++

 飼っているイヌを見ていると、いろいろなことを考えさせられる。

 二匹いる。一匹は、雑種。もう一匹は、ポインター種。利口なイヌだというが、たしかに頭はよ
い。一度散歩に連れていけば、そのままその道を、覚えてしまう。で、そのイヌを見ながら、ふ
と、こんなことを思った。

 そのイヌは、ここにも書いたように、利口である。人間にはない能力をもっている。しかし一
方、人間とは違う。その違いというのが、「思考能力」。

 思考というのは、つぎのようなとき、停止状態になる。

(1)ループ状態……同じことを、繰りかえし考える。考えながら、いつも同じところにもどってし
まう状態をいう。そしてまた同じように考え始める。考えが堂々巡りしてしまう。
(2)固執……ひとつのことにこだわり、そればかりにとらわれる状態をいう。悶々と悩むだけ
で、先に進まなくなる。袋小路に入ったときも、同じような状態になる。
(3)忘失……以前に考えたことを忘れてしまうこと。せっかく考えても、その考えた内容を忘れ
てしまうから、また同じことを考える。年をとると、その傾向が、全体として強くなる。よくあるの
は、一〇年とか、二〇年前に書いた原稿を読みなおしてみるようなとき。「何だ、一〇年前も同
じことを書いていたのではないか」と、驚くことがある。
(4)狭小化……考えても、どんどんと小さな世界に入ってしまう状態をいう。重箱の底をほじる
ような思考状態になることをいう。どうでもよいようなことばかり、考えるようになる。
(5)パターン化……ものの考え方を定型化してしまう状態をいう。よくあるのは、「子どもは親
のうしろ姿を見て育つ」などというように、ものの考え方を教条化してしまうこと。一度パターン
化すると、それから抜け出るのは、容易ではない。
(6)退化……部分的に、思考能力が退化するということがある。たとえば以前書いた原稿のほ
うが、すぐれていると感ずることは、よくある。脳の老化とも関係があるのかもしれない。

 イヌは利口だが、ものを考えても、恐らく、ループ状態に入ってしまうのではないかと思われ
る。同じことだけを、毎日、同じように考えている。だから進歩しない。だからイヌはいつまでも、
イヌのまま?

 そこで私たち人間は、どうあるべきかということになる。この中で、とくにこわいのは、ループ
状態。人間は、ある程度まで思考すると、そこでループ状態に入る。同じことを、同じように考
え、またいつしか振り出しにもどる。そしてそこから考え始めて、また同じことと、同じように考え
る。

 こうしたループ状態に入ると、どんどん思考能力が落ち、やがて、思考そのものが硬直化し
てしまう。がんこになることもある。

 私はこのことを、ある知人と話していて気がついた。

 ほぼ二〇年ぶりに会ったときのこと。話しがはずんだが、私はあることに気づいた。彼が話
すことは、すべて以前、聞いたような内容ばかりなのである。もっともこういうことは、よくある。

 同じような状況で、同じ人に会うと、同じ話になる。それはあるが、私はその知人が、二〇年
前で、思考を停止しているのに気づいた。つまりその知人は、この二〇年間、思考をただルー
プさせていただけ?

 人間がなぜ、人間であるかといえば、思考するからである。もし思考しなかったら、イヌと同じ
(失礼!)ということになる。たいていの人は、「私はイヌとは違う」と思うかもしれないが、思考
が停止した状態では、ひょっとしたら、人間は、イヌ以下ということになってしまうかもしれない
(失礼!)。

 そこで私たちは思考するとき、思考すると同時に、先の五つの状態を避けなければならな
い。

 とくにこわいのが、思考のループである。同じようなことを、同じようなパターンで、繰りかえし
考える……。たとえば朝、起きる。日常生活が始まると、人間は、同じように考え始める。内容
ではない。そのパターンである。

 たとえば新聞を見ながら、「へえ、こんな事件が起きた!」と驚いてみせる。翌日も、同じよう
に、「へえ、こんなことがあった!」と驚いてみせる。そしてその翌日も、「これはひどい交通事
故だ!」と驚いてみせる。

 驚く内容はさまざまでも、(新聞を見て驚く)という行為は、一定のパターンで繰りかえしている
のがわかる。つまり思考が、ループ状態に入っていることを示す。

 このループ状態から抜け出るためには、自分自身を新しい環境に置くか、あるいは新しい刺
激を与えなければならない。恩師のT教授は、こう言った。「上の人と、もっとつきあいなさい」
と。「上」というのは、(それなりに業績を残した人)という意味だそうだ。

 そういう人と接しているだけで、よい刺激になる、と。

 が、何よりも大切なのは、問題意識。そして考える習慣である。この二つがないと、いくら刺
激を与えても意味がない。私は、そのことを子どもたちを教えていて、気づいた。たとえば同じ
テーマを与えても、それについて食いついてくる子どもと、そうでない子どもがいる。

 その違いはといえば、能力というよりも、(1)問題意識と、(2)考える習慣である。いつも何か
の問題意識をもっている子どもは、食いついてくる。そうでない子どもは、そうでない。そうした
生活態度が、習慣として身についているかいなか、である。

 ただイヌにも、その問題意識と、考える習慣というのは、あるように思う。先のポインター種の
イヌは、いつも庭の中で、探検をしている。虫を追いかけたり、つかまえたりしている。そんなと
き、瞬間だが、人間の哲学者のような表情を見せることもある。

 が、そうした思考を、言葉として論理化できない? だからその時点で、ループ状態に入って
しまう? だからイヌは、いつまでもイヌのままということになる。

 こんな素人ぽい結論を出すと、その道の専門家の方に笑われそうだが、今は、一応、こうし
た結論を出しておく。つぎに私がすべきことは、図書館で、調べること。こうした問題意識を、こ
の程度もてば、図書館で本を読んでも、スーッと頭の中に入ってくるはずだ。幸運にも、私に
は、その考える習慣が身についている。(……と、思う。)

【追記】
 人間の思考力をコントロールしているのが、脳の辺縁系の中にある、帯状回という組織だそ
うだ(伊藤正男氏)。

 「同じ考えるにしても、乗り気で考えているときと、いやいや考えているときでは、おのずと差
が出てくる。結果がよければ、ますますやる気が出てくる。これをコントロールしているのが、帯
状回である」(新井康允氏「脳のしくみ」日本実業出版社)と。

 もちろん思考機能をもつのは、大脳皮質の連合野。しかもその中でも、新皮質が重要な働き
をしていると考えられている。しかし新皮質の働きだけでは、思考ができるわけではない。それ
をコントロールしているのが、帯状回というわけである。

 人間では、この新・新皮質部が、ほかの動物にくらべて著しく進化している。またそれがほか
の動物と人間を区別していると、考えられている。

 ついでに頭のよしあしは、脳のヒダ(大脳溝)で決まるという説もある。しかしヒダということに
なると、クジラやイルカのほうが、はるかに多い。そこでさらに調べてみると、そのカギを握るの
が、神経細胞の並び方であることがわかる。

 人間の大脳皮質の神経細胞は、整然と並んでいる。しかしクジラやイルカは、人間のそれとく
らべて不規則で、整然としていない。どうやら、そのあたりに、人間の脳の特徴があるようであ
る。

 ただだからといって、クジラやイルカの脳が、人間の脳より劣っていると考えるのは、まちが
いである。「クジラやイルカには、未知の力があるかもしれない」(新井康允氏)とのこと。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
の停止 思考の停止状態 思考のループ性)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

●子どもの引きこもり

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イギリスのBBCが、日本の子どもたちの
「引きこもり」を特集して、報道した。
その資料が届いたので、翻訳してみる。
イギリス人のM・A氏が、イギリスから、
インターネットで送ってくれた。

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Japan: The Missing Million
(日本、失われた100万人)

By Phil Rees
(日本特派員)

Teenage boys in Japan's cities are turning into modern hermits ー never leaving their 
rooms. Pressure from schools and an inability to talk to their families are suggested causes. 
Phil Rees visits the country to see what the "hikikomori" condition is all about. 

日本の都市部の10代の子どもたちが、今、世捨て人になりつつある。部屋から出ようともしな
い。学校からの圧力と、家族と会話ができないことが、その原因と考えられる。フィル・リーズ
が、「引きこもり」がどのようなものか、現地で取材してみた。


I knew him only as the boy in the kitchen. 
私は息子を、台所で見かけるだけです。
His mother, Yoshiko, wouldn't tell me his name, fearful that neighbours in this Tokyo suburb 
might discover her secret. 
彼の母親の、ヨシコは、彼の名前すら呼ぼうとしない。近所の人たちに自分の秘密を知られる
のを、恐れているためである。
Her son is 17 years old. Three years ago he was unhappy in school and began to play 
truant. 
彼女の17歳の息子は、3年前、学校でいやなことがあり、学校を怠けるようになった。
Then one day, he walked into the family's kitchen, shut the door and refused to leave. 
が、ある日、突然、彼は家の台所へやってきて、ドアを閉め、そこから出ることを拒んだ。

Families adjust 
家族の適応
Since then, he hasn't left the room or allowed anyone in. The family have since built a new 
kitchen ー at first they had to cook on a makeshift stove or eat take away food. 
それ以来、彼は台所から出ようとせず、だれも、その中に入れなくなった。
それで家族は新しい台所を作った。
で、最初のころは、ほかの家族たちは、移動用コンロを使い、テイクアウェイの料理を買ってき
て食べた。
His mother takes meals to his door three times a day. 
子どもの母親が、一日に三度、ドアのところまで、食事を運んだ。
The toilet is adjacent to the kitchen, but he only baths once every six months. 
トイレは、台所の中につくった。しかし彼は6か月に一度しか、風呂に入らなかった。
Yoshiko showed me pictures of her son before his retreat into isolation; he was a plump, 
cheerful young teenager, with no symptoms of mental illness. 
ヨシコは、息子のそれ以前の写真を見せてくれた。その写真では、彼は明るく、ふっくらとした
少年だった。そうなる兆候は、まったく見られなかった。

Bullying tipped the balance 
いじめが、心のバランスを崩した
Then a classmate taunted him with anonymous hate letters and scrawled abusive graffiti 
about him in the schoolyard. 
そのとき彼のクラスメートが、匿名の手紙をわたし、彼をいじめた。そして学校の校庭で、彼を
誹謗する落書きを書いた。
The boy in the kitchen suffers from a social disorder known in Japan as hikikomori, which 
means to withdraw from society. 
その台所の少年は、「引きこもり」として知られる、社会(適応)障害を起こすようになった。つま
り、社会からの引きこもりを意味する。
One psychologist has described the condition as an "epidemic", which now claims more than 
a million sufferers in their late teens and twenties. 
一人の心理学者は、この状態を「流行」という言葉を使って説明している。そしてその流行によ
って、今、10代後半から20代にわたって、100万人の子どもたちが苦しんでいるという。
The trigger is usually an event at school, such as bullying, an exam failure or a broken 
romance. 
その引き金は、学校であったり、いじめであったり、試験の失敗や失恋であったりする。

Unique condition 
特殊な状態
Dr Henry Grubb, a psychologist from the University of Maryland in the United States, is 
preparing the first academic study to be published outside Japan. 
合衆国メリーランド大学の心理学者、ヘンリー・グラブ博士は、日本の外で、最初の学術的研
究を準備している。
He says that young people the world over fear school or suffer agoraphobia, but hikikomori 
is a specific condition that doesn't exist elsewhere. 
彼はつぎのように言っている。若い人たちは、学校を恐れたり、「広場恐怖症」になりがちなも
のだが、日本の「引きこもり」は、ほかの国には、ないものである。
"It's really hard to get a handle on this" he told me, "there's nothing like this in the West." 
「このタイプの子どもへの対処は、たいへんむずかしい。西洋社会には、こうした問題はない」
と彼は、述べている。
Dr Grubb is also surprised by the passive, softly approach followed by parents and 
counselors in Japan. 
グラブ博士は、また日本の親や、カウンセラーの、受動的かつソフトな対応ぶりに驚いている。
"If my child was inside that door and I didn't see him, I'd knock the door down and walk in. 
Simple. But in Japan, everybody says give it time, it's a phase or he'll grow out of it." 
「もし私の子どもが、部屋の中に閉じこもり、もし彼を見なかったとしたら、私はドアをノックし、
中に入るだろう。簡単なことだ。しかし日本では、時間をかけろ。段階がある。やがて子どもは
出てくるだろうと言う」と。
If children refuse to attend school, social workers or the courts rarely get involved. 
子どもが不登校を起こしても、ソーシアルワーカーや、裁判所が、介入することは、めったにな
い。
Most consider hikikomori a problem within the family, rather than a psychological illness. 
日本では、ほとんどの人は、引きこもりは、心理学的な病気というよりは、家族内部の問題と
考えるようだ。
Historical origins 
歴史的な背景
Japan's leading hikikomori psychiatrist, Dr Tamaki Saito, believes the cause of the problem 
lies within Japanese history and society. 
日本の引きこもりの心理学者である、サイトー・タマキ博士は、その原因は、日本の歴史と社
会にあると言う。
Traditional poetry and music often celebrate the nobility of solitude. 
伝統的な詩や音楽は、孤独の尊さをしばしば、めでる。
And until the midーnineteenth century, Japan had cut itself off from the outside world for 
200 years. 
そして19世紀中ごろまでは、日本は、200年近くも、外の世界から遮断されていた。
More recently, Dr Saito points to the relationship between mothers and their sons. 
ごく最近、サイトー博士は、母と子どもの関係を指摘している。
Most hikikomori sufferers are male, often the eldest son. "In Japan, mothers and sons often 
have a symbiotic, coーdependent relationship. 
ほとんどの引きこもり児は、男の子である。とくに長男である。日本では、母と息子は、象徴的
な、つまりは相互依存の関係にある。
Mothers will care for their sons until they become 30 or 40 years old." 
母親は、息子が30、40歳になるまで、息子のめんどうをみる。
After a period of time ー usually a matter of years ー some reーenter society. 
そのあとは、それは年数の問題だが、その中のある子どもは、社会復帰をする。

The mystery remains 
謎は残る
Increasingly, clinics are opening, offering a halfーway house for recovering sufferers. 
苦しんでいる人を治療するために、「半分ハウス」を提供するクリニックが、このところ、ふえて
いる。
Another sufferer, Tadashi, spent four years without leaving his home. 
タダシ君というもう一人の引きこもり児は。4年間、家から出なかった。
Two years ago, he sought help and now has a part time job making doughnuts. 
2年前、彼は助けを求め、今は、ドーナツをつくるパートタイムの仕事をしている。
Tadashi is slowly reーentering society. 
タダシ君は、少しずつ、社会復帰をしつつある。
He still fears meeting strangers and is petrified that neighbours will find out that he once 
suffered from the disorder. 
彼はまだ人に会うのを恐れている。そして彼は今、彼がその障害児であったことを、近所に知
られるのではないかと、恐れおののいている。
But what bothers him most is not understanding why he lost four years of his life. 
が、もっとも彼を当惑させているのは、なぜ彼が4年間を失ったかを理解できないところにあ
る。
"I want to know the reasons," he told me. "You could say it's related to Japanese 
traditions. 
「ぼくは、理由を知りたい。あなたはそれが日本の伝統に関係していると言うことができるかも
しれない」と、タダシ君は言う。
"I just don't know. I suppose people are still trying to find out what hikikomori is all about." 
「私は、ただわからないだけ。いったい引きこもりが何であるか、人々が、それを知ろうとしてい
るところだと思う」と。
________________________________________

【後記】
 
●引きこもりが、日本独特の現象であるとしても、日本の文化と関係があるというのは、どう
か? S・T博士は、「日本人は、孤独をめでる国民だから」と。ホント?

●引きこもる子どもで、長男が圧倒的に多いというのは、事実である。むしろ疑うべきは、乳幼
児期の母子の間で形成される、基本的信頼関係ではないのか。

●このレポートの中で、引きこもり児をもった親も、また引きこもり児自身も、世間体を気にして
いるのがわかる。日本の文化で問題点があるとするなら、むしろこちらのほうではないのか。こ
うした障害児をもつことを、日本人は「恥」ととらえる。おかしな社会風潮である。

●またグラブ博士は、「ドアをノックして、中に入る」と言うが、これはまったくの認識不足。そん
な問題ではないことは、一人でも引きこもり児を経験した研究者なら、すぐわかる。

●引きこもりは、対人障害の一つとして考えるべきである。その原因は、乳幼児期の母子関係
の不全にある。そしてそれを助長するものとして、息の抜けない家庭環境、家屋構造、ゆがん
だ受験社会、それから生まれる人間関係がある。さらにこうした心の病気に対する、社会の認
識の甘さもある。こうした問題が複合して、子どもの引きこもりが起こる。


【子どもが引きこもったら……】

 あれこれするのは、かえって逆効果。引きこもりから立ちなおった子ども(青年)は、みな、異
口同音に、こう言う。「家族が無視してくれたときが、一番ありがたかった」と。

 「暖かい無視」という言葉がある。子どもの心の病気を暖かく包みながら、無視するのが一番
よい。

 なお、このBBCのレポートでは、親側の対処のまずさについては、一言も触れられていな
い。恐らく子どもが引きこもる過程において、はげしい親子騒動があったものと推察される。そ
の騒動が、症状を、こじらせる。

 親は、こうした自分自身の失敗を隠す傾向がある。あるいはその認識すらない。しかしこうし
た子どもの心の病気では、当初の親の対処の失敗が、症状を重くする。たとえば学校恐怖症
(不登校)にしても、第二期のパニック期で、親が無理をすると、症状は一挙に悪化する。

 引きこもりにしても、必ず、なおる。そのとき大切なのは、親がまず子どもを信ずること。親が
不安になればなるほど、子どもは、その不安を敏感に察知して、立ちなおる機会さえ、見失っ
てしまう。

 またこうした心の病気は、恥ずかしいことでも何でもない。世間体が大切か、子どもが大切か
と聞かれれば、子どもに決まっている。世間体など、クソ食らえ! 子どもや子どもの病気を隠
す必要はまったく、ない。こうしたケースでは、親自身が、まずおとなになること。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 引き
こもり 子供の引きこもり)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

【BW教室から】

++++++++++++++

BW教室では、毎回、まったく
新しいテーマで、子どもたちとの
学習を進めている。

1年を通して、1度として、同じ
レッスンをしない。

++++++++++++++

 今週のテーマは、手作業。わかりやすく言えば、脳の中でも、運動野に属する部分の学習。
(少し大げさかな?)

 たとえば(かかし)を、何十個も、描かせてみる。(大きさは、数センチ四方のワクの中に描か
れたかかし。)

 そのとき学習能力の高い子どもは、数個描いただけで、描き順を定型化し、能率よく描きつ
づける。そうでない子どもは、いつまでもその描き順が乱れる。

 また全体をながめて、つぎのように判断する。

 筆圧や形、大きさが、ある一定のリズムで乱れるのは、むしろ正常なことと判断される。しか
しそれが不規則に乱れるようであれば、それだけ気分的なムラのはげしい子どもとみる。

 ……などなど。こうした判断については、その場で、参観している親に説明した。

 そのあと、みんなで、アイロンビーズで遊んだ。「お母さんにすてきなプレゼントを作ってあげ
ようね」と。自分以外の人を喜ばすことを教える。言うまでもなく、やさしい人というのは、それが
自然な形でできる人のことをいう。

 アイロンがけは、もちろん私がした。で、子どもたちは基盤の上に並べたアイロンビーズをも
ってきたが、一人、私の不注意で、こわしてしまった子どもがいる。本当は怒って泣き叫びたか
ったのだろうが、がまんした。気持ちは、よくわかった。私は何度もあやまり、いっしょに、並べ
なおしてやった。

+++++++++++++++++++++

やさしい人について、以前、こんな原稿を
書いたので、転載します。
(中日新聞発表済み)

+++++++++++++++++++++

●指示は具体的に

 具体性のない指示には、意味がない。たとえば「友だちと仲よくするのですよ」「先生の話をよ
く聞くのですよ」と言うのは、それを言う側の、気休め程度の意味しかない。「交通事故に気を
つけるのですよ」と言うのも、そうだ。そういうときは、こう言う。

友だちと仲よくしてほしかったら、「この○○を、A君にもっていってあげてね。きっとA君は喜ぶ
わ」と。先生の話をよく聞いてほしかったら、「今日、学校から帰ってきたら、先生がどんな話を
したか、あとで話してね」と言うなど。

交通事故については、一度、事故の様子を演技してみせるとよい。(自動車が走ってくる)→
(子どもが飛び出す)→(自動車が子どもをはねる)→(子どもがもがき苦しむ)と。迫真の演技
であればあるほど、よい。気の弱い子どもだと泣き出してしまうかもしれないが、子どもの命を
守るためだと思い、決して手を抜かないこと。茶化さないこと。こんな子どもがいた。

 その子どもは、母親が何度注意しても、近くの小川で遊んでいた。そこである日母親が、トイ
レの排水がどこをどう通って、その小川にどう流れていくかを、歩きながら順に追って見せた。
以後、その子どもは、その小川で遊ばなくなった。要するに子どもに与える指示には、具体性
をもたせろということ。この方法は、次のようにも応用できる。

 たとえば自尊心。「自分を大切にしなさい」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、
「名前を大切にしようね」と教える。さらに具体的には、新聞でも雑誌でも、子どもの名前の出
ているものは、最大限尊重する。切りぬいて、高いところに張りつけたり、アルバムにしまった
りする。皆の前で、ほめるのもよい。そしてそのつど、「あなたの名前はいい名前だ」「すばらし
い名前だ」と言う。子どもは自分の名前を大切にすることによって、自分自身を大切にすること
を学ぶ。それが自尊心につながる。

 たとえばやさしさ。「人に親切にしようね」と言っても、やはり意味がない。そういうときは、そ
のつど、「こうするとパパが喜ぶよね」「これを分けてあげると、○○(妹)が喜ぶわね」と、相手
を喜ばすことを教える。また結局はそれが自分にとっても、楽しいことであることを教える。やさ
しい人というのは、それが自然な形でできる人のことをいう。

 たとえば命の尊さ。「命を大切にしようね」と言っても、やはり意味がない。子どもに命の尊さ
を教えようとするなら、どんな生きものであれ、その「死」をていねいに弔うこと。子ども自身が、
さみしさや悲しみを味わうようにしむける。

たとえばあなたのペットが死んだとする。そのときあなたがその死骸を、紙袋か何かに包んで、
ポイと捨てるようなことをすると、あなたの子どもは「命」というのは、そういうものだと思うように
なる。そして命、さらには生きていることそのものを、粗末にするようになる。どんな宗教でも、
死をていねいに弔う。それは死を弔いながら、その反射的効果として、生きていることを再確
認するためではないか。

そういうことも考えながら、死はどこまでも厳粛に。なお死への恐怖心(地獄論やバチ論など)
をもたせて、命の尊さを教える人もいるが、これは教育の世界では邪道。幼児や年少の子ども
には、決してしてはならない。

+++++++++++++++++++++

もう一つ、以前、書いた原稿を
再掲載します。

+++++++++++++++++++++

●利己と利他

 自分への利益誘導を、「利己」という。他人への利益誘導を、「利他」という。一見、正反対に
見える人間の反応だが、方向性が、違うだけ。「根」は、同じ。利益誘導が自分に向かえば、利
己。他人に向かえば、利他。ここまでは常識だが、しかし、利己は利己のままだが、利他は、
結局は、利己にかえってくる。

 子どもは、成長過程において、乳児期の段階では、利己的な行動パターンが中心。自分へ
の利益を求めて、泣いたり、ぐずったりする。しかしやがて幼児期に入ると、他人を喜ばすこと
を覚え、そしてそれが結局は、自分にとっても、楽しいことであることを学ぶ。たとえばよく、幼
い子どもが、何か新しいことができるようになったとき、母親に向かって、「見て、見て、お母さ
ん、できるようになった!」と言ってくることがある。はじめて自転車に乗れるようになったとき。
はじめて文字が読めるようになったとき、など。

 これは(新しいことができる)→(母親が喜んでくれる)→(母親が喜んでくれれば、自分もうれ
しい)という心理作用による。子どもは、母親を喜ばすこと(=利他)によって、自分を満足させ
ている(=利己)のが、わかる。しかしこの段階で、もし子どもにとって、喜んでくれる人がいな
ければ、子どもは、利己を利他に結びつけることができないことになる。つまり利己の世界だけ
で、自分を満足させることになってしまう。

 ところで人間の美しさは、いかに利他的に生きるかで決まる。他人をいたわり、他人を思い
やり、他人に同情する。そういう自分を離れた行為のハバが広ければ広いほど、その人の生
き方も、充実してくる。神の世界でいう愛、仏の世界でいう慈悲も、その延長線上にある。

 一方、利己的であればあるほど、その人の生きザマは見苦しくなる。どう見苦しいかは、今さ
ら、ここに書くまでもない。が、見苦しいだけではない。その人自身も、孤独の世界で、悶絶す
ることになる。自分を理解してくれる人がいない。自分を喜んでくれる人がいない。さらには自
分を愛してくれる人がいない。それはまさに「無間地獄」そのものということになる。

 で、教育の世界では、子どもたちを、いかにして利他的にするかが、たいへん重要なテーマと
なる。当然のことながら、利他的な人がふえればふえるほど、私たちの住む、この世界は、住
みやすくなる。まわりの人だけではない。その人自身にとっても、住みやすくなる。

 そこで最初の話にもどる。利他的な子どもにするには、どうしたらよいかだが、実は、そのカ
ギを握るのは、母親ということになる。子どもの側から見て、自分の成長を喜んでくれる人がい
てはじめて、子どもはそこで、利己を、利他に転換することができる。園や学校の教師でも、母
親の代用をすることはできるのだろうが、その時期、つまり子どもが利己から利他への転換を
学ぶ時期は、もっと早い段階である。おそらく〇歳〜一、二歳までの時期ではないか。その時
期は、どうしても母親と子どもの関係が、主体となる。

 子どもがはじめて自分の足で立つ。そのとき、母親が(父親も)、喜ぶ。ほめる。子どもがはじ
めて、はう。そのとき、母親が(父親も)、喜ぶ。そういう母親の姿を見て、子どもは、利己を利
他に転換することができる。

 結論は、もうおわかりかと思う。子どもを、利他的な人間、つまり心のやさしい、人の心の痛
みのわかる子どもにしたかったら、方法は簡単。子どもの成長を、そのつど心底、喜んでみせ
る。そういう母親側からの働きかけ(ストローク)があってはじめて、子どもは、利己的な人間か
ら抜け出て、利他的な人間になることができる。

【追記1】
 乳幼児期に、自分の成長を喜んでくれる人が、周囲にいないというのは、その子どもにとって
も、きわめて不幸なことである。利己を利他に転換できないまま、(あるいはその技術を身につ
けないまま)、子どもは大きくなってしまう。

 そういう利己的な子どもがどうなるかは、ここに改めて書くまでもない。そこで今、私たちが周
囲の人たちを見回してみたとき、心の暖かい人もいれば、冷たい人もいる。あるいは話してい
ると、ほっとするような親しみを覚える人もいれば、表面的なつきあいしかできない人もいる。

 で、そういう人が、どのような心理状態が基本になっているかを観察してみるとよい。その一
つの方法が、利己的か、利他的かということ。当然のことながら、利己的な人ほど、年齢を重
ねれば重ねるほど、他人とのつきあいが希薄になる。利他的な人ほど、濃厚になる。(仕事や
商売などの、利害関係をともなう人間関係は、別。)

 さらにその人が、どのような乳幼児期をすごしたかを観察してみるとよい。親の愛情をたっぷ
りと受けて、心豊かな環境で育った人は、当然のことながら、利他的になる。しかし不幸にして
不幸な家庭に育った人ほど、利己的になる。さらに……。

 親自身が無意識のうちにも、子どもを利己的な人間にすることがある。たとえば子どもがせっ
かく文字らしきものを書いたにもかかわらず、「何よ? この字は! もっとじょうずに書けない
の! となりの○○君は、もうカタカナが書けるのよ!」と。親が子どもの成長を喜ぶどころか、
子どもの成長そのものを否定してしまう。そうなれば子どもの心が冷たくなって、当然。こういう
ことは、乳幼児期には、絶対に、あってはならない。

【追記2】
 こうして考えていくと、この問題も、結局は、私たち自身の問題であることに気づく。「では私
は、どうなのか?」と。

 私自身(はやし浩司)は、心の冷たい人間である。利己的であるか、利他的であるかというこ
とになれば、利己的な人間である。少なくとも、若いころは、ずっとそうだった。

 その原因は、やはり、私自身の乳幼児期にあるのだと思うが、記憶がないため、それはよく
わからない。ただそれほど冷たい人間ではなかったように思う。小学生五、六年生のとき、『フ
ランダースの犬』という本を読んだとき、読みながら、オイオイと泣いたのをよく覚えている。

 その私が、きわめて利己的な人間になったのは、あの受験勉強が原因だと思う。そのときは
それがわからなかったが、今、こうして自分の過去を振りかえってみると、それがよくわかる。
私は高校生のころ、ライバルの仲間が病気か何かで学校を休んだりすると、心のどこかで「よ
かった」と思ったのを覚えている。心のゆがんだ、何ともつまらない人間であったことが、こうい
う事実からもわかる。

 さて、このエッセーを読んでいる、あなた自身は、どうか?
(030422)

●子どもの成長は、そのつど、心底喜んでみせてあげよう。あなたの子どもは、心暖かく、やさ
しい子どもになる。
●子どもを、安易に、受験勉強や競争で追ってはいけない。あなたの子どもの心は、そのつ
ど、少しずつ破壊される。

【補足】

●あなたは利己型人間? それとも利他型人間?

つぎの項目のうち、丸が多いほうが、あなたの「型」ということになる。

( )いつも心のどこかで、損得の計算をしているようなところがある。損になることは、できるだ
け避けようとする傾向が強い。
( )他人の失敗や苦労を耳にしても、「自分はだいじょうぶ」とか、「あの人はバカだから」と、
割り切って考えることができる。
( )人にしてあげることより、してもらうことのほうが多い。してあげるときも、心のどこかでいつ
も見返りを期待する。それがないと、怒ったり、不愉快になったりする。
( )他人に心を許すということはしない。「渡る世間は鬼ばかり」というような考え方をすること
が多い。見知らぬ人には、とくに警戒する。
( )孤独を感ずることが多い。ときどき自分が死んでも、だれも悲しんでくれないだろうと思うと
きがある。【以上、利己型人間】

( )近所とのつきあい、自治会やPTAの仕事など、損得を忘れて行動できる。奉仕精神が旺
盛で、見返りなど、最初から期待していない。
( )よく「お人好し」と評されることがある。頼まれれば、何でも引き受けてしまう。そのため結
局は、あれこれと、いらぬ苦労することが多い。
( )他人が喜ぶ顔を見ると、うれしい。他人でも、かわいそうな人がいると、何とかしてあげた
いと思うことが多い。
( )何でも信じやすいほうで、よく人にだまされる。が、だまされても、自分が悪いと思って、あ
きらめることができる。
( )何かと、知人や友人から相談を受けることが多い。年齢とともに、仕事以外で知りあった
同年齢の友人が、ふえてきた。【以上、利他型人間】
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 利他
 利己 利他型人間 利己型人間 子供のやさしさ 子どものやさしさ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●忠誠心

++++++++++++

今どき、忠誠心?、と
思う人も多いかと思う。

その忠誠心について……。

++++++++++++

 相手に合わせて、すぐ自分を作ってしまう。へつらう。媚(こび)を売る。迎合する。歓心を買
う。

 だから自分がどこにいるか、わからなくなる。が、それだけではない。このタイプの人は、外
の世界では、仮面をかぶる。よい人ぶる。善人ぶる。自分をさらけ出せない。だから疲れる。

 ところで子どもの世界には、「愛想」という言葉がある。その愛想のよい子どもは、一見、人な
つこく、できのよい子どもに見える。しかし子ども自身にとって、それがよいことなのかとなると、
疑問が残る。

 ふつう、豊かな愛情に恵まれ、しっかりとした両親のもとで育てられた子どもは、どっしりとし
た安定感がある。態度も大きい。つまりその分だけ、愛想が悪い。何かを話しかけても、「何
だ!」というような態度をとる。

 そこで出てくる言葉が、忠誠心である。

 この忠誠心という言葉には、二つの意味がある。一つは、他人に対する忠誠心。もう一つ
は、自分自身に対する忠誠心。

 約束を守る、規則を守る、信義を守るというのが、他人への忠誠心。これについては、日本
人なら、だれでも知っている。

 一方、自分に対する忠誠心というのがある。たとえばこんな状況を考えてみよう。

 仲間から、何か、悪の誘いを受けたとする。そのときあなたは、(仲間の中でよく思われたい)
という思いと、(悪いことはしたくない)という思いの中で、迷うだろう。そのとき自分の中に、自
分があって、その自分に忠誠なら、そうした悪の誘いを、断る。

 しかし自分の中に自分がなく、その自分に忠誠する心がないと、その悪の誘いに、そのまま
乗ってしまう。いわゆる誘惑に弱い状態になる。

 このばあい、自分に対する忠誠心は、いわば病気に対する抵抗力として働く。抵抗力のある
人は、悪の誘惑から自分を守り、悪をはねのけてしまう。一方、そうでない人は、そうでない。

 そこで最初の話にもどる。

 相手に合わせて、すぐ自分を作ってしまう。へつらう。媚(こび)を売る。迎合する。歓心を買う
というのは、決して好ましい人間像ではない。とくに、子どもにおいては、そうである。

 だから……。幼児でも、ていねいに観察すると、将来、誘惑に強い子どもになるか、弱い子ど
もになるか、それがわかる。もしあなたの子どもが、つぎのようであれば、(誘惑に強い子ど
も)、あるいは、(誘惑に弱い子ども)ということになる。ポイントは、子ども自身がもつ、忠誠心
である。

(誘惑に強い子ども)
○どこか無愛想。相手の気持ちに、自分を合わせない。
○人に嫌われても、自分のしたいことをするといったふう。
○孤独に強い。ひとり遊びができる。何をするにもマイペース。
○正義感が強く、不正に対して、敏感に反応する。

(誘惑に弱い子ども)
●相手に合わせて、よい子ぶる。みんなに好かれようとする。
●集団でいるほうを好む。しかしそのくせ、集団の中では精神疲労を起こしやすい。
●善悪の見境なく、その場の雰囲気で、何でもしてしまうようなところがある。
●気が小さく、その場で、YES、NOが、はっきり言えない。

 こうした違いの原因はといえば、ここにも書いたように、乳幼児期の育て方にある。乳幼児期
に、母子の、相互アッタチメントがしっかりしているかどうかが、カギになる。もう一歩、話を進
めると、たがいの基本的信頼関係がしっかりしているかどうかということ。それがしっかりとして
いれば、ここでいう忠誠心の強い子どもになる。そうでなければ、そうでない。

 これはその一例だが、不幸にして不幸な家庭に育ち、母子関係が不全なまま育った子ども
がいる。生後まもなくから、施設に預けられたとか、保育園だけで育てられたとか。

 このタイプの子どもは、独特の症状を見せる。「施設児」と呼ばれるゆえんは、そんなところに
もあるが、その施設児の特徴の一つが、ここでいう「だれにでも愛想がよい」(長畑氏ら)であ
る。

 さて、あなたの子どもというより、あなた自身はどうだろうか。そういう視点で、一度この問題
を考えてみるとおもしろいのでは……?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 忠誠
心と誘惑 抵抗力 心の抵抗力)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2250)

【親の恩vs孝行論】

●不幸な子育て

 不幸にして不幸な環境で子育てを始めた人ほど、子育てそのものに恩を着せやすい。「産ん
でやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と。そうでも思わなければ、やりきれないか
らである。

 あなたの周囲にも、そういう人がいるはず。で、そういう人を静かに観察してみるとよい。まち
がいなく、ここでいう(不幸な子育てをした人)だとわかるはず。

 実際、子育てをしながら、「私の時間が犠牲になる」「したいことができない」「子どもがじゃま」
と考える人ほど、その一方で、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」という
言葉を口にする。一見、犠牲的精神のある、すばらしい親に見えるが、その実、そうでない。

 子育ては、楽しむもの。楽しめばよい。あとのことは考えない。見返りも求めない。ただそのと
きを楽しめばよい。そしていつか子育てが終わったら、こう言う。

 「あなたのおかげで、私は人生を楽しむことができたわ。ありがとう」と。

 このタイプの人は、望んで結婚し、望んで子どもをもうけている。だから子育てがいつも前向
き。子どもが巣立ったあとも、その満足感を楽しむことができる。

 そこであなた自身はどうだろうか。日々に子どもの成長を喜び、子どもから与えられる生きる
喜びを感じているだろうか。もし、そうなら、それでよし。

 それとも子育てを負担に思い、日々に不平、不満を感じ、子育てから解放されたいと願って
いるだろうか。もしそうなら、いつかあなたの犠牲的精神(?)、献身的子育て(?)が、あなた
の子ども観をゆがめることになるので、注意する。昔は、こうした子育て観を美徳と考えたが、
今は、そういう時代ではない。また、そうであってはならない。

 英語国には、「無条件の愛」という言葉がある。子育ては無条件で始めて、無条件で終わる。
それが子育ての、一貫した、大原則である。ある女性(I・Tさん、八五歳)は、私に会うといつ
も、口ぐせのように、決まってこう言う。

 「林さん。子どもなんて、育てるもんじゃ、ないですよねえ。一人息子は、あれだけかわいがっ
てやったのに、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみしいもんですわ」と。

 あなたなら、この女性の言っていることのおかしさが、理解できるはずである。
(030918)

【もし、あなたが……】

 もしあなたの子育てが、どこかうしろ向きなら、自分の中に潜むわだかまりをさぐってみるとよ
い。自分自身の幼児期のわだかまり、結婚時のわだかまり、出産時のわだかまり、など。

 この問題は、そのわだかまりが何であるかがわかっただけでも、その問題のほとんどが、解
決したとみる。いや、すぐには解決されないが、あとは、時間が解決してくれる。もし今のあなた
が、つぎのようであれば、一度、冷静に、自分の過去をのぞいてみるとよい。

●子育てをしていると、いつも重い負担感を覚える。
●思うようにならないと、すぐ子どもに八つ当たりをしてしまう。
●子どものおかげで、自分の人生が台なしになったように感ずることがある。
●子育てがわずらしくてならないときがある。
●親として、子どもに「してあげているという気分」が、いつもついて回る。
●親は、子どものために犠牲になるべき存在だと思う。
●子育てを何もしてくれない夫(妻)に、いつも不満を覚える。
●子どものささいな失敗が気になってしかたない。
●保育園(幼稚園)や学校へ、子どものために行くのが苦痛。
●心配先行型、不安先行型の子育てをしているよう。
●子どもに対する根強い、不信感がある。
(以上、I・Tさんと話していて、感じたことより)

++++++++++

つづいて、孝行論

++++++++++

●孝行は美徳か?

 日本では、親孝行を美徳と考えている人は多い。また孝行論を、教育論の柱にしている人も
多い。しかし、問題がないわけではない。

 「孝行」というのは、子ども側からの、一方的かつ、献身的な貢献を意味する。またそうであ
ればあるほど、孝行と評価される。そしてその背景には、「親は絶対」という、親絶対論があ
る。

 そこで最初の疑問。本当に、親は絶対なのか?

 江戸時代には、家督制度というのがあった。身分制度が、それを支えた。「家」は、絶対的な
存在であり、「家」を離れたら、身分制度そのものから、はじき飛ばされた。人間としての価値
すら、否定された。実際には、「無宿」とされ、逮捕されれば、そのまま、たとえば、佐渡の金山
へ送りこまれたりした。

(今のK国の社会制度と、よく似ていますね。あの国では、成分(身分)によって、すべてが決ま
るとか。そう言えば、金XXも、「将軍様」と呼ばれているそうで……。ハイ!)

 親絶対論は、こうした歴史的背景から生まれた。私が子どもころでさえ、「勘当(かんどう)」と
いう言葉が残っていた。また今でも、子どもにバツを与えるとき、「(家から)出て行け!」とい
う。そういう言い方が残っている。当時は、家から追いだされるということは、それ自体が恐怖
だった。

 もちろん社会制度の不備もあった。今でいう福祉制度もなかった。もちろん「老人福祉」という
言葉すら、なかった。親たちは一方で子どもを、「家」でしばりながら、一方で、老後は、子ども
たちに依存しようとした。話せば長くなるが、結論を先に言えば、そういうことになる。

 こうした背景から、日本独得の、「孝行」という言葉が生まれた。

●孝行を強要する親たち

 本来、孝行というのは、子どもの側から自発的に始まるもの。しかしそれが長い間、伝統とし
て定着するうちに、親の側から子どもに求めるようになった。

 そして孝行な息子や、娘をもつことが、親としてあるべき姿ということになった。またそういう子
どもを育てることが、子育ての目標になった。だから今でも、息子や娘の孝行ぶりを自慢する
人は、いくらでもいる。

「Aさんの息子さんは、立派なもんじゃ。親を、あの九州のB温泉へつれていったそうな」
「いやいや、Bさんの娘さんは、もっと偉い。何でも二〇万円もする羽ぶとんを、親に買ってあげ
たそうな」
「とんでもない。孝行息子といえば、Cさんの息子さんじゃよ。今度、親のために、床の間つきの
離れを新築したそうな」と。

 こういう話を代々伝えることで、子どもに孝行というものが、どういうものであるかを教えてい
く。そしてそれが子どもとして、あるべき姿だと教えていく。

 私は、こうした孝行を否定するものではないが、しかし一方で、こうした親の呪縛に苦しんで
いる人も多い。親子という、一対一の関係ならともかくも、親戚ぐるみ、地域ぐるみで縛られると
いうこともある。K氏(四八歳、男性)もそうだ。

 「父は、人前ではいい父親を演じていますが、一対一になったようなとき、『親を粗末にする
と、地獄へ落ちるぞ』と、私をおどします。そういう父なんです。それでときどき盆や、暮れに帰
省することを避けているのですが、そうすると今度は、親戚の叔父から電話がかかってきま
す。『どうして、お前は、父親を粗末にするか。正月のあいさつをしろ』とです。父が、叔父たち
に電話をさせているのですね」と。

●形にしばられない人間関係

 親子といえども、基本は、一対一の人間関係。もちろんその間には、親子であるがゆえの、
特殊な感情や思惑が働く。たとえば母と子の関係というのは、母親にとっても、また子どもにと
っても、特殊な関係である。

 しかしそのことと、ここでいう「孝行論」は、別のことである。多くの誤解は、こうした特別な関
係と、孝行論を結びつけるところから起こる。

 たとえばよく議論されるが、(親がいるから、子どもがいるのか)、それとも(子どもがいるか
ら、親がいるのか)という問題。さらに実存主義の世界では、つぎのように考える。

 私たちは生まれた。生まれてみたら、そこに親がいた、と。

 孝行論を説く人たちは、当然のことながら、「親がいたから、子どもがいる」と考える。そして
その返す刀で、子どもに向かっては、「親のおかげで、お前がいる」と教える。産んでくれたの
は、親ではないか。育ててくれたのも、親ではないか。「だから子どもが、親に孝行するのは、
当然のことだ」と。

 ここでいう「母と子に特殊な関係」については、人間対人間という関係をいう。絶対的な信頼
関係というのがそれだが、それについては、もうすでに何度も書いてきた。しかしだからといっ
て、そこから孝行論が生まれるというわけではない。むしろここでいう絶対的な信頼関係と、孝
行論は、相反するものである。

●「だれが、産んでくれと頼んだ!」

 親が「私は親だ」という親風を吹かせば吹かすほど、子どもは、親の前で仮面をかぶるように
なる。いわゆる(わかりあえない親子)は、こうして生まれる。

 このとき、いくつかの悲劇も生まれる。その一つは、親自身が、独善の世界に入りやすいとい
うこと。このタイプの親ほど、「私はすばらしい親だ」「私たちの親子関係は、うまくいっている」と
思いがちになる。

 このとき子どもも、親の価値観と一致すれば、それなりに親子関係はうまくいく。子どもは子
どもで、親に絶対的に服従することで、親子関係をとりつくろう。しかし、このとき、子どもが親
に従わなかったとしたら……。

 ここで親子の間には、大きなキレツが入る。価値観の衝突というのは、そういうもの。どこか
宗教戦争に似ている。たがいに自分をかけて、衝突する。

親「親に向かって何だ! その言い方は!」
子「親だ、親だって、いばるな!」
親「何だ、その口のきき方は!」
子「口のきき方が、どうした!」
親「お前は、だれのおかげで、ここまで大きくなれたか、わかっているのか!」
子「うるさい!」
親「このバチ当りめ! 産んでもらった恩を忘れたか!」
子「だれが産んでくれと、お前に頼んだア!」と。

 昔なら親は、ここで伝家の宝刀を抜く。「貴様のような息子は、今日かぎり親子の縁を切る。
この家から出て行け!」と。

 しかし今は、そういう時代ではない。身分制度は、とっくの昔に廃止になった。「家だ」「親の威
厳だ」と言ったところで、子どもがそれに応じなければ、どうしようもない。

●ご先祖様 

 もちろん、人それぞれ。孝行論を説く人も、否定する人も、それぞれがぞれぞれの立場でハ
ッピーなら、それでよい。外部の人間が、とやかく言う必要はない。また言ってはならない。

 たとえば私の知人の中には、親絶対主義の人が、何人かいる。五〇歳以上の人は、ほとん
どが、そうではないか。A氏(五五歳、男性)もそうだ。他人が、死んだA氏の父親の批判するこ
とすら、許さない。だれかが批判めいたことを言おうものなら、猛然と、それに反発してくる。

 Bさん(六〇歳、女性)もそうだ。ことあるごとに、「ご先祖様」という言葉を使う。「ご先祖様あ
っての、私でございます」「ご先祖様がいたから、こういう生活ができるのです」「ご先祖様が
代々守ってくださった家風を守るのが、私たち子孫の務めでございます」と。

 しかしよくよく観察すると、親や先祖を大切にしろと教えることは、子どもに向かっては、「自分
を大切にしろ」と言っているようにも聞こえる。それがわかったのは、C氏(七〇歳、男性)と話
していたときのことだ。

 C氏は、このところ、「最近の若いものは、先祖を粗末にする」を、口ぐせにしている。C氏が
いうところの「先祖」というのは、自分のことではないか。まさか「自分を大切にしろ」とは言えな
い。だから「先祖」という言葉を使う?

 このことは、たとえば寺の住職が、「仏様を供養してください」と言うのに、似ている。似ている
というより、同じ。寺の住職が「供養せよ」と言うのは、信徒に向かって、「金を出せ」と言ってい
るのと同じ。まさか「金を出せ」とは言えない。だから、「供養せよ」と言う。それとも、仏様が、お
金を、使うとでもいうのだろうか。

 要するに、親だ、先祖だと言う人は、その一方で、自分の立場を守ろうとしているだけ。ある
いは「家」を守ろうとしているだけ。……というのは言い過ぎかもしれないが、それほど的をは
ずれていないと思う。

●孝行は子どもの問題

 孝行するかどうかということは、あくまでも子どもの問題。親は、それを子どもに期待してはい
けない。求めたり、強要してはいけない。親は、どこまでも無条件の愛をつらぬく。

 ……こう書くと、さみしい老後を心配する人もいるかもしれないが、現実は、逆。「孝行」にあ
たる言葉すらない英語国のほうが、むしろ日本的な孝行息子、孝行娘が多い。

こんな調査結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」
と答えた日本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかい
ない。自由意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六
三%である。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転
換期にきているとみるべきではないのか。

 以上、そんなわけで私自身も、一〇年ほど前に、自分の考え方を、大きく変えた。……という
より、それまで日本や日本人が、全体としてかかえる問題に、気づかなかった。私もそれまで
は、ごく当たり前に、ごく自然なこととして、孝行論を唱えていたように思う。

 もちろん、だからといって、孝行論を否定しているわけではない。孝行している人を非難して
いるわけでもない。親であれ、自分以外の人のために、我を忘れて献身的に尽くすことは、そ
れ自体、すばらしいことである。

 ただ私がここで言いたいことは、だからといって、それに甘えて、今度は他人、とくに子どもに
向かって、それを求めたり、強要してはいけないということ。

孝行論を説く人も、それだけは、忘れてはいけない。
(030918)

++++++++++++++++++++++++++++++

以前書いた原稿を送ります。簡略版は、中日新聞で発表
させてもらいました。

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子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、
いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするとい
うのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て
られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I
氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。

しかしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまっ
た。五〇歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいもの
か。ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまっ
たのかもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがまし
い歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四
行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と
織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。

自分のことを言うのに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言
い方はよせ」と言うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四
〇年ぶりに聞いた。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日
本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由
意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命
に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六
年)は、次のようになっている。
 フィリッピン ……八一%(一一か国中、最高)
 韓国     ……六七%
 タイ     ……五九%
 ドイツ    ……三八%
 スウェーデン ……三七%
 日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読
むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孝行
論 親の恩論)


Hiroshi Hayashi++++++++Oct 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(10月23日)

++++++++++++++

今回で、原稿は、第2250作
を終了する。

が、「2250」という数字には、
ほとんど意味がない。あくまでも
便宜上の数字である。

次回からは、「2300〜」となる。
「2300かあ?」と思ってみたり、
「2300ねえ?」と思ってみたり
する。

当初は、「こんなことをしていて
何になるのだろう?」とか、
「何とかお金に換える方法はない
か?」とか、よく考えた。

今も、ないわけではない。ないが、
しかしもうほとんど、そういう
ことは考えなくなった。

つづいて、「自己満足のため?」と
思ったこともある。が、この思いは、
割と早く消えた。

今は、こうしてパソコンに向かって、
ものを考えているのが楽しい。
毎日、何かの新しい発見を
することができる。

昨日もした。今日もした。明日は、
もっと大きなものを発見するかも
しれない。それが楽しい。

ところでまったく話が脱線するが、
今度、日立が、パソコン部門から
撤退することを決めたそうだ(日経)。

これも時代の流れ?

日本のパソコンは、どれも、見た目は
美しく、おかしな機能はいっぱいついて
いる。が、中身が薄い。

その分だけ、値段も高い。直販の
パソコンとくらべても、2倍は高い。
中には、「高級自動車と同じ塗装」を
売り物にしているパソコンもある。

しかし、それがどうした?

これでは勝ち目はない。世界の
パソコン市場は、アメリカのデル、
HP、中国のレノボ・グループ、
台湾の宏碁(エイサー)の大手4社が、
合計で5割近くのシェアを握っている
という(日経)。

となると日本で生き残るのは、F社と、
N社だけ? 

そうそう今朝の朝刊には、デル社の
コマーシャルが載っていた。
ノートパソコンが、5万円台!
たったの5万円台、だぞ!

ワイフが「これ、だいじょうぶ?」と
聞いたので、中身を確かめてみた。

OSもCPUも、1〜2年古いもの
ばかりだが、家庭で使う分なら、
まったく問題、ない。

どうして日本のメーカーもそういう
パソコンを作らないのだろう?

最新の高価なOSやCPUばかりを
使っている。

値段をさげたくないから、無理ばかり
している。そういう無理が、客離れを
引き起こしている。

ウソだと思うなら、市内のパソコン
ショップへ行ってみることだ。
どこもガランとしている。

話をもどす。

「2250」といっても、実際には、
その10倍程度の内容がある。1作の
中に、ふつう、10〜15作の原稿を
書いている。だから全体では、2万作
以上ということになる。

が、おもしろいことに、その実感が
ほとんど、ない。原稿用紙とか、本に
なっていれば、それなりの実感が
あるかもしれない。座右に置いて、
それを確かめることができる。

しかしパソコンの世界では、それがない。
ハードディスクの中に、電子の信号と
なって入っている。それに2万作と
いっても、DVD1枚の中に軽々と
入ってしまう。

考えてみれば、恐ろしいことではないか。
たったの1枚だぞ! ギョーッ!
これから私が死ぬまで書きつづけたとしても、
1枚! 私の一生が、たったの1枚だぞ!

が、その一方で、こういうことも言える。

「これからは、こういう時代だ」と。

つまり私のような地方に住む、1庶民でも、
平気で2万作も書ける時代がやってきた。
昔なら、手書きで、原稿を書いた。が、
それだと能率がたいへん悪い。1日に
原稿用紙で10枚前後書くのが、精一杯。
(私は1日で、50枚くらい書いたことが
あるが……。)

それが今では、ものの10分足らずで、
10枚くらいなら書いてしまう。1時間も
あれば、50枚くらい、書いてしまう。

書くだけではない。推敲まで簡単にできる。
さらに活字にして、全世界に向けて、
発信することもできる。

BLOGにしても、毎日、計1000人
くらいの人たちが、私の原稿を読んで
いる。マガジンの読者も、計2500人
を超えた。毎月、延べにすれば、計6〜
10万人の読者ということになる。

「初版で3000部」「6000部」とか
言っていた時代は、いったい何だったのか?
だからといって、本の時代が終わったわけで
はない。しかし今、何かが、大きく変わろう
としている。何か、だ。

「2250」という数字を見ながら、
私はそう感じた。

私はみなさんに、情報を提供する。みなさんは、
私に生きがいをくれる。

これからも、ギブ・アンド・テイクで、
よろしく!

+++++++++++++++++

●赤福餅

+++++++++++

伊勢のおかげ横町の中心部
に、赤福餅の本店がある。

つい先日、私とワイフは、
あの店で、赤福餅を食べた。

「おいしい」という実感は
あまりなかった。今では、
あの程度の菓子なら、どこに
でもある。

その赤福餅が、今、大きな
問題になっている。

製造年月日をごまかして
いたという。

う〜ん。

原稿の世界にも、製造年月日ならぬ、
制作年月日というのがある。

しかしこちらは、だいじょうぶ。
10年前のものであろうが、
20年前のものであろうが、
腐るということはない。

4年前に、こんな原稿を書いた。

題して、「運命論」。

自分で書いた原稿だが、私は
これを読んで、やはり、
う〜んとうなってしまった。

最近の私は、ひょっとしたら、
4年前より、退化しているかも
しれない。少なくとも、鋭さ
が消えた?

自分の原稿を読んで、そんな
印象をもった。

++++++++++++++

●運命論

 「私は孤独だ」と言えば、「それ、みろ。わかりきったことではないか」と言う人がいるかもしれ
ない。私のような、どこかゆがんだ性格をもった人間は、人に相手にされなくて、当然。つまり、
その分、孤独になる。

 だから私のような人間は、あえて最下層を、静かに生きるしかない。音も立てず、人知れず、
おだやかに……。

 しかし私には、どうしてもそれができない。何かあると、すぐワーッと声をあげてしまう。そして
あちこちに、敵をつくってしまう。バカなのか。それとも、アホなのか。

 ほどほどのところで、ほどほどの人生を歩むほうが、よほど、楽。そう割り切って生きている
人は、五万といる。いや、ほとんどの人が、そうではないか。またそういう人ほど、友人も多く、
家族のきずなも、太い。

 私がかかえている問題のほとんどは、他人からもたらされたものというよりは、自分でもちこ
んだもの。それが一つずつ、よくわかるようになった。これも年の功。あるいは、少しは自分に
謙虚になったためか。

 たとえば一人の女性がいる。夫とは、結婚後半年で離婚。今は、四歳になっている一人娘を
育てている。

 その女性のホームページをのぞく。「いやし系ホームページ」と歌っているが、実は、はげしい
不平、不満の嵐。あっちに不平をぶつけ、こっちに不満をぶつけている。「あれが悪い!」「こ
れがなっていない!」と。

 その女性のホームページを読んでいると、何のことはない。私のしていることは、その女性の
していることと同じ。あるいは、どこが違うのか。そのはげしさゆえに、私でも、仮にその女性と
結婚したとしたら、半年どころか、一か月で離婚するだろう。

 実のところ、ワイフもときどき、こう言う。「私だから、あんたと結婚できたのよ」と。多分に恩
着せがましい言い方だが、このところ、「うん、そうだな」と答えることが多くなった。自分がわか
ればわかるほど、ワイフの言うことが正しいと思うようになった。

 運命というものはあるのか。それともないのか。それは私にもわからないが、しかしこれだけ
は言える。

 自分の進むべき道は、無数の要素(ファクター)が、無数に組みあわさって決まるということ。
あとは確率の問題。もちろんその無数の要素の一つずつを知ることは、不可能。だから結局
は、成りゆきのなかで、進むべき道は決まっていく。

 先の女性にしても、こう書くのは、たいへん失礼なこととは思うが、しかし、なるべくして、そう
なったのではないのか? ただその女性は、まだ若いから、自分の中の自分に気づいていな
い? だから世間を攻撃し、社会を攻撃している。はては、「女一人で生きていく、つらさや、き
びしさが、そこらの人間にわかってたまるか!」(投稿コーナー)と書いている。

 もちろんだからといって、私は、その女性を批判しているのではない。私も、若いときは、そう
だった。自分の姿が見えなかった分だけ、世間を攻撃し、社会を攻撃した。しかし、今は、そう
いう「甘え」は消えた。

 今の私が、今の私なのは、すべて私の責任である。すべて私の中の私が、今の私をつくっ
た。それは世間の責任でもないし、社会の責任でもない。それは近所のゴミ拾いとよく似てい
る。

 近所の空き地には、いつも無数のゴミが散乱している。そういうゴミを見ると、「地主が悪い」
「市役所が悪い」と思うかもしれない。しかし、もしそういうゴミが気になったら、自分で拾えばよ
い。つまり空き地にゴミが散乱しているのは、それを気にした、その人の責任ということにな
る。

 それにかわって、このところ、ほんの少しずつだが、私は生きていることの美しさを感ずるよ
うになった。苦しみも、悲しみも、そういったものが、渾然(こんぜん)一体となって、「美しさ」を
つくりあげている、と。もっと言えば、それぞれの人が、それぞれの立場で、懸命に生きてい
る。そういう無数のドラマが、全体として、「美しさ」をつくりあげている、と。

 そういう視点で、自分自身を振りかえってみる。私も、不完全で、ボロボロの人間だ。「何かを
した」という充足感は、ほとんどない。毎日が、後悔の連続。決して居なおっているわけではな
い。自分自身の限界がわかるようになった。そういう自分が、今、ここで懸命に生きている。

 そういう自分に、「美しさ」の連帯感を覚えるようになった。「孤独?」……よいじゃないの、と。
「失敗ばかり?」……よいじゃないの、と。「敵をつくる?」……よいじゃないの、と。

 この先のことは、まだよくわからない。このまま世間や社会に押しつぶされてしまうかもしれな
い。それとも、何かまた新しいことを発見するかもしれない。どうなるかわからないが、ともかく
も、がんばって生きていくしかない。
(030919)

【約束】

マガジンの読者の方には、お約束します。もし何か、新しいこと発見したら、一番にお知らせし
ます。

It was previously a question of finding out whether or not life had to have a meaning to be 
lived. It now becomes clear, on the contrary, that it will be lived all the better if it has no 
meaning. ー Albert Camus
人生には生きる意味があるのか。それを疑問に思ってきた。しかし今、それとは対照的に、つ
ぎのことがはっきりとしてきた。つまり意味がなくても、まったく問題なく生きられるということが。
(A・カムス)

Few are those who can see with their own eyes and hear with their own hearts. ー Albert 
Einstein
自分の目でものを見ることができる人は、ほとんど、いない。自分の心で聞くことができる人
も、ほとんど、いない。(A・アインシュタイン)

To be ignorant of one's ignorance is the malady of the ignorant. ー Amos Bronson Alcolt
自分の無知に無知なのは、無知な人の病気だ。(A・B・アルコット)

Another way in is the other way out; Never doubt where to exit; it is another entrance out. 
ー Andrew S. Pudliner
入り口は、出口。どこから出ようと思うな。それは入り口がもう一つの出口。(A・S・パドライナ
ー)

We are what we repeatedly do. ― Aristotle
我々というのは、我々が繰りかえすところのもの。(アリストテレス)

Happiness is something final and complete in itself, as being the aim and end of all practical 
activities whatever.... Happiness then we define as the active exercise of the mind in 
conformity with perfect goodness or virtue. ―Aristotle
幸福というのは、それ自体が、最終的かつ完ぺきなもの。そしてそれが何であれ、すべての活
動の目的である。それゆえに、幸福を、私たちは、完ぺきな善と美徳と、心の調和と定義す
る。(アリストテレス)

For example, justice is considered to mean equality, It does mean equalityー but equality for 
those who are equal, and not for all. ―Aristotle
たとえば正義は、平等を意味する。それはたしかに平等を意味するが、それは平等な人にとっ
ての、平等。すべての人には、そうではない。(アリストテレス)

It's like a finger, pointing at the moon. If you stare at the finger, you miss all the heavenly 
glory ー Bruce Lee "Enter The Dragon"
それは月を指さす、指のようなもの。もし指を見つめるなら、あなたは天の栄華を見逃すことに
なるだろう。(ブルース・リー「エンター・ザ・ドラゴン」)

Nothing is ever accomplished by a reasonable man. ー Bucy's Law
道理のわかる男によって完成されたものは、何もない。

You have two ears and only one mouth for a reason ー Buddhist Belief
あなたには二つの耳がある。しかし道理を語る口は、ただ一つ。(仏教)

To be is to do. ―Descartes
生きることは、行動することである。(デカルト)

I think therefore I am. ― Descartes
我、思う。ゆえに我、あり。(デカルト)

Learning how to stand up is easy. Learning how to stand up after you've fallen down, that is 
tough. ― Dican
立つことを学ぶことは、簡単なこと。ころんだあとに、立つことを学ぶのは、つらいことだ。(ダイ
カン)

You can never lose what you never had. ― Dican
もったことがないものを、なくすことはない。(ダイカン)

It is not the brains that matter most, but that which guides themーーーthe character, the 
heart, generous qualities, progressive ideas. ― Dostoyevsky
問題は、脳ではない。問題は、何が脳をガイドするか、だ。性格、心情、性質、思想など。(ドス
トエフスキー)

I don't suffer from insanity but enjoy every minute of it ー Edgar Allan Poe
私は狂気に苦しまない。私はその瞬間、瞬間を楽しむだけ。(E・A・ポー)

Everything is but a dream within a dream." ー Edgar Allen Poe
すべてのものは、夢の中の夢。(E・A・ポー)

Growth for the sake of growth is the ideology of the cancer cell. ー Edward Abbey
成長のための成長というのは、ガン細胞のイデオロギーだ。(E・アビー)

There's a part of every living thing that wants to become itself: the tadpole into the frog, 
the chrysalis into the butterfly, a damaged human being into a whole one. That is spirituality 
ー Ellen Bass
その範囲で生きるのは、簡単なこと。おたまじゃくしは、カエルになる。毛虫は、蝶になる。そし
てキズついた人は、完成される。それが精神だ。(E・バス)

In a real dark night of the soul, it is always three o'clock in the morning, day after day. ー F. 
Scott Fitzgerald
魂の真夜中。それはいつも朝の三時。来る日も、来る日も、(F・S・フィッツゲラルド)

If you want to have clean ideas, change them as often as you change your shirts. ー Francis 
Picabia
きれいな考えをもとうとするなら、シャツを替えるように、しばしば考えを変えることだ。(F・ピカ
ビア)

Do be do be do. ー Frank Sinatra
生きて、すべきことをせよ(?)(フランク・シナトラ)

I no longer want to walk on worn soles ー Friedich Nietzsche
もう破れた靴底の靴で歩きたくない。(F・ニーチェ)

Live simply that other may simply live. ― Gandhi
ほかの人が簡単に生きられるように、簡単に生きろ。(ガンジー)

Nonviolence is the greatest force at the disposal of mankind. It is mightier than the 
mightiest weapon of destruction devised by the ingenuity of man. ― Gandhi
不服なとき、非暴力は、もっとも強い武器である。それは人間の英知によってつくられたあらゆ
る武器よりも、強いものである。(ガンジー)

If I accept you as you are, I will make you worse; however, if I treat you as though you are 
what you are capable of becoming, I help you become that. ― Goethe
あるがままのあなたを受け入れれば、私はあなたをより悪くしていまうだろう。もし私があなた
を、あなたがなれる人として扱うなら、私はあなたがそうなるのを助けることになる。(ゲーテ)

【注釈】
 フランク・シナトラの、「do be do be do」について、ヤフーで検索してみたら、こんな記事を
ヒットした。

Other than Brazilian music, though, Sinatra stayed away from developments in jazz beyond 
swing (unless one counts a quirk like his notorious "doーbeーdoーbeーdo" scatting at the 
close of "Strangers In the Night").

しかしブラジル音楽のほかに、シナトラは、ジャズ音楽をそれ以上、することはなかった。(「真
夜中のストレンジャー」で、歌われた、あの悪名高い「doーbeーdoーdo」のような、意味のない
単語を並べた気まぐれな歌を、その数に数えないならの話だが……。)

つまり、「doーbeーdoーbeーdo」は、意味のない言葉だというのだ。私は「生きて、すべきことを
せよ」と訳すまでに、かなり考えた。時間をムダにした。

++++++++++++++++

世界の賢者たちの言葉を引用することに
ついて、その当時、「孫引きでは意味が
ない」と、私のBLOGに書いてきた
人がいた。

「孫引き」というのは、だれかがすでに
翻訳し、本などに発表したもの、という
意味である。

そんなわけで、それ以後は、私はきるだけ、
原文(英語)から直接、自分で翻訳して
こういう場で使うようにしている。

この原稿を読んで、改めて、「運命」に
ついて考える。

+++++++++++++++++

●運命論(補足)

 たしかに自分の運命は、自分だけで、決まるものではない。私には、無数の(糸)がからんで
いる。その糸が、私の進むべき道を、勝手に決めてしまう。そういう場面に出くわすことは多
い。

 健康、家族、仕事、収入、世間……などなど。国や環境、さらには世界まで、私に大きく作用
している。「私は自由だ」といくら叫んでも、その自由には、いつも限界がある。

 言いかえると、私は、(私たちはと書いてもよいが)、いつもその限界状況の中で、もがいてい
る。もがいていく過程の中で、自分の道が決まっていく。それを「運命」というのなら、運命は、
だれにでもある。

中には、「運命は不確定なもの」と主張する人がいる。しかし冷静に自分の周囲を見れば、あ
る程度は、自分の運命を知ることができる。未来について、ある程度の予測はできる。そのう
ち、自分の「死」すらも、計算で求められるようになるかもしれない。DNAや細胞の組織を詳し
く調べて、「あなたの寿命は、あと5年と7か月です」とか、何とか。

 もしそうなれば、それも一本の「糸」ということになる。

 が、その限界の中で、それを受け入れてしまってはいけない。私たちはたしかに、もがく。も
がくが、そこでふんばる。その(ふんばる)ところに、生きる意味がある。無数のドラマもそこか
ら生まれる。

 世界の賢者たちの言葉の中で、私はやはり、デカルトの言葉が好きだ。『生きることは、行動
することである』『我、思う。故に我、あり』と説いた、デカルトの言葉である。

 運命がそこにあるからといって、あきらめてはいけない。のろってもいけない。自分ではどう
にもならないことについては、さっさとあきらめ、受け入れる。しかし戦うべき運命とは、戦う。

 それが生きるということではないか。
(07年10月23日記)

*************以上、2250****************
2007年10月23日稿了(5059)






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論 育児評論家 幼児教育家 教育評論家 子育て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育
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ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育
てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力
テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子
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学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター 
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てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲
労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでく
ださい はやし浩司のホームページ 悩み調査 はやし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモ
ン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん
野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチ
ェックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法
文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混
迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 
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やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
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育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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