最前線の子育て論byはやし浩司(11)

最前線の子育て論byはやし浩司
(2000  〜  )
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最前線の子育て論byはやし浩司(2000)

●高齢社会白書

++++++++++++++

65歳以上の高齢者が、55年には
人口の40・5%を占めるようになる
そうだ(政府・高齢者白書)。

++++++++++++++

 やがて人口の40・5%が、55年には、人口の40・5%を占めるようになるそうだ。この
ほど、政府は、2007年度版、高齢者白書を発表した。

 「高齢者1人を、わずか、1・3人の現役世代(15〜64歳)が支えることになる」と。

 が、この記事を読んで、まず「?」と思ったのは、「55」という数字。みなさんは、この「5
5」という数字が何であるか、わかっただろうか?

 2055年の「55」? 平成55年の「55」?

 2055年ということであれば、48年後ということになる。平成55年ということであれば、
36年後ということになる。役所の文書だから、多分、平成55年ということだろう。つまり3
6年後。私はそのとき、95歳になっている。

 どんなにがんばっても、そのころには私も、(生きていれば)、超ヨボヨボの老人。しかしそ
ういう私を支えてくれるのは、たったの1・3人。現在のような手厚い介護など、期待すべくもな
い。へたをすれば、……というより、まちがいなく、私たちはそのまま粗大ゴミになる。

 そこでゆいいつ生き残る道があるとすれば、できるだけ長く働いて、貯(たくわ)えをしっかりと
しておくということ。年金など、まったくアテにならない。これには厚生年金も共済年金もない。ア
テにならないことは、今の社会保険庁を見ればわかる。

 60歳で定年なんて、とんでもない話。65歳で定年なんて、とんでもない話。70歳でようやく
定年。……そういう時代は、すぐそこまできている。

 しかしただ生きるだけでは、意味はない。生きがいをもつというか、(やるべきこと)はやる。
それがこれからの私たちの2老後のあり方ということになる。

 が、何といっても、健康。まず健康。その健康のためには、運動。まず運動。運動あっての健
康。健康あっての(生きがい)ということになる。

 今年満60歳になるみなさん、がんばりましょう!

(付記)ここでいう「55年」というのは、「2055年」という意味だそうだ。別の新聞報道では、「2
055年」となっていた。それにしても、紛らわしい……。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●母の旅立ち

+++++++++++++++

昨夜は、母の横で添い寝をした。
しばらくして、母がこう言った。

「寒くないか。ワシ(=私)の
ふとんを使えや」と。

私は、コタツぶとんの上で横になっていた。
見ると、母は、じっと私を見つめていた。

私「だれかに会いたいか?」
母「だれにも会いたくない」
私「その中でも、いちばんだれに
会いたいか?」
母「浩司、お前やナ」
私「ここにいるだろ」
母「そうやナ」と。

しばらく母の実家の話をする。
ついで「今までで、いちばん楽しかった
ことは何か?」と聞くと、
「何にもないなあ」と。

「いやなことは?」と聞くと、
「父ちゃん(=私の実父)が、
酒を飲んだことや」と。

とたん、大粒の涙が、こぼれた。
「ぼくも、いややった……」と。

その前に、姉夫婦と、1時間ほど
電話で話す。

私「まだ特別養護老人ホームへ
入れるという話はできん」
兄「そうやなア……」
私「できるだけ、母のそばにいて
やるよ」
兄「そうやなア……」と。

そんなことを、頭の中で思い出して
いた。

すると母がまたこう言った。

母「寒くないか?」
私「寒くない」
母「わしのふとんを使え」
私「いい……。これでいい」
母「ちゃんとしたところで寝んせエ
(=寝なさい)」
私「ここでいい」と。

いろいろあった。ありすぎて、ここには
書ききれない。しかし恨みも、つらみも
消えた。

そこにいるのは、やさしい母。
私が子どものころに見た、あの母。

私「何か、したいことがあるか?」
母「K村(=母の生まれ故郷)へ
行ってみてエ」
私「行くだけでいいのか?」
母「だれにも会いたくない……」
私「どうして?」
母「会っても、なんも、話しすることが
ねエ(=ない)」と。

……そのあとのことは、どうしても
思い出せない。

多分、私はそのまま眠ってしまったらしい。
気がつくと、だいだい色の、ぼんやりと
した朝日が、カーテンの向こうで
ゆれていた。ときおりはげしい雨が、
窓ガラスをたたきつけていた。

「朝かな?」と思ったが、そのまままた、
一眠りした。

++++++++++++++++

●今朝・あれこれ(6月10日) 

++++++++++++++

今朝は、激しい雷鳴で目が覚めた。
あとで時計を見ると、午前6時だった。
私はそのまま起きた。起きて、普段着に
着替えた。

今日は、日曜日。11時から、老人
ホームでの喫茶会があるという。
それ以外、とくに予定はない。

++++++++++++++

●老人ホーム

 老人のなり方は、千差万別。みな、ちがう。そのことは老人ホームをのぞいてみると、よくわ
かる。

 母は、4人部屋に入ったが、4人部屋といっても、一人分が、12畳間ほどもある。通路も入
れたら、もっとあるかもしれない。

 母のほかに、3人の女性が床に伏せっていた。一人は、寝たきりの状態で、食事も、ヘルパ
ーさんに食べさせてもらっている。もう一人は、ベッドの上で、ずっと歌を歌っている。もう一人
は、一見元気そうだが、まったく反応がない。

 廊下を出ると広間になっていて、そこには、10〜15人ほどの老人たちが、それぞれ勝手な
ことをしている。しかし何かをしているふうでもない。見たところ、新聞や本をなどを読んでいる
老人は、一人もいない。部屋の中央には、かけっぱなしのテレビ。が、それを見ている老人も
いない。

 個性的と言えば聞こえはよい。一人とて、同じ老人がいないのには、驚いた。顔中が、風船
のように腫れた女性、モグモグと口だけを動かしている男性、じっと恐ろしいほどの目つきで、
だれかをにらんでいる女性、無反応な隣人に向かって、一方的に話しかけている女性などな
ど。

 老人のなり方は、千差万別だが、みな、こうして最期のときを静かに待っている。そのときが
くるのを、じっと何かに耐えるようにしって待っている。

●ガランとした部屋

 ほかの部屋はどうなっているか? 母のこともあり、いくつかの部屋を回ってみた。見舞客用
の椅子やごみ箱は、どうしたらよいのか。それを知るために、部屋を回ってみた。

 が、土曜日の午後だというのに、見舞客は、ほとんどいなかった。……というより、私たちだ
けだった。またどの部屋も、ガランとしていて、人間臭さがまるで感じられなかった。長期にわ
たって滞在しているのだから、それなりの「蓄積」があるはず。しかしそれがなかった。

 どの人も、生涯において、それなりの生活をし、それなりの財産をつくった人たちにちがいな
い。それなりの人生観をもち、それなりの哲学をもった人にちがいない。それなりの肩書きや
地位をもった人も、少なくないはず。

 しかし老人ホームでは、その「臭い」がまったくしない。もちろん病院とはちがう。家庭ともちが
う。が、これが人生の終着点だとするなら、人はいったい、何のために生きてきたのか、あるい
は今、何のために生きているのか、ということになる。

 最後に残るのは、ヨボヨボの肉体と、分厚い壁でできた、コンクリートの部屋だけ?

●私の提案

 母が入所したのは、浜松でもいちばん人気と言われる特別養護老人ホームである。設備は
整っている。

 どこかの旅館のような玄関。広い廊下。移動用ベッドが楽々運べるエレベーターなどなど。広
間には、喫茶店風の店まである。

 しかし何か、物足りない? つまり設備は豪華で、立派だが、「緑」がない。どこまでも機能的
にできた「箱」だが、その箱には、窓がない。自然につながる窓がない。

 私なら……という言い方は、誤解を招くかもしれないが、私なら、芝生のはえた庭を中心にし
た老人ホームをつくる。部屋は、木造でもよい。その分だけ、「管理」はしにくいかもしれない
が、そのしにくい部分から、人間臭さが生まれる。老人どうしの交流も、そこから生まれる。

 外から見舞いに来る人にとっても、そのほうが楽しい。

 私は、老人たちの様子を見ながら、その老人たちからは、私たちはどう見えるか、それを考
えた。

 何を思っているのだろう。何を考えているのだろう。もし今の私が、こういうところへ押し込め
られたら、私なら、1日も耐えられないだろう。あるいは日常生活に必要な品々を、すべてもち
こむ。もちろんパソコンも、だ。

 しかしここは、そういうことさえできなくなった老人たちが、入るところらしい。私の母が、おか
しなことに、こういうところでは、ごくふつうの女性に見える。

 私は、あいさつ用にと、同じ部屋の老人たちにみやげを買ってきたが、渡すまでもない。その
まま受付にもっていき、そこで若い事務員たちにさし出してしまった。

 私が、「まるでみなさん、反応がありませんから……」と笑って言うと、その事務員は、「当然
です」というような笑顔を浮かべながら、それに応えた。

 外に出ると、豪雨が路面をはげしくたたいていた。私とワイフは、急いで車に飛び込んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●日曜日

+++++++++++++++

今日は、ワイフの誕生日。
「何歳?」と聞くと、「4x歳よ」と。

「それじゃあ、若いって、バカに
されるから、5x歳ということに
したら?」と言うと、「いいの、4x歳
で」と。

誕生日、おめでとう!

+++++++++++++++

●地図

年長児になると、急速に、地理的空間弁別能力が発達してくる。自分の家の周囲の様子を、
空中から見たような感じで理解することができるようになる。能力の発達した子どもだと、簡単
な地図を描くことができるようになる。それまでの子どもは、地図といっても、牛の腸のような、
グニャグニャした道の地図を描く。

 この能力は、たとえば近所の2つの場所をいい、「どちらが遠いかな?」というような質問をす
ると、知ることができる。「ガソリンスタンドと、バス停は、どちらが遠いかな?」と。

 こうした能力は、……というより、こうした能力が未発達なまま、おとなになると、いわゆる、
「方向音痴」と呼ばれる人になる。ひどい人だと、街の中で数ブロック移動しただけで、右も左
もわからなくなる。

 そう言えば、私の知人の1人は、軽い脳梗塞を起こしたあと、自宅近くでさえ、道に迷うように
なってしまった。ときに、自宅のまわりを行ったり来たりしてすることもあるという。

 この能力も、つまり方向感覚も、年中期から年長期にかけて、急速に発達すると考えてよ
い。

 で、今週、BW教室では、「地図学習」をしている。あらかじめおうちの方に、住所や簡単な地
図を書いてもらい、それを見ながら、子どもたちを指導している。


●母の旅立ち

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昨夜は、母の横で添い寝をした。
しばらくして、母がこう言った。

「寒くないか。ワシ(=私)の
ふとんを使えや」と。

私は、コタツぶとんで横になっていた。
見ると、母は、じっと私を見つめて
いた。

私「だれかに会いたいか?」
母「だれにも会いたくない」
私「その中でも、いちばんだれに
会いたいか?」
母「浩司、お前やナ」
私「ここにいるだろ」
母「そうやナ」と。

しばらく母の実家の話をする。
ついで「今までで、いちばん楽しかった
ことは何か?」と聞くと、
「何にもないなあ」と。

「いやなことは?」と聞くと、
「父ちゃん(=私の実父)が、
酒を飲んだことや」と。

とたん、大粒の涙が、出た。
「ぼくも、いややった……」と。

その前に、姉夫婦と、1時間ほど
電話で話す。

私「まだ特別養護老人ホームへ
入れるという話はできん」
兄「そうやなア……」
私「できるだけ、母のそばにいて
やるよ」
兄「そうやなア……」と。

そんなことを、頭の中で思い出して
いた。

すると母がまたこう言った。

母「寒くないか?」
私「寒くない」
母「わしのふとんを使え」
私「いい……。これでいい」
母「ちゃんとしたところで寝んせエ
(=寝なさい)」
私「ここでいい」と。

いろいろあった。ありすぎて、ここには
書ききれない。しかし恨みも、つらみも
消えた。

そこにいるのは、やさしい母。
私が子どものころに見た、あの母。

私「何か、したいことがあるか?」
母「K村(=母の生まれ故郷)へ
行ってみてエ」
私「行くだけでいいのか?」
母「だれにも会いたくない……」
私「どうして?」
母「会っても、なんも、話しすることが
ねエ(=ない)」と。

……そのあとのことは、どうしても
思い出せない。

多分、私はそのまま眠ってしまったらしい。
気がつくと、だいだい色の、ぼんやりと
した朝日が、カーテンの向こうで
ゆれていた。

「朝かな?」と思ったが、そのまままた、
一眠りしてしまった。


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●運命

 今日、買い物に行くとき、ワイフが、車のハッチバックの角で、頭をぶった。私があけたままに
しておいたのが、まずかった。

私「ごめん。お前が、荷物を入れると思って、開けたままにしておいた」
ワ「痛かったア……」と。

 ワイフは、しばらく自分の頭をマッサージしていた。

私「頭のケガは気をつけたほうがいい。血栓ができると、それがそのまま脳みその中に入り、
血栓性に脳梗塞を起こすこともあるそうだ」
ワ「こわいわね」と。

 そのとき、こんな会話になった。

私「もしぼくが、ハッチバックを閉めておいたら、お前は、頭をぶたなかった」
ワ「そうね。でも、もしそうなら、閉めておいてくれたありがたみが、わからなかったわ」
私「いつものように、なにごともなく、すぎていたよね」
ワ「でも、あなたはハッチバックをあけておいてくれた」
私「荷物を入れやすくするためにね」
ワ「だから、私は、頭をぶった……」と。

 運命というのは、そのときまで姿を現さない。どこかに隠れたまま、私たちを虎視眈々(こした
んたん)とねらっている。(頭をぶつ)程度のことですんだからよかったようなものの、もしそれが
大事故につながるようなものだったとしたら……。

 交通事故でもよい。たとえば交通事故に遭遇すると、ほとんどの人は、「あの日に、車に乗ら
なければよかった」とか、さらに重大な事故だったりすると、「免許証を取らなければよかった」
とか、「車を買わなければよかった」とか、思う。

 しかしその一方で、もし交通事故に遭遇しなければ、そのときはそのときで、何ごともなく日々
はすぎていっただろう。交通事故の恐ろしさなど、知る由もない。車に乗ったことや、免許証を
取ったことや、車を買ったことなどを、後悔することもなかったはず。

 が、ここで運命論者たちは、別の考え方をする。何かの宗教を信じている人に、それは多
い。つまり人の運命は、超自然的な何かによって、決定されているものだ、と。占いや予言も、
こうした考え方を基盤にしている。

 たとえばワイフが、ハッチバックで頭をぶったことも、さらにその前に、私がハッチバックをあ
けたままにしたことも、すでにあらかじめ、決められたことだ、と。

 しかし、これはおかしい。ずいぶんと前だが、私はある男性と、こんな議論をしたことがある。
その男性というのは、あるカルト教団で指導的な立場にいた男性である。

私「私はいま、ここで100円玉を握っている。これから私がこれを落とすかどうか、それも運命
で決まっているのか?」
男「決まっている」
私「じゃあ、これからこのコインを落とす」
男「あなたは、落とすように運命づけられている」
私「じゃあ、やめた。落とさない」
男「それならそうで、落とさないと運命づけられている」
私「じゃあ、どっちなのだ?」
男「どちらにせよ、あなたがするように、すでに運命は決まっている」と。

 その男性に言わせれば、私の意思はないということになる。あっても、その意思すら、あらか
じめ超自然的な何かによって、決定されているということになる。

 ……ということで、あとは、私たち個人の判断ということになる。その男性の言い分を信ずる
か、それとも信じないかという問題ということになる。

 当然のことながら、私は信じない。もし運命があるとするなら、その運命は私たちをつないで
いる無数の糸によって決まる。家族の糸、社会の糸、仕事の糸、健康や肉体の糸、心の問題
などなど。そういった糸が無数にからんで、私たちの進むべき方向を決める。しかしそのほとん
どは、確率と偶然によって、決まる。

 ただ冒頭に書いたように、その(進むべき方向)は、必ずしも、姿を見せるものではない。交
通事故にしても、事故に遭遇したときはじめて、そこに(予期しなかった糸)があったことを知
る。ワイフがハッチバックで、頭をぶったのも、その一つである。

 さて結論。

 今、おかしな占いが、大流行している。カルト化しているものもある。多くの信者を集めている
のもある。さらに最近では、天下のテレビ局が、そうしたカルトに手を貸している。

 こんなことでいいのかなあ?、……という疑問を発したところで、この話は、おしまい。このと
ころ、「私の知ったことか!」というニヒリズムばかりが先に立つ。バカな人たちが、バカな指導
者の言いなりになって、バカなことをする。バカなテレビ局が、それに手を貸す。それでぞれぞ
れの人が、その人なりにハッピーなら、それはそれでよいこと。私の知ったことではない。


●自然体で……

+++++++++++++

ますます遅れる。
本来なら、今日あたりは、
マガジンの7月11日号を
書いていなければならない。

しかし6月22日号が、
まだ半分も書いていない。

そのうち、追いつかれるだろう。
そうなったら、マガジンは、
休刊。

しばらく休むことにする。

+++++++++++++

 電子マガジンは、ずっと今まで、1か月先の原稿を書いてきた。そうすることで、読者のみなさ
んに、安定的に、マガジンを届けることができた。

 しかしそれがこのところ、思うように書けない。マガジンを出すことのむなしさばかりが、先に
立つ。「こんなことしていて、何になるのだろう」と、そんなことばかりを、考える。本来なら、今ご
ろは、7月11日号か、13日号の原稿を書いていなければならない。しかし実際には、6月22
日号。半分も書いていない。

 そのうち、追いつかれるだろう。アタフタしながら、原稿を書くのは、私のやり方ではない。し
かしそうなったら、マガジンは、しばらく休刊。中には、長く読んでくれている人もいるかもしれな
い。が、実際には、読んでくれている人は、恐ろしく少ない。それが最近になって、やっとわかっ
てきた。

 1000号まであと少しというのに、何たるザマ! 7月2日号で、903号になる。

 とにかく、ここは自然体でいこう。どうせ、なるようにしか、ならない……。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ

+++++++++++++

今日は、6月11日。月曜日。
はげしい雨がつづいたが、一転、
昨日の午後から、快晴。白い、
空気をそのまま貫くような
朝の光が、まぶしい。

+++++++++++++

●大河ドラマ

 「絶対、見ないぞ」と思っていたが、チャンネルをかえるついでに、NHKの大河ドラマを見た。
……しばらく見てしまった。何かの評定会議をしているシーンだった。

 それを見て、びっくり。10年前の大河ドラマとそっくり。20年前の大河ドラマとそっくり。

 武将たちが、それぞれ自分のセリフを言っていたが、その言い方が、ワンパターン。実にワ
ンパターン。あんな演技なら、私にだって、できる。あなたにだって、できる。武将というのは、こ
ういうものの言い方をするものだというような、決められた言い方。こういうときには、こういう表
情をするものだという、実にわざとらしい演技。

 自然さが、どこにもない。人間味が、どこにもない。

 私も、20年ほど前のことだが、その会社の命運を決するような会議に出させてもらったこと
がある。昨日の大河ドラマのように、そこには、15人前後の役員が集まっていた。そして同じ
ように、自分の意見を述べあっていた。

 しかし雰囲気は、まるでちがう。それぞれの人が、それぞれの立場で、自分の意見を述べて
いた。どこかへつらいがちに、ものを言う役員。頭を下に向け、ポツリ、ポツリとしゃべる取締役
社長。だまりこくったまま、ため息ばかりつく、別の役員などなど。大河ドラマの監督も、一度、
そういうシーンをどこかで見てくるとよい。

 領地を取っただの、取られただの、まるで餓鬼の会議。そこには、一片の正義もない。何の
ために、戦っているのか、戦うのか、その大義名分すら、ない。まったく、ない。民衆のために
闘うとか、民主主義のために戦うとか、はたまた自由を求めて戦うというのなら、まだわかる。
しかしそういう正義は、まったく、ない。

 要するに、みな、我欲の追求だけが目的。そのための会議。のどに力を入れて、力んでいる
だけ。見ているうちに、あのK国の軍人たちを連想してしまった。

 大河ドラマというのは、こういうものでございます……という、まさに型にはまった演技。どうし
てNHKは、10年一律のごとく、同じような番組ばかりつくるのだろう。

++++++++++++

以前、書いた原稿を
添付します。

++++++++++++

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。

向こうでは家族ぐるみの交際がふつうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごす
ということは、まず、ない。そんなことをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが犯罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。し
かし問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするの
か」と。

欧米の論理では、「家来たちの職場を台なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」という
ことになる。しかも「マフィアの縄張り争いなら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加え
られたわけではないのだから、復讐するというのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につ
けるため。欧米では、その道のプロになるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力
主義。

日本では、子どもを学校へ送り出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特
にユダヤ系)では、「先生によく質問するのですよ」と言う。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。

同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と地ほどの
開きがある。私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明
したら、友人のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリ
アではどういう学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●大学生の親"貧乏盛り"

 少子化? 当然だ! 都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万
7000円(九九年東京地区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすま
ない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。…
となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は子ど
もをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの十年間、
毎年4〜5%前後で推移している。

大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないということは、それだけ親の負担が大
きいということ。日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金
を使った。それだけのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつ
の奨学金を渡せる!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、誰(だれ)も文句を言わない。教育というのは
そういうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世
界に名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている!日本人の
この後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまでも
個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、誰も同情しない。こういう冷淡さが
積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。

「こんなところで、子どもを育てたくない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう
言ったのだろう。が、それからほぼ30年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レ
ノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。

 私も3人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●引く文化・押す文化

 日本の子どもは、消しゴムのカスを、手前に払って、机の下に落とす。欧米の子どもは、向こ
う側に払って、机の上に残す。

考えてみれば、不思議なことだ。教えなくとも、日本の子どもたちは、いつの間にかそうするよ
うになる。考えてみれば、日本の刀は、手前に引きながら、相手切る。欧米の刀は、相手のほ
うに突き刺しながら切る。ノコギリもそうだ。日本では引きながら切る。欧米では押しながら切
る。

これを称して、日本の文化は「引く文化」。欧米の文化は「押す文化」と言った人がいた。たとえ
ば「庭」。日本では、庭をつくるとき、視点を家の中に置く。つまり家の中に美しさを、引きこむよ
うにして庭をつくる。欧米は反対に、外に向かって庭をつくる。

わかりやすく言えば、通りから見た美しさを大切にする。何でもないようなことだが、こうした文
化は、教育にも大きな影響を与えている。

 日本人は、周囲の価値を、自分の中に引きこむことを美徳とする。内面世界の充実を大切
にする。一方、欧米では、自分の価値を、相手に訴えることを美徳とする。

日本人はディベイト(討論)がヘタだと言われているが、そもそも国民性が違うから、しかたな
い。いや、長い間の封建制度が、日本独特の国民性を作った。自己主張をして波風をたてる
よりも、ナーナーですまし、「和」をもって尊しとすると、日本人は考える。

つまりそもそも風土そのものが、「個」を認める社会になっていない。特に教育の世界がそう
だ。徹底した上意下達方式のもと、親も子どもも、いつもそれに従順に従っている。文部省が
「体験学習だ」と言えば、体験学習。「ボランティア活動だ」と言えば、ボランティア活動。いつも
すべてが全国一律に動く。親の側から、教育に注文をつけるということは、まず、ない。

そういう意味でも、日本人は、まだあの封建制度から解放されていない。体質も、それから生
まれるものの考え方も、封建時代のままといってもよい。言いかえると、日本の封建時代が残
したマイナスの遺産は、あまりにも大きい。

 ……と悩んでもしかたない。問題は、こうした封建体質から私たちをいかにして解放させる
か、だ。一つの方法として、あの封建時代、さらにその体質をそっくりそのまま受け継いだ明
治、大正、昭和の時代を今ここで、総括するという方法がある。歴史は歴史だからそれなりに
正当に評価しなければならない。しかし決して美化したり、茶化したり、歪曲してはならない。

たとえば2000年のはじめ、NHKの大河ドラマにかこつけて、この静岡県で、『葵三代、徳川
博』なるものが催された。たいへんなにぎわいだったと聞いているが、しかしそういう形で、あの
封建時代を美化するのはたいへん危険なことである。

あの世界にも類をみないほどの、暗黒かつ恐怖政治のもとで、いかに多くの民衆が虐げられ、
苦しんだか、それを忘れてはならない。一方、徳川家康についても、その後、300年という年
月をかけて、つごうの悪い事実は繰り返し抹消された。

私たちが今もつ「家康像」というのは、あくまでもその結果でしかない。つまりこうしたことを繰り
返している間は、私たちはあのマイナスの遺産から抜け出ることはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子育ての原点

 スズメは、ヒヨドリが来ても逃げない。ヤマバトが来ても逃げない。しかしモズが来ると、一斉
に逃げる。モズは肉食だ。しかしではなぜ、スズメは、そんなことを知っているのか。それは本
能によるものなのか。それとも学習によるものなのか。

 スズメは子育てをする一時期を除いて、集団行動をする。それはよく知られた習性だが、子
育てのときもそうだ。子スズメたちは、いつも親スズメのあとをついて飛ぶ。そして親スズメに習
って、エサの取り方や食べ方を学ぶ。そのときのことだ。

モズが来ると、親スズメがまず逃げる。そしてそれを追いかけるようにして、子スズメも逃げる。
スズメたちがモズから逃げるのは、本能によるものではなく、学習によるものだ。本能によるも
のなら、親スズメと同時か、場合によっては、親スズメより先に逃げるはずである。

 実は「子育て」の原点はここにある。教育の原点と言ってもよい。親は子どもを育てながら、
まず命を守る方法を教える。危険なものと、そうでないものを教える。将来生きていくために必
要な知識を、子どもたちに教える。経験を伝えることもある。子どもたちは、そういう知識や経
験を武器として、自分たちの世代を生きる。そして親になったとき、自分たちが教えられたよう
にして、次の世代に知識や経験を伝える。

が、この図式通りいかないところが、人間の世界だ。そしてこの図式通りでないところに、子育
てのゆがみ、さらに教育のゆがみがある。

その第一。たとえば今の日本の子どもたちは、家事をほとんど手伝わない。すべき家事すら、
ない。洗濯は全自動の洗濯機。料理も大半が、電子レンジで温めればすんでしまう。水は水
道、ガスはガス管から運ばれる。掃除も、掃除機ですんでしまう。幼稚園児に、「水はどこから
来ますか」と質問すると、「蛇口!」と答える。

同じように野菜はスーパー、電気は電線となる。便利になったことはよいことだが、その便利さ
に慣れるあまり、「生きることの基本」を忘れてしまっている。そして他方で、必要でもないような
知識を、人間形成に必要不可欠な知識と錯覚する。よい例が一次方程式だ。二次方程式だ。

私など文科系の大学を出たこともあって、大学を卒業してから今にいたるまで、二次方程式は
おろか、一次方程式すら日常生活で使ったことは、ただの一度もない。さらに高校二年で微分
や三角関数を学ぶ。三年では三角関数の微分まで学ぶ。

もうこうなると、教えている私のほうがバカバカしくなる。こんな知識が一体、何の役にたつとい
うのか。こうした事実をとらえて、私の知人はこう言った。「今の教育には矛盾と錯覚が満々て
いる」(学外研・I氏)と。

 教育、教育と身構えるから、話がおかしくなる。しかし子どもたちが自立できるように、私たち
が得た知識や経験を、子どもたちに伝えるのが教育。そしてそれを組織的に、かつ効率よく、
かたよりなく教えてくれるのが学校と考えれば、話がスッキリする。子育てだってそうだ。将来、
子どもたちが温かい家庭を築き、そしてそれにふさわしい親として子育てができるようにするの
が、子育て。そういうふうに考えて子育てをすれば、話がスッキリする。

+++++++++++++++++

自分の書いた原稿の中から、
「大河ドラマ」というキーワードを
使って検索してみたら、あっという
間に、数作見つかった。

本来なら、「中には、大河ドラマの
ファンの方もいらっしゃるかも
しれませんが、お許しください」と
書くべきなのだろうが、もうそういう
おじょうずは、言いたくない。
書きたくない。

……ということで、今朝の雑感は、
おしまい。

おはようございます。

Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2001)

●心臓か、それとも腎臓か?

+++++++++++++++

K国の金xxの健康状態が、
このところ急速に悪化していると
いう。

しかしその原因について、
中央日報の日本語版ニュースでは、
「心臓」となっている。

一方、聯合ニュースを翻訳した
ヤフー・ニュースでは、「腎臓」と
なっている。

どちらが正しいのか?

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K国の金xxの健康状態が、このところ急速に悪化しているという。

しかしその原因について、中央日報の日本語版ニュースでは、「心臓」となっている。一方、聯
合ニュースを翻訳したヤフー・ニュースでは、「腎臓」となっている。

どちらが正しいのか? まず、その両者の記事をそのまま紹介する。


【中央N報の日本語版ニュース】

北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)国防委員長は、健康状態が芳しくなく、途中休まずには30
ヤード(約27メートル)以上は歩けない状態だという。英紙テレグラフが西側諸国政府消息筋
の話として、10日に北京発で報じた。 

  同紙によると、金委員長は腎臓手術が必要とされるほど体が弱くなっており、平壌(ピョンヤ
ン)駐在外交官らもそうした事実を確信している。外出の際には、歩行の途中に休めるよう、イ
スを持った秘書が同行しなければならなかった、と外交官らは話している。金委員長の健康悪
化説は、先月、ドイツ・ベルリンの腎臓専門医療機関出身の医師ら6人が8日間平壌を訪問し
たのを機に流れ出した。 

  また、外交官によると、糖尿病でもある金委員長は当時、外科医を含む医療陣が治療する
患者リストにも名前が挙がっていたものとされる。だが、ドイツ医療陣側は、平壌に滞在中に労
働者3人、看護婦1人、科学者1人だけを治療した、としている。金委員長は今年、公式の席
上に23回しか姿を現していない。そのため健康悪化のためという見方が強い。昨年は同期間
に倍近くの活動(公式の行事に42回出席)をしている。


【聯合ニュースを、ヤフー・ニュースが翻訳?】 

【ロンドン10日聯合】北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記の健康状態が芳しくなく、途中
休まずには27メートルほどの距離しか歩けない状態だと伝えられた。英紙テレグラフが西側諸
国政府消息筋の話として、10日に北京初で報じた。金総書記は腎臓手術が必要なほど体が弱
くなっている状態で、平壌駐在外交官らもそうした事実を確信しているという。外出の際には歩
いている途中で休めるよう、いすを持った秘書が同行しなければならないほどだったと、外交
官らは話している。

 金総書記の健康悪化説は、先月、ドイツの腎臓専門医療機関出身の医師6人が8日間平壌
を訪問したのを機に流れだした。糖尿病でもある金総書記は当時、外科医師を含む医療陣が
治療する患者リストにも名前が挙がっていたとされるが、医療陣側はこれを否定している。

 金総書記は今年、公式の席上に23回しか姿を現していない。昨年は同期間に2倍近い活動
をしていることからも、健康悪化のためという見方は強い。特にこの1か月間ほどはまったく公
の場に出ておらず、日本の週刊誌なども腎臓手術を受けたと報じている。

【事実は……?】

 そこでニュース源となった、テレグラフの記事を読んでみると、つぎのようになっている。

Kim Jong Il, North Korea's reclusive leader, has been so unwell that he could not walk more 
than 30 yards without a rest, western governments have been told.

K国の孤独な指導者、金xx(拉致問題に抗議して、あえて金xxとしている)の健康状態はたい
へん悪く、休みなしでは、30ヤードも歩くことができないと、西側政府は、伝えられている。

Diplomats in the North Korean capital, Pyongyang, are increasingly convinced that the 65-
year-old dictator needs heart surgery to restore his apparently flagging health. He has had 
to be accompanied by an assistant carrying a chair so that, wherever he goes, he can sit 
and catch his breath.

P市(K国首都)の外交官たちは、65歳の独裁者は、明らかに悪化した健康を回復するため
に、心臓の手術が必要であると、ますます確信している。彼はどこへ行くにも、座って呼吸を整
えるために座る椅子を運ぶアシスタントを同行している。

Speculation about the state of Kim's health was heightened when a team of six doctors 
from the German Heart Institute in Berlin flew to Pyongyang, the North Korean capital, for 
eight days last month. Kim, who also suffers from diabetes, was believed by diplomats to 
have been among those on the list for treatment by the combined medical and surgical 
team. But a spokesman for the German team said they had only treated three labourers, a 
nurse and a scientist.

糖尿病を患っているとされる金xxの健康状態についての推測は、ベルリンのドイツ心臓研究
所の6人の医師チームが、K国の首都のP市に、先月8日間滞在したというところから、高まっ
た。腎臓病については、医学、外科チームによる治療のリストにあがっている。

しかしドイツチームのスポークスマンは、彼ら医師団は、3人の労働者と、1人の看護婦、それ
に1人の科学者の治療をしただけだと述べている。

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 つまり原因は、「心臓」だったということになる。もっとも臓器というのは、それぞれが関連しあ
っていて、一つが極度に悪化すると、つぎの臓器も、つづいて悪化する。東洋医学(霊枢・病伝
編)でも、そう教えている。

 が、同じく、「肝腎要(かなめ)」(肝心と書くときもあるが、東洋医学では、肝腎と書く)というこ
とからもわかるように、肝臓、腎臓、心臓は、とくに重要な臓器である。金xxは、これら3つのう
ち、3つとも悪いと言われている。

 拉致問題、核兵器開発問題を解決するためには、K国を一度、崩壊させるしかない。金xxの
死後、K国が、どのような国家体制をつくるか、あるいは一度、崩壊するのか、ますますK国か
ら目が離せなくなった。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●今朝(6月12日)、あれこれ

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昨日は、母のところへ、花を届けた。
母は、それを気持ちよく、喜んで
くれた。

今朝も、朝食をとったら、様子を見に
行くつもり。

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 昨日、母に花を届けた。ちょうど昼食前で、広間にみなといっしょに、集まっていた。その母の
横に立っていると、母が、あたりを見回しながら、こう言った。

 「みんな、間に合わんヤツばっかやなア」「ワシも、その一人やが……」と言った。

 それを聞いて、私は笑った。横にいたワイフも笑った。「間に合う」というのは、地方の言葉
で、「役だたず」という意味である。

 一度は、アルツハイマーと診断されたこともある母だが、こういうところでみると、その母が正
常に(?)見えるから、不思議である。つまり脳みその評価などというものは、相対的なものに
すぎない。

 私やあなたが、(まともに見える)といっても、それは私やあなたが住んでいる世界での評価
でしかない。別の世界に行けば、その私やあなたは、天才に見えるかもしれない。反対に、バ
カに見えるかもしれない。

 その私だが、職業がら、生徒たちによくバカにされる。子どもたちは、おとなの一部である私
をバカにすることによって、自立を図ろうとする。だからおとなの私たちは、子どもたちにバカに
されても、それを叱ったり、あるいは威圧によって押さえつけてはいけない。

 昨日も、小6の女の子が私にこう言った。「先生は、クソジジイだ」と。

 私はそれに応えて、「ぼくは、クソジジイではない。大クソジジイだ。ちゃんと、『大』をつけろ。
わかったか、未来のクソババア!」と。

 彼らの多くは、学校でも、家庭でも、そして進学塾でも、日常的に、息の抜けない緊張状態に
おかれている。それが私にも、よくわかる。せめて私のところくらいでは、自由にものを言わせ
てやりたい。

 どうせ相手は、子ども。ただの子ども。人間の価値など、まだとうてい理解できる年齢ではな
い。本気で相手にしてはいけない。そうそうその女の子は、先日、私に、こう聞いた。「先生は、
『デス・ノート』を知っているか?」と。

 実にくだらない映画である。見る価値もない。もともとは、コミックだったという。「知らない」と
私が答えると、「エーッ、デス・ノートも知らないの?」と。すっとんきょうな声を張りあげた。

 つまり私は彼女には、本物のバカに見えたらしい。しかし本物のバカは、どちらなのか? あ
んな映画を楽しんで見るほうが、よほどバカだと私は思うのだが、その子どもには、それがわ
からない。

 つまり脳みその評価には、もうひとつ重要な基準が加わる。「価値観」という基準である。価
値観のちがう世界では、私やあなたは、バカとして評価される。よい例が、カルト教団の世界で
ある。

 何かのカルト教団に入信したある女性は、私にこう言った。「入信したとたん、私の魂が、カラ
をやぶって、天に昇ったように感じました。そしてまわりの人たちが、みな、バカに見えるように
なりました」と。

 その女性は、(思想)を注入されただけなのだが、それでもそう感じたらしい。

 そこで私はあらためて、自分のことについて考えてみる。「私はバカなのか?」と。

 もちろん私は、自分ではバカだとは思っていない。しかし私は小6の子どもたちの世界では、
明らかにバカに見えるらしい。それはちょうど、特別養護老人ホームの中でウロウロする老人
を、私たちが見るようなものではないか。たしかに脳みその機能は低下している。が、しかし、
そこに住む老人たちは、決してバカではない。

 人格もある。品格もある。人間としての誇りもある。が、それ以上に、この世界を生き抜いて
きたという実績がある。

 同じように、私にも人格がある。品格はどうかわからないが、人間としての誇りもある。少なく
とも、野山に住む動物たちとはちがう。もちろん60年という歳月を生き抜いて生きたという実績
もある。

 母にしても、記憶力は、たしかに低下した。最近のことは、ほとんど覚えていない。1時間前
のことすら覚えていない。だからといって、「今」というときを生きることがムダということにはなら
ない。母は、バカに見えるが、決して、バカではない。バカかバカでないかということになれば、
先の小6の女の子のほうが、ずっとバカである。人間の価値がわからないという点で、バカであ
る。

 が、小6の女の子の世界から見れば、私がバカに見える……? そんなわけで、ひょっとした
ら、特別養護老人ホームの老人たちから見れば、私のほうがバカに見えるかもしれない。ある
いはそういう目で、私を見ているかもしれない。

 ……玄関を出たとき、私は、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●健康器具

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ショッピングセンターへ行くと、
いろいろな健康器具が並んでいる。

しかしどれも値段が高い。目的は
それぞれだが、しかしあんなものを
買うくらいなら、自転車を買ったほ
うが、ずっとよい。

値段も安いが、そのほうが、健康の
ためによい。

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 数日前、ワイフと近くのショッピングセンターに行った。ワイフの誕生日プレゼントをさがすた
めである。で、そのとき、健康器具コーナーへ足を踏み入れた。

 あるは、あるは……、いろいろな器具というか、機械が、ところせましと並んでいた。私たちは
遊園地で遊具に乗るようなつもりで、それぞれを試してみた。

 馬に乗っているように、台がユラユラ(=パカパカ)と揺れるような器具もあった。これは結構
楽しかった。

 台座がブルブルと震え、その振動が体中に伝わってくるのもあった。これはやがてすぐ全身
がかゆくなったので、そこでやめた。

 が、何と言っても、マッサージ機の進化には、目を見張るものがある。値段は、20万円前後
から、高いのになると70万円前後まで。必要な人には、70万円でも高くないかもしれないが、
私たちには、必要ない。私もワイフも、健康。腰痛も肩こりも、ない。

私「こんなもの買うくらいなら、自転車を買ったほうがいいよ。そのほうが、ずっと運動になる」
ワ「そうね」と。

 みなさん、もっと自転車に目を向けよう。とくに50代過ぎの人にはよい。全身運動になること
はもちろん、何よりもすぐれている点は、関節を痛めないということ。値段も安い。買い物や通
勤に乗れば、環境保護にもつながる。

 ……ということで、そのあと、自転車コーナーへ足を運んだ。今では安いのだと、8000円前
後からある。値段だけを見ると心配だが、以前のような粗悪品も少なくなった。結構、しっかり
と作ってある。メーカー品がすぐれているという神話は、とっくの昔に崩れた。そのメーカーと言
われる会社ですら、今では、海外で、自転車を製造している。

 で、結局、何も買わなかった。私が「ごめんね」と言うと、ワイフは、「私は何もいらない」とさみ
しそうに言った。今日、何かを買ってやるつもり。

 晃子、ごめん!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2002)

●今朝・あれこれ

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今朝は、午前4時に起きて、
ハナと中田島海岸まで、散歩に
行ってきた。

気持のよい朝だった。
海辺では、何人かの男たちが
魚釣りをしていた。

「釣れますか?」と声をかけると、
「これから釣るところだ」と言った。

朝もやのかかった、幻想的な
景色だった。ハナはいつものように
砂浜を走って、カラスを追いかけて
いた。

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●マッサージ機

 昨夜、近くのショッピングセンターで、椅子式のマッサージ機を買ってきた。ワイフへの誕生日
プレゼントである。

 台湾製で、値段はx万円。日本製のようにゴチャゴチャした機能はついていないが、それなり
の機能はちゃんとついている。モミ、タタキ、指圧など。ワイフは「内臓脂肪にも効果がありそ
う」と言った。ときどき体を、左右にはげしく揺さぶったりする。

 「お前も、とうとうこういうものを使う年齢になったね」と言うと、「そうネ〜エ……」と。うれしそう
というよりは、どこか、さみしそうだった。

 ところで体脂肪だが、私は、現在、23・5%もある。毎日はかっているが、ほとんど変わらな
い。適正値は、私のばあい、20%前後だそうだ。少し太り気味ということらしい。

 少し食事の量を減らさなければ……と思っているが、それがどうもうまくいかない。昨日は、
「S亭」というレストランで、うな丼を食べてしまった。おいしかった!


●運命

 水は流れるところへ、流れていく。ときにがんばって、その流れを変えようとする。が、その流
れを変えることはできない。気がついてみると、ちゃんとそうなっている。

 大切なことは、その(流れ)を感じたら、静かに身を任すこと。受け入れること。許して、忘れ
ること。あとは時間が、解決してくれる。

 ということで、子育ても、またしかり。それぞれの子どもには、それぞれの(流れ)というものが
ある。その流れを感じたら、あとは、その流れに、子どもを任す。親としてはつらい瞬間かもし
れないが、親があせったところで、どうにもならない。あるいはあせればあせるほど、逆効果。

 今朝は、海を見ながら、そんなことを考えていた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●映画のコマ

 デジカメで、ビデオを撮影することができる。私のデジカメでは、1秒につき30コマか、10コ
マか、そのどちらかを選択できるようになっている。

 そのデジカメを見つめながら、こう考えた。

 若いときというのは、1秒につき30コマで、脳の中に記憶が蓄積される。しかし歳をとると、そ
れが1秒につき10コマ、さらに5コマになる。あるいはもっと少なくなる。

 だから自分の人生を振りかえってみると、若いときほど、記憶がぎっしりとつまっているような
感じがする。その分だけ、時の流れが緩(ゆる)やかだった。が、今はちがう。若いときより活
発に行動しているつもりなのに、その記憶が、どこかへ飛んでいってしまう。その分だけ、時の
流れが、速くなっていく。

 仮に、1秒につき5コマしかない映像を、毎秒30コマの映写機で映してみれば、計算の上で
は、6倍、動きが速くなることになる。つまり再生装置でいうところの、(早送り)の状態になる。

 (ついでだが、こういうとき、「速くなったように感ずる」と書くのが正しいのか、それとも、「早く
なったように感ずる」と書くのが正しいのか?)

 そこでそのコマ数を決めるものは何かということになる。もしそれがわかれば、50代になって
も、60代になっても、密度の濃い人生を送ることができる。

 私は、それは「感動」だと思う。感動のあるなしで、1秒につき、30コマの人生にもなるし、反
対に、5コマ、1コマの人生にもなる。わかりやすく言えば、日々に感動して生きれば、その分
だけ、自分の人生をより長く生きることができる。(時間)という(数字)ではない。中身だ。あくま
でも中身で決まる。

 いくら長生きをしても、のんべんだらりとした生活をつづけていたら、何も残らない。長生きを
したということにはならない。しかしたとえ1年でも、充実した日々を送れば、私たちはその1年
を、100年分、あるいはそれ以上、長く生きることができる。

 そこで「感動」ということになる。私たちは常に、感動を求めて生きる。いろいろな方向に触覚
をのばし、アンテナを張る。そしていろいろな情報を、そのつど、手に入れる。

 それは私たちの人生を、より密度の濃いものにするためのコツかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2003)

【表と裏】

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みながみなというわけではないが、
私が生まれ育った郷里のM町では、
ときどき、何が本当で、何がウソ
かわからなくなる。

ウソをウソと意識しないまま、平気
でウソをつく。それがその地方の
習慣にもなっている。その場、その場で、
適当なことを言って、とりつくろう。

が、何よりも不思議なのは、そういう
ウソをつかれながらも、つかれた
ほうも平気、ということ。
それなりに、みな、うまく、やっている。

その郷里を離れて、40年。
以前、「飛騨の昼茶漬け」について
書いたことがある。4年前の原稿
である。

++++++++++++++++++

●飛騨の昼茶漬け

 日本人は、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。たとえば岐阜県の飛騨地方には、『飛
騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあたりでは、昼食を軽くすますという風習がある。しかし
道でだれかと行きかうと、こんなあいさつをする。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え
る。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さあ、
大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけにも
いかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。ひょっとしたら、あなたも日常的に使っている
かもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場を、うまくごまかして先
へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。何といっても、聖徳太
子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国がらである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ
もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ
に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ
について、日本人とオーストラリア人とでは、ウソに対する寛容度がまったく違うということを思
い知らされた。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし
日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、
悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。

●私はウソつきだった

 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかも
しれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私
の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。

その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売で
は、ウソが当たり前。このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は
毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、そ
れですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言
う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には
変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接
しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているか
を考えてみてほしい。

もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはいけません」と、日常的
に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけない。……とまあ、大
上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日本人の子育てで、一
番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけた。そして帰りぎ
わ、10万円のタクシー券を渡されたとする。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろう
か。

さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろうか。
私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直に
言えば、そういうことになる。

つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つまりそれは私自身の欠陥とい
うより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなたは、子どものころ、学校で、そ
して家庭で、どのような教育を受けただろうか。
(03―1―7)

【補記】

日本人のこうした国民性は、話せば長くなるが、長くつづいた封建制度の結果と考えてよい。
今のK国のような時代が、300年以上もつづいたのだから、当然といえば当然。「自分に正直
に生きる」ということそのものが、不可能だった。

それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。ただここで言えることは、決し
て、あの封建時代を美化してはいけないということ。もちろん歴史は歴史だから、それなりの評
価はしなくてはいけない。しかし美化すればするほど、日本人の精神構造は、後退する。
(はやし浩司 日本人の精神構造 封建時代の遺物)


++++++++++++++++

●表と裏

 私の知人の中にも、こんな人がいる。裏で、私の悪口を言いながら、表では、平気でつきあっ
てくる人である。私はそういう人を見ながら、「この人の精神構造は、いったいどうなっているの
だろう?」と思う。

 が、私は私で、そういう人とはつきあわない。一度でも、そういう事実を知ったら、つきあわな
い。交際をやめる。年賀状の交換もやめる。が、そういう人にかぎって、騒ぎたてる。

 「あの林は、年賀状の返事もよこさない」とか、何とか。

 あるいは私の動向をさぐってくる。何だかんだと口実をつくっては、近づいてくる。よほど私の
ことが気になるらしい。もちろん、私に好意的だから、そうするのではない。私が失敗したり、不
幸になったりするのが、楽しみだから、そうする。それが私にもよくわかる。

 どうせそのレベルの人たちだから、そういう人は、無視する。相手にしない。

 ……ということで、私は若いころ、こんな鉄則を自分につくった。『つきあうなら悪口を言わな
い。悪口を言ったら、つきあわない』と。

 ついでに同じころ、こんな原稿を書いたこともある。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●電話の口

++++++++++++++++++

あなたは受話器の話し口を手で押さえて、
近くの人と、話をすることはありませんか?

しかし、それはたいへん、危険なこと。
一度でも、それをすると、それが理由で、
相手との人間関係を破壊することになるかも?

++++++++++++++++++

 あなたは今、電話で、だれかと話をしている。だれでもいい。だれかだ。そのとき、あなたは、
近くにいる、子どもか、夫か、あるいは妻と、何か相談しなければならないことができた。受話
器はもったまま、だ。

 そのとき、あなたなら、どうするだろうか。

 一番、安全な方法は、電話機の「保留ボタン」を押すことだ。それを押せば、何らかの音楽が
流れ、会話は、それで完全に、途切れる。

 しかしそこまでは、したくない。その必要は、ない。そういうとき、あなたならどうするだろうか。
……あなたは、多分、電話の話し口(聞き口ではなく、話し口)の方を、手で押さえる。そして小
さな声で、近くにいる人に、顔をしかめながら、こう言うにちがいない。

 「この電話、あの林からよ。いやねエ〜。どうるす?」と。

 あなたは話し口を手でしっかりと押さえている。だから小声で話したことは、相手には、聞こえ
ないと思っている。

 だからそう言い終わると、また手を離して、「そうですねえ、わかりました、林さん」と、明るい
声で話す。

 しかし……だ。最近の電話機は、性能がよい。話し口を手で押さえたくらいでは、会話をさえ
ぎることはできない。あなたの話した言葉は、実は、耳にあてた聞き口からも、相手に伝わる。
話し口も、聞き口も、原理的には、構造は、同じ!

 だから、電話機の口を手で押さえたくらいで、安心してはいけない。最近だが、こんなことが
あった。

 私は、B氏に電話をした。少しこみいった話なので、内容は、省略する。しかしB氏は、留守
だった。(実際には、居留守を使っていた。)かわりにB氏の妻が電話に出た。

私「……では、いつお帰りですか?」
妻「もうすぐ帰ってくると思いますが……」と。

 そのとき、B氏の妻は、受話器の話し口を手で押さえた。その感触というか、手で押さえた感
じが音でわかった。ポンと耳がつまったような感じがした。B氏の妻は、近くにいるB氏に、小声
で、こう言った。「あの林からよ。いやねエ……。この電話、どうする?」と。

 それに答えて、そばにいたB氏は、多分、首を横に振ったのだろう。B氏の妻は、夫の様子を
見て、再び、明るい声で、「ごめんなさいねエ。また帰ってきましたら、林さんから電話があった
ことを、主人に伝えておきますから……」と。

 ……という、この話は、実は、フィクションである。最近、別のところで経験したことを、私の話
にからめて、作ってみた。

 しかし、現実に、こんなことが私に起きたとしたら、私なら、そのB氏とは、絶交する。つきあう
必要は、ない。つきあいたくもない。

 ……ということで、今日は、電話の話。今でも、受話器の話し口を手で押さえて内密な話をす
る人は、少なくない。しかし、それはたいへん危険なこと。あまりにも無防備なこと。それをみな
さんにお伝えしたくて、このエッセーを書いた。

 ……この話が、ウソだと思うなら、だれかに協力してもらって、自分で確かめてみたらよい。
私の言っていることがウソでないことが、わかってもらえるはず。どうか、くれぐれも、ご用心!


++++++++++++++

 この中で、私は、「この話は、フィクションである」と書いた。しかし詳しくは書けないが、似たよ
うな経験をしたから、私は、この話を書いた。

 ここでいうB氏も、表と裏のある人ということになる。それまではかなり親しくつきあっていた人
だったが、私は、この電話のあと、B氏とは、縁を切った。ワイフは、「適当につきあっておけば
いいのよ」と言ったが、私には、そういう芸当ができない。若いころならできたかもしれないが、
今は、もうできない。めんどうというか、そういう人が近くにいるだけで、神経がすり減ってしま
う。

 が、B氏にはそれがわからない。わからないというか、私がなぜ怒っているかさえ、わかって
いない。だからそのあとも、何ごともなかったかのように、何度も電話をかけてきたりした。

 適当にものを言って、その場をやりすごす。そういう人は、少なくない。好きか嫌いかというこ
とになれば、私は、そういう人が、大嫌い! そういう人と、愚劣な交際をつづけて、無駄にす
る時間は、私には、もうない!

【補記】

 私は、そういう意味でも、この浜松が、大好き! 私のワイフの兄弟にしても、みな、正直。本
当に正直。表も、裏もない。そのわかりやすさが、たがい人間関係を、さわやかなものにしてい
る。

 たとえばこの浜松では、ものの売買をするときでも、(掛け値)ということをしない。(値切る)と
いうこともしない。そういうやりとりをしているところを、見たことさえない。

 人間関係もそうで、少なくとも私のワイフの兄弟たちは、ありのままの姿で、ありのままに生き
ている。飾ることもない。虚栄を張ることもない。見栄や世間体とは、みな、無縁の世界で生き
ている。すばらしいことだと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【BW教室から】

●万引き

 子どもたち(小4〜6)と、万引きの話になった。そこで私が、「江戸時代に、万引きしたら、盗
んだものにもよるけど、死罪(死刑)になることもあったよ」と話すと、みな、驚いた。

 江戸時代の刑法に、『公事方御定書(くじかたおさだめかき)』というのがある。その下巻によ
れば、10両以上の盗みは、死罪とある。10両という金額が、どの程度のものであったかとい
うのは、時代にもよるが、現在の貨幣価値に換算して、約50〜100万円程度と考えてよい。

 ……と書いたところで、「そうかな?」と、私は、思った。

 そこで1両で、米がどれだけ買えたかを、確かめてみた。(インターネットのおかげで、こうし
た調べものが、本当に楽になった。ありがたいことだ。)

 江戸初期 1両で2石5斗買えたから……約150000円の価値
 江戸中期 1両で1石  買えたから……約60000円の価値
 江戸末期 1両で3斗  買えたから……約18000円の価値、だそうだ。
(出典は、「東京知ったかぶり」サイト)

 江戸中期でみても、10両というと、60万円程度ということになる。しかしそれで死刑、とは!

 で、10両以下だと、タタキの刑を受けたあと、入れ墨をされた。が、再犯を重ね、たとえば入
れ墨も3回になると、「江戸払い」の刑。4回目になると、「盗賊」となり、やはり死刑になったと
いう(「日本史おもしろBOOK」PHP)。

 言うまでもなく、刑には、二つの意味がある。一つは、その犯罪者に対する懲罰としての意味
の刑。もう一つは、社会に対する、見せしめとしての意味の刑。「悪いことをすると、こういうひ
どい目にあうぞ」と、民衆に見せることによって、犯罪を未然に防止する。

 「10両で死刑」というのは、「見せしめ刑」としての意味あいが強い。当然、江戸時代には、現
代のような、きめのこまかい捜査方法もなければ、刑事訴訟法もなかった。

 で、そのことを朝食を食べながら、ワイフに話すと、ワイフは、即座に、昨日、会った男のこと
を思い出して、こう言った。「あの男の人も、イレズミ(刺青)をいていたわ」と。

 その男は、透けて見えるような薄いシャツを着ていた。私たちの横で、100円寿司を食べて
いた。お決まりの若い、きれいな女性を、横にはべらせていた。そのシャツの下に、腕から背
中にかけて、大きなイレズミが見えた。見るからに、「オレは、ヤクザだ」という風体(ふうてい)
をしていた。

私「江戸時代には、入れ墨をわかりにくくするために、その上に、別のイレズミを彫りこんだりし
たようだ。それで日本人は、イレズミに対して、悪いイメージをもつようになった」
ワ「でもね、あの男の人ね、最後に、ブルーベリーケーキと、ヨーグルトを注文していたわよ」
私「そうだったけ? 映画の中のヤクザとは、だいぶイメージがちがうね」
ワ「そうよ。だから私、思わず、笑っちゃった」
私「きっと、根は気の小さい、やさしい人だったかもしれないね」と。

 で、万引きの話にもどる。死刑の話をすると、子どもたちは、ワイワイと騒ぎだした。

私「死刑といっても、いろいろあったんだよ」
子「どんな?」
私「軽いほうから、下手人(げしゅにん)、死罪、獄門(ごくもん)、火罪、磔(はりつけ)の5つが
あった」
子「軽いというのは、おかしい。どうせ殺されるんだから……」

私「そうだよな。たしかに、そうだ。軽いというのは、ただ殺されるだけの死刑(下手人)をいう
よ。重いというのは、クビを切られ、刑場の門にかけられる死刑(獄門)のことをいうよ」
子「磔(はりつけ)が、一番重いのかア?」

私「そうだよ。みんなが見ている前で、磔(はりつけ)にされ、ヤリで刺されて殺された。それが
磔(はりつけ)だよ。その刺し方にもいろいろあってね。たいていは苦しんで死ぬように、刺した
そうだ。しかし相手が、子どもを抱いた母親とかのばあいは、苦しまないように、子どもと母親
を、一気に刺したそうだ」
子「子どもまでエ〜?」
私「そうだよね。江戸時代には、家族の中のだれかが罪を犯すと、家族もろとも、死刑になるこ
とが多かった」と。

 私が子どものころには、まだ。「磔(はりつけ)ごっこ」という遊びが残っていた。これは何かの
ことで、その子どもをいじめるとき、その子どもを壁に向って立たせ、うしろから、ボールを投げ
ていじめるという遊びである。

 戦後のあの時代のことである。今、そんな遊びをすれば、それ自体が、(いじめ)ということ
で、大問題になるだろう。が、そのことは、子どもたちには、言わなかった。

私「ともかくも、人のものを盗むということは、悪いことだ。一時は得をしたと思うかもしれない
が、実は、もっと大切なものを、同時になくすんだよ。しかし盗んだときには、それに気がつか
ない。それに気がつくのは、ずっと、あとになってからだよね」と。

 子どもたちは、「わかった」というような顔をしていたが、本当にわかったか、どうか? 中に
神妙な顔をして、私の話を聞いているものもいたが、万引きの話は、そこまで。私の頭の中
に、つぎからつぎへと、いろいろな考えが浮かんでは消えた。いつもの、モヤモヤである。

(モヤモヤ、その1)どういう子どもが、万引きをし、どういう子どもが、万引きをしないかという
問題。私は、正直に、本当に正直に言うが、万引きをしている子どもを見つけて、それを店の
人に伝えたことは、何度かある。が、万引きだけは、したことがない。 

(モヤモヤ、その2)子どもの小ズルさは、親譲りと考えてよい。親の何気ない日常的な行動を
見ながら、子どもは、その小ズルさを身につけてしまう。わかりやすく言えば、小ズルい親の子
どもは、小ズルい。親を反面教師として、生真面目(まじめ)な子どもになることもあるが、それ
は例外。

(モヤモヤ、その3)万引きは、犯罪としては、わかりやすい。しかし半ば合法的に、人のものを
盗むのは、どうか。たとえば官僚が、天下りを繰りかえしながら、そのつど、ばく大な退職金を
手にするのは、どうか。よく「税金ドロボー(泥棒)」という言葉が使われるが、それこそ、まさに
税金ドロボーではないのか。

(モヤモヤ、その4)「10両以上は、死罪」というのは、江戸時代の刑法。しかし農民から、「五
公五民」とか何とか言って、農民から、5割もの年貢を納めさせることは、ドロボー以上のドロ
ボー。そうした体制の矛盾をさておいて、庶民だけ、微罪で死刑にするというのは、どう考えて
もおかしい。

(モヤモヤ、その5)損とか、得とかいうが、何をもって、損というのか。何をもって、得というの
か。これも私のことになるが、私は生涯において、みなから一方的に、お金を取られることはあ
ったが、しかし、お金を取ったことは、一度もない。いや、一度だけ、ワイフの父親が死んだと
き、遺産として、義兄から10万円をもらったことがある。(もらったのは、ワイフだが……。)そ
の10万円以外、もらったことがない。ただの一度も、ない。通俗的な言い方をすれば、私は、
いつも損ばかりしていた!

(モヤモヤ、その6)小ズルいことをすれば、そのときは、得をしたと思う。しかし実は、もっと大
切なものを、なくす。なくすだけではない。もとの自分にもどるだけでも、たいへんな努力と、長
い時間を必要とする。それからさらに、自分を善なる方向にもっていこうとすると、さらにたいへ
んな努力と、長い時間を必要とする。人生は、長いように見えるが、そういう意味では、短い。
小ズルい人は、人生が何であるかもわからないまま、死んでいく。つまり、結局は、大損をする
のは、その人自身ということになる。

 いろいろ考えているうちに、時間がきてしまった。それで子どもたちとは別れた。
(はやし浩司 江戸時代の刑法 万引き)2007/10/20

【補記】

 この中で、一番気になったのは、6番目の(モヤモヤ、その6)。

 私は、この数年、努めて、他人に対してはもちろんのこと、自分に対しても、誠実であろうと心
がけている。ウソは、もちろん、厳禁!

 が、ここで「務めて」とわざわざ書かねばならないほど、私の「性(しょう)」は、よくない。はっき
り言えば、悪い。私は、子どものころ、その小ズルさのかたまりのような子どもだった。

 が、それに気づいたのは、今のワイフと結婚してから。さらに、私がなぜ、そういう子どもにな
ったかを知ったのは、45歳も過ぎてからのことではなかったか。自分の生まれ育った環境を、
浜松市という、遠いところからながめることによって、それを知った。

 私が、子どものころ、「おもしろい人だ」「楽しい人だ」と思った人たちは、みな、例外なく、小ズ
ルい人だった。それが20年とか、30年とかたってみて、はじめて客観的にわかるようになっ
た。

 そういう人たちは、今、かなりの年齢になっている。が、どの人も、いまだに、ウソを平気でつ
く。ウソのかたまりで、何が本当で、何がそうでないかわからない人さえいる。

 私をだまして、お金を奪った人もいる。現在の今ですら、私のお金をごまかして使っている人
もいる。

 そういう人たちを見ると、怒れてくるよりも先に、過去の、つまり子ども時代の私自身を見せ
つけられるようで、ぞっとする。そして私は、こう思う。

 「もし私が、今、あの古里にそのまま住んでいたら、私も、まちがいなく、あのままの人間だっ
ただろうな」と。

 だから、私にとっては、「務めて」となる。それは私にとっては、とても悲しいことでもある。つま
り私は、ほかの人たちよりも、何倍も、何倍も、回り道をしなければならなかった。多くの友人
も、それで失ったし、多くの人を、キズつけてしまった。

 その結果だが、今では、友人といっても、数えるほどしかいない。本当に信頼できる人と言え
ば、私のワイフしかいない。孤独と言えば、孤独。恐らくこの孤独からは、死ぬまで逃れること
はできないだろう。

 だから人は、子どものときから、そして幼児のときから、誠実に生きるのがよい。しかしその
カギを握るのは、実は、親である。とくに母親である。

 今、あなたが子育てをしているなら、子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことと
は関係なく、あなた自身が、誠実に生きる。信号はきちんと守る。駐車場では、きちんと駐車場
へ車を入れる。1円でも、ごまかさない。そうした生きザマが、やがて子どもの心を作る。そう、
それはあなた自身のためでもあるが、子どものためでもある。

 約束は守る。ウソはつかない。そして自分にも、他人にも、誠実である。それが子育ての基
本の一つということになる。

 それはとても気持ちのよい世界だから、あなたも、今日から私の言ったことを信じて、実践し
てみてほしい。あなたも、そのすがすがしさに驚くはずである。

 そうそう、一つ重要なことを言い忘れた。

 自分の誠実さを守るためには、そうでない人とは、勇気をもって、一線を画すのがよい。それ
が、たとえ幼(おさな)なじみであれ、近隣の人であり、親類のひとであれ、そして肉親であれ、
だれであってもだ。つきあいを避けられないばあいもあるかもしれないが、その距離だけは、し
っかりと保つようにする。

それを忘れると、いつの間にか、もとの自分にもどってしまう。邪悪な人間にもどってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2004)

●今朝・あれこれ(6月14日)

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やっと6月29日号に追いついた!
苦しい戦いだった。

今朝から、マガジンの6月29日号の
原稿を書く。

遅れること、約14日。本来なら、
今日あたりは、7月16日号のマガジン用
の原稿を書いていなければならない。

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 私はマガジン用の原稿は、約1か月前に書くようにしている。安定して、読者のみなさんに、
マガジンを届けるためである。直前になって、バタバタとするのは、いやだ。よい原稿(?)も書
けない。

 が、この1か月、いろいろあった。忙しかった。やる気をなくす事件も、いくつか重なった。丸1
週間、ほとんど原稿を書かない日もあった。

 で、昨日、6月27日号の配信予約をすませた。そんなわけで、今朝から、6月29日号の原
稿を書く。(よかった!)

 だれかのために書くのではない。私自身のために書く。私自身のボケ防止のために書く。こ
れは私の頭のジョギングのようなもの。

 しかし遅れること、14日。本来なら、今日あたりは、7月14日号の原稿を書いていなければ
ならない。(今日は6月14日だから。)がんばろう! がんばります! 1000号まで、あと100
号と少し!


●はげしい雨

 今朝は、雨戸をたたきつける激しい雨で、目がさめた。昨夜、仕事から帰ってきて、畑に水を
まいた。そんな自分が、バカに見えた。横で寝ているワイフに、「昨日、畑に水をまいて、損しち
ゃった」と話すと、「そうね」と答えた。

 おかげで、今朝は涼しい。このところ毎日、1〜2時間、汗をかいている。そのせいか、体も
軽い。


●畑の収穫

 ところで少しずつだが、畑での収穫も始まった。昨日は、ナスが一個、収穫できた。その前
は、ピーマンが数個。ネギも収穫期を迎えつつある。あとは、サヤエンドウ。

 そのサヤエンドウだが、田舎の八百屋へ行ったら、ワンパック、100円で売っていた! たし
か苗を120円で買ってきたはず。その苗からは、今のところ、5〜6個しか収穫できていない。
そのパックを見たとき、自分のしていることが、バカに思えた。

 しかし家庭菜園は、お金ではない。育てる楽しみだ。……とまあ、そう言って、自分をなぐさめ
た。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【時間とは何か?】(時間性の問題)

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もうあれから30年以上になる。
私は市内のパソコンショップで、
コモドール社のPET2000という
パソコンを買った。

世界ではじめて作られたパソコンで
ある。値段は、当時のお金で、32
〜33万円もした。

あのビル・ゲーツも、同じころ、
同じパソコンを使っていたという。

私はそのパソコンで、二次曲線を描いて
遊んでいた。

二次曲線といっても、黒い画面に、白い
点で、ポツポツと点を描いていくだけ。
そのポツポツと描いた点が、やがて
二次曲線になった。

私はその動きを、いつまでもじっと
ながめていた。それが楽しかった。

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●フェムト秒

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フェムト秒という単位を
知っているだろうか?

1秒を、10の15乗で割った
短い時間を、1フェムト秒と
いう。

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 フェムト秒という、時間の単位を知っているだろうか? 1秒を、10の15乗で割った短い時
間を、1フェムト秒という。わかりやすく言うと、つまり計算上では、1フェムト秒というのは、10
の15乗倍して、やっと1秒になるという時間である。

反対に言えば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言えば、1000兆秒というの
は、この地球上では、3100万年分に相当する。(3100万年だぞ!) 数字を見ただけで、気
が遠くなるが、1フェムト秒というのは、そういう時間をいう。(私が計算した数字なので、まちが
っているかもしれない。必要な方は、自分で計算してみたらよい。)

 現在では、そのフェムト秒単位で、分子の動きを追いかけたり、観察することができるように
なったという。このことを逆に考えると、分子の世界では、フェムト秒単位で、ものごとが動いて
いるということになる。

 話はずっと飛躍するかもしれないが、こうして考えてみると、私たちが考えている(時間の概
念)ほど、アテにならないものはないということになる。私たちがいう1時間、1分、1秒というの
は、それはあくまでも人間が日常生活の中で感ずる概念でしかない。

 たとえば私たちが感ずる1秒という時間の間に、分子の世界では、3100万年に相当する時
間が流れている。極端な言い方をすれば、そういうことになる。

 こうした時間の概念に、哲学的な視点からメスを入れたのが、あのマルティン・ハイデガー(1
889〜1986)である。彼が書いた『存在と時間』(1927年)は、ヘーゲルの書いた『精神現象
学』と並んで、哲学の世界では、最重要文書の一つに考えられている。

 ハイデガーによれば、人間そのものが、時間性をもっているということになる。つまり私たち
は、時間の中で生きているのではなく、生きていること自体が、(時間)であるということになる。
ハイデガーは、それを「死」と結びつけて考えた。「私たちが存在には、常に死が張りついてい
る」と。

 このことは、介護施設にいる老人たちを見ていると、わかる。昨日も母を見舞うついでに、デ
イ・サービスを受けている老人たちの部屋を見た。老人たちは、小さな紙に、ぬり絵をしてい
た。

 小さな紙である。そこに何匹かの動物が描かれていて、老人たちは、それに色を塗ってい
た。それは恐ろしくのんびりとした世界であった。私なら、数分もあれば、色を塗ってしまうだろ
う。そういうぬり絵を、1時間とか、あるいは2時間とか、そんな時間をかけて、塗る。

 それは私にとっては、衝撃的な光景でもあった。私の世界では、つまり私が見慣れた世界で
は、時間と私は別のものである。朝、6時に起きる。朝、7時に朝食をとる。朝、8時に散歩に
出かける。

 しかし老人たちの世界では、私の世界とはまったく別の時間が働いている! 働いていると
いうより、老人たちは老人たちの時間の中で、生きている。ということは、同時に、私たちもま
た、私たちの時間の中で生きているということになる。

 私たちがもつ時間は、決して絶対的なものではない。そのことは反対に、子どもたちの世界
をのぞいてみると、わかる。子どもたちは、子どもたちの時間の中で生きている。頭の回転も
速い。気分の転換も速い。

 単純に考えれば、つまりあまりにも常識的に考えれば、子どもたちの頭の回転は速く、老人
たちの頭の回転は、遅いということになる。しかしこうした見方は、あまりにも(作られた常識)
でしかない。「そこにものが見えるから、ある」と考えるのと同じくらい、単純な常識ということに
なる。

 「単純」というのは、「あまりにも表面的な」という意味である。

 そこでハイデガーがヒントを与えてくれたように、「生きていること自体に、時間性がある」と考
えてみる。そうすると、ものの考え方が一変する。わかりやすく言えば、「生きていること自体
が、時間」ということになる。

 たとえばもう一度、デイ・サービスを受けている老人たちをながめてみよう。その老人たちは、
その老人たちの時間性の中で生きている。私たちからすれば、恐ろしくのんびりとした世界に
見えるかもしれない。が、老人たちは老人たちの時間の中で生きているから、自分では、決し
て、のんびりしているとは思っていないはず。

 ひょっとしたら、そんなぬり絵をしながらも、「忙しい」と思っているかもしれない。

 この時間性は、加齢とともに、さらに長く、間がのびたものになる。その間がのびきったとき、
人は、「死」を迎える。つまり死などというものは、ある日突然やってくるものではない。それぞ
れのもつ時間性が、のびきったとき、死がやってくる。言いかえると、老人たちは老人たちで生
きているつもりかもしれないが、すでに限りなく死に近づいているということになる。

 わかりにくい話になってしまったが、極端な例として、こう考えてみるとよい。

 もし私たちがフェムト秒単位で生きることができるとしたら、私たちは、この世界でいうところ
の1秒で、3100万年分の人生を送ることができる。この世界で1秒といえば、瞬間だが、しか
し中身は3100万年分。恐竜の時代にまでは届かないが、人間が小さな哺乳動物だった時代
からの人生を生きることができる。

 どちらの人生が長いかということになれば、たとえこの世界で1秒という時間ではあっても、こ
の世界で100年生きた人よりも、はるかに長く生きることになる。

 そこでまたまた話は飛躍するが、「生きることは時間性の問題である」と考えていくと、「生き
ることは、時間との闘いである」ということにもなる。もっとわかりやすく言えば、「私たちの張り
ついた死」(ハイデガー)という限界状況の中で、いかに、その死と闘いながら生きていくかとい
うこと。

 つまりそこに人間の生きる意味がある。さらにさらにわかりやすく言えば、だらだらと、だらし
ない人生を生きたところで、そういう生き方には、意味はないということ。意味はないと言い切
るのは正しくないかもしれないが、それに近い。それこそ与えられた命を、無駄にして生きるこ
とになる。

 1フェムト秒単位で生きることは無理であるとしても、同じ1秒を、1分、あるいは10分に拡大
して生きることは可能である。ばあいによっては、1時間に拡大することもできる。

「生きていること自体に、時間性がある」という意味がわかってもらえれえば、うれしい。
(2007年6月15日記・(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 時間性 生きることの時間性 ハイデガー)

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02年(5年前)の9
月に書いた原稿を添付
します。

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●フェムト秒

 ある科学の研究者から、こんなメールが届いた(02年9月)。いわく……

「今週(今日ですと先週と言うのでしょうか)は葉山の山の上にある国際村センターで日独のジョ
イントセミナーがありました。私の昔からの親しい友人(前にジャパンプライズを受けたノーベル
賞級の人)が来ると言うので、近くでもあるし、出させてもらいました。 

今は固体表面に吸着した分子1個1個を直接見ながら、それにエネルギーを加えて反応を起
こさせたり、フェムト秒単位(1秒を10で15回繰り返して割った短い時間)で、その挙動を追っ
かけたり、大変な技術が発達してきました」と。

 このメールによれば、(1)固体表面に吸着した分子を直接見ることができる。(2)フェムト秒
単位で、その分子の動きを観察できる、ということらしい。それにしても、驚いた。ただ、(1)の
分子を見ることについては、もう20年前から技術的に可能という話は聞いていたので、「へえ」
という驚きでしかなかった。

しかし「フェムト秒単位の観察」というのには驚いた。わかりやすく言うと、つまり計算上では、
一フェムト秒というのは、10の15乗倍して、やっと1秒になるという時間である。反対に言え
ば、1000兆分の1秒ということになる。さらに反対に言えば、1000兆秒というのは、この地
球上の3100万年分に相当する。計算するだけでも、わけがわからなくなるが、一フェムト秒と
いうのは、そういう時間をいう。

こういう時間があるということ自体驚きである。もっともこれは理論上の時間で、人間が観察で
きる時間ではない。しかしこういう話を聞くと、「では、時間とは何か」という問題を、考えざるを
えなくなってしまう。もし人間が、一フェムト秒を、一秒にして生きることができたら、そのたった
一秒で、3100万年分の人生を生きることになる! ギョッ!

 昔、こんなSF小説を読んだことがある。だれの作品かは忘れたが、こういう内容だった。

 ある惑星の知的生物は、珪素(けいそ)主体の生物だった。わかりやすく言えば、体中がガ
チガチの岩石でできた生物である。だからその生物が、自分の指を少し動かすだけでも、地球
の人間の時間で、数千年から数万年もかかる。一歩歩くだけでも、数十万年から数百万年も
かかる。しかし動きというのは相対的なもので、その珪素主体の生物にしてみれば、自分たち
がゆっくりと動いている感覚はない。地球上の人間が動いているように、自分たちも、ごく自然
に動いていると思っている。

 ただ、もしその珪素主体の生物が、反対に人間の世界を望遠鏡か何かで観察したとしても、
あまりに動きが速すぎて、何も見えないだろうということ。彼らが一回咳払いする間に、地球上
の人間は、数万年の時を経て、発生、進化の過程を経て、すでに絶滅しているかもしれない!

 ……こう考えてくると、ますます「時間とは何か」わからなくなってくる。たとえば私は今、カチカ
チカチと、時計の秒針に合わせて、声を出すことができる。私にとっては短い時間だが、もしフ
ェムト秒単位で生きている生物がいるとしたら、そのカチからカチまでの間に、3100万年を過
ごしたことになる。となると、また問題。このカチからカチまでを一秒と、だれが、いつ、どのよう
にして決めたか。

 アインシュタインの相対性理論から始まって、今では第11次元の世界まで存在することがわ
かっているという。(直線の世界が一次元、平面の世界が二次元、立体の世界が三次元、そし
てそれに時間が加わって、四次元。残念ながら、私にはここまでしか理解できない。)ここでい
う時間という概念も、そうした次元論と結びついているのだろう。

たとえば空間にしても、宇宙の辺縁に向かえば向かうほど、相対的に時間が長くなれば、(反
対に、カチからカチまで、速くなる。)宇宙は、永遠に無限ということになる。

たとえばロケットに乗って、宇宙の果てに向かって進んだとする。しかしその宇宙の果てに近づ
けば近づくほど、時間が長くなる。そうなると、そのロケットに乗っている人の動きは、(たとえば
地球から望遠鏡で見ていたとすると)、ますますめまぐるしくなる。地球の人間が、一回咳払い
する間に、ロケットの中の人間は、数百回も世代を繰り返す……、あるいは数千回も世代を繰
り返す……、つまりいつまでたっても、ロケットの中の人間は、地球から見れば、ほんのすぐそ
ばまで来ていながら、宇宙の果てにはたどりつけないということになる。

 こういう話を、まったくの素人の私が論じても意味はない。しかし私はその科学者からメール
を受け取って、しばらく考え込んでしまった。「時間とは何か」と。私のような素人でもわかること
は、時間といえども、絶対的な尺度はないということ。これを人間にあてはめてみると、よくわか
る。

たとえばたった数秒を、ふつうの人が数年分過ごすのと同じくらい、密度の濃い人生にすること
ができる人がいる。反対に10年生きても、ただただ無益に過ごす人もいる。もう少しわかりや
すく言うと、不治の病で、「余命、残りあと一年」と宣告されたからといって、その1年を、ほかの
人の30年分、40年分に生きることも可能だということ。

反対に、「平均寿命まで、あと30年。あと30年は生きられる」と言われながらも、その30年
を、ほかの人の数日分にしか生きられない人もいるということ。どうも時間というのは、そういう
ものらしい。いや、願わくば、私も1フェムト秒単位で生きて、1秒、1秒で、それぞれ3100万
年分の人生を送ることができたらと思う。

もちろんそれは不可能だが、しかし1秒、1秒を長くすることはできる。仮にもしこの1秒を、た
ったの2倍だけ長く生きることができたとしたら、私は自分の人生を、(平均寿命まであと30年
と計算して)、あと60年分、生きることができることになる。

 ……とまあ、何とも理屈っぽいエッセーになってしまったが、しかしこれだけは言える。幼児が
過ごす時間を観察してみると、幼児のもつ時間の単位と、40歳代、50歳代の人がもつ時間の
単位とはちがうということ。

当然のことながら、幼児のもつ時間帯のほうが長い。彼らが感ずる一秒は、私たちの感ずる1
秒の数倍以上はあるとみてよい。もっとわかりやすく言えば、私たちにとっては、たった1日で
も、幼児は、その1日で、私たちの数日分は生きているということ。あるいはもっとかもしれな
い。

つまり幼児は、日常的にフェムト秒単位で生活している! これは幼児の世界をよりよく理解
するためには、とても大切なことだと思う。あくまでも参考までに。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●無価値という恐怖(PART2)

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何がこわいかといって、
自分が無価値と思うことほど、
恐ろしいことはない。

だれからも相手にされず、
だれにも愛されず、
だれにも理解されず、という
恐怖である。

+++++++++++

 自分が無価値と思うとき感ずる恐怖ほど、恐ろしいものはない。それは腹の底から、身をえ
ぐられるような恐怖と言ってもよい。生きる意味もない。生きる目的もない。生きる支えもない。
自分を理解してくれる人もいなければ、生きるための人もいない。

仏教では、孤独を無間地獄のひとつにあげているが、この恐怖も、ひょっとしたら、孤独と同じ
くらい恐ろしいものかもしれない。いくら「私は私だ」と言ったところで、人は他者とのかかわりを
もってはじめて、人でいられる。かかわりがなかったら、人は人でなくなってしまう。それがわか
らなければ、こんな世界を想像してみればよい。

 その惑星は、犬族が支配する惑星である。簡単な言葉(ワンワンとか、ワォーワォーとか、そ
ういう言葉)しかなく、もちろん文字も文化もない。そういう世界にあなたひとりだけが落とされ、
その世界で住むようになったとする。

いくらあなたが犬族の王であったとしても、また数億匹の犬があなたの従ったとしても、あなた
は決して心の満足感を得られないだろう。そればかりか、その孤独と恐怖の中で、狂い死にす
るかもしれない。

いや、私もときどき、たとえばタイムトンネルか何かで、数億年前の恐竜時代にタイムスリップ
したらどうなるかと考える。想像するのは好きだから、いろいろ考えるが、こういう想像だけは、
すぐやめてしまう。ぞっとするような恐怖感を覚えるからだ。

 実は私は、それに似た恐怖感を、最近覚えた。昨年、アメリカへ行ったときのことだ。私とワ
イフは、テキサス州のとなりのアーカンソー州というところへ行った。日本人でアーカンソー州が
どこにあるかを知っている人は少ない。

しかしそれと同じくらい、あのアーカンソー州あたりまで行くと、日本がどこにあるか知っている
人は、ほとんどいない。大学生でも少ない。それはちょうど日本の大学生に、イタリアやギリシ
ャがどこにあるかを聞くようなものだ。最近では、アメリカやロシアがどこにあるかさえ知らない
大学生も少なくないという。日本を知らないからといって、アメリカの大学生を一方的に笑うこと
はできない。

 そんなわけであのあたりまで行くと、さすが、日本の「ニ」の字もない。臭いすらない。日本製
の車はたくさん走っているが、それが日本製と知っているのは、日本人くらいなもの。ホンダに
してもトヨタにしても、彼らはアメリカの車だと思っている。そういう世界にポツンと立たされる
と、「いったい、自分は何か」とさえ思ってしまう。

心の中で、「私はアジア人だ」「私は日本人だ」といくら叫んでも、その叫び声もそのままどこか
へ消えてしまう。地位や肩書きがあれば、まだ日本という「国」にぶらさがって、「私は○○部長
だ」「私は○○課長だ」と、言えるかもしれない。が、それもない。体格が小さいこともある。レス
トランへ入って、ほかの客にジロリとにらまれたりすると、それだけでその世界から拒絶された
かのように感ずる。

 そういう世界では、私がもつ思想や知識、才能など、一片の価値もない。「文を書くのは得意
だ」といくら思っても、それは日本での話。日本語を理解する人すらいない。私はアメリカに滞
在する間、しばしば、こう思った。「こういう世界で、自分の書いた文章が新聞に載せてもらえる
ようになるには、10年、あるいは20年かかるだろうな」と。つまりそれくらい、遠い「距離」を感
じた。

 考えてみればアメリカから見る日本は、本当にちっぽけな国だ。あのテキサス州だけでも、日
本の2倍の広さがある。広さだけで比較するなら、アメリカから見る日本は、日本から見る佐渡
島程度? しかも海の向こうにある佐渡島? そうは思いたくなくても、日本は所詮(しょせ
ん)、極東の島国。

が、それにしても、アメリカに立つと、どうしてこうまで自分が小さく見えるのか? どうしてこうま
で無力な人間に見えるのか?

 そのとき私は、「自分が無価値と思うとき感ずる恐怖」を味わった。が、それに抵抗しなかっ
たわけではない。私はまず、どんな仕事ならできるかを考えた。しかしアメリカで通用する資格
など、一つもない。日本の大学で得た学位など、まったく意味がない。いくら英語が得意といっ
ても、アメリカ人から見れば、何も話せないに等しい。

「日本レストランの店員くらいならできるかも……」と思ったが、しかし50歳を過ぎた私など、雇
ってくれるところもないだろう。だいたい日本レストランといっても、州都のリトルロックにさえ、
数軒しかない。肉体労働にいたっては、考えるだけヤボ。

あのあたりには、身長が2メートル近い大男がゴロゴロしている。「こういう国で病気になった
ら、それでおしまい」と、何度もそう思った。あるいはホームレス? のたれ死に? そう思うの
は実のところ、ぞっとするほど恐ろしいことだった。

 私たちは結局は、何らかの価値を自分で見つけながら、生きている。生きる意味といっても
よい。それをさがしながら生きている。言いかえると、それがないときの恐怖を知っているか
ら、自分で見つけたり、さがしたりする。生きるということは、結局はそういうことかもしれない。
それはちょうど死の恐怖があるから、生きることを大切にすることに似ている。

 何ともわけのわからない文章になってしまったが、最後に、こういうことだけは言える。

生きる目的にせよ、生きる意味にせよ、人は人とのつながりの中でさがし求めていくもの。向こ
うからやってくるものではない。自分からさがし、自分でつくり、自分で育てていくもの。生きる価
値もそこから生まれる。

さあて、今日もその恐怖と戦うか!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●BDA問題(6月15日朝記)

+++++++++++++

マカオのBDA銀行にあった、
K国資金が、やっと、その銀行から
離れた。どこかへ送金された。

しかしこれで、BDA問題は、
本当に解決したと言えるのか?

K国自身は、それで満足する
のか?

+++++++++++++

 マカオのBDA銀行にあったK国の資金が、やっとその銀行から離れた。ロシアのロシア極東
銀行という銀行に送金された。いろいろルートをたどってみると、おおむね、つぎのルートにそ
って、その銀行に資金が移されたという。

  K国資金は、(1)まずマカオ金融監督局が指定した口座に送金される。 (2)金融監督局は
この資金を、マカオのポルトガル系銀行の大西洋銀行に送る。 (3)K国資金は電信為替(TT)
形態に変わり、米国のニューヨーク連邦準備銀行に伝えられる。 (4)この資金はまたロシア中
央銀行に移されたあと、ロシア極東商業銀行にある、朝鮮貿易銀行名義のK国口座に送金さ
れることになるということらしい(BDA側の説明)。

 しかしこれで、本当にBDA問題は、解決したと言えるのか? K国自身は、本当にそれで満
足するのか?

 K国資金は、マカオのBDA銀行から、ロシアの極東商業銀行(ウラジオストック)に移動した
ことになる。極東商業銀行はアメリカ政府による制裁措置を受けていないから、基本的には、
K国は、そのお金を、全世界のどこへでも、送金することができる。もちろん、資金の出し入れ
も自由にできる。

 しかしここで問題が起きる。極東商業銀行は、K国は、国から現金がもちこまれるたびに、そ
れを疑ってみなければならない。一方、他の顧客たちは、極東商業銀行から、現金が支払わ
れるたびに、それを疑ってみなければならない。少なくとも、私なら、極東商業銀行との取り引
きを停止する。そんな銀行とは、おっかなくて、つきあう気になれない。世界中の銀行も、また
同じ。

 つまりこうして極東商業銀行は、信用をなくす。多大な被害を、こうむることになる。いくらロシ
ア政府が、「保証する」と約束しても、それとこれとは、問題の本質がちがう。

 K国は、世界中の銀行で、自由にお金の出し入れをしたのだろう。それぞれの銀行に口座が
あれば、それは可能かもしれない。私という個人にしても、外国に住む友人や知人に、送金す
るときは、その口座を使う。

 しかしその口座を開設することは可能なのだろうか。そのあたりのことは、それぞれの国が
判断することだが、以前ほど楽ではないことは確かだ。たとえばこの日本では、栃木県のU市
にあったAK銀行だけが、ゆいいつ、K国の銀行との取り引きをしていた。しかし今は、その銀
行は倒産している。

 あとはK国の判断ということになる。世界の銀行の判断ということになる。

 さあ、どう出るか、K国! どうする、金xx!

 ……私の予想では、K国は、老朽化して、どうにもならないような核関連施設を閉鎖するフリ
をしながら、さらなる時間稼ぎをするはず。あるいはああでもない、こうでもないと、難グセをつ
けながら、さらなる要求をしてくるはず。

 あんな金xxを相手に、まともな交渉を期待するほうが、おかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●学力

+++++++++++++

子どもの学力は、
現在、どの程度なのか?

+++++++++++++

 先日の新聞にも、子どもの学力についての投書が載っていた。どこかの学習塾で講師のア
ルバイトをしている大学院生のものだが、「基礎学力の低下予想以上に深刻」(Y新聞朝刊)
と。「まず驚いたのが、中学生でも掛け算の九九を完全にマスターしていない生徒が散見され
ることだ」そうだ。

 実際、子どもたちの学力の低下には、ものすごいものがある。少し前も、小学5年生に、公倍
数と公約数を教えたが、(今ではこの単元は、小学6年の2学期に学ぶことになっている)、掛
け算の九九があやしい子どもが、20%近くもいる。「三・九、24」(本当は、三・九、27)と平気
で言ったりする。

小学二年で、掛け算の九九を勉強したから、以後、子どもたちが掛け算の九九はできるように
なったハズと考えるのは、まったくの誤解。幻想。5年生だから、掛け算の九九ができるハズと
考えるのも、まったくの誤解。幻想。

以前、掛け算の九九がまだできない中学生が、15〜20%もいるという話を聞いたことがある
※。私の実感でも、それくらいはいる。(ただ、どの程度をできる、どの程度をできないという
か、その判断の基準がむずかしい。)

 話は変わるが、私はこの35年間、何らかの形で、英語とは深いつながりをもって生きてき
た。そういう自分を振り返っても、30歳以後に覚えた単語は、ほとんど記憶に残っていない。
覚えるには覚えるのだが、すぐ忘れてしまう。反対に20歳前後に覚えた単語は、今でもしっか
りと頭の中に残っている。

しかしこれは私という、「おとな」の話。脳細胞の老化現象が原因だという。その老化現象に似
た現象が、子どもでも起きている?

 そこで改めて調査してみた。もともと私の教室へきている子どもたちは、教育環境的にはレ
ベルの高い子どもが多い。しかしそんな子どもでも、小学3年生で、約20%は、掛け算がまだ
あやしい。掛け算の九九は何とか言えても、「三・八?」と聞いたとき、とっさには答えられない
子どもも含めると、もっと多い。

多くの親たちは、「うちの子は小学2年のときには、掛け算の九九がスラスラと言えたから、もう
掛け算はマスターしたはず」と考える。しかしこれも誤解。幻想。今の子どもたちは、数か月も
すると、学んだことそのものまで忘れてしまう。つまりそれだけ覚え方が浅い? 脳にきざまれ
ていない? それとも老化現象に似た現象がすでに始まっている? 理由はよくわからない
が、ともかくも、そういうことだ。

 しかし、だ。これはほんの一例にすぎない。今、あらゆる面で、子どもの学力は低下してい
る。知識や、知力だけではない。「自ら学ぶ力」そのものまで低下している。言われたことや、
教えられたことはきちんとできるが、その範囲をはずれると、まったくできない。考えようともし
ない。先のクラスでも、最後に私はこんな問題を出してみた。

 「30から50までの中に、3と5の公倍数はいくつあるか」と。10人の子どもがいたが、何と
か、考えるそぶりを見せたのは、たったの1人。あとは、「そんな問題、知らない」「解き方を学
んでいない」「めんどくさい」と、問題そのものを投げ出してしまった。

公倍数など、どうでもよいといった様子を見せた子どももいる。言いかえると、今、子どもに教
えるとき、その動機づけをどうするかが大切。ここをいいかげんにすますと、教える割には、効
果がない。……などなど。

 話が三段跳びで飛躍するが、こうした学力低下の背景にあるのは、結局は、飽食とぜいたく
の中で、子どもを甘やかしてしまったこと。「腹、減ったア!」と叫べば、みなが何とかしてくれ
る。それと同じように、「わからなイ〜」「この問題、解けないイ〜」と叫べば、みなが何とかしてく
れる。そういう環境の中で、子どもたち自身が、自分を見失ってしまった。

 もっともオーストラリアあたりでは、中学1年で、2桁かける2桁の掛け算を学んでいる。日本
では小学三年生のレベル(01年度までの旧学習指導要領)。掛け算の九九ができないからと
いって、教育水準が低いということにはならない。

 しかしオーストラリアのばあいは、科目数そのものが多い。どこのグラマースクール(中高一
貫寄宿学校)でも、たとえば外国語にしても、ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、
日本語の五つの言語の中から選択できるし、芸術にしても、音楽、ドラマ、絵画などが、それぞ
れ独立した科目になっている。

環境保護の科目もあれば、キャンピングという科目もある。もちろんコンピュータという科目も
ある。数学は、日本と違って、あくまでも教科の一部でしかない。つまりそういう違いも考慮する
と、やはり日本の子どもたちの学力の低下は異常である。
(02−9−18)※
 
※(参考)……東京理科大学理学部の澤田利夫教授が、興味ある調査結果を公表している。
教授が調べた「学力調査の問題例と正答率」によると、つぎのような結果だそうだ。

この20年間(1982年から2000年)だけで、簡単な分数の足し算の正解率は、

小学6年生で、80・8%から、61・7%に低下。
分数の割り算は、90・7%から66・5%に低下。
小数の掛け算は、77・2%から70・2%に低下。
たしざんと掛け算の混合計算は、38・3%から32・8%に低下。
全体として、68・9%から57・7%に低下している(同じ問題で調査)、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学力
 子供の学力 学力低下)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2005)

【雑感・あれこれ】

●日本の教育をゆがめる元凶

++++++++++++

日本の教育システムは、
明らかにおかしい。

しかしそれに対して、
だれも声をあげない。

これもまた、おかしい。

++++++++++++

 「頭がよい」ということと、「勉強ができる」ということは、別。概して言えば、「勉強ができる子ど
もは、頭がいい」。しかし勉強ができる子どもでも、頭が悪い子どもはいくらでもいる。頭がよく
ても、勉強ができない子どもは、もっといくらでもいる。

 しかしこの日本では、人生の入り口では、勉強ができたほうが、絶対に得! 一度出世のエ
スカレーターに乗れば、あとは自動的に楽な道を歩むことができる。この不公平感が、結局
は、受験競争の温床になり、教育をゆがめている。

 自分の二男のことをここに書くのは少し気が引けるが、しかし正直に書く。私の二男は一級
の頭脳をもっていた。超一級といってもよい。親バカとしてではなく、一人の教育家として、私は
そう見ていた。しかし中学二年のとき、受験勉強そのものを放棄してしまった。

「パパ、くだらないよ」と。

ほとんど勉強らしい勉強などしたことがなかったが、それでも県内のトップ高校(こういう言い方
自体、不愉快だが……)へ入る力をもっていた。その二男が、受験勉強を放棄したいきさつは
いろいろあった。それはそれとして、結果的にそうなった。私は、迷いはあったが、二男を支持
した。「お前がそう判断するなら、それはそうだ」と。私は二男の力が、受験勉強をはるかに超
えていることを知っていた。

 で、彼は近くの高校を選んだ。市内でも、A、B、C、Dのランクで言えば、Dランクの高校であ
る。ワイフは「何もそこまで落とさなくても……」と絶句したが、二男はそういう子どもだった。「そ
のときになったら、勉強するよ。どこの高校でも同じだから……」と。私はそうは思わなかった
が、二男のその言葉を信ずるしかなかった。

 が、入学直後から、二男にとっては失望の連続だったらしい。進学校と教科書そのものが違
っていた。二男はそれにショックを受けた。そしてしばらく通ううち、レベルの低さもさることなが
ら、勉強するという雰囲気そのものがないことを知った。二男だけがひとり、仲間から浮いてし
まった。と、同時に、二男も勉強しなくなってしまった。

 高校時代の二男は、まあ、俗な言葉で言えば、遊びほけた。好き勝手なことをして過ごした。
バンドを組んだり、文化祭の実行委員長をしたり。ワンゲル部で、全国の山々を歩いたりした。
高校三年生のときは、たったひとりで、北海道を一周したりもした。

が、いよいよ進学というときになったときのこと。もちろん成績は、その程度。「どこか国立を…
…」と私は願ったが、何とか入れそうな国立大学は、I県のI大学しかなかった。もともと、国立大
学へ進学する子どもは、数年に一人いるかいないかというような高校である。しかも入れそうな
のは、「哲学科」? 私が認める二男の能力は、数理的な能力である。その二男が哲学科? 
模擬試験の偏差値で判断すると、そういうことになった。

 そこで私は二男に、アメリカ留学をすすめた。アメリカ人の知人が、勧めてくれたこともある。
で、私は二男をアメリカへ送ることにした。彼も行く気になっていた。が、私は内心、「どうせ、
1、2年で帰ってくるだろう」と思っていた。

高校からアメリカの大学へ行ったところで、まず言葉のカベがある。ふつうのアメリカの高校生
でも、学位をとってアメリカの大学を卒業することはむすかしい。いわんや、日本の高校生を、
や。まあ、私としては、二男のやりたいようにさせてやるのが一番というような、軽い気持ちだっ
た。

 が、アメリカへ行ってからの二男は、変わった。当時の二男を直接知るわけではないが、二
男が言うには、「狂ったように勉強した」とのこと。で、3年目に、私立大学から、より高度な勉
強を求めて、州立大学に転籍。4年間で、その州立大学で学位を取って卒業した。それもアメ
リカでもむずかしいとされる、コンピュータ科学の学位。01年の5月のことである。

 私はその二男を今、頭の中で思い浮かべながら、日本の教育システムの欠陥を、改めて思
い知らされている。ときどき「もし二男が、あのまま日本のどこかの専門学校か、私立大学へ
入っていたら、今ごろ二男はどうなっていたか」と。おそらくもてる才能を伸ばす機会もなく、ま
たその才能を発揮することもなく、そこそこの人間になっていただろう、と。

少なくとも日本の教育システムの中では、大学入試までで、その人の人生の道筋(コース)は
決まってしまう。それ以後、多少がんばったところで、その道筋を変えることはできない。いくら
能力と才能があっても、だ。しかしこういうしくみの中で、それほど苦労しないでも、のんきな生
活ができる人が生まれる一方、そのしくみの中で、苦労に苦労を重ねても、きびしい生活を強
いられる人も生まれるということだ。しかしこういうしくみこそが、日本の教育をゆがめる元凶に
なっている。

 二男が「アメリカで仕事をしたい」と言ったとき、私はもうそれに返す言葉がなかった。そのと
き、二男は、日本そのものに失望していたと思う。今でもときどきこう言う。「日本の教育制度は
おかしい」と。 

二男のホームページ……はやし浩司のサイトのトップページから、どうぞ!


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●子どもが好き?

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好きか、嫌いかと聞かれれば、
私は「嫌いではない」と答える
ことにしている。

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 幼児教育をしているから、幼児が好きということにはならない。そこで私は、正直に書く。私は
ある時期は、毎日、数100人の幼児に接していたことがある。今でも、いろいろな場面で、毎
日幼児と接している。

そういう立場でいうと、仕事がオフのときには、幼児の顔はできるだけ見ないようにしている。
たとえば電車で旅に出たようなとき、前の席に幼児が座ると、私は席をかえる。幼児を、ある意
味で、どうしても専門的な目で見てしまうからだ。気になってしかたない。落ちつかない。
 
 私のそういう気持ちは、たとえて言うなら、うな丼屋のオヤジのようなものではないかと思う。
浜松でも1、2を争ううな丼屋のオヤジが昔、こう言った。「私はうな丼はまったく食べません」
と。こんな話もある。

 浜松の郊外に、大きな医療病院がある。その病院で、外科部長をしているドクターの息子
(高校生)に英語を教えていたときのこと。私はある日、ふとその高校生にこう聞いた。「君のお
父さんは、担当の患者さんが急変したら、夜中でも病院へとんでいくのか?」と。

私は「たいへんな仕事だろうな」という気持ちで、そう聞いた。するとその高校生は、「いいや」
と。驚いて、「じゃあ、どうするのか?」と聞くと、「たいてい居留守をつかう」と。「昼だったら、学
会へ行っているとか何とか、ウソをつくこともある」とも。

さらに驚いていると、その高校生はこう言った。「もし夜中に病院へ行くようなことをしていれ
ば、翌日の手術にさしさわりがでる。手術では失敗は許されない」と。私はそこまで聞いて、「さ
すが、プロだなあ」と、今度は一転、感心した。

 子ども、とくに幼児というのは、そもそも好きになる存在ではない。うるさいし、騒々しい。私は
幼児教育をして、もう30年以上になるが、その幼児教育でいちばんつまらないのは、人間関
係ができないこと。その点、高校の先生や大学の先生は、うらやましい。いわゆるおとな対おと
なの関係をつくることができる。しかし幼児教育には、それがない。ないから、教えるとしても、
いつも一方的なもの。人間関係も、いつも一方的なもの。

この一方性が、幼児教育をつまらないものにしている。いかにその子どもで苦労をしても、離
れるときが、別れるとき。親に感謝されることはあっても、子どもの側からはない。

 さて、ここで暴露する。私も無数の幼稚園の教師や園長に会ってきたが、どの人もみな、「私
は幼児が好きです」と言う。そう言わなければ、仕事が成りたたないからだ。しかしここにも書
いたように、「好き」ということは、ありえない。あえて言えば、「嫌いではない」ということか。そ
れなら話がわかる。

幼児の世話をしながらも、それが苦にならない。幼児と接していると、気が晴れる。幼児に教え
ていると、笑いが絶えない。だから嫌いではない、と。実のところ私もそうだ。好きではないが、
嫌いでもない。だから幼児教育ができる?

 ただしこういうことはある。何らかの理由で、1〜2週間も幼児から離れていると、無性に幼児
に会いたくなる。あるいは久しぶりに幼児の声を聞いたりすると、ほっとする。

(追記)
 私が幼児教育の世界にスンナリと入ることができたのは、自分自身の子ども時代と大きく関
係していると思う。私は小学校の4、5年生まで、お山の大将として、子どもたちの世界に君臨
していた。いつも近くの山の中を歩くときは、年少の子どもたちを子分にして歩いていた。

年齢的には5、6歳から小学3、4年生くらいの子どもたちだった。今でも幼児に接していると、
ときどき、そういう親分的な感覚が、ふと戻ってくるときがある。


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●子どもの臭い

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子どもにとって居心地のよい
世界とは?

そんな視点で、こんなエッセーを
書いた。

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 子どもは、あらゆるいたずらが好き。そのいたずらは、いわば心のユーモア。そのユーモア
が子どもを伸ばす。

そのひとつが落書き。子どもはあらゆる場所に落書きをする。私は、その子どもの落書きに
は、さんざん手を焼いた。注意しても、しかっても一向に減らない。そこで方針を変えた。

 落書きコーナーをあちこちに作った。教室で渡す私製のノートにも、落書きコーナーを作っ
た。ほかに机とデスクパッドの間にも、それぞれ画用紙をはさみ込み、それにも落書きコーナ
ーを作った。

とくに効果的だったのは、ここでいう画用紙だった。一応表向きは落書きをしてはいけないとは
言っていたが、それは表向き。子どもたちは、その画用紙に自由に落書きをした。おかげで、
ほかの場所への落書きは、まったくといってよいほど、なくなった。

 これは子どもを指導するときのコツだが、押してダメなら、思いきって引いてみる。(あるいは
その反対でもよい。)そこで私は考えた。「〜〜をしてはダメ」と禁止命令ばかり出していると、
子どもの心は萎縮する。そこでさらに私は考えた。「子どもの臭い」。

 ずいぶん前だが、私は、不登校で悩んでいる親の家を訪れて、「おかしい」と思ったことがあ
る。大きな家で、大きな居間があったが、その居間のどこにも、子どもの臭いがしなかった。す
べてがきれいに片づいていた。が、それ以上に「アレッ」と思ったのは、子どものものがどこに
もなかったこと。

ふつう子どものいる家庭では、あちこちに子どものものがゴロゴロしているもの。しかしそれが
ない? そのときはそれで終わってしまったが、今から思い出すと、あの家の中には、子どもの
居場所がなかったのではないか。もちろんそれが不登校の原因とは言わないが、何らかの形
で、関連していたことは、じゅうぶん考えられる。

 同じように、保育園でも幼稚園でも、よい園では、子どもの臭いがプンプンする。あちこちに
子どもの残したシミのようなものがあって、それが全体として、温もりのあるものにする。

しかし中には、まるで、どこかの病棟のように、まったく子どもの臭いのしない園もある。すべて
がピカピカに磨かれていて、落書きどころか、シミ一つ、ない。一見、清潔で、過ごしやすく見え
るかもしれないが、それは本来あるべき子どもの世界ではない。またそういう園へ子どもをや
れば……? 

この先は立場上、書けないが、私なら、そういう園へは子どもをやらない。短い期間ならともか
く、1年も2年も通わせれば、子どもの心は、まちがいなく萎縮する。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2006)

●時間性(2)

+++++++++++++++++++++

このところずっと、「生きることの時間性」に
ついて考えている。

私たちは、「時の流れ」と、「生きること」を
別々のものと考えている。

しかし、生きることイコール、時の流れでは
ないのか? 

+++++++++++++++++++++

 目の前に、私のパソコンがある。モニターがある。19インチワイドのモニターである。そのモ
ニターを見ながら、私は、こう考える。「本当に、そこにモニターがあるのか?」と。

 私が見ているモニターの像というのは、あくまでも光の集合体でしかない。その光の集合体を
目の網膜がとらえ、脳はそれを電気的信号に変え、大脳の後頭部に伝える。大脳の後頭部に
は、パソコンのモニターと同じようなモニター(視覚野)がある。そのモニター(視覚野)に、その
像が映し出される。

 私たちが見ている像は、そのモニター(視覚野)に映った像にすぎない。

 が、私たちは、あまりにもそれを当然と考えているため、だれも、モニター(視覚野)に映った
像を、モニター(視覚野)に映った像とは、思わない。思わないまま、目の前に、パソコンのモニ
ターがあると、そのまま信じてしまう。

 同じように、私たちは、「時の流れ」と、「生きること」を、別々のものと考える。わかりやすく言
えば、「時計」と「生活」の関係といってもよい。

 朝6時半に目覚まし時計が鳴る。それを見て、起きる。朝7時になると、ワイフが朝食の用意
をし始める。私は居間におり、身じたくを整え、ついでに庭にある畑に水をまく。

 つまり「時の流れ」を、「時計」に集約させることによって、「生きること」から切り離してしまう。
しかし考えてみれば、時計とて、「時の流れ」に合わせて動くようにできた機械でしかない。時計
イコール、「時の流れ」ではない。

 そこで私自身について考えてみよう。

 若いころ、それは私がオーストラリアで学生生活を送っていたときのこと。私は1日を、それま
での1年のように長く感じたことがあった。決しておおげさなことを言っているのではない。その
ときは、本当にそう感じた。

 こうした感覚は、私だけのものかと思っていたが、私の三男が、自分のBLOGに同じようなこ
とを書いているのを知って驚いた。三男もまた、あるとき、「1日を1年のように長く感ずる」と書
いていた。

 つまり、充実した生活をしていると、ときに人は、1日を、1年のように長く感ずることがある。
このことは、老人ホームかどこかで生活している老人たちと対比させてみると、よくわかる。

 老人ホームでは、老人たちは、毎日、同じ生活を繰りかえしている。で、今日も、私は母に、
こう聞いてみた。

私「何か、したいことはあるか?」
母「何も、ない」
私「何か、ほしいものはあるか?」
母「何も、ない」
私「だれかに会いたいか?」
母「お前に会いたい」と。

 母にしてみれば、明日も、今日と同じ。明後日も、今日と同じということになる。つまりそういう
生活では、逆に、1年が1日になってしまうかもしれない。あるいは母が、「老人ホームでは、1
年を1日のように短く感ずる」と言っても、私は、驚かない。「そうだろうな」と納得する。

 つまり「生きること」には、その人のもつ「時間性」が深くからんでくる。からんでくるというより
は、生きることイコール、時間性と考えたほうが、ずっとわかりやすい。同じ1時間でも、充実し
た生活をしている人にとっては、1日分の密度がある。反対に、そうでない人にとっては、同じ1
日でも、1時間分の密度しかない。

 時計が示す「時間」に、だまされてはいけない。時計が24時間を示したからといって、1日を
過ごしたことにはならない。が、私たちは、時計だけを見て、1日が過ぎたと思う。……思ってし
まう。

 そこでもう一度、「時の流れ」について、考えなおしてみよう。時計の単位としては、(秒)があ
り、(分)があり、(時)がある。しかしその時計の単位ほど、あてにならないものはない。ないこ
とは、あのA・アインシュタインが証明している。

 地球上の1年にしても、光速に近い運動をしている世界では、数秒にもならない。反対に、地
球上の1秒といっても、別の天体の、別の惑星では、1年分に匹敵(ひってき)するかもしれな
い。

 時の流れに、もともと絶対的な単位などないのである。

 ということは、「時の流れ」を決めるのは、その人自身の「生命そのもの」ということになる。こ
こでいう「生きること」ということになる。もっと言えば、「生きること」イコール、「時の流れ」、「時
の流れ」イコール、「生きること」ということになる。

 物理学の世界では、「時そのものがエネルギー」と説くが、それと同じに考えてよい。私たち
は時の流れがもつエネルギーによって、生きている。生かされている。

 話がわかりにくくなってきたので、簡単な例で、もう一度、考えてみよう。

 たとえばあなたが今、死の宣告を受けたとする。「あと1か月の命です」と宣告されたとする。
もしそういう状態になったら、あなたは、どう行動するだろうか。どう反応するだろうか。

 たいていの人は、(ひょっとしたら私もそうかもしれないが)、自分の命の短いことを嘆き悲し
み、死の恐怖におびえながら、悶々とした日々を過ごすだろう。しかし中には、その1か月の間
に、眠るのも惜しんで、最後の仕事をしあげる人もいる。

 そういう人にしてみれば、つまり眠るのも惜しんで、最後の仕事をしあげる人にしてみれば、
その1か月を、1年、あるいは10年のようにして生きることができるかもしれない。懸命に生き
るというその姿勢が、時の流れを、何十倍も長くする。

 あのマルティン・ハイデッガーが言った、「時間性」というのは、そういう意味である。そこで、こ
う考えてみたらどうだろうか。

 「あと1か月の命です」と言われれば、だれしも驚き、それを悲しむ。しかし「あと20年の命で
す」と言われて、それを驚き、悲しむ人はいない。しかし現実には、もうすぐ60歳になる私にし
てみれば、私の寿命は、長くて、あと20年そこそこということになる。あるいは、事故か病気
で、それがぐんと短くなるかもしれない。

 つまりハイデッガー風に、そこに「死」の存在を積極的に受け入れて生きる。20年そのもの
を、短いと感じて生きる。寿命は、寿命だ。とたん、それまで見えていなかった世界が、そこに
姿を現す。

 それは驚くべき世界と言ってもよい。人によっては、ものの見方、価値観が、180度、ひっくり
返るかもしれない。一瞬、一秒が、とてつもなく貴重なものに見えてくる。その一瞬、一秒の中
に、「生きること」を感ずるようになる。

 このエッセーの冒頭で、私は、こう書いた。「が、私たちは、あまりにもそれを当然と考えてい
るため、だれも、モニター(視覚野)に映った像を、モニター(視覚野)に映った像とは、思わな
い。思わないまま、目の前に、パソコンのモニターがあると、そのまま信じてしまう」と。

 同じように、私たちは、あまりにもそれを当然と考えているため、だれも、「生きること」イコー
ル、「時の流れ」、「時の流れ」イコール、「生きること」とは考えない。時間と生きることを切り離
してしまう。そして無益だろうが有益だろうが、1年生きたという時計的な数字を見ただけで、1
年を生きたと思いこんでしまう。

 しかしそんな尺度で、自分の人生を評価することは、バカげている。自分の人生を考えること
は、バカげている。

 大切なことは、今の、この一瞬、一瞬を、1年のように長く、あるいは10年のように長く生きる
こと。その努力だけは、いつも忘れてはならない。

 それがここでいう「時間性」の問題ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 時間
性)


+++++++++++++++

なぜここで「時間性」を問題にするか。

言うまでもなく、その「時間性」の
中にこそ、より有意義な人生を送るための
方法を示す、ヒントが隠されている
からである。

少し別の角度から、この問題について
考えなおしてみたい。

+++++++++++++++

●子どもの自我

 ほぼ30年ぶりにS氏と会った。会って食事をした。が、どこをどうつついても、A氏から、その
30年間に蓄積されたはずの年輪が伝わってこない。話そのものがかみあわない。どこかヘラ
ヘラしているだけといった感じ。そこで話を聞くと、こうだ。

 毎日仕事から帰ってくると、見るのは野球中継だけ。読むのはスポーツ新聞だけ。休みは、
晴れていたらもっぱら釣り。雨が降っていれば、ただひたすらパチンコ、と。「パチンコでは半日
で5万円くらい稼ぐときもある」そうだ。しかしS氏のばあい、そういう日常が積み重なって、今の
S氏をつくった。(つくったと言えるものは何もないが……失礼!)

 こうした方向性は、実は幼児期にできる。幼児でも、何か新しい提案をするたびに、「やりた
い!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になって「やりたくない」とか「つまらない」と言う
子どもがいる。フロイトという学者は、それを「自我論」を使って説明した。自我の強弱が、人間
の方向性を決めるのだ、と。たとえば……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分という考え方をする)で、創造的(将来に向かって展望
をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行動
できる。

 反対に自我の弱い子どもは、物事に対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよく口
にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、占いや手相にこ
る)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くなる。たとえ
ばほしいものがあると、それにブレーキをかけられない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛(おうせい)で何かにつけ、前向きに伸びていく。
反対に自我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているか分
からない子どもといった感じになる。

 その道のプロなら、子どもを見ただけで、その子どもの方向性を見抜くことができる。私だっ
てできる。しかし20年、30年とたつと、その方向性はだれの目から見てもわかるようになる。
それが「結果」として表れてくるからだ。先のS氏にしても、(S氏自身にはそれがわからないか
もしれないが)、今のS氏は、この三〇年間の生きざまの結果でしかない。

 帰り際、S氏は笑顔だけは昔のままで、「また会いましょう。おもしろい話を聞かせてください」
と言ったが、私は「はあ」と言っただけで、何も答えることができなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●こわい極端主義

 人類は過去、数10万年もの長い間、生きてきた。その間、親は代々、子どもを育ててきた。
その人類がいくら変わったといっても、ここ100年や200年の間に変わったと考えるほうがお
かしい。子育てもそうだ。

いくら変わったといっても、ここ100年や200年の間に変わったと考えるほうがおかしい。つま
りもしだれかの子育て法をみて、「どこか不自然」と感じたら、その子育て法は疑ってみたほう
がよい。

 たとえば以前、Tヨットスクールという、これまたおかしな教育法を実践する団体があった。当
時の塾長は目下、刑事罰を受けたあと、出所し、現在は、教育評論家(?)として活躍してい
る。それなどもその一例である。

その少しあとには、不登校児やその親に向かって、はげしい罵声を浴びせかけて不登校をな
おす(?)という人まで現れた。

私もその人の本を2冊読んでみたが、理論らしい理論がどこにもないのに驚いた。

著者自身も非行少女だったとかで、父親の目を盗んで車を無免許で運転していたとか……。
そういうところから彼女の教育法を編み出した(?)ということらしいが、それ以上のことは書い
てなかった。

もっとも私がもっている情報は、この2冊の本だけなので、ここでコメントすることはできない。
ひょっとしたら彼女の教育法は本当にすばらしい教育法なのかもしれない。あるいはそうでな
いのかもしれない。しかしどこか不自然である。だいたいにおいて、「不登校をなおす」という言
い方がおかしい。不登校を悪と決めてかかっている。本当に不登校は、悪なのか? 正さなけ
ればならないことなのか?

 話がそれそうなので、もとに戻すが、子育てで警戒しなければならないのが、極端主義であ
る。子育てというのは、どこか灰色のまま、何となくまあまあの状態でなされていくもの。白黒は
っきりさせるのも、ギスギスするのも、子育てではあまりよい結果は生まれない。

そもそも人間という生き物は、いいかげんな生き物なのだ。またそのいいかげんさがあるか
ら、進化した。ここまで生き延びてくることができた。子どももまさにそうで、そのいいかげんさ
があるから、その中で羽をのばし、自分をのばすことができる。

 またまた話がそれそうなので、もとに戻す。要するに子育ては、『まじめ7割、いいかげんさ3
割』である。しかしこのことは別のところで書いたので、ここまでにしておく。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【子育て・あれこれ】

●寸劇指導法

 具体性をともなわない指示は、子どもには意味がない。よい例が「友だちと仲よくするのです
よ」とか、「先生の話をよく聞くのですよ」とかなど。

こういうことを言っても、言う親の気休め程度の意味しかない。こういうときは、たとえば「これを
○○君にもっていってあげてね。○○君は喜ぶわ」とか、「今日、学校から帰ってきたら、終わ
りの会で先生が何と言ったか、あとでママに話してね」と言いかえる。「交通事故に気をつける
のですよ」というのもそうだ。

 交通事故について話す前に、こんな例がある。その子ども(年長男児)は何度言っても、下水
溝の中に入って遊ぶのをやめなかった。母親が「汚いからダメ」と言っても、効果がなかった。
そこでその母親は、家庭排水がどこをどう通って、その下水溝に流れるかを説明した。近所の
家からはトイレの汚水も流れこんでいることを、順に歩きながらも見せた。子どもは相当ショッ
クを受けたようだったが、その日からその子どもは下水溝では遊ばなくなった。

 交通事故については、一度、寸劇をしてみせるとよい。私も授業の中で、ときどきこの寸劇を
してみせる。ダンボールで車をつくり、交通事故のありさまを迫真の演技でしてみせるのであ
る。

……車がやってくる。子どもが角から飛び出す。車が子どもをはね飛ばす。子どもが苦しみな
がら、あたりをころげまわる……と。気の弱い子どもだと、「こわい」と泣き出すかもしれない
が、子どもの命を守るためと考えて、決して手を抜いてはいけない。迫真の演技であればある
ほど、よい。たいてい一回の演技で、子どもはこりてしまい、以後道路へは飛び出さなくなる。

 もしあなたの子どもが、何度注意しても同じ失敗を繰り返すというのであれば、一度、この寸
劇法を試してみるとよい。具体的であるがために、説得力もあり、子どももそれで納得する。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●性格は化学反応

 子どもの性格は、環境によって大きな影響を受ける。ここにあげるのは、あくまでも一般論だ
が、たとえばつぎのようなものがある。

(1)ケチの長男、ズボラな二男……一般的に長男や長女は防衛に回ることが多く、そのため
ケチになりやすい。それに反して二男や二女は、モノにこだわらなくなり、気前よくなったり、ズ
ボらになったりしやすい。
(2)男一人と、女一人は、ともに一人っ子……男の一人と、女の子一人の家庭では、ともに一
人っ子の性格をもちやすいことを言ったもの。ともにわがままで、社会性がなくなるなど。反対
に双子というのは、互いによい影響を受けやすく、社交的で活発になる。
(3)女二人は憎しみ相手……年齢の近い姉妹は、互いにはげしいライバルになりやすく、ばあ
いによっては、互いに憎しみあうことがある。私の知人の娘たちだが、一人の男性をとりあっ
て、まさに殺し合い寸前までのことをしたという。
(4)年上の姉と甘えん坊……年上のめんどうみのよい姉がいると、下の弟は、二人の母親を
もったような状態になり、甘えん坊になりやすいことを言ったもの。
(5)足して二で割ると、平均児……兄弟や姉妹では、互いにできふでき、性格などが正反対に
なりやすいことがある。兄には神経質に手をかけすぎたり、反対に弟は放任したりすることなど
によるが、そういうとき親はよくこう言う。「足して二で割れば、お互いに平均児なんですけどね
エ」と。
(6)年の近い姉は、男まさり……男の間でもまれて成長すると、女の子も男まさりになったりす
る。そのときでも、すぐ下に弟がいたりすると、さらに男まさりになったりする。いわゆる姉御(あ
ねご)タイプになりやすい。
(7)末っ子は甘えん坊……末っ子が甘えん坊になるのは、親側に、「この子が最後だ」という
思いが強いからである。そのため、どうしてもあれこれ手をかけてしまう。また親側にも、子育
ての余裕ができ、子どもをより広い包容力で包むことができる。そのため末っ子は甘えん坊に
なりやすい。つまり依存心がつきやすい。
(8)まん中の子は、人なつっこい……兄弟や姉妹が三人以上いると、まん中の子どもは、愛情
不足から、人なつっこくなりやすい。しかしその反面、心を許さないという面もある。
(9)総領の甚六……長男や長女は、それだけ期待もされ、手もかけられて育つため、おっとり
とした性格になることを言ったもの。つまりそれだけできが悪くなることを言ったもの。

 これらは冒頭に書いたように、あくまでも一般論である。子どもというのも、置かれた環境の
中で、長い時間をかけて性格がつくられていく。そういう面はたしかに否定できない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●子どもの性質

 子どもにも生まれつきの性質というものがある。その一つが、敏感児と鈍感児(決して頭が鈍
感という意味ではない)。

たとえばA子さん(年長児)は、見るからに繊細な感じのする子どもだった。人前に出るとオドオ
ドし、その上、恥ずかしがり屋だった。母親はそういうA子さんをはがゆく思っていた。そして私
に、「何とかもっとハキハキする子どもにならないものか」と相談してきた。

 心理反応が過剰な子どもを、敏感児という。ふつう「神経質な子」というときは、この敏感児を
いうが、その程度がさらに超えた子どもを、過敏児という。敏感児と過敏児を合わせると、全体
の約30%の子どもが、そうであるとみる。

一般的には、精神的過敏児と身体的過敏児に分けて考える。心に反応が現れる子どもを、精
神的過敏児。アレルギーや腹痛、頭痛、下痢、便秘など、身体に反応が現れる子どもを、身体
的過敏児という。A子さんは、まさにその精神的過敏児だった。

 このタイプの子どもは、(1)感受性と反応性が強く、デリケートな印象を与える。おとなの指示
に対して、ピリピリと反応するため、痛々しく感じたりする。(2)耐久性にもろく、ちょっとしたこと
で泣き出したり、キズついたりしやすい。(3)過敏であるがために、環境になじまず、不適応を
起こしやすい。集団生活になじめないのも、その一つ。そのため体質的疾患(自家中毒、ぜん
息、じんましん)や、神経症を併発しやすい。(4)症状は、一過性、反復性など、定型がない。
そのときは何でもなく、あとになってから症状が出ることもある(参考、高木俊一郎氏)。A子さ
んのケースでも、A子さんは原因不明の発熱に悩まされていた。

  ……というようなことは、教育心理学の辞典にも書いてある。が、こんなタイプの子どももい
る。

見た目には鈍感児(いわゆる「フーテンの寅さん」タイプ)だが、たいへん繊細な感覚をもった
子どもである。つい油断して冗談を言い合っていたりすると、思わぬところでその子どもの心に
キズをつけてしまう。

ワイワイとふざけているから、「ママのおっぱいを飲んでいるなら、ふざけていていい」と言った
りすると、家へ帰ってから、親に、「先生にバカにされた」と泣いてみせたりする。

このタイプの子どもは、繊細な感覚をもちつつも、それを茶化すことにより、その場をごまかそ
うとする。心の防御作用と言えるもので、表面的にはヘラヘラしていても、心はいつも緊張状態
にある。先生の一言が思わぬ方向へと進み、大事件となるのは、たいていこのタイプと言って
よい。

その子ども(年長児)のときも、夜になってから、親から猛烈な抗議の電話がかかってきた。
「母親のおっぱいを飲んでいるとかいないとか、そういうことで息子に恥をかかせるとは、どうい
うことですか!」と。敏感かどうかということは、必ずしも外見からだけではわからない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●伸びる子ども、伸び悩む子ども

「あなたはどんどん伸びる」「あなたはすばらしい子になる」と。そんな前向きな暗示が子どもを
伸ばす。実際、前向きに伸びていく子どもは、やや自信過剰なところがあり、挫折しても、それ
を乗り越えてさらに前に進んでいく力をもっている。

そういう意味でも、この時期、とくに幼児期から少年少女期にかけては、子どもはやや自信過
剰なほうが、あとあとすばらしい子どもになる。

 反対に子どもの「力」をつぶしてしまう親がいる。力というより、伸びる芽をつんでしまう。過関
心や過干渉など。親はよく、「生まれつき……」という言葉を使うが、生まれつきそうであるかど
うかは、神様でもわからない。(それとも、あなたは赤ちゃんを見て、それがわかるというのだろ
うか?)そういう子どもにしたのは、親自身にほかならない。

そこで伸びる子どもと、そうでない子どもを分けると、つぎのようになる。

●伸びる子ども……ものごとに攻撃的かつ積極的。「やる」「やりたい」という言葉が、子どもの
口からよく出る。現実感が強く、ものの考え方が実利的になる。頼れるのは自分だけというよう
な考え方をする。ほしいものがある。目の前にはお金がある。こういうときセルフコントロール
ができ、自分の行為にブレーキをかけることができる。自制心が強く、そのお金には手を出さ
ない。将来性のある創造的な趣味をもつ。たとえば「お金をためて楽器を買う。その楽器でコン
クールに出る」「友だちの誕生日のプレゼント用に、船の模型を作る」など。前向きに伸びようと
する。

●伸び悩む子ども……ものごとに防衛的かつ消極的。「いやだ」「つまらない」という言葉が多
い。ものの考え方が非現実的になり、空想や神秘的なものにあこがれや期待を抱いたりする。
一時的な快楽を求める傾向が強く、趣味も退行的かつ非生産的。たとえば意味もないカードや
おもちゃをたくさん集める、など。もらった小遣いも、すぐ使ってしまう。衝動性が強くなり、ほし
いものに対して、ブレーキをかけられない。盗んだお金で、ほしいものを買っても、欲望を満足
させたという喜びのほうが強く、悪いことをしたという意識がない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2007)

●今朝・あれこれ(6月17日)

+++++++++++++++++

気持のよい朝だ。さわやかで、涼しい
風が吹いている。

時刻は、午前6時半。ぐっすり眠った。
これから朝食までの1時間は、だれにも
じゃまされない、私だけの時間。

+++++++++++++++++

●危篤(きとく)

 ワイフの叔父が、危篤という連絡が入った。今年、90歳になるという。病院へ行ってみると、
ワイフの兄弟を中心に、15〜20人前後の人たちが集まっていた。が、肝心の叔父は、容態を
もちなおし、今すぐどうこうという状態ではなかった。私たちは出されたお茶を飲み、世間話をし
て帰ってきた。

 その叔父も、この10年以上、認知症だという。すぐ前のことを忘れてしまうという。たとえば家
族のだれかのところに電話がかかってきたとする。叔父は電話を取り、「待ってくれ。今、呼ん
でくる」と言う。が、その直後、電話がかかってきたことを忘れてしまう。

 そういうことが重なったという。

 老人になるということは、脳みその中の、辺縁系の機能が低下するということらしい。その辺
縁系の中には、記憶をつかさどる海馬(かいば)のほか、善悪を感知したり、感情をつかさどる
扁桃体(へんとうたい)、それにやる気をつかさどる帯状回(たいじょうかい)などがある。

 つまり記憶の低下とともに、感情の鈍化、やる気の低下なども、同時に起こると考えてよい。

 ではどうすればよいかということになるが、それには外部からの刺激が、大切ということにな
る。「外部」というのは、大脳の皮質部からの刺激をいう。つまり脳みそは、使う。使って使っ
て、使いまくる。その刺激が、辺縁系の機能を亢進する。

 さあ、今朝も、脳みそを使うぞ! 使って使って、使いまくるぞ!


●ドジ

 数日前、A君(小5)の腹に、蚊が止まった。白いTシャツの上だった。が、すでにそのとき私
の手は、その蚊をたたいていた。赤い血が、パッと飛び散った。A君は、「このシャツは、明日、
学校へ来ていくのだ」と言った。私は、「脱げ。洗ってやる」と言った。が、A君は、「いやだ」と言
って、それを拒否した。

 しかたないので、私はA君を、炊事室へ連れていった。そこでA君のシャツを前に引き出し、
血を洗い落としてやった。血は、きれいに落ちた。が、今度は、シャツの前半分ほどが、水で濡
れてしまった。

A「どうしてくれるよ?」
私「扇風機で乾かせばいい」
A「いやだ。自然乾燥させる」と。

 私はA君に任せた。暑い日である。放っておいても、すぐ乾く。私はそう思った。が、A君は、
何を考えたか、近くにあった物差しで、その濡れたところを、パンパンとたたき始めた。物差し
には、鉛筆の芯の粉とか、手あかがいっぱい、ついている。その物差しでたたいたから、たま
らない。あっという間に、シャツは、今度は、薄黒く、汚れてしまった。

 私は見て見ぬフリをして、それを無視した。A君も何も言わなかった。のどかで静かな午後だ
った。ほかの子どもたちは、黙々と、自分の作業に取り組んでいた。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●最前線の子育て論byはやし浩司、2007号

 そう言えば、今朝、「最前線の子育て論byはやし浩司」が2007号目になった。しかしこの数
字には、ほとんど意味がない。一応の区切りとして、そうした数字をつけているだけ。自分でも
どうしてそんな数字をつけるようになったのか、よくわからない。

 書いた日付がわかるようにするためなら、たとえば、「最前線の子育て論byはやし浩司(07
0617)」とかにすればよかった。2007年の6月17日に書いた原稿という意味で、である。

 それに2007号といっても、中身は1作だけではない。10〜15作ずつをまとめて、1号として
いる。原稿用紙になおして計算すれば、400字詰めで、20枚前後ということになる。だから実
際には、2007号といえば、原稿用紙では、数万枚ということになる。

 「すごいことだ」と思うが、しかし同時に、その実感がない。おかしなことだが、数万枚書いたと
いう実感がない。まったくない。これはどうしたことだろうか? おもしろい現象だと思う。

 2007……つまり、今年は、2007年!


●夜道

 昨夜遅く、借りたDVDを返すために、近くのビデオショップへ行ってきた。時刻は午後10時
を過ぎていたと思う。

 帰りに見ると、一人の若い女性が、通りをトボトボと歩いていた。年齢は、20歳前くらいでは
なかったか。信じられない光景である。私が、「ほら!」とワイフに声をかけると、ワイフも同じよ
うに思ったらしく、「バカねえ」と。

 この前、私の家に寝泊まりしていたオーストラリアの友人も、同じようなことを言っていた。「オ
ーストラリアでは、考えられない」と。

 つい先日も、このあたりでは名がよく知られていたサッカー選手が、高校生に痴漢行為を働
いて、逮捕されるという事件があった。日本代表にも選ばれ、将来を有望視されていた選手で
ある。新聞でも、トップで報道されていた。

 そういう痴漢の肩をもつつもりは、毛頭ない。ないが、しかし女性たちも、無防備すぎるので
はないか。少なくとも、そういう光景は、世界の常識ではない。あれではまるで痴漢に向かっ
て、「私を襲ってください」と言っているようなもの。私には、そんな感じがした。

ワ「ああいう子が、免疫性もないまま外国へ行くのね。日本は安全な国だから、まだいいけど、
外国は、そうではないわ」
私「それにしても、無防備だ。常識をはずれている」と。

 ともかくも、私には、信じられない光景だった。


●乱暴な運転

 若い女性の話を書いて思い出した。自転車に乗っているとよくわかるが、もっとも乱暴な運転
をするのは、若い女性たち。男性の中にも乱暴な運転をする人はいるが、男性のばあいは、
まだかわいい。いかにも乱暴な運転をしていますというような運転のし方をする。

 が、若い女性のばあいは、そうではない。シラフのまま、乱暴な運転をする。

 赤信号になっても、猛烈な勢いで、信号を無視して走る。横断歩道でも、歩道にいる人を無
視して走る。それに急カーブ、急発進。スピード違反。ショッピングセンターから大通りへ出ると
きも、左側など、まったく見ない。あるいは歩道を平気で車でふさぐ、などなど。

 見ていると、何か、世の中に恨みでもあるのではないかというような運転のし方をする。そう、
彼女たちは、たしかに世の中を、恨んでいる。それがそのまま運転の仕方となって、表れる。

 だから私は、若い女性が運転している車が近づいてくると、サッと自転車をできるだけ外側に
寄せるようにしている。距離感そのものもおかしい。そういう女性も多い。ときに車のサイドミラ
ーで、肩をこすられることもある。

 みなさんも、若い女性が運転する車には、くれぐれもご注意!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(6月18日)

+++++++++++++++

実に意味のない、つまらないDVD。
が、それでもおもしろいと思って
見ている。

「liberation」。

「解放」という意味か? 

全部で6作あって、2作ずつが
1巻になっている。昨夜、4作まで
一気に見た。残りは2作。

聖書の黙示録をところどころで
引用し、もっともらしい理屈
を並べている。要するにオカルト
映画。

神という善と、悪魔という悪との
戦い。それがテーマになっている。

それを昨夜、12時ごろまでワイフ
と見た。

だから今朝は、あくび、またあくび。
まだ眠い。時計は、午前7時15分を
さしている。

++++++++++++++++

 キリスト教と仏教の大きなちがいと言えば、キリスト教は、善なる存在の神と、悪なる存在の
悪魔を、人間の外に置いていること。

 一方、仏教では、善なる心も、悪なる心も、それぞれの人の心の中にあると説く。中にキリス
ト教と仏教を混同して、「悪いことをすると、天の仏様があなたを見ています」などと言う人がい
る。しかし仏教の世界では、そんなことはありえない。

 当然、日本人といえば、仏教の影響を受けている。善と悪にしても、あくまでも心の中の問題
としてとらえる。が、キリスト教では、そうではない。神も悪魔も、先に書いたように人間の外に
いる。だから人間を離れた世界で、神と悪魔が、壮絶な戦いを繰りかえすということも、理論的
にはありえる。……という前提で、このDVDは作られている。

 わかりやすく言えば、正義の味方のスーパーマンと、悪の象徴であるジャック・ルーサーの戦
いということになる。それに宗教性と神秘性、それに超自然性が加わった。

 ところで、実は、仏教の世界にも、「魔王」という言葉がある。よく知られているのに、「第六天
魔王」というのがいる。もともとは、ヒンドゥー教シヴァ派の主神だったのだが、それが仏教に取
り入れられて、第六天魔王となった。釈迦の時代から、いたわけではない。

 ウィキペディア百科事典には、つぎのようにある。

 『初期仏教において、天魔として名前をあげられる、マーラー(マーラ)・パーピーヤス(天魔波
旬)のほかに、後期では、インド、イランから中央アジアの神である、マヘーシュヴァラ(大自在
天、ヒンドゥー教の神、シヴァと同一視されることも)が天魔と表記されることから、同一視され
ることが多い』とある。

 仏教の世界では、その人の信仰に抵抗する(力)を総称して、「魔王」という言葉を使うことが
多い。だれかがその人の信仰に反対したりすると、「それは魔王の所作(しょさ)である」「魔王
の抵抗が始まったということは、あなたの信仰が本物に近づいた証拠」とかなんとか言う。カル
ト教団が、自分たちを正当化するために、好んでよく使う言葉である。

 しかし先にも書いたように、善にせよ悪にせよ、それはあくまでも心の中の問題。「魔王」とい
う悪魔が、自分の外にいるわけではない。

 ……ということで、私は、そのDVDを、娯楽映画として楽しんでいる。(娯楽映画にはちがい
ないが……。)またその範囲で見ているかぎり、害はない。このつづきは、残りの第3巻(2作)
を見てから、書いてみたい。星は★★の、2つ。時間をムダにしてまで見るDVDではないと思
う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 第六
天魔王 魔王)


●いとこ

 昨日、岐阜県のG市に住むいとこ夫婦が遊びにきてくれた。が、あいにく私とワイフは、母を
連れ出し、近くの公園(ガーデンパーク)に出かけていた。

 帰ってみると、飛騨名物の、ほうば寿司と、大・好物のよもぎ饅頭が置いてあった。さっそく連
絡を取ろうとしたが、電話がつながらない。で、あちこちのホテル、旅館に電話。どこかに宿泊
しているはずである。

 が、どこへ電話をかけても、「そういう方はいません」と。

 待つこと、数時間。夕方になって、G町から電話。いとこは軽い声で、こう言った。「片道、3時
間半で往復できた」と。息子の話では、BMWで来たというから、きっと、それを私に見せたか
ったのかもしれない。

 会いたかった。残念だった。「来るなら来るで、一言、前もって電話しろよ」と、まあ、怒りたい
ような気分を必死でおさえながら、そう言った。

 今度は、私たちが、G町へ行く番だ。さっそく、計画を立て始めている。待っていろよ、Y君!


●義兄

 そのほうば寿司と、よもぎ饅頭をもって、夕方、義兄の家を訪問する。それを届けるつもりで
行っただけだが、結局3時間以上、みんなで話し込んでしまった。夕食まで、世話になってしま
った。

 義兄は、調律師学校の校長まで勤めた人である。その道では、プロ。そんな話をたくさん聞
いた。おもしろかった。


●ギョーザ

 浜松は、「ギョーザの町」ということになっている。マスコミでも、よく紹介される。そのせいか、
このところ、どこのギョーザ屋も、その時刻になると、行列ができるようになった。

 私も、浜松に住むようになって、ギョーザが好きになった。ただし食べるのは、金曜日か、土
曜日の夜と決めている。生ニンニクのまぶしてないギョーザは、ワサビのない寿司のようなも
の。ギョーザを食べるときは、いつも、その生ニンニクをたっぷりとつけて食べる。だから食べ
るのは、金曜日か土曜日の夜と決めている。

 ところでその生ニンニクには、強精作用がある。「女性にはない」と、ワイフは言うが、男性に
はある。生ニンニクを食べた夜は、連続で、ひわいな夢を見る。「連続」というのは、「つぎつぎ
と」という意味である。

 まだ私はバイアグラの世話にはなっていないが、バイアグラも生ニンニクも、似たようなもの
ではないか。しかし生ニンニクを食べれば、女性(=ワイフ)に嫌われる。世の中、うまくできて
いないものだ。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●マガジン再開!

++++++++++++++

マガジンHTML版を、7月から
再開することにした。

6月中は、休ませてもらった。

やる気も少しずつだが、戻りつつ
ある。私にとっては、暗くて、長い
トンネルだった。

苦しかった。つらかった。
何かと忙しかった。

++++++++++++++

 6月中、マガジンHTML版(カラー写真版)は、休ませてもらった。忙しかったこともある。が、
本当は、やる気をなくしてしまった。いろいろあった。しかし今の私は、こうして何かを考え、パ
ソコンのキーボードを叩いているときが、一番、楽しい。それがわかった。

 しかし電子マガジンの世界というのは、おかしな世界だ。こうして出しても反応は、ほとんど、
ない。出さなくても、これまた、反応は、ほとんど、ない。購読を登録している読者は、2500人
近くいるはずなのに、その実感が、ほとんど、ない。(読者の顔)も、まったく見えない。ときど
き、2500という数字は、幻覚ではないかとさえ思う。

 この(ない)(ない)(ない)の世界が、電子マガジンの世界ということになる。だからこうしても
のを書いていると、山の上から、ときどき、天に向かってものを話しているような錯覚にとらわ
れる。そこには、聴衆はいない。あるのは、空と風だけ。

 私はその空と風に向かって、ものを書く。それが電子マガジンの世界ということになる。

【MELMA読者の方へ、お礼】

 MELMA(電子マガジン無料版)では、読者の方が、最上段のコマーシャルを1クリックしてく
れると、私のほうへ20円の収入が入るしくみになっている。

 そのはじめての入金が、数日前にあった。額は、1500円と少し(5月分)。うれしかった。

 MELMA読者のみなさん、ありがとう! 私には、貴重な1500円です。これからも、1クリッ
クをお願いします。みなさんには、まったく負担はありません!

【Eマガ読者のみなさんへ】

 現在、Eマガを購読してくださっている方で、MELMAに移動してもいいよと思ってくださってい
る方がいらっしゃれば、どうか、MELMAのほうへ、移動してください。

 方法は、簡単です。以下のアドレスをクリックして、ボックスの中に、あなたのメールアドレス
を記入してください。それで手続き完了です。ついでに、1クリックのほうも、よろしく!

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page141.html

 では、MELMAのほうへの移動を、よろしくお願いします。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●集団的自衛権

+++++++++++++++

集団的自衛権の問題を、一言で
言えば、「双務性の問題」という
ことになる。

日本はアメリカに義務を負う。
アメリカも日本に義務を負う。

その双方向的な義務を、「双務性」
という。

+++++++++++++++

 「集団的自衛権とは何か」……それを一言で言えば、「双務性」ということになる。日本はアメ
リカに義務を負う。アメリカは日本に義務を負う。その双方向的な義務を、「双務性」という。

 たとえば台湾海峡で紛争が起きれば、アメリカ軍は、自動的にそれに介入するようになって
いる。当然、アメリカ軍は中国軍と、軍事的対決をすることになる。

 そのとき日本は、どうするか?

 「アメリカと中国の戦争だから、日本には関係ない」と逃げ込むか? それとも、アメリカ軍と
いっしょになって、中国と戦うか?

 一方、その日本が、もしK国に攻撃されたら、アメリカは、どう反応するだろうか。「日本とK国
の戦争だから、アメリカには関係ない」と逃げ込むか? それとも日本軍といっしょになって、K
国と戦うか?

 しかしいくらなんでも、台湾海峡にかぎらず、アメリカ軍のする戦争について、「日本には関係
ない」と逃げ込むことは許されない。つまり、そこから集団的自衛権の問題が生まれた。

 ほとんどの日本人は、戦後、60年の長きにわたって日本の平和が保たれたのは、平和を愛
する日本人の心があったからだと思っている。しかしこれはとんでもない誤解。

 日本の平和が保たれたのは、アメリカ軍という強力な軍隊が、日本に駐留していたからにほ
かならない。もしアメリカ軍が駐留していなかったら、日本はそのつど、スターリン・ソ連、毛沢
東・中国、金日成・朝鮮の猛攻撃にさらされていたことだろう。

 世界は、そんな甘くない。甘くないことは、実は、日本がいちばん、よく知っている。戦前、日
本は、そういう甘い国を、つぎつぎと占領していった。

 では、どうするか?

 双務性というのがいやなら、日米安保条約(=軍事同盟)を破棄して、アメリカと決別すれば
よい。が、それがだめだというのなら、集団的自衛権を認め、アメリカと運命をともにすればよ
い。この際、中途半端な(中間)というのは、ない。日本には、「まあまあ」「ほどほど」という言葉
があるが、英語にはない。あるのは、「YES・NO」。それだけ。

 日本もいつまでも、あいまいな態度を取りつづけることは許されない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

【今朝・あれこれ】

+++++++++++++++

昨夜、いとこと、2時間半も電話で
話した。元気そうだった。

楽しかった。子どものころからの
遊び仲間で、今も、そうだ。今度、
家族ぐるみで、いっしょに旅行を
することにした。

++++++++++++++++

●いとこ

 正確に数えたことがないので、何人かわからないが、私には、父方、母方の両方のいとこを
合わせると、64人前後のいとこがいる。父には、5人の兄弟がいた。母には、13人の兄弟が
いた。

 その中でも、今、親しく交際しているのは、1人、2人しかいない。その1人と、昨夜、電話で、
2時間半近く、話した。そのいとこと話をしていると、話題がピンポン玉のように、はずむ。おも
しろかった。楽しかった。

 そのいとこは、そのあたりでも、魚釣りの名人として知られている。大雨で、川がゴーゴーと増
水しているようなときでも、魚をとりに行く。無鉄砲というか、無茶というか、そのいとこに言わせ
ると、「そういうときほど、網に魚がかかる」とのこと。

 私にとっては、神様のような存在である。私が書いた本の中でも、何度か、そのいとこについ
て紹介したことがある。


●若い母親たち

 若い母親たちに、こんなことを言っても、理解されないかもしれない。それはよくわかってい
る。しかし若い母親たちよ、自分の子どもから目を離し、世界を見たらよい。その世界から、自
分の子育てをしたらよい。

 若い母親たちは、自己愛的育児をしながら、それが自己愛であることにさえ気がついていな
い。自己中心性が、かぎりなく肥大化した状態を、自己愛という。「自分の子どもさえよければ、
それでいい」「ほかの子どものことは、知ったことではない」と考えるのが、自己愛的育児であ
る。

 しかし一度、この自己愛的育児に陥(おちい)ると、それから抜け出すのは容易なことではな
い。さらに、こうも言える。

 たしかにあなたの子どもは(あなた)から生まれるが、いつか、(あなたの子ども)であって、
(あなたの子ども)でないときがやってくる。そのとき、自己愛的育児に溺れていた人ほど、その
しっぺ返しに苦しむ。たとえて言うなら、金の亡者が、財産を失うような苦しみといってもよい。

 だから、世界を見たらよい。視野を広くし、自分を、より高い位置に置いたらよい。子育ては
重労働である。かつ重要である。しかし決して、その子育ての中に、自分を埋没させてはいけ
ない。

 「自己愛」というと、どこかあやしげな魅力を感ずる人もいるかもしれない。しかし自己愛ほ
ど、軽蔑すべきものはない。自己中心性がはげしいということは、それだけその人の人格の完
成度は、低いということになる。ご注意!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
愛的育児 自己愛的育児法)

++++++++++++

自己愛的育児の例をひとつ
あげてみる。

++++++++++++

【親が子育てで行きづまるとき】

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。
 
「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大切
にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部
屋も飾ってきました。

なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナ
ーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互
いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇歳の女
性)と。

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプリントを3枚学習することにしていますが、2枚まで
なら何とかやります。が、3枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうし
たらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、2時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食
の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やらせたい」「午後の
授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合
格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限が
ないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。もっとは
っきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望を確か
めた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。

「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニ
を飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。息子は出不精」と。この母親のしたことは、何とかプリントを3枚させようとしたあの母
親と、どこも違いはしない。あるいはどこが違うというのか(失礼!)。

●親の役目

 親には3つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)
よき友としての親の三つの役目である。

この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもしれないが、(3)の「よき友」としての視
点がどこにもない。

とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた
「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたし
てその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるい
は子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべて
が集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++

この「親が子育て行きづまるとき」を
書いてから、もう7年近くになる。

この原稿を読みなおしてみて、新しく
気がついたことがある。

つまりこの投書をした母親の子どもたちは、
母親のもつ自己愛的育児を、そっくり
そのまま引き継いでしまったのでは
ないかということ。

一見、すばらしい母親に見えるかもしれ
ないが、その母親は、自己愛的育児を
繰りかえしていただけ。自分の子どもを
自分の世界に取り込みながら、どこまでも
自己中心的な子育てをしていただけ。

その自己中心的な部分を、子どもたちが
引き継いでしまった!

が、もしそのとき、この母親が、たとえば、
自分の目を世界に向け、近所の清掃をしたとか、
何かのボランティア活動をしたとか、
そういうことをしていれば、子どもたちは
もっと別の子どもになっていたかもしれない。

自分が(それ)をしないで、子どもたちに
(それ)をしろと言っても、無理である。

自分が(そういう人間)でもないのに、子どもたちに
(そういう人間)になれと言っても、無理である。

ユングの言葉を借りるなら、子どもたちは、
親の(シャドウ)を、そっくりそのまま
引き継いでしまう。これがこわい!

どこまでも自己中心的な子育てをした母親。
その自己中心性を、そっくりそのまま引き継いで
しまった子どもたち。

この話は、決して、他人ごとではないはずである。
(07年6月19日記)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2008)

●家庭は兵舎

++++++++++++++

世の男たちよ、あなたがもっている
「家庭観」を少しは疑ってみたらよい。

家庭は、なくてはこまるものだが、
しかしそこは決して安住の場では
ない。

とくに女性たちにとっては、
そうである。

++++++++++++++

 「家庭は、心休まる場所」と考えるのは、ひょっとしたら、男性だけ? 家庭に閉じ込められた
女性たちの重圧感は、相当なものである。

 心的外傷論についての第一人者である、J・ハーマン(Herman)は、こう書いている。

 「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
と。

 つまり「家庭」というのは、女性にとっては、軍隊生活における、「兵舎」と同じというわけであ
る。実際、家庭に閉じ込められた女性たちの、悲痛な叫び声には、深刻なものが多い。

「育児で、自分の可能性がつぶされた」「仕事をしたい」「夫が、家庭を私に押しつける」など。
が、最大の問題は、そういう女性たちの苦痛を、夫である男性が理解していないということ。あ
る男性は、妻にこう言った。「何不自由なく、生活できるではないか。お前は、何が不満なの
か」と。

 話は少しそれるが、私は山荘をつくるとき、いつも友だちを招待することばかり考えていた。
で、山荘が完成したころには、毎週のように、親戚や友人たちを呼んで、料理などをしてみせ
た。が、やがて、すぐ、それに疲れてしまった。私は、「家事は、重労働」という事実を、改めて、
思い知らされた。

 その一。客人でやってきた友人たちは、まさに客人。(当然だが……。)こうした友人たちは、
何も手伝ってくれない。そこで私ひとりが、料理、配膳、接待、あと片づけ、風呂と寝具の用
意、ふとん敷き、戸締まり、消灯などなど、すべてをしなければならない。その間に、お茶を出し
たり、あちこちを案内したり……。朝は朝で、一時間は早く起きて、朝食の用意をしなければな
らない。加えて友人を見送ったあとは、部屋の片づけ、洗いものがある。シーツの洗濯もある。

 で、1、2年もすると、もうだれにも山荘の話はしなくなった。たいへんかたいへんでないかと
いうことになれば、たいへんに決まっている。その上、土日が接待でつぶれてしまうため、つぎ
の月曜日からの仕事が、できなくなることもあった。そんなわけで今は、「民宿の亭主だけに
は、ぜったい、なりたくない」と思っている。

 さて、家庭に入った女性には、その上にもう一つ、たいへんな重労働が重なる。育児である。
この育児が、いかに重労働であるかは、もうたびたび書いてきたので、ここでは省略する。が、
本当に重労働。とくに子どもが乳幼児のときは、そうだ。

これも私の経験だが、私も若いころは、生徒たち(幼児、40〜100人)を連れて、季節ごとに、
キャンプをしたり、クリスマス会を開いたりした。今から思うと、若いからできたのだろう。が、3
5歳を過ぎるころから、それができなくなってしまった。体力、気力が、もたない。

 さて、「女性は、家庭で、心的外傷を経験する」(ハーマン)の意見について。「家庭」というの
は、その温もりのある言葉とは裏腹に、まさに兵舎。兵舎そのもの。そしてその家庭から発す
る、閉塞感、窒息感が、女性たちの心をむしばむ。

たとえばフロイトは、軍隊という拘禁状態の中における、自己愛の喪失を例にあげている。自
己愛は軽蔑すべきものだが、しかしその自己愛がまったくないというのも、問題である。つまり
一般世間から、隔離された状態に長くいると、自己愛を喪失し、ついで自己保存本能を喪失す
るという。

家庭に閉じ込められた女性にも、同じようなことが起きる。たとえば、その結果として、子育て
本能すら、喪失することもある。子どもを育てようとする意欲すらなくす。ひどくなると、子どもを
虐待したり、子どもに暴力を振るったりするようになる。

その前の段階として、冷淡、無視、育児拒否などもある。東京都精神医学総合研究所の調査
によっても、約40%の母親たちが、子どもを虐待、もしくは、それに近い行為をしているのが
わかっている。

東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏らの調査によると、約40%弱の母親が、虐待もし
くは虐待に近い行為をしているという。妹尾氏らは虐待の診断基準を作成し、虐待の度合を数
字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」など
の17項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……0点」「ときどきある……1点」「しば
しばある……2点」の3段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。

その結果、「虐待あり」が、有効回答(494人)のうちの九%、「虐待傾向」が、30%、「虐待な
し」が、61%であったという。

 今まさに、家庭に入った女性たちの心にメスが入れられたばかりで、この分野の研究は、こ
れから先、急速に進むと思われる。ただここで言えることは、「家庭に入った女性たちよ、もっ
と声をあげろ!」ということ。ほとんどの女性たちは、「母である」「妻である」という重圧感の中
で、「おかしいのは私だけ」「私は妻として、失格である」「母親らしくない」というような悩み方を
する。そして自分で自分を責める。

 しかし家庭という兵舎の中で、行き場もなく苦しんでいるのは、決して、あなただけではない。
むしろ、もがき苦しむあなたのほうが、当たり前なのだ。もともと家庭というのは、J・ハーマンも
言っているように、女性にとっては、そういうものなのだ。大切なことは、そういう状態であること
を認め、その上で、解決策を考えること。

 一言、つけ加えるなら、世の男性たちよ、夫たちよ、家事や育児が、重労働であることを、理
解してやろうではないか。男の私がこんなことを言うのもおかしいが、しかし私のところに集まっ
てくる情報を集めると、結局は、そういう結論になる。今、あなたの妻は、家事や育児という重
圧感の中で、あなたが想像する以上に、苦しんでいる。


●悪しき「家庭論」

「男は仕事、女は家庭」という、悪しき偏見が、まだこの日本には、根強く残っている。だから大
半の女性は、結婚と同時に、それまでの仕事をやめ、家庭に入る。子どもができれば、なおさ
らである。しかし「自分の可能性を、途中でへし折られる」というのは、たいへんな苦痛である。

Aさん(34歳)は、ある企画会社で、責任ある仕事をしていた。結婚し、子どもが生まれてから
も、何とか、自分の仕事を守りつづけた。しかしそんなとき、夫の転勤問題が起きた。Aさん
は、泣く泣く、本当に泣く泣く、企画会社での仕事をやめ、夫とともに、転勤先へ引っ越した。今
は夫の転勤先で、主婦業に専念しているが、Aさんは、こう言う。「欲求不満ばかりがたまって、
どうしようもない」と。こういうAさんのようなケースは、本当に、多い。

私もときどき、こんなことを考える。もしだれかが、「林、文筆の仕事やめ、家庭に入って育児を
しろ」と言ったら、私は、それに従うだろうか、と。育児と文筆の仕事は、まだ両立できるが、Aさ
んのように、仕事そのものをやめろと言われたらどうだろうか。Aさんは、今、こう言っている。
「子どもがある程度大きくなったら、私は必ず、仕事に復帰します」と。がんばれ、Aさん!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家庭
は兵舎 窒息する母親たち 悪しき家庭論)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●女性的マゾヒズム

++++++++++

自分の肉体や心を
わざと痛めつけて、
それを楽しむ人は
少なくない。

そういうのを、マゾヒズム
という。

++++++++++

 ときとして、夫や家族に対して、異常といえるほどまでに、献身的な女性がいる。このタイプの
女性は、まさに身を粉々にして夫や子どもに仕える。仕えるだけではない。夫の暴力や、不
倫、さらに貧困であることにも、一言も不平をもらすことなく、朝から晩まで、懸命に働く。

 Hさん(60歳女性)が、そうである。2人の子どもはそれぞれ独立し、結婚している。孫も3
人、いる。そのHさんは、いつもこう言う。「私は、夫や子どもが、幸福になればそれでいいので
す」と。昔は、こういう女性を、理想の女性とした。女性のカガミとした。しかしその心理は、そん
な単純なものではない。

 マゾヒズムという言葉がある。「肉体的、精神的苦痛を与えられることに、性的満足を見いだ
す異常性欲の一種」(日本語大辞典)のことをいう。もともとは、オーストリアの作家のザッヘ
ル・マゾッホの名に由来する。わかりやすく言えば、自分の肉体や、精神をわざと苦しめなが
ら、そこに性的な快感を覚えることをいう。ふつうは、性的な意味で、肉体的な苦痛を楽しむこ
とをいう。しかし肉体ばかりではない。

 こんな例がある。

 A子(25歳)は、B男(30歳)と、恋愛関係にあった。しかしたび重なる婚約の申し込み対し
て、A子は、それをかたくなに拒みつづけていた。

B男が理由を聞くと、「私には、学歴もないし、貧しい家の娘。あなたの結婚相手としてふさわし
くない」と。そしてA子は、ある日突然、B男に一通の手紙を残し、そのままひとり、イギリスへ旅
立ってしまった。その手紙には、こうあった。

「私は、あなたのことを忘れるため、イギリスに行きます。向こうで英語の勉強をして、ソーシャ
ルワーカーになります。あなたは、あなたにふさわしい女性を見つけて、どうか幸せになってく
ださい」と。

 B男は、こう言う。「別れる理由などないし、なぜA子が、好んで、自らより困難な道を選ぶの
か、わからない。A子は、いつも自分で自分を、悲劇の主人公にしてしまうようなところがある」
と。

 これがここでいう「女性的マゾヒズム」である。もう少しわかりやすい例では、映画『タイタニッ
ク』を、10回も見たという若い女性がいた。あの映画は、アカデミー賞を総ナメにしたすばらし
い映画だが、しかし10回とは! 

 実は、その若い女性は、その映画がすばらしかったから、10回も見たのではない。自分の
精神を痛め、涙を流すという快感を味わうために、その映画を、繰りかえし見たのである。「何
度も見ても、涙が出る」、「涙を流す場面が決まっていて、そこで思いっきり泣くと、そのあと気
分がスッキリする」と。

 こうした女性的マゾヒズムは、多かれ少なかれ、ほとんどの女性にあるとみてよい。そしてそ
れが高じて、異常なまでに、夫や子どもに献身的になることがある。冒頭にあげたHさんは、ほ
かにたとえば、自分の衣類はほとんど買ったことがない。いつも粗末なものばかりを食べてい
る。しかし異常心理は、異常心理。「今どき……」という言い方は適切ではないかもしれない
が、今どき、こういう生き方は、サマにならない。

 問題は、なぜ女性には、女性的マゾヒズムがあるかということ。(もちろん男性にも、似たよう
な症状を示す人はいる。)フロイトは、「無意識的罪悪感に起因する、自己処罰心理」が、原因
であると説明する。つまり自分では気づいていないが、心のどこかに大きな心的外傷があっ
て、自ら「私は幸福であってはいけない」と、決めつけてしまうことによるというのだ。

 実はHさんは、自分の不注意で、実の妹を、交通事故でなくしている。(本当は、不注意でも
何でもなく、Hさんが、そう思い込んでいるだけだが……。)Hさんが、5歳のとき、妹が、4歳の
ときのことだった。で、Hさんは、ずっとそのことを心のどこかで負い目に思っていたのかもしれ
ない。

それ以後、ことあるごとに、自らより困難な道、より不幸な道ばかりを選ぶようになった。美しい
人だったが、結婚した相手は、酒グセがわるく、定職をもたない男だった。その男は、女性関
係も、だらしなかった。

 さて、あなたはどうだろうか。あなたは「私は、幸福になるべき人間だ」「みなは、私を幸福に
なって当然と考えている」と思っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし心のどこか
で、幸福になることを、自ら避けているようなら、一度、ここに書いたことを参考に、自分の心の
中をのぞいてみるとよい。それが何であるにせよ、自分で自分を痛めつけても意味はない。当
然のことだが、ここでいう女性的マゾヒズムなるものは、ないならないで、そのほうがよいに決
まっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 女性
的マゾヒズム マゾ)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【変わる子どもたちの世界】

++++++++++

子どもたちの世界が、
大きく変わってきた。
同時進行の形で、子どもたちの
心も、大きく変わりつつある。

これも時代の流れか?

++++++++++

●テクノストレス

 テクノストレスという言葉がある。コンピュータに代表されるハイテクと、人間の関係が不調に
なったときに感ずるストレスをいう。このストレスが、一方で、人間どうしのつきあい方にまで、
影響を与えている。

●たとえば携帯電話。

 携帯電話をもつ子どもがふえている。調査のたびに、ぐんぐんとうなぎ昇りにふえているの
で、調査そのものがあまり意味がない。が、それと同時に弊害も表面化してきた。それらを並
べると……

(1)マジックミラー症候群……膨大な情報量の中で、知りたい相手の情報は見ても、自分の情
報は流さない。一方的に相手を観察するだけで、自分の正体は明かさない。あるいは他人の
意見を知り、それを攻撃することはできても、自分の意見は述べない。情報が一方通行化す
る。たとえば以前は、まず自分の名前を名乗ってから、電話をかけたり、手紙を書いたりした。
しかし今は、住所はもちろんのこと、名前すら名乗らない人がふえている。

(2)リセット症候群……一度、嫌いになると、ちょうどスイッチを切るかのように、相手を自分の
世界から抹殺してしまう。その後その相手からメールが入っても、それを受けつけないか、無
視する。ある日、突然、人間関係をゼロにしてしまう。

(3)オセロ症候群……白黒はっきりした人間関係をつくろうとする。敵の敵は味方という考え方
をしながら、その色分けをはっきりする。中間色的なつきあいができなくなる。

(4)マトリックス症候群……バーチャルな人間関係を結ぼうとする。相手は無臭、無味、体温
の感じない状態のほうが、つきあいやすい。自分の側の臭いや味、感情も文の上でコントロー
ルしようとする。一方、現実の世界の人間とは、心を結べなくなる。ある高校生は、こう言った。
「環境が破壊されても、青い空はコンピュータで再現できる」と。ものの考え方が、当然のことな
がら、現実離れしてくる。

(5)字幕症候群……相手からの文字に、自分の心をのせて相手の文を読む。たとえば相手が
「バカだなあ」と書いたとする。相手は冗談のつもりで書いたとしても、その「冗談」の部分はわ
からない。わからないから、こちらの感情でその文を読んで、ときには憤慨したり、怒ったりす
る。

(6)携帯電話依存症候群……携帯電話がないと落ち着かない。気分がすぐれない。携帯電話
に固執する。ある高校生は、教科書を忘れても、家にとりに戻らないが、携帯電話を忘れる
と、昼間でも、家にとりに戻るという。四六時中、かたときも、携帯電話を自分の体から離さな
い子どもは多い。

(7)カプセル症候群……メール用語、メールの世界だけでしか通用しない用語だけで会話をし
ようとする。またそれを知らない人を、よそ者として排斥しようとする。言葉の短縮、隠語、絵文
字、独特の表現など。

(8)ワイヤレス症候群……膨大な情報の中に埋もれてしまい、自分がわからなくなる。無能
化、愚鈍化が進む。一日の行動が決められず、電話の運勢占いにすべてをかける。情報が多
すぎる反面、自分にとってつごうのよい情報しか取り入れないため、ものの考え方が、偏(かた
よ)る。そのためきわめて狭い範囲の専門知識はもつことはあっても、総合的な判断ができなく
なる。

(9)グラフィック症候群……音声の会話ができなくなる。メールでは何でも話せるのに、いざそ
の人と直接対面すると、何も話せない。家の中でさえ、携帯電話で会話(?)している若い夫婦
もいるという。さらに日常会話そのものが、携帯電話的な会話になることもある。「エッヘ〜」
「ギョッ!」「ウソ〜!」と。ものの考え方がイメージ先行型になる。

(10)ボーダーレス現象……性情報が氾濫し、それが見境なく低年齢層の世界まで入り込んで
いる。小学生の間でも、「フェラ(フェラチオ)」「クリ(クリニングス、クリトリス)」などという言葉
は、今では常識。「性」そのものが、ギャグ化されつつある。

(11)情報のフェザー現象……情報の価値が限りなく軽くなり、その分、思考力が浅くなり、も
のの考え方が直観的になる。会話能力の低下、思考能力の低下をきたす。

(12)ほかに、親指人間現象、会話能力欠如現象、言葉の短文化現象、感情の短絡化現象、
文字のマンガ化現象などがある。

通学電車の中。昔は高校生や中学生の笑い声やはしゃぐ声が聞こえた。が、今は違う。誰も
が黙々と携帯電話のボタンを押している。携帯電話をもっていない子どもも、もっている子ども
に遠慮して何も話しかけない。静かだ。しかしおかしい……?

今では中学生の約60%、高校生の約80%が携帯電話をもっている(01年)。すでに「持ち
物」という範囲を超え、携帯電話は子どもたちの間では必需品にすらなりつつある。

「携帯電話がないと、仲間ハズレにされる」「友だちができない」と言った中校生もいる。もちろ
んそれが子どもたちに与える影響は大きい。今どき、テレクラ・ナンパ・援助交際を問題にする
ほうがおかしい。有害な性情報は、容赦なく子どもたちの世界に入り込んでいる。携帯電話に
は便利な部分もあるが、その一方で、子どもたちの心までむしばみ始めていることを忘れては
ならない。

●時代の流れ

問題は、こうした変化をどうとらえるかだが、鉄則の第一、逆らっても、意味がないということ。
鉄則の第二、こうした問題は、私たちがどうこうしようとして、それでどうにかなる問題ではない
ということ。実のところ、私たち自身ですら、その流れの中にある。

 私たちが小学生のころは、マンガが、大きな問題になった。一度は、県全体で、「マンガ禁止
令」なるものも出されたこともある(G県)。「マンガは読んではダメ」と。当時、すでに手塚治虫
氏が活躍していたから、この禁止令が、いかにおかしなものであったかがわかる。

 こうした変化は、まさにときの流れそのもの。かつ同時に、旧世代から、いつも攻撃される。
私の祖父は、いつも、「今どきの若いものは……」と言った。同じように、その祖父も、若いこ
ろ、そのまた祖父から、「今どきの若いものは……」と言われた。

 で、その「流れ」を知る私たちとしては、その流れに添ったものの考え方を、理解することでし
かない。今となって、「携帯電話はだめだ」「パソコンゲームをやらせてはだめだ」と言ったとこ
ろで、意味はない。仮に百歩譲って考えても、正すべきは、子どもの世界ではなく、私たちおと
なの世界である。

たとえば援助交際にしても、援助交際をする女子高校生や中学生を責めても意味はない。責
めるべきは、おとな自身である。たとえ携帯電話が、そのための道具になっていたとしても、携
帯電話を取りあげても、意味はない。

 今の時代を生きる子どもや若者たちは、30年後、あるいは50年後には、今の私たちの知る
世界とは、まったく違った世界をつくるに違いない。しかしそれがどんな世界であれ、それはそ
の世界に住む、その人たちの世界である。少なくとも、「現在」という今を生きる私たちが、とや
かくいう問題ではない。

 ここで取りあげた、テクノストレスにしても、問題は、そういうストレスがあるということではな
く、それをどう解決していくかということである。

●私のばあい
 
 このところ無性に、携帯電話がほしくなった。今まで、2度ほどためしに購入してみたが、その
つど、息子たちに取られてしまった。が、それから、もう、4年になる。

 私は子どものころから、機械いじりが好きで、いつも機械をバラバラにして遊んでいた。そう
いう名残が今でもあって、機能がいっぱいついた電気製品を見たりすると、今でも、ゾクゾクす
る。で、最近の携帯電話では、動画が送受信できることはもちろんのこと、カメラつきのまであ
るという。こうなると私の好奇心が、黙っていない。何としても、そのカメラつきの携帯電話が、
ほしい……。と、考えて、さて本題。

 つまるところ、私が結局は、その「流れ」の中にあることがわかる。そういう私を見て、「林は、
おかしい」と言うなら、それを言う人のほうがおかしい。そしてさらにその結果として、私がデジ
タルカメラつきの携帯電話をもち歩き、かつ人間関係に影響が出てきたとしても、そのときは、
そのとき。時代は、そのときをベースとして、またつぎの流れの中に入っていく。

 そういう点では、私は現実主義者。現実というものを、まず肯定的にとらえる。そしてその上
で、未来を考えていく。空理空論は、私がもっとも嫌うところ。空想は好きだが、夢想するの
は、あまり得意ではない。もともと、というか、子どものころから、たいへん理屈っぽい人間。

 そこでこのエッセーの結論としては、人間を取り巻く環境は今、急速に変化しつつあるし、そう
した変化については、謙虚に耳を傾ける。その結果として、また別の価値観が生まれたとして
も、それはそれとして受け入れる。大切なことは、旧態の価値観を若い世代に、押しつけない
こと。

私のばあい、たとえばこれだけは、若い人に向かっては、言わないようにしている。「今どき
の、若いものは……」という言葉である。私は、若いころ、そういう言葉を、さんざん浴びせかけ
られた。だから、つぎの世代の人たちには、この言葉だけは、言いたくない。

 そうそうあの山本五十六も、「書簡」の中で、こう書いている。「『いまの若い者は』などと、口
はばたきことを申すまじ」と。

●「一般的に言って、ひとつの世代は、その世代中に産み出された世界観によって生きるより
も、むしろ、前時代に産み出された世界観によって生きるものである」(シュヴァイツアー「文化
と倫理」)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 テクノ
ストレス 携帯電話 子供と携帯電話)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●動き出した(?)K国の核開発問題

++++++++++++++

BDAに凍結されていた、(本当は
凍結など、されていなかったのだが)、
K国の資金が、やっと動き出した。

今は、ロシアの中央銀行に届いている
という(6月19日現在)。

この動きを受けて、K国は、IAEA
に査察官派遣の要請を出したという。

韓国は、K国支援のために動き出した
という。

しかし……。

++++++++++++++

 当初は「凍結解除」を口にしていたK国。それが「送金問題」にすり替わった。さらに今は、
「自由な送金問題」にすり替わった。BDAに凍結されていた、(本当は凍結など、されていなか
ったのだが)、K国の資金が、やっと動き出した。今は、ロシアの中央銀行に届いている
という(6月19日現在)。

この動きを受けて、K国は、IAEAに査察官派遣の要請を出したという。韓国は、K国支援のた
めに動き出したという。しかし……。

 ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

 『……K国は、IAEAの実務代表団につづき、核査察団が本格的に訪朝する場合、査察団な
どの立会いの下、寧辺(ヨンビョン)の核施設の稼動中断、閉鎖、封印などの手続きを進める
ことになる。

 専門家らは、初期措置とこれに伴う周辺5か国の相応措置が、すべて履行されるには2〜3週
間程度かかると予想しており、重油5万トンについてはK国が当初の約束を履行する場合、今
週から供給に向けた手続きに入る見通し』と。

 一見、K国の核開発問題が解決する方向に動き出したかのように見えるが、実は、振り出し
に戻っただけである。つまり1994年10月の、「米朝わく組合意」が、それである。

 その1994年10月の米朝わく組合意は、つぎのようなものであった。

●米朝・わく組み合意

『北朝鮮側:核兵器開発を凍結、92年の朝鮮半島非核化共同宣言の履行、NPTに留まり、凍
結されない核関連施設にIAEAの査察を再開する。
米側:発電用軽水炉2基を提供。軽水炉完成まで年間50万トンの重油を提供』。
 
 しかしK国は、この合意を無視。アメリカ側から年間50万トンの重油提供を受けながら、その
一方で、隠れて、核開発を押し進めていた。

 今回は、さらにその上に、ニセ札問題がからんできた。拉致問題がからんできた。さらに当
時問題になった、寧辺(ヨンビョン)の核施設というのは、すでに老朽化していて、「使いものに
ならない」(韓国へ亡命したY氏、K国政府元高官)とのこと。実際、この1年間だけでも、何度も
停止、稼働を繰りかえしている。

 そういう寧辺(ヨンビョン)の核施設を稼動中断、閉鎖、封印したところで、K国にしてみれば、
痛くもかゆくもない。問題は、今の今も、K国の山奥深くで秘密裏になされている核開発であ
る。IAEAの査察官たちは、そういうところまで、自由に、査察できるのか?

 答えは、言わずと知れた、「NO!」である。

 核兵器というのは、金xxにとっては、力(=パワー)の象徴である。と同時に、金xx率いる、巨
大なカルト国家の本尊でもある。その本尊を、金xxが、手放すわけがない。ないことは、あなた
の近くにあるカルト教団を見ればわかる。ときに信者たちは、その本尊のためなら、命だって、
投げ出す。

 それがわからなければ、現在のイラクの状況を見ればわかる。

 本気でK国の核開発問題を解決しようと考えるなら、金xxという独裁者を倒し、K国の政権を
交代させるしかない。自己崩壊でもかまわない。拉致問題にしても、そうである。

 が、それに「待った!」をかけつづけているのが、韓国であり、中国ということになる。6か国
協議など、K国にすれば、茶番劇以下の茶番劇ということになる。

 では、どうなるか?

 K国側は、そのつど、無理難題をふっかけてきては、時間稼ぎをするはず。韓国とアメリカ
は、そのつど、それに引きずりまわされるだけ。IAEAの査察官による自由な査察など、当初か
ら望むべくもない。

 が、日本が、ここで6か国協議から離脱することは、たいへん、まずい。6か国協議は、いわ
ば町内会のようなもの。発言権はなくても、顔だけは出しておく。金xxの健康問題も、いよいよ
最終段階に入りつつある。ひょっとしたら、今年1年も、もたないかもしれない。日本は、あせる
必要は、まったくない。

 ただ韓国の思惑どおりに、ことが運ぶかと言えば、それはありえない。へたをすれば、現在
の38度線が、韓国と中国の国境になるかもしれない。あるいは、それに近い状態になる。もち
ろん韓国も、それをよく知っている。知っているから、あれこれ手を打っている。開城工業団地
もそのひとつだが、今は、完全に中国に押され気味。

 この際、日本は、日本の国益と安全だけを最優先に考えながら、音なしの構えで、他の5か
国の動きを見守るのがよい。追従外交だと言われようが、「金魚のフン」と言われようが、そん
なことは気にしてはいけない。どうせ相手は、K国。本気で相手にしてはいけない。まともに考
えるほうが、おかしい。

 日本は、K国が自己崩壊するのを、静かに待てばよい。またその準備だけは、しっかりとして
おく。

【補記】

 韓国との日韓経済戦争は、最終局面に入りつつある。韓国は韓国株価(コスダック)の上昇
に小躍(おど)りしているが、バンブル経済崩壊直前の状態とみてよい。個人負債も天文学的
数字にまでふくれあがっている。おまけにウォン高、景気の低迷、設備投資の減少などなど。

 かろうじて中国経済に支えられているが、その中国経済も、このところ、ギシギシと音を立て
始めた。映画『タイタニック』で船が沈むときのあの音を思い浮かべればよい。

 韓国というより、現在のN政権は、そのままイコール、K国と考えたほうがよい。日本は、ハン
ナラ政権が大統領の座を取るまで、静かに時を稼ぐ。それまで表立った経済協力は、控えたら
よい。
(6月19日早朝記……ここ数日の間にでも、国際情勢は、大きく変化するかもしれません。)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2009)

●教室から(1) 

 方言もあるのだろうが、このあたりの子どもは、「あ」と「お」の発音が、はっきりしない。「え」
に近い「あ」、「う」に近い「お」を発音する。そこできのう、子どもたち(年長児)に、「『う』の音
は、お父さんとチュウするような口にして、言うんだよ」と言ったら、すかさず、Aさん(女児)が、
こう言った。「私、パパと、チュウしたことないもん」と。

 そこで私が、「エッ、ないの? 今度してもらいなさいよ」と言うと、となりの席の子ども(女児)
が、「パパとママは、いつもチュウしいる!」と。すると別の子ども(女児)が、ニヤニヤしなが
ら、「私、チュウするところを、見たことあるもんね」と。

 クラス中が、騒然としてしまった。「どこで?」「いとこの結婚式で、いとこがみんなの前でチュ
ウしていた!」と。

 年長児くらいから、こういう話がわかるようになる。そこでさらに私が、「パパのこと、好きだっ
たら、君たちのほうから、チュウしてと言えばいい」と言うと、一人の子ども(女児)が、真顔で、
「私、林先生(私!)のほうが、好き!」と。

 そこで私は神妙な顔をして、こう言った。「あのね、ぼくには、女房も子どもも、それに今度は
孫もいるから、あきらめてね」と。その子どもは、どこかポカンとした表情で、私のほうを見てい
た。

●教室から(2)

 子どもは、落書きが好きなんですね。禁止しても意味がない? いくら注意しても、これは子
どもの本能(?)のようなもの。放ってほくと、机はもちろん、壁などにも落書きする。

 そこで私は、教室の特製ノートをつくり、最終ページは、落書きコーナーにした。またそれぞれ
の机には、透明のシートを置き、その下に、落書き用の紙を置いた。子どもたちが自由に落書
きができるようにした。

 こうして落書きコーナーをつくってあげると、子どもは、そこに落書きをするようになる。とた
ん、ほかの場所での落書きが、ほとんど、なくる。

 こうした指導法は、幼児のばあい、いろいろな場面に応用できる。「押してだめなら、思いきっ
て、引いてみる」の要領である。

 たとえば指しゃぶり。「指をしゃぶってはダメ」ではなく、大きな指の模型を渡して、「この指を
吸ってごらん」とか、あるいは哺乳ビンを渡して、「これをしゃぶってみる」と言うなど。ときどき、
「おいしそうな指だね。先生にもなめさせて」言うときもある。子どもの世界では、できrだけ、
「〜〜いてはダメ」式の、禁止命令は避ける。

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

子育て随筆byはやし浩司(744)

●R君の悩み

++++++++++++

【気うつ症で悩む子ども】

+++++++++++++++

いつ晴れるということもない。
悶々とした気分で、毎日を送る。

そういう子どもは少なくない。

+++++++++++++++

●自分で自分を追いこむ

 中学二年のR君は、こう言った。「今度の期末テストがこわい」と。「どうして?」と聞くと、「悪い
点を取るのがこわい」と。

 このところR君は、元気がない。話しかけても、うわの空。反応がない。ときどき恥ずかしそう
に、にっこりと笑うだけ。あとは、ため息ばかりついている。

 私「点が悪いと、お父さんに叱られるのか?」
 R「ううん」
 私「じゃあ、お母さんか?」
 R「ちがう……」
 私「じゃあ、どうしてこわいの?」
 R「ぼくは、今、こうしてがんばっている。これだけがんばっているのに、もし悪い点だったら、
ぼくは、自分に自信をなくしてしまう。ぼくは、それでおしまい。それがこわい」と。

 そこで私は、こう言った。「あのね、今日、がんばったから、明日、いい結果が出るということ
はないよ。何か月も、あるいは何年も先に、結果が出るということもある。だから、そんなふうに
考えてはいけないよ」と。

 R君は、自分で自分を追いつめていた。R君自身が、学歴カルトの信者になっている。だれか
が、R君をそういう子どもにしむけたというわけではない。家庭の雰囲気、学校の雰囲気、そし
て友だちの雰囲気の中で、R君は今のR君になった。

このタイプの子どもに、「学校なんか、どこでもいいじゃないか」などと言うのは、その信仰を信
じている人に、「あなたの信仰はまちがっている」と言うに等しい。かえってその子どもを、混乱
状態におとしいれてしまう。

●気うつ症
 
 抑圧された精神状態が長くつづくと、子どもでも気うつ症になる。見た目にも、暗く沈み、元気
がなくなる。しかしこういう症状が、だれの目にもわかるようになったときというのは、すでにか
なり心が病んでいるとみる。つまりそうなる前に、その前兆をとらえ、適切に対処しなければな
らない。

が、実のところ、これがむずかしい。前兆をとらえるのがむずかしいのではなく、仮に前兆があ
っても、ほとんどの親は、それを無視してしまう。「気のせいだ」「わがままだ」「疲れているだけ」
と。さらには「一時的なもの」「そのうちなおるだろう」と、安易に考えてしまう。

 たとえばその前兆として、つぎのようなものがある。

(1)感情の起伏がはげしくなる。……ちょっとしたことで、カッと怒りだしたり、そうかと思うと、ソ
ファの上で、ぼんやりとしているなど。親子の会話が少なくなり、親からみて、「何を考えている
かわからない」といったふうになる。R君の母親も、「家では、何も話してくれません」と言ってい
た。

(2)疲れ(倦怠感)を訴える。……何をしても、「疲れた」と言う。子どものばあい、体力を使って
疲れたようなときには、「眠い」という。子どもが「疲れた」というときは、精神的疲労をいう。ちょ
っとしたことで、その疲れを訴えることが、多くなる。

(3)いろいろな神経症を発症する。……神経症は、千差万別で定型がない。不眠、早朝覚醒、
悪夢、腹痛、頭痛、脚痛のほか、「おかしな行為だ」と思ったら、神経症を疑ってみる。(検索サ
イトで、「はやし浩司 神経症」で検索。)

(4)生活態度がだらしなくなる。……部屋が散らかったり、身のまわりのことが、ぞんざいにな
る。髪の毛がボサボサになったり、何日も、風呂に入らなかったりするなど。約束を忘れたり、
「うっかり事故」が多くなる。

(5)生活習慣が乱れる。……夜と昼が逆転したり、その前の段階として、真夜中まで起きてい
て、朝、起きられないなど。反対に、日中、ぼんやりするなどの症状が見られることもある。R
君は、こう言った。「ときどき、授業中でも、眠っている」と。

(6)行動に統制がとれなくなる。……目的そのものを喪失するため、「あれをしてみたい」「これ
をしてみたい」などといって、そのつど、周囲のものを引き回す。しかしもともと目的がはっきり
しないため、しばらくすると、また別のものに移動していく。R君は、そのため、その前後の半年
間だけでも、二回も塾をかえ、今度は「インターネット学習をしたい」と言いだしている。

(7)体型が変化することもある。……こうした状態が長くつづくと、子どもによっては、気うつ症
独特の雰囲気をもつようになる。顔中が、ぽってりと太ったり、動作が緩慢(かんまん)になった
りするなど。R君のばあいも、どこか水太りのような感じになり、顔色もどんよりと曇り、子どもら
しい、生彩が消えた。

 そのR君が、大きく変化したのは、冒頭にあげた期末試験の直後だった。R君は、ポツリとこ
う言った。「先生、何もできなかったよ……」と。

●テスト中、眠ってしまったR君

 期末試験のとき、テスト用紙を見たとき、R君は、その内容が、今まで勉強してきた内容と、
まったく違ったことを知った。中学二年のレベルでは、たとえばその時期、連立方程式、あるい
はその文章題が出ることになっていた。しかし第1問は、「1個50円のミカン、1個100円のリ
ンゴ、1個500円のメロンがある。全部で、10個、金額も、1000円以内におさめたい。全部
で何通りの買い方があるか」と。

 最近は、中学校でも、この種の問題がふえた。「できる・できない」をみるのではなく、「考える
かどうか」を試す。それはそれとしてよい傾向だが、しかしR君は、それまで見たこともない問題
にとまどった。とたん、パニック! 「頭の中が、真っ白になりました」と言った。

 この時点で、注意しなければならないことがある。

 子どもは(もちろん、おとなも)、最初にこうだと思った状況を、自ら、つくりだしてしまうことが
ある。これを私は、「自己成就予言」と呼んでいる。内心で思っていることを、自ら、無意識のう
ちにも、具体的に作りだしてしまうことをいう。いろいろな例がある。

●自己成就予言

 Aさん(高2女子)が、ある日、こう言った。「先生、私、明日、交通事故にあう」と。「どうして、
そんなことがわかるの?」と聞くと、「私には、自分の未来が予言できる」と。

 で、それから数日後、見ると、Aさんは、顔の右半分、それから右腕にかけて包帯を巻いてい
た。私はAさんの話を忘れていたので、「どうしたの?」と聞くと、「自転車で走っていたら、うしろ
から自動車が来たので、それを避けようとしたら、体が塀にぶつかってしまった」と。

 このAさんのケースでは、自らに「交通事故を起こす」という暗示をかけ、そしてその暗示が、
無意識のうちに、事故を引き起こしてしまったことになる。つまり無意識下の自分が、Aさん自
身を裏からコントロールしたことになる。こうした例は多い。

 毎朝、携帯電話の占いを見てくる女性(二五歳くらい)がいる。「あんなものインチキだよ」と私
が言うと、猛然と反発した。「ちゃんと、当たりますよ。不思議なくらいに!」と。彼女はいろいろ
な例をあげてくれたが、それもここでいう自己成就予言で説明できる。

 彼女の話によると、こういうことらしい。「今日は、ちょっとしたできごとがあるので、ものごとは
控え目に」という占いが出たとする。「で、その占いにさからって、昼食に、おなかいっぱい、ピ
ザを食べたら、とたんに、気持ち悪くなってしまった。控え目にしておかなかった、私が悪かっ
た」と。

 しかしこの占いはおかしい。仮に昼食を控え目にして、体調がよければよいで、それでも、
「当たった」ということになる。それにものごとは、何でも控え目程度のほうが、うまくいく。つまり
彼女は、「控え目にしなければならない」という暗示を自らにかけ、同時に、「それを守らなけれ
ば、何かおかしなことになる」という予備知識を与えてしまったことになる。あとは、「おかしなこ
と」という部分を、自ら、具体的に作りだしてしまったというわけである。つまり占いが当たった
わけではなく、自分をその占いに合わせて、つくってしまった。

●R君の自己成就的予言

 R君は、テストの前から、「今度のテストで失敗すれば、自分はおしまいだ」という暗示を、自
分にかけた。そして懸命に、そのテストに向けて、勉強した。しかしその勉強は、自らがしたくて
した勉強ではない。「しなければ、自分はダメになる」という強迫観念の中で、いわば追いたて
られてした勉強である。
 
 で、その強迫観念が、テスト用紙を見たとき、頂点に達した。が、見たこともない問題ばか
り! ふつうならこういうとき、「何とか別の方法で……」と考えるが、R君のばあい、自ら、「失
敗する」という暗示を同時にかけてしまったのかもしれない。そこでパニック状態になってしまっ
た。

 私「どうして、考えようとしなかったの?」
 R「見たこともない問題で、どうしたらいいかわからなくなった」
 私「でも、君の力で、解ける問題だよ」
 R「しばらく問題を見つめていたら、眠くなってしまった」
 私「眠い……?」
 R「そう、それで、ぼく、眠ってしまった」
 私「テスト中に、か?」
 R「うん……」と。

 心がパニック状態になると、今度は、心の防衛機能が働く。これを心理学の世界では、「防衛
機制」という。この防衛機制には、攻撃型(人やものごとに攻撃的、暴力的になる。自虐的な攻
撃型もある)、回避型(人と接するのを避けるようになる。引きこもる)、同情型(弱い自分を演
出して、相手を同情させながら、相手をコントロールする)、服従型(徹底的に相手に忠誠を誓
い、自分にとって、居心地のよい世界をつくる)などがある。

 R君のばあいは、ここでいう回避型と考えてよい。パニック状態になったとき、そのパニック状
態を回避するために、眠ってしまったというわけである。

●R君の父親に会う

 私はR君の家にでかけた。R君の家は、昔からの呉服店で、父親は、自らその店先で仕事を
していた。感じのよい人だった。あらかじめ母親にも話してあったので、母親もそこにいた。時
計は、夜の一〇時を示していた。まだどこか肌寒さが残っていた。

 父「思い当たることはないのですが……。無理に勉強を強いたわけでもありませんし。本人に
は、好きなようにしなさいと言っているのですよ」
 私「いえ、決して、お父さんやお母さんのせいだと言っているのではありません」
 母「ただ、あの子が通っている学校が学校でしょ。みんな、進学の話ばかりしているのです。
それで自分を追いこんだのかもしれません」
 私「そういうことは、よくあります」

 しかしこういう問題では、だれかを責めても意味はない。もちろん本人の責任でもない。

 私「私が心配するのは、このままでは、本人が、バーントアウトしてしまうことです」
 父「バーントアウト?」
 私「そうです。燃え尽きてしまうということです」
 父「どういうことですか?」
 私「完全な無気力状態になってしまうということです。まったく何もしないで、ぼんやりとしてし
まうということです。しかしそれだけではありません。その前後に、いろいろな神経症による症
状が出てくることもあります。情緒障害や、精神障害の遠因になることもあります」

 母「このところ、そう言えば、あれほど好きだった、サッカーをやめたいと言いだしています」
 父「そうなんですよ。理由を聞いても言わないし……」
 私「私が今、ここで言えることは、サッカーはやめないほうがいいということ。今ここでやめる
と、それこそ糸の切れた凧(たこ)のようになってしまいます」
 父「糸の切れた凧、ですか?」
 私「無気力状態が、一挙に加速するということです」
 
●どうすればよいのか?

幸いR君のばあいは、症状が軽かった。両親も理解してくれた。まだR君には、自分の意識
で、自分をコントロールする力をもっていた。こうした子どもの気うつ状態は、長くつづけばつづ
くほど、回復がより困難になる。私はつぎのようにアドバイスした。

(1)学校から帰ってきたら、ひとりでぼんやりできる時間をふやす。周囲の人があれこれ気を
つかうのは、かえって逆効果。子どもの側から見て、親の視線をまったく感じないようにするの
が望ましい。とくに土日の過ごし方は、本人のまったくの自由にする。

(2)学校での成績のでき、ふできは、あきらめる。「がんばれ」式の励まし、「こんなことでは…
…!」式のおどしは、禁物。「よくがんべっているね」式の理解を、示してあげる。

(3)負担を少しずつ、減らす。急に減らすと、今度は、立ちなおりができなくなる。学習塾も、週
二回程度にする。サッカー部は、やめないほうがよい。

(4)Ca、Mg分の多い食生活に心がけ、生活のリズムは大切にする。無理な夜更かし、不規
則な生活は禁物。一度サイクルが狂い始めると、どんどん狂っていくので、注意する。

(5)なおそうと考えるのではなく、今の状態をより悪化させないことだけを考え、一か月単位
で、様子をみる。数日単位で、瞬間的になおったかのように見えるときもあるが、そういう姿に
だまされてはいけない。説教したり、叱ったりするのは、タブー。

 実のところ、ここで「症状が軽かった」と書いたが、私自身は、「間にあった」とほっとしてい
る。あと数か月とか、半年放置していたら、R君は、不登校もしくは、引きこもりを起こしていた
かもしれない。あるいはその程度では、すまなかったかもしれない。今のところ、学校へは、何
とか通っているので、その状態をじょうずに保てば、R君は、このまま立ちなおっていくものと思
われる。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)

+++++++++++++++

予言を信じて、その予言どおりの
ことをする。無意識なまま、すること
もある。

そしてあとになって、こう言う。

「予言が当たった」と。

これを自己成就的予言という。

+++++++++++++++

 だれかがあなたに向って、「あなたはO型だから、おおらかね」と言ったとする。するとあなた
は、血液型による性格判断を信ずるあまり、何かにつけて、おおらかであろうとする。

 つまり、だれかに言われたような性格を、自らつくりあげてしまう。そして自ら、「やはり血液型
による性格判断は正しい」と、思いこんでしまう。これを心理学の世界では、「「自己成就的予
言(self-fulfilling prophecy)」という。

 わかりやすく言えば、予言の内容にそって、その内容を自ら、つくりだしてしまうこと。

 たとえばある人が、占い師に、「20XX年の7月に、あなたは交通事故にあう」と言われたとす
る。

 そのとき、理性のある人は、「そんなバカなことがあるか」と自分に言って聞かせ、それを無
視する。しかし中には、それができない人がいる。そして「7月に交通事故にあう」と信ずるあま
り、その7月に、自ら交通事故を起こしてしまう。こういうケースは、カルトの世界では、よく観察
される。

 よく知られた事例としては、あのO真理教による、アルマゲドン(世界終末)事件がある。あの
教団は、「世界が終末を迎える」と信ずるあまり、自分たちで、あちこちにサリンという猛毒をま
き、その終末を演出しようとした。

 わかりやすく言えば、中には、迷信にあわせて、その迷信にそった事実を、自らつくってしまう
人もいるということ。そしてその自らつくった事実をもとに、さらにその迷信を肯定してしまう。血
液型による性格判断も、その一つと考えてよい。

●結論

 概して言えば、血液型による性格判断を信ずる人というのは、迷信を信じやすい人と考えて
よい。

 手相、姓名判断、占い、まじないなど。その中の一つとして、血液型による性格判断がある。

 しかしこうした方向性というのは、自己意識が確立し始める、小学3、4年生あたりからはっき
りしてくる。この時期に、迷信を信じやすい子どもと、そうでない子どもに分かれる。それまでの
子どもでも、よく観察すれば、その方向性を知ることができる。

 そこで大切なことは、この時期までに、いかにして子どもの中に、論理性を育てていくかという
こと。「なぜ?」「どうして?」の会話を繰りかえしながら、おかしいものは、おかしいと思う心を育
てていく。

 ここから先は、それぞれの親の判断ということになるが、少なくとも、論理的なものの考え方
を育てるためには、この時期までの子どもには、いわゆる迷信は、話さないほうがよい。子ども
がそれらしきことを口にしたときは、「そんなバカなことはない」と、きっぱりと言い切る。そういう
姿勢が、子どもの中の方向性を、修正する。

 ただし、「夢」と、「迷信」は区別して考える。「サンタクロースがクリスマスに、プレゼントをもっ
てくる」というのは、夢。「西の空に、カラスを見たら、人が死ぬ」というのは、迷信ということにな
る。

 子どもの夢は夢として、大切に考える。

【追記】

 私の父親は、M会という、どこかカルト的な教団の信者だった。一方、私の母は、今でもそう
だが、迷信のかたまりのような人だ。

 そんなわけで、私は子どものころ、ある時期までは、迷信をよく信じた。しかし今から思うと、
そういう意味では、そういう両親をもったがゆえに、かえって迷信に反発したのかもしれない。
私の父親や母親は、私にとっては、いわゆる反面教師になった?

 小学3、4年を境に、私はむしろ、そうした迷信を、ことごとく否定するようになった。その結果
が、今の私ということになる。

 よく覚えているのは、父親がメンバーになっていたM会での会合のときのこと。だれかが、
「親の因果は子にたたり……」というような話をしていた。それについて、その男が、突然私に
向って、「そこのぼうや、君は、どう思うかね?」と聞いた。

 私は、そのとき、父親につれられて、その会の末席で、座ってその話を聞いていた。私が小
学3年生か、4年生のときのことだった。

 私はとっさの判断で、「そんなバカなことはない」と、思わず口走ってしまった。

 そのあとのことはよく覚えていないが、その男が、どこか怒ったような口調で、何やら話しつづ
けたことだけは、記憶のどこかに残っている。

 たしかにこの世界には、理屈だけでは、説明できないことや、理解できないことは多い。しか
しそれらは、人間の能力の限界によるものであって、決して、超自然的な力によるものではな
い。言いかえると、迷信を口にする人は、自らの能力の限界を認め、理性の敗北を認める人と
いってよい。

 だから……。結論へと飛躍するが、血液型による性格判断は、もうやめよう。本来なら、こん
なことは、論ずることだけでも、時間のムダ。しかし一度は、結論を出しておきたかった。だか
らここに書いた。

【追記2】

 こんなおもしろい話を聞いた。何かのビデオ映画の中での会話だが、一人の男が、こう言っ
た。

 天国はあるかというテーマについて……。

 「ある宇宙飛行士が、宇宙に行ってみたが、天国はどこにもなかったと言った。それに答え
て、ある脳外科医がこう言った。『私は、ある哲学者の脳ミソを開いてみたことがあるが、思想
らしきものは、どこにもなかった』と」

 つまりその宇宙飛行士は、宇宙へ出てみたが、天国はなかった。だから天国はないと言っ
た。

 それに答えて、「見えないから、ない」ということにはならないという意味で、脳外科医はこう言
った。

 「ある哲学者の脳ミソを開いてみたが、思想らしきものはなかった」と。つまり、「だからといっ
て、その哲学者には、思想がないとは言えない。それと同じように、天国はないとは言えない」
と。

 一見、おもしろい論理だが、この話は、どこかおかしい。私も、瞬間、「なかなかうまいこと言う
な」と感心した。

 が、宇宙飛行士が、宇宙へ出てみたが、天国はなかったというのは、事実。一方、脳ミソの
中に、思想らしきものがなかったというのは、事実ではない。つまり事実を、事実でないものと
対比させて、その事実をねじまげている。

 脳ミソの中には、思想がつまっている。無数の神経細胞から、それぞれこれまた無数のシナ
プスがのび、それらが複雑に交叉しながら、その人の思想を形成している。もしそうしたシナプ
スを解読する方法が見つかれば、脳ミソを開いた段階で、その人の思想を読み取ることができ
るようになるかもしれない。

 脳ミソの中には、事実として、思想がある。宇宙に天国があるかいなかという話とは、まったく
別の話なのである。

 こうした一見論理的な非論理は、日常会話の中でも、よく経験する。

 ある人が、私にこう言った。

 「林君は、霊の存在を否定するが、しかし電波はどうなのかね。テレビ電波なら、テレビ電波
でもいい。林君は、その電波を見ることができるかね。見ることができないだろ。が、だからと
いって、電波を否定しないよね。同じように、今、見えないからといって、霊の存在を否定しては
いけないよ」と。

 この論理も、事実を、事実でないものと対比させて、その事実をねじまげている。あるいはそ
の反対でもよい。事実でないものを、事実と対比させて、事実でないものを、あたかも事実であ
るかのように話している。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、こんなことも言える。

 「テレビ電波は、人間の目では見ることはできない。しかし存在する。同じように、人間の運、
不運も、人間の目では見ることはできないからといって、否定してはいけない」と。

 いろいろに応用(?)できるようだ。

●迷信は、下劣な魂の持ち主たちに可能な、ゆいいつの宗教である。(ジューベル「パンセ」)

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
成就 自己成就的予言 具現 予言成就 自己成就予言)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司
【SK君からはやし浩司へ】

++++++++++++++++

4年ぶりに、SK君からメールが
届いた。

うれしかった。

++++++++++++++++

林先生、お久しぶりです。覚えておられるでしょうか? 元BW生のSKです。時の流れるのは早
いもので、僕ももう高校一年生です。今日、メールさせて頂いたのは、近況報告、また言ってお
きたいことがあるからです。まずは近況報告から。前述しましたが、僕も高校生になりました。
受験期、努力したかいあって、静岡県立浜松K高等学校に入学することができました。

また、運命のいたずらか、BW同期のHT君とも一緒のクラスになりました。覚えていますか? 
彼も元気にしてます。僕はAC部に入部し、毎日筋トレに励みながらも勉強を頑張っています。
でも数学が・・・。まあそれはおいときましょう。とにかく高校生活をエンジョイしてます!

次に、今更なんだ?、と思われるかもしれませんが、伝えておきたいことがあります。僕はBW
を退塾処分という形で抜けました。今思い返せば、「なんであんなアホな事を・・・・」と感じます。

教室が変更される前(あのお姫様、王子様の部屋というやつがあった教室です)から、僕は授
業そっちのけで、HT君達と騒いで、いわば「授業妨害」をしていました。また、先生にむかって
暴言を吐いた事も多々ありました。

教室が変わってからも相変わらず授業妨害。ついには授業中に口笛。これでは先生が怒られ
るのも当然です。あの頃の僕にとって、BWに行く=遊びに行くという意識があり、BWとは遊び
の代名詞でした。本当に馬鹿でした。勉強と遊びを履きちがえるなんて。

あの時は反抗心があったのでしょう。素直に自分が悪いとは言えず、時間だけが過ぎて今に
至りました。今ならハッキリと言えます。あの時は本当に申し訳ありませんでした。本当なら先
生と面と向かって謝りたいところですが、先生もお忙しそうですし、僕自身も部活で多忙な毎日
を送っています。ですからメールという形で伝えさせていただきました。

僕は今、2年後の大学受験に向けて早くも準備を始めています。僕の夢は防衛大学校に合格
し、自衛官になることです。先生もお仕事、頑張ってください。長くなってしまいすみませんでし
た。できれば返事をください。

【はやし浩司からSK君へ】

SK君へ

おはよう!

元気か?

あのね、ぼくは少しも、君に対して
悪い印象はもっていないよ。

率直に言えば、楽しかった。これは
本音。

アブトロニックという言葉は今でも
覚えているよ。

あのとき君はこう言っただろ。

「塾は3月でやめる。
お母さんがそうしろと言っている」と。

ぼくはその言葉にショックを受けたんだよ。
裏切られたような気分になってね。

君のことが原因ではないんだよ。
ぼくは信頼されて、任されていると
思っていたからね。たまたまそこへ
君の暴言が加わった。

だから君にあやまってもらう必要も
ないし、君もあやまる必要はない。

君のような男のほうが、将来、大物に
なるよ。どんな世界へ入っても
成功するよ。それも、ぼくにはわかって
いる。自分を信じて、前に進め。

過去のことは、蹴散らして進めばいい。
そのほうが、君らしい。

まあ、あのころは、楽しかった。
ワイワイ騒いで、それで終わった。
一応、学力を身につけさせるのが
ぼくの仕事だから、遊んでばかりいる
わけにはいかなかったんだよ。

そのジレンマでは、悩んだけれどね。

HT君かあ? なつかしいね。
元気か? あいつは元気だろうね。
またあったら、よろしく言っておいてほしい。

あいつは稀にみる、天才だからね。
頭がいいよ。本当に頭がいいよ。
キレる。ああいう友だちと仲良くすると
いいよ。いい刺激を受けると思う。

それにあいつも大物になるよ。

今ね、君のようなバイタリティの
ある男子が少なくなってきた。みな、
ナヨナヨしていてね。これじゃ、日本の
将来は真っ暗だ。

だから君のような子どもにがんばって
もらわなくてはいけない。

だから自分を信じて前に進め。
君はすばらしい青年→おとなになるよ。

ぼくが保証する。君のことをよく
知っているからね。

これから遊びに行ってくる。
では、

BW

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【人格】

●ジコチュー

+++++++++++++++

自己中心性が強い、つまりジコチュー
な人は、それだけ人格の完成度が
低い人とみる。EQ論でも、そのように
位置づけている。

言いかえると、いかにしてそのジコチュー
と戦うか? それが自己の人格をみがく、
ひとつの方法ということになる。

+++++++++++++++

 子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい学校に入りなさい」と言うこと自体、ジコチューの表
れとみる。「子どものため」と言いながら、結局は、親が感ずる不安や心配を、親は、子どもに
ぶつけているだけ。親のエゴを子どもに押しつけているだけ。

 が、それだけではすまない。

 そういう親の心を、子どもは、裏から読み取ってしまう。読みとるだけならまだしも、その心
を、そっくりそのまま引き継いでしまう。ユングのシャドウ論を、改めて持ち出すまでもない。

 子ども自身も、ジコチューな人間になってしまう。つまりその分だけ、人格の完成が遅れてし
まう。回り道をする。人生を無駄にする。

 何を隠そう、私の母ですら、私の受験期には、私の受験勉強に狂奔した。その母の口ぐせ
は、いつも同じ。「勉強しなければ、自転車屋を継げ」だった。「自転車屋を継げ」という言葉
は、私にとっては、「死ね」という言葉と同じだった。

 私は子どものころから、「商(あきな)い」という仕事が、嫌いだった。加えてあの山に囲まれ
た、M町という町が嫌いだった。あとになって母は、よく、「私が息子を大学まで出した」と、よく
人に自慢したが、事実は、ちがう。私は、自転車屋になるのがいやで、勉強しただけだった。

 母は、自分のエゴをかぎりなく、私に押しつけた。私という、子どものためではない。私とい
う、子どものことを考えたからでもない。その証拠に、一方で、私に勉強を強いながら、他方
で、私が郷里から離れることを、何よりも警戒した。「郷里」というよりは、母から離れることを警
戒した。

 結果、私はそういう母に反発しながらも、きわめて自己中心性の強い人間になってしまった。
「うちの子さえよければそれでいい」という母の自己中心性は、「自分だけがよければそれでい
い」という、私の自己中心性へと変わっていった。青年期という、心の形成期にそれを経験した
私にとっては、それは悲劇と言ってもよい。

 それから20年近く、私は、暗くて長い、心のトンネルに入った。今でもあのころの自分を思い
出すと、ぞっとする。たとえば友だちのだれかが、事故か病気で学校を休んだりすると、それだ
けで「しめた!」と思ったことがある。私の心は、それほどまでに歪(ゆが)んでいた。

 一度、そのころにできた心というのは、そんなに簡単には変えられない。それは心の壁に張
りついたカビのようなもの。かきむしっても、かきむしっても、そこにある。少し油断をすると、ま
た新しく生えてきてしまう。が、それだけではない。

 自己中心性の強い人というのは、どんなことでも、自分の心を基準にして、他人の心の内容
まで決めてしまう。たとえば先に書いたように、私は、友だちのだれかが、事故か病気で学校
を休んだりすると、それだけで「しめた!」と思った。しかしそう思うことで、自分自身が事故か
病気で学校を休んだりすると、みなもまた、「しめた!」と思っているにちがいないと考えてしま
う。

 自己中心性の強い人は、そういう意味では、孤独な人ということになる。だれも信じられない
……というよりは、自分自身すら信ずることができない。

 が、幸運にも、こうした私の自己中心性は、一過性のもの(?)で終わった。一過性というより
は、「一時期性」と言ったほうが正確かもしれない。幼児期から少年期の私は、思う存分、遊ん
だ。さらに高校を卒業してからというもの、これまた思う存分、遊んだ。この「遊んだ」という経験
が、自分を取り戻してくれた。

 もうすぐ60歳という年齢になる。この年齢になって、はじめて、それがよくわかるようになっ
た。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【EQ(Emotional Quality、人格指数)】

●EQとは……

 IQ(Intelligence Quality、知能指数)に対して、EQ(人格指数)という言葉がある。

 IQは、

 IQ=((精神年齢)÷(生活年齢))×100で、計算される。

 精神年齢というのは、知能テストの結果など。生活年齢というのは、その人(子ども)が、生ま
れてから、テストを受けるまでの年齢をいう。

 要するに、IQで、頭のよしあしがわかるということ。しかしここで誤解してはいけないことは、I
Qが高いから、その人(子ども)の人格の完成度が高いということにはならないということ。えて
して、この日本では、(頭のよい人)イコール、(すぐれた人)イコール、(人格の完成度が高い)
とみる。しかしこれは誤解というより、幻想。幻想というより、ウソ!

 しかしその人(子ども)の人格の完成度は、もっと、別の方向からみなければならない。それ
が、EQである。

●EQ

 EQを最初に提唱したのは、D・ゴールマンである。彼は、ハーバード大学を出たあと、ジャー
ナリストとして活躍しているうちに、「EQ、こころの知能指数」を発表。この本は、たちまちベスト
セラーになり、日本でも翻訳出版された。1990年代の中ごろのことだった。

 一般論として、以前から、IQの高い人(子ども)ほど、心が冷たいとよく言われる。それは、
(頭がよい人間)の特有の症状と考えてよい。

 ある子ども(小5男児)は、こう言った。「みんなバカに見える」と。「算数の授業でも、ほかの
ヤツら、どうしてこんな問題が解けないのかと、不思議に思うことが多い」と。

 彼は進学塾でも、飛び級をして、学習をしていた。

 こうした優越感が、ほかの子どもとの間に、カベをつくる。そして結果として、その子どもだけ
が、遊離してしまう。そしてさらにその結果、他人から見ると、「心の冷たい子ども」ということに
なる。

 しかしこれは、多分に誤解による部分もないとは言えない。

●IQの高い子どもは、誤解されやすい 

 私の印象に残っている子どもに、N君という子どもがいた。私は、彼を、幼稚園の年中児のと
きから、小五まで教えた。

 そのN君が、年中児のときのこと。ふと見ると、彼が、箱の立体図を描いているのがわかっ
た。この時期、箱の立体図を、ほぼ正確に描ける子どもは、数100人に1人もいない。(あるい
は、もっと少ない。)

 それまでは、私は、N君は、どこか得体の知れない子どもとばかり思っていた。しかし彼がそ
う見えたのは、彼にしてみれば、まわりが、あまりにも幼稚すぎたからである。

 以後、N君は、天才的ともいうべき能力を発揮した。が、N君の母親はいつも、こう悩んでい
た。

 「いつも先生や、友だちに、生意気だと言って、嫌われます」と。

 たしかにN君は、一見、生意気に見えた。中学生が方程式を使って解くような問題でも、N君
は、独自の方法で、解いてしまったりした。彼が小学4、5年生のころのことである。

●しかしEQも大切

が、だからといって、私は、(IQの高い子ども)イコール、(人格者)と言っているのではない。事
実は、その逆のことが多い。

 一般的に、IQの高い子どもには、つぎのような特徴が見られる。

(1)自分の優秀性を信ずるあまり、ほかの人(子ども)を、見くだす。
(2)そのため、仲間から遊離しやすく、孤独になりやすい。
(3)協調性がなく、人間関係をうまく調整できず、がり勉になりやすい。
(4)結果的に友人が少なくなる。心を開けなくなる。独善、独断に陥りやすい。

 そこでIQの高い人(子ども)は、同時に、EQを高めなければならない。そのEQは、つぎのよ
うな視点から、判断される。

(1)感情のコントロールは、できるか。
(2)統率力、判断力、指導力はあるか。
(3)弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるか。
(4)決断力、行動力、性格の一貫性はあるか。

 この中で、とくに重要なのは、(3)の、弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるかと
いう点である。わかりやすく言えば、より相手(=弱者)の立場になって、ものを考えられるかと
いうこと。

●EQは、思春期までに完成される

 このEQは、思春期までに完成され、それ以後、そのEQが、大きく変化するということは、な
い。つまりこの時期までの、人格の完成度が、その後の、子どもの人格のあり方に、大きく影
響する。

 しかしこの日本では、ちょうどこのころ、子どもたちは、受験勉強を経験する。この受験勉強
の弊害をあげたら、キリがないが、その一つが、ここでいうEQへの悪影響である。

 私は幼児から高校3年生まで、一貫して子どもを教えているが、この受験期にさしかかると、
子どもの心が、大きく変化するのを知っている。この時期を境に、ものの考え方が、どこか非
人間的(=ドライ)になり、かつ合理的、打算的になる。

 親は、成績がよくなることだけを考えて子どもに勉強を強いる。あるいは、進学塾へ、入れ
る。が、こうした一方的な教育姿勢が、心の冷たい子どもを作る。そしてその結果、回りまわっ
て、今度は、親自身が、さみしい思いをすることになる。

 「おかげで、いい大学へと、喜んでみせる、そのうしろ。そこには、かわいた秋の空っ風」と。

 受験勉強は、この日本では、避けては通れない道かもしれないが、子育ては、それだけでは
ない。そういう視点から、もう一度、EQを考えてみてほしい。

子育ては、失敗してみて、それが失敗だったと、はじめてわかる。だれも、「うちの子は、だいじ
ょうぶ」「うちにかぎって……」と思って、無理をする。そして失敗する。あああ。私の知ったこと
か!
(040107)

【追記】

 あなたの親類でも近所でもよい。とくに戦後直後の、出世主義の教育を受けた人ほど、そう
だ。

 そういう人の中で、高学歴をもって、それなりの仕事をしている人を観察してみるとよい。
 
 もちろん中には、そうでない人も多いが、一方、全体としてみると、あなたはそういう人ほど、
心の冷たい人だと知るだろう。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●EQ

その人のEQは、先にも書いたように、「弱者や下位の者に対して、共鳴力、共感力はあるか」
で決まる。

 言いかえると、もし、あなたが今、自分で心の冷たさに気づいたら、いつも相手の立場でもの
を考えるようにするとよい。時間はかかるが、やがてあなたは自分のEQを、高めることができ
る。

 かく言う私も、はげしい受験勉強を経験している。そしてその時期を境に、ものの考え方が変
ったのを知っている。しかしそれに気づくのに、10年。少しだけ自分を変えるのに、さらに10
年はかかった。そんなことを考えながら書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++++

●問題のある子ども

 問題のある子どもをかかえると、親は、とことん苦しむ。学校の先生や、みなに、迷惑をかけ
ているのではという思いが、自分を小さくする。

よく「問題のある子どもをもつ親ほど、学校での講演会や行事に出てきてほしいと思うが、そう
いう親ほど、出てこない」という意見を聞く。教える側の意見としては、そのとおりだが、しかし実
際には、行きたくても行けない。恥ずかしいという思いもあるが、それ以上に、白い視線にさら
されるのは、つらい。

それに「あなたの子ではないか!」とよく言われるが、親とて、どうしようもないのだ。たしかに
自分の子どもは、自分の子どもだが、自分の力がおよばない部分のほうが大きい。そんなわ
けで、たまたまあなたの子育てがうまくいっているからといって、うまくいっていない人の子育て
をとやかく言ってはいけない。

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが、苦手。目が上ばかり向いている。たとえばマスコ
ミの世界。私は昔、R社という出版社で仕事をしていたことがある。あのR社の社員は、地位や
肩書きのある人にはペコペコし、そうでない(私のような)人間は、ゴミのようにあつかった。電
話のかけかたそのものにしても、おもしろいほど違っていた。

相手が大学の教授であったりすると、「ハイハイ、かしこまりました。おおせのとおりにいたしま
す」と言い、つづいてそうでない(私のような)人間であったりすると、「あのね、あんた、そうは
言ってもねエ……」と。それこそただの社員ですら、ほとんど無意識のうちにそういうふうに態
度を切りかえていた。その無意識であるところが、まさに日本人独特の特性そのものといって
もよい。

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。私の立場
でいうなら、『子育て論は、子育てで失敗した人に聞け』ということになる。実際、私にとって役
にたつ話は、子育てで失敗した人の話。スイスイと受験戦争を勝ち抜いていった子どもの話な
ど、ほとんど役にたたない。

が、一般の親たちは、成功者の話だけを一方的に聞き、その話をもとに自分の子育てを組み
たてようとする。たとえば子どもの受験にしても、ほとんどの親はすべったときのことなど考えな
い。すべったとき、どのように子どもの心にキズがつき、またその後遺症が残るなどということ
は考えない。この日本では、そのケアのし方すら論じられていない。

 問題のある子どもを責めるのは簡単なこと。ついでそういう子どもをもつ親を責めるのは、も
っと簡単なこと。しかしそういう視点をもてばもつほど、あなたは自分の姿を見失う。あるいは
自分が今度は、その立場に置かされたとき、苦しむ。

聖書にもこんな言葉がある。「慈悲深い人は祝福される。なぜなら彼らは慈悲を示されるだろ
う」(Matthew5-9)と。この言葉を裏から読むと、「人を笑った人は、笑った分だけ、今度は自分
が笑われる」ということになる。そういう意味でも、子育てを考えるときは、いつも弱者の視点に
自分を置く。そういう視点が、いつかあなたの子育てを救うことになる。
(040107)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2010)

【今朝・あれこれ】(6月20日)

+++++++++++++++

今朝は、6時半まで、ぐっすりと
眠った。

気持ちよかった。いや、朝方、腕を
あげた拍子に、枕もとのコップを
倒してしまった。

幸い、水はほとんど残っていなかった
ので、そのまままた眠ってしまった。

+++++++++++++++

●日本の外務大臣

 先日、K国が日本海に向けて、ミサイルの発射実験をした。それについて日本の外務大臣
は、もぐもぐと、言葉にならない単語だけを並べて、何かを述べたあと、こう言った。「ソ連の領
海に……近い……」と。

 ソ連? 日本の外務大臣が、ソ連?

 それをTUBEで見て、私は、あきれるよりも先に、笑ってしまった。低劣な人だとは思ってい
たが、ここまで低劣だとは知らなかった。

 ソ連は、崩壊した。今は、あの国のことを、「ロシア」というの!


●静かに考える時間

 日本の外務大臣のような政治家が生まれる背景には、こうした政治家が、(静かに考える時
間)をもたないことがあげられる。昔、ある国会議員が、私にそう教えてくれた。「忙しすぎて、
自分で考える時間がないのです」と。

 しかし考えるだけでは、足りない。私はそれに加えて、(文を書くこと)が重要だと思う。たとえ
ば文を書いていると、書き始めたときには考えもしなかったような、別の事実に気がつくときが
ある。

 それはたとえて言うなら、背の高いアシを、手でかき分けながら進むのに似ている。ときとし
て自分でも何を書いているかわからないときがある。が、最後のひとかきをしたところで、その
先に別の世界が広がっているのがわかったりする。

 それが楽しみだから、書くのをやめることができない。

 「ロシア」を「ソ連」と言いまちがえる、日本の外務大臣。私やあなたがまちがえるならまだし
も、日本の外務大臣である。おそらく、日本の外務大臣には、(考える)という時間すらないので
はないか。さらに、その習慣そのものがないのではないか。(考えてものを書く)という習慣その
ものがないのではないか。

 これは日本の外交にとって、悲しむべきことだと思う。聞くところによると、あの程度の人が
(失礼!)、時期総理大臣の椅子をねらっているという。お笑いタレントが、どこかの県の知事
になる時代だから、私は驚かない。が、しかしこれを民主主義に対する冒涜(ぼうとく)と言わず
して、何と言う!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ボケ?

+++++++++++++++

昨日、ワイフが、恐ろしいことを
言った。

「最近、あなた少しボケてきた
みたいね」と。

「どこで、そう思った?」と聞くと、
「ほら、ものをよく忘れるでしょ」と。

……。

そう言えば、ものを忘れるというよりは、
ものを置き忘れる。

1日に、1〜2回は、そのため、
そうしたさがしものをする。

ワイフはそれを言った。

+++++++++++++++

 ボケは恐ろしい。私の母や、兄を見ていると、そう感ずる。ボケることによって、人は人でなく
なってしまう。
 
 そういう私を見ながら、昨日、ワイフが、恐ろしいことを言った。「最近、あなた少しボケてきた
みたいね」と。

「どこで、そう思った?」と聞くと、「ほら、ものをよく忘れるでしょ」と。

……。

そう言えば、ものを忘れる。忘れるというよりは、ものを置き忘れる。1日に、1〜2回は、その
ため、そうしたさがしものをする。ワイフはそれを言った。

 このところ、どうも集中力が散漫になってきた。ひとつのことを考えていると、ほかのことがわ
からなくなる。わからないまま、行動する。だから、忘れる。これもボケの初期症状のひとつか
もしれない。注意しよう!


●夢

++++++++++++++

ときどき、昔見た夢を、再現した
夢を見る。

今朝も、そうだった。

++++++++++++++

 どこかの坂をのぼりながら、どこかの温泉地を訪ねる。道路わきには、ズラリと店が並んでい
て、みやげものが山のようになっている。「きっと流行(はや)っている温泉地だ」と、私は、思っ
た。

 坂をのぼりきると、平坦な道路になり、両脇に旅館が並んでいる。いつか見た旅館だ。実際
に見た旅館ではなく、昔、夢の中で見た旅館だ。

 とたん、どういうわけか、なつかしさがこみあげてくる。が、あたりの様子は、すっかり変わっ
ていた。「このあたりに店があったはず」と思って、その店をさがすが、それがわからない。「こ
のあたりに分かれ道があったはず」と思って、その道をさがすが、それもわからない。

 私は道に沿って、商店街のほうへと歩く。金物屋や床屋、それに雑貨店などが並んでいる。
こちらのほうは、どの店も、元気がない。さびれている。

 今、思いだせるのは、この程度だが、夢というのは不思議なものだ。(時間)がわからない。
一説によると、ほんの瞬間に見るということだそうだ。(あるいは反対に、何十分もかけて、短
い夢を見るという説もある。)

 私は前者の説を支持する。たった今も、瞬間、うたた寝をしたが、その間にも、かなり濃密な
夢を見た。時間にすれば、数分以下だったと思うが、夢の中では、数時間分だったような気が
する。

 それに(夢日記)でもつけていなければ、いつ見た夢かもわからなくなってしまう。あの旅館街
の夢にしても、「昔、夢の中で見た」というだけで、それがいつ見た夢なのか、どうしても思い出
せない。数年前に見たような気もするし、同じ今朝、見たような気もする。

 夢というのは、そういうものらしい。

 そうそうそのあと、私は、バスに乗った。いつもの夢である。バスに乗って、どこかへ向かっ
た。田舎のあぜ道を走るような、ボンネットバスで、ボデイには、青いラインが入っていた。


●韓国の動きを注視!

+++++++++++++++

早々と韓国は、K国援助の準備に
とりかかった。

同時に、「アメリカも200万ドル
の援助を単独ですることになった」と
発表。

これに対してアメリカの国務省は、
「そんなことは言っていない」と
反発。「ヒル国務次官補も知らない
こと」と。

韓国という国は、ウソでも何でも
ワーワーと騒いで、それを既成事実化
してしまう国らしい。

韓国の動きに、注視! 

+++++++++++++++

 まず今朝の朝鮮N報の経済記事を読んでみてほしい(6月20日)。

 『川崎重工業は世界シェアトップの韓国造船メーカーに対抗するため、中国・大連に同国最
大級の造船所を建設することを発表した、と日本経済新聞が19日報道した。2010年の稼動
開始を目指すこの造船所は、生産能力を段階的に100万トンまで引き上げる計画だ。

 最近、日本の製造業ではトヨタ自動車が中国・インド・ロシア・ブラジルの「BRICs」地域攻略
のため、大型投資計画を発表、松下電器とシャープが超薄型プラズマ・液晶テレビ生産のため
大規模投資を進めるなど、韓国が得意とする産業分野に攻勢をかけている』と。

 この中で、「韓国造船メーカーに対抗するため」とか、「韓国が得意とする産業分野に攻勢を
かけている」という部分に注意してほしい。

 つまりこういう部分だけを、やたらと強調する。

 つまり彼らは、日本の経済の動きを、自分たちの被害妄想で、ねじまげてしまっている。もっ
とはっきり言えば、日本は、韓国など、相手にしていない。していないことは、日本の新聞の経
済欄をよく読めばわかる。今、韓国のウォンがいくらなのか、それを知っている日本人は、かぎ
りなくゼロに近い。

 ……ということで、6か国協議。早々と韓国は、K国援助の準備にとりかかった。同時に、「ア
メリカも200万ドルの援助を単独ですることになった」と発表。

これに対してアメリカの国務省は、「そんなことは言っていない」と反発。「ヒル国務次官補も知
らないこと」と。

韓国という国は、ウソでも何でもワーワーと騒いで、それを既成事実化してしまう国らしい。韓
国の動きに、注視! 


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●マガジン

 この2日間で、3日分のマガジンを発行予約した。やっと調子が戻ってきた。この分だと、今
週中には、遅れを取り戻すことができるかもしれない。この原稿を書き終えたら、7月9日分の
発行予約を入れるつもり。

 苦しかった。気が重かった。そんなとき、MELMA・マガジンのうほうで、広告収入が入った。
わずか(ごめん!)1500円前後だったが、うれしかった。私には、大きな励みになった。

 コマーシャルをクリックしてくれたみなさん、ありがとう! これからもクリックしてください。1
回、クリックしてくださると、私のほうへ20円の収入が入るしくみになっています。

  
Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●相対的視点

+++++++++++++++++

今朝、朝食のとき、ワイフが
庭で遊ぶスズメたちを見ながら、
こう言った。

「空を自由に飛べたら気持ちいい
でしょうね」「スズメたちは、それを
楽しんでいるみたい」と。

+++++++++++++++++

 今朝、朝食のとき、ワイフが庭で遊ぶスズメたちを見ながら、こう言った。

「空を自由に飛べたら気持ちいいでしょうね」「スズメたちは、それを楽しんでいるみたい」と。

 実は、私も、先日、同じことを考えた。しかしまったく、別の視点で……。

 犬のハナと、中田島砂丘海岸のほうへ散歩に行ったときのこと。私はいつも自転車に乗り、
ハナの横を伴走する。その帰り道、ふと下を見ると、そこには野菜畑がつらなっていた。畝(う
ね)が、波のようにつぎつぎと視界の中を流れていった。

 私はそれを見ながら、「飛ぶ」ということは、高度の問題にすぎないということを知った。つまり
人間は、空を飛ぶことはできない。しかし高度こそちがうが、私たちは、日常的に同じようなこ
とをしている、と。

 たとえば反対に、地面を這(は)う虫に視点を置いて考えてみよう。虫たちから見れば、私た
ち人間は、虫の身長の数千倍も高い所を、歩いたり、走ったりしている。人間の尺度に換算す
ると、数千メートルの高度ということになる。

 しかし私たちは、飛んでいるとは思わない。また、それゆえに、歩いたり走ったりすることを、
「気持ちいい」とは思わない。「当り前のこと」と思う。

 だからワイフにこう言った。

 「スズメたちは、気持ちいいなどとは思っていないよ」「飛ぶことを楽しむということもしないよ」
と。

 それがわからなければ、今度は、こう考えてみればよい。

 たとえば事故か何かで、歩けなくなった人に、自分の視点を置いてみる。そういう人にしてみ
れば、歩いたり、走ったりすることができるだけでも、いかにすばらしいことか! 私も、何度
か、そういう経験をしている。

 私の母にしても、私の家に来るまでの2年間、歩くということを、ほとんどしなかった。そこで私
は母の部屋に、何十本ものパイプを組み、母が自分で歩けるようにしてやった。

 それがよほど、うれしかったのだろう。その夜、ふと見ると、母は、パイプをにぎりながら、自
分で歩く訓練をしていた。

 つまり私たちは、(今、そこにある価値)に気がつかないまま、(別の価値)を、うらやましく感
じたり、ときには、ねたんだりする。しかしものの見方をほんの少し変えるだけで、(今、そこに
ある価値)に気がつくことができる。

 私たちは、(飛べない)のではない。実は、日常的に、(飛んでいる)のである。今、こうして自
由に歩けること、走れること、それ自体が、飛んでいることということになる。

 ……という話は、(行動)についての話である。もっと煮つめれば、(肉体)の話である。が、こ
れを今度は、(精神)にあてはめて考えてみよう。

 世の中には、空を自由に舞う鳥のように、ものを考える人がいる。が、その一方で、硬直した
ものの考え方に固執し、狭い世界から一歩も出られない人もいる。もっとも、空を自由に舞う鳥
のように、ものを考える人からは、硬直したものの考え方に固執する人がわかる。が、その反
対は、ない。

 つまり硬直したものの考え方に固執する人からは、空を自由に舞う鳥のように、ものを考える
人がわからない。わからないというより、理解できない。そういうことはあるが、私たちは、ほん
の少しだけ、自分の視点を変えるだけで、空を自由に舞う鳥のように、自由にものを考えること
ができるようになる。

 「私は飛べない」と思っている人もいるかもしれないが、そんなことはない。ほんの少しだけ、
視点を変えてみればよい。それで飛ぶことができる。たとえば日本人の心をがんじがらめにし
ている、先祖論、家意識、親意識、家父長制度などなど。

 こうした古い因習や風俗の中で、もがき苦しんでいる人は多い。しかしほんの少しだけ、視点
を変えてみれば、そういったものを乗り越えて、自由に空を飛ぶことができる。あたかも空を自
由に舞う鳥のように、だ。

 空を飛ぶ……それは何も、鳥たちだけができる特権ではない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●またまたフェムト秒

+++++++++++++++

庭に、このところスズメバチが
よくやってくる。

近くに巣を作ったらしい。
気をつけよう!

+++++++++++++++

 庭に、このところスズメバチが、よくやってくる。近くに巣を作ったらしい。気をつけよう。私は、
今度ハチに刺されたら、そのまま死んでしまうかもしれない。

 で、そのスズメバチを見ていて、こんなことを考えた。

 スズメバチというのは、(何もスズメバチにかぎらないが)、動きが速い。チョコチョコと、葉か
ら葉へと動きまわる。それを見ながら、私は、では、人間と比較して、どれくらい速いかを考え
てみた。

 たとえば、一枚の葉から別の葉に移るときの動作を観察してみよう。人間で言えば、ヘリコプ
ターを操縦して、一つの着陸地点から別の着陸地点に移る動作にたとえられる。実際に計測し
たことはないので、正確な数字はわからないが、スズメバチは、それを、2〜3秒の間にやって
のける。

 しかしヘリコプターだと、どんなに早くても、(舞い上がる高度にもよるが)、数分以上はかか
る。つまり、スズメバチのほうが、人間よりも、100倍近く速く、行動しているということになる。

 ということは、スズメバチたちは、人間世界でいうところの1秒を、100秒にして生きていると
いうことになる。さらに言えば、彼らの1日というのは、人間世界でいうところに100日というこ
とになる。また彼らの1年というのは、人間でいうところの100年ということになる。

 どこかメチャメチャな計算だが、しかしもともと「1秒」という人間が決めた単位にすぎない。ス
ズメバチの時間をみるほうが、おかしい。フェムト秒という単位がある。その単位でみれば、人
間世界でいうところの1秒は、3100万年(3100万年だぞ!)に相当する。

 もし人間がフェムト秒単位で生きることができるようになったとしたら、人間は、1秒を、3100
万年にして生きることができる!

 わかるかな? 1秒を、3100万年だぞ!

 スズメバチが飛ぶのを見ていると、目にも止まらない速さで、羽をはばたいているのがわか
る。しかし彼らにしてみれば、そよ風の中で揺れる葉のようにして、羽をはばたいているのかも
しれない。フワフワと、だ。

 もともと彼らがもつ時間性と、私たち人間がもつ時間性とは、ちがう。さらにこんなことも言え
る。

 先日、この日本で、「量子コンピュータ」なるものが開発されたという(読売新聞)。それによれ
ば、スーパーコンピューでさえ、1000万年かかる計算を、数10秒で解くことができるという。

 わかるかな?

 スーパーコンピュータでさえ、1000万年もかかる計算を、何と、数10秒で解くという。もし、
そんな能力をもったロボットが現れたら、そのロボットは、人間世界でいうところの1秒を、それ
こそ1000万年分にして生きることができるということになる。

 実際には、スーパーコンピュータでさえ、人間の能力をはるかに超えている。卓上にある電卓
にしても、掛け算や割り算など、あっという間にしてのける。だから実際には、そのロボットは、
それこそフェムト秒単位で生きることができるようになるかもしれない。

 ……というような話は、決して、デタラメでも、空想話でもない。さらにダメ押しとして、それが
わからなければ、あなたも一度、特別養護老人ホームをのぞいてみたらよい。

 あの老人ホームでは、老人たちが、1日を、あたかも、1分か2分かのようにして生きている。
何をするでもなし、ただ空中をみつめたまま、その日、その日を過ごしている。私たちのもつ時
間性と、老人たちのもつ時間性は、明らかにちがう。

 先週より、「時間性」の問題について考えてきた。この話が、少しは、みなさんの時間性の理
解につながれば、うれしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 時間
性)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●輸血拒否

++++++++++++++

注入された思想を、思想と
思いこむ、愚かさ。

「教え」とは何か?
その人が自ら考えるように
しむけることを、「教え」という。

思想を注入することを、「教え」とは
言わない。

まず、それに気づいたらよい。

++++++++++++++

 またまた起きた。輸血拒否による、死亡事故である。毎日新聞はつぎのように伝える(6月1
9日)。

『信仰上の理由で輸血を拒否している、宗教団体「Eの証人」信者の妊婦が5月、大阪医科大
病院(大阪府高槻市)で帝王切開の手術中に大量出血し、輸血を受けなかったため死亡した
ことが19日、分かった。

病院は、死亡の可能性も説明したうえ、本人と同意書を交わしていた。Eの証人信者への輸血
を巡っては、緊急時に無断で輸血して救命した医師と病院が患者に訴えられ、意思決定権を
侵害したとして最高裁で敗訴が確定している。

一方、同病院の医師や看護師からは「瀕死(ひんし)の患者を見殺しにしてよかったのか」と疑
問の声も上がっている』(毎日新聞)と。

++++++++++++++++

Eという宗教団体については、
すでにたびたび書いてきた。

その原稿を再掲載する。

++++++++++++++++

●「E」という宗教団体

 私が「E」という宗教団体に、最初に興味をもったのは、ほかならない、学生時代の友人(女
性)が、その宗教団体の信者になったからである。

 どこか過激(pushing)な宗教団体で、その団体は、輸血を拒否することで、よく知られている。
そこで、ある日、その教団の「日本の本部」に電話をかけて、そのことを確かめてみた。

 電話はあちこちに回されたが、そのあと、幹部と呼ばれる人から、こういう返事をもらった。
「私どもは、一度だって、信者の方に輸血を拒否するよう指導した覚えはありません。しかし熱
心な信者なら、信仰上の確信から、自ら、輸血を拒否するでしょう」と。

 何とも、巧みな、責任逃れな言い方である。

 そうした輸血を拒否したため、90年代に入ってから、このH市でも、患者が死亡してしまうと
いう事件が起きている。さらに、その団体では、ほかの団体との交流を禁止している。(多分、
本部の人たちは、「禁止はしていない。熱心な信者なら……」という言い方をするだろうが…
…。)

 そのためその友人は、同窓会には、一度も顔を出していない。いないばかりか、ある日、同
窓生全員に、聖書なる分厚い本を送り届けてきた。

 私にとっては、何とも悲しいできごとであった。それまではその女性に、特別な感情ををもって
いたが、それを知ったとき、その女性が、私の手の届かない、はるか遠くに行ってしまったよう
に感じた。と、同時に、慕情は消えた。

 人はそれぞれの方法で、幸福への道をさがす。幸福というゴールは一つかもしれないが、道
は無数にある。またその道は、千差万別。

 だからこうした過激な宗教団体に入信したからといって、その人を責めても意味はない。また
責める必要もない。大切なのは、それぞれの立場で、その人を、そっとしておいてやることであ
る。

 ただ「E」という宗教団体が問題なのは、その過激性(=狂信性)ゆえに、家庭崩壊という問題
を、あちこちで引き起こしているということ。たいていは、ある日突然、夫の知らないところで、
妻が入信してしまう。その深刻さは、部外者には、想像もつかない。「妻を返せ!」「家族を返
せ!」と、悲痛な叫び声をあげている夫は、その団体のまわりだけでも、推定、4万人はいると
される(「M」、三一書房)。

 で、その友人の夫は、どうだったのだろうか。……ということを考えていくと、「私でなくてよか
った」と、思ってしまう。……というところから、その友人への慕情が消えた。いくら私でも、そし
ていくら熱烈な恋愛をしたからといっても、それを乗りこえて、そうした女性を愛しつづけること
は、不可能だっただろう。

 今、15年ぶりに、再び、カルト関係の本を読み始めている。一度は、足を洗った世界だが、
しかしどうしても無視できない事情が、このところ生まれてきた。これから先、この問題につい
て、少しずつ、考えていきたい。

(補記)

 大切なことは、日ごろから、自分の常識力をみがいておくこと。

 ごくふつうの人間として、ふつうの生活をしながら、その中で、常識力をみがいておくこと。

 音楽を聞き、旅行をし、本を読み、スポーツや運動を楽しみながら、みがいておくこと。

 奇をてらった修行をしなければ真理に到達できないとか、ほかの人たちとの接触を禁ずるよ
うなことを教えているというのであれば、そもそも、その教えはまちがっている。

 それがわからなければ、野に遊ぶ、鳥や動物を見ればわかる。彼らはいつも、自然の中で、
自然に生きている。人間もまた、そうであるべきであって、そうであることをまちがっているとい
うのなら、そう言うほうが、まちがっている。

 この常識力が、あなたを、こうしたカルトから、守る。いらぬ節介かもしれないが……。

++++++++++++++++

ついでに、血液型の問題について。

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●血液型

 ある雑誌に、先日、血液型による性格判断について、記事を書いた。「血液型による性格判
断ほど、ナンセンスなものはない」というのが、私の書いた記事の趣旨である。

 それについて、「そうとは言い切れないのでは……?」という意見が届いた。M県に住んでい
るX氏である。血液の種類が、人間の性格に影響をおよぼすことは、ありえないことではない、
と。

 そこで私なりに調べてみた。で、わかったことは、たとえば血小板の中に含まれる、血小板M
AO(モノアミン酸化酵素)が、脳の中の神経物質に影響を与えるという説もあるということがわ
かった(深堀元文「心理学のすべて」)。

 しかし「血液型性格論は、赤血球の血液型を判断基準としていて、血小板は関係ありません
し、血小板MAOの働きに関しても、反論が多く提出されています」(同書)とのこと。血液型と血
小板は、まったく関係がないということ。やはり血液型と、その人の性格は、関係ないということ
になる。

 で、結論。もうこういうくだらない俗説を振りまわすのは、やめよう。血液型と性格とは、関係
ない。私も無数の子どもたちを見てきたが、子どもの血液型など、話題にしたこともない。関連
性があるなら、私だって、とっくの昔に気がついているはずである。
(はやし浩司 血小板MAO 血液型 血液型性格判断 性格判断)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●アロマセラピー

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アロマセラピーが流行している。

私の教え子の母親も、そういう
店を開いた。

たいへん興味がある。

がんばれ、Tさん!

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 五感というときは、(1)視覚(見る)、(2)聴覚(聞く)、(3)味覚(味わう)、(4)触覚(触れた感
覚)のほか、もう一つ、(5)嗅覚(かぐ)がある。

 この嗅覚について、昔は、それほど重要視されなかった。大脳の中でも、古い大脳皮質に属
するものと考えられていた。

 が、最近の研究によれば、嗅覚は前頭葉とも関連していることがわかってきた。つまり人間
の人格とも深く関連している、と。前頭葉(前頭連合野)が損傷を受けると、「移り気になり、野
心もなくなり、節度に欠け、人格が以前とまったく変わってしまうこともある」(新井康允)そうだ。

 人間の正しい行動プログラムは、この前頭葉が支配している。その前頭葉に、嗅覚が関連し
ているというわけである。

 この「力」を利用したのが、アロマセラピーということになる。「におい」を利用して、精神活動
を調整しようというのが、それである。

実際、鼻の奥の嗅細胞は、5000万個あり、平均的な人で、2000種類のにおいをかぎわけ
ることができるといわれている。調香師のようなプロになると、1万種類のにおいをかぎわける
ことができるという(深堀元文)。

 私のばあい、どういうわけか、嗅覚だけは、人並み以上に発達している。つまり、鼻がよい。
ワイフとくらべても、数倍から数10倍はよいと思う。(数字で比較することができないが……。)
風向きによっては、数10メートル離れたところでも、タバコのにおいなどを、かぎわけることが
できる。

 ワイフは、よく「あなたはイヌみたい」と言うが、それに近い。

 で、そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「視覚や聴覚については、わかるけど、
嗅覚がよくて、何か得することがあるの?」と。

 実のところ、実益は、あまり、ない。しかしにおいに、敏感なのは事実。そしてそのにおいに、
心が左右されることは、よくある。よいにおいをかぐと、心が休まる。そうでなければ、そうでな
い。そんなわけで、一時は、アロマセラピーに、たいへんこった。庭に、薬草を、何10種類もそ
ろえたことがある。(すべてイヌのハナに、荒らされてしまったが……。)

 こんなことをこういうエッセーで書くのは、不謹慎かもしれないが、私は、若いころは、女性
を、においで選んでいたようなところがある。顔や容姿がいくらよくても、においが合わないとき
は、どうしても、その女性を、好きになれなかった。今でも、そうだ。

街ですれちがったとき、ふと、よいにおいがしたりすると、振りかえって、その女性を見たりす
る。そうでないときは、さっと、体を避けたりする。

 香水のにおいとか、そういうにおいではない。体臭である。その体臭が、香水を超えて、私の
鼻を刺激する。

 ……とまあ、一方的に自分勝手なことばかりを書いたが、では、私自身のにおいはどうかと
いうと、本当のところ、自信がない。老臭に歯槽膿漏(しそう・のうろう)のにおい。それに不潔な
フケのにおいなどなど。若い女性なら、顔をそむけたくなるようなにおいを、プンプンさせている
と思う(多分?)。

 自分ではわからないが……。

 で、この嗅覚は、味覚とも関連があるということもわかってきた。さらに嗅覚は、それ自体が
独立して、記憶されるということもわかってきた。あるにおいをかいだとき、以前に同じようなに
おいをかいだときの記憶が、そのままもどってくるということは、よくある。嗅覚には、そういう力
もある。

 嗅覚を、決して、あなどってはいけない。……ということで、このエッセーは、おしまい。
(はやし浩司 アロマセラピー 嗅覚 五感)

【付記】

 五感はそれぞれが独立した感覚のように考えられているが、脳ミソの中では、一体化してい
ると考えられている。たとえばひどい騒音を耳にすると、嗅覚や味覚が影響を受け、感覚をなく
したりする。

 反対に、美しい音楽を聞きながら食事をすると、味覚が影響を受け、その料理を、よりおいし
く感じたりする。キズか何かがあって、痛みがひどいと、美しい音楽も、騒音に聞こえる、など。

 私は、聴覚はよくないが、たとえばモノ売りの声が聞こえてきたりすると、そのとたん、思考が
停止してしまう。「うるさい!」と思ったとたん、キーボードをたたく指が止まってしまう。

 五感は、脳ミソに、いろいろな形で作用するようである。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●子どもの指導法

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子どもの指導で気をつけなければ
ならにのは、決して、おとなの
優位性を、押しつけてはいけない
ということ。

ときには、バカな人間のフリをして、
子どもに自信をもたせる。

+++++++++++++++

 子どもにいろいろなことを頼むとき、親は、これまたいろいろな言い方をする。ふつう、親が子
どもに、何かをしてほしいときは、つぎのような言い方をする。(参考、渋谷昌三、「心理学用語
辞典」)

(1)命令型
(2)目的語型
(3)不履行非難型
(4)直接依頼型
(5)意向打診型
(6)願望型
(7)提案型
(8)話し手行動型
(9)話し手事情型
(10)受け手事情型(以上、同辞典)

 ほかにも、(11)脅迫型、(12)同情型、(13)依存型、(14)自覚奮起型、(15)恩着せ型な
どが考えられる。順に、具体的に考えてみよう。

 たとえばあなたの子どもが、テストが近いというのに、家の中で、ゴロゴロしていたとする。そ
のとき、あなたは、どのような言い方をするだろうか。

「勉強しなさい!」……命令型
「勉強、勉強」「いい成績を取るのよ」……目的語型
「どうしてあなたは、勉強しないの!」……不履行非難型
「勉強してくれない?」……直接依頼型
「どう、少しは勉強してみたら?」……意向打診型
「あなたがいい成績を取ったら、うれしいわ」……願望型
「どうだろう、いっしょに問題集を開いてみない?」……提案型
「今日、勉強したらよいところに、印を入れておくよ」……話し手行動型
「私立大学だと、学費も高いでしょう。勉強して、国立に入ってね」……話し手事情型
「あなた、だいじょうぶなの? ゴロゴロしていて?」……受け手事情型
「勉強しろ。でなければ、小遣いを減らすぞ」……脅迫型
「いろいろたいへんね。勉強するのも、いやなことね」……同情型
「しっかり勉強してくれないと、お母さんも、困るのよ」……依存型
「そろそろ勉強したほうが、いいと思うよ」……自覚奮起型
「私はあなたのために、パートの仕事をしているのよ。わかる?」……恩着せ型、など。

 そのときの親意識の程度、親子関係によっても、言い方は、さまざまに変化する。同じテスト
といっても、週末のテストと、入試テストとでは、緊張感もちがう。そうしたちがいに応じて、親の
言い方も変化する。

最近の傾向としては、公教育の場では、命令型、脅迫型などは、タブー視されている。かわっ
て、意向打診型、提案型の言い方が、主流になってきている。

 たとえば掃除の時間でも、「みさなん、掃除の時間ですよ」(自覚奮起型)、「力を合わせて、
教室をきれいにしたらどう」(提案型)など。

 一般論として、「その仕事(勉強)に対するコスト(重要度)が大きいときは、(4)の直接依頼
型より、(5)の意向打診型のほうが多くなる」ということだそうだ(同辞典)。

 親の言い方一つで、子どもは、伸びる。反対に、子どものやる気を奪ってしまうこともある。さ
て、あなたは、子どもに対して、日ごろ、どんな言い方をしているだろうか。
(はやし浩司 子どもの指導法 子供の指導法 言い方 指導のし方 指導の仕方)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2011)

●ボランティア活動

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ボランティア活動について
考えてみた。

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 数日前、自転車で夜道を走っていたら、歩道に倒れている男いた。寒い夜だった。見た感じ
では、酔っぱらって、そのまま倒れてしまったようだ。酒臭かった。

 5〜7メートルほど行き過ぎてから、私は自転車を止めた。振りかえった。声をかけるべきか
どうかで、一瞬、迷った。気がつかなかったが、その男の横近くに、もう1人の男の人が立って
いた。「仲間だろうか?」と思った。

 その瞬間、私の心から、その倒れている男への責任感が薄らいだのを感じた。「その人に任
せればいいや」と。これを心理学でも、「責任の分散」という。

 責任を取るべき人が多くなればなるほど、責任感が薄らぐことを意味する。もしそのとき、私
ひとりだけなら、たとえば声をかけたり、ばあいによっては、救急車を呼んだかもしれない。し
かしその男の仲間らしき男の人を見たとき、その気持ちは消えた。

 で、私は、その立っている男の人に声をかけた。「知りあいですか?」と。するとその男の人
は、平気な声で、「ナーニ、酔っぱらっているだけでよ」と言って、笑った。そしてその倒れてい
る男をまたぐようにして、向こうのほうへ歩いていってしまった。

 そのときのこと。私の中に、それまで経験しなかった思いが、わいてきた。

 「このまま、無視して去ったとき、私はどんな責任を負わされるのだろうか」と。

 法律的には、私には、その人を救助する義務はない。無視して去ったところで、責任を問わ
れることはない。しかし、私は、一応、教育評論家である。(自称、そう思っているだけだが…
…。)

 いくら法的には責任がないとはいえ、無視して去るわけにはいかない。そこで声をかけた。

 「だいじょうぶですか?」「ああ……」と。そして私の声につられて、その男は、ヨロヨロと立ち
あがった。

 つまり私が声をかけたのは、その男を心配したからではなく、自分の立場を心配したからで
ある。これを心理学では、「愛他的自己愛」という。つまり自分がかわいいため、一応、他人を
愛するフリをしているだけ。本物のボランティア精神とはちがう。

 本物のボランティア精神というのは、滅私の状態で、相手につくす。これを「向社会的行動」と
いう。私が経験したのは、それとは異質のものである。

 ……ということで、同じボランティア活動でも、「愛他的自己愛」によるものもあれば、「向社会
的行動」によるものもある。よくどこかのテレビタレントが、その売名行為(?)のために、何か
のボランティア活動をしてみせることがある。そういうのは、たいてい「愛他的自己愛」によるも
のと考えてよい。わかりやすく言えば、偽善。

「向社会的行動」によるボランティア活動は、ジミで、だいたいにおいて、日陰の活動。マスコミ
の世界には、流れてこない。(マスコミが、調べて報道するということはあるが……。)

 ボランティア活動について、考えてみた。
(はやし浩司 ボランティア ボランティア活動 向社会的行動 愛他的自己愛 偽善)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2012)

【今日のこと】(6月21日)

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昨日、講演の依頼が、2つあった。
ともに静岡県教職員組合からのもの。

教育委員会のA氏が、「1か所は
1000人、もう1か所は800人を
予定しています」と話してくれた。

ツンとした緊張感を、背中で感ずる。

これでまた新しい目標がひとつできた。
旅行で言えば、「目的地」ということに
なる。

さっそく今日から、その準備に
とりかかる。

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●目標

 恩師のT先生は、中国での講演のため、その数年前から中国語の勉強を始めた。そしてそ
の講演(中国化学会)での講演を、中国語でしてみせた。今からもう20年以上も前のことであ
る。

 ……今、私は、その話を、思いだしながら、この原稿を書いている。T先生には、とてもおよ
ばないが、何かの目標を頭の中に描き、その目標に向かって、前に進む。旅行でいえば、目
的地ということになる。

 ブラブラと気ままに歩く旅行もある。一方、目的地を定め、その目的地に向かって、まっしぐら
に進む旅行もある。山登りを想定すればよい。どちらにもそれぞれの(よさ)がある。が、しかし
まったく目標のない旅行というのも、これまた困る。ときに、自分がどこにいるかわからなくなっ
てしまう。同じところをグルグルと回ってしまう。

 昨日、県の教育委員会のほうから、2つの講演依頼をもらった。「ひとつは、1000人、もうひ
とつは、800人を予定しています」とのこと。「1000人」というのは、聞きにきてくれる人が、1
000人という意味である。背中に、ツンとした緊張感を覚える。「やらせていただきます」と答え
たが、その声には、いつもより力が入った。

 これで目標ができた。新しい本を読み、新しい知識を吸収し、その上に自分の理論を重ね、
さらに自分の教育観を熟成させる。私のばあい、「新しい本」といっても、そのほとんどが、教育
とは関係のない本である。科学や政治の本が多い。他人の書いた育児本は、まったくといって
よいほど、読まない。読んだこともない。そういった本の影響を受けるのがこわいからではな
い。他人が、私の書いたようなことを書いているのが、許せないからである。いわゆるパクリ本
というのだが、そういうのは、多い。中にはx百万部も売れているのがある。

 そういうパクリ本を見てイライラするくらいなら、私は、さらに先に進めばよい。そのほうが、気
が楽。

 そう言えば、先日、私にこう言った人がいた。私が、「○○という、あの本ですが、いたるとこ
ろに私が書いたのと同じことが書いてあります。部分的には変えてありますが、私にはそれが
わかります」と言うと、こう言った。

 「じゃあ、あなたも、がんばって、本を出してみたらいいでしょう」と。

 私には、その人が、「悔しかったら、自分で本を出してみたらいい。どうせあなたの本は売れ
ないから」と言っているように聞こえた。どこかの出版社で編集長をしている人だった。

 そんなわけで、こうした目標が与えられることは、うれしい。本当にうれしい。その目標に向か
って、前に進むことができる。あとのことは考えない。私の目標は、これら2つの講演会を成功
させること。聞きに来てくれた人に、満足感を与えること。

【光】

 たとえそのときは、暗いトンネルの中にいても、その先に、光を見れば、生きる勇気がわいて
くる。その光に向かって進むことができる。

 しかしその光は、決して、向こうからはやってこない。光は、自分でつくるもの。自分でさがす
もの。光がないからといって、立ち止まってはいけない。それを嘆いてはいけない。いくら暗いト
ンネルの中にいても、やるべきことは、やる。できることは、やる。あとは、じっとその(時)を待
つ。光が見えるのを待つ。

 私は、今朝、それを学んだ。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●太陽が爆発する?

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おかしな風説(デマ)が、子どもた
ちの世界にまん延し始めている。

2008年に、太陽が爆発して、
強烈な放射能が地球に降り注ぎ、
その結果、世界の人口は1割程度
にまで、減少するというのだ。

風説の出所は、欧州宇宙機構という
立派な研究機関である。

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 2008年に、太陽が爆発して、強烈な放射能が地球に降り注ぎ、その結果、世界の人口は
現在の1割程度にまで減少するという。

 そんな風説が、子どもたちの世界でまん延し始めている。で、調べてみると、その風説の出
所は、欧州宇宙機構という、立派な研究機関であることがわかった。

 欧州宇宙機構(ESA)……「European Space Agency」のこと。つぎつぎと宇宙に向かっ
て探査衛星を飛ばし、最近ではアメリカのNASAに匹敵するほどの成果を発表している。最近
では、火星表面の精細な3D画像を発表して、世界を驚かせている。

中京スポーツという、スポーツ紙にも、こうある。

「矢追氏は、『欧州宇宙機構(ESA)が、08年に太陽が爆発すると断言している。太陽がなくな
るのではなく、強力な放射能が出るという予測だ。モロに放射能を浴びて、人間が1割以下に
もなるといわれている』と明かしている」と。

そういった話が、同紙の2007年、正月特別号で発表されたらしい。矢追氏というのは、矢追
純一氏のことをいう。東京やこの浜松で、若いころ、私も何度か矢追氏に会ったことがある。実
直な人で、信頼するに、じゅうぶん値する人である。

 そこでさっそく、ことの真偽を調べてみた。以前なら、こうした作業だけでも、1日がかりであっ
た。今は、インターネットで、瞬時にそれが調べられる。

 ヤフーの検索エンジンを使って、「欧州宇宙機構 08 太陽 爆発」で検索してみたら、ある
人物のBLOGを、トップでヒットすることができた。全文は引用できないので、興味のある人
は、自分で検索して、読んでみればよい。 

+++++++++++

03年11月5月13日、ロシア政府機関紙「イズベスチャ」電子版は 重大情報を報道した。

1年前に欧州宇宙機構(ESA)のエキスパートで、オランダ人、天文物理学者ピルス・ヴァン・デ
ル・メーエル博士が発表した当時の情報によれば、
 
「最近数年間に太陽内部の温度は華氏で2700万度から4900万度へ上昇した (約81%の
上昇)。最近11年間のその温度上昇過程は、1604年の超新星の爆発が 示したような、超
新星の爆発前に起こる変化と大変似ている。 

これを証明しているのは、米国NASAのSOHO(太陽観測衛星)による、太陽の巨大な フレア
の写真である。太陽の内部温度がこれまでと同じテンポで上昇すれば、この過程 は間もなく不
可逆的になって、太陽は約6年後に爆発する」と。 
(Kissa−談話室より抜粋)

+++++++++++

 この記事をまとめると、こうなる。

 03年時において、「過去数年間に太陽の温度が、華氏2700万度から4900万度へと上昇
した。その上昇過程は、超新星の爆発による変化と似ている。そのため太陽表面には、巨大
なフレアがまいあがっている。同じテンポで上昇すれば、太陽は6年後、つまり08年に爆発す
る」と。

 その太陽だが、2000年から2001年にかけて、太陽活動のピークがおとずれている。肉眼
でも見えるほど大きな黒点が発生したのもこのころ。「フレア」というのは、いわば太陽の爆発
現象のようなもの。このフレアも多く観察された。

 03年という年は、そのあとの年ということになる。

 そこでポイントは、太陽内部の温度が、そののち、本当に上昇しつづけているかという点であ
る。メーエル博士が発表した当時の情報によれば、「最近数年間(03年当時)に太陽内部の
温度は華氏で2700万度から4900万度へ上昇した」ということらしい。

 もしこのテンポで太陽内部の温度が上昇すれば、太陽爆発……ということも、決して、ありえ
ない話ではない。

 が、インターネットでどこをどう検索しても、ほかにそういう事実が浮かんでこない。たとえば
太陽内部の温度が上昇すれば、表面に現れる黒点にしても、大きな変化が見られるはずなの
に、そういう事実はない。

 ヤフーの「ジオシティズ」(科学)にも、つぎのようにある。

 『(黒点の総対数は)極大期だった2001年から2003年にかけて、相対数が減少している
様子がわかります。2004年現在、相対数は極小期に向かってさらに減少していて、2006年
年頃に極小になると推測されます』と。

 つまり黒点の11年周期説には、ほとんど変化ないということらしい。

 さらに太陽内部の温度については、つぎのようにある。

 『……さて、この章で出てきた太陽活動と言う言葉についてですが、これは太陽中心部での
核融合反応の事でなく、太陽表面現象やコロナの活動を指しています。核融合反応の結果発
生する光や熱の総量は太陽定数と呼ばれるほど常に一定であり、したがって太陽内部での活
動もほとんど一定で、11年の周期的変化は起こさないと考えられます』と。

 つまり太陽内部の温度は、「ほとんど一定である」と。

 わかりやすく言えば、メーエル博士は、「最近数年間(03年当時)に太陽内部の温度は華氏
で2700万度から4900万度へ上昇した」と言ったというが、その根拠が、「?」。2700万度か
ら4900万度といえば、倍近い上昇率(81%)ということになる。

 もし本当に81%も上昇したら、太陽表面にも大きな変化が見られたはず。しかし太陽表面の
黒点にしても、「2004年現在、相対数は極小期に向かってさらに減少していて、2006年年頃
に極小になると推測されます」とのこと。

 太陽は今の今も、規則正しい変化を繰りかえしている。つまり、「太陽爆発」の話は、ウソと考
えてよい。

 そんなわけで、もしみなさんの子どもが、「太陽爆発」の話を口にしたら、このエッセーを読ん
で聞かせてやったらよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 太陽
爆発 放射線)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2013)

●UFO

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このところ、世界各地で、
UFOの目撃報告が、あいついでいる。

私とワイフも、幅が数キロ(?)も
あるようなブーメラン型UFOを
いっしょに目撃している。

UFOは、確実に存在する。そして
それに乗っているのが人間でないと
するなら、宇宙人は、確実に存在
する。

私は、ここに書いたことに、自分の
命をかけてもよい。

+++++++++++++

 太陽爆発などという荒唐無稽(こうとうむけい)な話はともかく、地球温暖化は、もうだれの目
にも疑いようがない。地球は、確実に温暖化している。

 今年、オーストラリアでも、大干ばつを経験している。飛行機から見たオーストラリアは、さら
に乾燥したオーストラリアに見えた(06年3月)。幸いにも5月に入ってから、じゅうぶんな降雨
があったという。しかし来年のことはわからない。オーストラリア大陸にしても、砂漠化は、すで
に20〜30年前から、始まっている。

 中国もしかり。そしてアメリカ(USA)も、しかり。このまま世界的な砂漠化が進めば、やがて
地球そのものが、人類の住めない惑星になるかもしれない。地球温暖化は、それほどまでに
深刻な問題と考えてよい。

 そこでUFO。以前にも書いたが、私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃している。幅は
わからないが、数キロはあったと思う。ブーメラン型のUFOで、それには点々と、淡い橙色の
窓らしきものがついていた。

 (のちにアメリカのアリゾナ州フェニックスで目撃された、ブーメラン型UFOに、形はたいへん
よく似ていた。)

 もしあれが人間の乗った乗り物でないとするなら、宇宙人は、確実にいる。私には、そう断言
できる。

 そこでその宇宙人の目の中に、私たちの視点を移してみよう。あなたは月の裏側に基地を置
く、宇宙人である。月内部でもよい。そのあなたから見たら、この地球は、どのように見えるだ
ろうか。きっとあなたは、まず最初に、こう思うだろう。

 「このまま地球温暖化が進めば、地球はやがて火星のようになるぞ」と。

 そのときあなたは、地球が火星のようになるのを、ただぼんやりと見ていることができるだろ
うか。そうなればなったで、人間のみならず、ありとあらゆる生物が死滅してしまう。

 当然、あなたは地球の救済を考える。高度に知的な生物なら、なおさらだ。が、ここで大きな
問題にぶつかる。

 ほかの生物はともかくも、人間は、救済するに値する生きものかどうか、と。

 知的レベルはともかく、人間は、邪悪な生きものと考えてよい。好戦的で、自己中心的。悪口
を並べたら、キリがない。もしそんな人間を仲間に入れたら、自分たち宇宙人たちが築きあげ
た平和な世界は、あっという間に破壊されてしまう。

 私が宇宙人なら、第一に、それを心配する。つまり、地球は救済しても、人間は救済しない。

 では、どうするか?

 今までは、人間に遠慮して、地球の観察をするにしても、人間の目の届かないところでしてき
た。しかしどうせあと100〜200年もすれば、人間は絶滅する。となれば、もう遠慮する必要
はない。そればかりか、へたをすれば、自分たちの命すら、あぶない。人間は核兵器を手にし
た。攻撃用のミサイルも手にした。

 私が宇宙人なら、積極的に人間世界に介入していくだろう。方法は、いくらでもある。間接的
に、人間の脳みそを改造していくという方法もある。あるいはてっとり早く、直接的に、国際機
関や政府に介入していくという手もある。UFOの目撃例が、このところ急速にふえているという
のは、そういう理由によるものではないか。

 言いかえると、それだけ地球そのものの危機的状況が、深刻化しているということになる。

 あるカルト教団では、このところ、「降臨」という言葉を使いながら、終末論をさかんに唱えて
いる。「天罰」という言葉も使っている。やがて神が天から降りてきて、人間に天罰を与えるとい
う。

 しかし彼らがいうところの「神」を、「宇宙人」と置き換えたら、どうか? とたん、荒唐無稽に
見える話が、一転、信憑性(しんぴょうせい)のある話になってしまう。

 ……という話は、すべて、あの夜の話をもとにしている。私とワイフは、あの夜、巨大なUFO
を目撃している。もしここに書いたことがウソであるとするなら、私はワイフの私への信頼を、
一度に失うことになる。だからウソは書けない。

 あとは、みなさんが、私を信ずるかどうかという問題になる。私自身は、信じてもらっても、信
じてもらえなくても、どちらでもよい。こういうことを書くことによって、私は失うものこそあれ、得
るものは何もない。

 ある人は、私にこう言った。「林君、君は、教育評論家を名乗っているのだから、(私は自らそ
う名乗ったことは一度もないが)、そういうことは言わないほうがいい。君の資質が疑われるか
ら」と。

 しかし見たものは見た。それ以外に、私には言いようがない。書きようがない。ここに書いた
ことは、先にも書いたように、その(見たもの)を基盤にしている。あとは、みなさんの判断という
ことになる。

+++++++++++++++

中日新聞に発表したコラムを
そのまま再掲載します。

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●見たぞ、巨大なUFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが1、2キロはあった。しかも私と女房の2人で、そ
れを見た。見たことにはまちがいないのだが、何しろ25年近くも前のことで「ひょっとしたら…」
という迷いはある。が、その後、何回となく女房と確かめあったが、いつも結論は同じ。「まちが
いなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の12時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見上げると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。

私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。そう思って、その数を
ゆっくりと数えはじめた。あとで聞くと女房も同じことをしていたという。が、それを5、6個まで数
えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。

その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒い「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。私
がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突
然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部署に電話をかけても「そういう報告はありません」と。

もちろん私もそれがUFOとは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキ
ー型のもので、UFOに、まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真を送り
届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝ってい
た。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人でも
ある。私と女房はその中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形
のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが…)が、UFOに乗って地球へやってきてもおかしくはない。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラム欄を汚したくない
し、第一ウソということになれば、私は女房の信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。

しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論
だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関
する本も3冊書いたし、宗教論に関する本も5冊書いた。うち4冊は中国語にも翻訳されてい
る。

 そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界
では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書い
てみた。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2014)

●人生を考える、2つの事件

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昨日、2つの事件があった。
「事件」と言えるような事件では
ないのかもしれないが、私には
事件だった。

改めて、人生とは何か、考えさせ
られた。

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 昨日、2つの事件があった。「事件」と言えるような事件ではないのかもしれないが、私には事
件だった。

 改めて、人生と何か。生きるということはどういうことなのか、それを考えさせられた。

 ひとつは、近所の男性が、亡くなったこと。このあたりでは、回覧板で、それが知らされるしく
みになっている。年齢は、私とほとんど同じ、64歳。名前を見たが、知らない人だった。番地を
見たが、どのあたりの人かもわからなかった。

 しかし「64歳かア……」と思ったところで、つぎの言葉が出なくなってしまった。横にいたワイ
フは、「若いわねエ」と。

ワ「ほら、先日話した、Xさんね。乳がんだった人よ。しばらくクラブに来ないので、どうしたのか
なと思っていたら、先月亡くなっていたって……。45歳だったそうよ」
私「45歳……。さぞかし無念だったろうね」
ワ「そうねエ……」と。

 どこか重い気分のまま、近くの郵便局へ。そこでのこと。2つ目の事件(?)があった。

 見ると、カートを押しながら、80歳を優(ゆう)に過ぎた女性が、窓口で、職員と何やら押し問
答をしているのがわかった。脚は大きく外側にまがっていて、歩くこともままならないといったふ
うだった。

 手にした100万円近い年金(3か月分)をどうするかで、相談していた。職員が、「1000万円
が限度です。もうここでは貯金できません」「国債も、1000万円までです。限度に達していま
す」と説明していた。大きな声だった。

 私とワイフは、顔を見合わせた。女性といっても、介護施設にいてもおかしくないような女性で
ある。そんな女性が、その郵便局だけで、2000万円の貯金をもっている! 加えて100万円
の年金!

 郵便局から出たとき、ワイフが口を開いた。「お金って、有効に使ってはじめて、生きるものな
のよ」と。

 年金の額からして、たぶん、旧国鉄の職員の家族なのだろう。このあたりは、「国鉄村」と呼
ばれるほど、旧国鉄の退職者が、多く住んでいる。

私「2000万円もあれば、数年は、外国で遊んで暮らせるよ」
ワ「そういうことは、考えないわよ」
私「死ぬまで、お金を大切にして生きるんだろうか」
ワ「大切にするという意味が、ちがうような気がするわ」
私「そうだな。老人ホームに入っても、年間、100万円程度。2000万円もあれば、20年間暮
らせる」と。

 とたん、まじめに働いている私が、どこかバカに見えてきた。64歳で亡くなる人がいる。45歳
で亡くなる人もいる。が、その一方で、歩くこともままならないような人が、郵便局だけで、200
0万円もの貯金をしている!

 車を運転しながら、ワイフがこう言った。それは私自身の結論とも同じだった。「ねえ、あな
た、元気で生きている間に、もっとしたいことをしようよ」と。

 私は、フーッとため息をついたあと、「そうだな」と、うなずいた。

●財産は火のようなものである。非常に有益な下男であるかと思えば、いちばん怖ろしい主人
でもある。(カーライル「過去と現在」)

●富は海水に似ている。飲めば飲むほど、乾くのである。(ショウペンハウエル「幸福のための
警句」)

●われわれは頭の中に富をもつべきであり、心情のうちにもつべきである。(スィフト「ガリバー
旅行記」)(以上、「世界名言辞典」より)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【輸血拒否】(2)

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宗教団体「E」の輸血拒否は、
よく知られている。

しかし彼らには、彼らなりの
宗教的信条がある。

それについて……。

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 宗教団体「E」の輸血拒否は、よく知られている。そのため、この浜松市でも、ひとりの中学生
が、手術を受けられず、死亡するという事件が起きている。それについては以前にも書いたの
で、ここではその先を書く。

 1940年代後半ごろには、「E」では、全血、あるいは血液成分の一部の利用も、すべて禁じ
ていた。私が直接電話で問い合わせたところ、「禁止はしていない」「熱心な信者なら、自ら拒
否するでしょう」ということだった。

 が、現在では「アルブミン、免疫グロブリン、血友病製剤は使用してもよい」(「Eの証人」、ウィ
リアム・ウッドー著、三一書房)ということになっている。

 「ダメ」とされるのは、全血、分離RBC(赤血球)、血漿(けっしょう)などの輸血、WBC(白血
球)、血小板の投与だ、そうだ。

 では預血などの自家血輸血(=自分の血液)はどうかというと、これはダメ。しかし「透析器や
心肺装置、および体外循環が中断されることのない手術時救命法の採用はよい」(「E」機関
誌、1982年、12月8日号」とのこと。

 「輸血」といっても、中身は複雑。「血漿はだめ」というが、血漿の93%は水。残りは、アルブ
ミンやグロブミン、さらに血友病製剤に使われるフィブリノーゲン凝結性の因子である(同書)。

 つまりこれらを別々に使用するなら構わないが、まとめて使うのはダメということになる。

 で、その理由というか、根拠は、どこにあるかというと、それは当然のことながら旧約聖書に
ある。

 『モーセの五書』の中には、つぎのようにある。

 『イブン・エズラの言葉によると、血の使用は、道徳的な性質と、肉体的な性質を堕落させる
影響をもち、将来の子孫に遺伝的な影響を与える』と。

 つまり「(輸血によって)、遺伝的な性質、病気にかかりやすくなる」「個人の生活に起因する
毒、食べるくせ、飲むくせが含まれる。自殺させたり、人を殺させたり、盗みをさせたりするくせ
は、血の中にある」(アロンゾ・ジェイ・シャドマン博士、同書)ということらしい。

 さらに「……色情倒錯、憂うつ感、劣等感、軽犯罪は、しばしば輸血後に生ず」(「E」機関誌、
1961年12月15日号)ともある。

 ここから先は、「信ずる」「信じない」の問題である。さらに言えば、それぞれ個人の問題であ
る。その人がそれを正しいと信じて、輸血拒否したとしても、部外者である私たちは、それに対
して、あれこれ批判することは許されない。

 しかし……、という疑問はもちろんある。言いたいことは山のようにある。が、ここでは省略。
あとの判断は、読者のみなさんに任せる。

 ついでに血液の勉強をしておきたい。

 血液は、大きく分けて、(1)赤血球、(2)白血球、(3)血小板、(4)血漿の4つから成る。血
液の細胞成分を血球(赤血球、白血球、血小板)といい、これらを取り囲む液体成分を血漿と
いう。

 その血液は、生命維持に欠かせない栄養素や酸素を運ぶ一方、ホルモンや老廃物の運搬、
生体防御や体温調整など、人体にとって重要な役割を果たしている。

 もちろん各種のウィルスも混入することもある。エイズ・ウィルスもそのひとつ。

 だから輸血には、それなりの危険性がともなうことは事実である。また未知の危険因子も含
まれている可能性も高い。エイズ・ウィルスにしても血液製剤を介して、多くの人に感染してしま
った。

 しかしいくら宗教を信じたからといって、合理の精神まで見失ってしまってはいけない。見失っ
たとたん、信仰は、妄信へと変化する。

なお「E」の世界では、輸血を拒否して死んでいった人たちを、「殉教者」といって、称えている。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●日韓経済戦争

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日本の輸出額 約6473億ドル (06年、JETRO)
韓国の輸出額 約3260億ドル(06年、韓国関税庁)

日本の輸入額 約5793億ドル (06年、JETRO) 
韓国の輸入額 約3093億ドル(06年、韓国関税庁)

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 韓国経済の躍進はめざましい。このほど韓国の関税庁は、06年度の貿易収支を公表した。
それによると、韓国の貿易収支は、日本のほぼ2分の1程度にまで迫っていることがわかる。
この数字は、7〜8年前の日本の貿易収支にほぼ、等しい。

 人口規模に換算すると、日本の人口は韓国のほぼ3倍だから、こと貿易に関してみれば、日
本の完敗ということになる。

 だいじょうぶか、日本! 負けるな、日本!

 この数字に、少なからずショックを受けたので、今日は、コメント、なし! 


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●K国の核発問題
(なぜか、まともすぎる会談結果)

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K国の核開発問題が、ここにきて、
急進展する様相を見せ始めた。

K国は、IAEAの査察を受け入れ、
核開発を放棄する意思を明確にした
という。

あまりにも、(まともな交渉)。その
(もともすぎる)ところが、おかしい。
へん? 謎?

+++++++++++++++++

●まともすぎる会談?

 毎日新聞は、つぎのように伝える(6月22日)。

『21日からの北朝鮮訪問を終えた、6か国協議の米首席代表、ヒル国務次官補は22日午
後、ソウルの韓国外交通商省で記者会見し、K国の金桂冠(キムゲグァン)外務次官らとの会
談で、2月の6カ国協議で合意した核廃棄の手続きを履行する双方の意思を確認したと、強調
した。K国側は同国北西部・寧辺(ニョンビョン)の核施設を直ちに閉鎖する意思を示し、さらに
「無能力化」へと進む準備もできていると表明したと述べた』と。

 わかるか? このまともな、あまりにもまともすぎる会談結果。ヒル氏は、金桂冠(キムゲグァ
ン)外務次官と会談した。その結果、(1)2月の6カ国協議で合意した核廃棄の手続きを履行
する双方の意思を、確認しあったという。そして、(2)K国側は同国北西部・寧辺(ニョンビョン)
の核施設を直ちに閉鎖する意思を示し、さらに「無能力化」へと進む準備もできていると表明し
たと述べた』という。

●金xxは、どこへ行った?

 このニュースを聞いて、いちばん私が驚いたことは、その背後に、金xxの影を感じないこと。
金xxは、どうした? どこにいる? そしてなぜこの時期に、K国の金桂冠(キムゲグァン)外務
次官は、こうまで6か国協議の合意事項の実行を急いでいるのか?

 理由はズバリ、すでに金xx亡きあとの権力闘争が、すでに始まっているからとみる。つまりこ
の会談の上に、金xxの健康問題を重ね合わせてみると、その謎を解くことができる。

 現在、金xxは、心臓、肝臓、腎臓のトリプル障害のため、歩くことさえできないことはもちろん
のこと、意識も混濁した状態にあるとみてよい。脳性の障害が起きているという報告もある。

 金xxの先は、長くない。しかし今、ここで金xxが急死すれば、K国内部で、後継者問題をめぐ
って、3人の息子たちを巻きこみ、はげしい権力闘争が起きる。形はどうあれ、大きく分けれ
ば、K国軍部と、K国官僚との権力闘争ということになる。しかし軍部を相手にしたら、官僚に
は勝ち目はない。

●K国官僚側の巻き返し

 そこで、「今」ということになる。今なら、金xxはまだ生きている。金xxの威光がまだ残ってい
る。しかも金xxは、官僚の保護下(=監視下)にある。

 この時期に、K国官僚たちは、一気に6か国協議を進展させ、ズバリ言えば、お金(マネー)
を手に入れようとしている。核開発を放棄すると宣言すれば、残りの5か国から、莫大な、今ま
でのK国にとっては、天文学的数字に近い補償金が手に入る。原油も手に入る。

 そのお金(マネー)をもって、官僚側は、一気に、軍部側を抑えにかかる。次期政権の主導権
を握る。つまりこれが金桂冠(キムゲグァン)外務次官らを中心とする、K国官僚側の最大の思
惑と考えてよい。

 現在、金xxは、治療、療養名目のもと、外部との連絡を遮断された状態にあるとみる。外部
の情報を理解し、整理する能力さえもないとみる。しかし官僚側は、「国防委員長の命令」と一
言、言えば、いくら軍部でも、今なら、それに従わざるをえない。官僚側には、まだそれができ
る。仮に、金xxが、今、死んでいると仮定するなら、それはできない。すでに予想されているよ
うに、K国は、そのまま軍部による集団指導体制へと移行する。

 しかしそうなれば、K国は、今のK国以上に、核兵器を本尊としたカルト国家になってしまう。
イコール、K国は、崩壊の危機に立たされる。官僚側も、それをよく知っている。

●すでに始まっている権力闘争

 K国では、金xx亡きあとの権力闘争がすでに始まっている。事実上、金xxを無視した状態
で、官僚側が、軍部に対して、優先権を手に入れようとしている。それが今の動きということに
なる。

 が、問題がないわけではない。

 私はこのまま、K国軍部が黙っているとは、思っていない。金xxにしても、何らかの形で、金
桂冠(キムゲグァン)外務次官らの(勝手な)動きを知ったら、黙っていないだろう。いつクーデ
ターが起きてもおかしくない。あるいは反対に、文民派である官僚たちが、いっせいに、粛清さ
れる可能性もある。

 あまりにもまともすぎる会談結果。その(まともすぎる)点が、あまりにも不気味。へん。謎。

●日本は……?

 では、日本は、どうすべきか?

 今度こそ、反対に、時間を稼ぐ。けっしてあせるな。あせって、ヒル氏や韓国の思惑通りの、
手を貸してはいけない。「拉致問題が解決しなければ、援助しない」と公約した以上、(=公約
してしまった以上)、日本はそれを守ればよい。

金xxの死去は、近い。その前後に、K国は、混乱状態になる。すでにその兆候は見え始めて
いる。日本が動き出すのは、それを見守ってからでよい。

【補記】

 ヒル氏は、すでに金xxの健康状態に関する、かなりの情報を手にしている。そしてその上で、
金桂冠(キムゲグァン)らの動きを知り、その動きに乗った形で、6か国協議を成功させようとし
ている。

 もしここで軍部の巻き返しが始まると、6か国協議そのものが、霧散してしまう。そうなればな
ったで、アメリカの国益というよりは、ヒル氏自身のキャリアも露と消えてしまう。つまりここでヒ
ル氏と金桂冠(キムゲグァン)の思惑は、完全に一致した。

 ヒル氏は、すでに何度も、日本を裏切っている。今回の会談もそうだ。いくら金桂冠(キムゲ
グァン)からお呼びがかかったとしても、東京にいたヒル氏は、K国へ行くべきではなかった。こ
れほど、日本をバカにした話もない。(行った)ということ自体、日本に対する背信行為と考えて
よい。

 ヒル氏+金桂冠(キムゲグァン)は、はたして、K国軍部の動きを、封殺することができるだろ
うか?

【付記】

 6月21日、ニューヨークタイムズは、つぎのように伝える。

 「ヒル次官補の訪朝は非常に秘密裏に行われた」とした上で、「ヒル次官補は20日に日本を
訪問した際にも訪朝計画を日本政府高官に知らせていなかった」と報じた。日本は北朝鮮によ
る日本人拉致問題が解決されるまでは北朝鮮問題に関与できないとの立場を固守し、北朝鮮
の核問題に介入していない。米国は韓国と19日に電話接触を持ち訪朝問題について協議した
が、日本にはヒル次官補の訪朝前日の20日になって、ライス国務長官が電話で通告しただけ
だった。

【付記】

 さらに今日(6月24日)の報道によれば、日本は、7月の6か国協議会議開催を、総選挙を
理由に、拒否したという。「8月の6か国協議で準備してきたので、7月はできない」とである。

 さあ、韓国は、どう出るか? K国は、どう出るか? そしてアメリカのライス国務長官は、どう
出るか?

 韓国はもともと、内心では、日本はずしを画策していた。これを機会に、日本はずしを加速さ
せるだろう。

 K国も同じ。アメリカに同調するフリをしながら、日本はずしに道筋をつけようとするだろう。

 で、アメリカはどうかというと、ここで日本をはずせば、日米関係は、以後修復不可能な状態
にまで、後退する。あとはブッシュ大統領の判断というよりは、ライス国務長官の判断ということ
になる。

 7月に6か国協議がなされるかどうか? 日本は、ここで戦後の外交政策の中で、最大の岐
路に立たされることになる。

【追記】

 さらに私の説を裏づける報道が飛びこんできた。産経新聞6月24日は、つぎのように伝え
る。

 『23日付の韓国の中央日報は、ヒル米国務次官補の訪朝前日の20日、K国の金xx総書記
の健康に異常が生じた、との情報で米韓情報当局が事実確認に動いたと伝えた。同紙が情報
筋の話として伝えたところによると「金xx総書記の警護を担当する護衛総局とK国軍保衛司令
部の活動が強化された兆候も表れている」という。北朝鮮メディアは金xx総書記の動静を17
日以降、報じていない。韓国政府当局者は「金総書記に異常が発生すればヒル次官補を平壌
に受け入れるはずはない」と述べているという』と。

 ひとり、「金総書記に異常が発生すればヒル次官補を平壌に受け入れるはずはない」と述べ
ている、韓国当局者のノー天気ぶりに注目してほしい。
(以上、6月24日、午前10時記)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【今夜・あれこれ】(6月23日)

++++++++++++++

今日は、朝から、思う存分、
遊んだ。したいことをした。

夜は、DVDを見た。ケビン・
コスナー主演の「守護神」。

できすぎた映画だったが、おも
しろかった。星は3つの★★★。

++++++++++++++

●キャンドル・ナイト

 昨夜、午後8時から10時まで、世界で、キャンドル・ナイトが実施された。電灯を使わず、ロ
ーソクの光ですまそうという企画である。地球温暖化防止にためらしい。そういう話を、ワイフ
がどこかで聞いてきた。

 夕食を早めにすまし、洗い物をしたあと、我が家も、その企画に参加することにした。時刻
は、きっかり8時。スタート!

電灯を消し、テーブルの上に、15センチほどの長さのローソクを立てた。灯をつけた。が、暗
すぎる。何もできない。しかたないので、息子とワイフと3人で、床の上にゴロリと横になった。

あとは雑談。また雑談。しかしだんだんと、話は、昔話に。「子どものころは、田舎のほうでは、
ランプを使っていた」とか、そういう話になった。

で、30分ほどしたところで、ワイフが、「見てくる」と言って、外に出ていった。が、しばらくすると
帰ってきて、こう言った。「うちだけみたい……」と。「近所で、キャンドル・ナイトをしているの
は、うちだけみたいよ。どこも明るい電気がついた」と。

……ということで、そのあとしばらくがんばってみた。が、中断。「10時までは無理だよ」と。見
るとローソクは、3分の1ほどを残して、まだ燃えていた。時計を見ると、午後8時10分前。

 つまり50分だけ、キャンドル・ナイトに参加したことになる。


●6月x日

 息子が、ホテルの宿泊券を送ってきてくれた。宿泊券といっても、食事なし。しかしうれしかっ
た。全国のホテルから選べることになっていたが、私たちは、一番近くの、Rホテルにした。車
で、10分ほどのところにある。

 「なぜ親が子育てをするかといえば、こういうことがあるからだよね」と話すと、ワイフは、うれ
しそうな顔をしてみせた。本当にうれしそうな顔だった。もともと感情表現の乏しいワイフであ
る。その顔を見て、私も、うれしくなった。

 「あのホテルには、温泉があるんだって」と話すと、「楽しみだわ」と。

 6月x日、私たちはそのRホテルに泊まる。食事は、そのホテルのレストランですますつもり。
詳しい報告は、また後日。

 Eよ、ありがとう! うれしかったよ。お前も、元気でやれよ!


●肉体に命令

 肉体という物体は、基本的には、怠けものである。放っておいたら、自分では何もしようとしな
い。だから、自分の脳みそのほうから、指令を出す。「動け!」と。

 すると肉体は、私の命令どおりに動きだす。つまりこうして、自分の肉体を使う。遠慮すること
はない。自分の肉体である。

 たとえば今の今も、のどがかわいて、水を飲みたくなった。近くにワイフがいるから、ワイフに
それを頼むこともできる。が、私は、自分の肉体に命令を出す。「立ち上がって、水を取ってこ
い!」と。

 すると私の体は動き出す。それがおもしろい。楽しい。自分に肉体が、精巧にできたロボット
のように感ずることもある。

 大切なことは、怠け心に負けないこと。肉体は、いつも脳のほうに、「動きたくない」という信号
を送ってくる。しかしそんな信号は、無視。そんな信号に負けてはいけない。

 これは私の健康法のひとつでもある。


●UFO

 このところUFOに関する本を、何冊か、たてつづけに読んでいる。今、読んでいるのは、飛鳥
昭雄著の「UFO&プラズマ兵器」(徳間書店刊)。分厚い本だが、おもしろい。毎晩、眠る前に
読んでいる。

 書いてあることを信ずるか信じないかは、私たち読者の判断ということになる。しかしおとぎ
話よりは、はるかに信憑性が高い。そういう意味で、おもしろい。


●心の貧しい人

 電話だが、K氏(55歳)より、こんな話を聞いた。

 数年前、K氏の父親が死んだ。その葬儀の席でのこと、K氏の叔父(父親の弟氏)が葬儀の
席にやってきて、こう言ったという。

 「香典の半分を、オレに渡せ」と。K氏の叔父(父親の弟氏)は、生涯、定職にもつかず、した
がって貧乏な生活をしていた。が、気位だけは、異常に高く、2人の息子と1人の娘夫婦から、
そのつど、お金を(巻きあげて)、生活していた。その巻きあげ方も、地方の言葉で言えば、「え
げつないものだった」という。

 K氏はこう言った。「貧しい生活が長くつづくと、心まで貧しくなるもんですかねえ」と。

 『モノの財より、頭の財、心の財』とはいうが、その心の財にも、富者と貧者がいるということ
になる。常識のある人には、考えられないような話だが……。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●時間性vs統合性

++++++++++++++++

したいことだけをしながら、好き勝手
なことをして、生きる。

一見、充実した人生に見えるが、中身
は薄い。

「だから、それがどうしたの?」と、
自分に問いかけてみると、それがわか
る。

そういう人生からは、何も生まれない。
1か月を1日にして、生きるだけ。
1年を1日にして、生きるだけ。

++++++++++++++++

●時間性

 その人がもつ時間性は、みなちがう。時計を回る針の上では、同じ1秒かもしれないが、その
1秒を、1時間にして生きる人もいれば、反対に、1時間を1秒にして生きる人もいる。もし人間
が、フェムト秒単位で生きることができるとするなら、人間は、1秒を3100万年にして生きるこ
ともできる。

 そこで私のことになるが、平均寿命でみるかぎり、あと30年近くは生きられることになる。30
年といえば、0歳から30歳までの年月に等しい。

 しかし0歳の子どもが、30歳になるのと、私があと30年生きるのとでは、中身は、まるでち
がう。同じ30年だが、へたをすれば、私のこれからの30年は、短い。私はその30年を、3
年、あるいは3か月のようにして生きるかもしれない。

 そういう高齢者は、多い。

 たとえば私の母は、私の家に、6か月、いた。その6か月を振り返ってみても、ほとんどといっ
てよいほど、思い出が残っていない。毎日、毎晩、おむつとパットを取り換え、便器を洗い、日
常的な世話をしたはずなのに、記憶の中では、ほんの数回しただけのような気がする。

 母にしても、そうだろう。昨日も老人ホームへ菓子を届け、その話をした。私が、「また、ぼく
の家に戻ってきたいか?」と聞くと、母は、こう言った。「お前の世話になったことはない」と。
「ぼくの家にいたことを忘れたのか?」と再度聞くと、「行った覚えはない」と。

 母は、私の家にいた、6か月という長い時間すら、きれいに、忘れていた。母にしてみれば、
6か月という時間にしても、瞬間にすぎない。記憶がそのまま、どこかへ消えてしまっている。

 生きるということは、その人がもつ時間性の問題ということになる。そしてその時間性は、そ
れぞれの人によって、みな、ちがう。そのことを知るために、たとえば、こんな生物を考えてみ
よう。

 ある天体のある惑星に、ケイ素を主体とした生物がいたとする。わかりやすく言えば、岩石で
できたような生物である。

 その生物は、指を数センチ動かすだけでも、地球時間で約2〜3年もかかる。立ちあがるだ
けでも、地球時間で約50年もかかる。そういう生物だから、地球から、望遠鏡か何かで観察し
ても、毎日、ほとんど変化がないように見える。

 しかしその生物には、その生物なりの時間というものがある。時計ももっている。しかしその
時計にしても、1秒刻むのに、地球時間で約3年もかかる。彼らの時計が24時間進むのに、
地球時間で、26万年もかかる。

 しかしその生物は、全体としてみれば、私たち人間と、ほとんど変わらない生活をしている。
私たちと同じように朝起きて、パソコンを立ち上げ、その日のニュースを読む。メールを読む。
返事を書く。そしてワードを開き、何かの文を書く。

 こうして考えていくと、私たち人間が考えている「1秒」というものほど、あてにならないものは
ないということがわかる。人間にとっての1秒は、人間にとっての1秒でしかない。しかもその1
秒も、宇宙的な基準でながめると、刻々と変化している。

 たとえば光速に近い宇宙船に乗って、宇宙を旅したとしよう。数日の旅をしたつもりでも、地
球へ帰ってくると、地球では、何年もすぎている。アインシュタインの相対性理論を、いまさら、
ここでもちだすまでもない。まさに時はエネルギーであり、そのエネルギーの中で、私たち人間
も生かされているにすぎない。「生きることイコール、時のエネルギー」と考えている哲学者も多
い。

 ……どこか話がSF的になってしまったが、要するに、1日を1秒にして生きるか、反対に、1
秒を1日にして生きるかは、その人しだいということ。同じ1日でも、生き方によって、中身はま
るでちがってくる。

 どちらが得か損かということになれば、1秒を1日にして生きるほうが、ずっと得である。自分
の人生を、何倍も長くして生きることができる。

●統合性

 が、ここで大きな問題にぶつかる。

 私の知人の中には、55歳で定年退職してから30年間、ほとんど毎日同じ生活を繰りかえし
ている人がいる。

 恐ろしいほど、何もしない。だれにも会わない。毎朝同じ時刻に起きて、同じ時刻に床につく。
どこか病的だが、自分では、そうは思っていない。自分はそういう生活をするのに、ふさわしい
人間だと思いこんでいる(?)。またそれが最善の生き方だと思いこんでいる(?)。

 することと言えば、親譲りの畑で、花木の世話をすることだけ。妻と一人娘がいるが、妻とは
家庭内別居の状態。娘は娘で、嫁いでからというもの、この30年近く、一度も実家には帰って
いない。ときどき妻(=母親)と、外で会うことはしているそうだ。

 その知人は、毎日、したいことだけをしながら、好き勝手なことをして、生きているだけ。一
見、充実した人生に見えるが、中身は薄い。もしそれがわからなければ、その人の立場になっ
て、「だから、それがどうしたの?」と、自分に問いかけてみればよい。それでそれがわかるは
ず。

そういう人生からは、何も生まれない。1か月を1日にして、生きるだけ。1年を1日にして、生
きるだけ。先に書いた時間性の問題をあてはめてみると、それがよくわかる。

 では、どうすればよいのか? どうすれば、私たちは、反対に1日を1年のようにして生きるこ
とができるか?
 
 ここで出てくるのが、(統合性)の問題である。

 若いときは、自分のしたいこと(=自己概念)と、自分のしていること(=現実自己)を一致さ
せることで、自己の同一性を確立することができる。しかしそれも一巡すると、時間という限界
状況の中で、人は、それに満足することができなくなる。

 「私は残された時間の中で、何をすべきか」と考えるようになる。

 その(自分のすべきこと)と、(自分がしていること)が一致した状態を、統合性という。つまり
残された時間を、そこに感ずるようになる前に、私たちは、統合性を確立しておかねばならな
い。その努力を怠ると、つまり統合性を確立しないまま、老齢期を迎えると、それこそそのま
ま、私たちは、1年を1日のようにして生きることになる。

 が、前にも書いたが、ほとんどのばあい、(自分のすべきこと)というのには、苦労や苦痛がと
もなう。「したいか、したくないか」と聞かれれば、「したくない」と答えることのほうが、多いだろ
う。しかもその基盤は、一朝一夕(いっちょういっせき)にできるものではない。「定年で退職しま
した。だから今日から、ボランティア活動を始めます」というわけには、いかない。

 それまでの生きざま、生き方、思想、哲学……そういったものが、総合的に集合されて、ここ
でいう(すべきこと)につながっていく。

 私の母に話を戻すが、今の今も、私は母に、何かの生きがいをもたせることに苦労してい
る。仏壇の前で、朝夕の勤行を欠かさなかった人だったが、今は、その信仰までやめてしまっ
た。詩吟(しぎん)にしても、ちぎり絵にしても、興味すら示さない。古いアルバムから写真を抜
き出し、A4サイズの大きさにプリントアウトして、それを見せたが、その効果も一時的。

 私の顔を見るたびに、「うちへ帰りたい」「こんなところにいたくない」を繰りかえすだけ。

 母が言うところの「うち」とは、自分の生まれ育った古里の実家をいう。その母は、この3〜4
0年だけをみても、自分のしたいことだけを、好き勝手にしてきた。生涯、自分で働いて、お金
を稼いだという経験は、一度もない。自己愛のかたまりのような人だった。そういう過去の生き
ざまが、晩年になった今、ここで集約され、現れている(?)。

 で、そういう母を見ながら、「そうであってはいけない」と思う私はどうかというと、今まさに、母
と同じ人生を歩もうとしている。正直に告白するが、いまだに、(自分がすべきこと)が、よくわ
からない。わからないまま、そこにある老後に突入しようとしている。若い人の立場にたとえる
なら、自分のしたいことがよくわからないまま、毎日、不完全燃焼感だけを残しながら、生きて
いる。そんな思いから、どうしても抜け出すことができないでいる。

 私は今、まさに、時間性と統合性の問題の渦の中にいる。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●「Eの証人」の輸血拒否

++++++++++++++

このほど、日本輸血・細胞治療学会
など関連5学会の合同委員会(座長
=大戸斉・福島県立医大教授)は、
15歳未満の患者に対しては、信者で
ある親が拒否しても救命を優先して輸
血を行うとする指針の素案をまとめた。

当然のことである。

++++++++++++++

 読売新聞6月24日によれば、つぎのようにある。

 『信仰上の理由で輸血を拒否する「Eの証人」信者への輸血について、日本輸血・細胞治療
学会など関連5学会の合同委員会(座長=大戸斉・福島県立医大教授)は、15歳未満の患者
に対しては、信者である親が拒否しても、救命を優先して輸血を行うとする指針の素案をまと
めた。

 「信教の自由」と「生命の尊重」のどちらを優先するかで悩む医療現場の要請に応えて検討
を始め、「自己決定能力が未熟な15歳未満への輸血拒否は、親権の乱用に当たる」と判断し
た。

 合同委員会はこのほか、日本外科学会、日本小児科学会、日本麻酔科学会、日本産科婦
人科学会の国内主要学会で組織。年内に共通指針としてまとめる」と。

 当然である。この浜松市でも、こんなことが起きている。ある高校2年生の男子がオートバイ
事故にあい、病院に収容され、出血多量で輸血が必要とされたという事件である。が、Eの証
人だった家族が、これを拒否。その結果、その高校生は、5時間後に死んでしまった(1989
年8月・参考:「Eの証人」・三一書房)。

 いくら親でも、子どもの命にまで干渉することはできない。もしそんなことが許されるとするな
ら、親による子への虐待ですら、肯定されてしまう。

 で、肝心の「Eの証人」は、どのような見解を示しているかというと、これがまたおかしい。彼ら
の公式の見解によれば、「輸血拒否は戒律として課しているのではなく、あくまでも本人の意思
を尊重している」(Mの塔・日本支部、同書)とのこと。

 私も先の事件が起きたとき、直接、本部へ電話をかけ、それを確かめたことがある。それに
応えて、電話口の男性は、こう言った。

 「私たちは輸血拒否を信者の方に強制したことはありません。ただ熱心な信者なら、輸血を
自らの判断で、拒否するでしょう」と。何とも、いいかげんな、つまり、責任逃れ(同書)な言い方
である。一方で、「輸血は神の律法に反するもので、神聖をけがす行為である」と信者たちに教
えておきながら、「本人の意思に任せている」とは!

 仮にそうであるしても、つぎのようなケースのばあい、Eの証人の信者たちは、どう考えるの
だろう。

 たとえば30代、40代になってから、入信した人のケースである。そういう人の中には、それ
までに輸血で、命拾いをした人も多いはず。入信してからの輸血拒否はわかるとしても、入信
前の輸血はどう考えるかという問題である。すでに入信前に、「神の律法に反し、神聖をけが
す行為」をした人でも、入信できるのだろうか? あるいは「あなたはすでにけがされている」と
いう理由で、入信を拒否されるのだろうか?

 もし入信できるとするなら、子どもについても、同じに考えたらどうだろうか。少なくとも、満15
歳になるまで、子どもを入信させないでおく。輸血が必要なら、輸血をさせればよい。そして子
ども自身がおとなになり、自分で判断できるようになったら、自分で考えさせて入信させればよ
い。それからでも遅くない。そういうことになる。

 さらにあまり表では問題になっていないが、Eの証人の世界では、子どもたちの指導に際し
て、「むち打ちの体罰」が日常的になされているという報告もある。つまり親の言うことを聞かな
ければ、親に、ベルトやむち、ときには棒で、叩かれるという(同書)。もしこれが事実だとする
なら、それこそまさに虐待というにふさわしいのではないか。

 いろいろ書きたいことはあるが、今日はここまで。私は、日本輸血・細胞治療学会など関連5
学会の合同委員会の素案を支持する。

【付記】

 旧約聖書にしても、メソポタミア文明を築いたシュメール人一派が残した、「アッシリア物語
(別名「ギルガメッシュ叙事詩」)」をもとに書かれたものである。しかもシュメール人たちが姿を
消したあと、700〜1000年もたってから、ユダヤ人たちによって書かれた……というよりは、
書き改められたものである。

 700〜1000年と言えば、日本にたとえていうなら、鎌倉時代に書かれた物語を、現在書き
改められるようなものである。

 もし旧約聖書の原点を知りたい人がいれば、一度、「アッシリア物語」を読んでみるとよい。そ
の中には、ノアの方舟に似た話(「ウトナピシュティムの洪水物語」)も出てくる。余計なことかも
しれないが……。

++++++++++++++

5年前に書いた原稿を、
ここに添付します。

++++++++++++++

●ある信仰団体

 今日も、その人たちがやってきた。Eというユダヤ系の宗教教団に属する人たちだ。みな、大
きなカバンをもち、一様に満ち足りた表情をしている。彼らの教団では、月にX十時間の布教
が義務づけられている。私が電話で「義務ですか?」と問い合わせると、「義務ではありませ
ん。しかし熱心な信者なら、みなそうしています」とのこと。

 月にX十時間と言えば、土日の計8日で割っても、1日、X時間前後になる。たいへんな重労
働だ。彼らはそのため、土日は、ほとんど丸1日を、その布教活動のために使っている。で、
会って話を聞くと、その布教のために使う小冊子などは、すべて自前で購入するという。一方で
教団には、1円も寄付しないということだが、こうした形、つまり教団から布教に必要な小冊子
や冊子、さらには聖書などを購入することによって、財政的に教団を支えている。……らしい。

 ユダヤ教と言えば、旧約聖書に基づく。私は若いころ、あることからシュメール文化に興味を
もち、つづいて、アッシリア物語に興味をもったことがある。現在、当時の記録を残す楔形(くさ
びがた)文字で書かれた土板が大量に発掘されていて、それらが翻訳されている。

アッシリア物語は、いわば旧約聖書の母体となった物語だと思えばよい。そのアッシリア物語
を読んでも、旧約聖書がかなり「いいかげんな書物だ」ということがわかる。それもそのはず
で、旧約聖書は、シュメール文化が滅んでから、700〜1000年もたってから、ユダヤ人たち
によって書かれた書物だからである。日本で言えば、2002年に、鎌倉時代の物語を思い出し
ながら書いたようなものだ。

 ……だからといって、旧約聖書を否定しているのではない。私が「聖書だって、まちがいがあ
るかもしれませんよ」と言ったときのこと。彼らは血相を変えた。横にいた女性は、「聖書を疑う
なんて!」とそのまま絶句してしまった。彼らにとって、聖書というのは、そういうものらしい。そ
の気持ちはわかる。

多かれ少なかれ……というより、ほとんどの宗教は、自らの宗教的権威のハクづけを信仰の
「柱」にする。宗教的権威のない宗教はないとさえ言える。たとえばこの日本では、経文を現代
日本語に翻訳しただけで、あちこちからクレーム(抗議)が殺到する。「勝手な解釈をしてもらっ
ては困る」「経文には、うわべの意味と、底に沈んだ意味がある」「経文を翻訳することができる
のは、私たちの法主(ほっす)だけだ」と。経文というのは、チンプンカンプンであればあるほ
ど、信者にはありがたみが増すというわけだ。

 しかし私は僧侶の、あの読経を聞くたびに、いつもこう思う。「中国人が読んでも意味がわか
らないような漢文を、これまたメチャメチャな発音で読んで、本当にインド人のお釈迦さまが、
理解できるのか」と。

 もちろん信仰するのは、その人の自由。勝手。反社会的な宗教教団は別として、彼らの信仰
は信仰として、尊重しなければならない。よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいる
のではない。それを求める信者がいるから、宗教教団がある。宗教教団を否定しても意味が
ない。

それはわかるが、ではなぜ、彼らはズカズカと、私の家に入り込んでくるのか。「私たちは絶対
正しい」と私に向かって言うことは、「あなたはまちがっている」と私に言うに等しい。そういう失
礼なことを言いながら、なぜ彼らは、わからないのか。

 私たちは今、自分の足で立ちあがろうとしている。どれもこれも不完全で、未熟なものだ。し
かしそれでも自分の足で立ちあがろうとしている。人間の生きる美しさは、そこから生まれる。
無数のドラマもそこから生まれる。私とて、神や仏に頼ることができたら、どれほど気が楽にな
ることか。身を寄せ、すべてを任せてしまえば、もう考える必要はない。しかしそれは、私にとっ
ては、敗北以外の何ものでもない。

私は、たった一度しかない人生だから、自分の足で歩いてみたい。自分の頭で考えてみたい。
もしそれがまちがっているというのなら、神や仏のほうがまちがっている。野を走る動物を見
ろ。野に咲く花を見ろ。みんな自分の力で生きているではないか。みんな自分の力で懸命に生
きているではないか。

 冒頭のEという宗教教団の信者はこう言った。「それではあなたは救われません」と。「救う」と
か「救われない」とか、そこらの人間が軽々に言ってもらっては困る。口にするような言葉では
ない。具体的には、「終末(世の終わり)に、神の降臨があり、信じたものだけが救われる」とい
う。

もしそうなら、その宗教教団は、まちがっている。野を走る動物や、野に咲く花は救われないの
か。懸命に生きている私は救われないのか。もし、そうならそれで結構。私は死んだら、まっさ
きに、その神様のところへ行き、「あんたはまちがっている」と言ってやる。

 そう、私は神や仏ではないが、毎日子どもたちに接していると、神や仏の気持ちが理解でき
るときがある。いや、キリストにせよ、釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったのか。私はそう
いう子どもたちに接しながら、「先生、先生」と、ベタベタとすりよってくる子どもよりも、「林のバ
カヤロー」と悪態をつく子どものほうが、かわいい。

「先生の言うことなんか、まちがっている。ぼくのほうが正しい」と言う子どものほうが、たのもし
い。いわんや、「君は、私の教えに従わなかったから、人生で失敗する」とか、「バチが当たる」
とか、そういうことは言わない。

この地上で、その人が少しくらい、神や仏の意思に反したことをしたからといって、どうしてその
人を救わないということがあるのか。またそういうことがあってよいのか。私が神や仏なら、「あ
んたも、ずいぶんと、勝手なことをしましたね」と笑ってすます。無量無辺に心が広いから、神と
いう。仏という。そういう神や仏に甘えてよいというのではない。その前に、まず自分の足で立
ちあがってこそ、私たちは人間なのだ。

 彼らは実に楽しそうだ。私に対してはともかくも、仲間どうし、実にわきあいあいとしている。
振り返ると、私の家へ来た信者たちは、電柱のところに待っていた別の信者と合流した。うれし
そうだった。もっともこういう関係があるから、宗教教団は強い。まとまる。信仰する。私も子供
会や自治会、PTAの役員などをしてきたが、そういうところでは、絶対に味わうことができない
関係といってもよい。

私は、心のどこかで、「うらやましいな」と思いつつ、玄関のドアを閉めた。

+++++++++++++

4年間には、こんな原稿を
書いていました。

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【秋の夜のロマン】

●謎の書物、黄帝内経(こうていだいけい)

 若いころ、東洋医学の勉強をしているとき、私は、こんなことに気づいた。「ひょっとしたら、東
洋医学のバイブルと言われている、『黄帝内経(こうていだいけい)』は、人間によって書かれた
ものではないのではないか」と。言うまでもなく、東洋医学は、この黄帝内経に始まって、黄帝
内経によって終わる。

 とくに、黄帝内経・素問(そもん)は、そうである。しかしもともとの黄帝内経は、そののち、多く
の医家たちによって、原型をとどめないほどまでに、改ざん、加筆されてしまった。今、中国に
残る、黄帝内経は、その結果だが、皮肉なことに、原型に近い黄帝内経は、京都の仁和寺(に
んなじ)に残っている。

 その仁和寺の黄帝内経には、いくつか不思議な記述がある。それについて書くのが、ここの
目的ではないので、省略するが、私はいつしか、中国の「帝王」と、メソポタミアの「神」が、同一
人物でないかと思うようになった。黄河文明を築いた、仰韶(ヤンシャオ)人と、メソポタミア文
明を築いた、シュメール人には、ともに、不可思議な共通点がある。それについて書くのも、こ
この目的ではないので、省略する。

 むずかしい話はさておき、今から、約5500年ほど前、人類に、とてつもないほど、大きな変
化が起きたことは、事実のようだ。突然変異以上の、変異と言ってもよい。そのころを境に、サ
ルに近い原始人が、今に見る、人間になった。

 こうした変化の起爆剤になったのが、何であるのか、私にはわからない。わからないが、一
方、こんな事実もある。

●月の不思議

 月の南極の写真を見ていたときのこと。ちょうど南極付近に、きれいな円形の2つのクレータ
ーがある。「きれいな」と書いたが、実際には、真円である。まるでコンパスで描いたような真円
である。

 そこで2つのクレーターの直径を調べてみた。パソコンの画面上での測定なので、その点は
不正確かもしれないが、それでも、一方は、3・2センチ。もう一方も、3・2センチ! 実際の直
径は、数10キロはあるのもかもしれない。しかしその大きさが、ピタリと一致した!

 しかしこんなことが、実際、ありえるのだろうか。

 もともとこのあたりには、人工的な構造物がたくさん見られ、UFO研究家の間でも、よく話題
になるところである。実際、その二つのクレーターの周囲には、これまた謎に満ちた影がたくさ
ん写っている。

 そこでさらに調べてみると……というのも、おかしな言い方だが、ともかくも、あちこちのサイト
を開いてみると、こうした構造物があるのは、月だけではないことがわかった。火星はもちろ
ん、水星や、金星にもある。エウロパやエロスにもある。つまりいたるところにある。

 こうした写真は、アメリカのNASAから漏れ出たものである。一説によると、月だけでも、NA
SAは、数10万枚の写真をもっているという。公開されているのは、そのうちの数パーセントに
すぎないという。しかも、何かつごうの悪い写真は、修整されたりしているという。しかし、クレー
ターまでは、消せない。それが、ここに書いた、2つのクレーターである。

【写真に興味のある人は、私のホームページから、(右下・ビデオであいさつ)→(動画コーナ
ー)へと進んでみてほしい。一覧表の中から、月のクレーターを選んでクリックすれば、その写
真を見ていただける。】

●下からの視点、上からの視点

 地球上に、それこそカビのようにはいつくばって東洋医学の勉強をした私。そしてその私が、
天を見あげながら、「ひょっとしたら……」と考える。

 一方、宇宙には、すでに無数のエイリアンたちがいて、惑星間を回りながら、好き勝手なこと
をしている。中には、月そのものが、巨大なUFOだと主張する科学者さえいる。

 もちろん私は、宇宙から地球を見ることはできない。しかし頭の中で想像することはできる。
そしてこれはあくまで、その想像によるものだが、もし私がエイリアンなら、人間の改造など、何
でもない。それこそ、朝飯前? 小学生が電池をつないで、モーターを回すくらい簡単なこと
だ。

 この2つの視点……つまり下から天をみあげる視点と、天から人間を見る視点の2つが、合
体したとき、何となく、この問題の謎が解けるような気がする。「この問題」というのは、まさに
「人間に、約5500年前に起きた変化」ということになる。

 その5500年前を境に、先に書いたように、人間は、飛躍的に進化する。しかもその変化
は、メチャメチャ。その一つが、冒頭にあげた、『黄帝内経』である。黄帝というのは、司馬遷の
「史記」の冒頭を飾る、中国の聖王だが、だからといって、黄帝内経が、黄帝の時代に書かれ
たものと言っているのではない。

 中国では古来より、過去の偉人になぞらえて、自説を権威づけするという手法が、一般的に
なされてきた。黄帝内経は、そうして生まれたという説もある。しかし同時期、メソポタミアで起
きたことが、そののち、アッシリア物語として記録され、さらにそれが母体となって旧約聖書が
生まれている。黄帝内経が、黄帝とまったく関係がないとは、私には、どうしても思われない。

●秋の夜のロマン

 あるとき、何らかの理由で、人間が、エイリアンたちによって、改造された。今でいう、遺伝子
工学を使った方法だったかもしれない。

 そして人間は、原始人から、今でいう人間に改造された。理由はわからない。あるいはエイリ
アンの気まぐれだったかもしれない。とりあえずエイリアンたちが選んだ原始人は黄河流域に
住んでいた原始人と、チグリス川、ユーフラテス川流域に住んでいた原始人である。

 改造された原始人は、もうつぎの世代には、今でいう現代人とほとんど違わない知的能力を
もつようになった。そこでエイリアンたちは、人間を教育することにした。言葉を教え、文字を教
えた。証拠がないわけではない。

 中国に残る甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、たいへんよく似てい
る。形だけではない。

 中国では、「帝」を、「*」(この形に似た甲骨文字)と書き、今でも「di」と発音する。「天から来
た、神」という意味である。一方、メソポタミアでは、「神」を、同じく、「*」(この形に似た楔形文
字)と書き、「dingir」と発音した。星という意味と、神という意味である。メソポタミアでは、神(エ
ホバ)は、星から来たと信じられていた。(詳しくは、私が書いた本「目で見る漢方診断」(飛鳥
新社)を読んでいただきたい。)

 つまり黄河文明でも、メソポタミア文明でも、神は「*」。発音も、同じだったということ。が、こ
れだけではない。言葉の使い方まで、同じだった。

 古代中国では、「帝堯(ぎょう)」「帝舜(しゅん)」というように、「位」を、先につけて呼ぶならわ
しがあった。(今では、反対に「〜〜帝」とあとにつける。)メソポタミアでも、「dingir 〜〜」とい
うように、先につけて呼んでいた。(英語国などでも、位名を先に言う。)

 こうして今に見る人間が生まれたわけだが、それがはたして人間にとって幸福なことだったの
かどうかということになると、私にも、よくわからない。

 知的な意味では、たしかに人間は飛躍的に進化した。しかしここでも、「だからどうなの?」と
いう部分がない。ないまま進化してしまった。それはたとえて言うなら、まさにそこらに群れるサ
ルに知恵だけ与えたようなものである。

 わかりやすく言えば、原始的で未発達な脳の部分と、高度に知的な脳の部分が、同居するこ
とになってしまった。人間は、そのとたん、きわめてアンバランスな生物になってしまった。人間
がもつ、諸悪の根源は、すべてここにある?

 ……これが私の考える、秋の大ロマンである。もちろん、ロマン。SF(科学空想)。しかしそん
なことを考えながら天の星々を見ていると、不思議な気分に襲われる。どんどんと自分が小さく
なっていく。そしてその一方で、それとは反比例して、どんどんと自分が大きくなっていく。「人間
は宇宙のカビ」と思う一方で、「人間は宇宙の創造主」と思う。相矛盾した自分が、かぎりなく自
分の中で、ウズを巻く。

 あさって(27日)も、天気がよければ、望遠鏡で、月をのぞくつもり。山荘から見る夜空は、ど
こまでも明るい。
(030925)

+++++++++++++++

ついでにもう1作!

これも日付を見ると、ちょうど
3年前の原稿ということになる。

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【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ
ても、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった7
500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、新石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇
に包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大きな
変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの方舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれてい
る。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく似
ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似た
土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つながっ
ている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シュ
メール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、ほ
ぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってきたとさ
れる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてから、
こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(たぐ
い)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。何か、目
標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがっている
かもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、いつ
の間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、中
国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2015)

●日韓経済戦争(PART2)

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日本の輸出額 約6473億ドル (06年、JETRO)
韓国の輸出額 約3260億ドル(06年、韓国関税庁)

日本の輸入額 約5793億ドル (06年、JETRO) 
韓国の輸入額 約3093億ドル(06年、韓国関税庁)

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 貿易額を見るかぎり、日本に急速に接近しつつある韓国。その額は、日本の約2分の1にま
で迫っている。しかもその数字は、日本の、たった7〜8年前の数字に等しい。

 日本の人口は、韓国の約3倍だから、対人口比でみるかぎり、日本は完全に韓国に負けて
いる。ただこうした貿易収支のほか、貿易外収支というのもある。

 所得収支とサービス収支を合わせて、貿易外収支という。

 所得収支というのは、簡単に言えば、貸したお金から得る金利のこと。サービス収支というの
は、旅行客が旅行などで使うお金をいう。

 所得収支は、黒字だが、サービス収支は、赤字を記録している。が、全体としてみると、この
貿易外収支が、この10年、急速に伸びている。06年には、約11兆円の黒字。07年には、約
13兆円の黒字を予想している(朝日新聞社・HP)。

 12兆円といえば、アメリカドルに換算すると、1100億ドルということになる。貿易で日本は、
680億ドル(6743−5793=680)を稼いでいるが、その約2倍ということになる。わかりや
すく言えば、日本は、日本全体が、サラ金国家になっていると考えるとわかりやすい。

 もちろん韓国にも、お金を貸している。韓国は、日本の安い金利の円を借りて、そのお金で、
事業をどんどんと拡大している。だから……、とまあ、この先は、私にも書けないが、しかしこん
な経済は、おかしい。

 たとえばこの浜松市でも、町工場がどんどんと姿を消している。その一方で、銀行のビルだ
けが、やたらと立派になっている。もちろん銀行は、空前の大利益を享受している。「働く」とい
う意味が、少しちがうのではないか。あるいは、私の考え方が、古いのか?

 要するに、「韓国なんか……」と、あなどっていると、とんでもないまちがいということ。日本に
その気はなくても、韓国はちがう。「日本に追いつけ、追い越せ」の時代は、こと韓国に関する
かぎり、終わった。今は、まさに死にもの狂いで、日本をたたき落とそうとしている。そういう現
実を、日本は、日本人は、もう少し本気で頭の中に入れるべきではないのか。

 何度も書くが、これはサッカーの試合とは、わけがちがう。日本全体の浮沈にかかわる重大
問題である。日本の未来も、それで決まる。で、今の状況をみると、日本と韓国がこれから先、
共存共栄ということは、考えられない。この試合に敗れたほうが、太平洋の海の底に沈むとい
うことになる。

 小泉総理の時代から始まった、日韓経済戦争。その成果は、着実に今、成果を結びつつあ
る。まさに韓国の基幹産業をねらいうちする形で、日本は矢継ぎ早に対抗策を出している。つ
い先週には、造船業の分野で、日本のK社が、中国への大規模投資を決めている。IC関連で
は、台湾に対して集中的に投資を繰りかえしている。こういった手は緩めてはいけない。

 日本は、韓国をどんどんと追いつめていく。最終的には、バブル経済を崩壊させて、韓国経
済を破綻にもっていく。過激な意見に聞こえるかもしれないが、それに失敗すれば、日本がか
わりに破綻することになる。

 サッカーの試合で言えば、今は後半の20分が過ぎたあたりということか。スコアは、3対2。
日本がかろうじてリードしている。しかし油断は禁物。「これで勝った」と気を抜いたとたん、韓
国の逆襲が始まる。そのとき、日本は負ける。

 がんばれ、がんばれ、日本! がんばれ、がんばれ、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(6月26日)

●Eへ、ホテルに泊まったよ! 

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昨夜は、息子が送ってくれた
ホテルのチケットを使って、
近くのホテルに泊まった。

宿泊券だけだったので、食事は別。
しかし久しぶりに、旅行気分を
楽しんだ。

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 昨夜は、息子のEが送ってくれたホテルのチケットを使って、近くのホテルに泊まった。宿泊
券だけだったので、食事は別。しかし久しぶりに、旅行気分を楽しんだ。

 「親というのは、こういう日のために、子育てをするんだね」とワイフに話すと、ワイフは、うれ
しそうな顔をしてみせた。

 ただ宿泊券だけだったので、夕食と朝食は、別料金だった。それが結構な出費になった。「あ
いつの初任給では、ここまでだね」と。それを聞いて、ワイフは笑った。

 しかし本当に楽しかった。どういうわけか、楽しかった。息子にこんなことをしてもらうなどと
は、夢にも考えていなかった。

 ホテルには温泉があった。露天の野外風呂もあった。サウナ風呂もあった。夕食前後に2
回。朝食前に1回。計、3回も風呂に入った。おかげで、昨日は朝からほろ酔い気分。午後か
らの仕事が、少し、きつかった。


●ボット

 パソコンのウィルスより性質(たち)の悪いのが、「ボット」と呼ばれる、スパイウェア。これは
パソコンをモデムにつないだだけで、パソコンに感染する。

 雑誌(Y誌)を読んだら、「98とMeは、もう捨てろ!」とあった。98とMeに関しては、UPDAT
E・サービスは、すでに終了している。つまりそれくらい、ボットというのは、危険なものらしい。

 私のばあい、ウィルス対策は、2重にほどこしている。プロバイダーのほうでの有料サービ
ス、それにパソコン側でのウィルス・チェック。ボット対策としては、定期的に、「スパイボット」と
いうフリーのサービスを使って、パソコンを検査している。

 しかしそれだけでは足りないそうだ。通産省の調査でも、現在、3万種類以上のボットが、暗
躍しているという。しかもそのうち、1000種類以上のボットは、ウィルス対策ソフトですら、平気
でスリ抜けてしまうという。

 なお、その雑誌によれば、ルーターを設置していれば、ほぼ安全らしい。しかし電話線からモ
デムを介して、そのままパソコンにつないでいるばあい、感染度は、ほぼ100%とか!

 久々に、パソコン雑誌を読んで、ぞっとした。これからも、悪党たちとの知恵くらべがつづきそ
う。


●ロボット

 そのボットで思い出したが、最近、私は、自分の体を、自分のロボットのように思うことが多く
なった。自分の体をあたかもロボットに見立てて、自分の体を動かす。(「ボット」というのは、
「ロボット」の略。あたかもロボットのように、相手のパソコンに忍び込んで、いたずらをするか
ら、「ボット」と呼ばれるようになった。)

 たとえば座イスに座って、本を読んでいたとする。そのとき、のどが渇いて、水がほしくなった
とする。そういうとき、自分の体に命令する。「立って、水を取ってこい」と。

 すると自分の体は、「いやだ」「めんどう」という信号を送り返してくる。しかしそんな信号に、応
じてはいけない。負けてはいけない。基本的には、肉体というのは、怠け者である。再度、私
は、自分の体に命令する。「立って、水を取ってこい」と。

 すると、体が、しぶしぶながらも、動きだす。つまり私は、こうして自分の体を動かす。それが
このところ、楽しい。

 で、そのせいか、このところ、(精神)と(肉体)を分離して考えることが多くなった。「精神は精
神、肉体は肉体」と。

 私たちの(体)は、私たちのモノであって、それでいて、私たちの(モノ)ではない。たとえば「私
の指」とは言うが、しかし(私)が、その指を作ったわけではない。手の指を5本にしたのも、
(私)ではない。だから私たちの(体)は、私たちのモノであって、私たちのモノではないというこ
とになる。

 だから(私)は、自分の肉体に命令する。「立って、水を取ってこい」と。つまりこうして私は私
の体を動かす。

 「自転車に乗って、運動をしてこい」
 「ハナ(=犬)と散歩してこい」
 「キッチンの食器をぜんぶ、洗え」と。

 ついでに、これは余談だが、その肉体にも、優劣がある。肉体をロボットと言いかえてもよ
い。性能のよいロボットもあれば、性能の悪いロボットもある。私のロボットは、形こそ大衆車
並みだが、性能は、それほど悪くない。乗り古したベンツといった感じ。小さな故障はよくある
が、今のところ、ほどほどによく動く。階段だって、走ってのぼることができる。

 あとは、そのロボットを、どうやってじょうずに使っていくか、だ。

 繰りかえしになるが、基本的には、肉体というのは、怠け者である。だから怠け者の言いなり
には、ぜったいに、なってはいけない。


●がん

 がん細胞、つまり悪性腫瘍は、自ら勝手に増殖して、最後は、自分の母体すらも殺してしま
う。そのとき、自分も死ぬ。バカげた生物だが、怠けた肉体は、そのがんにたとえることができ
る。

 たとえば空腹感を考えてみる。

 ときに、いくら食べても、空腹感が消えないときがある。が、そういうときそれに負けて、食べ
つづけていると、とたんに体が太りだす。

 私のばあいも、適正体重より、2、3キロ太っただけで、自分の体をボッテリと重く感ずるよう
になる。が、こうなると、あとは悪循環。(ますます食べる)→(ますます太る)→(運動不足にな
る)→(ますます太る)。

 つまり肉体からの命令どおりに動いていると、ときに、がん細胞のように、自分の肉体そのも
のを滅ぼしてしまう。だから肉体のほうが、いくら「もっと食べたい」という信号を送ってきても、
それに負けてはいけない。精神のほうで、コントロールする。

 言いかえると、そのコントロールがうまくできる人を、自己管理能力のすぐれた人という。そう
でない人を、そうでない人という。

 (肉体)と(精神)を分離して考えるということには、危険な面もないわけではない。しかしこと
健康論に関していうなら、「自分の肉体の健康を管理、維持するのは、私(=精神)である」とい
う考え方は、まちがっていないと思う。

 このつづきは、もう少し様子をみてから、書くことにする。なお、東洋医学(=漢方)では、精
神も肉体の一部であると説く。


●K幼稚園での講演

 これからK幼稚園で、講演をしてくる。楽しみがひとつ、ある。

 以前、年中児のときから、中学3年生まで教えたことのある、Sさんという女の子が、その幼
稚園で保育士をしていた。現在も、しているかもしれない。一度、年賀状で、「K幼稚園で、保育
士をしています」という報告を受けた。

 今日、これからその幼稚園へ行ったら、まっさきに、そのことを園長に聞いてみるつもり。楽
しみだ。


●HPの宣伝

 今度、はじめて自分のHPの宣伝広告を、地元のタウン紙に載せることにした。昨日、その会
社の営業マンの人と、打ち合わせをすませた。

 費用は、7万5000円のところを、5万円にしてもらった。

 誠司(孫)の顔を3分の2ほど載せて、その下に、こう載せる。

 「20000ページの子育て情報が、無料でダウンロード!」と。

 簡単な広告である。それが載るのは、7月の中旬前後ということらしい。興味のある方は、
「中日ショッパー」を見てほしい。無料のHPを、有料で宣伝するというのもおかしな話だ。営業
部の人が、「どうして?」と聞いたので、私は、こう答えた。

 「現在、HP、BLOGなど、毎日、400〜600件のアクセスがあります。しかしそのほとんど
は、浜松市以外からのものです。浜松市の人にも、もっと読んでほしいからです」と。

 若いころは、「こんな浜松なんか、相手にするか」と思いながら、がんばった。しかしこのとこ
ろ、考え方が逆になった。「見知らぬ、ほかの地方なんか、相手にしても、しかたない」と。

 私も、ぬくもりのある、つまり私を暖かく包んでくれる故郷(=古里)を求め始めているのかも
しれない。……これも年齢のせいか? よくわからないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2016)

●ゲオルギウの「二十五時」について

+++++++++++++++++

ゲオルギウの「二十五時」について、
STさんという方から、掲示板のほうに
こんな指摘があった。

私のまちがいと、不勉強を、許してほし
い。

私のほうの出典は、明治書院「世界名言
事典」です。

+++++++++++++++++

 ゲオルギウの「二十五時」について、掲示板のほうに、つぎのような書き込みがあった。それ
をそのままここに紹介する。

 『何カ所かで、ゲオルギウについてのコメントを拝見しました。

梶山健編『世界名言事典 新版』(明治書院、1988年)の102頁に、「いかなるときでも、人間
のなさねばならないことは、世界の終焉が明白であっても、自分は今日、リンゴの樹を植えるこ
とだ。」の出典が、ゲオルギウ「二十五時」になっていますが、実は、この「二十五時」に、この
言葉はありません。

私は、『二十五時』の訳書(筑摩書房、1950年)を入手して、全部通読したので、間違いありま
せん。梶山健編著『世界名言大辞典』(明治書院、1997年)は前者の改訂版ですが、この239
頁には、同じ言葉の出典が、ゲオルギウ「第二のチャンス」に訂正されていました。

ルーマニア生まれの作家、コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウ(1916〜92年)の第二作、
『第二のチャンス』(1952年原著)(訳書:筑摩書房、1953年)の361頁には「たとえ世界の終
末が明白であっても、自分は今日リンゴの木を植える……」とあり、訳書の文中のドイツ語の
原文に「Morgen(明日)」とあるので、「明白」は「明日」が本来の訳文と思われます。

梶山氏の編著の巻末索引には、両書ともに、ゲオルギウGheorgiu(1901-)とありますが、これ
はルーマニアの政治家(革命家)ゲオルグ・ゲオルギウ・デジ(1901−65年)と混同したもの
であり、また、綴りには「h」が脱落していて、正しくはGheorghiu,Constantin Virgil(1916-92)で
す。原典にあたらないで孫引きする場合には、細心の注意が必要だと感じました。二人のゲオ
ルギウの混同は寺山修司もやっていました(ポケットに名言を)。

二人のデータは、インターネットでは、Wikipediaで調べることができます。ゲオルギウの言葉の
出典の探求については、私のHP「ものがたり通信」の「8.真実を求めて」で詳しく報告してい
ます。確認された上で、正しい情報を発信されることを希望します。

出典の情報が間違っていると混乱が起きやすいので、扱いは慎重にして欲しいと思います(実
際、「ミニマルキッチンBlog」で『二十五時』が出典と推定されていて混乱をもたらしていまし
た)。よろしくお願いいたします』と。

【はやし浩司よりST様へ】

 まちがいを指摘してくれた、ST様、ありがとうございました。今後、気をつけます。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「たとえ世界の終末が明日(あす)であっても、自分は今日リンゴの木を植える……」

++++++++++++++++

ゲオルギウという作家が、「第二の
チャンス」という本の中で、
「たとえ世界の終末が明日であっても、
自分は今日リンゴの木を植える……」と
書いている。

すばらしい言葉である。私も、何度か、
この言葉に励まされた。とくに最近は、
なにごとにつけ、年齢を理由に、消極的
になる傾向が出てきた。

自分をふるいたたせる言葉として、この
言葉をよく思いだす。

この言葉について、最初に書いた原稿が
つぎの原稿。日付が、03年となってい
るから、4年前の原稿ということになる。

そのままここに掲載する。

++++++++++++++++++

●春

 私のばあい、春は花粉症で始まり、花粉症で終わる。……以前は、そうだった。しかしこの8
年間、症状は、ほとんど消えた。最初の1週間だけ、つらい日がつづくが、それを過ぎると、花
粉症による症状が、消える。……消えるようになった。

 一時は、杉の木のない沖縄に移住を考えたほど。花粉症のつらさは、花粉症になったことの
ない人には、わからない。そう、何がつらいかといって、夜、安眠できないことほど、つらいこと
はない。短い期間ならともかくも、それが年によっては、2月のはじめから、5月になるまでつづ
く。そのうち、体のほうが参ってしまう。

 そういうわけで、以前は、春が嫌いだった。2月になると、気分まで憂うつになった。しかし今
は、違う。思う存分、春を楽しめるようになった。風のにおいや、土や木のにおい。それもわか
るようになった。ときどき以前の私を思い出しながら、わざと鼻の穴を大きくして、息を思いっき
り吸い込むことがある。どこか不安だが、くしゃみをすることもない。それを自分でたしかめな
がら、ほっとする。

 よく人生を季節にたとえる人がいる。青年時代が春なら、晩年時代は、冬というわけだ。この
たとえには、たしかに説得力がある。しかしふと立ち止まって考えてみると、どうもそうではない
ような気がする。

 どうして冬が晩年なのか。晩年が冬なのか。みながそう言うから、私もいつしかそう思うように
なったが、考えてみれば、これほど、おかしなたとえはない。人の一生は、80年。その80年
を、一年のサイクルにたとえるほうが、おかしい。もしこんなたとえが許されるなら、青年時代
は、沖縄、晩年時代は、北海道でもよい。あるいは青年時代は、富士山の三合目、晩年時代
は、九合目でもよい。

 さらに、だ。昔、オーストラリアの友人たちは、冬の寒い日にキャンプにでかけたりしていた。
今でこそ、冬でもキャンプをする人はふえたが、当時はそうではない。冬に冷房をかけるような
もの。私は、そんな違和感を覚えた。

 また同じ「冬」でも、オーストラリアでは、冬の間に牧草を育成する。乾燥した夏に備えるため
だ。まだある。砂漠の国や、赤道の国では、彼らが言うところの「涼しい夏」(日本でいう冬)の
ほうが、すばらしい季節ということになっている。そういうところに住む友人たちに、「ぼくの人生
は、冬だ」などと言おうものなら、反対に「すばらしいことだ」と言われてしまうかもしれない。

 が、日本では、春は若葉がふき出すから、青年時代ということになるのだが、何も、冬の間、
その木が死んでいるというわけではない。寒いから、休んでいるだけだ。……とまあ、そういう
言い方にこだわるのは、私が、晩年になりつつあるのを、認めたくないからだ。自分の人生
が、冬に象徴されるような、寒い人生になっているのを認めたくないからだ。

 しかし実際には、このところ、その晩年を認めることが、自分でも多くなった。若いときのよう
に、がむしゃらに働くということができなくなった。当然、収入は減り、その分、派手な生活が消
えた。世間にも相手にされなくなったし、活動範囲も狭くなった。それ以上に、「だからどうな
の?」という、迷いまかりが先に立つようになった。

 あとはこのまま、今までの人生を繰りかえしながら、やがて死を迎える……。「どう生きるか」
よりも、「どう死ぬか」を、考える。こう書くと、また「ジジ臭い」と言われそうだが、いまさら、「どう
生きるか」を考えるのも、正直言って、疲れた。さんざん考えてきたし、その結果、どうにもなら
なかった。「がんばれ」と自分にムチを打つこともあるが、この先、何をどうがんばったらよいの
か!

 本当なら、もう、すべてを投げ出し、どこか遠くへ行きたい。それが死ぬということなら、死ん
でもかまわない。そういう自分が、かろうじて自分でいられるのは、やはり家族がいるからだ。
今夜も、仕事の帰り道に、ワイフとこんな会話をした。

「もしこうして、ぼくを支えてくれるお前がいなかったら、ぼくは仕事などできないだろうね」
 「どうして?」
 「だって、仕事をしても、意味がないだろ……」
 「そんなこと、ないでしょ。みんなが、あなたを支えてくれるわ」
 「しかし、ぼくは疲れた。こんなこと、いつまでもしていても、同じことのような気がする」
 「同じって……?」
 「死ぬまで、同じことを繰りかえすなんて、ぼくにはできない」
 「同じじゃ、ないわ」
 「どうして?」
 「だって、五月には、二男が、セイジ(孫)をつれて、アメリカから帰ってくるのよ」
 「……」
 「新しい家族がふえるのよ。みんなで楽しく、旅行もできるじゃ、ない。今度は、そのセイジが
おとなになって、結婚するのよ。私は、ぜったい、その日まで生きているわ」

 セイジ……。と、考えたとたん、心の中が、ポーッと温かくなった。それは寒々とした冬景色の
中に、春の陽光がさしたような気分だった。

 「セイジを、日本の温泉に連れていってやろうか」
 「温泉なんて、喜ばないわ」
 「じゃあ、ディズニーランドに連れていってやろう」
 「まだ一歳になっていないのよ」
 「そうだな」と。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。1901年生まれというから、今、生きていれば、
102歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」(実際には、『第二のチャンス』、ST様指摘)と
いう本の中で、こう書いているという。

 「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」と。

 私という人間には、単純なところがある。冬だと思えば、冬だと思ってしまう。しかしリンゴの
木を植えようと思えば、植える。そのつど、コロコロと考えが変わる。どこか一本、スジが通って
いない。あああ。

 どうであるにせよ、今は、春なのだ。それに乗じて、はしゃぐのも悪くない。おかげで、花粉症
も、ほとんど気にならなくなるほど、楽になった。今まで、春に憂うつになった分だけ、これから
は楽しむ。そう言えば、私の高校時代は、憂うつだった。今、その憂うつで失った部分を、取り
かえしてやろう。こんなところでグズグズしていても、始まらない。

 ようし、前に向かって、私は進むぞ! 今日から、また前に向かって、進むぞ! 負けるもの
か! 今は、春だ。人生の春だ! 
(030307)

【追記】「青春」という言葉に代表されるように、年齢と季節を重ねあわせるような言い方は、も
うしないぞ。そういう言葉が一方にあると、その言葉に生きザマそのものが、影響を受けてしま
う。人生に、春も、冬もない。元気よく生きている毎日が、春であり、夏なのだ!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●SZさんへ、

「今日、リンゴの木を植えることだ!」

 このところ、反対に読者の方に励まされることが、多くなった。一生懸命、励ましているつもり
が、逆に私が励まされている? 今朝(3月16日)も、SZさんから、そういうメールをもらった。
「先生は、リンゴの木を植えていますよ」と。3月15日号のマガジンで、つぎのように書いたこと
について、だ。

「ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。1901年生まれというから、今、生きていれば、1
02歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」(実際には、『第二のチャンス』、ST様指摘)とい
う本の中で、こう書いている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。」

 「二十五時」は、角川書店や筑摩書房から、文庫本で、翻訳出版されている。内容は、ヨハ
ン・モリッツという男の、収容所人生を書いたもの。あるときはユダヤ人として、強制収容所に。
またあるときは、ハンガリア人として、ルーマニア人キャンプに。また今度は、ドイツ人として、
ハンガリア人キャンプに送られる。そして最後は、ドイツの戦犯として、アメリカのキャンプに送
られる……。

 人間の尊厳というものが、たった一枚の紙切れで翻弄(ほんろう)される恐ろしさが、この本
のテーマになっている。それはまさに絶望の日々であった。が、その中で、モリッツは、「今日、
リンゴの木を植えることだ」と悟る。

 ゲオルギウは、こうも語っている。「いかなる不幸の中にも、幸福が潜んでいる。どこによいこ
とがあり、どこに悪いことがあるか、私たちはそれを知らないだけだ」(「第二のチャンス」)と。
たいへん参考になる。

 もっとも私が感じているような絶望感にせよ、閉塞(へいそく)感にせよ、ゲオルギウが感じた
であろう、絶望感や閉塞感とは、比較にならない。明日も、今日と同じようにやってくるだろう。
来年も、今年と同じようにやってくるだろう。そういう「私」と、明日さえわからなかったゲオルギ
ウとでは、不幸の内容そのものが、違う。程度が、違う。が、そのゲオルギウが、『どんなときで
も、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、
リンゴの木を植えることだ』と。

 私も、実はSZさんに励まされてはじめて、この言葉のもつ意味の重さが理解できた。「重さ」
というよりも、私自身の問題として、この言葉をとらえることができた。もちろんSZさんにそう励
まされたからといって、私には、リンゴの木を植えているという実感はない。ないが、「これから
も、最後の最後まで、前向きに生きよう」という意欲は生まれた。

SZさん、ありがとう! 近くそのハンガリーへ転勤でいかれるとか、どうかお体を大切に。ゲオ
ルギウ(Constantin Virgil Gheorgiu) は、ヨーロッパでは著名な作家と聞いていますから、また
耳にされることもあると思います。「よろしく!」……と言うのもへんですが、私はそんなうような
気持ちでいます。
(030316)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

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つぎの原稿は、2年間に書いた
原稿です。

この中でも、ゲオルギウについて
触れています。

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●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』という名言を残している。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

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【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』という名言を残している作家
である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

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●私の夢、希望、目的

 そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。

 毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。

 私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れること。今は
(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに方法は、よくわから
ないが、このわからないときが、楽しい。)

 希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号までつづける
こと。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後のことは、考えてい
ない。

 毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこともある
のか!」と。

 しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐る。体力
と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノを毎日、書いている
と、それがよくわかる。

 数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボンヤリとし
てくる。

 ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断してしま
うのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐っても、自分
ではそれがわからない。

 「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。

 だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)

++++++++++++++++++

改めて、ST様、まちがいのご指摘
ありがとうございました。

++++++++++++++++++

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ゲオ
ルギウ 二十五時 第二のチャンス)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2017)

●MELMAで、100点!

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人は、それがたとえ小さな希望で
あっても、それにしがみついて
生きるものか。

昨日、MELMA(メルマガ
編集投稿欄)を見たら、私の
マガジンが、「100点」という
評価を受けているのがわかった。

60000誌もある、メルマガの
中でも、100点と評価される
電子マガジンは、毎月、1〜2誌も
ない。

MELMA編集部のみなさん、
そして読者のみなさん、本当に
ありがとう!

うれしかった。
本当にうれしかった。

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 私のマガジンが、MELMA社の評価で、「100点」という評価を受けているのがわかった。「1
00点」という評価を受けるマガジンは、60000誌(MELMA社)の中でも、毎月、1〜2誌にか
ぎられる。つまり、トップ!

 うれしかった。どういうわけか、うれしかった。「点数など気にしない」とは、自分でもよく言う
が、(そして子どもたちにも言うが)、しかしうれしかった。

 MELMA編集部のみなさん、そして読者のみなさん、ありがとう。本当に、ありがとう。

 というのも、電子マガジンの世界は、実に不思議な世界で、書いても、書いても、この世界で
は、読者からのリアクションというのが、ほとんど、ない。中には、「情報のゴミ」とこきおろす人
さえいる。

 が、私は書いてきた。今も書いている。しかし読者がどういう目で読んでいるかということにな
ると、皆目、見当もつかない。マスコミで取りあげられることも、まずない。あえて言うなら、電子
マガジンを発行するということは、毎日、山の上から、空に向かって叫んでいるようなもの。あ
るいは真っ暗な暗闇の中で、講演をしているようなものかもしれない。

 読者の顔が見えるというということは、まずない。

 ゆいいつの手がかりは、つまり、自分の書いていることが、評価されているかどうかを知る、
ゆいいつの手がかりは、読者がふえること。その(ふえ方)を見て、自分のマガジンを評価す
る。自分の道しるべとする。もちろん読者がふえれば、大きな励みになる。そうでなければ、そ
うでない。

 そんなとき、たまたまMELMA(メルマガ編集コーナー)をのぞいてみたら、何と、私のマガジ
ンが、(100点評価)を受けていることがわかった。100点だぞ!

 これは私のマガジンに対する、はじめての評価である。ほかに(まぐプレ)と(E−マガ)を発行
しているが、そちらのほうでは、そういった評価制度はない。私がワイフに、「おい、100点だ
ぞ!」と話すと、ワイフは事情がのみ込めなかったらしく、ただ「ヘ〜エ」とだけ、言った。

 「あのなあ、100点と評価されるのは、60000誌の中でも、1〜2誌だけだぞ。わかるか? 
トップなんだよ。ぼくのマガジンがア!」と。

 久々に、自分のしていることの先に、光を見た。小さな光かもしれないが、その光を見た。う
れしかった。

 あとはその光に向かって、前に進むだけ。ほ〜〜〜〜っ! よかった!

【付記】

 点数は毎度変化するので、下(↓夜)をクリックしたとき、「100点」になっているかどうかわか
りませんが、一応、そのアドレスを付記しておきます。

http://www.melma.com/backnumber_167246/


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●今朝(6月27日)・あれこれ

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昨日は、睡眠不足のまま、ある
幼稚園で、講師をしてしまった。

おかげで、夕方から、おかしな
頭痛。今までに経験したことの
ない頭痛だった。

頭の芯で、ピリピリと、神経痛
のように痛む頭痛だった。

こわかった。ただ遊飛性(あち
こちに痛みが飛散する)の頭痛
だったので、それほど不安には
ならなかった。

しかし気をつけよう。
このところ毎朝、4時ごろに
一度、目が覚めてしまう。

うつ病の初期症状か?
それとも老人性の早朝覚醒か?

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●夏の旅行

 地元のバス会社が運営する旅行ツアーに、「Bツアー」というのがある。それを利用して、昨
年は、毎月のように、あちこちを旅行していた。

 値段は安いし、サービスも悪くない。それに楽。観光地へそのまま直行してくれる。

 が、1月に母が私の家に来てからは、それができなくなった。母の介護といっても、私には楽
だった。しかし異変が起きたのは、5月の大型連休のとき。その間、デイ・サービスが休みにな
ってしまった。とたん、それまではどこかに隠れていたストレスが、表に出てきた(?)。

 私たちは、母とともに、連休中、家の中に、缶詰めになってしまった。同じころ、いくつかの事
故が重なった。母から目が離せなくなった。ケアマネの人は、「毎晩、添い寝をするしかありま
せんね」と言った。

 が、その母は、今は、特別養護老人ホームに入った。私たちがすべきことは、ときどき、母を
見舞うことくらいなもの。重い気分が、それで消えたわけではないが、しかし身は軽くなった。そ
れでまたまた旅行、再開!

 7月には、軽井沢へ行ってくる。8月には、富士五湖のほうへ行ってくる。昨日、ある幼稚園で
の講演の帰りに、その申し込みをしてきた。


●投影

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自分の中には、いろいろな
部分がある。日ごろ、いやだと思って
いる部分もある。

そういういやな部分を、そのまま見せ
つける人に出会ったりすると、
何とも言えない不快感を覚える。

心理学の世界では、こういうのを
「投影」と呼んでいる。

自分の姿を相手の中に投影して、
それに反応する心理作用をいう。

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 私は子どものころ、小ズルイ子どもだった。自分ではそうは思っていなかったが、年齢を重ね
るごとに、それがよくわかるようになった。

 が、その小ズルさが、消えたわけではない。今でもふと油断すると、その小ズルサが顔を出
す。ときどき、ワイフにも注意される。

 たとえばこのところ、ある牛肉加工会社の偽装問題がマスコミの世界で騒がれている。何で
も牛肉の中に、ブタ肉や、古い鶏肉などを混ぜて、市場に出荷していたという。悪質といえば悪
質だが、戦後のあの時期には、みな、腐りかけたような肉でも、平気で食べていた。また食べ
ないと生きていかれなかった。

 牛肉などというものは、めったに食べられなかった。だから家庭料理でも、牛肉の中に、ブタ
肉を混ぜるなどということは、当り前のことだった。

 最近の若い人たちは、そういう時代を知らないから、あたかも鬼の首でも取ったかのように、
大騒ぎする。テレビのレポーターに向かって、「これからは何を信じて、食品を買ったらいいの
か、わからなくなりました」と言っていた女性もいた。(おおげさな!)

 しかしこんな事実もある。

 ある大手の食品加工メーカーに努めていた知人が話してくれたことだが、賞味期限が近づい
てきた食品は、一度、そのメーカーに回収される。回収されたあと、貧しい国々へ、援助品とし
て、そのまま送られる、と。

 「日本人はだめだが、貧しい国の人たちが食べるのは、かまわない」ということか?

 で、テレビ画面に映し出された社長の顔を見ていたとき、私はふと、こう思った。「私の知って
いる人の中にも、よく似た顔の人がいるぞ」と。「顔」というより、どこか小ズルそうな目つき、し
ぐさなどをいう。

 つまり私が生まれ育った時代というのは、そういう時代だった。

 ただ、その社長について言えば、正直さが、足りなかった。ブタ肉を混ぜるなら混ぜるで、た
とえば「牛肉80%、ブタ肉10%、鶏肉10%」」など、きちんと表示すればよかった。肉を混ぜ
ると、味に深みが出るなどということは、私でも知っている。混ぜること自体は、悪いことではな
い。

 ともかくも、20歳を過ぎてからの私は、そういう自分の中の小ズルさとの戦いだった。一度身
についたサビは、そう簡単には、消えない。

 で、その私だが、そのため、反対に小ズルイ人を見ると、言いようのない不快感を覚える。あ
るいは他人の小ズルさが、手に取るようにわかる。

 こういう心理的反応を、心理学の世界でも、「投影」と呼んでいる。本来はケチな人が、他人
のケチをはげしく非難するのも、そのひとつ。自分の別の姿を相手に投影して、それに過剰に
反応することをいう。

 が、このところ、少し、私自身が変化してきた。たとえばここに書いた、その食品会社の社長
にしても、(もちろんその行為は非難されるべきだが)、どこか憎めないというか、あるいは、
「そんなこと、みんなやっているだろうにナ」というように、どこか冷めた見方をするようになっ
た。

 あるいは、「今は、日本はお金があるから、こういう問題で騒ぐが、そのうち、食糧危機にでも
なれば、そんなことは言っておられなくなるのにナ」と思ってしまう。それこそ戦後のあの時期の
ように、古い牛肉でもブタ肉でも、みなが争って、食べるようになるかもしれない。

 もっと言えば、世界は、それほど美しいものではない。完成された世界でもない。人間だっ
て、そうだ。この世界に、完成された人間というのは、いったい、どれだけいるのか? あるい
は「私はそういうズルイことはしない」と、自信をもって断言できる人は、いったい、どれだけい
るのか?

 テレビの画面で、ギャーギャーと騒ぐレポーターにしても、どこかインチキ臭い。そういうレポ
ーターが、まるで正義の使者でもあるかのように、こうした問題について、おおげさに騒ぐ。今
の私は、そこにある種の(おかしさ)を覚えるようになった。

 今の私なら、牛肉とだまされて、ブタ肉を食べさせられても、怒らない。多少古い肉を食べさ
せられても、怒らない。「やられたナ」と思って、笑ってすます。

 ……話はぐんとそれるが、むしろ腹立たしいのは、あの社会保険庁! 税金ドロボーたち
が、ドロボー行為そのものをしながら、平気な顔をしている。その意識すら、ない。怒りをぶつ
けるとしたら、むしろ、そちらのほうではないのか?

 この話は、また別のところで!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【豊かさとは何か】

●相対的貧困層 

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貧困かどうかということは、
相対的な満足度によって決まる。

家と車と家電製品をもっていても、
貧しい人は、貧しい。

その日、その日を生きていくだけで、
精一杯という人も、少なくない。

そこで最近では、国の豊かさを
測る尺度として、「相対的貧困率」
という言葉を使う。

+++++++++++++

 生活の豊かさは、「モノ」では決まらない。いくら家と車と家電製品をもっていても、貧しい人
は、貧しい。その日、その日を生きていくだけで、精一杯という人も少なくない。

 そこで最近では、国の豊かさを測る尺度として、「相対的貧困率」という言葉を使う。わかりや
すく言えば、生活に対する満足度ということになる。

 それによれば、

 メキシコ  ……20・3
 アメリカ  ……17・1
 トルコ   ……15・9
 アイルランド……15・4
 【日本】  ……15・3
 ポルトガル ……13・7
    ……
    ……
スウェーデン…… 5・3
チェコ   …… 4・3
デンマーク …… 4・3、だ、そうだ。

(OECD24か国平均……10・4)(2005年)

 日本は相対的貧困率でみるかぎり、貧しい国としては、上位5位ということになる。実際、「ワ
ーキングプア」という言葉があることからもわかるように、この日本には、「働いても、働いても
楽になれない」という人たちが、「全体の4分の1、400万世帯もある」(朝日新聞「キーワー
ド」)そうだ。

 これらの人たちは、最低賃金や、生活保護以下の収入しか得られない人たちという。つまり
その分だけ、所得格差が進んでいる。ジニ係数(ジニ指数ともいう)でみても、日本は、OECD
25か国中、第10位ということになっている。ジニ係数は、所得のかたよりを測る指数と考えて
よい。

 たとえば高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占め、残りの4分の3の人たち
が、残った4分の1の所得を分けあう状態で、ジニ係数は、0・5となる。日本は、0・314(200
5年)である。

 ……そういう意味では、この日本は、たしかに住みにくい国になりつつある。何をするにも、
お金がかかる。どこへ行っても、お金がついて回る。まさに、マネー、マネー、マネーの国。お
金がないと、それこそ、身動きができない。

 そこで知恵をしぼって、たとえば休日でも、できるだけお金を使わないですまそうとする。お弁
当を用意して、無料の公園を散策したり、山歩きをしたりする。が、それでもお金がかかる。ど
ういうわけだか、かかる。そういうしくみが、できあがってしまっている。

 言いかえると、お金を使わないですまそうと思ったら、家の中で、ゴロゴロしているしかない。
しかしそういう生活を、だれも、豊かな生活とは言わない。つまり今、日本人の多くが感じてい
る貧困感は、そういうところから生まれている(?)。

 では、どうすれば、豊かに生きられるのか? 「豊か」というより、「心豊か」と言いかえたほう
がよい。

 私なりの実践法を並べてみる。

(1)家族が円満であること。これは心豊かに生きるための、第一条件。
(2)みなが、健康であること。これも心豊かに生きるための、第一条件。かりにだれかが病気
であっても、それを前向きに受け入れてしまう。
(3)収入の範囲で、ほどほどの生活をする。できれば、常に最低限の生活を心がける。
(4)価値観を、(お金)から、(心)と(知恵)に移す。心の豊かさ、知恵の豊かさをもって、「豊
か」と判断する。
(5)「私は私」という生き方を貫く。世間体、見栄、体裁は無視。冠婚葬祭を含めて、儀礼を廃
する。

 私はとくに(4)が大切だと思う。心や知恵は、みがけばみがくほど、そうでない人が、そうでな
く見えてくる。他人に対して優越感をもつことは、好ましいことではないが、しかしそのうち、愚
かな人たちを相手にしなくなる。「私は私」という生きざまを貫きやすくなる。

 ……ともかくも、相対的貧困率が高いということは、けっして望ましいことではない。社会がそ
れだけ不安定化することになる。また国の豊かさというのは、いかに弱者にやさしいかで決ま
る。弱者にきびしい国というのは、それだけ未熟な国ということになる。

【付記】

●拡大する貧富の差とこれからの受験勉強

 この日本の社会では、静かに、密かに、しかし確実に、ジワジワと、貧富の差が拡大しつつ
ある。

 このことは、工場労働者の構成を見ればわかる。

 近くのX自動車の下請けメーカーの中堅社員が、こんなことを話してくれた。

「社員といっても、何種類もいる。正社員のほか、パート社員、期間社員、アルバイト、人材派
遣会社からの派遣社員などなど。

 さらに最近では、一応社員なのだが、独立した仕事だけをして帰る社員もいる」と。

 「どういう仕事ですか?」と聞くと、「たとえば会社で出す、人材募集のチラシを作ったり、社内
報を作ったりする社員です。しかしこの社員は、社員というよりは、独立したアルバイトといった
感じです。社会保険にも入れず、もちろんいっさいの保証はありません」と。

 手厚く保護される正社員。しかしその一方で、冷遇されるそれ以外の社員(?)たち。年俸に
しても、数百万円以上もの差がある。が、「安い」だけではない。労働条件は、かえってきびし
い。少しでもヘマをすると、即、クビという状態だそうだ。

 この日本では、今、確実に、貧富の差が、広がりつつある。やがてそのうち、社会問題化す
るのも時間の問題といってよい。数字を見てみよう。

 厚生労働省が04年6月に発表した、ジニ指数(世帯ごとの所得格差を示す)は、調査を始め
た84年から、7年連続で、拡大をつづけている。

 昨年(04年)は、そのジニ指数が、0・498と、かぎりなく0・5に近づきつつある。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占めることを意味す
る。残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことになる。

 しかしこの数字を、深刻に考えている政治家は、少ない。……いない。経済界にいたっては、
なおさらで、むしろ、こうした格差を歓迎しているふうですら、ある。理由がある。

 「こうした差こそが、やる気のある人にやる気を出させ、経済を活性化させる」と。

 つまり力があり、やる気のある人がいい生活をして、そうでない人が、そうでない生活をする
のは、当然ではないか、と。そういう冷徹な論理である。が、どうもそれだけではないようだ。

 「この世の中では、支配階級と、だまってそれに従う階級がなければ、そもそもマネー社会
(=マネー資本主義)は成りたたない」という論理がある。みなが平等になり、中産階級になっ
てしまえば、社会の活力そのものが、停止してしまうという。例がないわけではない。

 かつて私が留学していたころのオーストラリアが、そうだった(1960〜70年代)。

 当時のオーストラリアでは、年俸が、確か2万ドル(この数字は正確ではない)を超えると、と
たんに、所得税率が極端にあがるしくみになっていた。だから、みな、2万ドル分までは働くが、
それ以上に働いても意味がないというように考えるようになった。

 こうして「レイジー・オージー(怠け者のオーストラリア人)」が生まれたわけだが、この制度
は、オーストラリアの活力そのものまで奪ってしまった。(もともと、土地を掘れば、鉱物資源が
無尽蔵に出てくるという、ラッキーな国であったことも事実である。)

 だから経済界あたりでは、むしろ、貧富の差を助長することこそ、重要であるというような考え
方をする。はっきり言えば、マスター(ご主人様)がいて、それに従順に従う、スレイブ(奴隷)が
いたほうが、経済の活性化のためには、つごうがよいということになる。

 だから、官僚たちは、恥ずかしげもなく、こう言う。「林さん、労働者には、金(マネー)をもた
せてはいけないのですよ。金をもったとたん、働かなくなりますから。万博でも何でもいい。そう
いうのを開いて、労働者に金を使わせる。貯金させてはいけないのですよ」と。

 これはある官僚から、私が直接聞いた言葉である。だから万博に反対というわけではない。
経済界の論理というのは、そういうもの。

 それを知ってか、知らずか、地方の貧しい人たちが、バスに乗って、万博を見にくる。マンモ
スの像を見て、「マンモスだ」「マンモスだ」と、喜んでみせる。そこにある種の悲しさを覚えるの
は、はたして私だけであろうか。

 話がそれたが、この貧富の差が大きくなればなるほど、またまた受験競争が燃えあがる。だ
れしも勝ち組に入りたいと願っている。「せめて、自分の子どもだけは……」と願っている。それ
が子どもの受験競争に拍車をかける。

 1995年〜2000年にかけて下火になってきた、いわゆる受験産業が、このところまた息を
吹きかえしつつ。そんな事情の背景には、こんな事実が隠されている。

 悲しいかな、今、この日本で、「受験」に背を向けて生きられる人(子ども)は、ほとんど、いな
い。そしてその傾向は、これから10年、さらにはげしくなる。貧富の差がはげしくなればなるほ
ど、なおさらである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ジニ
指数 ジニ係数 貧富の差 受験競争)

【付記】

 満60歳という年齢は、本当に不愉快な年齢である。いくら「私はそうでない!」とがんばって
も、周囲の人たちは、年齢で私を見る。知的能力や運動能力では、ない。年齢で見る。健康度
もそうだ。「60歳の人は、こうだから……」という見方でしか、見てくれない。

 しかし私は、ひとりそれに抵抗している。近くに、60歳以上は、〜〜円引という理髪店があ
る。しかし私は、60歳になっても、ぜったいに、そういうサービスを利用しない。今から心に決
めている。

 「だれが、自分から、ジジイになってやるか!」と。

 その60歳になると、貧困感がどっと押し寄せてくる。先日、80歳をすぎた女性について書い
た。その女性は、郵便局だけでも、1000万円の貯金と、1000万円の国債をもっていた。さら
に手にした年金の100万円をどうしようかと、困っていた。

 実のところ、そういう女性の気持ちを理解できないわけではない。その女性は、ひょっとした
ら、「信じられるのはお金だけ」と、考えているのかもしれない。必死になって、お金にしがみつ
いているのかもしれない。私とて、油断をすれば、いつそうなるかわからない。すでにその傾向
が、見え始めている(?)。

 「心の豊かさとは何か」「知恵の豊かさとは何か」、今日はこれをテーマに、一日、考えてみた
い。

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心の豊かさで、自分の原稿を検索
してみたら、いくつかをヒットしま
した。

それらを紹介します。

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●心の豊かさvs心の貧しさ

 K府に住んでいる、Rさん(女性)から、こんなメールが、届いた。題して、「悲しき笑い話」。

 「私の母は、今年、82歳になります。頭もしっかりしています。が、昔から、異常なまでに虚栄
心が強く、見栄を張ります。

 収入は、わずかな年金だけ。あとは私の兄が、毎月、いくらかの小遣いを送ってくれるので、
それで生活をしています。

 たとえばサイフの中には、いつも、10万円近いお金を入れて歩いています。スーパーでお金
を払うときも、わざとそのお金が、店員さんに見えるようにして払うのです。で、私が「そんな人
にまで、見栄を張ることはないでしょう」と言うのですが、私の言うことなど、まったく聞いてくれ
ません。

 が、ときどき、お金が少なくなるときもあるようです。そういうときは、一番上と、一番下に、1
万円札を置き、中に1000円札を、10枚くらいはさんで、あたかも、お金があるように見せか
けます。

 そういう母を見ていると、ときどき、『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』
と、娘として、さみしくなります」(以上、要約)と。

 見栄を張る人は多い。しかもそれが人生観の基本になっているから、始末が悪い。また人生
の途中でそれに気がついて、改めるということもしない。だから80歳をすぎても、そのまま。

 が、この年代の人には、こういったタイプの人が多い。見かけはともかくも、心は貧しい。貧乏
な人の家にやってきて、ことさら金持ちであることを、吹聴してみせる。そして相手に対して、優
越感を覚え、それを楽しむ。

 そう言えば、バブル経済のこと、東南アジアの貧しい国々へでかけていって、札や、コインを
バラまいていた日本人がいた。やはり、心の貧しい人たちである。体中に、キンキラキンの宝
飾をぶらさげ、ブランド品で身を包んで、得意になっている人たちもそうだ。

 話はそれたが、それたついでに、もうひとつ。

 よく東南アジアやアフリカへでかけていって、その国や、その国の人々を紹介するテレビ番組
がある。そういう番組の中で、レポーターが、相手の国の貧しさや不便さに、ことさら驚いてみ
せたりすることがある。場違いな服装に、派手な装飾品。いかにも、リッチな、日本からやって
きましたというふうな様子をしてみせる。

 そのレポーターの心が貧しいというよりは、日本人全体の心が、まだそのレベルにあると考
えてよい。

 相手の人が貧しい生活をしていたら、その貧しさに、自分を合わせる。合わせた生活をす
る。相手がどういう感情をもつかを、相手の立場で思いやる。相手が、あなたに対して、羨望
(せんぼう)を覚えたとしたら、それはあなたの責任。決して、自分たちの優越性を見せつけて
はいけない。それがその国の人たちに対する、礼儀と言うもの。

 さて、冒頭の女性の話にもどる。Rさんの母親は、たいへん心の貧しい人と考えてよい。ある
いは心の豊さというものがどういうものか、わかっていない。Rさん自身が言っているように、
『この人は、いったい、どういう人生を歩いてきたんだろう』ということになる。

 で、そうならないための、いくつかの教訓を考えてみた。

(1)あるがままの自分をさらけ出して、生きる。
(2)「私は私」をつらぬき、他人の目を気にしない。
(3)心の豊かさを追求し、世間体、見栄、体裁を気にしない。
(4)いつも、ともに(生きている)という原点において、自分を見つめる。

 が、油断すると、ふと見栄を張ることがある。自分が自分でなくなるときがある。自分の中に
潜むそういう邪悪性を知るための、一番、手っ取り早い方法としては、あなたの周辺にいる人
の中から、そういう人をさがすというのがある。その人の愚かさを、しっかりと認識する。あなた
のまわりにも、必ず、1人や2人はいるはず。

 そういう人を反面教師として、自分を高めるために、利用する。その人には悪いが、その人
の愚かさがわかったら、それを自分の生きザマの中に、生かしていく。

【補足】

 相手に羨望感をもたせて(=うらやましがらせて)、優越感にひたるというのは、愚劣な人間
だけがなしうる、軽率な行為である。

 金持ちであることを、見せびらかしたり、得意になったりする。昔、私の近所にも、そういう男
がいた。和服の呉服店を経営していて、ことあるごとに、「今日は、x10万円、もうけたよ」「これ
で今月は、x100万円だ」と言っていた。

 「オレは、それだけ力のある男だ」と言いたかったのだろうが、私には、ただのノーブレイン
(=おバカ)にしか見えなかった。

 玄関中に、高価な、鎧やトラの皮を飾っている人もいた。借金だらけなのに、外車を乗り回し
ている人もいた。根底に、何か、大きな劣等感がある人ほど、そういう行為に走りやすい。つま
りは、「私」がないから、そうする。

 20代や30代の若い人ならともかくも、50代、60代になっても、「私」がつかめきれていない
人というのは、それだけで、人生の敗北者(失礼!)と考えてよいのでは……? こう言いきる
のは危険なことかもしれないが、今の私は、そう思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ケチな人

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ケチと質素とは、ちがう。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を
使わない。

質素な人は、無用、無駄な、お金は使わない。
それをよくわきまえている。

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 世の中には、「ケチ」と呼ばれる人は、ゴマンといる。長男、長女に多いのは、それだけ生活
が防衛的であることによる。わかりやすくいえば、下の子が生まれたことにより、乳幼児期の愛
情飢餓が、嫉妬(しっと)へと変化し、その嫉妬が、防衛的な生活態度に結びついたと考えると
わかりやすい。

 長男、長女ほど、「ぼくのもの」「私のもの」という意識が、強い。つまりそれだけ、心の許容範
囲が狭いということになる。

 私の兄なども、(今は、ボケてしまって、どうしようもないが)、若いころでも、私が買ってやった
ステレオセットにすら、私にさわらせなかった。私は、私が買ってやったのだから、「私のもの」
と考えた。しかし兄には、そうではなかった。

 そのときは、そういう長男、長女のもつ心理を、理解することができなかった。(今は、できる
が……。)

 こういうのを、「ケチ」という。

 で、以前、コンドームを、洗って、再使用している夫婦のことを書いた。ふつう(?)、コンドー
ムというのは、再使用しない。「質素」というふうにも、考えられなくはないが、しかしその夫婦の
ばあいは、ほかの面でも、異常なほど、ケチだった。

 たとえば夫婦の兄弟たちと飲み食いしたときでも、「私は兄だ」という、家父長意識ばかりが
やたらと強く、自分で、お金を出したことがないという。出しても、10円単位までの割り勘。弟の
ほうが見るにみかねて、「まあ、いいから……」と言って、全額払うことが多かったという。

 ほかに、衣服でも、破れて使い物にならなくても、きちんとタンスに入れてしまっていたとか、
など。

 ケチと質素は、どこがどうちがうか。

ケチな人は、使うべきところでも、お金を使わない。質素な人は、無用、無駄なお金は使わな
い。それをよくわきまえている。が、もう少し踏みこんで考えてみると、こうなる。

 物欲に毒され、お金やモノに執着する人を、「ケチ」という。物欲とは関係なく、心の豊かさを
優先して考える人を、「質素」という。

 このことは、金持ちでありながら、ケチな人と、金持ちでありながら、質素な人を見比べてみ
ると、よくわかる。

 まず、金持ちでありながら、ケチな人……妻や子どもの必要経費にすら、お金を出し渋る。兄
弟や姉妹、親類に対しはなおさらで、実際には、1円も払わない。毎日札束か預金通帳をなが
めて暮らしている。

 金持ちでありながら、質素な人……人生を、余裕をもって楽しんでいる。以前、この浜松市で
も、1、2番の長者番付に入るような人の子ども(姉妹)を、2人、教えたことがある。で、私は、
その子どもたちの持ち物を見て、驚いた。

 何と、子どもたちのもっている手提げバッグは、母親の手作りだった。しかも、バッグには、家
からBW(私の教室)までの地図が縫いこんであった。そういうのを、「質素」という。

 しかし長い人生を通してみると、ケチは、一生、ケチ。その結果、失うものも、多い。(本人
は、死ぬまで、それに気づかないだろうが……。)殺伐とした人間性は、それだけで人を遠ざけ
る。物欲に固執する姿は、だれが見ても、見苦しい。心に余裕がないから、つまり、自分の利
益になることしか考えていないから、話していても、つまらない。

 が、それ以上に、人生の(真理)そのものから、遠ざかる。言い換えると、人は損をすること
で、大きくなれる。損をすることに寛大になることで、心を豊かにすることができる。よい例が、
ボランティア活動である。

 あのボランティア活動を、進んでする人たちを見ればよい。みな、生き生きと、明るい。あの
明るさこそが、ここでいう心の豊かさということになる。

 ケチは、心の大敵と考えてよい。


+++++++++++++++++

もう1作、5年間に書いた原稿です。

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●無用の長物

 今から二〇年ほど前のこと。一台の大型トラックが、わが家の前に止まった。何かと思ってみ
ると、「座卓はいらないか?」と。「四国から来た」という。

案内されるまま荷台を見ると、原木を切り出したままの座卓。その中でも、とくに目立ったの
が、トチの木をそのまま削ったもの。トラの模様のようになっていて、それが両端を飾ってい
た。厚さは一五センチもあった。「樹齢、五〇〇年です」と言った。

 値段を聞くと、「四〇万円でいい」と。「貯金しておくより、財産になる」とも。そこでどういうわけ
か、その座卓を買ってしまった。が、それから二〇年。そのテーブルは、わが家の居間にデー
ンと居座ることになった。が、大きいだけで、使いものにならない。それに重い。二〇〇キロ以
上はあるのでは。三〇〇キロはあるかも?

 この間、「何とかしよう」「何とかしなければ」と、ずっと思ってきた。今も思っている。しかし無
用の長物とは、そういう座卓をいう。テーブルといいながら、実際には、物置台。今はパソコン
と、プリンターがその上にのっている。売るにしても、売り先がない。こういう時代だから、買っ
てくれる人もいないだろう。

 そこで考えた。その座卓は、たしかに無用の長物だが、わが家には、同じような無用の長物
が、ゴロゴロしている。一、二度使っただけで、あとは倉庫や物置にしまわれているのだけで
も、かなりある。たとえばテントやバーベーキューセットなど。

そう言えば、当時の私は、毎週のようにいろいろなモノを買いこんでいた。近くに大型の雑貨点
があったこともある。少し不便を感ずると、モノを買い足すという生活がつづいた。そのテーブ
ルもそんなときに買った。

 その反動というわけでもないが、私は山荘のほうでは、ほとんどモノを買っていない。どの部
屋もガランとしている。不便を感ずることも多いが、その不便さが、これまた楽しい。いや、それ
以上に、広々とした空間は、それだけで気持ちがよい。どういうわけだか、解放感がある。どこ
かの旅館へ行ったような気分になる。

 そこで私はさらに考えた。モノというのは、人間の豊かさとは関係ないのでは、と。少なくとも、
心の豊かさとは関係がない? さらにモノがあれば、本当に生活は便利になるのか、とも。もち
ろん生活に必要なモノは、多い。それはそれだが、それを離れたモノは、どうなのか? 

たとえばざっと見回してみても、この部屋の中には、大きな食堂テーブルがある。イスは、六脚
もある。家族は五人なので、最大でも五脚でよいはず。しかもめったに六脚も使うことはない。
それに冒頭で書いた、無用の長物。テレビのまわりには、大型スピーカーだけでも、四個も並
んでいる。……などなど。こうしたものがなければ、この部屋は、もっと広々と使えるはず。全
体で、一六畳の広さがある。

 もっともそれに気づいてからは、ほとんどモノを買っていない。とくにあの座卓を買ってから
は、買っていない。そうして考えてみると、無用の長物と嫌っている座卓だが、ひとつだけ役に
たっていることがわかった。それは、その座卓を買ったことを後悔したこと。そしてその後悔
が、その後、ムダなモノを買う、大きなブレーキになったこと。何かを買おうとするたびに、私の
頭に、その座卓が思い浮かんだ。そして、「ムダになるから買うのをやめよう」と。

 ……とまあ、今は、そういうふうに自分をなぐさめながら、その座卓をとらえている。
(02−12−28)

●テーブルを買ってくれる人はいませんか? 大きな料亭でも使えるような立派なテーブルで
す。ホント!
●欲望を限定することのほうが、それを満たすことよりも、はるかに誇りに足ることである。(メ
レ「格言」)(メレ……1610−84、フランスのモラリスト)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【心の豊かさ】(補記)

++++++++++++++++

サニー様、お元気ですか?

古い原稿ですが、こんな原稿が
出てきました。

(まだ私のマガジンを読んで
くださっていますか?

これを読んだとき、あのころの
初々しい自分が、どどっつと
思い出されました。)

日付をみると、2003年の3
月とあります。

長い年月を経ているようで、
たった4年前?

驚いています。

++++++++++++++++

●サニー様からの投稿より

 サニー様から、私のHPの掲示板に、つぎのような投稿があった。この問題について、考えて
みたい。

++++++++++++++++

はやし先生

(前略)

さて、今日のメルマガに、

(以下引用)だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親
としてそれをたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退いた
視点で子どもを見るようにする。

※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許
さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張
状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不
安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり
(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。(こ
こまで引用)

 うちの場合は反抗期も十分あったのに(今でも喧嘩になると『このくそ婆!』とかいうのです
よ!)。

結局小さい頃のその時期に私がその反抗を押さえつけていた(許してやらなかった)ことに発
端があるわけで、反抗しそこなったことが今マイナス型として現れているなら、この今のマイナ
ス型の時期も自我を形成していると考えていいんでしょうか?

 母親ばかりのせいではない、と自分を慰める一方、どこの家庭もそうでしょうが、母親が子供
にかかわる時間は膨大に多い。そのこどもとの時間を楽しめるときと、楽しめないときがあり、
それも仕方がないと思いながら、、、。

すみません。ここ2,3日ホルモンのバランスが悪いらしく非常に情緒が不安定で(私は周期的
にこういうことがあるのですが)誰とも話したくなく、また、周りのすべてに対し攻撃的になってい
ます。鬱症状というわけです。

友人に話しても、母親はみな多かれ少なかれそういうことがあるようです。
C新聞にも、卵巣機能の低下によるホルモンのバランスの崩れで、二〇代から四〇代の女性
が更年期障害の症状を訴えるケースが多いという記事が出ていました。専門医に相談するべ
しと。

でも実情は、お医者様は男性が多く、その症状を訴えても、『それくらいガマンできないか?』と
か『ジャー薬飲んでみる?』という程度のリアクションで、もう二度と相談するか!という結果に
なるのが常なのです。(私も友人もそうでした)

私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでしまい
そうですので、今はやめました。

とりあえず自分が情緒不安を周期的に持っている、ということだけキモに銘じ、そういう時はな
るべくヒトと接触を持たないように今は心がけています。

++++++++++++++++++

【サニー様へ】

 自分の過去をみることは、こわいですね。本当にこわい。自分という人間がわかればわかる
ほど、その周囲のことまで、わかってしまう。「親を恨んでしまいそう」というようなことが書いて
ありましたが、そこまで進む人も少なくありません。

 若いころ、ブラジルのリオデジャネイロへ行ったことがあります。空港から海外沿いにあるリ
オへ向かう途中、はげ山の中に、いわゆる貧民部落が見えるところがあります。ブラジルは、
貧しい国ですが、そのあたりの人たちは、本当に貧しい。しかし私が、直接、そういう人たちを
見たのは、観光で、どこかの丘に登ったときのことです。四、五人の子どもたちが、どこからと
なく現れました。気がついたら、そこにいたという感じです。(印象に残っているのは、バスから
おりたとき、土手の向こうから、カモシカのように軽い足取りで、ヒョイヒョイと現れたことです。)

 その子どもたちの貧しさといったら、ありませんでした。どこがどうというより、私はそういう子
どもを見ながら、「親は、どうして子どもなんか、つくったのだろう」と思いました。「子どもを育て
る力がないなら、子どもなど、つくるべきではない」と。

 しかしそれは、そのまま私の問題であることに気づきました。私も、戦後直後生まれの、これ
またひどいときに生まれました。しかし「ひどいときだった」とわかったのは、ずっとおとなになっ
てからで、私自身は、まったくそうは思っていませんでした。(当然ですが……。)「ひどい」と
か、「ひどくないか」とかは、比較してみて、はじめてわかることなのですね。

 私もある時期、親をうらみました。とくに私の親は、ことあるごとに、「産んでやった」「育ててや
った」「大学を出してやった」と、私に言いました。たしかにそうかもしれませんが、そういう言葉
の一つ、一つが、私には、たいへんな苦痛でした。で、ある日、とうとう爆発。私が高校生のと
きだったと思います。「いつ、だれが産んでくれと、あんたに頼んだ!」と、母に叫んでしまいま
した。

 で、今から考えてみると、子どもの心を貧しくさせるのは、金銭的な貧しさではなく、心の貧し
さなのですね。私たちの世代は、みんな貧乏でしたが、貧乏を貧乏と思ったことはありませんで
した。靴といっても、ゴム靴。靴下など、はいたことがありません。ですから歩くたびに、キュッキ
ュッと音がしました。蛍光灯など、まだない時代でした。ですから近所の家に、それがついたと
き、みなで、見に行ったこともあります。私が小学三年生のときです。

 貧しいというのは、子どものばあい、ここに書いたように、心の貧しさを言います。……と考え
ていくと、ブラジルで見た、あの子どもたちは、本当に貧しかったのかどうかということになる
と、本当のところは、わからないということになります。身なりこそ、貧しそうでしたが、見た感じ
は、本当に楽しそうでした。

 一方、この日本は、どうかということになります。ものはあふれ、子どもたちは、恵まれた生活
をしています。で、その分、心も豊かになったかどうかということになると、どうもそうではないよ
うな気がします。どこかやるべきことをやらないで、反対に、しなくてもよいようなことばかり、一
生懸命している? そんな感じがします。

 さて、疑問に思っておられることについて、順に考えていきたいと思います。

 乳児期に、全幅の安心感、全幅の信頼関係、全幅の愛情を受けられなかった子どもは、い
わゆる「さらけ出し」ができなくなります。「さらけ出し」というのは、あるがままの自分を、あるが
ままにさらけ出すということです。そのさらけ出しをしても、親や家族は、全幅に受け止めてくれ
る。そういう安心感を、「絶対的安心感」といいます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかな
い」という意味です。

 この時期に、親の冷淡、育児拒否、拒否的態度、きびしいしつけなどがあると、子どもは、そ
の「さらけ出し」ができなくなります。いわゆる一歩、退いた形になるわけです。ばあいによって
は、仮面をかぶったり、さらにひどくなると、心と表情を遊離させたりすうようになります。おとな
の世界では、こういうことはよくあります。あって当たり前ですが、家族の世界では、本来、こう
いうことは、絶対に、あってはいけません。

 おならをする。ゲボをはく。ウンチをもらす。小便をたれる。オナラをする。ぞんざいな態度を
する。わがままを言う。悪態をつく。……いろいろありますが、要するに、そういうことが、「一定
のおおらかな愛情」の中で、処理されなければなりません。

 これは教育の場でも、同じです。よく子どもたちは私に、「クソジジイ!」と言います。悪い言葉
を容認せよというわけではなりませんが、そういう言葉が使えないほどまでに、子どもを、抑え
つけてはいけないということです。言いたいことを言わせながら、したいことをさせながら、しか
し軽いユーモアで、サラリとかわす。そういう技術も必要だということです。

 また夫婦も、そうです。私は結婚以来、ずっと、ダブルのふとんでいっしょに、寝ています。
で、ワイフも、私も、よく、フトンの中で、腸内ガスを発射します。若いころは、そういうとき、よく
ワイフを、足で蹴っ飛ばして、外へ追い出したりしました。「お前だろ?」と言うと、「あんたでし
ょ!」と、言いかえしたりしたからです。

 しかし齢をとると、そういうこともなくなりました。あきらめて、顔だけフトンの外に出し、泳ぐと
きのように(私は、そう思っていますが……)、口をとがらせて、息をすったり、吐いたりしていま
す。かといって、腸内ガスを許しているわけではありませんが、しかしそれも、ここでいう「さらけ
出し」なのですね。

 そういうさらけ出しをおたがいにしながら、子どもは、絶対的な安心感を覚え、その安心感を
もとに、人間どうしの、信頼関係の結び方を学びます。

 幼児でも、信頼関係の結べる子どもと、そうでない子どもは、すぐわかります。私は、ご存知
のように、年中児(満四歳)から、教えさせていただいていますが、そのとき、子どもをほめた
り、楽しませてあげたりすると、その気持ちが、スーッと子どもの心の中にしみこんでいくのが
わかる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかります。

 しみこんでいく子どもを、「すなおな子ども」と言います。そういう子どもは、そのまま、私との
間に、信頼関係ができます。もう少し、別の言い方をすれば、「心が開いている」ということかも
しれません。心が開いているから、私が言ったことが、そのまま、心の中に入っていく……。そ
んな感じになります。

 一方、心を開くことができない子どももいます。このタイプの子どもは、いわゆる「すなおさ」が
ありません。何かをしてあげても、それを別の心でとらえようとします。ひねくれる。いじける。つ
っぱる。ひがむ。ねたむなど。さらに症状が進むと、心そのものを閉じてしまいます。極端な例
では、自閉傾向(自閉症ではありません)があります。

 が、こうして心を開けない子どもは、孤独なんですね。さみしがり屋なんですね。そこで、ショ
ーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話が出てきます。寒い夜、二匹のヤマアラシが、体を
暖めあおうとします。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、相手をキズつけてしまう。しかし
離れすぎると、寒い。二匹のヤマアラシは、ちょうどよいところで、暖めあう。自分の位置を決
める……。

 このタイプの子どもは(おとなも)、孤独をまぎらわすため、外の世界へ出る。しかしそこで
は、どうも、居心地が悪い。うまく人間関係が、結べない。疲れる。しかたないので、また引っ込
む。しかし引っ込むと、さみしい。これを繰りかえします。繰りかえしながら、ちょうどよいところ
で、自分の位置を決める……。

 このとき、子どもは、自分の心を守るため、さまざまな症状を見せます。よく知られているの
が、欲求不満を解消するための、代償行為です。指しゃぶり、髪いじり、夜尿症などがありま
す。さらに症状が進むと、神経症を併発し、さらに進むと、情緒障害や精神障害にまで発展し
ます。

 が、子ども自身も、他人から、自分の心を守ろうとします。それを「防衛機制」といいます。相
手に対して、カラにこもる、攻撃的になる、服従的になる、依存性をもつなど。サニーさんが、ご
指摘なのは、このあたりのことなのですね。サニーさんの問題を、もう少し整理してみると、こう
なります。

(反抗期はあった)(しかしそれを、押さえつけてしまった)と。

 たしかにそういう親は、多いし、サニーさんだけが、そうだとはいうことにはなりません。いま
だに親の権威をふりかざし、「親に向かって何よ!」と、本気で子どもに怒鳴り散らす人もいま
す。しかし問題は、抑えることではなく、ここにも書いたように、「一定のおおらかな愛情」の中
で、それができたかどうかということです。いくら抑えても、子ども自身が気にしないケースもあ
れば、軽く抑えても、子どもが深刻に気にするケースもあります。

 そこで今度は、親自身の問題ということになります。

 不幸にして不幸に育った親は、いわゆる「自然な形での親像」が、体の中にしみこんでいませ
ん。ふつう子育てというのは、自分が受けた子育てを、そのまま再現する形で、子どもに対して
します。それを私は、「親像」と呼んでいます。その親像がないため、子育てが、どこかぎこちな
くなります。極端に甘くなったり、きびしくなったりするなど。気負い先行型、心配先行型、不安
先行型の子育てをすることもあります。

 そこで掘りさげていくと、つまり、自分の子育ての失敗(こういう言葉は不適切かもしれません
が……)の原因は、つまるところ、「自然な形での親像」のなさに気づくわけです。「私はどうして
自然な形での、子育てができないのか?」と。そしてそれがわかってくると、今度は、原因をさ
がし、そして行き着くところ、自分の「親」に向かうわけです。「私をこんな親にしたのは、私の両
親が悪いからだ」と、です。

 「私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでし
まいそうですので……」と、サニーさんは、書いておられます。実のところ、私も、同じように、悩
んだことがあります。

 が、私のばあいは、「戦後のあの時代だったから、しかたない」とか、「親は親で、食べていく
だけで、しかたなかった」というような考え方で、理解するようになりました。今から思えば、貧
乏は貧乏でしたが、しかし同じ貧乏の中でも、まだほかの家庭よりは、よかったという思いもあ
ります。だからその「怒り」のようなものは、やがて社会へと向けられていったと思います。

 今でも、あの戦争を美化する人もいますが、私はいつも、「バカな戦争」と位置づけています。
「あんなバカな戦争をするから、いけないのだ」と、です。私が不幸だったのも、親が不幸だっ
たのも、結局は、戦争が悪いのです。あの戦争は、もともと正義もない、大義名分もない、メチ
ャメチャな戦争だったのです。

 ということで、自分なりに処理しました。そこでサニーさんの件ですが、「(親を恨んでしまいそ
うなので)、やめます」とあります。ここなんですね。ここです。まだ、サニーさんは、どこかよい
子ぶろうとしている。恨みたかったら、恨めばよいのです。多分、そうお書きになったのは、か
なり深い部分で、サニーさんが、自分の心の問題に、気がつき始めておられるからです。むし
ろ、これはすばらしいことなのです。

 実はこの種の問題のこわいところは、そういう自分自身に気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえすところにあります。それだけではありません。今度は、同じ失敗を、つぎの世代に伝えて
しまうところにあります。もし仮にここでサニーさんが、自分の心を抑えてしまうと、今度また、同
じ失敗を、サニーさんの、子どもが繰りかえすことになります。これを、教育の世界では、「世代
連鎖」とか、「世代連覇」とか言います。

 これは極端な例ですが、「虐待」「暴力」も、同じようなパターンで、代々と伝わってしまいま
す。

 しかしひと通り、親を恨むと、今度は、「あきらめの境地」、さらには「許す境地」へと、入りま
す。ですから、遠慮せず、恨みなさい。恨んで恨んで、恨みなさい。遠慮することはありません。
そしてあなた自身の親というよりは、あなたの心の中に潜んでいる、(親から受け継いだも
の)、つまり(私であって、私でないもの)を、恨めばよいのです。

 私も、子どものときから、父が酒を飲んで暴れる姿を、毎週のように見てきました。そういう意
味では、暴力的な体質が、身についてしまいました。小学五、六年生ごろまでは、何かにつけ
て、喧嘩(けんか)ばかりしていました。結婚してからも、ワイフに暴力を振るったことも、しばし
ばあります。

 しかしそういう自分の気づき、その原因に気づき、そして親を恨み、やがて、そうであっては
いけないことに気づきました。

 さて本題ですね。長い前置きになりました。

 残念ながら、「マイナスの自我」というのは、ありません。私も聞いたことがありません。「自
我」というのは、英語では「セルフ」、心理学の世界では、「意識する体験」、哲学の世界では、
「意識する主体」、精神分析の世界では、「人格の中枢」をいいます。教育の世界では、「つか
みどころ」ということになるでしょうか。「この子は、こういう子だ」という、つかみどころをいいま
す。それは、(ある・なし)で決まるもので、(プラスの自我、マイナスの自我)という考え方には、
なじみません。

 で、仮に自我の発達が阻害され、情緒的な問題があったとしても、マイナスの自我ということ
にはならないと思います。あえて言うなら、ここに書いたように、「自我の阻害(そがい)」という
ことになるかもしれません。しかしサニーさんのお子さんのばあい、むしろ、今、不登校という形
であるにせよ、お子さんが、そういう「わかりやすい形」であることからして、強烈な自我がある
と考えてよいと思います。自我(フロイト学説)についての原稿は、最後に張りつけておきます
から、また参考にしてくいださい。

 以上、こうしてサニーさんの過去をほじくりかえしましたが、そこで今は、こう考えてみてくださ
い。

 過去は、過去。今は、今。明日は、今の結果として、明日になれば、必ず、やってくる、と。

 つまりこうして過去がわかったとしても、その過去に引きずりまわされてはいけないというこ
と、です。サニーさんが、今、そこにいるように、子どもたちもまた、そこにいる。その「事実」だ
けを見すえながら、あとはそこを原点として、前向きに生きていくということです。悩んだところ
で、過去は変えられないのです。あくまでも、今は、今です。大切なことは、その「今」を、懸命
に生きていく。結果は、必ず、あとからついてきます。

 お子さんたちについても、すばらしいお子さんたちではないですか。そこでね、サニーさんも、
もう気負いを捨て、あるがままの自分をさらけ出せばよいのです。子どもたちに向かって、さり
げなく、とげとげしくなく、いやみなく、こう言えばよいのです。

 「私も、これからは好き勝手なことをするからね。あんたたちも、自分で考えて、好き勝手なこ
とをしなさい」と。

 「こういうことを言うと、キズつくのでは……」「また喧嘩になるのでは……」と思ったとしたら、
サニーさん自身が、さらけ出しをしていないことになりますね。つまりそれでは、親子の信頼関
係は結べないということ。信頼関係を結ぶためには、まずサニーさんのほうが子どもに向かっ
て、さらけ出しをしなければなりません。

 で、話をもとに戻しますが、心の豊かさというのは、その信頼関係をいうのですね。いくら金銭
的に貧しくても、そんなのは、子どもの世界では、問題ではない。またそれで子どもの心がゆが
むことはない。ゆがむとすれば、心の貧しさです。しかしですね、もし、もしですよ、サニーさん
の子どもたちが、そのことをサニーさんに教えようとして、今の問題(問題という言い方も好きで
はありませんが……)をかかえているとしたら、見方も変わってくるのではないでしょうか?

 サニーさんのまわりには、いろいろ問題もあるし、サニーさんとは、見方も違うかもしれませ
んが、人間が求める幸福などというものは、そんなに遠くにあるのではないような気がします。
ほんのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを待っているような気がします。それがあのブラ
ジルの子どもたちです。

 だってそうでしょう。人間は、過去、数十万年もの間、生きてきたのです。そういう中で、いつ
も幸福を求めて生きてきた。それがここ一〇〇年ぐらいの間で、学校だの、勉強だの、進学だ
のと言い出して、子どもの世界のみならず、親たちの世界までゆがめてしまった。そして勝手
に、新しい幸福をつくりだし、一方、勝手に新しい不幸をつくりだしてしまった。そして新しい問
題まで、つくりだしてしまった。少なくとも、ブラジルの子どもたちが、今の日本の子どもたちより
不幸だとは、とても思えないです。一方、今の日本の子どもたちが、ブラジルの子どもたちよ
り、幸福だとは、とても思えないのです。

 この問題については、また別のところで考えてみますが、ときには、そういう原点に立ちかえ
って考えてみることも必要ではないかということです。まとまりのない話になってしまいました
が、また投稿してください。喜んで返事を書きます。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2018)

●ある相談より

++++++++++++++++

掲示板のほうに、こんな相談があった。
何かと問題を起こす、小6の男児に
ついてのもの。

それについて考えてみたい。

++++++++++++++++

【Fさんから、はやし浩司へ】

はじめまして、S県に住む小6、小4の2児の母です。今回、6年の息子のことで相談させてくだ
さい。

性格はお調子者で、ひょうきん者ですが、いろんなことに敏感なところもあります。小5のときか
ら学校から相談されることが多くなり、6年になってからは、度々電話や呼び出しがつづいてい
ます。

内容は、授業をまじめに受けない。(すきな教科には目をかがやかせているそうです。) たまに
ふらっと教室からいなくなる、宿題の提出がない、目を合わせないなど。

現在の担任の先生は、決して叱らないで見守っているとのこと。子供に聞くと、自分を赤ちゃん
扱いしていやなんだと言います。友達と楽しく会話していても、先生が用もないのにその子をど
こかに連れて行ってしまうとの言い分があります。

担任の先生は息子のことで波風たてたくないのでしょうか? 家庭では少し威張り、弟を支配
するところはありますが、どこにでもいる兄弟だと思います。2匹いる飼い犬もかわいがりま
す。

家庭で困っていることといえば、忘れ物が多い、片付けない、言葉が少々乱暴、何にでも中途
半端。何にでも興味をもち、特に厚紙で工作したり、本を読んだり、近所の小さな子に基地を
作って、一緒に遊んだりという面もあります。

親の私は常にお兄ちゃんの方に意識が向き、口うるさいと思います。勉強や宿題をみてあげ
ることが苦手ですが、(ほんとうは、わからないので…)、最低限のあいさつや、身だしなみには
とくにうるさく言っています。

子どもは、一言で言うとやんちゃな子です。どこか幼いです。学校での規律やルールを守らせ
るにはどうすればよいでしょうか? よろしくお願いします。

【はやし浩司より、Fさんへ】

 全体としてみると、(1)親子のリズムが乱れている。(2)子どもはすでに親離れしているの
に、それにFさん自身が気がついていない。(3)不安先行型の子育てをつづけてきて、それが
子どもへの過関心となって現れている。(4)Fさん自身が、子どもを信頼できないで、もがいて
いる。つまり子離れできないでいる。(5)子どもについて、何かあると、何でも悪いほうに解釈
し、それを自分の不安に結びつけている。(6)その一方で、溺愛的な面が強く、子どもの言い
分をそのまま信じてしまう傾向が強い、ということになります。

 少しショッキングなことを書き並べてしまいましたが、お許しください。最近の新しい考え方とし
ては、つまり子どもに何か問題が起きたようなときには、子ども自身をターゲットにするのでは
なく、まわりの環境を同時に考えるという傾向に変わってきています。

 子どもは、あくまでも、(代表)にすぎないと考えるわけです。わかりやすく言えば、子どもは、
いつも家庭教育、学校教育、さらに言えば、それまでの、もろもろの(過去)の(結果)でしかな
いと考えるわけです。

 とくに医療機関では、子どもに何か問題が起きると、ドクターは、本人はもちろんのこと、同居
する家族全員を呼びつけ、グループでカウンセリングすることが多くなっています、……という
よりは、それがふつうになってきています。

 Fさんの書き込みを読んで、いくつか気になったことがあります。

 最初に感じたことは、Fさんの家庭が、(家庭)として機能していないのではないかという心配
です。

 子どもは、学童期に入ると、友人との第三世界を急速に拡大していきます。同時に、それま
での家庭(第一世界)、先生との世界(第二世界)は、相対的に縮小し、またその中身も、相対
的に変化していきます。

 家庭について言えば、それまでの(しつけの場)から、(心を休める憩いの場)へと変化してい
きます。が、Fさんのメールでは、家庭が、いまだに(しつけの場)になっているような感じがしま
す。言いかえると、Fさんは、自分の子どもを、いまだに幼児扱いしているのではないかというこ
とです。

 小6といえば、思春期前夜から、いよいよ思春期に入る時期です。そんな時期に、「忘れ物が
多い、片付けない、言葉が少々乱暴、何にでも中途半端」と、親が心配するほうが、おかしいで
すよ(失礼!)。この部分だけを読むと、「小1の子どもの相談かな?」と思ってしまうほどです。

 赤ちゃん扱いをしているのは、ひょっとしたら先生ではなく、Fさん自身ではないでしょうか? 
ルールを守れないということについても、第一に考えられるのは、(手のかけすぎ)です。一方
で手をかけすぎておきながら、(過関心でもよいですが)、他方で、「ルールを守れない」は、な
いです。

 (手をかけすぎる)→(自分で考えて行動できなくなる)→(ますますうるさく注意する)→(ます
ます自分で考えて行動できなくなる)の悪循環です。

 そのルールにしても、(教えるもの)ではなく、(身にしみこませるもの)です。Fさんはどうか知
りませんが、たとえば親が、信号無視、駐車違反、スピード違反を日常的にしていながら、子ど
もに向かって、「あなたは、ルールを守りなさい」は、ないですね。

 子どもというのは、親を、いつも裏から見ています。ですから、子どもが見ているとか、見てい
ないとかにかかわらず、親は、常にルールを守る。そういう環境の中で、子どももまた、ルール
を守る子どもになるというわけです。

 言いかえると、親ができることは、せいぜい、この程度のことでしかないということです。あと
は、子どもに任せます。子どもといっても、小6です。Fさんから見れば、いまだに(幼い子ども)
に見えるかもしれませんが、すでにあなたの手の届くところには、いないということです。

 (反対に、いまだに手の届くところにいるというのであれば、そちらのほうが、問題です。)

 で、学校の先生についても、同じことがいえます。

 先生の目から見ても、どこか幼稚ぽく見えるのかもしれません。これを「幼児性の持続」と言
います。親の過干渉、溺愛、過保護、過関心が日常的につづくと、子どもの自立は遅れ、子ど
もは、幼稚ぽくなります。精神の発達(=内面化)も遅れます。

 「性格はお調子者で、ひょうきん者です」という部分に、内面化の遅れを感じます。

 しかしこれらは子どもの問題というよりは、子どもを包む、環境の問題ということになります。
Fさん自身が、そのあたりを猛省する必要があります。

 重要なことは、子どもを信じて、親子の信頼関係を再構築するということですが、今の状況で
は、むずかしいかもしれません。つまり子ども自身が、すでに親離れをしてしまっているというこ
とです。

 また一般論から言えば、子どもの心は風船玉のようなものです。学校で圧力が加われば、子
どもの心は家庭で荒れます。反対に家庭で圧力が加われば、子どもの心は学校で荒れます。

 メールを読むと、Fさんの子どもは、家庭では(いい子?)で、学校では、(問題児?)という感
じがします。Fさんは、子どもに対して、こまごまとしたことで、ガミガミ言っていませんか? 相
手は小6の子どもですよ。「最低限のあいさつや、身だしなみにはとくにうるさく言っています」な
どということは、就学前の幼児に対してすることです(失礼!)。そういうレベルは、もうそろそろ
卒業して、これからは親としての生きザマを語るというレベルに進んでください。またその努力
を、怠ってはいけません。

 では、どうするか、ですね。

 つぎのことに心がけてください。

 こうした問題がつづくと、親は、(1)今の状態を最悪と思い、(2)子どもを直そうと考えます。
しかしその(最悪)の下には、また別の(最悪)があります。私はこれを、「二番底」「三番底」と
呼んでいます。

 今は、この程度の問題ですんでいるかもしれませんが、対処のし方によっては、さらに二番
底(たとえば非行)、三番底(たとえば家出、犯罪的行為)へと進んでしまうかもしれないというこ
とです。

 そんなわけで、「直そう」と考えるのではなく、「今の状態をこれ以上悪くしないこと」だけを考
えて、対処してください。

 幸いにも、学校の先生も、そのあたりのことに気づいておられるようです。「6年になってから
は、度々電話や呼び出しがつづいています」とのこと。先生も、「何とかしたい」と、必死のよう
です。だったら、先生に協力する形で、もっと子どものことを、前向きに相談してみたらどうでし
ょうか。今の時点で、Fさんが、先生の指導を無視したりして、反対に、先生に見放されたら、そ
れこそ、子どもは、二番底、三番底へ向かってしまうかもしれません。

 この時期、子どもの前で、学校の先生の批判は、タブーです。仮に先生に問題があるとして
も、子どものいないところで、子どもの目の届かないところで、処理します。今、大切なことは、
先生と協力して、子どものもつ問題を解決することです。

 コツは、まず聞きじょうずになることです。カリカリしないで、先生の話に耳を傾け、頭をさげま
す。先生にとっていちばん、話しにくい親というのは、子どものことで何かを言うと、すぐカリカリ
とし、反発してくる親です。そういう親に出会うと、「勝手にどうぞ!」という気分になってしまいま
す。そうなったら、まずいですね。

 そして家庭では、「家庭は、心を休める憩いの場」と考えて、子どもがゆっくりと羽を休めるよ
うな雰囲気を大切にします。この時期、態度も横柄になり、生活態度もだらしなくなりますが、そ
れはこの時期の子どもにとっては、ごくふつうのことです。あいさつにしても、そんなものは、し
たければすればよいし、したくなければ、しなくてもよいのです。そんなことを、いちいち子ども
に求めないこと!

 子どもを伸ばす最大のコツは、親自身が、子どもを意識することなく、自分で伸びて見せるこ
とです。政治の話でもよいでしょう。文化や芸術、自然、歴史の話でもよいでしょう。そういう話
を日常的な会話の中に取り込んでいきます。

 視点を広く、大きくもちます。

 Fさんがそうだと言っているのではありませんが、親が、低劣なお笑い番組をゲラゲラと笑い
ながら見ていたのでは、(家庭教育)には、ならないということです。

 ……とまあ、きついことを書いてしまいましたが、書きこみを読んだとき、その一方で、あなた
の子どもに対する深い愛情、心温かい家庭環境も、容易に想像できました。私の印象では、こ
れから先も、こまごまとした問題はつづくでしょうが、Fさんの子どもが、今以上に、悪く(?)なる
ことはないのではないかと思います。

 また忘れ物が多いということについては、Fさんにしてみれば、つらいことかもしれませんが、
子どもに任せたらよいと思います。まず、子どもにいやな思いをさせる。それが学習となって、
子どもは自ら、気をつけるようになります。またそうなるように、しむけます。

 親が親としてできることには限界があります。そうそう、以前、こんな原稿を書いたのを思い
出しました。参考にしてください。これは「子育て失敗・危険度テスト」というテーマで書いたもの
です。

+++++++++++++

Q 夜、寝る前になって突然、あなたの子どもが、「あしたの宿題を、まだやっていない」と言い
出しました。そのときあなたは…… (1)たいてい子どもを起こし、子どもといっしょに宿題を片
づけてあげる。 (2)子どもは寝させたまま、できるだけ親のほうで、宿題を片づけてあげる。 
(3)「あした先生に叱られてきなさい」と言って、そのまま寝させる。 *******  法句
経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、たれ(誰)によるべぞ』というのがある。法句
経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、だれに頼るべきか」と。つま
り「自分のことは自分でせよ」と教えている。 
 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。 
 過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自分で
行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過
保護。

「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親のひ護のもとだけで子育てをするなど。子ども
は精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出
すと、すぐ風邪をひく。 
 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。(正解(3)) ++++
++++++++++++

 学校の先生こそが、今、Fさんにとって、最高の協力者です。しっかりとスクラムを組んでくだ
さい。子どもが中学生になると、学校の先生も、ここまではしてくれません。そんなことも念頭に
置いて、まず、低姿勢に! 先にも書いたように、聞きじょうずになってください。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●ゲオルギウについて(追記)

+++++++++++++++++

掲示板のほうに、ゲオルギウについて、
S氏という方から、追加書き込みがあった。

こういう書き込みを読むと、本当に
勇気づけられる。励まされる。

人は、常に、真・善・美の追求を
やめることはないのだ、と。

同胞にめぐり会えたかのような喜び
すら感ずる。

けっして、おおげなことを言っているの
ではない。

新しいことを知る。その上に、さらに
新しいことを知る。同じ志をもった人に
出会う。

そのすばらしさを感じたとき、私は
同時に、「生きていてよかった」と
思う。

Sさん、書き込み、ありがとうござい
ました。うれしかったです。

++++++++++++++++

【S氏の書き込みより】

私の文の転載を確認しました。

(ゲオルギウは)、1916年、ルーマニアのモルダヴィア生まれで、1944年にフランスに
亡命した作家。

コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウは、1949年に『二十五時』で、非人間的なキャンプ
生活の経験を描写して、世界的センセーションを巻き起こし、1952年の『第二のチャンス』
でユダヤ人問題を採り上げました。1992年、パリで亡くなっています。

それにしても、梶山K氏はどうして、C.V.ゲオルギウ(1916.9.15―1992.6.
22)の生年を、1901年と誤ったのでしょうか。少し、調べれば、『岩波西洋人名辞典』(1956
年初版、1981年増補版)などで確認することは,さして困難ではなかったと思うのですが。

何はともあれ、出典の『第二のチャンス』が明確になってよかったです。ちなみに、この本の終
わりの部分に、この言葉が出てくるのですが、ピラという人物が思い出した「マルティン・ルッ
ターの言葉」が,この「たとえ世界の終末が・・・」なのです。

「ミニマルキッチンBlog」で考察されているように、この言葉の初出は、1944年10月
のドイツ・ヘッセン教会の回状であり、それ以前にこの言葉は知られることがなかったといいま
す。

ルターが言った言葉かどうかは確証がなく、ルターに帰されている言葉だということです。

『第二のチャンス』の中でも、ルターの言葉として、C.V.ゲオルギウが記述しているところ
を見ると、1952年当時にフランスでもルターの言葉として流布されていたことがわかります。
内容的には、ルターの言葉にはふさわしくないようです。

(S氏へ、一部、文字化けしていたところもあり、こちらで、勝手に訂正させていただきました。)

+++++++++++++++

 私は、ルターについては、高校のとき、勉強した程度にしか知らない。それにほとんど、忘れ
てしまっている。手元には、何冊かの本があるので、まず、それを読んでみたい。たまたま今
日、愛知県の岡崎まで行く用事があるので、電車の中で、ゆっくりと読書ができる。楽しみだ。

 私は「ルター」で記憶しているが、「ルッター」なのか? この世の中は、私の知らないことだら
け。おもしろいというより、どこか、恐ろしい?

 とりあえず、「日本語大辞典」(講談社)を開いてみる。

●ルター(Martin Luther)

 ドイツの宗教改革者。1517年、ローマ・カトリック教会の贖宥状(しょくゆうじょう)発行を批判
し、「95か条の提題」を発表し、宗教改革の口火を切る。21年、破門。22年「新約聖書、34
年に全聖書のドイツ語訳を完成。讃美歌の作詞、作曲も行った。「ルーテル」ともいう。

……これだけ読んでも、ルターという人は、すごい人だと思うし、さらに贖宥状(しょくゆうじょう)
とは何か、「95か条の提題」とは何か、それも知りたくなる。

M氏は、「ルターの言葉にはふさわしくないようです」と書いている。なぜ、M氏がそう感じたの
か、それも知りたい。つまりルターのことがわかれば、私もM氏と同じように感ずるようになる
かもしれない。しかしその道のりは、結構、ありそう?

 何と言っても、プロテスタント教会の創始者である。本気で調べても、その価値は、じゅうぶ
ん、ある。

 ともあれ、『たとえ世界の終末が明日(あす)であっても、自分は今日リンゴの木を植える…
…』は、すばらしい名言であることにはちがいない。ワイフとの会話の中でも、よく話題になる。
「ぼくらには、そんなこと、できるだろうか?」と。

 M氏へ、重ねて、お礼申し上げます。ご指摘、ありがとうございました。

【M氏からの追伸】

ゲオルギウについての書き込みに関するコメント、拝読しました。

『第二のチャンス』の訳書の360頁、下段、13〜14行目には、「マルチン・ルッターの言葉を
思い出す」とあります。「ルッター」は訳者の谷長 茂(たになが しげる)氏が採用した表記という
わけです。

通常、マルチン・ルター(ルーテル)と呼ばれていることは、周知のとおりです(もちろん、「マル
ティン・ルター」という表記もよくあります)。

ゲオルギウが小説『第二のチャンス』でルターの言葉として記述した「たとえ世界の終末が・・・」
は、ドイツ語圏では、ルターの言葉としては疑問がつくものとして記述されています。このことの
詳細は、インターネットで「ミニマルキッチンBlog」の「2006.01.22」の記事(<A HREF="
http://blog.minimalkitchen.com/?eid=22580">http://blog.minimalkitchen.com/?eid=22580</A
>)にあるので、まず、この内容を読んでみてから考察してはどうでしょうか。

ドイツ語の原文のサイトにもアクセスできますし、なぜ、疑問が生じるのかについてもヒントが得
られると思います。

ついでに、私の「ものがたり通信」もご覧いただければ幸いです。その中で、この言葉は、ドイ
ツの詩人、リルケ、アメリカのキング牧師(「マーチン・ルーサー」・キング・Jrの綴り前半が「マ
ルチン・ルター」と同一であるための混同)、あげくの果ては、ルソー(ルターとちょっと似ている
というだけの誤解)という説まであって、もう、むちゃくちゃになっています。

政治家「ゲオルグ・ゲオルギウ・デジ」と、作家「C.V.ゲオルギウ」の混同など、序の口というと
ころかもしれませんね。

インターネットによる虚偽情報の拡散には、もう、びっくりというところです。いいかげんに、この
あたりで、打ち止めにしてほしいものです。

【M氏へ】

 私にしても、おおいに反省しています。ご指摘、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(6月29日)

++++++++++++++++

今日は、午後から、N小学校で講演。
体調は悪くない。完ぺきではないが、
まあまあといったところか?

昨日は、2単位(40分x2)の運動
をした。今日の講演に備えるためで
ある。

そうそう、昨日、ある出版社から電話
があった。あいにく、私は、家にいな
かった。

今、企画している本の出版についてで
である。

「出してもらえるか?」「出してもらえ
ないか?」……そんなわけで、今日は、
朝から、少なからず、ハラハラしている。

たぶん、その返事が、今日、もらえると
思う。

+++++++++++++++++

●本の出版

 有名人は別として、私のような無名人のばあいは、本の出版は、おおむね、つぎのような手
順を踏む。

(1)原稿を書く。企画書を書く。
(2)表紙と目次を作成する。本文の見本を添える。
(3)出版社をさがして、その出版社に原稿を送る。
(4)返事を待つ。(今が、この状態。)
(5)出版社の意向に合わせて、原稿の体裁を再度、整える。
 
 この中でとくに重要なのは、出版社の選択。それぞれの出版社には、得意な分野、不得意な
分野がある。主に若者向けのハウツー本を出している出版社に、幼児教育の本の原稿を送っ
ても、意味はない。

 で、ここまできたら、あとは出版社の意向に任せる。(といっても、ここまで話をもっているの
が、たいへん!)「本」といっても、出版社にしてみれば、「商品」。当然のことながら、出版社
は、「売れる本」を最優先にして、ものを考える。

 なおよく誤解されるが、本を出版したからといって、自動的に書店に並ぶわけではない。出版
社と配本会社は、まったくの別組織。映画でいえば、映画制作会社と配給会社の関係を思い
浮かべればよい。

 売れそうもない本のばあい、書店に本を並べてもらうことすら、むずかしい。あるいは並べて
もらっても、売れないとわかると、即、返本ということになる。

 だから本を書く私のほうとしては、できるだけ大手で、宣伝力の出版社を選ぶ。「選ぶ」という
よりは、「頭をさげる」。

 この3〜4年、私は、インターネットのほうだけで、ものを書いてきた。「本の世界は、もう終わ
った」と考えていた。

 しかしそれはまちがっていた。本には本の、つまりまだインターネットのおよばない力がある。
それが最近になって、わかった。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【ゲーム中毒】

++++++++++++++

おとなりの韓国では、インターネット
依存症に関する相談件数が、03年の
2559件から、06年の5万1777件
へと、急速にふえているという(韓国情報文化
振興院)。

しかしこれはそのまま、日本の2〜3年後の
問題と考えてよい。

++++++++++++++

おとなりの韓国では、子どもたちのゲーム中毒が、
問題になっている。今朝の朝鮮N報には、つぎのよう
にある。(読みやすくするため、私のほうで、文章を
少し改変した。)

++++++++++++++

【朝鮮N報の記事より】

 ソウルに住む中学3年生のカン君(15歳)は、小学1年生の時、初めてコンピュータの使い方
を教わった。 

 家で1日1時間を越えない程度にインターネットゲームをしていたカン君だったが、5年生のこ
ろからネットカフェに出入りするようになった。1日2〜3時間、ゲームするようになった。

やがてカン君はゲームをせずにはいられないようになっていった。小学校では上位だった成績
も、中学校に入ったころから急に下がった。

このころになってやっと、カン君の両親は息子が毎日ネットカフェで、4〜5時間ゲームをしてい
ることを知った。中2になると、カン君は下校後から夜12時までゲーム漬けになっていった。

夜遅くになってもカン君が家に戻らないため、両親は近所のネットカフェを捜し回った。しつけ
のために、ムチを手にした親に、カン君は、「どうしてゲームをさせてくれないんだ!」と食って
かかった。

そしてゲームをやめさせると、極度に神経が過敏になったり、手が震えたりする「禁断症状」が
出始めた。カン君は今年初めに、韓国コンピュータ生活研究所に相談し、以後、現在にいたる
まで、治療を受けている。

◆寝言でもネットカフェ

 ネットカフェに通う子どもが陥りやすいゲーム依存症は、うつ病などの精神疾患をはじめ、深
刻な症状に至るケースがある。サイバー空間に入り込んだ子供たちの精神が、麻薬に侵され
たようになるのだ。

 ゲーム依存症になった子供たちは、ゲームの中のバーチャルな世界と現実の区別がつかな
くなったり、ゲーム用語を寝言で言ったりするようになる。

 ソウル市中浪区面牧洞に住むユン君(高3)は昨年初め、オンラインゲーム「リネージュ」には
まっていた。自宅近くのネットカフェで1日5〜6時間ゲームをし、週末はネットカフェで夜を明か
した。

そして家に戻ると失語症に近いと思われるくらいに、口数が減った。話す時も視線が定まって
いない。眠っていても「アイテム(ゲームで使う武器)が必要なのに…」と寝言を言う。両親と共
に相談所を訪れたユン君は、典型的な「ゲーム依存症」と診断された。

 45歳の男性は、高1の息子のことが心配でたまらないという。息子の成績が下がる一方な
ので、息子が通っているという読書室(自習・受験勉強用にパーテーションが設けられた机の
ある私設スペース)に行ってみた。

すると読書室の経営者は、「そういう名前の生徒は来たことがない」と答えた。そこで夜遅く帰
宅した息子を問いただすと、息子は「読書室利用料としてもらっていたお金は全部、ネットカフ
ェのゲーム代に使ってしまった」と告白した。

韓国コンピュータ生活研究所のオ・ギジュン所長は「韓国の青少年文化にはすでにインターネ
ットゲームが深く浸透している。昔の子供たちは『○○時に△△で会おう』と約束していたが、
最近では、『○○のネットカフェで、△△ゲームのサーバーに入って来いよ』と言うようになっ
た」と話す。

 大韓青少年精神医学会が今年初め、インターネット依存症で医療機関の治療を受けている
青少年203人を対象に調査を行ったところ、患者の90%以上が男子学生で、そのうち70%以
上が、大規模マルチプレイヤー・オンラインゲーム(MMOG=多人数が同時にアクセスし、そ
れぞれの役割を担って行うゲーム)にはまっていた。

インターネットゲーム依存症は中学生が43・3%で最も多く、ついで高校生28・3%、高校卒業
者が10・3%だった。

中毒患者は11歳から急増し始め、14歳が最も多かった。このうち85%はうつ病や衝動抑制
障害(何らかの衝動を自分で抑制できない障害)といった精神疾患を経験していた。

+++++++++++++++

ここまで読んだだけでも、この問題が
いかに深刻なものかがわかる。

しかしこの問題には、さらに先が
ある。

朝鮮N報は、つぎのようにつづける。

+++++++++++++++

●暴力を助長するゲーム依存症

 ゲーム依存症になった子供の共通点は、暴力的な性格になってしまうということだ。

 仁川市に住むウさん(44)はゲームに没頭する中3の二男を叱ったとき、驚いた。普段は物
静かな二男が、突然「だからって俺がどう変わるって言うんだよ!」と、叫んだというのだ。

ウさんは「内気だとばかり思っていた二男が、ゲームにはまって性格が変わってしまった」と力
なく語った。

 一方、ゲーム依存症が重大な犯罪につながるケースもある。先日、京畿道盆唐のショッピン
グセンターの駐車場で20代の女性客を殺害し、約11万ウォン(約1万4700円)を盗んだキ
ム容疑者(26)は「ゲーム依存症」だった。

また先月、釜山では暴力的なゲームに熱中していた中3男子が、これを叱った祖母に暴力を
振るい、死亡させるという事件が起きている。今年4月に米バージニア工科大学銃乱射事件を
起こしたチョ・スンヒ容疑者(23)=死亡=も、友達がいず、ゲームに没頭していたという。

 韓国情報文化振興院が全国の青少年相談所の相談例を集計したところ、インターネット依
存症に関する相談は昨年5万1777件に上り、5年前の02年の2559件に比べ約20倍にも
急増したという。このうち「ゲーム依存症」の相談は80・3%に達したという。

++++++++++++++

さらに朝鮮N報は、どんな子ども
がゲーム依存症になりやすいかに
ついても、書いている。

たいへん参考になるので、そのまま
紹介させてもらう。

++++++++++++++

●ゲーム依存症になりやすい子ども

ゲーム依存症になりやすいのはどんな子供だろうか。 

 専門家は「ゲーム依存症は習慣によるものが多いが、先天的に衝動を抑制する脳の機能が
弱い子供がかかりやすい」と話す。

小さいころからキレやすく、気が短ければ短いほどゲーム依存症にかかる確率が高いというこ
とだ。

ナウ精神科医院のキム・ジンミ院長は、「脳の自律調節機能が弱く、衝動的な欲求を抑制でき
ない場合、ゲーム依存症になる可能性が高い。こうした子供はゲームのバーチャル空間に登
場する主人公と自分の区別がつかなくなり、深い依存症に陥る」と説明する。

 一方、青少年だけでなく、大人のゲーム依存症も深刻な問題になりつつある。

米国医師会(AMA)はゲーム依存症を精神疾患の1つとして分類する案を検討している。

建国大学付属病院神経・精神科のハ・ジヒョン教授は、「ネットカフェにいるゲーム依存症患者
は、注意欠陥・多動性障害(ADHD)や、うつ病といった精神的な問題を起こすが、これは性格
的な要因だけでなく、家庭不和などの環境的な要因が影響しているケースも少なくない。親が
まず、子供がゲーム依存症になった原因を分析し、対応する必要がある」と警告している。
(以上、朝鮮N報・6月28日号)

+++++++++++++

日本でも、「ゲーム脳」という
言葉を使って、この問題について、
いろいろな側面から、検討が
加えられている。

現在は、「ゲームは危険である」という説と、
「ゲームは危険ではない」という説が、
入り乱れている状態と考えてよい。

さらにおかしな現象として、
こうしたゲームの世界を批判したり、
批評したりすると、それに対して
ものすごい反発が起きるということ。

私も7年前に、『ポケモン・カルト』
(三一書房)を発表した。が、この本に
対する反発には、ものすごいものが
あった。

いまだに、「お前は、オレたちの夢を
破壊するのか」という抗議のメールが
届いたりする。しかも20歳を過ぎた、
大(だい)のおとなたちから……。

こうした現象は、「ゲーマーたちの世界」が、
カルト化しているためによって起こるものと
考えてよい。

冒頭に書いたように、韓国で今、起きている
問題は、数年後の日本の問題と考えてよい。

++++++++++++++

私が少し前(05年、8月)に
書いた原稿を、もう一度、
そのまま紹介します。

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【ゲーム脳】

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ゲームばかりしていると、脳ミソがおかしくなるぞ!

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最近、急に脚光を浴びてきた話題に、「ゲーム脳」がある。ゲームづけになった脳ミソを「ゲー
ム脳」いう。このタイプの脳ミソには、特異的な特徴がみられるという。しかし、「ゲーム脳」と
は、何か。NEWS WEB JAPANは、つぎのように報道している(05年8月11日)。

『脳の中で、約35%をしめる前頭葉の中に、前頭前野(人間の拳程の大きさで、記憶、感情、
集団でのコミュニケーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分)
という、さまざまな命令を身体全体に出す司令塔がある。

この司令塔が、ゲームや携帯メール、過激な映画やビデオ、テレビなどに熱中しすぎると働か
なくなり、いわゆる「ゲーム脳」と呼ばれる状態になるという。それを科学的に証明したのが、東
北大のK教授と、日大大学院のM教授である』(以上、NEWS WEB JAPAN※)。

 つまりゲーム脳になると、管理能力全般にわたって、影響が出てくるというわけである。この
ゲーム脳については、すでに、さまざまな分野で話題になっているから、ここでは、省略する。
要するに、子どもは、ゲームづけにしてはいけないということ。

 が、私がここで書きたいのは、そのことではない。

 この日本では、(世界でもそうかもしれないが)、ゲームを批判したり、批評したりすると、もの
すごい抗議が殺到するということ。上記のK教授のもとにも、「多くのいやがらせが、殺到してい
る」(同)という。

 考えてみれば、これは、おかしなことではないか。たかがゲームではないか(失礼!)。どうし
てそのゲームのもつ問題性を指摘しただけで、抗議の嵐が、わき起こるのか?

 K教授らは、「ゲームばかりしていると、脳に悪い影響を与えますよ」と、むしろ親切心から、
そう警告している。それに対して、(いやがらせ)とは!

 実は、同じことを私も経験している。5、6年前に、私は「ポケモンカルト」(三一書房)という本
を書いた。そのときも、私のところのみならず、出版社にも、抗議の嵐が殺到した。名古屋市
にあるCラジオ局では、1週間にわたって、私の書いた本をネタに、賛否両論の討論会をつづ
けたという。が、私が驚いたのは、抗議そのものではない。そうした抗議をしてきた人のほとん
どが、子どもや親ではなく、20代前後の若者、それも男性たちであったということ。

 どうして、20代前後の若者たちが、子どものゲームを批評しただけで、抗議をしてくるのか?
 出版社の編集部に届いた抗議文の中には、日本を代表する、パソコン雑誌の編集部の男性
からのもあった。

 「子どもたちの夢を奪うのか!」
 「幼児教育をしながら、子どもの夢が理解できないのか!」
 「ゲームを楽しむのは、子どもの権利だ!」とか何とか。

 私の本の中の、ささいな誤字や脱字、どうでもよいような誤記を指摘してきたのも多かった。
「貴様は、こんな文字も書けないのに、偉そうなことを言うな」とか、「もっと、ポケモンを勉強し
てからものを書け」とか、など。

 (誤字、脱字については、いくら推敲しても、残るもの。100%、誤字、脱字のない本などな
い。その本の原稿も、一度、プロの推敲家の目を経ていたのだが……。)

 反論しようにも、どう反論したらよいかわからない。そんな低レベルの抗議である。で、そのと
きは、「そういうふうに考える人もいるんだなあ」という程度で、私はすませた。

 で、今回も、K教授らのもとに、「いやがらせが、殺到している」(同)という。

 これはいったい、どういう現象なのか? どう考えたらよいのか?

 一つ考えられることは、ゲームに夢中になっている、ゲーマーたちが、横のつながりをもちつ
つ、カルト化しているのではないかということ。ゲームを批判されるということは、ゲームに夢中
になっている自分たちが批判されるのと同じ……と、彼らは、とらえるらしい(?)。おかしな論
理だが、そう考えると、彼らの心理状態が理解できる。

 実は、カルト教団の信者たちも、同じような症状を示す。自分たちが属する教団が批判され
たりすると、あたかも自分という個人が批判されたかのように、それに猛烈に反発したりする。
教団イコール、自分という一体感が、きわめて強い。

 あのポケモン全盛期のときも、こんなことがあった。私が、子どもたちの前で、ふと一言、「ピ
カチューのどこがかわいいの?」ともらしたときのこと。子どもたちは、その一言で、ヒステリー
状態になってしまった。ギャーと、悲鳴とも怒号ともわからないような声をあげる子どもさえい
た。

 そういう意味でも、ゲーム脳となった脳ミソをもった人たちと、カルト教団の信者たちとの間に
は、共通点が多い。たとえばゲームにハマっている子どもを見ていると、どこか狂信的。現実と
空想の世界の区別すら、できなくなる子どもさえいる。たまごっちの中の生き物(?)が死んだ
だけで、ワーワーと大泣きした子ども(小1女児)もいた。

これから先、ゲーム脳の問題は、さらに大きく、マスコミなどでも、とりあげられるようになるだ
ろう。これからも注意深く、監視していきたい。

 ところで、今日の(韓国)の新聞によれば、テレビゲームを50時間もしていて、死んでしまっ
た若者がいるそうだ。たかがゲームと、軽くみることはできない。

注※……K教授は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)と、ファンクショナルMRI(機能的磁
気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置で、実際にゲームを使い、数十人を測定した。
そして、2001年に世界に先駆けて、「テレビゲームは前頭前野をまったく発達させることはな
く、長時間のテレビゲームをすることによって、脳に悪影響を及ぼす」という実験結果をイギリ
スで発表した。

この実験結果が発表された後に、ある海外のゲーム・ソフトウェア団体は「非常に狭い見識に
基づいたもの」というコメントを発表し、教授の元には多くの嫌がらせも殺到したという(NEWS
 WEB JAPANの記事より)。
(はやし浩司 ゲーム ゲームの功罪 ゲーム脳 ゲームの危険性)

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゲーム脳(2)

【M君、小3のケース】

 M君の姉(小5)が、ある日、こう言った。「うちの弟、夜中でも、起きて、ゲームをしている!」
と。

 M君の姉とM君(小3)は、同じ部屋で寝ている。二段ベッドになっていて、上が、姉。下が、
M君。そのM君が、「真夜中に、ガバッと起きて、ゲームを始める。そのまま朝まで、しているこ
ともある」(姉の言葉)と。

 M君には、特異な症状が見られた。

 祖父が、その少し前、なくなった。その通夜の席でのこと。M君は、たくさん集まった親類の人
たちの間で、ギャーギャーと笑い声で、はしゃいでいたという。「まるで、パーティでもしているか
のようだった」(姉の言葉)と。

 祖父は、人一倍、M君をかわいがっていた。その祖父がなくなったのだから、M君は、さみし
がっても、よいはず。しかし、「はしゃいでいた」と。

 私はその話を聞いて、M君はM君なりに、悲しさをごまかしていたのだろうと思った。しかし別
の事件が、そのすぐあとに起きた。

 M君が、近くの家の庭に勝手に入り込み、その家で飼っていた犬に、腕をかまれて、大けが
をしたというのだ。その家の人の話では、「庭には人が入れないように、柵がしてあったのです
が、M君は、その柵の下から、庭へもぐりこんだようです」とのこと。

 こうした一連の行為の原因が、すべてゲームにあるとは思わないが、しかしないとも、言い切
れない。こんなことがあった。

 M君の姉から、真夜中にゲームをしているという話を聞いた母親が、M君から、ゲームを取り
あげてしまった。その直後のこと。M君は狂ったように、家の中で暴れ、最後は、自分の頭をガ
ラス戸にぶつけ、そのガラス戸を割ってしまったという。

 もちろんM君も、額と頬を切り、病院で、10針前後も、縫ってもらうほどのけがをしたという。
そのあまりの異常さに気づいて、しばらくしてから、M君の母親が、私のところに相談にやって
きた。

 私は、日曜日にときどき、M君を教えるという形で、M君を観察させてもらうことにした。その
ときもまだ、腕や顔に、生々しい、傷のあとが、のこっていた。

 そのM君には、いくつかの特徴が見られた。

(1)まるで脳の中の情報が、乱舞しているかのように、話している話題が、めまぐるしく変化し
た。時計の話をしていたかと思うと、突然、カレンダーの話になるなど。

(2)感情の起伏がはげしく、突然、落ちこんだかと思うと、パッと元気になって、ギャーと騒ぐ。
イスをゴトゴト動かしたり、机を意味もなく、バタンとたたいて見せたりする。

(3)頭の回転ははやい。しばらくぼんやりとしていたかと思うと、あっという間に、計算問題(割
り算)をすませてしまう。そして「終わったから、帰る」などと言って、あと片づけを始める。

(4)もちろんゲームの話になると、目の色が変わる。彼がそのとき夢中になっていたのは、N
社のGボーイというゲームである。そのゲーム機器を手にしたとたん、顔つきが能面のように無
表情になる。ゲームをしている間は、目がトロンとし、死んだ、魚の目のようになる。

 M君の姉の話では、ひとたびゲームを始めると、そのままの状態で、2〜3時間はつづける
そうである。長いときは、5時間とか、6時間もしているという。(同じころ、12時間もゲームをし
ていたという中学生の話を聞いたことがある。)

 以前、「脳が乱舞する子ども」という原稿を書いた(中日新聞発表済み)。それをここに紹介す
る。もう4、5年前に書いた原稿だが、状況は改善されるどころか、悪化している。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【子どもの脳が乱舞するとき】

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。動作も一貫性がない。騒々しい。

ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそ
のままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目
が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もい
ると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあ
ちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友
だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破った
り捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。

「新しい荒れ」とい言葉を使う人もいる。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、
キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわ
からなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)
●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や
東北など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」
(中日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学一年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約五二%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人
で、精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、う
つ状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関
係のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。具体的には、小学1、2年について、
新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県では40人いるクラスを、2人担任制に
し、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だという。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の四教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。
(はやし浩司 キレる子供 子ども 新しい荒れ 学級崩壊 心を病む教師)


++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●失行

 近年、「失行」という言葉が、よく聞かれるようになった。96年に、ドイツのシュルツという医師
が使い始めた言葉だという。

 失行というのは、本人が、わかっているのに、できない状態をいう。たとえば風呂から出たと
き、パジャマに着がえなさいと、だれかが言ったとする。本人も、「風呂から出たら、パジャマに
着がえなければならない」と、理解している。しかし風呂から出ると、手当たり次第に、そこらに
ある衣服を身につけてしまう。

 原因は、脳のどこかに何らかのダメージがあるためとされる。

 それはさておき、人間が何かの行動をするとき、脳から、同時に別々の信号が発せられると
いう。行動命令と抑制命令である。

 たとえば腕を上下させるときも、腕を上下させろという命令と、その動きを抑制する命令の二
つが、同時に発せられる。

 だから人間は、(あらゆる動物も)、スムーズな行動(=運動行為)ができる。行動命令だけだ
と、まるでカミソリでスパスパとものを切るような動きになる。抑制命令が強すぎると、行動その
ものが、鈍くなり、動作も緩慢になる。

 精神状態も、同じように考えられないだろうか。

 たとえば何かのことで、カッと頭に血がのぼるようなときがある。激怒した状態を思い浮かべ
ればよい。

 そのとき、同時に、「怒るな」という命令も、働く。激怒するのを、精神の行動命令とするなら、
「怒るな」と命令するのは、精神の抑制命令ということになる。

 この「失行」についても、精神の行動命令と、抑制命令という考え方を当てはめると、それなり
に、よく理解できる。

 たとえば母親が、子どもに向かって、「テーブルの上のお菓子は、食べてはだめ」「それは、こ
れから来る、お客さんのためのもの」と話したとする。

 そのとき子どもは、「わかった」と言って、その場を去る。が、母親の姿が見えなくなったとた
ん、子どもは、テーブルのところへもどってきて、その菓子を食べてしまう。

 それを知って、母親は、子どもを、こう叱る。「どうして、食べたの! 食べてはだめと言った
でしょ!」と。

 このとき、子どもは、頭の中では「食べてはだめ」ということを理解していた。しかし精神の抑
制命令が弱く、精神の行動命令を、抑制することができなかった。だから子どもは、菓子を食
べてしまった。

 ……実は、こうした精神のコントロールをしているのが、前頭連合野と言われている。そして
この前頭連合野の働きが、何らかの損傷を受けると、その人は、自分で自分を管理できなくな
ってしまう。いわゆるここでいう「失行」という現象が、起きる。

 前述のWEB NEWSの記事によれば、「(前頭連合野は)記憶、感情、集団でのコミュニケ
ーション、創造性、学習、そして感情の制御や、犯罪の抑制をも司る部分」とある。

 どれ一つをとっても、良好な人間関係を維持するためには、不可欠な働きばかりである。一
説によれば、ゲーム脳の子どもの脳は、この前頭連合野が、「スカスカの状態」になっているそ
うである。

 言うまでもなく、脳には、そのときどきの発達の段階で、「適齢期」というものがある。その適
齢期に、それ相当の、それにふさわしい発達をしておかないと、あとで補充したり、修正したり
するということができなくなる。

 ここにあげた、感情のコントロール、集団におけるコミュニケーション、創造性な学習能力と
いったものも、ある時期、適切な指導があってはじめて、子どもは、身につけることができる。
その時期に、ゲーム脳に示されるように、脳の中でもある特異な部分だけが、異常に刺激され
ることによって、脳のほかの部分の発達が阻害されるであろうことは、門外漢の私にさえ、容
易に推察できる。

 それが「スカスカの脳」ということになる。

 これから先も、この「ゲーム脳」については、注目していきたい。

(補記)大脳生理学の研究に先行して、教育の世界では、現象として、子どもの問題を、先にと
らえることは、よくある。

 たとえば現在よく話題になる、AD・HD児についても、そういった症状をもつ子どもは、すでに
40〜50年前から、指摘されていた。私も、幼児に接するようになって36年になるが、36年前
の私でさえ、そういった症状をもった子どもを、ほかの子どもたちと区別することができた。

 当時は、もちろん、AD・HD児という言葉はなかった。診断基準もなかった。だから、「活発型
の遅進児」とか、「多動性のある子ども」とか、そう呼んでいた。「多動児」という言葉が、雑誌な
どに現れるようになったのは、私が30歳前後のことだから、今から、約30年前ということにな
る。

 ゲーム脳についても、最近は、ポジトロンCT(陽電子放射断層撮影)や、ファンクショナルM
RI(機能的磁気共鳴映像)いう脳の活性度を映像化する装置などの進歩により、脳の活動そ
のものを知ることによって、その正体が、明らかにされつつある。

 しかし現象としては、今に始まったことではない。私が書いた、「脳が乱舞する子ども」という
のは、そういう特異な現象をとりあげた記事である。
(はやし浩司 脳が乱舞する子ども 子供 ゲーム脳 前頭連合野 管理能力 脳に損傷のあ
る子ども 子供 失行 ドイツ シュルツ 医師 行動命令 抑制命令 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2019)

【カナダのRさんへ】

+++++++++++++++

カナダのRさんから、メールが
届いた。

この原稿を書いているとき、R
さんは、日本に向かう飛行機の
中にいる。

そのため、Rさんからのメール
を、ここに紹介することはでき
ない。

Rさんは、今、「家族」という
名前の重圧に苦しんでいる。

帰国の目的は、一応、「法事」
ということになっている。しか
しRさんの気分は、重い。たい
へん重い。

+++++++++++++++

●Rさんからのメール

 Rさんと家族(母親と、2人の兄)の関係が、おかしくなったのは、父親の危篤が、きっかけだ
った。Rさんは、父親の危篤の報を受け取ると、子どもを夫に預け、日本へ飛んできた。

 しかし何とか臨終には間にあったものの、その2日後、父親は亡くなってしまった。2人の兄
夫婦は、Rさんを責めた。「なぜ、すぐ来なかった!」「娘なら、父親のそばにいて、寝ずの看病
をするのが当然だ!」「入院費用を分担せよ!」と。

 Rさんには、仕事があった。それに2人の子ども(2歳と4歳)がいた。日本へ帰国するといっ
ても、簡単なことではない。いろいろと準備が必要だった。それで帰国が遅れた。

 「寝ずの看病」をしなかったことも、まずかった。それはわかる。しかし日本へ帰国したもの
の、時差もあり、Rさんは帰国したときには、ヘトヘトだった。それでそのまま実家で体を休めて
いた。それが兄弟たちの怒りを買った。それに叔父夫婦が加わった。叔父夫婦は、Rさんにこ
う言った。「お前は、娘として失格だ!」と。

 この言葉が、Rさんの心に深いキズを残した。

 また費用のことについても、そうだ。日本人の多くは、「外国に住んでいる」というだけで、そ
れを「ぜいたく」ととらえる。しかしRさんの夫の給料は、日本円になおしても、20万円弱程度。
Rさん自身の給料は、その半分にもならない。

 いくら物価の安いカナダとはいえ、2人の子どももいて、Rさんは、ギリギリの生活をしてい
た。

 一方、日本の治療費は、高い。父親は、腎不全で闘病生活をつづけていたが、そのときは、
肺炎だった。2週間ごとに治療費が請求されたが、その額は、20〜30万円を超えていた。半
額といっても、合計で、40万円近くになっていた。

 Rさんには、その余裕がなかった。航空運賃のほか、国内では、往復数万円の旅費がかか
った。しかし兄弟たちは、それを許さなかった。「自分だけ、カナダでいい思いをしていて、何
だ!」と。

 ……で、それから3年。三回忌ということで、Rさんは、カナダから帰国することになった。今
度は、夫と2人の子どもも、いっしょの帰国である。それについて、Rさんは、「気がたいへん重
い」と。

●家族自我群

 「家族」も、たがいに良好な関係のときは、それなりにうまく機能する。しかし親子、兄弟といっ
ても、もとをただせば、人間と人間。その関係も、こわれるときには、こわれる。

 が、一度こわれると、今度は、「家族」という関係が、重圧感となって、その人を苦しめる。こう
した心理的反応を、心理学の世界でも、「幻惑」と呼ぶ。ふつうの苦しみではない。家族という
束縛感があるがゆえに、ふつう以上に苦しむ。苦しむというより、もがく。その苦しみは、恐ら
く、それを味わったものでなければ、理解できないだろう。

 ある男性は、こう言った。「私は実家に帰るたびに、車の中で、経文を唱えていました」と。

 それにこんなこともあったという。

 Rさんは、そのつど、カナダの観光地の絵ハガキを、入院中の父親に送っていた。Rさんの住
んでいる周辺には、そうした観光地がいくつかある。見舞いのつもりだった。しかしそれについ
ても兄弟たちは、こう言ったという。「自分だけ、いい思いをしている」「楽をしている」と。

 この言葉にも、Rさんは、ショックを受けた。「私は、みなが喜んでくれると思ったから、絵ハガ
キを送っただけです。しかし実際には、逆効果だったようです。みなが、そんなふうにとらえてい
るとは、夢にも思っていませんでした」と。

 で、私は、そのとき、つぎのような返事を書いた。

 「……あなたの母親にしても、兄弟にしても、要するに、みんな、あなたの父親の看病をしたく
ないのです。その(したくない)という不満を、あなたへの怒りとして、転嫁しているだけです。わ
かりやすく言えば、グチです。そういうグチを口にする人は、本気で相手にしてはいけません。
何かを言ったら、だまって、心の中で、歌でも歌っていればいいのです」と。

●家族という苦しみ 

 この原稿を読んでいる人の中にも、家族であるという束縛感から生まれる重圧に苦しんでい
る人は多いと思う。中には、ノー天気な人がいて、「親があっての子ども」「子どもが親の犠牲
になるのは当然」などという人がいる。

 安易な孝行論、先祖論、「家」制度などが、これに拍車をかける。

 しかしここにも書いたように、親子、兄弟といっても、もとをただせば、人間と人間。その関
係。こわれるときには、こわれる。現にその関係がこわれ、実家に寄りつかない子ども、実家
を嫌う子ども、10年以上にもわたって、たがいに口をきかない兄弟となると、それこそ、ゴマン
といる。

 また、こと家族に関して言えば、「家族だから……」という、『ダカラ論』ほど、あてにならないも
のはない。世の中には、親をだます子どももいるが、反対に、子どもをだます親だっている。そ
うした幻惑に苦しんでいる人に向かって、安易な『ダカラ論』をぶつければ、その人を苦しめる
だけ。

 実のところ、この私も、親類の人たちに、その『ダカラ論』をぶつけられて、かなり苦しんだ経
験がある。そうした人たちは、(過去)を背負っているだけに、強い。(過去)というのは、(伝統)
ということになる。

 その伝統を、そのまま踏襲する。「昔からこうだ」と。そしてそれが「人として、あるべき本来の
姿である」という論法で、迫ってくる。「お前は、親に産んでもらったではないか」「育ててもらった
ではないか」「大学まで出してもらったではないか」と。

 さらに進んで親絶対教の信者も少なくない。そういう人たちは、「親は絶対」と、かたくななまで
に信じている。

●Rさんへ

 Rさんは、今、飛行機の中ですね。Rさんからのメールを紹介したかったのですが、転載許可
がもらえそうもなかったので、このような形で、返事を書きます。

 前にも書きましたが、こういうケースのばあい、「親だから……」「兄弟だから……」と考えてい
ると、袋小路に入ってしまいます。自分で自分を苦しめてしまいます。この際、そうした幻想は、
もう捨てたらいかがでしょうか。わかりやすく言えば、すべきことはする。しかしそれ以上には、
相手にしないということです。

 つぎに、「運命は受け入れる」です。

 人には、それぞれ、無数の糸がからんでいます。その「糸」が、ときとして、その人の進むべ
き方向を決めてしまいます。それを私は、「運命」と呼んでいます。どこかのオバチャンがテレ
ビなどでしゃべっている「運命」とは、まったく異質のものです。

 その運命を感じたら、その運命を受け入れてしまいます。とたん、気が楽になります。ある人
は、こう書いています。

 「運命は、それを恐れれば、悪魔となって、あなたに襲いかかる。しかし運命は、それを笑え
ば、悪魔は向こうからシッポを巻いて、逃げていく」と。私のHPのどこかに、その原文(=英文)
も載っているはずです。

 運命というのはそういうものですね。

 そして自分は自分で、前向きに生きていく。今できることは、今、する。今日、やるべきこと
は、今日、やる。あとは、時の流れに、身を任せます。水が低い所を求めて流れていくように、
水の流れに自分を任せます。つまり、あとは(時間)が解決してくれます。

 まずいのは、(取り越し苦労)と(ヌカ喜び)です。これを繰りかえしていると、精神そのものが
病むことがあります。そうなれば、それこそ、「損」ですね。

 私もいろいろな場面で、居直って生きています。また居直って生きるようにしています。陰で
いろいろ言っている人はいるようですが、どうせその程度の人たちですから、相手にしていませ
ん。相手にもならない。相手にする価値もない。はっきり言えば、無視、です。

 で、そのためには、つねに、自分をより高い立場に置かねばなりません。思想として、そうい
った人たちを超越しなければなりません。同レベルになったとたん、先に書いた幻惑のウズの
中に取り込まれてしまいます。注意してください。

 あとは適当につきあって、それでおしまいにする。

 ですから「法事」と構えるのではなく、日本への家族旅行とでも考えて、RさんはRさんで、好き
勝手なことをすればよいのです。今のRさんには、むずかしいことかもしれませんが、運命を受
け入れてしまえば、何でもないことです。実際、私も、そういうやり方で、いろいろな問題を克服
してきました。

 で、今はどうかというと、陰でいろいろ言っている人たちが、そこらのサルか、それ以下の人
間に見えます。適当なつきあいはするかもしれませんが、それ以上に、つきあうつもりは、毛頭
ありません。だってそうでしょう。私も今年、満60歳になります。もうこれ以上、自分の人生を、
無駄な人たちとつきあって、無駄にすることはできません。

 たとえそれが、親類、縁者であっても、です。わかりやすく言えば、英語の格言にもあるよう
に、「私たちは、2人の人にいい顔はできない」のです。

 さらに言えば、もしあなたが、自分をさらに高めることができれば、そこらのサルか、それ以
下の人間にすら、深い慈愛の念を覚えるようになるかもしれません。キリスト教的に言えば、相
手を、あなたの愛で包みこむことができるようになるかもしれません。

 むしろ、相手をあわれむことができるようになるのです。「かわいそうな人たちだな」とです。

 その点、Rさんは、カナダに住んでいる。日本に住んでいる兄弟の人たちよりも、はるかに視
野が広い。兄弟の人たちには、想像もつかないような、ものの考え方にも、日常的に接してい
ます。そういう特権をフルに利用して、あなたはあなたで自分を高めればよいのです。

 私の印象では、あと一歩ではないかと思います。あと一歩で、Rさんも、そういう心境に到達
できるのではないかと思います。そこで見る世界は、実におおらかで、ゆったりとしたもので
す。こんな言い方で返事をしめくくるのは不謹慎かもしれませんが、どうぞ、それを、お楽しみ
に!

 私たちは私たちで、朗らかに、常に前向きに生きていきましょう! 私たちは私たちで、私た
ちの世界に、いっしょに住みましょう!

 GOOD NEWS、です。

 私の講演会も、年々、規模の大きなものが多くなってきました。年末には、800人単位、10
00人単位の講演会がいくつか待っています。

 さらに今日、新しい本の出版の話が、2つ飛び込んできました。私が相手にするのは、また相
手にすべき世界は、そういう世界です。今、つくづくと、そう思っています。Rさんも、今の仕事を
生かして、いつも前だけを見ながら、進んでください。心から声援します! 繰りかえしますが、
極東アジアの島国原住民の、その土着思想なんかに、負けてはだめですよ!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●悪党中の極悪党

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私はこれほどまでの悪党と知らない。
まさに悪党中の悪党。極悪党。

経済犯とはいえ、極刑に値する悪党。

元公安調査庁長官の弁護士緒方重威
容疑者(73歳、実名)。


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 出てくるは出てくるは……。まさに日本の膿(うみ)。今日も、出てきた!

時事通信はつぎのように伝える(6月30日)。

『在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部をめぐる詐欺事件で、逮捕された仲介役の元
不動産会社社長満井忠男容疑者(73)が総連幹部に対し、「購入代金の3%」などと、自身の
報酬として1億500万円を要求していたことが30日、分かった。同容疑者には計約4億8000
万円が提供され、元公安調査庁長官で弁護士緒方重威容疑者(73)は、うち1億3000万円を
受け取っていた。

 東京地検特捜部はこうした不明朗な資金についても詐欺に当たるとみて解明を進める。

 関係者によると、満井容疑者は総連に対し、「手元に自由になる金がない。総連で立て替え
てくれないか」などと、報酬などの前払いを要求。自身のあっせん手数料として、「購入代金の
3%」に当たる1億500万円を求めた』という。

 が、それだけではない。自分の過去の地位と権力を利用して、弁護士緒方重威容疑者(73)
は、捜査の妨害までしていたという。読売新聞は、つぎのように伝える(6月30日)。

『在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)中央本部の土地・建物を巡る詐欺事件で、緒方重威(し
げたけ)元公安調査庁長官(73)が今月中旬、東京地検に「売買契約を白紙にするので、捜
査を中止してほしい」と要請していたことが分かった。

 取引を仲介した元不動産会社社長の満井忠男容疑者(73)には、同地検に提出する「わび
状」を書くよう求めていた。いずれも電磁的公正証書原本不実記録の疑いで捜査が始まった
後のことで、特捜部では、捜査が進展して詐欺が発覚するのを恐れた証拠隠滅工作の一環と
みている』と。

 まあ、読めば読むほど、あきれる。こんな悪党が、公安調査庁の長官をしていたかと思うと、
ぞっとする。心底、ぞっとする。一度、この悪党の過去を、洗いざらい、調査してみる必要があ
る。これほどまでの悪党は、そうはいない。そうは簡単には生まれない。

 それよりも不思議なのは、名誉も地位も、おそらく私たちのそれとはケタちがいの財産を蓄え
ながら、なおかつ、この貪欲さ。年齢は73歳という。いくらがんばっても、あと10〜15年も、生
きられないだろう。

 そんな男が、どうしてこうまで貪欲になれるものなのか。しかもその生涯において、総理大臣
クラスの人たちと、それなりの交遊を深めてきたはず。文化人と呼ばれる人たちとも、電話一
本で、会えたはず。

 この事件は、いかにもそういうことをしそうな男が、牛肉の中に豚肉を混ぜた事件とは、わけ
がちがう。「格(?)」がちがう。あくどさがちがう。しかも相手は、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮
総連)。時期も悪い。

 経済犯とはいえ、緒方重威容疑者(73)は、まさに極刑に値する悪党と言ってよい。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2020)

●おかしな一貫性(Oという名前に参議院議員)

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7年前、一人の国会議員が
この浜松市へやってきた。駅前の
A大ホールで講演をした。

元プロレスラーのOという名前の
男だった。

その男が、こんな話をした。

「アフリカへ行ったときのこと……」と。

私は、その話を聞いたとき、即座に、
その男の話は、ウソであると判断した。

そのときに書いたエッセーを、
まず紹介する。このエッセーの冒頭に
書いた、あるテレビタレントというのは、
そのOという名前の国会議員をいう。

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【教育者が美談を口にするとき】

●どこかおかしい美談

 美しい話だが、よく考えてみるとおかしいというような話は、教育の世界には多い。こんな話
がある。

 あるテレビタレントがアフリカへ行ったときのこと。物乞いの子どもがその人のところにやって
きて、「あなたの持っているペンをくれ」と頼んだという。理由を聞くと、「ぼくはそのペンで勉強
をして、この国を救う立派な人間になりたい」(※)と。

そのタレントは、感きわまった様子で、ほとんど涙ながらにこの話をしていた(2000年夏、H市
での教育講演)。しかしこの話はどこかおかしい。だいたい「国を救う」という高邁な精神を持っ
ている子どもが、「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろうか。仮にペンを手に入れたとしても、
インクの補充はどうするのか。

「だから日本の子どもたちよ、豊かであることに感謝せよ」ということを、そのタレントは言いた
かったのだろうが、この話はどこか不自然である。こんな事実もある。

●日本の学用品は使えない?

 15年ほど前のこと。S国からの留学生が帰国に先立って、「母国の子どもたちに学用品を持
って帰りたい」と言いだした。最初は一部の教師たちの間の小さな運動だったが、この話はテ
レビや新聞に取りあげられ、ついで県をあげての支援運動となった。そしてその結果だが、何
とトラック一杯分のカバンやノート、筆記用具や本が集まったという。

 で、その1年後、その学用品がどう使われているか、2人の教師が現地まで見に行った。が、
大半の学用品はその留学生が持ち逃げ。残った文房具もほとんどが手つかずのまま、学校の
倉庫に眠っていたという。

理由を聞くと、その学校の先生はこう言った。「父親の1日の給料よりも高価なノートや鉛筆
を、どうして子どもに渡せますか」と。「石版にチョークのほうが、使いやすいです」とも。そういう
話なら私にもわかるが、「国を救う立派な人間になりたい」とは?

 そうそう似たような話だが、昔、『いっぱいのかけそば』という話もあった。しかしこの話もおか
しい。おかしいというより、作り話であったということが、あとになってわかった。

貧しい親子が、一杯のかけそばを分けあって食べたという、あの話である。国会でも取りあげ
られ、その後、映画にもなった。しかし私がその場にいた親なら、そばには箸をつけない。「私
はいいから、お前たちだけで食べろ」と言って、週刊誌でも読んでいる。

私には私の生きる誇りというものがある。その誇りを捨てたら、私はおしまい。親としての私も
おしまい。またこんな話も……。

●「ぼくのために負けてくれ」

 運動会でのこと。これから50メートル走というときのこと。横に並んだB君(小2)が、A君にこ
う言った。「お願いだから、ぼくのために負けてくれ。でないと、ぼくはママに叱られる」と。

そこでA君は最初はB君のうしろを走ったが、わざと負ければ、かえってB君のためにならない
と思い、とちゅうから本気で走ってB君を追い抜き、B君に勝った、と。ある著名な大学教授が、
ある雑誌の巻頭で披露していた話だが、この話は、視点そのものがおかしい。

その教育者は、2人の会話をどうやって知ったというのだろうか。それに教えたことのある人な
らすぐわかるが、こういう高度な判断能力は、まだ小学2年生には、ない。仮にあったとしても、
あの騒々しい運動会で、どうやってそれができたというのだろうか。さらに、こんな話も……。

●子どもたちは何をしていたか?

 ある小学校教師が1時間目の授業に顔を出したときのこと。小学1年生の生徒たちが、「先
生の顔はおかしい」と言った。そこでその教師が鏡を見ると、確かにへんな顔をしていた。原因
は、その前の職員会議だった。その会議で不愉快な思いをしたのが、そのまま顔に出ていた。

そこでその教師は、30分間ほど、近くのたんぼのあぜ道を歩いて気分を取りなおし、そして再
び授業に臨んだという。その教師は、「そういうことまでして、私は子どもたちの前に立つときは
心を整えた」とテレビで話していたが、この話もおかしい。

その30分間だが、子どもたちはどこで何をしていたというのだろうか。その教師の話だと、そ
の教師は子どもたちを教室に残したまま散歩に行ったということになるのだが……?

 教育を語る者は、いつも美しい話をしたがる。しかしその美しい話には、じゅうぶん注意した
らよい。こうした美しい話のほとんどは、ウソか作り話。中身のない教育者ほど、こうした美しい
話で自分の説話を飾りたがる。

※……「立派な社会人思想」は日本のお家芸だが、隣の中国では、今「立派な国民思想」がも
てはやされている。親も教師も、子どもに向ってさかんに「立派な国民になれ」と教えている(北
京第33中学校教師談)。

それはさておき、そのタレントは、「その子どもは立派な人間になりたいと言った」と話したが、
その発想そのものがまさに日本的である。英語には「立派な」にあたる単語すらない。あえて
言えば「splendid, fine, noble」(三省堂JRコンサイス和英辞典)だが、ふつうそういう単語は、こ
ういう会話では使わない。別の意味になってしまう。

一体その物乞いの子どもは、そのタレントに何と言ったのか。この点からも、そのタレントの話
は、ウソと断言してよい。

++++++++++++++++

 そのOという名前の国会議員が、このほど、突然、辞任した。理由は、「夏休みの間に選挙を
するという自民党への、抗議のため」と。

 しかし、この話も、おかしい? O議員は、「夏休みの間に、選挙をするというのは、許せな
い」というのだ。いわく、「投票日が7月29日になったことで、夏休みに突入してしまい、政治に
関心のない若者が投票に行きづらくなった。引退は官邸への異議申し立てだ」と。目には涙ま
で浮かべていたという。

 しかしそれについて、週刊新潮(07年7月5日号)は、つぎのように暴露している。

 『もっとも、この言葉を真に受けてはいけない。「初当選した6年前の投票日も、同じ7月29
日。あれは取ってつけた言いわけです」と、政治部記者はあきれる。

 「つぎの参院選には、比例区から、弁護士のM氏、ヤンキー先生のY氏らが出馬します。O代
議士は、周囲に、"これじゃ、オレが受かんねえよ"と不安を口にしていましたからね。そこに某
週刊誌から役人との乱痴気パーティを開いていたことを暴露され、このタイミングで引退を公
表したんです」』と。

 週刊新潮の評価は、きびしい。O議員についての記事を、箇条書きにしてみる。

(1)この6年で、政治家として評価できる実績はゼロ。
(2)医療制度改革法案の採決では、場外乱闘を演じてみせた。
(3)当選直後、3人もの愛人がいることが発覚した。
(4)明大在学中には、週刊新潮で、カンニング事件が報じられたこともある。
(5)同僚レスラーから暴行事件で、民事訴訟を起こされた。
(6)出席した委員会でも、10分とじっとしていられないというのは、有名な話。
(7)まともな話ができない(文科省職員の弁)。

 そういうO議員でも、阿部内閣発足のときには、文科省の政務官に起用される話があったと
いう。しかしこの話は、同僚レスラーへの暴行事件で、そのまま消えてしまった。

 週刊新潮は、こう見出しの中で書いている。

 『ようやくというべきか、自民党のO参議院議員(49)が、7月の改選を前に政界引退を表明
した。「ファイヤー」の決めゼリフとともに、国会へ乗り込んだまではよかったが、永田町では、
あまりにもおバカな言動の数々で、最初から最後まで、イロもの扱い。"パフォーマンス議員"と
揶揄(やゆ)されたOセンセイの、トホホすぎた6年間を改めて振り返ると……』と。

 しかし本当のオバカは、そういうタレントを、議員に取り込んだ自民党。さらには、そういうタレ
ントに一票を入れた有権者。Oという名前の男が議員になったのは、あくまでもその結果でしか
ない。

 週刊新潮は、記事をこう結んでいる。

 「……参院選には、"第二のO"みたいなタレント候補が、つぎつぎと名乗りをあげている。ホ
ント、トホホです」(P51)と。

 要するに、みなさん、もっと自分の頭で考えよう! 考えて行動しよう! 少し考えれば、こう
いう人たちのインチキなど、すぐ見破ることができる。そういう力を、もっと養おう。

 改めて冒頭にあげた、アフリカでの話にもどる。

「国を救う」という高邁な精神を持っている子どもが、「ペンをくれ」などと物乞いなどするだろう
か。仮にペンを手に入れたとしても、インクの補充はどうするのか。

……つまり、O議員の言動には、一貫性がない。その一貫性のなさが、一貫している。話して
いることも、していることも……。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●おかしな日本語(久間防衛大臣の発言)

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またまたあの防衛大臣が、
おかしなことを言った。

とんでもない発言だが、
日本語そのものも、おかしい。

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久間防衛大臣が、30日の講演で、こう発言した。

アメリカが第二次世界大戦で広島と長崎に原爆を投下したことに触れ、「あれで戦争が終わっ
たんだなという頭の整理で、しょうがないなと思っている」と。

原爆投下に理解を示したとも受け取れる発言をしたというわけである。久間防衛大臣が非難さ
れるのは当然として、その前に、久間防衛大臣が口にした日本語そのものについて、考えてみ
たい。

久間防衛大臣は、こう言った。

「あれで戦争が終わったんだなという頭の整理で、しょうがないなと思っている」と。

 率直に言えば、日本語が、ズタズタに壊れている。順に考えてみよう。

 「あれ」とは、当然、長崎に投下された原爆をさす。久間防衛大臣は、長崎2区から出馬、当
選している。

 つまり、「原爆投下で、戦争が終わったんだな」と久間防衛大臣は考えた。その上で、「頭を
整理して」、「しょうがないなと思った」と。

 問題は、何をさして、「しょうがないな」と思ったかということ。「あれ」のことか。「戦争が終わっ
た」のことか。それとも、「頭の整理」のことか。

 久間防衛大臣は、その前後に、「原爆のおかげで、ソ連の北海道侵攻を止めることができ
た」という趣旨の発言をしている。となると、久間防衛大臣が言った「しょうがないな」というの
は、まさしく「原爆投下」をさすことがわかる。

 「長崎に原爆が投下されたのは、しかたのないことだった」と。その上で、久間防衛大臣は、
こうも言っている。「(アメリカを)、うらんではいない」と。

 失言につづく失言。少し前には、「イラク戦争はまちがっていた」と発言して、日米関係に大き
な亀裂を入れてしまった。そして今回は、「原爆投下は、しょうがない」と!

 これだけ極東アジアの軍事情勢が緊迫している中、はたしてあのような、どこか間の抜けた
ような風貌の防衛大臣で、日本は、だいじょうぶなのか? 日本の平和と安全は、守れるの
か?

 ますます右傾化する、自民党政権。何かが、おかしい。どこかが、おかしい。久間防衛大臣
の発言に見るまでもなく、まともな日本語すら満足に話せない人たちによって、日本の進むべ
き道が決められていく。私は、そこに、ソラ恐ろしさすら覚える。

 なおこの久間防衛大臣の発言に対して、30日、広島県被団協(坪井直理事長)の畠山裕子
事務局次長(68)は、「原爆で亡くなった人々は仕方なく死んだのか。被爆者の気持ちが日本
政府に伝わっていなかったと思うと、悲しくて言葉が出ない」と述べている(読売新聞)。当然で
ある。

(補記)

 久間防衛大臣の発言。

 「米国はソ連が日本を占領しないよう原爆を落とした。無数の人が悲惨な目にあったが、あ
れで戦争が終わったという頭の整理で、今しょうがないなと思っている」。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2021)

●今朝・あれこれ(7月1日)

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今日から、7月。7月は、二男の
誕生月。「7月」と聞くと、まず
最初に、それを思い出す。

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●喜びのダブル・ヒット!

 先日、東京のA出版社から、連絡が入った。私が出した企画に対して、「出版に向けて検討
する」とのこと。うれしかった。久々に、道の向こうに光を見た。

 この5年ほど、私は、すべての精力を、電子マガジンの発行に注いできた。「本の時代は終
わった」と考えていた。

しかし田丸先生の娘婿氏が、昨年(06年)、『国家の品格』という本を出して、大ベストセラーに
なった。それについて、田丸先生が、先日会ったとき、「あなたも、出しなさいよ」と、励ましてく
れた。それが、きっかけとなった。

 田丸先生自身も、「昨年(06年)の12月から、今年(07年)の2月までに、アメリカの化学の
本を翻訳して、出版することになりました」とのこと。

 多いときは、1年に、10冊近い本を出版したこともある。しかし私の書いた教育本(=子育て
本)は、どれも売れなかった。ほとんどは、初版のまま、絶版。よくて、2〜3刷。おかしなこと
に、ペンネームで出した本ほど、よく売れた。中には、10万部以上も売った本もある。

 「電子マガジンは、情報のゴミ」という説もある。著作権にしても、あってないようなもの。もち
ろん、お金にならない。が、そんなとき、つまり、「電子マガジンは、もうやめようか」と考えてい
た矢先、何と私のマガジンが、60000誌もあるマガジンの中で、TOP−ONEに選ばれた。

 総合評価で100点。うれしかった! 本当にうれしかった!

 つまり喜びの、ダブル・ヒット!

 さっそく数日前から、再び、電子マガジンの再構成にとりかかる。こうなったら、やるしかな
い。前に進むしかない。もちろん、本も出す。


●介護記

 昨日、老人ホームにいる母を見舞った。部屋へ入ると、飾ってあった写真類が、まとめて棚
の上に、片づけてあった。片づけてあったというより、無造作に放り投げてあった。私が、A4サ
イズに拡大し、ラミネート加工した写真である。全部で、25枚ほど、あった。

 「どうして……?」と言いかけたが、その前に母は、私の顔を見るやいなや、こう言った。「あ
あ、地獄で、仏に会ったア!」と。

 母にしてみれば、老人ホームは、地獄かもしれない。しかしそれにしても、「地獄」とは! こ
れにはワイフも驚き、そのあと、ワイフは、私の顔を、まじまじと見つめた。

 老人ホームといっても、国からの補助金も含めると、1人当たり、月額にして35万円前後の
費用がかかる。看護士の資格をもった人も常駐している。夜中でも、世話をしてもらえる。母の
気持ちも理解できないわけではないが、私たちは、その言葉に驚いた。

私「どうして、写真をはずしたんだ?」
母「退院する」
私「退院するって……?」
母「こんなところにいたくない」
私「どこへ行く?」
母「K村や、K村へ帰る」と。

 K村というのは、母の生まれ故郷の村である。

私「わかった、わかった。今度、Hさん(母の実家の家主)に会ったら、相談してみるから」
母「電話してくれ」
私「ここからは、電話できない」
母「タクシーを呼んでくれ」
私「どうやってタクシーのところまで、歩いて行くんだ」
母「タクシーを呼んでくれ」と。

 母は、子どものときから、「お姫様」とあだ名されていた。父と結婚してからも、汚(よご)れ仕
事は、いっさい、しなかった。土間の掃除も、窓ふきも、すべて私たち、子どもの仕事だった。

 そういう母だから、老人ホームをいやがる気持ちは、よくわかる。それに90歳も過ぎれば、
だれでも、そうなる。母だけが、特別というわけではない。私の母などは、まだよいほうだ。中に
は、大声で怒鳴り散らす老人もいる。

 そういう母を見ながら、「私は、ああはなりたくない」と思う。しかしその自信は、まったくない。

 で、どこにどう問題があるかといえば、結局は、(生きがい)ということになる。今の母には、そ
れがない。夢も希望もない。だから目標もない。そんな母に、「生きがいをもて」と言っても無
理。それに(生きがい)といっても、一朝一夕にできるものではない。それこそ、10年単位、20
年単位の熟成期間が必要である。

 帰るころには、私たちの気分も、落ち着いていた。「そうだね、ここは、地獄だね。何もいいこ
とないし、それにさみしいね」と。母は母で、いつものあの穏やかな母に戻っていた。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●雑学(蚊の針)

++++++++++++++

一匹の蚊が、私の指先に止まった。
その蚊を見ながら、ふと、こんな
ことを考えた。

体の長さは、3〜4ミリ。それが
蜘蛛の糸より細い脚の上に載って
いる。

私の親指だけでも、蚊の体の20
倍以上はある。人間の大きさにすれば、
中型のクジラほどの大きさということになる。

さらに手全体、腕全体、体全体となると、
人間の体は、蚊にとっては、自分の
体の4000倍。つまり人間の大きさにすれば、
6400メートルの山の高さにということになる。

6400メートルだぞ! ギョッ!

その蚊が、2、3度足をすりあわせたあと、
ねらいを定めて、私の指の中に、針を
突き刺した。

針は、おもしろいほど簡単に、皮膚の
中に吸い込まれていく。「人間の体は
穴だらけだ」と、そのとき、そう思った。

蚊にしてみれば、ヒマラヤ山脈ほどの
大きさの動物に針を刺したことになる。

「すごいことだ」と感心したが、私の
寛大さは、そこまで。

別の手で容赦なく、その蚊をたたいた。
たたいて、つぶした。

蚊というのは、人間の血を吸うとき、
ある種の酵素を注入するそうだ。だから殺すなら、
その前に殺さなければならない。

++++++++++++++++

 そこでインターネットを使って、調べてみた。いろいろなことがわかった。

(1)蚊の針の部分は、上唇、大あご、下咽頭、小あご、下唇からなっている。
(2)蚊の針の血を吸う管の部分は、蚊の上唇に相当する部位。
(3)下あごは、ノコギリそっくりの歯をもっている。
(4)その歯で、1秒間に10回くらいの速さで、皮膚を切り裂く。
(5)その切り裂いたところに、針を刺す。
(6)だから針を刺されても、刺された人は、痛くない。
(7)そのとき蚊は、下咽頭にあたる部分から、唾液を注入する。
(8)その唾液が、血が固まるのを防ぐ。
(9)唾液の中には、血が固まるのを防ぐある種の酵素が入っている。
(10)それがあとでかゆみの原因となる、そうだ。

 以上、某医薬品メーカーのHPより、要約。

 この記事によれば、蚊は針を刺すと同時に、毒液を人間の体の中に注入することらしい。し
かし実際には、刺した段階で、パチンとたたいて殺すと、あとあと、それほどかゆくならないです
む。

 (殺した)という快感が、(かゆみ)を忘れさせるのかもしれない。これはどういう心理的作用に
よるものか?

 ともあれ、あんな小さな蚊にも、すごい科学が隠されている。それに飛び方もすごい。そのと
きも近くで扇風機を回していた。が、蚊は、そんな風をものともせず、私の指先に止まった。

 蚊にしてみれば、猛烈な台風のような風だったはず。そんな風の中で、みごと、私の指先に
着陸した。考えてみれば、これもすごいことだ。

 ……ということで、雑学はここまで。

 そう、もうひとつ言い忘れた。人間がもつ時間性と、蚊がもつ時間性はちがう。蚊の脳みそは
小さい。その小さい分だけ、信号のやり取りは、速い。つまり蚊は、人間世界でいう1秒を、1
分のようにして生きているのかも。あるいは、もっと長いかもしれない。

 もし蚊が進化して、人間がもっているような時計を作ったら、その時計には、時、分、秒の針
のほか、さらにもう1本の針があるかもしれない。その針が一周すると、1秒になる。

 ハハハ、雑学でした!


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●早口

++++++++++++++

今日は、午後から、S小学校での
講演会がある。

先ほど、風呂に入った。体調を
整えた。

その講演会。私はいつも、どう
してか、早口になってしまう。

別に早口で話そうとは思っていな
い。が、頭の中につぎつぎと考えが
飛来して、自分でもどうしてよいか
わからなくなってしまう。

だから早口になってしまう。

「今日こそは、ゆっくりと話す」と
ワイフに宣言する。

+++++++++++++++

 今日は日曜日。午後から、A小学校での講演。私のもち時間は、1時間30分。「1時間30
分」というと、長いと感ずる人もいるかもしれない。しかし私には、短い。短すぎる。「1時間30
分で、何が話せるのか」とさえ思う。 

 そういうとき、迷う。おおまかな話をして、それですますか。それとも、話の内容を何分の1か
にしてして、それですますか、と。

 実はそうした判断は、その場の雰囲気で決める。話の内容にしても、その場の雰囲気で決め
る。父親が多いときは、当然、父親を意識して話の内容を変える。年配の人が多いときは、年
配の人を意識して話の内容を変える。

 さらにザワザワした雰囲気のときは、ショッキングな話を織りまぜながら話す。シンミリとした
雰囲気のときは、(そういう会場が、いちばん話しやすいが)、そういう雰囲気に合った話をす
る。

 私は、一度とて、同じ話をしたことがない。またそういうことをすることに、道徳的な(?)抵抗
感を覚える。抵抗感というよりは、罪悪感と言ったほうが、正しいかもしれない。

 (その点、歌手の人たちは、いつも同じ歌を、同じような雰囲気で歌っている。歌手の人たち
は、そんなことをしていて、疑問に感じないのだろうか。自分のしていることに、ある種の罪悪
感を感じないのだろうか。私には、とてもまねできない。)

 さあ、これから身じたくを整えて、いざ、出発。日曜日ということで、父親の出席も多いだろう。

 講演会は、私にとっては、いつも真剣勝負の場なのだア!


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2022)

【今日も終わった】

+++++++++++++++

今日は、2冊の本を買った。
1冊は、「セカンド・ライフ」の
ガイドブック。

もう1冊は、「月刊現代」。

目下、「セカンド・ライフ」に
たいへん興味がある。できれば
近く、参加してみたい。

「月刊現代」は、ほとんど毎月
買っている。とくに今月は、
迷わず買った。

「JALの経営危機説」が、特集記事
として載っている。

息子のことを思うと、気が気でない。
息子は今、そのJALに勤めている。

何を隠そう、そのJALを勧めたのは
この私だ。

「どこの航空会社にしようか」と息子が
聞いたので、私は「JALにしろ」
「どうせねらうなら、トップをねらえ」と。

あああ……。

+++++++++++++++

●DVD

 いつもならこういう晩は、ワイフとDVDを見ることにしている。しかし今夜はやめた。1時間で
もヒマがあれば、原稿を書く。書いて、遅れを取り戻す。

 先ほど、7月23日号のマガジンの予約を入れた。遅れを1週間に縮めた。よかった! 一時
はどうなるかと思った。

 この原稿は、そんなわけで、7月25日号用ということになる。

 そのかなり落ち込んでいたとき、掲示板にこんな書き込みがあった。うれしかった。励まされ
た。

++++++++++

林先生、いつも元気をありがとうございます。子供が大きくなった(2人とも大学生)今でも、毎
回必ず読ませていただいています。

先生が書く気力が落ちたという無料版を読んで焦り、たった今プレミアムに登録しました。友達
もちょうど受験を控え子育てに悩んでいたので、先生のサイトを紹介しました。子育て病にかか
った時、何度先生のメルマガに救われたかわかりません。

2人の子供がのびのびと成長しているのも先生のおかげです。どうぞいつまでも、皆の特効薬
でいて下さい。今の時期の風邪はタチが悪いです、お大事にしてください。

++++++++++

 ときどき原稿を書きながら、こう自分に言って聞かせる。「だれかがかならず、読んでくれる」
と。

 何度も書くが、この世界は、実におかしな世界だ。読者の顔がほとんど見えない。「ほとんど」
ではなく、「まったく」見えない。そのまったく顔の見えない読者に向かって、ものを書く。

 役に立っているかどうかも、わからない。あるいはひょっとしたら、私の書いたことで、怒って
いる人や、かえって袋小路に入ってしまった人もいるかもしれない。そんなことも考える。

 ただひとり顔の見える読者と言えば、私のワイフである。マガジンを読んでくれるたびに、「今
日のはどうだった?」と聞く。しかし答は、いつも同じ。「まあまあ、ね」と。

 ところで、年末にかけて、目標がいくつかできた。本の出版に向けて、動きが出てきた。大き
な講演会もいくつかある。それにこのところ、あちこちで私のHPやマガジンが、注目され始め
た。そんな話を、よく耳にする。

 MELMAでは、60000誌もあるマガジンの中で、トップ・ワン(1位)の評価を受けた。うれし
かった。励みになった。

 みなさん、ありがとう!

 みなさんは、私に生きがいをくれる。私はみなさんに、生きるための情報を提供する。これか
らも仲よく、ギブ&テイクで、ともに前に進みましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●ラブ&ベリー

++++++++++

女の子の間で、今、
ラブ&ベリーという、
カード・ゲームが
流行(はや)っている。

ゲームというよりは、
着せ替え人形遊び的な、
カード遊びである。

私の生徒の中にも、
何人か、そのゲームに
ハマっている。

++++++++++

 男児の間では、「ムシキング」という遊びが流行っている。正確には、「甲虫王者ムシキング」
という。やや下火になったかなという感じがしないでもないが、それにかわって、今度は、女児
の間で、「オシャレ魔女、ラブ&ベリー」という遊びが、流行り始めた。

 男子の間で流行っている、「ポケモン」「遊戯王」「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マジギャ
ザ)」などとはちがって、「ラブ&ベリー」は、静かな遊びである。カードを取りあうというよりは、
交換しあって、よりセンスのよい組みあわせを競う。

 上から帽子、ヘア・スタイルなどのカード。服やズボンのカード。下は靴まで、いろいろある。
女児はこうしてコーディネイトした服装を、実際に身に着け、ラブとベリーのどちらかを選んで、
おしゃれのワザを競いあう。そういうイベントも、あちこちで開かれている。

 平和な、どこまでも平和なゲームである。が、問題がないわけではない。

 ラブ&ベリーは、女児のゲームと書いたが、実際には、母親たちのほうが、夢中になってい
る。そういうケースのほうが、多い。つまり、自分の娘を、着せ替え人形に見たてて、母親たち
のほうがそれを楽しんでいる。楽しんでいるというよりは、夢中になっている。

 カードそのものは、アミューズメント・センターやショッピング・センターで買い求めることができ
る。しかし実際のコスチューム(衣服)となると、そうはいかない。値段も、高い。服飾品もそろ
えると、かなりの額になる。関連のファンシー製品も、多く、売られている。

 こんなヤボなことを書くと嫌われるかもしれないが、(子どもを飾る)という行為は、できれば
最小限に抑(おさ)えたい。子どもはやがて、見てくればかりを気にするようになる。中身より
も、外見を気にするようになる。結果、自分自身を見失ってしまう。

 以前、中日新聞にこんな記事を書かせてもらったことがある。話は少し脱線するが、許してほ
しい。

+++++++++++

●親の心は子どもの心

 一人の母親がきて、私にこう言った。「うちの娘(年長児)が、私が思っていることを、そのま
ま口にします。こわくてなりません」と。話を聞くと、こうだ。

お母さんが内心で、同居している義母のことを、「汚い」と思ったとする。するとその娘が、義母
に向かって、「汚いから、あっちへ行っていてよ」と言う。

またお母さんが内心で、突然やってきた客を、「迷惑だ」と思ったとする。するとその娘が、客に
向かって、「こんなとき来るなんて、迷惑でしょ」と言う、など。

 昔から日本でも以心伝心という。心でもって心を伝えるという意味だが、濃密な親子関係にあ
るときは、それを望むと望まざるとにかかわらず、心は子どもに伝わってしまう。子どもは子ど
もで、親の思いや考えを、そっくりそのまま受け継いでしまう。こんな簡単なテスト法がある。

まず二枚の紙と鉛筆を用意する。そして親子が、別々の場所で、「山、川、家」を描いてみる。
そしてそれが終わったら、親子の絵を見比べてみる。できれば他人の絵とも見比べてみるとよ
い。濃密な関係にある親子ほど、実によく似た絵を描く。二〇〜三〇組に一組は、まったく同じ
絵を描く。親子というのは、そういうものだ。

 こういう例はほかにもある。たとえば父親が、「女なんて、奴隷のようなものだ」と思っていたと
する。するといつしか息子も、そう思うようになる。あるいは母親が、「この世の中で一番大切な
ものは、お金だ」と思っていたとする。すると、子どももそう思うようになる。つまり子どもの「心」
を作るのは親だ、ということ。親の責任は大きい。

 かく言う私も、岐阜県の田舎町で育ったためか、人一倍、男尊女卑思想が強い。……強かっ
た。「女より風呂はあとに入るな」「女は男の仕事に口出しするな」などなど。いつも「男は……」
「女は……」というものの考え方をしていた。その後、岐阜を離れ、金沢で学生生活を送り、外
国へ出て……、という経験の中で、自分を変えることはできたが、自分の中に根づいた「心」を
変えるのは、容易なことではなかった。今でも心のどこかにその亡霊のようなものが残ってい
て、私を苦しめる。油断していると、つい口に出てしまう。

 かたい話になってしまったが、こんなこともあった。

先日、新幹線に乗っていたときのこと。うしろに座った母と娘がこんな会話を始めた。

「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。

どうやらどこかの大病院の院長を夫にもつ妻とその娘が、結婚相手を物色していたようだが、
話の内容はともかくも、私は「いい親子だなあ」と思ってしまった。呼吸がピタリと合っている。

 だから冒頭の母親に対しても、私はこう言った。「あなたと娘さんは、すばらしい親子関係に
ありますね。せっかくそういう関係にあるのですから、あなたはそれを利用して、娘さんの心づく
りを考えたらいい。あなたのもつ道徳心や、やさしさ、善良さもすべて、あなたの娘さんに、そっ
くりそのまま伝えることができますよ」と。 

+++++++++++

 「ラブ&ベリー」について考えているとき、私はあのとき耳にした会話を思い出していた。母と
娘は、こう言いあっていた。

「Aさんはいいけど、あの人は三〇歳でドクターになった人よ」
「そうね、Bさんは私大卒だから、出世は見込めないわ」
「やっぱりCさんがいいわ。あの人はK大の医学部で講師をしていた人だから」と。

 私は、恋愛、さらに結婚というのは、(心の問題)と考えている。その(考え)には、今でも、み
じんもゆるぎがない。しかし恋愛、さらに結婚というのを、(見てくれ)で考えている人も少なくな
い。

 また、こんな原稿を書いたこともある。この原稿も、中日新聞のほうで発表させてもらった。

+++++++++++

●最近の女子高校生は……

市立図書館で、女子高校生六人に聞いてみた。「君たちは将来、何をしたいか」と。

私は当然、キャリアウーマン的な人生観をもっているものとばかり思っていた。が、五人までが
こう答えた。「結婚して、はやく家庭に入りターイ」「家庭でダンナの帰りを待ちながら、料理しタ
ーイ」と。

私が「家庭の主婦になるということか」と聞くと、「そうだヨー」と。そこでさらに「仕事はしないの
か?」と聞くと、「したくないヨー。ダンナの給料だけでやっていきたいヨー」と。

見た感じ、ごく普通の高校生である。ちょうどテスト週間で、図書館に来ていた。私は質問を変
えて、「では、どんな男と結婚したいか」と聞いた。すると一人が、「一にマスク、二に経済力…。
『これオヤジのマンション』と言うような金持ちの息子がいい」と言った。

私が「心はどうする。結婚するというのは、心の問題だよ」と言うと、「マスクのいい人は、心もい
いに決まってルー」と。

 あれこれ話したが、政治の話を持ちだすと、「ダサーイ」とはねのけられてしまった。

私「国の借金が七百兆円もあるんだよ。一人六百万円だよ。君たちの借金なんだよ。それはど
うするの?」。高校生「私ら、そんな話、関係ないもんネー」「そうよネー」と。

 言いたいことは山ほどある。あるが、こういう現実を見せつけられると、自分をのろいたくな
る。五十歳をすぎても、日本の将来を心配している自分が、なさけなくなる。少し飛躍した感想
かもしれないが、なぜあの三島由紀夫が腹を切ったか、その心情がよくわかる。私たちはこう
いう高校生をつくるために、がんばってきたのか、と。

 少し前だが、こんなこともあった。あるキャンプ場で国旗の掲揚をしたときのこと。何人かの
高校生が、「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」を口ずさんでいるのを聞いた。

アメリカの国歌である。日本の国歌には言いたいこともいろいろあるが、しかし今、日本の若者
たちがここまで脱線しているかと思うと、ゾッとする。そう、何かが狂っている。しかし相手は子
どもだ。日本の将来をになう子どもだ。そういう子どもをさして、「失敗作」と、どうして言えるだ
ろうか。子どもを笑うということは、即、自分を笑うということになる。そんなことは、私にはとて
もできない。

 ……何ともやりようのない空しさを感じながら、私は図書館を出た。

++++++++++++++

 中身を軽視する若い人たち。見てくればかりを気にする若い人たち。何もそういう風潮は、今
生まれたばかりというわけではないが、ラブ&ベリーというゲームが、そうした風潮を助長して
いるかのようにも思う。あるいは、そうした風潮に、このゲームがうまく乗ったのかもしれない。

 どちらにせよ、これから先、日本は、どうなるのだろうと、そこまで考えてしまう。

 お笑いタレントが、どこかの県の知事になっても、だれもそれを疑問に思わない。テレビタレ
ントが、国会議員になっても、だれもそれを疑問に思わない。マスコミという外に現れた見てく
れだけを見て、人を判断する。政治を任す。しかしこれはとんでもない、まちがいである。

 ……というのは、少し考えすぎかもしれない。女児や母親たちの(遊び)と考えれば、それまで
のこと。しかし……。本当に、このままでよいのか?

 みなさん、もっと、自分の頭で考えよう。考えて、自分で判断できる人間になろう!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ラブ
&ベリー 女児のゲーム オシャレ魔女 カード ゲーム カードゲーム カード・ゲーム)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2023)

●久間防衛大臣の失言(2)

+++++++++++++

安倍総理大臣は、今回の
久間防衛大臣の暴言を、
「謝罪」程度ですまそうと
している。

しかし国民の怒りは、
その程度では収まらない。

つまりこの事実認識の
甘さにこそ、現在の安倍
内閣の欠陥が、集約されて
いる。

+++++++++++++

 久間防衛大臣は、長崎に投下された原爆を、「しょうがなかった」と発言した。これに対して、
被爆者5団体が、久間防衛大臣に、抗議文を送ることになった。

 読売新聞はつぎのように伝える。

 『長崎原爆被災者協議会など長崎県内の被爆者5団体は1日、久間防衛相あてに、今後の
平和祈念式典出席を控えることなどを求める抗議文を、ファクスで送付した。

 被爆体験の継承に取り組んでいる「長崎の証言の会」(長崎市)は、議員辞職を求める声明
文を久間防衛相と安倍首相に郵送した。

 連合長崎など3団体は2日、長崎市の平和祈念像前で抗議の座り込みを行う。

 また、被爆者の内田伯(つかさ)さん(77)は7月1日、同市内で開かれた「ながさき平和大集
会」で、「陳謝しても被爆者にとっては、絶対に許すことができない。何らかの形で責任を取って
もらいたい」と訴えた』と。

 国民の怒りは、相当なものである。が、それに応えて、当の久間防衛大臣は、どこかヘラヘ
ラと、意味のわからない笑みを浮かべているだけ。それに久間防衛大臣の失言は、今度だけ
ではない。

 私は安倍総理大臣が誕生したとき、この日本にも、やっと、(やっとだぞ!)、まともに議論の
できる総理大臣が生まれたと喜んだ。

 しかしその後が悪い。安倍総理大臣は、自民党の中でも、タカ派というより、右翼に近い右派
と結びついた。そして右派独特の論理をふりかざし、日本そのものを、右へと、大きく振り子を
振った。

 何も天皇制に反対しているわけではない。ないが、どうして今、天皇を「元首」にしなければな
らないのか。どうして「象徴」であってはいけないのか。どうして今、憲法改正なのか。

国旗だ、国歌だ、はては愛国心だのと、まるで右翼の街宣車ががなりたてる宣伝文句のような
ことばかりを、口にしている。

 久間防衛大臣の失言は、その(結果)として、国民の怒りに火をつけた。

 マスコミの報道などによれば、そのタカ派の中でもタカ派の、A外務大臣が、次期総理大臣の
座をねらっているという。また次期総理大臣にいちばん、近い距離にいるという。

 だれが総理大臣になろうとも、国民に選ばれてなるのだから、私は何も言わない。私とて、そ
れに従う。それが民主主義というもの。しかしこのザワザワとした胸騒ぎは、いったい、何なの
か? どこから来るのか?

 一度は支持した安倍内閣だから、あえて忠告しよう。

安倍総理大臣よ、今度の久間防衛大臣の失言を、軽くみないほうがよい。私たちは、怒ってい
る! 心底、怒っている!
(7月1日記)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(7月2日)

+++++++++++++

涼しい朝、ひんやりとした
朝の冷気が、気持ちよい。

私はうつろな目のまま、
ぼんやりと、画面を見る。

先ほど開いた、ニュース欄が、
そこにある。

……ロンドンでテロ……
タレントの羽賀なんとかの、
詐欺事件……

元首相のM氏が、老衰のため
死去したという記事も読める。

M氏といえば、バブル経済時代、
首相として、バブルにバブルを重ね、
日本経済を、奈落の底にたたき
落とした、その張本人。そのときの
大蔵大臣が、H氏だった。

テカテカ頭のテカテカ顔。
元気そうな人だったが、その
H氏も、数年間に、死んだ。

死んで、もう、いない。

日本という国は、おかしな
国だ。月刊誌などでも、
戦後の経済戦犯として、
実名をあげて批判されたこともある。

しかし実際、その責任を追及した
人はいない。

そればかりか、H氏は、そのあと、
総理大臣に。
またM氏は、大蔵大臣に。
財務大臣だったかもしれない。

2人とも、責任を問われることもなく、
また責任を取ることもなく、
この世を去っていった。

静かな朝。窓の外を見ると、
鉛色の、低い雲が、そこにある。
天気予報では、午後から雨になるという。

さあ、今日も始まった。
今週も始まった。

今日は7月2日、月曜日。

++++++++++++++

●年齢なんて、クソ食らえ!

 動きが停滞すると、ものの考え方が、防衛的になる。よどむ。濁(にご)る。腐(くさ)る。何か
のことで臨時の出費が重なったりすると、とたんに気分が重くなったりする。限られた範囲で、
限られた生活をしようとする。それがその人を、ますます小さくする。

 しかしそれではいけない。そういう状態が慢性的につづくと、脳みそそのものが、硬直してく
る。考えることを放棄して、過去をそのまま踏襲するようになる。「保守的になる」というよりは、
「死んだも同然」といった状態になる。

 ただ、その日があるから、その日を生きるだけ。そういった状態になる。

 そこで、人は、自らのまわりに、(動き)を作ろうとする。ときに、もがく。しかし一度よどんだ空
気は、そうは簡単には動かない。厚い壁となって、周囲をふさぐ。

 若いときはよい。1万円取られれば、2万円取り返すことで、壁に穴をあけることができた。1
0万円取られれば、20万円取り返すことで、壁に穴をあけることができた。話をわかりやすくす
るため、お金にたとえた。が、何も、これはお金だけの問題ではない。

 生きざまの問題。

 加齢とともに、体力が衰える。気力も衰える。(動き)をつくることさえ、めんどうになる。そして
自分の努力不足を棚にあげて、人をうらむ。世間をうらむ。

 ……実は、この6月(先月)のはじめのころの私が、そうだった。いや、そういった状態になっ
たのは、もっと前からだったかもしれない。5月か、それとも、4月か……。ぼんやりとした鬱(う
つ)状態が、それに重なった。

 で、そんなとき、田丸先生に会った。私にとっては、それがよかった。先生は、私に本を出す
ことを勧めてくれた。先生の娘婿氏は、昨年、『国家の品格』という、大ベストセラーを出版して
いる。その本についてあれこれと話している最中に、「私もやってみよう」という気が、わいてき
た。この5年間、私は1冊も本を書いていない。

 いや、それ以上に驚いたのは、80歳も過ぎた先生が、3か月で、1冊の本をまとめたという
話だった。それが大きな起爆剤になった。

 私は3、4日で、1冊の本を書いた。「3、4日で?」と驚く人もいるかもしれない。しかしそれが
私のやり方。そしてその原稿に企画書をつけて、今までつきあいのあったいくつかの出版社
に、それを送った。

 待つこと1か月。「もうダメかな……?」と思っていたら、東京のA出版社から返事があった。
まだ本決まりというわけではないが、しかし私の心気を一転させるには、じゅうぶんだった。A
出版社の編集者は、その企画と並行して、私の文庫本の話も進めてくれるという。

 とたん、前方をおおっていた霧が晴れた。と、同時に、大きな講演会の依頼がつづいた。よど
んだ空気が動いた。水が流れ始めた。

 とにかく、今できることは、今する。今日できることは、今日する。そこに目標があるなら、そ
の目標に向かって、まっすぐ進む。それしかない。まず、心を空に向かって、解き放つ。体は、
かならず、あとからついてくる。

 年齢なんて、クソ食らえ! そんなものいちいち気にしていて、何ができる! バカヤロー!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●性的虐待

++++++++++++

幼いころ、性的虐待を受けて、
それを心のキズ(トラウマ)と
してしまう人は少なくない。

女性に多いが、男性とて、
例外ではない。

++++++++++++

幼いころ、性的虐待を受けて、それを心のキズ(トラウマ)としてしまう人は少なくない。女性に
多いが、男性とて、例外ではない。

 しかし誤解してはいけないのは、多くのばあい、性的虐待を受けた時点では、それをその子
どもが虐待と意識するケースは、ほとんどないということ。

 善にせよ、悪にせよ、それらは、(時の流れ)の中で熟成されるもの。たとえばある女児が、
4、5歳のとき、近親のおとなによって、性的いたずらを受けたとする。性的いたずらといって
も、もちろん性交におよぶような行為でなくてもよい。

 裸にされて、性器をいじられたとか、あるいはもっと簡単に、唇などによって、ペッティングさ
れたとか、その程度でもよい。抱かれたとか、キスをされたとか、その程度でもよい。

 多くのばあい、そのときは、そのときでそのまま、すむ。その女児にしても、(奇妙な体験)と
いった程度ですむ。

 しかしそうした体験は、歳を重ねるごとに、不快な記憶として、心の中で肥大化する。モヤモ
ヤとしたカーテンの向こうから、姿を現してくる。そして思春期を迎えるあたりから、爆発的に子
どもの心をむしばむようになる。

 もちろん強烈な体験によって、その時点で、心にキズ(トラウマ)を負うというケースも少なくな
い。つまり強烈なショックが、その子どもの精神状態そのものを変調させてしまうというケースで
ある。

 しかしそれは何も、性的虐待にかぎらない。戦渦のサラエボで起きた事件だが、目の前で両
親が殺されるのを見て、以後、失語症になってしまった女性がいる。が、そうしたケースは、こ
こでは例外として考える。

 つまり性的虐待といっても、それをするおとなにしても、またそれを受ける子どもにしても、そ
の時点では、それを「性的虐待」と意識するケースは、少ないということ。ばあいによっては、軽
い遊びといったふうに、なされるかもしれない。

 しかしそれは決して、(軽い遊び)ではすまない。ある女性は、小学2年生のとき、学校の男性
教師によって、頬にキスをされた。何かのはずみ(?)でそうなった。しかも当初は、キズ(トラウ
マ)と言えるようなキズ(トラウマ)ではなかったという。それほど気にしなかった。親にも、話さな
かった。

 しかしその女性は、20歳を過ぎた今も、男性からのそうした行為を受け入れることができ
ず、苦しんでいる。その女性にしてみれば、そうした行為すべてが、「変態的行為」(その女性
の言葉)に映(うつ)るという。相手の男性が体を求めてきたとたん、「イヤラシイ!」と言って、
それをはねのけてしまう。

 性的虐待……決して軽く考えてはいけない。また軽い行為だから、性的虐待でないと考えて
もいけない。男児にせよ、女児にせよ、その子どもの感受性の問題もあるが、ほんのささいな
体験でも、その子どもの一生に影響を与えることもあるということ。それを忘れてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 性的
虐待)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【整形という不道徳】

●安易な肯定論

 「整形をしたおかげで、人生が明るくなった」「前向きに生きられるようになった」という、男性
や女性は多い。そういう肯定的な評価だけが先行し、このところ、整形する若い男女が、ぐんぐ
んとふえている。正確な数字はわからないが、浜松市内だけでも、この種の美容整形をする医
院が、急速に数をました。しかも市の中心部の一等地に、それらがずらりと並ぶ。

 身体コンプレックスはだれにでもある。この私にもある。……あった。私がそれを一番強く感
じたのは、オーストラリアで留学しているときだった。当時、あの人口三〇〇万人のメルボルン
市でさえ、日本人の留学生は私一人だけだった。目立つというよりも、いつも好奇の対象として
見られた。

そういう中、私は、私のサイズに合うズボンをさがすのに苦労をした。結局、子どもサイズのズ
ボンを買って、それをなおして使ったが、あのとき感じた屈辱感は、いまでも忘れることができ
ない。もしあのとき、足の長さをあと、一〇センチ長くする手術があったら、私はそれを受けた
かもしれない。

 だから整形する人の気持ちがわからないわけではない。しかし「賛成!」と言うには、あまり
にも遠い距離を感ずる。賛成か反対かと聞かれれば、当然、反対に決まっている。だいたいに
おいて、整形して何をなおす? 「なおす」といえば、まだ聞こえはよい。実際には、「ごまか
す」? 

悲しいかな日本人の骨相は、もっとも貧弱というのが、世界の定説。長い間、極東の島国で、
孤立していたのが原因らしい。他民族と血の交流をほとんどしてこなかった。私も含めて、顔の
こわれた人や、崩れた人は多い。ほとんどがそうではないのか。そういう日本人が、少しくらい
顔をいじったところで、それがどうだというのか。

 整形することについて、何かの哲学があれば、まだ救われる。しかしそんな哲学など、どこに
もない。よい例が、あの厚底サンダル。私はあの厚底サンダルが、若い女性の間で流行したと
き、「日本人の短小コンプレックス、ここに極(きわ)まれり」と思った。髪の毛を茶色にしたり、
肌を脱色したり、つまりは白人コンプレックスのかたまりのようなことばかりしている。そしてそ
の延長線上にこうした美容整形があるとしたら、「賛成」とは、とても言えない。

●外面世界と内面世界

 世界には二つある。一つは、私たちを取り巻く、外面世界。この宇宙そのものということにな
る。もう一つは、私たちの心の中にある、内面世界。この内面世界も、外面世界の宇宙と同じく
らい、広い。

もしそれがわからなければ、静かに目を閉じてみればよい。そのときあなたは、暗闇の向こう
に、何を感じ、何を思うだろうか。それが内面世界である。この内面世界が広くなればなるほ
ど、相対的に外面世界は小さくなる。ばあいによっては、ちっぽけな世界になるかもしれない。
あるいは「外面世界など気にしてどうなる」とさえ思うようになるかもしれない。もう少しわかりや
すい例で説明してみよう。

 私はもう三〇年近く、自転車通勤をしている。その自転車通勤をしていることについて、群馬
県のT市で公認会計士をしているK君(私と同年齢)はこう言った。「そんな恥ずかしいこと、よく
できるな」と。

彼に言わせれば、自転車通勤は、恥ずかしいことだというのだ。そこで話を聞くと、彼はこう言
った。「ぼくらの仕事はメンツを大切にする仕事だから、自転車なんかに乗っていたら、それだ
けで相手にされなくなるよ」と。実際には、彼は、黒塗りの大型乗用車で仕事先へ行くという。

 しかし私は一向に構わない。自転車通勤をしていることを、恥ずかしいだとか、かっこう悪い
ことなどとは、思ったこともない。もしそういうふうに思う人がいたら、私はむしろそういう人たち
を笑う。もとはと言えば、健康ために始めた自転車通勤だが、あるときから、それを誇りにさえ
思うようになった。「私は環境を破壊していないぞ」と。

もし本当に天国というものがあるなら、私はまっさきに天国へ入る資格がある。神様も私を一
番に、迎えてくれるだろう。「あなたは地球環境を守るために努力しましたね」と。

 自転車通勤を、恥ずかしいこと、つまりコンプレックスにするかどうかは、その人の考え方に
よる。もっと言えば、内面世界の広さによる。いや、だからといって、私の内面世界が、その公
認会計士の友人より広いと言っているのではない。たまたまこの分野については、私のほうが
広いというのだ。だから気にしない。人が何と言おうと、気にしない。

●戦うべきは、内面世界

 さて整形の話にもどる。身体的なコンプレックスがあるかどうかを問題にする前に、その人自
身の内面世界はどうなのかという問題がある。そういう内面世界が一方にあって、それでいて
なおかつ外面世界を気にするというのであれば、それはそれとして理解できる。

が、その内面世界がないまま、外面世界だけを気にして、コンプレックスを感ずるというのであ
れば、整形がどうのこうのということを問題にする前に、生き方そのものがまちがっている。も
し冒頭のような論理がまかりとおるなら、どんな行為でも正当化されてしまう。「大麻を吸ってみ
たら、いやな気分を吹き飛ばすことができた」「いやなヤツを殺してみたら、胸がスーッとした」
と。

 それほど深く考えないで、流行だから茶パツにするというのなら、それはそれでよい。流行だ
から厚底サンダルをはくというのであれば、それはそれでもよい。しかし整形を、それらと同じ
に考えることはできない。健康な体に、不必要なメスを入れるということ自体、自然に対する冒
涜(ぼうとく)行為なのだ。自分の体は自分のものであって、決して、自分のものではない。

たとえばあなたの手を見てほしい。あなたは自分の手を見て、あなたがその手を自分で作った
と、本当に思えるだろうか。あなたの体を見て、あなたがその体を自分で作ったと、本当に思え
るだろうか。私は思えない。思えないばかりか、ときどき自分の手や体を見て、不思議に思うこ
とがある。「いったい、これはだれの手なのだろうか」「これはだれの体なのだろうか」と。私は、
そういうものを勝手に作りかえることは、私を超えた私に対する、冒涜だと言っているのだ。

 みんなコンプレックスの一つや二つは、もっている。コンプレックスのない人など、いない。し
かしそのコンプレックスを戦うのは、自分自身の内面世界なのだ。仮に身体的なコンプレックス
があったとしても、戦うべきは、それをコンプレックスと思う自分自身なのだ。理由は簡単だ。

仮にあなたの顔がこわれていたとしても、それを恥ずかしく思うのは、「顔」ではない。あなたと
いう内面世界の人間なのだ。つまり戦うべき相手は、あなたの心なのだ。繰り返すが、そういう
戦いが一方にあって、なおかつ外面世界を気にするのなら、話はわかる。しかしそういう戦い
をすることもなく、外面世界だけを気にするというのであれば、それはまちがっている!

(追記)道徳をともない自由は、危険ですらある。「人に迷惑さえかけなければ、何をしてもい
い」という論理ばかりが先行したら、世の中はどうなる。こうした美容整形医に高い道徳を求め
ることはできないのか。もとからそんな道徳のない人間が、医者をしている? 今、この日本で
は、こうした「自由観」が、大手を振ってまかり通っている。若者たちは、それに踊らされている
だけ? ある意味で本当の犠牲者は、その若者たちなのかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 内面
世界 外面世界 子供の整形 整形美容)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2024)

●情緒が不安定な子ども
 子どもの成長は、次の四つをみる。(1)精神の完成度、(2)情緒の安定度、(3)知育の発達
度、それに(4)運動能力。

このうち情緒の安定度は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときをみて、判断する。運
動会や遠足のあと、など。そういうときでも、ぐずり、ふさぎ込み、不機嫌、無口(以上、マイナス
型)、あるいは、暴言、暴力、イライラ、激怒(以上、プラス型)がなければ、情緒が安定した子
どもとみる。

子どもは、肉体的に疲れたときは、「疲れた」とは言わない。「眠い」と言う。子どもが「疲れた」
というときは、神経的な疲れを疑う。子どもはこの神経的な疲れにたいへん弱い。それこそ日
中、5〜10分、神経をつかっただけで、ヘトヘトに疲れてしまう。

●情緒不安とは……?

 外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 その情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許さ
ない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張状
態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安
定になる。

症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり(マイナス型)、
反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。表情にだまされて
はいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。このタイプの子どもは、
ささいなことがきっかけで、激変する。

母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ど
も(年長女児)がいた。また集団的な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴
えることもある。

●原因の多くは異常な体験

 原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親自身
の情緒不安のほか、親の放任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒
動、家庭不和、何らかの恐怖体験など。

ある子ども(五歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾向
(人と心が通い合わない状態)を示すようになった。また別の子ども(三歳男児)は、母親が入
院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離不安(親の姿が見えないと混乱状態にな
る)になってしまった。
 ふつう子どもの情緒不安は、神経症による症状をともなうことが多い。ここにあげた体の不調
のほか、たとえば夜驚、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チッ
ク、爪かみ、物かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖
症、嫌悪症、対人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。

●原因は、家庭に!

 子どもの情緒が不安定になると、たいていの親は原因さがしを、外の世界に求める。しかし
まず反省すべきは、家庭である。

強度の過干渉(子どもにガミガミと押しつける)、過関心(子どもの側からみて神経質で、気が
抜けない環境)、家庭不和(不安定な家庭環境、愛情不足、家庭崩壊、暴力、虐待)、威圧的
な家庭環境など。夫婦喧嘩もある一定のワク内でなされているなら、子どもにはそれほど大き
な影響を与えない。が、そのワクを越えると、大きな影響を与える。子どもは愛情の変化には、
とくに敏感に反応する。

 子どもが小学生になったら、家庭は、「体を休め、疲れた心をいやす、いこいの場」でなけれ
ばならない。アメリカの随筆家のソロー(一八一七〜六二)も、『ビロードのクッションの上より、
カボチャの頭』と書いている。

人というのは、高価なビロードのクッションの上に座るよりも、カボチャの頭の上に座ったほう
が気が休まるという意味だが、多くの母親にはそれがわからない。わからないまま、家庭を「し
つけの場」と位置づける。学校という「しごきの場」で、いいかげん疲れてきた子どもに対して、
家の中でも「勉強しなさい」と子どもを追いまくる。「宿題は終わったの」「テストは何点だった
の」「こんなことでは、いい高校へ入れない」と。これでは子どもの心は休まらない。

●子どもの情緒を安定させるために

 子どもの情緒が不安定になったら、スキンシップをより濃厚にし、温かい語りかけを大切にす
る。叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって情緒を不安定にする。一番よい方法は、子どもが
ひとりで誰にも干渉されず、のんびりとくつろげるような時間と場所をもてるようにすること。親
があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。

 ほかにカルシウムやマグネシウム分の多い食生活に心がける。とくにカルシウムは天然の
精神安定剤と呼ばれている。戦前までは、日本では精神安定剤として使われていた。錠剤で
与えるという方法もあるが、牛乳や煮干など、食品として与えるほうがよいことは言うまでもな
い。

なお情緒というのは一度不安定になると、その症状は数か月から数年単位で推移する。親が
あせって何とかしようと思えば思うほど、ふつう子どもの情緒は不安定になる。また一度不安
定になった心は、そんなに簡単にはなおらない。今の状態をより悪くしないことだけを考えなが
ら、子どものリズムに合わせた生活に心がける。

 (参考)
●子どもの神経症について

心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。子どもの
神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

(1)精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状
(周囲の者には理解できないものに対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩
む)、抑うつ感(ふさぎ込む)など。混乱してわけのわからないことを言ってグズグズしたり、反
対に大声をあげて、突発的に叫んだり、暴れたりすることもある。

(2)身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、
頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発
熱、喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。一般的には精神面で
の神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面での神経症を黄信号とと
らえて警戒する。


(3)行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面
に表れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無
関心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。パンツ一枚で出
歩くなど、生活習慣がだらしなくなることもある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の情緒 情緒不安定 情緒が不安定な子供 子ども 情緒不安)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2025)

●食欲

++++++++++++++

ふと気がついたら、体重が、66キロ!
私の適正体重は、63キロ前後。

道理で、このところ、食事がおいしいはず。
しかしあっという間に、3キロもオーバー。

そこで昨日から、ダイエット開始!

小皿に盛られた料理を見ながら、
「これだけ?」と聞くと、「そうよ」と。
ワイフは視線を合わせようともせず、
そう言った。

++++++++++++++

 空腹感、つまり食欲を抑えるのは、たいへん。昨夜も、夕食後、その食欲と闘った。「もっと食
べたい」という欲望が、ググー、ググーと、腹の底から、私に襲いかかってくる。「アイスクリーム
でもいい」「パンでもいい」「スイカでもいい」と。

 しかし、そこはがまん。「これは幻覚だ」と、自分に言って聞かせる。「私はじゅうぶん、食べて
いる」「これ以上食べる必要はない」と。

 そんな食欲でも、一晩眠ると、きれいに消える。だから「幻覚」。朝、起きてみると、「昨夜の食
欲は何だったのか」とさえ思う。それをよく知っているから、ただひたすら、ガ・マ・ン。

 ところで最近、私は自分の体を、ロボットに見立てることがよくある。精巧にできたロボットで
ある。

 このロボットは、基本的には、怠け者。放っておけば、何もしたがらない。が、私は、そのロボ
ットに、命令する。「動け!」「運動せよ!」と。

 するとそのロボットは、じぶしぶながらも、私の命令に従う。けっしてロボットの言いなりになっ
てはいけない。ロボットは、ロボット。ただのロボット。

 「私の命令に従え。そのかわり、お前の健康は、私が守ってやる」と。

 そんなわけで、昨日は、そのロボットに命令して、2単位(40分x2)の運動をした。ダイエット
もかねた。おかげで今朝、体重を計ってみると、1キロ減っていた。よかった! 何とかして、こ
の数日中に、私の体重を適正体重にもどしたい。


●財産分与

 親しい友人夫婦が、離婚状態にある。離婚はした。しかしまだ同居している。だから「離婚状
態」。昨日受け取ったメールによれば、「財産分与の話し合いも、すんだ」とあった。

 夫婦には夫婦しかわからない、複雑な事情がある。複雑ないきさつがある。夫である私の友
人も、そう言っている。だから私は、聞かない。友人も、話さない。私ができることは、いつも
(結論)だけを聞き、その時点で、その夫婦の立場になって、ものを考えること。

 たまたま夫である友人は、定年退職を迎えた。満60歳である。世間では、「熟年離婚」とか、
「定年離婚」とか言う。が、当の本人たちにとっては、これほど辛らつな言葉はない。こういう言
葉は、それで苦しんでいる人の切り傷に、塩を塗りこむようなもの。当の本人たちを、さらに苦
しめる。安易に口にしてはいけない。

 しかし長年いっしょに生活してきた夫婦が、財産分与の話し合い? 「つらいだろうな?」「ぼく
にはできないだろうな?」と考える。

 私たち夫婦も、離婚の話は、よくする。喧嘩するたびに、「別れてやる!」「別れましょう!」と
言いあう。

 しかしこと財産分与ということになれば、私は、自分の財産に執着しない。離婚によってすべ
てを失う。「何が、財産か!」ということになる。そういう私は、結婚当初から、(捨て身)で、ワイ
フに接してきた。すべての収入は、そのままワイフに手渡してきた。手渡すと同時に、その収入
のことは、忘れた。今も、そうだ。だから離婚しても、私には、何もない。何も、残らない。

 そのワイフ。私のような男で、よくがまんしてくれたと思う。私が私のワイフなら、1か月で離
婚。1週間ももたなかっただろう。それを40年近くも、がまんしてくれた。それを思うと、とても財
産分与などという言葉は、私の口からは出てこない。たいした財産ではないが、ほしければ、
すべてワイフに渡す。私は私で、またどこかでがんばればよい。

 そうそう、ワイフは、先日、私にこう言った。

 「私と離婚すれば、あなたは自殺してしまうかもしれないわ。それが心配だから、私は、あな
たのそばにいるのよ」と。

 私たち夫婦にも、私たち夫婦なりの、他人には理解できない、複雑な事情がある。ホント!


●「苦労」論

+++++++++++++

数日前、老人ホームへ母を見舞った。
「ここは地獄や」と言われてから、
見舞ってやろうという(やさしさ)が、
私の中で、半減してしまった。

私には私の(思い)というものがある。
苦労もある。そういうものを、私の
母は、まったく理解できなくなって
しまった。

自分勝手でわがまま。まるでジコチュー
のかたまりのようになってしまった。

だから見舞っても、話すことは何もない。
ただ横に座って、じっとしているだけ。

+++++++++++++

 いくたの困難を乗り越えることを、「苦労」という。その苦労が、その人を、やがて光り輝かせ
るものにする。それは常識だが、しかし「困難」といっても、内容はさまざま。

 自己の名誉や地位、さらには財産を得るための困難もあれば、近親者の病苦、死などを乗
り越えるための困難もある。「私は苦労しました」と言う人は多い。が、問題は、その中身。中
には、見栄、体裁、さらには世間体をとりつくろうために苦労している人もいる。

 あまりよい例ではないかもしれないが、北海道のどこかに、牛肉に豚肉を混ぜて加工食品を
作っていた、インチキ社長がいた。マスコミでも大きく取り上げられた。話を聞くと、その社長は
社長なりに、苦労に苦労を重ねて、今の会社を、今の会社にした人らしい。

 はじめは肉屋で、店員をしていたとか、など。「貧しかったので、(肉が食べられる)、肉屋に
就職した」というような話も聞いた。

 しかしその社長を見て、私は、こう思った。「いかにも、そういうことをしそうな人だな」と。顔は
もちろん、体中から、醜悪さが、にじみ出ていた。見るも不愉快な、醜悪さだった。一片の知性
も、理性も、感じられなかった。

つまりその社長のしてきたことは、小ズルさの上に小ズルさを重ねて、金儲けをしてきただけ。
どこかのテレビ局のレポーターが、「苦労をした人ですね」と言っていたが、その苦労からにじ
み出るはずの人間的な深みが、どこにも感じられなかった。

 私は老人ホームに座って、ぼんやりと空を見つめる母を見た。ついでに、まわりの老人たち
を見た。みんな、それぞれにそれなりの苦労をしてきた人である。私の母にしても、元気なころ
は、いつもこう言っていた。「私ほど、苦労した人間はいない」と。

 そうかもしれない。そうでないかもしれない。そのひとつに、嫁・姑(しゅうとめ)戦争がある。

 私の祖母(つまり母にとっての姑)は、まれに見る気性のはげしい女性だった。自分の着物
が汚れるからという理由で、自分の息子や娘を、自分の手で抱いたことすらない。何か気に食
わないことがあったりすると、そこらにあるものを、手当たり次第に、投げつけたりした。そうい
うときの祖母は、ギャーギャーと泣きわめいて、手がつけられなかった。

私の父と結婚してからというのも、敷地が30坪もないような、せまい商家で、母は毎日、そんな
祖母と顔を突き合わせなければならなかった。仲よく過ごせというほうが、無理だった。

 ほかにもいろいろあっただろう。しかし母自身は、自転車屋の夫と結婚しながら、一度とて、ド
ライバーを手に握ったことすらない。自分の手が油で汚れるのを、何よりも嫌った。とくに祖父
が死に、つづいて父が死んでからの30年は、母は、遊びに遊んだ。毎日、子どものように遊ん
だ。

 だから母が、「私ほど、苦労した人間はいない」と言うたびに、私は、母がいうところの「苦労」
とは、何か、よく考える。まあ、あえて言えば、不本意な結婚をして、愛情の「ア」の字も感じな
い夫と、最後まで連れ添ったことかもしれない。

 仏教にも、「怨憎会苦(おんぞうえく)」という言葉がある。四苦八苦の一つにあげられている。
わかりやすく言えば、「会いたくない人と会う苦しみ」ということになる。母にしてみれば、毎日
が、その怨憎会苦の連続だったかもしれない。

 しかしそれは同時に、母に、仮面(ペルソナ)をかぶらせてしまった。母のばあい、他人に見
せる顔と、私たち子どもに見せる顔は、まったくちがった。恐ろしいほど、ちがった。私は、そう
いう母の二面性を、毎日見ながら、育った。

 つまりそれも苦労といえば、苦労だったかもしれない。自分を偽って生きるというのは、これ
またたいへんなこと。私だって、1、2時間なら、善人ぶることはできる。しかし1日ともなると、
そうはいかない。仮に1日もすれば、翌日は、片頭痛か何かが起きて、フトンの上で、ころげ回
ることになる。

 そこで改めて「苦労」とは何かと考えてみる。またどういう苦労なら、その人を、光り輝く人間
に育てることができるのか、と。

 ひとつの考え方としては、(真・善・美)の追求がある。おしなべて見ると、科学者にせよ、宗教
家にせよ、あるいは芸術家にせよ、その(真・善・美)をかぎりなく追求してきた人には、それな
りの(輝き)がある。他人を寄せつけない、高邁(こうまい)な人間性と言ってもよい。それがあ
る。

 だから……と書けば、見え透いた結論になってしまうが、仮にどんな世界にいても、またどん
な苦労をしたとしても、(真・善・美)の追求だけは、心のどこかで忘れてはいけない。そうでない
と、生活に疲れた、ただのヨボヨボの老人になってしまう。

 今の私には、この程度の結論しか書けないが、要するに、苦労にも、いろいろあるというこ
と。またその困難にしても、これまたいろいろあるということ。その選択というか、見極めをしっ
かりしながら生きていかないと、結局は、時間を無駄にすることになる。人生を無駄にすること
になる。

++++++++++++

 私とワイフは、無言のまま、席を立った。
「帰る」と一言、母に声をかけると、母は、
「わかった」と言って、手を振った。

このところいつもそうだが、母と別れるときは、
どうも、歯切れが悪い。中途半端。

「また来る」と言いかけることもあるが、
それもどこか、空々しい。それが自分でも
よくわかる。

だから、やはり黙ったまま。廊下に出るころには、
振り返ることもなく、そのまま前に歩く。

「ここは母にとっては、地獄なんだなあ」と。

++++++++++++


(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 苦労
論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【補記】怨憎会苦について

●生・老・病・死

+++++++++++++++++

私たちは、日々に、なぜ苦しむのか。
なぜ悩むのか。

それについて、東洋哲学と西洋哲学は、
同じような結論を出している。

たとえば……

生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。

四苦八苦の「四苦」である。

では、あとの4つは、何か?

+++++++++++++++++

 生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。で
は、あとの4つは何か。

(1)愛別離苦(あいべつりく)
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)
(3)求不得苦(ぐふとっく)
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。


(1)愛別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦し
みをいう。
(2)怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3)求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4)五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成
する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛ん
になりすぎることから生まれる苦しみをいう。

 こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後す
るが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの
原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。

(1)苦諦(くたい)
(2)集諦(しゅうたい)
(3)滅諦(めったい)
(4)道諦(どうたい)の、4つである。

(1)苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2)集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえ
ば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、そ
の原因となることもある。
(3)滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねは
ん)の世界へ入ることをいう。
(4)道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原
始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●安易な復古主義に警戒しよう!

++++++++++++++

右に寄りすぎた(?)、安倍内閣。
安倍総理大臣はともかくも、その
周辺の人物たちは、まるで右翼団
体の構成員のよう。

連日、愛国心だの、国歌だの、国旗
だのと、まるで右翼の街宣車がが
なりたてているような言葉を口に
している。

あげくのはては、憲法改正、さらに
は、天皇の国家元首制?

が、何よりも気になるのは、あの
復古主義。その復古主義について、
もう一度、ここで考えてみたい。

++++++++++++++

●安易な復古主義

安易な復古主義に警戒しよう!

+++++++++++++++

●明治の偉勲たち

 明治時代に、森有礼(もり・ありのり)という人がいた。1847〜1889年の人である。教育家
でもあり、のちに文部大臣としても、活躍した。

 その森有礼は、西洋的な自由主義者としても知られ、伊藤博文に、「日本産西洋人」と評され
たこともあるという(PHP「哲学」)。それはともかくも、その森有礼が結成したのが、「明六社」。
その明六社には、当時の若い学者たちが、たくさん集まった。

 そうした学者たちの中で、とくに活躍したのが、あの福沢諭吉である。

 明六社の若い学者たちは、「封建的な身分制度と、それを理論的に支えた儒教思想を否定
し、不合理な権威、因習などから人々を解放しよう」(同書)と、啓蒙運動を始めた。こうした運
動が、日本の民主化の基礎となったことは、言うまでもない。

 で、もう一度、明六社の、啓蒙運動の中身を見てみよう。明六社は、

(1)封建的な身分制度の否定
(2)その身分制度を理論的に支えた儒教思想の否定
(3)不合理な権威、因習などからの人々の解放、を訴えた。 

 しかしそれからちょうど100年。私の生まれた年は、1947年。森有礼が生まれた年から、ち
ょうど、100年目にあたる。(こんなことは、どうでもよいが……。)この日本は、本当に変わっ
たのかという問題が残る。反対に、江戸時代の封建制度を、美化する人たちまで現われた。
中には、「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的基盤」と唱える学者までいる。

 こうした人たちは、自分たちの祖先が、その武士たちに虐(しいた)げられた農民であったこ
とを忘れ、あたかも自分たちが、武士であったかのような理論を展開するから、おかしい。

 武士たちが、刀を振りまわし、為政者として君臨した時代が、どういう時代であったか。そん
なことは、ほんの少しだけ、想像力を働かせば、だれにも、わかること。それを、反省すること
もなく、一方的に、武士道を礼さんするのも、どうかと思う。少なくとも、あの江戸時代という時
代は、世界の歴史の中でも、類をみないほどの暗黒かつ恐怖政治の時代であったことを忘れ
てはならない。

 その封建時代の(負の遺産)を、福沢諭吉たちは、清算しようとした。それがその明六社の啓
蒙運動の中に、集約されている。

 で、現実には、武士道はともかくも、いまだにこの日本は、封建時代の負の遺産を、ひきずっ
ている。その亡霊は、私の生活の中のあちこちに、残っている。巣をつくって、潜んでいる。た
とえば、いまだに家父長制度、家制度、長子相続制度、身分意識にこだわっている人となる
と、ゴマンといる。

 はたから見れば、実におかしな制度であり、意識なのだが、本人たちには、それが精神的バ
ックボーンになっていることすら、ある。地域によっては、その地域全体が、カルト化していると
ころさえある。

 しかしなぜ、こうした制度なり意識が、いまだに残っているのか?

 理由は簡単である。

 そのつど、世代から世代へと、制度や意識を受け渡す人たちが、それなりに、努力をしなか
ったからである。何も考えることなく、過去の世代の遺物を、そのままつぎの世代へと、手渡し
てしまった。つまりは、こうした意識は、あくまでも個人的なもの。その個人が変わらないかぎ
り、こうした制度なり意識は、そのままつぎの世代へと、受け渡されてしまう。

 いくら一部の人たちが、声だかに、啓蒙運動をしても、それに耳を傾けなければ、その個人
にとっては、意味がない。加えて、過去を踏襲するということは、そもそも考える習慣のない人
には、居心地のよい世界でもある。そういう安易な生きザマが、こうした亡霊を、生き残らせて
しまった。

 100年たった今、私たちは、一庶民でありながら、森有礼らの啓蒙運動をこうして、間近で知
ることができる。まさに情報革命のおかげである。であるなら、なおさら、ここで、こうした封建
時代の負の遺産の清算を進めなければならない。

 日本全体の問題として、というよりは、私たち個人個人の問題として、である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 復古
主義 封建主義 呆け時代の亡霊 明六社 福沢諭吉)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2026)

●やるか、やらないか?

+++++++++++++++

アメリカは、K国が核施設の
稼働停止をしなければ、つぎの
6か国協議は開かないと言っている。

K国は、「停止するかどうかは、
つぎの6か国協議で決めること」と
言っている。

そんな中、今日、K国の高官は、
「停止前に、重油の提供をせよ」と
要求してきた。

一方、韓国は韓国で、「まだ(K国が)
何もしないうちに」(朝鮮N報)、
重油の提供の準備に入ってしまった。
2週間以内に、提供の開始をするという。

????

一方、韓国はアメリカと結束して、
日本はずしを加速させている。

いったい、どうなっているのか?

+++++++++++++++

 ますますわけがわからなくなってきた、6か国協議。この(わけのわからないところ)が、実に
K国らしい。それはもかくも、現状は、こうだ。

(1)アメリカは、K国が核施設の稼働停止をしなければ、つぎの6か国協議は開かないと言っ
ている。

(2)K国は、「停止するかどうかは、つぎの6か国協議で決めること」と言っている。

(3)一方、韓国は韓国で、「まだ(K国が)何もしないうちに」(朝鮮N報)、重油(5万トン)の提供
の準備に入ってしまった。2週間以内に、提供の開始をするという。

 そんな中、そんな中、今日、K国の高官は、「停止前に、重油の提供をせよ」と要求してきた。

 『匿名の米政府関係者らは2日、北朝鮮が寧辺の核施設の稼動停止に先立ち、2月の6カ
国協議で合意した重油支援を、開始するよう求めていると明らかにした』(ワシントン2日ロイタ
ー)と。

 K国は、重油提供を開始しなければ、核施設の停止はしないと言いだした。

 わかるかな? この(まともでないところ)が、実にK国らしい。つまりその背後に、金xxがい
る! まともに考えれば、つぎの6か国協議は、開られないことになる。一方、K国は、何ら約
束を守ることなく、5万トンの重油を手にすることができる。

 日本の知ったことではないが……、というのも、韓国はアメリカと結託して、日本はずしを加
速させている。この7月に、日本抜きで、4か国外相会議を開くのも、そのひとつ。

 もとはと言えば、A外務大臣の失言、K防衛大臣の失言が、その背景にある。この2つが、ア
メリカを激怒させた。たとえばK防衛大臣は、ブッシュ大統領の教書演説の直後、「アメリカの
イラク戦争はまちがっていた」と発言してしまった。

 K防衛大臣の失言は、今回の「(原爆は)しょうがなかった」発言だけではない。ほかにもいろ
いろある。まことにもって、おバカ大臣としか、言いようがない。A外務大臣も似たようなもの。
日本語すら、まともに話せない?

 さあ、どうなるか、6か国協議。ここでまた金xxが表に出てくるようなことがあると、ますます6
か国協議は、わけのわからないものになる。

 そうそう、韓国のN大統領は、先週、K国がミサイル発射実験したことについても、K国を批
判する前に、「そういう実験をさせるような雰囲気を作った日本が悪い」とさかんに言っている。
在韓米軍司令官は、「今回のミサイルは、射程距離からして、韓国向け」と公式発表していうに
もかかわらず、だ。

 韓国のN大統領も、おかしい。日本の大臣たちも、おかしい。
(7月3日記)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司
 
●書店に並ばない本

++++++++++++++

どこかの元大学教授が、自費出版で
出した本が、書店に並ばなかった
とかの理由で、出版社を訴えた。

しかし……?

++++++++++++++

 どこかの元大学教授が、自費出版で出した本が、書店でならばなったとかの理由で、その出
版社を訴えた。

 まず、その記事を紹介する。

 『……最近、電車や新聞などで「本を出したい人、来てみませんか」といった広告をよく目にし
ます。団塊世代の大量定年などでブームになっている、「自費出版」ですが、本が書店に並ば
ないなどトラブルになるケースも多く、4日、著者たちが出版社を相手に提訴することを決めま
した』(TBS・news)と。

 はっきり言おう。元大学教授ともあろう人が、そんなことも知らなかったのか、と。(失礼!)

 順に説明しよう。

 出版社と、本の販売会社(出版の世界では、「取次店」という)、つまり、配本会社は、まったく
の別の組織である。出版社で本を出版したからといって、そのまま販売会社が、その本を販売
してくれるとはかぎらない。販売会社は、当然のことながら、売れる本だけを選んで販売する。
日本を代表する販売会社に、東販と日販がある。そのあとに、5〜6社がつづく。

 仮に販売会社が、新刊書を、系列の書店に並べたとする。売れれば、ある一定の率の分だ
け、その販売会社の利益となる。しかし売れなければ、返本という形で、販売会社がそれを回
収しなければならない。

 そのコスト、つまり配本→陳列→回収にかかるコストと人件費は、相当なものである。だから
販売会社は、売れる見込みのある本だけを、全国の書店に配本する。が、それでも、書店に
並べてほしいという本については、出版社から、あらかじめ預託金を預かる。返本率が、ある
一定の率を超えたときには、その預託金は、販売会社のものとなる。

 大手の出版社は、最初から、それなりに売れそうな本だけを、戦略的に出版する。販売会社
との結びつきも、深い。だから大手の出版社で本を出版すれば、ほぼ例外なく、全国の書店に
その本は並ぶ。

 しかし中小の出版社は、そうはいかない。そのつど、ここに書いた預託金を払うか、さもなけ
れば、さらに大きな出版社に販売だけを委託する。「うちの本では、書店に並べてもらえません
ので、お宅のほうで、販売会社に口をきいていただけませんか」と。

 そのことは、本の裏表紙を見れば、わかる。発行元とあるのが、出版社。発売元とあるの
が、ここでいう販売を委託された、より大きな出版社ということになる。

わかりやすく言えば、小さな出版社ほど、本の卸値を、低くする。たとえばふつう、出版社から
販売会社への卸値は、定価の60%程度だが、それを55%にしたり、さらに50%にしたりす
る。どこかの出版社に販売を委託するときには、さらに卸値はさがる。自費出版のばあいは、
このワクにも入らない。つまり番外。

 で、それでも「売れない」とわかると、販売会社は、さっさとその本を、書店から引きあげる。
今ではコンピュータで本の売れ行きを監視しているから、最初の1、2週間で、売れる本か、売
れない本かの判断がつくという。

 売れない本は、3か月を待たずして、書店から姿を消す。早いばあいには、1、2か月で姿を
消す。

 だから自費出版した本が、書店に並ばなかったからといって、出版社を訴えるほうが、おかし
い。もしその出版社が、「並べる」と約束したというのなら、話は別。もしそういう約束をしたとす
るなら、それは詐欺だが、しかしふつうはそういう約束はしない。しても意味はない。ここにも書
いたように、並べるか、並べないかを決めるのは、出版社ではなく、販売会社だからである。

しかしふつうは並ばない。並ばないという前提で考える。それが出版の世界の常識ということに
なる。が、それでもわからなければ、逆の立場で考えてみればよい。

 あるときあなたのところに、1人の著者がやってきた。本を見せて、「これを全国の書店に並
べてほしい」と言った。

 全国の書店に1冊ずつ本を並べるだけでも、約4000冊ということになる。その4000冊を宅
配便で送っても、(実際には、そういうことはないが)、1冊400円の運送費としても、それだけ
で、160万円のコストがかかる。仮に1冊も売れなければ、返本のために、これまた同じコスト
がかかる。計320万円である。

 それに加えて、書店での人件費もかかる。営業費もかかる。販売会社にしても、命がけであ
る。

 また今回、出版社を訴えたという元大学教授は、「本の制作費を払えば、宣伝・営業費は出
版社側が負担すると言った」「およそ130万円を出版社に支払って本をつくった」と主張してい
る。

 しかしこれについても、出版社の肩をもつわけではないが、130万円という額は、発行部数
にもよるが、出版社にとっても、ギリギリの額とみてよい。ふつう単行本(四六判、200ページ
前後、初版3000部)で、最低でも150〜200万円ほどのコストが、かかる。もちろん上には
キリがない。私が書いた、「東洋医学・経穴編」(学研)などは、数千万円のコストがかかってい
る。

 どの程度の約束を、出版社がその元大学教授にしたかは、今の時点ではよくわからない。本
当に本の販売まで約束したのか。新聞紙上などでの広告まで約束したのか。またそれを証明
する書面はあるのか。もしそうならここにも書いたように、出版社のしたことは、詐欺ということ
になる。

 しかし本というのは、売ろうと思っても、売れるものではない。宣伝したからといって、売れる
ものではない。が、その一方で、どんな本が売れるかも、これまたわからない。たとえて言うな
ら、バクチのようなもの。

 当の元大学教授は、こう言っているという。「非常に不愉快ですね。お金よりも、本を出したの
に書店に並べてもらえないことほど、情けないことはない」と。

 その元教授の気持ちは、わからないわけでもない。私も同じような思いをしたことが、何度か
ある。しかし出版の世界というのは、そういうもの。そういった事情を、少しでもわかっている人
なら、自費出版には、けっして手を出さない。私も、過去において、30数冊以上の本を出して
きたが、自費出版で出した本は、1冊もない。

 だから再び、あえて言う。「一般の人ならともかくも、元大学教授ともあろう方が、そんなことも
知らなかったのか」と。私はこの記事を読んだとき、むしろ、そちらのほうに驚いた。

たいへん辛らつな意見で、ゴメン!

【忠告】

●自費出版するときは、契約の内容を、しっかりと確認すること。ふつうはここにも書いたよう
に、自費出版の本が書店に並ぶということは、まず、ない。もしどうしても並べてほしかったら、
1軒ずつ書店を回り、頭をさげて頼むしかない。が、それについても、特別なコネでもないかぎ
り、書店のほうは、いやがるはず。

●また宣伝にしても、新聞の1面最下段にある名刺大の広告で、1回、20万円前後のコストが
かかる。どうしても宣伝したかったら、宣伝も「自費宣伝」を考える。そうした仲介は、頼めば、
出版社のほうでしてくれるはず。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【今朝・雑感】(7月4日)

++++++++++++++

昨日、WORD2007の
ファイルが破損(?)してしまった。
原因はわからない。突然、
かな変換ができなくなってしまった。

そのためその修復だけで、数時間を
無駄にしてしまった。

ファイルそのものは、システムの
復元で修復できたが、ウィルス
対策ソフトが、起動しなくなって
しまった。

それでその修復のために、数時間を
費やしてしてしまった。

その修復をしながら、ふと、
こんなことを考えた。

パソコンは便利な機械だが、
幼い子どものように、扱い
にくいな、と。

インターネットを始めても、
途中でパソコンそのものを放り投げて
しまう人も多い。

その理由のひとつは、こんなところにもある。

++++++++++++++

●伊豆のI町

 昨日、県の教育委員会のほうから、伊豆市のI町での講演会の依頼があった。静岡県は細
長い県で、私が住む浜松市は、その西端にある。I町は、東端にある。新幹線を利用しても、約
1時間40分ほどかかる。

 さっそくインターネットを使って、列車の時刻表を調べる。午後7時30分からの講演ということ
だが、JRのI駅に着くのが、午後7時20分。そこから会場までは、車で、10分。まさにギリギリ
の到着ということになる。

 「だいじょうぶだろうか?」と思いながら、一応、その旨、委員会のほうへ伝える。あとは先方
からの返事待ち。


●今日もダイエット

 今朝、体重を測ったら、64・5キロにさがっていた。約2キロ、減量したことになる。あと一歩。
私の適正体重は、63キロ前後。

 ところで私の体は、不思議な体だ。食べたら食べた分だけ、太る。しかしダイエットしたとた
ん、数日で、2〜4キロ前後、体重が減る。ワイフは、「ミルク飲み人形みたい」と言って笑う。
が、いまどき、ミルク飲み人形などという言葉を使うほうが、おかしい。年齢がわかる。

 今日1日がんばれば、明日は63キロ台にもどっているはず。がんばろう!


●計算まちがい

 先日、「蚊」の話を書いた。その中で私は、体長4ミリの蚊にすれば、人間の体は、6400メ
ートルになると書いた。

 しかしこれはまちがい。正しくは、640メートル。

 実は、この話を、小5の子どもたちにした。すると頭のよい子どもがいて、「先生、6400メー
トルではなく、640メートルだよ」と教えてくれた。

 そこで計算のしなおし。

 身長160センチ=1600ミリ。それを4(ミリ)で割ると、400。

 身長160センチを400倍すると、640メートル。6400メートルではなく、640メートル。

 しかしそれにしてもすごい。蚊は、人間にたとえるなら、640メートルの山を、瞬時に上下し
て、人間の体に針を刺すことになる。

 すると別の子どもがこう言った。「ヘリコプターでも、そんなに速く移動できないね」と。

私「そうだな。まるでスーパーマンだ」
子「速いの?」
私「速いね。ブ〜ンとやってきて、チクッと刺す。640メートルの高さを、2、3秒で昇るのだか
ら。君たちにはできるかな?」
子「できない」「無理」と。

 こうして考えてみると、虫の世界は、すごい! その一言に、尽きる! わずか2〜3秒で、6
40メートルの高さを、上下する! 


●名誉と金

++++++++++++++

若いころ、ある出版社の社長が
私にこう言った。

「君は、名誉と金の両方を手に
入れようとしている。どちらか
一方にせよ」と。

つまり本で儲けて、さらに名誉ま
で手に入れようとするな、と。

++++++++++++++

 当時、1冊の本を出すと、初版発行時に、30〜50万円の現金が手に入った。印税にして
も、10%が常識だった。

 が、その印税の支払いが、やや遅れた。そこで私がそれを催促すると、その出版社の社長
は、こう言った。「君は、名誉と金の両方を手に入れようとしている。どちらか一方にせよ」と。

 つまり名誉とお金の両方を、いっぺんに手に入れようとするのは、ムシがよすぎる、と。

 かなりきつい言葉だった。が、私には、よい勉強になった。今でも、そのときその社長が言っ
た言葉が、耳に残っている。

 以後、私は、本を書くときは、その言葉を肝に銘じている。つまり本を書くときは、お金のこと
は考えない。出してもらえるだけでも、御の字。私のように、地方に住む無名のライターなら、な
おさらである。

 が、ここ15〜20年、出版の世界は、大きく変わった。毎年のように印税率は、低くなってい
る。支払いも、3か月先払い、6か月先払いが常識になった。しかも売れ高払い。つまり売れた
分の印税しか入ってこない。

 だからお金を考えたら、本の出版など、とてもできない。労力の無駄とまでは言わないが、そ
れに近い。あるいは趣味? ボランティア活動? 何でもよいが、お金にはならない。

 さらにインターネットの時代になって、(情報)のもつ価値が、かぎりなく低くなった。先ほども、
私は列車の時刻表を調べたが、以前なら、まず書店へ足を運び、最新の時刻表を手にいれ
た。が、今は、無料。その上、瞬時に、それを調べることができる。

 そこで私はこう考えるようになった。

 私がものを書くのは、名誉のためではない。お金のためでもない。脳みその健康のため、と。
あるいは、生きている証(あかし)のためでもよい。今の私にとって、ものを書くというのは、たし
かに生きがいになっている。

 その(生きがい)は、お金で買えるものではない。お金では買えない。

 で、今、私が先に書いた出版社の社長なら、こう言うだろう。

 「君は、名誉と金と生きがいの3つを、同時に手に入れようとしている。どれか一つにせよ」
と。

 もしあなたなら、どれを選ぶだろうか?


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2027)

●煩悩(ぼんのう)

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仏教では、煩悩(ぼんのう)に
2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。
もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、
「無明」と「愛欲」であると
教える(仏教聖典)。

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仏教では、煩悩(ぼんのう)に2つあると教える。

ひとつは、知性の煩悩。もうひとつは、感情の煩悩。

そしてその根本はといえば、「無明」と「愛欲」であると教える(仏教聖典)。

 ここでいう「無明」は、「無知」という意味である。しかし無知といっても、「知識のなさ」を言うの
ではない。「ものの道理をわきまえないこと」(「仏教聖典」)をいう。

 この煩悩に支配されると、人は、「むさぼり、怒り、愚かになり、邪見をもち、人を恨んだり、ね
たんだり、さらには、へつらったり、たぶらかしたり、おごったり、あなどったり、ふまじめになっ
たりする」(「仏教聖典」)という。つまり、自分を見失ってしまう。

 この中でも、仏教では、とくに(1)むさぼり、(2)怒り(瞋り)、(3)愚かさを、「世の3つの火」と
位置づける。これらの「火」が、自ら善良な心を、焼いて殺してしまうという。そういう例は、多
い。

 「むさぼり」(仏教聖典・仏教伝道協会編)とは、私たちが日常的に使う「むさぼり」という意味
のことか。わかりやすく言えば、欲望のおもむくまま、貪欲になることをいう。貪欲な人は、たし
かに見苦しい。

 ある女性は、このところ数日おきに、病院にいる義父を見舞っている。義父を思いやる、やさ
しい心からそうしているのではない。その財産が目的である。義母がいるが、体も弱く、このと
ころ思考力もかなり低下してきた。

 そんな義母でも、「見舞には来なくていい」とこぼしている。その女性が義父を見舞うたびに、
義父は興奮状態になってしまう。そのあと様子がおかしくなるという。しかしその女性は、見舞
いをやめる気配はない。

 これも(むさぼり)のひとつと考えてよい。その女性はまさに、義父の心を、むさぼっている。

 つぎに怒り。仏教聖典のほうでは、(瞋り)となっている。私は勝手に「怒り」としたが、研究者
がこの文を見たら、吹きだすかもしれない。仏教でいう(瞋り)、つまり(怒り)というのは、感情
のおもむくまま、腹を立てたり、どなったり、暴れたりすることをいう。

 ただ、(怒り)そのものを、悪いと決めつけて考えることはできない。たとえば今、私は、社会
保険庁のずさんな事務処理に、怒りを感じている。K国の金xxにも、怒りを感じている。元公安
調査庁の長官による不正疑惑にも、怒りを感じている。さらには、防衛大臣の失言にも、怒り
を感じている。

 その(怒り)が、こうしてものを書く、原動力にもなっている。つまり(怒り)が正義と結びついて
いれば、(怒り)も善であり、そうでなければ、そうでない。

 3つ目に、(愚かさ)。愚かであるということは、それ自体、罪である。しかし先にも書いたよう
に、「知識がないこと」を、愚かというのではない。ものの道理をわきまえないことを、(愚か)と
いう。
 
 では(道理)とは何か。現代風に言えば、(人格の完成度)をさす。人格の完成度の高い人
を、「道理をわきまえている人」という。他者との共鳴性が高く、良好な人間関係があり、より利
他的な人を、人格の完成度の高い人という。

 その道理を身につけるためには、自分で考えるしかない。考えて、考えて、考えぬく。パスカ
ルも言っているように、人間は考えるから、人間なのである。中に、「私はものごとを深く考えな
い」「考えることが嫌い」「考えるのはめんどう」と豪語(?)する人がいる。しかしそういう人は、
自らを愚かな人間と、公言しているようなもの。

 恥ずべきことではあっても、自慢すべきようなことではない。

 で、これらの3つは、「火」となって、人間の世界を、ときに焼き尽くすこともあるという。「おの
れを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を、身(しん)、口(く)、意(い)の3つの悪い行為に導く
ことになる」(「仏教聖典」)と。つまりその人だけの問題では、すまないということ。
 
 が、これにもう一言、つけ足させてもらうなら、こういうことになる。

 悪いことをしないから、善人というわけではない。よいことをするから、善人というわけでもな
い。私たちが善人になるためには、悪と、積極的に戦っていかなければならない。悪と積極的
に戦ってこそ、私たちは、善人になれる。またそういう人を、善人という。

 話が脱線したが、私たちは、その煩悩のかたまりと言ってもよい。この瞬間においてすら、そ
の煩悩が、体中で、渦を巻いている。「どうしたらいいものやら?」と考えたところで、この話
は、おしまい。

私自身も、その煩悩の虜(とりこ)になり、いつも道に迷ってばかりいる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 煩悩
論 パーリ 仏教聖典)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

●今朝・あれこれ(7月5日)

++++++++++++++

日本では割と権威のある、
WHO'S WHO(人名名鑑)に
私の名前を載せてもらえることに
なった。

昨日、その連絡が入った。

もちろん私のほうから頼んだ
わけではない。

「あとで法外な掲載料を請求
されても困りますよ」と言うと、
「そういうことはぜったいに、
ありません」とのこと。

「あとで名鑑を購入せよと言われても
困りますよ」と言うと、
「そういうこともぜったいに、
ありません」とのこと。

一応、念のため、確かめた。

これで私は、死んでも、名前だけは、
残すことができる(?)。

多分?

+++++++++++++++

●7月30日号

 今日から7月30日号の原稿書きに入る。遅れること、7日。やっと7日に縮めた。あと少し。
がんばろう! (マガジンは、ちょうど1か月先の原稿を書くようにしている。そうすることで、読
者のみなさんに、安定的にマガジンを届けることができる。)

 今日は7月5日だから、本来なら、8月5日号前後の原稿を書いていなければならない。実際
には、7月30日号の原稿を書いている。だから「遅れること、7日」となる。


●パソコンの修理

 昨日、パソコンの修理をした。ハード的な修理なので、それなりの勇気が必要だった。しかし
修理は、うまくできた。

 電源を抜き、恐る恐る、パソコン本体のカバーをあける。言い忘れたが、電源を示すパイロッ
ト・ランプがつかなくなった。そのランプの取り換え作業である。

 中にはわけのわからない基盤が、ずらりと並んでいた。無数のコードが、あちこちとつながっ
ていた。メーカーから送られてきたコードと同じ色のコードをさがし、それをさしかえる。ハラハラ
とした緊張感が、たまらない。私はこういう緊張感が、大好き。サッカーの国際試合を観戦して
いるような緊張感である。

 で、無事、修理は終了。電源を取り付けて、スイッチを入れてみる。ランプがついた!

 ……こうして私はまた新たな自信を身につけた。


●母の見舞い

 昨日も、老人ホームにいる母を見舞うと、母は、こう言った。「ここは地獄や」と。

 そこで私はこう言った。「みんなが、一生懸命、めんどうを見ていてくれるんだから、そういう
言い方をしてはだめだ」と。

 が、再び、母は、こう言った。「ここは地獄や」と。

 母特有の、(依存言葉)である。子どもが、「のどがかわいたア。(だから何とかしてくれ)」と言
うのと同じ。母は、「ここは地獄や」と言いながら、言外で、「だから何とかせよ」と、私に行動を
求めている。

 その母は、昔風の、いわゆる依存性の強い女性である。私の想像だが、江戸時代の女性
は、みな、そうではなかったか。それが転じて、たとえば「内助」という言葉が生まれた。

 「内助」と言えば聞こえはよいが、中身は、女性蔑視。女性を、男性の付録程度にしか考えて
いない。それが他方で女性独特の依存性を、加速させた。「女性は、夫に仕えるもの」「子ども
にめんどうをみてもらうもの」と。

 だから今、私の母が、依存言葉を使ったからといって、驚かない。若いときも、お金がほしい
ときには、こう言って電話をかけてきた。

 「○○さんが死んだ。(だから香典を送ってほしい)」
 「台風で、戸がこわれた。(だから修理費を送ってほしい)」
 「NHKが映らなくなった。(だから新しいテレビを買ってほしい)」と。

 いちばん不愉快だったのは、他人と比較されることだった。

 「○○さんのところの息子は立派や。今度、親を、温泉に連れていってやったそうだ」と。それ
が私には、「私も連れていけ」と言っているように聞こえた。

 それが今は、「ここは地獄や」になった。しかし、だからどうしたらいいのか? 今度ばかり
は、その答がない。しかしそういう言い方をされると、見舞いに行くのが、ますますおっくうにな
る。喜んでくれとまで思わないが、少しは私たちの努力も評価してほしい。しかし今の母には、
その知力もない。

 そんなわけで、昨日は、昔のアルバムを1冊届けただけで、そのまま帰ってきた。兄の写真
集だったが、最初しばらく、それが兄だということがわからなかったようだ。「これはだれかわか
るか?」と聞いても、「わからん」「だれや」と。

 数分、じっと見つめていたあと、「J(=兄の名)や」と言った。

 今日も午後に一度、見舞うつもりでいる。気は重いが……。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●子どもの人格の完成度

++++++++++++++++

子どもの人格の完成度は、(おとなも
そうだが……)、幼児性の持続の有無を
みて、判断する。

その年齢の他の子どもと比較してみて、
「どこか幼い」と感じたら、その子どもの
人格の完成度は、低いとみる。

++++++++++++++++

 あなたは自分の子どもが、どこか幼稚ぽいと思っていないか。もしそうなら、あなたの子ども
の人格の完成度は、低いということになる。

 子どもの人格の完成度は、(おとなもそうだが……)、幼児性の持続の有無をみて、判断す
る。その年齢の他の子どもと比較してみて、「どこか幼い」と感じたら、その子どもの人格の完
成度は、低いとみる。

 たとえば……。

(1)しぐさ、動作が、どこか幼い……自己管理能力、現実検証能力が低く、してよいことと、悪
いことの判断にうとい。突発的に、幼稚ぽいことをしたりする。(幼児だからといって、幼稚ぽい
というのは、誤解。幼児でも、どっしりと落ち着いている子どもは多い。)全体に、ヘラヘラ、チャ
カチャカしている。

(2)ものの考え方が直感的で、論理性がない……深くものごとを考えることができない。表面
的な部分で、思考が上すべりする。ダジャレを言ったりする。おとなと対峙しても、論理的な会
話ができない。ペラペラとよくしゃべるが、内容が浅い。

 こうした症状がいくつか思い当たるなら、あなたの子どもの人格の完成度は、それだけ低い
とみる。反対に人格の完成度の高い子どもは、みるからに静かに、どっしりと落ち着いている。
思考をいつも頭の中で反復させるため、見た目には、反応がにぶい。

 忍耐力、思考力、管理能力にすぐれ、いつも自分がどういう立場にいるかを知っている。また
何をしなければならないかも知っている。

 よく誤解されるが、ここでいう幼児性の持続と、(子どもの心)は、別のものである。(子どもの
心)というのは、純粋で、すなおな感動にあふれた、豊かな情操性をいう。いくら年齢を経ても、
(子どもの心)は、(子どもの心)として大切にする。

 おとなでも、「この人は、どこか幼い?」と感じたら、それだけその人の人格の完成度は低い
とみてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【現実検証能力】

+++++++++++++++

現実検証能力という言葉を使ったので、
それについて書いた原稿を載せる。

+++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」
と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離
れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」
(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前
ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず
子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいない
ところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こ
う書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見
せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみると
よい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみる
とよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関
係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろう
か。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子ど
もは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一
歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

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●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。つぎの
ような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問題として、家庭
教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

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●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり
「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになった
ら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼児性の持続」
は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どうか、この
点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度 現実検証能力)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【荒れる子ども】

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静かな指導になじまず、
自分勝手でわがまま。

言動が粗放化し、
享楽的で投げやり。

そんな子どもについて、
ここで考えてみたい。

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●教育と秩序

 教育の現場には、ある一定の秩序が必要である。その秩序がなければ、教育そのものが、
成り立たない。学級崩壊は、その延長線上にある。

 が、その一方で、その秩序を、あえて破壊する子どももいる。いわゆる「粗放児」と呼ばれる
子どもたちである。原因の大半は、家庭教育の失敗とみる。多動児(AD・HD児)とのちがい
は、きびしく叱れば、それなりの効果はあるということ。しかしそのあと、さらに強烈な反動が起
きる。つまりますます粗放化する。

●粗放児の特徴

 家庭教育の崩壊、無視、冷淡、親の暴力、虐待、不適切で威圧的な家庭環境、無秩序な親
子関係、一貫性のない親の育児姿勢などが日常化すると、ここでいう「粗放児」が生まれる。
「荒れる子ども」と考えるとわかりやすい。

 つぎのような特徴がある。

(1)自己管理能力の欠如……善悪の判断ができない。ルールが守れない。約束が守れない。
感情(気分)のおもむくまま、行動する。行動しても、なげやり的。忍耐力がなく、短気で、突発
的。静かで論理的な会話ができず、静かな指導になじまない。

(2)破滅的な行動……協調性、共同性が極端に低下し、それに合わせて、極端な自己中心性
が見られる。そのため従順性に欠け、ものの考え方が直感的で、連続性がない。静かな落ち
着きがない。授業中に騒いだり、自分勝手な行動を繰りかえす。秩序を破壊する。

(3)極端な自己中心性……意図的な行動というよりは、動物的な行動により、秩序を破壊す
る。感情のおもむくまま行動する。他人を思いやる気持ちが、極端に低下する。自分勝手で、
わがまま。そのため常識はずれの行動に出ることが多い。

(4)AD・HD児とのちがい……AD・HD児とのちがいは、強く叱ったり、あるいは自分が「こわい」
と感ずる教師の前では、それなりにおとなしく、静かにしていること。相手を見るのに敏感で、
自分に対してやさしい教師には、ここでいう破滅的な行動に出る。

●R君(小3・男児)のケース

 「勉強はいや」「嫌い」をことあるごとに連発する。みなが静かに作業に入っているようなとき
でも、自分だけは、つまらなさそうな表情をして、机を蹴ったり、となりの子どもにちょっかいを
出したりする。

 教師の指示に対しても、免疫性ができていて、ふつうの指示では、効果がない。(かといっ
て、強く叱ると、ほかの子どもに影響が出るので、それもできない。)

 行動が投げやり的で、あきっぽい。放っておくと、自分だけ別行動を始める。バッグの中か
ら、ピンポン玉を取り出し、それを壁にぶつけて遊び始めたりする。で、それに同調する子ども
が現れたりすると、その子どもを巻き込んで、騒ぎ始める。

 そういうとき教師は、「みんなの迷惑になるから、静かにしてください」と何度も繰り返し、注意
する。が、無視。が、あまりにも騒音がはげしいようなとき、「みんなの迷惑になるから、廊下で
遊んでいなさい」などと言うと、そのまま、校庭へ出て行ってしまう。雨が降っていても、雨の中
で、平気でボールを投げたりして遊んでいる。

 そこで教師が家に電話をして、家での様子を聞くが、母親は、「家ではとくに変わったことはな
い」「家ではふつうです」などと答える。自分の子どもに問題があると考える前に、子どもから聞
く話を、鵜(う)呑みにしてしまっている。

●家庭教育の失敗

 原因は、家庭教育の失敗とみる。家庭教育の崩壊、無視、冷淡、親の暴力、虐待、不適切で
威圧的な家庭環境、無秩序な親子関係、一貫性のない親の育児姿勢など。

 しかしこの中でもとくに、このタイプの子どもを決定づけるのは、親の不安定な育児姿勢であ
る。そのときの気分によって、子どもをはげしく叱る。ふつうのはげしさではない。大声で怒鳴り
散らしたり、あるいはそれに暴力を加えたりする。

 が、そうでないときは、そうでない。一慣性のない育児姿勢が、子どもをして、ますます粗放化
させる。

 が、最大の問題は、多くのばあい、親にその(自覚)がないこと。自分の子どもが教育の秩序
を破壊しているということについても、「学校が悪い」「先生が悪い」などと、平気で口にしたりす
る。子どもの言い分だけを鵜呑みにしているからである。さらにひどくなると、被害妄想をもつ
ようになる。「うちの子だけが、先生に嫌われている」「仲間はずれにされている」と。

 子どもにしても、親の前では、おとなしく、いい子ぶっていることが多い。

 あとはこの悪循環。(ますますはげしく子どもを叱る)→(ますます粗放化する)→(ますます先
生からの相談、苦情がふえる)→(ますますはげしく子どもを叱る)、と。

●対策

 親の理解と協力が何よりも大切だが、多くのばあい、家庭秩序そのものが崩壊していて、そ
れが得られない。ある小学校の教師は、家庭訪問をしてみて、あまりの荒れように、唖然として
しまったという。

 部屋中に酒びんが散乱し、子ども部屋といっても、ゴミの山だったという。約束の時間になっ
ても、母親が現れなかったので、その教師はそのまま学校に戻った。

 このタイプの子どもは、荒れる一方で、はげしい孤独感をもち、自分を包んでくれるおとなの
愛情に飢えている。おだやかで、愛情にあふれた、やさしい指導が好ましいが、実際には、そ
れをするにも限度がある。教師にしても、その子どもだけにかまっているわけにはいかない。
そのスキをついて、このタイプの子どもは、暴れ出す。

 何よりも教師の根気と努力が必要……ということになるが、実際には、「捨て子」として扱わ
れることが多い。「捨て子」というのは、教師仲間の間で使われる隠語で、「無視して、授業を進
めるしかないタイプの子ども」という意味だそうだ。現在の教育制度の中では、このタイプの子
どもを救いあげて、マン・ツー・マン的な指導するのは、現実には不可能と考えてよい。

 ただ、もちまえのバイタリティを、運動面、スポーツ面に向ければ、そちらの方面では、すばら
しい能力を発揮するということは、よくある。そういう方面で、自分を燃焼できるように、子どもを
もっていく。

●できるだけ早い時期に!

 対策を立てるとしても、できるだけ早い時期に子どもの進むべき方向性をつくってやる必要
がある。ここにあげた、R君は、小学3年生だが、あと数年もすれば、体格もおとな並になり、
俗な言い方をすれば、やがて手がつけられなくなる。

 同時に思春期に入り、それこそ欲望のおもむくまま行動するようになる。非行から、さらに何
らかの犯罪的行為に走る可能性も、じゅうぶん、考えられる。

 そういうとき、現場の教師は悩む。どこまで家庭教育に介入すべきか、と。親のほうから相談
があれば、話は別だが、先にも書いたように、ほとんどのばあい、親にそれだけの問題意識と
自覚がない。子どもは子どもで、先手を打って、親に教師の悪口を言う。「あの先生は、ぼくだ
けを目の敵(かたき)にする」「ぼくだけをたたく」「ぼくだけをのけものにする」と。

 教師が家庭教育に介入する前に、教師と親の信頼関係が、こなごなに破壊されているケー
スは、少なくない。

 もし今の段階で、R君に進むべき方向性をもたせてやらないと、先にも書いたように、「やが
て手がつけられなくなる」。進むべき方向性というのは、運動やスポーツ面で、R君のもつエネ
ルギーを燃焼させることを意味する。その一芸が、R君を立ち直らせる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 荒れ
る子供 荒れる子ども 粗放児 粗放化する子ども 家庭崩壊 崩壊児)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2028)

●マザコンの果てにあるもの(再録・再考版)

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マザコンについて、補記します。

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●でき愛は愛ではない

 子どもをでき愛する親は、少なくない。しかしでき愛は、(愛)ではない。自分の心のすき間を
埋めるために、親は、子どもをでき愛する。自分の情緒的不安定さや、精神的欠陥を補うため
に、子どもを利用する。つまりは、でき愛の愛は、愛もどきの、愛。代償的愛ともいう。

 これについては、何度も書いてきたので、ここでは、省略する。

 でき愛する親というのは、そもそも、依存性の強い親とみる。つまりそれだけ自立心が弱い。
で、その結果として、自分の子どもがもつ依存性に、どうしても、甘くなる。このタイプの親は、
自分にベタベタ甘えてくれる子どもイコール、かわいい子イコール、いい子と考えやすい。

 そのため自分にベタベタ甘えるように、子どもを、しむける。無意識のまま、そうする。こうして
たがいに、ベタベタの人間関係をつくる。

 いわゆるマザコンと呼ばれる人は、こういう親子関係の中で生まれる。いくつかの特徴があ
る。

 子どもをでき愛する親というのは、でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。でき愛ぶり
を、堂々と、人の前で、誇示する親さえいる。

 つぎにでき愛する親というのは、親子の間に、カベがない。ベタベタというか、ドロドロしてい
る。自分イコール、子ども、子どもイコール、自分という、強い意識をもつ。ある母親は、私にこ
う言った。

 「息子(年中児)が、友だちとけんかをしていると、その中に割りこんでいって、相手の子ども
をなぐりつけたくなります。その衝動をおさえるのに、苦労します」と。

 本来なら、こうした母子間のでき愛を防ぐのは、父親の役目ということになる。しかし概して言
えば、でき愛する母親の家庭では、その父親の存在感が薄い。父親がいるかいないかわから
ないといった、状態。

●意外と多いマザコン娘

 で、さらに、マザコンというと、母親と息子の関係を想像しがちだが、実は、娘でも、マザコン
になるケースは少なくない。むしろ、息子より多いと考えてよい。しかも、息子がマザコンになる
よりも、さらに深刻なマザコンになるケースが多い。

 ただ、目だたないだけである。たとえば40歳の息子が、実家へ帰って、70歳の母親といっし
ょに、風呂に入ったりすると、それだけで大事件(?)になる。が、それが40歳の娘であったり
すると、むしろほほえましい光景と、とらえられる。こうした誤解と偏見が、娘のマザコン性を見
逃してしまう。

 ……というようなことも、何度も書いてきたので、ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 冒頭にも書いたように、でき愛は(愛)ではない。したがって、それから生まれるマザコン性も
また、愛ではない。

 子どもをでき愛する親というのは、無私の愛で子どもを愛するのではない。いつも、心のどこ
かで、その見返りを求める。

 ある母親は、自分の息子が、結婚して横浜に住むようになったことについて、「嫁に息子を取
られた」と、みなに訴えた。そしてあちこちへ電話をかけて、「悔しい、悔しい」と、泣きながら、
自分の胸の内を訴えた。

 で、今度は、その反対。

●マザコン息子

 親にでき愛された子どもは、息子にせよ、娘にせよ、親に対して、ベタベタの依存性をもつ。
その依存性が、その子どもの自立をはばむ。

 よく誤解されるが、一人前の生活をしているから、自立心があるということにはならない。マザ
コンであるかどうかというのは、もっと言えば、親に依存性がもっているかどうかというのは、心
の奥の内側の問題である。外からは、わからない。

 一流会社のバリバリ社員でも、またいかめしい顔をした暴力団の親分でも、マザコンの人は
いくらでもいる。

 で、このマザコン性は、いわば脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、本人自身が、それ
に気づくことは少ない。……というより、まず、ない。だれかが、その人のマザコン性を指摘した
りすると、こう答えたりする。

 「私の母は、それほどまでにすばらしい人だからです」「私の母は、世の人のためのカサにな
れと教えてくれました」と。

 つまりマザコンの人は、息子であるにせよ、娘であるにせよ、親に幻想をいだき、親を絶対視
しやすい。美化する。親絶対教の信者になることも少なくない。つまり、自分のマザコン性を、
正当化するために、そうする。

 で、その分だけ、親を愛しているかというと、そうでもない。でき愛で愛された子どももまた、同
じような代償的愛をもって、それを(親への深い愛)と、誤解しやすい。

●親離れを助けるのも親

 本来なら、子どもは、小学3、4年生ごろ(満10歳前後)で、親離れをする。また親は親で、子
どもが中学生くらいになったら、子離れをする。こうしてともに、自立の道を歩み始める。

 が、何らかの理由や原因で、(多くは、親側の情緒的、精神的問題)、その分離がままならな
くなることがある。そのため、ここでいうベタベタの人間関係を、そのまま、つづけてしまう。

 で、たいていは、その結末は、悲劇的なものとなりやすい。

 80歳をすぎて、やや頭のボケた母親に向って、「しっかりしろ」と、怒りつづけていた息子(50
歳くらい)がいた。

 マザコンの息子や娘にしてみれば、母親は絶対的な存在である。宗教にたとえるなら、本尊
のようなもの。その本尊に疑いをいだくということは、それまでの自分の生きザマを否定するこ
とに等しい。

 だからマザコンであった人ほど、母親が晩年を迎えるころになると、はげしく葛藤する。マザ
コンの息子にせよ、娘にせよ、親は、ボケてはならないのである。親は、悪人であってはならな
いのである。また自分の母親が見苦しい姿をさらけ出すことを、マザコンタイプの人は、許すこ
とができない。

 そして母親が死んだとする。依存性が強ければ強いほど、その衝撃もまた、大きい。それこ
そ、毎晩、空をみあげながら、「おふくろさんよ、おふくろさ〜ん」と、泣き叫ぶようになる。

●マザコンは、離婚率が高い?

 さらにマザコンタイプの男性ほど、結婚相手として、自分の母親の代用としての妻を求めるよ
うになる。そのため、離婚率も高くなる。浮気率も高くなるという調査結果もある。ある男性(映
画監督)は、雑誌の中で、臆面もなく、こう書いている。

 「私は、永遠のマドンナを求めて、女性から女性へと、渡り歩いています」「男というのは、そう
いうものです」と。(自分がそうだからといって、そう、勝手に決めてもらっては、困る。)自ら、
「私は、マザコンです」ということを、告白しているようなものである。

 子育ての目的は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもをマザコンにして、よいこ
とは、何もない。
(はやし浩司 マザコン 息子のマザコン 娘のマザコン 代償的愛 親の美化 偶像化)

【補記】

【マザコンの問題点】

(親側の問題)

(1)情緒的未熟性、精神的欠陥があることが多い。
(2)その時期に、子離れができず、子どもへの依存性を強める。
(3)生活の困苦、夫婦関係の崩壊などが引き金となり、でき愛に走りやすい。
(4)子どもを、自分の心のすき間を埋めるための所有物のように考える。
(5)親自身が自立できない。子育てをしながら、つねに、その見返りを求める。
(6)父親不在家庭。父親がいても、父親の影が薄い。
(7)でき愛をもって、親の深い愛と誤解しやすい。
(8)親子の間にカベがない。子どもがバカにされたりすると、自分がバカにされたかのように、
それに猛烈に反発したり、怒ったりする。
(9)息子の嫁との間が、険悪になりやすい。このタイプの親にとっては、嫁は、息子を奪った極
悪人ということになる。

(息子側の問題)

(1)親に強度の依存性をもつ。50歳をすぎても、「母ちゃん、母ちゃん」と親中心の生活環境
をつくる。
(2)親絶対教の信者となり、親を絶対視する。親を美化し、親に幻想をもちやすい。
(3)結婚しても、妻よりも、母親を優先する。妻に、「私とお母さんと、どちらが大切なのよ」と聞
かれると、「母親だ」と答えたりする。
(4)妻に、いつも、母親代わりとしての、偶像(マドンナ性)を求める。
(5)そのため、マザコン男性は離婚しやすく、浮気しやすい。
(6)妻と結婚するに際して、「親孝行」を条件にすることが多い。つまり妻ですらも、親のめんど
うをみる、家政婦のように考える傾向が強い。

(娘側の問題)

(1)異常なマザコン性があっても、周囲のものでさえ、それに気づくことが少ない。
(2)母親を絶対視し、母親への批判、中傷などを許さない。
(3)親絶対教の信者であり、とくに、母親を、仏様か、神様のように、崇拝する。
(4)母親への犠牲心を、いとわない。夫よりも、自分の生活よりも、母親の生活を大切にする。
(5)母親のまちがった行為を、許さない。人間的な寛容度が低い。母親を自分と同じ人間(女
性)と見ることができない。
(6)全体として、ブレーキが働かないため、マザコンになる息子より、症状が、深刻で重い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 マザ
コン マザコンの問題点 娘のマザコン マザコン息子 マザコン娘)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【シャドウ論】

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仮面をかぶっても、仮面をぬぐことも
忘れないこと。

その仮面をぬぎ忘れると、たいへんな
ことになりますよ!

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●自分の中の、もう1人の自分

 もともと邪悪な人がいる。そういう人が仮面をかぶって、善人ぶって生きていたとする。すると
やがて、その人は、仮面をかぶっていることすら、忘れてしまうことがある。自分で、自分は善
人だと思いこんでしまう。

 このタイプの人は、どこか言動が不自然。そのため簡単に見分けることができる。さも私は
善人……というように、相手に同情して見せたり、妙に不自然な言い方をする。全体に演技ぽ
い。ウソっぽい。大げさ。

 こういう話は、以前にも書いた。

 そこでこのタイプの人は、長い時間をかけて、自分の中に、もう1人の自分をつくる。それが
シャドウである。ユングが説いたシャドウとは、少し意味がちがうかもしれないが、まあ、それに
近い。

 このシャドウのこわいところは、シャドウそのものよりも、そのシャドウを、時に、身近にいる
人が、そっくりそのまま受けついでしまうこと。よくあるのは、子どもが、親の醜いところをそっく
りそのまま、受けついでしまうケース。

●仮面(ペルソナ)をかぶる女性

 ある母親は、近所の人たちの間では、親切でやさしい女性で通っていた。言い方も、おだや
かで、だれかに何かを頼まれると、それにていねいに応じていたりした。

 しかし素性は、それほど、よくなかった。嫉妬深く、計算高く、その心の奥底では、醜い欲望
が、いつもウズを巻いていた。そのため、他人の不幸話を聞くのが、何よりも、好きだった。

 こうしてその女性には、その女性のシャドウができた。その女性は、自分の醜い部分を、そ
のシャドウの中に、押しこめることによって、一応は、人前では、善人ぶることができた。

 が、問題は、やがて、その娘に現れた。……といっても、この話は、20年や30年単位の話
ではない。世代単位の話である。

 その母親は、10数年前に他界。その娘も、今年、70歳を超えた。

●子に世代連鎖するシャドウ

 その娘について、近所の人は、「あんな恐ろしい人はいない」と言う。一度その娘にねたまれ
ると、とことん、意地悪をされるという。人をだますのは、平気。親類の人たちのみならず、自分
の夫や、子どもまで、だますという。

 その娘について、その娘の弟(現在67歳)は、こう教えてくれた。

 「姉を見ていると、昔の母そっくりなので、驚きます」と。

 話を聞くと、こうだ。

 「私の母は、他人の前では、善人ぶっていましたが、母が善人でないことは、よく知っていまし
た。家へ帰ってくると、別人のように、大声をあげて、『あのヤロウ!』と、口汚く、その人をのの
しっていたのを、よく見かけました。ほとんど、毎日が、そうではなかったかと思います。母に
は、そういう2面性がありました。私の姉は、その悪いほうの1面を、そっくりそのまま受け継い
でしまったのです」と。

 この弟氏の話してくれたことは、まさに、シャドウ論で説明がつく。つまり、これがシャドウのも
つ、本当のおそろしさである。

●こわい仮面

 そこで重要なことは、こうしたシャドウをつくらないこと。その前に、仮面をかぶらないこと。と
いっても、私たちは、いつも、その仮面をかぶって生きている。教師としての仮面。店員として
の仮面。営業マンとしての仮面。

 そういう仮面をかぶるならかぶるで、かぶっていることを忘れてはいけない。家に帰って家族
を前にしたら、そういう仮面は、はずす。はずして、もとの自分にもどる。

 仮面をとりはずすのを忘れると、自分がだれであるかがわからなくなってしまう。が、それだ
けではない。こうしてできたシャドウは、そのままそっくり、あなたの子どもに受けつがれてしま
う。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ シャドウ)

++++++++++++++++++

 少し前に書いた、「シャドウ論」を、
もう一度、ここに添付しておきます。
内容を少し手なおしして、お届けします。

++++++++++++++++++

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。商売では、いくら客に怒鳴られても、にこ
やかな顔をして、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

●凶悪事件の裏に

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに(仮面とシャドウの問題)が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらにそれが、出身高校へと結びついていった(?)。街道筋の宿場町であっ
たがために、余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。その人を判断する基準が、出
身高校へと結びついていった(?)。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

●ドロドロとした人間関係

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウ論で話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。
佐木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をし
ている。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャン。それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげる原動力になっ
た。

●いつのありのままの自分で

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまうということ。見抜くだけならまだしも、そ
のシャドウをそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 シャド
ウ 仮面 ペルソナ 復讐するは我にあり シャドウ論 参考文献 河出書房新社「精神分析が
わかる本」)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2029)

●心に従わず、心の主(あるじ)となれ

++++++++++++++

釈迦は、こう言った。

『心に従わず、心の主(あるじ)となれ』と。

もう少し明確に言うと、こうなる。

『心の奴隷になるな。心の支配者となれ』と。

さらの健康についても、こう言える。

『肉体の奴隷になるな。肉体の支配者となれ』と。

++++++++++++++

 釈迦は、こう言った。『……もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさ
えなければならない。心に従わず、心の主(あるじ)となれ』(「最後の教え」(仏教聖典))と。

 もう少し明確に言うと、こうなる。『心の奴隷になるな。心の支配者となれ』と。健康について
も、同じようなことが言える。『肉体の奴隷になるな。肉体の支配者となれ』と。

 心というのは、それが欲望に支配されているかぎり、私たちの精神活動は、邪悪なものとなり
やすい。また肉体についても、本来、肉体は、怠け者と考えてよい。心や肉体の命ずるままに
していたら、人間は、そのまま動物に逆戻り。健康も損(そこ)なわれる。

 その心や肉体は、常に、いろいろな信号を発している。その信号をどう聞き、選択するかも重
要だが、それ以上に重要なのは、心や肉体を、逆に、支配し、その心や肉体に命令することで
ある。

 たとえば何かの不愉快なことで、心がイライラしたとする。怒りも充満している。そういうとき心
の奴隷になってしまうと、心が命ずるまま、そのイライラや怒りが、表情や態度となって外に出
てきてしまう。ときに人間関係を破壊してしまうこともある。

 そこで反対に、心を支配する。支配して、心を、コントロールする。釈迦は、欲望について、
『心に従わず、心の主(あるじ)となれ』と言った。これを拡大解釈すれば、ここに書いたようなこ
とになる。

 同じように、健康についても、そうである。

 私たちの肉体は、(私)の命令どおりに動く、きわめて精巧なロボットである。(私)の意思の
命令に従って、(私)は、自分の(肉体)を自由に動かすことができる。「立て」と命令すれば、立
つ。「座れ」と命令すれば、座る。

 しかしその一方で、この肉体は、本来的には、たいへんな怠けものである。つねに私たちに、
「動きたくない」「疲れた」「めんどう」という信号を送ってくる。さらには「楽をしたい」「横になりた
い」「もっと食べたい」と。

 そんな肉体の命令をそのまま聞いていたら、それこそたいへんなことになる。そこで私たち
は、意思の命令によって、体を動かす。「お前の健康を管理するのは、私だ。私の言うことを聞
け!」と。

 するとしぶしぶながら、(肉体)が動き出す。それは幼い子どもに、何かの仕事を言いつける
ときの様子に似ている。「スリッパをならべてください」と頼むと、幼い子どもは、しぶしぶながら
も、それをする。

 (私)と(心)、さらには(私)と(肉体)を分離して考えることには、危険な側面もないわけではな
い。それが極端になると、(私)と(心)、さらには(私)と(肉体)を分離して考えるようになる。そ
うなればなったで、それはカルトの世界の話ということになる。彼らが言うところの(霊)というの
は、そういう考え方の延長線上にある。

 が、それはそれとして、つまりそれとは別に、(私)が(心)を支配し、ついで、(肉体)を支配す
ることは、釈迦の言葉を借りるまでもなく、大切なことである。心や肉体を支配できる人のこと
を、自己管理能力の高い人という。人格の完成度の高い人という。そうでない人を、自己管理
能力の低い人という。人格の完成度の低い人という。

 要するに感情のおもむくまま、行動してはいけないということ。一方、肉体が求めるまま、飽
食や大食をしてはいけないということ。だらしない生活をしてはいけないということ。これは心や
肉体の健康を守るために、とても重要なことである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 釈迦
 心の奴隷 肉体の支配者 心に従わず 主(あるじ))

【補記】
 何かのことで、カッとなったようなとき、この言葉を思い出してみてほしい。『心に従わず、心
の主(あるじ)になれ』と。

 あなたもきっと、私の意見に同意するだろう。

 また私は、よく自分の(肉体)に命令するときがある。近くにワイフがいても、ワイフに頼まな
いで、自分に向かって、「食器を洗え」「あと片づけをしろ」「掃除機をかけろ」と。

 そういうとき(肉体)は、「いやだ」という信号を送ってくる。しかし私は無視する。無視して、「や
れ」と再度命令をくだす。

 そういった命令を自分にくだすのが、このところ、とても楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●精神を支配せよ

+++++++++++++

昨日(7月6日)は、一日中、
「精神を支配せよ」という
言葉を、頭の中で考えていた。

釈迦は、『心の主(あるじ)と
なれ』と説いた。

それまでの私は、(精神)イコール、
(私)と考えていた。しかし
実際には、その(私)は、精神に
振り回されているだけ。

私の心の中は、いつもザワザワと
している。そしてそのたびに、
(私)は、右往左往している。

昨日、それがわかった!

+++++++++++++

 一度、自分の精神活動を、(私)から切り離してみる。それは、とても大切なことだと思う。肉
体にたとえてみると、それがよくわかる。

 私の肉体は、私のモノであって、私のモノではない。指の先の爪ひとつをとっても、(私)とは
無関係に成長する。「私の体」とはよく言うが、「私の体」と言えるような部分は、どこにもない。

 だから一度、自分の体を、(私)から切り離してみる。決して肉体の言いなりになってはいけな
い。たとえば昨夜も、こんなことがあった。

 このところ、体重が2〜3キロもふえてしまった。そこでこの数日間、食事の量を、それまでの
2分の1から3分の1に減らしている。野菜を中心とした献立に切り替えている。

 そんなとき、何かの用事で、街へ出た。ワイフは、自分の用事をすませていた。で、見ると、
道の反対側に、コンビニがあった。私は、無性にアイスクリームが食べたくなった。そのときの
こと。私はこう考えた。

 「私の肉体は、アイスクリームを求めている。しかし今、アイスクリームを食べたら、ダイエット
が台無しになってしまう」と。

 (アイスクリームを食べたいと訴える肉体)。しかしその(肉体)を一度、(私)から切り離してみ
る。すると、その(肉体)が、私のモノであって、私のモノでない、……たとえて言うなら、自分の
子どものように思えてきた。

 そこで私は、私の肉体に、こう命令をした。「今夜は、やめろ!」「がまんせよ!」と。

 これは肉体の話だが、精神も、同じように考えることができる。先にも書いたように、精神とい
うのは、いつもザワザワしている。怒り、ねたみ、うらみ、欲望などなど。美しい女性と通り過ぎ
ただけで、ふと、そちらを見てしまう。

 そこで私は、『心の、主(あるじ)となれ』という言葉を、反復する。私のばあい、私は、ずっと、
心の奴隷みたいなようなものだった。また、それが当然と考えていた。しかしそれでは、釈迦の
言葉を借りるなら、『身を正し、心を正す』ことはできない?

 たまたま昨日の朝は、ワイフと、不穏な関係にあった。いつもなら口げんかをしていたかもし
れない。私のワイフは、ときとして、私の言うことを、ことごとく否定する。「否定する」という意識
がないまま、否定する。たとえば、昨日の朝も、こうだった。畑でとってきた、豆の料理をし始め
たときのこと。

私「ケチャップをかけて、食べようか」
ワ「醤油のほうが、おいしいわよ」
私「醤油は、塩分が多い」
ワ「少しくらいなら、だいじょうぶよ」
私「いいじゃないか、ぼくが、ケチャップでいいと言っているんだから……」

ワ「少しは塩分をとったほうがいいのよ」
私「どうして、お前は、いちいちぼくの言うことを否定する?」
ワ「否定なんか、してないわよ」
私「それがパラドックスだ。『否定していない』と言って、否定している」
ワ「否定してないわよ」

私「ぼくが、ケチャップでいいと言っているから、そうしてくれればいい」
ワ「だったら、私の言うことも聞いてよ」
私「ぼくが、食べるんだから、それでいい。お前は醤油をかけて、食べればいい」
ワ「料理のあとで、醤油をかけるわけにはいかないのよ」と。

 こういう状態になると、あとは、もう何を言っても無駄。がんこというか、ワイフは、厚いカラの
中に入ってしまう。生来の生い立ちの貧しさが影響しているのかもしれない。あるいは認知症
の初期症状なのかもしれない。さらにあるいは、私に対して、根深い欲求不満を抱えているの
かもしれない。

 何はともあれ、そういうときは、私は、だまってワイフの料理したものを食べるしかない。それ
がいやなら、自分で料理をする。

 私は自分の精神に命令をした。「言い争うくらいなら、無視して、自分で料理を作れ!」と。

 私は戸棚から、いくつかの缶詰を取り出して、封を切った。冷蔵庫から、サラダを取り出し
て、テーブルに並べた。

ワ「私の料理は、食べないの?」
私「……」
ワ「無視しなくてもいいじゃないの?」
私「……」と。

 不思議と、心の中は、平穏だった。鼻歌まで出てきそうな雰囲気だった。私は私で、ワイフを
無視して、朝食をすませた。

 ……つまりそういうこともあって、昨日は、一日中、『精神を支配せよ(心の、主(あるじ)とな
れ)』という言葉について、考えていた。

 今までにない、新しい経験だったので、たいへん新鮮な感じがした。このつづきは、もう少し、
あとに書いてみたい。

【発展】

 子どもにしても、そうだ。「私の子ども」とは、よく言うが、「私の子ども」と言えるような部分は、
どこにもない。私という(男)がしたことは、情欲に任せて、精液をひとしずく、ワイフの体の中に
注入しただけ。

 「私の体であって、私の体でない」と考えていくと、「私の子どもであって、私の子どもでない」と
いう考え方が、さらに鮮明な輪郭(りんかく)をともなって、明確になって現れてくる。

 子育てをするときは、常に、子どもから一歩、退いて、子どもをみる。これは子育ての常識だ
が、同じように、自分をみるときも、自分自身から一歩、退いて、自分をみる。それが正しいこ
となのかどうなのか、今の私にはまだわからない。わからないが、ここにも書いたように、これ
は私にとっては、新しい経験である。それが今、たいへん新鮮な感じがする。

 もう少し、今の経験を積み重ねてみたい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本人は、「平均値」が大好き?

+++++++++++++++

ときとして、「平均」という
言葉には、意味がない。

日本人は、「平均」という言葉が
大好きだが、アメリカなどでは、
むしろ反対に、「平均」という
言葉のもつ意味を、否定している。

たとえば中学校で習う数学の本でも
そう教えている。

アメリカの教科書を紹介する。

+++++++++++++++

●アメリカの教科書

 日本の教科書は、どこかのエラーイ学者先生が作った。だからおもしろくない。役に立たな
い。いや、将来、学者になるにはよい教科書だが、しかし学者になる子どもは、一体何%いる
というのか。

一方、アメリカの教科書(日本でいう教科書というイメージはない。もちろん検定制度もない)
は、教科書そのものが、実用的。論より証拠。ここに紹介するのは、中学一年レベルの数学の
教科書(Prentice Hall版)。全米でもっとも広く使われている教科書と言ってよい。

(教科書の写真)(HPのほうで収録)

「資料を整理して、グラフ化しよう。

(1)初代のころの大統領と、最近の大統領の平均年齢を調べよう。(写真1)

(2)ファースト・フード店における、賃金(時間給)と平均値を調べよう。」(p.5)

 どの項目にも、「実生活に関連して……」というコーナーが用意されている。つまり生徒たち
は、そのつど、なぜそれを学ぶのか。またどう役立つのかということを納得しつつ学ぶしくみが
できている。が、日本にはそれがない。たとえば中学一年では、一次方程式を、三年では、二
次方程式を学ぶことになっている。が、なぜそれを学ぶのか。また学ばねばならないのかとい
う説明は、一切、ない。ないまま、問答無用式に子どもに押しつけている。

私など文科系の大学を出たこともあるが、高校を卒業後、二次方程式はおろか、一次方程式
すら、実生活で使ったことは、ただの一度もない。一方、アメリカの教科書は、生徒たちにこう
問いかけている。

●平均値を調べても意味がない?

 「初代のころも、最近も、大統領の平均年齢は、約58歳。初代のころの大統領の年齢は57
歳から61歳まで。大統領の年齢は、だいたいこの平均値の前後にある。が、最近の大統領の
年齢は、42歳から69歳までの範囲で、バラバラ。つまり平均年齢が同じ58歳になるといって
も、中身はまるで違う。だからこうした平均値を比較しても、あまり意味がない」(教師用指導
書)と。

 また時間給については、州ごとの平均所得を生徒に調べさせ、それをグラフ化させるところ
までしている。そしてその結論として、「考えてみよう」というコーナーでは、「アメリカは、八〇年
代の終わりから九〇年代のはじめに、経済の後退期に入ったが、どの州がもっとも影響を受
けなかったか」(写真2)と。さらに芝刈り(15ドル)、べイビーシッター(10ドル)、配達(12ドル)
の時間給を具体的に示しながら、「こうした時間給の平均値を調べることに意味があるのか」と
生徒に問いかけている。

ほかにも数字がいろいろ並んでいるが、すべて、現実の数値であるところがおもしろい。それ
だけではない。日本の教科書は、平均値の出し方までは教えるが、「平均値は意味がない」と
いうところまでは教えない。

たとえばこのコーナーでも、芝刈り、ベイビーシッター、配達の平均値は、約12ドルということに
なるが、「だからといって、それがどうだというのだ」「楽な仕事は、それだけ時間給が少ないの
は当然ではないか」と、そこまで生徒に問いかけている。

ここに紹介したのは、中学一年レベルの数学の教科書(Prentice Hall版)。全米でもっとも広く
使われている教科書と言ってよい。くわしくは、「はやし浩司のHP」→MENU→アメリカの教科書
で。

++++++++++++++

 日本人は、「平均」という言葉が、好きな国民である。何かにつけ、平均点を出し、その平均
点をみながら、一喜一憂する。たとえば日本では、「平均」「平均値」という言葉を、小学6年レ
ベルで教える。しかしその「平均値」に対する疑問は、少なくとも教科書には一行も書かれてい
ない。

 しかし一方、アメリカではそうではない。「平均」という言葉を教えながらも、同時に、平均とい
う言葉のもつ無意味さを教えている。これは教え方のちがいというよりは、それぞれの国民性
のちがいということになる。

 こんな(ちがい)も知って、日本の教科書をみるのも、また新たな発見につながるのでは?、
……という意味で、「平均」について、考えてみた。

【付記】

 平均値なんて、クソ食らえ! 平均的な生き方なんて、クソ食らえ! 私たちは、平均値とい
う数字を無視して生きよう! それが(自由)というもの!


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●子どもたちの世界(携帯電話・インターネット)

+++++++++++++++ 

私のところには、毎日、500〜800
通あまりのスパム・メールが届く。
(数えたことはないが、これは本当だぞ!)

その90%以上が、スケベ・メール。

そこで私は、すべてのメールを、一度
すべて、「ごみ箱」に入れる。設定は、
ツールの中の、(メッセージ・ルール)
でできる。

そうしたあと、読みたいメールだけを、
受信トレイに移動したあと、そこで
開いて読む。

こうしたスケベ・メールから子どもたちを
守ることは、可能なのか?

答は、NO!

+++++++++++++++
 
内閣府は6日、「情報化社会と青少年に関する意識調査」の結果を発表した。それによれば、
つぎのようだそうだ。

『高校生の96%が携帯電話やPHSを使用し、中学生は約6割、小学生も約3割が使ってお
り、携帯電話が広く行き渡っている実態が分かった。

小中高生を含む10〜29歳の男女5000人と、小中高生の保護者2000人を対象に3月、面
接や郵送で実施。10〜29歳の2468人(回答率49.4%)、保護者1145人(同57.3%)か
ら回答を得た。

 携帯電話やPHSからインターネットにアクセスしている高校生は95.5%、中学生56.
3%、小学生27%。パソコンからは高校生74.5%、中学生68.7%、小学生58.3%。目
的は▽宿題▽ホームページ、ブログを見る▽メールが小中高生とも上位を占めた。

 一方、保護者の約4割が「暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアクセスすること」
を心配していたが、こうしたサイトにアクセスしないよう心がけているという高校生は40.7%、
中学生は43.4%、小学生は30%にとどまった。

 有害サイトを判別してアクセスを防ぐ「フィルタリングサービス」を使用している小中高生は、
携帯、パソコンとも0.5〜2.7%しかいなかった』と。

+++++++++++++

 たとえば、こうある。『保護者の約4割が、暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアク
セスすることを心配していたが、こうしたサイトにアクセスしないよう心がけているという高校生
は40.7%、中学生は43.4%、小学生は30%にとどまった』と。

 保護者(=父母)の40%が、暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアクセスするこ
とを心配しているという。しかしこの数字を裏から読むと、「60%は、心配していないか、何とも
思っていない」ということになる。

 さらにこうしたサイトにアクセスしないよう心がけている高校生は、40.7%、中学生は43.
4%、小学生は30%にとどまったという。しかしこの数字も、同じように裏から読むと、「60%
以上の子どもたちは、日常的にアクセスしている」ということになる。

 その結果、『有害サイトを判別してアクセスを防ぐ「フィルタリングサービス」を使用している小
中高生は、携帯、パソコンとも0.5〜2.7%しかいなかった』と!

 こうした数字を見るかぎり、子どもの世界を、悪質インターネットの世界から守るのは、もう不
可能になったと考えるのが、正しい。「うちの子は、携帯電話をもっていないからだいじょうぶ」
とか、「インターネットはさせていないからだいじょうぶ」などと思うのは、幻想以外の何ものでも
ない。

たとえば、ここに100人の中学生がいたとする。内閣府の調査によれば、43%、つまり43人
が、悪質サイトへのアクセスをしないように心がけているという。となると、では、残りの57%の
子どもは、どうなのかということになる。

内閣府の調査をそのまま読むと、「心がけている子どもも、約半数はいるから、問題はない」
(?)ということになる。

 しかし本当にそうか。本当の問題は、その中身である。

 そうしたサイトへのアクセスに、ほとんど関心がない子どももいれば、反対に、毎日、家に帰
ってから、ハマりっぱなしという子どももいる。「57%もいるからだいじょうぶ」ということではな
く、そういうハマりっぱなしという子どもが、仮に1%でもいたら、大問題だということ。1学年を、
約120万人で計算すると、1%でも、中学生で、3万6000人ということになる。

 この1%の子どもたちが、残りの99%の子どもを、誘導してしまう。「悪」のもつパワーは、そ
れほどまでに強烈である。

 が、今では1%どころか、50%以上の子どもたちが、日常的に、悪質サイトにアクセスしてい
る。「手遅れ」というよりは、子どもたちは、私たちの知らない、まったく別の新しい世界を作りつ
つある。

 私は、この数字を見て、そう思った。

【まとめ】

●「情報化社会と青少年に関する意識調査」(内閣府・07年7月発表)


携帯電話やPHSからインターネットにアクセスしている子ども、

高校生は95.5%
中学生56.3%、
小学生27%。

パソコンからインターネットにアクセスしている子ども、

高校生74.5%
中学生68.7%
小学生58.3%。

目的は●宿題●ホームページ、ブログを見る●メールが小中高生とも上位を占めた。

 保護者の約4割が「暴力的、性的、反社会的な内容を含むサイトにアクセスすること」を心配
している。

こうしたサイトにアクセスしないよう心がけているという子ども、

高校生は40.7%
中学生は43.4%
小学生は30%。

 有害サイトを判別してアクセスを防ぐ「フィルタリングサービス」を使用している子ども。

小中高生は、携帯、パソコンとも0.5〜2.7%、と。

(小中高生を含む10〜29歳の男女5000人と、小中高生の保護者2000人を対象に3月、
面接や郵送で実施。10〜29歳の2468人(回答率49.4%)、保護者1145人(同57.3%)
から回答を得た。)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 携帯
電話 子供と携帯電話 子供とインターネット 子どもとインターネット)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2030)

【群馬県のMさんより】

+++++++++++++++++

群馬県にお住まいのMさんより、
子どもの恐怖症についての相談が
あった。

Mさんの次男は、その恐怖症で、
学校へ行けない状態がつづいて
いる。

+++++++++++++++++

はじめまして。自分の子供のことで悩んでいる時、はやし先生のHPを拝見しました。

 次男(小4)が5月の中ごろより、学校に行けなくなっております。そのことでご指導いただけれ
ばと思い、メールを送らせていただきます。

 子供は小5(11歳)、小4(9歳)、保育園年中(4歳)の3人の男の子です。

 7年前から私たち夫婦が、私の実家の会社を継ぐことになり、現在は、主人と一緒に、その
会社で働いています。主人、私、母、叔母、それに従業員6名でやっております。

実家とは別々に生活しています。主人は婿養子ではありません。主人の両親は遠方に住んで
いて、盆、正月程度しか帰ることができません。私の義母(=主人の母)は保育園の園長先生
をしていたこともあり、子供の扱いがとても上手です。長男、次男とも義母が大好きで、いつも
夫の実家へ帰るのを楽しみにしています。

 私には兄が2人おり、私は3女です。長男はまもなく50歳になりますが、27歳ぐらいから引きこ
もりになり、現在も、その状態が続いております。

 私の実家は複雑でした。

 私の祖父は多額の借金を残したまま、亡くなり、父は20歳ごろから、借金だらけの中、苦労し
て現在の家業をつづけてきました。意に沿わない母との結婚、叔母や祖母との同居の上、そ
れに貧乏でした。叔母は父の母親のようです。母の実家のいざこざ、母の実家への借金、仕
事の問題等など、叔母が何かと解決してきました。

父はロマンチストで、母は現実派でした。
 
私の父はいつも、頭のボケた祖母を罵倒し、私の母を罵倒してきました。基本的にはみんな善
人なのですが、そんなわけで問題が絶えませんでした。私は怒鳴り声が聞こえる家がいやでし
た。

そんな中で精神的に一番被害を受けたのが兄でした。兄は就職した後、家業にもどり、すぐに
そのまま家に引きこもってしまいました。兄は両親とは全く話せなくなったため、私が間に入っ
ています。結婚前から、今まで、兄のことでずっと振り回されてきました。

 仕事がとても忙しかったのと、私の兄が引きこもったこともあり、この7年間、毎日、目の回る
ような忙しさでした。

 先日、私の父が亡くなりました。次男は父の四十九日が終わった直後から、学校に行けなく
なりました。

 何故、急に行けなくなったのかについては、原因はよく解りません。本人にも何度か聞きまし
たが、何故急に怖くなったとのこと。

 ただ、今から考えると、少し前から様子はおかしかったように思います。

4〜5ヶ月程前から、(1)見ているものが、急に小さくなるとか、そんなことを訴えるようになりま
した。

 三男と衝突することが多くなったようです。

 ほかに、(2)早起きだったのが起きれなくなる。(3)登校前、トイレからなかなか出てこない
(大便がまた出そうな気がするので、それが無くなるまで出られない)、と言うような事がありま
した。

 最近はほとんどありませんが、長男も次男も、低学年の頃、学校に行く前に何度かお腹が痛
くなったことがあります。私たちは、熱がない場合、学校に行き、どうしてもだめだったら迎えに
行くよと言い、送り出すようしておりました。

 今回、学校に行けなくなった直前もやはり、次男は腹痛や吐き気を訴えました。2日程はしぶ
しぶ行っていました。その後、教室が怖いと言い出し、「お母さんがついて来てくれたら行け
る。」と言うので、1週間ほど一緒に学校に行きました。が、それも行けなくなりました。

 教室が怖いから始まり、同年代の子供たちが怖い、知らない人が怖い、大きな物音が怖い、
などと訴えるようになりました。

 しばらく、休んでいましたが、「楽しいことがない」と言うので、おもちゃを買ってあげたり、一緒
にあそんであげたり、出かけたりもしたのですが、最近では、遊ぶものもなくなってきました。

ビデオやインターネットなども長い時間していたこともあるのですが、あまり長くし続けるのも良
くないように思い、やる時間を決めました。すると、また、暇になってしまいました。

あまり、暇だと言うので、「勉強でもする?」と聞くと、好きな算数の計算はやるのですが、嫌いな
漢字練習などは、少ししただけで、様子がおかしくなってしまいます。

 学校を休みだしてからしばらくしてからのこと。校外学習の日、行きたそうにしていたので、聞
くと「行きたい」というので、学校へ行きました。それからは、行きたい時に行くというかたちで学
校に行っています。

しかし、学校にいる間、怖がることが多く、私におんぶしたり、膝に座ったり、廊下でうずくまっ
たりしています。休み時間のドッチボールや、体育での球技などはやりたいと言って、参加する
ことができます。何かのことで怖くなったら、帰っておいでと言っていますが、帰りたくないと言う
ことが多いです。

 この1週間ほどは、あまり無いのですが、突然、おかしなことを言い出すことがありました。

たとえば、学校に行った日、学校が目の前にあるのに、「学校どこ?」と聞くようなことです。当
然解っているようなことを、聞いてきたりします。

 長男が生まれた頃は、もともと神経質な私は、いろいろなことで悩んでいました。長男のほう
に何か問題が起こらないかを心配をしていたほどです。次男はひょうきんで明るかったし、友
達もそこそこいるようだったので、ほとんど心配していませんでした。ところが、今回、学校に行
かなくなってから、次男といろいろと話していると、次男は、とても怖がり屋で、細かなことにとて
もこだわる子であることが解りました。
 
 次男との接し方はこのままでよいのか? 病院等に相談する必要は無いのか。(スクールカ
ウンセリングの先生はもう少し様子を見ては、と言っています。)

 現在、仕事を休んでいますが、いつまでもこのままというわけにはいきません。仕事を辞める
わけにもいきません。

 無理に学校に行く必要はないよ、とは言っていますが、行かないで家にいると、次男は、暇で
仕方がないと言います。そういうとき、どのように対処したらよいのでしょうか。あるいは学校を
休んでいる間は、どのような過ごさせ方をしたらよいのでしょうか。

 今まで、ゲーム機を買い与えていませんでしたが、最近欲しいと何度も言うようになりました。
約束事を決めて、買ってあげるべきかどうか、迷っています。

 次男への接し方と、長男、三男への接し方に相当な差が出てしまっています。
 長男も影響されて、学校を休みがちになってきています。どのように対処したらよいのでしょう
か。

 たぶん、今の状態は相当長く続くとは思うのですが、どのように子供たちに接していくべきな
のか、仕事をどうしたら良いのか?、など毎日 色々悩んでおります。

ご指導宜しくお願いいたします。

【はやし浩司よりMさんへ】

 私もいくつかの恐怖症をもっています。子どものころは、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあり
ました。30歳少し前に、飛行機事故に遭遇してからは、飛行機恐怖症になってしまいました。

 何とか飛行機には乗れるのですが、先方の外地などでは、完全な不眠症になってしまいま
す。(最近は、かなり楽になりましたが……。)

 恐怖症を軽く考えてはいけません。よく「気のせいだ」と言う人もいますが、そんなものではあ
りません。私が経験していますから、よく知っています。

 恐怖症の対処のし方の第一は、(1)そのことに触れないこと、(2)時間をかけて忘れさせる
こと、です。

 全体にみると、学校恐怖症(私のHPで、「はやし浩司 学校恐怖症」を検索してみてください)
による不登校のようにも思いますが、正確な診断は、スクールカウンセラーを通して、学校医
にしてもらってください。

 また神経症による症状も、いくつか出ていますね。しかし最近の考え方によれば、子どもはあ
くまでも、(代表)にすぎないという視点で、子どもの問題を考えます。大切なことは、「子どもを
なおそう」と考えるのではなく、原因となっている家庭環境、親子関係を猛省するということで
す。

 メールによれば、いろいろと不安定な家庭事情がつづいていたようですね。そういったこと
が、子どもの心理に大きな影響を与えてきたと考えてもよいのではないでしょうか。Mさんたち
の気がつかないところで、です。

 で、具体的に、どうしたらよいかについてですが、あまり(こだわり)が強いようでしたら、心療
内科を訪れてみることも考えてください。今ではたいへんすぐれた薬も開発されています。

 しかし当然のことながら、「薬だけでなおそう」とは、考えないでくださいね。(環境)を考えま
す。コツは、友として、話しかけ、相談にのることです。この際、くだらない親意識は、捨ててくだ
さい。

 子どもの立場からして、親の存在をまったく意識しないほどまで、子どもの周囲から緊張感を
取り除きます。親の過関心、過干渉があれば、改めます。また「家庭は心を休める場所」と心
得て、家庭では、子どもに好き勝手なことをさせます。

 態度がぞんざいになっても、部屋中が散らかっても、子どもがそれでいいと言うなら、それに
任せます。

 次男は、どこかで愛情飢餓の状態だったかもしれません。が、それはそれとして、今からでも
遅くありませんから、全幅の愛情を、次男に向けてあげてください。添い寝、手つなぎ、抱っこ、
いっしょの入浴などは、いとわず、します。献立も、CA、MG、K(=海産物)の多い食生活に切
り替えます。必要であれば、CA剤を処方してもらい、一方で、甘味の強いジュース、菓子など
は避けます。

 こうした問題で、一番大切なのは、担任の先生と密接な連絡をとり、カウンセラーの先生のア
ドバイスを聞くことです。幸いにも、「様子をみましょう」ということですから、カウンセラーの先生
は、その程度(失礼!)のことに思っているのかもしれません。というのも、Mさんにしてみれ
ば、自分の子どものことでもあり、事情が客観的に見えないかもしれませんが、事例としては、
(よくある事例)です。

 子どもが風邪をひくように、今、Mさんの次男は、心の風邪をひいているのです。だれだって
風邪くらい、ひくでしょう。だからあまりビクビクしないで、時の流れの中に、静かに身を置いて
みてください。

 私の感じたところでは、症状は、学校恐怖症といっても、軽いのではないかと思います。むし
ろ怠学に近いと思います。学校恐怖症の子どもは、家から出たがりませんし、また「退屈」とは
あまり言いません。

 こうした事例では、先にも書きましたように、「なおそう」と思わないこと。またここが大切です
が、「今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて」、対処してください。この種の問題は、
なおそうと思い、無理をすればするほど、二番底、三番底へと落ちていきます。つまり「今を最
悪」と思ってはいけません。

 これからのことですが、仕事と子ども、どちらが大切か、よく考えてください。私なら、迷わず、
子どもを選びます。Mさんには、Mさんのご事情があるかと思います。ご主人と、このあたりの
ことを、よく話しあってください。道はあるはずです。

 また長男に現れた症状ですが、こうした伝播は、よく報告されています。長男は、11歳という
ことですから、そろそろ何か目的(目標)をもたせることで、対処するのがベストかと思います。

 詳しくは、また私のマガジン(予定では、8月1日号)で取りあげさせてください。無料ですか
ら、また読んでくだされば、うれしく思います。

 神経症、恐怖症、学校恐怖症などの問題も、そちらで取りあげてみます。

 このところ忙しくて、ゆっくり返事が書けなく、この程度ですみません。また返事が遅れたこと
をお許しください。

 どうか、気を楽に。今はつらいかもしれませんが、子どもを信じて育てれば、この種の話は、
必ず、あとで笑い話になります。

 あとは、許して、忘れる、ですよ。その度量の広さが、あなたの子育てを、心豊かなものにし
ます。あなたももっとすばらしい人になれます。

 たかがゲームくらいのことで、悩まないこと。ご主人に任せたらどうでしょうか。

 おやすみなさい!

 はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学校
恐怖症の子供 学校恐怖症 恐怖症 怠学)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ

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昨日は、山荘のほうで、草刈りを
した。楽しかった。

エンジン付きの草刈り機で、バリバリと
夏草を刈っていると、気分そう快、
そのもの。

あとでみると、全身が、シャワーでも
浴びたかのように、汗ダクダクに
なっていた。

扇風機にあたって、体を冷やす。
ワイフが用意してくれたウーロン茶を
飲む。

その味がまた、格別!

+++++++++++++++

●小細工をする人

 小細工をする人に出会うと、不愉快。本当に不愉快。たとえばわずかなお金をケチって、そ
れを何とか言葉だけで、ごまかそうとする。こちらの機嫌を取る。へつらう。お世辞を並べる。

 こちらは相手の意図がよくわかっている。だから儀礼的なあいさつしか、しない。が、相手
は、それで私をだましたつもりでいる。うまく、丸めこんだつもりでいる。

 しかし、私は、相手が思っているほど、バカではない。相手の心の動きが、手に取るように、
よくわかる。

 ……実は、そういう相手ほど、気をつけたらよい。そういう相手ほど、こちらの様子をうかが
い、それをネタに、別のところでは、私の悪口を言う。それもよくわかっている。

 では、どうするか?

 答は簡単。そういう相手とは、つきあわない。つきあう価値もない。時間の無駄。

●義兄の話

 ……というような話を、先日、私の義兄が話してくれた。私にも似たような経験があるので、
話がはずんだ。

 「バカな人からは、利口な人が見えない。しかし利口な人からは、バカな人がよく見える」と私
が話すと、「まったく、そのとおりです」と言って、義兄は笑った。

 つまりバカな人は、いつも自分を基準にして、相手を見る。「相手も、自分と同じ程度だろう」
と思って、小細工をする。しかし利口な人からは、相手がよく見える。こんな例がある。

 私はときどき、幼児の前で、わざと計算をしまちがえて見せる。「3足す2は……、エ〜と、6
かな?」と。

 そのとき計算機を持ち出してみるのも効果的。すると中には、それを本気にして、私に向かっ
てこう言う子どもがいる。「先生、それでもあんた、本当に先生?」と。

 子どもがバカというわけではない。その子どもはその子どもを基準にして、私にそう言う。そう
いう例は、多い。

●加齢とともに

 ほとんどの人は、加齢とともに、頭の働きが鈍くなる。それはどうしようもないこと。が、それだ
けではない。

 50歳も過ぎると、それまでごまかしてきた持病が、どっと表に出てくるように、60歳になると、
その人のもつ人間性が、どっと表に出てくる。たいていは、邪悪な人間性である。つまりごまか
しがきかなくなる。

 冒頭に書いた、小細工をする人も、そうだ。表面的には、穏やかでやさしい人を演じていた
が、このところ、様子がおかしくなってきたという。

 義兄から預かっていたお金を、ごまかす。使いこむ。それを義兄から指摘されると、あれこれ
理由にもならない理由をくつけて、それを正当化する。とぼける。笑ってごまかす。「言った」「言
わない」の押し問答になる。そこである夜、義兄が反撃に出た。

 義兄は、FAXで、預けたお金の明細を、日付とともに、送った。預金通帳の明細もつけて、送
った。

 とたん、相手の様子が変わった。そのあと電話をすると、相手の声が、恐怖で(?)、震えて
いるのがわかったという。もともと小細工をするような人は、気が小さい。いつバレるのではな
いかと、ハラハラしている。だから、そうなった。

●清く、正しく……

 人づきあいの基本は、清く、正しく……、である。しかし60歳を過ぎてからでは、遅い。50歳
を過ぎてからでも遅い。40歳でも、30歳でも、遅い。

 人格などというものは、一朝一夕にできるものではない。日々の心がけが、長い年月を経て
熟成される。それがその人の人格になる。そしてその人格が、ここに書いた、バカな人と、利口
な人に区別する。

 義兄との話は、つづいた。

義兄「ぼくも、そこまで強く出るつもりはなかったんですがね、相手が、私をごまかしたつもりで
いるのを知って、私なりに、一度、たたいておく必要があると思ったわけです」
私 「ぼくなら、相手にしないで、無視しますが……」
義兄「1度や2度なら、そうでしょうね。しかしそういう状態が、この5年以上もつづきましたから
……」

私 「……考えてみると、人間というのは、さみしい動物ですね。同じ心をもちながら、その心
を、神のような心にすることもできる人もいれば、反対に、動物以下の心にしてしまう人もいる」
義兄「浩司さん、だからね、大切なことは、ある年齢になったら、バカな人とは、つきあわないこ
とですよ。自分の(命)を見苦しくしてしまう。私が、その相手に、ガツンと言ったのは、縁を切る
つもりで、そう言ったのです。これでもう相手からは、連絡はないでしょう。ハハハ」と。

 義兄のような人物を、「大物」という。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2031)

【今朝・あれこれ】(7月10日)

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昨日は、涼しかった。まるで秋の
ようだった。

夜、寝るとき、薄いタオルケット
だけをかけた。が、すぐ寒くなって、
もう一枚、毛布を出して、寝た。

しかしどうも寝心地が悪かった。

いろいろな(思い)が現れては、
消えた。気がつくと、夜中の12時。

一度、起きて、水を飲む。

つぎに気がつくと、朝の4時。

今が、そのとき。午前、4時、少し
すぎ。

みなさん、おはようございます!

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●怒りの相乗効果

 ひとつずつの(怒り)は、それほどではない。しかしそんな(怒り)でも、いくつか重なると、相乗
的に、その(怒り)が大きくなる。

 今の国政に対する(怒り)がそうだ。
 
 今朝のヤフー・ニュースを読むと、A農林大臣の事務所経費問題について、安倍総理大臣
は、「逃げきり」と決めたという。A農林大臣は、予定通り、国際会議出席のため、外国へ。「官
邸サイドが強気なのは、A氏のばあいは、実態から懸け離れた経常経費の計上などは見当た
らないと判断しているため」という。

 しかしそれですむか、どうか?

 年金問題をはじめ、K防衛大臣の失言問題などなど。その流れの中で、今回のA農林大臣
の事務所経費問題が起きた。テレビで報道された映像を見ると、事務所として使われたといわ
れる実家は、まれに見る、大豪邸。そんな大豪邸が、事務所?

 (怒り)の相乗効果が始まると、そんな映像を見ただけで、さらに(怒り)が、大きくなる。その
せいもあって、安倍内閣の支持率はさがる一方。反対に不支持率は、あがる一方。どこかの
調査会社の調査によれば、支持率は30%台。不支持率は50%台ということだそうだ。

 で、A農林大臣の事務所経費問題。どの政治家も、多かれ少なかれ、みなやっていること。こ
の問題を、あまり追及すると、ヤブヘビになりかねない。だから、ここらで幕引き。それが安倍
内閣の本音ではないのか。ヤフー・ニュースは、つぎのように伝えている。

 『首相周辺は、(1)赤城氏が事務所とした実家には活動実態もあり、そもそも実家であるた
め家賃は払っていない。(2)10年間の経費計9000万円も、1年単位で見ると高い金額では
ないとして「佐田氏とは決定的に違う」としている』と。

 活動実態があれば、10年間で9000万円は、妥当な金額というわけ? どうもすっきりしな
い。

【補記】

JNNの世論調査で先月(07年6月)、急落した安倍内閣の支持率が今月も2ポイント下がって
37.5%となりました。安倍内閣を支持しない人は初めて6割を超えています。

 調査は、この土日に行いました。内閣支持率は今月も2ポイント下がって37.5%となり、支
持しない人は政権発足以来、初めて6割を超えました。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【子育て狂騒曲】

●イチャモン保護者(?)

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学校に、無理難題をふっかけてきては、
学校の教師を困らす親がふえている。

称して「イチャモン保護者」。
「モンスター保護者」という新語も
生まれた。

しかしこの種の保護者は、昔もいた。
ただ当時は、数も少なかったし、
(学校)という権威が、まだそれを
抑えこむ力をもっていた。

今は、それがなくなった。

私自身も数多く経験している。

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●先生の訴訟費用保険加入が急増(産経新聞)

今朝(7月10日)の産経新聞は、つぎのように伝える。

『学校に対する保護者の理不尽な要求が問題となるなか、仕事に関するトラブルで訴えられた
場合に弁護士費用などを補償する、「訴訟費用保険」に加入する教職員が急増している。

東京ではすでに公立校の教職員の3分の1を超す2万1800人が加入した。いつ保護者に訴
訟を起こされるか分からないとおびえる教師たちの姿が浮かぶ。

 公務員の訴訟費用保険は、職務に関連した行為が原因で法的トラブルに巻き込まれた際、
弁護士費用や損害賠償金などを補償する保険。東京では都福利厚生事業団が窓口となり平
成12年から都職員の加入を募集。保険料は月700円だ。

 事業団によると、加入者は教職員が突出して多く、3月現在で全体の約7割を占める2万18
00人。導入した12年当時は全体の2割の1300人だったが、口コミで急速に広まったようだ
という。同タイプの保険を扱う大手損害保険会社でも、個人で加入する教職員が全国的に目
立っているという』と。

 少し前、帰校途中で、けがをした子どもについてのエッセーを書いた。これらの話は、私が当
事者である学校の先生から、直接聞いた話をもとにして書いたものである。

++++++++++++++

●トラブル・メーカー

 ある県のある小学校に、「キング・トラブル・メーカー」と呼ばれる母親がいる。現在は、長男
の時代から、その小学校に、もう8年もいるという。その妹が、今年、5年生になった。

 その母親は、ささいなことでからんで、学校へ怒鳴りこんでくるという。40歳を過ぎたベテラン
教師(男性)ですら、その母親から電話がかかってくると、顔が青ざめてしまうという。

 とにかく、しつこい、ということらしい。

 あるとき、担任の教師が、その妹の頭を、プリントを丸めてたたいた。たたいたというより、ト
ントンとたたいたというほうが正しい。

 が、その3日後のこと。その母親がいきなり、校長室へ飛び込んできた。そして、「(担任の)
○○を呼んでこい!」と。

 校長が「どうしましたか」と聞くと、「うちの子をたたいたそうだが、許せない。うちの子になんて
ことをするのだ!」と。

 あわててやってきた担任には、その意識がない。たたいたという意識がないから、覚えていな
い。そこで「たたいた覚えはありません」と答えると、「相手が子どもだと思って、いいかげんな
ことを言うな!」「うちの子(娘)は、私には、ウソをつかない!」と。

 そうして1時間ほど、ねばったという。

 で、こういうことが、1、2か月おき。あるいは3、4か月おきにつづいた。電話を受け取っただ
けで、顔が青ざめるようになるのは、当然である。

 その男性教師(40歳)から、「そういうときは、どうしたらいいでしょうか?」と。

 私の経験では、(1)こちら側からは、いっさい、アクションをしない。その場だけのことですま
して、あとは、ただひたすら無視するのがよいと思う。そう返事を書いた。

 何かアクションを起こすと、それがとんでもない方向の飛び火することがある。そしてときとし
て、収拾がつかなくなってしまう。

 メールの内容からして、相手の母親は、まともではない。このタイプの母親は、全体の5%は
いるとみる。育児ノイローゼ、過関心、過保護、過干渉。その母親自身が、どこかに心の病気
をもっていることもある。あるいは、アルツハイマーの初期の、そのまた初期症状というのもあ
る。

 異常なまでの自己中心性、傲慢、強引などなど。妄想性も強く、対処のし方をまちがえると、
烈火のごとく怒りだす。詳しくは書けないが、私も若いころ、そのタイプの母親に、さんざんいび
られた。当時は、そのため、母親恐怖症にさえなってしまった。「お母さん」と相手を呼んだとた
ん、ツンとした緊張感が、背中を走ったのを覚えている。

 しかしここに書いた鉄則を守るようになってから、トラブルは、ほとんどなくなった。要するに、
その場だけ相手にして、あとは、忘れる。この世界には、『負けるが勝ち』という、大原則があ
る。意地を張ったり、反論しても、意味がない。まず、頭をさげて、「すみませんでした」と言えば
よい。あちこちで問題にすると、かえってこじれてしまう。

 ささいな言葉尻をつかまえて、「言った」「言わない」の、大騒動になることもある。だから、無
視。ただひたすら、無視。あとは、時間が解決してくれるのを待つ。

 で、その母親は、校長室で、「隣の席にすわっている女の子を呼んでこい」と息巻いたという。
「その子どもが、証人になってくれる」と。

 校長が「そこまでは、できません。相手の子どもにショックを与えることになりますから」「これ
からは気をつけますから、許してください」と、再三再四、頭をさげたという。

 こういうトラブルは、学校という世界では、まさに日常茶飯事。しかし一番の犠牲者は、その
母親の子どもということになる。

 そのメールをくれた教師は、こう書いている。

「その子が、たたかれたとウソを言ったのは、宿題をやっていなかったからです。それで学校へ
行きたくないと言った。が、母親には、それを言うことができなかった。それで、その子は、母親
に、ウソを言ったのだと思います。ああいう母親ですから、子どもも、ウソをつくしかなかったの
ですね」と。
 
 あなた周囲にも、1人や2人、必ず、このタイプの母親がいるはず。つきあうにしても、じゅう
ぶん注意したほうがよい。とくに、口がうまく、ヘラヘラと、どこか不自然なほどまでに、親しげに
近寄ってくる母親には要注意。これは、ある幼稚園の理事長がこっそりと私に話してくれたこと
である。 

(付記)

 それでもトラブルが起きてしまったら……。学校での活動は、必要最小限にして、学校そのも
のから遠ざかること。

 時間には、不思議な力がある。その時間が解決してくれる。

 またこうしたトラブル・メーカーは、あなたに対してだけではなく、別のところでも、トラブルを起
こすようになる。あとの判断は、周囲の人たちに任せればよい。性急に、自分の正しさを主張
したりすると、かえって問題が、こじれる。

 ほかの世界でのことなら、ともかくも、間に子どもがいることを、決して忘れてはならない。


++++++++++++++++

●親とのトラブル

++++++++++++++++

ある学校の先生が、親とのトラブル
で、悩んでいる。

トラブルといっても、その先生には
身に覚えのないトラブル。

教育現場は、私たちが思っているほ
ど、美しいものではない。

そこには、ありとあらゆる人間の欲
望が、ウズを巻いている。ホント!

++++++++++++++++

 昨夜、ある学校の先生(小学5年担任、女性)と、話す。電話で話す。いろいろと悩みは、尽
きないようだ。今、こんなことで、悩んでいるという。

 「ちょうど半年前のこと、何かのことで、その母親は、私に、『あなたは、それでも先生ですか
ア!』と言いました。数日おきに学校へ電話をしてきて、あれこれと言うのです。

 いわゆる教育ノイローゼというのですね。ささいな問題を取りあげては、ああでもない、こうで
もない、と。一方的にペラペラとしゃべるだけ。こちらの話など、何も聞かないのです。それであ
る日、私のほうがキレてしまい、何かあれば、直接学校のほうへ、おいでくださいませんかと言
ったのです。

 それに対して、その母親は、私に、『あなたは、それでも先生ですかア!』と。

 この世界にも、口に出していい言葉と、そうでない言葉があります。その母親は、口に出して
はいけない言葉を言ったのですね。それからは、私のほうも、心して、一線を引くようになりまし
た。

 が、その母親のほうは、それからことあるごとに、私の悪口を言い始めました。そこで先生
(=私)からのアドバイスにしたがい、ひたすら無視することにしました。やがてその母親は、先
生(=私)が言ったように、ほかの父母たちからも、孤立するようになりました。

 ところが、です。先日、また突然、電話がかかってきました。うちの学校では、自宅の電話番
号は教えないようにしているのですが、自宅へ、かかってきました。電話を受けた娘の話では、
泣き声だったそうです。そして、『先生、うちの子がいじめられている。何とかしてほしい』と。

 たまたまその日は、今度の研修会の準備やらで、帰宅が10時近くになっていました。娘から
そういう電話があったことは聞きましたが、10時も過ぎていたということで、その日は電話をし
ませんでした。

 翌朝、一番に電話をしてみましたが、留守でした。しかたないので、そのまま学校へ出勤。

 ところが昼近くになって、教頭から突然の呼びだし。あわてて校長室へ行ってみると、その母
親が、ものすごい剣幕で、そこにいました。驚いて、『どうしたのですか?』と聞くと、その母親
は、私を無視し、教頭に向って、こう怒鳴りました。『こんな教師は、即刻、辞めさせてくださ
い!』と。

 いろいろな親がいますが、実際には、こういう親も多いです。そしてこういう親にからまれる
と、神経がもちません。こういうときは、どうしたらいいのでしょうか?」と。

 ちょうど半年前、私がその先生にしたアドバイスは、つぎのようなものだった。

 まともでない親(失礼!)にからまれたときは、ひたすら無視する。ていねいに頭をさげて、
「すみません」とだけ言って、逃げる。こちらが反応すればするほど、相手は勢いづく。私の恩
師(元幼稚園理事長)は、かつて、こう教えてくれた。

「林さん、そういうときは、『私がいたりませんでした。どうか許してください。これからも何かと、
いたらない点があるかもしれませんが、そのときは、よろしくご指導ください』と言って、頭をさげ
なさい。決して、親を怒らせてはいけませんよ」と。

そしてあとは時間が過ぎるのを待つ。時間が過ぎれば、やがてだれの目から見ても、その親
は、まともでないことがわかる。つまり孤立する。

 私は子どものころ、よくかんかをした。気が小さいくせに、そういうときになると、どういうわけ
か、肝(きも)っ玉がすわってしまう。が、年下のものや、女子とは、したことがない。だから、今
でも、けんかは、じょうず。攻め際(ぎわ)と、引き際を、よく心得ている。攻めるだけでは、けん
かには、勝てない。引くときは引く。そして相手を孤立させる。そうして最終的に、勝つ。

で、こういう親とのトラブルは、学校というワクに中で起きたときには、ただひたすら頭をさげ
て、逃げるのがよい。学習塾やおけいこ塾なら、親にやめてもらうこともできる。親のほうも、や
めることができる。しかし学校という場では、それができない。

 その先生は、精神的にかなり疲れているようだった。ときどき、「もう教師なんか、やめたい」
というようなことまで、言った。

 そして最後のアドバイスは、前回と同じ。私は、こう言った。

 「どこの世界にも、そういう人はいますよ。道理や理屈の通らない人たちです。育児ノイロー
ゼ、教育ノイローゼの人となると、ゴマンといます。ノイローゼそのものについての相談というこ
とであれば、話は別です。さらに40歳もすぎると、アルツハイマー型認知症の初期の、そのま
た初期症状の親が出てきます。がんこで、自分勝手。それに被害妄想をもちやすくなります。
そういう人にからまれたときの鉄則は、ただ一つ。『ただひたすら頭をさげ、あとは時間が過ぎ
るのを待つ』です。

 こわいのは、そういう事例が、いくつか重なったときです。先生自身の耐久性もあるでしょう
が、3つとか4つとか、重なったときです。さらにそういう親どうしが連携(れんけい)したときで
す。

 そうなると、もう、教育どころでは、なくなってしまいます。(私立)幼稚園でも、そのため、先生
が退職に追いこまれたり、あるいは、神経を病んでしまうことがあります。どこの幼稚園にも、1
人や2人、精神科か心療内科の世話になっている先生がいます。長期休職している先生も、い
ます。事情は学校も同じでしょうが、学校のばあい、まだ転校という方法がありますが、幼稚園
では、それもままなりません。だから退職ということになってしまうのです」と。

 ついでながら、その母親の子ども(小5、女児)は、学校では、いつもオドオドとしていて、元気
がないという。そのため、学校では、友だちの輪の中に入っていくことができず、結果として、い
じめを受けているように見えるのではないか、と。が、その原因はといえば、母親にあると、そ
の先生は言った。

 「多分、家の中でも、こまごまとしたことで、母親は、娘を叱ったり、説教したりしているのでし
ょうね。ときどき電話で話す程度の私でさえ、気がヘンになりそうですから、毎日接している子
どもとなると、影響を受けて、当然です。

 これは学校や子どもの問題というよりは、母親自身の問題だと思うのですが……」と。

 そういう事例は、多い。いつか、「母因性萎縮児」について書いた。(その原稿は、このあとに
添付。)母親自身が、子どもの伸びる芽を、つんでしまう。そして子どもの問題点を見つけて
は、「学校が悪い」「先生が悪い」と騒ぐ。もちろんそういうケースもあるだろうが、しかしまず疑
ってみるべきは、自分自身の育児姿勢ということになる。

 卑近な例だが、自分では、信号無視、駐車場では、駐車してはいけない場所で駐車。窓から
ゴミをポ捨てしておいて、「どうして、うちの子は、約束を守らないのでしょう」は、ない。

 ……まあ、こう書くからといって、決して先生の肩をもつわけではない。しかし、今、学校の先
生は、本当に忙しい。休み時間(空き時間)にしても、文科省の指導どおりなら、週1時間しか
ない(公立の小学校)。学校に問題をもちこむとしても、そういうことを理解して上で、したらよい
のでは……。いらぬお節介かもしれないが……。
 
++++++++++++++

親が神経質になるのは、親の
勝手。しかしその影響は、
確実に子どもに現れる。

++++++++++++++

●母因性萎縮児

 小児科医院で受け付けをしている、知人の女性から、こんな話を聞いた。

 何でも、その子ども(現在は、中学男子)は、幼児のころから、ある病気で、その医院に通っ
ているという。そして、2週間ごとに、薬を受け取りにくるという。

 その子どもについて、その知人が、こんなことを話してくれた。

 「ひとりで病院へくるときは、結構、元気で、表情も、明るい。薬の数を確認したり、看護婦さ
んたちと、あいさつをしたりする。冗談を言って、笑いあうこともある。

 しかしときどき、母親がその子どもといっしょに、来ることがある。そのときの子どもは、まるで
別人のよう。

 玄関のドアを開けたときから、下を向いて、うなだれている。母親が何かを話しかけても、ほ
とんど返事をしない。

 そこで母親が、その子どもに向って、『ここに座っているのよ!』『診察券は、ちゃんと、出した
の!』『あの薬も、頼んでおいてね!』と。

 そのとたん、その子どもは、両手を前にさしだし、かがんだまま、うなだれてしまう。もちろん
だれとも、会話をしない。

 あるとき先生(医師)が、見るに見かねて、その母親に、『子どものやりたいように、させてあ
げなさい。そんなうるさいこと、言ってはだめです』と、諭(さと)したこともあるという。

 ああいう母親を見ていると、いったい、母親って何だろうと、そんなことまで考えてしまう」と。

 こういう子どもを、母因性萎縮児という。教育の世界では、よく見られるタイプの子どもであ
る。

 子どもだけのときは、結構、活発で、ジャキシャキと行動する。しかし母親がそばにいると、と
たんに、萎縮してしまう。母親の視線だけを気にする。何かあるたびに、母親のほうばかりを、
見る。あるいは反対に、うなだれてしまう。

 が、母親には、それがわからない。「どうして、うちの子は、ああなんでしょう。どうしたらいい
でしょう?」と相談してくる。

 私は、思わず、「あなたがいないほうがいいのです」と言いそうになる。しかし、それを言った
ら、お・し・ま・い。

 原因は、言わずと知れた、過干渉、過関心。そしてそれを支える、子どもへの不信感。わだ
かまり。愛情不足。

 いや、このタイプの母親ほど、「私は子どもを愛しています」と言う。しかし本当のところは、自
分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。子どもを自分の支配下において、自分の思
いどおりにしたいだけ。こういうのを、心理学の世界でも、「代償的過保護」という。

 今、この母因性萎縮児は、結構、多い。10〜15人に1人はいるのではないか。おかしなこと
だが、母親自身が、子どもの成長を、はばんでしまっている。そしてここにも書いたように、「う
ちの子は、ここが悪い。どうして……?」「うちの子は、あそこが悪い。どうして……?」と、いつ
も、悩んでいる。

 そうこの話も、あのイランの笑い話に似ている(イラン映画「桜桃の味」より)。

 ある男が、病院へやってきて、ドクターにこう言った。「ドクター、私は腹を指で押さえると、腹
が痛い。頭を指で押さえると、頭が痛い。足を指で押さえると、足が痛い。私は、いったい、どこ
が悪いのでしょうか?」と。

 するとそのドクターは、こう答えた。「あなたは、どこも悪くない。ただ指の骨が折れているだけ
ですよ」と。

 そう、子どもには、どこにも、問題はない。問題は、母親のほうにある。

 しかしこの問題は、私のほうから指摘するわけには、いかない。この文章を読んだ、あなた自
身が、自分で知るしかない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 母因
性萎縮児 母原性萎縮児)

++++++++++++++

私自身が経験したことにも、
こんな事件がある。

古い話なので、ここに紹介する。
(中日新聞掲載済み)

++++++++++++++

●気になる新築の家のキズ

++++++++++++++

自分の子どものことで
神経質になる母親たち。

しかしそれも度を越すと……

++++++++++++++

 新築の家のキズは、気になる。私も少し前、ノートパソコンを通販で買ったが、そのパソコン
には、最初から一本のすりキズがついていた。それがそのとき、私は気になってしかたがなか
った。

子育てもそうだ。子どもが年少であればあるほど、親は子育てに神経質になる。「英語教室の
先生はアメリカ人だが、日系二世だ。ヘンな発音が身についてしまうのでは」「こっそりと参観に
行ったら、一人で砂場で遊んでいた。いじめにあっているのでは」「授業中、隣の子と話をして
いた。集中力がないのでは」など。

それはわかるが、度を超すと、先生と親の信頼関係そのものを破壊する。いろいろなケースが
ある。

 ある幼稚園の若い先生は、電話のベルが鳴るたびに、心臓が止まる思いをしていた。また別
のある幼稚園の園長は、一人の親からの小型の封筒の手紙が届くたびに、手を震わせてい
た。こうした症状がこうじて、長期休暇をとっている先生や、精神科の医師の世話になっている
先生は多い。どこの幼稚園にも一人や二人は、必ずいる。

 親から見れば、子どもを介しての1対1の関係かもしれないが、先生から見ると、30名の生
徒がいれば、1対30。1人や2人の苦情には対処できても、それが4人、5人ともなると、そう
はいかない。

しかも親の欲望には際限がない。できない子どもが、ふつうになったとしても、親は文句を言
う。自分自身に完ぺきさを求めるならまだしも、先生や教育に、完ぺきさを求める。そしてささ
いなことを大げさにしては、執拗に、先生を責めたてる。

ふだんは常識豊かな人でも、こと子どものこととなると、非常識になる人は多い。私もいろいろ
な経験をした。私が5月の連休中、授業を休んだことについて、「よそのクラスは月4回の指導
を受けている。私のクラスは3回だ。補講せよ」と言ってきた父親(歯科医師)がいた。私がそ
れを断わると、その親は、「お前を詐欺罪で訴えてやる。ワシは顔が広い。お前の仕事をつぶ
すことぐらい、朝飯前だ」と。

また別の日。たまたま参観にきていた父親に、授業を手伝ってもらったことがある。しかしあと
で母親(妻)から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「よくもうちの主人に恥をかかせてくれた
わね! どうしてくれるの!」と。

ふつうの電話ではない。毎日、毎晩、しかもそれぞれの電話が、ネチネチと一時間以上も続い
た。この電話には、さすがに私の女房もネをあげた。電話のベルの音がするたびに、女房は
ワナワナと体を震わせた。

 あなたが園や学校の先生に、あれこれ苦情を言いたい気持ちはよくわかる。不平や不満も
あるだろう。しかし新築の家のキズはキズとして、あきらめることはサッとあきらめる。忘れるこ
とはサッと忘れる。子どもの教育に関心をもつことは大切なことだが、神経質な過関心は、思
い出を見苦しくする。あなた自身や子どもの健康にも、よくない。

よけいなことかもしれないが、子どもはキズだらけになってはじめて、たくましくなる。キズつくこ
とを恐れてはいけない。私のパソコンも、今ではキズだらけ。最初のころは毎日、そのつどカバ
ーをかけてしまっていたが、今では机の上に出しっぱなし。しかし使い勝手はぐんとよくなった。
子育ても、それと同じ。今、つくづくとそう思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 神経
質になる親たち 神経質な親)


++++++++++++++

もちとん、子どもどうし、
親どうしのトラブルもある。

そんなときは、どう考えたら
よいのか。

++++++++++++++

●子どものトラブル解決法(1)

 子どもどうしのトラブルが、一定の限度を超えて、子どもの心に影響が出てくることがある。た
とえば深刻なケースとしては、不登校(学校恐怖症)にまで発展することもある。が、そこまでは
いかないにしても、相手の子どもの暴力や暴言、いじめなどが原因で、子どもの心が変調をき
たすことがある。ぐずったり、元気がなくなったり、反対に家で荒れたりする。

そういうトラブルがつづくと、当然のことながら親は、「学校に言うべきかどうか」で悩む。ひとつ
のケースを、モデルに考えてみる。

【K君、小三男児のケース】

 K君は、スポーツも得意で、よくハメをはずすことはあるが、学校でも人気者で、性格も明る
かった。毎日そのため、いつも友だちの家で回り道をして帰ってきた。算数教室にも通ってい
たが、一度、友だちの家に集合し、そこからみなといっしょに算数教室へ通っていた。

 そのK君の様子がおかしくなったのは、秋も深くなった一一月のことだった。K君が「学校は
いやだ」「学校へ行きたくない」と言い出した。朝、起きてもぐずぐずしているだけで、したくすら
しない。そこで父親が理由を聞くと、「M君(同級生)がいじめるからだ」と。M君は、キレると別
人のように暴れるタイプの子どもだった。父親はこう言った。

 「それまでは、回り道をして帰ってくるのがふつうだったKですが、このところまっすぐ家に帰っ
てきます。それがかえって不自然な感じがします。それに母親が『算数教室のプリントをしたら』
というと、突発的に興奮状態になって、暴れます」と。

 不登校が長期にわたることが多いのに、学校恐怖症がある。この恐怖症には、ある一定の
前兆現象があるのが知られている。K君のケースでも、朝起きたとき、ぐずる、不平、不満が
多くなるなどの症状がみられる。ほかの神経症による症状、たとえば腹痛、頭痛などの症状が
今のところ見られないので、まだ初期の、初期症状と考えてよい。しかし様子は慎重に判断し
なければならない。この段階で、無理をして、子どもの心を見失うと、症状は一挙に加速、悪化
する。

 ここでは不登校を問題にしているのではない。ここでは、だれに、どのように相談し、問題を
解決したらよいかという問題を考える。当然、最終的には学校ということになるが、その前にや
るべきことは多い。(不登校については、別のところ読んでほしい。)

(1)家庭を心をいやすやすらぎの場と心得ること。外の世界で疲れた子どもを、温かくしっかり
と包み込むような雰囲気を大切にする。子どもの生活態度や生活習慣が乱れ、だらしなくなる
ことが多いが、それはそれとして、大目にみる。

(2)食事面で、Ca、Mgの多い食生活にこころがけ、子どもの心を落ちつかせることを大切に
する。そして家では子どもを、「あなたはよくやっている」というような言い方をして、子どもの心
を裏から支えるようにする。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものトラブル解決法(2)

 子どもどうしのトラブルが、限界を超えたら、(どこが限界かを判断するのはむずかしいが)、
学校の先生に相談、ということになる。その相談について……。

 これはどんなばあいでもそうだが、自分の子どものことを先生に相談するときは、子どもの症
状だけを、ていねいに訴えて、それですますこと。親が原因さがしをしたり、理由づけをしては
いけない。いわんや相手の子どもの名前を出したり、先生を批判してはいけない。あくまでも子
どもの症状だけを訴えて、それですます。

判断や指導は、プロである先生に任す。それがわからなければ、たとえばあなたが病気になっ
たときのことを思い浮かべればよい。あなたはドクターに、自分の診断名や治療法を話すだろ
うか。そんなことをしても、意味がない。ないばかりか、かえって、診断や治療のさまたげにな
る。学校という社会では、先生は、まさに教育のドクター。が、それだけではない。

 この種のトラブルは、たとえばあなたが相手の子どもの名前を口にしたりすると、問題が思わ
ぬ方向に、飛び火したりする。10人もいれば、1人はまともでない親がいる。そのうちさらに10
人のうち1人は、頭のおかしい親(失礼!)がいる。そういう人をトラブルの中に巻き込むと、そ
れこそたいへんなことになる。現に今、私が知っている人の中には、「言ったの、言わないの」
が、こじれて、親どうしで裁判闘争している人さえいる。こうなると、子どものトラブルではすまな
くなる。

 私は、つぎのような格言を考えた。

●親どうしのつきあいは、如水淡交……親どうしのつきあいは、水のように淡(あわ)く、サラサ
ラとつきあうようにする。教師との関係もそうで、濃密だから、子どもに有利とか、そういうふう
に考えてはいけない。

●行為を責めても、友を責めるな……これはイギリスの格言だが、子どもが非行に走っても、
その行為を責めるにとどめ、友を責めてはいけない。「あの子と遊んではダメ」と子どもに言う
ことは、子どもに「親をとるか、友をとるか」の択一を迫るようなもの。

あなたの子どもがあなたをとればよいが、友をとれば、同時にあなたと子どもの間には大きな
キレツが入ることになる。同じように、学校でのトラブルでも、仮に先生に問題があっても、先生
を責めてはいけない。症状だけを訴えて、あとの判断は先生に任す。(もっともあなたが転校を
覚悟しているのなら、話は別だが……。)

●子どもどうしのトラブルは、1に静観、2にがまん。3、4がなくて、5にほかの親に相談……
「ほかの親」というのは、同年齢もしくはやや年齢の大きい子どもをもつ親のこと。そういう親に
相談すると、「うちもこんなことがありまたよ……」というような会話で、大半の問題は解決す
る。学校の先生に相談するのは、そのあとということになる。

++++++++++++++

こうしたトラブルが起きる背景には、
「何でも学校」という、親側の
甘えがある。

こんな事件もあった。

++++++++++++++

【MTさんへ、はやし浩司より】

 私も、若いころ、あちこちで、ひどい目にあいました。おかげで少しは、利口になりました。
が、それが(現実)というか、(外国)なのですね。日本の常識は、どこかぬるま湯的。外国で
は、通用しません。

 少し前にも書きましたが、アメリカ人は、道に迷っても、ぜったい、見知らぬ人には道を聞き
ません。自分で地図を開いて、それとにらめっこをしながら、目的の場所をさがします。で、あ
るとき、私が、「どうしてそのあたりの人に聞かないのか?」と聞くと、そのアメリカ人は、こう教
えてくれました。

 「相手の人がこわがるから」と。

 ご存知ですか? アメリカでは道を聞くフリをして、その人に近づき、ピストルで脅(おど)して
お金を奪うという犯罪が、少なくないそうです。ばあいによっては、ズドン!

 が、日本では、中学校で使う英語の教科書などには、道をたずねるという英会話が載ってい
ますね。「郵便局は、どう行けばいいですか、教えていただけませんか?」「この道をまっすぐ行
って、三つ目の角を、右に曲がってください」と。

 しかしそんなことをたずねるアメリカ人は、いません。つまりあれほど、ムダな英会話というの
もないということになります。

 で、MTさんのメールを読んでいて、感じたこと。……言うなれば、中国は、自己責任の国とい
うことでしょうか。あるいは社会制度そのものが、まだ未成熟? 日本では、大雨が原因で洪
水が起きても、住民は、市を訴えたりします。「行政の怠慢が原因で、洪水になった」と、です。
つまりそれだけ、日本人というのは、(お上)に対して、依存性が強いということになります。

 それがよいのか悪いのか、私にはわかりませんが、こうした依存性は、教育の場にも、たび
たび見られます。

 少し前にも書きましたが、ある小学校で、こんな事件が起きました。

 ある子ども(小1、男児)が、学校の帰りに、同級生に石を投げられ、ケガをしたのです。たい
したケガではなかったのですが、母親が、それに反発。翌日、学校へ行き、担任に、「もっとし
っかりと、子どもたちを監視してほしい」と申し出たそうです。が、その先生は、正直な人だった
のですね。その母親に、こう答えたそうです。

 「そこまでは、できません」と。つまり「帰り道のことまでは、責任を負えません」と。

 その言葉に、母親はさらに反発。今度は、その足で、校長室まで行って、校長に抗議したそう
です。きっと「あの先生は、無責任だ」とか何とか、そんなようなことを言ったのだと思います。

 しかし、実際問題として、先生が、そこまで監視するのは、不可能です。で、その先生は、そ
の日の終わりの会のとき、子どもたちの前で、「昨日、○○君に石を投げたのは、だれだ」と、
言ってしまったというのです。

 が、これがまたまた大問題に発展してしまいました。

 それを聞いた母親が、「そんなことを先生がみなの前で言えば、うちの子がいじめにあってい
るということが、みなにわかってしまう」「ますますいじめられるようになってしまう」と。

 ……こうした一連の母親の行為の向こうに、私は、日本人独特の、あの依存性を感じてしま
うのです。もし自分の子どものことがそんなに心配なら、自分で、自分の子どもの送り迎えをす
ればよいのです。多分、中国人なら、そうするでしょうね。しかしそういう発想は、日本人には、
ありません。

 「何でも、かんでも学校」という発想です。たまたま今夜も、NHKテレビで、国語力についての
報道番組がありました。最近、若者たちの国語力が、低下しているという内容のものでした。

 その中で、ある作家(○○賞受賞者)が、こうコメントを述べていたのには、驚きました。「学
校での基礎教育を、もっと充実すべき」と。

 ここでも、また「学校」です。しかしどうして「学校」なのでしょう。私なら、「母親の言葉教育から
始めるべき」と言うでしょう。あるいは「母親の言葉教育を、もっと充実すべき」と言うでしょう。

 言うまでもなく、子どもの国語力、なかんずく会話能力を決めるのは、母親自身の国語力だ
からです。その国語力が、子どもの国語力の基礎となります(※)。

 わかりますか?

 「自分で何かをしよう」と考える前に、「お上(=学校)に何かをしてもらおう」という発想です。
こうした発想が、日本中の、すみずみにまで、行き渡っている。日本人の骨のズイのズイまで、
しみこんでいる。

 (外国)は、もっときびしいですね。日本人の私たちが考えているより、はるかにきびしい。MT
さんからのメールを読んでいたとき、別の心で、そんなことを私は考えていました。ちがうでしょ
うか?

 ……ともあれ、お元気そうで、何よりです。しかし、MTさん自身がそうなのですから、ご主人
は、もっとたいへんな経験をなさっておられるかもしれませんね。風習や制度がちがうというよ
り、文化そのものがちがいますから……。むしろ戦前の日本人のほうが、中国に同化しやすか
ったかもしれませんね。日本人は、よきにつけ、悪しきにつけ、戦後、アメリカ型の西欧文明を
受けいれてしまいましたから……。

 今、MTさんが感じておられるギャップというか、カルチャ・ショックは、その狭間(はざま)で生
じているのだと思います。おおいに頭の中で火花を飛ばして、それを楽しんでください。少なくと
も、お子さんたちには、たいへんよい刺激になっているはずですから……。(少し、無責任な意
見で、すみません。)

 で、日本は、今、秋たけなわといったところです。暖房はまだ必要ありませんが、ひんやりとし
た寒気を感じる毎日になりました。

 また、どうか、上海の様子を知らせてください。よろしくお願いします。楽しみにしています。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 モンス
ター保護者 イチャモン保護者 子育て狂騒曲 狂騒する親たち)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2032)

【今朝・あれこれ】(7月10日)

●小ズルイ人

++++++++++++++

一事が万事。
ひとつのことで小ズルイ人は、
ほかのあらゆる面でも、小ズルイと
考えてよい。

人間の脳みそは、それほど器用に
はできていない。

もっとも若いときは、
場面に応じて、自分を使い分ける
ことができる。

それなりの場所では、
それなりに、自分の小ズルサを
抑えることができる。

しかし歳をとると、そうはいかない。
ごまかしがきかなくなる。

自分の中身が、モロに外に
出てきてしまう。

それがこわい。まさに一事が万事。

大切なことは、歳をとる前に、
いかにして自分を確立するかということ。

その努力を怠ると、みじめで、あわれな
老後を送ることになる。

++++++++++++++

●一事が万事

 たとえば……。この熱い中、運転席の横の窓をあけて走っている車を、ときどき見かける。外
の空気を取り入れるために、そうしているのではない。たいていは、(ほぼ例外なく)、自分が吸
っているタバコの灰を、窓の外に捨てるために、である。

 そういうことが平気でできる人というのは、そういう人だと見てよい。まさに一事が万事。ひと
つの場面で小ズルイ人は、ほかのあらゆる場面で、小ズルイ。人間の脳みそは、それほど器
用にはできていない。

 場面ごとに、まじめになったり、場面ごとに小ズルくなったりなどということは、できない。もっと
も若いときは、(気力)がそれをカバーする。その(気力)で自分をごまかすことができる。

 しかし歳をとると、そうはいかない。(気力)そのものが、弱くなる。そしてそのため、自分の中
身が、モロに外に出てきてしまう。実は、これがこわい。

 そこで窓の外にタバコの灰を捨てている人を、よく観察してみるとよい。高級車であるとか、
そうでないとかいうことは、関係ない。若い人であるとか年配の人であるとか、そういうことも関
係ない。どの人も、例外なく、見るからに醜悪な顔をしている。

 そこで私たちはひとつの教訓を手に入れる。

 私たちの人格は、日々の、ほんのささいなことの積み重ねによって、できていくということ。そ
れが月となり、年となり、それが10年、20年とつづき、その人の人格となっていく。

 方法は簡単。ウソをつかない。約束(ルール)を守る。この2つだけを、心がければよい。人
が見ているとか、見ていないとか、そんなことを意識する必要はない。これは自分自身に対す
る問題である。つまりは、己(おのれ)の問題。

●小ズルイ人とは、つきあわない

 ところで、最近、私は、つきあう人の選択を始めている。話せば長くなるが、私はもともと、小
ズルイ人間(子ども)であった。

 すべてをあの時代、つまり戦後のあの貧しい時代のせいにするわけいにはいかない。が、そ
ういう生まれ育った環境もある。

 その小ズルさに気づいたのは、私がオーストラリアに渡ってからのこと。それまでの私は、自
分が小ズルイということさえ、わからなかった。それは私の体にしみついた、シミのようなもの。
私は私で、それがふつうだと思っていた。みなも、そうだと思っていた。

 しかし私は、誠実な友人に恵まれた。それがよかった。が、それはそれとして、だからといっ
て、自分の中から、小ズルさが消えたわけではない。今でも、私は基本的には、小ズルイ人間
である。ふと油断したようなとき、その小ズルサが、表に出てくるときがある。

 とくに、小ズルイ人間を前にしたとき、そうである。

 というか、もともと私はそういう人間だから、自分に照らし合わせることによって、相手の小ズ
ルさが、よくわかる。「ああ、小ズルイことをしているな」と。だから私には、小細工(こざいく)は
通用しない。

 が、同時に、ここでおかしな現象が起きる。

 そういう小ズルイ人とつきあっていると、自分の中の小ズルさが、そのまま外に出てきてしま
う。「目には目を……」というわけでもないが、相手が小ズルイ人間とわかったとたん、あるいは
小ズルイことをされたとたん、そういう人に対して、私は小ズルイことをしてしまう。良心の呵責
(かしゃく)というか、抵抗を、ほとんど感じない。

 だから私は、最近、私は、つきあう人の選択を始めている。(本当は、相手から選択されてい
るのかもしれないが……。)とくに、小ズルイ人とは、距離をおくようにしている。それが親類で
あれ、古い友人であれ、そうしている。

 その人たちが悪いというより、そういう人たちに感化されてしまう自分がこわい。

●子どもに評価される親

 子育てにおいても、また、然(しか)り。

 当然のことながら、あなたは子育てしながら、あなたは自分の子どもに、誠実になってほしい
と願っている。心豊かな人生を、まっすぐ進んでほしいと願っている。もしそうなら、その前に、
あなた自身が、そうでなければならない。親が小ズルイ人間であって、どうして子どもに向かっ
て、「そうであってはいけない」と諭(さと)すことができるというのか。

 そのためにも、一事が万事。その一事が万事を、今に生かしていく。わかりやすく言えば、身
の回りのどんなささいなことについても、まず、約束(ルール)を守る。ウソをつかない。そうした
積み重ねが、長い年月を経て、あなたの人格となり、その人格は、確実に、あなたの子へと伝
わっていく。

 しかしこれはあなたの子どものためというよりは、あなた自身のためでもある。

 あなたもいつか、親としてではなく、一人の人間として、子どもに評価されるときがやってくる。

 そのとき、あなたがその評価に耐えうるような人間であれば、それでよし。そうでなければ、
先にも書いたように、あなたの老後は、みじめで、あわれなものになる。何が悲しいかと言っ
て、子どもに軽蔑されることぐらい、悲しいことはない。それ自体が、人生の結論といってもよ
い。

 が、それだけではない。

●時そのものが、金

 人はなぜ生きるかといえば、一歩でも、真・善・美に近づくためである。ほかにもいろいろ考え
られるだろうが、究極的には、この3つに集約される。が、そのための時間は、あまりにも短
い。

 加齢とともに、「時間性」(ハイデッガー)は、ますます拡散される。若いときの1年と、50歳を
過ぎてからの1年は、明らかにちがう。わかりやすく言えば、50歳を過ぎると、1年は、あっとい
う間に過ぎ去っていく。

 たとえば今日にしても、2007年の7月10日。1年の半分以上が過ぎた。「つい先日、正月を
祝ったばかり」と思っているのに、もう半分以上が過ぎた? つまりそういった感じで、時が流
れていく。

 だからこそ、回り道をしているヒマなど、ない。しかも真・善・美などというものは、簡単には近
づけない。へたをすれば、かえって遠ざかってしまうことすらある。『時は金なり』とは言うが、私
の年代になると、『時そのものが、金』なのだ。

 そんなわけで、さあ、あなたも勇気を出して、自分の小ズルさと闘おう。あなたの周囲から、
小ズルイ人を、遠ざけよう。

 そうすることが、あなたの人生を、心豊かに生きるための、第1歩と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2033)

●新しいパソコン

++++++++++++++

どういうわけか、またまた
新しいパソコンを買うハメになった。

いろいろいきさつはあるが、
そういうことになった。

つまり私の家では、昔から、まず私が
最新型のパソコンを買う。

それを少し使ったあと、私は
それを息子たちに、順に払い下げて
いく。

最終的には、ワイフのところまで
それがいく。

で、ワイフのパソコンが、このところ、
おかしくなった。ついで、長男の
パソコンがおかしくなった。

私だけが最新型のパソコンを使うというのも、
どこか気が引ける。

それでまたまた買うことに……。

もちろんビスタ搭載の、デュアルコア!

そのパソコンが、明日、届く!

++++++++++++++

 我が家には、パソコンが、家じゅう、ゴロゴロしている。私の書斎だけでも、デスクトップが4
台。廊下に、ノートが3台。居間におりると、デスクトップが1台とノートが1台。

 「処分すればいい」と、だれしも思うだろう。しかし私には、それができない。どういうわけか、
できない。それぞれに、それぞれの仕事をさせていることもある。が、それ以上に、パソコンと
いうのは、私にとっては、息子のようなもの。愛着がある。その愛着がしみついている。

 が、パソコンの世界というのは、日進月歩。ある雑誌には、こう書いてあった。「98、Meを使
っている人は、そのパソコンをすぐ捨てろ!」と。

 今、「ボット」と呼ばれる、新種のスパイウェアが、猛威をふるっている。パソコンをインターネ
ットにつなぐだけで、感染するというスパイウェアである。わずか10分程度インターネットにつな
いだだけで、1000種類以上のボットが感染したという報告すらある(パソコン雑誌)。

 そんなわけで、今では、ルータ設置は常識。しかしウィルス対策ソフトが万全かというと、こと
ボットに関しては、そうでもないらしい。現在、40万種類以上ものボットが確認されているとい
う。日々に、何百種類もの新種が、生まれているという。ここでいう1000種類以上のボットとい
うのは、そういったウィルス対策ソフトですら、くぐりぬけたボットということになる。

 そのボットは、私たちのパソコンの内部に深く、静かに潜み、まるでロボットのように、遠くか
ら遠隔操作される!

 ……というわけで、Xpでも、あぶない。ビスタでも、あぶない。が、98や、Meでは、まるで丘
の上に、丸裸で立たされるようなもの。だから「98、Meを使っている人は、そのパソコンをすぐ
捨てろ!」となる。

 で、古いパソコンのOSを、ビスタに取りかえるという方法もないわけではないが、実際には、
不可能。ビスタの要求レベルは、かなり高い。エアロにしても、かなりのグラフィックボードを搭
載していないと、作動しない。

 ……というわけで、しかたないので、もう1台。つまりこうして私の家では、毎年、2〜3台の割
で、パソコンがふえていく。


●エロ本

 昨日、子ども(小5)たちと、こんな会話をした。きっかけは、子どもたちが騒いだこと。それで
私は、こう言った。

 「ママの梅干しおっぱいを飲んでいる人は、騒いでいい!」と。

 ふつうは、それで教室は、シーンとなるはずだった。が、昨日は、ちがった。A君が、「ぼくの
ママのは、干しぶどうだ」と。

私「干しぶどう?」
A「パパがそう言った」
私「そういうのもある」
A「どうして、先生は、そんなこと、知っているの?」

私「そんなことは常識だ」
A「先生も、エロ本を読んでいるんだア」
私「あのなあ、そういうものは、もう読み飽きた」
A「たくさん読んだということ」と。

 するとB君が会話に加わってきた。

B「この前、パパの書斎に入って、引き出しを見たら、エロビデオが、いっぱいあった」
私「……ということは、君のパパは、正常ってこと」
B「正常?」
私「そうだ。いいか、人間がなぜ生きているかといえば、第一の目的は、子孫存続のためだ。
男というのは、そういうエロビデオを見ながら、勉強するんだ」

B「じゃあ、女の人は、どうなの? ママはエロビデオを見ないよ」
私「見ているよ。きっと。ときどき、パパといっしょにね」
B「フ〜ン、じゃあ、ママもエロビデオを見て、勉強しているんだ」
私「まあ、勉強といえるかどうかは知らないけれどね。それに近い」と。

 この時期、子どもたちは、急速に(性)について、関心をもち始める。思春期ともなれば、四六
時中、頭の中は、そのことでいっぱいといった状態になる。それは、恐ろしいほどの力で、子ど
も自身の理性で、とてもコントロールできるようなものではない。

 だったら、逆に、(性)を、明るい日なたのほうへ、引き出してやることこそ、大切。私は、いつ
もそう考えている。エロ本にせよ、エロビデオにせよ、そうしたものに、(薄汚い)印象をもたせ
ないほうがよい。(実際には、薄汚いが……。)

 ……といっても、おとなの私のほうから積極的に話すようなことでもない。あとは、子ども自身
が判断すればよい。

そのまま黙っていると、教室は、再び、シーンと静まりかえった。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●ビスタの不調

+++++++++++++++

昨夜、USBポートを、
増設した。

その必要はなかった。が、した。

しかしこれが失敗のもと。

今朝、パソコンをスリープさせよう
としたが、すぐ再起動がかかって
しまう。

シャットダウンしても、再起動が
かかってしまう。
つまり電源が落とせなくなった。

そのため悪戦苦闘すること、
2時間。

メーカーへの連絡、OSの最新版の
ダウンロードなどなど。

結局、原因は、昨夜取りつけた
USBポートとわかった。

それを取り外したら、パソコンは、
再び、順調に動き出した。

ワイフとパソコンとかけて、何と説く。

「さわらぬ神にたたりなし」

その心は?

「へたにいじると、おかしくなる」。

+++++++++++++++

●脳みその活性化

 私にとってパソコンとは、頭の健康器具のようなもの。ああでもない、こうでもないと悪戦苦闘
しているときが、いちばん、楽しい。まさに知恵比べ。パソコン相手に、将棋をさしているような
もの。その緊張感が、何とも言えない。

 で、今朝も、またまた、やってしまった。必要もないのにあちこちをいじり、動きをおかしくして
しまった。原因は、昨夜取りつけた、USBポート。

 現在、USBポートは、6個ついている。それにさらに4ポート追加した。が、これがいけなかっ
た。わかりやすく言えば、電源が切れなくなってしまった。

 そこでメーカーに電話すると、「最新版のOSをダウンロードしてください」とのこと。言われる
ままダウンロードしたが、600MBもあるような大きなデータ。ダウンロードするだけで、40
分! それからあれこれ、なんだかんだで、1時間。結局、原因は、昨夜取りつけたUSBポー
トとわかった。

 それを取り外したら、パソコンは、また順調に動き出した。メデタシ、メデタシ!

 教訓……それなりに順調に動いているなら、パソコンは、へたに、いじってはいけない。しか
し……増設USBの製品パッケージには、「ビスタ対応」とちゃんと書いてある。こういう表示は、
ことビスタに関しては、あまりあてにならない。みなさんも、ご注意のほどを!


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2034)

●親像に苦しむ親たち

++++++++++++

自分の中に、自然な形での
親像がインプットされていない
親は多い。

不幸にして不幸な家庭環境で
育てられた親たちである。

何度も書くが、子育ては、
本能ではなく、学習によって
できるようになる。

自分が親に育てられたという
経験が、自分の体の中に
しみこんでいてはじめて、
親は、親として、子どもを
自然な形で育てることができる。

++++++++++++

【親像】

●子どもの親像を知る

子どもに母性や父性が育つとき

●ぬいぐるみでわかる母性 

 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。
しかもそれが、三〜五歳のときにわかる。

父性や母性(父性と母性を区別するのも、おかしなことだが……)が育っている子どもは、ぬい
ぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいとおしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。
抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感動。抱き方もぎこちない。

中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。ちなみに小三児の約八
〇%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうち約半数が「大好き」と答えている。

●男児もぬいぐるみで遊ぶ

 オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリ
アに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。

つまり子どものときから、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通し
て、心のやりとりを学ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性
や母性を学ぶ。

そんなわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが
代表的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。や
わらかい素材でできた、温もりのあるものがよい。

●悪しき日本の偏見
 
日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは偏
見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐ
るみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。

男児も幼児のときから、たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう
人形というのは、その目的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、こ
こでいう人形ではない。

 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも
偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。その一つの例が、五月人形。

弓矢をもった武士が、力強い男の象徴になっている。三〇〇年後の子どもたちが、銃をもった
軍人や兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからない
ほど、日本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、
あの日本独特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。

●ぬいぐるみで育つ母性と父性

 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの
考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみれ
ばわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スー
ッと頬を寄せてくる。

こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言いかえると、この時期
すでに、親としての「心」が決まる。

 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじ
めて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思
っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親
になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親像
 ぬいぐるみ 人形)

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【親が子育てができなくなるとき】
 
●親像のない親たち
 
「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母
親すらいた。

また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸な家庭を
経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」のない人
とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押
しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが九八年の夏、一度妊娠したことがある。

が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで
きるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな
い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る
のもいるという。いわんや、人間をや。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分
でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、
猛烈な抗議が殺到する。先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような
記事を書いただけでその翌日、一〇本以上の電話が届いた。

「離婚についての偏見を助長する」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸
せな結婚はできないのか」など。

「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。私は何も離婚が悪いとか、離婚家
庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚として問題になるのは、それにとも
なう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響を与える。そのことを主に書いた。
たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事実は事実として、冷静に見なければ
ならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。それに人間は、チンパンジーとも違う。

たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類の家族を見ながら、自分の中に「親像」をつ
くることもできる。ある人は早くに父親をなくしたが、叔父を自分の父親にみたてて、父親像を
自分の中につくった。また別の人は、ある作家に傾倒して、その作家の作品を通して、やはり
自分の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。

そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てがで
きるようになる。と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかってい
ても、なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考
えてほしい。

(付記)
●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(二〇〇一年春)。

これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを
見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説
明されている(報道)。

しかしどうもそうではないようだ。アイは確かに人工飼育されたチンパンジーだが、人工飼育と
いっても、アイは人間によって、まさに人間の子どもとして育てられている。アイは人工飼育と
いうワクを超えて、子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、アイが、子育てが
できる本当の理由ではないのか。

(参考)

●虐待について 

 社会福祉法人「子どもの虐待防止センター」の実態調査によると、母親の五人に一人は、
「子育てに協力してもらえる人がいない」と感じ、家事や育児の面で夫に不満を感じている母親
は、不満のない母親に比べ、「虐待あり」が、三倍になっていることがわかった(有効回答五〇
〇人・二〇〇〇年)。

 また東京都精神医学総合研究所の妹尾栄一氏は、虐待の診断基準を作成し、虐待の度合
を数字で示している。妹尾氏は、「食事を与えない」「ふろに入れたり、下着をかえたりしない」
などの一七項目を作成し、それぞれについて、「まったくない……〇点」「ときどきある……一
点」「しばしばある……二点」の三段階で親の回答を求め、虐待度を調べた。その結果、「虐待
あり」が、有効回答(四九四人)のうちの九%、「虐待傾向」が、三〇%、「虐待なし」が、六一%
であった。

この結果からみると、約四〇%弱の母親が、虐待もしくは虐待に近い行為をしているのがわか
る。

 一方、自分の子どもを「気が合わない」と感じている母親は、七%。そしてその大半が何らか
の形で虐待していることもわかったという(同、総合研究所調査)。「愛情面で自分の母親との
きずなが弱かった母親ほど、虐待に走る傾向があり、虐待の世代連鎖もうかがえる」とも。

●ふえる虐待

 なお厚生省が全国の児童相談所で調べたところ、母親による児童虐待が、一九九八年まで
の八年間だけでも、約六倍強にふえていることがわかった。(二〇〇〇年度には、一万七七二
五件、前年度の一・五倍。この一〇年間で一六倍。)

 虐待の内訳は、相談、通告を受けた六九三二件のうち、身体的暴行が三六七三件(五
三%)でもっとも多く、食事を与えないなどの育児拒否が、二一〇九件(三〇・四%)、差別的、
攻撃的言動による心理的虐待が六五〇件など。虐待を与える親は、実父が一九一〇件、実
母が三八二一件で、全体の八二・七%。また虐待を受けたのは小学生がもっとも多く、二五三
七件。三歳から就学前までが、一八六七件、三歳未満が一二三五件で、全体の八一・三%と
なっている。

++++++++++++++

 群馬県に住んでいるMさん(母親)から、こんなメールが届いた。Mさんも、自分自身の中に
親像がインプットされていない(?)ことに悩んでいる。

 しかしMさん、心配は、無用! この問題だけは、それに気づくだけも、ほとんどが解決したと
みる。あとは、時間が解決してくれる。がんばれ、Mさん!

【Mさんより、はやし浩司へ】

 先日は、お忙しい中、早速お返事を頂 ありがとうございました。

 ご相談させていただいた後も、はやし先生のHPを色々拝見させていただいておりますが、先
生のおっしゃるとおり もっと重大な問題を抱えておられる方々がおられることがわかりまし
た。

 今の次男の状態が、どの程度のものなのかが、わからずとても不安でしたので、少し気持ち
が落ち着きました。

 以前から、「子供はほめて育てなさい」とは聞いていましたが、私は確固たる理論や理屈なく
ほめているだけでよいのか? 強く言って聞かせる必要もあるのでは?、と考えていました。

 何故、そのように考えるのかよくよく考えてみました。

 1.母、父、叔母等から「昔は厳しかった」「厳しく言わないと子供は まあいいや になるので
はないか」と言うような話を聞いた。

 2.私自身 頭から叱れることが多かった

 3.世の中 軟弱な人が多い

1と2について 私の親たちが家庭人としてすばらしい人たちだったかと言うと、答えはNOで
す。

3 について本当にそうなのか不明。勝手になんとなくそう思っている。

 以前、兄のことをずっと相談していた人に、「あなたは子供たちをあなたの親と同じように育
ててはいけません。母親はどっしりと、おおらかで、細事にこだわってはいけません。」と言われ
ていました。

 私は子供たちに対してどのように接してきたのか振り返ってみました。

 仕事や兄のことで時間がとられ、常に目の前にあるものを何とかすべく走り回り、時間が足り
ないことにイライラする事が度々ありました。

 イライラしている時に子供たちが自分の思った様子で無ければ、突き刺さるような(主人がそ
う感じたそうです)叱り方をしていました。

 ぐずぐずしている時には突き放し、条件をつけて(私の目から見て)良い生活をさせようとし、
脅迫するように諭すこともありました。
 
 こうして考えると、してはならないことを度々してきたようです。

 わたしは、両親のような子育てはしないぞ と思ってきました。

 主人はとても良く相談に乗ってくれる人なので、主人との関係がよければ子供たちに大きな
問題は無いだろう。と思っていました。

 しかし、私はやはり両親と同じような事をしてきていたようです。

 今回の次男のことは、私に考える時間を与えてくれたのだと考えております。

 まだまだ、吹っ切れない部分もあるので、色々悩む事もあると思いますが、主人と相談しなが
ら自分のことをもっと反省していきたいと思います。

 マガジンでこのような問題を取り上げていただけるとの事 参考にさせていただきます。

 文章力がないため、長くなってしまい申し訳ありません。
 今後も宜しくご指導お願いいたします。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●聖職意識(ある事件)

++++++++++++++

学校の教師には、聖職意識があった。
牧師、僧侶と並んで、「学校の先生」
と。

しかしその聖職意識は崩れた。崩れた
だけではなく、今や、学校の教師が、
聖職意識をかなぐり捨てて、自ら、
こう叫び始めている。

「われわれだって、ふつうの人間だ」と。

++++++++++++++

 こんな記事が、最近、新聞に載っていた(07年7月)。どこかの県のどこかの学校で、起きた
事件である。そのクラス(小4)には、どうしようもない問題児(男児)が1人いた。授業中も、席
には座らなかった。大声を出したり、ものを投げつけたりして、遊んでいた。

 おそらくそれまでに、いろいろないきさつがあったのだろう。担任の教師(女性、35歳)は、あ
る日、クラス全員に、その問題児についての作文を書かせた。問題児自身にも書かせた。そし
てその作文を集めると、そのまま、その問題児の母親のところへもっていった。母親に読ませ
た。

 母親は、それを見て、激怒。「こうした個人攻撃は、許せない!」と。この記事を新聞で読んだ
人も多いかと思う。

 で、こういう事件を見聞きすると、攻撃の矛先(ほこさき)は、まず教師に向けられる。(1)クラ
ス全員に作文を書かせたこと。(2)その作文を母親に見せたこと。こうした行為は、母親が言
うように、個人攻撃そのものにほかならない。もう少しわかりやすい言葉を使えば、「つるしあ
げ」。

 もちろん、こうした個人は、あってはならない。それはそのとおりだが、だからといって、その
女性教師が全面的に悪いかといえば、そうとも言えない。私にも似たような経験がある。

 ずいぶんと以前のことだが、私の教室にも、かなりの問題児がいた。最初から「勉強しよう」
などという意識は、みじんもなかった。「遊ぶ」というよりは、「破壊」するのが目的。そんな感じ
の子ども(小4)だった。

 かなり頭のよい子どもだった。このタイプの子どもは、巧みなウソをつく。「ぼくのママが、林
は、どうせ、くだらない男だからと言っていた」「ぼくのママが、こんな教室、来月でやめろと言っ
ていた」「ここは、レベルの低い教室だとママが、言っていた」などなど。

 教える側としては、こうした言葉に敏感に反応する。中学生や高校生だと、その子ども自身を
見ながら、教師は教壇に立つ。しかし小学生や幼児のばあいには、いつも子どもの向こうに、
親を見ながら、教壇に立つ。

 こうしてその子どもは、私の母親に対する印象を悪くする。少なくとも、私が若いときは、そう
いう印象をもった。「何だ、あの親は、オモテでは、協力的なフリをしながら、ウラでは、そんな
ことを言っているのか」と。

 しかし今は、ちがう。子どものウソを、見抜けるようになった。それに「?」と思ったら、すぐ電
話をかけて、確かめることにしている。

 が、一方、このタイプの子どもは、家では、これまた別のウソをつく。「あの林は、ぼくだけ仲
間ハズレにする」「わからないところを教えてくれない」「ママのことを、おかしな親だと言ってい
た」などなど。

 子どもはウソをつかないというのは、とんでもない誤解である。この時期のこの子どもは、ウ
ソのかたまりと言っても過言ではない。ウソを言うことで、おとなの世界を誘導しようとする。快
感とする。反抗期前夜によく見られる、子どもの心理のひとつである。

 こうしてその子どもは、私と母親の間を、そのつど離反させようとした。

 で、今回、どこかの県の、どこかの学校で起きた事件を振りかえってみる。こうした事件を考
えるときは、決して表面的な(できごと)だけを見て判断していはいけない。そこにいたるプロセ
スというものがある。とくに教育現場というのは、子どもの世界とは言いながらも、人間対人間
の関係で成り立っている。

 いくら相手が小学4年生でも、カチンとくるときには、くる。相手は子どもとわかっていても、ふ
と油断すると、ドロドロとしたウズに巻きこまれてしまう。いわんや、毎日、毎日、学級を破壊す
るような行為がつづいたら、たまらない。教師は、ものを教えることができて、はじめて教師で
ある。

 それが思うようにできなくなったとたん、教師は、ジレンマに陥る。ふつうのジレンマではな
い。へたをすれば、そのジレンマは、そのまま自己否定へとつながる。もっと言えば、廃業すべ
きかどうか、そこまで悩む。追いこまれる。

 そこでおそらくその女性教師は、その問題児の母親に、何度もコンタクトを試みたにちがいな
い。が、そういう親にかぎって、非協力的。いや、その母親がそうであったというのではないが、
それゆえにその母親の子どもがそういう子どもになったということは、じゅうぶん、考えられる。

 それに先にも書いたように、母親は母親で、その教師に対して、悪い印象をもっていたかもし
れない。私も同じような立場に立たされたことは、何度かある。しかし電話で相談しようとして
も、たいてい、その場で、はねのけられてしまう。「うちでは、ふつうです」「問題はありません」
と。

 さらには、こんなことを私に言った母親もいた。「あなたは、だまって、うちの子の勉強だけを
みていてくれればいい」と。(心の問題)は、「あなたの管轄ではない」と。

 たぶん、冒頭に書いた記事を新聞で読んだ人は、「先生が悪い」と思ったにちがいない。ふつ
うに記事だけを読めば、そうなる。

しかし私は、ちがう。ちがうということを言いたかったため、このエッセーを書いた。その女性教
師のした行為は、たしかにおとなげない行為であった。それは認める。しかしそういう行為をせ
ざるをえなかったところまで、追いつめられたその女性教師の気持ちも、私は理解できる。そ
の女性教師の悲鳴のようなものさえ、私は感ずる。

教師だって、ふつうの人間である。私やあなたと同じ、ふつうの人間である。ふつうの人間であ
ることが悪いと言っているのではない。「先生だから……」という理由だけで、一方的に先生だ
けを責めるのも、私はどうかと思う。もしそれがわからなければ、あなた自身を、その教室の中
に置いてものを考えてみたらよい。

 はたして、読者のみなさんは、どうだろうか?

【補記】

 教育は、親と教師の信頼関係の上に成り立つ。もしその信頼関係がなければ、教育そのも
のが成り立たない。その時点で、教育は崩壊する。

 しかしその信頼関係は、教師の側だけがつくるものではない。当然、親の側も、それなりの努
力をしなければならない。その努力を怠っておきながら、「学校が悪い」「教師が悪い」は、な
い。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2035)

【今日・あれこれ】(7月12日)

++++++++++++++

新しいパソコンの設定で、
午前中がほとんど、つぶれて
しまった。

ウィルス対策ソフト、ボット
対策ソフトのインストール、
データの移動などなど。

割とスムーズに終えることが
できた。

午後から、市内のS小学校で
講演。

今日は、朝から雨。みなさん、
聞きに来てくれるだろうか?

そんな心配が、頭の中を、ふと
よぎる。

++++++++++++++

【義母との問題】

●掲示板への投稿より

 こんな投稿があった。どこかの学生からのものだった。

 『現在学生をしており、妊産婦が妊娠・育児について義母から受ける影響について研究して
います。間違った育児論により、妊産婦がなんらかの悪影響やプレッシャーを感じているので
はないかと考えています。この研究に使用できる参考文献などありましたら、紹介していただき
たいです。よろしくおねがいします』と。

 残念ながら、私はそうした(文献)を知らない。しかしその逆のことも言える。これは妊産婦に
かぎらないことだが、若い世代の人たちは、古い世代の人たちの価値、あるいはその価値観
を、あまりにも安易に否定しすぎているのではないか(?)。

 古い世代に対して、(敵意)のようなものすら感じている人も少なくない。「古い世代の言うこと
には、価値はない」と。それで育児論。

これはあくまでも私の個人的な意見だが、むしろまちがった育児論で、親自身が、子どもをダメ
にしてしまうケースのほうが、はるかに多いのではないか。(「ダメ」という言葉はあまり使いたく
ないが、ほかに適切な言葉が思い浮かばない。)もう少し、年配者、あるいは経験者の意見に
耳を傾けてくれたら……というケースは少なくない。

 そこでアメリカはどうかというと、たとえば息子夫婦のケースだが、妊娠と同時に、毎週、出
産、育児教室に通うようになる。出産後も、同じように通っている。最近、日本でも、各地で育
児支援センターがたちあがっている。それなどは完全に欧米の制度のマネとみてよい。

 核家族化が進み、さらにカプセル家族化が進んだ。頼るべき両親、相談すべき両親が、近く
にいないというケースも少なくない。育児支援センターは、そういう親たちにとっては、救いの場
所ということになる。

 で、掲示板への投稿についてだが、私の調査では、こんなことがわかっている。14年も前に
した古い調査なので、そのまま現代に当てはまるかどうかわからないが、ここに紹介する。

+++++++++++

【別居か、さもなくば離婚か】

●好かれるおじいちゃん

 祖父母との同居について、アンケート調査をしたことがある。その結果わかったことは、「好
かれるおじいちゃん、おばあちゃん」の条件は、(1)健康であること、(2)やさしいこと、(3)経
験が豊富であること、(4)控えめであることだった(一九九三年・浜松市内で約五〇人の同居
世帯で調査)。

●子どもが生まれる前から同居が望ましい

 反対に同居する祖父母との間のトラブルで一番多いのが、子育て上のトラブル。母親の立場
でいうと、一番苦情の多かったトラブルは、「子どもの教育のことで口を出す」だった。「甘やか
しすぎて困る」というのが、それに続いた。

さらに「同居をどう思うか」という質問については、子どもが生まれる前から同居したばあいに
は、ほとんどの母親が、「同居はよかった」と答えているのに対して、途中から同居したばあい
には、ほとんどの母親が、「同居はよくない」と答えていた。祖父母との同居を考えるなら、子ど
もが生まれる前からがよいということになる。

●たいていは深刻な問題に

 そこで祖父母との間にトラブルが起きたときだが、間に子どもがからむと、たいていは深刻な
嫁姑戦争に発展する。母親もこと自分の子どものことになると、妥協しない。祖父母にしても、
孫が生きがいになることが多い。こじれると、別居か、さもなくば離婚かというレベルまで話が
進んでしまう。そこでこう考える。これは無数の相談に応じてきた私の結論のようなもの。

(1)同居をつづけるつもりなら、祖父母とのトラブルを受け入れる。とくに子どもの教育のこと
は、思い切って祖父母に任す。甘やかしなどの問題もあるが、しかし子育て全体からみると、
マイナーな問題。メリット、デメリットを考えるなら、デメリットよりもメリットのほうが多いので、割
り切ること。

(2)子どもの教育は任せる分だけ祖父母に任せて、母親は母親で、前向きに好きなことをす
る。そうした前向きの姿勢が子どもを別の面で伸ばすことになる。

(3)祖父母の言いたそうなことを先取りして子どもにいい、祖父母には「助かります」と言いな
がら、うまく祖父母を誘導する。

(4)以上の割り切りができなければ、別居を考える。

 大切なことは、大前提として、同居を受け入れるか入れないかを、明確にすること。受け入れ
るなら、さっさとあきらめるべきことはあきらめること。この割り切りがまずいと、母親自身の精
神生活にも悪い影響を与える。
(小生の著書で、発表済み)

++++++++++++++

●家庭内子育て戦争

+++++++++++++

さらに、こんな原稿を書いた
こともある。

家族の問題は、相手から相談
があるまで、介入しない。

これは子どもを指導するときの
大鉄則。

+++++++++++++

 明らかに過保護な子ども(年中男児)がいた。原因は、おばあさん。そこである日、たまたま
母親が迎えにきていたので、その母親にこう言った。「少し、おばあちゃんから離したほうがい
いですよ」と。

おばあさんは、ベタベタに子どもをかわいがっていた。が、この一言が、その後、大騒動の引き
金になろうとは!

 それから一か月後。母親がすっかり疲れきった様子で、幼稚園へやってきた。あまりの変わ
りように驚いて、私が「どうしたのですか」と声をかけると、こう話してくれた。

「いやあ、先生、あれからたいへんでしたの。祖父母と別居か、さもなくば離婚ということになり
まして、結局、祖父母とは別居することになりました」と。ほかのことならともかく、親も、こと子
どものこととなると、妥協しない。こんなこともあった。

 その老人は、たいへん温厚で、紳士的な人だった。あとで聞くと、中学校の教師をしていたと
いう。その老人が、どういうわけだか、D君(年長児)の入試に、異常にこだわっていた。「先
生、何としても孫には、A小学校に入ってもらわねば困るのです」と。

私はその老人の気持ちが理解できなかった。「元先生ともあろう人が、どうして?」と。が、ある
日、その理由がわかった。老人は、こう話してくれた。D君の父親は、隣町のK市で勤務医をし
ていた。もしD君がA小学校に入学すれば、D君は、その老人の家から小学校へ通うことにな
る。が、入学できなければ、D君はK市の親のもとへ帰ることになる、と。

しかし入試の直前になって、事態が急変した。親が入試を受けることに、猛烈に反対し始めた
のだ。私のところにも父親から電話がかかってきた。「今後は、我が家の教育については干渉
しないでほしい。息子はK市の地元の小学校に通わせることにしたから」と。

 この事件はそれで終わったが、それから半年後。そのときその老人は、自転車に乗っていた
が、車ですれ違うと、別人のようにやつれて見えた。孫の手を引きながら、意気揚揚と幼稚園
へ連れてきた、あのハツラツとした姿は、もうどこにもなかった。

あとで聞くと、それからさらに半年後。その老人は何かの病気で亡くなってしまったという。その
老人にとっては、孫育てが生きがい以上のもの、つまり「命」そのものだった。

 孫を取りあって、父母との間で壮絶な、家庭内戦争を繰り広げている人はいくらでもいる。し
かし世の中には、こんな悲惨な例もある。例というより、一度、あなた自身のこととして考えてみ
てほしい。あなたなら、こういうケースでは、一体どうするだろうか。

 ある祖父母には、目に入れても痛くないほどの一人の孫がいた。が、その孫が交通事故に
あった。手術をすれば助かったのだが、その手術に、嫁が、がんとして反対した。嫁は、ある宗
教教団の熱心な信者だった。その教団では、手術を拒否するように指導している。

一度私が教団に確認すると、「そういう指導はしていません。しかし熱心な信者なら、自ら拒否
することもあるでしょう」とのこと。ともかくもそれで、その孫は死んでしまった。
 
 その祖父はこう言って、言葉をつまらせた。「それまでは、愛だとか平和だとか、嫁の宗教
も、それほど悪いものではないと思っていたのですが……」と。

+++++++++++++

 子育てには、その人の人生観、価値観、哲学(哲学があればの話だが)、そういったもともろ
のものの見方、考え方が集約される。さらにその人の過去が、そのまま反映される。

だから子育てをしていると、夫婦の間でも、対立、衝突は、しばしば起きる。起きて、当り前。子
育てというのは、そういうもの。いわんや、義父母との対立、衝突など、今どき珍しくも何ともな
い。

 私が現在経験しているケースの中には、孫を取りあって、姑(しゅうとめ=義母)と嫁が、壮絶
な家庭内戦争を繰りかえしているのもある。姑にしてみれば、「息子の子どもは、私の孫」とい
うことになる。

 理由を聞くと、「あんな嫁に孫を任せておいたら、孫が、どんな人間になるか、わかったもので
はない。それが心配だ」と。

 しかし結論を先に言えば、親は、自分の息子、娘夫婦の子育てには、干渉してはならない。
息子や娘から相談があれば、そのときは、そのとき。しかしそれまでは、そっとしておいてや
る。それも、親の務めではないか。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●グチ

+++++++++++++++++

あちこちへ電話をかけまくって、
自分のグチを話している人がいる。

一応、相手は、それなりの顔、つまり
同情したフリをして、その人の話を
聞く。

しかしフリは、フリ。

愚かな人には、それがわからない。

++++++++++++++++++

 英語の格言にも、こんなのが、ある。

Don't tell your problems to people: eighty percent don't care; and the other twenty percent 
are glad you have them.

 「あなたの問題を、人に言うな。80%は、あなたの問題など、気にしない。残りの20%は、あ
なたにそういう問題があることを、喜んでいる」と。

 だからグチなど言わない。言ってもムダ。しかし愚かな人には、それがわからない。わからな
いばかりか、家族についてのグチすら、他人に話す。

 しかし他人は、そうしたグチを楽しむだけ。が、中には、わざわざそうした問題に、(さぐり)を
入れてくる人さえ、いる。『他人の不幸話ほど、おもしろいものはない』と言った人さえいえる。
(この私ではないぞ。念のため!)

 私も、私の家族のことで、いろいろ問題があった。今も、ある。しかし私は、そうした問題を、
他人には、話さない。相談するにしても、しっかりと相手を選んで、する。が、中には、こちらが
頼みもしないのに、私のほうに(さぐり)を入れてくる人がいる。

 用もないのに電話をしてきて、こう言う。「浩司君、君の夢を見たから、電話をしてみたよ」と
か、何とか。あるいは過去に、一度とて連絡もとりあったこともない人から、突然、メールが届
いたりする。インギンブレイな内容だから、その意図は丸わかり!

 さらに中には、あろうことか、この私に説教までしてくる人がいる。本当に私たちのことを心配
しているから、そうしてくるのではない。(本人にとっては)、楽しいから、そうしてくる。「ごちそう
さま」と言いたいが、そういう気持ちは、相手には伝わらない。だから、そういう人たちとは、容
赦なく、縁を切る。

 で、若いころ、私があれこれモノを言うと、私にこう言った人がいた。「クチを出すくらいなら、
だれにだってできる。クチを出すくらいなら、カネを出せ」と。

 どこか辛らつな言い方だが、家族の問題というのは、そういうもの。だから私も、相手の家族
の問題には、クチを出さない。それぞれの人は、それぞれの立場で、懸命にがんばっている。
がんばって生きている。その懸命さが少しでもわかったら、そっとしておいてやるのも、私たち
の努めではないか。

 話が脱線したが、グチは、それを言えば言うほど、その人を見苦しくする。その前に、言って
もムダということ。まず、それを肝に銘じておく。

 なお、口(クチ)から出るゴミだから、グチのことを、口(クチ)に濁点をつけて、グチという
(?)。これははやし浩司説! ハハハ!


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2036)

【心の洗濯・さわやかに生きる】

+++++++++++++

毎日をさわやかに生きるために
は、いろいろなコツがある。

+++++++++++++

●他人の生活をのぞかない

 他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。それはその他人のため
というよりは、あなた自身のためである。

 少し話がそれるが、こんな事件が身近であった。

 10年ほど前だろうか、近所に住むA氏(40歳、当時)から、こんな相談があった。
何でも、そのA氏の自宅の東側に住むB氏(50歳、当時)が、A氏の家の中を、いつも のぞい
ているというのだ。それでA氏の妻が、気味悪がって、不眠症になってしまった、
と。

 そこでA氏が、B氏に、「そういうことは、やめてほしい」と注意すると、B氏は、猛然とそれに
反発して、こう言ったという。

 「お前こそ、オレの家をのぞいているではないか。オレのウチは、そのため、すべての
窓ガラスを、型ガラスにかえたんだぞ!」と。

 A氏には、まったく身に覚えのない話だった。つまりB氏は、いつもA氏の家の中をの
ぞいていた。それでB氏は、自分もA氏にのぞかれていると思ったらしい。これに似た話
は、よくある。

 たとえば他人の私生活を気にする人は、同時に、自分が世間からどう見られているかを
気にする。つまり他人の生活をのぞく人は、のぞいた分だけ、今度は、自分の生活がのぞ
かれているのではないかと恐れる。あるいはそういった被害妄想を、もちやすい。冒頭に
あげたB氏が、そういう人だった。

 だから他人の子どもの学歴や、進学先、成績などは、気にしないこと。気にすればする
ほど、今度は、あなたが、自分の子どものことで、他人の目を気にするようになる。

 25年ほど前のことだが、いつも娘(高校生)を、車で送り迎えしていた母親がいた。「近所の
人に、娘の制服を見られるのが、恥ずかしかったから」というのが、その理由らしい。あるい
は、(これはホントの話だぞ……)、駅で制服を着替えてから、学校に通っていた子どもさえい
た。

 世間の目を気にする人は、そこまで気にする。

 私は私。他人は他人。そのためにも、まずあなた自身の心をつくりかえる。つまり他人
の生活は、のぞかない。それは、このどろどろした世界を、さわやかに生きるための鉄則
でもある。

●家庭問題には、かかわらない
 
 こういう仕事をしていると、ときどき、横ヤリが入ることがある。つい先日も、ある女
性(60歳くらい)から、こんな電話が入った。

 「うちの嫁(=生徒の母親)が、孫(=私の生徒)をつれて、実家へ帰ってしまった。
ついては、あなた(=私)のほうで、何とか、孫だけでも、取りかえしたい。ついては協
力してもらえないか」と。

 その生徒は、私のところへ、何も変わりなく、通っていた。その女性(=祖母)は、そ
の機会をとらえて、孫(=生徒)を、取りかえそうと考えていた。

 こういうケースでは、私は、いつもはっきりと断ることにしている。「私は、母親(=嫁)から委
託を受けて仕事をしています。その母親を、裏切ることはできません」と。

 しかし問題は、そのあとだ。こうした電話があったことを、その母親に告げるべきかど
うかで迷う。

 で、私のばあい、こうした電話は、そのまま無視することにしている。いつしか、そう
いう処世術を身につけてしまった。まさに『さわらぬ神にたたりなし』である。

 へたに介入すると、やがて抜き差しならない状態になる。実際、こじれた人間関係ほど、
わずらわしいものはない。また介入したところで、どうにもならない。それぞれの家庭に
は、言葉に言いつくせない問題が、「クモの巣」(=英語の表現)のようにからんでいる。

 相手から相談があれば、話は別だが、これも、さわやかに生きるための鉄則である。


●人の悪口は、自分で止める

 母親どうしのトラブルは、日常茶飯事。「言った」「言わない」が、こじれて、裁判ざたになるこ
ともある。

 で、私の耳にも、そういった話が、容赦なく、飛びこんでくる。しかしそういうときの
鉄則は、ただ一つ。『ただ聞くだけ。そしてその話は、絶対に、人には、伝えない』。

 たとえばAさんが、こう言ったとする。

 「あのBさんね、祖母の老齢年金を、とりあげているそうよ。そしてそのお金を、自分
の息子の塾代にあてているんですって」と。

 こういう話は、聞くだけで、絶対に人に伝えてはいけない。あなたのところで止めて、
そのまま消す。そして忘れる。相づちを打ってもいけない。

だいたいにおいて、そういう話が飛びこんでくるということは、あなた自身も、そのレ
ベルの人ということになる。だから、よけいに、相手にしてはいけない。英語の格言にも、『食物
は口から入るが、禍(わざわい)は、口から出る』というのがある。

 ……と、偉そうなことを書いてしまったが、実は、私も無数の失敗をしている。たとえ
ば以前、こんなエッセー(中日新聞投稿済み)を書いたことがある。


+++++++++++++++++++++++

●父母との交際は慎重に

 教育の世界では、たった一言が大問題になるということがよくある。こんな事件が、あ
る小学校であった。

その学校の先生が一人の母親に、「子どもを塾へ四つもやっているバカな親がいる」と、
ふと口をすべらせてしまった。その先生は、「バカ」という言葉を使ってしまったのだが、
今どき、四つぐらいの塾なら、珍しくない。英語教室に水泳教室、ソロバン塾に学習塾な
ど。

そこでそれぞれの親が、自分のことを言われたと思い、教育委員会を巻き込んだ大騒動
へと発展してしまった。結局その先生は、任期の途中で転校せざるをえなくなってしまっ
た。が、実は私にも、これに似たような経験がある。

 母親たちが五月の連休中に、子どもたちを連れてディズニーランドへ行ってきた。それ
はそれですんだのだが、そのあと一人の母親に会ったとき、私が、「あなたは行きましたか」
と聞いた。するとその母親は、「行きませんでした」と。

そこで私は(連休中は混雑していて、たいへんだっただろう)という思いを込めて、「そ
れは賢明でしたね」と言ってしまった。が、この話は、一晩のうちにすべての母親に伝わ
ってしまった。

しかもどこかで話がねじ曲げられ、「五月の連休中にディズニーランドへ子どもを連れ
ていったヤツはバカだと、あのはやしが笑っていた」ということになってしまった。数日
後、ものすごい剣幕の母親たちの一団が、私のところへやってきた。「バカとは何よ! あ
やまりなさい!」と。

 母親同士のトラブルとなると、日常茶飯事。「言った、言わない」の大喧嘩になることも
珍しくない。そしてこの世界、一度こじれると、とことんこじれる。現に今、市内のある
小学校で、母親同士のトラブルが裁判ざたになっているケースがある。

 そこで教訓。父母との交際は、水のように淡々とすべし。できれば事務的に。できれば
必要最小限に。そしてここが大切だが、先生やほかの父母の悪口は言わない。聞かない。
そして相づちも打たない。相づちを打てば打ったで、今度はあなたが言った言葉として、
ほかの人に伝わってしまう。「あの林さんも、そう言っていましたよ」と。

 教育と言いながら、その水面下では、醜い人間のドラマが飛び交っている。しかも間に
「子ども」がいるため、互いに容赦しない。それこそ血みどろかつ、命がけの闘いを繰り
広げる。

一〇人のうち九人がまともでも、一人はまともでない人がいる。このまともでない人が、
めんどうを大きくする。が、それでもそういう人との交際を避けて通れないとしたら……。
そのときはこうする。

 日本でも、『魚心あれば、水心』という。イギリスの格言にも、『相手は自分が相手を思うよう
に、あなたのことを思う』というのがある。つまりあなたが相手を「よい人だ」と思っていると、相
手もあなたのことを「よい人だ」と思うようになる。反対に「いやな人だ」と思っていると、相手も
「いやな人だ」
と思うようになる。

だから子どもがからんだ教育の世界では、いつも先生や父母を「よい人だ」と思うよう
にする。相手のよい面だけを見て、そしてそれをほめるようにする。

要するにこの世界では、敵を作らないこと。何度も繰り返すが、ほかの世界のことなら
ともかく、子どもが間にからんでいるだけに、そこは慎重に考えて行動する。

++++++++++++++++++++++++

 英語にも、『同じ羽の鳥は、いっしょに集まる』という格言がある。私は、どこか低劣な
話が耳に入ってきたときには、相手は、私もその低劣な人間とみているのだなと思うよう
にしている。

 相手から見れば、私も低劣に見える。だからそういう低劣な話を、私にするのだ、と。

 しかし実際には、幼児相手の仕事をしていると、いつも低劣に見られる? 先日もいき
なり電話がかかってきて、こんなことを言う母親がいた。

 「おたく、幼児教室? あら、そう。今、うちの子を、クモンへ入れるか、あんたんど
こへ入れるか、迷っているんだけど、どっちがいいかなア?と、思って……」と。

 私はそれに答えて、「はあ、うちは、10問(ジューモン)教えますので……」と。

 この答え方は、昔、仲間のI先生が教えてくれた言い方である。(クモンと、ジュウーモンのち
がいですが、わかりますか?)

 いかにして、この世界で、さわやかに生きるか。これはとても重要なテーマのように思
う。いつもそれを心のどこかで考えていないと、あっという間に、泥沼に巻きこまれてし
まう。

それを避けるためのいくつかの鉄則を書いてみたが、これらの鉄則は、そのまま母親ど
うしの人間関係にも、応用できるのでは。ぜひ、応用してみてほしい。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【無知】

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メキシコの作家の、Carlos Fuentes
は、こう言った。

Writing is a struggle against silence.

「書くことは、静寂との闘いである」と。

たしかにそうだ。

何ごともなく、無難に過ごそうと思えば、
それはできる。ひとり、静かに、小さな
部屋の中に、閉じこもっていれば、それでよい。

しかし人は、書くことによって、ものを
考え、考えることによって、生きること
ができる。

無知は、それ自体が、罪悪と考えてよい。

この言葉を知ったとき、数年間に書いた
原稿のことを思い出した。

++++++++++++++++

【無知という「罪悪」】

+++++++++++++++++

「私は知らなかった」では、すまされない。
それが子どもの世界。

無知は、罪悪。そう考えるのは、きびしい
ことだが、しかし親たるもの、親としての
勉強を怠ってはいけない。

+++++++++++++++++

 これだけ情報が濃密に行きかう時代になっても、その情報の外に住んでいる人たちがいる。
自ら情報の外の世界に身を置くことにより、彼らの言葉を借りるなら、「情報がもつわずらわし
さから、自分を解放するため」だ、そうだ。

 しかし無知は、今の時代にあっては、罪悪と考えてよい。「知らなかった」では、すまされな
い。とくに相手が子どものばあい、親の独断と偏見ほど、こわいものはない。症状をこじらせる
だけではなく、ばあいによっては、取りかえしのつかない状態に、子どもを追いやってしまう。

 A君という年長児の子どもがいた。自閉症と診断されたわけではないが、軽い自閉傾向があ
った。一度何かのことで、こだわりを見せると、かたいカラの中に入ってしまった。たとえば幼稚
園へ行くときも、青いズボンでないと行かないとか、幼稚園でも、決まった席でないと、すわらな
いとか、など。居間の飾り物を動かしただけで、不機嫌になることもあった。

そのA君は、虫の写真の載っているカードを大切にしていた。いろいろな種類のカードをもって
いたが、その数が、いつの間にか、400枚近くになっていた。A君は、それを並べたり、箱に入
れたりして大切にしていた。

 が、A君の母親は、それが気に入らなかった。母親は、虫が嫌いだった。また母親が、カード
の入っている箱にさわっただけで、A君は、パニック状態になってしまったりしたからである。

 そこである日、A君が幼稚園へ行っている間に、母親は、そのカードが入っている箱を、倉庫
へしまいこんでしまった。が、それを知ったA君は、そのときから、だれが見ても、それとわかる
ほど、奇異な様子を見せるようになった。

 ボーッとしていたかと思うと、ひとり、何かを思い出してニヤニヤ(あるいはニタニタ)と笑うな
ど。それに気づいて母親が、カードを倉庫から戻したときには、もう遅かった。A君は、カードに
は見向きもしなくなってしまったばかりか、反対に、そのカードを破ったり、ゴミ箱に捨てたりし
た。

 それを見て、母親は、A君を強く叱った。「捨ててはだめでしょ」とか、何とか。私が、「どうして
カードを、倉庫へしまうようなことをしたのですか?」と聞くと、A君の母親は、こう言った。「だっ
て、ほかに、まだ、100枚近くももっているのですよ。それに私がしまったのは、古いカードが
入った箱です」と。

 自閉傾向のある子どもから、その子どもが強いこだわりをもっているものを取りあげたりする
と、症状が、一気に悪化するということはよくある。が、親には、それがわからない。いつもその
ときの状態を、「最悪の状態」と考えて、無理をする。

 この無理が、さらにその子どもを、二番底、三番底へと落としていく。が、そこで悲劇が終わ
るわけではない。親自身に、「自分が子どもの症状を悪化させた」という自覚がない。ないか
ら、いくら説明しても、それが理解できない。まさに、ああ言えば、こう言う式の反論をしてくる。
人の話をじゅうぶん聞かないうちに、ペラペラと一方的に、しゃべる。

私「子どもの気持ちを確かめるべきでした」
母「ちゃんと、確かめました」
私「どうやって?」
母「私が、こんな古いカードは、捨てようねと言いましたら、そのときは、ウンと言っていました」

私「子どもは、そのときの雰囲気で、『うん』と言うかもしれませんが、本当に納得したわけでは
ないかもしれません」
母「しかし、たかがカードでしょう。いくらでも売っていますよ」
私「おとなには、ただのカードでも、子どもには、そうではありません」
母「気なんてものは、もちようです。すぐカードのことは忘れると思います」と。

 私の立場では、診断名を口にすることはできない。そのときの(状態)をみて、「ではどうすれ
ばいいか」、それを考える。しかしA君の症状は、そのとき、すでにかなりこじれてしまってい
た。

 ……こうした親の無知が、子どもを、二番底、三番底へ落としていくということは、よくある。心
の問題でも多いが、学習の問題となると、さらに多い。少しでも成績が上向いてくると、たいて
いの親は、「もっと」とか、「さらに」とか言って、無理をする。

 この無理がある日突然、限界へくる。とたん、子どもは、燃えつきてしまったり、無気力になっ
てしまったりする。印象に残っている子どもに、S君(小2男児)という子どもがいた。

 S君は、毎日、学校から帰ってくると、1〜2時間も書き取りをした。祖母はそれを見て喜んで
いたが、私は、会うたびに、こう言った。「小学2年生の子どもに、そんなことをさせてはいけな
い。それはあるべき子どもの姿ではない」と。

 しかし祖母は、さらにそれに拍車をかけた。漢字の学習のみならず、いろいろなワークブック
も、させるようになった。とたん、はげしいチックが目の周辺に現われた。眼科で見てもらうと、
ドクターはこう言ったという。「無理な学習が原因だから、塾など、すぐやめさせなさい」と。

 そのドクターの言ったことは正しいが、突然、すべてをやめてしまったのは、まずかった。そ
れまでS君は、国語と算数の学習塾のほか、ピアノ教室と水泳教室に通っていた。それらすべ
てをやめてしまった。(本来なら、子どもの様子を見ながら、少しずつ減らすのがよい。)

 異常なまでの無気力症状が、S君に現われたのは、その直後からだった。S君は、笑うことも
しなくなってしまった。毎日、ただぼんやりとしているだけ。学校から帰ってきても、家族と、会話
さえしなくなってしまった。

 祖母から相談があったのは、そのあとのことだった。しかしこうなると、私にできることはもう
何もない。「もとのように、戻してほしい」と、祖母は言ったが、もとに戻るまでに、3年とか4年
はかかる。その間、祖母がじっとがまんしているとは、とても思えなかった。よくあるケースとし
ては、少しよくなりかけると、また無理を重ねるケース。こうしてさらに、子どもは、二番底、三番
底へと落ちていく。だから、私は指導を断った。

 子どもの世界では、無知は罪悪。そうそう、こんなケースも多い。

 進学塾に、特訓教室というのがある。メチャメチャハードな学習を子どもに強いて、子どもの
学力をあげようというのが、それ。ちゃんと子どもの心理を知りつくした指導者がそれをするな
らまだしも、20代、30代の若い教師が、それをするから、恐ろしい。ばあいによっては、子ど
もの心を破壊してしまうことにもなりかねない。とくに、学年が低い子どもほど、危険である。

 テストを重ねて、順位を出し、偏差値で、子どもを追いまくるなどという指導が、本当に指導な
のか。指導といってよいのか。世の親たちも、ほんの少しだけでよいから、自分の理性に照ら
しあわせて考えてみたらよい。つまり、これも、ここでいう無知の1つということになる。

 たいへんきびしいことを書いてしまったが、無知は、まさに罪悪。親として、それくらいの覚悟
をもつことは、必要なことではないか。今、あまりにも無知、無自覚な親が、多すぎると思うので
……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 無知 
無知という罪悪 無学という罪悪)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(7月13日)

++++++++++++++

昨夜、犬のハナが、いつもになく
クンクンと鳴いた。

見ると、犬小屋の中にまで、雨が
降り込んでいた。。

ハナの犬小屋は、4人用のテントの中。
そのテントの中に、ブロックを積み、その
上に、犬小屋を置いている。

その犬小屋の中にまで、雨が降り込んでいた。

台風の影響か、この1両日、この地方でも、
はげしい雨が、断続的につづいて
いる。

++++++++++++++

●ハナ

 犬のハナは、いつも庭で放し飼いにしてある。犬の飼い方にも、いろいろあるが、私は、それ
が犬にとっては、いちばんよい方法だと考えている。運動も、自由にできる。

 そのハナが、昨夜、いつもになくクンクンと鳴いた。「どうしたの?」と言って、犬小屋まで行っ
てきると、犬小屋の中にまで、雨が降り込んでいた。

 犬小屋と言っても、4人用のテントの中に、置いてある。台風の影響か、この地方でも、はげ
しい雨が、断続的に降っている。

 そのときのこと。

 私がハナの犬小屋をのぞきながら、「これでは、寝られないよね」とハナに声をかけると、ハ
ナは、私を誘導するようなしぐさをしてみせた。「ついてこい」という、いつもの、あのしぐさであ
る。

 ハナは、私を、家と家の間の軒先に連れていった。そこだけは、大屋根に二重におおわれて
いる。雨が降り込むことは、めったにない。私には、「ここで寝たい」と言っているように思えた。

 さっそく、私はそこにブロックを並べ、板を敷き、座布団を置いてやった。臨時の犬小屋であ
る。その作業をしながら、「犬でも、いろいろ考えているんだな」と思った。

 そう、ハナはハナなりに、いろいろ考えている。

私「クンクンと鳴いたのは、何とかしてほしかったからだったんだね」
ワ「そうね。ちゃんと、理由があったのね」と。

 ハナが座布団の上で丸くなったのを見届けたとき、ハナに対する見方が、少し変わったよう
に感じた。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2037)

【家庭教育の原点】

++++++++++++++++

家庭での教育力が低下していると
言われている。

それはそうだが、しかし家庭教育と
いっても、構えて考える必要は
ない。またそんな問題ではない。

自然体で、臨めばよい。そのコツに
ついて、書いてみる。

++++++++++++++++

●約束(ルール)を守る、ウソをつかない

日々の積み重ねが月となり、その月が積み重なって、年となる。その年が、10年、20年と積
み重なって、その人の人格となる。その日々の積み重ねは、身の回りのほんのささいなことか
ら始まる。子どもが見ているとか、見ていないとか、そういうことには関係なく、約束(ルール)を
守る。ウソをつかない。そういう親の姿を、子どもは、うしろから見る。自分の人格とする。


●子どもは使う

子どもは使えば使うほど、よい子になる。忍耐力(=いやなことをする力)も、それで身につく。
社会性も身につく。が、それ以上に、他人の苦しみや悲しみを理解できるようになる。言うまで
もなく、子どもにかぎらず人は、自分で苦労をしてみてはじめて、他人の苦労が理解できるよう
になる。その心のポケットができる。あなたが重い荷物をもって歩いているとき、「もってあげ
る!」と子どもが助けてくれれば、それでよし。そうでなければ、家庭教育のあり方を、猛省す
る。


●夢と希望、そして目的

目的(目標)をもった子どもは、強い。多少の誘惑くらいなら、自らはねのけてしまう。心の抵抗
力ができていると考える。その心の抵抗力をつける第一。それが夢と希望。その先に目標(目
的)ができる。そのため、子どもの夢や希望は、大切にする。親の価値観を、けっして、押しつ
けてはいけない。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、それはすてき
ね」と言い返してやる。そういう親の姿勢が、子どもの夢や希望を育てる。


●子どもの横に立つ

子育てには、3つの役目がある。ガイドとして、子どもの前に立つ。保護者として、子どものうし
ろに立つ。そして友として、子どもの横に立つ。日本人は、伝統的に、子どもの前やうしろに立
つのは得意だが、横に立つのが苦手。そのため多くのばあい、子どもが親離れを始めるころ
から、親子の間にキレツが入るようになり、さらに多くのばあい、そのキレツは、断絶へとつな
がっていく。


●忍耐力は、いやなことをする力

試しに、台所のシンクにたまった生ごみを、始末させてみればよい。あるいは風呂場の排水口
にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハ〜イ」と言って、あなたの子どもがそれを始末したとし
たら、あなたの子どもは、すばらしい子どもとみてよい。またこのタイプの子どもは、学習面で
も、伸びる。なぜなら、勉強というのは、もともと(イヤなもの)。そのイヤなことを乗り切る力が、
ここでいう忍耐力ということになる。その忍耐力を育てるためには、子どもは、使う。


●思考回路というレール

夢や希望をもち、さらには目標(目的)をもち、その目標に向かって努力する。その道筋を、思
考回路という。大切なのは、その思考回路。というのも、夢や希望というのは、そのつど変化す
る。変化して当然。幼児のころは、「お花屋さんになりたい」と言っていた子どもでも、小学生に
なると、「パン屋さんになりたい」「ケーキ屋さんになりたい」と言うかもしれない。中身は何であ
れ、思考回路にできている子どもは、その思考回路の上に夢や希望を乗せて、前向きに進ん
でいくことができる。


●子どもに育てられる

親は、子育てをしながら、子どもに否応(いやおう)なしに育てられる。はじめて子どもを幼稚園
へ連れてきたような母親は、たしかに若くて美しいが、中身がない。そんな母親でも、子育てで
苦労をするうち、やがて姿勢が低くなる。幼稚園を卒園するころになると、みなに、深々と頭を
さげるようになる。中身ができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育て
る。子どもに育てられることを、恐れてはいけない。


●熟成される「善」

西洋では、「善と悪は、神の左手と右手である」という。しかし善と悪は、決して、平等ではな
い。善人ぶることは簡単なこと。しかし自分の体の中から、悪を抜くのは、容易なことではな
い。しかもその善と悪は、長い時間をかけて、心の中で熟成される。とくに善は、10年とか、2
0年とか、長い年月を経て熟成される。いつか、あなたも、親ではなく、1人の人間として、子ど
もに評価されるときがやってくる。その評価に耐えうる人間になれるかどうか。それは子育てに
おける、大きなテーマのひとつと考えてよい。


●すなおな子ども

親や教師の言うことに従順で、それに静かに従う子どもを、すなおな子どもというのではない。
すなおな子どもというときは、(1)心の状態(=情意)が、そのまま表情となって表れる子ども、
(2)心のゆがみ(いじける、つっぱる、ひねくれるなど)のない子どもをいう。イヤだったら、「イ
ヤ!」と言う。何でもないことかもしれないが、それが自然な形でできる子どもを、すなおな子ど
もという。


●至上の愛

ある母親は、自分の子どもが死ぬか、生きるかの大病を繰りかえしたとき、天に向かって、こう
言って祈ったという。「私の命は、どうなってもいい。私の命と交換してでもいいから、子どもの
命を救ってエ!」と。こうした(自分の命すら惜しくない)という、まさに至上の愛は、人は、子ど
もをもってはじめて知る。子どもを、ただの子どもと思ってはいけない。あなたの子どもは、あな
たに何かを教えるために、そこにいる。


●シャドウに警戒する

人は善人ぶることによって、自分の中に潜む(邪悪な部分)を、どこかへ押し込める。これをユ
ングという学者は、「シャドウ」と呼んだ。そのシャドウを、子どもはうしろから見ていて、そっくり
そのまま、引き継いでしまう。ときとして、牧師や僧侶など、聖職者と呼ばれる人の子どもが、
凶悪犯罪人になるプロセスは、こうして説明される。善人ぶるとしても、それを仮面(ペルソナ)
として、意識すること。仮面を脱ぎ忘れてはいけない。


●自立したよき家庭人

アメリカでもオーストラリアでも、そしてドイツでもフランスでも、親や教師たちはみな、こう言う。
「子育ての目標は、よき家庭人として、子どもを自立させること」と。が、一方、この日本では、
いまだに、出世主義、名誉主義、さらには権威主義が、大手を振って、まかり通っている。封建
時代の亡霊たちが、いまだに、のさばっている。そしてそれが教育について言えば、諸悪の根
源になっている。


●「偉い」という言葉を、廃語にしよう

日本では、地位や肩書のある人を、「偉い人」という。一方、英語には、「偉い人」にあたる言葉
すらない。あえて言うなら、「respected man」ということになる。「尊敬される人」という意味であ
る。地位や肩書は、関係ない。だから子どもには、「偉い人になれ」ではなく、「尊敬される人に
なれ」と言う。それが子どもの心をまっすぐ伸ばす。


●「家族」という重圧

家族は、それ自体、美徳であり、個々の人の心をいやす、心のより所である。が、その家族
も、ひとたびリズムが狂うと、今度は、重圧感となって、その人を苦しめることもある。事実、そ
の重圧感(=家族自我群)の中で、もがき苦しんでいる人も多い。反対に、自分の子どもを、安
易な親意識で、縛りつける親も少なくない。「産んでやった」「育ててやった」と。こうした言葉
は、親子の間では、使うとしても、心して最小限にする。


●恩の押し売り

日本の親たちは、無意識のうちにも、子どもに対して、恩の押し売りをする。「産んでやった」
「育ててやった」と。その代表的なものが、窪田聡という人が作詞した、『かあさんの歌』。「♪せ
っせと手袋編んでやった」「♪おとうは土間で、藁打ち仕事」と。あれほどまでに恩着せがましい
歌はない。言うとしたら、「♪春になれば、温泉へ行ってくるよ」「♪家のことは心配しなくていい
からね」だ。


●悪玉親意識

親意識にも、2種類ある。善玉親意識(=私は親としての責任を果たすという親意識)と、悪玉
親意識(=親風を吹かし、自分の子どもを自分の支配下に置こうとする親意識)。悪玉親意識
が強い親は、「産んでいやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と、そのつど、親の恩
を子どもに押しつける。そしてあげくの果てには、「大学まで出してやったのに、何だ、その態
度は!」と言うようになる。悪玉親意識に、注意!


●親の統合性

子どもは、自分のしたいこと(=自己概念)を、現実にすること(=現実自己)によって、自分を
確立することができる。これを「自己の同一性」という。一方、親は、それでは満足できない。親
は、自分がすべきことを、現実にすることによって、自分を確立する。これを「自己の統合性」と
いう。その(すべきこと)には、多くのばあい、苦労や苦痛がともなう。親は子育てをしながらも、
自己の統合性をめざす。


●人生の正午

満40歳前後を、「人生の正午」と呼ぶ。このころから、人は、老後の準備を始める。つまり
「死」という限界状況の中で、自分のすべきことを模索するようになる。(したいこと)ではない。
(すべきこと)を、だ。その準備を怠ると、その人の老後は、あわれで、みじめなものになる。孫
の世話、庭木の手入れ、旅行ざんまいの生活が、けっしてあるべき(老後の生活)ではない。


●「だから、それがどうしたの?」

(したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きな距離がある。それがわからなければ、自分にこ
う問うてみればよい。何か、おいしいものを食べた……だから、それがどうしたの?、と。ある
いは何か、ぜいたくなものを買った……だから、それがどうしたの?、と。(したいこと)をして
も、その答は返ってこない。(すべきこと)をしたときのみ、その答が返ってくる。


●子育ては、子離れ

心のどこかで子育てを意識したら、すかさず、子離れを考える。もっと言えば、いかに子どもの
親離れをじょうずにさせるかを、考える。でないと、未熟な親のまま、いつまでも子離れできなく
なってしまう。そのよい例が、野口英世の母である。外国で懸命に研究生活をしている自分の
息子に向かって、「帰ってきておくれ」は、ない。言うとしたら、「私のことは心配しなくていい」
「研究が終わるまで、帰ってくるな」である。未熟な親を、けっして美化してはいけない。


●「釣りバカ日誌」論

浜ちゃんとスーさんは、いつもいっしょに釣りに行く。しかし自分の妻は連れていかない。日本
人には何でもない光景だが、欧米では、考えられない。会社の同僚たちとの飲み食い(=パー
ティ)するときでも、夫婦同伴が原則。もし欧米で、男どうしが、2人でいそいそと旅行に行こうも
のなら、同性愛者とまちがえられる。見なれた光景だが、日本の常識は、けっして世界の常識
ではない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【補足】

●「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよく
ある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならな
い。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、
子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

●「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では
「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がい
る。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見
せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとす
る。

●「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場に
いるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。
その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというも
のは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

●「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちが
ってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越
え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん
人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係
のないこと。子育てにかこつける必要はない。

●「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的
な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも
子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。た
がいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲にな
るのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。あくまでも「尊敬する」「尊
敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきまし
た」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そう
いうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして
恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わさせてしまう。いわゆ
る依存型子育てというのが、それ。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●K国の核開発問題

+++++++++++++++

K国が、米朝2か国間の、
軍事会談の申し入れを、
行ってきた(7月13日)。

突然の申し入れである。

産経新聞は、その記事の末尾に
こう書いている。

『韓国政府筋は13日、「北朝鮮
の談話は軍部によるもので政府・
外務省の立場は確認できていない」
と述べた』と。

わかるかな?

++++++++++++++

 近く、6か国協議が開かれることになった。かねてより日本側は、7月中の協議には、応じら
れないとアメリカ側に申し入れてきた。が、またまたアメリカ側は、日本側の意向を無視。韓国
と協調して、7月中に、6か国協議を開くことにしてしまった。

 この間、つまり先の協議と今日までの間、韓国側は、英語ペラペラの代表幹事をワシントン
に何度も派遣している。が、日本側が、そうしたという事実は、どこにもない。

 で、アメリカと韓国が、日本をはずした4か国協議を画策している最中(さなか)、K国側が、
突然、米朝軍事会談をアメリカ側に申し入れてきた(7月13日)。

 さすがの韓国も、これにはあわてた。韓国統一部の長官でさえ、「韓国をはずした会談などあ
りえない」と談話を発表するほど※。「4か国協議でやろう」と考えていたら、K国は、「2か国協
議でやろう」と。

 産経新聞は、つぎのように伝える。

 『K国の中央通信は、K国人民軍板門店代表部が13日、朝鮮半島の平和と安全保障問題
を協議するため、国連の参加の下で米朝軍事会談の開催を提案すると提案したことを伝え
た。

アメリカのヒル米国務次官補(東アジア・太平洋担当)は、さきに朝鮮半島の平和体制を話し合
う米中韓と北朝鮮の、4カ国協議の年内開催に言及したが、談話でK国は、あくまで米朝間の
協議を主張した』と。

 そしてその意図について、産経新聞は、こう書いている。『北朝鮮の今回の談話は、米国に
直接交渉を要求するだけでなく、「核問題の本質は米国の核」と指摘し自らの核武装の正当性
を強調することで、今後の非核化交渉で、主導権を確保する狙いがあるようだ』と。

 つまりねらいは、「今後の(6か国)協議で、主導権を確保するため」と。

 しかし、本当にそうか? そう考えてよいのか? こうした外交問題では、表面的な動きに惑
わされてはいけない。K国の立場で、ものを考えてみれば、それがわかる。

 たとえば6か国協議が始まるまで、K国は、さかんに米朝の2か国会議、ついで平和条約の
締結を主張していた。なぜか。

 日本を攻撃するにしても、(攻撃しないまでも、脅すにしても)、また韓国を攻撃するにしても、
(攻撃しないまでも、脅すにしても)、目の上のタンコブは、アメリカということになる。

 日本や韓国にアメリカ軍が常駐しているかぎり、K国は、日本やアメリカに手を出すことがで
きない。脅すこともできない。

 しかし米朝で、たとえば相互不可侵条約のようなものが結ばれれば、K国に、もう、こわいも
のはない。その気になれば、いつでも、日本や韓国を攻撃できる。攻撃しないまでも、脅すこと
ができる。「金を出せ!」と。

 が、そんなことをされたら、日本は困る。韓国も、困る。そこで6か国協議ということになった。
最低限でも、4か国協議(韓国側の主張)となった。

 が、いきなり、2か国軍事会議!

産経新聞は、「主導権を確保するため」と解説しているが、そんな甘いものではない。もしそん
な会談が開かれ、仮にここでいうような相互不可侵条約、あるいは平和協定のようなものが結
ばれれば、日本は、それこそ、たいへんな立場に立たされることになる。日米安保条約すら、
死文化する。

韓国にしても、事情は同じ。しかし韓国は、K国がまさかそこまで言いだす(=図に乗る)とは思
っていなかった。常識で考えれば、つまり米朝の軍事力の差を考えれば、米朝軍事会談などと
いうものは、トンデモナイ話ということになる。

この常識ハズレなところが、実にK国らしい……というのが、実は、K国なのである。そしてこう
した常識ハズレの陰には、いつも金xxがいる。K国の軍部がいる。わかりやすく言えば、(まだ
まともな、K国の政府・外務省)、(常識ハズレな、金xx・軍部)の2つ。この2つが、今、K国内
部で、対立している。

現在は、その双方が、主導権を争って、抗争中ということになる。産経新聞も、記事の最後で
こう書いている。

『韓国政府筋は13日、「北朝鮮の談話は軍部によるもので政府・外務省の立場は確認できて
いない」と述べた』と。

 つまり今回の米朝2か国協議の申し入れは、金xxと軍部の独断でなされた可能性が高いと
いうことになる。言いかえると、6か国協議を前にして、金xxや軍部が、自分たちの実権を失う
のを恐れて、あせり始めたということ。

 では、日本は、どう考えたらよいのか。

 こと外交問題に関していえば、現在、日米関係は、戦後、最悪の状態にあるとみてよい。前
防衛大臣や、外務大臣の失言が大きく影響していることは、言うまでもない。A外務大臣など
は、英語どころか、日本語すらまともに話せない。おまけにやるべきことを、何もしていない。

 安倍総理大臣にしても、就任後、8か月を経て、はじめてアメリカ詣でをしている。おかしな
(対米追従外交反対論=国粋主義)が、これに拍車をかけた。アメリカにしてみれば、「日本
は、いったい、何を考えているのか?」ということになる。

 たとえば現在、アメリカのヒル国務次官補は、そのつど、日本へやってきて、事情を説明して
いる。日本側に協力を求めている。しかしアメリカにしてみれば、どうしてそこまで、日本のため
にしなければならないのか、ということになる。もっと言えば、K国の核開発で、もっとも危険な
立場に置かれているのは、この日本である。

 その日本が、何もしないで、アメリカの国務次官補が、飛びまわっている。この(おかしさ)に、
まず日本自身が気づかねばならない。つまり本来なら、アメリカの国務次官補が日本へ来る以
上に、日本側の責任者が、アメリカとの間を往復していて、当然なのである。

 こんなことをしていれば、そのうち、ヒル氏自身も、日本には立ち寄らなくなるだろう。時間の
問題と考えてよい。6か国協議が4か国協議となれば、なおさらである。もしそうなったら、日本
は、どうするのか?

 私が日本の外務大臣なら、今ごろは、毎月のようにアメリカへ飛んでいる。日米の間に信頼
関係があってはじめて、日本の平和と安全が保たれる。その信頼関係の構築に、全力を注
ぐ。(韓国は、そうしているぞ!)

 その信頼関係があれば、自ずと道が見えてくる。あとは、その道に従って進めばよい。

 ……が、今、日本の進むべき道は、霧の中に入ってしまっている。そしてその責任の大半
は、A外務大臣にある。国際外交は、どこまでも現実的でなければならない。対米追従外交に
反対なのは、よくわかる。しかし今の日本から、アメリカを取り除いたら、この日本は、どうな
る? 勇ましい民族主義だけでは、この日本の平和と安全は、守れない! それが今の日本
が直面している、まぎれもない(現実)なのである。

 ともかくも、ああいう、どこか(?)な人物が、日本の外交を取り仕切っているというのは、日本
にとって、悲劇としか言いようがない。……というのは、少し言い過ぎかもしれないが、今の日
本には、つぎの一手が見当たらない。

 ここは一歩ひきさがって、6か国協議のなりゆきを見守るしかない。
(07年7月14日、朝記)

注※……韓国のI統一部長官は、「朝鮮半島の軍事的な緊張緩和と平和体制問題は、南北対
話を中心に発展させなければならない」と談話を発表している。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2038)

【今日・あれこれ】(7月14日)

+++++++++++

大型の強い台風4号が、
こちらに向かっている。

今ごろは、四国の高知県
あたりを、東に進んでいる
という。

断続的に強い雨。
夕食後、することもないので、
こうして書斎に座って、
パソコンのキーボードを
たたく。

+++++++++++

●北海道I市

 昨夜、仕事から帰ると、北海道のI市の教育委員会から、講演依頼が届いていた。まだ本決
まりではないが、一応、その日(10月xx日)はあけておくということで、返事を書いた。

 実は、昨年も、北海道のM市からの教育講演の依頼があった。そのときは、「遠方すぎる」と
いうことで、断った。が、そのあと、少なからず、後悔した。やろうと思えば、できた講演である。
一度は、北海道で、講演してみたかった。

 そんなわけで、今回は、すぐ「YES!」の返事を書いた。

 ……といっても、こうした講演は、このあと、キャンセルになることが多い。私の知名度では、
人は集まらない。自分でも、それがよくわかっている。だから返事には、こう書いた。

 「お声をかけていただいただけでも光栄です。キャンセルということになりましても、どうか私
へのお気づかいは、なさらないでください」と。


●DVD「TOMORROW WORLD」

++++++++++++++

昨夜、DVD「トモロウ・ワールド」
を見た。

ずいぶんとお金をかけた映画のよう
だったが、評価は、星1つの、★。

ワイフは、「尻切れトンボみたい」と
言ったが、そう。何がなんだか、
よくわからないような状態で、
映画は終わってしまった。

++++++++++++++

 中学2年のときのこと。英語のテストで、「明日」という単語を書けというのがあった。答は、(t
omorrow)である。しかしテストの最中、(tommorow)だったのか、(tomoorow)だったの
か、それとも、(tomorrow)だったのか、わからなくなってしまった。

 自分では覚えたつもりの単語だった。それが私には、悔しかった。だからテストが終わったあ
と、(tomorrow)という単語を、自分のノートに何10回も書いた。

 そんなことを思い出しながら、DVD「TOMORROW WORLD」を見た。ワイフは、「尻切れトンボ
みたい」と言ったが、私も同感。何がなんだか、よくわからないまま、映画は終わってしまった。

 私が制作者なら、最後のシーンで、UFOでも登場させただろう。そのほうが、ずっとSF映画
らしい。

 
●生活不活発病

++++++++++++++

生活不活発病というと、何も、
老人だけの病気(?)ではない。

私たちだって、こうも雨がつづくと、
生活不活発病になる。

運動不足が引き金となって、
体の不調が始まる。だからますます
運動不足になる。

あとは、この悪循環。

++++++++++++++

 生活が不活発になり、体を動かさなくなると、知力、筋力、体力が衰え始める。つづいて全身
の機能が衰える。こうした(状態)を総称して、「生活不活発病」という。私がつけた名前ではな
い。ちゃんとした病名である。

 老人のばあい、風邪をひいたり、骨折したりしたことが引き金となって、生活不活発病になる
ことが多いという。そのまま寝込んでしまったりする。

 が、この病気は、何も老人だけの病気ではない。私も、先週は、2単位(40分x2)しか運動
ができなかった。雨続きで、自転車に乗ることができなかった。こういうときは、いつもなら傘を
さして、職場までの道のり(=往復15キロ)を歩くのだが、それもしなかった。

とたん、体がだるくなってしまった。ものを考えるのも、おっくうになってしまった。

 そこで一念発起!、……ということでもないが、7月x日は、山歩きをすることにした。(こうし
たBLOGでは、詳しい日程は書かないほうがよいそうだ。空き巣に「おいで」と言っているような
ものだそうだ。以前は、私の講演日時などを公開していたが、今から思うと、あぶないことをし
ていたものだと思う。余計なことだが……。)

 健康は、つくるものではない。維持するもの。私の年齢になると、そう考えるようになる。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【自然教育について】

●台風4号

+++++++++++++

明日になると、もっとはっきりする
と思うが、今回の台風4号は、
九州地方に、かなりの被害を
もたらしたようだ。

河川の氾濫、土砂崩れ、など。

しかし以前は、河川の氾濫に
しても、その氾濫を防ぐために
はどうすればよいかということが
治水事業の柱になっていた。

が、今は、ちがう。「河川は
氾濫するもの」という前提で、
治水事業が考えられるように
なった。

わかりやすく言えば、それほど
被害がないと考えられるところで、
河川をわざと氾濫させることによって、
人口密集地や、住宅地への被害を
最小限におさえようという方法で
ある。

今までの治水方法では、あまりに
お金がかかりすぎた。それでそういう
考え方に変わってきたらしい。

国土交通省が導入しようとしている、
「洪水氾濫域減災対策制度」(仮称)
というのが、それである。

+++++++++++++++

 私の息子夫婦は、アメリカのアーカンソー州という州に住んでいる。テキサス州の上、アメリカ
南部の州である。

 そのアーカンソー州の東側を、たてに、あのミズーリー川が流れている。長大というよりも、広
大な川である。

 この川が、数年おきに、氾濫する。ああいう国だから、ふつうの氾濫ではない。幅何10キロ
(あるいはそれ以上)に渡って、氾濫する。

 しかし治水事業というか、堤防づくりは、ほとんどしていない。それについて、たまたま私がア
メリカにいたとき、こんな住民投票の結果が、テレビで報道されていた。

 住民たちは、堤防づくりに反対しているというのだ。理由は、「お金がかかる」「そのために税
金がふえるのはいや」「そのかわり、氾濫で被害を受けたばあいには、補償金を支給してくれ
ればいい」と。

 何とも合理的な考え方ではないか。またこんな意見もあった。「人工の堤防をつくれば、自然
の景観を台無しにする」と。

 日本でも、河川の氾濫について、このところものの考え方が、少しずつだが、変わってきた。
以前はというと、河川の氾濫にしても、その氾濫を防ぐためにはどうすればよいかということが
治水事業の柱になっていた。

が、今は、ちがう。「河川は氾濫するもの」という前提で、治水事業が考えられるようになった。

わかりやすく言えば、それほど被害がないと考えられるところで、河川をわざと氾濫させること
によって、人口密集地や、住宅地への被害を最小限におさえようという方法である。

今までの治水方法では、あまりにお金がかかりすぎた。それでそういう考え方に変わってきた
らしい。

 といっても、わざと氾濫させてそのままというわけではない。道路や線路を高くもりあげて、堤
防のかわりにするということらしい。これを行政用語で、「控え堤」とか、「二番堤」とかいう。氾
濫した水を、こうした控え堤や二番堤をうまくつかって、別の場所に誘導する。最終的には、海
へ流す。

 まさに知恵比べということになるが、その効あってか、これほどまでに大きな台風がきても、
日本では、目だった被害はあまり起きない。少なくとも、どこかのあの国とはちがう。あの国で
は、少し長雨がつづいただけで、壊滅的な被害を受ける。

 核兵器ばかり作っていないで、少しは、別のところにも頭を使ったらよい。……というのは、お
まけ。私の意見のおまけ。


●自然教育

++++++++++++++

ミズーリー川の話を書いたので、
ついでに自然教育について。

題して、「はやし浩司の自然教育」。

参考までに!

++++++++++++++

【自然教育について】

 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」という意見を聞くたびに、私は「日本人は、どう
してこうまでオメデタイのだろう」「どうしてこうまで井の中の蛙(かわず)で、世間(=世界)知ら
ずなのだろう」と思ってしまう。

 外国を歩いてみると、彼らの自然観は、日本人と180度違うのがわかる。日本以外のほとん
どの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそうだ。

彼らはあのジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。彼らにすれば、自然は、「脅威」
であり、「敵」なのだ。このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっきりする。そういう国で、
「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、アホか?」と言っ
て笑われる。

 日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意味で、
たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押しつけてはいけ
ない。そこで発想を変える。

 オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点から、
地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目もある。

私がある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパルサリー)科
目ですか」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。このキャンピングと
いう科目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜く術(すべ)を学ぶ。ここでも、
「自然は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。

 もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではない。しかし
こういうことは言える。

だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都会の人だということ。自分たちでさんざん
自然を破壊しておきながら、他人に向かって、「大切にしましょう」は、ない。破壊しないまでも、
破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさんざん楽しんでいる。

こういう身勝手さは、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、家庭菜
園をしたり、植樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言ってほしくない。そ
ういう言い方は、本当に、田舎の人を怒らせる。

そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水があったくらいで、川の護岸工事など
しないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受け入れること。それをしないで、
「何が、自然を守る」だ!

 自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。この
ことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るということは、もっと別の
視点から考えるべきことなのである。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自然教育について(2)

 世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛しているか
らではない。日本人がそれを守ったからでもない。浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層
ビルがある。ためしにあのビルに、のぼってみるとよい。40数階の展望台から見ると、眼下に
浜松市が一望できる。

が、皮肉なことに、そこから見る浜松市は、まるでゴミの山。あそこから浜松市を見て、浜松市
が美しい町だと思う人は、まずいない。

 このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つという国
であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるなら、日本人が
もつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装
し、ブロックで、カベを塗り固めている。そういう現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教
育だ」ということになる。

 私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、さ
らには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。

構造的な問題というのは、市の土木予算が、20〜30%(浜松市の土木建設費)もあるという
こと。日本人の思考回路というのは、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んでい
る誤解をいう。

たとえばアメリカのミーズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押し流し
ている。2000年※の夏にも大洪水を起こした。

しかし当の住人たちは、護岸工事に反対している。理由の第一は、「自然の景観を破壊する」
である。そして行政当局も、護岸工事にお金をかけるよりも、そのつど被害を受けた家に補償
したほうが安いと計算して、工事をしないでいる。今、日本人に求められているのは、そういう
発想である。

 もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ることだ。ク
ーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って歩くことだ。少
なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなたちの身勝手とい
うもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自然教育について(3)

 5月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季節。
そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。

 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう六年になる。週日は市内で仕
事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で40分足らずのところだが、この2つの生活は
まるで違う。

市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であることが、当たり前。大
雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナリが落ちるたび
に停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路舗装も浄化槽
の清掃も、自分でする。

こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれない。しかし実際には、T村での生
活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」という実感がともなう。庭に出したベ
ンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギスを見ていると、生きている喜び
さえ覚える。

 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会
生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな
る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。

いろいろあるが、ともかくも肌に合わない。田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。
女房は「あなたも歳よ…」というが、どうもそれだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にも
どりつつあるように思う。私は子どものころ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚
をとった。そういう自分に、だ。

 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合
宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす
ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。
数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な
ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。

 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく
なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ゆがんだ自然観

 もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよ
う」と。

この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さな虫を
見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自然教育
が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。

 「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、
人間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかっ
た。が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベ
ーコン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには1740
年に始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。が、戦後、アメリカ型社
会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、日本を支配した。

その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんどん破壊された。埼
玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。

さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求め
てからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少なくとも森の中の
高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。そ
ういう人間の身勝手さは、もう許されない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自然
教育 自然論 子供の自然教育)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2039)

【今朝・あれこれ】(7月15日)子どもの読解力について

+++++++++++++++

ただ今、台風4号、接近中。
横殴りの雨の中、たった今、
庭に、スズメの餌をまいて
きたところ。

こんな台風の日でも、スズメ
たちは、周囲の木々に身を
寄せながら、私を待っていた。

私はいつもより多く、餌を
まいた。

7月15日(日)、午前6時。

+++++++++++++++

●読解力向上

 国際的な学力調査、PISA(経済開発機構・OECD)の調査によれば、日本の子どもたちの
読解力は、第14位。参加国の中では、ほぼ平均的でしかなかったという(2003年)。

 わかりやすく言えば、文章を読みこなす力をいう。その読解力が、国際的な基準からしても、
「平均的でしかない」と。しかし読解力と言っても、中身は、それほど単純なものではない。

 表現力、表記力、作文力、洞察力、推察力、判断力、会話力などなど、もろもろの(力)が、そ
れに含まれる。が、何よりも重要なのは、自ら考える力。自ら考える力があってはじめて、その
上に、読解力が成り立つ。さらにそれに、時代性も加わる。日本語そのものが、変質しつつあ
る。たとえば……。

 読解力? ゲッ、本読み? やだア!
 今は、映像の時代ちゅうの。わかる?
 何も、本だけが、情報のもと? じゃ
 ないよね。ゲロゲロ、パッ!、と。 

 今の時代の中では、むしろ私の書く文章のほうが、古臭いということになる。あるいは時代遅
れ? 自分でも、それがよくわかっている。しかし今の私の書き方を改めろと言われても、そう
は簡単にはできない。

 私は、私。……ということで、ではその私が、若い人たちに、私の書き方を押しつけるのも、
どうかと思う。つまり基準そのものが、はっきりしない。私の基準からすれば、今の若い人たち
の読解力は、たしかに「?」。しかし若い人たちの基準からすれば、私のほうが、「?」。

 ……という話はここではやめて、子どもの読解力を向上させるためには、どうしたらよいか、
それを前向きに考えてみる。

 私の教室(BW子どもクラブ)では、つぎのような方法で、子どもの読解力を養っている。

(1)筆写

 小学2、3年以上は、毎回、レッスンの前の10分前後、筆写の時間にあてている。200字詰
め原稿用紙(2、3年)、あるいは400字詰め原稿用紙(4年以上)を使って、それに大正から
昭和にかけて活躍した文豪たちの文章を筆写させている。

 この方法は、確実に効果がある。理由がある。

 筆写にまさる精読はない。子どもは、筆写することによって、その文章を精読する。難解な漢
字にはすべてフリガナをつけておくが、筆写させるときには、漢字はそのまま書かせる。最初
のころは、「こんな漢字は知らない」とか何とか言うが、そのうち、あきらめて書くようになる。

 たいてい1、2年もすれば、みな、国語が得意になる。ある女の子(小6)は、こう言った。「学
校のテストに出てくる文章なんて、簡単すぎて、読む気にもなれない」と。

(2)朗読

 もう一つの方法は、テープレコーダーなどに録音した本を、子どもに聞かせるというのがあ
る。これは幼児〜小学生にとくに効果的である。

 それについて以前、こんな原稿を書いたことがある。少し内容が脱線するが、許してほしい。

++++++++++++++

●またまた暴論!

 以前、こんなことを書いた、どこかの教授がいた。

○ 墓参りしたら、故人の遺骨を見せろ。子どもに生命の尊さを教える、よい機会である。
○ 夫婦喧嘩は子どもに見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会である。
○ 親子のきずなを深めるために、遊園地では、わざと子どもを迷子にせよ。
      (以上、100万部を超えるベストセラー書をもつ、T教授)
○ 子どもには、ナイフを渡せ。子どもを信頼しているという証(あかし)になる。
      (日本でも、著名な、S評論家)

 とんでもない暴論であることは、一読してわかる。

 そしてまたまた最近……。今度は、「絵本は、暗闇で読んでやれ」などということを書い
た本を出版した元教授がいる。

 何も、私が正しくて、彼らがまちがっているというのではない。ただ、こういうことは
言える。

 幼児教育をしたこともない連中が、こうしたメチャメチャな本を書くのだけは、やめて
ほしい。どこかの研究室の奥にひっこんで、想像だけで幼児教育を考えると、こういう本
を書く。

 それともあなたは、どこかの大学の教授が、(助教授でも、講師でもよいが……)、幼稚
園や保育園で、園児を直接指導している姿を見かけたことがあるとでも、言うのだろうか。

 多分、その元教授は、「暗闇という、空想のキャンバスに、子どもが自由に空想の絵がか
けるように……」という思いから、そう書いたのだろう。しかしその元教授は、本当に、
そういう指導をしたことがあるのだろうか。だいたいにおいて、親は、その暗闇の中で、
どうやって本を読むというのだろうか。

 あるいは、もしそうなら、昼間に本を読んで聞かせることは、まちがっていることにな
るのだろうか?

 こういう否定的なことばかりを書いては、意味がない。そこで私の意見。

 もし子どもに本を読んでやるなら、それをテープレコーダーに録音しておくとよい。子
どもは、それを繰りかえし聞くことで、内容を、暗記してしまう。またこれにまさる国語
教育は、ない。

 その方法なら、たとえば子どもが床についたあと、暗闇の中で、子どもに聞かせること
ができる。また親も、楽だ。つまりそういう指導なら、私にもわかる。

 この方法は、すばらしい。私の三男だったが、小学一年生くらいのとき、芥川龍之介の
「高瀬舟」をテープに読んで録音してやったことがある。あの難解な「高瀬舟」である。

 最初は、軽い実験のつもりだった。しかし二、三か月後には、三男は、そのほぼ全文を、
ソラで言うようになってしまった。これには、私も驚いたが、朗読には、そういう力もあ
る。

 子どもに本を読んでやるときは、子どもを、ひざに抱いて、暖かい息を吹きかけながら
読んでやるのがよい。明るいとか、暗いとか、それは重要な要素ではない。実際には、親
も忙しい。

 そういうときは、テープレコーダーを利用すればよい。

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 このテープレコーダーを利用するという方法は、実は、ある母親から教えてもらった。

 その子ども(年長・女児)は、ずば抜けて、国語力のある子どもだった。たとえば4枚の紙芝
居を渡して、話をさせたときでも、その子どもは、まさに立て板に水のごとく、スラスラと話をつく
ってみせた。

 しかもそのまま文章として書いてもおかしくないほど、内容もしっかりしていた。

 そこでそのあと、母親に、「秘訣は何ですか?」と聞くと、こう教えてくれた。

 その母親の趣味は、ドライブ。そのドライブの途中、いつもその母親は、自分の声で吹きこん
だカセットテープを、子どもに聞かせていた。「赤ちゃんのときから、そうしていました」とも。

 その女の子には、こんなエピソードがある。その女の子は、そののち、浜松市内でもいちば
んという進学校(中学・高校)に入学したが、高校を出るまで、賞という賞を総なめにして卒業し
ていったという。

 通りでの立ち話だったが、母親はこう言った。「作文だけは、だれにも負けませんでした」と。

 ……ということで、文部科学省は、05年に、読解力向上の指導資料を作成。考える力を軸
に、読む力と書く力の向上をはかることにした。県(神戸市など)によっては、副読本の使用を
始めたところもある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 読解
力 子どもの国語力 子供の国語力 表記力)

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子どもの作文指導について
書いた原稿を添付します。

ご家庭での、指導に、
お役立てください。

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●作文指導

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 今、ほとんどの中学校では、入学試験に、
作文テストなるものをする。その作文テス
トについて、親たちからの、相談も多い。
「どうすればいいですか?」と。

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 今、ほとんどの中学校では、入学試験に、作文テストなるものをする。その作文テストについ
て、親たちからの、相談も多い。「どうすればいいですか?」と。

 実はその作文テストで、いつも1つ疑問に思っていることがある。つまり(じょうず・へた)は、
だれが判断するのかということ。テストをする教師だって、みながみな、作文がうまいとはかぎ
らない。そのことは、それぞれの学校が発行する印刷物などを読めばわかる。ときどき、「これ
が先生の書いた文章なのかなあ?」と思うことは、よくある。

 しかしそんな疑問をもっていたのでは、子どもたちに対して、指導ができない。では、どうする
か?

(1)声に出させて、読ませてみる。

 もっとも重要なコツは、子どもに作文を書かせたら、子ども自身に、それを声に出して、読ま
せてみること。これは子どもにかぎらない。おとなでも、そうだ。声に出して読んでみると、語句
の使い方が正しいかどうかが、わかる。文のリズムも、それでわかる。自然なリズムで、流れる
ようにサラサラと読める文章は、すばらしい。

 要するに気取らないで、話し言葉で書くということか。短い文章をつなげて、端的に書くのがコ
ツ。

(2)常識的なことを書く。

 作文テストで、教師が知りたいのは、その子どものものの考え方が常識的かどうかというこ
と。そのことは、入試問題として、与えられたテーマをみればわかる。

 今年の入試では、たとえばこんな課題が出された(H市内)。

●みんなで、映画を作ることになりました。あなたなら、どんな目的をもって、どんな映画を作り
ますか。

●みんなで、ロボットを作ることになりました。あなたが作るロボットは、どんなロボットですか。
またそのロボットには、どんな仕事をさせますか。

 こうした作文では、当然のことながら、戦争、死など、暗い話を書くのは、タブー。内容が未来
に向かって、明るくすなおなものであればよい。またこの世界には、「無思想の思想」という言
葉がある。わかりやすく言えば、思想という思想を感じない作文ほど、よい……ということにな
っている。たとえば、「神の教えに従って……」とか、「この世界は、すべて数学で構成されてい
る……」というのは、まずい。

 もちろん漢字の使い方や文字の書き方も評価されるが、それはマイナーな問題と考えてよ
い。

 で、あとは練習あるのみ。作文というのは、書けば書くほど、うまくなる。もし、親として家庭で
指導ができる部分があるとするなら、子どもとの会話に注意すること。それについて書いた原
稿を、ここに添付する(中日新聞掲載済み)。

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子どもの国語力は、親が決める!
親の会話力で、決まる!

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【子どもの国語力を伸ばす法】

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう30年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の3つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない

ある男の子(小2)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」というような話し方をしていた。「ジ
ャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生
がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴ
イ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみた
が、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない

ある女の子(小4)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで会話が終わるとか。何を聞いて
も、「まあまあ」と言う、など。

母「学校はどうだったの?」
娘「まあまあ」
母「テストはどうだったの?」
娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない

そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの子どもも外国語でも話すかのよ
うに、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のようにたどたどしかった。

私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」
子「山ア……、上にイ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。
もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。
「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。

そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には
「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言
った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

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【補記】

 自分の書いた文章を、一度、声に出して読んでみるというのは、とても重要なことである。そ
してできれば、いつも、読む人側の立場にたって、書くこと。つまり読む人にとって、わかりやす
い文章かどうかを考えながら、書くこと。

 たとえば、こんなメールを受け取ったとしよう。「先日は、いろいろありがとうございました。あ
のあと、あの問題などをよく考えてみましたが、原因は父親にあると思います。が、息子として
も反省すべき点もあると思います。これからも、よろしくご指導ください」と。

 「父親」というのは、その人自身の親のことなのか、それとも、その人の夫のことなのか。
 「あの問題」とは、何か。
 「息子として……」というのは、だれのことなのか、などなど。「いろいろ」とか、「あの」「など」と
かいう言葉は、使うとしても、最小限にしたい。

 こういう文章に出会うと、それだけでイライラしてしまう。そういう文章は、へたくそな文章とい
うことになる(失礼!)。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 作文
 作文指導 子どもの国語力 国語力の基礎 読解力 読書力)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【今、学校では……】(再録版)

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先日、市内のS小学校で
講演をさせてもらった。

そのときその学校の校長と、
習熟度別クラスが話題に
なった。

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●習熟度別クラス

 習熟度というほど、おおげさではないが、子どもの能力と、やる気に合わせて、クラスを分け
て授業を進めるという方法が、この浜松市でも、あちこちの小学校で採用されている。

 現在は、まだ、試行錯誤の段階で、そうした授業を、親たちに参観させながら、そのあとアン
ケート調査をするところも多い。

 で、一応、親たちは、それを、「習熟度別授業」と、理解している。

 従来(2〜3年前から)は、小学3〜4年生クラスにおいて、実験的に、特定の教科について、
こうしたクラス分けがなされていた。たとえば理科の実験などでは、人数を減らして、マンツーマ
ンで教えるなど。

 ほかに小学1年生については、国語の学習で、とくに遅れが目立つ子どもについてなどは、
個人レッスンの形で、やはりクラス分けがなされていた。これを「個別指導」というが、時間的
は、それほど、長いものではない。平均して、20〜30分程度である。

 しかしこれは習熟度別というのではなく、ここにも書いたように、個人レッスン的な色彩が濃い
ものであった。こうした授業形態を、「小(こ)人数クラス」と呼び、「少人数クラス」とは、区別し
ていた。

 こうした授業に対して、浜松市内の大規模校を中心に、(1)テストの結果などを参考に、(2)
日ごろの観察、(3)子どもの自主性、(4)親の希望を取り入れて、習熟度別授業をもつところ
が、ふえてきた。

 「まだ、(本格的に)、しているところと、していないところがある」(某小学校教頭談)とのこと。

 こうした習熟度別授業は、(1)固定化しているわけではなく、そのつど、流動的に生徒が、そ
れぞれのクラスを移動する。(2)クラス分けは、均等分けするときもあるし、そうでないときもあ
る。たとえば2クラスを、3クラスに分けて授業をするときは、均等分けにしたりする。

 実験的な措置として、特定の学校のみに、1人、余分な教師が派遣されることもある。(大規
模校には、2人)。そういう教師を利用して、2クラスを3クラスに分けるときもある。

科目によっては、とくに算数などの差のつきやすい科目については、Aクラス(レベル高)を、1
0〜20%前後、Cクラス(レベル低)を、10〜20%前後にし、中位のBクラス(レベル中)のそ
のほかの生徒を置くということがなされている。

クラス名は、「上下意識」を感じさせないように、「木の実クラス」「さくらクラス」「かもめクラス」と
いうようなネーミングをつけるところが多い。が、こうした授業が、教師に与える負担も、相当な
ものである。

 これについて、以前、つぎのような原稿を書いたので、再掲載する。

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●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいて
い、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教
材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間になってしまっ
たという(某、小学校校長談)。(学校によっては、1週間に、平均して3時間程度というところも
ある。文科省の指導に従えば、週1時間程度になるが、学校ごとに、やりくりをして、3時間程
度を確保している。なお、中学校では、平均して7〜8時間程度の、空き時間がある。浜松市
内)

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、
めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習
熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の
先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追
い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出
している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこ
のところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰る
のは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追
いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1〜2人の
自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生に押しつけて、「何とか
しろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000
年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、
激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、み
なさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司  空き
時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学指導 詰め込み教
育)

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 今後は、こうした習熟度別教室は、一部の抵抗もあるだろうが、学校内で定着していくものと
思われる。実際には、当初は、どこか遠慮がちに始まった習熟度別授業だったが、市内の小
学校を中心に、新たな単元が始まるたびに、簡単なテストをして、そのあと、クラス分けをする
ところがふえてきた。

 もちろん、問題点がないわけではない。

 教師の負担もさることながら、こうした習熟度別授業は、親たちに、少なからず、ショックを与
えている。たとえば習熟度別授業を参観してきた、ある母親は、こう言っている。学校の帰り
道、親たちはみな、進学塾はどうしようと、そんな話ばかりしていました、と。

こうした習熟度別授業は、平等主義を貫いてきた学校教育に、大きな変化をもたらすことはも
ちろんのこと、子どもたちの間で、差別化を生む可能性もある。それをどう克服していくか、こ
れからの大きな課題になるものと思われる。


●過酷な職場

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学校の先生たちが、悲鳴をあげている。
あなたには、その悲鳴が聞こえるだろうか?

+++++++++++++++++

 教育は、重労働である。とくに、小学校教育は、そうである。

 たとえば水泳指導したあと、生徒たちといっしょに着替え、つぎの時間には、クラスで算数を
教えなければならない。

 そのためかなりの体力と気力を、必要とする。

 で、現実問題として、この浜松市でも、55歳をすぎて教師をしている、女性教師は、ほとんど
いない。女性教師のばあい、たいていの教師は、50歳前後に退職していく。「水泳指導ができ
なくなったら、教師はやめる」というのが、一つの目安になっているという。

 学校の教師のばあい、50歳少し前に、管理職に向うかどうかが、決まる。管理職になれば、
学級担任からはずされるが、それは校長と教頭、教務主任のほか、あと1名程度。そこでもっ
と、女性教師を管理職に回せばよいということになるが、これもむずかしい。

 浜松北部の、旧HK市のばあい、小学校は18校あるが、去年まで、女性校長は3人いた。し
かし2人、退職したので、現在(05年度)は、1人のみ。

 そうでない教師は、学級担任をつづける。が、50歳過ぎてからの、学級担任は、きつい。男
性教師にとっても、事情は、同じ。

 ますます拡大する教師の仕事。今では、家庭問題にまで教師が駆り出される時代である。
「子どもが警察につかまった。いっしょに行ってくれ」「子どもが家出をした。いっしょにさがしてく
れ」と。

 本来なら、教師は教育に専念すべきである。またそれをもって「教師」という。しかし雑務、雑
務の連続。これでは、本来の教育がおろそかになって当然。「これでいいのか」と疑問をもつの
は、私だけではないと思う。


●家庭問題が、そのまま学校に!

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 以前、荒れた学校が、問題になった。
しかし今は、問題になっていない?

実は問題になっていないのではなく、
荒れた学校が、当たり前になってしまった。

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 今どき、荒れた学校を問題にする人はいない。教師も、父母も、そして評論家も。それが当
たり前の現象になってしまったからである。

 しかし「荒れ」は「荒れ」でも、以前とは、少し質が変わってきた。H市で小学校の校長をしてい
るN氏は、こう話してくれた。

 「以前は、荒れというと、暴力事件を言いました。しかし今は、少し質が変わってきたように感
じます。つまり今は、家庭問題が、そのまま学校へ持ちこまれるようになりました。

 家庭騒動、親の離婚、貧困などなど。親の心の問題が、そのまま持ちこまれることもありま
す。引きこもり傾向を示す生徒がいたので、家庭訪問をしたら、親が出てこない。つまり親自身
も、引きこもってしまっているのですね。

 そういう子どもが、学校の内部で、いろいろな問題を引き起こします。最近の荒れは、そうし
て起こるものが多いです」と。

 ついでに言うと、その校長も、あの「金P先生」を、鋭く、批判していた。「ああいうありもしない
教師像を、マスコミが勝手につくり出すから、かえって、現場は混乱してしまうのです。

たとえばあの番組の中で、非行グループが、自転車のチェーンを振り回したとしますね。すると
つぎの日には、本当にそのチェーンをもって、学校へ来る生徒が出てきたりします」と。

 金P先生については、私も、たびたび批判してきた。ああいう教師を見て、「教師とは、こうあ
るべきだ」と考えるとしたら、それはまちがい。よくテレビドラマの中で、警官と悪党が、ピストル
でバンバンと撃ちあうシーンがある。

 それと同じくらい、金P先生の世界は、ありえない。たとえば金P先生は、非行少年の家の中
にあがりこみ、その少年の父親といっしょに、酒を飲んで、人生論を語りあったりする。

 しかしそれが教師のあるべき姿なのか。そこまでしてよいのか。あるいは、それこそまさに、
教師の(おごり)ではないのか。いや、その前に、体力そのものが、つづかない。20〜30人も
の子どもを相手にすることだけでも、重労働である。その上での、教育である。

 その金P先生について書いた原稿が、つぎのものである(中日新聞掲載済み)。

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教師が10%のニヒリズムをもつとき 

●10%のニヒリズム

 教師の世界には10%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭しても、最
後の10%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズタズタにされて
しまう。

たとえばテレビドラマに『三年B組、金P先生』というのがある。武田T也氏が演ずる金P先生
は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。それはちょうど刑事ドラマの中
で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうようなもの。ドラマとしてはおもしろいが、現
実にはありえない。

●その底流ではドロドロの欲望

 教育といいながら、その底ではまさに、人間と人間が激しくぶつかりあっている。こんなことが
あった。私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、私にあいさつを
したのに気づかなかった。30歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完全になくしている。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うちの娘
の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。

私がその子どものあいさつを無視したというのだ。そこでどうすればよいのかと聞くと、「明日、
娘をお前の前に連れていくから、娘の前で頭をさげてあやまれ」と。こんなこともあった。

●「お前を詐欺で訴えてやる!」

 たまたま5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)の授業が、一時間ぬけたことがあ
る。それについて「補講せよ」と。私が「できません」と言うと、「では、お前を詐欺で訴えてやる。
ワシは、こう見えても、顔が広い。お前の仕事なんかつぶすのは、朝飯前だ!」と。

浜松市内で歯科医をしている父親からの電話だった。信じられないような話だが、さらにこんな
こともあった。

 私はある時期、童話の本を読んでそれをカセットテープに録音し、幼稚園児たちに渡してい
たことがある。結構、骨の折れる作業だった。カラオケセットをうまく使って、擬音や効果音を自
分の声の中に混ぜた。音楽も入れた。もちろん無料である。そのときのこと。たまたまその子
ども(年長男児)が病気で休んでいたので、私はそのテープを封筒に入れ郵送した。

で、その数日後、その子どもの父親から電話がかかってきた。私はてっきり礼の電話だろうと
思って受話器を取ると、その父親はいきなりこう言った。「あなたに渡したテープには、ケース
がついていたはずだ。それもちゃんと返してほしい」と。

ケースをはずしたのは、少しでも郵送料を安くするためだったが、中にはそういう親もいる。だ
からこの一〇%のニヒリズムは、捨てることができない。

 これらはいわば自分を守るための、自分に向かうニヒリズムだが、このニヒリズムには、もう
一つの意味がある。他人に向かうニヒリズム、だ。

●痛々しい子ども

 一人の男の子(年中児)が、両親に連れられて、ある日私のところにやってきた。会うと、か
弱い声で、「ぼくの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで喜んでいるよう
だったが、私には痛々しく見えた。4歳の子どもが、そんなあいさつをするものではない。また
親は子どもに、そんなあいさつをさせてはならない。

しばらく子どもの様子を観察してみると、明らかに親の過干渉と過関心が、子どもの精神を萎
縮させているのがわかった。オドオドした感じで、子どもらしいハキがない。動作も不自然で、ぎ
こちない。それに緩慢だった。

 こういうケースでは、私が指導できることはほとんど、ない。むしろ何も指導しないことのほう
が、その子どものためかもしれない。が、父親はこう言った。「この子は、やればできるはずで
す。ビシビシしぼってほしい」と。母親は母親で、「ひらがなはほとんど読めます。数も100まで
自由に書けます」と。

このタイプの親は、幼児教育が何であるか、それすらわかっていない。小学校でする勉強を、
先取りして教えるのが幼児教育だと思い込んでいる。「私のところでは、とてもご期待にそえる
ような指導はできそうにありません」とていねいに断わると、両親は子どもの手を引っ張って、
そのまま部屋から出ていった。

●黙って見送るしかなかった……

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、それ
は私のすべきことではない。いや、こういう仕事を30年もしていると、予言者のように子どもの
将来が、よくわかるときがある。そのときもそうだった。やがてその親子は断絶。子どもは情緒
不安から神経症を発症し、さらには何らかの精神障害をかかえるようになる……。

 このタイプの親は独善と過信の中で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と思い込ん
でいる。その上、過干渉と過関心。親は「子どもを愛している」とは言うが、その実、愛というも
のが何であるかさえもわかっていない。自分の欲望を満たすため、つまり自分が望む自分の
未来像をつくるため、子どもを利用しているだけ。……つまりそこまでわかっていても、私は黙
って見送るしかない。

それもまさしくニヒリズムということになる。

++++++++++++++++++++++

 熱血教師が悪いというのではない。しかし一つまちがえば、熱血教師は、子どもの問題にせ
よ、家庭の問題にせよ、さらにその問題をこじらせてしまう。その教師の独断と偏見、思いこみ
と早とちりが、かえって騒動を大きくしてしまうこともある。

 反対の立場で考えてみればわかる。

 ある日、突然、子どもの問題にかこつけて、あなたの子どもが通う学校の教師が、ズカズカと
あなたの家にあがりこんできたら、あなたは、どのような反応を示すだろうか。いくらあなたの
家庭に問題があったとしても、あなたはこう言うだろう。「失敬だ」と。

 話が脱線したが、こうした「荒れ」もあって、学校の教師は、ますます疲れる。ある女性教師
(小学校)は、はからずも、私にこう話してくれた。

 「授業中だけが、心と体を休める場所です」と。

 こうした現実を、どれだけの親たちが、知っているだろうか?

(付記)

 参観日に参観授業を見てきた親の中には、よく、こう言う親がいる。「すばらしい授業でした。
先生も、あそこまで教材を用意して、授業をしてくれるとは、思ってもみませんでした」と。

 しかしそれは、参観日だから、である。「参観日のあと、数日は、何もやる気が起きません」
と、その(疲れ)を訴える教師が多いことも、忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2040)

【雑感・あれこれ】

●夢見た老後、夢も見ず

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今朝のC新聞に、『夢見た老後、
夢も見ず』というコラムがあった。

読んでいて、胸がジンと熱くなった。
つづいて、怒りが、胸の中に
充満してきた。

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 今朝のC新聞に、『夢見た老後、夢も見ず』というのがあった。1人の男性(61歳)が紹介さ
れていた。

 その男性は、6年前に、学習塾の講師を解雇された。今は、新聞配達で、生計を立ててい
る。月収は26万円前後だという。障害のある子どもを、1人かかえている。で、その新聞配達
にしても、1年ごとの契約制。何とか70歳まで働きたいと、その男性は訴えている。

 その記事を読んでいて、胸がジンと熱くなった。つづいて、怒りが胸の中に充満してきた。

 言いたいことは、いろいろある。書きたいことも、いろいろある。しかし今日はここまで。この
怒りは、少しぐらいものを書いたくらいでは、収まりそうもない。だから今日は、ここまで。

 必ず、この仇(かたき)は、取ってやる! 覚悟しておけ、不正者どもよ!


●中国

 「不正」という言葉で思い出したが、今の中国は、メチャメチャ。少し前、中国製のニセ薬を飲
んで、何百人もの人が死んだという記事を読んだ。中国側は、ニセ薬ではない、外国のメーカ
ーが、勝手に劇薬を混入しただけと居直っている。

 が、それだけではない。一事が万事というか、一人が万人と言うべきか。今の中国では、こう
したインチキが、大手を振ってまかり通っている?

 ワイフがどこかで仕入れてきた話を並べてみると、こうなる。

 肉まんの60%は、ダンボール紙を加工したものだった。
 スイカの中に、注射器か何かを使って、赤いインクを注入している。
 肉や魚にも、着色している、などなど。

 あきれるやら、笑うやら。日本も戦後、あぶない時期があった。しかしその時期は短かった。
おかげで(?)、道徳まで破壊されるところまではいかなかった。しかし今の中国はちがう。道
徳そのものが、破壊されている。

 金のためなら、何だってする? それが今の中国ということになる。

 そう言えば、オーストラリアの友人が、こんなメールを送ってくれた。

 オーストラリアにも、中国系の移民は多い。その中国系の移民たちが、列をなして、自転車で
走っていた。見ると、みな、ランプも、赤いテールランプもつけていない。(オーストラリアでは、
赤いテールランプをつけるのが、義務づけられている。)

 それを見た警官が、その場で厳重注意した。

 で、その翌日のこと。同じく、その移民たちが、列をなして、自転車で走っていた。見ると、先
頭の1台だけがランプをつけ、最後尾の1台だけが、赤いテールランプをつけていたという。

 「実に中国人らしい」とその友人は書いていたが、道徳が破壊された人たちというのは、そう
いう人たちのことをいう。一本、スジの通った、まじめさがない。インチキをインチキとも思わ
ず、平気で小ズルイことをする。またそういう小ズルイことをしても、みじんも恥じない。

 だから……。昨日も近くのスーパーへ行ったら、中国産のウナギを売っていた。2匹で800
円。「安い」と思ったが、結局、買わなかった。恐ろしくて、とてもたべる気にはなれなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2041)

●乱暴な子ども

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滋賀県にお住まいの
Sさんという方から、
こんな相談が届いている。

掲載の許可をいただき
ましたので、そのまま
紹介させていただきます。

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【滋賀県のSさんより、はやし浩司へ】

はじめてお便りします。滋賀県O市に住んでいる、S(母親)というものです。
早速ですが、小学校1年生の長男についての相談です。下に、1歳ちがいの妹がいます。
私は2人姉妹の、姉です。家業は、昔からの呉服商です。夫は、今、両親とともに、T町
の中心部で、家業を手伝っています。

で、息子のことですが、先日、学校帰りに、近所のスーパーで、200円のお菓子を万引
きしてしまいました。スーパーから1人で出てくるところを他の子に見られ、「取ったの
か?」と聞かれそうだ」と答え、万引きしたことが、わかりました。

子どもどうしの会話は学童保育の中でのできごとだったため、学童保育の先生に教えて
いただきました。その後、スーパーに行き、謝罪し、お金を支払いました。

わたしは、頭が真っ白になりショックで1日、起きあがれませんでした。長男は
「お母さんが、禁止って言うから、どうしても食べたかったんだ!」と言いました。
私は歯に良くないのでだめだと言ってしばらく与えていませんでした。

長男はとても活発で、元気な子どもです。年少児のころは一日に、何度も着替えるほど、
どろんこになって遊んでいました。「取った、取られた」で、お友達とのトラブルも
よくありました。年中児になり、「とても落ち着いたね」と、園の先生方からも言われ
担任の先生もおおらかな方で、とくにこれはというトラブルもありませんでした。

年長児になり、春の親子遠足で、全体の写真撮影の時、お友達の手をひっかき、
泣かせてしまいました。うしろにいた私は気がつかず、その夜、先生からのお電話で
知りました。長男に確認したところ、「ぼくの悪口を言ったんだ。お母さん、怒らない?
お母さんのことを『でぶばばあ』って言ったんだよ」と言って、泣き出してしまいました。

(そういえば、園でバスの出発を待っているとき、5人ぐらいの友だちに、
リュックを引っ張られたり、何か言われたりしていました。長男が、反撃をしようと
したので子どもたちに、「そろそろ出発だからお母さんのところに帰ろうね。」と言って
長男から引き離したことがありました。

私は、泣いている長男に、「でも、暴力はいけない」と言って相手のお母さんに
お詫びのお電話をしました。目の前で子どもを泣かされたお母さんは大変怒っていて、
許していただけませんでした。私は、「お気を悪くしないでください。実はこういう
ことがありました。」と事情を話しました。

相手のお母さんは余計怒ってしまい、「うちの子はそんなことは言っていない。お宅の
お子さんは落ち着きがないですよね。多動ではないかと他のお母さんが言っていた。
早く対処してあげないと子どもがかわいそうだ」と言われてしまい、泣けてしまい
ました。

その後、相手のお母さんから、「子どもに聞いたら、他の子が悪口を言って、
たまたま近くにいたうちの子が手をひっかいたようだ」と、電話がありました。

私のほうは、多動と言われた事がショックで、担任の先生に相談したところ
「お母さんの気持ちを聞いてもらったらどうか?」と、保健婦さんを紹介されました。
保健婦さんは、簡単な知能検査をして、帰っていきました。

話を聞いてもらえる機会はなく、先生からは「特に顕著な症状や遅れはありませんが
お母さんが心配なら、専門の病院を紹介します」とのことでした。
主人に相談をしたら、「考えすぎだ、そんなことをしたら子どもが傷つく」と言われ、
私自身も心の整理ができず、病院へは行きませんでした。

その後も、滑り台から滑ったときに、年少児の子を突き飛ばしたのに、やっていないと
うそをついたこともあります。「嘘はいけない」と、先生に、遊具倉庫に入れられたあと、
鍵をかけられたこともあります。

バスの中で立ってはいけない約束なのに、その約束も守れず、4日くらい言うことを
聞かなかったので、年少児の帽子をかぶり、1日、年少組で過ごしたこともありました。

その後、お友だちからばかにされるようになり、仲間に入れてもらえなかったりして、
トラブルになることもありました。長男にも言い分があったのですが、私は子どもの
言い分に耳を貸さず、ヒステリックに叱ったりしました。

そのあと、子どもにチックの症状が表れ、反省し、なるべく落ち着いて説明するよう
心がけました。

卒園前にはペットボトルの取り合いで、お友達に水をかけたので1人だけ、卒園式の
練習に参加させてもらえませんでした。卒園の少し前のこと、あんなに大好きだった
幼稚園に、「あんな幼稚園大嫌いだ!もう、いきたくない!」と。

「あと、3日で終わりだから、そんなこと言わないで」と言うと、
「ほんと?あ〜、良かった」といいました。後から考えると子どもなりに理由も
あったようですが、子どもの言い分を書いてしまうと、園の批判になってしまいますし、
先生方のお考えもあっての事だと思いますので、控えさせていただきます。

小学校入学前は、幼稚園の時みたいにならないようにと事こまかく
(あれをしてはだめ、これをしてはだめ)と、行く前から、何度もお説教しました。

その甲斐もなく、集団登校で言うことを聞かないと、上級生にさじを投げられたり、
お友達がたたいた、蹴ったと、いちいち職員室に報告に行ったりしました。

そして、今回の事件(万引き事件)がおこり、何をしつけてきたのかと、
がく然としました。

ただ、反省することは一度も子どもの味方になってあげられなかったことです。
今回の万引きで、「一生取り返しがつかないことをした、どろぼうだ。」と
言ってしまいました。言ってはいけないと思っても過去の色々な事が
フラッシユバックして止められません。1人の時は泣けてきてしまいます。

先生のコラムを読ませて頂いて、私自身にも問題があるのでは?、と思いました。
私の両親は典型的な『代償的過保護』だと思われます。

20代の時、それを断ち切るために、友だちをたよって、ワーキングホリデーを利用して、
オーストラリアに行ってきました。今では、両親の気持ちも理解でき、関係は良好です。

もうひとつは、私自身の幼稚園の年中児のときのできごとです。

雨の日、室内ジャングルジムで遊んでいる時、上から飛び降りるグループと
その下を通り抜けるグループに分かれて遊んでいました。
先生は「危ないから、やめなさい」と何度も言ったのですが、私たちは無視して
遊んでいました。私の番になった時、何度も「どいて、どいて、」と言って
飛び降りたのに、下を通り抜ける子とぶつかってしまいました。

先生は急いで下の子を医務室に連れて行きました。おなかをぶって苦しんでいる
私のところに「大丈夫?」と言ってきてくれた子に、先生は「自分が悪いんだから、
そんなことしなくていい!」と怒鳴りました。

その後しばらく幼稚園に通えなくなってしまいました。

しばらくして登園すると、みんな、よそよそしく感じ、先生の目も冷たく感じたのを
覚えています。

年中組が終わるまで、針のむしろにすわらせられたような気分で、「先生に嫌われたら、
みんな、離れていってしまう。こういう集団の中では生きていけないんだ。」と思い、
「幼稚園の2階から飛び降りて死んじゃおうかな・・・・。」と本気で考えたことも
あります。

でも、「両親 、大好きなおばあちゃんが悲しむな」と思いやめました。
それから、いい子という仮面をかぶって生きることにしました。
だから問題を起こしてくる長男が許せなかったのかもしれません。

長男へのしつけはしていたつもりです。「あいさつの大切さ、一番してはいけない
ことは、人の物や命を奪うこと」だと、何度も教えたつもりでした。
悪いことは悪い!、と、決めつけてしまい、長男の本当の理由と気持ちを聞いて
あげられなかった、言えなくしていたことがいけなかったのではと反省しています。

思いのたけをぶつけてしまいました。申し訳ありません。
読んでいただき、ありがとうございました。
アドバイスがありましたら、お願いします。

【はやし浩司より、Sさんへ】

 こうしたケースでは、まず、『負けるが勝ち』と心得て、子どもが何かトラブルを起こしたら、頭
をさげて、ひきさがります。いろいろあなたにも言い分はあるでしょうが、大切なことは、子ども
自身が、気持ちよく、学校へ行けるような環境を用意してあげることです。

 そのためにも、『負けるが勝ち』です。またそうすることで、あなたは相手の親より、一歩、先
に進むことができます。

 つぎに多動というよりは、1歳年下の妹さんとの、葛藤が疑われます。年齢的にみて、いちば
んあなたという母親に甘えたかったときに、妹が生まれてしまった。つまりそれが子どもの情緒
をゆがめてしまったのかもしれません。

 今からでも遅くありませんので、濃密なスキンシップを大切にして、もう一度、子どもに安心感
(=信頼感)を与えるように努力してみてください。全体としてみると、あなた自身の不安先行
型、心配先行型の子育てが、子どもに、悪い影響を与えていると考えられます。

 リズムというか、親子の歯車がかみあっていない?

 また情緒が不安定(つっぱる、いじける、怒りっぽい、キレやすい)ということであれば、海産
物を中心にした献立にきりかえてみてください。CA、MG、Kの多い食生活にするということで
す。子どもによっては、劇的に落ち着いてくるはずです。

 で、仮に多動性があるとしても、小学3、4年生を境に、症状は急速に収まってきます。自己
意識が育ち、自分で自分をコントロールするようになるからです。それまでは、あ・き・ら・め・
る、です。今しばらく、こうした乱暴、あるいはトラブルはつづくと考えてください。またすぐになお
す方法は、ありません。

 だから冒頭に書いたように、『負けるが勝ち』なのです。

 で、万引きですが、この時期の子どもは、それほど悪意もなく、万引きをすることがあります。
金銭感覚がこの時期、急速に育ってきますが、同時に、それは未完成なものです。言うべきこ
とは言いながらも、子どもがおびえるほどまでに強く叱ってはいけません。

 なお、ウソ、悪口、盗みは、子どもが自立するための3種の神器と私は呼んでいます。それを
許せというのではありませんが、子どもは、ウソ、悪口、盗みをとおして、おとなの世界に挑戦
してきます。おとなの優位性を、押しつけないこと。

 大切なことは、友として、子どもの横に立つことです。どこか「私は親だ」という気負いを強く感
じます。その気負いが、今、あなたと子どもの関係をギクシャクしている。私には、そう見えま
す。

 ともかくも、万引きにせよ、乱暴行為にせよ、ケースとしては、よくあることで、あまりおおげさ
に考えないこと。「うちの子も、その年齢になったのだ」と、一歩退いて、おおらかに考えてくださ
い。

 今までに書いた原稿を、いくつか添付しておきます。どうか、参考にしてください。

 メール、ありがとうございました。先日、長浜の町に行ってきましたが、すてきな町に変身して
いましたね。また行きたいです。では、今日は、これで失礼します。

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●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。

この世界、「教育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。そ
れに皆が皆、まともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人
もいる。さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に
1人はいる。このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そ
ういうまともでない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。

しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」と
なる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が
先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考
えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよ
い。

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●心配先行型の子育て

 私の印象に残っている事件に、こういうのがあった。

 ある日、自分の教室へ入ると、A組のA先生のチョーク箱が、起き忘れてあった。そこで園庭
で遊んでいた、ひとりの女の子(年長児)をつかまえて、そのチョーク箱を、A組のA先生のとこ
ろへもっていってくれるように頼んだ。その女の子は、「ハーイ」と元気な声でそれに応じてくれ
たが、心配だったのでその女の子を見ていると、その女の子は、またチョーク箱をもってかえっ
てきてしまった。

 そこで私が、「どうしてチョーク箱をもって帰ってきたの?」と聞くと、その女の子はこう言った。
「だって、A組に先生がいなかったもん」と。当時、園舎はコの字型の廊下になっていて、その
女の子が走っていく様子がよくわかった。その廊下で、帰ってくるとき、その女の子は、A先生
とすれちがっていた。そこでまた私が、「廊下ですれちがったとき、どうしてA先生に渡してくれ
なかったの?」と聞くと、その女の子はこう言った。「だって、先生は、教室にいなかったもん」
と。

 その女の子は、(A組でA先生に渡す)ということにこだわった。その気持ちはわからないでも
ないが、チョーク箱を渡すという目的からすれば、その女の子の行動は、どこか的がはずれて
いる。こういう例は、ほかにもある。

 B君が教室に忘れ物をしたときのこと。私は近くにいたC君(年長児)に「これをB君にもって
いってあげて」と頼んだ。C君はすぐ追いかけたものの、これまたすぐ戻ってきてしまった。「どう
したの?」と聞くと、C君はこう言った。「もういなかった」と。C君は、うわばきをはいていた。そ
れで「外(庭)へは出られなかった」と。C君は、B君を呼びとめようと思えば、それができたはず
である。しかしC君は、それを思いつかなかった?

 このタイプの子どもは、頭がかたいというふうにも考えるが、もうひとつは社会性の不足という
ことも考えられる。その場、その場で臨機応変にものを考えることができない。もっと言えば、
頭の中で大局的にものを考えることができない。言われたことは忠実にするが、「なぜ自分が
そうしなければならないか」、また「その目的は何か」ということが考えられない。威圧的な過干
渉、親の先走り、心配先行型の子育てが日常化すると、子どもは自分で考えることができなく
なり、ここでいうような症状を示すようになる。

 もしあなたが「うちの子の行動は、いつもどこか的がはずれている」「常識はずれの行動が多
い」と感ずるなら、子どもの問題というよりは、育てかたの問題と考え、反省する。

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●子どもの心を大切に

●無理は禁物

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。たとえば神経症にせよ恐怖
症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題をどこかに感じたら、決して
無理をしてはいけない。中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人
がいる。

さらに無理をしないことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をす
ればするほど、こじれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。しかし親というのは、それ
がわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。その途中で私のようなも
のがアドバイスしても、ムダ。「あなたには本当のところがわかっていない」とか、「うちの子ども
のことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰り返し。

●こわい悪循環

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。もしそ
んな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受け入
れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。よくある例が、子どもの非行。

子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜遊びであったりする。しかしこの
段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。たいていの親は強く叱ったり、体罰
を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をますます悪化させる。万引きから恐
喝、外泊から家出へと進んでいく。

●ウリのつるにナスビはならぬ

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。し
かし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振り
返ってみればよい。

あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。あるいはあなたの巣立ち
は、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子どもには期待しないこ
と。昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれない
が、子育てというのは、もともとそういうもの。

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【子育てポイント】

●温もりのある園を

 保育園や幼稚園を選ぶときは、「温もり」があるかないかで判断する。きれいにピカピカにみ
がかれた園は、それなりに快適に見えるが、幼児の居場所としては、好ましくない。

 まず子どもの目線で見てみる。温もりのある園は、どこかしこに、園児の生活がしみこんでい
る。小さな落書きがあったり、いたずらがあったりする。あるいは先生が子どもを喜ばすため
に、何らかの工夫や、しかけがあったりする。が、そうでない園には、それがない。園児が汚す
といけないからという理由で、壁にもワックスをかけているような園がある。そういう園には、子
どもをやらないほうがよい。

●園は、先生を見て選ぶ

 保育園や幼稚園は、先生を見て選ぶ。よい園は、先生が生き生きとしている。そうでない園
は、そうでない。休み時間などでも、園児が楽しそうに先生のまわりに集まって、ふざけあって
いるような園なら、よい。明るい声で、「○○先生!」「ハーイ!」と、かけ声が飛びかっているよ
うな園なら、よい。しかしどこかツンツンとしていて、先生と園児が、別々のことをしているという
ような園は、さける。

 園児集めのために、派手な行事ばかりを並べている園もある。しかし幼児にとって、重要な
のは、やはり先生。とくに園長が運動服などを着て、いつも園児の中にいるような園を選ぶと、
よい。

●男児は男児

 男の子が男の子らしくなるのは、アンドロゲンというホルモンの作用による。そのため男の子
は、より攻撃的になり、対抗的なスポーツを好むようになる。サルの観察では、オスの子ザル
のほうが、「社会的攻撃性があり、威嚇(いかく)行動のまねをしたり、けんか遊びをしたり。取
っ組みあいのレスリングのような遊びをしたりする回数が、多い」こと(新井康允氏)がわかって
いる。

 とくに母親が家庭で子どもをみるときは、この性差に注意する。母親という女性がそうでない
かたといって、それを男である男の子に押しつけてはいけない。男の子の乱暴な行為を悪いこ
とと決めてかかってはいけない。

●負けるが勝ち

 子どもをはさんだ、親どうしのトラブルは、負けるが勝ち。園や学校の先生から、あなたの子
どものことで、何か苦情なり小言(こごと)が届いたら、負けるが勝ち。まずこちらから、「すみま
せんでした」「至らぬ子どもで」と、頭をさげる。さげて謝る。たとえ相手に非があるように見える
ときも、あるいは言い分があっても、負ける。

 理由はいろいろある。あなたの子どもは、あなたの子どもであっても、あなたの知らない面の
ほうが多い。子どもというのは、そういうもの。つぎに、相手が苦情を言ってくるというのは、そ
れなりに深刻なケースと考えてよい。さらにそういう姿勢が、結局は、子どもの世界を守る。

ほかの世界でのことなら、ともかくも、あなたがカリカリしても、よいことは何もない。あなたの子
どもにとって、すみやすい世界を、何よりも優先する。だから、『負けるが勝ち』。

●我流に注意
 
子育てで一番こわいのは、我流。「私が正しい」「子どものことは、私が一番よく知っている」「他
人の育児論は役にたたない」と。

 子育てというのは、自分で失敗してみてはじめて、それが失敗だったと気づく。それまでは気
づかない。「私の子にかぎって……」「うちの子はだいじょうぶ……」「私はだいじょうぶ……」と
思っているうちに、失敗の悪循環に入っていく。「まだ何とかなる……」「こんなハズはない…
…」と。親が何かをすればするほど、裏目、裏目に出る。

 子育てじょうずな親というのは、いつも新しい情報を吸収しようとする。見聞を広め、知識を求
める。交際範囲も広く、多様性がある。だからいつも子どもをより広い視野でとらえようとする。
その広さがあればあるほど、親の許容範囲も広くなり、子どももその分、伸びやかになる。

●二番底、三番底に注意

 子どもに何か問題が起きると、親はその状態を最悪と思う。そしてそれ以上悪くはならないと
考える。そこまで思いが届かない。で、その状態を何とか、抜け出ようとする。しかし子どもの
世界には、二番底、三番底がある。子どもというのは、悪くなるときは、ちょうど坂をころげ落ち
るように、二番底、三番底へと落ちていく。「前のほうがまだ症状が軽かった……」ということを
繰りかえしながら、さらに悪い状態になる。

 子どもの不登校にせよ、心の病気にせよ、さらに非行にせよ、親がまだ知らない二番底、三
番底がある。では、どうするか?

 そういうときは、「なおそう」と考えるのではなく、「今の状態をより悪くしないことだけ」を考え
て、様子をみる。時間をかける。コツは、なおそうと思わないこと。この段階で無理をすればす
るほど、子どもはつぎの底をめがけて落ちていく。

●信仰に注意

 よく誤解されるが、宗教教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、宗教教団がある。人はそれぞれ何かの教えや救いを求めて、宗教教団に身を寄せる。

 ……と書いても、できるなら、(あくまでもそういう言い方しかできないが)、入信するにも、夫
婦ともに入信する。今、たとえばある日突然、妻だけが入信し、そのため家族そのものが崩壊
状態になっている家庭が、あまりにも多い。……多すぎる。信仰というのは、その人の生きザ
マの根幹部分に関するだけに、一度対立すると、たがいに容赦しなくなる。妥協しなくなる。で、
行きつく先は、激突、別離、離婚、家庭崩壊。

 とくに今、こうした不安な時代を背景に、カルト教団(情報の遮断性、信者の隔離、徹底した
上意下達方式、布教や献金の強制、独善性、神秘性、功徳論とバチ論、信仰の権威づけ、集
団行為などが特徴)が、勢力を伸ばしている。周囲の人たちが反対すると、「悪魔が反対し始
めた。だから私の信仰が正しいことが証明された」などと、わけのわからないことを言いだした
りする。

 信仰するにも、できれば、夫婦でよく話しあってからにする。これはあなたの子どもを守るた
めの、大原則。

●機嫌を取らない

 親が親である「威厳」(この言葉は好きではないが……)は、親は親として、毅然(きぜんとし
た態度で生きること。その毅然さが、結局は、親の威厳になる。(権威の押しつけは、よくない
ことは、言うまでもない。)

 そのためにも、子どもには、へつらわない。歓心を買わない。そして機嫌を取らない。もし今、
あなたが子どもにへつらったり、歓心を買ったり、機嫌を取っているようなら、すでにあなたの
親子関係は、かなり危険な状態にあるとみてよい。とくに依存心の強い親ほど、注意する。「子
どもには嫌われたくない」と、あなたが考えているなら、あなたは今すぐ、そういうまちがった育
児観は、捨てたほうがよい。

 あなたはあなた。子どもは子ども。嫌われても、気にしない。「あなたはあなたで勝手に生き
なさい」という姿勢が、子どもを自立させる。そして皮肉なことに、そのほうが、結局は、あなた
と子どものパイプを太くする。

●いつも我が身をみる

 子育てで迷ったら、我が身をみる。「自分が、同じ年齢のときはどうだったか」「自分が、今、
子どもの立場なら、どうなのか」「私なら、できるか」と。

 身勝手な親は、こう言う。「先生、私は学歴がなくて苦労しました。だから息子には、同じよう
な苦労をさせたくありません」と。あるいは「私は勉強が嫌いでしたが、子どもには好きになって
ほしいです」と。

 要するに、あなたができないこと。あなたがしたくないこと。さらにあなたができなかったこと
を、子どもに求めてはいけないということ。そのためにも、いつも我が身をみる。これは子育て
をするときの、コツ。

●本物を与える
 
子どもに与えたり、見せたり、聞かせたりするものは、できるだけ本物にする。「できるだけ」と
いうのは、今、その本物そのものが、なかなか見つからないことによる。しかし「できるだけそう
する」。

 たとえば食事。たとえば絵画。たとえば音楽。今、ほとんどの子どもたちは、母親の手料理よ
りも、ファースト・フードの食事のほうが、おいしいと思っている。美術館に並ぶ絵よりも、テレビ
のアニメのイラストのほうが、美しいと思っている。音楽家がかなでる音楽よりも、音がズレた
ようなジャリ歌手の歌う歌のほうが、すばらしいと思っている。

こうした低俗、軽薄文化が、今、この日本では主流になりつつある。問題は、それでよいかとい
うこと。このままでよいかということ。あなたがそれではよくないと思っているなら、機会があれ
ば、子どもには、できるだけ本物を与えたり、見せたり、聞かせたりする。

●親が生きがいをもつ

 子どもを伸ばそうと考えたら、まず親自身が伸びて見せる。それにまさる子どもの伸ばし方は
ない。ただし押しつけは、禁物。「私はこれだけがんばっているから、お前もがんばれ」と。

 伸びてみせるかどうかは、あくまでも親の問題。キビキビとした緊張感を家庭の中に用意す
るのがコツ。そしてその緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。しかしそれでも、それは
結果。それを見て、子どもが伸びるかどうかは、あくまでも子どもの問題。しかしこれだけは言
える。

 退廃、退屈、マンネリ、単調、家庭崩壊、家庭不和、親の拒否的態度ほど、子どもに悪影響
を与えるものはないということ。その悪影響を避けるために、親は生きがいをもつ。前に進む。
それは家の中を流れる風のようなもの。風が止まると、子どもの心は、とたんにうしろ向きにな
る。

●仮面に注意

 心の状態と、外から見る表情に、くい違いが出ることを、「遊離」という。怒っているはずなの
に、ニンマリ笑う。あるいは悲しいはずなのに、無表情でいる、など。子どもに、この遊離が見
られたら、子どもの心はかなり危険な状態にあるとみてよい。

 遊離ほどではないにしても、心を隠すことを、「仮面をかぶる」という。俗にいう、「いい子ぶ
る」ことをいう。このタイプの子どもは、外の世界で無理をする分だけ、心をゆがめやすい。スト
レスをためやすい。

 一般的に「すなおな子ども」というのは、心の状態と、外から見る表情が一致している子ども
のことをいう。あるいはヒネクレ、イジケ、ツッパリなどの、「ゆがみ」のない子どもをいう。

 あなたの子どもが、うれしいときには、顔満面に笑みを浮かべて、うれしそうな表情をするな
ら、それだけでも、あなたの子どもは、まっすぐ伸びているということになる。

●聞き上手になる

 子育てが上手な親には、一つの大きな特徴がある。いつも謙虚な姿勢で、聞き上手。そして
他人の話を聞きながら、いつも頭の中で、「自分はどうだろう」「私ならどうするだろう」と、シミュ
レーションする。そうでない親は、そうでない。親と話していて、(教える立場で)、何がいやかと
いって、すぐカリカリすること。

 私「最近、元気がありませんが……」
 親「うちでは元気があります」
 私「何か、問題がありませんか?」
 親「いえ、水泳教室では問題はありません。いつもと変わりません」と。

 子どものことを話しているのに、親が、つぎつぎと反論してくる。こういう状態になると、話した
いことも、話せなくなってしまう。もちろんそうなれば、結局は、損をするのは、親自身ということ
になる。

●親の悪口は言わない

 あなたが母親なら、決して、父親(夫)の悪口を言ってはいけない。あなたは子どもを味方に
したいがため、ときには、父親を悪く言いたくなるときもあるだろう。が、それでも、言ってはい
けない。あなたがそれを言えば言うほど、あなたの子どもの心は、あなたから離れる。そして結
果として、あなたにも、そして父親にも従わなくなる。

 父親と母親の気持ちが一枚岩でもむずかしいのが、最近の子育て。父親と母親の心がバラ
バラで、どうして子育てができるというのか。子どもが父親の悪口を言っても、相づちを打って
はいけない。「あなたのお父さんは、すばらしい人だよ」と言って、すます。そういう姿勢が、家
族の絆(きずな)を守る。これは家庭教育の、大原則。

●無菌状態に注意

 子どもを親の監督下におき、子どもを無菌状態のまま育てる人がいる。先日も、「うちの子
は、いつも子分です。どうしたらいいでしょうか」という相談があった。親としては、心配であり、
つらいことかもしれないが、しかし子どもというのは、子分になることにより、親分の心構えを学
ぶ。子分になったことがない子どもは、親分にはなれない。私も小学一年生くらいまでは、いつ
も子分だった。しかしそれ以後は、親分になって、グループを指揮していた。

 子どもの世界は、まさに動物の世界。野獣の世界。しかしそういう世界で、もまれることによ
り、子どもは、精神的な抵抗力を身につける。いじめられたり、いじめたりしながら、社会性も
身につける。これも親としてはつらいことかもしれないが、そこはじっとがまん。無菌状態のま
ま、子どもを育てることは、かえって危険なことである。

●子どもは削って伸ばす

 『悪事は実験』ともいう。子どもは、よいことも、悪いことも、ひと通りしながら、成長する。たと
えば盗み、万引きなど。そういうことを奨励せよというわけではないが、しかしそういうことがま
ったくできないほどまでに、子どもを押さえつけたり、頭から悪いと決めてかかってはいけない。

たとえばここでいう盗みについては、ほとんどの子どもが経験する。母親のサイフからお金を
盗んで使う、など。高校生ともなると、親の貯金通帳からお金を勝手に引き出して使う子どもも
いる。

 問題は、そういう悪事をするということではなく、そういう悪事をしたあと、どのようにして、子ど
もから、それを削るかということ。要は叱り方ということになるが、コツは、子ども自身が自分で
考えて判断するようにしむけること。頭から叱ったり、威圧したり、さらには暴力を加えたり、お
どしたりしてはいけない。一時的な効果はあるかもしれないが、さらに大きな悪事をするように
なる。

 子どもにはまず、何でもさせてみる。そしてよい面を伸ばし、悪い面を削りながら、子どもの
「形」を整える。『子どもは削って伸ばす』というのは、そういう意味である。

●「偉い」を廃語に

 日本では、いまだに「偉い」とか、「偉い人」とかいう言葉をつかう人がいる。何年か前のこと
だが、当時のM総理大臣は、どこかの幼稚園の園児たちに向かって、「私、日本で一番、偉い
人。わかるかな?」と言っていた。

 しかし英語では、日本人が「偉い人」と言いそうなとき、「尊敬される人(respected man)という
言い方をする。しかし「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、越えがたいほど、大きなミゾがあ
る。この日本では、地位や肩書きのある人を、偉い人という。地位や肩書きのない人は、あま
り偉い人とは言わない。反対に英語国で、「尊敬される人」というときは、地位や肩書きなど、
ほとんど問題にならない。

 この「偉い」という言葉が、教育の世界に入ると、それはそのまま日本型の出世主義に利用
される。そしてそれが日本の教育をゆがめ、子どもたちの心をゆがめる。そこでどうだろう。も
う「偉い」という言葉を廃語にしたら。具体的には、子どもたちに向かっては、「偉い人になりな
さい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言う。何でもないことのようだが、こうした小さな
変化が積み重なれば、日本の社会は変わる。日本の社会を変えることができる。

●訓練(指導)と教育は別

 この日本では、訓練と教育が、よく混同される。もともと「学ぶ」という言葉は、「マネブ」、つま
り、「マネをする」という言葉から生まれたと主張する学者もいる。しかしマネをするというのは、
教育ではない。

 訓練というのは、親がある一定の目的や目標をもって、子どもがそれをできるように指導す
ることをいう。大きくみれば、受験勉強というのも、それに属する。そういう訓練を、教育と思い
込んでしまっているところ、あるいはそれが教育の柱になってしまっているところに、日本の教
育の最大の悲劇がある。

 一方、教育というのは、あくまでも人間性の問題である。その人間性を、自ら養うようにしむ
けるのが、教育である。知性や理性、道徳や倫理は、そういう人間性から生まれる。少なくとも
訓練で、どうにかなるものではない。訓練したから、人間性が深く、広くなるということなど、あり
えない。たとえば一日中、冷たい滝に打たれたからとか、燃えさかる火の上を歩いたから、す
ばらしい人になるとか、そういうことはありえない。

 教育というのは、その子ども自身にすでに宿っている、「常識」を静かに引き出すことである。
私たちの体の中には、すでにそういう常識が宿っている。だからこそ、私たちは「心の進化」を
繰り返し、過去数十万年という長い年月を、生き延びることができた。

むずかしい話はさておき、訓練と教育は、もともとまったく異質のものである。訓練と教育を、
混同してはいけない。

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【幼児期(自律性の発達)】

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青年期最大のテーマは、「自己同一性」の問題
である。

(自分はこうあるべきだ)という姿と、
(現実の自分)が一致していることを、
自己同一性という。簡単に言えば、そういう
ことになる。

それを確立できるかどうか? それで青年期の
あり方が決まる。

結婚にたとえるなら、愛し合って結婚した
カップルは、同一性が確立していることになる。
そうでないカップルは、そうでない。

夫婦の間でも、同一性が確立できないと、
心理状態は不安定になり、
夫婦げんかばかりするようになる。
人間の心理も、また同じ。

その自己同一性の基礎は、実は、乳幼児期に、
作られる。

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 乳児期最大のテーマは、言うまでもなく、「基本的信頼関係」の構築にある。基本的信頼関係
は、生後直後から、母子の関係で、はぐくまれる。

 (絶対的な安心感)が基本にあって、子どもは、母子との間で、基本的信頼関係を築くことが
できる。(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の2つ
をいう。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。「何をしてもよい」と自分をさらけ
だすのを、(絶対的なさらけ出し)という。「何をしても、子どものことは許す」というのを、(絶対
的な受け入れ)という。

 が、それだけではない。

 エリクソンによれば、つづく第2段階の幼児期では、「自律性の確立」が、テーマとなる。「自
立性」と言いかえてもよい。つまり「独立した人間として、自分のことは自分でする」ことをいう。

 この自律性の確立に失敗すると、子どもは、他人に対して、「恥ずかしい」という感覚をもつよ
うになる。あるいは過度に他人に対して依存的になり、その分だけ、さらに自立できない人間
になってしまう。自分が何をしたらよいのか、何をすべきなのか、それがわからなくなることもあ
る。

 Y氏は、50歳になるが、たいへん世間体を気にする人である。何をするにも、世間の目を気
にする。「そんなことをすれば世間に顔向けができない」「世間が笑う」「世間が許さない」と。
「世間体」という言葉も、よく使う。

 一見、他人と協調性のある人に見えるが、その実、自分がない。「では、あなたはどうしたい
のですか?」と聞いても、答が返ってこない。それが如実に表れたのが、実父の葬儀でのこと
だった。

 Y氏はけっして、裕福ではなかった。実父との関係も、よくなかった。その実父は、Y氏が、48
歳のときに、くも膜下出血で急逝した。そのとき、ほかの兄弟たちと、たいへんな騒動になって
しまった。

 実父は、かなりの知識人であったとみえる。はやくから遺言を残していた。それには、「葬儀
はしなくていい。遺灰は、○○浜から太平洋へまいてほしい」とあった。

 その遺言をめぐって、「遺言は無視して、恥ずかしくない葬式をする」と主張するY氏。「遺言
どおり、遺灰を海にまく」と主張するほかの兄弟たち。結局、Y氏が長男だったということもあ
り、父親の遺言を無視して、葬儀をすることになった。その地域でも評判になるほど、かなり派
手な葬儀であったという。

 Y氏の妹氏(45歳)はこう言う。「兄には、これが私の生き方という、一本のスジがないので
す。いつも他人の目の中だけで生きているような人です」と。

 が、Y氏のこうした生き様は、エリクソンによれば、幼児期にできあがったものと考えてよい。
長男であるということで、蝶よ花よと、手をかけて育てられた。つまりその分だけ、自律性の発
達が遅れた。

 エリクソンの言葉を借りるなら、「重要な人格構成要素がうまく獲得できるか、それともマイナ
ス面が勝ってしまうか」(「性格心理学」清水弘司)というはげしいせめぎあいの中で、マイナス
面のほうが、表に出てきてしまったということになる。

 エリクソンは、これを「心理的危機」「社会的危機」と呼んだ。つづく第3段階の「就学前期」、4
段階の「学童期」にかけて、それぞれの段階で必要な人格の確立に失敗しやすくなるからであ
る。

 Y氏がそうであったかどうかはわからない。わからないが、Y氏の様子を観察するかぎり、Y氏
は、自律性の確立に失敗した人ということになる。

 つまりその分だけ、依存性が強い。もちろん本人は、それに気づいていない。自分が自律性
のない人間だとは、さらに思っていない。一応、それなりの仕事をしている。家族もいる。「世間
体」そのものが、Y氏にとっては、ひとつの哲学(?)になっている。「恥」という言葉にしてもそう
だ。

 1人の人間が懸命に生きる。その生き様に価値がある。生きる意味も、そこから生まれる。
たとえ失敗しても、それはそれ。どうしてそれが「恥」なのか。いつか書いたが、「恥」にも2種類
ある。

 「己に対する恥」と「他者に対する恥」である。ここでいう恥というのは、当然、「他者に対する
恥」ということになる。

 そんなもの、気にするほうがおかしい……と私は思うが、Y氏にとっては、そうではない。ここ
にも書いたように、Y氏にしてみれば、それが生きる哲学(?)にもなっている。

 では、どう考えたらよいのか。

 エリクソンの発達論を借りるまでもなく、幼児期は、子どもの自律性だけを考えて、子どもを
育てる。「自分で自分を律しながら、自立させる」。もっと言えば、「自分で考えて、自分で行動さ
せ、自分で責任を取らせる」。

 そのために何をすべきかということよりも、何をすべきでないかを考える。というのも、望まし
い環境の中で、あるべき方法で子どもを育てれば、子どもは、自ら自分の中から、その自律性
を引き出していく。過干渉、過保護、過関心、溺愛が悪いことは言うまでもない。親の価値観の
押しつけ、優位性の押しつけが悪いことも言うまでもない。

 ……ということで、この話はここまでにする。と、同時に、あなた自身は、どうかということを、
ここで自問してみてほしい。

 あなたはここでいう自律した人間だろうか。それとも、依存性が強く、世間体ばかりを気にす
るタイプの人間だろうか。どうであれ、そうした基礎は、実は、幼児期に作られたものであると
いうこと。それに気がつくだけでも、あなたはさらによく、あなたという「私」を知ることができる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自律
 自律論 エリクソン 発達論 心理的発達論 恥論 幼児期の自立性 自律性 自律性の発
達)


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基本的信頼関係について書いた原稿
などを、参考のために、ここに添付
しておきます。

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【基本的信頼関係】

●信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本
的信頼関係 信頼関係 子供との信頼関係)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●感情の発達

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感
情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)0歳〜1歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)1歳前後〜2歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。

(複雑感情形成期)2歳前後〜5歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん
で、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が
終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。
「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん
は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え
てみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生
だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって
いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか
いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて
みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま
ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ
う言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ
ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、
「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で
もよい。しかし「幼稚園」は、……?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
感情の発達 子どもの感情)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2042)

【雑感・あれこれ】

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とうとう追いついたぞ!

先ほど、8月15日号のマガジンの
発行予約を入れたところ。

今日は、7月15日! ちょうど
1か月先のマガジンの予約を入れた
ことになる。

やったア!

一時はどうなることやらと思った。
マガジンの廃刊まで考えた。

しかしとにかく、追いついた!

1000号まで、あと80号と
少し。

がんばろう! がんばります!

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●電子マガジン

 電子マガジンは、いつも1か月先の原稿を書き、送信予約を入れるようにしている。こうする
ことによって、読者の方に、マガジンを安定的に届けることができる。

 しかし5〜6月は、苦しかった。いろいろあって、苦しかった。で、だんだんと追いつかれて、
一時は、1週間ほどまでに、その差が、縮(ちぢ)まってしまった。つまり1週間先の原稿を書
き、送信予約を入れるようになってしまった。

 が、こうなると、あたふたするだけ。落ちついてものを考えることすらできなくなる。イライラす
るだけで、パソコンの前にすわるのも、おっくうになる。しかしこれは私のやり方ではない。

 毎回、原稿用紙(40字x36行)で、20枚を目標にして、マガジンを発行している。量を半分
にしようかとも考えた。あるいは現在、週3回発行しているが、それを2回にしようかとも考え
た。

 しかしあと、少し。1000号まで、あと少し。8月1日号で、916号になった。9月3日号で、93
0号になる。

 何人かの人たちから励ましのメールをもらった。それはそれで、うれしかった。が、これは(私
自身)との戦いでもある。だれかのためではない。私自身のために書く。そう言い聞かせて、ま
た書き始めた。

 それが今日、8月15日号になった。配信予約を入れた。うれしかった。どういうわけか、うれ
しかった。


●台風一過

 NHKのニュースが、「現在、台風4号は、静岡県の浜松市の沖合、80キロのところにありま
す」と報道していたとき、この浜松市では、青空が見え始めていた。風も、ほとんどなかった。

 台風の目の中に入った? ……まさか、そんなことはありえない。ありえないが、事実は、そ
うだった。

 美しい空だった。私とワイフは、食事をかねて、外に出た。もちろんデジタルカメラをもって。

 ただ気温だけは、ぐんぐんと上昇した。最終的には、30度近くにまでなったのではなかった
か。シリジリとした暑さが、身を包んだ。私は、青い、どこまでも澄んだ空をめがけて、シャッタ
ーを押しつづけた。

 気持ちよかった。楽しかった。台風一過。何ごともなく終わって、バンザ〜イ!


●20万件!

 今日、楽天日記のアクセス数が、20万件を超えた。といっても、この数字には、あまり意味
はない。そのうち何割かは、巡回ロボットによるアクセス。さらに何割かは、何かの宣伝のため
のアクセス。さらに1日のうちで、10回とか、20回とか、アクセスしてくる人もいる。

 私のBLOGを読むためにアクセスしてくる人は、実際には、30〜40%ではないか。つまりこ
の計算によると、実際のアクセス数は、8万件以下ということになる。

 この数字をみて、多いと感ずるか。それとも少ないと感ずるか。その実感がまるでないのが、
インターネットの世界。数字だけが、いつも、ひとり歩きしている。私は私で、これまた勝手に、
ひとり歩きしている。この世界は、おかしな、どこまでもおかしな世界である。


●疝痛

 昨夜、床につく直前、ワイフが、下腹を押さえて、苦しみ始めた。腹を突き刺すような痛みだと
いう。

 しばらくすると痛みは治まったが、そのあと、言いようのない孤独感が私を襲った。これから
の私の老後生活は、すべて、ワイフの健康を前提として、できている。ワイフのいない老後生
活など、今の私には、とても考えられない。

 床についてから、何度も、「だいじょうぶ?」と声をかける。そのつどワイフは、「今は治まって
いる……」と。

 私は天井を見つめながら、あれこれ考える。考えていると、また孤独感に襲われる。だからま
た、聞く。「だいじょうぶ?」と。

 結局、ワイフの疝痛は、一過性のものとわかった。朝起きると、ワイフがこう言った。「トイレ
へ行ったら、すっきりした」と。

 よかった。ほっとした。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2043)

●発達障害児のための教室

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浜松市内では、現在、拠点校として、
6校ほどの小学校が、発達障害の
ある子どもを、専門的に指導する
設備を整えている。

たまたま先日講演をさせてもらった
S小学校もその一つ。そこには約40人
の障害をもった子どもが、通学している。

S小学校の現在の全校児童数は、400
人弱だから、約10%の子どもということ
になる。

自閉症、緘黙症、AD・HD児、LD児
など。ほかに言葉の教室もあり、発語
障害のある子ども(幼児を含む)も、
週1回くらいの割合で通っている。

健常児といっしょに生活することで、
将来にわたって、社会的に自立しやすく
するということで、ほかの子どもたちと、
ほとんど区別することなく、指導して
いるとのこと。

なお、現在(07年7月)、41人の
障害をもった子どもが通学しており、
それに対して、9人の指導教師が、
指導にあたっている(S小学校)。

また指導用の教室は、学校の中に、学校の
建物と併設という形で並んでいる。
S小学校のばあいも、校長室、職員室
と同じ棟、その隣に併設されている。

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●変わる親の意識

 以前はというと、発達障害をもった子どもの親は、それを世間的に(?)隠そうとする意識が
強かった。「障害児をもつことは、家の恥」という、とんでもない誤解と偏見もあった。その疑い
(?)をかけられただけで、親は、絶望感にたたきのめされたり、あるいは狂乱状態になったり
した。

 今でも、その傾向には大きなちがいはない。しかしこの5、6年、親たちの意識が大きく変わ
り始めているのを感ずる。

 S小学校でも、校長とそれが話題になった。私が、「親たちがこういう教室へ入れることに抵
抗しませんか?」と質問すると、校長は、笑いながら、「最近では、よその地域から、見学に来
る親がふえています」とのこと。

 もちろんそこに至る過程の中で、さまざまな葛藤があったと思われる。しかし親たちが、自分
の立場ではなく、子どもの立場で、ものを考えるようになった。校長も、そう言っていた。これは
たいへんすばらしいことだと思う。

 もちろん学校側としては、強制はできない。そういう教室に入れるかどうかは、あくまでも、最
終的には、親の判断ということになる。しかし子どもの立場で考えると、その子どもには、その
子どもに合った環境で、指導を受けるほうが、BETTERということになる。つまりそういうふうに
考える親がふえてきた。

 問題点もないわけではない。が、今やっと、こうした指導態勢が、この日本でも始まったばか
り。私たちがすべきことは、こうした指導態勢を前向きにとらえて、それを伸ばし、育てていくこ
と。当然のことながら、親たちもまた、それに合わせて、意識を変えていかねばならない。

 国のレベルは、いかに弱者にやさしいかで、決まる。同じように教育のレベルもまた、いかに
弱者にやさしいかで決まる。進学率ではない。(やさしさ)である。そうした常識が、日本中の常
識となったとき、日本という国は、すばらしい国になる。

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私が8年前に書いた原稿を
添付します。

中日新聞に発表したものですが、
この原稿には、大きな反響が
ありました。

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●「お宅の子どもを、落第させましょう」・学校は人間選別機関? 

 アメリカでは、先生が、「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそれに喜んで
従う。「喜んで」だ。あるいは子どもの勉強がおくれがちになると、親のほうから、「落第させてく
れ」と頼みに行くケースも多い。これはウソでも誇張でもない。事実だ。

そういうとき親は、「そのほうが、子どものためになる」と判断する。が、この日本では、そうは
いかない。先日もある親から、こんな相談があった。何でもその子ども(小二女児)が、担任の
先生から、なかよし学級(養護学級)を勧められているというのだ。それで「どうしたらいいか」
と。

 日本の教育は、伝統的に人間選別が柱になっている。それを学歴制度や学校神話が、側面
から支えてきた。今も、支えている。だから親は「子どもがコースからはずれること」イコール、
「落ちこぼれ」ととらえる。しかしこれは親にとっては、恐怖以外、何ものでもない。その相談し
てきた人も、電話口の向こうでオイオイと泣いていた。

 少し話はそれるが、たまたまテレビを見ていたら、こんなシーンが飛び込んできた(99年
春)。ある人がニュージーランドの小学校を訪問したときのことである。

その小学校では、その年から、手話を教えるようになった。壁にズラリと張られた手話の絵を
見ながら、その人が「どうして手話の勉強をするのですか」と聞くと、女性の校長はこう言った。
「もうすぐ聴力に障害のある子どもが、(1年生となって)入学してくるからです」と。

 こういう「やさしさ」を、欧米の人は知っている。知っているからこそ、「落第させましょう」と言
われても、気にしない。そこで私はここに書いていることを確認するため、浜松市に住んでいる
アメリカ人の友人に電話をしてみた。彼は日本へくる前、高校の教師を三〇年間、勤めてい
た。

私「日本では、身体に障害のある子どもは、別の施設で教えることになっている。アメリカでは
どうか?」
友「どうして、別の施設に入れなければならないのか」
私「アメリカでは、そういう子どもが、入学を希望してきたらどうするか」
友「歓迎される」
私「歓迎される?」
友「もちろん歓迎される」
私「知的な障害のある子どもはどうか」
友「別のクラスが用意される」
私「親や子どもは、そこへ入ることをいやがらないか」
友「どうして、いやがらなければならないのか?」と。

そう言えば、アメリカでもオーストラリアでも、学校の校舎そのものがすべて、完全なバリアフリ
ー(段差なし)になっている。

 同じ教育といいながら、アメリカと日本では、とらえ方に天と地ほどの開きがある。こういう事
実をふまえながら、そのアメリカ人はこう結んだ。「日本の教育はなぜ、そんなにおくれている
のか?」と。

 私はその相談してきた人に、「あくまでもお子さんを主体に考えましょう」とだけ言った。それ
以上のことも、またそれ以下のことも、私には言えなかった。しかしこれだけはここに書ける。

日本の教育が世界の最高水準にあると考えるのは、幻想でしかない。日本の教育は、基本的
な部分で、どこか狂っている。それだけのことだ。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2044)

●行ってきたぞ、上高地!

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行ってきたぞ、上高地!

私のためというより、ワイフの
ため。ワイフの夢をかなえるため。

「上高地は、私の夢だった」と、
ワイフは、何度も言った。

私はもともと岐阜県生まれ。
板取川(いたどりがわ)の
上流へ行けば、似たようなところ
は、たくさんある。

しかし上高地には、山がある。
目の前には、明神岳。その向こうには
3000メートルを超える、穂高。

スケールがちがう!

ちょうど新緑のころ。
台風一過。天気にも恵まれた!

よかった! すばらしかった!

+++++++++++++

 上高地で撮ってきた写真を紹介。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

【上高地・旅行記】

●バス旅行

 朝、4時半起床。しばらく雑務をこなしたあと、服を着る。台風一過。空を見あげると、天気は
上々。そのころワイフも、起きてきた。

 バスの出発時刻は、午前7時。東名の西インター近くの発着場から、バスが出る。途中のコ
ンビニで、朝食用のおにぎりなどを、買う。「空気がきれいね」と、ワイフは言った。台風が去っ
たあとの空は、どこまでも澄んでいる。

 発着場には、すでにバスが並んでいた。係員の誘導で、車を駐車場へ置くと、私たちはその
ままバスに乗り込んだ。時刻は午前6時40分。

 ワイフは、再度、日程表を確認していた。そしてこう言った。「あら、このバスには、ガイドさん
が乗らないってよ」と。見ると、下のほうに、「ガイドは添乗しません」と書いてあった。

 「ラッキー!」と、私。「よかったわ」と、ワイフ。バス会社には悪いが、今どき、バスガイドなん
て、いらない。あのとりとめもない、かつ軽薄なおしゃべりを聞いていると、それだけで気がヘン
になる。居眠りすることも、できない。少なくとも私たちは、静かな旅がしたい。

 私とワイフは、さっそく、おにぎりを食べ始めた。

ワ「バスガイドがガイドするという時代は、もう終わったわ」
私「外国にも、いないよ。オーストラリアやアメリカでは、運転手さんが、ときどき簡単なガイドを
してくれるけど、その程度だよ」
ワ「そうね。重要なことだけを話して、あとは静かにしていてほしい」と。

 30年前には、喫煙は自由だった。そこで私はバス会社に、「喫煙者は、前のほうの席に集ま
って座るようにし、非喫煙者は、うしろのほうに集まって座るようにしたらどうか」と提案したこと
がある。手紙で、そう書いた。

 この案は、みごとなほどまでに簡単に却下されてしまった。詳しくは忘れたが、そういう内容
の返事だった。当時は、まだそういう時代だった。

 つぎに、あのカラオケ。当時は、バスの中では、カラオケが定番だった。またそういうのが、サ
ービスということになっていた。

 行くときならまだしも、旅行によっては、帰りには、ヘトヘトに疲れることがある。そういうとき、
バスの中で居眠りができないというのは、苦痛以外の何ものでもない。

 私は朝食をすますと、そのままワイフの肩に頭を落とし、居眠りの準備にとりかかった。上高
地までは、片道4時間の行程である。

●上高地

 バスが駐車場に入ったとたん、大きく胸が高まった。7月だが、そのあたりでは、今が、新緑
の季節。若葉が美しい。それに水色の空。加えて、言わずと知れた日本アルプス。目の前に
は、明神岳。そして穂高!

 私はバスをおりるとすぐ、あたり構わず、デジタルカメラのシャッターを切った。

 台風一過ということで、濁流を予想していたが、梓川(あずさがわ)は、青く透きとおっていた。
うれしかった。川の写真を撮りながら上流をめざすと、あの河童(かっぱ)橋が目に飛びこんで
きた。絵葉書どおりの景色だった。

 またまた私は、夢中で、デジタルカメラのシャッターを切った。ワイフは、私以上にうれしかっ
たはず。若いころから、「一度は、上高地へ行きたい」と、口ぐせのように言っていた。

 「夢がかなった」などと、大げさなことを何度も言った。私にとっては、見慣れた景色だが、ス
ケールがちがった。目の前に明神岳、その向こうには、穂高連邦が連なっていた。ところどこ
には、根雪の白い筋さえ見えた。

●明神橋

 私たちは河童橋の周辺でしばらく時間を過ごしたあと、明神池から明神橋をめざした。ぐるり
と1周すると、12、3キロ前後の道のりではなかったか。正確にはわからないが、2時間ほど歩
きつづけて、もとのところに戻ってきたので、それくらいの道のりだったと思う。

 途中、フランス人夫婦と出会った。話がはずんだ。夫は、大学の教授。奥さんは、美術館の
指導員をしているということだった。ソルボンヌ大学で、学生に教えているとも言った。息子も同
行しているということだったが、夫婦とは離れたところを歩いていた。

 上高地のあと、飛騨の高山をめざすということだった。5週間のバカンスを、この日本で過ご
すとか。「今日は、1週間目だ」と言っていた。

 夫婦で、5週間? 彼らにとっては、それがふつうの休暇らしい。私とワイフは、再び河童橋
のところで、しばらく時間を過ごした。ワイフは、牛乳を飲み、私は、牛乳だけで作ったというプ
リンを食べた。

 それにあちこちの友人たちに、絵ハガキを送った。バスの駐車場のすぐ横に、郵便局があっ
た。

●無事(?)、帰宅

 とても楽しい旅行だった。それに帰りは、たっぷりと居眠りができた。見ると、約半数の客たち
も、眠っていた。再びワイフが、こう言った。「ガイドはいらないわよ」と。

 私は、うなずいた。

 そうそう同じ日の朝、私たちが松本市へ入るころ、新潟県では、大地震があったという。私た
ちはバスの中にいたから気がつかなかったが、松本市でも、震度3だったという。新潟県は、
上高地のある長野県の隣の県。

 みながそのニュースを、バスの中で心配そうに見ていた。

 台風のつぎは、地震。このところ日本は、災難つづき。浜松の自宅へ帰ってきたときには、午
後10時を過ぎていた。私とワイフは、おかしなことだが、無事帰ってこられたことを喜んだ。

(付記)

 観光地なのだから、しかたないのか? 養殖いわなの塩焼きを食べたが、1匹900円。明神
池への入場料が、1人300円。ソフトクリームが、300円などなど。あとはすべて推してはかる
べし。絵ハガキの切手代だけは、50円だった。ホ〜〜〜ッ!


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2045)

【今朝・あれこれ】

●抑圧と抵抗(児童買春について)

++++++++++++++

心の中の葛藤を、簡単に説明すれば、
(抑圧)と(抵抗)の関係ということ
になる。

人は、おとなも、子どもも、この
(抑圧)と(抵抗)のはざまで、
葛藤する。その葛藤が、さまざま
な心理的反応を示す。

++++++++++++++

●61歳の男性が児童買春

 つい2週間ほど、前のこと。この浜松市で、61歳の男性(職業は大工)が、中学生を相手に
した児童買春で、逮捕されるという事件が起きた。

 61歳の男性と中学生? 親子どころか、祖父と孫の関係と言ってもよい。その事件を知った
とき、私は、最初に、こう思った。「よく、相手にしてもらえたな」と。

 たいへん不謹慎な意見であることは認める。こういうとき、私なら、「児童買春は、悪だ」「そ
の男性は、悪人だ」と書くべきかもしれない。しかしきれいごとを言うのは、もう疲れた。だから
本音を書く。

 61歳といえば、ほぼ私と同じ年齢。その私はどうかというと、とうの昔に、若い女性と遊ぶの
は、あきらめた。あきらめたというより、(あきらめ)が重なって、考えることすらしなくなった。お
そらく今の私は、40歳の女性にも、相手にしてもらえないだろう。30歳の女性なら、なおさら。
それが自分でもよくわかっている。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「お金が目的だからよ」と。

 ナルホド! 

新聞報道によれば、そのつど男性は、4、5万円の小遣いを女の子たちに渡していたという。し
かしそれにしても……?

私「あのなあ、ぼくが中学生のときには、年上の女の子は、たった数歳でも、みな、おばさんに
見えたよ。60歳といえば、オバアチャン。そんな女性と関係をもつなどということは、ぼくには、
想像もできなかった。お金の問題ではないと思う」
ワ「男性と女性は、ちがうかもしれないわよ。男性はそうかもしれないけれど、女性は、年上の
男性とでも、関係をもつことはできるわよ」
私「45歳も、年上でもか?」
ワ「……そうねえ……」と。

 で、私なりの結論は、こうだった。その男性というのは、よほど、かっこよかったのではなかっ
たかということ。白いスーツに、水色のズボン。そういういでたちで、BMWかか何かを乗り回し
ている!

 つまりここに私なりの葛藤がある。「若い女性と遊んでみたい」という(欲望)が、(願望)につ
ながる。が、その(願望)には、強力なブレーキが働く。これが(抑圧)となる。しかしその性的エ
ネルギーをコントロールするのは、容易なことではない。(抑圧)が強くなればなるほど、性的エ
ネルギーは、それに対して(抵抗)を開始する。

 この(抑圧)と(抵抗)が、はげしくぶつかりあう。そのときさまざまな心理的反応が、生まれ
る。それがこじれて、神経症を発症することもある。

 だからといって、私は、児童買春を容認しているわけではない。どうか、誤解しないでほしい。
私が言いたいことは、フロイトが説く(性的エネルギー=リピドー)というのは、本能に根ざすも
のだけに、それほどまでに強力であるということ。つまり私にだって、ふつうの人間としての、ふ
つうの性的エネルギーはある。私も、(ふつうの人間)であり、(ふつうの男)である。聖職意識
など、これまたとっくの昔に、捨てた!

 そういう自分の中を静かにのぞいてみると、(抑圧)と(抵抗)の関係がよくわかる。

 私はたしかに、自分の性的エネルギー(=リピドー)を、抑圧している。若いときとくらべると、
はるかに弱くなったとはいえ、性的エネルギーがまったく、なくなったわけではない。

 しかしその一方で、それに抵抗している自分も、いる。ここでいう(抵抗)というのは、フロイト
が説いた(抵抗)とは、少しニュアンスがちがうものかもしれない。(フロイトは、精神分析を受け
ている患者が、現状を維持するため、医師の治療などに反抗的になることを、「抵抗」と呼ん
だ。)

 (抑圧)と(抵抗)。この2つは、つねに、あらゆる場面で、人の心の中で、衝突する。ウズを巻
く。そしてそれをコントロールするものがあるとすれば、理性であり、道徳であり、倫理ということ
になる。

 しかし実際には、これら理性、道徳、倫理のもつ(力)というのは、それほど強くはない。また
コントロールできるほどまでの理性、道徳、倫理をもつにしても、並大抵の努力ではできない。

 実際に(性的エネルギー)をコントロールしているのは、(恐怖)ということになる。第一義的に
は、配偶者(夫や妻)との信頼関係、教師であれば、父母との信頼関係を破壊するという恐
怖。二義的には、罰として、刑が科せられるという恐怖。もちろんその時点で、その人の社会
的名誉、地位は、地に落ちる。

 こうした(恐怖)が、実際には、性的エネルギーをコントロールする。言いかえると、こうした児
童買春についていえば、アメリカ並みに、厳罰主義で臨むよりほかにないということになる。16
歳未満の子どもと性的関係をもったら、問答無用式に、2年の懲役刑を科すとか、など。

 そうでもしないかぎり、この問題だけは、いつまでもつづくと思う。ただし一言。あまり刑を重く
すると、今度は、事件そのものをもみ消すため、(殺人)というレベルまで、発展する危険性も
ある。そういうことはあるが、今の日本の刑法は、こと児童買春については、甘すぎる。

 たいてい執行猶予がついて、見た目には、無罪放免となるケースがほとんど。だから今の今
も、こうしたハレンチ事件は、あとを絶たない。

++++++++++++++

児童買春について書いた原稿を
さがしてみた。

つぎの原稿は、05年の5月に
書いたものである。

++++++++++++++

●教師によるハレンチ事件

+++++++++++++++

このところ、このS県でも、
教師による、ハレンチ事件が
たてつづけに、起きている。

+++++++++++++++

 今度は、I町(浜松市の近郊)の塾講師が、ハレンチ罪の容疑で逮捕された。新聞の報道に
よれば、中学生の女子と、中学生と知りつつ、どこかのホテルで、「いかがわしい行為をした」
(報道)という。

 当の塾講師は、「身に覚えがない」(報道)と、それを否定しているという。それはそれとして、
つまり今の段階では、その講師がシロかクロかはわからないが、今回の事件は、(いもづる
式)に、発覚した。

 その女子は、不特定多数の男性と、そういうことをしていたらしい(?)。で、1人の男性を調
べていたら、ほかにも、同じようなことをしていた男性が何人か見つかり、その中に、塾講師も
含まれていたという。

 で、こういう事件を見聞きすると、その周囲の人間は、(私も含めてだが)、「さも、私は関係あ
りません」というような顔をする。「自分は、そういうことをする人間ではありません」と。

 しかし本当にそうだろうか? そう考えてよいのだろうか? 言いかえると、だれが、こういう
塾講師を、『石もて、打てるのか』?

 スケベ心はだれにでもある。あなたにも、私にも、だれにでもある。もしそのスケベ心を否定
してしまったら、人間は、人間でなくなってしまう。つまりこういう事件に関しては、絶対的な悪人
もいないし、絶対的な善人もいない。

 では、悪人と善人のちがいは何かということになると、それが(距離)である。(してみたい)と
思うことと、(実際に、してみる)ということの間には、距離がある。その距離の短い人を、悪人
といい、その距離の長い人を、善人という。

 その距離をつくるのが、道徳であり、倫理ということになる。哲学もそれに含まれる。その人
の社会的地位や立場が、距離をつくるということも考えられるが、こういう事件では、あまりアテ
にならない。アテにならないことは、一連の教師によるハレンチ事件を見ればわかる。

 「教師なら、そういうことをしないはず」と考えるのは、今では、幻想以外の何ものでもない。

 距離をつくるのは、もっと本質的な問題である。また、そういう視点でこういう問題を考えない
と、こうした事件は、ますます巧妙化するだけ。水面の下にもぐるだけ。言いかえると、その距
離のない人に向かって、自己規制を、いくら求めても、ムダ。
 
 そこで前から私が述べているように、こうしたハレンチ事件に対しては、厳罰主義で臨むのが
よい。たとえば問答無用式に、2年の懲役刑にするとか、など。オーストラリアでは、さらにそれ
が進んで、そうした行為を見聞きしたばあい、通報義務まである(南オーストラリア州)。

 たとえばあなたの友人(男性)が、未成年者(女子)とそういう交際をしていると知ったら、あな
たは、それを警察に通報しなければならない。それを怠ると、あなた自身も逮捕される。

 そういう意味では、日本は、こうした犯罪に対して、甘い。アメリカなどでは、教師が生徒と性
交渉をもったりすると、軽くても、10年近くの刑を科せられる。言い逃れはできない。日本も、
そうすればよい。そうすることによって、こういう事件の再発を防ぐ。

 わかりやすく言えば、道徳面、倫理面、哲学面で距離を作ることが無理なら、その距離は、
刑罰で作るしかないということ。若い女の子が近づいてきただけで、男性のほうが青くなって遠
ざかるような状況になれば、この種の事件は、ぐんと少なくなるはず。

 世界広しといえども、女子高校生や女子中学生が、売春まがいの遊びをしている国は、そう
はない。またそういった子どもたちに群がって、男性たちがお金を払っている国は、そうはな
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 児童
買春 厳罰主義)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2046)

●子育てをゆがめる親意識

+++++++++++++++

親意識にも2種類ある。
善玉親意識と、悪玉親意識。

自分に向かう親意識を、
善玉親意識というなら、
子どもに向かう親意識を
悪玉親意識ということになる。

いわゆる(親風を吹かす)のが、
悪玉親意識。

+++++++++++++++

 「私は親だ」というのが親意識。これが強ければ強いほど、子どもも疲れるが、親も疲れる。
それだけではない。親意識の背景にある上下意識、これが親子関係をゆがめる。上下意識の
ある関係、つまり命令と服従、保護と依存のある関係から、良好な人間関係は生まれない。

ある母親は、子ども(小一)に、「バカ!」と言われるたびに、「親に向かって何てこと言うの!」
と。本気で怒っていた。そこで私に相談があった。「先生は、親子は平等だと言うが、こういうと
きはどうしたらよいのか」と。

 平等というのは、相手の人格を認め、それを尊重することをいう。たとえ相手が幼児でも、そ
うする。こんなシーンがあった。あるアメリカ人の女優の家にカメラマンが押し寄せたときのこ
と。たまたまその女優が、小さな女の子(五歳ぐらい)を連れて、玄関を出てきた。が、その女
の子がフラッシュに驚いて、母親の陰に隠れた。そのときのことである。

母親は、女の子に懸命に笑顔で話しかけながらながら、そのままあとずさりして、家の中に消
えてしまった。私はそのシーンを見ながら、「こういうとき日本人ならどうするだろうか」と考え
た。あるいはあなたなら、こういうときどうするだろうか。

 子どもは確かに未熟で未経験だ。しかしそれを除けば、一人の人間である。そういう視点に
立って子どもを見ることを、「平等」という。たとえば子どもに何かのおけいこをさせるときでも、
「してみたい?」とか、「あなたはどう思う?」とか聞いてからにする。

もしあなた(妻)が、夫から、「お前の料理はまずい。明日から料理教室へ行け」と言われたら、
あなたはそれに従うだろうか。そのときあなたが、夫に何かを反論したとする。そのとき夫が、
「夫に向かって何てこと言うのだ!」と言ったら、あなたはそれに納得するだろうか。相手の視
点に立って見るということは、そういうことをいう。

 冒頭の話だが、子どもに「バカ」と言われて気にする親もいれば、気にしない親もいる。ある
いは子どもにバカと思わせつつ、それを利用して、子どもを伸ばす親もいる。子どもの側から
みてもそうだ。「バカな親」と思いつつ、親を尊敬している子どももいれば、そうでない子どもも
いる。

私の近所にも、たいへん金持ちの人がいる。本人は、自分は偉いと思っているらしいが、誰も
そんなふうには思っていない。人を尊敬するとかしなとかいうことは、もっと別のところで決ま
る。子どもに「バカ」と言われても、気にしないことだ。

かく言う私も、よく生徒にバカと言われる。そういうときは、こう言い返すようにしている。「私は
バカではない。失礼なこと言うな。バカではない。大バカだ。まちがえるな」と。子どもの口が悪
いのは、あたり前。奨励せよというわけではないが、それが言えないほどまでに、子どもを押さ
えつけてはいけない。あるいはユーモアで切り返す。このユーモアが、親の度量の広さの見せ
どころということになる。

 そうそうあのアメリカ人のケースだが、日本人なら多分、こう言うに違いない。「何をしている
の。お母さんが、恥ずかしいでしょう。ちゃんとしなさい」と。こうした押しつけが、親子の間にミ
ゾを作る。そしてそのミゾが、やがて親子断絶へとつながる。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

●エビで鯛を釣る

+++++++++++++++

子育てのコツは、『エビで鯛を釣る』。
が、中には、その鯛を釣る前に、
もったいないからという理由で、
そのエビを食べてしまう人がいる。

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 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、めちゃめ
ちゃだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき
のことである。

あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そこで私は同じ
ように、丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっているのに、どうして丸をつ
けるのか」と。

 日本人ほど、「形」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。し
かしオーストラリアでは、スペルがまちがっていることぐらいなら、先生は何も言わない。壁に貼
られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生
(小三担当)は、こう話してくれた。

「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはないのです。発音が違えば、スペルも
ちがう。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉は、ルール(文法やスペル)ではな
く、中身です」と。

 現在、あちこちの小学校で、英語が教えられている。その会議が10年ほど前、このH市であ
った。その会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してく
れた。

「Uは、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じようにWは四
画と決まりました」と。

こういうことばかりしているから、日本の教育はおもしろくない。つまらない。子どもたちは作文
を書く楽しみを覚える前に、文字嫌いになってしまう。小学校の高学年児で、作文が好きな子
どもは、五人に一人もいない。大嫌いという子どもは、一〇人のうち、三人はいる。

日本のアニメやコミックは、世界一だと言われている。しかしその背景に、子どもたちの文字嫌
いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。このワープロの時代にハネやハライなど、毛筆
時代の亡霊を、こうまでかたくなに守らねばならない理由が、一体どこにあるのか。形と個性
は、正反対の位置にある。形に押し込めれば押し込めるほど、子どもの個性はつぶれる。子
どもはやる気をなくす。

 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、それを
喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは書く楽しみを覚える。オーストラリアでは、
戦後まもなくからタイプの授業を取り入れ、今はそれがコンピュータの授業に変わった。すでに
一五年以上も前から、しかも小学三年生から、それをしている。中学でも高校でも、子どもたち
は宿題を、フロッピーディスクで提出している。

こういう時代がもう来ているのに、何がハネだ。ハライだ。トメだ! 冒頭に書いたワークにして
も、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵描きになったとしても、よいではないか。だい
たいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、また別のところで
書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。

 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。これは幼児教育の大原則。昔からこう言
う。「エビで鯛を釣る」と。しかし愚かな人は鯛を釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(エ
ビ)を言って、子どもの意欲(鯛)を、そいでしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

++++++++++++++

子育てとは、いかに自分の子どもを
信ずるか、それによって、良否が
決まる。

またその戦いと言ってもよい。

+++++++++++++++

●子どもを信ずる
 子どもを信ずることは難しい。「信じたい」という思いと、「もしかしたら…」という思いの中で、
親は絶えず迷う。子育てはまさに、その迷いとの闘い。が、その迷いにも、一定のパターンが
あるのがわかる。そこでテスト。

あなたの子ども(小学生)が、寝る直前になって、「学校の宿題がやってない」と言ったとする。
そのとき、あなたは……。(1)「明日、学校で先生に叱られてきなさい」と言って、そのまま寝さ
せる。(2)子どもと一緒に、宿題を片づけてあげる。睡眠時間が多少短くなることはしかたない
と思う。

 そのパターンは、子どもが生まれたとき、あるいは子どもを妊娠したときから始まる。たとえ
ば子どもに四時間おきにミルクを与えることになっていたとする。そのとき、子どもが泣いてほ
しがるまで、ミルクを与えない親もいれば、時間がきたら、ほしがらなくてもミルクを与える親も
いる。子どもがもう少し大きくなると、こんなこともある。

子どもが「したい」と言うまで動かない親もいる。反対に何でもかんでも子どもが望む前に、親
のほうから用意してあげる親もいる。「ほら英語教室よ」「ほら体操教師よ」と。

 一度こういうパターンができると、あとは一事が万事。それ自体が生活のリズムになってしま
う。こんなこともあった。ある母親からの相談だが、いわく「うちの子(小三男児)を、夏休みの
間、洋上スクールに入れようと思うのですが、どうでしょうか」と。そこで私が、「本人は行きたが
っているのですか」と聞くと、「それが、行きたがらないので困っているのです」と。またこんなこ
とも。

やはり母親からのものだが、その母親の息子(高三)が、受験期だというのに、ビデオを借りて
きて見ているというのだ。母親は「心配でならない」と言っていたが、心配するほうがおかしい。
おかしいが、一度そのパターンにハマってしまってしまうと、それがわからなくなる。

 さて冒頭のテスト。(1)を選んだ人は、子ども信頼型の親ということになる。「うちの子は立派
だ」「うちの子はすぐれている」という思いが、親をしてそういう親にする。一方(2)を選んだ人
は、心配先行型の親とういうことになる。「何をしても、うちの子は心配だ」という思いが、親をし
てそういう親にする。当然、その影響は子どもに出てくる。

信頼型の親の子どもは、伸び伸びとしている。表情もハツラツとしている。行動力も好奇心も旺
盛で、何ごとにつけて積極的だ。しかし心配先行型の親の子どもは、それにふさわしい子ども
になる。長い時間をかけてそうなる。親は、「生まれつきそうだ」と言うが、生まれつきそういう
目で見ていたのは、親自身なのだ。それに気がついていない。では、どうするか。

 もし心配先行型の親なら、あなた自身の心を作り変える。一つの方法として、「あなたはいい
子」を口ぐせにする。子どもの顔を見たら、そう言う。そしてそれを数ヶ月、あるいはそれ以上
の間、続ける。最初はどこかぎこちない感じがするかもしれないが、あなたがそれを自然に言
えるようになったとき、同時に、あなたの子どもは、その「いい子」になっている。

子どもを「いい子」にしたかったら、まず子どもを信ずる。たいへん難しいことだが、それをしな
いで、あなたは自分の子どもを伸ばすことはできない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(2047)

【今朝・あれこれ】(7月19日)

++++++++++++++

今朝は、何と、4時起き!

すでに外は、ほんのりと
明るかった。

台所におりて、水を飲む。
書斎に入って、パソコンの
電源を入れる。

こうして私の1日は、始まる。

++++++++++++++

●ダンボール紙で作った、肉まん

 NEW−iは、つぎのように伝える。
 
『中国の北京でダンボールを混ぜた肉まんが売られていたとされる問題で、これを最初に報道
した北京テレビが、「記者がねつ造したものだった」として18日夜、謝罪放送をしました』と。

 このマガジンでも取りあげたが、(ダンボール紙入りの肉まん)の話は、テレビ局の記者によ
る、ねつ造だったという。

 ホントかな? 

 この報道の、あまりにも大きな反響に驚いた当局が、あわててテレビ局に否定会見をさせ
た。それが謝罪放送だった。……としか、私には、思えない。


●K国の核施設廃棄約束

 K国が、核施設廃棄に向けて動き出したという。これもホントかな?

 韓国で、(ジョイス風向計)が調査したところ、つぎのような結果が出た(6月27日)。

 北朝鮮の『核施設廃棄約束』を信じない」……74%
(それほど57・6%+全く16・4%)

「信じる」……23・1%
(非常に2・3%+ある程度20・8%)

 今回停止されたYビョンの核開発関連施設は、すでに老朽化していて使いものにならない状
態だったという。しかも8000本の燃料棒は、すでに抜き取られたあとだったという。

 ああいう国、……というよりは、ああいう指導者を、まともに信じて、こうした交渉をするほうが
おかしい。……といっても、今回の一連の交渉の中で、アメリカは、日本を完全に切り捨ててい
る。わかりやすく言えば、「日本のことなど、知ったことか!」と。まず、日本は、そのことに気づ
くべきである。

 K国が核兵器をもてば、(すでにもっているが)、いちばん危険な立場に置かれるのが、この
日本。しかしその日本には、交渉能力は、ない。ないことは、一連の6か国協議の流れを見れ
ばわかる。

 そのくせ言うことだけは一人前。「対米追従外交反対」の大合唱。それに呼応して、大臣たち
の失言につづく、失言。安倍総理は、就任後、8か月近くもたってから、アメリカ詣で。アメリカ
にしてみれば、「どうして日本の平和と安全に、アメリカが責任をもたねばならないのか」とな
る。

 現在(7月18日)、アメリカは、自国の利益だけを最優先させて、6か国協議に臨んでいる。
要は、K国の核兵器を、拡散させないことだけ。そのためには、最終的には、米朝平和条約、
もしくは米朝相互不可侵条約まで、念頭に置いて、行動を開始している。日本が、今まで、もっ
とも恐れたシナリオである。

 ノー天気な評論家たちは、「これで極東アジアに平和が訪れる」などと書いているが、これは
とんでもない誤解。アメリカは、自国の領土が攻撃でもされないかぎり、K国に対して、手も足も
出せなくなる。しかしそれこそ、K国の思うつぼ。

 日本よ、日本人よ、もっと現実を見ろ!

 2050年には、このアジアでは、中国、インドが台頭し、日本のGDPにしても、中国の10分
の1以下に低落する。経済各誌の予想によれば、もっと低落する。つまりアメリカは、20年後、
30年後をすでに読みながら、極東アジアを考え始めている。

 悲しいかな、今の日本からアメリカを取ったら、この日本は、どうなる?

 K国は、強硬な姿勢で、対日交渉に臨んでくるだろう。一説によれば、40兆円というばく大な
戦後補償費を、すでに中国を介して打診してきている。(40兆円だぞ! 日本人1人あたり、
約40万円だぞ!)中国や韓国は、それを背後で支える。ロシアも支える。中国にいたっては、
沖縄まで、中国の領土と言いだすかもしれない。

 追従外交と言われようが、はたまた(金魚のフン)と酷評されようが、日本は、アメリカにすが
るしかなかった。それを日本は、自ら、断ち切ってしまった。安倍総理は、極右勢力と結びつ
き、おかしな民族主義に毒されてしまった。

 戦後の国際政治の中で、日本が、今ほど思いあがった時期は、ほかにない。その結果が、
今である。

 まさに打つ手なしの日本。静観しようにも、その居場所すらない。ゆいいつの望みは、金xx政
権が崩壊すること。はっきり言えば、金xxの死去。1日でも早いほうがよい。それを知っている
から、アメリカとK国(官僚、政府)は、1日でも早く、米朝交渉をまとめようとしている。

 K国は、核兵器開発をやめない。K国というよりは、金xxは、やめない。当の韓国の人たちで
すら、そう思っている。それが冒頭にあげた、「74%」という数字である。
(7月19日朝、記)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2048)

【抑圧と抵抗(2)】

+++++++++++++

昨日は、1日中、抑圧と抵抗
について、考えていた。

もともと(抑圧)というのは、
その人個人が、無意識のうちにも、
心の中に押し込めた、(病的な
心的プロセス)をいう。

何かのことで受けた心の傷(トラウ
マ)を念頭に置いて考えてみれば、
それがわかる。

その(抑圧)を、たとえば治療などに
よって、解放させようとすると、
その人個人は、これまた無意識の
うちにも、それをさせまいと
がんばる。

病的な状況から解放されることに
よって、自分が自分でなくなって
しまう、つまり自我の危機をそこ
に感ずるからである。

これが(抵抗)である。

+++++++++++++

●抑圧と抵抗(2)

 たとえば……。妻に執拗な暴力を繰りかえす夫を考えてみよう。こういうケースでは、夫自身
が、幼少期に、何らかの心の傷(トラウマ)を負ったことが遠因となっていることが多い。

 しかし夫は、それに気がつかない。気がつかないまま、妻に暴力を繰りかえす。「自分が暴力
を振るうのは、そうするに足る理由があるからだ」「言っても聞かない妻が悪いからだ」と。自分
を正当化することも多い。

 ある男性は、子どものころ、父親に口答えしただけで、その場で父親になぐられた。だからそ
の男性は、父親の前では、いつも借りてきた猫の子のようにおとなしかった。またそうすること
によって、身の保全をはかった。

 しかしこの時点で、その男性は、(自分)を、心の中でぐいぐいと押し殺さなければならなかっ
た。父親の前では、いい子ぶることによって、仮面をかぶった。

 こうしてやがてその男性はおとなになり、今の妻と結婚した。ふだんは仲の良い夫婦だった。
が、妻が口答えしたとたん、男性の様子が急変した。「何だ、その生意気な態度は!」と。

 ここに書いた男性というのは、架空の男性である。話をわかりやすくするために、1つの例と
して考えてみた。

 そこでその男性は、専門医のもとで、心理カンウンセリングを受けることにした。と言っても、
それにすなおに応じたわけではない。妻がその男性の暴力で、大けがをし、救急車で病院へ
運ばれるという事件が起きてからである。離婚話が、妻の両親のほうからもちかけられた。

 それでしぶしぶ、その男性は、専門医の門をくぐった。が、その男性は、こう言いつづけた。
「私は正常だ」「どこもおかしくない」「ぼくを病人扱いしないでくれ」と。

 この例をみてもわかるように、心の奥深くに潜んだ心の傷(トラウマ)は、そうは簡単には、姿
を現さない。現さないまま、その人個人を、心の裏から操る。そしてその心の傷(トラウマ)を、
だれかがえぐり出そうとすると、たいてい、それに対して猛烈に反発する。

その男性のケースでも、妻が、「あなたはおかしい」「一度、病院へ行って」と懇願しただけで、
狂乱状態になった。妻に暴力を振るった。

 その男性にしてみれば、心に傷(トラウマ)があることを認めることは、それまでの自分を否定
することに等しい。心の病気に対する偏見もある。「自分はおかしい」と認めることは、それゆ
えにできない。

 (抑圧)と(抵抗)というものが、どういうものか、これでわかってもらえたと思う。

 私たちはいつも、自分の中に、何らかのわだかまり(=固着)をもって生きている。わだかま
りのない人はいない。見方を変えれば、私たちの心は、わだかまりのかたまりといっても、過言
ではない。

 そのわだかまりを、ときには、心の奥深くに押し込むことがある。押し込みながら、別の自分
で、表を飾る。そしてだれかがその心の奥深くに侵入しようとしてきたとき、私たちたちは、無
意識のうちにも、それに対して猛烈に反発する。

 ここにあげた男性のようなケースは例外的であるにしても、似たような現象は、日常生活の
中で、よく経験する。無意識のうちにも、自分が覆い隠している部分を、だれかが指摘されたり
したようなときだ。そういうとき、たいていの人は、カッとなり、自分を見失う。

 もうひとつ、例をあげて考えてみよう。これは私自身のことである。

 若いころ、(今もそうだが)、私の書いた本は売れなかった。書いても書いても、売れなかっ
た。そこであるときから、私は、自分で自分をなぐさめるようになった。「私は自分のために書
く」「だれのためではない。自分のためだ」と。

 こうした心理的操作を、「合理化」という。それはそれとして、一方で、「お金がほしい」「有名
になりたい」という欲望を、私は、そのつどぐいぐいと押し殺さなければならなかった。事実、押
し殺すことに成功した。

 私は無欲のライター(書き手)を装い、それなりに善人ぶっていた。

 そんなある日、ワイフが、新聞の広告欄を見ながら、こう言った。「あら、あのAさんの本が、5
0万部も売れたんだってエ」と。Aというのは、昔、いっしょに仕事をしたことのある仲間の1人で
ある。

 ワイフは軽い気持ちでそう言った。が、そのとたん、私の心の中で怒りが爆発した。自分の心
の中に抑圧していたものが、一気に、表に顔を出した。嫉妬というような、なまやさしいもので
はない。私は、ワイフが、私を否定したかのように感じた。

 ……というのも、実は、架空の話である。しかしこれを薄めたような経験は、ある。今も、その
種の話は、好きではない。そういう話を聞くと、その瞬間、私は私でなくなってしまう。

 では、どうすればよいか。

 それについて、昨日は、一日中、考えていた。で、私なりの結論は、こうだ。

 まず自分を抑圧しているものに気づく。抑圧しているものというよりは、心の奥深くで、抑圧さ
れているものに気づく。ヒントがないわけではない。自分の弱点というか、(痛いところ)という
か、それに気づく。

 つぎに、それを自ら解放させる。ウソをついたり、仮面をかぶる必要はない。私のばあいだっ
たら、何もきれいごとを並べる必要はない。本を書いてお金を儲けたかったら、「儲けたい」と、
声に出して言えばよい。有名になりたかったら、「有名になりたい」と、声に出して言えばよい。
それを邪悪なものとして、心の奥に押し込める必要は、まったく、ない。

 こうして少しずつ、自分を解放していく。

 冒頭にあげた男性のようなケースなら、最初は、小さな問題で、自分を解放させる。それを繰
りかえしながら、最終的には、自分の心の傷(トラウマ)を解放させる。

そのあとのことは、時間に任せる。時間が解決してくれる。ここに書いた、(抑圧)と(抵抗)に無
縁の人は、いないはず。あなた自身の問題として、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 抑圧 
抵抗 心の傷 トラウマ)

+++++++++++++++++

子育ても、またしかり。
子育てというのは、頭で考えてするものではない。
また考えたくらいで、変えることはできない。

ある母親はこう言った。

「頭の中ではわかっているのですが、その場に
なると、ついカッとして……!」と。

子育てというのは、もともとそういうもの。

そういう視点で、以前、こんな子育て
ポイントを書いた。

+++++++++++++++++

【子育てポイント】

●子どもに、子どもの育て方を教える

 子どもに子どもの育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、
子育てをするのですよ」「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを叱るのですよ」と。

 教えるだけでは足りない。身にしみこませておく。「幸せな家庭というのは、こういうものです
よ」「夫婦というのは、こういうものですよ」「家族というのは、こういうものですよ」と。そういう「し
みこみ」があってはじめて子どもは、今度は自分が親になったとき、自然な形で、子育てができ
るようになる。

●自分の過去をみる

 一般論として、不幸にして不幸な家庭の育った人(親)は、子育てがへた。どこかぎこちない。
自分の中に親像のない人とみる。

 ある父親は、ほとんどその母親だけによって育てられていた。(父親の父親は、今でいう単身
赴任の形で、名古屋に住んでいた。)そのため父親がどういうものであるか知らなかった? 
何か子どもに問題があると、子どもを、容赦なく、殴りつけていた。このように、極端にきびしい
親、あるいは反対に極端に甘い親は、ここでいう親像のない人とみる。

 また不幸な家庭に育った人は、「いい親子関係をつくろう」「いい家庭をつくろう」という気負い
ばかりが強くなり、結果として、子育てで失敗しやすい。

 もしあなたが自分の子育てのどこかで、ぎこちなさを感じたら、自分の過去を振りかえってみ
る。この問題は、自分の過去がどういうものであるかを知るだけで、解決する。まずいのは、そ
の過去に気づかないまま、その過去に振りまわされること。

●「育自」なんて、とんでもない!

 よく「育自」という言葉を使って、「育児とは、育自」と言う人がいる。しかし子育てはそんな甘
いものではない。親は子育てをしながら、子どもに、否応なしに育てられる。

 子育てはまさに、山や谷の連続。その山や谷を越えるうちに、ちょうど稲穂の穂が、実るとた
れてくるように、親の姿勢も低くなる。もし「育自」を考えるヒマがあるなら、親は親で、子育てを
忘れて、一人の人間として、外の世界で伸びればよい。そういう姿勢が、一方で、子どもを伸ば
す。自分を伸ばすことを、子育てにかこつけてはいけない。

●カプセル化に注意

 家庭という小さな世界に閉じこもり、そこで自分だけの価値観を熟成すると、子育てそのもの
がゆがむことがある。これをカプセル化という。

 最近は、価値観の多様性が進んだ。また親たちの学歴も高くなり、その分、「私が正しい」と
思う人がふえてきた。それはそれで悪いことではないが、こと子育てに関しては、常識と経験
が、ものをいう。頭で考えてするものではない。

 そのため子育てをするときは、できるだけ風通しをよくする。具体的には、ほかの親たちと交
流をふやす。が、それだけでは足りない。いつも「私はまちがっているかもしれない」という謙虚
な姿勢を保つ。そして子どもを、自分を通して見るのではなく、別個の一人の人間としてみる。
「私の子どものことは、私が一番よく知っている」「私の子どもは、私と同じように考えているは
ず」と過信している親ほど、子育てで失敗しやすい。

 このカプセル化のこわいところは、それだけではない。同じ過保護でも、カプセルの中に入る
と、極端な過保護になる。過干渉も、過関心も、極端な過干渉や、過関心になる。いわゆる子
育てそのものが、先鋭化したり、極端化したりする。

●親の主義に注意

 よく「私は○○主義で、子どもを育てています」などという人がいる。しかし「主義」などというも
のは、無数の経験と、試行錯誤の結果、身につくもの。安易に主義を決め、それに従うのは、
危険ですらある。いわんや、子育てに、主義などあってはならない。よい例が、スパルタ主義、
完ぺき主義、徹底主義など。

 これについては、以前、こんな原稿を書いたので、ここに張りつけておく。

++++++++++++++++

●子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。難解な文章だが、これ
を読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、
子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを
求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ
くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ
に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ
るほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。

子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に
順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気
調神大論篇)と。おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育
てはうまくいくが、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、な
ど。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2049)

●今朝・あれこれ(7月20日)

+++++++++++++++

以前、こんな子ども(小6・男児)がいた。

赤ちゃん返りという現象は、幼児期には
よく見られるが、その子どもは、赤ちゃん
返りならぬ、「幼児返り」を起こしていた。

ボロボロになった雑誌を大切そうに、
いつもバッグの中に入れて、もち
歩いていた。

私が、「これは何?」と声をかけると、
突然、(それ以前にも、そういう話し方
をするときはあったが……)、幼児言葉に
なり、こう言った。

「どうチェ、ダメだと言うんでチョ。
こんな本、読んでは、ダメだと言うん
でチョ……」と。

幼児でもそんな言い方はしないというような
幼児ぽい言い方だった。

原因は、父親と兄だった。

兄はそのとき中学生で、毎晩、父親との間で、
「勉強しろ!」「うるさい!」の大乱闘を
繰りかえしていた。

その子どもは、それを見て、恐怖心をもった。
つまり幼児の世界に逃げこむことによって、
中学生になる(=成長する)ことを、
無意識のうちにも、拒否していた。

それが幼児返りとなって、現れていた。

++++++++++++++++

●子どもの未来は、脅さない

 子どもは、発達段階で、そのつど、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長していく。しかし
ときに、何らかの原因で、その発達がその段階で、踏みとどまってしまうことがある。

 ここに書いた男児のケースでは、父親と兄にはその意識はなくても、弟であるその男児は、
はげしい大乱闘を見ることによって、それを心の傷(心的外傷)としてしまった。

 そしてその段階で、「固着」、つまり無意識下における、大きな(こだわり)をもってしまった。
「固着」というのは、「成長するエネルギーが、その段階ごとに発展的に解放されず、その段階
で、踏みとどまっている状態」と考えるとわかりやすい。

 私は、(こだわり)を言いかえている。親たちに話すときは、そのほうが、ずっとわかりやす
い。

 そしてその男児のように、幼児期という過去に逃げこみ、未来に向けて発展的に成長できな
い状態を、心理学の世界では、「退行」と呼んでいる。その男児は、いつかはわからないが、
(あるいは連続的にそういう印象をもったのかもしれないが)、中学生になることに、強い恐怖
心をもってしまった。

 だから冒頭に書いたような、赤ちゃん返りならぬ、幼児返りを起こしてしまった。

 こうした現象は、就学前の幼児にもよく見られる。

 小学校への入学が近づくと、中に、こんなことを言って、子どもを脅す親がいる。

「小学校の先生は、きびしいわよ。毎日1時間、書きとりをするのよ」
「小学校では、10数えるうちに、服の脱ぎ着ができないと、お尻をたたかれるよ」
「小学校では、毎日宿題をしないと、学校を追い出されるわよ」よ。

 親としては、子どもに自覚をもたせたいと思って、そう言うかもしれない。が、子どもによって
は、それを(恐怖)ととらえる。そして小学校に入学することについて、恐怖心をもつようにな
る。

 これがここでいう(固着)となって、(退行)が始まる。下に弟や妹がいないのに、赤ちゃん返り
に似た症状を示すことがある。私はこれを勝手に、「退行現象」と、「現象」という言葉をつけ
て、呼んでいる。

 そこで重要なことは、

(1)子どもの未来を脅さない。
(2)子どもの未来に恐怖心をもたせない。
(3)子どもの未来は、いつも明るく楽しいものしておく、である。

 これは子どもが人間的に完成期に入る、18歳前後まで、つづける。そして重要なことは、(な
かなかむずかしいことかもしれないが)、子どもはあるべき環境の中で、あるがままに、育て
る。それが子育てにおいては、必要最低条件ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 固着 
対抗 幼児がえり、幼児返り)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●A外務大臣の、またまた失言

++++++++++++++

中にはすばらしい政治家もいるの
だろう。

しかし親の七光りというか、
おごり高ぶった権力亡者のゴリ押しというか、
そのパワーにもの言わせて、
A外務大臣のような政治家が、すばらしい
政治家を踏み倒している。
日本の政治を、言いように動かしている。

しかもあろうことか、今、A外務大臣は、
次期総理大臣の椅子にいちばん近い
距離にいるという。

今度は、そのA外務大臣が、富山県T市
での講演で、こう言った。

『日本のコメの対中国輸出が再開し
たことに関し、「(日本では)コメ
一俵、1万6000円くらい。
中国ではキロ1300円で売られて
いるから、一俵で、7万8000円だ。
7万8000円と1万6000円は、
どっちが高いか。アルツハイマーでも、
これくらいは分かる』(読売新聞)と。

++++++++++++++

 A外務大臣の失言、暴言には、うんざり! 日米関係まで、おかしくしてしまった。しかもそう
いう失言や暴言を繰りかえしながらも、自身は、みじんも恥じない。今度は、「アルツハイマーで
も、これくらいは分かる」と。日本語そのものも、こわれている。

 言うとしても、正しくは、「アルツハイマー病の患者でも」だ。しかしこうした言葉が、その病気
で苦しんでいる人たちを、いかにキズつけることか。あるいは自分自身が、その初期症状にあ
るのではないのか?

 繊細な共鳴性、そのものを喪失している!

 インターネットで配信されたビデオ映像を見ると、その瞬間、A外務大臣は、不遜な笑みまで
浮かべているのがわかる。あの独特の、さも自分は大物の政治家と言わんばかりの笑みであ
る。

 ああいう政治家を見ると、私は、ゾッとする。人間が本来もっているはずの、誠実さ、まじめさ
が、どこにも感じられない。それがわからなければ、幼児の顔とくらべてみることだ。悲しいか
な、A外務大臣の顔には、邪悪な薄汚さだけが、黒いシミのように焼きついている。

 で、そういう人が、J党の中では、次期総理大臣の席に、いちばん近いところにいるという。A
外務大臣は、いったい、この日本を、どうしようとしているのか?

 ところで、そのアルツハイマー病だが、私にとっても、切実な問題である。このところ、記銘力
がぐんと弱まったように感ずる。ときどき、「私の頭は、どうなってしまったのだ」と感ずることさ
えある。そんなとき、「もしや……?」と思う。

 アルツハイマー病になると、人間が人間でなくなってしまう。私が私でなくなってしまう。そうい
う恐ろしさを、何人かの身近な人を通して、すでに、何例か経験している。私の母も、一度、ア
ルツハイマー病と診断されている。(しかし、これは私の見立てによれば、完全な誤診である。)

 だからこうしてものを書きながらも、いつも自分に問う。「お前は、だいじょうぶか?」と。しか
し、このところ、どうもそれについても、自信がなくなってきた。たしかに頭の活動は鈍ってきて
いる。知力も、気力も衰えてきた。集中力も弱くなってきた。アルツハイマー病でなくても、ピック
病、あるいは認知症にかかる確率は、たいへん高い。

 先日会ったとき、田丸謙二先生も、こう言っていた。「どうすれば、みんなに迷惑をかけないで
生きるか。(それが老後の最大の問題だ)」と。

 A外務大臣の失言は、何も、アルツハイマー病の患者たちだけの問題ではない。総じて言え
ば、老後を迎えた、私たち全員の問題でもある。つまり、この私ですら、怒らせた! だいたい
問題の提起のし方が、低レベル。

 「7万8000円と1万6000円は、どっちが高いか」だってエ?

 日本がこの先、アジアの中の先進国として、また経済大国として、他の国々をリードしていく
ためには、日本人自身が、知的能力を自ら磨いていくしかない。またそれができてこそ、世界
も、日本を先進国と認め、経済大国であることを認める。

 安倍内閣が誕生したとき、私はBLOGにこう書いた。「これでやっと日本も、世界に誇れる総
理大臣を生み出すことができた」と。私は安倍総理大臣に、それなりの知性と理性を感じた。
だからそう書いた。

 しかし今は……? おかしな文科大臣に、おかしな防衛前大臣、それに加えておかしな農林
大臣に、そしてこのA外務大臣。

 いったい、この国は、どうなってしまったのか!
(7月20日記、今回の参議院議員選挙の前に)


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(2050)

●バラエティ番組

++++++++++++++

昼のNHK定時ニュースを見たあと、
あちこちのテレビ局にチャンネルを
替えてみた。

驚いた!

バラエティ番組といえば、夜の番組
かと思っていたら、今では、昼間
から、この種の番組が、どんどんと
流されている。

昨日は木曜日だから、家庭の主婦層を
ねらった番組ということになる。

「昼間から、家庭の主婦たちは、
こんな番組を見ているのだろうか?」と
思った。

それにしてもレベルが低い。低すぎる。

ひとつのチャンネルでは、子だくさんの
母親を紹介していた。最高は、11人の
子どもを産んだ母親。

その母親の話を聞いて、ギャーッとか、
ワーッとか……。

もうひとつのチャンネルでは、風船を
地面に一度バウンドさせ、それを
昆虫アミで取りあうゲームをしていた。

大宅荘一が昔、「白痴化」という
言葉を使った。私はそれを見ながら、
その言葉を思い出した。

辛辣な言葉だとは思うが、戦後を
代表する評論家の言葉である。

5年前に、こんな原稿を書いた。

++++++++++++++

●学ぶ心のない子どもたち

 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに
考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。

 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ
化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳
に入らない。

私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」
子「三角関係だ、三角関係だ!」
私「何、それ?」
子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」
私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」
子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」
私「やっちまえ、って、どういうこと?」
子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。

 これは小学五年生たちと、実際した会話である。

 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テ
レビを、毎日四〜五時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、一日中、テレビ
を見ている子どももいる。

よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がない。たとえば毎日四時間
テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均値は、二時間となる。だ
から「平均的な子どもは、二時間、テレビを見ている」などというのは、ナンセンス。毎日、四時
間、テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだまされてはいけない。

 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその
一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソ
の中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考え
ようとする姿勢そのものが、ない。

 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なく
とも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。このタイプの子どもは、自分自身が何ら
かの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、
その「まじめに考える道」をさがすしかない。

結論を先に言えば、そういうことになるが、問題は、ではどうすれば、そういう子どもにしないで
すむかということ。K君(小五男児)を例にとって、考えてみよう。

 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加
工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、一日中、テレビを見てい
る。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組ばかりを、好んで見ている。(……らし
い。)

 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え
方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子ども
のときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。

 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になっ
た。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということにな
る。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたの
で、ここでは省略する。

 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそ
うでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子ど
もも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。

とても残念なことだが、こうした子どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そ
して新しいタイプの日本人像をつくりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけ
ではない。おとなの世界でも、ギャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもい
る。中には、あちこちから「文化人」(?)として表彰されているタレントもいる。

日本人全体が、ますます「白痴化」(大宅壮一)しつつあるとみてよい。とても残念なことだが…
…。
(02−12−21)

●まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。
●あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよ
う。

+++++++++++++++

 先の原稿は、5年前に書いたものである。その5年。日本の「白痴化」(大宅壮一)は、ますま
す進んでいる。昼間から、バラエティ番組が、流されるようになった。そのうち、朝から、流され
るようになるかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++July 07++++++++++はやし浩司※

**************以上、2050作*****************
2007年7月20日













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過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
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神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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