最前線の子育て論byはやし浩司(10)

最前線の子育て論byはやし浩司
(1900  〜  )
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最前線の子育て論byはやし浩司(1900)

●まず疑う

+++++++++++++++

「疑う」ということは、とても
楽しい。

疑うことで、その先に、これまた
別の事実が見えてくる。

たとえば今朝も、こんなニュース
があった。

何でも、太陽が2つある惑星が、
現実に存在するというのだ。

+++++++++++++++

 まず疑う。たとえば、今朝、ヤフー・ニュースにこんなのがあった。

 『地平線に沈む2つの太陽……。こうした状況はSF映画だけでなく、実際に宇宙の数多くの
惑星に、出現している可能性が高いことがわかった。

米アリゾナ大などの研究チームが9日までに、米航空宇宙局(NASA)のスピッツァー宇宙望
遠鏡(赤外線天文衛星)を使い、銀河系の連星を観測した成果を、米天文学誌アストロフィジカ
ル・ジャーナルに発表した。

 連星とは、近い位置にある2つの恒星が重力で結びつき、互いの周りを回り合っている天
体。3つ以上の場合もある。

 研究チームは、地球から50〜200光年離れた場所にある69の連星を観測し、このうち4割
の連星の周囲に、惑星のもとのちりの円盤があることを発見した』と。

 連星があることは、すでにわかっていた。連星というのは、2つ、もしくは3つ以上の星が、互
いの重力で結びつき、互いのまわりを回りあうという星をいう。

 で、このニュースを読んで、「?」とあなたは思っただろうか。どこか、おかしい。私も、あの『ス
ターウォーズ』という映画の中で、2つの太陽が同時に地平線のかなたに沈んでいくシーンを見
たことがある。

 しかし、どう考えても、おかしい。

 連星のまわりに、惑星は、存在しえるのか。もし存在しえたとしても、2つの太陽が同時に、
地平線のかなたに夕日として沈んでいくようなことが、ありえるのだろうか。もしそうだとすると、
連星とその惑星の位置関係は、どうなるのか。

 連星の中に存在する惑星は、常に、連星からの重力の変化に耐えなければならない。もし仮
に、2つの太陽が一方向にあったとするなら、その重力に引っ張られて、その惑星は、あっとい
う間に、どちらかの太陽にのみこまれてしまうはず。

 それを簡単に図式化すると、つぎのようになる。(・)が惑星。(○)が太陽。

    ○  ・  ○    ←この状態なら、惑星は安定する。
    ○  ○   ・   ←この状態だと、惑星は、どちらかの太陽にのみこまれてしまう。(し
かし2つの太陽の夕日は、この状態でなら、見ることができる。)

仮に、1つの惑星が、1つの太陽のまわりを回り、その太陽に、もうひとつの仲間の太陽があっ
たとする。すると、ここにも書いたように、その惑星は、両方の太陽の重力の影響を受けて、き
わめて不安定な動き方をするはず。それに太陽が2つ並べば、気温は、倍になるかも? 

私は朝食を食べながら、新聞の折り込みチラシの裏に、いろいろな模式図を描いてみた。が、
どうも、よくわからない。

         連星に惑星が存在しえるとしても、はたして「地平線に沈む2つの太陽」は、可
能なのか?

 ……ということで、何でも、ものごとは疑ってみる。それは実に楽しいことでもある。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●終末期ケアについて

+++++++++++++++

終末期に、延命処置を施(ほどこ)
してもらうか、それとも施しても
らわないか。

本人の意思しだいとはいうが、
現実には、そんな意思を、前もって
確認することなど、できないのでは
ないか。

たいていの高齢者は、終末期に
近づけば近づくほど、判断能力を
失う。

しかもいくら、本人の意思がはっきり
していても、まわりにいる家族の
(思い)というのもある。

肉親の死にかかわることだけに、
後味の悪い思いだけは、したくない。
「さあ、本人の意思を尊重しますので、
延命処置は結構です」とは、
とても言えないだろう。

+++++++++++++++

 治る見込みがなく、死が避けられない患者への医療のことを、「終末期医療」という。その終
末期医療について、このほど厚生労働省の検討会は、いくつかの指針を提示した。しかし…
…。

 老人を介護していると、常に2つの心が働くのがわかる。たとえば大便で汚れた、下着の始
末をしているようなとき。そんなときを、想像してみてほしい。「かわいそう」という憐れみの心。
それに「何でこんなことをしなければいけないのか」という忌避する心。もっとはっきり言えば、
嫌悪する心。

 この2つの心が交互に現れては消える。心というのは、そんな単純なものではない。YES・N
Oと、はっきり、区別できないばあいのほうが、多い。

 そこで最近、終末期ケアについて、いろいろ議論されている。とくに延命処置について、本人
の意思が確認されたら、それをしなくてすます、という。わかりやすく言えば、「私には延命処置
は必要ない」というような承諾書があれば、延命処置は、しないですますという。

 しかしこんなこと、実際には、可能なのだろうか。つまり終末期でなくても、高齢になればなる
ほど、多かれ少なかれ、たいていの人は、判断能力が鈍ってくる。そういう高齢者に向かって、
「どうしますか?」と聞いても、意味はない。

 では、若いときはどうか? 50代とか、60代とかでもよい。たとえば今の私が、だれかに、
「延命処置を希望しますか、どうしますか?」と聞かれたとする。しかし私には、その質問に答
えようがない。仮に答えたとしても、10年、20年のうちに、気が変わることだってありえる。

 さらにいくら本人が、「延命処置は不要」という意思表示をしていたとしても、私という家族の
一員が、それに手をくだすことには、大きな抵抗感を覚える。たとえば私の母にしても、ときど
き、「私は、早く死にたい」などと言ったりする。老人特有のグチのようなものだから、本気には
していない。また本気にしてはいけない。

 つまり、だからといって、「じゃあ、早く死ねるように手を貸そうか」とは、言えない。またそんな
ことをすれば、自分の人生を汚すだけ。後味の悪い思いをするだけ。いくら本人の意思に反し
たとしても、やはりその場になれば、「できるだけ長く、生かしてやってください」と言うだろう。思
うだろう。

 もっとも本人が苦しんでいるばあいは、別である。「早く楽にしてあげたい」という気持ちが働く
かもしれない。そういうケースも少なくない。

 ただ私が心配するのは、本来なら、もっと長生きできるような人まで、承諾書を口実に、早く
殺してしまうようなことも、起こりえるのではないかということ。あるいは治る見込みのある人ま
で、殺してしまうことだって、ありえる。

 そうでなくても、少子高齢化が進み、老人たちが、粗大ごみのように思わるようになってきて
いる。「この患者は、延命処置を望んでいません。だからさっさと死んでもらいます」とか、何と
か。そんなことにでもなったら、たいへん!

 ところで最近、私の友人のD君が、奥さんをがんでなくした。それについて、「さみしいか?」と
私が聞くと、D君は、こう言った。「3年間も痛みで苦しんだから、死んだときは、うれしかった。
これでL(妻)も、やっと苦痛から解放されたと」と。

 そういうふうに考える人もいる。またそういうふうに考えたとしても、だれも、D君を責めること
はできない。深い夫婦の愛情があればこそ、D君は、そう思った。

 要するに、この問題は、承諾書などという紙切れ一枚で片づくような問題ではないということ。
ケースバイケース。承諾書があっても、延命処置が必要なら、延命処置をする。承諾書がなく
ても、家族たちが、それを望むなら、延命処置を解除する。

 人の生死にかかわる問題だから、底の浅い議論だけで決めてもらっては、困る。

 一応、厚生労働省の検討会では、つぎのような指針が示されている。

(終末期医療の指針骨子)

●患者本人の決定を基本として終末期医療を進めることがもっとも重要な原則。
●医療の開始、不開始、変更、中止などは、医療・ケアチームが慎重に判断する。
●治療方針の決定に際し、患者と医療従事者の合意内容を文書化する。
●患者の意思を推定できない場合は、家族と話し合い、患者にとって最善の治療方針をとる。
 

Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1901)

●やっぱり、お金がなかった?

++++++++++++++++++

BDAには、やっぱり、お金がなかった?
わかりやすく言えば、そういうこと。

だから、いくら制裁が解除されても、
払えないものは、払えない。現在、
そのBDAは、破産状態にあるという。

そういうBDAに向かって、「金を返せ」
というK国も、K国。おめでたいというか、
お気の毒としか、言いようがない。ホント!

++++++++++++++++++

 BDA、つまり今、問題になっているマカオのバンコ・デルタ・アジア銀行、やっぱり、お金がな
かった。当初からそれを予想していたのは、私が知るかぎり、私だけ。オホン!

 わかりやすく言えば、つまり金額を単純化して説明すれば、こうだ。

 ある日、K国のだれかが、ニセのドル札を、大量にBDAに持ちこんできた。その額、50万ド
ル。ふつうの鑑定機では、鑑定できないほど、精巧にできたニセ札である。

 これをBDAは、ニセ札と知りながら、半額の25万ドルで買った。つまりBDAは、もとから、グ
ル。

 が、ここで思わぬハプニング。アメリカが、BDAとの取り引きを停止してしまった。それを見
て、まわりの銀行も、みな、BDAとの取り引きを停止してしまった。あわててBDAは、窓口を閉
じた。おかげで、K国は、25万ドルという自分の預金を引き出せなくなってしまった。

 (アメリカは、この時点では、K国への制裁を考えていたわけではない。結果として、K国を制
裁することになってしまっただけ。)

 25万ドルといっても、ただの紙くず。BDAも、それをよく知っていた。だからいくら送金せよと
言われても、送金など、できるわけがない。送金できるお金、そのものが、ナ〜イ。

 報道によれば、中国銀行などが、仲介を拒否したとか何とか、そういうことになっている。が、
本物の現金があれば、送金は可能なはず。それこそ現金輸送車か何かで運べばよい。あるい
はそのままK国の担当者に渡せばよい。

 K国もK国。ニセ札をBDAに、マネーロンダリングさせておきながら、「返せ」、はない。日本
には、『盗っ人(ぬすっと)、猛々(たけだけ)しい』という諺(ことわざ)がある。K国の姿勢は、ま
さに、それ。しかしK国にしてみれば、「もう、そのお金は結構です」「いりません」とは、とても言
えない。もしそんな弱気な姿勢を見せれば、それこそ自ら、ニセ札づくりに関与したことを認め
てしまうことになる。

 こうしてジリジリと、神経戦が繰り広げられている。恐らくアメリカは、その金額を立て替えてで
も、K国に現金を渡すつもりでいるのだろう。あるいはそう申し出ているのは、韓国かもしれな
い。しかしその方法が見つからない。

 さてさて、どうしたらよいものか? いちばんありえるのは、中国政府が債務保証をしたあと、
BDAから中国銀行に一度、送金したという形を取ること。中国銀行は、K国の担当者の申し出
により、25万ドルを、K国に渡す。

 で、そのあと、まちがいなく、BDAは破産する。そのときは、中国銀行は、25万ドルを、中国
政府から受け取ればよい。筋書きとしては、多分、そうなるだろう。

 しかしなぜ、こんなことまでして、あのK国を支えなければならないのか。そこまで気を使わね
ばならないのか。バカげている。本当にバカげている。

 期限の4月14日までの初期履行措置は、どうやら不可能になってきた。が、それを知って、
さっそく今日(10日)、韓国のおバカ大統領は、つぎのような声明を出した。

 「BDA問題が解決すれば、他の国々は、協議での決定内容に応じて、行動する」と。つまりK
国への援助を開始する、と。が、考えてみれば、これほどバカげた考え方もない。相手のK国
は、まだ、何もしていない。何もしていないのに、援助を開始するとは!

 援助を開始するのは、K国が、核開発関連施設を停止し、IAEAの査察団を受け入れてから
でも、遅くはないのではないか?


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●宇宙ステーション

++++++++++++++++++

もっとも効率的で、高性能、かつ安価な
宇宙ステーションの作り方といえば、
宇宙に漂う、惑星の中をくりぬいて作る
という方法がある。

惑星でなくても、もっと小型のものでも
よければ、隕石がある。

外殻が、固い岩石でおおわれているため、
各種の宇宙線から、乗員を守ることが
できる。大きな惑星になれば、それなりの
重力もあるから、観測機器などを、内部で
固定することもできる。

では、どうすれば、そういう惑星を、ちょうど
よい場所に、もってくることができるか?

これも、方法は、簡単。

岩石の表面に、すり鉢状の穴を掘り、その
中心部で、ものを爆発させればよい。

大きな惑星であれば、小型核爆発でもよい。
爆発力をうまくコントロールすれば、
惑星を移動させることができる。

++++++++++++++++++

 現在、いろいろな国が集まって、宇宙空間に、宇宙ステーションを建設している。しかし地球
から、そのつど資材を持ち運ぶため、莫大な費用がかかる。

 そこでもっとも簡単で、安価な宇宙ステーションの建設方法と言えば、宇宙に漂う惑星の内部
を、くりぬいて作るという方法がある。直径が、1〜2キロもあればじゅうぶん。あるいはそれ以
上でもよい。

 重力といっても、軽いから、削岩機を使えば、まるで雪を削るように簡単に穴を掘れるはず。
掘った岩石は、そのまま、惑星表面の補強に使うこともできる。うまくいけば、岩石の中に閉じ
こめられている(水)を取り出すこともできるかもしれない。

 惑星内部に研究室や実験室、居住室などを作ればよい。

 では、そういう惑星を、どうやって、ちょうどよい位置にもってくることができるか。これも簡単
である。

 惑星の一部に、すり鉢状の穴を掘る。茶碗のような穴を想像すればよい。その穴の中心部
で、火薬を爆発させればよい。あるいは大きな惑星であれば、小型核爆発を起こしてもよい。

 こうして惑星を移動させる。速度は、遅くても構わない。危険なコースに入りそうになったら、
そのときはそのときで、軌道修正すればよい。

 惑星を止めるときは、隕石の向きを180度変えて、また火薬を爆発させればよい。惑星を、
ちょうどよいところで静止させることができる。

 ……というのは、SFの世界の話だが、しかしそれをすでに考え、実行した生物がいるのでは
ないか。それを思わせる痕跡は、いくつかある。

 たまたま今朝のヤフー・ニュースは、こんな記事を載せている。

 『火星と木星の間にある、珍しい双子の小惑星、「アンティオペ」は、日本の探査機「はやぶ
さ」が着陸した小惑星「イトカワ」と同様に、岩石片が集まってできており、内部にすき間が多い
ことが分かった。パリ天文台などの研究チームが10日までに、南米チリにある欧州南天天文
台の大型望遠鏡などを使って、精密に観測した成果を、米惑星科学誌イカルスに発表した』
と。

 どうやって「かすかすであること」がわかったかということは、別として、「かすかす」ということ
は、「内部が空洞である」というふうには、考えられないだろうか。もしそうだとするなら、自然
に、空洞になったとは、考えにくい。

 ……けっして、荒唐無稽(こうとうむけい)なことを書いているのではない。この太陽系には、
それを疑わせる惑星がいくつかある。私がとくに注目しているのは、「フォボス」という火星の惑
星である。

 この惑星には、先に書いたような、すり鉢状の穴が、一方の端についている。隕石の衝突で
できた穴ということになっているが、ならば、こんなふうに穴があくためには、正確に真上から、
隕石が当たらなければならない。写真でみるかぎり、穴は、真円に近い。しかもその穴からの
びる直線状の縞模様は、観測されるたびに、数がふえている。


<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/27/img1f2862920qcuy7.
jpeg" width="100" height="66" alt="フォボス1"> 

<img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/91/0000004091/28/img8d13ee3bdqd1o2.
jpeg" width="200" height="159" alt="フォボス2"> 


 このフォボスも中は、「かすかす」と言われている。

 繰りかえすが、惑星をくりぬいた宇宙ステーションであれば、中に住む生物を、危険な放射線
や太陽光から守ることができる。小さな隕石だったら、当たっても、ビクともしない。宇宙空間を
漂うゴミと衝突しても平気。部屋をふやしたかったら、穴を掘って作ればよい。それでできた土
砂は、惑星の表面に捨てればよい。

 形こそぶかっこうだが、もっとも効率のよい宇宙ステーションということになる。

 ……ということで、この話はおしまい。で、ここから先は、私のSF的空想物語。

 遠い昔、火星にも、人間に似た知的生物が住んでいた。そして現在の人間のように、宇宙へ
飛び出すほどの知的能力を身につけた。

 そして宇宙空間を漂う惑星を、つぎつぎとくりぬいて、宇宙ステーションを建造した。が、火星
は、急速に温暖化現象を迎えた。火星に住んでいた知的生物たちは、太陽系のあちこちへと
非難を開始した。もちろん地球にもやってきた。

 が、地球には住むことができなかった。太陽から注ぎこむ放射線、太陽光に、彼らは耐えら
れない。太陽に近い分だけ、量も多い。まぶしい。それに地球の重力がある。で、彼らは、地
球の衛星の、月に目をつけた。彼らは、月をくりぬいて自分たちの宇宙ステーションを作ること
にした。

 やがて火星は、生物の住めない惑星となってしまった。火星に住んでいた知的生物たちは、
そのままそれぞれの惑星に、住むことにした。地球の上に輝く、月も、その一つである。

 ……ハハハ。私の説によれば、あの月も、どこかの惑星で生まれた知的生物たちの宇宙ス
テーションというわけ。(この説を信じているのは、けっして私だけではないが……。)

 しかしそんな思いをもって、あの月を見ると、これまた楽しい。ヤフーのニュースを読むと、さ
らに楽しい。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●子どもに教える

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子どもに、ものを教えるとき、
教えやすい内容と、教えにくい
内容があることがわかる。

先日も……。

++++++++++++++++

 小2の子どもたちに、リットルの話をしていたときのこと。「リットルって、何?」と聞いた子ども
がいた。

私「リットルというのは、ねエ〜。ほら、お母さんが、車でガソリンスタンドへ行くだろ。そこでガソ
リンを買うだろ。そのときお母さんは、何と言うかな?」
子「満タン」
私「そうではなく、30リットルとか、40リットルとか、そういうふうに言わないか?」
子「言わないよオ〜。ハイオクって言うよオ〜」「ぼくのママは、レギュラーって言うよオ〜」
私「あのね、ガソリンというのは、リットル単位で買うの」
子「……?」

 そこでたまたま私がもっていた2リットル入りのペットボトルを、子どもに見せ、こう言った。

私「1リットルは飲めるけど、2リットルは飲めないよ」
子「飲んで!」「飲んで!」と。

 そこで私は2リットル入りのペットボトルのフタをあけ、みなの前で、「全部で、2リットル。半分
なら1リットル。わかったか?」と。

 で、その1リットルを飲み始めた。私は水を、よく飲む。そのときも、「1リットルくらいなら」と思
って、飲み始めた。が、これが苦しかった。

 子どもたちは、「イッキ」「イッキ」とはやしたてた。

 私は、ぐいぐいと飲んで、半分、飲んだ。すると子どもたちは、「もう1リットル、飲んでエ!」
と。

 そこで私も、ムキになって、2リットルめに挑戦。子どもたちは、「イッキ」「イッキ」と。

 が、2リットルは飲めない。「苦しい」「もう、だめだ」と。

 ……こうして子どもたちは、はじめて、(リットル)の意味がわかってくれた。「先生って、1リット
ルも水を飲んだア!」と。

 同じように苦労するのが、(角度)。それに(速度)。小3では、割り算などなど。導入部でいつ
も苦労する。とくに角度については、子どもたちに、問題意識をもたせるのがたいへん。「とが
って、ツクンツクンしているところは痛いぞオ〜」というようなところから、教え始める。

 で、ないと、算数も、ただの暗記科目で終わってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●希望

++++++++++++++++

何もなくても、希望さえあれば、人は
生きていくことができる。

ほんの小さな希望でよい。
その希望が、その人を生かすこともある。

しかしもし、その希望をなくしたら……。
いや、そんなことは考えたくない。

大切なことは、どうすれば、私たちは、
希望を失わず、自分の人生を前向きに
生きることができるか。

それをいつも考えること。
考えながら、行動すること。

つまり希望というのは、向こうから
やってくるものではない。

希望というのは、自分でつくるもの。

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 今日、自転車で走っているとき、こんな男性を見かけた。新しい家だった。新建材を多用し
た、プレハブづくりの家だった。

 その家の、向かって右端に、見た感じ、6畳ほどの部屋があって、その部屋の中央に、1人
の男性が座っていた。年齢は、60歳前後か?

 その男性が、足をX字型に組んで座り、ぼんやりとした表情で、外、つまり私の方を見てい
た。視線はこちらを向いていたが、焦点は合わなかった。うつろな眼差しだった。私には、その
男性が、放心状態にあるのがわかった。

 「どうしたんだろう?」と思ったつぎの瞬間には、私は、再び、自転車のペダルをこいだ。だか
ら私がその男性を見たのは、ほんの2、3秒のことだった。が、その男性の姿が、強く、自分の
脳裏に焼きついた。どういうわけか、強く、自分の脳裏に焼きついた。

 何もなくても、希望さえあれば、人は生きていくことができる。ほんの小さな希望でよい。その
希望が、その人を生かすこともある。もし生きていく上で、何がいちばん大切かと聞かれれば、
私は、その1つとして、(あくまでも、その1つにすぎないが……)、「希望」をあげる。

 が、もし、その希望をなくしたら……。いや、そんなことは考えたくない。もしこの世でもっとも
恐ろしいものをあげろと言われれば、私は迷わず、絶望とそれから生まれる孤独をあげる。
「明日は今日と同じ」「来年は今年と同じ」……というような人生だったら、生きていく上におい
て、どれほどの意味があるというのか。「だれにも相手にされない」「だれからも慕われない」…
…というような人生だったら、生きていく上において、どれほどの意味があるというのか。

 さらに「明日は今日より悪くなる」「来年は今年より悪くなる」……というような人生だったら、ど
うか。それを考えると、つまり、その重みを想像するだけで、自分が押しつぶされそうになる。

 しかし希望といっても、向こうからやってくるものではない。それはわかる。が、同時に、いくら
がんばっても、希望のほうが、自分から逃げていくことだってある。「待ってくれ!」といくら叫ん
でも、その声は、ぜったいに届かない。

 希望は、そこにあるときは、昼間の太陽のように私たちを明るく、照らしてくれる。しかし逃げ
ていくときは、まるで冷酷な悪魔のように、私たちをそのまま夜の闇の世界に引きずりこんでし
まう。そんな恐ろしさを、E・ヘミングウェイは、『武器よさらば』の中で、こう表現している。

I know the night is not the same as the day: that all things are different, that the things of 
the night cannot be explained in the day, because they do not then exist, and the night can 
be a dreadful time for lonely people once their loneliness has started. 

 (夜が昼と同じでないことは、よく知っている。つまりすべてが、違う。つまり夜のことは、決し
て昼には、説明できない。なぜなら昼には、それが存在しないからだ。孤独な人間にとって、夜
は、いったん孤独になれば、それほど恐ろしいものはない。)

 言い忘れたが、孤独ほど、究極的な絶望はない。仏教の世界でも、「無間地獄」と位置づけ
ている。

 ならば、私やあなたにとって、希望とは何かということになる。

 名誉や地位でないことは、たしかである。名声や財産でないことは、たしかである。心休まる
暖かい家庭にしても、それが希望であるとは、私は思わない。ひとときの孤独やさみしさを癒し
てはくれるが、心のすき間までは、埋めてくれない。

 つまりこうしたものは、なければないで、これまた困る。困るが、こうしたものが、「心の空腹
感」(マザーテレサ)を満たすことはありえない。では希望とは、何か。

 ひとつのヒントとして、こんな説話が残っている。

 ノアが、神に、こう叫んだときのこと。つまり「人間を滅ぼすくらいなら、どうして最初から完全
な人間を創らなかったのか」と。

 それに答えて神は、こう言う。「希望を与えるため」と。つまり「人間は、堕落すれば獣のような
生き物になる。しかし努力すれば、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もう一度、繰りかえす。ノアの神は、こう答えた。「努力すれば、神のような人間にもなれる。
それが希望だ」と。

 しかし現実には、多くの人たちは、無数のしがらみの中で、俗欲という魔物によって体中を、
がんじがらめに縛られている。私にしても、お金はほしい。名誉も地位もほしい。財産がなけれ
ば、不安だ。そういったしがらみから、自分を解きほぐすだけでもたいへん。へたをすると、臨
時収入が入っただけで喜び、株価がさがっただけで落胆する。ヌカ喜びと、取り越し苦労。その
連続。そんなつまらない自分が、そこにいることを知る。

 そんな私が、どうして神のような人間になれるというのか。

 これは私の思い過ごしだとは思う。思うが、あの男性は、ひょっとしたら、私の心の中に住
む、もう1人の男だったかもしれない。今もあの男性の、あのうつろな眼差しが、脳裏に焼きつ
いて、どうしても離れない。

(まとまりのない文章ですが、このまま収録しておきます。)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●学者の評価

+++++++++++++++

理科系の学者の評価は、その学者の
書いた論文が、いかに多くの、権威ある
研究論文で引用されたかで決まる。

しかし問題は、文科系の学者の評価で
ある。

一般には、いかに多くの権威ある出版社で、
その学者の著書が出版されたかで決まると
される。

しかし今、インターネットが、そうした
常識すらも、変えようとしている。

++++++++++++++

 アメリカの調査会社、「トムソンサイエンティフィック」は、07年4月9日、学術論文の引用回
数(被引用数)を指標にした世界の研究機関ランキングを発表した。

 東京大が物理学で2位、東北大が材料科学の分野で3位になった。総合順位では東京大が
世界13位で、国内トップだった。

 これは1996年1月〜2006年12月の11年間に発行された、世界の学術誌の掲載論文を
分析したもの。論文の質の高さの指標とされる、引用回数を研究機関ごとに集計した。

 物理学では、東大は集計対象期間中1万5082本の論文を出し、引用回数は17万326
回。材料科学における東北大の論文は4989本で、引用回数は3万回にのぼっている(以上、
ヤフー・ニュースより引用)。

 ここに書いたように、理科系の学者の評価は、その学者の書いた論文が、いかに多くの、権
威ある研究論文で引用されたかで決まる。しかし問題は、文科系の学者の評価である。

一般には、いかに多くの権威ある出版社(=名の通った出版社、もしくは専門の出版社)で、そ
の学者の著書が出版されたかで決まるとされる。出版点数が多ければ多いほど、よい。ある
いは、いかに多くの権威ある講演会で講師を務めたかで決まるとされる。だから文科系の学者
は、自分の評価をあげるため、著作活動や講演活動に専念する。

しかし問題がないわけではない。私が学生のころには、外国の文献を翻訳して本を出す学者
がたくさんいた。もちろん翻訳するのは、学生たちである。中には、それで100万部単位の本
を売った学者もいた。

 今では、こういうことは少なくなった。それぞれの専門分野での研究活動を通して、たがいに
評価しあうというしくみも、確立している。が、ここでも新たな問題が浮上している。

 専門分野といっても、あまりにも細分化されてしまい、横のつながりを見失ってしまうという問
題である。

 たとえば研究予算を獲得するためには、そのための研究テーマを用意しなければならない。
その研究テーマを、上部団体に提出し、そこから予算を配分してもらう。が、その研究テーマ
が、「?」。

 たとえば「中国南部における、打楽器の発達と歴史について」(架空のテーマ)とかなど。素人
の私が見ても、「こんな研究、何の役にたつのだろう?」と思うようなものがある。あるいは、そ
の程度の研究なら、現地の学者たちがすでにしているだろうから、そういった文献を翻訳すれ
ば、それですむのではないのかと思うようなものもある。

 つまり学者たちは、自分の研究する世界を細分化することによって、より専門家(?)になろう
とする。

 たしかに専門家であることにはちがいないが、へたをすれば、部分を見て、全体を見ずの愚
をおかすことになる。

 ……が、これは今までの話。つまり今までは、そうだったという話。

 最近では、インターネットの発達とともに、学者の世界も大きく様がわりしつつある。たとえば
以前は、横のつながりがなかったこともあって、同じ研究テーマで、別々の学者が別々の場所
で研究していたということがよくあった。

 が、インターネットは、こうした弊害を、一気に解決してしまった。だれが、どこで、どのような
研究をしているかが、即座にわかるようになった。さらに、引用回数にしても、インターネットの
検索機能を使えば、これまた瞬時にわかるようになった。つまり今まで理科系、文科系を分け
ていた壁を、インターネットが取り除きつつあるということになる。

 これから先のことは、まだよくわからないが、インターネットは、研究評価の分野でも、確実に
その世界を変えようとしている。

何はともあれ、「東京大が物理学で2位、東北大が材料科学の分野で3位になった。総合順位
では東京大が世界13位で、国内トップだった」というのは、すばらしいことだと思う。

 こういうニュースを読むと、本当にうれしくなる。日本もまだまだ捨てたものではないだ、と。

 がんばれ、日本! 負けるな、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1902)

●インターネットの世界

+++++++++++++++++

ときどき、親類の、ある人が、私のHPや
BLOGをのぞいているようだ。

どうしてだろう?

何が興味あるのだろう?

……と思いながら、今朝も、あれこれ。

+++++++++++++++++

 インターネットの世界も、どんどんと進化している。世界を騒がせた、動画無料配信サービス
の「TUBE」。ファイル無料登録サービスの「Flickr」、それに今度新しく誕生した、無料インター
ネット・ストーレッジの「BOX」などなど。

 今までは、こうしたサービスは、有料が原則だった。が、無料になった。無料になったばかり
か、使える容量が、ケタはずれに大きい。

 そのほか、こまかいところでは、だれかのHPやBLOGを閲覧すると、いつ、どこのだれが閲
覧したかまで教えてくれるサービスがある。名前まではわからないが、プロバイダーの所在地、
あるいはプロバイダー名から、その人がだれであるか、おおよその見当がつく。

 インターネットだから、こちらのことはわからないはずと思っているなら、それはまちがい。た
とえば匿名の書き込みにしても、書いた人は、わからないはずと思っているかもしれない。たと
えば、以前、「Sxxx−Yxx」の匿名で、執拗に、いやがらせの書き込みをしてくる女性がいた。

 しかしここからがインターネットのすごいところ。グーグルを使って、「Sxxx−Yxx」を、(あいま
い検索)してみると、同じ名前で、メールアカウントを作成している女性が見つかった。さらに、
そういう行為をする人は、同じようなことをするもの。あちこちの掲示板に、同じような書き込み
をしているのがわかった。

 チャットで、同じ名前を使っていることもわかった。

 つまりこうすることで、その女性が特定できてしまった。「近所のものですが……」で始まる、
書き込みだったが、私は、その女性に、こう返事を書いた。

 「S県、H半島にお住まいの、Sxxxさんですね。いつも書き込み、ありがとうございます。いた
だきましたご意見は、大切に参考にさせていただきます。ただ、私の近所の方でないことを、残
念に思います」と。

 以後、いやがらせの書き込みは、ピタリと止まった。

 ……というわけで、最近では、何回、その人が私のHPやBLOGのどの記事を閲覧したかま
で、わかるようになった。

 インターネットは、日々に進化している。甘く見ないほうが、よい。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●老齢化

++++++++++++++

ニコニコ……というよりは、
ニンマリ……。

ニンマリ……というよりは、
ニタニタ……。

デイサービスの行かない日の母は、
わけのわからない表情で、
ソファに座ったまま。1日を過ごす。

頭の状態は、一進一退。
そういうのを「まだらボケ」というのか?

どうかすると、冗談を話す。
しかし、どうかすると、反応が
まったくない。

ボケたのか?
それともとぼけているだけなのか?

+++++++++++++

 あれほど気丈夫だった母も、今は、見る影もない。何があっても、返ってくる言葉は、同じ。
「ありがと」。本当にわかっていて、そう言うのではない。条件反射というか、口グセのようなも
の。だから、今日も、こういうことがあった。

 私が母の記憶力を試すために、こう話しかけてみた。

 「ここ(=私の家)に来るまで、お母さんは、どこにいたか覚えているか?」と。

 すると母は、「うち(=自分の家)にいた」と答えた。

私「ここへ来る前、M(=私の姉)の家にいただろ?」
母「そんなところに、いなかった」
私「2年間も世話になったじゃないか。忘れたのか?」
母「世話になっていない」
私「そんなこと聞くと、Mは、怒るぞ」
母「ウソつくな。わしは、1度も、Mの家などには行っていない」と。

 母は、2年間、姉の家にいた。それすらも、記憶にはないようだ。ないばかりか、反対に私が
ウソをついていると思っている。

 ボケたのか? それとも母特有の、妄想なのか? その区別がむずかしい。母は、若いころ
から、妄想観念が強く、自分でそうだと1度思いこんでしまうと、その妄想からなかなか抜け出
せない。そんなタイプの女性だった。

 その母が、ここ数日、私の顔を見るたびに、「うちへ帰らせてもらう」と言うようになった。

私「帰るって、どこへ?」
母「K村(=母の生まれ故郷)や」
私「K村って、もう、あの家は、あんたのものじゃ、ないぞ」
母「あの家は、ワシのもんや」
私「ちがう、ちがう。代が2つもかわって、今は、H君(=いとこ)のもんや」
母「帰らせてもらう」と。

 こういう会話になると、何を話してもムダという状態になる。要するに、相手にしないこと。無
視する。「わかった」「わかった」を繰りかえして、その場を逃げる。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【オーストラリア】(余韻)

+++++++++++++++

あわただしい3週間が過ぎた。
やっと、生活が静かになった。
平凡になった。

ありがたいことだ。

+++++++++++++++

●帰国してから……

 オーストラリアから帰国してから、ちょうど、3週間になる。しかし今でも、その余韻は、深く、
長くつづいている。

 といっても、帰国後の1週間は、メチャメチャ忙しかった。帰国直後の1日だけは、14時間近
く眠ったが、そのあと、平均睡眠時間が、4〜6時間という日がつづいた。おかげで、頭の集中
力は、ゼロ? ものを書こうとしても、テーマそのものが浮かんでこない。書きたいことは、そこ
にあるのだが、その輪郭(りんかく)が見えてこない。

 ともかくも、無事、こうして帰ってこられた。そして以前と同じような生活にもどった。今の私に
とっては、それがとても、ありがたいことのように思われる。

●メルボルン

 メルボルンという町は、森の中にある町といった感じ。それについては、前にも書いた。一
応、私が住むこの町も、「花と緑の町」ということになっている。しかしもしメルボルンの人たち
がそれを知ったら、きっと、(?)マークを、100個くらい並べるにちがいない。

 公園にしても、町の中に公園があるというよりは、公園の中に町がある。面積の3分の1が、
公園と言われている。

 今、改めてメルボルンを頭の中に思い出してみると、その(緑)だけが、強く印象に残っている
のがわかる。

 ただし緑が多いのは、都市部だけ。一歩、その都市部を離れると、そこは赤茶けた大地。ど
こまで行っても同じ、赤茶けた大地。何かしら、日本とは、正反対のような気がする。

 どちらかを選べと言われれば、やはり日本のほうがいいのかなあ……?

●移住

 私はメルボルンにいる間中、ずっと、移住のことを考えていた。「移住できるだろうか」と。

 しかし結論は、「やはり、無理だろうな」である。生活習慣が、あまりにもちがいすぎる。そうし
たちがいを乗り越えるのは、たいへんなこと。配偶者の1人が、オーストラリア人とか、そういう
ことなら、まだ何とかなる。が、そうでなければ、そうでない。

 日本人の私たち夫婦だけで、それを乗り越えることは、できないだろう。たとえばゴミの出し
方ひとつにしても、こまかいルールがある。医療の問題となると、さらにそうだ。

 また(生きがい)の問題もある。その生きがいを見つけるだけでも、これまた時間がかかる。
見つけたあと、それを育てるためには、さらに時間がかかる。

 かりに私かワイフが、倒れたら、そのあと、どうなる? そのまま移住しつづけることは、はた
して可能なのだろうか?

●孤独

 これは私が学生時代にも感じたことだが、白人世界には、白人世界独得の孤独感というの
がある。

 言葉の問題もある。しかしそれ以上に大きいのは、「ここは私の国ではない」という疎外感。
それが時折、孤独感となって、襲ってくる。

 たとえば(私)という人間にしても、父と母、さらには祖父と祖母……というように、日本という
国に(根)を張っている。その(根)が、深いところで、他人ともからんでいる。日本に住んでいる
とその(根)を感ずることはないが、オーストラリアまでやってくると、その(根)を切られたように
感ずる。

 ときとして、自分の足が宙に浮いているように感ずることもある。

 そこでどうしても、日本人は日本人とつきあうようになる。そのほうが、居心地がよい。その居
心地のよさの反対側にあるのが、ここでいう孤独感ということになる。

●質素

 概して言えば、オーストラリア人は、質素。本当に質素。

 たとえばみやげものにしても、日本人なら、どこかへ行くときも、また反対に客が帰るときも、
あれこれと気をつかう。もちろん、オーストラリア人たちもそれなりに気をつかう。が、日本人の
それよりは、はるかに稀薄。

 みやげといっても、日本人にしてみれば、実に質素なものばかり。みやげものを交換すると
いう習慣そのものがない、という家庭も多い。

 一方、日本人の私にしてみれば、片道20時間近くもかけて行く遠方だし、それに旅費だけで
も、15万円前後もかかる。1000円や2000円のみやげものを包んでいくということに、ある
種の抵抗感を覚える。

 「心のこもったもの」とは言うが、1000円や2000円のもので、心のこもったものをさがすほ
うが、無理。

 だからといって高価なものでは、かえって相手も気をつかうだろう。

 こうした意識のちがいは、どうすればよいのか。どう克服すればよいのか。
 
 で、私の結論。オーストラリア人にも、いろいろなタイプがある。そういうタイプを正確に見極
めながら、相手に合わせる。概して言えば、日本人は、みやげものが、派手。お金をつかう。ま
たそうすることが、親近感の表れと思っている。が、そういった常識(?)は、白人の世界では、
通用しない。

 白人の世界では、裏腹がない分だけ、ストレートに、かつ誠実に接するのがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1903)

●K国の核開発問題(13日の金曜日版)

++++++++++++++++++

ものごとは、常識で考えよう。
常識で考えれば、それまで見えてこなかった
事実が、浮かびあがってくる。

K国の核開発問題にしても、しかり。

++++++++++++++++++

 BDA(マカオのバンコ・デルタ・アジア銀行)問題が、解決した? 本当に、そう考えてよいの
か?

 ものごとは、常識で考えよう。常識で考えれば、それまで見えてこなかった事実が、浮かびあ
がってくる。

(常識1)

 BDAは、K国から持ちこまれたニセドル札を、ニセドル札と知りながら、マネーロンダリングし
ていた。つまりグル。

 (悪)は(悪)どうしが、結束する。その結束力は、固い。

 おそらく表の窓口業務とは別に、その裏で、去年(06年)の取引停止処分以来、日夜、両者
は、連絡を取りあっていたにちがいない。BDAにしても、自分たちがグルだと、公にさらされる
のは、たいへんまずい。

(常識2)

 BDAには、30億円分に近い、K国の資金が預金されていた。しかしその大半は、もともとは
ニセ札。K国からもちこまれたもの。つまり、本物のドル札は、ない。

 だからK国側から、いくら「返せ」と言われても、返せるドル、つまり本物のドル札はない。

(常識3)

 BDAに、返す能力がないことは、K国は、最初から、よく知っていた。またBDAにも、その気
はなかった。だからBDAは、ノラリクラリと、あれこれ口実を作っては、返金をしぶった。

 一方、K国は、それを熟知しているから、アメリカに対して、強気に出た。「BDA問題が解決し
ないかぎり、核施設の停止など、初期措置をとらない」と。

 なぜ、当初からK国が、これほどまでに強気に出たか? 出ることができたか? 言うまでも
なく、BDA問題が、暗礁に乗りあげることが、最初からわかっていたからである。

(常識4)

 が、ここでとんでもない番狂わせがあった。あのアメリカが妥協に妥協を重ね、BDA問題を
解決してしまった。

 破産寸前のBDAに、おそらく裏で、資金注入でもしたのだろう。資金を注入したのは、アメリ
カかもしれない。韓国の可能性も高い。K国にしても、アメリカが、そこまでするとは思っていな
かった。

(常識5)

 そこでK国は、「BDA問題が完全に解決するまでは……」と言い出した。「完全に」というの
は、(本物の)現金が、K国の手元にしっかりともどることをいう。

 が、ここでも問題、発生! 預金は、53の口座に分かれていた。偽名口座、架空口座も多
い。K国の担当者が、預金を引き出しに行っても、簡単には引き出せない。

 K国はそこで、さらにそれを逆手に取って、ノラリクラリ……。つまり時間稼ぎ。「悪いのは、ア
メリカであって、ワレワレではない」と。

(常識6)

 そのK国だが、まったく困っていない。今年(07年度)の食料不足分は、100万トンと言われ
ている。これは例年どおり。

 しかしすでに韓国は、30万トンの食糧援助を始めている。それに加えて40万トン(計70万ト
ン)の食糧援助を決定している。

 国連による制裁決議は、すでにカスカスの状態。

(常識7)

 また韓国は、5万トンの原油を積んだタンカーを、東シナ海に待機させている。5万トンの原
油といえば、現在の価格で、約25億円。

 ちょうどマカオのBDAの預金額に相当する。しかし今のところ、つまり今日4月13日(金曜
日)現在、K国に、核関連施設停止の動きは見られない。

 約束の期日は、明日、14日に迫っている。

(常識8)

 いくら韓国が誠意(?)を演出しても、K国は、動かない。それもそのはず。K国の金xxは、そ
れを、誠意とは受け取っていない。

 金xxは、こう考えている。「自分たちのもつ核兵器がこわいから、韓国は、ビクビクしている」
と。

 つまり核兵器あってのK国。金xxも、それをよく知っている。つまり、金xxは、核開発を、放棄
しない。

(常識9)

 いくら韓国がK国にラブコールを送っても、その声は届かない。届かないばかりか、中国は
今、K国内の資源開発権を、着々と、自分のものにしつつある。

 わかりやすく言えば、将来的には、現在の38度線が、中国と韓国の新しい国境になるかもし
れないということ。

 竹島問題にかこつけて、「反日」を叫ぶのもよいが、そうなれば、小さな(島)どころの問題で
はなくなるはず。中国は、そんな甘い国ではない。韓国のおバカ大統領には、それがわかって
いない。

(常識10)

 K国は、時間稼ぎをつづける。その間に、さらに核兵器開発を進める。現在も、進めている。

 今回、停止するという核開発関連施設などは、もうどうでもよい施設。韓国に亡命した、K国
の元政府高官のF氏も、そう言っている。「すでに役に立たない施設だ」と。

 K国は、もっと別のところで、おそらく山の中深くで、核兵器開発を進めているはず。

(常識11)

 アメリカは、すでに日本を見放している。つまりアメリカの国益を優先させ、日本を見限った。

 現在の安倍内閣は、「対米追従外交反対」を唱える、自民党の中でも、さらに右よりの政治
家と結びついている。内閣結成以来、一度も、アメリカ詣でをしていない。この間、8か月。(8
か月だぞ!)

 アメリカ詣でをしないばかりか、中国を先に訪問し、さらにEUを訪問している。中国の首相
を、日本に招待している。今こそ、日米の結束が必要なときに、だ。

 ブッシュ大統領は、今ごろは、こう言っているにちがいない。

 「日本のことなど、知ったことか!」「やれるもんなら、やってみな。オレたちは、知らない
ぞ!」と。

 悲しいかな、今の日本には、中国はもとより、K国とさえ、まともに対峙する外交能力はない。

(常識12)

 6か国協議は、ますます複雑化する。同時に混迷化する。

 それを知ってか、韓国のN大統領は、「今年中の南北首脳会談は、困難になった」「米中韓
国の外相会議は、困難になった」と、声明を出した(13日)。

 今ごろ、そんな声明を出しても、遅い!

(常識13)

 K国は、何だかんだと、6か国協議の遅れを、日本やアメリカのせいにしながら、時間稼ぎを
するはず。

 その間に、できるだけ多くの、核兵器を増産する。「すでにもっている核兵器については、不
問にする」という密約は、すでにアメリカとK国の間に結ばれている。

 困るのは日本と韓国だが、それについては、ここにも書いたように、「知ったことか!」という
ことになる。

(常識14)

 一度は急進展するかに見えた6か国協議だが、結局は、アメリカの裏切りと、韓国のおバカ
大統領の人道主義とやらで、話がここまでおかしくなってしまった。

(なぜこうまで、あたかも手のひらを返すかのように、アメリカが日本を裏切ったかということに
ついては、すでに何度も書いてきた。)

 で、最後に、こんな話も、伝わってきている。監獄に収容されている少年、少女からの手紙と
いうことだから、やらせの手紙ではない。朝鮮N報に載った記事を、そのままここに紹介する。

+++++++++++++++++

【朝鮮N報の記事より】

++++++++++++++
ラオスの首都ビエンチャン郊外の
拘置所に収監されている3人の脱
北少年少女たちが7日、拘置所の鉄
条網から現地の後援者に支援を要請
する手紙を送った。K国大使館関
係者から激しく追及された後に書い
た手紙で、切実な心情が表現されて
いる(4月14日)。

+++++++++++++++++

●チェ・ハンミさん(17)の手紙

 おじさん、こんにちは。4月6日午後2時半ごろにK国大使館から人が来てわたしたちを尋問
しました。そこでわたしは「死んでもK国には帰らない。韓国人だ。全部忘れた」と叫びました。
もしK国に送られたら死にます。

 おじさんはわたしたちに悪いことはしていません。(おじさんは)わたしたちの親戚や実の父で
もありません。もし本当にK国に送られたら生きる希望はありません。チェ・ヒョクとチェ・ヒャン
は弟妹なのでわたし一人で生きるつもりもありません。二人の面倒をみるという約束をまもる
ために、おじさんに藁をもつかむ思いで手紙をかきました。

●チェ・ヒャンさん(14)の手紙

 おじさん、わたしたちも広く知られることは望みませんが、K国以外なら公開どころか地獄で
も行きます。4月6日にK国大使館から人が来ました。脅迫するかのように侮辱し、声を張り上
げ、共産党の配慮がどうのこうのと言いながら。あんな党の配慮なんかいりません。

 どうか誰でもいいですからわたしたちに自由をください。だめですか?わたしたちは自由を求
めてここにきました。そしてそのために死ぬかもしれない不幸な子供たちです。もし誰かが自
由をあたえてくれたなら、その恩は一生わすれません。どうかK国にだけは行かせないでくださ
い。お金を使って助けてくれたなら、いつかそれ以上にたくさんのお金と愛をお返しすることを、
キリストの名で誓います。神様はご存知です。そしてわたしたちを殺そうとする人たちを許さな
いでしょう。

◆チェ・ヒョク君(12)の手紙
 
アメリカのおじさん、こんにちは。わたしたちがここにいることをK国は知っています。

 K国人が尋問に来て、勝手に書類をつくって持って行きました。もしおじさんが助けてくれなけ
ればぼくたちは皆、死にます。なぜならK国にはかえりたくないからです。帰っても一生ろう獄で
すから。

 救ってくれたら、大きくなって必ずお礼をします。本当に自由に生きて行きたいです。助けてく
ださい。2007年4月6日夜チェ・ヒョクより。自由。自由。自由。

++++++++++++++++++ 

 私たちがたたきつぶすべきは、K国の核開発ではない。私たちがたたきつぶすべきは、K国
に君臨する、金xxという独裁者である。その視点をはずして、K国問題を語ることはあってはな
らない。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1904)

●「やってあげた」論(保護・依存の関係)

++++++++++++++++

「私は、これだけのことをやってやった」
「だから、相手は、私に感謝しているはず」
「相手も、それなりの誠意を見せてくれるはず」と、
お人よしの人は、考える。

しかし相手によっては、それがまったく通用しない
こともある。

「やってあげた」論には、いつもこうした
限界がつきまとう。

+++++++++++++++++

 最初は感謝する。しかしそれが2度、3度とつづくうちに、それが少しずつ、当たり前になる。
さらに、4度、5度とつづくと、今度は、それを反対に要求されるようになる。……こうして、たが
いの間に、保護・依存の関係ができあがる。

 一度、保護・依存の関係ができあがってしまうと、保護する側は、いつも保護する側に回り、
依存する側は、いつも依存する側に回る。こんな例がある。

 M氏(開業医)のところに、ある日、ひとりの男が、お金を借りに来た。遠い親戚にあたる人で
ある。その男は、「お金がないと、一家心中しなければならない」と、言葉巧みに、M氏に援助
を迫ったという。

 名字が同じということもあり、また同じ地域に住んでいるということもあって、M氏は、いくらか
のお金を渡した。M氏にしてみれば、たいした額ではなかった。男は、M氏に感謝して、その場
を去った。

 が、こういうことが、そのあと、たび重なるようになった。はじめのころは、半年に1度くらいだ
ったのが、やがて、それが数か月に一度になり、さらに毎月のようになった。つまり、毎月のよ
うにその男はM氏のところへやってきて、お金を無心した。

 そのころになると、その男は、「助けてもらうのが、当然」と考えるようになった。一方、M氏
は、心のどこかで疑問を感じながらも、その男を援助しつづけたという。

 こういう関係が、15年近くもつづいた。

 で、その男の長男が、大学に入学した。M氏は、こう言う。「入学金や学費はもちろんのこと、
受験先のホテル代まで、うちで負担しました」と。

 金額にすれば、たいへんな額ということになる。しかしここからが、変? そこまで世話になり
ながら、その男にしても、そしてその男の長男にしても、M氏に、ほとんどといって、感謝の念を
もっていないという。

 M氏と、その事情をよく知るM氏の妻は、「どうしてでしょうね?」と私に聞いた。私は、即座
に、その理由がわかった。が、しかし、それは言えなかった。ただ「保護と依存の関係というの
は、一度できあがってしまうと、それを断ち切るのはたいへんなことです」とだけ、答えた。

 話は、ぐんと政治的になるが、現在のあのK国を見ていると、それがよくわかる。

 先の6か国協議では、「(たがいに)60日以内に、初期措置を完了する」と約束した。アメリカ
は、BDAの金融制裁を解除する。一方、K国は、いくつかの核開発施設での活動を停止す
る、と。

 しかしそれがいつの間にか、「金融制裁が解除されたのが確認されたら、核開発施設の活動
を停止する」となってしまった。正確には、「制裁解除が現実に証明されれば、我々も行動を取
る」(K国外務省・4月13日)となってしまった。

 いつものK国のやり方である。つまり、これが保護と依存の関係である。

 K国はいつも、(してもらうこと)だけしか、考えていない。「自分たちは、援助されて、当然」「ま
た、それに値する国である」と。

 こういう感覚は、この日本にもある。たとえば日本とアメリカの関係がそうである。反対に、
「どうしてアメリカが、日本の平和と安全について、責任をもたねばならないのか」という質問
に、満足に答えられる日本人は、どれほどいるだろうか。

 これだけ極東アジア情勢が混とんとしてきても、いまだに、「アメリカが何とかしてくれるさ」と
考えている日本人は多い。

 アメリカの話はさておき、こうしたK国の心理を読み違えると、6か国協議にしても、何のため
の協議かということになってしまう。へたをすれば、他の5か国が、一方的にK国に振り回され
るだけ、ということになってしまう。

 で、今、その渦中にあるのが、実は韓国である。肥料(20万トン)、毛布類につづいて、食糧
(30万トン+40万トン、計70万トン)もの援助を、すでに開始している。韓国にしてみれば、
「これだけのことをしてやっているのだから、K国は、韓国に感謝しているはず」ということにな
る。

 しかしこうした誠意は、相手によっては、通じない。とくにK国は、戦後、常に外国からの援助
で生き延びてきた国である。当初は、ソ連、それが中国へと変わった。2つの国の間を行った
りきたりしたので、当時は、(振り子外交)と呼ばれた。

 今は、それが韓国に変わった。

 だからいくら韓国が援助をつづけても、K国には、そもそも、それを理解するだけの(心)がな
い。そのことは、先に書いた、M氏と1人の男の関係を見ればわかる。つまり保護・依存の関
係というのは、そういう関係をいう。わかりやすく言えば、依存する側には、(甘え)が生まれ、
その(甘え)だけがどんどん肥大化し、やがて依存する側は、自分を見失ってしまう。

 最後に、先のM氏について。M氏は、「どうしてでしょうね?」と私に聞いた。「どうして、感謝し
てくれないのか?」と。

 M氏には話せなかったが、理由は明白である。

 生活のレベルが、あまりにもちがいすぎる。M氏のばあい、一般勤労者の所得基準で計算す
ると、年収が5000〜6000万円の生活をしていた。月収に換算すれば、月、500万円の給
料ということになる。そういう生活ぶりを、その男は、M氏の家を訪問するたびに、直接見てい
た。

 最初は、羨望(せんぼう)。しかし羨望は、やがて嫉妬(しっと)に変化しやすい。嫉妬は人の
心を狂わせる。その男も、そうだ。「自分は、援助してもらって、当然」と。

 ……ということで、この保護・依存の関係には、じゅうぶん、注意したらよい。10人の人とつき
あえば、その10人の人の間で、この保護・依存の関係が生まれる。そしてひとたびそれができ
あがると、それを基準として、人間関係ができてしまう。

 もちろん親子関係とて、例外ではない。依存する側にしてみれば、居心地のよい世界かもし
れないが、保護する側は、そうでない。ときにその重圧感に押しつぶされてしまうこともある。親
子関係といっても、つきつめれば一対一の人間関係。それで決まる。

【補足】

●友だち親子

 02年の3月、玩具メーカーのバンダイが、こんな調査をした。「理想の親子関係」についての
調査だが、それによると……。

 一緒にいると安心する ……94%
 何でもおしゃべりする ……87%
 友だちのように仲がよい……77%
 親は偉くて権威がある ……68%

(全国の小学4〜6年生、200人、および五歳以上の子どもをもつ30〜44歳の父母600人
を対象に、インターネットを使ってアンケート方式で調査。)

 一方で「現実の親子関係」では、

 子どもと何でもおしゃべりすると答えた父親 ……72%
 父親と何でもおしゃべりすると答えた子ども ……49%

 この調査からわかることは、子どもは親に、「友だち親子」を求めているということ。それにつ
いて、バンダイキャラクター研究所の土居由希子氏は、「友だちのような親子関係は、『家族の
機能が失われつつある』という文脈で語られることが多いが、実はそうではない。家族がひとつ
にまとまるために、これまでの伝統や習慣にかわって、仲のよさや、共通の趣味や話題が必
要となっているようだ」(読売新聞)とコメントを寄せている。

 また父親の72%が、子どもと何でもおしゃべりすると答えているのに対して、子どもの側は、
49%であることも注目したい。父親と子どもの意識が、微妙にすれているのが、ここでわか
る。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。日本人は、総合的にみても、子どもの前やうしろを歩
くのは得意だが、子どもの横を歩くのは、苦手。バンダイの調査に対して、「親の威厳こそ大
切」という意見もある。しかしこうした封建時代の遺物をひきずっているかぎり、子どもは親の
前で心を開くことはない。はからずも、「いっしょにいると、
安心する」を、94%の親子が支持している。この数字のもつ意味は大きい。
(02−7−25)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●たった一度の人生

息子たちへ

たった一度しかない人生だから、
お前たちは、お前たちの人生を、
思う存分、生きなさい。
思う存分生きて、この広い世界を
思いきり、羽ばたきなさい。

だれにも遠慮することはない。
己が命ずるまま、己が人生を生きなさい。
他人の目を気にしてはいけない。
他人に左右されてはいけない。
お前たちの人生は、どこまでいっても、
おまえたち自身のもの。

親孝行……? バカなことは考えなくてもいい。
家の心配……? バカなことは考えなくてもいい。
そんなヒマがあったら、お前たちの人生を
ただひたすら、前向きに生きなさい。
パパもママも、自分の人生を、最後の最後まで、
しっかりと自分で生きるから、
何も心配しなくていい。

そう、パパもママも、自分の人生を
思う存分、生きてきた。つらいことや
苦しいこと、悲しいこともあったけど、
それなりに結構、楽しく生きてきた。
いやいや、お前たちのおかげで、
どれほど人生が潤ったことか。
どれほど励まされたことか。
どれほど楽しかったことか。
どれほど生きがいを与えられたことか。
感謝すべきは、むしろパパやママのほうだよ。

いつかパパもママも、人生を終えるときがくる。
あの世があるかどうか、パパにもママにも
わからないけど、あればあの世で、
お前たちがくるのを待っている。
だから、あわてなくていいから、
ゆっくりときなさい。いつまでも待っている。
それまで、どんなことがあっても、
自分の人生を生きなさい。

たった一度しかない人生だから、ね。
そうそう、言い忘れたが、
ありがとう。心からお礼を言うよ。
今まで、お前たちのおかげで、
パパもママの成長したよ。
……成長することができたよ。
心から、ありがとう。

そうそう言い忘れたが、
ここはお前たちの故郷だよ。
さみしいことや、つらいことがあったら、
いつでも帰っておいで。
羽を休めに、帰っておいで。
いつでもドアをあけて、待っているからね。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●都会人の傲慢(ごうまん)

++++++++++++++++

都会に住んでいる人には、こういう
感覚はわからないかもしれない。

しかし浜松市という地方に住んでいると、
都会人がもつ、あの独特の傲慢さが、
よくわかる。

5年前に書いた原稿だが、それに
少し手を加えてみた。

++++++++++++++++

●現実にあった話

 現実にあった話である。

 一人の男が、突然、ある民家にやってくる。そしてそれに応対した女性(70歳くらい)に、「こ
の家は大家族と聞いている。お話をおうかがいしたい」と。その女性がとまどっていると、男は
目ざとく、ちゃぶ台の上にのっているご飯とおかずをみつける。そして「あれ、食べてもいいです
か?」と。

 女性はニコニコ笑いながらも、あきれ顔で、「ええ、いいです」と。男はスタスタと座敷にあが
り、その食事を食べ始める。女性が「味噌汁を出しましょうか」と言うと、男は、「ええ、お願いし
ます」と。もちろん男と女性は初対面。前もって打ちあわせをしたわけでもない。NHKの「鶴瓶
の家族に乾杯」(02年7月放映)の一コマである。

●都会人の傲慢(ごうまん)

 こうした傲慢さは、多かれ少なかれ都会人に共通してみられる。都会人は、地方をいつも下
に見る。地方人は地方人で、都会をいつも上に見る。とくにNHKのような中央集権意識の強い
報道機関ほどそうで、カメラをもって歩けば何でもできると思っている。まさに、「下ニ〜イ!」の
世界である。このおかしさがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。
 地方の人がある日突然、東京に住む人の家に行き、先に男がしたようなことをすればどうな
るか? 恐らく変人扱いをされて、その家からたたき出されるであろう。仮に私が静岡放送局
(SBS)のカメラマンを連れていても、相手にされないだろう。

言いかえると、NHKのその番組は、地方人の素朴さ、地方人のやさしさを逆手にとり、もっと
はっきり言えば、地方人をバカにしながら、自分たちの優位性を誇示している。

●日本人の中央集権意識

 ……というような話は、前にも書いた。問題は、なぜ日本はこうまで中央集権意識が強いかと
いうこと。政治だけではない。すべてが東京を中心として、その文化、伝統、思想は、東京が頂
点になっている。そしてそれらが上意下達方式のもと、地方へ流れていく。

たまに地方から、中央に文化、伝統、思想が逆流することもあるが、あくまでもそれは、「たま
に」という程度。「たまに」そういうことが起きると、かえって奇異な目で見られる。都会人自身
が、地方の価値を認めない。が、本当の問題は、実はそこにあるのではない。地方人が地方
人のプライドをもてないでいる。それこそ本当の問題である。

 たとえばあなたの家にある日突然、NHKのカメラマンと一緒に、有名タレント(この言葉は本
当に不愉快だが……)がやってきたとする。そしてあなたの家の中に入ってきて、「食事をした
い」と言ったとする。そのときあなたは、それを断るだろうか。それとも冒頭にあげた女性のよう
に、ニコニコ笑いながら、それに応ずるだろうか。

こういうとき、「私なら……」という言い方は適切ではない。断るとか、断らないとか、そういう問
題ではない。あなたならこうした非常識な訪問を許すだろうか。

●意識の表と裏

 ……というような話も、前に書いた。そこでさらに話を進めよう。都会人が都会人として、中央
集権意識をもち、傲慢になったとしても、それはそれでよい。しかし人間の意識には、いつも表
裏がある。表で中央集権意識をもつということは、裏で、地方意識をもつということ。傲慢になり
やすいということは、裏で、卑屈になりやすいということ。

だからこうした都会人は、一方で、たとえばアメリカに対しては、地方意識をもち、卑屈になる。
ペコペコする。こうした都会人の意識は、皮肉なことに、地方という地方都市で見ていると、よく
わかる。

 たとえば「イチロー」。アメリカの大リーグのひとつである、マリナーズで活躍している日本人
選手である。このことも前に書いたが、イチローは、何も日本を代表して、日本のために戦って
いるのではない。が、毎日のように、NHKや他の放送局は、イチローの活躍を報道している。
BS放送では、試合そのものをまるごと報道している。

 が、ここでいくつかのことを考えねばならない。そのひとつは、アメリカという国は、もともと移
民国家。大リーグの中には、アメリカ人の選手と同じくらい、外国人選手がいる。たまたまイチ
ローは日本人だったが、イチローにしても、そういう外国人選手の一人に過ぎない。

そういうアメリカにあって、「イチローは日本人」と位置づけることは、それ自体、人種差別にな
る。私は2001年の4月、野茂投手が完封試合をしたとき、たまたまそれをアメリカで見ていた
が、アナウンサーは最後の最後まで、野茂が日本人だということを言わなかった。(最後に、
「日本人のファンが喜んでいます」と、間接的な言い方で、野茂が日本人だということをにおわ
せていた。)

人種、国名を口にすること自体、アメリカではタブーになっている。またそれをタブーにすること
によって、アメリカ社会は、野茂を彼らの一員として迎え入れようとしている。「野茂は日本人
だ」と言うことは、そうしたアメリカ人の配慮を、逆なでするような行為と言ってもよい。

 それでも、このおかしさがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 そのひとつ。台湾のプロ野球チームで活躍している日本人は、なぜ話題にならない。
 そのひとつ。カナダの選手のばあい、アメリカのリーグへ移籍したら、その選手は、その時点
で、アメリカ人。カナダの放送局は、その選手を追いかけまわすようなことはしない。

 そのひとつ。日本のプロ野球チームで活躍している、アメリカ人選手は、なぜアメリカでは話
題の「ワ」の字にもならない。

 つまりこうした隷属意識は、都会人がもつ、中央集権意識とちょうど、表、裏の関係にある。
もっとわかりやすく言えば、こうした中央集権意識は、自分自身もだれかに追従したいという隷
属意識の、焼きなおしでしかない。このことは、たとえば親子の関係でみればわかる。子どもの
依存心に甘い親というのは、自分自身も潜在的に、だれかに依存したいという思いがある。つ
まり潜在的な依存心が姿を変えて、子どもの依存心に甘くなる。
では、どうしたらよいか。

●こうした意識を、どう変えるか

最初に、日本人がもつ中央集権意識は、並たいていのことでは、変えられないということ。それ
こそ奈良時代の昔から、日本は、中央集権体制。そういう点では、日本人は骨の「ズイ」まで、
魂を抜き取られている。

この地方都市の浜松市でも、目は東京ばかりに向いている。「東京からきた」というだけで、何
でもかんでもありがたがる。教育や子育ての世界では、とくにその傾向が強い。強いというよ
り、異常。そればかりか、悲しいかな、浜松にいる人自身が、地方人の価値を認めていない。

よい例が、数年前、浜松市の一等地にできた、半官半民の新設大学。「音楽の町にふさわし
い大学」ということで、S文化芸術大学という名前がついた。しかし、だ。学長以下、教官80人
は、すべて東京から移住してきた人たちである(教務課調べ)。

この浜松市には、教官にふさわしい人はいないとでもいうのだろうか。教官になった人には責
任があるわけではない。また教官になった人の責任を追及しているのではない。が、こういうこ
とばかりしているから、地方はいつまでたっても、「地方、地方」とバカにされる。

●みんなで勇気を出して断ろう

 ワイフは「鶴瓶の家族に乾杯」を見ていて、「どうして(食事を)断らないの?」とさかんに言っ
ていた。「突然の失礼な客なのだから、はっきりと断ればいい」と。そう、その通り。断ればよ
い。そういうささいな抵抗が、日本の社会のしくみを変える。そう思ったから、この原稿を書い
た。
(02−7−29) 


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●運命論

+++++++++++++++

私が知る私の範囲には、限界がある。
ときに私は、私の知らない世界によって、
自分の進む道を決められてしまうことも
ある。

それを人は「運命」と呼ぶ。

+++++++++++++++

 ほんのささいな過ちや、ほんのささいな妥協が、その人のそれからの人生を狂わすことはよく
ある。とくに男女の仲はそうで、不本意な結婚、不本意な出産が、その人を不幸のどん底にた
たき落とすことは、珍しくない。

言いかえると、今、それこそ電撃に打たれるような恋をして、相思相愛、双方の家族の温かい
理解に恵まれ結婚できる人など、どれほどいるというのか。

「自分の運命は自分でつくるもの。虚偽や不正は絶対に排撃しなければならない」と言ったの
はチェーホフ(「彼のモットー」)だが、そういった強い生き方をできる人は、どれほどいるという
のか。

たいていの人は、そのときの「流れ」にのまれ、「まあ、こんなものか」「何とかなるだろう」という
思いの中で、ずるずると流れの中に、身を沈めてしまう。埼玉県所沢市に住むUさん(女性、3
4歳)がそうだ。

 Uさんから、こんなメールが届いた。いわく、「不本意な結婚、子育て、旦那の宗教、また世間
体重視の旦那の価値観。そして私の実家は男尊女卑。親の暴力も日常茶飯事だった……」
と。
 
 私には運命というものがあるのかどうかは、わからない。仮にあるにせよ、生きているのは私
たち自身だし、その運命の最後の最後で、ふんばって生きるのも私たち自身である。決して運
命に身を任せてはいけない。つまり任せないところに、人間が人間としてもつ気高さがある。無
数のドラマもそこから生まれる。

ただ結婚や出産がほかの運命と違うところは、そのこと自体が、一生を左右するということ。一
度その流れの中に入ると、途中で軌道修正することは、たいへんむずかしい。1年、2年とがま
んしているうちに、その分だけ、人生そのものが短くなっていく。そしてその短くなった分だけ、
後悔の念が強くなる。

実のところ、私にも、今のワイフと結婚する前、好きな女性がいた。結局、その女性とは別れ、
そのあと数年して、今のワイフと知りあい、結婚した。どちらかというと、成りゆき結婚だった。
あとで聞いたら、ワイフも、「私はあなたなんかと結婚するつもりはなかったのよ」と。結婚した
のは、私の早とちりからだった。今のワイフが「うちへ遊びにきて」と言ったのを、「責任を取らさ
れる」と早とちりした。そして自分のほうから、ワイフの父親の前で結婚を口にしてしまった。
「結婚します。収入はこれだけです。しばらくはアパートで暮らします」と。

驚いたのはワイフのほうだった。あとで「私は遊びにきてと言っただけ」と言われたときには、私
のほうは、もう身動きがとれない状態になっていた。

 が、だからといって、その私が不幸になったわけではない。ワイフにしてもそうだ。結婚のしか
たこそ、そうであったかもしれないが、それとて、私を超えた運命が、そういう状況を作ったの
かもしれない。

 私といっても、私を知る範囲には、限界がある。私の知らない世界で、私が動かされることだ
って、ある。

 今にしてみると、私は、別の心で、やすらぎを求めていたのかもしれない。今のワイフは、現
在に至るまで、私にそのやすらぎを与えつづけていてくれる。つまり私は、無意識のうちにも、
今のワイフのような女性を求め、そして結婚した。

 反対に、私のワイフが、今のワイフのようでなかったとしたら……。それを想像するだけでも、
ぞっとする。

 大切なことは、そこに運命を感じたら、そっと静かに、それに身を寄せてみるということ。運命
というのは、それを受け入れたものには、やさしく微笑みかけ、反対に、それを拒絶したものに
は、悪魔となって、襲いかかる。

 所沢市に住むUさんには、こう書いた。

 「どんな人でも、その人の身のまわりには、どうにかなる問題と、反対にどうにもならない問題
があるのではないでしょうか。

 どうにかなる問題については、努力でがんばりましょう。しかしどうにもならない問題について
は、あきらめて、それを受け入れましょう。すなおに、『私はこうなんだ』と割り切ってしまうので
す。すると、肩から力が抜け、心が軽くなりますよ」と。

(補足)

 たまたま昨日は、「ピック病」という病気が気になって、それを調べていた。認知症のひとつに
考えられているが、それが原因で、それなりに社会的地位があり、それなりに分別があると思
われる人が、万引きをしたりすることもあるという。

 40〜50代で発症することが多いそうだ。アルツハイマー病よりは、発症率は低いという。

 で、そういう病気にしても、(私)を離れたところで、発祥する。つまり「自分は病気である」とい
う病識がないという。

 運命も、ある意味で、「病識のない病気」と似ているのではないか。たいていのばあい、私の
知らない世界から、私に指令を出し、私を動かしていく。

 あまり関係のない話かもしれないが、今、ふと、そう感じたので、それをそのまま書いておく。

【Uさんへ】

 自分で選んだ人生は、たとえ失敗しても、後悔しない。しかし他人に選ばれた人生は、たとえ
成功しても、最後の満足感は得られない。よく親の反対を押し切り、結婚したり、駆け落ちした
りする人がいる。周囲の人は、「どうせ失敗する」と笑うが、笑うほうがおかしい。私の知人にこ
んな人がいる。

 その男性(40歳)のとき、それまでの会社勤めをやめ、単身マレーシアのクアラルンンプー
ルに渡った。そこで中古のヨットを購入。私がその話をその男性の兄から聞いたときは、「今ご
ろは、フランス人の女性と、フランスに向けて、インド洋を航海しているはずです」ということだっ
た。

 私はこの話を聞いたとき、「上には上がいるもんだなあ」と思った。もちろん航海といっても、
私たちが頭の中で想像するほど、ロマンチックなものでない。まさに命がけ。その男性にして
も、たまたま独身だったからできたこと。しかしそこに、限りないあこがれを感ずるのは、反対
に私たちの日常的な生活が、あまりにも味気ないからではないのか。

平凡であることは、それ自体は、美徳かもしれない。しかし人間はそれでは満足できない何か
をもっている。どこかのテーマパークの標語を借りるなら、「夢と冒険とロマン」こそが、人間に
生きる活力を与える。

 と、言っても、失敗は恐ろしい。が、それ以上に恐ろしいのは、失敗を恐れて、自分の人生を
闇に葬ること。「何かをしたかった」「何かができたはずだ」「何かをやり残した」という思いの中
で、悶々とした日々を過ごす。それほど不幸なことはない。

人生が永遠であれば、それでもよいが、しかし人生には限りがある。健康にせよ、気力にせ
よ、年齢とともに衰える。「明日こそ何かをしよう」と思っていても、その明日そのものが、なくな
ってしまう。そんなわけで、要は勇気の問題ということか。

 さて私たち夫婦のこと。そういう結婚だったから、私は最初からワイフには、多くを期待してい
なかった。多分、ワイフも何も期待していなかったと思う。私にしても、恋愛はもうこりごりという
状況での結婚だった。が、振り返ってみると、それがかえってよかったのかもしれない。やがて
長男が生まれ、二男、三男とつづくうちに、私もワイフも、「家庭」の中にすっかり取り込まれて
しまった。

 それにもうひとつ私たち夫婦を支えたものはといえば、いつも生活そのものが、断崖絶壁に
立たされていたこと。私もワイフも、親戚縁者の援助はもちろんのこと、実家の援助もいっさ
い、期待できなかった。収入も不安定だった。

ただひとつすがれるものはと言えば、健康しかなかった。そういう生活だったから、私はワイフ
と力を合わせるしかなかった。夫婦げんかをして、どんなに家庭の中がメチャメチャになってい
ても、仕事だけは放棄しなかった。それが結果として、今までかろうじて「家族」の形を保ってい
る理由ではないか。

 運命は、私たちの努力で変えられる。それに身を負かせば、運命は運命だが、しかし足をふ
んばって、それと戦う姿勢を示したとき、運命のほうから、別のドアをあけてくれる。運命は決し
て、不変ではない。問題は、運命があることではなく、運命があるとあきらめてしまう人間のほ
うにある。たとえ不本意な結婚をし、不本意な出産をしたとしても、運命をのろってはいけない。
のろえば、それこそ運命の思うツボ。大切なことは、「今という現実」をしっかりと見つめ、そこを
原点として、前向きに生きること。方法はいくらでもある。

まず、どうにもならない問題と、何とかなる問題を分ける。
 つぎに、どうにもならない問題には、目をつぶり、あきらめる。
 そして何とかなる問題については、徹底的に戦う。

 冒頭にあげたUさんについて言うなら、結婚して、子どもがいるという事実は、これはどうにも
ならない問題。それが運命だというのなら、運命でもよい。しかしそういう運命はのろってはい
けない。のろえば、生き方そのものがうしろ向きになってしまう。

 が、今、Uさんは、生きザマは変えることができる。夫や、そして子どもの悪い面を見るので
はなく、よい面だけを見て、「今」を出発点に、人生を組みなおす。それはちょうど、棚から落ち
た人形のようなもの。こわれたことを嘆いても始まらない。大切なことは、再利用できるものは
別によりわけて、こわれた人形を片づけること。それでも、どうしても人形がほしいというのであ
れば、新しく買えばよい。

繰り返すが、こわれた人形を前にして、嘆き悲しんでも、意味はない。悲しめば悲しむほど、そ
れこそ運命の思うツボ。あなたの人生は、何も変わらないばかりか、かえってあなたを不幸に
する。

 最後に一言。運命に身を任すも、任さないも、それはその人自身の意思による。それは決し
て運命ではない。自分の意志だ。そしてさらに一言。幸福であるとか、ないとかいうことは、決し
て運命のなせるわざではない。あなた自身の意思で決めることである。

 Uさん、心から応援します。がんばってください。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

●幼児期(自律性の発達)

++++++++++++++++++++

青年期最大のテーマは、「自己同一性」の問題
である。

(自分はこうあるべきだ)という姿と、
(現実の自分)が一致していることを、
自己同一性という。簡単に言えば、そういう
ことになる。

それを確立できるかどうか? それで青年期の
あり方が決まる。

結婚にたとえるなら、愛し合って結婚した
カップルは、同一性が確立していることになる。
そうでないカップルは、そうでない。

夫婦の間でも、同一性が確立できないと、
心理状態は不安定になり、
夫婦げんかばかりするようになる。
人間の心理も、また同じ。

その自己同一性の基礎は、実は、乳幼児期に、
作られる。

++++++++++++++++++++

 乳児期最大のテーマは、言うまでもなく、「基本的信頼関係」の構築にある。基本的信頼関係
は、生後直後から、母子の関係で、はぐくまれる。

 (絶対的な安心感)が基本にあって、子どもは、母子との間で、基本的信頼関係を築くことが
できる。(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)の2つ
をいう。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。「何をしてもよい」と自分をさらけ
だすのを、(絶対的なさらけ出し)という。「何をしても、子どものことは許す」というのを、(絶対
的な受け入れ)という。

 が、それだけではない。

 エリクソンによれば、つづく第2段階の幼児期では、「自律性の確立」が、テーマとなる。「自
立性」と言いかえてもよい。つまり「独立した人間として、自分のことは自分でする」ことをいう。

 この自律性の確立に失敗すると、子どもは、他人に対して、「恥ずかしい」という感覚をもつよ
うになる。あるいは過度に他人に対して依存的になり、その分だけ、さらに自立できない人間
になってしまう。自分が何をしたらよいのか、何をすべきなのか、それがわからなくなることもあ
る。

 Y氏は、50歳になるが、たいへん世間体を気にする人である。何をするにも、世間の目を気
にする。「そんなことをすれば世間に顔向けができない」「世間が笑う」「世間が許さない」と。
「世間体」という言葉も、よく使う。

 一見、他人と協調性のある人に見えるが、その実、自分がない。「では、あなたはどうしたい
のですか?」と聞いても、答が返ってこない。それが如実に表れたのが、実父の葬儀でのこと
だった。

 Y氏はけっして、裕福ではなかった。実父との関係も、よくなかった。その実父は、Y氏が、48
歳のときに、くも膜下出血で急逝した。そのとき、ほかの兄弟たちと、たいへんな騒動になって
しまった。

 実父は、かなりの知識人であったとみえる。はやくから遺言を残していた。それには、「葬儀
はしなくていい。遺灰は、○○浜から太平洋へまいてほしい」とあった。

 その遺言をめぐって、「遺言は無視して、恥ずかしくない葬式をする」と主張するY氏。「遺言
どおり、遺灰を海にまく」と主張するほかの兄弟たち。結局、Y氏が長男だったということもあ
り、父親の遺言を無視して、葬儀をすることになった。その地域でも評判になるほど、かなり派
手な葬儀であったという。

 Y氏の妹氏(45歳)はこう言う。「兄には、これが私の生き方という、一本のスジがないので
す。いつも他人の目の中だけで生きているような人です」と。

 が、Y氏のこうした生き様は、エリクソンによれば、幼児期にできあがったものと考えてよい。
長男であるということで、蝶よ花よと、手をかけて育てられた。つまりその分だけ、自律性の発
達が遅れた。

 エリクソンの言葉を借りるなら、「重要な人格構成要素がうまく獲得できるか、それともマイナ
ス面が勝ってしまうか」(「性格心理学」清水弘司)というはげしいせめぎあいの中で、マイナス
面のほうが、表に出てきてしまったということになる。

 エリクソンは、これを「心理的危機」「社会的危機」と呼んだ。つづく第3段階の「就学前期」、4
段階の「学童期」にかけて、それぞれの段階で必要な人格の確立に失敗しやすくなるからであ
る。

 Y氏がそうであったかどうかはわからない。わからないが、Y氏の様子を観察するかぎり、Y氏
は、自律性の確立に失敗した人ということになる。

 つまりその分だけ、依存性が強い。もちろん本人は、それに気づいていない。自分が自律性
のない人間だとは、さらに思っていない。一応、それなりの仕事をしている。家族もいる。「世間
体」そのものが、Y氏にとっては、ひとつの哲学(?)になっている。「恥」という言葉にしてもそう
だ。

 1人の人間が懸命に生きる。その生き様に価値がある。生きる意味も、そこから生まれる。
たとえ失敗しても、それはそれ。どうしてそれが「恥」なのか。いつか書いたが、「恥」にも2種類
ある。

 「己に対する恥」と「他者に対する恥」である。ここでいう恥というのは、当然、「他者に対する
恥」ということになる。

 そんなもの、気にするほうがおかしい……と私は思うが、Y氏にとっては、そうではない。ここ
にも書いたように、Y氏にしてみれば、それが生きる哲学(?)にもなっている。

 では、どう考えたらよいのか。

 エリクソンの発達論を借りるまでもなく、幼児期は、子どもの自律性だけを考えて、子どもを
育てる。「自分で自分を律しながら、自立させる」。もっと言えば、「自分で考えて、自分で行動さ
せ、自分で責任を取らせる」。

 そのために何をすべきかということよりも、何をすべきでないかを考える。というのも、望まし
い環境の中で、あるべき方法で子どもを育てれば、子どもは、自ら自分の中から、その自律性
を引き出していく。過干渉、過保護、過関心、溺愛が悪いことは言うまでもない。親の価値観の
押しつけ、優位性の押しつけが悪いことも言うまでもない。

 ……ということで、この話はここまでにする。と、同時に、あなた自身は、どうかということを、
ここで自問してみてほしい。

 あなたはここでいう自律した人間だろうか。それとも、依存性が強く、世間体ばかりを気にす
るタイプの人間だろうか。どうであれ、そうした基礎は、実は、幼児期に作られたものであると
いうこと。それに気がつくだけでも、あなたはさらによく、あなたという「私」を知ることができる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自律
 自律論 エリクソン 発達論 心理的発達論 恥論)

++++++++++++++++

基本的信頼関係について書いた原稿
などを、参考のために、ここに添付
しておきます。

++++++++++++++++

●信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●感情の発達

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感
情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)0歳〜1歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)1歳前後〜2歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。

(複雑感情形成期)2歳前後〜5歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん
で、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が
終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。
「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん
は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え
てみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生
だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって
いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか
いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて
みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま
ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ
う言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ
ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、
「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で
もよい。しかし「幼稚園」は、……?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【お母さん方からの、Q&A特集】

●夫との違い

1 夫の怒りかたが荒っぽくて困っている。できれば話して(言葉で)わからせたいのに、夫は
怒鳴ったり、手をあげることも・・・。

★『夫婦は一枚岩』というのが、子育ての鉄則です。夫婦で意見の衝突があっても、子どもの
前では見せないようにします。また『船頭は一人』という鉄則もあります。こういうケースでは、
母親は、まず父親を立てる。決して男尊女卑的なことを言っているのではありません。たがい
に高度な次元で尊敬しあってこそ、それを「平等」といいます。子どもの前では、「お父さんがそ
う言っているから、そうしなさい」と、あくまでも父親の側に立ちます。納得がいかないことがあ
れば、子どもが寝静まったあとにでも、「私はこう思うけど……」と、意見の調整をします。

★そうでなくても、むずかしいのが子育て。これから先、夫婦の心がバラバラで、どうして子育
てができるというのでしょうか。なおこういうケースでは、夫が怒鳴ったり、手をあげたりしそうで
あれば、その前に、夫の言いたそうなことを前もって、言うようにします。いわゆる夫の機先を
制するということです。「そんなことをすると、お父さんに叱られますよ!」と。夫に抵抗すればす
るほど、夫の心は、あなたや子どもから離れていきます。これは子どもの問題というより、夫婦
の問題かもしれません。どこか夫婦の間に、すきま風が吹いていませんか。私には、そちらの
ほうが気になります。

★なお、親子の信頼感は、「一貫性」で決まります。E・H・エリクソンという心理学者も、「親(とく
に母親)の安定的態度が、基本的信頼関係を結ぶ基礎である」というようなことを言っていま
す。要するに親の心がグラグラしていては、親子の間で、信頼関係を結ぶことができないだけ
ではなく、つづいて、子どもは、園や学校の先生、さらには友人との信頼関係を結べなくなりま
す。よきにつけ、悪しきにつけ、親は、一本スジの通った子育てをします。


2 食事中のマナーについて。夫はテレビを見ながら食べている。でも、子どもには、ごはんを
食べるときはテレビを消しなさい」と言ってあるので、子どもの教育上、夫にはテレビを消して、
協力して欲しい。

★子育ての世界には、メジャーな問題と、マイナーな問題があります。家庭の役目は、家族が
外の世界で疲れた心と体をいやすことです。そのために「家庭はどうあるべきか」を考えるの
は、メジャーな問題。「家庭でのこまごまとした、ルール」は、マイナーな問題ということになりま
す。マイナーな問題に引き回されていると、メジャーな問題を見失うことがあります。そこでこう
したマイナーな問題は、言うべきことは言いながらも、あとは適当に! その時と、場所になれ
ばできればよいと考えて、おおらかに構えます。

★また子どもの世界には、『まじめ八割、いいかげん二割』という鉄則があります。「歯をみが
きなさい」と言いながらも、心のどこかで、「虫歯になったら、歯医者へ行けばいい」と思うように
します。虫歯の痛さを知って、子どもは歯をみがくことの大切さを学びます。それだけではあり
ません。子どもは、そのいいかげんな部分で、羽を伸ばします。子育てでまずいのは、神経質
な完ぺき主義。家庭が家庭としての機能を果たさなくなるばかりか、子どもの心をつぶしてしま
います。さらに子どものことで、こまごまとしたことが気になり始めたら、あなた自身の育児ノイ
ローゼを疑ってみます。

★「しつけ」と「ルール」は違います。「しつけ」は、自律規範のことをいいます。この自律規範
は、初期のころは、親から与えられますが、やがて子どもは、自分で考え、自分で判断し、自
分で行動するようになります。子どもをしつけるということは、いかにして子どもを自律させるか
ということ。一方、ルールは、あくまでもルール。むしろ『ルールがないから家庭』と言います。ま
たイギリスの教育格言にも、『無能な教師ほど、ルールを好む』というのもあります。これを言い
かえると、『無能な母親ほど、ルールを好む』(失礼!)となります。

★ルールは、つくるとしても、家庭では最小限に。夫の立場で言うなら、「家に帰ってきてから
は、のんびりとテレビでも見ながら、食事をしたい」ということではないでしょうか。私なら妻か
ら、そんなこまごまとしたルールを言われたら、気がヘンになります。なお、「食事中はテレビを
見ない」というのは、マナーでも何でもありません。「マナー」というのは、「他人の心を害さない
こと」を言います。そういうマナーは大切ですが、「テレビを見ながら、食事をしてはいけない」と
いうのは、マナーではありません。いわんや「教育上……」と、おおげさに構えなければならな
いような、問題ではありません。ちなみに、私は、毎日、テレビを見ながら、夕食を食べていま
す。

★要するに子育てをするときは、いつもメジャーな視点を忘れないこと。いつも、「より大切なこ
とは何か」と考えながら、します。そういう視点が、あなたを親として、大きな人間にします。こま
かいルールで、がんじがらめになっている家庭からは、大きな子どもは生まれません。


3 子どもの習い事など。園のお友だちなどを見ると、習い事をさせる人もけっこういます。子ど
ももやりたがっていることだし、私としては何かやらせてもいいのでは? とおもっているけど、
夫は「まだ早い。子どもはのびのび遊んでいればいい」と。この感覚の違いって、これからもも
めごとの原因になりそうで・・・。

★親には、三つの役目があります。子どもの前を歩く。子どものガイドとして。子どものうしろを
歩く。子どもの保護者として。そして子どもの横を歩く。子どもの友として。日本の親は、子ども
の前やうしろを歩くことは得意ですが、子どもの横を歩くのが苦手。そういう発想そのものがあ
りません。こういう相談のケースでも、「(子どもに)やらせる」という発想そのものが、気になり
ます。大切なことは、子どもの方向性を見極めながら、「あなたはどう思うの?」と、そのつど、
子どもの心を確かめながら、行動することです。習い事をする、しないは、あくまでもその結果
です。

★で、習い事をするにしても、この時期は、「楽しませること」を考えてします。(できる、できな
い)ではなく、(楽しんだかどうか)をみます。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす原動力と
なります。もう少し専門的には、「プラスのストローク(働きかけ)」を大切にするということです。

★この時期は、ややうぬぼれ気味のほうが、あとあとよい結雨を生みます。ですからそのつ
ど、「あなたはよくできる」「あなたはもっとできるようになる」と、プラスの暗示をかけていきま
す。ほかに『一芸論』(子どもに一芸をもたせる。一芸を伸ばす)や、『才能は作るものではな
く、見つけるもの』という鉄則もあります。参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ママ友だちとの違い

1 何かトラブルがあると「うちの子にかぎって、そんなことはしない!」と、決まって言う母親が
いる。自分の子が原因になっていても、よその子から疑うなんて。「他人は他人」と思っていて
も、やっぱり頭にきちゃう!

★反面教師という言葉があります。あなたのまわりに「親バカ」(失礼!)がいたら、いつも「自
分はどうか?」と自問してみます。そういう親を非難するのではなく、自分自身が伸びるために
利用します。このケースでも、「頭にきちゃう」ではなく、「親というのはそういうもの。ならば自分
はどうなのか?」という視点でみるようにします。そうすれば、少しは怒りがおさまるはずです。

★このケースで気になるのは、むしろ相手側の親子です。「うちの子にかぎって」と思っている
親ほど、子どもの心がわかっていない。それだけではない。ひょっとしたら、その子どもは、親
の前で、いい子ぶっているだけ? こういうのを「仮面」といいます。さらにひどくなると、心(情
意)と、表情や言動が遊離するようになります。不愉快に思っているはずなのに、ニコニコ笑う
など。こうなると、親の側から見ても、自分の子どもが何を考えているかわからなくなります。親
子断絶の初期症状と考えて、警戒します。

★信頼関係を築くためには、(さらけ出し)→(心を開く)というプロセスを踏みます。「どんな恥
ずかしいことでも、たがいに言いあえる」「何をしても、何を言っても、たがいに許しあえる」とい
う関係があってはじめて、信頼関係を築くことができます。親子とて、例外ではありません。しか
し今、信頼関係どころか、親子でも、心を開けないケースが、ふえています。先日も、私に、「う
ちの子(小二男児)がこわいです。私のほうから、あれこれ言うことができないので、先生のほ
うから言ってください」と言ってきた、母親がいました。

★一方、心を開けない子どもは、開けない分だけ、心をゆがめます。いじける、ひがむ、つっぱ
る、ひねくれるなど。それを防ぐためにも、子どもには、まず言いたいことを言わせ、したいこと
をさせます。その上で、よい面を伸ばし、悪い面を削るようにします。相手側の親子には、そう
いう姿勢が感じられません。ひょっとしたら溺愛ママ? 自分の心のすき間を埋めるために、子
どもを利用しているだけ? そういう視点で見てあげると、さらに怒りがおさまるかもしれませ
ん。


2 育児論に自信があり、「私の子育ては正しくて間違いはない!」と言ってはばからないママ
が園にいる。みんなそれぞれなのに、人の子育てにも口を出してくる始末。もう、ほっといてほ
しいのに。

★ほかの親とのつきあいは、『如水淡交』が原則。「淡く水のように」という意味です。中に、自
己中心的で、押しつけ的なことを言ってくる親もいますが、そういう親とは、サラサラと水のよう
に交際するのが、コツです。この世界、その底流では、親たちのドロドロの、それこそ血みどろ
の戦いがウズを巻いています。それに巻き込まれると、かなり神経の太い人でも、参ってしま
います。だから交際するとしても、園や学校の行事の範囲だけにとどめます。決して深入りして
はいけません。間に子どもがいるため、一度、こじれると、この種の問題は、とことんこじれま
す。もしどうしても、ということなら、あなたの子どもが通っている園や学校とは、直接関係ない
世界に住んでいる親と交際するようにします。

★ただ子育てで注意しなければならないのは、カプセル化です。カプセル化というのは、親子
だけの狭い世界でマンツーマンの生活をすることいいます。そしてその世界だけで、独自の価
値観を熟成してしまう……。家族が、ちょうど小さなカプセルに閉じ込められるようになるので、
カプセル化といいます。一度カプセル化すると、同じ過干渉でも、極端な過干渉、あるいは同じ
溺愛でも、極端な溺愛になりますから、注意します。それを防ぐためにも、自分のまわりは、い
つも風通しをよくしておきます。つまりたがいの情報を交換することは悪いことではありません
ので、「ほっといて!」ではなく、「また教えてね!」というような、つきあい方に切りかえてみては
どうでしょうか。


3 うちによく遊びに来る子が、まったくしつけされていない。人の家の冷蔵庫を勝手にあけた
り、寝室(入ってはダメと言ってある所)に入ったり・・・。しかも、それを見ても、本人の親は何も
注意しない!「おたくのしつけ、どうなってるの!」って感じ。「もうこないで!」と言いたいが、子
ども同士は仲がいいので、言えない。

★こういうときの鉄則は、ただ一つ。『友を責めるな、行為を責めよ』です。相手の子どもの行
動のどこか、どのように悪いかを、子どもに話しても、決して相手の子どもの名前を出してはい
けないということです。「よそのうちの冷蔵庫を勝手にあけるのはよくないね」「そのおうちの人
が入ってはいけないという部屋に入ってはいけないね」と、です。こういうケースで、「○○君と
は遊んではダメ」と、子どもに言うことは、子どもに、「親を取るか、子どもを取るか」の択一を
迫るようなもの。あなたの子どもがあなたを取ればよし。そうでなければ、あなたとあなたの子
どもの間に大きなキレツを入れることになりますから、注意してください。なおこの鉄則は、これ
から先、あなたの子どもがおとなになるまで、有効です。

★で、あえて言うなら、あなたの子どもは、その子どもといっしょにいることが、楽しいのです。
子どもというのは、無意識のうちにも、居心地のよい仲間とつきあいます。つまり『類は友を呼
ぶ』です。そこで大切なことは、あなたの子どもにとって、どこがどう居心地がよいかを知ること
です。ひょっとしたら、あなたのほうが、ガミガミとこまかいしつけをし過ぎていませんか。……
そうではないと思いますが、そんなことも疑ってみることも、ときには大切です。

★これから先、あなたの子どもは、無数の人間関係を、いろいろな場所で結びながら、その間
でのやりくり、つまり社会性を身につけていきます。そういう意味では、悪友もまた、必要なので
す。社会に対する免疫性も、そこから生まれます。だからといって悪いことを容認せよというわ
けではありませんが、一般論として、非行などのサブカルチャ(下位文化)を経験した子どもほ
ど、社会人になってから常識豊かな人になることも、よく知られています。「悪いからダメ」式
に、子どもを押さえつけるのではなく、その子どもを反面教師として、ここで書いたことを参考
に、相手の子どもを利用してみてはどうでしょうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●義父母・父母との違い

1 子どものほしがるものは何でも与えてしまう姑。特に、お菓子やおもちゃは、わが家なりの
ルールを決めて、守らせたいのに。今まで一生懸命に言い聞かせてきたのが無駄になる!

★昔の人は、「子どもにいい思いをさせるのが、親の愛の証(あかし)」「いい思いをさせれば、
子どもは親に感謝し、それで絆(きずな)は太くなるはず」と考えて、子育てをしました。今でも、
日本は、その流れの中にあります。だから今でも、誕生日やクリスマスなどに、より高価なプレ
ゼントであればあるほど、あるいは子どものほしがるものを与えれば与えるほど、子どもの心
をとらえるはずと考える人は少なくありません。しかしこれは誤解。むしろ、逆効果。イギリスの
格言に、『子どもには、釣竿を買ってあげるより、いっしょに釣りに行け』というのがあります。つ
まり子どもの心をつかみたかったら、モノより、思い出というわけです。しかし戦後のひもじい時
代を生きた人ほど、モノにこだわる傾向があります。「何でも買い与える」という姑の姿勢の中
に、その亡霊を見ることができます。

★また昔の人は、「親(祖父母)にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい
子」と考える傾向があります。そして独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、「鬼の子」
として嫌いました。今でも、そういう目で子どもを見る人は少なくありません。あなたの姑がそう
だとは言いませんが、つまりこうした問題は、子育ての根幹にかかわる問題なので、簡単には
なおらないということです。あなたの姑も、子ども(孫)の歓心を買うことにより、「いいおばあち
ゃん」でいたいのかもしれません。そこでどうでしょうか。この私の答を、一度、姑さんに読んで
もらっては? しかし子育てには、その人の全人格が集約されていますから、ここにも書いたよ
うに、簡単にはなおりません。時間をかけて、ゆっくりと説得するという姿勢が大切です。


2 嫁と舅・姑の違いって必ずあるし、それはしかたないことと割り切っています。でも、我慢し
て「ノー」と言えないのでは、ストレスもたまるいっぽう。同居するとますます増えそうなこのモヤ
モヤ。がまんにも限度があると思うから、それを越えてしまったときがこわい!

★もう、同居している? それともしていない? 祖父母との同居問題は、最終的に、「別居
か、もしくは離婚か」というところまで覚悟できないなら、あきらめて、受け入れるしかありませ
ん。たしかに問題もありますが、メリットとデメリットを天秤(てんびん)にかけてみると、メリット
のほうが多いはず。私の調査でも、子どもの出産前から同居しているケースでは、ほぼ、10
0%の母親が、「同居してよかった」と認めています。

★問題は途中同居(つまり子どもがある程度大きくなってからの同居)ですが、このばあいも、
祖父母との同居を前向きに生かして、あなたはあなたで、好きなことをすればよいのです。仕
事でも、趣味でも、スポーツでも。「おじいちゃんやおばあちゃんが、いっしょにいてくださるの
で、助かります」とか何とか言って、です。祖父母の甘やかしが理由で、子どもに影響が出るこ
ともありますが、全体からみれば、マイナーな問題です。子ども自身の自己意識が育ってくれ
ば、克服できる問題ですので、あまり深刻に考えないようにしてください。

★なお、「嫌われるおじいちゃん、おばあちゃん」について、私は以前、その理由を調査してみ
たことがあります。その結果わかったことは、理由の第一は、健康問題。つぎに「子どもの教育
に口を出す」でした。今、日本の子育ては、大きな過渡期にあります。(孫の教育に口を出す祖
父母の時代)から、(祖父母は祖父母で、自分の人生を生きる時代)へと、変化しつつありま
す。そこで今は今で、そのストレスをしっかりと実感しておき、今度は、あなたが祖父母になっ
たとき、(その時代は、あっという間にやってきますが……)、そういうストレスを、つぎの若い夫
婦に与えないようにします。


3 何かあると自分の子育て論で迫る母。「昔は8か月でオムツが取れた」とか「昔は○○だっ
たのに」など、自分の時代にことを持ち出して、いい加減なことばかり。時代は進んでいるの!
 今のやり方をもっと認めて!

★『若い人は、老人をアホだと思うが、老人は、若い人をアホだと思う』と言ったのは、アメリカ
の詩人のチャップマンです。「時代は進んでいる」と思うのは、若い人だけ(失礼!)。数十万年
もつづいた子育てが、一世代くらいの時間で変わるはずもないのです。いえ、私は、このこと
を、古い世代にも、若い世代にも言いたいのです。子育てに「今のやり方」も、「昔のやり方」も
ないのです。もしそう見えるなら、疑うべきは、あなた自身の視野の狭さです(失礼!)。

★もっともだからといって、あなたの姑の子育て観を容認しているのではありません。子離れど
ころか、孫離れさえできていない? いや、それ以上に、すでに姑とあなたの関係は、危険な
状態に入っているかもしれません。やはりイギリスの格言に、『相手は、あなたが相手を思うよ
うに、あなたを思う』というのがあります。これを心理学では、「好意の返報性」と呼んでいます。
つまりあなたが、姑を「昔風の子育てを押しつけて、いやな人」と思っているということは、まっ
たく反対の立場で、姑も、あなたのことを、「今風、今風って、何よ。いやな嫁」と思っているとい
うことです。

★実のところ子育てでまずいのは、個々の問題ではなく、こうしたギクシャクした人間関係で
す。つまりこうした不協和音が、子育て全体をゆがめることにもなりかねません。そこでどうでし
ょうか。こういうケースでは、姑を、「お母さんは、すばらしいですね。なるほど、そうですか!」と
もちあげてみるのです。最初は、ウソでもかまいません。それをつづけていると、やがて姑も、
「よくできた、いい嫁だ」となります。そしてそういう関係が、子育てのみならず、家庭そのものを
明るくします。どうせ同居しなければならないのなら、割り切って、そうします。こんな小さな地球
の、こんな狭い日本の、そのまたちっぽけな家庭の中で、いがみあっていても、し方ないでしょ
う!


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

【子育てが不安なあなたへ……】

+++++++++++++

子育てをしていて、それが
不安でならないと訴えてきた
母親がいた。

それについて考えてみたい。

+++++++++++++

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらっ
た。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、
サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲
気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいな
い。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不
安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗
り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性
ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。
私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなか
った。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなけ
ればいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事
先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と
言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒
ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をして
も、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速
道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジ
リジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着い
たよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いた
けど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなか
ったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一
周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手
にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間
を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそ
こらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着
く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。こ
の埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

●親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
●何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
●しかしその友だちとは、仲がよい。
●そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
●が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
●そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と
言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子
どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そん
なわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過
干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。
子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のば
あいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあっ
てほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の
子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってし
まうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、
今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そ
もそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによっ
て、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りない
ことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ど
も自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示
を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発
するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないと
しても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できる
ことと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょう
ずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということにな
る。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で
勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごく
ふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健
康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに
感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」は
そうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題というこ
とになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手
を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるの
は、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限
定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなけれ
ばならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもり
が、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることす
ら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。
が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」
だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらし
い。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほ
しくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見
えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題
が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決す
るのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよ
い。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たと
えば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶり
をしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないの
と同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止した
りしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう
友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親
の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子
ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうである
ように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ
親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のこと
で考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いち
いち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなた
はそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義
の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか
押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、
このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。
何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇
歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんて
さみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取ら
れた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子ど
もを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということにな
る。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親
子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子
でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは
母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母
は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三
歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出
て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にた
たき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職
業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生き
ている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実で
ある。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい
仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子
は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルド
タウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うの
というのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のお
もしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。また
そこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消え
てなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょ
に、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる
問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけでは
すまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかし
その子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子
だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信か
ら、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、
一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別
として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、
「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行
型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえ
ば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があった
ことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるので
はないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自
身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性が
あります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができな
かったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、
形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的
な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味
です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、
園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこか
いい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないから
です。さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の
子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信
頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子ど
もに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなりま
す。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味
で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうと
いうのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に
心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」という
ことになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問
題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育て
については黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めま
す。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用
います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を
知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づか
ないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうこと
をするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、
やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさら
に、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、
不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっ
ているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あな
たが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当
にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌ってい
るのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断して
いるのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせ
まいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験で
すが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然
ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そ
のものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好き
になります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけ
は言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児につ
いては、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一
度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一
度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ど
も自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしか
ならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなもので
す。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係と
いうわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、そ
れはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉でき
ても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。
たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうか
ということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利
はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとし
ても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断し
て、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うち
の子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っている
と、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思って
いると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自
分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますま
す悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰り
かえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみて
みてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁に
もつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何か
につけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい
嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、た
がいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていません
か。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになりま
す。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面ま
で、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪
い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと
信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えま
す。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、
それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られていま
す。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろま
ずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれ
ませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになりま
す。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからの
ことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてき
ます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そう
いう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすれ
ばするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前
の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だち
とつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」と
か呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1)相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子
ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと
喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(2)あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」「あ
なたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子ども
はあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼をど
こかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を裏切
りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(3)「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟り
の境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不
思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まりま
す。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんな
はずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの
子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもある
かもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、
わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 育児
のノイローゼ、育児不安)
(030516)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1906)

【今日・雑感】

●しびれ

++++++++++++++++++

ここ2、3日、右手の指先が、軽く
しびれたような状態になる。

仕事から帰ってきて、コタツの中に
入ったようなときに、
それを、かすかに感ずる。

「?」と思うが、よくわからない。
そこでインターネットを使って
調べてみた……。

++++++++++++++++++

 手足のしびれを、軽く見てはいけないそうだ。最悪のばあいは、脳腫瘍も疑われるとか。イン
ターネットで調べてみたら、そういうことがわかった。

 数年前、脳腫瘍で死んだ友人も、そう言っていた。「脳腫瘍の2大症状は、頭痛としびれだ
よ」と。

 みながみな、そうというわけではないのだろう。が、しかし様子をみたほうがよい。ただし、脳
腫瘍なら、私は治療を拒否する。

 脳腫瘍にもよるのだそうだが、脳腫瘍というのは、10年単位で、2倍、3倍となっていくのだ
そうだ。だからそれ以上に症状が悪化しないのなら、手術はしないで、温存しながら仲よくつき
あうという方法もある。そのうち、いっしょに、寿命も尽きる。

 それに一部であれ、脳みそを切り取れば、何かと弊害も出てくるのでは……? その友人に
しても、手術前と手術後では、明らかに人格の変化が見られた。

 ワイフに「ぼくは、運命に身を任すよ」と話すと、ワイフも、「そうね」と、納得してくれた。私は、
じゅうぶん、人生を楽しんだ。楽しい思い出もたくさん、つくった。息子たちも、みな、おとなにな
ってくれた。

 今まで、なにごともなく、無事、平和に暮らせただけでも、ありがたい。その私が、脳みそを切
り取って、たとえば寝たきりのような状態になるなんて、とても考えられない。で、今朝、朝食の
とき、ワイフにこう言った。

 「ぼくはお前に、苦労ばかりかけてきた。だから老後は、もう苦労をかけたくない。だからお前
に苦労をかけるくらいなら、ぼくは、自ら、死を選ぶよ」と。

 ワイフは、半分、冗談のように思ったかもしれない。しかし私は、本気である。死に方も決め
てある。

 今のところ、しびれといっても、たいしたことない。一時的なものですむだろう。しかし「死」を
考えるには、よい機会になった。


●老い

+++++++++++++++++

ボケるといっても、突然、ボケる
わけではない。

徐々に、少しずつ、ボケる。

そういう意味では、だれしも、すでに
そのくだり坂をくだり始めているの
かもしれない。

30代の人も、40代の人も……。

50代の人や、60代の人になれば、
なおさらだ……。

++++++++++++++++

 母を見ていると、ときどき、「この人は、いつごろからボケ始めたのか」と思うときがある。現
在は、90歳だが、「70歳ごろだろうか?」「80歳ごろだろうか?」と。

 今にして思えば、おかしな点は、いくつかあった。自分にとってつごうの悪いことになると、母
は、とことん、とぼけたフリをする。が、フリだと思っていたが、本当にそうだったのかもしれな
い。それが今となってみると、よくわからない。

 そのときは、私は、母がウソをついていると思った。とぼけていると思った。母は、昔から、誠
実な人だったとは、とても言いがたい。

 そういう母を見ながら、「では、私はどうか?」「私はだいじょうぶか?」と考える。実のところ、
私の説によれば、私も、少しずつだがボケ始めていることになる。例外は、ない。

 が、どの部分が、どのようにボケ始めているのか、それがよくわからない。ボケというのは、
そういうもの。脳の中枢部分がいかれるため、自分でそれに気づくことは、ない。

 ゆいいつの方法は、昔書いた文章と、現在書いている文章を比較してみることである。同じ
ようなテーマで書いた文章なら、比較しやすい。

 文章は、(つっこみの深さ)で、価値が決まる。もちろん読みやすく、展開がおもしろければお
もしろいほど、よい。そういう判断力は、まだ、私にも残っている。

 もうひとつの方法は、読者の方に感想をたずねるという方法もある。しかし、たずねても、本
当のことを話してくれる人はいないだろう。ワイフもその読者の1人だが、そのワイフはあてに
ならない。私と同時進行の形で、ボケている可能性がある。

 そこで今日も、私の闘いはつづく。

(1)運動をする。
(2)パソコンを相手に、知恵比べをする。

 最近になって気がついたが、ボケ防止のためには、パソコンと遊ぶとよい。器質的にも、指
先の刺激は、脳みそによい影響を与えるそうだ。が、それだけではない。おとといは、「BOX」
に挑戦してみた。

 「BOX」というのは、最近始まった、インターネット・ストーレッジ・サービスをいう。BOXに原稿
を収録しておくと、好きなときにダウンロードして、それを読むことができる。これは私のためと
いうよりは、HPを訪ねてきたくれた人のため、ということになる。

 こういうことを繰りかえしていると、つぎつぎと、自分の住んでいる世界が広がっていく。もちろ
ん脳みその刺激にもなる。

 ただ若いころとちがって、集中力に衰えを感ずるようになった。文章を書いていても、1、2時
間で、席を離れることが多くなった。が、そういうときは、無理にでも、自分を奮(ふる)い立たせ
る。「がんばれ!」と。

 すると、頭の中全体が、熱くなっていくのがわかる。

 ……ということだが、いつまでがんばれるか、今のところ、よくわからない。しかしこんなことも
ある。

 (怒り)は、ボケ防止のためによいのでは……ということ。怒りを感ずると、カーッと頭に血が
のぼっていくのがわかる。が、ささいなことで、怒ってはいけない。私のばあい、今は、K国関連
の記事を読むたびに、カーッと血がのぼるのがわかる。

 実のところ、今の今も、それについて書きたくて、ウズウズしている。しかし私のHPやマガジ
ンの読者は、女性が多い。大半は母親だ。そういう読者を感ずると、どうしても遠慮してしまう。
政治問題は、そこそこにしておこう、と。

 私も、やがてボケる。ボケて母のようになる。しかし、それは同時に、とてもさみしいことでもあ
る。何とか、現在の知力、体力、気力を、できるだけ長く保つようにしたい。

(読者のみなさんへ)

 最近、私が書いた文章をどう思いますか?
 鈍くなったと思いますか?
 読みにくくなったと思いますか?
 ヘタクソになったと思いますか?
 どうですか?


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1907)

【今朝・あれこれ】

++++++++++++++++

静かな朝だ。先ほど、庭を回り、
畑を見てきた。

小さな畑だが、それでも毎日、
野菜の苗が大きくなっていくのを
見るのは、楽しい。

その間、犬のハナが、さかんに
私に向かってじゃれてくる。

私はそれを無視して、畑の横に
立つ。

静かな朝だ。今日も、がんばろう!

+++++++++++++++

●老齢期の絶望

++++++++++++++++

老齢期は老齢期で、
自分のアイデンティティを
確立しなければならない。

自分を真剣の見つめなおさなければ
ならない。

+++++++++++++++

 老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯定すること。エリクソンは、それを「(人生
の)統合性」と呼んだ。

「老齢」といっても、50代、60代のことではない。ユングの「ライフ・サイクル論」によれば、40
歳前後から、人は、(人生の正午)を過ぎ、中年期、さらには老年期へと向かうとされる。

 この時期までに、その人のアイデンティティ(=自己同一性)は、おおかた決まってくる。が、
中には、そのアイデンティティをかなぐり捨ててまで、別の人生を歩もうとする人がいる。

 こんな話を耳にした人は多いと思う。

 「第二の人生」と踊らされて、退職後、田舎暮らしを始める人たちの話である。私が知るかぎ
り、こうしたもくろみは、たいてい失敗する。たとえば浜名湖の北に、Aという村があった。退職
者たちが集まってつくった村である。

 当初はマスコミにも騒がれ、それなりに注目されたが、それから15〜20年。今は見る影もな
い。荒れ果てた原野に逆戻り。地元の小学校で校長をしている男性に理由を聞くと、こう話して
くれた。

 「周囲の村の人たちと、うまく溶けこめなかったからです」と。

 それも理由のひとつかもしれないが、心理学的に言えば、アイデンティティの崩壊が起きたか
らと考えるのが、正しい。つまり、それまでに自分がつくりあげてきたアイデンティティを放棄し、
別のアイデンティティを求めても、うまくいかないということ。生命力にあふれた成人前期(ユン
グ)でも、アイデンティティの確立はむずかしい。いわんや、中年期においてをや。

 人生の正午を過ぎると、精神力、体力は急速に衰えてくる。それ以上に、「死」をそこに感ず
るようになる。時間の限界を覚えるようになる。言うなれば、断崖絶壁の上に立たされたような
状態になる。

 そういう状態で、それまでの自分を否定する。それまでの自分とはまったく別の人生を歩もう
とする。が、それはそのまま、想像を絶するストレッサーとなって、その人にはねかえってくる。

 たいていの人は、この段階で、もがき、あがき、そして苦しむ。自己否定から、絶望する人も
少なくない。

 もっとも、だからといって、たとえばここに書いたような田舎暮らしに、みながみな、失敗すると
いうわけではない。中には、それなりにうまく、田舎に溶けこんでいく人もいる。

 たとえば私の姉の義理の叔父は、50歳を過ぎるころまで、名古屋市内で事業を営んでい
た。が、そのころ会社を他人に売り払い、そのまま、屋久島に移り住んだ。九州の南にある、
あの屋久島である。5、6年前に80数歳の歳で亡くなったが、その人のばあい、30年以上、そ
の屋久島で、田舎暮らしをしたことになる。

 それには理由がある。

 姉の義理の叔父は、それまでも、つまり若いときから、年に数回は屋久島に旅をつづけてい
た。屋久島に心底、惚れこんでいた。そういう下地があった。だからうまくいった。うまくいったと
いうよりは、移住した時点で、(自分がしたいこと)と、(現実の自分)を一致させることができ
た。

 そういう例なら、私にも理解できる。しかしそれまで都会でサラリーマンをしていた人が、突
然、田舎へ移り住んで、それでうまくいくということは、心理学的に考えても、ありえない。いくら
それが(自分がしたいこと)であっても、それに合わせて、(現実の自分)をつくることは、たいへ
んなこと。並大抵の努力ではできない。遊んでいても暮らせるならまだしも、農業を職業とする
となると、なおさらである。

 では、どうするか?

 大切なことは、冒頭にも書いたように、老齢が近づいたら、それまでの自分を受け入れ、肯
定すること。あるいはそれまでの人生の延長線上に、自分を置くこと。ユングは、「生の縮小」と
いう言葉を使った。が、だからといって、それは敗北を意味するのではない。「生の縮小」とは、
自分の限界を認めること。「ああ、私はこんなものだ」「私の人生は、こんなものだ」と。

 そしてその範囲の中で、自分ができることを模索する。そういう意味では、ユングも言ってい
るように、この時期こそ、自分を真剣に見つめなければならない。またその努力を怠ってはい
けない。

 私も、もうすぐ満60歳になる。定年退職ということはないにしても、心の中では、すでに老齢
期の過ごし方を準備している。しかしその過ごし方は、今の私とまったく別のものではない。「6
0歳を過ぎて、何ができるか」「70歳になったら、何ができるか」という視点で、ものを考える。

 でないと、自分がバラバラになってしまう。へたをすれば、先にも書いたように、自己否定か
ら、絶望へと進んでしまう。が、何としても、それだけは避けなければならない。そのためにも、
今こそ、私は、自分を真剣に見つめなおさなければならない。

 ついでに一言。

 私はときどき、ふと、こう思う。もし神様か何かが、私にこう言ったとする。「お前を、奇跡によ
って、もう一度、青春時代に戻してやろうか?」と。

 しかし多分、私は、こう答えるだろうと思う。「これからも健康でいたい。長生きをしたい。その
ために努力はする。しかし同じ人生をもう一度歩めと言われるなら、それは断る。人生は、一
度でたくさん」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 老齢
期の統合性 アイデンティティ アイデンティティの確立 人生の正午 生の縮小)

 
●おかしな平和主義

+++++++++++++++

おかしな平和主義にとらわれて、
そのうち他国に侵略されてしまった
国の例となると、ゴマンとある。

第二次大戦前のフランスが、そうだ。
今の韓国が、そうだ。

++++++++++++++

 ときとしておかしな平和主義者が、台頭する。韓国の今の、N大統領を見ていると、そんな感
じがする。前大統領の金大中氏もそうかもしれない。

 昨日(4月14日)、6か国協議で決まった初期措置の履行期限が過ぎてしまった。が、K国側
は、少なくとも昨日までの段階では、何も行動していない。それもそのはず。

 2月の6か国協議以来だけでも、韓国は、矢継ぎ早に、K国に対する援助を決定している。す
でに援助を開始したものもある。それをざっと書き並べてみる。

(1)肥料、30万トン
(2)米、40万トン
(3)毛布、6万トン
(4)米、1万500トン
(5)セメント、7万トン
(6)口蹄疫予防、33億ウオン
(7)離散家族の再会施設支援、37億ウオン
(8)マラリヤ予防、12億ウオン
(9)苗用ビニール、10億ウオン
(10)製薬工場、10億ウオン
(11)山林緑化 10億ウオン
(12)金剛山事業、14億ウオン
(13)開城事業、15億ウオン
(14)ほか、117億ウオン
(以上、朝鮮N報の資料より)

 ほかに、現在も、5万トンの原油を満載したタンカーを東シナ海に待機させている。こうした支
援は3427億ウォン(約428億円)に達し、うち350億ウォン(約44億円)がすでに執行されて
いることが明らかになった(産経新聞)。

となると、では昨年のあの国連安保理による制裁決議は何だったのかということになる。わか
りやすく言えば、制裁決議そのものを、韓国がすべて骨抜きにしてしまっている。産経新聞は、
こうした状況を、「異様」という言葉を使って表現している(※)。

 こういうことを繰りかえしているから、K国の核開発問題は解決しない。しないばかりか、K国
は時間稼ぎをしながら、今の今も、核兵器を増産している。が、韓国政府は、それを「人道支
援だ」と開きなおっている。

 バカめ!

 お金に名前はつけられない。米を支援すれば、本来なら、米を外国から買うべきお金を、K
国は、核開発に使うことができる。どうしてそんな単純なことさえ、N大統領は理解できないの
か。

 ここ数日のうちに、BDA問題は解決するだろう。同時に、K国は、Yなどにある核開発関連施
設を、停止する動きを見せるだろう。しかしそんなものは、ただのジェスチャ。それでK国が、核
開発を断念すると考えるのは早計。早計というより、バカげている。

 韓国政府高官は、今のN大統領が就任した直後、こう発言している。「K国の核兵器は、南
北統一後の朝鮮にとっても、有利」と。一方、K国の高官は、当時のアメリカの国務次官補にこ
う言っている。「核兵器開発は、日本向けのもの」と。

 中国は、現在着々と、K国支配を完遂させつつある。そしてK国を仲介する形で、日本に対し
て、40兆円という戦後補償費を提示してきている。(40兆円だぞ! しかもその40兆円です
むという保証は、どこにもない。)中国のねらいは、ズバリ、ジャパン・マネー。

 今の時点では、N大統領が率いる韓国は、日本にとって仮想敵国と考えたほうがよい。少な
くともN大統領は、日本を、そうとらえている。

 K国はすでに、必要なものはすべて、韓国から手に入れた。それが冒頭にあげたリストであ
る。K国にしてみれば、何をいまさら、ということになる。

 こうした状況であるにもかかわらず、日本は、ゆいいつの盟友であるアメリカにさえ、見放さ
れてしまった。イラク問題で手詰まり状態。中間選挙で敗北した……などなどの理由もあるだ
ろう。が、安部外交の稚拙さによるところも大きい。安倍政権はおかしな「対米追従外交反対
論」に押し切られるまま、今の状況をつくりだしてしまった。

 表向きはともかくも、K国を内部崩壊にもっていこうとする日本。それをさせまいとする中国、
韓国。自国の利益だけを優先して、極東アジア問題から足を抜きたいアメリカ。K国をなだめて
ジャパン・マネーをねらうロシア。

 今まさに、四つ巴(どもえ)、五つ巴の、血みどろの戦いが、水面下で繰り広げられている。

(注※)……(これらの援助のほか)、韓国政府は「平壌赤十字病院」支援のため、北から求め
られた数百億ウォン(数十億円)の供与を受諾したほか、対北民間支援の活動費として117
億ウォン(約15億円)の政府拠出を発表した。N政権の異様なほどの親北姿勢が浮き彫りに
なっている(産経新聞)。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1908)

●思想の変化

+++++++++++++++

自分の思想を変えるということは、
たいへんなこと。

ふつうは、変えられない。
変えれば、それまでの自分を否定する
ことになる。

+++++++++++++++

●思想

 自分の思想を変えるということは、たいへんなこと。ふつうは、変えられない。変えれば、それ
までの自分を否定することになる。若いときならまだしも、歳をとってから変えるということは、
自分の過去、あるいは自分の人生そのものを否定することになる。

 こんな例がある。

 ある日、電話がかかってきた。受話器を取ると、その女性は、こう言った。「助けてください」
と。

 話の内容は、こうだ。

●AA教団

 その女性の弟夫婦が、小学3年生になる子どもを連れて、AA教団に入信してしまったとい
う。AA教団というのは、共同生活しながら修行するという、あの教団である。どこかの山奥で、
それをするという。自分たちは、「宗教団体ではない※」と、たびたび公言しているが、カルトと
みてよい。宗教的色彩が、きわめて濃厚な団体である。

 「弟は、そのため、10年ほど勤めた会社をやめてしまいました。弟の子どもも、いっしょに、
共同生活をすることになるので、学校へは行かなくなります。どうしたらいいでしょうか」と。

 その女性は、39歳。弟は、34歳という。

 その人が、いわゆるカルトと呼ばれている教団に入信するのは、その人の勝手。しかしその
人が周囲に与える、混乱というか衝撃は、相当なものである。よくあるケースは、ある日、突
然、妻が、ある教団に入信してしまうケース。息子や娘が、入信してしまうケースも、少なくな
い。

 入信した人は、「私の勝手」「信仰は個人の自由」などというが、そうはいかない。

 さらにこんな深刻なケースもある。

●BB教団

 何でもその教団では、手をかざして病気を治すという。その教団を、BB教団としておく。

 そのBB教団に属する、熱心な信者がいた。夫婦で、信仰をしていた。で、ある日、その夫婦
の子ども(5歳)が、熱を出した。肺炎のような病気ではなかったか。そこでその祖父にあたる
人が、その子ども(孫)を、病院へ連れていこうとした。

 が、その夫婦は、がんとして、それを拒否した。そして一晩中、彼らがいうところの神に祈り、
手かざしをつづけた。が、その結果、その子どもは、そのまま死んでしまった。

 ふつうなら、そこでその夫婦は、その教団に疑問をもつはず。しかし、その夫婦は、ますます
その信仰にのめりこんでいったという。

 なぜか?

 その時点で、自分たちの信仰に疑問をもつということは、同時に、自分たちの信仰で、子ども
を殺してしまったことを自ら、認めることになる。だからその夫婦にしてみれば、自分の信仰を
疑うことなど、ぜったいにできない。だからますます自分たちの信仰にのめりこんでいった。

 こうしたカルト信仰では、常人には、理解しがたい、独特の論理が働く。

 しかし冒頭に書いた相談は、少し、内容がちがう。

私「弟さん夫婦が、同時に入信したわけですね」
電話の女性「そうなんです。それを何とか、やめさせたいのです」
私「夫婦は、うまくいっているにですか」
女「仲のよい夫婦です」

私「そうですか……。夫婦が、それでいいというのなら、何もできないと思います」
女「子どもがかわいそうです」
私「しかし、それもその夫婦の問題です」と。

 こういう相談では、私は無力でしかない。その上、その女性が心配しているのは、34歳とい
う、弟夫婦のことである。

女「何とか、やめさせる方法はないでしょうか」
私「あなたはまちがっていると言うことはできます。しかし、まちがっていると言う以上、それに
かわる思想をこちらで用意してあげねばなりません。この問題だけは、ハシゴだけはずして、
あとは勝手にしなさいというわけにはいかないのです」と。

 よく誤解されるが、信仰があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいるから、
信仰がある。

 AA教団にせよ、BB教団にせよ、その教団を否定しても、意味がない。その夫婦が、そうした
信仰に走ったのは、すでにその前提として、それを求める(心の空白部分)があったからであ
る。もっとはっきり言えば、その夫婦は、何らかの救いを求めて、その教団に入信した。

 もう少し単純なケースでは、夫の知らないところで、妻だけが勝手に、カルト教団に入信してし
まうケースがある。夫は、一方的に妻の入信を責めるが、しかしそれ以前に、すでに夫婦関係
は、こわれていたとみる。信仰が夫婦関係をこわしたのではない。

私「弟さん夫婦が、それでハッピーなら、それでいいではないですか。お姉さんのあなたが、と
やかく言ってもしかたないでしょう」
女「しかし弟が不幸になっていくのを、見過ごすことはできません」
私「あなたはそう思うかもしれませんが、それはあくまでも弟夫婦の問題です」と。

 ……と、こんな押し問答のような会話がつづいた。そして最後に私は、こう言った。

 「どうであるにせよ、この問題は、私の専門ではありません。以前は、カルト問題にかかわっ
てきましたが、足を洗って、もう20年近くになります。ですから、私にできることは、残念です
が、何もありません」と。

 それでも時間にすれば40分ほど、電話で話しただろうか。その女性は、電話を切った。どこ
か納得できないといった雰囲気だった。アクセントからして、関西方面の人だとわかったが、そ
れ以上のことは、わからない。名前も、聞かなかった。

 私にとっても、どこかあと味の悪い電話だった。

 受話器を置くと、そこにワイフがいたので、「どうして姉が、弟夫婦のことを心配するのだろ
う?」と聞くと、ワイフはこう言った。

 「それぞれの家には、複雑な事情があるからよ。兄弟関係も、きっと、複雑なのよ」と。

※……宗教法人格を取得しているか、取得していないかのちがいだけである。宗教団体の資
格を取得するためには、たとえば、本部の特定、本尊の特定などが、要求される。

●思想の変化

 思想と信仰はちがう。しかしその両者には、共通点が多い。思想といっても、信仰に近い思
想もある。一方、信仰といっても、その中には思想も含まれる。思想と信仰の境目は、いつも
あいまいである。

 たとえば「武士道こそ、日本が誇るべき、精神的根幹」と説く人がいる。「子どもたちに卑怯、
恥の概念を教えれば、いじめはなくなる」と説く人がいる。

 一見、その人の言っていることは思想に見えるが、つきつめていくと、信仰そのものであるこ
とがわかる。言葉と言葉の間に、論理的な脈絡がない。

 一方、仏教にせよ、キリスト教にせよ、そこには深い思想が凝縮されている。信仰といいなが
ら、信仰者でない私にも、おおいに共感を覚える部分がある。

 で、話をもどす。

 一般論から先に言えば、人生の半ば、あるいは後半部になって、自分の思想を変えるのは、
容易なことではない。心理学の世界でも、(愛着)という言葉を使って、それを説明する。人は、
いつも、それまでの自分、つまり自分の過去に愛着をもって生きている。その愛着を断ち切る
ことは、たいへんむずかしい。

 たとえばそれまで権威主義にこり固まっていた人が、突然、自由思想にめざめるということ
は、実際には、ありえない。たまにそういう話も聞くが、何か大きな変化を体験した人でないと、
そういうことはありえない。反対に、自分の思想に反するものを、徹底的に排撃したりする。

 ただひとつ方法があるとすれば、自分を成熟させながら、思想を変化していくという方法であ
る。心理学の世界でも、これを「成熟的変化」と呼ぶ。が、それとて、簡単なことではない。

 加齢とともに、脳みそは、ますます柔軟性をなくす。なくした分だけ、変化そのものに対する適
応性を失う。

 では、どうするか?

 私のばあい、「人、それぞれ」と考えることで、対処している。「その人が、それでいいと考えて
いるなら、それでいい」と。

 相手が、何か意見を求めてきたときは、それなりに自分の意見を述べる。しかしそこまで。相
手を説き伏せようとか、自分に合わせようなどとは、考えない。それこそ、そういうのを、「傲慢
(ごうまん)」という。

 同時に、「私は私」と考える。そう考えて、相手の意見には耳を傾けながらも、「それはそれで
いい」と考える。何か参考になるときは、当然、参考にさせてもらう。しかしそこまで。

 やはり、「人、それぞれ」。

 宗教も、同じように考える。冒頭で、AA教団やBB教団について書いた。しかしここでも大切
なことは、それぞれの人が、それぞれの宗教を信じ、それで幸福なら、それはそれでよいという
こと。私のような他人がとやかく言っても、しかたのないこと。また言う必要もない。

 ただこういうことは言える。

 ときどき、「あなたの意見はおかしい」と言ってくる人がいる。そうかもしれない。そうでないか
もしれない。が、そういうとき私は、こう思う。「私は私なのだから、放っておいてほしい」と。

 いろいろな思想があり、いろいろな宗教があり、その中で、人は、あるときは同調し、またあ
るときは、反発しながら、生きていく。その生きていくことの中に、価値がある。生きることのす
ばらしさが生まれる。

 話がそれたが、最後に一言。

 思想というのは、成熟していくもの。その努力だけは、大切にしたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思想
 思想論 思想の成熟)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●メタ・コミュニケーション

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 最近、「メタ……」という言葉を、
よく耳にする。「メタ・サーチ」
「メタ・ミュージック」
「メタ・サイコロジー」など。

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 最近、「メタ……」という言葉を、よく耳にする。「メタ・サーチ」「メタ・ミュージック」「メタ・サイコ
ロジー」など。

 その中に、「メタ・コミュニケーション」というのがある。この場合の「メタ」は、「高次」と訳す。
「メタ(高次)・コミュニケーション」という意味である。

 たとえばあなたが今、Aさんという人と、対峙して話したとする。そのときあなたは、自分の心
情を、(1)言葉と、(2)言葉以外の動作、表情、しぐさなどで伝えようとする。この(2)の言葉以
外の、伝達方法を、メタ(高次)・コミュニケーションという。

 たとえば、あなたがAさんからプレゼントをもらって、うれしかったとする。するとあなたは、Aさ
んに、「ありがとう」と言う。それが、言葉によるコミュニケーションだが、同時に、あなたは、そ
のうれしさを、表情や動作で表現したりする。そのコミュニケーションを、メタ・コミュニケーショ
ンという。相手のAさんは、そういうあなたを見て、あなたが感謝していることを知る。

 ふつう、この(1)の言葉と、(2)の言葉以外の伝達方法は、たがいにシンクロナイズ(同調)
する。「ありがとう」と言って、ニコニコ笑う。「バカヤロー」と言って、怒った顔をする、など。

 しかしときに、この二つが、一致しないことがある。子どもの世界でも、ときどき観察される。

 たとえばブランコを横取りされても、ニヤニヤ笑っている。先生に叱られているのに、無表情
のまま。あるいは、先生にほめられているのに、すごんだ目つきをする、など。以前、数学の問
題を解きながら、突然、ニヤニヤと笑い出した子ども(中学生女子)もいた。「何を考えている
かわからない」といった、状態になる。

 このタイプの子どもに接すると、熟練した教師でも、ある種の不気味さを感ずる。

 そこで私は、年に1度、「表情」というレッスンをもうけている。心の状態を、すなおに、そのま
ま表現できるように、子どもを指導する。喜怒哀楽の情に合わせて、それに言葉や、ジェスチ
ャをのせていく。そして最終的には、少し大げさであるにせよ、心の状態を外に向って開放でき
るようにする。

 参観している親たちから見ると、(多分)、私が遊んでいるように思うかもしれない。あるい
は、そういう指導が、「勉強」と、どういう関係があるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。

 本来なら、そういう説明をした上で、「表情」の指導をしたほうがよいのかもしれないが、時間
的にも無理。それに本当のところ、若いお父さんやお母さんに、理解してもらえるかどうか、わ
からない。だから、私はあくまでも、子どもだけを見て、指導する。

 話をもどすが、このメタ・コミュニケーションの重要さは、そうでない子どもに出会ったときに、
わかる。「何を考えているかわからない」という子どもとしばらく接していると、こちら側も、言い
ようのない不安感に襲われる。イライラすることもある。

この「メタ・コミュニケーション」という言葉は、もともとは、ベイトソンという学者が、統合失調症
(分裂病)の患者を観察していて、使い出したという。恐らくベイトソンも、そういう患者と接して
いて、言いようのない不安感、あるいは恐怖感を覚えたのではないか。そのことからもわかる
ように、こうした状態、つまりメタ・コミュニケーションが、言葉と遊離した状態を、決して、安易
に考えてはいけない。

 こうした(1)言葉と、(2)言葉以外の伝達方法が不一致を起こす原因としては、いろいろ考え
られる。

 抑圧された家庭環境、神経質な家庭環境など。過干渉、過保護、過関心がよくないことは言
うまでもない。さらに進んで、母子関係の不全、基本的信頼関係の不足などもある。

 何でもないことのようだが、明るい表情で、心の状態をありのままに表現する子どもは、それ
だけでも、心がまっすぐに伸びていることを示す。
(はやし浩司 メタ・コミュニケーション メタコミュニケーション 高次コミュニケーション ベイト
ソン)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●どうしようもない夫

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暴力夫に、献身的に仕える妻。

一見、すばらしい妻に見えるが、
こういうのを、「共存依存」という。

決して正常な関係ではない。

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 Aさん(45歳・女性)の夫は、大のギャンブル好き。借金ばかりしている。酒も飲む。暴力も、
振るう。そんな夫だが、Aさんは、別れることもできず、夫のそばにいる。めんどうをみている。
昼間はスーパーで働き、夜は、宅配会社の仕分けの仕事をしている。

 ふつうなら、Aさんは、夫に愛想をつかして、別れてもよいはず。まわりの人たちも、Aさんに、
「早く別れなさい」と勧める。

 しかしAさんは、別れない。Aさんは、こう言う。「私がいなければ、あの人は生きていけない」
「あの人には、私が必要」と。

 そういえば、同じようなシーンを、昔、何かのヤクザ映画で見たことがある。チャンパラ映画
の定番にもなっていた。どこまでも献身的な妻。それに甘えて、ますます自分勝手な振るまい
を繰りかえす夫。

 こういうのを、心理学の世界では、「共存依存」という。

 つまりそういうふうにして、夫と共存すること自体が、その妻の生きがいになっている。もしそ
ういう夫と別れたら、その妻は、自分を証明するものを、失ってしまう。まわりから、「かわいそ
うだ」「いい嫁だ」と言われることが、その妻にとっては、生きがいになっている。

 一方、夫は夫で、精神的に妻を虐待すればするほど、妻が、自分に依存してくるのを、知って
いる。だから、ますます自分勝手な振るまいを繰りかえすようになる。

 しかしこんな人間関係は、異常である。ゆがんでいる。

 栃木県に住んでいるBさんから、こんな相談があった。ここでいうAさんというのは、そのBさ
んの姉である。

 「どうしたらいいか?」と。

 こういうケースのばあい、まず、本人自身に、その異常さを理解してもらうのが、一番よい。そ
してパチンコ依存症(男性に多い)や、買い物依存症(女性に多い)と同じような、依存症の一
つであることを、わかってもらう。

 こうした共存依存に陥ると、(1)自分のことが客観的に判断できなくなる、(2)自分が何を望
んでいるか、それを表現できなくなる、(3)自分が自分でなくなり、(夫の)人形のようになってし
まうなどの、障害が現れるようになる。

 方法としては、一度、夫と離れて暮らしてみるのがよい。たがいに冷却期間を置くわけだが、
実際には、これがむずかしい。無理に離れさせたりすると、禁断症状のような症状が、たがい
に出てくることがある。だから結局は、またモトのサヤに収まってしまう。

 こういうケースでは、たがいに「好きだ」とか、「愛している」とか言うものだが、本当のところ
は、それは愛でも何でもない。たがいに依存しあっているだけ。が、それすらも本人たちには、
わかっていない。

 もともとどちらか一方に、心の空白部分があるために、そうなると考える。だから、ことは簡単
ではない。また簡単には解決しない。ふつうは、そういう状態のまま、双方が、その人生を終え
ることが多い。

 Aさんも45歳ということだから、私の印象では、そのままの状態で、これからもいくだろうと思
う。妹のBさんにとっては、つらいことかもしれないが、Bさんにできることにも限界がある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 共存
依存 依存うつ)

【付記】
 夫婦の問題は、どこまでいっても、夫婦の問題。他人がとやかく言っても、始まらない。どうし
ようもない。親や兄弟でも、そこには限界がある。本人たちが、「それでいい」と言うなら、あと
は、暖かく無視するしかない。何かあって、助けを求めてきたら、そのときは、相談にのる。し
かし、そのときまで、待つしかない。

 この種の問題は、きわめてデリケート。へたに干渉すれば、その時点で、人間関係は終わ
る。干渉するにしても、慎重に。控えめに。相談されたことだけを、その範囲で、ていねいに、
いっしょに考えてあげるのがコツである。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●老齢期のボケ

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老人がみな、ボケているという
わけではない。

中には、若い人たちより、
シャキシャキとしている人もいる。

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 老人イコール、ボケるということではない。

 頭の働きにもいろいろある。たとえばJ・L・ホーンという学者らは、知能を、(1)流動性知能
と、(2)結晶性知能に分けて考えている。

 わかりやすく言えば、柔軟な思考力で、新しい問題を考えていく力を、流動性知能という。

 反対に、今までの経験の上に、より高度の知的能力や知識を身につけていく力を、結晶性知
能という。

 年齢とともに、流動性知能は減退すると言われているが、結晶性知能は、50代、60代にな
っても、伸びつづけると言われている。(結晶性知能にしても、本当は減退するのではなく、より
必要としなくなるから、結果として減退すると説く人もいる。)

 つまり頭は、使えば使うほど、伸びつづける。使わないから、そこで伸びが停滞する。ボケ
る。

 そこでまわりの老人たちを観察してみる。

 が、とても残念なことに、老齢期に入ってからも、頭を使いつづけている老人というのは、意
外と少ない。新しいことにチャレンジしている老人となると、さらに少ない。

 しかしこれではいけない。私の恩師のT教授は、最近、「第三の人生」という言葉を使い始め
ている。老齢期を第二の人生というなら、90歳を過ぎたてからの人生を、第三の人生と。私
は、そういう意気込みこそが、大切ではないかと、思っている。つまりそういう意気込みこそが、
人生を最後まで楽しく生きるコツではないか、と。

 思考能力というのは、健康力と同じで、いつも前向きに戦ってこそ、維持できる。立ち止まっ
たとたん、その瞬間から、思考能力にせよ、健康力にせよ、それらは減退する。

 だから結論は、こうなる。

 老齢期になるから、頭がボケるのではない。それだけの努力をしないから、ボケる、と。

 世の中の多くの人は、「老人は頭が悪い」と、あまりにも安易に決めつけすぎているのではな
いか。

【付記】

 たしかに鈍くなった面も、ないわけではない。若いころなら、一、二度見ただけで覚えられたよ
うな単語や言葉でも、なかなか頭に残らなくなった。それに、すぐ忘れてしまう。

さらに体力と思考力が、密接にシンクロナイズ(同調)されるようになり、肉体的に疲れているよ
うなときには、集中力そのものが、長くつづかない。長い文章を書いていると、途中でふと、自
分が何を書いているか、わからなくなることさえある。

 そういう変化は、たしかにある。しかしそれはあくまでも、程度の問題。それなりの努力で、克
服できる。だから私は、まだこの問題を、あまり深刻には、考えていない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 流動
性知能 結晶性知能 J・L・ホーン 老人のボケ)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1909)

【雑談】

●自転車のヘルメット

 あのう、あの自転車のヘルメット、みなさんは、少し形がヘンだとは思いませんか?
 私も最近使うようになったのですが、脳みそが縦に分断されているようなデザインで、どこか
不気味。

 それにどうして全部が丸く、後部がとがっているのでしょう? たかが自転車だから、流線型
にする必要もないと思うのですが……。それにかぶるというよりは、頭の上にちょこんと載せる
感じ。これでは、側頭部の打撃をうまく防ぐことはできません。


●小便判定機

 先日、シンガポールへ行ったときのこと。男子用トイレに入ったのですが、便器の中心部に、
小さな絵が描いてありました。ゴルフのホールと旗が描いてありました。

 「うまく小便を、この穴に入れろよ」という意味です。

 そこで思いつきました。

 便器の中心部に、小便感知器をつけるのです。そしてだれかが小便をしたら、その小便のし
かたのじょうず、へたを判断して、それを点数にして表示します。

 ずっとその感知器に小便が絶え間なく当たっていたら、100点。「♪ピンポーン」とでも音を鳴
らせば、さらに楽しいですね。「♪パチパチ音」でもいいですね。

 反対に、小便が断続的に当たるようなら、「♪ブー音」。

 こうすれば、みな、じょうずに小便をするようになると思います。

 女性の方は知らないと思いますが、男子用便器の周辺には、どこでも小便が飛び散っていま
す。これは、それを防ぐためにアイデアというわけです。


●デジタルカメラのシャッター

 デジタルカメラの世界では、ブレ防止がひとつの大きなテーマになっていますね。
 だったら、どうして、着脱式のシャッターにしないのでしょうか。シャッター部だけ、とりはずし
ができるようにして、リモコン方式で、シャッターが切れるようにするのです。

 左手にカメラ。右手にシャッター。そうれば、ブレを、100%、防ぐことができます。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1910)

【謎の6か国協議】(4月16日)

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K国は、IAEAの査察官を受け入れるか?

Yビョン、およびその周辺にある核開発
関連施設の停止、封印に応ずるか?

今、世界の目は、この1点に、集中してい
る。

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●なぜ、K国は、BDAの30億円に、ああまでこだわったか?

 もしK国が、先の6か国協議で決まったことに応じていれば、今ごろK国は、原油5万トンを手
にしていたはず。原油5万トンといえば、日本円になおすと、ちょうど25億円になる。

 さらにその過程で、K国は、こうも主張している。「BDAの預金は、一度、中国銀行に送金し
ろ」と。なぜ、K国は、こうまで中国銀行にこだわるのか?

 それについては、最近になって、こんな事実が暴露されている。つまりマネーロンダリングを
していたのは、中国銀行だった、と。アメリカの(インターナショナル・ヘラルド・トリビューン)紙と
(ウォールストリート・ジャーナル)紙は、つぎのように報道している(4月12日)。

……アメリカはK国が、BDAや中国銀行(中国国内3位)マカオ支店などで、資金洗浄を行っ
た証拠を大量に確保した。資金洗浄の規模はBDAよりも中国銀行の方がはるかに大きかっ
た。

にもかかわらずアメリカ財務省は05年9月15日に、BDAのみを資金洗浄の疑いがある銀行
として指定した。

当時の調査を担当した元国務省諮問官のデビッド・アッシャー氏はその理由について、「BDA
は大銀行ではなく、制裁を受けてもマカオ全体の金融システムを崩壊させる心配はなかったか
ら」と説明した。中国の反発も考慮した。

K国の朝光貿易などは、アメリカによる金融制裁直前に、BDAの巨額の資金を引き出したが、
2500万ドル(約30億円)は引き出せなかった(以上、朝鮮N報より)。

 BDAよりも、中国銀行のほうが、ワルだったということになる。それに朝光貿易は、アメリカに
よる金融制裁前に、「巨額の資金」をすでに引き出していたという。

 ならば何も、K国は、残りの30億円にああまでこだわる必要はなかったはず。もとはといえ
ば、ニセドル札である。まともなお金ではない。

●K国の言い分

 現在、K国が、6か国協議で決まったように、IAEAの査察官を受け入れ、Yビョン周辺にある
核開発関連施設の停止、封印に応ずるかどうか、世界の注目が集まっている。

 大半の人は、「アメリカは約束を守ったのだから、K国も約束を守るだろう」と予測している。
先ほどK国を訪れた、アメリカのビル・リチャードソン・ニューメキシコ州知事も、「今週中にK国
は行動を開始すると予想している」と述べている。

 しかし本当にそうか? そう考えてよいのか? 答は、NO!、である。

 理由はいくつかある。K国の立場でものを考えてみよう。

 アメリカと韓国は3月の終わり、米韓合同の軍事演習を実行している。この演習に先立ち、K
国は、何度も「6か国協議での合意内容を破壊する行為である」と公式に声明を出している。

 同じく日本に対しては、「6か国協議に参加する資格はない」「拉致問題を取りあげるのは、
合意内容を破壊するものだ」と、これまた何度も声明を出している。が、これらの声明は、こと
ごとく無視されている。

●おめでたい韓国

 韓国政府は、2月以後、すでに300〜400億円程度の援助を、決定し、すでにその一部を、
実行に移している。原油5万トンにしても、それを満載したタンカーを、東シナ海に待機させて
いる。

 産経新聞をして「異様」と言わせるほどの、K国へのスリよりである。が、それだけではない。
韓国は、K国に同調して、(日本はずし)を加速させている。先週には、韓国に、中国とアメリカ
の主席代表を集め、米中韓の代表者会議を開いている。

もちろん日本は、お呼びではない。時同じくして、N大統領は、日本に向かっては、「従軍慰安
婦問題」で、日本を非難している。「(両国の)未来を暗いもののしている」と。日本をはずした
理由は、従軍慰安婦問題にあるというわけである。

 一方、K国に言わせれば、「すでにほしいものは、すべて手に入れた」ということになる。高麗
大学の柳浩烈(ユ・ホヨル)高麗大学教授は、「このところのK国を見ると、大統領選を前に支
持率を下げているアメリカや韓国の与党勢力の弱点を、徹底的に利用しているように見える。
K国の立場から言えば、ほしいものはすべて手に入れられるのに、譲歩する必要など何もな
い、といったところだろう」と述べている(朝鮮N報)。

●不確定要素

 K国問題を考えるときはいつも、つぎの2つの要素を、頭に入れておかねばならない。

(1)金xxの健康状態
(2)まれにみる、独裁恐怖政治体制

 金xxの健康状態については、何度も書いてきた。慢性的な糖尿病から腎不全に。さらに暴飲
暴食がたたって、肝硬変の疑いも濃厚である。金xxに、ある種の脳性障害が起きていると考え
ても、何ら、おかしくない。

 つまり金xxは、まともではない。まともな思考回路をもっていない。

 加えて、世界でも類をみない、独裁恐怖政治。首相ですら、金xxの一声でクビが飛ぶような
国である。金xxの側近たちは、日夜、金xxの影におびえながら、ビクビクしているにちがいな
い。

 そんな体制の中で、どうしてまともな政治ができるだろうか。外部の情報にしても、正確に金x
xに伝わっていない可能性が濃厚である。側近にしても、何がなんだかわからないまま、金xx
に、日々、振りまわされているだけ。またそうであったとしても、だれも、驚かない。それが現在
のK国と考えてよい。

●2回目の核実験につき進むK国

 K国は現在、2回目の核実験に向けて、着々と準備を進めている。1回目の核実験は中途半
端で終わった。そのため、アメリカ政府高官は、「核保有国とは認めない」と発言している。

 K国がいちばん恐れるのは、国連による制裁決議だが、しかし今となってみると、ただの決
議。K国には、痛くもかゆくも、何ともない。ほしいものは、すべて韓国が提供してくれる。

 そこでK国が取るべきつぎの一手は、ズバリ、2回目の核実験。その実験を成功させ、名実
ともにK国は、今度こそ、核保有国として、名乗りをあげる。そうなれば6か国協議での立場は
より強固なものとなり、発言力もます。

 K国崩壊を恐れる韓国や中国(とくに韓国)は、そういうK国に対して、手も足も出せない。ま
さに言いなり。K国が暴発すれば、さらに困る。一瞬にして、首都ソウルが、「火の海」になる。

●なぜK国は、中国銀行にこだわるか?

 もともとBDAは、すでに破産状態。K国に払えるような現金をもっていない。……いなかっ
た。それをK国は、事前に知っていた。だから、K国は強硬に出ることができた。「BDA問題が
完全に解決しないかぎり、核開発関連施設の停止、封印はしない」と。

はじめから、「BDA問題は解決しない」ということを知った上で、アメリカに責任を転嫁するつも
りでいた。が、ここで思わぬハプニングが起きた。アメリカが妥協に妥協を重ね、BDA問題を
解決してしまった。

 恐らくその裏で、BDAに対して、どこかの国が現金注入をしたにちがいない。私は「韓国がし
た」と思っているが、これはあくまでも、私の推察。

 で、最後に、なぜK国はこうまで中国銀行にこだわるか、である。しかしこれもK国の立場で
考えると、よくわかる。

 K国は、中国銀行に、一泡吹かせたがっている。金xxに言わせれば、「さんざん、今まで、オ
レたちのニセドル札でいい思いをしてきたのに、この場におよんで、オレたちを裏切るとは何ご
とか」ということになる。もっと言えば、「30億円は、おまえたち、中国銀行が負担しろ」と言って
いるに等しい。

●今日の結論(4月16日)

 こういうとき、専門の評論家なら、こう書くだろう。「K国が、核開発関連施設の停止、封印に
応ずるのは、フォフティ・フィフティ(50・50)である」と。自分の予測がはずれたときのための
布石として、そう書く。

 しかし私は、そうでない。私の予測では、100%、K国は、核開発関連施設の停止、封印に
は応じないだろうということになる。あれこれ、何だかんだと、難グセをつけては、K国は、時間
稼ぎをするはず。そしてその間に、さらに核兵器開発を推進するはず。

 忘れてならないのは、K国自体が、巨大なカルト国家になっているということ。本尊は、もちろ
ん、核兵器である。その核兵器を放棄するということは、彼らにしてみれば、信仰の基盤を失う
ことに等しい。それがどういうことであるかは、今、何かの信仰をしている人なら、わかるはず。

 ふつうの道理が通じないのは、そのためと考えてよい。

【補足】

●だれが、BDAに現金を注入したか?

破産状態にあった、BDA。
そんな銀行に、どうして30億円もの
現金があるのか?

30億円といっても、もとはといえば
ニセ札。いくらなんでも、ニセ札を
K国に返すわけにはいかない。

だれかが、BDAに現金を注入した。

そのだれかがだれと言えば、もう
おわかりのここと思う。

アメリカか? ……NO!
中国か? ……NO!
日本ということはありえない。
ロシアは、ケチ。
……となると、残るは韓国しかない。

そう、韓国が、裏で、BDAに、
30億円という現金を注入した。

2月の6か国協議以来、300〜400
億円規模の援助を考えていた韓国にしてみれば、
30億円なんて、ハシタ金!

が、ワルはワルどうし、情報を交換している。
当然のことながら、K国は、その情報を
BDAから聞いていたはず。

……となると、K国にも、一分のプライド
というものがある。

いくら何でも、そんなお金を、おめおめと
受け取りに行くことはできない。
「オレたちを、バカにするな!」と。

……ということで、韓国は今、
「太陽政策」とやらのドロ沼に、のめり
こみ始めている。今さら、「まちがっていました」
とは、とても言えまい。

金大中は、「対話が大切」と、何とかの
ひとつ覚えで、自説を繰りかえしている。
N大統領は、南北首脳会談を画策している。

どこまで、この2人は、おめでたいのか!

結局、韓国のしてきたことは、K国を
資金面で助けながら、時間稼ぎに手を貸して
きただけ。

あと半年もすれば、核を積んだミサイルが
直接、首都ソウルにねらいを定めるようになる。

そうなったとき、この2人は、どう自分たちを
弁解するつもりなのか?

「北の核開発問題は、ワレワレが解決してみせる」と
大言壮語して大統領になった、N氏。

いったい、N大統領は、その言葉に、
どうやって責任を取るつもりなのか。

反日政策も結構だが、今の日本は、
戦前の日本とはちがう。

同時に、中国も、ちがう。その中国を
甘く見ないほうがよい。そのうち竹島どころか、
38度線が、中国との国境ということにも
なりかねない。

わかっているか、N大統領!


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ

+++++++++++++++++

昨夜、寝る前に、まんじゅうを3つも
食べてしまった。

おかげで、今朝は、4時起き!

胃の中がガポガポしている。
消化不良を起こしているようだ。

ときどき食べ過ぎては、後悔する。
運動不足もあるのかもしれない。

おまけにこのところ、雨つづき。
自転車も、市内の教室に置いたまま。

いやな気分。

+++++++++++++++++

●過激?

 昨夜、私が書いた6か国協議についての原稿を、ワイフに読み聞かせると、ワイフは、こう言
った。「あなたも、はっきりと書くわね」「過激になってきたわね」と。

 私は、それを聞いて、「フ〜ン」と言った。自分では、過激とは、思っていない。しかし気をつけ
よう。


●憲法改正

 憲法改正に向けての動きが、加速している。しかしどうして今、憲法改正なのだろう? 改憲
派の連中は、さかんに「戦後60年」という言葉を使う。「60年もたったのだから、実情に合わな
くなった」と。

 要するに改憲派は、天皇を元首としたいらしい。つまり王政復古が目的らしい。しかし今ど
き、ねエ〜?

 王政復古と言えば、イギリスのスチュアート王朝、フランスのブルボン王朝がよく知られてい
る。スチュアート王朝は、クロムゥエルの共和政治のあと、そしてブルボン王朝は、ナポレオン
の第一帝政のあと、それぞれ誕生している。

 日本の明治天皇即位も、王政復古(the Restoration)の一例として、世界ではよく知られてい
る。

 あとは、憲法第9条を何とかしたいらしい。今の憲法では、何かと制約が多すぎて、自衛隊が
自由に活動できないということらしい。

 どちらにせよ、こうした極右勢力による復古主義には、じゅうぶん気をつけたほうがよい。私
は何も天皇制に反対するわけではないが、どうして今の、象徴天皇制であってはいけないの
か? 日本は奈良時代の昔から、官僚主義国家。それゆえに、官僚たちは、絶対的権威者と
しての天皇を、頂点にいだきたいのかもしれない。しかしそれこそ、自ら、民主主義の根幹を
破壊する行為といってもよい。

 もっと言えば、歴史の逆戻り!

 近く日本人は、官僚主義国家をとるのか、民主主義国家をとるのか、その重大な選択に迫ら
れることになる。岐路に立たされることになる。

今の動きを簡単に言えば、そういうことになる。

さあ、みなさん、どうする?


●ビスタ

 実のところ、私はまだ、ビスタ搭載のパソコンを買っていない。いまだに、迷っている。理由は
いくつかある。

 まず、私のもっている株の株価が低迷したまま。外債でカバーしているから、全体的には損
はしていない。が、パソコン間連製品は、株で……が、私が自分に決めた、ひとつの原則にな
っている。

 もうひとつの理由は、プリンターなどの周辺装置をどうするかという問題。加えてパソコンの引
越しというのは、けっこう、たいへん+めんどう。ビスタを買った人は、みな、「もうXPには、もど
れない」と言う。それはわかるが、XPしか知らない私は、XPで何か、不自由をしているというわ
けでもない。

 2年前に買ったこのパソコン(MOUSE社のMDV−ADVANCE、6380GT)にしても、動き
は軽快そのもの。……とは言いつつ、来月、いよいよビスタ搭載のパソコンを買うことにした。
何ごともなければ……という条件付だが……。


●介護

 母は、現在、大便、小便ともに、垂れ流しの状態になっている。ベッドの横にポータブルトイレ
を置いているが、そのトイレにさえ、間に合わない。ベッドの上で漏らしたり、床の上で漏らした
りしている。

 そのため紙おむつとパットを使用しているが、母は、それらが少しでも濡れると、はずしてしま
う。気持ち悪いらしい。それはわかるが、そのため毎日のように、下着とベッドは、便で汚れ
る。

 私の家に母が来て、5か月目になる。最初のころは、毎日、シーツを取り換え、ふとんを干し
ていた。紙おむつも、日に何度も取り換えてやったりしていた。が、これが結構な出費になる。

 紙おむつは、一枚100円程度。パットは、一枚30円前後。紙おむつにしてもパットにしても、
それぞれ5〜6回の排尿には耐えられるようになっている。1回ごとに取り換えていたら、たい
へん。

 そこで最近では、それほど汚れていないようなら、パットだけ取り換えて、紙おむつはそのま
まにしている。が、それでも母は、それをはずしてしまう。そこで私たちは、こう思った。

 紙おむつというと、取りはずしのしやすいものほどよいということになっているが、老人によっ
ては、反対に、とりはずしにくいもののほうがよいということもある、と。いろいろさがしてはみる
が、そういう紙おむつというのは、今のところ、見つかっていない。

 老人介護というのは、まさに便との戦い。そんな感じがする。


●介護老人

 その老人問題だが、現在、介護を必要とする老人が、全国で170万人近くもいるそうだ。そ
れがここ15〜20年のうちに倍にふえて、340万人近くになるそうだ。私たち、団塊の世代が、
それに加わるためである。

 しかし今の日本に、それだけの老人を支えるだけの財力は、果たしてあるのだろうか? 仮
にそれだけの財力があるとしても、鉄筋で建てられた豪華なケア・センターはあちこちにある
が、ああまで豪華でなくても、私はよいと思う。何かしらムダなことばかりにお金をかけているよ
うな気がする。

 そういうことも考えていかないと、今に、介護保険はパンクする。確実に崩壊する。私の母に
しても、収入は、月額2〜3万円の老齢年金だけ。いくら1割負担といっても、週に3〜4回のデ
イサービスを受けたら、それだけで赤字。あとは老人をかかえる、家族の負担ということにな
る。

 私はまだ仕事をしているから、何とかなるが、それでも私は、今年満60歳。老々介護という
ことも、そろそろ現実の問題となってきた。


●男子用便器

 少し前、男子用便器について書いた。男子用便器の周辺は、小便が飛び散っている。どこも
汚い。便器から遠く離れて小便をする、不届き者が多いからである。

 それでひとつのアイデアとして、私は「採点機付の便器」というのを考えた。便器の中心部に
感知器をつけ、それにずっと小便が当たっていれば、「♪ピンポ〜ン」、そうでなければ「♪ブ
〜」と。

 が、このことを生徒たちに話すと、1人の生徒がこう言った。「距離をセンサーで感知して、そ
れを信号で教えればいい」と。その子どもは、車のうしろについているバック・センサーのような
ものを考えたらしい。

 体が便器から遠く離れていたら、赤信号、適正位置になったら、青信号で、それを知らせる。
交通信号のようなものを想像すればよい。もう少し進んで、(1)適正位置に足を置き、(2)適
正距離になったら、信号を、青にかえるというアイデアもある。

 「コストがたいへん」と思う人もいるかもしれないが、毎日の清掃代をその分だけ減らすことが
できる。長い目で見れば、そのほうが安くつく。


●ニュース

 最近は、ニュース番組にしても、テレビを見なくなった。私には、こんな現象が起きている。

 たとえば午後6時45分ごろになったとする。そのとき心の中で、「7時のニュースまで、あと1
5分……」と計算する。

 で、その15分を待つ間に、いつの間にか、30分ほど、時間が過ぎてしまう。気がつくと、7時
15分になっていたりする。つまりニュース番組を見逃してしまう。

 そんなわけで、このところニュースにしても、インターネットで見ることが多くなった。インターネ
ットだと、いつでも好きなときに、ニュースを見ることができる。しかもそれを任意に選んで見る
ことができる。それに最近では、速い。

 サッカーの試合でも、約数分遅れ程度で、速報版が入る。先の三重県の亀山地震のときも、
5分もたたないうちに、そのニュースが流れ始めた。

 インターネットは、この分野でも、確実に世界を変えつつある。若い人を中心に、テレビのニ
ュース番組を見ない人がふえている。新聞を購読していない人となると、もっと多い。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

【謎の6か国協議】

++++++++++++++++

楽しんではいけないのだが、
今回の6か国協議ほど、謎に満ちた
ものはない。

まるでサスペンス小説。あるいはギャン
グ映画。

昼ごろになって、仕事のしたくを
していると、ワイフが階段の下から、
こう言って声をかけた。

「あなた、Yビョンの核関連施設に
封印の動きがあるってよ!」と。

そんなはずはない!

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 昼ごろになって、仕事のしたくをしていると、ワイフが階段の下から、こう言って声をかけた。
「あなた、Yビョン(K国の核開発関連施設)に、封印の動きがあるってよ」と。

私「そんなはずはない!」
ワ「だって、たった今、テレビのニュースでそう言っていたわ」
私「……? たぶん、その逆じゃないの?」
ワ「逆?」
私「そう。Fさん(K国から亡命した、金xx元側近)の話によれば、Yビョンの核開発施設は老朽
化して、使い物にならないそうだ。それでK国は、査察が入るかもしれないということで、急き
ょ、体裁を整えている。ぼくならそう考えるよ」

ワ「メンツに異常なまでにこだわる国だから、それは考えられるわね」
私「そう。査察してみたら、ただのガラクタだったでは、笑い話にもならないからね」
ワ「じゃあ、どこでK国は、核開発をしているの?」
私「もちろん、山の中さ。そういう情報もたくさん流れている」と。

 K国は、かねてより、「BDA問題が完全に解決しないかぎり、行動しない」と宣言している。こ
の「完全に」という言葉がクセモノ。注意! 解釈のしかたによっては、どのようにも拡大でき
る。

 まずいくつかの事実を重ね合わせてみよう。

(1)4月17日(火)現在、K国は、BDAからいつでも預金を引き出せる状態にありながら、その
動きすら見せていない。
(2)4月18日(水)、つまり明日、いよいよBDAに対する、制裁が発動される。BDAは、アメリ
カのすべての銀行と、取り引きできなくなる(※1)。
(3)そしてここがとくに重要だが、そのあと、BDAは、K国と組んで、アメリカで訴訟を起こす構
えを見せている。

 私はすかさずインターネットで、ニュースを読む。ヤフー・ニュース、TBS・i・newsなど。どれ
も、このニュースを報道していた。しかしよく読むと、「?」。

 まずニュースの出所は、韓国の東亜N報。さらによく読むと、「有力外交筋によれば……」と
ある。その有力外交筋によれば、さらにその出所は、「アメリカ政府」とある(※2)。

 逆に順をたどってみると、(アメリカ政府)→(有力外交筋)→(東亜N報)→……ということにな
る。つまりそういう筋をたどって、このニュースが流れたことがわかる。具体的な名前がどこに
もない。

私「おかしいよ?」
ワ「どうして?」
私「お前は知らないかもしれないが、韓国の新聞社の記事は、あまり信用できない。日本の新
聞社のような、長い歴史をもっていない」
ワ「……」
私「ほとんどの新聞社は、戦後できたものばかり。しかも李承晩時代、朴政権時代には、弾圧
されきたという苦い経験をもっている。歴史が浅い。つまり憶測でものを書いたり、記事の中
に、記者の個人的な感情を混入させるなどということは、よくある」

ワ「信用できないって、こと?」
私「そういう例は、多いよ。2年前だったと思うけど、K国の北部で、キノコ雲ような丸い雲が現
れたときもそうだった。当初、韓国の新聞は、『核実験か?』と報道していた。しかしそんなこと
はなかった」
ワ「そうね」

 あのキノコ雲事件のときは、それを真に受けた日本の報道機関が、踊らされるはめになっ
た。が、さらに奇怪なことは、その報道に基づいて、韓国政府が、「アメリカは同盟国なのに情
報を隠している」と、アメリカを非難したこと。

 が、結局は、ただの「雲」だった。自作自演と言うべきか。しかしそれについても、そのあと、
これまたおかしなことに、「情報の発信源は、日本だった」と、言い出した。

私「いいか、BDAといっても、ただの個人銀行。アメリカはマネーロンダリングしていたという、
確たる証拠をもっているという。となると、BDAとK国は、ワルどうし」
ワ「グル(仲間)ね」
私「そこが重要だ。明日、18日に、BDAに対する制裁が、いよいよ発動される。それに呼応し
て、BDAとK国は、共同でアメリカで訴訟を起こす構えを見せている」
ワ「どうして訴えるの?」

私「制裁をそのまま認めると、BDAは、偽札を洗浄していたことを認めることになる。K国は、
偽札を作っていたことを認めることになる。ともに、それを認めるわけにはいかない」
ワ「なるほど……」
私「つまりね、K国が言うような、『完全に解決』というわけにはいかなくなる」

 先にも書いたように、今日(17日)までの段階では、K国は、まだBDAで現金を受け取る動
きを見せていない。あれほど大騒ぎしていたのに、これはおかしい。私が金xxなら、イのいちば
んに、現金を引き出させ、それを飛行機に積んで、もってこさせる。

 なぜか? その前に、なぜ、K国は、30億円程度というハシタ金に、ああまでこだわったの
か?

 理由は明白。最初から、金xxは、BDA問題は解決しないと読んでいた。そこはワルどうし。B
DAにしても、30億円を返すつもりはなかった。またそんな現金(真ドル)はもっていなかった。
(偽札はもっていたかもしれないが……。)

 が、アメリカのヒル氏は、あちこちを飛び回り、この問題を解決してしまった。金xxにしても、
そこまでアメリカがするとは思っていなかった。 

ワ「じゃあ、K国の目的は、何?」
私「ズバリ、時間稼ぎさ」
ワ「何のため?」
私「2回目の核実験を準備しているということ。そして今度こそ、真の核保有国として、名乗りを
あげる」
ワ「そうだとするなら、絶対にIAEAの査察官など、入れないわね」
私「そう。だから、東亜N報のその記事は、憶測に基づいたものだと思うよ。何かの動きはあっ
たかもしれないが、それを停止、封印のための動きととらえるのは、少し早計だと思うよ」と。

 ますます混沌としてきたK国の核開発問題。仮に停止、封印のための動きがあったとしても、
それはただのジェスチャに過ぎない。K国がもつ、大きな(流れ)は変わらない。

 さあ、どうなるか? ここ2、3日の動きに注目したい。

(注※1)……【ワシントン16日時事】アメリカ財務省スポークスマンは16日、マカオのバンコ・デ
ルタ・アジア(BDA)に対する取引停止の処分について、18日に発効すると述べた。

 アメリカ財務省は3月に、BDAのK国関連口座が、ドル札、たばこ偽造などで得た資金の洗
浄に使われていたと断定。在米金融機関との取引を停止する処分を30日後に発効させると
発表していた。

 マコーマック米国務省報道官は16日、「この決定を財務省が変更するとは聞いていない」と
述べ、予定通りの処分になるとの見通しを示した。

(注※2)【ソウル17日時事】17日付の韓国紙・東亜N報は、K国が核施設の停止・封印のた
めの作業を始めたと推定される情報を米国が衛星写真を通じて入手したと報じた。有力な外
交消息筋によると、「Yビョンの原子炉の冷却塔と駐車場周辺などで人と車両の活動を捕捉し
た。核施設停止準備のための作業の可能性が高い」という。

 米国はこの情報を韓国政府に伝達。ただ、韓国の通信社・聯合ニュースによると、核施設は
現在も稼働中で、情報機関が分析を続けている。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1911)

●今朝・あれこれ(4月18日)

++++++++++++++++++

昨日は、K国のことばかり、書いていた。

日本にとっては、重大事である。

しかし同じ昨日、とんでもない事件が、
アメリカと、この日本で起きた。

アメリカでは、32人もの学生を射殺
するという事件が起きた。
犯人は、韓国人留学生だったという。

一方、この日本では、暴力団員が、長崎
市長を射殺するという事件が起きた。

K国の核開発問題が、どこかへ
吹っ飛んでしまった。

++++++++++++++++++

●韓国系の学生が、32人を射殺

 昨日(日本時間、4月17日)、アメリカのバージニア工科大学で銃乱射事件が発生した。犯
人は、韓国人留学生だったという。韓国側のメディアによれば、「9歳で渡米し……」とあるが、
アメリカ側のメディアによれば、「最近留学してきた……」とある。

 さっそく朝鮮N報の記事を読んでみる。が、どこにも謝罪の文言はない。見出しも、「報復を恐
れる韓国人留学生」とある。

『今後は韓国から来た韓国人とは言えなくなった。だれかが尋ねれば当分は中国人か日本人
と言うしかない』と語り、韓国人に対する偏見が高まることを心配した。さらに他の学生たちも
「こんな大惨事を引き起こしたのが韓国系という事実に驚いた」「今後は米国人学生の冷たい
視線に苦しむだろう」「偏見のためにアジアからの留学生が不利益を受けないか心配だ」など
と語った。……。キム氏は「これまで築きあげてきた韓国人への信頼が一気に崩れ去ってしま
った。昨日の報道では犯人は中国系とされたのである意味安心していたが、今後は韓国人に
対する冷たい視線にどう対応すればいいかわからない」とため息をついた』(以上、朝鮮N報)
と。

 もし逆にこんな事件が韓国で起きたら、韓国の人たちは、どのように反応するだろうか。今の
N大統領にしても、1人の女子中学生がアメリカ兵によってひき逃げされたという事件がきっか
けとなって、政権の座についたようなもの。それからもう5年近くになるが、毎年、いまだにその
命日には、ローソクをもった人たちによって、追悼供養が行われているという。

 言いかえると、「自分たちなら報復するだろう」という思いが、逆に、「報復されるのではない
か」という心配に、置きかわっているのではないだろうか。朝鮮N報の記事を読んでいるとき、
そんな印象をもった。

 余談だが、AFP電によれば、「バージニア工科大学には、大学院生を含み約2万6000人の
学生が在籍しており、そのうち韓国人留学生や韓国系米国人を含む韓国系は、合計500人
ほどで、中国系は400人から500人、日系は20数人だ」ということだそうだ。

 韓国系が500人! 韓国の学生たちが海外へ流出しているという話は、よく耳にする。が、
こうまで多くなっているとは、私も思っていなかった。

●やっぱり、動きはなし!

 また昨日、韓国の東亜N報は、「有力外交筋の話として、K国が、Yビョンの核開発関連施設
を停止、封印する動きがある」と報じた。しかしやはり、そういう動きはなかったようだ。

 今朝(18日)の、AP通信によれば、「そういう連絡はない」(アメリカ国務省のマコーマック報
道官)とのこと。「アメリカは17日、K国が6か国協議の合意に基づき、Yビョンの原子炉閉鎖
に向けた措置を取っているとの正式な連絡は、受けていないと明らかにした」と。

●長崎市長銃撃事件

 またまた起きた、銃撃事件。犯人は、どこかの暴力団員だったという。こういうバカが、バカな
ことをするたびに、日本の民主主義は、足踏みをしてしまう。事故をめぐる市とのトラブルが動
機だったという。が、それがどうであれ、常軌を逸した自己中心性。異常なまでの身勝手さ。そ
れがこういう連中の行動的基盤となっている。

 「あなたたち、少しものの考え方がおかしいですよ」と言ったところで、意味はない。「独善」と
いう、厚いカラの中に閉じこもってしまっている。そこから引き出すだけでもたいへん。それを理
解するだけの知力もない。

 ……いろいろ言いたいことはある。やりようのない怒りも感ずる。が、どうも筆が進まない。
「バカは相手にしたくない」という思いが、ブレーキとなって働く。あるいは、何をどう書けばよい
のか。

 政党各党は、抗議声明分をつぎつぎと発表している。が、いったい、だれに対して抗議してい
るのか? 私たちがなすべきことがあるとするなら、私たち1人ひとりが、自分の中の(愚かさ)
に、耳を傾け、反省すること。私たちの中にある(弱さ)が、結局は、こういう連中をのさばらせ
てしまう。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悪とは、弱さから生ずるすべてのもの

【善と悪】

●神の右手と左手

 昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であると、言われ
ている。善があるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえな
いということらしい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし
悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。

もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だが、しかし悪人であることをやめようとするのは、
至難のワザということになる。もともと善と悪は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道
徳を考える上で、たいへん重要な意味をもつ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、一〇〇〇円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだ
れもいない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の
中の邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」と
か、「時間のムダ」と思い、できるだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルー
ルがある。そういったルールには、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。

駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へ
きたら、信号を守る。黄色になったら、止まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもし
れないが、そういうとき、いちいち、あれこれ神経を使わない。もともと考えなければならないよ
うな問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。

それは自分の時間を大切にするという意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、
決して無限にあるわけではない。かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと
前向きなことで使いたい。だから、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を
得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思
う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで
は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな
い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分
の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。

言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解されるが、よい
ことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでもない。人は、
自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。一つは、「考え」そのもの
を、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということになる。子どものばあい、
しつけも、それに含まれる。もう一つは、自分で考えるという方法。

前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛
がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶかは、その人自身の問題ということになるが、
実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。それについては、また別のところで書くとし
て、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、その「考える力」があるからということにな
る。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは
考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、
「神の力」ということになる。


++++++++++++++++++++

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。
小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本
当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目
の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われると
か、問われないとかということではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ
に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ
「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰りかえすが、人は、
自分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1912)

●無駄なことをしているのかな?

+++++++++++++++++++

Eマガからメルマガへの移動をお願いして、
ちょうど1週間になる。

理由はいろいろある。

しかしこの1週間で、協力してくれた読者の
方は、ゼロ。

「そういうものかな?」と思ってみたり、
「そういうものか……」と思ってみたり。

ワイフは、「どうせ無料だから、読者も、
その程度のマガジンと思っているのよ」と。

「そうでないのだがあ……」と思ってみたり、
「そんなはずはないのだがなあ」と思ってみたり。

まあ、グチを言ってもしかたないので、
ここはがんばるしかない。

「♪若者は、ま〜た、歩き始める」だ!

++++++++++++++++++++

●ある育児書

 ある育児書の新聞広告を見て、ビックリ! どこか、私の書いた原稿の内容に似ている? 
たとえば「子育てはあきらめが大切」とか、あるいは、「子どもがいじめられて帰ってきても、そ
れを包む暖かい家庭があればいい」とか、など。

 いじめられている子どもの服がみなで汚されているシーンもあった。が、それなどは、「チョー
クでいたずら書きをされた」という、私の書いた本の内容にそっくり? チョークが泥水になった
だけ?

 さらにインターネットで検索してみると、いろいろなページの見本が載っていた。それについて
も、やはりところどころ、似ている? おかしいぞ?

 人を疑うのはよくないことだが、しばらくこの本に注目してみたい。なんでも、x00万部も売れ
ているとか。

 一応、あのSS大学のAA教授が書いた本ということになっている。が、その教授は、こういう
臨場感のあるネタをどこで仕入れてきたのだろう? ……????……? とりあえず今は、
「?」とだけにしておく。


●Depression

 今日の私は、どこか落ちこんでいる。元気がない。自分でも、それがよくわかる。やる気も、
ない。頭の中は、カラッポ。

 先ほど、『若者たち』という歌を口ずさんだ。落ちこんでいるときは、いつもこの歌が、口から
出てくる。学生時代のときから、ずっと、そうだ。

 以前、こんな原稿を書いた。日付を見ると、5年前の原稿ということがわかる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●悲しき人間の心

 母親に虐待されている子どもがいる。で、そういう子どもを母親から切り離し、施設に保護す
る。しかしほとんどの子どもは、そういう状態でありながらも、「家に帰りたい」とか、「ママのとこ
ろに戻りたい」と言う。それを話してくれた、K市の小学校の校長は、こう言った。「子どもの心
は悲しいですね」と言った。

 こうした「悲しみ」というのは、子どもだけのものではない。私たちおとなだって、いつもこの悲
しみと隣りあわせにして生きている。そういう悲しみと無縁で生きることはできない。家庭でも、
職場でも、社会でも。

 私は若いころ、つらいことがあると、いつもひとりで、この歌(藤田俊雄作詞「若者たち」)を歌
っていた。

 ♪君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

 もしそのとき空の上から、神様が私を見ていたら、きっとこう言ったにちがいない。「もう、生き
ているのをやめなさい。無理することはないよ。死んで早く、私の施設に来なさい」と。

しかし私は、神の施設には入らなかった。あるいは入ったら入ったで、私はきっとこう言ったに
ちがいない。「はやく、もとの世界に戻りたい」「みんなのところに戻りたい」と。それはとりもなお
さず、この世界を生きる私たち人間の悲しみでもある。

 今、私は懸命に生きている。あなたも懸命に生きている。が、みながみな、満ち足りた生活の
中で、幸福に暮らしているわけではない。中には、生きるのが精一杯という人もいる。あるいは
生きているのが、つらいと思っている人もいる。まさに人間社会というワクの中で、虐待を受け
ている人はいくらでもいる。が、それでも私たちはこう言う。「家に帰りたい」「ママのところに戻
りたい」と。

今、苦しい人たちへ、
いっしょに歌いましょう。
いっしょに歌って、助けあいましょう!

 若者たち

             
       君の行く道は 果てしなく遠い
       だのになぜ 歯をくいしばり
       君は行くのか そんなにしてまで

       君のあの人は 今はもういない
       だのになぜ なにを探して
       君は行くのか あてもないのに

       君の行く道は 希望へと続く
       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

       空にまた 陽がのぼるとき
       若者はまた 歩きはじめる

            作詞:藤田 敏雄

 そうそう、学生時代、NWという友人がいた。一〇年ほど前、くも膜下出血で死んだが、円空
(えんくう・一七世紀、江戸初期の仏師)の研究では、第一人者だった。その彼と、金沢の野田
山墓地を歩いているとき、私がふと、「人間は希望をなくしたら、死ぬんだね」と言うと、彼はこう
言った。「林君、それは違うよ。死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽になれると思うのは、立派
な希望だよ」と。

 それから三五年。私はNW君の言葉を、何度も何度も頭の中で反復させてみた。しかし今、
ここで言えることは、「死ぬことは希望ではない」ということ。今はもうこの世にいないNW君に、
こう言うのは失敬なことかもしれないが、彼は正しくない、と。何がどうあるかわからないし、どう
なるかわからないが、しかし最後の最後まで、懸命に生きてみる。そこに人間の尊さがある。
生きる美しさがある。だから、死ぬことは、決して希望ではない、と。

……いや、本当のところ、そう自分に言い聞かせながら、私とて懸命にふんばっているだけか
もしれない……。ときどき「NW君の言ったことのほうが正しかったのかなあ」と思うことがこの
ところ、多くなった。今も、「若者たち」を歌ってみたが、三番を歌うとき、ふと、心のどこかで、
抵抗を覚えた。「♪君の行く道は 希望へと続く……」と歌ったとき、「本当にそうかなあ?」と思
ってしまった。
(02−11−20)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(4月20日)

++++++++++++++++

このところ、寒い日がつづいている。
「冬に戻ったみたい」とワイフは、言った。

そう言えば、昨日、オーストラリアの
D君からメールが届いていた。それには
こうあった。

「相変わらず、雨が降らない」と。

オーストラリアの水不足が心配だ。
穀物への影響も大きい。

ご存知ない方も多いかもしれないが、
オーストラリアでは、冬から春に
かけて、穀物を収穫する。夏場は、
暑すぎて、穀物の生育には向かない。
(反対に、日本では、夏から秋にかけて、
穀物を収穫するが……。)

もうそろそろ大量の雨が降らないと、
今年は大変なことになる?

++++++++++++++++

●敗北感

 この数日、敗北感が、私を襲っている。症状としては、虚脱感に似ている。何をしても、「こん
なことをしていて何になるのだろう?」という思いばかり。それが、先に立つ。

 ワイフには心配をかけたくないので、ワイフの前では、それなりに明るく振る舞ってはいる。
が、しかしそれにも限界がある。(隠そうと思う部分)が大きくなればなるほど、同時に、その分
だけ、気が重くなる。

 スランプか? うつか?

 数日前も、ワイフとこんな会話をした。「インターネットでは、友だちはできないね」と、私が話
しかけると、ワイフも、それを認めた。「やはり、人というのは、会わなければ、友だちにはなれ
ないわよ」と。

 一番、ショックだったのは、ちょうど1年ほど前のこと。私が発行しているマガジンで、アンケー
ト調査を取ったことがある。

 マガジン本文の中に、「ここまで読んでくれた人は、どうか、つぎのリンクマークをクリックして
ください」と書いた。クリックするだけの、簡単なアンケート調査だった。それで私のほうは、実
際には、何人の読者がいるか、わかるしくみになっていた。

 が、クリックしてくれた読者は、40人前後。一応、Eマガ、メルマガ、まぐプレの購読者を合わ
せると、2100人(当時)ということになっていた。

 今回も、そうだ。Eマガからメルマガへの移動を、読者にお願いした。アドレスをボックスの中
に書きこむだけの、簡単な方法で移動できるようにした。しかしこの1週間(マガジン3回分)
で、それに協力してくれた読者は、ゼロ。

 昔、ある出版社の編集部の人がこう言っていた。昔は、本を出すと、その中に返信用のハガ
キを添えた。そのハガキについて、「1000部で1枚ですよ」と。つまり本を5000部出版して
も、返ってくるハガキは、5枚程度、と。そのときも、「そういうものかなあ?」と思った。今も、そ
うだ。

 無料版マガジンはどうしたらよいものか? とにかく第1000号までは、がんばってみる。07
年5月1日現在、877号。あと123号!

 そうそう、先の「友だちはできないね」の話のつづき。

 今まで、私は無数の方からの相談に応じてきた。しかし私の頭の中では、どの人がどの人だ
ったのか、さっぱり、わからない。それには理由がある。

 そうした相談を記録するとき、あとあと、トラブルを避けるために、名前や住所はもちろん、家
族構成や職業、さらには相談内容まで改変する。たとえば「滋賀県の山田花子さん」は、「M県
のHUさん」に。「兄弟2人」は、「姉と弟」に、と。

 ときどき電話で、相談内容を確認することはあっても、相談してきた人と、個人的に会うこと
はない。だからますます、どの人がどの人だったのか、わからなくなる。

 いろいろな雑誌を読んでも、「インターネットでは友だちはできない」が、定説になりつつある。
一時的に、たがいの書きこみを通して、親しく(?)なるケースはある。しかし『文の切れ目が、
縁の切れ目』。どの人も、嵐のようにやってきては、またどこかへと去っていく。記憶の中から
も、消える。あとは、この繰りかえし。

 ……つまりこのあたりが、インターネットの限界ということになる?

 それが今、大きな敗北感となって、私を襲っている。


●スランプ

 スランプ状態に陥ったら、どうすればよいか?

 今の私の状態を正確に書けば、きっと役にたつこともあるだろう。そして私がこういう状態に
なるのは、今回がはじめてではない。

 私のばあい、おおむねつぎのようなサイクルを経て、スランプ状態になる。

(1)平穏期……何ごともなく、無事、日々が流れていく。
(2)緊張期……何かのきっかけで、心が緊張状態になる。
(3)無気力期……その緊張状態のまま、無気力状態になる。

 無気力になるから、緊張感が解けるわけではない。無気力になった状態でも、心の中は緊張
したまま。悶々として、気が晴れない。

(4)倦怠期……しばらくぼんやりとした時期がつづく。
(5)回復期……これまた何かのきっかけで、さっと回復する。

 私のばあい、意外と単純。緊張期になるきっかけも単純なら、また回復するきっかけも単純。
何か新しいものを買っただけで、回復することもある。

 しかし緊張期の私は、それなりに苦しむ。ささいなことで、激怒することもある。(最近は、少な
くなったが……。)不安や心配ごとが入りこんでくると、一気に、情緒は不安定になる。

 もっとも最近は、よい安定剤が出回っている。女性用の精神安定剤というが、「S」という薬
も、そのひとつ。1〜2錠のむことになっているが、私は、それを半分に割ってのんでいる。あと
はハーブ系の安定剤など。

 大切なことは、この緊張感を取り去ること。子どもでも、たとえば学校での成績がさがったよう
なとき、スランプ状態になることがある。親からすると、怠けているように見えるかもしれない
が、決して、怠けているのではない。心は緊張状態にあるとみる。つまり子どもは子どもなり
に、「そうであってはいけない」と悩んでいる。

 だからそっとしておいてやるほうがよい。「がんばれ」式の励まし。「こんなことでどうするの」
式の脅しは禁物。ここにも書いたように心の中は緊張状態にあるため、言い方をまちがえる
と、はげしい親子げんかになってしまう。

 ……こうして文を書けるようになったことだけでも、私は今、回復期に向かっているということ
になる。

 あとは、ひとり静かに、ぼんやりするのがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1913)

●人形期から反抗期前夜へ

++++++++++++++++

子どもは、親の人形であること
によって、身の保全を図ろうと
する。この時期を、「人形期」と
いう。

親の前でいい子ぶる。
親の期待に答えようとする。
「うちの子はやればできるはず」と
親に思わせることによって、
自分の立場を確保する子どももいる。

が、その時期は、小学3年生前後まで。
この時期を境に、子どもは急速に
親離れを始める。つづいて反抗期へと
入っていく。

++++++++++++++++

 子どもは、満4・5歳〜5・5歳から、幼児期を脱して、少年、少女期に入る。以後、(1)人形
期→(2)反抗期→(3)モラトリアム(猶予)期→(4)自己同一性期を経て、おとなへと成長して
いく。

 そのうちの人形期の特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)親が描く子ども像を敏感に察知して、その像に合わせて自分を演出する。
(2)親の期待に答えられる子どもであるという期待感を、親にもたせようとする。
(3)ものの考え方が、隷属的、依存的になりやすい。
(4)いい子ぶることによって、仮面をかぶったり、二面性をもつこともある。

 この時期、親の存在感が強すぎると、子どもは、その存在感に押しつぶされる形で、マザー
コンプレックスやファーザーコンプレックスをもちやすくなる。そのためにも親やおとなのもつ優
位性を、子どもに押しつけないこと。あるいは子どもが親離れを始めたら、親離れしやすい環
境を用意する。

 人形期から反抗期への移行に失敗すると、子どもは、いわゆる「人形子」(イプセン、「人形
の家」)になる。未成熟なまま、おとなになる。子どもの側からすると、そのあとの自己の同一性
の形成がしにくくなる。

 人形子ほど、そのあと、親子の呪縛に苦しむことは、よく知られている。これを心理学の世界
でも、「幻惑」と呼ぶ。「親だから……」「子だから……」という『ダカラ論』にしばられる。ふつうの
苦しみではない。ある男性は、それを、「悶々と、いつ晴れるともわからない苦しみ」と表現し
た。「親子でも、よい関係であるなら、そういうこともないのでしょうが、私のばあいは、そうでは
ありませんでした。私は父を、ずっと憎んでいました。私が解放されたと感じたのは、父親が死
んだときです」とも。

 少しずつだが、(親の前で見せる自分)と、(本当の自分)との間のギャップを感ずるようにな
る。こうして子どもは、いわゆる(反抗期前夜)を迎える。

++++++++++++++++

●ゆりもどし現象

++++++++++++++

子どもは、突然、親離れをするの
ではない。

ときにおとなびてみたり、ときに
幼児ぽくなったりを繰りかえしな
がら、徐々に親離れをする。

これを『ゆりもどし現象』と、
私は呼んでいる。

数年前に書いた原稿をそのまま、
ここに載せる。

++++++++++++++++

●巣立ち

++++++++++++++++++

岐阜県在住の、Yさん(母親)より、
こんな相談があった。

「高校2年の息子と、断絶状態にあるが、
どうしたらいいか」と。

メールには、「転載、引用、お断り」と
あったので、詳しくは、紹介できない。

++++++++++++++++++

 岐阜県のF市に住む、Yさんという方より、こんな相談があった。家族構成は、わからない。

 Yさんは、目下、Yさんの、高校2年生になる息子と、断絶状態にあるという。それについて、
「どうしたらいいか」と。

 メールには、「転載、引用、お断り」とあった。私のほうで、簡単にまとめてみる。

(1)朝食を食べないで学校へ行く。用意しても無視する。
(2)ときどき、学校をサボって、部屋の中に引きこもってしまう。
(3)部屋の中で、何をしているかわからない。
(4)小遣いがあると、ヒーローものの人形を、買い集めている。
(5)夕食も、ひとりで食べる。家族との接触を避ける。
(6)会話は、ない。話しかけると、すぐけんかになってしまう。
(7)けんかといっても、一方的にキレてしまい、会話にならない。
(8)「(中学時代)、行きたくもない塾に行かされた」と、Yさんを責める。
(9)「こんなオレにしたのは、お前だ」と、Yさんを責める。
(10)無気力状態で、勉強をしない。成績はさがった。
(11)中学2年生ごろまでは、いい子で、Yさんに従順だった。
(12)中学生のころには、成績もよく、クラスでもリーダー的な存在だった。

 子どもは小学3、4年生を境に、急速に親離れを始める。(ほとんどの親は、それに気がつか
ないが……。)この時期、たいていの親は、「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と
考えて、子どもの心を見失う。あるいは「親離れ」というものが、どういうものかさえ、わかってい
ない。

 ただ「親離れ」といっても、一次直線的に、親離れしていくのではない。ときに幼児ぽくなった
り、ときに、妙におとなびてみたりを繰りかえしながら、徐々に親離れしていく。これを「ゆりもど
し」と呼ぶ。

 女児であれば、この時期を境に、父親との入浴をいやがるようになる。男児であれば、学校
でのできごとを話さなくなったりする。同時に、第3世界(子供どうしの世界)が、急速に拡大す
る。相対的に第1世界(家族の世界)が、小さくなる。

 そのあと、子どもは、思春期に入り、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。自我
(私は「私」でありたいという意識)が強くなってくると、「私さがし」を始めるようになる。

 そのとき自己概念(私は、こうでありたいという自己像)と、現実自己(現実の自分)が一致し
ていれば、その子どもは、たいへん落ちついた様子を見せる。自己の同一性(アイデンティテ
ィ)が、確立されているからである。

 が、この両者が不一致を起こすと、子どもは、(おとなもそうだが)、ここに書いたように、精神
的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。これを「同一性の危機」と呼ぶ。わかりやすく言
えば、心が、スキマだらけになる。誘惑に弱くなり、当然、非行に走りやすくなったりする。

 それは、たとえて言うなら、嫌いな男性と、いやいや結婚した女性の心理に似ている。あるい
は不本意な仕事をしている男性の心理に似ている。

 こうした状態が慢性的につづくと、それがストレッサーとなって、子どもの心をゆがめる。それ
から生まれる抑うつ感が、うつ病などの精神病の引き金を引くこともある。それはたいへんな
抑うつ感といってよい。決して、安易に考えてはいけない。

 Yさんの息子は、メールを読むかぎり、小中学生のころは、親に従順で、(いい子)であったよ
うである。Yさんも、それに満足していた。そして多分、世間で起きているような子どもの非行問
題を横目で見ながら、「うちの子は関係ない」「うちの子は心配ない」と思っていたはずである。

 が、そんな子どもでも、ある時期から、急変する。その時期は、ここにも書いたように、内的な
性的エネルギーが急速に肥大化する、思春期ということになる。

 大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)引きこもり型がある。症状はまったく反対だが、引きこもり
型でも、突発的にキレて、大暴れすることも、珍しくない。

 Yさんの息子について、いくつか気になる点は、過去の問題をとりあげて、被害妄想的に、そ
れを親の責任にしていること。「行きたくもない塾に行かされた」「こんなオレにしたのは、お前
だ」という言葉に、それが集約されている。

 しかしこうした言葉を、Yさんに浴びせかけるようであれば、まだ症状は軽いとみる。この段階
で、対処のしかたを誤ると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落ちていく。はげしい家庭内
暴力を繰りかえしたり、あるいは数年単位の引きこもりを繰りかえしたりするようになる。(ご注
意!)

 で、こういう症状が出てきたら、鉄則は、ただ1つ。

(1)今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えながら、1年単位で様子をみる。
(2)進学、学習は、あきらめて、なるように任す。高校中退も念頭に入れる。
(3)「がんばれ」「こんなことでどうするの」式の励まし、脅しは、タブー。
(4)キレる状態がはげしければ、一度、心療内科で相談してみる。

+++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、
ここに添付しておきます。

+++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書
いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれな
い。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
 
++++++++++++++++

 問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない家庭はない。いわんや、親の願いど
おりに育っていく子どもなど、さらに、いない。つまり子育てというのは、そういうもの。またそう
いう前提で、子育てを考える。

 Yさんの息子のケースでは、遠くは、母子間の信頼関係が、じゅうぶん育っていなかったこと
が考えられる。心配先行型の子育て、不安先行型の子育てだった可能性は、じゅうぶん、考え
られる。あるいはそれ以上に、Yさん自身の過関心、過干渉があったことも、考えられる。子ど
もの心を確かめないまま、子育てをしてきた。親のリズムだけで、子育てをしてきたかもしれな
い。

 だからYさんの息子は、思春期に入るまでは、(いい子)だった。子どもの側から見れば、(い
い子)であることによって、自分の立場をとりつくろってきた。が、ここにきて、一変した。Yさん
にとっては、つらい毎日かもしれないが、それも巣立ちと考えて、親は、1歩、退くしかない。

 子どものことは、子どもに任す。もしYさんの心が袋小路に入って、悶々とするようなら、つぎ
の言葉を念ずればよい。

 『許して、忘れる。あとは時の流れに任す』と。

 子育てというのは、基本的には、そういうもの。あるいはYさん自身は、どうであったかを考え
てみるのもよい。あなたは、あなたの親に対して、ずっと(いい子)であっただろうか。たいてい
の人は、「私には問題がなかった」と思っているが、そう思っているのは、その人だけ。

 先にも書いたように、子どもは、小学3、4年生を境に、急速に、親離れをする。しかし親は、
それに気がつかない。親が、子離れするようになるのは、子どもが高校1、2年生になったこ
ろ。

 「このクソババア!」と叫ばれて、はじめて親は、自分に気がつく。そして子離れをする。それ
はさみしくも、つらい瞬間かもしれない。しかしそれを乗り越えなければ、子どもは子どもで、自
立できなくなってしまう。

 忘れていけないのは、Yさん自身も苦しいかもしれないが、それ以上に苦しんでいるのは、子
ども自身だということ。その子どもが今、懸命に、Yさんの助けを求めている。が、肝心のYさん
自身は、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 こんな状態で、どうしてYさんの息子が、Yさんに、自分の悩みや苦しみを、心を開いて話すこ
とができるだろうか。

 先にも書いたが、こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。今の状態を、決して「最
悪」と考えてはいけない。むしろ事実は逆で、Yさんの息子は、まだじゅうぶん立ちなおることが
できる状態にある。悪い面ばかり見るのではなく、息子のよい面もみる。ほかの子どもよりは、
独立心がおう盛で、かつ自分の人生を、真剣に考えている。親は、自分の(常識)の範囲だけ
でものを考えようとするが、一度、その常識をはずして考えてみることも、大切なのではないだ
ろうか。

 「あなたは、あなたの道を行けばいい。それがどんな道であっても、お母さんは、あなたを信
じ、支持するからね」と。

 今、Yさんの息子が待っている言葉は、そういう言葉ではないだろうか。

+++++++++++++++++

ついでに「人形子」という言葉を
はじめてつかった、イプセンの
『人形の家』について書いた原稿を
収録しておきます。

+++++++++++++++++

●夫婦とは……

 ついでながら、夫婦について、考えてみる。

 フランシス・ベーコンは、こう言った。『若い男にとっては、妻は、女主人であり、中年の男にと
っては、友であり、老年の男にとっては、看護婦である』(「結婚と独身生活」)と。

 男の側から見た、夫婦というのは、そういうものかもしれない。では、女の側から見た、夫婦
というのは、どういうものか。最初に思い浮かんだのが、イプセンの「人形の家」で夫婦は、どう
いうものか。それを如実に表したのが、イプセンの『人形の家』である。

 『私はあなたの人形妻になりました。ちょうど父の家で、人形子であったように……』と。

 最初は他人どうしで始まる夫婦だが、何年もいっしょに暮らしていると、1+1=1になってし
まう。たがいにからみあう木のようなもので、一体化してしまう。どこからどこまでが、「私」で、ど
こから先が、「妻」なのか、「夫」なのか、わからなくなってしまう。

 そういう点では、ベーコンも、イプセンも、たがいの間に、一線を引いている。1+1=2の原
則を、貫いている? 夫婦でいながら、どこか他人行儀。それがよいことなのか、悪いことなの
かという議論はさておき、世の中には、(1+1=1夫婦)と、(1+1=2夫婦)がいる。あるい
は、(1+1=1+1夫婦)というのも、いる?

【1+1=1夫婦】

 ショッピングセンターの中でみかける夫婦でも、服装の趣味から、雰囲気、様子までそっくり
の夫婦がいる。ワイフは、「奥さんが、ダンナの衣服をそろえていると、夫婦も、ああなるのよ」
と言うが、そうかもしれない。『似たもの夫婦』とは、よく言ったものだ。

 で、農村へ行くと、この(1+1=1夫婦)に、よくであう。仕事も、生活も、あらゆる面で、夫婦
が、一体化している。原付リアカーで、うしろに奥さんを乗せて、トコトコと走っている夫婦が、そ
の一例である。

 こうした夫婦は、二人に、分けることはできない。どちらか一方が欠けても、仕事も、生活も、
できなくなる。二人の境界が、溶けて混ざりあうように、密着している。

【1+1=2夫婦】

 宇宙飛行士の夫婦に、そういう人がいる。奥さんのMさんは、アメリカで宇宙飛行士として活
躍している。ダンナさんは、日本に残って、「家」を守っている……。

 ダンナさんは、得意になって本まで書いているが、しかしそういう夫婦の形が理想的だとは、
だれも思っていない。だいたいにおいて、「夫婦」と呼んでよいものか、どうか?

 もっとも最近の傾向としては、(1+1=2夫婦)が、標準的になりつつある。概して言えば、サ
ラリーマン家庭では、そうではないか。夫の仕事の中に、(妻の存在)を組みこむということ自
体、無理がある。それで、「夫は夫、妻は妻」となる。

 本来は、やはり(1+1=1夫婦)が自然だとは思うが、社会も変わってきたので、そうばかり
は言っておられない。(1+1=1・5夫婦)とか、(1+1=2夫婦)というのがあっても、しかたな
いということになる。どこかで夫婦としての接点があれば、それでよいということか。

 どちらを選ぶかというよりも、どちらの夫婦になるかということは、生活の「形」が決めること。
あくまでも、成り行き。夫婦というのは、結果として、(1+1=1夫婦)になったり、(1+1=2夫
婦)になったりする。

 たがいに個性的に生きるなら、(1+1=2夫婦)がよいということにもなるが、私のように、も
ともと依存性が強い男には、そういう夫婦は、さみしい気もする。仮に、ワイフが、アメリカへ行
き、そこで宇宙飛行士として活躍し始めたら、それを受入れる前に、別れてしまうだろうと思う。

 その宇宙飛行士にしても、今は花形職業(?)だが、たかが宇宙飛行士ではないのか。明治
のはじめ、東京、新橋間を走る、あのチンチン電車の運転手は、まさに英雄だったという。そう
いうチンチン電車の運転手になるため、妻が、逆単身赴任で、東京に出た。状況的には、それ
と、どこも違わない。このタイプの夫婦は、(1+1=2夫婦)ではなく、(1+1=1+1夫婦)とい
うことになるのかもしれない。

 (私が言いたいのは、宇宙飛行士になるため、夫婦が別々に暮らすというが、それほどまで
の価値が、宇宙飛行士という職業に、あるかということ。)

 夫婦は、同居して、夫婦なのである。守りあい、教えあい、励ましあって、夫婦なのである。セ
ックスだって、重要な要素だ。この大原則は、昔も、今も、変わらない。あるいは、これからは、
(1+1=1+1夫婦)というのも、ごくふつうのことになるのかもしれない。が、それを決めるの
も、やはり成り行き。

 わかりやすく言えば、夫婦に形はない。最初はみな、同じでも、その形は、それぞれが決め
る。大切なことは、それがどんな形であっても、たがいに認めあい、尊重するということ。自分
の形を、決して、他人に押しつけてはいけない。

 ここまでのところをワイフに読んで聞かせたら、ワイフは、こう言った。「ホモの人どうしが、結
婚するということもあるからねエ……」と。

 ナルホド! ワイフの一言が、私の夫婦論を、根底から粉々に、破壊してしまった!

 つきつめれば、一人の人間と、一人の人間が、それぞれに納得すれば、それでよいというこ
とか。「夫婦」という名称にこだわるほうが、おかしいということになる。となると、ここに書いた、
(1+1=1夫婦)も、(1+1=2夫婦)も、そうして考えること自体、無意味ということになる。

 ああああ。

 私が今まで考えてきたことは、無意味ということか。私はときどき、この(1+1=1夫婦)と、
(1+1=2夫婦)の話を、あちこちでしてきたのだが……。

 となると、話は、振り出しにもどってしまう。「夫婦とは、何か?」と。このつづきは、また別の
機会に……。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1914)

●代償的過保護

 親の過干渉、過関心、プラス過剰期待が、子どもをいかに苦しめるものであるか。親は、「子
どものため」と思ってそうしますが、子どもにとっては、そうではないのですね。その苦しみは、
苦しんだものでないと、わからないものかもしれません。

 発達心理学の世界にも、「代償的過保護」という言葉があります。一見、過保護なのだが、ふ
つう過保護には、それがよいものかどうかは別として、その基盤に親の愛情があります。その
愛情が転じて、過保護となるわけです。が、中には、愛情のともなっていない過保護がありま
す。それが「代償的過保護」ということになります。言うなれば、過保護もどきの過保護を、「代
償的過保護」といいます。

 たとえば子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと思うのが、代償的過
保護です。そして親自身が感ずる、不安や心配を、そのまま子どもにぶつけてしまう。

 「こんな成績で、どうするの!」「こんなことでは、A学校には、入れないでしょ!」「もっと、勉
強しなさい!」と。

 その原因はといえば、親の情緒的未熟性、精神的欠陥があげられます。親自身が、心にキ
ズをもっているケースもありますし、それ以上に多いのが、親自身が、自分の結婚生活に対し
て、何か、大きなわだかまりや不満をもっているケースです。

 わかりやすく言えば、満たされない夫婦生活に対する不満を、子どもにぶつけてしまう。自分
の果たせなかった夢や希望を、子どもに求めてしまう。明けても暮れても、考えるのは、子ども
のことばかり、と。

 しかし本当に子どもの立場になって、子どもの心を理解しているかといえば、そういうことはな
い。結局は、自分のエゴを、子どもに押しつけているだけ。よい例が、子どもの受験競争に狂
奔している母親です。(父親にも多いですが……。)

 このタイプの親は、子どもには、「あなたはやればできるはず」「こんなはずはない」「がんばり
なさい」と言いつつ、自分では、ほとんど、努力しない。いつだったか、私が、そんなタイプの母
親に、「では、お母さん、あなたが東大に入って見せればいいじゃないですか」と言ったことがあ
ります。すると、その母親は、はにかみながら、こう言いました。「私は、もう終わりましたから…
…」と。

そして、すべてのエネルギーを、子どもに向けてしまう。それが親として、あるべき姿、もっと言
えば、親の深い愛情の証(あかし)であると誤解しているからです。

●親の過剰期待

 が、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはありませ
ん。子どもは、その重圧感の中で、もがき、苦しみます。それを表現したのが、イプセンの『人
形の家』ですね。それについては、もう何度も書いてきましたので、ここでは省略します。子ども
は子どもで、まさに「人形」のような子、つまり「人形子」になってしまいます。

 「いい子」を演ずることで、自分の立場をとりつくろうとします。しかし人形は人形。どこにも、
「私」がない。だから、このタイプの子どもは、いつか、その成長段階で、自分を取りもどそうと
します。「私って、何だ!」「私は、どこにいる!」「私は、どうすればいいんだ!」と。

 それはまさに、壮絶な戦いですね。親の目からすれば、子どもが突然、変化したように見える
かもしれません。そのままはげしい家庭内暴力につながることも、少なくありません。

 (反対に、親にやりこめられてしまい、生涯にわたって、ナヨナヨとした人生観をもってしまう子
どももいます。異常なまでの依存性、異常なまでのマザコン性が、このタイプの子どもの特徴
のひとつです。中には、40歳を過ぎても、さらに50歳を過ぎても、母親の前では、ひざに抱か
れたペットのようにおとなしい男性もいます。)
 
 ……だからといって、Vさんがそうだったとか、Vさんのお母さんが、そうだったと言っているの
ではありません。ここに書いたのは、あくまでも、一般論です。

 ただ注意したいことは、2つあります。

●批判だけで終わらせてはいけない
 
ひとつは、Vさんは、自分の母親を見ながら、反面教師としてきたかもしれませんが、自分自身
も、自分の子ども、つまりY男君に対して、同じような母親になる可能性が、たいへん高いという
ことです。「私は、私の母親のような母親にはならない」と、いくらがんばっても、(あるいはがん
ばればがんばるほど)、その可能性は、たいへん高いということです。

 子育てというのは、そういう点でも、親から子へと、伝播しやすいと考えてください。今はわか
らないかもしれませんが、あとで気がついてみると、それがわかります。「私も、同じことをして
いた」と、です。どうか、ご注意ください。

●基本的信頼関係

 もうひとつは、情緒的未熟性、精神的な欠陥の問題です。(Vさんが、そうであると言っている
のではありません。誤解のないように!)

 最近の研究によれば、おとなになってからうつ病になる人のばあい、そのほとんどは、原因
は、乳幼児期の育てられ方にあるということがわかってきました。とくに注目されているのが、
乳幼児期のおける母子関係です。

 この時期に、(絶対的な安心感)を基盤とした、(基本的信頼関係)の構築に失敗した子ども
は、不安を基底とした生き方をするようになってしまうことが知られています。「基底不安」という
のがそれです。おとなになってからも、ある種の不安感が、いつもついてまわります。それがう
つ病の引き金を引くというわけです。

また、ここでいう(絶対的な安心感)というのは、(絶対的なさらけ出し)と、(絶対的な受け入れ)
を言います。

 「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味です。

 つまり子どもの側からみて、「どんなことをしても、許される」という、絶対的な安心感のことを
いいます。これが(心)の基本になるということです。心理学の世界でも、こうして母子の間でで
きる信頼関係を、「基本的信頼関係」と呼んでいます。

(あくまでも、「母子」です。この点においては、父親と母親は、平等ではありません。子どもの
心に決定的な影響を与えるのは、あくまでも母親です。あのフロイトも、そう言っています。)

 そのためには、子どもは、(望まれて生まれた子ども=wanted child)でなければなりませ
ん。(望まれて生まれた子ども)というのは、夫婦どうしの豊かな愛情の中で、愛情に包まれて
生まれてきた子どもという意味です。

 が、そうでないケースも、多いです。たとえば(できちゃった婚)というのがありますね。「子ども
ができてしまったから、しかたないので結婚しよう」というのが、それです。夫婦の愛情は、二の
次。だから生まれてきた子どもへの愛情は、どうしても希薄になります。

それだけですめばまだよいのですが、そのため親は親で、(とくに母親は)、子育てをしながら、
そこに犠牲心を覚えるようになる。あるいは、そのまま自分の子どもを、溺愛するようになる。

●絶対的な母子関係

 「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」を、口ぐせにする親は、たいていこ
のタイプの親と考えてよいです。もともと夫婦の愛情が基盤にあって生まれた子どもではない
からです。

 一方、子どもは子どもで、そういう母親でも、親であると、自分の脳みその中に、本能に近い
部分にまで刷りこみます。やはり最近の研究によれば、人間にも、鳥類(殻から出てすぐ二足
歩行する鳥類)のような、(刷りこみ=imprinting)があることがわかってきました。これを「敏
感期」と呼んでいます。

 つまり子どもは子どもで、そういう環境で育てられながらも、「産んでいただきました」「育てて
いただきました」「大学まで出していただきました」と言い出すようになります。

 つまり、親の子どもへの依存性が、そのまま、今度は、子どもの親への依存性へと変化する
わけです。

 これがここでいう「伝播」ということになります。わかりますか?

 そしてそれは、先にも書きましたように、今度は、あなたという(親)から、あなたの(子ども)へ
と伝播する可能性があるということです。そういう意味では、『子育ては本能ではなく、学習』と
いうことになります。あなたの子どもはあなたという母親を見ながら、今度は、それを自分の子
育て観としてしまう!

 では、どうするか?

●「私」をつくる3つの方法

 自分の親を反面教師とするならするで、批判ばかりでは終わってはいけないということです。
また今は、「仏様」(Vさん)のようであるからといって、過去の母親を、許してはいけないという
ことです。

 あなたはあなたで、親というより、人間として、別の人格を、自分でつくりあげなければなりま
せん。それをしないと、結局は、あなたは、自分の親のしてきたことを、そっくりそのまま、今度
は、自分の子どもに繰りかえしてしまうということになりかねません。
 
そのために、方法はいくつかありますが、ひとつは、すでにVさん自身がなさっているように、
(1)過去を冷静にみながら、(2)自己開示をしていくということです。わかりやすく言えば、自分
を、どんどんとさらけ出していくということです。そしてその上で、(3)「私はこういう人間だ」とい
う(私)をつくりあげていくということです。

 いろいろ事情はあったのでしょうが、またほとんどの若い母親はそうであると言っても過言で
はありませんが、あなたの母親は、そういう点では、情緒的には、たいへん未熟なまま、あなた
という子どもを産んでしまったということになります。(だからといって、あなたの母親を責めてい
るのではありません。誤解のないように!)

 子どもから見れば、どんな母親でも、絶対的に見えるかもしれません。が、それは幻想でしか
ないということです。ここに書いた、(刷りこみ)によってできた幻想でしかないということです。

 それもそのはず。子どもは、母親の胎内で育ち、生まれてからも、母親の乳を受けて、大きく
なります。子どもにとっては、母親は(命)そのものということになります。しかし幻想は幻想。心
理学の世界では、そうした幻想から生まれる、もろもろの束縛感を、「幻惑」と呼んでいます。

 で、私もあるとき、ふと、気がつきました。自分の母親に対してです。「何だ、ただの女ではな
いか」とです。私も、「産んでやった」「育ててやった」という言葉を、それこそ、耳にタコができる
ほど、聞かされて育ちました。だからある日、こう叫びました。私が高校2年生のときのことだっ
たと思います。

 「いつ、オレが、お前に産んでくれと頼んだア!」と。

 それが私の反抗の第一歩でした。で、今の私は、今の私になった。もしあのとき反抗していな
ければ、ズルズルと、マザコンタイプの子どものままに終わっただろうと思います。(もっとも、
それで家族自我群がもつ重圧感から、解放されたというわけではありませんが……。)

●Vさんへ、

 ……とまあ、Vさんに関係のないことばかりを書いてしまいました。Vさんからのメールを読ん
でいるうちに、あれこれ思いついたので、そのまま文にした感じです。ですから、どうか、仮にお
気にさわるような部分があったとしても、お許しください。

 子育てを考えるということは、そのまま自分を考えることになりますね。自分を知ることもあり
ます。私も多くの子どもたちに接しながら、毎日、それこそいつも、「私って何だろう」「人間って
何だろう」と、そんなことばかりを考えています。

 以上、何かの参考になれば、うれしいです。また原稿ができましたら、送ってください。いっし
ょに、(自己開示)を楽しみましょう! どうせたった一度しかない人生ですから、ね。何も、それ
に誰にも、遠慮することなんか、ない。

 だって、そうでしょ。私も、Vさんも、「私」である前に、1人の人間なのですから……。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族
自我群 幻惑 過干渉 過関心 代償的過保護 自己開示 はやし浩司 親の過干渉 過干
渉児)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1915)

●学歴と人格

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はっきり、言おう。

学歴と人格は、まったく、関係ない。
わかりやすく言えば、勉強ができる人
イコール、人格者ということは、ぜったいに、
ありえない。

ところが、ほとんどの人は、こう錯覚
している。

学歴のある人イコール、人格的にも
すぐれた人、と。

しかしこれは誤解、ウソ、偏見。

++++++++++++++++

 ほとんどの親は、勉強がよくできる子どもイコール、人格的にすぐれた子どもと誤解してい
る。誤解と言うより、これはウソ、偏見。

 同じように、学歴が高い人ほど、やはり、人格的にすぐれた人と誤解している。これも誤解と
言うより、ウソ、偏見。

 学歴と人格の間には、相関関係は、まったくない。

 ただそれなりの地位や役職、職業についている人が、それなりの人物に見えることはある。
しかしそれはそうした仕事を通してその人が身につけた、(役割形成)のようなもの。まわりの
人たちから、「先生」「先生」と呼ばれているうちに、自ら、それらしい人間になっていく。そういう
ことはある。

 (が、だからといって、その人が、人格者であると判断してはいけない。念のため。)

 また一般の人も、それなりの地位や役職、職業の人と会ったりすると、それなりの人物である
と思いこんでしまう。そしてそういう目で、その人を見る。相手は相手で、そういう(目)を、敏感
に感じ取り、それなりの人物らしく振る舞う。だから一般の人は、「やっぱり、あの人は、すぐれ
た人」と思いこんでしまう。

 もちろん、その反対のこともある。世間的にレベルの低い仕事をしている人がいたとする。
(本来、仕事に上下はない。自分でそう思いこんでいるだけ。)そういう人は、「自分はダメな人
間」と、自らにレッテルを張ってしまう。そして自ら、自己評価をさげ、それらしい人間になってし
まう。そういうこともある。

 しかし、あえて繰りかえす。

 学歴、つまり勉強ができる、できないということと、その人の人格は、まったく関係は、ない。も
ちろん、高い学歴をもちながら、高い人格をもっている人はいる。しかし反対に、高い学歴をも
ちながら、そうでない人もいる。

 人格の完成度は、たとえばEQ論(情緒指数論)などによって判断する。そのEQ論によれ
ば、(1)他者との共鳴性のある人、(2)自己管理力の高い人、(3)良好な人間関係を築いて
いるなどを、人格の完成度の高い人とみる。むしろ、受験競争をバリバリとやりこなしてきた人
ほど、人格の完成度は低いとみてよい。

 自分勝手で自己中心的。享楽的な生き方をし、自分のカラにこもりやすい、など。たとえば進
学校と呼ばれる学校でのほうが、一般校よりも、いじめの発生率が高く、かつ陰湿であると言
われている。確たる統計結果があるわけではないが、こんなことは、教師の間では、常識。

 またはげしい受験競争を経験すればするほど、子どもの心は、ぞっとするほど、冷たくなる。
ものの考え方が合理的で、ドライになる。人間の価値すら、点数で決めてしまう。また皮肉なこ
とに、そういう子どもでないと、はげしい受験競争は勝ち抜けない。

 つまり子どもの世界では、(おとなの世界でも、そうだが)、「勉強」「学習」というテーマと、「人
格の形成」というテーマは、まったく別のもの、異質なものであると考える。

 で、日本の子育てで、最大の欠陥といえば、この一点に集約される。この両者を、同一視、も
しくは混同している。ほとんどの親たちは、「勉強がよくできる子どもイコール、人格的にもすぐ
れた子ども」と誤解している。中には、「勉強ができるようになれば、人格的にもすぐれた子ども
になる」と、信じている人がいる。しかし、何度も繰りかえすが、これはまったくの誤解、ウソ、偏
見。

 ところでこんなおもしろい実験がある。以前、何かの心理学の本の中で読んだものだが、こ
んな実験である。

 信号待ちのとき、青信号になっても、車をそのまま止めておく。そのとき、うしろにつづく車を
運転している人は、何秒ほど、それを待つことができるかという実験である。

 青信号になっても、前にいる車が、動かなければ、それにつづく車の運転手は、クラクション
を鳴らしたりして、前の車に、「動け」と合図する。その時間、つまり青信号になってから、うしろ
の車を運転する人がクラクションを鳴らすまでの時間を測定してみた人がいた。

 結果、前に止まっている車が、安い大衆車であればあるほど、時間は短く、前に止まってい
る車が、高級な車であればあるほど、時間は長くなるということがわかったそうだ。たしか2倍
ほど、時間がちがったのではなかったか。あいまいな記憶で、申し訳ないが、これなども、偏見
の一例と言える。

 つまり相手がそれなりの地位や立場の人だと、それなりの人物だと思いこんでしまう。そうで
なければ、そうでない。私たちは無意識のうちにも、相手の価値を、見栄えや、肩書きで判断し
てしまう。遠慮したり、自分を卑下したりする。

こうした権威主義的な人の見方は、ときとして、相手を見誤る原因となる。ときには、そうした偏
見が、自分の自己評価をさげてしまうことにもなりかねない。

 それこそ、「損」というもの。

 人を見るときは、中身を見て判断する。子どもを見るときも、また同じ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学歴
 人格 学歴と人格 人格と学歴)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●『子育て格言・ママ100賢』

+++++++++++++++

最近、よく売れている育児書を
読んで、びっくり。

どこか、私の書いてきた本の内容に
そっくり。

おかしいぞ?

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 1993年の発行ということだから、もう14年も前になる。私は、山手書房新社という出版社か
ら、『子育て格言・ママ100賢』という本を出版してもらった。

 1巻、2巻、3巻の、計3巻である。

 この本を久しぶりに読みなおしてみる。私が、それまでの教材づくりの世界から足を洗い、子
育て論を書き始めたころの本である。

 イラストも自分で描いた。描いたというより、予算をつけてもらえなくて、しかたないので、自分
で描いた。

 随所に未熟な見解、不勉強な部分、さらには読んでいて恥ずかしくなるような部分もある。少
し前までは、そういう部分ばかりが目立って、本を開くのもおっくうだった。だれかが「いい本で
すね」と言ってくれても、即座に、「お世辞だ」と思ってしまった。しかし当時の私は、当時の私。

 ところで最近、よく売れている育児書がある。それを読んでみて、驚いた。私の書いた本の内
容に、そっくり? 「?」と思ってはいるが、しかし私のほうは、すでに13〜5年ほど前から、自
分の本を書いている。つまり、私のほうが先。

 そういう育児書を書く人は、頭のよい人だから、(多分)、シッポをつかまれるようなヘマはしな
い。だからここで「私の本を盗作した」とか、「流用した」とは書けない。しかしあ・や・し・い。あや
しいものは、あやしい?

 そこで私は、13年前の本だが、すべてそのまま、HPに収録することにした。この本は、絶版
になっているから、HPに収録しても問題はない。またイラストも私が描いたもの。

 興味のある方は、どうか私のHPのトップページから、『子育て格言・ママ100賢』へと進んで
みてほしい。読んでみて、「そう言えば、ここに書いてあることと同じことが、あの本にも書いて
ある」と思ったら、そちらのほうの本を疑ってほしい。私の本のほうが、古いので、私が盗作し
たということは、ありえない!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子育
て格言 ママ100賢 山手書房新社)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(4月22日)

●ズルイ人たち

++++++++++++++++

電話による何かの勧誘が、
このところ、たてつづけにある。

先日は、「名鑑」。「T有名人名鑑に、
あなたの名前を載せませんか」と
いう内容の電話。

私は「結構です」と言ったのだが、
数日後、書類が勝手に送り届けられ
てきた。

費用は、名前を載せるだけで、
ナ、何と、20万円!

+++++++++++++++

 最近、あちこちの雑誌を見ると、こんな記事が目につく。

 「団塊の世代に、売れ筋商品とは?」
 「ねらえ、団塊の世代のサイフ。その戦術と方法」
 「団塊の世代のポケットマネーが、日本を動かす」などなど。

 団塊の世代のもつお金(マネー)が、今、ねらわれている。こうした商法まとめて、『団塊商
法』という。

その団塊商法と同じレベルで考えてよいのかもしれない。電話による何かの勧誘が、このとこ
ろ、たてつづけにある。先日は、「名鑑」。「T著名人名鑑にあなたの名前を載せませんか」とい
う内容のものだった。「T」というのは、日本を代表する興信会社の名前。

 私はこの種の勧誘については、即座に、断ることにしている。100のうち99は、インチキもし
くは詐欺。英語では、FAKE(フェイク)。

 が、それから数日後、勝手に書類が送り届けられてきた。見ると、どこでどう調べたのか、私
の名前と住所、それに私の家の電話番号がタイプされている。さらに職業まで!

ワ「どこで調べたのかしら?」
私「たぶん、同窓会名簿か何かで調べたんだろう」
ワ「いやね。気味が悪いは……」と。

 そこで読むと、裏に、こう書いてある。「訂正箇所があったら、訂正して送り返してください。訂
正箇所がないばあいは、そのまま送り返してください。何も返事がないばあいは、訂正箇所な
しということで、そのまま掲載させていただきます」と。

 「何も返事がないばあいは、訂正箇所なしということで、そのまま掲載させていただきます」だ
と! ギョッ!

 一方で、掲載費用、20万円とある。つまり何も返事をしないでおくと、相手は勝手に私の名
前と住所を、その「T著名人名鑑」とやらに載せ、20万円を請求してくることになる。最初の電
話で、私が、「承諾」したことになっているらしい。

 で、こういうばあい、どうするか?

 1に無視。2に無視。3に無視。「載せないでくれ」という返事も書く必要はない。一応、届いた
書類は、あとあとのために保存しておく。

 しかし私のばあい、まだ判断力があるからよい。私の年代になると、何分の1かの人たちは、
頭の働きが鈍くなる。こうした書類を見ると、そのまま名前を書いて、返送してしまうかもしれな
い。

 あるいはあとで費用を請求されたとき、そのまま、その費用を支払ってしまうかもしれない。
中には、20万円を出してでも、名を残したいと思っている人もいるかもしれない。しかしこうした
やり方も、『団塊商法』のひとつと考えてよいのでは……?

 ついでに一言。

 冒頭に書いたように、今、団塊の世代のサイフが、ねらわれている。ねらうのは勝手だが、ね
らわれるほうは、あまり気持ちのよいものではない。それに誤解が、ひとつ、ある。

 自分もその1人になったわけだが、団塊の世代といっても、この世代は、今、老齢期の入り
口に立っている。未来は、暗い。道にたとえるなら、その先はどんどんと細くなり、さらにその先
は、黒いモヤに包まれている。仮に2000万円の退職金を手にしたとしても、若いときのよう
に、それをパッパッと消費する気分にはなれない。

 つまりケチ。保守的。守銭奴。団塊の世代のサイフをねらうくらいなら、もっと別の世代のサ
イフをねらったほうが、よい。そのほうが、ずっと楽。

(付記)

 いらぬ情報だが、団塊の世代といっても、それぞれ60年も人生を歩んできた人たち。もしそ
の団塊の世代のサイフをねらって商売をしたいと考えるなら、それぞれの人の趣味と実益に合
わせて、きめこまかく、商売するのがよい。

 大きく網(アミ)を張って商売をしかけても、無駄ばかりが多くなり、うまくいくはずがない。

 まあ、あえて言うなら、健康器具、健康薬品、運動用具などが、団塊の世代を相手にするな
ら、売れ筋商品ということになるのでは?


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●血栓性の認知症

+++++++++++++++++

認知症になる原因にもいろいろあるが、
その中のひとつ。血管の内部に血栓ができ、
それが脳の中の血管をつまらせ、
それが原因で、認知症になるというのも
あるという。

++++++++++++++++

 東海大学脳神経外科のHPには、「アテローム血栓性脳梗塞(こうそく)」について、こうある。
「アテローム」というのは、『「粥状硬化」ともいわれ、血管の内部に脂肪や石灰などが沈着し
て、内腔がせまくなる、血管の変性のことです』と。

『脳内の太い血管(主幹動脈)や、頚動脈の動脈硬化が進行し、血管内に血栓ができ、
つまることにより起こります。

  従来は欧米人に多く、日本人にはまれといわれていました。しかし食生活の欧米化に伴い、
日本人にも増加してきています。

発症の前駆症状として、一過性脳虚血発作(TIA)が先行することがあり、安静時に起こりやす
く、症状の経過はゆっくりで、徐々に悪くなる、いわゆる「階段状の進行」をとりやすいとされて
います。

症状はラクナ梗塞同様の症状に加えて、軽い意識障害や、「思った通りの言葉が出ない」
「視界の一部が欠けている」といった、脳の広い範囲の障害を思わす症状がみられることがあ
ります。

CTやMRIでは、比較的広範囲に病変を認め、その直径は1・5センチ以上です。

初期は軽症でも、放置すると重症化しやすいため、精密な検査、治療を一刻も早く開始する必
要があります』と。

 また「ラクナ梗塞」については、つぎのようにある。

『脳の深部の細い血管がつまることによって起こります。 日本人に多く、脳梗塞の約半数を占
めます。

原因としては高血圧が最も重要で、そのほか糖尿病もあげられます。
 
発症の前触れ(前駆症状)はないか、まれで、安静時の発症が多く、比較的ゆっくり進行してい
きます。
 
症状は、「手足がしびれる」「手足の力が入らない」「ろれつが回りにくい」などといった症状が、
単一で起こる場合が多いようです。

細い血管がつまることによって起こるため、CTやMRIで見ると、直径1・5センチ以下の小さい
病変です。

 しかし血栓性脳梗塞については、何もCTやMRIによる検査に頼らなくても、顔の表情からで
もわかるという。ある精神科医が、そう話してくれた。その話を参考に、自分なりにまとめてみ
ると、こうなる。

 何となく顔の肌が、ボテッとしまりない。水ぶくれのように太っていて、肌の色にもツヤがな
い。話し方もアップアップした感じになり、たどたどしくなる、など。東洋医学でも、同じようなこと
を教えている。

 が、問題は、梗塞そのものよりも、梗塞が原因で起こる、認知症である。脳みそがダメージを
受ければ、当然、その分だけ、脳の機能が低下する。ボケる。私の知人に、今年、65歳くらい
になる女性がいる。

 その女性だが、長いこと、糖尿病を患っている。今は、毎日のインシュリン注射が欠かせな
い。その女性も、ここでいう血栓性の脳梗塞が疑われる。顔の様子も、ここに書いたとおり。ワ
イフがこう言った。

 「そう言えば、あの人も、同じ話を、何度も繰りかえすわよ。それにズケズケとものを言うわ
よ。みんなの前で、突然、相手の人を批判したり、ね。そのため、このところ、みんなに嫌われ
始めている」と。

 アテローム血栓性脳梗塞?
 ラクナ梗塞?

 ……それにしても、いろいろな病名があるものだ。少し前も私は、家庭医学書を見て、ゾッと
したことがある。800ページ近い医学書だったが、そこには、ぎっしりと、いろいろな病名が書
かれていた。

 言いかえると、健康であるということは、こうした無数の病気をたくみに避けながら生きていく
ということということになる。簡単なことではない。たとえて言うなら、天から降り注ぐ雨を避けて
歩くようなもの。生きていること自体、奇跡のようなものだが、健康であるということも、これまた
奇跡のようなもの。

 話がそれたが、こうした脳梗塞を防ぐには、どうしたらよいか。

 私は、日々の体の鍛錬(たんれん)しか、頭に思いつかない。わかりやすく言えば、運動。健
康雑誌などによれば、週3回ほど、30分〜1時間前後の運動をして、軽く汗をかくとよいという
ようなことが書いてある。

 もちろん、これより多ければ多いほど、よい。またそれだけの運動量で足りる人もいれば、そ
うでない人もいる。私のばあいは、週4、5日、約1時間前後、自転車で運動をしている。が、こ
のところ、それでも少ないのではと、感ずるようになった。数日、運動をしない日がつづいただ
けで、脳みその働きがぐんと低下するのが、実感としてわかる。

 あとは水分補給? みなさんも、脳みその健康には、くれぐれも、お気をつけください。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●小ずるい人とは、つきあわない
 
+++++++++++++++++++++

小ズルイ人とつきあっていると、こちらまで、
その影響を受ける。小ズルクなってしまう。

それを証明するような話を、私はA氏(45歳)
という人から聞いた。

+++++++++++++++++++++

 小ズルイ人とつきあっていると、こちらまでその影響を受ける。小ズルくなってしまう。それを
証明するような話を、私はA氏(45歳)から聞いた。

 A氏は、長い間、地元のある製造会社に勤めていた。その会社の上司のことだが、たいへん
小ズルイ人だったという。出張費をうまく浮かして小遣いにするなどということは、朝飯前。とき
には、A氏に、その裏工作を言いつけてくることもあったという。

 取り引き先との交渉もそうで、何か都合の悪いことがあったとすると、言葉たくみに、それを
煙に巻いてしまっていたという。口のうまい人だったらしい。あるいは部下のA氏たちの責任に
したこともあるという。A氏は、こう言う。

 「そういうズルイ上司と仕事をしていると、私たち部下まで、おかしくなってしまうのですね。最
初は、少し抵抗感を覚えるのですが、やがて、『あの上司にならいいや』という気持ちになるの
です。そして気がついてみると、自分たちも、上司がしていることと、まったく同じことをしている
のです」と。

 つまり(上司の小ズルイ様子を見ている)→(上司に対して小ズルイことをする)→(それがた
び重なる)→(今度は、自分自身も、部下に対して小ズルイことをするようになる)、と。

 いつか反面教師の限界について、書いた。たとえば自分の父親なら、父親でもよい。その父
親のいやな面を見ながら、「私は、ああいう父親にはならないぞ」と思っていても、いつしか気が
ついてみると、自分自身が、その父親そっくりの人間になっていたりする。そういうことはよくあ
る。

 もしあなたの近くに反面教師がいたとする。その反面教師についてだが、ただ批判するだけ
では、足りない。その反面教師を乗り越えるだけの哲学なり、倫理観をもつ。それをしないと、
やがてその反面教師に餌食(えじき)になってしまう。つまり反面教師そっくりの人間になってし
まう。

 (悪)のもつ力は、それほどまでに強力である。

 ではどうするか?

 いちばん手っ取りばやい方法は、批判することもやめて、無視する。無視して、その人のこと
は考えない。心の中で、その人のことを考えない。そして自分は自分で、自分の道を進む。で
きれば、そういう小ズルイ人を、自分の周辺に置かない。

 が、問題は、親子。親子となると、そうはいかない。毎日、目の前で見ている。接している。も
し私やあなたの親が、ここでいうような小ズルイ人だったら、どうするか?

 私は、『相手にしない』という方法を勧める。またそれしか方法はないのではないか。できれ
ば批判することもやめる。「うちのオヤジは……」と、批判を始めたとたん、その親のもつ毒気
に染まってしまう。

 で、ここからが育児論。

 もしあなたが今、親なら、子どものためというよりも、あなた自身のためにも、小ズルイ部分
があったら、それと戦って、自分で消しておく。それはささいなことから始まる。

 信号が黄色になったら、車の速度を落とす。(この浜松では、黄信号は、「アクセルをふかし
て、突っ走れ』」というふうに理解されている。おかげで、交通事故率、全国ワースト・ワン!)。

 駐車場があいてなければ、あくまで、じっと待つ。

 ゴミや空き缶は、所定の場所に捨てる、など。

 こうした日々の行為が積み重なって、月となり、年となる。そしてそれが長い年月を経て、あ
なたの人格を構成する。つまりそれを見て、あなたの子どもは、あなたをいつか、ひとりの人間
として、評価するようになる。

 反面教師になるのが悪いというのではない。そこに哲学があり、一本の筋が通っているなら、
それはそれでよい。それを発達心理学の世界でも、「一貫性」という。小ズルイ人間には、その
一貫性すらない。

 私たちは、親として、そういう親だけには、なってはならない……と思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●とうとう買ったぞ!

+++++++++++++++++++++++++

息子たちよ、よく聞け!

とうとう買ったぞ、ビスタ、Ultimate!
CPUは、インテルCore(TM)2Duo
プロセッサ、E6600!
メモリは、DDR2・SDRAM、2048MB!
ハードディスクは、250GB!
グラボーに、NVIDIA、GeForce7600GT!
16倍速のDVDスーパーマルチドライブ(RW)!

それに加えて、Office・2007!

ハハハ!
すごいだろ!

++++++++++++++++++++++++

 とうとう買ったぞ、高性能のパソコン! 今のところ、20万円前後(モニターなし)で、これ以
上の性能をもつパソコンは、発売されていない。手元に届くのは、5月2日ごろ。ちょうど連休
中。今は、その仕様書をながめながら、ワクワクしている。

 しかしこれはすごいパソコンだア! 驚くほど、すごい! 言い忘れたが、マザーボードは、イ
ンテルのP965、Express!

 今、考えていることは、どうやって引越しをしようかということ。段取りをまちがえると、たいへ
んなことになる。古いほうに残っているデータ類やファイルは、すべて、一度、外付けのハード
ディスクにコピーするつもり。各種ソフトの再インストール作業もある。結構、めんどう。たいへ
ん。しかし、それが楽しい。……楽しみ。

 モニターは、店頭で、自分の目で見て購入するつもり。先月、安物のモニター(19インチワイ
ド)を購入したが、イマイチ、文字が不鮮明。とくに反転した白文字が、つぶれてしまう。

 それに私は日本製を買うつもり。値段は少し高くても、品質は、日本製がいちばんよい。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1916)

●今朝・あれこれ(4月25日)

++++++++++++++

今朝は、雨。
ワイフは、クラブに。
私は、ひとり部屋にこもって、
パソコンに電源を入れる。

これから昼まで3時間。
ぽっかりとあいた、私の3時間。

まず、ニュースに目を通して、
つぎにワードを立ちあげる。

おもむろに、キーボードを
たたき始める。

++++++++++++++

●孔子

 春秋戦国時代の中国に、こつ然と現れたのが、孔子。551BC〜471BCごろの人だとされ
る。

 その孔子は、「仁」と「礼」を説いた。彼の弟子たちが、孔子の教えを記録した『論語』は、そ
ののち、東洋思想の基盤となった。そのことは、いまさら、ここに書くまでもない。

 その「仁」とは何か? 「礼」とは何か?

 一般的には、仁とは、理想的な精神状態をいう。また礼とは、人が人として守るべき、生活規
範をいう。しかしここで重要なことは、孔子は一方で「仁」を説きながら、「大切なのは、その仁
に至るプロセスである」と説いている点である。

 仁とは、そういう意味では漠然(ばくぜん)とした概念であって、形はない。そういう意味では、
キリスト教でいう「神」、あるいは仏教でいう「仏」の概念と似ている。もっと言えば、キリスト教的
な「愛」、仏教的な「慈悲」に通ずる概念と考えてもよい。

 つまりゴールはないということ。大切なのは、そのゴールに向かって、日々に歩きつづけると
いうこと。そこに人間の生きる価値がある。美しさがある。

 つぎに「礼」。

 おそらく孔子の生きた春秋戦国時代という時代は、荒廃した時代であったにちがいない。そ
んな時代が、500年以上もつづいた。そういう現状を見ながら、孔子は、「礼」を考えた。礼節
の「礼」である。

 ここにも書いたように、礼とは、人が人として守るべき生活規範のことをいうが、もしその礼を
忘れたら、人は、そのまま動物(獣)と化す。が、その礼を守ることはむずかしい。『衣食足リテ
礼節ヲ知ル』ということからもわかるように、その前提として、人間らしい生活基盤がなければ
ならない。

 が、もちろんそれだけでは足りない。高い知性と理性。深い知識と経験。それらがあいまっ
て、高度な文化をつくる。その文化から生まれる文化性をもたなければならない。

 たとえば生活規範の一つとして、法律やルールがある。その法律やルールにしても、守れば
それでよいというものではない。わかりやすく言えば、「法律やルールに触れないなら、何をし
てもよい」と考えるようでは、まだ足りない。

 礼とは、あくまでも、自分の心の問題である。自分の心が、それに納得するかどうかという問
題である。

 つまり仁にせよ、礼にせよ、「形」ではないということ。論語にしても、そんなことはどこにも書
いてない。にもかかわらず、この日本では、それらを「形」にしてしまった。「仁」というと、すぐヤ
クザ的なものを連想してしまう? 「礼」にしても、「礼儀作法」と結びつけて考えることが多い。

 形を整えたからといって、それでよいというものではない。私はこのことを、オーストラリアで
知った。

 今でこそ笑い話に聞こえるかもしれないが、私はある日、ある教授が、自分の足を机にあげ
て講義をしているのを見て、心底、驚いたことがある。まさに驚天動地! 当時の私の常識で
は、理解しがたい光景だった。

 つまり日本的に言えば、その教授は、礼儀作法を知らないということになる。が、あるとき、反
対にこんなことにも気づいた。

 礼儀作法にきびしいからといって、その人が、「礼」を本当に知っているということにはならな
いのではないか、と。ここにも書いたように、仁にせよ、礼にせよ、それらはあくまでも心の問
題。心を離れて、仁などない。礼もない。礼儀作法があるとするなら、それはあくまでも結果。
結果として、その人の内なる世界から生まれるもの。

繰りかえすが、「形」を整えたからといって、それでよいというものではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孔子
 仁 礼)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●移転登記

++++++++++++++

私の土地の一部が、私とワイフ、
それに母の3人の、共有財産に
なっている。

が、母は、今、こういう状態。
あとあとのために、母名義の
持分を、私の名義に書きかえる
ことにした。

+++++++++++++++

私の現在住んでいる土地の一部が、私とワイフ、それに母の3人の、共有財産になっている。
が、母は、今、こういう状態。あとあとのために、母名義の持分を、私の名義に書きかえること
にした。

 母が万が一のときは、法律的には、「相続」という形で、名義を変更できる。しかしもし万が
一、私の方が先にあの世へ行くようなことにでもなれば、これまたやっかいなことになる。

 それで名義を書きかえることにした。が、これも、けっこう、めんどう。たいへん。

 まず市内の法務局に足を運んだ。書類などは、一応、そろえておいた。今では、インターネッ
トを通して、書類のひな形は、簡単に入手できる。その書類のひな形を指示に従って、書きな
おす。プリントアウトする。

 が、問題は、母の住所。母は、今回浜松へ来るまでに、3度、本籍地を変更している。その転
籍証明書が必要、……などなど。

 こまかく書いても意味がないので、ここでは省略する。要するに、昨日、その手続きをした。
朝9時に法務局に出かけ、ついで市役所を回った。食事をして家に帰ってきたのが、午後1
時。が、これで片づいたわけではない。

 母の転籍証明書が手に入ったら、また法務局へ足を運ばねばならない。

私「ボケ防止のためだと思って、やればいいよ」
ワ「どうせヒマだしね」と。

 司法書士に頼むという方法もあるが、手数料だけでも、3〜4万円はかかる。それがいやな
人は、私のように、自分ですればよい。ここに書いた書類のひな形にしても、法務局の相談窓
口に行けば、ちゃんと用意してある。まず相談窓口の人に、相談してみるとよい。


●介護

 今朝、母を車椅子に乗せたまま、庭を案内した。雨はやんでいた。そのときのこと。

 母は、まわりの景色にはほとんど興味を示さなかった。かわりに、小さな花を目ざとく見つけ
た。「きれいや」と、何度も喜んだ。

 忘れていた! 母は、花が好きだった!

 さっそく計画を立てる。

 ベッドの横に、台を置き、そこに室内花壇を作ってやろう。ワイフがクラブから帰ってきたら、
近くのショッピングセンターに足を運ぶつもり。


●オメデタイ韓国政府

+++++++++++++++++++

韓国政府の元統一部長官が、これまた
オメデタイことを言った(4月24日)。

何でも「朝鮮半島の平和協定は南北が主体
となり、米中がこれを保証しつつ、国連が追
認するという(2+2+国連)方式がよい」と。

どうして朝鮮半島の平和と安全を、アメリカ
と中国が保障しなければならないのか?

こうした極端な自己中心性は、韓国のお家芸。
それはわかるが、それにしても……?

統一部というところは、イコール、K国の
韓国支局と考えてよい。

++++++++++++++++++

 2012年までに、韓国からアメリカ軍が撤退する。しかしこのままでは、2012年までに、K国
が核兵器はもちろん、核開発を放棄するということは、事実上、不可能になりつつある。

 「どうするのだろう?」と思っていたら、またまた韓国のI元統一部長官が、これまたオメデタイ
ことを言った。

 いわく、「朝鮮半島の平和協定は南北が主体となり、米中がこれを保証しつつ、国連が追認
するという(2+2+国連)方式を取るべき」(4月24日・19期民族和解アカデミーの席で)と。

 わかるかな?

 南北の平和協定は、南北朝鮮が主体となって推進する。(やれるものなら、やってみたらよ
い。どうぞ、ご勝手に!)

 その平和協定をアメリカと中国が、保障する。(アメリカや中国が、韓国の属国? どうしてア
メリカや中国が、朝鮮半島の平和と安全を保障しなければならないのか?)

 そして最後に国連が、追認する。(どうして? 世界が、南北の平和協定を追認しなければな
らないのか?)

 こうした極端な自己中心性は、たとえば「日本海」を「西海」と呼び変えていることでもわかる。
自国内だけでそう呼ぶのは構わないが、韓国政府は、世界中に特使まで派遣して、呼称を変
えようとしている。

 日本海は、韓国にとっては確かに「西の海」だが、日本にとっては、「北の海」。ロシアにとっ
ては、「南の海」。どうして「日本海」であってはいけないのか。世界には、近くの国の名前がつ
いている海は、いくらでもある。

 もっとも韓国政府の統一部というところは、K国の韓国支部ととらえたほうが、わかりやすい。
その統一部のI元統一部長官は、つぎのような構想を述べた。

 「南北平和構築の課題としては、(1)米朝敵対関係の解消、(2)南北経済共同体の結成、
(3)軍事縮小を通じた軍事力均衡と通じた軍備統制、(4)時代に合わせた在韓米軍の地位と
役割の変更、(5)北東アジア安全保障協力体制の構築」と。

 しかしこのどれもが、ヘン?

(1)米朝敵対関係の解消……「敵対関係」というが、アメリカは、K国を敵などとは思っていな
い。どうして敵なのか? そう言って騒いでいるのは、K国だけではないのか? 日本にして
も、そう。日本は、K国など、敵とは思っていない。K国が勝手に、そう思いこんでいるだけ。あ
んな国、相手にしたくもない。相手にもならない。

(2)南北経済共同体の結成……韓国側がそう思うのは、勝手だが、肝心のK国側は、そんな
ことは毛頭も考えていない。K国側は、朝鮮半島そのものを、自分のモノにしたがっている。

(3)軍事縮小を通じた軍事力均衡と通じた軍備統制……意味がよくわからないが、ともにバラ
ンスのとれた軍事力ということか? しかしそれは風前のともし火。K国はすでに核兵器を保有
している。その前に、どうやって、K国の核兵器を廃棄させるのか? それとも、以前から韓国
政府が言っているように、K国に核兵器を残したまま、南北統一をするつもりなのか?

(4)時代に合わせた在韓米軍の地位と役割の変更……簡単に言えば、「アメリカ軍に出て行
け」ということか。韓国政府は、朝鮮半島有事の際には、50万人(数字は不正確)のアメリカ軍
が韓国を助けてくれるはずと一方で公言している。が、その一方で、韓国外での有事の際に
は、在韓米軍の出動はならぬとも、公言している。

(5)北東アジア安全保障協力体制の構築……これから先、日本は、K国の核兵器におびえな
がら、K国と単独で対峙していかねばならない。K国の存在そのものが、日本にとっては、脅威
なのだ。にもかかわらず、何が、「協力体制」だ? 日本など、自分の意のままに動かせると、I
元統一部長官は、考えているらしい。

私は、むしろ逆だと思う。つまりK国を、まともな国という前提で考えること自体、まちがい。あ
の国は、まともでではない。そのことは、今回の、6か国協議の流れを見てもわかるはず。

 アメリカは、BDAへの制裁を解除すると約束した。(実際には、その時点では、制裁などして
いなかった。取り引きを停止していただけ※。)それと引きかえに、K国は、核開発の停止に向
けて、初期段階措置をとると約束した。

 が、結果は、ご存知のとおり。K国は、預金を自由に引き出せる状態になっても、引き出さな
かった。あれこれ理由を並べて、それを渋った。アメリカがBDAを制裁したのは、そのあとのこ
とである。

 もちろんK国側が約束した初期段階措置は、まったくの手つかずのまま。

 拉致問題はもちろんのこと、K国の核開発問題を解決するためには、K国の政治体制を変え
るしかない。わかりやすく言えば、現在の金xx独裁体制を、崩壊させるしかない。もし「対話」
(金大中)で解決できるような問題であれば、とっくの昔に解決していたはず。もしこのままズル
ズルと時間稼ぎをさせればさせるほど、K国は、さらにやっかいな国になる。

 韓国の統一部には、そういうことがまったくわかっていない。つまりここまでK国問題をこじら
せてしまったのは、韓国ということになる。今の今も、直接的、間接的に、毎年、x00億ドル近
い資金援助をしているという。

 かたや日本は、どうあるべきか?

 「対米追従外交」と酷評されようが、今の日本は、アメリカにすがるしかない。でないというな
ら、どこのどの国が、K国の核開発問題を解決してくれるというのか? K国はかねてより、「核
開発は、日本向けのもの」と、公言してはばからない。

 中には、「1発や2発、東京で核兵器が爆発しても、たいした被害にはならない」(雑誌「諸
君」)と説く人もいる。しかしこれはとんでもない暴言である。その危険を感じただけで、外資
は、すべて日本から引きあげていくだろう。

 もし1発でも東京のド真ん中で核兵器が爆発すれば、そのときから、日本に政治、経済は、
機能停止状態になる。

 日本は、もう一度、アメリカとの間で、日米関係を、再構築するしかない。つぎの6か国協議
は、それからの話である。
(この原稿は、07年4月25日に書いたものです。)

(注※)アジアでは、ドル決済は、すべて一度、アメリカの金融センターを経由することになって
いる。たとえばBDAからベトナムのX銀行に、1万ドルを送金するときも、直接、BDA→X銀行
に送金されるのではなく、一度、BDA→アメリカの金融センター→X銀行、というように、一度ア
メリカの金融センターを経由しなければならない。現在、そのアメリカの金融センターは、BDA
との取り引きを停止している。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●60歳

+++++++++++++++++

60歳までに、10人のうち、1人が、
死ぬという。
100人の同窓生がいるなら、10人
が死ぬことになる。
300人なら、30人……。

こういう話を聞くと、生きることは、
クジ引きのようなものだと思う。
そのつど、くじ引きに当たった人だけが
生き延びることができる。

自分の命が、何か、得体に知れないもの
によって、もてあそばれているみたいで、
恐ろしい。

++++++++++++++++

 暗い話でごめん。統計上では、60歳までに、10人のうち、1人が死ぬという(ある生命保険
会社のパンフレットより)。100人の同窓生がいるなら、10人が死ぬことになる。300人なら、
30人……。

 夫婦でいうなら、60歳までに、5組に1組の夫婦が、配偶者を失うことになる。が、問題は死
ぬことではない。(……と私は、思う。)問題は、それまで、たいていの人は、長い闘病生活を余
儀なくさせられる。その闘病生活が、つらい。そんなわけで、自分のことでいうなら、「朝、家人
が見に行ったら、ふとんの中で死んでいた」というような死に方をしたい。もしそうなら、いつ死
んでもよい。その覚悟は、できている。

 で、10人に1人というが、10人に2〜3人は、現在、その闘病生活を送っている。半病人と
いう人となると、もっと多いかもしれない。

 こうして考えていくと、生きるということは、くじ引きのようなもの。そのつど、人はくじを引き、
そのくじに当たった人だけが、生き延びることができる。私やあなたという、個人の力では、どう
にもならない。よい例が、がんである。

 自分の中に、自分でないものが生まれ、その自分でないものが、自分さえも殺してしまう。当
然、そのとき、自分でないものも死ぬ。死ぬと言うより、自滅する。

 そのがんになるかならないかは、確率の問題であって、個人の問題ではない。個人の力で
は、どうにもならない。つまり私たちの命は、いつも、得体の知れない何かによって、もてあそ
ばれている。私は、そこに生きることの恐怖を感ずる。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「だったら、生きているということだけでも、すばらしいことね」と。

 そう、何もかも、落ち目、落ち目の私だが、健康で、今、こうして自分の好きな仕事ができると
いうことだけでも、ありがたい。大切なことは、(その日)まで、懸命に生きること。悔いのない人
生を送ること。自分を完全燃焼させながら、生きること。

(1)今日できることは、明日に回さない。今できることは、あとに回さない。
(2)何ごとも、とくに楽しいことは、先手、先手で、実行していくこと。

 たった今、いつもの生活訓を、自分に言ってきかせた。

 そうそう、忘れてならないのは、10人のうち1人は、100歳まで生きることができるというこ
と。そう考えて、ここは前向きに生きていこう。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1917)

●子どもの問題、家族の問題

++++++++++++++

子どもに何か問題が起きると、
たいていの親は、「原因は、子ども
自身にある」「子どもに問題がある」と
考える。

これに対して、最近は、「家族とい
うのは、よくても悪くても、相互
に作用しあうもの」、つまり、
子どもの問題といっても、それは
家族の問題と考える考え方が、主流
になってきている。

つまり子どもといっても、家族の
「代表者」にすぎない、と。

子どもに何か問題が起きたら、
まず、家族のあり方を考える。

+++++++++++++++

子どもに何か問題が起きると、たいていの親は、「原因は、子ども自身にある」「子どもに問題
がある」と考える。そして「子どもを、何とかしよう」と考える。

これに対して、最近では、「家族というのは、よくても悪くても、相互に作用しあうもの」、つまり、
子どもの問題といっても、それは家族の問題と考える考え方が主流になってきている。つまり
子どもといっても、家族の「代表者」にすぎない、と。子どもに何か問題が起きたら、まず、家族
のあり方を考える。

 たとえばここにハキがなく、見るからに萎縮した子どもがいたとする。親は、「どうしてウチの
子は、ハキハキしないのか」「どうすれば、活発な子どもにすることができるか」と悩む。

 しかし本当の原因は、親自身にある。親の神経質な育児姿勢、過関心、それに過干渉。こう
した家庭環境が混然一体となって、その子どもをそういう子どもにした。こんな例もある。

 ある姉(当時、小2)と、弟(年長児)がいた。ともにハキがなく、チックや吃音(どもり)などの
神経症的症状のほか、無気力、無関心などの症状も示していた。話を聞くと、姉は、こう言っ
た。「勉強しないと、その夜は犬小屋で寝させられる」と。

 まだ「虐待」という言葉が、それほどポピュラーでない時代だった。私は、その(犬小屋で寝さ
せられるという異常さ)にぞっとした。つまりそういうことを当たり前とする家庭環境が、その姉と
弟を、そういう子どもにした。

 が、親は、それに気づいていない。いないばかりか、そうすることが親として、あるべき姿と信
じていた。

 そこでここにも書いたように、最近では、子どもに何か問題が起きると、家族全員(たいてい
は両親、両祖父母)を集めて、その問題を考えるようになってきている。これを「家族療法」とい
う。つまり子どもの問題は、家族の問題と考える。

 が、私の経験からしても、これは容易なことではない。家族というのは、家族自体が、ひとつ
の(自我群)で取り囲まれている。ひとつの固いカラでおおわれていると考えると、わかりやす
い。

 もっとわかりやすく言えば、親というのは、(おとな)。価値観や人生観、それに宗教観や哲学
などが、それなりにかたまってしまっている。そういう(おとな)を相手に、親自身がもつ問題点
をわからせるのは、たいへんなこと。いわんや、親自身を変えるようにもっていくのは、もっとた
いへんなこと。

 私にしても最近になって、年の功というか、若い親たちをやっと説教できるようになった。が、
若いときは、そうではない。へたに(家族)に介入しようものなら、「何を、生意気なことを!」と、
はね返されてしまった。

 たとえば過負担から無気力になってしまった子ども(小5男児)がいた。親は、毎日、その子
どもに、3〜4枚のプリント学習を強制していた。

 で、私はある日、意を決して、その父親にこう言った。「もう、勉強はあきらめたほうがいい。
今のままでは、本当に燃え尽きてしまう」と。

 しかし父親は、それに頑(がん)として反対した。「このままでは、ウチの息子は、ダメになって
しまう」と。さらにこうも言った。「先生(=私)は、他人の子どものことだから、そういうふうに言う
ことができる」と。

 今の私なら、もう少しうまく説得できたかもしれない。が、それがその親子との最後の会話に
なってしまった。

 そこで家族療法としては、(1)まず、子ども自身がもつ問題点を、親に理解してもらう、(2)そ
の原因は、家族全体がもつ雰囲気(システム)にあることを理解してもらう、というところから始
める。

 が、これとて、私のほうからするわけではない。親のほうから何か相談があったとき、その機
会を通して、それとなく親に理解してもらう。言い方をまちがえると、大騒動に発展してしまうこ
ともある。

 加えて親自身がもつ、知的能力の問題もある。家族療法といっても、親に、それを理解する
だけの知的能力がなければならない。さらに家庭環境の問題もある。すでに家庭崩壊の状態
にある親子に向かって、家族療法を勧めても、意味はない、などなど。

 が、ひとつだけ、心に留めておいたらよい。

 子どもに何か問題を発見したら、それはあなたの問題である、と。

 そういう謙虚さが、あなたの心を溶かし、ついで、子どもの心を溶かす。「ウチの子どものこと
は、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、自分の子どものことがわかっていない。く
れぐれも、ご注意!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 家族
療法 家族自我群)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●家庭内子育て戦争

+++++++++++++

家族の問題は、相手から相談
があるまで、介入しない。

これは子どもを指導するときの
大鉄則。

+++++++++++++

 明らかに過保護な子ども(年中男児)がいた。原因は、おばあさん。そこである日、たまたま
母親が迎えにきていたので、その母親にこう言った。「少し、おばあちゃんから離したほうがい
いですよ」と。

おばあさんは、ベタベタに子どもをかわいがっていた。が、この一言が、その後、大騒動の引き
金になろうとは!

 それから一か月後。母親がすっかり疲れきった様子で、幼稚園へやってきた。あまりの変わ
りように驚いて、私が「どうしたのですか」と声をかけると、こう話してくれた。

「いやあ、先生、あれからたいへんでしたの。祖父母と別居か、さもなくば離婚ということになり
まして、結局、祖父母とは別居することになりました」と。ほかのことならともかく、親も、こと子
どものこととなると、妥協しない。こんなこともあった。

 その老人は、たいへん温厚で、紳士的な人だった。あとで聞くと、中学校の教師をしていたと
いう。その老人が、どういうわけだか、D君(年長児)の入試に、異常にこだわっていた。「先
生、何としても孫には、A小学校に入ってもらわねば困るのです」と。

私はその老人の気持ちが理解できなかった。「元先生ともあろう人が、どうして?」と。が、ある
日、その理由がわかった。老人は、こう話してくれた。D君の父親は、隣町の浜北市で勤務医
をしていた。もしD君がA小学校に入学すれば、D君は、その老人の家から小学校へ通うことに
なる。が、入学できなければ、D君は浜北市の親のもとへ帰ることになる、と。

しかし入試の直前になって、事態が急変した。親が入試を受けることに、猛烈に反対し始めた
のだ。私のところにも父親から電話がかかってきた。「今後は、我が家の教育については干渉
しないでほしい。息子は浜北市の地元の小学校に通わせることにしたから」と。

 この事件はそれで終わったが、それから半年後。そのときその老人は、自転車に乗っていた
が、車ですれ違うと、別人のようにやつれて見えた。孫の手を引きながら、意気揚揚と幼稚園
へ連れてきた、あのハツラツとした姿は、もうどこにもなかった。あとで聞くと、それからさらに
半年後。その老人は何かの病気で亡くなってしまったという。その老人にとっては、孫育てが生
きがい以上のもの、つまり「命」そのものだった。

 孫を取りあって、父母との間で壮絶な、家庭内戦争を繰り広げている人はいくらでもいる。し
かし世の中には、こんな悲惨な例もある。例というより、一度、あなた自身のこととして考えてみ
てほしい。あなたなら、こういうケースでは、一体どうするだろうか。

 ある祖父母には、目に入れても痛くないほどの一人の孫がいた。が、その孫が交通事故に
あった。手術をすれば助かったのだが、その手術に、嫁が、がんとして反対した。嫁は、ある宗
教教団の熱心な信者だった。その教団では、手術を拒否するように指導している。

一度私が教団に確認すると、「そういう指導はしていません。しかし熱心な信者なら、自ら拒否
することもあるでしょう」とのこと。ともかくもそれで、その孫は死んでしまった。
 
 その祖父はこう言って、言葉をつまらせた。「それまでは、愛だとか平和だとか、嫁の宗教
も、それほど悪いものではないと思っていたのですが……」と。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●根性のある子ども

+++++++++++++

今、子どもたちが、どこか
ナヨナヨしている。

またそういう子どもほど、
できのよい子と考える。

しかし……。

+++++++++++++
 
 自分の意思を貫こうとする強い自我を、根性という。この根性さえあれば、この世の中、何と
かなる。反対にこの根性がないと、せっかくよい才能や頭脳をもっていても、ナヨナヨとした人
生観の中で、社会に埋もれてしまう。

 ある男の子(年長児)は、レストランで、「もう一枚、ピザを食べる」と言い出した。そこで母親
が、「お兄ちゃんと半分ずつにしなさい」と言うと、「どうしても一枚食べる」と。母親はあきらめ
て、もう一枚注文したが、その子どもは、ヒーヒー言いながら食べたという。あとで母親が、「お
となでも二枚はたいへんなのに」と笑っていた。

 またある幼稚園で先生が一人の男の子(年中児)に、「あんたなんか、もう、おうちに帰りなさ
い!」と言ったときのこと。先生は軽いおどしのつもりでそう言っただけなのだが、その子ども
は先生の目を盗んで教室を抜け出し、家まで歩いて帰ってしまった。先生も、まさか本当に帰
るとは思っていなかった。母親もまた、「おとなの足で歩いても、一時間はかかるのに」と笑って
いた。こういう子どもを、根性のある子どもという。

 その自我。育てる、育てないという視点ではなく、引き出す、つぶすという視点で考える。つま
りもともとどんな子どもにも、自我は平等に備わっているとみる。それは庭にたむろするスズメ
のようなものだ。あのスズメたちは、犬の目を盗んでは、ドッグフードをかすめ取っていく。そう
いうたくましさが人間にもあったからこそ、私たちは、何十万年もの長い年月を、生きのびるこ
とができた。

 が、多くの親たちは、その自我をつぶしてしまう。過干渉や過関心、威圧的な子育てや親の
完ぺき主義、さらには親の情緒不安が、子どもの自我をつぶす。親が設計図をつくり、その設
計図にあてはめるのも、まずい。子どもは小さくなり、その小さくなった分だけ、自我をそがれ
る。

 反対に自我を引き出すためには、まず子どもは、あるがままを認める。そしてあるがままを
受け入れる。できがよくても、悪くても、「これがうちの子だ」と納得する。もっとはっきり言えば、
あ・き・ら・め・る。一見いいかげんな子育てに見えるかもしれないが、子どもは、そのいいかげ
んな部分で、羽を伸ばす。自分の自我を引き出す。

 ただしここでいう自我と、がんこは区別する。自分のカラに閉じこもり、かたくなな様子になる
のは、がんこという。たとえばある男の子(年長児)は、幼稚園では同じ席でないと、絶対に座
らなかった。また別の男の子(年長児)は、二年間、ただの一度もお迎えにくる先生に、あいさ
つをしなかった。そういうのは、がんこという。

 また自我は、わがままとも区別する。「この前、お兄ちゃんは、○○を買ってもらったのに、ど
うしてぼくには買ってくれないのか」と、主張するのは自我。しかし理由もなく、「あれ買って!」
「これ買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。ふつう幼児のばあい、わがままは
無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、誰も相手にしませんよ」という姿勢を貫
く。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●壮絶な家庭内暴力

++++++++++++++

家庭内暴力を繰りかえす子どもは、
外の世界では、信じられないほど、
(いい子)であることが多い。

T君も、そんな子どもだった……。

++++++++++++++
 T君は私の教え子だった。両親は共に中学校の教師をしていた。私は七、八年ぶりにそのT
君(中二)のうわさを耳にした。たまたまその隣家の人が、私の生徒の父母だったからだ。

いわく、「家の中の戸や、ガラスはすべてはずしてあります」「お父さんもお母さんも、廊下を通
るときは、はって通るのだそうです」「お母さんは、中学校の教師を退職しました」と。私は壮絶
な家庭内暴力を、頭の中に思い浮かべた。

 T君はものわかりのよい「よい子(?)」だった。砂場でスコップを横取りされても、そのまま渡
してしまうような子どもで、やさしく、いつも柔和な笑みを浮かべていた。しかし私は、T君の心
に、いつもモヤのような膜がかかっているのが気になっていた。

 よく誤解されるが、幼児教育の世界で「すなおな子ども」というときは、自分の思っていること
や考えていることを,ストレートに表現できる子どものことをいう。従順で、ものわかりのよい子
どもを、すなおな子どもとは、決して言わない。むしろこのタイプの子どもは、心に受けるストレ
スを内へ内へとためこんでしまうため、心をゆがめやすい。T君はまさに、そんなタイプの子ど
もだった。

 症状は正反対だが、しかしこの家庭内暴力と同列に置いて考えるのが、引きこもりである。
家の中に引きこもるという症状に合わせて、夜と昼の逆転現象、無感動、無表情などの症状
が現われてくる。

しかし心はいつも緊張状態にあるため、ふとしたきっかけで爆発的に怒ったり、暴れたりする。
少年期に発症すると、そのまま学校へ行かなくなってしまうことが多い。このタイプの子どもも、
やはり外の世界では、信じられないほど「よい子」を演ずる。

 そのT君について、こんな思い出がある。私がT君の心のゆがみを、母親に告げようとしたと
きのことである。いや、その前に一度、こんなことがあった。私が幼稚園の別の教室で授業を
していると、T君はいつもこっそりと自分の教室を抜け出し、私の教室へきて、学習していた。T
君の担任が、よく連れ戻しにきた。

そこである日、私はT君の母親に電話をした。「私の教室へよこしませんか」と。それに答えてT
君の母親は猛烈に怒って、「勝手に誘わないでほしい。うちにはうちの教育方針というものがあ
るから!」と。しかしT君はそれからしばらくして、私の教室へ来るようになった。家でT君が、
「行きたい」と、せがんだからだと思う。以後私は、半年の間、T君を教えた。

 で、その「ゆがみ」を告げようとしたときのこと。母親はこう言った。「あんたは、私たちがお願
いしていることだけをしてくれればいい」と。つまり「よけいなお節介だ」と。

 子どもの心のゆがみは、できるだけ早い時期に知り、そして対処するのがよい。しかし現実
にはそれは不可能に近い。指摘する私たちにしても、「もしまちがっていたら……」という迷い
がある。「このまま何とかやり過ごそう」という、ことなかれ主義も働く。が、何と言っても、親自
身にその自覚がない。知識もない。どの人も、行きつくところまで行って、自分で気づくしかな
い。教育にはどうしても、そういう面がつきまとう。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●父母との交際は慎重に

 教育の世界では、たった一言が大問題になるということがよくある。こんな事件が、ある小学
校であった。その学校の先生が一人の母親に、「子どもを塾へ四つもやっているバカな親がい
る」と、ふと口をすべらせてしまった。

その先生は、「バカ」という言葉を使ってしまったのだが、今どき、四つぐらいの塾なら、珍しくな
い。英語教室に水泳教室、ソロバン塾に学習塾など。そこでそれぞれの親が、自分のことを言
われたと思い、教育委員会を巻き込んだ大騒動へと発展してしまった。結局その先生は、任期
の途中で転校せざるをえなくなってしまった。が、実は私にも、これに似たような経験がある。

 母親たちが五月の連休中に、子どもたちを連れてディズニーランドへ行ってきた。それはそ
れですんだのだが、そのあと一人の母親に会ったとき、私が、「あなたは行きましたか」と聞い
た。するとその母親は、「行きませんでした」と。

そこで私は(連休中は混雑していて、たいへんだっただろう)という思いを込めて、「それは賢明
でしたね」と言ってしまった。

が、この話は、一晩のうちにすべての母親に伝わってしまった。しかもどこかで話がねじ曲げら
れ、「五月の連休中にディズニーランドへ子どもを連れていったヤツはバカだと、あのはやしが
笑っていた」ということになってしまった。数日後、ものすごい剣幕の母親たちの一団が、私の
ところへやってきた。「バカとは何よ! あやまりなさい!」と。

 母親同士のトラブルとなると、日常茶飯事。「言ったの、言わないの」の大喧嘩になることも珍
しくない。そしてこの世界、一度こじれると、とことんこじれる。現に今、市内のある小学校で、
母親同士のトラブルが裁判ざたになっているケースがある。

 そこで教訓。父母との交際は、水のように淡々とすべし。できれば事務的に。できれば必要
最小限に。そしてここが大切だが、先生やほかの父母の悪口は言わない。聞かない。そして相
づちも打たない。相づちを打てば打ったで、今度はあなたが言った言葉として、ほかの人に伝
わってしまう。「あの林さんも、そう言っていましたよ」と。

 教育と言いながら、その水面下では、醜い人間のドラマが飛び交っている。しかも間に「子ど
も」がいるため、互いに容赦しない。それこそ血みどろかつ、命がけの闘いを繰り広げる。一〇
人のうち九人がまともでも、一人はまともでない人がいる。このまともでない人が、めんどうを大
きくする。が、それでもそういう人との交際を避けて通れないとしたら……。そのときはこうす
る。

 イギリスの格言に、『相手は自分が相手を思うように、あなたのことを思う』というのがある。
つまりあなたが相手を「よい人だ」と思っていると、相手もあなたのことを「よい人だ」と思うよう
になる。反対に「いやな人だ」と思っていると、相手も「いやな人だ」と思うようになる。

だから子どもがからんだ教育の世界では、いつも先生や父母を「よい人だ」と思うようにする。
相手のよい面だけを見て、そしてそれをほめるようにする。要するにこの世界では、敵を作ら
ないこと。何度も繰りかえすが、ほかの世界のことならともかく、子どもが間にからんでいるだ
けに、そこは慎重に考えて行動する。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●見え、メンツ、世間体

++++++++++++++

子育てを暗くするものに、
見え、メンツ、世間体がある。

この3つから解放されるだけでも、
あなたの子育ては、ぐんと
明るくなる。

++++++++++++++

 見え、メンツ、それに世間体。どれも同じようなものだが、この三つが家庭教育をゆがめる。
裏を返せば、この三つから解放されたら、家庭教育にまつわるほとんどの悩みは解消する。

まず見え。「このH市では出身高校で人物は評価されます」と、断言した母親がいた。「だから
どうしてもうちの子はA高校に入ってもらわねば、困ります」と。しかし見えにこだわると、親も苦
しむが、それ以上に、子どもも苦しむ。

 次にメンツ。ある母親は中学校での進学校別懇談会には、「恥ずかしいから」と、一度も顔を
出さなかった。また別の母親は、子どもが高校へ入学してからというもの、毎朝、自動車で送り
迎えしていた。「近所の人に、子どもの制服を見られたくないから」というのが、その理由だった
ようだ。また駅の近くで、毎朝、制服に着がえてから、通学していた子どももいた。が、こういう
姿勢は子どもの自尊心を傷つける。子どもを卑屈にする。

 最後に世間体。見えやメンツにこだわる親は、やがて世間体をとりつくろうようになる。「どうし
てもうちの子どもにはA高校を受験してもらいます」と言った親がいた。私が「無理だと思います
が」と言うと、「一応、そういうところを受験して、すべったという形を作っておきたいのです」と。

何とか「形」だけは整えようとするわけだが、ここから多くの悲喜劇が生まれる。私のような立
場の人間が、「世間は、あなたのことを、そんなに気にしていませんよ」と言っても、無駄。この
タイプの親は、世界は自分を中心にして回っているかのように錯覚している。あるいは世界中
が自分に注目しているようかのように錯覚している。

 考えてみればドングリの背くらべ。A高校だろうがC高校だろうが、日本というちっぽけな国
の、そのまたちっぽけな町の、序列にすぎない。この地球という惑星にしても、宇宙から見れば
ゴミのような存在ではないか。

私の部屋には太陽と地球の模型がかざってある。太陽を直径一五センチの球にしてみると、
地球は、それから約一〇メートルも離れたところにある、直径〇・五ミリ(一ミリの半分!)の玉
にすぎない。にもかかわらずその時期になると、多くの親たちは子どもの受験戦争に狂奔す
る。

 しかし一言。学歴にぶらさがって生きている人は、結局はその学歴で苦しむようになる。ある
父親は、ことあるごとに自分の出身高校を自慢していた。「そうそう今度ね、A高校の同窓仲間
と、ゴルフをしましてね」とか。

それとなく会話の中に、自分の出身高校名を織り込むわけだが、やがて自分の息子(中三)が
いよいよ高校受験ということになったときのこと。しかしその子どもにはその力はなかった。な
かったから、その分その親は、見えとメンツの中で、地獄の苦しみを味わうハメになった。ほと
んど毎晩、その父親と息子は、「勉強しろ!」「ウルサイ!」の大乱闘を繰り返していた。

 この見えやメンツ。それに世間体と闘う方法があるとすれば、それは「私は私、人は人」とい
う、人生観をもつこと以外にない。が、これは容易なことではない。人生観というのはそういうも
ので、一朝一夕には確立できない。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1918)

●虐待される子ども

++++++++++++++++

 カナーという学者は、虐待を次のように
定義している。

(1)度の敵意と冷淡、
(2)完ぺき主義、
(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、
愛情に根ざした本来の過保護ではなく、
子どもを自分の支配下において、思い
通りにしたいという、親のエゴに基づ
いた過保護をいう。

代償的過保護ともいう。

+++++++++++++++

                    
 ある日曜日の午後。一人の子ども(小五男児)が、幼稚園に駆け込んできた。富士市で幼稚
園の園長をしているI氏は、そのときの様子を、こう話してくれた。

「見ると、頭はボコボコ、顔中、あざだらけでした。泣くでもなし、体をワナワナと震わせていまし
た」と。虐待である。逃げるといっても、ほかに適当な場所を思いつかなかったのだろう。その
子どもは、昔、通ったことのある、その幼稚園へ逃げてきた。

 カナーという学者は、虐待を次のように定義している。(1)過度の敵意と冷淡、(2)完ぺき主
義、(3)代償的過保護。

ここでいう代償的過保護というのは、愛情に根ざした本来の過保護ではなく、子どもを自分の
支配下において、思い通りにしたいという、親のエゴに基づいた過保護をいう。代償的過保護
ともいう。

その結果子どもは、(1)愛情飢餓(愛情に飢えた状態)、(2)強迫傾向(いつも何かに強迫され
ているかのように、おびえる)、(3)情緒的未成熟(感情のコントロールができない)などの症状
を示し、さまざまな問題行動を起こすようになる。

 I氏はこう話してくれた。「その子どもは、双子で生まれたうちの一人。もう一人は女の子でし
た。母子家庭で、母親はその息子だけを、ことのほか嫌っていたようでした」と。

私が「母と子の間に、大きなわだかまりがあったのでしょうね」と問いかけると、「多分その男の
子が、離婚した夫と、顔や様子がそっくりだったからではないでしょうか」と。

 親が子どもを虐待する理由として、ホルネイという学者は、(1)親自身が障害をもっている。
(2)子どもが親の重荷になっている。(3)子どもが親にとって、失望の種になっている。(4)親
が情緒的に未成熟で、子どもが問題を解決するための手段になっている、の四つをあげてい
る。

それはともかくも、虐待というときは、その程度が体罰の範囲を超えていることをいう。I氏のケ
ースでも、母親はバットで、息子の頭を殴りつけていた。わかりやすく言えば、殺す寸前までの
ことをする。そして当然のことながら、子どもは、体のみならず、心にも深いキズを負う。学習
中、一人ニヤニヤ笑い続けていた女の子(小二)。夜な夜な、動物のようなうめき声をあげて、
近所を走り回っていた女の子(小三)などがいた。

 問題をどう解決するかということよりも、こういうケースでは、親子を分離させたほうがよい。
教育委員会の指導で保護施設に入れるという方法もあるが、実際にはそうは簡単ではない。
父親と子どもを半ば強制的に分離したため、父親に、「お前を一生かかっても、殺してやる」と
脅されている学校の先生もいる。

あるいはせっかく分離しても、母親が優柔不断で、暴力を振るう父親と、別れたりよりを戻した
りを繰り返しているケースもある。

 結論を言えば、たとえ親子の間のできごととはいえ、一方的な暴力は、犯罪であるという認識
を、社会がもつべきである。そしてそういう前提で、教育機関も警察も動く。いつか私はこのコ
ラムの中で、「内政不干渉の原則」を書いたが、この問題だけは別。子どもが虐待されている
のを見たら、近くの児童相談所へ通報したらよい。「警察……」という方法もあるが、「どうして
も大げさになってしまうため、児童相談所のほうがよいでしょう。そのほうが適切に対処してくれ
ます」(S小学校N校長)とのこと。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 虐待
 虐待の定義 ホルネイ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●キズつく子どもたち

++++++++++++++

虐待というわけではないが、
親の不適切な育児姿勢の中で、
キズつき、もがいている子どもは
少なくない。

++++++++++++++

 ある日、F君(年長児)の母親が、幼稚園へやってきた。そして私の授業をどうしても、参観さ
せてほしいと言った。私がそれを断ると、母親は泣き崩れて、ドアのところで身をかがめてしま
った。

つき添ってきた女性(母親の姉)も、「一度でいいから」と、私に迫った。が、私にはどうすること
もできなかった。F君には、そのとき、新しい母親がいた。その母親は母親で、F君の心をつか
もうと必死だった。F君の祖母からも、「仮にそういうことがあっても、決して、前の母親には会
わせないでほしい」と、何度も念を押されていた。しかし私が母親に参観させることができなか
った理由は、ほかにあった。

 離婚するのは離婚する人の勝手だが、そこに至る騒動が、子どもの心をキズつける。こんな
ことがあった。ある日J君(年中児)に、「絵を描いてごらん」と紙を渡したときのこと。J君はクレ
ヨンで真っ黒に塗りつぶしてしまった。

そこでもう一度、紙を渡すと、その紙も同じように塗りつぶしてしまった。軽く叱ると、今度は足
で机をひっくり返してしまった。あとで母親にその理由を聞くと、「実はその前夜、夫が蒸発しま
して……」と。

 一般論として、子どもというのは引っ越しなど、環境の変化には、たいへん強い適応力を見
せる。しかし愛情の変化には、もろい。夫婦喧嘩も、ある一定のワクの中でするなら問題はな
いが、そのワクを超えると、子どもに大きな影響を与える。

ものの考え方が粗雑化する。感情のコントロールができなくなる。育児拒否児、家庭崩壊児に
似た症状を示すこともある。

ある子ども(年長男児)は、いくら先生に叱られても、口をキッと結んだまま、涙一つこぼさなか
った。自然な感情表現そのものも、自ら押し殺してしまう。そしてそれが慢性化すると、俗にい
う、「ひねくれ症状」が出てくる。

私「誰だ、このクレヨンをバラバラにしたのは」
子「体がひっかかって、落ちた」
私「だったら、拾っておきなさい」
子「先生がそんなところに置くから悪い」
私「置いても、落としたのは君なんだから、拾うべきだ」
子「先生だって、この前、落としたクセに……」
私「……」と。

 それにもう一つ一般論。たった一度でも、その衝撃が大きければ大きいほど、子どもの心に
は、取り返しがつかないほどの大きなキズがつく。以前だが、NHKの報道番組の中で、失語
症になってしまった女性(二〇歳ぐらい)が紹介されていた。

彼女は一〇歳ぐらいのとき、両親が目の前で惨殺されるのを目撃してしまった。以来、声が出
なくなってしまったという。戦時下のサラエボで起きた悲劇だが、これに似たケースはいくらでも
ある。実は冒頭にあげたF君も、そうだった。

会ったときから、強度の自閉傾向を示していた。勝手にあちこちを動き回り、自分からは決して
心を開こうとしなかった。意味のない独り言をボソボソと言い続けるなど、話しかけても、会話
そのものが、かみあわない。

私「今日はいい天気だね」
F「冷蔵庫の上に、トンボ!」と。

突然、奇声をあげて教室の中を走り回ったり、私の手にかみつくこともあった。そんな姿を母親
が見たら、その母親はどう思うだろう。私にはそれを見せることができなかった。私は別れぎ
わ、その母親にはこう言った。「心配しなくても、いいですよ。F君は、今、元気にやっています
から」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自閉
傾向 自閉症)


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●悪化する対アジア人感情

+++++++++++++++

アメリカのアーカンソー州のある
高校で、日本人の学生(ハーフ)が、
退学させられた。

バージニアでの韓国人学生による
銃、乱射事件のとばっちりを
受けたものらしい。

アメリカ人にしてみれば、韓国人
も日本人も同じ。

区別せよと言うほうが、無理。

+++++++++++++++

 いくら日本人が、「私たちは、韓国人とはちがう」「中国人とはちがう」と叫んでも、そんな声
は、アメリカ人には届かない。

 アメリカ人にしてみれば、韓国人も日本人も同じ。区別せよと言うほうが、無理。それはちょう
ど、日本人にとって、ノールウェイもスウェーデンも同じと思うのに似ている。あるいは、カザフ
スタンもウズベキスタンも同じと思うのに似ている。

 だいたい、日本がどこにあるか知らない大学生のほうが多い。

 そんな中、バージニア州で、韓国人留学生による、銃、乱射事件が起きた。結果、32人もの
学生が殺された。たいへん不幸な事件だが、連日、韓国の新聞は、「この事件は、個人的なも
ので、韓国という国とは直接関係ない」という記事を掲載している。

 それはそれで構わないが、個々のアメリカ人にとっては、そうではない。息子(現在、アメリカ
に在住)のBLOGに、こんな記事が載っている。それをそのまま紹介する(4月26日)。

 『32人もの学生、教授が殺されたバージニアの銃乱射事件がおきて、早一週間。イラク戦争
で死んでいく陸軍のことや、連日百人単位で死んでくイラク人の話はそっちのけで、連日バー
ジニアの話ばかり。

しかしNBCなどのメディアは一体何を考えて、あのチョ殺人鬼が残したビデオなど連日放送して
いるのか? ところで本当かどうかは知らないのだが、インターネットの投稿によるとアーカン
ソーのある高校へ通っていた日本人ハーフの16才少年が、高校から退学処分を受けた。

理由は、バージニアの銃乱射事件の前に「頭の中の5つの声のうち4つが、やってしまえと言っ
ている」と書かれたTシャツを着ていたということと、「アジア人で、物静か」だというのが、理由
だそうだ。

それで警察に通報され、その後Myspaceに、エイリアンを皆殺しにする内容のアニメ(??)を
保持していたということが理由だったそうだ。

母親はすでにACLU(アメリカ自由人権協会)へ届出を出したのだとか。本当だとしたらまあ、な
んというか、アーカンソーならではの話だと思う。

 これ以上アジア人や、アジア人ハーフの身が狭くなるようなニュースは見たくない』と。

 もちろん韓国人学生も、被害を受けている。AP通信は、こんな記事を配信している(4月24
日)。

『米アラバマ州オーバーン大学で、韓国人留学生が集団暴行を受ける事件が起きた。米連邦
捜査局(FBI)は、この事件が今月16日(現地時間)に発生したバージニア工科大学乱射事件
にかかわる報復目的のものなのか、詳しく捜査している。
 アラバマ州オーバーン警察署によると、19日(現地時間)午前0時前に、オーバーン大学の
学生寮「レイン・レジデンス・ホール」で、韓国人の男子学生(18)が男4人に集団暴行されたと
のことだ。

氏名が公開されていないこの韓国人学生は、約1カ月前に渡米、暴行により軽症を負ったとい
う』と。

 事件直後から、韓国の新聞各社は、事件そっちのけで、アメリカ人による報復を何よりも恐
れた。「自分たちなら、報復するだろう」という思いが、そういう(恐れ)に転化したと考えるのが
正しい。

 事実、たった1人の女子中学生が、アメリカ兵に引き逃げされただけで、韓国人は、それを
反米感情につなげ、国中で、大規模なデモ行進までしてみせた。現在のN大統領は、その流
れにのって、そのまま大統領になった。

 が、そのとばっちりが、日本人にもおよんでいる! 日系ハーフの高校生が、退学処分を受
けたのも、そのひとつ。で、今回のバージニア州での銃、乱射事件にしても、韓国内における
反米教育が影響を与えていないとは、だれも断言できない。韓国の論理によれば、朝鮮半島
が2つに分断されたのは、もとはと言えば、アメリカの責任ということになっている。少なくとも現
在のN大統領は、そう考えている。

 いくら精神に問題があったとしても、32人もの学生を射殺するには、それなりの(憎悪の念)
がなければ、できるものではない。その(憎悪の念)というのは、実は、日々の教育によって熟
成される。

 さて、結論。

 「誇張された民族主義」(アインシュタイン)ほど、危険なものはない。日本的に言えば、「極右
的民族主義」ということになる。この誇張された民族主義に毒されると、世界が自分たちを中心
に回っているかのような錯覚に陥(おちい)る。「自分たちだけが最高の民族である」と。

 そう思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、「自分たち以外の民族は劣っている」と考
える。これがこわい。ひとたびそれが火がつくと、他の民族を徹底的に排斥しようとする。戦争
ともなれば、情け容赦なく、相手を殺しつづける。

 で、韓国のN大統領に一言。

 反日運動も結構だが、もう少し、広い視野で、自分たちの国を見つめなおしてみてはどうか。
「韓民族」「韓民族」と声を高くして叫ぶのは、あなたの勝手だが、しかし世界は、だれも、あな
たなど相手にしていない。

 日本がどこにあるか知らないアメリカの大学生は多い。が、韓国がどこにあるか知らない学
生となると、もっと多い。おかしな民族主義にとらわれていると、結局はあなた自身が孤立する
ことになる。

 それができないというのなら、つまり「誇張された民族主義」に、いつまでもこだわるなら、韓
国の流儀に従って、今度、高校を退学処分になった日本人高校生に、心から謝罪してほしい。

なぜならこの事件は、あなたがた韓民族の一員によって引き起こされた事件なのだから……。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●2つのハプニング

+++++++++++++++++

ときとして、とんでもないハプニング
が起きる。

たまたま昨日(4月26日)、こんな
ハプニングが、2つも起きた!

+++++++++++++++++

 まず、軽いハプニング。

 母のおむつを替えおわったところで、母が、「おしっこをしたい」と言い出した。しかたないの
で、パンツをさげ、便器に座らせた。そのとき、何割かの小便が、パンツにこぼれたらしい。

 気がつかなかった。

 「終わった」と母が言うので、母を立たせた。パンツを上にひきあげてやった。そのとき、パン
ツをぐいと上にあげ、手を放した。そのとたん、パチンと、パンツについていた小便が、四方に
飛び散った。

 私の顔にも、何滴か、かかった。ゲーッ!

 ワイフに、「バーさんの小便が顔にかかったよオ」とこぼすと、ワイフも、「私もときどきある」
と。2人で、ゲラゲラと笑った。

 ところで母は、めでたく(?)、要介護度4に、認定された。「お前、要介護度4だぞ。成績があ
がったぞ!」と、母をからかってやると、事情がわからないまま、母は、こう言った。「ありがと」
と。またまた2人で、ゲラゲと笑った。

 で、もうひとつのハプニング。これは、かなり深刻なもの。

 BW教室には、現在、3方に3台の電動式の鉛筆削り機が置いてある。その1台に、A君(小
1)が、プラスチック製のボールペンをつっこんだ。

 ガリガリと金属的な音をたてて、その鉛筆削り機は、そのまま止まってしまった。

私「いかんじゃないか、鉛筆削りに、こんなものを入れては……」
A「……」と。

 が、そのあと、10分くらいしてから、別の子どもが、その鉛筆削り機で、自分の鉛筆を削ろう
とした。が、その子どもはこう言った。「動かな〜イ」と。

 そこで近くに行ってみると、金属が焼けるにおい。かなり臭かった。で、鉛筆削りに手を触れ
たとたん、「熱い!」。

 かなりの発熱である。もしそのままあと10分も放置しておいたら、その鉛筆削り機は、発火し
ていたかもしれない。そういう状態だった。

私「あぶなかった。火事になるところだった」
子「先生、臭いよ〜オ」
私「ホント。あぶなかった……」と。

 熱が冷めかけたころ、私はその鉛筆削り機を分解してみた。が、コイル類は、すでに焼き切
れていた。使い物にならない。それでそのまま私はゴミ箱に捨てた。

私「こんなこと、2度としてはダメだよ」
A「うん」と。

 私は昔、私の息子が、コンセントに針金をつっこんだ事件を思い出していた。それにしても、
子どもというのは、油断もスキもあったものではない。何をしでかすか、わかったものではな
い。

 よく「日本の学校の教室は殺風景だ」と批評する人がいる。事実、そのとおりである。外国の
学校の教室と比較してみると、それがよくわかる。

 しかしその理由のひとつは、こんなところにある。子どもというのは、何をしでかすかわかった
ものではない。教室には、物を置けない。

 それにしても、あやうく、教室が、火事になるところだった。もしあのまま、知らないで、私が家
に帰っていたら……。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●あやしげな本?

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先日来より、あやしげな本について
書いている。

どこかの有名大学の教授が書いた
本ということになっている。

その中に、またまた、私の書いた
本の内容そっくりの記述を見つけた。

++++++++++++++++

 先日来より、あやしげな本について書いている。どこかの有名大学の教授が書いた本という
ことになっている。かなり売れているらしい。

その中に、またまた、私の書いた本の内容そっくりの記述を見つけた。

 いわく「やればできるはずと思ったら、あきらめる」と。

 私が1993年に書いた本の中の内容にそっくり。私は、こう書いた。「うちの子は、やればで
きるはずと思ったら、すかさず、やってここまでと思いなおせ」と。

 もちろん私のほうが先に書いている。そのあとも、たびたびこのテーマについて、書いてい
る。

 ……ということで、書店に行き、もし私が書いていることと同じようなことが書いてある本を見
つけたら、そちらの本のほうを疑ってほしい。

 だいたい、大学の教授ともあろうお方が、こんな臨場感のある情報を、手に入れるのは、不
可能。日々の生活の中で、子どもと接していなければ、手に入らない。こうした本を読むとき
は、まずそのあたりから疑ってみたらよい。

【ついでに一言】

 某・育児書ライターの方へ

 私のHPやマガジンを参考にして、育児書を書くような卑劣な行為は、即刻、やめていただき
たい。私のHPやマガジンを読むことも、やめていただきたい。あなたがたは、それなりに頭の
いい人たちだろうから、尻尾をつかまれるような記事は書かないだろう。しかし私には、わか
る。ニュアンスというか、雰囲気というか、それがまったく私のそれと同じ。そんなことは、確率
から言っても、ありえない。

 そのうち、証拠を整理して、あなたを法の場で訴えてやる。覚悟しておけ!


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1919)

●日韓経済戦争・2007年版

+++++++++++++++++

日本と韓国は、目下、水面下で
し烈な戦いを繰り広げている。
称して、「日韓経済戦争」。

日本にはそうでなくても、韓国には
日本は、100年の宿敵。

勝つか、負けるか……?

ここにきて、今、韓国経済が、
急速にしぼみ始めている。

++++++++++++++++

 韓国の経済が、ここにきて、急速にしぼみ始めている。小泉内閣当時から始まった、日韓経
済戦争が、効を奏し始めたとみてよい。小泉前首相は、韓国に向かって、こう言い放った。「後
悔するのは、韓国のほうだ」と。韓国のN大統領が、はげしい反日批判を繰り広げているとき
のことだった。

 韓国政府の発表によれば、2007年度の韓国の経済収支は、黒字になると言われている。
韓銀のC国際収支チーム長は、「商品収支の黒字がつづいているから、年間では、約20億ド
ル(=2400億円)の黒字になるだろう」と予測している。しかしこの数字は、甘い。

 サムスン経済研究所の予測によれば、13億ドル(=1500億円)の赤字。LG経済研究員の
予測によれば、12億ドル(=1400億円)の赤字。さらに現代経済研究院の予測によれば、3
0億ドル(=3600億円)の赤字ということになっている。

 それに呼応するかのように、たとえば現代起亜社などの経営危機説も、ちまたではささやか
れている。

 一方、この日本は、どうか?

 社団法人、日本貿易会の予測によれば、2007年度は、輸出が80兆円台、輸入が70兆円
台で、経常収支は、10兆円台の黒字になるという。(05年度、7兆8000億円の黒字、06年
度、8兆2000億円の黒字。)

 わかりやすい数字で比較すると、こうなる。

 お隣の韓国家は、年間360万円の赤字。しかしこの日本は、1000万円の黒字ということ。
それほど大きなちがいはないように見えるかもしれないが、日本は、輸出入の合計金額では、
150兆円。経済規模そのものが、ケタはずれに、ちがう。

 しかしなぜ、こんなバカなことになってしまったのか。

 結局は現実離れした、韓国政府の経済運営にあると説く人は多い。

 たとえば2003年9月以来、韓国の財経部は、輸出拡大をスローガンに、積極的な為替介入
をつづけている。しかしその為替介入が、ヘン。ふつうは、為替当局は世界のマネーの流れを
見ながら、時には、ディーラーに損をさせながら、適時、介入、無視を繰りかえす。

 ところが韓国の財経部は、一定金額を(限界)として、ほぼ毎日、為替介入を繰りかえしてい
る。

 こうなれば、ディーラーたちは、その一定金額をにらみながら、つまり損をすることなく、外貨
やウォンを売買したりすることができる。

 結果、韓国は、経済不振の中、ウォン高になり、かつ、為替平衡資金の損失だけが、雪だる
ま式にふえた。その額は、「03年度、640億円、04年度、1兆2600億円、05年度、4兆60
00億円!(数字は、「Kaneda Blog」より)。

 わかりやすく言えば、韓国が稼ぎ出している外貨の、何割かを、韓国政府は、そのままドブへ
捨てているということになる。

 さて、金大中からN政権になって、日本にとって韓国が、どういう国であるか、日本人もそれ
がわかったはず。K国の核開発問題ひとつ取りあげても、韓国は、ことごとく日本に背を向け、
最近では、K国に呼応して、日本はずしを画策している。

 その韓国の、あの97年の国家破綻(デフォルト)のときは、頼まれもしないのに、日本は、5
00億ドルという外貨資金を用意して、韓国の救済にあたった。その恩も忘れて、戦後60年以
上にもなろうというのに、いまだに、反日、反日の大合唱。

 それはそれで結構なことだが、かといって、韓国は、ウォン高をどうすることもできない。ここ
で公定歩合をほんの少しでさげただけでも、韓国経済は、そのまま一気に奈落の底へと落ち
ていく。個人負債額だけでも、30兆円以上もある。日本の人口規模に換算すれば、100兆
円!

 そこで私の主張。

 韓国経済が、2度目の破綻(デフォルト)を迎えるのは、このまま進めば、時間の問題。しかし
日本政府よ、日本人よ、つぎはぜったいに、日本のほうから韓国を助けてはならない。またそ
の必要はない。相手が頭をさげて頼みに来るまで、助けてはならない。それだけは、今から、し
っかりと肝に銘じておこう!


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1920)

●憶測

+++++++++++++++++

私には、韓国のN大統領というお方が、
いったい、何を考え、何をどうしたいのか、
その(心)が、まったく理解できない。

今、K国は、マカオのBDAに預けてある
預金を、ベトナムの某銀行に、送金しよう
としている。

それについて、中国政府筋は、「この2、3日
のうちに解決する」「楽しみにしていてほしい」
などと、述べている。

K国は、「完全に」という言葉を使って、
「BDA問題が完全に片づいたら、核開発
停止に向けての初期段階措置を開始する」
と繰りかえし、述べている。

が、ここでまたまた、韓国のN大統領が、
おかしなことを言い出した。

いわく「BDA問題が解決したら、即、
協議で決めた内容にしたがい、K国への
援助を開始する」と。

しかしこれは、おかしい。へん。

どうしてだろう? どうしてこうまで、
N大統領は、K国に気をつかうのだろう?

行き過ぎというよりは、その(行き過ぎ)を、
はるかに超えている。

++++++++++++++++++

 現在の韓国の大統領であるN氏は、長い間、労働組合の顧問弁護士として活躍してきた人
物である。日本的に言えば、極左勢力の中枢部門にいた人である。そのN氏が、ハプニング
的に、今の大統領の座についてしまった。

 きっかけは、アメリカ軍兵士による、女子学生ひき逃げ事件である。

 それはそれとして、以後、ご存知のように、N大統領は、完全にK国寄りの政策を、つぎつぎ
と繰り広げている。K国に対しては、あたかも腫れ物でも触れるかのように、気をつかってい
る。(行き過ぎ)をはるかに超えた、気のつかいようである。そのせいか、N政権、とくに政権内
の、あの統一部というところは、まるで、K国の韓国支局といった感じがしないでもない。

 そう、N政権は、K国のまさに、言いなり。韓国のほうが、頭をさげて、(支援する側の韓国
が、だぞ!)K国に、支援を繰りかえしている。私は今まで、「それもしかたのないことかな?」と
思ってきた。相手が相手。道理の通ずる相手ではない。しかしそれを考慮に入れても、お・か・
し・い。

 なぜか?

 昨日も、N大統領は、またまたおかしなことを言い出した。「BDAの預金が、ベトナムの某銀
行に送金されしだい、6か国協議で決まったことに応じて、韓国は、全面的にK国の支援を開
始する」(4月28日)と。

 支援というのは、原油5万トン、米40万トンなどをさす。

 しかしこれはおかしい。

 BDA問題の解決と、核開発の初期停止措置は、本来は、同時進行の形で、なされるべき性
質のものである。少なくとも、K国が、核開発の初期停止措置をしてはじめて、K国は、約束を
守ったことになる。K国への支援が開始されるのは、そのあとのことである。

 が、N大統領の発言によれば、その初期停止措置がなくても、K国を支援するという。現在ま
で、そのK国は、停止措置に向けて、何ら、行動を起こしていない。

 で、私は、ふと、こんなことを思った。あくまでも思っただけで、根拠はない。つまりまったくの
私の憶測だが、韓国のN大統領は、だれかに脅されているのではないか、と。つまりだれかに
弱みをつかまれ、それが理由で、脅されているのではないか、と。

 が、まったくの憶測かというと、そうでもない。事実、N大統領の側近の1人は、K国側のスパ
イ容疑で、政界の座から身を引いている。そんな事件も過去に、あった。また韓国には、「一心
K」という、K国の金日成を崇拝する組織もあるそうだ。N大統領の過去の経歴をみると、N大
統領が、そういった組織と無縁だったとは、とても思えない。

 しかしそう考えると、つまりN大統領が、だれかに弱みをつかまれ、脅されているのではない
かと考えると、一連のN大統領の不可解な行動を、うまく説明することができる。そのだれか
が、今の今も、N大統領にこう言っている。

 「オレの言うことを聞かなければ、お前の過去をバラすぞ」と。

 仮に私がここに書いたことが事実であるとするなら、この問題は、前代未聞の国際スキャン
ダルに発展するだろう。もちろん韓国国内は、大騒動! N大統領自身も、国家反逆罪で、死
刑以上の刑が科せられるかもしれない。

 繰りかえすが、これは私の、まったく勝手な憶測である。根拠は、何もない。しかしおかしな点
は、いくつかある。たとえば先日の南北閣僚級会談のやり取りをみても、支援する側の韓国が
頭をさげ、支援を受ける側のK国が、威張り散らしている。

 そうしたK国側の態度についても、韓国側は、ただ黙っているだけ。抗議らしい抗議を、何ひ
とつしていない。私でなくても、だれしも、おかしいと思うはず。どうして韓国は、K国に対して、
こうまで弱気なのか。一方、K国は、韓国に対して、こうまで強気なのか。また強気で出られる
のか。

 で、今、韓国のN大統領は、南北首脳会談を、画策しているという。首脳会談というと聞こえ
はよいが、私の憶測によれば、まさに(命乞いの会談)ということになる。N大統領にしてみれ
ば、何としてもだれかの口を封じておきたい。しかも直接会って、口を封じておきたい。また直
接会わなければ、こうした話しあいは、できない。

 「N大統領の行動が理解できない」と、私は3、4年前から書きつづけてきた。今もその気持ち
には、変わりない。ただN大統領のウラには、何かがある。何かはわからないが、たしかに何
かがある。

 その何かとは、何か。それについて、私の憶測で、この原稿を書いてみた。みなさんは、この
原稿を読んで、どのように感じただろうか。

【付記】

 ついでにもうひとつ、疑問。

 BDAにあるK国の預金についてだが、それを今回、今度は、ベトナムにある、ある銀行に送
金することになったという(中国筋)。

 しかしそれで本当に、BDA問題は解決したと言えるのか?

 今までBDAにあった預金が、ベトナムの、ある銀行に移動するだけということになる。K国
は、そこでそのお金をどうするつもりなのか。

 やはり、その銀行に預けておくだけなのか。だとするなら、何も、問題は、解決しないというこ
とになる。

 仮に、その預金が、ベトナムのX銀行に移動したとする。いくらX銀行が、「私の銀行は、マネ
ーロンダリングに加担していません」と叫んでも、世界は、そうはみない。「預かった」ということ
自体が、「協力した」とみなされる。世界中の銀行は、いっせいに、X銀行との取り引きを、ひか
えるようになるだろう。

それにアジア地域では、ドルの送金に関しては、一度、アメリカにある、金融センターを経由す
ることになっている。いつなんどき、またアメリカが、X銀行との取り引きを停止するかもしれな
い。

 私がK国の金xxなら、預金を全額引き出し、自国でタンス預金にでもしておく。結局は、それ
がいちばん安全な方法ということになる。が、どういうわけか、K国は、その預金を引き出そうと
いう動きを、まったく見せていない。

 「BDAの預金が、ベトナムの、ある銀行に送金された段階で、BDA問題は解決」とはしゃぐ、
韓国と中国。「あと2、3日で解決する」「K国は、核開発の初期措置を始めるはず」とはしゃぐ、
中国。

 しかしそんなことはありえない。つまり、K国は、いつまでも「完全に」という言葉にこだわりな
がら、時間稼ぎをするはず。なぜなら、K国の目標は、ただひとつ。核兵器をもち、核保有国と
して、名乗りをあげること。

 わかりやすく言えば、K国が、核開発放棄につながるような行動を、とるはずがない。いろい
ろなジェスチャはして見せるだろうが、しかしそこまで。たとえば老朽化して使いものにならない
Yビョンの核開発関連施設などを停止して見せるなど。

 では、どうするか?

 2010年までに、K国は、5〜6発の核兵器をもつという(在韓米軍B司令官)。そうなったとき
のことを考えるなら、日本は、今、ここで行動を開始しなければならない。「平和だ」「対話だ」な
どと、のんきなことを言っていると、それこそ、たいへんなことになる。少なくとも、韓国や中国に
同調していると、たいへんなことになる。

とくに韓国とは、決別しても構わないから、日本は日本で、日本と韓国の間に一線を引かねば
ならない。ばあいによっては、韓国に対する経済制裁も、視野に入れることも考える。

 K国の核開発問題というのは、日本にとっては、それほどまでに深刻な問題なのである。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1921)

【老齢期の統合性】(2)

++++++++++++++++++

少し前、老齢期の統合性について、書いた。
老齢期は、老齢期で、自己概念と現実自己を
一致させなければならない。

それを「統合性」という。

この統合性の構築に失敗すると、その人の
老齢期は、あわれで惨(みじ)めなものになる。

日々に、「こんなはずではない」と、悶々と
悩みながら生きることになる。

++++++++++++++++++

 若いときは、よい。一つの目標を設定し、その目標に向かって努力することで、自己概念(=
「私はこうであるべき」と描く自己像)と、現実自己(=現実の自分)を一致させることができる。

 が、その同一性は、長くはつづかない。「これでいいのか」「自分は、もっとできるはず」「今の
仕事は、本当に自分が求めていたものか」と。やがて、日々の平凡さの中で、人は、それを考
え始める。

 名誉や地位は、それなりに魅力的なもの。お金はなければ、不幸になる。しかしお金で、幸
福は買えない。健康も買えない。いわんや精神を満足させることはできない。「だからどうな
の?」と自問することも多くなる。

 豪華な高級車を購入した……だからどうなの?
 息子が有名大学に進学した……だからどうなの?
 立派な家を購入した……だからどうなの?
 高価な服を買って、身を飾った……だからどうなの?、と。

 そこで大半の人は、40歳をひとつの曲がり角として、再度、自己の同一性を求めて、さまよ
い歩くことになる。ちょうどそのころ、親であれば、子育てが一段落する。子どもは親離れし、親
も子離れをする。

 仕事にしても、先が見えてくる。それまではぼんやりとして見えなかった(未来)が、そこに見
えてくる。「ああ、私はこの先、よくて部長どまり」「今の夫と、いっしょに老後を暮らすことは考え
られない」と。と、同時に、自分の限界を思い知らされる。「何だ、私の人生は、こんなものだっ
たのか」と。

 が、それまでの人生を軌道修正することは、容易なことではない。日々に悩んでも、そのまま
明日はやってくる。そしてその明日になれば、またそのつぎの明日がやってくる。

 「このままでいいとは思わない」「何とかしなければならない」……そんな思いの中で、ときに
人生は空回りをする。いや、中には、そうした人生に、果敢に挑戦していく人もいる。転職した
り、離婚したり、あるいは資格を取り独立したり……。しかしそれをするにも、かなりの体力と気
力が必要。たいていの人は、その勇気もないまま、その一歩手前で、立ち止まってしまう。

 そこでこのタイプの人は、身近に安楽な道をさがし、妥協し、納得し、その中に身を沈めてい
く。仕事から帰ってきたら、テレビでみるのは野球中継だけ。たまの休みには、近くのパチンコ
屋で、一日を過ごす。新聞にバーゲンのチラシが入れば、それを頼りに買い物にでかける。街
角で友人に会えば、数時間でも立ち話をして、時間をつぶす。

 こうして人は、50代になり、やがて60代へと突入する。

 が、ここで人は、人生、最大の問題を迎える。「命の限界」という問題である。いくら「私は、老
人ではない!」と叫んでみても、まわりの人たちは、それを認めてくれない。人は加齢とともに
老人になるのではなく、まわりの人たちによって、老人につくられていく。それもそのはず。あな
たはだれから見ても、老人。老人そのもの。白髪に、弱った足腰。たるんだ皮膚に、鈍くなった
頭の回転。

 その先にあるのは、暗くて冷たい、死の世界。

 そこで人は、再び、こう叫ぶ。「私の人生は、いったい、何だったのか!」「今まで、私は何を
してきたのか!」と。

 そのときそこに(自分)を知る人は、幸福な人だ。自分の人生を、それまでに築きあげた土台
の上に、さらに自分の人生を円熟させる。しかしそんな幸運な人は、コンマ・数パーセントもい
ない。あるいは、もっと少ないかもしれない。

 そのとき一番楽な方法といえば、何も考えることなしに、バカになること。アホになること。人
生そのものを放棄してしまうこと。「老後は、悠々自適な年金生活」「庭いじりをして、あとは孫
の世話」と。しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのか。

 あるいはあの世に身を託し、宗教に埋没するという方法もある。あの世を認めれば、理屈の
上では、命は永遠につづくことになる。この世の限界を乗り越えることができる。しかし見たこと
もないあの世に、どうして自分の身を託すことができるのか。少なくとも、私にはできない。

 先ほど、私は、「40歳」という年齢を具体的に書いた。心理学の本などでも、この「40歳」と
いう年齢を取りあげることが多い。この年齢を、「人生の正午」(エリクソン)と呼ぶ学者もいる。
ちょうど子どもたちが、14、5歳ごろから思春期を迎えるように、人は、この40歳を節目に、大
きな転機を迎える。

 この40歳ごろから、人は、意識的であるにせよ、無意識的であるにせよ、新しい自分探しを
始める。「自分探し」というよりは、つぎのステップに進むための土台づくりと言ったほうが正確
かもしれない。

 言いかえると、この時期を安逸に逃してしまうと、その人の老後は、ないに等しい。そう断言
するのは危険なことだが、自分を見つめなおす気力そのものを失ってしまう。あるいは、こう言
って日々に、自分を慰めて生きる。

 「まあ、人生、こんなものだよ」「死ねば、みな、同じ」「楽しく生きることこそ大切」と。通俗的な
論理をふりかざし、問題をいつも先送りしながら、生きる。生きていると言えるよう状態でないま
ま、生きる。

 老後の問題。それはここでいう統合性の問題と言ってもよい。若者は、「私はどうあるべき
か」と悩む。そしてそれに現実の自分を一致させようとする。しかし命の限界を感ずると、そう
はいかない。自己像にしても、「私はどうあるべきか」ではなく、「私は何をすべきか」と変質して
いく。「どうあるべきか」ではなく、「何をすべきか」と。

そして具体的に自己像を描く。その自己像に合わせて、現実の自分をつくりあげていく。それ
が老後の自己同一性の問題ということになる。

 繰りかえすが、その時期は、「40歳」。老後の準備は、このころからしても、早すぎるというこ
とはない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 老後の統合性 自己同一性 自我同一性 自己像)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●老齢期メランコリー

+++++++++++++++

改めて、老齢期の適合性に
ついて考えてみる。

+++++++++++++++

 定年退職か何かで、仕事を失う。退職でなくてもよい。リストラ、左遷、配置転換、転職などな
ど。

 そのときだれしも、ふと、こう思う。「私は、今まで、いったい、何をしてきたのだろう?」と。

 そこに残っているものは、何もない。恐ろしいほど、何もない。

 そんなことを考えているとき、通りで、こんな光景を見かけた。若い数人の男たちの集団だっ
た。胸には、どこかの会社のバッジをつけていた。みな、意気揚々と、肩で風を切りながら歩い
ていた。多分、これからどこかで、打ちあげ式か何かをするつもりなのだろう。

 私にも、ひょっとしたら、ああいう時代があったかもしれない。しかしそれも今は、乾いた風の
中。振りかえると、その風の中で、秋の落ち葉がヒラヒラと舞っているだけ。

 老後……人は、「第二の人生」と呼ぶが、どうすれば自分の統合性をつくりあげることができ
るのか。思春期を過ぎた若者たちが、自己の同一性で悩むように、老後を迎えた私たちも、そ
の同一性、つまり統合性の問題に直面する。

 「何をすべきか」と、悩む。「そのために、自分は、どうあるべきか」と。

 孫と悠々自適な老後生活? 年金暮らし? 海外旅行に庭いじり? とんでもない! そんな
もので心のすき間を埋めることはできない。またそんなものを求めて、今まで自分の道を歩い
てきたのでもない。

 心理学の本などによれば、その統合性を準備するのは、40歳くらいからだという。エリクソン
は、「人生の分岐点」という意味で、その40歳という年齢を、「人生の正午」と呼んだ。

 「さあ、これから午後の仕事だ」という意味で、「正午」と呼んだのか。それとも「午後の仕事の
あり方を決める」という意味で、「正午」と呼んだのか。

 40歳といっても、決して早すぎることはない。学者で言えば、ライフワークを始める年齢という
ことになる。それまでの研究を基礎に、「これが私だ」というものを、作りあげる。40歳で始めて
も、10年や20年はかかる。
 
 が、この時期を逸すると、そのままズルズルと老齢期を迎える。ズルズルと、だ。で、そのう
ち、体力も衰え、持病が表に出てくる。気力も薄れる。より安易な道を選び、それに納得し、満
足する。いや、心のどこかで、「これではいけない」と思うことがあるかもしれない。が、自ら、そ
れを打ち消してしまう。「人生、こんなものよ」と。

 たいていの人は、こうして定年退職か何かで、仕事を失う。そしてハタと気がつく。「私は、今
まで、いったい、何をしてきたのだろう?」と。

 そこには何もない。本当に何もない。あるのは、秋の、ただの乾いた風。


Hiroshi Hayashi++++++++April 07++++++++++はやし浩司

●二男のBLOGより

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アメリカに住む二男が、興味ある
エッセーを書いた。題して、「最近の
夫婦関係」。

それをそのまま紹介する。

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このあたりでは「結婚している」といっても多種多様で、友達から話を聞いて、いろいろと驚かさ
れることが多い。

 例えば、結婚したら銀行口座というのは夫婦で共同保有するものだと思っていたのだけど、
結婚前から持っている別々の口座をそのまま使っている人たちが多い。お互い、いくら貯金が
あるかとか、給料はいくらなのかとか、知らない人が多いし、そういうことは夫婦間でもプライベ
ートなこととして話さないのだそうだ。

 ひどい家族だと、冷蔵庫の中にある食品も「誰が」買ったものであるとか、所有者がいて、自
分が買った物でない物を食べてしまった場合には、その分の料金を支払わなければならなか
ったりする。夫婦喧嘩になったりすることもあるのだそうだ。大学の寮みたいな世界だ・・。

 よく有名なファイナンシャル・アドバイザーが、結婚しても口座は別々に持っておいたほうがい
いと話しているのを耳にする。万が一離婚沙汰になったときに面倒だ、というのが、ひとつの理
由かもしれないが、結婚した瞬間から、離婚に有利になることを考えながら生活するなんて、
何て悲しい世界だろう。

 はっきり所有権を決めておくのを「平等」だとか、「相手を尊重している」と考えている人が多
いようだけれども、夫婦ですべてを共有し、相手を信頼し、万が一離婚したら・・なんて心配を
せず生きて行けたらいい。

+++++++++++++++++

 同じような話を、中国人の妻と結婚した男性(日本人)からも、聞いている。私たち日本人にと
っては、何でもない話でも、白人社会ではそうでないという話も多い。

 たとえば以前にも書いたが、夫婦でレストランへ入ったようなとき、日本人なら、たいてい妻
のほうがサイフを開き、妻が払う。

 それを見たオーストラリア人の私の友人は、たいへん驚いていた。「日本では、妻が、勘定を
払うのか?」「どうして(収入がない)妻が、勘定を払うのか?」と。

 オーストラリアでも、サイフは、夫婦別々にもっている。生活費にしても、妻が夫に請求して、
そのつど、夫が妻にその額を払うことが多い。

 日本の常識は、かならずしも、世界の常識ではない。

ただここで誤解してはならないことは、だからといって白人社会は冷たいとか、白人の夫婦はド
ライとか、そういうふうに考えてはいけないということ。繰りかえすが、世界的に見れば、日本の
夫婦のほうが、奇異に見えるということ。日本だけを基準にしてものを考えると、ものごとの本
質を見失うことになる。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1922)

●今日から5月(5月1日)

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今日から5月。今朝は、犬のハナの
ほえる声で目が覚めた。

母と同居するようになって5か月。
「しばらく預かってくれ」と言った姉だが、
「母を連れ帰る」という気配はまったく
ない。

ないばかりか、母の持ち物を、あれこれ
口実を作っては、送り届けてくる。

姉のグチを聞くよりは、母の介護をする
ほうが、よっぽど、気が楽。ホント!

……と言っても、介護がこんなにも
楽だとは思っていなかった。姉から
聞いていた話とは、おお違い。

大切なのは、心の切り替えではないか。

介護するときは、する。しかしそれ以外の
ときは、介護のことは忘れる。

まったく忘れる。忘れて、私たちは
私たちで、好きなことをする。

その間に、母が突然死でもしたら……?、
と、ときどき考える。

しかしそれも運命。しかたのないこと。
いろいろ言う人はいるが、しかし、
これが現実。つまりそのあたりまで
ニヒリズムをもたないと、とても
日々の介護はできない。

とくに気をつかうのが、大小便の始末。
ときには、やわらかい大便を、部屋中に
まき散らす。

介護は、決して、きれいごとでは
できない。母は母で、自分で好き勝手な
ことをすればよい。

私たちもすべきことはする。が、そこまで。
その割りきりが大切。

そうそうハナは、母を見るたびに
ほえる。どうも相性が悪いようだ。

今朝も、多分、母が部屋のカーテンでも
あけたときに、ほえたらしい。

ボケもある。母の表情は、
いつも、どこかニヤニヤしている。
ニコニコというよりは、ニタニタに
近いかも。

が、心は開かない。閉じたまま。
つまり不気味。

犬のハナにも、それがわかるらしい。

+++++++++++++++++

 母と同居するようになって、もう5か月になる。先日、介護度を認定してもらった。それまでの
要介護度2から、要介護度4に、レベルがあがった。要介護度4というと、軽い寝起きはできる
が、自分ではほとんど生活ができない状態ということらしい。

 その母と、犬のハナの相性が悪いのには困る。いまだに、ハナは、母を見るたびに、ワンワ
ンとほえる。なぜか?

 母は、昔から心の開けない女性だった。今も、そうだ。ボケがそれに加わった。何を考えてい
るか、息子の私でさえ、まったくわからなかった。今は、さらにわからない。

 穏やかな表情、やさしげな笑み。しかしそれは仮面。ペルソナ。ニコニコというよりは、ニタニ
タに近い。そんな母が、犬のハナには、不気味に見えるのだろう。母が窓から顔を出すたび
に、ワンワンとほえる。

 今朝は、6時、少し前にほえた。多分、母が、カーテンでも開けて、外をのぞいたらしい。そん
なわkで、私もワイフも、今朝は、6時起き!

 一度ハナを強く叱ったあと、母のいつもの世話をした。おむつとパットをかえ、下着をかえる。
それに便器の清掃。時間にすれば、10分程度で、手際よくできるようになった。

 で、そのあと、庭に出て、畑を見回る。二十日大根が、いっせいに目を吹き出していた。風で
弱っていた青じそが、元気になっていた。ネギも、ここ数日で、みちがえるほど、大きくなった。
パセリも食べごろ。

 その間も、ハナは、私にじゃれる。「もうほえるんじゃないぞ」と何度も声をかける。が、わかっ
ているのか、わかっていないのか……?

 朝食までには、まだ時間がある。書斎に入って、この文を書く。しかし心の中は、あさって届く
パソコンのことばかり。

 そうそう今度のビスタ(OS)では、USBメモリーを、スワップメモリーとして使うことができるそ
うだ。メモリーが不足してくると、パソコンは、勝手にハードディスクを仮想メモリーとして使うよう
になる。これが作業の能率を、ぐんとさげる。

 そこでビスタでは、USBメモリーが、ハードディスクのかわりに働く……それを「レディ・ブース
ト機能」というのだそうだ。で、そのUSBメモリーを、昨日、一足先に買った。4GBという大容量
のものだった。が、たったの8000円と少し。

 4GB、つまり4ギガバイトというのは、40億バイトをいう。フロッピーディスク(2HD)が、一
枚、1・2MBだから、フロッピーディスクに換算すると、約3300枚分の容量ということになる。

 3300枚分だぞ! ……だから、ここであえて、「たったの8000円と少し」と書いた。それに
しても、すごい! 3300枚分とは!

 それと昨日は、ウィルス対策ソフトを購入した。パソコンを購入したら、まっさきに、ウィルス対
策ソフトをインストールする。これはこの世界では、常識!

 あと、必要なのは、ハードディスク。一度そのハードディスクにファイルやデータを移し、その
ハードディスクを新しいパソコンに搭載する。が、ここで失敗。昨日、市内のショップで、そのハ
ードディスクを買おうとしたが、2種類あることを知った。

 Serial−ATA2仕様のものと、Ultra−ATA2仕様のものだ。今度のパソコンは、どちらの仕
様のものかわからなかったので、購入しないで、そのまま帰った。帰ってきてから調べたら、S
erial仕様のものだとわかった。

 で、テレビを見ながら、ワイフにこう言った。「あさってから、お前は、未亡人だからね」と。す
るとワイフは心配そうな顔をして、「どうして?」と。

私「パソコン未亡人だよ」
ワ「ああ、そうかア」と。

 そのワイフだが、ひとつだけ理解できないところがある。新しいパソコンが届くことを、まるで
自分のことのように楽しみにしている。そんな感じがする。だからまたまた、聞いた。「あのな
あ、パソコンって言っても、ぼくのだよ。お前のじゃ、ないよ。どうしてお前がうれしいんだ?」と。

 するとワイフは、こう言った。「あなたがうれしければ、私もうれしい」と。

 ナルホド! しかし私は、とてもそういう気分にはなれない。……ということで、昨夜遅く、ビデ
オレンタルショップへ行って、ビデオを何本か、借りてきた。

 「連休中は、ビデオをたくさん見ればいいよ」と。

 明日から私も、大型連休。講演は入っているが、人と会う約束はない。そうそう来週、恩師の
田丸先生と会う。浜松市の郊外にあるMというレストランで会食する。夕食をおごってくれると
いうから、それに甘えることにした。楽しみだ。

 ところで知らなかったが、田丸先生の父親というのは、これまたすごい学者だったそうだ。日
本学士院の学士院長まで務めた人物だという。田丸節郎という名前の人だった。で、その田丸
節郎という人の兄が、田丸卓郎。物理学者だったそうだ。日本語をすべてローマ字にしようと
がんばった学者としても知られている。

 その田丸先生の娘婿氏が、『国家の品格』の著者のF氏。田丸卓郎氏とは、(多分?)、180
度ものの考え方が、正反対だというのは、たいへん興味深い。

 もっとも、私が田丸先生と会うときは、こうした話は、まったく関係ない。いつもバカ話ばかりし
ている。この関係は、学生時代から、変わらない。

 たった今、ワイフが、「食事にしよう」と声をかけてくれた。今朝の雑感は、ここまで。

 ではみなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1923)

●またまた「東海(トンヘ)」?

Why should the Japan Sea be the Eastern Sea?
The Japan Sea is situated to the east of Korea, 
but is situated to the north to Japan.

++++++++++++++++++

韓国にとっては、東海(トンヘ)かも
しれないが、日本にとっては、「北西海」。
あるいは「北海」。

どうして韓国は、こうまで「東海」に
こだわるのか?

++++++++++++++++++

 『坊主憎ければ、袈裟まで憎い』という諺(ことわざ)を地で行くような事例が、これ。今も、つ
づいている。韓国は、数年前から世界各国に特使まで送り、「日本海」を、「東海(トンヘ)」に改
称しようと運動を重ねてきた。

 韓国にとっては、たしかに「東海」だが、日本にとっては、「北西海」。あるいは「北海」。韓国
は、よほど、「日本」という名前が嫌いらしい。「日本海」ではなく、「日本」という名前が嫌いらし
い。

 しかし日本の周辺を見ただけでも、その地域や固有の名前がついた海というのは、いくらで
もある。

 北から、東シベリア海、ベーリング海、オホーツク海、東シナ海、台湾海峡、フィリッピン海、
南シナ海などなど。

 しかし「東海」などという、自己中心性丸出しの名前は、どこにもない。英語で言えば、「the 
Eastern Sea(東海)」。「トンヘの意味は?」と聞かれたら、韓国の人たちは、何と答えるのか。

 こんな改名がまかり通るなら、まず日本とフィリッピンの間にある「フィリッピン海」を、「南海」
としたらどうか。が、それが韓国にとっては、おもしろくないらしい。こんな記事が、今朝の朝鮮
N報に載っていた。

 『5月7日からモナコで開かれる、国際水路機構(IHO)総会に参加する、加盟国78カ国のう
ち、大多数が「日本海」の単独表記を支持していることが判明し、韓国政府に緊張が走ってい
る。
 韓国政府当局者は30日、IHO総会に関するブリーフィングを開き、「現在の状況では大多数
のIHO加盟国が日本海単独表記を支持しているが、どのような状況であれ、日本海が単独表
記されることを絶対に容認することはできないというの、われわれの基本的な立場」と述べた』
(5月1日)と。

 どうして容認することができないのか? 韓国側は、その理由も述べたらよい。と、同時に、
どうして日本海ではいけないのか。その理由も述べたらよい。さらに、どうして「東海」なのか、
その理由も述べたらよい。

 仮に「東海」ということになれば、今度は、日本が猛反対するだろう。「どうして東海なのか」
と。

 さすがの韓国政府も、自分たちの愚かさに気づいたのだろう。今度は、「平和の海」という代
案を出してきた。「平和」という名前は、K国が好んで使う名称でもある。今の今も、あの38度
線をはさんで、韓国側にある村を、「自由の村」と呼び、K国側にある村を、「平和の村」と呼ん
でいる。

 が、その「平和の海」論も、どこかへ消えた。そこで再び、「東海」。今度は、「日本海と東海を
併記せよ」と。

 こうした韓国側の動きを見ていると、反日運動の原点を見ているようで、興味深い。つまり韓
国にとってみれば、日本の存在そのものが、おもしろくないのだ。理由など、ない。まさに感情
論。彼らが主張するところの歴史認識問題にしても、そのうちの何割か以上は、その感情論と
考えてよい。

 しかし一言。韓国政府も、いちいちそんな(名称)の問題にこだわらないで、もっと大きな問題
に取り組んでみたらどうか? たとえば国連への分担金を一人前にふやすとか、そういうことを
考えてみたらどうか? あるいは政府開発援助金を、人口比に応じて、せめて日本の3分の1
くらいにまで、ふやすとか……。

 そういうことはまったくせず、言うことだけは、一人前。あるいはそれ以上!

 どちらにせよ、「東海」などという呼称そのものが、私たち日本人にとっては、言語道断。どう
して日本の北にある日本海が、東海なのか。日本としては、絶対に容認できない呼称である。

ちなみに国際水路機構(IHO)総会では、大多数が、「日本海」の単独表記を支持しているとい
う。当然のことである。

(付記)今まで、直接的な批判を避け、あえて東海を「西海」などとまぶして、批判記事を書いて
きましたが、今日から、正面から、「東海」とすることにしました。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1924)

●今朝・あれこれ(5月2日)

++++++++++++++++++

今朝も、犬のハナがほえた。
時計を見ると、午前4時半。

ハナを叱るため庭へ出ると、ハナは
すでに犬小屋に。

ハナも、犬にしては、かなり高齢。
ワイフは、「ハナも、ボケてきたのかな?」と
言っている。

たしかにそういう面はある。
心配だが、どうしようもない。

5月2日、おはようございます。

+++++++++++++++++

●石川啄木

 昨日、久しぶりに石川啄木の詩集を読む。『一握の砂』を、数度、声を出して読む。『東海の
小島の磯の白砂に……』という、あの詩である。

もう一冊、中原中也の詩集も、読む。何でも中原中也の生まれ故郷の山口市には、中原中也
の記念館もあるそうだ。ただ私は詩は好きだが、私には書けない。だからこうして読むだけ。

 ところで中原中也だが、16歳のとき3歳年上の女性と知りあい、2人で東京まで駆け落ちす
る。そのとき知りあったのが、後に評論家として名をなす、小林秀雄。が、その小林秀雄に、そ
の女性を取られてしまう。

 そういう話は、昔は、よくあった。(今も、あるが……。)私の生まれ故郷のM町でも、そういう
話をいくつか聞いたことがある。ある店の若い嫁さんが、となりの店のダンナとできてしまったと
か、そういう話である。

 話はそれたが、で、昨日は、その『一握の砂』を暗記してやろうと挑戦してみた。が、数度やっ
てみたが、だめだった。

 『東海の小島の磯の白砂に、われ泣きぬれて、蟹とたわむれる……』と。今、思い出せるの
は、そこまで。記憶力というか、記銘力がかなり低下したようだ。そこで数度、声を出して読ん
でみた。

 とは言っても、そんなわけで、私の脳みそは、今、詩作モード。

 鉛色のくすんだ空の色
 一筋の茜(あかね)色の筋雲
 ぼんやりとした木々の輪郭

 静寂の中に、静かに回る
 パソコンのモーター音
 小鳥のさえずりをさがすが、
 まだ、それもない。

 ぼんやりとして、
 つかみどころのないモヤモヤ。
 無意味にキーボードを
 たたいては、幾度も目を閉じる。

 ……心のこもっていない私の詩は、ただの情景描写にすぎない。


●教育基本法改正

 教育の世界の憲法、それが教育基本法ということになる。その「改正」が、今、急ピッチで進
められている。しかしなぜ、今なのか?

 問題点はいくつかある。愛国心に始まって、公共の精神、伝統の継承など。そのほかにも、
「不当な支配」(旧法、第10条)がある。

 「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべき」
というのがそれである。

 それが改正案では、「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定め
るところにより行われるべき」となっている。

 問題は、この「不当な支配」の解釈。

 もともとは、「教職員による不当な支配」を念頭に置いてつくられた条文だが、一方、教職員
側は、「国による不当な支配」と解釈した。解釈のし方によって、その目的するところが、180
度、ちがう。

 この条文によって、国側は、「教職員による政治教育」を排除しようとした。一方、教職員側
は、「国による教育の強制」を排除しようとした。こうした解釈のちがいが鮮明化したのが、国
歌、国旗の問題である。

 「国歌の斉唱、国旗の掲揚を拒否するのは、教職員による不当な支配」と主張する国。一
方、「国歌の斉唱、国旗の掲揚を、教育現場に押しつけるのは、国による不当な支配」と主張
する教職員。

 そこでそのあいまいさをなくすため、改正法では、「この法律及び他の法律の定めるところに
より行われるべき」となった。つまり改正法によれば、教職員側の解釈は、一方的に排除され
ることになった。

 ……とまあ、いまだにこうした時代錯誤的な論議がなされていること自体、奇異な感じがす
る。欧米では、何度も書くが、教育は自由化に向かって、どんどんと進んでいる。たとえば教科
書の検定をしているのは、この日本だけ。EUでは、大学の単位そのものが、共通化されてい
る。またカナダでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。学校で使う言語その
ものも、自由。そうした流れを止めることは、もう、だれにもできない。

 いまどきこんなことにこだわっているのは、先進国の中では、日本くらいなもの。愛国心にし
ても、それは内なる世界からわき起こってくるもの。国であれ、他人から押しつけられるもので
はない。郷土愛にしてもそうだ。国旗を掲揚し、国歌を歌うから愛国心があるということにはな
らない。また国旗を掲揚せず、国歌を歌わないから、愛国心がないということにもならない。

 安倍総理大臣は、任期後半は教育改革だと息こんでいるが、何をどうしようとしているのか、
私にはよくわからない。あるいは、つぎの憲法改正のための基礎づくりをしている? つぎの憲
法改正では、天皇を日本の元首にすえるという。そういう動きというか、流れづくりも、これまた
急ピッチで進められている。

 そのためにまず思想づくり、つまり教育……ということか?

 あるとき気がついたら、学校の各教室に、天皇、皇后の写真が飾られている。そういう時代
が、もう、すぐそこまできているのかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
基本法 改正 不当な支配 憲法改正)


●教育基本法改正(2)

+++++++++++++++++

愛国心、郷土愛も結構だが、
どうして教育基本法では、
自由や平等、さらには博愛を
歌わないのか?

近隣諸国との友好でもよい。
今のところまだ現行憲法は
生きているのだから、平和でも
よい。

そうすることに、何か、
まずいことでもあるのだろうか?

+++++++++++++++++

 母の介護をして5か月になる。その間、いろいろなことを、反面教師として、母から学んだ。

 そのひとつ。介護は、きれいごとだけではできない。たとえば便の始末など。が、それだけで
はない。母が我が家に住むようになってから、私たち家族は、いろいろな病気(?)に悩まされ
た。多くは皮膚病だが、おそらく母が我が家にもちこんだものだ。

 そういう母だから、おむつを替えるたびに、私は、陰部をアルコール消毒してやっている。
が、母には、そういう私たちの意図など、理解できない。そのつど、「冷たい!」「親に、何てこと
する!」「おまはんら、鬼や」と叫ぶ。

 そういうとき実の私ですら、「コノヤロー!」という気持ちになる。が、そこは親子。私は無視し
て、必要なことはする。

 つまり実の親子でも、介護にはかなりの忍耐心と寛容心が必要。いわんや、他人をや!

 そこで私は、「博愛」という言葉を使う。これから先、この日本は、いまだかって世界でも経験
したことがないような老齢化社会を迎える。あと10〜20年先には、人口の3分の1が、満65
歳以上になるとも言われている。

 そうなったとき、私たち老人は、社会からどのような扱いを受けるか? 多分、「コノヤロ
ー!」ではすまないだろう。すでに老人虐待も、問題になりつつある。つまり愛国心も結構なこ
とだが、こと「教育」ということになるなら、そんな狭い料簡(=考え)は捨てて、「博愛心」として
もよいのではないか。

 さらに自由、平等もある。現行の憲法はまだ有効なのだから、平和でもよい。しかしなぜか、
そういう言葉は、教育基本法の中には、どこにも出てこない。なぜか?

 自由……今、自由化がいちばん必要なのは、実は教育の世界である。が、その教育が、
今、逆行している。管理、管理、また管理。だから教育基本法で「自由」を歌うことは、まことに
もって、ま・ず・い。

 平等……日本に天皇制が残るかぎり、日本には、平等はない。とくにつぎの改正憲法では、
天皇を元首に置くという動きすらある。だから「平等」を歌うことは、ますます、ま・ず・い。

 平和……現行憲法を改正するという大前提で、教育基本法が改正されるのだから、「平和」
を歌うことも、ま・ず・い。誤解してはならないのは、平和憲法があるから、戦争はダメということ
ではない。自由や平等、博愛を守るためなら、いざとなったら戦う。相手が攻めてきたら、戦
う。これは当然のことである。

 新教育基本法では、「我が国と郷土を愛する態度を養う」とある。この「我が国と郷土」の部
分を変えて、「自由、平等、博愛、平和を愛する態度を養う」としたら、どうか? そのほうが、よ
っぽど視野が広くて、私はよいと思うのだが……。

(追記)

 何度も書くが、政府はことあるごとに、「愛国心は世界の常識」と説く。しかしこれはまっかな、
ウソ!

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。

日本ではその「パトリオット」を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語
の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に由来する。

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大
切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国
心になっている。

 どうか誤解のないように!


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●「先生は、S? それともM?」

+++++++++++++++++

中学生のSさんが、突然、私にこう
聞いた。

「先生、先生は、S? それとも
M?」と。

ギョッとした。が、そこはとぼけて、
「服はみんな、Mサイズだよ。下着は
Sかな?」と。

するとSさんは、「そうじゃないわよ。
先生は、サド? それともマゾ?」と。

+++++++++++++++++

 学生言葉というのがある。学生しか通じない言葉である。あとで以前、それについて書いた原
稿を添付しておくが、今度は、「SとM」。

 そこでSさんに、話を聞くと、こう教えてくれた。

 「いじめる側に回って、いじめるのが好きな人を、Sというのよ。反対に、いじめられる側に回
って、いじめられるのを楽しむ人を、Mというのよ」と。

私「いじめられて楽しい人なんているの?」
S「いるわよ。そういう趣味の人も」
私「それはおかしいよ。趣味だなんて……」
S「いじめられる側って、結構、気楽なものよ」
私「あのねえ、そういう考え方をするバカがいるから、いじめの問題は、いつまでもつづくんだ
よ」と。

 しかしサドとか、マゾとか、そういう言葉が、中学生の子どもの口から出てくるとは、想像もし
ていなかった。ホント!

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもの心をつかむために

 あなたは子どもの世界(小学生)を、どれほど知っているだろうか。つぎの言葉の中で、意味
を説明できるのが、いくつあるか、答えてみてほしい。

●アブトロニック
●ムッチョ
●ホグワーツのグリフィンドール
●マッチョ(流行語)
●ブルーアイズ、アルティミッドドラゴン
●かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
●SAKURAドロップ
●桃色の片思い

 8問のうち、5〜6問までわかれば、あなたはすばらしい親と考えてよい。子どもの心をしっか
りと、つかんでいる。

 正解は、つぎ。

○アブトロニック……10分で腹筋を600回、振動する美用具、19800円
○ムッチョ……筋肉モリモリ、「ムキムキマッチョ」……筋肉モリモリの人。
○ハリーポッターの通う全寮制の学校と、宿舎名
○マッチョ……筋肉モリモリ(ムッチョの最近の言葉)
○遊戯王の裏ワザ……ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一
枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワイトドラゴンが降臨する。
○モーニング娘の、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっち
○宇多田ひかるの「SAKURAドロップ」
○松浦あやの「桃色の片思い」

 あなたも一度、子どもの前で、こう言ってみたらどうだろう。「あのね、ブルーアイズ・ホワイトド
ラゴンが三枚と、アルティミッドドラゴンが一枚。それと融合カードが一枚で、ブルーアイズ・ホワ
イトドラゴンが降臨するんだってね。あなた知っている?」と。

あなたの子どもは目を白黒させて、あなたを尊敬するようになるだろう。一度、試してみてほし
い。女子だったら、「私、かごちゃん、つじちゃん、ごっちん、なっちの中で、やっぱりかごちゃん
が一番、すてきだと思うわ」と。コツは、さりげなく、サラリと子どもの前で言うこと。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1925)

●はじめの一歩

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子どもの世界では、何ごとも、
「はじめの一歩」が重要。

それをまちがえると、その
修正そのものが、たいへん!

+++++++++++++++

 子どもの方向性は、「はじめの一歩」で決まる。……と言いきるのは、少し問題があるが、し
かしほぼまちがいがない。たとえば私の二男は大のサシミ嫌い。恐らく幼児のころ、魚のサシミ
を食べていやな思いをしたためだろう。生臭いサシミを食べたとかなど。そしてそういう経験
が、つぎつぎと重なって、ますますサシミ嫌いになっていった……?

 食べ物だけではない。「勉強」もそうだ。何らかの理由で、子どもは一度勉強嫌いになると、
それ以後、好きになるということは、まず、ない。あるいは同じ勉強をさせようとしても、そうでな
い子どもの何倍もの努力が必要となる。

たとえば今、年中児(満五歳児)で、「名前をひらがなで書いてごらん」と指示すると、体をこわ
ばらせる子どもは、10人のうち、1〜2人は必ず、いる。中には涙ぐんでしまう子どももいる。
文字に対して、何らかの恐怖心をもっているためと考えてよい。そういう子どもが、その先、た
とえば小学校などで、国語が好きになるということは、まず、ない。(絶望的とは言わないが、好
きになるのは、たいへんむずかしい。)

 そういうわけで、子どもに経験させることは、何でも、はじめの一歩を大切にする。このはじめ
の一歩がうまくいけば、あとが楽。子どもは自分で伸びる。コツは、無理をしないこと。子どもの
リズムに合わせて、慎重に進める。が、これがむずかしい。先日もある母親が、こう言って相
談にきた。

 「うちの子(小一男子)は、『39は30と□』という問題ができない。みんなはできるのに、どうし
てできないか」と。そしてたまたまそばにいた息子に向かって、「どうしてこんな簡単な問題がで
きないの!」と。勉強が、子どもを責める道具になっている! 

しかし一度、この悪循環におちいると、あとは底なしの悪循環。(親が叱る)→(子どもはますま
す勉強嫌いになる)→(ますます叱る)の悪循環で、ドロ沼に落ちる。

 この子どものケースでは、私はその母親にこう聞いた。「あなたは自分の子どもが、どうであ
れば、満足するのですか?」と。すると母親は、こう言った。「こんな簡単なことができないで
は、困る」と。そこでさらに、「どうして、だれが困るのですか?」と聞くと、「勉強ができないと、
子どもが困る」と。で、また私が、「子どもが困っているのですか?」と聞くと、「今に、困るように
なるはずだ」と。しかし実際には、その困る原因を、母親自身がつくっている! はじめの一歩
のところで、子どものやる気そのものをつぶしてしまっている。母親は、それに気づいていな
い!

 幼児期は、子どもの方向性をつくるための、大切な時期。ものごとは、すべて慎重にするこ
と。この世界では、こう言う。「はじめよければ、すべてよし」と。肝(きも)に銘じてほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●言葉能力

++++++++++++++

言葉能力は、あらゆる学習の
基本となる。

が、今、その言葉能力そのものに
問題がある子どもが、ふえている。

++++++++++++++

 日本人の男性と国際結婚した母親がいた。台湾から来た人だった。が、たいへん教育熱心
な人(?)で、子ども(小1男児)がテストで、まちがえたりすると、そのつど子どもをはげしく叱っ
ていた。ふつうの叱り方ではない。たいていは「どうして、こんなの、できない!」「できるわ!」
の大騒動になった。 

 そこで私に相談があった。そのときその子どもは、小学2年生になっていた。しかし原因はは
っきりしていた。その子どもは頭のよい子どもだったが、しかし言葉能力が不足していた。文章
題が読めなかった。

たとえば「3足す4(3+4)」と「3が4つ(3×4)」の区別がつかなかった。母親が家の中では中
国語を話していたこともある。しかしそれ以上に、母親の日本語能力が、問題だった。私と話
すときも、「先生、息子、ダメ。算数、できない。どうして。これ、困る、ね」と。

 そこで私は、「お子さんの言葉能力に、問題があります」と言った。するとその母親は猛烈に
反発して、「うちの子、日本語、だいじょうぶ。話せる、あるよ」と。……と書くと、簡単な会話の
ように思う人がいるかもしれないが、こうした押し問答が、延々と三30分近くもつづいた。

説明するのに時間もかかったが、そのたびにその母親は、ああでもないこうでもないと反論し
た。「うちの子は、私が教えたら、できた。どうして学校では、できない、あるか」「中国では、1
年生で、20までの数の足し引き算ができる」「うちの子、頭、いい。できないはず、ない」と。

が、何よりもその母親で不愉快だったのは、異常なまでの教育に対する、過関心だった。子ど
ものささいなミスをとらえて、それをことさらおおげさに問題にしていた。私が「この時期は、学
ぶことを楽しむことのほうが大切です。もっとおおらかに構えてください」と言ったのだが、最後
の最後まで、「おおらか」という意味さえわかってもらえなかった。

この母親のケースは、極端なケースだが、しかしこれを薄めたケースとなると、いくらでもある。
子どもが勉強できない原因は母親にある。しかし母親はそれに気づいていない。気づかないば
かりか、このタイプの母親は、その責任は子どもにある、学校にあると主張する。そして結果と
して、子どもの伸びる芽すら、自ら摘んでしまう……。

 この母親とはそのあとも、いろいろあった。で、やがて私のほうが疲れてしまい、最後は、「ど
うぞ、自分で教育してください」と、サジを投げてしまった。そのあとその母親と子どもがどうなっ
たか、消息は聞いていない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●あせる親

++++++++++++++

子育てをしていて(あせり)を
感じたら、子育てから、手を引いた
ほうがよい。

そのほうが子どものため。
あなた自身のため。

++++++++++++++

 子育ては競争と考えている人がいる。が、このタイプの親は、自分ではそれを意識していな
い。自分では、「ごく当たり前のことをしているだけ」と思っている。だからよけいに、指導がむ
ずかしい。

 つぎのような症状に、思い当たるようであれば、あなたはここでいう「あせる親」と考えてよ
い。

●近所や知り合いの子どもが、英会話教室や算数教室に通っているという話を聞くだけで、言
いようのない不安感に襲われる。自分の子どもだけが取り残されていくように感ずる(不安、妄
想)。

●明けても暮れても、頭の中にあるのは、子どものことばかり。テストでまちがえたりすると、そ
れが気になって、夜も眠られないことがある。こまかいことが気になる(過関心)。

●学校や塾の先生と顔を合わせるたびに、すかさず「うちの子、どうですか」と聞く。あるいは
子どもの問題点を並び立て、「どうしたらいいでしょうか」と聞くことが多い(心配過剰)。

●日常的に、子どもの意思を自分で確かめることをしない。「うちの子どものことは、私が一番
よく知っている」と思う。子どもに対する親意識が強い。子どもには命令口調が多い(過干渉)。

 こういう状態(過関心、過干渉、心配過剰、不安、妄想)が、長くつづくと、親自身の精神状態
がおかしくなる。この段階から、育児ノイローゼ、うつ病に進む人も多い。しかしその前に、子ど
もがおかしくなる。性格が内閉したり、萎縮したりする。反対にはげしい家庭内暴力に発展する
こともある。そうなると、もう、勉強どころではない。

 要はいかに早く、その初期症状に気づくか、だ。が、冒頭にも書いたように、親自身がそれに
気づくことは、まずない。私のような立場のものが、「お母さん、あせってはダメ。今は、子ども
が楽しむことだけを考えてしなさい。幼稚園から帰ってきたら、よくがんばったわねとほめなさ
い」と指導しても、ムダ。つぎに会うときには、すっかりそれを忘れている。そして前と同じ会話
を繰り返す。「うちの子は、ダメでねえ……」と。

 子どもというのは、親があせっても、どうかなるものではない。しかしほうっておいても育つ。
そうした冷めた目が、一方で、子どもを伸ばす。もしあなたが今、自分の子育てで、あせりを感
ずるようなら、こう考えてほしい。「親のあせり、百害あって、一利なし」と。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本の教育の元凶

+++++++++++++++

いまだにのさばる、権威主義。
どうして日本人は、こうまで
権威主義なのか?

+++++++++++++++

 私は子どものころ、チャンバラ映画が好きだった。が、ある日のこと。Nという日本を代表する
俳優の映画をみていたときのこと。日本のチャンバラ映画は、かっこうばかりで、中身がないこ
とに気づいた。

Nは、いかにも強そうなかっこうばかりをしているだけ。刀を振り回すと、相手がその刀の中に
入り、自動的に(?)倒れていった。

 一方、同じころ、ブルース・リーの映画を見た。彼の演技は衝撃的だった。映画を見ていると
き、自分の手足が勝手に動いた。ブルース・リーの演技には、それだけ中身がぎっしりとつまっ
ていた。

 こうした日本映画と、外国映画の違いを一言で言えば、権威主義と実力主義の違いというこ
とになる。映画だけではない。当時の日本には、(今も……)、その権威主義が、色濃く残って
いた。とくに教育の世界はそうで、たとえば同じ教師にも、歴然とした「格」があった。

一番偉いのが、大学の教授、つぎが高校の教師で、つぎが中学校の教師、小学校の教師と。
幼稚園の教師は番外で、評価の対象にもならなかった。こんなことがあった。

 ある日東京のW大学の教授が、この浜松へやってきて、幼児教育について講演をした。私も
聞いたが、最初から最後まで、トンチンカンな講演だった。あとで話を聞くと、その教授は、乳
児のハイハイ(歩行)のし方を研究している教授ということだった。乳幼児のハイハイを調べる
と、爬(は)虫類(ワニやトカゲなど)の歩き方を同じだという。それはそれとしておもしろい話だ
が、そういう教授が、「幼児教育とは……」と講演をするから、話がおかしくなる。

 では、今、この日本が実力主義の世界になったかというと、それは疑わしい。いまだに権威
主義がハバをきかせている。よい例が日本のNHK。まさに権威主義のかたまりといっても過
言ではない。どう権威主義的かということについては、外国の放送局とくらべてみるとわかる。

たとえば日本のNHKは、アメリカのNBCと、北朝鮮のピョンヤン放送の中間あたりにあるので
は? ひとつずつの番組を見ていると、それなりに民主的な感じはする。が、たとえばオースト
ラリアなどにしばらく住み、その状態で、日本のNHKを思い出すと、そういう印象をもつ。地位
や肩書きのある人には、どこかペコペコし、そうでない人には、どこか「出してやる」という傲(ご
う)慢さを感ずる。

 こうした権威主義がいつごろ日本に生まれたかという問題は、いまさら論じても意味はない。
大切なことは、こうした権威主義が、一方で日本が進むべき道の、大きな障害になっていると
いうこと。もっと言えば、権威主義は、「自由」や「平等」の大敵になっている。しかしそれだけで
はすまない。

権威のある人は、必要以上に「得」をし、そうでない人は「損」をする。そしてこの不公平感が、
結局は日本の学歴社会の温床になっている。教育そのものをゆがめる元凶になっている。権
威主義を考えるときには、そういう問題も含まれる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私の人間性

+++++++++++++

子育てが終わると、どんと
やってくるのが、老後。

持病も表に出てくる。
そしてあなた自身の
人間性も、そのまま表に
出てくる。

++++++++++++++

 子育てが終わると、どんとやってくるのが、老後。それまで何とかごまかしてきた持病が、ど
んと吹き出す。持病だけではない。その人の人間性まで、どんと吹き出す。気力が弱くなり、ご
まかしがきかなくなるためと考えてよい。

 で、私のこと。まず健康だが、こうなってみると、長い間、運動をつづけてきたことが、喜びと
なって返ってくる。私はもう30年近く、自転車通勤をしている。数日も自転車に乗らないでいる
と、体のほうがそれを求める。おかげで成人病とは無縁。まったく健康というわけではないが、
しかし同年齢の友人や知人とくらべても、健康なほうだ。

 問題は、人間性。私は若いころ、ずいぶんといいかげんな人間だった。目先の利益のためな
ら、平気で正義をねじまげた。人をだましたり、キズつけたりしたこともある。言うなれば小ズル
イ男で、そういうことが平気でできた。私は自分の中にそういう邪悪な部分があることを知って
いる。今は、かろうじてそういう自分を抑え込んでいるが、いつまたそういう自分が出てこないと
もかぎらない。いや、ときどき、顔を出す。

 先日も、コンビニの前で、サイフを拾った。善良な人なら、そういうサイフを、すぐその店に届
けたりするのだろう。しかし私は、一瞬、迷った。迷って、サイフの中を見てしまった。が、幸い
なことに(?)、中味は免許証とカード、それに小銭だけだった。だから店にそのまま渡すことが
できた。が、しかし、もしあのサイフの中に、10万円とか20万円が入っていたとしたら、どうだ
ったか……。私はもっと迷ったかもしれない。つまりこれが私の中の邪悪な部分である。

 そこで私は気がついた。健康と同じように、人間性もまた、日々の鍛錬(たんれん)によって
つくられるものだ、と。安易なだらしない生活を繰り返していれば、人間性も影響を受ける。は
っきり言えば、悪くなる。そして結果として、その人は、見苦しい人間になる。いや、鍛錬といっ
ても、むずかしいことではない。ごく日常的な、ほんのささいなことでよい。

たとえばウソをつかない。ゴマかさない。人に意地悪をしない。ゴミを捨てない。人に迷惑をか
けない。社会のルールを守る、など。常識的なことを、ふつうに守ればよい。そういう積み重ね
が、積もりにつもって、その人の人間性をつくる。

 さて私はどうか? このところときどき自分がこわくなる。今はこうして自分の気力で、自分を
抑え込んでいる。しかしその気力が弱くなったとき、自分の人間性が、モロに外に出てくる。そ
のときどんな自分が、外に出てくることやら? 

プロ野球の元監督の妻に、Tという女性がいる。人間がもつあらゆる醜悪さを顔中に塗りたくっ
たような女性だ。先ごろ脱税で逮捕されたが、あの女性を見ていると、ああはなりたくないもの
だと思う。しかしその自信は、私にはない。ひとつまちがえば、私だってああいう人間になる?
 それが今、こわい。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1926)

●5月2日

++++++++++++++++

5月2日号のマガジンで、感想を
募集したら、C県の方が、返事を
くれた。

うれしかった。

ありがとうございました。

++++++++++++++++

【C県F市のTさんより】

毎回楽しみに読ませて頂いております。

中学3年生の不登校して1年半になる男の孫がおります。
過去の子育てには、はやし先生のコメントにかかれているような怖いことを、沢山経験しまし
た。

大手の塾へ通い、偏差値で人格まで判断するカルトのような洗脳に親子でどっぷり浸かってい
ました。

地味なこつこつ努力タイプでなく、授業だけはよく聞いていたようですが、ひらめきだけで、いつ
も良い点を取っていました。

結果、中学受験に失敗し、最後の滑り止めだけ受かりました。
本人の挫折感は大きく、入学した学校の偏差値を思い、「なんて自分はダメなんだ」から立ち
直れなくなりました。

小さい時から勉強を頑張れと追い込んでしまった家族は不登校になって初めて子どもの心を
知りました。

今はPCと言う道具があります。大好きなゲーム作りに励んでいます。
あくまでも趣味で、独学で考えながら作るのが楽しいそうです。

学校には行っていませんが、明るく元気で家庭で過ごしています。

はやし先生をもっと早く知っていたら、どんなに良かったかと思います。

これからでも遅くない、子どもの自立に向けてはやし先生の書かれることから沢山のことを学
んで行きたいと思っています。

マガジンはいつも私のところには、きちんと届いております。
ありがたいことです。感謝いたしております。
可愛いお孫さんの写真も楽しみにしております。

お母様の介護も体力気力の要ることと思います。
お体に気をつけて、これからも 発信を続けられてください。
次回は何かなと楽しみにしております。

本当にありがとうございます。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●認知症の模擬体験

++++++++++++++++

私は今日、認知症の模擬体験をした。
自分で自分の脳みそを一時的だが、
信じられなくなった。

それは世にも、恐ろしい体験だった。
本当に恐ろしい体験だった。

++++++++++++++++

 今日、待ちに待った、新しいパソコンが届いた。うれしかった。OSは、もちろんビスタ・Ultim
ate!

 その設定をしているとき、私は、はからずも認知症の模擬体験をした。その話をする前に、ま
ず、それまでの経緯(いきさつ)を書かねばならない。

 新しいパソコンを買うと、いろいろと初期設定をしなければならない。それぞれのソフトについ
ても、ユーザー登録をしなければならない。これがめんどう……というより、これをしっかりとし
ておかないと、あとでいろいろとめんどうなことになる。

 まず、OSのユーザー登録。つづいて、いくつかのソフトのユーザー登録。今度のパソコンに
は、最初からOffice2007が、インストールしてあった。が、ここで、まずつまずいた。IDナンバ
ーと、製品ナンバーをまちがえた。何度かやりなおしてみたが、うまくいかなかった。で、あと回
しにした。

 つづいて、ウィルス対策ソフトのインストール。おまけでついていたM社のウィルス対策ソフト
を削除して、I社のウィルス対策ソフトをインストールしようとした。が、これもまた、うまくいかな
い。マニュアルどおりに、(プログラムの削除)から、削除しようとするが、どうしてもその中の3
つのファイルだけが残ってしまう。ファイルの一部だけでも残っていると、I社のウィルス対策ソ
フトとバッチングしてしまう。ばあいによっては、コンピュータが動かなくなってしまう。

 その作業に30〜40分ほど、かかった。が、うまくいかなかった。M社にメールで問い合せる
と、1時間ほどで、返事がもどってきた。「アンインストール・プログラムをサイトからダウンロー
ドしてから、削除してほしい」とのことだった。

 OSが変わると、こういうトラブルはよくある。で、その指示に従って、M社のウィルス対策ソフ
トをアンインストール。ここまではうまくいった。

 いよいよ仕事上、いちばん重要なOffice2007のユーザー登録。それをしっかりとしておかな
いと、やがて使用不能になってしまう。ワードを立ちあげるたびに、その警告文が現れる。

 が、ここで事件が起きた!

 いくらさがしても、Office2007パッケージが、見つからない。とたん頭の中は、パニック。「冷
静になろう」と何度も自分に言い聞かせる。しかし、ないものは、ない。

 ワイフもいっしょになってさがしてくれた。が、ない。パソコンの入っていた箱を何度もひっくり
返してみた。ゴミ箱の底まで、何度か調べてみた。が、やはり、ない。そのときのこと。ワイフが
こう言った。「本当に、あったの?」と。

私「ぼくは、ちゃんと見た。……見たような気がする。25桁の番号を、ちゃんと見た……」
ワ「おかしいわねエ」と。

 そして再三再四、同じところをさがす。「ひょっとしたら、ハナ(犬)が、もっていったかもしれな
い……」と私。「まさかア……」とワイフ。私は念のため、庭から犬小屋までさがしてみた。が、
やはり、なかった。

 私はだんだん、自分の脳みそが信じられなくなった。ワイフに言われるまま、それまでに動い
た範囲を、隈(くま)なくながした。トイレの中までさがした。が、ない!

私「ひょっとしたら、コタツのふとんの中かもしれない」
ワ「もう、3回ぐらい、見たわよ」
私「フトンとフトンの間だ。もう一度、さがしてみよう」と。

 そのときのこと。私は私の脳みそを疑い始めた。「私は本当にOffice2007のパッケージを
見たのか」と。「いや、見たと思っただけで、本当は見ていないのかもしれない」「そんなはずは
ない。ちゃんと箱を開けた感触が、指先に残っている」「しかし消えることはありえない」と。

 同じ考えが、繰りかえし頭の中をかけめぐる。堂々めぐり。が、結論は出ない。「おかしい?」
と。

私「ぼくネ、自分の頭が信じられなくなった」
ワ「本当にあったの?」
私「うん、あった。……あったと思う。……あったかなア?」
ワ「あなた、だいじょうぶ?」
私「うん。……だいじょうぶ。……だいじょうぶかなア?」と。

 このところ、オカルトもののDVDをよく見る。映画の中では、幽霊が、ものを持ち去ったりす
る。私はそんなことまで考えていた。

 何とも表現しがたい不安感。イライラ感。ざわめく心。落ちつかない。ありえないことが、起き
た。目の前で起きた。こういう現象をどう理解したらよいのか。つまりモノが、目の前から、こつ
然と消えてなくなった……!

 そういう状態が、午後の午後の1時ごろまでつづいた。ワイフと買い物に行ったが、話題はそ
のことばかり。「ちゃんとあったよ。確かにぼくは、この指で箱をあけた。製品番号の書いたオ
レンジ色の紙も見た。……見たような気がする……」と。

 私はすっかり自信をなくしていた。もうこうなると、パソコンどころの話ではなくなる。

 買い物から帰ってきて、庭に出た。畑の草を取るつもりでいた。いやな気分だった。不愉快だ
った。と、そのとき、ワイフが、家の中から、こう言って叫んだ。「あなたア、あったわヨ!」と。

 見るとワイフは、Office2007のパッケージを手にもっているではないか。

私「どこにあった?」
ワ「ジュータンの下よ」
私「ジュータンの下だってエ?」と。

 パッケージといっても、厚さは1センチほど。それがコタツのふとんの下の、ジュータンの下に
あった!

 心の緊張感が、一気にほぐれた。パッケージがあったという喜びよりも、自分の頭がおかしく
なかったという喜びのほうが、はるかに大きかった。

私「よかったア……」
ワ「本当ねエ」
私「いや、ぼくは、自分の頭がおかしくなったかと思った。毎日、頭のボケた母を見ているだろ。
いつか自分もああなるという恐怖心ばかりが先に立ってね。それで不安になってしまった……」
ワ「頭がボケると、どこにモノを置いたか、忘れてしまうそうよ」
私「それだよ、それ。ぼくは、ぼくの知らないところへ、無意識のうちに、そのパッケージをしま
いこんだのではないかと思っていた。が、頭の中の、どこをどうさがしても、そういう記憶がない
……」
ワ「よかったわネ」
私「ホント……」と。

 そしてそのあと、私はワイフにこう言った。「ぼくは、認知症の模擬体験をしたような気分だ」
と。

 認知症の人は認知症の人で、自分の頭が信じられなくて、悩んでいるにちがいない。モノ忘
れがひどい人も、そうだ。そう思ってそう言った。本当のところはどうか、わからないが……。

 それにしても、私にとっては、恐ろしい体験だった。本当に恐ろしい体験だった。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1927)

●狂った牛

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中国の経済が、大暴走をつづけている。
「狂った牛」と表現する人もいる。

国中が、まさに「マネー」「マネー」の、
大狂騒曲。

一日、平均して約12万人もの新しい
投資家(?)が生まれているという。
このまま行けば、この7月にも、1億人を
突破するという(朝鮮N報)。

その中国は、昨年7月から断続的だが、
4月7日までに、計7回の金融引き締め
策をとった。しかし、まさに、焼け石に水。

日本経済は、中国経済の大躍進で、破綻を
まぬがれることができた。が、このままでは、
たいへんなことになる!

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かつて日本は、経済破綻の崖っぷちに立たされた。バブル経済が崩壊した直後のことだった。
しかしここで思わぬ救世主が現れた。中国という救世主である。

 おかげで日本は、経済破綻をまぬがれた。何とか今日まで、生き延びてきた。しかしその中
国経済が、このところ、おかしくなってきた。おかしくなってきたというよりは、まさに狂乱状態。
「狂った牛」と表現する人もいる。

 毎日、新しく投資家(?)になる人が、12万人。この7月には、1億人を突破するだろうと言わ
れている。「働くよりは、株で儲けたほうがいい」と考える人が、それだけふえているとみてよ
い。

 そこで株価は天井知らずの上昇をつづけている。4月30日、上海総合株価指数は、3841
ポイントと、史上最高値を記録している。

 しかしもう、メチャメチャ。中国から入ってくる情報をながめていると、あまりの凄さに、ただた
だあきれるばかり! 自分の家を売ってまで、現金をつくり、その現金で株投資している主婦も
いるという(朝鮮N報)。

 多分、証券会社の一室だと思うが、老若男女が、ぎゅうぎゅう詰めで、株価情報が流れる画
面をみつめていた。会社といっても、実体のない会社も多いという。一説によると、上場銘柄の
うち、約3分の1がそうであるという。そういう会社にさえ、中国人たちは、血眼(ちまなこ)にな
って、投資をつづけている(某テレビ報道)。

 こうした状況の中、強気の中国政府だが、中国のバブル経済は、もう、だれの目にも明ら
か。このまま行けば、……というより、先へ行けば行くほど、バブル経済がはじけたとき、爆発
力が大きくなる。後遺症も大きくなる。規模が大きいだけに、当然のことながら、この日本にも
大きな影響を与える。へたをすれば、同時に日本の今の、ミニバブル経済もはじける。どこか
へ飛んでいってしまう。

 あやうし、中国。そして、日本!

 日本では地価が大暴落したとき、巨額の負債が、銀行に残った。同時に株価も暴落した。結
果、中小企業の倒産があいつぎ、バブルに踊った地方自治体にも、借金が残った。以後10年
近く、日本経済は、地を這うような辛酸(しんさん)をなめる。

 「だったら、元高を誘導すればよい」とだれしも考える。しかし時、すでに遅し! 今ごろ元高
に誘導したら、外国の投資家たちは、元をいっせいに売り、外資は、中国市場から逃げてしま
う。もちろん輸出企業は、大打撃を受ける。地方からあがってくる労働者を吸収できず、失業
者はふえる。結果、社会不安から中国の体制そのものが、不安定になる。

 何もよいことはない。

 で、私たちは、どうしたらよいのか。わずかな財産だが、しかしそれを守らなければならない。
土地は、もう投資には向かない。貴金属も、今は冒頭しているが、中国経済がはじければ、一
転、大暴落する。日本の株価も、あぶない。先月、ほんの少し中国株価がクシャミをしただけ
で、世界を2、3周するほど、株価の暴落がつづいた。現金にしても、円安になればなるほど、
価値は目減りする。

 要するに、お金というのは、ただの「紙」にすぎないということ。もともと、価値がない。価値が
あると思いこんでいるだけ。価値があがろうが、さがろうが、そんなことで一喜一憂するほうが
おかしい。どこかでその一線を引かないと、やがてお金の奴隷になってしまう。……ということ
を、現在の中国が、私たちに教えている。 


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(5月4日)

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今日は、人に会う約束もない。
計画もない。しかしやりたいことは、
山のようにある。

(1)春の写真を撮りたい。
(2)ビスタ・パソコンと、遊びたい。
(3)山荘へ行きたい。

こういうふうに迷ったら、私はすべてを
することにしている。

(4)夜は、浜松の祭りを見に行くつもり。

++++++++++++++++++

●ビスタ・パソコン

 OSのビスタがすごいというより、パソコン自体がすごい。2万ページ近い文書を、2つ開いて
も、ビクともしない。動きも速い。なめらか。昨夜、ワーフと2人で、グーグル・アースで、世界旅
行を楽しんだ。

 グーグル・アースというのは、宇宙から撮った映像を、居ながらにして楽しめるというグーグル
社のサービスである。場所にもよるが、解像度の高い地域だと、道路を走る車の種類までわ
かる。

 それでオーストラリアの友人たちの家をさがした。さがして、クリップマークをつけた。クリップ
マークをつけると、次回から、そのクリップマークを手がかりに、その場所へすぐ移動すること
ができる。

 今は、そのビスタ・パソコンで、この文書を書いている。

 
●OFFICE2007

 今度のパソコンには、OFFICE2007が、最初からインストールしてある。今のところ、ワードし
か使っていないが、私にとっては、余計な機能がゴチャゴチャとついているカンジ。そのメニュ
ーが、文書編集画面の上に、ドサッと並んでいる。

 編集画面の大きさは自由に変えられる。それはそれでよいのだが、1ページ全体を表示しよ
うとすると、文字が小さくなりすぎて、読めない。

そういうことも考えると、今度のOFFICE2007は、モニターも19インチ(ワイド)以上のものを前
提に、開発されたということがわかる。15インチや、17インチのモニターでは、編集作業その
ものが、できない?

 今のところ、使い勝手はよい。

 ところでそのモニターだが、今は、19インチのワイドモニターを使っている。が、そのモニター
でさえ、最近は、小さく感ずる。目の前のテレビが32インチということもある。

15インチのモニターを使っていたころ、17インチのモニターが、すごく大きく見えた。17インチ
のモニターを使っていたころには、19インチのモニターがすごく大きく見えた。今では、15イン
チや17インチのモニターでは、作業そのものが、しにくい。

 これは人間のどういう心理によるものか。一度、自由を知った人間は、二度と自由のない生
活に戻れなくなる。(自由)を(ぜいたく)と置き換えてもよい。

 ……こうしてパソコンとつきあうようになって、もう35年近くになる。コモドール社のPET2002
の時代からである。その前には、東芝のTK−80とかいうパソコンも使っていた。

 これから先、パソコンの世界は、どこまで進化するのだろう。今朝のヤフーニュースによれ
ば、今度、スーパーコンピューでさえ、1000万年かかる計算を、数10秒で解くとされる未来の
超高速計算機、「量子コンピューター」なるものが、開発されたそうだ(読売新聞)。

 わかるかな?

 スーパーコンピューターでさえ、1000万年もかかる計算を、何と、数10秒で解くという。「どう
いうことだろう?」と思っただけで、そのつぎがわからない。映画『マトリックス』の世界が、現実
のものになろうとしている。

 さらにそのうち、画像を、直接脳みその中の視覚野に、映像を映すことができるようになるか
もしれない。もしそんなことができるようになったら、そこはまさに、映画『マトリックス』の世界。
……なんだか、末恐ろしくなってきた!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●DVD『記憶の棘』

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ニコール・キッドマン主演の
『記憶の棘』を見る。

おもしろかった。

★は、星3つの★★★。

映画の内容は、ブルース・ウイ
ルス主演の『シックス・センス』の
正反対の映画と思えばよい。

が、それ以上に、見終わったあと、
男女の(仲)について、いろいろ
考えさせられた。

+++++++++++

 ニコール・キッドマン主演の、『記憶の棘』を見る。おもしろかった。物語は、ある女性の前
に、「ぼくは、あなたの夫だ」という少年が現れるところから始まる。

 その女性の夫は、その10年前に、ジョギング中に、心臓発作か何かで、死んでいた。その少
年は、その夫の生まれ変わりだという。その少年の年齢は、10歳!

 私が話せるストーリーの内容は、ここまで。あとは、そのDVDを見てからの、お楽しみ!

 で、そのDVDを見終わったあと、男女の(仲)について、いろいろ考えさせられた。砂浜で亡き
夫をしのんで、狂ったように自分を取り乱す元妻(=ニコール・キッドマン)。映画はそこで終わ
るが、しかし……。

 結局は、男も女も、自分が描いた幻想にしがみついて生きるものなのか。が、それ自体、自
己中心性の変形とみてよい。

 「自分がそう信ずるから、私は正しい」と、ときとして、人は、そう思いこむ。「信ずる」というこ
とは、このばあい、「疑わない」という意味。しかしその(自分)ほど、あてにならないものはな
い。

 わかりやすく言えば、私は私。いくら配偶者でも、人は人。「私は相手を愛しているから、相手
も私を愛しているはず」と考えるのは、まさに自己中心性の現れと考えてよい。

 たとえば私のワイフにしても、……というより、世の夫たちは、こう考える。「男は仕事、女は
家庭。夫たる私が、仕事をしているからこそ家族は、生活ができる」「それで家族は満足してい
るはず」「感謝しているはず」と。

 しかしこれほどまでの自己中心性は、そうはない。人格的な未成熟さが、夫をして、そう思わ
せる。が、中には、「それでいい」と考える夫もいる。しかしもしそうなら、一度、冷静に、あなた
の家族の心の中をのぞいてみたらよい。本当にあなたの家族は、それで満足しているか。感
謝しているか。

 たぶん、あなたの家族は、そういう(あなた)にあきれ、仮面をかぶりつつ、(あなた)に合わせ
ているだけ。とうの昔に、心はバラバラ。そういうケースは、多い。よい例が、熟年離婚。定年
離婚でもよい。ある日、妻側から離婚届をつきつけられて、夫は、それまでの関係をはじめて
知る。

 このDVDを見て、そこまで考える必要はないかもしれないが、そんなことも心のどこかに置い
てこのDVDをみると、また楽しいのでは……。

 星が3つなのは、『シックス・センス』で感じたほどの衝撃が、なかったこと。もしこの映画が先
に発表されていたら、その反対だったかもしれない。

 動きは平坦で、静かな映画だった。そのためか、ニコール・キッドマンの美しさもさることなが
ら、名演技がかえって光った。

 そうそうひとつだけアドバイスするとしたら、ひとりの女性がもっていた箱。その女性は、その
箱を、公園の中に埋めるが、その箱に注目しながら、このDVDを見たらよい。その箱が、この
映画の中では、重大な意味をもつ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●落ち着かない女性

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昨日(5月3日)、ファースト・フードの
レストランで、こんな女性を見かけた。

年齢は、60歳くらいか。若い母親と、
小さな女の子(4歳くらい)と、3人で
いっしょに食事をしていた。

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 昨日、買い物の帰りに、ワイフと2人で、ファースト・フードのレストランで昼食をとった。そのと
きのこと。通路の向こう側に座っていた女性(60歳くらい)が、おかしな行動をとり始めた。連
れの若い母親(30歳くらい)と女の子(4歳くらい)が、トイレかどこかへ席をはずしたときのこと
である。

 その女性は、カバンの中からビニール袋を取り出すと、その中に食べ物の残りを、人目を盗
むかのように、キョロキョロとあたりを見回しながら、詰め始めた。

 その動作が、すばやいというか、こまかいというか……。チョコチョコとした感じだった。それ
で私の目にとまった。

 この年代の女性には、このタイプの人は多い。「このタイプ」というのは、レストランなどでの残
り物を、きちんともって帰る人である。戦後の、あの(ひもじい時代)を経験している。

 それはわかる。しかしその動作が奇異だった。動物園のサルにたとえるのは、たいへん失礼
なことだが、しかしそんな感じがした。人間がもっているはずの、奥ゆかしさとか、深みがまった
く、なかった。

 ワイフもその女性を見ていた。

私「初老性のボケが始まっているみたいだね」
ワ「そんな感じね」
私「こまかいことを、つぎつぎと気にする人かもしれないけど、頭の中はカラッポだよ」
ワ「何も考えていないみたいね」
私「ぼくも、そう思う」と。

 よく観察してみると、その女性には、つぎのような特徴があるのがわかった。ひとつの行動を
しながら、それとは別に、手や体は、すでに別の行動に移っている。たとえば袋の中に残り物
を詰めながら、一方で顔はすでにカバンのほうを向いている。

 そしてカバンの中にその残り物を入れながら、顔を通路のほうに向ける。向けて、あたりをキ
ョロキョロと気にしている。キョロキョロと気にしながら、テーブルの下で、かばんのチャックをし
めている。

私「いいか、よく見てみろ。あの女性は、同時に、2つとか3つの行動を、同時進行の形で、繰
りかえしている」
ワ「落ち着かないわね……」
私「そう、昔の人は、そういう言い方をした。いわゆる多動児特有の動作といってもいい」
ワ「ひとつの行動を、しっかりと終えてから、つぎの行動に移ればいいのに……」
私「ふつうの人なら、そうする」と。

 顔の表情も、つぎつぎと変化した。4歳くらいの孫が、トイレかどこかから帰ってくるやいな
や、笑みをつくって見せたかと思うと、パッと表情を変え、つぎに女の子の母親のほうを見やる
など。そしてその間も、頭や体を、絶え間なく動かす。

 女の子に話しかけながら、一方でテーブルの上の食器を並べなおす。並べなおしながら、もう
一度、手を拭く。拭きながら、瞬間的に女の子に笑みを投げかける。

ワ「ああいう人を、世間では、(よく気がつく人)というのね」
私「そう、日本では、そういうふうに評価する」
ワ「反対に、ひとつずつ行動を見届けてからする人のことを、(気がつかない人)と言うわ」
私「それも、そうだ。お前なんか、ああいう女性から見たら、牛のように見えるかもしれないよ」
ワ「でね、あなた、ああいう人は、自分でそれに気がつくということはないのかしら?」
私「ないだろうね。自分のほうが正常だと思っているよ」と。

 そういう意味では、人間の評価などというものは、相対的なもの。せわしなく動き回る人から
見れば、そうでない人は、おかしく見える。一方、私たちがその女性をおかしいと思うのは、私
たちを基準にしているからにすぎない。

ワ「私、ああいう人がそばにいると、落ち着かないわ」
私「そうだろうね。お前には合わないだろうね」
ワ「頭の中はカラッポみたい……」
私「そうだろうね。何も考えていないだろうね」と。 

 ついでに言うなら、私は、先にも書いたように、その女性は、認知症か何かになり始めている
のではないかと思った。思いついたまま行動しているといった感じで、その前後が途切れてしま
っている。つまり思考の連続性がない。そのため、感情や行動の連続性もない。

私「いちばんよい方法は、そういう姿をビデオか何かにとって、その女性自身に見せることだ。
そうすれば、その女性は、自分の姿に気がつくかもしれない」
ワ「そんなことをして、どうするの……?」
私「……たぶん、無駄だとは思うけど……」と。

 このタイプの人は、少なくない。概して言えば、女性に多い。が、あまりにもそれが顕著だった
ので、ここに書きとめておくことにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●老人の心理

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母だけを観察して、「老人はこうである」
という意見を書くのは、きわめて危険で
ある。

それはよくわかっている。

しかしその一方で、母が見せる様子を、
幼児に照らし合わせてみると、これまた
興味深い点がいくつか見つかる。

少し前、老人特有の自己中心性につい
て書いた。認知症になればなるほど、
老人は、自分のことしか考えなくなる。

乳幼児の自己中心性は、よく知られて
いる。その自己中心性は、成長とともに、
利己から利他へと、変質していく。

老人のばあい、反対に利他から利己へと
変質していく。

そのほかにも、いくつか気がついた。

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 たとえば母だが、最近、おもしろい言い方をするのに気がついた。たとえば、大便や小便が
近くなると、こう言う。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」と。

 大便や小便が、まるで勝手に出てくるというような言い方をする。「自分の意思とは関係なく、
大便や小便のほうが、勝手に出てくる」と。他人ごとのようでもある。つまり、「だから、何とかせ
よ!」と。あるいは、「困るのは、お前たちのほうだ」とでも、言いたげである。

 同じような現象は、幼児の世界でも観察される。大便や小便をしたくなったようなとき、ほとん
どの幼児は、こう言う。「オシッコ! (……だから何とかしてくれ)」「ウンチ! (……だから何
とかしてくれ)」と。

 こういう言い方を総称して、『何とかしてくれ』言葉という。依存性の強い子ども特有の言い方
と覚えておくとよい。

 一方、老人も、そうである。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」と言いながら、その
裏で、「だから何とかしてくれ」と言っている。健康な人なら、そういう言葉を聞くと、こう思うにち
がいない。「オシッコでもウンチでも、自分のことだろう」「自分で始末しろ」と。しかし老人になる
と、自己中心化が進む。進むと、精神そのものが、肉体から遊離し始める。

 ケア・ゼンターには、こんな老人もいるという。

 思うように動かなくなった自分の体について、「どうして治らない!」と、ドクターの顔を見るた
びに怒鳴りつけている老人である。「どうして治せない!」ではなく、「どうして治らない!」と言っ
ているところに注目してほしい。その老人は、ドクターに対して怒りをぶちまけているのではな
い。自分の体に対して、そうしている。

 そこで私は学んだ。

 肉体あっての精神である。精神活動も、もとはといえば、肉体活動の一部である。肉体を離
れて、精神はありえない。

 そこで重要なことは、精神は、いつも、自分の肉体を受け入れなければならないということ。
わかりやすく言えば、老いゆく自分の体にしても、それは私自身であるということ。自分の肉体
を嫌うということは、そのまま、自分の精神を嫌うということになる。

 が、若い人の中でも、自分の肉体を嫌う人は少なくない。必要もない整形手術を繰りかえす
ような人たちである。つまりそれだけ自己中心性の強い人とみてよい。もっとはっきり言えば、
それだけ幼児性が残っているということになる。……こう言い切るのは危険なことかもしれない
が、老人の心理を観察していると、それがよくわかる。

 私たちはいつも、あるがままの(私)を受け入れながら生きる。ここでいう(あるがまま)の中に
は、当然(肉体)も含まれる。「オシッコが出てしまう」「ウンチが出てしまう」ではなく、言うべき言
葉は、「私はオシッコをしたい」「私はウンチをしたい」である。

 願わくは、私は死ぬまで、そういう生き方をしたい。

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乳幼児の自己中心性について、
以前書いた原稿を紹介します。

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●乳幼児の自己中心性

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的
特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考え
る。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心
理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずるこ
とで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられた
と考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さ
しながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、
説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。し
かしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎え
ることがある。

 今朝のY新聞(6月28日)の朝刊を読むと、まだあのA教祖に帰依している信者がいるとい
う。あの忌まわしい地下鉄サリン事件をひき起こした、あのA教祖である。

 私はその記事を読みながら、ふと、こう考えた。

 「この人たちの心理は、乳幼児期のままだな」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 人口
論 実念論 物活論 幼児の自己中心性)

+++++++++++

もう1作、補足します。

+++++++++++


●実念論

 乳幼児の心理の特徴の一つに、「実念論」がある。聞きなれない言葉だが、要するに、乳幼
児は、「念力」を信じているということ。

 実念論……どこか「?」な言葉だが、最初に、外国の論文を翻訳した学者が、そういう訳語を
つけたのだろう。「念じて、ものごとを実現させる」という意味である。

 私も幼児のとき、クリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザがほしくて、心の中で何度も念じ
たことがある。ほかにもいろいろ念じたことがあるが、それについては、あまりよく覚えていな
い。

 つまり、乳幼児は、現実と幻想の世界の区別が、あまりつかないということ。

 しかし問題は、このあとに起こる。

 こうした実念論は、やがて修正され、成長とともに、思考パターン(回路)の中でも、マイナー
な領域へと追いやられる。子どもは、より現実的なものの見方を身につけていく。

 しかしその実念論が、子どもの中に必要以上に残ることがある。あるいは、その実念論が、
かえって、増幅されることがある。

 少しくだらないことだが、こんなことがあった。

 まだ私が幼稚園で働いていたときのこと。ある日、あるところへ行ったら、そこでばったりと、
幼稚園の同僚の先生(若い女性)に出会った。「こんなところで何をしているの?」と聞くと、そ
の先生は、恥ずかしげもなく、こう言った。

 「ここで私の運勢を、占ってもらっていたんです」と。

 見ると、その一角が、ボックスで仕切られたブースになっていた。そして小さいが、そこには、
看板がかけられていた。「○○占星術研究会」と。

 私はそのとき、ほんの瞬間だが、「こんな先生に指導される子どもたちは、かわいそうだ」と
思った。体はおとなだが、心は、乳幼児のまま(?)。

 もちろんそのころには、私は、実念論という言葉は知らなかった。(まだそういう言葉は、なか
ったように思う。)が、乳幼児が、ときどき空想と現実を混濁するという現象は、経験していた。
 

イギリスの格言にも、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。この格言を、私はすでに25年前に知っ
ていた。

 が、今は、念力ブーム。現象としては、あの『ポケモンブーム』のときから、加速されたように
思う。自分の願いごとを、スーパー・パワー(超能力)のようなもので実現させようとする。こんな
ことがあった。

 ある中学生が、何やら真剣な表情で、ビルの一角をじっとにらんでいた。「何をしているの?」
と声をかけると、その中学生は、こう言った。

 「先生、ぼくね、念力で、あのビルを吹っ飛ばしてみたい」と。

 そのポケモンブーム全盛期のころのことである(99年)。私は、こう言った。「吹っ飛ばしたい
と思うのは、君の勝手だが、吹っ飛ばされる人たちの立場で、少しはものを考えなよ」と。

 乳幼児の実念論。こうした現象が、どうして乳幼児にあるかは別にして、できるだけ、そうした
実念論からは、子どもを遠ざけていく。あるいはそれにかわる思考パターンを、植えこんでい
く。

 これは幼児教育においては、とても重要なことだと思う。

 つまり、先生が、占いや、まじないを信じていたのでは、話にならない!、ということ。


●物活論

 この実念論と並んで、よく知られている乳幼児の心理に、「物活論」がある。乳幼児が、ありと
あらゆるもの、無生物も含めて、すべてのものは、生きている」と考える現象をいう。

 人形やおもちゃは言うにおよばず、風にそよぐカーテン、点滅する電気、自動車、石ころ、本
など。

 ある子どもは、姉が本を何かで叩いたとき、「本が痛がっているから、やめて」と言った。反対
に、飼っていたモルモットが死んだとき、「乾電池をかえれば、また動く」と主張した子どももい
た。

 物活論の特徴は、(1)すべてのものは、生きている。(2)すべてのものには、感情がある、と
考えるところにある。

 これも広い意味では、現実と空想の混濁。乳幼児の視点に立ってみると、それがよくわか
る。つまり乳幼児には、まだ生物と無生物を区別するだけの知力や経験が、ない。

 が、こうした物活論を修正していくのも、幼児教育の重要なポイントということになる。わかり
やすく言えば、「生物」と、「無生物」の区別を指導する。

 私には、こんな経験がある。

 10年ほど前、たまごっちというゲームが流行したことがある。そのときこと、私は不注意で、
その中の生き物(?)を殺してしまったことがある。スイッチの押し方をまちがえてしまった。

 とたん、その女の子(年長児)は、「先生が、殺してしまったア!」と、おお泣きした。で、「私
が、死んではいないよ。これはゲームだから」と何度も言って聞かせたが、結局は、ダメだっ
た。私を責めつづけた。

 (反対に、生物を無生物と思いこんでしまうこともある。これはたいへん危険な現象と考えて
よい。これについては、また別のところで、考えてみる。当時、ちょうど同じころ、死んでミイラ化
した死体を、『まだ生きている』と主張した、おかしなカルト教団が現れたのを覚えている。

無生物を生物と思いこむ子ども。死んだ人を生きていると思いこむ信者。現象としては、正反
対だが、これら両者は、一本の糸でつながっている。)

 風でそよぐカーテンを、「生きている」と思うのは、どこかロマンチックな感じがしないでもな
い。しかし子どもは、さまざまな経験をとおして、やがて生物と無生物を区別する知力を身につ
ける。

 それを指導していく、つまり論理的(ロジカル)なものの考え方を教えていくのも、幼児教育の
一つということになる。

【付記】

 そういう意味では、乳幼児期の教師(先生)の選択には、きわめて慎重でなければならない。

 思想性はもちろんのこと、とくに宗教性には、慎重でなければならない。この時期の教師とし
ては、論理的で知的な教師であればあるほど、よい。社会的に認知されていない、「?」的なカ
ルト教団に染まっているような教師は、好ましくない。(当然だが!)
(はやし浩司 実念論 物活論 乳幼児の心理)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●宗教論はタブー 

++++++++++++++

子どもの前では、宗教論は
タブー。

わかっていても、ときに、
失敗する。

++++++++++++++

 教育の場で、宗教の話は、タブー中のタブー。こんな失敗をしたことがある。一人の子ども
(小三男児)がやってきて、こう言った。

「先週、遠足の日に雨が降ったのは、バチが当たったからだ」と。そこで私はこう言った。

「バチなんてものは、ないのだよ。それにこのところの水不足で、農家の人は雨が降って喜ん
だはずだ」と。

翌日、その子どもの祖父が、私のところへ怒鳴り込んできた。「貴様はうちの孫に、何てことを
教えるのだ! 余計なこと、言うな!」と。その一家は、ある仏教系の宗教教団の熱心な信者
だった。

 また別の日。一人の母親が深刻な顔つきでやってきて、こう言った。

「先生、うちの主人には、シンリが理解できないのです」と。

私は「真理」のことだと思ってしまった。そこで「真理というのは、そういうものかもしれません
ね。実のところ、この私も教えてほしいと思っているところです」と。

その母親は喜んで、あれこれ得意気に説明してくれた。が、どうも会話がかみ合わない。そこ
で確かめてみると、「シンリ」というのは「神理」のことだとわかった。

 さらに別の日。一人の女の子(小五)が、首にひもをぶらさげていた。夏の暑い日で、それが
汗にまみれて、半分肩の上に飛び出していた。そこで私が「これは何?」とそのひもに手をか
けると、その女の子は、びっくりするような大声で、「ギャアーッ!」と叫んだ。叫んで、「汚れる
から、さわらないで!」と、私を押し倒した。その女の子の一家も、ある宗教教団の熱心な信者
だった。

●宗教と人間のドラマ

 人はそれぞれの思いをもって、宗教に身を寄せる。そういう人たちを、とやかく言うことは許さ
れない。

よく誤解されるが、宗教があるから、信者がいるのではない。宗教を求める信者がいるから、
宗教がある。だから宗教を否定しても意味がない。

それに仮に、一つの宗教が否定されたとしても、その団体とともに生きてきた人間、なかんずく
人間のドラマまで否定されるものではない。

 今、この時点においても、日本だけで二三万団体もの宗教団体がある。その数は、全国の
美容院の数(二〇万)より多い(二〇〇〇年)。それだけの宗教団体があるということは、それ
だけの信者がいるということ。そしてそれぞれの人たちは、何かを求めて懸命に信仰してい
る。その懸命さこそが、まさに人間のドラマなのだ。

●「さあ、ぼくにはわからない」

 子どもたちはよく、こう言って話しかけてくる。「先生、神様って、いるの?」と。私はそういうと
き「さあね、ぼくにはわからない。おうちの人に聞いてごらん」と逃げる。あるいは「あの世はあ
るの?」と聞いてくる。そういうときも、「さあ、ぼくにはわからない」と逃げる。霊魂や幽霊につ
いても、そうだ。

ただ念のため申し添えるなら、私自身は、まったくの無神論者。「無神論」という言い方には、
少し抵抗があるが、要するに、手相、家相、占い、予言、運命、運勢、姓名判断、さらに心霊、
前世来世論、カルト、迷信のたぐいは、一切、信じていない。信じていないというより、もとから
考えの中に入っていない。

私と女房が籍を入れたのは、仏滅の日。「私の誕生日に合わせたほうが忘れないだろう」とい
うことで、その日にした。いや、それとて、つまり籍を入れたその日が仏滅の日だったということ
も、あとから母に言われて、はじめて知った。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●息子の初恋について

++++++++++++++

I県に住む、ある母親から
息子の初恋についての相談が
あった。

++++++++++++++

 息子(中3)の初恋について、「今は、受験期なので、何とかやめさせたいが、方法を教えて
ほしい」という相談をもらった。岐阜県に住む、HMさんという母親からのものだった。

 この種の感情に、ブレーキをかけることはできない。親が反対すればするほど、恋心というの
は、燃えあがる。

 心理学の世界にも、「自己決定感」という言葉がある。「自分で決定することによる満足感」を
いう。この自己決定感がもつ問題は、それ自体が重要というより、それが阻害(じゃま)された
とき、子どもの心理に、さまざまな弊害を起こすということ。

 ここでいう「恋」には、それをおぎなうための代わりのものが、ない。

 たとえば人間は、何かの欲求を、じゅうぶんに満たされないとき、その欲求を、別のもので満
たそうとする。そしてその方法により、自分を満足させる。これを「代償的満足感」という。

 よく知られた例としては、マスターベーションがある。性交への満たされない欲求を、男性の
ばあい、ヌード写真を見ながら、マスターベーションをしたりする。

 しかしこの方法では、一時的に、性欲を吐き出すことはできても、最終的な満足感を得られる
ことはない。反対に欲求不満が、つのるということがある。ここに代償的満足感の限界がある。

 そこで子どもは、自分の自己決定感を満足させようとするが、このとき、それを阻害(じゃま)
するものが現れると、それを「敵」とみなして、徹底的に攻撃しようとする。

 この攻撃性が、必要以上に、ここでいう恋心を燃えあがらせることがある。「必要以上」という
のは、本来、その子どもが思っている以上に、自分が、その相手の女の子を好きになったと思
いこむことをいう。

 (よくある例は、親の猛反対を押しきって、かけおちまでしたようなカップルが、「いっしょに生
活してよい」と周囲に認められたとたん、その恋心がさめてしまう、など。周囲に反対が、本人
たちどうしが思っている以上に、恋心があると錯覚させてしまうことにより、そうなる。)

 こうした子どもの攻撃性には、二面性がある。前向きに攻撃していくタイプと、内にこもってし
まうタイプである。

 よくあるのは、親が、「受験期になったから、(好きだった)サッカーをやめなさい」と、子どもの
生きがいを奪ってしまうような例。

 親としては、「サッカーをしていたエネルギーを、勉強に向けさせたい」と思って、そうするが、
子どもは、当然のことながら、猛反発する。暴力的な反発も珍しくないが、それができないと、
今度は子どもは内にこもり、大きく心をゆがめる。

 その(ゆがめ方)が、常軌を逸することもある。異常な嫉妬心、ねたみ、いじめに走ることもあ
る。非行の原因になることもある。

 子どもの指導で重要なのは、この「自己決定感」を、うまく引き出し、それを利用しながら子ど
もを伸ばすということ。

 さて本題だが、子どもの初恋は、(1)暖かく無視する。(2)アドバイスを求められたときは、て
いねいにそれに応じてあげる、という方法で対処する。

 反対しても意味がない。意味がないことは、ここに書いたとおりである。扱い方をまちがえる
と、子どもの心をゆがめるだけではなく、親子の絆(ぱいぷ)を切ってしまうことにもなりかねな
い。

 恋心という、人間が、そしてあらゆる生物が、本能的にもっている感情というのは、そういうも
のである。親の立場では、「熱病にでもかかった」と思い、あきらめるしかない。

【教訓】

●子どもの一芸は、聖域と考えて、親が踏みこんで、それを荒らしてはいけない。
●子どもの初恋は、(1)暖かい無視、(2)求めてきたときが与えどきと心得る。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1928)

●損

+++++++++++++++

心が広いかどうかは、
「損」に対する、寛大さで決まる。

「損」に対して、寛大な人を、
心の広い人といい、そうでない人を、
心の狭い人という。

言いかえると、人は、損に損を重ねることで、
心を広くすることができる。

+++++++++++++++

 人生、最大の「損」は、言うまでもなく、「死」である。人は、その死によって、すべてを奪われ
る。失う。名誉も地位も、そして財産も!

 ところでその人の心が広いかどうかは、「損」に対する寛大さで決まる。損に対して寛大な人
を、心の広い人といい、そうでない人を、心の狭い人という。

 いいかえると人は、損に損を重ねることで、自分の心を広くすることができる。そのことは、反
対に、そうでない人を見ればわかる。俗にいう「ケチな人」というのが、それである。

が、ここで誤解してはいけないのは、「ケチな人」というときは、何も、お金(マネー)だけの問題
ではないということ。先日、介護の会に出たとき、こんな話をした女性(60歳くらい)がいた。そ
の女性もまた、今年85歳になる母親の介護を、自宅でしているという。

 その女性には、一人、妹がいるの。が、その妹は、母親の介護を、まったく分担しようとしな
いという。費用分担はもちろんのこと、ときどき世話を頼むのだが、そのつどあれこれ口実をつ
くっては、それから逃げてしまうという。

 「妹は、自分の時間が取られたり、自分の生活のリズムが崩されるのがいやみたいです」と。

 ここでいうケチな人というのは、生活に対する姿勢が、防衛的な人のことをいう。ものの考え
方が、利己的で、かつ自己中心的。もちろん他人のためには、ほとんど何もしない。いや、する
ことはあるが、たいていは自分をよく見せるための仮面。たとえば町内で祭りの世話などは、
よくするが、それもどこか打算的。その女性は、そう言った。

 そこで「損」、ということになる。

 もちろん、だれしも損はしたくない。お金はもちろんのこと、時間にしてもそうだ。さらに苦労も
したくない。しかし損というのは、自動車のハンドルの(遊び)のようなもの。(遊び)があるから、
自動車を運転することができる。(遊び)がなかったら、運転することはできない。

 たとえばあなたの近くに、こんな人がいたとしよう。男でも、女でもよい。その人は、一日中、
家の中にいて、自分の好きなことをしている。庭いじりに、家庭菜園。人と会うこともしないし、
町内のつきあいもしない。もちろん訪れる人もいない。

 近所の子どもが庭へ入ってきただけで、それを不愉快に思う。だから、塀の外に、もう一本、
別の柵をつくる。が、それだけではない。

 その人は、道路に落ちているゴミひとつ、拾おうとしない。となりに空地があり、その季節にな
ると雑草が生い茂る。それについても、逐一(ちくいち)、市役所に苦情を申し立てたりする。あ
るいは自分の家の前の道路に、だれかが自動車を駐車したりすると、すぐパトカーを呼ぶ、な
どなど。

 あなたの周囲にも、ひょっとしたら、そういう人がいるかもしれない。しかしそういう人を、だれ
も心の広い人だとは、思わない。心の狭い人という。

 しかしそこの「死」を感ずるようになると、ものの見方が一変する。「生」というのは、たとえて
言うなら、光り輝く白い世界。が、その光り輝く白い世界だけに住んでいると、その(輝き)がわ
からなくなる。

 その(輝き)は、(死)という暗黒の世界をうしろにおいたとき、それがわかる。闇の世界があ
るからこそ、光の世界に輪郭(りんかく)ができる。闇の世界がなければ、影すら、できない。冒
頭に書いたように、人生、最大の「損」は、言うまでもなく、「死」である。「損」という言い方に語
弊があるなら、こう言いかえてもよい。

 やがて襲い来る「死」という「損」の前で、何が、「損」なのか、と。つまり私たちが生きている間
は、その生きていることにまさる価値はない。「損」、そのものが存在しない。

 だから「損」を考えるほうが、おかしい……ということになる。わかりやすく言えば、あなたの身
のまわりのものすべて、そして身近にいる人すべてが、あなたに何かを教えるためにそこにあ
り、そこにいる。そこであなたがすべきことは、己(おのれ)の中の善の心に耳を傾けて、それ
に従っていきるということ。

 あとのことは、あとに任せればよい。(生きている)ことを無限の価値とするなら、あなたが
「損」と考えるようなことは、その一部にもならない。ゴミのようなもの。そんなゴミに左右され
て、迷ったり、悩んだりするほうが、おかしい。気分をクシャクシャさせるほうが、おかしい。

 もちろん自ら損をすることはない。大切なことは、心のどこかで「損」を感じたら、そのときこ
そ、あなたはつぎのステップへの階段を昇るときだと思えばよい。つまりそのとき、「いやだ」と
思えば、あなたはいつまでも凡人のまま。しかし笑って過ごせれば、あなたはすでにそのとき、
つぎのステップに昇ったことを意味する。

 私も、過去において、とくに金銭的な意味では、損ばかりしてきた。取られることはあっても、
もらったことは、ほとんど、ない。ワイフの父親が亡くなったとき、遺産(?)として、現金10万円
をもらった。あとにも先にも、人からお金をもらったのは、そのときだけ。

 しかし私はあるとき、こう考えた。

 「健康で今まで、生きてきた。それにまさる価値はない」と。とたん、気が晴れた。スーッとし
た。大切なことは、いつまでも前向きに、光り輝く白い世界に向かって生きること。「損」だとか、
「得」だとか、そんなことを考えるほうが、おかしい。そんなヒマがあったら、とにかく足を前に一
歩、踏み出すこと。

 繰りかえすが、あとのことはあとに任せればよい。

【付記】

 どうしても話は、介護のことになってしまう。たしかに家の中に、老人がいると、自分の行動が
制約される。私のばあいも、母と同居するようになって、1泊旅行というのが、ほとんどできなく
なった。

 もっとも、それができなくなったというわけではない。ケア・マネージャーの人に頼めば、あれ
これと骨を折ってくれる。ケア・センターのほうで、母を預かってくれる。

 そんなとき、ふと、こう思う。「母のおかげで、好きなことができない」と。

 しかしものごとには、いつも両面がある。(何でも好き勝手なことができる)という前提で、今の
自分を見ると、たしかに不自由である。しかし(何もできない)という前提で、今の自分を見る
と、私は自由である。(何もできない)状態というのは、最終的には(死)を意味する。

 つまり自由、不自由ということは、あくまでも相対的なこと。何をもって自由といい、何をもって
不自由というか。さらに言えば、自由といっても、行動の自由、肉体の自由、それに精神の自
由がある。

 こと精神の自由に関していえば、だれも、またいかなるばあいも、私の自由は、制約されるこ
とはない。肉体の自由も、健康である間は、そうである。精神の自由、肉体の自由の前では、
行動の自由など、大きな問題ではない。

 たまの日曜日だが、母の介護があって、何かの会合に出られないからといって、不自由にな
ったとは言えない。が、ここでいう「ケチな人」には、それがわからない。「自由がない」「自由が
ない」と、ことさら大げさに騒ぐ。あるいは取り越し苦労ばかりしている。

 しかし最初から「損」を計算に入れておくと、ものの見方が一変する。「損」を前提として、生き
る。そのほうが、気も楽。どうあがいたところで、やがて「死」は確実に、私やあなたのところに
やってくる。どうせそのとき、私やあなたは、すべてを失う。その「死」と比較したら、今、私やあ
なたが経験している「損」など、何でもない。

 大切なことは、一日でも多く、一時間でも多く、「損」のことは忘れて、心朗らかに生きること。
私はそう思う。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1929)

●5月6日、雨

++++++++++++++++

今朝は、朝から大雨。雨戸をたたく
大粒の雨で、目がさめた。

時計を見ると、7時少し前。

あわてて起きる。起きて、家のあちこち
の窓を閉めなおす。

書斎も、窓の内側まで、ビッショリと
濡れていた。あぶなかった!

あと少しで、パソコンまで雨に濡れる
ところだった。

++++++++++++++++

●浜松祭り

 昨夜は、ワイフと2人で、浜松祭りを見に行ってきた。写真をたくさんとった。ビデオもとった。

 途中、何人かの知りあいに会った。あいさつをした。ついでに屋台で売っていた、焼きそばを
買った。食べた。結構、おいしかった。

 こと浜松祭りに関して言えば、浜松祭りは、(見て楽しむ祭り)というよりは、(参加して楽しむ
祭り)。参加する人が主役で、それを見る人は、脇役でしかない。はっきり言えば、観客など、
どうでもよい。祭りをする人も、「見せてやろう」などという意識は、ほとんど、ない。

 祭りをする人自身が楽しむ。それが浜松祭り。

もしみなさんも、参加する機会があれば、ぜひ、参加してみたらよい。おもしろさが、数十倍に
なる。


●ビスタ

 昨日は、古いパソコンから、新しいパソコンへの引っ越しで、午前中がつぶれてしまった。パ
ソコンの引っ越しは、結構、たいへん。

 しかし今度のOSのビスタは、たしかにすごい。XPより、各段の進歩を遂げている。さきほど、
OS付属のウィルススキャンをしてみたが、20〜30分ほどで終了した。XPのときは、市販のウ
ィルス対策ソフトでスキャンしていた。そのときは、7〜8時間もかかった。

 今のところ、新しいパソコンは、サクサクと、軽快に動いている。気持ちよい。


●今日で連休はおしまい

 私は、こうした連休中は、何も計画を立てないようにしている。旅行もひかえる。人に会うのも
ひかえる。どこへ行っても、人また人。それに人と会うにしても、相手の人にも、つごうがある。

 が、最終日に、この大雨……と思っていたら、今は、雨がやんでいる。シトシト雨に変化した。
先ほどワイフに、「あとで竹の子を見てくる」と言うと、「そうね」と。

 我が家の家の前は、大きな竹やぶになっている。毎年、連休中に、竹の子が出てくる。雨後
の竹の子というが、その雨が、今朝、降った。


●セカンド・ライフ

 今度、新しく、日本でも、「セカンド・ライフ」という、インターネット・サービスが始まった。パソコ
ン内部の、仮想現実の世界のことである。その世界の住民として登録すると、その世界の住民
として、生活(?)できるという。

 アメリカでは、たいへんなブームを呼んでいるという。実際、その世界で生活しながら、お金を
稼ぐこともできるという。大手の会社も、続々と進出してきている。

 今は雑誌でその情報を収集している段階だが、とてもおもしろそう。近々、私も、その「セカン
ド・ライフ」に挑戦してみたい。つまりもう少し様子をみて、安全性が確実に確認されたら、挑戦
してみたい。


●仮想現実

 ここに(現実)がある。それに対して、パソコンの画面の現れる世界は、(仮想現実)の世界で
ある。一応、そういうことになっている。

 しかしこの(現実)にしても、それが本当に(現実)かどうかということになると、本当のところ、
確かではない。

 (ものが見える)ということにしても、本当は、脳みその後頭部にあるモニターに映った像を、
脳みそが「像」と判断しているだけにすぎない。音もそうだ。知覚という知覚、すべてがそうだ。

 それに(私)と(他人)をへだてる(壁)にしても、その間には、酸素や窒素など、無数の分子が
ぎっしりと詰まっている。たまたま(光)が、酸素や窒素を通過するため、ここに(私)がいて、そ
こに(他人)がいるにすぎない。

 この(私)にしても、どこからどこまでが本当の(私)であり、どこから先が、本当の(私)でない
か、よくわからない。よい例が、本能である。私たちのほとんどの行動は、その本能によって支
配されている。(私)ではなく、私でない(私)によって、だ。

 当然、精神も、その影響を受ける。影響を受けながら、「私は私」と思いこんでいる。よい例
が、性欲。その性欲があるからこそ、男女は恋愛をし、結婚する。無数のドラマも、そこから生
まれる。どの人も、「私は私」と思って、そうしているかもしれないが、つまるところ、本能によっ
て、動かされているだけ。

……ということで、本当のところ、(私)など、どこにもない。つまりこの(現実)のそのものが、仮
想現実のようなもの。もっと端的に言えば、目の前の現実も、パソコンのモニターに映る世界
も、大きなちがいがあるようで、それほど、ない。


●K国は、なぜ預金を引き出さないのか?

 またまたBDAからの送金問題が、暗礁に乗りあげている。(預金の凍結解除問題)が、いつ
の間にか、(送金問題)になってしまった。いつものことである。

 ひとつの問題が解決に向かうと、K国は、また別の新たな問題を提起してくる。日本語では、
そういうのを、「ゴネる」という。

 で、その送金先だが、K国は、当初は中国、つぎにベトナム、そしてそのつぎに、ロシアをイタ
リア、今は、アメリカを指定。一方、中国政府は、「あと、2、3日」「もう少し」「来週中には解決」
と、そんな言葉ばかりを繰りかえしている。

 しかし、こう考えてみてはどうだろうか。

 K国には、もうひとつ、BDA問題を解決できないというよりは、解決したくない理由がある、
と。

 もしBDA問題が解決したら、先の6か国協議で約束したように、Yビョンの核開発関連施設を
停止しなければならない。そのために、IAEAの査察官をYビヨンに招かなければならない。

 しかしこれはK国にとっては、まことにもって、ま・ず・い。

 なぜなら、Yビョンの核開発関連施設はすでに老朽化していて、使いものにならないからであ
る。韓国に亡命したFさん(K国政府、元高官)も、そう言っている。「停止」をうんぬんするような
施設ではない。すでに使いものにならない状態になっている。つまりウソがバレてしまう。

 だからあれこれ無理難題をもちかけては、BDA問題の解決を先延ばしにしている? しかし
そう考えると、現在の、K国の不可解な動きを、すんなりと理解できる。

 なおYビョンの核開発関連施設の周辺では、偵察衛星などにより、いつもとはちがった動きが
報告されている。しかしそれは、「停止のための準備」ではなく、ここでいう「ウソがバレないた
め」と考えるほうが、正しいのでは? もしそうなら、中国政府の発表とは裏腹に、BDA問題
は、今しばらくは、まだ解決しない。


●思考力

 ここ数日、思考力がかなり低下している。自分でも、それがよくわかる。何かを考えても、そ
れがそのまま脳の表層部を、上すべりしてしまう。上すべりしたまま、それが脳の奥深くに入っ
ていかない。

 それにこのところ、どういうわけか、夫婦仲も円満。この2か月ほど、ワイフと口論もしていな
い。私にとっては、珍しいことだ。むしろワイフのほうが心配して、「あなた、だいじょうぶ?」と聞
く。

 いいのかなあ……? だいじょうぶなのかなあ……?

 夫婦というのは、(親子もそうだが……)、(安定期)→(倦怠期)→(緊張期)→(爆発期)→
(反省期)→(安定期)という周期で、離れたり、くっついたりする。(安定期)が長すぎると、かえ
って心配になる。つづく(倦怠期)→(爆発期)で、その爆発がより大きくなる。

 で、私が今、心がけていることがある。

(1)できるだけワイフの趣味に合わせて、行動している。
(2)できるだけワイフの苦情やグチに耳を傾けるようにしている。
(3)ワイフだけの時間を用意したり、反対に退屈そうなときには、できるだけ、いっしょにいるよ
うにしている。
(4)ジョークを多くし、ワイフを笑わせている。
 
 そしてここがいちばん重要だが、(5)いつも何か、新しい刺激を用意するようにしている。

 ワイフは、たいへん性格の安定した女性である。そういう女性と結婚できた私は、ほんとうに
ラッキーだった。そのワイフの遺伝子を受け継いだのだろう。私の3人の息子たちもまた、性格
がたいへん安定している。

 ともかくも、今は、我が家は平凡すぎるほど、平凡。『賢人はふつうの価値を、それをなくす前
に気づき、愚人は、それをなくしてから気づく』というのは、私が考えた格言だが、今、その(ふ
つうの価値)を、しみじみとかみしめている。


●Outlook Expressがない?

 BISTA(OS)パソコンを購入して、4日目。今のところ、メールの送受信は、(WINDOW・メ
ール)を使ってしている。しかしどういうわけか、アドレスの引っ越しがうまくいかない。

 考えてみれば、BISTAパソコンに、Outlook Expressがないのは、どうしたことか? 削除
した記憶はないし……。

 今までの買ったパソコンには、すべてOutlook Expressがついていた。だからそれを当り
前のことと思っていた。しかしそれがない……?

 明日から、あちこちに電話をかけて、いろいろ聞かなければならないことがある。このOutlo
ok Expressもそうだが、ソフトによっては、うまく動作しないのもある。

 BistaはすぐれたOSだとは思うが、周辺機器のみならず、ソフトまで買い替えなければならな
いのもある。たとえば今まで使っていた、C社の複合機(Malti Pass C50)は、Bistaでは使
えない。

Bistaが発売になって5か月になるが、それほど売れ行きが伸びていないのには、そういう理
由があるのかもしれない。みなさんもBistaパソコンを購入されるときには、じゅうぶん注意した
ほうがよい。

 機器のドライバーを、それぞれの会社からダウンロードしてインストールすればよいとは言う
が、それだって素人には、チンプンカンプンなことだと思う。

【付記】

 VISTAから、Outlook Expressは、「Windows メール」に変わったそうです。知りません
でした!


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1930)

●今朝・あれこれ(5月8日)

+++++++++++++++

今日は、朝からいそがしい。
朝食をとったら、すぐ行動開始。

天気予報では、「暑くなる」という
ことだったが、起きてみると、
秋を思わせる、冷気をおびた、
さわやかな風。

一年中、こうだといいのだが……。

+++++++++++++++

●グーグル・アース

 グーグル・アースでは、その場所の経度、緯度が、家単位ほどまで、正確に表示される。つま
りその家の経度、緯度がわかれば、その家を、グーグル・アースで検索することができる。

 この方法で、私は今、いろいろな国の友人や知人の家を、グーグル・アースで検索して、楽し
んでいる。ただ地域によっては、解像度の低いところもあり、およその場所しかわからないとこ
ろもある。

 しかしこの先、グーグル・アースを使った場所探しが、ポピュラーになるだろう。「あなたの家
は、どこ?」「私の家は、37.471746S,144.572911Eよ」と。

 ちなみに、この座標は、メルボルン大学のインターナショナル・ハウスのもの。興味のある方
は、ぜひ、見てほしい。

 それにしても、すごいことができるようになったものだ。パソコンとつきあっていると、毎日が、
新しい驚きの連続。そこで予言。

学校教育においても、現在の、英語、数学、国語、社会、理科という教科分けが、近い将来、
コンピュータ操作、コンピュータ調査、コンピュータ応用などというように変わるかもしれない。
(情報)や(知識)の価値がかぎりなく小さくなる。かわって、その(情報)や(知識)をどのように
(応用)していくか。それがこれからの教育の(柱)になる。

 わかりやすく言えば、(情報)はコンピュータで仕入れればよい。つまりこれからは、(も知りの
子ども)は、あまり意味がないということ。たとえば社会科の年号にしても、そんなことは、その
つど、コンピュータで検索すればよい。つまり検索能力も、重要な能力のひとつということにな
る。だからたとえばあと10〜20年もすれば、社会科のテスト問題も、つぎのように変わるかも
しれない。

【問1】

 1561年、織田信長の脅威を感じた、あなた(=今川義元)は、桶挟間(おけはざま)での戦
いを前にして、だれに、どのような指示を出すか。その相手と、指示の内容を800字以内で書
きなさい。コンピュータは自由に使ってよろしい。

 すでにノート型のパソコンも試作されているという。「ノート型」というのは、本当に紙でできたノ
ートのような形をしていて、厚さもノート程度。ノートのように丸めたりすることもできるという。

 子どもたちは、そのつど必要な情報は、ノート型パソコンから手に入れる。それでじゅうぶん。
大切なのは、(情報)ではなく、(与えられた情報を、自ら考えながら、加工する力)。これからの
教育は、そういう方向に向かって進む。


●ジェット・コースター事故

 この3、4日、新聞やテレビは、ジェット・コースター事故ばかり報道している。まるで飛行機の
墜落事故でもあったかのよう。どこかの遊園地で、コースターの車軸が折れ、それが原因で事
故になった。一人の人が、死んだ。

 それはそれとして、つまり不幸な事故であったことにはちがいないが、しかしたかが事故では
ないか。私も若いころは、好んで、この種の乗り物に乗った。「コースターがレールからはずれ
て、地上へたたきつけられるかもしれない」という思いが、恐怖心を呼び、それがまた楽しかっ
た。

 (だからといって、こうした事故があってよいと言っているのではない。誤解のないように!)
 
 私が言いたいのは、こうした乗り物に乗るときは、それなりの自己責任で乗るということ。「あ
ぶない」と思えば、乗らなければよい。それを事故が起きるたびに、やれ「整備不良だ」「点検
不備だ」と騒ぐ。折れた車軸にしても、10数年以上も取り換えられていなかったという。

 しかしここでも問題がある。車軸などというものは、100年たっても折れないものもあれば、1
年で折れるものもある。私は、こんな事故を経験している。

 買って半年もたたない自転車に乗っていたときのこと。暗い夜道だった。いつものようにスピ
ードをあげようと、ぐいとペダルに力を入れた、そのときのこと。突然、車体が傾き、私はその
まま地面にたたきつけられてしまった。

 横にガードレールがあった。その向こう側は、用水路になっていた。幸いにも後続の車がな
かった。もしあったら、そのまま車にはねられていた。

 見ると、自転車の後輪の車軸が折れていた。……というような事故は、多い。つまりコースタ
ーの事故は、その中のひとつにすぎない。もちろん整備不良についての責任は、追及しなけれ
ばならない。遺族やけがをした人への補償も、当然である。しかし事故は事故。そのときだけ
の報道でじゅぶんではないのか。

 こうまで連日、連夜、コースター事故の報道ばかりがつづくと、率直に言って、うんざり。
 

●ニュースの選択

 そこでニュースの選択。私は、今、こんな経験をしている。

 インターネットのニュース・サイトの中には、動画と音声で、ニュースを配信してくれるところが
ある。私が好んで見ているのは、TBSのi−news。

 いつも50〜70項目のニュースが並んでいる。そこで私は見たいニュースのボックスに(レ)
を入れる。つまりニュースを選ぶのは、私というわけである。

 そのとき、ふと、こんなことを考える。

 おそらく、報道各社(テレビ局、新聞社)には、毎日、洪水のようにニュースが流れこんでくる
にちがいない。そういうとき、報道各社は、どのような基準で、ニュースを選び、それを配信して
いるかということ。

 ここで報道各社が、(あるいはそれを選ぶ編集局でもよいが)、自分のつごうのよいニュース
は配信し、そうでないニュースには目を閉じたら、どうなるか。ちょうど今の私が、見たいニュー
スを選ぶように、である。

 いつの間にか、私たちは、彼らにとってつごうのよいニュースだけを見聞きし、やがて彼らが
意図しないまでも、彼らのよいように操られるようになるかもしれない。戦前のあの(大本営発
表)に、その一例をみるまでもない。

 そこで報道各社の中立性の問題が出てくる。言うまでもなく、報道各社は、努めて、中立的で
なければならない。それは何も、ニュース番組だけにかぎらない。たとえば今の今も、どこかの
オバチャンが、夜の番組に出てきては、(占い)なるものを披露している。タレントたちを相手
に、まさに言いたい放題のデタラメを言っている。

 娯楽番組といえば、それまでだが、子どもたちに与える影響となると、大きい。そういう番組を
流すなら流すで、他方で、「そういうインチキにだまされてはいけない」というような番組も流す
べきではないか。あるいは、それに疑問をもつ人たちを同席させる。いや、その前に、どうして
そういうオバチャンを、テレビに出さなければならないのか。その必要性はあるのか。

 ちょうど私たちがニュースを選ぶように、だれかがそういうタレントを選び、それを一方的に報
道する。考えてみれば、これはとてもこわいことである。

 ……ということで、最初の話にもどる。

 こうした事故を受けて、国土交通省(国土交通省だぞ!)まで、乗り出してきた。いわく、『H三
国土交通相は8日の閣議後の記者会見で、部品の亀裂の有無を詳細に調べる「探傷試験」を
法令で義務付けるなど、遊戯施設の定期検査を強化する方針を明らかにした。

 社会資本整備審議会(国交相の諮問機関)の建築物等事故・災害対策部会を10日に開き、
具体策の検討を要請する』(ヤフー・ニュース)と。

 改めて言う。たかがジェット・コースターの事故ではないか!

 
●今度は、「韓国海」?

++++++++++++++

「東海」がだめだとわかると、
今度は、「韓国海(Sea of 
Korea)」?

韓国政府の考えていることが、
私には、よく理解できない。

要するに、「日本」という名前が
嫌いらしい?

++++++++++++++

 日本の南にある海を、「東シナ(中国)海」という。さらにそこから南につながる海を、「フィリッ
ピン海」という。しかしだれも、そんなことに、文句を言わない。

 が、韓国はちがう。世界中に特使まで派遣して、日本海を「東海」に改めようとしている。当の
韓国は、「アジア大陸の東にあるから、『東海』がふさわしい」と主張している。が、こんなのは、
ウソ。韓国では、東シナ海を、「西海」と呼んでいる。韓国の西にあるから、「西海」。だから東
に日本海は、「東海」。

 しかしだれも、そんな呼びかけに応ずる気配はない。そこで今度は、「日本海を、韓国海にせ
よ」という主張が出てきた。聯合ニュース(5月7日)は、つぎのように伝える。

『国際水路機関(IHO)総会を控え、韓国と日本が東海表記問題をめぐり。対立するなか、文化
財庁のY庁長が東海を、「韓国海(シー・オブ・コリア)」と表記するよう主張したことが6日に明
らかになった』と。

 韓国人よ、少しは、頭を冷やせ! 日本が嫌いなのはわかる。「日本」という名前が嫌いなの
も、よくわかる。しかしもし韓国の言うような主張がまかり通るなら、これから先、世界中は、毎
年のように、海の名前を変えなければならない。たとえばインド洋は、「北オーストラリア海」、メ
キシコ湾は、「南アメリカ湾」、南シナ海は、「東ベトナム海」と。

 日本海が日本海になったのは、世界の大きな歴史の流れの中で、そうなった。だれがみて
も、そのほうが、わかりやすかったからである。そして今、「日本海」という名前は、世界の地理
として、定着している。

 「東海」が、「平和の海」(N大統領提案)になり、今度は、「韓国海」(Y文化財庁庁長)になっ
た。が、それもだめだとなると、今度は、何になるのか? 聯合ニュースは、「韓国と日本が東
海表記問題をめぐり、対立するなか……」と書いている。

 しかし日本が反対しているわけではない。世界の人が、常識として、あきれているだけであ
る。どうしてそんなことが、韓国の人たちには、わからないのか。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1931)

●脅して、はぐらかす

++++++++++++++++

Bたけし氏と言えば、日本でも
人気ナンバーワン(?)のお笑い
タレントである。

そのBたけし氏の番組には、ある
ひとつの共通した特徴がある。

脅して、はぐらかすという特徴で
ある。

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 Bたけし氏と言えば、日本でも人気ナンバーワン(?)のお笑いタレントである。一応、そういう
ことになっている。事実、Bたけし氏は、その世界では、カリスマ的な存在になっている。

 そのBたけし氏の番組には、あるひとつの共通した特徴がある。(1)脅して、(2)はぐらかす
という特徴である。

 まず脅す。それによって、視聴者を不安にさせる。そのためには深刻なテーマを、取りあげ
る。地球温暖化の問題、K国の核ミサイルの問題などなど。最近では、難病を取りあげること
もある。昨日(5月8日)の某番組でも、難病のひとつを、取りあげていた。

 しかしその部分は、テレビ局側の編集で、かなりシリアスに仕上がっていた。私も見ていた
が、いくつか症状に、思い当たるところも重なり、最後まで見てしまった。

 が、それが終わると、いよいよBたけし氏の登場である。それまでの流れから一転して、突
然、(お笑い)となる。ケバケバしく飾られたスタジオ。居並ぶ、タレントたち。まずBたけし氏
が、いくつかのギャグを飛ばす。それを受けて、別のタレントが、こう言う。「オレなんかサア、み
んな、(症状が)、当てはまるよ」と。つまり前兆としての症状に、みな、当てはまる、と。

 とたんスタジオは笑いの渦に包まれる。ゲラゲラ、ハハハ、と。

 わかるかな? この番組制作の手法は、カルト教団が使う手法と同じ。カルト教団でも、信者
を勧誘するとき、同じ手法を使う。

 たとえばまず、「もうすぐ人類は滅ぶ」などと説く。つづいて、「しかしこの信仰を信じたものだ
けが、救われる」などと説く。人は、不安になると、そこに心のすき間ができる。そのすき間をた
くみについて、そこへ(希望)を注入する。

 Bたけし氏の番組でも、Bたけし氏の顔がアップになっただけで、視聴者は、ある種の安ど感
を覚える。つまり視聴者自身が、そういうふうに感ずるように、長い時間をかけて、すでに洗脳
されてしまっている。難病という深刻な問題も、Bたけし氏の口から語られると、ただのギャグで
しかない。つまりそれこそが、こうした番組の(ねらい)と考えてよい。

 しかしこれはたいへん危険なことでもある。

 もちろんBたけし氏に問題があるのではない。そういう番組を編集し、(お笑い番組)としてし
まう、製作者側に問題がある。たとえば少し前も、同じような番組で、地球温暖化の問題を取り
上げていた。

 地球温暖化は、現在、人類が直面する、きわめて深刻な問題である。それはその通りであ
る。が、そういう問題でも、Bたけし氏が登場しただけで、(お笑い)になってしまう。とたん、それ
を見た人は、安心感を覚えると同時に、それ以上に、自分で考えることをやめてしまう。

 それは実に甘美な世界である。つまり視聴者は、その甘美な世界に浸(ひた)ることによっ
て、心配や不安から解放される。と、同時に、Bたけし氏というタレントに、希望を託してしまう。

 わかりやすく言えば、その時点で、Bたけし氏という人物が率いる(Bたけし氏教)の信者にな
ってしまう。

 こうした心理操作は、Bたけし氏が意図するものではないかもしれない。(結果)としてそうな
るというだけのことで、(目的)ではないかもしれない。あるいは反対に、こうも考えられる。深刻
な問題を取り上げるからこそ、そのままで終わっては、視聴者をただ不安にしてしまう。そこで
しめくくりに、(お笑い)によって、視聴者に安心感を与える、と。

 映画で言えば、ハッピーエンドの手法である。

 が、だったら、最初から、深刻な問題を取り上げないことではないのか。昨夜見た、ある難病
の問題にしても、どこかしら、その難病を、もてあそんでいるかのような雰囲気さえ感じた。「本
当にこの病気で苦しんでいる人が見たら、怒るだろうな」と思ったのは、はたして私だけだった
だろうか。

 つまり(まじめさ)がない。その(まじめさ)がないところが気になった。番組の中では、「これが
恐ろしい病気の前兆とは……」「さらに前兆がつづく……」「そしていよいよ……」と。つまり難病
の紹介というよりは、視聴者をハラハラさせるほうに、力点が置かれていた(?)。

 言うまでもなく、ハラハラさせればさせるほど、その直後に登場するBたけし氏の存在感が、
ます。つまりそれこそが、番組制作者の目的ということになる(?)。

 ……ということで、今、何ともおかしなことが、テレビ番組の世界で起きている。それを疑問に
思うか、思わないかは、それぞれの個人の問題かもしれない。が、あなたも一度でよいから、
私がここに書いたことを参考に、今度、Bたけし氏の番組を見てみたらよい。何か、新しい発見
をするかもしれない。

 何も考えず、ああした番組を、見てはいけない! そのまま受け入れてしまってはいけない!
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 カルト
 カルトの手法)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司
 
●荷おろし症候群

+++++++++++++++

目的の学校(中学、高校)に無事、
入学をはたしたとたん、勉強面で、
無気力になってしまう子どもは、
多い。

勉強面なら勉強面だけで無気力に
なるという点で、いわゆる燃え尽き症候群
(バーント・アウト)とは区別される。

称して、「荷おろし症候群」。

今、そういう子どもがふえている。
程度の差もあるが、たとえば中学
入学の段階で、約20%前後の子ども
がそうなる。

+++++++++++++++

 受験という緊張感から解放されたとたん、勉強面なら勉強面だけで、無気力になってしまう子
どもがいる。ほかの遊びや、クラブ活動のほうは、それなりにがんばる。しかし「勉強」となった
だけで、それから逃げてしまう。やる気を示さない。

 ちょうど荷物をおろしたような状態、つまりそのとたん、疲れがドッと出て、その場でへたりこ
んでしまうような症状に似ているところから、「荷おろし症候群」と呼ぶ。特徴としては、つぎのよ
うなものがある。

(1)虚脱感(目的を見失う。目的がもてない。)
(2)無気力感(やる気が起きない。)
(3)倦怠感(ぼんやりと、無益に時間をつぶす。)
(4)疲労感(何をしても、疲れる。)
(5)集中力欠如(集中力がつづかない。)
(6)現実逃避性(現実から逃避しようとする。)

 もともと勉強に対して、受動的だった子どもほど、そうなりやすい。親に言われて、勉強した子
どもや、受験塾などで、脅されながら勉強した子どもなど。程度の差もあるが、全体的にみる
と、たとえば中学に入学した段階で、約20%前後の子どもが、そうなる。あるいはもっと多い
かもしれない。

 が、表面的には、それほど変わらない。それだけに、家族の人も、それに気がつくということ
がない。「うちの子はだいじょうぶ」と考えて、見過ごしてしまう。また先にも書いたように、勉強
面だけで無気力になるという点で、燃え尽き症候群(バーント・アウト)とは、区別される。

 しかし決して、軽く考えてはいけない。荷おろし症候群にしても、脳の機能そのものが変調し
て起こると考える。重いばあいには、そのまま燃え尽き症候群へと進んでしまうこともある。

 ではどうするか……という問題よりも、ここでは、ではどうすれば、こうした子どもの問題を防
ぐことができるかということを考えてみたい。

 ほとんどの親は、(おそらく、あなた自身も)、「いい学校へ子どもを入学させるのは、子ども
のため」と考えている。しかしこれがとんでもない誤解! そのことは、自己同一性の視点から
考えてもわかる。

 子どもが何かの(目的)をもって、その(目的)に向かって努力することは、大切なことである。
たとえば「ケーキ屋さんになりたい」と思って、お菓子作りの勉強をする、など。

 このばあいは、(自分のしたいこと)と、(自分のしていること)が一致している。

 しかし「いい学校へ入る」というのは、ここでいう(目的)ではない。私は「擬似目的」と呼んでい
る。言うなれば、魚を釣るときの、ルアー(擬餌)のようなもの。目的の学校に入学したとたん、
その目的を見失ってしまう。「入学したからどうなの?」という部分が、ない。ないから、入学した
とたん、目的を見失ってしまう。

 しかもたいていの子どもは、受験塾などで、受験勉強を繰りかえしている。そこは「成績」とい
う数字だけの世界。その数字に脅されて勉強を強いられる。もし反対に、そういう世界が楽し
いと言う子どもがいたら、その子どもの人間性を疑ってみたほうがよい。

 まともな子どもほど、そういう世界になじまない。なじまないまま、受験競争を強いられる。そ
してこういう状態が、1年とか2年もつづく。荷おろし症候群というのは、まさにその結果として起
こる。

 ではどうするか?

 子どもには子どもの能力とリズムがある。その能力とリズムを、的確に見分け、知る。すべて
はここから始まる。それを無視して、「うちの子はやればできすはず」「うちの子は、こんなはず
はない」と、子どもをたきつけても、意味はない。

 以前、私は『伸びたバネは、縮む』という格言を考えた。子どもの能力というのは、まさにそう
で、無理をして引っ張っても、力を抜いたとたん、もとに戻ってしまう。仮にそれで中学受験はう
まくいったとしても、今度は、高校や大学受験でつまづく。その時点で、ここでいう荷おろし症候
群を示したり、ばあいによっては、燃え尽き症候群を示したりするようになる。

 子どもの能力を競馬にたとえるのは、不謹慎なことかもしれないが、それは、第1レースと第
2レースで勝っても、第3レースで、あり金すべてを失ってしまうようなもの。要するに、無理をし
ても意味はない。

++++++++++++++

以前、何度もこのテーマについて
は書いてきました。

それらの原稿を添付します。

++++++++++++++

●燃え尽き症候群と、荷おろし症候群

 ふと、今、燃え尽き症候群と、荷おろし症候群は、どこがどうちがうか、それを考えた。

 燃え尽き症候群の最大の特徴は、無気力感と脱力感。しかし荷おろし症候群の最大の特徴
は、目的の喪失である。症状としては、よく似ているが、(実際には、区別できないが……)、中
身はちがう。

 たとえば(明日のジョー)は、がんばりすぎて、そのあと、燃え尽きてしまった。(明日のジョー)
は、燃え尽き症候群の典型例として、よく話題になる。

 しかし荷おろし症候群のばあいは、目的そのものをなくす。何かの目的を果たしたあと、いわ
ば、宙ぶらりんの状態になる。まったくの無気力状態になるわけではない。ただ、心に大きなす
き間ができるため、誘惑などにもろくなる。

 こうした現象は、大学生を見ていると、よくわかる。

 猛勉強に、猛勉強を重ね、有名一流大学に入学したあと、燃え尽きてしまう学生もいれば、
燃え尽きはしないが、何をしてよいかわからず、遊びまくる学生もいる。後者が、荷おろし症候
群の学生ということになる。

 こんな定義をしても、実際には、あまり役にたたないが、今、ふと、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●外発的動機づけ

 無理、強制、条件、比較は、確実に、子どもから、やる気を奪う。一時的には効果があって
も、あくまでも一時的。

 このように、外部から、子どもを脅したり、条件をつけたりして、子どもにやる気を引き出す方
法を、外発的動機づけという。

 子どもに、本当にやる気を出せせるためには、子ども自身の中から、そのやる気を引き出さ
ねばならない。

 このように、子ども自身が、自分でやる気を起こすことを、内発的動機づけという。

 子どもからやる気を引き出すためには、子ども自身を、その気にさせねばならない。イギリス
の格言にも、『馬を水場につれて行くことはできても、水を飲ませることはできない』というのが
ある。最終的に、やる・やらないと決めるのは、子ども自身ということになる。

 ……と、いろいろな説があるが、やる気の問題は、私たち自身の問題でもある。

 子育てをしていても、がんばれるときと、がんばれないときがある。たとえば子どもが、何か
のことで懸命になっている姿を見ると、親の私たちも、がんばろうという気持ちになる。

 しかし何もせず、ぐうたらしている子どもを見ると、やる気も、消える。「どうして、親の私が、
子どものためにがんばらなくては、いけないのか」と。

 こうした心理は、子どもも、同じ。そこで、どうすれば、子どものやる気を引き出すことができ
るかということになる。

  大脳生理学の分野でも、子どものやる気は、大脳辺縁系の中の、帯状回がコントロールし
ているという説もある(伊東正男氏、新井康允氏ほか)。この部分が、大脳からほどよい信号を
受け取ると、やる気を引き起こすという。もう少し具体的には、帯状回が、モルヒネ様の物質を
放出し、それが脳内に、心地よさを引き起こすということか。つまり、大脳からのほどよい信号
こそが、子どものやる気を決めるというわけである。

 この説に従えば、子どもからやる気を引き出すためには、子どもが何かをしたら、何らかの
心地よさを、子ども自身が感じるようにすればよいということになる。

 その一つが、達成感ということになる。達成満足感と言いかえても、よい。「やったア!」「でき
たア!」という喜びが、子どものやる気を引き出す。つまりは、そういう喜びを、いつも子どもが
感じるように指導する。

 方法として、つぎのことに注意したらよい。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。(役割形成)


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。


●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 外発
的動機付け 外発的動機づけ 内発的動機付け 内発的動機づけ 荷おろし症候群 荷下し
症候群)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1932)

●今朝・あれこれ(5月9日)

++++++++++++++++

今朝の私の精神状態は、
あまりよくない。

ささいなことで、すぐイラつく。
Ca、Mg不足か?

昨晩は、寝る前に、米はざしを
食べた。そのためだろう。夜中に
のどがカラカラに乾いた。

そのせいか?

ともかくも、こういうときは、
ひとり、静かにしているのがよい。

++++++++++++++++

 精神が緊張状態になると、ささいなことにピリピリと反応するようになる。そういう状態の中
に、不安や心配が入り込むと、その不安や心配を解消しようと、精神は、一気に不安定にな
る。

 情緒不安のメカニズムはこうして説明される。

 ……今朝の私は、目をさましたときから、その緊張状態にある。Ca、Mg不足か? 昨晩は
寝る前に、米はざしでできた、ボールを食べた。3個も食べた。そのためだろう。夜中に、のど
がカラカラに乾いた。そのせいかもしれない。

 こういうときというのは、文を書いても、よい文は書けない。何を書いても、イラつく。そのイラ
つきが、そのまま文になってしまう。だから本当は、文も書かないほうがよい。読んでくれる人
を、不愉快にするだけ。

 こういうときは、楽しいことを考えよう。


●リス

 家の前には、衛星写真でもはっきりとわかるほどの森がある。その森にリスが移り住むよう
になって、もう10年近くになる。最初のことは餌をまいたりしてやった。しかしリスというのは、
たいへんな害獣である。

 リスのおかげで、小鳥たちが巣を作らなくなった。今のところ「害」といても、その程度だが、リ
スというのは、シッポの大きなネズミと思えばよい。

 そのリスが、朝早くから、キュ、キュ、キュと小刻みに鳴く。今も鳴いている。そのリスについ
て、こんなエッセーを書いたことがある。日付をみると、02年の9月とある。この原稿を書いて
から、もう5年もなる!

+++++++++++++++

●カラスとリス

 私の家の庭は、不思議な庭で、浜松市内からそれほど遠くないところにあるのに、さまざまな
動物が住んでいる。何種類かの野鳥のほか、イタチやリス、ハクビシンやタヌキなど。ときど
き、サルやアライグマもやってくる。ホント! 

 その中のリス。リスが私の家の庭に住み始めたのは、ここ数年のこと。ワイフは最初、それ
を喜んだ。リスがやってくるたびに、「リスよ、リスよ」と。こうした動物のほとんどは、もともと人
間に飼われていたのが、逃げたとか、捨てられたとか、そういうものらしい。種類はわからない
が、結構大型のリスで、体長は、体だけで(尾の長さは別として)、30センチくらいはある。とき
どき、つがいで来たり、子ども(?)だけで来たりした。私たちは、いつしか、そのリスにエサを
与えるようになっていた。

 一方、カラスもよく来る。家の前には、このあたりでも最大級のシイの木がある。もともと何百
年もつづいた旧家の墓地があったところだ。が、このカラスはうるさい。ゴミの収集日を覚えて
いて、その日の朝になると、まだ暗いうちから、5、6羽単位でやってきて、カーカーと鳴く。それ
で私は、カラスが嫌いだった。が、カラスを嫌う、本当に理由は、もうひとつある。

 私の庭には、いつも野鳥がいる。キジバト、ヒヨドリ、ツグミなど。ときどき、コジュケイもやって
くる。フクロウもやってくる。その季節になると、モズやメジロ、ほかに文鳥によく似た鳥など。私
自身も、庭に鳥小屋をつくり、多いときは、その中で、10羽以上の小鳥やハトを飼ったことが
ある。が、ヘビやネコに襲われることが重なり、それで小屋で飼うのをやめてしまった。で、そう
いう習慣が残っているのか、野鳥にエサを用意するのが、いつのまにか、私の日課のようにな
ってしまった。カラスは、そういう野鳥の、天敵である。

 が、あるときから、一羽のカラスが、私の庭に住みつくようになった。子どものカラスかと思え
るような、小さなカラスだった。鳴くこともなかったので、私はしばらく様子をみることにした。い
や、内心では、いつか追い出してやろうと思っていたが、それが1か月、2か月となるうちに、そ
のカラスがいることには、慣れてしまった。いつ見ても、松の木の小枝にとまっていて、ときおり
庭へおりてきた。カラスのほうから、私たちに近づいてきたというのか、そのうち、私たちが庭
にいても、すぐそばで平気でエサを食べたりしていた。ハトのためにまいたエサだった。

 一方、最初は歓迎したリスだが、そのリスが庭に住みつくようになると、野鳥の数がめっきり
と減った。が、そのときはまだ、リスが野鳥の巣を荒らすということは知らなかった。たしかにリ
スは、木登りがうまい。細い小枝でもスルスルと登って、そこからつぎの木へ、ひょいと飛び移
る。みごとなものだ。

しかし野鳥の巣を荒らすとわかってからは、それはずっとあとになってからのことだが、見方が
変わった。それまではかわいいと思っていたリスだが、どこか大きなネズミに思えてきた。確か
にリスは、尾のついたネズミと考えたほうがよい。畑を荒らすということも考えるなら、ネズミよ
りも、タチが悪いかもしれない。私たちはそのうち、エサを出すのをやめた。

 どうこうしている間にも、カラス、……私たちは「ハグレガラス」という名前をつけていたが、そ
のカラスは、ますます私たちに近づいてきた。しかしそれまでの習慣というか、先入観という
か、私たちはどうしてもそのカラスが好きになれなかった。庭で視線があうたびに、「シーシー」
と追い払った。しかしあのカラスというのは、本当に頭がよい。私たちの攻撃の範囲外スレスレ
のところにいて、好き勝手なことをしていた。そしてその頭のよい分だけ、ほかの野鳥にはな
い、「つながり」ができた。もし餌づけをしようと思えば、いくらでもできただろう。私の手から直
接、エサを食べることだって、したかもしれない。が、私はどうしても、そのカラスが好きになれ
なかった。実のところ、そのときは、野鳥の数が減ったのは、リスではなく、カラスのせいだと思
っていた。

 そこである日のこと。暑くなり始めた初夏のころだと思う。近くのコンビニに行くと、小さな袋に
入ったロケット花火を売っていた。私は一袋、買った。カラスを追い払ってやろうと考えた。が、
その日はなかなか、こなかった。集団でやってくるカラスと違い、そのハグレガラスは、静かな
カラスだった。それに先にも書いたように、体が小さかった。同情はしなかったが、職業がら、
小さいカラスを攻撃するのは、気がひけた。が、ある日、そのときはやってきた。

ヒヨドリのために置いたパン屑を、そのカラスが食べていたのだ。「道理でヒヨドリが来なくなっ
たはずだ」と思ったとたん、怒りが充満してきた。私はビンに花火を入れると、ライターで、それ
に火をつけた。カラスは、私のほうを見ていたが、どこか親しげな目つきだった。「やめようか」
と思ったが、もう間にあわなかった。花火は勢いよく、ビンを離れた。

 リスのほうはあい変わらず、私の庭へやってきていた。そして、いつの間にか、ワイフが植え
た、ポポーやクルミの実を食べ始めた。フェイジョアや柿も全滅状態になった。「リスというの
は、たいへんな害獣」と気がついたときには、遅かった。そのころには、すっかり庭の住人にな
っていた。「追い払うといっても、方法がないからね」と、ワイフが不平を言うようになった。「そう
だ、あいつは木登りをするネズミだ」と、私。花火を使うことも考えたが、そうすれば、野鳥も逃
げてしまう。木の実だけではない。野鳥の巣を襲う! そのころやっと、テレビで報道されて、そ
れを知るところとなった。

 花火はカラスめがけて、一直線に飛んでいった。そしてカラスを飛び越えたその先で、パンと
爆発した。カラスは、一瞬何がなんだかわからないといった様子を見せたが、どこかおもむろ
に、飛びあがった。私はカラスを追いかけた。カラスは、電線に止まった。と、そのとき、また視
線があった。私に背中を向けていたが、カラスは、じっとそのままの姿勢で私を見つめた。私も
見つめた。時間にすれば、10秒前後のことだったかもしれないが、私には長い時間に思え
た。カラスは、「どうして、そんなことをするのか?」という表情を見せた。どこか、さみしそうな目
つきだった。が、私が大きく手を振ると、そのカラスは再びおもむろに飛び去っていった。

 リスのほうは、食べるものがなくなり、エサも与えなくなってからは、姿を見ることがほとんどな
くなった。「ドングリが落ちればまたくるわね」とワイフは笑っているが、それまでにはまだ少し間
がある。またカラスのほうは、つまりあのハグレガラスは、それからは姿を見せなくなった。が、
どういうわけだか、今、私はとんでもないまちがいをしたのではないかという気持ちに、さいなま
れている。リスにエサをあげたのは、ともかくも、その反対の立場で、あのハグレガラスに花火
を放ったことを、だ。思い出してみると、実に、親しげなカラスだった。この20年間で、庭にやっ
てくる動物や野鳥の中で、唯一私たちに心を許した動物だったかもしれない。私は、その「つな
がり」をみすみす、自分でつぶしてしまった。

 今もときどき、庭を見る。見ながらあのカラスをさがす。いつもいたのは、松の木の上だった
が、それ以後、その枝にハグレガラスを見たことはない。ただ心の中では、「たとえやってきて
も、前のようには近くまではこないだろうな」と思う。あるいは「一度、破壊された関係は、もう戻
らないだろうな」と思う。そう思いながら、その松の木を見る。そしてそのたびに、私という人間
の、きわめて身勝手な気まぐれを、つくづくと思い知らされる。
(02−9−28)

+++++++++++++++

このエッセーの中で、私は、「イタチやリス、ハクビシンやタヌキなど。ときどき、サルやアライグ
マも来る」と書いた。たった5年前のことである。

 しかしここ数年、リス以外は、見かけなくなった。このあたりも、空き地がほとんどなくなった。
そのせいかもしれない。そのうちリスもいなくなるかもしれない。そう考えると、何だかさみしい
気もする。

+++++++++++++++

●気分

少し気分をもちなおしたところで、
改めて、今朝の雑感。

……このところ新しいパソコンの設定などに
追われて、ほとんど原稿を書いていない。
書きたいテーマはいくつかあるが、
どれも小さな問題ばかり。考えていても、
頭がいっこうに熱くならない。

「どうでもいいや」という投げやりな
気持ちも強い。こういうときはワイフと
散歩に行くのがよい。が、あいにくと今朝は、
そのワイフがいない。

クラブに出かけている。
私はこうして、ひとりで、パソコンに
向かっている。
Bista・Ultimate搭載の
ものすごいパソコンである。

たしかにすごい。以前のXpより、数段、
進歩した感じがする。使えば使うほど、
その思いを強くする。

で、まず補足しておきたいのが、韓国の「東海
(トンヘ)」問題。

韓国の新聞は、連日、この「東海」問題
をとりあげている。

彼らの言い分は、こうだ。

「日本海は、2000年も前から『東海』と
呼ばれていた。アジア大陸の東にあるから
そう呼ばれていた。だから日本海は、東海
であるべき」と。

何度も書くが、韓国にとっては東海かもしれ
ないが、日本にとっては、東海ではない。
北海である

さらに韓国では、東シナ海を「西海」と呼んで
いる。ならばどうして東シナ海も、「西海」と
呼ぶ運動を、いっしょに起こさないのか。
東シナ海は、東シナ海のままでよいのか。

だいたい2000年も前から……という話が、
あやしい。いくら韓国ではそうであっても、
それは日本の話ではない。「アジア大陸の東」と
いうが、アジア大陸の東にある海は、日本海では
なく、太平洋である。

だったら、太平洋を、東海と呼べばよい。

ともかくも、どこからどう考えても、
韓国側の言い分は、おかしい。

前にも書いたが、『坊主憎ければ、袈裟まで
憎い』ということか? 韓国の人の意見を
聞くときは、どこからどこまでが感情論かと
いうことを、慎重に見極める必要がある。
彼らと議論していると、その感情論が、
ウズのようになって、いたるところに
入り込んでくる。

教科書検定問題、首相のY神社参拝問題、
慰安婦問題などなど。今回の「東海」問題も、
そうした大きなウズの中にある。

ともかくも、韓国も日本、日本と、いつまでも
日本にこだわらないで、もう少し広い視野で世界を
見たらよい。

……とうことで、少しイライラが解消した。

皆さん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●モバイル人間

+++++++++++++++

携帯電話を手放せない人は多い。
そういう現象は、若い人たちだけの
ものかと思っていたら、結構、年配の
人でも、そういう人がいる。
それを知り、驚いた。

私が知っているのは、50歳近い女性だが、
携帯電話を家に忘れた日は、仕事をサボってでも、
それを取りに帰るという。

「携帯電話がないと、不安でならない」、
ということらしい。

+++++++++++++++

 携帯電話を中心に、携帯電話でつながる世界を、「モバイル空間」と呼ぶ。そしてそのモバイ
ル空間で、いつも携帯電話を手放せない人を、モバイル人間と呼ぶ。いくつかの特徴がある。
その中でも、もっとも重要なのが、「今」の共有。

 携帯電話を手放せない人たちは、いつも、こういうやりとりをしている。「今、どこにいる?」
「今、何をしている?」「今、どう思っている?」と。過去や未来の話ではない。いつも、「今」を話
題にする。「今」の話をする。

 つまりそういう形で、「今」を共有する。と、同時に、自分の「今」を、相手に共有させる。こうし
て自分と相手の「今」を、つなぐ。

 ……という話は、常識で、ここでは、その先を考えてみたい。

 携帯電話が現れる前までは、通信手段と言えば、固定電話と手紙しかなかった。固定電話と
いうのは、家の中のどこかに固定してある電話機をいう。

 だから他人とコミュニケーションを取るといっても、今から思うと、恐ろしく時間がかかった。お
金もかかった。相手が外国に住んでいたりすると、手紙だと、航空便でも、往復2週間。電話代
も高かった。1970年当時、オーストラリアへ電話をすると、5〜10分話しただけで、1000〜
2000円ほどかかったように記憶している。今の貨幣価値に換算すると、5000前後くらい
か?

 それが今では、瞬時、瞬時に、ことが進む。インターネットがそれに拍車をかけた。

 こうした時代の変化の中で、私たちがもつ意識も、確実に変わりつつある。思いつくままで恐
縮だが、それを並べてみる。

(1)短絡性(深く、時間をかけて考えることができない。)
(2)大量性(一度にたくさんの友人と連絡を取りあう。)
(3)速効性(今の問題は、今、解決しようとする。)

 こうした意識の変化の中で、(4)言葉そのものが変質しつつある。モバイル用語というのがあ
って、モバイル世界では、モバイルの世界でしか通用しない、独特の言い回しがある。

 さらに(5)新種の孤独感、疎外感が生まれつつある。モバイル世界そのものが、ある種の共
同体を形成し、その共同体から疎外されることによって生まれる、孤独感や疎外感である。

 携帯電話がない時代には、人間と人間の間には、(時間)というクッションがあった。そのクッ
ションのおかげで、自分を見つめなおすことができた。反対に、相手との関係を調整することも
できた。

 が、今は、携帯電話を使って、人間が、(群れ)となって集団行動を繰り返している。言うなれ
ば、太古の昔、人間がまだ魚だったころの群れ意識を、(多分?)、携帯電話によって、呼び覚
まされたということになるのか。わかりやすく言えば、人間は携帯電話により、再び「個」を喪失
しつつある。

 「今」を共有できる人間どうしが集まって、群れをつくる。同じ行動をし、同じことを考える。そ
して同時に、その群れに入らないものを、差別し、排斥する。が、同時に、自分がその群れか
らはずれされることを恐れる。それがここでいう新種の孤独感と疎外感を生み出す。

 私の知人の中には、携帯電話を家に忘れると、仕事をサボってまで、それを取りに帰る女性
がいる。20代や30代の若い人ではない。今年、その女性は、50歳くらいになる。その女性
も、こう言う。

「携帯電話がないと、不安でならない」と。

 理由を聞いても、それがよくわからない。「どうして?」と聞くと、「とにかく、不安になる」と。

 たかが通信手段ではないのか? 携帯電話がなければ、固定電話機をさがせばよい。ある
いはその前に、それほどまでに緊急な用事というのは、そうはない。その通信手段が、本来の
通信手段というワクを超えて、人間の心理にも大きな影響を与えつつある。

 大切なことは、仮に携帯電話をもち歩くとしても、それがもつ弊害を理解しながら使うというこ
と。決して、「群れ意識」の中で、自分を見失ってはいけない。自分という「個」を見失ってはい
けない。

 さらに言えば、表面的な情報に操られるまま、操られてはいけない。

 そこで、(6)として、つぎのことを書き足す。

 個の喪失と、思考の浅薄化、と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 モバ
イル世界 モバイル人間)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●作られる老人

+++++++++++++++

老人は、自ら老人になるのではなく、
周囲の人たちによって、老人に
仕立てられていく。

そのプロセスは、発達心理学でいう
役割形成にたいへんよく似ている。

たとえば男児は、いつの間にか
男児らしくになっていく。女児は、
いつの間にか女児らしくなっていく。

同じように、加齢とともに、
老人は、いつの間にか、老人らしく
なっていく。

ああ、いやだ!

+++++++++++++++

 いくら抵抗しても、それは打ち寄せる波のように、やってくる。やってきて、私を老人に仕立て
ていく。

 最初は、それなりに抵抗する。「私は老人ではない!」と。しかし打ち寄せる波には勝てな
い。そのうち抵抗するのもめんどうになり、あきらめる。受け入れる。

 で、私は4、5年前から、自分の年齢をごまかすようになった。本当の年齢から、10歳引いた
年齢を、自分の年齢にしていた。が、世の人たちは、そういうごまかしを見過ごしてはくれな
い。私が「45歳です」とでも言おうものなら、すかさず、「そんなはずはないでしょう」と、言い返
してくる。

 どうしてだろう? よほど寛大な人でも、他人の年齢には、うるさい。ウソを許してくれない。つ
まりこうしてそのつど、私は、自分の年齢を思い知らされる。

 が、これは何も、他人だけの責任ではない。今朝、ワイフとこんな会話をした。ワイフがこう言
った。「私の知っている人で、若いのに、脳梗塞になった人がいる」と。

私「いくつ?」
ワ「43歳だってエ」
私「43歳? ……そんな若さでエ?」と。

 わかるだろうか? 私自身が無意識のうちにも、43歳という年齢を、「若い」と表現している。
おそらく、20代、30代の人たちから見れば、43歳の人というのは、オジン、あるいはオバンに
見えるだろう。私も、20代、30代のころは、そう思っていた。

 しかし私は、43歳の人を若いと言う。言いながら、私は自分自身を、老人の世界に押し込ん
でいる。「私は私」と思っていたが、その私が知らぬ間に、自分自身を老人に仕立てている。こ
の現象は、子どもたちが見せる、「役割形成」という現象に、たいへんよく似ている。

 たとえば男児は、とくに何かを教えたというわけでもないのに、成長とともに、やがて男児らし
くなっていく。女児は、やがて女児らしくなっていく。その子どもを包む、周囲の環境が、男児を
男児らしくし、女児を女児らしくしていく。そして最終的には、男児は男児としての役割をもち、
女児は女児としての役割をもつようになる。

 これを「役割形成」という。

 同じように今、私は、自ら、老人らしくなりつつある。それにはいくつか理由がある。

 私の周囲の同年齢の人たちにしても、そのほとんどが、リストラや退職で、現役を退きつつあ
る。病気になったり、離婚した人も多い。すでに亡くなった人もいる。そういう人たちの様子を見
聞きしていると、「私だけはちがう」と思いたくても、思えなくなる。「明日は我が身かな」となる。

 それはものすごいパワーと言ってもよい。たとえて言うなら、大きな海流の中で、ひとり、泳ぐ
ようなもの。情け容赦なく襲いかかってきては、私の中の(私)を押しつぶしてしまう。

私「じゃあ、どうしたらいいのかねエ?」
ワ「簡単よ」
私「……?」
ワ「あのね、そういうジジ臭い人たちとは、付きあわなければいいのよ」と。

 ナルホド!

私「しかしね、まわりの人たちは、みな、そういう目でぼくを見るよ」
ワ「どんな目?」
私「生徒たちですら、『先生は、もうすぐ定年退職するの?』と聞くよ」
ワ「いやア〜ネ〜」
私「本当にいやになるよ。きっと家の中では、親とそんな話ばかりしているんだろうね」と。

 しかし、ここで負けるわけにはいかない。私は闘う。どこまでも闘う。私は、まだ老人になるわ
けにはいかない。役割形成など、クソ食らえ! だれが老人らしくなんか、なってやるかア!

 ……と力んだところで、この話はおしまい。今日も、それは打ち寄せる波のように、やってく
る。やってきて、私を容赦なく、老人に仕立てていく。

【付記】老齢期の統合性

 何度も書いてきましたが、結局は、この問題に行き着きます。つまり「老齢期の統合性」の問
題です。

 いかにすれば私たちは、老齢期を迎えたとき、(自分のすべきこと)を自覚し、それに向かっ
て自分を一致させることができるか。(すべきこと)と(していること)が、統合している人は、心
豊かで、充実した老後を送ることができる。そうでない人は、そうでない。つまり、統合性を確立
しているかどうかで、自分の老齢期のあり方が決まります。

 その統合性がないと、それこそ本当につまらない老後を送ることになってしまいます。するこ
とといえば、孫の世話と、庭いじりだけ……。そんな老後です。何としても、そういう老後だけは
避けたいですね。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1933)

●ある離婚

+++++++++++++++++

身近な、本当に身近にいる、ある夫婦が、
今、離婚状態にある。離婚したという
わけではないが、離婚を前提とした、
別居状態にある。

年齢は、ともに、59歳。理由はよく
わからない。いろいろあったらしい。
どこかおかしいなとは感じていたが、
しかし夫婦のことは、夫婦しかわから
ない。

私も詳しくは、聞かなかった。

+++++++++++++++++

 身近な、本当に身近にいる、ある夫婦が、今、離婚状態にある。離婚したというわけではない
が、離婚を前提とした、別居状態にある。

 数日前、そういう連絡を受けた。すぐ電話をしようと思ったが、つらくて、電話をすることがで
きなかった。ただメールだけは打っておいた。夫と私は学生時代からの友人で、もう40年近い
つきあいになる。その夫婦と私たち夫婦と、いっしょに旅行したことも、何度かある。

 そういう積み重ねがあるから、どちらの味方をするとか、そういうことは考えない。そっと静か
にしておいてやることこそ、大切ではないか。流れとしては、奥さんのほうから先に、離婚話が
もち出されたようだ。

 いろいろ考える。考えるが、こうまで身近な人のこととなると、考えがまとまらない。以前書い
た原稿を、読みなおしてみる。

+++++++++++++

●さらけ出す

 オーストラリア人の家庭へ行ったときのこと。食後、ふと見ると、その家の奥さんが、だんなさ
んのひざの上に、抱かれるようにして、もたれかかっていた。が、子どもたち(高校生の女の子
と、私の友人の大学生)は、平気な顔をして、私と、会話をつづけていた。

 今から35年ほど前に見た、光景である。その光景を見て、私がいかに驚いたかは、もうここ
に書くまでもない。当時の日本の常識では、考えられない光景であった。今でも、珍しい。当時
ですら、向こうの大学生たちは、大学の構内を歩きながらでも、抱きあったり、キスをしたりして
いた。

 もっとも欧米人が、みな、こうした「さらけ出し」を、平気でしているわけではない。そのためア
メリカなどでは、離婚率の増加とともに、結婚カウンセラーの数が急増しているという。こうした
カウンセリングでは、主に夫婦の間の信頼関係の結び方の指導に重点を置いているという。
今、その信頼関係が結べない夫婦がふえている。もちろん、この日本でも、ふえている。

 結婚したあと、夫婦の会話がない。セックスもない。夫は家事、育児をすべて妻に任せ、自分
は、知らぬ顔。妻は妻で、家庭に閉じ込められ、爆発寸前。夫にせよ、妻にせよ、その原因
は、乳幼児期の育てられ方にあるとみる。この時期、子どもは、絶対的に安心できる家庭環境
の中で、自分をさらけ出すことを学ぶ。自分をさらけ出しても、だいじょうぶだという安心感を学
ぶ。そしてそれが基本となって、信頼関係の結び方を学ぶ。

 自分をさらけ出すから、信頼関係が結べるということにはならないが、しかしさらけ出さないこ
とには、結べない。あるがままの自分を、相手にさらけ出す。それはたがいの信頼関係を結
ぶ、大前提ということになる。

 そういう意味では、私が見た、あのオーストラリア人夫婦の光景は、参考になる。反対に、日
本の夫婦だったら、どういう反応を示すかということを考えてみればよい。たとえばあなたたち
夫婦は、どうだろうか。

(1)デパートやスーパーでも、平気で手をつないで歩くことができる。
(2)子どもの前でも、平気で抱きあってみせることができる。
(3)客の前でも、平気で、抱きあったり、キスしてみせることができる。

 いろいろなレベルがあるだろうが、日本では、こうした行為を、「はしたない」と否定する。しか
し「はしたない」とは何か? どうしてそれが悪いことなのか? 私たちも一度、そういう原点に
立ち返って、この問題を考えなおしてみる必要がある。

 なお私のこうした意見に対して、「アメリカのほうが離婚率が高いではないか」と反論する人が
いる。「日本より、はるかにさらけ出しをしているアメリカ人のほうが、離婚率が高い。つまり日
本の夫婦のほうが、たがいの関係がしっかりしている」と。

 この反論が、いかに欺瞞(ぎまん)に満ちたものかは、あなたが妻の立場にいるなら、すぐわ
かるはず。日本の夫婦の離婚率がまだ低いのは、夫婦の関係がそれだけしっかりしているか
らではない。とくに妻側が、がまんしているからにほかならない。いまだに、男尊女卑の思想
は、この日本に根強く残っている。もし日本の妻たちの意識が、アメリカ並になったら、離婚率
は、アメリカの離婚率を、はるかに超える。

 私たちは、夫婦の間だけでも、そして子どもの前でも、もっと自分をさらけ出してもよい。言い
たいことを言い、したいことをする。夫意識など、くそ食らえ。妻意識など、くそ食らえ。親の権
威など、くそ食らえ。親意識など、くそ食らえ! まずあるがままをさらけ出す。他人のばあい
は、そうはいかないが、夫婦や、親子の間では、かまわない。それが家族の特権でもある。とく
に、つぎのような人は、そうしたらよい。

(1)他人と接していると、気をつかい、精神疲労を起こしやすい。
(2)親だから(夫だから、妻だから)という意識が強く、何かにつけて気負ってしまう。
(3)夫婦の間でも、「それはいけないこと」というようなブレーキが働くことが多い。
(4)友人が少なく、さみしがり屋なのに、友人と良好な関係をつくるのが苦手。
(5)いつも自分をよく見せようと、心のどこかで緊張してしまう。あるいは自分を飾る。

 さあ、あなたも、たった一度しかない人生だから、思う存分、自分をさらけ出して生きたらよ
い。あるがままの自分で、あるがままに生きたらよい。だれにも遠慮することはない。無理をす
ることはない。それで相手がダメだというのなら、こちらから相手を蹴飛ばしてやればよい。よ
い人ぶったりしてはいけない。自分を飾ったり、ごまかしてはいけない。

さあ、あなたもあなたの心を取り巻いている、無数のクサリを解き放ってみよう。たった一度し
かない人生だから、思う存分、自分の人生を生きてみよう! 英語国では、こう言う。「心を解
き放て! 体はあとからついてくる!」と。よい言葉だ。
(030214)

●自由が新しい宗教であり、それが全世界に広がることは、まちがいない。(ハイネ「イギリス
断片」)
●人は生まれながらにして、自由かつ平等である。(フランス人権宣言)


+++++++++++++

【補足(1)】離婚率

 日本人の離婚率が、欧米より低いことについて、先に、「日本の女性が、それだけがまん強
いからだ」と書いた。それについて補足する前に、世界の離婚率を調べてみた。

離婚率 (人口1000人当たり) 日本   ……2・3人(2001年)
                 アメリカ ……4・1人(2000年)
                 イギリス ……2・6人(2000年)
                 韓国   ……2・5人(2000年)
                 ドイツ  ……2・3人(1999年)
                 フランス ……2・0人(1999年)
                 
                          (総務省統計局)

 この総務省の統計局の数字を見てわかることは、日本はアメリカよりも低いが、しかし他の
欧米諸国と比べてみると、それほど低くはないということ。ドイツと同じで、かつフランスより高
い。

 アメリカが高いのは、アメリカが多様な民族による移民国家であるためと考えられる。たとえ
ばテキサス州では、人口の約40%が、ヒスパニック系と言われている。

 日本の女性ががまん強いというのは、女性自身ががまん強いというよりは、社会制度の不
備、それに古い因習や慣習による拘束が、背景にあるためと考えられる。もしこうした不備が
改善され、日本の女性たちが古い因習や慣習から解放されたら、離婚率は、一挙に上昇する
と考えられる。日本の女性たちは、そういう拘束の中で、「離婚したくても、できない」という事情
に苦しんでいる。

 だからといって、離婚率が高くなればよいと私は言っているのではない。しかし無理をして、
結婚の体裁だけを整えている家族も多いのも事実。この日本では、女性が経済的に自立する
のは、むずかしい。とくに離婚した女性が、自立するのは、本当にむずかしい。そういう事情の
中で、多くの女性たちが、離婚したくてもできず、がまんしている。

【補足(2)】家庭は兵舎

 せっかくすぐれた才能をもちながら、「家庭」という「兵舎」に閉じ込められた女性が、そのの
ち、出産、育児を経験するうちに、その才能を鈍らせるというケースは、きわめて多い。が、そ
れだけではない。

 こうした才能にめざめた女性たちが感ずる、閉塞(へいそく)感は相当なもので、その閉塞感
が大きければ大きいほど、ストレスも増大する。「家庭が兵舎」という発想は、そういうところか
ら生まれる。

 たとえばマンションを購入する。仕事をしている夫にとっては、「家庭」かもしれないが、妻に
は、監獄に近い。しかし悲劇は、そういう事実を、夫が理解しないことにある。いくら見晴らしが
よくても、密閉された箱の中のような世界では、一日を過ごすことはできない。精神や肉体に与
える影響も大きい。

 たとえば、こんな調査結果がある。

妊婦の流産率は、六階以上では、24%、10階以上では、39%(1〜5階は5〜7%)。流・死
産率でも六階以上では、21%(全体8%)(東海大学医学部逢坂文夫氏)。マンションなど集合
住宅に住む妊婦で、マタニティブルー(うつ病)になる妊婦は、一戸建ての居住者の四倍(国立
精神神経センター北村俊則氏)など。 

 マンションなど、高層住宅に住んでいる女性の流産率は、40%もあるという。マタニティーブ
ルーになる女性は、一戸建ての家に住む女性の四倍もあるという!

 実際、私の実践教室は、市の中心部のビルの3階にある。見晴らしは悪くはないが、あの閉
塞感は、いかんともしがたい。窓の外へは一歩も出られないというだけで、閉じ込められた感じ
がする。そんなわけで、一時間でも休み時間があると、私は近くの書店で、本を立ち読みして
過ごす。設備はいろいろあるので、その気になれば泊まることもできるが、過去において、一
度だった泊まったことがない。

 そういうマンションに閉じ込められた女性にとっては、家庭はまさに、監獄に近いということに
なる。夫の発想では、「マンションも買った。……買ってやった。その家庭でのんびりできるでは
ないか。何が文句があるのか」ということになるが、それは女性たちが感じる現実とは、かなり
違うということ。仮に今の私が妻なら、そういう生活には、一日どころか、半日も耐えられないだ
ろう。

+++++++++++++++++++

 10年ほど前から、「父親の育児参加」が、声だかに叫ばれるようになった。つまりそれくら
い、日本の父親たちは、育児に無関心。「仕事だけしていれば、一人前」と考える。しかし育児
は、義務ではない。権利である。父親というより、人間としての権利である。反対に育児が満足
できないような職場環境なら、権利侵害で訴えてもよい。

 が、この問題だけは、いくら父親を説得しても、意味はない。先にも書いたように、それは脳
のCPUにも関係する、意識の問題だからである。仮に頭で理解しても、いざそれをするとなる
と、父親にとっては、それは苦痛でしかない。かえってストレスがたまるということにもなりかね
ない。無理に強制することは、できない。

 そこで意識改革ということになるが、先に書いた話に戻ってしまったので、このテーマは、また
別の日に考えることにする。
(030621)

++++++++++++++++++++++
もう一つ、おまけに……
以前こんな原稿を書いた。中日新聞掲載済み
++++++++++++++++++++++

仕事で家族が犠牲になるとき

●ルービン報道官の退任 

2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務省のスポー
クスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決
意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、6年間も続いた。

●家族がバラバラにされて、何が仕事か!

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。

今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任
に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、
「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第2小法廷は、1999年の9月、次のような判決を言
いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。つまり
「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、である。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

●落第を喜ぶ親たち

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親
はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。軽い不登校を起こ
しただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積もって、それがルービ
ン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の標準にたどりつくま
でには、まだまだ道は遠い。

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みなさん、力をあわせて、日本人の意識改革を進めましょう!

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●家庭は少女の監獄であり、婦人の矯正所。(バーナードショー「革命主義者のための格言」)

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 夫婦が夫婦であるためには、絶対的な一体化が必要である。「絶対的な」というのは、「疑い
すらもたない」という意味である。

 しかしこの一体化は、一方的なものであってはいけない。よくあるのは、夫だけが、「私たち
夫婦は、一体化している」と思いこむケース。妻の心は、とっくの昔に夫から離れてしまってい
る。が、夫は、それに気づいていない……。

 先日、「記憶の棘(いばら)」という映画(DVD)を見た。その映画の中では、夫婦の心のすれ
ちがいが、伏線として、ひとつのテーマになっていた。

 ……ジョギング中に、夫は、心臓発作か何かで倒れる。妻は、未亡人として、それから10年
近く、亡き夫をしのんで過ごす。映画はここから始まるが、しかしその夫には、心臓発作か何か
で死んだとき、別に、愛人がいた。その愛人とは、妻との離婚を話し合っていた。知らなかった
のは、妻だけだけ……という伏線である。

 「私たちはすばらしい夫婦だった」「私たちは愛し合っていた」と思いこんでいる妻。しかし肝
心の夫は、別のところで、すでに離婚話を進めていた。……というわけである。

 そこで、では、私たちは、どうなのかということ。「私たち」ではなく、「私」はどうなのかというこ
と。

 ワイフの心の中まで、私はのぞくことはできない。だからひょっとしたら、ワイフも同じように思
っているのかもしれない。今は、夫婦として、私に同調しているフリをしているだけかもしれな
い。別のところで、離婚の準備をしているかもしれない。

 しかし私は、最近は、それでも構わないと思うようになっている。今まで、ワイフは、私によくし
てくれた。もう、じゅうぶんすぎるほど、じゅうぶんなことをしてくれた。だからワイフが、「これか
らはひとりで生きたい」と言えば、私としては、ワイフにそうさせてやりたい。私自身は、ひとりで
生きていく自信はないが、それに応ずるしかない。

 だからときどき、私のほうからワイフに、こう言う。「ぼくと、離婚したくないか?」「離婚したけ
れば、離婚してもいいんだよ」と。

 そのつどワイフは笑いながら、「そんなこと、考えてないわよ」と言う。が、私は、そういうワイ
フを信じていない。本当はどうなのか、私にはわからない。私が反対の立場なら、つまり私が
私のワイフなら、私のような男とは、とっくの昔に離婚していただろう。

 それが自分でもよくわかっている。

 しかし今度ほど、「夫婦も、つきつめれば他人なんだなあ」と、考えさせられたことはない。身
近な、本当に身近なところにいる夫婦の離婚話だけに、ショックも大きかった。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 離婚
 離婚率 日本の離婚率)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1934)

●今朝・あれこれ

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今日は、朝風呂。6時半に起きて、
母の世話。同時に、風呂に湯を張った。
そう言えば、昨日、母は、デイケア
センターで、入浴中、大便を漏らし
てしまった。連絡ノートには、
そう書いてあった。このところ、
大便のほうも、四六時中、垂れ流し
といった感じ。「お前、昨日、風呂
の中で、ウンチしたんだってなア?」
と声をかけると、「知らん」「覚えて
おらん」の一転張り。が、やがて、
こう言った。「だれがそんなこと言っ
た?」と。

少しは記憶が残っているようだ。

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 介護制度が、ここまでキメ細かく整備されているとは、私も知らなかった。わずか5、6年足ら
ずで、よくここまで、整備したものだ。感心する。

 介護制度のありがたさは、それがなくなったときにわかる。たとえばこの大型連休中、母は、
ずっと私の家にいた。それが5、6日もつづいた。とたん、家の中の雰囲気が、おかしくなった。
ワイフも、ストレスを感じ始めた。

私「毎日、シーツをかえなくてもいいよ。消臭スプレーをかけて、干しておけば、それでいいよ」
ワ「そんなわけには、いかないわよ」
私「みんな、そうしているよ。あのSさん(知人、介護歴10年)も、そう言っているよ。部屋中、ウ
ンチまるけになっても、放っておけばいいって」と。

 私たちはまだ利用していないが、短期入所というのもある。1週間単位で、施設で介護老人
を預かってくれる。費用は、1日、2600円前後。私はともかくも、ワイフの様子を見ながら、そ
のうち施設の世話になるつもり。母も大切だが、ワイフは、もっと大切。母の介護で、ワイフが
ダウンするようなことは、あってはならない。

 その母だが、このところ、ワイフに、あれこれ命令することが多くなった。デイサービスから帰
ってくると、「お茶!」と。先日は、デイサービスの車からおりるやいなや、「タクシー代を払って
おけ」とも言った。

 そこで私は、母とワイフとの接触を、できるだけ少なくするようにしている。おかしなことだが、
母という(女性)が、同じ女性であるワイフを、蔑視している。男尊女卑という言葉があるが、そ
れは何も男性だけの問題ではない。女性自身が、女性を蔑視している。それを女性自身が受
け入れてしまっている。そういうケースも少なくない。

 つまり私のワイフは、母にすれば、母の奴隷のようなもの。昔から、母は、異常なまでに、親
意識が強い。母にしてみれば、私は、母のロボット。だからワイフは、母にとっても、奴隷のよう
なもの、となる。母は、まさに封建時代の遺物を、そのまま背負っている。

 愚かな意識だが、いまさら、どうこうなる問題ではない。適当に会話を合わせて、あとは無
視。やるべきことはやる。しかし、あとは無視。これは介護をする人にとっては、とても大切なこ
とだと思う。

 しかし……。その母を観察していて、ときどき、ゾッとすることがある。あのまま私も地元に残
って、つまり母といっしょに生活をしていたら、今ごろは、母と同じような考え方をしていたかもし
れない。

 幸いにも私は、高校を卒業すると同時に、郷里を離れることができた。自分の郷里を、距離
をおいて、客観的に見ることができた。ついでに世界を見ることができた。だから今、母と言う
より、その母の向こうにある(愚かさ)が、よくわかる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●急速に変わる韓国人の意識

+++++++++++++++

このところ、韓国人の意識が、
急速に親北化している。

韓国の「Joins風向計」調査に
よれば、71%の韓国人が、
対北経済協力を持続すべきと
答えている。

「北を信頼する」と答えた人も、
50%近くにまで上昇している。

+++++++++++++++

 韓国の「Joins風向計」調査によれば、71%の韓国人が、対北経済協力を持続すべきと考え
ていることがわかった。

 韓国中央N報は、つぎのように伝えている。

『昨年6月から調べた結果、「南北経済協力を続けるべきかどうか」については、33.8%→5
8%→71%へと着実に上昇しつづけており、K国関連政策への信頼度も33.1%→36.7%
へと上昇していることがわかった』と。

 わかりやすく言えば、この1年足らずの間に、「経済協力をすべき」と考えている韓国人が、3
4%から71%へと、ほぼ倍増したということになる。

 これではいくら世界が、K国への経済制裁を決めても、意味はない。核兵器開発問題にして
も、韓国のN政権は、すでにそれを容認してしまっている。アメリカにしても、自国が直接の脅
威に立たされなければ、OKという立場に変化してしまった。ならば、何のための6か国協議
か、ということになる。

 そこで、もうここまできたら、日本は、韓国イコール、K国と考えたほうがよいのではないか。も
ちろん日本は、軍事力を使うことは許されない。しかし経済戦争という方法がある。その経済
戦争で、K国はもちろん、韓国をだまらせる以外、方法はない。

 何とも好戦的な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、向こうはその気でい
る。忘れてならないのは、日本がバブル経済崩壊で、地面をのたうち回っていたころのこと、韓
国政府は毎日、(毎日だぞ!)、閣議を開いて、日本の動向をうかがっていた。

 もちろん日本のことを心配して、そうしていたのではない。「日本を太平洋の向こうにたたき落
とすための、絶好の機会」と、それをとらえ、さらなる作戦を練っていた。どうしてそういう国に、
日本は遠慮しているのか。いい子ぶっているのか。少なくとも、日本のほうから、韓国を利する
ような行為だけは、やめたらよい。

 いろいろな意見はあるだろう。しかし今、K国の核ミサイルが、東京めがけて発射準備段階に
あるとしたら、あなたはそれをどう考えるだろうか。それでもあなたは、「友好が大切」「平和が
大切」と、のんきなことを言っておられるだろうか。

 今の日本は、ここを原点として、ものを考えなければならない。
(5月12日記)

【資料】

 北朝鮮のミサイル実験発射が行なわれる前の06年6月20日、ジョインス風向計が行なった
9回目の調査では、

「ミサイル問題と分離して南北経済協力を持続すべき」……33.8%
「ミサイル問題に結び付けて南北経済協力を制限すべき」……51.7%、であった。

それが、07年5月の調査では、

 「経済協力を持続すべき」……71%
「経済協力を中断すべき」……18.4%、となった。

 現政権のK国関連政策について「信頼できる」……36.7%
(とても……3.1%、ある程度……33.5%)で、
昨年の4回目の調査に比べて、3.6%上昇した。
(以上「Joins 風向計」より)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1935)

●田丸謙二先生に会う

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ちょうど1年ぶりに、田丸謙二
先生に会った。浜北市のレスト
ランで、いっしょに食事をした。

今年83歳になられるという。
長いつきあいだ。1970年
以来だから、もう37年になる。

私にとっては、恩師でもあり、
友人でもある。

私は、田丸謙二先生に出会うこ
とができたことを、心から誇り
に思う。

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 そのとき先生は、東大紛争で疲れたとかいうことで、メルボルン大学へ来ていた。人口300
万人(当時)のメルボルン市でも、日本人の留学生は、私1人だけだった。もちろんメルボルン
大学には、私1人しかしなかった。

 その先生と、3か月もの間、寝食をともにできたことは、私にとっては、生涯の誇りである。い
や、そのときは、そんなことは、微塵(みじん)も思わなかった。恩師というよりは、「友」として、
そのときの日々を過ごした。

 田丸先生を「師」として意識するようになったのは、日本へ帰ってきてからである。田丸先生
は、東大の安田講堂の右手奥にある、理学部に研究室を構えていた。静かな研究室だった。
ご自宅にもたびたび、おじゃました。先生のご自宅は、鎌倉の扇が谷というところにある。

 当時の私は、バカだったのか、それともアホだったのか、よくわからないが、先生のことより
も、先生のご自宅の前の南隣の家が、中村光男の家だったということのほうに、感激した。戦
後を代表する評論家であった。

 しかしやがて、私は田丸謙二先生の偉大さを、思い知るところとなった。先生は、30代の若
さで東大教授になり、そののち、文部行政の要職をつぎつぎと歴任。東大の副総長(総長特別
補佐)、日本化学会の会長、国際触媒学会の会長なども、歴任された。田丸謙二先生の父親
の、田丸節郎は、日本学士院の院長を歴任。田丸先生自身も2000年に、学士院賞を受賞し
ている。

 私は先生を乗り越える方法は、ただひとつしかないと知った。先生が先生なら、私は、組織
の世界とは無縁で、無肩書きで生きることでしかない、と。事実、私は、かなり若いころ、組織と
肩書きの世界から、縁を切った。「私は、裸で生きてやろう」と思った。

 しかしそれはとんでもないまちがいだった(?)。今にして思うと、そう思う。敗北を認めるよう
でつらいが、事実は事実。

 が、田丸謙二先生に会ったとたん、あの学生時代にそのままタイムスリップしてしまう。先生
が先生であることを忘れて、バカ話ばかりしてしまう。

 ところで、こんな重要な事実がある。私やあなたが、今、ここに生きていることができるのは、
田丸節郎のおかげである。ここに書いた田丸節郎は、ドイツ留学中に、空気中の窒素の固定
化に成功したハーバー博士(アンモニアの合成で、ノーベル賞受賞者)の直弟子としても活躍し
た。もしそのとき、ハーバー博士が、空気中の窒素の固定化に成功していなければ、人類は、
じゅうぶんな食糧を生産することはできなかったはず。自然界にある、石灰窒素には、限りが
ある。

 が、ハーバー博士の研究で、人類は、「空気から食糧をつくることができるようになった」(田
丸先生)。その結果、今の私たちが、ここにいる。

 そのハーバー博士は、日本へやってきたとき、鎌倉の田丸家を訪問している。そのときの写
真が、田丸先生のHPに収録されている。興味のある人は、それを見てほしい。先生は、誇らし
げに、こう言った。「私は、ハーバー博士に会ったことがある」と。

私「だって、先生は、赤ちゃんだったんでしょ」
田「そうですね」
私「覚えているんですか、その日のことを?」
田「何も覚えていません。ハハハ」
私「それじゃあ、会ったということにはならない。ハハハ」と。

 先生は、その写真の中で、母親の腕の中に抱かれている。先生は、その写真を家宝のひと
つとして、大切にしている。

 今でも、田丸先生は、2人のお嬢さんと、弟子たちを生甲斐として、現役で活躍されている。
「東大だけでも、8人の弟子が教授になりました。そんなに数が多いのは、私だけです」と。また
06年の12月から07年の2月までに、1冊の本を翻訳なさったという。私たちが見習うべき
は、田丸先生のような人をいう。

 「大切なことは、人を残すことです」と、先生は、何度も言われた。

 5月12日に撮影したビデオなどは、私のHPのほうに掲載しておきます。興味のある方は、
ぜひ、ご覧になってください。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●ネット中毒

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TBS−iニュースに、気になる
記事が載っていた。

題して、「インターネット中毒」。

これからの日本でも急増すると
思われる。早急な対策が必要では
ないか。

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 インターネットの先進国(?)、お隣の韓国では、今、「インターネット中毒」なるものが、問題
になっている(TBS−iニュース、5月12日)。

 いわく、「韓国情報文化振興院が今年発表した調査結果によれば、治療が必要な中毒者は
未成年者では14%、大人でも7%にのぼっている」と。

 若者で14%ということは、10人のうち、1〜2人ということになる。先日携帯電話中毒につい
て書いたが、インターネット中毒のほうは、割合こそ携帯電話中毒より少ないかもしれないが、
中身が深刻。

 TBS−いニュースは、つぎのように伝える。

 『……「とにかく自分がコントロールできなくなりました。キーボードと画面から目を離すことが
できないのです。そして、長い間ゲームをしているうちに冷たい汗が流れるのを感じました」
(「インターネット中毒」になった大学生)

 この大学生は、中学生の頃からインターネットのオンラインゲームにのめり込むようになっ
た。学校にも行かず、1日中パソコンに向かう日々が続き、体調不良に悩まされている。

 半年前、このままではいけないと思い立ち、始めたのがカウンセリング治療だった。今でも1
日12時間もインターネットを使っているが、これでも以前と比べれば、かなりましになったとい
う。

 「カウンセリングの需要は増加しています。(インターネット中毒)は、今や全国的な問題にな
っているので、全国規模での対応が必要です」(情報文化振興院「インターネット中毒」担当責
任者)。

 都市部から地方へと中毒が広がりを見せる中、韓国情報文化振興院は専門カウンセラーの
養成に力を入れ始めた。40時間の課程を修了した人をインターネット中毒専門カウンセラー
に認定するというこの講座、受講者には地方の行政機関などで働いている人が目立つ。

 「主婦がチャットにはまったためその浮気相手が夫の職場に押しかけたケースもあり、また、
ゲームをやりすぎる子供に親が手を焼くケースは日常茶飯事です」(受講者=家庭問題のカウ
ンセラー)。

 この日の授業は「美術治療」と呼ばれるカウンセリング技術についてです。絵を描かせ、その
絵を説明させる過程でコミュニケーション能力を回復させ、自分を客観視させる効果があると
言う。

 「インターネットに夢中になっている子は、家族との対話が断絶しています。絵を通して子供
の心を理解し、表現することが重要だと学びました」(受講者)

 韓国政府は、今年に入って、インターネット中毒のカウンセリングが受けられる施設を全国で
およそ30カ所増やすとともに、今後、年間300人程度を目標に専門カウンセラーを養成して
いくという』と。

 私も、(ゲーム中毒の子ども)をときどき経験している。7、8年前に書いた原稿だが、それを
紹介する。

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●子どもがゲームづけになるとき

●ゲームづけの子どもたち 

 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マ
ジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学3年生で、約25%以上の男児がハマっている(20
00年11月、小3児53名中13名、浜松市内)。

ある日、1人の子ども(小3男児)が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを3枚集めて、融合させ
る。融合させるためには、融合カードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに出
せる。それに巨大化をつけると、攻撃力が九〇〇〇になる」と。

子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味がわからない。基本的にはカード
どうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが相手のカードを取る「カケ勝負」
と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、1パック5枚入りで、150円か330円程度で
販売されている。「アルティメット入りのパックは、値段が高い」そうだ。

●ポケモンからマジギャザまで

 あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学1、2年になった。そこで当時ハマった子ども
たち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。

M君(中2)いわく、「今はマジギャザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カード(15枚
で500円。デパートやおもちゃ屋で販売。遊戯王は、5枚で200円)は、1000枚近く集めたそ
うだ。

マジギャザというのは、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと
思えばよい。ただ内容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよく
わからない。要するに、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子
どもたちの遊びが移っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通してい
る。

●現実感を喪失する子どもたち

 話はそれるが、以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからな
い生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを
供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。

中には北海道からやってきて、涙をこぼしながら供養している20歳代の女性までいた(NHK
「電脳の果て」97年12月28日放送)。

そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではない。ただの電気の信号
だ」と話しても、彼らには理解できない。が、たかがゲームと笑ってはいけない。

その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団
の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死
んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込むその教団の信者は、方
向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるいはどこがどう違うというのか。ゲームに
は、そういう危険な面も隠されている。

●思考回路はそのまま

 で、浜松市内の中学1年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、
多かれ少なかれハマっているのがわかった。1人が平均約1000枚のカードを持っている。中
には1万枚も持っている子どももいる。

マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲームで、そのためアメリカバージョン、フランスバー
ジョン、さらに中国バージョンもある。カード数が多いのは、そのため。「フランス語版は質がよ
くて、プレミヤのついたカードは、4万円。印刷ミスのも、4万円の価値がある」と。

さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品集めをすることもあるという。「大会
で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝するのは、たいてい20歳以上のお
となばかりだよ」とも。

 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったとい
うこと。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中
毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに四万円も払ったりする!

●子どもをダシに金儲け

 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間100億
円から200億円の市場になっているという(経済誌)。しかしこれはあくまでも表の数字。闇か
ら闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。

たとえば今、「融合カード」は、発売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に入
れるためには、交換するか、友だちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高い。

しかも、だ。子どもたちは自分の意思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるまま、そ
うしている。しかしこんなことが子どもの世界で、許されてよいのか。野放しになってよいのか。

(注)この原稿を書いた2001年はじめには発売中止になっていたが、2001年の終わりには
再び発売されているとのこと。

++++++++++++++

●携帯電話を買う

 とうとう買った。携帯電話だ。ドコモの最新型。1・3メガのカメラつき。ソニーの製品だ。

 きっかけは、オーストラリアの友人のB君が、携帯電話を買いたいと言ったこと。それで携帯
電話ショップへいっしょに行き、あれこれ通訳しているうちに、自分でもほしくなってしまった。

 いろいろな機種があったが、どうせ買うなら最新型、ということで、それにした。長い間、悶々
としていた気分が、これで吹き飛んだ。手続きが終わるとワイフは、こう言った。「あんたも、や
っと一人前ね」と。そうだ。私もやっと、一人前!

 家に帰って、説明書を見る。ゾクッとするほど、分厚い。こうして機械をいじるのが、何よりも
楽しい。ショップの女の子に、「ぼくは、機械オンチでね。パソコンなど、いじったこともありませ
ん……」と言ったら、本気にした。そしてあれこれ手取り、(本当に、手取りだぞ!)、親切に教
えてくれた。合計で、八回ほど、手を握ってもらった。きれいな人だったから、うれしかった。は
はは。

 しかしそれにしても、機能満載! 携帯電話がここまで進化しているとは、思ってもみなかっ
た。カメラにしても、ズーム機能までついている。インターネットにメールを送ることもできる。ほ
かに留守番電話だの、アイモードだの。ただこの機種(ソニー・SO505i)は、閉じた状態で、ス
イッチが外部に出るため、不用意にスイッチを入れてしまう可能性がある。いいのかなあ…
…?

 さっそく、あちこちに電話してみる。うまくつながった。今度は反対に、携帯電話に電話してみ
る。これもうまくつながった。しかし一番格安のコースでも、月々の基本料金が、4000円近くに
なる。こうした料金でも、まさに「チリも積もれば……」。これから先、老後に向けて、生活をコン
パクトにしようと考えていたのだが……。

 しかしこうした電気製品は、いわばオモチャのようなもの。それにボケ防止になる。ときどきこ
ういう新製品を買って、頭を刺激する。しかし、私は、実のところ、こうした分野では、天才的な
能力がある。(ホント!)昔、ある医療研究所に、タタミ一枚分ほどもある、大型の電子機器が
置いてあった。だれもそれを操作できず、半年ほどそこに放置してあった。それを私は、一時
間ほどで動かしてしまった。あとで所長が、「君は、この機械のことを知っていたのかね?」と。
(これは自慢!)

 それにしても楽しい。手の中でクルクルと携帯電話をいじっていると、無上の喜びを感ずる。
(これは私のビョーキのようなもの。)そのうち私も、携帯電話を手放せなくなるかもしれない。
今は、その、はじめの一歩? 中毒にならないように、注意しよう。
(030610)

++++++++++++++

 話を戻す。

 TBS−iニュースは、つぎのように締めくくっている。

 『韓国でインターネット中毒が深刻化した背景としては、学歴競争での挫折や人間関係のスト
レスに苦しむ人たちが、現実社会からネットの世界へ逃げ込むという傾向が指摘されていて、
日本社会にとっても無縁とは思えない問題である』と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ネット
中毒 インターネット中毒 ゲーム中毒)

【付記】

 インターネット中毒に陥ること自体、依存うつと考えてよいのでは? さらに最近の研究によ
れば、うつ病の「根」は、0歳から2、3歳までの、乳幼児期に作られるということがわかってき
た。

 この時期の安定的な家庭環境(とくに母子関係)が、いかに重要であるかは、いまさら、ここ
に書くまでもない。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1936)

●小さな世界

+++++++++++++++

孫の誠司が、フロリダにあるディズ
ニーランドへ行ってきた。

そこから帰るとき、誠司は、かなり
ぐずったらしい。「ここはぼくのHOME
だから、帰らない」とまで言ったという。

その誠司は、「スモール・ワールド」が、
いちばん、気にいっていたという。

+++++++++++++++

 「小さな世界」……というときには、2つの意味がある。地球そのものを、宇宙的な規模でなが
めたときに、この地球を、「小さな世界」という。ディズニーランドには、「スモール・ワールド」と
いう展示館がある。そこで流されている音楽の、「♪小さな世界」は、それをいう。

 が、もうひとつの意味がある。

 個人がかぎりなく自分の住む世界を小さくし、その世界を、「世界」と思いこむときにも、「小さ
な世界」という。

 以前、こんな話を聞いた。

 その家には、80歳を過ぎた女性(=母親)と、60歳をすぎた男性(=その母親の息子)が住
んでいた。

 ともに認知症一歩手前という状態だった。そこでその女性のもう1人の息子が、毎日、その家
に、弁当を届けることにした。1食800円で、2食で1600円。弁当は、ボランティア活動をして
いる人たちが、格安で提供していた。

 が、しばらくすると、その女性(=母親)と、男性(=母親の息子)は、その弁当を取りあって、
けんかするようになったという。「お前がワシの分まで、食べてしまった」「ぼくの食べる分がな
い」と。

 一応食器は、洗って返すことになっていたというが、その洗い方についても、けんかが絶えな
かったという。「ちゃんと洗え」「お前のほうが洗え」と。

 何ともあさましい、何ともなさけない話である。人間というのは、努力によって神のような人間
にもなれるが、生き方をまちがえると、この2人のように、ケダモノに近い人間にもなってしま
う。

 そこで大切なことは、小さな世界で、小さく生きている人とは、付きあわないということ。そうい
う人たちには、そういう人たち独特の魔力のようなものがある。油断すると、その魔力の虜(と
りこ)になってしまう。ドロドロとした人間関係のウズに巻きこまれると、そのまま小さな人間にな
ってしまう。

 一方、つねに私たちは、自分の視点を、宇宙の外に置く。その視点から、地球を見、人間を
見る。見るだけでは足りない。今度は、宇宙の歴史の中で、今という(時間)を考える。

 私たちが今過ごしている時間は、たとえそれが100年であっても、この宇宙の歴史の中で
は、瞬間のそのまま瞬間にすぎない。

 こうした心の操作をつねにしていかないと、私たちはすぐ、先に書いた、「小さな世界」に引き
戻されてしまう。ささいなことで、悩んだり、くよくよしたりする。しかしそれこそ、時間の無駄。人
生の無駄。

 たとえば私の知り合いの中には、兄弟姉妹で、四つどもえになって、親の残した遺産を取り
あっている人がいる。遺産といっても、1000万円にもならない。(だからといって、1000万円
が小額だと言っているのではない。誤解のないように!)

 「お前は、親父の駐車場を、タダで使っていたではないか。その分を、分与額が差し引け」「お
前こそ、大学の学費を出してみらったではないか。その分を、分与額から差し引け」と。

 金銭問題がからんでくると、兄弟姉妹でも、他人以上の他人になる。またこうした争いは、い
まどき、珍しくも何ともない。その兄弟姉妹にしても、たがいにこう言っている。「この(遺産)問
題が片づいたら、たがいに縁を切る」と。

 しかしこんなことも考えたらよい。

 本当の財産は、何か、と。あるいは、本当に大切にしなければならないものは、何か、と。

 どちらにせよ、人生にはかぎりがある。50歳の人にしてみても、これから先、人生は、30〜
40年しかない。60歳の人にしてみても、20〜30年。しかもその20〜30年が、健康なままと
いうことはない。

 人生をお金に換算すること自体、まちがっている。が、しかし今生きている(1年)には、無現
の価値がある。かりに悪魔がやってきて、「1000万円やるから、お前の1年を私によこそ」と
言われたら、あなたはどうするだろうか。それに応ずるだろうか。

 私なら、「ノー」と答える。とんでもない話である。どうせ死ねば、自分の財産、名誉、地位はお
ろか、この地球、さらには宇宙ごと、私とともに消える。大切なことは、心豊かに、穏やかに生
きること。1日でも多く、心豊かに、穏やかに生きること。

 そういう生き方をすることは難しいことかもしれないが、そのための努力を怠っては、いけな
い。またその努力をするところに、人間の生きる美しさが光る。

 私なんかは、自分人生を振り返ってみても、損をすることはあっても、金銭的な意味で、得を
したことは、何もなかった。1000万円単位で、損をしたことは何度かある。だからこう思う。

 「たかが1000万円ではないか。そんな額で、兄弟姉妹がけんかして、どうなる?」と。あるい
はそうして得たお金を、その人たちは、どうするつもりなのだろう。新車でも買うつもりなのだろ
うか? 旅行にでも行くつもりなのだろうか?

 が、はたして、それで心豊かな人生を送ることができるというのだろうか? 私にはまだよくわ
からないが、生きるということは、そういうことではないように思う。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●名誉を残す、名を残す、そして人を残す

++++++++++++++++++

田丸先生が、こう言った。

名誉を残す。名を残す。しかしもっと
大切なことは、人を残すことだ、と。

++++++++++++++++++

 83歳になった田丸先生が、こう言った。「私の今の生きがいは、2人の娘と、弟子たちです」
と。

 東大だけでも8人の弟子たちが、教授職についたという。「8人」という数が、どれくらいすごい
数かということは、その世界の人たちにならわかるはず。

 その田丸先生が、さらにこう言った。「人生でいちばん大切なことは、人を残すことです」と。
先生のこの言葉は、私に大きな衝撃を与えた。

 私は今まで、自分の育児論の中で、「子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させ
ることだ」と説いてきた。しかしいつも、心のどこかで、「それでは足りない」と感じてきた。

 先生のこの言葉が、私の子育て論の欠陥を、補完した。「子育ての目標は、人を残すこと」。
もし世の親たちが、こういう視点で子育てを始めたら、子育てのあり方そのものが変わる。当
然、その結果として、この世界はすばらしい世界になる。

 人を残す! そうなんだ! そうだったのだ!

 もちろん、今は、そうわかっただけで、「ではどうすればいいのか」という部分については、ここ
では書けない。ひとつの大きなテーマとして、これから先、じっくりと考えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 人を
残す 田丸謙二)


●生きていること自体が、奇跡

+++++++++++++++++++

今夕、濃紺の空を見あげながら、家に
帰ってきた。澄んだ、どこまでも澄んだ、
宵やみの空に、1つの大きな美しい星が、
輝いていた。

それを見たとき、ふと、私は、こう思った。
「生きていること自体が、奇跡だ」と。

つぎの瞬間には、つまり星がまばたきする、
そのつぎの瞬間には、私は、この世から
消える。消えて、なくなる。

星がまばたきする、その瞬間、その私がこの
世界に生まれ、そしてこの世界で生きている。

それを「すばらしい」と言わずして、
何という。

+++++++++++++++++++

 今、あなたが健康なら、それを感謝したらよい。そしてその健康なときを、懸命に大切にし
て、生きたらよい。今、あなたが若いなら、なおさらだ。

 何が奇跡かといって、この世界で生きていることを越える奇跡はない。生きていること自体
が、まさに奇跡。その奇跡の前では、名誉も地位も肩書きも、意味がない。もし今のこの「時」
を、お金に換算するなら、一瞬一秒には、無限の価値がある。いや、お金に換算すること自
体、バカげている。

 なのに、どうしてみな、今、生きていることを、そんなにも粗末にするのか。名誉や地位や肩
書きにしがみつき、わずかなお金を取り合って、嘆き、悲しむ。時に、憎しみ合う。奇跡を無駄
にしながら、無駄にしているという自覚すらない。
 
 賢い人は、そのものの価値をなくす前に気がつく。愚かな人は、そのものの価値を、なくして
から気がつく。

 足が動く、体が動く、宵やみの空が見える、冷たい初夏の冷気を、そこに感ずる。楽をしよう
と思えば、いくらでもできる。しかし今、私は生きている。生きているという実感を、肌で感ずる。
自転車をこぐペダルに、思わず力が入る。

 濃紺の空には、1つの大きな星。あの星から見れば、この地球なぞ、ゴミにもならないチリの
ようなもの。そんな地球にへばりついて、ああでもない、こうでもないと心を煩わす。その馬鹿ら
しさ。その愚かしさ。かつてだれかがこう言った。「人間社会にしても、地球の表面をおおうカビ
のようなもの」と。

 イラクでは、スンニ派だかシーア派だか知らないが、外から見れば、骨肉の争いを繰りかえし
ている。たがいにたがいを殺しあっている。そういう愚かさを見たとき、「私は彼らとはちがう」と
言い切れる人は、この世界に、いったい、どれほどいるというのか。

 明日はない。ないと思って、今日を懸命に生きる。そしてその明日に、大病を言い渡されて
も、悔いのない今日を、今日、過ごす。つまりそういう明日になるかもしれないが、しかしともか
くも、今日、私は生きている。「今」という、この瞬間を生きている。そのすばらしさ。尊さ。

 これを奇跡と呼ばずして、何という。

+++++++++++++++++++++

犠牲になることを、恐れてはいけない。
犠牲になっていることを、嘆いてはいけない。
犠牲になることを、避けてはいけない。
犠牲になっていることを、喜ぼう。
相手を安らかにしてやろう。
相手のいいようにしてやろう。
犠牲は、やがて、その数万倍のも光を
ともなって、あなたのところに返ってくる。

+++++++++++++++++++++

【生きる原点】

●黄金の小便

+++++++++++++++++

どんな病気だったか、知らない。
どんなふうに、苦しんだのかも
知らない。

しかしその人は、腎臓移植を受けた。
そして術後はじめて、病院のトイレ
で小便をした。

そのときのこと。窓から入り込む太陽の
光線をあびて、自分の小便が、黄金色に
輝いているのを知った。

その人は、こう書いている。

「その美しさに、驚き、思わず、
自分の小便を、手で受け止めた」と。

+++++++++++++++++

 あるものを忘れて、ないものを嘆く。そこにいる人を忘れて、その人をののしり、罵声を浴び
せかける。あるいは生きていることを忘れて、生きていることを粗末にする。

 悩む? 苦しむ? 迷う? 

 みんな、生きているからこそ、そうする。だから悩んだり、苦しんだり、迷ったりしたら、ふと、
立ち止まって自分を見つめなおしてみたらよい。私たちは生きているがゆえに、悩んだり、苦し
んだり、迷ったりする。すると、とたん、悩んだり、苦しんだり、迷ったりすることが、生きる喜び
に変化する。

 あなたが今、満ち足りた充足感を覚え、健康なら、何も言うことはない。そこに家族がいて、
みな、健康なら、何も言うことはない。仮に、不幸であっても、病気であっても、それで生きるこ
とが影響を受けるわけではない。

 もともと何もないという前提で生きれば、失うことすら、何でもない。大切なことは、今というこ
の一瞬一秒を、心豊かに、満足して生きることではないのか。

 人生は長いようで短い。本当に短い。……といっても、こんなことを若い人に言ってもわから
ないだろう。若い人にとっては、時間は永遠。死すら、無縁。

 しかしその時間も一瞬のうちに消える。気がついてみたら、30代、40代。さらに気がついて
みたら、50代、60代。つぎの20年のうちには、大半の人はこの世界から消えてなくなる。さら
につぎの20年のうちには、生きている人は、ほとんどいない。

 例外は、ない。私も、あなたも、だ。

 知りあいの中には、わずかな財産にしがみつき、きゅうきゅうとしている人がいる。兄弟姉妹
で、争奪戦を繰りかえしている人もいる。あわれで、どこまでも悲しい人たちだ。そういう人たち
は、そういうことで得たお金で、何をしようとしているのか。

 車を買うのか? 旅行をするのか? あるいは家を買うのか?

 仮にそれができたとしても、だから、どうなのか。それがどうしたというのか。

 私には、目が見える。音を聞くこともできる。初夏のさわやかな風を、肌で感ずることもでき
る。その気になれば、庭を、自由に歩くこともできる。生きていくためには、働かなければならな
い。いやな人とも、つきあわなければならない。苦労はつきものだが、それとて(生きている)と
いう事実の前では、何でもない。働けるということ自体が、財産なのだ。価値なのだ。

 私は、今、原点から、自分を見つめなおしている。

 食事を作る。食事をする。お茶を飲む。食器を洗う。本を読む。パソコンのキーボードをたた
く。音楽を聞く。何でもないことの連続だが、しかしその何でもないことの中に、お金では換算で
きない、無限の価値がある。

 もっとも、こうした状態が、いつまでもつづくとは思っていない。明日、私は、交通事故か何か
で倒れるかもしれない。あるいは、この命も、今日限りかもしれない。

 だからこそ、私は、今というこの一瞬、一秒をかみしめながら生きる。それが私の「生きる原
点」ということになる。
(はやし浩司 生きる原点 生きる喜び)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1937)

【シャドウ論byユング】

●今日・あれこれ(5月15日)

+++++++++++++++

Aさん(女性)は、長い間、自分の
母親を嫌っていた。会うたびに、Aさん
は、Aさんの母親の悪口ばかり言って
いた。

ただ表面的には、よい母娘関係を装って
いた。が、それはあくまでも「表づら」。
仲は悪かった。

そのAさんの母親は、10年ほど前に、
88歳という年齢でなくなった。

で、しばらくぶりに私は、Aさんに会った。
驚いた。Aさんは、今年、80歳になる。

何と、Aさん自身が、なくなった
Aさんの母親そっくりの人に
なっていた!

++++++++++++++

Aさん(女性)は、長い間、自分の母親を嫌っていた。会うたびに、Aさんは、Aさんの母親の悪
口ばかり言っていた。

ただ表面的には、よい母娘関係を装っていた。が、それは表づら。本当は、仲が悪かった。

そのAさんの母親は、10年ほど前に、88歳という年齢でなくなった。

で、しばらくぶりにAさんに会ってみて、私は驚いた。Aさんは、今年、80歳になるという。

何と、Aさん自身が、なくなったAさんの母親そっくりの人になっていた!

 ……というようなケースは、たいへん多い。ある人を反面教師として長くつきあっていると、自
分自身が、その反面教師そっくりの人間になってしまうというケースである。私は若いころ、あ
る進学予備校で講師をしているときに、それを発見した。

 私は高校時代、英語教師の教え方が、大嫌いだった。一方的な詰め込み方式。「わかった
か? では、つぎ!」式の教え方だった。

 で、私はいつもこう思った。「もし英語の教師になっても、私はぜったいに、こういう教え方をし
ないぞ」と。

 しかしその私が、講師になった。英語を教えた。と、同時に、私は、自分自身が、あの英語教
師そっくりの教え方をしているのを知った。ぞっとした。

 それもそのはず。私はその英語教師を反面教師としながらも、その英語教師しか知らなかっ
た。だから自分が英語を教える立場に立たされたとき、その英語教師を再現してしまった。

 冒頭に書いた、Aさんという女性も、そうである。Aさんは、長い間、Aさんの母親を反面教師
としてきた。が、Aさんにしてみれば、親子であるという点で、密着度も高かった。そのためAさ
んは、今、あれほどまでに嫌っていた、Aさんの母親そっくりの人間になってしまった。

 Aさんの母親は、小ずるくて、口がうまく、私と会ったときも、不平不満ばかり並べていた。そ
して今、Aさんも、小ずるくて、口がうまく、私と会うときはいつも、不平不満ばかり並べている。

 ……ここに書いたAさんも、Aさんの母親も、実は、架空の人物である。ウソを書いたのでは
ない。こういう話は、何人かの人たちの話を、ひとつにまとめて書く。しかしこういう話は、いくら
でもある。あなたの周囲でも、さがせばこういう例は、見つかるはず。

 そこで注意しなければならないことは、あなたの近くに反面教師がいるとしても、その反面教
師を批判したり、非難したりするだけでは、いけないということ。批判するにしても、そのつど、
あなた自身は、それ以上の自分をつくりあげていかなければならない。

 「あの人はくだらない人」と、非難することぐらいなら、だれにでもできる。しかしそれ以上のも
のを自分の中に用意するのは、簡単なことではない。その(簡単でないこと)をしておかないと、
やがてあなた自身も、その反面教師そっくりの人間になってしまう。たとえば子どもの世界で
も、それまではいじめらっ子だった子どもが、ふとしたきっかけで、今度は、いじめっ子になると
いうケースが、よく見られる。そして自分がいじめられたのと、まったく同じやり方で、今度はだ
れかをいじめたりする。

 もしその自信がなければ、つまりそれ以上の自分をつくるという自信がなければ、反面教師
と思う人とは、つきあわないこと。距離をおく。いつも客観的な目で、その人や自分を見る。

 が、親子となると、そうはいかない。そういう問題もある。が、そのばあいでも、自分は一歩退
いて、親を客観的に見る。できれば、批判したり、非難したりすることもやめる。さらにできれ
ば、無視して、相手にしない。そういう視点を見失うと、やがてドロドロとした人間関係に巻き込
まれてしまう。そしてここに書いたように、今度は、あなた自身も、その反面教師そっくりの人間
になってしまう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 反面
教師)


【付記】

●仮面とシャドウ

 だれしも、いろいろな仮面(ペルソナ)をかぶる。親としての仮面、隣人としての仮面、夫として
の仮面など。もちろん、商売には、仮面はつきもの。いくら客に怒鳴られても、にこやかな顔を
して、頭をさげる。

 しかし仮面をかぶれば、かぶるほど、その向こうには、もうひとりの自分が生まれる。これを
「シャドウ(影)」という。本来の自分というよりは、邪悪な自分と考えたほうがよい。ねたみ、うら
み、怒り、不満、悲しみ……そういったものが、そのシャドウの部分で、ウズを巻く。

 世間をさわがすような大事件が起きる。陰湿きわまりない、殺人事件など。そういう事件を起
こす子どもの生まれ育った環境を調べてみると、それほど、劣悪な環境ではないことがわか
る。むしろ、ふつうの家庭よりも、よい家庭であることが多い。

 夫は、大企業に勤める中堅サラリーマン。妻は、大卒のエリート。都会の立派なマンションに
住み、それなりにリッチな生活を営んでいる。知的レベルも高い。子どもの教育にも熱心。

 が、そういう家庭環境に育った子どもが、大事件を引き起こす。

 実は、ここに仮面とシャドウの問題が隠されている。

 たとえば親が、子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとする。
「この世の中は、何といっても、学歴よ。学歴があれば、苦労もなく、一生、安泰よ」と。

 そのとき、親は、仮面をかぶる。いや、本心からそう思って、つまり子どものことを思って、そ
う言うなら、まだ話がわかる。しかしたいていのばあい、そこには、シャドウがつきまとう。

 親のメンツ、見栄、体裁、世間体など。日ごろ、他人の価値を、その職業や学歴で判断して
いる人ほど、そうだ。このH市でも、その人の価値を、出身高校でみるようなところがある。「あ
の人はSS高校ですってねえ」「あの人は、CC高校しか出てないんですってねえ」と。

 悪しき、封建時代の身分制度の亡霊が、いまだに、のさばっている。身分制度が、そのまま
学歴制度になり、さらに出身高校へと結びついていった。街道筋の宿場町であったがために、
余計に、そういう風潮が生まれたのかもしれない。

 この学歴で人を判断するという部分が、シャドウになる。

 そして子どもは、親の仮面を見破り、その向こうにあるシャドウを、そのまま引きついでしま
う。実は、これがこわい。「親は、自分のメンツのために、オレをSS高校へ入れようとしている」
と。そしてそうした思いは、そのまま、ドロドロとした人間関係をつくる基盤となってしまう。

 よくシャドウで話題になるのが、今村昌平が監督した映画、『復讐するは我にあり』である。佐
木隆三の同名フィクション小説を映画化したものである。名優、緒方拳が、みごとな演技をして
いる。

 あの映画の主人公の榎津厳は、5人を殺し、全国を逃げ歩く。が、その榎津厳もさることなが
ら、この小説の中には、もう1本の柱がある。それが三國連太郎が演ずる、父親、榎津鎮雄と
の、葛藤(かっとう)である。榎津厳自身が、「あいつ(妻)は、おやじにほれとるけん」と言う。そ
んなセリフさえ出てくる。

 父親の榎津鎮雄は、倍賞美津子が演ずる、榎津厳の嫁と、不倫関係に陥る。映画を見た人
なら知っていると思うが、風呂場でのあのなまめかしいシーンは、見る人に、強烈な印象を与
える。嫁は、義理の父親の背中を洗いながら、その手をもって、自分の乳房を握らせる。

 つまり父親の榎津鎮雄は、厳格なクリスチャンで、それを仮面とするなら、息子の嫁と不倫関
係になる部分が、シャドウということになる。主人公の榎津厳は、そのシャドウを、そっくりその
まま引き継いでしまった。そしてそれが榎津厳をして、犯罪者に仕立てあげた原動力になった
とも言える。

 子育てをしていて、こわいところは、実は、ここにある。

 親は仮面をかぶり、子どもをだましきったつもりでいるかもしれないが、子どもは、その仮面
を通して、そのうしろにあるシャドウまで見抜いてしまう。見抜くだけならまだしも、そのシャドウ
をそのまま受けついでしまう。

 だからどうしたらよいかということまでは、ここには書けない。しかしこれだけは言える。

 子どもの前では、仮面をかぶらない。ついでにシャドウもつくらない。いつもありのままの自分
を見せる。シャドウのある人間関係よりは、未熟で未完成な人間関係のほうが、まし。もっと言
えば、シャドウのある親よりは、バカで、アホで、ドジな親のほうが、子どもにとっては、好ましい
ということになる。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ 参考文献 河出書房新社「精神分析がわかる本」)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●親の気負いの陰にあるもの

 不幸にして不幸な家庭に生まれ育った親ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」という
気負いばかりが先行し、結果的に、よい家庭づくり、よい親子づくりに失敗しやすい。

 それを心理学の世界では、「シャドウ」という言葉を使って説明している。

 つまり子どもたちは、親のそのうしろにあるシャドウ(影)を見ながら、自分たちの心理を形成
してしまう。

 ひとつの例として、こんな例を考えてみよう。(例として、正しいかどうかは、まだよくわからな
いが……。)

 ある母親は、自分が、大学を出ていなかったことを、いつも、心のわだかまりとしていた。そこ
でその母親なりに、努力した。大学の公開セミナーなどがあると、積極的に参加していた。資
格もいくつか、取った。

 しかし心のわだかまりは消えなかった。学校の父母会の席などで、学歴が話題になったりす
ると、その母親は、いつも小さくなっていた。

 そこでその母親は、子どもの勉強にのめりこむようになった。俗にいう、「教育ママ」になっ
た。テストの点数が少しでも悪いと、子どもを叱った。そして睡眠時間を削ってでも、そのテスト
のやりなおしを、させた。

 こういうケースのばあい、母親は、子どものためを思って、そうしているのではない。自分自
身の中にある、不安や心配を解消するための道具として、子どもを利用しているだけである。

 だから、子どもは、やがてすぐ、そういう親の下心を見抜いてしまう。見抜くだけならまだしも、
そのシャドウの部分だけを、引きついでしまう。

 で、たとえばその努力(?)のかいもなく、その子どもが、親の希望どころか、自分の希望とも
ほど遠い、CC中学に入ったとしよう。ふつうなら、「どこの中学でも同じ」「またがんばればい
い」というような、合理的な割りきりをしながら、親や子どもは、それを乗りこえていく。が、シャド
ウを引きついだ子どもは、そうではない。

 自分はダメな人間だというレッテルを、自らに張ってしまう。

 「どうせ、私はダメ人間だ」「失敗者だ」「失格者だ」と。さらにそういう思いが肥大化して、自己
否定にまで進んでしまうかもしれない。さらに自ら、自暴自棄になってしまい、二番底、三番底
へと落ちていくかもしれない。

 要するに、親が子どもにきびしい学習を強いたとしても、子どもがそれを、「自分のために、
親は、がんばってくれている」と感ずれば、子どもは仮に失敗しても、そこを原点として、また前
向きに歩きだす。

 しかしそのシャドウを子どもが感じたとき、(たいていのケースでは、親自身も、そのシャドウ
に気づいていないことも多いが)、そのシャドウのもつ、邪悪な部分を、子どもは引きついでしま
う。

 先のケースでいうなら、学歴や肩書きだけで人を判断したり、反対に、それがない自分を、異
常なまでに、卑下したりするようになる。

 たしかに親の気負いが強ければ強いほど、その親は、よい家庭づくり、よい親子づくりに失
敗しやすい。それは、教育の世界でも常識である。しかしなぜ失敗しやすいのか。その一つの
ヒントが、このシャドウにある。

 まだよくわからない点もあるので、ここに書いたことは、まちがっているかもしれない。専門家
の先生が読んだら、「おいおい、シャドウの意味がちがうよ」と言われるかもしれない。

 しかし一つのヒントの一口はつかんだように思う。これから先、このシャドウの問題を、もう少
し、掘りさげて考えてみたい。

 とっかかりとして、私やあなたには、どんなシャドウがあるか? それを考えてみると、おもし
ろいのでは……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●超自我の世界

 フロイトの理論によれば、(自我)の向こうに、その(自我)をコントロールする、もう一つの自
我、つまり(超自我)があるという。

 この超自我が、どうやら、シャドウの役目をするらしい(?)。

 たとえば(自我)の世界で、「店に飾ってあるバッグがほしい」と思ったとする。しかしあいにく
と、お金がない。それを手に入れるためには、盗むしかない。

 そこでその人は、そのバッグに手をかけようとするが、そのとき、その人を、もう1人の自分
が、「待った」をかける。「そんなことをすれば、警察につかまるぞ」「刑務所に入れられるぞ」
と。そのブレーキをかける自我が、超自我ということになる。

 (ついでながら、自分の欲望のおもむくまま、犯罪的な行動を繰り返す人を、「エスの人」とい
う。)

 このことは、たとえばボケ老人を観察していると、わかる。ボケ方にもいろいろあるようだが、
ボケが進むと、この超自我による働きが鈍くなる。つまりその老人は、気が向くまま、思いつく
まま、行動するようになる。

 ほかにたとえば、子どもの教育に熱心な母親の例で考えてみよう。

 もしその母親にとって、「教育とは、子どもを、いい学校へ入れること」ということであれば、そ
れが超自我となって、その母親に作用するようになる。母親は無意識のまま、それがよいこと
だと信じて、子どもの勉強に、きびしくなる。

 そのとき、子どもは、教育熱心な母親を見ながら、そのまま従うというケースもないわけでは
ない。が、たいていのばあい、その向こうにある母親のもつ超自我まで、見抜いてしまう。そし
てそれが親のエゴにすぎないと知ったとき、子どもの心は、その母親から、離れていく。「何だ、
お母さんは、ぼくを自分のメンツのために利用しているだけだ」と。

 だからよくあるケースとしては、教育熱心で、きびしいしつけをしている母親の子どもが、かえ
って、学業面でひどい成績をとるようになったり、あるいは行動がかえって粗放化したりするこ
となどがある。非行に走るケースも珍しくない。

 それは子ども自身が、親の下心を見抜いてしまうためと考えられる。が、それだけでは、しか
しではなぜ、子どもが非行化するかというところまでは、説明がつかない。

 そこで考えられるのが、超自我の引きつぎである。(このばあいは、「ニセ超自我」と言うべき
か?)

 子どもは親と生活をしながら、その密着性ゆえに、そのまま親のもつ超自我(=ニセ超自我)
を自分のものにしてしまう。もちろんそれが、道徳や倫理、さらには深い宗教観に根ざしたもの
であれば問題はない。

 子どもは、親の超自我を引きつぎながら、すばらしい子どもになる。しかしたいていのばあ
い、この超自我の裏には、ドロドロとした醜い親のエゴがからんでいる。その醜い部分だけを、
子どもが引きついでしまう。

 それがシャドウということか。

 話がこみいってきたが、わかりやすく言えば、こういうこと。

つまり、私たち人間には、表の顔となる(私)のほか、その(私)をいつも裏で操っている、もう1
人の(私)がいるということ。簡単に考えれば、そういうことになる。

 そしていくら親が仮面をかぶり、自分をごまかしたとしても、子どもには、それは通用しない。
つまりは親子もつ密着度は、それほどまでに濃密であるということ。

 そんなわけで、よく(子どものしつけ)が問題になるが、実はしつけるべきは、子どもではなく、
親自身の(超自我)ということになる。昔から日本では、『子は親の背中を見て育つ』というが、
それをもじると、こうなる。

 『子は、親のシャドウをみながら、それを自分のものとする』と。親が自分をしつけないで、どう
して子どもをしつけることができるのかということにもなる。

 話が脱線しようになってきたので、この問題は、もう少し、この先、掘りさげて考えてみたい。

(私の書いていることは、まちがっているかもしれないが、まちがっていれば、そのつど訂正す
ることにして、今は、このまま原稿にしておく。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●親の心を見ぬく、子どもたち

 『子は親の背中を見て育つ』とは言うが、同時に、子は、親の背中の奥まで、見ぬいてしま
う。これがこわい。

 たとえばあなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と言ったとす
る。そのとき、あなたは、子ども自身のためを思って、そう言っているだろうか。それとも、自分
のメンツや、見栄、世間体のためにそう言っているだろうか。それを子どもは、あっという間に、
見ぬいてしまう。

 フロイトは、「超自我」という言葉を使って、それを説明した。子どもは、親をその背後から操
っている超自我を見ぬいてしまうと。日本語で言えば、「下心」ということになるが、そんな簡単
なものではない。奥は、もっと深い。親の人間性そのものまで、見ぬいてしまう。

 見ぬくというよりは、感性として、それを判断するといったほうが正しいかもしれない。親は無
意識のまま、仮面(ペルソナ)をかぶる。その仮面を、子どもは、無意識のまま、見ぬく。親は、
「子どももには、そんなことはできない」と思っているかもしれないが、子どもは、親が考えてい
るより、はるかに敏感である。私の例で考えてみよう。

 私が高校生のときのこと。進路指導の個別面接があった。その教師は、あれこれと私の成
績をながめながら、「君なら、できる」「がんばれる」「やればできる」と励ましてくれたが、どこか
おかしい(?)。へん(?)。その教師は、本当に私のことを思って、そう言っていたのではない。
進学率を高めるためにそう言っていた。それに私はそのとき、気づいた。と、同時に、その教
師への信頼感は、こなごなに消えた。

 その教師にしてみれば、有名大学へ何人、生徒を送りこむかが重要であった。学校の「実
績」をあげるためである。そのため私のばあい、高校2年から3年にかけて、無理やり、理科系
から文科系へ、転向させられてしまった! 「君なら、K大の工学部は無理だが、K大の文学部
になら、入れる」と。今から思うと、私という一人の学生にしてみれば、悲劇としか言いようがな
い。

 これは教師と私との話だが、親子の間では、関係が一度こじれると、ことは深刻。親子である
がゆえに、問題は、底なしにこじれる。が、それだけではすまない。子ども自身が、親のシャド
ウ(影)に苦しむことになる。

 具体的に、あれこれということではない。しかしもっと抽象的、観念的な生きザマまで、親から
子どもへと、すべてが伝わってしまう。「学習」というなまやさしいものではない。子どもの心に、
親の超自我が、そっくりそのまま、しみこんでしまう。

 たとえば善悪の感覚、判断能力、倫理観や道徳観など。親がたとえば、小ずるい人間であっ
たとすると、子どもも、小ずるくなる。親を反面教師として、別の人格をつくりあげる例もないわ
けではない。しかしそのばあいでも、その子どもは、ほかの子どもたちよりも、何倍も苦労をし
なければならない。たとえばほかの子どもなら、自然な形で身につける善悪感についても、不
要な葛藤を繰りかえすことになる。

 たとえば親が、駐車場でもないところに平気で車を止めたり、あるいは赤信号でも無視して、
車を走らせていたとする。そういった善悪感は、そっくりそのまま子どもに伝わってしまう。

 そういう親をもった子どもは、不幸である。生活のあらゆる場面で、その小ずるさが顔を出
す。そのため、一事が万事。長い時間をかけて、その子どもは、善良な世界から、遠ざかって
しまう。気がついたときには、まわりは、悪人だらけということにも、なりかねない。

 そこでフロイトは、人間がもつ良識や良心は、その「超自我」の中で、つくられると考えた。そ
の中で作られた良識や良心が、その人の生きザマを基本的な部分で、決定づける、と。

 このことは、自分の経験に照らしあわせてみると、よくわかる。

 たとえば道路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、「私」、つまり、「私としての自
我」は、そのお金をほしいと思う。「拾ってもっていこう」と思う。

 しかしそれにブレーキをかける「私」もいる。「お金がほしい」というのが、自然な「私」であると
するなら、「もらってはだめ」とブレーキをかけるのは、「私」を超えた「私」ということになる。

 その「私を超えた私」は、自分自身でつくっていくものというよりは、生まれ育った環境の中
で、つくられていくものということになる。もちろんそれをつくっていくのは、親だけではない。し
かし実際には、乳幼児期までには、その方向性が決まってしまう。そのことを考えるなら、親の
責任は、きわめて重大ということになる。

 よく誤解されるが、こうした倫理観や道徳観は、学校での勉強などによって、身につくもので
はない。道徳のテストで、すばらしい点数を取ったからといって、その子どもが、善人というわけ
ではない。

 こんなテスト問題があった。小学1年生の問題である。

Q……お母さんが、台所で料理をしていました。それを見たあなたは、どうしますか。

(1)手伝う。
(2)そのまま遊んでいる。
(3)どこかへ遊びに行く。

 正解は(1)ということになるが、実際に、料理を手伝うかどうかは、別問題である。つまりこう
いうテストで、よい点をとったからといって、その子どもの人格がすぐれているということにはな
らない。要領のよい子どもなら、よい点を取るため、(1)に丸をつけるだろう。

 こんな例もある。

 私の知人に、K氏という人がいる。当時、32歳。

 ある日、K氏のところに、K氏の母親から電話がかかってきた。「Z氏がもっている、山林を買
ってやってほしい」と。

 Z氏というのは、母親の実兄、つまりK氏の伯父である。値段を聞くと、800万円だという。さ
らに話を聞くと、「本当は、2000万円くらいの価値がある」と。

 K氏は、お金を集めて、その山林を、800万円で買った。しかし、その山林は、それから30
年近くたった現在ですら、100万円にもならない山林だった。

 母親は、伯父と結託して、息子のK氏をだました。だまして、当時、80万円でもよい値段の山
林(地元の森林協同組合の職員)を、K氏に800万円で売りつけた。

 世の中には、親をだます子どもは、いくらでもういる。しかし子どもをだます親も、珍しくない。
しかもそのあとも、伯父なる人物は、毎年、K氏に、8〜10万円の管理費を請求してきたとい
う。

 K氏は、こう言う。「おそらく、母は、伯父から、いくらかのペイバック(謝礼)を受け取っている
はずです。母も、伯父も、昔から、そういう人間です」と。

 が、問題は、そのことではない。

 そういう母親をもったK氏自身も、母親から、そういう人間性を引きついでいた。K氏はこう言
う。

 「私の体質の中に、実は、母や伯父の体質がしみこんでいるのですね。私は、母と伯父に80
0万円、だまし取られましたが、私も、ひょっとしたら、そういうことが平気でできる人間なので
す。ときどき、そういう自分が、こわくなります」と。

 K氏は、今も、自分自身のシャドウ(影)に苦しんでいる。

以上、私は、超自我について書いてきた。シャドウについても書いてきた。その前には、(私で
あって私でない部分)について書いてきた。さらに仏教で教える、末那識(自分の奥底に潜ん
で、自分を操るエゴ)についても、書いてきた。もちろん心理学でいう、潜在意識という考え方も
ある。

これらは結局は、すべて、(私)を知る手がかりということになる。

 「私のことは、私が一番よく知っている」と言う人は多い。しかし本当のところ、(私)を知るの
は、簡単なことではない。そのことだけでも、わかってもらえれば、うれしい。
(はやし浩司 超自我 末那識 シャドウ 仮面 ペルソナ)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●やさしい心

+++++++++++++++

ウルトラマンの胸には、小さな
ランプがついている。

そのランプが点滅するようになると、
エネルギーが、そろそろ切れることを
意味する。

いわば警告ランプのようなもの。

+++++++++++++++

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりすると、とたんに猛烈なエネルギーを消耗する。ばあいに
よっては、1〜2時間でヘトヘトになる。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりするということは、そういうこと。

 一方、人にやさしくしたり、親切にしたりすることについては、いくらそれをしても、疲れない。
愛というか、慈悲というか、そういうものには、限界がない。限界がないというよりは、心の中か
ら、無尽蔵にわいてくる。

 人にやさしくしたり、親切にしたりするということは、そういうこと。

 ところでウルトラマンの胸には、小さな赤いランプがついている。パワーがじゅうぶんにあると
きには、ランプは、ついたまま。しかしエネルギーが限界に近づいてくると、ランプが、点滅し始
める。

 なぜか? ウルトラマンは、相手を恨んだり、憎んだり、怒ったりしているから……と書くと、あ
まりにも見え透いたエッセーになってしまう。しかし私は、少し前、幼稚園児たちとこんな会話を
したことがある。

私「どうして、ウルトラマンは、相手の怪獣を殺してしまうの?」
子「悪いヤツだからだよ」
私「どうして悪いの?」
子「町をこわしてしまうよ」
私「どうして?」

子「悪いヤツだからさ」
私「でも、何か理由があるはずだよ。その理由を聞くとか……あるいは話しあって解決すると
か、そういう方法もあるよ」
子「そんなこと、できないよ」
私「あるいはね、つかまえて、動物園へ入れるとか……。そういうのは、どう?」

子「そんなこと、できないよ。動物園を破壊してしまうよ」
私「そんなことないよ。頑丈な動物園を作ればいい」
子「悪いヤツは、やっつけるんだヨ」
私「だからさア、何も、殺さなくてもいい。先生(=私)は、そう思うよ」
子「……」と。

 もしウルトラマンが、相手に、やさしくしたり、親切にしたりするというヒーローだったら、どうな
るか? たとえば怪獣が現れる。その怪獣に対して、いっしょに遊んであげたり、いっしょに食
事をしたりするなど。あるいは「町をこわすことは、悪いことだ」と教えてやるのもよい。

 もっとも、そんなウルトラマンだったら、番組を見る子どもはいなくなるだろう。しかしもしそうな
ら、胸の赤いボタンが点滅するということは、ないはず。

 実は、今朝、こんなことがあった。

 母の部屋へ行くと、小便があたり一面に飛び散っていた。幸いにも、防水マットの上だったか
ら、トイレットペーパーで拭くだけですんだ。しかしそれに対して母は、私にこう言った。「ほれ、
そちらも汚れているから、そちらも拭いてくれ」と。

 母の悪いクセだ。母は、それを足の指先で指示する。

 私は濡れたおむつを取り換え、ついで、靴下を取り換えてやった。内心では、「コノヤロー」と
思った。しかし私は、思いきって、気分を変えた。変えて、一通り介護がすむと、母を車椅子に
乗せ、庭へ出てやった。庭のすみには、畑もある。

私「今年は、ネギをたくさん植えた」
母「そこにあるのは、エンドウ豆やら?」
私「そうや。もうすぐ収穫できる」と。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりすれば、疲れるだけ。疲れれば、かえって損。だったら、そ
の気持ちを、あえて、やさしい気持ちや親切な気持で、置き換えてみる。とたん、気分が晴れ
る。

 どうせ相手は、頭のボケた母。本気で相手にするほうが、おかしい。……ということで、私は
冒頭に書いた結論を得た。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりすると、とたんに猛烈なエネルギーを消耗する。ばあいに
よっては、1〜2時間でヘトヘトになる。

 人を恨んだり、憎んだり、怒ったりするということは、そういうこと。

 一方、人にやさしくしたり、親切にしたりすることについては、いくらそれをしても、疲れない。
愛というか、慈悲というか、そういうものには、限界がない。限界がないというよりは、心の中か
ら、無尽蔵にわいてくる。

++++++++++++++++

人にやさしくしたり、親切にしたり
すると、脳の中の辺縁系にある、扁桃体
から、モルヒネ様の脳内ホルモンが
分泌されることがわかってきた。

この脳内ホルモンが、その人に
心地よさを与える。

扁桃体について書いた原稿を集めてみる。

++++++++++++++++

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期
記憶、さらにそのタイプによって、認知記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 さらにそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だ
けでは、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題に
よって、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あ
ぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階
で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。

この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳という
ことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起
こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。で、最近の研究で
は、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわかってきた(伊藤正
男氏)。

伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」というところで思考がなされ
るが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用す
るという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。


++++++++++++++++

●馬に水を飲ますことはできない

 イギリスの格言に、『馬を水場へ連れて行くことはできても、水を飲ますことはできない』という
のがある。要するに最終的に子どもが勉強するかしないかは、子どもの問題であって、親の問
題ではないということ。いわんや教師の問題でもない。大脳生理学の分野でも、つぎのように
説明されている。

 大脳半球の中心部に、間脳や脳梁という部分がある。それらを包み込んでいるのが、大脳
辺縁系といわれるところだが、ただの「包み」ではない。

認知記憶をつかさどる海馬もこの中にあるが、ほかに価値判断をする扁桃体、さらに動機づ
けを決める帯状回という組織があるという(伊藤正男氏)。つまり「やる気」のあるなしも、大脳
生理学の分野では、大脳の活動のひとつとして説明されている。(もともと辺縁系は、脳の中で
も古い部分であり、従来は生命維持と種族維持などを維持するための機関と考えられてい
た。)

 思考をつかさどるのは、大脳皮質の連合野。しかも高度な知的な思考は新皮質(大脳新皮
質の新新皮質)の中のみで行われるというのが、一般的な考え方だが、それは「必ずしも的確
ではない」(新井康允氏)ということになる。

脳というのは、あらゆる部分がそれぞれに仕事を分担しながら、有機的に機能している。いくら
大脳皮質の連合野がすぐれていても、やる気が起こらなかったら、その機能は十分な結果は
得られない。つまり『水を飲む気のない馬に、水を飲ませることはできない』のである。

 新井氏の説にもう少し耳を傾けてみよう。「考えるにしても、一生懸命で、乗り気で考えるばあ
いと、いやいや考えるばあいとでは、自ずと結果が違うでしょうし、結果がよければさらに乗り
気になるというように、動機づけが大切であり、これを行っているのが帯状回なのです」(日本
実業出版社「脳のしくみ」)と。

 親はよく「うちの子はやればできるはず」と言う。それはそうだが、伊藤氏らの説によれば、し
かしそのやる気も、能力のうちということになる。能力を引き出すということは、そういう意味
で、やる気の問題ということにもなる。やる気があれば、「できる」。やる気がなければ、「できな
い」。それだけのことかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 扁桃
体 扁桃核 親切心 やさしい心)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●N先生へ

先日、N先生という人と議論をした。
そのとき、N先生の意見を、私は
頭から否定してしまった。

後味が悪かった。N先生は、「美しい
日本語を守るためには、英語教育は
必要ない」という意見だった。

+++++++++++++++

今から、20年も前のこと。
私自身も、それまで15年近く、
幼児や小学生に英語を教えてきた
という経験があります。

それで雑誌を作ろうということに
なりました。

もっとも最初に企画を出したのは、
学研のO氏でした。たいへんすぐれた
編集者でした。

私の仕事は、それを具体化するという
ものでした。

で、生まれたのが、「ハローワールド」
という雑誌です。当時、毎月27〜8
万部も売れたと聞いています。

余談ですが、そのとき、O氏が横浜の
アメリカンハイスクールで見つけて
きた女の子が、西田ひかるさんでした。

私は、小学校でも英語教育は必要だと
感じていました。
同調する先生たちもたくさんいました。

で、その結果、今に見る、小学校における
英語教育が実践されるようになりました。
県によっては、積極的に取り入れている
ところもあります。

もちろん私のした努力など、何でもない
ことです。私自身も、それほど深い教育理念
があって、雑誌の企画を立てたわけでは
ありません。

しかしものをつくるのは、たいへんなこと
です。
とくに教育の世界では、新しい試みを
実践に移すのは、たいへんなことです。

しかしあるとき、突然、一台のブルドーザー
がやってきて、あとかたもなく、こうした
積み重ねを破壊してしまう……。

ご自身は、一度もそういった現場に
立ったこともない。子どもに英語を教えた
こともない。

そういう人が研究室の奥で本を書き、
「小学生に英語教育は必要ない」と。

私自身は、自分で子どもたちに英語を
教えてみて、「やはり必要だ」と感じた
からこそ、雑誌の創刊企画に参加しました。

「英語を勉強したから、日本語がへたに
なる」というのは、まっかなウソです。
(ただ0〜2歳期にバイリンガルにしよう
とすると、言語中枢が混乱するということは
指摘されています。)

つまりそういう憶測+復古主義だけで、
持説を繰り広げてしまう。
本が売れたことは、イコール、それだけ
支持者がいたということにもなりますが、
あの本に関して言えば、どこかで国策と
結びついたように思います。

当時、全国各地で、やらせによる、
公開討論会がさかんに行われていました。
1回の討論会で、2000万円近い、公費が
使われていたそうです。

単行本にすれば、2万冊分です。2000万円
もあれば、売れ行きに火をつけることができます。

N先生には、たいへん辛辣な意見を口に
してしまいましたが、そういう意味で、
私は、無念感というか、挫折感を覚えたのも
事実です。

もちろん個人的に、どうこう思っている
わけではありません。(個人的には、知りません
ので……。)

一言、私の気持ちをお伝えしたくて、
筆をとりました。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1938)

●今日・あれこれ

+++++++++++++++

K国は、K国で開発したミサイルを、
イランで実験していたという。

そのイランは、ウランの濃縮を加速
させているという。

K国とイラン。水面下で、深く、結
びついている。

+++++++++++++++

●貧者の論理

 貧者には、貧者の論理というものがある。(私はよく知っているぞ!)

 たとえばあなたが日々に生活に困り、今日の食べ物すらままならない生活をしていたとする。
子どもは腹をすかせて、泣いている。午後には、借金取りがやってくる。

 そういうとき、あなたの隣人は高級車を乗り回し、豪勢な買い物をしている。見ると車の後部
座席には、夕食の食材が、どっさり!

 そういう隣人を見て、あなたはうらやましいと思うだろうか。その隣人を、すばらしい人と思う
だろうか。が、実際には、そうではない。

 ここで貧者の論理が働く。貧者は、こう考える。「お前たちが富を独り占めにするから、オレた
ちは貧しいのだ」と。

 が、そういう声は隣人には届かない。その隣人は、あなたに向かってこう言う。「あなたも一生
懸命、働きなさい。働けば、いい生活ができます」と。

 しかしあなたはそれに反発する。反発するだけではない。怒りすら覚える。隣人のアドバイス
は、こう言っているように聞こえる。「あなたが貧しいのは、あなたがなまけているからだ」と。

 そうではない! この日本では、ほんのわずかでも、チャンスをつかんだ人だけが成功する。
そうでない人は、そうでない。それは個人の力というよりも、(流れ)の中で決まる。あせればあ
せるほど、深みにはまり、ますます身動きが取れなくなってしまう。そういう人は多い。

●富者の論理

 K国を理解するときは、この貧者の論理を念頭に置かねばならない。食糧はない。原油もな
い。いろいろ経済政策を試みてはみるが、どれも、うまくいかない。失敗の連続。

 つまり相手の立場で、ものを見る。K国から見たら、この日本はどう見えるかということ。この
ことは、日本に住んでいる、在日K国人と言われている人たちを見ればわかる。

 彼らは日本に住み、日本のことをたいへんよく知っている。同時に、K国のことも、たいへん
よく知っている。本来なら……というより、常識的に考えれば、K国の政治体制がおかしいと、
だれしも思うはず。しかし彼らは、そうは思っていない。日本の繁栄ぶりを見ながらも、こう思っ
ている。「この日本が繁栄しているのは、私たちが犠牲になったからだ」「今も犠牲になってい
るからだ」と。

 貧者の論理がまちがっているというのではない。しかし富者の論理だけでものを考えると、失
敗する。そのよい例が、経済学である。

 ほとんどの近代経済学は、その富者の論理だけで成り立っている。国際政治にしても、そう
だ。大きく見れば、アメリカのイラク政策、イラン政策、さらにはK国政策も、アメリカという富者
の論理ばかりが先行している。だからいつも限界にぶつかる。あるところまでは正当性をもつ
が、それを乗り越えることができない。いつもそこで第三世界の反撃をくらう。

●加工される貧者の論理

 だからといって、K国の核開発やミサイル開発を容認せよというわけではない。こうした貧者
の論理を当てはめても、とうてい理解できないほど、K国の論理は、常軌を逸している。むしろ
貧者の論理を、逆手(さかて)に取って、自分たちを正当化している。

 そこで今度は、イランでのミサイル発射実験である。K国は、自国で開発した長距離ミサイル
を、イランで実験していたという(5月16日)。

 日本にとっては、とんでもないニュースである。が、ここでもやはり貧者の論理が働く。この日
本でも、かつてこう言ったニュースキャスターがいた。当時は夜のニュース番組を代表するキャ
スターだった。

 K国の核開発問題に触れながら、こう言った。「何、言っているんですか。アメリカだって、核
兵器をもっているではありませんか!」と。どこか吐き捨てるような言い方だった。つまり、「核
兵器を思う存分もっているアメリカが、K国の核兵器開発を問題にするのはおかしい」と。

 しかし忘れてならないのは、K国の核兵器開発は、「日本向け」のもの。かねてから、K国の
政府高官たちは、そう繰り返し述べている。「韓国向け」ではない。もちろん「中国向け」でもな
い。「アメリカ向け」という説もあるが、アメリカに対しては、「脅し」にすぎない。

 私はこの発言にあきれて、即座にテレビ局に抗議の電話を入れた。あのA新聞社の系列の
A放送である。「拉致問題は、日本政府のデッチあげ」と主張してやまなかった、あのA新聞社
である。

 貧者の論理は貧者の論理でも、富者によって加工された貧者の論理である。

●経済制裁

 そういうK国に対して、経済制裁は、当然のことである。もっとわかりやすく言えば、私たち
は、目下、戦争状態にある。かつて「戦争は政治の延長である」と言った政治家がいたが、戦
争といっても、ある日、突然、始まるものではない。それまでの(くすぶり)があって、ある日、ボ
ッと火が燃えあがる。

 わかりやすく言えば、すでに戦争は始まっているということ。私たちがなすべきことは、K国と
いうよりも、K国の体制を崩壊させること。独裁政権であるがゆえに、ほかに方法はない。

 が、この経済制裁を、つぎつぎと骨抜きにしているのが、ほかならぬK国の隣国の韓国であ
る。それについてはすでにたびたび書いてきたので、ここでは省略するが、今度は、米中韓K
の、4か国首脳会議を画策している。南北首脳会談も画策している。もっとも4か国首脳会議
については、アメリカが異議を唱えたため、韓国政府は、「6か国協議の枠内での4か国首脳
会議」(5月16日)と、言いなおしている。

 どうであるにせよ、現在の韓国は、イコール、K国と考えてよい。つまりこの日本は、韓国と
も、すでに戦争状態にあるとみるべきである。

●東京に核兵器が!

 いろいろな意見がある。「原爆の1発や2発、(東京に落ちても)、どうということはない」という
意見もある。どこかの科学者が、ある雑誌で、堂々とそういう意見を披露していた。

 あるいは「K国には、核開発をする能力はない」と主張している学者も多い。

 しかしそのK国が、どうやら水面下で、イランと結びついているのがわかってきた。K国はミサ
イル技術を提供し、イランは、核開発技術を提供する。……となると、今までの図式が総崩れ
となる。「K国、一国だけなら……」と考えていた人も多いかと思うが、それがグローバルな問題
へと、ここで一気に拡大する。

 中東問題もからんでくる。米中、米ロ問題もからんでくる。もしそうなれば、(現実にそうなりつ
つあるが……)、それこそまさにK国の思うツボ。国際社会の混乱を引き寄せながら、つぎに一
気に、日本をおどしにかかってくるはず。

 そのとき、アメリカとの間に、相互不可侵条約のようなものであれば、仮にK国が日本を攻撃
しても、アメリカはK国に対して、手も足も出せない。日本は日本で、憲法9条に制約されて、防
衛に徹するしかない。

 たとえば仮に今、東京でK国の核兵器が爆発しても、日本は、それに対してK国に反撃する
こともできない。もちろん今は、日本は、アメリカの核の傘のもとにあるから、一応、アメリカが
K国に反撃してくれることになっている。

 しかしそのアメリカにしても、自国を犠牲にしてまでも、日本を守ってくれるだろうか。そんな疑
問もないわけではない。

●ではどうするか?

 日本にとっての最良のシナリオは、K国が自己崩壊すること。これはK国の人たちのためで
もある。あのFさん(韓国へ亡命したK国の元政府高官)や、韓国に脱北した人たちも、みな、
そう言っている。

 が、これに猛烈に反対しているのが、韓国政府であり、中国政府ということになる。とくに韓国
のN大統領の論理は、貧者の論理の上に成り立っている。

 「朝鮮半島が南北に分断されたのは、アメリカのせい」「しかも、こうした悲劇の基礎を作った
のは日本」と。

 それが反米、反日運動の原点にもなっている。加えて、(1)「日本ごときに韓国が蹂躙(じゅう
りん)された」という憎しみ、(2)独立を自分たちの力でなしえなかったという不完全燃焼感(以
上、M氏談)もある。

 以上を考えていくと、私たち日本人がなすべきことは、ただひとつ。現在の日韓経済戦争に
勝利することである。わかりやすく言えば、韓国経済をたたきつぶす。

 ……こう書くと、かなり過激な意見に聞こえるかもしれないが、日本はそうでなくても、向こう
(=韓国)は、その気で、日本の常に挑戦をいどんできている。それがわからなければ、韓国
の中央N報、朝鮮N報、東亜N報の各紙を、ほんの少しでもよいから目を通してみることだ。

 「日本に勝った」「日本に負けた」の記事が、連日のように、トップ記事として並んでいる。

 ……何はともあれ、東京とのど真ん中で、たった1発でも、核兵器が爆発してからでは、遅い
のである。それだけは忘れてはならない。
(07年5月17日記)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1939)

【今朝・あれこれ】(5月18日)

●地球温暖化

++++++++++++++

自然の力は、人知のおよぶところ
ではない。

たとえば今、問題になっている地球
温暖化にしても、不測の事態が、別の
不測の事態を引き起こしている。

たとえば20年前、地球温暖化の影響
で、シベリアのツンドラ地帯の凍土が
解けだすなどということを、
いったい、だれが予想しただろうか。

が、それだけではない。今朝の毎日
新聞には、こんな気になる記事が
載っていた。

何でも、南太平洋の海が、地球温暖化
の影響で、CO2の吸収能力を失って
しまったという。

++++++++++++++++++

 不測の事態が、また別の不測の事態を引き起こす。そしてまたその不測の事態が、これまた
別の不測の事態を引き起こす……。こうして加速度的に地球の温暖化は進み、やがて、この
地球には、人間はおろか、あらゆる生物が住めなくなる……。

 そんなことを考えさせる記事が、今朝(5月18日)の毎日新聞に載っていた。それをそのまま
紹介する。

『二酸化炭素(CO2)の吸収源と考えられてきた南大洋(南緯45度以南)が、最近はほとんど
吸収していないとみられることが、日本など8カ国の国際研究チームの分析で分かった。

人間活動により強まった風が、地球規模で大気や海洋の循環を変化させ大気から海洋へのC
O2吸収を妨げているという。大気中のCO2濃度は予想より高まる恐れがあり、地球温暖化
対策として、CO2排出削減策の強化が求められそうだ。18日付の米科学誌サイエンス(電子
版)で発表する。

米国などが1960年前後から実施した観測から、南大洋は海洋全体の約30%に当たる年間
約6億トンのCO2を吸収しているとされた。ところがコンピュータにより吸収量がその半分程度
と試算され、正確な評価が求められていた。

 国際研究チームは、81〜04年に南極・昭和基地など南大洋に囲まれた、11地点を含む世
界40地点で精密に測定された、大気中のCO2濃度を解析。その結果、南大洋のCO2吸収
力は、平均して年間約800万トンずつ弱まり、現在ではほとんど吸収していないという。

 この現象は、(1)温暖化やオゾン層破壊による気温変化で南大洋での風が強まった。(2)そ
れによって海の循環が変化し、CO2濃度が高く、吸収する余力が乏しい深海の海水が上昇、
海表面付近に広がった……と想定すると、説明できるという。

 研究チームの中澤高清・東北大教授(気象学)は「南大洋が吸収から放出に転じる可能性が
ある。海がCO2を吸収する前提で進められている温暖化対策を見直す必要が出てくるのでは
ないか」と話している』と。

 簡単に言えば、人間が排出するCO2を、海が吸収していた。が、その海が、吸収能力を失
いつつあるということになる。つまりその分だけ、CO2の濃度が高まることになる、と。が、これ
で驚いてはいけない。へたをすれば、今度は、「南大洋が吸収から放出に転じる可能性があ
る」とも。

 その結果、この地球は、どうなるか?

 多くの学者は、地球の気温は、一次曲線的、もしくはゆるい二次曲線的に上昇すると考えて
いる。しかしそんな程度ではすまないと主張する学者も多い。ここに書いたように、不測の事態
が、別の不測の事態を引き起こすということも、考えの中に入れておかねばならない。

 つまり、この地球は、今、狂い始めている。そのうちやがて、コントロール不能の状態に陥る
かもしれない。もしそうなれば、あわてて排ガス規制などしても、手おくれ。……ということにな
る。

 私たちはそれでよいとしても、未来を生きる子どもたちがかわいそう。かわいそうというより、
申し訳ない気持ちにすら、なる。悔やんでも悔やみきれないということは、こういうことをいうの
か。私たち人間は、あまりにも好き勝手なことをし過ぎた。いろいろな意見があるが、台風一
個、コントロールできない人間が、地球規模の気象をコントロールできるようになると考えるほ
うが、おかしい。

 それにしても、もし海が、CO2を放出するようになったら、それこそ、もう地球は、おしまい。
気温は、二次曲線的に上昇し、ここ100年足らずのうちに、それこそ400度C近くにまで上昇
するかもしれない。そういうことを主張する学者も、現にいる。

 今朝は、この記事を読んで、まず一番に、ぞっと、した。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●空気中の窒素の固定化について

+++++++++++++++++

先日、田丸謙二先生にお会いしたとき、
先生が、「豆」を例にとり、空気中の
窒素の固定化について、話をしてくれた。

その中で、先生は、ある物質名を口に
され、それが空気中の窒素を固定し、
たんぱく質をつくり、最終的には、
「豆」になるというような話をして
くれた。

が、その物質、つまりニトロゲナーゼ
という酵素は、分子の数が、20万〜
25万個もあるという。

つまり、人間の力では、とても合成
できない、と。

食事をしながらの話なので、ここに
書いたことは正確ではない。しかし
私は、その話を聞きながら、こう考えた。

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 私は高校生の時、化学クラブに属していた。毎日、放課後、薄暗い実験室で、化学者のまね
ごとのようなことをしていた。

 そのときのこと。簡単な例で言えば、水素と酸素を反応(燃焼)させれば、「水」ができる。学
校の先生は、「水素と酸素がくっついて……」というような説明の仕方をする。しかし私は、先生
に、こう聞いた。

 「水素が酸素にくっつくのですか。それとも、酸素に水素がくっつくのですか。2個の水素原子
がくっつくにしても、順番はあるのですか」「どうしてそのとき、酸素だけが、うまく水素にくっつく
のですか。まちがってほかの原子がくっつくことはないのですか」と。

 先生の説明では、「同時に、まちがえることなく、瞬時にくっつく」ということだったように思う。
しかし、これはおかしい。

 おかしいということを、今度、田丸先生の話を聞いているときにも、感じた。3個や4個ではな
い。20万〜25万個もある物質である。わかりやすく説明しよう。

今、ある広場に、20万〜25万人の人を集めたとする。その人たちは、何の秩序もなく、ゴチャ
ゴチャに入り混じっている。ただここで20万〜25万人といっても、ニトロゲナーゼという酵素を
作るために選ばれた人たちである。実際には、ニトロゲナーゼという酵素を作るのに、不必要
な人たちも、混ざっている。数もバラバラ。だから実際には、100万人とか200万人とか、ある
いはもっと多いかもしれない。

 そういう人たちが、ピーッという笛の合図だけで、つまり瞬時に、ニトロゲナーゼを作る人たち
だけがうまく、中央に集まり、一部の狂いもなく、整然と並ぶことができるものだろうか。しかし、
そんなことは、常識で考えても、ありえない。

 では、どう考えたらよいか。

 ここから先は、あくまでも、私の仮説である。

 高校の時の化学クラブの先生も、そして田丸先生も、「作られる」と考える。しかし実際には、
「作られる」のではなく、「並ぶ」のではないか。つまり一度に集合するのではなく、一つの核とな
った分子が、まず、一番結びつきやすい分子とくっつく。すると、つぎに、その2個の分子が、そ
の時点で、再び、一番結びつきやすい分子とくっつく。今度は3個の分子が、さらに一番結びつ
きやすい分子と、くっつく。

 あとはこれを順に繰り返していく。そして結果として、分子の数が、20万とか25万とか言わ
れる、ニトロゲナーゼという酵素を構成する。

 くっつきやすさを決めるのは、ひょっとしたら、磁場のようなものかもしれない。あるいは何
か、ほかにもあるのかもしれない。それはともかくも、先ほどの例で考えてみよう。

 広場に集まった人たちの中に、数人の人が、入ってきたとする。その人たちは、腕や体を、
少し奇異な格好で折り曲げている。するとそれを見た、周りの人たちの中で、その数人の人に
フィーリングが合う人が、体を合わせる。するとまた別の独特の雰囲気ができて、また別の人
が、それに体を合わせる。

 ……これを繰りかえしていくうちに、結果として、20万〜25万人が、うまく組み合わさり、ニト
ロゲナーゼという酵素ができる。

 似たような現象は、自然界では、よく観察される。たとえば植物にしても、一見複雑に見える
あの形も、実はシンプルな形の繰り返しにすぎないということが、わかっている。さらにこんな例
もある。

 ある種の昆虫は、障害にぶつかると、からなず、右に回り、つぎに障害にぶつかると、左に回
るということが知られている。この性質をうまく使うと、きわめて複雑な迷路からでも、その虫
は、外へ出ることができる。

 その昆虫のその性質を知らない人は、あたかもその昆虫が、(知恵)を使って、迷路から出
たように思い、驚く。しかしタネ明かしをすれば、何でもない。

 つまり分子の(核)となる物質はあるかもしれないが、あとは放っておけば、原子どうしが勝手
に並んでいく。原子が20万〜25万個もある分子となると、そういう方法でないと、どうして結合
していくか、その説明がつかない(?)。

 そこでもう一つの仮説としては、この並んで行く過程の中で、それを決める何かの別の作用
が働くのではないかということ。それは先にも書いたように、私は磁場のようなものではないか
と思うが、もっとほかにあるのかもしれない。

 で、冒頭の話にもどる。

 たとえば水の分子(H2O)にしても、構造式だけをみると、1個の酸素原子(0)に、2個の水
素原子(H)がくっついたように見える。しかし実際には、2個の水素原子(H)に、1個の酸素原
子(0)がくっついたと考えるほうが正しいのでは(?)。となると、順番は、どちらが正しいのかと
いうことになる。

 私の疑問は、そこから始まった。……というだけの話で、何か、根拠があるわけではない。ま
た私というド素人のたわごとにすぎない。田丸先生なら、きっとそう思うだろう。しかしメチャメチ
ャな仮説かというと、そうでもない。

 実は、私には、こんな経験がある。

 1972年のはじめ、日本で初めて、中国での針麻酔術が紹介された。体の手足など、別の部
位に針を刺し、それに低周波の電流を流すと、体の別の部位で、痛覚が鈍磨するという。それ
を応用したのが、針麻酔である。

 それに対して、私は、つぎのような仮説を立てた。

 脳みその中の痛覚を感じ取る部分は、ちょうど玉ねぎの皮のようになっていて、その一部が
刺激されると、そこでモルヒネ様の物質が放出される。そのモルヒネ様の物質が、玉ねぎの皮
のようになってその上下にある、別の痛覚にも、影響を与える、と。

 当時は、これはとんでもない仮設として、無視されてしまった。針麻酔でいうところの「経絡(け
いらく)」は、神経組織とはまったく別のものと考えられていた。経絡が神経組織と関係があると
認識されるようになったのは、それから10年近くもあとになってからのことである。

 当時の私は、いろいろなドクター名で、こうした仮説を発表していた。つまりゴーストライターを
していた。

 つまり、意外と私の仮説は、当たっている! ……当たっていた!

 で、今回の仮説に名前をつけるとすると、「結合説」に対して、「連続説」ということになる。つ
まり分子というのは、ある一定の規則性をもって、(並ぶ)という習性がある。そう考えると、20
万〜25万もある、ニトロゲナーゼという酵素が、なぜできあがるのか、その説明がつく。

 そこで大切なことは、その(核)だけをつくり、それをここでいうような(広場)に投げ出してやれ
ば、あとは自然に分子どうしが勝手に並んで、酵素を完成させてくれるということにもなる。全
部を(作る)必要はない。あくまでも(核)だけを作ればよい。

 化学から遠ざかって、すでに40年以上になる。だから語句の使い方に、いろいろまちがいが
あるかもしれない。が、今、もし私が化学者なら、このあたりから調べてみたい。「なぜ結合す
るか」ではなく、「なぜ分子が分子を選び、並んで行くか」という観点からである。

 もしこの説を正しいと証明したら、私も「賞」がもらえるかもしれない。ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1940)

●記憶

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パソコンを相手に仕事をしていると、
ときどき、自分がボケてしまったの
ではないかと思うときがある。

今朝もそうだ。

パソコンのあちこちをいじっているとき、
「ファイアウォールの解除」という
ページに出会った。

ファイアウォールというのは、外部からの
不正アクセスを防ぐ、「検問所」のような
もの。その検問所も、あらかじめ許可を
与えた相手に対しては、フリーパスで
通過することができる。

四角の中に、(レ)点を入れたものについて
は、フリーパスの状態になる。

いくつかの(レ)点を消したり、入れたり
してみた。遊びのつもりだった。

が、このあと、しばらくして、異変が起きた。
たいした異変ではなかったが、私はもう一度、
「ファイアウォールの解除」というページに
もどって、デフォルト値(元の状態)に
もどすことにした。

が、さあ、たいへん! そのもどり方が
わからない!

「ファイラウォールの解除」というところへ、
どうやってもどればよいのか?

それがわからなくなってしまった。言うなれば、
迷子になってしまった。

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 ……というようなことは、パソコンの世界ではよくある。どこかをいじっているうちに、あるペー
ジにたどりつく。で、そのページで何らかの作業をする。が、そのあと、もう一度、そのページに
もどりたいと思っても、なかなか、そのページにもどることができない。

 こういうとき、自分の頭が、どうかなってしまったのではないかと思う。が、よくよく考えてみれ
ば、これは当たり前のこと。

 記憶というのは、(記銘)→(保持)→(想起)というプロセスを経て、記憶として脳みその中
に、蓄積される。

 しかしパソコンを相手にしているばあい、そのうちの(記銘)というプロセスが、ほとんどないま
ま、(作業)に入ってしまうことが多い。たとえば今朝、私は「ファイアウォールの解除」というペ
ージを開いた。が、それは偶然によるもの。あちこちのページを開いているうちに、ふと、その
ページにたどりついた。

 つまり最初から、そのページにたどりつくことがわかっていて、そのページを開いたのではな
い。だから「どうやってそのページを開いたか」について、記憶として、どこにも残っていない。

 だからしばらくしたあと、再び、そのページにもどろうとしても、もどれるわけがない。ゆいいつ
の方法は、同じような作業を繰りかえして、再び、偶然、そのページにたどりつくというのがあ
る。しかしそれには、恐ろしく時間がかかる。忍耐も必要。「たしか、こうだった」「いや、ちがう。
こうだった」と。それを何度も何度も繰りかえす。

 しかしボケを疑似体験するには、よい方法である。よくボケの初期症状は、もの忘れが多くな
ることだという。しかし実際には、(記銘力)そのものが弱くなるとみてよい。最初から、記憶しよ
うとしない。脳みその中に、情報を刻もうとしない。だから記憶として、残らない。結果として、
(もの忘れがひどい)という状態になる。

 モニターの上では、一枚の紙のように見える画面だが、その向こうには、数万ページにもおよ
ぶ画面がある。それがパソコンの世界ということになる。今朝も、そのパソコンとの格闘で、一
日が始まった。

 みなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

【相談】

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いくつかの相談が、届いています。
それについて考えてみます。

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●Tさん(兵庫県在住)より、6歳の子どもについての相談

現在1年生の息子について、相談します。

年中児のときは、自分の席に座れなかったり、みんなと同じ事することを、嫌がったりしまし
た。原因が分からないまま年長になりました。それから少しずつ良くなって、卒園のときは、普
通の子どもになったように思います。

でも、たまに本人が嫌な事があるとき、教室を出ていってしまうことがあるようです。今は小学
校に入学して、1か月以上を経ちましたが、幼稚園のときよりも、もっとひどくなったような状態
です。

昨日も、英語の授業中、英語が喋られないということで、学校に置いてある荷物をすべて持っ
て、家に帰ってきました。落ち着いてから、また学校に連れていきましたが、校門の中に入るの
が大変でした。

悩んでいるとき、ネットで先生のホームページを見、是非先生のご意見を聞かせていただきた
く、メールを出しました。どうぞ宜しくお願いします。

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【はやし浩司よりTさんへ】

 メールだけでは、お子さんの様子がよくわかりません。こうして問題になさっておられるという
ことから、症状が、かなり顕著に現れているという前提で話します。

 「自分の席に座れなかった」……こだわりの強い子どものように思いますが、しかしこの時期
の子どもにしてみれば、珍しいことではありません。年中児でも、席につけない子どもは、10人
のうち、1人〜2人はいます。

 そういうときは無理をせず、母親(おうちの方)といっしょに、席に座るなどの方法で、対処す
るのが、ふつうです。

 反対に、回避性障害のある子どもや対人恐怖症の子どもも、同じような症状を示すときもあ
ります。こだわりが強く、かん黙症や自閉傾向を示す子どももいます。こだわりが弱い状態を、
(がんこ)といいます。

 がんこにしても、子どもにとっては、あまり好ましい症状とは言えません。なお(根性)と(がん
こ)は、理由のあるなしで区別します。かたくなになることについて、正当な理由があるばあい
を、(根性)といいます。理由がなく、一方的にかたくなになるのを、(がんこ)といいます。

 思考の柔軟性がないとみます。原因はいろいろ考えられますが、年長期を過ぎているという
こと、つまりすでに少年期に入っていますので、いまさら、それを問題にしても、しかたありませ
ん。「うちの子は、そういう子」と認めた上で、その子どもに合わせて、指導します。「治そう」と
か、「直そう」とは、考えないこと。無理をすれば、かえって症状がこじれてしまいます。

 「教室を出ていってしまうことがあるようです」……対人関係をうまく調整できない子どもとみま
す。しかしこういうケースでは、子どもを問題にする前に、家族のあり方をまず問題にします。

 「子どもは、家族の代表」とみます。つまり代表者として、いろいろな症状を示していると考え
ます。ほとんどの親は、子どもに何か問題を発見すると、子どもをなおそうと考えますが、そう
いう発想では、子どものもつ問題は、解決できないということです。

 いただいたメールだけでは、よく内容がわかりません。そのためにも、もう一度、家族のあり
方を、よく見つめなおしてみてください。たとえば私なら、家に帰ってきてしまった子どもを、再
び、学校へ連れ戻すなどということはしません。そうすることの上で、かなりの(無理)があった
と思います。つまりかなりはげしく子どもは、それに抵抗したはずです。Tさんが、「中に入るの
がたいへんだった」というのは、そういう意味でしょうか?

 それから受ける衝撃は、かなりのものだったと思われます。むしろ私は、そちらのほうを、心
配します。Tさんは、お子さんを、1人の人間として、認めておられるでしょうか? もしそうなら、
それでよいと思いますが、そうでなければ、子どものとらえ方そのものを反省してみてください。

 「ときには、いやなこともあるわよね」と、むしろ子どもの側で考えてあげる。そういう姿勢がな
いように感じますが、いかがですか? あるいはTさんは、「学校とは、絶対に行かなければな
らないところ」という神話を信じておられるのかもしれませんね。

 ともかくも、いただきましたメールだけでは、お子さんの様子がよくわかりません。こうした問
題は、ひとりで悩まないで、まず最初に、学校の先生に相談なさってみてはどうでしょうか。先
生なら、直接、お子さんを見ておられますので、適切なアドバイスを得ることができるはずで
す。

 また(心の問題)を感じておられるようなら、一度、心療内科のドクターに相談なさってみると
いう方法もあります。校長に相談すれば、専門医を紹介してもらえます。あるいは各地区の児
童相談所、保健所、もしくは保健センターに育児相談の窓口がありますから、そこで相談なさ
るのもよいでしょう。

 しかしまあ、いろいろトラブルはあるが、何とか学校へ通っている……というような状態であれ
ば、あまり深刻に考えず、このまま進まれるのもよいかと思います。小学3年生くらいになると、
自己意識が育ち、自己管理能力も育ってきます。そうなれば、今のような症状は、消えていき
ます。

 いただいた相談の内容につきましては、(よくある問題)で、それほど深刻に考えなくてもよい
のではと思います。私も、小学3年生のとき、学校を抜け出し、友だちと、木登りをして遊んだこ
とがあります。とても楽しかったです。

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今までに書いた原稿を
いくつか添付します。

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●子どもをよい子にしたいとき 

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子どもは、使えば使うほど、
よくなる。

忍耐力も、そこから生まれる。

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●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。

そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教
えてくれた。

「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャ
ワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。

つまり、「日本の子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてき
た高校生が、こう言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校
生ですら、家事だけはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のよう
なものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を
楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動す
ることができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4・5歳)前後で表れてくる。しかし一度この
時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ドラ
娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因があるか
らである。

また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱って子どもを
なおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、それをはねの
けてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん
が捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシー
で、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。

話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子ども
にしないためにも、子どもにはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負
で、それ以後になると、このしつけはできなくなる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き
なことをしているだけ。

幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。たとえば台所の生ゴミを
始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂場の排水口にたまった毛
玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。こんな子ども(年中女児)が
いた。

その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、
その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが
口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、
学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして
も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える
力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき
ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋さ
んが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされ
ると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし
知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほ
うがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わった
ら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さら
に食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の
草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと
をいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それ
が、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。

(1)生活感のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦
労がともなうことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみ
んなが困るのだ」という意識をもたせる。
(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。
(3)忍耐力をつけさせるため、家事の分担をさせる。
(4)生活のルールを守らせる。
(5)不自由であることが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、
(6)バランスのとれた生活に心がける。

 ここでいう「バランスのとれた生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をい
う。ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。
あるいは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグにな
っている生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなる
ほど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。


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●根性のある子ども

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今、根性のある子どもが
少なくなってきていますね。

どこかナヨナヨしているというか、
ハキがない……?

ときどき、「これでいいのかなあ?」と
思うことがあります。

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 自分の意思を貫こうとする強い自我を、根性という。「私は私」という強い意識を「自我」とい
う。この根性さえあれば、この世の中、何とかなる。反対にこの根性がないと、せっかくよい才
能や頭脳をもっていても、ナヨナヨとした人生観の中で、社会に埋もれてしまう。

 ある男の子(年長児)は、レストランで、「もう1枚、ピザを食べる」と言い出した。そこで母親
が、「お兄ちゃんと半分ずつにしなさい」と言うと、「どうしても1枚食べる」と。母親はあきらめ
て、もう1枚注文したが、その子どもは、ヒーヒー言いながら食べたという。あとで母親が、「おと
なでも2枚はたいへんなのに」と笑っていた。

 またある幼稚園で先生が一人の男の子(年中児)に、「あんたなんか、もう、おうちに帰りなさ
い!」と言ったときのこと。先生は軽いおどしのつもりでそう言っただけなのだが、その子ども
は先生の目を盗んで教室を抜け出し、家まで歩いて帰ってしまった。

先生も、まさか本当に帰るとは思っていなかった。母親もまた、「おとなの足で歩いても、一時
間はかかるのに」と笑っていた。こういう子どもを、根性のある子どもという。

 その自我。育てる、育てないという視点ではなく、引き出す、つぶすという視点で考える。つま
りもともとどんな子どもにも、自我は平等に備わっているとみる。それは庭にたむろするスズメ
のようなものだ。あのスズメたちは、犬の目を盗んでは、ドッグフードをかすめ取っていく。そう
いうたくましさが人間にもあったからこそ、私たちは、何十万年もの長い年月を、生きのびるこ
とができた。

 が、多くの親たちは、その自我をつぶしてしまう。過干渉や過関心、威圧的な子育てや親の
完ぺき主義、さらには親の情緒不安が、子どもの自我をつぶす。親が設計図をつくり、その設
計図にあてはめるのも、まずい。子どもは小さくなり、その小さくなった分だけ、自我をそがれ
る。

 反対に自我を引き出すためには、まず子どもは、あるがままを認める。そしてあるがままを
受け入れる。できがよくても、悪くても、「これがうちの子だ」と納得する。もっとはっきり言えば、
あ・き・ら・め・る。一見いいかげんな子育てに見えるかもしれないが、子どもは、そのいいかげ
んな部分で、羽を伸ばす。自分の自我を引き出す。

 ただしここでいう自我と、がんこは区別する。自分のカラに閉じこもり、かたくなな様子になる
のは、がんこという。たとえばある男の子(年長児)は、幼稚園では同じ席でないと、絶対に座
らなかった。また別の男の子(年長児)は、2年間、ただの1度もお迎えにくる先生に、あいさつ
をしなかった。そういうのは、がんこという。

 また自我は、わがままとも区別する。「この前、お兄ちゃんは、○○を買ってもらったのに、ど
うしてぼくには買ってくれないのか」と、主張するのは自我。しかし理由もなく、「あれ買って!」
「これ買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

ふつう幼児のばあい、わがままは無視するという方法で対処する。「わがままを言っても、誰も
相手にしませんよ」という姿勢を貫く。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 根性
 がんこ がんこと根性 根性とがんこ 子どもの自我 子供の自我)


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1941)

●今夜・あれこれ

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昨夜は、母を、ショートステイ
(一泊介護)に預けて、ワイフと
2人で、山荘に泊まってきた。

山荘に泊まるのは、今年、はじめて。

で、今日の天気に、点数をつけると
したら、100点。満点。

快晴、さわやか、申し分なし。
木々の新緑が、本当に美しかった。

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●山荘

 やむをえぬ事情ができたときには、母を、ショートステイ(一泊介護)に預けることにしている。
約4500円前後の自己負担で、それができる。

 が、今日は、母をそのショートステイに預けて、私とワイフは、山荘に一泊してきた。山荘に泊
まるのは、母を介護するようになって、はじめて。このところ、何かとストレスがたまることがつ
づいた。

 山荘に着いて、まず、山荘全体をおおっている、甘い香りにうっとり。ジャスミンの香りに、バ
ニラを少し混ぜたような匂い。野生のジャスミンが、山荘をすっぽりと包むように咲いていた。
その香りを楽しむことができるのは、5月の第3週目前後の、ほんの3〜4日だけ。

 天気は快晴。さわやかな五月(さつき)晴れ。森の木々が、いっせいに新緑を輝かせていた。
1年を通して、ベストシーズンは、この5月の3週目〜4週目。この2週間をのがしたら、何のた
めの山荘か、……ということになる。

 おかげで、今日は、気分そう快。心も軽い。明日は、たまたま休みなので、義理の兄夫婦を、
山荘に招待する。みんなで食事を楽しむつもり。


●桜の木

 その山荘には、1本の桜の木がある。山荘を建てたとき、もう1人の義理の姉が、記念にと、
植えてくれた。

 その桜の木が、結構な大木になった。今年で13年目になる。が、一本の枝が、道路にかぶ
さるように垂れてきた。トラックのような車だと、天井をこすってしまいそう。

 そこでその枝を切ることにした。が、昔から、「桜、切る馬鹿」という。「桜、伐(き)る馬鹿」と書
くときもある。桜の木を切ると、その切り口から細菌が侵入して、桜の木を枯らしてしまう。だか
ら、「桜、切る馬鹿」という。

 義理の姉が、せっかくくれた桜の木だから、枯らすわけにはいかない。そこで、インターネット
を使っていろいろ調べてみた。が、「細菌の侵入を防ぐため、薬剤を塗ればいい」というようなと
ころまでは書いてあるが、肝心の薬剤の名前がわからない。

 どうしたらいいのか? 農作物用の殺菌剤があるので、明日、それを山荘にもっていくつも
り。切り口に、それを塗り、その切り口をサランラップか何かでおおってみる。私は、タールのよ
うなものを切り口に塗ればよいのではないかと思っているが、よくわからない。

 明日の朝いちばんに、浜松市のフラワーパークの事務所に電話を入れて、問い合わせてみ
る。


●カラスの子ども

 数日前、庭の中に、カラスの子どもが落ちてきた。ハナ(=犬)が、けたたましく吠えた。それ
で、それに気がついた。

 さっそく、保護。抱きあげて、手の中でやさしく体をさすってやっていると、そのままおとなしく
なった。

 カラスという鳥は、たいへん頭のよい鳥である。それはそのとおりで、そんなばあいでも、即
座に、自分の置かれた状況を判断できるらしい。30分もそうしていると、私という人間に、なれ
てしまった。名前は、「カラ公」。そういう名前にした。

 若いころから、一度はカラスを飼ってみたいと思っていた。じょうずに飼うと、人間の言葉まで
話すようになるという。しかし……。

 どこかでワイフの冷たい視線を感じて、断念。今は、母もいる。その介護だけで、たいへん。
……ということで、カラ公を再び、空に放すことにした。

 言い忘れたが、その間に、水をやったり、ソーセージやリンゴを与えたりした。

 庭に出て、手につかまらせると、しばらくは、そのままにしていた。「いつまでもこうしていた
い」という気持ちと、「どこかへ飛んで行け」という気持ちが、交互に私の心の中に浮かんでは
消えた。私は鳥が大好き。高校生のときから、ずっと、手乗り文鳥を飼っていた。

 が、何かの動きにおびえたのか、突然、カラ公は、大きく羽をバタつかせると、そのままキー
ウィの棚を飛び越えて、空へ。しばらく大屋根に止まっていたが、さらに大きく羽ばたいて、どこ
かへ飛んでいってしまった。

 「ぼくが30歳くらいだったら、あのまま飼っていたかもしれない」とワイフに言うと、「やはり、
今は無理ね」とワイフ。

 時間にすれば、2時間足らずのできごとだったが、カラ公のあのぬくもりを、今でも、忘れな
い。

それにしても、カラスというのは、本当に頭のよい鳥である。改めて、それを再確認した。たとえ
ば透明のガラス戸の前までくると、カラ公は、歩く足を止めて、じっとガラス戸をにらんでいた。
ほかの種類の鳥なら、ガラス戸に体をぶつけて、バタバタと暴れただろう。


●畑

 畑といっても、家庭菜園だが、今年は、去年の2倍ほどの広さにした。庭の南端に、それがあ
る。

 ピーマン、シシトウ、トマト、ネギ、サヤエンドウ、キュウリ、ウリ、枝豆、二十日大根、パセリな
どなど。店で売っているような野菜の苗は、一応、全種類を植えた。

 朝、起きると、それを見るのが、このところの日課になっている。それがどういうわけだか、楽
しい。本当に楽しい。少しずつだが、収穫も始まっている。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●いらぬお節介?

++++++++++++++++

この記事が目に留まったのは、
事件が事件であったからではない。

3回ほど注意深く読んでみたが、
意味がよくわからなかったからで
ある。

++++++++++++++++

 この記事を、まず読んでみてほしい。そのまま引用する。

+++++++++

 『東京のJR池袋駅で96年に起きたR教大生殺害事件の遺族が21日、英国人英会話講師
ホーカーさん(22)の死体遺棄事件で全国に指名手配されている市橋T容疑者(28)の父親あ
てに息子に自首を呼びかけるよう依頼する手紙を19日付で送ったことを明らかにした(07年
5月19日・時事通信)。

+++++++++

 だれが、いつ、どこで、何をした……という部分が、よくわからなかった。だからこの記事を、
私は3回も読みなおした。3回目は、一字一句、ていねいに読みなおした。

 私の読解力が低下したのか? それとも、この文章が、ヘタなのか? ともかくも、内容は、
こういうこと。

自分の子どもを殺された、ある遺族の父親(=小林Sさん)が、別の事件で指名手配されてい
る男(=市川T容疑者)の父親に対して、その父親の息子が自首するよう呼びかけをしてほし
いという手紙を出したということ。

 つづく記事は、つぎのようになっている。

『手紙を送ったのは96年4月にJR池袋駅ホームで男に突き飛ばされるなどして死亡したR大
4年小林Sさん=当時(21)=の父Sさん(61)=埼玉県K部市=。「どうか親の責任を感じら
れているのであれば勇気を出してご子息に自首を呼びかけていただけないでしょうか」と記して
いる。

 取材に対し、小林Sさんは手紙を送った理由について、「同じ未解決事件の遺族として(ホー
カーさんの家族の)心情を察した」などとし、「加害者の親に法的な責任はないが、倫理的には
必ずある。勇気をもって自首を呼びかけてほしい」と話した』と。

 手紙の内容からすると、ホーカーさんを殺した市川T容疑者の父親は、ダンマリ(?)を決め
こんでいるといった印象を受ける。それを見るにみかねた、R大生殺害事件の遺族の父親の
小林Sさんという人が、「それではいけない」と判断して、市川T容疑者の父親に手紙を書いた
(?)……ということらしい。

 「法的には責任はないが、倫理的には必ずある。勇気をもって、自首を呼びかけてほしい」
と。

 しかし……。私は市川T容疑者の父親がどういう人であるか、まったく、知らない。知らないだ
けではない。その市川T容疑者の父親が、どのように今回の事件を見つめ、悩み、苦しんでい
るかもわからない。わからないから、私なら、こういう手紙は書かない。

 常識的に考えれば、市川T容疑者の父親は、毎日、毎晩、自分の息子のしたことで、苦しん
でいるにちがいない。そうであるかもしれない市川T容疑者の父親に対して、(あるいはそうで
ないかもしれないが)、「勇気をもって」「自首を呼びかけてほしい」と。

 わざわざ「法的な責任はないが……」と書いているところが、気になる。息子が犯した犯罪に
ついて、父親には法的な責任はない。ないことは、法治国家では常識である。にもかかわら
ず、「法的な責任はないが……」と書きつつ、法的な責任をにおわせている(?)。それが気に
なる。

 つぎに「倫理的な責任」とは、何か。これがよくわからない。倫理的な責任があるかどうかは、
その父親自身が判断することであって、他人ではない。他人である、小林Sさんという人ではな
い。

 どんな事情があるにせよ、またないにせよ、こうした事件では、責めるべきは、犯人もしくは
容疑者本人であって、その周囲の人たちではない。もしこんな発想を拡大したら、それこそ、日
本は、江戸時代にまで逆行してしまう。

 「一族郎党、もろともに」という、あの江戸時代である。江戸時代には、家族のだれかが重大
事件を犯すと、親兄弟はもちろん、親族も含めて、一族郎党もろとも、処刑された。

 さらにそれぞれの家庭には、言うに言えない、複雑な事情がある。親子ともなれば、なおさら
で、その間には、複雑な(糸)が、からんでいる。そういう事情を一方的に無視して、自分だけ
の論理を振りかざして、こういう手紙を書くのも、どうかと思う。またそれで解決するような問題
ではない。

 もちろんだからといって、私は市川T容疑者の擁護をしているわけではない。小林Sさんを責
めているわけでもない。小林Sさんには、小林Sさんなりの、(思い)があったのだろう。その心
情は、よくわかる。

しかしその一方で、『憎むべきは犯罪であって、人ではない』という考え方もある。犯罪を犯す
人にしても、どこかで歯車が狂って、犯罪を犯すようになる。善人も悪人も、紙一重。大きくち
がうようで、それほど、ちがわない。

つまりこの考え方にのっとれば、父親に倫理的責任を求める行為は、まさに(いらぬお節介)と
いうことになる(?)。

 今は、捜査機関が、血眼(ちまなこ)で市川T容疑者の行方を追っているはず。だったら、今
は、捜査機関にすべてを任せればよいのではないのか。おそらくその過程で、必要であれば、
捜査機関が、市川T容疑者の家族に、それなりの協力を求めるということはあるだろう。しかし
そのばあいでも、そうした協力については、できるだけ隠密裏になされるのが前提である。

 小林Sさんが、どの程度のことまで市川T容疑者の親に求めているかは、この記事だけでけ
では、よくわからない。その前に、こうした手紙の内容が、どうしてマスコミに流れたのかもわか
らない。手紙を書くにしても、小林Sさんは、市川T容疑者の父親に、個人的に書けば、それで
すんだはずである。

 だから私の意見は、ここまで。全体の印象としては、それがだれであるにせよ、こうした手紙
を書くこと自体、日本的な感じがする。あるいはみなさんは、どのような印象をもっただろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1942)

●自己の統合性

++++++++++++++

私は何をすべきか。
まず、それを考える。

つぎにその考えに応じて、
では、何をすべきか、
それを考える。

考えるだけでは足りない。
現実の自分を、それに
合わせて、つくりあげていく。

これを「統合性」という。

つまり(自分がすべきこと)と、
(現実に自分がしていること)を、
一致させる。

老後を心豊かに生きるための、
これが、必須条件ということに
なる。

+++++++++++++

●自分は何をすべきか

 定年退職をしたとたん、ほとんどの人は、それまでの(自分)を、幹ごと、ボキッ折られてしま
う。

 ある日突然、ボキッ、とだ。

 とたん、それまでの自分は何だったのか、と思い知らされる。金儲けだけを懸命にしてきた人
も、そうだ。年をとれば、体力が衰える。気力も衰える。思うように金儲けができなくなったとた
ん、心は、宙ぶらりんの状態になってしまう。

 そこで「自己の統合性」ということになる。

 (自分がすべきこと)を、(現実にしている人)は、自己の統合性があるということになる。そう
でない人は、そうでない。

 似たような言葉に、「自己の同一性」というのがある。こちらのほうは、(自分のしたいこと)
と、(現実にしていること)が一致した状態をいう。青年期には、ほとんどの人が、この同一性の
問題で悩む。苦しむ。

 「自分さがし」とか、「私さがし」とかいう言葉を使う人も多い。自分のしたいことは、そこにある
のに、どうしても手が届かない。そういう状態になると、心はバラバラになってしまう。何をして
も、むなしい。自分が自分でないように感ずる。

 しかし統合性の問題は、同一性よりも、もっと深刻。いくら悩んだとしても、青年期には、(未
来)がある。しかし老年期に入ると、それがない。たとえて言うなら、断崖絶壁に立たされたよう
な状態になる。先がない。

 そこで多くの人は、その段階で、「自分は何をすべきか」を考える。「何をしたいか」ではない。
この年齢になると、(したいことをする)ということのもつ無意味さが、よくわかるようになる。

 高級車を買った……だから、それがどうなの?
 家を新築した……だから、それがどうなの?
 株で、お金を儲けた……だから、それがどうなの、と。

 モノやお金、名誉や地位では、心のすき間を埋めることはできない。成功(?)に酔いしれて、
自分を忘れることはできる。が、そこには限界がある。(酔い)は、(酔い)。一時的に自分をご
まかすことはできても、そこまで。その限界を感じたとき、人は、こう考える。

 「これからの余生を、どう生きるべきか」と。その(どう生きるべきか)という部分から、「自分は
どうあるべきか」という命題が生まれる。

 しかし大半の人は、そんなことを考えることもなく、老後を迎える。ある日、気がついてみた
ら、退職、と。冒頭に書いたように、ある日突然、ボキッと、幹ごと折られたような状態になる。

 では、どうするか?

 多くの心理学者は、こうした作業は、40歳前後から始めなくてはいけないと説く。40歳という
年齢を、「人生の正午」という言葉を使って説明する学者もいる。

50代に入ってからでは遅い。いわんや、定年退職をしたときには、遅い。働き盛りといわれる
40歳前後である。

 つまりそのころから、老後に向けて、自分の心を整えておく。準備をしておく。具体的には、
(自分を何をすべきか)という問題について、ある程度の道筋をつけておく。つまりそれをしない
まま、いきなり老後を迎えると、ここでいうような、(ボキッと折られた状態)になってしまう。

 繰りかえすが、(したいこと)を考えるのではない。(自分がすべきこと)を考える。この両者の
間には、大きな隔(へだ)たりがある。というのも、(自分がすべきこと)の多くは、(したいこと)
でないことが多い。(すべきこと)には、いつも苦労がともなう。

 たとえば以前、80歳をすぎて、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がいた。
議会活動もしていた。賛同者を得るために、いくつかのボランティア活動もこなしていた。その
女性にしてみれば、乳幼児の医療費が無料になったところで、得になることは何もない。が、そ
の女性は、無料化運動に懸命に取り組んでいた。そこで私は、その女性に、こう聞いた。

 「何が、あなたを、そうまで動かすのですか?」と。

 するとその女性は、こう言った。「私は生涯、保育士をしてきました。どうしてもこの問題だけ
は、解決しておきたいのです」と。

 つまりその女性は、(自分がすべきこと)と、(現実に自分がしていること)を、一致させてい
た。それがここでいう「自己の統合性」ということになる。

●退職後の混乱 

 しかし現実には、定年退職してはじめて、自分さがしを始める人のほうが、多い。大半の人が
そうではないのか。

 中には、退職前の名誉や地位にぶらさがって生きていく人もいる。あるいは「死ぬまで金儲
け」と、割り切って生きていく人もいる。さらに、孫の世話と庭いじりに生きがいを見出す人も多
い。存分な退職金を手にして、旅行三昧(ざんまい)の日々を送る人もいる。

 しかしこのタイプの人は、あえて(統合性の問題)から、目をそらしているだけ。先ほど、(酔
い)という言葉を使ったが、そうした自分に酔いしれているだけ。

 ……と書くと、「生意気なことを書くな」と激怒する人もいるかもしれない。事実、そのとおり
で、私のような第三者が、他人の人生について、とやかく言うのは許されない。その人がその
人なりにハッピーであれば、それでよい。

 が、深刻なケースとなると、定年退職をしたとたん、精神状態そのものが宙ぶらりんになって
しまうという人もいる。そのまま精神を病む人も少なくない。会社員であるにせよ、公務員であ
るにせよ、仕事一筋に生きてきた人ほど、そうなりやすい。

 私の知人の中には、定年退職をしたとたん、うつ病になってしまった人がいる。私は個人的
には知らないが、ときどきそのまま自殺してしまう人もいるという。つまりこの問題は、それほど
までに深刻な問題と考えてよい。

●では、どうするか?

 満40歳になったら、ここでいう自己の統合性を、人生のテーマとして考える。何度も繰りかえ
すが、「私は何をしたいか」ではなく、「私は何をすべきか」という観点で考える。

 そのとき重要なことは、損得の計算を、勘定に入れないこと。無私、無欲でできることを考え
る。仮にそれが何らかの利益につながるとしても、それはあくまでも、(結果)。名誉や地位にし
てもそうだ。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、利益はない。あくまでも(心の問題)。というのも、(す
べきこと)を追求していくと、そこには絶えず、(自分との闘い)が、ある。その(闘い)なくして、
(すべきこと)の追求はできない。もっとわかりやすく言えば、この問題は、(自分の命)の問題
とからんでくる。追求すればするほど、さらに先に、目標が遠のいてしまう。時に、そのため絶
望感すら覚えることもある。

 損得を考えていたら、(自分との闘い)など、とうていできない。

たとえば恩師の田丸先生は、先日会ったとき、こう言っていた。「私がすべきことは、人を残す
ことです」と。

 そこで私が、「先生は、名誉も、地位も、そして権力も、すべて手にいれた方です。そういう方
でも、そう思うのですか」と聞くと、「そうです」と。高邁(こうまい)な人物というのは、田丸先生の
ような人をいう。

 そこで……というより、「では私はどうなのか」という問題になる。私は、自分の老後はどうあ
るべきと考えているのか。さらには、私は、何をなすべきなのか。

 実のところ、私自身、自分でも何をすべきなのか、よくわかっていない。あえて言うなら、真理
の探究ということになる。私は、とにかく、この先に何があるか知りたい。が、この世界は、本当
に不思議な世界で、知れば知るほど、そのまた先に、別の世界が現れてくる。ときどき、自分
が無限の宇宙を前にしているかのように錯覚するときもある。

 すべきことはわかっているはずなのに、それがつかめない。つかみどころがない。だからよく
迷う。「こんなことをしていて、何になるのだろう」「時間を無駄にしているだけではないのか」と。

 つまり、自己の統合性が、自分でもわかっていない。できていない。つまり私の理論によれ
ば、私は、この先、みじめで暗い老後を送ることになる。

 だから……というわけでもないが、繰りかえす。

 40歳になったら、ここでいう「統合性」の問題を、真剣に考え始めたらよい。「まだ先」とか、
「まだ早い」と、もしあなたが考えているとしたら、それはとんでもないまちがいである。子育て
が終わったと思ったとたん、そこで待っているのは、老後。50代は、早足でやってくる。60代
は、さらに早足でやってくる。

 さあ、あなたは、自分の人生で、何をなすべきか? それを一度、ここで考えてみてほしい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 統合
性 統合性の一致 統合性一致 自己統合性 自己の統合性 すべきこと 人生の目標)

【付記】

 もうひとつの生き方は、何も考えないで生きるという方法。あるいはどこかのカルト教団に身
を寄せて、そこで生きがいを見出すという方法もある。

 しかし人間は、考えるから、人間なのである。もし、何も考えない人がいたとしたら、その人
は、そこらに住む動物と同じ。明日も今日と同じという日々を送りながら、やがてそのまま静か
に自分の人生を終える。

 そのことは、頭のボケた母を見ていると、わかる。母は、今、自分がどこに住んでいるかさ
え、ときどきわからなくなる。ワイフの顔を見て、別の人の名前で呼んだりする。しかし食欲だけ
は、人一倍旺盛。食事の時間になると、血相を変えて、その場所にやってくる。

 そういう私の母には、もう目標はない。何のために生きているのかという目的すら、ない。何
かにつけて、自己中心的で、もちろん、自分がすべきことなど、何も考えていない。毎日、もの
を食べるために生きているだけ。しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのか。価
値があるというのか。

 もちろん母は母で懸命には生きている。それはわかる。が、それでも、ただ、生きているだ
け。つまり考えないで生きるということは、今の母のような状態になることを意味する。母は、高
齢だからしかたないとしても、私やあなたが、そうであってよいはずはない。

 私たちはこの世に生まれた以上、何かをなすべきである。その(なすべきこと)は、人、それ
ぞれ。みな、ちがう。しかしそれでも、何かをなすべきである。またそういう使命をみな、負って
いる。

 要するに、ここで私が言いたいことは、老後になってから、その(なすべきこと)をさがそうとし
ても、遅いということ。老後といっても、長い。人によっては、30年近くもある。20歳から50歳
までの年数に等しい。

統合性の問題は、いかにその期間を、有意義に過ごすかという問題ということになる。決して、
安易に老後を迎えてはいけない。それだけは、確かである。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1943)

●今朝・あれこれ(5月23日)

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昨日は、ワイフの姉夫婦と、山荘で
過ごした。

今ごろの季節は、最高! 本当に
すばらしい!

ちょうど梅の収穫期で、私も含めて、
合計で20キロ近く収穫した。

楽しかった。ワイフは、さっそく、
今朝から梅干しづくりにとりかか
っている。

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●ビスタの新機能

 ビスタには、自分で自分の脳みそ(CPU)の能力を測定する機能がついている。「パフォーマ
ンスの情報とツール」というのが、それ。その機能を使うと、コンピュータの性能が点数化して
表示される。

 ちなみに私のパソコンの性能は、

 プロセッサ      ……5・3
 メモリー       ……5・5
 グラフィックス    ……5・9
 ゲーム用グラフィックス……5・5
 ハードディスク    ……5.5、となっている。

 4・0〜以上あれば、ビスタは快適に動作するそうだ。

 この中でとくに私の興味をひいたのは、プロセッサの(5・3)という数字。コンピュータは、自
分で自分の能力を測定してということになる。しかしどうしてこんなことができるのだろう?

 たとえて言うなら、子どもが、自分でテスト問題を作って、自分でテストするようなもの。コンピ
ュータは、自分の作ったテスト問題で、自分の能力を、(5・3)と判定していることになる。

『賢い人からは、愚かな人がよくわかるが、愚かな人からは、賢い人がわからない』。これは私
が考えた格言だが、もう一言、つけ足すと、こうなる。『愚かな人は、自分が愚かということさえ
わからない』。

 だからたとえば(4)の能力しかないプロセッサが、どうして自分が(4)と判定できるのかという
ことになる。(3)なら(3)でもよい。何か、私の知らないしかけがどこかにあるのだろう。

 それにしても、今度のビスタは、おもしろいことをしてくれる。


●梅取り

 山の中の生活は、こと「緑」に関しては、ダイナミック。そのことは、以前、自分で木の苗を植
えてみて、気がついた。

 そのとき私は緑花木センターというところで、10数本の苗木を買ってきた。梅の木も、その中
にあったと思う。結構、大きく育った苗木である。が、山で植えてみると、それがどれも雑草の
ように小さく見えた。

 これには驚いた。「緑」の基準そのものが、ちがった。

 反対に、山の中ではふつうの木でも、そうでないということは、よくある。ここに書いた梅の木
もそうである。小さな木だと思って、収穫してみたら、20キロ近くもあった。あるいはもっとあっ
たかもしれない。

 小梅と中梅の2本だったが、その小梅にしても、中梅程度の大きさがある。兄夫婦は、「日当
たりがいいから、こんなに大きくなったんだ」と笑っていたが、そうかもしれない。そうでないかも
しれない。

 その小梅にしても、家にもって帰ってみると、どれも、大梅のような大きさに見える。これにも
驚いた。

 山の中では、「緑」は、小さく見えても、大きい。「緑」の基準、そのものが、ちがう。


●八百長相撲

 「……?」と思ってながめているのが、相撲の八百長問題。昔から、相撲の世界では、こうし
た八百長疑惑は、そのつど現れては消える。つまり、こうした疑惑は、絶えることがない。

 大前提として頭に入れておかねばならないことは、相撲は、スポーツではないということ。もっ
とわかりやすく言えば、金儲けのための「興行」。「国技」という言葉は、彼らが、自分たちのた
めの金儲けをごまかすために使う、口実にすぎない。

 相撲協会にしても、文科省認可の財団法人であるにもかかわらず、どうして1億円単位の現
金が、その間で、乱舞するのか。八百長問題にしても、以前から、弟子が数百万円単位の現
金をもって、相手方の部屋へ、それを届けるというような話は、よく聞いた。もちろん相手に、わ
ざと負けてもらうために、である。

 ところで「八百長」というのは、昔、八百屋の長兵衛という人が、碁の勝負で、弱い相手にわ
ざと負けていたことから、そう言うようになったという(日本語大辞典)。私が相撲を嫌いになっ
たのは、こうした八百長疑惑が、そのつど現れては消えたからにほかならない。

 どこか、うさん臭い。うさん臭いというよりは、「うす汚い」? 金儲けを目的とした興行なら興
行でもよい。だったら、野球やサッカーのように、もっとわかりやすい世界にすべきではないの
か。

 私は、ますます相撲が嫌いになった。

 ……ということで、相撲ファンの方には、たいへん失礼なことを書いたかもしれない。しかし
今、子どもの世界でも、「相撲が好き」と答える子どもは、ほとんどいない。ゼロに近いのではな
いか。少なくとも、私は聞いたことがない。


●いらぬお節介

 おととい、「いらぬお節介」というタイトルで、エッセーを書いた。BLOG上で、それを発表し
た。それなりの反響があった。

 私も、日常生活の中で、こうした(いらぬお節介)を、よく経験する。最近では、私の母の介護
について、あれこれ意見を言ってくる人がいる。しかし介護の問題だけは、介護をしたものでな
ければ、わからない。

 それに介護老人といっても、まさに千差万別。一人とて、同じような例はない。それが介護で
ある。

 さらに加えて、それぞれの家庭には、それぞれの事情というものがある。その事情は、他人
はもちろんのこと、親類であっても、わからない。いや、その親類にしても、一方的な話だけを
聞いて、それで自分の意見を組み立ててしまう。

 その上での、(いらぬお節介)である。中には、薄っぺらい(孝行論)を前面に押し立てて、あ
れこれ言ってくる人がいる。このタイプの人は、よく、『〜〜ベキ』を口にする。

 「長男だから、家を継ぐベキ」
 「男だから、金を出すベキ」
 「本家だから、墓を守るベキ」
 「産んでもらったのだから、親のめんどうをみるベキ」と。

 しかしこういう言葉が、いかにその人を苦しめるか、言う人は、それがわかっていない。ばあ
いによっては、その人の心に、深いキズを残す。

 では、そういうときは、どうするか?

 私のばあい、相手にしないという方法で、対処している。はっきり言えば、無視。どうせその程
度の人たちである。その多くは、江戸時代の封建意識そのものを、踏襲している。親絶対教の
信者、もしくは極度のマザコンタイプ。もともと理性や道理の理解できる人たちではない。

 ……というのは言いすぎということは、自分でもわかっている。が、これだけは、私は、いつも
肝に銘じている。

 どんなばあいも、他人の家の事情については、(いらぬお節介)をしない。繰り返すが、それ
ぞれの家庭には、それぞれの、言うに言われない、深い事情というものがある。安易な推察だ
けで、自分の意見を組み立てて、相手にものを言うのは、失敬というもの。

 昔から、こう言う。『口を出すくらいなら、金を出せ』と。少なくとも、お金(マネー)も出さない
で、口だけ出すのは、やめたほうがよい。口を出すことくらいなら、だれにだってできる。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1944)

●子どもの生きがいvs.老後の生きがい

++++++++++++++++++++

もうすぐ91歳になる母が、ふと、こんな
ことを漏らした。

「いつまで、(こんな生活が)、つづくのかねエ?」と。

母は、週に4日、デイサービスに通っている。
が、私の家にいる間は、ベッドから起きたり、
横になったり、あるいはソファに座っているだけ。

私が「あと10年はがんばれるよ」と声をかけると、
「そんなに長くかア……」と。

++++++++++++++++++++

 母を見ていると、母には今、(生きがい)となるような生きがいがないのがわかる。私の家に
いる間は、ベッドから起きたり、横になっているだけ。あるいはソファに座って、外をぼんやりと
ながめているだけ。

 話し相手になってやりたいが、耳は、ほとんど聞こえない。補聴器はいやだといって、耳には
めない。そんな母が、昨日、こう漏らした。「いつまで、(こんな生活が)、つづくのかねエ?」と。

 そのときは、それほど気にしなかったが、あとでワイフとそのことについて話しあう。

私「何か、母の生きがいになるようなことを用意してやらなければならない」
ワ「……何が、あるかしら?」
私「そこなんだよな。そこが問題だ」
ワ「ケアセンターで、友だちでもできればいいんだけど」
私「あの母では、むずかしいだろうね」と。

 母は、人一倍、自意識が強い。周囲の人たちからチヤホヤされないと、落ちつかない。そう
いうタイプの女性である。自分のほうからバカになって、相手の輪の中に飛び込んでいくという
ことができない。

私「いやね、母を見ていると、老後は、ああであってはいけないとよく思う。つまりね、母を他山
の石として、学ぶべきことはたくさんあるよ」
ワ「そうね。生きがいは他人から作ってもらうものではなく、自分で作るものだし……」
私「作るというよりはね、長い時間をかけて、用意するものだよ」と。

 老後になってから、あわてて生きがいを作ろうとしても、うまくいくはずがない。老後になる前
から、老後になってからの生きがいを用意する。

 で、その母だが、生きがいらしきものがないわけではない。

 若いころからいくつかのクラブに入り、毎日のように、出歩いていた。ちぎり絵クラブ、詩吟ク
ラブなど。寺の行事には、率先して参加していたし、町内の仕事もよくしていた。が、今は、何も
しない。ちぎり絵のセットを渡してみたことがあるが、「もう、飽きた」と言って、見向きもしなかっ
た。

 信仰もやめた。植木鉢に花を植えて、それを窓のそばに並べてみたが、最初の数日は興味
を示したが、そこまで。今は、ワイフがその花の世話をしている。

 何もせず、ぼんやりとしているだけ。「退屈だろうな」とは思うが、今の私には、できることは、
ほとんどない。まあ、あえて言うなら、母の生きがいは、食べることくらいなものか。私の家で
は、食事の量は控えめしているが、ケアセンターのほうでは、食べ放題、食べているようだ。そ
れにお茶も飲み放題、飲んでいる?

 毎日、センターでは、2度ほど、オムツを替えてもらっている。ズボンもぬらすらしい。帰ってく
るときは、いつも別のズボンをはいている。

 しかし食べることが生きがいでは、困る(?)。それこそ「何のために生きているのか」というこ
とになる。

 そうした母を観察していると、そのまま、今度は、子どもの生きがいと結びついてくる。それぞ
れの子どもは、何かしらの生きがいをもって、毎日生活をしている。が、中には、その生きがい
がない子どももいる。生きがいと「夢」を同一視することはできないが、小学の6年生でも、夢を
もっていない子どもとなると、30%前後もいる。

 こういう子どもたちは、ただその日を過ごしているだけ。が、子どもにとって、これほど、不幸
なことはない。

 もっとも相手が子どものばあいは、生きがいを見つけ、育て、その生きがいをもたせるのは、
親の役目と考えてよい。私が説く、『一芸論』もその一つである。子どもはこの一芸を柱として、
自分の進むべき道を決める。

 が、母のような老人は、どうすればよいのか? それは介護をする私たちの役目なのか?

 何か予定を立てて、母に楽しみにさせるという方法もある。しかし今の母には、それを理解す
る力はない。あちこちへ連れていっても、眠っているだけ。かえって母を疲れさせてしまう。

 言いかえると、死ぬまで自分を支えてくれる(生きがい)をもつには、どうしたらよいかというこ
とにもなる。これは母の問題というよりは、私自身の問題でもある。「私は、どうすればいいの
か?」と。今ですら、生きがいを保つのは、むずかしい。そんな私が、このまま老人になったら、
私はどうなるのか。

 今の母以上に、みじめな老後生活を送ることになる。

私「生きがいというのはね、結局は、(やるべきこと)ということになるよ」
ワ「死ぬまで、やるべきことをもつということ?」
私「そうじゃないかな。したいことをするというのは、生きがいではない。生きがいにはつながら
ない。ほとんどの人は、そう思っているけど……」
ワ「そうね」と。

 ますます生活態度がだらしなくなる母。便については、垂れ流しの状態になっている。寝たき
りになるのは、時間の問題。ワイフもこのところ、ときどき、弱音を吐くことが多くなった。だいじ
ょうぶかな?

 ……ということで、今朝は、老後の生きがいについて、考えてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●黄砂

++++++++++++++

昨日(5月26日)、ワイフと
近くのガーデンパークへ、弁当
を食べに行った。

途中、まわりの景色が春がすみのように
曇っていた。

黄砂(こうさ)である。

毎年今ごろになると、ゴビ砂漠や
タクラマカン砂漠、さらには中国の
高度地帯から、強風にあおられて、
この日本に黄砂がやってくる。

直接的な被害は、まだ出てないが、
黄砂によって、たとえば航空機の
エンジンなどに被害が出ることも
考えられている。

しかし問題は、この黄砂が、ここ
2000年以後、毎年、300〜
400回近くも、この日本でも
観測されるようになったこと。

つまりそれだけ、中国内陸部の
砂漠化が進んでいるということ。

++++++++++++++

 中国東北部の干ばつは、相当ひどいらしい。連日、その地域の町や村では、給水車や軍が
出動して、住民への給水を行っているという。

 そのせいか、ここ数日、この浜松市でも、中国からの黄砂が観測されている。しかも気象庁
の発表によると、その規模も年々大きくなっているという。頻度も多くなっているという。200年
以後は、毎年、300〜400回近くも観測され、06年には、9月末時点で、計619回も観測さ
れたという。

 原因は、地球温暖化によるものと考えてよい。毎年、3〜4月になると中国内陸部では、強風
が吹き荒れるようになる。そのとき、砂漠地帯が雪でおおわれていれば、砂塵、つまり黄砂が
吹きあげられることはことはない。つまりその「雪」がない。だから黄砂が日本まで、やってく
る。

 ところで干ばつと言えば、今年のオーストラリアも、ひどかった。オーストラリアでは、穀物を
冬から春にかけて収穫する。夏は暑すぎて、穀物の生育には向かない。穀物が大地をおおっ
ている間は、大地もそれなりに湿っている。が、穀物の収穫が終わると同時に、大地は乾燥す
る。それがオーストラリアの干ばつに、拍車をかけた。

 友人のN君の報告によれば、今年の1月には、あのメルボルン市でも、45度Cという猛烈な
暑さを記録したそうだ。1970年ごろには、世界で、もっとも気候の温暖な地域として知られて
いた、あのメルボルン市で、である。

 ……ということで、地球が温暖化しているということは、もうだれの目にも疑いようがない。
が、問題は、ここで終わるわけではない。少し前、地球温暖化の問題に触れて、私は、「不測
の事態が不測の事態を招いて、さらに加速度的に温暖化が進むことも考えなければいけない
……」と書いた。

 実は、この黄砂についても、同じような問題が指摘されている。

 黄砂が砂塵となって舞いあがれば、当然、その分だけ、日光をさえぎることになる。これにつ
いて、黄砂は、地球温暖化にブレーキをかけるのではないかという意見もあった。

 が、事実は、どうも逆のようだ。

 空中に舞いあがった黄砂は、そこでさらに太陽の熱を蓄積し、かえって大気を暖めてしまうと
いうのである。黄砂がそのまま大気圏外へでも飛んで行ってくれれば、話は別だが、そういうこ
とはありえない。飛行機などから見ると、黄砂は、はうようにして、地上を移動する。

 そのためさらに加速度的に、地球の温暖化は進んでしまう(?)。つまり地球の気温について
は、いまだにわからないことだらけ。一部の砂漠では、住民やボランティア活動の人たちが、や
なぎの木を植えるなどして、砂漠化を食い止めようとしている。その熱意と努力には頭がさが
る。また何としても、砂漠の拡大だけは、食い止めなければならない。

 この問題だけは、(私たちの問題)というレベルでは、もうない。未来の子どもたちや、さらに、
あらゆる動植物を巻きこむことになる。そういう意味では、たいへん深刻な問題である。

 ……しかし、この無力感はいったい、どこからくるのか? 前回も書いたが、台風1個、もてあ
ましている人間が、どうして地球規模の気候をコントロールできるというのか。かといって、人間
が人間をコントロールできるかというと、どうも、それもあやしい。

 何かをしなければならないという気持ちだけが、ザワザワと胸の中で騒ぐ。しかしどこからどう
手をつけたらよいのか。無力感は、どうやらそのあたりから生じているようだ。

 自然というのは、壊すのは簡単。しかし再びつくるとなると、至難のワザ。現状を維持するだ
けでも、たいへん! この先、人間はどうするのだろう……と思ったところで、この話はおしま
い。私は私ができる範囲で、私の努めを果たす。たいしたことはできないが、いつか、今の自
分を後悔するようなことだけはしたくない。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1945)

●デスノート

+++++++++++++++

このほど中国政府は、
『デスノート』を、本、DVDを含めて、
すべて発禁処分にした。

子どもたちの間では、大人気の
本である。

当然である。

ああした意味もない愚劣な小説やDVDが、
子どもの世界にはびこっていること自体、
バカげている。

異常と言ってもよい。

+++++++++++++++

 このほど中国政府は、日本で大人気の『デスノート』を、本、DVDを含めて、すべて発禁処分
にした。当然である。新華社通信は、つぎのように伝える。

 『中国政府は(5月)28日から、日本の人気漫画『デスノート』をはじめ、青少年に悪影響を与
える恐れがあるホラー作品を集中的に取り締まり、押収する方針だ。

 『デスノート』は中国の小・中・高校生の間でも広く読まれているが、当局は「子どもの人格形
成に重大な影響を及ぼす」と判断し、単行本やDVDなどをすべて押収することとした。

 ノートに名前が書かれた人が死ぬという内容の『デスノート』は、日本では単行本だけで150
0万部が売れ、昨年には映画化もされるなど、大ヒットを飛ばした。

 映画は中国ではまだ公開されていないが、海賊版のDVDが大量に出回っている。

 中国政府による取り締まりは、6月1日の「子どもの日」を挟んで、同月3日まで1週間にわた
り、学校周辺の書店やDVD店を中心に集中的に行われる予定」と。

 先日も小6の女の子が私にこう聞いた。「先生、デスノートって知ってる?」と。私は、即座に
「知らない」と答えた。本当はDVDショップでそれが、たくさん並んでいるのを知っていた。手に
とって、見たこともある。

 くだらない、本当にくだらないDVDである。

女「デスノートを知らないの?」
私「ああ……」
女「遅れてるウ〜」
私「じゃあ、聞くが、ドラッカーの『新しい社会』を知っているか? ヴォーボワールの『第二の
性』でもいい」
女「そんなの知らない……」
私「君たちと住む世界がちがうからというだけで、遅れているということにはならないよ」と。

 少し前には、ビデオで映された画面から、化け物が出てくるという小説やビデオ映画がヒット
した。実に意味のない、くだらない小説だったが、それもバカ売れした。そののち、作家のS
は、いっぱしの作家気取りで、あちこちに随筆を書くようになった。が、どうしてエ〜?

 それにしても、1200万部とは! 子どもたちの世界は、いったい、どうなっているのか? 
が、それだけではすまない。

 この時期、つまり子どもの内面化(心の形成)が進む時期に、こうした本に触れるのは、たい
へん危険なことと言ってもよい。言うなれば、カルト教団の信者予備軍を養成をしているような
もの。

 現に数日前も、バス旅行をしていた小学生の一団が、吐き気を訴えるなど、ヒステリー状態
になってしまったという事件が報道されていた。バスがトンネルへ入ったとき、だれかが「霊を
見た」と言ったのがきっかけだった(新聞報道)。

 テレビでは、いまだに、どこかのオバチャンが、占星術だの何だのを口にして、言いたい放題
のことを言っている。それを聞いて、タレントたちは、涙を流して、感激している。

 どうしてこういうバカげた現象が、この日本ではつぎからつぎへと起こるのか? ……という
遠まわしな言い方はやめよう。

 簡単に言えば、日本人全体が、今、ノーブレイン(脳みそなし)の状態になっている。考えるこ
とそのものを、放棄してしまっている。今、それがますます加速している。

 「これでいいのか、日本!」と叫んだところで、この話は、おしまい! 


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●今朝(5月29日)、あれこれ

++++++++++++++++

先週は、4日間で、1冊の本の原稿を
まとめた。

新記録である。

で、今週は、その原稿を、5〜6社の
出版社に送る。

それでだめなら、さらに3〜4社の
出版社に送る。

++++++++++++++++

●ホームページ作成ソフト

 この6年以上、私は、ホームページ作成ソフトとして、「N」というソフトを使ってきた。が、この
ところ、何かと不便なことがつづく。とくにビスタ(OS)にしてから、ときどきおかしな暴走が起き
る。

 「N」社に相談すると、最後にこう言った。「Nは、初級者向けに開発されたものです。上級者
用として、たとえばホームページビルダー(IBM社製)などがありますから、そちらを検討してみ
たらどうですか」「今のところ、ビスタ対応版の発売は、考えていません」と。

 この言葉で決まった。

 さっそく町中のパソコンショップで、ホームページビルダー(11)を購入。ガイドブック付きで、
7000円弱で購入できた。目下、半額セール中。

 ガイドブックにざっと目を通してみて、びっくり。「N」とは、各段の差があった。あえて言うな
ら、「N」は、小学生の使うソフト、ホームページビルダーのほうは、高校生の使うソフトといった
感じ。

 私はときどき、こういうヘマをする。つまり最初の選択をまちがえて、ズルズルとそのまま低位
のソフトを使いつづけるというヘマである。あああ……今回も、それをしてしまった。

 しかし今までの蓄積を考えると、ことは容易ではない。これから1〜2年をかけて、少しずつ、
「N」からホームページビルダーに乗り換えていかねばならない。ソフトを交換すれば、それでよ
いという問題ではない。

 ……で、今日の日記は、ここまで。今日も忙しい。

【追記】

 ソフト「N」を使って、ビスタ上で作業をしているが、「保存」が、どうしてもうまくできない。

 要するに、「N」は、ビスタには、対応していないということ。しかしこういうことがつづくと、本当
にやる気をなくす。

 いやだなア〜。


●本を書く

 久しぶりに本のための原稿を書いた。これからあちこちの出版社に声をかけるつもり。何と
か早く決まればよいが、……と願っている。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1946)

●今朝あれこれ(5月30日)

+++++++++++++++++

とくに変わったことはない、平凡な朝。
朝風呂をあびて、パンを一個、かじる。

それからHPを少し更新して、いつもの
ルーティーン(日常行為)。

+++++++++++++++++

●したいことvsすべきこと

 (したいこと)と、(すべきこと)の間には、大きなちがいがある。当然である。

 ほとんどのばあい、(すべきこと)には、苦痛や苦労がともなう。できるなら、しないですませた
い。したいことだけをして、それですませたい。しかし、そんな人生に、どれほどの意味があると
いうのか。

 たとえばこんな老人がいたとする。

 その老人は、満55歳で定年退職をしてからというもの、一日とて、労働者として働いたことが
ない。広い庭……というより、先祖譲りの、広い畑をもっている。その畑に、いろいろな種類の
花木を植え、日々、庭いじり三昧(ざんまい)。

 これは極端なケースかもしれないが、しかしひょっとしたら、あなたの周辺にも、似たような老
人がいるかもしれない。こうした老人は、毎日、自分のしたいことだけをして生きているだけ。

 しかしもしその老人が、少しでも考える力をもち、「だから、それがどうなの?」「どうしたの?」
と、自分に問うてみたら、その老人の住む世界は、一変するにちがいない。たぶん、自分の生
活に疑問をもつだろう。自分のしていることのむなしさに、耐えられなくなるかもしれない。

 つまりその老人は、(したいこと)をすることによって、(自分がすべきこと)については、目を
閉じてしまっている。もっと言えば、自分をごまかしている。

 が、だれも、そんな老後が、豊かな老後だとは、思わない。またそうであってよいとは、だれも
思わない。

 そうそうこんな老人もいた。

 「老後はコンパクトに生きることこそ重要」と、身のまわりを、あえてコンパクトにしてしまった
老人である。持家を売り払い、小さなマンションに移り住んだ。世間とのつきあいも縮小し、当
然、活動のハバを狭(せ)めてしまった。

 一見合理的な生き方に見えるかもしれないが、その老人は、(生きる)ということを忘れてしま
っている。もっとわかりやすく言えば、(死ぬための準備)が、老後のあり方だと思いこんでしま
っている。

 老後になったからといって、コンパクトに生きる必要はない。もちろん収入に合わせた生活に
する必要はある。しかしそれと、「コンパクトに生きる」ということは、別問題である。むしろ逆
で、残り短い人生であるがゆえに、私たちは、自分を完全燃焼させて生きていかねばならな
い。

 無駄にできる時間は、一瞬、一秒もない。

 そこで「私にとってすべきことは何か」と、自問してみる。もっとも老後になると、名誉や地位、
肩書きのむなしさがよくわかる。お金については、何も、あえて嫌う必要はない。お金では幸福
は買えないが、お金がなければ、不幸になる。しかし収入だけを考えて老後を送るのも、どう
か?

 こうして考えてみると、結局は、(人とのつながり)の中に、その(すべきこと)があるように思
う。あるいは、よく言われるように、「真・善・美」の追求こそが、人が人として、すべきことかもし
れない。

 しかしこれらにはどれも、先に書いたように、苦痛や苦労がともなう。その苦痛や苦労なくし
て、すべきことをすることはできない。たとえば私のかつての恩師は、1冊の本を書きあげるた
めに、毎日、毎晩、目に目薬をさして文献を読みあさっていた。70数歳という年齢で、この世を
去ったが、その人はその人で、(すべきこと)をしっかりともっていたことになる。

 私もあと半年足らずで、満60歳になる。自分では現役のつもりでいるが、まわりの人たち
は、年齢を私にあてはめて、私を見る。とてもいやな気分だ。加えて、いまだに、ここでいう(す
べきこと)が見えてこない。(したいこと)は山ほどある。しかし何度も書くが、(したいこと)イコー
ル、(すべきこと)ではない。

 それは何か? 私がすべきことは、何か?

 本来なら、私は40歳前後から、自分のすべきことを考え始めるべきだった。しかし当時の私
は、忙しいだけ。自分を静かに見つめる時間すらなかった。ずるずると、今の年齢になってしま
った。

 ……ということで、目下、自分のすべきことを、懸命に模索している。残り時間は、あまりにも
短い。あえて言うなら、断崖絶壁の縁(ふち)に立たされているような気分。ワイフは、「ボランテ
ィア活動でもしようか?」と言っているが、そんな取ってつけたようなことをしたところで、どうせ
身につかない。長つづきしない。いわんや、生きがいに結びつくことようなことは、まず、ない。

 自分でも、それがよくわかっている。

 が、あえて一言。

 もし今、あなたが40歳前後の人なら、今から、(すべきこと)を模索したらよい。(したいこと)
ではない。(すべきこと)である。

 それがあなたの老後を、心豊かに生きるためのコツということになる。余計な節介かもしれな
いが……。

+++++++++++++++

●真・善・美について

++++++++++

2年前に書いた原稿を
そのまま紹介します。

++++++++++


●真・善・美

 教育に目標があるとするなら、未来に向かって、真・善・美を後退させないこと。その基盤と
方向性を、子どもたちの世界に、残しておくこと。

 今すぐは、無理である。無理であることは、自分の過去を知れば、わかる。若い人たちは、
真・善・美を、そこらにころがる小石か、さもなければ、空気のように思っている。その価値がわ
からないどころか、その価値すら、否定する。

 しかしやがて、その、真・善・美に、気がつくときが、かならずやってくる。そしてその価値にひ
れ伏し、それまでの自分の過去にわびるときがやってくる。

 そのとき、その子ども(子どもというよりは、人)が、その基盤と方向性をもっていればよし。そ
うでなければ、その子どもは、まさに路頭に迷うことになる。

 「私は何のために生きてきたのか?」と。

 そしてやがて、その人は、真・善・美を、自ら、追求し始める。そのときを予想しながら、子ど
もの中に、その基盤と方向性を残しておくこと。それが教育の目標。

+++++++++++++++++++++++++++

【補記】

 真・善・美の追求について、私は、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。ものを書き始め
たのが、40歳前後。それまでは実用的な本ばかりを書いてきたが、「私」を書くようになったの
は、そのあとである。

 現在、私は57歳だが、本当に、遅すぎた。どうしてもっと早く、自分の愚かさに気づかなかっ
たのか。どうしてもっと早く、真・善・美の追求を始めなかったのか。

 今となっては、ただただ悔やまれる。本当に悔やまれる。もっと早くスタートしていれば、頭の
働きだって、まだよかったはず。どこかボケかけたような状態で、そしてこれから先、ますます
ボケていくような状態で、私に何が発見できるというのか。

 これは決して、おおげさに言っているのではない。本心から、そう思っている。

 だからもし、この文章を読んでいる人の中で、若い人がいるなら、どうかどうか、真・善・美の
追求を、今から始めてほしい。30代でも、20代でも、早すぎるということはない。

 今となっては、出てくるのは、ため息ばかり。どんな本に目を通しても、出てくるのは、ため息
ばかり。「こんなにも、私の知らないことがあったのか」とである。と、同時に、「後悔」のもつ恐
ろしさを、私は、今、いやと言うほど、思い知らされている。

★読者のみなさんへ、

 つまらないことや、くだらないことで、時間をムダにしてはいけませんよ。時間や健康、それに
脳ミソの働きには、かぎりがあります。余計なお節介かもしれませんが……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●幼児教育

 ロボットが、二足歩行で歩き、踊る時代になった。しかし驚くなかれ、私が、幼児教育に接し
た、わずか、35年前には、ほとんどの人は、幼児が何であるかさえ、知らなかった。

 幼児は、幼稚。よくて、おとなの卵。未完成で未熟な人間……そんな考え方が、支配的だっ
た。

 幼児教育の教材すら、ほとんど、なかった。35年前には、自閉症にしても、診断基準すらな
かったし、ADHD児にしても、騒がれ始めたのは、ここ10年である。(日本で、厚生省が研究
機関に依頼して、診断基準づくりを始めたのは、ほんの4年前。)

 私が「幼児教育をしています」と言ったら、「そんなのだれにでも、できるでしょう」と返答した
男がいた。(基本的には、こうした誤解は、変わっていないが……。)

 今でも、若い母親の大半は、そう考えている。それは会話などしなくても、雰囲気でわかる。
だから私は、何も言わない。どうせ言っても、理解してもらえない。

 もし戦後の日本人が、モノづくりにかけるエネルギーの1000分の1でもよいから、幼児、な
かんずく、人間の研究に向けていたら、日本は、幼児教育の先進国になっていただろう。が、
実情は、どうか。いろいろな問題をもった子どもが現れるたびに、その診断基準すら、外国の
文献に頼っている。日本人が自らつくりあげたものは、ほとんど、ない。(まったく、ないのでは
ないか……?)

 もう30年前になるが、ある雑誌で、文部省の技官と対談したとき、その技官は、こう言った。

 「なぜ、幼稚園で、文字教育を解禁しないのですか」と聞いたときのこと。「ハネがあるでしょ
う。ハネは、幼児には無理です」と。つまりトメ、ハネ、ハライを、幼児に教えるには、無理だか
ら、と。

 そこで私が「毛筆時代は、もう終わりに近づいています。どうしてハネを無視しないのですか」
と聞くと、「日本語には、日本語の美しさがありますから」と。

 世界広しといえども、就学前の子どもで、文字教育を受けないのは、日本人くらいなもの。
(ついでに、発音教育も!)

 いまでも幼児教育というと、遊戯やお絵かき、年間行事を追いかけることだと思っている人は
多い。小学校へ入るための準備教育と考えている人もいる。しかしそれは誤解というより、まち
がい。幼児教育の奥深さは、パソコンにたとえるなら、OS(オペレーティング・システム)のプロ
グラミングほどの深さがある。

 それを理解してもらえない歯がゆさは、キーボードもまだ叩けないような人に、C++言語の
話をするときに感ずる、あの歯がゆさに似ている。そこで私のすべきことは、親を飛びこし、子
どもの中に、微妙な問題点をみつけ出し、臨機応変に、それに対処していくこと。

 が、だからといって、親を責めているのではない。どんな親も、幼児教育には、まったく無知な
まま、子育てを始める。私もそうだったし、私のワイフも、そうだった。

 親が、自分を知り、さらに、自分の子どもを知るのは、子育ての最中ではない。そのときは、
ただ忙しくて、毎日が夢中のまま、過ぎていく。親が、自分を知り、さらに、自分の子どもを知る
のは、子どもが親離れし、親が子離れし、ほっと、息をつくころ。

 少し前だが、こんな手紙をくれた母親がいた。

 「息子が高校受験に合格した夜、はじめて、息子の原点は、はやし先生が作ってくれたのだ
と気づきました。ありがとうございました」と。

 私はその手紙を読んだとき、涙を流した。本当だぞ! 幼児教育というのは、そういうもので
ある。
(050303)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。楽しい。そう感ずる人は、多い。俗に
いう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。しかしそういう人が、本当に他人のことを
思いやって、そうしているかと言えば、それはどうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろう」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。自分をよく見せるために、他
人を愛しているフリをしてみせることをいう。しかしフリは、フリ。中身がない。仏教の世界にも、
末那識(まなしき)という言葉がある。無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽
善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエゴイズ
ムがある。表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。その人の心を、裏から
操る。そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちである。しか
しそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべきものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。どこ
までも自分勝手でわがまま。「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なの
は、私だけ。あとは、野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰りかえ
しになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしていた。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たまたま知りあ
いだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。町の中で、クラブ制の窯(か
ま)をもっていた。教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、あれ
よと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家として、全国に、
名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏なまま
のはず」「私が才能をみつけてやった」と。そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には1円もく
れない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。が、その
親切は、ある意味で、計算されたものだった。本当に親切であったから、Xさんは、その男性
を、陶芸家に紹介したわけではなかった。それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な
陶芸家になったのは、あくまでもその男性自身の才能と努力によるものだった。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。Xさんが、「恩知ら
ず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界では、末那識つまり、
自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズムを、問題にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、偽
善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。

●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。介護士の
資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いていた。も
ともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分のもの
にした。そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。またYさんを、非難しているわけでもな
い。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けられ、励まされた人は、多い。またYさんのような
親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見える。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。またそれを
生きがいにしていたわけでもない。Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えな
がら、介護の指導員として活動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほど、心地
よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんのところへ、ある日、夫が、夫の兄を連れてきた。Yさんの義兄ということになる。この義
兄は、身寄りがなく、それに脳梗塞(こうそく)による軽い障害もあった。トイレや風呂くらいは、
何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態だった。年齢は、73歳。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうちに、今度
は、義兄を虐待するようになった。風呂の中で、義兄が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、義兄に、バスタブを自分で洗わせた。義兄に対する、執拗な虐待が始ま
ったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日にな
りかけていたが、窓を、開けさせない。風呂に入らせない。義兄が腹痛や、頭痛を訴えても、病
院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をかぶってい
たことがわかったという。姉は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかないから
ね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、しかし
そこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言い方である。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。子どもを1
人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペット」としてみる。またさ
らには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活をする
のは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んでも墓の
中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。私たちは、ともすれば、「親だ
から、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちやすい。しかしこうした(ダカラ論)ほど、
あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も
……」「この人も……」というほど、多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。愛情が
基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分の
支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。しかし大きくちがう点は、代償的過
保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消する道具として、利用すること。子どもが、
自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に狂奔する母親た
ちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。人格さえ
認めていないことが多い。自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、子ども
の姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。子どもに対する偽善といっ
てもよい。勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくるわよ。S
S中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いているのよ。わか
っているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。偽善だらけといってもよい。教育システムそのものが、そうな
っている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育という原
点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。教育イコール、進
学。進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。今
でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。数年前も、関東地方を中心にし
た、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、その進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心的であ
るから、そうしているのではない。毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているため
に、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。どの私立中高校も、進学のための特別
クラスを編成して、親のニーズに答えようとしている。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不公平
感である。それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかく
も、偽善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考えてよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。文明という、つまりそれまでの人間が経験し
なかった、社会的変化が、人間をして、そうさせたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。スズメたちの世界は、実に単純、わ
かりやすい。礼節も文化もない。スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言っているの
ではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方で、
(人間らしさ)を追求してきた。偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間
がそれをもつようになったのは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。「私は私であるか」と問うてみ
るのもよい。「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うな
ら、「本当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、つい
で、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。悪もある。その悪が、ゴミのよう
に、文明にまとわりついている。それを払いのけて生きるのも、文明人の心構えの一つというこ
とになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論 はやし浩司,幼児
教育,子育て論,育児論,教育評論,評論家,育児評論,育児評論家,子育て評論,子育て問題,育児
問題,子育て)
(050304)

【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末が悪
い。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●生きがいとなる基盤

++++++++++++++

自分のことしかしない。
自分のしたいことしかしない。

若い人たちはそれでよいとしても、
人生の先輩である、私たちが
それでよいとは、だれも思わない。

が、この問題は、自分自身の問題
でもある。

そういう生き方をしていると、
結局は、さみしい思いをするのは、
自分自身ということになる?

++++++++++++++

 私は自分の母を介護しながら、多くのことを学んでいる。決して自慢できるような母ではない
が、(それにボケも加わっているが……)、それでも毎日、学ぶことは多い。

 母は、若いときから、自分勝手でわがまま。自分のことしかしなかった。たまに他人のために
働くことはあったが、それは他人の目を意識して、そうしていただけ。だから他人には、受けが
よかった。

 母を責めているのではない。多かれ少なかれ、だれしも、母のような生き方をしている。この
私だって、そうだ。

 しかしそれが加齢とともに、顕著になってきた。私の家に寝泊まりするようになってからという
もの、さらにそれがひどくなった。母は、いつも、自分のことしか考えていない。私やワイフの都
合や気持ちなど、まったく意に介さない。自分がしたいことだけをし、またそれを私たちに要求
してくる。

 最近では、「実家へ帰りたい」と言っては、私たちをよく困らす。実家というのは、自分が生ま
れ育った実家をいう。

 「迎えの車をよこすように、電話をしてくれ」
 「迎えがきてくれると言ったが、どうして来てくれない?」
 「お前たちは、ウソつきや」と。

 適当にあしらうという方法もあるが、それは私たちのやり方ではない。私たちは、いつも、本
当のことを言うことにしている。

 そういう母を見ていると、最初は、「自分たちはああは、なりたくないものだ」と思う。つぎに、
「どうして母は、ああなってしまったか」と考える。そしてさらに、「では、ああならないためには、
どうしたらいいか」と考える。

 もちろん母が、実家に帰りたい気持ちはよくわかる。そこで私は、母の実家の写真を、A4サ
イズに拡大し、何枚か、ベッドのまわりに張りつけてやった。古いアルバムも、何冊か、手元に
置いてやった。それなりに効果はあったと思うが、しかし母は、そんなことでは満足しない。「電
話をかけてくれ」「電話をかけさせろ」と騒ぐ。

私「あのなあ、だれがお前のめんどうをみてくれるんだ?」
母「実家へ行っても、メシくらいは、食べさせてくれるはずや」
私「もう、代がかわった。あの家は、あんたのものじゃない」
母「わっち(=私)のもんや」と。

 こんな意味のない押し問答が、繰りかえしつづく。

 わかりやすく言えば、今の母は、感情のおもむくまま、ものを言う。理性によるコントロール
は、もうほとんどない。それはしかたないとしても、つまり、老人になれば、みなそうなるという点
では、しかたないとしても、それでさみしい思いをするのは、母自身ではないのか。

 今年91歳になるが、今の元気を保つことができれば、100歳まで生きられるかもしれないと
いう。ケアマネージャーの人は、そう言っている。つまり、残りの10年を、そんな思いで過ごし
て、よいものか?

 そこで(生きがい)の問題ということになる。が、自分のためだけに生きてきた人に、今さら、
「生きがいをもて」と言っても無理。生きがいとなる基盤そのものをもっていない。またその基盤
は、一朝一夕にできるものではない。10年単位、20年単位という長い年月を経て、熟成され
るもの。

 とても残念なことだが、私の母には、その(基盤)を感じない。どこまでも、どこまでも、かわい
そうな女性である。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1947)

●6月2日(土曜日)

++++++++++++++++

数日前、IBM社製の「ホームビルダー」を
買ってきた。ホームページ作成用のソフト
である。

ついでに、2800円+税の解説書も。

しかし悪戦苦闘すること、丸2日!

++++++++++++++++

 わかりにくい話でごめん。

 新しいホームページを開くことにした。まず、ワイフのアドレスで、フリーのHPアドレスを手に
入れた。試しに……と、別のホームページ作成ソフト(=NINJA9)で、簡単なホームページを
つくり、そのアドレスに、転送(FTP送信)してみた。(しかし結果的にみると、これがまずかっ
た。)

 ここまでは、うまくできた。インターネットで新しいホームページを見ることができた。で、いよ
いよホームページビルダーの使用開始!

 ホームページビルダーをたちあげ、新しいホームページを編集した。トップページにつづき、
いくつかの新しいページを作り、リンクもはった。が、そのアドレスにいくら転送(FTP送信)して
も、画面は、もとのまま。本来なら、上書きされて、新しいホームページが、そこに現れなけれ
ばならない。が、それが現れない。

 「????」。つまり、こうして悪戦苦闘すること、丸2日。

 原因は、今日になって、やっとわかった。

 最初に送信したホームページの、ファイル名は、「index.html」。ホームページビルダーのほう
で送信したホームページのファイル名は、「index.htm」。「html」と「htm」のちがいだが、「htm
l」のほうが、「htm」より、優先権をもつ。

 そこでファイル名を「html」に変更しようしたが、同じファイルを、試しに使ったソフト(NINJA
9)と共有しているため、何度変更しようとしても、拒絶されてしまう。つまり試しに使ったホーム
ページソフトが、じゃまをしていた。

 しかし久々に、頭の中が熱くなった。4〜5センチほどもある分厚い解説書を、何とか読みこ
なした。そして何とか、問題を解決した。

 ……かなりわかりにくい話でごめん。素人の人が読んだら、さっぱり意味がわからないだろ
う。私も、実は、原因が、さっぱりわからなかった。しかし途中であきらめたら、この世界では、
敗北を認めることになる。

 どうせ相手は、機械。人間が考えた機械。食いついて、食いついて、最後まで食いつく。問題
が解決するまで、食いつく。かならず解決する。その悪戦苦闘が、また、パソコンの楽しさとい
うことにもなる。

 
●原稿書き

 いろいろあって、この4〜5日、ほとんど原稿を書いていない。書きたいテーマはたくさんある
が、どれもつまらない。「つまらない」というのは、「どうでもいい」という意味。

 新しい時計を買ったとか、教室の子どもたちの失敗談とか、など。

 あえて言えば、K国問題がある。K国の核開発問題がある。私の予想が、100%、的中し
た。あまりにもみごとに的中したので、かえって拍子ぬけ。私は、今の状況を、2、3か月前に、
ちゃんと予想していたぞ。

 ……だから今は、K国問題については、しばらく考えたくない。


●希望

 何度も書くが、衣食住に不足、不満があっても、「希望」さえあれば、人間は何とか生きてい
かれる。が、それだけではない。希望がないと、人間は、日々に小さくなる。小さくなって、ささ
いなことに心を悩ませたりするようになる。

 が、その希望は、向こうからやってくるものではない。希望は、自分で作るもの。用意するも
の。「努力」という言葉がある。その努力にしても、「希望に向かって」というよりは、自ら「希望
を作るため」にするもの。

 今の私には、その「希望」がないのが、気になる。希望がないから、目標がない。目標がない
から、日々を、ただ何となく過ごしているだけ。「これではいけない」と思っているが、かと言っ
て、どちらへ行ったらよいのか、それもわからない。旅にたとえるなら、単調な景色の連続。道
に迷った状態?

 こういうときは、どうするか。

 ただひたすら前に進むしかない。とにかく前に進むしかない。


●健康

 このところ、健康のありがたみをひしひしと感ずるようになった。何はともあれ、私は健康に
生きている。私のばあい、「健康」というのは、「病気ではない」という意味に加えて、「死の恐怖
を感じない」という意味が含まれる。

 私は心気症。ときにささいな症状を気にして、「大病ではないか?」と思い悩む。大騒ぎするこ
ともある。が、このところ、少し、考え方が変わってきた。「生きられるところまで生きて、あとは
いさぎよく死のう」と。

 そう言えば、私の母は、介護度こそ「4」だが、健康そのもの。やや便秘症かなということはあ
るが、便秘症など、病気でも何でもない。そういう母を介護しながら、ときどき、こう思う。「母
は、死の恐怖を感じているのだろうか?」と。

 しかしもちろんそんなことは母には聞けない。また聞いたところで、意味のある言葉は返って
こないだろう。思考力そのものが、ない。


●健康寿命

 平均寿命に対して、「健康寿命」という言葉がある。これは「実際に健康に生きられる年齢」と
いう意味である。

 加齢とともに、病気になる人は多い。おおざっぱに言えば、平均寿命から10年ほど引いた年
齢が、健康寿命ということになる。

経済協力開発機構(OECD)の「社会指標報告書」(2005年)によると、健康寿命は、日本が
75歳で一番高く、ついでフランス72歳、ドイツ71・8歳、イギリス70・6歳の順だそうだ。

 つまり私たちが健康で生きられる平均年齢は、75歳ということらしい。それ以後は、がん、脳
卒中、狭心症・心筋こうそく、糖尿、高血圧などの病気にかかる確率が高くなる。

 75歳といえば、あと15年。「あと15年か」と思ってみたり、「15年しかないのか」と思ってみ
たりする。

 病気、病気の繰りかえしで、残りの10年を生きるのも、難儀なことだ。


●ある離婚

 私の友人夫婦が、最近、離婚した。40年近く、行ったり来たりしていた友人夫婦である。そ
の夫のほうに電話をするつもりで、電話をしたら、奥さんのほうが電話口に出た。

 夫である友人のほうが、家を出たらしい(?)。

 で、しばらく電話で話した。奥さんのほうは、明るく、サバサバした声だった。暗く沈んでいた
夫の声とは対照的だった。私はおかしな感覚にとらわれた。「私は、いったい、どちらの味方を
したらよいのか?」と。

 もともとは、私は夫の友人である。その夫が、結婚した。そして離婚した。本来なら、私も奥さ
ん(=元妻)のほうと縁を切らねばならない。日本的に考えると、つまり友人である夫に義理立
てするなら、そうなる。しかしこの40年の間に、たがいの間に別の関係ができてしまった。

 その夫婦が離婚したからといって、奥さんとの友人関係まで切れるわけではない。私もそのう
ち奥さんと世間話を始めてしまった。いつもの世間話である。

 こういうケースでも、私たちは、けっして相手の内情に、干渉してはいけない。質問をしてもい
けない。相手が言いだすまでは、こちらはだまっている。夫婦の関係ほど、複雑なものはない。

 私たちができることと言えば、相手をそっとしておいてやること。相手が何か助けを求めてき
たら、それにはていねいに応じてやること。……と思いつつ、いつものように、「また遊びにいく
よ」「遊びに来てね」というカンジで電話を切った。

 しかししばらくは遊びに行くことはないだろう。何となく、行きにくくなってしまった。


●田崎清忠先生

++++++++++++++

私は中学生のとき、毎晩、
NHKの英会話講座で英語の
勉強をしていた。

そのときの講師の先生が、
田崎清忠という名前の先生だった。

で、ある日、私は、その先生に
手紙を書いた。するとすかさず、
先生から、返事が届いた。

私は天にも昇るような気持ちで、
それを喜んだ。そのハガキは、
今でも、当時のアルバムの中に
張ってある。

私はますます「英語」が好きに
なった。

田崎先生、ありがとうございます!

++++++++++++++

 そののち田崎先生は、どうなったか。インターネットの検索エンジンを使って調べてみた。こう
あった。

『東京純心女子大学・田崎清忠(たざき・きよただ)学長。
東京高等師範学校(現筑波大学の前身)卒。フルブライト法によりミシガン大学英語研究所留
学。帰国後、NHKテレビ英語会話番組講師。応用言語学と視聴覚教育の手法を用いて独自
の語学番組を構築し、その功績により「放送文化基金賞」受賞。高円宮杯全日本中学校英語
弁論大会、およびホノルル市長杯全日本青少年英語弁論大会審査委員長。著書は「アメリカ
生活語彙辞典」(講談社)、「現代英語教授法総覧」(大修館)、「アメリカン・ライフ辞典」(研究
社)など多数。横浜国立大学名誉教授』と。

 そう言えば、田崎先生が、NHKの英会話講座の中で、ミシガン大学の応援歌を取りあげて
いたことを思い出した。「♪ヘイル・ツ・ザ・ビクロリー……」とか何とかいう歌である。今になっ
て、「ああ、あの先生は、ミシガン大学にいたのか」とわかった。

 私は毎夕、あの英語講座で英語を勉強しながら、まだ見ぬ、遠い国々に夢をふくらませてい
た。


●考えるという習慣

 この4、5日の間、ほとんどものを書いていない。それは先にも書いた。で、おかしな現象が
起きている。

 昨日から少しずつ、またものを書き始めた。が、どうも、調子が悪い。カンが戻らない。キー
ボードを打つ指も、どこか、のろい。考えがまとまらない。

 私にとっては、(考えること)イコール、(書くこと)。書いているときだけ、ものを考えることがで
きる。

 つまりたった4、5日のことだが、その4、5日の間に、(考えるという習慣)が、かなり鈍ったこ
とになる。スポーツにたとえるなら、4、5日、運動をさぼったため、体が動かなくなるのに似て
いる。

 そう言えば、そういうことはよく経験する。私はほとんど毎日自転車に乗っているが、やはり
4、5日さぼると、そのつぎには、自分の体をたいへん重く感ずる。仮に10日もさぼれば、体そ
のものが、動かなくなる。

 精神も体も、毎日鍛えてこそ、健康を保つことができる。それを改めて、今回、実感した。


●時計

 月に2、3回、本物の懐中時計が付録についている雑誌が発売になる。その雑誌を買うよう
になって、もう1年近くになる。

 率直に言って、モノは、よくない。すぐ壊れる。値段も、安くない。が、どういうわけか、書店で
見かけるたびに買ってしまう。今週も買ってしまった。

 今週のは、裏に、SL(蒸気機関車)の模様のついた時計である。やや大型の懐中時計だ
が、そのクロームメッキが美しい。布でみがいているだけで、うっとりとした気分になる。これは
どういう心理作用によるものなのか?

 手でいじっていると、快感につながるのは、指先からの刺激によって、脳内で、モルヒネ様の
物質(エンケファリン、エンドロフィン)が分泌されるからということがわかっている。

 たしかにこうしてモノをいじっているのは、気持ちよい。子どもでも、モノいじりをする子どもは
多い。指しゃぶりもその一つ。子どもはそうすることによって、自分の精神を安定させる。

 それにもう一つ。最近の研究によれば、こうしてモノをいじるのは、ボケ防止のためにもよい
そうだ。


●本当かな?
 
 青森県のある漁村に、小さな舟がたどりついた。K国からの脱北者らしいという。しかしあん
な小舟で、800キロ(中日新聞報道)もの海を渡ることができるのだろうか。写真で見るとこ
ろ、幅こそやや広いが、浜名湖でよく見かける釣り船よりも小さい。

 報道によれば、6日間(実際には5日間)をかけて、K国の東海岸から、日本へやってきたと
いう。単純に計算すれば、800キロ÷(5x24時間)=6・7キロ、つまり時速6・7キロで日本へ
やってきたことになる

 さっそく何人かの識者たちは、(人道)という言葉を使って、脱北者らしき人たちを保護すべき
と主張している。

 しかし本当に脱北者なのか? そう考えてよいのか? このところこの浜松でも強風が吹き
荒れていた。天候も不順で、変わりやすかった。現在、事情を調査しているということなので、
そのあたりも、当然調べていることと思う。しかしあんな小舟で、800キロ!?

 「北朝鮮には人権がないので出国を決めた。はじめは韓国へ行く予定だったが、軍事境界線
の警備が厳しいので、日本に向かった」(ヤフー・ニュース)と供述している点も、あやしい。

 人権があるかないかということは、K国を離れてはじめてわかること。K国から日本へやって
きた直後に、(人権)という言葉を使うところがおかしい。

 どうも、私には、納得できない。いや、それ以上に、「?」と思うのは、いとも簡単に、小舟であ
るにせよ、K国の船が、日本の港に着いてしまったこと。もしそれが武装船だったら、どうする
のか? 着いたところが青森の漁港ではなく、原子力発電所の近くだったら、どうするのか?

 日本の防衛は、だいじょうぶなのか? 私は、むしろ、そちらのほうを心配する。

 韓国では今、偽装脱北者が問題になっている。脱北者のフリをして、K国から韓国に渡り、韓
国内の脱北者をスパイするという脱北者である。(人道)も結構だが、ことは慎重に!

(付記)若いころ、私も浜名湖でよく釣り船に乗った。ある時期は毎週のように乗った。そんな
釣り船でも、湖が少しでも荒れると、航行不能になる。いわんや、日本海! 「脱北者」と決め
てかかる前に、少し、疑ってみたほうがよいのでは? K国という国は、あの手この手、ありと
あらゆる手を使って、日本をだましてきた国である。それを忘れてはいけない。


●畑作

 前にも書いたが、このところ、畑をいじるのが、楽しくてならない。ヒマさえあれば、畑のそば
に立って、作物が大きくなるのを見ている。少しずつだが、収穫も始まった。

 どうしてだろう? 若いころには感じなかった新鮮さを感ずる。このことは、ワイフにしても同じ
らしい。私が畑のそばで雑草を抜いていたりすると、ワイフもすぐやってきて、手伝ってくれる。

 ひとつには、人間相手のつきあいに、このところ少し、疲れを感じているせいかもしれない。
いろいろあった。今も、ある。そういう意味では、野菜は、ウソをつかない。いつもそこに、ある
がまま。文句も言わない。私が世話をしなければ、そのまま枯れてしまう。


●介護度4

 先日、近くのケア・センターへ行って、今後の母のことについて、いろいろ相談した。日によっ
てもちがうが、このところ、母は、寝たきりに近い状態になってきた。できるだけ私の家で世話
をしてやりたいが、このところ、ハッと思うような事故がつづいている。

 先日は、ベッドとパイプの間に、体ごとさかさまに落ち、その間に頭をはさんでしまった。部屋
中に、歩きやすいようにと、パイプを張り巡らしたのが、かえってまずかった。たまたまワイフ
が、それを見つけたからよかったようなものの、あのまま、たとえば一晩も放置しておいたら、
母は、死んでいたかもしれない。

 このことを義理の兄に相談すると、義理の兄は、こう言った。「それは、あぶなかったねエ〜。
へたをすれば、あなたが過失致死罪で告訴されるところだったよオ〜」と。

 ほかにもある。

 今、母のベッドは、東側の窓にぴったりとくっつけて配置してある。朝日が、ベッドに届くように
と考えて、そうした。

 そのため母は、自分で自由に窓を開け閉めできる。それはそれでよいのだが、夜中に、まち
がえて、窓をあけてしまうことがあるらしい。窓には、外から網戸、ガラス戸、それに障子戸(障
子は張ってない)の三つの戸がはまっている。

 たとえば掛け布団をベッドの下に落としたりすると、母は、自分でその掛け布団を拾いあげる
ことができない。そういう状態のとき、窓があいたままで、急に外気が冷え込んだとしたら、どう
なるか? 実は、一度だが、そういう事故があった。

 幸いにもそのときは、軽い風邪程度の症状ですんだが、事故は事故。

さらに最近では、食事を母の部屋に、そのつど運んでいる。が、食べた物を、よくのどに詰まら
せるようになった。ガッ、ガッという咳払いの声がするたびに、私たちは母の部屋にすっ飛んで
行く。

 で、無線の呼び鈴を取り付けたが、これはうまくいかなかった。何でもないことで、私たちを呼
んだりした。日中ならまだしも、真夜中でも、それをした。そのため私たちは、睡眠不足の日が
つづくようになった。が、その一方で、肝心なときには、呼び鈴のことを忘れてしまっていて、そ
れを使わない、などなど。

 ともかくも、そういうことが重なったので、ケア・センターへ相談に行ってきた。

ケ「あとは、ベッドの横で添い寝をするしかありませんね。隣の部屋にでも、寝泊まりできませ
んか」
私「それはできないです……。隣の部屋といっても、事務機器のある物置部屋になっています
し……」
ケ「介護度4ともなると、自宅介護は、無理ですよ」
私「やはり、そうですかア」と。

 ……とは言っても、空き部屋がないかぎり、母は入居できない。センターの人の話では、「早く
て、数か月待ちです」とのこと。

 重〜イ気分になったところで、私をワイフは、ケア・センターをあとにした。


●ワイフのパソコン

 このところワイフのパソコンが、急に、調子が悪くなってきた。OSは、Me。そこで調べてみる
と、メモリーが64MBしかない!

 ギョッ!

 「お前のパソコンは、メモリーが64MBしかないぞ。これではパソコンは、動かない」と。

ワ「あなたのはいくつ?」
私「ぼくのは、3GB!、だぞ。わかりやすく言えば、ぼくのは、3000MB。お前のは、64MB.
3000と64のちがいだ。わかるか?」
ワ「それじゃア、無理ねエ……」と。

 ということで、今日(6月3日)の午後、ワイフと近くのパソコンショップへ行って、メモリーを買
ってきた。値段は、4000円と少し。

私「これで256MBになったから、とりあえずは、だいじょうぶ」
ワ「これで動くようになったの?」
私「まあね。しばらくは問題ないだろう」と。

 ついでに私がもっていた、ディスク掃除用のソフトと、メモリー掃除用のソフトの2つを組み込
んでやった。この2つのソフトを組み込めば、それなりに快適に動くはず。

 で、そのあとワイフを見たら、どこかうれしそうだった。しんみりとした様子で、自分のパソコン
をながめていた。

わかる、わかる、その気持ち! ワイフもいつの間にか、パソコンおたくになりつつあるようだ。


●誠司と芽衣(孫)と、テレビ電話で話す

 ワイフと、それに犬のハナを連れて、今日は、中田島砂丘へ行ってきた。そこで弁当を食べ
た。

 で、帰ってきてから、アメリカに住む二男夫婦に電話をした。「これからスカイプしよう」と。

 スカイプというのは、無料で楽しめる、インターネット電話をいう。もちろん映像も送れる。わ
かりやすく言えば、無料のテレビ電話。

 誠司(孫)は今、私が毎回送っている、『ディズニーランド』のおもちゃに夢中だという。それを
聞いて、うれしかった。ついでに誠司が、「♪小さな世界」の歌を歌ってくれた。口笛も吹いてく
れた。

 涙が出そうなほど、感激した。ホント!

 私も、すっかりジジバカになってしまったようだ。


●6月xx日

 もうすぐワイフの誕生日。

 「何か、お前の夫が喜ぶようなものを買ってあげようか」と声をかけると、「そんなもの、いらな
い」だってエ!

 ハハハ。


●神様、仏様

+++++++++++++

私のように信仰をもたないものは、
いつも、孤独と同居しているような
もの。

何かの願いごとがあっても、
「神様……」「仏様……」と
祈ることさえできない。

まあ、祈ったところで、どうにも
ならないということはわかっている。

しかしそれでも、祈りたいときがある。

+++++++++++++

 人間というのは、本来的に弱い生き物なのか。それとも、私自身が弱いのか。それはよくわ
からないが、ときどき、(本当は、しょっちゅう)、神や仏に祈りたくなるとがある。

 しかし祈る前に、祈る対象がなくて、そこでやめてしまう。で、そのことをワイフに放すと、こう
言った。

 「祈りたければ、祈ればいいのよ。天に向かってだって、祈ることはできるわよ」と。

 ナルホド!

 そこで私は、こう祈った。「……(秘密)……、ナンマイダ、アーメン、アッラー」と。

 「何、それ?」とワイフが聞いたので、「仏様と神様、ついでにイスラムの神様にも祈った」と。

 こういう私のことを、世間の人は、バチ当たりと呼ぶ。事実そのとおりだから、私は逆らいよう
がない。

 これから先、もう一度、宗教についても、いろいろ考えてみたい。

(以上、2007年6月3日の日記でした。バカ話ばかりで、すみません!)


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1948)

●メタボリック症候群

++++++++++++++

メタボリック症候群について、
ここで勉強してみたい。

私の年代のものにとっては、
深刻な問題である。

++++++++++++++

 メタボリック症候群……つまりひとつひとつの症状は、さほどでなくても、それが複合的に合
算されると、重大な病気につながるという。

 メタボリック症候群の概念としては、つぎの3つがあげられている。

(1)高血糖…空腹時の血糖値が110ミリグラム以上
(2)高血圧…血圧130以上、または最小が85以上
(3)血中脂質…HDLコレステロールが、40ミリグラム未満

 こうした症状に合わせて、腹囲が、男性で85センチ以上、女性で90センチ以上あれば、「メ
タボリック症候群の疑いの強い人」、つまり有病者とみなされる。これらの人は、脳卒中、心筋
梗塞、糖尿病および糖尿合併症などの生活習慣病にかかる確率が、ぐんと高くなる。

 ……ここまで書くと、ほとんどの人は、「そう言えば、あの人も」「この人も」と思うにちがいな
い。ひょっとしたら、あなた自身もそうかもしれない。厚生労働省の調査によれば、40〜74歳
の中高年で、メタボリック症候群の有病者は、940万人。予備軍まで含めると、1690万人に
もおよぶという(06年)。

 1690万人といえば、日本の人口のうち、約6分の1。子どもや若年層をのぞけば、その年
齢の男性のうち、2人に1人、女性のうち、5人に1人の割合ということになる(朝日キーワー
ド)。

 2人に1人だぞ!

 そこでどうすれば予防できるかということだが、厚生労働省は、具体的に、「週2日以上、1回
30分以上の運動」を提唱している。「その程度でいいのか?」と思いたいが、しかし実際にそ
の程度の運動でも、している人は、全体の30%程度にすぎないという(厚生労働省の全国調
査、04年)。

 週2回、30分以上の運動!

 私自身は、とてもその程度では足りないと思っている。もし今の私が、週2回、30分程度の
運動量にしたとするなら、数か月を待たずして、私は動けなくなるのではないかと思う。10日前
後、運動をサボっただけで、体はガタガタになる。当然、頭の働きも鈍くなる。

 が、本当にこわいのは、内臓脂肪だそうだ。

 食事のとりすぎや、運動不足がつづくと、腸や肝臓を支えている腸間膜に脂肪がたまる。こ
れが内臓脂肪と呼ばれる脂肪である。

 この内臓脂肪がふえると、体内のホルモンのバランスが崩れ、善玉ホルモンが減り、血糖値
や血圧をあげるという(同、朝日キーワード)。そしてそれが生活習慣病を加速させる。

 では、運動量をふやせばそれでよいかというと、どうも、これまたそうでもないようだ。

 私の知人に、今年65歳になる人がいる。60歳で公社を定年退職してからというもの、ほとん
ど毎日、ゴルフの素振り練習をしている。が、でっぱった腹は、そのまま。いっこうに体重が減
る気配を見せていない。

 むずかしい話はさておき、要するに、細胞の中にまで脂肪が入り込んでしまっていて、少しく
らい運動をしたところで、どうにもならないということらしい。そういう人も多い。つまりこの問題
だけは、そうなってからでは、すでに遅いということになる。

 できれば40歳という、危険年齢を過ぎるあたりから、心して、予防しなければならない。もっ
と具体的に言えば、そのころから「運動」を、習慣として、自分の生活の中に定着させる。50代
や60代になって、あわてて運動を始めても、手遅れ。

 ……というようなことを、若い人たちに言っても、ピンとこないかもしれない。30代、40代の
人たちにしてみれば、50代、60代というのは、遠い未来のことかもしれない。しかしこれだけ
は覚えておくとよい。

 そう思っているあなたにしても、あっという間に、50代はやってくる。60代はやってくる。10
年などという年月は、星がまばたきするその瞬間に、過ぎ去っていく。そしてあいかわらず、そ
のときも、私がここにいて、あなたがそこにいる。

 メタボリック症候群……この聞きなれない病名が、ザワザワと耳の中に飛び込み始めたの
は、ここ数年のことである。しかし考えてみれば、そんなことは、昔から常識だった。食べすぎ
る一方で、運動不足が重なれば、だれだって、体をこわす。要は、そういうことらしい。

 そう言えば、少し前、こんなことを言った文部大臣がいた。そのとき書いた原稿を、ここに再
掲載する。

+++++++++++++++

●教育長の任命制度

 教育再生会議なる(会議)の動きに、みなさんも、注意したらよい。どうも、おかしい? どこ
か、ヘン? 各地で行われた公開討論会も、やらせだったという。しかも出てくる答申が、どれ
も「?」。各県の教育長にしても、任命制度にするとか、しないとか。

 完全に、時代の流れに逆行している。(欧米では、教育は自由化の方向に向っているぞ!)

 どうして中央官僚たちは、こうまで日本人を管理したがるのか? むしろ逆で、文科相を、選
挙で選ぶようにしてはどうか。地方の市町村クラスの教育長が、選挙で選ぶ、とか。

 I文科相に失言には、うんざり。

 「大和民族がずっと日本の国を統治してきたことは、まちがいない」「日本はきわめて、同質
的な国」(長崎県N町での自民党支部大会・07年2月25日)と。

 その上で、こんな発言まで!

 「どんなに栄養があっても、毎日バターばかり食べていれば、メタボリック症候群になる。人権
は大切だが、尊重しすぎたら、日本社会は、人権メタボリック症候群になる」とも。

 とんでもない発言だが、そういうことを、文科相という、(知的世界のトップ)に立つ人が口にす
るから、恐ろしい。そうでなくても、日本人がもつ人権意識は、低い。低いまま、こういうことを
堂々と言ってのける。文科相というより、政治家の知的レベルの低さに、ただただあきれる。

+++++++++++++

「どんなに栄養があっても、毎日バターばかり食べていれば、メタボリック症候群になる」そう
だ。

 みなさん、気をつけよう!

++++++++++++

3年前に書いた原稿を
手直してして、お届けします。

++++++++++++

● 悲しき束縛(?)

静岡県K町といえば、昔から、お茶の産地として知られたところである。そのK町にあ
る先生(小学校教師男性)が、こう言った。

 「このあたりでは三世代(同居家庭)が、ふつうです。そういうこともあって、いまだ
に長子相続の考え方が、根強く残っています。

 農家の長男だと、『君は、おとなになったら何になる?』と聞いたりすると、みな、『ぼ
くは、茶畑を継ぎます』などと答えるんですよ。まだ小学二年生の子どもが、ですよ。そ
れも直立不動の姿勢で、そういう言うのですよ」と。

 小さいうちから、祖父母から、「お前は、おとなになったら、この家の農業を継ぐことに
なる」と言われつづけているのだろう。それはしかたのないことかもしれないが、問題は、
女性。母親。嫁。嫁といっても、そのための嫁であることも多い。

 「子どもを産めないため、離婚させられた女性もいます」とも。

 同じようなことは、このH市周辺でも起きている。周辺の農村へ行くと、あと取りが、
そこの家庭でも深刻な問題になっている。代々つづいたミカン農家。しかしその一方で、
そのあとを継ぎたがらない息子たち。

 加えて、一昔前のように、老人たちがいばる時代は、もう去った。どこの家庭でも、嫁
と姑、嫁と舅(しゅうと)の問題をかかえている。一触即発という家庭も少なくない。あ
るいは、今では、同じ敷地内別居も、当たり前。

 が、それはさておき、こんなこともある。

 そのため祖父母たちが、息子や娘たちに、(学問をつけさせる)ことに反対しているとい
うのだ。

 「勉強なんかできると、かえって農家を継ぎたがらなくなってしまうから、勉強させて
ほしくない」と。

 2004年の今、信じられないような話だが、これは本当の話。だからその祖父母は、
その先生に、こう言ったという。「うちの孫は、K農業高校でじゅうぶん。それ以外の道は、
考えていない」と。

 それぞれの家庭には、それぞれの事情がある。そしてそれぞれの親は、それぞれの思い
の中で、子育てをしている。

 しかし子どもの人権を考えるなら、日本はまだまだ後進国。甘やかしたり、好き勝手な
ことをさせることが、子どもの人権を守ることだと考えている人は多い。そのため「日本
は、子どもの人権を守っている」と、誤解している人は多い。

 子どもの人権を守るということは、子どもの意思や考え方、さらには、その生きザマを
尊重すること。……と考えて、私は、ここでハタと考えてしまった。

 子ども自身が、「ぼくは、農家を継ぎます」と言ったばあいは、どうなるのか、と。

 しかしこのばあいでも、子どもは自分で考えてそう言っているのではない。言わせられ
ているだけ。つまり子どもの人権を守るということは、こうした押しつけがあってもいけ
ないということになる。

 もしこのことがわからなければ、あのK国を見ればわかる。

 幼稚園児たちが、鉄砲のおもちゃをもって、「将軍様を死守します!」などと、合唱して
いる。何でもあのK国では、日本人を見ると、子どもはそれだけで、泣き出して逃げてい
くという(「週刊文春04年1月」)。

 そういう子どもの姿を見て、あなたは、子どもが本当に自分でそう考えて、そう言って
いると思うだろうか。答は「ノー」のはずである。

 これから先、しばらくこの「子どもの人権」について、考えてみたい。
(040123)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●他人の死を笑わない

 こんなことは、30代や40代のころは、思ってもみなかった。しかし50歳になるこ
ろから、おかしな感情が生まれるようになった。それには、いろいろいきさつがあるが、
それについては、あとから書くとして、こんな感情だ。

 「死」というものが、身近になったせいもあるのかもしれない。たとえばだれかが死ぬと、心の
どこかがふと、軽くなったように感ずるようになることがある。とくに、どこかうるさく感じていた人
が死ぬと、そうだ。

 その死を喜ぶというわけではない。何というか、気が楽になるのである。

 たとえば近所に、口うるさい人がいたとする。あれこれ私の生活に干渉してきて、あれ
これ言ってきたとする。そういう人が死ぬと、心のどこかで「やれやれ」と思うのである。

 若いころは、そういうふうに、人の死を考えたことがない。「死」そのものが、無縁の世
界のできごとだった。しかし自分の「死」を考えるようになったとき、同時に、他人の「死」
をも考えるようになった。それまでは(ありえない死)だったのが、(ありえる死)になっ
てきた。と、同時に、「死」を、問題を解決するための方法の一つと考えるようになった。

 極端な言い方をすれば、「あいつは、もういい年だから、もうすぐ死ぬ」「早く死ねばい
い」と。そういうふうに思うかどうかは別として、ほうっておけば、それに近い思いにな
るのではないかと思えるような、思い方である。(回りくどい言い方で、すみません。)

 実は、今朝もそうだった。

 ワイフが、「最近、あのMさん、姿を見ないけど、どうしたのかね?」と言ったときのこ
と。Mさんというのは、何かと問題のある人だった。ガンコジジイというか、いじけてい
るというか、近所でも、嫌われ者として名が通っている人である。

 そのときふと、「そう言えば、先月、救急車が止まっていたけど、何かあったかもしれな
いね」と思った瞬間、「早く、あんな人は死んでしまえばいい」と、心のどこかで思った。
……思ってしまった。

 こうしたものの考え方は、概して言えば、老人特有の考え方といってもよい。子どもの
ころ、近所に、そういうことばかりを言っている老人(女性)がいた。

 「あの人は、ああいう人だから、決して、いい死に方はしないよ」
 「あの人が死ぬと、喜ぶ人も多いはず」
 「あの人が死んで、せいせいした」
 「憎まれっ子何とかと言うけど、ああいう人にかぎって長生きするもんだよ。いやな世
の中だね」と。

 私の耳に、そういう言葉が残っている。しかしそのときは、私は、「何て、不愉快な言い
方をするのだろう」と思った。子どもながらに、不愉快だった。「人の死を楽しんでいるみ
たいだ」と。

 しかしそれから40年以上。いつしか私も、同じように考え、同じように思い、そして
同じような言葉を口にするようになった。つまり私自身が、いつの間にか、その(いやな
言い方をする人)になりつつあるのを知った。

 この考え方は、たいへん危険な考え方である。

 他人の死を、楽しむということは、自分の死を、だれかに楽しまれることを意味する。
しかしここで「危険」というのは、そういうことではない。

 こんな老人がいた。

 その老人はことあるごとに、自分より先に死んでいく人を、「あわれなものだ」「ザマー
ミロ」と喜んでいた。葬式などでは、それらしく、しおらしい顔をしていた。が、家に帰ってくると、
「死んだ」「死んだ」「あいつは死んだ」と喜んでいた。

 が、今度は、自分の番になったときのこと。玄関先で倒れたのだが、最後の最後まで、「救
急車を呼ぶな」とがんばった。その老人は、自分が笑われると思った。……らしい。近所
の人は、「他人にそこまで気を使うのかね?」と言ったが、そうではなかった。

 他人の死を笑う者は、他人も、自分の死を笑うと思っている。(本当は、だれも笑ってい
ないのだが……。)そう、自分で、思いこむ。

 つまりこうして、他人の死を笑う人は、自分で自分を、窮屈で、暗い世界へと、追いこ
んでいく。

 聖書では、『憐れみ深い人は、幸いなれ』と教える。それだけ他人の憐れみをうけるから
である。

 この言葉を反対に解釈すると、『他人に冷たい人は、不幸である。冷たくした分だけ、い
つか自分も冷たくされる』ということになる。

 だから決して、他人の死を喜んだり、笑ったりしてはいけない。楽しみにしてはいけな
い。他人の死は、扱いようによっては、酒の肴(さかな)にすら、なる。だからこそ、他
人の死をもてあそんではいけない。

 ある知人は、私にこう言った。

 「林君、ぼくはね、新聞でも、毎日、死亡者欄だけは、欠かさず見ているよ」と。「どう
して?」と私が聞くと、「いえね、商売柄ね」と。

 つまり彼は、そういう形で、他人の死を楽しんでいた。「こいつは、56歳で死んだのか」
「この人は、90歳か。文句ないよな」と。で、その彼がどうかというと、実に醜悪な顔
つきをしていた。つまり、そうなる。

 ワイフが、そう言ったとき、私はふと、「Mさんは、もう長くないかもよ」と言いかけた
が、やめた。そして少しだけ、自分の本心をねじまげて、「何ともなければいいけど。あん
な人でもいなくなると、さみしくなるからね」と。

 つまりこういう形で、自分の中にひそむ、邪悪な気持ちと戦うしかない。私はもともと、
生まれも育ちもよくない。性格もゆがんでいる。このところ、グチばかり言っている。顔
つきも、ますます醜悪になってきた。

 しかし子どものころ見た、ああいう心の貧しい老人にはなりたくない。だから今から、
そうならないよう、戦うしかない。
(040123)

++++++++++

【付記】

この原稿を書いてから、3年と5か月になる。で、今、読み返してみると、幸いなことに、私の考
え方が大きく変化したのに気づく。

 私はたしかにあのとき、「早く、あんな人は死んでしまえばいい」と、心のどこかで思った。そ
れはよく覚えている。

 しかし今、そう思った自分自身を、不愉快に思う。もし今、どこかのだれかが、こんな文章を
書いたら、「何てやつだ!」と思うかもしれない。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司※

●イランの核兵器開発問題

+++++++++++++++

イランにも、もう一人、国際的な
おバカさんがいる。

アハマディネジャド大統領という
大統領だが、その大統領が、こう
言った。

「イスラエル滅亡の秒読みが始ま
った」(ロイター)と。

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 K国の核開発問題も深刻な問題だが、それ以上に深刻なのが、イランの核開発問題。イラン
のアハマディネジャド大統領はこう言った。

 「イスラエル滅亡の秒読みが始まった」(ロイター・最高指導者ホメイニ師の命日である4日を
前に演説)と。

 もっともこうした報道というのは、全体の一部にすぎない。どういう流れの中で、アハマディネ
ジャド大統領がそう言ったか、それを知らないと、その真意を知ることはできない。できない
が、しかしそれにしても、過激。イスラエルに対する宣戦布告ともとれる発言である。

 で、その上で、アハマディネジャド大統領はこうつづけたという。「われわれは核(開発)の権
利をわずかなりとも手放すつもりはない」と。

 K国とちがい、イランには石油という資源がある。開発能力も高い。しかもイランは、イスラエ
ルとの戦争ということにでもなれば、(アラブ)という世界を、そのまま自分の味方につけること
ができる。

 で、ことの発端は、イスラエルがレバノンに侵攻したときから始まる。イスラエルは、昨年(06
年)の7月、ヒズボラ(イスラム教シーア派民兵組織)への報復を目的として、レバノンに侵攻し
た。ヒズボラは、もともとは、イランが創設した民兵組織と言われている。

 その流れの中で、今回、アハマディネジャド大統領は、「イスラエル滅亡の秒読みが始まっ
た」と。

 実はK国も、日本に対して、たびたび同じようなことを言っている。「日本は存在してはならな
い国」とか、あるいは「核兵器開発は日本向けのもの」とかなど。日本はこういう国だから、K国
など相手にしていない。しかしイスラエルはちがう。かねてからイランへの単独攻撃を示唆する
発言を繰りかえしている。

 が、もし、イスラエルがイランを攻撃するようなことにでもなれば……。それこそ中東地域は、
一気に、不安定になる。日本とて無傷ですまない。90%近い原油の輸入を、この地域に依存
している。

 さらにやっかいなことに、そのイランは、水面下でK国と、深く結びついている。K国はイラン
にミサイル技術を提供し、イランとK国は、恐らく、相互に核兵器開発技術を提供しあってい
る。

 本来なら、アメリカ、ロシア、中国の超大国が結束して、こういう問題に対処しなければならな
い。が、アメリカとロシアは、現在、最悪の状態。アメリカと中国の関係も、このところ急速に悪
化している。簡単に言えば、どこでどう戦争が始まっても、おかしくない。今はそういう状態とい
うことになる。

 戦場は、イランか? 台湾か? それともK国か?

 アメリカもロシアも、そして中国も、それぞれの相手の国を、何十回も粉々にできるだけの核
兵器を保有している。戦争のし方もちがってきた。当然のことながら、平和に対する考え方も変
わってきた。

 以前は、「戦争がない状態」を、「平和」と呼んだ。しかし今は、「戦争状態にありながら、戦争
を自制した状態」を「平和」と呼ぶ。しかしその自制も、今は、まさに風前の燈(ともしび)。

 日本にとってというより、世界にとって、もっとも好ましいシナリオは、イランについて言えば、
アハマディネジャド大統領が倒れ、民主勢力がイランの実権をにぎること。K国ついて言えば、
金xx政権が自己崩壊し、K国が国連の管理下に入ること。

 日本は、そういう方向性を描きながら、これからの外交政策を展開していく。

【K国問題】

●アメリカの失敗

(失敗1)K国の核開発問題の解決を、中国に頼ったこと。中国にしてみれば、K国の核兵器な
ど、痛くもかゆくもない。何ともない。中国が何よりも恐れたのは、K国が自己崩壊して、大量の
難民が発生すること。中朝国境を越えて、中国になだれこむこと。

(失敗2)韓国の「太陽政策」(金大中)、つづく「融和政策」(N大統領)に、明確な異議を唱えな
かったこと。そのつど韓国の大統領の言葉巧みな説得に動かされて、K国に妥協してしてしま
ったこと。韓国によるK国への資金援助を、容認してしまったこと。

(失敗3)ヒル氏という、あまりにも育ちのよい優等生を、6か国協議の当事者にあててしまった
こと。K国は、そんな甘い国ではない。ヒル氏流の道理が通ずるような相手ではない。はっきり
言えば、ヒル氏の手に負えるような相手ではない。

(失敗4)ケリー氏やボルトン氏など、現実派の実務者を、ブッシュ大統領の周辺から排除して
しまったこと。「強硬派」と言う人もいるが、国際政治は、どこまでも現実的でなければならな
い。現実的であるということと、強硬ということは、まったく別のことである。

(失敗5)イラク政策の失敗で、ブッシュ大統領が弱気になってしまったこと。自信喪失の状態と
いってもよい。ついで、日本を裏切って、米朝の2か国の間だけで、秘密交渉をしてしまったこ
と。これはライス国務長官の大失態と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●金は天下の回りもの

自分から自分を、どんどんと取り除いて
いく。自分を飾っているものを、どんどんと
取り除いていく。名誉、地位、そして財産……。

最後に残るのは、自分の肉体と魂。
ふと、そういう自分を見ながら、今まで
こうして無事に生きてこられたことを、
感謝する。

だれに感謝するというのでもない。
自分の(命)に感謝する。(運)に
感謝する。

いろいろあった。いろいろやってきた。
どうということのない人生だったが、
「まあ、こんなもの」と、自分に
言って聞かせる。自分をなぐさめる。

ところでこの年齢になって気がついたが、
「金(マネー)」の世界から縁を切る
ことは、本当に、むずかしい。いくら
切ろうとしても、向こうからペタペタと
張りついてくる。

いまだに「金(マネー)」の毒気が、
身に深く、しみついている。わずかな
「金(マネー)」に執着して、悶々と
魂をわずらわす。

言い忘れたが、名誉や地位など、私には、
もとから関係ない。そういう世界とは、
20代のはじめに、縁を切った。

だからということでもないが、その分だけ、
私のエネルギーは、「金(マネー)」へと
向いた。それほど意識したわけではないが、
結果的にみると、そういうことになった。

が、加齢とともに、体力は衰え、気力も
衰える。当然のことながら、収入も減る。
とたん、またまた、あの毒気。何一つ
不自由はないはずなのに、その毒気が、
私を不安にする。不安定にする。

今、中国では、「金(マネー)」の亡者たちが、
狂ったように、株投資を繰りかえしていると
いう。ときどきテレビのニュースなどでも、
そういう様子が紹介される。

私たちはそれを笑って見るが、しかしどうして
それを笑うことができるだろうか。その姿は、
20年前、30年前の、私たちの姿、そのもの。

もちろん「金(マネー)」がなければ、人は
不幸になる。それはわかる。しかし幸福は、
「金(マネー)」では買えない。心の豊かさは
「金(マネー)」では買えない。さらに言えば、
命を「金(マネー)」では買うことはできない。

にもかかわらず、その毒気で、心をわずらわす。
どうしてか? 

この日本でも、「金(マネー)」が、一般社会で
流通しはじめたのは、江戸時代も中期になって
からだという。

それまでは、「金(マネー)」は、特殊な存在だ
った。私の印象では、今でいう、「債権」のよう
なものではなかったか。証券会社に預けた証券
のようなものではなかったか。

となると、それまでの人たちは、今の私たちと
は、かなりちがった生活をしていたはず。生きる
基準そのものがちがっていた。……となると、
その基準は、何だったのか。どこにあったのか。

そこで再び、今の中国に、思いをはせる。
私が見たニュースでは、人々が、狭い部屋で
ひしめきあって、株価を示す電光掲示板を
じっと見つめていた。ある証券会社の窓口での
光景だった。

それが彼らにとっては「仕事」かもしれないが、
しかしだれも、それを仕事とは思わない。また
そんなことをしても、仕事の実感を得ることは
できない。

つまり私たちは、そういう中国の人たちの延長
線上にいる。なりの果てと言ってもよい。

が、一度体にしみついた毒気を取り除くことは、
容易なことではない。体のシンの、そのまたシン
にまで、しみついている。

あああ……。この毒気を取り除くためには、
いったい、どうすればいいのだ。方法があると
すれば、、うんざりするほどの「金(マネー)」を
手にすること。100億円とか、1000億円
とか……。

しかしそれで本当に、魂は解放されるのか?
「金(マネー)」でけがされた心は解放されるのか?
かえって「金(マネー)」の奴隷になるだけでは
ないのか?

ここらが私の潮時かもしれない。人には、それ
ぞれ潮時というものがある。満ち潮になるときも
あれば、引き潮になるときもある。

つまりあるがままの自分を認め、それを受け入れる。
そして自分自身に感謝する。

今、ここに生きていることに感謝する。ともかくも、
体が動くことに感謝する。ものを考えることが
できることに感謝する。

すべてを、ここを基準にして、ものを考える。
それがこの私から、「金(マネー)」という毒気を
抜く唯一の方法だと、今の私は、そう思う。

【追記】

 昔、「信じられるのは、金(マネー)だけだ」と言った人がいた。かなりの実業家で、市内に、資
金運用のためだけの事務所さえもっていた。私はその事務所で、その人のために本を代筆し
ていた。

 当時は、その人がたいへん魅力的に見えた。電話1本だけで、10〜100万円単位のお金
を、右から左へと動かしていた。今で言う投資家の1人ではなかったか。市内で結婚式場や、
アパートを経営していた。

 そうそう当時話題になっていた、キュー・エイ・カンという人の書いた経営指南書の大ファン
で、私にもそれを読めと、何冊かくれたことがある。

 もちろん話すことといえば、金儲けのことばかり。顔をあわせれば、すぐお金の話になった。
私の知らない世界の話だけに、私は、その人に話に夢中になった。プラス、小遣いも、よくくれ
た。豪華な料理も、毎週のように食べさせてくれた。

 しかしその人は、そのあと、5、6年で、没落。一つの会社が不渡りを出したのをきっかけに、
あとは連鎖的に、すべての会社を失ってしまった。聞くところによると、その人はそのあと、精
神病院に入院したという。私はその話を聞いて、「ありえる話だな」と思った。その人は、それま
で信仰してきたもの、すべてを失った。

 そのあと一度だけ会ったことがある。どこかのバス停からバスをおり、そのまま前に向かって
歩いていた。そのときは、まるで別人のようになってしまっていた。

 「金の亡者」……こういう言葉は好きではないが、(というのも、嫉妬心もないわけではないの
で)、「金の亡者」と呼ばれる人は多い。そういう人というのは、うまくいっているときは、それな
りに元気で、やり手に見える。しかしその「金(マネー)」を失うと、生気そのものをなくす。

 (信仰)を抜くということは、そういうことをいう。

 昔からこう言うではないか。『金(マネー)は天下の回りもの』と。そんな不確かなものに、自分
の命をかけてはいけない。またその価値はない。……と自分に言って聞かせて、今日もがんば
ろう!


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●毒気を抜く

どうせ死ねば、私どころか、
この宇宙もろとも、私から消える。

私が生まれる前の状態に、私はもどる。
「もどる」という言い方はおかしいが、
ともかくも、そういう状態になる。

そんな昔のことでなくてもよい。
私の近くにいた、叔父や叔母でもよい。
あるいは知りあいでもよい。

みな、生きているときには、
それなりにがんばって、生きた。
財産をためた人もいれば、
そうでない人もいる。
しかし財産をためた人にしても、
そういう人は、何を残したか?
今、何が残っているか?

みんな、煙のように消えてしまった。
わずかな財産にしがみついた人も、
そうでない人も、みんな煙のように
消えてしまった。

もちろんお金は必要だ。
生きていくためには、必要だ。
しかしいくらお金に執着しても、
お金のために生きてはいけない。

それがわからなければ、あの
「おしん」を見ればよい。

おしんは、ある時期までは、
生きるために、お金を稼いだ。
が、ある時期からは、お金を
稼ぐために、生きるようになった。

わかりやすく言えば、「金の亡者」
になった。

おしんの息子の代になって、
その息子は、年商数千億円という
規模の商売をするようになった。

それはそれで、この資本主義社会
においては、すごいことだと思う。

しかしその会社は、倒産した。
おしんが築きあげた世界は、
息子の代で、露と消えた。

だからといって、それが空しい
と言っているのではない。

ただそのとき、おしんのドラマを
見ながら涙した人も、その会社が
倒産したとき、涙する人はいなかった
ということ。

「金(マネー)」という毒気に染まると、
自分が見えなくなる。自分を見失って
しまうこともある。

どこかで一線を引きながら、
自分をしっかりと保たないと、
あっという間に、その毒気の餌食に
なってしまう。

それはそれで構わないが、つまり
人、それぞれだが、しかし同時に、
その人は、大切な自分の人生を
無駄にすることになる。無駄にしない
までも、無駄な道を大回りすることに
なる。

……ということで、ここまでは
私にもわかる。が、その毒気を抜くのは、
むずかしい。本当にむずかしい。

幸か不幸か、私という人間は、
そういう時代に生きてしまった。
「金(マネー)」がすべてという
時代に生きてしまった。

ところで昨日(6月4日)、中国の
上海株は、大暴落を記録した。

8%以上という大暴落である。
たった一日で、すべての財産を
なくした人も多いことだろう。
私には、彼らの悲鳴のようなものが、
聞こえてくる。

さあて、今日の日本の株価はどう
動くか? 注視しよう!

++++++++++++++

以前、その「おしん」について
書いたことがある。

++++++++++++++

●汝自身を知れ(キロン)

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中二男児)がいた。どこがどう問題児だったか
は、ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか?」と。

するとその子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきに
して、ぼくを怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子
どものことではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ところで哲学の究極の目的は、自分を知ることにある。スパルタの賢人のキロンは、「汝自身
を知れ」という有名な言葉を残している。フランスの哲学者のモンテーニュ(1533〜1592)も
「随想録」の中で、こう書いている。

「各人は自己の前を見る。私は自己の内部を見る。私は自己が相手なのだ。私はつねに自己
を考察し、検査し、吟味する」と。「自分を知る」ということは、一見簡単なことに思えるが、その
実、たいへん難しい。

で、このことをもう少し教育的に考えると、こうなる。つまり自分の中には自分であって自分であ
る部分と、自分であって自分でない部分がある。たとえば多動性児(ADHD児)と呼ばれる子ど
もがいる。その多動児にしても、その多動性は、その子ども自身を離れたところで起こる。子ど
も自身にはその意識すらない。だからその子どもをしかっても意味がない。このことは親につ
いても言える。

ある日一人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな
子どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小一男児)のように、友だちのいない
子はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行っ
てほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。

自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であって自分でない部分とみてよい。それ
に気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、いつま
でも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことである。
(031025)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「おしん」と「マトリックス」

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、
全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。97年に約2
000億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親のカツさんがモ
デルだとされている。

それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、おめでた
いというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大型スーパーがで
き、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受けた。はっきり言え
ば、閉店状態に追い込まれた。

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働
く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。そ
れはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。

生きることが母体(マトリックス)なのに、働くという仮想現実の世界のほうが、母体だと錯覚し
てしまう。

この日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人はいくら
でもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得たと
しても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価値と
いうのは、もっと別のことである。

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなかっ
た。その息子のW氏にしても、全盛期には世界16カ国、グループで年商5000億円もの売り
上げを記録したというが、そんな必要はなかった。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄
だから自転車は売らない」などと言っていた。仮にその町内で自転車が売れたりすると、夜中
にこっそりと自転車を届けたりしていた。しかしそうした善意など、大型スーパーの前ではひと
たまりもなかった。

晩年の父は2、3日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世界
の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう価値基準で人を判
断することのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性ということを考
えるなら、私の父は生涯貧乏だったが、W氏にまさることはあっても、劣ることは何もない。お
しんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように富
と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるようになった。

 名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生きるためには便利
な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を見失う。日本では、
あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。

しかしそのW氏のサクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたこと
か。私の父もその一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の
関係者は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これま
たおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。ふつうの
人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。

(付記)
 実のところ子どもの世界も同じ。多くの親は、子育ての本分を忘れ、仮想現実の中で子育て
をしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を育てる前に、受験だの進学だの、
有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわっている。ある母親はこう言った。

「そうは言っても現実ですから……」と。

つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒマはな
い、と。しかしそれこそまさに「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そちらの
ほうを「現実」と錯覚してしまう。

が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハマることによって、大切なものを大切
でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでしまう。そして結果として、親子関係を
破戒し、子どもの人間性まで破壊してしまう。自分の人生をムダにしてしまう。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「おしん」と「マトリックス」

+++++++++++++++

先に書いた原稿と一部ダブりますが
お許しください。

+++++++++++++++

●私の実家は閉店状態に……

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、
全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。97年に約2
000億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親のカツさんがモ
デルだとされている。

それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。泣いた。私の実家の母も、おめでた
いというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家の近くに系列の大型スーパーがで
き、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影響をモロに受けた。はっきり言え
ば、閉店状態に追い込まれた。

●生きるために働くが原点

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働
く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。そ
れはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。生きることが本来、母体(マトリックス)であ
るはずなのに、働くという仮想現実の世界のほうを、母体だと錯覚してしまう。

一つの例が単身赴任という制度だ。もう30年も前のことだが、メルボルン大学の法学院で当
時の副学部長だったブレナン教授が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期出張)という
制度があるそうだが、法的規制は何もないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにい
た学生までもが、「家族がバラバラにされて何が仕事か!」と騒いだ。教育の世界とて例外で
はない。

●たまごっちというゲーム

あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の生き物
(?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。

私が「何も死んでいないのだよ」と説明しても、このタイプの子どもにはわからない。一度私が
そのゲームを貸してもらい、操作を誤ってそのたまごっちを殺して(?)しまったことがある。そ
のときもそうだ。そのときも子ども(小3女児)も、「先生が殺した!」とやはり泣き出してしまっ
た。

いや、子どもだけではない。当時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソ
や冗談でしているのではない。マジメだ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養して
いる女性(20歳くらい)もいた(NHK「電脳の果て」97年12月28日放送)。

●たかがゲームと言えるか?

常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人もいる。し
かし本当にそうか? 

その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。この教団
の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生物」を死
んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む信者は、どこが違うの
か。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるいはどこが違うというのか。仮
想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始める。

●仮想現実の世界

さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人はい
くらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得た
としても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価値
というのは、もっと別のこと。地位や名誉、肩書きはあとからついてくるもの。ついてこなくても
かまわない。そういうものをまっ先に求めたら、その人は見苦しくなる。

●そんな必要があったのか

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなかっ
た。その息子のW氏にしても、全盛期には世界16カ国、グループで年商5000億円もの売り
上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄
だから自転車は売らない」などと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。仮にその町内
で自転車が売れたりすると、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。相手の自転車屋に
気をつかったためである。

しかしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方は、まさ
にめちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まるでブルドーザー
で地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。

●私の父は負け組み?

晩年の父は2、3日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世界
の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準で人を判断す
ることのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性ということを考
えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だったが、W氏にまさることはあっても、劣
ることは何もない。

おしんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように
富と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるようになった。

●進学塾の商魂

 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功者という
のは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。これも一つの例だが、2002
年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生した。公立の学校である。その説明会
には、定員の約60倍もの親や子どもが集まった。そして入学試験は約6倍という狭き門になっ
た。親たちのフィーバーぶりは、ふつうではなかった。ヒステリー状態になる親も続出した。

で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、そのため
の特別講座の説明会を開いた(2002年2月)。入試が終わってから1か月もたっていなかっ
た。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。私も進学塾の世界はかいま見て
いるから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみでそうした講座を開くようになったかがよく
わかる。わかるが、そのS進学塾のしていることはもう「生きるために働く」というレベルを超え
ている。

あるいはそうまでして、彼らはお金がほしいのだろうか。現代でいうところの成功者というの
は、そういうことが平気でできる人のことを言うもだろうが、そうだとするなら「成功」とは何かと
いうことになってしまう。あの「おしん」の中でも、おしんの店の安売り攻勢にネをあげた周囲の
商店街の人たちが、抗議に押しかけるというシーンがあった。

●自分を見失う人たち

 お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生
きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を
見失う。日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。

しかしそのW氏のサクセス物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたこと
か。私の父もその一人だが、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の
関係者は別として、W氏に同情して涙をこぼした人はいなかった。

●仮想現実の世界にハマる人たち

 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある政治家
が土建業者から1000万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈った業者は、
その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈ったに過ぎない。

しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふさわしい人間だから
贈ってもらったと思う。政治家だけではない。こうした例は身近にもある。

たとえばA氏が取り引き先の会社のB氏を接待したとする。A氏が接待するのは、B氏という人
に対してではなく、B氏の会社に対してである。が、B氏にはそれがわからない。B氏自身も仮
想現実の世界に住んでいるから、その世界での評価イコール、自分の評価と錯覚する。

しかし仮想現実は仮想現実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろうか。た
ぶんA氏はB氏など相手にしないだろう。こうした例は私たちの身の回りにはいくらでもある。

●子育ての世界も同じ

 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育ての本
分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を
育てる前に、受験だの進学だの、有名高校だの有名大学だの、そんなことばかりにこだわって
いる。ある母親はこう言った。

「そうは言っても現実ですから……」と。

つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育などと言っているヒマはな
い、と。しかしそれこそまさに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そち
らのほうを「現実」と錯覚してしまう。が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハ
マることによって、大切なものを大切でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでし
まう。そして結果として、親子関係を破壊し、子どもの人間性まで破壊してしまう。もう少しわか
りやすい例で考えてみよう。

●人間的な感動の消えた世界

 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたとき
のこと。私が中学1年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自転車とい
う意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語を読んだぞ! 
英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。

が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語のテストを持ち帰ったりすると、親はこう言
う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? クラスで何番くらいだったの? これではA
高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い月謝を払って、英語教室へ通わせたけど、
ムダだったわね」と言う親すらいる。

こういう親の教育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼関係、さら
には親のきずなまでこなごなに破壊する。

 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会があり、
そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための武器として
子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」になってしまって
いる。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入れ替わってしまっている!

●休息を求めて疲れる

 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも未来の
ために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中学校や
高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。

こうした生き方、つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の人生を
ムダにすることになる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚
かな生き方の代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろうとがんばっているうち
に、疲れてしまう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生も終わっていた」と。

●あなた自身はどうか 

 こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生きざまを知
ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。

 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。あなたが今、2週間という休暇を
与えられたとする。そのとき、(1)休暇は休暇として。そのときを楽しむことができる。(2)休み
が数日もつづくと、かえって落ち着かなくなる。休暇中も、休暇が終わってからの仕事のことば
かり考える。あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちのどちらだろうか。

あなたの子どもの学校が、三日間、休みになったとする。そのとき、(1)子どもは子どもで、休
みは思う存分、遊べばよい。(2)子どもが休みに休むのは、その休みが終わったあと、またし
っかり勉強するためだ。

 (1)のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、その本質
は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために犠牲にする。だから
未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえて生きることができない。

●日本人の結果主義

 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。たとえば
仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。実際に、「死
に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。

この結果主義もつきつめれば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といってもよい。日
本人が仏教を取り入れたときから、日本人は「今」を生きることを放棄したと考えてもおかしくな
い。

●なぜ今、しないのか?

 こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてそのパターン
に入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。脳のCPU(中央演
算装置)が狂っているからである。たとえば私の知人にこんな人がいる。

何でもその人はもうすぐ定年退職を迎えるというのだが、その人の夢は、ひとりで、四国八八
か所を巡礼して回ることだそうだ。私はその話を女房から聞いたとき、即座にこう思った。「なら
ば、なぜ、今しないのか」と。

●「未来」のために「今」を犠牲にする

 その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるいはその
人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性のほうが大き
い。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こう」とか、「旅
行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。抑圧された緊張感
の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。

 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」という感覚
すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠牲になって当然と
考える。

●今を生きる

 こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアムズ主演の
映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指導中心の学校
教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。あるの
は、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた思い出に過
ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。

だったら大切なことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの「時」を生き
ることではないのか。未来などというものは、あくまでもその結果としてやってくる。

●再起をかけるW氏

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これま
たおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。ふつうの
人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。

いや、実際にはそれに気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生きて
いる人はいくらでもいる。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこう言った。「君は
幼稚園の教師をしているというが、どうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけなかっ
たのだろう」と。

彼は退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクでない仕事
もない。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によって、人を判断す
る。稼いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。

●リチャード・マクドナルド

マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、リチャ
ード・マクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、1955年にレストランの権利
を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡している。(リチャード・マクドナルド
氏は、98年の7月に満89歳で他界。)

そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利を)売り渡して損をしたと思いませんか」と聞
いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えている。

 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオフィスで、
弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農業を営みながら)、
のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナルド氏は生きる本分を忘れな
かった人ということになる。

●残る職業による身分制度

私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは
道をまちがえたあ!」と言って、泣き崩れてしまった。当時の世相からすれば、母が言ったこと
は、きわめて常識的な意見だった。しかし私は道をまちがえたわけではない。私は自分のした
いこと、自分の本分とすることをした。

一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」というだけで、何でもかんでもありがた
がる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下する一方、そういう人間を必要以上にあ
がめる。

今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高校、中学の教師と続き、小学校の教師は最下
位。さらに幼稚園の教師は番外、と。

こうした序列は、何かの会議に出てみるとわかる。一度、ある出版社の主宰する座談会に出
たことがあるが、担当者の態度が、私と私の横に座った教授とでは、まるで違ったのには驚い
た。私に向っては、なれなれしく「林さん……」と言いながら、振り向いたその顔で、教授にはペ
コペコする。こうした風潮は、出版界や報道関係では、とくに強い。

●マスコミの世界

実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・2005)の懇
談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが……?」と、思わず口をす
べらせた新聞社の記者(40歳くらい)がいた。

私には、「どうしてあんたなんかが……」と聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮想現実
の世界に住んでいる。人間を見るという視点そのものがない。私のような地位や肩書きのない
人間を、いつもそういう目で見ている。自分も自分の世界をそういう目でしか見ていない。だか
らそう言った。

が、このタイプの人たちは、まさに働くために生きているようなもの。そういう形で自分の人生を
ムダにしながら、ムダにしているとさえ気づかない。

●人間を見る教育を

 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には関東地
域の中高一貫校、約60校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒業後の進学
大学校名を明記している。中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあるが、それが
実に偽善ぽい。

それらの案内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何かのようですらある。
子どもを育てるというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界に押し込めようとし
ているような印象すら受ける。

●仮想現実の世界に気づく
 
ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一度自分のま
わりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節介かもしれない
が、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言うなら、子どもたち
のためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話がある。

 先日、60歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉の夫の友
人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけが人生のような
人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 生き
る哲学 マトリックスの世界)

【注】

●まちがい(「汝自身を知れ」)

+++++++++++++++++

私は長い間、「汝自身を知れ」と言ったのは、
スパルタのキロンだと思っていた。

何度も、あちこちの原稿に、そう書いた。
しかしこれはまちがっていた。

「汝自身を知れ」と言ったのは、ギリシアの
7賢人の1人、ターレスの言葉だった。

その言葉が、アポロン神殿の門柱に書きこまれて
いたというが、それを見て、あのソクラテスが、
「無知の知」という言葉を導いた。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1949)

●社会保険庁を解体せよ!

++++++++++++++

社会保険庁のずさんな事務管理に
腹を立てている人は、少なくない。

報道によれば、何と5000万人
分の保険者の記録が、紛失してい
たという。

++++++++++++++

 前からおかしいと思っていたが、しかしここまでおかしいとは、だれが予想していただろうか?
 あろうことか5000万人分の記録が、紛失していたという。5000万人といえば、日本の人口
の約半分ということになる!

 そこで政府は、被害者救済法案まで立法して、これら5000万人の人たちを救済することに
した(6月5日)。「年金時効撤廃特例法案」というのがそれだが、時効(5年)のため受け取れ
なかった過去の不足分を、一時金として支給する際に、所得税を課税しないようにするという。

 はっきり言おう。社会保険庁など、いらない。不要。廃止にしたらよい。

 たとえばドイツを見てみよう。ドイツでは、年金は完全に一元化している。その年齢になれ
ば、過去にどんな仕事をしていても、またどこに住んでいても、同じ年金が支給される。

 金持ちも、貧乏人もない。公務員も、会社員も、個人商店主もない。みな、一律、平等であ
る。

 このわかりやすが、その一方で、小さな政府づくりに、手を貸している。で、先日、オーストラ
リアへ行ったときのこと。オーストラリア人の友人と、年金の話をした。オーストラリアの制度
も、ドイツの制度と、よく似ている。

私「政府が出してくれる年金だけで、生活できるのか」
オ「最低限の生活だが、何とかできる」
私「老人になって、介護が必要になったらどうなのか」
オ「最低限の介護は受けられるようになっている」
私「では、多くの年金がほしい人や、よりよい介護を受けるためには、どうしたらいいのか?」
オ「個人が、それぞれ、(民間の)保険会社と契約して、保険金をそこへ払っている」と。

 つまり政府は、最低限の年金だが、平等に支給する。それ以上の額については、あくまでも
個人の判断としている。

 わかりやすく言えば、国民年金だの、共済年金だの、厚生年金だのと、区別するほうがおか
しい。このほか、日本には、企業年金というものまである。

さらにその中身を見ると、「追加費用(公務員だけに適応された、支払全額免除制度)」、公務
員の共済制度の中における「職域加算」などがある。加えて最近では、「離婚時の年金分割制
度」まで生まれた。

つまり年金の種類が多ければ多いほど、また中身が複雑化すればするほど、それだけ事務手
続きは、煩雑(はんざつ)になる。そしてその分だけ、それを管理する、より多くの人員(=公務
員)が必要となる。

 今の日本の社会保険庁は、その(結果)と考えてよい。

 そこで登場したのが、年金の一元化。しかしこれとて、うまくいくはずがない。「官民格差」は
歴然としている。「官」が一度手にした利得を、そうは簡単に手放すわけがない。

 だったら、どうすればよいのか? 

方向性としては、ドイツやオーストラリアのように、わかりやすくすればよい。人間はみな、平
等。パートの仕事をした人も、フリーターも、みな、平等。その年齢になったら、みな、同じ、年
金をもらえるようにすればよい。それで足りないと思う人は、自分の能力と収入に応じて、若い
ときから保険に加入すればよい。

 だから……。社会保険庁なんて、いらない! 不要! 現在の年金制度を維持するために、
どれだけ莫大な税金が、社会保険庁の人件費として、ムダに使われていることか! それが
わかったら、社会保険庁など廃止したらよい。

 「5000万人分の記録を紛失した」というが、しかしこの事件は、起こるべきして起きた事件と
も言える。中には、年に数回以上、職業を変える人だっている。失業、就職を繰りかえす人だ
っている。そういう人たちが、引っ越しか何かで、転々と住所を変えることだってある。

 そういう人の動きを、すべて、「記録」によって、把握できると考えるほうが、おかしい。だった
ら、ここに書いたように、年金を一元化すると同時に、一律化すればよい。今、すぐには無理と
しても、10年先、20年先にはそうなるようにすればよい。

 「あなたは満65歳になりましたから、今年から、年金を受給できます」と。たったその一言だ
けで、すべてが片づく。片づくようにする。日本も、なぜ、そうしないのか? 言い忘れたが、わ
かりやすい制度、簡単な制度、ついでに小さな政府。これはもう、世界の常識。日本も、これか
ら先、そういう国をめざしたらよい。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●「実感なき景気拡大」

+++++++++++++

戦後の、いざなぎ景気(65〜)、
バブル景気(86〜)についで、
今は、「実感なき景気拡大」期
(02〜)という。

その名のとおり、まったく実感
がない。

+++++++++++++

 戦後の、いざなぎ景気(65〜)、バブル景気(86〜)についで、今は、「実感なき景気拡大」
期(02〜)という。その名のとおり、景気は拡大しているとは言うものの、まったく実感がない。

 経済成長率を比較しても、いざなぎ景気(11・5%)、バブル景気(5・4%)に対して、現在の
「実感なき景気拡大」は、たったの2・4%。それもそのはず、この間、地価は30%以上下落、
給料も全体としてみると、1・2%も下落している。

 政府と日銀は、「ジャブジャブ」(某経済誌)にお金をバラまいている。しかしそういったお金
は、いったい、どこへ消えてしまったのか? 「まさに実感なき景気拡大」ということになる。

 ……という話は、書くだけ、ヤボ。ほとんどのお金は銀行へと消え、その銀行は、海外投資を
活発にしつづけている。わかりやすく言えば、日本中の銀行が、今、世界のサラ金として機能し
ている。そのおかげで、どこの銀行も、今、空前の高利益を手にしている。

 よいのかなア……? よくないのかなア……?

 私にはよくわからないが、現実としては、たしかに生活は苦しくなってきている。物価が高くな
ったという印象はないが、何をするにも、お金がかかる。何をするにも、出費が重なる。

 お金を使わないでいようと思えば、家の中で、ただじっとしているしかない。そういう意味で
は、たしかに苦しくなってきている。

 しかしまあ、一度は崖っぷちに立たされた日本経済だが、よくもここまで立ちなおったものだ
と思う。政策がよかったというよりは、中国経済に支えられた。中国特需に支えられた。今とな
ってみれば、「中国、様々」ということになる。

 もし中国の経済発展がなければ、今ごろは、本当に日本は、太平洋の海溝へと沈んでいた
ことだろう。が、これで問題が解決したわけではない。依然として、日本は、1000兆円近い借
金をかかえている。この借金は、手つかずのまま。本来なら、今、矢継ぎ早に行政改革(=官
僚制度の是正)をしなければならないのだが、それはみなさんご存知のとおり。遅々として進ん
でいない。

 むしろ逆に、多少景気がよくなった(?)のをよいことに、ますます「行政」は、肥大化してい
る。公務員の数にしても、減るどころか、かえって増えている!

 実感なき景気拡大……今しばらくはつづくとしても、先は、それほど明るくない。頼みの中国
にしても、このところ少しおかしくなってきた。おととい、上海B株は、約8%も下落した。

 暗い話ばかりで恐縮だが、中国がコケれば、この景気拡大も終わる。さあ、どうする、日本!
 その準備はできているのか?


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1950)

●やはり、おかしい?

+++++++++++++++

K国からの脱北者らしき4人の
乗った小舟が、青森県のある港に
漂着した。

それについて、その直後(6月3日)、
私は、「おかしい」と書いた。

新聞に寄稿した識者(?)は、みな、
「人道」を歌い、「手厚く保護すべき」と
主張していた。

しかしどこをどう考えても、おかしい。
おかしいものは、おかしい。

彼らは、本当に、脱北者なのか?

+++++++++++++++++

 K国からの脱北者とみられる、4人の男女が乗った小舟が、青森県のある港に漂着した。そ
のニュースが報道された直後、つまり6月3日、私はそれを、「おかしい?」と書いた。それにつ
いての原稿を、そのままここに再掲載する。

++++++++++

●本当かな?
 
 青森県のある漁村に、小さな舟がたどりついた。K国からの脱北者らしいという。しかしあん
な小舟で、800キロ(中日新聞報道)もの海を渡ることができるのだろうか。写真で見るとこ
ろ、幅こそやや広いが、浜名湖でよく見かける釣り船よりも小さい。

 報道によれば、6日間(実際には5日間)をかけて、K国の東海岸から、日本へやってきたと
いう。単純に計算すれば、800キロ÷(5x24時間)=6・7キロ、つまり時速6・7キロで日本へ
やってきたことになる

 さっそく何人かの識者たちは、(人道)という言葉を使って、脱北者らしき人たちを保護すべき
と主張している。

 しかし本当に脱北者なのか? そう考えてよいのか? このところこの浜松でも強風が吹き
荒れていた。天候も不順で、変わりやすかった。現在、事情を調査しているということなので、
そのあたりも、当然調べていることと思う。しかしあんな小舟で、800キロ!?

 「北朝鮮には人権がないので出国を決めた。はじめは韓国へ行く予定だったが、軍事境界線
の警備が厳しいので、日本に向かった」(ヤフー・ニュース)と供述している点も、あやしい。

 人権があるかないかということは、K国を離れてはじめてわかること。K国から日本へやって
きた直後に、(人権)という言葉を使うところがおかしい。

 どうも、私には、納得できない。いや、それ以上に、「?」と思うのは、いとも簡単に、小舟であ
るにせよ、K国の船が、日本の港に着いてしまったこと。もしそれが武装船だったら、どうする
のか? 着いたところが青森の漁港ではなく、原子力発電所の近くだったら、どうするのか?

 日本の防衛は、だいじょうぶなのか? 私は、むしろ、そちらのほうを心配する。

 韓国では今、偽装脱北者が問題になっている。脱北者のフリをして、K国から韓国に渡り、韓
国内の脱北者をスパイするという脱北者である。(人道)も結構だが、ことは慎重に!

(付記)若いころ、私も浜名湖でよく釣り船に乗った。ある時期は毎週のように乗った。そんな
釣り船でも、湖が少しでも荒れると、航行不能になる。いわんや、日本海! 「脱北者」と決め
てかかる前に、少し、疑ってみたほうがよいのでは? K国という国は、あの手この手、ありと
あらゆる手を使って、日本をだましてきた国である。それを忘れてはいけない。

+++++++++++++

 その後の調査で、いろいろなことがわかってきた。

(1)ディーゼルエンジンを2基も、積んでいたこと。
(2)200リットルの軽油を積んでいて、うち80リットルが残っていたこと。

 K国では、軽油1リットルといえば、平均的労働者の1か月分の給料に相当するという。200
リットルと言えば、200か月分!

 さらに仮にそうであったとしても、つまり軽油を手に入れることはできたとしても、木造の小舟
が、110リットル(200−90=110※)の軽油で、800〜900キロもの日本海を横切ることが
できるというのか。

 平坦な自動車道を車で走るときでも、リッターあたり、15〜20キロが限度。浜名湖を船外機
で走るときでさえ、10〜15リッターのガソリンで、1〜2時間程度、周遊するのが限度(浜名湖
漁船店の主人の話)。リッターあたり、1〜3キロがやっとということになる。

 単純に計算すれば、彼ら4人は、軽油だけで200か月分の給料を注いで、日本へやってき
たことになる。しかも110リットルの軽油で、直線距離にして、800〜900キロ!

 さらにおかしなことは、写真を見ると、喫水(きっすい・水面から船底面までの垂直距離)が、
あまりにも浅く、側板の高さも、見たところ40センチ前後しかない。加えて平底の小舟。青森県
のある漁師も、こう言っていた。「あんな舟で、よく日本海を渡れたものだ」(報道)と。

 波のうねりが1メートルもあり、そこへあんな小舟がつっこめば、舟はたちまち水をかぶる。
木造船だから沈まないにしても、舟は、そのままバスタブのようになってしまうだろう。

 常識で考えれば、あの小舟は、日本の近海まで別の船で運ばれ、そこから日本をめざしたと
いうことになる。

 が、何と言ってもおかしいのは、漂着直後に、「K国には、人権がない」と発言しているとこ
ろ。これは私の経験から考えても、本当におかしい。

 話は、ぐんと過去にさかのぼるが、1970年の春、私は単身、オーストラリアに渡った。その
ときのこと。

 私は、それまで日本は自由の国だと思っていた。民主主義国家だと思っていた。が、オースト
ラリアで見た自由、それに民主主義は、まったく異質のものだった。そしてやがて、私は、……
といっても、何か月もたってからのことだが、「日本には真の自由はない」「日本の民主主義
は、ニセモノだ」ということを知った。

 つまり「K国に人権がない」というのは、K国の外に住んでみてはじめてわかること。またその
上で、そう発言するなら、私にも納得する。しかしK国の外に出たこともない、K国の脱北者
(?)が、「K国には人権がない」とは? そう言えば、別の報道によれば、「K国には、自由が
ない」と発言しているとも。

 K国で生まれ育ち、その国で教育を受けたとするなら、K国に人権がないとか、自由がないと
かいうことは、わからないはず。そういった問題意識をもつことすらないはず。

 何からなにまで、考えれば考えるほどおかしな事件だが、ついでに一言。

 当日(6月3日)、2人の識者(?)が、この脱北者(?)について、新聞にコメントを寄せていた
(中日新聞)。

 2人とも、「人道」という言葉を最前面に出し、「手厚く保護すべし」と述べていた。

 今から思うと、実にオメデタイというか、ノー天気なコメントである。相手は、あのK国である。
今まで、さんざん日本をだましてきた、あのK国である。とくに大阪のK大学のR教授の発言に
は、じゅうぶん、注意したらよい。トンチンカンを通り越して、いったい、この人はどこの国の利
益を第一に考えて発言しているのか、よくわからないときがある。

 たとえば先の6か国協議の前には、K国を支持し、「核開発問題は、これで今年中(07年度
中)に解決する」などと発言していた。

 彼らは本当に脱北者なのか。それとも、偽装脱北者なのか。親子兄弟ということになっている
が、それが本当かどうかは、DNA鑑定をすれば、すぐわかるはず。そういった面からも、徹底
的に調査すべきである。

 で、もし偽装脱北者ということがはっきりすれば、韓国へではなく、中国経由で、K国に送りか
えせばよい。K国も、喜んで(?)、彼らを迎えてくれるはず。

(注)そう言えば、今回は、あのK国は沈黙を保ったまま。いつもなら、「脱北者を返せ」と騒ぐ
はずなのに、どうして今回は、静かなのだろう。考えてみれば、これもおかしなことだ。

(※補注)『K国東部の清津港を木製の船で出港し、今月2日に日本の青森県H町に漂着した
ところを保護された脱北者4人が、船に高価な燃料と予備エンジンを備えていただけでなく、貧
困層にとって入手が難しい腕時計を全員が持っていたことが分かり、論議を呼んでいる。共同
通信が5日、伝えた。

 報道によると、4人は警察の取り調べに対し、「1日おきにパンを食べ延命した」などと生活苦
が北朝鮮脱出の動機だと主張しているが、高級品所持の発見で4人が中流以上の生活をして
いたのではないかとの見方が出ているという。

 4人が乗っていた木製の船には、予備用を含むディーゼルエンジン2基が搭載されており、
軽油200リットルのうち90リットルが残っていた。

 北朝鮮の生活に詳しい山梨学院大の宮塚利雄教授(朝鮮近現代経済史)は、共同通信の取
材に対し、軽油は1リットル当たりの値段が平均的な給与の1か月分で、「予備エンジンを含
め、かなりの資金が必要だったはず」と分析した。

 同教授はまた、「腕時計も北朝鮮では高価な物。普通の市民はまともに食べられるだけでも
窮乏しているとは考えない」とした上で、「タコ漁の収入だけで家計を支え、祖父母を養ってき
た」という供述にも懐疑的な見方を示した』(ヤフー・ニュースより)。


Hiroshi Hayashi++++++++June 07++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(6月7日)

+++++++++++++++

夜中に、ふとんをはいでしまっていた。
おかげで、今朝は、寝起きから風邪気味。
今日は、K小学校で講演をひかえている
というのに、何たる、ザマ!

少し原稿を書いてから、また床に入る
つもり。風邪薬は、のんだ。食欲は
ある。

あとはビタミンC(アスコルビン酸)を
たっぷりととって、1〜2時間眠る。

+++++++++++++++

●受験に失敗する?

 以前は、このあたりでは、高校入試が、(入試の関門)になっていた。今は、それが3年早くな
り、中学入試が、(入試の関門)になった。

 おかげで進学塾は、息を吹き返した。生徒が、実質、2倍になったことになる。が、その分だ
け、つまり受験年齢が低年齢化した分だけ、弊害も現れるようになった。わかりやすく言えば、
このあたりでも、小学3,4年生ごろから、子どもたちは、受験勉強の準備にとりかかる。子ども
たちというよりは、親たちが、準備にとりかかる。

 いろいろ書きたいことはあるが、この話は、ここまで。

 で、そういう子どもたちを見ていると、(成功組)と(失敗組)が、あらかじめ、ある程度予想で
きる。(成功組)の子どもは、力に余裕があり、どっしりと落ち着いている。(失敗組)は、背伸び
をしながら、どこかバタバタした状態になる。

 たとえて言うなら、収入の範囲で、安定的な生活をしている組と、借金に借金を重ね、毎日そ
の借金取りに追いまくられて生活している組ということになる。

 が、この時期、一度、バタバタし始めると、もうあとがない。成績は確実に、さがる。受験勉強
など、どこかへ吹き飛んでしまう。あとは、この悪循環。しかし私の立場では、何も言えない。言
ったところで、親自身に、(聞く耳)がない。親自身も、バタバタした感じになる。

 これについてもいろいろ書きたいことはあるが、ここまで。今朝は、どうも頭の中がすっきりし
ない。やはり風邪のせいか。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●マガジン

++++++++++++++

本来なら、今ごろは、7月9日
号の原稿を書いていなければ
ならない。

しかし実際には、6月20日号?

遅れること、約20日。

私の電子マガジンも、風前の灯火。

今月(6月)は、HTML版(カラー版)の
マガジンも休止している。

忙しいというよりは、やる気を
支えるだけで精いっぱい。

読者はふえない。協力してくれる
人も、ほとんどいない。

先日は、「電子(無料)マガジンを解約
できない。そちら(=私)のほうで
してくれ」と言ってきた女性がいた。

どうやら別のアドレスで購読を申し込んで、
それを忘れてしまったらしい。

こういうことがつづくと、電子マガジンを
発行するのもいやになる。

しかし1000号まで、あと少し。
がんばろう。がんばります。
がんばるしかない。

+++++++++++++++

 ときどき「私も電子マガジンを発行してみよう」という人に出会う。しかしそういうとき私は、こう
答えるようにしている。

 「何しろ、読者の顔の見えない世界のことですから、それなりの覚悟はしておいたほうがいい
ですよ」と。

 「それなりの覚悟」というのは、一言で表現すれば、「ボランティア活動と思うこと」という意味
である。その精神がなければ、電子マガジンの発行は、やめたほうがよい。その精神があるな
ら、あとは何も考えずに、ただひたすらマガジンを発行したらよい。

 だれのためでもない。自分のためである。たとえて言うなら、毎日のジョギングに似ている。
書くことによって、脳みその健康を維持することができる。読者がいてもいなくても、つまり観客
がいてもいなくても、そういうことは気にせず、自分の道を進む。

 もちろん大切なことは、1人でも2人でも、ひょっとしたら熱心に読んでくれている人がいるか
もしれないということを、忘れないこと。1人か2人でよい。そういう人たちは夜空に光る星のよ
うなもの。小さな希望かもしれないが、その希望が、書く者の気持ちを支えてくれる。

 私のマガジンについていえば、近くの(わかば耳鼻咽喉科医院)のスタッフのみなさんが、そ
うである。一度、「廃刊にしょうか」と迷ったとき、その医院のみなさんが、私を支えてくれた。だ
から再び、こう心に決めた。「1000号までつづけよう」と。

 1000号まで、あと1年と、少し。

 やはり風邪気味のようだ。ここで一休止。おやすみなさい! +わかば耳鼻咽喉科のみなさ
ん、いつも声援、ありがとうございます!!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●介護の限界

++++++++++++++

このところ、介護の限界を
強く感ずる。

事故もいくつか重なった……。

++++++++++++++

 家庭での介護には、限界がある。その限界を、このところ強く感ずる。事故もいくつか、重な
った。

 ある日、廊下からふと、母の部屋を見ると、母が、さかさまになったまま、ベッドの横でもがい
ていた。見ると、ベッドから、体を落とし、頭が、ベッドと手すりの間にはさまってしまっていた。

 あわてて起こしたからよかったようなものの、発見が1時間でも遅れていたら、母は死んでい
たかもしれない。

 ワイフも同じような経験をしている。

 母が大声で叫んでいるので見に行ったら、母は、洋服掛けの向こうに倒れ、やはりさかさま
になっていた。頭はその向こうの箱の中に隠れていたという。たぶん、箱の中の自分の服を取
ろうとして、そのまま鉄棒の前回りのようになって、向こう側に落ちてしまったらしい。このとき
も、発見が早かったから、よかった。

 ベッドの横の柵は、はずした。洋服の入った箱は、洋服掛けの手前に置いた。が、それだけ
ではない。

 母は、窓を閉めるつもりで、別の窓をあけてしまう。だから夜中じゅう、窓があいた状態にな
る。それで顔中、蚊に刺されてしまった。ケサ・センターの人はそれを見て、発疹ではないか
と、病院へ母を回してくれた。そして今朝も……。

 たまたま夜中に長男が、母の部屋の前の廊下を歩いていると、母の助けを呼ぶ声が聞こえ
た。見ると、母は、床の上で寝ていたという。ふとんは、反対側に落ちてしまっていた。母は、落
ちたふとんすら、もう、自分では拾えない。

 今朝も、たまたま長男が発見してくれたからよかったようなものの、もし長男が発見していな
ければ、やはり……? ゾーッ!

 以前は、無線の呼び出しベルをそばに置いたが、夜中に何度も起こされたりしたこともあり、
それは片づけた。しかも肝心なときには、母は、そのベルのことは忘れてしまう。まだらボケと
いうのか、脳みそも、調子のよいときと、悪いときがある。

 こうしたことがつぎつぎと重なって、このところ、母の介護に限界を感ずるようになった。ケア・
マネージャーの方に相談すると、こう言った。「家庭での介護は、無理のようですね」と。

 が、特別養護老人ホームというところへは、簡単には入所できない。この2月ごろに相談に
行くと、「2、3年待ちです」とか、「3〜40人待ちです」とか言われた。新規にオープンした老人
ホームだと、申し込みと同時に入所できることもあるという。

 で、「2、3年待ちかア〜」ということで、先週、入所申し込みだけでもしておこうと考えて、近く
の特別養護老人ホームを訪ねてみた。母はすでに寝たきりに近い状態になっている。介護度
は、「4」。「ほとんど5に近い、4」ということだった。

 ところがここで思わぬハプニング……というか、運(「運」という言葉は不適切だが……)が向
いてきた。たまたま相談に行った直前、一人の老人が退出することになった。部屋があくことに
なった。しかも応対してくれた人が、トップの人だった。

 「今なら、何とかできますが……」と。

 特別養護老人ホームにもいろいろある。その老人ホームは、この浜松市でも人気度ナンバ
ーワンと言われるほど、設備が整っている。個室にしても、15〜20畳間くらいの広さがある。
4人部屋でも、1人分、12畳間近くもある。広々しているのが、何よりもよい。

 私はウーンとためらったと、「お願いします」と言った。「入れるときに入っておかないと、つぎ
はいつになるかわからないわよ」と、義理の姉も言っていた。もちろん入所するといっても、無
料ではない。その老人の収入と財産に応じて、入所費はちがう。その出費は、当然、私の負担
となる。

 ……こうして私の母は、特別養護老人ホームに入所することになった。「もう少し頑張れるか
な……」という気持ちもないわけではないが、このところ母は、急速に体力を落としている。今
では一度床に座ると、そばに支えがあっても、自分で立ちあがることさえできない。

 ワイフが、介護疲れから解放されるという喜びと、「母もいよいよその時期が来たのだな」とい
うさみしさ。それが交互に心の中にわいては消える。

 生まれたときは、みな、赤ん坊は同じような顔をしている。しかし臨終の迎え方は、千差万
別。人によって、みな、ちがう。恐ろしいほど、ちがう。センターから出るとき、ワイフとそんな話
をしていた。


Hiroshi Hayashi++++++++May 07++++++++++はやし浩司

●ある相談から(掲示板より)

++++++++++++++++++

スナックで働くようになった娘(中3)
についての相談があった。

++++++++++++++++++

【Uさんから、はやし浩司へ】

はやし先生へ
初めまして。
高校2年、中学3年、小学校1年と3人の娘を持つ母(40才)です。
今回中3の二女のことで、ご相談したくメールさせて頂きました。

毎日、毎日が不安で、子どもにどう向かっていったらいいのか、自分を見失っています。
私は、長女が6才、二女が4才の時に離婚をしました。そして再婚。

主人(34才)は、それは優しく穏やかな人で、何よりも家庭を第一に考えてくれる、すてきな人
です。正式に結婚するまでには、2年ぐらいおつきあいしていたので、子どもたちも、すんなりと
お父さんと呼んでくれました。自分でも仕事をもっていたので忙しい日々でしたが、私の実母が
こどもたちの面倒をみてくれていたので、なんとか乗り越えてきたと思っていました。

二女が、中学に入学し変わっていくまでは・・・。

服装の乱れ、授業態度が悪くなる、部活動をさぼることから始まり、突然の家出。
二女の置き手紙には、自分だけお父さんと話せないのが嫌です。
友達がまだ遊んでいるのに自分だけ帰らなくてはいけないのが嫌です・・・
たくさんの不満がつづられていました。

お父さんも私も、ハッとする所があったと思います。
でもその時の私達は、これ以上娘を悪くさせてたまるか! 絶対目をはなさい。ダメな親だと思
われたくない。すごい意気込みだったと思います。娘の友達の親から、「それじゃあまりにも厳
しすぎて、窮屈でかわいそうだ。」と言われるほどでした。

先生のHPを読ませて頂いて、確信してしまいました。私は、娘に大きなゆがみを与えてしまっ
たことにです。

それから、1年半。坂道をかけ落ちるかのように娘は変わってしまいました。
授業妨害、夜遊び、化粧、タバコ、飲酒、万引き、繰り返す家出・・・。

その都度、担任、学年主任、児童相談所、先輩のお母さんがた・・・。

とにかくたくさんの方々に相談し、毎日、今自分たちにできることはなんなのか?
夫婦で話し合ってきました。そして、娘の帰るべき所、心休まる所を家庭にしようとしてきまし
た。

あの子を理解し、温かい気持ちで包んであげたいと、ただただそれだけを考え、必死でした。

生活態度は、相変わらずですが、娘の私たちに対する態度が明らかに変わり、笑顔での会話
が増えました。家にいることも多くなりました。きっと良い方向に向かうと信じ・・・。

でも、家出したときに世話になった先輩達とスナックで働きたいと言いだしたのは、2週間前の
こと。「自分の人生だから、好きに生きたい。認めてくれとは言わないけど、じゃまをしないで、
高校進学も考えてない、勉強はしないのに、学校へ行く意味がわからない。もう万引きなんてし
ない。自分で稼いだお金で自分の好きに生きたい!!」

もちろん反対しました。説得しました。中学生が夜の世界ではたらくなんて、犯罪じゃないか、
黙認しろなんて・・・このことは、まだ、誰にも相談できずにいます。

玄関に座り込んで、絶対に行かせないって言うべきか、店に乗り込んで、この子はまだ中学生
なので、連れて帰りますと、強行するべきか。何か行動を起して、その結果今度は、どうなって
しまうのか、不安で、怖くて、夜働きにでる娘になにもできないでいます。

私は、どうすべきなのでしょうか。こんなダメな親ですが、あの子が好きです。大切です。文章
がまとまらずすみません。アドバイスを頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。

【はやし浩司からUさんへ】

一言で言えば、『許して、忘れなさい』ということでしょうか。あなたの二女は、あなたが考えてい
るより、はるかにおとなですし、すでにあなたの手の届かないところに巣立っています。とても
残念ですが、今、あなたができることは、ほとんどというより、何もありません。

 もしあるとすれば、二女がいつ帰ってきてもよいように、窓をあけ、温かいふとんを用意して
おくことくらいなものです。むしろあなたの心配、不安が、二女を、さらに混乱させる結果となっ
ていることに注意してください。もっと言えば、あなたは二女を、ほとんど信じていない。それが
二女にとっては、不満であり、苦痛なわけです。

 「自分の人生だから、好きに生きたい。認めてくれとは言わないけど、じゃまをしないで、高校
進学も考えてない、勉強はしないのに、学校へ行く意味がわからない。もう万引きなんてしな
い。自分で稼いだお金で自分の好きに生きたい!!」という言葉の中に、今の二女の気持ち
が集約されていると思います。

 今、大切なことは、今の状態をこれ以上悪くしないこと。現状を受け入れ、あきらめ、この段
階で、ストップをかけることです。今、ここで「スナックで働くのを阻止する」という行動に出れ
ば、二女は、さらに、そのつぎのステップへと進んでしまうでしょう。あなたは今の状態を、ドン
底と考えているようですが、そのドン底にはさらにつぎのドン底があるということです。

 (本当は、ドン底でも何でもないのですが……。)

 ちょうど半年ほど前にも、たいへんよく似たケースを経験しました。相談をしてきたのは、中3
の男子をもつ母親でした。その男子が、ガールフレンドの家で寝泊まりするようになってしまっ
たというのです。

 相手の女子の親は、「もし反対すれば、娘もいっしょに家出してしまうかもしれない」ということ
で、その男子と同居させていました。(マガジンの過去版で、それについて書いたことがありま
す。)

 こういうケースでも、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて対処する」が鉄則で
す。「なおそう」とか、「もとに戻そう」と考えて行動すればするほど、二番底、三番底へと落ちて
いきます。(本当は、落ちるのではありませんが……。親から見ると、そう見えるだけの話です
が……。)

 子どもの巣立ちのし方には、いろいろあります。どういう巣立ちのし方をするかは、その子ど
もが決めます。しかもその巣立ちのし方は、必ずしも、美しいものばかりではありません。で
は、どうするか。

 ここまできたら、腹を決めなさい。覚悟しなさい。ジタバタしないで、あなたは自分の子どもを
信じて、一歩、引きさがりなさい。今は、中3ですが、あとは時間が解決してくれます。

 先の男子のケースもそうですが、その男子は、母親にこう言っていました。「迎えに来たら、お
前をぶっ殺す」と。が、その男子は、入試直前に家にもどってきました。そして今は、何ごともな
かったかのように、高校に通っています。

 「あなたはあなたの道を行きなさい」「お母さんは、あなたを信じていますからね」と、一度、肩
をたたいてあげる。同時に、あなたは、今の苦しみから解放されます。『あきらめは悟りの境
地』という格言を考えたこともあります。

 子どもは、許して忘れる。あとは時の流れに任せて、あきらめる。その度量の深さが、あなた
という親の「愛」の深さを決めます。今こそ、正念場ですよ。スナック勤務を勧めるわけではあり
ませんが、職業に偏見は禁物です。

 あなたにすれば、「どうしてうちの子が!」ということになりますが、いまどき、この種の問題
は、珍しくも何ともありません。あなたの町のあなたの町内でも、あるいはあなたの近所でも、
日常茶飯事として起きていることです。

 二女は、ふつうの子ども以上に、常識豊かな子どもとなって、必ず、あなたのところに戻って
きますよ。二女は二女なりに、今、自分さがしの旅に出たのだと思ってください。忘れていけな
いのは、あなたが苦しんでいる以上に、あなたの二女もまた、苦しんでいるということ。加えて、
親の束縛感、重圧感、(これらをまとめて自我群と言いますが)、それにも苦しんでいます。

 あえて言うなら、そこまで自分のことを考えている子どもという点で、すばらしい子どもではあ
りませんか。今、あなたたちは、たがいにキズつけあっているだけ。どうして愛し合っていなが
ら、そんなことをするのですか?

 くりかえしますが、あなたが二女を信じているかぎり、またその気持ちが二女に伝わっている
かぎり、二女は、今の段階で自分をもちなおし、時期がきたら、必ず、あなたのところへもどっ
てきます。

 だから今すぐ、あなたは二女にこう言ってあげなさい。「お母さんは、どんなことがあっても、
あなたを守ってあげるからね。いつでも、好きなときに、もどってきてね」と。

 『許して忘れる』について書いた原稿を添付します。私はこの原稿を書いているとき、一行ご
とに、大粒の涙を流しました。今でもそのときのことをよく覚えています。

++++++++++++++

親が子どもを許して忘れるとき

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分
を育てること」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育てはそんな甘いものではな
い。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園する
ころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるように、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には3人の息子がいるが、そのうちの2人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。

あとで話を聞くと、国体の元水泳選手だったという。私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、
昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んでいるものとばかり思っていた。が、3歳にな
ったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と叫んだとき、見ると上の2人の息子たちが流
れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか
った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から
二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。

英語では「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも
訳せる。同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために
許し、何を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたよ
うに思う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、
子どもから愛を得るために忘れろ」ということになる。

そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛の深さが決まる。もちろん
許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子どもの言い
なりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子どもをあるがま
まに認めるということ。子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があっ
たとしても、その問題を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。

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もう一作、似たような原稿ですが……。

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【子育てのすばらしさを教えられるとき】

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(3歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ
かに父の面影があるのを知って驚くことがある。

 先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのような
ものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自
分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していてもいつも孤独がそこに
いて、私をあざ笑う。

 すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし
子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見
せつけられるたびに、「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者
なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。で
きないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版である
にせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者
 
たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大き
くすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわる、
矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の深さ
にもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。

 子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして
生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわ
たって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう
意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた
自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ
らい、子育てですばらしいことはない。


**************以上1950*****************※


                              

******************1950*****************




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