最前線の子育て論byはやし浩司(7)

最前線の子育て論byはやし浩司
(1600  〜  )
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最前線の子育て論byはやし浩司(1600)

●1952年

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10月6日、Eマガの読者が、1952人に
なった。

そこで、私の1952年。私はこの年、満5歳
になった。幼稚園でいえば、年中児というこ
とになる。

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 1952年、私は満5歳になった。今で言えば、幼稚園の年中児ということになる。しかし当時
は、幼稚園へ通うとしても、就学前の1年保育が主流で、2年保育はなかったように記憶してい
る。大半の子どもたちは、幼稚園へ通うこともなく、そのまま小学校へ入学していた。

 だから当時の私は、満5歳のころは、家にいたはず。とくに何かをしたという記憶はない。よく
覚えているのは、歩いて2、3分のところにある、寺の境内。あの境内が、私にとっては、自分
の家の庭のようなものだった。その境内で、毎日、真っ暗になるまで遊んでいた。

 ただ、遊ぶ場所には、こと欠かなかったようである。小さな町だったが、山もあれば、川もあっ
た。南の方角には、国鉄の駅もあったし、私鉄の駅もあった。子どもながらに退屈をしたという
覚えはない。そういう意味では、私は、人一倍、活発な子どもだったようである。

 ……ここで「とくに何かをしたという記憶はない」と書いたが、不思議なことに、こうして文章を
書いていると、つぎつぎとあのころのことが、思い浮かんでくる。

 まず浮かんだのが、道路。舗装されていない、でこぼこ道。そのでこぼこ道の上を、馬にひか
れた車が、ポカポカと音をたてて下のほうから、ゆるい坂道をあがってくる。妙にほこりっぽい
道で、白い陽光が、道をユラユラと照らしている。

 ちょうどそのころから、道路の舗装が始まったと思う。いくつかの工事車両が、記憶の中に浮
かんでは消える。ロードローラーや、ショベルカーなど。ブルドーザーなど。どのひとつをとって
も、5歳の子どもにとっては、胸をときめかすもの。私は道路が舗装されていくのを、いつまでも
見ていた。

 その1952年。あれこれ記録を調べてみると、この年、本田技研(現在のHONDA)が、自転
車用補助エンジンを発売しているのがわかった(3月)。俗にいう、「ポンポン」というバイクであ
る。私は、稼業が自転車屋だったということもあって、そのポンポンのことはよく覚えている。私
の祖父は、いわゆるハイカラ好きで、こうした新製品が発売になると、イチ早く、それを店に並
べて、売っていた。

 言い忘れたが、走るとき、音が、ゴム風船をはじくように、ポンポンと音がしたので、「ポンポ
ン」と呼んだ。間口4間足らずの、小さな自転車屋だったが、当時は、結構、繁盛していたよう
だ。

 ほかにこの年の4月28日。対日講和条約が成立し、日米安保条約が発効した。つまり日本
は、アメリカに守られながらも、まがりなりにも6年8か月ぶりに、独立したということになる。ア
メリカのトルーマン大統領は、日本の独立について、こう述べている。

 「対日講和条約は、世界の平和と進歩に寄与する機会を、日本に与えるであろう」と。

 これに答えて、当時の吉田首相は、「世界各国の寛大で理解ある政治的見識に感謝する」と
表明している。

 が、それで日本に平和がもたらされたわけではない。翌5月には、警察官が皇居前広場のデ
モ隊に発砲するという事件が起きている。『血のメーデー事件』と呼ばれる事件が、それであ
る。

 日本の外では、朝鮮戦争が、日ごとにはげしさを増していた。行き詰った休戦交渉を打開す
るため、アメリカ軍は、北朝鮮と中国の国境沿いにある水豊発電所を猛爆している(6月)。

 ……やはり私は、1年間しか、幼稚園に通っていない。記憶のどこをどうひっくりかえしても、
1年分の記憶しか、もどってこない。

 私は幼稚園へ入る前は、何をしていたのだろう?

 川で魚を取ったり、虫をつかまえたり、木に登ったり……。当時の子どもならみなしていたよう
なことをしていた。そうそう、今、思い出したが、当時、何よりも楽しみにしていたのは、夏休み
や春休みに、母の実家へ行くことだった。

 バスで、ちょうど1時間半くらいの山奥にあったが、母の実家は、私にとっては、まさに天国だ
った。わらぶきの家で、玄関を入ると、右手に馬屋があった。今でも鮮明に覚えているのは、
奥の大黒柱につりさげてあった、日めくりのカレンダーだった。母の実家に行くたびに、昭和xx
年、昭和xx年と、数字だけが変わっていったのを、子どもながらに不思議に思ったことがある。

 で、ちょうどそのころ、母の父、つまり私の祖父が、死んでいる。

 私がいとこのY君と柿の木に登って遊んでいたときのこと。だれかが私たちを呼びにきた。
で、行ってみると、祖父が、息を引き取るところだった。私といとこは、祖父の枕元に並んで座
って、祖父の死を見取った。

 あとは、通夜のこと。10人ほどのおとなたちが、仏壇の前に円陣を作ってすわっていた。薄
暗い部屋で、母がさめざめと泣いていた。ぼんやりとした記憶だが、その部分だけが、写真の
中から切り取られたような感じで、記憶の中に残っている。

 ……「私にも幼児期があったのだ」という思い。しかし、それが過去の一時期のできごとという
よりは、それがそのまま自分の一部になっているのを知る。私は昔も今も、私。幼児期の私だ
ったのだから、私は、幼児であったはず。なのに、その実感はない。そのときの私と、今の私
が、そのままつながっている。

 ただそのときの私が幼児であったことを教えてくれるのは、あの庭の広さだったり、家の大き
さだったりする。私といとこが登っていた、あの柿の木にしても、当時の私にとっては、大木だっ
た。少なくとも、記憶の中では、そうなっている。

 私にとっては、なつかしい時代である。遠い遠い昔のことでもあるようで、それでいて、つい昨
日のことのようにも思える。

 母の作る味噌汁のにおい。私の手をつかむ祖父の手のぬくもり。夜の冷たい風。天井の木
目模様。円形の食卓。自転車の油のにおい。……そういったものが、川の上ではじけるアワの
ように、記憶の中で浮かんでは、また消える。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●今朝・あれこれ(10月7日)

++++++++++++++

さわやかな朝。
心地よい朝。
窓からはカーテン越しに、
まばゆいばかりの朝日。

もう一度体をよじらせて、
目を閉じる。

今日は、10月7日。
土曜日。

++++++++++++++

●家族自我群

 「家族自我群」という「束縛」に苦しんでいる人は、多い。もう6、7年前のことだが、ある会合
で、1人の母親が、こう言った。「盆や、正月が近づくと、憂鬱(ゆううつ)になります」と。

 30人くらいの母親がいた会場だった。私が「どうしてですか?」と聞くと、「盆や正月には、実
家へ帰らねばなりません。私は、それがいやでなりません」と。

 するとこの話を聞いていたほかの母親たちも、「私も」「私も」と、言い出した。5〜7人はいた
のではなかったか。

 私はてっきり、夫の実家のことだと思ってしまった。が、話をよく聞くと、そうではなかった。母
親たちは、自分の実家へ帰るのが、「苦痛だ」と言った。

 理由は、さまざまだった。「父親のそばにいるだけで、息が詰まりそうになる」「自分の居場所
がない」「親孝行を請求してくる」などなど。中でも1人、とくに印象に残ったのは、こう言った母
親がいたことだ。

 「親は、自分の価値観を、問答無用式に押しつけてきます。時代も変わったし、ものの考え方
も変わったのだから、もう少し、今の時代に合わせてほしいです」と。その親は、ことあるごと
に、その母親に、「先祖(=自分という親のこと)を大切にしろ」と言っているそうだ。

 こうした家族であるがゆえに発生する束縛感、あるいは呪縛(じゅばく)感を、「家族自我群」
と呼ぶ。本能の部分にまで刷り込まれている束縛感であるために、ひとたび人間関係がこわ
れると、今度は、それが重圧感となって、その人を苦しめる。

 ふつうの重圧感ではない。ギシギシと音をたてて、その人の心を押しつぶす。しかも一瞬たり
とも、その重圧感は止むことがない。いつも心の外側にぺタリと張りついて、はがれることがな
い。

 憂うつといえば、これほど、憂うつなことはない。

 が、一方、親側のほうは、「伝統」という言葉を使って、自分を正当化する。だから強い。「慣
わし」「習慣」「因習」という言葉を使うこともある。「昔からそうしているから、子どもは、それに
従うのが当然」と。

 さらに……。

 最近だが、こんな話も聞いた。

 その女性(50歳くらい)の両親は、現在、奈良県に住んでいるのだが、このところ両親とも、
認知症の傾向が見え始めたという。そのため、デリケートな会話ができなくなってきたという。

 とくにその女性の母親は、人の話を聞かない。聞かないまま、一方的に自分のことだけをし
ゃべり、そのまま電話を切ってしまう、とか。

 「以前は、子どもたちのことを、まだ相談できましたが、今は、その相談すらできません」と。

 こうなると、家族自我群は、ますます重圧感をともなって、その人を苦しめるようになる。「こ
れから先のことを考えると、憂うつでたまりません。親類の中にも、うるさい人がいて、ああでも
ない、こうでもないと干渉してきます」「最近では、親のめんどうをみるのは娘の義務だから、そ
れなりの覚悟しておくようにと言われました」と。

 こうした問題も、良好な親子関係、親戚関係があれば、まだ救われる。苦労も、苦労でなくな
る。が、それがないと、ここに書いたように、呪縛感をともなった重圧感となって、その人を苦し
める。

 そこで私たちは、どうすればよいのか。

 ひとつは、親としてというより、1人の人間として、自分の子どもが、自分に対して、どのような
意識を作りつつあるか。あるいは今、もっているかを、冷静に判断するということ。

 決して大上段に構えて、「私は親だから当然」「お前は子どもだから当然」と、ものごとを決め
つけて考えてはいけない。つまるところ、親子関係も、一対一の人間関係で決まる。親であるこ
とに甘えてはいけない。親の威厳を押しつけてもいけない。あくまでも一対一の人間関係とし
て、親子を考える。

 でないと、あなたはそれでよくても、あなたの子どもは、それで苦しむ。そうした不要な苦し
み、(まさに不要な苦しみということになるが)、それを子どもに与えないようにするのも、親の
義務ということになる。

 あなたの子どももいつか、社会に巣立つときがやってくる。そのとき、あなたの住む家が、あ
なたの子どもたちの羽を休める古里になっていれば、よし。またそういう「実家」を、あなたは、
子どもたちのために、今からめざし、準備しておく。


●盗品の山?

 1年ほど前のこと。友人に誘われて食事にでかけたときのこと。ふと立ち寄った家の中を見
て、驚いた。

 何と、そこは盗品の山(?)。

 スーパーなどで使う押し車やカゴ、卸し市場で使う台車、それにプラスチック製の箱まであっ
た。その箱には、「xx製菓」というロゴまで入っていた。

 あとで友人にそのことを話すと、「そうでしたか……」「気がつきませんでした……」と。

 たぶんその人は、どこかへ買い物にいくたびに、そこで使う押し車や箱を、そのままもって帰
っていたらしい。万引きとは少し意味はちがうが、しかしそれに近い。

 で、それからというもの、私はそういうものを見つけるのが目ざとくなった。が、同時に、そうい
うものがある家の人は、信用しなくなった。一事が万事。そういうことが平気でできる人というの
は、それなりの人でしかない。

 ワイフは、これについて、今朝、こう言った。

 「名誉や肩書きは、その人を飾る勲章のようなものだけど、盗品というのは、その人をおとし
める刺青(いれずみ)のようなものね」と。

 数年前だが、こんなエッセーを書いたことがある。

 ある女性(70歳くらい)だが、近所の家から植木鉢を盗んできては、それを自分の家に飾っ
ていた女性である。

 しかし、だ。

 盗んできた植木鉢を見て、その人は、本当に、その花の美しさを愛(め)でることができるとい
うのだろうか。私なら、その植木鉢を見るたびに、自分の邪悪な心を見せつけられるように感
じ、とても花の美しさどころではなくなってしまう、と思う。

 つまり(盗んできたという邪悪な心)と、(花の美しさ)が、その時点で、頭の中でショートしてし
まう。

 古い原稿だが、こんな原稿を見つけた。この中で、Uさんというのは、ここでいうその「ある女
性」のことである。

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●しつけは普遍

 50歳を過ぎると、その人の持病がドンと前に出てくる。しかし60歳を過ぎると、その人の人
格がドンと前に出てくる。ごまかしがきかなくなる。

たとえばUさん(70歳女性)は近所でも、「仏様」と呼ばれていた。が、このところ様子がおかし
くなってきた。

近所を散歩しながら、よその家の庭先にあったような植木鉢や小物を盗んできてしまうのだ。
人はそれを、Uさんが老人になったせいだと話していたが、実のところUさんの盗みグセは、T
さんが2、30歳のときからあった。ただ若いときは巧妙というか、そういう自分をごまかすだけ
の気力があった。

しかし70歳近くもなって、その気力そのものが急速に弱まってきた。と同時に、それと反比例
するかのように、Tさんの醜い性格が前に出てきた……。

 日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが歳となり、やがてその人の人格となる。むず
かしいことではない。ゴミを捨てないとか、ウソをつかないとか、約束は守るとか、そういうことで
決まる。しかもそれはその人が幼児期からの心構えで決まる。子どもが中学生になるころに
は、すでにその人の人格の方向性は決まる。あとはその方向性に沿っておとなになるだけ。途
中で変わるとか、変えるとか、そういうこと自体、ありえない。

たとえばゴミを捨てる子どもがいる。子どもが幼稚園児ならていねいに指導すれば、一度でゴ
ミを捨てなくなる。しかし中学生ともなると、そうはいかない。強く叱っても、その場だけの効果し
かない。あるいは小ずるくなって、人前ではしないが、人の見ていないところでは捨てたりす
る。

 さて本題。子どものしつけがよく話題になる。しかし「しつけ」と大上段に構えるから、話がお
かしくなる。小中学校で学ぶ道徳にしてもそうだ。人間がもつしつけなどというのは、もっと常識
的なもの。むずかしい本など読まなくても、静かに自分の心に問いかけてみれば、それでわか
る。

してよいことをしたときには、心は穏やかなままである。しかししてはいけないことをしたときに
は、どこか不快感が心に充満する。そういう常識に従って生きることを教えればよい。そしてそ
れを教えるのが、「しつけ」ということになる。

そういう意味ではしつけというのは、国や時代を超える。そしてそういう意味で私は、「しつけは
普遍」という。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●教師は聖職者にあらず

 たまたま私はこの原稿を、O県のK市にあるホテルで書いている。小さな会議に出席するた
めにやってきた。約束の時刻までまだしばらくあるということで、何気なく、……というより部屋
の空気を入れかえるために窓をあけて眼下を見ると、露天風呂。しかも女湯! その無防備さ
に、私は我が目を疑った。私の部屋からその露天風呂までは、ちょうど10階分の落差があ
る。女性たちがはっきりと見える距離ではないが、しかし遠過ぎるという距離でもない。とたん、
私の鼓動が高まるのを覚えた。

 人は私のことを勝手に「教育評論家」と呼んでいる。最初はこの言葉に大きな抵抗を感じた
が、今では自分からこの名前を使うことがある。しかしこの言葉はどこかいやだ。「教育者」と
いうイメージが強過ぎる。

たしかに私はいろいろな子育て論を論ずるが、しかし教育者ではない。いわんや教育者という
言葉から受けるような聖職者ではない。その証拠に、現に今、心臓がドキドキしている。この年
齢になって、そんな世界とはまあ、半ばあきらめたというか、無縁の世界にいるはずなのに、
何という現象。何という愚かさ。

しかしそれにしても露天風呂の女性たちの大胆さといったらない。大きな石の上に、まさにあぐ
らをかいて連れ添った別の女性と話し込んでいる。小さな風呂だが、バシャバシャと足で蹴っ
て、水しぶきをたてているのもいる。私はやがてそういう光景を見ている自分がなさけなくなっ
た。今の私はまさに本能の虜(とりこ)になっている。「見たところでどうということはないではな
いか」という私。これが理性のあるほうの私。しかし「見ていたい」という私。これが本能の私。
が、そのうち、こんなことに気づいた。

「こうした無防備さこそが、ホテル側の意図的な戦略ではないか?」「わざと私のような人間に
見せるようにしくんでいる?」と。とたん自分の心の中で、スーッと本能が冷めていくのを感じ
た。

 私はあえていう。教師は決して聖職者ではない。教師と言っても、あなたの夫や、あなたの兄
や弟とどこも違わない、ただの人間である。この私ですらそうなのだから……という言い方は変
だが、私はだれが見ても、「まじめな人間?」に見えるらしい。

その私ですらそうなのだから、少なくとも男の教師は皆、そうであるとみてよい。露天風呂に遊
ぶ若い女性を見て、「何も感じない」と、窓をしめる教師などいない。いたらいたで、その「ふつ
うでないこと」を疑ってみたほうがよい。おなかがすけば何かを食べたくなる。それと同じよう
に、こうした性欲はだれにでもある。もっともあったからといって、それがまちがっているという
のではない。それが正常な人間ということになる。

 さて本論。よく教師による女生徒へのセクハラ事件が話題になる。教師がハレンチ事件を起
こすこともある。そういうとき世間は、鬼の首でもとったかのように騒ぐが、そもそもそういうスキ
を与えたのもその世間ではないのか。もっとはっきり言えば、教育のシステムをそういう前提、
つまり教師といえどもただの人間であるという前提で組み立てるべきではないのか。私はそん
なことを考えながら、今度は本気で窓を閉じた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 聖職
論 聖職 教師論)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●仮面をかぶらせるな

 心(情意)と表情が遊離し始めると、子どもは仮面をかぶるようになる。表面的にはよい子ぶ
ったり、柔和な表情を浮かべて親や教師の言うことに従ったりする。しかし仮面は仮面。その
仮面の下で、子どもは親や教師の印象とはまったく別のことを考えるようになる。これがこわ
い。

 すなおな子どもというのは、心と表情が一致し、性格的なゆがみのない子どものことをいう。
不愉快だったら不愉快そうな顔をする。うれしいときには、うれしそうな顔をする。そういう子ど
もをすなおな子どもという。

が、たとえば家庭崩壊、育児拒否、愛情不足、親の暴力や虐待が日常化すると、子どもの心
はいつも緊張状態に置かれ、そういう状態のところに不安が入り込むと、その不安を解消しよ
うと、情緒が一挙に不安定になる。突発的に激怒する子どももいるが、反対にそうした不安定
さを内へ内へとためこんでしまう子どももいる。そしてその結果、仮面をかぶるようになる。

一見愛想はよいが、他人に心を許さない。あるいは他人に裏切られる前に、自分から相手を
裏切ったりする。よくある例は、自分が好意をよせている相手に対して、わざと意地悪をした
り、いじめたりするなど。屈折した心の状態が、ひねくれ、いじけ、ひがみ、つっぱりなどの症状
を引き起こすこともある。

 そこでテスト。あなたの子どもはあなたの前で、言いたいことを言い、したいことをしているだ
ろうか。もしそうであれば問題はない。しかしどこか他人行儀で、よそよそしく、あなたから見
て、「何を考えているかわからない」といったふうであれば、家庭のあり方をかなり反省したほう
がよい。

子どもに「バカ!」と言われ怒る親もいる。平気な親もいる。「バカ!」と言うことを許せというの
ではないが、そういうことが言えないほどまでに、子どもをおさえ込んではいけない。

子どもの心は風船のようなもの。どこかで力を加えると、そのひずみは、別のどこかに必ず表
れる。で、もしあなたがあなたの子どもに、そんな「ひずみ」を感ずるなら、子どもの心を開放さ
せることを第一に考え、親のリズムを子どもに合わせる。「私は親だ」式の権威主義があれ
ば、改める。そしてその時期は早ければ早いほどよい。満6歳前後でこうした症状が一度出た
ら、子どもをなおすのに六年かかると思うこと。満10歳で出たら、10年かかると思うこと。

心というのはそういうもので、簡単にはなおらない。無理をすればするほど逆効果になるので、
注意する。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの仮面 子供の仮面 子どもの愛想 子供の愛想 愛想の良い子 愛想の悪い子)
 

Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1601)

●ストレートな人々


++++++++++++++++++

おしなべて言えば、日本人は、口がうまい。
おしなべて言えば、オーストラリア人は、
口下手(べた)。ストレート。オーストラリア人
は、日本人のような、お上手を言わない。

だからオーストラリア人は、つまらないという。
デリカシーがないという。

しかしその分だけ、オーストラリア人は、
わかりやすい。心の中が、スケスケ。

「Yes」といえば、Yesを意味する。

「No」といえば、Noを意味する。

+++++++++++++++++++

 今日も、オーストラリア人の友だちや家族を、あちこち、案内して回った。そのときのこと。オ
ーストラリア人の女性が、バスが動き出すやいなや、私にこんなことを聞いた。

 「あの人は、何をしているのか?」と。

 見ると、それまで乗客の世話をしていた係員が、バスに向かって、深々と頭をさげていた。私
は、「バスにあいさつをしている」と、答えた。が、その女性は驚いた顔をして、すかさず、私に
こう聞いた。

 「どうしてバスにあいさつをするのか」と。

 日本人の私たちには見慣れた光景だが、オーストラリア人のその女性には、よほど奇異に
見えたらしい。「バスの中の乗客に対して、さようならという意味で、あいさつをする」と答えた
が、「オー、イエ(Yes)」と言ったきり、黙ってしまった。

 質問されるほうも、頭のよい刺激になる。バチバチと頭の中で、火花が飛ぶ。が、こんなこと
も。

 今年80歳になる母親を連れてきた友人がいた。私がその友人に、「今夜、君の母は、ベッド
にするか、それとも、タタミ・マットの上の布団(ふとん)にするか」と聞いた。すると、その友人
は、こう言った。

 「ダイアン(母親のこと)に聞いてみないと、わからない」と。

 オーストラリア人というのは、こういうときでも、必ず、相手に、その意思を確かめる。たとえ相
手が、母親であっても、だ。勝手に、だれかがだれかの意思を決めたりすると、「通訳しないで
ほしい」と、たしなめられる。つまり日本人なら、母親の気持ちを先に察して、子どものほうが決
めてしまうようなときでも、それをしない。

 アメリカで、友人の家に食事に招待されたときも、そうだった。親子の間でも、「お前は、今日
はパパに、何をしてほしい」「パパは、今日はぼくに何をしてほしい」と、日本では考えられない
会話をしていた。

 こういう習慣のない人には、この話は理解できないかもしれない。で、さらにこんなことも。

 いろいろな料理を食べさせてやっている。が、口に合わないときは、合わないと、はっきりと
言う。「まずい」というような言い方はしない。「合わない」という。あるいは、「好きでない(=嫌
い)」と、はっきりと言う。

 日本人なら、お世辞のいくつかを並べるようなときでも、そう言う。また彼らにしてみれば、そ
のほうが礼儀正しいということになる。ウソをついたり、自分をごまかすことのほうが、相手に対
して、ずっと悪いことだと考えている。

 そういう姿勢をワイフが横から見ながら、ワイフは、こう言った。

ワ「オーストラリア人って、わかりやすわね」
私「そう。だからぼくは、オーストラリア人とつきあっているほうが、ずっと気が楽だよ」ワ「日本
人は、本音と建て前を使い分けるでしょ。あれって、いやね」
私「そう。会話をしていても、そのうち、何が本当で、何がウソかわからなってしまう」と。

 明日は、みなを、いけばな教室に連れていくことになっている。何が起きるか、楽しみ。頭の
中でバチバチと火花が飛ぶのは、本当に、刺激的で、おもしろい!


●スリ

 今日、別のオーストラリア友人夫妻が、一行に合流した。中部空港(セントレア)まで、迎えに
行って来た。

 どこか不機嫌な様子だったので、「どうしたの?」と聞いたら、「スリにあった」と。「上海で街の
中を歩いていたら、サイフを盗まれた」「カードと免許証、それに小さなアルバムを盗まれた」
と。

 そのため昨夜は、上海のホテルで、一晩中、あちこちに電話をかけまくったという。「電話料
だけで、2万円近くもかかった」と、こぼしていた。

 私が、「カードは、キャンセルできたのか」と聞くと、「キャンセルするまでに、1時間ほど時間
があったから、使われたかもしれない」「詳しくは、月曜日の朝にならないと、わからない」とも。

 そのせいか、あとは出てくるは出てくるは、中国の悪口。おまけに中部空港まで乗ってきた飛
行機の悪口まで。「操縦がへたくそで、左右に大きく揺れた」とか、「エンジンをふかしたかと思
うと、突然減速したりて、怖かった」とかなど。言い忘れたが、乗ってきた飛行機は、中国航空
の飛行機だった。

 「上海空港では、3キロも歩かされた。大きいだけで、汚かった」
 「ホテルの中は豪華だが、1歩外に出ると、道はでこぼこだった」
 「上海でバスに乗ったが、まるでサーカスのような運転だった」と。

 これでまた中国嫌いのオーストラリア人が、数人ふえた。

 で、その話をワイフが聞いて、ワイフも、こう言った。「私も2年前のアジアカップ以来、中国が
嫌いになった。それまでは一度は中国へ言ってみたいと思っていたけれど、もう行きたくない」
と。

 サッカーのアジアカップでは、日本人側のサポーターたちは、中国側のサポーターたちに、さ
んざんいじめられた。ものまで投げつけられた。

私「こうして考えてみると、日本は、いい国だね」
ワ「ホント」と。

 オーストラリア人たちとつきあっていると、オーストラリアのよさもわかる。が、同時に、日本の
よさもわかる。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●ボケ

+++++++++++++++++

その人の話になると、まず、
その人がボケていないかどうか、
それが話題になる。

55歳を過ぎると、そういう会話が
突然、多くなる。

+++++++++++++++++

 昨夜、親しくしている従兄弟(いとこ)と、2時間近く、電話で話した。夜9時から、11時まで。

 その中で、いろいろな人の話をした。が、そういう人たちの話をする前に、必ず、こんな会話
から始まる。「○○さん、だいじょうぶ?」「あの人もボケたのかねえ」「あの人も、少しボケたみ
たい」と。

 つまりその人の頭の具合が、まず話題になる。そしてつぎの会話へと移っていく。つまりその
人のボケ程度が、ひとつの基準になって、話が進んでいく。

私「だから、あの人の言うことは、本気にしないほうがいいよ」
従「そうだねえ」
私「きっと、自分のことさえ、よくわかっていないんだよ」
従「そう言えば、そんなところもある」と。

 ボケが始まると、いろいろな症状が出てくる。それはいろいろな専門家が書いているとおりだ
が、ひとつの見分け方としては、繊細さがある。

 頭がボケてくると、繊細さが欠けてくる。デリケートな会話ができなくなる。ものの言い方が、
ズケズケとした感じになり、自分のことだけを一方的に話すようになる。わかりやすく言えば、
会話がかみあわなくなる。

 ペラペラとよくしゃべるから、ボケていないということにはならない。ボケにもいろいろなタイプ
があるが、あるタイプの人は、ふつうの人以上に、よくしゃべる。頭の中に飛来する情報だけ
を、そのまま口にする。だから一見、利発に見える。が、こちら側の話など、まるで、上の空!

私「頭のボケた人は、こちらの言うことなど、聞いていないから……」
従「そう言えば、○○ちゃん、あの人も、そうみたい」
私「そうだね。あの人も、もうボケてもおかしくない年齢だから……」
従「だから、あの人の言うことなど、そんなに気にしなくて、いいみたい」
私「そうだね」と。

 現在、肉体的に健康な人でも、その年齢になると、体力も落ちる。あちこちに、ガタが出てくる
ようになる。

 同じように、脳みその活動も鈍くなる。知力も落ちる。同時に、繊細な思考ができなくなる。

 これには例外はない。しかも「私は、だいじょうぶ」と思っている人ほど、あぶない。反対に、
「私は、あぶない」と思っている人ほど、それなりの努力をする。その(努力)が、ボケを防ぐ。 

 というのも、ボケというのは、脳のCPU(中央演算装置)の問題。そのCPUが狂うから、仮に
狂ったとしても、自分で、それに気づくことは、まずない。それがこわい。「私はだいじょうぶ」と
思っているうちに、どんどんとボケていく。

 それにしても、さみしい年齢になったものだ。このところ、つくづくと、それを強く感ずるように
なった。

【付記】
 人間がほかの動物たちより賢いと考えるのは、まちがっている。脳みそのある部分はすぐれ
ているかもしれないが、それを除いたら、むしろ、劣っている部分のほうが多いのではないか。

 そんなことを、最近、よく考える。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1602)

●1956年

+++++++++++++++++

今朝、Eマガの読者数が、1956人に
なった。

そこで、「1956年」。

私が満9歳になった年である。小学3年生の
ときである。

+++++++++++++++++

 小学3年というと、どういうわけか、あのことを、真っ先に思い出す。たわいもないことだが、
私は、「前」という漢字が、書けなかった。いつも、「前」の「月」と、「リ」を、左右、反対に書いて
いた。

 それにレスリング。いつも休み時間には、学校の廊下で、レスリングをしていた。

 またその年、1年間だけ、NS先生という男の先生が担任になった。1年間だけだったというこ
ともあって、その先生との思い出は、小学3年生のときのことだったということになる。

 で、その先生が、これはずっとあとになってからのことだが、こんな話をしてくれた。

 「林君のことで忘れないのは、夏休みの自由研究だった」と。

 私は、夏休みの自由研究に、『おならの作り方』というのをした。先生には、ふざけた研究に
見えたかもしれないが、私は、子どもながらに、食べものと、呼吸で得た空気が、のどのところ
で、うまく分別されることを不思議に思った。それでそういう研究になった。

 そこでその(うまく分別できる能力)を逆手に取って、「おならの作り方」となった。わかりやすく
言えば、どうすれば、自分の体をだますことができるか、と。

 それが当時の先生たちの爆笑を買ったらしい。で、それがNS先生の印象に残った。

 その私だが、今でも、そのおならの作り方といういのをよく知っている。ときどき、そのとき考
えた方法を実行してみるが、きわめて有効である。

 (この話は、臭い話なので、ここまで!)

 で、1956年。

 この年、レックス・ハリソンと、ジュリーアンドリュース主演の、ミュージカル『マイ・フェア・レデ
ィ』が、ブロードウェイで、最高の賞賛を受けている(4月)。

 女優のグレース・ケリーが、モナコの王様と結婚(5月)同じ月、日本のマナスル登山隊が、ヒ
マラヤにあるマナスル(8156メートル)に、登頂成功。

 マリリン・モンローが、作家のアーサー・ミラーと結婚(6月)。

 プレスリーが、『エド・サリバン・ショー』に出演(10月)。

 そしてオリンピック・メルボルン大会へとつづく(12月)。

 どのニュースも、ずっとあとになってから、私は、知った。当時の私には興味のない話ばかり
だったし、そういうニュースを見聞する機会さえなかった。私は、まさに田舎の子どもだった。お
山の大将だった。毎日、遊んでばかりいた。外が真っ暗になるまで、道路で遊んだ。真っ暗に
なってからも、さらに遊んだ。

 私にとって、1956年という時代は、そういう時代だった。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●意識

+++++++++++++++

日本人がもっている意識というのは、
決して、普遍的なものではない。
世界の常識でもない。

そんなことを思い知らされる日々が、
このところ、つづいている。

+++++++++++++++

 オーストラリア人たちとつきあっていると、彼らは、しばしば、とんでもない質問をぶつけてく
る。

 日本の山々を見ながら、「木々が密集しているが、どうして日本では、そんなふうに、木が生
えるのか?」とか、「どうして、日本の卵は、白いのか?」とか、など。

 ふだん、私たちが考えたことがないようなことを、彼らは考える。

 オーストラリアでは、一部の地域をのぞいて、(あくまでも私が知る範囲の知識だが、ビクトリ
ア州東部の、ブルーマウンテインから南にかけての地域)、木というのは、まばらに生えるもの
といのが、常識になっている。

 また「どうして卵は、白いのか?」という質問に対しては、「我々は、白人(ホワイト・マン)だか
ら」と答えてやった。

 昨日は、地元のバス会社の旅行パックを利用して、長野県のほうまで行ってきた。が、その
間中、若いガイドが、しゃべりっぱなし。「みやげもの日本一は、どうのこうの」とか、「浜松の名
物は、どうのこうの」とか。旅行に関係のない話ばかり。

 「よくもまあ、こうまでおしゃべりができるものだ」と思うほど、よくしゃべる。

 その間中、オーストラリアの友人たちが、「今、何と言っているのだ」と。で、私は、こう言って
やった。

 「意味のない、すずめのおしゃべりだ」と。ついでに、オーストラリアではどうかと聞くと、「もし
オーストラリアなら、みな、ガイドに向かって、『座って、口を閉じろ』と言うだろう」と。

 加えて、前の座席に座った2人の女性も、たがいにしゃべりっぱなし。合計で、8時間以上
は、しゃべっていた。それを見て、私が、「オリンピックの新記録だ」と笑うと、オーストラリア人
たちも笑った。

 のどかで、平和な旅行だったが、私たちがもっている意識というのは、決して普遍的なもので
もなければ、世界の常識ではない。それを改めて、思い知らされた。つまり意識というのは、作
られるもの。しかも、その意識というのは、やがて種々雑多な日常的な騒音の中に埋もれてし
まって、その輪郭(りんかく)さえ、わからなくなる。

 たとえば昨日も、日本語が話題になった。「日本語には、漢字(中国語)も含めて、3000字
以上ある」と話すと、みな、驚いた。「どうやって、そんなにたくさんの文字を覚えるのか」と。あ
るいは、彼らは、みな、割り箸(ばし)を、割らないまま、それでもって食事をする。私が「割れ」
と教えても、「(割らないほうが)、使いやすい」と。

 日本人にとっては、何でもないことでも、彼らにはそうでない。(もちろんその逆も、あるが…
…。)

 大切なことは、そういう意識の違いというのは、たがいに、認めあうこと。自分たちのもつ意識
を、決して、押しつけないこと。要するに、彼らがしたいように、させてやる。そしてその中から、
学ぶべきものがあれば、学ぶ。つまりこうして、何が正しくて、何がそうでないかを知る。

 自分たちのもつ意識を、絶対に、過信してはいけない。いつも疑って考える。その操作を誤る
と、偏屈で、狭小な人間になってしまう。今回も、改めて、それを思い知らされた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●K国の核実験 

+++++++++++++++++

とうとうK国は、核実験をしてしまった(?)。

しかし本当に核実験だったのか?

たまたまオーストラリアの友人の中に、
その方面で働いているのがいて、私が
そのニュースを伝えると、その友人は、
すかさず、こう言った。

「大量のTNT火薬を、爆発させた
可能性もある」と。
(10月9日)

+++++++++++++++++

 核爆発というのは、その調整が、たいへんむずかしいらしい。(よくわからないが……。)ねら
いどおりの爆発力を得るというのは、不可能ということらしい。とくにK国のように、周辺技術が
整っていない国にとっては、そうだろう。

 失敗するか、さもなければ、大爆発を起こすか、そのどちらかだという。が、今回、K国による
核実験(?)は、小型原爆程度の爆発力しかなかったという。それでそのオーストラリア人は、
そう言った。

 そういえば、K国は、今回の実験(?)に先立って、さかんにこう言っていた。「完全に安全が
担保された中で、核実験をする」と。この「完全に」というところが、臭い!

 つまりはじめから、TNT火薬によるインチキ実験を考えていたのなら、「完全に」となる。TNT
火薬による爆発なら、放射能漏れなど、いっさい、ありえない。事件後、挑戦通信(K国)は、
「科学的で綿密な計算による今回の核実験では、放射能流出のような危険が全くなかったこと
が確認された」と発表している。

 では、なぜ、そうしたか?

 限定的であるにせよ、アメリカの軍事攻撃を誘い込むため。……と私は考える。今なら、ま
だ、自動的に中国が、K国を助けてくれる。そういう条約が生きている。それに「アメリカに先に
攻撃された」となれば、軍の士気もあがる。韓国を攻撃する、大義名分も立つ。

 今のところ、マスコミ各社は、核実験だったと報道している。しかし核実験だったという証拠
は、今のところ、まだない。「核実験だったかもしれない」ということを示すのは、K国の報道(あ
の国の報道ほど、アテにならないものはない)と、観測された地震波だけである。

 たとえば、核実験なら、それがたとえ地下深くでなされたものであっても、電磁波が観測され
るという。今のところ、その電磁波すら確認されていない(テレビ報道)。

 が、もちろん、「核実験ではなかった」という証拠もない。本当に核実験だった可能性のほう
が、高いといえば、高い。

 どちらか? ……その結論が出るまでに、まだ1週間以上かかるという。その間に、K国は、
さらにつぎの核実験を準備している可能性もあるという(テレビ報道)。

 本当に愚かな国だ。バカな国だ。救いようがない国というのは、K国のような国をいう。
(10月10日記)

【補足】

 今回の核実験の規模について、各国は、つぎのような推測をしている。

 韓国地質資源研究院は、爆発の規模をTNT火薬に換算して0・8キロトン以上と推測。
 また同じく韓国の通信社・聯合ニュースによると、最大でも5キロトンとされ、核実験としては
小規模のものだという。同研究院が観測した地震の規模であるマグニチュー3・58から計算し
てこうした数値を導き出した。

 1945年に広島と長崎に投下された原爆はそれぞれ15キロトン、22キロトンであったことを
考えると、K国の核兵器はかなり小さいことになる。

 これに対し、ロシアのイワノフ国防相は爆発の威力は「5〜15キロトン」との見方を明らかに
した。同国防相はまた、「これが核爆発であったことにいかなる疑いもない」と述べ、核実験が
行われた正確な場所も分かっているとつけ加えた。

 ついでながら、アメリカは、「核実験だったとしても、失敗に近いものだった」(ワシントン・ポス
ト紙)と発表している。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ジャパニーズ・イングリッシュ 

++++++++++++++++++

時として、外人は、日本の中にある
英語の看板を見て、驚き、そして笑う。

++++++++++++++++++

 実名を出して恐縮だが、H市内に、「BIG TOP」という店がある。その看板を見て、一人のオ
ーストラリア人が、こう聞いた。「あれは、サーカスの看板か?」と。

 私が「ちがう」と答えると、「英語で、BIG TOPというと、サーカスの大きなテントのことを言う」
と。

 この程度ならまだよいほう。

 彼らは、「HARD−OFF」とか、「COX」とかいう看板を見ると、ゲラゲラと腹をかかえて笑い
だす。理由は、ここには書けない。これらはどれも、全国規模の、大きな会社の名前である。

 もしあなたの近くに外人(英語人)がいるなら、一度、その意味を聞いてみるとよい。あなた
も、きっと腹をかかえて笑うはず。


●日本は、すばらしい

 今回、日本へやってきたオーストラリア人たちの中に、途中、中国の上海へ寄ってきた人た
ちもいた。が、その中の1人の女性は、スリにあった。バッグの中の、サイフごと、カードや、身
分証明証などを盗まれた。

 「日本でそんなことがあったら、全国ニュースになる」と話すと、みな、うれしそうに笑った。
が、何よりも驚いたのは、「トイレの清潔さ」だという。どこへ行っても、みな、「美しい」「清潔だ」
と、驚いて出てくる。

 そういう話を聞くと、うれしくなる。日本も、いい国だ!

 とくに地方へ行くと、日本人的なというか、あたたかい人情を感ずることが多い。バスにのっ
ても、大柄のオーストラリア人のために、席をあけてくれたりする。電車に乗っても、そうだ。

 レストランでも、箸(はし)のかわりにと、ナイフやフォークを並べてくれるし、座敷でも、小さな
椅子(スツール)を用意してくれる。そういうのを横で見ていると、気持ちよい。楽しい。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1603)

●老人扱い

++++++++++++++++++++

「私は老人だから……」と、大切にされることを
要求する、日本人。

「私は老人ではない」と、老人扱いされることを
拒否する、オーストラリア人。

同じ老人なのに、どうしてこうまで生き様が
ちがうのか?

++++++++++++++++++++

 オーストラリア人たちをあちこち案内していて、気がついたことがある。その中には、80歳前
後の人たちが、何人かいる。

 私は、そういう老人たちの前向きな生き方、考え方を見て、驚いた。本当に、驚いた。だれ
も、老人臭くない。つまり自分たちは、老人とは、思っていない。

 好奇心はおう盛。何か新しいことを発見するたびに、「どうしてだ?」「なぜだ?」と、質問をた
たみかけてくる。

 たとえば小さな食堂へ入っても、のれんを見つけて、「これは何だ?」「何のために、こんなも
のをつりさげておくのか?」と。「本当に、日本のそばでいいのか?」と私が聞くと、「日本では、
日本のものを食べたい」と。姿、形は、80歳前後かもしれないが、中身は、まるで、子ども。子
どもの遠足のように、そのつど、はしゃぎ、騒ぐ。

 日本人は、自ら、老人になっていく。あらかじめ(老人)の形をつくり、その中に、自分をあて
はめていく。「老人というのは、こういうものだ」と。そして「さも自分は、できた人間でございま
す」というような様子をしてみせる。

 一方、オーストラリアには、老人の形、そのものがない。……といっても、その(ちがい)を説
明するのは、むずかしい。ただここで言えることは、「老人だったら、どこの国の老人も同じ」と
考えるのは、明らかにまちがっているということ。

 どうして、こういう(ちがい)が生まれるのか? 

 ひとつには、彼らの生き様が、ストレートであること。裏、表が、ない。まったく、ない。

 たとえば私の家で食事をすませたあとも、みな、さっと立って、洗いものをしてくれる。男も、
女も、だ。当初はそれに面食らったが、彼らにしてみれば、それが自然な行為なのだ。いつも、
自分たちの家では、そうしている。それを、そのまま、私の家でする。

 だからそうしてもらう私のほうは、彼らのしたいままにさせておく。オーストラリア人というの
は、したいことはする。したくないことは、しない。そのあたりの白黒が、はっきりしている。

 決して、儀礼でするとか、義理でするとか、かっこうをつけてするとか、そういうことをしない。
ひとりはかなり金持ちの人だが、破れた靴下を、平気ではいている。そういうことを、何とも思っ
ていない。

 だからつきあっていても、気が楽。初対面の人もいるが、何十年来の友人のように、心が行
きかう。私も、言いたいことを、言う。そのまま言えばよい。「今朝はワイフが、頭痛がすると言
っている」などと言うと、みなが、ワイフに気をつかってくれる。

 日本では、老人は、自ら老人になっていく。またそうであることが美徳とされている。しかしオ
ーストラリアでは、(老人)という意識が、まるでない。その(形)すらない。

 私は、今、その(事実)に強い衝撃を受けている。

 ……そう言えば、私の叔母の1人などは、電話をかけてくるたびに、弱々しい声で、「おばち
ゃんも、年を取ったからねエ……」と言ってくる。「だから、何とかしてくれ」ということなのだろう
が、こと、オーストラリア人については、そういう言葉そのものがない。発想もない。坂道や階段
などで、へたに彼らの腕を取ろうものなら、「私はだいじょうぶ」と、かえって、こちらの手を払い
のけてしまう。

 老人扱いされることそのものに対して、強い拒絶反応を示す。

 私は、今、老人としての、新しい生き方を、考え方を、彼らを通して、学びつつある。これは私
にとって、すばらしい体験といってもよい。

で、今朝は、これからその中の2人を、中部国際空港まで送っていく予定。

 では、みなさん、おはようございます。私も、がんばります。

【提言】

 「老人」という、わけのわからない、プラス、意味のない言葉を、廃語にしよう!


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●厳戒態勢の日本 

++++++++++++++++

自衛隊では、現在、乙(おつ)装備
になっている。

戦闘機も、すべて実弾を積んでいる。

これが甲(こう)装備になると、自衛
隊員は基地内に缶詰。隊員たちは、靴
をはいたまま、眠ることになる。

今、その甲装備になる、1歩、手前。

++++++++++++++++

 自衛隊で幹部をしている友人が話してくれた。「現在、自衛隊では、乙装備を実施している」
と。「乙装備」というのは、「臨戦態勢」という意味だそうだ。

 自衛体内は、かなり緊迫しているらしい。すでに日本の領海内へ入ってくるK国の船舶は、す
べて臨検対象になっているという。「公海上ではまだできませんが、日本の領海内では、できま
す」とのこと。

 もちろん臨検対象は、核兵器。船に積んでこられて、日本の沿岸でドカンとやられたら、たま
らない。自衛隊も、それをよく知っている。

 が、アメリカ軍は、さらに危険レベルをあげている。たとえば九州の佐世保市では、市内で
も、検問がきびしくなっているという(佐世保市在住の知人)。そのアメリカ軍は、現在、レベル
Bの臨戦態勢を敷いている。

 レベルAというのは、実戦体制。レベルは、Aから、B、C、Dと、4段階まである。

 K国がおかしな行動に出たら、すぐ、レベルAにひきあげられるという。

 日本も本気なら、アメリカも、さらに本気らしい。

 その自衛隊の幹部の人は、こう言った。「アメリカ軍は、規模がちがいますから」と。

 ……とうとうここまできてしまった、極東情勢。しかしこの場に及んでも、あの金大中(韓国の
前大統領)は、こう言っている。「ここでまでK国を追いこんだのは、アメリカだ。(アメリカが悪
い)」と。

 あの人も、ボケた。まるで現実が、わかっていない。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【いじめ】

+++++++++++++++++++++

いじめの問題は、いじめそのものを問題にしても、
あまり意味はない。

なぜ、いじめが起きるか。その奥にまでメスを入れ
ないと、この問題は解決しない。いつまでもつづく。

いじめというのは、あくまでも、表面に現れた症状。
その症状を見ながら、言うなれば、対症療法ばかりを
繰りかえしても、根本的な解決には、結びつかない。

+++++++++++++++++++++

●北海道で起きた、ある事件

 昨年(05年)、北海道で、1人の女の子が自殺した。何通も、遺書を残しての自殺だった。し
かも、自殺をした場所が、学校の教室だったという。場所が場所だけに、たいへんショッキング
な事件だった。その女の子には、女の子の何かの思いがあって、そうしたのだろう。

 で、そのあと、学校側が、そのいじめを把握していたかどうかが、問題になった。当初、「知ら
なかった」と言っていた学校側。それに対して遺族側は、「遺書にそう書いてあったのだから、
知っていたはず」と反駁(はんばく)した。

 そのあたりの詳しいいきさつは知らないので、これ以上のコメントは、しようがない。遺族(家
族)の無念さを思いやるにつれ、たいへん痛ましい事件であることには、ちがいない。こういう
事件は、あってはならないことだし、また二度と、あってはならない。

 で、その上でというか、この事件からは一歩退いた上で、(いじめ)について考えてみたい。な
ぜいじめは起きるのか。またどうしてこういう事件が起きるのか。

●いじめを把握するのは、不可能

 まず、率直な意見として、子どもどうしのいじめだが、それを学校側、つまり教師がそれを把
握するのは、不可能と言ってもよい。たとえば10人の子どもたちが、集団でワイワイと言いあ
っていたとする。

 ごくありふれた、どこにでもある光景である。そういう中で、どれがいじめで、どれがそうでな
いか、それを見分けるのは、不可能と言ってもよい。笑いあっているから、いじめでないとは、
言えない。深刻な雰囲気だから、いじめとも、言えない。遊びかもしれないし、悪ふざけかもし
れない。

 仮にいじめであるとしても、いじめる側は、それをいじめと意識していないばあいが、多い。ズ
ケズケとものを言う子どもは少なくない。さらに今度は、受け取る側の問題もある。「キモイ」と
言われて気にする子どももいれば、そうでない子どももいる。さらにここにも書いたように、その
場の雰囲気もある。

 もろもろの要素が複雑にからみあって、いじめはいじめになる。こうした事件につながる。

●どこからが学校の責任か

 で、そのいじめについて、どの程度以上が学校側、つまり教師の責任で、どの程度以下が、
学校側、つまり教師の責任でないかという判断も、むずかしい。いじめといっても、暴力的なも
のもあれば、無視、冷淡、もの隠し、仲間はずれにするといういじめもある。いろいろある。さら
にいじめる側にしても、それをいじめと意識しているばあいはなおさら、先生の目を盗んでする
ことが多い。

 またいじめられている子どもにしても、仕返しを恐れたり、「いじめられる自分が悪いのだ」と
自分を責めることによって、かえって口を閉ざしてしまうケースが多い。もちろん親に話すという
こともない。

 そこでたいていのばあい、……というより、ほとんどのばあい、親が自分の子どもの異変に気
づいてから、あわてて対処するということになる。不登校もそのひとつだが、その前兆症状とし
て、いろいろな神経症(心身症)による症状を示す。それを親が感じて、「どうも、うちの子はお
かしい」「先生に相談してみよう」ということになる。

 実際、いわゆる「いじめ」という「いじめ」のほとんどは、親からの相談や通報によって、発覚
する。99%以上がそうではないか。ということは、こといじめに関しては、(1)親自身がいつも
子どもの様子の変化を把握していなければならない、(2)学校(先生)と親の関係を、風通しよ
くしておかねばならない、ということになる。

 しかしだからといって、それでいじめがなくなるわけではない。

 たとえばこんな例がある。

●ピリピリとした雰囲気

 かなり前のことだが、一度だけ、私の幼児教室で、知能テストを実施したことがある。アメリカ
の権威あるテストを、そのまま翻訳して、使ってみた。で、そのテスト結果をみながら、私は、点
数をつけ、それをグラフ化した。が、これが大失敗だった。

 それまで和気あいあいとしたムードだった親たちの様子が、一変してしまった。私がつけた点
数にしても、「どうしてうちの子が、こんな点数なのだ」「どうしてあの子が、うちの子より、いい点
数なのだ」「うちの子は、先生に、1年以上も世話になっているのに、成果が出ていないのは、
どういうわけだ」となった

 まるでハチの巣をつついたような騒ぎになってしまった。言うなれば、それまで静かだった池
に、大きな石を投げ入れたような感じといってもよい。

 で、その後遺症は、それからもずっとつづいた。というより、その時点を境に、教室の運営さ
えむずかしくなってしまった。

 ……ということが、実は、日常的に子どもの世界で起きている。とくに受験期が近づくと、ピリ
ピリとした雰囲気になる。1人か2人、あるいはさらに数人が、その先頭にたって音頭を取るよ
うになる。

 たいていは頭が切れる、成績のよい子どもである。口も達者で、はきはきしている。が、どこ
か心が欠けている。自分勝手でわがまま。ものの考え方が、自己中心的。リーダー格だが、だ
からといって、友だちに好かれているわけではない。

 このタイプの子どもが、えてして、教室に、独特の緊張感をもたらす。ピリピリとした感じにな
る。

 いじめも、こうした雰囲気から生まれると考えてよい。

●受験競争の弊害(?)

 現状では、いじめというのは、起こるべきして起こる。しかも、それを助長しているのが、受験
競争であり、それに狂奔する親たちである。そう断定してしまうのは危険なことかもしれない
が、その可能性は、ないとは言えない。

 その時期を迎えると、親も子どもも、どこか雰囲気がおかしくなってくる。殺伐(さつばつ)とし
てくる。「心豊かな教育」などという言葉は、どこかへ吹き飛んでしまう。

 が、皮肉なことに、ほとんど親たちは、自分の子どもがピリピリすればするほど、それを喜
ぶ。反対に、自分の子どもが、のんびりとした様子を見せようものなら、「こんなことではだめ
だ」と、子どもを叱る。親自身が、受験競争の弊害の恐ろしさを知らない。こんなこともあった。

 1人、たいへん頭のよい子ども(小6・女児)がいた。「頭がよい」というのは、勉強がよくでき
るという意味である。そういう子どもを、親はたいへん喜んでいたが、しかし親は、その子ども
のもつ、心の冷たさには、気づいていなかった。

 ぞっとするほど、冷たかった。表面的には、明るく、ハキハキした子どもだったが、友だちの
価値まで、成績で決めてしまうようなところがあった。平気で、「あいつはバカだ」「あいつはアホ
だ」と言っていた。

 で、そのことを母親に告げようとしたことがあるが、私は会ったとたん、何も言えなくなってしま
った。その母親自身も、やはりぞっとするとほど、心の冷たい人だった。それを知ったとき、私
が言おうとしたことは、そのまま、喉の奥に引っこんでしまった。

 こういうケースは、たいへん、多い。

 つまりこうして加速度的に、いじめの温床が作られていく。

●学校だけを責めるのは、酷(?)

 北海道で起きた事件は、たいへん痛ましい事件である。そのことには、まちがいない。そうい
う形で自分の娘をなくした親にしてみれば、その心痛はいかばかりか。それを思うと、この私で
すら、いたたまれない気持ちになる。しかもそれが、事故ではなく、いじめが原因ということな
ら、なおさらであろう。

 が、しか、しその一方で、学校側だけを責めるのも、私は酷だと思う。もちろん学校側に責任
がないと言っているのではない。あるいは、こうまで問題がこじれてしまった背景には、私たち
が知らない、何かの事情があるのかもしれない。

ただあえて学校側を擁護するなら、意図的にウソをついたというよりは、こと問題が、ほかの子
どもたちにからむ問題であるだけに、できるだけ穏便にすませようとする学校側の意図が働い
たとも考えられる。

 「だれがいじめた」「どうしていじめた」ということになれば、当然、子どもたち自身が被告人に
なってしまう。私がその場にいた教師なら、それだけは何としても避けたいと願うだろう。

 ……と書きながら、私が言えるのは、ここまで。先にも書いたように、私には、その内情がよく
わからない。新聞に報道された事実だけで、判断をくだすことも、これまた危険なことである。
ただ最後に、一言だけつけ加えるなら、その子どもを取り巻く環境が、もう少し風通しのよいも
のであったら、この種の事件は、防げたかもしれないということ。

 その子どもが、親や先生に、そのときの気持ちや状況を、そのまま訴えることができたとした
ら、親や先生も、適切に対処できたかもしれない。つまりそういう環境がなかったということも疑
われる。というのも、実際問題として、先生自身が、子どもの世界に入りこんで、いじめを発見
するというケースは、きわめてまれだからである。

 ほとんどのばあい、親からの相談などで発覚する。あるいは何か、具体的な事件が起きてか
ら発覚する。

 そこで重要なことは、つまりこの種の事件の再発を防ぐためには、(風通し)をよくするという、
その一語に尽きる。親と学校側の風通しが大切であることは言うまでもないが、子どもと親、子
どもと学校の風通しをよくする。

 つまり子ども立場でいうなら、親にも、先生にも、何でも言いたいことを言い、相談したいこと
を相談できるという環境ということになる。それがとどこおったとき、この種の事件は、起きる
(?)。

 どうしてそれができなかったのか。考えれば考えるほど、今回のこの事件は、たいへん残念
な事件ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●1963年

+++++++++++++++++++++

マガジンの読者が、今日、4人ふえて、
1963人になった。

不思議なマガジンで、読者がふえるときは、
いつも、プラス4人か、あるいは、ゼロ。

つまり4人か、ゼロ。

どうしてだろう……?

それはさておき、1963年。この年、私は、満16歳
になった。

高校1年生である。

+++++++++++++++++++++

3月……新幹線のスピードテストが行われる。
6月……女性宇宙飛行士のテレシコワ、地球を48周する。
11月…アメリカのケネディ大統領、ダラスで暗殺される。
12月…力道山、東京赤坂のナイトクラブで刺殺される。

 これらのできごとは、どれも、私は、よく覚えている。ただ力道山が刺されたのは、もっと前の
ことだったと思っていた。小学5年生〜6年生くらいのとき(?)。が、記録を読むと、1963年。
だから、やはり、私が高校1年生のときということになる。

記憶の中では、私はそのニュースを、銭湯の中に設置してあったテレビを見て知ったように思
う。

 たいへんな衝撃だった。しばらくテレビに釘づけになったのを覚えている。記録によれば、そ
の夜10時50分ごろ刺されたということだから、その時刻にテレビを見ていたことになる。しか
しそうすると、時刻が合わない。銭湯は、そんな夜遅くまで、開業していなかった。

 そこで調べてみると、力道山は、12月8日に刺されたあと、開腹手術を受けたものの、15日
の午前9時50分になくなっていることがわかった。となると、また時刻が合わない。私は、力道
山のニュースを知って、衝撃を受けている。「力道山は死ぬはずはない」と、私も含めて、だれ
もが、そう思っていた。力道山は、まさに日本のスーパーマンだった。

が、午前中になくなったとすれば、銭湯の中でなくても、その前に、それを知っていたはず。銭
湯は、毎日、夕方5時ごろ、開いていた。

 あるいは、当時というのは、そういう時代だったのかもしれない。つまりそれほどまでに衝撃
的なニュースでも、私たちの耳に届くまでには、半日もかかったということ(?)。よくわからない
が、私の記憶をたどっていくと、そういうことになる。

で、私はその力道山を、私の町へやってきたとき、直接、見ている。車の後部がデッキになっ
た、今でいうマイクロバスのような車で、そのデッキの上で、力道山は、私たちに手を振ってく
れた。そうそう、そのとき、私は、まだ小学生か、中学だった。

 そうした雑多な記憶が、今、頭の中で、混信している。ひょっとしたら、銭湯で見たあの事件
は、もっとべつの事件だったかもしれない。ウム〜〜?

 が、何といっても、最大のニュースは、アメリカの大統領のJ・F・ケネディが暗殺された事件。
しかしこのニュースも、それから43年もたってみると、キューバ危機(1962年10月22日)の
事件と重なり、今では、どっちがどっちなのか、よくわからない。

 キューバ危機のニュースは、遠足の途中で、先生からその話を聞いた。1962年の事件だ
から、その前年に起きた事件ということになる。あのときは、「もうこれで日本もおしまい」と、本
気でそう思った。

 そのとき感じた恐怖感が、J・F・ケネディ暗殺事件と重なる。

 記憶というのは、どうも、そういうものらしい。

 何はともあれ、私は、そのとき高校1年生。とくに何が楽しかったという時代ではないが、その
ころの私は、ただひたすら、勉強だけをしていた。いわゆるガリ勉タイプ。今から思うと、つまら
ない学生だった。

 世間知らずで、井の中の蛙(かわず)。まったくの井の中の蛙。

 ところで、話はまったく変わるが、マガジンを出すと、そのつどマガジンの読者がふえる。しか
しこのふえかたが、おかしい。

 そのふえ方だが、4人か、ゼロ。そのどちらかに決まっている。2人とか、3人とか、そういうこ
とはない。5人以上というのも、めったにない。4人か、ゼロである。

 どうしてだろう? どうして、いつも、4人か、ゼロなのだろう? だれか電子マガジンに詳しい
人がいたら、教えてほしい。

++++++++++++++++

記憶について、3年前に、こんな
原稿を書きました。

++++++++++++++++

●乳幼児の記憶

 新生児や、乳幼児にも、記憶はある。科学的にそれを証明したのは、ワシントン大学のメル
ツォフ(発達心理学)らである。しかもその記憶の量と質は、私たちが想像するよりも、はるか
に濃密なものであると考えてよい。

 その一例として、野生児がいる。生後直後から、人間の手を離れ、野生の世界で育てられた
人間をいう。よく知られた野生児に、フランスのアヴェロンで見つかった、ヴィクトールという少
年。それにインドで見つかった、アマラ、カマラという二人の少女がいる。

 アヴェロンの野生児についていえば、発見されたときは、推定12歳ほどであったが、死ぬま
での40歳の間に覚えた単語は、たった3つだけだったという。またインドの2人の少女は、完
全なまでに動物の本性と生活条件を身につけていたという。

感情表現もなく、おなかがすいたときに怒りの表情。肉を食べたとき、満足そうな表情を見せた
以外、生涯、ほほえむこともなかったという。

 この野生児からわかることは、乳幼児期の記憶、なかんずく、生活環境が、きわめて濃密な
形で、その人間の人格形成に影響を与えているということ。またその時期にできた、いわゆる
人格の「核」というのは、その後、生涯にわたって、その人のまさに「核」となって、その人の生
きザマに影響を与えるということ。

 私たちは新生児や乳幼児を見ると、そのあどけなさから、「こういう幼児には記憶などあるは
ずがない」とか、あるいは、自分自身の記憶と重ねあわせて、「人間の記憶が始まるのは、4、
5歳の幼児期から」と考えやすい。しかしこれは誤解というより、まちがいである。

 子どもは生まれたときから、そして乳幼児期にかけて、ここにも書いたように、きわめて濃密
な記憶を、脳の中にためこんでいく。しかも重要なことに、人間は、自分の子育てをしながら、
自分が受けた子育てを、再現していく。

これを私は、勝手に「人格の再現性」と呼んでいる。子育てを再現するというよりは、その人自
身の人格を再現するからである。

 わかりやすい例でいえば、たとえば自分の子どもが中学生になると、ほとんどの親は、言い
ようのない不安や心配を覚える。しかしそれは自分の子どもの将来についての不安や心配と
いうよりは、自分自身が中学時代に覚えた不安や心配である。将来に対する不安、人間が選
別されるという恐怖。それを自分の子どもを通して、親は再現する。

 私も、最近、こんな経験をしている。

 昨年、孫が生まれた。二男の子どもである。二男は、インターネットで、子育ての様子を伝え
てくれるが、その育て方を見ていると、二男は恐らく、自分では、自分は自分の子育てをしてい
るつもりかもしれないが、どこかしこというより、全体としてみると、私が二男にした子育てと同
じことを繰りかえしているのがわかる。

 こうしたことからも、つまり現象面から見ても、新生児や乳幼児にも、記憶がしっかりと残って
いることがわかる。そういう意味では、ワシントン大学のメルツォフらの研究は、それを追認し
ただけということになる。

 さてここが重要である。

 あなたはあなたの子どもの記憶を、決して安易に考えてはいけない。子どもが泣いていると
き、あるいはひょっとしたら眠っているときでさえ、子どもの脳は、想像を超える濃密さで、その
ときの状況を、記憶として蓄積している。そしてそれがそのまま、その子どもの人格の核となっ
ていく。

 これに対して、「私は自分の記憶を、4、5歳くらいまでしか、たどることができない。だからそ
れ以前は、記憶はないのではないか」という意見もある。しかしこれについては、もう一度、は
っきりと否定しておく。

 記憶は、記銘(脳の中に記録する)、保持(その記憶を保つ)、そして想起(思い出す)という
操作を経て、人間の記憶となる。ここで重要なことは、想起できなからといって、記憶がないと
いうことではないということ。事実、脳の中心部に辺縁系と呼ばれる組織があり、その中に海馬
(かいば)という組織がある。

 この海馬には、ぼうだいな量の記憶が保持されている。が、その記憶のほとんどは、私たち
の意識としては、想起できないことがわかっている。いわば担保に取られた貯金のようなもの
で、取り出すことはもちろん、使うこともできない。しかしそしてそうした記憶は、無意識の世界
で、その子どもを、そして現在のあなたを、裏から操る……。

 繰りかえすが、新生児や乳幼児の記憶を、決して、安易に考えてはいけない。
(030614)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 記憶
 幼児の記憶メルツォフ 野生児 ビクトール アマラ タマラ 子どもの記憶 記銘 保持 想
起)

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これに関連して書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。
+++++++++++++++++

親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ
れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

つい先日も、中学1年生をもつ父母が、2人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「1学
期の期末試験で、数学が21点だった。英語は25点だった。クラスでも40人中、20番前後だ
と思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。2人とも、表面的に
は穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最
難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い
た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの
は、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。

行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩
まされた。たいていはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわから
ない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものば
かり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。
「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても
ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた
め」と、確信している。

こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(2001年)によれば、中学生で、い
やなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、39・1%しかいなかった。これに対し
て、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、78・4%。子どもの意
識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテに
していない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」
はもっと少なく、たったの6・8%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければな
らない先生が、たったの6・8%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、
子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子
どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試
験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向
に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち
は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ
な言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気
づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで
の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった
とたん、雰囲気が変わった。そこで……。

あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろう
か。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。

あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみる
とよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親
子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静
に見つめてみるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 受験
と子ども 親に相談する子供 先生に相談する子供 内閣府の調査)

 
Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(1604)

●上下意識

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オーストラリアには、日本でいう「上下意識」
というのが、まったく、ない。

ないものはないのであって、どうしようもない。

「兄が上で、弟が下」とか、「夫が上で、妻が下」
とか、そういう意識は、まったくない。

それだけではない。

親子の間でも、それがない。親も子どもも、対等。
まったくの対等。

それを知るにつけ、では日本人がもつ、この
「上下意識」は何かと、しばしば考えさせられる。

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 この数週間だけで、中部国際空港(セントレア)と浜松の間を、何往復したかわからない。オ
ーストラリアの友人や家族を迎えに行ったり、送っていったり。それぞれが別々の行動をしてい
る。彼らの言葉を借りるなら、「Follow the nose(足の向くままに)」となる。

 そういうオーストラリア人たちを見ながら、ワイフが、こう言った。「私、すばらしい勉強をした
わ」と。

私「何を?」
ワ「老後の生き方よ」
私「そうだな」と。

 オーストラリアには、日本でいう「上下意識」というのが、まったく、ない。ないものはないので
あって、どうしようもない。「兄が上で、弟が下」とか、「夫が上で、妻が下」とか、そういう意識
が、まったくない。

それだけではない。

親子の間でも、それがない。親も子どもも、対等。まったくの対等。それを知るにつけ、では日
本人がもつ、この「上下意識」は何かということになる。

 たとえばこんなことがあった。

 1人の女性(80歳)には、5人の子どもがいる。私の友人の母親である。母と息子という関係
になる。が、その2人、たがいにまったく、干渉しようとしない。母は母、息子は息子という雰囲
気である。そこで私のほうが、質問をした。

 「オーストラリア人の親というのは、息子が何をしても、何も言わないのか?」と。

 するとその母親は、「しない」「それは彼の人生だから」と。そこでさらに具体的に、「たとえば
離婚問題が起きたときはどうか?」と聞くと、それについても、「息子たちが判断すること」と。

 どうであっても、親は、その結果だけを知り、それに納得し、それを受け入れるということらし
い。子どもたちの生活には干渉しない。同時に、子どもたちには、干渉させない。それがどうや
らオーストラリア流の親子関係ということになる。

 が、この日本では、離婚問題ひとつとっても、かならずと言ってよいほど、そこに親が割って
入ってくる。親のほうが、大騒ぎするケースも少なくない。少し前だが、息子夫婦の離婚問題
で、毎晩のように電話をかけてきた知人(70歳くらい)がいた。

 相談内容は、要するに、「出て行く嫁には、財産を分けたくない。そのためには、どうすれば
いいか」ということだった。が、私の答は、簡単。「財産を分けてやるべきだ」「息子さんの問題
だから、息子さんに任せばいい」だった。が、そんなことは言えない。

その知人には、その知人の意識がある。日本的といえば、実に日本的。その意識の世界にま
で踏みこんで、ものを言うのは、たいへん危険なことである。へたをすれば、人間関係そのも
のまで破壊してしまう。だからどうしても、あいまいな返事になってしまう。

 事実、そのあとその知人は、ことあるごとに、私のことを、「冷たい男だ」と言いふらしていた。
「相談したのに、親身になって、相談にのってくれなかった」と。

 が、それがもしオーストラリアだったら、どうだろう。息子夫婦の離婚問題に、親がクビをつっ
こむということ自体、考えられない。息子夫婦の相談にはのるだろうが、「こうしろ」とか、「ああ
しろ」とかいう、干渉はしない。言うなれば、「友」としての親子関係が、確立している。意見を言
うとしても、「友」としての立場で、ものを言う。

 これについては、ほかのオーストラリア人たちも、みな同意見で、逆に私のほうが質問されて
しまった。「日本では、どうして親が、子どもの離婚問題に、クビをつっこむのか(=干渉するの
か)?」と。

私「日本では、子どもは、家の財産、親の財産という考え方をする」
オ「それは、おかしい(リディキュラス)」
私「わかっているが、大きな流れの中では、それに抵抗するのは、むずかしい」
オ「離婚するとか、しないとかは、あくまでも、子どもの問題」
私「そうはいかない。日本では、いまだに、家と家の結婚と考える人が多い。親のプライドがキ
ズつけられたと考える人も多い」
オ「オー、ノー」と。

 こうした(ちがい)を支えるのが、いわゆる(上下意識)ということになる。「親が上で、子が下」
という上下意識。親自身が、その意識をもつこともあるが、子どももそれをもつ。親に隷属する
ことが、子としての美徳と考えている人も多い。そしてそれがなお性質(たち)の悪いことに、こ
の日本では、半ば、カルト化している。

 が、オーストラリア人たちは、どの年代の人も、「私は私」「あなたはあなた」という生き方をし
ている。年齢に関係ない。私のワイフは、それを発見した。

ワ「老人だからといって、老人臭く生きなければならないというのは、おかしいわ」
私「そうだ。本当に、そうだ」
ワ「あのJさんだけど、あと20年生きて、100歳まで生きるってよ」
私「100歳?」
ワ「体をきたえるため、週3回、往復10キロも、散歩しているんだってエ」
私「老人扱いしてはいけないということだね。ぼくたちより、はるかに気が若い」
ワ「そうね」と。

 人間に上下など、ない。こんなわかりきったことでも、わからない人は、多い。意識というの
は、そういうもので、一度、心の中で形成されると、それを改めるのは、容易なことではない。
その意識を基礎に、あらゆる方向に、自分の思想や哲学を載せてしまう。そしてそれが回りま
わって、日本独特の上下意識、さらには親子関係、夫婦関係をつくりあげてしまう。

 ただ一言、このエッセーに注釈を加えるとしたら、こういうことになる。

 今回、私たちが世話をした、オーストラリア人一行は、南オーストラリア州に住む、ドイツ系の
家族が中心だったということ。約半数が、ドクターやその家族たちである。同じオーストラリア人
でも、どの国からの移民かによって、考え方がちがう。もちろん中国や、東南アジアからの移民
も多い。

 そういう人たちも含めて、「オーストラリア人は……」と、ひとまとめにして論ずることは、危険
なことである。また日本でも、このところ、上下意識、つまり権威主義は、音をたてて崩壊し始
めている。

 ともあれ、日本が進むべき道は、まだまだ遠い。私は、それを感じた。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1605)

●韓国情勢

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空想の世界にハマると、現実認識ができなく
なる。

よい例が、カルトと呼ばれる狂信団体。

とんでもないことを信じながら、それが
とんでもないことだということさえ、
わからなくなる。

しかしカルトなら、まだよい。どこまでいっても、
それは個人の世界。個人の問題。

しかしそれが政治の世界に入ると、とんでも
ないことになる。

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 ますますわからなくなってきたのが、韓国のN大統領。おバカ大統領。「現実」から、ますます
遊離してきている。

 K国がミサイルを発射した直後は、あれこれ言っていたが、結局は、何も変えなかった。ミサ
イルを発射した当日の午後ですら、セメントを満載した船を、K国に向けて出航させている。

 で、今回は、核実験。

 当初は、「きびしい態度で臨む」とは言ってみせたものの、わずか数日で、言うことを、どんど
んと変えている。順に拾ってみよう。

 N大統領は、K国の核実験のあと、こう述べている。「これまでのようにすべてに譲歩し、K国
がどんな行動に出ようとも受け入れるといった態度で臨むわけにはいかなくなったのではない
か」(10月9日)と。つまり「金剛山観光と開城工業団地開発を見なおす」と。が、それが翌々日
の11日になると、こう変化した。

 「(北朝鮮の核実験に対する対応策には)制裁と対話という2種類の方法がある。立場の違
いにより、一方は強硬な制裁を進め、もう片方は対話で解決しようと話している。明らかなの
は、この2つは共に有効であり、どちらか一つだけを選択できる問題ではないということだ」(1
1日、民主平和統一諮問会議の海外諮問委員懇談会の席で)と。

 さらにこうも述べている。

 「国連安保理の決議に対し、国連会員国として従うほかないが、(安保理決議は)具体的な事
業一つ一つにまで干渉するものではない。具体的な条項においては、韓国政府が(望む方へ)
行動し得る余地を探すことができるだろう。これは政治家が総論には賛成しつつも、各論につ
いて討議するようなものだ」と。さらに別の場では、「平和的解決の意味は、アメリカとは異な
る」(青瓦台で開いた外交安全保障分野の専門家らとの夕食懇談会の席で)とも。

 つまり、制裁だけではいけない。対話という方法も大切だ。韓国は、対話を大切にする、と。
国連で制裁決議が確実になってきたという時点において、こういうことをヌケヌケと言う。私に
は、大統領のその心理が理解できない。わかりやすく言えば、N大統領は、国連決議を、あえ
て骨抜きにしようとしている。

 事実、そのあと、N大統領は、「国連決議案とは関係なく、金剛山観光と開城工業団地事業
は継続する」との内部方針を決めている。

 が、N大統領のおバカぶりは、これにとどまらない。「今までどおり、包容(太陽)政策を推進
する」と述べた上で、「核実験が行われたにもかかわらず、落ち着いて対応する雰囲気が作ら
れたのは、南北の和解・交流・協力が大きな進展を成し遂げたため」(12日、朝鮮N報)と。

 つまりK国の核実験のあとも、韓国が落ち着いておられるのは、今までの、包容政策の成果
だ、と。バカめ!

 K国のミサイルの脅威にさらされている韓国の、その大統領が、「落ち着いている」とは? 
そう言えば、先のミサイル発射事件のときも、N大統領は、その直前まで、「あれは人工衛星
だ」「ミサイルではない」とがんばっていた。

 今回も、「核実験の兆候はまるでない」と、その直前まで、K国をかばってみせていた。

 まったくわけがわからない。韓国のN大統領の言語録を拾い読みしていると、あたかもカルト
を狂信している信者と話しているかのような錯覚にとらわれる。「現実」がどこにあるかさえ、わ
からなくなってしまう。

 「主権」を口実に、アメリカ軍を韓国から撤退させる道筋をつくりながら、「いざとなったら、アメ
リカ軍が我々を守ってくれる」と発言してみせたり、「K国が核兵器をもつのにも、一理ある」と、
発言してみせたりしている。

 これはN大統領の発言ではないが、前大統領の金大中は、K国による核実験にあとにです
ら、こう発言している。「ここまでK国を追いこんだのは、アメリカだ」と。つまり、「アメリカが悪
い」と。

 N大統領は、明らかに、金大中の論理をもとにして、政治運営をしている。ご存知の人も多い
かと思うが、その金大中は、きわめて熱心なクリスチャンである。

 ところで、この17日に、現代峨山のY社長が、K国を訪問することになっているという。目的
は、K国の高官に、金剛山開発を続行する旨を伝えるためだという。

わかりやすく言えば、Y社長は、こう伝えたいのだ。つまり、「韓国としては、制裁には反対だ。
金剛山開発をやめることになったとしても、それは韓国の責任ではない。国際的な圧力に屈し
て、泣く泣くやめるだけだ」「だから報復するとしても、韓国にではなく、日本や、日本の在日米
軍基地を標的にしてほしい」と。
(この原稿は、10月14日朝、書いたものです。)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

【今朝・あれこれ】10月15日

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嵐のような10日間が過ぎた。
が、みな帰ってしまった。
心の中にポッカリと穴があいたよう。

オーストラリア人の一行は、現在、
揚子江を、船でくだっている。
4日間の船旅だという。

昨夜、その第1報が入った。

それには、

「……BIIIGG contrast to
Japan……(日本とは対照的に、デカ〜イ)」
とあった。

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 私はやはり、若いころ、オーストラリアに移住すべきだった。ここ数日、そんな会話を、ワイフ
とよくする。

 相手がオーストラリア人だと、そのまま全幅に心を開いて話をすることができる。しかし相手
が日本人だと、残念ながら、それができない。いつも相手の心のウラを読まねばならない。

 少なくとも、私のオーストラリアの友人たちは、ウソは言わない。体裁も言わない。自分を飾ら
ない。言いたいことを言い、したいことをする。彼らが、「YES」と言えば、YES。「NO」と言え
ば、NO。わかりやすい。

いつも、あるがまま。だからつきあうほうも、疲れない。

 しかし同じ人間なのに、どうしてこうまでちがうのだろう。私はここで「心を開く」と書いたが、相
手が日本人だと、どうしても心が開けない。何か言っても、まず、疑ってかかる。「この人は、そ
う言いながら、本当は、何を言いたいのか」と。

 前にも書いたが、たとえば私の実家では、こんなトラブルがよく起きた。

 実家から帰るとき、その前の夜、私は、母にこう言った。「明日の朝は、早く帰らねばならない
から、朝食はいらない」と。

 私は、体重調整も考えて、ときどき朝食をとらないときがある。

 が、朝、起きてみると、もう朝食が用意してある。それを見て、私が、「朝食はいらないと言っ
たではないか」と言うと、母は、「いいから、食べていけ」と。

 こういうのを日本では、(やさしさ)という。しかしそれが万事におよぶと、何がなんだか、さっ
ぱり、わけがわからなくなる。たとえば「生活費はあるのか?」と心配して聞くと、母は、いつもこ
う言っていた。

 「ええ、ええ、心配せんでも。私は、近所の人たちがくれる、大根や菜っ葉を食べているから」
と。

 そう言われて心配しない息子は、いない。つまりは、腹のさぐりあいということになる。もっとわ
かりやすく言えば、タヌキとキツネの化かしあいということになる。

 その世界にどっぷりとつかってしまった人には、それがわからないかもしれない。それなりに
居心地のよい世界である。それはわかる。しかしその半面、(わかりやすい世界)に一度なれ
てしまうと、そういう世界が、(ドロドロとした世界)に見えてくる。

 「自由」にも、いろいろな意味がある。行動の自由、精神の自由などなど。しかし自分の心を
開放させるというのも、その自由のひとつと考えてよい。その自由を一度知ったら、カゴの中に
は、もう戻れない。

 合うか、合わないか……ということよりも、私はこのところ、日本の社会そのものに、息苦しさ
を覚える。とくに、今はそうだ。みなが去ったというさみしさも、あるのかもしれない。

 ところで知らなかったが、オーストラリア人の夫婦たちが何組かが、東北のほうまで行ってき
たらしい。そして、温泉に入ってきたらしい。みな、混浴だったという。私とワイフが驚いている
と、逆に、「どうして驚くのか」と質問されてしまった。「ヒロシたちも、来るべきだった。楽しかっ
た」と。

 どうしてオーストラリア人たちは、やることなすこと、こうまでアッケラカンなのか。『世にも不思
議な留学記』の番外編ということになる。

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 私が書いた、『世にも不思議な留学記』が、好評のようだ。現在、金沢学生新聞のほうで、連
載してもらっている。一部は、『はやし浩司の世界』というマガジンのほうで、紹介した。で、その
留学記には、いくつかの番外編がある。「番外編」というのは、発表するのに、どこか抵抗を感
じた原稿である。俗にいう、ボツ原。その中の一つが、「ペンシル・ペニス」。

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●ペンシル・ペニス

 オーストラリア人のもつ「肌」に対する感覚は、明らかに日本人のそれとは異なっていた。簡
単に言えば、彼らは平気で、裸になる。こんなことがあった。

 車、2台でドライブに行ったときのこと。男が5、6人に、女が、3、4人いた。暑くなり始めた初
夏のころだった。海沿いに走っていくと、きれいなビーチが見えた。とたん、車を止めて、みな
が、「泳ごう!」と、叫んだ。そう叫ぶのは勝手だが、私は水着を用意していなかった。で、車の
中でもじもじしていると、もう全員が、海に向かって走りだしていた。走りながら、つぎつぎと着て
いた服を脱いでいた。全員、素っ裸である。

 が、私は、彼らのあとを追いかける勇気はなかった。みなは、「ヒロシ、来い、来い!」と叫ん
でいた。しかし私にはどうしてもできなかった。

 あとになって、一人が私にこう聞いた。「ヒロシは、どうしてこなかったのか?」と。私はそのと
きどうしてそう答えたのかは知らないが、こう答えた。「日本には、武士道というものがあって、
簡単には、人前では、アレを見せてはいけないことになっている」と。が、この事件がきっかけ
で、私には、「ペンシル・ペニス」というニックネームがつけられてしまった。「ヒロシのは、ペンシ
ル・ペニス。だから、裸になれなかった」と。

●ペニスの大きさくらべ

 ペニスの性能は、大きさではなく、膨張率、それに硬度で決まる。そこである日私は、私をペ
ンシル・ペニスと呼び始めた、K君を私の部屋に呼んだ。そしてこう言った。「君のと、どちらが
性能がよいかくらべてみようではないか」と。K君は、半ば笑いながら、すぐ、それに応じてくれ
た。

 私とK君は、背中あわせに立ち、下半身を出して、アレに刺激を加えた。そしてほどよくその
状態になったとき、アレに石膏(せっこう)を塗った。アレの型をとって、それで大きさを比べる
ためである。

……5分くらいたったであろうか。10分くらいかもしれない。とにかく気がついたときには、石膏
が半分くらいかたまり始めていた。で、それをゆっくりとはずそうと思ったとたん、激痛が走っ
た。陰毛が石膏に入り込み、型がはずれなくなってしまっていた。K君も、同じだった。大部分
の石膏は割ってはずしたが、根元のは、はずれなかった。あいにくナイフも、ハサミも、手元に
なかった。

●同性愛者

当時のオーストラリアでは、同性愛者は、「プフタ」と呼ばれて、軽蔑されていた(失礼!)。少な
くとも「プフタ」と呼ばれることくらい、不名誉なことはなかった。まだ同性愛者に対する理解のな
い時代だった。

 私とK君は、石膏を、シャワールームで流して落とすことにした。しかし石膏の重みで、体が
ゆれるたびに激痛が走る。私たちはそれぞれ下半身をタオルで隠した。隠した状態で、両手で
石膏を包むようにして、支えた。

私たちはドアの隙間から、だれもいないことを確かめると、廊下におどり出た。しかし運が悪か
った。あろうことか、うしろ側に、1人の学生が立っていた。そして私たちを見ると、悲鳴に近い
ような大声をあげた。何しろ2人とも、うしろからは、お尻がまる見えだった!

 そのあと、どうなったか? 私とK君は、予定どおり、シャワールームにかけこみ、そこで湯を
流しながら、石膏を無事、はずした。しかしそれとは別に、私とK君は、今度は、「プフタ」と呼ば
れるようになってしまった。

 そのK君、今は、オーストラリアのM大学で教授をしている。専門が、人類学というから、あの
ときの経験が少しは役に立ったのかもしれない。

++++++++++++++++

あのころの私が、なつかしい。
バカなことばかりしていたが、
そのバカなことに、こんなにも
意味があるとは、そのときは、
気がつかなかった。

ところで私の3男が、現在、
仙台にいる。その仙台で、
同じようにバカなことばかり
しているらしい。

++++++++++++++++

Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1606)

●4年半前

++++++++++++++++++++

古い原稿を読みなおしている。
日付を見ると、4年半前の原稿ということに
なる。

しかしいくら古い原稿でも、
読んだ瞬間、「私の原稿」とわかる。
きっと頭の中で、自分自身と同調する
ためではないか。

ラジオの周波数を同調させるのに
似ている。

これはおもしろい現象である。

その中から、いくつかを手なおして、
ここに掲載する。

++++++++++++++++++++

●絶望論

 巨大な隕石が地球に向かっている。もしそれが地球と衝突すれば、地球そのものが、破壊さ
れるかもしれない。もちろん地球上の、あらゆる生物は死滅する。

 SF映画によく取りあげられるテーマだが、もしそういうことになったら……。人々は、足元を
すくわれるような絶望感を味わうにちがいない。自分が何であるかさえわからない絶望感と言
ってもよい。だれと話しても、何を食べても、また何をしても、自分がどこにいるかさえわからな
い。そんな絶望感だが、しかしこうした絶望感は、隕石が地球に衝突するという大げさな話は
別として、つまり大小さまざまな形で、人を襲う。そしてそのつど人々は何らかの形で、日々に、
その絶望感を味わう。

 仕事がうまく、いかないとき。人間関係が、つまずいたとき。大きな病気になったとき。社会情
勢や、経済情勢が不安定になったとき。国際問題が、こじれたとき、など。

人間には、希望もあるが、同時に絶望もある。しかしこの二つは、対等ではない。希望からは
絶望は生まれないが、希望は絶望の中から生まれる。人々はそのつど、絶望しながら、その
中から懸命に希望を見出そうとする。そしてそれが、そのまま生きる原動力となっていく。

 SF映画の世界では、たいてい何人かの英雄が現れて、その隕石と戦う。ロケットに乗って、
宇宙へ飛び出す。観客をハラハラさせながら、隕石を爆破する。衝突から軌道をはずす。そし
てハッピーエンド。

 が、現実の世界では、こうはいかない。大きくても、小さくても、絶望は絶望のまま。ハッピー
エンドで終わることなど、10に1つもない。たいていは何とかしようともがけばもがくほど、その
ままつぎの絶望の中へと落ちていく。そしてそのたびに、身のまわりから小さな希望を見出し、
それにしがみついていく……。

 何とも暗い話になってしまったが、そこでハタと、人々は気づく。絶望を、絶望と思うから、絶
望は絶望になる。しかし最初から、「望み」がなければ、絶望など、ない。つまり、「今」をそのま
ま受け入れて生きていけば、絶望など、ないことになる、と。わかりやすく言えば、そのつど、
「まあ、こんなもの」と、受け入れて生きていえば、絶望することはない。

 仕事がうまくいかなくても、結構。人間関係が、つまずいても、結構。大きな病気になっても、
結構。社会情勢や、経済情勢が不安定になっても、結構。国際問題が、こじれても、これまた
結構、と。少し無責任な生き方になるかもしれないが、こうした楽天的な、とらえ方をすれば、
絶望は絶望でなくなってしまう。ということは、絶望は、まさに人間自らがつくりだした、虚妄(き
ょもう)ということになる。

いや、こう書くと、「林め、何を偉そうに!」と思う人がいるかもしれないが、「絶望は虚妄であ
る」と言ったのは、私ではない。あの魯迅(1881〜1936・中国の作家、評論家)である。彼
は、こんな言葉を残している。

『絶望が虚妄なることは、まさに希望と同じ』(「野草」)

 が、そうは言っても、究極の絶望は、いうまでもなく、「死」である。この死だけは、そのまま受
け入れることはむずかしい。死の恐怖から生まれる絶望も、また虚妄と言えるのか。あるいは
死にまつわる絶望からも、希望は生まれるのか。実のところ、これについては、私はまだよくわ
からない。が、こんなことはあった。 

 昔、私の友人だった、N君は、こう言った。「林君、死ぬことだって、希望だよ。死ねば楽にな
れると思うのは、立派な希望だよ」と。

私が彼に、「人間は希望をなくしたら、つまり、絶望したら、死ぬのだろうね」と言ったときのこと
だ。

しかしもし、絶望が虚妄であるとするなら、「死ねば楽になれるという希望」もまた、虚妄というこ
とになる。つまり「死に向かう希望」など、ありえない。もっとわかりやすく言えば、「死ぬことは、
決して希望ではない」ということになる。この点からも、N君の言ったことは、まちがっているとい
うことになる……?

 もう一度、この問題は、頭を冷やして、別のところで考えてみたい。
(02−12−20)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●受験期の心がまえ

 子どもの受験は、受かることを考えて準備するのではなく、すべることを考えて準備する。こ
んな中学生(女子)がいた。

 「ここ一番!」というときになると、決まって、「私は、どうせダメだもん」と言って逃げてしまうの
だ。そこである日、理由を聞くと、こう言った。「どうせ私はS小学校の入試に落ちたもんね」と。
その中学生は、7、8年前の失敗を、まだ気にしていた!

 が、実は、そのように気にしたのは、その子ども自身ではない。まわりの親たちが、気にし
た。それをその子どもが見て、自分でも気にするようになった。

 この時期の子どもには、まだ「受験」「合格」「不合格」を、客観的に判断する能力は、ない。
たとえば子どもが受験で失敗し、不合格になったとき、不合格がどういうものであるかを教える
のは、まわりの親たちである。子どもはその様子を見て、不合格というのが、どういうものであ
るかを知る。

 ある母親は、息子(年長児)が、S小学校の入試に失敗したあと、数日間、寝こんでしまった。
また別の夫婦は、それがきっかけで離婚騒動を起こした。そのあと幼稚園を長期にわたって
休んだ親もいるし、何と、自殺を図った親もいる。子どもは、そういう親たちの動揺を見て、不
合格というのが、どういうものであるかを知る。……知らされる。

 そこで子どもの受験は、合格を考えて準備するのではなく、不合格を考えて準備する。そして
そのときこそ、親の真価が試されるときと、覚悟する。仮に失敗しても、それは親の範囲だけで
とどめ、その段階で、握りつぶす。そして振り向いたその顔で、子どもには明るいこう言う。「さ
あ、これからどこかでおいしいものを食べてこようね」と。そういう姿勢が、子どもの心を守る。
親子のきずなを守る。
(02−12−20)

++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●受験は淡々と

 人間が人間を選別する。受験の基本は、ここにある。しかしそれは恐ろしく、非人間的なこと
でもある。それゆえに、受験期の子どもをもった親は、理解しがたい恐怖感と、そして不安感を
覚える。

 こうした子どもの受験戦争に巻きこまれ、精神をおかしくする親も、少なくない。とくに長男、
長女のときは、そうなる。「学校の定期テストのたびに、お粥しかのどを通りません」と言った母
親がいた。「進学塾の明かりを見ただけで、血がカーッとのぼるのを感じました」と言った母親
もいた。

 しかしこうしたときこそ、親が親である、その本分を試される。たいていの親は、「子どもを愛
しています」と言うが、本当のところ、それが「愛」であるかどうかは、疑わしい。子どもを自分の
支配下において、子どもを思いどおりにしたいという愛を、代償的愛というが、ほとんどの親
は、代償的愛をもって、子どもを愛していると錯覚する。しかし代償的愛は、代償的愛。真の愛
ではない。

 たとえば子どもが、学校のテストで悪い点をとってきたとする。家の中でも元気がない。そうい
うとき、あなたは何といって、子どもに声をかけるだろうか。「何よ、この点数は!」と、あなたは
言うだろうか。あるいは「こんなことで、どうするの!」と、あなたは言うだろうか。ほかにもいろ
いろな言い方があるが、英語酷では、こういうとき、「TAKE IT EASY!」と言う。日本語に訳
せば、「気楽にしな」という意味になる。

 この話をある会合ですると、ひとりの母親が笑いながら、こう言った。「そんなこと言えば、うち
の子、本当に、何もしなくなってしまいます」と。一方、子どもは子どもで、こう言った。「もしもう
ちの親がそんなことを言ったら、いよいよ見放されてしまったかと、かえって不安になる」と。そ
う言ったのは中学生だが、それを聞いた私は、思わず笑ってしまった。しかしこれだけは言え
る。「勉強しなさい!」と子どもを叱るのは、親の勝手だが、しかしその言葉ほど、親子の間に
ヒビを入れる言葉はない。反対の立場で考えてみればよい。

 あなたが作った夕食の料理をみて、あなたの夫が、「何だ、こんな料理。まずいぞ。六五点
だ。平均点以下だ!」と言ったら、あなたはそれに耐えられるだろうか。が、それだけではすま
ない。

 あなたが子どもに向かって、「勉強しなさい」と言えば言うほど、その責任は、親がとらねばな
らない。今、大学生でも、親に感謝しながら、大学へ通っている子どもなど、さがさなければな
らないほど、少ない。お金を渡せば、そのときだけ、「ありがとう」と言うかもしれないが、本当に
感謝しているかどうかは、わからない。中には、「親がうるセ〜から、大学へ行ってやる」と豪語
(?)する高校生すら、いる。

 そんなわけで、子どもの受験は、淡々とすますのがよい。親のためでもあるし、子どものため
でもある。さらに親子の絆(きずな)を守るためでもある。この日本では、受験競争は避けては
通れない道だが、その受験戦争で、家族の心がバラバラになってしまったら、それこそ、大失
敗というもの。また家族の心を犠牲にするだけの価値は、受験競争には、ない。
(02−12−20)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●♪夕焼け、小焼け

 幼児クラスで、「♪夕焼け、小焼け」を歌った。歌いながら、こんなことを、子どもたちに聞いて
みた。

私「これは、朝の歌かな、夜の歌かな?」
子「夜の歌!」
私「でも、真っ暗ではないよね」
子「もうすぐ、夜になるの」
私「山には、何があるの?」
子「お寺!」
私「お寺の何が鳴るの?」
子「鐘!」
私「どんな音?」
子「キンコンカンコーン」

 私は、こういう発想が、大好き。とても楽しい。ふと、こう思った。「日本の寺も、いつまでもゴ
ーン、ゴーンにこだわっていないで、たまにはキンコンカンコンーにしてみては」と。

 「伝統」とは、何か? 長くつづいた、固定化した文化を伝統というのか。当然、そこには、人
間の経験が蓄積されている。あとの世界に生きる人は、その蓄積の上に、自分の進歩を組み
たてる。そういう意味では、伝統には、伝統としての意味がある。便利だ。が、その伝統が、反
対に、進歩の足カセになることもある。とくに「伝統」の名のもとに、それがループ状態になり、
考えることを放棄してしまったばあいに、弊害が出る。

 ……と考えると、この世界には、守るべき伝統と、そうでない伝統があるのがわかる。あえて
言うなら、善玉伝統と、悪玉伝統ということになる。それに意味のない、無害伝統というのもあ
る。

そこで、自分なりにこれら三つを分類してみようと考えて、ハタと困ってしまった。頭の中では分
類できると思ったが、それぞれの伝統そのものに、善玉的な部分と、悪玉的な部分が共存して
いるのがわかった。たとえば、「地域の風習」。

 たとえば私が山荘を構えた、S村では、まだほんの10年前まで、その地域の最長老の家
に、毎月1回、その村の若い嫁たちが、食事を届けるという風習が残っていたそうだ。明治時
代や大正時代の話ではない。平成時代に入ってからの、「今」である。

 こうした風習は、善玉伝統なのか、それとも悪玉伝統なのか。はたまた意味のない、無害伝
統なのか。私が「どうして今は、しないのですか」と聞くと、当時自治会長をしていたN氏は、こう
言った。「若い嫁さんたちが、いやがりましてね」と。つまり若い女性たちの意識には、そぐわな
くなったというのだ。

たしかに想像するだけでも、息苦しい。しかも毎月となると、手間もたいへんだ。その地域の女
性たちは、ほとんどが共働きをしている。時間をつくるのも、これまた、たいへんだ。

 しかし一方、こうした風習には、牧歌的な温もりを感ずるのも、事実。現代人が忘れてしまっ
た、人のつながりさえ感ずる。どこかアメリカのインディアン的でもあるし、どこかオーストラリア
のアボリジニー的でもある。(本当のところ、彼らにそういう風習があるかどうかは、知らないが
……。)私には、そうした風習が、「おかしい」とか、「まちがっている」とか言う勇気はない。

 さて子どもたちの話。私はこう言った。「そうだね、キンコンカンコーンだね。それは楽しいね。
もしそういうお寺があったら、みんなも喜ぶね」と。日本のお寺も、「お寺らしさ」にこだわるので
はなく、「自分らしさ」を追求してみたらどうなのだろうか。……というのは、暴論だが、どうして
「ゴーン、ゴーン」ではよくて、「キンコンカンコーン」ではダメなのかという問題の中には、伝統
がかかえる本質的な問題が隠されているような気がする。
(02−12−21)

●伝統が創造されるといふのは、それが形を変化するといふことである。……伝統を作り得る
ものはまた伝統をこわし得るものでなければならない。(三木清「哲学ノート」)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●学ぶ心のない子どもたち

 能力がないというわけではない。ほかに問題があるというわけでもない。しかし今、まじめに
考えようとする態度そのものがない、そんな子どもがふえている。

 「享楽的」と言うこともできるが、それとも少し違う。ものごとを、すべて茶化してしまう。ギャグ
化してしまう。「これは大切な話だよ」「これはまじめな話だよ」と前置きしても、そういう話は、耳
に入らない。

私「今、日本と北朝鮮は、たいへん危険な関係にあるんだよ」
子「三角関係だ、三角関係だ!」
私「何、それ?」
子「先生、知らないの? 男一人と女二人の関係。危険な関係!」
私「いや、そんな話ではない。戦争になるかもしれないという話だよ」
子「ギャー、戦争だ。やっちまえ、やっちまえ、あんな北朝鮮!」
私「やっちまえ、って、どういうこと?」
子「原爆か水爆、使えばいい。アメリカに貸してもらえばいい」と。

 これは小学5年生たちと、実際した会話である。

 すべてがテレビの影響とは言えないが、テレビの影響ではないとは、もっと言えない。今、テ
レビを、毎日4〜5時間見ている子どもは、いくらでもいる。高校生ともなると、1日中、テレビを
見ている子どももいる。

よく平均値が調査されるが、ああした平均値には、ほとんど意味がない。たとえば毎日4時間
テレビを見ている子どもと、毎日まったくテレビを見ない子どもの平均値は、2時間となる。だか
ら「平均的な子どもは、2時間、テレビを見ている」などというのは、ナンセンス。毎日、4時間、
テレビを見ている子どもがいることが問題なのである。平均値にだまされてはいけない。

 このタイプの子どもは、情報の吸収力と加工力は、ふつうの子ども以上に、ある。しかしその
一方、自分で、静かに考えるという力が、ほとんど、ない。よく観察すると、その部分が、脳ミソ
の中から、欠落してしまっているかのようでもある。「まじめさ」が、まったく、ない。まじめに考え
ようとする姿勢そのものが、ない。

 もっとも小学校の高学年や、中学生になって、こうした症状が見られたら、「手遅れ」。少なく
とも、「教育的な指導」で、どうこうなる問題ではない。

このタイプの子どもは、自分自身が何らかの形で、どん底に落とされて、その中で、つまり切羽
(せっぱ)つまった状態の中で、自分で、その「まじめに考える道」をさがすしかない。結論を先
に言えば、そういうことになるが、問題は、ではどうすれば、そういう子どもにしないですむかと
いうこと。K君(小5男児)を例にとって、考えてみよう。

 K君の父親は、惣菜(そうざい)屋を経営している。父親も、母親も、そのため、朝早くから加
工場に行き、夜遅くまで、仕事をしている。K君はそのため、家では、1日中、テレビを見てい
る。夜遅くまで、毎日のように、低劣なバラエティ番組を見ている。

 が、テレビだけではない。父親は、どこかヤクザ的な人で、けんか早く、短気で、ものの考え
方が短絡的。そのためK君に対しては、威圧的で、かつ暴力的である。K君は、「ぼくは子ども
のときから、いつもオヤジに殴られてばかりいた」と言っている。

 K君の環境を、いまさら分析するまでもない。K君は、そういう環境の中で、今のK君になっ
た。つまり子どもをK君のようにしないためには、その反対のことをすればよいということにな
る。もっと言えば、「自ら考える子ども」にする。これについては、すでにたびたび書いてきたの
で、ここでは省略する。

 全体の風潮として、程度の差もあるが、今、このタイプの子どもが、ふえている。ふだんはそ
うでなくても、だれかがギャグを口にすると、ギャーギャーと、それに乗じてしまう。そういう子ど
もも含めると、約半数の子どもが、そうではないかと言える。

とても残念なことだが、こうした子どもたちが、今、日本の子どもたちの主流になりつつある。そ
して新しいタイプの日本人像をつくりつつある。もっともこうした風潮は、子どもたちの世界だけ
ではない。おとなの世界でも、ギャグばかりを口にしているような低俗タレントはいくらでもい
る。中には、あちこちから「文化人」(?)として表彰されているタレントもいる。日本人全体が、
ますます「白痴化」(大宅壮一)しつつあるとみてよい。とても残念なことだが……。
(02−12−21)

●まじめに生きている人が、もっと正当に評価される、そんな日本にしよう。
●あなたのまわりにも、まじめに生きている人はいくらでもいる。そういう人を正当に評価しよ
う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●裸の王様

 アンデルセンの童話に、「裸の王様」(原題は、「王様の新しい衣服」)という物語がある。王
様や、その側近のウソやインチキを、純真な子どもたちが見抜くという物語である。しかし現実
にも、そういう例は、いくらでもある。

 先日も、私が、「今度、埼玉県のT市で講演することになったよ」と言うと、「へエ〜、どうしてあ
んたなんかが?」と、思わず口にした中学生(女子)がいた。その中学生は、まさに裸の王様を
見抜いた、純真な心ということになる。

 反対に、何かのことで思い悩んでいると、子どものほうからその答を教えてくれることがある。
H市は、市の中心部に、400億円とか500億円とかをかけて、商業開発ビルを建設した。映
画館やおもちゃ屋のほか、若い女性向けの洋品店などが並んだ。

当初は、結構なにぎわいをみせたが、それは数か月の間だけ。2フロアをぶちぬいて、子ども
向けの児童館も作ったが、まだ1年そこそこというのに、今では閑古鳥が鳴いている。内装に
かけた費用が5億円というから、それはそれは豪華な児童館である。どこもピカピカの大理石
でおおわれている。もちろん一年中、冷暖房。まばゆいばかりのライトに包まれている。

で、その児童館について、ふと、私は、こう聞いてみた。「みんなは、あそこをどう思う?」と。す
ると子どもたち(小学生)は、「行かなア〜イ」「つまらなア〜イ」「一度、行っただけエ〜」と。

 私の教室は、18坪しかない。たった18坪だが、部屋代はもちろんのこと、光熱費の使い方
にまで気をつかっている。机やイスは、厚手のベニヤ板を買ってきて、自分で作った。アルバイ
トの学生を使いたくても、予算に余裕がなく、それもできない。が、それでも私の生活費を稼ぐ
だけで精一杯。が、私にとっては、それが現実。

 しかし同じH市に住みながら、行政にいちいちたてつくことは、損になることはあっても、得に
なることは何もない。それに文句を言うくらいなら、だれにだってできる。しかもすでに完成して
いる。いまさら文句を言っても始まらない。それで思い悩んでいた。が、子どもたちは、あっさり
と、「つまらナ〜イ!」と。それで私も、ホッとした。「そうだよな、つまらないよね。そうだ、そう
だ」と。

 仮に百歩譲っても、日本がかかえる借金は、もうすぐ1000兆円になる。日本人1人あたり、
1億円の借金と言ったほうが、わかりやすい。あなたの家族が、4人家族なら、4億円の借金と
いうことになる。そんなお金、返せるわけがない。ないのに、まだ日本は借金に借金を重ねて、
道路や建物ばかり作っている。いったい、この国はどうなるのか? 政治家たちは、この国を、
どうしようとしているのか?

 もう、私にはわからない。「なるようにしか、ならないだろうな」という程度しか、わからない。
が、かわいそうなのは、つぎの世代の子どもたちである。知らず知らずのうちに、巨額の借金
を背負わされている。

いつかあの児童館には、5億円もかかったことを知らされたとき、子どもたちは何と思うだろう
か。果たして「ありがとう」と言うだろうか。それとも「こんなバカなことをしたからだ」と、怒るだろ
うか。今の今でも、子どもたちが「あそこは楽しい」と言ってくれれば、私も救われるのだが…
…。まあ、本音を言えば、結局は、役人の、快適な天下り先が、また一つ、ふえただけ? ああ
あ。

 では、どうするか。私たちは、何を、どうすればよいのか?

 私はすでに、崩壊後の日本を考えている。遅かれ早かれ、日本の経済は、破綻する。その
可能性はきわめて高い。その破綻を回避するためには、金利をかぎりなくゼロにして、国民の
もつ財産を、銀行救済にあてるしかない。が、仮に破綻したとすると、日本はかつて経験したこ
とがないような大混乱を通り抜けたあと、今度は、再生の道をさぐることになる。

が、皮肉なことに、その時期は早ければ早いほど、よい。今のように行き当たりばったりの、つ
まりはその場しのぎの延命策ばかりを繰りかえしていれば、被害はますます大きくなるだけ。と
なると、答は一つしかない。日本人も、ここらで一度、腹を決めて、自らを崩壊させるしかない。
そしてそのあと、日本は暗くて長いトンネルに入ることになるが、それはもうしかたのないこと。
私たち自身が、そういう国をつくってしまった!

 ただ願わくは、今度日本が再生するにしても、そのときは、今のような官僚政治とは決別しな
ければならない。日本は真の民主主義国家をめざさねばならない。新しい日本は、私たち自身
が設計し、私たち自身が建設する。そのためにも、まず私たち自身が賢くなり、自分で考える。
自由とは何か、平等とは何か、正義とは何か、と。それを自分たちで考えて、実行する。またそ
ういう国でなければならない。そのための準備を、今から、みんなで始めるしかない。

 少し熱い話になってしまったが、子どもたちは、意外と正義を見抜いている。しかしその目
は、裸の王様を見抜いた目。ときどきは、子どもたちの言うことにも、耳を傾けてみたらよい。
すなおな気持ちで……。
(02−12−21)

●子どもには、もっと税金の話、税金の使われ方の話をしよう。
●おかしいことについては、「おかしい」と、みなが、もっと声をあげよう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●私はドンキホーテ

 セルバンテス(ミゲル・デーサーアベドラ・セルバンテス・1547〜1616・スペインの小説家)
の書いた本に、『ドンキホーテ』がある。『ラマンチャの男』とも呼ばれている。夢想家というか、
妄想家というか、ドンキホーテという男が、自らを騎士と思いこみ、数々の冒険をするという物
語である。

 この物語のおもしろいところは、ひとえにドンキホーテのおめでたさにある。自らを騎士と思い
こみ、自分ひとりだけが正義の使者であり、それこそ世界をしょって立っていると思いこんでし
まう。そして少し頭のにぶい、農夫のサンチョを従者にし、老いぼれたロバのロシナンテに乗っ
て、旅に出る……。

 こうした「おめでたさ」は、ひょっとしたら、だれにでもある。実のところ、この私にもある。よく
ワイフは私にこう言う。「あんたは、日本の教育を、すべてひとりで背負っているみたいなことを
言うね」と。最近では、「あなたは日本の外務大臣みたい」とも。私があれこれ国際情勢を心配
するからだ。

 が、考えてみれば、私1人くらいが、教育論を説いたところで、また国際問題を心配したとこ
ろで、日本や世界は、ビクともしない。もともと、だれも私など、相手にしていない。それはいや
というほどわかっているが、しかし、私はそうではない。「そうではない」というのは、相手にされ
ていると誤解しているというのではない。私は、だれにも相手にされなくても、自分の心にブレ
ーキをかけることができないということ。そういう意味で、ドンキホーテと私は、どこも違わない。
あるいはどこが違うのか。

 よく、私塾を経営している人たちと、教育論を戦わすことがある。私塾の経営者といっても、
経営だけを考えている経営者もいるが、中には、高邁(こうまい)な思想をもっている経営者
も、少ないが、いる。私が議論を交わすのは、後者のタイプの経営者だが、ときどき、そういう
経営者と議論しながら、ふと、こう思う。「こんな議論をしたところで、何になるのか?」と。

 私たちはよく、「日本の教育は……」と話し始める。しかし、いくら議論しても、まったく無意
味。それはちょうど、街中の店のオヤジが、「日本の経済は……」と論じるのに、よく似ている。
あるいはそれ以下かもしれない。論じたところで、マスターベーションにもならない。

しかしそれでも、私たちは議論をつづける。まあ、そうなると、趣味のようなものかもしれない。
あるいは頭の体操? 自己満足? いや、やはりマスターベーションだ。だれにも相手にされ
ず、ただひたすら、自分で自分をなぐさめる……。

 その姿が、いつか、私は、ドンキホーテに似ていることを知った。ジプシーたちの芝居を、現
実の世界と思い込んで大暴れするドンキホーテ。風車を怪物と思い込み、ヤリで突っ込んでい
くドンキホーテ。それはまさに、「小さな教室」を、「教育」と思い込んでいる私たちの姿、そのも
のと言ってもよい。

 さて私は、今、こうしてパソコンに向かい、教育論や子育て論を書いている。「役にたってい
る」と言ってくれる人もいるが、しかし本当のところは、わからない。読んでもらっているかどうか
さえ、わからない。しかしそれでも、私は書いている。考えてみれば小さな世界だが、しかし私
の頭の中にある相手は、日本であり、世界だ。心意気だけは、日本の総理大臣より高い? 
国連の事務総長より高い? ……勝手にそう思い込んでいるだけだが、それゆえに、私はこう
思う。「私は、まさに、おめでたいドンキホーテ」と。

 これからも私というドンキホーテは、ものを書きつづける。だれにも相手にされなくても、書き
つづける。おめでたい男は、いつまでもおめでたい。しかしこのおめでたさこそが、まさに私な
のだ。だから書きつづける。
(02−12−21)

●毎日ものを書いていると、こんなことに気づく。それは頭の回転というのは、そのときのコン
ディションによって違うということ。毎日、微妙に変化する。で、調子のよいときは、それでよい
のだが、悪いときは、「ああ、私はこのままダメになってしまうのでは……」という恐怖心にから
れる。そういう意味では、毎日、こうして書いていないと、回転を維持できない。こわいのは、ア
ルツハイマーなどの脳の病気だが、こうして毎日、ものを書いていれば、それを予防できるの
では……という期待もある。

●ただ脳の老化は、脳のCPU(中央演算装置)そのものの老化を意味するから、仮に老化し
たとしても、自分でそれに気づくことはないと思う。「自分ではふつうだ」と思い込んでいる間に、
どんどんとボケていく……。そういう変化がわかるのは、私の文を連続して読んでくれる読者し
かいないのでは。あるいはすでに、それに気づいている読者もいるかもしれない。「林の書いて
いる文は、このところ駄作ばかり」と。……実は、私自身もこのところそう思うようになってき
た。ああ、どうしよう!!

●太陽が照っている間に、干草をつくれ。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●命のあるかぎり、希望はある。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●自由のためなら、名誉のためと同じように、生命を賭けることもできるし、また賭けねばなら
ない。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●パンさえあれば、たいていの悲しみは堪えられる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)
●裸で私はこの世にきた。だから私は裸でこの世から出て行かねばならない。(セルバンテス
「ドン・キホーテ」)
●真の勇気とは、極端な臆病と、向こう見ずの中間にいる。(セルバンテス「ドン・キホーテ」)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●1965年

++++++++++++++++

Eマガの読者が、昨日、1965人に
なった。

1965人目の人は、Y市の人だと
いうことがわかっている。

購読申し込みと同時に、コメントを
送ってくれた。

講演会で、駅から講演会場まで、
送り迎えをしてくれた人である。

そこで、1965年。

この年、私は、満18歳になった。

++++++++++++++++++

 満18歳。高校3年生。私にとっては、人生で、最悪の年だった。神様が「もう一度、青春時代
に戻してあげよう」と声をかけてくれても、あの時代だけは、もうコリゴリ。私は、絶対に、それを
断る。

1965年。

1月……イギリスの元首相、チャーチル死去。
3月……映画「サウンド・オブ・ミュージック」が封切られる。
7月……日韓、韓国内で反日運動が燃えさかる中、基本条約を結ぶ。
7月……名神高速道路開通。
(ビートルズ、人気絶頂期を迎える。)
11月……南海の野村、晴れの三冠王
11月……ボクサーのカシアス・クレイ、大活躍。向こうところ、敵なし。
12月……朝永振一郎、ノーベル物理学賞受賞。

 この中でも、とくに印象に残っているのが、映画、『サウンド・オブ・ミュージック』。そのとき
は、一度しか見なかったが、ビデオ、レザーディスクの時代になってから、それぞれ、最初に、
買い求めた。DVD版ももっている。そのあと、何度も、見た。

 実は、私はあの映画の中の、リーズル(長女)役をした、シャーミアン・カーに、惚れた。大好
きだった。映画を見るというよりは、いつも、リーズルの顔を見たくて、それを見た。それについ
て、少し前に書いた原稿を添付する。

 話は、少しそれるが、許してほしい。

+++++++++++++++++

●DEPRESSION(落ちこみ)

 サウンド・オブ・ミュージクという映画の中に、「私の好きなもの(My favorite things)」という歌
がある。

 ある雷の落ちる夜、マリアが、大佐の子どもたちをなぐさめるために、子どもたちに、ベッドの
上で歌って聞かせる歌である。

「♪バラの上の雨粒、子猫のヒゲ
 ピカピカのやかんに、暖かい、手袋……」と。

 落ちこんでいるときは、楽しいこと、楽しい思い出を、頭の中にえがくのが、よい。最初は、脳
ミソが、抵抗するかもしれない。どこかすなおになれないかもしれない。しかししばらく、「私の好
きなもの」を思い描いていると、少し時間差をおいて、気分が楽になる。

 これは心の中の、不思議な現象と考えてよい。

 で、私のばあい、何かのことで落ちこんでいたりすると、ある特定のことで、悶々と悩んだりす
る。ささいなことである。まったくこちら側に非がなくても、どういうわけか、悩んでしまう。

 食欲が減退したり、ため息が多くなる。気分が晴れず、身の置き場がないように感ずることも
ある。ときどきワイフをぐいと抱きしめてみたりするが、(あるいは、反対に抱いてもらうのかも
しれないが……)、どうも居心地がよくない。

 そういうときは、奥の手を使う。

 「私の好きなもの」を、頭の中で思い描く。

★今までで、一番、楽しかったこと。
★今までで、一番、美しいと思った場所
★今までで、一番、おいしいと思った食べ物。
★今まで、一番、自分が輝いていたときのこと。
★今、自分が、一番、したいこと。

こういうことを、順に、頭の中で、思い描いていく。すると、そのときは、すぐには気分が晴れなく
ても、何かのことで、つぎの仕事や家事をしたりすると、そのあと、ふいと心が軽くなる。

 そういう意味では、人間の心は、単純なものだ。落ちこんでいるときの(自分)から見ると、そ
うでないときの自分が、信じられない。しかしそうでないときの(自分)から見ると、落ちこんでい
るときの(自分)が、信じられない。

 脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、どうしても、その時点において、そのときの脳の状
態を基準にして、ものを考えてしまう。

 しかし落ちこんでいるときの(自分)は、病気。心の病気。ちょうど、風邪で体が熱を出してい
るようなもの。その(熱)があるからといって、その熱が、永遠につづくわけではない。決して、そ
のように考えてはいけない。

 ……ということは、よくわかっているが、しかし風邪をひくときには、ひく。落ちこむときには、
落ちこむ。

 だから、そういうときの救済方法を、あらかじめ、こうして考えておくことは、決して、ムダでは
ない。その一つが、「私の好きなもの」ということになる。

 そうそう私は、映画、「サウンド・オブ・ミュージック」が、大好きだった。何度も見た。ビデオ版
もDVD版も、もっている。少し前まで、レザーディスク版ももっていた。

音楽もすばらしかったが、私は、生まれてはじめて、日本を離れた夢のような世界に、この映
画を通して触れることができた。

 それにもう一つ、理由がある。

 あの映画の中に出てくる、長女役の女性(リーズル役、シャーミアン・カー)が、大好きだっ
た。この話は、だれにも話していない、私の秘密だった。(ここではじめて、秘密を暴露する。)

 ついでにインターネットで検索すると、その映画から35年後の7人の(子どもたち)の写真が
載っていた(「40周年後の同窓会」)。私はうれしくて、それをすべてコピーした。(インターネット
は、本当にすばらしい!)

 で、レーズル役のジャーミン・カーは、すっかり、私と同年代ぽく変身していた。(当然のことだ
が……。)しかしこれは、あくまでも、余談。

+++++++++++++++++

 私の高校時代については、以前に何度も書いた。よい思い出は、ほとんど残っていない。そ
のせいか、今でも、あの高校の近くへ行くと、ゾッとするような戦慄(せんりつ)を覚える。同窓
会に出ても、何も、楽しくない。

 小さな、田舎の高校だったが、その部分にだけは、黒い穴が開いている。そこはまさに地獄
へとつづく穴。地獄は地獄でも、受験地獄!

 が、まったく「無」の世界であったかというと、そうでもない。私は、そのころ、好きなガールフ
レンドができた。よくデートした。「よく」といっても、全体で、4、5回程度。

 その思い出だけが、かろうじてあの時代の私を支えている。

 ……そう言えば、あのときの、あのSさんは、今ごろ、どうしているのだろう。

+++++++++++++++

以前、書いた原稿を紹介します。

+++++++++++++++

●消える地域社会

岐阜県のS市といえば、昔から、刃物の町として栄えた町である。有名な、「関の孫六」も、ここ
から生まれたという。私が子どものころには、まさに飛ぶ鳥も落すような勢いで発展した町だ
が、今は、もうその面影はない。

 以前から「ひどい」とは聞いていたが、ここまでひどくなるとは! 町の中の商店街の、約半分
以上は、シャッターをしめたまま。日曜日の昼間でも、通りを歩く人は、まばら。原因は、校外
に大型店ができたためという。車社会に、うまく対応できなかった。

 こういう話を聞くと、つまり私の実家も、そういう時代の流れの中で翻弄(ほんろう)されつづけ
たこともあるが、地域の文化とは何か、改めて考えさせられる。

 私が子どものころには、商店といっても、そこには、ある種の温もりがあった。近くに、かしわ
屋(鶏肉屋)や、ブリキ屋があった。私はそういうところで、ニワトリが、かしわ(鶏肉)に調理さ
れるのを見たり、1枚のブリキ板から、いろいろな食器ができるのを、最初から最後まで見るこ
とができた。

 隣は、内職で、キャラメルを作っていた。ときどき、そのキャラメルを分けてもらったこともあ
る。もう1つの隣は、小さなパチンコ屋だった。家の向かい側は、髪結いだった。道の反対側
は、時計屋、八百屋、それに薬屋だった。今でいう美容院。何もかもが、半径100メートルくら
いの範囲の中にあった。

 そしてそういう(つながり)の中から、地域社会が生まれ、地域文化が生まれた。町内の旅行
会や演劇会、映画会、そして祭りも生まれた。

 しかし町内の店の半分が、シャッターをしめたとなると、もうその地域の(つながり)は、崩壊し
たとみてよい。そのS市にも、それなりの(つながり)があり、地域文化もあっただろう。

 ではなぜ、こうまであのS市のことが気になるのか?

 理由の、一。私の高校時代のガールフレンドが、その商店街で店を構える男と、結婚したか
らだ。私が、大学2年のとき、1度、彼女の顔を見たのが最後で、以来、1度も会っていない。し
かし心のどこかでは、ずっと、気にしていた。

 いつか、その店に買い物に行き、彼女をびっくりさせてあげようと考えていた。(もちろん、彼
女にとっては、迷惑なことだろうが……。)しかしその店も、人づてに聞くと、「シャッターをしめ
た」と。

 今ごろは、もう息子さんや娘さんの代になっているから、引退でもして、別のことで楽しく暮ら
しているだろうと思う。そう願っているが、しかし、どこかさみしい気がしないでもない。

 そう、あのガールフレンドは、本当に美しい人だった。きゃしゃな体つきで、花にたとえるな
ら、白いカトレアのような感じ。……S市の話を書いていたら、いつの間にか、ガールフレンドの
話になってしまった。

 今、全国で、そしてこの浜松市でも、地域社会が、どんどん崩壊しつつある。私のように、さ
みしい思いをしている人は、多いはず。何とかならないものかと思いつつ、何ともならないこの
歯がゆさを、私は、いったい、どうしたらよいのか。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1607)

【今朝・あれこれ】

+++++++++++

さわやかな秋晴れ。
気持ちのよい朝。
今朝は、午前8時まで、
ぐっすりと眠った。

……おかげで、原稿
を書く時間を失った。

これからいくつか、
雑務をこなさなければ
ならない。

+++++++++++

●口のうまい人

 私は、ここ10年以上、ウソをつかないように、心がけている。それ以前からも、そう心がけて
いたが、ここ10年は、とくに、それを意識している。

 が、ウソをつかなければならない場面は、多い。で、そういうときは、口を閉じるようにしてい
る。ウソをつくよりは、だまっていたほうがよい。

 で、自分でそうしてみると、ウソをつく人が、よくわかる。簡単な例では、口がうまい人がいる。
「口がじょうず」とも言う。ヘラヘラとへつらってきて、こちらの機嫌を取ったりする。心にもないこ
とを言ったりする。

 概してみれば、商人と呼ばれる人に、このタイプの人は多い。その場で、瞬間的に、ウソをつ
く。

 しかし口のうまに人は、結局は、信用されない。相手にされない。私たちの世界では、そうい
う人を、「タヌキ」と呼ぶ。

 私は、この10年、そのタヌキだけにはなりたくないと、心がけてきた。私は、もともと正直な男
ではない。それがわかっているから、私は、務めてそうならないよう、努力している。


●携帯電話

 今使っている、W社の携帯電話は、すごい。使えば使うほど、それがよくわかってくる。W社
の004SHというタイプである。携帯電話といっても、小型パソコンといった感じ。

 写真や動画、それに音声は、そのままEメールとして送信できる。ワード、エクセルまでつい
ているから、どこでも文章を書くことができる。ゲームもできる。和英、英和、国語辞典などもつ
いている。パソコンと同期して、アウトルックなどの予定表をそのままコピーすることもできる。
が、それだけではない。

 昨日、やっと、その携帯電話に、音楽を録音することができるようになった。さっそくワイフに
聞かせてやると、ワイフは、「ヘエ〜」と驚いていた。

 ただ今は、メモリーが256MBしかない。何かと不安。近く、それを8倍の、2GBのものに交
換するつもり。そうすれば、500曲くらい、音楽が入る。(……入るそうだ?)

 それを知って長男が、「500曲入れても、しかたないよ。そんなに聞かないよ」と。

 ナルホド。しかし何でも、ギスギスしているようりは、余裕があったほうがよい。しかしここまで
できるとは、思ってもみなかった。使い始めて、もう1か月以上になるが、それにしても、すご
い!


●原稿

 このところいろいろあって、原稿書きができなかった。おかげでマガジン用の原稿は、ちょう
ど1週間遅れ! 

 今日は10月16日だから、本来なら、11月17日号の配信予約がすんでいなければならな
い。しかし昨日、やっと、11月10日号の配信予約を入れたところ。

 どうしよう?

 ……今朝は、ここまで。今夜は、徹夜になりそう。

(付記)

 しかしこのところ、強い疲れを感ずることが多くなった。一定のサイクルで、周期的にそうなる
ので、今は、そういう時期かもしれない。こういうときというのは、何となく、書く気がしない。「こ
んなマガジンを出していて、何になるのだろう」という思いばかりが強くなる。

 まあ、こういうときというのは、何も考えず、前向きにがんばるしかない!

 
Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1608)

●保護と依存

++++++++++++++++++

依存性の強い人は、独特の言い方をする。
『だから何とかしてくれ言葉』というのが、
それである。

たとえば空腹になったときでも、「〜〜を
食べたい」とは、言わない。

「おなかがすいたア〜」と言う。つまり
そう言いながら、相手に向かって、「だか
ら、何とかしてくれ」と訴える。

++++++++++++++++++

 日本語の特徴と説明する人もいる。しかし依存性の強い人は、独特の言い方をする。『だか
ら何とかしてくれ言葉』というのが、それである。

 たとえば空腹になったときでも、「〜〜を食べたい」とは言わない。「おなかがすいたア〜」と
言う。つまり、そう言いながら、相手に向かって、「だから、何とかしてくれ」と訴える。

 同じように、水がほしいときは、「のどがかわいたア〜」と。トイレに行きたいときは、「おしっこ
オ〜」と。

 子どもの世界では、よく見られる会話だが、しかし子どもの世界だけとは、かぎらない。おとな
の世界でも、そして年配者の世界でも、よく見られる。

 たとえば、「私も、年を取ったからねエ〜」というのが、それ。つまり「私も年を取ったから、何
とかしろ」と。

 最近でも、私は、ある知人から、こんなハガキをもらった。暑中見舞いの最後に、こう書き添
えてあった。「静岡まで行けばいいですか?」と。つまり「静岡まで行けば、そこまで迎えに来て
もらえるか」と。

 私をその知人を、招待した覚えはない。何かの会話のついでに、そんなようなことを話したの
を、誤解されたらしい。それはともかくも、それを読んで、『だから何とかしてくれ言葉』を使うの
は、子どもだけではないと知った。

 もっとも、私の兄などは、若いころから、その『だから何とかしてくれ言葉』を、よく使った。

 新しいテレビがほしくなると、電話をかけてきて、「近所の人は、みんな、衛星放送を見てい
る」「うちのテレビは映らない」と。

 今は、半分以上頭がボケてしまったが、それでも、『だから何とかしてくれ言葉』をよく使う。

 「ラジカセがこわれたア」
 「冬になると、寒い」
 「今のメガネは、よく見えない」と。

 こうした依存性は、一度身につくと、その人の生き方そのものになってしまう。だれかに依存
して生きることが、あたりまえになってしまう。が、その人自身の責任というよりは、半分以上
は、まわりの人たちの責任と考えてよい。まわりの人たちが、そういう環境を作りあげてしまう。

 子どもの世界でも、依存性のたいへん強い子どもがいる。しかしその子どもが問題かという
と、そうではない。よく調べていくと、そういう子どもの親も、また依存性の強い人であることが
わかる。自分が、依存性が強いから、子どもの依存性に、どうしても甘くなる。あるいは、それ
に気づかない。

 反対に、このタイプの親は、親にベタベタと甘える子どもイコール、(かわいい子)イコール、
(いい子)としてしまう。だから子どもの依存心だけを問題にしても、あまり意味はない。そうなる
背景には、親自身の情緒的な欠陥、精神的な未熟性があるとみる。つまり、それだけ、「根」は
深い。

 で、ついでに、私の兄のことだが、現在は、グループホームに入居している。個室が与えら
れ、三食、昼寝つき。おやつもついているし、ときどき遠足にも連れていってもらえる。しかし兄
にしてみれば、それが当たり前の生活になっている。

 が、グループホームといっても、大学生の生活費並みの費用がかかる。具遺体的には、毎
月12〜3万円プラス、諸経費、小遣い、治療代などなど。合計で、15万円ほど、かかる。

 そういう兄だが、もちろん、私に対して、ただの一度も、礼など言ってきたことはない。むしろ
逆に、あれこれと不平や不満ばかりを並べる。またまわりの人たちも、間接的だが、私に対し
て、「もっと、しっかりとめんどうをみろ」というようなことを言う。

 依存する側と、依存される側。それが長くつづくと、(実際、もう30年以上もつづいているが…
…)、それが当たり前になってしまう。そしてそれを前提に、みなが、ものを考える。今では、兄
自身の依存性を問題にする人は、だれもいない。「めんどうをみるのは、弟の責任」と、決めて
かかってくる。(私だって、いつボケるか、わからないぞ!)

 そんなわけで、子どもに依存心をもたせると、子ども自身も苦労をするが、そのツケは、回り
まわって、最後には、親のところにやってくる。家族のところにやってくる。

 だから……というわけでもないが、子どもには、依存心をもたせないほうがよい。いや、その
前に、あなた自身は、どうか。それを疑ってみたほうがよい。もしあなたが依存性の強い人な
ら、あなたの子どもも依存性の強い子どもになる。その可能性は、きわめて高い。

 では、どうするか?

 その第一歩として、『だから何とかしてくれ言葉』を耳にしたら、すかさず、こう言い返してやっ
たらよい。

 「だから、それがどうしたの?」と。

 一見冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、そのほうが、子どものため、あなた自身のた
め、ということになる。

(付記)

 子育ての目標は、子どもを自立させること。欧米流に言えば、「よき家庭人として、自立させ
ること」。

 その一語に尽きる。

++++++++++++++

依存性について書いた原稿を
1作、添付します。

++++++++++++++

【日本人の依存性を考えるとき】 

●森S一の『おくふろさん』

 森S一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。

日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日本人独
特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子ど
もに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では
昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が
旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。

●保護と依存の親子関係

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。

親が子どもに対して保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するように
なる。こんな子ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。

あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。できないと
いうより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。
そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服
でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだ
が、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾け
たあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

●子育ての目標は「よき家庭人」

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。

そこであなたの子どもはどうだろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とか
してくれ言葉」というのが、それである。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言
わない。「お腹がすいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。

ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強くなると、こう
いう言い方をする。

私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学4年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さて森S一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ…
…」と泣くのは、世界の中でも日本人くらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日
本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

(参考)
●夫婦別称制度

 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが
顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世
論調査結果を発表した(2001年)。

それによると、同制度導入のための法律改正に賛成するという回答は42・1%で、反対した人
(29・9%)を上回った。前回調査(96年)では反対派が多数だったが、賛成派が逆転。

さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用する法改正について容認する人も含めれ
ば、肯定派は計65・1%(前回55・0%)にあがったというのだ。

調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が68・1%と男性(61・8%)よ
り多く、世代別では、30代女性の86・8%が最高。

別姓問題に直面する可能性が高い20代、30代では、男女とも容認回答が8割前後の高率。
「姓が違うと家族の一体感に影響が出るか」の質問では、過半数の52・0%が「影響がない」と
答え、「一体感が弱まる」(41・6%)との差は前回調査より広がった。

ただ、夫婦別姓が子供に与える影響については、「好ましくない影響がある」が66・0%で、
「影響はない」の26・8%を大きく上回った。

調査は01年5月、全国の20歳以上の5000人を対象に実施され、回収率は69・4%だっ
た。なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したばあいに結婚前の
姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は18・2%にとどまったという。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親子のきずなを深める法】

親子のきずなが切れるとき 

●親に反抗するのは、子どもの自由?

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗
してはいけない」と考えている高校生は、15%。

この数字を、アメリカや中国と比較してみると、親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国1
5%。親に反抗してはいけない……アメリカ82%、中国84%(財団法日本青少年研究所・98
年調査)。

日本だけは、親に反抗してもよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけない
と考えている高校生が、ダントツに少ない。

こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んでいる」(評論家O
氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそうな
のか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに個人主義が進ん
でいるということはありえない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのもおかしい。

●受験が破壊する子どもの心

 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖
父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動
が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数
は! 平均点は何点だったの?」と。

さらに「幼稚園のときから、高い月謝を払ってあんたを英語教室へ通わせたけど、ムダだった
わね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子どもからやる気をなくす。いや、その程
度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親子の信頼感、さらには親子のきずなそ
のものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「85%」という数字は、まさにその結果である
とみてよい。

●「家族って、何ですかねえ……」

 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき
手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ
てしまった。R氏には2人の娘がいた。1人は大学1年生、もう1人は高校3年生だった。R氏は
あちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費が難
しくなった。

そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の娘はそれに応じなかっ
た。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんたの義務を果たして
よ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻まで、「生活ができな
い」と言って、家を出て、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう言う。「家族っ
て、何ですかねえ……」と。

●娘にも言い分はある

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言
うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき
た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ
ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で
ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿題はやったの」と
いう言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を
変えてみたら……。

たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気楽に
やりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子どもがテス
トの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりなよ」と。
この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでやる気を
起こす。   


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【子どもの心が離れるとき】 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、
いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするとい
うのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(2000年夏)。「私は母の女手一つで、育てら
れました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。

はじめ私は、I氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI
氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。50歳も過
ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとした
ら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれな
い。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがまし
い歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさんの歌』は、3番まであるが、それぞれ3、4行
目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り
込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中2男子)がいた。自分のことを言うの
に、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言う
と、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。

子どもを育てるために苦労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを
日本では「親のうしろ姿」というが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りす
ればするほど、子どもの心はあなたから離れる。 

 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。

平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はた
ったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。

私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え
方ではない。あくまでもフリーハンド、である。

ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさ
い」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六
年)は、次のようになっている。

 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%
 日本の若者のうち、55%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読む
と、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の自立 子どもの自立 生活 自立 子どもの依存心 依存性 子供の依存心 依存性 親に
依存する子供)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●1966年

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昨日、Eマガの読者が、1966人に
なった。

そこで、1966年!

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 1966年。晴れて私は大学1年生!

 あの息苦しい郷里から離れて、私は、生まれてはじめて、青い空に向かって飛んだ! あの
解放感! あの開放感! それを今でも、忘れない。

 ところで、「解放」と「開放」は、どうちがうのか? 日本語大辞典(講談社)には、つぎのように
ある。

 解放……束縛を解いて、自由にすること。
 開放……だれでも自由に出入りできること。

 この年、中国では、あの文化大革命が始まる(5月〜)。ビートルズが日本にやってくる(6
月)。映画の世界では、『戦争と平和』(ソ連)、『ミクロの決死圏』(アメリカ)が、封切られる。

 私はそのころ、それまでに体にしみついた鎖(くさり)のキズ痕(あと)を消すかのように、した
い放題のことをした。今から思うと、たいしたことではなかったが、それでも、私には、そのどれ
もが刺激的だった。楽しかった。

 毎晩、夜遅くまで、下宿の先輩たちと、将棋をさしたり、碁をさしたりして、遊んだ。酒も、タバ
コも、このころ覚えた※。

 旅行はよくしたが、しかし、旅行というより、旅。どれもヒッチハイクだった。1000円とか、20
00円とかあると、それだけを握って、旅に出た。3000円で、金沢から長崎まで行ったことが
ある。

 みなとワイワイと騒ぎながら旅をするという方法もあるにはあったが、私は、ひとり旅のほうを
好んだ。そのほうが、お金もかからなかったということもある。当時の私は、親からの仕送りと
いっても、下宿代の9000円〜1万円だけ。あとの生活費は、アルバイトで稼ぐしかなかった。

 貧乏といえば、貧乏だったが、仲間の多くも、私と同じような生活をしていた。当時は、まだそ
ういう時代だった。

 あの時代は、私にとっては、いわば、心のリハビリのような時代だった。それまでの私の心
は、たしかに病んでいた。高校3年生のあるときなどは、自分のはいている靴が、鉄の錘(おも
り)のように重く感じたこともある。

 だから当時の、つまり大学1年生のころの私を知る人たちはみな、こう言う。「林は、メチャメ
チャ、明るかった」「活動的だった」と。

 そう、私は、明るかった。自分でもそれがよくわかっていた。毎日、解放感と開放感に酔いし
れた。

 一応、学生だから、勉強はした。「一応」というだけで、それほど、勉強したつもりはない。しか
し、要領がよかったのかもしれない。あるいは、ほかの友だちが、あまり勉強しなかったことも
あるのかもしれない。

 1年の終わりに、学部変更を、学生課の教官に勧められた。「医学部に、欠員が1名できた
が、そちらへ移らないか」と。当時、教養課程では、医学部(100人)と、法学部(100人)の学
生は、同じ、講座を受けていた。

 私は断った。私の夢は、英語を勉強して、外国へ行くこと。それしか考えていなかった。これ
はそれから4年後のことだが、4年後の1970年においてすら、日本〜シドニー間の航空運賃
だけでも、42〜3万円。1970年当時、大卒の初任給が、やっと5万〜6万円になったという時
代である。

 1966年のころのことは知らないが、その少し前、つまり私が高校生のころには、大卒の初
任給は、2〜3万円だった。

 「外国へ行く」ということは、当時の学生たちにとっては、夢のまた夢。あの時代、在学中に、
外国へ行ったことのある学生は、法学部(法文学部法学科)では、私(韓国)と、M君(ハワイ)
の2人だけではなかったか。

 私は、いつしか、商社マンになって、外国へ行く……それだけを考えるようになった。

 そうそうこの年、サルトルとボーボワールが、そろって来日している(9月18日)。哲学のT教
授が、それについて熱っぽく語っていた。その講義の様子だけは、よく覚えている。

 「実存主義では、一寸先は闇ということだそうです」とか、何とか。

 1966人目の読者は、BWのN(=vivian)さん。Nさん、ありがとうございました。これからも
末永く、よろしくお願いします。

(※付記)現在、酒は一滴も飲めません。タバコのにおいも、瞬間、かいだだけで、気分が悪く
なるほどです。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●マリリン・モンローのネックレス

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マリリン・モンローのネックレスという
よく知られた話がある。

地元の中学校の入試問題にもとりあげられ
たこともある。

その話は、多分、つくり話だと思うが、しかし
現実に、同じような話を聞いたので、ここに
紹介する。

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 マリリン・モンローのネックレスという、よく知られた話がある。数学の世界では、よく知られた
話であり、数年前だが、地元のある中学校の入試問題にも、取りあげられたことがある。

 マリリン・モンローのネックレスという話は、つぎのようなものをいう。(数字は、話の内容をわ
かりやすくするため、簡単にした。)

 ある日、マリリン・モンローが、ニューヨークの宝石店へやってきた。そして1万ドルのネックレ
スを買った。

 が、翌日、再び、マリリン・モンローが、その店にやってきた。そしてこう言った。

 「昨日、ネックレスを買ったけど、気に入らないわ。そこで、このネックレスをあなたに返すか
ら、そこの2万ドルのネックレスを、私にちょうだい」と。

 驚いた店員が、「それはできません」と答えると、マリリン・モンローは、こう言ったという。

 「昨日、1万ドル、現金で渡したでしょ。で、今日、この1万ドルのネックレスを返すから、合計
で2万ドルになるはずよ。だから、そこにある2万ドルのネックレスを、私にちょうだい」と。

 この話は、おかしい。中学生でなくても、それがわかる。しかし、だ。これと似た話が、現実
に、私の近くでも起きた。こんな話だ。

 2人の兄弟(兄が60歳、弟が55歳)がいた。父親が一人いたが、長い間、養護施設に入っ
ていた。月々の費用が、17〜8万円、かかったという。

 当初は、年金とそれまでの貯金で、何とかやりくりしていたが、10年目を過ぎるころ、貯金が
底をついた。そこで兄弟は、父親名義の土地を売ることにした。希望価格は、1000万円。
が、こういう時節である。不動産屋があれこれとがんばってくれたが、買い手がつかなかった。

 そこでしかたないので、弟が、その土地を買うことにした。値段は、600万円。権利書と実印
は預かったが、土地は、父親名義のままにしておいた。だれかに、すぐ転売するつもりでいた。
1000万円の土地を、600万円にして買ったのには、理由がある。

現在、1000万円で土地を売っても、約40%弱が、税金でもっていかれる。手取りは、600万
円程度にしかならない。弟は、その税金分を先に計算して、600万円を兄に渡した。

 が、まもなく父親が、なくなってしまった。

 問題は、そのあとに起きた。

 父親が残した財産は、600万円の現金と、その父親名義の1000万円の土地ということにな
った。合計で、1600万円。

 で、兄は弟に、こう言ったという。

 「1600万円を2人で分けると、1人、800万円ずつになる。オレのほうで、現在、600万円
の現金を預かっているが、これはオレのものだ。残りの200万円は、土地を売ってつくってほ
しい」と。

 弟がいくら説明しても、兄のほうは、それが理解できなかったという。頭も少しボケたのかもし
れない。今でも「残りの200万円、よこせ」と言っているという。
 
 ……で、この兄の話を聞いて、即座に、「おかしい」と思った人は、脳みその働きが健康な人
と考えてよい。しかし、そうでない人は、そうでない。兄の言い分のほうが正しいと思う人は、自
分の脳みそをかなり、疑ってみたほうがよい。

 では、どう考えたらよいのか。

 まず父親の残した財産は、600万円だけということ。たとえ父親名義のままであっても、その
土地は、弟に売ってしまったのだから、父親のものではない。だから兄弟で分けるとしても、30
0万円ずつ分けるのが、正解ということになる。だから兄は、自分がもっている600万円のう
ち、300万円を、弟に返さなければならない。

 まだ、わからない? では、もう一度、話をわかりやすくしてみよう。こう考えればよい。

まず、その600万円は、弟に返して、一度、父親名義の土地を、もとのサヤにもどす。もどした
上で、兄弟が相続する。相続したあと、だれかに売り、その代金を、2人で分ける。

 しかしこのばあいでも、相続税のほか、土地を売れば、やはり税金を払わなければならな
い。仮に1000万円で売れたとしても、税金などを引いて、手取り額は、600万円。その600
万円を2人で分ける。このばあい、1人、300万円ずつということになる。

 つまりマリリン・モンローのネックレスの話と、この兄弟の話は、たいへんよく似ている。兄弟
の話は、少し複雑かもしれないが、マリリン・モンローの思考能力と、兄の思考能力は、ほぼ同
じとみてよい。

 マリリン・モンローの話は、単純でわかりやすい。が、しかしこの種の話は、決して少なくな
い。ひょっとしたら、あなたもすでに経験しているかもしれない。ご注意!

 ついでに一言。

 親、兄弟の間では、お金の貸し借り、不動産の売買は、しないほうがよい。贈与も、避ける。
あとあと、深刻な問題に発展するケースが、少なくない。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1609)

●運動

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この2日間、片道、約8キロの道のりを
歩いた。

自転車だけでは、運動は、足りない。
それで歩いた。

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 どんなに疲れていても、自転車にまたがったとたん、体がシャキッとする。35年近く、毎日、
自転車通勤したおかげである。

 しかしそれでも、体の部位によっては、老化を感ずることがある。たとえば、同じ足にしても、
自転車をこぐ力はあっても、走ったり、歩いたりする力は、ない。とくにひざから下の力が弱くな
った。ふと立ちあがったようなとき、足がフラつくことがある。

 そこで私は、一念発起。昨日(16日)から、自転車通勤のうち、半分を歩くことにした。行き
は、歩き、帰りは、自転車ということにした。

 片道は、地図の上では、7・5キロ。しかし実際に歩いてみると、早足でも、片道、1時間半か
かる。結構な距離である。秋になったとはいえ、仕事場に着くころには、全身が汗で濡れる。

 が、たった2日目だが、みちがえるほど、体が軽くなったのを感ずる。スタスタというか、スイ
スイと体が動く。気持ちよかった。うれしかった。必要もないのに、子どものように、あちこちを
ピョンピョンとはねてみたりした。

 「これからもつづけよう!」ということで、この話は、おしまい。というのも、実のところ、いつま
でつづくか、自分でもわからないから。私の意志は、それほど、強くない。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司
 
●トンチンカンな韓国の国際外交

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国連安保理によるK国制裁決議が
採択されたあとも、韓国は、金剛山観光事業と、
開城工業団地開発をつづけると言明。
「これらは、制裁品目には、入って
いないから」と。

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 またまたあの金大中(韓国前大統領)が、おかしなことを言い出した。アメリカの政府に向か
って、「アメリカはK国に特使を派遣すべき」と。そしてこうも言った。「もし(ブッシュ大統領が)ク
リントン政権の政策を持続していたら、今ごろは、K国の核問題は、解決していたはず」と。

 金大中は、回顧主義的妄想にとりつかれるあまり、そこにある(現実)を見失ってしまってい
る。あるいはノーベル平和賞に固執するあまり、わざと(現実)をねじ曲げようとしている?

 さらに国連安保理の制裁決議が採択されたあとも、韓国のN大統領は、「金剛山観光事業
と、開城工業団地開発をつづける」と言明※。「K国の核は韓国を狙ったものではない」とまで、
言い切っている。

 政治、とくに国際外交というのは、(現実)がすべてである。(現実)に始まり、(現実)に終わ
る。回顧主義や理想主義では、国際政治は動かない。歴史や、その理想とするところは、国に
よって、みなちがう。いわんや仮定法をもちだして、ああだこうだと言っても意味はない。

 現実(1)……K国は核兵器をもっている。ミサイルももっている。
 現実(2)……指導者は、すでに狂っている。
 現実(3)……国連安保理は、K国の制裁決議を採択した。
 現実(4)……一番あぶないのは、韓国、それに日本。

 こうした(現実)を前に置きながら、「さあ、どうしよう」と考えるのが、国際外交である。それを
忘れると、国際外交は、とんでもない方向に進んでしまう。とても残念なことだが、韓国の金大
中も、N大統領も、(現実)を見失ってしまっている。

(注※)……政府与党は「金剛山観光事業と開城工業団地は、安保理決議とは無関係」 「北朝
鮮船舶の貨物検査は南北海運合意書に従ってすでに実施されている」といった発言を繰りか
えしている。そして「北朝鮮の核は大韓民国を狙ったものではない」という以前と同じ根拠のな
い見方に固執している(朝鮮N報)。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1610)

●1969年

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電子マガジンの時代は、終わった?
今は、BLOGの時代?
今は、そんな感じがする。

が、それでも、マガジンを発行する
たびに、1人、2人と、読者がふえる。

今朝、その読者が、1969人になった。
そこで1969年。

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 1969年といえば、私が満22歳になった年である。ちょうどそのころ、私は、いくつかの留学
生試験を受けている。文部省主催のインド給費留学生試験、フルブライト・アメリカ留学生試
験、それに日豪経済委員会主催のオーストラリア給費留学生試験など。しかしオーストラリア
給費留学生試験のほうに先に合格してしまったので、あとの試験は、そのまま、うやむやにな
ってしまった。

 就職先も、三井物産という会社に決まっていた。同時に伊藤忠商事にも決まっていたが、「大
きいほうがいい」ということで、三井物産にした。その三井物産のほうは、内定を1年、延期して
もらった。

 私が『人生で、最良の日』と感じたのは、その年の終わりごろである。私を包む世界が、すべ
て、金色に輝いていた。私はまさに、天にも昇る気分だった。

 1969年。……といっても、その年の記憶は、ほとんどない。記録を読むと、『アポロ11号着
陸。人類、月に立つ』というのが、何よりも、私の目をひく。

 1969年、7月20日。日本時間で、午後4時17分40秒。

 私はそのときの模様を、岐阜県にある、飛騨白川郷のバス停で、テレビで見ていた。多分、
金沢から帰るとき、富山を回り、その足で白川郷に寄ったときのことだと思う。ちょうどバスを待
っているとき、そのニュースが、テレビで流れてきた。小さな駄菓子屋の中にあったテレビだっ
たと思う。

 「午後4時17分40秒」とあるから、あのとき、夕方の午後4時17分だったのかと、今、ふと、
そう思う。7月20日といえば、まだ真昼のように明るかったはず。記憶の中でも、そうなってい
る。さんさんと、まばゆいばかりの日差しが、自分を照らしていた。

 ほかに全共闘が、安田講堂で攻防戦を繰り広げたという記録もある(1月18日)。いわゆる
「東大闘争」の始まりである。

 このとき、恩師の田丸先生は、30代の若さで東大教授になり、この安田講堂のすぐ右手奥
に、自分の研究室を構えていた。これは最近になって田丸先生から聞いた話だが、どういうわ
けか、化学教室だけは、被害を受けなかったそうだ。「窓ガラスが割られた程度のことはありま
したが」と。

 「化学薬品がびっしりと並んでいましたから、学生たちも、手が出せなかったのではないでしょ
うか」とのこと。

 そう、1969年〜70年は、70年安保闘争をはずして、語ることはできない。日本中の大学
が、その安保闘争で、燃えた。騒いだ。揺れた。「全学連」「核マル」「全共闘」「日本赤軍」など
の文字が、まぶたの裏に浮かんでは消える。

私も、ときどきデモに参加したが、だからといって、共産主義を信奉していたわけではない。共
産主義がわかっていたわけでもない。これは「金沢」という土地柄もあるのだろうが、みな、どこ
か、祭り気分だった。

 ワーワーと声を出して騒ぐ。それが結構、楽しかった。反対に、東京での闘争風景を見て、
「ヘエ〜」「あんなことまでするの!」と驚いたことがある。
 
 こうして私の1969年は、終わり、人生で最良の1970年を迎える。私にとっては、まさに黄
金の時代。はげしい恋もした。しかし同時に、はげしい失恋もした。人生にもリズムがあり、そ
のリズムに、周期や振幅があるとするなら、そのときの周期や振幅は、ほかの時代とは比較に
ならないほど、速く、大きなものだった。

 こんなたとえは正しくないかもしれないが、その時代以後の私は、人生の燃えカスの中で生き
ているようなもの。今にして思うと、そう思う。

 すでに読んでくれた人も多いと思うが、そのころの思い出を書いたエッセーや、『世にも不思
議な留学記』の中から、原稿をいくつか選んで、ここに添付する(中日新聞掲載済み)。

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●息子が恋をするとき

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生
の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と
笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の
女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。

「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、
交際をやめさせほしい」と。相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営してい
た。一方私の家は、自転車屋。「格が違う」というのだ。

この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。が、2人には、立ちふさがる
障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのまま別れになってしまった。

 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。
オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。

たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つかと言え
ば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。私たちおとなの世界は、あまり
にも偽善と虚偽にあふれている。

年俸が1億円も2億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔を
しかめてみせる。一着数100万円もするような着物(?)で身を飾ったタレントが、どこかの国
の難民の募金を涙ながらに訴える。暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東
京都や外国政府から、日本を代表する文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、
「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。

もしそれがまちがっているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそ
んなことはありえない。ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そ
してそれを見る観客は、その2人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。

しかしそれは決して、他人の恋をいとおしむ涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙
だ。あの無限に広く見えた青春時代も、過ぎ去ってみると、まるで、うたかたの瞬間でしかな
い。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」
と。

 相手の女性が結婚する日。私は1日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝
ていた。6月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなに
なってしまいそうだった。

ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度も何度も私は歯をくいしば
った。しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが
今、たまらなくなつかしい。

私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。それに答えて女房
は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●最高の教育とは

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。皇后陛下の父君。そしてその
正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本Y氏。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いてい
た。

私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委員
会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くたびに、
正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。

そんなある日、私は正田氏に、「どうして私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたこと
がある。正田氏はソバを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩』が
同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。私が寝泊りをすることになったメ
ルボルン大学のインターナショナル・ハウスは、各国の王族や皇族の子弟ばかり。私の隣人は
西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣の息子などな
ど。

毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕食を共にした。元
首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。ときどき各国からノ
ーベル賞級の研究者がやってきて、数か月単位で宿泊することもあった。

井口昌幸領事が、よど号ハイジャック事件で北朝鮮へ行った、山村政務次官を連れてきたこと
もある。山村氏は事件のあと、休暇をとってメルボルンへ来ていた。

しかし「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしている
ことすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思
ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一
度だけ、私は、自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

 カレッジの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあっ
た。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに50セント硬貨がのっていた。誰かが落と
したものを、別の誰かが拾ってそこへ置いたらしい。当時の50セントは、今の貨幣価値で800
円くらいか。もって行こうと思えば、誰にでもできた。しかしそのコインは、次の日も、そのまた
次の日も、そこにあった。4日後も、5日後もそこにあった。私はそのコインがそこにあるのを
見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そのときのことだ。私は「私は最高の教育を
受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松
市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いて
いるという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。

しかしそんなときでも、私を支え、救ってくれたのは、あの50セント硬貨だった。私は、情緒も
それほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だったが、曲がりなりに
も、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの50セント硬貨のおかげだった。あの50セ
ント硬貨を思い出すことで、私は、いつでも、どこでも、気高く生きることができた。

【付記】

 『世にも不思議な留学記』は、私のHPより、読んでいただけます。

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【世にも不思議な留学記】

隣人は西ジャワの王子だった【1】

●世話人は正田英三郎氏だった

 私は幸運にも、オーストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究生
活を送ることができた。

 世話人になってくださったのが正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。

 おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。私の寝泊りした、インター
ナショナル・ハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。西ジャワの王子やモーリシャスの皇
太子。ナイジェリアの王族の息子に、マレーシアの大蔵大臣の息子など。ベネズエラの石油王
の息子もいた。

 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。「インド
ネシア語か、それとも家族の文字か」と。

 「家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあった。
また「マレーシアのお札には、ぜんぶうちのおやじのサインがある」と聞かされたときにも、驚い
た。一人名前は出せないが、香港マフィアの親分の息子もいた。「ピンキーとキラーズ」(当時
の人気歌手)が香港で公演したときの写真を見せ、「横に立っているのが兄だ」と笑った。

 今度は私の番。「おまえのおやじは、何をしているか」と聞かれた。そこで「自転車屋だ」とい
うと、「日本で一番大きい自転車屋か」と。私が「いや、田舎の自転車屋だ」というと、「ビルは何
階建てか」「車は、何台もっているか」「従業員の数は何人か」と。

●マダム・ガンジーもやってきた

 そんなわけで世界各国から要人が来ると、必ず私たちのハウスへやってきては、夕食を共に
し、スピーチをして帰った。よど号ハイジャック事件で、北朝鮮に渡った山村政務次官が、井口
領事に連れられてやってきたこともある。

 山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンに来ていた。その前年にはマダム・ガン
ジーも来たし、『サー』の称号をもつ人物も、毎週のようにやってきた。インドネシアの海軍が来
たときには、上級将校たちがバスを連ねて、西ジャワの王子のところへ、あいさつに来た。そ
のときは私は彼と並んで、最敬礼する兵隊の前を歩かされた。

 また韓国の金外務大臣が来たときには、「大臣が不愉快に思うといけないから」という理由
で、私は席をはずすように言われた。当時は、まだそういう時代だった。変わった人物では、ト
ロイ・ドナヒューという映画スターも来て、一週間ほど寝食をともにしていったこともある。『ルー
ト66』という映画に出ていたが、今では知っている人も少ない。

 そうそう、こんなこともあった。たまたまミス・ユニバースの一行が、開催国のアルゼンチンか
らの帰り道、私たちのハウスへやってきた。そしてダンスパーティをしたのだが、ある国の王子
が日本代表の、ジュンコという女性に、一目惚れしてしまった。で、彼のためにラブレターを書
いてやったのだが、そのお礼にと、彼が彼の国のミス代表を、私にくれた。

 「くれた」という言い方もへんだが、そういうような、やり方だった。その国では、彼にさからう
人間など、誰もいない。さからえない。おかげで私は、オーストラリアへ着いてからすぐに、すば
らしい女性とデートすることができた。そんなことはどうでもよいが、そのときのジュンコという女
性は、後に大橋巨泉というタレントと結婚したと聞いている。

 ……こんな話を今、しても、誰も「ホラ」だと思うらしい。私もそう思われるのがいやで、めった
にこの話はしない。が、私の世にも不思議な留学時代は、こうして始まった。一九七〇年の
春。そのころ日本の大阪では、万博が始まろうとしていた。


 

合格通知書 


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


イソロクはアジアの英雄だった【2】

●自由とは「自らに由る」こと

 オーストラリアには本物の自由があった。自由とは、「自らに由(よ)る」という意味だ。こんな
ことがあった。

 夏の暑い日のことだった。ハウスの連中が水合戦をしようということになった。で、一人、二、
三ドルずつ集めた。消防用の水栓をあけると、二〇ドルの罰金ということになっていた。で、私
たちがそのお金を、ハウスの受け付けへもっていくと、窓口の女性は、笑いながら、黙ってそれ
を受け取ってくれた。

 消防用の水の水圧は、水道の比ではない。まともにくらうと学生でも、体が数メートルは吹っ
飛ぶ。私たちはその水合戦を、消防自動車が飛んで来るまで楽しんだ。またこんなこともあっ
た。

 一応ハウスは、女性禁制だった。が、誰もそんなことなど守らない。友人のロスもその朝、ガ
ールフレンドと一緒だった。そこで私たちは、窓とドアから一斉に彼の部屋に飛び込み、ベッド
ごと二人を運び出した。運びだして、ハウスの裏にある公園のまん中まで運んだ。公園といっ
ても、地平線がはるかかなたに見えるほど、広い。

 ロスたちはベッドの上でワーワー叫んでいたが、私たちは無視した。あとで振りかえると、二
人は互いの体をシーツでくるんで、公園を走っていた。それを見て、私たちは笑った。公園にい
た人たちも笑った。そしてロスたちも笑った。風に舞うシーツが、やたらと白かった。

●「外交官はブタの仕事」

 そしてある日。友人の部屋でお茶を飲んでいると、私は外務省からの手紙をみつけた。許可
をもらって読むと、「君を外交官にしたいから、面接に来るように」と。そこで私が「おめでとう」と
言うと、彼はその手紙をそのままごみ箱へポイと捨ててしまった。「ブタの仕事だ。アメリカやイ
ギリスなら行きたいが、九九%の国へは行きたくない」と。彼は「ブタ」という言葉を使った。

 あの国はもともと移民国家。「外国へ出る」という意識そのものが、日本人のそれとはまったく
ちがっていた。同じ公務の仕事というなら、オーストラリア国内のほうがよい、と考えていたよう
だ。また別の日。

  フィリッピンからの留学生が来て、こう言った。「君は日本へ帰ったら、軍隊に入るのか」と。
「今、日本では軍隊はあまり人気がない」と答えると、「イソロク(山本五十六)の、伝統ある軍
隊になぜ入らない」と、やんやの非難。当時のフィリッピンは、マルコス政権下。軍人になること
イコール、出世を意味していた。

 マニラ郊外にマカティと呼ばれる特別居住区があった。軍人の場合、下から二階級昇進する
だけで、そのマカティに、家つき、運転手つきの車があてがわれた。またイソロクは、「白人と対
等に戦った最初のアジア人」ということで、アジアの学生の間では英雄だった。これには驚いた
が、事実は事実だ。日本以外のアジアの国々は、欧米各国の植民地になったという暗い歴史
がある。

 そして私の番。ある日、一番仲のよかった友だちが、私にこう言った。「ヒロシ、もうそんなこと
言うのはよせ。ここでは、日本人の商社マンは軽蔑されている」と。私はことあるごとに、日本
へ帰ったら、M物産という会社に入社することになっていると、言っていた。ほかに自慢するも
のがなかった。が、国変われば、当然、価値観もちがう。

 私たち戦後生まれの団塊の世代は、就職といえば、迷わず、商社マンや銀行マンの道を選
んだ。それが学生として、最良の道だと信じていた。しかしそういう価値観とて、国策の中でつく
られたものだった。私は、それを思い知らされた。

 時、まさしく日本は、高度成長へのまっただ中へと、ばく進していた。

 
ハウス裏手の公園


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


自由の国、オーストラリア【3】

●仲間になる洗礼

 彼らは「ブルシッツ」という耳慣れない単語をよく使った。意味を聞くと、「これはたいへん重要
な単語だから、ミスター・ディミック(寮長)に聞くことだ。彼はオーストラリアでも著名な言語学者
だ」と。

 そこで寮長の部屋に行き、「失礼します。ブルシッツの意味は何ですか」と聞くと、寮長はニコ
リともせず、私にこう言った。「出て行け」と。

 廊下へ出ると、仲間たちが立っていて、一斉に拍手。「やられた!」と思ったが、とたん、私は
彼らの仲間になっていることを知った。「ブルシッツ」というのは、「牛のクソ」のこと。「ウソ」とい
う意味をこめた、下品語であった。私がハウスへ住むようになって、数日後のことだった。

 こうしたいたずらは、仲間になるための洗礼のようなもの。やったりやられたり。まさに茶飯
事。いちいち腹をたてていたら、学生生活そのものが、成りたたない。それを彼らはユーモア
の一つと考えている。

 ただ日本人と違うのは、彼らは、シラフでそれをすること。相手をひっかけるのに、まったく表
情を変えない。民族性の違いというか、子どものときから鍛えられているというか。それが実に
うまい。が、それに慣れるのに、それほど時間はかからなかった。

●私は英雄?

 ある日、公園の芝生の上で、みんなで遊んでいたときのこと。パトカーが急停止。何ごとかと
思っていると、二人の警官が出てきて、私たちを一列に並ばせた。芝生の上で遊ぶのは禁
止。見つかれば罰金ということだった。

 で、順に名前を聞かれたが、私はわざと英語を話せないフリをした。フリをしながら、「ネーム
ね、ネーム。エイチ・アイ・アール・オー……」と。ジャパニーズ英語でゆっくりと話した。そのた
びに二人の警官が、「何だって?」「何だって?」と聞き返した。

 が、これだけは言っておく。日本で学んだ英語など、オーストラリアでは絶対に通用しない。い
わんや日本式の発音など。(当時はそうだった。いや、今でもそうだ。オーストラリア英語で話し
かけられたら、イギリス人でも理解できない。いつかイギリスから来ていた留学生が、そう言っ
ていた。)

 で、私だけ、時間のかかったことと言ったらなかった。聞き取りが終わり、警官が去ったとき、
これまた拍手。「ヒロシ、よくやった! 君の勇気はすばらしい!」と。

●自由の原点

 大学の講義とて、例外ではない。退屈な授業で、ぼんやりとしていると、突然、教授が、こう言
い出した。「ところで君たちは、カトリックの神学校では、小便をしたあと、何回までならアレを振
っていいか知っているか」と。

 突然の質問にとまどっていると、「三回までだ。四回はダメ。四回以上は、マスターベーション
になるから」と。学生がどっと笑うと、「君はこうした教条主義をどう思うか」と、たたみかけてく
る。

 どこが違うのか。つまり日本人とオーストラリア人は、どこが違うのか。ひとつにはオーストラ
リア人というのは、いつもストレートで、わかりやすい。感情をそのまま表現する。

 市内の映画館でも、静かに映画を見ている観客など、まずいない。抗議の口笛を吹いたり、
ワーワーと歓声をあげたり……。単純といえば単純。純朴といえば純朴。そのため裏がない。
裏がない分だけ、イヤ味がない。

 たとえば気に入らない相手だと、平気でビールに小便を混ぜて飲ませたりする。日本では考
えられないいたずらだが、飲ませたほうはもちろん、飲まされたほうも、これまた平気で笑って
すます。

 その明るさが、オーストラリア人の最大の特徴ということになる。抜けるような解放感と言って
もよい。つまりその解放感こそが、彼らがいう「自由(フリーダム)」の原点になっている。

 
メルボルン大学を囲む
カレッジの一つ。
大学は広大な公園の中にあった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


自由とは裸になること【4】

●「裸文化」のちがい?

 綿棒にしても乾燥機にしても、それまでの日本にはないものばかりだった。猫だって、オース
トラリアでは、首輪をつけ、家の中で飼われていた。また何と、あの国では、男が、そして夫
が、食後の皿洗いをしていた! 私はまさに浦島太郎の心境だった。見るもの、聞くもの、すべ
てが珍しかった。

 が、何に驚いたかといって、「裸」に対する、彼らの感覚にほど、驚いたものはない。女子学
生にしても、ブラジャーをつけているものは、まずいない。下すらはいていない女子学生もい
た。そういう女子学生が、床に平気であぐらをかいて座る。

 またドライブをしていて、美しい海岸を見つけたりすると、皆一斉に、裸になって泳ぎ始める。
男も、女もない。何度かそういう機会はあったが、私にはできなかった。一度理由を聞かれた
ことがあるが、私は「日本人には、武士道というものがあって、そういうのは見せない」と、変な
言い訳をしたのを覚えている。

 またある夜のこと。友人となったばかりの女子学生の部屋でお茶を飲んでいると、その学生
は、私の横で服を着替え始めた。そういう学生がパンティ一枚の姿で、私の横でウロウロす
る。もっともそのときは驚くというよりは、「男」として意識してもらえない、自分が情けなかった。

●ストリーキング

 そんな中、メルボルン大学でも、ストリーキングがはやり始めた。頭だけを紙袋で隠し、すっ
裸で走り回るという、あれである。ちょうどベトナム戦争の最中で、徴兵制の問題もからんでい
た。大学には重苦しい空気が流れていた。一見無邪気に見える戯れにも、それなりの意味が
あった。

 そういう流れの中で、私たちのハウスも、そのストリーキングをすることになった。が、私たち
のハウスは、男子カレッジ。女子がいない。そこで隣のセントヒルダ(女子)カレッジに声をかけ
ると、すぐ五、六人が応じてくれた。全員、オーストラリア人。

 アジア人が少ないということもあって、つまり身元がすぐバレてしまうということもあって、私は
衣服の運び係をすることになった。皆が脱いだ服を、別の集合場所へ運ぶという係である。時
はランチタイム。場所は大学構内のカフェ(食堂)。その時間と場所には、もっとも多くの学生が
集まる。

 その日のことはよく覚えている。私が別の集合場所で待っていると、カフェのほうから、スプー
ンでテーブルを叩く音が、ガチャガチャと聞こえてきた。ヒューヒューと口笛を吹く音が、それに
混じった。遠くから見ると、仲間たちが体をユサユサとゆらしながら、テーブルの間を走り回っ
ているのがわかった。そしてそのあとを、毛布を広げてもった職員が、一人、二人と追いかけ
ていた。

 一応つかまえるフリはしているが、つかまえる様子はまったくない。学生たちと一緒になって、
笑いながら走っていた。

 それからちょうど三〇年。あの時代を振り返ってみると、それまでの金沢での学生生活を
「陰」とするなら、オーストラリアでの学生生活は「陽」ということになる。しぐれと雪、そして曇天
に象徴される金沢。一方、オーストラリアには、さんさんと輝く陽光と青い空があった。

 今でこそ日本も豊かになったが、当時はそうではない。私は日本がオーストラリアの生活水
準に達するには、五〇年、あるいはそれ以上にかかると思った。永遠に不可能だと感じたこと
もある。

 生活だけではない。人間そのものも、だ。自由に生きるということは、「裸」になること。身の
束縛をはずして生きることをいう。オーストラリアの学生には、その自由感覚が、骨の髄まで染
(し)み込んでいた。

 
ハウスのコモンルームでの談話風景


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


ゲテモノ食い【5】

●日本食はゲテモノ?

 国変われば、食べ物変わる。あるとき何人かのオーストラリア人学生が、食堂でこう話しかけ
てきた。「日本人は生の魚を食べるというが、病気にならないのか」「日本人は、アルコール(日
本酒)を火にかけて飲むというが、本当か。原理的にそういうことはありえない」と。

 その中の一人の学生は、両親がイギリスから移住してきたばかりで、キザな英語(スノビッシ
ュ)を話していた。アジアの学生の間では、人種差別者(レィシスト)と嫌われていた。私は「そう
だ。日本人はいつもおかしなものを食べる」と言った。言って、彼らを、食事に招待した。

 その夜、四人の仲間が集まった。私は白いご飯を、皿の上に載せると、その上に生卵をかけ
た。白いご飯と生卵は、メルボルン市内の日本レストランから手に入れた。次に糸引き納豆
と、たくあんの入った袋の封を切った。

 私は「腐った大豆と、それにトイレの中で育った植物の根だ」と、説明した。糸引き納豆と、た
くあんは、井口領事の奥さんから分けてもらった。あたりに異様な臭いがたちこめた。たくあん
の臭いは、まさに「あの」臭い。私はそれらを生卵の上に載せると、スプーンで、それらを勢い
よくかき混ぜた。そして口に入れる前にこう言った。

 「これが日本人の主食だ。君たちが日本を廃墟にしたため、ぼくたちにはこういうものしか、
食べるものがない」と。仲間たちは、次に私が何をするか、じっと固唾(かたず)を飲んで見守っ
ていた。私はスプーンで一口、二口、口へ入れたあと、演技たっぷりに、ゲーゲーと皿の上に
吐き出してみせた。とたん、一人の仲間が、トイレへ走った。続いてもう一人も、トイレへ走っ
た。

 残った二人は、「ヒロシ、オー、ノー」と言ったきり、顔をまっ青にして、体をワナワナと震わせ
た。トイレのほうからは、ゲーゲーと、ものを吐き出す声が聞こえてきた。

●友人の逆襲

 この話はハウス中の友人たちの知るところとなり、今度は私が逆襲を受けるはめになった。
マレーシアの留学生がやってきて、「食事に来ないか」と。仲のよい男だったので、まさかと思
いながら、彼の部屋に行くと、すでに数人の仲間が集まっていた。インスタントラーメンをごちそ
うしてくれるということだった。

 一人の仲間がこう言った。「日本のラーメンは、いい。すぐやわらかくなっていい」と。あちらの
ラーメンは、見るからに粗悪品という感じのものだった。それはそれとして、さあ、できあがりと
いうところで、一人が、アヒルの絵のついた缶詰をもってきた。そしてその缶詰を開けると、…
…何と、その中に、アヒルの頭が並んでいるではないか! しかも目もくちばしも、そして羽まで
ついている。

 ゾッとして見ていると、彼はそれをラーメンの中に入れて、スプーンの腹でぐいぐいとつぶし始
めた。私は完全に食欲をなくしていた。が、それで終わったわけではない。私が目を丸くして驚
いていると、一人がやおらアヒルの頭を口に入れ、それを舌の先に載せ、「アーアー」と、私に
見せつけた。今度は私がトイレへ駆け込む番となった。

 オーストラリア人は、腐ったチーズを食べていた。白いカビの生えたチーズだ。ニュージーラ
ンドの学生は、海老をわざと腐らせて食べていた。スペイン系の学生たちは、生肉をパイナッ
プルにはさんで食べていた。うっすらと赤い血のついた生肉である。

 今でこそ知っている人も多いが、三〇年前はそうでない。私はそのつど、目を白黒させて驚
いた。

 
ハウスのシニア・コモンルーム


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


アン王女がやってくる!【6】

●セントヒルダでのダンスパーティ
 
 暑さがやわらいだある日。ビッグニュースが、ハウスを襲った。

 エリザベス女王が、アン王女を連れて、メルボルンへやってくるというのだ。しかもアン王女
が、セントヒルダ(女子)カレッジで、ダンスパーティをするという。

 オーストラリアの学生たちは、「ぼくが、アンをものする」と、それぞれが勝手なことを言い始
めた。アン王女はそのときハイティーン。美しさの絶頂期にあった。

 しかし、そのうち、セントヒルダへ行けるのは、限られた人数であることがわかってきた。今度
は、誰が行けるか、その話題でもちきりになった。が、結局は、行けるのは、王族や皇族関係
者ということになってきた。

 私にも寮長のディミック氏から打診があったが、断るしかなかった。だいたいにおいて、ダン
スなど知らない。一度、サウンド・オブ・ミュージックという映画の中で、その種のダンスを見たこ
とがあるだけだ。それに衣装がなかった。

 それまでもたびたびハウスの中で、夜会(ディナーパーティ)はあったが、私は、いつも日本の
学生服を着て出席していた。日本を離れるとき、母が郷里の仕立て屋でスーツを作ってくれ
たが、オーストラリアでは、着られなかった。日本のスーツは、何と表現したらよいのか、あれ
はスーツではない。毛布でつくったズタ袋のような感じがした。

 その日の午後。選ばれた学生は、うきうきしていた。タキシードに蝶ネクタイ、向こうではボウ
タイと呼んでいたが、それをしめたりはずしたりして、はしゃいでいた。五、六人の留学生に、同
じ数のオーストラリア人の学生。

 留学生はともかくも、オーストラリア人の学生は、皆、背が高くハンサムだった。体をクルクル
と丸めてあいさつをする、あの独特のあいさつのし方を、コモンルームで何度も練習していた。
「王女妃殿下様、お会いできて、光栄に存じます」とか。人選からはずされた連中は連中で、
「種馬どもめ」と、わざと新聞で顔を隠して、それを無視していた。

 そのとき仲のよかったボブが、横から声をかけてくれた。

「ヒロシ、お前は行くべきだ。イギリスなど、日本の経済協力がなければ、明日にでも破産する」
「ああ、しかしぼくには、あんな服がない……」
「服? ああ、あれね。あれは全部、貸衣装だ。知らなかったのか。コリンズ通りへ行けば、いく
らでも借りられる」
「貸衣装?」
「そうだ。今度、案内するよ」
「ああ、君の親切に感謝する」と。

●そしてエリザベス女王は帰った……

 夜になって、ローヤルパレードの通りを歩いてみた。いつものように静かだった。特に変わっ
たことはなかった。行きつけのノートン酒場も、ふだんのままだった。いつもの仲間が、いつも
のようにビールを飲んでいた。

 途中、セントヒルダカレッジのほうを見ると、カレッジ全体に、無数のライトがついていた。そ
れがちょうどクリスマスツリーのように輝いていた。私はそれを見ると、何か悪いことをしたかの
ように感じて、その場をそそくさと離れた。

 その翌日の夕方。エリザベス女王とアン王女は、メルボルンを離れた。カレッジから少し離れ
たミルクバーのある通りが、その帰り道になっていた。私たちはその時刻に、女王が通り過ぎ
るのを待った。

 夕暮れがあたりを包んでいた。暗くはないが、顔がはっきり見える時刻でもなかった。女王は
大きなオープンカーに乗って、あっという間に、通り過ぎていった。本当に瞬間だった。と、同時
に、女王の話も、アン王女の話も、ハウスから消えた。
 
毎週のように、各国の政府要人
たちがゲストとしてやってきて、
スピーチをして帰った。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


反日感情【7】

●クラクションで破られた静かな朝

 毎朝五時ごろ、一頭だての馬車が、ハウスの前を通る。私の部屋は玄関のま上あたりの三
階にあった。時々、その馬車の通る音で目がさめた。牛乳配達の馬車だ。

 配達人がおりて、馬車から離れると、馬は言われなくても、自然に歩調をゆるめ、配達人が
もどってくるまで、そこで待つ。そして配達人がもどってくると、どこかためらいがちに、また走り
始める。徹夜で勉強しているときは、その時刻になると、カーテンをあけて、その馬車が来るの
を待ったこともある。カンカンと、道路を走る音が遠くから聞こえてくる。

 が、ある朝のことだ。私が見ていると、配達人が馬車から離れたところで、うしろから一台の
自動車がやってきて、ブブーとクラクションを鳴らした。馬は一瞬驚いて、跳ねあがった。配達
人は、馬の声に驚いて、いつものなめらかな動きをやめ、さっと馬のところに走った。

 私はその光景を見ていて、何とも言われない不快感を覚えた。せっかちなその一台の自動
車のおかげで、あたりの静寂がかき乱されたからだ。が、続いてその不快感は、激怒に変わっ
た。

 見ると、その自動車を運転していたのは、アジア人だった。日本人だったかもしれない。当時
メルボルン市には、ビジネスマンやその家族を中心に、約五〇〇名の日本人が住んでいた。
オーストラリア人なら、こういうとき、決してクラクションを鳴らさない。静かに待っている。つまり
こういうことをするから、アジア人は嫌われる。日本人は嫌われる。

●反日感情はささいなことから

 オーストラリアの子どもは、アジア人を見ると、こうはやしたてる。「チャイニーズ、ジャパニー
ズ、ギブミー、マネー(中国人、日本人、お金おくれ)」と。別のところでは、私が日本人だとわか
ると、手を合わせて、「アッソ、アッソ(ああ、そうですか)」と言ってきた子どもたちがいた。

 親日的だと喜んでいたら、あとで友人がこう教えてくれた。「ヒロシ、君はからかわれたのだ
よ」と。「アス・ソウ」というのは、ここに書くのもはばかれるが、「お尻の穴が・痛い」という意味で
ある。

 私は大阪万博(一九七〇)のとき、メルボルンにいたが、日本での評価はともかくも、オースト
ラリアでの評価は、さんたんたるものだった。「トイレは携帯トイレが必要」「赤く染めた日本人
の髪は、まるで陰毛のよう。万博は、まるで陰毛博覧会」(新聞記事)と。こんなのもあった。

 「大阪のガス爆発事故現場から一〇マイル。万博のガスパビリオンは、大口をあけて笑って
いた」と。当時の日本は、オーストラリアにとっては、重要な貿易国ではあったが、まだアメリカ
に次いで、第二位の国だった。戦争体験をもった人も多い。だから日本に対しては根強い反日
感情が残っていた。

 そういう中、日本は急速に経済力をつけ、そして同時に傲慢になっていった。それがオースト
ラリア人の国民感情を逆なでした。同じころ、こんな新聞社説もあった。「オーストラリアの駐車
場から、日本の車が消えるのを夢見ている」と。
 
 しかし国民感情などというものは、政府のプロパガンダだけで作られるものではない。日々
のささいなことで作られる。もしあの馬車の光景を、オーストラリアの学生が見たとしたら、それ
だけで反アジア感情をもったであろう。反日感情だったかもしれない。私は私をからかった、オ
ーストラリアの子どもたちの心情が、そのとき理解できたような気がした。

 
私の部屋から、ローヤルパレード通りを
見たところ。

 
大学の前の通り

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


オーストラリアの気候【8】

●車で大陸を横断する

 「君はどの島から来たのか」と聞かれたことがある。そこで私はムッとして、「島ではない。メイ
ンランド(本州)だ」と答えると、皆は、どっと笑った。私が冗談を言ったと思ったらしい。

 英語で「メインランド」というときは、中国大陸やヨーロッパ大陸のような大陸をいう。しかし日
本はやはり島国だった。

 その夜、私とボブとマイクは、車に乗った。夜の一〇を過ぎていた。寒い夜だった。冬の気候
としては、ありふれた気候だった。が、それがまちがいだった。私たちは徹夜で、走ることにし
ていた。時速一二〇キロ前後で走れば、昼までにはアデレードへ着く……、私たちはそんな計
算をしていた。

 私は数枚の毛布と、かばんに日用品を詰めて車のうしろに載せた。そして、出発。一時間も
走ると、スミを垂れ流したかのような暗闇、また暗闇。牧場を突ききって走っているはずだが、
それは見えない。が、それからが地獄だった。

 気温が急激にさがり始めたのだ。最初、私が「寒い」と言った。運転しているボブは、「ヒータ
ーがきかない」と言い出した。確かに熱風が出ているはずなのだが、その熱気は、すぐどこか
へ消えてしまう。マイクもうしろの席で、毛布にくるまって震えていた。私も座席に足をあげ、全
身を毛布でくるんで小さくなっていた。が、それでも体の震えは止まらなかった。

 運転しているボブも寒いはずだが、彼だけは「寒い」とは言わなかった。運転しながら、次々
とパンをかじっていた。私はそのときほど人種の違いを意識したことはない。私はアジア人。寒
さに弱い。マイクはユダヤ人。細い体つきで、寒さには強くないらしい。が、ボブだけは、脂肪太
りで丸々としていた。しかも全身が、剛毛でおおわれている。いつか「ぼくの体には蚊も近寄れ
ない」と笑っていたのを覚えている。

 つまりボブの祖先は、北欧民族だ。が、そのボブも、そのうち泣き言を言い始めた。ぞっとす
るような泣き言だ。いわく、「車が止まったら、ぼくたちは死ぬかもしれない」と。さらに時間がた
つとこう言った。「車がもたないかもしれない」と。身をズタズタに切り裂くような寒さ。身の置き
場がない。

 オーストラリアでは、「真鍮(しんちゅう)のサル(Brass Moinkey)」と表現する。どうしてそういう
言い方をするのかは知らないが、真鍮のサルというのは、そういう寒さのことを言う。

●朝日が痛い!

 日本の気候を規準にして、大陸の気候を考えるのは、正しくない。いくら暑くても、また寒くて
も、日本の気候は日本の気候。しかしオーストラリアの気候は、その日本人の常識をはるかに
超えていた。

 私は車の中で、何度か死を覚悟した。車は平原を走っていた。砂漠の端だったかもしれな
い。ともかくも寒かった。が、南オーストラリア州へ入るころに、夜が白み始めた。まっ白な朝
だ。そしてその下に広がる、まっ赤な大地。ボブは平静を装っていたが、内心は穏やかではな
かったと思う。気温はまださがり続けていた。が、そのときだ。

 まっ白な太陽が、うしろのほうから地平線に顔を出した。スーッと光の筋が流れた。そしてそ
の筋が、顔に当たった。「痛い!」と、私は感じた。光が痛いのだ。その光は車の動きに合わ
せて右、左とゆれたが、そのたびに顔や手に当たった。やはり痛い。私はその痛さを体の中に
染み込ませるようにして、顔をなでた。そのときはじめてボブが、口を開いて、こう言った。「グッ
ド・モーニング」と。

 あのときのボブ、つまりロバート・ベアは、南オーストラリア州で農業指導員をしている。マイ
ク、つまりマイケル・アイゼンは、今、南オーストラリア州で医者をしている。

 
左からマイク、ボブ、マイケル(ボブの弟)
キース(ボブの父親)。
途中まで、迎えにきてくれていた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


モラトリアム【9】

●私がデモの指導者?

 「アイスオブマイ」……、日記にはそうある。カタカナで書いてあるため、今となっては、それが
どういう意味なのか、わからない。

 アイスオブマイ、つまり、その年の五月八日に予定されている、モラトリアム(反戦)運動の別
名である。アメリカで起きている反戦運動を、オーストラリアでもしようという。

 四月へ入ると、数人の学生が、私のところにやってきた。そして「デモのし方を教えてくれ」と
頼んだ。「ジグザグ行進のしかたや、スクラムの組み方を教えてくれ。できれば、君が指揮をと
ってくれないか」とも。もちろん私は断った。

 留学生がそこまでしたら、国外退去を命じられる。それを言うと、「ノーワリーズ(心配ない)。
メルボルン大学すべてで、君を守る」と。私は再度、断った。が、結局、どういうわけだか、その
デモを指導することになってしまった。

 ある日の午後、構内へ呼ばれて行くと、そこにJ君とG君が立っていた。そしてそのうしろに二
〇〜三〇人の学生が集まっていた。見ると、全員が笛をもっている。私が「笛は一人でいい」と
言うと、「このほうがにぎやかだ」と。そこで指導を始めたが、リズムが合わない。

 日本では、「アンポ・フンサイ」と、二拍子で言いながら行進する。しかしオーストラリアのそれ
は、「一、二、三、四、ベトナム戦争のクソッタレをやめろ、五、六、七、八、ベトナム戦争のクソ
ッタレをやめろ」を繰り返す。テンポが速い。速すぎる。

 同じジグザム行進をしても、ブラジルのサンバのような動きになってしまう。組んだ腕を上下さ
せるので、アヒルのダンスのようにも見える。悲壮感がまるでない。その上、その間中、皆が笛
を吹く。うるさくてたまらない。

 そこで今度はかけ声を変えてみた。「マオ、マオ、マオチュートン(毛沢東)、ホー、ホー、ホー
チミン(北ベトナムの指導者)」と。しかしそれでもテンポが速すぎる。

 そこで私が「相手はどんなのだ。機動隊が来るのか」と聞くと、「オーストラリアには、まだそう
いうのはない」と。そこでさらに、「では、どんなのが来るのか」と聞くと、「多分、騎馬警官だろ
う」と。オーストラリアには馬に乗った警官がいる。

 騎馬警官の威圧感は、想像する以上のものだ。そこで私は考え込んでしまった。馬を相手に
ジグザグ行進しても、意味がない。蹴散らされるのがオチだ。で、このジグザグ行進はしないこ
とになった。

●数万人までにふくれあがった反戦デモ

 四月の中旬を過ぎると、オーストラリアの放送局は、毎日のように議会中継を始めた。モラト
リアムの是非を問う討論が、熱っぽく続いた。当時のオーストラリアは、保守政権。一人の高校
生が反戦バッジをつけたかどで、停学処分になったというニュースもあった。

 そして五月八日。その日はやってきた。私は朝から、町へ出た。そして私がデモに加わると、
あちこちで拍手がわき起こった。私はいつの間にか、「日本の活動家」ということになってしまっ
ていた。そしてどんどん前へ前へと押し出されてしまった。

 心の奥で、「マズイ、マズイ」と思いながらも、私はどうすることもできなかった。当時の私は、
そういう優柔不断なところがあった。が、デモは、予想を上回る、大規模なものだった。当初は
大学生を中心に、数千人程度だと思われていた。が、フタをあけてみると、数万人規模にふく
れあがっていた。

 騎馬警官が無数に取り締まりにきていたが、圧倒的に多数の群集を前にして、手も足も出せ
なかった。ここにある写真は、そのとき、私がうしろの方角を撮ったものである。

 

 
大規模なデモになった、
反戦(モラトリアム)運動

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司



カレッジライフ【10】

●ハリーポッターの世界

 最近、私は『ハリーポッター』という映画を見た。しかしあの映画ほど、ハウスでの生活を思い
起こさせる映画はない。ハウスも全寮制で、各フロアには、教官がいっしょに寝泊りしていた。

 食事のときや講義を受けるときは、正装の上に、ローブと呼ばれるガウンをまとった。映画の
中でもときどき食事風景が出てくるが、雰囲気もまったくあの通り。教官やシニアの学生が席
に着くハイテーブルと、学生たちが席に着くローテーブルに分かれていた。たとえば夕食はこう
して始まる。

●ハウスの夕食

 まず学生たちは、コモンルームに集まる。コモンルームというのは、談話室。そこで待ってい
ると、午後六時半きっかりに合図のチャイムが鳴る。それに合わせて、学生たちが食堂に入
り、ローテーブルの前で立って待つ。その途中で、円筒形に巻いた、ナプキンを棚から取り出し
てもっていく。

 ナプキンは、定期的に洗濯される。そうしてしばらく待っていると、シニアのコモンルームか
ら、寮長(ウォードン)を最後尾に、シニアの学生と教官たちが、ぞろぞろと入ってくる。そして寮
長が座るのを見届けてから、学生たちも席に着く。

 食事の前のあいさつは当番制になっている。一人の学生がハイテーブルの隅に立ち、こう言
う。「これらすべての良きものに、感謝の念をささげ、このハウスに恵みのあらんことを」「アーメ
ン」と。

 すると一斉に食器を回す音がし、片側の柱のかげから、給仕たちが食事を運び始める。会
話は自由だが、大声で話したり、笑ったりするのは禁止。もしその途中でベルが鳴ったら、絶
対的な静粛が求められる。

 たいてい寮長からの連絡事項が告げられる。「明日は、○○国○○大使が晩餐にくるから、
遅刻は許さない」とかなど。一度、その話の途中で、不用意にスプーンで食器をたたいてしまっ
た学生がいた。その学生は、その場で退室させられた。つまりその夜は食事抜き。

 食事は、毎回例外なく、フルコース。スープに始まる前菜、メイン料理、それに付随する数品
の料理のあと、デザート。「ディナー」と呼ばれる晩餐会では、さらに数品ふえる。ワインも並
ぶ。ワインは、賓客と乾杯するために配られる。だいたい一時間ほどをかけて、夕食を終え
る。ディナーのときは、賓客のスピーチもあったりして、終わる時間は、まちまち。時には九時
を過ぎることもあった。

 そして皆が終わると、入ってきたときとは、まったく逆に、まず寮長以下、ハイテーブルの教官
たちが席を立ち、食堂から出る。それを見届け、学生たちも食堂を出て、コモンルームに移
る。そこには、コーヒー、紅茶、ワインなどが用意してある。食事のあとは自由行動で、コモン
ルームへ行かないまま、自分の部屋に戻る学生もいた。

●夢のような生活

 寮長はディミック氏だった。イギリスきっての超大物諜報部員だったという。(もう亡くなってい
るので、暴露しても構わないと思う。)これはずっとあとになってのことだが、彼はその後、その
功績が認められて、「サー」の称号を受けたそうだ。

 いつかだれだったか、ジェームズボンドは、彼がモデルだったと言ったが、そんなわけであり
えない話ではない。ただ映画のボンドとは違い、ディミック氏は映画監督のヒッチコックを連想
させる、太った大柄な人物だった。

 こうした厳格なカレッジライフを嫌う学生も少なくなかった。とくに私がいたインターナショナル
ハウスは厳格だったということだが、それは私が帰国してから友人に聞いて知ったこと。私自
身は、厳格であるかないかということより、恵まれた環境を楽しんでいた。

 当時の寮費だけでも、留学生のばあい、月額約二〇万円(一ドル四〇〇円)。日本の大卒の
初任給がやっと五万円を超えた時代である。私には夢のような生活だった。

 
寮長(ウォードン)のディミック氏

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


王子の悩み【11】

●王子や皇太子は皆、偽名!

 ハウスの留学生は、各国の皇太子や王子、あるいは、皇室や王家の子息ばかりだった。ほ
かの連中は、その国のケタはずれの金持ちばかり。このことは前にも書いた。


 しかし日本へ帰国したあと、その国から来た人に、そういう男を知っているかと聞いても、皆、
「知らない」「そんな男はいない」と言う。そんなはずはない。そこである日、それも五年ほどもた
ってからのことだが、同じハウスにいたオーストラリアの友人にそのことを聞くとこう教えてくれ
た。


 「ヒロシ、君は知らなかったのか。彼らは皆、偽名を使っていた」と。つまり警護上の理由で、
ハウスでは、偽名を使っていたというのだ。しかも私が彼らの仲のよい友人だと思っていた男
たちは、友人ではなく、それぞれの国の大使館から派遣された、護衛官であったという。

 もちろん私は本名で通した。護衛官など、私にはつくはずもない。が、こんなことがあった。

 ハウスでは、毎晩二人一組で電話交換をすることになっていた。外からかかってきた電話
を、それぞれの部屋につなぐ係だ。その夜は、私とM国の王子が当番になっていた。しかし彼
は約束の時間になっても来なかった。

 そこで私は彼の部屋に電話をつなぎ、「早く来い」と命令をした。しかしやってきたのは、彼の
友人(あとで護衛官とわかった男)だった。私は怒った。怒ってまた電話をつなぎ、「君が来るべ
きだ。代理をよこすとは、一体、どういうことだ」と叱った。

 やがて「ごめん、ごめん」と言ってその王子はやってきたが、それから数日後のこと。その友
人が私の部屋にやってきて、こう言った。「君は、わが国の王子に何をしているのか、それが
わかっているのか。モスリム(イスラム教)には、地下組織がある。この町にもある。じゅうぶん
気をつけろ」と。その地下組織では、秘密の裁判はもちろんのこと、そこで有罪と決まると、誘
拐、処刑までするということだった。

 その王子。どういうわけだか、私には気を許した。許して、いろいろなことを話してくれた。彼
の国では、日本の女性とつきあうことが、ステータスになっているとか、など。夜遊びをしたこと
もある。モグリの酒場に忍び込んで、禁制の酒を一緒に飲んだこともある。

 が、一見、華々しく見える世界だが、彼は、王子であるがゆえに、そこから生ずる重圧感にも
苦しんでいた。ほんの一時期だけだったが、自分の部屋に引きこもってしまい、誰にも会おうと
しなくなってしまったこともある。詳しくは書けないが、たびたび奇行を繰り返し、ハウスの中で
話題になったこともある。

●「あなたはホテルへ帰る」

 そうそう私が三〇歳になる少し前のこと。私は彼の国を旅行することになった。旅行と言って
も、ほんの一両日、立ち寄っただけだが、彼が王族の一員として、立派に活躍しているのを知
った。街角のところどころに、王様と並んで、彼の肖像画がかかげられていた。

 それを見ながら、私がふと、タクシーの運転手に、「彼はぼくの友だちだ」と言うと、運転手は
こう言った。「王子は、私の友だち。あなたの友だち。みんなの友だち」と。そこで私が「彼と一
緒に勉強したことがある」と言うと、「王子は、私とも勉強した。あなたとも勉強した。みんなと勉
強した」と。

 そこでさらに私が、「彼の家へ連れていってほしい。彼をびっくりさせてやる」と言うと、「あなた
はホテルへ帰る。私は会えない。あなたも会えない。誰も会えない」と。まったく会話がかみ合
わなかった。

 
ハウスでの昼食風景
ローブ、タイ、スーツは必需品だった。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


処刑になったT君【12】

●日本人にまちがえられたT君

 私の一番仲のよかった友人に、T君というのがいた。マレーシアン中国人で、経済学部に籍
をおいていた。

 最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの
祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。そのT君。ある日私にこう言った。

 「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発すると、「じゃ、お前の名前を、日本語で
書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、中国語じゃないか」と笑った。

 そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、
マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にま
ちがえられると、もっと怒る。T君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街
を歩いているときもそうだった。「お前も日本人か」と聞かれたとき、T君は、地面を足で蹴飛ば
しながら、「ノー(違う)!」と叫んでいた。

 そのT君には一人のガールフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとしな
かった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。
が、やがて卒業式が近づいてきた。

 T君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・ディグリー)を取得していた。そのT君
が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。「ヒロシ、ぼくのジェニーは……」と。喉の
奥から絞り出すような声だった。「ジェニーは四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫か
ら訴えられている」と。

 そう言い終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのT君と私は、たまたま東大から来ていた田丸謙二教授の部屋で、よく徹夜した。教授の
部屋は広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。

 田丸教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をもらってメルボルン大学へ来ていた。教授
はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、T君がマレーシアで処刑された
と聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

 この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでT君が生きているとしたら、それはそ
れですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、T君は、マレーシ
アで、一九八〇年ごろ処刑されている。T君は大学を卒業すると同時に、ジェニーとクアラルン
プールへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。

 しばらくは音信があったが、あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみた
が、いつも別の人が出て、英語そのものが通じなかった。で、これから先は、偶然、見つけた
新聞記事によるものだ。

 その後、T君は、マレーシアでは非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして
処刑されてしまった。遺骨は今、兄の手でシンガポールの墓地に埋葬されているという。

 田丸教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、
さかんにくやしがっておられた。そうそう私は彼にで会ってからというもの、「私は日本人だ」と
言うのをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きてい
る。

 
右がT君。
ピンボケの写真だが、彼の写真は
これ一枚しかない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


白豪主義の国に、日本の旗が立った【13】

●徹底したエリート教育

 私をのぞいて、メルボルン大学の私のハウスには、世界各国から、エリートが集まっていた。
そのことは何度も書いたとおりだが、しかし信じられないようなことも、しばしば起きた。

 コロンボ計画で来ていたアフリカの学生は、いつもトイレのフタの上で便をして、メードを困ら
せていた。

 ゴミ箱から暗号表のようなものがみつかり、その筋の捜査官が夜中に飛び込んできたことも
ある。また、たまたまインド・パキスタン紛争の最中で、インド人のマヘシュワリ君と、パキスタン
のアーマド君が、皆の前で、とっくみあいの大口論をしたこともある。

 ハウスの中で何か事件があるたびに、オーストラリア人の学生たちは、「ソ連の陰謀だ」と
か、「ソ連の新兵器だ」とか言って、はやしたてた。

 食事は毎晩例外なくフルコースで、たっぷり一時間はかかった。そしてそれが終わると、コモ
ンルーム(ホール)へ皆が移動し、そこでワインやティーを楽しんだ。全員がスーツの上に、ロ
ーブというガウンを着ることになっていた。

 徹底したエリート教育で、一カ月の寮費だけでも、当時のレートで二〇万円弱はした。大卒の
初任給が、手取りで五万円(日本)という時代である。官費の援助がなければ、私のような人間
にはとてもまかなえる額ではなかった。

●ハウスで催した「ジャパン・ナイト」

 そのハウスでは月に一、二回の割で、各国の学生が、それぞれのお国自慢をすることになっ
ていた。その国の料理を出し、その国の文化を披露する。そこで「日本人のあなたにも……」と
いうことになった。

 日本人留学生は私一人だけだった。私がそれを相談すると、井口領事が、「それならば…
…」と協力してくれた。

 時おりしも日本の大阪では万博が開催されていた。その宣伝もかねて、ジェトロとJALが全
面的に協力をしてくれた。ジェトロは、万博の巨大なパネルや展示品を、そしてJALは、着物や
ハッピなどを無償で提供してくれた。

 メルボルン大学のオリエンタル(東洋)学部の連中も協力してくれた。おかげで、あのパーク
ビルの大学通りに、戦後初めて、日本の国旗が並んだ。『白豪主義』の、あのオーストラリア
で! 井口領事たちが、直立不動のまま、国旗を見あげていたのが印象的だった。

 料理はちらし寿司と、焼き鳥。皆が見よう見まねで作った。学生とゲスト、合わせて二五〇人
分である。朝から作りはじめて、夕方、ようやく間に合った。出し物は、日本舞踊に、民謡、謡
(うたい)など。

 友だちを、にわか日本人にしたてての、まさにぶっつけ本番。何とか日本のムードを出すこと
だけには成功した。ただ学生運動を紹介したのは、まずかった。アジア人の仲間にヘルメット
をかぶってもらい、角材をもたせて、ハウスの中を行進してもらった。が、これがあとで大問題
となった。

 スポンサーの東京商工会議所からきつい、お目玉をくらった。「旗を立てた功績は認めるが、
やりすぎるな!」と。ちょうど七〇年安保闘争が終わったころで、日本もオーストラリアも、学生
運動にはピリピリしていた。

 そんなとき私は、日本の友人にこんな手紙を書いた。「ここでの生活は、一日を一年に感ず
る。毎日が興奮と驚きの連続だ」と。それは決して誇張ではない。

 そう、あのころの緑は、どこまでも深く、空は青く、どこまでも澄んでいた。私はまさに、青春時
代のまっただ中にいた。

 

 

 
ジャパン・ナイトの様子
上から映写会、日本舞踊を踊る、
交換留学生(高校生で、シドニー
から、わざわざ来てくれた。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


日本の全体主義【14】

●総理府の使節団

 一〇月へ入ると、メルボルンの気候は、不安定になる。そんなある日、領事館のほうから連
絡が入り、日本の総理府から派遣された使節団が来るから、私のほうで接待してほしいと言っ
てきた。

 が、ハウスの事務に相談すると、「ハウスとしては、歓迎しない」とのこと。

 英語で「歓迎しない(not welcome)」というのは、「いやだ」という意味。たとえば「I don't like 
you.」というのは、「好きではない」という意味ではない。「嫌いだ」という意味だ。「not」の意味そ
のものが、違う。事務は「They are not welcome.(来てほしくない)」と言った。

 そこで話を聞くと、昨年やってきた使節団の評判が悪かったからだという。「日本人は排他的
で、ハウスの学生と打ちとけない」というのが、その理由だった。が、大学の上部ルートからの
要請もあって、結局、私のハウスで、彼らを迎え入れることになった。どちらにせよ日本人の留
学生は、私一人だけだった。

 その日は来た。が、その前夜に、メンジス・オーストラリア元首相が夕食に来たこともあって、
日本の使節団のことは、ほとんど話題にならなかった。

 が、私は心中、穏やかではなかった。当時いろいろな使節団が、日本からやってきたが、ど
の使節団も、オーストラリアから見ると、どこか異様だった。おそろいのスーツを着て、無表情
で、そのくせ、いばっていた。オーストラリアの学生があれこれ話しかけても、ニヤニヤ笑って
いるだけ。

 案の定、その使節団もそうだった。総勢二〇人前後。二〇歳から三〇歳くらいまでの、議員
や教師、それに実業家の人たちだった。が、会う人ごとに、「私たちは内閣総理大臣の使節団
だ」と、やたらとそればかりを強調していた。

 つまりそういう肩書きを前に出せば、皆が歓迎してくれるとでも思っていたのだろうか。しかし
そんな権威主義は、オーストラリアでは通用しない。

●国粋主義か、それとも……?

 外国で生活するようになると、日本人は二つのタイプに分かれるという。井口領事がいつか
そう話してくれた。

 一つは、国粋主義者になる日本人。日本の国旗を見ただけで涙をこぼすタイプ。もう一つ
は、日本人であることを忘れてしまうタイプ。このタイプは、その国に徹底的に同化しようとす
る。

 私はそのときは、後者のタイプだった。はじめのころは前者だったが、気がついたら、そうな
っていた。

 そういう意味で、私は日本の使節団を、オーストラリア人の目を通して見ていた。使節団は、
あれこれ私に感謝していたが、私は感謝される立場ではなかった。一人の男性は「あなたは、
世話好きな人ですね」と言ったが、しかし私は見るに見かねて、つまりやむをえず接待しただけ
だ。

 使節団は当たり構わず、日本のバッジを配っていたが、心の中で、何度、「ヤメロ!」と叫ん
だことか。使節団は、ハウスの中では一列に並んで整然と歩いていたが、心の中で、何度「ヤ
メロ!」と叫んだことか。

 使節団がホテルへ帰ったあと、コモンルームで雑誌を読んでいると、一人のオーストラリア人
が恐る恐る話しかけてきた。「ヒロシ、ああいう連中をどう思うか」と。そこで私がすかさず、「ヤ
ッキィ(イヤなヤツだ)」と答えると、その学生は、「君がそう言ってくれて、安心した」とだけ言っ
た。

 当時の日本は、東京オリンピックを成功させ、新幹線を走らせ、まさに高度成長期へと突入
していた。日本も必死だったが、しかし同時に日本は過去の亡霊をまだ引きずっていた。全体
主義という亡霊である。

 日本をあの忌まわしい戦争に駆り立てた、あの全体主義である。その全体主義が、当時の
日本人にはまだ色濃く残っていた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最高の教育とは【15】

●私はとんでもない世界に!

 私の留学の世話人になってくれたのが、正田英三郎氏だった。現在の皇后陛下の父君。こ
のことは前にも書いた。そしてその正田氏のもとで、実務を担当してくれたのが、坂本Y氏だっ
た。坂本竜馬の直系のひ孫氏と聞いていた。

 私は東京商工会議所の中にあった、日豪経済委員会から奨学金を得た。正田氏はその委
員会の中で、人物交流委員会の委員長をしていた。その東京商工会議所へ遊びに行くたび
に、正田氏は近くのソバ屋へ私を連れて行ってくれた。そんなある日、私は正田氏に、「どうし
て私を(留学生に)選んでくれたのですか」と聞いたことがある。

 正田氏はそばを食べる手を休め、一瞬、背筋をのばしてこう言った。「浩司の『浩(ひろ)』が
同じだろ」と。そしてしばらく間をおいて、こう言った。「孫にも自由に会えんのだよ」と。

 おかげで私はとんでもない世界に足を踏み入れてしまった。このことも前に書いたことだが、
私が寝泊まりをすることになったメルボルン大学のインターナショナルハウスは、各国の王族
や皇族の子弟ばかり。

 私の隣人は西ジャワの王子。その隣がモーリシャスの皇太子。さらにマレーシアの大蔵大臣
の息子などなど。毎週金曜日や土曜日の晩餐会には、各国の大使や政治家がやってきて、夕
食を共にした。

 首相や元首相たちはもちろんのこと、その前年には、あのマダム・ガンジーも来た。ときどき
各国からノーベル賞級の研究者がやってきて、数カ月単位で宿泊することもあった。東京大学
から来ていた田丸先生(二〇〇〇年度日本学士院賞受賞)もいたし、井口領事が、よど号ハイ
ジャック事件(七〇年三月)で北朝鮮へ人質となって行った山村運輸政務次官を連れてきたこ
ともある。山村氏はあの事件のあと、休暇をとって、メルボルンへ来ていた。

 が、「慣れ」というのは、こわいものだ。そういう生活をしても、自分がそういう生活をしている
ことすら忘れてしまう。ほかの学生たちも、そして私も、自分たちが特別の生活をしていると思
ったことはない。意識したこともない。もちろんそれが最高の教育だと思ったこともない。が、一
度だけ、私は自分が最高の教育を受けていると実感したことがある。

●落ちていた五〇セント硬貨 

 ハウスの玄関は長い通路になっていて、その通路の両側にいくつかの花瓶が並べてあっ
た。ある朝のこと、花瓶の一つを見ると、そのふちに五〇セント硬貨がのっていた。だれかが
落としたものを、別のだれかが拾ってそこへ置いたらしい。

 当時の五〇セントは、今の貨幣価値で八〇〇円くらい。もって行こうと思えば、だれにでもで
きた。しかしそのコインは、次の日も、また次の日も、そこにあった。四日後も、五日後もそこに
あった。私はそのコインがそこにあるのを見るたびに、誇らしさで胸がはりさけそうだった。そ
のときのことだ。私は「最高の教育を受けている」と実感した。

 帰国後、私は商社に入社したが、その年の夏までに退職。数か月東京にいたあと、この浜松
市へやってきた。以後、社会的にも経済的にも、どん底の生活を強いられた。幼稚園で働いて
いるという自分の身分すら、高校や大学の同窓生には隠した。しかしそんなときでも私を支え、
救ってくれたのは、あの五〇セント硬貨だった。

 私は、情緒もそれほど安定していない。精神力も強くない。誘惑にも弱い。そんな私だった
が、曲がりなりにも、自分の道を踏みはずさないですんだのは、あの五〇セント硬貨のおかげ
だった。私はあの五〇セント硬貨を思い出すことで、いつでも、どこでも、気高く生きることがで
きた。

 


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


英語と日本語【16】

●何という愛国心!

 オーストラリアでは、「安保(日米安全保障)条約」は、ズバリ、「ミリタリー・ツリーティ(軍事条
約)」と訳されていた。「自衛隊」は、「アーミィ(軍隊)」と訳されていた。そこで私がある日、「日
本の軍隊は軍隊ではない。セルフ・デフェンス・アーミィ(自己防衛隊)だ」と言ったら、まわりに
いた学生たちが、「何、それ?」と言って、笑った。

 英語と日本語は必ずしも一致しない。ある日のこと、講義が終わってたまり場でお茶を飲ん
でいたときのこと。私はふとこう聞いてみた。「もしインドネシア軍がオーストラリアへ攻めてきた
ら、君たちはこのカントリーを守るために戦うか」と。

 オーストラリアではインドネシアが仮想敵国ということになっていた。パプアニューギニアの領
有権をめぐって、互いに対立していた。

が 、そこにいた五、六人の学生全員が、「守らない」と答えた。「父の故郷のスコットランドへ
逃げる」と言ったのもいた。何という愛国心! あきれていると一人の学生がこう言った。

 「ヒロシ、オーストラリア人が手をつないで一列に並んでもすき間ができるんだよ。どうやって
この広いカントリーを守ることができるのか」と。

 英語で「カントリー」というときは、「大地」という土地をいう。が、日本ではカントリーを「国」と訳
す。だからアメリカ人たちが、カントリーソングを大声で歌ったりすると、日本人は「アメリカ人
も、結構愛国的ではないか」などと感心したりする。

 あるいは日本人の中には、「愛国心は、世界の常識」などと言う人がいる。しかし「愛国心」を
意味する「ペイトリアチズム」という英語の単語にしても、もともとはラテン語の「パトリオータ」、
つまり「父なる大地を愛する人」に由来する。日本語では「愛国心」に「国」という文字を入れる
が、彼らは愛国心といっても、そもそも体制を意味する「国」など、考えていない。

 同じ愛国心といっても、国によってそのとらえ方がまるで違う。そこで私は言葉を変えた。変
えて、「では、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうする」と聞いたら、みな、いっせ
いに血相を変えて、こう叫んだ。「ヒロシ、そのときは、命がけで戦う!」と。

●言葉でごまかす日本政府

 一方、こんなこともあった。大学で使うテキストの中に、「日本は官僚主義国家」と書いてあっ
た。「君主(ローヤル)官僚主義国家」と書いてあるのもあった。これには私が反発した。「日本
は民主主義国家で、官僚主義国家ではない」と。しかし教官以下、だれも私の言うことに耳を
貸そうとしなかった。

 で、このことはしばらくしてからまた別のところで話題になった。スミス氏という研究者の家で
食事の世話になっていたときのこと。スミス氏はこう言った。「あの北朝鮮ですら、正式の名称
は、朝鮮民主主義人民共和国と、民主主義という言葉を並べているではないか。ヒロシは、あ
の国が本当に民主主義の国だと思うか」と。東大からきていた松尾教授(刑法)も横にいて、
「そうです、そうです」と笑っていたが、私はもうそれには反論することができなかった。

 ……で、それから三二年。ふりかえってみると、日本はやはり官僚主義国家だった。今もそう
だ。日本が民主主義国家だと思っているのは、恐らく日本人だけではないのか。

 事実、私がオーストラリアでかいま見た彼らの民主主義は、日本のそれとはまったく異質のも
のであった。それに今でも言葉をごまかすのが、政治手法のひとつになっている。

 「銀行救済」を「預金者保護」と言いかえてみたり、「官僚政治の是正」を「構造改革」と言いか
えてみたりしている。この手法は、軍事条約を安保条約と言いかえたり、軍隊を自衛隊と言い
かえた手法と、どこも違わない。これはあくまでも余談だが……。

 
R君の家で。
R君の二人の妹たち。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


ルイス・アレキサンドリア【17】

●ハウスでのパーティ

 話が前後するが、私がハウスへ入ったちょうど、その夜のこと。ハウスでダンスパーティがあ
った。私にすれば、右も左もわからないというような状態だった。

 私はミスインターナショナルの一行だと聞いていたが、ミスユニバースだったかもしれない。
一九七〇年のはじめ、アルゼンチンのブエノスアイレスであったコンテストだ。

 その一行が、ハウスへやってきて、ダンスパーティを開いた。その中に「ジュンコ」という日本
の女性もいた。その女性はその後、大橋巨泉というテレビタレントと結婚したと聞いているが、
それはともかくも、その夜にルイスに会ったわけではない。その翌日の夕方、インドネシアの西
ジャワの王子が、ルイスを私に紹介してくれた。

 私はもともと、もてるタイプの男ではない。どこから見ても、おもしろくない顔をしている。背も
低い。メガネもかけている。その上、まだ言葉もじゅうぶん、話せなかった。

 その私がルイスと、それから一週間の間、毎日、デートを繰り返した。今から思うと不思議な
気がする。現実にあったことというよりは、夢の中のできごとという感じがする。いつも誰かが
車で私たちをあちこちへ案内してくれていた。だれの車だったか、どうしても思い出せない。

 王子の車だったかもしれない。運転してくれていたのは、多分、インドネシアの大使館の館員
だったと思う。私たちはその車で、インドネシアレストランへ行ったり、美術館を回ったり、スライ
ドパーティに行ったりした。スライドパーティというのは、誰かが外国を旅行した際に撮ってきた
スライドを、見せてくれるというパーティだった。

●ルイス・アレキサンドリア

 ルイスは背が高く、美しい人だった。ただ当時の私は、そういう女性の美しさを理解するだけ
の「力」がまだなかった。

 金沢の下宿を飛び出して、まだ一週間もたっていなかった。写真ですら、そういう女性を見た
ことがない。だから私はルイスに圧倒されるまま、つまり何がなんだかわからないまま、デート
を重ねた。私にしてみれば、観光気分だった。

 しかもルイスが私に親切だったのは、それは彼女のボランティア精神によるものだと思ってい
た。が、一週間たち別れるとき、ルイスは、私の目の前でスーッと涙をこぼした。そしてそのと
き、ルイスは、私に一本の金色のかんざしをくれた。コンテストでもらった賞品だと、ルイスは言
った。私はそれに戸惑ったが、それほど深く考えなかった。少なくとも私は笑って、ルイスと別
れた。

 ルイスはインドネシアへ帰ってから、数回手紙をくれたが、私は返事を書かなかった。毎日が
嵐のように過ぎていく中で、やがて私はルイスのことを忘れた。が、ある日。半年ぐいらいたっ
てからのことだが、自分の部屋で何もすることもなくぼんやりしていると、引き出しの中に、その
かんざしがあるのがわかった。

 私はそのかんざしを手にとると、どういうわけだか、そのかんざしをナイフで削りはじめた。キ
ラキラと金色に輝くかんざしだった。私はメッキだとばかり思っていた。が、いくら削っても、その
金色の輝きは消えなかった。

 私はそれを知ったとき、何とも申し訳ない気持ちに襲われた。私はルイスの心を、もてあそん
だのかもしれない。当時の私は自分の心がどこにあるかさえわからないような状態だった。
静かに女性の心を思いやるような余裕は、どこにもなかった。そんな思いが、心をふさいだ。

 ルイス・アレキサンドリア。これは彼女の実名だ。

 彼女は当時、ジャカルタの旅行代理店に勤めていた。もしルイスの消息を知っている人がい
たら、教えてほしい。あるいはもしルイスを知っている人がいたら、「あのときのヒロシは、今、
浜松に住んでいる」と伝えてほしい。今度は、私が、日本料理をごちそうする番だ。

 
インドネシアンナイト
毎週各国の留学生が、お国自慢の
パーティを開いた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


男尊女卑の日本人【18】

●私の体は正常ではない?

 私のばあい、足の短さが、いつも悩みのタネだった。何度かズボンを買いに行ったが、私に
合うズボンはない。そこで私はいつも子ども用のズボンをはいていた。長距離列車もそうだ。

 向こうのトイレは、おとな用、子ども用と分かれている。男用、女用ではない。しかしおとな用
では、下まで足が届かない。列車がゆれるたびに、それ以上に体がゆれる。それでは用を足
すことができない。そこで私はいつも子ども用のトイレを使っていた。まだある。

 オーストラリアの学生たちは、よく、パブの前の道路にすわりこんでビールを飲む。そのとき
彼らはひざを立てた状態で、三角ずわりをする。そういう姿勢をとると、ひざの上に、ちょうどう
まいぐあいに頭がのる。が、私はのらない。まさかそういうところで正座するわけにもいかな
い。そんなわけで皆と一緒に並んでビールを飲むのが、私には苦痛でならなかった。

●日本の男はモテない

 人種の違い。日本に住んでいると、それを感ずることはない。しかし外国に住んでいると、そ
れを毎日のように感ずる。メルボルン大学の中に、日本人の留学生は私、一人だけ。オースト
ラリア人は、私を通して日本を見、そして日本人を見ていた。そういう視線を感ずるたびに、私
はその人種の違いを意識した。が、それですんだわけではない。

 いつしか私は違和感を覚えるようになった。一度や二度ではない。「ここは私の国ではない」
という思いだ。あるときは町の中を歩きながら、自分の足が宙を飛んでいるように感じたことも
ある。

 皆は、親切だった。しかしその親切も、ある一定のワクの中の親切であって、それを越えるこ
とはなかった。それをもっとも強く感じたのは、やはり女性を意識したときだった。日本の男は、
モテるか、モテないかということになれば、そのレベルを、はるかに下回っていた。私は異性と
して相手にされる存在ではなかった。

 私の身長は一六六センチで、当時の日本では平均的だったが、ハウスの中でも、私より背
が低いオーストラリア人は、一〇〇人の中で一人しかいなかった。加えて日本人は、世界の中
でも、骨相学的にも、もっとも貧相をしているということだった。

 極東の島国で、多民族との血の交流がなかったため、そうなったらしい。目が細くつりあが
り、あごが細く、歯が前へ飛び出している。私はよく、「ヒロシは、日本人のようではない。君の
両親は中国人か」と言われたが、そのたびに喜んでいいのか、悲しんでいいのか、複雑な心境
になったのを覚えている。

●モテない理由はほかに……

 が、本当のところ、日本人の男がオーストラリアの女性に相手にされない理由はほかにあっ
た。たとえばオーストラリア人の男たちは、うしろからやってきた女性でも、ドアを通すとき、そ
の女性を体で包み込むようにして先へ行かせる。マナーの違いといえばそれまでだが、日本人
にはそうした基本的なマナーが欠けていた。が、マナーだけの問題でもなかった。

 オーストラリアでは、夫が妻に向かって、「おい、お茶!」などと言おうものなら、それだけで離
婚事由になる。日本ではごく当たり前の会話だが、こうした男尊女卑的な体質が、日本人の男
性には、体のシミのようにしみこんでいる。そしてそれがそのつど顔を出す。

 しかも悪いことに、少し親しくなると、気がゆるみ、それがそのまま出てきてしまう。私も「お
い、お茶!」という言い方こそしなかったが、それに近い言い方を何度かしたことがある。そし
てそのたびに「しまった!」と思い、相手の女性にそれをわびなければならなかったことがあ
る。

 
いつもビールを飲んでいた、ノートン酒場
(この写真は、1980年ごろ、友人があとで
送ってくれたもの。ペンキの色が変わって
いたのに、気づいた。)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


非日常的な日常【19】
 
●ケタ違いの金持ちたち

 王族や皇族の子弟はもちろんのこと、公費留学生は別として、私費で留学してきたような連
中は、その国でもケタ違いの金持ちばかりだった。

 アルジェリアのレミ(実名)、ベネズエラのリカルド(実名)などは、ともにその国の石油王の息
子だった。フィージーから来ていたペイテル(実名)もそうだった。しかしその中でも異色中の異
色は、香港から来ていたC君という学生だった。実名は書けない。書けないが、わかりやすく言
えば、香港マフィアの大親分の息子ということだった。

 彼の兄ですら、香港の芸能界はもちろんのこと、映画、演劇などの興行を一人で牛耳ってい
た。ある日C君の部屋に行くと、彼の兄が「ピンキーとキラーズ」(当時の日本を代表するポップ
シンガー)や布施明と、仲よく並んで立っている写真があった。彼らが、香港で公演したときとっ
た写真ということだった。

 いつかC君が、「シドニーにも、おやじの地下組織がある。何かあったら、ぼくに連絡してくれ」
と話してくれたのを覚えている。

●インドネシア海軍の前で閲兵

 こういう世界だから、日常の会話も、きわめて非日常的だった。夏休みに日本でスキーをして
きたという学生がいた。話を聞くと、こう言った。

 「ヒロシ、ユーイチローを知っているか」と。私が「ユー……」と口ごもっていると、「ユーイチロ
ー・ミウラ(三浦雄一郎、当時の日本を代表するスキー選手)だ。ぼくはユーイチローにコーチ
をしてもらった。君はユーイチローを知っているか?」と。しかも「日本の大使館で大使をしてい
る叔父と、一緒に行ってきた」などと言う。

 そういう世界には、そういう世界の人どうしのつながりがある。そしてそういうつながりが、無
数にからんで、独特の特権階級をつくる。それは狂おしいほどに甘美な世界だ。

 一度、ある国の女王が、ハウスへやってきたことがある。息子の部屋へ、お忍びで、である。
しかしその美しさは、私の度肝を抜くものだった。私は紹介されたものの、言葉を失ってしまっ
た。「これが同じ人間か……」と。

 あるいはインドネシア海軍がメルボルン港へやってきたときのこと。将校以下、数一〇名が、
わざわざバスに乗って、西ジャワの王子のところへ挨拶にやってきた。たまたま休暇中で、ハ
ウスにはほとんど学生がいなかったこともある。私はその王子と並んで、最敬礼をする将校の
前を並んで歩かされた、などなど。

●やがて離反

 が、私の心はやがて別の方へ向き始めた。もう少しわかりやすく言えば、そういう世界を知れ
ば知るほど、それに違和感を覚えるようになった。私はどこまでいっても、ただの学生、あるい
はそれ以下の自転車屋の息子だった。

 一方、彼らはいつもスリーピースのスーツで身を包み、そのうちのまた何人かは運転手つき
の車をもっていた。そういう連中と張りあっても、勝ち目はない。仮に私が生涯懸命に働いて
も、彼らの一日分の生活費も稼げないだろう。

 そう感じたとき、それは「矛盾」となって私の心をふさいだ。最近になって、無頓着な人は、「そ
ういう王子や皇太子と、もっと親しくなっておけばよかったですね」などと言う。「旅行したら、王
宮に泊めてもらいなさい」と言う人もいる。今でも手紙を書けば、返事ぐらいは来るかもしれな
い。しかし私はいやだ。そういうことをしてペコペコすること自体、私にとっては敗北を認めるよ
うなものだ。

 やがて私は彼らとは一線を引くようになった。彼らもまた、私がただの商人の息子とわかる
と、一線を引くようになった。同じ留学生でありながら、彼らは彼らにふさわしい連中と、そして
私は私にふさわしい連中と、それぞれグループを作るようになった。そしてそれぞれのグルー
プは、どこか互いに遠慮がちになり、やがて疎遠になっていった。

 
ハウスの前で……


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


人種差別と国際性【20】

●人種差別

 大学のカフェで食事をしていると、私を取り囲むようにして、四、五人のオーストラリア人がす
わった。そして手にしたスプーンの腹で、コツコツとテーブルをたたき始めた。

 「立ち去れ」という合図である。気まずい時間が流れた。私はすでに食事を始めていた。が、
そのとき、身長が一メートル九〇センチはあろうかという大男が、私の横に座った。長い髪の
毛で、顔中、ヒゲでおおっていた。その男が、スプーンをならしている学生たちに向かって、低
い声でこう言った。「ワット・アー・ユー(お前たちは何だ)」と。

 その一言で、学生たちはスプーンをたたくのをやめた。やめて、その場を離れた。その大男
というのが、デニス君だった。本名は、デニス・キシアという。今でも私の無二の親友だ。

●皿に口をつけてズルズルとスープを飲んだ

 同じころK大学医学部の講師たち三人が、一週間の予定で、メルボルン大学へやってきた。
そしてハウスのゲストルームに滞在した。豪快な人たちだ……と、最初はそう思った。しかし品
位に欠けていた。スープ皿に口をつけてズルズルとスープを飲んだり、ハウスの飯はまずいと
言っては、どこで手に入れたのか魚の目刺しを買ってきて、それを部屋の中で焼いて食べたり
していた。

 その中の一人が、こう言った。「オーストラリアも、ギリシャ人やイタリア人なんか、移民させる
もんじゃないよな。雰囲気が悪くなる」と。

 当時の日本人で、自分がアジア人だと思っている日本人は、ほとんどいなかった。世界の人
は、半ば嘲笑的に日本人を、「黄色い白人」と呼んでいた。が、日本人は、それをむしろ光栄な
こととしてとらえていた。

 しかしアジア人はアジア人。オーストラリアでは、第二級人種として差別されていた。結婚して
も、相手がアジア人だったりすると、そのオーストラリア人も、第二級人種に格下げされた。そ
の法律は、それから一〇年ほどしてから撤廃されたが、オーストラリアはまだ、白豪主義(ホワ
イト・ポリシー)にこだわっていた。

 つまりもしこの医師の話をイタリア系オーストラリア人が聞いたら、怒る前に吹き出してしまう
だろう。そういう常識が、その医師たちには、まったくわかっていなかった。いや、医師だけでは
ない。当時、アボリジニーと呼ばれている原住民を見ると、日本の若い女性たちはキャーキャ
ーと声を出して騒いでいた。なぜ騒いでいたかは、ここには書けない。書けないが、日本人なら
その理由がわかるはずだ。

 しかし念のために言っておこう。あのアボリジニーは、四〜五波に分けて、アジア大陸から移
住してきた民族である。そのうちの一波は、私たち日本人と同じルーツをもっている。つまり私
たち日本人は、白人よりも、はるかにアボリジニーに近い。騒ぐほうがどうかしている。

●民族の優位性など意味がない

 人種差別。それがどういうものであるか、それはされたものでないとわからない。「立ち去れ」
という合図を受けたときの屈辱感は、今でも脳に焼きついている。それはそれだが、問題はそ
の先だ。人種差別をされると、人は二つの考え方をするようになる。

 一つは、「だから自分の属する民族を大切にしなければならない」という考え方。もう一つは、
「民族という名のもとに、人間を分類するのはおかしい」という考え方。

 どちらの考え方をもつにせよ、一つだけ正しいことがある。それは人種や民族の優位性など
というものは、いくら論じても意味がないということ。大切なことは、互いに相手を認め、尊重し
あうことだ。それがあってはじめて、日本を、そして世界を論ずることができる。

 が、そうした世界観は、当時の日本人にはまだ育っていなかった。同じアジア人でありなが
ら、日本人は自らを欧米人と位置づけることによって、ほかのアジア人とは一線を引いてい
た。

 

 
ハウスの中で、お国自慢をする
各国の留学生たち。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 
徹底したエリート教育【21】

●サー・ヘンリーがやってくる

 ハウスには、毎週のように、各界の要人たちがやってきて、晩餐をともにした。「晩餐」という
のは、「ディナー」のこと。

 ふだんの夕食は、「ティー」と呼ばれていた。そのディナーでは、料理の皿数がふえるのみな
らず、食卓にワインが並ぶ。

 学生たちもいつも以上に正装をし、緊張を強いられた。たいてい寮長のスピーチで始まり、食
後には要人のスピーチがあった。外国から賓客がメルボルン市へやってくると、たいていハウ
スへやってきた。

 その中には韓国の金外相(当時)や、ロバート・メンジス元オーストラリア首相などがいた。日
本人の政治家もよくハウスに招待されてきたが、スピーチをして帰った政治家は一人もいなか
った。何を話しかけられてもヘラヘラと笑っているだけだった。

 そんなある夜のこと。オーストラリアの学生が、興奮したおももちで私の部屋に飛びこんでき
た。「ヒロシ、今夜は、あのサー・ヘンリーが来るぞ」と。もちろん私はそのサー・ヘンリーがどん
な人物か知る由もない。あいまいな生返事をしていると、「君はサー・ヘンリーを知らないのか」
となじられてしまった。私は勝手に、アメリカの作家のオー・ヘンリーを想像していた。

●トロイ・ドナフューも……

 これはまた別の日のことだったが、昼食を食堂で食べていると、やたらと足の長い男がい
た。土曜日と日曜日には、昼食が用意される。ちょうど私たちのテーブルのななめうしろのテー
ブルで、アメリカ人のロバート君ともう一人の学生の間に、彼はすわっていた。

 ロバート君というのは、アメリカ人らしい大柄な太った男で、もう一人は、医学部の学生だっ
た。しかし私の横に座った、ロス君とディヨン君が、その足の長い男を見ながら、こう言った。

「あいつ、トロイ・ドナフューに似ていないか」と。

 アメリカの映画スターに、そういう名前の男がいた。いろいろな映画に出ていた。日本でもよく
知られていた。「ルート66」というテレビ映画に出ていた。そこでその足の長い男をからかうつ
もりで、私たちが席を離れるとき、ロスだったと思うが、その男にこう話しかけた。

 「ぼくたちの非礼を許してほしいが、君は、トロイ・ドナフューか」と。するとその男は、ニコリと
もせず、こう言った。「イエス!」と。

 この会話があまりにもあっけなかったので、私たちも次の言葉を失ってしまった。そしてそれ
以上会話をすることもなく、私たちはその場を離れた。

 あとで聞いたら、そのときトロイは、オーストラリアを旅行していたという。ハウスをホテル代わ
りに使ったらしい。しかし私は、彼が本当にトロイ・ドナフューだったのを知ったのは、それから
数か月もたったときのことだった。

 メイドの家に食事に招待されたときのこと。私が「あれは本当にトロイ・ドナフューだったので
すか」と聞くと、同席していたメイドの娘が、「そうよ。うちへも遊びに来たから」と言って、笑っ
た。

 さて、あのサー・ヘンリーのことだが、私は彼がどんな人物だったのか、いまだに知らない。
最近になって、オーストラリア人の友人に確かめると、「ビクトリア州の州知事だったサー・ヘン
リー・ボルトか、法曹のサー・ヘンリー・ウィネクではなかったか」とのこと。そのとき八〇歳近
い、小柄な人だった。

●徹底したエリート教育

 こうした交流は、私たちのハウスだけが特別であったわけではない。それぞれのカレッジは、
それぞれの人脈を生かして、VIPを招待していた。一方、その道のVIPたちは、喜んでそれに
応じていた。

 当時のオーストラリアは、保守党政権下※にあって、こうしたエリート教育には惜しみなく予算
をつぎこんでいた。学生たちはこうしたVIPと直接会ったり、話をしながら、自らの将来を設計し
ていた。

(※注、その後保守党政権が倒れ、労働党政権になり予算が削られ、こうしたエリート教育は
大幅に後退した。)

 
左が、サー・ヘンリー
(ハウスの機関誌より)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


ローンの新年【22】 

●ローンという避暑地

 グレート・オーシャン街道という道がある。第一次大戦のあと、退役軍人たちが戦勝を記念し
て作った道だ。この街道がジーロンから、ローンという避暑地を通って、南オーストラリア州まで
続く。

 友人のデニスの別荘は、そのローンの手前、車で半時間ほどのところにある。私は日本へ
帰国するまでの二ヶ月間、この別荘で残りの日々を過ごした。と言っても、ずっとその別荘にい
たわけではない。ここを拠点に、メルボルンの間を往復したり、アデレードまで足をのばしたり
した。

 そうでないときは、ローンの町で、終日泳いだり、映画を見たりして時間をつぶした。そのロー
ン。毎年大晦日には、数千人の若者が集まるという。そして新年の合図とともに、その若者た
ちが乱痴気(らんちき)騒ぎをするという。

 私たちも大晦日には、ローンへ行くことにした。友だちの中には「行かないほうがよい」とアド
バイスしてくれた者もいた。が、そう言われれば言われるほど、好奇心がわいた。

 その日の午後。つまり一二月三一日は、よく晴れわたった暑い日だった。午後少しまで泳い
で、一度デニスの別荘まで戻った。そこで早い夕食をすますと、再びローンへ向かった。

 あたりの様子は一変していた。あれほど閑散としていたローンの町が、若い男女であふれか
えっていたのだ。砂浜で野外映画の準備をしているグループ。かたまって騒いでいるグルー
プ。ギターを演奏しているグループなど。

 大半はその間を行き来しながら、ビールを飲んだり、何かを食べていた。そう、砂浜の中央
には巨大なトランポリが置いてあり、それで遊んでいる若者もいた。ふと見ると、デニスがホテ
ルの壁をよじ登っているではないか。二階の窓から数人の女の子に声をかけられ、その気に
なってしまったらしい。

 私は何度か呼びとめたが、私を無視して、そのまま部屋の中に消えてしまった。

 私は一人だけになってしまった。知り合いもいなかった。しかたないので、そのままデニスが
戻ってくるのを待った。こういうとき白人というのは、実に冷たい。徹底して、「私は私、お前は
お前」という考え方をする。

 夜がふけると、あちこちで花火がなった。それに合わせて、歓声また歓声。さらに夜がふける
と、ローンの町は、もう足の踏み場もないほどになった。デニスが戻ってきたのは、そのころだ
った。そしてあのカウントダウンが始まった。

●そして皆……!

 「テン、ナイン、エイト……」。そして「ワン、ゼロ」となったところで、一斉に声が宙を舞った。
「ハッピーニューイヤー!」と。

 とたんまわりにいた若者たちが、一斉に衣服を脱ぎ始めたのだ。衣服といっても、簡単な水
着の者が多い。そういう者たちが、そのまま身につけているものを脱いだ。

 裸だ。皆、素っ裸だ。男も女も、ない。皆、だ。異様な雰囲気になった。興奮のあまり、ビール
瓶や空き缶を商店めがけて投げつけるものもいる。ガチャンガチャンと、何かが割れる音がひ
っきりなしに聞こえてくる。花火も最高潮に達した。

 私は再度デニスと別れて、というより恐怖心に襲われて、ローンのはずれにある小さな橋の
ところまで逃げて帰った。私はガタガタと震えていた。いくらあたりを見回しても、アジア人らしき
人間は、私一人しかいない。いつ群集の袋叩きにあってもおかしくない雰囲気だった。

 途中騎馬警官が何人か来たが、その警官までもが、皆と一緒になって新年を祝っているでは
ないか。あたりかまわず「ハッピーニューイヤー!」を連呼していた。取り締まろうという気持さ
えないようだ。こうして私は一九七一年の一月一日を迎えた。


 
グレート・オーシャン・ロードの記念碑の前で。
デニス君の別荘は、この手前、100メートル
くらいのところにあった。
中央に座っているのが私。(1971)

 
遠く左に見えるのが、ローンの岬。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


日本の因習、そしてN子【23】

●心の海

 「スズメだって、海を渡ったのに……」と、日記には、書いてある。もっとも羽田からメルボル
ンまで、往復の旅費だけでも、五〇万円弱。

 大卒の初任給がやっと五万円を超えたという時代である。日本人には、飛行機に乗ることさ
え、むずかしかった。いわんや海外生活など、夢のまた夢。

 金沢大学の法文学部法学科でも、在学中に、海外へ行ったことがあるのは、M君と私だけで
はなかったか。M君はハワイに。私はUNESCOの交換学生として、韓国に行った。

 「スズメだって海を渡ったのに、どうして日本人は、海を渡れないのか。海といっても、心の海
だ。世間体だの因習だの、どうしてそんなものが大切なのか。どうしてそんなものにしばられる
のか。こちらの学生は、みな、自らの責任で自由を謳歌している。日本人にこの自由がわかる
ようになるのは、五〇年先か、それとも一〇〇年先か」と。

●N子のこと

 日本には、ひとり、ガールフレンドがいた。地元の高校の同級生で、名前をN子と言った。美
しい人だった。ともに大学四年生のときに再会し、N子はともかくも、私は電撃に打たれるよう
な衝撃を受けた。恋をした。しかし長つづきはしなかった。

 しばらく交際していると、N子の母親から私の母に電話があった。「うちの娘は、お宅のような
(自転車屋の)息子と、つきあうような娘ではない。将来の結婚にキズがつくから、交際をやめ
させてほしい」と。

 Nの家は、従業員三〇人ほどの、製紙工場を営んでいた。つまり「格が違う」と。私の母は、
この電話に激怒したが、私は気にしなかった。が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える
力はなかった。私が羽田を飛び立つとき、N子は空港で見送ってくれた。しかしそれがそのま
ま、別れになってしまった。

 私はハウスの洗濯室の窓に手をかけ、外を見ていた。深い木々の間を、スズメが飛び交って
いた。イングリッシュ・スパローという種類のスズメで、日本のスズメと、顔が少し違う。英国から
持ちこまれたスズメだという。私はそのスズメを目で追いかけながら、足元をすくわれるような
虚しさを覚えていた。歯がゆかった。

 何が悪かったのかは私にはわからないが、N子は、最後の手紙でこう書いていた。「あなた
にはついていけない。私のことは忘れて、あなたの道を進んでください」と。あわてて何度か電
話をかけたが、そのときも、母親が電話を取りついでくれなかった。

●常識のカラ

 日本とオーストラリア、オーストラリアと日本。今でこそ、高校の修学旅行で行く国になった。
が、当時は、そうでない。手紙ですら、一週間から一〇日はかかった。電話すら、ままならなか
った。

 日本は貧しかった。私はさらに貧しかった。だから私は、精一杯の虚勢を張って、ハウスでの
生活ぶりを、そのつどN子に手紙で書いて知らせた。しかしその生活は、当時の常識とは、あ
まりにもかけ離れていた。

 今から思うと、私以上に、N子はショックを受けていたのかもしれない。それもわからないま
ま、私は何度も、「オーストラリアへ来ないか」と誘いの手紙を書いた。が、そのことにしても、
当時の常識では考えられないことだった。いわんや地方の田舎町。私はともかくも、N子は、そ
の常識のカラを破ることはできなかった。

 人間の記憶というのは、不思議なものだ。今でも、あの洗濯ルームを思い出すと、あのとき
の思いが、そのまま心の中によみがえってくる。それは怖ろしいほどの無力感。私がN子との
間に感じた距離感は、そのまま私と日本の間に感じた距離感でもあった。

 その距離感が無力感に変ったとき、私はそのまま、「N子のことは忘れよう」と、心に決めた。

 
ハウスのメードさん。
掃除などの世話をしてくれた。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


性能は膨張率と硬度で決まる【24】

●裸文化の違い

 オーストラリア人のもつ「肌」感覚は、明らかに日本人のそれとは異なっていた。簡単に言え
ば、彼らは平気で、裸になる。こんなことがあった。

 車、二台でドライブに行ったときのこと。男が五、六人に、女が、三、四人いた。暑くなり始め
た初夏のころだった。海沿いに走っていくと、きれいなビーチが見えてきた。とたん、車を止め
て、みなが、「泳ごう!」と言い出した。私は水着を用意していなかった。車の中でもじもじして
いると、もう全員が、海に向かって走りだしていた。走りながら、つぎつぎと着ていた服を脱いで
いた。全員、素っ裸である。

 が、私は、彼らのあとを追いかける勇気はなかった。みなは、「ヒロシ、来い、来い!」と叫ん
でいた。しかし私にはどうしてもできなかった。

 あとになって一人が、私にこう聞いた。「ヒロシは、どうしてこなかったのか?」と。私はそのと
きどうしてそう答えたのかは知らないが、こう答えた。「日本には、武士道というものがあって、
簡単には、人前では、アレ(ディック)を見せてはいけないことになっている」と。が、この事件が
きっかけで、私には、「ペンシル・ペニス」というニックネームがつけられてしまった。「ヒロシの
は、ペンシルペニス。だから、裸になれなかった」と。

●性能をくらべる

 ペニスの「性」能は、見た目の大きさではない。膨張率、それに硬度と持続力で決まる。そこ
である日私は、私をペンシルペニスと呼び始めたK君の部屋に行き、そしてこう言った。「君の
と、どちらが性能がよいかくらべてみようではないか」と。K君は、「フン」と、低い声で笑いなが
ら、すぐ、それに応じてくれた。

 私とK君は、背中あわせに立ち、下半身を出して、アレに刺激を加えた。そしてほどよくその
状態になったとき、アレに石膏(せっこう)を塗った。アレの型をとって、それで大きさを比べる
ためである。

 ……五分くらいたったであろうか。一〇分くらいかもしれない。とにかく気がついたときには、
石膏はほとんどかたまっていた。で、それをゆっくりとはずそうと思ったが、そのとたん、激痛が
走った。石膏に毛や皮膚が入り込み、型がはずれなくなってしまっていた。K君も、同じだっ
た。私たちの予定では、型ができた状態で、アレが小さくなれば、そのままスッポリと抜けるは
ずだった。が、そうはうまくいかなかった。その上、あいにくナイフも、ハサミもなかった。

●同性愛者

 オーストラリアでは、同性愛者は、「プフタ」と呼ばれて、軽蔑されていた(失礼!)。少なくとも
「プフタ」と呼ばれることくらい、不名誉なことはない。まだ同性愛者に対する理解のない時代だ
った。

 私とK君は、石膏を、シャワールームで流して落とすことにした。しかし石膏の重みで、体が
ゆれるたびに痛みが走る。結構、痛い。私たちはそれぞれ下半身をタオルで隠した。隠した状
態で、両手で石膏を包むようにして、支えた。

 私たちはドアの隙間から、だれもいないことを確かめると、廊下におどり出た。しかし運が悪
かった。あろうことか、階段をあがってきた男が一人いた。そして私たちを見ると、悲鳴に近い
ような大声をあげた。何しろ二人とも、うしろからは、尻がまる見えだった!

 そのあと、どうなったか? 私とK君は、予定どおり、シャワールームにかけこみ、そこで湯を
流しながら、石膏をはずした。おかげで「ペンシルペニス」というニックネームも消えた。しかし
それと引き換えに、今度は、私とK君は、「プフタ」と呼ばれるようになってしまった。
 
 そのK君、今、オーストラリアのN大学で教授をしている。専門が、人類学というから、あのと
きの経験が少しは役に立ったのかもしれない。

(「プフタ」という語は、禁止用語になっている。注意!)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

日本の常識、世界の常識【25】

●珍問答

 私の部屋へは、よく客がきた。「日本語を教えてくれ」「翻訳して」など。中には、「空手を教え
てくれ」「ハラキリ(切腹)の作法を教えてくれ」というのもあった。

 あるいは「弾丸列車(新幹線)は、時速一五〇マイルで走るというが本当か」「日本では、競馬
の馬は、コースを、オーストラリアとは逆に回る。なぜだ」と。

 さらに「日本人は、牛の小便を飲むというが本当か」というのもあった。話を聞くと、「カルピ
ス」という飲料を誤解したためとわかった。カウは、「牛」、ピスは、ズバリ、「小便」という意味で
ある。

●忠臣蔵論

 が、ある日、オリエンタルスタディズ(東洋学部)へ行くと、四、五人の学生が私を囲んで、こう
聞いた。「忠臣蔵を説明してほしい」と。いわく、「浅野が吉良に切りつけた。浅野が悪い。そこ
で浅野は逮捕、投獄、そして切腹。ここまではわかる。しかしなぜ、浅野の部下が、吉良に復
讐をしたのか」と。

 加害者の部下が、被害者を暗殺するというのは、どう考えても、おかしい。それに死刑を宣告
したのは、吉良ではなく、時の政府(幕府)だ。刑が重過ぎるなら、時の政府に抗議すればよ
い。また自分たちの職場を台なしにしたのは、浅野というボスである。どうしてボスに責任を追
及しないのか、と。

 私も忠臣蔵を疑ったことはないので、返答に困っていると、別の学生が、「どうして日本人は、
水戸黄門に頭をさげるのか。水戸黄門が、まちがったことをしても、頭をさげるのか」と。私が、
「水戸黄門は悪いことはしない」と言うと、「それはおかしい」と。

 イギリスでも、オーストラリアでも、時の権力と戦った人物が英雄ということになっている。たと
えばオーストラリアには、マッド・モーガンという男がいた。体中を鉄板でおおい、たった一人
で、総督府の役人と戦った男である。イギリスにも、ロビン・フッドや、ウィリアム・ウォレスという
人物がいた。

●日本の単身赴任

 法学部でもこんなことが話題になった。ロースクールの一室で、みながお茶を飲んでいるとき
のこと。ブレナン法学副部長が私にこう聞いた。

 「日本には単身赴任(当時は、短期出張と言った。短期出張は、単身赴任が原則だった)と
いう制度があるが、法的な規制はないのかね?」と。そこで私が「何もない」と答えると、まわり
にいた学生たちまでもが、「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と叫んだ。

 日本の常識は、決して世界の常識ではない。しかしその常識の違いは、日本に住んでいるか
ぎり、絶対にわからない。が、その常識の違いを、心底、思い知らされたのは、私が日本へ帰
ってきてからのことである。

●泣き崩れた母

 私がM物産という会社をやめて、幼稚園の教師になりたいと言ったときのこと、(そのときす
でにM物産を退職し、教師になっていたが)、私の母は、電話口の向こうで、オイオイと泣き崩
れてしまった。「恥ずかしいから、それだけはやめてくれ」「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア
〜」と。

 だからといって、母を責めているわけではない。母は母で、当時の常識に従って、そう言った
だけだ。ただ、私は母だけは、私を信じて、私を支えてくれると思っていた。が、その一言で、
私はすっかり自信をなくし、それから三〇歳を過ぎるまで、私は、外の世界では、幼稚園の教
師をしていることを隠した。一方、中の世界では、留学していたことを隠した。どちらにせよ、話
したら話したで、みな、「どうして?」と首をかしげてしまった。

 が、そのとき、つまり私が幼稚園の教師になると言ったとき、私を支えてくれたのは、ほかな
らぬ、オーストラリアの友人たちである。みな、「ヒロシ、よい選択だ」「すばらしい仕事だ」と。そ
の励ましがなかったら、今の私はなかったと思う。
 

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


たった一匹のネズミを求めて【26】

●牧場を襲った無数のネズミ

 私は休暇になると、決まって、アデレード市の近くにある友人の牧場へ行って、そこでいつも
一、二週間を過ごした。「近く」といっても、数百キロは、離れている。広大な牧場で、彼の牧場
だけでも浜松市の市街地より広い。その牧場でのこと。

 ある朝起きてみると、牧場全体が、さざ波がさざめくように、波うっていた! 見ると、おびた
だしい数のネズミ、またネズミ。……と言っても、畳一枚ぐらいの広さに、一匹いるかいないか
という程度。

 しかも、それぞれのネズミに個性があった。農機具の間で遊んでいるのもいたし、干し草の
間を出入りしているのもいた。あのパイドパイパーの物語に出てくるネズミは、一列に並んで、
皆、一方向を向いているが、そういうことはなかった。

 が、友人も彼の両親も、平然としたもの。私が「農薬で駆除したら」と提案すると、「そんなこと
をすれば、自然のライフサイクルをこわすことになるから……」と。

 農薬は羊の健康にも悪い影響を与える。こういうときのために、オーストラリアでは州による
手厚い保障制度が発達している。そこで私たちはネズミ退治をすることにした。方法は、こう
だ。

 まずドラム缶の中に水を入れ、その上に板切れを渡す。次に中央に腐ったチーズを置いてお
く。こうすると両側から無数のネズミがやってきて、中央でぶつかり、そのままポトンポトンと、
水の中に落ちた。が、何と言っても数が多い。私と友人は、そのネズミの死骸をスコップで、そ
れこそ絶え間なく、すくい出さねばならなかった。

 が、三日目の朝。起きてみると、今度は、ネズミたちはすっかり姿を消していた。友人に理由
を聞くと、「土の中で眠っている間に伝染病で死んだか、あるいは集団で海へ向かったかのど
ちらかだ」と。伝染病で死んだというのはわかるが、集団で移動したという話は、即座には信じ
られなかった。移動したといっても、いつ誰が、そう命令したのか。

 ネズミには、どれも個性があった。そこで私はスコップを取り出し、穴という穴を、次々と掘り
返してみた。が、ネズミはおろか、その死骸もなかった。一匹ぐらい、いてもよさそうなものだ
と、あちこちをさがしたが、一匹もいなかった。ネズミたちは、ある「力」によって、集団で移動し
ていった。

●人間にも脳の同調作用?

 私の研究テーマの一つは、『戦前の日本人の法意識』。なぜに日本人は一億一丸となって、
戦争に向かったか。また向かってしまったのかというテーマだった。

 が、たまたまその研究がデッドロックに乗りあげていた時期でもあった。あの全体主義は、心
理学や社会学では説明できなかった。そんな中、このネズミの事件は、私に大きな衝撃を与え
た。そこで私は、人間にも、ネズミに作用したような「力」が作用するのではないかと考えるよう
になった。

 わかりやすく言えば、脳の同調作用のようなものだ。最近でもクローン技術で生まれた二頭
の牛が、壁で隔てられた別々の部屋で、同じような行動をすることが知られている。そういう
「力」があると考えると、戦前の日本人の、あの集団性が理解できる。……できた。

 この研究論文をまとめたとき、私の頭にもう一つの、考えが浮かんだ。それは私自身のこと
だが、「一匹のネズミになってやろう」という考えだった。「一匹ぐらい、まったくちがった生き方
をする人間がいてもよいではないか。皆が集団移動をしても、私だけ別の方角に歩いてみる。
私は、あえて、それになってやろう」と。日本ではちょうどそのころ、三島由紀夫が割腹自殺をし
ていた。

 
この牧場で、無数のネズミを見た。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


王子、皇太子の中で【27】

●VIPとして

 夏休みが近づくと、王子や皇太子たちは、つぎつぎと母国へ帰っていった。もともと彼らは、
勉強に来たのではない。研究に来たのでもない。目的はよくわからないが、いわゆるハクづ
け。

 ある国の王子の履歴書(公式の紹介パンフ)を見せてもらったことがある。当時は、海外へ
旅行するだけでも、その国では重大事であったらしい。それには旅行の内容まで書いてあっ
た。「○○年X月、イギリスを親善訪問」とか。

 一方、オーストラリア政府は、こうしたVIPを手厚く接待することにより、親豪派の人間にしよう
としていた。そういうおもわくは、随所に見えた。いわば、先行投資のようなもの。一〇年先、二
〇年先には、大きな利益となって帰ってくる。

 私のばあいも、ライオンズクラブのメンバーが二人つき、そのつど交互にあちこちを案内して
くれたり、食事に誘ってくれたりした。おかげで生まれてはじめて、競馬なるものも見た。生まれ
てはじめて、ゴルフコースにも立った。生まれてはじめて、フランス料理も食べた。

●帝王学の違い?

 私たち日本人は、王子だ、皇太子だというと、特別の目で見る。そういうふうに洗脳されてい
る。しかしオーストラリア人は、違う。イギリスにも王室はあるが、それでも違う。少なくとも「おそ
れ多い」という見方はしない。

 このことは反対に、イスラム教国からやってきた留学生を見ればわかる。王子や皇太子を前
にすると、「おそれ多い」というよりは、まさに王と奴隷の関係になる。頭をさげたまま、視線す
ら合わせようとしない。その極端さが、ときには、こっけいに見えるときもある(失礼!)。

 で、こうした王子や皇太子には、二つのタイプがある。いつかオーストラリア人のR君がそう言
っていた。ひとつは、そういう立場を嫌い、フレンドリーになるタイプ。もうひとつは、オーストラリ
ア人にも頭をさげるように迫るタイプ。アジア系は概して前者。アラブ系は概して後者、と。

 しかしこれは民族の違いというよりは、それまでにどんな教育を受けたかの違いによるもので
はないか。いわゆる帝王学というのである。たとえば同じ王子でも、M国のD君は、ハウスの外
ではまったく目立たない、ふつうのズボンをはいて歩いていた。かたやS国のM君は、必ずスリ
ーピースのスーツを身につけ、いつも取り巻きを数人連れて歩いていた。(あとでその国の護
衛官だったと知ったが、当時は、友人だと思っていた。)

●王族たちの苦しみ

 私は複雑な心境にあった。「皇室は絶対」という意識。「身分差別はくだらない」という意識。こ
の二つがそのつど同時に現れては消え、私を迷わせた。

 私も子どものとき、「天皇」と言っただけで、父親に殴られたことがある。「陛下と言え!」と。
だから今でも、つまり五六歳になった今でも、こうして皇室について書くときは、ツンとした緊張
感が走る。が、それと同時に、なぜ王子や皇太子が存在するのかという疑問もないわけではな
い。ただこういうことは言える。

 どんな帝王学を身につけたかの違いにもよるが、「王子や皇太子がそれを望んでいるか」と
いう問題である。私たち庶民は、ワーワーとたたえれば、王子や皇太子は喜ぶハズという「ハ
ズ論」でものを考える。しかしそのハズ論が、かえって王子や皇太子を苦しめることもある。

 それは想像を絶する苦痛と言ってもよい。言いたいことも言えない。したいこともできない。一
瞬一秒ですら、人の目から逃れることができない……。本人だけではない。まわりの人も、決し
て本心を見せない。そこはまさに仮面と虚偽の世界。私はいつしかこう思うようになった。

 「王子や皇太子にならなくて、よかった」と。これは負け惜しみでも何でもない。一人の人間が
もつ「自由」には、あらゆる身分や立場を超え、それでもあまりあるほどの価値がある。「王子
か、自由か」と問われれば、私は迷わず自由をとる。

 私はガランとしたハウスの食堂で、ひとりで食事をしながら、そんなことを考えていた。

 
当時のハウスのガイドブックより

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


ベトナム戦争【28】

●徴兵はクジ引きで

 徴兵は、クジ引きで決まった。そのクジで決まった誕生日の若者が徴兵され、そしてベトナム
へ行った。学生とて、例外ではない。

 が、そこは陽気なオーストラリア人。南ベトナムとオーストラリアを往復しながら、ちゃっかりと
金を稼いでいるのもいた。とくに人気商品だったのが、日本製のステレオデッキ。それにカメ
ラ。サイゴンで買ったときの値段の数倍で、メルボルンで売れた。兵士が持ちこむものには、
原則として関税がかけられなかった。

 そんな中、クリスという男がベトナムから戻ってきた。こう言った。

 「戦場から帰ってくると、みんなサイゴンで女を買うんだ」「女を買う?」「そうだ。そしてね、み
んな、一晩中、女の乳首を吸っているんだ」「セックスはしないのか?」「とても、する気にはな
れないよ。ただ吸うだけ」「吸ってどうするんだ?」「気を休めるのさ」と。
 
●オーストラリア人のベトナム戦争

 ベトナム戦争。日本でみるベトナム戦争と、オーストラリアでみるベトナム戦争は、まるで違っ
ていた。緊張感だけではない。だれもが口では、「ムダな戦争」とは言っていたが、一方で、「自
由と正義を守るのは、ぼくたちの義務」と言っていた。

 そういう会話の中で、とくに気になったのは、「無関心」という単語。オーストラリアでは「政治
に無関心」ということは、それだけでも非難の対象になった。地方の田舎町へ行ったときのこと
だが、小さな子どもですら、「あの橋には、○○万ドルも税金を使った」「この図書館には、○○
万ドル使った」と話していた。彼らがいう民主主義というのは、そういう意識の延長線上にあっ
た。

 「日本はなぜ兵士を送らないのか?」「日本は憲法で禁じられている」「しかしこれはアジアの
問題だろ。君たちの問題ではないか!」「……」と。毎日のように私は議論を吹っかけられた。

 私が、いくら、ただの留学生だと言っても、彼らは容赦しなかった。ときには数人でやってき
て、怒鳴り散らされたこともある。彼らにしてみれば、私が「日本」なのだ。もっとも彼らがそうす
る背景には、「いつ戦場へ送り出されるかわからない」といった恐怖感があった。日本人の私と
は真剣さが違った。

●日本は変わったか?

 それから三四年。世界も変わったが、日本も変わった。しかしその後、日本がアジアを受け
入れるようになったかどうかということになると、それは疑わしい。

 先日もテレビ討論会で、一人のアフリカ人が、小学生(六年生くらい)に向かって、「君たちは
アジア人だろ!」と言ったときのこと。その小学生は、こう言った。

 「違う。ぼくは日本人だ」と。そこで再び、「君たちの肌は黄色いだろ!」と言うと、「黄色ではな
い。肌色だ!」と。

 こうした国際感覚のズレは、まだ残っている。三五年前は、もっとすごかった。日本人で、自
分がアジア人だと思っている人は、まずいなかった。半ば嘲笑的に、「黄色い白人」と呼ばれて
いたが、日本人は、それをむしろ誇りに思っていた? しかしアジア人はアジア人。この事実を
受け入れないかぎり、日本はいつまでたっても、アジアの一員にはなれない。

 話はそれたが、ベトナム戦争についても、彼らの論理は明快だ。クリスと会った夜、私は日記
にこう書いた。

 「戦争に行く勇気のあるものだけが、平和を口にすることができるという。戦争に行くのがこ
わいから、戦争に反対するというのは、この国では許されない。もっと言えば、この国では、兵
士となって戦争を経験したものだけが、平和を口にすることができる。

 そうでないものが平和を唱えると、卑怯者と思われる。戦争と平和は、紙でいえば、表と裏の
関係らしい。平和を守るために戦争するという、一見、矛盾した論理が、この国では常識にな
っている。そんなわけで私は、クリスに、ベトナム戦争反対とは、どうしても言えなかった」と。

 
ハウスでの学生会議の風景

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


不思議に思ったのが不思議【29】

●豊かな生活

 金沢では下宿生活だった。ほとんどの家では、まだボットン便所。私が二年間いた下宿でも、
隣との境は、薄いベニア板一枚だけ。そういう生活が、当時は標準的だった。

 が、ハウスは違った。洗濯室、乾燥ルーム、シャワールーム、それに音楽室やテニスコートも
あった。もちろん全室床暖房。今ではこんな設備は、そこらの学生会館にもあるが、当時はそ
うでなかった。

 私はその生活水準の落差に、がく然とした。が、それだけではない。掃除、ワックスがけ、シ
ーツの取り替えは、すべてメイドがしてくれた。その上、ほとんど毎回、夕食には牛肉料理がテ
ーブルの上に並んだ

 こうした豊かな生活を見せつけられると、人は、二つの感情をもつ。あこがれとねたみ。「私も
こういう生活をしてみたい」という思いと、「どうしてこんな生活ができるのか」という思い。その
二つが心の中で、激しくぶつかりあう。

 今でこそ日本でも見なれた光景だが、私はオーストラリア人たちが、オレンジを、袋単位で買
っているのを見て驚いたことがある。八個とか一〇個とか、まとめて買うのである。

 ……といっても、こんな話をしても、今の若い人には、理解できないだろう。しかし忘れてはな
らないのは、日本も、たった三五年前には、そうであったということ。遠い昔ではない。ほんの
一世代前だ。いや、落差の中でショックを受けていたのは、日本人の私だけではなかった。東
南アジアからの留学生もまた、別の形でその落差を感じていた。

●周囲文化が育っていない?

 ある日、マレーシア人のタン君が興奮した様子で、私の部屋に飛び込んできた。「ヒロシ、君
は、マツダの新型車を見たか。すごい車だ」と。言われるまま、道路へ飛び出すと、そこには
「サバンナ」という名前の車が駐車してあった。

 ダッシュボードが、飛行機のコックピットのような形をしていた。それを見ながらタン君は、こう
言った。「ヒロシ、同じアジア人がこういうものを作れると思うと、ぼくは誇らしい。いいか、ヒロ
シ、白人がアジア人の作った車に乗っているんだ」と。

 ただそういう落差になじめず、留学半ばで強制送還される学生も、少なくなかった。コロンボ
計画で来ていたマラウィのK君は、部屋に引きこもってしまい、数週間で送還されてしまった。

 日本人とて例外ではない。三〇名ほどの英語教師が、日本の夏休みを利用して、三か月の
研修にやってきた。しかしそのうち一〇人ほどが、その三か月の研修すらまっとうできず、帰国
してしまった。

 「言葉が通じないため、ノイローゼになってしまったから」と、領事のI氏が話してくれた。が、
言葉だけの問題でもなかったようだ。日本には、外国に渡る人を精神的に支える周囲文化
が、まだ育っていなかった?

 私もオーストラリアに渡るとき、こう言われた。「君は日本を代表してオーストラリアへ行くの
だ。日本人として恥ずかしくないよう、立派な研究成果を出してきてほしい」と。それはものすご
い重圧感だった。

●不思議さがわからない

 だから今、「不思議な留学記」と書きながら、その不思議さが何であるかわからなくなってきて
いる。当時はあれほど強烈な落差を感じたにもかかわらず、今、こうして思い出してみると、そ
の落差がはっきりしない。

 水洗便所でない家庭はほとんどないし、冷暖房も当たり前。牛肉など、その気になれば、毎
日だって食べられる。オレンジにしても、一個単位で買う人など、まずいない。

 車のダッシュボードにしても、今ではその形が、標準。それに今では、高校生が修学旅行で
オーストラリアに行く時代になった。何もかも変わったが、ここまで日本が変わると、当時、だれ
が予想しただろうか。

 まさに不思議に思った私のほうが、不思議ということになる。そういう意味でも、私が経験した
留学生活は、まさに「世にも不思議な留学記」ということになる。
 
  

 
1970年当時のメルボルンの市内


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


意識の変化、そして自己否定【30】

●いい学校論

 「日本では進学率の高い学校ほど、いい学校だ」と言うと、デニスは笑った。そこで私が「で
は、オーストラリアではどういう学校をいい学校というのか」と聞くと、こう話してくれた。

 メルボルンの南に、ジーロンという町がある。昔は羊毛の輸出港として栄えた町である。その
町の郊外に、ジーロングラマースクールがある。チャールズ皇太子も一年間学んだことのあ
る、由緒ある全寮制の小中高一貫校である。

 デニスも、そこで一二年間過ごしている。「あの学校では、生徒ひとりひとりに合わせて、カリ
キュラムを組んでくれる。たとえば水泳の得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が得
意な子どもは、毎日木工ができるように、と。そういう学校をいい学校という」と。

 意識は国によって違う。それから生まれる常識も、国によって違う。だから当然のことなが
ら、価値観も違う。今でこそ、こうした違いに耳を傾ける人もふえてきたが、三五年前は、そう
ではなかった。

 「入学試験はないのか?」と聞くと、「早い者勝ち」と。ふつうそのあたりの親は、子どもの出
生届を出すのと同時に、入学願書を出す慣わしになっている。「子どもに何か、障害があるとき
はどうする?」と聞くと、「どうしてだめなのか。そんなことは関係ない」と。

 ただオーストラリア人に学歴意識がないかといえば、それはウソだ。ある日、バララートという
町へ行ったときのこと。開拓時代の面影が色濃く残っている町である。私は郵便局へ立ち寄っ
て、切手を買った。

 最初、職員は、ムッとするほど横柄な態度だった。が、そのうち会話の途中で、「私はメルボ
ルン大学ロースクールの研究生だ」と言うと、とたんに態度が急変したのを覚えている。それが
おもしろいほどの変わりようだったので、「ああ、この国でも学歴が通用するのだな」と、そのと
きはそう思った。

●心の空白

 話はそれたが、自分の意識を変えるのは、容易なことではない。たとえば私は、はじめのこ
ろは、「国立のメルボルン大学が上で、私立のモナーシュ大学は、その下で……」と考えてい
た。

 日本人は何かにつけて、上下意識をもつ。その上下意識の中で、ものの価値を判断する。
私がそういう意識と決別することができるようになったのは、ほぼ一年も過ぎてからではなかっ
たか。こんなことがあった。

 オーストラリアのABC放送局に就職が決まった友人がいた。ABC放送局といえば、日本のN
HKにあたる。そこで私が「すごいじゃないか。おめでとう!※」と言うと、逆に質問されてしまっ
た。

 「どうして君は、ぼくにおめでとうと言うのか?」と。会話がまるでかみあわなかった。つまり日
本でいう、大企業意識というのは、彼らには、まったくなかった。

 こうした意識の変化は、私自身の価値観を大きく変えた。私は帰国後、M物産という会社に
就職することになっていた。入社を一年、延期してもらっていた。

 が、帰国が近くなってくると、M物産に入社するという「誇り」そのものが消えていた。意識の
変化というような生やさしいものではなかった。怖ろしいほどの衝撃だった。それまでの意識を
否定するということは、それまでの生きザマを否定することを意味する。それだけではない。そ
れまでの意識が崩壊するのはし方ないとしても、今度はそれにかわる意識を作らねばならな
い。心の空白ができてしまう。が、その空白を埋めるのも、簡単なことではない。

 「君たちにとって、いい仕事って、どんな仕事だ?」と聞くと、デニスはこう言った。「家に近く
て、給料がいいこと」と。「それだけか?」と聞くと、「それだけだ」と。「本当にそれだけか?」と
また聞くと、少し間をおいて、「ほかに何がある?」と。

(※……ただし英語で「おめでとう(コングラチュレーション)」と言うと、「運がよかったね」という
意味も含まれる。それであのとき、友人が私に食ってかかってきたのかもしれない。)

 
フリンダーズ駅の前にあった、JETROの
屋上で。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


豊かな生活、そして帰国【31】

●モーニングコール

 「ヒロ〜シ、ヒロ〜シ」と、朝になると、隣の別荘(ビーチハウス)のジュリーがやってきて、私を
呼んだ。すると横にいたデニスが、私をからかって、「ヒロシ、モーニングコールだ」と。

 道路の向こうからは、一日中、潮騒の音が聞こえる。目を開けると、まばゆいばかりの光線。
さわやかなそよ風。描きかけた油絵が、部屋のすみに立っている。

 日本がここまで豊かになるとは、当時、だれが予想しただろうか。私は「日本がオーストラリア
の生活水準に達するには、五〇年はかかる。あるいは永遠に不可能」とさえ思っていた。

 前の晩も、デニスの父親が、自宅でピーター・オトゥール主演の『アラビヤのロレンス』を見せ
てくれた。まだビデオなどない時代で、フィルムは、仲間の映写技師から借りたものだという。
自宅に大型の映写機があること自体、私には信じられなかった。

 寝室を出ると、食卓には、盛りつけられたパンや果物。戸棚には、何種類ものドイツ製のビ
ール。それにワインと酒。壁を飾る、アボリジニーの壁画。デニスの姉が、何日もかけて描きあ
げたものだという。そして週末は、こうして海のそばの別荘で過ごす……。そのどのひとつをと
っても、当時の日本にはないものばかりだった。

「デニス、ぼくは、やはり日本へ帰るよ」
「こちらで就職しないのか?」
「週給五五ドル※だという。高卒の給料だ」
「しかし君は、学位をもっている」
「日本の学位は、オーストラリアでは認められない」
「認められない?」
「話してみたけど、ダメだった……」

 私はその数日前に受けた面接試験の話を、デニスに話した。日本にも支社があるという会社
だったが、あとで担当者が、「その給料なら雇う」と電話で知らせてきた。

●日本へ帰る

 私は日本にいる親や、別れたN子のことを考えていた。いや、それ以上に、日本のことを考
えていた。オーストラリアから見ると、どうしようもないほど小さな島国だが、しかし私の国だ。こ
のところメルボルンの町の中を歩いていても、どこかフワフワと足が浮いたような状態になる。

 みなは親切だが、しかしその親切は、ある一定の限度まで。私はアジア人だ。背が低く、肌
の黄色いアジア人だ。それから生まれる違和感は、どうしようもなかった。

 しばらくすると、またジュリーが呼んだ。「ヒロ〜シ」と。するとデニスがこう言った。「ヒロシ、気
をつけろ。彼女はまだ中学生だ」と。「わかっている」と私。週末になるとジュリーの一家もこうし
て別荘にやってくる。いつしか私とも知りあいになり、何度か夕食もごちそうになった。

 が、もし、その私が、仮にいつか、たとえばオーストラリアの女性と恋仲になり、結婚……とい
うことになったら、多分、その女性の両親の態度は、急変するに違いない。ジュリーにかぎら
ず、オーストラリア人の家族とつきあうときは、どんなことでも、私はその一歩手前で止めなけ
ればならない。客人の立場で、その立場を守っている間は、歓迎される。それを超えたら、排
斥される。

 デニスとビーチに出ると、ジュリーがそこに立っていた。私は何枚か、ジュリーの写真をとっ
た。その一枚が、これである。

 その後、デニスの別荘は山火事(ブッシュファイア)で燃えた。ジュリーの別荘も燃えて、その
後、音信はない。本名は、ジュリー・ピーターズ。今、彼女は、四五歳前後になっているはずで
ある。きっとすばらしい人生を送っていることと思う。オーストラリアの青い空のように、抜ける
ほど明るく、陽気な女の子だった。 

(※当時のレートは、一ドルが四〇〇円。日本の大卒の初任給は、五〜六万円だった。) 

 
ジュリー・ピーターズ

 
底抜けに明るい少女だった。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


ビートルズの歌で終わった青春時代【最終回】

●行くも最後という時代だった

 行くのも最後、帰るのも最後という時代だった。往復の旅費だけで、四〇万円以上。まだまだ
日本は貧しかった。メルボルンを飛び立つときは、本当にさびしかった。

 そしてそのさびしさは、フィリッピンのマニラに到着してからも消えなかった。夜、リザール公
園を歩いていると、六、七人の学生がギターを弾いていた。私がぼんやりと見ていると、「何
か、曲を弾いてあげようか」と声をかけてくれた。私は「ビートルズのアンド・アイ・ラブ・ハーを」
と頼んだ。私はその曲を聞きながら、あふれる涙をどうすることもできなかった。

 私には一人のガールフレンドがいた。ジリアン・マックグレゴーという名前の女の子だったが、
「ウソつきジル」というあだ名で呼ばれていた。が、私にはいつも誠実だった。

 映画「トラトラトラ」を二人で見に行ったときも、彼女だけが日本の味方をしてくれた。映画館
の中で、アメリカの飛行機が落ちるたびに、拍手喝采をしてくれた。あの国では、静かに映画を
見ている観客などいない。

 そのジルに私が帰国を告げたとき、彼女はこう言った。「ヒロシ! 私は白血病よ。その私を
置いていくの!」と。私はそれがウソだと思った。……思ってしまった。だから私は天井に、飲
みかけていたコーヒーのカップを投げつけ、「ウソつき! どうして君は、ぼくにまでウソをつくん
だ!」と叫んだ。

 夜、ハウスの友だちの部屋にいると、デニスという、今でも無二の親友だが、その彼が私を
迎えにきてくれた。そのデニス君とジルは幼なじみで、互いの両親も懇意にしていた。デニス
に、ジルの病気の話をすると、彼はこう言った。

 「それは本当だよ。だからぼくは君に言っただろ。ジルとはつきあってはダメだ。後悔すること
になる、と。しかしね、ジルが君にその話をしたということは、ジルは君を愛しているんだよ」と。
彼女の病気は、彼女と彼らの両親だけが知っている秘密だった。

 私はジーロンという、メルボルンの南にある町まで行く途中、星空を見ながら泣いた。オース
トラリアの星空は、日本のそれよりも何倍も広い。地平線からすぐ星が輝いている。私はただ
ただ、それに圧倒されて泣いた。

●こうして私の青春時代は終った……

 こうして私の留学時代は終わった。同時に、私の青春時代も終わった。そしてその時代を駆
け抜けたとき、私の人生観も一八〇度変わっていた。私はあの国で、「自由」を見たし、それが
今でも私の生活の基本になっている。

 私がその後、M物産という会社をやめて、幼稚園教師になったとき、どの人も私を笑った。気
が狂ったとうわさする人もいた。母に相談すると、母まで「あんたは道を誤った」と、電話口のむ
こうで泣き崩れてしまった。

 ただデニス君だけは、「すばらしい選択だ」と喜んでくれた。以後、幼児教育をして、二八年に
なる。はたしてその選択が正しかったのかどうか……?

 そうそう、ジルについて一言。私が帰国してから数カ月後。ジルは、西ドイツにいる兄をたよっ
てドイツへ渡り、そこでギリシャ人と結婚し、アテネ近郊の町で消息を断った。

 また同じハウスにいた、あの皇太子や王族の息子たちは、今はその国の元首級の人物とな
って活躍している。テレビにも時々顔を出す。デニスは、小学校の教員をしたあと、国防省に入
り、今はモナーシュ大学の図書館で司書をしている。本が好きな男で、いつも「ぼくは本に囲ま
れて幸せだ」と言っている。

 私だけは相変わらず、あの「自転車屋の息子」のままだが……。完



 
ハウスでの晩餐会

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


金沢大学の学生の皆さんへ【エピローグ】

エピローグ(青春時代)  

●こわいものは、なかった

 チャンスを食い散らし、健康を食い散らし、そして時間を食い散らす。それが青春時代という
ものか。そのときはわからない。わからないまま、前だけを見て突っ走る。しかしその時代もや
がて色あせ、闇の中に消えていく。

 私が人生の中で最高に輝いたのは、留学生試験に合格したときだった。金沢大学は、指定
校にはなっていなかった。しかし私は強引に受験した。二次、三次と合格し、最終は、東京での
面接試験だった。東大の学生が二人、慶応の学生が一人、それに私だった。

 私だけが大学四年生で、あとは大学院生だった。確率は四分の一。で、結果は合格。その
知らせを電話で受けたときは、私は飛びあがって喜んだ。同時に、私の前には、一本の道が
開けた。それはまっすぐ、未来につながっていた。

 留学でハクをつけ、商社マンになり、あとは出世街道をのぼりつめる……。そしてその喜び
は、日々に増幅され、北国新聞社の取材を受けたとき、頂点に達した。地方版だったが、紙面
の四分の一ほどをさいて、私を紹介してくれた。「金大(指定校外)の林君、みごと留学生試験
に合格」と。七〇年二月のことだった。私には、こわいものは、何もなかった。

●ただ無我夢中だった

 今、あの時代を思い出してみると、私は私で、どこも変わっていないはずなのに、ほろ苦さだ
けが、心の中に充満する。

 もしあのときにもう一度戻ることができたら、私はもう少し慎重に、足場を踏みならしながら、
前に進んだであろう。しかしそのときは、わからなかった。青春時代は、決して人生の出発点で
はない。人生の原点。人生のすべてそのもの。

 私はおぼつかない声で、その青春時代に向かって、こう呼びかける。「お前は、どこにい
る?」と。すると別の声が、「ここにいる」と答える。が、本当のところ、自分がどこにいるかわか
らない……。

 いつだったか、ガールフレンドのジルと、バイクに乗っていて、転倒したことがある。ホンダの
カブだったが、ギアのチェンジのし方が日本のそれとは違っていた。それで二人は、道路のわ
き道に投げ出された。

 幸い芝生の上で、ケガはなかった。が、起きあがろうとすると、背中に乗ったジルが、こう言っ
た。「このままでいましょう」と。私は言われるまま、ジルの肌の温もりを感じながら、じっと、そ
のままにしていた。そんなできごとが、遠い昔のできごとのような気もするし、つい昨日のできご
とのような気もする。

 何がなんだかわからないまま過ぎた、私の青春時代。ただ私は懸命だった。無我夢中だっ
た。その青春時代は、ボロボロだったかもしれないが、今、私の人生の中で、さん然と光り輝い
ている。

●懸命に生きることの価値

 人生の目的? あのトルストイは、主人公ピエールの口を借りて、こう書いている。『(人間の
最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること。愛すること。信ずる
こと』(「戦争と平和」・第五編四節)と。

 つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

 前回で、『世にも不思議な留学記』は終わった。実のところ、この原稿は、私がオーストラリア
にいるときから書き始めたもの。しかし発表する機会もなく、ただ無益に、三〇年の歳月が流
れた。

 しかし今、こうして再構成し、皆さんに読んでいただけたことを、心から感謝する。喜んでい
る。最後になったが、編集部のみなさんには、心からお礼の言葉を捧げたい。みなさんの励ま
しがなかったら、こうまで長く連載をつづけることはできなかった。最後に学生のみなさんに、一
言だけ、こう伝えたい。

  「懸命に生きてください。ただひたすら前に向かって、懸命に生きてください。それが青春で
す」と。


 
インターナショナル・ハウス 1970
Internat'l House
241 Royal Parade


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1611)

【今朝・あれこれ】

+++++++++++++++++++

今朝は、心に、ポッカリと穴があいてしまった。
ぼんやりとした気分。どこかはっきりしない。
頭の中は、ざわざわしているが、つかみどころ
がない。

このけだるさは、いったい、どこから来るのか。
とくに疲れているというわけでもない。

そうそう、今日、教え子が、街で、
信州そばの店を開店した。あとで、知人を
誘って、その店に行くつもり。

年中児から、中学3年生になる
まで、その子どもを、私は教えた。

O君、おめでとう! よくやったね!

++++++++++++++++++++

●これからのこと

 昨夜、ワイフとこんな話をする。

 「ぼく、お前が死んだら、すぐ死ぬよ」と。するとワイフは、「そんなこと、してはダメよ。あなた
は、あなたで、最後まで生きなければ!」と。

私「でも、ひとりで生きていく自信はない」
ワ「あのね、私が死んでも、あなたは生きていくのよ」
私「どうやって?」
ワ「どうやってって、がんばって生きていくのよ」
私「……ぼくね、ぼくが先に死んでも、葬式なんか、いらないよ」
ワ「でも、葬式をしなければ、みんなが、うるさいわよ」
私「ちゃんと、遺書に、そう書いておくからいい」と。

 このところ、ふと気弱になることが多くなった。その回数が、だんだんと、長く、多くなったよう
に思う。ものの考え方が、どこか投げやり的になる。無責任になる。このところの講演つづき
で、少し疲れているのかもしれない。

 気が晴れない。どこか重くるしい。原因はわかっている。しかし今の私には、どうしようもな
い。あるがままを受け入れて、前向きに考えるしかない。

(中略)

 ところで今日、教え子のそば屋が開店する。信州そばの店だという。私が幼稚園の年中児の
ときから、中3まで教えた子どもである。私が行かないというわけにはいかない。行って、一言、
「おめでとう」と言ってやりたい。

 写真をとってきて、HPのほうで紹介してやろうと考えている。

 あと、近々、従兄弟(いとこ)会があるので、そのみやげを買えたら、買ってくるつもり。「買え
たら」というのは、今月は、すでに予算オーバー。オーストラリア人たちの接待で、かなりの出
費を強いられた。

 で、今、ほしいのは、2GBのSDメモリー。これに音楽をジャンジャン書きこんで、携帯電話で
聞きたい。昨夜は、イヤホーンを2つに分けて、ワイフと2人で聞きながら、眠った。「こんなこと
もできるの?」とワイフは驚いていた。

 みやげを買うべきか? それとも、2GBのSDメモリーを買うべきか? 今、迷っている。

(中略)

 国際情勢が、緊迫してきた。

 あの金大中は、トンチンカンなことばかり言っている。おかしな平和主義にとらわれ、自分を、
ガンジーか、ネールのような存在だと錯覚しているらしい。

 金大中が守ろうとしているのは、平和でも、何でもない。金大中が守ろうとしているのは、ただ
の独裁者。気の狂った独裁者。その独裁者のもとで、何千万という人たちが、飢えと圧制で苦
しんでいる。

 ノーベル平和賞とかを手に入れたが、あとで、500億円(推定)近い現金を、金xxに貢(み
つ)いでいたことがわかった。つまり、現金で買った、ノーベル賞。

 今、重要なことは、そこにある(現実)と、みなが力を合わせて、戦うこと。わかりやすく言え
ば、機関銃をもった暴力団がそこにいたら、近所の人たちと力を合わせて、戦うこと。

 「へたに手を出せば、何をされるかわからない」と、逃げまわるのは、平和主義でも何でもな
い。ただの卑怯者!

 ……少し(怒り)を感じたら、頭の中がすっきりとしてきた。よかった!

 今日も、これで原稿書きが、再開できる。

 これから庭掃除をして、それがすんだら、街まで、信州そばをワイフと食べに行くつもり。

 一番乗りは、私だ! 待ってろよ、O君! 今、行くよ!


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1612)

●二つの最後通牒(つうちょう)

++++++++++++++++++

アメリカは、韓国に、
中国は、K国に、
ぞれぞれ、最後通牒を、つきつけた。

「韓国をアメリカの核の傘(かさ)の
もとにおくかどうかは、B司令官の
判断にゆだねる」とした、アメリカ。

「K国との友好条約を見なおす」とした
中国。

どれも韓国、K国にとっては、
ぞっとするほど、恐ろしい最後通牒
であったにちがいない。
(10月19日)

++++++++++++++++++

 アメリカのブッシュ大統領は、「日本は、アメリカの核の傘のもとにおき、同盟国として、どんな
ことがあっても、日本を守る」と言明した。しかし韓国については、「(核の傘のもとにおくかどう
かは)、在韓米軍のベル司令官の判断に任す」と。

 一方、中国は、K国に対して、「北朝鮮に国際社会の強烈な反応を知らしめる必要がある」
(胡主席・10月17日)という強い警告をしたあと、唐委員らの政府高官をK国に派遣していた
(注1)。

 中国が何を伝えるためにK国に特使を送ったのかは、今のところ不明だが、手がかりはあ
る。

 香港の時事週刊誌「開放」は、『K国の核実験により、第3国が侵略してくる場合は、相互援
助条約による軍事介入の義務を履行しないという内容の条約改正案を、K国外務部に覚書形
式で伝達した』と報じている。

経済専門誌「財経」も、『中国の学者たちが、北朝鮮と中国のうちどちらか1国が侵略された場
合、自動的に軍事介入できるように定めた「中朝友好協力相互援助条約」の改正について話
し合っている』と報じている。 

 つまり、K国が核実験をして、アメリカがたとえK国を軍事的攻撃に出ても、中国は、それに
対して、軍事介入をしない」と。つまりこれは中国とK国の間の、中朝友好相互援助計画の見
なおしを示唆(しさ)したものと考えてよい(注2)。

 K国の意図は、見え見え。核でアメリカをおどしながら、アメリカに先に手を出させること。アメ
リカが先に手を出せば、中朝友好協力相互援助条約が機能し、自動的に、K国は、アメリカと
中国の戦争にもちこむことができる。

 一方、アメリカのブッシュ大統領は、「日本を核の傘のもとにおき、同盟国として、どんなこと
をしてでも、日本を守る」と言明したあと、韓国については、「核の傘のもとにおくかどうかは、
在韓米軍のベル司令官の判断に一任する」と言明した。

 韓国は、この場に及んでも、金剛山観光と開城工業団地事業について、「国連安全保障理
事会の決議には直接関連しないとの判断を共有し、両事業を継続させていく方針を決めてい
る」と言明している(10月17日)(注3)。

 つまり「これらの両事業は、国連決議には、抵触しない」と。

 そこでアメリカは、韓国にライス国務長官(事実上の外務大臣)を送り、先の通告をすること
になった。「あまり勝手なことばかりすると、アメリカは、韓国を守らないぞ」と。

 この両者、つまり中国によるK国への政府高官の派遣、ライス国務長官による韓国訪問は、
時を同じくして、K国、韓国に、それぞれ、最後通牒(つうちょう)をつきつけたことになる。

 もしK国が中国の最後通牒に応じなければ、また韓国がアメリカの最後通牒に応じなけれ
ば、K国は韓国に軍事的攻撃をしかけるはず。そして50年という年月をおいて、再び、南北間
で、朝鮮動乱が始まる。

 状況は、そこまで差し迫っている!

 が、今のところ、K国はともかくも、韓国は、アメリカの説得に応ずる構えを見せている。つま
りアメリカの核の傘の中に入ろうと、必死で模索している。が、それを決断するのは、在韓米軍
のベル司令官。

 わかりやすく言えば、ブッシュ大統領は、「自分の国を守りたかったら、現地の司令官に一任
してあるから、その司令官の言うことを聞け」と、つまりは韓国を、つき放したことになる。

今まで、韓国のN大統領は、ことあるごとにその司令官に反駁(はんばく)してきた。射撃場問
題、基地移転問題、分担費負担問題などなど。司令官としても、何かとやりにくかったのだろ
う。そこでブッシュ大統領は、きわめて重大な判断を、司令官にゆだねることによって、N大統
領をだまらせようとした。

 これら2つの、それぞれの最後通牒が、K国と韓国を、どう動かすか。その結果は、まもなく
出てくるものと思われる。今日、アメリカのライス国務長官は、K国で金xxと会談した中国の唐
委員から、報告を受けることになっている(20日)。

 私の印象では、K国の金xxが、無条件で、6か国協議に出てくるとは、思わない。アメリカは、
「6か国協議に出てきたからといって、経済制裁を解除しない」と、言明している。「検証可能な
方法で、核兵器を放棄したら、解除する」と、言明している。

 K国の軍部が、それを受け入れるかどうかだが、私は、「受け入れない」とみている。「検証可
能な方法」というのは、K国を丸裸にすることを意味する。金xxは、それを恐れている。

 丸裸になれば、軍事施設はもとより、今までしてきた数々の悪行が、白日のもとにさらされる
ことになる。拉致問題もその一部かもしれないが、金xxは、粛清(しゅくせい)という名のものと
に、一説によれば、20万人以上もの政治犯(?)と呼ばれる人たちを、殺害している。その事
実まで、明るみになってしまう。

 金xxには、そこまでの覚悟はできていない。

 韓国はともかくも、アメリカと中国の間では、すでに、K国崩壊のシナリオができあがっている
とみるべきではないか。

+++++++++++++++

(注1)……胡主席は17日、「北朝鮮に国際社会の強烈な反応を知らしめる必要がある」と異
例の強い調子で北朝鮮を非難した。メッセージは再度の核実験を実施した場合、対北朝鮮支
援の見直しを含めた強い措置を取ることを示した可能性もある。

ケーシー米国務省副報道官は19日の記者会見で、中国の唐家セン国務委員の北朝鮮訪問に
関して、「唐氏は新たな核実験自制などを求める中国政府の極めて強いメッセージを携えてい
た」と述べ、説得工作の成果に期待を表明した。

(注2)……唐委員には戴秉国、武大偉両外務次官が同行した。朝鮮中央通信によると、会談
には姜錫柱(カンソクチュ)第1外務次官や金桂冠(キムゲグァン)外務次官らが同席した。

中国の学者たちが、北朝鮮と中国のうちどちらか1国が侵略された場合、自動的に軍事介入
できるように定めた「中朝友好協力相互援助条約」の改正について話し合っている、と経済専
門誌「財経」の最新号が報じた。 

 同誌は「北東アジアの風雲・核兵器、韓半島(朝鮮半島)に腰下ろす」と題する記事で、多くの
学者が「北朝鮮の核兵器開発が原因で戦争が発生する場合、中国には軍事介入の義務がな
いということをはっきりさせるため、北朝鮮側に条約の改正を求めるべきだ」と考えていること
を明らかにした。 

 ところがこれについて、中国外交部の秦剛スポークスマンは、K国が核実験を断行する前の
今年9月15日、「中国は、朝中友好協力相互援助条約"の改正を検討していない」と否定して
いる。 

 しかし、中国外交部は「北朝鮮の核実験により、第3国が侵略してくる場合は、相互援助条
約による軍事介入の義務を履行しない」という内容の条約改正案を、K国外務部に覚書形式
で伝達した、と香港の時事週刊誌「開放」の最近号は報じている。

(注3)……政府と与党・開かれたウリ党は、19日、K国核実験以来論議されている金剛山観
光と開城工業団地事業について、国連安全保障理事会の決議には直接関連しないとの判断
を共有し、両事業を継続させていく方針をまとめた
(以上、2006年10月20日記)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1613)

●いやなことがあったときには……

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いやなときには、心の中で、
歌を歌おう。

歌って、あとは、ときの流れに、
静かに、自分を任そう。

+++++++++++++

 少し前、こんなことを教えてくれた子ども(小4)がいた。「ママに叱られて、ガミガミ言われてい
るときは、心の中で、歌を歌っている」と。

 そこで「どんな歌?」と聞くと、「ポケモンの歌。1番、好きだから……」と。

 そのときは、「それでいいのかなあ?」と思ったが、気がついてみると、いつの間にか、私もそ
うしているのに気づいた。私も、何かいやなことがあると、心の中で、歌を歌うようになってい
た。ときに、ときとしてだれかにからまれ、ガミガミ言われたようなときである。

 が、失敗もある。歌を歌っているとき、心の中で歌を歌っているつもりだったが、思わず、口
が動いてしまい、声がもれてしまったことがある。そのときは、相手の人に、「何か言ってる
の?」と、聞かれてしまった。

 そこで、コツがある。そういうときは、「口を閉じて」ではなく、「歯をとじて」歌う。そうすれば、
そういうヘマはしない。

 で、いくつか気がついたことがある。

 心の中で歌を歌っているときというのは、記銘力(脳に記憶を記録する能力)が、極端に落ち
る。そのときは、何を言われているかを理解しているものの、あとで思いかえしても、何も頭の
中に残っていない。

 「ガミガミ言われたけど、何だったかなあ?」となる。それでよい。

 が、最近、さらにこんなこともあった。

 日本には、日蓮が開いた、日蓮宗という仏教教団がある。あの一派に、S学会という、日本で
も最大級の宗教団体がある。そのS学会では、『南無妙法蓮華経』という題目を唱えている。
「ナン・ミョウ・ホウ・レンゲ・キョウ」と読む。

 これに対して、身延山を総本山とする、日蓮宗各派では、「ナ・ム・ミョウ・ホウ・レンゲ・キョ
ウ」と、最初の「ナ」につづけて、「無(ム)」を、しっかりと入れて、題目を唱える。

 しかし同じ題目でも、S学会のほうが、ずっと唱えやすい。「ナン・ミョウ・ホウ・レンゲ・キョウ」
というのは、ちょうど6拍子になっている。この6拍子である点が、偶然なのだろうが、すばらし
い。

 6拍子というのは、唱え方によっては、ワルツ的な3拍子にもなる。もちろん6拍子で唱えれ
ば、静かなブルースのようにもなる。つまりそのときどきの気分によって、楽しくも、あるいは、
もの悲しくも、唱えることができる。

 しかし身延山を総本山とする、日蓮宗各派では、ここにも書いたように、「ナ・ム・ミョウ・ホウ・
レンゲ・キョウ」と、7拍子とは言えないが、どこか、拍子が乱れた唱え方をする。とくに連続して
唱えるようなときに、困る。だんだん調子が、ズレてくる。

 そこで、この題目。私は日蓮宗の信者でも、S学会の信者でもないが、何かいやなことがあっ
たとき、心の中で、ときどき、題目を唱えるようにしている。(あくまでも、ときどきだが……。)歌
というと、そのときどきにおいて、何の歌にするか迷うが、しかし題目なら、そういうことはない。

 3拍子、もしくは、6拍子のリズムで唱えると、ちょうど歌を歌っているような気分になる。いや
なことを、忘れることができる。で、実は、このことも、ある子どもから聞いた。その子どもも、何
かいやなことがあると、題目を唱えていると話してくれた。

 (こんなふうに題目を使うと、熱心な信者の人に、「不謹慎!」としかられそうだが、そこは許し
てほしい。)

 で、その『南無妙法蓮華経』という題目だが、インド大使館の領事部(東京)に問いあわせた
ところ、こう教えてくれた。

 「ナム」は、「帰依する」という意味のサンスクリット語だそうだ。今でも、インドでは、「こんにち
は」「さようなら」というときは、「ナム・ステ」(あなたに帰依します)と言う。あいさつ言葉だから、
深い意味を考えて、そう言っているのではない。

 つぎに「ミョウホウ」というのは、同じくサンスクリット語で、「不思議な」という意味だそうだ。

 最後の「レンゲ」というのは、「物語」、もしくは、「因果な物語」という意味だそうだ。それに、最
後に、「経典」を意味する、「経」という語をくつけた。つまり「ミョウホウ・レンゲ」というサンスクリ
ット語に、中国で、「妙法蓮華」という漢字を当てたということになる。「南無妙法蓮華」というの
は、あくまでも、当て字ということ。

 この説に疑いをもつ人は、インド大使館、領事部に問いあわせて、自分で、確かめてみたら
よい。

 ともかくも、何か、いやなことがあったら、歌でもよい。ときには、題目でもよい。こ心の中で歌
ったり、唱えたりしていると、心をしずめることができる。ただし、必ず、歯を、(口ではない、歯
を)、閉じてすること。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●音楽

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今日、2GB(ギガバイト)の、ミニSDメモ
リーカードを購入した。値段は、7800円。

さっそく、携帯電話に挿入。動作テスト。

これはうまくいった。

で、たった今、それに、CDで、7〜8枚分の
音楽を録音し終えたところ。曲数にすれば、
120〜130曲前後か。

メモリーの使用量をみると、それでも、
まだ、約30%前後。

改めて、その(すごさ)に驚く。つまり、
約2センチ四方のミニSDメモリーカードに、
数百曲も音楽が入るとは! ギョッ!

++++++++++++++++++

 この世界、本当に驚くことばかり! 毎日が、その連続! 今日も、ミニSD(2GB)メモリーカ
ードを買ってきて、それに音楽を録音してみた。(「転送」というのが、正しいのかも。)

 2センチ四方のミニSDメモリーカードに、とりあえず、CDにして、7〜8枚分の音楽を録音し
てみた。が、それでも、メモリーの使用量は、約30%前後。この分で計算すると、そんな小さな
メモリーカードの中に、CDにして、27〜30枚前後の音楽が、録音できることになる。

 「すごいなあ」と思ってみたり、「ヘエ〜」と感心してみたり……。そして同時に、ふと、本当に
ふとだが、何とも言えないさみしさに襲われた。

 これから先も、この世界は、どんどんと進化に進化を重ねていくだろう。当然のことながら、私
が死んでからも、ずっとずっと、それはつづく。私は、その進化を見届けることができない。そ
れはたとえて言うなら、息子の将来を見届けることができないまま、命を終える、親の気分に似
ている(?)。

 いや、実際、先月、息子が一時的に大学から帰省したとき、私は息子にこう言った。「お前の
将来を、ぼくは想像することはできる。しかし、お前の将来を見届ける前に、ぼくは、この世を
去るだろう。しかしこれだけは忘れないでほしい。お前のもつすばらしさ、お前のもつ可能性、
それを一番よく知っていたのは、このぼくだと。すばらしい未来に向かって、まっすぐ進めよ」
と。

 この先、この世界は、どこまで進化するのだろうか。少し前まで、コンピュータのことを、「人工
知能」と呼んだ。もしそうなら、その人工知能は、どこまで進化するのだろうか。

 私は、それを見たい。行き着くところを見たい。しかしそれはかなわぬ夢。夢のまた夢。それ
が今、(さみしさ)となって、自分にはね返ってくる。あの田丸先生も、昔、私にこう言った。「コン
ピュータの世界が、ここまで進むとは、予想さえしていなかった」と。

 ひょっとしたら、私が生涯かけて書いた原稿が、いつかマッチ棒の先くらいのメモリーカード
に、すべて記録されるようになるかもしれない。それを想像しながら、「すごいことだなあ」と思っ
てみたり、「そんなものかなあ」と思ってみたり……。

 できるだけ長生きをして、私は、その進化の先を見届けたい。……少しおおげさかな? 

 ところで今日も、新しい情報を手に入れてきた。何でもパソコンにつなぐだけで、電話と同じ
機能をもつソフトが開発されたそうだ。「スカイプ」というのが、それ。雑誌などによると、「夢の
ソフト」とか。

 挑戦してみない手はない。やってみたい。やってみよう。新しい目標がうまれた。……しかし、
こうまでつぎつぎと、新しいソフトが開発されてくると、ついていくだけでたいへん。息切れしそ
う。お金もかかる。ホント!

【付記】

 パソコンの世界では、「私にはできない」と、その手前で、たじろいではいけない。だれかがや
っているのを見たら、「私にもできるはず」と、自分を信ずること。信じて、自分で挑戦してみる
こと。

 たとえば今月は、私は、FLASH(HP上の動画)と、今回の音楽の録音に挑戦してみた。最
初は、「できるかな?」と心配だったが、やってみると、意外と簡単。で、今は、「何だ、こんなこ
とだったのか」と思っている。

 パソコンというのは、そういうもの。

 そうそう今、してみたいことは、私の電子マガジンにBGMを入れること。読者の方が、クリッ
クすると、その原稿にあった雰囲気の音楽が流れる……とか。想像するだけでも、楽しい。
近々、実験的に、ひとつ、やってみるつもり。おもしろそう!

 お楽しみに!

 
Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●寿大学での講演会

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H町の寿大学で、昨日、講演してきた。
ほぼ20年ぶりに、漢方(東洋医学)の
話をしてきた。

楽しかった。会場を出るまで、みなが、
うしろを振りかえって、拍手をしてく
れた。

うれしかった。

+++++++++++++++

 昨日(10月20日)、H町の寿(ことぶき)大学で、講演をしてきた。70歳以上の人たちが学
ぶ大学である。H町の前教育長も、来てくれた。H町町議会の議長も、来てくれた。

 何しろはじめての経験だったので、最初は、心配だった。しかしさすが……というか、「学ぼ
う」という意欲のある人は、みな、顔つきがちがう。最前列から数列までの女性たちは、みな、
きちんとした和装で、そこに並んでいた。男性も、ほとんどがネクタイをしめていた。

 高齢者というと、すぐ認知症の人を連想してしまう。このところの私の悪いクセだ。しかし実際
には、そうでない人のほうが、はるかに多い。ほとんどの人たちは、ひょっとしたら、若い人たち
より、賢い。務めて、脳みその訓練に心がけている。

 最初は、ゆっくりとした話し方をしたが、そのうち、みなの反応に合わせて、いつもの早口にな
った。が、そのつど、みな、笑ってくれた。話しやすかった。大きな会場だったが、120〜30人
以上の人たちが集まってくれた。

 帰りに、昼食を用意してくれたので、執行部の方たちと、それにワイフと、いっしょに食べた。
おいしかった。

【補記】

 私がはじめて、東洋医学の講演をしたのは、まだ20代のはじめのころ。場所は、東京の東
急デパートの中の特設会場だった。

 和田式痩身美容を主催する、和田氏と、いっしょにした。(名前は、忘れた。「コージ」と言った
か、「コージロウ」と言ったか?)その和田氏は、私とほぼ同年齢だったが、あの日航123便の
墜落事故で、あの世の人となってしまった。1週間ほど、毎日、交替で講演をしたので、和田氏
のことはよく覚えている。

 一度、私の体重をみながら、「あと、3〜4キロはやせたほうがいいですね」と、私に笑って言
ったのを、よく覚えている。

 そうそうそのとき司会をしてくれたのが、今は有名な、あのお笑いタレントの、T氏である。一
度だけ、たまたま帰る方向が同じということで、小田原まで車に乗せてもらったことがある。

 寿大学で講演をしながら、あちこちで、その和田氏のことを思い出していた。私にとっては、
遠い、遠い、昔のできごとである。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●学習性無気力

++++++++++++++++++

状況をコントロールできるかどうかで、
その子どもの(やる気)は、決まる。

「いくらやっても効果がない」「何も
変わらない」となれば、子どもでなく
ても、やる気をなくす。

ひょっとしたら、今の私が、そうかも
しれない。

++++++++++++++++++

 「教育」のこわいところは、一方で(できる子)をつくりながら、そのまた一方で、(できない子)
をつくってしまうこと。つまり(できない子)は、悶々とした毎日を送りながら、やがて、(やる気の
ない子)へと、つくられていく。

 それが悪循環となって、(やる気のない子)は、さらに(できない子)へとなっていく。

 こういう状態を、発達心理学の世界では、「学習性無気力」と呼ぶ。皮肉なことに、自ら学習し
ながら、無気力になっていくという症状をいう。わかりやすく言えば、「何をやっても、オレはダメ
な人間」と思いこむことによって、だんだんやる気をなくしていく。無気力になっていく。

 話は飛躍するが、子どもというのは、状況を変える力を身につけてはじめて、やる気を覚え
る。つまり自分のしたことで、状況が変わる。変わるのを見ながら、達成感を覚える。それが子
どものやる気につながる。わかりやすい例で考えてみよう。

 A君(中2)は、夏休み前に、決心した。「夏休みの間、勉強でがんばって、成績をあげよう」
と。

 そこで進学塾の夏期講習に通いながら、毎日、そのほかに4〜5時間の勉強をした。それま
での彼の勉強量にすれば、考えられないほどの勉強量である。

 が、夏休みあけの実力試験では、その成果は、まったく出なかった。得点は少しあがった
が、かえって順位はさがってしまった。(ふつう、こうした成果は、成果が出るとしても、数か月
おいて出てくるものだが、A君には、それがわからなかった。)

 とたん、A君は、やる気をなくしてしまった。「ぼくは、やっぱり、ダメな人間」と、自らレッテル
を、張ってしまった。

 ふつう学習性無気力に陥ると、つぎのような症状が現れるという(山下富美代著「発達心理
学」)。

(1)環境へ働きかけようとする意欲が低下する。
(2)学習する能力が低下する。
(3)情緒的に混乱する。

 山下富美代氏は、本の中で、興味ある実験を紹介している。

 体をしばった犬に電気ショックを与えつづけると、最初のころは、犬も、それからのがれようと
暴れたりするが、やがてあきらめて抵抗しなくなる、と。ショックを与えても、うろたえるだけで、
逃げようともしなくなる。セリグマンという学者のした実験だそうだ。

 つまり犬は、体をしばられているので、逃げ出すこともできない。そこで犬は、「何をしてもダメ
だ」ということを学ぶ。それが、ここでいう学習性無気力症状ということになる。

 子どもの世界で言えば、先に書いた、「もの言わぬ従順な民」ということになる。

 A君の母親は、A君に、「あきらめてはだめ」「もう少しがんばってみたら」と声をかけたが、A
君は、やる気そのものをなくしてしまっていた。机に向かって座ってはみるものの、ぼんやりとし
たまま、ときには何もしないまま、眠ってしまったりした。どこからどう、勉強に手をつけてよい
かさえわからなくなってしまった。

 A君の心の様子に変化が見られるようになったのは、秋になってからである。A君の母親が、
「勉強」という言葉を口にしただけで、A君がカッとキレるようになってしまった。「うるさい!」と
怒鳴って、母親に、ものを投げつけることもあった。それまではどちらかというと静かな子ども
だった。A君の母親は、それに驚いた。

 ……というケースは、多い。もちろんここに書いたA君というのは、架空の子どもである。また
学習性無気力といっても、そんなに簡単になるものではない。1年とか、2年とか、長い時間を
かけてそうなる。ひょっとしたら、今の、あなた自身が、そうであるかもしれない。

 こうした学習性無気力は、何も、勉強だけにかぎった話ではない。軽い例では、無関心があ
る。政治的無関心、社会的無関心、人間的無関心などなど。私などは、女性に対して、まったく
といってよいほど、自信がない。ワイフはときどき慰めてくれるが、私は自分では、「私ほど、女
性にモテない男はいない」と思っている。今のワイフについてでさえ、ときどき、「どうしてこんな
私のような男といっしょにいるのだろう」と思うことさえある。

 その結果、こと女性のこととなると、無気力になってしまう。

 これも学習性無気力の1つかもしれない。私は、若いころ、ドン底にたたきつけられるような
失恋を経験している。それが原因で、自信をなくしたのかもしれない(?)。

 そこで……というわけでもないが、ほとんどの親たちは、自分の子どもを(伸ばす)ことしか考
えていない。それはそれで大切なことだが、しかし同時に、やり方をまちがえると、かえって逆
効果になることもあるということ。そのひとつが、ここでいう学習性無気力ということになる。そ
れがひどくなると、荷卸し症候群、さらには、燃え尽き症候群へと進む。

 子どもを伸ばすコツは、「?」と感じたら、思い切って、手を引く。その割り切りのよさが、子ど
もの心を救う。「やればできるはず」「もっとできるようにしたい」と感じたら、自分の心にブレー
キをかける。子どもを追いこめば、追いこむほど、子どもは袋小路に入ってしまう。子どもを無
気力にする危険性はぐんと高くなる。

 ここに書いたA君のケースでも、親が、「結果なんか、気にしなくてもいい。あなたはよくがん
ばった。それでいい」というような言い方をしていたら、A君は、学習性無気力に陥らなくてすん
だかもしれない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 学習
性無気力 無気力な子ども 無気力な子供)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【子育て一口メモ】

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子どもをやる気のある子にする、
30の鉄則、です。

++++++++++++++++++

●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたと
する。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう
何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。
子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、
叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これ
を弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになる
と、学習効果が、著しく落ちるようになる。


●内面化

子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の
発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自
己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、
社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、
「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母
親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的
過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対し
ては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい
無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、
やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き
症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程
度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標
をもたせるようにする。


●子どもの恐怖症

恐怖症といっても、内容は、さまざま。対人恐怖症、赤面恐怖症、視線恐怖症、体臭恐怖症、
醜形恐怖症、吃音恐怖症、動物恐怖症、広場恐怖症、不潔恐怖症、高所恐怖症、暗所恐怖
症、閉所恐怖症、仮面恐怖症、先端恐怖症、水恐怖症、火恐怖症、被毒恐怖症、食事恐怖症
などがある。子どもの立場になって、子どもの視線で考えること。「気のせいだ」式の強引な押
しつけは、かえって症状を悪くするので注意。


●子どもの肥満度

児童期の肥満度は、(実測体重Kg)÷(実測身長cmの3乗)×10の7乗で計算する。この計
算式で、値が160以上を、肥満児という(ローレル指数計算法)。もっと簡単に見る方法として
は、手の甲を上にして、指先を、ぐいと上にそらせてみる。そのとき、指のつけねに腱が現れる
が、この腱の部分にくぼみが現れるようになったら、肥満の初期症状とみる。この方法は、満5
歳児〜の肥満度をみるには、たいへん便利。


●チック

欲求不満など、慢性的にストレスが蓄積すると、子どもは、さまざまな神経症的症状を示す。た
とえば爪かみ、指しゃぶり、夜尿、潔癖症、手洗いグセなど。チックもその一つ。こうした症状を
総称して、神経性習癖という。このチックは、首から上に出ることが多く、「おかしな行動をす
る」と感じたら、このチックをうたがってみる。原因の多くは、神経質で、気が抜けない家庭環境
にあるとみて、猛省する。
(はやし浩司 子供の肥満 肥満度 子どもの肥満)

 
●伸びたバネは、ちぢむ

受験期にさしかかると、猛烈な受験勉強を強いる親がいる。塾に、家庭教師に、日曜特訓な
ど。毎週、近くの公園で、運動の特訓をしていた父親さえいた。しかしこうした(無理)は、一事
的な効果はあっても、そのあと、その反動で、かえって子どもの成績はさがる。『伸びたバネは
ちぢむ』と覚えておくとよい。イギリスの教育格言にも、『馬を水場に連れていくことはできても、
水を飲ませることはできない』というのがある。その格言の意味を、もう一度、考えてみてほし
い。


●「利他」度でわかる、人格の完成度

あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのとき、「ママ、も
ってあげる!」と走りよってくればよし。反対に、知らぬ顔をして、テレビゲームなどに夢中にな
っていれば、あなたの子どもは、かなりのどら息子と考えてよい。子どもの人格(おとなも!)、
いかに利他的であるかによって、知ることができる。つまりドラ息子は、それだけ人格の完成
度の低い子どもとみる。勉強のできる、できないは、関係ない。


●見栄、体裁、世間体

私らしく生きるその生き方の反対にあるのが、世間体意識。この世間体に毒されると、子ども
の姿はもちろんのこと、自分の姿さえも、見失ってしまう。そしてその幸福感も、「となりの人よ
り、いい生活をしているから、私は幸福」「となりの人より悪い生活をしているから、私は不幸」
と、相対的なものになりやすい。もちろん子育ても、大きな影響を受ける。子どもの学歴につい
て、ブランド志向の強い親は、ここで一度、反省してみてほしい。あなたは自分の人生を、自分
のものとして、生きているか、と。


●私を知る

子育ては、本能ではなく、学習である。つまり今、あなたがしている子育ては、あなたが親から
学習したものである。だから、ほとんどの親は、こう言う。「頭の中ではわかっているのですが、
ついその場になると、カッとして……」と。そこで大切なことは、あなた自身の中の「私」を知るこ
と。一見簡単そうだが、これがむずかしい。ギリシアのターレスもこう言っている。『汝自身を、
知れ』と。哲学の究極の目標にも、なっている。


●成功率(達成率)は50%

子どもが、2回トライして、1回は、うまくいくようにしむける。毎回、成功していたのでは、子ども
も楽しくない。しかし毎回失敗していたのでは、やる気をなくす。だから、その目安は、50%。
その50%を、うまく用意しながら、子どもを誘導していく。そしていつも、何かのレッスンの終わ
りには、「ほら、ちゃんとできるじゃ、ない」「すばらしい」と言って、ほめて仕あげる。


●無理、強制

無理(能力を超えた負担)や強制(強引な指導)は、一時的な効果はあっても、それ以上の効
果はない。そればかりか、そのあと、その反動として、子どもは、やる気をなくす。ばあいによっ
ては、燃え尽きてしまったり、無気力になったりすることもある。そんなわけで、『伸びたバネ
は、必ず縮む』と覚えておくとよい。無理をしても、全体としてみれば、プラスマイナス・ゼロにな
るということ。


●条件、比較

「100点取ったら、お小遣いをあげる」「1時間勉強したら、お菓子をあげる」というのが条件。
「A君は、もうカタカナが読めるのよ」「お兄ちゃんが、あんたのときは、学校で一番だったのよ」
というのが、比較ということになる。条件や比較は、子どもからやる気を奪うだけではなく、子ど
もの心を卑屈にする。日常化すれば、「私は私」という生き方すらできなくなってしまう。子ども
の問題というよりは、親自身の問題として、考えたらよい。(内発的動機づけ)


●方向性は図書館で

どんな子どもにも、方向性がある。その方向性を知りたかったら、子どもを図書館へ連れてい
き、一日、そこで遊ばせてみるとよい。やがて子どもが好んで読む本が、わかってくる。それが
その子どもの方向性である。たとえばスポーツの本なら、その子どもは、スポーツに強い関心
をもっていることを示す。その方向性がわかったら、その方向性にそって、子どもを指導し、伸
ばす。


●神経症(心身症)に注意

心が変調してくると、子どもの行動や心に、その前兆症状として、変化が見られるようになる。
「何か、おかしい?」と感じたら、神経症もしくは、心身症を疑ってみる。よく知られた例として
は、チック、吃音(どもり)、指しゃぶり、爪かみ、ものいじり、夜尿などがある。日常的に、抑圧
感や欲求不満を覚えると、子どもは、これらの症状を示す。こうした症状が見られたら、(親
は、子どもをなおそうとするが)、まず親自身の育児姿勢と、子育てのあり方を猛省する。


●負担は、少しずつ減らす

子どもが無気力症状を示すと、たいていの親は、あわてる。そしていきなり、負担を、すべて取
り払ってしまう。「おけいこごとは、すべてやめましょう」と。しかしこうした極端な変化は、かえっ
て症状を悪化させてしまう。負担は、少しずつ減らす。数週間から、1、2か月をかけて減らす
のがよい。そしてその間に、子どもの心のケアに務める。そうすることによって、あとあと、子ど
もの立ちなおりが、用意になる。

●荷おろし症候群

何かの目標を達成したとたん、目標を喪失し、無気力状態になることを言う。有名高校や大学
に進学したあとになることが多い。燃え尽き症候群と症状は似ている。一日中、ボーッとしてい
るだけ。感情的な反応も少なくなる。地元のS進学高校のばあい、1年生で、10〜15%の子
どもに、そういう症状が見られる(S高校教師談)とのこと。「友人が少なく、人に言われていや
いや勉強した子どもに多い」(渋谷昌三氏)と。


●回復は1年単位

一度、無気力状態に襲われると、回復には、1年単位の時間がかかる。(1年でも、短いほうだ
が……。)たいていのばあい、少し回復し始めると、その段階で、親は無理をする。その無理
が、かえって症状を悪化させる。だから、1年単位。「先月とくらべて、症状はどうか?」「去年と
くらべて、症状はどうか?」という視点でみる。日々の変化や、週単位の変化に、決して、一喜
一憂しないこと。心の病気というのは、そういうもの。


●前向きの暗示を大切に

子どもには、いつも前向きの暗示を加えていく。「あなたは、明日は、もっとすばらしくなる」「来
年は、もっとすばらしい年になる」と。こうした前向きな暗示が、子どものやる気を引き起こす。
ある家庭には、4人の子どもがいた。しかしどの子も、表情が明るい。その秘訣は、母親にあ
った。母親はいつも、こうような言い方をしていた。「ほら、あんたも、お兄ちゃんの服が着られ
るようになったわね」と。「明日は、もっといいことがある」という思いが、子どもを前にひっぱっ
ていく。


●未来をおどさない

今、赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりを起こす子どもがふえている。おとなになることに、ある
種の恐怖感を覚えているためである。兄や姉のはげしい受験勉強を見て、恐怖感を覚えるこ
ともある。幼児のときにもっていた、本や雑誌、おもちゃを取り出して、大切そうにそれをもって
いるなど。話し方そのものが、幼稚ぽくなることもある。子どもの未来を脅さない。


●子どもを伸ばす、三種の神器

子どもを伸ばす、三種の神器が、夢、目的、希望。しかし今、夢のない子どもがふえた。中学
生だと、ほとんどが、夢をもっていない。また「明日は、きっといいことがある」と思って、一日を
終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国の小学生3
226人を対象に、04年度調査)。子どもの夢を大切に、それを伸ばすのは、親の義務と、心
得る。

 
●受験は淡々と

子ども(幼児)の受験は、淡々と。合格することを考えて準備するのではなく、不合格になったと
きのことを考えて、準備する。この時期、一度、それをトラウマにすると、子どもは生涯にわた
って、自ら「ダメ人間」のレッテルを張ってしまう。そうなれば、大失敗というもの。だから受験
は、不合格のときを考えながら、準備する。


●比較しない

情報交換はある程度までは必要だが、しかしそれ以上の、深い親どうしの交際は、避ける。で
きれば、必要な情報だけを集めて、交際するとしても、子どもの受験とは関係ない人とする。
「受験」の魔力には、想像以上のものがある。一度、この魔力にとりつかれると、かなり精神的
にタフな人でも、自分で自分を見失ってしまう。気がついたときには、狂乱状態に……というこ
とにも、なりかねない。


●「入試」「合格・不合格」は、禁句

子どもの前では、「受験」「入試」「合格」「不合格」「落ちる」「すべる」などの用語を口にするの
は、タブーと思うこと。入試に向かうとしても、子どもに楽しませるようなお膳立ては、必要であ
る。「今度、お母さんがお弁当つくってあげるから、いっしょに行きましょうね」とか。またそういう
雰囲気のほうが、子どもも伸び伸びとできる。また結果も、よい。


●入試内容に迎合しない

たまに難しい問題が出ると、親は、それにすぐ迎合しようとする。たとえば前年度で、球根の名
前を聞かれるような問題が出たとする。するとすぐ、親は、「では……」と。しかし大切なことは、
物知りな子どもにすることではなく、深く考える子どもにすることである。わからなかったら、す
なおに「わかりません」と言えばよい。試験官にしても、そういうすなおさを、試しているのであ
る。


●子どもらしい子ども

子どもは子どもらしい子どもにする。すなおで、明るく、伸びやかで、好奇心が旺盛で、生活力
があって……。すなおというのは、心の状態と、表情が一致している子どもをいう。ねたむ、い
じける、すねる、ひねくれるなどの症状のない子どもをいう。そういう子どもを目指し、それでダ
メだというのなら、そんな学校は、こちらから蹴とばせばよい。それくらいの気構えは、親には
必要である。


●デマにご用心

受験期になると、とんでもないデマが飛びかう。「今年は、受験者数が多い」「教員と親しくなっ
ておかねば不利」「裏金が必要」などなど。親たちの不安心理が、さらにそうしたデマを増幅さ
せる。さらに口から口へと伝わっていく間に、デマ自身も大きくなる。こういうのを心理学の世界
でも、「記憶錯誤」という。子どもよりも、おとなのほうが、しかも不安状態であればあるほど、そ
の錯誤が大きくなることが知られている。


●上下意識は、もたない

兄(姉)が上で、弟(妹)が下という、上下意識をもたない。……といっても、日本人からこの意
識を抜くのは、容易なことではない。伝統的に、そういう意識をたたきこまれている。今でも、長
子相続を本気で考えている人は多い。もしあなたがどこか権威主義的なものの考え方をしてい
るようなら、まず、それを改める。


●子どもの名前で、子どもを呼ぶ

「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」ではなく、兄でも、姉でも、子ども自身の名前で、子どもを呼ぶ。た
とえば子どもの名前が太郎だったら、「太郎」と呼ぶ。一般的に、たがいに名前で呼びあう兄弟
(姉妹)は、仲がよいと言われている。


●差別しない

長男、長女は、下の子が生まれたときから、恒常的な愛情不足、欲求不満の状態に置かれ
る。親は「平等」というが、長男、長女にしてみれば、平等ということが、不平等なのである。そ
ういう前提で、長男(長女)の心理を理解する。つまり長男(長女)のほうが、不平等に対して、
きわめて敏感に反応しやすい。


●嫉妬はタブー

兄弟(姉妹)の間で、嫉妬感情をもたせない。これは子育ての鉄則と考えてよい。嫉妬は、確
実に子どもの心をゆがめる。原始的な感情であるがゆえに、扱い方もむずかしい。この嫉妬
がゆがむと、相手を殺すところまでする。兄弟(姉妹)を別々に扱うときも、たがいに嫉妬させな
いようにする。


●たがいを喜ばせる

兄弟を仲よくさせる方法として、「たがいを喜ばせる」がある。たとえばうち1人を買い物に連れ
ていったときでも、「これがあると○○君、喜ぶわね」「△△ちゃん、喜ぶわね」というような買い
与え方をする。いつも相手を喜ばすようにしむける。これはたがいの思いやりの心を育てるた
めにも、重要である。


●決して批判しない

子どもどうしの悪口を、決して言わない。聞かない。聞いても、判断しない。たとえば兄に何か
問題があっても、それを絶対に(絶対に)、弟に告げ口してはいけない。告げ口した段階で、あ
なたと兄の関係は、壊れる。反対に兄が弟のことで、何か告げ口をしても、あなたは聞くだけ。
決して相づちを打ったり、いっしょになって、兄を批判してはいけない。


●得意面をさらに伸ばす

子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばし、不得意面については、目を閉じること。たとえ
ば受験生でも、得意な英語を伸ばしていると、不得意だった数学も、つられるように伸び始め
るということがよくある。「うちの子は、運動が苦手だから、体操教室へ……」という発想は、そ
もそも、その発想からしてまちがっている。子どもは(いやがる)→(ますます不得意になる)の
悪循環を繰りかえすようになる。


●悪循環を感じたら、手を引く

子育てをしていて、どこかで悪循環を感じたら、すかさず、その問題から、手を引く。あきらめ
て、忘れる。あるいはほかの面に、関心を移す。「まだ、何とかなる」「そんなハズはない」と親
ががんばればがんばるほど、話が、おかしくなる。深みにはまる。が、それだけではない。一
度、この悪循環に入ると。それまで得意であった分野にまで、悪影響をおよぼすようになる。自
信喪失から、自己否定に走ることもある。


●子どもは、ほめて伸ばす

『叱るときは、陰で。ほめるときは、みなの前で』は、幼児教育の大鉄則。もっとはっきり言え
ば、子どもは、ほめて伸ばす。仮にたどたどしい、読みにくい文字を書いたとしても、「ほほう、
字がじょうずになったね」と。こうした前向きの強化が、子どもを伸ばす。この時期、子どもは、
ややうぬぼれ気味のほうが、あとあと、よく伸びる。「ぼくはできる」「私はすばらしい」という自
信が、子どもを伸ばす原動力になる。


●孤立感と劣等感に注意

家族からの孤立、友だちからの孤立など。子どもが孤立する様子を見せたら、要注意。「ぼく
はダメだ」式の劣等感を見せたときも、要注意。この二つがからむと、子どものものの考え方
は、急速に暗く、ゆがんでくる。外から見ると、「何を考えているかわからない」というようになれ
ば、子どもの心は、かなり危険な状態に入ったとみてよい。家庭教育のあり方を、猛省する。


●すなおな子ども

従順で、親の言うことをハイハイと聞く子どもを、すなおな子どもというのではない。幼児教育の
世界で、「すなおな子ども」というときは、心(情意)と、表情が一致している子どもをいう。感情
表出がすなおにできる。うれしいときは、顔満面にその喜びをたたえるなど。反対にその子ども
にやさしくしてあげると、そのやさしさが、スーッと子どもの心の中に、しみこんでいく感じがす
る。そういう子どもを、すなおな子どもという。


●自己意識を育てる
乳幼児期に、何らかの問題があったとする。しかしそうした問題に直面したとき、大切なこと
は、そうした問題にどう対処するかではなく、どうしたら、こじらせないか、である。たとえばAD
HD児にしても、その症状が現れてくると、たいていの親は、混乱状態になる。しかし子どもの
自己意識が育ってくると、子どもは、自らをコントロールするようになる。そして見た目には、症
状はわからなくなる。無理をすれば、症状はこじれる。そして一度、こじれると、その分だけ、立
ちなおりが遅れる。


●まず自分を疑う

子どもに問題があるとわかると、親は、子どもをなおそうとする。しかしそういう視点では、子ど
もは、なおらない。たとえばよくある例は、親の過干渉、過関心で、子どもが萎縮してしまったよ
うなばあい。親は「どうしてうちの子は、ハキハキしないのでしょう」と言う。そして子どもに向か
っては、「どうしてあなたは、大きな声で返事ができないの!」と叱る。しかし原因は、親自身に
ある。それに気づかないかぎり、子どもは、なおらない。


●「やればできるはず」は禁句

たいていの親は、「うちの子は、やればできるはず」と思う。しかしそう思ったら、すかさず、「や
ってここまで」と思いなおす。何がそうかといって、親の過関心、過負担、過剰期待ほど、子ども
を苦しめるものはない。それだけではない。かえって子どもの伸びる芽をつんでしまう。そこで
子どもには、こう言う。「あなたは、よくがんばっているわよ。TAKE IT EASY!(気を楽にし
てね)」と。


●「子はかすがい」論
たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、そ
れで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかか
っているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかな
い。日本には『子は三界の足かせ』という格言もある。


●「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では『子は親のうしろ姿を見て
育つ』というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せ
ろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは
見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、
お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。


●「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地
のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ、上のもの
の前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一
利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、
封建時代の遺物と考えてよい。


●「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、
子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えてい
る間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の
世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育
てにかこつける必要はない。


●「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに
求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子ど
もの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思
いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが
親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬され
る」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」
と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人
の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、
無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。


●「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといって、身
分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつか
りながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、この
権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、その
矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、どん
なことでもできる。ご注意!


●「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は
仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世
界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻
の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんな
ことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本
にあるとみる。


●「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはい
ない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘
になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザ
コン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

窪田S氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになって
いる。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほ
ど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭
に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは
居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくる
よ」だ。


●「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、『内助の功』という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉
ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題
は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約23%の女性が、「それでい
い」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省98)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と
いう考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


 ●子育ては、考えてするものではない

だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言う。子育てとい
うのは、もともと、そういうもの。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗をするとき
は、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわり)があれ
ば、まず、それに気づく。あとは時間が解決してくれる。


●子育ては、世代連鎖する

子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖する。またそう
いう部分が、ほとんどだと考えてよい。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によるも
の」と考える。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のうちに繰
りかえしているだけだということになる。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代に、残
さないということ。これを昔の人、『因を断つ』と言った。


●子育ての見本を見せる

子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せると
いうこと。見せるだけでは、足りない。子どもを包む。幸福な家庭というのは、こういうものだ。
夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、と。そういう(学習)があっ
て、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになる。


●子どもには負ける

子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしてもし
かたないし、本気で相手にしてはいけない。ときに親は、わざと負けて見せたり、バカなフリをし
て、子どもに自信をもたせる。適当なところで、親のほうが、手を引く。「こんなバカな親など、ア
テにならないぞ」「頼りにならない」と子どもが思うようになったら、しめたもの。


●子育ては重労働

子育ては、もともと重労働。そういう前提で、考える。自分だけが苦しんでいるとか、おかしいと
か、子どもに問題があるなどと、考えてはいけない。しかしここが重要だがが、そういう(苦し
み)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長する。そのことは、子育てが終わってみ
ると、よくわかる。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親に見せてくれる。
子育ての終わりには、それがやってくる。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立する。「あなたはあなたで、勝手に生
きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクとし
がちな、親子関係に、風を通す。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないというの
は、それだけその人の生きザマが、小さいということになる。あなたはあなたで、したいことを、
する。そういう姿が、子どもを伸ばす。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
もの。そういう前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない
株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、な
おさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言ったか
らといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言いな
がらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意
「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。


 ●強化の原理

子どもが、何かの行動をしたとする。そのとき、その行動について、何か、よいことが起きたと
する。ほめられるとか、ほうびがもらえるとか。あるいは心地よい感覚に包まれるとか。そういう
何かよいことが起こるたびに、その行動は、ますます強化される。これを「強化の原理」という。
子どもの能力をのばすための大鉄則ということになる。


●弱化の原理

強化の原理に対して、弱化の原理がある。何か、行動をしたとき、つまずいたり、失敗したり、
叱られたりすると、子どもは、やる気をなくしたり、今度は、その行動を避けるようになる。これ
を弱化の原理という。子どもにもよるし、ケースにもよるが、一度弱化の原理が働くようになる
と、学習効果は、著しく落ちるようになる。


●内面化
子どもは成長とともに、身長がのび、体重が増加する。これを外面化というのに対して、心の
発達を、内面化という。その内面化は、(1)他者との共鳴性(自己中心性からの脱却)、(2)自
己管理能力、(3)良好な人間関係をみるとよい(EQ論)。ほかに道徳規範や倫理観の発達、
社会規範や、善悪の判断力などを、ふくめる。心理学の世界では、こうした発達を総称して、
「しつけ」という。


●子どもの意欲

子どもは、親、とくに母親の意欲を見ながら、自分の意欲を育てる。一般論として、意欲的な母
親の子どもは、意欲的になる。そうでない母親の子どもは、そうでない。ただし、母親が意欲的
過ぎるのも、よくない。昔から、『ハリキリママのションボリ息子』と言われる。とくに子どもに対し
ては、ほどよい親であることが望ましい。任すところは子どもに任せ、一歩退きながら、暖かい
無視を繰りかえす。それが子育てのコツということになる。


●ほどよい目標

過負担、過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。そればかりではない。自信喪失から、
やる気をなくしてしまうこともある。仮に一時的にうまくいっても、オーバーヒート現象(燃え尽き
症候群、荷卸し症候群)に襲われることもある。子どもにとって重要なことは、達成感。ある程
度がんばったところで、「できた!」という喜びが、子どもを伸ばす。子どもには、ほどよい目標
をもたせるようにする。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1614)

●反面教師

++++++++++++++++

「反面教師」という言葉がある。
だれか、近くの、自分にとっては批判の
対象でしかない人を見ながら、
「自分はそうでありたくない」と
思いつつ、その人を教師にすること
をいう。

しかしその「反面教師」には、
もう1つの「反面」がある。

反面のそのまた反面と言うべきか。

これがこわい。

++++++++++++++++

「反面教師」という言葉がある。だれか、近くの、あなたにとっては批判の対象でしかない人を
見ながら、「自分はああはなりたくない」と思いつつ、その人を教師にすることをいう。国語大辞
典(講談社)には、つぎのようにある。

 「否定的なことを示すことによって、肯定的なものをいっそう、明らかにするのに役立つこと」
と。

しかしその「反面教師」には、もう1つの「反面」(シャドウ)がある。これがこわい。

 たとえばあなたの父親が、たいへん権威主義的な人であったとしよう。親風を吹かし、親の権
威をことあるごとに、あなたに押しつけたとしよう。いばっている。あなたが、何か口答えでもし
ようものなら、「親に向かって、何だ!」と、怒鳴り散らす。

 そういう父親を見ながら、あなたは、「私は、父のようにはなりたくない」「私は、父のようには
ならない」と思ったとする。そして父親が見せる権威主義的な部分を、ことごとく否定したとす
る。「私の父は、まちがっている」と。

このばあい、あなたの父親は、あなたに、反面教師として、権威主義の愚かさを教えていること
になる。

 しかし反面教師が近くにいる間は、それはそれでよい。あなたは父親に反発しながら、一応、
(自分)というものをもちつづけることができる。

 が、その父親がなくなったとする。あるいは、別れて住むようになったとする。つまりその時点
で、あなたは反面教師としての父親を失ったことになる。そのとき、あなたは、多分、こう思うだ
ろう。

 「長い間、権威主義の愚かさを身近で見てきたから、私は、権威主義者にはならない」と。

 ところが、である。反面教師を失った人は、あたかもつっかい棒をなくしたかのように、今度
は、急速に、その反面教師のようになっていく。親子、兄弟、親類のように、親密度が高い人ほ
ど、そうなっていく。

 なぜか。

 あなたは父親という反面教師を批判しながら、その一方で、父親のもつシャドウ(ユング)を引
きついでしまうからである。同じような例は少なくない。

 たとえばあなたがAさんのある部分を、「いやだ」「嫌いだ」と思っていたとする。自分では、そ
れに反発しているつもりなのだが、いつの間にか、そのいやな部分、嫌いな部分を、引きつい
でしまうことがある。話し方や、しぐさの中に、ふと気がつくと、自分の中にAさんそっくりの部分
があることを知って、驚く。

 親子、兄弟、親類であればなおさらである。しかも近くで、いっしょに住んでいれば、さらに強
く、その影響を受ける。

 なぜか。

 理由は、簡単である。あなたは、たとえば父親を反面教師として批判しながらも、その一方
で、(自分)をつくるということしなかったからである。もっとわかりやすく言うと、これは、批評家
についても言えることだが、批評するだけでは、ものごとは、足りないということ。

 批評するならするで、その一方で、「では、どうあるべきか」という答を常に、用意しなければ
ならない。もっと言えば、二階の屋根へあがった人に対して、ハシゴをはずすのは、簡単なこと
である。しかしもっと重要なことは、どうすれば二階の屋根にあがった人を、下へおろしてやる
ことができるかを考えること。それを忘れると、批評は、ただの批評で終わってしまう。

 同じように、ある特定の人、(このばあいは、あなたの父親ということになるが)、その人を反
面教師にするだけでは、足りないということ。

 父親の権威主義を批判するならするで、他方で、それにかわる、それ以上に確固たる(主
義)を自分の中でつくらなければならない。それがないと、結局は、自分自身も、その反面教師
のようになってしまう。もしあなたの父親が権威主義的なものの考え方をする人なら、あなた自
身も、いつか、その権威主義的なものの考え方をするようになる。

 その危険性はきわめて高い。

 が、悲しいことに、本人自身が、それに気づくことは、まず、ない。それに気づくのは、周囲の
人たちである。あるいはひょっとしたら、あなたの子どもかもしれない。いつか、あなたという親
を見ながら、あなたの子どもは、こう言う。
 
 「お父さん、あなたは権威主義者だ!」と。

 繰りかえすが、人を批判するのは、簡単なこと。しかし自分の中に、(それ以上のもの)をつく
ることは、むずかしい。もしあなたの近くに、あなたにとって反面教師と言えるような人がいた
ら、いつもこのことを念頭に置くとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 反面
教師 シャドウ)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●音楽を聴かない人

++++++++++++++

驚いた。
世の中には、音楽が嫌いという
人もいる。

そのため「音楽など、聴いたことが
ない」と。

ついでに「映画も見ない」と。

「ビデオは?」と聞くと、
「ビデオなんか見ていると、頭が
痛くなる」と。

+++++++++++++++

 Eさん(55歳くらい、女性)は、昔から、一風、変わった人だとは思っていた。かなりジコチュー
で、その上、多弁。いつも自分の言いたいことだけを一方的に言って、それでおしまい。人間的
な深みというか、中身が感じられなかった。

 知識だけは、豊富で、何かを聞くと、あれこれとペラペとしゃべる。それはそれでよいのだが、
少し前、会って話を聞くと、こんなことを言った。「私は、音楽が嫌い」と。「歌も嫌い」と。

 「ビデオは見るの?」と聞くと、「ビデオを見ていると、頭が痛くなるから、見ない」と。

 そう言えば、Eさんの家には、いろいろなものが飾ってある。が、芸術を感じさせるようなもの
(?)は、まったくない。絵にしても、昔から、値段で決めるようなところがある。「この絵は○万
円」「あの絵は○万円」というような言い方をする。「ヘエ〜」と驚いたところで、つぎの言葉が出
てこなかった。

 そう言えば、こんなことを話してくれたアメリカ人がいた。長い間、アメリカの高校で、先生をし
ていた人で、そのときは、市内のある高校で、英語を教えていた。いわく、

 「ヒロシ、日本の中学の野球部は、おかしい」と。

私「どんなところを見て、そう思うのか?」
ア「朝も、夕方も、それに毎日、野球ばかりしている」
私「アメリカでは、どうなのか?」
ア「アメリカにも野球部があるが、たとえば週に1、2度は、映画鑑賞をしたり、絵を描いたりし
ている。音楽会に行くこともある。野球だけ、という指導はしない。もしそんなことをしたら、PTA
から抗議される」と。

 つまりクラブを中心として、ほかの活動も、幅広くしているということらしい。

 今、頭の中で、Eさんと、そのアメリカ人の言ったことが、ダブる。人間が人間として、心豊か
になるためには、音楽も聴き、美術も鑑賞し、映画も見なければならないということ。でないと、
どこか、「?」な人間になってしまう。

 が、ここで問題が起きる。その人が、「?」かどうか、その人自身が、それに気がつくことがな
いということ。「私は私」と思いこんでしまっている。ウラを返して言うと、私や、あなた自身も、そ
の「?」な人かもしれないということ。その可能性は高い。

 この問題だけは、あくまでも相対的なもの。心の広い人には、際限がない。上には上がいる。
もちろん、その反対に、下には下がいる。

 たまたまそんなことを考えているとき、ワイフが、オーストラリアの雑誌を私に見せてくれた。
先日、うちに泊まっていったオーストラリア人のだれかが、置いていったものだ。それを見て、
ワイフは、こう言った。「まるで夢の中みたいね」と。

 南オーストラリア州の南東に、マウント・ガンビアという不思議な湖がある。私は、そこへ2
度、行ったことがある。が、湖の美しさもさることながら、山からみおろす家々の庭に、馬がい
たのには、驚いた。

 馬は、放し飼いだった。

 その雑誌の中にも、そういう写真が、何枚かあった。それを見て、ワイフが、こう言った。「本
当に、豊かな生活というのは、こういう生活を言うのね」と。

 そのオーストラリアだが、国民1人あたりの所得では、日本よりはるかに低い。シンガポール
にさえ、負けている。しかしだれも、オーストラリア人の生活が、日本人より低いとは思っていな
い。シンガポール人より低いとは思っていない。あるとき、オーストラリアの友人(大学講師)に
それを話すと、彼は、ポツリとこう言った。

 「それがどうした?」と。つまり、「そんなことで、勝った、負けたは、決まらない」と。

 その国の、そこに住む人たちの生活の豊かさというのは、もっと別の尺度で、計られなけれ
ばならない。その豊かさのひとつが、ここでいう(心の広さ)ということになる。お金やモノではな
い。(心の広さ)ということになる。

 で、その(心の広さ)は、たとえば音楽を聴いたり、楽しんだり、あるいは絵画や芸術を鑑賞す
ることで、養われる。冒頭に書いたEさんだけを見てそう判断するのは、危険なことかもしれな
い。しかしEさんの言ったことが、あまりにも「?」だったので、ここにそれを記録しておくことにす
る。

 ホント!

 「?」だから、音楽を嫌うのか。それとも、音楽を嫌ったので、「?」になったのか。しかしそれ
にしても、音楽が嫌いな人が世の中にいることを知って、驚いた。本当に驚いた。


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●反面教師

++++++++++++++

昨日、反面教師について書いた。
同じようなテーマで書いた原稿があった。

++++++++++++++

 反面教師という言葉がある。できの悪い教師をもった生徒が、そのできの悪さを見ながらか
えって成長するということをいったものだが、これはそのまま「親」にも当てはまる。

いろいろな親がいたが、その中でもとくに印象に残っているのが、K君(高1)だった。彼は現役
で医学部に推薦入学で入ったほどの能力をもっていたが、あとでK君の家を見て驚いた。家と
いっても、駐車場の奥の一室だけ。ベニヤ板で二つに分けただけの部屋だった。しかも母親は
いない。父親はアル中で、毎晩のように酒を飲み、ときにはK君に暴力を振るっていたという。

 こういう極端な例は少ないとしても、あなたの身のまわりにも、似たような話はあるはずだ。た
とえばH君。彼は中学を卒業するころ、父親とおおげんか。そのまま家出。12年間ほど音信が
なかったが、その12年目のこと。一級建築士の免許をとって実家へ帰ってきたという。

大検で高卒の資格をとり、鉄工場に勤めながら免許を取得した。その彼の父親も、とても「親」
と言えるような親ではなかった。もう1人の娘がいたが、娘の貯金通帳を盗み、勝手にお金を
引き出してしまったこともある。

 K君もH君も、こうした親をもったがゆえに、それをバネとして前に伸びたわけだが、だからと
いってそういう環境が好ましいということにはならない。第1、皆が皆、伸びるわけではない。失
敗する可能性のほうが、はるかに高い。

それに「教師」と言いながら、反面教師をもったがために、心に大きなキズをのこすこともある。
ふつう不安定な家庭環境に育つと、子どもの情緒は不安定になり、それが転じて、いろいろな
神経症を引き起こすことが知られている。

ひどくなると、それが情緒障害や精神障害になることもある。私も「温かい家庭」へのあこがれ
は強いものの、実際のところそれがどういうものか、よく知らなかった。戦後の混乱期のこと
で、私の親にしても食べていくだけで精一杯。家族旅行など、小学6年生になるまで、一度しか
なかった。

その上私の父はアル中で、数日おきに酒を飲んで暴れた。そのためか今でも、何か心配ごと
が重なったりすると、極度の不安状態になったりする。しかしこういうことは、本来あってはいけ
ない。また子どもにそういうキズをつけてはいけない。たとえそれでその子どもが、俗にいう「立
派な子ども」になったとしても、だ。

 もう1つこんな例もある。高校生のとき、古文の教師の声が小さく、聞き取ることができなかっ
た。それで古文の勉強は、自分ですることにした。結果、私はほとんどの古文を全集で読みき
るほどまで古文が好きになった。そういう反面教師もいる。

これはあくまでも余談だが……。


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●母親が一番保守的?

++++++++++++++++

教育の世界には、いろいろな謎
がある。

これもその1つ。

かなり進歩的な考え方をする親
でも、こと子どもの教育となると
保守的。

どうしてだろう?

+++++++++++++++++

 本来、地位や名誉、肩書きとは無縁のはずの、いわゆるステイ・アト・ホーム・ワイフ(専業主
婦)、略してSAHWが、一番保守的というのは、実に皮肉なことだ。

この母親たちが、もっとも肩書きや地位にこだわる。子供向けの同じワークブックでも、4色刷
りの豪華なカバーで、「○○大学××教授監修」と書かれたものほど、よく売れる。中身はほと
んど関係ない。中身はほとんど見ない。見ても、ぱっと見た目の編集部分だけ。子どものレベ
ルで、子どもの立場で見る母親は、まずいない。たいていの親は、つぎのような基準でワーク
ブックを選ぶ。

(1)信用のおける出版社かどうか……大手の出版社なら安心する。
(2)権威はどうか……大学の教授名などがあれば安心する。
(3)見た目の印象はどうか……デザイン、体裁がよいワークブックは子どもにやりやすいと思
う。
(4)レベルはどうか……パラパラとめくってみて、レベルが高ければ高いほど、密度がこけれ
ばこいほど、よいと考える。中にはぎっしりと文字がつまったワークブックほど、割安と考える親
もいる。

 しかしこういうことは大手の出版社では、すでにすべて計算ずみ。親たちの心理を知り尽くし
た上で、ワークブックを制作する。が、ここに書いた(1)〜(4)がすべて、ウソであるから恐ろし
い。大手の出版社ほど、制作は下請け会社のプロダクションに任す。そしてほとんど内容がで
きあがったところで、適当な教授さがしをし、その教授の名前を載せる。

この世界には、肩書きや地位を切り売りしても、みじんも恥じないようなインチキ教授はいくら
でもいる。出版社にしても、ほしいのは、その教授の「力」ではなく、「肩書き」なのだ。

 今でもときどき、テカテカの紙で、鉛筆では文字も書けないようなワークブックをときどき見か
ける。また問題がぎっしりとつまっていて、計算はおろか、式すら書けないワークブックも多い。
さらにおとなが考えてもわからないような難解な問題ばかりのワークブックもある。見た目には
よいかもしれないが、こういうワークブックを子どもに押しつけて、「うちの子はどうして勉強しな
いのかしら」は、ない。

 私も長い間、ワークブックの制作にかかわってきたが、結論はひとつ。かなり進歩的と思わ
れる親でも、こと子どもの教育となると、保守的。むしろ進歩的であることを、「そうは言っても
ですねエ……」とはねのけてしまう。しかしこの母親たちが変わらないかぎり、日本の教育は変
わらない。


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●父親は母親がつくる

+++++++++++++++++

父親と母親は、高度な次元で平等である。
「高度な」というのは、たがいに高めあって、
という意味である。

子どもの前では、父親、母親の批判、悪口は
タブーと考えてよい。

+++++++++++++++++

 こう書くと、すぐ「男尊女卑思想だ」と言う人がいる。しかしもしあなたという読者が、男性な
ら、私は反対のことを書く。

 あなたが母親なら、父親をたてる。そして子どもに向かっては、「あなたのお父さんはすばらし
い人よ」「お父さんは私たちのために、仕事を一生懸命にしてくれているのよ」と言う。そういう
語りかけがあってはじめて、子どもは自分の中に父親像をつくることができる。もちろんあなた
が父親なら、反対に母親をたてる。「平等」というのは、互いに高次元な立場で認めあうことを
いう。まちがっても、互いをけなしてはいけない。中に、こんなことを言う母親がいる。

 「あなたのお父さんの稼ぎが悪いから、お母さん(私)は苦労するのよ」とか、「お父さんは会
社で、ただの倉庫番よ」とか。母親としては子どもを自分の味方にしたいがためにそう言うのか
もしれないが、言えば言ったで、子どもはやがて親の指示に従わなくなる。

そうでなくてもむずかしいのが、子育て。父親と母親の心がバラバラで、どうして子育てができ
るというのか。こんな子どもがいた。

男を男とも思わないというか、頭から男をバカにしている女の子(小4)だった。M子という名前
だった。相手が男とみると、とたんに、「あんたはダメね」式の言葉をはくのだ。男まさりというよ
り、男そのものを軽蔑していた。もちろんおとなの男もである。

そこでそれとなく聞いてみると、母親はある宗教団体の幹部、学校でもPTAの副会長をしてい
た。一方父親は、地元のタクシー会社に勤めていたが、同じ宗教団体の中では、「末端」と呼
ばれるただの信徒だった。どこかぼーっとした、風采のあがらない人だった。そういった関係が
そのまま家族の中でも反映されていたらしい。

 で、それから20年あまり。その女の子のうわさを聞いたが、何度見合いをしても、結婚には
至らないという。まわりの人の意見では、「Mさんは、きつい人だから」とのこと。私はそれを聞
いて、「なるほど」と思った。「あのMさんに合う夫をさがすのは、むずかしいだろうな」とも。

 子どもはあなたという親を見ながら、自分の親像をつくる。だから今、夫婦というのがどういう
ものなのか。父親や母親というのがどういうものなのか、それをはっきりと子どもに示しておか
ねばならない。示すだけでは足りない。子どもの心に染み込ませておかねばならない。そういう
意味で、父親は母親をたて、母親は父親をたてる。


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●知識はメッキ

++++++++++++++++

知識を過信してはいけない。
知識というのは、いわばメッキの
ようなもの。

それがあれば便利だが、しかし
知識イコール、思考力ではない。

++++++++++++++++

 私も法律の勉強を、5年間もした。私にとっては、おもしろくない勉強だった。いくつかの資格
はとったが、卒業後、その資格を生かしたことはただの1度もない。で、それから30年。同窓
会に出て、法曹の道に進んだ仲間と話しても、会話がうまくかみあわない。つまりそれだけ「法
律」とは遠ざかってしまったということ。専門用語を忘れてしまったということもある。

では、私の法律の勉強がムダだったのかというと、そうでもない。ものの考え方というか、論理
的に思考を積み重ねていくクセだけは残った。反対によく雑誌などで他人の教育論を読んだり
するが、ときどきあまりの論理性のなさに、驚くことがある。中には感情論だけで教育論を組み
たてている人がいる。つまりそういうことがわかるということは、やはり私が法律の勉強をした
ためとみてよい。

 あのアインシュタイン(1879〜1955、ドイツの物理学者)は、こう言っている。

『教育とは、学校で習ったことをすべて忘れ去ったあとに残っているものをいう』(「教育につい
て」)と。

学校で習ったことを忘れたからといって、教育がムダだったということにはならない。むしろ「忘
れる」ことを理由に、教育を否定する人のほうが、問題だ。……と言っても、知識教育をそのま
ま肯定することもできない。知識そのものは、生きるための武器であり、ないよりはあったほう
がよい。

しかし知識が多いからといって、アインシュタインが言うところの、「あとに残っているもの」にな
るとは限らない。大切なのは、その中身であり、思考プロセスということになる。

 こうした前提で、子どもの教育を考えると、教育がどうあるべきかがわかってくる。たとえばこ
んなことがある。

中学生に教えているとき、その子どもがもっている能力のほんの少し先の問題を出してみる
と、ただ「できない」「わからない」「まだ習ってない」とこぼし、自分では考えようともしない子ども
がいる。が、反対にあちこちテキストを見ながら、調べ始める子どもいる。

この時点で重要なことは、「その問題が解ける、解けない」ということではない。「解くためにど
のような思考プロセスを働かすか」ということである。もちろん「できない」とこぼす子どもより、
調べだす子どものほうがすばらしい。またそういう方向に子どもを導くのが、教育ということにな
る。

 教えられてできるようになるのが、知識教育。しかしそれで得た知識は、メッキのようなもの。
時間がたてば、必ずはげる。しかし思考プロセスは残る。残ってあらゆる場面で、それが働くよ
うになる。

たとえば私のことだが、先に書いたように、いつもものごとを論理的に考えるクセだけは残っ
た。こういった文章を書くについても、あいまいな言い方だけはしていないつもりである。あいま
いなことは書かないというよりも、書く前に筆を止めてしまう。自分なりに結論が出た部分のみ
を書くようにしている。それが私が学生時代に受けた「教育」ということになる。


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●今朝・あれこれ(10月23日)

+++++++++++++++++

昨夜から、雨。今朝も、小雨。肌寒い
風が、かえって心地よい。

昨日は、長男と、10〜2キロ近く、
散歩した。いろいろ話した。いろいろ
話してくれた。

いつだったか、長男が生まれたあとのこと。
まだ赤ん坊のままの顔を見ながら、
「こいつといつか、人生を語りあう
ようになるのだろうか?」と思ったこと
がある。

長男と語りあいながら、別の
心で、ふと、それを思い出した。

長男も、すっかり、おとなになっていた。

……おかげで、今朝は、ふとももが、
だるい……。

+++++++++++++++++

 父親というのは、自分の息子が、いつ自分を超えるか、いつもそれを気にしているものなの
か。私のばあいは、今まで、ずっと、そうだった。

 昨日(22日)、久しぶりに、長男と2人だけで、散歩した。往復、10〜12キロは歩いただろう
か。あちこちに寄り道をしたから、もっと歩いたかもしれない。そんなとき、長男が、ふと、「ぼく
は、ときどき、ぼくがどこにいるかわからないときがある」と、弱音を吐いた。私は、それを聞い
て、親として、率直に、それをわびた。

 長男が、そうなったのは、すべて私に原因がある。

 私には、満足な父親像すらなかった。父親像がないまま、長男をもうけ、育てた。当時の私や
ワイフを、助けてくれる人は、ひとりもいなかった。無我夢中だった。何がなんだか、わけがわ
からないまま、毎日が過ぎていった。長男が、そういう私たちをどんなふうに感じていたか、私
には、知る由もなかった。

私「ぼくは、父に抱かれたことすら、なかった」
長「……」
私「おかしな家庭でね」
長「……」
私「父は、酒を飲んで、暴れてばかりいた」
長「……」と。

 私はそういう父をうらんだ。憎んだこともある。しかしやがて、当時の父の苦しみというか、さ
みしさを理解できるようになった。父は父で、必死だった。

 直接的には、出征先の台湾で、貫通銃創を受けたことがある。今でいう、PTSD(ストレス障
害)に苦しんでいたのかもしれない。しかしそれ以上に、父自身の子ども時代に、その原因が
あった。

 私の祖父(銀吾)と、祖母(たま)は、いわゆる(できちゃった婚)だったらしい。祖父には、別
に、結婚を約束していた女性がいた。が、祖父は、根っからの遊び人で、その遊んでいる最中
に、子ども、つまり私の父を、もうけてしまった。

 そういう意味では、父は不幸な人だった。祖父は、父が生まれてからも、家には寄りつかず、
ずっと、愛人、つまり元婚約者の家に入りびたりになっていた。そこで幼い父の仕事(?)といえ
ば、その愛人の家の近くに行って、その家に向かって石を投げることだったという。

 私の祖母が、父にそれをさせていた。

 私の父自身が、(父親像)を知らないまま、育った。だから私という息子を、抱くことさえしなか
った。私の母は、「父ちゃんは、結核だったから」とよく言ったが、父が私を抱かなかった理由
は、もうひとつ別にある。それについては、まだ母が健在だから、ここには書けない。

 ともかくも、私の祖父から私の父、そして私を経て、私の長男に、その陰が、流れとしてつづ
いている。私は、長い時間をかけて、それを私の長男に話した。

私「お前が、今、苦しんでいるのは、いわゆる基本的不信関係というのだよ。心理学の教科書
にも載っている言葉だから、一度、自分で調べてみるといい」
長「それが、ぼくを苦しめているのか?」
私「そうだよ。だから(自分のしたいこと)と、(していること)が、いつもくいちがってしまう。お前
も、アイデンティティという言葉を聞いたことがあるだろ」
長「ある……」と。

 長男は、子どものころから、自分をさらけ出すことができないタイプの子どもだった。いつも
(いい子)でいようとしていた。(いい子)でいることで、自分を支えていた。

私「お前がペルソナ、つまりね、仮面をかぶっているということは、ぼくも、よく知っていた。だか
らあるときから、いろいろ努力はしてみたよ。しかし気がついたときには、手遅れだった」
長「手遅れ?」
私「そうだ。基本的信頼関係ができるかどうかは、0〜2歳期の問題だからね。絶対的な(さら
け出し)と、絶対的な(受け入れ)。この2つが基盤にあって、その上に、親子の信頼関係が生
まれる」
長「……」

私「その時期に、お前は、その(さらけ出し)ができなかった。『絶対的』というのは、『疑いすらも
たない』という意味だよ」
長「じゃあ、ぼくは、どうすればいい? ぼくは、バラバラになったままなのか」
私「いいや。お前も、そろそろそれに気づく年齢になってきた。今までのお前では理解できなか
ったかもしれないが、これからは理解できる」
長「じゃあ、どうすればいい?」
私「自分がそういう人間であることに気づけばいい。あとは、時間が解決してくれる」と。

 私も、それに気づいたのは、35歳も過ぎてからだった。それまでの私は、(自)と(己)が、バ
ラバラだった。何をしたいか、何をすべきか、それがわからなかった。自分がどこにいるかさえ
わからなかった。

 しかし自分の過去を冷静にみることによって、やがて自分というものが、おぼろげながらにも
わかるようになった。私は、それを長男に説明した。

私「それがアイデンティティ、つまりね、自己の同一性ということになるんだよ」
長「ぼくにできるかなあ」
私「できるとも。お前は、まだ30歳だ。ぼくが気づいたときよりも、5年も早い。あとは時間が解
決してくれる。1年とか2年とかでは無理だけど、5年とか10年とかいう年月をかけてね」
長「……」

私「お前はお前であればいい。居なおるんだよ。いい人間に見せようとする必要はない。ある
がままの自分をさらけ出して生きるんだよ」
長「ぼくも、それは感じている。無理をすれば、疲れてしまう」
私「そう。いつか、オレはオレだあって、空に向かって叫べるようになったとき、お前は今の問
題を、空のかなたに向かって、吹き飛ばすことができるよ」
長「パパ、いつか、ぼくも、いい父親になれるだろうか。ぼくは、パパがもっている、流れを、ぼく
の代で断ち切りたい」
私「お前は、いい父親になれるよ。今度は、ぼくがお前のそばについていてやるから。心配す
るな」と。

 途中で、何でもカメラを構えて、写真をとった。コスモスが、秋のそよ風に吹かれて、ゆらゆら
と揺れていた。アゼリアも、ダリアも、ゆらゆらと揺れていた。

 途中で、「帰ろうか」「うん」と声をかけあうとき、長男は時計をのぞいた。私ものぞいた。1時
間半近くも歩いていた。「何か食べたいか?」と聞くと、長男は、「コンビニのハンバーガーでい
い」と答えた。私たちは、白く乾いた大通りに出て、コンビニに足を向けた。

 父親というのは、自分の息子が、いつ自分を超えるか、それをいつも気にしているものなの
か。先を歩く長男の背中を見ながら、私は、長男が、すっかり私を超えているのを知った。

++++++++++++++++

信頼関係について書いた原稿を
いくつか添付します。

++++++++++++++++

●信頼関係

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用していくこと
ができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での信
頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本と
なる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●不安なあなたへ

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらっ
た。「うちの子(小3男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、
サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲
気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいな
い。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不
安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗
り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性
ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。
私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなか
った。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなけ
ればいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事
先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と
言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒
ぎ。「車なら、3時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、4時間か5時間。途中で食事をして
も、6時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速
道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジ
リジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着い
たよ」と。朝方、出発して、何と、10時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いたけ
ど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなかっ
たか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一周!
 ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手
にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間
を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそ
こらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着
く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。こ
の埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

●親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
●何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
●しかしその友だちとは、仲がよい。
●そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
●が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
●そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学3年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と
言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子
どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そん
なわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過
干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。
子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のば
あいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあっ
てほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の
子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってし
まうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、
今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そ
もそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによっ
て、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りない
ことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ど
も自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示
を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発
するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないと
しても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できる
ことと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょう
ずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということにな
る。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で
勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごく
ふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健
康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに
感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」は
そうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題というこ
とになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手
を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という言葉が
ある。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるの
は、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限
定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなけれ
ばならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(21歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもりが、
3年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることすら、忘
れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、25歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。
が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」
だったという。週に2、3度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらしい。
いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほしく
ないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見
えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題
が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決す
るのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよ
い。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たと
えば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶり
をしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないの
と同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止した
りしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう
友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親
の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子
ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうである
ように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ
親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のこと
で考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いち
いち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなた
はそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義
の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか
押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、
このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。
何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(30
歳)について、こう言った母親(50歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんて
さみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取ら
れた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子ど
もを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということにな
る。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親
子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子
でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは
母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母
は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が23
歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出
て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にた
たき落とされてしまった。そのあと、私は、10年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職業
をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生き
ている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実で
ある。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい
仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子
は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルド
タウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うの
というのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のお
もしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。また
そこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、5、60年先には、この世界から消えて
なくなる。子どもだって、100年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょに、
ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる問題
から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけでは
すまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかし
その子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子
だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信か
ら、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、
一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別
として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、
「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行
型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえ
ば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな(わだかまり)があった
ことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるので
はないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自
身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性が
あります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができな
かったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、
形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的
な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味
です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、
園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこか
いい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないから
です。さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の
子どもすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信
頼関係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子ど
もに対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなりま
す。子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味
で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうと
いうのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に
心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」という
ことになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問
題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育て
については黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めま
す。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用
います。

まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を知るとい
うことです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づかないま
ま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうことをする
のかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、
やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさら
に、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、
不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっ
ているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あな
たが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当
にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌ってい
るのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断して
いるのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせ
まいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験で
すが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然
ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そ
のものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好き
になります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけ
は言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児につ
いては、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一
度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一
度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ど
も自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしか
ならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなもので
す。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係と
いうわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、そ
れはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉でき
ても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。
たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうか
ということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利
はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとし
ても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断し
て、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うち
の子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っている
と、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思って
いると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自
分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますま
す悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰り
かえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみて
みてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁に
もつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何か
につけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい
嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、た
がいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていません
か。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになりま
す。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面ま
で、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪
い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと
信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えま
す。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、
それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られていま
す。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろま
ずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれ
ませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになりま
す。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからの
ことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてき
ます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そう
いう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすれ
ばするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前
の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だち
とつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」と
か呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1)相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子
ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと
喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(2)あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」「あ
なたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子ども
はあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼をど
こかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を裏切
りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(3)「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟り
の境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不
思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まりま
す。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんな
はずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの
子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもある
かもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、
わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(030516)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1615)

●1973年

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今日、Eマガの読者が、1973人に
なった。

そこで1973年。

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 1973年……この年に起きた大きな事件と言えば、韓国の金大中が、東京の飯田橋のホテ
ル・グランドパレスから、5人組の男に、拉致されたことがある(8月8日)。私は直後、韓国のK
CIAの犯行と直感した。たてつづけに、何通も、抗議の電報を、韓国大使館あてに打った。

 不愉快な事件だった。そのあといろいろあって、時の総理大臣は、日本国の誇りをかなぐり
捨てて、この事件について、政治決着をしてしまった。正義を犠牲にして、はっきり言えば、(マ
ネー)を選んだ。

 ほかにパブロ・ピカソ死去(4月8日)、ソ連の超音速旅客機墜落(6月)、アルゼンチンで、ペ
ロン大統領、18年ぶりに返り咲く(9月)、第一次石油危機始まる(10月)、江崎玲於奈氏のノ
ーベル賞受賞(12月)などなど。

 1973年には、私は浜松に住んでいた。今のワイフと結婚していた。ワイフといっしょに、駅
前にあった電報局へ電報を打ちに行ったのを覚えている。もちろん韓国大使館へ、である。つ
まり何かのできごとと、そのときの自分の様子を見ながら、「ああ、あのときが、1973年だった
のか」と、思い出す。

 が、このほかに、とくに思い当たることはない。当時の私は、まさに(仕事の虫)。毎日、何か
に追い立てられるように、仕事ばかりしていた。

 幼稚園で働くかたわら、代筆、翻訳、テレビ番組の企画、予備校の講師、家庭教師、貿易、
貿易代行など。自分でも、よくそこまで働いたと思うほど、よく働いた。1か月に、休みが1日くら
いしかなかったのを覚えている。

 そういう点では、お金は稼いだ。当時、M物産に同期で入社した社員の給料が、10万円にな
ったという話を聞いたとき、何だ、たったそれだけかと思ったことも覚えている。カタログ1枚、
英語に翻訳すると、2〜3万円を手にすることができた。本を1冊、代筆すると、50〜70万円
になった。

 また、当時、日本テレビに11PMとか、NET(当時)にアフターヌーンショーとかいう番組があ
った。ほかに『3時のあなた』という番組もあった。そうした番組の企画料だけでも、毎週(テレ
ビ局の企画制作料は週払いになっていた)、4〜5万円、もらっていた。今のワイフを、ときどき
スタジオの中へ連れていってやったこともある。(11PMも、アフターヌーンショーも、当時は、
すべて生番組だった。)

 が、その一方で、お金もよく使った。今のワイフと、遊んでばかりいた。ついでに私は毎週の
ように外国へでかけていった。当時、日本と香港の往復航空運賃は、11万円弱だったが、私
には、何でもなかった。

 貿易の手伝いをするかたわら、香港で上海製の医療機器を買ってきて、日本へもってくると、
それが数倍の値段で売れた。英語を話せる人は、少なかった。貿易の知識のある人は、さら
に少なかった。あのYAMAHA(ヤマハ)ですら、単独では、まだ輸出入をするノウハウをもって
いなかった。三井物産の名古屋支店が統括していた。(そのあと、しばらくして、貿易部ができ
たが……。)

 東洋医学に興味をもったのもこのころ。『ニューズウィーク』という雑誌に、中国でのハリ麻酔
の記事が載ったのが、きっかけだった。台北工科大学の張という名前の先生が、毎週、台湾
からやってきて、東京の青山にある厚生年金会館というところで、東洋医学の講義をした。

 受講料は、当時のお金で、30万円近くであった。大金だったが、うまくスポンサーを見つけ
て、助けてもらった。私とワイフは、毎週、土曜日の夕方は、その講義を受けるため、上京し
た。で、いつも泊まるホテルは、ホテル・ニューオータニか、帝国ホテルと決めていた。今、思い
出しても、それ以外のホテルには、泊まった記憶がない。

 それに、あるタレント・ドクターが、リンカーンのコンチネンタルを貸してくれたこともある。ふつ
うのバスほどの長さもある、大きな真っ白な車である。もちろん運転手つき。私は、それで東京
と浜松を、何度も往復した。

 当時の私は、そういう人間だった。つまり、何というか、成り金趣味というか、おのぼりさん的
というか、そういうことをしながら、人生を楽しんでいた。

 が、肝心の幼稚園での給料は、たったの2万円。しかし幼稚園での仕事は、私にとっては、
お金が目的ではない。私の生きがいになっていた。2万円でも、楽しい仕事は、楽しい。100
万円でも、いやな仕事は、いや。

 まあ、今にして思えば、「もう少し、まじめに基礎を作っておけばよかったかな」と思う。が、貯
金は、ほとんど考えなかった。ときどき郷里から母がやってきて、そのつど、私からごっそりと
お金をもって帰っていった。

 そうそうそんなころ、アメリカからリンという、中国系のアメリカ人がわざわざ私をたずねてき
て、「今度、東京に、プレイグラウンドをつくる。ついては、君が副園長をしないか」という話がも
ちかけられた。

 私は、断った。しかしそれがのちに、あのディズニーランドのことだとは、知らなかった。私は
当時、日本のあちこちにある、遊園地を想像していた。直接的には、浜松市の郊外にある、
「P」という名前の遊園地を想像していた。「M物産をやめて、遊園地の園長なんかになれる
か!」という、おかしなプライドもあった。「サラリーマンだけは、こりごり」という思いもあった。

 そういう生活だから、一度だけだが、銀行で働き始めた友人を見たとき、その友人が、バカ
に見えた(失礼!)。「何で、自分の人生を、こんなところで浪費するのだろう」と。もっとも、多
分、当時の常識からして、その友人から見れば、私がバカに見えたことだろう。当時は、まだ、
風来坊(今でいうフリーター)を認める社会にはなっていなかった。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【私論】

++++++++++++++++

3年前に書いた原稿を読みなおす。

「私」とは何か、もう一度、それに
ついて、書いてみたい。

++++++++++++++++

●基底不安

 家庭という形が、まだない時代だった。少なくとも、戦後生まれの私には、そうだった。今でこ
そ、「家族旅行」などいうのは、当たり前の言葉になったが、私の時代には、それすらなかっ
た。記憶にあるかぎり、私の家族がいっしょに旅行にでかけたのは、ただの一度だけ。伊勢参
りがそれだった。が、その伊勢参りにしても、夕方になって父が酒を飲んで暴れたため、私た
ちは夜中に、家に帰ってきてしまった。

 私はそんなわけで、子どものころから、温かい家庭に飢えていた。同時に、家にいても、いつ
も不安でならなかった。自分の落ちつく場所(部屋)すら、なかった。

 ……ということで、私は、どこかふつうでない幼児期、少年期を過ごすことになった。たとえば
私は、父に、ただの一度も抱かれたことがない。母が抱かせなかった。父が結核をわずらって
いたこともある。しかしそれ以上に、父と母の関係は、完全に冷えていた。そんな私だが、かろ
うじてゆがまなかった(?)のは、祖父母と同居していたからにほかならない。祖父が私にとっ
ては、父親がわりのようなところがあった。

 心理学の世界には、「基底不安」という言葉がある。生まれながらにして、不安が基底になっ
ていて、そのためさまざまな症状を示すことをいう。絶対的な安心感があって、子どもの心とい
うのは、はぐくまれる。しかし何らかの理由で、その安心感がゆらぐと、それ以後、「不安」が基
本になった生活態度になる。たとえば心を開くことができなくなる、人との信頼関係が結べなく
なる、など。私のばあいも、そうだった。

●ウソつきだった私

 よく私は子どものころ、「浩司は、商人の子だからな」と、言われた。つまり私は、そう言われ
るほど、愛想がよかった。その場で波長をあわせ、相手に応じて、自分を変えることができた。
「よく気がつく子だ」「おもしろい子だ」と言われたのを、記憶のどこかで覚えている。笑わせじょ
うずで、口も達者だった。当然、ウソもよくついた。

 もともと商人は、ウソのかたまりと思ってよい。とくに私の郷里のM市は、大阪商人の影響を
強く受けた土地柄である。ものの売買でも、「値段」など、あってないようなもの。たがいのかけ
引きで、値段が決まった。

客「これ、いくらになる?」
店「そうですね、いつも世話になっているから、一〇〇〇円でどう?」
客「じゃあ、二つで、一五〇〇円でどう?」
店「きついねえ。二つで、一八〇〇円。まあ、いいでしょう。それでうちも仕入れ値だよ」と。

 実際には、仕入れ値は、五〇〇円。二個売って、八〇〇円のもうけとなる。こうしたかけ引き
は、日常茶飯事というより、すべてがその「かけ引き」の中で動いていた。商売だけではなく、
近所づきあい、親戚づきあい、そして親子関係も、である。

 もっとも、私がそういう「ウソの体質」に気づいたのは、郷里のM市を離れてからのことであ
る。学生時代を過ごした金沢でも、そして留学時代を過ごしたオーストラリアでも、この種のウ
ソは、まったく通用しなかった。通用しないばかりか、それによって、私はみなに、嫌われた。

さらに、この浜松でも、そうだ。距離にして、郷里から、数百キロしか離れていないのに、たとえ
ばこの浜松では、「かけ引き」というのをまったくしない。この浜松に住んで、三〇年以上になる
が、私は、客が店先で値段のかけ引きをしているのを、見たことがない。

 私はウソつきだった。それはまさに病的なウソつきと言ってもよい。私は自分を飾り、相手を
楽しませるために、よくウソをついた。しかし誤解しないでほしいのは、決して相手をだますた
めにウソをついたのではないということ。金銭関係にしても、私は生涯において、モノやお金を
借りたことは、ただの一度もない。いや、一度だけ、一〇円玉を借りたが、それは緊急の電話
代だった。

●防衛機制

 こうした心理状態を、「防衛機制」といってよいのかどうかは知らない。自分の身のまわりに、
自分にとって居心地のよい世界をつくり、その結果として、自分の心を防衛する。自分の心が
崩壊するのを防ぐ。私によく似た例としては、施設児がいる。生後まもなくから施設などに預け
られ、親子の相互愛着に欠けた子どもをいう。このタイプの子どもも、愛想がよくなることが知
られている。

 一方、親の愛情をたっぷりと受けて育ったような子どもは、どこかどっしりとしていて、態度が
大きい。ふてぶてしい。これは犬もそうで、愛犬家のもとで、ていねいに育てられたような犬は、
番犬になる。しかしそうでない犬は、だれにでもシッポを振り、番犬にならない。私は、そういう
意味では、番犬にならない人間だった。

 ほかに私の特徴としては、子どものころから、忠誠心がほとんどないことがある。その場、そ
の場で、相手に合わせてしまうため、結果として、ほかのだれかを裏切ることになる。そのとき
は気づかなかったが、今から思い出すと、そういう場面は、よくあった。だから学生時代、ある
時期、あのヤクザの世界に、あこがれたのを覚えている。映画の中で、義理だ、人情だなどと
言っているのを見たとき、自分にない感覚であっただけに、新鮮な感じがした。

 が、もっとも大きな特徴は、そういう自分でありながら、決して、他人には、心を許さなかった
ということ。表面的には、ヘラヘラと、ときにはセカセカとうまくつきあうことはできたが、その
実、いつも相手を疑っていた。そのため、相手と、信頼関係を結ぶことができなかった。いつも
心のどこかで、「損得」を考えて行動していた。しかしこのことも、当時の私が、知る由もないこ
とであった。私は、自分のそういう面を、母を通して、知った。

●母の影響

 私の母も、よくウソをついた。(ウソといっても、繰りかえすが、他人をだますためのウソでは
ない。誤解のないように!)で、ある日、私の中に「ウソの体質」があるのは、母の影響だという
ことがわかった。が、それだけではなかった。私の母は、私という息子にさえ、心を開くことをし
ない。詳しくは書けないが、八〇歳をすぎた今でも、私やワイフの前で、自分を飾り、自分をご
まかしている。そういう母を見たとき、母が、以前の私そっくりなのを知った。つまりそういう母を
通して、過去の自分を知った。

 が、そういう私という夫をもつことで、一番苦しんだのは、私のワイフである。私たちは、何と
なく結婚したという、そういうような結婚のし方をした。まさにハプニング的な結婚という感じであ
る。電撃に打たれるような衝撃を感じて結婚したというのではない。そのためか、私たちは、当
初から、夫婦というよりは、どこか友だち的な夫婦だった。いつもいっしょにいた。いっしょに行
動した。

 そういうこともあって、私は、ワイフと、夫婦でありながら、信頼関係をつくることができなかっ
た。「この女性が、私のそばにいるのは、私がお金を稼ぐからだ」「この女性は、もし私に生活
力がなければ、いつでも私から去っていくだろう」と、そんなふうに考えていた。同時に、私は嫉
妬(しっと)深く、猜疑心(さいぎしん)が強かった。町内会の男たちとワイフが、親しげに話して
いるのを見ただけで、頭にカーッと血がのぼるのを感じたこともある。

 まるで他人のような夫婦。当時を振りかえってみると、そんな感じもする。それだけに皮肉な
ことだが、新鮮といえば、新鮮な感じがした。おかげで、結婚後、五年たっても、一〇年たって
も、新婚当初のままのような夫婦生活をつづけることができた。これは男女のどういう心理によ
るものかは知らないが、事実、そうであった。

 が、そういう自分に気づくときがやってきた。私は幸運(?)にも、幼児教育を一方でしてき
た。その流れの中で、子どもの心理を勉強するようになった。私はいつしか、自分の子ども時
代によく似ている子どもを、さがすようになった。と、言っても、これは決して、簡単なことではな
い。

●自分をさがす

 「自分を知る」……これは、たいへんむずかしいことである。何か特別な事情でもないかぎ
り、実際には、不可能ではないか。どの人も、自分のことを知っているつもりで、実は知らな
い。私はここで「自分の子ども時代によく似ている子ども」と書いたが、本当のところ、それはわ
からない。無数の子どもの中から、「そうではないか?」と思う子どもを選び、さらにその子ども
の中から共通点をさがしだし、つぎの子どもを求めていく……。こうした作業を、これまた無数
に繰りかえす。

 手がかりがないわけではない。

 私は毎日、真っ暗になるまで、外で遊んでいた。
 私は毎日、家には、まっすぐ帰らなかった。
 私は休みごとに、母の実家のある、I村に行くのが何よりも楽しみだった。

 こうした事実から、私は、帰宅拒否児であったことがわかる。

 私は泣くと、いつもそのあとシャックリをしていた。
 静かな議論が苦手で、喧嘩(けんか)になると、すぐ興奮状態になった。
 私は喧嘩をすると、相手の家の奥までおいかけていって、相手をたたいた。

 こうした事実から、私は、かんしゃく発作のもち主か、興奮性の強い子どもであったことがわ
かる。

 私はいつも母のフトンか、祖父母のフトンの中にもぐりこんで寝ていた。
 町内の旅行先で、母のうしろ姿を追いかけていたのを覚えている。
 従兄弟(いとこ)たちと寝るときも、こわくてひとりで、寝られなかった。

 こうした事実から、私は分離不安のもち主だったことがわかる。

 ……こうした事実を積み重ねながら、「自分」を発見する。そしてそうした「自分」に似た子ども
をさがす。そしてそういう子どもがいたら、なぜ、その子どもがそうなったかを、さぐってみる。印
象に残っている子ども(年長男児)に、T君という男の子がいた。
 
●T君

 T君は、いつも祖母につられて、私の教室にやってきた。どこかの病院では、自閉症と診断さ
れたというが、私はそうではないと思った。こきざみな多動性はあったが、それは家庭不和など
からくる、落ち着きなさであった。脳の機能障害によるものなら、たとえばADHD児であれば、
子どもの気分で、静かになったり、あるいはおとなしくなったりはしない。T君は、私がうまくのせ
ると、ほかの子どもたちと同じように、ゲラゲラと笑ったり、あるいは気が向くと、静かにプリント
学習に取りくんだりした。

 そのT君の祖母からいつも、こんなことを言われていた。「母親が会いにきても、絶対に会わ
せないでほしい」と。その少し前、T君の両親は、離婚していた。が、その日が、やってきた。

 まずT君の母親の姉がやってきて、こう言った。「妹(T君の母親)に、授業を参観させてほし
い」と。私は祖母との約束があったので、それを断った。断りながら、姉を廊下のほうへ、押し
出した。私はそこにT君の母親が泣き崩れてかがんでいるのを見た。私はつらかったが、どう
しようもなかった。T君が母親の姿を見たら、T君は、もっと動揺しただろう。そのころ、T君は、
やっと静かな落ち着きを取りもどしつつあった。

 T君が病院で、自閉症と誤診されたのは、T君に、それらしい症状がいくつかあったことによ
る。決して病院を責めているのではない。短時間で、正確な診断をすることは、むずかしい。こ
うした心の問題は、長い時間をかけて、子どもの様子を観察しながら診断するのがよい。しか
し一方、私には、その診断する権限がない。診断名を口にすることすら、許されない。私はT君
の祖母には、「自閉症ではないと思います」ということしか、言えなかった。

●T君の中の私

 T君は、暴力的行為を、極度に恐れた。私は、よくしゃもじをもって、子どもたちのまわりを歩
く。背中のまがっている子どもを、ピタンとたたくためである。決して痛くはないし、体罰という体
罰でもない。

 しかしT君は、私がそのしゃもじをもちあげただけで、おびえた。そのおびえ方が、異常だっ
た。私がしゃもじをもっただけで、体を震わせ、興奮状態になった。そして私から体をそらし、手
をバタつかせた。私が「T君、君はいい子だから、たたかないよ。心配しなくてもいいよ」となだ
めても、状態は同じだった。一度、そうなると、手がつかられない。私はしゃもじを手から離し、
それをT君から見えないところに隠した。

 こういうのを「恐怖症」という。私は、T君を観察しながら、私にも、似たような恐怖症があるの
を知った。

 私は子どものころ、夕日が嫌いだった。赤い夕日を見ると、こわかった。
 私は子どものころ、酒のにおいが嫌いだった。酒臭い、小便も嫌いだった。
 私は毎晩、父の暴力を恐れていた。

 私の父は、私が五歳くらいになるころから、アルコール中毒になり、数晩おきに近くの酒屋で
酒を飲んできては、暴れた。ふだんは静かな人だったが、酒を飲むと、人が変わった。そして
食卓のある部屋で暴れたり、大声で叫びながら、近所を歩きまわったりした。私と姉は、その
たびに、家の中を逃げまわった。

●フラシュバック

 そんなわけで今でも、ときどき、あのころの恐怖が、もどってくることがある。一度、とくに強烈
に覚えているのは、私が六歳のときではなかったかと思う。姉もその夜のことをよく覚えてい
て、「浩ちゃん、あれは、あんたが六歳のときよ」と教えてくれた。

 私は父の暴力を恐れて、二階の一番奥にある、物干し台に姉と二人で隠れた。そこへ母が
逃げてきた。が、階下から父が、「T子(=母の名)! T子!」と呼ぶ声がしたとき、母だけ、別
のところへ逃げてしまった。

 そこには私と姉だけになってしまった。私は姉に抱かれると、「姉ちゃん、こわいよ、姉ちゃ
ん、こわいよ」と声を震わせた。

 やがて父は私たちが隠れている隣の部屋までやってきた。そして怒鳴り散らしながら、また
別の部屋に行き、また戻ってきた。怒鳴り声と、はげしい足音。そしてそのつど、バリバリと家
具をこわす音。私は声をあげることもできず、声を震わせて泣いた……。

 声を震わせた……今でも、ときどきあの夜のことを思い出すと、そのままあの夜の状態にな
る。そういうときワイフが横にいて、「あなた、何でもないのよ」と、なだめて私を抱いてくれる。
私は年がいもなく、ワイフの乳房に口をあて、それを無心で吸う。そうして吸いながら、気分を
やすめる。

 数年前、そのことを姉に話すと、姉は笑ってこう言った。「そんなの気のせいよ」「昔のことでし
ょ」「忘れなさいよ」と。残念ながら、姉には、「心の病気」についての理解は、ほとんどない。な
いから、私が受けた心のキズの深さが理解できない。

●ふるさと

 私にとって、そんなわけで、「ふるさと」という言葉には、ほかの人とは異なった響きがある。ど
こかの学校へ行くと、「郷土を愛する」とか何とか書いてあることがあるが、私は、心のどこか
で、「それができなくて苦しんでいる人もいる」と思ってしまう。

 私はいつからか、M市を出ることだけしか考えなくなった。M市というより、実家から逃げるこ
とばかりを考えるようになった。今でも、つまり五五歳という年齢になっても、あのM市にもどる
というだけでも、ゾーッとした恐怖感がつのる。実際には、盆暮れに帰るとき、M市に近づくと、
心臓の鼓動がはげしくなる。四〇歳代のころよりは、多少落ちついてはきたが、その状態はほ
とんど変わっていない。

 しかし無神経な従兄弟(いとこ)というのは、どこにでもいる。先日もあれこれ電話をしてきた。
「浩司君、君が、あの林家の跡取りになるんだから、墓の世話は君がするんだよ」と言ってき
た。しかし私自身は、死んでも、あの墓には入りたくない。M市に葬られるのもいやだが、あの
家族の中にもどるのは、もっといやだ。私は、あの家に生まれ育ったため、自分のプライドす
ら、ズタズタにされた。

 私が今でも、夕日が嫌いなのは、その時刻になると、いつも父が酒を飲んで、フラフラと通り
を歩いていたからだ。学校から帰ってくるときも、そのあたりで、何だかんだと理由をつけて、
友だちと別れた。ほかの時代ならともかくも、私にとってもっとも大切な時期に、そうだった。

●自分を知る

 そういう自分に気づき、そういう自分と戦い、そういう自分を克服する。私にはずっと大きなテ
ーマだった。しかし自分の心のキズに気づくのは、容易なことではない。心のキズのことを、心
理学の世界では、トラウマ(心的外傷)という。仮に心にキズがあっても、それ自体が心である
ため、そのキズには気づかない。

それはサングラスのようなものではないか。青いサングラスでも、ずっとかけたままだと、サン
グラスをかけていることすら忘れてしまう。サングラスをかけていても、赤は、それなりに赤に見
えてくる。黄色も、それなりに黄色に見えてくる。

 たとえば私は子どものころ、頭にカーッと血がのぼると、よく破滅的なことを考えた。すべてを
破壊してしまいたいような衝動にかられたこともある。こうした衝動性は、自分の心の内部から
発生するため、どこからが自分の意思で、どこから先が、自分の意思でないのか、それがわか
らない。あるいはすべてが自分の意思だと思ってしまう。

 あるいは自分の思っていることを伝えるとき、ときとして興奮状態になり、落ちついて話せなく
なることがあった。一番よく覚えているのは、中学二年になり、生徒会長に立候補したときのこ
と。壇上へあがって演説を始めたとたん、何がなんだか、わからなくなってしまった。そのとき
は、「あがり性」と思ったが、そんな簡単なものではなかった。頭の中が混乱してしまい、口だけ
が勝手に動いた。

 私がほかの人たちと違うということを発見したのは、やはり結婚してからではないか。ワイフと
いう一人の人間を、至近距離で見ることによって、自分という人間を逆に、浮かびあがらせるこ
とができた。そういう点では、私のワイフは、きわめて常識的な女性だった。情緒は、私よりは
るかに安定していた。精神力も強い。たとえば結婚して、もう三〇年以上になるが、私はいまだ
かって、ワイフが自分を取り乱して、ワーワーと泣いたり、叫んだりしたのを、見たことがない。

 一方、私は、よく泣いたり、叫んだりした。情緒も不安定で、何かあると、すぐふさいだり、落
ちこんだりする。精神力も弱い。すぐくじけたり、いらだったりする。私はそういう自分を知りな
がら、他人も似たようなものだと思っていた。少なくとも、私が身近で知る人間は、私によく似て
いた。祖母も、父も、母も、姉も。だから私が、ほかの人と違うなどというのは、思ったことはな
い。違っていても、それは「誤差」の範囲だと思っていた。

●衝撃

 ふつうだと思っていた自分は、実は、ふつうではなかった。……もっとも、私は、他人から見
れば、ごくうつうの人間に見えたと思う。幸いなことにというか、心の中がどうであれ、人前で
は、私は自分で自分をコントロールすることができた。たとえばいくらワイフと言い争っていて
も、電話がかかってきたりすると、その瞬間、ごくふつうの状態で、その電話に出ることができ
た。

 そう、自分がふつうでないことを知るのは、衝撃的なことだ。私の中に、別の他人がいる……
というほど、大げさなことではないが、それに近いといってもよい。自分であって、自分でない部
分である。それが自分の中にある! そのことは、子どもたちを見ているとわかる。

 ひがみやすい子ども、いじけやすい子ども、つっぱりやすい子どもなど。いろいろな子どもが
いる。そういう子どもは、自分で自分の意思を決定しているつもりでいるかもしれないが、本当
のところは、自分でない自分にコントロールされている。そういう子どもを見ていると、「では、私
はどうなのか?」という疑問にぶつかる。

 この時点で、私も含めて、たいていの人は、「私は私」「私はだいじょうぶ」と思う。しかしそう
は言い切れない。言い切れないことは、子どもたちを見ていれば、わかる。それぞれの子ども
は、それぞれの問題をかかえ、その問題が、その子どもたちを、裏から操っている。たとえば
分離不安の子どもがいる。親の姿が見えなくなると、ギャーッとものすごい声を張りあげて、あ
とを追いかけたりする。先にあげた、T君も、その一人だ。

 その分離不安の子どもは、なぜそうなるのか。また自分で、なぜそうしているかという自覚は
あるのか。さらにその子どもがおとなになったとき、その後遺症はないのか、などなど。

●なぜ自分を知るか

 ここまで書いて、ワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「あなたは自分を知れと言うけど、知
ったところで、それがどうなの?」と。

 自分を知ることで、少なくとも、不完全な自分を正すことができる。人間の行動というのは、一
見、複雑に見えるが、その実、同じようなパターンの繰りかえし。その繰りかえしが、こわい。本
来なら、「思考」が、そのパターンをコントロールするが、その思考が働く前に、同じパターンを
繰りかえしてしまう。もっとわかりやすく言えば、人間は、ほとんどの行動を、ほとんど何も考え
ることなしに、繰りかえす。

 そのパターンを裏から操るのが、ここでいう「自分であって、自分でない部分」ということにな
る。よい例が、子どもを虐待する親である。

●子どもを虐待する親

 子どもを虐待する親と話していて不思議だなと思うのは、そうして話している間は、そういう親
でも、ごくふつうの親であるということ。とくに変わったことはない。ない、というより、むしろ、子
どものことを、深く考えている。もちろん虐待についての認識もある。「虐待は悪いことだ」とも
言う。しかしその瞬間になると、その行動をコントロールできなくなるという。

 ある母親(三〇歳)は、子ども(小一)が、服のソデをつかんだだけで、その子どもをはり倒し
ていた。その衝撃で、子どもは倒れ、カベに頭を打つ。そして泣き叫ぶ。そのとたん、その母親
は、自分のしたことに気づき、あわてて子どもを抱きかかえる。

 その母親は、私のところに相談にきた。数回、話しあってみたが、理由がわからなかった。し
かし三度目のカウンセリングで、母親は、自分の過去を話し始めた。それによるとこうだった。

 その母親は、高校を卒業すると同時に、一人の男性と交際を始めた。しばらくはうまく(?)い
ったが、そのうち、その母親は、その男性が、自分のタイプでないことに気づいた。それで遠ざ
かろうとした。が、とたん、相手の男性は、今でいうストーカー行為を繰りかえすようになった。

 執拗(しつよう)なストーカー行為だった。で、数年がすぎた。が、その状態は、変わらなかっ
た。本来なら、その母親はその男性と、結婚などすべきではなかった。しかしその母親は、心
のやさしい女性だった。「結婚を断れば、実家の親たちに迷惑がかかるかもしれない」というこ
とで、結婚してしまった。

 「味気ない結婚でした」と、その母親は言った。そこで「子どもができれば、その味気なさから
解放されるだろう」ということで、子どもをもうけた。それがその子どもだった。

 このケースでは、夫との大きなわだかまりが、虐待の原因だった。子どもが母親のソデをつ
かんだとき、その母親は、無意識のうちにも、結婚前の心の様子を、再現していた。

●だれでも、キズはある

 だれでも、キズの一つや二つはある。キズのない人は、いない。だから問題は、キズがあるこ
とではなく、そのキズに気づかないまま、そのキズに振りまわされること。そして同じ失敗を繰り
かえすこと。これがこわい。

 そのためにも、自分を知る。自分が、いつ、どのような形で、今の自分になったかを知る。知
ることにより、その失敗から解放される。

 ここにあげた母親も、しばらくしてから私のほうから電話をすると、こう話してくれた。「そのと
きはショックでしたが、そこを原点にして、立ちなおることができました」と。

 しかし自分を知ることには、もう一つの重要な意味がある。

●真の自由を求めて

 自分の中から、自分でないものを取り去ることによって、その人は、真の自由を手に入れる
ことができる。別の言葉で言うと、自分の中に、自分でない部分がある間は、その人は、真の
自由人ということにはならない。

 たとえば本能で考えてみる。わかりやすい。

 今、目の前にたいへんすてきな女性がいる。(あなたが女性なら、男性ということになる。)そ
の女性と、肌をすりあわせたら、どんなに気持ちがよいだろうと、あなたは頭の中で想像する。

 ……そのときだ。あなたは本能によって、心を奪われ、その本能によって行動していることに
なる。極端な言い方をすれば、その瞬間、本能の奴隷(どれい)になっていることになる。(だか
らといって、本能を否定しているのではない。誤解のないように!)

 人間の行動は、こうした本能にかぎらず、そのほとんどが、実は、「私は私」と思いつつ、結局
は、私でないものに操られている。一日の行動を見ても、それがわかる。

 家事をする。仕事をする。育児をする。すべての行為が何らかの形で、私であって私でない
部分によって、操られている。ショッピングセンターで、値ごろなスーツを買い求めるような行為
にしても、もろもろの情報に操られているといってもよい。もっともそういう行為は、生活の一部
であり、問題とすべきではない。

 問題は、「思想」である。思想面でこそ、あらゆる束縛から解放されたとき、その人は、真の
自由を、手に入れることになる。少し飛躍した結論に聞こえるかもしれないが、その第一歩が、
「自分を知る」ということになる。

●自分を知る

 私は私なのか。本当に、私と言えるのか。どこからどこまでが本当の私であり、どこから先
が、私であって私でない部分なのか。

 私は嫉妬深い。その嫉妬にしても、それは本当に私なのか。あるいはもっと別の何かによっ
て、動かされているだけなのか。今、私はこうして「私」論を書いている。自分では自分で考えて
書いているつもりだが、ひょっとしたら、もっと別の力に動かされているだけではないのか。

 もともと私はさみしがり屋だ。人といるとわずらわしく感ずるくせに、そうかといって、ひとりで
いることができない。ショーペンハウエルの「ヤマアラシの話」※は、どこかで書いた。私は、そ
のヤマアラシに似ている。まさにヤマアラシそのものと言ってもよい。となると、私はいつ、その
ようなヤマアラシになったのか。今、こうして「私」論を書いていることについても、自分の孤独
をまぎらわすためではないのか。またこうして書くことによって、その孤独をまぎらわすことがで
きるのか。

 自分を知るということは、本当にむずかしい。しかしそれをしないで、その人は、真の自由を
手に入れることはできない。それが、私の、ここまでの結論ということになる。

●私とは……

 私は、今も戦っている。私の体や心を取り巻く、無数のクサリと戦っている。好むと好まざると
にかかわらず、過去のわだかまりや、しがらみを引きずっている。そしてそういう過去が、これ
また無数に積み重なって、今の私がある。

 その私に少しでも近づくために、この「私」論を書いてみた。
(030304)(06−10−24改)

※ショーペンハウエルの「ヤマアラシの話」……寒い夜だった。二匹のヤマアラシは、たがいに
寄り添って、体を温めようとした。しかしくっつきすぎると、たがいのハリで相手の体を傷つけて
しまう。しかし離れすぎると、体が温まらない。そこで二匹のヤマアラシは、一晩中、つかず離
れずを繰りかえしながら、ほどよいところで、体を温めあった。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1616)

●シャルロット・チャーチ

++++++++++++++

このとこと、ヒマさえあれば、
音楽を聴いてばかりいる。

私の携帯電話(ウィルコム004SH)
には、何百曲も、曲が入っている。

++++++++++++++

 このところ、ヒマさえあれば、音楽ばかり聞いている。音楽中毒に陥(おちい)ったようである。
音が聞こえていないと、何となく、もの足りない。先ほど、ジョン・デンバーの曲と、日本の民謡
集(中部編)を、携帯電話に転送したところ。パソコン上で、ドラグするだけで、簡単に転送でき
る。

 映画音楽は、第1集から第4集まで、曲目数にすれば、100曲以上、すべて転送した。何度
も聞くのが、何といっても、『ベン・ハー』。ほかに『アラビアのロレンス』『ウエストサイド・ストーリ
ー』『サウンド・オブ・ミュージック』など。最近のでは、『ブレイブ・ハート』『タイタニック』『アポロ1
3』も、よく聞く。

 クラシックでは、フォーレの『レクイエム』。そのほかオーストラリアのブッシュ・ソング(カントリ
ーソング)などなど。タッチペンでタッチするだけで、簡単に曲を選べる。この手軽さが、たまら
ない。

 シャルロット・チャーチの歌もよい。「♪夜とともに、私は眠る。そのとき、一四人のエンジェル
が、私を見守る。二人が、私の頭の上で、私を守り、二人が、私の足を案内し、二人が、私の
右手を導き、二人が、私の左手を導き……」(When at night I go to sleep)と。

++++++++++++++++++

そのシャルロット・チャーチについて
書いた原稿を思い出しましたので、
ここに添付します。

++++++++++++++++++

●山荘ライフ

 窓をいっぱいにあける。
 空気を、胸いっぱいに吸いこむ。
 そして、シャルロット・チャーチのアルバムを聞く。
 以前、NHKでシャルロットが紹介されたとき、
 声がすてきだったので、それで買った。
 
 しばらく聞いてなかったが、オーストラリアのB君が、
先日、「もっているなら、聞いたら?」と言ってくれた。
 彼は、敬虔(けいけん)な、クリスチャンだ。

 その中でも、私が好きなのが、この曲。 
 「I vow to Thee, My Country」(わが郷土よ、我はあなたにひざまずく)

 「♪わが郷土よ、我はあなたにひざまずく。
  その上にある、ありとあらゆるものを、
  すべての完ぺきなものを、そして愛の営みを……」

 私はこの曲が、好きだ。
 一度聞き始めると、何度も繰りかえし聞く。
 山荘の前に広がる山々の雰囲気、そのものと言ってもよい。
 
 ……ときどきシャルロットの清らかな声が、
 オーケストラに負けそうになる。
 が、シャルロットは、懸命に、
 空に向かって、声をはりあげる。
 そのかけあい(?)が、すばらしい。
 人間が生きる「力」そのものを、感ずる。

 「♪もうひとつの郷土があると、私は、昔、聞いた。
  それを愛するものに、親愛であれ。
  それを知るものに、偉大であれ……」

 若い女性なのに、ここまで歌うとは!
ここまで哲学のある歌を歌いこなせるとは!
 その違和感が、まったくない。  
 その力量が、ただただ、すばらしい。
  
 「♪汝に向かう敵はなし。
  汝を支配する王はなし。
  汝の要塞は、信仰深い心。
  そして人の魂から魂へと、
  汝の輝く絆は太くなり、
  汝の道は、やさしさへの道。 
  そしてすべての道は、やすらぎへとつづく……」

 何曲か曲がつづいたあと、今度は、
 「Amazing Grace」※になった。
 何と、日本語に訳したらよいのだろうか。
 「驚くべき優雅さ」では、まったく感じがつかめない。
「神の優しさ」とでも、訳すのだろうか。
 アメリカでは、第二国歌のようにもなっているというが、
 「アメージング・グレイス」として、
 そのまま日本でも、よく知られている。
 
……去年、となりの豊橋市で、
 結婚式場を開いた友人がいた。
 その結婚式のオープニング・
 セレモニーに招待されて行ったが、
 そこでも、この曲が披露された。
 チョコレートというより、
 ショコラ・チョコのようなすてきな結婚式場だ。
 私が「おいしそうな感じがしますね」と言うと、
 支配人のS氏は、うれしそうに笑った。
 今、シャルロットの曲を聞きながら、
 それを思い出した……。

 空はどんよりと曇り、
 風はない。
 すべてが、死んだように
 静まりかえっている。
 どこか肌寒い風が、
 心地よい。

 先ほど、ワイフが私を呼んだ。
 何か用があるようだ。
 最後の一曲を聞き終わったら、
 行くつもり。

 ……今、そのアルバム、最後の曲。
 『When at Night, I go to sleep』
 (夜とともに、私は眠る)

 「♪夜とともに、私は眠る。そのとき、
  一四人のエンジェルが、私を見守る。
  二人が、私の頭の上で、私を守り、
  二人が、私の足を案内し、
  二人が、私の右手を導き、
  二人が、私の左手を導き、
  二人が、暖かく私を包み、
  二人が、さまよう私を導き、
  二人が、そのとき、私を、
  天国へと、導く……。」

 この曲は、臨終を迎えたとき、自分で歌う歌らしい?
曲が終わったとき、
 外では、ウグイスが、鳴いていた。

 ……今日の私は、何となくクリスチャンになったような気分がする。
 神々しい気分になるのは、決して悪いことではない。
 心が、そのまま洗われるような、そんな感じがする。
 それに死んだとき、一四人もの天使が迎えにきてくれたら、
 きっと、さみしさも消えるだろう。

 しかし、残念ながら、私には、天使はやってこない。
 私はもともと、それに値する人間ではない。
 それに、だいたいにおいて、私はクリスチャンではない。
 が、今だけは、アーメン! みなさんにも、安らぎを!
(030719)

【シャーロット・グレイ】

 シャルロット・チャーチと同じ名前の映画に、『シャーロット・グレイ』というのがある。(読み方
で、シャルロットにもなるし、シャーロットにもなる。)最近ビデオ化された、ユニバーサル映画だ
が、この映画は、まさに★★★★★(五つ星)!

 思いっきり感動してみたい人には、お薦め。とにかくよい映画だった。最後のシーンでは、思
わず、涙がポロポロとこぼれた。(ボロボロかな?)「私はあなたに伝えたいことがある……」
と。このつづきは、どうかビデオのほうを、見てほしい。映画『タイタニック』に、まさるとも劣らな
い映画……と、私は思う。

 そう、映画のオープニングは、マリー・ローランサンの絵画を思わせる、夢のように美しいシ
ーンから始まる。(私は一時期、ローランサンが好きで、リトグラフを、何枚か買い集めたことが
ある。)それでよけいに釘づけになってしまった。……やはりここから先は、ビデオのほうを見て
ほしい。

※……アメージング・グレイス

Amazing grace, how sweet the sound
That saved a wretch like me
I once was lost, but now am found 
Was blind, but now I see
'Twas grace that taught my heart to fear
And grace my fears relieved
How precious did that grace appear
The hour I first believed
Through many dangers, toils, and snares
I have already come
'Tis grace has brought me safe thus far
And grace will lead me home
The lord has promised good to me
His word my hope secures
He will my shield and portion be
As long as life endures

アメージング・グレイス……何とやさしい言葉か。
みじめな私を、その言葉が救ってくれた。
私はかつて道に迷ったが、今、それを見つけた。
私はかつて、暗闇にさまよったが、今は見る。
それが神のやさしさだった。それが私の心に恐れを教え、
そしてその言葉が、その恐れから私を救った。
何と、やさしさの尊いことよ。
あぶないこともあった。苦労もあった。誘惑もあった。
それをとおして、はじめてその言葉を信じたとき、
神のやさしさが、ここまで私を守ってくれた。
主は、私に、善なるものを約束した。
彼の言葉が、私の希望をたしかなものにした。
私の人生がつづくかぎり、神が私を守り、
私の苦しみや悲しみを、分けもってくれるだろう。
(訳、はやし浩司)

++++++++++++++++

 そのせいなのか? つまり音楽ばかり聴いているせいなのか、ここ数日、私は、涙もろく、何
を考えても、いとおしく、そしてさみしい。そこに真理があるはずなのに、それがどうしても、つか
めない。手が届かない。

 告白しよう。ときどき、私は、自転車に乗って家路を急ぐとき、天に向かって話しかけるときが
ある。どういうわけか、そういうとき、私は英語を使う。記憶をたどってみると、オーストラリアに
留学時代に身につけたクセらしい。

 たいてい「Father(父よ)……」で、話し始める。つい数日前は、こんなことを話しかけた。

 「Father, listen to me. I am here and talking to you. I've been following you though I've 
never seen you nor felt you beside me. Where are you? And when will you show me the way 
to go? ……(父よ、聞いてほしい。私はここにいて、あなたに話しかけている。私はあなたを見
たことも、近くに感じたこともないけど、ずっと、あなたを追いかけてきた。あなたはどこにいる
のか? そしていつ、あなたは私に進むべき道を見せてくれるのか?……)と。

 私のひとり言のようなものだから、大きな意味はない。しかし「私にとって神とは何か」と聞か
れれば、私は、「天」だと思う。空の「天」である。悲しいかな、人間が見ることができるもっとも
広い世界は、その「天」でしかない。下から見あげる「天」でしかない。

 その「天」にすれば、教会や、その中に飾ってある偶像など、チリかホコリのようなもの。ただ
「天」といっても、昼間の青い空ではない。私にとっての「天」とは、星々が輝く、夜の「天」であ
る。だから私は、青い空に向かって話しかけるということはしない。話しかけるとしても、夜の
「天」である。

 そこに神がいるにせよ、またいないにせよ、その「天」にまさる、広大な空間はない。その広
大さが、私にとっては、「Father(父)」ということになる。そう言えば、若いころから、星々が輝
く、満天の空を見ると、理由もなく、私は、泣いた。回数も減ったが、そのクセ(?)は、今も、残
っている。

 それがここに書いた、天に向かって話しかけるという、他人が見たら、「?」と思うような、どこ
か「?」な習慣になったのだと思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1617)

●水が半分のコップ?

++++++++++++++

ますますわからなくなってきた、
韓国。中立系(?)と思われて
いた朝鮮N報まで、最近、おか
しなことを言い出した。

++++++++++++++

 先に、中国の唐委員と、K国の金xxの会談が行われた。その会談の成果について、唐委員
に同行した武外務次官は、日本のA衆議院運営委員長に対して、こう言ったという。「6か国協
議と、K国の核兵器放棄は、決して楽観できない」(産経新聞)と。

 つまり、K国に対する説得工作は、失敗だった、と。

 それに呼応するかのように、その直後、中国は、矢継ぎ早に、銀行間の取り引きを停止する
などの、金融制裁を実施している。

 が、ひとり韓国だけは、中朝会談直後から、「金xxは、謝罪した」「6か国協議への復帰への
意思表示をした」「(金xxが、金日成の遺訓だから)、韓半島の非核化を順守するという立場を
明らかにした」(朝鮮N報)などと発表。

 あの金xxが、謝罪した?

 しかしその直後、中国の胡主席と会談した、アメリカのライス国務長官は、「そんな話は、聞
いていない」と否定。つまりこのあたりから、何がなんだか、話がわからなくなってきた。

 わかりやすく言えば、K国側に立って、「会談は成功だった」「アメリカは、柔軟に出るべき」と
主張する韓国。「会談は平行線のままだった」「金融制裁を強化する」と主張するアメリカ。

 会談が、成功した?

 そしてとうとう朝鮮N報は、アメリカの共和党議員の言葉を引用して、こうまで言い出した。「ブ
ッシュ大統領は、北との対話をすべき」と。国連決議にそって、制裁を実施するどころか、「核
実験をするまでK国を追いこんだアメリカのほうが、悪い」と。「北の融和メッセージを無視する
アメリカ」(10月24日)という記事まである。「せっかくK国が折れてきたのに、アメリカは、それ
を無視した」と。

 「?」「?」「?」。

 が、これに驚いてはいけない。さらにこんな社説まで。

 「アメリカは、K国の再実験を期待している」(10月24日)と。

 いわく、「韓元外相は、『アメリカは、K国による2回目の核実験の可能性について懸念という
より、むしろ期待している』と語った」と。

 金xxが、謝罪したという事実は、どうやら、韓国側が勝手に拡大解釈した、デマと断定してよ
い。また「6か国協議に復帰してもよい」という発言には、前提条件がつけられていた。「金融制
裁を解除すれば……」という前提条件である。

 こうした事実のわい曲は、韓国の新聞のお家芸である。例をあげたらキリがない。

 では、実際には、どうだったのか? 金xxは、唐委員に何を、どう言ったのか?

 それについては、ライス国務長官が、「とくに驚くことはなかった」と言ったことからもわかるよ
うに、K国側の発言内容は、従来どおりだったと考えるのが、正しい。もしその会談で、K国側
が柔軟な姿勢を示していたとするなら、まっさきに、中国は、それを「成果」として発表していた
だろう。金融制裁など、しなかったはず。

 が、さらにわからないのが、韓国の「政府当局者」。同じく朝鮮N報は、こう伝えている。じっく
りと読んでみてほしい。

 「韓国政府の当局者は、これを(日米と、中韓の見解が分かれたことについて)、現在のK国
核問題を、どのように見るかという各国の視点の差をそのまま表すものだ。韓国政府の当局
者は、これを水が半分のコップにたとえ、『水が半分もある』という側と、『水が半分しかない』と
いう側の差であるようだと評した」(10月23日)と。

 「水が半分もあるから、K国には、問題がない」と主張する韓国政府当局者、「水が半分しか
ないから、K国には問題がある」と主張するアメリカということか? それとも反対に、「水が半
分もあるから、K国には、問題がある」と主張するアメリカ、「水が半分しかないから、K国には
問題がない」と主張する韓国ということか?

 こうしたあいまいな観念論をもちだすところが、恐ろしい。重大な国際問題を、たくみな言葉
で、煙に巻いている。

 水が半分のコップとは、何をさすのか? 韓国側の主張にそって言えば、「アメリカは、K国と
の直接対話に臨むべきだ。その可能性(=水が半分)があるなら、アメリカも柔軟に応ずるべ
きだ」ということらしい。

 しかし、待った!

 K国のねらいは、最終的には、アメリカとの間に、「相互不可侵条約」を結ぶことである。つま
り「たがいに本土を攻撃されなければ、たがいに手を出さない」という条約である。もしそんな条
約が、米朝間で結ばれた、この日本はどうなるのか? 

 仮にK国が日本を攻撃しても、アメリカはそれに対して、手も足も出せなくなる。つまり日米安
保条約は、その時点で死文化する。同時に、K国は、日本に対して、やりたい放題、言いたい
放題のことができるようになる。

 日本にとっては、まさに死活問題である。そういう死活問題を、日本を無視して話題にするよ
うな韓国は、もはや、日本の同盟国でも、友邦国でもない。(もともと同盟国でも、友邦国でもな
いが……。)韓国イコール、K国と位置づけても、何ら、さしつかえない。

 これに対して、クラウチ・アメリカ大統領副補佐官は、つぎのような声明を発表している。「K国
は、過去の合意を欺いた。直接交渉をすべきだという人もいるが、それはまちがいだと、ブッシ
ュ大統領は信じている」「6か国協議の枠外の2国間交渉には、応じない」(時事通信・10月2
4日)と。

 遅かれ、早かれ、K国は、自滅する。行き着くところまでいって、そこで自滅する。中国や韓
国は、それを恐れているようだが、そのときがくれば、自然とそうなる。その前に、金xxの健康
問題もある。やせ細った体に、異様にふくらんだ腹。それがどんな病気によるものかは、専門
家でなくても、わかる。ここには書けないが、私にも、わかる。

 金xxを、(まともな人)と考えて論じていると、たいへんなことになる。またその発言の一言一
句をあれこれ解釈しあっても、意味はない。今、忘れてならないのは、K国は、たいへんな危険
な国であるということ。それを(現実)として、ものを考えること。

 それにしても、「水が半分のコップ」とは、何? 韓国の政治家も、レベルが低い。本当に、低
い。
(この原稿は、10月24日の朝、書いたものです。みなさんの目に届くときには、極東情勢は大
きく変化しているかもしれません。)

【付記】

 さすがの朝鮮N報も、はしゃぎすぎたことがわかったのか、翌10月24日には、こんな社説を
かかげている。いわく、「金xxに踊らされた、韓国統一部」と。

 つまり踊ったのは、韓国の統一部であって、私たちたちではない、と。

「……こうして、金正日総書記の発言を事態打開の兆しとして期待した、統一部の当局者らは
落胆を隠せなかった。ある当局者は『それほど楽観的な状況でないのは明らかだが、だからと
いってそれほど悲観的な材料ばかりではない』とし、『しかし序盤に一部でやや先走ってしまっ
た感はある』と語った」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1618)

●1977年

+++++++++++++++

今朝(10月25日)、Eマガの
読者が、1977人になった。

そこで、1977年。

+++++++++++++++

1月……J・カーターが、アメリカ大統領に就任する。
2月……スペース・シャトル、ジャンボ機の背中で、初飛行に成功。
3月……スペイン領カナリア諸島で、ジャンボ機どうしが衝突。
4月……山下康裕、史上最年少(19歳)で、柔道日本一になる。
5月……オリエント急行、廃止される。
6月……ブレジネフ、ソ連共産党、最高幹部会議長に選任される。
7月……ニューヨーク、大停電。
8月……宇宙探査機、ボイジャーを打ちあげる。
9月……王貞治、756号目のホームランを打つ。
10月……ルフトハンザ機、乗っ取られる。
11月……映画『未知との遭遇』が、封切られる。
12月……リニア・モーター・カー、日向で、テスト走行開始。

 この年、私は、満30歳になる。その少し前、東京の羽田で飛行機事故に遭遇し、このころ
は、飛行機恐怖症になっていた。それまでは、毎週のように、外国を飛び歩いていた。が、そ
の事故以来、私は、飛行機に乗れなくなってしまった。

事故の1週間後、通訳として、イタリアへ行く仕事があった。が、前々日に、キャンセル。その
直後に、ブラジルへ宝石の買い入れに行く仕事もあった。それもキャンセル。

 偏頭痛がひどくなり、あわや開頭手術!、ということになりかけたのも、30歳のときではなか
ったか。市内のS病院では、脳腫瘍と診断された。

 このころから私の仕事の内容は、大きく変わり始めた。貿易や通訳の仕事をしながら、飛行
機に乗れないというのは、私の仕事にとっては、致命的なことだった。当然、収入は、激減。そ
の前年、私は、現在住んでいる場所に、土地と住居を構えた。が、その費用は、わずか4か月
で稼いだ。

 ワイフが、「こんなところで子ども(長男)を育てたくない」とこぼしたので、自宅を建てることに
した。それが76年の8月ごろ。貯金はほとんどなかったので、それからお金を稼ぎ始めた。私
が生涯において、もっとも猛烈に働いたのは、そのときだった。その4か月の間に、私は、105
0万円(土地代500万円、家代550万円)というお金を作った。

 が、このころの記憶は、それほど鮮明ではない。いつしか、私は、ものを書く仕事や、教える
仕事に専念するようになった。『東洋医学・経穴編』(学研)を書き始めたのも、このころ。

 そうそう、その本に先立って私が書いた『東洋医学・基礎編』(学研)は、そののち、全国の大
学の医学部の教科書になった。当然、全国の鍼灸学校の教科書にもなった。前書きの部分だ
けは、著名な先生に書いてもらったが、残りの部分は、1ページをのぞいて、すべて私が書い
たものである。

 しかしつぎの『東洋医学・経穴編』に手を出したのは、まちがいだった。その本が完成させる
までに、7年という時間を、無駄にしてしまった。

 私は、当初、中国式の取穴法にこだわった。ところが日本経穴委員会のほうは、最後の最後
まで、日本式にこだわった。当時、中国式取穴法と日本式取穴法が、WHOを舞台に、はげし
い勢力争いを繰りかえしていた。日本経穴委員会のほうは、私が書いている本をタタキ台にし
て、日本式取穴法を世界に広めると言い出した。

 それで途中から、今度は、日本式取穴法に、変更。とたん、私は、やる気をなくした。日本式
取穴法は、実用的というよりは、あまりにも杓子(しゃくし)定規的。体の特定の部位を基準に、
そこから寸法だけをたよりに取穴するというものだった。

 「中国式に勝てるわけがない」と思いつつ、重い筆を毎日、握った。それで完成までに、7年も
かかった。原稿用紙だけで、旅行カバン、いっぱい分になった。

 こうして私は30代に突入。感じとしては、嵐のように過ぎ去った20代。腑(ふ)が抜けたよう
におとなしくなった30代。今から思うと、そんな感じがする。

 1977年。「あのジミー・カーターが大統領になった年か……」というだけで、それほど私の印
象に残っていない。

【付記】

 今日も、読者が4人、ふえた。それはそれで、うれしいが、しかしどうして、いつも4人なのだろ
う? ふえるときは、いつも4人。ゼロか4人。どうしてだろう? 

ともかくも、今朝、マガジンの読者になってくれた、4人のみなさん、ありがとう!


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●10月2x日

++++++++++++++++++

私はもうすぐ、満59歳になる。

(生徒たちには、49歳と話しているので、
BWの父母のみなさんは、どうか、よろしく!)

59歳と知って、とくに何かを感ずるという
ことはない。

「ああ、59歳か」と思う程度。

++++++++++++++++++

 昨日、BWの子どもたちに、ふと、「ぼくは、もうすぐ49歳になる。いやだなあ」ともらすと、み
なが、「どうして?」と。

 「あのね、誕生日がくるたびに、先生は、ジジイになっていく。子どものころは、誕生日がくると
うれしかったけど、今はちがう。うれしくない」と。

 するとA君(小1)がこう言った。「ぼくのママは、誕生日がくると、うれしいと言うよ」と。

私「誕生日パーティは、うれしいけど、誕生日がくるのは、うれしくない」
子「どうしてパーティは、うれしいの?」
私「だって、プレゼントがもらえるだろ」
子「そうかあ。そうだね。……先生も、DS(ゲーム機)を、もらうの?」
私「うん、ぼくも、ほしい。先日、買いに行ったら、店にはなかった」
子「J(ショッピングセンター)に行けば、売っているよ」
私「フ〜ン、そうかア」と。

 しかし今年の誕生日プレゼントは、がまん。来年のはじめに、VISTA(新しいOS)が発売に
なる。それをのせたパソコンを買うつもり。今は、情報収集のとき。

 そう言えば、DSもほしい。頭の体操によいらしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1619)

【今朝・あれこれ】(10月25日)

●かぎられた仲間

++++++++++++++++++

友だちは多ければ多いほどいいと、
人はいう。

しかしそれ以上に大切なことは、
少ない友だちでもいい。

深く、深く、そして、静かに、静かに、
つきあうこと。

それがこのところ、よくわかるように
なってきた。

++++++++++++++++++

 最近、私は、関係修復能力というか、「人との関係を修復しよう」という意欲が、急速に薄れて
きたのを、感ずる。「どうでもいいや」という投げやりな気持ちが、強くなったように思う。

 たとえば、AさんならAさんが、私のことを悪く思っていたとする。私も、それを感じたとする。
そういうとき私は、「どうぞ、勝手に」と思ってしまう。「どうとでも、思うがいい」と。

 若いころの私なら、そこに誤解があれば、その誤解を解こうとするかもしれない。これからの
ことを考えて、少しでも、関係をよくしようと考えたかもしれない。が、今は、ちがう。「だからどう
なの……」という気持ちになってしまう。「ここで関係を修復したところで、どうなの」と。相手も、
それを望んでいないだろう。

 が、私のような生き方をしていると、私が望まなくても、向こうから、からんでくることがある。
たとえば私のHPを盗み読みしては、ああでもない、こうでもないと言ってくる。私は、「もう私の
ことはかまわず、放っておいてほしい」と思う。

 が、最近の私は、少し変わってきた。そういう人に対しても、「そうですね」と、平気で言えるよ
うになった。俗に言う、「タヌキ」になったということか。どうせ相手になるような連中ではないし、
また相手にしたところで、しかたない。

 ところで、バカな人からは、利口な人がわからない。(反対に利口な人からは、バカな人がよく
わかるが……。)「バカ」といっても、脳みその働きのことをいうのではない。バカなことをする人
のことを、「バカ」という。

 私の近くにも、こんな人(女性・70歳くらい)がいる。宗教という宗教を、総ナメにしたような人
だが、何かの哲学があって、そうしているのではない。「どんな神様でも仏様でも、まちがってい
るはずはない」(その女性の弁)という理由で、そうしている。つまり、迷信のかたまりのような
人である。

 そういう人が、あれこれ私に説教してくるから、たまらない。狂信的というか、確信的というか
……。(さも、私は、できた人間でございます)という雰囲気で、電話をかけてきたりする。

 こういうとき、恩師の田丸先生なら、「ごちそう様」と言うだろう。しかし私は、先生ほど、口が
悪くない。一応、説教は聞くことにしているが、さらに不愉快なことは、こちらが頼みもしないの
に、その人が属している教団の、指導者が書いた本を送りつけてくること。私の仕事をよく知っ
ていて、教育に関するものが多い。

 私は、そういう本を手にすると、心底、ぞっとする。私自身というより、私の脳みそが、粉々に
分解されていくような恐怖感を覚える。たとえば、「信仰によって、子どもの自閉症は治る」「親
の因果、子にたたる」と書いてある。

 私は、そういう人と議論したくない。時間の無駄。それにその人はその人で、自分の道を行け
ばよい。今さらその人のものの考え方を変えようとしても、また変えたところで、意味はない。

 そんなとき、ふと、こう思う。「どうぞ、ご勝手に」と。

 友だちは多ければ多いほどいいと、人はいう。しかしそれ以上に大切なことは、少ない友だち
でもいい。深く、深く、そして、静かに、静かに、つきあうこと。無駄な交際は、そのまま時間の
無駄につながる。

それがこのところ、よくわかるようになってきた。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

【掲示板への相談より】

●間接虐待

++++++++++++++++++

Sさんという人から、父親の暴力に
ついての相談があった。

私は、それについて、自分の過去を
書いた。私も、子どものころ、父親の
暴力を、見て育っている。

++++++++++++++++++

【Sさんより、はやし浩司へ】

時々、登校拒否を起こす小学2年生の息子について相談させてください。

元夫との関係はDVでした。現在は息子と二人で自分としては息子を笑わせながらそれなりに
愉快に暮らしているつもりです。

ただ時々学校に行けなくなるのが問題です。確かに妊娠中から暴力を受け、かなりの緊張状
態の中に息子はあったと思います。学校にいく直前になるととても緊張し、寝癖や忘れ物など
必要以上に気にします。

どう父親の事を話すのが息子が納得できるのか、またおそらく息子には訳がわからない状態
をどう整理してあげればよいのか、悩みます。

息子が自信をもって学校に行かせる為に今私がなすべき事をよろしくご指導戴きたくお願い申
し上げます。

【はやし浩司より、Sさんへ】

 はげしい夫婦げんかを、私は、「間接虐待」と呼んでいます。当然、子どもの心に深いキズを
残します。

 「私論」(改)を読んでくださり、ありがとうございました。

(「私論」は、前回、マガジンで取りあげましたので、省略します。)


【Sさんより、はやし浩司へ】

社会においては見ないふりをしてしまいがちな心の闇に、道標をつけてくださいましてありがと
うございました。闇の心理に深い洞察と理解を示してくださったこと感謝申し上げます。

暴力的な生活は一掃したつもりでしたが、息子の中に恐怖心が残って、それが息子を時々コ
ントロールしているのだということを今改めて認識することが出来ました。

息子は明るい性格で息子と私の今の笑いの絶えない生活は、普段はなんの問題もないのです
が、いざ学校に行く前になると、異常に神経質になりパンツを何度も取り替えたり、なにかこう
清水の舞台から飛び降りるような一大決心というような状況になります。

幼稚園の頃は甘やかしが原因と先生に言われておりました。しかし一方で私は「さびしいのか
な」とも思い、頭の中はいつも堂々巡りでした。

「恐怖心」というのは思いつきませんでした。息子を背後から操っている者の正体がやっと闇の
中から浮かび上がってきました。暴力の現場がそれほどまでに子供に影響を与えるということ
を認識していませんでした。

それを知るのと知らないのでは大違いです。知らなければ、息子を助けたくて、私自身が迷路
のなかでさまようところでした。

ひょっとすると先生ご自身が傷つく覚悟で、ご経験を聞かせてくださいまして本当にありがとうご
ざいました。先生が私共親子の闇を背負ってくださった現実があるからこそ、見えにくい心の深
部の問題に、明快な指針を戴き私共親子は救われました。


【補記】

●間接虐待

 直接虐待を受けなくても、まわりの騒動が原因で、子どもが、心理的に、虐待を受けたのと同
じ状態になることがある。これを私は、「間接虐待」と呼んでいる。

 たとえばはげしい夫婦げんかを見て、子どもがおびえたとする。「こわいよ」「こわいよ」と泣い
たとする。が、その夫婦には、子どもを虐待したという意識はない。しかし子どもは、その恐怖
感から、虐待を受けたときと同じキズが、心につく。これが間接虐待である。

 というのも、よく誤解されるが、虐待というのは、何も肉体的暴力だけではない。精神的な暴
力も、それに含まれる。言葉の虐待も、その一つである。言いかえると、心理的な苦痛をともな
うようであれば、それが直接的な虐待でなくても、虐待ということになる。

 たとえば、こんな例を考えてみよう。

 ある父親が、アルコール中毒か何かで、数日に1回は、酒を飲んで暴れたとする。食器棚を
押し倒し、妻(子どもの母親)を、殴ったり、蹴ったりしたとする。

 それを見て、子どもが、おびえ、大きな恐怖感を味わったとする。

 このとき、その父親は、直接子どもに暴力を加えなくても、その暴力と同じ心理的な苦痛を与
えたことになる。つまりその子どもに与える影響は、肉体的な虐待と同じということになる。それ
が私がいう、間接虐待である。

 が、問題は、ここにも書いたように、そういう苦痛を子どもに与えながら、その(与えている)と
いう意識が、親にないということ。家庭内騒動にせよ、はげしい夫婦げんかにせよ、親たちは
それを、自分たちだけの問題として、かたづけてしまう。

 しかしそういった騒動が、子どもには、大きな心理的苦痛を与えることがある。そしてその苦
痛が、まさに虐待といえるものであることがある。

 H氏(57歳)の例で考えてみよう。

 H氏の父親は、戦争で貫通銃創(銃弾が体内を通り抜けるようなケガ)を受けた。そのためも
あって、日本へ帰国してからは、毎晩、酒に溺れる日々がつづいた。

 今でいう、PTSD(心的外傷後ストレス症候群)だったかもしれない。H氏の父親は、やがてア
ルコール中毒になり、家の中で暴れるようになった。

 当然、はげしい家庭内騒動が、つづくようになった。食卓をひっくりかえす、障子戸をぶち破
る、戸だなを倒すなどの乱暴を繰りかえした。今なら、離婚ということになったのだろうが、簡単
には離婚できない事情があった。H氏の家庭は、そのあたりでも本家。何人かの親戚が、近く
に住んでいた。

 H氏は、そういうはげしい家庭内騒動を見ながら、心に大きなキズを負った。

 ……といっても、H氏が、そのキズに気がついていたわけではない。心のキズというのは、そ
ういうもの。脳のCPU(中央演算装置)にからんでいるだけに、本人が、それに気づくということ
は、むずかしい。

 しかしH氏には、自分でもどうすることもできない、心の問題があった。不安神経症や、二重
人格性など。とくに二重人格性は、深刻な問題だった。

 ふとしたきっかけで、もう一人の人格になってしまう。しかしH氏のばあい、救われるのは、そ
うした別の人格性Yをもったときも、それを客観的に判断することができたこと。もしそれができ
なければ、まさに二重人格者(障害者)ということになったかもしれない。

 が、なぜ、H氏が、そうなったか? 原因を、H氏の父親の酒乱に結びつけることはできない
が、しかしそれが原因でないとは、だれにも言えない。H氏には、いくつか思い当たる事実があ
った。

 その中でも、H氏がとくに強く覚えているのは、H氏が、6歳のときの夜のことだった。その夜
は、いつもよりも父親が酒を飲んで暴れた。そのときH氏は、5歳年上の姉と、家の物置小屋
に身を隠した。

 その夜のことは、H氏の姉もよく覚えていたという。H氏は、その姉と抱きあいながら、「こわ
い」「こわい」と、泣きあったという。その夜のことについて、H氏は、こう言う。

 「今でも、あの夜のことを思い出すと、体が震えます」と。

 心のキズというのは、そういうもの。キズといっても、肉体的なキズのように形があるわけでは
ない。外から見えるものでもない。しかし何らかの形で、その人の心を裏からあやつる。そして
あやつられるその人は、あやつられていることにすら、気がつかない。そして同じ苦痛を、繰り
かえし味わう。

 間接虐待。ここにも書いたが、この言葉は、私が考えた。

【注意】

 動物愛護団体の世界にも、「間接虐待」という言葉がある。飼っているペットを、庭に放置した
り、病気になっても、適切な措置をとらないことなどをいう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 夫婦
喧嘩 夫婦げんか 間接虐待 夫婦喧嘩という間接虐待 夫婦喧嘩と子供の心理)


+++++++++++++++++

この間接虐待に関連して、同じころ書いた
原稿を1つ、添付します。

+++++++++++++++++

●ある離婚

 昨夜、ハナ(犬)との散歩を終えて、家に入ろうとすると、そこにMさん(女性、41歳)が立って
いた。

 「どうかしましたか?」と、自転車を車庫に入れながら声をかけると、「先生、私、今度、実家
に帰ることにしました」と。

 懸命に笑顔をつくろうとしていたが、どこか苦痛に、その顔は、ゆがんでいた。車のライトを背
に、表情はよく見えなかったが……。

私「やはり、無理ですか……」
M「いろいろ努力はしてみましたが……」
私「お子さんたちは、納得していますか?」
M「まだ、話していませんが、しかたありません」と。

 Mさん夫婦の関係がおかしくなって、もう5年になるだろうか。いつだったか、Mさんの夫が私
にこう言ったことがある。「私たちは、もう形だけの夫婦なんです」と。

 その言葉が、頭の中を横切った。

 Mさんは、東北のY県から、嫁いで、このH市にやってきた。間に、友人のT氏がいて、それで
親しくなった。T氏が、Mさん夫婦の間をとりもった。夫のM氏に、奥さんのMさんを紹介したの
も、T氏だった。

しかしこうした離婚騒動は、1度や2度だけではなかった。そのつど、私は、それに振り回され
た。

私「Tさん(間の友人)に、相談しました?」
M「しても、どうせ、夫の味方をするだけですから……」
私「でも、こういう問題は、したほうがいいと思います」
M「しても、どうせ、ムダですから……」と。

 この5年間で、Mさんには、いろいろあった。育児ノイローゼ、うつ状態などなど。夫のM氏や
T氏が、Mさんを入院させようとしたこともある。しかしMさんは、がんとして、それを拒んだ。

 そんなことを頭の中で思い浮かべていると、Mさんが、あれこれ不平、不満を並べ始めた。

M「先生、Dさんを知っているでしょう? あのDさんが、私に意地悪をします。私が声をかける
と、わざと車のドアをバタンと閉めて、プイとするのです」「私の車に、いたずらをする子どもが
います。近所の子どもなんですが、バックミラーにキズをつけました」などなど。

 Mさんの精神状態は、あまりよくないといったふうだった。こまかいことを気にして、それをお
おげさにとりあげた。

しかし不平や不満を並べるうちは、まだよい。こういうときは聞き役にまわって、Mさんの心の
中にたまった、うっぷんを抜くのがよい。うまくいけば、離婚話をやわらげることができるかもし
れない。

 10分たち、20分がすぎた。Mさんは、立ったまま、私に、よどみなく話しかけてきた。私は、
自転車にもたれかかったまま、Mさんの話を聞いた。が、やはり、話題は、離婚の話にもどっ
た。

私「でも、やはり、お子さんの気持ちを聞いてみなくちゃ?」
M「でも、夫では、子どもを育てることはできません」
私「そう決めてかかってはいけません。お子さんたちが、さみしい思いをするでしょう?」
M「でも、私、こういう都会は、好きではありません。子どもを育てる環境としては、よくありませ
ん」と。

 Mさんは、今にも、私に体を投げ出しそうだった。「ワイフを呼んできますから、いっしょに相
談してみますか?」と言うと、「それは勘弁してください」と。

しかし私には、どうすることもできなかった。両手で自転車のハンドルを握りなおした。

私「やはり、私のほうから、Tさんに相談してみてあげましょうか?」
M「いいです。それは……。もう決めましたから……」
私「決めたって……?」
M「来月、Y県の実家に帰ります」と。

 秋のかわいた風が、何度も、車の流れとともに、間に流れた。私は、「そういうものかなア?」
と思いながら、その場を離れた。Mさんは、本当にそのまま離婚してしまうかもしれないし、ある
いはいつもの夫婦げんかで終わるかもしれない。

 いつか私のワイフは、私にこう言った。「女っていうのはね、離婚するときは、黙って、だれに
も相談せず、離婚するものよ」と。

 私のワイフのように、強い女性は、そうはいない。私も、ワイフとけんかすると、すぐ「離婚して
やる」とは言う。しかし、本気で、離婚を考えたことなどは、一度もない。それは口グセのような
ものかもしれない。あるいは出まかせのようなものかもしれない。自分でも、よくわからないが
……。

 家に入ってから、Mさんのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「そうねえ……。前から思っていたんだけど、私は、離婚したほうがいいと思うわ」と。

 「そういう簡単な話でもないのだがなあ……」と私は思いながら、私は自分の書斎に入った。
T氏に手紙を書き始めた。

【Tさんへ】

 お元気ですか。先日は改築祝いにお招きくださって、ありがとうございました。あれからもう半
年になります。新居の住み具合は、いかかがですか。

 ところで、今夜突然、手紙を書くことにしたのは、実は、あのMさん夫婦のことです。かなり深
刻な、様子です。M氏には、この数か月会っていませんが、ときどき奥さんのMさんが、私のと
ころへやってきます。

 今夜も、やってきました。私が散歩から帰るまで、そこでじっと待っていたようです。で、いつも
の離婚話です。どこまで本気で聞いてよいものやらという思いで、話を聞くだけは、聞いてあげ
ました。

 奥さんのMさんは、Y県へ子どもを連れて帰ると言っています。ご存知のように、こうした夫婦
の問題は、私たちには、どうすることもできません。間に子どもがいれば、なおさらです。しかも
今の状態をみると、「離婚しないほうがいい」とか、「離婚してはだめだ」と言うこともできませ
ん。M氏自身も、「私たちは、もう形だけの夫婦です」と言っています。

 Tさんとしては、さぞかしつらい思いをなさっておられることだろうと思います。しかし私の印象
では、Mさん夫婦がこうなったことについて、だれにも責任はないと思います。Mさんにしても、
Tさんを、うらんだりしているような様子は、まったく見られません。

 しかしやはり問題は、3人のお子さんだろうと思います。養育費の問題もありますし、今のM
氏の収入では、生活もたいへんだろうと思われます。それはわかります。そこで奥さんのMさ
んは、『私は仕事をする』と言っていますが、あの精神状態では、私は、無理ではないかと思っ
ています。率直に言って、それこそ何か、事件になるのではないかと、心配しています。

 でも、本当の原因は、私は奥さんのMさん自身にあるのではないかと思っています。もっと
も、なぜ奥さんのMさんが、今のようなうつ状態になったかといえば、M氏にも責任がないとは
言えません。もう少し、奥さんのMさんのことを、心配してやるべきだったと思っています。

 無知というか、無責任というか……。以前、奥さんのことを、Mさんは、『あいつは、怠け病だ』
と、私に言ったことがあります。もう少し、ことは深刻だったのですが、M氏には、奥さんの心の
状態が理解できなかったようです。

 ともかくも、今は、こういう状態です。報告だけの、わけのわからない手紙になってしまいまし
た。私自身も、こういう手紙を書きながら、責任のがれをしているのかもしれません。あとにな
って、『どうしてもっと、早く知らせてくれなかったのか』と言われるのが、つらいからです。

 みんな無責任ですね。しかしやはり、どうすることもできません。最終的に、Mさん夫婦のこと
を決めるのは、Mさん夫婦だからです。私としては、来週あたり、またケロッとして、「先生、こ
んにちは!」と声をかけてくれるのを、望んでいますが……。

 奥さんのMさんが話してくれた、不平、不満を、箇条書きにしておきます。何かの参考になれ
ばうれしいです。

(1)夫が子どもたちの教育に無関心。
(2)夫の収入だけでは、生活が苦しい。
(3)夫が、仕事ばかりで、ほとんど家にいない。
(4)生活環境がよくない。今のようなマンション生活はいやだ。
(5)(家が大通りに面していて)、騒々しくて、よく眠れない。
(6)このところ、駐車場にとめてある車に、いたずらをする人がいる。
(7)近所のXさんと、いつもけんかをしている。
(8)長男の友人がよくない。悪い遊びを覚えている、など。

 私の印象としては、ああまで趣味などがちがう夫婦ですから、いっしょに何かをするというわ
けにも、いかないのではないかと思っています。もちろん考え方もちがいますし……。M氏は、
のんびりとした性格。しかし奥さんのMさんは、異常なまでに、教育に熱心です。

 先日も、となりのA小学校よりも、教える進度が遅れていると、学校へ文句を言っていったそ
うです。長男には、毎朝6時に起こし、勉強をさせているそうです。今夜も、私が、「そこまでさ
せてはだめです」と言ったのですが、聞いてもらえませんでした。過激というよりも、めちゃめち
ゃといった感じです。

 奥さんのMさんの、育児ノイローゼは、そんなわけで、相変わらず、つづいているようです。今
はまだ長男も小さいからいいのですが、そのうち、反抗するようになると思います。

どう思いますか? 奥さんのMさんは、さかんに、「夫では、子育ては無理だ」と言っています
が、本当のところは、M氏に任せたほうが、よいのではないかと思っています。3人の子どもた
ちも、父親のM氏のほうを、より慕っているように思います。あくまでも、私の感じた印象ですが
……。

 もう少し、時間をおいて様子をみてみます。

 では、今夜は、これで失礼します。奥様によろしくお伝えください。おやすみなさい。

                         2004年X月X日 林 浩司

++++++++++++++++++

 Mさんは、ここにも書いたような精神状態で、自分のことを考えるだけで、精一杯。そんな感
じである。

 「(Mさんの)子どもたちは、どう思っていますか?」
 「子どもたちは、東北へいっしょに帰りたいと言っていますか?」
 「ご主人は、どう言っていますか?」

……などと聞いても、「子どもたちは問題ない」「夫には相談する必要はない」と、そんな言い方
ばかりをする。

 自己中心的というか、他人の心まで、自分で決めてしまっている。Mさん自身が、厚いカプセ
ルの中に閉じこもってしまっている。話していて息苦しさを感ずるのは、そのためである。はっ
きり言えば、自分勝手。わがまま。

 Mさんは、「あれが悪い」「これが悪い」と言う。しかし本当のところ、その原因は、Mさん自身
にある。

 たとえばMさんは、こう言った。

 「近所のXさんと、けんかはした。私が悪かった。しかしそのあと、私は、お菓子をもって、あ
やまりに行った。だけど、許してくれなかった」と。

 Mさんは、「お菓子までもってあやまりにいったんだから、許してくれてもいいハズ。もう怒って
いないハズ。トラブルは解決したハズ」と、すべてを、自分勝手な、「ハズ論」で考えている。

 しかし一度こわれた人間関係は、そんな簡単には、修復できない。そういった常識が、Mさん
には、欠けていた。つまりそれこそが、自己中心性の表れということになる。

 はっきり言おう。

 離婚することが決して不幸と言っているのではない。幸福に形はない。だから、結婚するとき
も、反対に、離婚するときも、そのときどきにおいて、それぞれの人は、自分の道を選べばよ
い。

しかし不幸になっていく人には、いつも1本の道がある。しかしその本人には、その道が見えな
い。自分で、見ようともしない。見えないまま、その道にそって、まっしぐらに、不幸になってい
く。

 賢い人は、そこで立ち止まって、自分の道を見る。しかし愚かな人は、だれかがその道を見
せてくれても、それを自ら否定する。目を閉じる。

【補記】

 人格の完成度は、(1)他者との共鳴性、(2)自己管理能力、(3)他者との良好な人間関係
でみる。

 その中で、(2)の自己管理能力について言うなら、感情のおもむくまま、そして欲望のおもむ
くまま、行動する人は、それだけ自己管理能力の低い人とみる。

 Mさんは、その自己管理能力に欠けていると思う。近所のXさんとのトラブルの原因も、そこ
にあった。

 近所のXさんは、毎朝、ベランダでふとんをたたいていたのだが、たまたま風向きで、大きな
ホコリが、Mさんの部屋のほうまで飛んできた。それでMさんが、Xさんに電話した。

 もしそのとき、ほんの少しだけ、Mさんに自己管理能力があれば、ほかの言い方もできたの
だろう。しかしMさんは、電話口で、大声で怒鳴ってしまった。それで電話を受けたXさんも、感
情的になってしまった。

 「フトンのゴミを落さないで!」「何よ、あんたんどころだって、フトンくらい、たたくでしょう!」
と。恐らく、そういう言い争いになったのだろうと思う。以後、ことあるごとに、2人は、いがみあ
うようになった。

 またMさんの夫が、家族のことを、顧(かえり)みなくなったことについても、Mさんにも責任が
ある。

 Mさんは私にさえ、こう言ったことがある。「夫の給料が少なくて、困っています。夫の実家の
助けを受けているくらいです。あの人が、もう少し、仕事ができたらいいんですが……」と。

 恐らく、夫のM氏には、もっと直接的に、不満をぶつけていたにちがいない。「こんな給料で
は、生活できないわよ」とか、何とか。夫のM氏が、家庭から遠ざかったとしても、不思議では
ない。

 もちろんすべての原因が、Mさんにあったというわけではない。しかしもう少し、Mさんが、自
分が進んでいる道に気がついていたら、こういうことにはならなかったと思う。

【補記2】

 「私が絶対正しい」「私はまちがっていない」と思うのは、その人の勝手だが、他人に対する謙
虚さをなくしたとき、その人は、独善の道に入る。

 その独善の道に入れば入るほど、視野がせまくなる。自分の道が見えなくなる。Mさんは、
「子どもことは、私が一番よく知っている」と何度も言った。

 しかし本当にそうだろうか? 私の印象では、3人の子どもたちは、父親のM氏のほうを、よ
り慕っているように見える。ただ今は、まだ幼いということもあって、絶対的な母子関係という呪
縛の中に、とらわれているだけ。

 Mさんは、その呪縛をよいことに、3人の子どもを支配している。しかしその呪縛は、それほ
ど、長くはつづかない。もうあと、1、2年もすれば、長男のほうが、その呪縛からのがれ、個人
化(私は私という生きザマを求める)を始めるようになる。

 子どもにとって母親は、絶対的な存在である。命を育てられ、生まれたあとも、乳を与えられ
る。子どもは父親なしでも、生まれ育つことはできる。しかし母親なしでは、生まれることも、育
つこともできない。それがここでいう呪縛ということになる。

 母親たちは、その呪縛に甘えてはいけない。その呪縛をよいことに、子どもをしばってはいけ
ない。子どもを支配してはいけない。

 Mさんは、そうした事実にも、気がついていない。気がつかないまま、「私は絶対だ」と思いこ
んでいる。つまりこのタイプの母親ほど、子育てをしながら、子どもの心を見失う。私の印象で
は、母親と子どもたちが断絶するのは、時間の問題だと思う。

【注】

 どこか男の立場だけで、Mさんの問題を考えたような気がする。もちろんMさんというのは、
架空の女性である。実在しない。ある読者から、いただいたメールをもとに、いろいろな例をま
ぜて、私が、想像して書いた。どうか、そういうことも念頭において、この「ある離婚」を読んでほ
しい。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●人間のクズ?

++++++++++++++++++

「人間のクズ」が、また、話題になった。
ワイフが、「あの話をしてくれた、Aさんねエ」
と、話し始めた。

ここに書いた娘は、今年、28歳になるという。
まだ結婚していないという。

以前、書いた原稿をここに添付する。
私は、あのとき感じた怒りを、生涯、忘れない。

「何が、人間のクズだ! お前こそ、人間のクズだ!」と。

+++++++++++++++++++

 ワイフが、こんな話を聞いてきた。

 ワイフの友人に、一人の娘がいる。娘は、今年、25歳になるという。その娘に、伯母(友人の
姉)がいつも、こう言っているという。

 「あのね、あんたも、そろそろ結婚するんだろうけど、人間のクズのような男と結婚してはだめ
よ」と。

 そこでワイフの友人(娘の母親)が、「クズって、どういう人間をいうの?」と聞いた。すると、そ
の伯母は、臆面もなく、こう答えたという。

 「クズっていうのはね、町工場で働くような工員をいうのよ」と。

 激怒! 大激怒!

 久々に、その話を聞いて、私は、激怒した。いつもになく、激怒した。

私は、もちろんそのワイフの友人も、伯母も知らない。が、その伯母に激怒したのではない。そ
の伯母こそが、人間のクズ。そんなクズのような伯母など、どうでもよい。私は、そういう狂った
常識をつくった、日本の社会に激怒した。

 私も昔、「幼稚園の教師をしている」と言ったとき、同じような言葉を浴びせかけられたことが
ある。高校時代の担任の教師でさえ、こう言った。私がちょうど、30歳のとき、同窓会に出たと
きのことである。

 「お前だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。

 幼稚園で働くことを、「わけのわからない仕事」と。

 何も、会社勤めだけが、仕事ではあるまい。たしかに、この日本には、職業による差別意識
が、まだ残っている。が、おかしいのは、職業のほうではない。その差別意識のほうだ。その差
別意識が、おかしい。

私「じゃあ、その伯母様とやらは、どんな仕事をしているの? 伯母様のダンナ様とやらは、ど
んな仕事をしているの?」
ワイフ「知らないわ……」
私「今度、ちゃんと、聞いておいてよ」と。

(マガジンにこの原稿を載せるまでに、聞いて、ここに書いておく。私の印象では、その伯母様
のダンナ様とやらは、士農工商制度の中の、武士階級の流れをくむ職業をしているのではな
いかと思う。でなければ、そういう発想は、生まれない。)

 それにしても、まあ、ヌケヌケと、よく言ったものだ。「クズ」とはねえ……!

 私はこういう狂った常識と戦うために、今、この日本で、原稿を書いている。まさにそこに、私
の書く目的がある!

【付記】

 人生の先輩である、伯母ともあろう人が、姪(めい)に、そのように教える。教えながら、何も、
疑問に思っていない。

 ここまで書いて、ワイフに、その伯母様のダンナ様は、どんな仕事をしているか、改めて、聞
いてみた。

(この間、半日が過ぎた。ワイフが、その友人に、電話を入れてくれた。)

 ワイフが言うには、そのダンナ様は、今は、大阪府のT市に住んでいて、今は定年退職をして
いるという。退職前は、XX局に勤めていたという。(ヤッパリ!)

 しかしこの怒りは、どこからくるのか。どう、この怒りをしずめたらよいのか。

 ……そこで思い出したのが、数年前、東京のM田市に住んでいる先生から聞いた話。

 何でもある夜、ある母親が、自分の子ども(小学5年生)を連れて、近くの公園へ行ったそう
だ。そしてその公園で寝泊りするホームレスの人たちを見せて、その母親は、自分の子ども
に、こう言ったそうだ。

 「あんたも、しっかりと勉強するのよ。勉強しないと、ああいう人たちになるのよ」と。

 こういう愚かな伯母や、親がいるかぎり、日本の教育は、よくならない!


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●代償的過保護

+++++++++++++++++

昨日、ある幼稚園で講演をしたとき、
代償的過保護の話をした。

時間がなく、どこか中途半端な
説明だったので、改めて、その
代償的過保護についての記事を、
ここに載せることにした。

+++++++++++++++++

 同じ過保護でも、その基盤に愛情がなく、子どもを自分の支配下において、自分の思いどお
りにしたいという過保護を、代償的過保護という。

 ふつう「過保護」というときは、その背景に、親の濃密な愛情がある。

 しかし代償的過保護には、それがない。一見、同じ過保護に見えるが、そういう意味では、代
償的過保護は、過保護とは、区別して考えたほうがよい。

 親が子どもに対して、支配的であると、詫摩武俊氏は、子どもに、つぎのような特徴がみられ
るようになると書いている(1969)。

 服従的になる。
 自発性がなくなる。
 消極的になる。
 依存的になる。
 温和になる。

 さらにつけ加えるなら、現実検証能力の欠如(現実を理解できない)、管理能力の不足(して
よいことと悪いことの区別ができない)、極端な自己中心性なども、見られるようになる。

 この琢摩氏の指摘の中で、私が注目したのは、「温和」という部分である。ハキがなく、親に
追従的、依存的であるがために、表面的には、温和に見えるようになる。しかしその温和性
は、長い人生経験の中で、養われてできる人格的な温和性とは、まったく異質のものである。

 どこか、やさしい感じがする。どこか、柔和な感じがする。どこか、穏かな感じがする……とい
ったふうになる。

 そのため親、とくに母親の多くは、かえってそういう子どもほど、「できのいい子ども」と誤解す
る傾向がみられる。そしてますます、問題の本質を見失う。

 ある母親(70歳)は、そういう息子(40歳)を、「すばらしい子ども」と評価している。臆面もな
く、「うちの息子ほど、できのいい子どもはいない」と、自慢している。親の前では、借りてきたネ
コの子のようにおとなしく、ハキがない。

 子どもでも、小学3、4年生を境に、その傾向が、はっきりしてくる。が、本当の問題は、その
ことではない。

 つまりこうした症状が現れることではなく、生涯にわたって、その子ども自身が、その呪縛性
に苦しむということ。どこか、わけのわからない人生を送りながら、それが何であるかわからな
いまま、どこか悶々とした状態で過ごすということ。意識するかどうかは別として、その重圧感
は、相当なものである。

 もっとも早い段階で、その呪縛性に気がつけばよい。しかし大半の人は、その呪縛性に気が
つくこともなく、生涯を終える。あるいは中には、「母親の葬儀が終わったあと、生まれてはじめ
て、解放感を味わった」と言う人もいた。

 題名は忘れたが、息子が、父親をイスにしばりつけ、その父親を殴打しつづける映画もあっ
た。アメリカ映画だったが、その息子も、それまで、父親の呪縛に苦しんでいた。

 ここでいう代償的過保護を、決して、軽く考えてはいけない。

【自己診断】

 ここにも書いたように、親の代償的過保護で、(つくられたあなた)を知るためには、まず、あ
なたの親があなたに対して、どうであったかを知る。そしてそれを手がかりに、あなた自身の中
の、(つくられたあなた)を知る。

( )あなたの親は、(とくに母親は)、親意識が強く、親風をよく吹かした。
( )あなたの教育にせよ、進路にせよ、結局は、あなたの親は、自分の思いどおりにしてき
た。
( )あなたから見て、あなたの親は、自分勝手でわがままなところがあった。
( )あなたの親は、あなたに過酷な勉強や、スポーツなどの練習、訓練を強いたことがある。
( )あなたの親は、あなたが従順であればあるほど、機嫌がよく、満足そうな表情を見せた。
( )あなたの子ども時代を思い浮かべたとき、いつもそこに絶大な親の影をいつも感ずる。

 これらの項目に当てはまるようであれば、あなたはまさに親の代償的過保護の被害者と考え
てよい。あなた自身の中の(あなた)である部分と、(つくられたあなた)を、冷静に分析してみる
とよい。

【補記】

 子どもに過酷なまでの勉強や、スポーツなどの訓練を強いる親は、少なくない。「子どものた
め」を口実にしながら、結局は、自分の不安や心配を解消するための道具として、子どもを利
用する。

 あるいは自分の果たせなかった夢や希望をかなえるための道具として、子どもを利用する。

 このタイプの親は、ときとして、子どもを奴隷化する。タイプとしては、攻撃的、暴力的、威圧
的になる親と、反対に、子どもの服従的、隷属的、同情的になる親がいる。

 「勉強しなさい!」と怒鳴りしらしながら、子どもを従わせるタイプを攻撃型とするなら、お涙ち
ょうだい式に、わざと親のうしろ姿(=生活や子育てで苦労している姿)を見せつけながら、子
どもを従わせるタイプは、同情型ということになる。

 どちらにせよ、子どもは、親の意向のまま、操られることになる。そして操られながら、操られ
ているという意識すらもたない。子ども自身が、親の奴隷になりながら、その親に、異常なまで
に依存するというケースも多い。
(はやし浩司 代償的過保護 過保護 過干渉)

【補記2】

 よく柔和で穏やか、やさしい子どもを、「できのいい子ども」と評価する人がいる。

 しかし子どもにかぎらず、その人の人格は、幾多の荒波にもまれてできあがるもの。生まれ
ながらにして、(できのいい子ども)など、存在しない。もしそう見えるなら、その子ども自身が、
かなり無理をしていると考えてよい。

 外からは見えないが、その(ひずみ)は、何らかの形で、子どもの心の中に蓄積される。そし
て子どもの心を、ゆがめる。

 そういう意味で、子どもの世界、なかんずく幼児の世界では、心の状態(情意)と、顔の表情と
が一致している子どものことを、すなおな子どもという。

 うれしいときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。怒っていると
きは、怒った顔をする。そしてそれらを自然な形で、行動として、表現する。そういう子どもを、
すなおな子どもという。

 子どもは、そういう子どもにする。 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 すな
おな子ども 素直な子供 子どもの素直さ 子供のすなおさ)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●精進(しょうじん)

 ほとんどの人は、人は、老人になればなるほど、経験が豊かになり、人格的にも高邁(こうま
い)になると考えている(?)。多分(?)。

 これはまったくの、ウソ。誤解。幻想。

 ウソであることは、自分が、その老人に近づいてみてわかった。

 老人になればなるほど、その住む世界が小さくなる。世間との交流も少なくなる。さらに脳細
胞がかたくなり、過去に固執するようになる。回顧性も強くなり、そこで進歩を止める。

 が、もっと大きな問題がある。実は、知識も、経験も、知恵も、どんどんと減っていくというこ
と。車の運転でたとえるなら、視野がせまくなり、まわりの様子が見えなくなる。もちろん運転の
しかたも、へたになる。注意力も散漫になる。

 しかし最大の悲劇は、そうなりながらも、老人のほとんどは、自分がそうであることに気づか
ないこと。「私は、絶対正しい」と、思いこんでいる老人の、何と多いことか。過去の職歴や栄華
にしがみついている人が、何と多いことか。

 他人の意見に耳を傾けない。人の話を聞かない。だいたい、本も読まない。

 昨日も、オレオレ詐欺のことが、新聞に載っていた。その人は、500万円近く、だまし取られ
たという。だますほうも、ますます巧妙になってきた。それはある。しかしこれだけ報道され、世
間の話題になっているのに、まだだまされる人がいる。そのことのほうが、問題なのである。

 言うまでもなく、だまされる人のほとんどは、老人。つまり、老人たちは、それくらい、学習をし
ていない! 世間を見ていない!

 何度も言うが、健康論と人格論は、似ている。立ち止まったときから、その人の健康にせよ、
人格にせよ、後退する。

 そういう意味では、老人になればなるほど、毎日、新しい情報を吸収し、考え、それを自分の
ものとしていかなければならない。それでも現状維持が精一杯。「進歩」などというのは、もう望
みようもない。現状維持ができるだけでも、御(おん)の字。

 「私は完成された人間だ」と思うのは、「私は完成された健康をもっている」と思うのと同じくら
い、愚かなこと。

 私がここに書いたことに疑問をもつなら、ためしにあなたの周辺の老人たちを観察してみれ
ばよい。あなたの周辺で、いつも前向きに生きている老人は、いったい、何人いるだろうか?

 ほとんどの老人たちは、かぎられた命の中で、ただ無意味に、時間を浪費しているだけ……
というのは、言い過ぎかもしれないが、現実には、そうではないのか。ほとんどの老人たちは、
明日死んでも、10年後に死んでも同じ……というような人生を送っている。

 しかし、それがよいとは、だれも思わない。他人のことを言っているのではない。私たちは、
そうであってはいけないと言っている。

 だからあの釈迦は、「精進」という言葉を使った。「死ぬまで、生きて生きて、生き抜く。それが
精進だ」と。繰りかえすが、立ち止まったときから、その人の人格は、後退する。

【注、精進】……一心に仏道を修行すること。ひたすら努力すること。(日本語大事辞典)

 
Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1620)

●今朝、あれこれ(10月26日)

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使う能力は、伸びる。
使わない能力は、後退する。

わかりきったことだが、
最近、それを実感することが
多くなった。

+++++++++++++++

 このところ、よく感ずるようになったことは、「漢字が書けなくなった」ということ。昨日も、子ど
も(小3)に、「ヒメイ」という漢字をどう書くのかと聞かれ、瞬間、ハテ(?)と思ってしまった。

 「ヒメイ」は、「悲鳴」である。

 少し前には、デパートで何かの贈答品を送るとき、書類に、「札幌(さっぽろ)」と書けなくて、
困ったことがある。

 それもそのはず。漢字を書くという機会が、ぐんと少なくなった。手紙もハガキも、そしてこうし
た原稿も、すべて、パソコンを使って書いている。筋肉のみならず、脳みそも、使わないでいる
と、どんどんと退化する。わかりきったことだが、それを、このところ、強く実感する。

 で、再び、老人論。

 世間の人たちは、「老人になればなるほど、賢(かしこ)くなる」と考えている。しかし、それは
まったくの誤解。ウソ。自分で、その老人に近づいてみて、それがよくわかるようになった。

 が、中に、「老人になればなるほど、賢くなる」と説く、老人がいる。しかしその人は、自分でそ
う思っているだけ。脳みそのCPU(中央演算装置)が退化すれば、自分が退化していることさ
え、わからなくなる。コンピュータにたとえるなら、クロック数ということになる。

 クロック数……クロック周波数ともいう。コンピュータの動作タイミングの基準となる信号周波
数のこと(パソコン用語辞典)。ふつうは(現在は)、MHz(メガヘルツ)という単位で示される。
周波数が高ければ高いほど、処理速度が速くなる。

 つまり老人になればなるほど、その周波数が低くなる。低くなったのを基準に、自分を見る。
だから自分が低くなったことにすら、気づかない。わかりやすく言えば、人間の賢さも、脳みそ
の退化とともに、低下するということ。脳梗塞か何かになれば、なおさらである。実際、バカなこ
とばかりしている老人は、少なくない。

 もし老人が、賢く見えるとしたら、そういうふうに見せる技術がうまくなったと考えるのが正し
い。どこかのカルト教団の指導者のように、さも、「私はできた人間でございます」と、わかった
ような柔和な笑みを浮かべている老人は、いくらでもいる。

 ……となると、やはり、「精進(しょうじん)」ということになる。脳みそは、使う。使って、使って、
使いまくる。それは肉体の健康維持法と、同じ。どこもちがわない。

 が、それでも、脳みそは退化する。漢字が書けなくなったのも、そのひとつ。ほかに、私のば
あい、翻訳するのが、このところ、苦手になったように感ずる。日本語から英語、英語から日本
語への、スイッチングが、どうもうまくできなくなった。脳梁(のうりょう)の、伝達物質が不足し始
めたのかもしれない。

 脳梁というのは、右脳と左脳をつなぐ、太い電線のようなもの。英語は右脳、日本語は左脳
に格納されていると、何かの本に、そう書いてあった。

 つまりこうして私も、バカになっていく。バカになるだけならまだしも、おかしな回顧主義にとら
われたり、復古主義にとらわれたりする。そう言えば、このところ、過去を振りかえることが多く
なったように思う。ゾーッ!

 そんなわけで、近く、私も、DS(子ども用のN社のゲーム機)、もしくは、PSP(同じくゲーム
機)を、買うつもり。子ども(生徒)たちは、DSがよいという。しかし雰囲気的には、PSPのほう
が、おとな的。しかし子どもたちといっしょに遊ぶなら、DSのほうがよい。

 さてさて、どうしようか?

 私の印象では、あくまでも私の印象だが、脳みその老化を防ぐためには、どんどんと新しいこ
とにチャレンジしていく。これが重要ではないかと思う。古いことを、今までどおりに繰りかえし
ているようではいけない。

 それにもう1つ気になるのは、このところ、集中力が以前ほど、長くつづかなくなったというこ
と。講演などをしていても、1時間ほどしたあたりで、ふと、気がゆるんでしまうことがある。

 運動にたとえて言うなら、若いころは、1000メートルくらいは平気で走ることができた。しかし
それが、加齢とともに、800メートルになり、500メートルになったということ。このままでは、そ
のうち、100メートル走っただけで、息切れをするようになるかもしれない。

 これはかなり、深刻な問題と考えてよい。

 さあ、これから先、どうしようか……と考えたところで、この話は、おしまい。

(考えたところで、どうにもならないし……。)

(付記)

 「3時から4時までの間で、長い針と短い針が、一直線に並ぶのは、何時何分何秒か。秒数
は、10分の1の位まで、求めよ」……という問題なら、あなたは、何分で解くことができるか。

 ためしに、私も、今、やってみた。

 ヨーイ、ドン!

 頭のよい子ども(小6)なら、計算機なしでも、3〜4分以内に解くだろう。つまりこのあたりが、
ひとつの基準ということになる。(教える側は、それ以内に解かなければならないので、キツ
イ! 正解は、3時49分5秒。)

 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●公務員の世界

++++++++++++++++

公務員の世界は、煙(けむり)の
ような、不思議な世界。

そこにあるのは、人間関係を示す
組織だけ。

あとは、何も、ない。

++++++++++++++++

N県で、8年間で、たった5日しか勤務していなかった公務員が、問題になっている。8年間で、
たったの5日。おそらく、給料は、満額支払われていたのだろう。しかしこんな例は、いくらでも
ある。

 私が直接知っている例では、2年間休職し、数日、勤務したあと、また2年以上休職している
男性(40歳くらい)がいる(N県、県庁)。この男性のばあいは、4年間で、数日、勤務しただけ
ということになる。

 ほかにもいくつかあるが、では、なぜ、こんなことが起きるのか?

 公務員の世界というのは、不思議な世界である。そこにあるのは、人間関係を示す、組織だ
け。あえて言うなら、そこは煙(けむり)のような世界。県庁にせよ、市役所にせよ、あの建物
は、煙を閉じこめておくための箱。ただの箱。

 民間企業だと、「利潤追求」という共通の目的がある。しかし公務員の世界には、それもな
い。「お金は、天から降ってくるもの」と、ほとんどの公務員は考えている。一度だが、H市で部
長級の仕事をしている友人に、こう聞いたことがある。「公僕意識というのは、ないのか」と。

 するとその友人は、こう言った。「そんなもの、絶対に、ありませんよ」と。

 具体的には、H市は、バブル経済のころ、テクノ団地を造成、販売した。バブル経済がはじけ
る直前に、うまく売り逃げ、莫大な利益をあげた。そこで私が、「その利益分だけ、税金を安く
するとか、そういうことは考えないのか」と聞くと、それについても、こう答えた。

 「そういう発想は、公務員には、絶対に、ありませんよ」と。

 これが現実である。つまりこういう現実を前提として、公務員の世界を考える必要がある。

 が、問題は、こうした矛盾というか、事件というか、なぜ、こうまでつぎつぎと起こるかというこ
と。

 理由は簡単。矛盾を解決する以上に、新しい矛盾を、つぎからつぎへと作っている。わかり
やすく言うと、1つの矛盾が出てきて、それを解決している間に、またべつの矛盾をつくりあげ
ている。

 それにしても、8年間で、5日の勤務とは! ここまでひどいとは、私も思っていなかった。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●子どもとの同居(2006年度調査)

++++++++++++++++++

子どもと将来、同居したいと願っている
高齢者が、年々、減少している。
(読売新聞)

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 子どもと将来同居したいと考えている高齢者は、約4割にとどまり、減少傾向がつづいている
ことが、内閣府が25日まとめた、「高齢者の住宅と生活環境に関する意識調査」で、明らかに
なったという(読売新聞)。

 調査によると、子どもとの関係について、「現在同居しており、将来も同居のまま」、または、
「現在別居しているが、将来は同居する」と答えた人は、計41・1%で、2001年の前回調査
から5・7ポイント減少したという。

 1995年の前々回調査と比べると、19・8ポイントも減ったことになる。

逆に「将来別居」と回答した人は、24%で、前回から6・1ポイント、前々回から11ポイントも増
えたという。 


 つまり「同居したい」という人が少なくなり、「別居したい」という人が多くなったということ。この
数字には、いろいろ考えさせられる。

+++++++++++++

「現在同居しており、将来も同居のまま」、または、「現在別居しているが、将来は同居する」と
答えた人……計41・1%

「将来別居」と回答した人……24%

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(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
との同居 子どもとの同居)

【付記】

 私も、老後は、子どもとは離れて住みたい。「住みたい」というよりは、子どもに迷惑をかけた
くない。そのときがきたら、自分で、介護施設に入って、そこで静かに最期を迎えたい。

 そういう生き様を、「さみしい」と思う人もいるかもしれない。が、大切なことは、それまでに、
自分の人生を、完全燃焼させること。燃えカスになってから、ジタバタしても、はじまらない。そ
のときは、そのときで、自分をすなおに、受け入れればよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●メチャメチャな指導

++++++++++++++++++

教師の不適切な指導で、中学1年生の
子どもが、自殺を図ったという。

それは、まさに不適切! いまどき、
こんな指導法がまかりとおっているとは!
ただただ、驚きでしかない。

++++++++++++++++++

読売新聞、10月27日は、つぎのように伝えている。

「K県の公立中学校の男性教諭(37)が、不登校になっていた1年の女子生徒(12)の自宅に
あがりこみ、生徒がかぶっていた布団を引きはがして、『学校に行くのか、行かないのか』など
と迫り、その直後、生徒が首つり自殺を図っていたことが26日、わかった」と。

乱暴というか、メチャメチャ!

 で、「生徒は一命を取りとめたが、校長は『適切な行動だった』と、教師の対応に問題があっ
たことを認め、27日にも男性教諭らが生徒と両親に謝罪する」という。

 なお、「学校や関係者によると、女子生徒は今年6月ごろ、部活動を巡って顧問の女性教諭
(25)から全部員の前で、しっ責された。女子生徒はその後、退部し、2学期から学校に行か
なくなった」(以上、読売新聞より)という。 

 こうしたとんでもない指導(?)を売り物にしている教育者は、いるには、いる。そのつど、テレ
ビでも話題になった。古くはTヨット・スクールというのがあった。親や生徒を罵倒して、なおす
(?)という指導者もいた。最近でも、指導と称して、子どもを餓死させた事件もある。
 
 あえて言うなら、みなさん、心、とくに子どもの心の問題を、あまりにも安易に考えすぎ。「自分
がそうだから」という理由だけで、それを無理に子どもに押しつけようとする。この無理が、かえ
って子どもの心をこじらせてしまう。

 原因は、無知、無学、無理解。もうひとつつけ加えるなら、あまりにも自己中心的。中世の悪
魔祓(ばら)いと、同じ。どこも、ちがわない。子どもの自宅へ押しかけ、寝ている女の子のふと
んを、はがすとは! 多分、家族の同意はあったのだろうが、子ども本人の人格、人権は、ど
うなる? いくら教師でも、そこまではやりすぎ! どこか、金八先生的? この事件では、教師
の思いあがりだけが、やたらと目立つ。

 教師にも、できることと、できないことがある。当然、その結果、してよいことと、していけない
ことがある。

 教師には、子どもの心の問題を、なおすことはできおない。子どもの心の問題をなおすことが
できるのは、その家族だけ。だから教師は、その家族を指導して、子どもの心の問題をなお
す。その過程で、当然、カウンセラーや医師のアドバイスを受ける。

 たしかに今、日本中の教師たちは、萎縮している。「言葉の使い方、ひとつひとつに、神経を
張りめぐらせている」(某小学校、校長談)と。「子どもに何かあると、そら、学校が悪い」とな
る。そのため指導がマヒしている学校となると、ゴマンとある。

 そういう中で、今回の事件は、起きた。「自宅に上がりこみ、生徒がかぶっていた布団を引き
はがして……」と。一見、熱血教師の行為に見えるが、熱血が熱血であるためには、前提があ
る。

 まず、子どもの心理を理解すること。不登校(学校恐怖症、怠学)についての、最低限の知識
をもつこと。もしその片鱗(へんりん)でも知っていたら、こんな乱暴な指導はしなかったはず。

 読売新聞の断片的な記事なので、全体像はわからない。その前に、親の不適切な対処があ
ったのかもしれない。教師と生徒の間の、個人的な問題もあったのかもしれない。教師と生徒
といっても、その人間関係は、おとなのそれと同じくらい、複雑で、奥が深い。そこへ家族や、
友人の問題がからんでくる。

 しかし、それにしても……! 

 学校の先生へ、

 学校の先生は、そこまでしてはいけない。いくら親に頼まれても、そこまではしてはいけない。
学校の先生がすべきことは、まず「教育」に専念すること。医師が「治療」に専念するように、
だ。

 余談だが、日本の教育も、結局は行き着くところまで行って、はじめて、自分で気がつくのだ
ろう。そして最終的には、制度としては、カナダや、イタリアのようになる。アメリカやオーストラ
リアのようになる。今は、その転換期かもしれない。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●三男のBLOGより

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三男が、仙台の分校に移った。
パイロットとしての、最終訓練に移った。

操縦しているのは、あのキングエア。

MSのフライト・シミュレーターにも、
その飛行機が収録されている。

文の末尾に、キングエアの機長席に座る
友人を紹介しながら、
「このコクピットに、ようやくたどり着きました」と
ある。

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【仙台フライト課程】

 1年と半年前、パイロットのパの字も知らなかった僕が、宮崎に来て、最初に出会った先輩
が、まさにその時、宮崎フライト課程を修了し、仙台へ旅立とうとしていたところだった。その口
から発せられる意味不明な単語の羅列。本気で同じ国の人とは思えなかった。中には僕よりも
年下の先輩もいたが、その背中はとてつもなく大きく、遠いものに感じられた。そこまでたどり
着く道のりが、果てしなく長く、険しいものに感じられた。

 あれから、色んなことがあった。毎日が、これでもかと言わんばかりに充実していた。すごい
勢いで押し寄せては過ぎ去っていく知識と経験の波にもまれ、その一つ一つを逃さぬように両
手を一杯に広げ、倒されぬよう走り続けて来た。

初めて飛んだ帯広の空。細かい修正に苦労した宮崎の空。教官に叱咤激励され、同期と切磋
琢磨し、涙を流したことも数知れず。楽しかったが、決して楽な道のりではなかった。その間に
垣間見た、キングエアと仙台の空の夢。フライトを知れば知るほど、遠くなって行くような気がし
ていた。途方に暮れてうつむくと、そこには誰かの足跡が。そう、あの時見た先輩たちの足跡
だ。大きく見えた先輩たちも、この細く曲がりくねった道を一歩ずつ這い上がって来たのだ。

 そして今日、僕は、空の王様、キングエアと共に再び空へ飛び上がった。ずっと想像していた
だけの景色が、現実にそこに広がっていた。コクピットに座り、シートベルトを締め操縦桿を握
ると、ハンガーの向こう側から1年前の僕が見ている気がした。あの頃の僕の憧れに、ようやく
たどり着いたのだ。先輩たちが踏み固めてくれたあの道は、確かに、この空に続いていたの
だ。

人は成長する。それを強く実感した一日だった。毎日、少しずつでもいい。前進し続けること。
小さな成長を実感し続けること。時々、何も変わっていないじゃないかと失望することがあるか
もしれない。それでも、諦めないこと。そうすることで人は、自分よりも何百倍も大きかった夢
を、いつの間にか叶えることが出来る。そういう風に、出来ているのだ。努力は必ず報われる。

 最高の教育と、経験と、思い出を、僕は今ここで得ている。一つも取りこぼしたくない、宝石の
ような毎日だ。

このコクピットに、ようやくたどり着きました。

(以上、原文のまま。興味のある方は、ぜひ、息子のBLOGを訪れてやってみてください。私の
HPのトップ画面より、E・HayashiのWebsiteへ。)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●ベン・ハー

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学生だった私に、映画『ベン・ハー』の
与えた衝撃は大きかった。

映画館では、1度しか見ていないが、その
あと、ベン・ハーのテーマ音楽がラジオか
ら流れてきただけで、興奮状態になった
のを、今でも、はっきりと覚えている。

そのテーマ音楽を、このところ、また、
毎日のように聴いている。

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 1959年の11月、映画『ベン・ハー』が、劇場に登場した。W・ワイラー監督、C・ヘストン主
演。制作費、当時のお金で1500万ドル。上映時間、4時間。11のオスカーを受賞している。

 私が、満12歳になった年である。私がその映画を見たのは、その翌年のことではなかった
か。あまりの(すごさ)に、私はしばらくの間、その映画の虜(とりこ)になってしまった。よく覚え
ているのは、近くの本屋で本を立ち読みしていたときのこと。ラジオから、『ベン・ハー』のテーマ
音楽が流れてきただけで、興奮状態になってしまったこと。急いで家に帰り、自分のラジオにス
イッチを入れたときには、すでにその音楽は終わっていたが……。

 しかし私は、まだ子どもだった。あの映画が、キリストを主題にした映画だったとは、当時は、
気がつかなかった。ベン・ハーは、あくまでも、ベン・ハー。

 で、最近、自分の携帯電話に、その音楽を収録した。そのこともあって、このところ毎日のよ
うに、その音楽を聴いている。当時の感動がそのまま……ということは、もうないが、それで
も、今、こんな不思議な経験をしている。

 『ベン・ハー』の中の、C・ヘストン演ずるベン・ハーは、架空の人物だが、こうして半世紀近い
時の流れを間においてみると、あたかも私自身が、その時代に生きたかのような錯覚を覚え
る。つまり『ベン・ハー』という映画の中で見た世界が、自分自身の過去の一部となっているの
を知る。

 これは心理学でいえば、どういう現象なのか。「同一視」という現象があるが、それなのか。当
時の私は、自分自身を、ベン・ハーと同一視することによって、架空の世界の自分に酔いしれ
た。それで今、そういう現象が起きている。多分?


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●今年は、まだ2か月もある!

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「もう、12月! 今年も、あっという間に
終わってしまった」「年齢とともに、1年が
過ぎるのが、速くなる」と、感じている人は
多いはず。

しかし、待った!

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 「もう、12月! 今年も、あっという間に終わってしまった」「年齢とともに、1年が過ぎるの
が、どんどんと速くなる」と、感じている人は多いはず。

 しかし待った! (現在)から、(過去)をみると、どんな時間でも、短く感じられる。10年前も、
20年前も、そして30年前も。記憶のメカニズムというのは、もともと、そういうもの。つまりそれ
だけで、「今年も、あっという間に終わってしまった」と、決めてかかってはいけない。

もっと大切なことは、(過去)から(現在)をみること。「あのときからみると、今は、どうか?」と。
そのとき、「もう、あれから10年もすぎた」「20年もすぎた」と思えるようなら、その人の人生
は、充実していたことになる。つまり、人生の充実度は、(過去)のある時点から、(現在)をな
がめて、判断する。

 わかりやすい一例として、同窓会をあげてみよう。同窓会というのは、周期的に、何年かおい
て開かれることが多い。そのため、(過去の時点)を定めるのに、最適である。たとえば、こん
なケースを考えてみよう。

 あなたは久しぶりに同窓会に出たとする。そのとき、だれかが、「5年ぶりね」と言ったとす
る。つまりあなたは、5年ぶりに、同窓会に出たとする。

 そのとき、「あのときから、たった5年しか、たっていないのか」と思えるようであれば、あなた
の人生は、その5年間を、充実して生きたことになる。つまりその瞬間、あなたは(過去)のある
時点を基準に、(現在)をみていることになる。

 私も先日、郷里の従兄弟(いとこ)会に出てみた。6年ぶりの再会である。そのときのこと。み
なは、「もう6年になるんですか」と、驚きあっていたが、私は、少しちがった感じ方をしていた。
「この6年間に、いろいろあったなあ」と。そしてその瞬間、「あれからまだ、6年しかたっていな
いのか」と思った。

 つまり6年前の、そのときの(過去)を基準にして、(現在)という今をみると、その間に、ぎっし
りと思い出がつまっているように感じた。こういう例は、多い。

 たとえば何かの拍子に、昔、教えたことのある生徒を、思い出したとする。A君ならA君でよ
い。(現在)という今から思い出してみると、A君を教えたのが、つい昨日のことのように感ず
る。

 しかし今度は、そのA君に視点を移して、そのA君が、現在、40歳であることを知ると、その
間に、ぎっしりと思い出が詰まっているのを感ずることがある。ときには、「よくもまあ、私も、こ
んな長い年月を、無事、生きてこられたものだ」と思うさえある。

 ……と、少し、話がわかりにくくなってきたが、時の流れは、(現在)から(過去)をみるだけ
で、判断してはいけないということ。(過去)から(現在)をみて判断する。そしてそのとき、ズッシ
リとした重みを感ずれば、その人の人生は充実していたということになる。そうでなければ、そ
うでない。

 従兄弟会に話を戻すが、ここにも書いたように、みなは、「もう6年になるんですか」と、時の
流れの速さに驚きあっていた。しかし私は、そうではなかった。その6年という短い年月の間
に、ぎっしりと思い出が詰まっているのを感じた。その間に、いろいろあった。その6年を、10
年分、20年分にして生きてきたように感じた。そのため、前回の従兄弟会を、10年前、20年
前のできごとのように感じた。

 だから「あれからまだ、6年しかたっていないのか」と驚いた。

 さて、もうすぐ、今年も終わる。「今年も、あっという間に終わった」という感覚もないわけでは
ない。しかしその一方で、だれかに、「林、この1年間のことを話してくれ」と頼まれたら、私は、
多分、こう答えるだろう。「いったい、何から、話せばいいのか」と。(過去)から(現在)をみると
いうことは、そういうことをいう。

 そう言えば、三男が少し前、「ぼくは、1日を、1年のように長く感ずる」と、BLOGに書いてい
た。私も、学生時代、同じように思い、同じように感じたことがある。メルボルン大学にいたころ
である。

 そのとき私は、日記にこう書いた。「ここでの1日は、金沢での学生時代の1年のように感ず
る」と。それは決して、言葉の文(あや)で、そう書いたのではない。本当に、そう感じた。本当
に、1日を、1年のように長く感じた。だから、そう書いた。

 今では、1日を1年のように長く感じながら生きるということは、もう望むべくもないが、先日、
安倍総理大臣が、同じようなことを言っていたのには、驚いた。「総理大臣に就任してからとい
うもの、1日を、1年のように長く感じている」と。

 その話を聞いたとき、私は、心底、安倍総理大臣を、うらやましく思った。50歳を過ぎても、
生き方によっては、そういうふうに感じながら生きることができる人もいるのだなあ、と。もし今
の私が、1日を、1年のように長く感ずるほど、充実した日々を送ることができたとしたら、1年
を、365年にして生きることができる。

 時は2006年10月28日。「今年も、あと2か月しかない」ではなく、「まだ、2か月もある」と考
える。

 さあ、残りの2か月を、がむしゃらに生きてやるぞ! 1日を2日分にして! 1週間を2週間
分にして! 1か月を2か月分にして!
(10月28日、私の誕生日に記す)

【鉄則】

(1)今日というより、今、この瞬間にできることは、決して、あと回しにしない。
(2)したいこと、楽しいことは、何でも、先手、先手で進める。
(3)つねに新しいことにチャレンジしていく。ムダになるとか、ならないとか、そういうことは、考
えない。結果は、つねにあとから、ついてくる。


【付記】

 たった今、アメリカに住む二男から、電話があった。孫の誠司が、電話口の向こうで、「♪Ha
ppy Birthday」を歌ってくれた。「誕生日なんて、クソ食らえ」と思っていたが、しかしうれしか
った。

 ハハハ、私も、ジジバカの仲間入り!


++++++++++++++++++

ここまで書いて、3年前に書いた
原稿を思い出しましたので、再掲載
します。

++++++++++++++++++

●SZさんへ、

今日、リンゴの木を植えることだ!

 このところ、反対に読者の方に励まされることが、多くなった。一生懸命、励ましているつもり
が、逆に私が励まされている? 今朝(3月16日)も、SZさんから、そういうメールをもらった。
「先生は、リンゴの木を植えていますよ」と。3月15日号のマガジンで、つぎのように書いたこと
について、だ。

「ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。1901年生まれというから、今、生きていれば、1
02歳ということになる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。」

 「二十五時」は、角川書店や筑摩書房から、文庫本で、翻訳出版されている。内容は、ヨハ
ン・モリッツという男の、収容所人生を書いたもの。あるときはユダヤ人として、強制収容所に。
またあるときは、ハンガリア人として、ルーマニア人キャンプに。また今度は、ドイツ人として、
ハンガリア人キャンプに送られる。そして最後は、ドイツの戦犯として、アメリカのキャンプに送
られる……。

 人間の尊厳というものが、たった一枚の紙切れで翻弄(ほんろう)される恐ろしさが、この本
のテーマになっている。それはまさに絶望の日々であった。が、その中で、モリッツは、「今日、
リンゴの木を植えることだ」と悟る。

 ゲオルギウは、こうも語っている。「いかなる不幸の中にも、幸福が潜んでいる。どこによいこ
とがあり、どこに悪いことがあるか、私たちはそれを知らないだけだ」(「第二のチャンス」)と。
たいへん参考になる。

 もっとも私が感じているような絶望感にせよ、閉塞(へいそく)感にせよ、ゲオルギウが感じた
であろう、絶望感や閉塞感とは、比較にならない。明日も、今日と同じようにやってくるだろう。
来年も、今年と同じようにやってくるだろう。そういう「私」と、明日さえわからなかったゲオルギ
ウとでは、不幸の内容そのものが、違う。程度が、違う。が、そのゲオルギウが、『どんなときで
も、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっていても、今日、
リンゴの木を植えることだ』と。

 私も、実はSZさんに励まされてはじめて、この言葉のもつ意味の重さが理解できた。「重さ」
というよりも、私自身の問題として、この言葉をとらえることができた。もちろんSZさんにそう励
まされたからといって、私には、リンゴの木を植えているという実感はない。ないが、「これから
も、最後の最後まで、前向きに生きよう」という意欲は生まれた。

SZさん、ありがとう! 近くそのハンガリーへ転勤でいかれるとか、どうかお体を大切に。ゲオ
ルギウ(Constantin Virgil Gheorgiu) は、ヨーロッパでは著名な作家ですから、また耳にされる
こともあると思います。「よろしく!」……と言うのもへんですが、私はそんなうような気持ちでい
ます。(ただしもともとは左翼系の作家ですから、少し、ご注意くださいね。)
(030316)


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同じころ書いた原稿を、もう1つ。

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●おとなの夢

 ある講演会で、「子どもの夢を伸ばすのは、親の役目」と話した。それについて、「おとなの夢
は、どう伸ばせばよいか」という質問をもらった。

 ……が、私は、この質問に、頭をかかえてしまった。第一、そういう視点で、ものを考えたこと
がない。

 私たちの世界には、内政不干渉という、大原則がある。かりに子どもに問題があるとしても、
親の側から質問があるまで、それについて、とやかく言うことは、許されない。わかっていても、
わからないフリをして、親や子どもと接する。

 子どもに対してですら、そうなのだから、おとなである親に対しては、なおさらである。たとえば
レストランで、タバコを吸っている人がいたとしても、「タバコをやめたほうがいい」などとは、言
ってはならない。言う必要も、ない。それこそ、「いらぬお節介(せっかい)」というもの。

 そういう意味で、「おとなの指導」については、どこか、タブー視してきた。

 それに、もう一つの理由、では、私自身はどうなのかということ。私には、夢があるのか。また
その夢を、自分で育てているのか、と。

●私の夢

私も40歳をすぎるころから、自分の限界を、強く感ずるようになった。「まだ、何かができるぞ」
という思いが残っている一方で、「もうだめだ」という思いが、強くなった。

いくら本を出しても、私の本は、売れない。たいてい初版だけで、絶版。二刷、三刷と増刷した
本など、数えるほどしかない。

それだけではない。 
 
 数年前、一度、東京のMテレビで、一週間にわたって、ドクターの海原J氏と、都立大学の宮
台S氏と、対談したことがある。一応、たがいに議論したつもりだが、あとで送られてきたビデ
オを見て、驚いた。私の意見のほとんどは、カットされていた。そして私は、どこか司会者のよ
うに、仕立てられていた。

 海原氏にしても、宮台氏にしても、中央で活躍している著名人である。「やはり、地方にいた
のではダメだ」と、そのときほど、私は強く思い知らされたことはない。

 また地元のテレビ局で、4回にわたって、「T寺子屋」という番組に出させてもらったことがあ
る。しかし視聴率は、最低だった。(視聴率にも、ひかからないほど、低かったとか……。)

 挫折することばかりだった。たとえば講演会にしても、東は大井川、西は名古屋を越えると、
集まりは、極端に悪くなる。ときには、予定人数の、30%とか、40%とかになる。あるいは、そ
れ以下になることもある。主催者は、「申しわけありません」とあやまるが、本当にあやまりたい
のは、むしろ、私のほうだ。

 で、このところ、もう夢は捨てた。夢をもてばもつほど、その挫折感が大きい。

 そんなわけで、いつしか私は、スティーブンソンの残した言葉で、自分を支えるようになった。

 『我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むことである』と。

●英語の「ドリーム」

夢を英語では、「ドリーム」という。で、日本語の「夢」のように、よく外国の友だちに、「ぼくの夢
はね……」と、私は話す。しかしそういうとき、外国の友だちは、「夢?」と、よく聞きかえす。

 少し、言葉のニュアンスが、ちがうようだ。

 たとえばあのM・R・キング牧師は、「私は夢を見た……」と、演説をした。そのときも、キング
牧師は、「夢を見た」とは言ったが、「それが夢である」とは、言っていない。日本語でいう「夢」
というのは、英語では、「希望(Hope)」のことらしい。

 そこでネットサーフィンしながら、イギリスのあちこちのサイトをのぞいてみた。

 カール・サンバーグ(Carl Sandburg・詩人)という人は、こう言っている。

 「最初は、すべて夢から始まる」(Nothing happens unless first a dream.)と。

 このばあいも、「夢」というのは、私たちが眠っているときに見るような、あやふやな「映像」を
いう。

 だからやはり、つまり国際的な言い方をすれば、「夢」と言うのではなく、「希望」と言うべき
か。

●おとなの希望

 「明日は今日より、よくなるだろう」という期待が、人間を、前向きに、引っぱっていく。またそ
の期待が、あれば、人生も楽しい。困難や苦労を、乗り越えることができる。

 しかし反対に、生活が、防衛的になると、自分を支えるだけで、精一杯。さらに、「明日が、今
日より悪くなるだろう」とわかれば、生きていくことさえ、つらくなる。しかし、今、ほとんどの人に
とって、ほとんどのばあい、みな、そうではないのか。

 「幸福だ」と実感するときなど、一か月のうち、何日あるだろうか。その何日のうち、何時間、
あるだろうか。さらにその何時間のうち、何分、あるだろうか。

 否定的なことを書いたが、人生というのは、もともと、そういうもの? またそういう前提で、つ
きあったほうが、気が楽になる。言いかえると、夢にせよ、希望にせよ、それはいわば、馬の前
にぶらさげた、ニンジンのようなものかもしれない。

 いつまでたっても、馬(私たち)は、ニンジン(希望)にたどりつくことはできない。

 が、それでも走りつづける。同じく、カール・サンバーグは、こうも言っている。

 「私は、理想主義者だ。今、どこへ向って歩いているかわからない。しかしどこかへ行く途中
にいる」(I am an idealist: I don't know where I'm going, but I'm on my w
ay.)と。

 しかし、こうも言える。

 夢にせよ、希望にせよ、それは向こうからやってくるものではない。自分で、つかまえるもの
だ、と。さらにあえて言うなら、希望とは、その瞬間において、やりたいことがあること。またそ
れに向って、前向きに取り組むことができること、ということになるのか。

 いくらがんばっても、手に入れることができないとわかっていても、馬(私たち)は、それを手
に入れるために、前に進むしかない。まさに「♪届かぬ星に届く」と歌った、「ラマンチャの男(ド
ンキホーテ)」の心境かもしれない。つまり、それが生きるということになる。

●子どもの夢を育てる

 講演の中で、たしかに私は、そう言った。

 しかしそれは、「自己同一性(アイデンティティ)」の問題として、そう言った。子どもの役割形
成の大切さを話し、そのために、「夢を育てる」と。

 このことは、反対の立場で考えてみると、よくわかる。たとえばあなたがやることなすこと、だ
れかが、あなたの横にいて、「それなダメだ」「これはダメだ」と言ったら、あなたはやる気をなく
すだろう。

 さらに夢や希望をもっても、「そんなのはダメだ」と言ったら、あなたは生きる目的すら、なくす
かもしれない。

 子どものばあいも、そうで、えてして、親は、無意識のうちにも、子どもの夢や希望をつぶして
しまう。たとえば「勉強しなさい」という言葉も、そうである。これも反対の立場で考えてみればわ
かる。

 あなたが、「日本を車で、一周したい」という夢をもっていたとする。そういうときだれかが、横
で、「仕事をしなさい」「お金を稼いできなさい」「出世しなさい」と言ったら、あなたは、それに納
得するだろうか。

 つまり「勉強しなさい」「いい高校へ入りなさい」と、子どもに言うのは、むしろ、子どもに役割
混乱を引きおこし、かえって子どもの夢や希望をつぶしてしまうことになる。私は、それについ
て、講演で話した。

●では、どうするか……

 私たちは、どうやって、自分の夢や希望を育てたらよいのか。もっとわかりやすく言えば、私
たちは、何をニンジンとして、前に向って走っていけばよいのか。

 これはあくまでも、私のばあいだが、今のこの時点での、私の夢は、「マガジンを1000号ま
で、つづける」こと。

 最初は、読者の数を目標にしたこともある。「500人を目標にしよう」と。しかしすぐ、私は、そ
れがまちがっていることに気づいた。読者が、500人になるか、1000人になるかは、あくまで
も結果であって、目標ではない。

 それに読者の数を気にすると、どうしても、ものの書き方が迎合的になる。コビを売るように
なる。それに電子マガジンの特徴として、仮に、500人になっても、1000人になっても、その
実感が、まったくない。もちろん、それで利益になることもない。

 ただ、励みにはなる。実際、毎回、少しずつでも読者がふえていくのを知ると、うれしかった。
それは、ある。しかしそれは、夢でも、希望でもない。

 しかし「1000号までつづける」というのは、ここでいう夢になる。2日おきに発行しても、200
0日。約5年5か月! その間、私は、前に向って、歩きつづけることができる。その先に、何
があるか、私にもわからない。しかしそれでも、私は前に向って歩きつづけることができる。

 そう、それこそが、まさしく私が、自分で見つけた、ニンジンということになる。

【質問を寄せてくれた方へ】

 ご質問をいただいて、私も考えてしまいました。私はいつも、「おとな」の視点から、「子どもの
世界」をながめていました。しかし結局は、「子ども」イコール、「私」なのですね。

 私は講演の中で、「いい高校へ入る」「いい大学へ入る」というのは、もう「夢」ではないという
ような話をしました。

 昔は、「出世しろ」「博士になれ」「大臣になれ」というのが、「夢」ということになっていました。
親にも、そして学校の先生たちにも、いつも、そう言われました。しかしそれは、あくまでも、「結
果」であって、「夢」ではないのですね。

 たとえば今の子どもたちは、「有名になりたい」とか、「お金もちになりたい」とか、言います。し
かし「有名になる、ならない」は、あくまでも結果。またお金があるとしても、「では、そのお金で
どうするのか」という部分がなければ、ただの紙くずです。

 つまり私たち、おとながいう「夢」とは、結局は、私たちの「生きザマ」の問題ということになりま
す。さらにもっと言えば、「なぜ、私たちが、ここに生きているか」という問題にまで、つながって
しまいます。「夢」というのは、つまりは、「人生の目標」ということにもなるからです。

 だから、考えてしまいました。で、その結果、私も、ふと気づきました。私には、夢があるか、
とです。

 もちろんここにも書いたように、「夢」らしきものはあります。小さな夢です。「1000号までつ
づける」といっても、その気にさえなれば、だれにだってもてる夢です。あるいは、夢と言えるよ
うなものではないかもしれません。今の私は、そういう夢に、しがみついているだけかもしれま
せん。だって、ほかに、何もありませんから……。

 ただ願わくは、あとは、私の3人の息子たちが、それぞれ独立して、幸福な生活をするように
なってくれることです。あのクモは、自分の体を子どもたちに食べさせて、その生涯を終えると
いうことですが、今の私の心境としては、それに近いものです。

 こんな回答が、もちろんあなたのご質問の答にはならないことは、よく知っています。しかし、
何かの参考にしていただければ、うれしいです。では、今日は、これで失礼します。
(031112)

●「どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ」(「二十五時」・ゲオルギウ・ルーマニアの作家・19
01年生まれ)

++++++++++++++++

この春に書いた原稿を、ここに
添付します。「希望」について
書いたつもりです。

3年前、私は、初老性の何とかで、
何かと、落ちこんでばかりいました。
そのころ書いた原稿なので、どこか
暗いです。
(03年)

++++++++++++++++

●春

 私のばあい、春は花粉症で始まり、花粉症で終わる。……以前は、そうだった。しかしこの8
年間、症状は、ほとんど消えた。最初の1週間だけ、つらい日がつづくが、それを過ぎると、花
粉症による症状が、消える。……消えるようになった。

 一時は、杉の木のない沖縄に移住を考えたほど。花粉症のつらさは、花粉症になった人でな
いと、わからない。そう、何がつらいかといって、夜、安眠できないことほど、つらいことはない。
短い期間なら、ともかくも、それが年によっては、2月のはじめから、5月になるまでつづく。そ
のうち、体のほうが参ってしまう。

 そういうわけで、以前は、春が嫌いだった。2月になると、気分まで憂うつになった。しかし今
は、違う。思う存分、春を楽しめるようになった。風のにおいや、土や木のにおい。それもわか
るようになった。ときどき以前の私を思い出しながら、わざと鼻の穴を大きくして、息を思いっき
り吸い込むことがある。どこかに不安は残っているが、くしゃみをすることもない。それを自分で
たしかめながら、ほっとする。

 よく人生を季節にたとえる人がいる。青年時代が春なら、晩年時代は、冬というわけだ。この
たとえには、たしかに説得力がある。しかしふと立ち止まって考えてみると、どうもそうではない
ような気がする。

 どうして冬が晩年なのか。晩年が冬なのか。みながそう言うから、私もいつしかそう思うように
なったが、考えてみれば、これほど、おかしなたとえはない。人の一生は、80年。その80年
を、一年のサイクルにたとえるほうが、おかしい。もしこんなたとえが許されるなら、青年時代
は、沖縄、晩年時代は、北海道でもよい。あるいは青年時代は、富士山の三合目、晩年時代
は、九合目でもよい。

 さらに、だ。昔、オーストラリアの友人たちは、冬の寒い日にキャンプにでかけたりしていた。
今でこそ、冬でもキャンプをする人はふえたが、当時はそうではない。冬に冷房をかけるような
もの。私は、友人たちを見て、そんな違和感を覚えた。

 また同じ「冬」でも、オーストラリアでは、冬の間に牧草を育成する。乾燥した夏に備えるため
だ。まだある。砂漠の国や、赤道の国では、彼らが言うところの「涼しい夏」(日本でいう冬)の
ほうが、すばらしい季節ということになっている。そういうところに住む友人たちに、「ぼくの人生
は、冬だ」などと言おうものなら、反対に「すばらしいことだ」と言われてしまうかもしれない。

 が、日本では、春は若葉がふき出すから、青年時代ということになるのだが、何も、冬の間、
その木が死んでいるというわけではない。寒いから、休んでいるだけだ。……とまあ、そういう
言い方にこだわるのは、私が、晩年になりつつあるのを、認めたくないからかもしれない。自分
の人生が、冬に象徴されるような、寒い人生になっているのを認めたくないからまもしれない。

 しかし実際には、このところ、その晩年を認めることが、自分でも多くなった。若いときのよう
に、がむしゃらに働くということができなくなった。当然、収入は減り、その分、派手な生活が消
えた。世間にも相手にされなくなったし、活動範囲も狭くなった。それ以上に、「だからどうな
の?」という、迷いばかりが先に立つようになった。

 あとはこのまま、今までの人生を繰りかえしながら、やがて死を迎える……。「どう生きるか」
よりも、「どう死ぬか」を、考える。こう書くと、また「ジジ臭い」と言われそうだが、いまさら、「どう
生きるか」を考えるのも、正直言って、疲れた。さんざん考えてきたし、その結果、どうにもなら
なかった。「がんばれ」と自分にムチを打つこともあるが、この先、何をどうがんばったらよいの
か!

 本当なら、もう、すべてを投げ出し、どこか遠くへ行きたい。それが死ぬということなら、死ん
でもかまわない。そういう自分が、かろうじて自分でいられるのは、やはり家族がいるからだ。
今夜も、仕事の帰り道に、ワイフとこんな会話をした。

「もしこうして、ぼくを支えてくれるお前がいなかったら、ぼくは仕事などできないだろうね」
 「どうして?」
 「だって、仕事をしても、意味がないだろ……」
 「そんなこと、ないでしょ。みんなが、あなたを支えてくれるわ」
 
「しかし、ぼくは疲れた。こんなこと、いつまでもしていても、同じことのような気がする」
 「同じって……?」
 「死ぬまで、同じことを繰りかえすなんて、ぼくにはできない」
 「同じじゃ、ないわ」
 
「どうして?」
 「だって、5月には、二男が、セイジ(孫)をつれて、アメリカから帰ってくるのよ」
 「……」
 「新しい家族がふえるのよ。みんなで楽しく、旅行もできるじゃ、ない。今度は、そのセイジが
おとなになって、結婚するのよ。私は、ぜったい、その日まで生きているわ」

 セイジ……。と、考えたとたん、心の中が、ポーッと温かくなった。それは寒々とした冬景色の
中に、春の陽光がさしたような気分だった。

 「セイジを、日本の温泉に連れていってやろうか」
 「温泉なんて、喜ばないわ」
 「じゃあ、ディズニーランドに連れていってやろう」
 「まだ一歳になっていないのよ」
 「そうだな」と。

 ゲオルギウというルーマニアの作家がいる。1901年生まれというから、今、生きていれば、
102歳になる。そのゲオルギウが、「二十五時」という本の中で、こう書いている。

 『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅうえん)するとわかっ
ていても、今日、リンゴの木を植えることだ』と。

 私という人間には、単純なところがある。冬だと思えば、冬だと思ってしまう。しかしリンゴの
木を植えようと思えば、植える。そのつど、コロコロと考えが変わる。どこか一本、スジが通って
いない。あああ。

 どうであるにせよ、今は、春なのだ。それに乗じて、はしゃぐのも悪くない。おかげで、花粉症
も、ほとんど気にならなくなるほど、楽になった。今まで、春に憂うつになった分だけ、これから
は楽しむ。そう言えば、私の高校時代は、憂うつだった。今、その憂うつで失った部分を、取り
かえしてやろう。こんなところでグズグズしていても、始まらない。

 ようし、前に向かって、私は進むぞ! 今日から、また前に向かって、進むぞ! 負けるもの
か! 今は、春だ。人生の春だ! 
(030307)

【追記】「青春」という言葉に代表されるように、年齢と季節を重ねあわせるような言い方は、も
うしないぞ。そういう言葉が一方にあると、その言葉に生きザマそのものが、影響を受けてしま
う。人生に、春も、冬もない。元気よく生きている毎日が、春であり、夏なのだ!


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1621)

【4つの心の物語】(未完成の講演原稿です。)

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地元の入野中学校区での講演会まで、あと
1か月になった。

昨日から、その講演用の原稿を書き始めた。
が、うまく、はかどらない。

おとといの講演会が、失敗だったこともある。
野球でいえば、三打席、ノーヒットで終わった
感じ。

どこか気分が重い。

入野中学校区での講演会だけは、失敗したくない。
ホームランなど、もとから期待していないが、
空振りの三振だけは、したくない。

全力で、取り組むしかない。

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とりあえず……ということでもないが、
今日、その「柱(プロット)」を考えて
みた。

これから先、この原稿を何度も推敲して、
当日に間に合わせたい。

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【4つの心の物語】

(1)子育ての学習(親を引きつぐ子どもたち)******************

●親像のない親たち

 「娘を抱いていても、どの程度抱けばいいのか、不安でならない」と訴えた父親がいた。「子ど
もがそこにいても、どうやってかわいがればいいのか、それがわからない」と訴えた父親もい
た。

あるいは子どもにまったく無関心な母親や、子どもを育てようという気力そのものがない母親す
らいた。また二歳の孫に、ものを投げつけた祖父もいた。このタイプの人は、不幸にして不幸
な家庭を経験し、「子育て」というものがどういうものかわかっていない。つまりいわゆる「親像」
のない人とみる。

●チンパンジーのアイ

 ところで愛知県の犬山市にある京都大学霊長類研究所には、アイという名前のたいへん頭
のよいチンパンジーがいる。人間と会話もできるという。もっとも会話といっても、スイッチを押
しながら、会話をするわけだが、そのチンパンジーが98年の夏、一度妊娠したことがある。

が、そのとき研究員の人が心配したのは、妊娠のことではない。「はたしてアイに、子育てがで
きるかどうか」(新聞報道)だった。人工飼育された動物は、ふつう自分では子育てができな
い。チンパンジーのような、頭のよい動物はなおさらで、中には自分の子どもを見て、逃げ回る
のもいるという。いわんや、人間をや。

●子育ては学習によってできる

 子育ては、本能ではなく、学習によってできるようになる。つまり「育てられた」という体験があ
ってはじめて、自分でも子育てができるようになる。しかしその「体験」が、何らかの理由で十分
でないと、ここでいう「親像のない親」になる危険性がある。

……と言っても、今、これ以上のことを書くのは、この日本ではタブー。いろいろな団体から、
猛烈な抗議が殺到する。先日もある新聞で、「離婚家庭の子どもは離婚率が高い」というような
記事を書いただけでその翌日、10本以上の電話が届いた。「離婚についての偏見を助長す
る」「離婚家庭の子どもがかわいそう」「離婚家庭の子どもは幸せな結婚はできないのか」な
ど。「離婚家庭を差別する発言で許せない」というのもあった。

私は何も離婚が悪いとか、離婚家庭の子どもが不幸になると書いたのではない。離婚が離婚
として問題になるのは、それにともなう家庭騒動である。この家庭騒動が子どもに深刻な影響
を与える。そのことを主に書いた。たいへんデリケートな問題であることは認めるが、しかし事
実は事実として、冷静に見なければならない。

●原因に気づくだけでよい

 これらの問題は、自分の中に潜む「原因」に気づくだけでも、その半分以上は解決したとみる
からである。つまり「私にはそういう問題がある」と気づくだけでも、問題の半分は解決したとみ
る。

それに人間は、チンパンジーとも違う。たとえ自分の家庭が不完全であっても、隣や親類の家
族を見ながら、自分の中に「親像」をつくることもできる。ある人は早くに父親をなくしたが、叔
父を自分の父親にみたてて、父親像を自分の中につくった。また別の人は、ある作家に傾倒し
て、その作家の作品を通して、やはり自分の父親像をつくった。

●幸福な家庭を築くために

 ……と書いたところで、この問題を、子どもの側から考えてみよう。するとこうなる。もしあなた
が、あなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら、あなたは
今、あなたの子どもに、そういう家庭がどういうものであるかを、見せておかねばならない。い
や、見せるだけではたりない。しっかりと体にしみこませておく。

そういう体験があってはじめて、あなたの子どもは、自分が親になったとき、自然な子育てがで
きるようになる。と言っても、これは口で言うほど、簡単なことではない。頭の中ではわかってい
ても、なかなかできない。だからこれはあくまでも、子育てをする上での、一つの努力目標と考
えてほしい。

 ……が、これだけではない。親から子どもへと、(子育て)は連鎖していくが、その過程で、子
どもは、親から、善と悪の価値基準まで、引きついでしまう。

●4割の善と4割の悪 

社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪が
ある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世
界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、
「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だ
ってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも
しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話
が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないと
いうのなら、あなたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたは
どれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、
君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。「うちの娘は、そういうことはしない
よ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が
悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。そ
れが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

●やがて親が、評価される

 やがていつか、あなたという親も、子どもに評価される時代がやってくる。つまり対等の、1人
の人間として、子どもに評価されるときがやってくる。

 そのとき、あなたの子どもが、あなたを、「すばらしい親だった」と評価すれば、それでよし。し
かしそうでなければ、そうでない。

 そのときのためというわけではないが、あなたは1人の人間として、あなたも前に進まなけれ
ばならない。

(付記)

●なぜアイは子育てができるか

 一般論として、人工飼育された動物は、自分では子育てができない。子育ての「情報」そのも
のが脳にインプットされていないからである。このことは本文の中に書いたが、そのアイが再び
妊娠し、無事出産。そして今、子育てをしているという(01年春)。

これについて、つまりアイが子育てができる理由について、アイは妊娠したときから、ビデオを
見せられたり、ぬいぐるみのチンパンジーを与えられたりして、子育ての練習をしたからだと説
明されている(報道)。しかしどうもそうではないようだ。アイは確かに人工飼育されたチンパン
ジーだが、人工飼育といっても、アイは人間によって、まさに人間の子どもとして育てられてい
る。

アイは人工飼育というワクを超えて、子育ての情報をじゅうぶんに与えられている。それが今、
アイが、子育てができる本当の理由ではないのか。


(2)親子のきずな(過去を引きずるこどもたち)*****************

●信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

●基本的信頼関係

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

●一貫性

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

★「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
★子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
★きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)


(3)心の抵抗力(夢、希望、そして未来へ、外に向かう子どもたち)********

●アイデンティティ

 自己同一性のことを、アイデンティティという。(もともとは、アイデンティティを、「自己同一性」
と翻訳した。)

 自己同一性とは、その言葉どおり、自分の同一性をいう。

 たとえば「私」。私の中には、私であって、私である部分と、私でない部分がある。その私であ
って私である部分が、本来の「私」。その私が、そのままストレートに、外の世界へ出てくれば、
よし。そうでないときに、いろいろな問題が起きる。

 (あるいは問題があるから、ストレートに出てこないということにもなる。)

 その「私」の中でも、他人と比較したとき、きわだって、私らしい部分が、ある。これを、「コア
(核)・アイデンティティ」という。

●子どものつかみどころ

 しかし、自分でそれを知るのは、むずかしい。私がどんなアイデンティティをもっているかとい
うことを知るためには、一度、視点を、自分の外に置かねばならない。他人の目をとおして、自
分を見る。ちょうど、ビデオカメラか何かに、自分の姿を映して見るように、である。

 そこで、反対に、つまり自分のアイデンティティを知るために、他人のアイデンティティを、観
察してみる。

 子どものばあい、このアイデンティティのしっかりしている子どもは、「この子は、こういう子ど
もだ」という輪郭(りんかく)が、はっきりしている。「こうすれば、この子は、喜ぶだろう」「怒るだ
ろう」「こう反応するだろう」ということが、わかりやすい。

 この輪郭というか、つかみどころを、「コア(核)」という。

 そうでない子どもは、輪郭が、どこか軟弱で、わかりにくい。つかみどころがなく、予想がつか
ない。何を考えているか、わからない。

●たとえば……

 たとえばある子ども(年中児)が、ブランコを横取りされたとする。そのとき、その横取りされた
子どもが、横取りした子どもに向かって、「おい、ぼくが乗っているではないか!」「どうして、横
取りするのだ!」と、一喝する。ばあいによっては、取っ組みあいのけんかになるかもしれな
い。

 そういう子どもは、わかりやすい。心の状態と、外に現れている様子が、一致している。つま
り、自己の同一性が守られている。

 が、このとき、中には、柔和な笑みを浮かべたまま、「いいよ」「貸してあげるよ」と言って、ブ
ランコを明け渡してしまう子どもがいる。

 本当は貸したくない。不愉快だと思っている「私」を、その時点で、ねじまげてしまう。が、表面
的には、穏やかな顔をして、明け渡す。……つまり、ここで本来の「私」と、外に現れている
「私」が、別々の私になる。不一致を起こす。

 一時的な不一致や、部分的な不一致であれば、問題ではない。しかしこうした不一致が日常
的に起こるようになると、外から見ても、いったいその子どもはどんな子どもなのか、それがわ
からなくなる。

 ときには、虚飾と虚栄、ウソとごまかしで、身を包むようになる。世間体ばかりを気にしたり、
見栄や体裁ばかりを、とりつくろうようになる。

 この時点においても、意図的にそうしているなら、それほど、問題はない。たとえばどこかの
商店主が、客に対して、そうする、など。しかし長い時間をかけて、それを日常的に繰りかえし
ていると、その人自身も、自分でわけがわからなくなってしまう。自己の同一性が、ここで大きく
乱れる。

●「私」を知る

 そこで問題は、私(あなた)自身は、どうかということ。

 私は私らしい生き方をしているか。私はありのままの私で、生きているか。本当の私と、今の
私は、一致しているか。さらに「私は私」という、コアを、しっかりともっているか。

 くだらないことだが、私は、そのアイデンティティの問題に気づいた事件(?)にこんなことがあ
る。

 実は、私は、子どものころから、台風が大好きだった。台風が自分の住んでいる地方に向っ
てくるのを知ったりすると、言いようのない興奮に襲われた。うれしかった。

 しかしそれは悪いことだと思っていた。だからその秘密は、だれにも話せなかった。とくに(教
師)という仕事をするようになってからは、話せなかった。台風が近づいてくるというニュースを
聞いたりすると、一応、顔をしかめて、「いやですね」などと言ったりしていた。

 つまりこの時点で、本当の私と、表面に現れている私は、不一致を起こしていたことになる。

 が、こんなことがあった。

●すなおな心

 アメリカ人の友人が、こう言った。彼はそのとき、すでに日本に、5、6年住んでいた。私が50
歳くらいのときのことである。

 「ヒロシ、ぼくは台風が好きだよ。台風が、浜松市へくるとね、(マンションの)ベランダに椅子
を出して、それに座って台風を見ているよ。ものが、ヒューヒューと飛んでいくのを見るのは、実
に楽しいよ」と。

 私は、それを聞いて、「何〜ダ」と思った。「そういうことだったのか」と。

 そのアメリカ人の友人は、自分の心を実にすなおに表現していた。そのすがすがしさに触れ
たとき、それまでの私が、バカに見えた。私は、台風についてですら、自分の心を偽っていた。

 何でもないことだが、好きだったら、「好き」と言えばよい。いやだったら、「いやだ」と言えばよ
い。そういう「私」を、すなおに外に出していく。そしてそれが、無数に積み重なり、「私」をつくり
あげていく。

 それがアイデンティティである。「私」である。

●さらけ出す

 さて、あなたはどうだろうか? 一度、あなた自身を、客観的に見つめてみるとよい。なお、こ
のアイデンティティが、乱れると、その人の情緒は、きわめて不安定になる。いろいろな情緒障
害、さらには精神障害の遠因になる。よいことは何もない。

 そうであっても、そうでなくても、自分をすなおに表現していく。それはあなた自身の精神生活
を守るためにも、とても重要なことである。

 さあ、あなたも今日から、勇気をもって、「YES」「NO」を、はっきりと言ってみよう。がまんす
ることはない。とりつくろうことはない。どこまでいっても、私は私だ。あなたはあなただ。

●心理学でいう、アイデンティティ 

 心理学でいう「アイデンティティ」とは、(私らしさ)の追求というよりは、(1)「自分は、他者とは
ちがうのだ」という独自性の追求、(2)「私にはさまざまな欲求があり、多様性をもった人間で
ある」という統合性の容認、(3)「私の思想や心情は、いつも同じである」という一貫性の維持
をいう。

 こうしたアイデンティティを、自分の中で確立することを、「アイデンティティの確立」という(エリ
クソン)。

 ただ注意しなければならないのは、こうしたアイデンティティは、他者とのかかわりの中でこ
そ、確立できるものだということ。

 暗い一室に閉じこもり、独善、独尊の世界で、孤立することは、アイデンティティではない。
「私らしさ」というのは、あくまでも、他者あっての「私らしさ」ということになる。

【補記】

 仮にアイデンティティを確立したとしても、それがそのまま、その人の個性となって、外に現れ
るわけではない。ストレートに、そのアイデンティティが外に出てくる人もいれば、そうでない人も
いる。

 たとえば今、コップの中に、色水が入っているとする。その色水は、うすいブルー色であると
する。

 もしこのとき、コップが、無色の透明であれば、コップの外からでも、色水は、うすいブルー色
に見える。

 しかしもしコップに、黄色い色がついていたりすると、コップの中の色水は、グリーンに見える
かもしれない。

 このとき、コップの中の色水を、「真の私」とするなら、外から見える私は、「ニセの私」という
ことになる。真の私は、外に出るとき、コップの色によって、さまざまな色に変化する。

 たとえば私は、他人の目から見ると、明るく快活で、愛想のよい男に見えるらしい。しかし真
の私は、そうではない。どちらかというと、わがままで、むずかしがり屋。孤独に弱く、短気。い
つも不平、不満が、心の奥底で、ウズを巻いている。……というのは、言い過ぎかもしれない
が、少なくとも、(真の私)と、(外に出ている私)の間には、大きなギャップがある。

 真の私が入っているコップには、あまりにも、さまざまな色が混ざりすぎている。そのため、私
は、外の世界では、真の私とはちがった私に見られてしまう。

 まあ、私自身は、他人にどう見られようとかまわないが、しかし子どもを見るときは、こうした
視点をもたないと、その子どもを理解できなくなってしまうことがある。

 その子どもは、どんな色水の子どもか? そしてその子どもは、どんな色のコップに入ってい
るか? それを正しく判断しないと、その子どものアイデンティティを見失ってしまうということ。

 アイデンティティの問題には、そんな問題も含まれる。


(4)人格の完成(利己から利他へ、内へ向かう子どもたち)***********

●人格の完成度

 子どもの人格の完成度は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

●がんこ

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

●柔軟な思考性

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1622)

●田舎暮らしに一言!

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定年退職をしたあと、田舎暮らしを考え
ている人は、多いという。

しかし現実は、そんなに甘くない。

……というような番組を、昨日、
NHKテレビが、報道していた。

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 定年退職をしたあと、どこかの田舎(いなか)に移り住んで、そこで生活することを考えている
人は、多いという(NHKテレビ報道番組、10月27日)。かいま見た数字なので不正確かもし
れないが、全体の約30%の人が、そう考えているという。

 しかし現実は、そんなに甘くない。

 このあたりでも、定年退職をしたあと、都会から移り住んできた人の話を、ときどき聞く。浜名
湖の奥には、そういう人たちが集まってつくった村さえある。

 しかしその村も含めて、ほとんどが失敗している。「失敗」というのは、結局はその地域の農
村に溶けこめず、再び都会にもどることをいう。いくら自治体がラブコールを送っても、その(精
神)というか(心)は、末端の農家の人たちのところまでは、届かない。(よそ者)は、どこまでい
っても、(よそ者)。

 もちろん中には、定住に成功した人もいる。しかしそういう人はそういう人で、かなりの苦労を
している。その(苦労)という部分を乗り越えないと、田舎暮らしは、むずかしい。

 NHKテレビの報道番組では、自然のよさだけでは、都会の人を農村に呼びこむことはできな
いというようなことを言っていた。ほかに、医療の問題もある。

 しかし本当の問題は、(生きがい)である。いくら近くに釣りに最適な海があったとしても、毎
日、魚釣りばかりしているわけにはいかない。畑で野菜をつくったとしても、それがそのまま(生
きがい)につながるかどうかは、疑わしい。

 大切なことは、その地域の人たちの交流であり、触れあいということになる。もっと言えば、
(心の交流)ということになる。(生きがい)も、そこから生まれる。それがないまま、プランター
から、畑へ、自分を植えかえるようなつもりで、移り住んでも、うまくいくはずがない。

 このことは、私自身も、経験している。

 私は現在の山荘を建てるまでに、6年もの月日を費やした。毎週、土日は、山の中で作業を
繰りかえした。

 で、やっと6年目に念願の山荘を建て、そこで遊ぶようになって、今年で、12年目になる。
が、それでも、地域の人たちに溶けこむのはむずかしいと感じている。一度は、定住も考えた
が、結局は、あきらめた。

 一方、もし過疎化で悩んでいる地方の自治体が、本気で、都会からの定住者を呼びこもうと
考えているなら、都会と田舎の中間的な「村」を用意したほうがよい。はっきり言えば、モダンな
別荘地のような雰囲気のある「村」である。

 たとえばアメリカにもオーストラリアにも、老人たちだけが集まってつくる村がある。しかしその
ほとんどは、まるで別荘地のように、明るくてモダンである。プールがあったり、テニスコートが
あったりする。もちろん医療施設も整っている。

それをいきなり元農家だった廃家を見せ、「ここに住んではどうですか」は、ない。そんな発想
では、都会の人たちを呼びこむことはできない。

 農家の人でさえ、見捨てた村である。都会の人たちが、少しくらいがんばったところで、住め
るようになるわけがない。だいたいにおいて、農村の人たちが、そういう人を迎え入れるわけが
ない。

 さすがにNHKの報道番組の中では言わなかったが、それには理由がある。

 あの都会人独特の、鼻もちならない優越感。その優越感で、都会の人たちは、田舎の人たち
を、「田舎者」と位置づけて、下に見る。それが、農村へ入ってくると、どうしようもなく目立つ。
それを田舎の人たちは、不愉快に思う。そういう基本的な部分が、都会の人たちには、わかっ
ていない。

 田舎に住む人たちに言わせれば、「何が、都会人だ!」となる。私の友人のN氏は、こう言っ
た。N氏の家族は、代々、長野県で、りんご栽培をしている。

 「何が頭にくるかって、日曜菜園だとか何とか言って、都会の連中が、ハイヒールをはいて、
畑をたがやしている姿ほど、頭にくるものはない」と。そこで私が理由を聞くと、こう言って、吐き
捨てた。「オレたちは、命がけで、百姓をやっている。オレたちの仕事を、あいつらは、なめて
いる!」と。

 言いかえると、もしあなたが本気で、定年退職をしたあと、田舎暮らしを考えているなら、あな
た自身がもつ、都会優越意識、さらには田舎蔑視意識を、捨てること。完全に捨てること。そう
いった意識が残っているうちは、あなたは、絶対に、田舎暮らしに溶けこむことはできない。溶
けこむ前に、そこからはじき飛ばされてしまう。

 ……というわけで、都会の人たちから見ても、また田舎の人たちから見ても、都会の人たち
が定年退職後、田舎に移り住むのは、たいへんむずかしい。そういうこと。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●11月29日号

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今日は、10月29日。
11月29日号のマガジンの予約を
入れるところ。

やっと追いついた。「追いついた」
というのは、ちょうど1か月先の
マガジンの配送予約を入れることが
できたという意味。

今月(10月)は、忙しかった。
本当に、忙しかった。

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 今日は10月29日。日曜日。自衛隊の浜松基地で、航空祭がある。あとで朝風呂を浴びた
あと、見に行ってくる(つもり)。昨日は、あのトムキャットが、私の家の上空を、何周も飛び回っ
ていた。

 ところで、10月は、忙しかった。本当に忙しかった。毎日、サーカスのように、(おかしなたと
えだが……)、時間をやりくりしていた感じ。が、何とか、終わった。前半は、オーストラリアの友
人たちの接待で、明け暮れた。後半は、集中的に講演を繰りかえした。明日(30日)も、島田
で講演をすることになっている。

 そんなわけで、今月は、原稿をあまり書くことができなかった。自分の時間をみつけることさ
え、むずかしかった。が、今は、一息。ホ〜〜〜ツという感じ。このあと、11月29日号の配信
予約を入れるつもり。やっと、追いついた。

 「追いついた」というのは、マガジンは、いつも、ちょうど1か月先に、配信予約を入れることに
している。こうすることによって、読者のみなさんに、安定的にマガジンを配信することができ
る。原油にたとえて言うなら、備蓄のようなもの。

 発行したり、しなかったりでは、読者のみなさんも不安に思うだろう。だから1か月先に、配信
予約を入れることにしている。

 が、これで作業が終わるわけではない。どこかで写真を撮ってきて、HTML版のほうに張り
つけなければならない。たまたま今日は、航空祭があるので、そこで写真を撮ってくるつもり。

 ……つまり、こうして私の一日は、始まる。今日もみなさん、おはようございます!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●韓国のスパイ疑獄事件

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韓国では、今、スパイ騒動がもちあがって
いる。何でも、「一心会」というスパイ
組織があったそうだ。

「金xxに、一心を捧げます」ということで、
「一心会」となったらしい。

が、問題は、その中の何人かが、野党の
幹部であったこと。そして現在のN政権の
中枢部の人間と、深くかかわっていたこと。

スパイ騒動が起きる直前、N政権の幹部の
1人が、辞表を提出している。韓国では、
この人物について、「スパイではなかったか」
という疑いがかけられている。

もっともN大統領自身が、「北の広報係」と
揶揄(やゆ)されているような人物である。

N大統領自身がスパイであったとしても、
私は、何も驚かない。
(10月29日記)

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 金剛山の観光客が、それまでの1500人から、10月9日に核実験を行ってから、一日平
均、800〜850人に減ったという。それでも、一日、800〜850人といえば、そこそこの観光
客ということになる。

 ちなみに浜名湖の北に、舘山寺温泉という、よく知られた観光スポットがある。現在、19軒の
ホテル、旅館が営業しているが、合計の宿泊定員は、4200人。金剛山の観光事業と、規模
はそれほどちがわないということになる。

が、この数字だけをみて、金剛山観光を考えてはいけない。金剛山観光のほうでは、通常の
観光費用のほか、98年11月に金剛山観光が始まってから、今年8月までに、K国に支払わ
れた入域料は、総額4億5152万ドルであることがわかっている。(これにはG社が、2000年
8月に、K国における金剛山観光など、7大事業に対する30年間の独占権と引き替えに、K国
に支払った5億ドルは含まれていない。)

 さらに観光客そのものを、韓国政府は、支援している。

たとえば韓国政府は、金剛山を訪れる、教師や学生を、支援している。05年度も、中高校生と
教師らの金剛山観光経費を支援する方針を決め、06年3月までだけでも、教師1万4000人
と学生2000人を対象に、49億ウォン(約5億円)が策定されている。

 まさに、韓国政府は、観光先の金剛山と、観光に行く人たちを、その双方から、両支援してい
ることになる。

 舘山寺温泉でたとえるなら、7年間で、約500億円の政府支援をし、さらに、観光客について
も、毎年、5億円を政府支援をしていることになる。つまり観光事業とは名ばかり。K国に現金
を渡すために、観光事業を隠れミノにしている!

 が、今回のスパイ摘発事件を、これらの事業の上に重ねてみると、「なるほど、そうだったの
か」と、いろいろな面で、合点がいく。

 捜査はこれからだが、進展状況によっては、N政権にとっては、致命傷ともなりかねない。そ
のせいか、政権幹部の中には、今回の捜査について、「親北政策に対する、敵対行為だ」と騒
いでいる人がいる。

 どうなろうと私たち日本人の知ったことではないが、「それにしても……」というのが、私の今
の実感である。


Hiroshi Hayashi++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1623)

●沈黙の価値のわからない者は、しゃべるな

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スペインの格言に、「沈黙の価値のわからない者は、
しゃべるな」というのがある。

その「沈黙」には、重大な意味が隠されている。

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 スペインの格言に、「沈黙の価値のわからない者は、しゃべるな」(Don't speak unless you 
can improve upon the silence. )というのがある。

 正確には、この英文は、どう訳せばよいのか。「しゃべるとしても、沈黙の価値を知った上で、
しゃべれ」ということか。要するに、「沈黙」には、しゃべること以上に、重要な意味がある。しゃ
べるとしても、その重要性を知った上で、しゃべる。

 簡単な例では、ウソがある。昔、オーストラリアの友人が、私にこう言った。「ウソをつくくらい
なら、黙っていたほうがいい」「聞かれるまで、本当のことを言う必要はない」と。

 一理ある。

 もちろん言うべきときには、言う。しかしそれも相手による。言う価値のない相手だったら、沈
黙を守ったほうがよい。たとえば少し前、私に意味のない説教をしてきた人(男性、70歳くら
い)がいた。が、その瞬間、私は、相手を見て、沈黙した。実際には、「そうですね。そのとおり
です」と言って、笑って逃げた。

 相手にしても、しかたのない人だったからである。その相手は、私の表面的な部分だけを見
て、あれこれと言った。反論することもできたが、それには、こちらの事情も話さなければなら
ない。それがめんどうだった。

 あとは、沈黙。

 つまりこうしたケースでは、ムキになって、反論する必要はない。相手が、それなりの人徳者
なら、話は別。が、そうでないなら、そっとしておいてやるのも、(思いやり)というもの。その人
には、その人なりの人生がある。その人生を支えてきた哲学(?)がある。たとえばこんな例が
ある。

 この話は、すでに何度もマガジンで取りあげたことがあるので、覚えている人もいるかもしれ
ない。

 ある女性のことだが、現在は、カナダに住んでいる。で、その女性の実の父親が危篤状態に
なったときのこと。その女性は、2人の子どもを夫に預けて、カナダから急きょ、帰国した。で、
その夜のこと。

 父親の容態がひとまず安定したので、その女性は、実家に帰って休むことにした。長旅の疲
れもあった。が、それについて、姉の義理の叔父が、(血縁関係のない、姉の義理の叔父だ
ぞ!)、その女性を責めた。

 「実の娘なら、たとえ長旅で疲れていても、寝ずの看病をするのが当たり前だ。何という娘だ」
と。

 この言葉に、その女性は、かなりのショックを受けた。私にメールで相談してきたのは、その
直後のことだった。言い忘れたが、その女性は、35歳。義理の叔父は、70歳だった。

 こういうケースのばあい、その叔父というのが、ここでいう(相手にする価値もない相手)という
ことになる。ムキになって反論したところで、意味はないし、またそれで納得して、引きさがるよ
うな相手でもない。

 それに70歳という年齢を知ると、それなりの人格者を想像する人も多いかもしれない。しか
し70歳は、70歳。実際には、加齢とともに、人格そのものが後退する人となると、ゴマンとい
る。脳みその活動がコチコチになる人というと、さらに多い。

 そういう人は、相手にしない。

 つまり沈黙を守る。言葉はきついが、相手を、サルかイヌとでも、思えばよい。私のばあい
は、即座に相手の背景を見抜き、相手にすべきかどうか、その場で判断するようにしている。
たとえば、道路で、チンピラ風の男にからまれたようなとき、など。「すみません」と言って、頭を
さげて、その場を離れる。

 つまり、それが沈黙の価値ということになる。ときには、悔しい思いをすることもあるだろう。
不愉快さが、心をふさぐこともあるだろう。が、しばらくすると、その分だけ、自分の心が広くな
ったように感ずる。そしてそれを繰りかえしていると、沈黙のもつ価値が、わかるようになる。

 しゃべるとしても、その上で、しゃべる。その価値を熟知した上で、しゃべる。

 それが「沈黙の価値のわからない者は、しゃべるな」(Don't speak unless you can improve 
upon the silence. )という格言の意味ということになる。

 この英文を直訳すると、「沈黙の上に発展したものでなければ、しゃべるな」ということにな
る。そしてその意味は、「沈黙の価値を知り、その沈黙を知り尽くしたものだけが、しゃべれ」と
いうことになる。

 まことにもって、「ナルホド」と納得できる、格言だと、私は思う。

【補記】

 二男の妻のデニーズに、さっそく、問いあわせる。

 その返事が、届いた。

Hello, Hiroshi! 

Another way of saying, "Don't speak unless you can improve upon the 
silence." might be "Don't say anything unless it's something worth 
hearing." Mindless chatter is not valuable. Silence is better. If a 
person wants to speak, he should make sure that what he says is useful 
or beneficial.

こんにちは、ヒロシ!

「Don't speak unless you can improve upon the silence.」の、もうひとつの言い方は、「それが
聞く価値のないものであるなら、何も言うな」ではないかと思います。意味のないおしゃべりは、
価値がありません。沈黙のほうが、ベターです。もし人がしゃべりたいなら、自分の言っている
ことが価値あることかどうか、あるいは相手に恩恵を与えるものであるかどうかを、確かめるべ
きです。

How are you and your family? Did you have a nice birthday? I enjoyed 
your picture at the flower park; it reminded us of when we visited in 
autumn 3 years ago.

家族のみなさんは、いかがですか。よい誕生日でしたか。あなたのフラワーパークでの写真を
楽しみました。3年前の秋、そこを訪れたのを、その写真は、思い起こさせました。

Denise

デニーズ


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●1982年

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今朝(10月30日)、Eマガの読者
が、1982人になった。

そこで1982年。

++++++++++++++++++

 私は、ずっと西暦を使っている。年号(和暦)は、めったに使わない。そのため、年号で言わ
れると、「いつのことだったかな」と思ってしまうことが、よくある。とくに困るのが、年数の計算。

 「昭和40年から、平成5年までは、何年間?」と聞かれて、すぐ答が浮かんでくる人は、年号
に、かなりなれた人とみてよい。私などは、そのつど、一度西暦になおして、計算しなければな
らない。

 しかしそれぞれの国が、それぞれの年号で、年月を表示したら、世界は、どうなるのだろう?
 よく覚えているのが、台湾へ行ったときのこと。向こうの人は、向こうの年号を使っている。い
ちいち計算しなおすのが、たいへんだった。

 それはさておき、1983年。この年の2月、日航機(JAL)が、異常操縦で、東京湾に墜落し
ている。記録によれば、「精神分裂病の機長が、逆噴射」(「20世紀・全記録」講談社)とある。
死者、24人! 「逆噴射」という言葉は、そのまま、当時の流行語になった。

 その飛行機だが、墜落すれば、ほぼ全員が死亡する。「事故率は少ないから、タクシーより
安全」という説もあるが、私は、信用していない。私も、羽田空港で、飛行機事故に遭遇してい
る。私が29歳のときのことである。

 あのとき感じた恐怖感は、今も忘れない。以後、私は、飛行機恐怖症になってしまった。が、
皮肉なもので、今、三男がその飛行機のパイロットをめざして、航空大学校に通っている。内
心では、(あくまでも内心では)、それに反対したが、しかしそのうち、すぐあきらめた。

 息子の人生は、どこまでいっても、息子のもの。私のものではない。今にして思うと、つまり生
き生きと学生生活を送っている三男の姿を見ると、「これでよかった」と思うと同時に、あのと
き、「反対」という言葉を口に出さなくてよかったと思う。

 私は、「どうせ受験するなら、本気で受験せよ」「大学を休学してでもよいから、予備校へ通
え」と忠告した。三男は、「何もそこまでしなくても……」とか、「(予備校への)学費がもったいな
い」とか言ったが、私は、自分の意見を押しとおした。「60倍」という受験倍率は、ふつうの倍
率ではない。私には、それがよくわかっていた。

 私自身も、子どものころ、パイロットにあこがれた。大空を自由に、飛んでみたかった。息子
に言わせると、「だれしも、一度はパイロットになりたいと思うものだよ」ということらしいが…
…。

 その1982年。4月には、フォークランド諸島をめぐり、アルゼンチンとイギリスが武力衝突し
ている。その前月の3月には、東京の永田町のホテル・ニュージャパンで、火災が発生。防火
設備の不備で、33人の人が命を落としている。

 映画では『E・T』が、大ヒット(6月)、東北新幹線が開通(6月)、映画俳優のイングリッド・バ
ーグマン、ヘンリー・フォンダが死去(8月)。ついで、その翌月には、ハリウッド女優から王妃に
なった、あのグレース王妃も、交通事故で死去(9月)。

イングリッド・バーグマンにしても、グレース・ケリーにしても、本当に美しい人だった。

 この浜松市でも、大事件が起きている。

 浜松市にある、航空自衛隊基地で行われた航空祭でのこと。国産の超音速機に機種を変更
したばかりのブルーインパルスが、その最中に墜落事故を起こした(12月14日)。急下降しな
がら、6機の飛行機が6方向に散るという曲技飛行中、うち一機が、地面に激突。14人が負傷
した。

 私と家族も、その航空祭に車で向かう途中、その事故を目撃している。ドンという鈍い爆発音
とともに、黒鉛がモクモクとそのあたりからわきあがったのを、覚えている。たしかあのとき、パ
イロットは、墜落直前、飛行機からパラシュートで脱出したのではなかったか。私の記憶ちがい
だったら、ごめん。

 この年、私は、満35歳。個人的には、これといって、大きな思い出はない。平凡な、どこにで
もいるような、ただの男。夫。父親。それに平凡な人生。あのころの私は、毎日、息子たちに、
何かしらのみやげを買って帰るだけが、楽しみだったような気がする。

この年、私は、満35歳になった。
 

Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1624)

●沈黙の価値(2)

++++++++++++++++++

日本では、昔から、『負けるが、勝ち』と
いう。

同じように、『沈黙は、勝ち』と覚えて
おくとよい。

相手にもよるが、とるに足りない相手な
ら、言いたいように、言わせておけば
よい。

それができる人を、度量の大きい人と
いう。

++++++++++++++++++

 近所づきあい、親類づきあいというのは、とかく、わずらわしい。子どもの親どうしのつきあい
となると、さらにわずらわしい。

 こういうときの鉄則は、ただひとつ。『負けるが、勝ち』。相手の言ったことを真(ま)に受けて、
決してムキになってはいけない。ムキになった瞬間、相手と同等のレベルの人間になったこと
を意味する。

 では、どうするか。

 『負けるが、勝ち』なら、『沈黙は、勝ち』と覚えておくとよい。沈黙を守って、その場をやりすご
す。言いたいこともあるだろう。不愉快に思うこともあるだろう。悔しい思いをすることもあるだ
ろう。しかしそこは、ぐっとがまん。

 それができる人を、度量の大きい人という。

 ところで私は、つい先日、満59歳になった。50代の終わりということだが、心理学の世界で
は、「満55歳が、ひとつの節目」と考えられている。この年齢を境に、展望性(未来に向かうエ
ネルギー)と、回顧性(過去に向かうエネルギー)が、ちょうど、交差するという。わかりやすく言
えば、未来を展望する力よりも、過去を回顧する力のほうが、強くなるということ。

 80歳をすぎても、乳幼児の医療費無料化運動に取り組んでいた女性がいた。このタイプの
女性は、展望性が強い人ということになる。反対に、ある女性(65歳くらい)は、会うたびに、仏
壇の金具をみがいてばかりいた。このタイプの女性は、回顧性が強い人ということになる。

 どちらを選ぶかは、その人の自由だが、しかしこの時期、つまり満55歳前後を境に、ほとん
どの人は、進歩することを、自ら放棄してしまう。が、人がもつ精神力というか、精神的エネル
ギーというのは、つねに補充していかないと、どんどんと減少する。

 それはたとえて言うなら、穴のあいたバケツのようなもの。加齢とともに、その穴は、ますます
大きくなる。だから人は、加齢とともに、さらに多くの情報を吸収し、さらによくものを考えなけれ
ばならない。

 が、それでも現状維持が精一杯。進歩など、もう望むべくもない。が、進歩することをやめた
とたん、その人の人格は、後退し始める。精神力は低下し、精神的エネルギーは、減少する。

 それは健康論に似ている。究極の健康法というのは、ない。健康というのは、日々の体の鍛
錬(たんれん)のみによって、維持される。鍛錬をやめたとたん、その人の健康は、低下する。

 話が脱線したが、私の年齢になると、その人が健康であるかどうか、一目(ひとめ)でわかる
ようになる。同じように、その人の精神的レベルも、一目でわかるようになる。つまり相手にす
べき人かどうか、それが一目でわかる。

 そこで沈黙論。

 相手にすべきでないとわかったら、沈黙する。これにまさる対処法はない。仮にそれでも、そ
の相手がからんできたら、適当にあしらって、その場から去る。

 時の流れは無限だが、こと個人について言えば、有限である。私にしても、平均寿命の年齢
まで生きられれば、御(おん)の字。しかしそのころには、頭もボケて、生きる屍(しかばね)とな
っているかもしれない。だから(生きる)ということになれば、あと5年か、10年。そのうち、大病
が襲ってくるかもしれない。

 だから無駄にできる時間など、ない。『時は金(マネー)なり』というが、私にとっては、『時その
ものが、金(ゴールド)』ということになる。だからこそ、よけいに、つまらない人たちを相手にし
て、時間を無駄にしたくない。そういう思いが強くなる。

 そんなわけで……というのでもないが、このところ毎日のように、『沈黙の価値のわからない
者は、しゃべるな』の意味ばかり、考えている。私は、今まで、あまりにも、おしゃべりだった。
時間を無駄にした。

 そうそう嫁のデニーズが、おもしろいことを言った。

 『相手にとって、価値のないこと、恩恵のないことは、しゃべるべきではない』と。まさにその通
りだと思う。卑近な例では、人の悪口、中傷、批判、それにグチは、言うべきでないということに
なる。ナルホド!


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●掲示板への投稿より

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Hさんという方から、掲示板への
書きこみがあった。

うれしかった。

Hさんへ、これからも、よろしく、
お願いします。

1000号まで、あと、201号!
(現在、799号、11月1日)です。

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【Hより】


はやし先生、はじめまして。

2年前に次男が通う保育園で育児講演会をしていただいて以来、先生のHPを拝読させていた
だき、多くの有益な示唆をいただいています。ありがとうございます。ずっと「拾い読み」の状態
でしたが、中3の長男が受験期を迎え、いつのまにか先生のHPを拝見するのが、日課となっ
ていたことに、はたと気づき、遅まきながら「有料読者」の仲間入りをさせていただきました。

教育関連のテーマからはひとまず離れますが、朝鮮半島の情勢について大いに関心をもって
いらっしゃる先生に、僭越ながら以下の情報源をご紹介させていただきたく、書き込みさせて
いただきました。昨今の情勢を「別の視点」から捉えた記事ですが、私にとっては「脳の活性
化」に役立っております。

では、今後とも益々ご健勝、ご活躍をお祈り申し上げております。


【Hさんへ、はやし浩司より】

 書きこみ、ありがとうございました。また「まぐプレ」(有料版)への申しこみ、ありがとうござい
ました。今のところ、Eマガ、まぐプレは、同じ内容になっています。メルマガのほうは、月曜日
発行のみの、簡略版になっています。メルマガは、やがて廃刊するつもりでいます。

 Eマガのほうは、ゆくゆくは、記録用マガジンにするつもりでいます。Eマガ社は、過去のマガ
ジンをすべて、保存しておいてくれます。そういうこともあって、今、しばらくは、このまま発行を
つづけるつもりでいます。まぐプレのほうは、これから先も、がんばって、発行しつづけるつもり
でいます。よろしくお願いします。

 現在、まぐプレのほうは、購読料は、月額300円になっています。私としては、みなさんに、ま
ぐプレのほうを読んでいただきたいと願っています。しかし現実は、きびしいです。

 朝鮮半島問題は、交換学生として、韓国にいたこともあり、以来、関心と興味をもっていま
す。いろいろな人とのかかわりもあり、原稿を書いています。政治的な目的や意図は、まったく
ありません。あくまでも、日本の平和と安全を第一に考えています。日本で核兵器が使われて
からでは、遅いですから……。

 貴重な情報、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●一貫性(人格の連続性)

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ボケるから一貫性がなくなるのか。
それとも、一貫性がなくなることを、
ボケの初期症状ととらえてよいのか。

その一貫性について……。

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一貫性、つまり人格の連続性には、2つの意味がある。

(1)精神的、情緒的、連続性
(2)知的、論理的、連続性

(1)精神的、情緒的、連続性

 たとえば会うたびに、気分が変化しているというのは、それだけで一貫性がないということに
なる。

 印象に残っている男性(当時50歳くらい)に、F氏という人がいた。そのF氏だが、会うたび
に、様子がちがっていた。妙になれなれしく、愛想がよいと思ったその数日後には、私があいさ
つをしても、むっとした表情で、私をにらみ返したりするなど。

 私のほうが、どう対処してよいか、困ったことさえある。

 そのF氏は、7〜8人ほどの従業員を使って、弁当屋を経営していたが、私が「?」と感じ始め
たころから、経営がおかしくなったと聞いている。従業員との間でトラブルを連発するようにな
り、そのあと、F氏は、今で言う認知症と診断され、入院。その5、6年後に、なくなってしまっ
た。

(2)知的、論理的、連続性

 言っていることに連続性がないというのも、困る。

 こんなことがあった。地域の子ども会の役員をしていたときのこと。ある催しものをすることに
なり、Aさんという女性(当時、60歳くらい)に、仕事を頼んだことがある。

 電話で、私がそれを頼むと、Aさんは、明るい声で、「いいですよ。そんなことは。何でもありま
せんから。ちょっと、車を走らせれば、それですむことですから」と。

 私は安心して、その仕事を、Aさんに任すことにした。が、である。

 無事、その催し物がすんで、Aさんの家に電話を入れると、様子が一変していた。私は、お礼
を言うつもりだけだった。が、Aさんは、あれこれ苦情を並べ始めた。「Bさんが、あと片づけし
ないで、帰ってしまった」「Cさんにも仕事をしてもらったが、Cさんが、ブツブツ、不平を言ってい
た」と。

 さらに数日後、今度は、Bさんのほうから電話があり、Bさんは、私にこう言った。「あのAさん
が、林さんから、一方的に仕事を押しつけられたとかで、怒っていますよ」と。

 私は、何がなんだか、わけがわからなくなってしまった。

 一方、一貫性のある人は、精神的な面でも、また知的な意味においても、一貫性がある。こ
の一貫性こそが、良好な信頼関係をつくる、基礎となる。友人や知人だけには、かぎらない。
親子の間でも、そうである。

 よきにつけ、悪しきにつけ、親は、一貫性をもつ。これも、子育ての基本のひとつと考えてよ
い。たとえば親が、そのときどきの気分に応じて、子どもに甘くなったり、反対にきびしくなった
りしていて、どうして親子の間で、安定的な人間関係を結ぶことができるというのか。

 ここでいう「よきにつけ、悪しきにつけ、一貫性をもつ」というのは、たとえば過保護的である
にせよ、あるいは過干渉的であるにせよ、「いつもそうである」という一貫性をもつことをいう。
その一貫性さえあれば、やがて子どものほうが、親に合わせて、自分を調整するようになる。

 その一貫性だが、10年ほど前、私は、こんなことを経験している。当時の私は、毎日のよう
に電話相談を受けていた。

 ある母親からの、子どもの不登校についての相談であった。子どもはそのとき、小学2年生
だった。

 最初は、「何とか、学校へ行かせたい」という相談だった。で、何か月かあとには、その母親
が望むように、何とか、昼間の数時間だけだが、その子どもは、学校へ行くようになった。が、
しばらくすると今度は、「毎日、学校への送り迎えがたいへん」「時間がとられる」「勤務先で、上
司に注意された」と。

 そこでまた、あれこれと相談にのっていると、その子どもは、何とか、みなと同じように、朝、
自分で学校へ行くようになった。が、学校では、理科の実験室に閉じこもったまま。そこで今度
は、その母親は、「何とか、教室で勉強できるようにしたい」と。

 そこであるとき、私は、その母親にこう言った。

 「問題は、少しずつかもしれないが、1つずつ解決している。少なくとも、今は、いい方向に向
かって、ものごとが進んでいる。まず、そのことを、すなおに喜びましょう」と。

 実際、このタイプの母親の要求には、際限がない。子どもが教室で勉強できるようになると、
「何とか、給食時間まで」となる。そして子どもが給食を食べるようになると、今度は、「何とか、
終わりのあいさつの時間まで」となる。

 中には、別の母親のことだが、こんなことを言ってきた人もいた。

 「2年間も不登校児でした。やっと学校へ行くようになったが、勉強の遅れを取りもどすために
は、どうしたらいいか」「進学の準備もしたいが、どうしたらいいか」と。

 これも、やはり一貫性の問題と考えてよい。相談にのっている私のほうが、そのつど、振りま
わされるだけ。こういう例は、多いが、問題は、人はなぜそうなるかということ。

 で、最近、自分自身がその危険年齢に達したこともあるが、こんなことに気づいた。一貫性の
ある、なしは、頭のボケ症状と関連があるのではないかということ。ボケとは、直接関係なくて
も、頭の働きが鈍くなると、一貫性がなくなる(?)。あくまでも素人判断だが、そのように感ずる
場面が、しばしばある。

 頭のボケ始めた人は、そのつど、言うことがクルクルと変わる。そのことに気づいたのは、こ
んな事件があったからだ。

 私のワイフが、Xさん(女性、65歳くらい)のお金を、何かのことで、立て替えて支払ったこと
がある。金額は、6万円だった。

 で、1、2か月後、ワイフが、Xさんに電話をすると、Xさんは、こう言ったという。「あのお金は、
水色の封筒に入れて、バッグの中に入れたままにしてある。返すのを忘れた」と。

 で、それからさらに数か月後。再び、そのお金のことで、Xさんに電話をすると、「そんなお金
のことは知らない」と。水色の封筒についても、「そんな話をした覚えはない」と。

 ワイフは、「あのXさん、ボケたみたい」と言っていたが、やはりそのXさんには、一貫性がない
ということになる。

 言い忘れたが、EQ論(=人格の完成論)でも、この一貫性のあるなしを、ひとつの目安にし
ている。言うまでもなく、一貫性、つまり人格の連続性のある人ほど、人格の完成度が高い人
ということになる。そうでなければそうでない。

 言いかえると、一貫性のある人は、他者と安定的な人間関係を結ぶことができる。そして良
好な人間関係を築くことができる。が、その一貫性がないと、他者と安定的な人間関係を結ぶ
ことができない。ボケが進むと、その一貫性が消える。精神面はもちろん、知的な意味でも、き
わめて不安定になる。

 繰りかえすが、親子の間でも、そうである。子どもの前では、努力して、この一貫性を守る。こ
こではボケとからめて一貫性について考えてみたが、ボケていなくても、一貫性のない親という
のは、いくらでもいる。

さて、あなたは、だいじょうぶか? (あるいは、私もあぶないかもしれない……。)

(付記)

 ここに書いたXさんだが、ワイフは、こう話してくれた。

ペラペラとよくしゃべるが、そのつど、思いついたことをしゃべっているだけという感じだそうだ。
しかもひとつのことについて話していると、話の内容が、どんどんとこまかくなっていくという。

 電話で話していても、一方的にしゃべるだけ。そしてそれが終わると、突然、ガチャンと電話
を切ってしまう、とか。

 ワイフは、こう言う。「以前から、大局的にものを考えて、総合的に判断することができない人
だとは思っていたけど、このところ、ますますその症状がひどくなってきたみたい」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親子
の一貫性 良好な人間関係 人格の完成度 子供の心理 親の心理 人格の一貫性 連続
性)


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1625)

●今朝・あれこれ(10月30日)

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このところ、睡眠調整がむずかしく
なったように感ずる。

毎日、昼前後に、30分〜1時間、昼寝を
するようにしているが、その昼寝がうまく
できなかったりすると、とたんにその影響が、
夜の睡眠時間に現れる。

なかなか寝つかれなくなったり、あるいは
朝早く、目が覚めたりする。

そしてそれが数日もつづくと、頭の働きが
極端に低下する。考えるのも、おっくうに
なる。

今朝が、そうだ。

こういうときは、どうするか。

私のばあいは、まず、気が向くまま、
好き勝手なことをすることにしている。

たまたま今は、画像の編集をしたい。
そこで、画像編集ソフトをたちあげて、
最近撮った写真の編集を、し始める。

するとやがて、頭の中に、血がもどって
くるのを感ずる。頭の脳みそがスポンジか
何かのようになっていて、そのすき間に、
血がじわじわと入りこんでくる。

私のように低血圧の人間には、
本当に、それが実感として、わかる。

と、同時に、いつものように、脳みそが
働き始める。

手始めは、またまた「沈黙」について。

++++++++++++++++

 昨日、「沈黙」について、書いた。「相手にとって、価値のないこと、役に立たないことは、話す
な」と。『沈黙の価値のわからない者は、しゃべるな』ともいう。

 で、そのあと、ずっと、それについて考えていた。私は今まで、おしゃべりだった。沈黙の価値
など、考えたこともなかった。今、こうしてものを書いていることでさえ、見方によっては、(おし
ゃべり)ということになる。

 が、今日からでも、遅くない。実際、昨日は、沈黙の価値をずっと、かみしめながら行動した。
「かみしめた」というのは、「自分に言い聞かせながら」という意味である。たとえば何人かの母
親たちと会話を交わしたが、そのつど、相手にとって、価値のあること、役にたちそうなことだ
けを、心がけて話した。

 子ども(生徒)たちにもそうした。「この子どもは、何を求めているだろう」「この子には、どんな
話をすればいいだろう」と。しゃべる前に、一呼吸、おくことにした。が、それについてワイフに
説明すると、ワイフは、こう言った。

 「向こうから、話しかけてきたら、どうしたらいいの?」「中には、ゴシップ好きの人もいるわ」
と。

 女性の世界には、女性の世界独特の雰囲気というものがある。おしゃべりの人も多い。一日
中、ムダなことを、ペチャペチャとしゃべっている。

私「相手にしないことだよ」
ワ「そんなわけには、いかないわよ」
私「だったら、最初から、そんな質問を、ぼくにするな」
ワ「どうして?」
私「うるさい。それがおしゃべりということ」と。

 私のワイフも、おしゃべり。沈黙の価値というのが、わかっていない。

 そうそう先日、地元のバス会社が運営する、Bツアーというので、長野県のほうまで行ってき
た。「うまいもの、食べ歩き」という名前のツアーである。

 そのときのガイドのうるさいことといったら、なかった。意味のない、どうでもよいことを、何時
間も、ひとりでしゃべっていた。本人はあれで、ガイドをしているつもりなのだろうが、あまりの
低レベルに驚いた。「みやげものの日本一は、xxx。二番目は、yyy……」と。

 しかも甲(かん)高い声で、キンキンと言っては、自分で笑っていた。

 私は紅葉を始めた山々の景色をのんびりと楽しみたかった。が、それができなかった。だか
ら帰りに渡された、会社へのアンケート用紙には、こう書いてやった。

 「ガイドの低劣なおしゃべりには、閉口しました」と。

 そう言えば、数日前に、市内のあるところで、瀬戸物祭というのがあった。先日、愛知県の瀬
戸市の瀬戸物祭に行ってからというもの、このところ、瀬戸物に興味がある。それで、その会
場へ、行ってみた。

 その瀬戸物祭の会場でも、中央に、大きなラジカセを置き、ガンガンと音楽を流していた。若
い女の子が好みそうな、キャンキャンとした音楽だった。まさに、騒音! それが、うるさくてた
まらなかった。

 ガイドのおしゃべりと、瀬戸物祭での音楽。これも、「沈黙」の価値の知らないものによる、無
駄なおしゃべりと同じに考えてよいのではないだろうか。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●1986年

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今朝、Eマガの読者が、1986人の
なった。

そこで、1986年。

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 この年の1月、フロリダ州のケープ・カナベルから打ちあげられたチャレンジャーが、発射72
秒後に爆発。スコビー船長ら、7人が、全員、死亡している。

 2月には、フィリッピンでマルコス大統領が追放され、かわって、アキノ夫人が、大統領に就
任している。

 3月には、ハレー彗星が、76年ぶりに、地球に大接近している。前年の11月ごろから、光度
をまし、その3月には、6等級の明るさになった。ふつうの望遠鏡でも、見ることができるように
なった。

 このハレー彗星で、覚えているのが、「ハレー彗星の絵」。私の教えていた女の子が、当時、
完成間近の「子ども科学館(浜松市南側駅前)」のシンボルマークに、応募した。中心に丸を描
き、それを取り囲むように、カラフルな帯が右上方に流れているという絵である。

 その絵がみごと、一等賞になり、子ども科学館のシンボルマークに採用された。うれしかっ
た。今でも、そのシンボルマークを見るたびに、あの女の子のことを思い出す。

 4月には、ロシアのチェルノブイリ原子力発電所が爆発。同発電所の4号炉で、タービンの実
験中、超高温になった核燃料が爆発。原子炉内にあった、核燃料のうち、3〜4%が空中に飛
び散った。

 その後の惨事は、改めて、ここに書くまでもない。しかしあれでたったの3〜4%だったとは!
 もし、原子炉内の核燃料が、すべて飛び散っていたとしたら……! 改めて、放射能の恐ろ
しさを知る。

 5月には、チャールズ皇太子が、ダイアナ王妃をともなって、日本を訪れている。だれもが、
ダイアナ王妃の美しさに、圧倒された。

 6月、7月、8月は、これといって大きなニュースはない。

 9月には、第10回、アジア大会が、ソウルで開かれている。金の獲得数では、日本は、中
国、韓国に敗れ、第3位に。

 10月も、これといって大きなニュースはなかったが、11月には、あの伊豆大島の三原山が
大噴火を起こしている(11月15日)。黒い山肌をなめるように、真っ赤な溶岩が、火柱を立て
ながら、伊豆大島の住宅を飲みこんでいった。

 その実況中継を見ていたとき、足がガクガクと震えたのを、私は覚えている。

 12月には、ヨーロッパ全土を、記録的な大寒波が襲っている。「数10年ぶりの大寒波だっ
た」という。パリでも、マイナス12・1度を記録。ヘルシンキでは、マイナス34・6度を記録(87
年1月12日)、などなど。

 この年、私は、満39歳になっている。東洋医学から足を洗い、東京でしていた仕事も、それ
に合わせて、激減した。教材制作に限界を感じていたころでもある。折からの塾攻撃で、塾生
も激減。「明日はどうしよう」と、いつも塾の床に寝転んで、天井ばかり見ていた。

 私の教室は、F小学校の生徒が多かった。多かったというより、ほとんどがそうだった。そのF
小学校が、学校をあげて、塾禁止令(?)を出したのだからたまらない。「塾へ行く子どもは、残
り勉強」と。

 新聞報道も、それに拍車をかけた。「塾、必要悪論」を展開した。私たち夫婦のことというよ
り、小学校へ通っている3人の息子たちのことを、心配した。「父親が塾教師」というだけで、白
い目で見られた。「今年で、塾はやめよう」と、毎日のようにワイフと話しあっていた。私の生涯
において、もっともつらかったのが、この時期だった。

 もっとも、私は、黙っていたわけではない。当時、毎月のようにNHKテレビでは、塾特集を組
んで報道していたので、私も何度かそれに出て、持論をぶつけた。が、焼け石に水。巨大な組
織を相手に、ひとりで闘っても、所詮、勝ち目はない。……なかった。

 が、私は、それまでの郊外の小さな塾から、市内へと、場所を移した。私にとっては、大きな
賭けだった。しかしそれで腹は決まった。「それでもダメなら、オーストラリアへ移住しよう」と。

 同じころ、日本経済は、未曾有(みぞう)のバブル経済へと突入しつつあった。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●観察学習

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子どもの世界には、「観察学習」と
呼ばれる、よく知られた現象がある。

子どもは、まわりの人たちの様子を
見ながら、自ら学習していく。

それを「観察学習」という。

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 子どもの世界には、「観察学習」と呼ばれる、よく知られた現象がある。子どもは、まわりの人
たちの様子を見ながら、自ら学習していく。それを「観察学習」という。

 この観察学習のすぐれている点は、子どもが自発的に学んでいくという点で、それがよい方
向性をもっているものであれば、きわめて効果的であるということ。(もちろん、その反対もある
が……。)

 たとえばあることをして、隣のA君が、先生にほめられたとする。すると、その子どもはそれを
見ながら、「自分も同じことをすれば、先生にほめられる」ということを学ぶ。そしてつぎの機会
に、その子どもは、A君がしたことと同じようなことをして、先生にほめられようとする。

 子どもは、さまざまな経験を通して、自分自身の精神力を、(強く)していく。これを発達心理
学の世界でも、「強化」という。わかりやすく言えば、(やる気につなげていく)ということ。たとえ
ば(何かをする)→(先生にほめられる)→(それがよいことだと学ぶ)→(さらに同じことを繰り
かえす)と。

この強化が重なって、子どもは、自発的に、かつ、前向きに行動するようになる。

 観察学習は、直接、自分で経験するのではないという意味で、「代理強化」と呼ばれている。
が、そのモデルは、必ずしも、現実のものとはかぎらない。テレビや本の主人公をモデルにす
ることもある。映画のヒーローを見ながら、モデルにすることもある。

 たとえば私は子どものころ、自分がその子どもであることを忘れて、よくこう言った。「ぼくは、
女と子どもは相手にしない」と。多分、何かの映画の中で出てきたセリフを、そのまま口にして
いたのだと思う。それを口にしたとき、どこか、自分がヒーローにでもなったかのように気分が
よかったのを、今でも、よく覚えている。

 で、この観察学習には、二面性がある。先にも書いたように、それがよい方向性をもってい
ればよい。しかし、ときとして、それが悪い方向性をもつこともある。

 たとえばB君ならB君が、何か悪いことをして、得をしたのを、ある子どもが見たとしよう。万
引きでもよい。B君が、万引きをして、その子どもがほしかった、ゲーム機器を手に入れたとす
る。それをその子どもが見ていたとする。

 このときその子どもは、万引きをすれば、自分のほしいものを手に入れることができるという
ことを、学習する。が、こうしたケースでは、それが発覚すれば、当然のことながら、罰を受ける
ことになる。(万引きをする)→(罰を受ける)、と。それを見ながら、今度は、その子どもは、「万
引きをすることは、悪いことだ」ということを学習する。

 そこで重要なことは、子どもは、子ども時代に、できるだけ多くの経験をし、行動のレパートリ
ーをたくさんもつということ。もちろんその中には、ここでいう観察学習も、含まれる。多ければ
多いほど、よい。万引きをして得をした子どもだけではなく、万引きをして、親に叱られる子ども
も、同時に観察しておかねばならない。

 まずいのは、たとえば親子だけのマン・ツー・マンの世界をつくりあげ、その中で子どもを育て
ること。子ども自身は、一見、ものわかりのよい子どもになるが、レパートリーが少ない分だ
け、小回りができなくなる。臨機応変に判断し、行動できなくなる。判断するとしても、どこか偏
(かたよ)ったものになる。

 話が脱線したが、私は、「子どもの先生は、子ども」と考えている。だから私が主宰するBW
教室では、ある学年(小学4、5年生)を過ぎるころから、上級生といっしょに座らせて、勉強さ
せるようにしている。

 こうすることによって、上級生から(勉強ぐせ)を受け継ぐことができる。言うなれば、これも観
察学習ということになる。

 この方法のすぐれている点は、1年先、2年先の自分の未来像を、子ども自身がもつことが
できるということ。わかりやすく言えば、未来に向かう(地図)を手に入れることができる。

 またまた話が脱線したが、この「観察学習」という言葉を、心のどこかに留めておくと、子ども
を指導する上で、役立てることができる。子どもが、子どもの目を通して、そのとき、何を見、何
を考えているかを知る。それだけでも、子どもの指導法が、大きく変わってくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 観察
学習 強化 代理強化 モデル)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.'06+++++++++++はやし浩司

【BW教室より】

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子どもの心は、おとなの私たちが
考えているより、はるかに複雑。

決して、安易に考えてはいけない。

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●キモイ

 どこかの県で、友だちに「キモイ」と言われたのが原因で(?)、自殺した女の子がいた。

 こういう事件についての話をするのは、子どもたちの前では、タブー。子どもの世界には、「連
鎖反応」という、よく知られた現象がある。どこかで子どもが自殺し、それがマスコミによって大
きく報道されたりすると、あちこちで、同じような事件が、連鎖的に起きる。

 が、その翌日には、つまり、その女の子が自殺した事件の翌日には、ほとんどの子どもたち
が、それを知っていた。小学1年生の子ども(男児)ですら、「キモイって言われたから、死んだ
んだってエ」と。

 これには、驚いた。

 子どもたちは、そういう情報を、どこから仕入れるのか? 親か、それとも、友だちか。小学
1、2年生の子どもが、テレビやインターネットの報道で、それを知るということは、考えられな
い。

 で、そのあと、何人かの子どもたちが、私に向かって、「先生、キモイ!」と言った。

私「そういう言葉を、使ってはダメ」
子「ママも、そう言っていた」
私「じゃあ、どうして、そんな言葉を使うんだ」
子「だって、先生、キモイもん」と。

 このあたりでも、「キモイ」という言葉は、よく使われる。子どもたちの間では、日常語にさえな
っている。が、今回の事件で、さらに拍車がかかった。


●作り話

 思春期の子どもたちを教えるのは、たいへん! 気を使う!

 少し前、子どもたちの様子を、デジタルカメラに撮ったことがある。それを、テレビ画面に映し
て、見せた。デジタルカメラには、ほかの写真も、たくさん収録してあった。

 で、そのことを、A君(小5)が、話題にして、こう言った。

 「先生のカメラには、エロい写真が、いっぱい、入っていた」と。

私「エロいって、どういうこと?」
A「エロい写真だよ」
私「どんな写真だった?」
A「ぼく、見たもん」と。

 こういう作り話は、困る。ときには、仕事上、致命傷にすら、なりかねない。

私「あのね、そういう話を、軽々しく言ってもらっては、困る」
A「だって、見たもん」
私「だから、どんな写真だった? それを言ってごらん」と。

 押し問答を数回繰りかえしていると、A君が、「みんなも、見ただろ」と、周辺の子どもたちを、
巻きこもうとした。が、こうなると、さらに困る。何人かの同調者が出てくる。心理学の世界で
も、このタイプの子どもを、「アジテーター(扇動者)」と呼んでいる。

 私は、キレた! 語気を荒くして、こう叫んだ。

私「ウソをつくな。ぼくだって、どんな写真だったか、覚えていない。君が、そういうウソをつくと、
君のお父さんや、お母さんだって、そう思うだろ。どんな写真だったか、しっかり言ってみろ!」
A「……忘れた」
私「忘れただと? ウソだった、ウソと、みんなの前で、はっきり言え。どんな写真を見て、君
は、エロいと思ったのか。それをはっきりと言え」と。

 が、やがて、理由が、わかった。

 写真をテレビ画面で、映して見せているとき、だれだったかは忘れたが、私にこう言った子ど
もがいた。「先生は、エロ写真を見たことがあるか」と。私は、そういうときいつも、「もう、見飽き
た」と答えるようにしている。どうやら、それでA君が、それでそういう作り話をしたらしい。

 つまり、おとなの世界でいう、「カマ」である。つまりA君は、「エロい写真が、いっぱい、入って
いた」と言って、私にカマをかけた。

 ……しかし、それにしても……? この時期の子どもたちは、別の心で、とんでもないことを
考えている。誤解というより、ときには、作り話をして、私にカマをかけてくる。そんな子どもさえ
いる。が、カマですめば、まだよい。ときとして、こういう作り話は、勝手に、ひとり歩きを始め
る。

 それが、こわい!

 そう言えば、先週、ある中学校で講演をしたとき、その学校の校長が、こんな話をしてくれ
た。

 「教師による体罰を問題にするのは、その生徒本人ではないのですね。教師と生徒の間に、
信頼関係がある間は、体罰は、何も問題にならない。教師は、信頼関係の上で、生徒に体罰
を加える。生徒も、信頼関係があるから、それを受け入れる。

 体罰が体罰として問題になるのは、それを見聞きした生徒が、親に話すからです。つまりは、
つげ口から問題になる。『あの先生が、X君を、殴っていた』と。で、それを聞いたほかの親たち
が、騒ぎ出す。99%のケースが、そうです」と。

 「先生のカメラには、エロい写真が、いっぱい、入っていた」と言った子どものケースでも、そう
である。こういう発言を野放しにしておくと、ほかの子どもたちが、家に帰って、どうそれを親に
伝えるか、わかったものではない。だから、こうした発言は、その時点で、徹底的につぶしてお
く。

語気を荒くして、その子どもを叱ったのも、そのためである。


●女の子には、指1本、触れるな!

 幼児教育の世界に入るとき、ときの園長が、私にこう言った。「林先生、どんなことがあって
も、頭と手以外、女の子には、指1本、触れてはだめですよ。わかりましたね」と。

 以来、36年になるが、私は、女の子には、指、1本、触れていない。ただし、親が近くにい
て、親の了解を求めたあと、その子どもを抱くことはある。抱いてみるだけで、その子どもに、
何かの情緒障害があるかどうか、簡単に診断できることがある。

 いわんや、小学生や中学生には、頭と手意外は、指1本、触れたことがない。が、それでも、
誤解を招く。

 たとえば、何気なく、女の子の肩をポンと叩いたとする。叩かれた女の子は、それをあいさつ
と思う。が、それを見ていた別の女の子は、そうでない。中には、嫉妬(しっと)する子どもさえ
いる。

 その嫉妬がこわい。「林先生が、B子さんの体に触っていた」と言い出す。(実際に、そういう
ことがあった!)

 思春期の子どもというのは、そういう意味で、指導が、むずかしい。どこでどう、私の心を曲解
するか、わからない。だから、さらに心を引き締める。それが「指1本、触れない」となる。

 さらに……。この話は、以前にも書いたが、こんなことがあった。

 女の子によっては、向こうから、「先生!」と言って、私に抱きついてくる子どもがいる。C子さ
ん(小3)も、そのタイプの子どもだった。

 こういう子どもは、本当に、困る。すかさず体を突き放すのだが、その突き放し方も、むずか
しい。子どもの心にキズをつけるようなやり方をすると、これまた家に帰って、おかしなことを言
い出す。

 C子さんも、そうだった。あるとき、C子さんを、私は、きつくしかった。おそらく、それで、C子さ
んは、私に嫌われたと思ってしまったらしい。

 その1、2週間後、C子さんが、学校で、ほかの友だちに、「林先生が、私の体に触った」「エッ
チなことをした」と話しているのを知った。私は、その話を聞いて、すかさず、C子さんの家に電
話を入れた。

 幸いにも、母親が、C子さんのそういう性癖をすでに知っていた。「うちでも困っています」と言
ってくれたからよかった。「何度注意しても、男の人に抱きついていくのです」と。

 が、学校で、そういう話をしてもらっては困る。本当に、困る。私はC子さんを電話口に出して
もらい、そのことを懇々(こんこん)と説明した。

 要するに、女の子には、どんなことがあっても、指1本、触れない。これは子どもを指導するも
者にとっては、指導の大原則ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1626)

●Mさんへ

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上海に住む、Mさんより、近況が届いて
います。

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はやし先生
   
  ご無沙汰しております。お変わりありませんでしょうか?

  前回メールを送ってから、あっという間に、いつの間にか、11月になってしまいました。
 
 また、我が家のPCには日本語版ウィンドウズと、中国語版ウィンドウズが入っていまして、日
本語版がウイルスに感染してしまったりして、なかなか、メールできませんでした。
   
  10月半ば過ぎより上海K大学という学校の日本人向け中国語講座に通っています。週3日、
1日3時間ですが、ひさしぶりの授業で、疲れ気味です。

  先生は若い女性で、去年は日本の早稲田で、中国語を教えていたとかいう先生です。

  生徒は駐在員の妻3人、駐在員なのだけど、中国語の全くできない会社員、こちらで会社経
営している友人を手伝いに来たという、父母子の3人。計7人です。同じ時間帯に私たちのクラ
ス以外にも日本人、韓国人向けのクラスがたくさんあります。

  学校自体は語学を教える学校ではないので、商売(?)として開講している講座です。3か月
のコースです。1時間当たり、150円程で教えてもらっています。日本にいる間も、少しだけ中
国語を習いに行きましたが、非常に高額でした。こちらの人には決して言えないくらい。
   
  最近バスによく乗ります。学校に行くときは、時間がないのでタクシーですが、帰りはバス。こ
のバスが日本では見かけないほど古いです。路線によっては新しいものも走っていますが、私
が使う路線は古い車ばかり。幸い、今まで故障に遭遇したことはありませんが、先日煙を出し
てとまっているバスを見かけました。タクシーも、ボンネットから煙を出して止まっているのをよく
見ます。こういったトラブルに巻き込まれたときのためにも早く中国語をマスターしたいです。
   
  最近気がついたのですが、外に出ると常に緊張しています。予期せぬ出来事が起こるのを
恐れています。タクシーに乗って、道を間違えられたり、ごまかされたりしたらどうしよう。スーパ
ーのレジで何か聞かれて、分からなかったらどうしよう。小さなことなのですが、言葉ができな
いということは、すごいストレスです。今までは、そのストレスを感じる余裕がなかったのだと思
います。

  こちらの人は、よく道を尋ねてきます。それに答えることができないのもストレスです。市場で
話しかけてきたおばあちゃんに応対できないのも寂しかったです。顔見知りになった果物屋の
おじさんとも話ができません。キャッチセールスの人を無視したら悪口を言われ、(これは中国
語の先生に教わっていたので分かった)、言い返せず、悔しい思いをしたり。
   
  見ていてほっとすることもたくさんあります。

  バスや地下鉄の中で、お年寄りがいるとすぐ席を譲る人が多いです。譲る人がいないと、バ
スの切符切りの人が適当な人をどかして座らせています。

  世話焼きの人も多いのかな? 近所のおまんじゅう屋さんに行った時、肉包(肉まん)しか分
からないで行ったのですが、あいにく肉まんは1つだけしか残っていませんでした。全部で5個
ほしかったのに、ほかのものの名前が分からないで、お店のお兄さんともめてたら、そばにい
たおばさんたちが集まってきていろいろ口出ししてきます。何を言っているのか分からないけれ
ど、適当に入れてあげなよ、とか、代わりにこれでいいじゃない、みたいな事を言っていたので
はないでしょうか。

結局、中身の分からないおまんじゅう4個と、肉包1個を買いました。中身の分からないものは
肉菜包という肉と青梗菜のおまんじゅうでした。
   
  上海では物乞いをよく見かけます。中国語の先生いわく、彼らは職業(?)乞食だから無視し
てください。本当に援助の必要な人(働くことが困難な人)は、国が助けているから。私も見て
見ぬふりをしています。中には赤ちゃんを連れて、道端に座り込んでいる若い女性もいます。

でも、子供は商売道具なのだそう。先日、ショッキングなことがありました。夜、私たち4人で外
を歩いていたときのこと。夫が少し離れて私たちの前を歩いていました。そこへ、5歳くらいの
子供を抱えたみすぼらしい身なりの男性が近づいていきました。後ろから見ていて物乞いの人
だな、と思っていました。夫に何か話しかけて、その後、後ろにいた私たちを見て、離れていき
ました。「子供要らないか?」と夫は聞かれていたのです。お金をくれ、ではなく。抱えられてい
た子供は一見、眠っているようでしたが…。
   
  上海は都会かもしれません。でも、都会という点よりも空虚さのほうを強く感じることがよくあ
ります。新しいビルがどんどん建ち、高級マンションも次々売りに出され、それを買う富裕層た
ち。反対に、取り壊される建物、廃墟となっているビル、物乞いの姿。
   
  上海は短い秋を迎えています。キンモクセイが、いたるところで香っています。
  今の季節が一番過ごしやすいのかも知れません。すぐに寒くて長い冬がやってきます。
   
  上海、Mより。

【Mさんへ、はやし浩司より】

拝復

 メール、ありがとうございました。たいへんx10、興味深く読ませていただきました。この日本
でも、ここ数年、貧富の差がひどくなってきたように思います。浜松はまだようほうですが、郷里
の田舎のほうへ行くと、それを強く感じます。

 そうそうその浜松ですが、HONDAなど、大企業の工場が、どんどんと他県へと移転していま
す。SUZUKIもYAMAHAも、です。今、残っている工場は、もう、ほとんどないほどです。

 Aタワーに始まって、「音楽の町づくり」だとか、「花博」だとか、金持ちの道楽のようなことば
かりしているうちに、こうなってしまいました。ここ20年のことです。工員を大切にしないのも、
浜松の特徴です。

 日本の将来も心配ですが、この浜松のことも心配です。この町は、いったい、これから先、ど
うなるのでしょうね。市のおバカさんたちは、「市街地の活性化」という言葉を、お題目のように
唱えていますが、市街地が活性化するかどうかは、あくまでも、「結果」です。結果としてそうな
るのです。

 駅前だけ、500億円単位の、莫大な費用をかけて、化粧して、それですむという話でもない
のです。すべきことは、市の産業を活性化させること。それとも、浜松を、花木(かぼく)の町に
変身させようとでもいうのでしょうか。

 基本的な部分で、市の行政は、おかしいです。近視眼的というか、浜松の中からしか、この
浜松を見ていない。

 ……とまあ、暗い話になってしまいましたが、中国から見ると、それがよくわかっていただける
のではないかと思います。

 プライベートな部分は省略させていただきましたが、以下のように、Mさんのメールを、マガジ
ンに転載したいのですが、よろしくご協力ください。どこか都合の悪い点があれば、ご連絡くだ
さい。

敬具


【Mさんへ、はやし浩司より、追伸】

 数週間前、オーストラリア人の家族たちが、私の家にホームステイしていきました。来る途
中、上海に寄り、数泊したそうです。

 で、その中の1人が、こう言いました。ホテルは豪華。しかし一歩、外へ出たら、道路は未舗
装で、石ころだらけだった、と。

 おまけに、その中の1人が、スリにあい、カードとか、身分証明書、それに、小切手などを盗
まれてしまったそうです。

 みな、かなり印象を悪くしたようで、中部国際空港に着くやいなや、中国の悪口ばかり。当然
です。

 ……ということで、あれだけの大国をまとめるのも、たいへんだなあと思ってしまいました。

 で、アドバイス。(生意気にも……!)

 外国へ行ったら、バカになって、その国に溶けこむしかないですよ。どこかで突っ張っている
と、やがてその国から、はじき飛ばされてしまうか、あるいは、自分がおかしくなってしまうかの
どちらか、です。『郷に入れば、郷に従え』です。

 中国の最大のよさは、あの(広大さ)にあると思います。日本のそれとは、比較にならない。ス
ケールがちがう。揚子江にしても、今では、600キロもの船旅ができる川に変身しました。一
度、行ってみられたらどうでしょう? せっかくのチャンスですから……。
 
 いえね、中国の人たちは、日本の歴史は、自分たちの歴史の一部と考えているでしょ。『東
洋史』という視点で、日本を考えているわけです。日本に生まれ育っていると、そういう史観は、
なかなか理解できませんが、中国へ行ってみると、それがよくわかります。

 そういうふうにして、中国を見なおしてみるのも、よいかもしれません。私は、率直に言えば、
Mさんが、うらやましいです。どうか、その(うらやましいと思う部分)を、十分、楽しんできてくだ
さい。 この日本だけに住んでいると、自分が、どんどんと小さくなっていくのが、実感としてわか
ります。

 いやですね。ホント!

 何かとご苦労もあるようですが、どうかまたメールを送ってください。楽しみにしています。

                               はやし浩司より


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●心のポケット

 他人の不幸を外野席からながめながら、とやかく言うのは、簡単なこと。それなりに口達者な
人なら、だれにだって、できる。しかし、自分に、その心のポケットがあるならまだしも、そのポ
ケットがないなら、とやかく言ってはいけない。言われた人にもよるが、中には、言われることに
よって、死ぬほどつらい思いをする人もいる。それに、事情は、人、それぞれ。さまざま。

 「心のポケット」というのは、苦しみや悲しみを理解できる、心の広さをいう。同じような苦しみ
や悲しみを体験したことがある人だけに、そのポケットができる。たとえば不幸にして、自分の
子どもを交通事故か何かで、なくした人のケースを考えてみよう。

 その人は、子どもをなくしたことによって、想像を絶するような、苦しみ、そして悲しみを経験
する。つまりそのとき、「心のポケット」ができる。そういう人なら、同じように子どもをなくした人
に向かって、なぐさめの言葉をかけてやったり、あるいは自分の意見を言うことができる。

 そのポケットもない人が、もっともらしい顔をして、同情してみせるのは、かえって相手に対し
て失礼というもの。

 が、中には、その心のポケットのないまま、わかったようなことを言う人がいる。中には、演技
で、さも相手に同情したようなフリをして見せる人もいる。しかしそれくらい非人間的な行為もな
い。ふつうの神経をもっている人なら、絶対に、そういうことをしてはいけない。

 さらにここにも書いたように、事情は、人、それぞれ。さまざま。表に出てこない事情だって、
山ほどある。そういう事情も知らず、表面的な部分だけを見て、あれこれ言うことは、許されな
い。とくに家族の問題については、そうである。いろいろなケースがある。

 少し前だが、私の掲示板に、つぎのような相談をしてきた女性がいた。内容は、おおまかに
言えば、こうである。

 『介護制度ができたといっても、親の介護は、たいへんです。
  デイサービスを受けて、親が家にいないといっても、安心できません。
  いつ、なんどき電話がかかってくるか、わからないからです。

  病院の送り迎え、部屋の掃除、便の始末、それに認知症による世話も
  かかります。
  1日とて、安穏としていることはできません。

  しかし義理の姉たち(2人)は、そういう事情も知らず、「親の
  世話をちゃんとみろ」というようなことを、平気で言ってきます。
  間接的な、言い方で、そう言います。イヤミな言い方です。
 
 「あんたに任せておけば、安心だから」とか、「あなたは親孝行の
  人だと、昔からわかっていました」とか。さらには、最近は、
 「あなたのおかげで、母も、幸せでしょう。ありがとうございます」と。 

  また先日は、こんなことも言われました。

 「今度の一日だけ、母の面倒をみさせていただけませんか。あなたが
  よければ、一日だけ、母を温泉に連れてやってあげたいのです」と。

  つまりそう言いながら、その姉は、「一日しか面倒をみないぞ」と
  言っているのですね。 

  その上、今度は、12、3年前に死んだ父親の、13回忌をやれと
  言ってきました。母親の介護だけで、(私にとっては、義理の母親ですが)、
  たいへんです。

  大小便をもらしますので、私は、介護施設に入れたいのですが、義理の
  姉たちにそんな話など、できません。私の体重も、この1、2年で、10キロ近く
  減りました。おまけに持病の腰痛が、このところひどくなってきました」と。

 私は、このメールをくれた女性に、つぎのような返事を書いた。「義理の姉は、そこらの空き
地にたむろして世間話に花を咲かせる、オバチャン連中だと思えばいいのです。相手を呑
(の)んでしまえばいいのです。本気で相手にしてはいけない。また本気で相手にする価値のあ
る人たちではない。

 本気で相手にしたとたん、あなた自身も、彼女たちと同レベルの人間になってしまいます。そ
して一度、同レベルになったとたん、人間関係は、修羅場(しゅらば)と化します。どうか気をつ
けてください」と。

 私のワイフも、この種の問題には、さんざん悩まされつづけた。ワイフやこちらの事情も知ら
ず、あれこれと詮索(せんさく)してくる人は多い。だからといって、どうして、いちいちこちらの事
情を説明しなければならないのか。

 こうした詮索好きの人たちは、たいていは一方的な情報だけを聞き、自分の人生観だけで、
ものごとを判断する。判断するだけならまだしも、説教までしてくる。で、そういうとき、私は、と
にかく笑って無視するという方法をとることにしている。もともと相手にしても、しかたのない連
中だからである。ワイフにも、そう忠告している。

 ここに書いたことには、いくつかの教訓が含まれる。

(1)心のポケットのない人には、相談するな。
(2)心のポケットがないなら、相手の相談にのるな。
(3)心のポケットは、できるだけ多く、つくれ。
(4)相手には、どんな心のポケットがあるかを知れ。
(5)自分には、どんな心のポケットがあるかを知れ。

 ともかくも、他人の不幸話に介入するときには、細心の注意を払ったらよい。安易な介入こ
そ、禁物。へたをすれば、あなた自身が、大やけどをする。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●今日・あれこれ(11月4日)

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今日は、忙しかった。とくに何かがあったわけでは
ないが、忙しかった。10分単位で、あちこちを
動きまわっていた感じ。

が、夜は、ポカンと穴があいたように、ヒマになった。
ときどき、こういうときがある。波にたとえて言うなら、
ドドッと、大波が寄せてきて、そのあと、突然、波が
消えてしまった。そんな感じ。

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●三男のビデオが、国際コンテストでグランプリ!

 夜、三男のEから、電話。何でも、彼が制作したビデオが、国際コンテストで、グランプリを獲
得したとか。ロシアから直接連絡があったそうだ。本人自身が、「こんなことって、あるの?」と、
驚いていた。「おもしろ半分に作っただけなのに」と。

 もう一度、明日、本当かどうか、確かめてみよう。それにしても、たいへんなことになった。我
が家の一員が、国際コンテストで、グランプリを取ったア?!

 ……しかしお祝いをしたくても、その実感がどうしても、わいてこない。「おもしろ半分」というこ
とは、「おもしろ半分」。しかも、彼にしてみれば、ビデオ歴、2、3作目にすぎない。長い間、ビ
デオ制作にたずさわっていたとか、そういうことなら、まだ話もわかる。その道の学生というの
なら、まだ話もわかる。が、そういう経歴はない。まったくない。

 使ったカメラも、3〜4万円の、C社のデジタルカメラ。そのカメラのビデオ機能を使って、制
作した。

 そんなビデオが、国際コンテストでグランプリとは! 驚き桃の木、山椒の木とは、まさにこの
こと?

 表彰式は、モスクワで行われるという。本人は、「行けない」と言っている。どうするつもりなの
だろう?

 フ〜ン、それにしてもねえ……。

 興味のある人は、「はやし浩司のHP」のトップページより、楽天日記へ。その楽天日記の、ト
ップページから、どうぞ!


●すてきな夕食

 今夜は、Kさん宅で、夕食をごちそうになった。メニューは、大好物の、お寿司。手巻き寿司。
おいしかった。しかし食べたのは、山のようになっていた食材の、ほんの一部。話に夢中になっ
ていて、食べるのがいいかげんになってしまった。

 Kさん、ごちそうさまでした。おいしかったです。ありがとうございました。


●金xxの健康

 数日前、市内で開業している、内科医のM氏と食事をする。その席で、K国の金xxが話題に
なる。

 最近、金xxは、劇ヤセをしている。この半年間だけでも、げっそりとやせた。が、あの腹だけ
は、そのまま。不自然なほど、ポコンと外に出ている。それについて、私が質問すると、M氏
は、こう言った。

 「肝硬変、もしくは肝臓がんの末期とみてよいでしょうね」と。「ただ、金xxの周辺には、たくさ
んの医師団が取り囲んでいますから、それなりの治療を集中的にしているはずです。今すぐ、
どうこうということはないにしても、重病であることには、まちがいないと思います」と。

 で、ここ数日も、金xxの動静が、写真付で、報道されている(朝鮮N報紙ほか)。それを見る
かぎり、金xxは、健康そうである。劇ヤセもなさそう。が、それらの写真には、ただし書きがつ
いている。「撮影場所、撮影日時は、不明」と。おそらく、今回、劇ヤセが発覚する前に、どこか
で撮った写真なのだろう。

 アメリカも中国も、(とくに中国は)、そういった情報を詳細に把握しているはずだから、今ごろ
は、そういった情報の上で、これからのK国問題を考えているにちがいない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●どうなる、浜松? 日本?

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浜松市から、大企業の工場が、どんどんと
流出している。

そう言えば、HONDAにせよ、SUZUKI
にせよ、はたまたYAMAHAにせよ、
この浜松市には、もうそれらの工場はない。

いつの間にか、こうなってしまった。

市街地の活性化もいいが、浜松市は、ほかに、
もっとすべきことがあるのではないのか?

4年前に、こんな辛口原稿を書いた。

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●NHKの大河ドラマ

 歴史は歴史として、正しく評価しなければならない。しかし必要以上に、美化してはいけない。
とくにあの封建時代を美化していはいけない。

 昨日(02年7月)も、NHKの大河ドラマの『利家とまつ』を見た。しかし前田利家といえば、こ
れまた類をみないほどの圧制暴君だった。どう暴君であったかは、また別のところに書くことに
して、あの金沢城の中には、少し前まで刀の試し切りをした場所まで残っていた。

つまり新しい刀ができると、利家らは生きている人間を裸にしてつりさげ、その人間をその刀で
切っていたという! NHKの大河ドラマを見ていると、利家たちはきわめて人間味にあふれ
た、知的な人物に描かれているが、本当にそうか? そのまま信じてしまうのは、たいへん危
険なことでもある。

 だいたいあの当時の封建領主は、今の暴力団のようなもの。まともな人間を想像するほうが
おかしい。いわんや民衆のために、民衆のことを考えて戦ったのではない。刀をもった人間が
いかに恐ろしい存在であったかは、数年前、佐賀県で起きたバスジャック事件を思い出せばわ
かる。

あのときは、刃渡り40センチの包丁をもったたった一人の少年に、日本中がおびえた。利家
の時代といえば、ほんの一部の為政者にすべての富が集中する一方、ほとんどの民衆は、恐
怖政治のもと、極貧の生活を強いられた。しかもそういう時代が、そのあと、300年もつづい
た! 

 封建時代を美化するということは、時代の流れそのものを逆行させることになる。たとえば今
にみる、日本独特の男尊女卑思想、家制度、職業による差別意識(身分制度)、上下意識、さ
らには権威主義、出世主義などなど。こうした問題はすべて、あの時代に由来する。役人によ
る官僚政治も、その一つに加えてよい。が、それだけではない。

 10年ほど前、浜松市の駅前に、これまた豪華な高層ビルが建った。建築費が2000億円と
も3000億円とも言われている。(同じころ東京都庁ビルが建ったが、それは1700億円。国
立劇場は400億円。)土地代を含めたら、もっとになる。いったいいくらの税金が使われたの
か。使われなかったのか。複雑なカラクリがあって、私のような市民には知る由もない。

が、それにしても、ムダな建物である。地下にある2つのホールをのぞけば、あとは事務所とホ
テル。展望台にしても、今は閑古鳥が鳴いている。そのビルについて、市役所で部長をしてい
る知人にそれとなく抗議すると、その知人はこう言った。

「ああいう建物は建てられるときに建てておけばいいのです。江戸時代の城のようなものです。
後世に残るのは、ああいう建物です」と。

封建時代の築城精神がこうした人たちの心の中に生きている! 私はそれに驚いた!

 あの時代はいくら美化しても、美化しきれるものではない。美化すればするほど、自己矛盾に
陥(おちい)ってしまう。そんな冷めた目であの番組を見ているのは、私だけだろうか。

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●日本は官僚主義国家

 日本が民主主義国家だと思っているのは、日本人だけ。

学生時代、私が学んだオーストラリアの大学で使うテキストには、「日本は官僚主義国家」とな
っていた。「君主(天皇)官僚主義国家」となっているのもあった。

日本は奈良時代の昔から、天皇を頂点にいだく官僚主義国家。その図式は、21世紀になった
今も、何も変わっていない。たとえばこの静岡県でも、知事も副知事も、みんな元中央官僚。浜
松市の市長も、元中央官僚。この地域選出の国会議員のほとんども元中央官僚。

「長」は、中央からありがたくいただき、その長に仕えるというのが、このあたりでも政治の構図
になっている。その結果、どうなった?

 今、浜松市の北では、第2東名の道路工事が、急ピッチで進んでいる。その工事がもっとも
進んでいるのが、この静岡県。しかも距離も各県の中ではもっとも長い(静岡県は、太平洋岸
に沿って細長い県)。

実に豪華な高速道路で、素人の私が見ただけでもすぐわかるほど、金がかかっている。現存
の東名高速道路とは、格段の差がある。もう少し具体的にデータを見てみよう。

 この第2東名は、バブル経済の最盛期に計画された。そのためか、コストは、1キロあたり、
236億円。通常の一般高速道(過去5年)の5・1倍のコストがかかっている。

1キロあたり236億円ということは、1メートルあたり2300万円。総工費11兆円。国の年間税
収が約五〇兆円だから、何とこの道だけで、その5分の1も使うことになる。

片側3車線の左右、6車線。何もかも豪華づくめの高速道路だが、現存の東名高速道路にし
ても、使用量は、減るか、横ばい状態。つまり今の東名高速道路だけで、じゅうぶんというこ
と。

国交省高速国道課の官僚は、「ムダではない」(読売新聞)と居なおっているそうだが、これを
ムダと言わずして、何という。何でもないよりはあったほうがマシ。それはわかるが、そんな論
理で、こういうぜいたくなものばかり作っていて、どうする。

静岡県のI知事は、高速道路の工事凍結が検討されたとき、イの一番に東京へでかけ、先頭
に立って凍結反対論をぶちあげていたが、そうでもしなければ、自分の立場がないからだ。

 みなさん、もう少し、冷静になろう! 自分の利益や立場ではなく、日本全体のことを考えよ
う。私とて、こうしてI知事を批判すれば、県や市の関係の仕事が回ってこなくなる。損になるこ
とはあっても、得になることは何もない。またこうして批判したからといって、1円の利益にもな
らない。

 あの浜松市の駅前に立つ、Aタワーにしても、総工費が2000億円とも3000億円とも言わ
れている。複雑な経理のカラクリがあるので、いったいいくらの税金が使われたのか、また使
われなかったのか、一般庶民には知る由もない。

が、できあがってみると、市民がかろうじて使うのは、地下の大中の2つのホールだけ。あの程
度のホールなら、400億円でじゅうぶんと教えてくれた建築家がいた。

事実、同じころ、東京の国立劇場は、その400億円で新築されている。豪華で問題になった、
東京都庁ビルは、たったの1700億円! 浜松市は、「黒字になった」と、さかんに宣伝してい
るが、土地代、建設費、人件費のほとんどをゼロで計算しているから、話にならない。が、それ
でムダな工事が終わるわけではない。その上、今度は、静岡空港!

 これから先、人口がどんどん減少する中、いわゆる「箱物」ばかりをつくっていたら、その維
持費と人件費だけで、日本は破産してしまう。このままいけば、2100年には、日本の人口は、
今の3分の1から4分の1の、3000〜4000万人になるという。

日本中の労働者すべてが、公務員、もしくは準公務員になっても、まだ数が足りない。よく政府
は、「日本の公務員の数は、欧米と比べても、それほど多くない」と言う。が、これはウソ。まっ
たくのウソ!

国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確かにそうだが、日本にはこのほか、公団、公
社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利事業団体がある。これらの職員の数だけで
も、「日本人のうち7〜8人に1人が、官族」(徳岡孝夫氏)だそうだ。

が、これですべてではない。この日本にはほかに、公務員のいわゆる天下り先機関として機能
する、協会、組合、施設、社団、財団、センター、研究所、下請け機関がある。この組織は全
国の津々浦々、市町村の「村」レベルまで完成している。あの旧文部省だけでも、こうした外郭
団体が、1800団体近くもある。

 今、公務員の人も、準公務員の人も、私のこうした意見に怒るのではなく、少しだけ冷静に考
えてみてほしい。「自分だけは違う」とか、「私一人くらい」とあなたは考えているかもしれない
が、そういう考えが、積もりに積もって、日本の社会をがんじがらめにし、硬直化させ、そして日
本の将来を暗くしている。

この大恐慌下で、今、なぜあなたたちだけが、安穏な生活ができるか、それを少しだけ考えて
みてほしい。もちろんあなたという個人に責任があるわけではない。責任を追及するわけでも
ない。が、もうすぐ日本がかかえる借金は、1000兆円を超える。国家税収がここにも書いた
ように、たったの50兆円。あなたたちの生活は、その借金の上に成り立っている!

 こういう私の意見に対して、メールで、こう反論してきた人がいた。「公共事業の70%は、人
件費だ。だから公共事業はムダではない」と。

 どうしてこういうオメデタイ人がいるのか。やらなくてもよいような公共事業を一方でやり、その
ために労働者を雇っておきながら、逆に、「70%は人件費だから、ムダではない」と。

これはたとえていうなら、毎日5回、自分の子どもに、やらなくてもよいような庭掃除をさせ、そ
のつどアルバイト料を払うようなものだ。しかも借金までして! それともあなたは、こう言うとで
もいうのだろうか。「アルバイト料の70%は、人件費だ。だからムダではない!」と。

 日本が真の民主主義国家になるのは、いつのことやら? 尾崎豊の言葉を借りるなら、「しく
まれた自由」(「卒業」)の中で、それを自由と錯覚しているだけ? 

政府の愚民化政策の中で、それなりにバカなことをしている自由はいくらでもある。またバカな
ことをしている間は、一応の自由は保障される。巨人軍の松井選手が、都内を凱旋(がいせ
ん)パレードし、それに拍手喝さいするような自由はある。人間国宝の歌舞伎役者が、若い女
性と恋愛し、チンチンをフォーカスされても、平気でいられるような自由はある。しかし日本の自
由は、そこまで。その程度。しかしそんなのは、真の自由とは言わない。絶対に言わない。

 少し頭が熱くなってきたから、この話は、ここでやめる。しかし日本が真の民主主義国家にな
るためには、結局は、私たち一人ひとりが、その意識にめざめるしかない。そしてそれぞれの
地域から、まずできることから改革を始める。政治家がするのではない。役人がするのではな
い。私たち一人ひとりが、始める。道は遠いが、それしかない。
(02−11−5)

●官僚政治に、もっと鋭い批判の目を向けよう!
●ムダなことにお金を使わず、子どもの養育費の負担を、もっと軽くしよう!


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●またまたハレンチ教師

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山形県のA中学校に、Tという名前の
中学校教師がいる。

たいへん教育熱心な教師らしく、いくつ
かの教育論文を発表している。

その1つは、HPのほうにも収録されている。
いわく、「生徒間の良好な人間関係を築く、
指導の研究」ほか。

しかしその教師が……!

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 山形県のA中学校に、Tという名前の中学校教師がいる。たいへん教育熱心な教師らしく、い
くつかの教育論文も発表している。その1つは、HPのほうにも収録されている。題して、「生徒
間の良好な人間関係を築く、指導の研究」。

 「……人間関係を築く原点として、『自己肯定感』とたがいの考え方や、思いを通わせるため
の『交流』をあげた。自己肯定感は、肯定的な自己理解と自己受容の関連、そして他者とのか
かわりの中で深められる他者理解、他者受容から構成されている。……」と。

 全体で5ページほどの論文である。じっくりと読んでみたが、すばらしい。その一言に尽きる。
教育学をしっかりと勉強した人らしい。知識と経験が、論文の中に凝縮されている。専門用語
の使い方も適切。私が書く教育エッセーなど、足元にもおよばない。

 しかしそのTという中学教師が、今日(11月5日)、逮捕された。容疑は、脅迫。

 報道によれば、出会い系サイトで知りあった女子中学生に対して、「交際しなければ、写真を
バラまく」と脅迫していたそうだ。警察の取り調べに対して、Tという名前の教師は、容疑をほぼ
認めているという。

 ……というような事件は、多い。今では、話題にならないほど、多い。そしてこういう事件が起
きるたびに、周囲の人たちは、「教育熱心な教師でしたが……」というコメントを発表する。

 が、今回は、私の手元には、そのTという名前の書いた教育論文がある。その教師が、A中
学校でどのような評価を受けていたかは別として、論文を読むかぎり、すぐれた(?)教師であ
ることにはちがいない。そんな教師が、闇の世界では、まったく別の顔をもっていた?

 「写真をバラまく」と脅迫したというのだから、ふつうの写真でないことは確か(※)。(ふつうの
写真なら、バラまかれても、どうということはないはず。)またこの種の犯罪の性格からして、そ
の1件だけとは、とても考えられない。常識で考えれば、Tという中学教師は、常習的に、そうい
うことをしていたと考えるのが、自然。

 問題は、なぜ、こういう事件が、教師の世界で、つぎからつぎへと起きるかということ。しか
も、(教育熱心)と評される教師たちが、そういう事件を起こす。今回は、かなりの人物と考えて
よい。そういう教師が、そういう事件を起こす。

 私は、ものを書く人間だから、その人が書いた文章で、その人を判断する。それによっても、
(かなりの人物)と考えてよい。

 そこで、もう一度、自分に問いただしてみる。「はたして私は、だいじょうぶか。そういう事件と
無関係と言い切れるか」と。

 正直に告白するが、私には、自信がない。ふつう程度には、スケベだし、若い女性に興味が
ないわけではない。自分から進んで……ということはないにしても、もし相手のほうから言い寄
ってきたら、それを断る自信は、ない。

 ただ女性といっても、私のばあい、30歳前後の女性に、もっとも強く魅力を感ずる。「美しい」
「すてきだ」と思うのは、その前後の女性である。しかもおかしなことに、私はメガネをかけてい
る女性に、強く引かれる。そういう性癖もある。

 こういうことを繰りかえしているから、学校の権威はさがる。教師の権威もさがる。教育そのも
のの権威もさがる。「教育って、いったい、何だ」となる。

 ……という経過を経て、やがて日本の教育も、やがて欧米化する。大学の自由化に始まっ
て、学校教育そのものも自由化する。また、そうならざるをえない。今は、その過渡期ということ
になる。

【学校の先生たちへ】

 「オレたちも、ふつうの人間だア」と、もっと声をあげて叫びなさい。
 「オレたちにも、できることと、できないことがある」と、もっと声をあげて叫びなさい。
「ここまでは、できるが、それ以上のことはできない」と、もっと声をあげて、叫びなさい。

何でもかんでも背負ってしまうから、結局は、自分で自分の首をしめてしまう。へたに聖職者意
識をもつから、自分の体にクサリを巻いてしまう。

 こうしたハレンチ教師を擁護するつもりはないが、その息苦しさがなくならないかぎり、結局
は、苦しむのは、現場の先生、あなたたちということになる。

(注※)……T容疑者は先月下旬、携帯電話の情報交換サイトで知りあったO地方に住む、14
歳の女子中学生に対し、言葉巧みに女子中学生のわいせつな画像を、自分の携帯電話に送
らせた上で、女子中学生の携帯電話に「一度会いたい。会わないと画像をばらまく」などという
内容のメールを送りつけ、脅迫した。(TBS−iニュースより)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1628)

●1990年

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今朝(11月6日)、Eマガの読者が、
4人ふえて、1990人になった。

しかし、どうして、いつも4人なのだろう?

ふえるときは、いつも4人。さもなければ、
ゼロ。「?」と思いながら、1990年。

+++++++++++++++++++++

1990年……。このころ、私は、山荘づくりに没頭していた。浜松の近郊にある小さな山を買
い、その山を、ユンボで削ったり、土地をならしたりしていた。

 ほとんど毎週、土日は、それでつぶれた。

 土地があるからといって、すぐ山荘を建てられるわけではない。山といっても、日光の当たる
南側に面した土地のほとんどは、農地になっている。その農地に家を建てるためには、農地
を、一度、山林に転用した上、さらに宅地に転用しなければならない。

 山林に転用するためには、木を植え、5年ほど、待たなければならない。

 宅地になったからといって、すぐ山荘を建てられるわけではない。「隣地承諾」といって、その
土地に接する、すべての地主たちの承諾が必要である。それがないと、山荘を建てることがで
きない。

 言い忘れたが、農地から山林へ転用するとき、すべての農地が、山林に転用できるというわ
けではない。農地には、無数の「農業保護」がかかっている。その農業保護を、もつれた糸を
ほぐすように、一本ずつ、はずしていかねばならない。

さらに赤線(農家の人が通る小道)、青線(水の流れ道)の問題もある。公図の上に、赤線や青
線があると、宅地転用は、まず不可能と考えてよい。どうしても宅地に、ということになれば、農
地委員会の承諾が必要となる。

が、農地委員会の承諾といっても、これまた簡単ではない。何度も足を運び、委員たちに頭を
さげなければならない。もちろん手ぶらでは、相手にしてもらえない。実際には、山荘の建築
は、不可能。さらに山林ともなると、権利関係が複雑で、だれが地主か、わからないところが多
い。

 山林から宅地に転用するときも、今度は法務局の検査が入る。その検査にパスしないと、宅
地として認めてもらえない。木を植えてから、5年ほど待たされるのは、そのためである。

 そんなわけで、山林の中に山荘を建てるばあい、たいていの人は、そういっためんどうがい
やで、あきらめてしまう。が、その地域の人が見放したような、北側の斜面であれば、そういっ
ためんどうなことはない。しかし北側では、日当たりがよくない。

 私たちは、南側に面した、その土地に山荘を建てたかった。

 杉の苗を育てるために、草刈りつづける一方、土地を造成した。石垣を組んだ。道をつくっ
た。テントを持ちこんで、一夜をそこで過ごしたことも、何度かある。……とまあ、そのときの苦
労話を書いたら、キリがない。

 が、何と言っても最大の問題は、「水」だった。電気やガスは、何とかなるが、水は、そうはい
かない。農家の人たちは、山の湧き水を利用している。が、だからといって、その湧き水を分け
てもらうことはできない。そうでなくても、冬の渇水期には、水がかれる。「よそ者」であれば、ま
ず、不可能。

 排水の問題もある。

 私の山荘のばあい、都市で使う浄化槽を2つつけた上、30〜50メートルほど離れたところ
に沈殿式の池を作った。浄化槽と沈殿式の池は、パイプでつないだ。そういった工事も、自分
たちでした。

 いろいろあったが、昼休みになると、いつも、ワイフや子どもたちと、丘の上に座って弁当を
食べた。あとになって、近隣の農家の人たちに聞くと、それがよかったらしい。農家の人たち
は、こう言いあっていたという。

 「あの連中は、あそこまでして、ここに住みたいと願っている。あそこまでするなら、まあ、この
村に迎えてやるか」と。

 木を植えて1、2年もすると、農家の人たちとみな、友だちになった。道にゴザを敷いて弁当を
食べていると、ときどき山の果物を届けてくれたりした。私たちも、そのつど、町のみやげを届
けたりした。が、もしそういうプロセスがなかったら、私たちは、今の場所に、山荘を建てること
はできなかっただろうと思う。

 こうして私たちは、約800坪の土地を手に入れることができた。私が満43歳のときのことで
ある。

【付記】

 山道にしても、それぞれの農家の人たちが、自分の土地を提供して作った道が多い。そうい
う道を、「道」と思って自分勝手に使っていると、農家の人たちの反発を買うことがある。「あい
つら、オラの土地を勝手に使っている」と。

 たとえばAさんならAさんが、自分の畑の横に、道をつくる。すると今度は、その隣地のBさん
が、その道につなげて、自分の道をつくる。……こうして、順に道がつながって、一本の道にな
る。

 そんなわけで、山間部にある農村では、道にしても、そのあたりの人たちの私有地と考えた
ほうがよい。またそういう意識をもって、道を使う。その謙虚さがないと、村の人たちと、仲よく
やっていくことはできない。村の人たちに、はじき飛ばされてしまう。

【付記2】

 ときどき客人を山荘へ連れてくると、その客人が、2つのタイプに分かれるのを知る。「ここは
すばらしいところですね」と、そのまま山荘ライフに溶けこんでくれる人と、「ここは、おっかない
ところですね」と、山荘ライフに違和感を覚える人である。

 私の山荘へたどりつくためには、数百メートルほど、坂道をくだらなければならない。トラック
1台がやっと通れるほどの一本道である。ガードレールはない。一方は山に接しているが、もう
一方は、がけになっている。

 「おっかない」というのは、その道のことをいう。「自然の中の生活というのは、そういうもの」
と、最初から割り切っている人には、なんでもない道である。しかし「都会生活が最善」と考えて
いる人には、おっかない道となる。

 中には、「こんな道を、夜、酔っぱらって運転することはできませんね」と言った人も、いた。が
け下へ落ちれば、そのまま一巻の終わり。

 さらに「このあたりには、タヌキやイノシシがいます」と私が言うと、「それは楽しいですね」と、
それを喜んでくれる人と、「こわいですね」「いやですね」と、それを拒否する人に分かれる。

 2つのタイプの人が、きれいに分かれるから、おもしろい。その中間の人というのは、あまり
いない。で、私は、前者のようなタイプの人を、「自然派」、後者のようなタイプの人を、「都会
派」と呼んでいる。

 私は完全な自然派だから、都会派の人たちの気持ちが、あまりよく理解できない。しかし、人
は、人それぞれ。私がそうであるかといって、相手も、それを喜ぶだろうと考えて、それを押し
つけてはいけない。

 山荘ライフと、客人と楽しむためには、それなりの慎重さと謙虚さが必要である。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1629)

●今朝・あれこれ(11月7日)

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ここ数日は、ほとんど原稿を書かなかった。
調子が悪かった。

こういうときというのは、考えるのも、
おっくうにになる。「どうでもいいや」という、
投げやりな気持ちになる。

運動不足なのかもしれない。私のばあい、
運動不足になると、とたんに、頭の働きが、
鈍くなる。

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●思いつくまま

 今朝は、午前5時半に起きた。昨夜は、午後9時半に床についたから、一応、8時間、眠った
ことになる。

 で、起きてすぐ、茶碗一杯のお茶をつくる。それをもって、書斎へ。書斎といっても、元、息子
の部屋。ものが、雑然と散らかっている。

 その部屋で、パソコンに電源を入れて、まずメールのチェック。このところ、スパムメールが、
倍増したように思う。今朝だけでも、25〜30通前後も、届いていた。

 が、すべて、削除。容赦なく、削除。何も考えず、削除。

 さらに最近では、私のHPの掲示板にまで、書きこんでくる連中(=バカ)がいる。「オッス、お
いら、ここで童貞を捨てました」「童貞を捨てて、5万円」とか、など。リンク先を書きこんである
が、こうしたリンク先は、絶対に、クリックしてはいけない。その先に、何が埋めこんであるか、
わかったものではない。

 で、今朝、読者のみなさんに迷惑がかからないように、リンク表示の文字の色と、背景の色を
同一にした。こうすれば、リンク先の表示があったとしても、それを、見た目には消すことがで
きる。

 あとは、掲示板投稿の連絡がありしだい、即、削除。……という作業を、たった今、終えたと
ころ。(何だかんだで、1時間も、かかってしまった!)

 こうして、私の一日は、始まる。たいていは、(怒り)を感じながら、始まる。(怒り)を感ずる
と、サーッと、頭に血がのぼってくるのが、わかる。眠気が消える。


●暖かい朝

 11月だというのに、この暖かさ!

 若いころは、11月といえば、身を切るような寒さを感じたもの。が、今は、パジャマ一枚でも
平気。地球温暖化は、確実に進行している。

 そういえば、昨日は、季節はずれの雷雨と集中豪雨。こういう地球にしてしまったのは、私た
ち、おとなの責任。それを考えると、「何を、偉そうに!」となってしまう。つまり、子どもたちに、
申し訳ない気持ちにかられる。

 オーストラリアでは、干ばつの影響で、今年は、50%程度も、農作物の収穫が減少するとい
う(NSW州)。9月はじめには、季節外れの霜が降り、農作物が大打撃を受けたというニュー
スも、伝わってきている(南オーストラリア州)。

 さらに不気味なのは、中国の乾燥化、砂漠化が、年々、加速度的に進んでいるということ。砂
漠化だけならまだしも、表土が流出し、大地そのものが岩盤化している。わかりやすく言うと、
中国を右上から左下に、約半分にした上の部分は、年間降水量が400ミリ以下の、砂漠地帯
になりつつあるということ。

 その砂漠地帯は、どんどんと今の今も、南下しつつある。

 暖かいのはよいが、その(暖かさ)と引きかえに、今度は、食糧問題。11月なら11月らしく、
もう少し寒くてもよいと、私は思うのだが……。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1630)

●親との時間短いと、非行に(?)

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親や大人と過ごす時間が短ければ短いほど、
子供は問題行動に走りやすいという調査結果が、
イギリスのシンクタンクより発表された。

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 親や大人と過ごす時間が短ければ短いほど、子供は問題行動に走りやすいという調査結果
が、イギリスのシンクタンクより発表された。

しかし、こうした調査結果を読むとき、注意しなければならないのは、どちらが卵で、どちらがニ
ワトリかということ。

 つまり(親との時間が短い)から(子どもが非行に走りやすくなる)のか、それとも、(子ども非
行に走るようになる)から(親との時間が短くなる)のかということ。さらに、(親との時間)といっ
ても、幼児期のことをいうのか、それとも非行が問題になる、少年、少女期のことをいうのかと
いう問題もある。

 短絡的に、(親との時間が短い)イコール、(子どもの非行)と考えると、誤解のもととなる。

 もう少し、調査結果をていねいに読んでみよう。TBS−iニュースは、つぎのように伝える。

+++++++++++

……イギリスの有力シンクタンク、「IPPR」は11月6日、ヨーロッパ各国の青少年の行動を調
査した、30年に及ぶデータの分析結果を発表しました。

 それによりますと、15歳の子供で、暴力や飲酒、薬物、性行為などの行動をする割合が高
く、「ヨーロッパ・最悪の国」とされたのがイギリスでした。

 そのイギリスと、問題行動が少なかったイタリアのデータを比較したところ、「日ごろ、家族と
一緒に夕食を食べる」では、イギリスが64%、イタリアが93%、また、「親とよく話をする」で
は、イギリスが62%、イタリアが86%などという結果になっています。

 「親と一緒に過ごす時間の少ない若者が、反社会的な行動を、より取りやすいことを示す膨
大な証拠があります」(「IPPR」 ジュリア・マーゴ担当研究員)。

 ちなみに、日本のデータは、それぞれの質問で82%、58%でした。

 今回の調査結果は、子供たちの行動において、家庭の役割が、いかに大きいかを改めて示
していると言えます。

++++++++++

 もう少しわかりやすくするために、数字を整理してみよう。

●日ごろ、家族と一緒に夕食を食べる

  イギリス  ……64%
  イタリア  ……93%
  日本    ……82%

●親とよく話をする

  イギリス  ……62%
  イタリア  ……86%
  日本    ……58%

●上記2つの数値を平均してみると……

  イギリス  ……63%
  イタリア  ……90%
  日本    ……70%

 この平均値をみるかぎり、日本のそれは、イタリアよりも、イギリスに近いということになる。
(イタリアとの差は20%、イギリスとの差は7%。)

 と考えていくと、親との時間が短いと、非行に走りやすいとは、必ずしも、言えないのではない
のか。あるい意味で、「親と一緒に過ごす時間の少ない若者が、反社会的な行動を、より取り
やすい」というのは、常識。放任主義が、子どもの教育にとってよくないことは、だれでも知って
いる。それを、あえて「それを示す膨大な証拠があります」とは!?

 かりに15歳のときはよくても、イタリアのばあい、そののち、おとなに近づくにつれて、非行化
が急速に進む。

 ちなみに、犯罪被害者数の対人口比でみると、つぎのようになっている(OECD、Factboo
k・2006)。

 イギリス  ……26・4人(2000年)
 イタリア  ……24・6人(1989年)(2000年度の資料なし)
 日本    ……15・2人(2000年)

 犯罪被害者数でみるかぎり、イギリスもイタリアも、それほど、ちがわないのがわかる。なおこ
の調査結果によると、あのオーストラリアが1位で、30・0人(2000年)だそうだ。

 OECD諸国では、全体に、犯罪被害者数は、増加している。同じ、1989年で比較すると、つ
ぎのようになる。

イギリス  ……19・4人(1989年)
 イタリア  ……24・6人(1989年)
 日本    …… 8・5人(1989年)

 つまり、イギリスより、イタリアのほうが、はるかに犯罪被害者数が多いのである。

 こうした調査結果というのは、決して、一元的な側面からのみで、うのみにしていはいけな
い。仮に、「IPPR」の ジュリア・マーゴ担当研究員の言っていることが正しいとしても、見方を変
えれば、それだけイギリスの子どもたちは、親から独立しているということになる。

 ……で、今ごろは、どこかの教育団体や、教育者たちが、「そら、見ろ!」と、この数字をとり
あげて、「親との会話の重要性」と説いていることだろう。それはまちがっていない。常識であ
る。

 ただ現実問題として、ではどうすれば、親との会話の時間をふやせるかということになると、
ことは簡単ではない。『言うは易(やす)し、行なうは難(かた)し』ということになる。

 ……この私の考え方は、少しヒネクレているかな?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 親と
の対話 親子の触れ合い ふれあい 親と子どもの非行 子供の非行)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1631)

●「太陽政策」って何?

+++++++++++++++++

韓国のN大統領が推(お)しすすめる、
「太陽政策」って、何?

わかりやすく言えば、
「独裁者延命政策」のこと?

それとも、
「核兵器製造、時間稼ぎ手助け政策」のこと?

あるいは、
「ストックホルム症候群政策」のこと?

+++++++++++++++++
 
 北朝鮮の朝鮮労働党元書記で、韓国で亡命生活を送るファン・ジャンヨプ氏は、11月6日、
韓国国会で開かれた「寧民フォーラム」の特別講演で、「南北関係で最も大事なのは平和だと
言うのは、金xxの奴隷になろうというのと同じことだ。(そういうことを言う人は)欺まん者ばかり
だ」と述べた(朝鮮N報)。 

まさに、同感である。またそれが世界の常識といってもよい。

N大統領が守ろうとしているのは、平和主義でも、民族の融和でもない。N大統領が、結果的
に支えているのは、金xxという、類をみない、頭の狂った独裁者であり、その独裁者が率い
る、独裁国家である。

さらに、ファン氏は、「太陽政策を主張する人々は、平和主義という仮面をかぶっている。最近
の南北関係や韓半島(朝鮮半島)情勢を目の当たりにしながら、平和より大事なことはない、と
言っているが、これは金正日の奴隷になろうとするものだ」と訴えた。 

 そして、「以前は軍事境界線で銃声が聞こえただけでも恐怖におびえていたのに、今は核実
験をしても、『韓国社会は安泰だ』とのたまう欺まん者たちがいる。こういう発言をする人々は、
史上最大の欺まん者だと思う。彼らが『民族協調』『民族主義』『統一』などといった仮面をかぶ
っている」と批判した(同、朝鮮N報)。 

 このような言葉は、N大統領や金大中前大統領が、お題目のように、よく口にするものだ。つ
まりこれらの大統領は、K国が、傾きかけると、直接現金を渡して、K国をささえてきた。その結
果、韓国は、K国に、核兵器開発のための(時間)と、(資金)を与えてしまった。今の今も、与
えている。

こう考えていくと、では、太陽政策とは、いったい何かということになってしまう。

あえて言えば、「独裁者延命政策」ということになる。あるいは、「核兵器製造、時間稼ぎ手助け
政策」と言ってもよい。長い間、K国に脅されているうちに、韓国社会全体が、ストックホルム症
候群に陥ってしまったとも考えられる。

もっとも韓国政府の(ねらい)は、理解でできなくもない。N大統領は、こう考えている。

「K国からの武力攻撃は、何としても、かわさなければならない。できれば、K国の攻撃先を、
日本、もしくは、日本国内の米軍基地に向けさせたい」と。わかりやすく言えば、日本とアメリカ
を悪者に仕たてながら、自分だけは、(いい子)でいようとしている。

が、そんな論理は、ことK国には通じない。通じないことは、今までの一連の流れを見ればわ
かるはず。言いかえれば、韓国は、引くに引けないところまで、自分を追いこんでしまった。今
さら「私たちの太陽政策はまちがっていました」とは、とても言えない。

そういう弱みにつけこんで、K国は、「金剛山観光を中止すれば、戦争だ」と息巻いている。援
助を受けている側(K国)が、援助している側(韓国)に向かって、「それをやめたら、戦争だ」
と。

こんなバカげた論理はないのだが、つまりK国は、そこまで狂っている。

 そこでファン氏は、「本当に平和を守りたいのならば、米国との同盟を強化し、韓国軍を強化
して、安全保障体制をより強化し、国家情報院や警察の機能もまた強化しなければならない。
平和主義というのは人をだますものだ。力と精神を培い、思想的に団結しなければならないの
に、侵略者に対してゴマをすり、譲歩し、協調するようになってしまった。このような者どもにな
ぜだまされるのか。本当にずうずうしい」と述べている(同、朝鮮N報)。 

 一度は、「核兵器を放棄する」と同意しながら、「原子力発電所建設が先」と、同意を反故(ほ
ご)にしたK国。一度は、「6か国協議に出る」と同意しながら、「経済制裁解除が先」と、同意を
反故にしたK国。そして今回も、「6か国協議に出る」と同意しておきながら、「日本は不要」と、
これまた同意を反故にしようと画策するK国。

 金xxは、絶対に、核兵器を放棄しない。彼にとって、核兵器とは、カルト教団の本尊のような
もの。信仰というものがどういうものであるか知っている人なら、彼が、核兵器に対してどのよう
な思いをいだいているか、それを理解できるはず。時間がたてばたつほど、金xxは、核兵器の
数をふやし、核保有国として、今度は、日本のみならず、韓国をも恫喝(どうかつ)してくるは
ず。すでに、それは始まっている。

 平和主義にもいろいろある。「殺されても、文句は言いません」という平和主義。反対に、「い
ざとなったら、平和のために戦う」という平和主義。しかし「戦争はいやだ」と言って、コソコソ逃
げ回るのは、平和主義でも何でもない。ただの臆病(おくびょう)という。

 最後にファン氏は、韓国国会で行われた特別講演を、こう締めくくっている。

「今の状況から考えると、K国が連邦制(K国主導の統一)を宣言する日も、そう遠くないと思
う。今のこうした間違った状況は正さなければならない」と(同、朝鮮N報)。

 わかりやすく言えば、韓国がK国をのみこむのではなく、K国が韓国をのみこんだ形で、半島
を統一する、と。韓国がどうなろうと、あおれが彼らの望む道であるなら、私たち日本人の知っ
たことではないが、今度は、日本が、K国の脅威に、直接、さらされることになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●謎の隠密行動

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去る8月、金xxは、実に不可解な行動を
繰りかえした。

謎の行動といってもよい。

そのとき書いた原稿を、まず、読んでみて
ほしい。

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●謎の訪中劇 

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現在(8月30日)、K国の金xxxは、
中国を訪問中(?)であるという。

金xxが使用する、特別列車は、偵察衛星
などによって、現在、中国国内にあることが
確認されている。

では、その目的は、何か?

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ヤフーニュースは、韓国発として、つぎのように伝える。

「K国の金xxの訪中説が国際社会の関心を集めている。K国の特別列車が中国に到着したこ
とが衛星から確認されたという話や、金xxはすでに北京訪問を終えて平壌に戻っているとの情
報もある。が、韓国政府当局者は、8月30日にこのどちらも事実ではないと否定、あらゆる可
能性を念頭に置き状況把握に努めていると説明した」と。

 こういうとき、だれも書いてないことを書くのは、楽しい。勇気がいるというより、楽しい。

 私は、こう思う。思うだけで、根拠はないが、しかしそう考えると、一連の不可解な(動き)を、
うまく説明できる。

 まずすべての大前提として、現在、金xxの健康状態は、きわめて悪い。心臓病や肝臓病が
取りざたされているが、私は、ここにきて持病の糖尿病が、急速に悪化しているのではないか
と思っている。

 金xxは、今年に入ってから、激ヤセをしている。それにどこへ行くにも、サングラスをかけて
いる。激ヤセは、糖尿病末期の患者、特有の症状。サングラスをかけるのは、糖尿病網膜症
のためとも、考えられる。ひどい緑内障に苦しんでいるのかもしれない。

 そこで私は、少し前、この時期に訪中するというようなことがあれば、病気治療が目的ではな
いかと書いた。が、それについては、韓国政府当局者は、金xxの訪中説を否定している。金xx
のような男が、中国国内をウロウロしていれば、だれの目にも、とまるはず。胡錦涛(こきんと
う)国家主席に会うために訪中したというのであれば、なおさらであろう。

 では、金xxは、今、どこにいるのか?

 私は、金xxは、K国内にいると思う。となると、現在、中国国内にあるとされる特別列車は、
何のためかということになる。

 そこで私の推理。先にも書いたが、ここから先に書くことは、あくまでも、私の推理。その私
は、こう思う。

 特別列車は、中国で、それなりの人物ご一行様を迎えるためのもの。ズバリ言えば、金xxの
病気治療に必要なドクターたちを乗せて帰るためのもの。わざわざ列車じたてにしたのは、そ
れなりの治療機材を積みこむためである。

 仮に糖尿病であり、それが悪化したとすれば、人工透析器や、その周辺の検査器具、治療
器具であることも、じゅうぶん、考えられる。人工透析治療のための器具一式ということになれ
ば、かなりの重量になる。飛行機で運ぶのは無理だが、列車なら、可能である。

 ならば、何も特別列車など、さしむけなくてもよいではないかと思う人もいるかもしれない。中
国側が、自分たちの列車で、運びこめばよい。しかしそこが儒教文明国家。西欧文明を受け
入れたわれわれとは、発想そのものが、ちがう。古典派に属する日本人ならわかると思うが、
それが、彼らが言うところの、「礼儀」「作法」ということになる。

 金xxという男は、以前から、そういうことには、いつも、おかしな(こだわり)を見せる。自分の
命にかかわるということであれば、なおさらであろう。

 ……というのが、私の推理だが、しかしそう考えると、ここにも書いたように、一連の不可解な
(動き)を、うまく説明できる。あまり自信はないが、私は、そう思う。
(この原稿は、8月31日に書いたものです。)

++++++++++++++++

ここまで書いたあと、一度だけだが、
金xxが、公(おおやけ)の場に姿を
見せている。

最後の会談ということで、中国の唐委員らが、
核実験のあと、金xxと直接、面談している
(06年9月)。

そのときの金xxの様子は、テレビなど
でも報道されたが、その姿を見て、
驚かなかった人はいない。

劇ヤセした上に、腹だけが、奇妙なほどに
ポコリと丸く大きく膨(ふく)れあがっていた。

+++++++++++++++++

 私が8月31日に書いた原稿では、「腎臓病の疑いがある」と書いたが、ここにきて、肝臓病
の疑いが、にわかに濃くなってきた。

 市内で内科医院を経営している、医師のK氏は、こう教えてくれた。

 「(あくまでも外に現れた症状を見るかぎり)、肝硬変、もしくは肝臓がんの末期とみてよいでし
ょうね」と。「ただ、金xxの周辺には、たくさんの医師団が取り囲んでいますから、それなりの治
療を集中的にしているはずです。今すぐ、どうこうということはないにしても、重病であることに
は、まちがいないと思います」と。

 つまり腎臓病ではなく、肝臓病である、と。

 となると、これはあくまでも私の推理だが、あの特別列車が、中国から連れ帰ったのは、腎臓
病専門のドクターではなく、肝臓病専門のドクターだった可能性が、ぐんと高くなる。しかも外科
医。ズバリ言えば、肝臓移植を専門とする、ドクターたちである。

 その前後、2か月近く、金xxが、姿を消したことも考えると、その可能性は、きわめて高い。
金xxは、肝硬変にせよ、肝臓がんにせよ、重度の肝臓病に侵され、肝臓移植手術を受けた?

 これはあくまでも私の推理だが、そう考えると、あの8月の、金xxの不可解な行動を説明する
ことができる。

 しかしどうであれ、つまり腎臓病であれ、肝臓病であれ、金xxの健康問題がこじれて、ここ数
か月のうちに、K国情勢が、急変する可能性は、きわめて高い。

++++++++++++++

同じときに書いた原稿を、
少し手直しして、ここに
掲載します。

++++++++++++++

●対米追従外交?

++++++++++++++++

たしかに日本の外交は、戦後一貫して、
「対米追従外交」(経済評論家・T氏談)
である。

事実は、事実。それは、もうだれの目にも、
疑いようがない。

しかし一方で、国際外交は、どこまでも
現実的でなければならない。

現実を見失ったとき、国際外交は崩壊する。
同時に、その国は、進むべき道を、
見誤る。

++++++++++++++++

 対米追従外交を、批判する人は多い。経済評論家のTJ氏も、そのひとりである。三井物産
時代のかつての同僚ということで、肩をもちたい気持ちもないわけではないが、ならば聞く。今
の日本にとって、どうして対米追従外交であってはいけないのか。

 「追従」「追従」というが、追従しなければならない「現実」がそこにある。

 あの中国は、ものの10分足らずで、(あるいは数分で)、日本中を廃墟と化すことができる。
それだけの核兵器を、すでに保有し、実践配備をすませている。

 忘れていけないのは、戦争というのは、兵器だけでするものではないということ。日本にとっ
て脅威なのは、兵器もさることながら、その兵器を底流で支える、士気である。反日感情であ
る。中国人がもっている、その反日感情には、ものすごいものがある。

 いったんどこかでそれに火がつけば、悲しいかな、今の日本に、それをくい止めるだけの武
器もなければ、実力もない。もっとわかりやすく言えば、日本の平和がかろうじて守られている
のは、(中国側から見れば)、その背後に、アメリカという巨大な軍事国家がひかえているから
にほかならない。

 また在日米軍を支えるための、多額の負担金を問題にする人もいる。たしかに日本は、20
06年度だけでも、「思いやり予算」(=在日米軍駐留経費)と称して、2326億円もの負担金を
支払っている。先に問題になった、沖縄からの基地移転費用についても、これとは別に、「35
00億円までなら支払ってもよい」と、日本側は、回答している。

 この額を多いとみるか、少ないとみるか?

 仮に日本有事ということにでもなれば、日米安保条約が発動されて、日本は、アメリカ軍の庇
護下に入る。が、そのときアメリカ側が負担する金額は、ぼう大なものになるはず。あの韓国で
さえ、こんな試算を出している。

「朝鮮半島有事の際には、韓国は、アメリカから1300兆ウォン(約158兆円)分の軍事装備
を、無償で借りることができる」(朝鮮日報・K論説委員)と。(158兆円だぞ!)

 現に今、となりのK国は、日本攻撃を目的として、核兵器を開発している。が、そのK国に対
して、この日本には、満足な交渉能力すら、もっていない。拉致問題ひとつ解決できない。そう
いう日本が、どうして核開発問題を解決できるというのか。

 韓国にしても、いまや日本の同盟国と考えている人は、ほとんど、いない。いつなんどき、中
国と手を組んで、日本に襲いかかってくるか、わかったものではない。K国とさえ、手を組むか
もしれない。少なくとも、現在のN大統領政権というのは、そういう政権である。

 日本は、そういう立場である。つまりそういう立場であることを棚にあげて、「自主権」なるもの
をいくら唱えても、意味はない。わかりやすく言えば、日本は、アメリカに追従するしか、今のと
ころ、生き残る道はない。「追従」という言葉に語弊(ごへい)があるなら、「密接な協調」でもよ
い。

 戦後、日本という国が、かろうじて平和を保つことができたのは、日本人が、平和を愛したか
らではない。(こういうばあい、「愛する」という言葉は、腸から出るガスくらいの意味しかないが
……。)

 日本が平和を保つことができたのは、背後にアメリカ軍がいたからにほかならない。が、もし
アメリカ軍がいなければ、そのつど日本は、毛沢東・中国、スターリン・ソ連、金日成・K国、さら
に李承晩・韓国に攻撃されていただろう。これまた悲しいかな、日本はそういうことをされても
文句が言えないようなことを、先の戦争でしてしまった。

 日本は、アメリカに追従せざるをえなかったし、基本的には、今も、その状態はつづいてい
る。それが「現実」である。

 もちろん私も、このままではよいとは思っていない。いつか日本も、アメリカから独立し、日本
は日本として、独自の道を歩まねばならない。しかしその前提として、この極東アジア、東北ア
ジアに、相互の信頼関係が築かれなければならない。それがないまま、「日本は日本だ」「日本
が国内で何をしようが、日本の勝手」と言い切ってしまうのは、今の日本にとっては、きわめて
危険なことである。

 その一例が、日本のK首相によるY神社参拝問題ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1632)

●上海のMさんより

++++++++++++++++++

中国の上海在住のMTさんより、
みなさんに、メールが届いています。
(06年11月8日)

++++++++++++++++++

はやし先生

こんにちは。

こちらは、3日ほど前から急に寒くなり、朝晩は、冬のコートが必要なほどになりました。昼間は
暖かいのですが…。

先生のご友人が、上海でスリ等々にあったとのこと、大変でしたね。でも、こちらではよくあるこ
とです。私自身は、幸いまだ遭遇していませんが、周囲の人たちは、一度は経験しているよう
です。とられたものが惜しい、というより、後味の悪さ、衝撃のほうが強いらしく、私は、経験し
たくないです。

知人が目撃した、スリの瞬間について、書きます。

そのあたりを、たくさんの自転車が走っていました。中国には、自転車や電動スクーター多いで
す。若い女性が自転車に乗って走っていたのですが、その横を伴走するかのように、年齢は
4、5歳の男の子が走っていたそうです。

知人はその男の子は、自転車を運転している女性の子どもだと思って、うしろから見ていたそ
うですが、男の子は、走りながら、女性が斜めがけにしているショルダーバッグの中に手を入
れて、なにやら物色し始めたそうです。しばらくゴソゴソ探っていたそうですが、収穫がなかった
らしく、離れていったそうです。

日本人が多く集まる、ある地区では、スリの被害が増えています。ここは欧米人も多く集まりま
す。その地区にある某外資系スーパーでのこと。子どもの連れ去り未遂事件が、少し前にあり
ました。

被害者は白人の男の子でした。お母さんが目を離した隙(すき)に連れ去られ、気づいた母親
が、ガードマンに告げ、店の出入り口を封鎖。男の子はトイレで無事保護されましたが、衣服
は脱がされ、髪の毛も頭半分ほど坊主刈りにされていたそう。このスーパーはとりあえず何で
もそろうというので、日本人も多く、利用しています。近所には日本食品店も何軒かあります。
日系の進学塾もあります。

でも、ニューヨークや、東京よりは治安はいい、と、海外で生活してきた人たちは、みな、言い
ます。知人の友人はニューヨークで暮らしていますが、東京は怖くて行けないと言っているそう
です。上海は今のところ、凶悪事件は減ってきていると聞きます。そのかわり、スリなどは日常
茶飯事。

(危険)に対する意識が低いのかな…と思うことが、時々あります。

たとえば工事中の歩道。狭い道で、そこを通るしかありません。ドリルのついた工事車両がコ
ンクリート(アスファルト?)の地面を掘り返しています。当たったら、かなり痛いであろうと思わ
れるような、そんなコンクリートの破片が、周囲に飛び散ります。でも、飛び散りを防ぐ被いや、
通行止めの柵もありません。ドリルが休む隙にそのすぐ脇を通り過ぎます。私もそうしていま
す。

これも知人から聞いた話です。

バス停に座っていたら、隣に座っていた女性が突然悲鳴を上げました。驚いて、その知人が見
ると、女性の手が見る見る腫れていきます。バス停の向かい側でビルの解体工事をしていた
のですが、そこから飛んできた破片が女性の手に当たったのです。4車線の道路を挟んでは
いたのですが、やはり、防護シートなどは設置してありませんでした。

何事もそういう、お国柄です。

自分の身は自分で守る。どこの国にいてもそうなのですが、守らなければならない状況が日本
に比べ、多岐に渡っているように感じます。

信号や横断歩道を渡る機会は少ないですが、渡るにしても、よく気をつけないと、車にひかれ
てしまいます。信号のない道路を横切るほうが、気が張ってる分、安全な感じがします。どちら
にしても危ないですね…。ひとりのときはいいのですが、子どもづれのときは、気をつかって、
大変です。

……というわけで、毎日、スリリングな(?)日々を送っています。

では、また。

 上海、MTより。


【MTさんへ、はやし浩司より】

 私も、若いころ、あちこちで、ひどい目にあいました。おかげで少しは、利口になりました。
が、それが(現実)というか、(外国)なのですね。日本の常識は、どこかぬるま湯的。外国で
は、通用しません。

 少し前にも書きましたが、アメリカ人は、道に迷っても、ぜったい、見知らぬ人には道を聞き
ません。自分で地図を開いて、それとにらめっこをしながら、目的の場所をさがします。で、あ
るとき、私が、「どうしてそのあたりの人に聞かないのか?」と聞くと、そのアメリカ人は、こう教
えてくれました。

 「相手の人がこわがるから」と。

 ご存知ですか? アメリカでは道を聞くフリをして、その人に近づき、ピストルで脅(おど)して
お金を奪うという犯罪が、少なくないそうです。ばあいによっては、ズドン!

 が、日本では、中学校で使う英語の教科書などには、道をたずねるという英会話が載ってい
ますね。「郵便局は、どう行けばいいですか、教えていただけませんか?」「この道をまっすぐ行
って、三つ目の角を、右に曲がってください」と。

 しかしそんなことをたずねるアメリカ人は、いません。つまりあれほど、ムダな英会話というの
もないということになります。

 で、MTさんのメールを読んでいて、感じたこと。……言うなれば、中国は、自己責任の国とい
うことでしょうか。あるいは社会制度そのものが、まだ未成熟? 日本では、大雨が原因で洪
水が起きても、住民は、市を訴えたりします。「行政の怠慢が原因で、洪水になった」と、です。
つまりそれだけ、日本人というのは、(お上)に対して、依存性が強いということになります。

 それがよいのか悪いのか、私にはわかりませんが、こうした依存性は、教育の場にも、たび
たび見られます。

 少し前にも書きましたが、ある小学校で、こんな事件が起きました。

 ある子ども(小1、男児)が、学校の帰りに、同級生に石を投げられ、ケガをしたのです。たい
したケガではなかったのですが、母親が、それに反発。翌日、学校へ行き、担任に、「もっとし
っかりと、子どもたちを監視してほしい」と申し出たそうです。が、その先生は、正直な人だった
のですね。その母親に、こう答えたそうです。

 「そこまでは、できません」と。つまり「帰り道のことまでは、責任を負えません」と。

 その言葉に、母親はさらに反発。今度は、その足で、校長室まで行って、校長に抗議したそう
です。きっと「あの先生は、無責任だ」とか何とか、そんなようなことを言ったのだと思います。

 しかし、実際問題として、先生が、そこまで監視するのは、不可能です。で、その先生は、そ
の日の終わりの会のとき、子どもたちの前で、「昨日、○○君に石を投げたのは、だれだ」と、
言ってしまったというのです。

 が、これがまたまた大問題に発展してしまいました。

 それを聞いた母親が、「そんなことを先生がみなの前で言えば、うちの子がいじめにあってい
るということが、みなにわかってしまう」「ますますいじめられるようになってしまう」と。

 ……こうした一連の母親の行為の向こうに、私は、日本人独特の、あの依存性を感じてしま
うのです。もし自分の子どものことがそんなに心配なら、自分で、自分の子どもの送り迎えをす
ればよいのです。多分、中国人なら、そうするでしょうね。しかしそういう発想は、日本人には、
ありません。

 「何でも、かんでも学校」という発想です。たまたま今夜も、NHKテレビで、国語力についての
報道番組がありました。最近、若者たちの国語力が、低下しているという内容のものでした。

 その中で、ある作家(○○賞受賞者)が、こうコメントを述べていたのには、驚きました。「学
校での基礎教育を、もっと充実すべき」と。

 ここでも、また「学校」です。しかしどうして「学校」なのでしょう。私なら、「母親の言葉教育から
始めるべき」と言うでしょう。あるいは「母親の言葉教育を、もっと充実すべき」と言うでしょう。

 言うまでもなく、子どもの国語力、なかんずく会話能力を決めるのは、母親自身の国語力だ
からです。その国語力が、子どもの国語力の基礎となります(※)。

 わかりますか?

 「自分で何かをしよう」と考える前に、「お上(=学校)に何かをしてもらおう」という発想です。
こうした発想が、日本中の、すみずみにまで、行き渡っている。日本人の骨のズイのズイまで、
しみこんでいる。

 (外国)は、もっときびしいですね。日本人の私たちが考えているより、はるかにきびしい。MT
さんからのメールを読んでいたとき、別の心で、そんなことを私は考えていました。ちがうでしょ
うか?

 ……ともあれ、お元気そうで、何よりです。しかし、MTさん自身がそうなのですから、ご主人
は、もっとたいへんな経験をなさっておられるかもしれませんね。風習や制度がちがうというよ
り、文化そのものがちがいますから……。むしろ戦前の日本人のほうが、中国に同化しやすか
ったかもしれませんね。日本人は、よきにつけ、悪しきにつけ、戦後、アメリカ型の西欧文明を
受けいれてしまいましたから……。

 今、MTさんが感じておられるギャップというか、カルチャ・ショックは、その狭間(はざま)で生
じているのだと思います。おおいに頭の中で火花を飛ばして、それを楽しんでください。少なくと
も、お子さんたちには、たいへんよい刺激になっているはずですから……。(少し、無責任な意
見で、すみません。)

 で、日本は、今、秋たけなわといったところです。暖房はまだ必要ありませんが、ひんやりとし
た寒気を感じる毎日になりました。

 また、どうか、上海の様子を知らせてください。よろしくお願いします。楽しみにしています。

 (まだ転載許可をもらっていないのに、楽天の日記のほうに、MTさんのメールを紹介してしま
いましたが、お許しください。多分、いつものように了解してもらえるだろうと思い、勝手にそうさ
せていただきました。ごめんなさい!)


(注※)子どもの国語力について

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう30年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、つぎの3つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小2)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい
うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。

たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞く
と、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコ
プター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。

毎日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をして
いて、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめん
どうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言って
あげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、
本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。

私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言った。「そんなの
誰にだってできるでしょう」と。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、
幼児期に決まる。そういう意味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少
しはわかってほしかった。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1633)

【心的外傷後ストレス障害(PTSD、Post traumatic Stress Disorder)、私のばあい】

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PTSD、つまり心的外傷後ストレス
障害で苦しんでいる人は、多いですね。

私も苦しみました。

そんな経験を、書いてみました。

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●PTSD 

 その人の処理能力を超えた、強烈なストレスが加わると、その人の心に、大きな影響を与え
る。そのときそれがふつうの記憶とは異なり、脳に外傷的記憶として残ることがある。そして日
常生活において、さまざまな症状や障害を示すことがある。こうした一連のストレス性障害を、
心的外傷後ストレス障害という。

 Aさんは、あやうく上の子どもを、水死させるところだった。家族でキャンプに行ったときのこと
だった。水から救い出したときには、すでに意識はなかったが、幸い、父親が人工呼吸をほど
こしたところ、息を吹きかえした。上の子どもが6歳、したの子どもが4歳のときのことだった。

 以後しばらくは、その子どもが無事だったとことを喜んだが、しかしそれが落ちつくと、ここで
いう心的外傷後ストレス障害が現れた。当時の事故のことを思い出すと、極度の不安状態に
なるという。あるいはその事故のことを忘れようと、思えば思うほど、当時の状況が、思い出さ
れてしまうという。届いたメールから、引用させてもらう。

★私は、それ以来今では少なくなっていますが、夜ふとんに入ると思い出して眠れなくなってし
まうことがあります。

★子どもの下校時間が近づくとそわそわして、家の中と外とを行ったりきたりしてしまいます。

★これから先もずっと心配していかなければいけないかと思うと将来が不安でしかたがありま
せん。

★まわりに相談しても、助かったんだからとか、子離れしたらとか言われます。

★主人もいろいろ考えてはくれますが、どうしたらいいのか分からないみたいです。結局は自
分の中で勝手にいろいろ想像して勝手に悩んでいるだけなのですが、何とかこの状態からぬ
けだしたいです。

●フラッシュバック

 心的外傷後ストレス障害では、その種の状況になると、強い感情的反応が現れることが知ら
れている。言いようのない不安感や恐怖感、絶望感や虚脱感など。ときに当時の状況をその
まま再体験、もしくは心の中で再現したりする。これを「フラッシュバック」という。

 強度の心的外傷後ストレス障害になると、日常生活にも影響が出てくる。感情鈍麻、麻痺、
回避性障害(人と会うのを避ける)、行為障害(ふつうでない行動を繰りかえす)など。多く見ら
れるのが、不眠である。

【心的外傷後ストレス障害、私のばあい】

 私もまったく同じような経験をしている。家族で、近くの湖へ海水浴に行ったときのことであ
る。3人の息子を連れていったが、とくに二男については、今、こうして命があるのは、まさに奇
跡中の奇跡である。

 その直後の私は、たしかにおかしかった。二男が生きているにもかかわらず、生きていること
を不思議に思い、思うと同時に、背筋が何度も凍りつくのを感じた。「ほんのもう少しまちがって
いたら、私が殺していた」という、自責の念にかられた。そして夜、床についたあとなど、その日
のことを思い出すと、そのまま興奮状態になり、眠られなくなってしまった。

 それは恐怖、そのものであった。しかしその恐怖は、外からくる恐怖ではなく、自分自身の内
部から、襲ってくる恐怖であった。つかみどころがなかった。「もしもあのとき……」と、そんなこ
とを考えていると、妄想が妄想を呼び、わけがわからなくなってしまった。それに、思い出したく
はないのだが、事故の生々しい様子が、心にペッタリと張りついて、それが取れない。かきむし
っても、かきむしっても、取れない。

 本来なら、二男が生きていることを喜べばよいのだが、そういう気持ちにはなれない。「よか
った」と思うより先に、「どうしてあんなことをしたのだろう」と、自分を責めてしまう。そして一度、
そういう状態になると、足元をすくわれるような不安状態になってしまう。じっとしておられないと
いうか、何をしても、手につかない状態になってしまう。

 よく覚えているのは、そのあと、湖を見るのもこわかったということ。実際には、それ以後、一
度も、湖へは行っていない。正確には、海水浴には、行っていない。おかしな妄想が頭にとりつ
いたこともある。「今度、息子たちを湖へ連れていったら、湖の悪魔に、命を取られるぞ」と。そ
ういうオカルト的な現象など、まったく信じていない私が、である。

 私のばあいは、「湖」とか、「海水浴」が、心的外傷後ストレス障害のキーワードになってい
た。それでそれを避けることで、やがて、少しずつだが、気持ちが和らいでいった。あれからも
う、25年になるが、こうして思い出してみると、いつの間にか、それが一つの思い出になってい
るのに、今、気づく。以前のような、フラッシュバックに陥るということは、もうない。

 ただあのとき、二男を湖から救い出してくれた恩人(私はいつも「恩人」と呼んでいる)につい
ては、その恩を忘れたことはない。二男に何かあるたびに、私とワイフ、ときには二男を連れて
あいさつに行っている。中学を卒業したとき。アメリカへ出発したときなど。相手の人は、ひょっ
としたらそういう私たちを迷惑がっているかもしれないが、私はどうしても、それをしたい。しな
いわけにはいかない。つまりすることによって、二男が、助かるべきして助かったという実感を
ものにしている。

 専門的には、心的外傷後ストレス障害の人に対して、グループ治療や、行動療法が効果的と
いう説もある。私のばあいは、精神科のドクターの世話になることはなかった。ただワイフが、
たいへん精神的にタフな女性で、その点では、ワイフに助けられた。私がフラッシュバックに襲
われたときも、私に、「あんたは、バカねえ。助かったのだから、それでいいじゃない」と言ってく
れたりした。

【Aさんへ】

 私の経験では、こうした心的外傷後ストレス障害は、なおらないということ。そのため、なおそ
うと思わないことだと思います。それを悪いこと、あるいは、あってはならないことと思ってしまう
と、かえって自分を責め、ストレスが倍加してしまいます。

 もっとも効果的な方法は、とにかく忘れること。そのため、その事故を思い起こさせるようなで
きごとを、自分から遠ざけることです。私のばあい、一時は、湖の方角さえ向きませんでした。
ただそのあと、水泳の能力の必要性を痛感し、息子たちを水泳教室へは入れました。

 そしてここが重要ですが、あとは時間が解決してくれます。『時は、心の治療人』と考えてくだ
さい。こうしたもろもろの心の問題は、心的外傷後ストレス障害にかぎらず、時が解決してくれ
ます。悪いことばかりではありません。

 とくに二男は、生きていることのすばらしさを、そのあと、教えてくれました。また心的外傷後
ストレス障害といいますが、そういう状態になると、感性がとぎすまされ、他人が見ることができ
ないものが、見えてきたりします。言いかえると、そういう経験をとおして、あなたの子どもは、
今、あなたに何かを教えようとしているのです。

 ここに添付したような原稿(中日新聞に発表済み)は、そういう私の気持ちを書いたもので
す。どうか、参考にしてください。何かのお役にたてるものと思います。今の私の立場で言える
ことは、「どうか、一日も早く、いやな思い出は忘れて、明るい太陽の方に顔を向けてください」
という程度でしかありません。

●苦しんでいるAさんへ、

 心を解き放て!
 解き放って、空を飛べ!
 あなたは、今、生きている。
 あなたの子どもも、今、生きている。
 それを、友よ、すなおに喜ぼうではないか。

 苦しんでいるあなたは、幸いなれ!
 あなたには、他人に見えないものが見える。
 命の尊さ、命の美しさ、
 そして命のあやうさ、
 だからあなたは、人一倍
 自分の人生を大切にする。
 生きる尊さを、まっとうする。

 事故?
 とんでもない!
 あなたの子どもは
 あなたに、生きる意味を、教えるために
 今、そこにいる。
 それを、友よ、すなおに受け入れようではないか。
 そして、友よ、あなたの子どもに感謝しようではないか。
 あなたのおかげで、私は生きる意味がわかったわ、と。

 苦しんでいるあなたは、幸いなれ!
 真理への道は、いつも苦しい。
 その苦しさを通ってのみ、
 あなたは、その真理にたどりつく。
 だから友よ、恐れてはいけない。
 だから友よ、逃げてはいけない。
 あなたは自分を受け入れ、
 あなたの子どもを受け入れる。

 さあ、友よ、明日からあなたは、
 新しい人生を歩く。
 勇気を出して、歩く。
 もうこわがるものは、何もない。
 なぜなら、あなたは、今、
 生きる意味を、知っている。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 PTS
D 心的外傷後ストレス症候群 ストレス障害 心的外傷後ストレス障害)

++++++++++++++++++++++++++

よろしかったら、お読みください。また二男については、
私のホームページのトップページから、二男のサイトに
アクセスできます。去年、かわいい孫が生まれました。
一度、見てやってください。あなたの子どもも、いつか、
孫をつれてあなたのところにやってきますよ。

(何度もマガジンで取りあげた原稿なので、以前、
お読みくださった方は、とばしてください。)

++++++++++++++++++++++++++

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入ったときのこ
とだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。

しばらくしてから女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ
山岳部に入る予定の友だちが、体力がないため、落とされそうだから」と。その話を聞いたと
き、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人
間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「S
よ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1634)

●今朝、あれこれ(11月9日)

+++++++++++++++++

地元のC新聞では、このところ毎日、一面で、
行政改革についての特集を組んでいる。

はっきり言えば、お役所仕事は、ムダ
のかたまり。そのムダを省いて、行政をもっと
スリムにしようというのが、行政改革。

しかし、お役人の抵抗にも、ものすごい
ものがある。

+++++++++++++++++

 浜松市の郊外に、H町という、閑静な住宅街がある。この浜松市でも、昔から、超一等地とし
て知られている住宅街である。豊かな緑に包まれ、どの家も、「家」というよりは、「邸宅」といっ
たほうがよい。そんな邸宅が、そのあたりには、立ち並んでいる。

 その一角に、市長公社がある。

 木造2階建ての居住棟と、鉄筋2階建ての会議室。それぞれ広さは、260平方メートル、48
0平方メートル。坪数で言えば、78坪、145坪。しかし敷地は、2700平方メートル。818坪!

 この市長公社に対して、浜松市の行政改革推進審議会(通称「行革審」、スズキ自動車会
長・鈴木修氏座長)は、「全廃」を答申した。

 が、当の審議会の答申を受けたK浜松市長は、「災害、緊急時でも短時間で登庁できる」「自
宅より警備しやすい」などという理由により、反対意見を表明(C新聞報道)。審議会に拘束力
はないので、結局、そのまま存続されることになった。

 ところで、お役人たちは、「災害」「緊急時」を口にすれば、何でも許されると思っているらし
い。たとえば駅前に、Aタワーという、超豪華なビルが建っている。45階建て。建築費だけで
も、2000億円とも、3000億円とも言われている。

 あのAタワーの頂上に、いまだかって一度も使われたことのないヘリポートが載っている。タ
ワーの高さを、21世紀にかこつけて、約210メートル(212・77メートル)にした。そのため、
ヘリポートを、タワーからさらに上にもちあげた。その費用だけでも、つまりタワーの高さを210
メートルにするため、ヘリポートをもちあげた分の費用だけでも、30〜50億円もかかったとい
う。

しかしヘリポートは、何のため? それに答えて、市の職員は、「地震などが起きたときの災害
時に使うため」と答えている(当時の報道番組)。

 バカめ!

 地震が起きたとき、だれが、あんなヘリポートなど使うものか! だいたい、エレベーターが
満足に動くかどうかさえ、わからない。救助隊にしても、45階から、どうやって下まで、おりてく
るのだ!

 考えられるのは、火災だが、火災にしても、ふつうの屋上があれば、それでじゅうぶん。ギン
ギラ銀に輝く、UFO状のヘリポートを、わざわざ用意する必要など、まったく、ない。

 同じように、市長公社。

 会議棟にしても、05年度に使われた回数は、たったの11回。が、これに対して、市側は、
「年間維持費は、居住棟については、61万円。会議棟については、205万円」と回答している
(C新聞)。つまり、微々たる費用だ、と。

 バカめ!

 人件費は、どうなる? 5人の役人を常駐させれば、それだけでも年間約5000万円以上も
の人件費がかかる。10人なら、1億円以上。アクトタワーについてもそうだが、こうした人件費
は、ゼロ円ということで計算しているから、お・そ・ろ・し・い。

 浜松市側は、行革審の答申を、ことごとく、はねのけている。で、結局、行政改革は、すべて
骨抜き。今になってみると、何のための行革審だったのかということになる。

 が、その一方で、現在、市側は、「市街地活性化」という言葉を、お題目のように唱えている。
500億円単位の税金を、市街地に、惜しみなく注いでいる。「駅前は、浜松市の看板だ」という
意見も、よく聞く。

 しかし今、この浜松市に残っている大企業の工場は、ほとんどない。HONDAもSUZUKIもY
AMAHAも、すべて工場を、浜松市の外に移してしまった。かわりに浜松市が力を入れている
のが、花木産業(?)。

 フラワーパークがある。フルーツパークがある。ガーデンパークがある。ついでに楽器博物館
もある。

 何度も言うが、こんな金持ちの道楽のようなことばかりしていて、どうなる? 浜松市は、それ
で発展するのか? 市街地の活性化問題にしても、それはあくまでも、「結果」。浜松市が発展
すれば、その結果として、市街地も活性化する。市街地を化粧すれば、それでよいという問題
ではないはず。

 浜松市のみなさん、駅前の豪華なビル群を見て、「浜松も発展している」と思うな! だまされ
るな!

 ……ということで、この話は、おしまい。私のようなものがいくら叫んでも、行政側はビクともし
ない。つまり私のしていることは、負け犬の遠吠え。この無力感を覚えるようになって、もう20
年以上になる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●以前、書いた原稿より……

++++++++++++++++++

お役所仕事について、以前書いた原稿を
さがしてみた。

++++++++++++++++++

●集団の中の個人

 いつだったか、I県の県庁に勤める友人がこう言った。「官庁なんてものはね、規則で成りたっ
ているようのものだよ。規則を取ったら、組織はバラバラだよ」と。

 外から見ると、巨大な組織も、中身と言えば、無数の規則のかたまりでしかない、と。

 おもしろい見方である。心理学の世界でも、こうした規則の存在を認める。それを「規範」とい
う。

 たとえば街を歩いてみる。そこには無数の人がいる。しかし、たがいのつながりはない。こう
した人たちを、心理学では、「群集」と呼ぶ。しかしその群集が、何らかの規範を保ちながら集
まったとき、その「群集」は、「集団」となる。

 官庁は、その規範で成りたっている。

 が、この規範には、いろいろな側面がある。便利な面もあれば、不便な面もある。わかりやす
く言えば、従順に従うか、反抗するかということになる。もちろんその中間も、ある。

 そこでこの「規範」に対する、人間の反応を、つぎの4つに分ける。

(1)従順、順応型……集団の規範を、何ら疑うことなく、受け入れる。
(2)挑戦、改良型……規範に対して、いつも改良を加え、住みやすくしようとする。
(3)抵抗、反抗型……規範に対して抵抗し、いつも反抗的態度をとる。
(4)逃避、退行型……規範から逃避し、自分だけの小さな世界に住もうとする。

 こうした4つのパターンは、そのまま、その人の生きザマとなって反映される。もちろんその組
織は、官庁だけにかぎらない。「会社」という組織や、さらには「日本」という組織も、その組織で
ある。

 私は、この中でいう、(2)の挑戦、改良型タイプの人間である。どんな世界に入っても、すぐ
ワーワーと騒ぎ始める。「こうしたらいい」「ああしたらいい」と。今も、こうしてモノを書きながら、
そうしている。

 しかしときどき、(1)の従順、順応型であったら、どんなに気が楽になるだろうと思うことがあ
る。私の知人の中には、そういう人も多い。組織という組織を、すべて受け入れてしまっている
(?)。言われたことだけを、言われたようにやっている。

 で、今、ふと思ったのだが、画家や作家の中には、(4)の逃避、対向型の人が多いのではな
いかということ。かなり話が脱線するが、許してほしい。ここから先は、まったく別の話と思って
もらってもよい。

++++++++++

 最近でも、50万部を超えるベストセラーを出した人が、いる。しかし実際に会って話をしてみ
ると、完全な「お宅族」。社会や集団とのかかわりを、ほとんどもっていない。しかし本だけは、
売れた。

 そこでマスコミが担ぎ出し、その人の意見をあれこれ求める。しかし考えてみれば、これはお
かしなことだ。私は、この疑問を、かなり若いころにもった。

 日本を代表するような画家にせよ、小説家にせよ、ではそういう人たちが、社会的にすぐれ
た人物であるかどうかということになると、それは疑わしい。何かの研究家も、そうだ。むしろど
こか「?」な人ほど、そういう世界では、成功をおさめやすい? このことは、たとえば教育の世
界でも、言える。

 私が20代のころ、東京のA大学から、一人の教授が、このH市にやってきて、子育て講演会
をもった。題して「幼児教育とは」。しかし話の内容は、まったくチンプンカンプン。あとでその教
授の経歴を調べたら、その教授は、「赤ん坊の歩行のし方を研究し、その歩行のし方から、人
間の進化論を証明した人」ということだった。

 人間の赤ん坊は、ある時期、ワニやトカゲと同じような這(は)い方をする。

 それ自体は、すばらしい研究だが、ではその研究者が、どうして幼児教育を説くことができる
のか。たまたま赤ん坊が研究テーマだったにすぎない。こうした誤解と、錯覚は、ほかにもあ
る。

 たとえば昔から、このH市は、楽器の町で知られている。それは事実だ。しかしそのH市は、
いつの間にか、音楽の町にすりかわってしまった。楽器と、音楽の間には、超えがたいほど、
大きな距離がある。以後このH市は、「音楽の町」として懸命に売りだそうとしている。が、今イ
チ、パッとしない。

 楽器と音楽。それは印刷機と文学と、同じくらい、離れている。印刷機の町だからといって、
文学の町ということにはならない。同じように、楽器の町だからといって、音楽の町ということに
はならない。どこか話が、おかしい?

 さてさて話が脱線してしまったが、こうしたそれぞれの人の特性を見きわめないと、ときとし
て、私たちは、その幻想と錯覚に振りまわされてしまう。たとえば数年前、人間国宝となってい
る歌舞伎役者が、若い愛人の前で、チンチンを出した事件があった。その写真は、写真週刊
誌にフォーカスされてしまった。

 しかしその役者が、人間国宝を返上したという話は聞いていない。その歌舞伎役者は、役者
としては、すぐれた人物かもしれないが、人間的には、「?」と考えてよい。つまり私たちは、そ
れぞれの人がもつ特性を、そのつど混濁してしまう傾向がある。端的な言い方をすれば、有名
人になれば、それだけ人格も高邁(こうまい)であると、誤解してしまう。

しかしそういうことは決して、ない。ないという意味で、ここに集団における人間の特性を4つの
パターンに分けてみた。もっとわかりやすく言えば、(4)の逃避、退行型の人が、その世界で成
功をおさめたあと、ついで、(2)の挑戦、改良型、あるいは(3)の抵抗、反抗型の人間に化け
ることは、よくある。

 「さてあなたはどうか?」「私はどうか?」という視点で考えてみると、おもしろいのでは……?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 集団
 群集 規範)


●精神病は、危険か?

 神戸で起きた、『淳君殺害事件』は、いまだに多くの場所で語られている。そのため、自分の
子どものことで、それについて心配する親も多い。たとえば自分の子どもが、精神科へ通うよう
な状態になると、「うちの子は、だいじょうぶでしょうか」「うちの子どもも、ああいう事件を引き起
こすのではないかと心配です」と。

 しかしその事件を引き起こした少年Aが、そうであったかどうかという話は、別として、一般論
としては、精神病の患者(統合失調症※を含む)が事件を引き起こす割合が、そうでない人が
引き起こす割合より大きいというデータは、今のところ、存在しない。

 インターネットを使って、あちこちと調べてみたが、そういう事実は、浮かんでこない。むしろご
くふつうの子どものほうが、凶悪事件を引き起こす割合が、高い。だから精神的に何か問題が
あるからといって、すぐそれを、「危険」と考えてはいけない。それこそ、まさに、偏見ということ
になる。

 日本人は、精神的に何か問題があると、それを隠そうとする。恥ずかしいこと、悪いことと考
える。しかし精神も、肉体と同じように、病気になる。なっても、まったくおかしくない。

 非公式な意見だが、アメリカ人の3分の1は、うつ病だという学者もいる。あるいは3分の1の
人は、一生の間に、一度は神経症になるという説もある。40%が、何らかの精神的病(やま
い)をかかえているという説もある。内科へくる患者の、3分の2が、すでにその段階で、心身症
になっているという説もある。つまり今では、精神病というのは、軽い風邪のようなもの。大げさ
に気にするほうが、おかしい。

 私も精神科の世話にはなったことこそないが、かかりつけの内科医には、それに近い相談を
いつもしている。一応、睡眠薬とかそういう薬ももらっている。(めったに使ったことはないが…
…。)若いころは、偏頭痛にも苦しんだ。

 むしろ、私のばあい、気をつけているのは、「ふつうに見える、ふつうでない人」だ。とくに、執
拗にからんでくる人には、注意している。アルツハイマー型痴呆症の人の、初期のそのまた初
期症状として、そういう症状を示すこともあるという。妙にかたくなになったり、がんこになったり
する。感情の繊細さが消えることもある。ズケズケとものを言うのも、その症状の一つである。

 40歳のはじめで、その症状を示す人は、5%(20人に1人)とみるそうだ。

 親でも、こういう親にからまれると、とことん神経をすり減らす。その人が、ふつうでないと気づ
くまでに、時間がかかるからだ。このタイプの人は、ものの考え方が、自己中心的。ある日、突
然教室へやってきて、「ウソをつくな!」と怒鳴ったりする。理由を聞くと、「夏になったら、紫外
線がふえるから、帽子をかぶろう」と私が言ったことが、「ウソだ」と。つまり「帽子では、紫外線
は防げない」と。

 自分勝手な妄想をふくらませてしまうため、会話そのものが、かみあわなくなってしまう。

 で、40歳というと、ちょうど中学生の子どもをもっている親の年齢ということになる。また5%
というと、生徒でいえば、10人に1人ということになる。(親の数は、父親と母親で、20人にな
る。)

 学校の教室では、30人クラスでは、何と、3人は、このタイプの親がいるとみてよい。そういう
親が、これまた先頭に立って、教室そのものを引っかきまわしてしまう。だから最初から、警戒
したほうがよい。

 このことは、親どうしのつきあいについても言える。

あなたの子どもが中学生なら、あなたの周辺にも、このタイプの親が、1人や2人は、必ずい
る。(しかしあなたは、絶対に、そのタイプの人ではない。なぜなら、アルツハイマー痴呆症の初
期の初期症状を示す人は、こうしたマガジンを読まない。読んでも、すでに理解できない。)

 ともかくも、精神病が危険であるという考え方は、まちがっている。根拠がない。偏見である。
むしろ、まじめな人ほど、精神病になりやすい。

 またまた原稿を書いているうちに、大きく話が脱線してしまった。このところ、こうして脱線する
ことが多くなった。ひょっとしたら、これは痴呆症の始まりか……? ゾーッ!

 そんなわけで、この話は、ここまで!
(※……統合失調症。少し前まで、「精神分裂病」という診断名が使われていた。)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1635)

●雑感・あれこれ

+++++++++++++++++

今日は、これからY市で講演。
T中学校区での講演会である。
30分ほど、時間があるので、
この雑文を書く。

(11月9日)

+++++++++++++++++

●悪徳商法

 数日前、関西に住む、ある女性から電話がかかってきた。3人の子どもをもつ母親だった。
いわく、「右脳教育の教材を買ってしまったが、解約したい。どうすればいいか」と。

 値段を聞いて、ビックリ! 1セット、50万円だという。

 「幼児のころ、右脳教育をしておかないと、科学者にはなれません」「あなたのお子さんも、辞
書を一冊、丸暗記できるようになります」「あの卓球のIチャンも、利用していました」などなど。
そのセールスマンは、そう言ったという。

 それで50万円の教材を購入することに!

 バカめ! いや、その母親がバカと言っているのではない。そのセールスマンが、バカ! 右
脳教育の「ウ」の字も知らないで、右脳教育の教材を売りさばいている。

 私の近くにも、「S」という、これまた「?」な教材販売会社がある。月4回の家庭教師こみで、
年間、120〜30万円の費用を取っている。教材販売会社なのだが、家庭教師をセットにして
いるところがミソ。

 つまり教材を解約しようとすると、「うちの教材は、あくまでも家庭教師の補助教材です」と言
って逃げる。家庭教師を解約しようとすると、「家庭教師はサービスとして派遣しています。教
材費実費はいただきます」と言って逃げる。

 私の生徒の親も、何人か、その被害にあっている。

 どうか、みなさん、お気をつけください!


●めんどう

 たった今、掲示板のデザインを変更した。このところ、不良書き込みが多くなった。それでそ
うした。

 が、それがけっこう、めんどう。キーボードを指先で叩くだけの作業なのだが、それがけっこ
う、めんどう。これはどうしたことか?

 よくよく考えてみると、キーボードを叩くのがめんどうというわけではない。頭を使うのがめん
どう。それがわかった。

 それはたとえて言うなら、数学の問題を解くようなもの。将棋や囲碁をさしたりするようなも
の。そういうことをするのが好きな人には、何でもない。しかしそういうことをするのが嫌いな人
も多い。

 それに、今回は、不本意な作業。不良書き込みをなくすための作業。

 方法は、簡単。IEのフィルター機能のように、不良書き込みを、「迷惑書き込み」に指定すれ
ばよい。そうすれば、以後、同じ送信者からの書き込みは、そのまま「迷惑トレイ」に隔離され
る。

 簡単な作業なのだが、いつもになく、めんどう。そう感じた。

 それにしても、どうしてこういうバカが多いのだろう。ヘタクソな文章。文にもなっていないよう
な文章。書き込みをするならするで、もう少し、オツムを磨いてから、書き込みをしろ!

 ちなみに、こんな書き込み。

 「オッス、3時間で、オラ、15万円、稼いだっス」
 「ホントかね。ホント。童貞さん、ひっぱりだこス」
 「いるんだね、それが。ヒマな奥さん。あなたも、5万円、稼ぐ?」と。

 同一人物からのものとは、文調から、すぐわかる。しかしそのつど、発信アドレスを変えてく
る。だから私の方も、そのつど、フィルターをかけなければならない。それが、どういうわけか、
めんどう。たかが指先の操作だけですむことなのに……。


●二人三脚

 このところ、いつも、講演会には、ワイフと2人で、でかける。講演会の主催者の方には、何
かとめんどうをかけるが、そうしている。

 深い理由はない。が、あえて言うなら、こうして2人で出歩くことによって、ボケ防止にはなる。
ワイフは、若いころから、出歩くのが好き。しかし私は、あまり好きではない。そういうこともあ
る。

 だから主催者の方には、いつも、こう言うようにしている。「二人三脚でしていますから、よろし
く」と。

 ほかにとくに楽しみはないが、講演が終わったあと、いつも2人で食事をすることにしている。
楽しみといえば、それが楽しみ。

 今日はこれからY市まで行ってくる。もちろんワイフも同行する。……してくれる。ときどき、
「あなたが心配だから」と言ってくれる。私が途中で、ぶっ倒れるとでも、ワイフは、思っているら
しい。

 その心配は、ないわけではないが……。

 来年からは、講演活動は、できるだけ控えるようにしよう。体力も、そろそろ限界に近づいて
きたようだ。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1636)

●巣立ち

++++++++++++++++++

岐阜県在住の、Yさん(母親)より、
こんな相談があった。

「高校2年の息子と、断絶状態にあるが、
どうしたらいいか」と。

メールには、「転載、引用、お断り」と
あったので、詳しくは、紹介できない。

++++++++++++++++++

 岐阜県のF市に住む、Yさんという方より、こんな相談があった。家族構成は、わからない。

 Yさんは、目下、Yさんの、高校2年生になる息子と、断絶状態にあるという。それについて、
「どうしたらいいか」と。

 メールには、「転載、引用、お断り」とあった。私のほうで、簡単にまとめてみる。

(1)朝食を食べないで学校へ行く。用意しても無視する。
(2)ときどき、学校をサボって、部屋の中に引きこもってしまう。
(3)部屋の中で、何をしているかわからない。
(4)小遣いがあると、ヒーローものの人形を、買い集めている。
(5)夕食も、ひとりで食べる。家族との接触を避ける。
(6)会話は、ない。話しかけると、すぐけんかになってしまう。
(7)けんかといっても、一方的にキレてしまい、会話にならない。
(8)「(中学時代)、行きたくもない塾に行かされた」と、Yさんを責める。
(9)「こんなオレにしたのは、お前だ」と、Yさんを責める。
(10)無気力状態で、勉強をしない。成績はさがった。
(11)中学2年生ごろまでは、いい子で、Yさんに従順だった。
(12)中学生のころには、成績もよく、クラスでもリーダー的な存在だった。

 子どもは小学3、4年生を境に、急速に親離れを始める。(ほとんどの親は、それに気がつか
ないが……。)この時期、たいていの親は、「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と
考えて、子どもの心を見失う。あるいは「親離れ」というものが、どういうものかさえ、わかってい
ない。

 ただ「親離れ」といっても、一次直線的に、親離れしていくのではない。ときに幼児ぽくなった
り、ときに、妙におとなびてみたりを繰りかえしながら、徐々に親離れしていく。これを「ゆりもど
し」と呼ぶ。

 女児であれば、この時期を境に、父親との入浴をいやがるようになる。男児であれば、学校
でのできごとを話さなくなったりする。同時に、第3世界(子供どうしの世界)が、急速に拡大す
る。相対的に第1世界(家族の世界)が、小さくなる。

 そのあと、子どもは、思春期に入り、精神的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。自我
(私は「私」でありたいという意識)が強くなってくると、「私さがし」を始めるようになる。

 そのとき自己概念(私は、こうでありたいという自己像)と、現実自己(現実の自分)が一致し
ていれば、その子どもは、たいへん落ちついた様子を見せる。自己の同一性(アイデンティテ
ィ)が、確立されているからである。

 が、この両者が不一致を起こすと、子どもは、(おとなもそうだが)、ここに書いたように、精神
的にも、情緒的にも、たいへん不安定になる。これを「同一性の危機」と呼ぶ。わかりやすく言
えば、心が、スキマだらけになる。誘惑に弱くなり、当然、非行に走りやすくなったりする。

 それは、たとえて言うなら、嫌いな男性と、いやいや結婚した女性の心理に似ている。あるい
は不本意な仕事をしている男性の心理に似ている。

 こうした状態が慢性的につづくと、それがストレッサーとなって、子どもの心をゆがめる。それ
から生まれる抑うつ感が、うつ病などの精神病の引き金を引くこともある。それはたいへんな
抑うつ感といってよい。決して、安易に考えてはいけない。

 Yさんの息子は、メールを読むかぎり、小中学生のころは、親に従順で、(いい子)であったよ
うである。Yさんも、それに満足していた。そして多分、世間で起きているような子どもの非行問
題を横目で見ながら、「うちの子は関係ない」「うちの子は心配ない」と思っていたはずである。

 が、そんな子どもでも、ある時期から、急変する。その時期は、ここにも書いたように、内的な
性的エネルギーが急速に肥大化する、思春期ということになる。

 大きく分けて、(1)攻撃型と、(2)引きこもり型がある。症状はまったく反対だが、引きこもり
型でも、突発的にキレて、大暴れすることも、珍しくない。

 Yさんの息子について、いくつか気になる点は、過去の問題をとりあげて、被害妄想的に、そ
れを親の責任にしていること。「行きたくもない塾に行かされた」「こんなオレにしたのは、お前
だ」という言葉に、それが集約されている。

 しかしこうした言葉を、Yさんに浴びせかけるようであれば、まだ症状は軽いとみる。この段階
で、対処のしかたを誤ると、子どもは、さらに二番底、三番底へと落ちていく。はげしい家庭内
暴力を繰りかえしたり、あるいは数年単位の引きこもりを繰りかえしたりするようになる。(ご注
意!)

 で、こういう症状が出てきたら、鉄則は、ただ1つ。

(1)今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えながら、1年単位で様子をみる。
(2)進学、学習は、あきらめて、なるように任す。高校中退も念頭に入れる。
(3)「がんばれ」「こんなことでどうするの」式の励まし、脅しは、タブー。
(4)キレる状態がはげしければ、一度、心療内科で相談してみる。

+++++++++++++++

以前書いた原稿を、1作、
ここに添付しておきます。

+++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生は手記の中にこう書
いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれな
い。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
 
++++++++++++++++

 問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない家庭はない。いわんや、親の願いど
おりに育っていく子どもなど、さらに、いない。つまり子育てというのは、そういうもの。またそう
いう前提で、子育てを考える。

 Yさんの息子のケースでは、遠くは、母子間の信頼関係が、じゅうぶん育っていなかったこと
が考えられる。心配先行型の子育て、不安先行型の子育てだった可能性は、じゅうぶん、考え
られる。あるいはそれ以上に、Yさん自身の過関心、過干渉があったことも、考えられる。子ど
もの心を確かめないまま、子育てをしてきた。親のリズムだけで、子育てをしてきたかもしれな
い。

 だからYさんの息子は、思春期に入るまでは、(いい子)だった。子どもの側から見れば、(い
い子)であることによって、自分の立場をとりつくろってきた。が、ここにきて、一変した。Yさん
にとっては、つらい毎日かもしれないが、それも巣立ちと考えて、親は、1歩、退くしかない。

 子どものことは、子どもに任す。もしYさんの心が袋小路に入って、悶々とするようなら、つぎ
の言葉を念ずればよい。

 『許して、忘れる。あとは時の流れに任す』と。

 子育てというのは、基本的には、そういうもの。あるいはYさん自身は、どうであったかを考え
てみるのもよい。あなたは、あなたの親に対して、ずっと(いい子)であっただろうか。たいてい
の人は、「私には問題がなかった」と思っているが、そう思っているのは、その人だけ。

 先にも書いたように、子どもは、小学3、4年生を境に、急速に、親離れをする。しかし親は、
それに気がつかない。親が、子離れするようになるのは、子どもが高校1、2年生になったこ
ろ。

 「このクソババア!」と叫ばれて、はじめて親は、自分に気がつく。そして子離れをする。それ
はさみしくも、つらい瞬間かもしれない。しかしそれを乗り越えなければ、子どもは子どもで、自
立できなくなってしまう。

 忘れていけないのは、Yさん自身も苦しいかもしれないが、それ以上に苦しんでいるのは、子
ども自身だということ。その子どもが今、懸命に、Yさんの助けを求めている。が、肝心のYさん
自身は、自分の不安や心配を、子どもにぶつけているだけ。

 こんな状態で、どうしてYさんの息子が、Yさんに、自分の悩みや苦しみを、心を開いて話すこ
とができるだろうか。

 先にも書いたが、こうした問題には、必ず、二番底、三番底がある。今の状態を、決して「最
悪」と考えてはいけない。むしろ事実は逆で、Yさんの息子は、まだじゅうぶん立ちなおることが
できる状態にある。悪い面ばかり見るのではなく、息子のよい面もみる。ほかの子どもよりは、
独立心がおう盛で、かつ自分の人生を、真剣に考えている。親は、自分の(常識)の範囲だけ
でものを考えようとするが、一度、その常識をはずして考えてみることも、大切なのではないだ
ろうか。

 「あなたは、あなたの道を行けばいい。それがどんな道であっても、お母さんは、あなたを信
じ、支持するからね」と。

 今、Yさんの息子が待っている言葉は、そういう言葉ではないだろうか。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1637)

●韓国のバブル経済

++++++++++++++++

韓国ウォンが、急上昇している。
海外投資も、それにつれて激増。

韓国の投資家たちは、ウォン高に
ものを言わせて、海外の土地を、
買いあさっている。

それはそれで、結構なことだが、
それにつれて、韓国国内の土地価格も、
急上昇。

かつて日本で見られらバブル経済が、
そのまま韓国で、現在、進行中!

++++++++++++++++

 日本のバブル経済がはじけたとき、韓国の各誌は、「これで、日本はおしまい」と、連日のよ
うに書きたてていた。もちろん日本の経済を心配して、そう書いていたのではない。うれしくてた
まらないというような雰囲気で、そう書いていた。

 が、それから19年。今度は、韓国がそのバブル経済で、踊っている。たとえば、こんなニュー
スが、今朝の朝鮮N報(11月10日)に、載っていた。

いわく、ソウル中浪区忘憂洞(チュンラング・マンウドン)の錦湖(クムホ)で、31坪の土地が、1
週間の間に3000万〜4000万ウォン(443万円)上昇し、3億3000万〜3億5000万ウォ
ン(4300万円)にのぼった、と。

 現在、100円=795ウォンだから、それで計算すると、31坪の土地が、日本円で、4300万
円前後ということになる。韓国の物価水準(経済水準)からすると、これはもう、メチャメチャな
価格といってもよい。1坪あたり、138万円。ふつうの住宅地価格が、である。

 東亜N報ですら、「天井知らずに上昇しつづける住宅価格のため、全国が騒然としている」(1
1月9日)と報道している。

 そこで韓国の銀行は、いっせいに、貸出金利をあげることに決めた。たとえばウリ銀行は8
日から、優遇金利を廃止する方法で貸し出し金利を事実上0・2%ポイント引きあげた。ハナ銀
行も来週から同じ方式で、金利を引きあげる計画、と。(ただし韓銀は、金利を据え置くと発
表。)

 こうした動きをみていると、日本がバブル経済崩壊前夜を、そのまま思い出す。韓国政府
は、連日、緊急会議なるものを開いているというが、果たして、どうなることやら? 貸し出し金
利をあげれば、当然のことながら、経済活動は萎縮する。が、その一方で、ますますウォン高
となる。

 100円=800ウォンが、韓国にとっては、ウォン高の死守ラインとなっていたが、先週、あっ
さりとそれを割りこんでしまった。現在は、ここに書いたように、100円=795ウォン。

 一部の企業は、バブル経済に踊っているが、それはあくまでも一部。

 こうした動きをみて、外国投資家たちの逃げ足も速まっている。K国の核実験後、一時は、買
い戻しの動きもあったが、現在(11月10日)、以来、約9兆500億ウォン(1兆2000億円)の
韓国株が売られたままになっている。

 そういう事実を知ってか知らずか、韓国の各紙は、「アメリカのバブル経済がはじけた」(朝鮮
N報ほか)と、そんなような記事を書きたてている。つまりこのあたりに、韓国のオメデタさが、
見え隠れしている。

 反米を唱えるのは結構なことだが、在韓米軍司令部が解体されれば、それをまっ先に喜ぶ
のは、K国である。同時にアメリカ経済が低迷すれば、まっ先に、その影響を受けるのが、韓
国である。現在のN政権は、そういうことが、まるで、わかっていない?

 日本はバブル経済崩壊後、何とか、もちこたえているが、韓国は、どうか? へたをすれば、
そのまま再び、奈落の底へと落ちてしまうかもしれない。いわゆるデフォルト(国家破綻)の再
来である。

 前回のときは、日本は、総額で1000億ドル近い緊急融資をして、韓国を助けた。が、その
結果が、今である。もし韓国が再びそうなっても、日本は、決して安易に、つまり気前よく韓国
を助けてはならない。そのことが、この2〜3年のできごとを通して、よくわかった。

 今の状況を見るかぎり、韓国のバブル経済がはじけるのは、時間の問題と考えてよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●Great Ocean Road

++++++++++++++++++

学生時代のあるとき、私は、休暇ごとに、
デニス君の別荘(ビーチ・ハウス)のある、
海辺で過ごした。

その別荘の近くに、「Great Ocean
Road」の記念碑(アーチ)が立っていた。

「Great Ocean Road」というのは、
第一次大戦後、退役軍人たちが建設した道路である。

その記念碑の古い写真を、デニス君が送って
きてくれた。

私は、その写真を見たとき、あのころの自分が
そのまま戻ってきたように感じた。

……そのまま目頭が、ジンと熱くなった。

そのGreat Ocean Roadにまつわる
エッセーを、いくつか、ここに再掲載する。

++++++++++++++++++++

●ローンという避暑地

 グレート・オーシャン街道という道がある。第一次大戦のあと、退役軍人たちが戦勝を記念し
て作った道だ。この街道がジーロンから、ローンという避暑地を通って、南オーストラリア州まで
続く。

友人のデニスの別荘は、そのローンの手前、車で半時間ほどのところにある。私は日本へ帰
国するまでの2か月間、この別荘で残りの日々を過ごした。と言っても、ずっとその別荘にいた
わけではない。ここを拠点に、メルボルンの間を往復したり、アデレードまで足をのばしたりし
た。そうでないときは、ローンの町で、終日泳いだり、映画を見たりして時間をつぶした。

そのローン。毎年大晦日には、数1000人の若者が集まるという。そして新年の合図とともに、
その若者たちが乱痴気(らんちき)騒ぎをするという。私たちも大晦日には、ローンへ行くことに
した。友だちの中には「行かないほうがよい」とアドバイスしてくれた者もいた。が、そう言われ
れば言われるほど、好奇心がわいた。

 その日の午後。つまり12月31日は、よく晴れわたった暑い日だった。午後少しまで泳いで、
一度デニスの別荘まで戻った。そこで早い夕食をすますと、再びローンへ向かった。あたりの
様子は一変していた。あれほど閑散としていたローンの町が、若い男女であふれかえっていた
のだ。砂浜で野外映画の準備をしているグループ。かたまって騒いでいるグループ。ギターを
演奏しているグループなど。

大半はその間を行き来しながら、ビールを飲んだり、何かを食べていた。そう、砂浜の中央に
は巨大なトランポリが置いてあり、それで遊んでいる若者もいた。

ふと見ると、デニスがホテルの壁をよじ登っているではないか。二階の窓から数人の女の子に
声をかけられ、その気になってしまったらしい。私は何度か呼びとめたが、私を無視して、その
まま部屋の中に消えてしまった。私は一人だけになってしまった。知り合いもいなかった。しか
たないので、そのままデニスが戻ってくるのを待った。

こういうとき白人というのは、実に冷たい。徹底して、「私は私、お前はお前」という考え方をす
る。

夜がふけると、あちこちで花火がなった。それに合わせて、歓声また歓声。さらに夜がふける
と、ローンの町は、もう足の踏み場もないほどになった。デニスが戻ってきたのは、そのころだ
った。そしてあのカウントダウンが始まった。

●そして皆……!

 「テン、ナイン、エイト……」。そして「ワン、ゼロ」となったところで、一斉に声が宙を舞った。
「ハッピーニューイヤー!」と。

とたん、まわりにいた若者たちが、一斉に衣服を脱ぎ始めたのだ。衣服といっても、簡単な水
着の者が多い。そういう者たちが、そのまま身につけているものを脱いだ。裸だ。皆、素っ裸
だ。男も女も、ない。皆、だ。

異様な雰囲気になった。興奮のあまり、ビール瓶や空き缶を商店めがけて投げつけるものも
いる。ガチャンガチャンと、何かが割れる音がひっきりなしに聞こえてくる。花火も最高潮に達
した。

私は再度デニスと別れて、というより恐怖心に襲われて、ローンのはずれにある小さな橋のと
ころまで逃げて行った。私はガタガタと震えていた。いくら見ても、アジア人らしき人間は、私一
人しかいない。いつ袋叩きにあってもおかしくない雰囲気だった。途中騎馬警官が何人か来た
が、その警官までもが、皆と一緒になって新年を祝っている。取り締まろうという気持さえない
ようだ。こうして私は1971年の1月1日を迎えた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

秋の夜のロマン、UFO

●資質を疑われるから、書かないほうが……

 私は超自然現象というものを信じない。まったく信じない。信じないが、UFOだけは別。信ず
るも信じないもない。私は生涯において、3度、UFOを目撃している。1度は、ワイフと一緒に
目撃している。(あとの2度については、目撃したのは私だけだから、だれにも話したことがな
い。文として書いたこともない。ここにも書かない。)

 が、私には、こんな不思議な体験がある。結婚したとき、ワイフにだけは打ち明けたが、こう
してものに書くのははじめて。だから前もって断っておくが、これはウソではない。ここにはウソ
は書かない。こういう話は、書けば書いたで、私の評論家としての資質が疑われる。損になる
ことはあっても、得になることは何もない。

事実、「林君も自分の仕事を考えたら、そういうことは人には言わないほうがよいよ」とアドバイ
スしてくれた人もいる。それはわかっているが、しかしあえて書く。

●不可解な体験

 オーストラリアに留学していたときのこと。あと1か月ほどで、日本へ帰るというときのことだっ
た。オーストラリアの暑い夏も、終わりに近づいていた。私は友人のD君にビーチ・ハウス(海
の別荘)で、最後の休暇を過ごしていた。ビーチ・ハウスは、ローンという港町の手前、10キロ
くらいのところにあった。避暑地として有名なところで、そのあたりには、「グレートオーシャンロ
ード」という名前の街道沿いに、無数の別荘が点在していた。

 ある日のこと。D君の母親が、サンドイッチを作ってくれた。私とD君は、そのサンドイッチをも
って、ピクニックにでかけた。「ビクトリア州の最南端にある、オッツウェイ岬(Cape Otway)に行
こう」ということになった。時刻は忘れたが、朝、ほどよい時刻に出かけたと思う。あともう少し
で、オッツウェイ岬というところで、ちょうど昼食時になったのを覚えている。小高い山の中に入
って、私たちは車の上に座って、そのサンドウィッチを食べた。

 そこからオッツウェイ岬までは、車で半時間もかからなかったと思う。彼らがいうブッシュ(や
ぶ=雑木林)を抜けてしばらく走ったら、オッツウェイ岬だった。

 私たちは岬へつくと、100メートルくらい先に灯台が見える位置に車を止めた。そして車の外
へ出ると、岬の先のほうへと向かって歩き出した。そのときのこと。どちらが言ったわけではな
いが、「記念に大地に接吻をしよう」ということになった。背丈の短い雑草が、点々と生えている
ような殺風景な岬だった。ほかに見えるものといえば、灯台だけだった。

たしか、「オッツウェイ岬」「オーストラリア、最南端」というような表示だけは、どこかにあったよ
うに思う。私たちは地面に正座してひざまづくと、そのまま体を前に倒した。そして地面に顔を
あてたのだが、そこで記憶がとだえた。

 気がつくと、ちょうど私が顔を地面から離すところだった。横を見ると、D君も地面から顔を離
すところだった。私とD君は、そのまま車に戻り、帰り道を急いだ。ほとんど会話はなかったと
思う。

 そのオッツウェイ岬からは、舗装された道がつづいていた。そしてほどなく、アポロベイという
港町に着いた。港町といっても、波止場が並ぶ、小さな避暑地だった。私たちはそのひとつの
レストランに入って、ピザを食べた。日はとっくに暮れていた。まっ暗といったほうが正確かもし
れない。

 この話はここで終わるが、それからほぼ一週間後のこと。そのとき私とD君は、D君の両親
の住むジーロンの町の家にきていた。そこで、ベッドに入って寝る前に、私はD君に、こう切り
出した。胸の中でモヤモヤしているものを、吐き出したかった。

 「D、どうしてもわからないことがある……」
 「何だ、ヒロシ?」
 「いいか、D、あの日ぼくたちは昼食を食べたあと、オッツウェイ岬に向かったね」
 「そうだ」
 「サンドイッチを食べたあと、すぐオッツウェイ岬に向かった。時間にすれば、30分もかから
なかったと思う」
 「そんなものだな、ヒロシ」
 「でね、D、そのオッツウェイ岬で、同時に2人とも眠ってしまった。そんな感じだった。あるい
は眠ったのではないかもしれない。同時に地面に顔をつけ、同時に地面から顔を離した。覚え
ているだろ?」
 「覚えている……」
 「それでだ。ぼくたちは、オッツウェイ岬から帰ってきた。そしてあのアポロベイの町で、夕食
を食べた。ぼくはそれがおかしいと思う」
 「……?」
 「だってそうだろ。オッツウェイ岬から、アポロベイまで、どんなにゆっくりと走っても、1時間は
かからない。が、アポロベイへ着いたときには、外はまっ暗だった。時刻にすれば、夜の7時に
はなっていた。ぼくたちは、同時にあの岬で眠ってしまったのだろうか」と。

 昼過ぎにオッツウェイ岬に着いたとしても、午後1時か2時だったと思う。それ以上、遅い時刻
ではなかった。が、そこからアポロベイまで、1時間はかからない。距離にしても、30キロくらい
しかない。が、アポロベイに着いたときには、もうとっぷりと日が暮れていた! どう考えても、
その間の数時間、時間がとんでいる!

 私はその話をD君にしながら、背筋がどこかぞっとするのを感じた。D君も同じように感じたら
しい。さかんに、ベッドの上で、首をかしげていた。

 そのオッツウェイ岬が、UFOの有名な出没地であることは、それから数年たって、聞いた。D
君が、そのあたりで行方不明になったセスナ機の事件や、UFOが撮影された写真などを、そ
のつど届けてくれた。1枚は、あるカメラマンが海に向けてとったもので、そこには、ハバが数1
00メートルもあるような巨大なUFOが写っていた。ただしそのカメラマンのコメントによると、写
真をとったときには、それに気づかなかったという。

 さらにそれから5,6年近くたって、私たちと同じような経験をした人の話が、マスコミで伝えら
れるようになった。いわゆる、「誘拐(アダプション)」というのである。私はあの日のあの経験が
それだとは思いたくないが、どうしてもあの日のできごとを、合理的に説明することができない。

簡単に言えば、私とD君は、地面に顔をつけた瞬間、不覚にも眠ってしまったということにな
る。そして同時に、何らかのきっかけで起きたということになる。しかも数時間も! しかし現実
にそんなことがあるだろうか。私はその前にも、そのあとにも、一度だって、何の記憶もないま
ま、瞬間に眠ってしまったことなど、ない。電車やバスの中でもない。寝つきは悪いほうではな
いが、しかし瞬間に眠ってしまったようなことは、一度もない。

 私とD君は、UFOに誘拐されたのか?

 今になってもときどきD君と、こんな話をする。「ぼくたちは、宇宙人に体を検査されたのかも
ね」と。考えるだけで、ぞっとするような話だが……。

●再びUFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、もう一度、ここに転載する。繰り返すが、私たちがあの夜見
たものは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛び去
るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのようにして消えて
いった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。その原稿
につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点については、
ワイフも同意見である。

つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並んで飛んでいるのに気づいた。そのときは、
黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、しばらくすると、その窓を取り囲むように、ブーメ
ラン型の黒いシルエットが浮かびあがってきた。そのときは、夜空に目が慣れてきたために、
そう見えたのだと思ったが、今から思うと、空から浮かびあがってきたのかもしれない。つぎの
原稿が、その夜のことを書いたものである。

++++++++++++++++++

以下の原稿は、中日新聞の発表した
ものです。

++++++++++++++++++
 
●見たぞ、UFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが1、2キロはあった。しかも私とワイフの2人で、そ
れを見た。見たことはまちがいないのだが、何しろ25年近くも前のことで、「ひょっとしたら…
…」という迷いはある。が、その後、何回となくワイフと確かめあったが、いつも結論は同じ。「ま
ちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の12時を
過ぎていた。そのときだ。

何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並んで飛んでいるのがわかっ
た。私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。そう思って、その数
をゆっくりと数えはじめた。あとで聞くとワイフも同じことをしていたという。

が、それを5、6個まで数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むよう
に、夜空よりさらに黒い、「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。私がヨタカだと思ったの
は、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は突然速度をあげ、反対
の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部所に電話をかけても、「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFO
とは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、
まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(現在、UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真
を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝って
いた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人で
もある。私とワイフは、その中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同
じ形のUFOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが……)が、UFOに乗って地球へやってきても、おかしくはない。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラムを汚したくない
し、第一ウソということになれば、私はワイフの信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっ
ても、教育評論だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野
だ。東洋医学に関する本も3冊書いたし、宗教論に関する本も5冊書いた。うち4冊は中国語
にも翻訳されている。

そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界
では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書い
てみた。
(02−10−21)※

(追記)私は宇宙人が、この地球の近くにいると聞いても、驚かない。みなさんは、どうですか?
 そんなことを考えていると、秋の夜、星空を見あげるのも、楽しくなりますね。まあ、「林もとき
どき、バカなことを書くものだ」とお笑いくださればうれしいです。そうそう私とワイフと見たUFO
ですが、新聞記事に書いたあと、2人、同じものを見たという人が、連絡をとってきました。この
話は、またいつか……!


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●親子の根くらべ

++++++++++++++++++++++++++++

Sさん(四八歳母親・浜松市在住)から、こんなメールが
届きました。
 
「親子断絶のトンネルから、やっと抜け出たような気持ちです。
重苦しい、よどんだ空気から解放されたような喜びを感じます。
やっと我が家にも、親子の会話が戻ってきました」と。

++++++++++++++++++++++++++++

●子育ては根競(くら)べ

 子育てはまさに、根競べ。小さい根競べ、大きい根競べ。それが無数につづいて、またまた
大きな根競べ。まさにその連続。しかし恐れることはない。愛さえあれば、何も恐れることはな
い。愛さえあれば、必ず、勝つ。勝って、鉄のようにかたまった子どもの心でも、必ず溶かすこ
とができる。

 まったく会話のない父子がいた。現在、父親は今、満50歳。息子は満25歳。もとはといえば
家庭騒動が原因だが、そのまま家族の歯車そのものが狂ってしまった。その父子は、息子が
中学生になるころから、まったく会話をしなくなってしまった。

いっしょにテレビを見ているときも、食事をしているときも、父親のほうは、それなりに何かを話
しかけるのだが、息子のほうは何も答えなかった。父親の姿が見えたりすると、息子は、その
ままスーッと姿を消したりした。はじめのころは、「何だ、その態度は!」「うるせエ〜」というやり
取りもあったが、それもしばらくすると、消えた。

 やがて息子は、お決まりの非行コース。ときおり外出しては、そのまま何時間も帰ってこなか
った。外泊したこともある。真夜中に花火をあげて、近所の人に苦情を言われたこともある。コ
ンビニの前でたむろしたり、あるいは友人のアパートにあがりこんで、タバコを吸ったり、ときに
はシンナーも吸ったりした。親子の間は、ますます険悪なものになっていった。

 が、そのとき父親は、仕事の過労も重なって、1か月入院。そのときから、父親のほうに、大
きな心の変化が生まれた。息子が高校1年生のときだった。それまでは息子のこととなると、
すぐカリカリしていたが、まるで人が違ったかのように穏やかになった。「一度は、死を覚悟しま
したから」と、母親、つまりその父親の妻がそう言った。

 が、一度こわれた心は、簡単には戻らない。息子は相変わらず非行、また非行。やがて家の
中でも平気でタバコを吸うようになった。夜と昼を逆転させ、夜中まで友人と騒いでいることもあ
った。茶パツに腰パン。暴走族とも、つきあっていた。高校へは何とか通ったが、もちろん勉強
の「ベ」の字もしなかった。学校からは、何度も自主退学をすすめられた。

しかしそのつど、父親は、「籍だけは残してほしい」と懇願した。ときどき爆発しそうなときもあっ
たが、父親はそういう自分を必死に押し殺した。あとになって父親は、こう言った。「まさに許し
て忘れるの、根競べでした」と。

 息子は高校を卒業し、専門学校に入ったが、そこは数か月でやめてしまった。そのあとは、
フリーターとして、まあ、何かをするでもなし、しないでもなしと、毎日をブラブラして過ごした。母
親のサイフから小づかいを盗んだり、父親の貯金通帳から勝手にお金を引き出したこともあ
る。しかし父親は、以前のようには、怒らなかった。ただひたすら、それに耐えた。

父親は、息子の意思でそうしているというよりは、心の病気にかかっていると思っていた。「こ
れは本当の息子ではない。今は、病気だ」と。そうアドバイスしたのは私だが、この段階で、「な
おそう」と考えて無理をすると、このタイプの子どもは、つぎの谷底をめざして、さらに落ちてし
まう。今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、対処する。

 そうして1年たち、2年がたった。この段階でも、親子の間は、いつも一触即発。父親が何か
を言おうとするだけで、ピリピリとした緊張感が走った。息子は息子で、ささいなことでも、何で
も悪いほうに悪いほうにとった。しかしそれでも父親はがんばった。まさにそれは、血がにじみ
出るような根競べだった。

「息苦しい状態がつづきましたが、やがて、息子がいても、いなくても、気にせず、自分たちの
生活をマイペースでできるようになりました。それからは多少、雰囲気が変わりました」と。

 私はいくつかのアドバイスをした。その一つ、何をしても、無視。その一つ、「なおそう」と思う
のではなく、今の状態を悪くしないことだけを考える。その一つ、ただひたすら許して、忘れる、
と。

 無視というのは、息子が何をしても、気にしないこと。生活態度がだらしなくなっても、ムダな
ことをしても、親の意思に反することをしても、気にしないことをいう。子どもの存在を忘れるほ
どまでになればよい。

 今の状態を悪くしないというのは、「今のままでよい」と、あきらめて、それを受け入れることを
いう。ここにも書いたように、この段階で無理をすると、子どもは、つぎのどん底をめざして、ま
っしぐらに落ちていく。

 「許して忘れる」は、英語では、「フォ・ギブ(与えるため)・アンド・フォ・ゲッツ(得るため)」とい
う。「愛を与えるために、許し、愛を得るために忘れる」ということ。その度量の広さこそが、親
の愛の深さということになる。

 父親はそれに従ってくれた。そしてさらに1年たち、2年がたった。息子はいつの間にか、24
歳になった。突然の変化は、息子に恋人ができたときやってきた。父親は、その恋人を心底喜
んでみせた。家に招いて、食事を出してやったりした。それがよかった。息子の心が、急速に
溶け始めた。穏やかな表情が少しずつ戻り始め、自分のことを父親に話すようになった。父親
はそれまでのこともあり、すぐには、すなおになれなかった。しかし息子が自分の部屋に消えた
あと、妻と抱きあってそれを喜んだという。

 こうしたケースは、今、たいへん多い。「こうしたケース」というのは、親子が断絶し、たがいに
口をきかなくなったケースだ。そしてその一方で、子どもは親のコントロールのを離れ、そこで
非行化する。しかしこれだけは覚えておくとよい。

「愛」があれば、必ず、子どもの心を溶かすことができる。そして子どもは立ちなおる。で、あと
は根競べ。まさに根競べ。愛があれば、この根競べは、必ず、親が勝つ。それを信じて、愛だ
けは放棄してはいけない。ただひたすら根競べ。

 今まで無数のケースを見てきたが、一度だって、この方法で、失敗したケースはない。どう
か、どうか、私の言葉を信じてほしい。今、その息子は、運送会社で、倉庫番の仕事をしてい
る。母親はこう言った。

「とにかく息子の前では、夫婦で仲よくしました。そういう姿は、遠慮せず、息子に見せました。
息子に安心感を与えるためにです。それがよかったのかもしれません。もともと息子の様子が
おかしくなったのは、夫に愛人ができたことによる、家庭騒動が原因でしたから……」と。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●負担は少しずつ減らす

+++++++++++++++

子どもに課負担による症状が
見られると、親は、あわてて
負担を減らそうとする。

そのときのコツが、これ。

『負担は、少しずつ、減らす』。

+++++++++++++++

 ときに子どもは、オーバーヒートする。子どもはまだ後先のことがわからないから、そのときど
きで、あまり考えないで、「やる」とか、「やりたい」とか言う。しかしあまりそういう言葉は信じな
いほうがよい。子どもが、音楽教室などへ行くのをしぶったりすると、「あんたが行くと言ったか
らでしょ。約束を守りなさい」と叱っている親を、よく見かける。が、それは酷というもの。

 で、慢性的な過負担がつづくと、やがて子どもの心はゆがむ。ひどいばあいには、バーントア
ウトする。症状としては、気が弱くなる、ふさぎ込む、意欲の減退、朝起きられない、自責の念
が強くなる、自信がなくなるなどの症状のほか、それが進むと、強い虚脱感と疲労感を訴える
ようになるなどが、ある。もっともこれは重症なケースだが、子どもは、そのときどきにおいて、
ここに書いたような症状を薄めたような様子を見せることがある。そういうときのコツがこれ、
『負担は、少しずつ減らす』。

 たとえば今、2つ、3つ程度なら、おけいこ塾をかけもちしている子どもは、いくらでもいる。音
楽教室に体操教室、英会話などなど。が、体の調子が悪かったりして、1つのリズムがおかしく
なると、それが影響して、生活全体のリズムを狂わせてしまうことがある。そういうとき親は、あ
わててすべてを、一度にやめさせてしまったりする。A君(小二)がそうだった。

 A君は、もともと軽いチックがあったが、それがひどいものもらいになってしまった。そこで眼
科へ連れていくと、ドクターが、「過負担が原因です。塾をやめさせなさい」と。そこで親は、そ
れまで行っていた塾を、すべてやめさせてしまった。とたん、A君には、無気力症状が出てき
た。学校から帰ってきても、ボーッとしているだけ。反応そのものが鈍くなってしまった。

子どものばあい、突然、負担を大きくするのもよくないが、突然、少なくするのもよくない。こうい
うケースでは、少しずつ負担を減らすのがよい。おけいこごとのようなものについても、様子を
みながら、少しずつふやす。ひとつのおけいこが、うまく定着したのを見届けてから、つぎのお
けいこをふやすというように、である。そして減らすときも、同じように数か月をかけて、徐々に
減らす。でないと、たいていのばあい、立ちなおりができなくなってしまう。

 A君のケースでは、そのあと、無気力症状が、1年近くもつづいてしまった。もし負担を徐々に
減らしていれば、もっと回復は早かったかもしれない。さらにしばらくして、こんなこともあった。

以前のような子どもらしい活発さをA君が取り戻したとき、親が、「もう一度……」と、音楽教室
へ入れようとしたことがある。が、それについては、今度はA君は狂人のようになって暴れ、そ
れに抵抗したという。もちろんそのため、A君は、勉強全体から遠ざかってしまった。今も、も
う、それから数年になるが、遠ざかったままである。

 子どもというのは、一見タフに見えるが、その心は、ガラス玉のようにデリケート。そしてこわ
れるときは、簡単にこわれる。もしそれがわからなければ、あなた自身はどうなのか。あるいは
どうだったかを頭の中に思い浮かべてみるとよい。あるいはあなたならできるか、でもよい。た
いていその答は、「ノー」である。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●子どもの役割を認めてあげよう

++++++++++++++++

心の抵抗力。それが子ども自身を
守る。

その抵抗力をつけるためには、
子どもの方向性を見定め、それに
従う。

いわゆる目的をもった子どもは、
強い。その強い子どもにする。

++++++++++++++++

 それぞれの子どもには、それぞれの役割がある。自然にできる方向性といってもよい。その
役割を、親は、もっとすなおに認めてあげよう。

 よく誤解されるが、「いい高校へ……」「いい大学へ……」というのは、役割ではない。それは
目的ももたないで、どこかの観光地へ行くようなもの。行ったとたん、何をしてよいのかわから
ず、子どもは、役割混乱を引き起こす。

 たとえば子どもが、「花屋さんになりたい」と言ったとする。そのとき大切なのは、子どもの夢
や希望に沿った言葉で、その子どもの未来を包んであげるということ。

 「そうね、花屋さんって、すてきね。おうちをお花で飾ったら、きっと、きれいね」と。

 そして子どもといっしょに、図書館へ行って花の図鑑を調べたり、あるいは実際に、花を栽培
したりする。そういう行為が、子どもの役割を、強化する。これを心理学の世界では、「役割形
成」という。

 つまり子どもの中に、一定の方向性ができる。その方向性が、ここでいう役割ということにな
る。

 が、親は、この役割形成を、平気でふみにじってしまう。子どもがせっかく、「お花屋さんにな
りたい」と言っても、子どものたわごとのように思ってしまう。そして子どもの夢や希望をじゅうぶ
ん聞くこともなく、「あんたも、明日から英語教室へ行くのよ!」「何よ、この算数の点数は!」と
言ってしまう。

 一般論として、役割が混乱すると、子どもの情緒は、きわめて不安定になる。心にすき間が
できるから、誘惑にも弱くなる。いわゆる精神が、宙ぶらりんの状態になると考えると、わかり
やすい。

 そこで「いい高校」「いい大学」ということになる。

 もう何年か前のことだが、夏休みが終わるころ、私の家に、二人の女子高校生が遊びにき
た。そしてこう言った。

 「先生、私、今度、○○大学の、国際関係学部に入ることにしました」と。

 ○○大学というのは、比較的名前が、よく知られた私立の大学である。で、私が、「そう、よか
ったね。……ところで、その国際カンケイ学部って、何? 何を勉強するの?」と聞くと、その女
子高校生は、こう言った。

 「私にも、わかんない……」と。

 こういう状態で、その子どもは大学へ入ったあと、何を勉強するというのだろうか。つまりその
時点で、その子どもは、役割混乱を起こすことになる。それはたとえて言うなら、あなたがある
日突然、男装(女装でもよいが……)して、電車の運転手になれと言われるようなものである。

 ……というのは、少し極端だが、こうした混乱が起きると、心の中は、スキだらけになる。ちょ
っとした誘惑にも、すぐ負けてしまう。もちろん方向性など最初からないから、大学へ入ったあ
とも、勉強など、しない。

 子どもの役割を認めることの大切さが、これでわかってもらえたと思う。子どもが「お花屋さん
になりたい」と言ったら、すかさず、「すてきね。じゃあ、今度、H湖で、花博覧会があるから行き
ましょうね」と話しかけてあげる。

 そういう前向きな働きかけをすることによって、子どもは、自分でその役割を強化していく。そ
してそれがいつか、理学部への進学とつながり、遺伝子工学の研究へとつながっていくかもし
れない。 

 子どもを伸ばすということは、そういうことをいう。
(040219)

【追記】

●こうした役割形成は、何も、大学へ進学することだけで達成されるものではない。大学へ進
学しないからといって、達成されないものでもない。それぞれの道で、それぞれが役割形成を
する。

 昔は、(いい大学)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意識が、それを支
えた。

 大学を卒業したあとも、(いい会社)へ入ることが、一つのステータスになっていた。エリート意
識が、それを支えた。

 しかしいまどき、エリート意識をふりかざしても、意味はない。まったく、ない。今は、もう、そう
いう時代ではない。

 今、子どもたちを包む、社会的価値観が大きく変動している。まさにサイレント革命というに、
ふさわしい。そういうことも念頭に置きながら、子どもの役割形成を考えるとよい。

 まずいのは、親の価値観を、一方的に、子どもに押しつけること。子どもは役割混乱を起こ
し、わけのわからない子どもになってしまう。

●誘惑に強い子どもにする。……それはこの誘惑の多い社会を生きるために、子どもに鎧(よ
ろい)を着せることを意味する。

 この鎧を着た子どもは、多少の誘惑があっても、それをはね返してしまう。「私は、遺伝子工
学の勉強をするために、大学へ入った。だから、遊んでいるヒマはない。その道に向かって、ま
っすぐ進みます」と。

 そういう子どもにするためにも、子どもが小さいときから、役割形成をしっかりとしておく。

 ここにも書いたように、「何のために大学へ入ったのか」「何を勉強したいのかわからない」と
いう状態では、誘惑に弱くなって、当たり前。もともと勉強する目的などないのだから、それは
当然のことではないか。

(はやし浩司 役割 役割形成 役割混乱 自我 自己同一性)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●頭のよい子ども

+++++++++++++++

頭のよい子には、よい子なりの
悩みや苦しみがつきまとう。

+++++++++++++++

 頭がよい子どもというのは、たしかにいる。しかしそういう子どもは、ズバ抜けて、頭がよい。
ふつうの頭ではない。「ズバ抜けて」だ。

 それはそのとおりだが、しかし問題は、それにつづく子どもたちである。頭はよい。しかしズバ
抜けてというほどではない。成績はよいが、しかしそれは、努力によるところが大きい。そういう
子どもたちである。

 よく能力平等論を説く人がいる。「人間のもつ能力は、平等である」と。「それぞれの子どもに
は、それぞれ特有の能力が、総じて、平等にある」と。

 それもそのとおりだが、しかしこと、受験勉強という世界においては、平等ではない。たとえば
数学にせよ、英語にせよ、頭のよい子どもは、努力というものをほとんどしなくても、スイスイと
理解し、受験競争を、通り抜けていく。

 一方、そうでない子どもは、いくら努力をしても、学校の勉強についていくだけで、精一杯。実
際には、ついていくことさえできない。

 このときも、問題は、ここに書いたように、ほどほどに頭はよいが、それほどでも……という子
どもたちである。親がそれに早く気づけばよいが、そうでないと、過剰期待や過負担から、この
タイプの子どもは、すぐオーバーヒートしてしまう。

 もっとも、オーバーヒートする程度なら、それほど問題はないが、その過程で、その子どもは、
もがき、苦しむ。そのため、ときには、情緒や、精神に、深刻な影響を与えることもある。もしそ
うなれば、それこそ、家庭教育の大失敗というもの。

 そこであなたの子どもについてだが、あなたの子どもは、つぎのどちらのタイプだろうか。

(1)たびたび学校の先生でさえ舌を巻くほど、鋭い切れを示す。学校の勉強にしても、簡単す
ぎて、話にならないといったふう。幼いときから、「できて当たり前」と、周囲の人たちにも、一目
置かれていた。

(2)学校の成績は、悪くない。いつもコツコツと努力をしているようだ。勉強は嫌いではなさそう
だが、教えてもらったことは、そこそこにできる。しかし教科書から少し離れた問題だと、歯が
たたない。

 (1)と(2)のどちらに近いだろうか。もし(1)のほうなら、別の方法で、子どもを伸ばす。(2)
のほうなら、親の過剰期待、過負担を、ひかえめにする。……というふうに、杓子定規(しゃくし
じょうぎ)に、指導法を決めてかかるのは、正しくないかもしれない。

 しかし(2)のタイプの子どもほど、家庭教育で失敗しやすいのも、事実。

 一般論として、親が最初からあきらめているケース。子どもが親を超えて、はるかに優秀であ
るばあい。この二つのケースについては、失敗は、ほとんどない。失敗するのは、子どもが、そ
の中間にいるときである。

 要は子どもの実力を、どのあたりで見定めるかである。言うまでもなく、正確であればあるほ
どよいが、しかしどこかに「無理」を感じたら、早目に手を引いたらよい。無理を重ねれば重ね
るほど、その反動として、失敗したとき、その被害も大きくなる。

【追記】

 しかし実際には、親は、行きつくところまで行かないと、気がつかない。よくあるケースは、「ま
だ、何とかなる」「うちの子は、やればできるはず」「せめてもうワンランク上の学校を……」と、
無理を重ねるケース。

 親の期待が高い位置にある分だけ、親は満足しない。だから子どもには、知らず知らずのう
ちに、「あなたはダメな子」式の、マイナスの働き(ストローク)かけを、かけてしまう。そしてその
結果として、親自身が、子どもが伸びる芽を摘んでしまう。

 こういう失敗は、今、本当に多い。少子化の時代になって、かえってこの種の失敗がふえた
のではないか。警告の意味もこめて、この原稿を書いた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 頭の
よい子 頭のいい子)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

【BWより】

●歌で覚える

 私の教室では、算数のポイントを、歌で覚えるようにしている。こうして作った、歌が、50番近
くまである。その中のいくつかを、紹介する。

(1)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 イッ・キュウ
 ニイ・ハチ
 サン・ナナ
 ヨン・ロク
 ゴー・ゴー
 ロク・ヨン
 ナナ・サン
 ハチ・ニ
 キュ・イチ

(1―9,2―8,3―7……)と、(あわせて10の数)を、掛け算の九九のように暗記させてしま
う。これは繰り上がりのある足し算、繰り下がりのある引き算では、必須の知識である。

(2)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 足し算、ワー(和)
 引き算、サー(差)
 掛け算、セキセキ(積)
 割り算、ショー(商)

足し算の答を、「和」、引き算の答を、「差」という……ということを教えるときに使う。

(3)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 掛け算、割り算、先にやる、
 かっこの中を、先にやる

計算の約束を教えるときに、この歌を教える。体をくねらせて踊るのがミソ。子どもたちは結
構、楽しそうに踊ってくれる。

(4)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
 0度、180度、90度
 (パチンと手をたたいて)
 ぐるっと回って、360度

分度器の勉強をするときに、この歌を歌う。「0度」「180度」「90度」……と言いながら、両手
でそれを表現しながら、踊る。

(5)(♪スチャラチャ、チャチャチャン、スチャラチャ、チャチャチャンの音頭のあと……)
45、45、90度
30、60、90度

これは三角定規の角度を教えるときに使う歌。この歌を歌うときも、手と腕で、その形を表現し
ながら踊る。

 こうしてこの34年間に、50番近い歌を作った。中には、すでに全国で歌われている歌もあ
る。

学年が進むにつれて、子どもたちは歌わなくなる。そういうときは、「君たち、童心にかえって、
歌いなさい!」と指示する。それでも歌わないときは、「お母さんのおっぱいを飲んでいる人は、
歌わなくていい」などと、からかってやる。とたん、みな、元気に歌いだす。

 何ごとも、楽しく学ぶのが一番。……ですね。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1638)

【作並温泉(宮城県・仙台)旅行記】

++++++++++++++++

三男に会うために、仙台へ行ってきた。
考えてみれば、入学式のとき、横浜の
Y大学へ行ったきり。以来、私は一度も、
三男の大学へ、行ったことがない。

++++++++++++++++

●新幹線の中で……

電車が猛烈な勢いですれちがった。それを見てワイフが、『速いわね』と。

私「50代男のセックスみたいだ」
ワ「何よ、それ」
私「あっという間にすれちがうということ」
ワ「でも、瞬間よ」
私「そんなもの……。へたに長引かせると、あとでチン痛が起きる」
ワ「何、それ?」
私「言わなかったかい? 後遺症のようなもので、1、2日の間、痛いということ」
ワ「だから早くすますわけ?」
私「それに50代になると、出るのもほんの数滴になる。まあそのあたりでやめておいたほうが
いい。へたにドバッと出すと、翌日、歩けなくなる」
ワ「女はそういうことはないわよ」
私「知らなかった……。女もそうかと思っていた……」と。

意味のない会話がつづく。 

大宮を出て、30分。やっとビルの群れが消えて、住宅地が見えるようになった。ときどき、緑の
小山や川も見える。

再びワイフが、「東京って大きいわね」」と。

私「あのね、もうここは東京ではないの。埼玉だよ」
ワ「東京からずっとつづいているから東京よ」
私「そう言われてみれば、そうだね」と。

携帯電話に、今日のために、数100曲も音楽をいれてきた。しかし肝心のイヤホンを忘れてし
まった。

パソコンももってきた。が、電源を入れたとたん、バッテリー切れ。コンセントをつながないま
ま、充電したらしい。何かとこのところ、へまをすることが多くなった。

しかたないので、携帯電話のメモ機能を使って、文章を書く。

やがて窓の外には田園風景が見られるようになった。東京8時28分発のはやてに乗った。
今、時刻は、9時25分。仙台には10時11分着の予定。

●あいにくの雨

外は霧。それとも雨? 視界は2キロもなかった。水墨画を、さらに白いフィルターを通してみ
たような景色だった。「飛行機だったら、計器飛行だね」」と。

このところ何かにつけて、話題といえば、そのまま飛行機の話になる。

ときどき短いトンネルを抜ける。ワイフは目を閉じて眠り始めた。わたしは雑誌を読む。外の景
色とはうらはらに、社内はのどか。ゴーゴーという風を切る音にしても、海の潮騒のよう。

座席は7号車の16AとB。前列から2列目。さきほどワイフが、「東北新幹線のほうがせまいわ
ね」と言ったが、心なしか、そんな感じがしないでもない。室内が暗いせいかもしれない。床も天
井も、すすけた灰色をしている。電気も暗い。そう言えば列車自体が短い(?)。17番までしか
座席がない。

何でもでもこのはやては、八戸まで行くそうだ。それを知って、フーンとうなづく。仙台まであと
半時間。せっかくの紅葉もくすんで見える。小さなトンネルを何度もくぐりぬける。

私もやがて目を閉じた。

++++++++++++++++

●旅館で……

 風の音に驚かされて、目が覚める。時刻を見ると、午前2時30分。昨夜は、午後9時ごろ床
についたはず。いつもより早いが、それでも6時間弱は眠った? 温泉での料理は、海鮮を中
心とした、たいそうなもので、いつもの数倍は食べた。

 眠る前に、もう一風呂、浴びた。

 宿の名前は、湯の花ホテル。料金はまだ聞いていないが、1泊2万円前後ではないか。三男
が予約してくれた、

 しばらく眠ろうと努力したが、やはり風の音。時折、遠くで、トタン板が、バンという音をたて
る。障子戸をあけて外を見ると、まっ白な雲にはさまれて、鮮やかな月がそこにあった。

 「よかった」と思った。昨日は雨。せっかくの紅葉も、どこかくすんで見えた。「雨の紅葉もいい
ものだ」と、負け惜しみも言ってみせた、本当は、陽光に映える紅葉が、一番。

●ただ券

 風の音をのぞけば、静かな夜だ。1時間ほどがんばってみたが、結局は眠られず、こうして
起きて、パソコンに電源を入れる。

 満ち足りたとき。おだやかに、心休まるとき。

 昨夜、夕食のとき、三男がこれからのことを話してくれた。今の航空大学校を卒業したら、J
社かA社に入社したいとのこと。「できればJ社に」と。理由を聞いたら、「国際線に乗りたい」
と。そしてこう言った。

 「3か月勤務すると、パイロットは、ただ券をもらえる。そうなれば、たた券をパパやママにあ
げるから」と。つまりそれを使って、自由に世界一周旅行をしたらよい、と。

 本人も、世界一周旅行を計画しているらしい。「年間の有給休暇が20日間、もらえるから」
と。

●操縦

飛行機には無数の計器がついている。スイッチの数も、それ以上に多い。

飛行機のエンジンにスイッチを入れるとしても、まるでピアノの鍵盤をたたくように、指先をリズ
ミカルに動かす。それを数分間つづける。

エンジンを切るときもそうだ。「タービンのエンジンの温度が、適正温度にさがるまでまたなけれ
ばならない。でないと温度差で、タービンが破壊される」と。

思った以上に飛行機の操縦は複雑なようである。計器やスイッチは、飾りのためにあるのでは
ないようだ。

私はそのつど説明を聞きながら、フーと、ため息をもらす。ついでに、「とてもぼくには無理だ」
と思った。

●グランプリ

 ところで三男の制作したビデオが、FISHEYE・国際コンテストで、グランプリ、つまり最優秀
賞を獲得した。夢のような話である。ヨーロッパではよく知られたコンテストらしい。

 で、宮崎Kテレビの友人2人が、三男に代わって、モスクワ(ロシア)まで表彰式に行ってくれ
たという。「本物の金のトロフーがもらえた」と、三男は言った。「メッキだろ?」と言うと、「本物
だ」と。「ロシアは、金の産地だから」とも。ほかに馬頭琴なども、もらったとか。

 「こんなバカげたことがあるのか」と思ったが、それは言わなかった。

 何でも、11月23日に、九州の都城市の市民センターで、表彰式があるという。約1300人
の市民が、その会場をやってくることになっているという。しかもロシアから。主催者の1人が、
来賓としてやってくるという。地元のテレビ局が、大々的に、祝ってくれるらしい。

 で、その受賞理由がおもしろい。

 「ほかの作品は、どれも、プロが一級のカメラを使って制作したものばかりだが、三男の制作
したビデオについては、まったくのアマチュアが、デジタルカメラを使って制作したところがい
い」と。

 言い忘れたが、賞品は、そのとき、つまり11月23日に、三男にみなの前で手渡されるとい
う。

●巣立ち

子どもたちはやがて巣立っていく。子どもの方にはそういう意識はなくとも、親の方は、子ども
が去っていくと感ずる。その喪失感はどうしようもない。子どもたちは、みな、自分のできなかっ
たことをつぎつぎと成し遂げていく。心の中の恋人が遠くて行ってしまうような感じがする。が、
だからといって、どうすることもできない。子供には子供の人生がある。私たちには私たちの人
生がある。

で、どういうわけか息子たちを前にすると、自分の動作が老人臭くなるように感ずる。歩き方ま
で、ふと気がつくと、老人臭くなる。

これはおそらく私が見てきた老人の姿が、脳みそにインプットされているせいではないか。私の
母などは、50代のころから、老人臭く見せることで、私たちの同情をかおうとしていた。それが
無意識のうちにも、私の中で再現されているようだ。

これはおもしろい現象だと思う。

で、私はそういう自分と懸命に戦う。あえて若々しくふるまう。階段をのぼるときも、道を歩くとき
も、元気よくする。

老人は老人になるのではない。自ら老人臭くなっていく。つまり自分の頭の中に老人像をつく
り、それに合わせようとする。

しかし老人って、何。どうして私たちは自ら老人臭くならなければならないのか。とくに子どもた
ちの前ではそうだ。子どもたちには、不要な心配をかけたくない。「前向きに生きろ」と教えるこ
とは、不要な心配をかけないといことだ。が、それは子どもたちのためであると同時に、実は自
分のためでもある。

子どもが去っていくさみしさを感ずる暇がったら、自分も前向きに生きればよい。私たちには、
死ぬまで終わりはない。終わりの準備をするとしても、それがわかったときからでよい。

……といっても、本当のところ私には自信がない。頭の中では、よくわかっているつもりだった
が、いざ自分がその立場に立たされると、自分をどうコントロールしてよいかわからなくなるの
ではないか。はたして私は、そのときまで、現役のまま、がんばることができるだろうか。

息子の寝姿を見ながら、そんなことを考える。

●操縦桿

 昨日、航空大学校の格納庫で、生まれてはじめて本物の操縦桿を握った。飛行機は。ビー
チクラフト社製のキングエア。双発、ジェットプロポ機である。つまりジェットでプロペラを回転さ
せて飛ぶ飛行機である。

 握った感じは、ズシリと重い鉄のかたまりといったふう。ゲームで使うプラスチック製のものと
は、質量感が、まったくちがう。それに小さかった。全体でも両手を広げたほどの大きさしかな
い。あるいは、それよりも、一回り、小さい。

 整備士の男性が、機内をあちこち説明してくれた。若い男性だったが、航空機の世界では、
分業が、きわめて明確に徹底されている。整備士は整備士、機長は機長、と。それぞれが自
分の持ち場に対して、責任をもつ。

 たがいに干渉しない。たがいに全幅に、信頼しあう。おもしろい世界だと思う。

●再び、ただ券

 この作並温泉といえば、宮城のこけしが有名。途中、大きなこけしの像が立っているのを見
かけた。ほかに仙台の笹かまぼこ。牛タンも有名だが、昨日、昼食で、それを食べた。3人で、
特上の牛タンを食べた。1人、2000円だった。

 牛タンと麦飯、それにとろろ汁がついていた。おいしかった。

 で、夕食は、先に書いた、旅館での豪華なもの。食べきれないほどの料理だった。いつもな
ら、その10分の1以下ですますところだ。

 が、三男との話が、はずんだ。

私「ただ券は。何枚でももらえるのか」
三「申請を出せば、何枚でももらえる。ただし2親等まで」
私「じゃあ、ぼくらももらえる?」
三「そう。それにね、世界の航空会社がそれぞれ提携しているから、世界中の飛行機に乗るこ
とができる」
私「それはいい。その年齢になったら、毎週のように、世界へ行ける」
三「そうだね」と。

 しかし人にものをもらうのは、気持のよいものでない。相手がたとえ三男であっても、だ。

●紅葉

 風が収まってきたようだ。先ほどのようなトタンを揺らす音は消えた。明日の紅葉が楽しみ
だ。昨日、この作並温泉へ来るとき、燃えるような紅葉を、ずっと見てきた。

 そう、私が、花や緑を好きになったのは、ここ10年ほどのことである。それまでは、ほとんど
といって、関心がなかった。が、山荘で生活するようになって、一変した。

 山の中の自然は、強烈だった。とくに5月の新緑の若葉には、感動した。つまりそれがきっか
けだった。それ以後は、美しい花を見たり、こうした紅葉を見たりすると、子どものように興奮
し、はしゃぐようになった。

 ウソや体裁で、はしゃいでいるのではない。そういうものを見ると、ワーッと声をあげたくなる
ほど、感動する。

 昨日も、そうだった。三男が運転する車の中から、何度も、声をあげた。紅葉といっても、こ
のあたりでは、スケールそのものがちがう。野原全体、山全体、風景全体が、その紅葉に包ま
れる。

●生きがい

 こういうときは、いろいろと人生について考える。「今までの私の人生は、何だったのかなあ」
と。同時に、「これからの人生は、どうなるのだろう」と。

 わかりやすく言えば、人は、夢と希望があれば、生きていかれる。その夢や希望から、目標
が生まれる。しかしもし、その夢や希望をなくしたら……。

 つまり生きるということは、最後の最後まで、その夢と希望をもちつづけること。それさえあれ
ば、何とか生きていかれる。もちろん健康や収入も必要だが、しかしそれだけでは、生きてい
かれない。

 悠々(ゆうゆう)自適な人生というが、毎日庭いじりだけをしてすごすというのは、人生ではな
い。で、では、私の夢や希望は何かというと、どうもそれもはっきりしない。

 今は、電子マガジンを発行することが、生きがいになっている。毎日、しなければならないこと
があるというだけでも、ありがたい。しかしそれが私の夢や希望かというと、それは疑わしい。

 あえて言うなら、読者がふえることだが、しかしそれについて「だから、どうなの?」と聞かれる
と、これまた、どうも、はっきりしない。だから、どうなのだろう?

 それにこのところ、マガジンの読者は、頭打ち。かわって、BLOGのアクセス数が、急速に伸
びている。毎日、200〜300件近い人がアクセスしてくれる。今は、電子マガジンの10分の1
程度だが、やがてBLOGの読者のほうが、多くなるかもしれない。そんな予感がする。

 私にとっては、それが夢や希望なのか?

 それが今、本当のところ、よくわからない。

●入野地区での講演会

 今、一番、気になっているのは、入野地区での講演会。私が現在、住んでいる町内である。

 町内といっても、入野町だけでも、人口は3万人以上。ひとつの町ほどの大きさがある。昔は
「入野村」といって、浜松市から独立していた。その入野地区での講演会。ひとつの中学校と3
つの小学校がある。

 先週、回覧版で、その講演会の知らせが、各戸に配られた。ワイフが、テニス仲間から、そう
いう話を聞いてきた。

 「いよいよか……」という思いが強くなる。なんと言うか、絶壁の淵(ふち)に立たされたような
気分。私は、今までの講演活動の締めくくりとして、自分をすべてさらけ出してみようと思ってい
る。

 ありのままの自分、それを話してみたいと思っている。つまりは、それが(自分を知ること)で
あり、哲学の究極の目標ということになる。そう、ただの子育て論、ただの教育論で、終わりた
くない。

 できれば、それを最後に、講演活動から、足を洗いたい。あとはいくらやっても、同じ。これか
ら先、5年やっても、10年やっても、同じ。

1、2年どころか、半年もすれば、みな、私のことや私の言ったことなど、忘れる。

 そうそう講演会と言えば、おととい、北海道のD市から、講演依頼があった。うれしかったが、
ていねいに断った。北海道で講演会など開いて、だれが来てくれるだろう。私の知名度は、か
ぎりなくゼロに近い。それに遠方、すぎる!

●ヘマ

 ワイフと三男は、背中をこちらに向けて、安らかに眠っている。私は、窓際の廊下に出て、パ
ソコンのキーボードをたたく。

 今回の旅行では、いくつかのヘマをした。先にも書いたが、

(1)携帯電話のイヤホーンを忘れた。せっかく数100曲も音楽を収録してきたのに。
(2)パソコン用のメガネを忘れた。遠視用のものだが、今もパキーボードの文字がよく見えな
い。
(3)パジャマを忘れた。私は旅館の浴衣では、足がスカスカして眠られない。
(4)パソコンのバッテリーに充電してくるのを忘れた、などなど。

 一日前から、旅行の準備をしてきたのに、このザマ。私も、少しボケてきたのかもしれない。

●山本さん

 航空大学校の仙台校を訪れて、一番先に思い出したのが、私の学生時代の先輩の山本さ
んだった。

 山本さんというのは、実名である。合唱団に席を置いていて、テノールの澄んだ声の持ち主
だった。

 その山本さんは、2年の終わりまで金沢大学の理学部にいて、3年になるとき、金沢大学を
中退して、航空大学校に入学した。

 で、三男が航空大学校に入学したあと、それが気になって、インターネットで、山本さんを検
索してみたが、山本さんの名前を見つけることができなかった。あのまま航空大学校を卒業し
ていれば、今ごろは、どこかでパイロットをしているはず。

 一年先輩だったから、今年、満60歳ということになる。

 そのことを三男に話すと、「今度、調べておくよ」と約束してくれた。私は合唱団では、どうしよ
うもないほど、へたくそで、みなのお荷物でしかなかった。が、山本さんだけは、私に親切にし
てくれた。あの(やさしさ)だけは、今も、忘れることができない。

●仙台市

 こちらへ来てみて驚いたこと。まず仙台市の大きさ。大都会である。浜松駅とくらべるのもヤ
ボなことだが、仙台駅の大きさだけでも、数倍以上は、ある。九州の博多駅ほどは、ある。

 つぎに町並みの美しさ。緑が多い。青葉城跡公園へも行ってみたが、そこから見える仙台の
街は、緑の森に、すっぽりとおおわれていた。オーストラリアのメルボルン市を思い起こさせて
くれた。

 中央に東北大学があるのがよい。5、6年前のことだが、愛知万博の会議で、その東北大学
の学長をしていた山折先生と、何度か会ったことがある。「先生は、こんなところにいたのだな
あ」と、感慨深かった。山折先生は、私のことなど、覚えていないだろうが……。

 それに東北へ来てみて、本能的に感じたのは、人々のぬくもり。やさしさ。

 私が住む浜松市も、地方の大都市だが、人々が、このところ、ますますドライに、かつ冷たく
なってきているように思う。物価も高い。たとえば食堂でも、目一杯、客から金をふんだくってや
ろうという感じが、よくわかる。

 しかしこの仙台市には、ない。

 そう言えば、今も、この仙台市に住んでいるかどうか知らないが、佐藤さんという人も、そう言
っていた。「仙台へ来て、いかに浜松がつまらない町かがわかりました」と。

 仙台は文化都市というわけだが、この仙台に来てみて、それに納得した。ワイフも、一目で仙
台にほれてしまったらしい。さかんに、「こんな町に住みたい」と、言っていた。

●ワイフ

 たった今、ワイフがモゾモゾと体を動かしたあと、目を覚ました。時計をさがして、時刻を見
た。

 「何時?」と私が聞くと、「4時15分よ」と。

 あたりはまだまっ暗。風は、やんだ。いや、遠くで、かすかに山肌をこする風の音が聞こえ
る。窓を通してみると、星空まではわからないが、黒い山のシルエットが、そこにくっきりと見え
た。

 ワイフを見ると、どこかあきれ顔で、目を閉じているのがわかる。私はこういうとき、ワイフの
ことはお構いなしに、好き勝手なことをする。廊下のライトは、まぶしいはず。いつも内心では
「悪いな」と思っているが、ワイフは、こういうことで、私に不平を言ったことはない。

 そのかわり、あのいつものあきれ顔。

 こういうときワイフは、私のしていることにいっさい、干渉してこない。「眠れ」とも、「暗くして」と
も、言わない。そこが私のワイフのよいところ。ワイフは昔から、息子たちに対しても、干渉が
ましいことは、いっさい言わない。

 世の中には、過干渉ママとか、過関心ママとか呼ばれる人たちがいるが、私のワイフは、ち
がう。あえて言えば、無干渉ママということになる。無干渉ワイフでも、よい。いつも裏方に回っ
て、そこで母親として、息子たちを支えてきた。もちろん息子たちに、「勉強しなさい」などと言っ
たことはない。ワイフがそう言っているのを、耳にしたこともない。

 今どきの母親としては、珍しい母親である。

 今もそう。本当は、「まぶしいから電気を消して」と言いたいのかもしれないが、それは言わな
い。言わないかわりに、そう、もういびきをかいて、眠っている。のんきな性格だ。

●さあ、どうしよう。

 さあ、どうしよう。

 目がショボショボしてきた。温泉営業だという。このまま眠るのもよし。温泉につかるのもよ
し。朝食は一番遅い、8時30分にしてもらった。まだ数時間は、眠られる。

 あるいは温泉につかってくる。しかし風呂の中で、脳卒中というケースもないわけではない。
やはり、ここは眠ったほうがよさそう。

 時は2006年、11月12日。午前4時30分。

 気持のよい朝だ。

++++++++++++++

●広瀬川にて……

 朝風呂を浴びる。その足で、カメラをもって、旅館の外へ。

 道路を渡ると、散歩道になっていた。その散歩道を川のほうへと、くだる。ゆっくりと歩ける広
さになっている。落ち葉のじゅうたん。枯れ枝と紅葉の織り成す、自然の造形。自然の美術館
が、コマ送りでつづく。

 私は時折、立ち止まって、デジタルカメラのシャッターを切る。ひんやりとした冷気。

 ……とそのとき、日光が雲の切れ間から光をのぞかせた。とたん、山々の紅葉が、パッとラ
イトをあびて輝く。光る。水色の空が、それにつづく。息をのむ。夢中でシャッターを切る。

 「紅葉の季節には、少し遅いです」と旅館の女将は、昨日、そう言った。「でも、今日の雨で生
き返ったみたいです」と。

 紅葉が生き返った。赤、黄色、それに白。その間にはさまれて、まだ残っている緑の葉が、色
彩を際立たせる。

 ふと「クマが出たら……」と思った。仲居さんは、「サルはいつもいます」と言った。

 川底まで、谷を下る。広瀬側。広瀬側の源流。透明な水の中にも、落ち葉が幾重にも重なっ
ている。それが水の表に反射して、ゆらゆらとゆれていた。

●朝食

 たった今、番頭さんがふとんを片づけてくれた。このあたりでは「番頭さん」と呼ぶのだそう
だ。地域によっては、「内務さん」と呼ぶこともある。

ワイフと一言、二言、会話を交わした。私は、キーボードをたたく。風呂から出て、1時間にもな
るのに、体の芯(しん)が、まだ暖かい。

 仙台にまつわる話を、あれこれ思い出す。

 昔、私がゴーストライターをしていた、あるタレント・ドクターは、青森県の弘前大学医学部を
出て、しばらく東北大学で、インターンをしていた。彼の伝記(?)を書くとき、そのドクターがそ
んな話をした。

 ワイフも、何度か、そのドクターに会ったことがある。

私「あのドクターも、ここにいたんだね」
ワ「そうね」と。

 あとは、『♪広瀬川』。昨日も、車の中で、ワイフがその歌を口ずさんでいた。

 朝食も、夕食とは比較にはならなかったが、それでも、豪華だった。いつもだったら、茶碗半
分程度のご飯に、少しのおかずですます朝食だが、今朝は、何と、3杯もおかわりをした。

 明らかに食べ過ぎである。

 しかしどうして旅館の朝食は、こうまでおいしいのだろう。温泉宿では、とくにそうである。

 「明日からまたダイエットだ」と言いながら、朝食を終えた。

(2006年11月12日記 はやし浩司 作波温泉)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1639)

●東京のおバカさん

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東京のおバカさんが、またまたおバカな
発言をして、問題になっている。

権力者のおごりというか、人も、長い間、
権力の座についていると、ものの考え方が、
一般庶民とは、遊離してくるものらしい。

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 私も、内心では、そう思った。思ったが、万に一つの可能性があるからこそ、それを言葉に出
して言うことができなかった。その前に、ものを書く人間の大鉄則として、人の「死」について
は、それが未遂であれ、予告であれ、軽々しく論じてはいけない。人の「死」は、それほどまで
に重い。

 しかしその予定日は過ぎた。予告どおり、自殺事件は起きなかった。だから今にして言えば、
あの(自殺予告手紙)なる手紙は、いたずらだったということになる。

 が、あの東京のおバカさんは、テレビの対談番組の中で、こう述べたという(C新聞報道)。

 「(手紙はいたずらだったという認識を示した上で)、予告して自殺するバカはいない。今日は
あれ(予定日)だったんじゃ、ないの。あと1時間ね。やるなら、さっさとやれていうの」と。

 「完全に人騒がせのおもしろがり。あれは中学生の文章じゃない。いじめという深刻な問題
に、こと借りて、いたずらをする存在を許してはいけない」とも。

 おバカさんは、10日の定例記者会見の席でも、「おとなの文章だね。あれだけの騒ぎになっ
て、当人は死なないの? 死ぬの?」などと発言していたという(同、報道)。

 私も、当初から、いたずらとみていた。(おとなの書いた文)というよりは、(中学生の書いた
文字ではない)という点から、そう思った。トメ、ハネなどが、まったくない文字だった。

 しかし万に一つの可能性、つまりひょっとしたら、どこかの中学生が本当に、自殺予告で書い
た手紙であるという可能性があるならば、ここにも書いたように、それを言葉に出して言うこと
は、許されない。

 それがものを書く人間の良識というもの。いわんや、「やるなら、さっさとやれていうの」とは!

 こういうのを、権力者のおごりという。世の中には、その日の生活を送ることにさえ苦労してい
る人がいる。苦しんでいる人がいる。そういう人をさして、「そうなったのは、お前らが悪い」と言
うのと同じくらい、傲慢(ごうまん)な意見である。人も長い間、権力の座についていると、ものの
考え方が、一般の庶民とは遊離してくるものらしい。

 もっとも、おバカさんの発言にも、一理ないわけではない。

 自殺というのは、予告してできるものではない。自殺というのは、もっと衝動的なもの。(1、2
週間も前から予告する)という冷静さのある人には、自殺など、できない。いわんや、子どもを
や。

 ただ(死)への願望はあるかもしれない。その願望に、あるとき、突然、火がつく。そしてそれ
が爆発的に肥大して、つまり衝動的に、自殺へとつながっていく。

 それに子どもの自殺は、連鎖性があることからもわかるように、おとなの自殺とは、やや異な
った側面をもっている。いわゆる自己主張としての自殺である。わかりやすく言えば、(死)をか
ぎりなく幻想的に美化する。それがベースにあって、追いつめられた自分を解放させるため
に、子どもは、自殺を選択する。心に何らかの病気をもっているケースも、もちろん、ある。

 つまり(いじめ)と(自殺)を短絡的に結びつけて考えてしまうと、子どもの自殺を理解すること
ができないばかりか、子どもの心を見誤ることになりかねない。しかしこういった話も、あくまで
も一般論であって、個々の子どもの自殺について、それを当てはめて、ものを言うのは正しくな
い。

 子どもにかぎらず、自殺をする人には、私たちが想像できないほど、深い、悲しみや苦しみ
がある。先に「軽々しく論じてはいけない」というのは、そういう意味である。

 ますます庶民の心を見失っていく、東京のおバカさん。過去の栄光はともあれ、東京の人た
ちも、一度、このあたりで、本当にあの人はすばらしい人なのか、一度、立ち止まって見なおし
てみる必要があるのではないだろうか。

 現に昨日(12日)も、この自殺予告手紙とは無関係だと思うが、埼玉県下で、中学3年生の
男児が、自宅敷地内で、首をつって自殺している。

ほんの15〜20年前には、「12歳未満の自殺はない」というのが、この日本の常識だったのだ
が……。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●1992年

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今朝(11月13日)、Eマガの読者が、
1992人になった。先ほどまで、1993人
だったから、1人、購読を停止したことになる。

そこで1992年……。

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 Eマガの読者が、先週は、1人もふえなかった。ずっと1990人のままだった。それが昨日、1
人減り、今朝、4人ふえて、1993人になった。が、先ほど、1人、また減った。それで1992
人。

 電子マガジンを読んでくれている人もいる。一応、読者数は、総計で2300人ということにな
っている。が、実際に読んでくれている人は、40〜50人程度とみている。あるいはもっと少な
いかもしれない。

 本音を言えば、そんなわけで、ときどき、(本当はいつも)、自分のしていることが、なさけなく
なる。が、私は、だれかのために書いているのではない。自分のために書いている。頭の脳み
そのために書いている。

 それはよくわかっている。が、この(空しさ)は、いったい、どこから来るのか?

1992年といえば、私にとっては、まさに、そういう年だった。その前後には、多い年は、年間1
0冊程度の単行本を発表していた。しかし私の本は、売れなかった。よくて1〜2刷どまり。たい
ていは初版だけで、そのまま絶版に。そのうち本を書く気力も、なくなってしまった。

 私はそんな自分を忘れて、山荘づくりに没頭した。このころは、毎週のように山へでかけ、ユ
ンボで土地をならしたり、道を作ったりしていた。それはそれで楽しかったが、その一方で、「日
本のことなんか、知ったことか」と、いつもそう思っていた。

 日本人というのは、肩書きや地位でしか、人を判断しない。あるいは中央での知名度を基準
にして、その人の価値を判断する。その人の意見に耳を傾ける。私自身もそうだったから、偉
そうなことは言えない。しかし、この浜松市という地方都市に住んでいると、それがよくわかる。

 が、基本的には、その状態は、今も変わらない。実際に読んでくれている、その40〜50人
の人を除いて、みな、そうであると考えたほうがよい。が、だからといって、そういう人を責めて
いるのではない。それがまぎれもない、(現実)であるということ。

 1992年。私が満45歳になった年である。私はそれまでの教材制作に限界を感じつつ、文
を書き始めたのが、このころである。そう言えば、雑誌『ハローワールド』を創刊したのも、この
年ではなかった。

 それについて書いた原稿がつぎのものである(中日新聞発表済み)。

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●子どものワーク教材

学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。私はこの雑誌に創刊時からかかわ
り、その後「知恵遊び」を10年間ほど、協力させてもらった。

「協力」というのもおおげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。この雑誌は両誌で、当時
毎月47万部も発行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市販教材の制作、指導にか
かわってきた。

バーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりする、世界初の教材、「TOM」や、「まなぶく
ん・幼児教室」なども手がけた。11年ほど前には英語雑誌、「ハローワールド」の創刊企画も
一から手がけた。

この雑誌も毎月27万部という発行部数を記録したが、そのときの編集長の大塚氏が見つけて
きたのが、西田ひかるさんだった。当時まだまったく無名の、高校1年生だった。

 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがある。私
はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。私の意見を
聞いてもらうのは、そのあとだ。で、本論。私は以前、このコラムの中で、「ワークやドリルな
ど、半分はお絵描(か)きになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやドリルほどいい
かげんなものはない」とも書いた。

そのことについて、何人かの人から、「おかしい」「それはまちがっている」という意見をもらっ
た。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教材に携わってきた「私」がそう言うのだから、ま
ちがいない。

 まず「売れるもの」、それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次の
次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベルを想定
して、プロット(構成)を立てる。その年齢の子ども上位10%と下位10%は、対象からはずす。
残りの80%の子どもが、ほぼ無理なくできる問題、と。

点数で言えば、平均点が60点ぐらいになるような問題を考える。幼児用の教材であれば、文
字、数、知恵の3本を柱に案をまとめる。小学生用であれば、教科書を参考にまとめる。

しかしこの世界には、著作権というものがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほんの少
しだけ変えられ、他社で別の教材になるということは日常茶飯事。こう書いても信じてもらえな
いかもしれないが、25年前に私が「主婦と生活」という雑誌で発表した知育ワークで、その後、
東京の私立小学校の入試問題の定番になったのが、いくつかある。

 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばならないこ
とかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になっているのを見ると、
私としてはつらい。……つらかった。私の場合、子どもたちに楽しんでもらうということを何より
も大切にした。

同じ迷路の問題でも、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、あるいは意外性をそ
こにまぜた。たとえば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷路になっていると
か。あの「幼児の学習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月三百枚以上の原案を描いてい
た。だから繰り返す。

 「ワークやドリルなど、半分がお絵描きになってもよい。それよりも大切なことは、子どもが学
ぶことを楽しむこと。自分はできるのだという自信をもつこと」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●西田ひかるさんのこと

 実名を出して、恐縮だが、西田ひかるという、すばらしい女優がいる。私はその女優が、マス
コミに出てくるたびに、あの夜のことを思い出す。そして人間どうしをからませる、無数の縁の
糸を、ふと感ずる……。

 私はそのとき、G社という日本でも大手の出版社で、企画の仕事を手伝っていた。そんなある
日、そのG社のO氏と、伊豆を旅することがあった。そして伊東の旅館に泊まった。

 その温泉につかっていると、O氏がこう切り出した。「林さん、ぼくね、英語の雑誌を考えてい
るんですよ。ついては、力を貸してくれませんか」と。私は、「雑誌はたいへんですよ。ご存知の
ように、億単位の予算がかかりますから」と。そして最初は、その企画には反対した。

 が、一泊して熱海でO氏と別れるころ、その間に、どういう会話があったのかは、忘れたが、
「企画案だけは作っておきます」と、約束した。以後、数か月、私は英語雑誌の企画に、没頭し
た。カセットテープも、20本近く試作した。自宅にあったカラオケセットを利用して、それを編集
した。

 が、それから半年近くは、何の音沙汰もなく、過ぎた。が、その企画が、ひょんなことから、G
社でいう「社長会」の席で、通ってしまった。それについての経緯(いきさつ)はいろいろある
が、それについてはここには書けない。ともかくも、その企画が通ったのは、偶然に近いものだ
った。O氏自身も、「ひょうたんからコマです」と笑っていた。

 ふつう、単行本のばあい、人件費は別にして、安くて2〜300万円前後の予算があれば、出
版できる。カラー刷りの豪華本となると、1000万円前後。さらに全国販売の雑誌となると、こ
こにも書いたように、億単位のお金がかかる。私は「雑誌が無理なら、単発ものでも……」と思
っていた。が、月刊雑誌になるとは! 予算規模がケタはずれに、違う。

 で、正式に、試作品をつくることになった。雑誌の名前は、当初考えていた「ピーカーブー」か
ら、「ハローワールド」に変更された。NHKに同じタイトルの海外報道番組があったが、簡単に
言えば、その名前を拝借した。たまたまNHKは、その名前を商標登録していなかった。

 で、試作という段階になって、O氏は、英語が話せて、マスコットガールになる女の子をさがし
始めた。その部分については、私は報告を受けるだけの立場の人間だったから、詳しい経緯
は知らない。が、O氏は、こう言った。「内藤Y子さんの娘さんに、Kさんという人がいますね。あ
の人を打診したら、ギャラが○○万円と言います。試作用の予算では、とても無理です」と。

 そこで困り果てたO氏は、横浜のアメリカンハイスクールに、自ら出むいて、適当な子をスカ
ウトすることにした。「適当」という言い方は、今の西田ひかるさんには、たいへん失礼な言い方
になるが、当時は、そういう雰囲気だった。

そこで見つけたのが、その西田ひかるさんだった。「英語はもちろん、歌もうまいです。すばらし
い子ですよ」と。電話で報告してくれたO氏は、どこか興奮していた。

 そうして西田ひかるさんにお願いして、試作品が完成し、それからは月刊雑誌へと話がトント
ンと進んでいった。その西田さんと私が最初に会ったのは、創刊号が出る数か月前の、パーテ
ィの席だった。紺のジーパンをはいた、ごくふつうの高校1年生という感じだった。髪の毛も、ふ
つうのおかっぱ頭だった。で、私はどういうわけか、その西田さんの横に座らせてもらった。

 もちろん西田ひかるさんは、私のことなど、覚えていない。ひょっとしたら、O氏のことも覚えて
いない。その後の西田さんの活躍ぶりは、すでにみなさんご存知のとおり。あれよあれよと思う
まもなく、日本を代表する女優となった。……なってしまった。

 で、最初の話。私はその西田ひかるさんを見るたびに、あの伊東の温泉を思い出す。いや、
このことはその後、O氏と会うたびに話題になった。「あの西田さんが、ああまで売れっ子にな
るなんて、思ってもいませんでしたね」「そうですねえ」と。

もちろんそういう西田さんが、今の西田ひかるさんになったのは、彼女自身のすばらしい才能
と努力があったからにほかならない。しかし人間の縁というのは、無数の糸がからみあってで
きるもの。もしあの夜、O氏が、英語雑誌の話をしなかったら。もしそのあと、私が企画を始め
なかったら。もしそのあと、企画が、社長会を通らなかったら。そしてもしそのあと、O氏が横浜
のアメリカンハイスクールへ出むかなかったら、今の西田ひかるさんは、いなかったと思う。

 西田ひかるさんの名前を聞くたびに、私はふと、人間どうしをからませる、無数の縁の糸を感
ずる。西田さんの熱烈なファンの一人として……。
(02―10―31)※

+++++++++++++++

●再び、1992年。

 これからも、読者のみなさん、末永く、ご購読ください。

 「量が多い」という苦情はよく届きますが、みなさんのお役に立てるよう、これからもがんばっ
て、書きつづけていきます。

 私は、いつも、この数字、つまり読者数に励まされています。ほかに何も、実感がともなわな
い世界です。そこにあるのは、パソコン上の数字のみ。紙に印刷した冊子のように、目の前に
山積みになれば、それなりに実感もわくのでしょうが、そういったものは、何もありません。

 おかしな、おかしな、本当に、おかしな世界です。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1640)

●ボケ症状

++++++++++++++++

相手の名前を忘れのは、ボケでは
ないそうだ。

朝食に何を食べたかを忘れのも、
ボケではないそうだ。

朝食を食べたことすら忘れてしまう。
それがボケだそうだ。アルツハイマー
病になると、そうなるそうだ。
(「中日サンデー」(11・12)版より)

++++++++++++++++

 記憶は、(記銘)→(保持)→(想起)というプロセスを経て、脳に格納され、保持され、そして
呼び出すことができる。ボケでは、このうち、(忘れる)ということに焦点をあて、「もの忘れがひ
どくなったら、ボケ」というふうに、考えられている。

 しかし実際には、これはあくまでも、私の印象だが、このうちの(記銘力)が、極端に弱くなっ
た状態を、ボケというのではないか。このことは、子どもたちの世界を見ていると、よくわかる。

 最初からやる気のない子どもに、何かを教えても、ムダ。教えたことがその子どもの頭の中
に入っていかない。たとえばいやいや掛け算の九九を暗唱している子どもを、想像してみよう。
いやいやだから、脳の中に、掛け算の九九が、入っていかない。記銘されていかない。

 そういう子どもをさして、だれも、「この子どもはボケている」とは、言わない。

 同じように、たとえば今、私は、昨日の朝食について、何を食べたかを思い出そうとしている
が、それがよくわからない。「いつもと同じものを食べた」という思いは、どこかに残っている。
が、それだけ。

 つまりそのとき、私は、新聞か何かを読みながら、朝食をとっていた。何を食べたか忘れた
のではなく、最初から、何を食べたか、記憶に残そうとしなかった。だから今、何を食べたか思
い出すことができない。

 で、最近、私は、こんな経験をしている。

 私の知人の中に、このところ、「?」と思う人がいる。Aさんなら、Aさんとしておこう。今年、65
歳くらいになる。念のため、申し添えるなら、65歳以上で、ボケ、つまり認知症高齢者になる人
は、約11%だそうだ。10人に1人ということになる。

 そのうちの約50%が、アルツハイマー病。39%が、脳の血管がつまって起こる脳血管性認
知症だそうだ(同、資料)。また18〜64歳までの間に発症したばあいを、若年性認知症と呼ん
でいる。働き盛りの40〜50代に多いとされる。若年性認知症の患者は、全国で、2万7000
〜3万5000人もいるという。

 そのAさんだが、電話のたびに、様子が変化する。変化するというよりは、一貫性がない。連
続性がない。

 何かの仕事を頼むと、そのときは、明るい声で、「いいですよ」「簡単なことです」と言う。しか
しつぎに電話をすると、そのことを、すっかり忘れてしまっている。そして私が仕事を頼んだこと
について、あれこれと不満を言い始める。

 気分屋というよりは、つかみどころがない。「心の暖かい人だな」と思ったそのあとには、反対
に、ぞっとするほど冷たくなったりする。

 こうした一貫性のなさ、連続性のなさも、ボケ症状のひとつと考えてよいのでは。つまりボケと
いうと、えてして(記憶)という部分にだけ焦点が当てられがちだが、一貫性、連続性も、重要な
ポイントではないかということ。

 わかりやすく言うと、会うたびに様子が変化するとか、前回言ったことを忘れてしまっていると
いうようであれば、かなりアブナイということになる。

 それにもうひとつ気がついたことがある。そのAさんだが、たいへんこまかい。ふつうなら、
「昨日、郵便局でいやなことがありました」ですむような話でも、それについて、ことこまかく、説
明をし始めたりする。

 「郵便局の玄関先に、傘立があって、その傘建てには、10本くらいの傘があって、そのうち
の1本が、私の傘の模様に似ていた。私の傘は、水色の模様だが、その人の傘の模様は、水
色だが、波模様……」と。

 そういった話が、いつまでもつづく……というより、どんどんこまかくなっていく。

 仮にAさんの一連の症状が、ボケによるものだとするなら、どうでもよいようなことに、異常な
ほどまでにこだわるのも、ボケの症状と考えてよいのではないか。もっとも、(うつ病)と、(ボ
ケ)は、どちらが(本病)で、どちらが(表病)か、わからないことが多いそうだ。

 うつ病になると、ボケに似た症状を示すことがあるという。反対に、ボケてくると、うつ病に似
た症状を示すことがあるという。(ほかにも、ボケに似た症状を示すものに、慢性硬膜下血腫
や、正常圧水頭症などもあるという。)言うまでもなく、(異常なこだわり)は、うつ病の症状の代
表的な症状のひとつである。

 ……となると、Aさんは、ボケではなく、うつ病ということになるのか? 私は専門家ではない
ので、よくわからないが、このところ、こういったことが、たいへん気になる。私自身が、その危
険年齢に達したということもある。近隣の人たちの中に、そういった症状を示す人がふえてきた
ということもある。

 人間が人間であるのは、脳みその機能が、ほかの動物たちとはちがうからである。しかしそ
の脳みそが、ほかの動物以下になってしまったら……。その時点で、私は私でなくなってしま
う。あなたはあなたでなくなってしまう。

 これはきわめて深刻な問題と考えてよい。私も、10分の1の確率で、頭がボケる可能性があ
る。

(注)昔は、「ボケ」といった。それを、少し前までは、「痴呆症」といった。最近では、そのどれ
も、侮べつ的な響きがあるということで、「認知症」という。

 しかし言葉というのはおもしろいもので、認知症という言葉が定着してくると、今度は、その
「認知症」という言葉が、侮べつ的な響きをもつようになった。

 言葉を変えても、それに対する人の思いまでは、変えられないということか。私は、「ボケ」と
いう言葉をよく使う。他人に対して使う言葉というよりは、自分自身に対して使うことが多いから
である。

 「私はボケたくない」という意味で、「ボケ」という言葉を使う。認知症の人たちを、決して、侮べ
つしているのではない。誤解のないように!


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●親の喪失感

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ある母親は、自分の息子が結婚して家を出たとき、
その夜は、泣き明かしたという。

そればかりか、そのあとも、親戚中に電話をかけまくり、
「悔しい」「悔しい」と言って、泣きつづけたという。

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ある母親は、自分の息子が結婚して、家を出たとき、その夜は、泣き明かしたという。それば
かりか、そのあとも、親戚中に電話をかけまくり、「悔しい」「悔しい」と言って、泣きつづけたとい
う。

 で、それから10年あまり。再び、その母親に会う機会があった。ここに書いたようなことを、
ワイフから聞いていたので、そういった話題は避けたほうがよいと思っていた。が、相手のほう
から、その話題になってしまった。

 「林さん、息子を外に出すというのは、さみしいことですね」「息子なんて、育てるもんじゃない
ですよ」「どうせ、嫁に取られてしまうんですから」と。ついでに「林さんところは、3人も息子がい
るそうですね。かわいそうですね」とも、

 たしかにそういうさみしさ、つまり(息子を失ったという喪失感)は、ないわけではない。しかし
それは、育て方の問題ではないのか。

 たとえば今の今、私は、多くの子ども(生徒)たちを教えている。そういう子どもたちを見てい
ると、親にべったりと依存されながら育てられている子どももいれば、そうでない子どももいる。

 「あんたは、いつか、親のめんどうをみるのよ。頼むからね」という育て方をしている親もいれ
ば、「あんたは、早くおとなになって、私を子育ての重荷から解放してね」という育て方をしてい
る親もいる。

 当然のことながら、前者のタイプの親ほど、子どもが巣立ったあと、喪失感は大きくなる。ど
ちらがよいということではない。前者のようなタイプの親をもつと、子ども自身も、どこかマザコ
ンタイプの子どもになりやすい。子離れできない親、親離れできない子という関係になる。

 そこで私は、その母親にこう言った。

 「私は、早く子育てから解放されたいです」「解放されたら、ワイフと旅行をしまくるのが、楽し
みです」「ほら、人生で、一番楽しいのは、60代だと言うではないですか。夫婦で好き勝手なこ
とをして遊ぶことができる」と。

 しかしその母親は、そうでない。いまだに、その喪失感から抜け出すことができないらしく、
悶々とした毎日を送っている。そればかりか、息子の嫁と、張りあっているようなところさえあ
る。「私のほうが、すばらしい女だ」と。

 いろいろなタイプの親がいるが、こういうタイプの親もいるという意味で、ここに記録しておく。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●K県のRさんより

+++++++++++++++++

K県のRさんより、メールが届いた。
息子たちと断絶状態にある。どうしたら
いいかという相談があった人である。

+++++++++++++++++

【Rさんより、はやし浩司へ】

以前、高校1年の息子と断絶状態にあると相談したものです。マガジンの方を読みました。あり
がとうございました。

あれから私の子供時代の記憶をたどっていきました。自分ができなかったことを、息子にさ
せ、して欲しかったことをしてやり、きっと子供にとっては、自分の行く先々を先回りして、寄り
道さえも軌道修正している、うっとおしい親だったのではないかと思っています。

子供のことも振り返り、今思えば何度もSOSを発信していたのに、単なる愚痴のようにとらえ
てしまっていました。

上の子(現在、高3)が、中学校に入学してから、次男(現在、高1)は、次第に素行不良にな
り、次男は中学に入学したとき、(そのとき長男は中3)、「お前はあの○○の弟だろう」と言わ
れて、嫌な思いをしていたようです。

長男は高校に1年通いましたが、学校についていけず退学。その後通信制の高校に入学、バ
イトなどをし、不規則な生活で、普通ではない家庭でした。

長男(キレやすい)とは、派手に何度ももめました。食卓も一緒に囲めない、顔も合わせない、
深夜徘徊はするという状態が続き、なるようにしかならないとあきらめてからは、彼もいくらか
落ち着き、(でも今でもキレやすいですが)、卒業後の就職のことを考えるまでになりました。こ
れからは歩いていく子供のうしろ姿を応援しながら、見ていけるように努力したいと思います。
いつの日かまた会話ができる日が来るのを待ちながら.……。

相談にのっていただき本当にありがとうございました。もっと早くに先生のHPを知っていれば
長男のときも、ここまでこじれずに済んだかも知れません。これからもここを愛読させていただ
きたいと思います。

【はやし浩司よりRさんへ】

 「どこの家庭も似たようなものですよ」という言い方は、適切ではないかもしれません。しかし
あえて言えば、どこの家庭も似たようなものです。

 親子が仲よく、静かに会話をしあっている家庭など、今という時代には、さがさなければなら
ないほど、少ないです。つまり親子というのは、もともとそういうものだという前提で、こうした問
題を考えてください。

 1日のうち、一言、二言、会話があれば、まだよいほうです。あいさつさえ交わさない親子も、
珍しくありません。要するに、子どもには期待しないこと。

 が、子どもが、幼児や小学生のころは、そうでない。どんな親も、「うちの子にかぎって」とか、
「うちの子は、だいじょうぶ」とか、思いこんでいます。「休みには、どこかへ行こうか」と声をか
けると、喜んでついてきます。

 しかしその歯車が、どこかで狂う。狂って不協和音を流し始める。最初は、小さな不協和音で
す。その不協和音が、どんどんと増幅し、やがて手に負えなくなる。が、その段階でも、それに
気づく親は、まずいません。「まだ、何とかなる」「まさか……」と思う。思って無理をする。子ども
の心に耳を傾けない。

 親にしてみれば、あっという間の短い期間かもしれませんが、子どもにとっては、そうではあり
ません。その(あっという間)に、子どもの心は、親から離れていく。本当に、あっという間です。
が、親のほうは、過去の幻想にしがみつく。「そんなはずはない」とです。

 しかし大きく見れば、それも巣立ちなのですね。いつまでも、「パパ」「ママ」と言っているほう
が、おかしいのです。またこの日本では、(学校)というコースからはずれることイコール、(落ち
こぼれ)と考える傾向があります。が、そういう(常識)のほうが、おかしいのです。

 そんなことは、ほんの少し、目を世界に向ければ、わかることです。日本の(常識)は、決し
て、世界の(常識)ではありません。

 だから今のままでよいですよ。コツは、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて、
静かに様子を見る」です。あとは、『許して、忘れ、時を待つ』です。これを繰りかえしてくださ
い。

 あなたの子どもは、あなたの深い愛情を感じたとき、必ず、あなたのところに戻ってきます。
そのときのために、今のあなたができることは、部屋の掃除をして、窓をあけておくことです。

 そして大切なことは、あなたはあなたで、自分の人生を生きる。前向きに、です。こうした問題
は、あなたが前向きに生き始めたとき、自然消滅の形で、解決します。ですから、こう宣言しな
さい。

 「あなたたちはあなたたちで、勝手に生きなさい。私は、私で勝手に生きるからね。ついでに
あなたたちの分まで、がんばってやるからね」と。

 子どもといっても、いつか、あなたを1人の人間として、評価するときがやってきます。そのと
き、その評価に耐えうる人間であればよし。そういう自分をめざします。

 あとは、どういう状態になっても、あなたはあなたの子どもを信じ、支えます。おかしな(常識)
にとらわれないで、子どもだけをしっかりと見つめながら、そうします。

 幸いなことに、あなたの子どもには、それ以上の問題はないようです。今どき、不登校など何
でもない問題です。またキレやすいという部分については、思春期の病気のようなものです。神
経が過敏になっていますから。心の緊張感がとれないで、苦しんでいるのは、子ども自身で
す。

 相手にせず、あなたはあなたで勝手なことをすればいいのです。相手にしたとたん、それが
子どものためではあっても、子どもは、それに反発します。まあ、何と言うか、そういうときという
のは、被害妄想のかたまりのようになっていますから。心理学でも、そういった状態を、「拒否
反応」と呼んでいます。そういうときは、何を言ってもムダと心得ることです。

 「親である」ということは、たいへんなことです。だったら、親であることを忘れてしまえばいい
のです。「私は親だ」という気負いがある間は、子どもは、あなたに対して心を開くことはないで
しょう。

 こんな原稿を書いたのを、思い出したので、ここに添付します。

+++++++++++++++++

【親が子育てで行きづまるとき】

●私の子育ては何だったの?

 ある月刊雑誌に、こんな投書が載っていた。

 「思春期の2人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを、体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきまし
た。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部
屋も飾ってきました。

なのにどうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、マ
イペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理
が苦手。

息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。二人とも『自然』になん
て、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナーは悪くなるばかり。

私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互いのコミュニケーション
もとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(K県・五〇歳の女性)と。

●親のエゴに振り回される子どもたち

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。「うちの子(小3男児)は毎日、通信講座のプ
リントを3枚学習することにしていますが、2枚までなら何とかやります。が、3枚目になると、時
間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どうしたらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、2時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食
の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは2枚で終わればいい」「2時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。

仮にこれらの子どもが、プリントを3枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「4枚やら
せたい」「午後の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。「何とか、うちの
子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。

そしてその子どもがC中学に合格しそうだとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」
と。要するに親のエゴには際限がないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りな
く振り回される……。

●投書の母親へのアドバイス

 冒頭の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴ。

もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ。そのつど子どもの意思や希望
を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立つ。「生き物を愛し、大切にする
ということを体験を通して教えようと、犬、モルモット、カメ、ザリガニを飼育してきました」「旅行
好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が苦手。息子は出不精」と。
この母親のしたことは、何とかプリントを3枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。あ
るいはどこが違うというのか。

●親の役目

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そして(3)
よき友としての親の3つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかも
しれないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。

とくに気になるのは、「しつけにはきびしい我が家の子育て」というところ。この母親が見せた
「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャップを感ずる。はたし
てその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であったのかどうか。あるい
は子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一点に、問題のすべて
が集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++

 今のRさんには、たいへんきびしい意見かもしれませんね。わかっています。しかしこれで冒
頭に書いた、「どこの家庭も似たようなものですよ」の意味が、わかっていただけたものと思い
ます。

 今の今も、実は、「これではまずいなあ」と思われる親子がたくさんいます。しかし私のような
立場のものが、それにとやかく口をはさむのは、許されません。相手が相談してくれば、話は
別ですが、それまでは、わかっていても、わからないフリをする。そういう世界です。

 そういう意味では、もっと、多くの人の、私のマガジンを読んでほしいと願っていますが、それ
とて、相手の決めることですね。

 これからも、末永く、ご購読ください。よろしくお願いします。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
親子の断絶 会話のない親子 思春期の子ども)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【付録】

【親子の断絶が始まるとき】 

●最初は小さな亀裂
最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って…
…」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大き
くなる。そしてそれが、断絶へと進む……。

 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は55%もいる。「父親のようになりたくな
い」と思っている中高校生は79%もいる(『青少年白書』平成10年)(※)。

が、この程度ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目を
そむけあう。まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返
す。そこで親は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩!

……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されてい
るはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。

●休まるのは風呂の中

あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほし
い。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休め
ているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。

しかし好んであなたの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げ
て行くようであれば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休ま
る場所としてあげたのが、(1)風呂の中、(2)トイレの中、それに(3)ふとんの中だそうだ(学
外研・98年報告)。

●断絶の三要素

 親子を断絶させるものに、三つある。(1)権威主義、(2)相互不信、それに(3)リズムの乱
れ。

(1)権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考
える親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。

「子どものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のも
と、自分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自分に都合のよいと
ころしか認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方、子どもは子どもで親の
前では、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心は離れる。

(2)相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配
だ」「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなもの
だ。

イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのがあ
る。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを
「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなけ
れば、そうでなくなる。

(3)リズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思
い浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている
姿を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、(1)あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっく
りと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩
いているようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということ
にもなりかねない。

このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語
する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そし
ておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。子どもは子どもで、親の
前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、
仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。

親「あんたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さん
が高い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」
子「いつ誰が、そんなこと、お前に頼んだア!」と。

●リズム論

子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が4拍子で、子ども
が3拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、2つの曲を同時に演奏すれば、それは騒
音でしかない。

このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば4時間おきにミルクを与えることに
なっていたとする。そのとき、4時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの口
に押しつける親もいれば、反対に4時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親もい
る。

たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前に英
語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、なかな
か行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとなにな
ってからも、だ。

ある女性(32歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の
男性(40歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを
変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは容
易ではない。

●子どものうしろを歩く

 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅
くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かな
い。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」
と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。

※……平成10年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬
していない」の問に、「はい」と答えたのは54・9%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」と
答えたのは、51・5%。

また「父親のようになりたくない」は、78・8%、「母親のようになりたくない」は、71・5%であっ
た。

この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬していない」と答えた55%の子どもの
中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれているということ。また、では残りの約4
5%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもならない。

この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質上、まさか
「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうした、どこか
遠回しな質問項目になったものと思われる。

(参考)

●親子の断絶診断テスト 

 最初は小さな亀裂。それがやがて断絶となる……。油断は禁物。そこであなたの子育てを診
断。子どもは無意識のうちにも、心の中の状態を、行動で示す。それを手がかりに、子どもの
心の中を知るのが、このテスト。


Q1 あなたは子どものことについて…。
★子どもの仲のよい友だちの名前(氏名)を、四人以上知っている(0点)。
★三人くらいまでなら知っている(1点)。


Q2 学校から帰ってきたとき、あなたの子どもはどこで体を休めるか。
★親の姿の見えるところで、親を気にしないで体を休めているる(0)。
★あまり親を気にしないで休めているようだ(1)。


Q3 「最近、学校で、何か変わったことがある?」と聞いてみる。そのときあなたの子どもは…
…。
★学校で起きた事件や、その内容を詳しく話してくれる(0)。
★少しは話すが、めんどう臭そうな表情をしたり、うるさがる(1)。

★心のどこかに、やってくれるかなという不安がある(1)。
Q4 何か荷物運びのような仕事を、あなたの子どもに頼んでみる。そのときあなたの心は…。
★いつも気楽にやってくれるので、平気で頼むことができる(0)。


Q5 休みの旅行の計画を話してみる。「家族でどこかへ行こうか」というような話でよい。
そのときあなたの子どもは…。
★ふつうの会話の一つとして、楽しそうに話に乗ってくる(0)。
★しぶしぶ話にのってくるといった雰囲気(1)。

(評価)
15〜12点…目下、断絶状態
11〜 9点…危険な状態
8〜 6点…平均的


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1641)

【今朝・あれこれ】(11月14日)

+++++++++++++++++

息子のBLOGを読む。
親ばかなのか、息子のBLOGを読むと、
いつも、胸が熱くなる。

+++++++++++++++++

【EのBLOGより】

 僕は写真が好きだ。常にカメラを持ち歩き、ことあるごとにシャッターを押している。同期の間
ではいつの間にか記録係としての役割も任されているようだ。航大に来て、撮った写真の数は
述べ8000枚近くになった。プラス、動画も30GBを超えている。

 どんなに綺麗な写真でも、現実の景色に敵うものはない。そこには鮮やかな色があり、温度
があり、臭いがあり、音がある。ドラマがあり、心があり、思い出がある。写真でそのすべてを、
未来の僕に伝えることは出来ない。だから僕は、一番いい景色には、レンズを向けない。ファ
インダー越しではなく、自分の目で見て、焼き付けておきたいから。写真はあくまで、その最高
の瞬間を思い出すためのきっかけに過ぎない。

 昨日、両親が仙台に遊びに来た。たった1泊と短い間だったが、一緒に街を巡り、一緒に風
呂に入り、同じ部屋に泊まって、同じものに感動した。小さい頃、父とはよく旅行をしたが、両親
共に、は今回が初めてだった。

 航大にも来てくれた。父をキングエアの操縦席に座らせた。パイロットになる、なんて、本当
は反対したかっただろう父を、その気にさせた、『いつか本物の操縦桿を握らせてあげる』とい
う2年越しの約束を、果たすことが出来た。

両親が来てくれたというのに、カメラの中はほとんど空っぽだった。綺麗な景色が、多すぎたの
だ。作並の紅葉はまた来年でも、その次でも、何十年後でも見られるだろう。しかし、そこに両
親がいる景色は、いったいあといくつ見ることできるだろうか。綺麗な景色が、忘れたくない景
色が、多すぎた。両親のいる景色を、目に焼き付けておきたかった。

 来てくれて、ありがとう。

+++++++++++++++

おまえがカメラが好きだったとは、
知らなかった! ごめんな!

本物の操縦桿は、ズシリと重かった。
鉄アレイのような感じがした。

         パパより

+++++++++++++++

Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●打倒、韓国!(2)

++++++++++++++++

韓国が、日本にとってどういう国で
あるか、それが、この3〜4年で、
ヨ〜ク、わかった!

とくに現在のN政権になってからは、
そうである。

そこで、打倒、韓国! 日本がしかける
経済戦争は、静かに、しかし確実に、
目下、進行中!

++++++++++++++++

 韓国から外資が逃避し始めている。それは当然のことだが、その一方で、日本から台湾へ
の投資が急増している。

朝鮮N報紙によると、N紙が10月29日に入手した「外国人による証券投資資金の流出入現
況」という資料によると、今年に入って8月11日までに、韓国から流出した外国人証券投資資
金(株式、債券、配当金など)は、92億6400万ドル(約1兆838億円)にのぼるという。これ
は、1992年に株式市場を開放して以来、最大の額である(06年)。 

 わかりやすく言えば、日本人投資家を中心として、韓国では、外国人投資家たちが、今年に
入ってから8月までの間に、約2兆円もの株式、債券などを、売り逃げているということになる。
ここでいう「売り逃げ」とは、再投資を目的としない「逃避」をいう。

 が、その一方で、日本から台湾への投資が急増している。

 今年(06年)、1〜4月期の日本からの台湾投資は、2億1100万ドル(約238億円)となり、
前年同期比で、112%も増加している。(112%だぞ!)

 とくに、薄膜トランジスタ液晶表示装置、半導体、自動車、電子および部品、機械、ゲ
ームプログラムという、5つの中心産業での投資が著しい。そしてこれらの産業は、すべ
て韓国の国内産業と競合するものばかり。

 具体的には、NECは、台湾に台湾光電という会社を設立。台湾企業に、日本の主要I
T企業の生産(OEM)基地としての役割をもたせようとしている。

また、ソニーとNECは、2004年から、毎年50億〜60億ドル程度のIT製品を台湾から購入し
ており、台湾に,インターネット情報家電、および、半導体研究開発センターを設立している。

 わかりやすく言えば、日本は、現在、打倒韓国の旗印のもと、静かに、かつ密かに、台
湾の基幹産業にテコ入れを始めたということ。ターゲットは、もちろん、液晶パネル。す
でにその波及効果は、現れ始めている。

 数字の上で、結果をながめてみよう。

JPモルガンは、「台湾の加権指数(台湾株式市場の指数となる株価指数)は今年7300まで
上がり、07年には8000に至るだろう」と見ている。

 同じくJPモルガンは、「マイクロソフトのウィンドウズ・ビスタ発売でパソコンの需要が見こま
れ、TSMCが300ミリ・ウェーハファブ建設を発表するなど、半導体ファウンドリ企業の見通し
も明るい」と説明している。

 一方、韓国の半導体メーカー各社は、政府支援はさておき、ウォン高が足を引っ張り、株価
が大幅に下落している。

 韓国の現代証券によると、韓国の大手IT企業6社の株価は、今年初めから18・7%も下がっ
たのに対し、台湾の6社は0・7%の下落にとどまっている。さらにドル対ウォンのレートは7%ウ
ォン高になったが、ドル対台湾ドルのレートは1・1%ほど台湾ドルが安くなっている。

つまり韓国とは対照的に、台湾の半導体企業は、実績も良く、投資も増えており、半導体株
は、現在はもちろん、来年の見通しも明るいということ。

 かつて日本の小泉首相は、「(反日も結構だが)、後悔するのは、韓国のほうだ」と、公の場
で、言い切った。その結果が、こうした数字に現れているとみてよい。

 もともと韓国の経済規模は、日本のそれとくらべると小さい。実力があるわけではない。半導
体を中心とする、IT産業にせよ、自動車産業にせよ、民間企業というよりは、国策企業といっ
たほうが、正しい。あらゆる面で政府支援を受け、手厚く保護されている。

 そこで日本は、台湾への投資をふやすことにより、台湾を日本のOEM基地化した。OEMと
いうのは、(Original Equipment Manufacturing)の略。方法はいろいろある。日本のブランド製
品を、台湾のメーカーに作らせたり、日本から技術を提供し、台湾メーカーのブランドで作らせ
たりする。

 その結果、具体的には、世界最大の半導体ファウンドリ(受託加工)企業であるTSMCの今
年7〜9月期売上は、824億8000万台湾ドル(約2950億円)で、去年同期より17%も増加し
ている。純利益は324億9000万台湾ドル(約1160億円)と、前年同期比で33%も増加して
いる。

 台湾ナンバー2の半導体メーカーであるUMCの7〜9月期の売り上げは、去年同期より18%
増の、278億5000万台湾ドル(約1000億円)を記録。純利益も、297%増となっている。

 日本国内では、韓国に太刀打ちできるだけの安い製品を製造することができないから、日本
は、台湾にそれをさせている。わかりやすく言えば、台湾に代理戦争をさせている。

 目的は、もちろん、打倒、韓国! 負けるな、日本! ここが正念場! 何度も繰りかえす
が、これはサッカーの試合とはわけがちがう。日本という国の浮沈にかかわる、重大な試合で
ある。

●日本人よ、少しは世界を見ろ!

 韓国の俳優に、うつつを抜かすのも結構。NHKが、韓国のテレビドラマを、翻訳して放映す
るのも結構。しかしそんなことをしたからといって、韓国人のもつ対日感情は好転しない。

 日本人も、このあたりで、おかしな大国意識は捨てて、本気で経済戦争と取り組むべきでは
ないのか。

 この浜松市を見ろ! 「浜松は工員の町」と思っていたら、今では、HONDAにせよ、YAMA
HAにせよ、SUZUKIにせよ、大工場は、みな、姿を消した。いつの間にか、そうなってしまっ
た。

 かわりに出てきたのが、花木産業(?)。しかし花木産業で、どれだけ市の財政が潤うという
のか。

楽器の町だったということは、私にもわかる。しかし楽器の町が、どうして音楽の町なのか。シ
ョパンコンクールだの、ロシアバレーだのと浮かれている間に、こうなってしまった! 今では、
YAMAHAにせよ、KAWAIにせよ、浜松市内に、工場は、ほとんど残っていない。

 わかりやすく言えば、「蝶よ、花よ」と浮かれている間に、こうなってしまった。

 そこで市のお役人たちが考えたことは、「市街地の活性化」。つまり、「化粧」。2000〜300
0億円もかけたAタワーにはじまって、毎年、500億円単位の税金を、惜しみなく市街地に注い
でいる。

 市街地が活性化するかどうかは、あくまでも、「結果」。浜松市が発展すれば、その結果とし
て、市街地も活性化する。化粧で、ごまかせるような問題ではない。

 この浜松市は、そのまま日本の近未来を象徴している。韓国の俳優に、うつつを抜かすのも
結構。NHKが、韓国のテレビドラマを、翻訳して放映するのも結構。しかしその間に、日本が、
この浜松市のようになってしまったら、どうする?

 日本人よ、少しは頭を冷やして、足元をじっくりと見ろ!

【付記】

 少し前、愛知県の豊田市で講演をさせてもらった。その講演はともかくも、私は、あのTOYO
TA・シティを案内されて、驚いた。度肝を抜かれた。

 巨大なビル群、研究所群、それに工場群。10キロほど離れた、高速道路のパーキングエリ
アから見ても、町全体が、さながら要塞のように大地に浮かびあがっていた。浜松市にも、TO
YOTAに匹敵するほどの自動車製造会社があるが、(……あったが)、町並みの陰に、隠れて
しまっている。

 これでいいのか、浜松!、と叫んだところで、この話は、おしまい。浜松市がこのまま衰退し
ていくのは、もうだれの目にも、明らか。もう、どうしようもない。今さら、何をしても、遅い。手遅
れ。しかし日本がそうなってはいけない。

 「ここが正念場」というのは、そういう意味。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●夫婦の不倫

++++++++++++++++

夫や妻の不倫は、配偶者をキズつける。
それは当然だが、問題は、なぜ、
夫や妻というより、人は、不倫をするか。

人というのは、もともと、そういう
生き物なのか。

++++++++++++++++

 性欲には、ものすごいパワーがある。それをあのフロイトは、「イド」という言葉を使って説明し
た。性欲そのものが、生命力の源泉になっていると言っても過言ではない。

 で、問題は、その性欲を、人は、コントロールできるかということ。あるいはコントロールする
ためには、どうすればよいかということ。

 結論から先に言えば、性欲を、知性や理性でコントロールすることは不可能ということ。もし
そんなことができるとしたら、人は、とっくの昔に絶滅していたはず。

 ノーベル文学賞をとったような、あの作家にしても、80歳をすぎた晩年になって、10代の若
い女性に恋をしている。人間国宝にまでなった歌舞伎俳優にしても、やはり10代の愛人をか
こって、話題になったこともある。

 学校の教師によるハレンチ事件など、いまどき珍しくも何ともない。大学の教授ですら、セク
ハラで、つぎつぎと職を失っている。

 なぜ、そうなのか?

 そもそも、性欲を司(つかさど)る脳みそと、それをコントロールする脳みそは、別の場所にあ
る。わかりやすく言えば、性欲を司る脳みそは、脳みその中心部にどっかりと腰をおろしてい
る。しかしそれをコントロールする脳みそは、前頭前野、つまり額の部分に、限られている。

 それは、たとえて言うなら、性欲という像を、細い紐でコントロールしているようなもの。

 そこで重要なのは、倫理であり、道徳ということになる。しかしそれにも、限界がある。では、
どうすればよいのか。

 私は、ここまでくると、もう2つの方法しかないと思う。

 ひとつは、宗教で、その人をしばるということ。もうひとつは、一夫一妻制そのものを、一度、
疑ってみるということ。とくに現代社会のように、夫婦といってもたがいの接触時間の少なくなっ
てしまった今は、そうである。夫は、毎日午前様。妻は夫の帰りを待つだけ。朝は朝で、会話と
いっても、朝食のひとときだけ。

 そういう夫婦が、夫婦であること自体、おかしい。無理がある。

 が、だからといって、不倫を容認しているわけではない。不倫は、そのまま背信につながる。
では、どう考えたらよいのか。

 世の中には、いろいろな夫婦がいる。あまり表には出てこないが、毎週のようにスワッピング
を楽しんでいる夫婦がいる。自分たちのセックスの様子を、見せあっている夫婦もいる。さらに
は、混浴の会というのもある。日本版のヌーディストクラブのようなものである。

 「どうしても不倫したい」ということなら、夫婦で話しあって、そういう会を利用するのも、よいの
ではないか。ことセックスについていうなら、セックスそのものには、大きな意味はない。食欲か
ら生ずる食事のようなもの。便の排泄のようなもの。

 現にオーストラリアには、家族ぐるみのヌーディストクラブが、あちこちにある。(家族ぐるみ、
だぞ!)ときどき友人が、自分が属するクラブの写真を送ってきてくれるが、その中には、子ど
もはもちろん、10代、20代の息子や娘も、いっしょに写っている。実にあっけらかんとしてい
て、いやらしさがまるでない。

 割り切ることができるなら、そこまで、割り切ればよい。

 それを「浮気だ」「不倫だ」と、おおげさに構えるから、ことがおかしくなる。「背徳だ」「背信だ」
と、おおげさに考えるから、ことがおかしくなる。

 たしかに夫婦にも、倦怠期というのがある。食事にたとえるのも不謹慎なことかもしれない
が、毎日、毎晩、同じ料理では、食べるほうも、あきるだろう。そういうふうに思う人がいたとし
ても、おかしくない。

 ただこの点については、「男」と「女」は、基本的に、考え方がちがうところがある。……と考え
られていた。しかし、このところ、どうやらそれもあやしくなってきた。たとえば高校生について
みるなら、セックスの体験率だけをみても、今では、男女ともに、差が、ほとんどなくなってきて
いる。

 つまり男も、女も、「性」を、厳粛なものから、楽しむものへと、意識を変えつつある。

 もっとも、この意識には、個人差がある。セックスを、便の排泄と同じように考える人もいれ
ば、夫婦の絆(きずな)の中心に置く人もいる。人それぞれだが、夫婦の間で、その意識がち
がったとき、多くのばあい、それはそのまま家庭騒動につながる。とくに日本のばあい、「性」、
なかんずく「セックス」に対して、根強い偏見が残っている。

 もう30年以上も前の話だが、スウェーデンの性教育協会の会長の、E・ベッテルグレン女史
の通訳として、日本中を回ったことがある。そのベッテルグレン女史が、こんな話をしてくれた。

 スェーデンの大学では、セックスの実技を、講座として、みなの前でしてみせている、と。

 教官が、「A男さん、B子さん、前に出てきて、セックスをしてみせてください」と。教室の前に
は、マットが敷いてある。

 それに応じて、A男とB女が、みなの前で素っ裸になって、そのマットの上で、セックスをして
みせる。教官は、それを見ながら、「ここは、もっと、こうするといい」「こうすると、相手がもっと
喜ぶ」と指導している、と。

 日本人には信じられないような話かもしれないが、実は、当時の私にも、信じられなかった。
しかし、それは事実だった。その講義を撮影したスライドも、見せてみらったことがある。

 「裸」、それに「セックス」に対する考え方、そのものがちがう。たとえば北欧の国々では、サウ
ナ風呂にしても、老若男女の区別はない。ないものは、ないのであって、それ以上の言い方が
できない。みなが、素っ裸で、混浴を日常的に楽しんでいる。

 「不倫」という問題も、その上で考えなければならない。言いかえると、こう考えていくと、何が
不倫で、何が不倫でないか、わからなくなってくる。要するに、それぞれの夫婦が、それぞれの
自覚と責任をもって行動すればよいということ。遠慮する必要もないし、それが道徳的でないと
か、倫理的でないとか、そんなふうに考える必要もない。

 ちなみに私は、ワイフに、「お前は不倫をしたことがあるか?」と聞いたことがない。聞いて
も、どうせ本当のことは言わないだろう。同じように、ワイフも私に聞かない。聞かないから、そ
ういった質問に答えたことがない。

 もちろん、そこに「心」が入ってくれば、話は別である。それについては、また別の機会に考え
ることにするが、「心」がはいってくると、夫婦の基盤そのものが、危機的な状況に追いこまれ
る。それは警戒したほうがよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1642)

【不完全燃焼】

++++++++++++++++++++

ある日、母親は気がつく。
子どもから、「ババア」と呼ばれたとき。
夫に、浮気の兆候が見られたとき。

「今までの私は、いったい、何だったの」と。

++++++++++++++++++++

●母親から「女」へ

 ある日、母親は気がつく。子どもから、「ババア」と呼ばれたとき。夫に、浮気の兆候が見られ
たとき。「今までの私は、いったい、何だったの」と。

 結婚によって、家庭に押し込められた女性の閉塞感には、相当なものがある。女性は家庭
に押し込められると同時に、それまでの夢や希望、それに目的、さらにはキャリアまで犠牲に
する。

 もちろん中には、「家庭に入ること」に、何ら疑問をもたない女性もいる。妻や、母親であるこ
とに徹して、それなりに幸福に暮らす。いろいろな調査結果をみても、約25%前後の女性が、
そうであるとみてよい。

 そういう女性は別として、つまり大半の女性は、家庭に押し込められることによる不満を、何
らかの形で、代償的に解消しようとする。育児に没頭するのが第一だが、それが高じて、子育
てそのものを生きがいにする人も多い。

 この時期、『子どもは、母親の芸術品』という。私が考えた格言だが、母親は、自分のもてる
ものすべてを、子どもに懸(か)けてしまう。子どもは、まさに母親の芸術品となる。

 が、やがてその子育ても一段落してくる。子どもも小学3、4年生になると、そのころを境に、
急速に親離れを始める。それまでは、「ママ、ママ……」と言い寄ってきた子どもも、この時期を
過ぎると、母親を敬遠し始めるようになる。そして、こう言う。「このクソババア」と。

 そのとき母親は、ハッと我にかえる。気がつく。「私は、今まで、何をしてきたのだろう」と。
が、それで終わるわけではない。

 この時期にもなると、たいていの夫婦は、倦怠期という、どこか空気のよどんだような時期を
迎える。仕事ばかりしていて、自分を振り向かない夫。セックスをしても、どこか事務的? どこ
かいいかげん? 

 外で仕事をする夫には、チャンスはいくらでもある。誘惑も多い。同僚と飲み食いするうちに、
「バーかクラブへ行こうか」となる。それなりに発散できる。が、妻には、そういうチャンスさえ、
ない。夫が許さないというよりは、妻自身が、そうして遊ぶことに、大きな罪悪感を覚える。その
罪悪感が、自らの体をしばる。

 悶々とした毎日。自分を燃やしたくても、その場すら、ない。

 そうした女性の心理を、たくみに表現したのが、R・ウォラーの書いた、『マジソン郡の橋』であ
る。

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 3年ほど前、埼玉県のRYさんという
方から、メールをもらった。

 それについて書いたのが、つぎの原稿
です。合わせて、『マジソン郡の橋』につ
いても、書きました。

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●子どもの自立

 ある母親(埼玉県U市在住のRYさん)から、こんなメールが届いた。 

「私には二人の子どもがおります。
一番上の娘が中学2年生、下の男の子が小学校の4年です。
とても優しい子ども達に恵まれ毎日幸せに暮らしています。
 
私は自分の子どもに、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を
自分で考えて歩いてゆける人間に育って欲しいと思っていますが
子どもの自立のために、何かよいアドバイスがあれば、いただけませんか。

いくら頭で考え、子どもの人生や価値観を尊重しようと思っても、
実際問題として、日本の社会は目立つものは排除する社会に思えます。
馬鹿な親ですが、自分の子どもには苦労をさせたくない、
社会に適応し、まわりの人とうまくやって欲しい……と
おろかな望みを抱いてしまいます」と。

 この母親のメールを読んで、最初に感じたことは、「これは子どもの問題ではなく、母親自身
の問題」ということ。その母親自身はまだ気づいていないかもしれないが、母親自身が、自分
の住む世界で、窒息している。

 以前、こんな原稿(中日新聞経済済み)を書いた。

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【母親がアイドリングするとき】 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。今、そんな女性がふえている。Hさん(32歳)もそうだ。

結婚したのは24歳のとき。どこか不本意な結婚だった。いや、20歳のころ、一度だけ電撃に
打たれるような恋をしたが、その男性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何
となく交際を始め、数年後、これまた何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。主人公
のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生命の叫
びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩
年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏
の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の
中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、2人の女の子がいたが、下
の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、医
療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパーの
資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。子育ても一段落するときがくる。そのときが
新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着点と思うのではなく、そこを原点として前に進
む。方法は簡単。

勇気を出して、アクセルを踏む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それで
また風は吹き始める。人生は動き始める。

++++++++++++++++++++++

【RYさんへ】

 それがよいことなのか、悪いことなのかは別にして、アメリカ人の生きザマを見ていると、実
に自由を謳歌しているのがわかります。それだけにきびしい世界を生きていることになります
が、そういうアメリカとくらべると、日本の社会は、まさに「ぬるま湯社会」ということになります。

 この「ぬるま湯」の中で、人生の入り口で権利を得た人は、たいていそのままずっと、その権
利をなくすことなく保護されます。それがRYさんが、おっしゃる、「日本の社会は目立つものは
排除する社会に思えます」ということではないでしょうか。社会そのものが、見えない糸で、がん
じがらめになっています。

 たとえば私の友人のユキコさん(31歳女性、日系人・アーカンソー州リトルロック在住)は、
今、アメリカで、老人福祉の仕事をしています。日本でいう公務員ですが、こう言っています。
「アメリカでは、公務員といっても、どんどん自分から進んで何かをしていかないと、すぐクビに
なってしまう。また自分で何かアイディアを出したり、新しいことをしたいというと、上司が、もっと
やれと励ましてくれる」と。

 本当は、ユキコさんは、もっと過激なことを言っていますが、日本の社会の現状とは、あまり
にもかけ離れているため、ここでは控えめにしました。ユキコさんは、「社会のしくみそのもの
が、そうなっている。日本のように、上から言われたことだけをしていれば、安心という考え方
は、通用しない」とも言っていました。

 こうした傾向はオーストラリアにもあって、私の友人の多くは、生涯において、何度も職そのも
のを変えています。またそういうことをしても、不利にならないしくみそのものが、できあがって
います。あのヨーロッパでは、EU全体で、すでに大学の単位は共通化されていて、どこの大学
で学んでも、みな同じという状態になっています。

 世界は、どんどん先へ行っている。アメリカだけでも、学校へ行かないで、家庭で学習してい
る、いわゆるホームスクーラーと呼ばれる子どもは、現在、200万人を超えたと推計されてい
ます。もっと世界の人は、自分の人生を、子どもの人生を、自由に考えている。あるいは自由
という基本の上に置いている。日本人の悪口を言うのもつらいですが、この程度の自由を、
「自由」と思いこんでいる、日本人が、実際、かわいそうに見えます。

 RYさん、これはあなたの子どもの問題ではありません。あなた自身の問題です。あなたが魂
を解き放ち、心を解き放ちます。そしてあなた自身が、大空を飛びます。それはちょうど、森へ
やってくる、鳥の親子連れと同じです。子どもの取りは、親鳥の飛び方を見て、自分の飛び方
を覚えます。あなたが飛ばないで、どうして子どもが飛ぶことができるでしょうか。

 「自分の子どもには苦労をさせたくない。社会に適応し、周りとうまくやって欲しい」ですか
あ? しかしそんな人生に、どれほどの意味があるというのでしょうか。私は、一片の魅力も感
じません。しかたないので、そういう人生を、私も送っていますが、しかし心意気だけは、いつ
も、そうであってはいけないと思っています。

RYさんが言う「社会」というのは、戦前は、「国」のことでした。「お国のため」が、「社会のため」
になり、「お国で役立つ人間」が、「社会で役立つ人間」になりました。今の中国では、「立派な
国民づくり」が、中国の教育の合言葉になっています。日本も、中国も、それほど違わないので
はないでしょうか。

 今、行政改革、つまりは日本型官僚政治の改革は、ことごとく失敗しています。奈良時代の
昔からつづいた官僚制度ですから、そう簡単には変えることができません。それはわかります
が、この硬直した社会制度を変えないかぎり、日本人が、真の自由を手に入れることはないで
しょう。

今の今も、子育てをしながら、RYさんのように悩んでいる人は多いはずです。小さな世界で、こ
じんまりと、その日を何とか無事に過ごしている人には、それはわからないかもしれません。
が、しかしこれからの日本人は、そんなバカではない。「しくまれた自由」(尾崎豊「卒業」)に、
みなが、気がつき始めている……。

 これは子どもの問題ではないのです。RYさん、あなた自身の問題なのです。ですからあなた
も勇気を出して、一歩、足を前に踏みだしてみてください。何かできることがあるはずです。そし
てあなた自身をがんじがらめにしている糸を、一本でもよいから取りのぞいてみるのです。

 私は母ではない!
 私は妻ではない!
 私は女ではない!
 私は、一人の人間だア!、と。

 いいですか、RYさん、母として、妻として、女として、「私」を犠牲にしてはいけませんよ。自分
を偽ってはいけませんよ。あなたはあなたの生きザマを、自分で追求するのです。それが結局
は、あなた自身の子育て観を変え、あなたの子どもに影響を与えるのです。そしてそれが、
今、あなたが感じている問題を解決するのです。

 家庭は、それ自体は、憩いの場であり、心や体を休める場です。しかしそれを守る(?)女性
にとっては、兵役の兵舎そのもの※。自分の可能性や、夢や希望、そういうものをことごとく押
しつぶされ、家庭に閉じ込められる女性たちのストレスは、相当なものです。(もちろん、そうで
ない女性も、約25%はいますが……。)仕事をもっている男性には、まだ自由は、あります
が、女性には、それがない。

 だから家庭に入った女性たちほど、自由を求める権利があるのです。その中の一人が、RY
さん、あなたということになります。

 私たちは、ともすれば、自分の隠された欲求不満に気づかず、そのはけ口を子どもに求めよ
うとします。子どもを代理にして、自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに果たさせようと
するわけです。しかしそんなことをしても、何ら解決しないばかりか、不完全燃焼の人生は、不
完全燃焼のまま終わってしまいます。

子どもにしても、それは負担になるだけ。あるいは子どもがあなたの期待に答えれば、それで
よし。しかしそうでなければ、(その可能性のほうが大きいのですが……)、かえってストレスが
たまるだけです。あるいはそれがわかるころになると、あなたも歳をとり、もうやり返しのできな
い状態になっているかもしれません。

 だから私は、「これはRYさん、あなた自身の問題だ」と言うのです。さあ、あなたも勇気を出し
て、その見本を、子どもに見せてやってください。

 「私は、自らの足で立ち、自分の思うままの人生を自分で考えて歩いているのよ。あんたたち
も、私に見習いなさい!」とです。それは、とっても、気持ちのよい世界ですよ。約束します。

※「男は軍隊、女は家庭という、拘禁された環境の中で、虐待、そして心的外傷を経験する」
(J・ハーマン)。

+++++++++++++++

ついでに3年前、こんな詩を
書きました。

これは自分のことです。

+++++++++++++++
 
●人生

人生は、先の見えない荒野を、
一人で、草をかき分けながら
進むようなもの。
どこにいるのかさえ、わからない。

それはきびしく、険しい道。
頼れるものは何もない。
そこにはいつも、ひょうひょうと
かわいた風が舞っている。

ふと振りかえると、
そこには一本の細い道。
あちこちで曲がりくねって、
より道ばかり。

進んだつもりが、またもとの道?
何かをしてきたようで、
残っているものが、何もない?
そんな道を見ながら、ただ、ため息。

その先に、ゴールはあるのか。
あるいはゴールはないのか。
それすらわからない。
しかし立ち止まることもできない。

今できることは、とにかく前に
足を踏みだすこと。
今できることは、とにかく懸命に、
草をかき分けてみること。

人生は、先の見えない荒野を、
一人で、草をかき分けながら
進むようなもの。
しかし、とにかく前に進むしかない。
迷っている時間は、もう、私にはない。

++++++++++++++++

 この原稿の中で、私は、「不完全燃焼症候群」という言葉を使った。しかしその不完全燃焼感
を覚えることくらい、人生において、つらいことはない。晩年になればなるほど、そうである。

 そこで人は、つぎの2つのうちの、どちらかの道を選択する。(1)バカになりきるか、それと
も、(2)完全燃焼をめざすか。

 バカになりきるというのは、つまりは、何も考えないことをいう。与えられた現状に満足し、そ
れをよしとして、受けいれてしまう。よい例が、カルト教の信者たちである。カルト教でなくても、
どこかの宗教団体の狂信的な信者たちでもよい。

 彼らは、一見、思慮深い人のように見えるかもしれない。が、頭の中は、カラッポ。自分の思
想など、どこにもない。人間ロボットになりながら、ロボットになっているという意識すらない。

 誤解していはいけないのは、情報と思考は、まったく別のものということ。もっている情報がい
くら多くても、自分で考えることのできない人のことを、「カラッポ」という。英語では、「ノー・ブレ
イン」という。恩師の田丸先生は、「昆虫のような頭」と表現していたが、それでもよい。

 そこで人は、考える。「どうすれば自分の人生を、まっとうできるか」と。つまりこの時点で、完
全燃焼を目ざす。たった一度しかない人生だから、またその人生には、限りがあるから、私は
私として、自分の人生を生きる。とことん、生きる。

 つまり(生きる)ということは、(いかにすれば、自分を完全燃焼させるか、それを考えること)
ということになる。

 これには、男性も女性もない。

 ただ、むしろ女性のほうが、それに早く気づくという点でラッキーかもしれない。男性のばあ
い、自分がリストラされたり、定年で退職したときに、それに気づくことが多い。「オレの人生
は、何だったのかア!」と。

 さあ、あなたも思い切って、アクセルを踏んでみよう。アクセルを踏んで、前に出てみよう。…
…と書いたところで、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

【宗教のもつ愚鈍性】

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人間ロボットに関して、3年ほど前、
こんな原稿を書きました。

参考までに!

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●宗教団体に、3000万円の寄付?

 この話は、宗教の根幹にかかわる話である。だからあまりストレートに書くことができない。し
かし実際に、こんなことがあった。

 ある女性の夫が、半年近い闘病生活のあと、死んだ。夫が36歳、妻が37歳のときだった。
で、そのとき、生命保険金とか何かで、金額は、はっきりとはわからないが、5000万円近いお
金が、妻の手に入った。

 その女性は、ある宗教団体の熱心な信者だった。その宗教団体では、100万円以上の寄付
をする人を、「シルバー会員」、1000万円以上の寄付をする人を、「ゴールド会員」と呼んでい
た。特別扱いしていた。

 その女性は、手にしたお金のうち、何と、3000万円というお金を、その宗教団体に寄付し
た。(3000万円!)「こんな大金が手に入ったのは、信仰していたおかげです」と。

 この話は、その宗教団体内部では、美談として、大きく取りあげられた。機関紙にも、匿名だ
が、取りあげられた。そして間接的ながら、私の耳にも入るところとなった。で、話を聞くと、そ
の女性は、決して裕福な家庭ではない。生前の夫は、ごくふつうのサラリーマン。それからの生
活を考えたら、寄付してはいけないお金だった。

 宗教のもつこわさは、こんなところにある。どこか常識をはずれる。どこかおかしくなる。そし
てそのおかしさに気がつかないまま、結局は、宗教団体の餌食(えじき)になってしまう。それに
この話は、どこかおかしい。

 もしその宗教にそんな力があるなら、そもそも夫を殺さなかったはず。それにその宗教団体
に、ふつうの常識があるなら、そんな金額は、受け取らなかったはず。「あなたも、これからの
生活があるから、そんなに寄付してはいけません」と。

 しかしその女性は、3000万円も寄付してしまった。もちろんそのお金は、その女性のもの。
どう使おうと、その女性の勝手。私のような部外者がとやかく言っても、始まらない。

●政治は現実的であるべき

 が、政治の世界ともなると、そうはいかない。ちょうど30年ほど前のこと。韓国の前大統領の
金大中氏が、韓国のKCIAによって、東京のホテルから拉致(らち)されるという事件があった
※。

 そのとき金大中氏は、KCIAによって殺される運命にあったという。しかしその情報をいち早く
つかみ、それを止めたのは、ほかならぬアメリカのCIAだった。つまり金大中氏は、母国のKCI
Aに殺されかかったが、アメリカのCIAによって助けられた。

 そののちの金大中氏の政治信条は、この事件をきっかけに、大きく変わったとされる。結果
的には、狂信的なまでのクリスチャンになったという。そしてやがて金大中氏は、韓国の大統
領にまでのぼりつめるが、どこか政治手法が、現実離れしていたのは、そのためではないか。

 言うまでもなく、政治の世界では、「現実主義」が、第一。その柱でなければならない。いくら
大統領が、「私は清貧でいい」と思っていても、それを国民に押しつけてはいけない。いくら大
統領が、「私は、殺されても文句は言いません」と思っていても、それを国民に押しつけてはい
けない。あくまでも主人公は、大衆。それが政治。民主主義政治。

 ひょっとしたら金大中氏は、神の意思によって助けられたと思っているかもしれないが、金大
中氏を助けたのは、神ではない。アメリカのCIAである。実は、ここに宗教の愚鈍性が潜んで
いる。

●宗教のもつ、愚鈍性

 たとえばある人が病気になったとする。そこでその人は、一方でその人が身を寄せる宗教
に、毎日、毎晩おがむ一方、病院へ通ったとする。で、幸いにも、その人が、回復したとする。

 このときその人は、「私は病院のドクターによって病気を治してもらった」とは、決して思わな
い。「信仰によって、救われた」と思う。そして病院のドクターに感謝する前に、そしてそれ以上
に、その人が属する宗教団体に感謝する。

 しかしそれは、本当に信仰なのか? 正しい考え方なのか? キリスト教の世界にも、「天
(神)は自らを助けるものを助ける」という言葉がある。釈迦も、「島」という言葉を使って、同じ
ようなことを教えている。今風に言えば、「心の拠点」という意味か。それぞれが自分の世界
で、自分で「法」を打ちたてよ、と。
 
 密教の世界では、信仰によって病気を治したり、国を治めようとする。ついでに金もうけもしよ
うとする。しかしそれは本当に、あるべき信仰なのか? が、信仰をしていると、人は、どこかで
ご利益(りやく)を求めるようになる。「自分だけが、神(仏)の忠実な僕(しもべ)である。だから
自分だけは、守られる。神(仏)から、特別あつかいされる」と。

 しかしそんなことは絶対にありえない。ありえないことは、ほんの少しだけ、神や仏の立場に
なってみればわかる。

 私は神や仏ではないが、そういう私に、「先生、あなたのことを毎日、したって祈っています」
と言われても、私はうれしくかゆくもない。何ともない。ないばかりか、その人には、こう言うだろ
う。「私のことは忘れて、どうか、自分の道を進んでください」と。

 そういう意味では、日本の宗教は、どこかおかしい? 徒党を組んで、利益活動までしている
団体もある。またそうすることが、宗教活動だと、信者たちは思いこまされている。今は「?」と
しておくが、おかしいものは、おかしい。そのおかしさの一端が、冒頭に書いた、3000万円を
寄付した女性である。

【補足】※大韓民国前大統領金大中氏が1973年8月8日、東京のホテル・グランドパレスから
拉致された事件をいう。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1643)

【子育てポイント】

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以前書いた、「子育てポイント」を
少し、書き改めてみました。

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●はだし教育を大切に!

 子どもを将来、敏捷性(びんしょうせい・キビキビとした動き)のある子どもにしたかったら、子
どもは、はだしにして育てる。敏捷性は、すべての運動の基本になる。子どもがヨチヨチ歩きを
始めたら、はだし。厚い靴底のクツ、厚い靴下をはかせて、どうしてその敏捷性が育つというの
か。もしそれがわからなければ、ぶ厚い手ぶくろをはめて、一度、料理をしてみるとよい。あな
たは料理をするのに、困るはず。

 子どもは足の裏からの刺激を受けて、その敏捷性を養う。その敏捷性は、川原の石ころの
上、あるいは傾斜になった坂の上を歩かせてみればよい。歩行感覚のすぐれている子ども
は、そういうところでも、リズミカルにトントンと歩くことができる。あるいは、階段をおりるときを
見ればよい。敏捷性のある子どもは、数段ずつ、ピョンピョンと飛び降りるようにして、おりる。
そうでない子どもは、一段ずつ、一度、足をそろえながらおりる。

 またあなたの子どもが、よくころぶということであれば、今からでも遅くないから、はだしで育て
る。
 

●言葉教育は、まず親が

 親が、「ほれほれ、バス! ハンカチ、もった? バス、くる、バス、くる! ティッシュは? 先
生にあいさつ、ね。ちゃんと、するのよ!」と話していて、どうして子どもに、まともな(失礼!)言
葉が育つというのだろうか。そういうときは、多少、めんどうでも、こう言う。「もうすぐ、バスがき
ます。あなたは外でバスを待ちます。ハンカチは、もっていますか。ティッシュペーパーは、もっ
ていますか。先生に会ったら、しっかりとあいさつをするのですよ」と。

 こうした言葉教育があってはじめて、その上に、子どもは、国語能力を身につけることができ
る。子どもが乳幼児期に、親がだらしない(失礼!)話し方をしていて、どうして子どもに国語力
が身につくというのか。ちなみに、小学校の低学年児で、算数の応用問題が理解できない子ど
もは、約30%はいる。適当に数字をくっつけて、式を書いたり、答を出したりする。そのころ気
がついても、手遅れ。だから子どもには、正しい言葉で話しかける。つまり子どもの言葉の問
題は、親の問題であって、子どもの問題ではない。


●正しい発音を大切に

 文字学習に先立って、正しい発音を子どもの前でしてみせる。できれば一音ずつ区切って、
そのとき、パンパンと手をたたいて見せるとよい。たとえば「お父さん」は、「お・と・う・さ・ん」。
「お母さん」は、「お・か・あ・さ・ん」と。ちなみに、年長児で、「昨日」を正しく「き・の・う」と書ける
子どもは、ほとんどいない。「きお」「きのお」とか書く。もともと正しい発音を知らない子どもに向
かって、「まちがっているわよ!」「どうして正しく書けないの!」は、ない。

 地方によっては、母音があいまいなところがある。私が生まれ育った、G県のM市では、「鮎
(あゆ)を、「エエ」と発音する。「よい味」を、「エエ、エジ」と発音する。だから「この鮎はよい味
ですね」を、「このエエ、エエ。エジヤナモ」と発音する。そんなわけで、私は子どものころ、作文
が、大の苦手だった。「正しく書け」と言われても、音と文字が、一致しなかった。

 子どもに正しく発音させるときは、口を大きく動かし、腹に力を入れて、息をたくさん吐き出さ
せるようにするとよい。テレビ文化の影響なのか、今、息をほとんど出さないで発音する子ども
もいる。言葉そのものが、ソフトで、何を言っているかわからない。

 なお子どもの発音について、親はそれなりに理解できたり、親自身も同じような発音をしてい
ることが多い。そのため親が子どもの発音異常に気づくことは、まずない。そういうことも頭に
入れながら、子どもの発音を考えるとよい。


●同年齢の子どもと遊ばせる

子どもは、同年齢の子どもと、口論をしたり、取っ組みあいのけんかをしながら、社会性を身に
つける。問題解決の技法を身につける。子どもどうしのけんかを、「悪」と決めてかかってはい
けない。

 今、その社会性のない子どもが、ふえている。ほとんどが、そうではないかと思われる。たと
えば砂場で遊んでいる様子をみても、だれがボスで、だれが子分かわからない。実にのどかな
風景だが、それは子ども本来の姿ではない。あるべき姿ではない。こう書くと、「子分の子ども
がかわいそう」「うちの子を、子分にしたくない」と言う親がいる。が、子どもは子分になること
で、実は、それと平行して親分になる心構えを学ぶ。子分になったことがない子どもは、同時
に、親分にもなれない。子分の気持ちを、把握できないからである。

 またここ一〇年、親たちは、子どものいじめに対して、過剰反応する傾向がみられる。いじめ
を肯定するわけではないが、しかしいじめのない世界はない。問題はいじめがあることではな
く、そのいじめを、仮に受けたとき、その子どもが自分でどう処理していくかである。ブランコを
横取りされたら、「どうして、取るんだ!」と抗議すれば、それでよい。ばあいによっては、相手
をポカリとたたけば、それでよい。「取られた、取られた……」とメソメソと泣くから、「いじめ」に
なる。

 子どもをたくましい子どもにしたかったら、できるだけ早い時期から、同年齢の子どもと遊ば
せる。(だから早くから保育園へ入れろということではない。誤解がないように!)親と子どもだ
けの、マンツーマンの子育てだけで、すませてはいけない。


●ぬり絵のすすめ

 一時期、ぬり絵は、よくないという説が出て、幼児の世界からぬり絵が消えたことがある。し
かしぬり絵は、手の運筆能力を養うのに、たいへんよい。文字学習に先立って、ぬり絵をして
おくとよい。

 子どもの運筆能力は、丸を描かせてみればわかる。運筆能力のある子どもは、スムーズな
きれいな丸をかく。そうでない子どもは、多角形に近い、ぎこちない丸を描く。もしそうなら、ぬり
絵をすすめる。小さなところを、縦線、横線、曲線をうまくつかってぬらせるようにする。ちなみ
に、横線は、比較的簡単。縦線は、それだけ手の動きが複雑になるため、むずかしい。実際、
一度、あなた自身が鉛筆をもって、手の動きを確かめてみるとよい。

 また年長児で、鉛筆を正しくもてる子どもは、約50%とみる。(別に正しいもち方というのはな
いが……。)鉛筆を、クレヨンをもつようにしてもつ子どもが、30%。残り、20%の子どもは、
たいへん変則的なもち方をするのがわかっている(はやし浩司・調査)。鉛筆をもち始めたら、
一度、鉛筆をもつ練習をするとよい。コツは、親指と人さし指を、ワニの口にみたてて、鉛筆を
かませる。その横から中指をあてさせるようにするとよい。


●色づかいは、なれ

ぬり絵は、常識的な色づかいの練習にも、効果的。「常識的」というのは、色づかいになれてい
る子どもは、同じぬり絵をさせても、ほっとするような、温もりのある色づかいをする。そうでな
い子どもは、そうでない。

 たとえば同じ図柄の景色(簡単な山と野原、家と木)の絵を、四枚子どもに与えてみる。そし
て、「夏の絵、冬の絵、夜の絵、雨の絵にぬってごらん」と指示する。そのとき、夏は夏らしく、
冬は冬らしく色がぬれれば、よしとする。そうでない子どもは、まだ色づかいになれていないと
みる。

 なおこの段階で、色彩心理学の立場で、いろいろなことを言う人がいる。が、私は、過去35
年以上、色の指導をしてきたが、今ひとつ、理解できないでいる。たとえばこの時期、つまり満
4歳から6歳までの幼児期というのは、子どもによっては、周期的に、好きな色が変化すること
がある。

ある時期は青ばかり使っていた子どもが、今度は、黄色を使ったりするなど。しかしそういう子
どもでも、色づかいになれてくると、だんだん常識的な色づかいをするようになる。今、色づか
いがおかしいからといって、あまり神経質になる必要はない。

 ただし、色の押しつけはしてはいけない。昔、「髪の毛は黒よ! 肌は肌色よ!」と教えてい
た絵の先生がいたが、こういう押しつけはしてはいけない。髪の毛が緑でも、何ら、おかしいこ
とではない。


●ガムをかませる

 アメリカの『サイエンス』という研究雑誌に、「ガムをかむと、頭がよくなる」という記事がのっ
た。で、その話をすると、Nさんという母親が、息子(年長児)にガムをかませるようになった。
で、その結果だが、数年後には、その子どもは、本当に頭がよくなってしまった。

 その後、いろいろな子どもに試してみたが、この方法は、どこかぼんやりして、勉強が遅れが
ちの子どもに、とくに効果的である。理由は、いろいろ考えられる。ガムをかむことで、脳への
血流が促進される。かむことで、脳が刺激される。眠気がとれて、集中力がます、など。

 コツは、言うまでもなく、菓子ガムは避ける。また一枚のガムを、最低30分はかませるように
指導する。あとは、マナーの問題。かんだガムは、紙に包んで、ゴミ箱へ捨てさせる、など。

 またあまり多量の大きなガムは、口に入れさせてはいけない。咳きこんだようなとき、ガムが
のどに詰まることがある。年少の子どもにかませるときは、注意する。


●マンネリは知能の敵

 人間の脳細胞の数は、生まれてから死ぬまで、ほとんど変わらない。しかしその一個ずつの
脳細胞は、約10万のシナプスをもっている。このシナプスの数は、成長とともにふえ、老化とと
もに、減る。そのシナプスの数と、「からまり」が、頭のよし悪しを決める。

 このシナプスは、子どものばあい、刺激を受けて、発達する。数をふやす。ほかのシナプスと
からんで、思考力をます。刺激がなければ、そうでない。つまり子どもの教育は、すべて「刺激
教育」と言ってもよい。子どもには、いつも良質の刺激を与えるようにする。もう少しわかりやす
く言えば、「アレッと思う意外性」を大切にする。つまり、マンネリは、知能発達の大敵。

 ……と言っても、お金をかけろということではない。日々の生活の中で、その刺激を容易す
る。たまたま昨日も、年長児のクラスで、こんな教材を使ってみた。

(1)カタカナで「ヒラガナ」と書いた紙を見せ、子どもたちに「これは何?」と聞いた。子どもが、
「ひらがな!」と言ったら、すかさず、「これはカタカナだよ」と言う。つづいて、今度は、ヒラガナ
で「かたかな」と書いた紙を見せ、「これは何?」と聞く。すると今度は子どもたちは、「ひらが
な!」と言う。またすかさず、「何、言ってるんだ。よく読んでごらん。か・た・か・なって書いてあ
るだろ!」と。

(2)子どもたちに「君たちは、ひらがなが読めるか?」と聞くと、みなが、「読める! 読める!」
と。そこで私はつぎのように書いたカードを、見せ、子どもに読ませた。「はい!」「いや!」「よ
めない!」「しらない!」「みえない!」と。それらのカードを見せたとき、子どもがどんな反応を
示したか、多分、みなさんも容易に想像できると思う。やがて子どもたちは、「先生は、ずるい、
ずるい」と言い出したが、それが私が言う「良質な刺激」である。

 家庭では、いつも、何らかの変化を用意する。部屋の模様がえはもちろん、料理にしても、休
日の過ごし方にしても、そこに何らかの工夫を加える。ある母親は、おもちゃのトラックの荷台
の上に、寿司を並べた。そういったことでも、子どもには、大きな刺激になる。


●抱きながら本を読む

 「教える」ことを意識したら、「好きにさせる」ことを一方で考える。それが子どもを伸ばす、コ
ツ。たとえば子どもの文字を教えようと思ったら、一方で、文字を好きにさせることを考える。日
本でも、『好きこそ、ものの上手(じょうず)なれ』という。「好きだ」という意識が、子どもを前向き
に伸ばす。

 満4・5歳(=4歳6か月)を境にして、子どもは、急速に文字に興味をもつようになる。それま
での子どもは、いくら教えても、教えたことがそのままどこかへ消えていくような感じになる。し
かし決して、ムダではない。子どもは、伸びるとき、1次曲線的に、なだらかに伸びるのではな
い。ちょうど階段を登るように、段階的に、トントンと伸びる。たとえば、言葉の発達がある。子
どもは、1歳半から2歳にかけて、急に言葉を話し始める。それまで蓄積された情報が、一度
に開花するようにである。

 同じように、文字についても、そのあと子どもがどこまで伸びるかは、それまでに子どもが、
文字に対して、どのような印象をもっているかで決まる。「文字は楽しい」「文字はおもしろい」と
いう印象が、あればよし。しかし「文字はいやだ」「文字はこわい」、さらには「文字を見ると親の
カリカリとした顔が思い浮かぶ」というのであれば、そもそもスタート時点で、文字教育は失敗し
ているとみる。

 もしあなたの子どもが、満4・5歳前であるなら、(あるいはそれ以後でも遅くないから)、子ど
もには、抱いて本を読んであげる。あなたの温かい息を吹きかけながら、読んであげる。そう
することにより、子どもは、「文字は温かい」という印象をもつようになる。いつか子どもが自分
で文字を見たとき、そこにお父さんやお母さんの温もりを感ずることができれば、その子ども
は、まちがいなく、文字が好きになり、つづいて、本が好きになる。書くことや、考えることが好
きになる。
 

●何でも、握らせる

 ためしに、あなたの子どもを、おもちゃ屋へつれていってみてほしい。そのとき、あなたの子
どもが、つぎつぎとおもちゃを手にとって遊ぶなら、それでよい。(おもちゃ屋さんは、歓迎しな
いだろうが……。)しかし見るだけで、さわろうとしないなら、それだけ好奇心の弱い子どもとみ
る。が、それだけではない。

 最近の研究によれば、指先から刺激を受けることにより、脳の発達がうながされるということ
がわかっている。よく似た話だが、老人のボケ防止のためには、老人に何か、ものを握らせる
とよいという説もある。たとえば中国には、昔から、そのため、石でできたボールがある。2個
のボールがペアになっていて、それを手の先でクルクルと回して使うのだそうだ。私も東南アジ
アへ行ったとき、それを買ってきたことがある。(残念ながら、現地の人が見せてくれたように
は、いまだに回すことはできないが……。)

 それだけではないが、子どもには、何でも握らせるとよい。「さわる」という行為が、やがて、
「こわす」「組み立てる」「なおす」、さらには「調べる」「分析する」「考える」という行為につながっ
ていく。道具を使う基礎にもなる。

 なお好奇心が旺盛な子どもは、何か新しいものを見せたり、新しい提案をしたりすると、「や
る!」「やりたい!」とか言って、くいついてくる。そうでない子どもは、そうでない。また好奇心が
旺盛な子どもは、多芸多才。友人の数も多く、世界も広い。そうでない子どもは、興味をもつと
しても、単一的なもの。何か新しい提案をしても、「いやだ……」「つまらない……」とか言ったり
する。もしそうなら、親自身が、自分の世界を広めるつもりで、あれこれ活動してみるとよい。そ
ういう緊張感の中に、子どもを巻き込むようにする。


●才能は見つけるもの

 子どもの才能は、見つけるもの。作るものではない。作って作れるものではないし、無理に作
ろうとすれば、たいてい失敗する。

 子どもの方向性をみるためには、子どもを図書館へつれていき、そこでしばらく遊ばせてみ
るとよい。一、二時間もすると、子どもがどんな本を好んで読んでいるかがわかる。それがその
子どもの方向性である。

 つぎに、子どもが、どんなことに興味をもち、関心をもっているかを知る。特技でもよい。ある
女の子は、2歳くらいのときから、風呂の中でも、平気でもぐって遊んでいた。そこで母親が、そ
の子どもを水泳教室へいれてみると、その子どもは、まさに水を得た魚のように泳ぎ始めた。

 こうした才能を見つけたら、あるいは才能の芽を感じたら、そこにお金と時間をたっぷりとか
ける。その思いっきりのよさが、子どもの才能を伸ばす。

 ただしここでいう才能というのは、子ども自身が、努力と練習で伸ばせるものをいう。カード集
めをするとか、ゲームがうまいというのは、才能ではない。また才能は、集団の中で光るもので
なければならない。この才能は、たとえば子どもが何かのことでつまずいたようなとき、その子
どもを側面から支える。勉強だけ……という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度、勉
強でつまずくと、そのままズルズルと、落ちるところまで落ちてしまう。そんなわけで、才能を見
つけ、その才能を用意してあげるのは、親の大切な役目ということになる。

 これからはプロの時代。そういう意味でも、才能は大切にする。たとえばM君(高校生)は、ほ
とんど学校には行かなかった。で、毎日、近くの公園で、ゴルフばかりしていた。彼はそのの
ち、ゴルフのプロのコーチになった。またSさんは、勉強はまったくダメだったが、手芸だけは、
だれにも負けなかった。そのSさんは、今、H市内でも、最大規模の洋品店を経営している。


●何でもさせてみる

 子どもには、何でもさせてみる。よいことも、悪いことも。そして少しずつ、様子を見ながら、ち
ょうど、彫刻を削るようにして、よい面を伸ばし、悪い面を削りながら、形を整えていく。まずい
のは、「あれはダメ、これはダメ」と、子どもの世界を狭くしていくこと。

 たとえば悪い言葉がある。悪い言葉を容認せよというわけではないが、悪い言葉が使えない
ほどまで、子どもを押さえ込んではいけない。一応、叱りながらも、言いたいように言わせておく
……、そういう寛容さが、子どもを伸ばす。子どもが親に、「ジジイ!」と言ったら、「何だ、未来
のクソババア!」と言いかえしてやればよい……と私は考えているが、どうだろうか。私は私の
生徒たちに対しては、そうしている。

 威圧的な過干渉、神経質な過関心、盲目的な溺愛、精神的な過保護が日常化すると、子ど
もは一見、できのよい子になる。しかしそういう子どもは、問題を先送りするだけ。しかも先送り
すればするほど、あとあと大きな問題を起こすようになる。この時期、『よい子は悪い子』と考え
るとよい。とくに親や先生に従順で、ものわかりがよく、しっかりとしていて、まじめで、もの静か
な子どもほど、要注意!


●幼児教育は、種まき

 幼児教育は、すべて「種まき」と思う。教えても、すぐ効果を求めない。またすぐ効果が出ない
からといって、ムダと思ってはいけない。実際、ほとんどのことは、一見ムダになるように見え
る。しかしムダではない。子どもの心の奥底にもぐるだけと考える。

 言うべきことは言う、教えるべきことは教える、しかしあとは時間を待つ。が、それができない
親は、多い。本当に多い。こんなことがあった。

 ある日、ひとりの母親が私のところにきて、こう言った。「先生は、うちの子(年長児)が書いた
ひらがなに、丸をつけた。しかし書き順はメチャメチャ。字も逆さ文字(上下が反対)、鏡文字
(左右が反対)になっているところがある。どうして丸をつかたか。そういう(いいかげんな)教え
方では困る!」と。

 その子どもは、たしかにそういう字を書いた。しかし大切なことは、その子どもが一生懸命、
それを書いたということ。私はそれに丸をつけた。字のじょうず、ヘタは、そのつぎ。これも大き
な意味で、種まきということになる。子どもには、プラスの暗示をかけておく。おとなが見たらヘ
タな字であっても、子どもにはそうでない。(自分の字がじょうずかヘタか、それを自分で判断で
きる子どもは、いない。)「ぼくは字がうまい」という思いが、子どもを前向き伸ばしていく。

 要するに、子どもに何かを教えるときは、心の中で、「種まき、種まき……」と思えばよい。


●えびで鯛(たい)を釣る

 『えびで鯛を釣る』という。えびをエサにするのは、もったいない話だが、しかしそのエビで鯛
をつれば、損はない、と。子どもの学習をみるときは、いつも、この格言を頭の中に置いておく
とよい。が、中には、えびで鯛を釣る前に、そのえびを食べてしまう人がいる。いろいろな例が
ある。少しこじつけのような感じがしないでもないが、最近、こんなことがあった。

 A君(小三)は、勉強が全体に遅れがちだった。算数も、まだ掛け算があやしかった。自信も
なくしていた。そこで私はA君を、小2クラスへ入れてみた。A君は、勉強がわかるようになった
ことが、よほどうれしかったのだろう。それまでのA君とは、うってかわって、明るい表情を見せ
るようになった。そして半年もすると、小3レベルまで何とか追いつくことができた。私は、A君を
小3クラスへもどした。

 が、ここで親の無理が始まった。追いついたことをよいことに、親はA君に、ドッサリとワーク
ブックを買い与えた。勉強の量をふやした。とたん、再び、A君はオーバーヒート。以前より、さ
らに気力をなくしてしまった。つまりA君のケースでは、せっかく(えび)を釣ったのに、それで
(鯛)を釣る前に、親が、その(エビ)を食べてしまったことになる。ちょっとわかりにくい例かもし
れないが、その(エビ)をじょうずに使えば、A君はそこで立ちなおることができたはず。

 ついでに……。こういうケースでは、二度目は、ない。しばらくすると、親は、「また1学年さげ
てみてほしい」と言ったが、今度は、A君がそれに応じなかった。子どもの世界では、1度失敗
すると、2度目は、ない。


●やなぎの下には……

 何かのことで失敗したとき、子どもの世界では、2度目はない。子ども自身が、それに応じなく
なる。

 たとえばAさんは子ども(小5男児)のために、家庭教師をつけた。きびしい先生だった。子ど
もとは相性が合わなかった。子どもは、「いやだ」「かえてほしい」と、何度も親に懇願した。が、
親は、「がまんしなさい!」と子どもを叱りつづけた。結果、子どもの成績はさがった。無気力症
状も出てきた。そのため半年後に、親は家庭教師を断った。

 ここまではよくあるケース。が、こうした失敗は、必ず、尾を引く。それから何か月かたったと
きのこと。Aさんは、また子どもに家庭教師をつけようと考えた。「今度は慎重に……」と思った
が、息子が、それに反発した。ふつうの反発ではない。部屋中をひっくり返して、それに抵抗し
た。

 一般論として、何かのことで、一度挫折すると、子どもは同じパターンでものごとが始まること
を、避けようとする。親は「気のもちようだ」「乗り越えられる」と考えがちだが、子どもの心理
は、もう少し複雑。デリケート。いや、時間をかければ、乗り越えられなくもないが、それよりも
早く、子どもは大きくなっていく。乗り越えるのを待っていたら、受験時代そのものが、終わって
しまう。そんなわけで、この時期の失敗や、挫折は、子どもに決定的な影響を与えると考えてよ
い。

 『やなぎの下には、どじょうは……』と言うが、子どもの世界では、『失敗は、2度ない』。この
時期、つまり子どもの受験期には、「うまくやって成功する」ことよりも、「へたなことをして失敗
する」ことのほうが多い。成功することよりも、失敗しないことを考えながら、子どもの受験勉強
は組みたてる。


●航海のし方は、難破したことがある人に聞け

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイと東大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。
本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。
子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイと東大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。「こうして私は東大へ入った」とか、な
ど。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自分の子どもに当てはめようとしても、
うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗する。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学
ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う
ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう
する。私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子
育てで謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと
大きな多様性を秘めている。

だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分は、あなたがいくらがんばって
も、あなたは知ることはできない。が、その「知ることができない」部分を、いかに多く知ってい
るかで、親の親としての度量が決まる。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という親
ほど、実は、そう思い込んでいるだけで、子どものことを知らない。だから、子どもの姿を見失
う。失敗する。一方、「うちの子のことがわからない」と、謙虚な態度で子どもの姿を見ようとす
る親ほど、子どものことを知っている。だから、子どもの姿を正確にとらえる。失敗が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1644)

●基本的信頼関係(社会関係)

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親子は、信頼関係が、どこまで
できているかによって、決まる。

「決まる」ということは、信頼関係
がすべて、ということ。

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 小学校4、5年生の子どもたちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、全員、ニヤニ
ヤ笑いながら、「嫌いだヨ〜」と答える。幼稚園の年長児でも、そうだ。

 しかし年中児くらいになると、恥ずかしそうに、「好き」という子どもが現れる。どうやらその年
齢あたりを境にして、子どもたちは、本音と建前を使い分けるようになるようだ。

 言うまでもなく、人間の信頼関係は、さらけ出しと、受け入れで決まる。この2つが相互にあっ
て、その基盤の上に、信頼関係が築かれる。もし、この2つが不十分なら、その上に成りたつ
信頼関係は、軟弱なものになる。

 さらけ出し……あるがままの自分を、そっくりそのままさらけ出すことをいう。思ったことを言
い、したいことをする。悲しかったら、悲しいと言う。つらかったら、つらいと言う。きれいごとを
言ったり、自分を飾ったりしない。へつらったり、愛想をよくしたりしない。あるがままを、さらけ
出す。

 受け入れ……相手が何を言っても、また何をしても、それを全幅に受け入れる。その典型的
な例は、母と子の関係に、みられる。子どもがウンチをしても、小便をしても、母親というのは、
それを自分のものとして、受け入れる。

 ここで大切なことは、自分がさらけ出すとき、そのとき自分が、どう感ずるかである。相手に
安心感を覚えれば、よし。あるがままをさらけ出そうとしたとき、「相手が、自分のことを悪く思う
のではないか」「へんに思うのではないか」と思うようであれば、さらけ出しはできない。

 そこで登場するのが、基本的信頼関係である。生後まもなくから、とくに母子の関係で、この
基本的信頼関係ができている人は、こうしたさらけ出しが、自然な形で、できる。そうでない人
は、そうでない。人間関係が、どこか、ぎくしゃくしやすい。

 それはそれとして、つぎの問題は、どの人に対して、どの程度まで、さらけ出しをし、受け入
れをするかである。

 夫婦や、親子の関係を100とする。結婚を目的とした恋人関係も、それに近い。深い友人関
係や、師弟関係も、それに準ずる。こうした関係で、反対に、言いたいことも言えないとか、した
いこともできないというようであれば、すでにその関係は、危機的な状態にあるといってもよい。

 そこで冒頭の話。

 小学生たちに、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞く。この段階で、子どものほうは、私と
の絶対的な信頼関係を求めていない。またそういう関係に、ない。だから、「嫌いだヨ〜」とウソ
を言う。もちろんその背景には、「文化」もある。そういうことをあからさまに言うことについて、
文化的な抵抗感がある。

 だからそれを聞く私のほうも、肯定的な答など、最初から期待していない。ウソを言うだろう、
あるいは自分の本心を隠すだろうということを、知りつつ、そういう質問をする。こうした関係
を、基本的信頼関係に対して、基本的社会関係という。「基本的社会関係」というのは、私が考
えた言葉である。

●基本的社会関係

 私はいくつかの仮面をかぶっている。教師としての仮面。評論家としての仮面。そして日常的
にも、無数の仮面をかぶっている。

 もしその私が、赤裸々な自分をさらけ出したら、社会生活そのものがいとめなくなる。たとえ
ば容姿のすばらしい母親から、何かの子育て相談を受けたとする。そのとき私は、「あなたの
肌はすてきですね」と内心で思ったとしても、それを口にしてはいけない。「あなたの胸やおしり
は、すてきですね」とか、さらに「あなたと一度、セックスしてみたい」などとは、さらに言ってはい
けない。

 つまりそこに、さらけ出しの制約が生まれる。私はその母親の相談にのりながらも、その母
親と信頼関係を結ぶつもりはない。母親とて、それを求めていない。だからいつものように、つ
まりは通りすがりの人として、その母親を軽くあしらう。母親の求めているものだけを与えて、そ
れで別れる。

 これが基本的社会関係である。こうした関係は、人間が社会的生活をつづける間は、いたる
場所、いたるときに起こる。また起きたからといって、それが問題というわけではない。私たち
は、ごく日常的に、仮面をかぶる。かぶって当然である。

 が、問題がないわけではない。

 ときとして、この基本的社会関係が崩れたり、誤解されることがある。さらには、こうした関係
に、限界を感ずることもある。実のところ、今の私がそうである。

 こういう仕事をしていると、無数の親たちから、いろいろな相談をもちかけられる。大半が若
い女性(母親)である。以前は電話での相談が多かったが、電話による相談は、すべて断って
いる。それにかわって今は、インターネットになった。

 が、当然のことながら、インターネットでは、顔が見えない。見えない分だけ、感情(心)がつ
かめない。それに、何人かの人から同時に相談を受けていると、だれがどの人か、わからなく
なる。……なってしまう。一番つらいのは、「先月、相談しました、○○県のAです。そのあと、あ
の問題は……」というようなメールをもらったとき。懸命に記憶をたどらなければならない。

 そこで私はさらけ出しの問題にぶつかる。相手は自分の問題をさらけ出してくる。しかしそれ
を受ける私はそれを全面的に受け入れているわけではない。ここがものの売買とは、違うとこ
ろである。そこでそれを受ける私としては、いつも何かしら、不完全燃焼のまま、相談に答え、
そして別れる。

 そこでいくつか、心の実験をしてみた。私は、一人の女性にお願いして、自分の心をさらけ出
してみた。……みることにした。すてきな女性だった。F市に住むMさんという方だった。私はこ
うしてインターネットをするようになってはじめて、その女性に、こう頼んでみた。「写真を送って
くれませんか」と。

 しかしこのあとのことは、その女性の了解を求めていないので、私は、何も書くことができな
い。ただ、その女性は、私の趣旨理解してくれ、写真を送ってくれた。が、そのとき私が受けた
衝撃は、ものすごいものだった。白黒の映画の中で、一本の花だけが、真っ赤になっている…
…そんなシーンを見たような衝撃だった。

 そう、それは生まれてはじめて、女性に会ったような気分だった。インターネットの中で、生ま
れてはじめて「女」を感じてしまった。母親と呼ばれる女性たちには、ごく日常的に会っているの
に、そのとき感じた新鮮さは、いったい何だったのか。

 それはひょっとしたら、私が感じていた悶々とした閉塞感に、風穴があいたためではないか。
私は改めて、自己開示について考えなおしてみた。

●自己開示

 自分をどの程度まで、相手に開示できるか。それでその人との親密度を知ることができる。

(自己開示度1)自分の生年月日程度を開示する。
(自己開示度2)家族や、親類程度のことを開示する。
(自己開示度3)夫婦生活や、子どもの成績などを開示する。
(自己開示度4)夫婦生活や自分の過去、性体験などを開示する。
(自己開示度5)自分の犯罪歴、精神的な病や、性的性癖を開示する。

 この点、愛しあう男女は、自己開示度が高い分、信頼関係を結びやすい。素っ裸になり、狂
おしいほどに相手を求め、そして同じことを、相手に許す。夫婦であることのすばらしいさ、セッ
クスのすばらしさは、ここにある。

 言いかえると、夫婦でありながら、また親子でありながら、自己開示度が低いということは、そ
もそも家族が、家族として機能していないということになる。が、それはさておき、では、他人と
の関係は、どうなのかという問題がある。

 こうして考えてみると、自己開示度5まで開示できる相手というのは、きわめて限られることが
わかる。私にしても、ワイフや家族をのぞいて、ほんの数人ではないかと思う。もっと厳密に
は、2、3人の友人でしかない。

●個人的な問題

 私は、そういう意味では、閉塞的な人間である。子どものころは、自己開示ができなかった。
わかりやすく言えば、他人には、簡単には、心を開かなかった。……開けなかった。よく「浩司
は、商人の子だからなあ」と言われた。愛想はよく、だれにも好かれようと、へつらったからだ。
しかしそれは本当の自分ではなかった。本当の自分は、もっと別のところにいた。

 このことは社会人になってからも、同じだった。さらに結婚してからも、同じだった。今のワイ
フと結婚してからも、隠しごとばかりだった。自分の家族関係などは、あまり話さなかった。が、
幸運にも、そのあと、私は幼児教育をするようになり、子どもと接触するようになった。そしてそ
ういう子どもを見ながら、私が何であるかを、思い知らされるようになった。

 つまりは、「自分さがし」ということか。

 私はある日、思い切って、自分をさらけ出してみた。自分の過去を語ってみた。そのとき私が
最初に考えたのは、「相手がどう思うとかまわない」という居なおりだった。「どうせ2人の人に、
よい顔はできない」(イギリスの格言)と。

 しかしそれはすがすがしいほど、気持ちのよいものだった。そこでさらに自分をさらけ出して
みた。さらに気持ちよくなった。……あとは、この繰りかえし。私はいつしか、自分をさらけ出す
ことで、私の中の私が、何であるか、わかるようになった。

 もちろん気まずいこともあった。後悔することもあった。不用意なさらけ出しで、相手をキズつ
けてしまったこともある。そういう失敗もあるが、そういう流れの中で、私は、自分らしく生きるこ
とのすばらしさを学んだ。

●みなさんへ

 さあ、みなさんも、勇気を出して、自分をさらけ出してみよう。
 あなたはあなただ。あなたにどんな問題があったとしても、
 それはあなたの責任ではない。あなたが恥じるべきことではない。

 指が5本、あるように。体が空気を吸って吐き出すように、
 あなたはあなたであって、あなたではない部分がある。
 そのあなたでない部分が、あなた自身を見えなくしている。
 そこではあなたは、本当のあなたが何であるかを知るために、
 自分をさらけ出してみる。「これが私だ。どこが悪い!」と。

 飾ることはない。見栄やメンツ、虚栄を張ることもない。
世間体という、他人の目を気にすることもない。あなたはあなただ。

それでその相手があなたを嫌うなら、その相手とは、それまで。
あなたに失望したりするようなら、その相手とは、それまで。
しかし本当の妻や夫、家族や友人は、それでも残る。
残ったとき、そこを基盤として、たがいの真の信頼関係ができる。

【追記】

 なんともまとまりのない文書ですみません。このつづきは、もう少し冷静になったとき、考えま
す。ボツにしようかと考えましたが、記録として残すことにしました。考えてみれば、私はこうして
マガジンを発行することによって、さらけ出しをしているのかもしれません。読者のみなさんは、
こうした文章を読んで、どのような印象をもちますか?

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●心の実験(あと始末)

++++++++++++++++++

大切なのは、あと片付けではなく、
あと始末。

日本人は、概して言えば、あと片づけには
うるさいが、あと始末には甘い。

++++++++++++++++++

 新幹線に乗ったときのこと。私の座った席の前のアミの中に、ごみが、いっぱい、あった。空
き缶に弁当箱など。それまで座っていた人が、そのままにしておいたらしい。

 私はそのゴミを見ながら、こう考えた。

 「始末してやるべきか、いなか」と。

 よく子どもたちに、何かをしてくれと頼むと、子どもたちはこう言う。「何で、ぼくがしなければい
かんのかア?」と。いやな言葉だ。先日も、「スリッパを並べて帰ってね」と頼むと、小学2年生
のN君も、そう言った。「先生、どうしてぼくがしなくちゃ、いけないの?」と。そこで私が、「だれ
でもいいけど、君が一番先に、目についたから」と。

 そのあとN君は、しぶしぶ、本当にしぶしぶ、スリッパを並べてくれた。

 それを思い出しながら、私は再び、そのゴミを始末してやるべきかどうか、迷った。実はその
とき、あのN君と同じ言葉が頭の中を、横切ったから。「どうして、私がしなければいけないの
か?」と。

 何かよいことをすると、大脳の新皮質部から、脳の辺縁系の扁桃体というところに信号が送
られ、そこからモルヒネ様の物質が放出されるという。エンケファリン系、エンドロフィン系の物
質だと言われている。そこで私は、心の実験をしてみることにした。

 私は自分のもっていたペットボトルを飲み干すと、アミの中からゴミを取り出した。そしてそれ
らを一つの袋にまとめると、通路へ立った。あいにく、ゴミ箱は遠かった。しかたないので、そこ
まで歩いた。

 歩きながら、自分の脳の中の変化を観察した。私の理論によれば、そして大脳生理学の理
論によれば、そのとき、扁桃体から、モルヒネ様の物質が放出されるはずだった。そして陶酔
感に襲われるはずだった。しかし一向に、気持ちよくならない。

 私はゴミを捨てると、また自分の席に座った。しかしそれでも気持ちよくならない。はっきり言
えば、何の変化も起きなかった。「おかしいな?」とは思ったが、やはり何も起きなかった。私の
脳の中は、前と同じだった。

 で、実験は、終わり。「失敗」と書いたほうがよいのか。つまり、その程度の善行では、モルヒ
ネ様の物資は、どうやら放出されないらしい。それがわかった。あとでワイフに話すと、ワイフ
は、こう言った。

 「そんなの、したければすればいい。したくなければ、しなくていい。したからいいことをしたと
いうことにはならないわ。ああいうゴミは、ゴミを作った人が始末をすればいいのよ。あなたの
責任じゃ、ないわ」と。どうやら、それが、正解らしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1645)

●今朝・あれこれ(11月17日)

++++++++++++++++++++

昨日は、やや風邪気味。
「あぶない」と思って、警戒。
今日、明日と、講演がつづく。

で、昨夜は、風邪薬(葛根湯、ビタミンC、
それに市販の感冒薬、睡眠薬少し)を
のんで、いつもより、1時間ほど、
早く、床についた。

おかげで、今朝は、快調。

Good morning!

++++++++++++++++++++

●時計

 「古(いにしえ)の時計」という雑誌がある。それを1〜6号まで買うと、おまけに、ゼンマイ仕
掛けの時計が1個、もらえる。昨日、それが、届いた。

 今どきゼンマイ?、……と思う人もいるかもしれないが、これがどっこい。手にとってみると、
不思議な感動を覚える。両面が透明のプラスチックになっていて、中が、透けて見える。歯車
が、小刻みに動き回るのが見える。つまりそれが楽しい。

 しばらくは、この時計をかわいがってやることにする。


●6か国協議

 K国の核兵器問題を話しあうための、6か国協議が近づいてきた。これに対して、韓国政府
の高官は、「米朝の2か国協議をすべきだ」と。

 バカめ!

 では、どうして6か国協議では、ダメなのか? その理由もないまま、2か国協議にこだわるこ
と自体、K国の術中にはまったことを意味する。

 それほどまでに2か国にこだわるのなら、まず、韓国、あなたが先に、K国と会談して、核兵
器を放棄させてみたらよい。さんざん、偉そうなことばかり言ってきて、結局は、何もできなかっ
た。だから6か国協議になった。

 日本人の多くは、韓国イコール、K国と考え始めているぞ!
(この原稿は、11月17日に書いたもの。)


●日時、曜日

 「日時、曜日がわからなくなったら、ボケの始まり」だ、そうだ。

 しかしこのところ、その日時や、曜日を、よくまちがえる。今日は、11月17日だが、先ほど、
18日だと思ってしまった。また今月は、11月だが、それが10月になったり、12月になったり
する。

 電子マガジンを発行していると、それが混乱してくる。昨日は、12月18日号の「最前線の育
児論」の配信予約を入れた。で、たった今、11月18日号の「はやし浩司の世界」の配信予約
を入れた。

 今、書いている原稿は、12月20日用ということになる。おまけに、今朝配信された「最前線
の育児論」は、去る10月に書いたもの。つまりこういうことを繰りかえしていると、今月が何月
で、今日が何日か、わからなくなってしまう。

 これもボケ症状のひとつと考えてよいのか。


●自殺の連鎖

 子どもたちの自殺が、つづいている。こういうのを、「自殺の連鎖」という。その引き金となって
いる(いじめ)も問題だが、自殺の連鎖は、自殺の連鎖として、別に考える必要がある。

 わかりやすい例では、かつて有名歌手が飛び降り自殺したあと、何人かの若者たちが、つづ
いて後追い自殺をしたケースがある。家族によって隠された例も多いから、自殺者の数は、そ
の10倍以上はあったとみるべき。

 この時期、(小中学生も含めてだが……)、若者の自己意識(自意識)は、きわめて強くなる。
「私こそ、世界の中心にいる」と思い込んでしまう。が、現実には、そうでない。つまりそのギャッ
プの中で、若者たちは、もがき、苦しむ。

 つまり(自殺)という方法が、自己主張の場として、子どもの心の中で肥大化してしまう。これ
がこわい。

 しかし自殺したところで、問題は何も解決しない。自分自身という(主体)が消えてしまうわけ
だから、仮に自分の死後、だれかがそれを悲しんでくれたとしても、その本人は、それを見るこ
とも知ることもできない。

 ふつうの常識のある人なら、そう考える。が、自己意識が肥大化すると、それがわからなくな
る。自分を悲劇の主人公に祭りあげてしまう。もっと言えば、現実と空想の世界の境目が、わ
からなくなってしまう。

 もちろんみながみな、そういう理由で、自殺しているというのではない。いじめが原因で、追い
つめられ、それで自殺する子どももいるだろう。しかし(死にたい)と思うことと、(実際に死ぬ)
ことに間には、大きな距離がある。

 その(距離)を一気に縮めてまうのが、ここでいう(自己意識の肥大化)ということになる。それ
が高じて、死後の世界(=空想の世界)に、自分を託してしまう。

 もちろん、子どもにそんなことを説明しても、わからない。ただこれだけは言える。

 今の今も、子どもたちの世界では、占いやまじないが、大流行している。低劣なマスコミが、
それに拍車をかけている。書店へ行けば、その種の本が、ズラリと並んでいる。こういう世界
を、一方で放置しておきながら、子どもたちに、(生きることの大切さ)を説いても、無駄というこ
と。

 さらに一言。

テレビの報道番組などを見ていると、いじめだけが自殺の原因と考えている感じがするが、こ
の問題は、もっと、根が深い。子どもたちの世界そのものが、殺伐(さつばつ)としてきている。
そのあたりまでメスを入れないと、いじめの問題はなくならないだろうし、自殺の連鎖もなくなら
ないだろうということ。

 いろいろ言いたいことはあるが、ここまで。遺族の人たちの深い悲しみを知るにつけ、どうし
ても口が重くなってしまう。


●しつこいスパムメール

 このところ毎日、100通以上のスパムメールが届く。大半が英語の、つまり外国からのもの
だが、日本語のものもある。

 阿子……どうして返事をいただけないのですか。
 保子……一度、会いたいです。302号室です。
 詐子……恥ずかしい写真を送ります。
 欺子……これで最後です。私、気が変になりそうです。
 馬子……このアドレスで、よかったですか。
 鹿子……一度だけ、ご連絡ください、と。

 女性の名前はそのつど変わっているが、同一人物が発信源になっていることは、件名を並
べてみれば、まるわかり。

何が目的なのか、どんな内容なのか、私は知らない。多分メールには、HPか何かを開くように
と指示している文面があるはず。が、それを開いたら、最後。スパイウエアか何かを、仕込んで
くる。

 ……そんなわけで、近々、メールアドレスを変更するつもり。あちこちにアドレスが組み込ん
であるので、たいへんな作業になりそうだが、しかたない。やるしかない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1646)

【「自由」について】

++++++++++++++++

昨日、あるところで講演をしたとき、
少しだが、私の「自由論」を話した。

サルトル、ボーボワールという、どこか
古典的な哲学者の名前も出した。

しかし、今、サルトルとかボーボワール
という名前を知っている人は、どれほど
いるだろうか。

++++++++++++++++

●自由の限界

 いくら「私は自由だ」と叫んだところで、その「私」には、無数の糸がからんでいる。父親として
の糸、夫としての糸、家族の一員としての糸、男としての糸、社会的人間としての糸、さらには
人間そのものとしての糸。

 行動の自由はともかくも、魂の自由となると、自らを、その「糸」から解放させるのは、容易な
ことではない。たとえば私がもっている、「意識」にしても、「私の意識」と思い込んでいるだけ
で、本当は、だれかによって作られたものかもしれない。

 よい例が、カルト教団の信者たちである。

 彼らは、みな、一様に、満ち足りたかのような笑みを浮かべている。本当は、思想を注入され
ているだけなのに、それを(自分の思想)と思い込んでしまっている。中には、常識はずれな行
動を平気でする人もいる。

 ためしにそういう人たちに、こうたずねてみるとよい。「あなたたちは、自分で考えて行動して
いますか」と。すると彼らは、まちがいなく、こう答える。「私たちは、自分の意思で、行動してい
ます」と。

 今の私は、カルト教の信者とはちがうと思っている。しかし、実際には、それほどちがわない
のかもしれない。

 加えて本能の問題もある。

 先週も、ある温泉に泊まったが、実に無防備な温泉であった。近くに露天風呂があったが、
のぞこうと思えば、いくらでものぞけた。そこには、素っ裸で入浴している女性たちがたくさんい
たはず。

 近くに行けば、素っ裸の女性たちを見ることができたかもしれないが、結局は、私は、その場
所をわざと遠回りをして、避けた。

 つまり女性の裸に興味をもつのは、本能がそう思わせるだけであって、決して、「私」ではな
い。私が見たいと思うのではなく、私ではない「私」が、私にそう思わせただけ。

 ……こう考えていくと、自由を問題にする前に、どこからどこまでが、(私の意識)であり、どこ
から先が、(作られた意識)なのか、わからなくなってくる。

 さらに加齢とともに、ボケの問題も、それに加わる。

 頭のボケた人を見ていると、自分がボケたことすら、気がついていないことがわかる。つまり
ボケといっても、程度の問題。「私はボケていない」と思っている私やあなたにしても、すでにボ
ケは、始まっているのかもしれない、などなど。

 そこで、あのジャン・ポール・サルトル(1905〜1980)。サルトルは、1938年に『嘔吐(は
きけ)』という本を発表している。その中で彼は、「すべてが消えうせたあと……淫乱な裸形だけ
が残った」というようなことを書いている。

 私自身は、そんな気分になったことはないが、理屈の上では、理解できる。

 私が今、この目で見ているものにしても、「見ている」と思っているだけで、実は、脳の後頭部
にある、視覚野に映し出された映像を、脳みそが感知しているに過ぎない。しかも、見ているも
のといっても、ある特定の波長の中にある、光の映像でしかない。

 そこにものがあるのか、ないのかということになれば、本当にあるのだろうか。今の今も、パ
ソコンの画面をこうして眺めながら文字を書いているが、パソコンと私の間には、酸素分子や
窒素分子がぎっしりと詰まっているはず。しかしそういうものは、見えない。分子の密度というこ
とを考えるなら、パソコンを構成している金属やプラスチックの分子と、ほとんどちがわない。

 見えているもの、聞えているものだけをもとに、自分を組み立てていくと、とんでもない袋小路
に入ってしまう。つまり私たちが言うところの意識には、そういう危険な側面が隠されている。そ
ういう危険な側面を知らないまま、いくら魂の自由を説いても、意味はない。

 むずかしい話はさておき、自由に生きるということは、それ自体、不安と孤独との戦いである
と断言してもよい。頼れるものは、私だけという世界である。サルトルが説いた「実存」という世
界は、そういう世界をいう。だからみな、こう言う。「(実存の世界では)、一寸先は闇である」と。

 わかりやすく言えば、明日さえ、どうなるかわからない。さらに「私は自由だ」といくら叫んだと
ころで、やがて「死」という限界の中で、人は、その自由を、すべて奪われる。つまり究極的な
自由というのは、存在しないということになる。そこでサルトルの場合は、『存在と無』(1943)
という言葉を使って、実存がもつ限界を打ち破る。

 昨日の講演では、それについて話した。もっとも、主題は、「子育て講演」だったから、私の子
育て論の中に、それを織り交ぜただけだが、ともかくも、それについて話した。が、本当のとこ
ろ、自分でも、よくわかっていない。わかっていないことを話したわけだから、無責任といえば、
無責任。

 そんなわけで、これからはしばらくもう一度、「自由」について、集中的に考えてみたい。今朝
が、その第一歩ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●子育てのすばらしさ

+++++++++++++++++

子育ては、ただの子育てではない。
子どもは、ただの子どもではない。

親は、子育てを通して、その子どもから
貴重なものを学ぶ。

+++++++++++++++++

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(3歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ
とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ
かに父の面影があるのを知って驚くことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。

しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのような
ものがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。つまり子育てをしていると、自
分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。

そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあ
ざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。
しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さ
を見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」
を教えられる。

いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私
のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲
を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてく
れる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわか
る。

子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして
生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわ
たって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう
意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた
自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ
らい、子育てですばらしいことはない。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●自由が育てる常識 

+++++++++++++++

私たちが求める常識といったものは、
外の世界にあるのではない。

私たちの中にある。中にあって、
私たちに見つけてもらうのを、
静かにまっている。

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 魚は陸の上にあがらない。鳥は水の中にもぐらない。そんなことをすれば、死んでしまうこと
を、魚も鳥も知っているからだ。そういうのを常識という。

 人間も同じ。数10万年という気が遠くなるほどの年月をかけて、人間はその常識を身につけ
た。その常識を知ることは、そんなに難しいことではない。自分の心に静かに耳を傾けてみれ
ばよい。それでわかる。たとえば人に対する思いやりや、やさしさは、ここちよい響きとなって心
にかえってくる。しかし人を裏切ったり、ウソをついたりすることは、不快な響きとなって心にか
えってくる。

 子どもの教育では、まずその常識を大切にする。知識や経験で、確かに子どもは利口には
なるが、しかしそういう子どもを賢い子どもとは、決して言わない。賢い子どもというのは、常識
をよくわきまえている子どもということになる。映画『フォレスト・ガンプ』の中で、ガンプの母親
はこう言っている。「バカなことをする人を、バカと言うのよ。(頭じゃないのよ)」と。その賢い子
どもにするには、子どもを「自由」にする。

 自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。無責任な放任を自由というのでは
ない。つまり子ども自らが、自分の人生を選択し、その人生に責任をもち、自分の力で生きて
いくということ。

しかし自らに由りながら生きるということは、たいへん孤独なことでもある。頼れるのは自分だ
けという、きびしい世界でもある。言いかえるなら、自由に生きるということは、その孤独やきび
しさに耐えること、ということになる。子どもについて言うなら、その孤独やきびしさに耐えること
ができる子どもにするということ。

もっとわかりやすく言えば、生活の中で、子ども自身が一人で静かに自分を見つめることがで
きるような、そんな時間を大切にする。

 が、今の日本では、その時間がない。学校や幼稚園はまさに、「人間だらけ」。英語の表現を
借りるなら、「イワシの缶詰」。自宅へ帰っても、寝るまでガンガンとテレビがかかっている。あ
るいはテレビゲームの騒音が断えない。友だちの数にしても、それこそ掃いて捨てるほどい
る。自分の時間をもちたくても、もつことすらできない。だから自分を静かに見つめるなどという
ことは、夢のまた夢。

親たちも、利口な子どもイコール、賢い子どもと誤解し、子どもに勉強を強いる。こういう環境
の中で、子どもはますます常識はずれの子どもになっていく。人間としてしてよいことと、悪いこ
との区別すらできなくなってしまう。あるいは悪いことをしながらも、悪いことをしているという意
識そのものが薄い。だからどんどん深みにはまってしまう。

 子どもが一人で静かに考えて、自分で結論を出したら、たとえそれが親の意思に反するもの
であっても、子どもの人生は子どもに任せる。たとえ相手が幼児であっても、これは同じ。そう
いう姿勢が、子どもの心を守る。そしてそれが子どもを自由人に育て、その中から、心豊かな
常識をもった人間が生まれてくる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●過去を再現する親たち

++++++++++++++++

私たちは無意識のうちにも、過去を
引きずりながら生きている。

つまり私であって私でない部分に、
いつも引きずられながら生きている。

++++++++++++++++

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは
そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は、言いようのない不安感に
襲われる。

受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「勉強」そのものではない。受験にまつわる、
「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受
験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも
かくも、問題は魂の自由である。

実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。…どこかの試験
会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほと
んどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが
刻々とすぎる…。

 親が不安になるのは、親の勝手だが、親はその不安を子どもにぶつけてしまう。そういう親
に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても、ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのも
のが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。が、それだけではな
い。

こうした不安が、親子関係そのものを破壊してしまう。「青少年白書」でも、「父親を尊敬してい
ない」と答えた中高校生は、55%もいる。「父親のようになりたくない」と答えた中高校生は、8
0%弱もいる(平成十年)。この時期、「勉強せよ」と子どもを追いたてればたてるほど、子ども
の心は親から離れる。

 私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会
場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩く
ようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あ
せってみたとて、同じこと」と、夢の中でも歌えるようになった。…とたん、少し大げさな言い方だ
が、私の魂は解放された!

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかないまま、
その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。そこで…。まず自分の過去に気づく。それ
で問題は解決する。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみ
てほしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

【今を生きる】

++++++++++++++++++

今を生きる。
口で言うのは簡単なこと。
しかしその「今」を生きることは、
たいへんなこと。きびしい。

++++++++++++++++++

●いつか死ぬ。だから生きる。

 病気があるから、健康のありがたさが、わかる。同じように、死があるから、生きることのあり
がたさが、わかる。

 もし病気がなかったら、健康のありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 もし死がなかったら、生きることのありがたさを、人は、知ることはないだろう。

 しかし病気も、そして死も、できれば、避けたい。病気はまだしも、死は、その人の(すべての
終わり)を意味する。つまり人は、死によって、すべてをなくす。「私」という自分のみならず、こ
の宇宙もろとも、すべてをなくす。

●生きることの不安

 ……そう考えることは、たいへん不安なことである。つまり死ぬことを考えると、不安でならな
い。しかしその不安が、「今」を生きる、原動力となる。「かぎりある人生だからこそ、今を懸命
に生きよう」と。

 こうした死生観、それにつづく「不安」を説いたのが、あのドイツのマルティン・ハイデッガー(1
889〜1976)である。ハイデッガーは、フライブルク大学の総長をしていたとき、ナチス支持
の演説をしたことで、戦後、批判の矢面(やおもて)に立たされた。そういう側面は別として、彼
が残した業績は大きい。実存主義の骨格を作ったと言っても過言ではない。

 ハイデッガーの説いた、「存在論」、「実存論」は、その後、多くの哲学者たちに、大きな影響
を与えた。

●不安との戦い

 で、話を少し、もどす。その不安を感じたとき、どうすれば、人は、その不安を解消できるか。
つまり生きることには、いつも、何らかの不安がともなう。それはたとえて言うなら、薄い氷の上
を、恐る恐る、歩くようなもの。その薄い氷の下では、いつも「死」が、「おいでおいで」と、手招
きしている。そういう不安を、どうすれば解消することができるか。

 そういう点では、実存主義は、たいへんきびしい生き方を、人に求めるていることになる。今
を生きるということは、「私は私であって、私にかわるものは、だれもいない」という生き方のこ
とをいう。

 たとえば地面を歩くアリを見てみよう。

●私しかできない生き様

 あなたがある日、その中のアリを一匹、足で踏みつけて殺してしまったとする。しかしそれで
アリの世界が変わるということはない。アリの巣はそのまま。いつしかそのアリの死骸は、別の
アリによって片づけられる。そのあと、また何ごともなかったかのように、別のアリがそこを歩き
始める。

 そういうアリのような生き方をする人を、ハイデッガーは、「ただの人」という意味で、「das M
ann」と呼んだ。わかりやすく言えば、生きる価値のない、堕落した人という意味である。

 今を生きるということは、だれにも、自分にとってかわることができないような生き方をするこ
とをいう。社会の歯車であってはいけない。平凡で、単調な人生であってはいけない。私は、ど
こまでも私であり、私しかできない生き方をするのが、「私」ということになる。

●宗教

 少しわかりにくくなってきたので、話をわかりやすくするために、こうした生き様の反対側にあ
る、宗教を考えてみる。

 ほとんどの宗教では、「あの世」「来世」を教えることによって、この世を生きる私たちの不安
を、解消しようとする。「あの世がちゃんとあるから、心配するな」と。

 つまりほとんどの宗教では、死後の世界を用意することで、「死」そのものを、無意味化しよう
とする。実際、あの世があると思うことは、死を前にした人たちにとっては、それだけでも、大き
な救いとなる。あの世に望みを託して、この世を去ることができる。

 しかし実存主義の世界では、あの世は、ない。あるのは、どこまでも研ぎ澄まされた、「今」し
かない。が、そうした「今」に、耐えられる人は、少ない。私が知る人に、中村光男がいる。

●中村光男

 一度だけ、鎌倉の扇が谷の坂道で、すれちがったことがある。中村光男の自宅は、その坂
道をのぼり、左側の路地を入ったところにあった。恩師の田丸先生が、小声で、「あれが中村
光男だよ」と教えてくれた。私は、それを見て、軽く会釈した。

 その中村光男は、戦後の日本を代表する哲学者であった。ビキニ環礁での水爆実験の犠牲
となった、第5福竜丸事件以来、反核運動の旗手として活躍した人としても、よく知られている。

 その中村光男ですら、死ぬ1週間前に、熱心なクリスチャンであった奥さんの手ほどきで、洗
礼を受け、クリスチャンになったという。何かの月刊誌にそう書いてあった。

 私はそれを知ったとき、「あの中村光男ともあろう人物が!」と驚いた。つまり「死」は、それ
ほどまでに重大で、深淵である。だから今の私には、実存主義的な生き方が、はたして正しい
のかどうか、わからない。またそれを貫く自信は、ない。

●あの世はないという前提で生きる

 だがこれだけは言える。

 私は、今のところ、「あの世」や「来世」は、ないという前提で生きている。見たことも、聞いた
こともない世界を信じろと言われても、私にはできない。だから死ぬまで、懸命に生きる。私で
しかできない生き方をする。

 あの世というのは、たとえて言うなら、宝くじのようなもの。当たればもうけものだが、しかし最
初から、当たることを前提にして、予算を立てるバカはいない。

 その結果、いつか、死ぬ。私とて、例外ではない。で、そのとき、あの世があれば、もうけも
の。なくても、私という(主体)がないのだから、文句を言うこともない。

●そこで私は……

 そのハイデッガーは、1976年に死去している。私がこの浜松で、結婚し、ちょうど二男をもう
けたころである。彼の死が、全国ニュースで報道された日のことを、私は、つい先日の日のよう
に、よく覚えている。その少し前の1970年に、あのバートランド・ラッセルが死んでいる。実存
主義の神様と言われる、(実存主義の神様というのも、矛盾した話だが……)、ジャンポール・
サルトルは、1980年に死んでいる。

 みんな、どんな気持ちで死んだのだろうと、今、ふと、そんなことを考えている。

 そうそう中村光男だが、田丸先生の家の前の家に住んでいた。で、彼が死ぬ1週間前に、ク
リスチャンになった話を田丸先生にすると、田丸先生は、どこか感慨深げに、ポツリとこう言っ
た。「あの中村さんがねえ……」と、

 田丸先生も、それを知らなかったらしい。

 このエッセーをしめくくるために、最後に一言。

●ドラマにこそ、価値がある

 こうしてみなが、それぞれ一生懸命に生きている。その生きることから生まれるドラマにこそ、
私は、価値があると思っている。実存主義であろうと、なかろうと、そんなことは構わない。だれ
が正しいとか、正しくないとか、そんなことも、構わない。

私は、そのドラマにこそ、人間の生きることのすばらしさを感ずる。
(06年6月15日の夜に……)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ハイ
デッガー サルトル ジャンポール・サルトル バートランド・ラッセル 実存主義 はやし浩司 
存在論 実存論)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1647)

●今朝・あれこれ(11月19日)

+++++++++++++++++

今朝は、午前5時に、起床。
昨夜は、午後9時ごろ床についたから、
8時間ほど、睡眠時間をとったことに
なる。

が、寒い。いつもなら朝食時まで、
パジャマのままだが、今朝は、寒い。

起きてすぐ、衣服に着がえた。

+++++++++++++++++

●衰退する浜松市

 昨日、静岡県東部で活躍している県会議員のO氏と話をする機会があった。30分ほど、い
ろいろと話をさせてもらった。

 そのO氏も、こう言っていた。「県西部、とくに浜松市の地位が、相対的に、さがっている」と。
たとえば地価にしても、全体としてみると、浜松市と静岡市が、平均して、坪約7万円。一方、
東部は、坪約9万円ということになっている、と。

 「この浜松市が、あの静岡市と同じ?」とは、まさに驚きでしかない。

 浜松市は工業都市として栄えた町である。一方、静岡市は県庁所在地でありながら、工業と
しては、見るべきものがない。あえて言えば、下駄の産地。周辺は、お茶の産地。

 しかし、たしかに浜松市は、衰退している。

 今度、この浜松市は、周辺の市町村と合併して、政令指定都市にはなる。が、政令指定都市
というのは、まさに両刃の剣。「自前で、税金を使ってもいいですよ」ということになるのだそうだ
が、同時に、それをウラから読むと、「自前でできなくなったとしても、だれも助けてくれません
よ」ということになる。

 実は、私も、ごく最近まで知らなかった。しかも東京からのニュースで、はじめて知った。今、
この浜松市には、大工場と呼ばれる大工場が、ひとつも、ない。自動車産業、オートバイ産
業、楽器産業の町ということになっているが、そのほとんどの工場が、この浜松市から、姿を消
してしまった。さらに「浜松は工員の町」と、よく言われているが、その工員そのものがいない。
……というより、工員の存在感そのものがなくなってしまった。

 かわりに浜松市が選択したのが、「音楽の町」であり、「花木(かぼく)の町」。

 しかし音楽にせよ、花木にせよ、そんなもので、外貨は稼げない。駅前には、数千億円もか
けて、大中、2つのホールができた。が、そんなところへ1回、1〜2万円の入場料を払って、だ
れが足を運ぶというのか。少なくとも、「工員」と呼ばれる人たちは、行かない。……行けない。
(私も、1万円以上の入場料を払って行ったことは、一度もないぞ!)

 新しく、文化芸術大学もできた。フラワーパーク、フルーツパーク、ガーデンパークもできた。
しかし浜松市が作るべきは、工業大学であり、工業展示館ではないのか。敷地があれば、大
工場ではないのか。

 が、そういう事実を、私も含めて、浜松市民が知らなかったというのは、まさに悲劇でしかな
い。

 考えてみれば、浜松市には、新聞社そのものがない。C新聞は、名古屋市に本社を構える。
S新聞は、静岡市に本社を構える。こまごまとした地域のニュース、はっきり言えば、どうでもよ
いようなニュースは、それなりに毎日、紙面を飾っている。が、浜松市全体の利益を考えたニュ
ースについては、どういうわけか、耳に入ってこない。

 その結果が、今である。

 県会議員のO氏も、そう言っていた。わかりやすく言えば、浜松市のもっている工業力を、バ
ラバラにして分散させる。県全体としては、それでもよいのかもしれないが、ことこの浜松市の
ためということになると、それではまずい。

 私が、「政令指定都市になることで、浜松市にはメリットがあるのでしょうか」と聞くと、O氏
は、笑いながら、こう言った。「ないでしょうね。これからは浜松市の財政は、もっときびしくなる
はずです」と。

 わかりやすく言えば、税金はあがり、この浜松市は、ますます住みにくい町になるということ。

 そう言えば昨日も、浜松駅前だけは、若い人たちで、ごったがえしていた。しかし若い人たち
だけ。年齢は10代の後半から20代の終わりごろか。一見、華やかで、にぎわっているかのよ
うに見えたが、しかしそういう人たちに、どれほどの生産力があるというのか。言うなれば、そう
いう人たちというのは、花瓶にさされた生け花のようなもの。いっときを飾ることはできても、そ
の命は短い。底は浅い。

 これでいいのか、浜松市!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●不倫

++++++++++++++++

世は、まさに不倫、全盛期。
あの人も、この人も、みな、
不倫に不倫を重ねている。

++++++++++++++++

 私は私のワイフに聞いたことがない。「お前は浮気をしたことがあるか?」と。

 どうせ聞いても、本当のことは言わないだろう。つまりこれほど、無意味な質問もない。同じよ
うに、ワイフも私に聞かない。私がどう答えたところで、ワイフは、私を信じない。

 で、世は、まさに不倫、不倫の全盛期。あの人も、この人も、みな、不倫に不倫を重ねてい
る。男女統計調査(2006)によれば、つぎのようだそうだ(22〜55歳までの既婚者対象)。

現在もしている……男   7%
              女   8%

したことがある……男  44%
              女  32%

 で、その結果、つまりその不倫がバレて、夫婦の間にキレツが入った人となると、ゴマンとい
る。さらにその結果、そのまま離婚した人となると、これまたゴマンといる。が、中には、何とか
もちこたえて、かろうじて夫婦という形を守っている人もいる。

 しかしそれも夫婦。あれも夫婦。夫婦というのは、不倫にかぎらず、そういう形で山を越え、谷
を越え、つまりは、いろいろなドラマを残しながら、成長していく。

 で、仮にバレなくても、それを心の重荷として、よき夫、よき妻でいようと努力している人も多
い。そういう意味では、心に重荷を背負った夫や妻のほうが、よい夫やよい妻になることができ
るのかもしれない。いわゆる(罪の意識)というのである。もう少しむずかしい言葉を使うなら、
(しょく罪感)ということになる。

 しょく罪……犠牲や代償によって、罪をあがなうこと(日本語大辞典)。

 そういった(しょく罪感)をみごとなまでに表現したのが、あの『マジソン郡の橋』ということにな
る。が、それについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。

 まあ、私の印象では、こういうことになる。

 不倫も結構だが、どうせするなら、命がけの不倫をしたらよい、と。もしその覚悟がなけれ
ば、やめること、と。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本とアメリカ

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私は親米派?

そんなことは、当然のことではないか!

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APEC出席のため、ベトナムを訪れている安倍総理は、アメリカのブッシュ大統領と会談し、そ
の親密ぶりを、ことさら大げさにしてみせた(06年11月)。私は、そういう日本の総理大臣の
姿を見て、ほっとした。

 いくら移民国家とはいっても、アメリカは白人の国。そういう国で、現在、私の二男がアメリカ
人の女性と結婚して、アーカンソー州というところで暮らしている。テキサス州の北側に位置す
る州である。今でも州庁舎には、かつての南軍の旗がひらめいている。アメリカの中でも保守
的な地域である。そのあたりでは、みな、あのジョン・ウェインそっくりの話し方をする。

 二男がアメリカ人の女性と結婚すると聞いたとき、私とワイフが最初に心配したことは、人種
差別である。アメリカでは、私たち黄色人種は、黒人よりも、「下」に見られている。少なくとも、
黒人は、そう見ている。

 先日も二男に電話で、「差別されることはないか?」と聞いてみたが、二男は、明るい声で
(?)、「あるよ」「そんな問題は、どこにでもある」と言って笑っていた。二男は、それでよいかも
しれないが、今度生まれた孫たちは、どうなる? ……どうなのか? それを考えると、心配し
ないほうが、おかしい。

 そこで、これはあくまでも個人的な願いだが、日本とアメリカの仲がよいことを、私は、心から
望んでいる。アメリカ人というのは、意外と単純(失礼!)。自分たちと仲がよい国の人間を、大
切にする。そうでない国の人間には、冷たい。そのあたりの白黒が、はっきりとしている。

たとえば同じ黄色人種でも、このところ韓国人に対する風当たりが、急に冷たくなったと聞いて
いる。日本人は、ビザなしで訪米できるが、韓国人はできない。永住権、市民権を取るのも、
むずかしくなったという(朝鮮N報)。

 とくに孫たちのことを思うと、親米派にならざるをえない。いや、よく誤解されるが、アメリカに
はアメリカ人というのはいない。もともと移民国家。日系人も多い。それは、たとえて言うなら、
東京には、東京人というのは、いない。それと同じ。

 つまり日本とアメリカが仲よくなればなるほど、二男や孫にとっても、アメリカは、住みやすい
国になる。だから私は、ほっとした。

 私は、親米派? ……そんなことは、当然のことではないか!


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●1000号まで、がんばろう!

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もう何も考えたくない。
とにかく、1000号まで、つづけよう。
こうしてものを考え、ものを書けるというだけでも、
幸せ。感謝しなければならない。

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 現在の目標は、電子マガジンを1000号までつづけること。そのあとのことは、考えていな
い。とにかく、1000号! 1000号まで!

 少し前までは、読者がふえなかったりすると、それと闘うだけでも、たいへんだった。「闘う」と
いうのは、「もう書くのをやめよう」と思う心と闘うことをいう。

 最近も、この2、3週間、読者がまったくふえないでいる。そういう状態だから、ふと油断する
と、またまたあの気持ちが、わき起こってくる。しかし今は、前とはちがう。もう何も考えない。考
えたくない。

 わかりやすく言えば、成績など気にしないで、マイペースで進むということ。こうしてものを考
え、ものを書けるということだけでも、幸せ。感謝しなければならない。健康で、脳みそがボケて
いないというだけでも、感謝しなければならない。(あるいは、もうボケ始めているのかもしれな
いが……。)

 それを「無」の境地というのかどうかは知らないが、多分、それに近い心境だと思う。読んでく
れる人がいれば、それでよし。いなくても、それも、それでよし。しかし先ほどワイフには、私
は、こう言った。

 「お前だけは読んでくれよな」と。まあ、それ以上、何を望むことができるのか。それに答え
て、ワイフは、こう言った。「全部、読んでるよ」と。それでじゅうぶん!

 ここまで読んでくれた、読者のみなさん、ありがとう!


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ほどほどの人生

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お笑いタレントの加藤C氏の具合が、
悪いらしい。

インターネットの報道によれば、もう
2週間も、集中治療室に入っているという。

何か、心臓の病気ということらしい。

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 お笑いタレントの加藤C氏の具合が悪いらしい。もう2週間も集中治療室に入っているとい
う。インターネットの報道によれば、どこか心臓が悪いという。

 原因は、「ストレスと過労」。I社のコメントには、そうある※。

 で、ふとこう思う。加藤C氏ほどの有名人ともなれば、遊んでいても、向こうからお金がゴロゴ
ロと音をたてて入ってくる。マスコミの世界では、昔の番組が何かの折に紹介されただけで、
「再放送出演料」として、出演者のところへ、当初の出演料程度のお金が送金されてくるしくみ
になっている。

 加藤C氏が講演活動をしているかどうかは知らないが、加藤C氏ほどの有名人ともなれば、
講演料にしても、1回につき100〜150万円が相場。あるいはもっと多いかもしれない。

 そういう人が、「ストレスと過労」というのも、どうも納得できない。いや、忙しいのはわかるが、
「もう、そこまで働く必要はないのではないか」という意味で、納得できない。年齢も、63歳とい
うから、若いというより、私と4歳しかちがわない。若いときは、大声で笑わせてもらったタレント
だから、私にとっては、とても他人ごとのように思えない。

 「私なら、月に2、3日働いて、あとは遊んで暮らすのに……」と、どうしても思ってしまう。

 どうかどうか、加藤C氏、いつまでも元気で。無理をしないで、うんと長生きをしてほしい。とき
どきでよいから、私が80歳になっても、90歳になっても、テレビに出て、私たちを笑わせてほ
しい。

注※……インフォシーク。NEWSより……都内の病院に「検査入院」したと報じられた加藤C
(63)が、実際は慶応病院に救急車で運ばれ、いまだに「集中治療室」に入院中だということ
が明らかになった。

 加藤Cが入院したのは10月30日。かかりつけの病院から、そのまま転送されたという。

 所属芸能事務所がこう言う。「加藤は1〜2年前、心臓の疾患で血管にステントという器具を
入れる手術をしています。主治医の病院でMRI検査をしたところ、再手術をした方がいい、と
いうことで慶応病院に転院し、手術は成功しています。追加の手術の必要や、退院のメドはつ
きませんが、本人は元気です。集中治療室かって? 一般病棟ではありません」と。


++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●反米、反日

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韓国の人たちは、平気で、反米、反日
という言葉を使う。

それはそれでしかたのないことかもしれ
ない。が、もし、アメリカ人や日本人が、
「反韓」という言葉を使ったら、彼らは、
それに対して、どう反応するだろうか。

きっと韓国の人たちのことだから、ギャー
ギャーと大騒ぎするにちがいない。

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 韓国の人たちは、平気で、反米、反日という言葉を使う。政党間の論争にも、そういう言葉が
よく飛び出す。

 それはそれでしかたのないことかもしれない。が、もしアメリカ人や日本人が、「反韓」という
言葉を使ったら、彼らはそれに対して、どう反応するだろうか。きっと韓国の人たちのことだか
ら、ギャーギャーと大騒ぎするにちがいない。

 で、韓国の人たちで、どうしても理解できないところがある。これは私が交換学生として韓国
にいたときにも感じたことだが、精神構造そのものが、二重になっている。討論会の場などで
は、反日一色で、日本を責める。攻める。しかしそのくせ、日本を本当に嫌っているかという
と、そうでもない。個人的につきあうと、「日本が好きだ」と言ったりする。

 それはそれとして、つまり日本が嫌いなら嫌いでもよい。かまわない。反米、反日を旗印にか
かげるのも、よい。が、もし、日本人が、「反韓」という言葉を口にしたら……。私のワイフは、こ
う言った。

ワ「そのあたりに、韓国の人たちの甘えがあるのね」
私「まあ、そうだね。言いたいことは言うくせに、自分たちが反対のことを言われると、怒る。そ
ういう場面は、多い」
ワ「どうしてかしら?」
私「それが依存性の問題ということになる。韓国の人たちは、基本的には、『自分たちは日本
の犠牲になった』と考えている」
ワ「すべてが、そこから始まるわけ?」
私「そういうこと」と。

 こういうことは、教育の世界でも、よく起こる。「あの先生はダメだ」と、親たちは、よく言う。し
かしもし先生が、「あの親はダメだ」と言ったら、それだけで、大問題になる。そう言えば、今、
幼稚園児の間で、おかしな遊びがはやっている。いわゆる「金つかみ」という遊びである。

 これは子どもが、男児や男の先生のアソコを手でつかむという遊びである。私も、よくやられ
る。教材を配っているようなとき、ふいに、ぐいとアソコをつかまれる。男児でも、女児でもや
る。

 私はそのつど、しっかりと叱るのだが、ほとんど効果がない。つまりそれも(甘え)ということに
なる。もし幼稚園の先生が、園児のアソコをつかんだらどうなるか? 改めて、それをここに書
くまでもない。

 いろいろ摩擦が起きている日韓関係だが、その(甘え)を理解しないかぎり、韓国を理解する
ことはできない。同時に、韓国もまた、その(甘え)から脱け出さないかぎり、おとなになることは
できない。

 ……ということで、もうそろそろ「反米」「反日」という言葉を口にするのは、やめるべき時期に
来ているのではないのか。戦後、60年以上もたったことだし……。ねッ!


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1648)

●12月22日号

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この原稿が、電子マガジンで配信されるのは、
12月22日、金曜日。

そのころは町の中も、クリスマス一色で、
にぎわっていることだろう。

MERRY CHRISTMAS!

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 今年は、どんなことでも、先手、先手で、処理してきた。人と会う約束にしても、できるだけ早
く、それをしてきた。休みの過ごし方も、「思い立ったら、すぐ」を、モットーにしてきた。

 いやなことについても、決してあと回しにせず、先手、先手で、処理してきた。逃げたり、隠れ
たりはしなかった。講演会のみならず、頼まれた仕事は、時間の許すかぎり、すべて引き受け
てきた。

 その一方で、家族とのつながりを大切にしてきた。夕食後の数時間は、できるだけワイフと時
間を過ごすようにしてきた。同居している長男は別として、二男、三男とは、毎週、連絡を取り
あってきた。

 そうそう今年(06年)から、講演先には、ワイフも同行させるようにしてきた。ワイフも、それを
望んでいた。またワイフが外出するときは、できるだけ私も同行するようにしてきた。たがいに
こうして刺激しあうことによって、ボケが防止できるのではないかと考えきた。肉体の健康にも
よい。

 心の緊張感を維持するため、電子マガジンについては、いつも1か月先の原稿を書くようにし
てきた。予定より1週間でも遅れたりすると、徹夜で原稿をしあげてきた。あるいは早朝に起き
て、それをしてきた。

 今年に入ってから、運動量をふやした。昨年までは、週5単位を目標にしていたが、今年(0
6年)からは、10単位にふやした。1単位というのは、40分間、かなり高速で自転車をこぐこと
をいう。自転車というのは、タラタラと乗っていたのでは、意味がない。

 加えて休みの日には、買い物でも、できるだけ歩いていくようにしてきた。旅先でも、できるだ
け歩くようにしてきた。

 おかげで、今年も、一応(?)、健康で過ごすことができた。大きな病気もしなかった。夫婦げ
んかも、2、3か月に一度くらいに減った。息子たちも、健康で過ごしているらしい。

 いろいろとやり残したことはあるが、ものごとには、限界というものがある。いくらがんばって
も、できないことは、できない。ほどほどのところであきらめて、自分を納得させる。これも処世
術のひとつではないか。そんなことを、このところ、強く思うようになった。

 ただ時間を無駄にすることについては、最近とくに敏感になってきたように思う。つまらないテ
レビを見たりしたときは、「しまった!」と思う。人についても、そうだ。何も得るものがない人と
会ったりすると、やはり、「しまった!」と思う。『時は金なり』というが、私にとっては、『時』その
ものが、『金』ということになる。

 ひょっとしたら明日、私は脳梗塞か何かで倒れるかもしれない。もしそうなれば、万事休す。
そういう危機感を、このところ強く感ずるようになった。いくらがんばっても、肉体だけは、年齢
相応に老化していく。

 しかしやはり私の生きがいは、こうして原稿を書くこと。99%は、意味のない駄文だが、それ
でもときどき、書きながら、新しい発見をすることがある。それが楽しい。それに読者がひとりで
も増えたりすると、うれしい。

 そんなわけで、コマーシャル!

 どうか、身近で、マガジンに興味をもってくださいそうな人がいらっしゃったら、どうか、このマ
ガジンのことを話してみてください。よろしくお願いします。


●クリスマス

 我が家では、クリスマスといっても、家族だけで、ささやかに祝うだけ。とくにこの10年は、私
とワイフだけで、祝うことが多くなった。

 簡単なケーキを作って、プレゼントを交換する。それだけ。プレゼントといっても、この数年
は、日用品が多くなった。去年、私がもらったものは、たしか、下着のシャツではなかったか。
「こんなものか?」と私が聞くと、ワイフは、「ついでだから」と言って笑っていた。

 で、毎年、同じ会話をする。「お前は何が、ほしい」「私は、何もいらない」と。

 私は、私のワイフほど、無欲な女性を、知らない。結婚して、35年になるが、今まで、「あれ
がほしい」「これがほしい」と、私にねだったことがない。よく、それなりの値段の服を買ってあげ
たりしているが、着るのはいつも、中国製の安物ばかり。「どうして買ってあげたのを着ないの
か?」と聞くと、「そのうち、着るわ」と。答はいつも決まっている。

 どうしてああまで、無欲になれるのだろう? 多分、子どものときから、7人兄弟にもまれて、
質素に育てられたせいではないか。4歳のときに、母親を病気でなくしている。

 一方、私は、子どものころから、ガツガツとしている。ほしいものを並べたら、キリがない。今
は、最新型のパソコン。1月にビスタ(OS)搭載のパソコンが出るが、出たら、まっ先に買うつ
もり。今は、じっとがまんのとき。

 しかしそれでも、私は悩む。今年は、みんなに、何をプレゼントしようか、と。

 そう言えば、もうそろそろ孫たちにプレゼントを買って送らねばならない。今からでも間にあう
かな? 今日は11月20日。クリスマスカードは、2週間前に送ったが……。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●生徒が去る

++++++++++++++++++

私は小さな塾を経営している。
塾といっても、最大で、12人しか
入れない。

そんな塾でも、つねに新しい出会いと
別れが、交錯する。しかし
私にとっての、(別れ)とは、
たぶん、読者のみなさんが想像している
(別れ)とは、意味がちがう。

++++++++++++++++++

 生徒が、私の教室(BW)をやめて去るときは、さみしい。それは当然のことだが、こういう仕
事を36年もしていると、そのつぎの瞬間にはそれを忘れて、自分のペースを取りもどすことが
できるようになる。

 そういう意味では、(心の移譲)がうまくなる。X君が教室をやめたら、X君への思いを、今度
は、Y君に移す。そうしてX君のことは忘れる。思い出も消す。もしそれをしなかったら、私自身
の心がバラバラになってしまう。それはそれとして、私にとって、(別れ)とは、もっと別のことを
いう。そこにその生徒がいても、(別れ)を感ずることがある。「この子は、遠くに行ってしまった
なア」と。

 そういうときこそ、私は、さみしさを覚える。

 Aさんも、B君も、それにCさんも、みな、心がやさしく、暖かい子どもだった。しかしそんな子
どもでも、受験期にさしかかり、受験塾(進学塾)に通いはじめると、とたんに人が変わる。わず
か数か月で、別人のようになることもある。夏期講習を受けてきただけで、別人のようになるこ
ともある。

 それまでの穏やかさが消え、ぞっとするほど、心が冷たくなることもある。合理的で、ドライに
なる。目つきそのものが、変わる。親たちはそういう自分の子どもを見ながら、「やっと気構え
ができました」と喜んで見せる。が、そのツケを、いつか払うのは、親自身であり、子ども自身と
いうことになる。

 こうした子どもの心理の変化に、どれほどの数の人が気がついているのか。またそれを問題
にする人も、少ない。この日本では、エリートと呼ばれている人は、多かれ少なかれ、その受験
戦争をくぐり抜けてきた人たちである。つまりそれが日本人の(特性)として、定着してしまって
いる。自分で自分が、わからなくなってしまっている。

 もっとも、この日本では、受験競争に背を向けたら、社会そのものから、はじき飛ばされてし
まう。子どもの世界でいえば、その時点で、落ちこぼれになってしまう。しかしそれが現実であ
るとしても、だれも、このままでよいとは思っていない。

 しかしね、世の親のみなさん! みなさんは、子どもを伸ばす(?)ことだけしか考えていませ
んか? しかしね、伸ばすことよりも、もっと重要なのは、(今、子どもがもっている大切なもの)
を、守り育てることなのですよ。

 それに伸ばすことは大切なことかもしれませんが、その一方で、受験競争の中で、もがき、苦
しみ、キズつき、かえって自信をなくしていく子どものことを忘れてはいけませんよ。子どもの受
験というのは、受かることを考えてするのではなく、失敗したときのことを考えて、用意するもの
ですよ。

Aさんも、B君も、それにCさんも、今でも、私の教室に来てくれています。しかし、もう以前の子
どもたちではありません。もうどうしようもないほど、遠くに行ってしまいました。

 それが私にとっては、(別れ)ということになります。本当の意味での、(別れ)ということになり
ます。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【子育てで親が行きづまったとき】

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「もうダメだ」と思うときは、
どんな親にもある。

子育てというのは、そういうもの。

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●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。

どの夫婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。そう、『子はかす
がい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守ろうとしている夫
婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないのか。

もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、10年も20年も、新婚当時の気持ちのままでいるこ
とのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたことな
いから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(40歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やった
わ!」と。

話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。ふつうなら夫の単身赴任を悲しむ
はずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(33歳)は、夫婦でも別々の寝室で
寝ているという。性生活も数か月に1度あるかないかという程度らしい。しかし「ともに、人生を
楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人そ
れぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必
要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは
気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。

この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる。不幸にして不幸な家庭に育った
人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築こう」というあせりが、結局は親
子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受け入れてしまうということ。「愛を感じないから結
婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおげさ
に考える必要はない。つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほど
ほどのところで、あきらめる。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、
夫婦や家族、親子関係を正常にする。

ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがままに……)」と。そ
れはまさに、「智恵の言葉」だ。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【教師が10%のニヒリズムをもつとき】

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どんなに全力投球をしても、
さいごの10%だけは、自分のために
とっておく。

それが教育。決して、100%の
全力投球をしてはいけない。

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●10%のニヒリズム

 教師の世界には10%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭しても、最
後の10%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズタズタにされて
しまう。

たとえばテレビドラマに『三年B組、金八先生』というのがある。武田鉄也氏が演ずる金八先生
は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。またそういう先生を期待しては
いけない。それはちょうど刑事ドラマの中で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうよう
なものだ。ドラマとしてはおもしろいが、現実にはありえない。

●その底流ではドロドロの欲望

 教育といいながら、その底ではまさに、人間と人間が激しくぶつかりあっている。こんなことが
あった。私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、私にあいさつを
したのに気づかなかった。30歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完全になくしている。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うちの娘
の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。私がその子どものあいさつを無視したというのだ。そこ
でどうすればよいのかと聞くと、「明日、娘をお前の前に連れていくから、娘の前で頭をさげて
あやまれ」と。こんなこともあった。

●「お前を詐欺で訴えてやる!」

 たまたま5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)の授業が、1時間分ぬけたことがあ
る。それについて「補講せよ」と。私が「できません」と言うと、「では、お前を詐欺で訴えてやる。
ワシは、こう見えても、顔が広い。お前の仕事なんかつぶすのは、朝飯前だ!」と。浜松市内で
歯科医をしている父親からの電話だった。信じられないような話だが、さらにこんなこともあっ
た。

 私はある時期、童話の本を読んでそれをカセットテープに録音し、幼稚園児たちに渡してい
たことがある。結構、骨の折れる作業だった。カラオケセットをうまく使って、擬音や効果音を自
分の声の中に混ぜた。音楽も入れた。もちろん無料である。そのときのこと。

たまたまその子ども(年長男児)が病気で休んでいたので、私はそのテープを封筒に入れ郵送
した。で、その数日後、その子どもの父親から電話がかかってきた。私はてっきり礼の電話だ
ろうと思って受話器を取ると、その父親はいきなりこう言った。「あなたに渡したテープには、ケ
ースがついていたはずだ。それもちゃんと返してほしい」と。

ケースをはずしたのは、少しでも郵送料を安くするためだったが、中にはそういう親もいる。だ
からこの10%のニヒリズムは、捨てることができない。

 これらはいわば自分を守るための、自分に向かうニヒリズムだが、このニヒリズムには、もう
一つの意味がある。他人に向かうニヒリズム、だ。

●痛々しい子ども
 
一人の男の子(年中児)が、両親に連れられて、ある日私のところにやってきた。会うと、か弱
い声で、「ぼくの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで喜んでいるようだ
ったが、私には痛々しく見えた。4歳の子どもが、そんなあいさつをするものではない。また親
は子どもに、そんなあいさつをさせてはならない。

しばらく子どもの様子を観察してみると、明らかに親の過干渉と過関心が、子どもの精神を萎
縮させているのがわかった。オドオドした感じで、子どもらしい覇気がない。動作も不自然で、
ぎこちない。それに緩慢だった。

 こういうケースでは、私が指導できることはほとんど、ない。むしろ何も指導しないことのほう
が、その子どものためかもしれない。が、父親はこう言った。「この子は、やればできるはずで
す。ビシビシしぼってほしい」と。母親は母親で、「ひらがなはほとんど読めます。数も一〇〇ま
で自由に書けます」と。

このタイプの親は、幼児教育が何であるか、それすらわかっていない。小学校でする勉強を、
先取りして教えるのが幼児教育だと思い込んでいる。「私のところでは、とてもご期待にそえる
ような指導はできそうにありません」とていねいに断わると、両親は子どもの手を引っ張って、
そのまま部屋から出ていった。

●黙って見送るしかなかった……

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、それ
は私のすべきことではない。いや、こういう仕事を35年もしていると、予言者のように子どもの
将来が、よくわかるときがある。そのときもそうだった。やがてその親子は断絶。子どもは情緒
不安から神経症を発症し、さらには何らかの精神障害をかかえるようになる……。

 このタイプの親は独善と過信の中で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と思い込ん
でいる。その上、過干渉と過関心。親は「子どもを愛している」とは言うが、その実、愛というも
のが何であるかさえもわかっていない。自分の欲望を満たすため、つまり自分が望む自分の
未来像をつくるため、子どもを利用しているだけ。

……つまりそこまでわかっていても、私は黙って見送るしかない。それもまさしくニヒリズムとい
うことになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1649)

●今朝・あれこれ(11月21日)

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今朝といっても、もう時刻は、午後
11時15分。

とうとう風邪で、ダウン!

朝、いつものように目を覚ますと、
キリキリとした頭痛。風邪である。

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 今朝、11月22日、いつものように目を覚ますと、はげしい頭痛。キリキリとした痛みが、頭全
体に響いた。風邪である。昨夜から様子がおかしいとは思っていたが、こうまでひどくなると
は、思っていなかった。

 台所へ行くと、ワイフが、朝食の用意をしていた。「風邪みたい」というと、「そう……」と。

 昨夜、風呂から出たあと、居間で、紙風船を使って、バレーボールをしていたのがよくなかっ
たらしい。部屋に1本のヒモを張り、それをネットがわりにして、ワイフと遊んでいた。

 そそくさと朝食をすますと、感冒薬(市販)と葛根湯(市販)を、お湯に溶かしてのむ。そしてま
たフトンの中へ。

 そして再び起きたのが、11時ごろ。おかげで頭痛は収まっていた。ほかに発熱などの症状も
ない。よかった!

 ……ということで、今朝は、原稿書きはなし。今度の講演会のレジュメを書きなおしたあと、こ
の文を書く。

 ところで頭痛にもいろいろある。原因もちがえば、症状もちがう。東洋医学(漢方)では、頭痛
をいくつかのタイプに分けて考える。私のばあいは、大きくつぎの3つのタイプに分けて考えて
いる。

(1)偏頭痛による頭痛
(2)二日酔いによる頭痛
(3)風邪による頭痛
(4)仮性うつ病による頭痛

 しかし今朝の頭痛は、いつものと少しちがっていた。眠っているときは、まったく何ともない。し
かし起きて頭を動かすと、とたんにズキンズキンと痛くなった。ふと「くも膜下出血?」と疑った
が、くも膜下出血の痛さは、尋常ではないという。それこそ気を失うほどの痛さだという。

 しかし私は気を失うところまではいっていない。「だいじょうぶかな?」と自己診断しながら、再
び、目を閉じる。


●差別発言

+++++++++++++++++

どこかの評論家(女性)が、差別発言を
したとかで、インターネットの世界では、
大きな問題になっている。

+++++++++++++++++

 どこかの評論家(女性)が、差別発言をしたとかで、インターネットの世界では、大きな問題に
なっている。

 その評論家は、自動車会社に勤めるT社の期間工と呼ばれる工員と、どこかの飲み屋でい
っしょになったらしい。そしてこんな差別発言をしたという。

 「(期間工だから)、漢字も満足に書けないだろう」「そんな労働者に、年俸300万円も払って
いるT会社は偉い(=気が知れない)」と。

 その評論家が、どんな活動をしているかはしらないが、こういうバカがいなくならかぎり、この
日本は、よくならない。私たちがなぜものを書くかといえば、社会的不正義と戦うためである。し
かしそのとき重要なことは、視点を、いつも、「下」に置くということ。しかし意図的に「下」に置こ
うとしても、できるものではない。

 自らを、「下」に置く。その上で、ものを考え、ものを書く。つまりこういう姿勢がしっかりとして
いれば、傲慢な発想は消える。ウソや仮面ではいけない。そんなものは、いわばメッキのような
もの。すぐはがれる。バレる。

 つまり今、問題になっているその運動家は、そのメッキがはがれたということ。

 それぞれの人は、それぞれの世界で懸命に生きている。しかしみながみな、うまくいくとはか
ぎらない。この世界には、その力があっても、その力を伸ばしきれず、社会の片隅に追いやら
れている人となると、何十万、何百万人といる。

 反対に、今をときめかす人たちにしても、その力があったからというよりは、そのほとんどが
チャンスに恵まれたから、そうなったという人が多い。言いかえると、(勝ち組)も(負け組)も、
紙一重。大きくちがうようで、どこもちがわない。

 そこで大切なことは、仮に勝ち組であっても、常に謙虚であること。その謙虚さから、思いやり
が生まれ、やさしさが生まれる。それがこの世界を、明るく、暖かいもののする。

 多分、その評論家は、聡明な女性なのだろう。頭もキレるかもしれない。しかしそういう評論
家を、バカという。映画『フォレスト・ガンプ』の中で、フォレストの母は、フォレストにこう教えたと
いう。

 「バカなことをする人を、バカというのよ。(頭じゃないのよ)」と。まさに名言である。

 そんな評論家など、相手にしたくもないが、私は、この言葉を、その評論家に送りたい。

【補記】(infoseek newsより転載)

  評論家の池内H美さんのブログが、「炎上」している。T自動車の期間工について書いた日記
の中で、「彼らは『Txxxxx』を漢字で書くことができるのだろうか」などと発言したことが、発端
だ。現在では該当する日記は削除されているが、その前日に池内さんが書いた日記のコメント
欄に、批判のコメントが殺到している。
  池内H美さんは、1961年生まれの夫婦・家族問題に詳しい評論家。テレビなどマスコミへ
の露出も多い。 

「彼らは、なぜ私たちに声をかけたのか。『お姉さんたちって、なんか儲かってそうじゃないです
か。僕たちは今、飲みながら、いったい何をやったら儲かるのかって、話してたところだったん
で』へえ。そうですか。(中略)でもね、同じ居酒屋で隣り合って飲んでるわけだから、あなたた
ちが自らを卑下するほどには、私たちも豊かではないと思うよ。
(彼らは『トヨタ』を漢字で書くことができるのだろうか、と、ふと思いつつ)」

「強く言葉を発したのは経営者の彼女である。『向上心がなくて、勉強もせず、平日の早い時間
から連日飲んでいる男の子なんて、うちでは絶対に雇わない。スタッフにはお願いして仕事をし
てもらってんだから。お願いしたくなる子じゃないと雇わない!』そうだよね。彼らに年間300万
円以上も払っているT社は偉い」 

(注:原文には、会社名など実名が記されている。)

Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1650)

●Eマガ配信されず!

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ときどき、ある。今朝も、あった。

現在、Eマガで電信マガジンを配信
してもらっているが、ときどき、
配信されないで終わってしまうことが
ある。

今朝も、そうだった。

そこであわてて、11月22日号を、
配信する。それが午前8時ごろ。

+++++++++++++++++

 もともと無料のサービスだから、ぜいたくは言えない。苦情を言うこともできない。「無料」とい
うのは、そういうもの。

 現在、Eマガ社のほうで、電子マガジンを配信してもらっている。しかしときどき、配信予約を
入れたマガジンが、配信されないで終わってしまうことがある。今朝も、そうだった。

 そこであわてて、今朝、11月22日号を、配信予約を入れなおす。しかしそのとき、ふと、こう
思った。「おわび」と書くのもおかしいし、「再送信」と書くのもおかしい。一応、毎回、午前0時に
配信することにしているが、何も、午前0時でなければならないということはない。

 私が、勝手に、午前0時にしているだけである。

 が、中には、毎回、私のマガジンを楽しみに読んでくれている人もいるときどき励ましのメー
ルをもらう。しかしとても残念なことだが、そういう人は、少ない。少し前、アンケート調査をした
が、それに答えてくれた人は、40〜50人程度にすぎなかった。コメントを寄せてくれた人は、
2、3人にすぎなかった。

 きびしいが、これが現実である。いくら書いても、すそ野が広がっていかない。つまりそれが
私の「力」の限界ということになる。マガジンの限界ということになる。

 この1か月、読者の数は、ほとんど、ふえていない。それもある。「何のためにこんなことをし
ているのだろう」と思いつつ、今日も始まった。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●AO入試

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アドミッション・オフィス入試、略して、「AO入試」。


 簡単に言えば、志願者のそれまでの経験や成績、
志望動機など、さまざまな側面を評価し、
合否を決める入試方法をいう。

 従来のペーパーテスト、面接試験から、
さらに1歩踏み込んだ入試方法ということになる。

 当初は、慶応義塾大学で試験的になされていたが、
それが昨年度(05)は、国交私立、合わせて、
400を超す大学で実施され、最近では、
一部の小中学校でも採用されるようになった。

+++++++++++++++++++++++++
●AO入試とは

 AO入試について、(Gakkou Net)のサイトには、つぎのようにある。

「大学の 入試形態の多様化は既に周知の事実ですが、その中でもここ数年、センター入試と
並んで多くの大学で導入されているのが、AO入試(アドミッションズ・オフィス入試)です。 

AO入試を初めて実施したのは慶応義塾大学の総合政策学部と環境情報学部で、1990年の
ことでした。99年度には13の私立大学が導入していただけのAO入試も、2001年度には、2
07大学と急増。その後もAO入試を実施する大学は、年々増加の一途をたどっています。

自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めることを目
的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

入試までの一般的な流れは、(1)エントリーシートで出願意志を表明し、(2)入試事務局とやり
とりを行ってから正式に出願するといったもの。

選考方法は面談が最も多く、セミナー受講、レポート作成、研究発表といった個性豊かなもの
もあります。

出願・選抜方法、合格発表時期は大学によって様々で、夏休みのオープンキャンパスで事前
面談を行ったり、講義に参加したりする場合もあります。「どうしてもこの大学で学びたい」受験
生の熱意が届いて、従来の学力選抜では諦めなければならなかった大学に入学が許可され
たり、能力や適性に合った大学が選べるなど、メリットはたくさんあります。

ただし、「学力を問わないから」という安易な理由でこの方式を選んでしまうと、大学の授業に
ついていけなかったり、入学したものの学びたいことがなかったといったケースも考えられます
から、将来まで見据えた計画を立てて入試に望むことが必要です。

AO入試は、もともとアメリカで生まれた入試方法で、本来は選考の権限を持つ「アドミッション
ズ・オフィス」という機関が行う、経費削減と効率性を目的とした入試といわれています。 AOと
は(Admissions Office)の頭文字を取ったものです。

一方、日本では、実は現時点でAO入試の明確な定義がなく、各大学が独自のやり方で行って
いるというのが実情です。

しかし、学校長からの推薦を必要とせず、書類審査、面接、小論文などによって受験生の能
力・適性、目的意識、入学後の学習に対する意欲などを判定する、学力試験にかたよらない
新しい入試方法として、AO入試は注目すべき入試だということができるでしょう」(同サイトよ
り)。

●推薦制度とのちがい 

 従来の推薦入試制度とのちがいについては、つぎのように説明している。

「(1)自己推薦制などに似た入試形態です。 学力では測れない個性豊かな人材を求めること
を目的としていて、学力よりも目的意識や熱意・意欲を重視しています。

(2)高校の学校長の推薦が必要なく、大学が示す出願条件を満たせば、だれでも応募できる
「自己推薦制・公募推薦制」色の強い入試。選考では面接や面談が重視され、時間や日数を
かけてたっぷりと、しかも綿密に行われるものが多い。

(3)模擬授業グループ・ディスカッションといった独自の選抜が行われるなど、選抜方法に従来
の推薦入試にはない創意工夫がなされている。

(4)受験生側だけでなく、大学側からの積極的な働きかけで行われている

(5)なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入試を行っている大学
がありますが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

●AO入試、3つのタイプ

大別して3つのタイプがあるとされる。選考は次のように行われているのが一般的のようであ
る。

「(1)論文入試タイプ……早稲田大学、同志社大学など難関校に多いタイプ。長い論文を課し
たり、出願時に2000〜3000字程度の志望理由書の提出を求めたりします。面接はそれを
もとに行い、受験生の人間性から学力に至るまで、綿密に判定。結果的に、学力の成績がモノ
をいう選抜型の入試となっています。

(2)予備面接タイプ(対話型)……正式の出願前に1〜2回の予備面接やインタビューを行うも
ので、日本型AO入試の主流になっています。 エントリー(AO入試への登録)や面談は大学主
催の説明会などで行われるのが通常です。エントリーの際は、志望理由や自己アピールを大
学指定の「エントリーシート」に記入して、提出することが多いようです。 このタイプの場合は、
大学と受験生双方の合意が大事にされ、学力面より受験生の入学意志の確認が重視されま
す。

(3)自己推薦タイプ……なお、コミュニケーション入試、自己アピール入試などという名称の入
試を行っている大学があるが、これらもAO入試の一種と考えていいでしょう」(同サイトより)。

 詳しくは、以下のサイトを参照のこと。
   http://www.gakkou.net/05word/daigaku/az_01.htm

 また文部科学省の統計によると、

 2003年度……337大学685学部
 2004年度……375大学802学部
 2005年度……401大学888学部が、このAO入試制度を活用しているという。

++++++++++++++++

 年々、AO入試方法を採用する大学が加速度的に増加していることからもわかるように、これ
からの入試方法は、全体としてAO入試方法に向かうものと予想される。

 知識よりも、思考力のある学生。
 ペーパーテストの成績よりも、人間性豊かな学生。
 目的意識をもった個性ある学生。

 AO入試には、そういった学生を選びたいという、大学側の意図が明確に現れている。ただ
現在は、試行錯誤の段階であり、たとえばそれをそのまま中学入試や高校入試に応用するこ
とについては、問題点がないわけではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 AO入
試 アドミッション・オフィス Admission Office 大学入試選抜)


Hiroshi Hayashi+++++++++NOV.06+++++++++++はやし浩司

●認知症?

++++++++++++++++++++

ワイフの友人の様子が、どうも、おかしい?
ワイフは、そう言った。

++++++++++++++++++++

 こんなことがあったという。その女性を、Xさんとしておく。年齢は、今年、65歳になるという。

 ワイフが、Xさんに、クラブの積立金、2000円を預けた。ワイフは、たまたまその日、クラブ
に行けなかった。それでそうした。

 翌週、ワイフがクラブに行くと、積立金が未納のままになっていることを知った。しかたないの
で、ワイフは、再び、その場で、2000円を納めた。

 で、そのあとXさんに電話をすると、Xさんは、こう言ったという。

 「あら、ごめんなさい。すっかり忘れていました。青い封筒に入れて、かばんの中に入ったま
まになっていますから、来週、お返しします」と。

 よくある話である。で、そのときはそれで終わった。

 が、いろいろあって、ワイフは、そのお金のことを忘れていた。が、その翌月、同じように積立
金を納めるときになったときのこと。ワイフは、Xさんに渡した2000円のことを思い出した。

 で、Xさんに会って、こう言った。「あの2000円は、どうなりましたか?」と。

 するとXさんは、「何のこと?」と。

ワ「先月、2000円、あなたに渡したはずですが……」
X「知りませんよ、そんなお金」
ワ「だって、あなた、青い封筒に入れて、しまってあると言ったではないですか」
X「そんな話、した覚えはありません。青い封筒なんか、知りませんよ」と。

 そのときワイフは、狐(きつね)につままれたような気分になったという。Xさんの態度が、あま
りにも堂々としていたからだ。

 ……という現象も、認知症のひとつと考えてよいのか。

 ふつうに話していると、そんな感じはまったくしない。Xさんは、ごくふつうの女性である。私も、
ときどき会うことがあるが、とくに変わったところはない。ただ一度だが、こんなことがあった。
通りでバッタリと会ったときのこと。私がXさんにあいさつをしたのだが、Xさんは、ジロリと見た
だけで、私を無視した。「ああ、近眼だから、私に気がつかなかったのだ」と思い、そのときはそ
れで終わった。ワイフも、そう言った。「あのXさんは、すごい近眼だから」と。

 が、その積立金の話を聞いてからというもの、私は、Xさんを疑ってみるようになった。Xさん
は、認知症になりかけているのかもしれない。で、この話をすると、「そういえば……」と、ワイフ
が、いろいろな話をしてくれた。

(1)連続性がない。

 クラブの部屋の戸締りの係を決めているのだが、別の人が、戸締りをするのを忘れて帰って
しまった。それについて、Xさんから電話がかかってきた。そしてそれがさも大問題であるかの
ように、Xさんは、長々とワイフに苦情を並べた。

 ワイフが、次回からは、戸締りの係を徹底させると約束して、その日は、それで終わった。

 が、数日後、今度は、忘年会のことで電話がかかってきた。「去年したレストランが、よくなか
ったから、今年は、別のところでしたい」ということだった。ワイフは、「今度の会合で、みなで、
話しあいましょう」ということで、その日の電話を切った。

 ワイフは、こう言った。

 「Xさんは、数日おきに、あれこれと不満や苦情を言ってくるけど、しばらくすると、そのこと
を、すっかりと忘れてしまっているのね。クラブの戸締りの件も、忘年会の件も、会合の席で
は、何も言わないのよ。考えてみれば、おかしなことよね」と。

(2)一貫性がない

 Xさんで、もうひとつ気になるのは、一貫性がないこと。一般的な言い方をすれば、気分屋。
感情にムラがある。そのときどきに応じて、様子が別人のように変化する。

 妙に親しげに話しかけてきたかと思うと、その数日後には、別人のようにつっけんどんになっ
たりするなど。あまりにもつっけんどんだから、私のほうが、何か気に障(さわ)るようなことを言
ったのだろうかと、不安になってしまったこともある。

 そういうことを周期的に繰りかえす。だからワイフの友人ではあるが、つきあうほう私のほう
が、疲れてしまう。

私「人格の完成度をみるときでも、良好な人間関係が、ひとつのポイントになる。脳みそが老化
すると、当然、人格の完成度は後退する。当然、他人と良好な人間関係を結べなくなる。今の
Xさんが、そうかもしれないね」
ワ「いやねエ。年をとるということは、本当にいやねエ」と。

 そうそうこんな気になるデータが、公表された。

 内閣府がした調査だが、1人暮らしの男性高齢者のうち、4割以上が、「親しい友人はいな
い」と答えているという。「近所づきあいをしない」と答えた人も、約4人に1人にのぼったという
(2006年、11月21日発表。「世帯類型に応じた高齢者の生活実態に関する意識調査」よ
り)。

 気になるのは、1人暮らしの高齢者のうち、近所づきあいに関して、「つきあいはない」と回答
した人は、男性で24・3%で、前回(2002年調査時)から8・9%も増えたこと。女性でも、7・
1%で、0・2%も増えている。

 この数字の中で気になるのは、調査そのものが、健康な老人を前提にしている点である。程
度の差もあるので正確な数字はわからないが、全体の30%前後が、認知症、もしくは認知症
の傾向のある人とみるなら、「近所づきあいしない老人」の大半が、認知症と関係があるので
はないかということになる。

 で、そのXさんだが、ここ数年、クラブに顔を出すのも、年々少なくなり、最近では、月に1度
前後になってしまったという。Xさんも、アブナイ?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 認知
症 近所づきあい 親しい友人)


+++++++++++++++++++++

……ということで、この数字には、あまり意味がないが、ここで「最前線の子育て論byはやし浩
司」の1650作目は、終わり。ページ数は、579になっている。つまりA4サイズ(40字x36行)
で、579ページということ。単行本でいえば、4〜5冊分の分量である。

 次回からは、1700〜ということになる。

 時は、2006年11月22日、水曜日。午前11時45分。

***************以上、1650作*****************





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ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
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