最前線の子育て論byはやし浩司(6)

最前線の子育て論byはやし浩司
(1500  〜  )
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最前線の子育て論byはやし浩司(1500)

【考えることのすばらしさ】

++++++++++++++++++++++

あれこれと、思いつくまま、考える。
それが私にとっては、趣味のようにもなっている。

考えているだけで、楽しい。おもしろい。
そういう私だから、反対に、考えることが嫌いな子どもや、
おとなを見ると、「どうして?」と思ってしまう。

今朝も、いろいろ考えた。その考えたことを
ここに書く。

考える楽しさを、少しでもわかってもらえれば、
うれしい。
(06−08−24)

++++++++++++++++++++++

●ハレンチ教師による、ハレンチ事件

 今朝は、新聞の3面に、2つも、(2つもだぞ!)、ハレンチ教師が犯した事件についての記事
が載っていた。2つとも、この静岡県で起きた事件である。例によって例のごとく、「18歳未満と
知りながら、教え子に……」という事件である。

 で、それに対して、これまた例によって例のごとく、あの評論家が、もっともらしいコメントを寄
せていた。引用するのも、バカ臭いが、一応、念のため。

 『……もともと子どもが好きな人、愛情を感じやすい人が教職に就く。多くの場合は、教育愛
になるが、それが性愛、恋愛感情に変わるのも紙一重』(C新聞・8月24日版、O氏)と。

 O氏が、もう少し心理学を勉強していたら、こんな的ハズレなことは言わないだろう。それに
「教育愛」なんていう言葉は、はじめて聞いたぞ! 「教育愛」って、何? ドクターだったら、
「治療愛」? 「おおくの場合は治療愛になるが、それが患者との性愛、恋愛感情に変わるのも
紙一重」? それとも「師弟愛」のまちがい? しかし師弟愛が、性愛と紙一重だなんて、だれ
も、思わない。

 教師によるハレンチ事件があとを断たないのには、ひとえに、教職という職業がもつ、職業的
特殊性によるもの。わかりやすい例で考えてみよう。

 たとえば胸のうつくしい女の子を見たとしよう。中学生も、高校生でもよい。そういうとき、健康
な男性なら、だれしも、「おお、いいオッパイだな」と思う。思って当然。

 しかしそれを口に出して言うことはできない。これは何も、教師にかぎらない。口に出して言え
ば、そのままセクハラ行為となる。

 が、教師は、その先まで行ってしまう。「教師たるもの、そんなことを思ってはいけない」とか、
「考えてもいけない」とか。自分で自分を、追込んでしまう。あるいは聖職意識の強い教師なら、
そういう雰囲気が自分のまわりにあることさえ、ことさら忌み嫌う。

 つまり仮面(ペルソナ)をかぶる。この仮面が、教師の心をゆがめる。ユングが説くところの、
シャドウをつくる。このシャドウが、ときとして、その教師の心をウラから操る。それがこうした事
件へとつながっていく……。

 だからこういう教師が逮捕されるたびに、周囲の関係者は、みな、こう言う。「指導熱心な、い
い先生だったのに……」と。

 教育愛(?)と性愛が紙一重だなんていう意見は、一見もっともらしく聞こえるが、とんでもな
い意見ということになる。ハハハ。

 ここからは、ホンネ論。

 あのね、教師であっても、自分を作ることはないの。美しいオッパイの女の子を見たら、すな
おに、「美しい」と思えばいいの。わかる? そういう女の子の乳首が見えたら、「おお、いいも
のを見たぞ」と、すなおに喜べばいいの。わかる?

 へたに聖職意識をもつから、自分で自分の心をゆがめることになるの! 仮面をかぶるか
ら、自分で自分の心をゆがめることになるの!

 あのね、学校の校長だって、教頭だって、みんなマスターベーションをしているよ! ティシュ
ペーパーでペニスを包んで、セコセコ、やっているの! 元気な教師だったら、毎晩だって、や
っている。わかる? 妻に手助けしてもらう人もいるでしょう。目を閉じて、若い女性の肉体を想
像してやっている人もいるでしょう。

 それはね、たとえて言うなら、女性の生理と同じ。理性の範囲の問題ではないということ。もし
性欲、……つまりね、フロイトの言うところのだよ、リピドーなるものがだよ、理性でコントロール
できるようなものだったとしたら、人類は、とっくの昔に絶滅していたはず。

 つまりそれくらい性欲というのは、強力、ということ。

 だったら、どうするか? 答は、簡単。私がいつも言っているように、教育のシステムそのも
のを変える。あるいは、厳罰主義で臨む。教職者については、とくにそうで、18歳未満の子ど
もと性交渉をもったら、即、懲役10年とか、そういうことにする。問答無用式に、ね。

 向こうから女の子が近づいてきただけで、真っ青になるようになればいい。

 が、現実は、甘い。たいていは、「教職を追われているなど、すでに社会的制裁を受けている
から……」というような理由にもならない理由をつけて、執行猶予付きの判決ですましてしまう。
だから、あとを断たないの! わかる?

 教育のシステムを変えるということはね、たとえばカナダ方式や、イギリス方式がある。アメリ
カ方式でもいい。教師が、自分の教室(クラス)以外で、生徒と個人的に会うことを、いっさい、
禁止すればいい。

 カナダなんかではね、教師の住所、電話番号すら、親に、絶対に教えないよ! それがわか
らなければ、大病院の診察室を想像すればいい。診察室が、大きな教室(クラス)だと思えば
いい。

 診察室にいるドクター(教師)は、診察室(教室)内部でのことには、全責任を負う。しかしそ
の診察室(教室)から患者(生徒)が一歩でも足を踏み出せば、それはもうそのドクター(教師)
の知ったことではない。

 今のように、生徒の教育や進路指導はもちろん、しつけや家庭問題まで、教師が責任(?)を
もつというシステムのほうが、異常なの。わかる?

 そして教師は教師で、こう叫べばいい。「オレだって、教師である前に、人間だア!」と。つま
り心の風通しをよくするということ。仮面をかぶらないということ。すなおに自分をさらけ出しな
がら、生きるということ。

 つまりね、親たちも、そういうことを納得した上で、先生とつきあえばいい。監視すればいい。
だいたい親にしても、たった1人、2人の子どもさえ、もてあましている。そういう子どもを、30
〜35人も、学校の先生に押しつけて、「しっかり、めんどうをみろ」は、ない!

 「学校の先生だから、ふつうの人とはちがう」と考えるのは、誤解。誤解というより、幻想。まっ
たくの幻想。あなたやあなたの夫と、どこもちがわない。それともあなたは、学校の女性教師に
は、生理がないととでも言うのだろうか? (これは少し言いすぎかな?)

【付記】

 これは私の経験だが、こういうことも言える。

 学校の教師は、いつも子どもたちの世界に住んでいる。そういう教師が、学校という世界で、
自分が(おとな)と自覚するときは、職員室で同僚に会ったときだけ。しかし最近では、その職
員室で、同僚と話しあったりすることが、以前よりはるかに少なくなった。

 小学校の教師などは、空き時間が、週2〜3時間ほどしかない。そのため、今では、どの学
校の職員室も、ガランとしている。

 で、そういう子どもたちの世界に住んでいると、いくつか、おかしな現象が起きる。私がそれに
気づいたのは、20代の半ばごろだったと思うが、たとえば、こんなことがあった。幼稚園の園
児たちが、(おとな)として、夢の中に出てくるようになったのである。

 ただ、夢の中に出てくるだけではない。幼稚園の園児たちが、顔や姿はそのままで、(おと
な)として出てくるのである。おとなの会話をし、おとなの行動をする。

 しかしこの現象を反対に見ると、園児がおとなとして出てくるのではなく、私自身が、園児にな
り、彼らの世界に入ってしまったとも考えられなくもない。

 たとえば、今もそうだが、小学生を見たりすると、ものすごく大きな子どもに見えたりする。中
学生や高校生ともなると、子どもというより、おとなといった感じになる。さらに20代、30代の
人となると、完全なオジサン、オバサンといった感じになる。

 こういう現象を、どう説明したらよいのか。それについてはまた別の機会に考えることにして、
学校の教師にも、それがあるのでは? 子どもたちの世界に住むうちに、自分が、(おとな)で
あることを忘れてしまう。つまり自分自身を、自分が接している子どもたちと、同列に置いてしま
う。

 ふつうの世界でなら、30代、40代の男が、15歳や16歳の女の子に性的な興味をもてば、
小児性愛者ということになる。異常者ということになる。しかし学校の教師というのは、自らを
(小児)として、その(小児)の世界で、子どもたちを見る。「見る」というよりも、見てしまうように
なる。

 本来なら、それを防ぐために、学校の教師たちは、同僚という(おとな)と、もっと接しなけれ
ばならない。自分と、子どもたちの世界との間に、一線を引かねばならない。教室の中では、
子どもたちと同じレベルに自分を置いても、職員室へ帰ったとたん、おとなにもどる。そういう操
作を繰りかえしながら、そのつど自分を取りもどす。が、先にも書いたように、その機会が、以
前と比べても、はるかに少なくなった。

 つまり顔や姿はおとなでも、意識だけは、子どもの世界に置いてしまう。そしてその世界で、
男を見、女を見る。そのため同年齢のおとなたちには、興味をもたなくなってしまう一方、今度
は反対に、中学生や高校生に、興味をもってしまう。

 こうした一連のハレンチ事件の背景には、こうした教職自体がもつ特殊性がからんでいるの
ではないか?

 ただ念のため申し添えるなら、私のばあいは、全参観授業を貫くことによって、いつも、そこ
に、親という(おとな)を置き、(おとな)と接している。それが今となってみれば、よかったのでは
ないかと思う。(おとな)と接することによって、そのつど、いつも、子どもたちの世界との間に、
一線を引くことができた。

 もしそれがなければ、私も今ごろ、同じような事件を引き起こしていたかもしれない。その可
能性がなかったとは言わない。

そうそう言い忘れたが、こうした事件は、まさに氷山の一角。外部に漏れてバレるのは、ほん
の一部にすぎない。100に1つとか、2つとか、その程度ではないか。だからこの問題は、学校
の教師たちが、そういうことをしているか、していないかの問題ではなく、バレるか、バレないか
の問題ということになる。

わかりやすく言えば、教師ならば、だれしもこうした危険なワナにはまりやすい。いつなんどき、
そのワナに陥っても、おかしくない。教師という職業には、そういう危険性が、いつもついてまわ
る。

つまりは、教育のシステム自体がもつ、欠陥のひとつというこことになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夫婦げんか

 夫婦生活を30年以上もしていると、たがいに似てくる。よい面も悪い面も、似てくる。無意識
のうちに、そうなる。

 たとえば街をいっしょに歩く夫婦を見てみればよい。服装から、歩き方まで似ている。話し方
まで似ている。

 で、夫婦げんかだが、最近、私は、こんなことを発見した。

 私たちも、よくその夫婦げんかをする。月に1、2度はする。衝突する。

 が、いつもそのパターンは、同じ。夫婦げんかの始まり方も、やり方も、そして終わり方も同
じ。始まってから終わるまでの時間も、同じ。

 なぜ、そうなのか?

 実は、夫婦げんかというのは、夫婦でしているのではないということ。夫婦げんかというのは、
自分に対してしているということ。

 夫婦げんかというのは、相手の中に、自分のいやな面を見せつけられたとき、始まる。つまり
相手の中に、いやな自分がいて、その自分に向かって、する。わかりやすく言えば、自己嫌
悪。それが高じて、夫婦げんかになる。それを私は、発見した。

 だから最近は、こう思うようにしている。

 私のワイフのことで気に食わないことがあったとする。(たいてい、けんかを仕かけていくの
は、私のほう。)そのとき、私は、こう思うようにしている。

 「その気に食わない点というのは、自分のことではないか」と。

 たとえば私のワイフは、私の言うことにイチイチ反論するときがある。そういう意味では、すな
おさに欠ける女性である。……と思っていたが、長い時間をかけて、そういうワイフにしたの
は、実は、この私ということになる。

 そしてふだんの自分を観察してみると、私自身が、ワイフと同じように、ワイフの言うことにイ
チイチ反論しているのを知る! とくに私は、口うるさい。すなおさに欠ける。

 夫婦げんかというのは、そういうもの。が、悪い面ばかりではない。夫婦げんかをし、仲なおり
したときのワイフが、別人のように新鮮に見えることがある。あとは、この繰りかえし。

 よく『夫婦げんかというのは、生活のスパイスのようなもの』という人がいる。つまり、夫婦も、
夫婦げんかをしなくなったら、おしまいということ。生活そのものが、味気なく、つまらないものに
なるかもしれない。

 ……で、今度、あなたが夫婦げんかを始めたら、ここに書いたことを、心のどこかで思い出し
てみてほしい。少しは、自分を再発見する、そのヒントになるかもしれない。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●考えること

 子どもでも、おとなでも、考えることが好きな人もいれば、そうでない人もいる。しかし、こと、
私のBW教室(幼児教室)で訓練を受けた子どもは、みな、例外なく、考えることが好きになる。

 教育の世界には、(教えながら教える部分)と、(教えずして教える部分)の2つがある。

 私のばあい、いつも何かを考えている。ものを書いている。本を読んでいる。ヒマがあればあ
ったで、パソコン相手に将棋をさしたり、囲碁で遊んだりしている。最近は、携帯電話を相手
に、ゲームに夢中になっている。

 もちろん教室で、子ども(生徒)たちと対峙しているときも、そうである。

 つまりそういう私の姿を見て、子ども(生徒)たちは、考えるということはどういうことかを、身
につける。つまり私は、教えずして、子ども(生徒)たちに、考えるということはどういうことかを、
教えていることになる。

 たとえば子ども(生徒)たちが、私にクイズをぶつけてきたとする。そういうとき私は、すぐ、ム
キになって、それを考える。ゲームをもってきて、私に挑戦してきたときも、そうだ。そういう姿
勢が、私には、いつもある。そういう姿勢を見ながら、子どもたちは、知らず知らずのうちに、私
の影響を受けていく。

 ……何となく、手前味噌のような意見、つまりBW教室の宣伝ぽい意見だが、これは本当の
ことである。(それにもう、宣伝してどうこうしようなどと考える時代は、私のばあいは、終わっ
た。)

 そこで重要なことは、園や学校の先生にかぎらず、重要なことは、考える先生であるというこ
と。子どもが何かを質問してきたときも、考えるクセのある先生は、その瞬間に、いろいろと考
える。雰囲気が、ちがう。そういう姿勢が、子どもの中で、考える力を伸ばす。

 たとえば私の教室で、私が、何かクイズやトンチ(リドル)ぽい問題を出したとする。そういうと
き、どの子ども(生徒)たちは、例外なく、「やってやる!」「やらせて!」とかなどと言って、食い
ついてくる。

 つまりは、それこそが、冒頭に書いた、(教えずして、教える部分)ということになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 これで(考えること)のおもしろさを、理解してもらえましたか?

 考えることは、楽しいですよ!

 考えるということは、脳みその中で、宝さがしをするようなもの。あるいは未踏の原野を、道を
つくりながら歩くようなもの。

 そのスリルを感じたら、あなたも、考えることの魅力に取りつかれるはず。

 どうか、がんばってみてください!


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●ジュースとアイスクリーム

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昨夜、10時すぎ、ワイフとデート
した。

近くのショッピングセンターまで行った。

何かと昨日は、いやなことが重なった。
それでそうした。

+++++++++++++++++

 「おい、どこかへ行って、アイスでも食べてくるか?」と声をかけると、ワイフがうれしそうに笑
った。「今から〜ア?」と。

私「うん、今から……」
ワ「どこへ?」
私「Sにしようか? Jでもいい」と。

 それで、Jという、ショッピングセンターに行くことにした。

 こういうときというのは、私は、バカ話を連発する。たいていは、ひわいな話が多い。そういう
形で、ストレスを発散する。昨夜もそうだった。

 そういうときワイフは、いまだに、つまり結婚してもう36年になるというのに、そこらの小娘の
ように、恥ずかしがる。

私「あのなあ、お前。お前なんか、男がもう相手にしないよ。ぼくに相手にしてもらえるだけで
も、感謝しなよ」
ワ「そうかしら?」
私「お前の年齢になると、女のほうからお金を出さないと、男に相手にしてもらえないんだよ」
ワ「いくらくらい……?」
私「まあ、30万円というところかな?」
ワ「30万円も出さないわよ」
私「いくらならいい?」
ワ「100万円もらっても、いやだわ」
私「バ〜カ。だれが、お前なんかに100万円も出すものか! 冗談にも、ほどがある」と。

 夜と言っても、ドカッとした暑気(しょき)が、ムッとする。車の中のクーラーがきき始めたころ、
やがて話は、友人の息子氏夫婦の話になった。

私「やっぱり、あの夫婦は、もうだめみたいだ」
ワ「もうだめ?」
私「奥さんが、子どもを連れて家を出て、もう1週間になるんだってエ」
ワ「それは、あぶないわね……」と。

 大恋愛で結婚しても、別れる夫婦は、別れる。反対に、結婚当初から、あぶないと言われて
いた夫婦が、生涯をともにするということも多い。この年齢になると、そういったドラマが、全体
として、把握できるようになる。

 友人の息子氏夫婦も、そこそこの恋愛をしたあと、結婚したらしい。当初、友人はそれをたい
へん喜んでいた。列席者が300人を超える、派手な結婚披露宴もした。が、どこかで歯車が狂
った。

私「夫婦の問題は、その夫婦しかわからないよ」
ワ「そうね」
私「そっと、成りゆきを見守るしかないよ。ぼくのような他人があれこれ言うと、かえって話がこ
じれてしまうよ」
ワ「そうね」と。

 実のところ、友人からは、そのつど、相談にのってやってほしいという依頼を受けていた。そう
いうこともあって、今年の春、息子氏の妻のほうから、私に電話があった。「離婚を考えてい
る。私といっしょに、義父母のところへ、話しあいに行ってほしい」と。

 しかしそんな話を友人にするわけにいかない。私は、立場的には、友人の側にいる。友人の
息子側にいる。妻側の立場に立って、離婚の話をすることなど、できない。だから断った。断っ
たが、そのあと、その話を友人に伝えるべきかどうかで、迷った。

 実際には、そのあと、2度、3度、その友人に会ったが、その話を切り出すことができなかっ
た。が、それとなく、息子氏夫婦の様子をうかがったことはある。友人は、そのたびに、笑いな
がら、「うまくやっているようです」と。

 それで、ますます、話しそびれてしまった……。

 ショッピングセンターでは、おかしな、おかしなジュースを飲んだ。ワイフは、これまた、おかし
な、おかしなアイスクリームを食べた。まずいというよりは、奇異な味がした。どれも南国の果
物から作ったものだという。

 あまりにも奇異な味だったので、私は、その2つを、カップの中で混ぜてみた。少しは味が変
わるかと思った。が、味は、さらにおかしくなった。若いころ、コーヒーとコーラを混ぜて、失敗し
たことがある。昨夜の失敗は、それ以上のものだった。

私「こんなの、飲めないよ」
ワ「ホント! まずいわねえエ〜」
私「まずい、まずい……。ゲーッ」と。

 夫婦というのも、混ぜ方を失敗すると、とんでもない味になる。混ざるところでは混ざりあいな
がらも、どこかで自分らしさを保つ。他人ぽくしながら、新鮮さを保つ。そのほうが、それぞれの
味もひきたつ。うまくいく。

そんなことを心のどこかで思ったが、それは、ワイフには言わなかった。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●K国情勢

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K国が、近く、核実験をするかも
しれないという。

そんな中、K国の金xxが、
中国を電撃訪問するかもしれない
というニュースが、流れた。

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 K国が、近く、核実験をするかもしれないという。場所はK国の北東部。日本海に近い山の
中。ここにきて、その可能性が、にわかに高まってきた。

 そんな中、K国の金xxが、8月の25日か、28日、中国を訪問する計画を立てているというニ
ュースが飛びこんできた(8月23日)。(拉致事件に抗議の念をこめて、「金xx」とする。)

 理由は、あれこれと取りざたされている。

(1)核実験の事前報告と事前承認(サンケイWeb)
(2)中朝関係の確認
(3)中国が、核実験を思いとどまらせるために、金xxを招待した(東亜N報)

 しかしもっともありうるのは、現在の状況からして、(4)金xxの健康問題。

 サンケイwebは、つぎのように伝える。

 「……訪中計画の目的をめぐっては、病気治療だとの見方もある。金xxは、心臓と肝臓の持
病があるとされ、今年1月に訪中した際も、北京市内の(人民解放軍301病院)で検査を受け
たとされる」と。

 中朝関係は、崩壊寸前と言ってよいほどまでに、険悪化している。ここでK国が、核実験など
すれば、そのときは、中国は、もうこれ以上K国をかばうことはできない……という態度で出てく
るだろう。

 それを防ぐために、金xxが、訪中して、事前報告をするということは、じゅうぶん、考えられ
る。大方の報道は、この線に沿った内容の記事を伝えている。

 しかしこうした報道は、総じて、共通のミスを犯している。つまり、「金xxは、まとも」ということ
を前提として、記事を書いている。

 昨日も、雑誌「諸君」(2006年9月号)を買ってきた。読んだ。K国問題を特集していた。

●金xxの「戦略的射程」を見極めよ
●財務省が削減した「ミサイル迎撃」予算のツケ
●核・ミサイル開発を援助した在日「ミスターX」とは何者か
●テポドン・核実験、恐れるに足りず
●「脱北帰国者」を、どう迎え入れるべきか
●ココが変だよ日本のコリア論など。

一連のK国論を読んでいて、私は、随所で「?」と感じた。識者たちの意見に納得する前に、
「そうかなあ?」「そうではないと思うのだなあ?」と。どれも、「金xxはまとも」という前提で、記
事を書いている。「金xxの戦略的目的は何か」「意図は何か」「真意はどこにあるか」とかなど。

 しかしこうした議論そのものが、ナンセンス(失礼!)。つまり金xxは、もう、(まとも)ではな
い。自暴自棄になっているというか、支離滅裂。メチャメチャ。まるで一貫性がない。つまり、は
っきり言えば、狂っている。

 そんな狂った独裁者がすることについて、まともな議論を積み重ねても、意味はない。

 問題はなぜ、そうなのかということ。つまりなぜ、メチャメチャかということ。

で、私は、金xxの健康問題をあげる。とくに精神の健康問題をあげる。サンケイwebも伝えて
いるように、「金xxは、心臓と肝臓の持病があるとされる」。心臓のことは、はじめて聞いたが、
肝臓については、かなり以前から、それが疑われていた。重度の糖尿病という説もある。今年
に入ってからの激ヤセについては、それが理由ではないかと言われている。

 そういった人たちが、どういう精神状態になるか? それについては、私やあなたの周辺の
人たちを見ればわかるはず。みながみな、そうなるというのではないが、しかし中には、脳性の
障害を併発する人も少なくない。

 私の印象では、金xxは、側近の者たちですら手をもてあますほど、症状が悪化しているので
はないかということ。肉体的というより、精神的な面で、である。

ひょっとしたら、夜な夜な暴れて、酒ビンを、壁に叩きつけているかもしれない。ピストルで、側
近の者たちを、バンバンと撃ち殺していかもしれない。

 そこで、「中国で、治療」ということになった(?)。

 これはあくまでも私の個人的な推察である。ほかに何か、確固たる根拠があるわけではな
い。しかしそう考えると、K国の動きが、逆によくわかる。

 そこで、では、日本はどうすべきかという問題になる。が、これは前にも書いたように、「もしあ
なたの近所に、そういう人がいたらどうするか」という視点で考えると、おのずと答が出てくるは
ず。

 要するに、『障(さわ)らぬ神に、たたりなし』。私なら、そうする。金xx体制というより、K国の
自然崩壊は、近い。もう、すぐそこまできている!

 日本よ、あせるな! あせって、狂犬に手を出すようなことはするな!
(この原稿は、06年8月24日に書いたものです。)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●子猫を殺した、○○賞作家

+++++++++++++++++

どこかの女流作家が、新聞にこんな
コラムを書いた。

「糾弾(きゅうだん)されることはわかって
いるが……」と、前置きしたあと、
「子猫を殺したことがある」と。

+++++++++++++++++

 どこかの女流作家が、ある新聞にこんなコラムを書いた。○○賞という、あの賞をとったこと
がある作家である。

 いわく、「糾弾されることはわかっているが……」と前置きをしたあと、「子猫を殺したことがあ
る」「避妊手術をするのも、生後直後の子猫を殺すのも、同じことではないのか」(要約)と。

 ものを書きなれた人ほど、サラサラと自分の思いを、そのまま文章として表現することができ
る。ときには、無意識のまま、表現してしまう。○○賞もとったことのある作家ということである
なら、なおさらだろう。

 そこでものを書く人間は、(書く能力)に合わせて、常に、(自分自身の内部)を磨くということ
を忘れてはいけない。自分を飾っては、いけない。ウソやゴマカシで書いても、いけない。そう
いうのは、すぐバレる。メッキがはがれる。その前に一貫性が、なくなる。

 でないと、ふとした油断から、自分の人間性を、そのままモロに、外の世界にさらけ出してし
まう。今回の、この女流作家がよい例である。

 話は5、6年前にさかのぼるが、こんなことを書いた女流作家もいた。その作家も、同じ、あ
の○○賞を受賞している。

 題は、「糞(ウンチ)」。同じように新聞のコラムとして発表されていたが、新聞紙の半分ほど、
全体で5〜6000字あまりのコラムであった(C新聞)。

 その中で、自分の糞(ウンチ)について、長々と書いていた。最初は、「?」と思って読み始め
たが、途中で、気分が悪くなった。最後まで読み終わったときには、吐き気すら、覚えた。

 こういうのを作家の驕(おご)りという。「自分は作家だ。みなのもの、頭をさげて読め!」「ミソ
でも、クソでも、ありがたく読め!」と。

 今回の子猫を殺したことがあると書いた、女流作家もそうである。そうそう、誤解してはいけ
ないことがある。

 作家というと、すぐれた人物を想像しがちだが、それは誤解。

 だいたい「もの書き」と呼ばれる人には、オタク族が多い。しかも超オタク族。ほとんどが、そ
うではないのか。世間とのつながりをほとんどもっていない人もいる。

 だから人間性どころか、その前に常識に欠ける人も多い。多いというより、ほとんどが、そう
ではないのか。少なくとも私が会ったことがある、いわゆる作家先生と呼ばれる人たちは、み
な、そうだった。

 どこか、おかしい? ヘンチクリン? 病的?

 子猫を殺したという事実も、異常なら、それを堂々とコラムに書くのも、異常。しかも自分で、
それがわかっていて書く。「糾弾されることは、わかっているが……」と。

 常識がふつう程度に備わっている人なら、子猫など、殺さない。蹴飛ばすことぐらいまでのこ
とは、ひょっとしたら、するかもしれない。歌にもある。「♪……猫をかん袋に、押し込んで……」
(「山寺の和尚さん」久保田宵二作詞)と。

が、殺さない。避妊手術をするということと殺すということの間には、越えがたいほどの距離感
がある。それを同じにすること自体、狂っている。

 しかし、まあ、ねエ……?

 日本の文学界は、少しおかしいのではないでしょうか? ○○賞なる賞をとる作品にしても、
どれも、どこか、暗〜イ。現実離れしたものばかり。今回のこの事件で、改めて私は、そう感じ
た。

【付記】

 私は、20代のころ、そういうもの書きの人たちの集まる会合に、よく顔を出させてもらった。
で、そういう印象をもった。つまり、どこか、ヘン(?)、と。

 以来、一度とて、自分の書いたものを、作品として、つまり賞をとるための応募作品として、
出品したことがない。(一度も、ないぞ! 地元のタウン誌には、つきあいから、作品を出したこ
とがあるが……。)

 私の作品を評価するのは、私。他人ではない。私。他人が、どう評価しようが、私の知ったこ
とではない。また他人に評価などされて、たまるか! ……とまあ、これは肩書きのない者の、
ひがみのようなものかもしれない。

 その人が書いた文章が、本当にすぐれたものであるかどうかは、歴史が決めること。そこら
の、どこか頭のおかしな、作家先生たちが決めることではない!


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1501)

●男と女

 ある団体の調査によれば、セックスレスの夫婦が、50%近くもいるそうだ※。30代から、50
代までの平均値だから、あまり精度は高くない。年を取ればとるほど、当然、性欲そのものが
衰える。

 しかし私が知っている範囲でも、結婚後、数年を待たずして、セックスレスになる夫婦も、少
なくない。理由や原因は、いろいろあるのだろう。

 で、こういう話を聞くと、「夫婦とは何か」というところまで考えてしまう。あるいは、「不倫する
のは悪と決めてかかるのは、まちがっているのかも」というところまで考えてしまう。

 そこで夫婦で話し合って解決を……という話になるが、そうは、簡単ではないように思う。

 男のばあい、(クソまじめ一筋と)いった感じになる。女のばあい、(生活臭)が、プンプンと漂
うようになる。つまり色気が消える。

 この色気というのは、たとえて言うなら、異性をひきつるローソクのようなもの。一度、火が消
えると、再び、それに火をつけるのが、むずかしい。ばあいによっては、カビが生えたような状
態になってしまう。

 あとは、悶々とした欲求不満をかかえながら、惰性で生きていくしかない。つまりセックスレス
夫婦というのは、そういう夫婦をいう(?)。

【※参考】(読売新聞記事より)(ヤフーニュースより、転載)

日本人夫婦の約半数が、「自分たち夫婦はセックスレス」と認識していることが、ドイツの製薬
大手バイエル社の日本法人、バイエル薬品(大阪市)の調査で明らかになった。

 1年以上セックスをしていない夫婦が、全体の3分の1を占めるなど、欧米に比べて、セック
スに淡泊な日本人の性生活が、改めて浮き彫りになった。

 調査は日本人夫婦の寝室と性生活についての実態を明らかにするのが(ねら)い。6月9〜
12日、全国の30〜69歳の既婚男女約800人を対象に、インターネットを利用して行った。

 その結果、日本人夫婦の年間平均セックス回数は17回で、1年以上セックスをしていない夫
婦は33・9%。夫婦間のセックスについて、60%が「大切だ」と回答しながらも、セックスレスと
自認する夫婦は48・8%にのぼった。


はやし浩司++++++++++++April.06+++++++++++Hiroshi Hayashi
 
●恐怖症

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症など。飛行機恐怖症というのも
ある。

 この(恐怖症)のこわいところは、そのつど、対象物を変えて、いろいろな形で現れること。5、
6年前には、あわや大惨事に……というような交通事故寸前の恐怖を体験した。

 とたん、その日から、スピード恐怖症になってしまった。暗い夜道を自転車で走っているのだ
が、車という車が、すべて自分に向かって突進してくるように見えた。私は、50メートルくらいを
走り、自転車をおり、しばらく心を整えてから、また自転車にまたがった。

 あとで見たら、手のひらが、汗でぐっしょりだった。

 何とかその恐怖症からは、逃れることができた。自分に「だいじょうぶだ」と、何度も言って聞
かせることで、また自転車に乗ることができた。

 が、昨日(8月26日)、またまた同じような経験をしてしまった。

 いつものように、N高校横の坂道を、自宅のほうに向かって走っていた。歩道らしきものはな
い。道路の片側に、白い線で、そのワクがかいてあるだけ。ハバは、1メートルもない。50〜6
0センチほどか。しかも道路の片側だけ。

 さらにところどころに、電柱が立っている。消火栓の標識やミラーが立っている。

 その坂を、ややスピードを出しながら、私はくだっていた。(スピードを出したといっても、自転
車だから、たいしたことはない。時速20キロ前後ではなかったか。)

 そのとき、前方から、大型のランドクルーザーが、猛烈なスピードで私に向かって突進してくる
のがわかった。猛烈なスピードである。「ROVER」という文字をどこかで読んだ。ついで、運転
している男の顔が見えた。

 男は左側に顔を向けていた。年齢は30歳くらいだったか。完全なわき見運転である。私は
自転車を、思いっきり、右側のコンクリート壁に寄せた。N高校の壁である。ザリッと、自転車
のどこかの部分が壁をこすった。

 その瞬間、つまり私の前方5〜6メートルほどのところで、その車は、ヒラリと向きを変え、そ
してそのつぎの瞬間、私の左側をスピードをゆるめることなく、うしろへと、走り去っていった。

 車は、あの細い道路で、つまり対向車とやっとすれちがうことができるような細い道路で、80
〜90キロ近いスピードを出していた(?)。

 私はヒヤリとしたものを、背筋に感じた。が、これが私の恐怖症の、引き金を引いてしまっ
た。

 何とか家には帰ったものの、明らかに精神が不安定になっているのが、わかった。自分であ
って、自分でないような気分。感情そのものが平坦になってしまっている一方、何をしても落ち
つかない。

 いつもだったら、半時間でもヒマがあれば、書斎へ入って好き勝手なことをするのだが、その
意欲そのものが、わいてこない。パソコンを見るのもいやだった。さわるのもいやだった。

 何もしたくない。もちろん、自転車に乗るのも、車に乗るのもいや。外に出るのも、いや。つい
で、人に会うのも、いや。が、おかしなことに、食欲だけはあって、帰ってきてから、昼食を、2
人前前後、食べてしまった。

 で、そのあと猛烈な睡魔に襲われて床に横になったが、いつものように、眠られない。神経が
興奮状態になっているのが、自分にも、よくわかった。が、そのつどうたた寝はしたらしい。が、
どれも夢は、悪夢ばかり。

 最後は、ハチに追いかけられる夢で、目がさめてしまった。で、そのまま、起きてしまった。

 そんなわけで、8月26日、土曜日は、私にとっては、最悪の日だった。今も、その後遺症は、
今もつづいているが、こうして文章を叩けるだけでも、症状が軽くなったのかもしれない。

 鎌倉のT先生、上海のMさん、いつもなら、メールの返事をすぐ書くのですが、そんなわけで、
今日(27日)も、インターネットは、お休みです。明日にでもなったら、ゆっくりと返事を書きま
す。

 どうか、私の非礼をお許しください。

【補記】

 自転車は私にとっては、健康づくりには欠かせない乗り物ですが、年に1、2回は、ヒヤリとさ
せらええます。そして数年に1度は、あわや……という思うようなことがあります。

 みなさんも、どうか、お気をつけください。


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恐怖症について書いた原稿を
添付します。

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【子どもが恐怖症になるとき】

●九死に一生

 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして
文を書いているのが、不思議なくらいだ。

が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れた。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ
違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように感じた。

私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐
怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。

 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたく
ない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがったことがあ
る。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」という子どもが続
出した。

これらは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが
恐怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、ふつう、
次の三つに分けて考える。

(1)対人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程
度の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。

知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警
戒、無頓着で、はじめて行ったような場所でも、わがもの顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、
顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(学校恐怖症)な
どの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会えない、人と話せないなど
の症状が表れることもある。

(2)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗
れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。

これはある子ども(小一男児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始
めるという。親から相談があったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにあ
る、トンネルらしいということがわかった。その子どもは閉所恐怖症だった。

実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すことができなかった。それと関係があるかどう
かは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに入ったりすると、ぞっとするような恐怖感を覚え
る。

(2)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわが
る、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。

何かのお面をかぶって見せただけで、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、15人に1人
はいる(年中児)。

ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもなかなか原
因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前後に出ることが多
い。

これも私のことだが、私は30歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そのため
それ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることはできるが、い
つも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」という不安が不眠症の原
因になる。

また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表れる。
高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パターン)ができ
るためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖症が飛行機恐怖症に
なり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。

●忘れるのが一番

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱っても意
味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの
視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。無理をすればするほ
ど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば心が熱を出したと思い、
できるだけそのことを忘れさせるようにする。

症状だけをみると、神経症と区別がつきにくい。私のときも、その事故から数日間は、車の速
度が五〇キロ前後を超えると、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とはわか
っていても、あとで見ると、手のひらがびっしょりと汗をかいていた。

が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言いきかせることで、
克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状
態になってしまう。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。
そういう前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学

不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症とは区別
する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと考える学者も
いる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因となると考えるとわかりや
すい。


Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

●中国・上海の子育て事情

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今度(06年8月)に、中国の
上海に引っ越されました、
MTさん(BW・OB)より、
メールが届きました。

それを紹介させていただきます。

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林先生
 
ご無沙汰しております。
上海に来て、今日(8月26日)で、9日目になります。
ずいぶん時間が経ったような気がしますが、まだ、9日目!

Y子(小2)は、8月28日から学校が始まります。上海日本人学校浦東校という学校です。この
夏に、上海に来て、浦東校に通うようになった児童は、130人ほどだそうです。上海市には、4
万人も日本人がいるとか。
 
上海は都会ですが、日本の都会とはぜんぜん違います。人は多いです。街も大きく、建物も道
路も大きいです。私が行った場所は、洗練された所とは思えない所ばかりですが、こちらに
は、富裕層が集まるショッピングモールや街があるそうです。

日本の普通のサラリーマン家庭ではとても購入できないような値段の品物が、ちょっとしたデ
パートにも普通においてあります。いったい、誰が買うの?というような値段の品物です。

本日行ったショッピングモールには、お昼ご飯が一人前で375円ぐらいという店があるウ一方
で、その隣には、一人1500円ぐらい、あるいはもっと値段のかかるお店が並んでいます。子
どもの水筒は、6千円から、7千円!

その同じフロアで、20円くらいの油揚げが売っていたりしています。こちらに来て一番ショック
を受けたのは、「物の値段」です。
 
日本の雑誌の上海版が、新聞スタンドで300円くらいで売っています。中を見ると、色々なブラ
ンドのバッグや服が載っています。日本ブランドは、日本で購入するより少し高い程度ですが、
ヨーロッパの高級ブランドのバッグは、100万円以上です。

(日本で買っても、多分、50万円はしないと思います。それでも高いですが)。

こんな雑誌を、こちらの女性たちは、どんな思いで見ているのでしょう。中国という国がこれか
らどうなって行くのか、なんとなく不安になります。
 
話は変わりますが、こちらで感じたこと。人と人の距離が日本人より近いということです。昔は
日本もそうだったのかもしれませんが……。

私が二人目の子どもを妊娠中でも、浜松のレストラン、2歳になったばかりのY子を子供用の
いすに座らせてくれる従業員は、一人もいませんでした。今のところ、上海の飲食店では、S子
(妹)に子供用いすを頼むと、必ず、スタッフが座らせてくれますし、食事の間も色々と世話を焼
いてくれます。高級なお店でなくても、そうです。中国の人たちは子供を大切にすると聞いてい
ましたが……。
 
これからの数年、どんなことが起こるか。不安なような、楽しみなような心境です。今のところ日
本のほうが良かった…ということはありません。

教育に関する費用が非常に高いのが、少し不安です。ちなみに、日本人向け幼稚園のひと月
の学費が、7万1000円、送迎バス代が、1か月1万1000円。小学校は入学金、施設費で3
7万円ほど。学費は、1か月2万5000円、バスは1か月、1万7000円です。(学費に関して
は、会社負担ですが、バス代など、自己負担もあります)
 
日本の塾や予備校、音楽教室なども進出してきていますが、どこも高額です。
生活に慣れることが第一なので、しばらくの間は習い事は行かない予定です。
 
長々と、とりとめのないことばかり書きまして、申し訳ありません。
上海は、秋が来るのが早いような気がします。

日本はかなり暑いようですね。どうぞ、ご自愛ください。
では、また。
 
++++++++++++++++++

MTさんへ、

上海の子育て事情についてのレポート
ありがとうございました。

どんどん紹介させていただきたいと
思いますので、また教えてください。

また写真なども、もしよろしかったら、
送っていただけませんか。

そうそうMTさんが旅だたれる日、あの
OT君(Y子さんのファン)が、
「今日、Y子が、上海へ行くんだって」と、
ポツリとさみしそうに言っていました。

「そうだったのか、今日だったのか」と、
私も、さみしくなりました。

日本へお帰りの際には、どうかどうか、
BWへまた立ち寄ってください。

待っています。

【追記】

 学費の件ですが、日本では、(政府の補助金)→(各幼稚園ほか学校法人)という図式で、補
助金が流れていきます。

 が、ほとんどの国では、(政府の補助金)→(子どもをもつ親)→(学費という形で、幼稚園や
学校法人)という図式で、補助金が流れていきます。

 ですから一般的には、見た目には、日本では学費は安く、外国では高額に見えます。私自身
は、外国の方式にすべきだと、いつも説いています。そのほうが、教育が活性化すると思いま
す。

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Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●田丸謙二先生の、教育論文より

【これからの大学入試は、こうなる】

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恩師の田丸謙二先生より、
教育論文を送っていただきました。

先生の許可を得て、HPに紹介
させていただきます。

先生の論文を読んでいただくと、
これからの日本の教育が、
どういう方向に向かって進んでいくか、
わかります。

今回は、大学入試についてです。

この中で、田丸先生は、

知識などというものは、たとえば
小型コンピュータなどで、いくらでも
手に入るようになる。

重要なのは、(考える力)と、
説いています。

実際に日本の教育を動かしていくのは、
田丸先生のような方です。

そういう意味では、たいへん参考になり
ます。

ぜひ、ご一読ください。

++++++++++++++++++

田丸謙二先生……東大総長特別補佐(副総長)、日本学士院賞受賞、日本化学会会長、国
際触媒学会会長ほか、歴任。

余談ですが、田丸先生の娘さんのご主人が、先ごろ、『国家の品格』という大ベストセラー本を
出した、あの藤原氏です。

++++++++++++++++++

【「ものしり」から「思考力」の時代へ】

田丸謙二

●概要: 「詰め込み教育」から「クリエイティブな人創り」へ:

 ITがこの10年間に60倍増えたとのこと、猛烈な勢いで、時代が変化しております。 2、30
年先に社会を支える今の生徒たちへの現在の教育は将来の時代が求める人材を創るもので
なければいけません。 

この変化の早い時代に適応し、それをリードできるのは自立してcreative に考えることが出来
る人材です。 「ものしり」ではありません。 

欧米では元来教育(education)は生徒の個性を引き出し(educe)、伸ばすことです。 この上
にたって、この変化の早い時代に向けて現在世界中で大きく教育改革が進んでいます。 生来
の資質を引き出し、育て、creativeな人材の育成に向けています。 「覚える知識」の量は減ら
しても、「探究的に考える教育」に変貌しつつあります。 

日本では学校は知識を授け、「詰め込む」ところでした。 「探究的に考える」教育は日本には元
来ありませんでした。 そのままで世界のマネをして、「ゆとり教育」を取り入れても、うまく行く
はずはありません。

 生徒の「思考力」を伸ばし、自立したcreativeな資質を育て、本当の意味でのeducationを一
日でも早く日本に根付かせないと日本は駄目になります。 「共通一次試験」をするならば、「こ
れからのあるべき教育」に沿って、正しく行われた教育がその結果に反映し、プラスになるもの
でなくてはならず、全国的に○×方式でそれを実施することが出来るかどうかが、大変に難し
いな問題です。

 兎に角今のままではいけません。 まず教育関係者自身が時代の変化を理解し、自らの能
力を反省し、「これからのあるべき教育」に改革するのにプラスになる「思考力」を見極める「共
通一次試験」方式があり得るかどうかを検討する時です。

 基本的にcreativeな教育を育成するにはどうすればいいのか、「共通一次試験」を止めて、手
を尽くしたクリエイティブな試験のできる二次試験を主にしての日本の教育改善方式も含め
て、基本的に検討するべき時期ではないでしょうか。

●教育と試験: 

教育のレベルはそれを評価するレベルで決まります。これを覚えているか、という質問、しかも
覚えてもしょうがない事柄、ばかりを並べる試験では、それに備える教育は、「くだらない暗記
物」になります。

これが分かっているか、という理解の程度を調べる問題に対しては、受験者への教育はその
理解のレベルを上げようとします。

 「理解して覚えれば」よい成績が得られるからです。

 理科の論理性を強調しようとするならば、その論理的な面の重要性を強調して試験問題を創
り、それに備えて教えればよい。

 論理的な面を身につけさせるには、頭を使って「ナルホド」と理解させる授業が必要です。 こ
れは理科教育の大変に重要な面ですが、しかし、論理的に理解したものを「詰め込んで」、そ
れを試験で吐き出すだけでは足りません。

 変化の早いこれからの時代には詰め込んだ基本から更に発展させ、新しいものを自分で考
え出す時代になってきました。 creativeな時代になって来たのです。

●これからの教育: 

アメリカを初めとする先進国では、15年以上前から理科を大幅に変えました。 遠からず携帯
用のパソコンが出てくる時代です。 科学技術も含めて、時代の変化も加速度的に早くなって
来ました。 変化が早いだけに「これからの時代が求める教育」の必要性が高くなります。

 このような時代をリードできるのは自分の頭でクリエイティブに考えることが出来る人材です。
 「ものしり」ではありません。 これも理科に限らない、歴史でも社会でも同様です。 教育自
体大きく改革をすることが求められているのが今の時代なのです。

例えばアメリカでは、それまで教育は地方的に実施していたのを改善して全国的に新しい理科
に変えました。

それまでは鯨の種類などを覚えさせていたのを止めて、science inquiry 、つまり探究的に考え
る理科に変えて行きました.(1)。

「less is more」と称して、教えることは極く基本的なことに絞り、それに加えて「more」、つまり時
間をかけて、十分に探究的に考える教育に変えて行ったのです。 自分の頭で考えると、自分
なりの新しい考えが生まれます。 「More」にするには、それだけ時間を余計にかけても、自立
した知恵を育てるために鍛錬が必要です。

 コンピュータの時代に即応したこの種の教育改革は、今では欧米に広く拡まり、日本でもそ
れを真似て「ゆとり教育」が始まりました。

 しかし残念ながら、日本には「思考力」を育てる風土が極めて乏しいために、混乱が生じてい
ます。 これまで、「知識を詰め込む教育」はあっても、自分の頭で探究的に考える教育がなか
ったからです。 

●日本の後進性; 

日本では「学ぶ」は「マネブ」(真似をする)から由来したように、知識を取り入れることはしても、
自分で自立して創造する教育、が殆どありませんでした。

 学校は知識を教える場所でしたし、「探究的に考える教育」などを受けた経験のある先生は
殆どいませんでした。 彼らが使う教科書も世界でもレベルの低いお粗末(欧米の三分の一程
度の内容)なものです。 

Creative な試験をするためにはcreativeな出題者がいなければいけないのです。 先ずその
前にcreative な教育のできる先生がいなければいけないのです。

しかし、「creative な人材を創る教育」、が、これまで日本にあったでしょうか。 「詰め込み教
育」はあっても、自分の頭で新しいことを考える教育を受けた経験のある先生が果たしてどれ
だけいるでしょうか。

「分かったか、覚えておけ」。 多くの高校での理科の時間です。 この教え方が入試のために
は最適の教え方です。 限られた時間にたくさんのことを教えることができ、「知識偏重」の入試
に成功させる最適の教え方なのです。

生徒は自分独自に新しいことを考える努力をすることもなく、先生の言うことを理解し、受け取
るだけです。 ですから、大学に来ても講義を聞いても質問は少ない。 受け取るだけだからで
す。 大学院に来て初めて「自分で新しい独創的なことを考えよ」、といわれても出来るはずが
ありません。

 教授の独創性も問題ですが、せいぜい練習問題的なテーマを貰ってこれが「研究」というもの
だと思い込む。 学生は生来の創造性を「引き出し」、育てることなく、一生損をする被害者にな
ります。

●入試の形態: 

欧米での一流の大学の入試についてみても、大学によりさまざまではありますが、全国レベル
の共通試験よりも、それぞれの大学の個性的な学生を選ぼうとすることが多い。

 近頃日本でも真似を始めたAO 方式です。 社会が最も必要とする人材、将来世の中を支え
る人材を選ぼうとします。 基本は creative な素質を最も重要視をすることが圧倒的に多い。

中にはleadershipをそれに加えることもあります。 自分で創造的に考えて、しかも人の上にた
つことが出来る人材を選ぶのです。

 Cambridge大学から出ている紹介にも書いてあります。 「教科書を覚えているだけのような
学生は採らない、自分で考え、やる気のある学生を面接を通して採用する」、と。 社会が真に
求める人材を求め、評価する重要性を知っているからこそできる入試なのです。


●東大生は駄目か;

 『東大型の秀才(いわゆる学校秀才)の頭の特徴は、人から教えられることを丸暗記的に覚
えこみ、それを祖述する(その通りに繰り返す)ことは得意とするが、自分の頭で独自にものを
考える、クリエイテイブな思考は苦手と言うことである。 

日本の学校教育のシステムは、このタイプの秀才がよい成績をあげるように出来ている。 上
級学校の入試(東大入試もふくめて)も、このタイプの秀才が受かるようにできているから、東
大にはこのタイプの秀才がごろごろいる。 東大を卒業したあとに、そのような秀才が各界にエ
リートとしてふりまかれていくから、日本では、エリート層全体のクリエイテイビテイが低い』

以上は今度立花隆が書いた、「天皇と東大」(文芸春秋)の中の一文です。この東大生に関する
記述は確かに一面の真理でもあり、記憶力、理解力は優れているけれども、却ってその知識
にこだわって新しいアイデイアが生まれ難くなっている学生もいます。 これは東大だけでない
日本の一流大学共通の問題です。

●日本の教育・入試の欠陥: 

これは国としても大変に重要な問題であります。 現在の教育が国の将来を決めるのです。 
ますます加速度的に変化の早くなる世界からcreativeでないために、その変化の後追いか、置
き去りに残されるのです。

何故そのようなことになっているのでしょうか。 事柄は簡単です。

日本では一流の大学の入試の仕方が creativity を評価しないからです。 その前に、日本の
風土、教育にcreativity を育て、評価する要素が欠けているからです。

教育は「教え込む」ことであって、自分で考え、資質を「引き出す(educeする)ことではない」ので
す。 言い換えれば、生徒の優れた素質を引き出す本当のeducationが根付いていないからで
す。 「教え込むこと」と本当の「引き出すエデュケイション」とは、正にベクトルが逆なのです。

これは何も東大だけの話ではなく、日本の教育の基本的な欠陥なのです。 この欠陥を正すた
めには大学入試の果たす役割は大変に大きいのです。

ノーベル化学賞を受けられた福井謙一先生も言われていました、「今の大学入試は若い人の
芽を摘んでいるんです」と。 どうでもいい知識偏重の問題を出して、一点でも差をつけて差別
するのが公平な試験と思い込んでいる大学の先生たちがいけないのです。

このような大学の入試が高校以下の教育を悪くしています。 「若い人の芽を摘む」ことをしな
がら、本人たちは微塵もその罪を感じていないのです(2)。

●ではどうしたらいいのか: 

私の孫に小学校2年までアメリカで教育を受けて、日本に帰ってきた男の子がいました。 向う
の小学校の校長先生に娘がどのような教育を心がけていますか、という問いに対して、
「independent thinker」 を育てたい、という答えがありました。

自分なりの意見を、個性的に持てる人材がこれからの変化の早い社会が求めているというの
です。 

そのためには、「君はどう考えるか?、こういう場合どうしたらいいと考えるか?」、各人に深く
考えさせるのです(3)。 共通の答えを要求してのことではありません。 各人は「別」なので
す。 「個々別々の素質を持っている」のです。 それぞれの生徒の優れた点をeduce引き出す
のが本当のeducationであり、creativeな教育なのです。 

しかし、一方日本の小学校では「皆一緒、差別なし」、です。 Independent thinkerを養う重要
性を心がけている小学校の先生はどれだけいるでしょうか。 何も学者を作るためではありま
せん。 どんな職業にしても、自分の頭でcreativeに考えるとき、変化の早いこれからの時代に
適応することが出来るのです。 

●一つの実例: 

その小学校2年の孫がアメリカから日本に帰ってきて何をするかといいますと(3)、例えば、コ
ップに水を入れてその中に自分の腕時計を入れていました。 「何をするのよ!」と言うと,「こ
れ防水と書いてある」、です。 実験なのです。

 「マミ、救急車がこちらに来る時は高い音なのに、向うに行く時は低い音になるのは何
故?」、「台風の芽はどうなっているの?」、「雷は何ボルトなのか、長い針金を空中に立てて測
れないかしら」、などなど幾らでも出て来ます。

(サンフランシスコにある自分で実験させてくれる科学博物館に行くと、このような好きな子供た
ちが集まって、正に熱気に溢れていますが、矢張りそのような子供たちがますます好きになっ
て育って行くのです。)

 たまたまのことであるかもしれませんが、私の孫について日本の小学校の先生が、「私は長
年教師をしていますけれど、こんな利口な子供は初めてです」と言っていました。 

ところがです、日本にいるほどに、見る見るうちに日本化して日本の普通の子供になって行き
ました。 独自に考えることなしに、「思考とは無関係な、お粗末な教科書」を暗記させられ、試
験に備える教育を受けているうちに、見事に日本化して行くのです。 

「利口な子供」を「利口でない子供」にさせる日本の教育の「素晴らしさ?」は、大変に印象的で
した。 この子の場合「日本化への変化」を通してはっきりと分かる例ですが、一般の生徒たち
は生まれつき、「せっかく利口な頭」を持ちながら、その才能を引き出し、育てることなく大きくな
るのです。

 可愛そうに、日本には生来の素質を延ばし、引き出す本当の「education」がないのです。 
日本の教育関係者で本当にそのことを認識している人は何人いるのでしょうか。 上記のよう
な、日本のエリートたちがクリエイティブでないのは大学入試のためだけでなく、国全体、小学
校の教育からそうなっているのです。

●一つの入試形式: 

私はある新設大学で、入試に高校の教科書持参で行いました(4)。 この形式だと、「これを
覚えているか」などの問題は出せなくなります。 「ものしり」を避けて、「自立して考える生徒」を
選ぶのです。 

これは何故であるか、こういう場合はどうすればいいのか、と言う「考える問題」になって来ま
す。 答えは記述式にするのです。 何も高校の教科書持参でなくてもその種の問題を出せば
いいのですが、出題者にそれだけの枠をはめてみたのです。

教科書に挟み込みは避けて、入学試験は問題なく出来ました。 福井謙一先生はそれを聞か
れて大変に褒めて頂きました。 やってみると、○×式などとは比べものにならないほど、個々
の受験生の「考える力」が手にとるように分かります。 採点者による違いなど殆ど全く問題に
ならない。 

ただこの形式の試験では出題者の方の「考える力」がはっきりと分かってしまいます。 普段知
識だけを教えている「考えない」教授は「考える力」を調べる方法を知りません。 慣れていない
からでもありますが、入試問題を作れないのです。 

やはり、当然のことですが、creative な試験をするには creativeな出題者が不可欠であること
が分かります。 「ものしり」の程度は簡単に○×で測れますが、「思考力」を測るのは容易では
ありません。 

出題者自身がcreativeであり、それなりの「知恵」が必要です。 それに備える普段の授業も、
先ず教師が自分で考え、生徒と一緒に考えながらcreativeな授業をすることであり、試験はそ
の成果を調べるのです。

具体的に、どんな試験問題がいいのか、参考までに化学について「考える問題集」(http://
kangaeru.is.ocha.ac.jp)をご覧下さい。 考える時間を十分に与えて(これは大変に重要なことで
す)、記述式でこの種の問題に取り組ませるのです。

この問題集にはいろいろのレベルがありますから、生徒のレベルに応じてその中から選べば
一つの訓練になります。 毎授業の終る前にその中の一つを宿題に出すのもいいでしょう。 
授業中は(コンピュータを通したりして)質疑応答の成果がそのまま試験結果にも反映するわ
けです。
 
以上のことから明らかなように、日本の教育を改善するためには、先ず日本の教育や教師た
ちが本当のeducationを身につけ、creativeにならない限り、本当のこれからのあるべき教育は
実現しません。 「思考力を調べる」など、「共通一次試験」に膨大な費用をかけても、余り期待
は出来ないことになります。 

これは非常に大事なことですが、日本のこれまでの教育の風土もあり、余程の努力をしない
と、「言うは易く、しかし実行は必ずしも容易でない」ことなのです。

面接でしっかり人物評価をするCambridgeの入試のように、教科書をおぼえているだけのよう
な生徒はさけるべきです。 これはエリートに限りません。 教育一般のあるべき姿なのです。

このような「思考力を育成する試験」は二次試験のような入試の場合は、東大はもちろんのこと
全ての大学で、手抜きをしないで是非実際にやってほしい方式です。 Creativeな人材を選び
育てることです。 一次試験に似た試験をして、兎角手抜きをしがちな入試が日本の教育を悪
くしています。 時間をかけてもじっくりと考えさせて、記述式にして、「creativeな思考力」を見
分けることです。

人数を絞ってからCambridgeのように、面接で最後的に決めるのも悪くない。 実際に実施した
大学もあります。 探究的に考える教育をする大学の個性的特長を打ち出すことですし、それ
が高校以下の教育を改革いたします。 うちの大学はcreativeな人材を求め、学内でもそのよ
うに育てる教育をします、と言うのです。

これからの時代が求める模範的な大学になります。 これからの時代が求める人材はこのよう
なcreativeな入試形式を通して、育てられるのです。 これまでのような簡単な○×式の共通一
次試験で入試を決めるなどはこれからは決してしてはいけません。 「これからあるべき教育」
を阻害するもので、日本の教育の質を悪くするだけです。

●全国共通一次試験: 

しかし、このように手を尽くして「思考力をみる入試」をしようとしても、二次試験ならやりように
よって出来ますが、全国的な共通試験になると、必ずしも容易ではありません。

前述のように多くの「考えたことの乏しい教師たち」は問題の作り方が分かりませんし、本当の
educationが欠如して、教育方法もわからないのです。 「ゆとり教育」が混乱しているのでも分
かります。 その上、○×方式に限りながら、「考える力」を見る入試」となると、ますます難しく
なります。 
 
それにしても内容的にその方向に沿うよう、「creativeな教育」にプラスになるよう、(少なくともマ
イナスにならないよう)その基本的な精神を出来るだけ反映させるものが果たしてどのようにで
きるのでしょうか。 

「知識偏重」を避けて、基本的な原理を発展的に考えさせる出題をすることですが、それが出
来るcreativeな出題者がどれだけいるのでしょうか。 毎年違う類の問題を出せるでしょうか。
 

例のごとく「これを覚えているか」だけの試験は止めるべきです。 それに備える教育は「探究
的に考える教育」をだめにします。

新しい、「あるべきcreativeな教育育成」をする「共通一次試験」を考えるとき、私のした「高校
の教科書持参で記述式の入試をしてみた私の経験からすると、悲観的になります。 厳しく言
えば殆ど不可能に近いかもしれません。 

「これからのあるべき教育改革を実行すること」が日本では如何に大変なものであるかが分か
ります。 しかし何としてもしなければいけないものであるという意味で、出来れば大学の「二次
試験を考える入試に改革する」ことからでも、できそうなところからでも何としても手をつけなけ
ればいけないのではないかと切実に考えております。

共通一次試験についても、「思考力」を見るのは大変に難しいとしても、非常に不完全な形で
も、兎に角今の日本の教育を根本的に改善する少しでもプラスな方向に行けないものでしょう
か。 

「思考力を測るための「共通一次試験」を実施することが現実に極めて難しいことは明らかです
が、それでも何かの形で「共通一次試験」をやると言うのでしたら、「共通一次試験」の性格を
基本的に変えることを考えることになります。

例えば、大変に不完全ながらも、極く基本的な考える問題を中心にして、それを発展的に考え
るできるだけ易しい問題で、「思考力」を見る方式をやりながら、段々に改善を重ねて行くやり
方もあり得ます。

「これからは「ものしり」よりも、探究的に考えながら、creativeな教育育成に向けて、難しいのを
承知の上で日本の教育改善のために新しい形式で共通一次試験を行います」と宣言しなが
ら、初めはとても不完全なものでも、日本の教育を時間をかけても改善の方向に向けることで
す。 

その種類の苦労を通して、そのような雰囲気の中で日本に本当のcreativeなeducationを根付
かせるのです。 これからの本当の教育はこの方向に向けて努力しましょう、と声をかけなが
ら、根深く張り付いた日本の「マネブ」旧弊を改革するように、前向きな努力をすることです。 

その上で、一方ではその不完全を補うために二次試験ではそれだけしっかりと「creativeな思
考力」を、手抜きせずに実施することです。 兎に角、「若い人達の芽を摘むこと」なしに、時間
をかけても、日本の教育を本当のeducationを根付かせることです。 日本の教育の改善に向
けて希望を持とうではありませんか。 それなくして日本の将来は駄目になります。

ついでながら、蛇足をつけ加えますと、もしも共通一次試験を何らかの形でやるとすると、これ
までの共通一次試験が日本の教育を悪くしていた例は幾つもあります。 

たとえば、大分前に「あるコロイドの粒子の持つ電荷についての問題が共通一次の化学に出
ました。 当時私が勤めていた化学系の教師20人以上にその問題を見せて尋ねましたら、
2,3人しか知りませんでした。 

共通一次試験に出ることは「これを覚えろ」と言う命令に近いのですが、大学の化学の専門家
も殆ど知らないことを一般の高校生に覚えさせるのです。 

「考えても分からない、覚えてもしょうがない」そんな問題をどうして出すのでしょうか。 こんな
試験はやらない方が余程いい。 特殊な化合物の色を尋ねたりすることも止めて欲しい。 展
示実験には使われても、たとえ化学を専門にしても一生見ることもないようなアンミン錯体の色
を尋ねたり、正に「化学を悪くするのは化学の先生」なのです。

 共通一次試験には、絶対に悪い問題は出してはいけません。 

●終わりに:

 わが国の教育関係者はしばしば言います。 「考えろと言っても物を知らなければ考えること
が出来ない」と。 

もちろんそれは程度の問題でもありますが、現在は世界的にもその時代は去ってしまっていま
す。 携帯用のパソコンが出る時代です。 「教科書を覚えている学生は採らない」という
Cambridge大学の高い見識を日本でも少しでも実感を持って受け取れる教育関係者が一人で
も増えて欲しいものです。

今度新しく米国化学会から発行された化学の本(5)でも分かりますが、最初から「考える」問題
です。 このことは如何に説明されるか、その説明が正しいことは如何にして示すか、他に出
来る説明はないものか、はっきりした「英知を養う化学」であって「化学は暗記物」の時代は遠く
に去ってしまっています。

この新しい教育は教師も生徒と一緒に考えなければいけません。 自分の知識をただ与える
だけで済む安易な授業ではいけません。 生徒は先生と一緒に考え、先生が考える背を見て
育つのです。 現在はコンピュータの普及、進歩と共にそういう新しい時代になりました。 

新しい時代にはそれに適応した教育や試験に変わらないといけません。 日本の教育権威者
は十年余り前には、驚くべきことには、高校学習指導要領から化学の最も基本的概念の一つ
である「平衡」を取り除きました。 

「考えない化学」にしたのです。 

今から言えば正に時代に逆行したものでした。 それを決めた委員の一人を日本化学会に来
てもらって何故そんなことをしたのか、を尋ねました。 答えに曰く、「平衡を入れると入試に平
衡定数の計算が出たりするから」、正に本末転倒の答えでした。 こんな呆れたことが文部科
学省の下「教育権威者」によって決まるのです。

丁度その頃はアメリカでは150回以上も公開討論会を開き、4万冊の原本を配って「探究的に
考ええる理科」を根付かせていました。 両者は全く逆のことをしていたのです。

この両国の見識のレベルの違いはこんなにも大きいのです。 流石に今ではその点は治って
いますが、その歴然とした見識のレベルの差は当然関係者の中には未だ残っていると考えな
くてはなりませんだけに、日本の教育改革には余程の努力が必要です。

(余計なことかも知れませんが、丁度同じ頃日本化学会編として「高校化学の教え方」と題し、
副題に「暗記型から思考型へ」とした本が、私を編集委員長として丸善から出ました。 

日本では前述の教科書持参の入試でも、この本でもそうですが、十年早いと何時も冷たい目
で見られます。 教育は「時代を先取りして」二、三十年は先のことを考えないといけません。 
これは非常に大事なことなのですが、悲しいかなそれが日本の風土なのです)
 
今は世界的にも「新しい教育を求める改革時代」なのです。 それにプラスになるものが如何に
したら出来るかどうかが問題です。 日本の教育関係者が、何もアメリカのマネでなくても、日
本なりにもっと優れた「これからあるべき教育」をしっかりと把握し、高い見識を持って、国際的
にも勝るとも劣らないcreativeな教育を育てる大変に大事な時期なのではないでしょうか。 

共通一次試験」を○×方式で、その線に従って改革ができるかどうかは関係者の見識と努力
の問題ですが、どの程度なら最低でも、形を成せるのか、いずれにしても相当の努力が必要
です。 その努力を通してでも日本の教育を本当に改革するにはどうすればいいのか、がはっ
きりとします。 その自覚と改革の実行なくしては、日本はダメになります。
 
1National Science Education Standards, National Resaerch Council(1996), National 
Academy Press. Every Child aScientist, National Research Council,(1998), National 
AcademyPress: Inquiry and the National Science Education Standards: Aguide for teaching 
and learning, National Resaerch Council, National Academy Press (2000)  .
2 近畿化学工業界、 2000年7月号、11ページ  
3.「アメリカの孫と日本の孫」、田丸謙二,大山秀子,化学と工業、52 (1999) 1149
4「新しい大学入試方式の模索」、田丸謙二、化学と教育、44(1995) 456:「理科のセンスを問
う・・・山口東京理科大学の教科書持ち込み入試」、木下実、同誌、45 (1997) 146
5Jerry A. Bell、Chemistry-A Project of the American Chemical Society、W. H. Freeman 
and Company (2005).
田丸謙二のホームページ(http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr)参照

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【大学受験をひかえている、学生のみなさんへ】

 これからの大学入試がどうなるか? 具体的な入試問題が、それぞれの大学内部で検討さ
れています。どうか、参考にしてみてください。

http://kangaeru.is.ocha.ac.jp/

 このサイトは、それぞれの大学における入試問題作成委員会レベルの教授や、その教授に
影響を与えるレベルの人たちで、運営されています。

 大学受験(とくに理科系)をひかえている学生諸君、ならびに、そういう子どもをもつ親は、一
度、開いてみたらよいのではないでしょうか。

++++++++++++++++++

田丸先生に、原稿掲載の許可を求めましたら、
つぎのような返事がきました。(8月28日)

++++++++++++++++++

【田丸謙二先生より、はやし浩司へ】

林様::

  お忙しいのに大変なご協力を頂いて恐縮しています。
本当に厚く御礼申し上げます。 近いうちにその効果が現れ
ることを、心から期待しております。

  取り敢えず御礼まで。
  田丸謙二

  お話ししましたっけ。 長女のH子が4月からR大学
理学部化学科(物理化学)に移りました。 今まで産業科学技術研
究所にいた娘です。 その籍は私の東大時代の恩師、鮫島実三郎先
生が東大ご定年後に移られたところで、正に奇縁でした。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●HPの読者をふやすには……

++++++++++++++

HPの読者をふやすには、
どうしたらよいか?

HPを開いている人なら、
だれしも、そう考える。

で、及ばずながら、つまり
私の知る範囲で、その方法を
考えてみる。

++++++++++++++

 HPというのは、たとえて言うなら、「アイデア商品」のようなもの。読者をふやすということは、
その商品を、より多くの人に売るということを意味する。

 売るためにまず重要なのが、「宣伝」ということになる。「広告」と言ってもよい。

 いろいろな方法がある。

(1)検索エンジン(サーチエンジン)への登録

 HPを開いただけでは、(商品を製造した)という状態と同じ。そこで「ここには、こういう商品が
ありますよ」ということを、世間の人たちに知らせなくてはいけない。それが広告、つまり、「検索
エンジンへの登録」ということになる。

 その検索エンジンに、自分のHPを登録すると、検索エンジンのほうで勝手に、あなたのHP
を開き、そこに出ている文字すべてを、検索可能な言葉として、登録してくれる。こうした一連
の操作を、この世界では、「ロボット巡回」と呼んでいる。

 仮想のロボットが、勝手にあなたのHPをのぞき、登録してくれるという意味で、そう言うらし
い。(私は、そう理解しているが……。)

 この検索エンジンへの登録には、2種類、ある。(1)有料登録と、(2)無料登録である。

 本気で登録……ということであれば、有料登録のほうが確実で、効果も高い。が、「まあ、そ
こそこに……」ということであれば、無料登録でも、それなりの効果はある。

 ちなみに、無料登録をしているサイトは、以下の2つがよく知られている。(下をクリック。)

http://www.infoseek.co.jp/Help?pg=help_addurl.html&lk=noframes&sf=1&svx=199700

http://www.google.com/addurl/?hl=ja&continue=/addurl

 ここでサイト登録をしておくと、やがてロボット巡回をしてもらえ、以後、あなたのHPは、検索
エンジンで、検索可能なHPとなる。これを、この世界では、「公開」とか、「公開デビュー」とか
呼ぶ。

 なおサイト登録するとき、つぎの2つの方法があることを忘れてはならない。

 ひとつは、上記のサイトで登録をすると、HPのトップページのみが、登録されることになる。ト
ップページというのは、「表紙」という意味。

 が、これでは物足りないという人は、すべてのページを、別々に登録する必要がある。その方
法については、これらのサイトのどこかに、詳しく書いてあるので、その指示に従うとよい。

(2)広告

 HPそのものを、直接、宣伝するという方法もある。このばあいは、もちろん、有料ということ
になる。

 たとえばグーグルの検索エンジンを使って、「子育て相談」を検索してみよう。(下をクリッ
ク。)

http://www.google.com/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E7%9B%
B8%E8%AB%87&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

 すると、「子育て相談」というキーワードを含むHPが、ズラリと左に並ぶ。で、その右側に、「ス
ポンサーサイト」というのがある。これがその広告である。

 これらのサイトは、検索エンジン会社にお金を払い、自分のHPを、宣伝してもらっているとい
うことになる。

 宣伝費用は、それぞれ、個人でするには、高額である。営業(収益)を目的としたHPのばあ
いは、スポンサーとなって、こうした広告を考えるのもよいかもしれない。

(3)相互リンク

 HPを開設している人どうしが、たがいにたがいを紹介しあうというのが、「相互リンク」であ
る。

 相互リンクするばあいには、たがいに了解しあうというプロセスが必要であり、結構、手間も
かかる。またあまり人気のないHPどうしが、相互リンクしても、当然のことながら、その効果を
期待することは、むずかしい。

 以上、私が知る範囲で、より多くの人にHPを読んでもらう方法を、書いてみた。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1502)

●「?」の韓国

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韓国という国を、となりの日本でながめていると、
現実が、どこにあるか、それがわからなくなる。

おそらく、当の韓国にも、わかっていないのでは
ないか?

アメリカに守ってもらいながら、「反米」を唱える。
K国と敵対関係にありながら、工業団地を提供している。

そんな韓国に、とうとうアメリカがキレた。
そしてこう言った。「2009年に、アメリカは韓国から撤退する」と。

++++++++++++++++

 韓国では、どこへ行っても、「反米」の大合唱。韓国では、「朝鮮が、南北に分断されたのは、
アメリカの責任」と考えている人が、多い。つまり、「アメリカさえ介入してこなければ、南北朝鮮
は、分断されることはなかった」と。

 そこで現在のN大統領は就任するとすぐ、アメリカに特使を送り、「韓国からのアメリカ軍の撤
退」を訴えた。が、そのアメリカ、韓国に、思いとどまるようにと説得するかと思いきや、「OK」
と。「アメリカは、望まれない地域に、アメリカン・ボーイズ(兵隊)を置かない」と。

 この返事は韓国にとっても、まったくの予想外だったらしい。

 で、それから3年半。いろいろあった。あった結果、とうとうアメリカがキレた。いわく、「2009
年に、アメリカは、韓国から出て行く」と。

 ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

「韓国の聯合ニュースは27日、ラムズフェルド米国防長官が、朝鮮半島の戦時作戦統制権に
ついて、2009年に韓国軍に移譲すると正式に通達していたと報じた。

ラムズフェルド長官は今月中旬、尹光雄・国防相に書簡で伝えたという。

関係筋によると米側のこうした姿勢は、作戦統制権の単独行使に伴う軍事力整備を理由に、
移譲目標を2012年とする韓国政府との立場の違いが明白で、今後、韓米間の対立も予想さ
れる」と。

 「戦時作戦統制権」を韓国に渡すということは、アメリカ軍が韓国軍の下に入ることになる。
が、現実には、そんなことはありえない。つまり、事実上の、アメリカ軍の韓国からの撤退を意
味する。もっと言えば、米韓軍事同盟の終焉(しゅうえん)を意味する。

 が、ここからが、韓国のわからないところ。朝鮮N報は、「アメリカ軍の撤退は、アメリカにとっ
て、一石五鳥」と題して、こんな社説をかかげている。

 アメリカ軍が戦略的に柔軟性をもつことができることなどのほか、「……韓国に対して、武器
販売が増加する」「韓国国防部が統制権の単独行使に備え、購入を決めた武器だけでも合計
10兆ウォン(約1兆2190億円)にのぼる見込みだ。現在の韓国の武器体系はほとんどがア
メリカ式だ。それだけに今になって急に購入元を他の所に変えるのは非常に難しい。と。つまり
アメリカは、より金儲けができる」と。

 ならば韓国に聞くが、現在の「今」、それだけの軍事費を提供しているのは、だれか、というこ
と。その前に、どうしてアメリカが、それだけの軍事費を提供して、韓国を守らなければならな
いのか、ということ。

 今年(06年)、韓国は、在韓米軍の駐屯費用として6804億ウォン(約830億円)を負担して
いる。が、たったの、830億円! その額は、在韓米軍の駐留経費の20〜30%にも、満たな
い。

 仮に朝鮮半島が有事ということにでもなれば、アメリカ軍は、10〜15兆円もの戦争経費の
出費を強いられることになる。どうしてそういう韓国で、今、反米闘争なのか!

 現実が、まったくわかっていない。

 もしここでK国が核実験でも強行すれば、その時点で、韓国にある外資は、いっせいに韓国
から引きあげることになる。韓国経済そのものが、崩壊の危機に立たされる。

にもかかわらず、現在のN大統領は、「K国が核開発するにも、一理ある」と、それをかばって
みせた。そればかりか、金大中大統領の時代から、現政権までの間に、現金だけでも、600
億円もの大金を、K国の金xxに、直接渡している。

 K国が、これらの大金を使って、核開発をしてきたことは、今さら、言うまでもない。

 話を最初にもどすが、「2009年」ということになって、韓国は、大あわて! が、これに対し
て、当のN大統領は、「(10月の)ブッシュ大統領との会談では、強固な米韓関係が確認される
はず」と、実にノー天気なことを言っている。

 「私のように、YES、NOをはっきり言う人間は、ブッシュ大統領に好かれているはず」とも。

 まあ、私の知ったことではないが、ここまで現実認識がズレてくると、韓国をどう理解してよい
のか、わからなくなってしまう。(実のところ、わからないが……。)

 10月に行われる予定の、アメリカのブッシュ大統領と、韓国のN大統領の会談の内容もさる
ことながら、それがどういう雰囲気の中で行われるか、たいへん見ものである。

【付記】

 近く、K国が核実験を強行するかもしれないという。その直前に、こうした通達が、アメリカ側
から韓国になされたという点にも、注目したい。つまりアメリカは先手を打って、韓国からの撤
退を正式に発表したことになる。

 K国が核実験をしたあとで、こうした通達をすれば、アメリカは韓国を裏切ったことになる。反
米感情は、さらに高まることになる。つまりアメリカは、それを避けたともとれる(?)。

 アメリカの国際外交のしたたかさは、こんなところにも、表れている。
(この原稿は、06年8月28日に書いたものです。)

【補足】

 朝鮮日報の金昌均(キム・チャンギュン)論説委員は、つぎのように書いている(8月30日)。

 韓米連合司令部体制では戦争が起きた場合、米国から1300兆ウォン(約158兆円)分の
軍事装備を無料で借りることができる。盧武鉉政権はこんなすばらしい条件の契約をわざわざ
破棄する代わりに、2020年までに620兆ウォン(約75兆円)にも上る自主国防予算の相当部
分を投入し、米国の軍事装備を購入するという計画を立てている。つまり米国の軍事装備を借
りて使うのは隷属で、購入すれば自主だという論理のようだ。 

 このような盧武鉉政権の思考方式で判断すれば、李承晩大統領は国家の自尊心も体面も
かなぐり捨てた100ドルレベルの指導者になるのだろう。1950年代の李承晩政権は米国か
ら毎年10億ドルにも及ぶ経済・軍事援助を受けていた。これは1953年の韓国のGDP(13億
ドル)にほとんどきっ抗する金額だ。米国と特殊な関係にあるイスラエル、米国が戦争を代行し
た南ベトナムを除き、国民1人当りの基準で韓国ほど多くの援助を引き出した国はない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1503)

【最新、ロンドン事情】

++++++++++++++++

夏休みの間、ロンドンで過ごされた、
SKさん一家から、メールが
届きました。

紹介させてもらいます。

++++++++++++++++

【SKさんより、はやし浩司へ】

はやし先生。

土曜日の夜に、ロンドンから戻ってまいりました。まだ時差ぼけです。
8時間の時差なので、昼間が睡魔との闘い、夜はどうも眠りが
浅い、という状態です。

絵里は久しぶりのBWから嬉しそうに帰宅しました。
この知的刺激がとても心地よいようです。それと久しぶりの日本語の
洪水も。

キングズクロス駅にある、ハリーポッタープラットホーム。1年ぐらい前に
発行されたガイドブックではただの壁だったのですが、今回みたら
荷物用の手押し車が半分つっこんでありましたには、E子には、
「私たちは純血マグルだから入れないね」なんて話していました。
もちろん、旅行客はみんな、トローリーを押しての記念撮影をして
いました。

ロンドン。ちょっとしたいびつな都市になっていたのには驚きました。
アジア系の移民、インド系の移民やその二世たち、スペイン系の
移民、イタリア系の移民、EUに加盟したばかりの東欧圏の移民、
あまりに多種の移民があらゆる売店、カフェ、レストラン、ホテルに
いる状態で、「英語が通じない」都市になってきています。

とくにチェコやポーランド系の移民の多さに驚きました。
今後、近々EU加盟国が増えることになっているので、その問題を
ニュースで(BBCで)、頻繁に取り上げていました。

インド系二世の人たちは、イスラム教徒も多く、去年のバステロ事件、
今回の旅客機テロ未遂事件に関連しているようです。ロンドンで
イギリス人のフリをして育った敬虔なイスラム教徒が、大人になった
末に急進派になっている、というような報道が目に付きました。
(インド、というよりもパキスタンのようですが)

イギリスがイスラム国家になってほしい。イギリス人は酒飲みで
モラルが低い。イギリス人の女性は服装が乱れている、女性を
商品として見下している。同性愛なんて許せない!というのが
ムスリム(イスラム教徒)の考え方のようです。

かといって、二世は、帰れる国があるわけでなし。
英語を話し、イギリスの教育を受け、国家転覆を図っている。
何かがどこか、おかしいですよね。

日本でも、似たような図式があるわけですが…。

ロンドンの物価の高さにも驚きました。1ヶ月いた間も、どんどん進む
インフレを肌で感じました。ロンドン塔なんて、家族4人で入れば
43ポンド。1ポンド210円〜240円を推移していたので、入場料
だけで、1万円?!とため息ついて、外から眺めて帰ってきました。

ロンドンから電車で40分もいけば、ごくごく普通のイギリス的風景と
昔からずっとイギリス人だった人たちに囲まれます。ロンドンだけが
おかしい、と痛感しました。

物価の高さ、インフラの整っていない状態で、ほんとにオリンピックを
開催するんでしょうか?!と思ったのが正直な感想です。
日本円が大暴落していた、というのも確かですが。

お土産としてちょこちょことE子に持たせました。
喜んでもらえたようでなによりです。

SKでした。

【はやし浩司より、SKさんへ】

SKさんへ、

拝復

おみやげ、+メール、ありがとうございました。

おみやげについては、イギリス人の味に感動しました。
「ああ、これがイギリスの味なんだ」と、です。

ほとんど世界中へ行ったことがありますが、イギリス
だけは、立ち寄ったこともありません。

「いちか……」と思いつつ、「スコットランドだけは死ぬまでに……」と
思いつつ、こんなに年月だけが過ぎてしまいました。

スコットランドは、中学生のときから、あこがれていました。

「ロッホ・ローモンド」とか、「アフトン川」とか、そういう歌の
中でしか知らない地名に、あこがれました。
それにオーストラリアの友人の親たちの多くが、
スコットランド出身ということもあって、さらに、興味をもって
います。

あのウィリアム・ウォレスのスコットランドです。

今も、その気持ちは変わりません。

いただきました(お菓子)は、みなで、分けて食べました。
みな、はじめての味に、かなり戸惑っていたようです。

で、あの写真ですが、やはり、ハリーポッターに関する
写真でしたか。

私が、はじめ「そうだ」と言ったのですが、「ロンドン駅のではない。
キングスクロ駅のだ」と、お嬢さんが教えてくれました。

文字が少し読みづらかったので、目をこらして注意書きを
読むと、「この場所から、荷車を動かすな」とか、書いて
ありました。

久しぶりにお嬢さんに会いました。「ますます、頭がよくなったね」と
ほめてやったら、うれしそうでした。外国生活が、そのつど、
すばらしい刺激になっているようですね。

うらやましいです。

ロンドンの話ですが、それだけ実質的に円安になったという
ことですね。ユーロが暴騰していますし……。

今から30〜40年前の世界に戻りつつあるように思います。
当時、1ポンドが、確か1万円前後で、それを知った
だけで、「イギリスは金持ちなんだなあ」と、よく、ため息を
ついたものです。

ちなみにオーストラリアドルは、1ドルが400円の時代でした。

そうそうオーストラリアのメルボルンでも、アジア人が急増して、
それなりの問題を、あれこれ引き起こしているようです。

こうして世界は、……先進国は、「世界国家」へと向かって
いくのでしょうか?

今朝は、こうして4時起きです。これから数時間だけが、
私がものを書く時間=私の時間です。夏は暑くて、
昼間は、書斎に入る気さえ起きません。ゴロ寝ばかりです。

なお、いただきましたメールですが、プライベートな部分などは
伏せて、マガジンに掲載してもよろしいでしょうか。

よろしくご了解ください。いつもすみませんが、よろしくお願い
します。

8月もあと少し。昨夜ワイフが、「もう8月が終わるのオ?」と
驚いていましたが、私は、「新しい9月がやってくるんだよ」と
言い返してやりました。

いつまでも前向きに生きていきたいです。

おはようございます!

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●息子のEへ、

++++++++++++++++

マガジンで紹介している、息子の
ビデオが、何かしらの賞を取りそうな
雰囲気になってきた。

息子のBLOGから記事をそのまま
紹介する。

++++++++++++++++

【息子、EのBLOGより】

TUBEに載せているDepartureが、2006年8月現在で8000ヒットを超え、コイツのおかげで
このブログのヒット数も、載せる前の約2倍に膨れ上がった。なるほど、こうしてヒット数を増や
していけばいいのかと、よい勉強になった。

 軽い気持ちで作ったDepartureだが、方々の人たちから、ほんとに沢山の好評をいただき、
大変嬉しく思う。航大生はもちろん、その家族や、航大を目指す人、空や飛行機が好きな人な
どから嬉しいメールをいただいた。映像も音楽も、見る人・聞く人が最後にそれを完成させるの
だと思う。僕の作品をいいものにしてくれた視聴者の皆さんに、厚くお礼を言いたいと思う。

 先日、航大の監事、教頭に呼び出され、何かと思って行ってみたら、Departureを見たよ、素
晴らしかった!、と褒めてくれるではないか。訓練中にビデオばかり撮って!と怒られるものだ
とばかり思っていたから、意外だった。で、今度このDepartureが、正式に航大のホームページ
に載るらしい。音楽は省かれるみたいだけど。

 さらに、このDeparture、『Fish eye 2006』という、国際映画祭・アマチュアビデオコンテストに
出品されることになった。まだ国内予選の段階だが、もし通れば、ロシアはイルクーツクで行わ
れる本選に、ただ(無料)で行けるらしい。当然僕は行けないので、誰か代わりに行ってもらう
ことになるだろうけど、何だか面白いこになってきたと、わくわくしている。このコンテストについ
ては、また動きがあり次第、このブログで紹介します。とりあえず本日、応募用紙と共に、担当
の方に渡しました。

 でも本当のことを言うと、僕自身、この映像に対する他人の評価なんてあまり興味がな
い・・・。一番楽しみなのは、何年後かにこの映像を再び見たときの、自分や、同期の反応であ
る。きっとめちゃめちゃ懐かしくなって、涙するに違いない。


【パパより、Eへ】

 今朝、DENISEさん(二男の妻)から、メールが入っていたよ。その中に、こんな一文があっ
たよ。

……"The sin is not in failing. The sin is 
not in trying at all." I don't know who said that, but it has stuck 
with me ever since I first heard it.……

 「失敗することは、罪ではない。罪というのは、何もチャレンジしないことだ」と。だれがそう言
ったかは忘れましたが、それを聞いたとき、私は、この言葉に感動しました。

 この文を読んで、「そうだなあ」と思ったよ。

 今は、思う存分、何でも好きなことをしたらいい。遠慮なんか、しなくていい。結果なんてもの
はね、いつでも、あとからついてくるものだよね。

 お前の書いた、「……でも本当のことを言うと、僕自身、この映像に対する他人の評価なんて
あまり興味がない・・・。一番楽しみなのは、何年後かにこの映像を再び見たときの、自分や、
同期の反応である。きっとめちゃめちゃ懐かしくなって、涙するに違いない」という部分が、大好
きだよ。

 ぼくも、若いときから、他人の評価など気にしなかった。どう思われようと、知ったことか……
というような生き方をしてきたからね。そういう意味では、ぼくも、思う存分、自分の人生を生き
てきたという実感が、ある。

 お前ほどではないかもしれないけれどね。

 いつも、人生を楽しませてくれて、ありがとう。体に気をつけて、元気でがんばってほしい。

 ところでお前も何度か会ったことがある、あの田丸先生ね、このところ、少し体調を崩されて
いるみたいだ。昨日も、弱気なメールが届いた。それでね、ぼくも、少し、落ちこんでしまったと
いうわけ。

 ぼくも、田丸先生といっしょに過ごした、あのメルボルン大学での学生時代が、人生の中で、
もっとも輝いているよ。そのとき書いた日記が、『世にも不思議な留学記』だよ。今でも、それを
読むと、涙がポロポロとこぼれてくるよ。

 青春時代というのは、決して、人生の出発点ではないよ。人生のゴールだよ。その時代が、
いつも、ぼくたちの人生を、灯台のようになって、導いてくれるよ。今という時代を、大切に、大
切に、どこまでも大切に、生きてほしい。自分に正直に、ね。

 では、賞の結果がわかったら、また教えてほしい。

 パパ公より
 (8月29日)

Hiroshi Hayashi+++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1504)

【今朝・あれこれ】(8月30日)

●JBちゃん事件

 「これで解決!」と思われたのが、あのJBちゃん事件。元教師のカーという男が、「私が殺し
た」と、当局に申し出たからである。

 が、DNA鑑定の結果、シロ。当日は、別の場所にいたという、証人も出てきた。アメリカ・コロ
ラド州の地方検察局は、カー容疑者の訴追を断念したという(28日・中日新聞)。

 私は、当初から、JBちゃんを殺した犯人は、もっと近くにいると思っていた。今も、その思い
に、変わりはない。だからカーという男が、「私が殺した」と申し出たときには、自分の耳を疑っ
た。「そんなはずはない」と。

 だれが殺したかは、ここには書けない。書けないが、警察当局は、もう一人調べるべき人物
を、どういうわけか、まったく調べていない。JBちゃんの両親も、その人物の調査には、まった
くといってよいほど、非協力的だった。私は、その人物が、犯人だと思っている。


●学力格差

公立小中学校長の約9割が、「20年前に比べて家庭の教育力が低下している」と受け止め、
「将来、学力格差は広がる」と見ていることが、29日、東京大学基礎学力研究開発センターの
全国調査で明らかになった(読売新聞)。

 「学力とは何か」という定義もむずかしいが、私も、実際、「そうだ」と思っている。いろいろ理
由はあるだろうが、私は、つぎの4つを、あげる。

(1)子どもの世界の多様化
(2)教育の無責任化
(3)学歴信仰、学校権威の崩壊
(4)親の価値観の変化

 また同調査によると、

「子どもの学力が20年前に比べ下がった」とみるのは小学校で42%、中学校では57%。小
学校の76%、中学校の65%が「子どもを教えにくくなっている」と答えたという(06年・7〜8月
期、全国の小中学校の約3分の1の1万800校を対象に行われ、約4割の校長から回答・読
売新聞)。

 「教えにくくなった」ことについての第一の理由は、言うまでもなく、子どもの学力格差が大きく
なったこと。

 勉強をする子どもは、する。しない子どもは、しない。そのシロ・クロが、はっきりしてきた。も
っと言えば、子どもに勉強をさせる親は、させる。させない親は、させない。

 たとえば小学2年生で学ぶ、掛け算の九九にしても、1年生でスラスラと言える子どもがいる
半面、小学5、6年生になっても、あやふやな子どももいる。

 そこで、小学校の76%の教師が、「教えにくくなっている」と。しかしこれは、何も、学習面だ
けの問題ではない。ある女性教師(小学校)は、私の家に来て、こう言った。

 「勉強以前の問題もあります」と。つまり家庭が、家庭として成りたっていない家庭も多くなっ
た、と。茶パツの子ども(小2)がいたので、それをやめるように親に指導しようとしたら、反対
に、親に怒鳴られてしまったとか。「個性の問題に、学校は、口出しをするな!」と。

 つまり相対的に、教師の権威が、さがってしまったということらしい。今では、子どもどうしで、
何かトラブルがあると、親たちはすぐ、「いじめだ!」と騒ぐ。先生が、頭を軽く叩いただけで、
親たちはすぐ、「体罰だ!」と、騒ぐ。

 私もあちこちの学校へ講演に行くたびに、「教えにくくなった」という話を耳にする。

 で、学力格差が生まれた。子ども自身の能力の問題もないわけではないが、格差が大きくな
ればなるほど、学校では、授業そのものが、成りたたなくなる。

 まだ足し算や引き算があやふやな子どもに、どうして掛け算や割り算が教えられるのか。掛
け算では、足し算をしながら積を出す。割り算では、引き算をしながら、商を出す。

 この問題を解決するためには、2つの方法しかない。

(1)習熟度別指導
(2)個別的指導、である。

 私の実験教室では、(2)の個別的指導をしている。「進みたい子どもは、進みなさい」「わか
らないところがあれば、わかるまで、そこで学習していなさい」という指導法である。しかしこの
方法では、最大でも、1クラス、15人程度が限度。それ以上は、無理。が、少なければ少ない
ほど、よいというのでもない。

 学習には、ある程度の緊張感が必要である。つまりは子どもどうしの刺激が必要である。少
なすぎると、(たとえば4〜5人程度だと)、その緊張感が生まれない。

 私の経験では、小学1〜3年くらいまでは、一斉指導でも構わないが、小学3年の中ごろから
は、(1)の習熟度別指導、あるいは(2)個別的指導が望ましいと思っている。

 要は、教育自体が、環境の変化に応じて、フレキシブル(柔軟)に対応するということ。そのた
めに、教育は、より自由化されなければならないということ。今のように、北海道から沖縄ま
で、そのつど、全体の意思統一を図りながら……というシステムでは、こうした変化に、柔軟に
対応することはできない。

 アメリカなどでは、公立小学校でも、(公立小学校でもだぞ!)、PTAで話しあって、児童の入
学年まで、決めている。ちなみに、私の孫は、4歳になったばかりだが、この9月から、地元の
小学校に入学することになっている!

 そういうのを、「自由」という。

 これから先、学力格差は、大きくなることはあっても、小さくなることはない。とくに公立校と私
立校の格差は、大きくなる。そのため、ゆくゆくは、公立学校の民営化ということも、ありえなく
はない。今は、その前兆期と考えてよいのではないだろうか。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1505)

●おとなと子どもの境目(スーパーマン・リターンズ)

++++++++++++++++++++

子ども(生徒)たちを連れて、
『スーパーマン・リターンズ』を、見てきた。

おもしろかった。楽しかった。よかった。

星は、文句なしの5つ。★★★★★!

で、映画の中で、瀕死のスーパーマンのところへ、
ロイス・レインがやってきて、何かをつぶやく。

問題は、このシーン。

ロイス・レインは、そのとき、スーパー
マンに、何と言ったか?

それがわかる人を、おとなといい、
わからない人を、子どもという。

++++++++++++++++++++

 子ども(生徒)たちを連れて、『スーパーマン・リターンズ』を見てきた。ブランドン・ラウス主演
の新作、『スーパーマン』である。

 まず、冒頭の宇宙を航行するシーンに圧倒される。息をのむというか、息がつまるというか…
…。「光速で宇宙旅行をすると、こうだろうな」と、ふと思った以外は、頭の中が、からっぽにな
ってしまった。

 で、感想は、文句なしの、星、5つ。おもしろかった。楽しかった。よかった。20数年前、家族
全員で前作シリーズを見に行ったときのことを、つい先日のことのように思い出した。なつかし
かった。

 今回は、自分さがしのために宇宙へ出ていたスーパーマンが、5年ぶりに地球へ戻ってくると
いうシーンから始まる。が、20数年間の5年後ではない。現代という5年後である。新型のスペ
ーズシャトルの実験機が飛ぶ、現代である。液晶テレビや液晶パソコンが、ところ狭しと並ぶ、
現代である。

 最初、少しだけ「?」と思ったが、かえって、そのほうがよかったのかもしれない。私は、どん
どんと映画の中に、吸いこまれていった。

 ところで宇宙を光速で飛ぶと、地球時間との間にズレが生ずるという。たとえば宇宙を、光速
で数時間飛んでみたら、(いかに光速に近いかにもよるのだろうが)、地球上では、5年間が過
ぎていた……ということもありえる。今回の映画も、そういうふうに考えると、納得できる。

 スーパーマン自身は、ほんの数時間、地球を離れていた。しかし地球では、その間に、5年
も、過ぎていた。

 で、地球にもどってみると、スーパーマンの恋人だったロイス・レインは、別の男性と、婚約し
てしまっていた。しかも1人の子ども(男児)までできていた。失意の中で、スーパーマンは、心
を取り乱す……。このあたりは、娯楽映画とはいえ、実にていねいに描写されている。一級の
ロマンス映画に、優(まさ)るとも劣らない映画と言ってもよい。

 そこへいつもの悪役、レックス・ルーサーが登場する。この組みあわせは、前作シリーズと同
じ。いろいろあって、スーパーマンは、人類の危機を救ったところで、力尽き、倒れる。

 さて、いよいよ問題のシーン。

 人間で言えば、スーパーマンは、生死の境をさまよう、昏睡状態になる。そのときのこと。ロイ
ス・レインが、そのスーパーマンのところへやってきて、枕元で、何かをスーパーマンに伝える。

 もちろんその部分のセリフは、ない。ないが、その内容がわかる人を、(おとな)といい、わか
らない人を、(子ども)という。つまりそのことを、今回、子ども(生徒)たちといっしょに見て、知
った。

 映画館を出たとき、子どもたちに、こう聞いてみた。「あのとき、ロイス・レインは、スーパーマ
ンに何と言ったかわかる?」と。

 すると、全員、「わからない」と答えた。子どもといっても、今回、連れていった子どもたちは、
小学校の高学年児(小4〜6、8人)。どの子どもも、それぞれの学校で、トップクラスの、優秀
な子どもたちである。

 私は、「わからない」と答えた子どもたちの顔を見ながら、「そういうものだろうな」と、納得し
た。いくら知的な意味で、すぐれた子どもでも、子どもは、やはり子ども。そこには、限界があ
る。おとなにならないと理解できないことがある。

 が、私や同行してくれたワイフは、すぐわかった。

 ロイス・レインは、こう言った。「あの子は、あなたの子よ」と。

 まあ、こんなところで、答を言ってしまって、ごめん。これから映画を見に行こうとしている人も
いるだろう。しかしそれがわかるかわからないかで、(おとな)と(子ども)の境目を知ることがで
きる。

 もしあなたがあなたの子どもを連れて、この映画を見る機会があったら、そのあと、あなたの
子どもに、こう聞いてみるとよい。

 「あのとき、ロイス・レインは、スーパーマンに何と言ったかわかる?」と。

 それであなたは、あなたの子どもが、(子ども)か、それとも(おとな)か、それを知ることがで
きる。

 お楽しみに!

 ともかくも、今回の『スーパーマン・リターンズ』は、子どもの映画というよりは、おとなの映画。
子どものころ、テレビ映画で、胸をワクワクさせたことがある、そんなおとなのための、おとなの
映画。

久々に、楽しい映画を見た。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●謎の訪中劇 

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現在(8月30日)、K国の金xxxは、
中国を訪問中(?)であるという。

金xxが使用する、特別列車は、偵察衛星
などによって、現在、中国国内にあることが
確認されている。

では、その目的は、何か?

++++++++++++++++++

ヤフーニュースは、韓国発として、つぎのように伝える。

「K国の金xxの訪中説が国際社会の関心を集めている。K国の特別列車が中国に到着したこ
とが衛星から確認されたという話や、金xxはすでに北京訪問を終えて平壌に戻っているとの情
報もある。が、韓国政府当局者は30日にこのどちらも事実ではないと否定、あらゆる可能性
を念頭に置き状況把握に努めていると説明した」と。

 こういうとき、だれも書いてないことを書くのは、楽しい。勇気がいるというより、楽しい。

 私は、こう思う。思うだけで、根拠はないが、しかしそう考えると、一連の不可解な(動き)を、
うまく説明できる。

 まずすべての大前提として、現在、金xxの健康状態は、きわめて悪い。心臓病や肝臓病が
取りざたされているが、私は、ここにきて持病の糖尿病が、急速に悪化しているのではないか
と思っている。

 金xxは、今年に入ってから、激ヤセをしている。それにどこへ行くにも、サングラスをかけて
いる。激ヤセは、糖尿病末期の患者、特有の症状。サングラスをかけるのは、糖尿病網膜症
のためとも、考えられる。

 そこで私は、少し前、この時期に訪中するというようなことがあれば、病気治療が目的ではな
いかと書いた。が、それについては、韓国政府当局者は、金xxの訪中説を否定している。金xx
のような男が、中国国内をウロウロしていれば、だれの目にも、とまるはず。胡錦涛(こきんと
う)国家主席に会うために訪中したというのであれば、なおさらであろう。

 では、金xxは、今、どこにいるのか?

 私は、金xxは、K国内にいると思う。となると、現在、中国国内にあるとされる特別列車は、
何のためかということになる。

 そこで私の推理。先にも書いたが、ここから先に書くことは、あくまでも、私の推理。その私
は、こう思う。

 特別列車は、中国で、それなりの人物ご一行様を迎えるためのもの。ズバリ言えば、金xxの
病気治療に必要なドクターたちを乗せて帰るためのもの。わざわざ列車じたてにしたのは、そ
れなりの治療機材を積みこむためである。

 仮に糖尿病であり、それが悪化したとすれば、人工透析器や、その周辺の検査器具、治療
器具であることも、じゅうぶん、考えられる。人工透析治療のための器具一式ということになれ
ば、かなりの重量になる。飛行機で運ぶのは無理だが、列車なら、可能である。

 ならば、何も特別列車など、さしむけなくてもよいではないかと思う人もいるかもしれない。中
国側が、自分たちの列車で、運びこめばよい。しかしそこが儒教文明国家。西欧文明を受けい
れたわれわれとは、発想そのものが、ちがう。古典派に属する日本人ならわかると思うが、そ
れが、彼らが言うところの、「礼儀」「作法」ということになる。

 金xxという男は、以前から、そういうことには、いつも、おかしな(こだわり)を見せる。自分の
命にかかわるということであれば、なおさらであろう。

 ……というのが、私の推理だが、しかしそう考えると、ここにも書いたように、一連の不可解な
(動き)を、うまく説明できる。あまり自信はないが、私は、そう思う。
(この原稿は、8月31日に書いたものです。)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

●対米追従外交?

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たしかに日本の外交は、戦後一貫して、
「対米追従外交」(経済評論家・T氏談)
である。

事実は、事実。それは、もうだれの目にも、
疑いようがない。

しかし一方で、国際外交は、どこまでも
現実的でなければならない。

現実を見失ったとき、国際外交は崩壊する。
同時に、その国は、進むべき道を、
見誤る。

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 対米追従外交を、批判する人は多い。経済評論家のTJ氏も、そのひとりである。三井物産
時代のかつての同僚ということで、肩をもちたい気持ちもないわけではないが、ならば聞く。今
の日本にとって、どうして対米追従外交であってはいけないのか。

 「追従」「追従」というが、追従しなければならない「現実」がそこにある。

 あの中国は、ものの10分足らずで、(あるいは数分で)、日本中を廃墟と化すことができる。
それだけの核兵器を、すでに保有し、実践配備をすませている。

 忘れていけないのは、戦争というのは、兵器だけでするものではないということ。日本にとっ
て脅威なのは、兵器もさることながら、その兵器を底流で支える、士気である。反日感情であ
る。中国人がもっている、その反日感情には、ものすごいものがある。

 いったんどこかでそれに火がつけば、悲しいかな、今の日本に、それをくい止めるだけの武
器もなければ、実力もない。もっとわかりやすく言えば、日本の平和がかろうじて守られている
のは、(中国側から見れば)、その背後に、アメリカという巨大な軍事国家がひかえているから
にほかならない。

 また在日米軍を支えるための、多額の負担金を問題にする人もいる。たしかに日本は、20
06年度だけでも、「思いやり予算」(=在日米軍駐留経費)と称して、2326億円もの負担金を
支払っている。先に問題になった、沖縄からの基地移転費用についても、これとは別に、「35
00億円までなら支払ってもよい」と、日本側は、回答している。

 この額を多いとみるか、少ないとみるか?

 仮に日本有事ということにでもなれば、日米安保条約が発動されて、日本は、アメリカ軍の庇
護下に入る。が、そのときアメリカ側が負担する金額は、ぼう大なものになるはず。あの韓国で
さえ、こんな試算を出している。

「朝鮮半島有事の際には、韓国は、アメリカから1300兆ウォン(約158兆円)分の軍事装備
を、無償で借りることができる」(朝鮮日報・K論説委員)と。(158兆円だぞ!)

 現に今、となりのK国は、日本攻撃を目的として、核兵器を開発している。が、そのK国に対
して、この日本には、満足な交渉能力すら、もっていない。拉致問題ひとつ解決できない日本
が、どうして核開発問題を解決できるというのか。

 韓国にしても、いまや日本の同盟国と考えている人は、ほとんど、いない。いつなんどき、中
国と手を組んで、日本に襲いかかってくるか、わかったものではない。K国とさえ、手を組むか
もしれない。少なくとも、現在のN大統領政権というのは、そういう政権である。

 日本は、そういう立場である。つまりそういう立場であることを棚にあげて、「自主権」なるもの
をいくら唱えても、意味はない。わかりやすく言えば、日本は、アメリカに追従するしか、今のと
ころ、生き残る道はない。「追従」という言葉に語弊(ごへい)があるなら、「密接な協調」でもよ
い。

 戦後、日本という国が、かろうじて平和を保つことができたのは、日本人が、平和を愛したか
らではない。(こういうばあい、「愛する」という言葉は、腸から出るガスくらいの意味しかないが
……。)

 日本が平和を保つことができたのは、背後にアメリカ軍がいたからにほかならない。が、もし
アメリカ軍がいなければ、そのつど日本は、毛沢東・中国、スターリン・ソ連、金日成・K国、さら
に李承晩・韓国に攻撃されていただろう。これまた悲しいかな、日本はそういうことをされても
文句が言えないようなことを、先の戦争でしてしまった。

 日本は、アメリカに追従せざるをえなかったし、基本的には、今も、その状態はつづいてい
る。それが「現実」である。

 もちろん私も、このままではよいとは思っていない。いつか日本も、アメリカから独立し、日本
は日本として、独自の道を歩まねばならない。しかしその前提として、この極東アジア、東北ア
ジアに、相互の信頼関係が築かれなければならない。それがないまま、「日本は日本だ」「日本
が国内で何をしようが、日本の勝手」と言い切ってしまうのは、今の日本にとっては、きわめて
危険なことである。

 その一例が、日本のK首相によるY神社参拝問題ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司
 
●息子のBLOGより

+++++++++++++++++

息子のBLOGに目を通す。

若いころの自分が、そこにダブる。
目頭が、熱くなる。

忘れかけていた青春時代、
それを息子が、思い出させてくれる。

なお、息子に電話で聞いたところ、
「生地」は、「せいち」と読むそうだ。
いわゆる飛行場のこと。

ソロは、単独飛行、
ログは、計画表、
shipは飛行機のことだそうだ。

なお2生地ソロというのは、2つの飛行場を、
単独飛行で回ることを意味する。

+++++++++++++++++

【三男のBLOGより】

2生地ソロに行ってきた。

 朝から何だかすごく緊張していた。2生地は、ログが膨大な量になる:MAX12枚くらい(普段
は1枚程度)。そのため、前日の準備が半端なくきつい。せっかく準備したのに、天気が悪くキ
ャンセル、…なんてことが続いたら、本当、死んでしまう。で、今日は2日目のトライ。何が何で
も飛んでやる!、という意気込みが、余計に緊張感を誘ったのかもれない。

 ソロの最低気象条件は普段の訓練(教官同乗の)よりも、かなり厳しい。それを何とかかいく
ぐって、2生地実行にこぎつけた。一人でshipに乗り込み、エンジン始動の準備をしていると、
いきなり機体が大きく揺れた。びっくりして後ろを振り返ると、Y教官が笑ってこっちを見ている。
教官がふざけたのだ。こうして、教官は僕の緊張をほぐしてくれる。いつも。

 ランナップ済ませ、離陸するために、いよいよランウェイに進入する。一旦停止し、離陸のプ
ロシージャーを開始すると、原因不明の涙がこみ上げてきた。最後のソロ・フライトだからなの
か、緊張が一瞬ほぐれたからなのか、今でも原因はわからない。

でもあの瞬間を思い出そうとすると、やはり胸がいっぱいになってしまう。まっすぐ伸びたランウ
ェイ。その向こうには、この世で一番美しい真っ青な空だけが広がっている。僕がそこに飛び
込むのを待っている。すべてを忘れ、ただまっしぐらにそこへ助走を開始する。地上の嫌なこと
もめんどくさいことも、すべて洗い流してくれる、あの青の中を目指して…。

++++++++++++++++++

 三男のBLOGは、私のHPのトップページより、ご覧になっていただけます。息子も、アクセス
数がふえることを、何よりも楽しみにしているようです。もし興味のある人がいたら、どうか、見
てやってください。お願いします。

(親ばかより)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1506)

【息子の嫁より】

+++++++++++++++++

息子の嫁からのメールを読んでいると、
ときどき、日本人にはない発想に驚く。

たとえば自分の子どもについても、
「生まれた」とは言わない。

「やってきた(came)」と言う。

「私たちの家にやってきた」と。

子どもに対する考え方が、基本的な部分で
日本人とは、ちがうように思う。

+++++++++++++++++

 先日、息子が、突然、BLOGの閉鎖を宣言した。私は、少なからず、心配した。BLOGの中
で、このところ、「疲れた」と書いていることが目立った。それでそのことを心配して、Denise
(デニーズ)に、メールを書いた。その返事が届いた。

+++++++++++++++++

【デニーズより、はやし浩司へ】

Hello, Hiroshi! 

Thank you for your email. It is very touching that you care so much 
About  Soichi. 
ソウイチについてのお気遣い、ありがとうございます。

I wondered also why he decided to stop using his blog and asked him 
yesterday. He told me it was because he had not been posting entries 
very often lately and that he had less free time than before Mae came, 
so he needed to cut out some extra activities.

私もどうしてソウイチが、BLOGを閉鎖すると決めたのかと思い、昨日、ソウイチに聞いてみま
した。で、ソウイチが言うには、芽衣が生まれて、何かと忙しくなったからだと言いました。

He is happy in his personal life, I know, but he 
wants to strive for more professionally. (He doesn't say that to me 
because he doesn't want me to worry about him, but I know it's true.  

彼は私生活では、幸福です。私も、ソウイチがもっと専門的な仕事をしたいという気持ちがある
ことを知っています。(彼は、私に心配をかけまいとして、それを私には言いませんが、それは
事実です。

We all need to feel accomplished in some way or another.) He is trying to 
develop a new software program that he hopes will change the computer 
world dramatically (mostly for software engineers).  

私たちは、みな、それぞれ何かの方法で、満足感を覚えることが、必要です。)
ソウイチは今、コンピュータの世界を、劇的に変えるソフトウェアの開発に取り組んでいます。
(とくにソフトウェア開発技師にとって、ですが。)

He started it at the beginning of this year and his goal is to finish it by the beginning 
of next year. Things are going well, but in order to finish on 
schedule, he has to focus more of his time and energy on it.

彼はそれを今年のはじめに始め、来年のはじめに完成させるつもりでいます。
ものごとはうまくいっていますが、スケジュールどおりすますためには、彼はもっと多くの時間
と、エネルギーを、それに集中させねばなりません。

I've told him that I'll try to entertain the kids more at night so he 
can work on his project. But he wants to wait until they are asleep at 
9:00. He's really a great dad. 

夜は私が子どもたちのめんどうをみるからとソウイチに言いましたが、彼は9時に子どもたち
が眠るまで、仕事をするのを、待ちたいと言っています。彼はすばらしい父親です、

 I think you'd be amazed if you could 
see how he interacts with Sage and Mae on a daily basis. He plays with 
them a great deal, helps Sage ride his bicycle, and reads Japanese 
stories to him before bed every night. They are really lucky kids!

ソウイチが、日常レベルで、誠司や芽衣のいかにめんどうを見ているかを知ったら、あなたも
驚くと思います。子どもたちとよく遊んでくれます。誠司に自転車の乗り方を教え、毎晩、日本
の物語を、誠司に読んできかせています。子どもたちは、本当にラッキーな子どもたちです。

I think the only thing you could possibly do to help him is just to let 
him know if you are proud of him. I think adults need as much 
encouragement as children; we just don't show the need as freely as they 
do. I know Soichi respects you a lot, and your opinion means a great 
deal to him.

もしあなたにお願いできることがあるとするなら、ソウイチに、あなたがソウイチを誇りに思って
いるということを、知らせてほしいということです。

おとなも、子どもと同じように、励ましが必要です。それを自由に、口に出して言わないだけで
す。ソウイチは、あなたを、たいへん尊敬しています。そしてあなたの意見は、ソウイチには、
たいへんな意味をもっています。

He really believes in his product, and I'm glad that he wants to live 
his dream. I love the quote, "The sin is not in failing. The sin is 
not in trying at all." I don't know who said that, but it has stuck 
with me ever since I first heard it. I'm glad that he is trying. So 
many people give up on their dreams too early.

彼は今、自分のしていることの価値をよく知っています。彼は自分の夢を実現したがっていま
す。私は、こんな言葉が好きです。「失敗することは、罪ではない。何もチャレンジしないこと
が、罪である」と。だれが言ったのかは忘れましたが、はじめて聞いたときには、心を打たれま
した。私は、ソウイチが、チャレンジしていることがうれしいです。だって、そんなにも多くの人た
ちは、自分の夢を、早くからあきらめてしまうからです。

How are you and Akiko? We are all well. Sage starts school again on 
Wednesday. This year he will attend three days a week from 8:00-3:00.  
It is much longer than last year, but he seems very excited.

アキコはいかがですか? 私たちは、みな、元気です。誠司は、水曜日から、学校に行きま
す。今年は、週に3日だけ、朝8時から3時まで、通います。去年よりずっと長くなりますが、誠
司は、それを喜んでいます。

Thank you also for the video you sent with Shuichi. Sage thoroughly 
enjoyed it!

ビデオを送ってくださって、ありがとうございます。ソウイチは、それをたいへん喜んでいまし
た。

Denise

デニーズ

+++++++++++++++++++

 デニーズに無断で、勝手に転載してしまった。最初は、私のワイフのために翻訳するつもりだ
った。が、こうして改めて、翻訳してみると、何とも言えない切なさを覚える。1組の、本当に心
から愛しあっている夫婦が、今、懸命に生きている。たがいに励ましあいながら、助けあいなが
ら、生きている。

それが何と言えないほど、私には、切ない。

息子は、本当にすばらしい女性と結婚したと思う。デニーズは、私が息子を誇りに思っている
と、息子に伝えてほしいと言う。もちろん私は、彼が子どものときから、息子を誇りに思ってき
た。今もその気持ちは変わっていない。しかし今、それ以上に、私はデニーズを誇りに思い、そ
ういう妻を選んで結婚した息子を誇りに思っている。

 Denise, I AM proud of you as well as my son, and I AM proud of my son who married to 
such a wonderful lady, Denise. 

 デニーズへ、息子と同じくらい、あなたを誇りに思っています。そしてあなたのようなすばらし
い女性と結婚した息子を、誇りに思っています。

++++++++++++++++

二男について書いたエッセーを
思い出しました。

それをここに掲載します。

【ソウイチへ、】

どうか、このエッセーを、デニーズに
訳して読んであげてほしい。

++++++++++++++++

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。

二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてか
ら女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る
予定の友だちが、体力がないため、落とされそうだから」と。

その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもという
よりは、対等の人間として見るようになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。

が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房が、「ソウイ
チよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 
(中日新聞投稿済み)


Hiroshi Hayashi++++++++++Aug 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1507)

【子どもと受験】

●涼しい朝

++++++++++++++++

先ほど、Dさん(BW生の母親)から
メールが届いた。

その返事を書いた。

++++++++++++++++

 昨夜から降り始めた雨。そのせいか、今朝は、ぐんと気温が下がった。寒さを感ずるほど、
涼しい朝だ。言い忘れたが、今日は、9月1日。金曜日。

 こうして私はいつも、約1か月先の原稿を書いている。この原稿がマガジンに載るのは、9月
29日、金曜日。そのころ、私はどうなっているだろう……? 日本はどうなっているだろう…
…?

 マガジンを発行するようになって、困ったことがひとつある。こうして1か月先の原稿を書いて
いるせいか、ときどき今が、何月で、何曜日か、それがわからなくなるときがある。何日かがわ
からなくなるときもある。子ども(生徒)たちに、「今日は何日だったっけ?」と、聞くこともある。

 そういうとき子どもたちは、ふと心配そうな顔をしてみせる。「この先生、ボケたのかな?」と。
それは私の考えすぎかもしれない。が、私は、そう感ずる。

 ところで脳みその健康には、2つの意味がある。

 ひとつは、脳みそそのものが、健康であること。そういう意味では、ボケは、立派な病気であ
る。うつ病になったり、神経症や心気症(病気が過大に気になる)になったりするのも、立派な
病気である。

 もうひとつは、ものの考え方が、正常であること。「正常」の定義はむずかしいが、要するに、
ゆがんでいないこと。おかしなカルト教団に身を寄せたり、極端な思想に染まったりするのは、
立派な病気と考えてよい。

 で、どうすれば、その病気を予防することができるか。

 脳みそそのものの健康は、(考えること)で予防できる。つまりジョギングをしたりして、肉体の
健康を維持するように、脳みそもまた、日々に鍛錬することで、その健康を維持することができ
る。

 つぎにものの考え方を正常にする方法だが、ひとつの方法として、(子どもに接する)というの
がある。童心にかえって、子どもと接する。子どもの世界に飛びこむ。子どもといっしょになっ
て、人生を楽しむ。

 そういうとき私は、それだけで自分の心が洗われていくような錯覚を覚えるが、同時に、その
とき、私の脳みそは、正常になっているのかもしれない。言うまでもなく、子どもの世界では、ウ
ソやインチキは通用しない。

 ところで、今朝、Dさんという小5男児をもつ母親から、メールが届いた。Dさんは、どこかの
進学塾の説明会に行ってきたという。子どもの入塾テストでは、満点だったという。

 で、その説明会で、電話帳のように分厚いテキストを見せられ、つぎに講師がこう言ったとい
う。

 「……うちでは、成績順に席を並べます……」「……絶対、目標の学校に合格させてみせます
……」と。

 結局Dさんは、入塾を思いとどまったという。「勉強というのは、笑顔でするもの」と。

 教えを乞うべきほうは、むしろ、おとなのほうである。進学塾の講師のほうである。そんな家
畜でもしないような指導法を、「教育」と思いこんでいる、講師のほうである。私は、Dさんに、つ
ぎような内容の返事を書いた。


 「受験というのは、すべったときのことを考えて準備します。恐怖と競争で子どもを追い立てれ
ば、それなりの効果はありますが、しかし効果は一時的。それよりももっと、こわいことは、それ
によって、子どもの心が、粉々に破壊されてしまうことです。

 合格すればしたで、不合格になれば、なおさら、子どもの心は、粉々に破壊されてしまいま
す。やさしさや、温もりが消えます。受験塾へ入ったとたん、心がゾッとするほど、冷たくなる子
どもとなると、珍しくありません。親は、『やっと、気構えができました』と喜んでみせますが、こ
れはとんでもない誤解です。

 しかも、『合格したからどうなの?』という部分がない教育ほど、(これはもう教育ではなく、訓
練ですが……)、恐ろしいものはありません。競争馬がする、競走のようなものです。しかし子
どもは(馬)ではありません。

 仮に目的の(?)学校へ入ったとしても、その時点で、燃え尽きてしまったり、荷卸し症候群と
いって、学習意欲をなくしてしまうだけです。私は、そういう実例を、いやというほど、見てきまし
た。

 子どもにとって大切なものは、夢と希望です。その夢と希望の上に、目的ができます。その目
的が定まれば、子どもは、放っておいても、自分の力で、その目的に向かって進み始めます。
それを伸ばし、励ますのが、結局は、親の役目ではないでしょうか。

 ……もうおわかりかと思いますが、心の病気をもったおとなたちが、健康な心をもった子ども
たちを、わざわざ狂わせている。私には、そんな気がしてなりません。

 では、どうするか、ですね。

 Dさんのお子さんが、満点を取ったということ自体、今までの成果だと、どうかすなおに喜んで
ください。今まで、私とDさんが協力して、がんばってきた成果です。あとは子どもをほめる。「よ
かったね」「あなたは、すばらしい子よ」とです。

 あとの判断は、お子さんに任せます。それでも、そういうところで勉強したいと子どもが言うな
ら、子どもに任すしかありません。そのときは、そのときですが、それは大学受験のときまで待
っても、よいのではないでしょうか。

 そのころになると、心の抵抗力もでき、そんなに簡単には、キズついたり、こわれたりはしなく
なります。

 しかし今は、まだ小学5年生です。心理学でも(内面化)と言いますが、(心をつくる段階)で
す。こういう時期に、そういう異常な世界を体験させるのは、きわめて危険なことです。だから
私は、Dさんの判断は、賢明だったと思います。

 これからもよろしくお願いします」と。


++++++++++++++++++

今まで書いた原稿の中から、いくつかを
ひろってみます。

Dさん、どうか、参考にしてください。

++++++++++++++++++

【BW教室から……】

●無責任な教え方(?)

 小学5年の女の子が、自分で勉強するようになった。放っておいても、どんどんとしてくれる。
で、昨夜、小学5年の(上)が終わった。

 で、ロッカーをさがしても、5年の(下)がない。だれかに貸したままになっていた。

 しかたないので、「じゃあ、6年の上を勉強してみるか?」と声をかけると、かなり不安そうな
表情をしてみせた。

 「やってみな。自分を信じて!」と励ますと、「やってみる!」と。

 しばらく自分で本を読んでいた。何か、コツコツと作業をしていた。で、5分たち、10分がたっ
た。

 すると私のところへ来て、こう言った。「先生、最大公倍数って何?」と。

 そこで私はこう言った。

 「昔、昔、おじいさんと、おばあさんがいてね。竹やぶの中で、竹の子をさがしていた。すると
ね、一本だけ、光っている竹があったんだ。

 そこでおじいさんと、おばあさんは、その竹を切ってみることにしたんだよ……」

 「先生、その話と、最大公倍数とどういう関係があるの?」
 「ハハハ、ないよね。ごめん、ごめん」
 「もう、いい。私、自分で調べるから!」と。

 最近の教科書は、ていねいに書いてある。ふつうの本のように、ふつうに読めば、それなりに
理解できるようになっている。しかし心のどこかに不安をいだいている子どもは、その分だけ、
それを依存性に変える。少しでもつまずくと、すぐ聞きに来る。

 しかし安易に教えてはいけない。自分でわかりそうなところは、自分でわからせる。が、それ
でもわからなければ、教えるが、それには、タイミングというものがある。

 その女の子は、教科書を見ながら、ウーン、ウーンとうなっていた。

 が、やがて、大声で、「わかったア!」と。

 そこで私はこう言った。

 「いいか、教えられてできるのは、力ではない。またそんな知識など、すぐ消えてしまう。しかし
今、君は、自分で、それを理解した。それは君の力だ。その力は、君の身についた。一生、君
は、それを忘れないよ。よかったね」と。

 その女の子は、うれしそうに笑った。まわりにいた子どもたちも、みな、うれしそうに笑った。

 ところで私は、子どもたちに何かを教えるときは、表情を見ながら、教える。表情というより
は、その下に隠れている(心)というべきか。

 そこに、前向きな向学心を感ずれば、それでよし。そうでないときは、かなり警戒する。ときと
ばあいによっては、そのまま、サボって、みんなでたこ焼きを食べに行くこともある。

 こう書くと、「何てことを!」と思う人がいるかもしれない。が、ダラダラと2時間勉強させるよ
り、30分でも、サボったほうが、そのあと、はるかに効率よく子どもたちは勉強するようにな
る。

 たこ焼きを食べて帰ってくると、子どもたちの表情が、パッと明るくなる。そういうことは、よく
ある。

 こうした指導ができるのも、たがいの信頼関係があるから。親と私との間に、信頼関係があ
るから。決してそれに甘えてはいけないが、しかし信頼関係がないと、こういう指導はできな
い。

 その女の子も、やがて、自分でどんどんと勉強するようになる。もうそのコースに入っている。
私がすべきことは、そのコースに、じょうずに、子どもを乗せること。励ますこと。

 「やりなさい!」「今日はここまで勉強します」「テストをします」「テスト範囲はここまで」「あなた
は○○点です」「順位は、○番!」「あなたは、前から何番目に座りなさい」などという指導は、
指導ではない。訓練。しかし家畜でも、そんな愚劣な訓練はしない。

 が、今、そんな愚劣な訓練ばかりが、大手を振って歩いている。そんなことを、その女の子を
見ながら、考えた。

 それにしても、理知的な目をしている。母親譲りだと、ふと、そう思った。

++++++++++++++++++

Dさんへ、

ついでにもう1作、添付します。

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【子育て談話】

●服従的な生き方

 だれかに服従して生きるというのは、生き方としては、楽。相手が喜ぶことだけを考えて、生
きればよい。

 ある宗教団体では、入信すると同時に、「あなたは、教導様のために、何ができるか?」と聞
かれる。そして指導者のために何かをするかが、入信の条件となる。

 こうした服従的な生き方というのは、戦前の女性たちに、多く見られた。今でも、そういう生き
方を、美徳と考えている人は多い。

 ところであのK国を見ていると、どの人も、「将軍様に、喜んでいただくために」という言葉を使
う。国民全体が、服従的になっていることを示す。しかしここで誤解してはいけないのは、傍(は
た)から見ると、何とも息苦しい社会だが、本人たちにとっては、そうではないということ。意外
と、それは、心地がよい世界なのである。

 服従的であるということは、何も考えなくてもよいということ。(何も考えないから、服従的にな
るということも、反対に考えられる。)

 子どもの世界にも、同じような現象が見られる。よい例が、高校野球である。あの野球という
ゲームは、選手ひとりひとりは、ほとんど何も考えないで行動している。バッターボックスに立っ
た選手ですら、つぎにどう打つか、その指示を監督に、ちくいち求めている。

 そういう意味では、「考えるスポーツ」というよりは、「何も考えないスポーツ」ということになる。
(だからといって、野球はつまらないと言っているのではない。誤解のないように……。)

 「学習」という世界でも、服従的な子どもは、いくらでもいる。言われたことだけを、きちんとす
るが、それ以上のことは、何もしないというタイプの子どもである。一見、従順で教えやすいが、
それがよいことかということになると、悪いに決まっている。

 で、問題は、こうした服従性は、一度、その人の人生観に入りこむと、以後、さまざまな形で、
その人を支配するということ。そして一生、つづくということ。しかもその原点は、子ども時代、な
かんずく、幼児期に決まるということ。

 強圧的な環境、威圧的な育児姿勢が日常化すると、子どもは服従的になる。過度の過干
渉、過関心が原因になることもある。とくに母子の関係で、母親が、命令を主体とした子育てを
すると、子どもは、服従的になる。じゅうぶん、注意されたい。

 あなたが子どもに、何か不合理な仕事(あくまでも、不合理な仕事)を頼んだとき、あなたの
子どもは、はげしくそれに反発するようなことがあるだろうか。もしそうなら、それでよし。ハイハ
イと従順に従うようなら、ここに書いたことを参考に、子育てのあり方を、反省してみてほしい。

●子育ては主義の問題

 ある母親から、こんなメールが届いた。私の講演を聞いたあと、今度は、S氏という評論家の
講演を聞いたというのだ。その結果、「頭の中が混乱してしまいました」と。

 S氏というのは、このあたりでも、貝原益軒(かいばらえっけん)の「養生訓」風の子育て論を
説くことで、よく知られている。貝原益軒というのは、江戸時代の儒学者である。S氏も、「親の
威厳こそが、家族をまとめるカギである」というようなことを、あちこちで話している。

 私の考え方とは、180度違う。だからといって、私はS氏の思想を否定しているのではない。
人それぞれ。私は私。人は人。

 そこで大切なことは、いろいろな人の意見には、耳を傾けつつも、「私は私」という部分を、自
分の中につくること。でないと、この母親のように、混乱してしまう。

 子育てというのは、一見、ただの子育てに見えるかもしれないが、実は、そこに、その人の
「主義」がからんでくる。その人の生きザマや人生観が、そこに、集約される。学歴信仰とはよく
言ったもので、まさに「信仰」に近い部分もある。

 だから子育てをするとき、大切なことは、どんな小さなものでもよいから、そこに「主義」をもつ
こと。これを心理学の世界では、「一貫性」という。一貫性が大切とか大切でないとかいうことで
はなく、その一貫性がない子育てほど、こわいものはない。

 たとえば貝原益軒なら貝原益軒でもよい。親が、一本、スジの通った主義をもてば、子どもは
それに適応する。適応しながら、ときには、親を反面教師としながら、自分の生きザマを勝ち取
っていく。まずいのは、「混乱」である。

 そこで私のばあいは、「教師は、子ども※」と決め、めったに、ほかの人の教育論は読まない
ようにしている。話も聞かないようにしている。議論はよくするが、それは対等の立場の議論。
もし本を読む機会があれば、できるだけ教育とは無縁の本を読むようにしている。

 それは私自身が、自分の主義を確立するためでもある。またそういう主義を、自分の育児論
の中に、織りこむためでもある。とくに私は、どこか迎合しやすい性質をもっている。すぐ相手
に合わせて、自分の意見をねじまげてしまう。

 私の講演を聞いて、つづいてあのS氏の講演を聞けば、だれだって、わけがわからなくなる。
私は、「親子といえども、一対一の人間関係」と説く。一方S氏は、「親の尊厳論を説き、よい子
どもを育てるためには、先祖の墓参りが重要」と説く。

 どちらをとるかは、それはみなさん、一人ずつの問題。私の意見がよいと思う人は、私の意
見を参考に、自分の主義をもったらよい。そうでない人は、そうでない主義をもったらよい。そ
れは私の問題ではない。冷たいことを言うようだが、仮に、あなたが私の意見に同調してくれた
としても、私が得るものは、何もない。得をすることも、何もない。

 ただ私自身は、この宇宙に生まれた一つの証(あかし)として、ほんの数センチでも、あるい
はほんの数ミリでも、人間の社会を、一歩、前進させたい。そういう願いをもって、ものを書き、
自分の意見を述べている。

 だからその母親の意見には、こう答えるしかなかった。

 「あっちのカベ、こっちのカベにぶつかっていると、やがて子育ての輪郭が見えてきますよ。そ
れがあなたの子育てです。混乱するということは、一歩、その手前にいるということ。恐れない
で、もう一歩、前に、足を踏み出し、進んでみてください」と。
(はやし浩司 子供の服従性 服従する子供 子ども 子どもの服従 服従性)

※……これは私の重要な主義。子育て論を組み立てていて、わからないときがあると、本を調
べるよりも先に、子どもを観察し、子ども自身に問うことにしている。この世界へ入ってからとい
うもの、私はただひたすら、くる日も、くる日も、アンケート調査を繰りかえした。「教師は子ど
も」というのは、そういう意味。

●役割形成

 子どもは成長しながら、自分の身のまわりで、自分の世界をつくっていく。たとえば男の子と
は、男の子らしくなる。女の子は、女の子らしくなる。だれが教えるわけではない。子どもは、ま
わりを観察したり、自分の方向性に合わせたものを、自ら取り入れることによって、自分がどう
あるべきかを、つくっていく。

 これを役割形成という。

 この役割形成が、混乱することがある。子どものもつ方向性を、じゃましたり、否定したりする
と、そうなる。これをそのまま、「役割混乱」という。

 実は、親たちは、この役割混乱を、日常的に繰りかえす。繰りかえしながら、それに気づかな
い。たとえば干渉。たとえば押しつけ。たとえば指導。たとえば教育。

 たとえば「花屋さんになりたい」と言っている子どもに向かって、「何よ、こんな成績! こんな
成績では、○○中学へ入れないでしょ!」と言うのが、それ。

 子どもにしてみれば、「花屋と○○中学は、どういう関係があるの?」ということになる。そして
ここでいう役割混乱を、起こす。

 一般的に、役割混乱を起こすと、子どもにかぎらず、緊張状態に置かれ、情緒がたいへん不
安定になることが知られている。ささいなことでキレやすくなったりする。さらにこの混乱状態が
つづくと、精神不安。さらには自己嫌悪から、自己否定へとつながる。

 「自己否定」が、いかに恐ろしいものであるかは、それを経験したことがあるものでないとわ
からない。それはたとえて言うなら、ひとりのサラリーマンに、スカートをはかせて会社へ行か
せるようなもの。あまりよいたとえではないが、それに近い。中には、自己否定から、自殺に走
る人もいる。

 そこで大切なことは、子どもの方向性を見きわめたら、それを認め、それを励まし、それを核
として、子どもを伸ばすこと。たとえば子どもが花屋さんになりたいと言ったら、植物の勉強に
つなげ、実際に、いろいろな植物を栽培してみる、など。

 今、夢のある子どもが少なくなった。夢がないわけではない。ただ親たちが、それをあまりに
も無頓着に、つぶしているだけ。「花屋さんなんて……」と。その結果、子どもたちは、夢をもて
なくなった。

 だから大学へ入っても、目的がないから、遊ぶ。目的がないから、勉強しない。そうならない
ためにも、ここでいう「役割形成」を、考えなおしてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 役割
形成 役割混乱)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●劣等意識

 学校に対する劣等意識が、そのままその子どもの劣等意識に、転化することがある。自ら
に、ダメ人間のレッテルを張ってしまう。

 ところで人間の行動を律するものには、大きく分けて、二つある。(1)内的規範と、(2)外的
規範である。

 内的規範というのは、その人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観をいう。

 外的規範というのは、その人の社会的地位や名誉、経歴などをいう。

 こうしたものが、いつも総合的にからみあいながら、その人の行動を律する。

 たとえばこんな例を考えてみよう。

 通りを歩いていたら、車が一台、窓をあけたまま、そこにあった。周囲には人影がまったくな
い。遠くに家があるが、そこにも人の気配はない。

 車の窓の中を見ると、手さげバッグが無造作においてあり、そのバッグからは、札束の一部
が見えている。窓の中に手をのばせば、容易に、手が届く距離である。

 もしあなたがそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか。「もらっちゃえ」と思っ
て、バッグごと、持ち去る人もいるかもしれない。しかしほとんどの人は、この段階で、自分の
行動にブレーキをかける。そのブレーキをかける力が、ここでいう内的規範と、外的規範という
ことになる。

 「自分に恥じることはしたくない」というのが、内的規範。「私には、私の立場がある。もしバレ
たら、私は名誉のすべて失うから、しない」というのが、外的規範。しかし実際には、外的規範
の力は、それほど、強いものではない。たいていは、「バレたらたいへん……」という程度の力
でしかない。

 ともかくも、ほとんどの人は、そういったお金には、手をつけない。しかし、だ。その内的規範
を、その人の内部から破壊するものがある。

 それが劣等意識である。この劣等意識は、いわば心の中のがん細胞のようなもので、その
人の倫理観や道徳観、哲学や宗教観を、少しずつ、むしばんでいく。最終的には、心そのもの
を破壊することもある。自暴自棄になり、善悪の判断すら、しなくなる。

 ところがこの劣等意識というのは、そのほとんどは、自分以外の人によって、植えつけられて
いくものである。友人とか、教師とか、あるいは親によるばあいもある。「君は、何をやっても、
ダメな人間だ」と言われることによって、劣等意識をもつようになる。 

 もう少し詳しく説明すると、こうなる。

 劣等意識は、長い時間をかけて、その人の中で、欲求不満として蓄積される。しかしさらにそ
れが慢性的につづくと、その劣等意識は、記憶のすみにおいやられ、人は無意識のうちにも、
自我の崩壊を防ごうとする。

 そこで多くのばあい、人は、その劣等意識を克服するため、つまり自我の崩壊を防ぐため、さ
まざまな行動に出ることが知られている。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。

 たとえば、勉強面で劣等意識をもった子どもが、スポーツ面でがんばる(=補償)、「勉強なん
て、どうせくだらない」と言って、勉強ができないことを、合理化する(=合理化)、有名人のマネ
をして、自分がその有名人になったような気分になる(=同一視)、空想や非現実的な世界に
いりびたりになり、現実を忘れる(=逃避)、まったく別人となるよう、別人格を自分の中につく
る(=反動形成)などがある。

 しかしこれらも一定の範囲に収まっている間は、問題ない。むしろよい方向に作用することが
多い。

 が、その範囲を超えて、度を越すと、問題行動を起こすようになる。社会的に不適応症状とな
って現れることもある。異常行動となって、犯罪に走るケースも、少なくない。

 つまり、人間がもつ、劣等意識を、決して軽く考えてはいけない。

 そこで最初の話にもどるが、こうした劣等意識は、子どもであればあるほど、鮮明にもちやす
い。そしていくつかの過程を、一足飛びに飛び越えて、問題行動へとつながっていく。

 「ボトム校」の問題と、劣等意識の問題は、こうして密接につながっていく。飛躍した意見に聞
こえるかもしれないが、現在の日本の教育には、こうした問題が隠されている。

 もう少し、かみくだいて説明してみよう。

 たとえば受験競争。勝ち組はともかくも、勝ち組が生まれる一方、当然、そこには負け組み
が生まれる。この負け組みは、毎日の学校生活を通して、「どうせ私は、ダメな人間なのだ」と
いう意識を、無意識のうちにも植えつけられていく。「少しくらいがんばっても、どうにもならな
い」というあきらめも、そこから生まれる。

 つまり日本の教育制度の中では、一部のエリートを生み出す一方、同時に、無気力で、従順
で、もの言わぬ民(たみ)を生み出す。そういうしくみになっている。この後者の子どもたちが、
回りにまわって、勝ち組がリードする社会に対して、ブレーキとして、働くようになる。

 つまり勝ち組のつくりあげる社会を、負け組みがそれを打ち消すことで、相殺してしまう。

 たとえば一方に、東大を出て、上級甲種の国家公務員試験に合格して、警察庁のエリートに
なる子どもがいる。が、もう一方に、受験競争から早い段階で脱落し、働いても働いても、夢も
希望ももてず、その日暮らしの労務者がいる。犯罪を取り締まるのが前者で、犯罪を犯すのが
後者ということになれば、では、そもそも受験競争とは何かということになってしまう。

 少し極端な書き方をしてしまったが、おおまかな図式としては、それほど、まちがってはいな
いと思う。つまりは、教育の世界では、「子どもを伸ばす」ことだけが最優先されるが、しかしそ
れよりも大切なことは、「子どもに劣等意識をもたせないこと」も、重要であるということ。

 そのためには、教育は、多様化されなければならない。自由化されなければならない。学校
以外に道はなく、学校を離れて道はないという世界のほうが、異常なのである。

 たとえば同じ学校にしても、アメリカやオーストラリアでは、学校単位で、自由にカリキュラム
を組むことができる。入学年度すら、自由に設定できる(アメリカの公立小学校)。あるいは生
徒一人ひとりに合わせて、カリキュラムを組むこともできる(オーストラリア・グラマースクー
ル)。

 世界の学校は、すでに、そこまでしている!

 私の過ごした高校が、「ボトム校」と言われるようになって、もう20年になる。M高校と、アル
ファベットで書かねばならないほどである。そうするのは、私が自分の母校を卑下しているから
ではなく、現在、その高校に通っている子どもたちの心にキズをつけないためである。

 しかしバカげている。本当にバカげている。こうした序列ができていること自体、バカげてい
る。

 そこでこれは私からの希望ではあるが、世の中には、反対にエリート校というのもある。そう
いう学校は学校で、どうか、おかしなエリート意識を助長するような活動は、さしひかえてほし
い。

 H市でもナンバーワンの進学校とも言われているSS高校ともなると、部活の総会というだけ
でも、壇上には、OBたちがズラリと顔を並べる。気持ちはよく理解できるが、そういうおかしな
エリート意識が、回りまわって、どこかで、これまたおかしな劣等意識をつくる。そしてそれが、
日本人のみならず、社会のあり方そのものをゆがめてしまう。

 あえて言うなら、外的規範に頼らず、みながみな、内的規範によって、自分を律することがで
きるような、そういう子どもを育てるのが、これからの課題と考えてよい。そのためには、学校
教育はどうあるべきか。それを考えていかないと、日本は、ますます国際社会から、取り残され
てしまうことになる。

 「ボトム校」という言葉から感じたことを、書いてみた。
(はやし浩司 劣等感 劣等意識 防衛機制 補償 合理化 内的規範 外的規範 規範)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1508)

●父親の不倫

++++++++++++++++++++

T県に住んでいる女性(34歳)がいる。
その女性から、つぎのような相談をもらった。

++++++++++++++++++++

【YYさんより、はやし浩司へ】

父に不倫をやめてもらうということは、無理なことでしょうか?
(父は現在60歳です。バイアグラを所持していたこともあります。)

私がどんなに訴えても、私の心は、父には届かないのでしょうか?

「勝手にすればいい」と思うこともありますが、母の気持ちや、離婚後の母の生活(経済的に)
を考えると、放置しようという気持ちにもなれません。

母は、証拠をつかんだら、愛人から慰謝料をもらいたいと言っています。
(相手が誰なのかは知っています。)
証拠など簡単につかめるものではないのですが・・・。

父に直接問い詰めても、父は、白を切るだけです。

愛人には、「誰にも迷惑はかけていない。これは俺の楽しみだからやめる気はない」と言ってい
るようです。
(家族には、十分迷惑をかけていると思うのですが・・・)

母には、「今は冷静に父を観察して 時期が来たら、(夫の年金を半分受け取れるようになるら
しいです)、愛人がいる、いないにかかわらず、離婚届をつきつけたらいいよ」と言ったことがあ
ります。

(母は父の裏切りに対する憎しみで、いっぱいなんです。父にどうやって復讐をしてやろうと、そ
れをいつも考えているといった感じです。)

父に心を入れかえてもらうことが無理なら、私は母に対してどう対応していけばいいのでしょう
か?


【はやし浩司よりYYさんへ】

拝復

私の知人の中にも、何人か、不倫をしているのがいます。
その中のひとりは、立派な肩書きもあり、社会的地位もあり、
広く人望も集めています。

「どうして別れないのか?」と聞くと、「できない」と。

そうそうその男性は、あなたのお父さんと同じ、60歳です。

「性」のもつ力には、ものすごいものがあります。どの人も
最初は、遊びで始めるのですが、そのうち、ハマってしまう……。

こんな話もあります。

若いころ、日本を代表する文豪と呼ばれる人と、
近くで交際させてもらったことがあります。
名前を出せば、100%の人がよく知っている、人物です。

その文豪と呼ばれる人が、あるとき私にふと、こう言いました。

「オレは、若いころから無精子症なんだよな」と。

私が驚いて、「だって、先生には、息子さんがいるではないですか……!?」と
言うと、その先生は、笑ってこう答えました。

「ええじゃねえか」「ええじゃねえか」と。

つまり妻の浮気は公認していたというのです。その奥さんは、
その文豪と言われていた人物が死ぬまで、ずっとベッドの横についていました。
片時も離れず、です。

私は最初会ったとき、あまりにもみすぼらしい服装をしていたので、
家政婦さんか、何かと思ったほどです。

で、こういうケースでは、あなたがたが、復讐を考えたり、仕返しを考えたり
するほど、あなたの父親は、あなたたちから遠くへ行ってしまうでしょう。

あなたの父親が求めているのは、(やすらぎ)だからです。たいへん
むずかしいことかもしれませんが、『許して、忘れる』ということは、
できませんか?

最大の復讐は、「後悔させること」です。不倫をしたことを、心底、後悔
させることです。もっともそれをするには、こちら側が、その何倍も、
心が広くなければなりませんが……。

父親に対する、「親」という幻想を捨てなさい。また父親と母親の関係に対しても、
「男と女」という関係で、みなさい。ただの「男と女」です。

そういう視点でみると、意外と、道は見えてくるものです。「親だから許せない」
と、あなたが思っているとしたら、あなた自身も、たいへん権威主義的な
人ということになりますが、ちがうでしょうか。

こうした問題は、あせっているときは、どうにもならないものです。
やがて水が、低い場所を求めて流れていくように、その時機が
くれば、すんなりと解決するものです。

ですからここは、お母さんの相談役にはなっても、あなたがカリカリ
しないこと。カリカリしても、どうにもなりませんから……。

あなたはあなたで、親たちを反面教師としながら、自分の幸福をめざしなさい。
あとは、ここにも書いたように、時間が解決してくれます。時機がくれば、
そのとき、解決します。

いただいたメール、少し改変して、使用することを、お許しください。

では、今日は、これで失礼します。

はやし浩司

【付記】

●男の不倫

++++++++++++++++

夫が不倫をしたからといって、
それまでの過去を、すべて否定してよいものか?

結婚し、家庭を築き、子をもうけ、
子を育てた。

そのドラマまで、否定してよいものか?

夫が不倫をしたからといって、
裏切られたと思いはしかたないとしても、
復讐を考えてよいものか?

しかしそれこそ、自分の過去を否定することになる。

何度も人生があるなら、それもよし。
しかし一度しかない人生の、その過去を否定するとしたら、
それこそ、自分自身を否定することになるのでは?

++++++++++++++++

 セックス(性行為)を目的とした、不倫願望は、どんな男性にもある。それがない男性は、いな
い。もし不倫願望がないというのなら、その男性は、(男)として、健康ではないと考えてよい。

 男性にとって(射精)は、まさに、(排泄行為)の一部でしかない。

 が、その範囲を超えて、つまりセックスだけの関係から、人間と人間の関係になったとき、不
倫は不倫となる。

 ただ(思い)と、(行動)の間には、不倫にかぎらず、どんなばあいも、そこには(距離)があ
る。たとえば「若い女性とセックスをしてみたい」と思うのと、実際に、行動を起こすということと
の間には、距離がある。

 その距離の長い人を、自己規制力の強い人といい、そうでない人を、自己規制力の弱い人と
いう。

 その(距離)を長くするのが、その人の道徳観であり、倫理観である。それらが自己規範とな
って、その人を規制する。心理学の世界では、その規範を、内的規範と外的規範に分けて考
える。内的規範というのは、要するにその人の精神的な強靭(きょうじん)さをいう。外的規範と
いうのは、社会的地位や名誉をいう。

 しかし、こと、こうした本能に根ざす問題のばあい、外的規範というのは、恐ろしく無力でしか
ない。よい例が、学校の教師による、ハレンチ事件である。「先生だから……」という『ダカラ
論』ほど、こういうケースのばあい、アテにならないものはない。

 かく言う私は、(私を、平均的な男とみてよいかどうかという点については、疑問に思う人もい
るかもしれないが)、ごく平均的な男である。しかしそんな私でも、心の奥底では、いつも異性で
ある女性を意識している。セックス(性行為)を目的とした、不倫願望となると、いつでもある。
四六時中、ある。

 本能の力、つまりフロイト流の言い方を借りるなら、「イド」、性の力は、それほどまでに強力
である。生きる原動力にもなっている。もともと個人の理性や知性で、コントロールできるような
代物(しろもの)ではない。

 だから不倫を避けるためには、確固たる価値観をつくりあげ、それを道徳観や倫理観で、自
分を補強するしかない。が、それとて、たいへんなこと。簡単ではない。それこそ信仰者がする
ような、きびしい修行をしなければならない。……と書いていくと、絶望的にならざるをえない。
言いかえると、一夫一妻制そのものが、人間が動物としてもっている本能に、そぐわないので
はないか。話がそこまで飛躍してしまう。

 つまり一生の間、同一の配偶者を愛し、その配偶者だけと性生活を営み、それで満足しろと
いうほうが、無理なのかもしれない。恋愛感情にしても、最近では、それは脳内ホルモン(フェ
ニルエチルアミン)によるものという説が有力になっている※。しかも賞味期間というのがあっ
て、長くても、3〜4年ということだそうだ。

 わかりやすく言えば、どんな恋愛でも、そのままでは、3〜4年もすれば、火は消えるというこ
と。 

 さて、YYさんの話に戻るが、YYさんは、女性ということもあって、母親の立場だけでものを考
えている。そんなきらいが、ないわけではない。が、私は男だから、少しだけ、ちがった見方を
する。YYさんの父親が、「誰にも迷惑はかけていない。これは俺の楽しみだからやめる気はな
い」と言ったことについては、身勝手な論理だと思う。そこまでは、納得できる。

 しかしそれをもって、「裏切られた」とか、「復讐する」とかいうことになると、それはどうかと思
う。言いかえると、配偶者に対する忠誠心というのは、あくまでも双方向的なものである。YYさ
んの父親は、不倫という形で、YYさんの母親を裏切ったことにはなる。が、では、YYさんの母
親は、YYさんの父親に対して、それを責めるだけに足りる忠誠心があったかどうかということ
になると、それは疑わしい。

 「私は良妻だ」と思っている女性にほど、悪妻が、多い。「私は夫を愛している」と公言する女
性ほど、自分のエゴのために、夫を利用しているケースが多い。もちろんYYさんの母親がそう
であると言っているのではない。しかし「復讐」という言葉を使うこと自体、そもそもその基盤
に、(愛情)がなかったのではないか。あるいはとっくの昔に、夫婦関係は破綻していたのかも
しれない。

 そのため、YYさんの父親は、その愛情飢餓という砂漠から抜け出るため、別の女性に救い
を求めたのかもしれない。話がわかりにくくなってしまったが、要するに、YYさんの父親にも、
それなりの言い分というものがあるのかもしれないということ。その言い分に耳を傾けてやるの
も、こういうケースでは、必要なことではないのか。

 で、それに納得できなければ、「復讐」ということは考えず、さっさと、年金を等分して、離婚す
ればよい。復讐のため離婚するとしたら、YYさんは、残り少ない自身の人生を、自ら、汚(け
が)すことになる。つまりそれこそ、結婚生活全体、ひいては、人生の大半を、自ら否定するこ
とになる。

 夫婦として、楽しかった思い出まで、否定してしまうのか? 家族として、楽しかった思い出ま
で、否定してしまうのか? 結婚し、家庭を築き、子をもうけ、その子を育てたという過去まで否
定してしまうのか? もしそうなら、それこそ、自己否定につながってしまう。

 「私の人生は、まちがっていた」と。復讐を考えるということは、そういうことになる。

 しかし、それはおかしい。日本人は、仏教(チベット密教)の影響を強く受けているから、「結
果」だけをみて、すべてを判断する傾向が強い。しかし大切なのは、結果ではない。そこにいた
るプロセスである。

 私は多くの不倫劇、そしてそれにつづく離婚劇を見聞きしてきた。が、最近では、「それもドラ
マ」と、納得できるようになった。不倫が悪いとか、離婚が悪いとか、頭から決めてかかっては
いけない。もっと言えば、もともと(男)と(女)の関係は、そういうもの。最近の私は、そう割り切
ることができるようになった。

 だからこそ、夫婦というのは、夫婦である過程で、それなりに何かを積み重ねていかなけれ
ばならない。(男)と(女)という関係を、超えて、(人間)と(人間)という関係で、つねに、何かを
積み重ねていかねばならない。決して、安住の地に、満足してはいけない。そうでないと、夫婦
の関係といっても、こわれるときには、もろくも、こわれる。

 もっとわかりやすく言えば、夫婦の価値というのは、その歴史の長さと、深さで決まる。

 その歴史があれば、仮に不倫願望があったとしても、配偶者への背信行為におのおいて、そ
れができなくなる。自分に恥じて、それができなくなる。

 またそうした人間関係があれば、ひょっとしたら、配偶者の不倫に対しても、もう少し、別の考
え方ができるのではないか。

「夫がそれで本当に幸福になれるというのなら、私は愛する夫のために、妻の座をおります」
と。それは決して、不可能なことではない。

あの文豪なる人物が言った、「ええじゃねえか」「ええじゃねえか」という言葉の中に、私は、そう
いった、つまりは極限にまで昇華された夫婦の関係をみるが、あなたはどうだろうか。

【注】この「男の不倫」は、ボツ原稿にしようかと迷いましたが、このまま収録、掲載します。実に
まわりくどく、意味のない原稿です。支離滅裂。文もヘタクソです。これが他人の原稿で、採点
を頼まれたら、(ABC評価)で、まちがいなく、Cをつける原稿です。お許しください。今は、この
ままにしておき、近く、もう一度あとで、推敲してみます。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【注※】

●恋愛の寿命

+++++++++++++++++

心ときめかす、恋心。しかしその恋心
にも、寿命がある。

+++++++++++++++++

 その人のことを思うと、心がときめく。すべてが華やいで見える。体まで宙に浮いたようになる
……。恋をすると、人は、そうなる。

 こうした現象は、脳内で分泌される、フェニルエチルアミンという物質の作用によるものだとい
うことが、最近の研究で、わかってきた。恋をしたときに感ずる、あの身を焦がすような甘い陶
酔感は、そのフェニルエチルアミンの作用によるもの、というのだ。

その陶酔感は、麻薬を得たときの陶酔感に似ているという人もいる。(私自身は、もちろん、麻
薬の作用がどういうものか、知らない。)しかしこのフェニルエチルアミン効果の寿命は、それ
ほど長くはない。短い。

 ふつう脳内で何らかの物質が分泌されると、フィードバックといって、しばらくすると今度は、
それを打ち消す物質によって、その効果は、打ち消される。この打ち消す物質が分泌されるか
らこそ、脳の中は、しばらくすると、再び、カラの状態になる。体が、その物質に慣れてしまった
ら、つぎから、その物質が分泌されても、その効果が、なくなってしまうからである。

しかしフェニルエチルアミンは、それが分泌されても、それを打ち消す物質は、分泌されない。
脳内に残ったままの状態になる。こうしてフェニルエチルアミン効果は、比較的長くつづくことに
なる。が、いつまでも、つづくというわけではない。やがて脳のほうが、それに慣れてしまう。

 つまりフェニルエチルアミン効果は、「比較的長くつづく」といっても、限度がある。もって、3年
とか4年。あるいはそれ以下。当初の恋愛の度合にもよる。「死んでも悔いはない」というよう
な、猛烈な恋愛であれば、4年くらい(?)。適当に、好きになったというような恋愛であれば、半
年くらい(?)。

 その3年から4年が、恋愛の寿命ということにもなる。言いかえると、どんな熱烈な恋愛をして
も、3年から4年もすると、心のときめきも消え、あれほど華やいで見えた世界も、やがて色あ
せて見えるようになる。もちろん、ウキウキした気分も消える。

 ……と考えると、では、結婚生活も、4年程度が限度かというと、それは正しくない。恋愛と、
結婚生活は、別。その4年の間に、その2人は、熱烈な恋愛を繰りかえし、つぎのステップへ進
むための、心の準備を始める。

 それが出産であり、育児ということになる。一連のこうした変化をとおして、今度は、別の新し
い人間関係をつくりあげていく。それが結婚生活へとつながっていく。

 が、中には、そのフェニルエチルアミン効果による、甘い陶酔感が忘れられず、繰りかえし、
恋愛関係を結ぶ人もいる。たとえばそれが原因かどうかは別にして、よく4〜5年ごとに、離
婚、再婚を繰りかえす人がいる。

 そういう人は、相手をかえることによって、そのつど甘い陶酔感を楽しんでいるのかもしれな
い。

 ただここで注意しなければならないのは、このフェニルエチルアミンには、先にも書いたよう
に麻薬性があるということ。繰りかえせば繰りかえすほど、その効果は鈍麻し、ますますはげし
い刺激を求めるようになる。

 男と女の関係について言うなら、ますますはげしい恋愛をもとめて、さ迷い歩くということにも
なりかねない。あるいは、体がそれに慣れるまでの期間が、より短くなる。はじめての恋のとき
は、フェニルエチルアミン効果が、4年間、つづいたとしても、2度目の恋のときは、1年間。3
度目の恋のときは、数か月……というようになる。

 まあ、そんなわけで、恋愛は、ふつうは、若いときの一時期だけで、じゅうぶん。しかも、はげ
しければはげしいほど、よい。二度も、三度も、恋愛を経験する必要はない。回を重ねれ重ね
るほど、恋も色あせてくる。

が、中には、「死ぬまで恋を繰りかえしたい」と言う人もいるが、そういう人は、このフェニルエチ
ルアミン中毒にかかっている人とも考えられる。あるいはフェニルエチルアミンという麻薬様の
物質の虜(とりこ)になっているだけ。

 このことを私のワイフに説明すると、ワイフは、こう言った。

 「私なんか、半年くらいで、フェニルエチルアミン効果は消えたわ」と。私はそれを横で聞きな
がら、「フ〜ン、そんなものか」と思った。さて、みなさんは、どうか?
(はやし浩司 恋愛 恋愛の寿命 フェニルエチルアミン ドーパミン効果 麻薬性)

+++++++++++++++++++

 つまり、恋愛にも寿命があるということ。今風に言えば、賞味期限があるということ。しかもそ
れを繰りかえせば繰りかえすほど、賞味期間は、短くなる。

 だから……というわけでもないが、不倫は不倫として、あるいは浮気は浮気として、さらにそ
れから恋愛感情が生まれたとしても、決して、急いで結論を出してはいけない。どうせ、冷め
る。時間がくれば、冷める。人間の脳ミソというのは、もともと、そうできている。

 知人のケースでいうなら、こうした不倫は、静かに見守るしかない。へたに反対すれば、恋心
というのは、かえって燃えあがってしまう。しかし時間がくれば、冷める。長くても、それは4年以
内。だから私は、こう言った。「放っておけばいい。そのうち、熱も冷める。バレたときは、奥さ
んにぶん殴られればいい。それですむ」と。

 しかし不倫や浮気ができる人は、それなりに幸福な人かもしれない。いや、不幸な人なのか
もしれない。よくわからないが、私の知らない世界を、そういう人たちは、知っている。ただこう
いうことは言える。

 「真剣にその人を愛してしまい、命がけということになったら、それは、もう、不倫でも、浮気で
もない」と。夫や妻の間で、それこそ死ぬほどの苦しみを味わうことになるかもしれないが、そ
のときは、そうした恋愛を、だれも責めることはできない。人間が人間であるがゆえの、恋愛と
いうことになる。

 どうせ不倫や浮気をするなら、そういう不倫や浮気をすればよい。そうでないなら、夫婦の信
頼関係を守るためにも、不倫や浮気など、しないほうがよい。いわんやセックスだけの関係ほ
ど、味気なく、つまらないものはない。(……と思う。)それで得るものより、失うもののほうが、
はるかに多い。(……と思う。)

 いらぬお節介だが……。

 昔、別の、直木賞も取ったことのある、ある作家は、私が、東京の築地にある、がんセンター
を見舞うと、こう話してくれた。

 「所詮、性(セックス)なんて、無だよ」と。私も、そう思う。しかしその「無」にどうして人は、こう
まで振り回されるのだろう。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1509)

【アスペルガー障害】

++++++++++++++++++++

症状から、明らかに「アスペルガー障害」と
思われる子どもについての相談があった。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、GN先生へ】

GN先生へ

拝復

 お手紙、ありがとうございました。相談のあった子どもを、以下、T君(男児)としておきます。

 私はドクターではありませんので、子どもを診断することはできませんが、症状からすると、T
君は、アスペルガー障害(アスペルガー症候群)と、活発型自閉症の複合したタイプと考えてよ
いのではないでしょうか。それが基本にあって、不適切な家庭環境と指導で、症状がこじれてし
まっている。私は、そう判断しました。

 以下、アスペルガーついて、いくつかの文献から、資料をあげてみます。


+++++++++++++

●文献より

【臨床心理学・稲富正治・日本文芸社】

 自閉性障害の中でも、言葉や、記憶の発達に遅れがないケースを、「アスペルガー障害」と
呼ぶ。

 対人関係の障害と興味や活動が限定されているという点が、特徴である。

 高機能自閉症とともに、高機能広汎性発達障害に含まれる。

 圧倒的に男児に多く、知能は平均以上であるものの、コミュニケーションがうまく取れなかっ
たり、不器用であるため、孤立しやすくなる。

 計算や文字、地図など限定されたものに対して、異常なほどの関心を示し、その中で独創性
を発揮する人もいる。が、自分が守っている範囲に、他人が侵入してきたり、乱されたりするこ
とに対して、著しく、攻撃的になる。

 原因は、中枢神経の障害であると言われているが、まだ解明されたわけではない。遺伝の要
素も強く、パーソナリティ障害や情緒障害と診断されるケースもあるため、診断には最新の注
意が必要。

 最近では、対人関係のトラブルをどのように解決するかを意識的にトレーニングする、行動
療法などの治療法がある。


【発達心理学・山下富美代・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、言語発達に遅れがみられないほか、知能も高い水準を維持していると
いわれる。しかし自閉症と同様に、相互的な対人関係の障害がみられること、ある特定のもの
に対する関心の程度が高すぎることなどが特徴である。

 また自閉症とともに、男の子に多い障害でもあり、医学的な治癒は難しいとされている。

 特徴としては、(1)正常な対人関係をもつことは困難、(2)特定のものに対する、こだわり、
興味の偏(かたよ)りがみられる。(3)言語障害はみられない。


【心理学用語・渋谷昌三・かんき出版】

 ……ウィングは、自閉症には、3つの特徴があると説明している。

(1)社会性の問題

 自分の体験と他人の体験が重なりあわない。(他人がさっと顔色を変え、怒った表情をすれ
ば、自分が悪いことをその人に言ったのではないかと思うが、自閉症の人は、こうした他人の
感情を推し量るのが、非常に苦手。)

(2)コミュニケーションの問題

 言葉の遅れから、双方のコミュニケーションが、うまくとれない。(声の大きさや、イントネーシ
ョンの調整が苦手、自分の意見を言うとき、どのように言うべきかを迷う。)

(3)想像力の遅れ

 1つの対象に、異常なほど興味を示す。特定の儀式にこだわる。

 これらの特徴のうち、コミュニケーションの障害が、非常に軽いものを、「アスペルガー症候
群」と呼ぶ。軽い遅れというのは、冗談が通じにくい、比喩を使った表現が理解しにくいことをい
う。

 すなわち、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが目立たず、知的には正常だが、生ま
れつき社会性の障害と、こだわり行動をもっている自閉症を指す。


【臨床心理学・松原達哉・ナツメ社】

 アスペルガー障害は、乳児期後半から特徴が出始め、6〜7歳に顕著になる。ほとんど男児
のみにみられる障害である。

 言語的な発達には遅滞はないが、言葉は単調で、抑揚がないという特徴がある。言語や容
貌に子どもらしさがなく、コミュニケーションがとれず、集団の中では孤立することが多い。

 特定の対象、数字・文字・地図・貨幣などに興味を示し、独創性もあり、知能は平均以上と推
定される。しかし自己の領域を侵されると、パニックを起こし、攻撃的になる。また、多くの全体
的な知能は正常だが、著しく、不器用であることが多い。

 青年期から成人期へ、症状が持続する傾向が強いが、統合失調症(精神分裂病)の診断基
準は満たさないので、成人後も、精神分裂病にはならないといわれている。

 治療法は、その子どもの特性を理解し、それに合った、治療・教育をすれば、じゅうぶん社会
に適応できるようになる。大切なことは、病態に対する周辺の理解であり、治療においても、社
会福祉的な領域が重要になる。

 ……アスペルガー症状は、自閉症と類似しており、自閉症の軽度の例にもみえるため、それ
ぞれの診断は困難である。

症状の例として、本人のやっていることを中断させると、突然、怒り出すなどがある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガー症)

++++++++++++++++ 

●親自身の問題

 こうした事例で、まず注意しなくてはいけないのは、親自身が、すべてを話しているかどうかと
いうことです。つまりほとんどの親は、自分に都合の悪いこと、たとえば不適切な対処法で、子
どもの症状を、かえってこじらせてしまったようなことについては、話しません。

 無意識のうちに、こじらせてしまうというケースもありますが……。

 T君について言えば、乳幼児期から多動性があったということですが、この段階で、母親が、
かなりきびしく叱ったり、怒ったり、あるいは体罰としての暴力を振るったことも、じゅうぶん、考
えられます。

 T君にみられる、一連の不安症状、さらには、基本的な不信関係は、そういうところから発生
したと考えられます。母親からの報告内容にしても、まるで他人ごとのような観察記録といった
感じで、私はそれを読ませてもらったとき、「?」と思いました。あたかも、「うちの子は、生まれ
つきそうで、それは、私の責任ではない」と言わんばかりの内容ですね。

 で、私の経験を話します。

●私の経験より

【U君(小3児)のケース】

 U君を最初に預かったのは、まだ、「アスペルガー症候群」という言葉が、ほとんど知られてい
ないころでした。1990年代の中ごろです。(1944年に、オーストリアの小児科医のアスペル
ガーが、その名前の由来とされていますが、日本でこの名称が使われ始めたのは、90年代に
入ってからです。)

 最初、自閉症かなと思いましたが、知的能力の遅れはなく、言語障害も、みられませんでし
た。が、いくつかのきわだった特徴がみられました。

(1)ほかの子どもと仲間になれない

 そのあと、U君が小学校を卒業するまで、私が週2回指導しましたが、最後の最後まで、結局
は、友だちができませんでした。いつも集団から1歩、退いているといった感じで、軽い回避性
障害もありました。集団の中へ入ると、心身が緊張状態になってしまうからです。

(2)ずば抜けた算数の力

 計算力はもちろん、算数全般について、ずば抜けた能力を示しました。知的能力は、平均児
より高かったのですが、最後まで、乱筆には、悩まされました。文字を書かせても、メチャメチ
ャでした。こうした不器用さは、アスペルガー障害の子どもに、共通しています。こまかい作業
が苦手で、それをさせると、混乱状態から、突然、キレた状態になることもあります。

(3)極端な自己閉鎖性

 U君のばあいは、まちがいを指摘しただけで、突然、キレて、激怒することもありました。(軽
いばあいは、顔をひきつらせて、大粒の涙だけを流す、など。)たとえば計算問題などで、まち
がいを見つけ、「やりなおしなさい」と指示しただけで、キレてしまう、など。

(キレないときもありましたが、あとでノートを見ると、エンピツで、きわめて乱暴に、それを塗り
つぶしてあったりしました。)

 こうした特徴を総合すると、U君には、心の持続的な緊張感、特別なものへのこだわり、自己
閉鎖性があったことになります。

 幸いなことに、U君のケースでは、母親が、たいへん穏やかで、心のやさしい人でした。です
からそれ以上、心がゆがむということは、U君のばあいは、ありませんでした。私は、当時は、
「U君は、ほかの子どもとはちがう」と判断し、U君はU君として、指導しました。

●治療は考えない

 こういうケースで重要なのは、アスペルガー症候群にかぎらず、子どもの心の問題に関する
ことは、「治そう」とか、「直そう」と思わないことです。

 「あるがままを認め」、「現在の状態を、今より悪くしないことだけを考えながら」、「半年、ある
いは1年単位で、様子をみる」です。

 で、相談をいただきましたT君にケースですが、全体に、周囲の人たちが、「治そう」とか、「直
そう」とか、そういう視点でしかT君をみていないのが、気になります。「少しよくなれば、すぐ無
理をする」。その結果、症状を再発させたり、悪化させたりしている。あとは、その繰りかえし。
そんな感じがします。

 U君のケースのほか、兄と弟でアスペルガー障害のケースなど、「アスペルガー」という言葉
がポピュラーになってから、(2000年以後ですが……)、私は、4例ほど、子どもを指導してき
ました。

 (最近は、体力の限界を感ずることが多く、指導を断るケースが、多くなりました。)

 その結果ですが、アスペルガー障害そのものの(治癒)は、たいへんむずかしいということで
す。そのかわり、小学3、4年生ごろから、自己意識が急速に育ってきますから、それを利用
し、子ども自らに自己管理させることで、見た目には、症状を落ち着かせるということはできま
す。

 子ども自身が、自分で自分を管理できるように、指導していくわけです。

 しかしこれも、1年単位の根気と、努力が必要です。とくに指導する側は、その生意気な態度
のため、カッとなることもあります。たとえばU君のばあいでも、私がまちがいを指摘しただけ
で、私に向かってものを投げつけてきたことがあります。あるいは、ぞんざいな態度で、「ウル
セー」と、言い返してきたこともあります。

 そういうとき、ふと、その子どもが、アスペルガー障害であることを忘れ、「何だ、その態度
は!」と叱ってしまうこともありました。「根気が必要だ」というのは、そういう意味です。

 先生からいただいた報告の中に、担任の教師が、かなり乱暴な指導をしたという記録が書い
てありますが、それもその一例と考えてよいのではないでしょうか。記録だけを読むと、担任の
教師が悪いように思われますが、このタイプの子どもの指導のむずかしさは、ここにあります。

子どもがキレた状態になったとき、きわめて生意気な様子をしてみせるからです。ふつうの態
度ではありません。おとなを、なめ切ったような態度です。

●親側の問題

 で、先にも書きましたが、現在、T君と母親の関係についても、考えなければなりません。親と
いうのは、こういうケースでは、自分に都合の悪いことは、話しません。そういう母親がよく使う
言葉が、先にも書きましたが、「生まれつき」という言葉です。

 「うちの子は、生まれつき、こうです」と。

 子どもの症状を悪化させながら、その意識も、自覚もない。もっとも、だからといって、親を責
めてもいけません。親は親で、そのときどきにおいて、懸命に子育てをしているからです。懸命
にしている中で、客観的に自分を見る目を失ってしまう。よい例が、不登校児です。

 子どもが「学校へ行きたくない」などとでも言おうなら、その時点で、たいていの親はパニック
状態になり、子どもを、はげしく叱ったり、暴力的に学校へ行かせようとします。この無理が、症
状を悪化させてしまいます。

 たった一度の一撃でも、子どもの心が大きくゆがむということは、珍しくありません。

 で、その時点で、親が冷静になり、「そうね。どうして行きたくないのかな? 気分が悪けれ
ば、無理をしなくていいのよ」と親が言ってやれば、不登校は不登校でも、それほど長期化しな
くてすんだかもしれません。そういうケースも、私は、やはり何十例と経験してきました。

●年単位の観察を

 先生からいただいた報告書を読むかぎり、親も、担任の教師も、みな、少しせっかちすぎる
のではないかと思います。先にも書きましたが、この問題だけは、1年単位、2年単位で、症状
の推移をみていかなければなりません。

 「先月より今月はよくなった」ということは、本来、ありえないのです。ですから週単位、月単位
の変化を記録しても、意味はありません。またそうした変化に一喜一憂したところで、これまた
意味がありません。もう少し、長いスパンで、ものを考える必要があります。

 簡単に言えば、現在のT君を、あるがままに認め、そういう子どもであるということに納得し、
(もっとわかりやすく言えば、あきらめて)、対処するしかありません。T君は、給食におおきなわ
だかまりをもっているようですが、そういう子どもと、先に認めてしまうのです。

 それを何とか、食べさせようと、みなが無理をする。それが症状をして、一進一退の状態にし
てしまう。あるいはときに、もとの木阿弥にしてしまう。

 ……といっても、年齢的に、小4ということですから、症状は、すでにこじれにこじれてしまって
いると考えられます。本来なら、乳幼児期にそれに気づき、その時点で、親がそれに納得し、
指導を開始するのが望ましいのですが、報告書を読むかぎり、そういった記録がありません。

 ご指摘のように、T君の親は、学校側の指導法ばかりを問題にしているようですね。しかし、
これでは、いけない。本来なら、専門のドクターに、しっかりとした診断名をくだしてもらい、そう
であると親自身が納得しなければなりません。

 で、指導する側の私たちとしては、「知って、知らぬフリ」をして指導するわけです。私が指導
してきた子どもたちにしても、現在、指導している子どもたちにしても、私は、「知らぬフリ」をし
て、指導してきました。今もそうしています。もちろん私のほうから、診断名をくだすということ
は、絶対に、ありえません。またしてはなりません。

 が、親のほうから、たとえば「アスペルガー」という言葉が出てきたときは、話は別です。その
ときはそのときで、「アスペルガー」という言葉を前面に出し、指導します。しかしそれまでは、
知らぬフリ、です。

 ただ「そうでない」という判断はくだすことがあります。自閉症の子どもではないかと心配して
きた親に対して、「自閉症ではないと思います」というように、です。そういうことは、しばしばあり
ます。

●親の無知

 で、やはり、ここは親に、それをわかってもらうという方法をとるしかありません。しかしこれ
も、むずかしいですね。

 最近でも、明らかにADHD児の子ども(小5)がいました。で、それとなく親に聞いてみたので
すが、親は、まったく自分の子どもがそうであることさえ疑っていないのを知り、がく然としたこと
があります。「うちの子は、活発な面はあるが、ふつうだ」と。

 つまり親の無知、無理解をどう克服するかという問題も、生まれてきます。アスペルガー障害
であれば、なおさらでしょう。幼児教育の世界でも、この言葉がポピュラーになったのは、ここ
5、6年のことですから……。

 以上、私の独断で、T君を判断してしまいましたが、まちがっていることもじゅうぶん、考えら
れます。一番よいのは、私自身が、T君を直接観察してみることです。また機会があれば、そっ
と遠くから観察してみてもよいです。ご一考ください。

 あまりよい返事になっていませんが、さらに最近の研究では、環境ホルモンによる脳の微細
障害説を唱える学者もいます。アスペルガー障害にかぎらず、このところ、どこか「?」な子ども
がふえているのは、そのためだ、と。

 あくまでも、参考的意見として、お読みいただければうれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 長々とすみませでした。相談いただいたことをたいへん光栄に思い、感謝しています。ありが
とうございました。


敬具


                                はやし浩司

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アス
ペルガー アスペルガー障害 アスペルガー症候群 アスペルガーの子ども)

Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1510)

【夏休みが終わって……】

+++++++++++++

Yさん、Dさん、Mさん、
3人のお母さんがたから、
この9月に入って、3通の
メールをもらいました。

それらをここに紹介させて
もらいます。

+++++++++++++

【Yさんより】

こんにちは。
今朝は、涼しかったですね。
秋の虫たちの声が心地いい朝でした。

先日は、延長レッスンしていただきありがとうございました。
お礼が遅くなってしまいすみませんでした。

先生の今朝のブログ拝見いたしました。
息子の受験のことでは、迷うことばかりです。

私個人のことですが、今年は子ども会の役を仰せつかり、
この夏休みは、子ども会の運営、夏祭り大会の準備など、
かなりハードでした。

このことが、多分(?)よかったと思う、いや、思いたいのですが、
息子の受験から、私自身かなり関心がそれていたと思います。
いわゆる、「夏休み中、受験勉強に奔走する親」にならなくてすむ状態でした。

よいほうに解釈すれば、本人に任せていました。

そんなとき、同級生の受験生のお母さん二人と、お話しする機会があり
考えさせられることがありました。

●A男君のおかあさん

「うちでは、勉強をしないから、今度から家庭教師もつけることにした。
それでも心配だから、日曜日の午前中は、夫に勉強をみてもらっています」

「学校の宿題もたくさんあって、本当に大変。」

「もう、毎日毎日こんなことで疲れちゃう。下の娘の時も
こんな思いをするのかと思うと、いやになっちゃう」

●B子さんのおかあさん

「今の成績では無理と、進学塾の先生に言われて、ついでに特訓教室に
申しこんできたわ。週2コースと週3コースがあって、週3コース
にしました」

「B子は、もう、どこの学校でもいいって言い出してしまって
困ってるの」

「毎晩、勉強しなさい、いやの、親子げんかばかり」

私は、それを聞いて、言葉を失いました。
「子どもの人生だから、子どもに任せるしかないから〜〜。」
などと、あやふやな受け答えをしながらも、少々焦る自分が、そこにいました。

そこで、このA男さんとB子さんとの会話を、そのまま息子に話してみました。
そして、感想を聞いてみました。

息子「私は、自分でやりたいから。勉強している横で、監視されたり
ぼくの意見も聞かないで夏期講習やら模試やら決められたら、絶対にイヤだ!!」

「自分がどうしなきゃいけないか自分が一番よくわかってるから
いちいち言われたら、やる気なくすよ。」

「親にそんなことされたら伸びるモンも伸びないよ。
私だったら耐えられない。」

……と、息子は、かなりはっきりとした口調で意見を言いました。

親が考えているよりも、多分子どもは真っ正面から、
受験に立ち向かっているのだと思いました。
そりゃあ、冷静に考えてみれば
子ども自身の方が緊張しているのは当たり前なのですよね。

実際、息子も仲良しのK君に誘われて夏期講習を受けてきました。
息子に聞いてみると、5日間で、かなり中身が、ぎっしりでした。

毎回、テストがありました。ベスト10は名前が張り出されたようです。
1日目、周りの状況にかなり驚いたようで、どこか気おくれしたと言っていました。
しかし、これが2日目、3日目と尻上がりにやる気が出てきて
ベスト10に名前が載るまでになりました。

うれしいことですが、こんなやり方は5日間ぐらいが限界だな。と
正直、思いました。

ですが、発見しました。
自分を発揮できる力がついてきていると、いうことです。

私は、本当に「BWのおかげだな」と思いました。
年が上の子どもたちから学習の姿勢を学び、物事をよく考える力
をつけていただいたことです。
とにかく「前向きにやろう!」という気持ちが、あふれて見えるのです。

「これは、何年もかけて、はやし先生やほかのBWの子どもさんから
学んで培ったことだな」と思いました。
そして、学習させられるという意識ではなく
「自分は今学習すべき時。自分は負けたくない。だからがんばる。」
と、いうことがよく判断できるまでに、成長しているなと思いました。

息子は「ぼくは、やるときはやるんだからねっ!!」 と、
そんなことを言いたげな様子でした。

で、夏休みも終わりに近づく頃こんな会話をしました。

私「夏期講習どうだった?」
息「結構、刺激になったよ。できる人いっぱいいたしね」
私「でも、いつもいつも順番つけられて勉強するのってどう?」
息「まあ、いつもいつもはイヤだね。でも、たまには刺激になっていいかも」
私「あの塾に通っている子は、1年間とか2年間、毎回やってるんだよ」
息「ぼくは、遠慮する。BWがいいよ。なんか安心する」

S中の説明会には約1500人が来ていたそうです。
単純にその半分(半数は保護者)が受験するとしても
かなりなモノです。

親子共々緊張していた帰り道、BWの前を通ったとき
ちょうどはやし先生と出くわしました。

息「ヘンなおやじ。(失礼!)だけど、癒し系だね。
なんか緊張とれたみたい。はっはっはっ。」

と、そんなことを言っていました。

私自身、正直、焦ります。
本当に、これでいいのかな……と。
周りのお母さんの話やら説明会の人数やら
色んな情報が入ってくるたびに焦ります。

でも、何とか踏みとどまることができているのは
やはり、はやし先生のマガジンや、子どもたちへの対応の仕方などの
影響がかなり大きいと思います。

思春期にさしかかり、息子への対応が以前より難しいなあ〜。
と思うこともしばしばです。

そんなときは 「自分が6年生の時はどうだったであろう」と
考えるようにしています。
何だか、もう一度、子ども時代を疑似体験しているような
そんな気持ちになります。

秋は、私のテニスクラブの試合や子どもたちの学校行事も
目白押し、もちろん子ども会の仕事も…。

息子に負けないように私は私の持ち場で精一杯がんばろうと思っています。

また、いろいろとご助言ください。


【Dさんより】

林先生へ

いつも、G男とY子が、お世話になっています。

 先日は、失礼なメールを送ってしまい、申し訳ありませんでした。子供のことになると、どうも
考えすぎてしまう自分に反省しました。

 実は、あれから試しにSS塾の入学試験を受けさせたのです。結果は、満点で合格。どんな
ものなのか入学説明会へ昨日いってきました。たくさんの母親がいました。熱弁をふるう教師。
真剣に聞く親たち。その光景に、私一人、どんどん帰りたくなって来ました。

G男の良いところは、マイペースでも楽しく勉強するところ。電話帳のようなテキストと、SS高A
A高に合格させてみせますという、恐ろしいほどの教師の熱弁、成績順に席替えをしますという
やり方に、違和感を感じ、ほかの親たちが入学願書を書き始める中、私だけぽつんと何も書
かず帰ってきました。

SS塾はやめました。G男には、笑いながら勉強してほしい。SS塾に行かなきゃ、AA中学に合
格できないのなら、(そのようなことを教師は言っていましたので)、G男は、そこまで。私は本
当に無知なので、そんな自分が腹立たしくなりました。

 これまでと変わらず、G男とY子を、よろしくお願いします。いろいろ考えるのはやめました。ほ
んの少しでも他に目を向けた自分が恥ずかしいです。G男とY子が、勉強を好きにしてくれたの
は林先生なのに。

 本当に申し訳ありませんでした。
 
PS:Y子の、国語と英語のクラスはまだ間に合いますか? 時間的に間に合うか不安ですが、
ぜひお願いしたいので、詳細を教えてください。よろしくお願いします。 

(追伸)

林先生へ

 お忙しい中、返事、どうもありがとうございました。

考えてみれば、G男はまだ小5なんですよね。心ができ上がってない状態で厳しい世界へ放り
投げれば、間違った訓練をして気がついた時には、愛してくれている人たちを平気で裏切れる
人間になってしまっていたかもしれません。大げさかも知れませんが、私個人はSS塾の講師
に、少なくとも愛情は感じませんでした。

 なぜかG男は、勉強が好きだといい、成績も良い。

私の子ではないみたいです。Y子もです。しかし、好き=楽しいなんですよね。

 今日、下の紗也が、計算カードのテストで不合格になったらしく、私はそれを聞いてがく然とし
ましたが、家に帰ってきてからのY子の猛勉強にもビックリしました。少しも嫌がらず、自分ひと
りで自分の部屋に閉じこもって計算の勉強をしているのです。

小1で、です。1〜2時間やっていたかも知れません。よっぽど悔しかったみたいです。Y子は、
G男とは計算能力が少し違っているのかも知れませんが、誰にも何も言われなくても自分で納
得がいくまでとことんやる紗也の性格も褒めるべき点なのかなあと、親ばかな私は感じていま
す。

 SS塾に入れなくても、我が家の子供たちは、一生懸命頑張る、そして自分のためにやる、そ
んな勉強をしているから、それでよしとします。

 そんな子供たちに成長したのも、林先生のおかげと感謝しています。

 Y子の英語も見てくださいね。よろしくお願いします。

 余談ですが、私がまずSS塾の校舎に入った時の、ロビーの風景にゾッとしたのを覚えてい
ます。全面大理石張りの、噴水がなんとも豪華で、すごく冷たい雰囲気が、私の断る原因のひ
とつになった気がします。

こんなところでG男は勉強するのか? 自分の家がみすぼらしく思えてくるんじゃないか? 私
が払う月謝が、この素晴らしい建物に変わるのか?(ただのひがみです) 

少なくとも、子供たちが笑って入ってくる場所ではないような気がしました。私は古いタイプの人
間ですから。   

では、おやすみなさい。


【Mさんより】

はやし浩司先生へ
   
  今日は始業式でしたが、ひどいお天気でしたね。防災訓練もあり、ずぶぬれでの送り迎えで
スタートした、新学期でした。
   
  夏休みの自由研究へのアドバイスありがとうございました。O子は、今朝5時起きで、パラパ
ラ漫画を完成させ登校しました。木曜日にBW教室から帰宅するなり、パラパラ漫画を作りた
いと思いつめた表情で、こちらが、了解すると、水を得た魚のように作業に没頭し、自分で早
起きし事を終えていました。

月曜日に先生にも見てもらいたいと別に作成した作品を持参するつもりでいます。またコメント
お願いします。子供のやる気のすごさに感動中です。

すみません親ばかなメールを送らせてもらいます。     


【Yさん、Dさん、Mさんへ】

 まず最初に、みなさんは、すばらしいお母さんがたです。何が大切で、何がそうでないか、よく
わかっている!

 私も、二男が、受験勉強を放棄してしまったとき、内心では、正直言って、あわてました。「受
験勉強なんて、くだらない」と、です。中学2年生のときのことです。

 しかしやがて私は、二男の力を信じ、その二男を支持するようになりました。で、その二男
は、今、アメリカにいますが、親としての喜びは、自分の息子を信じきったというところから生ま
れるのですね。

 三男もそうです。横浜のY大学を中退し、航空大学へ進みたいと言ったときのことです。私は
三男に、こう言いました。「お前は、金メダルを捨てて、銅メダルを自らもらうのか」と。(本当
は、危険な職業ということで、少し反対しました。)

 恩師の田丸先生も、「研究者としての道を歩みなさい」と、三男を説得してくれましたが、私
は、すぐあきらめました。と、同時に、三男を応援することにしました。

 その二男も三男も、今、自分の進むべき道を、生き生きと歩んでいます。親として、それ以
上、何を望むことができるというのでしょうか。

 言い忘れましたが、いろいろあって、長男も、今、また専門学校に通っています。「もう一度、
基礎から勉強しなおしたい」と言ったからです。

 子どもというのは、そういうものです。『だからどうなの?』という部分がないまま、受験競争に
かりたてたところで、意味はないということです。大切なのは、夢と希望、それに目的です。

 それさえしっかりしていれば、子どもたちは、自分の力で伸びていきます。つまずいても、つま
ずいても、前に進んでいきます。そういう力をすでに、もっています。

 私たち親ができることがあるとすれば、(また私が、みなさんのお子さんに対してできることが
あるとすれば)、その力に灯(ひ)をともし、その力を引き出し、そしてその力を励まし伸ばすこと
でしかありません。そういう限界を知る親を、賢い親といい、すばらしい親というのです。

 子どもを信じてあげましょう。また、いつか子ども自身も、それに気づくときがやってきます。
「私の親は、どんなときでも、私を信じてくれた」「支えてくれた」と。それが親子の絆(きずな)
を、確固たるものにします。

 私もこういう仕事をしているものですから、「さぞかし、あの林は、自分の息子たちに勉強させ
たのだろう」と思う人は多いと思います。しかしそう思われることぐらい、私にとって、不愉快な
なことはありません。

 いいですか、子どもの受験競争に狂奔している親というのは、自分の不安や心配を子どもに
ぶつけているだけですよ。つまり自分のエゴのために、子どもを利用しているだけ。口では、
「愛しているから」と言いますが、そんなのは、愛でも何でもない。

 愛というのは、もっと苦しいもの。さらに一言付け加えるなら、自分の子どもを信ずるというこ
とは、本当にむずかしい。だまされても、だまされても、信じているフリをしながら、あとは許して
忘れる。

 そういう親こそが、「真の親の喜び」(バートランド・ラッセル)を与えられるのです。

 なお、ご安心ください。

 私が責任をもって、Yさん、Dさん、Mさんのお子さんたちを、すばらしい子どもにします。子ど
もたち自身が、自らの力で、伸びていくように、指導させていただきます。

 どうか、お任せください。これからもよろしくお願いします。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1511)

●受験競争国家の終焉

+++++++++++++++++

今から20〜25年も前のこと、
韓国の受験競争のはげしさは、
日本の比ではなかった。
まさに異常だった。

現在も、基本的には、それがつづいている。

しかしその韓国。それが一段落すると、
国をあげて、受験競争に狂奔することになった。

「先進国になる」「アジアの大国になる」と。

そのため、韓国のニュースは、
連日、数字の羅列(られつ)。

「○○業は、世界3位」
「○○の分野では、世界4位」と。

その韓国が、GDPで、今度、
世界10位から、12位に転落した。

彼らが受けるそのショックは、
私たち日本人が考えているより、はるかに大きい。

「これで韓国はダメになった」と、
そんな悲鳴に近い声さえ、聞かれる。
「韓国はへたをすれば、アジアの中でも
最貧国になるかもしれない」という声さえも
聞かれるようになった※1。

何も、ダメになったわけではないと、
私は思うのだが……。

+++++++++++++++++

 今の韓国の人たちに、「豊かさとは何か」と問いかけても、あまり意味はない。彼らにとっての
豊かさとは、狭い家の中に、電気製品や、コンピュータなどが、ところ狭しと並べられている状
態をいう(?)。

 ここまで書いて思い出したが、もう10年ほど前になるだろうか。個人所得額で、オーストラリ
アがシンガポールに抜かれたときのこと。「君は、どう思う?」と、オーストラリアの友人に聞い
たとき、その友人は、こう答えた。

 「それがどうした? だれもシンガポールに負けたとは思っていないよ」と。つまりお金(マネ
ー)だけで、国やその個人の豊かさは、決まらない、と。友人は、それを言った。

 そう言えば、アメリカに住む二男も、同じようなことを言ったことがある。「アメリカ人の家の中
は、どこも、ガランとしている。それとくらべると、日本人の家の中は、電気製品で、あふれかえ
っている。(そういうものが多いからといって、リッチということにはならない)」と。

 その韓国だが、つい先日まで、「世界の10大、大国になった」と、はしゃいでいた。ついでに、
「我々も、先進国首脳会議に出席する資格がある」と。が、それは長つづきしなかった。

 今、韓国経済は、急速に萎縮し始めている。その結果、GDPで、12位に転落してしまった。
朝鮮N報は、つぎのように伝える(06年9月)。

 「3年以上続く内需沈滞により経済が活力を失い、輸出が混迷する『内憂外患』に陥ってい
る。さらに深刻なのは将来の展望だ。企業家の士気が失墜し、投資が萎縮しているほか、経
済の未来を担保にした成長潜在力が急激に失速している」と。

 自由主義貿易圏に自分を置きながら、反米、反日を唱える、そのおかしさ。親北、親中を唱
える、そのおかしさ。現在のN政権は、まずそれに気づくべきである。もっとも仲よくすべき日本
に、ツバをひっかけるようなことばかりしておいて、何が、先進国だ!

 一方、私たち日本人も、貴重な教訓を学んだ。「韓国は、味方ではない。敵である」という教
訓である。ノー天気なオバチャンたちが、韓国の映画俳優にうつつを抜かすのは構わないが、
これがまぎれもない、そこにある現実である。

で、この8年、韓国がしてきたことと言えば、まさに受験競争。日本を敵性国家と位置づけ、「日
本に追いつけ」「追い越せ」の、かけ声ばかり。日本のバブル経済がはじけたときには、「もうこ
れで日本の再生はない」「今がチャンス」と、韓国の経済紙は、連日のように書きたてた。よほ
ど、それがうれしかったらしい。

 が、日本とてバカではない。現在、打倒韓国の旗印のもと、韓国の基幹産業である、電子産
業、自動車産業にターゲットをしぼり、猛烈な巻きかえし戦略に出始めている。これらの産業へ
の集中的な投資に平行して、台湾、インドに、日本外資を移動しつつある。

 とたん、韓国は、今の韓国になった。

 現在、あらゆる韓国の経済指標は、負の方向に向かい始めている。「(経済の)早老化現象
だ」「韓国は、老いつつあるトラ」とか、などなど。そして今回の、「最貧国論」である。私の知っ
たことではないが、ただひとつ、韓国のN大統領が、誤解していることがある。

 それは、日本が、いまだにこのアジアの中では、指導的な先進国であるということ。韓国以外
の国々では、日本は信頼され、尊敬されている※2。それを忘れてはいけない。


注※1……モルガン・スタンレーアジア太平洋本部の、アンディ・シェ(謝國忠)首席エコノミスト
(45)。「韓国経済は現在、成長を実現させる原動力が、徐々に縮小していく症状に悩まされて
いる。韓国の高度成長時代も、もはや過去の話となり、今や年5%台の経済成長すら危うい状
況にある。今後もこうした状況が続くと、どうなるのだろうか。 
 
韓国が潜在成長力を伸ばすことに失敗すれば、中国の辺境をなす一小国やフィリピンと同レ
ベルの貧困国に転落することもあり得る」と。


注※2……読売新聞社は、韓国日報社、ギャラップ・グループと共同で、「アジア7か国世論調
査」を実施した。

 東南アジア諸国では、「日本との関係が良い」と見る人が9割以上に達した。「日本を信頼で
きる」人も7〜9割を占め、対日感情の良さが裏づけられた。

一方、急速な経済発展を背景に、東南アジアでの中国の好感度も増しており、関係強化の進
展が示された。

 調査は、インド、インドネシア、マレーシア、タイ、ベトナム、韓国および日本の7か国で、6月
下旬から、7月中旬にかけて面接方式により実施した。アジアの複数国で同時に世論調査を
行ったのは1995年、96年に続き3回目。

 日本との関係が「良い」は、インドネシアとタイでは「非常に」と「どちらかといえば」を合わせて
それぞれ96%に達し、ベトナムで計92%、マレーシアでは計91%に上った。

この4か国では、同じ質問をした95年調査でも「良い」が9割超だった。初めてこの質問をした
インドでも「良い」は計89%に上った(読売新聞より転載)。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1512)

●掲示板への相談より

++++++++++++++++++++

9月3日、日曜日。長旅から帰ってみると、
掲示板に、2件の書き込みがありました。

今すぐ返事を書きたかったのですが、今日は疲れました。
そのため相談だけをここに、紹介させていただきます。

Nさん、しんさん、どうか、勝手をお許しください。
(9月3日記)

+++++++++++++++++++

【Nさんより、はやし浩司へ】

5月と7月に、大1の息子のことで相談させていただきましたNです。
たびたび書き込みをして、申し訳ございません。

今朝、息子の元彼女の母親から、電話ありました。
主人が出ました。 

「(息子の)赤ん坊は生まれました。息子さんと連絡つかないので、その旨、伝えてください」と
いう内容でした。主人は、「そうですか」しか、答えなかったそうです。

息子にそのことを伝え、どうするのか聞きました。息子はもうすでにそのことを知っていました。
が、息子の返事は、「まだ考えてないので、考えたら連絡する」でした。

先生のおっしゃる通り、今まで静観してきました。が、今回の電話では、とくに要求はありませ
んでした。

息子はまるで人ごとのようです。私も主人も、妊娠6か月まになるまで、何も知らせてくれなか
った、元彼女と両親に対して、憤慨しています。が、その一方で、息子には責任をとってもらい
たいという気持ちもあります。

主人はまだ、静観しようと言います。 それでいいのでしょうか?!

9月からも、大学に行くかどうかさえ分からない息子。
なのに、車の免許をとったので、車買う!とまで言う、無責任な息子。
まだまだ、こうした状態を受け入れ、口にチャックをし、水が流れように、今の状態を見守った
ほうがいいのでしょうか?!

(まだ私は、子離れできていませんね。しかし人が一人、この世に生まれてきたのです。息子
のように、安易でいいとは、どうしても思えないのです。)
何度も何度もお許しください。


【しんさんより、はやし浩司へ】

長男、高校2年の息子のことで、ご相談させていただきます。

家族構成は、夫48歳、(自分)44歳、長女高校3年、長男です。夫の両親共に、74歳。6人
家族です。KN県在住。

長男は公立中学校を卒業した後、東京都内の、農学部のある大学の付属高校へ通っていま
す。

小さいころから、生き物など大好きで、中学に入ってからは、果樹や熱帯果樹に興味をもち、
今では狭い庭ですが、季節ごとに色々な果樹が実りを見せてくれます。

中学のときの成績は中の上で、進路を決めた高校も、長男の学力に見合った学校と思ってい
ました。推薦入試ののち、一般入試で受けた、難関クラスへ入学しました。

(難関クラスというのは、長男が入学する年にできた、国公立大や有名大をめざすクラスのこと
です。)

部活はハンドボール部に入部しました。親としては小柄で、痩せていて、体力がなく、通学にも
1時間半かかるので、賛成できない気持ちもありましたが、本人の強い意志に任せました。

ところが高1年の3学期ごろから、気持ち悪い、頭痛を訴えるようになりました。中学のころか
らの慢性じんましん症状を訴えていましたが、そんなわけで、通学途中、何度となく電車を途中
下車して、引き返してくることがありました。

高校1年の2学期ころから、集中力がない自分に気づいたようです。あとはあせればあせるほ
ど、勉強が手につかなくなる。そういう状態でした。

成績も下がりはじめ、2年の1学期に、さらに成績は落ちていきました。

そして2年の1学期の成績で赤点2つ。夏休み直前に担任と面談しました。このとき、この先、
自分はどうするかを考えて報告するという約束を、学校側にしました。が、その結果、7月末
に、息子は、担任へ、「退学」を宣言してしまいました。私には「部活も友達もいいから、(いらな
いから)、学校を辞めたい」と言いました。

(難関コースから進学コースへの変更はできないとのことです。)

私からみても自信がなさそうで、ただ時間に追われている長男に気づいたのは、春休みぐらい
のことでした。膨大な量の宿題もはかどらず、部活に追われていました。でも心の内は話しても
くれませんでした。私はただ漠然と悩み、さらに日々、一方的な『あらねば論』、つまり「あなた
はこうあるべきだ」というようなことを、長男に言いつづけていました。

2年の1学期期末テストが終わったぐらいから、行動も投げやりになり、何とか、かろうじて生き
抜いているといった状態でした。そういう中、ネットで調べて、(はやし浩司のHPにたどりつ
き)、やっと親の過干渉や抑圧と、度を越した勉強管理で、息子が自立できないで、苦しんでい
ることが判りました。

私はカウンセリングをうけたあと、長男に対して、すべての話しかけは辞めています。そのため
息子の表情は、少し柔らかくなり、機嫌のいい時は、息子のほうから話をしてくれます。

が、夏休み中、学校からの転校の提案がありました。「東京都内では可能だが、神奈川では無
理」ということでした。それで、9月から不登校をつづけています。

自立しなくてはいけない子どもに、余計な働きかけをしてはいけないことは、承知しています。
が、私たち親も信じられず、学校は行けない後ろめたさとか、退学すると宣言しても、本心は学
校に行きたいなどの気持ちなど、このまま誰にも心を明かすことなく、息子が、孤独と戦ってい
かねばならないのかと思うと、どこかでカウンセリングを無理にでも受けたほうがいいのかとも
考えてしまいます。

今度のことで今までの自分がいかに子どもを信頼していなかったか気づき、ありのままの長男
を受け入れられる自信がでてきたのですが、自分だけが楽になっているように思い、こうして相
談させていただくことにしました。

よろしくお願いします。


【はやし浩司より、Nさん、しんさんへ】

 Nさんのやり場のない、怒りというか、不安というか、そういうものが、私にも、ひしひしと伝わ
ってきます。一日とて、心が晴れることもない。安心して、眠ることもできない。忘れようとすれ
ばするほど、こうした問題は、心の内側にペッタリと張りつき、気をふさぎます。それが私にも、
よくわかります。

 しんさんも、そうだろうと思います。「この先、うちの子はどうなるのだろう」という、心配と不
安。それらが、しんさんの心の中で、渦を巻いている。一日、一日が、機械じかけの責め具の
ように、胸を押しつぶす。それも、私には、よくわかります。

 他人の子どもなら、足で蹴飛ばして、「ハイ、さようなら」と言うこともできるかもしれません。
が、それができない。できないから、Nさんも、しんさんも、宿業と言えるような、大きなジレンマ
の中で、もがき、苦しんでしまうのです。

 しかしね、Nさん、しんさん、どこの家庭も、そしてどこの親子も、みな、同じような問題をかか
えているものですよ。外から見ると、みな、うまくやっているように見えますが、それはあくまで
も、外見。問題のない家庭などないし、問題のない親子など、ないのです。

 こうした問題が、家族の中で起こると、だれしも、「どうして、うちの子が……」「どうして、うち
の子だけが……」と思うものです。しかしこの種の話は、いまどき、珍しくも、何ともありません。
ゴマンどころか、ジューマン単位で、あります。

 一見、子どもの問題に見えますが、これは子どもの問題ではありません。要は、その運命
を、受け入れるかどうかという問題です。受け入れてしまえば、何でもないのです。

 Nさんについて言えば、「孫ができた」。それだけのことです。形にこだわることはないので
す。また家族に、形など、ありません。結婚して子どもができた直後に離婚……というケース
は、いくらでもあります。

またしんさんについて言えば、「高校を中退した」。それだけのことです。が、Nさんも、しんさん
も、「コース」にこだわっている。そのコースにこだわり、自分を、がんじがらめにしている。

 そして自分の心配や不安を妄想的にふくらませ、ああでもない、こうでもないと悩んでいる。

 アメリカなどでは、女子高校生の妊娠、出産など、まさに日常茶飯事ですよ。高校の中に託
児所があるほどですから。また同じくアメリカには、現在、ホームスクーラー、つまり学校へ行
かないで、自宅で学習している子どもが、推定で、200万人以上、いますよ。

 シングルマザーにしても、みな、たくましく、自分の子どもを育てています。あえて結婚という形
を選ばない、シングルマザーたちです。

 運命というのは、それを恐れたとき、悪魔となって、キバをむいて、あなたを襲ってきます。し
かしそれを笑えば、運命というのは、向こうから退散していきます。Nさんも、しんさんも、運命
を恐れるあまり、自分を見失ってしまっている。

 私には、そんな感じがします。

 で、どうでしょう。もうこの際ですから、自分の運命を、前向きに受け入れてしまっては……?
 何でもないことですよ。もっと言えば、私もあなたも、息子さんたちも、今、こうして元気で、こ
の地球の上で生きている。そこを原点にして考えれば、何でもないことですよ。

 ハハハと、「少し早いけど、孫ができちゃった」と、笑えばいいのです。
 ハハハと、「うちの子も、高校を中退しまして」と、笑えばいいのです。

 「もう一度、子育て、やってやるか」と、前向きに考えればいいのです。
 「何年後でもいい。そのうち専門学校で勉強したくなったら、勉強すればいい。今は、心を休
めるとき」と、前向きに考えればいいのです。

 だって、どうにもならないでしょ。いや、あなたがたが、何とかしようとあせればあせるほど、か
えって、ものごとは、(あくまでもあなたがたにとっての話ですが)、悪いほうへ、悪いほうへと、
進んでしまう。

 私も、自分の子育てをしながら、いろいろな問題にぶつかりました。実家の問題も、ありま
す。でもね、そのつど、そうした運命を受け入れることで、そうした問題を乗り越えることができ
ました。

 「さあ、来たければ来い」とね。そして、その分、私はこう思うようにしました。「お前たちの分ま
で、がんばってやる!」と。そう思ったとたん、気持ちがウソのように楽になったのを覚えていま
す。またそれがバネとなって、私に生きる活力を与えてくれました。

 以前、その女性についての原稿を書いたことがありますが、Nさんや、しんさんのかかえてい
る問題など、何でもないと言えるほど、深刻で不幸な境遇の人(女性、30歳くらい)がいまし
た。

 父親は、その女性が、3、4歳のとき、自殺。以後、養女として、親戚をたらい回しにされたあ
と、叔父に強姦され、家出。それが中学2年生のとき。そのあとは、お決まりの流転生活。非
行。妊娠、中絶。その繰りかえし。やっと現在の夫と結婚し、2人の子どもをもうけたが、そのこ
ろ、今度は、兄が自殺。おまけに下の子(8歳)が、重い病気に……。

 その女性は、「もう何がなんだか、わけがわからなくなりました」と手紙に書いていましたが、
そんな女性でも、今、懸命に生きていますよ。明るく、前向きに生きていますよ。「今、ここで幸
福を逃がしたら、私は、本当に不幸になってしまう」「幸いにも、夫は、私を愛してくれています」
「すばらしい家庭を築いています」と。

 Nさんについて言うなら、養育費の問題が出てきたら、そのときは、そのとき。それをバネにし
て、あなたはもう一度、人生にチャレンジすればいいのです。またしんさんについて言うなら、も
う学校など、あきらめなさい。

 何が、難関コースですか!! 笑わせるな!! そんな愚劣な高校なら、あなたのほうから、
蹴飛ばしてやりなさい。つまずいて、ころんでいく子どもに転校を勧めるような学校は、もう学校
ではありません。ただの訓練校。進学塾。バカを育てる、家畜の養育場。

 そういう学校に背を向ける、あなたの子どものほうが、よっぽど、正常です。わかりますか?
 ただしばらく、今までの後遺症が残り、ここ数年は、あなたの子どもは、宙ぶらりんの状態に
なるかもしれません。

 しかし大切なことは、あなたたちは、自分の子どもを最後の最後まで、信ずることです。だま
されても、だまされたフリをして、無視することです。わかりますか?

 あなたたちの子どもは、あなたたちの過干渉と、過関心で、心の中がズタズタにされている。
私があなたたちの子どもなら、「もう、いいかげんにしてくれ」と、叫ぶでしょうね。きっと……。う
るさくてしかたない……。何かをするたびに、ああでもない、こうでもないと、否定ばかりする。
たまらないでしょうね。きっと……。

 とくにNさんは、何かあるたびに、ものごとを悪いほうに、悪いほうに考えてしまう(?)。車の
運転免許を取ったら、だれだって、つぎに車をほしがうようになりますよ。どうしてそれが悪いこ
となのですか。親の価値観を、子どもに押しつけないこと。

 こうした身勝手さが、あなたと、あなたの子どもの間を遠ざけている。そういうことを、あなた
は考えたことがありますか? あなたは、いつも、自分のことしか、考えていない! あるいは
自分の不安や心配を、自分の息子にぶつけているだけ! 自分がしてきた、数々の、失敗
は、すべて棚にあげて、それを正面から見ようともしていない。それともあなたは、「私はすばら
しい母親だった」「すばらしい母親になるために、努力してきた」と、あなたは胸を張って、それ
を言えるとでもいうのでしょうか。

 あなたにして、あなたの子どもなのです。

 だから、もう運命を受け入れなさい。前にも書いたと思いますが、あなたの孫が生まれたので
す。今は、愛情は感じないかもしれませんが、会って、世話をするうちに、あなたの感情も変わ
ってくるはずです。もしあなたが心のどこかで、祖母としての、責任を感ずるならの、話しですが
……。

 毎回、きびしいことを書いていますが、これはあなた自身を救うためと、許してください。しか
しもしここであなたが、この問題から逃げるようなことがあれば、つまりあなたの息子に問題を
押しつけて逃げるようなことがあれば、あなたはあなたのままだということです。

 しかし運命を前向きに受け入れれば、あなたはこの時点を境に、もっとすばらしい世界をそこ
に見ることになります。あなたは、すばらしい女性になることができます。

 どうですか? それができますか? が、もしそれができないというのなら、もう私のような人
間に相談するのは、やめなさい。相談したところで、問題は、何も解決しませんよ。あなたはい
つまでも、ジクジクと悩みつづけるだけです。

 しんさんも、同じです。今、あなたの子どもは、自分の命をかけて、あなたに何かを教えようと
しているのです。それに謙虚に耳を傾ければよいのです。「あなたは苦しかったのね」と、で
す。

 いいですか、親が子どもを育てるのではありませんよ。子どもが、親を育てるのですよ。幾多
の山を越え、谷を越えるうちに、親が、子どもに育てられるのです。それに気づけば、あなたた
ちは、すばらしい親になれます。と、同時に、こうした問題は、笑い話となって、闇のかなたに消
えていくのです。

 あと一歩ですよ、みなさん! がんばってください! 


++++++++++++++++++++

話は変わりますが、運命について書いた
原稿を、一作、添付しておきます。

++++++++++++++++++++

●ある姉妹の運命

+++++++++++++++++

それぞれの人には、それぞれ、
クモの糸のように、無数の
人間関係がからんでいる。

そしてそのクモの糸にからまれている
うちに、その人の人生がどうあるべきかが
決まってくる。

それを「運命」というなら、運命は、
だれにでもある。

+++++++++++++++++

 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

 大切なことは、どこでどう、その運命を受け入れ、どこでどう前向きに構えるかということ。…
…というほど大げさな問題ではないが、最近、こんなことがあった。ワイフの友人の問題だが、
それには、いろいろ考えさせられた。

それを話す前に、少し、説明しておきたいことがある。

子育ての世界には、「代償的過保護」という言葉がある。一見、過保護のように見えるが、過保
護ではない。過保護には、その背景に、深い親の愛情が見え隠れするが、代償的過保護に
は、それがない。

 子どもを自分の支配下において、子どもを自分の思いどおりにしたいというのが、代償的過
保護。つまりは、過保護もどきの過保護。もっと言えば、子どもを、親の心のすき間を埋めるた
めの、道具として利用する。よい例が、子どもの受験勉強に狂奔する親たち。「子どものため」
と言いながら、何も、子どものことなど、考えていない。自分の不安や心配を解消するために、
子どもをして、受験勉強にかりたてる。あるいは自分が果たせなかった夢や希望を、子どもを
通して達成するために、子どもを利用する。それが、「代償的過保護」。

 この代償的過保護になる親には、共通のパターンがある。

(1)心のすき間、つまり精神的未熟さ、情緒的不安定さがある。
(2)いつも満たされない欲求不満をかかえている。
(3)「産んでやった」「育ててやった」を口ぐせにしやすい。
(4)子どもの自立、独立を阻止しようとする。自分から離れていくのを許さない。
(5)ベタベタの親子関係をつくりやすい。子どもに依存心をもたせやすい。
(6)自己愛的傾向が強く、ものの考え方が、自己中心的で、人格の完成度が低い。
(7)独得の子ども観をもっている。

 最後の「独得の子ども観」というのは、親にベタベタ甘える子どもほど、いい子で、かわいい
子と考えやすいことをさす。そして、子どもを大切にするということは、子どもにいい思いや、楽
をさせることと誤解する。

 Aさん(60歳、女性)は、まさに、そんなタイプの母親だった。虚栄心が強く、世間体を、異常
なまでに、気にした。その上、自分勝手でわがまま。2人の娘がいたが、その娘たちとは、はや
くから絶縁状態。顔を合わせることもあったが、会うたびに、Aさんは、娘たちに、「親不孝者
め!」とか、「地獄へ落ちるぞ!」とか言って、娘たちをおどした。Aさんは夫とは、その5年ほど
前に、死別していた。

 が、不幸は突然やってきた。不幸といっても、Aさん自身のことではない。娘たちの不幸であ
る。ある朝、Aさんは、脳梗塞を起こして、倒れてしまった。幸い、症状が軽く、運動マヒは残ら
なかった。しかし人格が、変ってしまった。「母は、まるで別人のように、無表情で、怒りっぽくな
った」(妹)とのこと。しかしそれは同時に、娘たちの苦しみのはじまりだった。

 2人の娘は、たがいにけんかをした。「あんたが長女だから、めんどうみろ」「あんたのほう
が、母にかわいがってもらったのだから、あんたが、めんどうをみろ」と。

 結局、生活費は妹夫婦が負担して、姉のほうが、Aさんのめんどうをみることになった。暗黙
の了解ということだったが、娘たちは、自分の人生をのろった。とくに姉のほうが、その負担を
大きく感じた。

 姉は、毎週のように妹の家に来て、グチを言った。そのグチが、ときには、1時間以上もつづ
くことがあった。姉は、介護ノイローゼから、うつ病の一歩手前という状態ではなかったか。

 夜眠れない。朝早く、目がさめてしまう。耳鳴りがひどい。食欲がない。血圧があがった。腰
が痛い。頭痛がする。吐き気がする、などなど。

 そして母親のささいなことを取りあげて、ああでもない、こうでもないと不平、不満を並べた。
たとえば、インスタントラーメンが、台所のシンクの穴につまっていた。洗面所のお湯が流しっ
ぱなしになっていた。パンが、戸だなの中で、腐っていた。植木鉢の花が、枯れてしまった、な
ど。

 そしてあれこれ理由を並べて、妹が出すお金では、足りないと不満を言った。「往復するだけ
でも、20キロはある。ガソリン代が高い」と。

 妹のほうは、言われるまま、そのつど、2万円とか3万円とか、払っていた。が、それが当たり
前になると、今度は、「時間が取られる」「夫の仕事が手伝えなくなった」「旅行に行けなくなっ
た」と、妹に訴えた。

 母親はまだ、そのとき、65歳になっていなかった。一応、身の回りのことは、自分でできるの
で、介護の認定審査も受けられなかった。姉は、母親を、グループ・ホームへ入れたいと言っ
た。が、月々の費用だけで、13万円。プラス、小遣い。

 が、ここで、事件が起きた。母親が、姉に、それまでは自分で隠しもっていた、銀行の通帳と
印鑑を、渡した。見ると、そこには、1000万円近い金額があった。夫、つまり姉妹の父親の生
命保険金も、それに含まれていた。姉は、「私が預かる」と言って、その通帳と印鑑を、自分の
ところへもっていってしまった。が、このことは、妹には、話さなかった。

 しかし、それは、やがて妹の知るところとなった。母親が、妹のほうへ、電話をした。その通帳
と印鑑の話をした。妹は、即、姉に電話をして、金額をたしかめた。が、姉は、「見ていない」
「計算していない」「300万円くらいかな」と、とぼけた。

 とたん、妹は、姉への不信感をもつようになった。それまでは姉の健康に気をつかっていた。
母親のめんどうをみない自分に恥じて、姉の言うままに、お金を出していた。その妹は、私の
ワイフにこう言った。

 「母も母ですが、姉も姉です。私たち姉妹は、母のおもちゃのようなものでした。ウソのかたま
りというか、何が本当で、そうでないのか、わからない人でした。私たちは、母に、いいように操
られていただけです。そういう自分に気がついて、母とは絶縁しましたが、姉まで、ウソつきと
知って、もう何を信じていいのか、わからなくなりました」と。そして、こう言ったという。

 「しばらくしてから、私の心の中に、大きな変化が起きたのがわかりました。姉に対して、平気
でウソをつくようになってしまったということです。たとえば毎週のように私の家までやってきて、
グチを言っていましたが、それに対して、私と夫は、居留守を使うようになりました。息子たちに
も、口裏をあわせさせています。

 電話機をナンバーディスプレイにして、姉からの電話を受けないようにしました。携帯電話の
番号も変えました。姉には、携帯電話はもうやめたと話してあります。

 で、姉が来そうな日には、わざと何か用をつくって、家にはいないようにしています。以前の私
なら、それだけでも、罪の意識をもったでしょうが、今は、もう、ありません」と。

 こうした現象は、シャドウ論で説明できる。

 人はだれしもある程度の「仮面(ペルソナ)」をかぶる。仮面をかぶって生きている。よい例
が、ショッピングセンターの女性である。いつもにこやかな笑みを絶やさない。しかしそれは仮
面。

 で、その仮面を仮面と気づいている間は、問題ない。しかし中には、その仮面を脱ぎ忘れてし
まう人がいる。仮面を仮面とわからなくなってしまう。そして自分を、「善人」と錯覚してしまう。

 ここに書いた、Aさんが、そうではなかったか。妹は、こう言う。「私の母は、他人の前では、ま
るで牧師か何かのように振る舞います。しかしその他人の目の届かないところでは、他人の悪
口ばかり。他人の不幸が、何よりも楽しい、といった感じの話し方をします」と。

 が、やがて、2人の娘たちと疎遠になると、Aさんは、その娘たちにも、まるで牧師のような振
る舞いをするようになったという。で、あるとき、妹が、Aさんにこう言ったという。「母さん、私
に、そんな手を使っても、無駄ですよ。私は、母さんが、本当は、どんな人かよくわかっていま
すから」と。

 しかしもうそのときには、Aさんには、妹の言った言葉を理解する能力がなかった。仮面が、
仮面であるとさえわからなくなっていた。

 が、仮面をかぶればかぶるほど、自分の中の邪悪な部分を、心のどこかに閉じこめようとす
る。意識的にそうすることもあるし、無意識的にそうすることもある。そしてその邪悪な部分に
ついては、あえて「私ではない」と、言い切ったりする。

 その一例として、反動形成がある。牧師が、ことさらセックスや不倫の話を嫌ってみせたりす
るのが、それ。よい人間を演じつづけていると、その反動として、邪悪なものを、おおげさに遠
ざけようとする。

 が、問題は、ここで終わるわけではない。

 こうして仮面をかぶることにより、その邪悪な部分が、心の奥に閉じこめられる。しかしそこで
その邪悪な部分が消えるわけではない。その邪悪な部分が、その人のシャドウ(影)となって、
その人をウラから、操ることがある。

 が、それはそれ。その人の勝手。実は、親がこうしたシャドウをもつと、そのシャドウを、子ど
もが引きついでしまうことがある。そういう例は、たいへん、多い。Aさんのケースで言うなら、姉
が、Aさんのシャドウを引きついでしまったことになる。妹は、こう言う。

 「姉も、私も、あれほど母を嫌っていたのに、その姉が、母そっくりの人間になっていったのに
は、驚きました。もちろん姉は、それに気づいていません。今でも、『私は、母とはちがう』と思っ
ているようです。しかし一歩退いてみると、つまり私から見ると、母と姉は、一卵双生児のように
よく似ています」と。

 ここまで書いて、私は、2つの話をしなければならない。ひとつは、「運命論」。冒頭に書いた
のが、それ。もうひとつは、「代償的過保護論」。これはそのつぎに書いた。

 まず運命論についてだが、姉が、心安くなるためには、運命を受け入れるしかない。が、現
状では、姉は、その運命を拒絶している。だから、つぎからつぎへと、問題が起きてくる。もっと
もこれについては、私のワイフは、こう言う。

 「愛情の問題ではないかしら。その姉妹に、母親に対する愛情があれば、問題は、問題でな
くなってしまうはずよ」と。つまりその愛情が欠落しているから、母親の介護が重荷になるので
は、と。

 そこで、問題なのは、なぜ、その姉妹の愛情が消えてしまったかということ。その理由が、実
は、代償的過保護ということになる。Aさんは、もともと、娘たちを愛してはいなかった。口では、
「かわいがってやった」とよく言うそうだが、娘たちは、そうは思っていない。

 姉が結婚するときも、妹が結婚するときも、「スープが冷めない距離」を条件に出したという。
とくに妹のほうは、そのため、遠地に住む恋人と別れねばならなかったという。つまりAさんは、
姉妹の幸福よりも、自分の幸福を優先させた。それが長い時間をかけて、現在の親子関係
を、つくった。

私「今のままじゃあ、姉のほうも、たいへんだね」
ワ「要するに、2人とも、Aさん(母親)を、心の中では、うらんでいるのね」
私「そういうこと。が、うらめばうらむほど、母親のもつシャドウの呪縛のとりこになってしまう。ク
モの巣の糸にからまれるように、ね」
ワ「母親を嫌えば嫌うほど、母親のような人間になってしまうということ?」

私「そういうケースは、多いよ。本来なら、親子関係を清算するのがいいのだけれど、それはで
きないしね」
ワ「すべての原因は、Aさんにあるのよね。子育てそのものが、最初から、ゆがんでいた。Aさ
ん自身の生きザマにも、問題があったと思うわ」
私「ぼくも、そう思う。で、姉のほうもたいへんだろうけど、妹さんのほうは、これから先、もっと
たいへんだろうね。Aさんが死ぬまで、10年とか、20年も、この問題はつづくからね……」と。

 運命というのは、それを受け入れた者には、喜びを与え、それを拒否する者には、苦痛と悲
しみを与える。運命というのは、それを前向きに構えた者には、笑顔を見せ、それに背を向け
たものには、キバをむく。

++++++++++++++++++

【補記】

 ここに書いた、Aさんというのは、架空の母親です。もともと、この話は、私の義姉から聞いた
ものです。その話をワイフが私にしたので、さらに詳しくということで、私が義姉に会って、内容
をたしかめてきました。

 一部、その人とわからないようにするため、説明不足の点もありますが、それはお許しくださ
い。義姉から、「Aさんがだれか、ぜったいにわからないように書いてね」と、強くクギを刺されて
います。

 なお、本文の中で、「代償的過保護」「シャドウ」という言葉を使いましたが、それは義姉との
会話の中で、私が、義姉に説明した部分です。「そういうのを、代償的過保護というのですよ」と
か、「シャドウとかいうのですよ」とか。

 それについても、どこか説明不足なところもありますが、この原稿は、また日を改めて、書き
なおしてみたいと思います。

【付記】

 ウソをつく人に会うと、こちらまで、ウソをつくことに抵抗感がなくなってしまう。そしてさらにそ
の人と、長く会っていると、ウソをつくことが平気になってしまう。

 こうしてウソつきのまわりには、ウソをつく人ばかりが集まるようになる。そして一趣、独特の
世界をつくるようになる。

 だから、ウソをつく人とは、できるだけ早く、別れたほうがよい。距離をおいたほうがよい。で
ないと、自分の人間性まで、腐ってしまう。長い時間をかけて、そうなる。

 親や、兄弟、親類、縁者のばあいは、そうは簡単ではないかもしれない。そこで重要なこと
は、ウソにはウソで返すのではなく、そのつど、自分と戦う必要がある。心して、正直、誠実を
つらぬく。

 実は、ここに書いた妹さん自身も、すでに、姉のウソの呪縛の虜(とりこ)になりつつある。居
留守を使ったり、ナンバーディスプレイの電話にしたり、さらには、「携帯電話はもうやめた」と
ウソをつくことなど。息子たちに、口裏をあわせるように指示することによって、今度は、息子た
ちが、その呪縛の虜になってしまう可能性もある。

 このままでは、妹さんのほうも、やがて、Aさんのシャドウに巻きこまれてしまう。もちろん妹さ
んも、それに気づいていないが……。ユングが説いた、シャドウ論の本当のこわさは、ここにあ
る。
(はやし浩司 代償的過保護 親の育児姿勢 シャドウ シャドウ論 兄弟の確執 親子の確
執)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1513)

【新・日本論】

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日本が、日本(NIPPON)であること自体、
おかしな話なのです。

どうして日本が、「日本(NIPPON)なのか、
あなたは考えたことがありますか。

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 「日本」というのは、読んで字のごとく、「日の本(もと)」。つまり「太陽が生まれる国」という意
味。

 しかし日本が、太陽が生まれる国であるというのは、日本の西、つまり朝鮮半島や中国から
見た発想。日本に生まれて、日本で育った人の発想ではない。「日本」という国の呼び方にして
も、そうである。どうして、「NIPPON」と、音読みにするのか? 音読みというのは、いわゆる
「中国式の読み方」ということになる。

 ……ということで、少し前、それについての原稿を書いた。が、これを補足するような事実が、
またまた明るみになってきた。森博達著、『日本書紀の秘密』(中公新書)という本が、それであ
る。

 この本でいう「秘密」とは、「日本書紀」の内容そのものではなく、それが記された過程、特に
誰が書いたのかという謎を指している。 

 著者はこの研究を通じて、「日本書紀」が2つの部分、すなわち完ぺきな中国式の漢文を駆
使した「アルファ群」と、日本式の漢語や単語選択の誤りが目につく「ベータ群」が混在している
ことを明らかにしている。そのため、背景が異なる複数の著者が執筆を行った可能性が高いと
いう。 

 著者は中国から渡ってきた学者が執筆したアルファ群(第14〜21巻、第24〜27巻)と、新
羅に留学した日本人僧侶が書いたベータ群(第1〜13巻、第22〜23巻、第28〜29巻)、そ
してどちらにも属さない第30巻に分けられると結論づけている。 

 これを手がかりに、著者は「日本書紀」が執筆された7世紀末の状況を推理している。同書
は日本で第54回毎日出版文化賞を授賞しているという。

 もしこんな本を戦前の日本で発表したら、即、何かの罪で、投獄されたにちがいない。もちろ
んこの私とて、無事ではすまない。「日本書紀」といえば、日本人のルーツ。民族主義者たちの
バイブルにもなっている。

 が、この日本を一歩離れてみると、そこには、まったく別の世界がある。別の歴史が流れて
いる。

 日本の天皇(日王)にしても、韓国や中国では、朝鮮から渡った騎馬民族の一派であるという
説が、常識になっている。わかりやすく言えば、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)と、日本の天皇
は、どこをどう調べても、つながっていない! 言うなれば、ここが日本の歴史の中の、ミッシン
グ・リンクということになる。

 が、日本という国を、「東洋史」という世界でみつめなおしてみると、こうした矛盾が、一気に
解決する。「日本も、東洋の一部である」という歴史観である。縄文式文化はともかくも、弥生
式文化にしても、中国大陸から戦乱を避けて、のがれてきた中国人たちが作った文化であると
考えると、弥生式文化にまつまる数々の謎が、氷解する。

 同じように、「日本」という国にしても、そうだ。「奈良(ナラ)」という都にしても、そうだ。

 が、だからといって、私は何も、日本という国を否定しているのではない。日本という国は、
今、ここにあるし、これからも、ずっと、ここにある。しかし歴史は歴史として冷静に見ていかな
いと、日本人はいつまでたっても、井の中の蛙(かわず)で終わってしまう。

++++++++++++++

もう一度、少し前に書いた原稿を、
ここに再掲載しておきます。

++++++++++++++

●「日本」の謎

++++++++++++++++++

「日本」がもつ、最大の謎。
それは、日本が、なぜ「日本」なのか。

日本という国の名前を、「ニッポン」と、
音読(中国式の読み方)すること自体、
おかしい。

また、「日本」とは、読んで字のごとく、
「日の本(もと)」、つまり、
「太陽が昇る国」という意味
である。

が、どうして日本が、その
「太陽が昇る国」なのか?

++++++++++++++++++

 私がUNESCOの交換学生で、韓国にいたとき、こんな話を聞いた。話してくれたのは、金素
雲という名前の歴史学者だった。当時の韓国を代表する文化人でもあった。

 「日本の都の奈良は、韓国人が創建した都市だ。韓国から見て、(地の果てにある国)という
意味で、『奈落』とした。『ナラ』という言葉は、今でも、韓国語では、『国』を意味する。

 しかし『奈落』では、まずい。で、そのあと、『落』という文字を、『良』にかえ、『奈良』とした」と。

 私が「証拠がありますか?」と食い下がると、金素雲氏は、笑いながら、こう言った。「仁徳天
皇の墓を発掘すれば出てくるはずです」と。

 で、この話と少し関連するかもしれないが、日本が、なぜ、「日本」なのかという謎がある。わ
かりやすく言えば、いつ、だれが、この国を、日本と呼ぶようになったかということ。

 「日本」という国の名前は、もともとは、「日の本(もと)」という意味である。「太陽が昇る国
(Country of the Rising Sun)」という意味である。となると、おかしなことになる。日本は、自ら、
自分の国を、「太陽が昇る国」と名づけたことになる。

 つまり日本が、その太陽が昇る国であるかどうかは、日本の西側にある国に住んでいる人で
ないとわからないはず。日本人自身が、自らの国を、「太陽が昇る国」と名づけたとするなら、
その視点そのものが、おかしい。(反対に日本が、「日没の国」という名前であったとしたら、ど
うなるのか。そういう視点で考えてみると、わかりやすい。)

もし「日本」という名前を決めた人が、日本人であるとするなら、その人は、きわめて国際的な
感覚をもっていた人ということになる。少なくとも、一歩でも、日本から外へ出たことのある人で
ないと、そういう発想は、わいてこない。

 日本は、その昔、「倭(わ)」と呼ばれていた。「倭の国」とも呼ばれていた。「倭」というのは、
「伽耶※(かや)」(任那の古称。その任那には、日本府が置かれた)の別称でもあった。その
「倭の国」が、いつごろからか、今の「日本」という名前で呼ばれるようになった。

 それについて、韓国の、ある貿易会社の理事(S社P氏)は、こう書いている。P氏は貿易会
社の理事をしながら、一方で、歴史学者としても、知られている。

 「『日本』という国号を創案したのは、7世紀の高句麗僧・道顕である」と。

 つまり日本という名前を考案したのは、韓国人(高句麗人)だった、と。

 たいへんショッキングな意見だが、しかし、この説に従うと、日本がなぜ『日本』なのかという
謎が、解ける。韓国から見れば、日本は、たしかに「太陽が昇る国」である。だから日本は、
「日本」になった?!

 P氏は、こうつづける。「つまり古墳時代はもちろん、奈良時代まで、古代日本の主流階層
は、韓半島(朝鮮半島)から渡った渡来人だった」(同氏著「日本の源流を訪ねて」(サムエ社
刊)と。

 まあ、こうした説は、日本の外では、常識。ここに書いた、「任那の日本府」(正確には「任那
日本府」という)にしても、日本では、あたかも日本が韓国を支配下に置くために設置した、出
先機関のような印象をもって語られている。私も、学生のころ、歴史で、そう習った。しかししか
し韓国では、「ただの使途集団にすぎなかった」というのが常識。

 日本の歴史辞典(「角川新版日本史事典」)ですら、「百済または伽耶が設置した機関とする
説もあるが、倭国が伽耶の安羅国に送りこんだ、使臣集団とする説が有力」※と書いている。

 なぜ日本が、「日本」なのか? そんなことを考えた人は少ないと思う。だいたい日本という国
名を、「ニッポン」と、音読(中国式の読み方)すること自体、おかしい。なぜ日本という国名が、
中国式の読み方になっているのか。日本が、「日(ひ)の本(もと)」であっても、何ら、おかしくな
い。それについては、岩波書店の広辞苑には、つぎのようにある。

 「……大和(やまと)を国号とし、(日本はその昔)、『やまと』『おほやまと』といい、古く中国で
は「倭」と呼んだ。

 中国と修交した大化改新頃も、『東方』すなわち『日の本』の意から、『日本』と書いて、『やま
と』と読み、奈良時代以降、ニホン・ニッポンと音読するようになった」と。

 中国では、「東方にある国」という意味で、「日本」と書いて、「やまと」と呼んでいたというの
だ。

(マルコポーロの時代には、中国では、日本は、「Chipangu」(「東方見聞録」)と呼ばれていた
らしい(日本大百科事典)。「日本国」を、元の時代には、そう発音したらしい。通説では、それ
が「ジパング」となり、さらに「ヤーパン(JAPAN)」となり、英語式の発音で、「ジャパン」となっ
た。ただしこれについては、諸説が氾濫している。

ここに書いたように、「ジパング」が、Japanとなったという説のほか、「日本」を、南シナで「Jip
enguo」と呼んでいたのが、Japanとなったという説などがある。)

もちろんここに書いたのは、数多くある「日本」説の中の一説にすぎない。しかしこと、この「日
本」にかかわる問題だけに、重大な問題と考えてよい。

 なぜ、日本が「日本」なのか? 考えれば考えるほど、謎が深まる。

(注※)(任那の日本府)……任那日本府は、倭国(日本の前身)の属領もしくは貢納国であ
り、任那地域に一定の経済利得権(おそらく製鉄の重要な産地があった)を持っており、事実
上の属領であったと考えられていた。

しかし、1960年代ごろから、大韓民国や朝鮮民主主義人民共和国で研究が進み、また日本
でも1970年代ごろから新たな視点から再検討が行われた結果、ヤマト朝廷の任那支配は疑
問視されるようになり、任那日本府については、倭と関連する集団(倭臣、倭人集団)が、任那
地域に一定の経済利得権を持っていたとする説が有力となっている。

近年、日本特有の墳墓であるとされていた前方後円墳が、任那に相当する地域から相次いで
発見され、その関連性が指摘されている(以上、ウィキペディア百科事典)。

(注※)「伽耶※(かや)」の「耶」は、人偏に、「耶」の字。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 日本
論 任那日本府 任那の日本府 倭 日本の謎 大和 大和朝廷 新日本論 日本書紀 NIP
PON)

【付記】

 日本と韓国の歴史を比較していて興味深いのは、日本では、「献上」となっているところが、
韓国では、「下賜」となっていることが多いということ。

 たとえば日本の歴史で、「朝鮮の使節団が、天皇に宝物を、献上した」というような部分が、
韓国の歴史では、「日王(=天皇)に下賜した」となっているなど。

 考えてみれば、当時の朝鮮(百済、任那、新羅、高句麗)が、日本の天皇に頭をさげなけれ
ばならない理由など、どこにもない。当時の上下関係からすると、「下賜」のほうが正しいという
ことになる。

 私はそのことを、韓国の慶州へ行ったときに知った。バスの窓から、巨大な古墳群が、まる
で海の波のようにつながっているのを見たときのことである。私はそのスケールの大きさに、た
だただ圧倒された。

このことからだけでも、どちらが「上」か「下」かということになれば、明らかに、日本が、「下」。
当時の上下関係を、今ここで論ずること自体、おかしい。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1514)

【まじめに生きる】

++++++++++++++++++
大阪で宗教活動をしている友人の、
Y氏が、今度、自著を出版することになった。
その連絡が届いた。

 以前は、毎月のように連絡をとりあっていた。
 いろいろ励まされた。教えられた。

 いろいろな宗教家がいるが、Y氏は、いつも
 自分の生き様をしっかりと見つめ、
 人間がもつ(心の問題)を、真正面から
 とらえようとしている。

 その真摯な姿は、気高くも、美しい。

++++++++++++++++++
 
Yさんへ

拝復

 返事の連絡が遅れてすみません。ご自著を出版されたと聞き、少なからず、喜んでいます。
とうとう、意思を完遂なさったのですね。おめでとうございます。1冊、お手数ですがお送りくださ
れば、喜んで購入させていただきます。

 紹介にありますように、「日本を良くする」ということは、私も同感です。またその必要性を、強
く感じています。私もおよばずながら、Yさんとは、方法や歩んでいる道はちがうかもしれません
が、それを目的として、がんばっています。Yさんの本が、「どうしたらいいのか?」と迷っている
人たちの、道しるべになれば、うれしく思います。

 Yさんの、まじめなといいますか、真摯な宗教観は、必ず、多くの人たちの心を捉えると思い
ます。これからも、よろしくご指導ください。と、同時に、Yさんのますますの精進を、心から楽し
みにしています。

 ご出版の連絡、ありがとうございました。Yさんの達筆な文字を見るにつけ、気後れがしてしま
います。私は、こうしてほとんどの文章を、パソコンで書いています。改めて、その味気なさを思
い知らされています。本来なら、手書きで挑戦しなければならないのですが、どうか、非礼をお
許しください。

 本当に、奇跡的なご健康の回復、喜んでいます。またそうした事故にもかかわらず、それを
バネとして、前に進まれたYさんは、すばらしいと思います。ふつうなら、つまりほとんどの人
は、その段階で、めげてしまうのですが……。

 こちらのほうは、何ということもない、平凡な人生を、淡々と歩んでいます。Yさんのお気持ち
を借りれば、砂漠のような無味乾燥した世界かもしれません。心のより所はすぐ近くにあるは
ずなのに、手だけが届かない。そんな感じです。

 まあ、私なりにがんばってみるしかないと思っています。

 今朝は、一転、どこかの高山にでもいるかのような、気持ちのよい朝でした。こうして文章を
打っていても、何か、心がはずみます。「秋だなあ……」という感じです。

 これからも、どうかお体を大切に。無茶をなさいませんように。末永く生きて、しぶとく、とも
に、この世を見てやろうではありませんか。

 では、これで失礼します。

 電話をしようと思ったのですが、FAX番号しかなく、こうして手紙を書くことにしました。ていね
いなお手紙をいただきながら、こうして返事が遅れたことを、重ねて、お許しください。

 では、本が届くのを楽しみにしています。

                                  敬具


【補記】

 まじめに生きている人と接するのは、それだけでこちらの心が浄化されるようで、気持ちがよ
い。Yさんという方は、宗教家でありながら、飾らず、気さくな人で、会うたびに、すがすがしさを
覚える人である。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1515)

【本音と建前】

●底なしのG県庁・裏金汚職

++++++++++++++

底なしの様相を見せ始めた、
G県庁・裏金汚職。

何しろわかった裏金だけでも、
17億円!

しかも幹部職員らが、分担して、
その裏金を隠していたという。

中には、ネコババしながら、
「燃やした」と弁明する職員も
いた。

++++++++++++++

 公務員の世界というのは、不思議な世界である。そこにあるのは、(人と人のつながりを示
す、組織)だけ。その(組織)を取ったら、あとには、何も残らない。

 民間企業のように、営業とか利益とか、運営とか経営とかいう概念は、まったくない。給料な
どというものは、天をあおげば、その天から、自動的に降ってくる。その公務員が、なぜ公務員
かといえば、(権限)と(管轄)、それと(情報)を握っているからにほかならない。

 もし公務員から、(権限)と(管轄)、それに(情報)を奪ってしまえば、公務員は、その存在意
義をなくす。だから公務員は、(権限)と(管轄)、それに(情報)にしがみつく。絶対に、手放さな
い。

 これが公務員の(構図)だが、その構図は、中央官僚も、地方公務員も、基本的には同じ。

 しかしそれにしても、17億円とは! ケタがちがう。今朝も、出先機関の職員(当時)が、裏
金470万円余りを自宅に隠匿していたという事実が、明るみになった(9月5日)。高山市の県
高山建設事務所(現・県高山土木事務所)の男性元職員である。

 数日前は、「(現金を)燃やした」と言っていた職員が、実はネコババしていたという事実も、
明るみになった。しかしその職員は、「飲み食いに使った」と弁明している。ご存知のように、法
律の世界では、飲み食いに使ったといえば、一応、返還義務を免れることができる。

 わかりやすく言えば、事件が発覚すると同時に、(あるいはそれ以前から……?)、職員たち
が17億円もの大金を山分けして、保管(?)していたことになる。「保管」と言えば、聞こえはよ
いが、うまくいけば、そのままネコババできる裏金である。みな、こぞって保管を申し出たにち
がいない。

 ゾーッ!

 本来なら、県庁ごと、解体してしまうのが望ましい。が、そこは、公務員の世界。解体しように
も、もともと、その実体がない。冒頭にも書いたように、そこにあるのは、(人と人のつながりを
示す、組織)だけ。わかりやすく言えば、煙(カスミ)でできた世界のようなもの。建物だけを見る
と、「おお、これが県庁か」と思う人も多いかと思うが、あれはあくまでも、箱。煙をのがさないた
めの、ただの箱。

 だからこういう事件が起きても、責任を追及することもできない。だいたい責任者なる者がい
ない。問題の県庁の元県知事にしても、「知らなかった」と、逃げまくっている。

 そこで重要なのが、働く職員のモラルということになる。誠実さというか、英語で言えば、「ho
nesty(正直さ)」。その誠実さが、私も、元G県民だったから言うが、あの県には、それが欠け
ている(?)。まるで県全体が、小ズルさのかたまりのような県と言ってもよい(失礼!)。商売
のし方にしても、名古屋商法というより、大阪商法に近い。

 客をだまして、金を取る……というのが、あのあたりの商法の基本になっている。「ウソ(嘘)」
に対する感覚も、明らかにこの静岡県とはちがう。G県の人たちは、日常的に平気でウソをつ
く。「ウソ」という言葉に語弊があるなら、「本音と建前」と言いかえてもよい。

 それを実にたくみに使い分ける。口で言っていることと、中身が、まるでちがう。それがG県で
ある。

 私は今回の一連の裏金汚職事件は、起こるべきして起きた事件だと思っている。この私です
ら、そういう黒いウワサは、もう15年以上前から耳にしていた。「県庁の役人たちが飲み食い
するときは、いつも領収書を2枚切ることになっている」(ある割烹経営者)、「タクシー券を、い
つも10万円単位で購入している」(県庁職員)など。元県知事にまつわる話も少なくない。

 G県の県民たちが怒るのは当然だとしても、それがG県という県がもつ体質であるとするな
ら、県民自身も、それなりに反省しなければいけないのではないのか……と、私は思う。

なお英語では、「Honesty is the best policy.(正直は最良の策である)」という。その「P
olicy」には、「政策」という意味も含まれる。

+++++++++++++++++

ここまで書いて、「飛騨の昼茶漬け」という
言葉を思い出しました。

本音と建前を、たくみに使い分けるのがうまい、
G県民の県民性というか、その一端が、
この言葉に集約されているように思います。

+++++++++++++++++

●飛騨の昼茶漬け

 日本人というより、G県の人たちは、本当にウソがうまい。日常的にウソをつく。ウソをウソと
も思っていない。たとえばG県の飛騨地方には、『飛騨の昼茶漬け』という言葉がある。あのあ
たりでは、昼食を軽くすますという風習がある。で、道でだれかと行きかうと、こんなあいさつを
する。

 「こんにちは! うちで昼飯(ひるめし)でも食べていきませんか?」
 「いえ、結構です。今、食べてきたところですから」
 「ああ、そうですか。では、失礼します」と。

 このとき昼飯に誘ったほうは、本気で誘ったのではない。相手が断るのを承知の上で、誘う。
そして断るほうも、これまたウソを言う。おなかがすいていても、「食べてきたところです」と答え
る。

この段階で、「そうですか、では、昼飯をごちそうになりましょうか」などと言おうものなら、さあ、
大変! 何といっても、茶漬けしか食べない地方である。まさか昼飯に茶漬けを出すわけにも
いかない。

 こうした会話は、いろいろな場面に残っている。G県にかぎらない。ひょっとしたら、あなたも
日常的に使っているかもしれない。日本では、正直に自分を表現するよりも、その場、その場
を、うまくごまかして先へ逃げるほうが、美徳とされる。ことを荒だてたり、角をたてるのを嫌う。
何といっても、聖徳太子の時代から、『和を以(も)って、貴(とうと)しと為(な)す』というお国が
らである。

 こうした傾向は、子どもの世界にもしっかりと入りこんでいる。そしてそれが日本人の国民性
をつくりあげている。私にも、こんな苦い経験がある。

 ある日、大学で、一人の友人が私を昼食に誘ってくれた。オーストラリアのメルボルン大学に
いたときのことである。私はそのときとっさに、相手の気分を悪くしてはいけないと思い、断るつ
もりで、「先ほど、食べたばかりだ」と言ってしまった。で、そのあと、別の友人たちといっしょ
に、昼食を食べた。そこを、先の友人に見つかってしまった。

 日本でも、そういう場面はよくあるが、そのときその友人は、日本人の私には考えられないほ
ど、激怒した。「どうして、君は、ぼくにウソをついたのか!」と。私はそう怒鳴られながら、ウソ
について、私がそれまでに住んでいたG県の人たちとオーストラリア人とでは、寛容度がまった
く違うということを思い知らされた。

 本来なら、どんな場面でも、不正を見たら、「それはダメだ」と言わなければならない。しかし
日本人は、それをしない。しないばかりか、先にも書いたように、「あわよくば自分も」と考える。
そしてこういうズルさが、積もりに積もって、日本人の国民性をつくる。それがよいことなのか、
悪いことなのかと言えば、悪いに決まっている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私はウソつきだった

 実のところ、私は子どものころ、ウソつきだった。ほかの子どもたちよりもウソつきだったかも
しれない。とにかく、ウソがうまかった。ペラペラとその場を、ごまかして、逃げてばかりいた。私
の頭の中には、「正直」という言葉はなかったと思う。

その理由のひとつは、大阪商人の流れをくんだ、自転車屋の息子ということもあった。商売で
は、ウソが当たり前。このウソを、いかにじょうずつくかで、商売のじょうずへたが決まる。私は
毎日、そういうウソを見て育った。

 だからあるときから、私はウソをつくのをやめた。自分を偽るのをやめた。だからといって、そ
れですぐ、正直な人間になったわけではない。今でもふと油断をすると、私は平気でウソを言
う。とくにものの売買では、ウソを言う。自分の体にしみこんだ性質というのは、そうは簡単には
変えられない。

 そこであなたはどうかということを考えてみてほしい。あなたは自分の子どもに、どのように接
しているかを考えてみてほしい。あるいはあなたは日ごろ、あなたの子どもに何と言っているか
を考えてみてほしい。

もしあなたが「正直に生きなさい」「誠実に生きなさい」「ウソはついてはいけません」と、日常的
に言っているなら、あなたはすばらしい親だ。人間は、そうでなくてはいけない。……とまあ、大
上段に構えたようなことを書いてしまったが、実のところ、それがまた、日本人の子育てで、一
番欠けている部分でもある。そこでテスト。

 もしあなたが中央官僚で、地方のある大きな都市へ、出張か何かで出かけたとする。そして
帰りぎわ、10万円のタクシー券を渡された。そのとき、あなたはそれを断る勇気はあるだろう
か。

さらに渡した相手に、「こういうことをしてはいけないです」と、諭(さと)す勇気はあるだろうか。
私のばあい、何度頭の中でシミュレーションしても、それをもらってしまうだろうと思う。正直に
言えば、そういうことになる。

つまり私は、子どもときから、そういう教育しか受けていない。つまりそれは私自身の欠陥とい
うより、私が受けた教育の欠陥といってもよい。さてさて、あなたは、子どものころ、学校で、そ
して家庭で、どのような教育を受けただろうか。
(03年―1月―7日記)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●あなたは裁判官

(ケース)Aさん(40歳女性)は、Bさん(45歳女性)を、「いやな人だ」と言う。理由を聞くと、こう
言った。

AさんがBさんの家に遊びに行ったときのこと。Bさんの夫が、「食事をしていきなさい」と誘った
という。

そこでAさんが、「いいです」と言って、やんわりとそれを断ったところ、Bさんの夫がBさんに向
かって、「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と怒鳴ったという。

それに対して、Bさんが夫に対して、家の奥のほうで、「今、食べてきたと言っておられるじゃな
い!」と反論したという。それを聞いて、AさんはBさんに対して不愉快に感じたというのだ。

(考察)まずAさんの言い分。「私の聞こえるところで、Bさんはあんなこと言うべきではない」「B
さんは、夫に従うべきだ」と。

Bさんの言い分は聞いていないので、わからないが、Bさんは正直な人だ。自分を飾ったり、偽
ったしないタイプの人だ。だからストレートにAさんの言葉を受けとめた。

一方、Bさんの夫は、昔からの飛騨人。飛騨地方では、「食事をしていかないか?」が、半ば、
あいさつ言葉になっている。しかしそれはあくまでもあいさつ。本気で食事に誘うわけではな
い。相手が断るのを前提に、そう言って、食事に誘う。

そのとき大切なことは、誘われたほうは、あいまいな断り方をしてはいけない。あいまいな断り
方をすると、かえって誘ったほうが困ってしまう。飛騨地方には昔から、「飛騨の昼茶漬け」とい
う言葉がある。昼食は簡単にすますという習慣である。

恐らくAさんは食事を断ったにせよ、どこかあいまいな言い方をしたに違いない。「出してもらえ
るなら、食べてもいい」というような言い方だったかもしれない。それでそういう事件になった?
 こういうときAさんは、ウソならウソでもよいが、「今、食べてきたところです」と、言わなければ
ならない。

(判断)このケースを聞いて、まず私が「?」と思ったことは、Bさんの夫が、Bさんに向かって、
「おい、B(呼び捨て)!、すぐ食事の用意をしろ」と言ったところ。

そういう習慣のある家庭では、何でもない会話のように聞こえるかもしれないが、少なくとも私
はそういう言い方はしない。私ならまず女房に、相談する。そしてその上で、「食事を出してやっ
てくれないか」と頼む。あるいはどうしてもということであれば、私は自分で用意する。いきなり
「すぐ食事の用意をしろ」は、ない。

つぎに気になったのは、言葉どおりとったBさんに対して、Aさんが不愉快に思ったところ。

Aさんは「妻は夫に従うべきだ」と言う。つまり女性であるAさんが、自ら、「男尊女卑思想」を受
け入れてしまっている! 本来ならそういう傲慢な「男」に対して、女性の立場から反発しなけ
ればならない。が、そのAさんは、むしろBさんを責めている! 女性(妻)は夫の奴隷ではな
い!

 私はAさんの話を聞きながら、「うんうん」と返事するだけで精一杯だった。内心では反発を覚
えながらも、Aさんを説得するのは、不可能だとさえ感じた。基本的な部分で、考え方が、まっ
たくちがっていた。

+++++++++++++++++++++++

●本音と建前

 日本人の本音と建前論については、世界的によく知られている。

 言っていることと、ハラ(腹)の中は、ちがう。……ということは、日常的に経験する。

 オーストラリア在住の日系女性(夫は、オーストラリア人)が、こんなメールをくれた。

 「私の叔父は、何かのついでに、こう言いました。『人間なんていうのはね、ハラの底はわか
らないもんだよ。同情しているようなフリをして、実は、ザマーミロと、相手の不幸を喜んでいた
りするもんだよ』と。

 私は、子どもながらに、『そういうものかなあ』と思いましたが、日本を離れてみて、それが日
本人独特のものの考え方だということを、思い知らされました」と。

 実際、欧米人(オーストラリア人、アメリカ人)というのは、ものの考え方が、ストレート。自分を
ごまかすことができない。そういう習慣もない。(だからうつ病患者が多いという説もある。)

 たとえば日本では、よく、こんな会話をする。

 「今度、遊びにおいでよ」
 「うん、わかった。またね」と。

 誘ったほうも、本気で、誘ったのではない。その場の雰囲気で、そう言う。

 一方、誘われたほうも、本気で誘われたとは思わない。その場の雰囲気で、そう答える。

 が、オーストラリアでは、こういう会話は通用しない。絶対に通用しない。アメリカでも、通用し
ない。

 へたに「今度、遊び(食事)においでよ」などと言おうものなら、すかさず、「ありがとう。いつ行
けばいいですか?」と聞きかえされる。断ることは、かえって非礼になる。仮に「またね」とあい
まいな言い方をすれば、(そういうあいまいな言い方そのものがないが)、かえって相手に対し
て失礼となる。

 表面では、同情したフリをしながら、ハラの中では、その人の不幸を笑う。

 しかし実のところ、そういうことをしていたのは、その叔父自身ではないのか。自分がそうだ
から、他人もそうだと思ってしまう。こうした二面性のある人は、世の中のすべての人にも、二
面性があると思ってしまう。

 が、ストレートな人は、ストレート。

 たとえば同じ日本人なのに、私のワイフは、私とくらべても、はるかにストレート。ハラ芸がで
きない。浜松市という、東海地方でもナンバー2の都会で、生まれ育ったためではないか。少な
くとも、岐阜県の山奥で育った私とは、ちがう。

 で、私のばあいだが、私は、ここでいうような(建前)とは、決別した。まだ完全ではないが、そ
う心がけている。

 本音と建前を使い分けるののも、結構、しんどいこと。たとえばハラの中で、「ザマーミロ」と
思うくらいなら、そもそも、そういう人とは、つきあわない。

 くだらないことかもしれないが、私はこうしてものを書くことについて、いくつかの原則をもって
いる。その一つ。

いつも心の中を、整理しているということ。

決して、その人自身のことを書いているわけではないが、その人を念頭において、批判したり、
批評したりすることがある。

 そういう人とは、すでに、交際を、断交している。「今後、一生、つきあうことはない」という前
提で、ものを書く。また、そういうふうに、心の中を整理していかないと、やがて、心の中が、ご
ちゃごちゃになってしまう。

 ウラで、その人を批判しながら、オモテで、「こんにちは」と笑うことは、私には、もうできない。
それこそ、時間のムダ。

 以前、こんな原稿を書いた。

●私のこと

 私とワイフのちがいについて、少し書いた。

 で、結婚して、30年以上になるが、いまだに、そのワイフについて、よく理解できないところが
ある。

 私は、ときどき、弁当を教室まで届けてもらうのだが、そういうとき、私のほうが遠慮して、「今
日は、いいよ。近くのレストランで食べるから」と電話をする。

 ワイフも、何かと、このところ、いそがしい。それに暑い。

 が、私は、そう言いながらも、内心では、ワイフが、弁当を届けてくれるのを期待する。「そう
は言っても、弁当は必要だから」と。

 しかしワイフは、私の言葉を、いつもストレートに解釈する。私が「いいよ」と言えば、それっき
り。絶対に、弁当を届けてくれない。(今まで、一度もない。)

 私がワイフなら、「まあ、そうは言っても、届けるわ」とか言って、届けるかもしれない。

 そういう意味では、ワイフは、欧米人に近いということになる。一方、それでさみしく思う私は、
純粋な大和民族。どこか(フー天の寅さん)的な人情味が、まだ残っている。

 どちらがよいとか、悪いとかいうことではなく、そうしたちがいというのは、30年以上いっしょ
に住んでも、なかなか克服できないということ。

 最近、国際結婚がふえているが、こうした民族的なちがいまで乗りこえて、結婚生活をつづけ
るというのは、たいへんなことかもしれない。くだらないことだが、この原稿を書きながら、ふと、
そんなことを考えた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 裏金は、17億円だという。しかし私は、そんな額ではないと思う。つい先月のはじめには、4
億円前後と報道されていた。その少し前には、たしか数百万円ではなかったか。それがいつの
間にか、17億円!

 私の知人にも、G県の職員の人が何人かいる。そのうちの1人(大卒・45歳)は、800万円
前後の年収を得ている。奥さんも、同じ県庁の職員だが、ダンナよりも給料がよいという。つま
り2人で、1600万円以上の年収ということになる。

 この時代に、夫婦で1600万円以上というのは、きわめて恵まれた人たちということになる。
そういう人たちが、組織ぐるみで、やりたい放題のことをしている。

 許せないというより、「これが現実か」と、ただただあきれるばかり。ホント!

(補記)今朝(9月6日)の朝刊(C新聞)では、その額が19億円以上になっていた。それぞれの
団体は、県に裏金を返還すると言っているが、身内どうしで返還しあって、それでどうなるという
のか。息子が、おやじの金庫から金を盗んだ。それがバレたので、息子は、おやじに、金を返
した。それで問題は解決? 一件落着? おしまい?

 結局、この事件は、うやむやのまま終わることになる。つまり、それが公務員の世界というこ
とになる。

 だれも責任を追及しない。だれも責任を問われない。だれも責任を取らされない。まさにそこ
は、煙のような世界ということになる。

  
Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1516)

●貯蓄ゼロ(?)

++++++++++++++++++

貯蓄ゼロ(?)の世帯数が、全体の
25%近くにまでなったという。

「賃金が低ければ、蓄えもできない」
(C新聞)ということらしい。

しかし……

++++++++++++++++++

 貯蓄ゼロの世帯がふえているという。全体の25%近くもあるという(金融広報中央委員会・0
6年公表)。

 25%といえば、4世帯に1世帯という割になる。私は最初この記事を読んだとき、「うちも似
たようなものだ」と思った。銀行に貯金をするのがバカ臭くなって、もう10年以上になる。

 で、その分、株に投資したり、外債を購入したりした。しかし記事を読むと、どうも、そうではな
いらしい。「貯蓄ゼロ」ということは、「余裕のある資金がゼロ」ということらしい。で、もしそうな
ら、ことは深刻である。

 「どうやって、生きていくのだろう」と、私は、思った。月によっては、何かと、予定外の出費が
つづくこともある。「そういうときは、どうするのだろう」と。

 私の年代、つまり団塊の世代は、生活の中で、何よりも貯蓄を優先させてきた。私の仲間に
は、そういう人たちが多い。貯蓄ゼロの生活など、少なくとも私には、考えられない。もしそうな
らそうで、不安で不安で、たまらないだろう。少なくとも1年くらい、できれば数年は、貯蓄だけで
生活できるようにしておく。とくに、私のような自営業をしている者にとっては、そうである。

 「病気で倒れたら、どうするのだ」「事故にでもあったら、どうするのだ」と。そんなことは、よく
考える。私のばあいは、それで万事休す。退職金もなければ、補償金もない。過労で死んで
も、それを訴えていく相手さえいない。

 だからここでいう25%という人たちは、私とは、少し立場がちがうのかもしれない。公務員と
か何かで、収入そのものが、保証されている。そういう人たちが多く含まれているのかもしれな
い。だから一概にどうこうのとは、言えない。

 で、C新聞は、こうつづける。

 「景気が回復してきているはずなのに、貯蓄ゼロ世帯が増える……。『勝ち組』が豊かな生活
をして個人消費を支える一方、『負け組』は、その日の暮らしにも窮している実体が、(これ
で)、浮き彫りになる」と。

 しかしこれとて、若くて、健康な人たちの世界の話。私たちの世代は、もう少し、別の見方を
する。

 つまり年を取れば取るほど、私たちは、みな、例外なく、ここでいう『負け組』になっていくとい
うこと。当然、収入は減るし、その減った分だけ、貯蓄ができなくなるばかりか、毎月、少しず
つ、貯蓄を切り崩していかねばならない。仮に貯蓄がゼロになったら、今までにつくってきた財
産を、処分しなければならない。

 だから『勝ち組』『負け組』という言葉を聞くと、つい、「何、言ってるんだ!」と思ってしまう。
が、負け組には負け組の、負け組根性というものがある。何も、金持ちになることだけが、幸福
への切符(チケット)というわけでもない。「勝った」「負けた」は、もっと別の尺度から計(はか)
られるべきである。

 わかりやすく言えば、いかにすれば、心豊かで、前向きな生活を送ることができるか。それで
これからの老後の勝ち負けが決まる。

 ただ余計なことかもしれないが、今の若い人たちに一言。

 あらかじめ、豊かな生活を頭に描いて、それに合わせて、目いっぱいの生活だけは、しない
ほうがよいということ。5、6年前だが、京都にあるP社(出版社)の編集長が、私の家に遊びに
きていて、こんなことを言ったことがある。

 「最近の若い人は、会社に勤めたとたん、都会的で、きれいな生活ができると思いこんでい
る。どこかのマンションに住み、夜はグラス片手に、DVDを見る。テレビのトレンディ・ドラマの
影響でしょうね。しかしそんな生活など、できるわけがないのです。そういう現実が、まるでわか
っていない。それが今の若い人たちです」と。

 「25%」という数字には、そういう若い人たちが多く含まれているのではないか?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】

●老後の楽しみ

 息子たちが巣立っていく。それは切なも、さみしい瞬間だが、悪いことばかりではない。その
ときから、別の楽しみが、始まる。夫婦の楽しみが、始まる。

 私の姉は、いつか、こう言った。私があれこれと悩んでいるときのことだった。「浩ちゃん、こ
れからじゃないの。楽しいのは……!」と。

 息子たちの巣立ちイコール、子育てからの解放ということになる。親たちは、「親」であるとい
う重圧感から解放される。そして父親、母親という立場から、もう一度、新婚時代の夫婦にもど
る。

 夫婦であることに何か目的があるとするなら、それは老後の夫婦に集約される。そのとき、
夫婦が夫婦であれば、それでよし。なんでもない、ふつうの夫婦である。そういう夫婦を、心の
中で、いつもめざす。

 先日もこんな光景を見た。

 電車で、長野まで行ったときのことだった。電車の中のトイレからもどりながら、ふと見ると、6
5歳〜70歳くらいの夫婦が、そこに座っているのがわかった。見ると、2人で、手をつなぎあっ
ていた。

 で、そのあと、ワイフにこう言った。

私「なあ、あの前の人たち、あの人たちも、手をつないでいるぞ」
ワ「フーン」
私「ぼくらより、年上だぞ」
ワ「フ〜ン」と。

 若いころは、私たちは、いつも手をつないでいた。しかしその時間は、それほど長くはつづか
なかった。やがて3人の息子たちがつぎつぎと生まれ、様子が変わった。子育てに埋没するあ
まり、夫婦が夫婦でなくなってしまった。

 もちろんそのときは、それがわからない。が、こうして息子たちが巣立ち、子育てから解放さ
れてみると、そうだったということが、よくわかる。

私「日本人も変わってきたね」
ワ「そうねえ……」
私「電車の中で手をつないでいるのは、ぼくたちだけかと思った……」
ワ「フーン」と。

 ワイフは、半分、眠っていた。そういうワイフの横顔を見ながら、私は、ふと、こう思った。「こ
んな時代は、あと何年、つづくのだろう」と。と、同時に、こうも思った。「たがいに健康なうちに、
遊べるだけ、遊んでおこう」と。

 子どもたちが巣立ったあと、そこに残るのは、夫婦だけ。今、子育てに埋没している人にはそ
れがわからないかもしれない。が、だれしも、いつか必ず、そうなる。そういうことも、頭のどこ
かに置きながら子育てをすることも、大切なことかもしれない。


●おかしな質問

 子どもというのは、ときとして、おかしな質問をぶつけてくる。数日前も、突然、私にこう聞いた
女の子(小2)がいた。

 「先生、先生のウンチ、かわいい?」と。

私、ギョッ!
子「だから、かわいい……?」と。

 たまたまそのときは、ダイエット中。ダイエット中のウンチは、やせ細って、小さい。かわいい
と言えば、かわいい。一瞬、「どうして、そんなことを知っているのだろう」と思った。

私「ウンチは、かわいいとは、言わない」
子「先生のウンチは、かわいいかと思った」
私「……でも、ぼくは、ウンチはしないよ」
子「どうして?」
私「だって、ぼくは、原子力で動いているから」
子「エーッ、先生って、原子力で動いているの?」
私「そうだよ」と。

 子どもの質問をうまくかわしたつもりだった。が、ほかの子どもたちは、私の話を本気にしてし
まったらしい。「食事はどうするの?」「燃料はどうするの?」と、そんな話になってしまった。

 子どもというのは、ときとして、おかしな質問をぶつけてくる。しかしそれにしても、子どもたち
は、私を、いったい、何だと思っているのだろう。


●新車

 今、トヨタのビッツに乗っている。小型車である。そのビッツの車検が近づいてきた。もう5年
も、乗っている。

 で、このところ、新車の話を、よくするようになった。少し前まで、同じトヨタのプリウスにしよう
かという話をよくした。で、懇意にしているディーラーの人に話を聞くと、「プリウスは、今度から
スリー(3)ナンバーになりますよ」と。

 だからプリウスは、あきらめた。で、またまた急速に浮上してきたのが、カローラのセダン。私
たちは、長いあいだ、そのカローラに乗っていた。が、進化に進化を重ねて、いまでは、すっか
り高級車。そんな感じがする。悪くない。

 近く、一度、展示場へ行ってみるつもり。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●7000万人!

+++++++++++++++

インターネットは、今、
私たちの生活を、
大きく変えつつある。

+++++++++++++++

 日本のインターネット人口が、7000万人になったという。ほぼ2人に1人という割合である。

 で、私の生活も、大きく変わった。

(1)テレビのニュースを見なくなった。
(2)新聞を読む欄がかぎられるようになった。
(3)手紙を、めったに出さなくなった。
(4)図書館へ行かなくなった。

 まだ私は手を染めていないが、買いものにしても、たいていインターネットですませているとい
う人もいる。そう言えば、私も、証券取引は、すべてインターネットを通してしている。

 考えてみれば、これはものすごいことである。ものすごいことというか、ものすごい変化であ
る。

 さらに、もうひとつ。

 少し前まで、不可能と思われていたことが、インターネットの世界では、どんどんと可能になっ
てきている。

 たとえば映像にしても、今では、無料で、配信できるようになった。ほんの4、5年前には、そ
れができなくて、四苦八苦した。できなくはなかったが、どこの配信会社も有料で、高額だっ
た。

 が、困っていることが、今でもひとつある。

 HPの更新のとき、ファイルを保存するだけも、8時間半もかかるということ。メモリーが不足
するため、ハードディスクとの間で、スワップするためらしい。先日、メモリーを、1GBから2GB
に増設してみたが、事情はあまり変わらなかった。

 が、この世界は、まさに日進月歩。雑誌などによると、07年の1月に発売になる、ビスタ(O
S)では、USBメモリーを使えば、この問題が解決できるようになるという。USBメモリーほうを
仮想メモリーとして使うということらしい。

 楽しみだ。そのとき、最新のパソコンに乗りかえるつもり。

【付記】

 インターネットの先進国、韓国では、「インターネット・オークション依存症」というのが、問題に
なり始めている。買い物依存症に似ている。「安い」と思ったら、どんどんと買いこんでしまうと
いう。ある女性は、デジカメだけでも、4台も買ってしまったという。「安いから、買わなきゃ、損」
という心理が働くらしい。

 そのためその女性のばあい、毎日、4、5時間は、パソコンの前に座っているとか。やがて日
本にも、そういう人が出てくるかもしれない。あるいは、すでにそういう人がいるのかも……?

 私のばあい、具体的には、つぎのような変化を感じている。

(1)テレビのニュースを見なくなった。
 
決まった時刻にテレビの前に座って待つのを、苦痛に感ずるようになった。
 あまり聞きたくないニュースまで見るのを、苦痛に感ずるようになった。

(2)新聞を読む欄がかぎられるようになった。

 まずインターネットでおおまかな記事を読む。その中で、とくに興味をもった記事だけを、新聞
で読む。30ページほどある新聞の中で、目を通すのは、せいぜい2〜4ページ程度。

(3)手紙を、めったに出さなくなった。

 手紙を書いて、封筒に入れ、それに切手を張って、ポストに入れる……。ときどき自分が、た
いへんムダなことをしているように感ずることがある。

(4)図書館へ行かなくなった。

 調べものは、すべて、インターネットを使ってしている。早いし、ムダがない。それに最新の情
報を、居ながらにして、手に入れることができる。

 もうこの流れを変えることはできない。7000万人という数字は、それを表している。


●自殺者が、約10%!

+++++++++++++++

消費者金融団体の調べによると、
実際の人数は明らかにされていないが、
支払総件数に占める自殺件数の割合は、
なんと9・1%にものぼるという。

+++++++++++++++

厚生労働省の、05年人口動態統計によれば、20歳以上の死亡者に占める自殺者の割合
は、2.8%だそうだ。

 わかりやすく言えば、今、100人のうち、3人は、自殺でなくなっているということ。が、この数
字に驚いてはいけない。

 消費者金融団体の調べによると、実際の人数は明らかにされていないが、支払総件数に占
める自殺件数の割合は、なんと9・1%にものぼるという。ヤフー・ニュースは、つぎのように伝
える。

 「消費者金融10社が債権回収のため、借り手全員に生命保険をかけていた問題で、大手5
社で支払いを受けた件数が、昨年度1年間で延べ3万9880件あり、このうち自殺によるもの
は判明しているだけでも、3649件に上ることがわかった。

この保険の支払い状況が明らかになるのははじめて。全体の件数の中には死因が分からな
いものも多く含まれており、借り手の自殺によって消費者金融に生命保険金が支払われた件
数は、さらに多いとみられる。多重債務者が自殺に追い込まれている深刻な実態が、浮かん
だ」と。

わかりやすく言うと、消費者金融からお金を借り、そのあとなくなった人の約10%が、自殺して
いたということになる。しかもこの数字には、借りてから、1〜2年後に自殺した人の数は、含ま
れていないという。だから実際には、もっと多いかもしれないということになる。

契約後1〜2年以上たったケースでは、死亡診断書などの提出を省略できるためだそうだ。

 ともかくも、この約10%という数字だけでも、ここにも書いてあるように、きわめて深刻な数字
とみてよい。

 ただ誤解してはいけないのは、消費者金融からお金を借りた人のうち、約10%が自殺したと
いうのではない。また消費者金融からお金を借りたことが原因で、自殺したと考えてはいけな
い。

 消費者金融でお金を借りる段階で、すでに、そういう人たちは、別の深刻な問題をかかえて
いたということも、じゅうぶん考えられる。こうした統計上の数字を読むときは、細心の注意が
必要である。短絡的に、「消費者金融でお金を借りた人のうち、約10%が自殺」と考えると、と
んでもないことになる。

 が、それにしても、深刻である。「明日はわが身か」と思うと、なおさらである。つまりそれだけ
この日本という国は、生きにくい国になりつつあるということ。見た目には豊かな国になった
が、心の中は、ますます砂漠化している。そんな感じがする。


●貧富の差

++++++++++++++++

貧富の差が広がっているという。
その貧富の差を示す指数が、
ジニ指数(ジニ係数)ということに
なる。

以前書いた原稿を、少し手なおしして、
ここに再収録します。

++++++++++++++++

●拡大する貧富の差とこれからの受験勉強

 この日本の社会では、静かに、密かに、しかし確実に、ジワジワと、貧富の差が拡大しつつ
ある。

 このことは、工場労働者の構成を見ればわかる。

 近くのX自動車の下請けメーカーの中堅社員が、こんなことを話してくれた。

「社員といっても、何種類もいる。正社員のほか、パート社員、期間社員、アルバイト、人材派
遣会社からの派遣社員などなど。

 さらに最近では、一応社員なのだが、独立した仕事だけをして帰る社員もいる」と。

 「どういう仕事ですか?」と聞くと、「たとえば会社で出す、人材募集のチラシを作ったり、社内
報を作ったりする社員です。しかしこの社員は、社員というよりは、独立したアルバイトといった
感じです。社会保険にも入れず、もちろんいっさいの保証はありません」と。

 手厚く保護される正社員。しかしその一方で、冷遇されるそれ以外の社員(?)たち。年俸に
しても、数百万円以上もの差がある。が、「安い」だけではない。労働条件は、かえってきびし
い。少しでもヘマをすると、即、クビという環境だそうだ。

 この日本では、今、確実に、貧富の差が、広がりつつある。やがてそのうち、社会問題化す
るのも時間の問題といってよい。数字を見てみよう。

 厚生労働省が04年6月に発表した、ジニ指数(世帯ごとの所得格差を示す)は、調査を始め
た84年から、7年連続で、拡大をつづけている。

 昨年(04年)は、そのジニ指数が、0・498と、かぎりなく0・5に近づきつつある。

 0・5という数字は、高所得者の4分の1の世帯が、全所得の4分の3を占めることを意味す
る。残りの4分の3の人たちは、残った4分の1の所得を分けあうことを意味する。

 たとえば4人の人が、1000万円を稼いだとする。すると1人が、750万円を自分のものにす
る。残りの3人は、残った250万円を、3等分して分ける。つまり1人当たり、約80万円という
ことになる。わかりやすく言えば、それがここでいう「0・5」という数字である。

 しかしこの数字を、深刻に考えている政治家は、少ない。……いない。経済界にいたっては、
なおさらで、むしろ、こうした格差を歓迎しているふうですら、ある。理由がある。

 「こうした差こそが、やる気のある人にやる気を出させ、経済を活性化させる」と。

 つまり力があり、やる気のある人がいい生活をして、そうでない人が、そうでない生活をする
のは、当然ではないか、と。そういう冷徹な論理である。が、どうもそれだけではないようだ。

 「この世の中では、支配階級と、だまってそれに従う階級がなければ、そもそもマネー社会
(=マネー資本主義)は成りたたない」という論理がある。みなが平等になり、中産階級になっ
てしまえば、社会の活力そのものが、停止してしまうという。例がないわけではない。

 かつて私が留学していたころのオーストラリアが、そうだった(1960〜70年代)。

 当時のオーストラリアでは、年俸が、確か2万ドル(この数字は正確ではない)を超えると、と
たんに、所得税率が極端にあがるしくみになっていた。だから、みな、2万ドル分までは働くが、
それ以上に働いても意味がないというように考えるようになった。

 こうして「レイジー・オージー(怠け者のオーストラリア人)」が生まれたわけだが、この制度
は、オーストラリアの活力そのものまで奪ってしまった。(もともと、土地を掘れば、鉱物資源が
無尽蔵に出てくるという、ラッキーな国であったことも事実である。)

 だから経済界あたりでは、むしろ、貧富の差を助長することこそ、重要であるというような考え
方をする。はっきり言えば、マスター(ご主人様)がいて、それに従順に従う、スレイブ(奴隷)が
いたほうが、経済の活性化のためには、つごうがよいということになる。

 だから、官僚たちは、恥ずかしげもなく、こう言う。「林さん、労働者には、金(マネー)をもた
せてはいけないのですよ。金をもったとたん、働かなくなりますから。万博でも何でもいい。そう
いうのを開いて、労働者に金を使わせる。貯金させてはいけないのですよ」(ある知人談)と。

 これはある官僚から、私が直接聞いた言葉である。だから万博に反対というわけではない。
経済界の論理というのは、そういうもの。

 それを知ってか、知らずか、地方の貧しい人たちが、バスに乗って、万博を見にくる。マンモ
スの像を見て、「マンモスだ」「マンモスだ」と、喜んでみせる。そこにある種の悲しさを覚えるの
は、はたして私だけであろうか。

 話がそれたが、この貧富の差が大きくなればなるほど、またまた受験競争が燃えあがる。だ
れしも勝ち組に入りたいと願っている。「せめて、自分の子どもだけは……」と願っている。それ
が子どもの受験競争に拍車をかける。

 1995年〜2000年にかけて下火になってきた、いわゆる受験産業が、このところまた息を
吹きかえしつつ。そんな事情の背景には、こんな事実が隠されている。

 悲しいかな、今、この日本で、「受験」に背を向けて生きられる人(子ども)は、ほとんど、いな
い。そしてその傾向は、これから10年、さらにはげしくなる。貧富の差がはげしくなればなるほ
ど、なおさらである。
(はやし浩司 ジニ指数 貧富の差 受験競争)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1517)

●歴史認識問題(?)

+++++++++++++++

日本は韓国の属国だったと、
韓国の人たちは考えている。

が、一方、韓国は中国の属国だったと、
中国の人たちは考えている。

ここにきて、歴史認識問題なるものが、
とんでもない方向に飛び火していく
可能性が出てきた。

+++++++++++++++

2004年に、中韓両国は、たがいに歴史問題に干渉しないようにと、口頭だが、了解しあっ
た。

 ところがそれから2年後の、2006年の今月(9月)。中国がその了解事項を突然破り、「朝
鮮半島は、中国の属国だった」というような研究論文を発表した(中国社会科学院)。

 いわく「……高朝鮮から渤海まで、歴史が一脈相通じる韓民族の歴史ではなく、古代中国の
地方民族政権の歴史で、中国歴史である」「とくに渤海については、中国唐王朝が直接監督し
た郡地域に過ぎない」と。

これに韓国が猛反発! ともに民族主義的発想では、一歩も譲らない国々である。

「(この論文は)韓民族の古代史を根こそぎ否定するものだ」(朝鮮N報)と。

 韓国側が反発を強めているのは、その論文が中国社会科学院の張碧波研究員らによって、
書かれていること。張碧波研究員は、かねてから、「漢江(現在のソウル市の中心部を流れる
川)の北部までが、中国の領土だった」と主張している。

 「そもそも漢江北部までが中国領土だったが、新羅や百済などの侵奪で、領土を失った」(国
際法と中国−北朝鮮の国境線問題論争)と。

さらに「箕子を殷代の甲骨文字と前秦の記録から確認することができる」とし、「かれが韓半島
に最初の地方政権を建てた」(箕子と箕子朝鮮)とも主張している。
 
 わかりやく言えば、「現在の朝鮮半島は、中国の領土だった。しかも朝鮮半島に最初の地方
政権をつくったのは、中国である」と。

 が、この時期に、こうした論文が、中国側から発表されることについては、もうひとつ、重大な
意味が隠されているのではないか(?)。かなり飛躍した意見に聞こえるかもしれないが、中国
は、すでにK国併合を念頭に置いているとも考えられなくはない。

 つまりK国が崩壊したばあい、韓国は、そのK国を吸収する形で、南北統一を考えている。
が、他方の中国は、そんな甘い国ではない。へたをすれば、中国はK国を吸収合併し、現在の
38度線を、中国と韓国の国境にすることだってありえる。

 事実、それに呼応するかのように、このところ、中国側は、K国との国境での開発を急ピッチ
で進めている。港湾を整備したり、白頭山の単独開発を推し進めたりしている。韓国は、「独島
(竹島)」「独島(竹島)」と叫んでいるが、その独島ごと、朝鮮半島の北側半分を、中国にもって
いかれる可能性さえ出てきた。

 つまりこのあたりに、現在のN政権(韓国)の視野の狭さというか、ノー天気ぶりが、集約され
ている。反米、反日を唱え、親北、親中を唱える愚かさが、集約されている。

 要するに過去は過去。歴史は歴史。その歴史をもって、現在をしばるのは、正しくないという
こと。私たち日本人の知ったことではないが、中国と韓国の間で、おおいに、歴史認識問題な
るものを繰り広げてみたらよい。

 そうすれば、少しは、自分たちの愚かさも、自覚できるのでは? つまり今大切なことは、過
去をほじくりかえして、どうのこうのと言うことではなく、視点を前に移して、未来に向かって進む
ことである。あくまでも歴史は歴史として……。

 ところで、時は秋。私の庭でも、虫が鳴くようになった。

 ♪あれマツムシ(韓国)が、鳴いている。
  ドクトウ、ドクトウ、ドクトウと。
  あれスズムシ(中国)も、鳴き出した。
  ボッカイ、ボッカイ、ボッカイと。
  秋の夜ながを鳴き通す、
  ああおもしろい、ムシ(中韓)の声(歴史)。

 ……ちょっと辛口の、きつい替え歌で、スミマセン!


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1518)

【子どもの受験】

++++++++++++++++++++

子どもを愛することは難しい。
子どもを信ずることは、さらに難しい。

大切なことは、子どもを信じ、
子どもの心に耳を傾け、
子どもの心を知り、
友として子どもの横に立ち、
子どもといっしょに歩くこと。
それができる親を、賢い親という。
それができない親を、愚かな親という。

++++++++++++++++++++++

●不本意な結婚

 親は言う。「Xさん(男性30歳)は、すてきな人だから、結婚しろ」と。X氏の家系は、その地域
でも名が知られた財産家。祖父の代から、祖父、父親は、特定郵便局だが、その郵便局の局
長を勤めていた。

 しかしA子さん(女性22歳)は、結婚をためらっていた。ほかに好きな人がいたわけではな
い。ないが、X氏が、自分のタイプではないことだけは、よくわかっていた。2、3度会って、食事
をしたこともあるが、どうもしっくりこない。会えば会うほど、自分の心が乾いていくのを感じた。

 が、相手の親も、自分の親も、「結婚させたい」「結婚しろ」と。とくに母親は、毎日のようにグ
チを言った。「早く、孫の顔を見たい」「安心したい」「どうしてためらっているの」「こんないい縁
談はないのに」と。

 A子さんには、ほかにしたいことがあった。一度は都会に出て、自由な空気を吸ってみたかっ
た。漠然(ばくぜん)とした思いではあったが、日を追うごとに、それがますます強くなった。自分
の心を覆うようになった。

 で、そういう状態が、半年近くもつづき、結局は、A子さんは、X氏と結婚してしまった。「自分
さえがまんすれば、みな、幸福になれる」と。

 しかし現実は、きびしいものだった。味気ない結婚生活。殺伐(さつばつ)とした夫婦関係。家
事をしていても、手が重い。ときに体が動かなくなることもあった。それを知って、夫となったX
氏は、毎日のように、A子さんを責めた。「お前は怠け者だ」と。A子さんは、自分の心がますま
す夫のX氏から離れていくのを感じた……。

●子どもの世界でも……

 ……これは夫婦の話だが、子どもの世界でも、これと似たようなことがよく起きる。ここでいう
X氏を、受験校に置きかえてみると、それがよくわかる。

 親は「勉強しろ」と、一方的に言う。「SS中学校に入れ」という。親は、自分の知らないところ
で、進学塾の説明会に行き、勝手に申し込み書を出してしまった。「みんなが行くから、あなた
も行きなさい」と。

 子どもは言われるまま、進学塾に通い、受験のための勉強をする。分厚いテキストを与えら
れる。毎日、毎晩、その宿題に追われる。その進学塾では、毎月、月末に学力テストが実施さ
れる。上位10番までの子どもは、塾からの通信に名前が載る。

 成績がよくても、安心してはおられない。少しでも成績がさがると、塾で並ぶ席が入れかわっ
てしまう。さらにさがれば、AクラスからBクラスにさげらる。それをその塾では、「マイナー落ち」
と呼んでいる。メジャー(全国チーム)から、マイナー(地方チーム)へ落ちることに似ているか
ら、そう言う。

 こうして、たいはんの子どもたちは、勉強に追われるまま、悶々とした日々を過ごす。心が晴
れることはない。憂鬱(ゆううつ)な毎日。重苦しい毎日。たまの日曜日でも、家で休んでいる
と、親は、すぐこう言う。「宿題はやっやたの!」「テスト勉強はしたの!」と。少しでも親に反発
しようものなら、すかさず、こう言いかえされる。「高い月謝を払っているのは、私なんだから
ね」と。

 結局、SS中学校を断念し、AA中学校を受験。やっとの思いで入学したAA中学校だったが、
達成感がまるでない。満足感がまるでない。ある日母親が言った一言が、心を大きく押しつぶ
す。母親はこう言った。

 「小さいころから、高い月謝を払って塾へ通わせたけど、ムダだったわね」と。が、それですん
だわけではない。

味気ない学生生活。殺伐(さつばつ)とした友人関係。勉強をしていても、手が重い。ときに体
が動かなくなることもあった。それを知って、母親は、毎日のように、子どもを責めた。「あんた
は怠け者だ」と。子どもは、自分の心がますます勉強から離れていくのを感じた……。

●大切なことは……

 多くの……というより、ほとんどの親たちは、自分の子どもを、よりよい学校(?)に入れるこ
としか考えていない。それが自分の子どもにとって最善であると、信じて疑わない。が、つまる
ところ、親は、自分が感じている不安や心配を子どもにぶつけているだけ。

 が、こんな方法がうまくいくはずがない。仮にうまくいったとしても、つぎに今度は、高校受験。
さらにそこでうまくいったとしても、その先では大学受験。

 できる子どもはできる子どものレベルで、できない子どもはできない子どものレベルで、勉強
に追われる。息つくひまもない。休む間もない。で、こうして最後まで生き残る(?)子どもは、数
割もいない。たいはんの子どもたちは、その過程で、もがき苦しみ、心に大きなキズをもって、
ドロップ・アウトしていく。

 悲しいかな、世の親たちは、自分の子どもが成功することだけしか考えていない。失敗したと
きの心のケアまで考えている親は、まず、いない。失敗といっても、ふつうの失敗ではない。燃
えつき症候群、荷卸し症候群、ピーターパン・シンドローム、ニート、引きこもり、家庭内暴力、
うつ病……。まさに何でもござれといった状態になる。

 怠学から非行に走るケースなどといったものは、まだよいほうだ。

 が、親にはそれがわからない。「うちの子にかぎって……」「まだ何とかなる……」と無理をす
る。かりにその兆候が出てきても、「そんなはずはない」「まさか……」と見逃してしまう。

 つまりこうして親たちは、やがて行き着くところまで行く。またそこまで行かないと、気がつかな
い。いや、そういう状態になっても、まだ何とかしようと、あせる。子どもを責める。脅(おど)す。
自分のしてきたことは、すべて棚にあげて……。そしてこう言う。

 「私は子どものために、一生懸命しています」と。

 ……とまあ、否定的なことばかり書いたが、しかし今、こうして子育てで失敗していく人が、あ
まりにも多い。本当に、多い。が、私のような者が、いくら叫んでもムダ。それはたとえて言うな
ら、流れる川の中で、一本の旗を立てるようなもの。流れを止めることはもちろん、流れを変え
ることさえできない。

 明治の昔から、あるいはそれ以前から、日本人の体の中には、体質として、出世主義、それ
にまつわる学歴制度が、しみついている。職業による身分制度的な意識も、まだ残っている。
それが親から子へと、代々と、引き継がれている。今、感じている、あなたの不安や心配にして
も、それはあたながあなたの親から引き継いだものである。

 そういう意味でも、世代連鎖というのは、恐ろしい。無意識のうちに、親から子へと、そしてま
わりの環境の中で、あなたに伝えられていく。が、ここで止まるわけではない。勉強を嫌い、勉
強から逃げているあなたの子どもでさえ、今度は自分が親になると、自分の子ども(あなたから
見れば孫)に対して、同じようなことをするようになる。

 それがわからなければ、あなた自身の過去をみることだ。それともあなたは、子どものころ優
等生で、勉強が好きだったとでもいうのだろうか。そういう人もいなくはない。が、もしあなたが、
「私は受験勉強が楽しかった」「みなを順位で負かすのが、気持ちよかった」と思っているなら、
同時に、あなたは、あなた自身の人間性を疑ってみたらよい。

 きっと、あなたの心は、冷たく、点数だけで人を判断するような人かもしれない。あるいはどこ
か、心の欠けた人かもしれない。あなた自身は、それに気がついていないかもしれないが…
…。

 ともかくも、中学時代に経験していた高校受験が、今では、小学時代に中学受験で経験する
ようになった。3年、それが早まったということになる。

 中学生ともなると、親の言うことを聞かなくなる。だから小学生のうちに……ということではな
いと思いたいが、しかしそれだけに、この時期、一度、つまずくと、あとがない。それだけ大き
く、子どもの心をキズつける。へたをすれば、生涯にわたって、その子どもをうしろ向きに引っ
張りつづけるかもしれない。ハキのない、ナヨナヨとした人生観の子どもにしてしまうかもしれな
い。

 子どもの教育で重要なことは、(1)子どもの心の灯(ひ)をともし、(2)楽しませ、(3)能力を
引き出すことである。

 子どもを脅し、成績をつけ、順位でおいまくるような教育は、教育ではない。家畜の訓練で
も、そんなバカなことはしない。仮に「進学塾へ……」ということを考えることがあったとしても、
親は、1歩さがって、慎重に判断したらよい。子どもよっては、よい刺激になることもないわけで
はない。またこの日本では、進学競争を無視して生きるというのも、たいへんなことである。

 大切なことは、子どもを信じ、子どもの心に耳を傾け、子どもの心を知り、友として子どもの横
に立ち、子どもといっしょに歩くこと。それができる親を、賢い親という。それができない親を、
愚かな親という。進学塾へ行く、行かないは、あくまでもその結果として考えることである。

 やがていつか、今の子育ても終わるときがやってくる。そのとき自分の過去、自分の子育て
を振りかえってみて、その中で光り輝くのは、自分の子どもを信じきった、愛しきった、守りきっ
たという、親としての実感である。

 見栄、メンツ、世間体に引きずられて、「勉強しろ」「勉強しなさい」と子どもを叱りつづけた思
い出ほど、自分の過去を汚すものはない。それであなたの子どもが、一流大学に進学したとし
ても、だ。その汚点は消えることなく、死ぬまでつづく。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の受験 受験 灯をともし、引き出す 親の宿命)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1519)

【今朝・あれこれ】(9月7日記)

●金xxの健康状態

++++++++++++++

やっぱり、金xxの健康状態は
よくないらしい。

何も金xxの健康を心配して
いるわけではないが……。

++++++++++++++

 金xxの健康状態が、かなり悪いらしい。(私の予想通りだった!)

 韓国の野党ハンナラ党の鄭亨根(チョン・ヒョングン)最高委員は、6日、つぎのように述べて
いる(ヤフー・ニュース)。

K国の金xxの健康悪化説に関連し、「金xxは肝臓と心臓が良くなく、糖尿がひどいため正常に
歩くのは難しい」(慶尚北道慶州で開かれた党蔚山支部の勉強会で)と。北朝鮮の動向につい
て説明した。 

 鄭最高委員によると、「金総書記は20〜30センチメートル歩くたびに座って休まなければな
らないため、いすを持ってついて回る秘書がいる」ということらしい。もっともこの説を、韓国の
国家情報院は否定しているが……。

 このことを考慮に入れると、なぜ金xxを乗せた特別列車が、中朝の国境当たりで、行ったり
来たりしているかがわかる。中国側は、「金xxを招待した覚えはない」と断言している。一方、
韓国側は、「金xxの訪中は近い」と、繰りかえし報道している。

 わかりやすく言えば、金xxが訪中するのは、政治的目的からではなく、あくまでも個人的な治
療のためということになる。

 それにしても「20〜30センチメートル歩くたびに座って休まなければならないため、いすを持
ってついて回る秘書がいる」とは! いったい、金xxは、どういう歩き方をしているのだろう?

【訂正】今日の午後、再び同じニュースを見ると、「20〜30センチ」が、「20〜30メートル」に
訂正されていた。当初の「20〜30センチ」は、翻訳ミスと思われる。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●金xx、私の推理

+++++++++++++++

9月7日現在、K国の金xxは、
どこにいるのか。

どこにいて、何をしているのか?

現在、謎が謎を呼ぶ展開になっている。

+++++++++++++++

 K国の金xxは、現在、どこにいて、何をしているのか? これについての、私の推理は、こう
である。

 まず、それを書く前に、いくつかの(事実)を集めてみる。

(1)韓国の有力紙、中央日報は5日朝刊で、複数の外交消息筋の話として、K国の金xxの特
別列車がP市を出発し、中朝国境近くの新義州駅に到着したことが確認されたと報じた(毎日
新聞)。

(2)「金総書記の乗った専用列車が新義州に停車中」とし、「早朝に鴨緑江を経て、中国丹東
を越えた前例があることから、5日頃には訪中する可能性が高い」という(朝鮮N報)。

(3)韓国政府は6日、訪中間近とされるK国の金xxが、5日に中国国境付近の平安北道新義
州から別地域に移動したことを、衛星写真を通じ正式に確認したと明らかにした(聯合)。

(4)中国外交部の秦剛報道官は5日の定例会見で、K国の金xxの訪中説を強く否定した(聯
合)。

(5)一部のメディアは、金xxの特別列車が中国国境近くの都市、K国・新義州に到着したこと
から、金xxが近く訪中するだろうと報じていた。しかし、新義州対岸の中国・丹東では駅周辺の
警備体制は強化されておらず、北朝鮮から特別列車が到着すると思わせる兆(きざ)しは一切
ない(聯合)。

 金xxは、現在、どこにいて、何をしているのか。その謎を解くカギをにぎるのが、(1)特別列
車の動きと、(2)金xxの病状である。

 その特別列車は、8月末、一度中朝国境を越え、ペキンに停車している。これはアメリカの軍
事衛星などによって、確認されている。

 つぎに金xxの病状だが、「(持病が悪化して)、歩くのも困難な状態」という(聯合)。

 以上の事実を、もう一度、まとめるとつぎのようになる。

 まず金xxが乗る特別列車が、中国のペキンへ行った。しかしその列車は、K国までもどって
きた。その列車には、金xxは、乗車していなかった。現在、その特別列車は、K国と中国の国
境近くにある、新義州に停車している。

 その新義州周辺で、金xxが、軍を視察しているという報道が流れた。

 しかしその特別列車は、新義州周辺で停車したまま。金xxの病状は、かなり悪いらしい。韓
国野党のハンナラ党の鄭最高委員によると、「金総書記は20〜30センチメートル歩くたびに
座って休まなければならないため、いすを持ってついて回る秘書がいる」ということらしい。

 以上、これらの事実を総合すると、こうなる。これはあくまでも私の推理である。またこうした
見方をしている報道は、今のところ、ほかに、ない。

【私の推理】

 中国のペキンまで向かった特別列車は、そこで、金xxの持病を治療するための検査機器、
治療機器一式、それに中国のドクターたちを乗せて、K国までもどってきた(8月下旬)。

 金xxは、現在、列車の中で、その診断および治療を受けている。が、金xxの病状は、予想以
上に悪いらしい。それで万が一に備えて、つまり万が一のときは、すぐペキンの大病院へ移れ
るように、列車ごと、国境近くの町で待機している。

 これは私の個人的な推理だが、しかしこう考えると、一連の謎が、きれいに説明できる。が、
こう考えると、また別の謎がわいてくる。

 こんな簡単な推理を、なぜ、韓国、日本の外務省ができないかということ。少し頭を働かせ
ば、だれにもわかること。が、そういう推理をいっさいしないで、ああでもない、こうでもないと、
どこか的ハズレな議論ばかりしている。金xxは、(まとも)という前提で、でだ。「中朝の関係改
善のため」とか、「核実験の了解を求めるため」とか、など。

 しかし金xxの精神状態は、すでに狂っているとみてよい。脳性障害が起きている可能性す
ら、ある。そんな金xxが、中国の首脳と会って、まともな話しあいなど、できるわけがない。

 が、なぜか、韓国政府も日本政府も、この問題に、あえて触れようとしない。触れようとしない
ばかりか、毎日のように、特別列車の動きを、逐一(ちくいち)報道している。みんな、とぼけて
いる感じ。なぜか? 韓国政府にいたっては、金xxの重病説すら、公式に否定している(7
日)。

 実はこの謎も、こう考えると、氷解する。

 すでに韓国政府も日本政府も、当然のことながら中国も、金xxの病状についての情報を握っ
ている。特別列車の、おかしな動きも、すべて知っている。そういうことをじゅうぶん承知の上
で、韓国や日本が、ワーワーと騒ぎたてることによって、金xxが、治療のため、中国に渡るの
を防いでいる、と。

 つまりこうまで世間が騒がしくなると、金xxは、とても中国へは行けなくなる。隠密行動そのも
のが、不可能になる。が、それこそ、韓国政府、日本政府のねらいどころ! 金xxを、自然死
の状態にもっていくことができる。中国にしても、自国の中で、金xxが死去したということにでも
なると、メンツがつぶされてしまう。何としても、それだけは避けたい。

 ともかくも、K国問題は、ここにきて、大きな山場を迎えつつある。早ければ、この原稿が電
子マガジンに載る10月9日までには、何らかの結論が出ているかもしれない。

 ただひたすら注視! また注視! 今は、そういう状態ということになる。
(この原稿は、9月7日に書いたものです。)

【補記】

 金xxという独裁者が死んだからといって、現在のK国問題が解決するわけではない。またま
たやっかいな問題が、起きてくる。それについては、別の機会にまた考えてみたい。

【訂正】今日の午後、再び同じニュースを見ると、「20〜30センチ」が、「20〜30メートル」に
訂正されていた。当初の「20〜30センチ」は、翻訳ミスと思われる。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●食べ物を残す

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「うちの子は小食で困っています」と
こぼす親は、多い。

しかし……?

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 私には3人の息子がいる。その息子たちに繰りかえし教えてきたことは、「食べ物は、残さず
食べなさい」だった。

 しかし今にして思うと、それが正しかったのかどうか、よくわからない。

 二男、三男は、私の言いつけをよく守り、今でも、最後の最後まで、そこに食べ物があれば、
食べてしまう。一方、長男は、子どもときから、食べたい分だけ食べて、あとは平気で残してし
まう。その結果だが、長男は、いつも適正体重。ずうっと、スマートな体を維持している。が、二
男、三男は、油断すると、すぐ太る。肥満体になる。

 かく言う私は、戦後直後に生まれた人間ということもあって、(食べ物を残す)ということについ
て、かなり強い抵抗感を覚える。だから今でも、ワイフの作ってくれた料理は、すべて食べてし
まう。残り物を見つけると、無意識のうちにも、それを口に入れてしまう。

 そのため、いつも、肥満→ダイエット→リバウンド→ダイエットの繰りかえし。

 で、先月、幼児クラスで、「よいこと・悪いこと」をテーマにして、それを子どもたちに教えた。

あらかじめ、親たちからアンケートを取っておいた。で、その中に、こういうのがあった。

 「うちの子は、食べ物をよく残します。全部食べるように、先生のほうから、よく指導しておい
てほしい」と。

 私はそれを読んで、考えこんでしまった。

 たしかに食べ物を残す、つまり粗末にすることは悪い。しかし一方、言われるまま、全部を食
べてしまうのも、よくないのではないか、と。

 適正な食事の量は、その子ども(人)の体(食欲)が、決めること。そういうメカニズムがどこ
かで働いて、子どもは自分が食べる食事の量を、自然に調整する。そう考えると、子どもが、
あるところで箸をおき、食べるのをやめたとしても、つまり結果的に食べ物を残すことになった
としても、それを「悪いこと」と決めてかかることもできないのではないか。

 今にして思うと、そう思う。

 だから長男のばあいは、食卓に並べる量を、やや少なめにしている。それで足りなければ、
長男は、自ら、台所へ行き、食べ物を補っている。その判断は、長男に任せている。

 「うちの子は、食べ物をよく残す」とこぼす親は多い。しかしそれがその子どもにとって適正な
量であれば、それ以上、無理に食べさせるのも、よくないのではないか。小食の問題も、同じよ
うに考えてよい。家庭によっては、基準そのものがちがうこともある。

 びっくりするような量の食事を出しておきながら、「うちの子は、小食で困っています」とこぼす
親は、多い。見ると、親も、そして子どもも、丸々と太っている!

 要は、健康であればよいということ。とくに子どもの腸は、おとなのそれより、はるかに効率よ
く働く。栄養の吸収率が高い。だから見た目には小食であっても、それで元気なら、それでよし
とする。

 「残さないで、ぜんぶ食べなさい!」と子どもに強要するのは、少し、考えものである。


●骨ツボ

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今度愛知県の瀬戸市で、「せともの祭り」
なるものがある。

私とワイフは、そこへ行くつもり。

目的は、ズバリ、骨ツボさがし。

「骨ツボにいい焼き物があったら、
それを買ってこよう」と。

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 今度、愛知県の瀬戸市で、「せともの祭り」なる祭りがある。「瀬戸物の瀬戸市」である。土日
をかけて、盛大に祭りが行われるらしい。

 で、私とワイフは、そこへ行ってみることにした。目的はズバリ、骨ツボさがし。私たち夫婦が
入る、骨ツボである。

 私もワイフも、形、色など、それぞれいろいろな思いがある。しかし私は、ワイフの好みに任
せるつもり。私自身は、小さな花瓶でもよいと思っている。あるいは、何でもよい。

 私が先に死んだら、そのツボの中に先に入る。管理は、ワイフに任せる。ワイフが先に死ん
だら、ワイフが、そのツボの中に先に入る。管理は、私が死ぬまで、私がする。あとのことは、
息子たちに任せる。

 2人の遺灰が入ったら、そのまま、海に捨ててもよし、山にまいてもよし。自由にすればよい。

 このことを、今朝(9月7日)、朝食のときワイフに言うと、ワイフは、こう言った。

ワ「そんな話、マガジンに載せないでよ」
私「当然、書くよ」
ワ「だってエ〜」と。

 どうやらワイフは、私といっしょの骨ツボには、入りたくないらしい。考えてみれば、その気持
ち、よ〜くわかる。

 一生の大半を、「私」という小うるさいダンナのそばで、棒に振った。死んでからも、またいっし
ょとなると、いやだろうなと思う。せめて死んだあとくらいは、自由になりたい。ワイフの気持ち
は、よくわかる。

 まあ、何か目的があれば、旅行も楽しい。食器といっても、今、ほしいものは、ほとんどないし
……。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【教えにくい子ども】

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育てやすい子ども、育てにくい子どもというのが、いる。
それについては、少し前に書いた。

その原稿を、S市に住む、W先生(男性教師)が読んでくれた。
そしてこんな話をしてくれた。

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育てやすい子ども、育てにくい子どもというのが、いる。それについては、少し前に書いた。

その原稿を、S市に住む、W先生(男性教師)が読んでくれた。そしてこんな話をしてくれた。

 「教えにくい子どもというのも、いますね。いろいろなタイプの子どもがいますが、最近、こんな
ことがありました」と。

 ある日、突然、その子ども(小3・女児)の母親が、職員室へ飛びこんできたという。ものすご
い剣幕だった。そこで応対した教頭は、その様子に驚き、授業中だったが、W先生を職員室へ
呼んだ。

 「何ですか?」と聞こうとする間もなく、その母親は、こう怒鳴ったという。「あなたは、うちの子
を殴ったそうですね。それも頭を!」「うちの子は、寝る前になって、シクシクと泣いていました
ア!」と。

  青天の霹靂(へきれき)とは、まさにそのこと。W先生には、まったく身に覚えがなかった。し
かも母親の言い分に耳を傾けるだけで精一杯。その母親は、興奮状態だった。一方的に、まく
したてた。

 で、一通りあやまったあと、その場は教頭の取りはからいで、何とか、すますことができた。
が、どうしてそうなったか、W先生には、まったく理解できなかった。その母親の子どもを、U子
としておく。そのU子を、殴った覚えどころか、叩いた覚えもない。体に触れたという記憶さえな
い。

 が、思い当たることが、ひとつだけ、あった。

 ふつう「すなおな子ども」というときは、(心の様子=情意)と、(顔の表情)が一致している子
どもをいう。このすなおさに欠けるようになると、(情意)と(表情)が、一致しなくなってくる。

 どこかニンマリと笑っているような感じになる。いやなはずなのに、穏やかな表情をして、それ
に黙って従ったりする、など。教える側からすると、心がつかみにくくなる。何を考えているか、
わからないといったタイプの子どもになる。

 原因は、おしなべて家庭環境にある。とくに母子関係にある。

 威圧的な育児姿勢、過干渉、過関心などなど。要するに、親子、とくに母子関係の不全を疑
う。子どもは、母親の前で仮面をかぶることを覚え、それがひどくなると、外の世界でも、自分
を調整できなくなる。

 U子も、そんなタイプの女の子だったという。数の上では、決して少なくない。10人もいれば、
その中に、必ず、1人や2人は、いる。

 で、その前日、つまりその母親が怒鳴りこんでくる前日、こんなことがあったという。

 毎週、「X」という授業がある。その学校独自の授業で、それには、毎回、家族の協力が必要
であった。が、U子は、つづけて、その忘れ物をした。そこでW先生が、U子にこう言ったとい
う。

 「明日は、ちゃんと、もってきてくださいよ。もし忘れたら、ぼくのほうから、お母さんに電話をし
て頼んであげるから」と。

 W先生にしてみれば、軽いおどしのつもりだったという。が、(多分?)、U子は家の中では、
まったく別の反応を示した。

 (母親への不満)→(学校へ行くのがおっくう)→(先生に何かを言われるのが苦痛)→(反
撃!)と。

 U子は、W先生の悪口を言い始めた。それが「先生が、私を殴った」という言葉になった。
が、U子にしても、まさか、自分の母親が、学校まで怒鳴りこんでいくとは、思ってもいなかった
らしい。ことが、おおげさになってしまった!

 こうしたケースでは、しばらく間をおくのが、よい。U子について言えば、そっとしておくのが、
よい。時間がたてば、みな、冷静になる。

 しかしそれからというもの、W先生は、U子については、あたかも腫れ物に触れるかのように
して、教えなければならなかったという。

 「何を考えているかわからない子どもを教えることほど、不気味さを感じさせるのはありませ
ん。私のちょっとした不用意な言葉が、とんでもない方に、曲解されてしまうからです。こわいで
す」と。

 さらに不幸なことに、U子の母親自身が、それに気づいていなかった。職員室では、「うちの
子は、ウソをつくような子ではない」「あなたはうちの子がウソつきだと言うのかア!」と、教頭や
W先生に、かみついてきたという。

 あのシェークスピアも、こう書いている。「己の子どもを知るは賢い父親だ」(ベニスの商人)
と。

 以前、こんな原稿を書いたことがある。

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●子どもを知る

 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と書いたのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。

親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その
子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれだが、こうした親の目は、えてして子どもの本
当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。

 ある子ども(小6男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。

ある夜1人の父親が、A君(中1)の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子
が不登校児になってしまった」と。A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は
学校でもいじめグループの中心にいた、などなど。こうした例は、本当に多い。

子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子どもの学力となると、さらに難しい。たいていの
親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強の量が少な
かっただけ」とか「調子が悪かっただけ」と。

そう思いたい気持ちはよくわかるが、しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子ど
ものばあい、(やる・やらない)も力のうち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待
ほど、子どもを苦しめるものはない。そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。

 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。

そしてもし後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ
早いほどよい。そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子
どもの成績はますますさがる。

要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それまで見えていなかっ
た子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」というのは、そういう父親
をいう。

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 つまりこういう子どもの親にかぎって、自分の子どもを見ていない。知らない。外の世界では、
柔和な表情をしているので、かえって、「うちの子は、できのいい子」と思いこんでしまう。

 W先生は、こう言った。「教えにくい子どもというのは、たしかにいます。しかし何とか対処でき
る子どもなら、まだ教えることができます。しかしU子のような子どもは、教えにくいというか、教
えていても、心底、神経をすり減らします」と。

 わから、わかる、その気持ち。

 子どもをそういうタイプの子どもにしないように、私の教室では、大声を出させたり、大声で笑
わせたりする。その時期は、年中〜年長のころがよい。年長児でも、夏休みを過ぎるころか
ら、急に少年、少女ぽくなる。それに従わなくなる。人格の「核」ができ始めるからである。

 この「核」、心理学でいうところの、「コア・アイデンティティ」ができると、子どもの心をいじるこ
とはできない。またいじってはならない。へたにいじると、子ども自身が、自分に自信をなくして
しまう。ついでながらそういう状態を、心理学では、「同一性の危機」と呼んでいる。

 W先生は、こう言った。「これからさまざまな問題を、いろいろ起こすでしょうね。が、そのたび
に、親や教師は、そういう子どもに振りまわされる。いつか親も、それに気づくときがくるかもし
れませんが、そのころには、親子関係は、すでに破壊されているでしょうね」と。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 何を
考えているかわからない子ども 仮面をかぶる子供 子供の仮面)

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コア・アイデンティティについて
書いた原稿を添付します。

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●自己同一性(アイデンティティ)

 若いお母さんでも、「アイデンティティ」という言葉を口にする時代になった。すごいことだと、
私は思う。「みんな、勉強しているんだな」と思う。

 そこでもう一度、そのアイデンティティについて、考えてみたい。日本では、「自己同一性」と訳
されている。

【アイデンティティ】

 もともとは、エリクソンが提唱した、精神分析概念をいう。他人とはちがう、本当の自分、ある
いは「自分らしさ」をいう。

 アイデンティティの確立した人は、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚があると
いう(「日本語大辞典」)。そしてその結果、「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割
と連帯感がもてる」(同)ようになるという。

 順にかみくだいて、考えてみよう。

(1)自己の単一性

 わかりやすさ……簡単に言えば、そういうことになる。「わかりやすい」というのは、「この子
は、こういう子だ」という、つかみどころをいう。教える立場でいうなら、「こういうことをすれば、
この子は喜ぶだろうな」というふうに、予測のたてやすい子どもということになる。

(2)連続性

 いつも同じ調子であること。気分にムラがなく、性格や気質が安定している。感情が変化する
ことがあっても、「なぜそうなるのか」「なぜそうなったのか」ということが、わかりやすい。突然、
わけのわからないことをする……ということがないことをいう。

(3)不変性

 いわゆるシンのしっかりした子ども、ということになる。自分の意見をもち、その意見に従っ
て、行動する。フラつきがなく、目標に向ってがんばることができる。約束も、しっかりと守る。

(4)独自性

 日本的に言えば、個性のこと。集団の中にいても、その子どもらしさが、光ることをいう。他人
と協調しながらも、いつも「私」をもっている。独自性のない子どもは、どこか軟弱。その場、そ
の場で、他人に迎合したり、同調したりする。

 こうしてアイデンティティの問題を考えていくと、いつも、「では、私はどうか?」という問題に行
きつく。

 実のところ、この私は、そのアイデンティティが、軟弱な人間といってよい。ときどき、自分にさ
え、自分がどこにいるかわからなくなることがある。犬にたとえていうなら、だれにでもシッポを
振る。そんな人間である。

 そういう私だから、若いころは、集団とのかかわりが、苦手だった。いや、表面的には社交的
で、だれとでもうまく交際した。愛想もよく、口もじょうずだった。だから私が、「実は、本当のこと
を言うと、ぼくは、集団が苦手だ」などと言うと、みんな、「ウソつけ」とか、「そんなはずはないだ
ろ」とか、言ったりした。

 しかし本当の私は、そうではなかった。自分をさらけ出せない分だけ、集団の中では疲れた。
エリクソンが唱えるところの、単一性、独自性に欠けた。

 なぜ、私がそうなったかといえば、理由はいろいろ考えられる。しかし自分の記憶をいくらた
どっても、満5、6歳を境に、それ以前は闇に包まれてしまう。自分を客観的に見ることができ
ない。そんなわけで、あくまでもこれは私の推察によるものだが、私は、きわめて精神的に貧し
い乳幼児期から幼児期を過ごしたのではないかと思う。

 で、こうしたアイデンティティは、いつも集団とのかかわりの中で、評価される。いくらアイデン
ティティがあっても、集団とうまくかかわれないというのであれば、それはアイデンティティとは言
わない。「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割と連帯感がもてる」ということが、
重要になってくる。

 つまりは、個人と集団との調和が、エリクソンの説く、アイデンティティということになる。「私が
すべて。私以外は、みな、無価値」と考えるのは、アイデンティティでもなんでもない。ただの独
善という。

 そのアイデンティティを、子どもの中に育てるためには、どうするか?

【アイデンティティを育てる】

 アイデンティティをどう育てるか……というよりも、どうすれば、アイデンティティを、つぶさない
ですむかと考えるほうが、実際的である。

 というのも、このアイデンティティは、自然な状態では、どの子どもも、みな、平等にもってい
る。それが、親の過干渉、過関心、溺愛、過保護、さらには育児放棄、否定的な育児姿勢の中
で、つぶされてしまう。そういうケースは、少なくない。

 たとえば否定的な育児姿勢を考えてみよう。

 A子さん(年中女児)が、「私は、おとなになったら、花屋さんになりたい」と言ったとする。その
とき大切なことは、「そうね、花屋さんって、すてきな仕事ね」と、親はそれを前向きにとらえてあ
げる。

 そういう育児姿勢の中で、子どもは、自分の役割を、前向きに形成していくことができる。自
分で花の本を読んだり、種を育ててみたりする。

 が、このとき親が、「花屋さんなんて、ダメ」「あなたは算数教室と英語教室に行くのよ」と、そ
れを否定したとする。(否定するつもりはなくても、否定することがあるので注意する。)

 すると子どもは、自分の意思に自信がもてなくなり、ばあいによっては、自己否定したり、さら
に罪悪感をもつようになる。役割混乱から、情緒不安定になることもある。

 よくある例は、親が、子どもの進路を勝手に変えてしまうようなケース。「成績がさがったか
ら、サッカークラブをやめなさい」とか、「受験が近づいたから、バスケットクラブをやめなさい」
とか言うのが、それ。子どもによっては、あたかも山が崩れるかのように、人格そのものを、崩
壊させてしまうことがある。

 が、実際のところ、否定的な育児姿勢といっても、それは日常的なものである。そしてさらに
その背景はといえば、親の子どもへの不信感がある。「うちの子は、何をしてもだめ」という不
信感が、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることが多い。

 そしてそれは、言葉によるというよりは、あくまでも「親の姿勢」によるところが大きい。たとえ
ば、こんな会話。

親「そのお弁当箱を洗っておいてよ。いいこと、しっかり洗うのよ。どうせあなたのことだから、
いいかげんな洗い方をするのでしょうけど……」

親「やっぱり、いいかげんな洗い方ね。もう一度、洗いなさい。あれだけしっかり洗いなさいと言
ったのに、どうして、しっかりと洗えないの。ほら、まだごはんの食べカスが残っているでしょ」

親「あんたみたいな子はね、ずるいから、いつか悪いことをして、警察につかまるかもしれない
わよ。そうなったとき、お母さんの言っている意味が、はじめてわかるのよ」と。

 過干渉にしても、過関心にしても、同じように考えてよい。子どもへの不信感が、子どもへの
過干渉になったり、過関心になったりする。ここでいう否定的な育児姿勢になることもある。

【いつも前向きに……】

 エリクソンは、こう説く。

 赤ん坊がおなかをすかして泣いたとき、すかさず母親が乳を与えたとする。すると子どもは、
自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 あるいは赤ん坊がおむつをぬらして、同じように泣いたとする。母親はそれを見て、おむつを
かえたとする。すると子どもは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 こうした一連の行動をとおして、赤ん坊は、自分が求められていることを知る。「自信」という
言葉が適切かどうかは知らないが、子どもは自分に自信をもつようになる。「安心感」と言いか
えてもよい。この自信や安心感が、「核(コア)」を形成する。

 エリクソンは、それをそのまま、「コア・アイデンティティ」と呼んだ。

 が、反対に、赤ん坊が泣いたとき、それをそのつど、否定したらどうなるだろうか。赤ん坊が
おなかをすかして泣いたとき、無視したり、冷淡にあしらったりする。あるいは、「待っていなさ
い!」と叱って、あとまわしにしたりする。

 そうなると、子どもは、自分のしていることに自信がもてなくなる。不安になる。「私はまちがっ
たことをしているのではないか」と思う。この状態が、子どもから、(私らしさ)をうばっていく。

 が、それだけではすまない。

 このコア・アイデンティティは、まさにその人の核(コア)になる。子どもというのは、この核をふ
くらませる形で、年齢とともに成長していく。もっとわかりやすく言えば、母子関係を、やがて、た
とえば、先生との関係、友人との関係へと、応用していく。

 が、最初の段階で、つまり母子との関係で、核(コア)づくりに失敗した子どもは、たとえば、先
生との関係、友人との関係で、良好な人間関係を結べなくなる。ここでいうアイデンティティも、
同じように考えてよい。

 もうおわかりかと思う。

 子どものアイデンティティを育てるためには、いつも子どもを前向きにほめていく。とくに乳幼
児期は、「子どもを、こうしよう」「ああしよう」と考えるのではなく、ありのままを認めながら、「そ
れでいいのだ」と教えていく。

 この時期は、多少、うぬぼれ気味、自信過剰気味のほうが、あとあとその子どもは、伸びる。
「ぼくは、すばらしい人間だ」「私は、何でもできる」と。そういう思いが、ここでいうアイデンティテ
ィを明確にする。そしてそれが、その子どもを、さらに前向きに伸ばしていく。

 最後に私のばあいだが、私は、30歳をすぎるころから、自分さがしを始めたように思う。そ
れまでの私は、私が何であるか、どこにいるか、何を望んでいるかさえ、よくわからなかった。

 が、40歳をすぎるころからは、そのつど、居なおるようになった。たとえば私は、あのパーテ
ィが苦手だった。酒を飲めないこともある。大声で騒ぎながら、意味もないゲームをしたり、歌
を歌ったりする……。苦手というより、苦痛だった。

 だからそのころから、そういったパーティに出るのをやめるようにした。「私は私だ」と。

 それまでの自分は、みなに嫌われたくない。好かれたい。そういう思いを優先させ、がまんし
ていた。が、そのがまんをするのを、やめた。

 この傾向は50歳をすぎてから、さらに強くなった。「私は、もっと私らしく生きるぞ」と思うよう
になった。が、だからといって、自分のアイデンティティを確立したわけではない。今でも、ふと
油断すると、自分がどこにいるかわからなくなるときがある。

 そういう意味で、この問題は、まさに10年単位の問題と考えてよい。もしこの文章を読んでい
るあなたが、同じような問題をかかえているとしたら、10年単位で考えたらよいということ。決し
て、1年や2年で解決する問題ではない。

 ここでいうアイデンティティの問題には、そういう問題も、含まれるということ。

(はやし浩司 アイデンティティ アイデンティティー 自己同一性 コア コアアイデンティティ コ
ア・アイデンティティ エリクソン)
(040615)

【追記】

 今、ふと思ったが、私の年代の人間には、私のようにヘラヘラと、やたらと愛想がよく、だれ
にでもシッポを振る人間が多いのでは……?

 戦後の貧しい時期に育児を経験したためかもしれないが、ひょっとしたら、あのギューギュー
のつめられた、寿司詰め教育にも、その原因があるのではないか、と。

 私の時代には、50人クラスが当たり前だった。中学校のときは、1クラス55人だった。

 いつも先生が、何かをガンガンと叫んでばかりいたような気がする。考えてみれば、それもそ
うで、先生もたいへんだったなあと思うと同時に、ああいう世界では、そもそもアイデンティティ
をもつことすら、許されなかったのではないか。

 あくまでも、今、ふとそう思ったというだけのことだが、近く、この問題についても考えてみた
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 アイデ
ンティティ 同一性 自己同一性)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【子育てポイント】

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子育てポイントを2つ、
書いてみました。

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●親孝行を美徳にしない

 日本では「親孝行」が、当たり前になっている。しかしそういう常識(?)の陰で、人知れず、そ
れに苦しんでいる人は多い。

親を前にすると体中が緊張する(34歳女性)、実家へ帰るのが苦痛(30歳女性)など。

しかし世の中には、親をだます子どもがいるが、子どもをだます親もいる。Tさん(70歳)がそう
だ。Tさんは息子(45歳)がもっている土地の権利書を言葉巧みに取りあげて、それを他人に
転売してしまった。

権利関係が複雑な土地だったこともあるが、その息子はこう言う。「親でなかったら、訴えてい
るところです」と。が、当のTさんには、罪の意識がまったくない。間に入った人がそれとなく息
子の気持ちを伝えると、Tさんはこう言った。「親が息子の財産をつかって何が悪い。私が息子
たちにかわって、先祖や家を守ってやっているのだ」と。

 親孝行するかしないかは、あくまでも子どもの問題。もっと言えば、一対一の人間関係が基
本。「親が上で、子は下」という関係では、そもそも良好な人間関係など育たない。親子はあく
までも平等だ。その基本なくして、親孝行はありえない。

言いかえると、親は、子どもを「モノ」とか、「所有物」として考えるのではなく、一人の「人間」とし
て認める。すべてはここから始まる。つまり親は子どもを育てながら、自らも「尊敬される親」に
ならなければならない。

子どもが親を孝行するかしないかは、あくまでもその「結果」でしかない。さらに言いかえると、
子どもが親を軽蔑し、親孝行を考えなくなったとしても、その責任は子どもにはない。そういう親
子関係しか作れなかった親自身にある。きびしいことを言うようだが、親になるということは、そ
れくらいたいへんなことでもある。

 親孝行を子どもに求める親というのは、それだけで、依存心の強い親とみる。「甘えている」
と言ってもよい。そういう親からは、自立した子どもは生まれない。

前にも書いたが、依存心というのは、あくまでも相互的なものである。そんなわけで子どもを自
立させたかったら、親自身も子どもから自立する。またそのほうが、結局は子どもから尊敬さ
れる親になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孝行
論 親孝行)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。

この世界、「教育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。そ
れに皆が皆、まともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人
もいる。さらには、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に
1人はいる。

このタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまとも
でない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。

あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも頭をさげる。

あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集まる。しかし
あなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」となる。
そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。

あなたは子どものころ、あなたの親は、あなたのすべてを知っていただろうか。それに相手が
先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よほどのことと考
えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄則と考えてよ
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 如水
淡交 親同士のトラブル 親どうしのトラブル 負けるが勝ち)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1520)

【今朝・あれこれ】

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たった今、マガジン(10月9日号)の
配信予約をすませた。

これから書く原稿は、10月11日号用の
原稿ということになる。

で、いつも、こう思う。「本当に、書けるの
だろうか?」と。

不安という不安ではないが、ふと不安に
なる。

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 マガジン用の原稿は、たいてい1か月前に、書くようにしている。10月11日号なら、9月11
日までに、書くようにしている。

 こうすることによって、マガジンを、安定的に、読者のみなさんにお届けすることができる。私
は、この「安定的」というのを、何よりも大切にしている。

 マガジンにかぎらない。

 家庭においても、また私が経営するBW教室においても、である。

 安定は、信用につながる。が、いつも、つぎのマガジンを書き始めるとき、不安という不安で
はないが、ふと軽い不安感を覚える。「次回は、だいじょうぶだろうか?」と。

 マガジンでは、毎回、A4サイズの用紙で、20〜30枚分の原稿を載せるようにしている。結
構な量である。「そんなにたくさん、書けるだろうか?」と。

 が、不思議なもので、毎朝思いついたことを書いているだけで、分量が、10〜12枚になる。
それにあれこれ自分で調べたことを書き足していると、15〜18枚になる。さらに、それが20
〜25枚になる。

 分量がそろったら、マガジンの配信予約を入れる。先ほど、10月9日号の配信予約をすま
せた。分量は、26枚ほどになった。ほっと息をついだところで、いつもの、あの軽い不安。「次
回は、だいじょうぶだろうか?」と。

 で、現在、マガジンを発行するまで、つぎのような手順を踏んでいる。

(1)原稿を書く。
(2)その原稿を、楽天日記や、ほかのBLOGに載せてみる。
(3)読者の反応をみる。
(4)その反応をみながら、原稿を推敲(すいこう)しなおす。
(5)マガジン用に原稿を編集する。
(6)マガジンの配信予約を入れる。

 しばらくおいてから原稿を推敲しなおすというのは、ものを書く上において、とても重要なこと
である。思想のゆらぎや矛盾点を、そのとき、訂正、修正できる。そのとき、ひとつのコツがあ
る。できるだけ他人の目で、自分の原稿を読んでみるということ。そうすることによって、思想の
ゆらぎや矛盾点を、さらに正確に知ることができる。

 こうして私のマガジンは、みなさんのところに届けられるが、ここにきて、思わぬ副産物という
か、現象が起き始めている。ここにも書いたように、書いた原稿は、いわば荒削りのまま、楽
天日記や、ほかのBLOG載せている。

 私としては、どこか軽い気持ちでそうしている。が、その楽天日記だけでも、このところ、毎
日、400〜500件もアクセスされるようになった。ほかのBLOG(3誌)も入れると、もっと多
い。

 こうなると、いいかげんなことが書けなくなる。気持ちが、引き締まる。(もちろん、いいかげん
なことを書いているという気持ちは、さらさらないが……。)

 そこで私は、つぎのことに心がけている。

(1)書くときは、出し惜しみしない。
(2)ありのままを、そのまま書く。

 「出し惜しみしない」というのは、全力投球で書くということ。「ここから先は、つぎのマガジンで
書いてやろう」とか、「こんなことを書いたら、損をする」とか、そういうことは考えない。

 つぎに「ありのままを、そのまま書く」というのは、自分の一貫性を守る上においても、とても
重要なことである。自分を飾ったり、偽ったりすれば、そういったメッキは、やがてすぐ、はがれ
る。せっかく読んでくれる人に、いらぬ不安感を与える。

 ともかくも、こうして10月11日号の原稿を書き始めた。「あさってまでに、20枚以上、はたし
て書けるのだろうか?」という不安はあるにはあるが、書くしかない。

 (ちょうどここまでで、A4サイズで、2枚の原稿になった。あと18枚以上!)

 今朝も、がんばります。読者のみなさん、よろしくお願いします。先ほどからこのあたりでも、
ツクツクボーシが鳴き始めました。秋ですね。(9月10日記)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●もうすぐ、1947人!

++++++++++++++++++

もうすぐEマガ(Eマガ社発行のマガジン)
の読者が、1947人になる。

この「1947」という数字は、私には
特別な意味がある。

++++++++++++++++++

 現在、電子マガジンは、Eマガ社から2誌、まぐプレから1誌(有料版)、それにBIGLOBE社
から1誌の、計4誌出している。

 そのうちの1誌、Eマガの「最前線の子育て論byはやし浩司」の読者が、もうすぐ、1947人
になる。

 この「1947」という数字には、特別の意味がある。「1947」というのは、つまり、私が生まれ
た年である。私は1947年の10月生まれ。

 そこで先ほど、ワイフとこんな会話をした。言うなれば、企画会議ということになる。

私「1947人になったら、ぼくが生まれたときのことを書く。1948人になったら、ぼくが1歳のと
きのことを書く。1949人になったら、ぼくが2歳のときのことを書く」と。

 つまり読者数に応じて、その数字の年の思い出を書く、と。個人的な電子マガジンだからこそ
できる、おもしろい企画である。

 ワクワク……。

 こうして書いていけば、私の一代記を、そのときそのまま、まとめることができる。「一代記」と
いうほど、おおげさなものではないかもしれないが、ともかくも、自分の一生を、それで振りかえ
ってみることができる。

 そして最後の現在は、読者が2006人になったときに書く。今年が、その2006年である。

 ところで、私は、もうすぐ59歳になる。子どもたち(生徒たち)には、「48歳だよ。もうすぐ49
歳だよ」と話しているが、本当は、59歳である。(ここだけの内緒にしておいてほしい。)

 ちょうど、よい機会ということになる。多分、私の誕生日までには、読者の数も、2006人にな
るだろう。(多分?)

 みなさん、これからも、よろしくお願いします。みなさんは、私に、(生きがい)をくれます。私
は、みんさんに、(子育て情報+something)を、お届けします。よろしく、よろしくお願いしま
す。


●パソコンがこわれた!

+++++++++++++++

愛用のパソコンがこわれた。
修理に半日を費やした。

そのため、楽天日記は、お休み!

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6年間使ったパソコンだが、今日、こわれた。F社のデスクパワーという機種。当時はまだ珍し
かった、17インチワイド画面モニター付きのパソコンである。

そのパソコンだが、数か月前、一度、調子が悪くなった。そのときハードディスクを交換した。
で、しばらくはだいじょうぶだろうと思っていたが、ここにきて、急速に、また調子が悪くなった。

 いくつかのプログラムが起動しなくなった。

 で、再び、ハードディスクの交換を試みたが、今のところ、何度やってもうまくいかない。「?」
マークを、20個くらい頭に思い浮かべたところで、ギブ・アップ!

 予備のパソコンに、外付けハードディスクを移し変えて、仕事、再開。こういうときのために、
データファイルは、すべて外付けのハードディスクに保存している。予備のパソコンは、同じ仕
事ができるように、いつも同期させている。

 時刻を見ると、午後7時半。今日は、半日が、パソコンの修理のためにつぶれてしまった。そ
のため、楽天の日記は、お休み!

【付記】

 ハードディスクを交換するためには、一度、外付けのハードディスクに、ハードディスクを丸ご
とコピーしなくてはならない。そのとき使うソフトが、「コピーコマンダー8」というソフト。

 で、以前はうまくいったのだが、今回は、何度トライしても、「現在、動作中のファイルが、Cデ
ィスクにあります」という表示が出て、そこでストップしてしまう。つまり「動作中のファイルがある
から、コピーできない」と。

 そんなはずはないのだが……。タスクマネージャーを見ても、動作中のファイルはないはず
……。やはりこのパソコンは、寿命なのか?

 ところで、パソコンの1年は、人間の10年に相当するとか?

 ……となると、このパソコンは、60歳で、寿命を迎えたということになる。少し若すぎる! 何
とか、ビスタ(OS)が発売になるまで、使えればよいのだが……。

 しかしパソコンというのは、だましだまし使うもの。そのだましだまし使うところに、また別の楽
しさがある。何というか、人間と電子頭脳の知恵くらべのようなもの。

 早くビスタを載せたパソコンが、発売にならないかな。それを口実に、新しいパソコンに乗り
かえられる。発売予定は来年1月。待ち遠しい!


【BW教室から】

●イナバウワー

 イナバウワーの話が出た。体のやわらかい子ども(小3女児)がいて、体を、うしろへクネーッ
と曲げることができる。

 それを見ていて私は、こう言った。「ぼくは、イナバーバーというのができる」と。で、「どんな
の?」と聞いたので、バーさんのように、体を前に曲げて見せてやった。

 すると子どもたちは、こう言った。「それは、イナジージーだ」と。


●BWのカイダン

 学校の花子さんの話をしたあと、BWのカイダンの話をした。「BWのカイダンのほうが、こわ
いよ」と。

 すると子どもたちが、「話して!」「話して!」と。

私「本当にこわいよ。見ないほうが、いい」
子「見せて!」「見たい!」と。

 そこで私は、教室から出て、BWの階段を見せてやった。「これがカイダンだア〜」と。


●愛の歌、恋の歌

 1年生でも、「愛」とか、「恋」とかいう言葉を知っている。そこで私は、こう言ってやった。

 「みんなががんばったら、先生は、恋の歌を歌ってあげる」と。

 子どもたちは、それに答えて、「ゲーッ!」と。

 そう言いながらも、みんなはがんばった。で、そのあと、子どもたちが、「約束どおり、恋の歌
を歌ってエ!」「歌ってエ!」と。

 私は、どこかなまめかしいポーズをとりながら、こう歌ってやった。

 「♪屋根より高い、鯉のぼり……。大きな真鯉は、お父さん……」と。

 そのあと、子どもたちの猛攻撃を受けたことは、言うまでもない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【G県の裏金汚職問題】(2)

●自己愛者

+++++++++++++++

ジコチューが、極端なほどまでに
偏(かたよ)った人を、「自己愛者」
という。

このタイプの人は、一見、他人の
ために働くような様子をしてみせるが、
しかし、それも、結局は、自分のため。

自分をよく見せたいがために、
そうする。つまりすべての言動は、
計算づく。

自己愛者は、どこまでも自己愛者。
簡単には、なおらない。

+++++++++++++++

 G県の裏金問題が、さらに底なしの様相を見せ始めている。9月8日には、前知事のK氏が、
1か月ぶりに、(1か月ぶりにだぞ!)、公の場所に姿を見せ、(謝罪)した。

 しかし謝罪といっても、「事実関係については、棚上げにする」と答えたのみ。それに今の段
階では、「謝罪する」とか「しない」とかいうレベルの問題ではない。K前知事本人に、大きな疑
惑が向けられている。わかりやすく言えば、K前知事自身の、犯罪者としての責任が問われて
いる。

 謝罪ですむ段階ではない。

 「裏金をつくり、その裏金で飲み食いした」ということは、立派な、公金横領である! (横領だ
ぞ! 犯罪だぞ!)それがわからなければ、どこかの泥棒が、県庁の金庫から、17億円を盗
んだことを想像してみればよい。

 そのK前知事だが、自分の責任を問われると、態度が変わったという。中日新聞によると、
「退職金返還の話になると、気色ばみ、それを否定した」(9月9日朝刊)ということだそうだ。

 退職金といっても、総額1億8000万円! (1億8000万円だぞ!)裏金も裏金なら、退職
金も退職金。こういう知事に牛耳られていた、G県人は、まことにもって、お気の毒としか、言い
ようがない。もともと政治的には、保守的な地域。「保守的」というより、「土着民族的」。何ごと
も、オジチャン、オバチャンたちの「寄りあい談合」で決められる土地がらである。

 たとえばなぜあの新幹線が、岐阜県内で大きく迂回(うかい)しているか、それを知っている
人は、今では少ない。もし新幹線が、名古屋からまっすぐ京都に向かっていたら、東京〜大阪
間は、今より、10〜15分ほど、短縮されていたという。

 あの新幹線を迂回させたのは、当時のG県出身の大野B氏(故人)と言われている。その大
臣の功績(?)にちなんで、新幹線のH駅(岐阜県内)には、今でも、大野B氏の銅像が駅前に
立っている。つまり政治的権力者たちが、好き勝手なことをしている。またそういうことが、でき
る。県知事とて、例外ではない。それがG県といってもよい。

 今はそうではないかもしれないが、私が高校生のときですら、政治の話をするのは、タブー視
されていた。いわんや、お上にさからうなどということは、もってのほか! そういう風潮が、色
濃く残っていた。

 で、中日新聞には、そのK知事の苦渋(?)に満ちた顔写真が大きく載っていた(9月9日朝
刊)。見るからに、誠実さのひとかけらもなさそうといった感じの顔だった。言うなれば、タヌキ。
タヌキはタヌキでも、大ダヌキ。そんな顔だった。

 当の本人は、高額の退職金返還について、「16年間命がけで県政に取り組んできた結果
だ」と、強く否定しているという(同新聞記事)。さらに裏金も返還についても、「県民に見える形
で誠意を示したい」と言いつつも、自身の返還額については、「責任に見合う負担をしなければ
ならない」と答えるにとどまっている。つまり使った分しか、返還しない、と。

 もし本当に潔白なら、ふつうの人なら激怒するはず。「私もだまされた」とか、何とか。激怒し
ないところに、うさん臭さが残る。

 またK前知事は、「命がけで……」と言うが、本当に、そうか? 自分の出世欲、名誉欲、権
勢欲を、あくまでも自分のために満たしてきただけではないのか。県知事という地位は、その
ための道具にすぎなかったのでがないのか(?)。そういう人を、心理学の世界では、自己愛
者という。自己中心性が、極端にまで偏(かたよ)った人のことをいう。

 このタイプの政治家は、身のまわりのありとあらゆる人たちを、自分のために利用する。自
分にとって、得な人か、損な人か、そういう損得勘定だけで、まわりの人たちの価値を判断す
る。(もちろんK前知事がそうであったと言っているのではない。)

だいたい「命がけ」というくらいなら、なぜ退職金にこだわるのか。あるいは、命より、お金のほ
うが大切とでもいうのか?

 それがいやなら、「命がけ」などという言葉を、軽々しく使わないことだ。

 まことにもって、実にお粗末な事件。結局この事件も、だれも責任を問うことなく、また問われ
ることもなく、うやむやのままの終わるのだろう。私が見るかぎり、攻める警察にしても、どこか
及(およ)び腰。県民の反応も、イマイチ。なぜか? なぜだろう? ……というところに、この事
件の根深さが隠されている。

まさにこの事件は、G県全体の体質にかかわる事件ということになる。この際、G県は、徹底し
て、自らのウミを、外に出すべきだと、私は思う。私自身は、そのG県を離れて、もう40年にな
るが、私が知るかぎり、いまだに、あの県だけは、40年前と、それほど変わっていない。

 G市(G県の県庁所在地)は別として、一歩、地方に入ると、50年前のまま。ひょっとしたら、
戦前のまま。

 今こそ、そういう体質を変えるべきチャンスである。

 G県の人たちよ、もっと、怒れ! 怒って、怒りまくれ。そしてその(怒り)を、つぎの時代への
礎(いしずえ)としたらよい!

【補記】

 見るに見かねてか(?)、今度この事件を、民主党の党本部(東京)が、調べることになったと
いう(9月11日)。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●体格検査

++++++++++++++++++++

私が中学生のときには、「体格検査」などという、
わけのわからない検査があった。

男子も、女子も、パンツ1枚になって、体育教師と
担任教師の前で、いろいろなポーズをとって
見せるという検査である。

もちろん健康診断や体力測定とは、ちがう。
パンツ一枚で、だ。
(男子も、女子も! 1年生から3年生まで、
約1400〜500人、全員! しかも毎年!)

そしてそのポーズの取り方まで、前もって
練習させられた。

1人ずつ生徒は、別の用意された個室に入り、
そこで両手をあげたりさげたり、体をひねって
みせたり、前にかがんでみせたり……。

何ともわけのわからない検査だった。
半世紀を越えて、今、ムラムラと、
そのときの怒りが、私の胸の中に充満してくる。

あのとき感じた、屈辱感。今でも、
私は、それを忘れない!

あれをセクハラと言わずして、何と言う!

4年前に、別のことで、こんな原稿を書いた。
その中で、私ははじめて、あのとき経験した
体格検査なる検査について、触れた。

++++++++++++++++++++
 
●母校意識
 
 S県のある町で、旧校舎の保存を求めて、町側と父母が対立している。で、町側が折れ、保
存を前提に、仮校舎の建設をした。そこで仮校舎に引っ越し、ということになったが、これにも
保存を求める父母側が反対した。

そこで「3学期の授業を保存が決まった本校舎で行うか」「当分は仮設の校舎を使うか」で、今
度は父母どうしが、はげしく対立しているという(02年12月末)。

 この事件の背景には、何か、もっと大きな問題が隠されているようだ。表面的な部分だけを
みて判断すると、まちがいのもととなる。それにこのH市でも、小学校の統廃合について、市側
と住民側が対立しているところがある。この問題は、部外者が考えるほど、単純ではない。た
いへんデリケートな問題と考えてよい。日本人にとっては、「学校」というのは、特別の存在。日
本人がもつ母校意識には、独特のものがある。

 H市のとなりにI町という町がある。そのI町にあるA小学校で講演をしたときのこと。校長が学
校のあちこちを案内してくれた。
「この校門は、地元のX氏が、私財を投じて作ってくれたものです。基礎の石を見てください。こ
れほど立派な石は、このあたりでも珍しいです」
「あの石垣を見てください。あの石垣は、村の人たちが総出でつくってくれたものです」
「学校のまわりの花壇は、このあたりの人たちが、毎日、交代で世話をしてくれています」と。

 学校といっても、いろいろあるようだ。そしてこのA小学校のように、その地域の人たちの熱
い思いが、歴史として、織りこまれているところがある。そういうところで、「母校意識など、今ど
きムダなこと」などと言おうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 問題はこのことではなく、問題は、その先、というか、その中味。なぜ、日本人は、こうまで学
校にこだわるかということ。その手がかりとして、私の子ども時代のことを書く。
 
 私が子どものころ、学校は、まだ絶対的な存在だった。学校の先生も、また絶対的な存在だ
った。当時はまだ、戦前の軍国主義教育の面影が強く残っているころで、民主教育と言いなが
ら、親たちの学校をみる目は、戦前のままだった。

そういう中、たとえば生徒が、学校の先生にさからうなどということは、考えられなかった。それ
こそ「裸になれ」と命令されたら、女子でも、裸になった。これは事実で、私たちが中学生のとき
は、健康診断や体力測定のほか、体格検査というおかしな検査もあった(G県M第1中学校)。

これは体育教師と担任教師の前で、1人ずつ、パンツ1枚の姿で、いろいろなポーズをしてみ
せるという検査だった。そしてとくに体格のよい生徒は、8ミリカメラ(動画)で、体中を撮影され
たりした。もちろん女子も、だ※。

 私がここで言いたいのは、今でも、そうした「絶対性」の片鱗(へんりん)が、残っているという
こと。そしてその片鱗が、あちこちで姿を変えて、今の母校意識というものをつくりあげている。
ひょっとしたら、冒頭にあげた校舎建てかえ問題もそのひとつかもしれない。

部外者の私から見れば、「もう少し、気楽に考えたらよいのでは」と思うのだが、そうはいかな
い。その気楽さの前にたちはだかるのが、ここでいう絶対性である。H市で起きている、学校の
統廃合の問題にも、ここでいう絶対性がからんでいる?

 ……こう書くと、飛躍した意見に思う人がいるかもしれないが、不登校児の問題にも、この絶
対性がからんでいる。子どもが不登校児になったりすると、たいていの親は、まさに狂乱状態
になる。なぜそうなのかと言えば、やはりそこに、「学校とは行かねばならないところ」という絶
対性があるからではないのか。

 私の個人的な意見としては、母校意識というのは、その源(みなもと)で、江戸時代の身分制
度と結びついていると思う。思うから、過度な母校意識は、それなりに警戒したほうがよいと思
う。

今でも、公官庁を中心に、そして学術の世界でも、学閥や学歴意識が、きわめて根強く残って
いる。そういう意味での母校意識、もう少し正確に言えば、日本独特の「絶対性」は、もう、なく
すべき時代にきている。

 ヨーロッパでは、大学での単位は、完全に共通化された。高校、中学にしても、転籍は自由。
そういう時代が目の前にきている。だから私は、それほど、母校にこだわる必要はもうないの
ではないかと思う。思うだけで、それ以上のことは言えない。

というのも、冒頭に書いたように、この問題には、デリケートな部分、もっと言えば、私のような
部外者では理解できないような、「住民たちの熱い思い」が、そこにこめられている。そういう熱
い思いは思いとして、理解してあげなければならないし、尊重してあげねばならない。ものごと
は、何でもかんでも合理的にというわけにはいかない。またそういうふうに考えてはいけない。

 何ともあいまいな、どこか奥歯にものがはさまったかのような結論になってしまったが、要す
るにこの問題は、当事者たちがみな、納得する形で解決するのが好ましい。一方的に、だれか
が決めるのではなく、また同じように一方的に反対するのではなく、話しあうのが好ましい。

時間はいくらかかってもよい。また時間はかければかけるほどよい。これはまさに「意識」の問
題。その意識を理解し、変えるには、当然、時間がかかる。
(02−12−29)

【追記】

 先日、中学生たちが歌を歌ってくれと頼んだので、私は、舟木一夫の「高校三年生」を歌って
やった。すると数分も歌わないうちに、皆が、「やめろ、やめろ!」と。

1人、「先生が高校生のときは、そんなつまらない歌を歌っていたの?」と言った子どもがい
た。たしかにそうかもしれないが、私にとっては、そうではない。それがここでいう「熱い思い」な
のである。仮につまらない歌であるにしても、それが私の人生の一部。だから頭から「つまらな
い」と否定されると、私自身の過去を否定されたかのような気分になる。

私がここでいう「デリケートな問題」というのは、そういう「思い」にからんだ問題をいう。決して安
易に考えてはいけない。

+++++++++++++++++++

 この体格検査について、それはずっとあとになってわかったことだが、そんな検査をしていた
のは、母校のM市立M第1中学校および、いくつかの中学校のみということがわかった。

 で、その証拠は、後日、ひょんなところから、手に入った。当時の記録(?)が、手に入ったの
だ。記録というよりは、一応学校でする検査だから、それなりのお膳立てというか、弁解をする
ための記録とういったほうがよいかもしれない。肥満度、脊椎湾曲症などの検査をするのが、
一応、その目的となっていたようである。

 なお、ここに8ミリカメラ(動画)で撮影された話を書いたが、撮影された生徒については、当
の本人より直接話を聞いている。体格のよい(?)生徒は、後日、別の日に学校に呼ばれて、
一人ずつ、裸で、体を撮影されたそうである。

 もちろん当時のことだから、ほかに、スティールカメラでの撮影もされているはずである。

 こうした体格検査なる検査が、いかに、あやしげなものであるかは、その一部だけをとりあげ
ても、わかるはず。もし学校の教師が、女性となら女生徒でよいが、その生徒を個室に呼び、
パンツ一枚の姿にして、いろいろなポーズをとらせたら、あなたは、それをどうとらえるだろう
か。

 ここでいう体格検査というのは、そういう検査をいう。それにしても、あやしげな検査だった。
あのとき感じた、あの不愉快な思いだけは、今も、しっかりと胸の中に残っている。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1521)

【外国人の問題】

●窓の外へ、ポイポイとタバコの吸殻を……!

+++++++++++++++++

旧浜松市内(人口60万人、現在は合併に
より、80万人)だけでも、約3万人の外国
の人たちが住んでいる。

当初はどこか遠慮がちに住んでいたが、今は
ちがう。

堂々というか、我が物顔で住むようになって
きた。

+++++++++++++++++

 自転車で歩道を走っていたときのこと。車の窓から、3〜6個ずつ、タバコの吸殻を、まとめて
捨てている車に出会った。

 しかも車の中で掃除でもしているのか、数秒おきに、それを繰りかえしていた。パラパラ、パ
ラパラ……と。

 信号待ちでその車に追いついたので、注意してやることにした。見ると、タバコの吸殻を捨て
ていたのは、助手席に座っていた若い女性だった。車を運転していたのは、若い男性だった。

 一応、軽い笑顔をつくりながら、私は窓の下の、そのとき捨てたばかりの吸殻を指さして、こ
う声をかけた。「こういうことをしては、まずいのではないのですかねえ」「タバコの吸殻は……」
と。

 が、若い女のほうが、逆ギレ! 突然、「Mxxx、Yxxx、Dxxx!」と、意味のわからない言葉
を、大声で怒鳴りかえしてきた。

 顔も姿も、まったく日本人のようだったが、P語を話す外国人だった。美しい顔だちをしていた
が、中身は、どうか?

 私が相手にするような人間ではない。相手にしても、しかたない。私は、その場を無視して、
少し前に出た。私を追いかけてきて、けんかを売ってきたら、そのときは、そのとき。私も本気
で、怒鳴りかえしてやろうと思っていた。

 白い晩夏の日の光が、目にまぶしかった。信号が青になったので道路に出ると、まずその車
が、私を追い抜いていった。で、そのあとのこと。

 その車のすぐうしろの車を運転していた人も、それが気になったらしい。通りすがり、クラクシ
ョンを、小刻みに2度鳴らした。見ると、中年の夫婦が、車の中から、私に手を振っていた。

 世の中、悪い人ばかりではないらしい。見ている人は、ちゃんと見ている!

 で、余談だが、この話を家に帰ってからワイフにすると、ワイフは、こう言った。

 「そういう連中は、相手にしてはダメよ。そういうことをして、殺されてしまった人もいるから…
…」と。

私「いいや、ぼくは、あいつらに、のろい(=呪い)をかけておいたから、だいじょうぶ」
ワ「のろい?」
私「そう、のろいだよ。電柱に車をぶつけて、大けがをするという、のろいだよ、ハハハ」と。

 しかしこの浜松市にも、外国人が多くなった。多くなりすぎた。それにつれて、以前は、大半が
出稼ぎ派だったが、今では定住派が主流になってきている。少数派だったときには、まだ、そ
れなりに遠慮がちなところも見られたが、最近は、そうではない。堂々してきたというか、我が
物顔で好き勝手なことをするようになってきた。それが目にあまるようになってきた。

 このままでは、やがてこの浜松市でも、在来人(=日本人)と、渡来人(=外国人)との間で、
衝突が起こるようになるかもしれない。すでにあちこちで、何かと摩擦を起こしているようだが、
そのうち、その程度ではすまなくなるかもしれない。

 ちなみに浜松市における外国人登録者数は、3万0059人。人口の約3・7%。うちB国人
は、1万7255人(2005年、7月現在)。この数は、全国の都市の中で、もっとも、多い。

【補記】
 
 生活のリズム、パターンが、基本的な部分でちがうことが多い。金曜日の夜や土曜日の夜な
どは、空き地でパーティを開いたりする。それを夜中の2時、3時までつづける。しかもガンガン
と音楽を平気で流す。

 どこかへ引っ越していくとき、(あるいは帰国するとき?)、ベッドなどの粗大ゴミを、空き地な
どへ、平気で捨てていく。中には、車まで捨てていく人もいる。

私の家の近くでも、そういうことがあった。一度、警察に通報したあと、持ち主を調べたことがあ
るが、その持ち主(登記簿上の所有者)は、「ずっと前に、どこかの外国人に売った車だから、
知らない」と答えた。

念のため申し添えるなら、こと車に関しては、こういう言い訳は通用しない。だれに売ろうが、
登記簿上の所有者が、その責任を取ることになる。

 また私の家の近くに、市営の団地(4棟、約160室)があるが、今では、外国人専用の団地
になってしまった感じさえする。日本人の住居人が逃げ出し、そこへどんどんと外国人が入って
きた。今は、まだ6(外国人)対4(日本人)の割合だそうだが、そのうち、日本人の住居人は、
ゼロになるのではないかと言われている。

 学校でも、いろいろと問題を起こしているようである。ある日突然入学してきて、またある日突
然転校していく。教師と父母の連絡がうまくとれないため、「学校秩序そのものが、破壊されて
いくように感ずる」とこぼした、小学校の校長もいる。

 さらに浜松市の調査によれば、約半数の子どもたちが、無保険状態にいるという。そのため
医療機関での診察、治療がじゅうぶんに受けられない子どもも多いという。

 しかし大切なことは、こうした事実を、マイナス要因としてとらえるのではなく、「では、どうすれ
ばいいか」と、前向きに考えて、対処していくことではないか。

 たとえばこうした問題を解決するため、学校によっては、P語のわかる専門の通訳(=就学支
援員)を置くようになったところもある。また「言葉の教室」をもうけたり、「カナリーニョ教室」とい
って、日本語とP語の両方で授業を行う、バイリンガル教室などを、もうけている学校も少なくな
い。

日本が国際社会で生き残っていくためには、外国人労働者の受け入れは、やむをえない。少
子化による労働者の不足を、こうした外国人が補うという役目もある。それに今は、発展途上
国かもしれないが、とくに南米のB国は、やがて中国、インドと並んで、経済大国になると予想
されている。資源は無尽蔵に眠っている。対日感情も悪くない。

 そういうことも考えて、つまり日本の将来も念頭に置きながら、対処していくことである。たとえ
ばこの浜松市では、「浜松市世界都市化ビジョン」なるものを策定し、外国人との「共生、協
力、連携」などを、歌っている。

 このまま仲たがいするのではなく、彼らを日本の社会にじょうずに同化させていこうというわ
けである。しかしもう少し、その歩調を速めてもよいのではないか。このところどうも、日本人と
外国人の関係がギクシャクしてきたように感ずるのは、はたして私だけだろうか。

【付記】

 中には、短絡的なものの考え方をし、「(犯罪などが多くなるから)、外国人を追い出せ」とか、
「外国人が多くなると、日本人の職場が奪われる」とか主張する人がいる。

 しかしこれはとんでもない偏見と考えてよい。誤解と言ってもよい。日本が、今までのような経
済的発展を維持し、これからも先進国として世界に君臨するためには、外国人労働者は、必
要なのである。ここにも書いたように、日本の社会の少子高齢化が進めば進むほど、必要な
のである。

 よい例が、このあたりでは、みかん栽培がある。

 オーストラリアなどでは、その時期になると、外国人労働者を受け入れ、みかんの収穫など
の作業をさせている。が、この浜松市周辺では、それをしない。そのため、みかん栽培農業者
の高齢化の上に、人手不足が重なり、結局は、外国産のみかんに、市場を奪われてしまった。
ほかにも身近な問題として、看護士の問題もある。

 もし外国人労働者を受け入れなかったら、日本は、どうなるか? 超・高コスト社会になった
あと、(現在がそうだが……)、そのまま自滅の道を歩むことになる。あるいはその前に、産業
や工場は外国へ流出し、日本の空洞化が進むことになる。

 日本が日本として生き残るためには、外国人労働者は、必要なのである。そのため「浜松市
世界都市化ビジョン」には、おおいに賛成。この浜松市が、全国にさきがけて、そのモデル都
市になったらよい。

 ……ということで、どこか外国人を批判するために書き始めたエッセーだが、やはりここは
「共存こそ重要」ということで、「タバコのポイ捨ての話」を、締めくくりたい。

日本人の中にも、タバコのポイ捨てをする人は、いくらでもいることだし……ネ。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1522)

【生きるとは……】

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長野県に飯田市という、人口10万人ほどの
小都市がある。
その飯田市で、日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)
という詩人を知らない人はいない。

その日夏耿之介の記念館に、一枚のセピアカラーの
写真が飾ってある。

私はその写真を見たとき、その写真の前で、
釘づけになってしまった。

++++++++++++++++++++

長野県に飯田市という、人口10万人ほどの小都市がある。

その飯田市で、日夏耿之介(ひなつ・こうのすけ)の名前を知らない人はいない。飯田市が産ん
だ、明治から、大正。昭和の時代にかけて活躍した、詩人である。市の東のはずれには、その
日夏耿之介の記念館がある。

その記念館というか展示館というか、かつて日夏耿之介が住んでいた屋敷が、そのまま再現さ
れ、そこに残っている。

 私とワイフは、また晩夏の暑さが消えやらぬ9月はじめ、その飯田市を訪れた。ついで足の
向くまま、日夏耿之介の記念館を訪れた。

 正直に言うが、私は、日夏耿之介という名前を、記憶のどこかで聞いた覚えはあるが、それ
がどんな人物で、何をしていた人かというところまでは知らなかった。日夏耿之介という名前す
ら、正確には読めなかった。日夏耿之介は、「ひなつ・こうのすけ」と読む。

 その日夏耿之介。飯田市の観光案内用のパンフによれば、つぎのようにある。

 ……明治23年に当時の飯田町に生まれる。詩人、文学者、翻訳家として、多彩な文芸活動
を展開。独特の美意識に貫かれた詩風は、高い評価を受け、自ら「ゴスィック・ローマン詩体」
と称した。大学教授を歴任し、晩年は郷里で過ごした。第1回飯田市名誉市民に選ばれてい
る。

 その記念館を訪れたときのこと。こじんまりとした、いかにも文豪の住処(すみか)といった感
じの屋敷だった。その壁のひとつに、当時の文豪たちが一堂にかいして写っている、一枚の写
真が飾ってあった。

 日夏耿之介が、何かの本を出版した折、それを祝って集まった文豪たちだという。で、その
写真の中には、芥川龍之介、北原白秋、室生犀星、堀口大学、三木露風という、錚々(そうそ
う)たるメンバーが、並んでいた。数えてみたが、22人の人が写っていた。

 「大正7年1月、東京の京橋で開かれた晩餐会で」と、説明図の左下に書いてある。といって
も、その写真は、よく知られた写真で、私は以前にも何度か、その写真を見たことがある。が、
そのときは、どういうわけか、電撃に打たれたような新鮮さを感じた。私はそのまま、その写真
の前で、釘づけになってしまった。

 とくに目をひいたのは、芥川龍之介と室生犀星である。

 芥が龍之介は、まだ若い書生といった感じで、北原白秋のうしろに顔を半分隠して立ってい
た。そしてその北原白秋の左隣に、室生犀星が立っていた。「♪故郷は遠きにありて思ふも
の」と歌った、あの室生犀星である。

 写真で見ると、芥川龍之介は、どこかいじけているといった感じ。一方、室生犀星は、私が抱
いていた印象とは、まるでちがった人物として、そこに立っていた。言うなれば、ごつい顔をし
た、オジサン。そんな感じだった。

 私は、その時代の文豪たちの顔を1人ずつみつめながら、何度もため息をついた。遠い過去
を思いやるというよりは、自分の近い未来を見る思いがした。もちろんこうした文豪たちと、私
とでは、くらべるようがない。ないが、「この人たちも消えてしまったのだな」という思いは、「やが
て自分もそうなるのだな」という思いに変わった。

 明治時代も大正時代も、そして昭和の時代も、今と同じように、明るい太陽が輝いていたに
ちがいない。青い空もあっただろう。そこには純白の夏雲も浮かんでいたことだろう。

 しかしその時代に生きた人たちだけは、その写真のように、やがて色あせ、黄ばんだ写真と
ともに、どこかへ行ってしまった。

 どこへ行ってしまったのだろう。

 私は、家に戻るとすぐ、インターネットを使って、それらの人を調べてみることにした。芥川龍
之介や北原白秋を知らない人はいない。で、私は、とりあえず、左端の人物から、順に調べて
みることにした。

●石井直三郎(いしいなおさぶろう)

大正3年、東京帝国大学文科大学国文科を卒業。六高在学中、六高短歌会に加わり、尾上柴
舟の指導を受ける。大正3年「水甕」の創刊により、社を自宅におきのち編集責任者となる。大
正14年「青樹」を創刊したが、昭和3年「水甕」と合併。生前の歌集は「青樹」一冊で、厳選した
147首を収めている。作風は典雅で流麗な調べが特色。

「おほぞらに ただよふくもの しらくもの さびしき秋に なりにけるかな 直樹」
 『水甕』の歌人、国文学者、石井直樹(本名直三郎=明治23〜昭和11)の代表作。
姉の嫁ぎ先に岡田家があり、『水甕支社』のあったこの地を、時おり訪れた。
歌碑は、昭和12年、縁故者 門人たちによって建立されたもの。自筆。
(相生市文学碑設立協会のHPより抜粋)

●斉藤勇

 東大元名誉教授斉藤勇氏は、戦前より讃美歌について文学的な研究をしていた。氏は讃美
歌に関わる文献を自ら渉猟・所蔵され、その研究成果を著書「讃美歌研究」の中で発表してい
る。
 
 それによると、1859年に日本にプロテスタント教が伝来した後、1874年(明治7年)にはす
でに数種の讃美歌集が出版していたとのことである。その当時讃美歌集を出版するに当たっ
ての難題が二つあったとのことだ。

 その一つは、当時はまだ耶蘇教禁止・嫌悪の時代であって、キリスト教関係の書類の上梓は
まだ一種の犯罪行為とみなされ、木版彫刻者の協力を得ることが至難であった。幸いに版木
が出来ても、出版者氏名も、はなはだしい場合は書名・題名すらないものがあるといった有様
であったという。

 他の一つは、キリスト教に接した当時の識者は、讃美歌合唱を歌舞音曲と見なし、はしたな
いすさびと見なして、自ら筆をとって讃美歌を訳し、作詞し、歌うことを嫌ったことである。

 忍耐強い米英宣教師たちは、滞在すること10数年にして、讃美歌集を発行する運びとなっ
たのだが、日本語への翻訳には、来日した宣教師が日本語を習い覚えた後、自ら翻訳した讃
美歌の歌詞が数多く見られた。

 それらの讃美歌は、文学的にはもちろんのこと、日本語としても拙い訳の讃美歌が見られ
た。斉藤氏によれば、米英宣教師の訳による讃美歌は笑止千万であるが、その失敗は訳語
の貧弱愚劣が、何よりも大きな原因であるとのことだ。

 その一例として、冒頭に掲載した英語賛美歌は日本語讃美歌集の第461番(主われを愛
す)であるが、明治5年に初めて日本語に翻訳された当時の歌詞は、次の通りであった。

          エスわれを愛す、   左様聖書申す
          愛すれば子たち、   弱いも強い
             はい、エス愛す、   はい、エス愛す
             はい、エス愛す、   左様聖書申す。

 この讃美歌はこの後数回の改訂の後、明治36年(1903年)に次のように改訂出版され、こ
の訳が現在までに引き継がれ、歌われている。

          主われを愛す     主は強ければ
          われ弱くとも      恐れはあらじ
             わが主エス      わが主エス
             わが主エス      われを愛す

  我が国における讃美歌の発祥から現行「讃美歌」の出版に至るまで、すなわち明治7年か
ら昭和29年までの80年間の間に、日本語讃美歌は驚くべき進歩を遂げた。その成長ぶりは
小学生が中年の紳士になったどころではないと、斉藤氏は感嘆しておられる。
(以上、村野四郎氏のHP「花と詩と音楽と」より)

●松永信

検索の結果、情報なし。

●祖父江登

検索の結果、情報なし

●柳沢健

柳沢健(やなぎさわ・けん)、作詞家、福島県出身。明治22年(1889年)11月3日生、。昭和2
8年(1953年)5月29日没

 会津若松市に生を受けた詩人、外交官。柳沢家は旧・会津藩士の家系。祖父も父も教育者
だったこともあり、健は一高から東京帝国大学仏法科と進む高い教育を受けた。

 33歳の時(大正11年)、外務省事務次官に任命され、13年からは外交官として、フランス、
スウェーデン、メキシコなどに赴任した。

 文学者としては会津中学に在籍していた頃から、短歌や評論などを発表し、大学在学時にま
とめた詩集、『果樹園』が処女出版となる。

島崎藤村、三木露風に師事し、作品集としては訳詩集『現代仏蘭西詩集』『柳沢健詩集』、随
筆集『三鞭酒の泡』や、評論集『現代の詩及び詩人』、ヨーロッパ紀行をまとめたベスト・セラー
『南欧遊記』などがある。

 故郷の会津ではたくさんの校歌の作詞をしたことでも知られ、詞を提供した学校は、計26校
に上るという。
(HP「d−score」より)

 まだほかにもあるが、この写真に写っている22人の中には、松永信や、祖父江登のように、
現在において、ほとんど知られていない人もいるようだ。が、私は調べていくうちに、こうした無
名というか、ほとんど知られていない人のほうにこそ、心がひかれた。

 どこがどうちがって、有名な人は、有名な人になり、そうでない人は、そうでない人になったの
か。

 おそらく当時においては、何か、大きな志(こころざし)をもっていた人たちであるにちがいな
い。そして彼らは彼らなりに、懸命に努力したにちがいない。しかし有名になるとか、ならないと
かいうことは、ほんの紙一重のちがいでしかない。才能や努力という点では、それほどちがっ
ていたわけではない。

 しかしその紙一重のところで、有名な人は、有名な人になり、そうでない人は、ほとんど記録
らしい記録も残さないまま、この世から消えていく……。

 が、だからといって、有名になることがつまらないとか、無意味だとか、そういうことを言ってい
るのではない。むしろ私が言いたいのは、その反対で、有名にならなかったからといって、その
人の人生が無意味だったということにはならないということ。

 辛らつな言い方をすれば、一枚の写真の中に入ってしまえば、どの人も同じ。もっとわかりや
すく言えば、人も、死んでしまえば、どの人も同じ。みんな黄ばんだ、セピアカラーの写真の中
に入ってしまう。どれが北原白秋で、どれが渡辺信であるか、写真の中で区別するほうが、お
かしい。また区別したところで、意味はない。まったく、ない。

 私はこのところ、ヒマさえあれば、その写真ばかり見ている。そしてその写真を見ながら、こう
思う。

 私もやがてその写真に写っている人物たちのように、消えていくのだろう、と。いくら「私は、
私」「あなたは、あなた」と叫んだところで、死ねば無数の人たちと混ざりあって、そのまま消え
ていく。つまり「私」という人間が、あたかも心の中のブラックホールに吸いこまれいくように、ど
んどんと萎縮し、小さくなっていく。

 そしてそれが極限になったとき、ここで二つの考え方に分かれることがわかる。

(1)そのまま、虚無主義に陥るという考え方。
(2)ブラックホールが爆発して、また別の宇宙を作るという考え方。

 私は今まで、ここでいう(2)の考え方をしてきた。基本的には、今も、そうである。そうではあ
るが、何というか、人生そのものがもつわびしさも、このところ強く感ずるようになった。ふと油
断すると、その虚無主義に、ふと、心をひかれる。

 その一枚のセピアカラーの写真は、強烈に私を刺激した。

【補足】

 運、不運という言葉がある。私は、芥川龍之介が芥川龍之介になり、北原白秋が北原白秋
になったのは、あくまでも「運」だと思う。しかしその「運」というのは、決して、神がつくるもので
も、あるいはもちろん神秘的な力が働いて、決まるものでもない。

 ただその人の努力かというと、そうでもないような気がする。努力だけでは、運はやってこな
い。世の中には、たいへんな努力をしながらも、社会の底辺でもがき苦しんでいる人は、いくら
でもいる。が、その一方で、たいした努力もしていないのに、時流に乗り、幸運をつかんだ人
も、いくらでもいる。

 おかしな言い方だが、ここに書いた松永信や祖父江登が、なぜ松永信や祖父江昇になった
か。私はそちらのほうに、より強く興味をそそられる。

(今日の私は、少し暗いかな……?)(06−09−13記)

++++++++++++++++++

話は少し脱線しますが、これを書いていたとき
以前、書いた原稿を思い出しましたので、
それをここに添付します。

++++++++++++++++++

【生きるって、どんなことだろう?】

++++++++++++++++++

生きるということは、むなしいのか。
しかしだれも、そうであってはいけないと
思っている。

目の前には、明るい太陽が、さんさんと
輝いているではないか。

私たちは、その太陽に向かって、
まっすぐ前に進まねばならない。

決して、夜の闇を人生と思ってはいけない。

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●30年、一世代


 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。ちょうど30年で、一世
代を繰りかえすことから、そういう字を使うようになったという。

 たとえば30年後、あなたの子どもは、あなたの年齢になり、あなたの子どもと同じ年齢の子
どもをもつようになる。反対に30年前には、あなたの両親が、今のあなたの年齢で、あなたは
今のあなたの子どもの年齢だった……。

 しかし私は、この30年という数字を、別の意味で、とらえている。

 私もこの浜松市に住むようになって、今年で、33年になる。ちょうど一世代分、この町で生き
たことになる。先日もそのことについて、ワイフと、こんな話をした。

 「この30年間で、ぼくたちのまわりは、すっかり変ったね」と。

 そう、この30年間で、大きく変わった。小さな店を経営していた商店主が、全国規模の大会
社の社長になったというようなケースがある一方で、浜松市でも一、二を争っていた資産家が、
落ちぶれて、見る影もなくなってしまったというようなケースもある。

 まさに栄枯盛衰。仏教的無常観を借りるなら、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
※』(平家物語)ということになる。

 で、そういう世間を見ながら、かろうじてふんばっている我が身を知り、「こんな自分も、いつ
までつづくのか?」と、ふと、思う。

 ただ、だからといって、生きていることが、虚しいとか、そういうことを言っているのではない。
成功した人がどうとか、失敗した人がどうとか言っているのではない。人は、人それぞれだし、
私は私だ。

 が、30年も生きてみると、世の移り変わりというものが、実感として、自分の心の中でわかる
ようになる。そしてふと立ち止まったようなとき、「あのときの、あの人は何だったのかなあ」と、
思う。

 しかしそれは、そのまま私自身の未来の姿でもある。いつかだれかが、ふと、私のことを思い
出しながら、「はやし浩司って、何だったのかなあ」と思うかもしれない。何もかもあいまいな世
界だが、はっきりしていることもある。

それは、つぎの30年後には、私はこの世から消えていなくなっているということ。ワイフの父親
も、もう死んでいるし、私の父親も死んでいる。それと同じになる。

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。

 今、つくづくと、「なるほどなア」と思う。

++++++++++++++++

※祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂(つい)には滅びぬ
偏に風の前の塵(ちり)に同じ

+++++++++++++++

【追記】

●四法印

 私の先祖がまつってある墓地の入り口に、正方形の石碑が建っている。そしてその四面に
は、(1)諸行無常(しょぎょうむじょう)、(2)一切行苦(いっさいぎょうく)、(3)諸法無我(しょほ
うむが)、(4)涅槃寂静(ねはんじゃくせい)の、文字が刻んである。

 これを仏教の世界では、「四法印」と呼んでいる。つまり、この四法印こそが、仏教の教義の
根幹と思えばよい。

 つまり、この世の中のすべてのものは、流転して定まることはない(=諸行無常)。そして生き
ることには、困苦はつきもの。困苦のない人生など、ありえない(=一切行苦)。またあらゆるも
のは、いわば幻想のようなもの。もっと言えば、「空」。つまり実体のあるものは、何ひとつない
(=諸法無我)。で、最後に、すべての欲望から解放されたとき、人は、はじめて心の静寂を自
分のものにすることができる(=涅槃寂静)と。

 釈迦のこうした教えの基盤にあるのは、「救済」と考えてよいのでは……? つまり今、苦しん
でいる人を、どう救うかということ。そのため、釈迦仏教というと、どこか、暗い。この四法印に
ついても、そうだ。

 かつて、これについて書いた原稿があるので、ここに転載する。今から、3、4年前に書いた
原稿である。

++++++++++++++++++

●30年、一世代

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。ちょうど30年で、一世
代を繰りかえすことから、そういう字を使うようになったという。

 たとえば30年後、あなたの子どもは、あなたの年齢になり、あなたの子どもと同じ年齢の子
どもをもつようになる。反対に30年前には、あなたの両親が、今のあなたの年齢で、あなたは
今のあなたの子どもの年齢だった……。

 しかし私は、この30年という数字を、別の意味で、とらえている。

 私もこの浜松市に住むようになって、今年で、33年になる。ちょうど一世代分、この町で生き
たことになる。先日もそのことについて、ワイフと、こんな話をした。

 「この30年間で、ぼくたちのまわりは、すっかり変ったね」と。

 そう、この30年間で、大きく変わった。小さな店を経営していた商店主が、全国規模の大会
社の社長になったというようなケースがある一方で、浜松市でも一、二を争っていた資産家が、
落ちぶれて、見る影もなくなってしまったというようなケースもある。

 まさに栄枯盛衰。仏教的無常観を借りるなら、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
※』(平家物語)ということになる。

 で、そういう世間を見ながら、かろうじてふんばっている我が身を知り、「こんな自分も、いつ
までつづくのか?」と、ふと、思う。

 ただ、だからといって、生きていることが、虚(むな)しいとか、そういうことを言っているのでは
ない。成功した人がどうとか、失敗した人がどうとか言っているのではない。人は、人それぞれ
だし、私は私だ。

 が、30年も生きてみると、世の移り変わりというものが、実感として、自分の心の中でわかる
ようになる。そしてふと立ち止まったようなとき、「あのときの、あの人は何だったのかなあ」と、
思う。

 しかしそれは、そのまま私自身の未来の姿でもある。いつかだれかが、ふと、私のことを思い
出しながら、「はやし浩司って、何だったのかなあ」と思うかもしれない。何もかもあいまいな世
界だが、はっきりしていることもある。

それは、つぎの30年後には、私はこの世から消えていなくなっているということ。ワイフの父親
も、もう死んでいるし、私の父親も死んでいる。それと同じになる。

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。

 今、つくづくと、「なるほどなア」と思う。

【補記】

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂(つい)には滅びぬ
偏に風の前の塵(ちり)に同じ

+++++++++++++++

【追記】

 仏教的無常観……つまり、何をしてもムダ、何をしても意味がない、という無常観は、正しくな
い。当時は、そういう世相であったかもしれないが、それをそのまま受け入れると、たいへんな
ことになる。まさに(生きること)を、否定してしまうことになりかねない。

 私はこのことを、中学生のときに、感じたことがある。

 私は、中学生のころ、自分で空を飛んでみたかった。それ以前からそうだったが、毎日、どう
すれば、自分で空を飛べるか、そればかりを考えていた。

 小学4年生くらいのときには、板を切って、翼(はね)を作ったこともある。で、あれこれいろい
ろ実験を繰りかえしていた。一度は、それを背中につけて、一階の屋根の上から、飛び降りた
こともある。

……というより、そんなわけで、中学生になるころには、飛行機が飛ぶ原理を、ほぼ完ぺきに
近いほど、知りつくしていた。

 そんな中、一人、たいへん冷めた男がいた。いつも私がすることを、遠巻きにして、ニヤニヤ
と笑って見ているような男だった。今、ここで具体的にどんなことがあったかを、書くことはでき
ない。よく覚えていない。しかしその冷めた目つきだけは、今でも忘れない。

 軽蔑の眼(まなこ)というか、いつもそういう眼で、私を見ていた。

 つまり自分では、何もしないで、他人のすることを、あれこれ、批判、批評ばかりしていた。
「そんなことしても、ムダだ」とか、「意味がない」とか。

 仏教的無常観というのは、それに似ている。仏教的無常観を信ずる人は、その人の勝手だ
が、しかしだからといって、この世の中で、懸命に生きている人を否定するための道具に、そ
れを使ってはいけない。

 先日も、こんなことを言った人(男性、60歳くらい)がいた。

 「林君、どうせ有名になっても、意味はないよね。死んで10年もすれば、たいてい忘れられ
る。総理大臣だって、そうだ。今の若い人は、30年前の総理大臣の名前すら、覚えていないだ
ろ」と。

 たしかにそうだが、しかしだからといって、懸命に生きること、それを否定しては、いけない。
ちなみにその人は、どこからどう見ても、ただの平凡な男だった。

 仏教的無常観をもつ人は、どこか、独特の優越感を覚えることが多い。「冷めた考え方」とい
うのは、そういう考え方をいう。

 失敗してもようではないか。つまずいてもよいではないか。有名になれなくてもよいではない
か。大切なことは、その人が、いかに充実した人生を、満足に送ることができるか、だ。

 仏教にも、いろいろな側面がある。しかし私は、仏教がもつ、(あるいは宗教全般がそうかも
しれないが)、現世逃避的なものの考え方には、どうしても、ついていけない。ここでいう仏教的
無常観も、その一つである。

 私なら、平家物語を、こう書く。

++++++++++++++++++

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
夢と希望の、明るい音色。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
我らが目的は、失敗にめげず、前に進むこと
懸命に生きる、人の美しさ
未来に向かって、ひたすら生きる
その命、人から人へと、永遠につづく
そこに、人が生きる意味がある。価値がある。

+++++++++++++++++++++++

 しかし仏教というと、どうしてこうまで考え方が、うしろ向きなのだろうか。これはあくまでも私
の印象で、こういう私の意見に猛反発する人もいるかもしれない。しかしさんさんと明るく輝く、
太陽のようなぬくもりはない。

 どこか、線香臭く、どこか、湿っぽい。本当は、そうではないのかもしれない。たとえば、「あの
世」についても、原始仏教の中では、つぎのように説いている。

+++++++++++++++++++++++

●あの世論

 あの世はあるのだろうか。それともないのだろうか。釈迦は『ダンマパダ』(原始経典のひと
つ、漢訳では「法句経」)の中で、つぎのように述べている。

 「あの世はあると思えばあるし、ないと思えばない」と。

わかりやく言えば、「ない」と。「あの世があるのは、仏教の常識ではないか」と思う人がいるか
もしれないが、そうした常識は、釈迦が死んだあと、数百年あるいはそれ以上の年月を経てか
らつくられた常識と考えてよい。もっとはっきり言えば、ヒンズー教の教えとブレンドされてしまっ
た。そうした例は、無数にある。

 たとえば皆さんも、日本の真言密教の僧侶たちが、祭壇を前に、大きな木を燃やし、護摩(ご
ま)をたいているのを見たことがあると思う。あれなどはまさにヒンズー教の儀式であって、それ
以外の何ものでもない。

むしろ釈迦自身は、「そういうことをするな」と教えている。(「バラモンよ、木片をたいて、清浄
になれると思ってはならない。なぜならこれは外面的なことであるから」(パーリ原典教会本「サ
ニュッタ・ニカーヤ」)と。

++++++++++++++++++

●なぜ生きるかについて

 ではなぜ、私たちは生きるか、また生きる目的は何かということになる。釈迦はつぎのように
述べている。

 「つとめ励むのは、不死の境地である。怠りなまけるのは、死の足跡である。つとめ励む人は
死ぬことがない。怠りなまける人は、つねに死んでいる」(四・一)と述べた上、「素行が悪く、心
が乱れて一〇〇年生きるよりは、つねに清らかで徳行のある人が一日生きるほうがすぐれて
いる。愚かに迷い、心の乱れている人が、一〇〇年生きるよりは、つねに明らかな智慧あり思
い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。怠りなまけて、気力もなく一〇〇年生きるより
は、しっかりとつとめ励む人が一日生きるほうがすぐれている」(二四・三〜五)(中村元訳)と。

 要するに真理を求めて、懸命に生きろということになる。言いかえると、懸命に生きることは
美しい。しかしそうでない人は、そうでない。こうした生き方の差は、一〇年、二〇年ではわから
ないが、しかし人生も晩年になると、はっきりとしてくる。

 先日も、ある知人と、三〇年ぶりに会った。が、なつかしいはずなのに、そのなつかしさが、
どこにもない。会話をしてもかみ合わないばかりか、砂をかむような味気なさすら覚えた。話を
聞くと、その知人はこう言った。「土日は、たいていパチンコか釣り。読む新聞はスポーツ新聞
だけ」と。こういう人生からは何も生まれない。

++++++++++++++++++++++

 少しきびしいことを書いてしまったが、仏教も、ほんの少しだけ視点を変えると、明るさがまし
てくるのではないか。またそれが本来の仏教ではないのか。「どうやって心安らかに死ぬか」と
いうのではなく、「どうやって明るく、前向きに生きるか」。それを教えているのが仏教だと、私は
思っているが……。

 この先は、またゆっくりと考えてみたい。少し、疲れた。
(05年9月24日)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1523)

●グループ・ホーム

++++++++++++++++++

今日、近くの寿司屋で、グループ・ホームの
一行と、いっしょになった。

食事をしているときは、気がつかなかったが、
7、8人、全員、車椅子に乗った老人だった。

ワイフが勘定をすます間、私は、ずっと、
その老人たちが、マイクロバスに乗り込む
のを、見ていた。

++++++++++++++++++

 講演の帰り、駅まで迎えにきてくれたワイフと、近くの寿司屋で食事をした。いつもになく、に
ぎやかな雰囲気だった。見ると、何組かのグループに分かれて、7、8人の老人たちが、向こう
側の席で寿司を食べていた。

 その中の1人の老人の誕生日を祝っているといったふうだった。その老人だけが、花束を手
にかかえ、始終、うれしそうに笑っていた。

 で、帰るとき、それまでは気がつかなかったが、ふと見ると、全員、それぞれが、車椅子に乗
っているのがわかった。付き添いの介護士が、忙しそうに動き回りながら、老人たちの世話を
していた。

ワイフは勘定をすませていた。私は玄関先に立ち、老人たちがマイクロバスに乗りこんでいくと
ころを、ぼんやりと見ていた。マイクロバスには、「IRグループ・ホーム」という名前が書いてあ
った。

 どの老人も、しっかりとした身だしなみをしていた。裕福そうな感じがした。温厚な顔立ちをし
た人、理知的な顔立ちをした人、上品な感じのする人などなど。認知症を感じさせるような老人
はいなかった。

 「ああいう人たちも、かつては、自分の時代があっただろうに」と思った。「それなりの地位も
あり、それなりに活躍した人もいるだろうに」と、つぎにそう思った。が、しかし今は、自由に歩く
ことさえ、ままならない……。 

 ここで「明日は、わが身……」と書いてしまえば、ここで話は終わってしまう。それ以上、何も
書くことはない。しかし私は、そのときも、そう思った。「明日は、わが身……」と。「ああはなりた
くない」とは思ったが、私も、いつかは、そうなる。確実に、そうなる。

 もっともグループ・ホームに入れる人たちは、それなりに恵まれている人たちだ。グループ・ホ
ームでは、自活できることが、入居のためのひとつの条件になっている。それに入居費も、安く
ない。個人負担として、毎月12〜3万円プラス小遣い程度の費用がかかる。

 単純に計算すれば、年に156万円。10年で、1560万円の費用。こうしてすぐ計算するのは
正しくないかもしれないが、「この世は、すべて金次第?」。お金がなければ、グループ・ホーム
に入ることさえ、できない。

 何ともさみしい世界だが、しかしこれが現実である。だれも逃れることができない、現実であ
る。

 しかし……。しかし……。そんな人生に、どれほどの意味があるというのか。ただ生きながら
えるだけの人生に、どれほどの意味があるというのか。それがわかりながら、自分で死ぬこと
もできず、その日、その日を生きていく……。

 ふと暗い気分になっていたところへ、ワイフが話しかけてきた。「今のうちに、うんと、遊んでお
かなきゃア」と。

 明るい、どこかノー天気な声だった。

私「お前には、デリカシーというものが、ないのか?」
ワ「そのときは、そのときでしょ」
私「そうだな……」と。

 車に乗りこむと同時に、その老人たちのことは、忘れた。ただ一言、ワイフは、こう言った。
「今度の日曜日も、どこかへ行かない?」と。私は「うん」と返事をした。「今度は、伊豆方面が
いい」と。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●MTさんからのメール(上海より)

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MTさんより、メールが届いた。
まだ掲載の許可を求めて
いないが、多分、了解してもらえる
と思う。
(9月13日)

+++++

MTさん、こんにちは!
お元気そうで、何よりです。

勝手に掲載して、ごめんなさい!

+++++++++++++++++

【MTさんより、はやし浩司へ】

林先生
   
  お久しぶりです。日本は、すっかり、秋のようですね。

  上海は、例年なら10月半ばまで、夏なのに、今年は5日ほど前から急に涼しく、(…というよ
り寒く)なってしまいました。今年は、もう、このまま秋に突入するようです。
   
  パソコンの調子が悪く、ここしばらく使えない状態でした。
  やっと、本日復旧しました。
   
  もうじき、こちらに来て、一か月がたとうとしています。

  このところ、バスを利用しています。大体の区間は2元(約30円)。少し遠いところだと3元
(約45円)で利用できるますので、タクシー(初乗り11元)より、ずっと得です。ただ、時間はか
かります。バス路線も900本以上あるので、よくしらべて乗らないと、とんでもないところに連れ
て行かれてしまいます。
   
  近所に市場があるので、そこも利用するようになりました。20元くらいも買い物をすると、運
ぶのが大変なくらい、やさい、果物が買えます。ただ、鶏市場が横に併設されているので、そ
れが心配です。

  基本的には、上海では、市場に、鶏など家畜の売り場は置いてはいけないことになっている
そうなのですが…。
   
  今のところ、大きなトラブルにも巻き込まれず、いやな思いもせずに過ごしています。言葉が
分からないから、何かいやなことを言われたとしてもわからないのですけどね。

  こちらの人たちは、エネルギッシュです。表情豊かです。愛想はないけれど、激しく言い合い
をしたり、楽しそうに笑いあっている姿を、よく見かけます。
   
  若い人たちは、おしゃれな人が多いです。上海女性は、昔から「上海美人」と、見目麗(うる
わ)しい人が多いようです。スタイルもいいです。日本の若い女性たちに見せたいくらい。細け
ればいいというものじゃない!姿勢もいいですしね。

  若い男の子たちも、スタイル良く、さっそうとしています。

  私が住んでいる地区は、中心地ではないので、まだ、おしゃれな人は少ないですが、中心地
に行くと、素敵なファッションの人ばかりとか…。
   
  こちらの子供たちの教育水準は高いです。聞いた話ですが、ローカルの幼稚園では、年長ク
ラスになれば、算数や国語のお勉強を始めるし、年中でも、囲碁などの頭を使うゲームをさせ
るようです。小学2年生の算数の問題集を見たら(中国の子供用)もう、割り算をやっていま
す。

  小学校に入学して3日もすると、毎日、宿題の山を抱えて帰ってくるとか。

  こちらで知り合いになった日本人(夫)、上海人(妻)の間に生まれたお嬢さんは、いま、日本
人学校に通っていますが、遊べるのは日曜日の午後だけだそうです。

  平日は習い事がびっしり。

  土曜日でも、朝7時から個人教授をしてくれる先生のお宅へ行き、その後、スイミングスクー
ル、ピアノのレッスン。ほかの曜日にはいったい何を習いに行っているのでしょうか?

  日本人のお母さんたちも、危機感は強く、こちらでも小学校3年生になったら予備校へ行か
せるのは当たり前。(もちろん、行っていないお子さんもいます。)予備校へ行くために、今から
中国元で貯金しないとなりません。
   
  先生がおっしゃっていた通り、時間が経つにつれて、感受性が鈍くなってきますね。におい
や、乱暴な運転や、ルーズなところには慣れてきました。

  ただ、今でも思うのですが、中国で?、と感じることがあるのです。実は3年ほど前、主人の
友人(香港人)の結婚式で、上海を訪れました。そのときにも感じたこと。うまく、説明できない
のですが…。

  香港人の彼(A)と北京人の彼女(B)は共に、アメリカ留学経験者。二人ともプリンストン出で
す。中国の大学も出ています。実業家の父をもつAと、研究者の父を持つB。

Dは上海で会社を経営し、成功しています。結婚式は、上海の外資系の5ツ星ホテルで、ガー
デン形式で行われました。

式にはEU、アメリカ、香港、日本、世界各地から友人が集まり、美男美女のカップルで、まる
で映画を見ているようなすばらしい式でした。

  でも、ふと、庭の片隅に目をやると、ごみがところどころ散らかっていたり、お手洗いの近くに
は、不用な家具類が乱雑に重ねてあったりしていました。日本人の感覚にすると、「?」となっ
てしまうのです。

  こういったものなの?と。

  今回は、そんな豪華なところに足を踏み入れていないのですが、来たばかりのころは、毎
朝、よく感じていた…?。

  住んでいるマンションは、こちらの平均的なサラリーマンから見れば、かなり、高級なマンショ
ンです。マンションの周りには毎朝、お迎えの車がやってきます。日本人駐在員を迎えに来る
一般大衆車もあれば、BMW、AUDIといった高級車もかなりあります。私がこんなところに住
んでいるのって、…おかしい?と、思ってしまうのですが、こういった?は、どういったことなので
しょうか?
  
また、とりとめのないことばかりで、申し訳ないです。
   
(上海・MTより)

【はやし浩司よりMTさんへ】

 自分がもっている(意識)というか、(常識)をひっくりかえしてみるためには、外国へ出かける
のが一番、ですね。が、旅行者の立場では、いけません。その国に住んで、その国の人とし
て、生活をしてみることです。

 しかもその時期は、若ければ若いほど、よい。仮に30歳も過ぎると、それを感じ取るセンサ
ーそのものが、鈍ってしまいます。40歳や、50歳では、センサーそのものが、機能しなくなりま
す。時期的には、多感な、18〜23、4歳までがよいのではないでしょうか。

 そのころ、その人がもつ(意識)なり、(常識)が、かたまってきます。

 私がオーストラリアへ行ったころは、日本も貧しく、たいへんでした。日本〜シドニー間の航空
運賃だけでも、42、3万円でした。大卒の初任給が、やっと5万円から6万円になったという時
代です。

 現在の感覚にすると、160〜180万円(!)ということになりますね。ゾーッ!

 で、そのオーストラリアでは、見るもの、聞くもの、すべてが珍しかったです。日本にはまだ、
綿棒も乾燥機もない時代でした。おかしなことですが、向こうの学生たちが、ブルーやグリーン
のボールペンで、ノートにメモを取っているのを見ただけで、驚いたことがあります。

 カラーの文字で、ノートをとることすら、当時の日本では考えられなかったことでした。「文字
は、黒」(?)と決まっていましたから……。

 こうして私がもっている(意識)や(常識)は、ことごとくひっくかえされたというわけです。

 つまり私たちが今、「ああ、これが日本だ」と、当たり前のように考えていることにしても、ほん
の30年前、50年前には、考えられなかったことも多いということです。そういう意味では、日本
は、本当に変わりました。(日本だけに住んでいる人には、それがわからないかもしれません
が……。)

 そのころのエピソードは、「世にも不思議な留学記」(HP)で書きましたので、また機会があれ
ば、読んでみてください。

 で、中国ですが、その中国も、大きく変わりつつあるようですね。が、ここで注意しなければな
らないことは、(外観の変化)と、(意識や常識の変化)は、区別しなければならないということで
す。

 外観の変化だけを見て、「中国も西欧化したな」とみるのは、まちがいのもとです。そのこと
は、日本の社会を見れば、わかります。日本の地方に出かけていくと、見た目には、都会とそ
れほどちがった生活をしていないのに、中身は戦前のままということは、よく感じます。

 それがよいのか悪いのかという判断は、ここではしませんが、中国もそうだろうと思います。
中国が本当に変わるためには、中国人自身が、外国へ出て、そこで生活をしてみなければな
りません。

 が、ここで大きな問題にぶつかります。いわゆる「中華思想」というのが、それです。独特の
優越感、独善性、自己中心性。それをまとめて「中華思想」といいます。

私が学生時代のころは、中国人というのは、どこへ行っても、中国人。その国に同化しないこと
でよく知られていました。たとえばマレーシアン・チャイニーズは、2代目、3代目になっても、中
国語を話していました。

 今も、そうでしょうか? 「自分たちこそ、アジアの盟主」という意識が強いのですね。(たしか
にそのとおりですが……。何と言っても、歴史がちがいます。華僑にしても、遠くはアフリカ大陸
まで進出し、そこであのチャイナタウンを作っていましたから……。)

 いつもながら、外国で生活をしているみなさんからメールをもらうたびに、ふと、後悔の念に
襲われます。私は20代のころ、毎月のように、世界中を飛び歩いていました。そんな私です
が、飛行機事故に遭遇してからは、飛行機恐怖症になってしまい、飛行機に乗れなくなってし
まいました。

 いや、何とか飛行機には乗れるのですが、その前後に、おかしな緊張感で、体がこわばって
しまうのです。外国に行っても、そこで不眠症に悩まされます。しかし私は、外国にいたほうが、
楽しい。本音を言えば、そうです。

 何かとたいへんな面もあるでしょうが、今の経験をどうか前向きに生かして、何かをつかんで
帰ってきてください。プラス、お体を大切に!

 そうそう中国の教育レベルの高さ(?)は、こちらでもよく報道されています。が、本当のとこ
ろ、そういうのを、「高い」とは言いません。たとえば小学2年生で割り算をしているからといっ
て、「高い」ということにはなりません。

 それにあてている時間数、それができる子どもの割合などを見ていかないと、最終的な判断
は、できません。また計算力と、(考える力)とは、基本的な部分で、異質なものです。私の教室
にも、中国から来た親がいて、さかんに「日本の教育のレベルは低い」とこぼしています。「中
国では、小学1年で、掛け算をする」とか、何とか……。

 そういうことを聞くたびに、「そういうものではないのだけれどなあ……」と私は、思ってしまい
ます。(たしかに日本の教育レベルは、このところ低下していますが……。)

それはたとえて言うなら、足の踏み場もないほど、電気製品がころがっている家を見ながら、
「生活水準が高い」と言うのに似ています。ものの見方というか、教育に対する考え方そのもの
が、国によって、ちがいます。

 つまりそれが冒頭に書いた、(意識)であり、(常識)ということになります。

 どうか、また上海の事情について、教えてください。頭の中でバチバチと火花が飛び散るのを
感ずるのは、とても楽しいことです。そういう話は、大好きです。(飢えています!)

 こちらも、秋です。秋雨前線の最中にあり、この雨が終わると、本格的な秋到来です。では、
今日は、これで失礼します。(9月14日記)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【掲示板への投稿記事より……】

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昨日(9月13日)の講演について、
掲示板のほうに、Yさんという方から
書き込みがありました。

うれしかったので、報告します。

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はやし先生、今日は、豊田町での講演会に参加させていただきました。
あっという間の2時間で、自分の子育てを振り返るいい機会になりました。改めて、
お礼を申し上げたいと思い、投稿しました。

いろいろなお話が印象に残っているのですが、特に、共感したのは、次男の方のお話
でした。私の長女も、小さい時に難病にかかり、死にかけたので、「生きていてくれたら
それでいい」という気持ちは、本当に同感でした。

私は、長女が死に直面していたとき、本当にどうしたらよいのかわかりませんでした。
代わってあげられるのなら、いくらでも代わってあげるのですが、そうすることもできず、
ただただ見ているだけの自分が情けなく、辛く、本当に子供が目の前で死んでしまったら
どうしたらいいのか・・・こんなことを考えてはいけないと思いながら、考えてしまい、
毎日、何とか泣かずに耐えていました。

ある時、ふっと、「そうだ、この子がひとりで死んでいくのが、そんなにかわいそうなら、
私もついていって、一緒に死ねばいいんだ」と思ったら、すごく気が楽になりました。子供が、一
人っ子だったから、こんな風に思えたのでしょうね。

幸い、長女は難病を克服し、今では、病気だったことがうそのようです。私も、3人の子供の母
となりました。

私は、「自分の死」より怖い「子供の死」に直面し、「自分の死」は、ある意味で平気になりまし
た。・・・平気は、言いすぎですが・・・。

大きくなった長女に「将来の夢は?」と聞くと、「公務員」という返事が返ってきます。
昔は「コックさん」だったのに、なんて現実的になってしまったのでしょうか・・・。

はやし先生の講演を聞いて、「子供に夢をもってほしい」と思いましたが、まあ、現実的ではあ
りますが、これも「子供の夢」と思い、励ましていってあげたいと思っています。

また、私自身についても、すっかり大人になってしまいましたが、夢や目的を持った人生を送っ
ていけたら・・・、と思います。前向きな気持ちになれる、いい講演でした。

末筆にはなりますが、お体を大切に、これからもがんばっていってほしいと願っております。メ
ルマガも楽しみです。

【Yさんへ、はやし浩司より】

 投稿、ありがとうございました。いつも、「今日の講演が最後」という思いで、講演に臨んでい
ます。私にとっては、真剣勝負の場です。

 しかし終わってみると、いつも後悔ばかり。実は、昨日(9月13日)もそうでした。「2時間」と
いうことで、かなり余裕を感じながら話し始めたのですが、結局は、あちこちを省略しながらの
講演となってしまいました。

 いつだったか、間に15分間ほどの休息を入れて、4時間、話したことがあります。時間的に
はそれくらいほしいです。が、しかし、今では、4時間は、とても無理です。昨日も、1時間ほど
話したところで、スーッと意識が弱くなっていくのを感じました。講演は、まさに体力、気力との
勝負です。

 ほめていただいてうれしいのですが、私のできとしては、60点くらいです。あのようなすばらし
い会場(大ホール)でしたから、もっとよい講演ができたはずと、悔やまれます。

 で、母親と父親のちがいは……と聞かれれば、Yさんのご指摘どおりです。「自分の命すらも
惜しくない」という、まさに至上の愛を感ずることができるのは、またそういう立場に近いのは、
実は、母親のほうなのですね。

 その至上の愛を知っているからこそ、母親は、強い。それが母親と、父親のちがいとなって、
表れてくるわけです。Yさんの書いてくださったことのほうが、私の講演した話より、はるかに中
身が濃い。深い。ホント!

 逆に、私の力の限界を感じてしまいます。

 しかしあの「幼稚園ママさん」が、講演に来てくださったとは! (ハンドル・ネームだけは、よく
覚えています。)ひょっとしたら、以前と同じ話をしてしまったのではないかと、心配になってきま
した。もしそうなら、お許しください。

 しかしすばらしい会場ですね。あの会場(アミューズ豊田・ゆやホール)での講演は、今回で3
度目ですが、本当に話しやすいというか、よくできたホールです。「今度、またあの会場で話す
機会があったら、そのときこそ!」と思っています。つまり「今度こそ、100点満点の講演を」
と。

 ともかくも、講演を聞きにきてくださって、ありがとうございました。マガジンのほうも、どうか、
よろしくお願いします。

 そうそう、講演のあと、控え室で、KさんやYさん(主催者代表)の方が、「本は出さないのです
か」「新聞にはコラムを書かないのですか」と、聞かれてしまいました。

 いろいろ言い訳がましいことを言いましたが、本当は、もう、本も、新聞も、どうでもよくなりま
した。今は、何と言っても、インターネットの時代です。こうして書いた文章にしても、月に、1万
5000人から2万人の人たちが読んでくれます。しかも世界中の人たちが、です。

 私には、こちらのほうが、ずっと楽しいです。少しでも余分なエネルギーがあれば、電子マガ
ジンのほうに傾注しています。

 (電子マガジンのほうでは、単行本に換算して、月に、3〜4冊分の原稿を書いているのです
よ!)

 では、また! 投稿ありがとうございました。うれしかったです。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1524)

●そうだ! 英語で、BLOGを出そう!

+++++++++++++++++

今、ふと、こう思った。考えた。

「そうだ、アメリカで、英語で、
BLOGを出そう!」と。

できるかな。できそう。

やってみよう!

+++++++++++++++++

 上海のMTさんからのメールの返事を書いていたとき、ふと、こう思った。「英語で、しかもアメ
リカで、BLOGを出してみよう」と。

 で、たった今、それができた! 5分もかからなかった。意外と簡単だった。

 ワーオウ!

 アドレスは、

 http://hiroshi-hayashi.blogpost.com/

 意外と簡単だった。自分の顔のイラストも入れてみた。おもしろいね! ホント! これでまた
1つ、自分の世界が広がったような感じ。(広がったぞ!)

 これからはアメリカ人に向かって、直接、訴えていこう。

 居直るわけではないが、(居直っているが……)、英語なんぞ、意味が通ずればよいのだ。ヘ
タクソとか、まちがっているとか、そういうことは関係ない。書いていれば、そのうち、うまくなる
かも?

Hello, my friends in the world as well as in US!

This is my good challenge that I have made up my mind to put my essays in English here-
like in my own blog-site.

You are welcome to visit me anytime and please know a bit more about Japan and 
Education in Japan. I would like appreciating your having an interest in this site, hoping that 
we can exchange our opinions anytime as well.

It is really exciting to write things directly to the world-wide readers like this way.

Hiroshi Hayashi, Japan


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1524)

【今朝・9月15日、あれこれ】

●台風15号

 非常に強い台風、15号が、日本の九州地方をめがけて、目下北上中。気象庁の予報どおり
とするなら、17日から18日にかけて、九州地方に上陸する恐れさえ、出てきた。

 「15号」と言えば、あの「伊勢湾台風」も、15号だった。

伊勢湾台風(いせわんたいふう)……1959年9月26日に紀伊半島に上陸し、東海地方を中
心に、近畿から東海の広範囲で大きな被害を及ぼした台風をいう。私が11歳のときのことで
ある。

死者・行方不明者は5098人、負傷者3万9000人にのぼり、明治以来最大の被害をもたらし
た。ほかに、3000人以上の犠牲者を出した台風として、室戸台風、枕崎台風があり、これら3
つを合わせて、昭和の3大台風という。

 たまたまその台風15号は、私の郷里のM町を直撃した。台風の目に入ったとき、一時的だ
が、青い空が見え、無風状態になったのを、今でもよく覚えている。が、その私といえば、風力
計を回して、遊んでいた。まさかそんな巨大な台風だとは、思っていなかった。

 が、やがて私が住むG県も、家を根こそぎ揺らすような暴風雨圏に入り、窓が吹き飛んでしま
った。少し窓をあけておいたのがまずかった。そのときのはずみで、棚の上の人形ケースが落
ち、私は右足におおけがを負った。そのときの傷は、今でも残っている。

 今度の台風にも、いやな予感がする。このままでは、九州地方に、大きな被害が出るかもし
れない。どうか、どうか、別のところへ行ってほしい。どこかとは言えないが、どうか、別のところ
へ行ってほしい。


●扁桃腺炎

 昨夜、寝る直前になって、あやしげな悪寒。ゾクゾクとした寒気だった。扁桃腺炎である。

 子どものころは、その持病に苦しんだ。が、それが今でもある。ただ子どものころとちがって、
その前兆をうまくとらえることができるようになった。

 で、いつもの、うがい。少し何かを食べて、大量のビタミンCの補給。厚着をしたあと、葛根湯
と頭痛薬。それをのんだ。

 案の定、夜中の2、3時ごろ、発熱と発汗。一度、下着をかえて、また眠りなおす。が、眠った
のかどうか? それがよくわからないまま、午前7時に起床。体の節々がどこか痛い。が、ま
あ、この程度なら、何とか、仕事ができる。

 今日は、10月予定の講演会のレジュメなどを作る日に決めていた。10月は、忙しい。病気
で休んでいるわけには、いかない。


●コタツ

 今度BW教室の一部に、コタツを置くことにした。90x150センチのコタツ、である。前から、
そういう雰囲気で、一度、子どもたちを教えてみたかった。

 で、昨日のクラスで、「コタツを置くよ」と子どもたちに言ったら、みな、歓声をあげて、喜んだ。
ひとり、「BWは、寒いから……」とこぼした子どももいた。

 ワイフは、「みんな、勉強なんかしないで、眠ってしまうんじゃない」と心配している。

 まあ、失敗したときは、そのとき。またもとに戻せばよい。


●依存心

+++++++++++++++++

人間の関係を総じてみれば、
依存する人、依存される人の関係で
できている。

親子の関係も、またしかり。

+++++++++++++++++

 子どもに依存性をもたせることは悪いことだが、一方、親に依存性をもたせることも、あまり
よくない。

 私は、浜松に住むようになってから、すぐ、収入の約半分を、実家に仕送りするようになっ
た。が、感謝(?)されたのは、最初の数か月だけ。それを過ぎると、それが当たり前になって
しまった。

 (だからといって、私の親や家族を責めているのではない。それが当時の、その地方の常識
だった。念のため!)

 さらに、私が27、8歳のときからは、実家での法事の費用など、すべて私が負担するように
なった。このほか、盆暮れに実家に帰るたびに、15〜25万円の現金を置いてくるようになっ
た。これも、感謝(?)されたのは、最初の1、2回だけ。それを過ぎると、これまた、それが当
たり前になってしまった。

 そのあとは、すべてが、その調子。テレビの映りが悪くなると、「テレビが映らん……(何とか
しろ)」、冷蔵庫が壊れると、「ものが腐る……(何とかしろ)」、「ステレオがほしい……(何とか
しろ)」と。

 家業は自転車屋だったが、いつしか、その商品の仕入れ代金まで、私が負担するようになっ
ていた。もちろん、売れたからといって、代金は、1円も返ってこなかった。家の改築費も、全額
負担した。

 当時は、まだそういう時代だった。私はそういう時代に生まれて、そういう意識を、子どものこ
ろから、徹底的に叩きこまれていた。親に孝行するのが、何よりも美徳とされていた時代であ
る。

 で、そういう自分を振り返ってみると、今、こういうことが言える。「子どもに依存性をもたせる
ことは悪いことだが、一方、親に依存性をもたせることも、あまりよくない」と。私のばあいは、
金銭的負担感というよりも、その社会的負担感に、苦しんだ。それなりに、実家の人たちが、
私を評価してくれれば、私も救われただろう。

 しかしそうした私の行為というのは、母以外、だれも知らなかった。兄、姉はもちろん、親類の
だれも、もである。母にしても、そういうことを人に話すのは、「林家の恥」と考えていたようであ
る。

 つまり私は、親に、ベタベタの依存心をつけさせてしまった。そのせいか、父が死んだあとも、
(もちろんそれ以前も)、私の母は、ただの一度も、働いたことはない。周囲の人たちには、「祖
父の代からの財産で、生活している」と、ウソばかりついていた。

 その「私」という存在は、自分の息子たちには、依存心をもたせないように努力してきた。しか
しそれと同じように、親にも、依存心をもたせないように努力すべきだった。年齢も年齢だが、
母にしても、グループ・ホームに入った兄にしても、今でも、「だれかに助けてもらうのが、当た
り前」という生活をしている。

 ……ということで、この依存心というのは、かなりの曲者(くせもの)と考えてよい。一度、それ
が相手にできると、たがいにそれが当たり前という前提で、相手は動き始める。依存する側
は、相手にベタベタに依存する。一方、依存される側は、それを拒絶することもできない。結局
は、応じてしまう。そればかりか、周囲の人たちも、みな、そういう目で見る。

 母に近いところにいる叔父などは、いつも口ぐせのように、こう言っている。「お前も、大学ま
で出してもらったのだから、感謝しな、いかん」とか、「姉(=母)は、いい息子をもって幸せだ。
オレは、何も心配していないからな。(だからちゃんと親のめんどうをみろよ)」と。

 こういう言葉が、真綿のように、つまり(イヤミ)となって、私のクビを、ジワジワとしめる。私は
何も、好きこのんで、実家のめんどうをみているのではない。

 そういう私は、親に、何をしてもらったのだ! 兄に、何をしてもらったのだ! 母などは、私
が子ども時代のアルバムひとつ、私にくれなかった。年に1、2度、菓子のようなものを送ってく
れたことはあるが、それだけ。

 依存関係というのは、そういうのをいう。

 ところで子どもの世界には、ピーターパン・シンドロームというのがある。特徴のひとつが、
「(子どもは、稼いだお金を)、すべて自分のために使ってしまう」というのがある。それを私の
親のようなケースにたとえるなら、キシモジン・シンドロームということになる。(多少ニュアンス
が、ちがうが……。)

 法華経という経本に出てくる、鬼子母神(きしもじん)である。一時、他人の子どもを食い殺し
ながら生きていたという、鬼子母神である。わかりやすく言えば、子どもの犠牲に上に安座する
親をいう。(鬼子母神自身は、自分の子どもの姿が見えなくなったとき、はじめて、それまでの
自分を恥じ、改心するが……。)

 ということで、依存性の問題は、何も、子どもだけの問題ではない。親の問題も、それに含ま
れる。が、まだ、ある。あなた自身は、どうかという問題である。

 ある妻は、毎月の生活費が不足してくると、夫の実家(妻から見れば、義理の両親)のところ
へ行って、お金を無心しているという。言外に、「生活費を補充してくれなければ、離婚する」と
いうことを臭(にお)わせるのだそうだ。一方、実家の両親は、孫たちを手放したくないため、そ
のつど、お金を渡している。

 これも立派な依存心である。

 こういうふうにみていくと、依存関係、被依存関係というのは、あらゆる人間関係に、あること
がわかる。そしてそれが一度できると、その関係が、その時点で、(当たり前)になり、人間関
係をしばりだす。しばるほうも、しばられるほうも、その意識がないままに、だ。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 依存
性 依存関係 依存心 鬼子母神)

+++++++++++++++++

●子どもの依存性

子どもの依存性は、どうやってできるか。一つの例をあげて、考えてみよう。

 たとえば、子どもたちに、学校で使う教科書をもってくるように言ったとする。が、X君(小5)
は、それを忘れた。
 
 そこで私は、「来週は、もっておいでよ」と言いながら、私のもっている教科書を、X君に貸して
あげたとする。X君は、それを使って、学習する。

 が、X君は、そのつぎの週も、教科書を忘れた。「どうしてもってこなかったの?」と聞くと、「今
度は、もってくるから」と。そこで前の週と同じように、私の教科書を貸す。

 つまり、こうしてX君の心の中に、「忘れても、借りればいい」という、依存性が生まれる。これ
を数度繰りかえしていると、X君の心の中から、緊張感が消える。忘れることが、平気になると
いうより、「もってこなければならない」という緊張感そのものが消える。

 こうした依存性というのは、だれにでもある。ふとした油断で、そうなる。そしてだれしも、いつ
も、依存できる人を、そのつど本能的な部分でかぎわけ、その人に依存できるとわかると、そ
の人に依存するようになる。まさに「スキさえ、あれば……」という心理状態になる。

 そんなわけで、人間関係というのは、総じてみれば、無数の保護と、同じく無数の依存の関
係でできている。それが1人の人を中心に、幾重にもからんだクモの巣のようになっている。そ
してそのクモの巣は、別の人と、これまた幾重にもからみあっている。

 つまり同じ人でも、ある場面では、保護的になったり、また別の場面では、依存的になったり
する。ここにあげたX君にしても、忘れ物に対して依存的になっているのは、あくまでも教科書
だけであって、そのほかの部分では、そうでない。

 たとえば私についても、仕事面では、ワイフの世話になることは、めったにない。しかしそんな
私でも、食事のこととなると、全面的にワイフに依存している。洗濯もそうだ。だから私は、依存
性がないとも言えないし、依存性があるとも言えない。

 が、この依存性のこわいところは、その依存する相手によっては、過度に依存し、その人自
身が、自立できなくなってしまうこと。とくに母子関係で、それが起こりやすい。

 ある母親は、自分の息子(小6)が、修学旅行にでかけた夜、それは1泊2日の修学旅行だっ
たが、夜通し、泣きつづけたという。「どうして?」と聞くと、その母親は、恥ずかしげもなく、こう
言った。「あの子は、私がいないと、何もできない子だからです」と。

 そしてそうして泣き明かしたことを、むしろ、誇っているようなところがあった。「私はこれほど
までに息子を愛している」「私こそ親のカガミだ」と。

 つまり母子の依存関係というのは、相互的なもので、子どもだけが一方的に依存性をもつと
いうことはない。その背景には、子どもの依存性に甘い、親側の育児姿勢がある。このタイプ
の母親は、親にベタベタと甘える子どもイコール、いい子と考える傾向が強い。

 そしてさらに、その母親自身も、そのまた親(母親の親たち)と、ベタベタの依存関係にあるこ
とが多い。つまりこうして、依存性は、親から子へと、代々と伝播(でんぱ)しやすい。

 そこで、どいうするか?

 先のX君のケースでは、ある日を境に、いっさい、忘れ物を貸さないという方法で、対処する。
一度、子どもにショックを与える。このショックが、別の緊張感を生む。X君は、その日、何をし
たらよいかわからず、ただモジモジしながら、1時間を過ごす。

 このとき大切なのは、しかったり、こちらが感情的になってはいけないということ。淡々とやり
すごす。ここでX君の中に、恐怖心を与えてしまうと、それこそ、『泣き面(つら)に、ハチ』という
ことになりかねない。

こうしてX君の中から、依存性を消していく。

 総じてみれば、日本人は、よく依存型民族と言われている。ほかの民族とくらべても、保護、
依存の関係を作りやすい。「何とかなる」という考え方は、やがて、「だれかが何とかしてくれる
だろう」という考え方に、変化しやすい。

 そんなことも、心のどこかに置きながら、子どもの依存性を考えるとよい。
(はやし浩司 子どもの依存性 子供の依存性 依存性)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●動機づけ

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田丸先生は、こう言った。

「子どもの心の中に、灯(ひ)をともし、
それを引き出すのが教育だ」と。

よい言葉だ。

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 子どもの学習指導は、動機づけで始まり、動機づけで終わる。あとは、子ども自身の学習意
欲を、うまく、守り育てていく。わかりやすく言えば、「学ぶことは、楽しい」と思わせる。「楽しか
った」という思いが原動力となって、その思いが、子どもを前向きに、ひっぱっていく。

 「生徒の到達度を調査する国際学会」の調査によると、「小学生の理科と中学生の数学では
平均点が、10点ほど下がったほか、「勉強が楽しい」「その科目に自信がある」と答えた割合
は、下から数えて2番目か3番目と、極めて低かった」という(04年末)。

 中学生は世界46か国、小学生は25か国が参加した学力テストの結果である。

 それについて、日本の文科省のN氏は、「なぜ勉強しないといけないのかという動機づけが、
まずできていない。とても世界のトップレベルとは言えない状況にあるということは、きびしく受
け止めなければいけないと思っています」と、コメントを発表している(中日新聞)。

 ここで「動機づけ」という言葉が出てくる。

 たとえば小学4年で、角度の学習をし、つづいて分度器の使い方を学習する。教える側として
は、「角の大きさは……」というような言い方をする。

 しかしその時点で、大半の子どもたちは、ほとんど、反応を示さない。もともと、その必要性が
ないからである。実感もない。子どもたちの心を代弁すると、こうなる。

 「どうして、そんなことを勉強しなければ、いけないのか?」

 そこで話題を変える。

私「先が、とがっているものにさわると、痛いよね」
子どもたち「痛いよ」
私「ここに、いろいろなヤリがあるけど、どれが一番、痛そうかな?」と。

 プリントには、いっぱい、ヤリが描いてある。先のとがったのや、そうでないのがある。その図
を見せながら、子どもに、角度の概念を理解させる。

 中に、たいへん微妙なヤリがある。見た目では、どちらがよりとがっているかわからない。子
どもたちは、「こちらかな?」「いや、こちらだ」と言い出す。しかしそれこそが、教える側のねら
いどころ。

 つまりこうして子どもたちに、問題意識をもってもらう。そしてそれを動機づけにつなげていく。

 まずいのはいきなり、「では角度を測ってみましょう」「分度器の使い方を勉強しましょう」など
という、乱暴な指導。子どもは、その時点で、興味を半減させてしまう。

 なお、こうした動機づけは、1、2年前にしておくとよい。たとえばここでいう「角」にしても、小
学2、3年の段階で、それとなくしておくとよい。これを私は勝手に、「種まき」と呼んでいる。つ
まり頭の中に、種をまいておく。それがやがていつか、花を咲かせる。

 実際には、私は、たとえばサメの絵を子どもたちに見せる。サメの口の中には、いっぱい、と
がった歯が並んでいる。そのサメの口の中を見せながら、「どの歯が、一番、とがっているか
な?」「かまれると、痛そうかな?」と。

 つまり小学2、3年生のときに、「遊び」として、子どもたちに、話しておく。種をまくつもりで、そ
うする。するとその種は、子どもたちの頭の中に残り、1、2年で、大きく成長する。(「1年だか
ら角度は教えなくてもよい」とか、「角度を教えるのは、3年でよい」とか、そういう固定概念にと
らわれる必要はない。)

 そういう例は多い。

 ……ということで、私は私の幼児教室では、こうした無数の動機づけを、そのつど、している。
サメの歯が描いた教材も、その中の一つである。コツは、「教えてやろう」と構えないこと。子ど
もたちといっしょに楽しむつもりで、教えること。それにまさる動機づけは、ない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 はや
し浩司 動機付け どうきづけ 子供の動機付け)

【補足】

 幼児教育は、結局は「動機付け」に始まって、「動機付け」に終わると言っても過言ではない。
「教えてやろう」とか、「知識を身につけさせよう」とか、そういうことは考える必要はない。

 動機付けさえしっかりとしておけば、あとは、子どものほうから、それを求めてくる。「教えて」
とか、「もっと教えて」とか。

 それが「灯をともして、引き出す」ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●劣等感(コンプレックス)

++++++++++++++++++

劣等感は、なぜ生まれるか。
またその劣等感を克服するためには、
どうすればよいか。

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 「こうでありたい」と思う自分。そういう理想の自分を、(希望的自分)と呼ぶことにしよう。しか
したいていのばあい、その(希望的自分)は、(現実の自分)とかけ離れていることが多い。ほと
んどの人が、そうではないか。

 この両者がかけ離れているとき、そのすき間から劣等感が生まれる(フロイト学説)。

 ただ日本語で「コンプレックス」というと、「劣等感」のことと思う人は多い。しかし「コンプレック
ス」というのは、もともとは、「複合体」「合成物」のことをいう(研究社・Approach英和辞典)。
それが転じて、心理学の世界では、「抑えられていて、本人は意識していない異常な行動の原
因となる感情」(同)を意味するようになった。

 コンプレックスというのは、日本語では、「こだわり」と考えると、わかりやすい。そのこだわり
には、いろいろある。

 よく知られているのに、エディプス・コンプレックス、マザー・コンプレックス、ロリータ・コンプレ
ックスなど。カイン・コンプレックスというのもある。兄弟間の確執や、葛藤を、そう呼ぶ。(詳しく
は、私のHPを参考に!)

 たとえばここに1人の女子高校生がいる。彼女は、子どものころから、いつかすてきな王女様
のような女性になって、これまたすてきな王子様のような男性と結婚したいと願っていた。

 それが彼女にとっては、(希望的自分)ということになる。

 しかし現実の彼女は、その王女様とは、かけ離れた存在だった。容姿も、あまりよくなかっ
た。勉強も、スポーツも苦手だった。学校でも、そのため、まったくと言ってよいほど、目だたな
かった。

 こうしてその女子高校生は、容姿に対して、大きな(こだわり)、つまり(コンプレックス)をもつ
ようになった。

 ……というような例は、多い。多かれ少なかれ、こうしたコンプレックスは、だれしももってい
る。

 そこで大切なことは、こうしたコンプレックスを、心の中で、どう消化し、どう昇華していくかとい
うこと。まずいのは、そうしたコンプレックスがあることに気がつかないまま、そのコンプレックス
に、裏から操られることである。

 たとえばマザー・コンプレックスにしても、当の本人は、マザコンでありながら、それに気づくと
いうことは、まずない。一方で、母親を美化しながら、「私がそうであるのは、それだけ私の母
がすばらしいからだ」と、おかしな理由づけをしたりする。こういうのを、「合理化」、あるいは「自
己正当化」という。

 あるいは、こうしたマザー・コンプレックス(ファーザー・コンプレックス)は、親絶対教の基盤に
なることもある。「親は、絶対」という考え方である。

 その人が、母親に大きな(こだわり)をもつのは、その人の勝手だが、そのため、いろいろな
問題が起きることがある。それがやがて周囲に、影響を与えるようになることがある。

たとえばマザコンタイプの男性は、いつも、マドンナ(聖母)的な女性を追い求めるようになると
言われている。そのため、仮に結婚しても、自分の妻に満足できず、夫婦関係が、ギクシャク
しやすい。浮気率も高く、離婚率も高いと言われている。

 それだけ理想の女性を求めて、女から女へと渡り歩く傾向が強いからである。

 そこで重要なことは、こうしたコンプレックス(こだわり)に、まず、自分で気がつくこと。もしあ
なたが、何かのことで、劣等感を強く覚えるようなら、その背後に、どんな(こだわり)があるか
を知る。また、なぜ、そうなのかを知る。

 すべては、ここから始まる。

 そして、あとは、「時の流れ」に身を任す。この問題だけは、根が深い。簡単には、なおらな
い。しかしそれに気がつけば、あとは、時間が解決してくれる。

 ただ誤解してはいけないのは、コンプレックス、イコール、「悪」ではないということ。中には、
そのコンプレックスと戦いながら、そのコンプレックスを昇華させていく人もいる。自分を高めて
いく人がいる。

 芸術家や、作家、スポーツ選手などの中には、そういう人が多い。コンプレックスが一つのバ
ネとなって、その人を伸ばす。大切なことは、コンプレックスがあるということではなく、そのコン
プレックスと、どうやって、うまくつきあうか、である。

 さて、あなたには、どんなコンプレックス(こだわり)があるか? 一度、あなたの心の中を、の
ぞいてみると、おもしろいのでは……?
(はやし浩司 コンプレックス こだわり 劣等感 マザー コンプレックス)

【補記】

 私にも、子どものころ、たくさんの(こだわり)があった。

 まず、「庭」。子どものころ、太陽の日がさしこむような庭がほしかった。そういう庭のある家を
見ると、本当に、うらやましかった。

 つぎに「暖かい家庭」。私の生まれ育った家には、私の居場所すらなかった。

 また、私は、気が小さいくせに、自分より強い男と、けんかばかりしていた。それにも、何か別
のコンプレックスがかかわっていたのかもしれない。今、考えても、よくわからないが……。

 で、こうしたコンプレックスが転じたのだろう。私はお金ができると、すぐ庭つきの家を買っ
た。庭といっても、10坪足らずの庭だったが、私は、そこで、つぎからつぎへと、いろいろな野
菜を作った。それは、今から思うと、それまでのコンプレックスを、一気に、解消するためでは
なかったか。(もちろん無意識のまま、そうした。)

 つぎに「暖かい家庭作り」。しかしこれはあまり、うまくいかなかった。いつも気負いばかりが
先行して、家庭の中は、いつもギクシャクした。そういう意味では、ワイフや息子たちには、苦
労をかけたと思う。(ごめん!)

 ほかにもいろいろなコンプレックスがある。

 つまりは、人は、そうした無数のコンプレックスをかかえながら、そしてほとんどのばあい、無
意識なまま、それに操られて生きているだけなのかもしれない。

 「私は私」と、思いこみながら、である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 コンプ
レックス 劣等感 マザコン マザーコンプレックス エディプス・コンプレックス、マザー・コンプ
レックス、ロリータ・コンプレックス カイン・コンプレックス)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1525)

【より高い人間性を求めて】(1)

++++++++++++++++++

古今東西、実に多くの哲学者たちが、
「どうすればより人間として、
人間らしく生きることができるか」という
テーマについて考えている。

ここでは、マズローの「欲求段階説」を
中心に、それを考えてみたい。

+++++++++++++++++++

 今日も、昨日と同じ。明日も、今日と同じ……というのであれば、私たちは人間として生きるこ
とはできない。

 そこで「より高い人間として生きるためには、どうしたらよいか」。それについて、A・H・マズロ
ーの、「欲求段階説」を参考に、考えてみる。マズローは、戦時中から、戦後にかけて活躍し
た、アメリカを代表する心理学者であった。アメリカの心理学会会長も歴任している。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

 しっかりと、「今」を見ながら、生きていこう。そこにあるのは、「今という現実」だけ。その現実
をしっかりと見つめながら、現実的に生きていこう。

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

 私がここにいて、あなたがそこにいる。私が何であれ、そしてあなたが何であれ、それはそれ
として、あるがままの私を認め、あなたを認めて、生きていこう。

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

 ごく自然に、ごくふつうの人として、当たり前に生きていこう。心と体を解き放ち、自由に生き
ていこう。自由にものを考えながら、生きていこう。

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

 いつも他人の心の中に、自分の視点を置いて、ものを考えるようにしよう。他人とのよりよい
人間関係は、それ自体が、すばらしい財産と考えて、生きていこう。

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

 過去や、因習にとらわれないで、いつも新しいものに目を向け、それに挑戦していこう。新し
い人たちや、新しい思想を受けいれて、それを自分のものにしていこう。

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

 いつも高い視野を忘れずに、地球全体のこと、人類全体のことを考えて、生きていこう。そこ
に問題があれば、果敢なく、それと戦っていこう。

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

 考えるから人は、人。生きるということは、考えること。どんなささいなことでもよいから、それ
をテーマに、いつも考えながら生きていこう。

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

 少人数の人と、より深く交際しながら生きていこう。大切なことは、より親交を温め、より親密
になること。夫であれ、妻であれ、家族であれ、そして友であれ。

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

 今、自分は、どういう人間なのか、それを客観的に見つめながら、生きていこう。方法は簡
単。他人の視点の中に自分を置き、そこから見える自分を想像しながら生きていこう。 

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

 あなたのまわりに、いつも笑いを用意しよう。ユーモアやジョークで、あなたのまわりを明るく
して生きていこう。
(はやし浩司 マズロー 欲求段階説 高い人間性)

【より高い人間性を求めて】(2)

 人格論というのは、何度も書いているが、健康論に似ている。日々に体を鍛錬することによっ
て、健康は維持できる。同じように、日々に心を鍛錬することによって、高い人間性を維持する
ことができる。

 究極の健康法がないように、究極の精神の鍛錬法などというものは、ない。立ち止まったとき
から、その人の健康力は衰退する。人間性は衰退する。

 いつも前向きに、心と体を鍛える。しかしそれでも現状維持が、精一杯。多くの人は、加齢と
ともに、つまり年をとればとるほど、人間性は豊かにななっていくと誤解している。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、自分が、その老齢のドアウェイ(玄関)に立ってみて、わ
かった。

 ゆいいつ老齢期になって、新しく知ることと言えば、「死」である。「死の恐怖」である。つまりそ
れまでの人生観になかったものと言えば、「死」を原点として、ものを考える視点である。「生」
へのいとおしさというか、「生きることのすばらしさ」というか、それが、鮮明にわかるようにな
る。

 そうした違いはあるが、しかし、加齢とともに、知力や集中力は、弱くなる。感性も鈍くなる。
問題意識も洞察力も、衰える。はっきり言えば、よりノーブレインになる。

 ウソだと思うなら、あなたの周囲の老人たちを見ればわかる。が、そういう老人たちが、どう
であるかは、ここには書けない。書けないが、あなたの周囲には、あなたが理想と考えることが
できるような老人は、いったい、何人いるだろうか。

 せっかくの命、せっかくの人生、それをムダに消費しているだけ。そんな老人の、何と、多い
ことか。あなたはそういう人生に、魅力を感ずるだろうか。はたしてそれでよいと考えるだろう
か。

 マズローは、「欲求段階説」を唱え、最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。人
間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようにな
る、と。

 問題は、どうすれば、より人間らしく、心豊かに生きられるか、である。そこで私はマズローの
「欲求段階説」を参考に、10の鉄則をまとめてみた。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【人間らしく生きるための、10の鉄則】(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●マズローの欲求段階説

 昨日、「マズローの欲求段階説」について書いた。その中で、マズローは、現実的に生きるこ
との重要性をあげている。

 しかし現実的に生きるというのは、どういうことか。これが結構、むずかしい。そこでそういうと
きは、反対に、「現実的でない生き方」を考える。それを考えていくと、現実的に生きるという意
味がわかってくる。

 現実的でない生き方……その代表的なものに、カルト信仰がある。占い、まじないに始まっ
て、心霊、前世、来世論などがもある。が、そういったものを、頭から否定することはできない。

ときに人間は、自分だけの力で、自分を支えることができなくことがある。その人個人というよ
りは、人間の力には、限界がある。

 その(限界)をカバーするのが、宗教であり、信仰ということになる。

 だから現実的に生きるということは、それ自体、たいへんむずかしい、ということになる。いつ
もその(限界)と戦わねばならない。

 たとえば身近の愛する人が、死んだとする。しかしそのとき、その人の(死)を、簡単に乗り越
えることができる人というのは、いったい、どれだけいるだろうか。ほとんどの人は、悲しみ、苦
しむ。

いくら心の中で、疑問に思っていても、「来世なんか、ない」とがんばるより、「あの世で、また会
える」と思うことのほうが、ずっと、気が楽になる。休まる。

 現実的に生きる……一見、何でもないことのように見えるが、その中身は、実は、奥が、底な
しに深い。


●あるがままに、生きる

 ここに1組の、同性愛者がいたとする。私には、理解しがたい世界だが、現実に、そこにいる
以上、それを認めるしかない。それがまちがっているとか、おかしいとか言う必要はない。言っ
てはならない。

 と、同時に、自分自身についても、同じことが言える。

 私は私。もしだれかが、そういう私を見て、「おかしい」と言ったとする。そのとき私が、それを
いちいち気にしていたら、私は、その時点で分離してしまう。心理学でいう、(自己概念=自分
はこうであるべきと思い描く自分)と、(現実自己=現実の自分)が、遊離してしまう。

 そうなると、私は、不適応障害を起こし、気がヘンになってしまうだろう。

 だから、他人の言うことなど、気にしない。つまりあるがままに生きるということは、(自己概
念)と、(現実自己)を、一致させることを意味する。が、それは、結局は、自分の心を守るため
でもある。

 私は同性愛者ではないが、仮に同性愛者であったら、「私は同性愛者だ」と外に向って、叫
べばよい。叫ぶことまではしなくても、自分を否定したりしてはいけない。社会的通念(?)に反
するからといって、それを「悪」と決めつけてはいけない。

 私も、あるときから、世間に対して、居なおって生きるようになった。私のことを、悪く思ってい
る人もいる。悪口を言っている人となると、さらに多い。しかし、だからといって、それがどうなの
か? 私にどういう関係があるのか。

 あるがままに生きるということは、いつも(自己概念)と、(現実自己)を、一致させて生きるこ
とを意味する。飾らない、ウソをつかない、偽らない……。そういう生き方をいう。


●自然で自由に生きる

 不規則がよいというわけではない。しかし規則正しすぎるというのも、どうか? 行動はともか
くも、思考については、とくに、そうである。

思考も硬直化してくると、それからはずれた思考ができなくなる。ものの考え方が、がんこにな
り、融通がきかなくなる。

 しかしここで一つ、重要な問題が起きてくる。この問題、つまり思考性の問題は、脳ミソの中
でも、CPU(中央演算装置)の問題であるだけに、仮にそうであっても、それに気づくことは、ま
ず、ないということ。

 つまり、どうやって、自分の思考の硬直性に、気がつくかということ。硬直した頭では、自分の
硬直性に気づくことは、まず、ない。それ以外のものの考え方が、できないからだ。

 そこで大切なのは、「自然で、自由にものを考える」ということ。そういう習慣を、若いときから
養っていく。その(自由さ)が、思考を柔軟にする。

 おかしいものは、「おかしい」と思えばよい。変なものは、「変だ」と思えばよい。反対にすばら
しいものは、「すばらしい」と思えばよい。よいものは、「よい」と思えばよい。

 おかしなところで、無理にがんばってはいけない。かたくなになったり、こだわったりしてはい
けない。つまりは、いつも心を開き、心の動きを、自由きままに、心に任せるということ。

 それが「自然で、自由に生きる」という意味になる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 マズ
ロー A・H・マズロー 欲求段階説 人間らしい生き方


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1526)

【人間らしく生きるための、10の鉄則】
(マズローの「欲求段階説」を参考にして)

+++++++++++++++++++++

A・H・マズローは、「欲求段階説」を唱え、
最終的には、「人間は自己実現」を目ざすと説いた。
人間は、自分がもつ可能性を最大限、発揮し、
より人間らしく、心豊かに生きたいと願うようになる、と。

マズローの欲求段階説をもとに、私は、
人間らしく生きるための10か条として、
つぎのように考えた。

AHマズローは、アメリカ心理学会の会長を
務めたこともある人物である。

●第1の鉄則……現実的に生きよう

●第2の鉄則……あるがままに、世界を受けいれよう

●第3の鉄則……自然で、自由に生きよう

●第4の鉄則……他者との共鳴性を大切にしよう

●第5の鉄則……いつも新しいものを目ざそう

●第6の鉄則……人類全体のことを、いつも考えよう

●第7の鉄則……いつも人生を深く考えよう

●第8の鉄則……少人数の人と、より深く交際しよう

●第9の鉄則……いつも自分を客観的に見よう

●第10の鉄則……いつも朗らかに、明るく生きよう

+++++++++++++++++++++

 ここにあげた10の鉄則は、どれも、きわめて常識的なものと考えてよい。だれもが、「そうだ」
と納得できることを、10の鉄則にまとめたにすぎない。

 しかしその常識的であるという点が、むずかしい。

 たまたま昨日(9月15日)、あの忌まわしい地下鉄サリン事件の首謀者である、A被告の死
刑判決が確定した。それについて、教団内部では、(1)A死刑囚の奪還計画、(2)死刑執行と
ともに、信者たちの後追い自殺などの動きが見られるという(Yahoo・news)。

 (常識)をはずれた人たちは、そこまで狂う。

 そこでどうすれば、その(常識)をみがくことができるかということになる。マズローは、そのヒ
ントを私たちに与えてくれた。心理学者として、数多くの、人間の(心)をみつめてきた人であ
る。その意見は、傾聴に値する。

 で、マズローの欲求段階説によれば、人間は、最終的には、「自己実現」をめざすという。わ
かりやすく言えば、「私の確立」ということか? 崇高で気高い自己概念(=こうでありたいと描く
自分像)をもち、その自己概念に、現実自己(=現実の自分)を完全に一致させる。そのとき
「私」は、完成する。

 この10の鉄則の中で、最大のポイントは、「いかにすれば、現実的に生きられるか」である。

 以前、こんな原稿を書いた。少し話が脱線するかもしれないが、「現実的に生きるためのヒン
ト」になれば、うれしい。

++++++++++++++++++

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に4割の善があり、4割の悪があるなら、子どもの世界にも、4割の善があり、4割の悪が
ある。

子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの世界だ
けをよくしようとしても、無理。

子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンし
んちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だ
ってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。

言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおもしろいものにしている。無数
のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくし
てしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間
になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう環境を
見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの仲間や、近隣の
人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれと闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。

「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、
こう言った。「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。

私は「相手の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が
悪い」と。こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。そ
れが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)
 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。
(詩集「子どもたちへ」より)

++++++++++++++++++

神や仏も教育者だと思うとき 

●仏壇でサンタクロースに……? 

 小学一年生のときのことだった。私はクリスマスのプレゼントに、赤いブルドーザーのおもち
ゃが、ほしくてほしくてたまらなかった。母に聞くと、「サンタクロースに頼め」と。そこで私は、仏
壇の前で手をあわせて祈った。

仏壇の前で、サンタクロースに祈るというのもおかしな話だが、私にはそれしか思いつかなか
った。

 かく言う私だが、無心論者と言う割には、結構、信仰深いところもあった。年始の初詣は欠か
したことはないし、仏事もそれなりに大切にしてきた。が、それが一転するできごとがあった。

ある英語塾で講師をしていたときのこと。高校生の前で『サダコ(禎子)』(広島平和公園の中に
ある、「原爆の子の像」のモデルとなった少女)という本を、読んで訳していたときのことだ。

私は一行読むごとに涙があふれ、まともにその本を読むことができなかった。そのとき以来、
私は神や仏に願い事をするのをやめた。「私より何万倍も、神や仏の力を必要としている人が
いる。私より何万倍も真剣に、神や仏に祈った人がいる」と。いや、何かの願い事をしようと思
っても、そういう人たちに申し訳なくて、できなくなってしまった。

●身勝手な祈り

 「奇跡」という言葉がある。しかし奇跡などそう起こるはずもないし、いわんや私のような人間
に起こることなどありえない。「願いごと」にしてもそうだ。「クジが当たりますように」とか、「商売
が繁盛しますように」とか。そんなふうに祈る人は多いが、しかしそんなことにいちいち手を貸
す神や仏など、いるはずがない。いたとしたらインチキだ。

一方、今、小学生たちの間で、占いやおまじないが流行している。携帯電話の運勢占いコーナ
ーには、1日100万件近いアクセスがあるという(テレビ報道)。

どうせその程度の人が、でまかせで作っているコーナーなのだろうが、それにしても1日100
万件とは! 

あの『ドラえもん』の中には、「どこでも電話」というのが登場する。今からたった25年前には、
「ありえない電話」だったのが、今では幼児だって持っている。奇跡といえば、よっぽどこちらの
ほうが奇跡だ。

その奇跡のような携帯電話を使って、「運勢占い」とは……? 人間の理性というのは、文明
が発達すればするほど、退化するものなのか。話はそれたが、こんな子ども(小5男児)がい
た。窓の外をじっと見つめていたので、「何をしているのだ」と聞くと、こう言った。「先生、ぼくは
超能力がほしい。超能力があれば、あのビルを吹っ飛ばすことができる!」と。

●難解な仏教論も教育者の目で見ると

 ところで難解な仏教論も、教育にあてはめて考えてみると、突然わかりやすくなることがあ
る。

たとえば親鸞の『回向論(えこうろん)』。『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』という、
あの回向論である。

これを仏教的に解釈すると、「念仏を唱えるにしても、信心をするにしても、それは仏の命令に
よってしているにすぎない。だから信心しているものには、真実はなく、悪や虚偽に包まれては
いても、仏から真実を与えられているから、浄土へ行ける……」(大日本百科事典・石田瑞麿
氏)となる。

しかしこれでは意味がわからない。こうした解釈を読んでいると、何がなんだかさっぱりわから
なくなる。宗教哲学者の悪いクセだ。読んだ人を、言葉の煙で包んでしまう。要するに親鸞が
言わんとしていることは、「善人が浄土へ行けるのは当たり前のことではないか。悪人が念仏
を唱えるから、そこに信仰の意味がある。つまりそういう人ほど、浄土へ行ける」と。しかしそれ
でもまだよくわからない。

 そこでこう考えたらどうだろうか。「頭のよい子どもが、テストでよい点をとるのは当たり前のこ
とではないか。頭のよくない子どもが、よい点をとるところに意味がある。つまりそういう子ども
こそ、ほめられるべきだ」と。

もう少し別のたとえで言えば、こうなる。「問題のない子どもを教育するのは、簡単なことだ。そ
ういうのは教育とは言わない。問題のある子どもを教育するから、そこに教育の意味がある。
またそれを教育という」と。私にはこんな経験がある。

●バカげた地獄論

 ずいぶんと昔のことだが、私はある宗教教団を批判する記事を、ある雑誌に書いた。その教
団の指導書に、こんなことが書いてあったからだ。

いわく、「この宗教を否定する者は、無間地獄に落ちる。他宗教を信じている者ほど、身体障
害者が多いのは、そのためだ」(N宗機関誌)と。こんな文章を、身体に障害のある人が読んだ
ら、どう思うだろうか。あるいはその教団には、身体に障害のある人はいないとでもいうのだろ
うか。

が、その直後からあやしげな人たちが私の近辺に出没し、私の悪口を言いふらすようになっ
た。「今に、あの家族は、地獄へ落ちる」と。こういうものの考え方は、明らかにまちがってい
る。他人が地獄へ落ちそうだったら、その人が地獄へ落ちないように祈ってやることこそ、彼ら
が言うところの慈悲ではないのか。

私だっていつも、批判されている。子どもたちにさえ、批判されている。中には「バカヤロー」と
悪態をついて教室を出ていく子どももいる。しかしそういうときでも、私は「この子は苦労するだ
ろうな」とは思っても、「苦労すればいい」とは思わない。

神や仏ではない私だって、それくらいのことは考える。いわんや神や仏をや。批判されたくらい
で、いちいちその批判した人を地獄へ落とすようなら、それはもう神や仏ではない。悪魔だ。

だいたいにおいて、地獄とは何か? 子育てで失敗したり、問題のある子どもをもつということ
が地獄なのか。しかしそれは地獄でも何でもない。教育者の目を通して見ると、そんなことまで
わかる。

●キリストも釈迦も教育者?

 そこで私は、ときどきこう思う。キリストにせよ釈迦にせよ、もともとは教師ではなかったか、
と。ここに書いたように、教師の立場で、聖書を読んだり、経典を読んだりすると、意外とよく理
解できる。

さらに一歩進んで、神や仏の気持ちが理解できることがある。たとえば「先生、先生……」と、
すり寄ってくる子どもがいる。しかしそういうとき私は、「自分でしなさい」と突き放す。「何とかい
い成績をとらせてください」と言ってきたときもそうだ。

いちいち子どもの願いごとをかなえてやっていたら、その子どもはドラ息子になるだけ。自分で
努力することをやめてしまう。そうなればなったで、かえってその子どものためにならない。

人間全体についても同じ。スーパーパワーで病気を治したり、国を治めたりしたら、人間は自ら
努力することをやめてしまう。医学も政治学もそこでストップしてしまう。それはまずい。しかしそ
う考えるのは、まさに神や仏の心境と言ってもよい。

 そうそうあのクリスマス。朝起きてみると、そこにあったのは、赤いブルドーザーではなく、赤
い自動車だった。私は子どもながらに、「神様もいいかげんだな」と思ったのを、今でもはっきり
と覚えている。

+++++++++++++++++

第2の鉄則と、第3の鉄則は、
「あるがままに、世界を受けいれよう」
「自然で、自由に生きよう」である。
それについても、以前、こんな原稿を
書いたことがある。
なお私がいう「自由」とは、「自らに由(よ)る」
という意味である。
好き勝手なことを、気ままにすることを
自由とは言わない。

+++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。

「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結局は何もできなく
なる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけません」と教えてい
る。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。

あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無
駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。

だったら精一杯、この「今」の中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子ど
もたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども
時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。

たとえば私は生徒たちには、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。そ
れでいい。結果はあとからついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追
い求めたら、君たちの人生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。

日本では「がんばれ!」と拍車をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくても
いいのよ」と。ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観
の基本的な違いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味
がわからないのではないか……と、私は心配する。

+++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。

法句経というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こ
そが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自
分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由(よ)る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自
分で責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育て
の基本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。

いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面での過保護。「乱暴な
子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てをするなど。子どもは
精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。外へ出す
と、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中2)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で最
後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場に
居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手が
つけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。

+++++++++++++++++

 自分を客観的に見るということと、
他者との共鳴性については、一見、
正反対の位置にあるように思う人が
いるかもしれないが、この両者は、
紙にたとえて言うなら、(表)と(裏)
の関係にある。

 つまり自分の視点を、他人の目の中に
置いてみる。その他人の目を通して、自分を見る。
その人自身の心の中を見る。

 方法は簡単である。

 たとえば通勤電車の中に座ったとしてみよう。
通路をはさんで、その向こうには、
ほかの客たちが座っている。

 そのとき、それぞれの客の中に、
自分を置いてみればよい。
最初は、「相手から見ると、自分はどんなふうに見えるだろう」
と想像するだけでよい。
あなたが相手を見るように、相手から見る自分を想像する。

 これを繰りかえしていると、自分の姿が、
より客観的に見えるようになると同時に、
その人の心の中に、入りこむことができる。
それがここでいう「共鳴性」ということになる。

 その「共鳴性」は、人格の完成度を知るための、
ひとつのバロメーターにもなっている。

 以前、子どもの人格論について、こんな原稿を
書いた。

++++++++++++++++

【子どもの人格】

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。

+++++++++++++++++

●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは
ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに
なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 社会適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)

【付録】*******************************

 最後に、では、あなたの子どもはどうか、
(あなた自身でもよいが)、
その診断テストを考えてみたので、ここにあげる。

****************

【子どもの心の発達・診断テスト】

****************

【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

***************************


(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

+++++++++++++++++++++

 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動(こころ)の知能指数」と訳されている(Emotional Educatio
n、by JESDA Websiteより転写。)

++++++++++++++++++++

【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 管理能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の
完成 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
人格の完成度 自己実現 人間性の確立)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1527)

【今朝・あれこれ】(9月16日)

●講演

 これから市内のH小学校で、講演をすることになっている。で、その講演だが、このところよ
く、その講演をしている最中に、自分であって、自分でないように感ずることがある。「私の話し
たいことはもっと別のことなのに」と思いながら、それとは離れた話をしている。

 講演を聞きに来てくれる人たちは、大半が、若い母親たちである。このところ、そういう母親
たちが、女子高校生たちと、区別できなくなってきた。だから話す内容といえば、どうしても、初
級的なことになってしまう。

 ところどころに具体的な例や、エピソードを入れなければならない。笑いも入れなければなら
ない。そういう自分が、どこか迎合的であるのがわかる。もし本気で、私の持論を聴衆にぶつ
けたら、きっと、みな、眠ってしまうだろう。雑談で、講演が中断してしまうかもしれない。

 「どうしたらいいのだ……!」と思いながら、これから、その支度(したく)にかかる。いつもの
ように……。

【講演・裏話】

 私の講演中、ときどき、雑談をしている人を見かける。そういうときは、こうする。

何かのことで、身振りを大きくし、机をドンとたたく。たたきながら、その身振りのドサクサにまぎ
れて、その人たちを指差す。そしてキッとにらむ。

 あるいは、先日、こんなことも。

 私の講演が始まるとまもなく、居眠りを始めた男性がいた。50歳くらいの男性である。そうい
うときは、そっと、そのままにしておくことにしている。が、途中、こんな話になったときのこと。

 私が「その夜は、ワイフの乳首を口に含んで眠りました……」と。

 とたん、その男性は目をさまし、それからは、ずっと、私の話を熱心に聞いてくれた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●快調

 再び、このワープロ専用のパソコンが、快調に動くようになった。どういうことだろう?

 先週、このパソコンは、こわれてしまったはず。いくつかのソフトが、立ちあがらなくなってしま
った。そこでハードディスクの交換まで、覚悟した。

 で、「その前に……」と思い、Cディスクのエラーチェックを、3回ほど、繰りかえしてみた。1度
目は、いつもの数倍もの時間がかかった。「バッド・クラスターを置きかえています」とか何とか
いう文字が、つぎからつぎへと、ズラズラと並んだ。何百回も並んだ。

 それを見て、「ああ、もうダメだ」と思った。

 2度目は、それが1回のみに減った。3回目は、スンナリと、チェックが終わった。

 その結果が今。実に快適。気持ちよい。

 考えられる原因としては、ホームページ作成用のアップデート用ソフトを、このパソコンで試し
てみたこと。ホームページ作成用のパソコンは、別にある。しかし念のためにと、このワープロ
専用のパソコンで、それを試してみた。そのとき、何かの操作を誤ったらしい。

 パソコンの世界では、いらぬ冒険主義は、ときとして命取りになる。今の状態がよければ、そ
れでよしとする。「ちょっと何かしてやろう」と考えたとたん、失敗する。これはパソコンとつきあう
ときのコツ。

 ……そういえば、夫婦の関係も、それに似ている。平和で、のどかな状態なら、その状態を
悪くしないことだけを考えて、現状を維持する。

 では、今朝は、ここまで。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1528)

●米韓首脳会談

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9月14日、米韓首脳会談が、
無事(?)終わった。

「無事」というのは、アメリカ国防省の発言だが、
ワシントン・ポスト紙は、「スケートのリンク上で、
すれちがっただけ」と表現している。

+++++++++++++++++++

 アメリカのブッシュ大統領と、韓国のN大統領の会談が、無事(アメリカ政府高官)、終わった
(06年9月14日)。

 まず、世界各国の反応をあげてみる。

 ワシントン・ポスト紙……「意見が大きく隔たったまま、スケートリンク上で、すれちがっただ
け」「とくに進展した部分もなかったし、妥協した部分もなかった」

 ニューヨークタイムズ……「アメリカと韓国の隔たりは、日本海ほどある」「その隔たりを隠す
のは、不可能になった」

 ロイター通信……「6か国協議にはたがいに賛成したが、K国問題に関する意見のちがい
は、たがいに隠した」

 AP通信……「どうすればK国を、6か国協議の場に引きずりだすことができるかという問題に
ついて、たがいに知らんふりをした」

 ブルームバーグ通信……「K国問題について、両国は何ら、突破口を見出すことはできなか
った」

 朝日新聞……「K国の制裁問題については、何ら協議できなかったようだ」

 新華社通信……「会談の雰囲気はよそよそしく、無気力な会談だった」

 このため韓米首脳会談は共同声明もなく、ホワイトハウスで1時間ほど会談しただけ。そんな
短い会談だったが、N大統領は、合い間を縫って、あれこれ日本の悪口を言ったらしい。靖国
問題、竹島問題、従軍慰安婦問題など。

予想されていたことだが、ゆいいつ、韓国側がポイントをあげたのは、統制権移譲問題につい
て、「2009年まで」と定めながらも、「何かことが起きたら、それを延期する」という約束を取り
つけたことである。(以上、朝鮮N報参考)

 反米を唱えながら、一方で、韓国を守るのはアメリカの義務と、N大統領は考えている。この
あたりの異常なまでの依存性は、K国にも、共通している。つまり私には、理解できない。

 こうした一連の流れを見ていると、韓国のN政権は(1)口先では、K国のミサイル問題、核開
発問題に反対しながら、内心では、それを容認している。(2)それよりも韓国は、K国の崩壊、
それにともなう、朝鮮半島の混乱を何よりも、恐れている。もちろん(3)自暴自棄になったK国
が、韓国に戦争をしかけてくるのを、心配している……ということがわかってくる。

 韓国の立場としては、そうだろう。理解できる。が、しかしひとつ、韓国のN大統領は、大きな
誤解をしている。こうした会談を論ずる前に、なぜ、アメリカは、韓国を守らなければならないの
か、それがN大統領には、わかっていない。

 金前大統領は、今月(9月)に入って、こう述べている。「南北分断のそもそもの責任は、アメ
リカにある。(韓国を助けてくれと、アメリカに頼んだ覚えは、一度もない。勝手にアメリカが、朝
鮮半島で、戦争をしかけただけ)」と。

 さらに今回の会談に先がけて、こうも言っている。「(アメリカ側の一方的な言いなりになるの
ではなく)、ベトナム戦争、イラク戦争など、韓国がアメリカに貢献してきたことも、主張すべき」
と。

 そういう韓国だから、最初から、米韓首脳会談が、うまくいくはずがない。「スケートのリンク上
で、すれちがっただけ」というのは、うまい表現だと思う。私は数年前から、「どこへ行く、韓国」
というタイトルのエッセーを書いてきたが、その韓国は、本当に、どこかへ行ってしまった。

 なおこうした会談であったにもかかわらず、朝鮮N報は、ニューヨークタイムズ紙が、日本海
を「日本海」と表現したことを問題にしている。韓国では、国をあげて、つまり世界中に特使まで
派遣して、日本海を、「東海(トンヘ)」と呼称を変えるように働きかけている。

 韓国にとっては、日本海は、たしかに「東海」だが、日本にとっては、そうでない。「北海」もしく
は、「北西海」である。ロシアにとっては、「南海」である。

 「東海」という呼称そのものが、きわめて自己中心的。言いかえると、この誇大妄想性こそ
が、本当の問題ではないのか。

 韓国のN大統領が、自国を、すばらしい国と、韓国の国内で思うのは、N大統領の勝手だ
が、だれも、韓国など、相手にしていない。それがわからなければ、テキサスの真ん中に立っ
て、アジアを見ることだ。韓国を見ることだ。帰りに立ち寄った、カルフォルニア州でもよい。

 まるで自分にこと(国)が、わかっていない。その状態は、K国も同じ。まるで自分のこと(国)
が、わかっていない。

【付記】

 「誇張された民族主義(exaggerated nationalism)」(アイシュタイン)が、いかに危険なもので
あるかは、世界の歴史を見れば、だれにもわかるはず。ほとんどの戦争は、こうした誇張され
た民族主義が原因で始まっている。あるいはその原動力となっている。

 もちろんこの日本の中にも、誇張された民族主義を信奉する人は多い。「日本人はすばらし
い」「日本はすばらしい」と思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、「それ以外の民族は
劣っている」「それ以外の国は劣っている」と考えるのは、明らかにまちがっている。

 民族主義も極端になると、こうしたまちがったものの考え方を、平気でするようになる。たい
へん危険な思想ということになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1529)

●作られる老人

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老人は、自ら、老人になるのではない。
老人は、老人につくられていく。

「定年」「退職」「老後」という意味のない言葉に
包まれるうちに、老人は、老人につくられていく。

+++++++++++++++++

 友人のGN先生から、手紙が届いた。今年の春、ある学校の校長を最後に定年退職し、現在
は、第二の人生を歩んでいるという。「第二の人生」というと、まだ聞こえはよいが、民間企業で
いえば、どこか窓際的な仕事(?)。GN先生の、やり場のない不満のようなものを、その手紙
の中に感じた。

 しかし、それは同時に、私自身の「現況」でもある。

 つまりこうして私たちは、否応なしに、「老人」につくられていく。私たちが自ら、老人になるの
ではない。老人につくられていく。しかしこれを、社会の矛盾と言わずして、何と言う。欠陥と言
わずして、何と言う。

 若い人たちは、「老人は、ぼんやりと庭いじりでもして、孫のめんどうでもみていればいい」と、
あまりにも安易に考えすぎているのではないか。「それがあるべき、老人の姿だ」と。そしてそ
れに合わせて、社会のしくみそのまで、できあがってしまっている。

 が、現実に自分がその老人になってみると、(私自身は、絶対に、自分を老人だと思っていな
いが……)、その実感が、まるでないのがわかる。何をもって、私を老人と位置づけるのか。む
しろ、若いときより、行動的。活動的。心も体も、より健康!

 もちろん中には、愚かな老人もいる(失礼!)。おかしな親風ばかり吹かして、いばっている
老人もいる。過去の亡霊にしがみついて、それをカサに着ていばっている老人もいる。何もし
ないで、本当に庭いじりばかりしている老人もいる。しかしそういう老人たちと、少なくとも私を、
同じに見ないでほしい。

 が、どうもがいたところで、どうにもならない。私も、その無力感というか、挫折感を、このとこ
ろ、よく感ずる。だいたい、若い人たちが、私たちがしてきた経験や知恵に、耳を傾けようとし
ない。「老人はバカ」「老人は役立たず」というレッテルを先に張ってしまう。

 かつてボーボワールは、「女は女に作られていく」(「第二の性」)と書いたが、その言葉を借り
るなら、「老人は老人に作られていく」ということになる。あちこちで老人あつかいをされるうち
に、「そういうものかなあ」と、自分を納得させてしまう。

 たとえばすぐ近所に、今度、新しい床屋ができた。格安の床屋である。散髪と髭そりこみで、
1600円。が、その料金を書いた看板の下のほうに、こうある。「60歳以上は、1300円」と。

 私としては、それを喜ぶべきなのだろうが、どうも、そういう気持ちになれない。私は、多分、
60歳になっても、65歳になっても、1600円を払うだろう。「私は60歳です。どうか、1300円
にしてください」などと、どうして言うことができるのか。

 が、反対に向こうから、「あなたは60歳ですね。1300円で結構です」と言われたら、どうなの
か。相手としては、私にとってよかれと思ってそう言うかもしれない。が、私は、断る。

 おかしな情けは、こと私に関しては、無用。認知症か何かになり、だれの目にも老人に見える
ようになるかもしれない。しかしそうなればなたっとき、また考えればよい。しかし今は、まだ現
役。これから先も、ずっと現役。

 そのかわり、私がする仕事には、若い人たちと同じ、一人前の料金を支払ってほしい。仕事
の内容をみて、料金を支払ってほしい。たとえば私の教室(BW教室)でも、「60歳になりまし
たから、月謝は、30%引きでいいです」とは、私は、絶対に、言わないぞ。

 だれが、老人になってやるものか! バカヤロー!

【付記】

 しかし老人臭い老人が多いのも事実。自分自身を、どんどんと小さくしてしまう。ものの考え
方を、より保守的にし、防衛的にしてしまう。で、このタイプの老人が好んで使う言葉が、「コン
パクト」。

 コンパクトな生活、コンパクトな人生、コンパクトな……と。

 ああ、いやだ。そういう老人に出会うと、ぞっとする。私の恩師の田丸先生は、東大の教授を
退官する少し前から中国語を勉強し始め、やがて中国の化学会の総会で、基調講演までした
ぞ。しかも中国語で! (そのときの写真は、田丸先生のHPに載っている。その写真には、
「中国化学会成立50周年学術報告会」とある。)

http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/page023.html

 見習うべきは、そういう老人ではないのか。

 そう言えば、私はもうすぐ、つまりこの10月に、満59歳になる。その実感は、まったく、ない
が……。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●12月2日(土曜日)

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12月2日、土曜日。
今度、地元のI中学校区(4校合同)の
健全育成会で、講演をすることに
なった。

今回で、2度目の講演である。

私はこの講演を、自分の人生の
節目のひとつに考えている。

++++++++++++++++

 いろいろなところで講演をさせてもらった。が、地元の人たちから招かれる講演ほど、うれしく
も、光栄なことはない。

 地元といっても、このI町だけでも、人口は、3万人を軽く超えている。私の生まれ育ったG県
のM町より、はるかに大きい。そのI町には、I中学校を中心に、3つの小学校がある。どれもマ
ンモス校である。昨日、その講演会の打ち合わせをすました。

 多分、自由参加ができるはずなので、近くの人、このマガジンを読んでいる人で、「聞いてや
ろう」と思う人は、どうか、どうか、聞きにきてほしい。この1年の総決算というよりは、私の人生
の節目の1つとして、私は、この講演会をとらえている。全力を尽くす。

 どんな講演でも、私は壇上に立ったとたん、「今日が最後」と、自分に言って聞かせる。決し
て、出し惜しみしない。すべてをさらけ出す。飾らない。偽らない。が、今度の講演会には、もう
1つ、別の意識が、それに加わる。「それを最後に、私は、もう死んでもいい」と。私の人生で、
最重要な講演と位置づけている。

 ……そう、私は、この浜松市では、ずっと、よそ者だった。35年前、あの木造の浜松駅に降
り立ったときから、そうだった。が、この浜松市は、私を、暖かく迎えてくれた。やがてすぐ私
は、この浜松市が大好きになった。

 数年もしないうちに、高校野球でも、故郷のG県代表よりも、この静岡県代表のほうを、応援
するようになった。ちょうど30歳になったころのこと。あの甲子園で、G県代表と静岡県代表が
対戦する試合があった。私は、静岡県代表のチームのほうを応援している自分を知った。

 そのときから、私は、「私は、静岡県人だ」と、はっきりと自覚するようになった。

 が、よそ者はよそ者。私はいつもそこに、(入り込めないな壁)があるのを、感じていた。今
も、ないわけではない。しかし私自身は、そういう壁とは別に、自分の(根)が、しっかりと、この
浜松の地に、根をおろしているのを知っている。

 ワイフは、この浜松市で生まれ育った女性である。3人の息子たちも、ここで生まれ、育っ
た。無数の友人や知人もできた。人口80万人というが、駅前を歩いていると、あちこちに見慣
れた顔の人を見る。

 そういう浜松市だが、しかしさらにその中でも、私が現在住んでいる地元の中学校での講演
となると、話は別である。「別」というより、ズシリとした重みを感ずる。3人の息子たちは、そのI
中学校を卒業している。

 ところでぐんと話は脱線するが、講演というのは、まさに気力と体力の勝負。講演がある日
は、私は食事をしない。胃袋に何かが入っていたのでは、講演はできない。また講演のある日
は、朝早く起きて、運動にでかける。一汗、かく。そして入浴。

 講演が終わると、反対に、私は幽霊のようになる。そのあと数時間は、食欲も消える。

 中には、レジュメ(要旨)をまとめて、それを読むようにして講演する人もいる。が、私は、そう
いうことはしない。当日、壇上に立った、その瞬間に、話のプロット(あらすじ)を組み立てる。あ
くまでも聞きに来てくれた人の雰囲気と様子を見て、決める。

 男性が多いときには、男性向きの話。高齢者が多いときには、高齢者向きの話。若い女性
が多いときには、若い女性向きの話。そういうふうに、その瞬間に話のプロットを組み立てる。
その判断を誤ると、つまらない講演になってしまう。(多分?)

 今度のI中学校区での講演では、今まで温めてきたテーマについて、話す。洗いざらい、すべ
て。出し惜しみすることなく、全力で。まさに「これで死んでもいい」という覚悟で話す。

 講演まで、まだ2か月近くあるが、今日からその準備にとりかかりたい。

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【講演会のお知らせ】

12月2日、土曜日。浜松市、入野中学校・体育館にて。
詳しい時間帯などは、追って、ご連絡申し上げます。

ぜひ、おいでください。よろしくお願いします。

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Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【自己愛との戦い】

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今日、ワイフと、車の中で、
こんな話をする。

自己愛者は、自分のことだけしか
しない、と。

だから自己愛者という。

人は、老齢になればなるほど、
その自己愛者になりやすい(?)。

自分のことしか、考えなくなる。

みながみな、そうではないが、
ふと油断すると、そうなりやすい。

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●自己愛者

 もっとも忌み嫌い、軽蔑すべき人間。それが自己愛者ということになる。

 人はだれしも、ある程度は、自己中心的なものの考え方をする。幼児期から少年少女期の
初期には、とくにそうである。

 が、そのあと、成長とともに、心づくり、つまり心理学でいうところの内面化が始まる。その「内
面化」が何であるかを一言で表現するなら、自己中心性からの脱却ということになる。言いか
えると、より自己中心的なものの考え方をする人は、それだけ精神の発達が遅れた人とみてよ
い。

 しかし中には、内面化が遅れ、さらに自己中心的なものの考え方をするようになる人がいる。
その中でも、自己中心性が極端にまで肥大化し、他者との良好な人間関係に支障をきたすよ
うになった人を、「自己愛者」という。

 この自己愛者の特徴は、言うまでもなく、極端な自己中心性だが、そのため、他人に対する
許容範囲が、きわめて狭くなる。好き嫌いがはげしくなり、自分のもつワクの入らない人を、徹
底的に排斥する。

 そのため、他者との関係において、ぎくしゃくなりやすい。結果として、自分のカラ(=カプセ
ル)に閉じこもり、自分だけの価値観を極端化しやすくなる。昔、こんな男性(70歳くらい)がい
た。

 当時、すでに年金生活者だったが、自治会の会合に出ても、不平不満、あるいは文句ばかり
並べていた。他人の意見には、すべて反対。「自分だけが絶対、正しい」というようなことを、平
気で口にしていた。

 が、町内の仕事は、いっさい、しない。するのは、自分のことだけ。自分の身のまわりだけ。
あとは、何もしない。本当に、何もしない。それこそ、隣地の雑草一本、抜かない。もちろんゴミ
が落ちていても、そのゴミも拾わない。

 こうした自己愛者は、自分の「得」になることはするが、それ以外のことは、何もしない。一
見、他人のために働くように見せかけることもあるが、しかしよくよく観察すると、すべてが計算
づく。自分をよく見せるための、道具として、そうした行為を他人に、ひけらかす。

 ところで、この「自己愛者」という言葉は、戦後、外国から日本に入ってきた言葉である。その
ため、日本人には、あまりなじみがない。あるいは反対に、この日本では、「自分を大切にする
人」と、よい意味に誤解されることもある。

 しかし自己愛者は、冒頭にも書いたように、もっとも忌み嫌い、軽蔑すべき人間と考えてよ
い。

 2年前に書いた原稿を、もう一度、ここで推敲してみたい。というのも、最近、私はこんなこと
を感ずるからである。

 人は老齢になればなるほど、ものの考え方が自己中心的になり、他人に対して無関心になり
やすい。「とりあえず、自分さえよければ」というような考え方をするようになる。もちおろん、み
ながみな、そうというわけではない。しかしその傾向が強くなる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己愛者

 自己愛が肥大化するから、自己中心的になるのか。それとも、自己中心性がきわまるから、
自己愛者になるのか。

 どちらにせよ、自己愛者は、生活のあらゆる面で、ものの考え方が、自己中心的になる。
が、ここで重要なことは、自己愛者自身が、自分がそうであっても、それに気づくことはまず、な
いということ。

 このことは、自己中心的な人を見ればわかる。自己中心的でありながら、その人が、それに
気づくことは、まずない。自分が自己中心的であるということは、その人が、自己中心的でなく
なったときはじめて、わかる。

 生きザマというのは、そういうもの。脳のCPUに関係しているから、自分の生きザマを客観的
に知るということ自体、たいへんむずかしい。

 その自己愛の特徴として、ここであげる。

(1)異常なまでの自己中心性のほか、
(2)他人を信じない完ぺき主義、
(3)他人の批判を許さない。批判されると、極度の緊張状態に置かれるなどがある。

 こうした現象は、子どもの世界では、顕著に現れる。というのも、子どもというのは、成長とと
もに、自己中心性から、利他的思考へと、自分を転換させる。(自己中心的なまま、おとなにな
る子どもも、少なくないが……。)

 総じてみれば、幼児は、すべて自己愛者である。その幼児が、成長とともに、その自己愛か
ら、他人の立場でものを考えることができるようになる。

 こんなことがあった。

 幼児から、小学生にかけて、かなりはげしい多動性を示した子どもがいた。幼稚園でも、そし
て小学校に入学してからも、毎日のように問題を引き起こした。

 しかしそんな子どもでも、小学3、4年生を境に、少しずつだが、落ちつきを見せるようになっ
た。自己意識で、自分をコントロールできるようになったからである。

 その子どもが、中学3年生になり、いよいよ卒業ということになったときのこと。私は恐る恐
る、その子どもにこう聞いてみた。

 「君は、小さいころ、先生や友だちに、かなり迷惑をかけたが、それを覚えているか?」と。

 するとその子どもは、ケロリとした表情で、こう答えた。

 「ううん、ぼくは何も悪いことをしてないよ。先生も、みんな、ぼくが何も悪くないのに、毎日、目
のカタキにして、ぼくばかりを怒った」と。

 その子どもは、自分のことが何もわかっていなかった。私はその子どもを見ながら、改めて、
自分を知ることの難しさを、思い知らされた。恐らく、その子どもは、おとなになっても、自分が
多動性のある子どもだったと気づくことはないだろう。教職の道に入り、ADHD児についての研
究者になっても、自分に気づくことはないだろう、と。

 自分を知るということは、そういうことをいう。

 ところで、話は、ぐんとそれるが、ブルース・ウィリス主演の映画に、『シックス・センス』という
映画がある。自分はすでに死んでいるのに、自分が死んでいるということに、最後まで気がつ
かないという、あの映画である。

 あの映画では、最後に、ブルース・ウィリス演ずる、小児科医のマルコム・クロウは、実は自
分自身が幽霊であったことを知る。私はあの映画を見たとき、そういった衝撃というのは、日常
の生活の中では、よくあることではないかと知った。

 たとえばあのソクラテスは、『無知の知』という、有名な言葉を残している。「自分は無知であ
るということを知る」という意味である。それなども、その一つである。

 あるとき自分がより高度な知恵を手に入れたとき、それまでの自分が、いかに無知であった
かを思い知らされる。あるいは、ある男性は、こう言った。「マザコンというのは、他人のことと
ばかり思っていましたが、自分がそのマザコンだったと知ったときは、強いショックを受けまし
た」と。そういうことは、よくある。

 同じように、自己中心的な生き方をしていた人が、ある日、何かのきっかけで、その自分の
自己中心性を思い知らされることがある。とたん、それまでの自分の生きザマが、つまらないも
のであったかを知る。

 これなども、どこかあの『シックス・センス』に似ている。……という意味で、あの映画をとりあ
げてみた。

 実は最初にも書いたように、自己愛者は、自分がその自己愛者であることに、気づくことはま
ず、ない。自分が、自己愛から離れてみて、それまでの自分が、自己愛者であったことに、はじ
めて気づく。

 そこで自己診断ということになるが、つぎの点で、いくつか自分に当てはまることがあるなら、
あなたは、その自己愛者と思ってよい。

( )完ぺき主義で、他人に仕事を任せられない。
( )何でもかんでも、自分の思いどおりにならないと気がすまない(完ぺき主義)
( )この世界では、当然のことながら、「私」が一番、大切。
( )自分がいちばん正しい。ふだんの会話も、命令口調が多い。
( )まわりが自分を認めないときは、逆恨みしたり、不平不満をもちやすい。
( )他人に批判されたり、批評されるのを好まない。
( )他人に批評されたりすると、狼狽したり、混乱状態になる(自己の無謬性)。
( )独断性が強く、わがまま、自分勝手、自己中心的(自己中心性)。
( )孤独で、さみしがりや。友人が少なく、他人に気を許せない。
( )他人に心を許すことができない。そのためどうしても、ウソが多くなる。
( )ときとして常識ハズレ、過激な行動にでやすい(社会性の欠落)。
( )自分を飾り、仮面をかぶることが多い。よい人に見せる。
( )そのため他人と交際すると、必要以上に神経疲労を起こしやすい。

 こうした自己愛が自分に見られたら、利己から利他への転換をはかる。他人の心の中へ一
度、自分を置き、その状態から、その人の目を通して、あなた自身をみつめてみる。その訓練
を繰りかえす。

 これを繰りかえしていると、自分から自分が離れ、相手の立場になって、ものごとを考えられ
るようになる。と、同時に、自己愛から、自分を解放させることができる。

 自己愛そのものは、孤独な生き方である。そして自己愛者の多くは、自己愛的に行きなが
ら、それが「私らしい生き方」と、誤解している。しかし自己愛は、決して、個性的な生き方では
ない。もちろん望ましい生き方ではない。

 自己愛者が孤独なのは、いわば自業自得。しかし同じように、その周囲の人も、孤独にな
る。親子や夫婦でありながら、心の通わない状態がつづく。私の印象では、自己愛者の親ほ
ど、子どもと断絶しやすい。あるいは夫か妻か、どちらか一方が自己愛者であると、離婚しや
すい。統計的な数字があるわけではないが、実感として、そう思っている。

 実際問題として、自己愛者の人というのは、つきあうのに苦労する。一見、愛想がよく、ひと
づきあいもそれなりにうまい。しかし心は、閉じたまま。本人も疲れるが、その緊張感を感じた
とき、つきあう側も、疲れる。

 ただここにも書いたように、自己愛者が、自分が自己愛的であることに気づくことは、まずな
い。自分が自己愛的であるかどうかは、自分自身が、利己から利他へ、転換できたときに、は
じめてわかる。

 もしあなたが、ここでいう自己愛者であるなら、私が書いたことを参考に、自分の姿を客観的
に知るのもよいだろう。あの『シックス・センス』の中でブルース・ウィリスが覚えたような衝撃
(?)を、あなたも経験するのではないだろうか
(はやし浩司 自己愛者 自己愛 シックス・センス ブルース・ウィリス)

 【ある自己愛者】

 自己愛者の最大の特徴は、その自己中心性である。自分のことしかしない。自分のことしか
考えない。自分にとって利益のあることは、仮面をかぶってでも、それをする。しかし自分が損
をすることは、まったくしない。

 ときに他人に対して献身的に行動することはあるが、それ自体も、どこかで自分の利益を誘
導するため。自分のことをよい人だと思っている人の間では、すこぶるよい人を演ずる。しかし
その一方で、自分のことを批判する人や、批評する人を許さない。ときに、徹底的に、その人
を攻撃したり、排斥したりする。

 自己愛者は、自分をよく見せるために、細心の注意を払う。仮面をかぶることも多いし、当
然、ウソも多い。だから他人に気を許せない。気を抜かない。どこかピンとした緊張感が走る。
この緊張感が、まわりの人を、息苦しくする。

 が、自己愛者は、孤独。さみしがりや。他人との良好な人間関係を築くことができない。その
ため、神経疲労を起こしやすい。他人と少しまじわっただけで、神経をすり減らす。偏頭痛など
を訴える。他人に対して心を開けない分だけ、集団行動が苦手。

 その一方で、気を許した人の間では、わがまま、独断、命令口調が多くなる。その人を自分
の思いどおりに動かそうとする。そのため、完ぺき主義に陥りやすい。

 S氏(60歳)が、そういう人だった。今は、もうなくなってしまったが、自分のことしかしない、自
分勝手で、わがままな人だった。奥さんや子どもにすら、自分の心を開くことはなかった。どこ
か権威主義で、家父長意識が強かった。死ぬまぎわまで、「葬式だけは、しっかりとしてくれよ」
が、口ぐせだった。

 が、実際には、S氏の葬儀ほど、静かで、ものわびしいものはなかった(知人の弁)。通夜に
訪れた人も、ほとんどいなかった。たぶん、S氏には、それがわかっていたのではないか。自
己愛者というのは、そういう人のことをいう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自己
愛 自己中心性 自己愛者)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●自己愛者は、孤独?

 自己愛者というより、自己中心的な人は、それだけ孤独な人と考えてよい。その根底には、
「信じられるのは、自分だけ」という、根強い、他人への不信感がある。

 このタイプの人は、独善的である分だけ、他人の失敗を許さない。完ぺき主義。こまかいこと
を、つぎつぎと指示して、自分の思いどおりにならないと、不愉快に思ったり、怒ったりする。

 たとえば、昔、こんな女性がいた。

 その家は、江戸時代からの名家ということだそうだが、その女性は、その家の女主人。ことさ
ら伝統としきたりに、うるさい人だった。それはわかるが、長男の嫁が、たいへんだった。

 床の間の飾りつけ一つにしても、ほんの少しでも位置がずれていたりすると、やりなおしをさ
せられたという。

 この女性のばあい、自己愛というよりは、自家愛というべきか。嫁という「人間」より、自分の
「家」のほうが大切なのかもしれない。

 もちろんそれぞれの人には、それぞれの生き方がある。それぞれの人が、それで、それなり
にハッピーであれば、問題はない。他人がとやかく言う必要はない。

 しかし自己愛にせよ、自家愛にせよ、それと引きかえに、孤独という地獄を背負うことにな
る。

 私も、ときどきこう思う。「私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう」と。

 別に悲しんでほしいわけではないが、そう考えたとき、ふと、「私が死んでも悲しむ人は、だれ
もいないだろうな」と思ってしまう。たとえば先日も、同じ町内の班で、私と同年齢の男性が死ん
だ。

 散歩のとき、ときどき顔を合わせる程度のつきあいしかなかったら、その人が死んだという話
を聞いたときも、ショックはショックだったが、悲しいという思いは、わいてこなかった。

 が、それが親類や、さらに身内となると、そうはいかない。が、そのときも「その人が死んで、
悲しい」というよりは、「自分の過去が消えていく」というさみしさのほうが、先にくる。その人の
死を悼(いた)むというよりは、どこか自分のために、その人の死を、悔やむといったほうに近
い。

 では、家族は、どうか? これについては、こんな話がある。

 私も、晴れて孫をもち、ジジイの仲間入りをした。ジジイの気持ちが、理解できるようになっ
た。そこである日、ふと、幼稚園児たちに、こう聞いてみた。

 「みんなには、おじいちゃん、おばあちゃんは、いるかな?」と。すると何人かの子どもたち
が、「もう、死んだ」と答えた。

 そこですかさず、「おじいちゃんや、おばあちゃんが死んだとき、悲しかったかな?」と聞いて
みた。すると、最近、祖父母をなくした子どもたちですら、全員(4、5人)、「ううん。悲しくなかっ
た」「ゼンゼン」と答えた。

 「そういうものかなあ」と思った。「反対に、孫が死んだら、ジジイにせよ、ババアにせよ、狂っ
たように悲しむのに」とも。

●幸福の追求

 幸福の追求とは、何か。

 あるいは、どういう状態を、幸福というのか。

 おいしいものを食べ、きれいな衣服を身にまとい、快適な家に住むことなのか。

 私とて、お金は、嫌いではない。しかしお金では、幸福は、買えない。(反対に、お金がなく
て、不幸になる人は、いくらでもいるが……。)

 しかし幸福感ほど、わかりにくい感覚はない。欲望を満足させたときを幸福と言うのなら、そ
れは、まちがっている。満腹になったとき。予定外のボーナスが、舞いこんできたとき、そういう
とき感ずる満足感は、ここでいう幸福感とは、無縁のものである。

 で、私は、最近、幸福とは、まわりの人たちの心の中で、やすらぎを感ずることではないかと
思い始めている。まだそう思い始めたばかりで、それが結論というわけではない。

 しかし孤独から自分が解放されたと感じたとき。そういう状態を、幸福というのではないか、
と。言いかえると、孤独との戦い。その戦いを通して、その反射的効果として与えられる感覚
が、幸福という感覚ではないか、と。

 そういう意味で、幸福と孤独は、コインの表と裏のようなものかもしれない。孤独と戦うこと
で、その人は、幸福になれる。しかしいくら、欲望を満足させても、そこに孤独を感ずるようであ
れば、その人は、決して、幸福とはいえない。

●孤独は、無間の地獄

孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。

彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも
受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求められないという、孤独を、である。彼自身
も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、それからもキズつけつづけた。どんな人も
孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっともきびしい、つまりは、真の空腹というこ
とになる。

 あのアリストテレスでさえ、「世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独
(friendless condition)は選ばないだろう(No one would choose a friendless existence on 
condition of having all the other things in the world. )」と述べている。

 孤独を、安易に考えてはいけない。「生きるということは、まさに孤独の闘い」と言っても、言
い過ぎではない。と、同時に、それは個人化が、いかにけわしい道であるかを意味する。

 もっとも若いときは、その孤独の意味すらわからない。健康で、死への恐怖もない。毎日がス
リルと興奮の連続。そんな感じですぎていく。孤独を感ずることがあるとするなら、何かのことで
つまずき、ふと立ち止まったようなときだ。

 「私は私」という生きザマの中で、自分のカラに入ることは、同時に、その孤独を背負うことを
意味する。

 ではどうすればよいのか。

 そのヒントとして、マザーテレサは、「愛」があると、書いている。

●まず自分を知る

 まず、自分の中の自己中心性を知る。すべては、ここから始まる。

 が、これがむずかしい。どの人も、自分のことは、自分が一番よく知っていると思っている。あ
る意味ではそうだ。谷間に住んで、山に登ったことがない人には、自分の村の姿の全体像は
わからない。

 「私」もそうで、私を知るためには、一度、視点を、私の外に置いてみなければならない。私
を、私の目を通して見ているかぎり、私など、ぜったいにわからない。

 先日も、私は幼児の前で、わざと計算ができないフリをしてみせた。「3たす5は……? エ〜
と」と。そして電卓をパチパチとたたいてみせたら、一人の子どもが、こう言った。「あんたは、
本当に、センセイ?」と。

『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスにま
つわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないという事実を知ること」を、無知の
知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなこともあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーといいます」
と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャーではなく、カレン
ダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見ているんだ
ろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カレンダーも知ら
ないのオ?」と。

 私はま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣さの中
に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだって、無数
の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そしてその状態は、庭
に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのではない
か。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわない?
 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわないと思って
いる。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったとしても、
自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、気づいていない
からである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見ればよいと
いうこと。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、結局は、自分を知
ることの第一歩ということになる。

●利己から利他への転換

 自分の中の自己中心性を知るのは、そういう意味では、たいへんむずかしい。仮にあなたが
そうであるとしても、それに気づくことは、至難のワザである。が、もし、あなたが、「さみしい」
「孤独だ」「友がいない」「わかってくれる人がいない」と感じているなら、まず、自分の自己中心
性を疑ってみたらよい。

 すべては、ここから始まる。

 ひょっとしたら、あなたは、自分のカラに閉じこもり、自分だけを愛しているだけかもしれな
い。幻想と幻惑にとりかこまれ、「私は愛されている」「愛されて当然」「尊敬されている」「尊敬さ
れて当然」と思っているだけかもしれない。

 本当のところ、だれも、あなたを愛してはいない。尊敬もしていない。もっと言えば、あなたが
死んだところで、だれも悲しまない。

 型どおりの葬儀。型どおりの弔辞。型どおりの法事。それを繰りかえすうち、やがてあなたの
ことなど、だれも話さなくなる。

 実は、そのことを、あなた自身が一番よく知っている。が、それを認めることは、あなたにとっ
ては、人生の敗北。だから懸命に虚勢を張って、そうでない自分を演出する。

 「私は、孤独ではない」「私には、友が多い」「私は、みんなから愛されている」と。

 このタイプの人間は、夜のバラエティ番組に出てくるタレントたちを見れば、わかる。派手な衣
装を身にまとい、金ピカピカの装飾品で、それを飾る。そして言うことは、いつも同じ。

 「X国の皇族たちとも、私は友人でして……」と。

 しかしそういうタレントが死んで、だれが悲しむだろうか。涙を流すだろうか。

 そう、あなたは孤独だ。あなたが身を置いて、その心を休める人は、だれもいない。

 ……と、そこまで気づいたら、あとは、簡単。本当に簡単。ウソのように簡単。

 一度、ためしに、相手の心の中に自分を置いて、その相手の心の中から、自分がどう見える
か、ちょっとだけ試しに、見てみてほしい。

 あとは、少しずつ、その機会をふやしていく。それでよい。それであなたは、利己から、自分を
切り離すことができる。

 が、いつまでも利己にこだわっていると、あなたは、無間の孤独地獄から、解放されることは
ない。それについて、たびたび考えてきたので、今まで書いた原稿の中から、いくつかを選ん
で、収録する。

+++++++++++++++++++

●孤独からの解放、それが自由

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝8章32節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由に
なれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸
締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったもの
に対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはで
きないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがら
なくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる
と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言え
ば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた
原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文無しの人
は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことに
なる。真の自由を手に入れたことになる。

その境地に達することができるようになるかどうかは、今のところ自信はない。ないが、しかし
一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてくれた。

●では、どうすればよいのか?

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ
は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ
て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ
ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た
ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって
いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい
う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も
それに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ
た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに
も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世
界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……かもし
れない」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解
くカギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれ
た地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わから
ない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なこと
に、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行
え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。

彼の言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちが
ってはいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦
「大般涅槃経」)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 孤独
 孤独論 利他 利己 自己愛 自己愛者)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1530)

【今朝・あれこれ】(9月19日)

●おかしな健康法

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ちょうどランチタイム時に、毎日、ある健康番組
が、テレビで流されている。

ときどき私もかいま見るが、「?」なものばかり。
昨日も、そうだった。

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 ちょうどランチタイム時に、毎日、テレビで、ある健康番組が流されている。ときどき見るとも
なしに、見てしまう。が、このところ、「?」なものばかり。昨日も、そうだった。

 おおざっぱに言えば、昨日の番組では、要するに、カルシウムは、腸内の悪玉脂肪分を洗い
流す作用があるというもの。だからカルシウムを適切に摂取すれば、ガンになりにくくなる。そ
のためには、毎日牛乳を、コップ2杯程度、飲むとよい、と。

 詳しい内容は、忘れた。「コップ2杯」ではなく、「1杯」だったかもしれない。いつものクイズ形
式で、司会者が、そんなようなことを言っていた。

 一見、「なるほど」と思うような番組だが、よくよく考えてみると、おかしい。カルシウムにそうい
う作用があるとしても、牛乳イコール、カルシウムではないはず。牛乳には、ほかにもいろいろ
な成分が含まれている。カルシウムは、その一部にすぎない。もちろん脂肪分も含まれてい
る。3〜5%は、含まれている。

 専門のドクターが、ゲストとして出演していたが、こうした重箱の隅をほじくりかえすような健康
論には、もう少し慎重であるべきではないのか。「〜〜を食べたら、健康に悪い」「〜〜を食べ
たら、健康にいい」と。そんな健康法に、どれだけの意味があるというのか。

 少し前も、「ウナギには、牛肉のx倍もの〜〜が含まれている。だから〜〜を補充するために
は、ウナギがいい」というようなことを言っていた。

 しかし最近、ウナギの値段があがった。仮にウナギに、牛肉の2倍もの〜〜が含まれている
としても、ウナギの値段が2倍だとするなら、牛肉を食べたほうが、安あがり。それに牛肉な
ら、毎日でも何とか食べられるが、ウナギとなると、そうはいかない。1度食べたら、少なくとも1
週間は、食べられない。

 食と健康に関しては、東洋医学でも、詳しく論じている。しかし見方によっては、こうした番組
より、はるかに合理的である。

 たとえば酸っぱい味は「肝」に入りやすい。苦い味は「心」に入りやすい。甘い味は「脾」に入
りやすい……(素問・陰陽応象大論)と。

 もちろん東洋医学でいう、「肝」「心」「脾」は、現代医学でいう、肝臓、心臓、脾臓のことではな
い。もう少し観念的なものである。東洋医学でいう「肝」とは、「きも」のこと。「肝っ玉の太い人」
というときの、「肝」である。「心」についても、同じ。

 詳しくは、私が書いた、『目で見る漢方診断』(HPに収録)を読んでほしい。

 で、こうした種々雑多な健康法を、仮に毎日見たとして、本当にその人は、健康になれるのだ
ろうか。健康を維持できるのだろうか。まさに情報の洪水。聞くところによると、司会者をしてい
る、M氏は、たいへんなヘビースモーカーと聞いている。顔色も、どす黒く、とても健康な人のそ
れとは言いがたい。

 さらに言えば、こういう番組を10年以上も流しているわけだから、それなりの健康論を確立し
てもよさそうなものである。健康哲学である。それが無理だとするなら、せめて「知識」だけでも
よい。それが番組の進行上のやり方なのかもしれないが、M氏は、いつも、真っ白な脳みそ
で、番組を始める。まったくの素人。そんな感じで、番組を始める。

 わかりやすく言えば、M氏の学習能力は、ゼロ(?)。M氏自身が知識の洪水の中で、右往
左往しているだけ。つまり司会者がそうだから、それを見ている視聴者もまた、知識の洪水の
中で、右往左往しているだけ。

 牛乳の中のカルシウムを使って、町内の悪玉脂肪分を洗い流すというのなら、最初から、牛
乳など、飲まないこと。先にも書いたが、牛乳には、3〜5%もの脂肪分が含まれている。

 仮にその意見が正しいとしても、数千種類もある食物の中から、1つや2つに注目したところ
で、それがどうだというのか。ここに書いたウナギにしても、いくら栄養価が高いからといって、
毎日それを食べていたら、たいへんなことになる。最近では有害な抗生物質が、大量に、ウナ
ギの養殖に使われているといううわさも流れている。そういう問題もある。

 つまるところ、総論のない各論の連続。それがあの番組の特徴ということになる。一見、役に
立つ番組に見えるかもしれないが、その一方で、この日本に、誤解と偏見、それをまき散らし
ている。それはまさに「害」にこそなれ、「益」にはならない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【特集・キレる子供】

●子どもの暴力事件

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このところ校内暴力事件が、またまた
増加する傾向を見せ始めているという。

しかも小学校で、ふえているという。

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 このところ校内暴力事件が、またまた増加する傾向を見せ始めているという。しかも小学校
で、ふえているという。

 いろいろな意見があるのだろうが、つまりそれだけ、子どもたちの心に蓄積されるストレス
が、増大しているということになる。ストレスという言葉は、もともとは、(圧力)(緊張)を意味す
る(研究社・英和辞典)。そしてその原因はといえば、過重負担であることは、今さら、言うまで
もない。

 この浜松市を例にあげても、5、6年前に公立の中高一貫校ができてから、子どもの入試環
境が一変してしまった。受験戦争そのものが、低年齢化した。それまでにも中高一貫の私立学
校はあるにはあったが、この浜松では、公立学校より、レベルとしては、低位に置かれてい
た。

 で、それまでは、入試といえば、高校入試をいった。受験戦争といえば、中学、高校でのこと
をいった。

 が、今はちがう。それが小学4年生レベルにまで、引き下げられてしまった。それなりの中学
校を目ざす子どもたちは、4年生くらいから、進学塾に通い始める。これから内面化……、つま
り精神の形成期というその時期に、こうした受験競争を経験する子どもは、不幸である。不幸
というより、その弊害は、はかり知れない。

 校内暴力は、その1つにすぎない。が、本当の問題は、ここにあるのではない。

 なぜ親たちが、まだ幼さを残す子どもたちの受験競争に狂奔するか。その背景にまでメスを
入れないと、この問題は解決しない。つまりこの日本そのものがもつ、格差社会、そこまでメス
を入れないと、この問題は、解決しない。親たちは、それから生まれる不公平を、日々の生活
を通して、毎日、いやというほど、見せつけられている。だからこう言う。

 「何だかんだと言ってもですね、うちの子は、そこそこのいい学校に入ってもらわねば、困る
のです」と。つまりこれが現実である。

 話が脱線したが、これからも、さらに子どもたちを包む環境は悪化し、それに合わせて、子ど
もたちの心は、より殺伐としたものになるだろう。

 ちなみに全国公立校05年度の集計調査によれば、小学生による校内暴力事件は、前年度
(04年度)にくらべて、128件増の、2018件もあったという。これで3年連続で、過去最多を
記録したことになる。

 中でも教員への暴力行為は、前年度の336件から、454件へと、38%も増加している。加
害児童が1人が、平均1・8人の教員に、暴力をふるっている。文科省は、「最初の問題行動が
あったあとでも、学校で適切な対応ができず、繰りかえすケースがふえている」(中日新聞)と
述べている。

【資料】

●小学生による暴力事件(05年度・全国公立校集計結果)

 学校外での暴力行為……計2176件

 そのうち、子どもどうし……1073件(前年度、1126件)
      器物損壊  …… 582件(前年度、 544件)
      
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 校内
暴力 子供の暴力事件 暴力事件 低年齢化する暴力)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1531)

●挫折(ざせつ)

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挫折を知って、人は、はじめて、
やさしくなる。他人の心の暖かさが、
すなおにわかるようになる。

しかしだれしも、挫折を望んでいる
わけではない。

それはたとえて言うなら、病気の
ようなもの。重い病気のようなもの。

病気を経験して、人は、はじめて、
健康のありがたさがわかる。
運動の大切さが、わかる。

しかしだれが自ら、挫折を望むだろうか。
だれが自ら、病気を望むだろうか。

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 病気を経験して、はじめて、人は、健康のありがたさがわかる。運動の大切さがわかる。しか
しだれが、自ら、病気を経験したいなどと、思うだろうか。重い病気であるなら、なおさらだ。

 同じように、挫折を経験して、はじめて、人は、人生の底を流れる、その意味を知ることがで
きる。自分という人間を、(下)から見ることができる。ついで、人の世界を、(下)から見ること
ができる。

 それはそのまま、その人の(暖かさ)となって、はねかえってくる。(やさしさ)となって、はねか
えってくる。

 しかしだれが、自ら、挫折を経験したいなどと、思うだろうか。健康にしても、できれば、日々
に、健康でありたい。いつも健康でありたい。同じように、人生は、できれば、何ごともなく、平
和でありたい。のんびりと安楽に暮らしたい。

 そこで賢人は、今そこにある(価値)を、失う前に知る。またそういう人を賢人という。愚人は、
それを失ってから、その(価値)を知る。またそういう人を愚人という。病気や挫折を、かならず
しも経験する必要はない。とくに病気というのは、その人の意思と努力で、ある程度、予防する
ことができる。そうでない病気もあるが、自分の意思と努力で、まだ戦うことができる。

 挫折は、どうか? 実は、私も、一度、その挫折をしている。M物産という商社をやめ、幼稚
園講師になったときのこと。いや、講師になったことそのものは、自ら望んでなったから後悔は
していない。が、そのあと母にだけは……と思って、そのことを母に告げたときのこと。私の母
は、電話口の向こうで、オイオイというより、ギャーギャーと泣き崩れてしまった。

 そのとき、私は、生まれてはじめて、大きな挫折感を味わった。「死」を、すぐそこに感じた。
具体的には、毎日、「死んではだめだ」と、自分に言い聞かせながら、懸命に自分を支えた。

 人間というのは、どん底に落とされると、2種類のタイプに分かれる。そのとき、それを学ん
だ。ひとつは、邪悪なまでに貪欲(どんよく)になるタイプ。もうひとつは、バカみたいに、クソまじ
めになるタイプ。中間は、ない。

 それにもうひとつ、私が学んだことがある。それは先にも書いたように、人は、人生の底を流
れる、その意味を知ることができるということ。何が大切で、何がそうでないか、それを知ること
ができる。はっきりと知ることができる。

 決して、挫折することを、恐れてはいけない。だれしもそれを望むわけではないが、仮にそう
いう状況を前にしても、恐れてはいけない。恐れたとたん、悪魔はキバをむいて、私たちに襲
いかかってくる。

 が、問題は、子どもたちである。年齢も20歳前後になり、それなりに処理能力の備わった子
どもなら、まだよい。しかし10歳とか、15歳の子どもは、どうか?

 しかしこの時期、子ども自らが、挫折するということはない。だから絶望するということもない。
挫折するためには、それなりに自分の生き様がかたまっていなければならない。その生き様が
かたまっていない子どもに、挫折ということは、ありえない。

 が、何かの失敗を、心のキズ(トラウマ)としてしまうことは、よくある。

 よい例が受験ということになる。しかし誤解してはいけない。それによって、子どもに深い絶望
感を与えるのは、子ども自身ではなく、親である。子どもが受験に失敗したとき、同時に、親
は、無意識的であるにせよ、子どもに、「あなたはダメな子」というレッテルを張ってしまう。これ
が子どもに、深い絶望感を与えてしまう。言うなれば、親が覚える挫折感を、そのまま子どもに
移植してしまう。

 ……ということで、少し内容が脱線してきたので、この話はここまで。

 賢人になるか、愚人になるか。どちらを選ぶかかは、自ら考える習慣があるかどうかで、決ま
る。繰りかえすが、賢人は、今そこにある(価値)を、失う前に知る。またそういう人を賢人とい
う。愚人は、それを失ってから、その(価値)を知る。またそういう人を愚人という。

 健康しかり、人生の意味しかり、そしてまた子どものよさ、しかり。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●コバルトブルーの空

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今朝(9月20日)は、午前4時に
起きた。

まだ明けやらぬ、海の写真を取りたかった。
それでその時刻に起きた。

まだ外は、まっ暗だった。

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 ときどき、朝の海の写真を取るために、近くの中田島砂丘まで行く。しかしいつも、ある程度、
明るくなってから。

 しかし今日は、ちがう。たまたまトイレへ行くために、起きたときのこと。時計を見ると、午前3
時半。決心するまでに、20〜30分かかった。が、私は、床から起きあがった。「今日こそ、取
ってやる!」と。

 再び時計を見ると、午前4時。外は、真っ暗。細い三日月が、東の空に、くっきりと見えた。

 私はハナ(犬)に散歩用の綱をつけると、そのまま自転車にまたがった。海に向かった。肌寒
い風が、サーッと身を包んだ。

 ……ということで、今日は、その朝の海の写真を、思う存分、取ることができた。ついでに、オ
リオン座が美しく輝く、夜空も取ることができた。

 そうそう、あなたはコバルトブルーの空を知っているか? 緑味を帯びた、淡い水色の空だ。
今朝の空が、そうだった。ほんのりと明るくなった東の空から、行く筋もの淡い水色の光の帯が
空に流れ、その間に、そのコバルトブルーの空が広がっていた。

 美しかった。本当に美しかった。まるで自分がまだ夢の中にでもいるような気分だった。私
は、夢中で、その空にめがけて、何度もシャッターを切った。ただデジタルカメラの限界という
か、そのつど取った写真をモニターで見たのだが、実際の色とは、ちがったものになっていた。
(残念!)コバルトブルーかなという感じは出ていたが、私が見たものとはちがっていた。

 実に、微妙な色だった。しかしその雰囲気は、じゅうぶん味わってもらえると思う。この原稿と
ともに、マガジン(楽天日記)のほうに載せておく。

 それにしても、朝の海は、気持ちよい。いつ行っても気持ちよい。また近く、行こう!

 みなさん、おはようございます! 今日は9月20日、水曜日。

Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1532)

【特集・キレる子ども】

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キレる子どもについて、
私の経験から……

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 突発的に、きわめて衝動的に暴力を振るう子どもというのは、たしかにいる。私は、大きく、
つぎの3つのタイプに分けて考えている。

(1)ピリピリ型(いつも神経がピリピリしているタイプ、頭のキレる子どもに多い)
(2)むっつり型(何を考えているかわからないタイプ。ふだんは静かで、穏やか)
(3)ゲーム型(目的もわからないまま、ゲーム感覚で、とんでもないことをする。)

 ピリピリ型というのは、ふだんから、神経が過敏状態になっていて、静かな落ち着きが見られ
ないタイプをいう。頭の回転が速く、その分、学習面で、優秀な成績を示す。ささいなことで、突
発的に衝動的な行動に出る。

【Kさん(小6女児)】

 私が、いつもKさんが座る席でお茶を飲んでいたときのこと。休み時間でのことである。突
然、Kさんがうしろからやってきて、笑い声で、「やあ、先生!」と声をかけてきた。私が、「ああ」
と答えたその瞬間、もっていたバッグで、思いっきり、頭を側面から叩いてきた。

 メガネはふっとび、私は、イスからころげ落ちた。

【Tさん(小5女児)】

 私が別の子ども(小5女児)と、何かのことでふざけて冗談を言いあっていたときのこと。Tさ
んが、私に何かを話しかけてきた。無視したわけではないのだが、そのまま別の子を、笑いあ
っていた、そのとき。もっていた大型のワークブックで、私の頭を上からバシッと叩いてきた。衝
撃で、メガネは下に落ち、鼻の横を1センチほど、切った。

 むっつり型というのは、ふだんは、何を考えているかわからないタイプの子どもをいう。印象
に残っている子どもに、R子(小6)がいた。4年前に書いた原稿だが、それをそのまま紹介す
る。

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●不自然さは要注意

 子どもの動作や、言動で、どこか不自然さを感じたら、要注意。反応や歩き方、さらにはしぐ
さなど。「ふつう、子どもなら、こうするだろうな」と思うとき、子どもによっては、そうでない反応
を示すことがある。最近、経験した例をいくつかあげてみる。

【S子の例】

教室へ入ってくるやいなや、突然大声で、「先生、先週、ここにシャープペンシルは落ちていま
せんでしたか!」と。「気がつかなかった」と答えると、大げさなジェスチャでその女の子(小5)
は、あたりをさがし始めた。

しばらくすると、「先生、今日は、筆箱を忘れました」と。そこで私が、「忘れたら忘れたで、最初
からそう言えばいいのに」とたしなめると、さらに大きな声で、「そんなことはありません!」と。
そして授業中も、どうも納得できないというような様子で、ときおり、あたりをさがすマネをしてみ
せる。私が「もういいから、忘れなさい」と言うと、「いえ、たしかにここに置きました!」と。

【A君の例】

A君(小3男児)が、連絡ノートを忘れた。そこでまだ教室に残っていたB君(小三男児)にそれ
を渡して、「まだA君はそのあたりにいるはずだから、急いでもっていってあげて!」と叫んだ。

が、B君はおもむろに腰をあげ、のんびりと自分のものを片づけたあと、ノソノソと歩き出した。
それではまにあわない。そこで私が「いいから、走って!」と促すと、こちらをうらめしそうな顔を
して見るのみ。そしてゆっくりと教室の外に消えた。

【R子の例】

R子(小6)が教室に入ってきたので、いつものように肩をポンとたたいて、「こんにちは」と言っ
たときのこと。何を思ったからR子は、いきなり私の腹に足蹴りをしてきた。「この、ヘンタイ野
郎!」と。ふつうの蹴りではない。R子は空手道場に通っていた。私はしばらく息もできない状
態で、その場にうずくまってしまった。そのときR子の顔を見ると、ぞっとするような冷たい目を
していた。

こうした「ふつうでない様子」を見たら、それを手がかりに、子どもの心の問題をさぐってみる。
何かあるはずである。が、このとき大切なことは、そうした症状だけをみて、子どもを叱ったり、
注意してはいけないということ。何か原因があるはずである。だからそれをさぐる。

たとえばシャープペンシルをさがした女の子は、異常とも言えるような親の過関心で心をゆが
めていた。B君は、いわゆる緩慢行動を示した。精神そのものが萎縮している子どもによく見ら
れる症状である。また私を足蹴りにした女の子は、そのころ両親は離婚、母親には、愛人と再
婚話をしている最中だった、など。

 一方、心がまっすぐ伸びている子どもは、行動や言動が自然である。「すなお」という言い方
のほうがふさわしい。こちらの予想どおりに反応し、そして行動する。心を開いているから、や
さしくしてあげたり、親切にしてあげると、そのやさしさや親切が、スーッと子どもの心にしみて
いくのがわかる。そしてうれしそうにニコニコと笑ったりする。

「おいで」と手を広げてあげると、そのままこちらの胸に飛び込んでくる。そこであなたの子ども
を観察してみてほしい。何人か子どもが集まっているようなところで観察するとわかりやすい。
もしあなたの子どもの行動や言動が自然であればよい。しかしどこか不自然であれば、あなた
の子育てのし方そのものを反省してみる。子どもではない。あなた自身の、だ。
(02−10−20)

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 この中に書いたR子については、そのとき受けた暴力がふつうではなかったため、とくに印象
に残っている。へたをすれば内臓が破裂していたかもしれない。それほど強烈な蹴りであっ
た。

 このR子については、そのあと母親とゆっくり話す機会があったので、そのことを報告すると、
母親はこう言った。

 当時R子の両親は離婚を前提とした別居状態であった。父親には愛人がいて、家に帰らない
日も多かったという。母親は「それが原因ではないでしょうか」と言った。

 もう1人印象に残っている子どもに、T君(小3・男児)がいた。

 ある日、子どもたちの解いた問題を順に採点しているときのこと。あと1、2人でT君というとき
になったそのとき、突然、T君が、「ギャーッ」と動物的な声を張りあげて、暴れ出した。

 あまりにも突発的で、制止する間はなかった。近くにあった机をもちあげると、それを、となり
の机に向かって投げた。私はT君にとびかかって、T君を床に押し倒し、上から自分の体重で、
T君を押さえた。

 あとで見たら、T君の解答用紙は、ほとんど白紙だった。

 また3番目のゲーム型についても、印象に残っている子どもに、F君(小4・男児)がいた。つ
ぎの原稿に出てくる、(2)の、(バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども)というの
が、その子どもである。

 この原稿は、「乱暴な子ども」というテーマで書いたもので、話が少し脱線するかもしれない
が、許してほしい。

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●乱暴な子ども

乱暴な子どもといっても、一様ではない。いろいろなタイプがある。かなりおおざっぱな分け方
で、正確ではないが、思いついたままあげてみると……。

(1)家庭不和など、愛情問題が原因で荒れる子ども……いわゆる欲求不満型で、乱暴のし方
が、陰湿で、相手に対して容赦しないのが特徴。先生に叱られても、口をきっと結んだまま、涙
を見せないなど。どこかに心のゆがみを感ずることが多い。自ら乱暴をしながら、相手の心を
確かめるようなこともする。ふつう嫉妬がからむと、乱暴のし方が、陰湿かつ長期化する。

(2)バランス感覚に欠け、善悪の判断ができない子ども……このタイプの子どもは、ときとし
て、常識をはずれた乱暴をする。たとえば先生のコップに、殺虫剤を入れたり、イスの上に、シ
ャープペンシルを立てたりする、など。(知らないで座ったら、おおけがをする。)相手の子ども
がイスに座ろうとしたとき、さっとイスを引き、相手の子どもにおおけがをさせた子どももいた。
してよいことと、悪いことの判断ができないために、そうなる。もともと遅進傾向がある子ども
に、よく見られる。

(3)小心タイプの子ども……よく観察すると、乱暴される前に、自ら乱暴するという傾向がみら
れる。しかったりすると、おおげさに泣いたり、あやまったりする。ひとりでは乱暴できず、だれ
かの尻馬に乗って、乱暴する。乱暴することを、楽しんでいるような雰囲気になる。どこか小ず
るい感じがするのが特徴。

(4)情緒不安定型の子ども……突発的に、大声を出し、我を忘れて乱暴する。まさにキレる状
態になる。すごんだ目つき、鋭い目つきになるのが特徴。一度興奮状態になると、手がつから
れなくなる。ふだんは、どちらかというと、おとなしく、目立たない。

このタイプの子どもは、その直前に、異様な興奮状態になることが多い。直前といっても、ほん
の瞬間的で、おさえるとしても、そのときしかない。心の緊張感がとれないため、ふだんからど
こかピリピリとした印象を与えることが多い。

(5)乱暴であることが、日常化している子ども……日ごろから、キックやパンチをしながら、遊
んでいる。あいさつがわりに乱暴したりする。そのためほかの子どもには、こわがられ、嫌われ
る。

 乱暴な子どもについて考えてみたが、たいていは複合的に現れるため、どのタイプの子ども
であるかを特定するのはむずかしい。また特定してもあまり意味はない。そのときどきに、「乱
暴は悪いこと」「乱暴してはいけない」ことを、子どもによく言って聞かせるしかない。力でおさえ
ようとしても、たいてい失敗する。とくに突発的に錯乱(さくらん)状態になって暴れる子どものば
あいは、しかっても意味はない。私のばあいは、相手が年少であれば、抱き込むようにしてそ
れをおさえる。しばらくその状態を保つと、やがて静かになる。

【S君、小2のケース】

 ささいなことでキレやすく、一度キレると、手や足のほうが、先に出てくるというタイプ。能力的
には、とくに問題はないが、どこかかたよっている感じはする。算数は得意だが、漢字がまった
く書けない、など。

 そのS君は、学校でも、何かにつけて問題を起こした。突発的に暴れて、イスを友だちに投げ
つけたこともある。あるいはキックをして、友だちの前歯を折ってしまったこともある。ときに自
虐的に、机をひどくたたいて、自分で手にけがをすることもあった。私も何度か、S君がキレる
様子を見たことがあるが、目つきが異常にすごむのがわかった。無表情になり、顔つきそのも
のが変わった。

 そういうS君を、乳幼児のときから、母親は、ひどくしかった。しばしば体罰を加えることもあっ
たという。しかしそのため、しかられることに免疫性ができてしまい、先生がふつうにしかったく
らいでは効果がなかった。そこで先生がさらに語気を荒げて、強くしかると、そのときだけは、
それなりにしおらしく、「ごめん」と言ったりした。

 今、S君のように、原因や理由がわからないまま、突発的に錯乱状態になって暴れる子ども
がふえている。脳の微細障害が原因だとする研究者もいる。「まだ生まれる前に、母親から胎
盤をとおして、胎児の体の中に侵入した微量の化学物質が脳の発達に変化をもたらし、その
人の生涯の性格や行動を決めてしまうのではないか」(福島章氏「子どもの脳が危ない」PHP
新書)と。

じゅうぶん考えなければならない説である。

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 さらに私も、一度、こんな経験をしている。記録によれば、03年とあるから、もうそれから3年
になる。しかしそのとき受けたキズは、今でも、目の上に、しっかりと残っている。私は、あやうく
失明するところだった。

 そのとき書いた原稿をそのまま紹介する。

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●メガネ

 このところ朝起きると、どこかモノがかすんで見える。白内障か?、と思ったが、原因は、メガ
ネの汚れだった。もうこのメガネも、買って10年になる。硬質ガラスでできているというが、表
面は、すり傷だらけ。そろそろ買い替えの時期がきたようだ。

 私がメガネをかけるようになったのは、中学1、2年のころではなかったか。周囲にメガネを
かけている人が多く、私のばあい、メガネをかけるのに、それほど抵抗はなかった。以来、40
年以上、メガネをかけている。

 メガネを嫌う人も多いが、もしメガネをかけていなければ、私は、3度、失明していただろうと
思う。1度は、山の中へタラの芽を取りに入ったときのこと。バシッとタラの木が、私のメガネを
たたいた。タラの芽を取ろうと、木を引き寄せたときのことだった。あとで見ると、メガネの上と
下に、大きな切り傷ができていた。

 もう1度は、バイクで運転していたときのこと。S湖のまわりを猛スピードで走っていたら、これ
またバシッと、メガネに何か当たった。見ると、コガネ虫だった。コガネ虫がメガネに当たり、メ
ガネの上で飛び散っていた。

 さらにもう1度は、こんな事件だった。中学2年生のM君と対峙して、数学を教えていたときの
こと。私が目を閉じたまま、うつらうつらと、M君の話を聞いていた。そのときだ。何を考えた
か、M君が、シャープペンシルを、私の顔と机の間に立てた。私はそれを知らず、そのまま頭
を下へ振った。とたん激痛!

 シャープペンシルの先はメガネのおかげで目をそれ、眉間の下に突き刺さった。とたん、大
量の鮮血が顔面に飛び散った。もしそのときメガネをかけていなければ、シャープペンシルの
先は、まともの眼球に突き刺さっていた。そういう位置関係にあった。

 だからメガネに、私は3度、目を守られたことになる。いろいろ不便はあるが、これからもずっ
とかけつづけるつもり。

 そのメガネについての余談だが、私は、いわゆるメガネ族だから、どういうわけか、メガネを
かけている人に親しみを覚える。女性でも、メガネをかけている人のほうに魅力を感ずる。これ
はどういう心理によるものかわからないが、本当の話。

 もう一つ余談だが、あのシャープペンシルをつき立てたM君は、いわゆるお宅族と呼ばれる
子どもで、幼いときからテレビゲームばかりしていた。そのためか、ものの考え方が、どこか現
実離れしていた。恐らくシャープペンシルをつき立てたときも、ゲーム感覚ではなかったか? 
このタイプの子どもは、何かにつけて常識ハズレになりやすい。
(030216)※

++++++++++++++++++

 キレるといっても、内容はさまざま。それに応じて、原因もいろいろ考えられる。で、私のばあ
い、こうした例が、あまりにも多いため、「子どもというのは、そういうもの」という前提で、対処し
ている。

 さらにここに書いた、(ピリピリ型の子ども)にしても、親に報告しても、ほとんど意味がない。
親(とくに母親自身)も、ピリピリした感じの人が多い。私の頭を側面からバッグでたたいてきた
Kさん(小6・女児)にしても、一度、母親にそのことを報告しなければと思いつつ、結局は、そ
の機会がないまま終わってしまった。

 母親に話したら、今度はその母親がキレて、娘のKさんに暴力を振るっていたかもしれない。

 以下、参考までに、今まで書いた原稿のうち、いくつかをここに収録しておく。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【かんしゃく発作】

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私のHPの掲示板の相談コーナーに、つぎのような相談がありました。
かんしゃく発作が、あまりにもはげしいので、どうしたらよいかというご質問です。
今回は、これについて、考えてみたいと思います。

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生後2週間の頃から、15時間連続で起きていたこともあるほど、まとめて寝ない子(寝る環境
作りはいろいろと工夫しましたが無理でした)で、起きている時間は抱っこして歩きまわらない
と、グズってばかりの娘でした。

寝る子は育つと言うのに、こんなに寝なくて大丈夫なものかと病院に行ったほどでしたが、至っ
て健康で、人なつっこく男の子顔負けのやんちゃ娘に成長していきました。

好奇心旺盛で、喜怒哀楽がとてもハッキリしていて(嬉しいと興奮しすぎるほど喜ぶし、怒ると
手がつけられないほど泣き暴れます)、活発なので、やんちゃすぎて手はかかりますが、幼い
頃おとなしかった私にしてみたら、すごく張り合いがあって自慢の娘です。

でもやっぱり神経質というか、頑固すぎるところがあり、2歳になってどう扱ったらいいか分から
なくなることが増えました。魔の2歳児というほど、2歳は周りの子もみんな反抗期+何でも自
分で!、という時期なので、ある程度は仕方ないと腹をくくって毎日気長に接していました。

赤ちゃんの頃から手がかかる子だったので、今でも私にベッタリなこともあり、スキンシップは
たっぷり取れているつもりでいるのですが・・・。はやしさんのエッセイで、「わがまま」と「頑固」
の違いなどについて書かれていたを読んで、うちの娘は頑固すぎるのかなぁと思い、相談させ
ていただこうと思いました。

2歳になってから、とにかく何でも自分でしないと気が済みません。着替えも、ちょっと手を出す
と気が狂ったように泣き叫んで、怒って服が破れそうなほど引っ張って全部脱いでしまいます。

もともと好奇心旺盛な子なので、1歳のころから自分でできることなら、何分でもつき合ってあ
げて、危険なことでない限り何にでも挑戦させてあげてきました。でもまだ2歳だからどうがん
ばっても無理なこともいっぱいあります・・・。

三輪車も、何としても自分で運転する!っていう気迫で、購入して1週間で自分でこげるように
なり、私が後ろの押し手を押すと、「イヤ!」と言って横断歩道の真ん中でも足を踏ん張って動
かなくなってしまいます。

また、夫に似て、正義感が強く変に真面目なところがあり、公園などでは順番や物の貸し借り
のルールをすごく理解しています。なので順番を守れない子がいたり、自分はおもちゃを「どう
ぞ」と貸してあげられたのに、相手が貸してくれないようなことが何度も重なると、手がつけられ
ないほど暴れて30分以上泣き止んでくれなくなります。

以上に書いたようなことは、2歳児ならみんなあることだとは思うのですが、かんしゃくを起こし
たときの激しさが、ほんとにすごいんです。

今日はおもちゃの貸し借りがうまくできないことが続いて(相手の子が何が何でも自分のおもち
ゃは貸さない!と言ってすぐ泣く子でした)、お友だちも娘もお昼寝の時間になり眠たそうで機
嫌が悪かったので、お片づけして今日は「バイバイ」しようと言った後、気が狂ったように泣き出
しました。

「バイバイ嫌!!」と言って、すごい勢いで走り出して、道路に何度も飛びだそうとするから、阻
止して、落ち着かせようと抱きしめてあげたら余計に泣き叫びました。すごく激しく暴れるので
何度も道路や壁に頭を打って大変でした。

パニックになると「ぎゃーー!!」と泣き叫びながら私から離れて、走って行ってしまいます。室
内など、少々走り回っても大丈夫な場所なら、ある程度落ち着くまで暴れさせてあげて、落ち着
き始めた頃にギューっと抱きしめてあげると少しずつ私に寄り添ってくれて、笑顔を見せてくれ
るます。

が、走り回れない野外だと、私が触れるたびにさらに火がついたように泣き叫んで、いつまで
たっても落ち着いてくれず、親子ともどもどろんこになりながら、1時間近く格闘しなきゃいけな
いことになります。あまりに激しいので、街行く人たちも白い目で見るというのを通り越して、ど
こか病気?にでもなったのかというぐらい怖い物を見るように心配されたりします。

1歳代の頃から、気に入らないことがあるとしょっちゅう道路に寝転がってダダをこねる子だっ
たので、それぐらいのことで人目が気になったりはしないのですが、ここまで激しいと私まで泣
きたくなります。

「どうぞ」ができたことをいくら誉めてあげても、相手が泣いていたりすると自分が悪いと思って
しまい、何度も何度もそういうことが重なると爆発するみたいです。気は強いので、自分が今遊
びたいものを我慢して貸してあげたりすることはなく、今遊んでないものをきっちり選んで貸して
あげます。なので我慢が爆発するという感じでもないです。

こんなに激しく泣き続けても、泣き止んだら何事もなかったように、いつもの太陽みたいな笑顔
を見せてくれます。私にギューっと抱きついて、「お母さん、大好き〜」と言ってくれます。「イヤ
イヤ!」は思いっきり発散させた子の方が後々いい子になるって聞くので、反抗期が激しいの
はいいことなのかもしれませんが、こんな娘の性格を伸び伸びと伸ばしてあげるにはどう接し
ていけばいいのでしょうか?

うまく文章に表せたか分かりませんが、アドバイスいただけたらとても嬉しいです。よろしくお願
いします。

++++++++++++++++++++++++++++++

【YK様へ】

 かんしゃく発作にしては、かなりはげしいようですね。2歳前後であれば、ダダをこねる、がん
こになる、泣き叫ぶ程度で、しばらくすると、静かになるはずですが……。

 私の印象では、脳内で、何らかの仰天現象が起きているように思います。突発的な興奮性
と、その持続性が気になります。こういうケースで最近、よく話題になるのが、セロトニン悪玉説
です。

 脳内伝達物質にセロトニンがあり、それが過剰に分泌されると、子どもは、興奮状態になり、
過剰行動に出ることが知られれています(アメリカのミラー博士ほか)。

 その過剰分泌を引き起こすのが、たとえば、インシュリンの過剰分泌と言われています。つま
りたとえば一時的に、甘味の強い食品(精製された白砂糖の多い食品)を多量に接種すると、
インシュリンが、ドッと、分泌されます。

 血糖値はそれでさがるのですが、そのあともインシュリンが血中に残り、さらに血糖をさげま
す。こうしていわば、子どもが、低血糖の状態になるわけです。少し話がそれるかもしれません
が、少し前に書いた原稿を、参考までに、添付します。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●キレる子どもの原因?

 キレる子ども……、つまり突発的に過剰行動に出る子どもの原因として、最近にわかにクロ
ーズアップされてきたのが、「セロトニン悪玉説」である。

つまり脳間伝達物質であるセロトニンが異常に分泌され、それが毒性をもって、脳の抑制命令
を狂わすという(生化学者、ミラー博士ほか)。

アメリカでは、もう20年以上も前から指摘されていることだが、もう少し具体的に言うとこうだ。
たとえば白砂糖を多く含む甘い食品を、一時的に過剰に摂取すると、インスリンが多量に分泌
され、それがセロトニンの過剰分泌を促す。そしてそれがキレる原因となるという(岩手大学の
大澤名誉教授ほか)。

 このタイプの子どもは、独特の動き方をするのがわかっている。ちょうどカミソリの刃でスパス
パとものを切るように、動きが鋭くなる。なめらかな動作が消える。そしていったん怒りだすと、
カッとなり、見境なく暴れたり、ものを投げつけたりする。ギャーッと金切り声を出すことも珍しく
ない。幼児でいうと、突発的にキーキー声を出して、泣いたり、暴れたりする。興奮したとき、体
を小刻みに震わせることもある。

 そこでもしこういう症状が見られたら、まず食生活を改善してみる。甘い食品を控え、カルシ
ウム分やマグネシウム分の多い食生活に心がける。リン酸食品も控える。リン酸は日もちをよ
くしたり、鮮度を保つために多くの食品に使われている。

リン酸をとると、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしま
う。一方、昔からイギリスでは、『カルシウムは紳士をつくる』という。日本でも戦前までは、カル
シウムは精神安定剤として使われていた。それはともかくも、子どもから静かな落ち着きが消
えたら、まずこのカルシウム不足を疑ってみる。ふつう子どものばあい、カルシウムが不足して
くると、筋肉の緊張感が持続できず、座っていても体をクニャクニャとくねらせたり、ダラダラさ
せたりする。

 ここに書いたのはあくまでも1つの説だが、もしあなたの子どもに以上のような症状が見られ
たら、一度試してみる価値はある。効果がなくても、ダメもと。そうでなくても子どもに缶ジュース
を1本与えておいて、「少食で悩んでいます」は、ない。

体重15キロの子どもに缶ジュースを1本与えるということは、体重60キロのおとなが、同じ缶
ジュースを4本飲むのに等しい。おとなでも4本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボ
ガボになってしまう。もしどうしても「甘い食べもの」ということであれば、精製されていない黒砂
糖を勧める。黒砂糖には天然のミネラル分がバランスよく配合されているため、ここでいうよう
な弊害は起きない。ついでに一言。

 子どもはキャーキャーと声を張りあげるもの、うるさいものだと思っている人は多い。しかしそ
ういう考えは、南オーストラリア州の幼稚園を訪れてみると変わる。そこでは子どもたちがウソ
のように静かだ。サワサワとした風の音すら聞こえてくる。理由はすぐわかった。その地方では
どこの幼稚園にも、玄関先に大きなミルクタンクが置いてあり、子どもたちは水代わりに牛乳を
飲んでいた。
(はやし浩司 切れる子供 キレる子供 突発的過剰行動 過剰な行動)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。

まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうき
ん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔をして、直立! そしてそのまま
の姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感情も激しく変化する。目が回る
なんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。

小1児で、10人に2人はいる。今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子ども
が、1クラスに数人もいると、それだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒
ぐ。こちらを抑えればあちらが騒ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名
以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子ども
については、90%以上の先生が、経験している。

ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)などの友だちへの攻撃、「授
業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)などの授業そのものに対
する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ
 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子ど
もが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。

そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子ど
もを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていた
のがわかる。

ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているとき
は、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児
向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲ
ームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経
験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えら
れる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

(付記)

●ふえる学級崩壊

 学級崩壊については減るどころか、近年、ふえる傾向にある。99年1月になされた日教組と
全日本教職員組合の教育研究全国大会では、学級崩壊の深刻な実情が数多く報告されてい
る。

「変ぼうする子どもたちを前に、神経をすり減らす教師たちの生々しい告白は、北海道や東北
など各地から寄せられ、学級崩壊が大都市だけの問題ではないことが浮き彫りにされた」(中
日新聞)と。「もはや教師が一人で抱え込めないほどすそ野は広がっている」とも。

 北海道のある地方都市で、小学1年生70名について調査したところ、
 授業中おしゃべりをして教師の話が聞けない……19人
 教師の指示を行動に移せない       ……17人
 何も言わず教室の外に出て行く       ……9人、など(同大会)。

●心を病む教師たち

 こうした現状の中で、心を病む教師も少なくない。東京都の調べによると、東京都に在籍する
約6万人の教職員のうち、新規に病気休職した人は、93年度から4年間は毎年210人から2
20人程度で推移していたが、97年度は、261人。さらに98年度は355人にふえていること
がわかった(東京都教育委員会調べ・99年)。

この病気休職者のうち、精神系疾患者は。93年度から増加傾向にあることがわかり、96年
度に一時減ったものの、97年度は急増し、135人になったという。

この数字は全休職者の約52%にあたる。(全国データでは、97年度は休職者が4171人で、
精神系疾患者は、1619人。)さらにその精神系疾患者の内訳を調べてみると、うつ病、うつ
状態が約半数をしめていたという。原因としては、「同僚や生徒、その保護者などの対人関係
のストレスによるものが大きい」(東京都教育委員会)ということである。

●その対策

 現在全国の21自治体では、学級崩壊が問題化している小学1年クラスについて、クラスを1
クラス30人程度まで少人数化したり、担任以外にも補助教員を置くなどの対策をとっている
(共同通信社まとめ)。

また小学6年で、教科担任制を試行する自治体もある。

具体的には、小学1、2年について、新潟県と秋田県がいずれも1クラスを30人に、香川県で
は40人いるクラスを、2人担任制にし、今後5年間でこの上限を36人まで引きさげる予定だと
いう。

福島、群馬、静岡、島根の各県などでは、小1でクラスが30〜36人のばあいでも、もう1人教
員を配置している。さらに山口県は、「中学への円滑な接続を図る」として、一部の小学校で
は、6年に、国語、算数、理科、社会の4教科に、教科担任制を試験的に導入している。大分
県では、中学1年と3年の英語の授業を、1クラス20人程度で実施している(01年度調べ)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 キレ
る子供 キレる子供 突発的に暴れる子供 暴れる子ども 子供の暴力 暴力行為 衝動的 
衝動性)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●キレる子どもの相談

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数年前、キレる子どもについて、
ある母親から、こんな相談が届いて
いる。

そのとき書いた原稿をそのまま
ここに紹介する。

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●小食で困ったら、冷蔵庫をカラに

 体重15キロの子どもが、缶ジュースを1本飲むということは、体重60キロのおとなが、四本
飲む量に等しい。いくらおとなでも、缶ジュースを4本は飲めない。飲めば飲んだで、腹の中が
ガボガボになってしまう。アイスやソフトクリームもそうだ。子どもの顔よりも大きなソフトクリー
ムを1個子どもに食べさせておきながら、「うちの子は小食で困っています」は、ない。

 突発的にキーキー声をはりあげて、興奮状態になる子どもは少なくない。このタイプの子ども
でまず疑ってみるべきは、低血糖。

一度に甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を大量に与えると、その血糖値をさげようと
インスリンが大量に分泌される。が、血糖値がさがっても、さらに血中に残ったインスリンが、
必要以上に血糖値をさげてしまう。

つまりこれが甘い食品を大量にとることによる低血糖のメカニズムだが、一度こういう状態にな
ると、脳の抑制命令が変調をきたす。そしてここに書いたように、突発的に興奮状態になって
大声をあげたり、暴れたりする。

このタイプの子どもは、興奮してくるとなめらかな動きがなくなり、カミソリでものを切るように、
スパスパした動きになることが知られている。アメリカで「過剰行動児」として、20年ほど前に
話題になったことがある。

日本でもこの分野の研究者は多い(岩手大学名誉教授の大澤氏ほか)。そこでもしあなたの
子どもにそういう症状が見られたら、一度砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくて、ダメもと。
一周間も続けると、子どものによってはウソのように静かに落ち着く。

  話がそれたが、子どもの小食で悩んでいる親は多い。「食が細い」「好き嫌いがはげしい」
「食事がのろい」など。幼稚園児についていうなら、全体の約50%が、この問題で悩んでいる。
で、もしそうなら、一度冷蔵庫をカラにしてみる。お菓子やスナック菓子類は、思いきって捨て
る。「もったいない」という思いが、つぎからのムダ買いを止める力になる。そして子どもが食事
の間に口にできるものを一掃する。子どもの小食で悩んでいる親というのは、たいてい無意識
のうちにも、間食を黙認しているケースが多い。もしそうなら、間食はいっさい、やめる。

(小食児へのアドバイス)

(1)ここに書いたように、冷蔵庫をカラにし、菓子類はすべて避ける。
(2)甘い食品(精製された白砂糖の多い食品)を断つ。
(3)カルシウム、マグネシウム分の多い食生活にこころがける。
(4)日中、汗をかかせるようにする。

 ただ小食といっても、家庭によって基準がちがうので、その基準も考えること。ふつうの家庭
よりも多い食物を与えながら、「少ない」と悩んでいるケースもある。子どもが健康なら、小食
(?)でも問題はないとみる。

++++++++++++++++++++++++

以前、同じような相談を受けたことがあります。
もっと年齢の大きなお子さんについてのものでしたが……。
それについて、書いた原稿を添付します。
あくまでも参考資料の一つとして、考えてください。

++++++++++++++++++++++++

●島根県のUYさんより

はじめまして。
HPをよく拝見させて頂いています。
 
娘の事を相談させていただきたく、メールをしています。
娘は5歳半になる年中児で、下に3歳半の妹がいます。

小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子でし
た。

それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。

真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度に
は見えません。

走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようです。

そのせいか、話し言葉も五歳にしては表現力がないと思われます。
物の説明はとても難解で、結局何を言っているのか分からない事も多々あります。
 
私自身、過関心であったと思います。
気をつけているつもりですが、やはり完全には治っていません。
今、言葉の方は『おかあさん、牛乳!』や、『あの冷たいやつ!』というような言い方について
は、それでは分からないという事を伝える様にしています。

できるだけ言葉で説明をさせるようにしています。これは少しは効果があるようです。
また食生活ではカルシウムとマグネシウム、そして甘いものには気をつけています。
食べ物の好き嫌いは全くありません。
 
そこで私の相談ですが、もっとしっかり人の話を聞けるようになってほしいと思っています。

心を落ち着かせることが出来るようになるのは、やはり親の過干渉や過関心と関係があるの
でしょうか。

また些細な事(お茶を飲むときのグラスの柄が妹の方がかわいい柄っだった、公園から帰りた
くない等)で、泣き叫んだりするのは情緒不安定ということで、過干渉の結果なのでしょうか。

泣き叫ぶときは、『そーかー、嫌だったのね。』と、私は一応話を聞くようにはしていますが、私
が折れる事はありません。

その事でかえって、泣き叫ぶ機会を増やして、また長引かせている気もするのですが。。。

そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテーブルをゆら
してゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作はどのよう
にすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動く』ことが出
来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか。
自分自信がんばっているつもりですが、時々更に悪化させているのではないかと不安に成りま
す。

できましたら,アドバイスをいただけますでしょうか。宜しくお願い致します。

【UYさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。原因と対処法をいろいろ考える前に、大前提として、「今す
ぐ、なおそう」と思っても、なおらないということです。またなおそうと思う必要もありません。こう
書くと、「エエッ!」と思われるかもしれませんが、この問題だけは、子どもにその自覚がない以
上、なおるはずもないのです。

 UYさんのお子さんが、ここに書いた子どもと同じというわけではありませんが、つぎの原稿
は、少し前に私が書いたものです。まず、その原稿を先に、読んでいただけたらと思います。

+++++++++++++++++
 
●汝(なんじ)自身を知れ

「汝自身を知れ」と言ったのはキロン(スパルタ・7賢人の1人)だが、自分を知ることは難しい。
こんなことがあった。

 小学生のころ、かなり問題児だった子ども(中2男児)がいた。どこがどう問題児だったかは、
ここに書けない。書けないが、その子どもにある日、それとなくこう聞いてみた。

「君は、学校の先生たちにかなりめんどうをかけたようだが、それを覚えているか」と。するとそ
の子どもは、こう言った。「ぼくは何も悪くなかった。先生は何でもぼくを目のかたきにして、ぼく
を怒った」と。私はその子どもを前にして、しばらく考えこんでしまった。いや、その子どものこと
ではない。自分のことというか、自分を知ることの難しさを思い知らされたからだ。

ある日1人の母親が私のところにきて、こう言った。「学校の先生が、席決めのとき、『好きな子
どうし、並んですわってよい』と言った。しかしうちの子(小1男児)のように、友だちのいない子
はどうしたらいいのか。配慮に欠ける発言だ。これから学校へ抗議に行くから、一緒に行って
ほしい」と。

もちろん私は断ったが、問題は席決めことではない。その子どもにはチックもあったし、軽いが
吃音(どもり)もあった。神経質な家庭環境が原因だが、「なぜ友だちがいないか」ということの
ほうこそ、問題ではないのか。その親がすべきことは、抗議ではなく、その相談だ。

話はそれたが、自分であって自分である部分はともかくも、問題は自分であって自分でない部
分だ。ほとんどの人は、その自分であって自分でない部分に気がつくことがないまま、それに
振り回される。よい例が育児拒否であり、虐待だ。

このタイプの親たちは、なぜそういうことをするかということに迷いを抱きながらも、もっと大きな
「裏の力」に操られてしまう。あるいは心のどこかで「してはいけない」と思いつつ、それにブレ
ーキをかけることができない。「自分であって自分でない部分」のことを、「心のゆがみ」という
が、そのゆがみに動かされてしまう。ひがむ、いじける、ひねくれる、すねる、すさむ、つっぱ
る、ふてくされる、こもる、ぐずるなど。自分の中にこうしたゆがみを感じたら、それは自分であ
って自分でない部分とみてよい。

それに気づくことが、自分を知る第一歩である。まずいのは、そういう自分に気づくことなく、い
つまでも自分でない自分に振り回されることである。そしていつも同じ失敗を繰り返すことであ
る。

+++++++++++++++

 おとなですら、自分のことを知るのはむずかしい。いわんや、子どもをやということになりま
す。ですからUYさんが、お子さんに向かって、「静かにしなさい」「落ち着きなさい」と言っても、
子どもにその自覚がない以上、子どもの立場からしたら、どうしようもないのです。

 意識には、大きく分けて(1)潜在意識と、(2)自意識(自己意識)があります※。潜在意識と
いうのは、意識できない世界のことです。自意識というのは、自分で自覚できる意識のことで
す。いろいろな説がありますが、教育的には、小学3、4年生を境に、急速にこの自意識が育
ってきます。つまり自分を客観的に見ることができるようになると同時に、その自分を、自分で
コントロールすることができるようになるわけです。

 幼児期にいろいろな問題ある子どもでも、この自意識をうまく利用すると、それを子ども自ら
の意識で、なおすことができます。言いかえると、それ以前の子どもには、その自意識を期待
しても、無理です。たとえば「静かにしなさい」と親がいくら言っても、子ども自身は、自分ではそ
れがわからないのだから、どうしようもありません。UYさんのケースを順に考えてみましょう。

●小さい頃から動作の一つ一つが乱暴で、よくグズリ、キーキー興奮しては些細な事で泣く子
でした。
●それは今でも続いており、集中が長く続かず、こだわりも他の子供よりも深い気がします。
●話も目を見て心を落ち着けてゆっくり会話をする事が出来ません。
●真剣な話をしながら足の先を神経質に動かしたり、手を振ったりして、とても聞いている態度
には見えません。
●走りまわるほどの多動ではありませんが、落ち着いて、じっとしていることが出来ないようで
す。
●そのせいか、話し言葉も5歳にしては表現力がないと思われます。

 これらの問題点を指摘しても、当然のことですが、満5歳の子どもに、理解できるはずもあり
ません。こういうケースで。「キーキー興奮してはだめ」「こだわっては、だめ」「落ち着いて会話
しなさい」「じっとしていなさい」「しっかりと言葉を話しなさい」と言ったところで、ムダというもので
す。

たとえば細かい多動性について、最近では、脳の微細障害説、機能障害説、右脳乱舞説、ホ
ルモン変調説、脳の仰天説、セロトニン過剰分泌説など、ざっと思い浮かんだものだけでも、
いろいろあります。

されにさらに環境的な要因、たとえば下の子が生まれたことによる、赤ちゃんがえり、欲求不
満、かんしゃく発作などもからんでいるかもしれません。またUYさんのメールによると、かなり
神経質な子育てが日常化していたようで、それによる過干渉、過関心、心配先行型の子育て
なども影響しているかもしれません。こうして考え出したら、それこそ数かぎりなく、話が出てき
てしまいます。

 では、どうするか? 原因はどうであれ、今の症状がどうであれ、今の段階では、「なおそう」
とか、「あれが問題」「これが問題」と考えるのではなく、あくまでも幼児期によく見られる一過性
の問題ととらえ、あまり深刻にならないようにしたらよいと思います。

むしろ問題は、そのことではなく、この時期、親が子どものある部分の問題を、拡大視すること
によって、子どものほかのよい面をつぶしてしまうことです。とくに「あれがダメ」「これがダメ」と
いう指導が日常化しますと、子どもは、自信をなくしてしまいます。生きザマそのものが、マイナ
ス型になることもあります。

 私も幼児を35年もみてきました。若いころは、こうした問題のある子どもを、何とかなおして
やろうと、四苦八苦したものです。しかしそうして苦労したところで、意味はないのですね。子ど
もというのは、時期がくれば、何ごともなかったかのように、自然になおっていく。

UYさんのお子さんについても、お子さんの自意識が育ってくる、小学3、4年生を境に、症状は
急速に収まってくるものと思われます。自分で判断して、自分の言動をコントロールするように
なるからです。「こういうことをすれば、みんなに嫌われる」「みんなに迷惑をかける」、あるいは
「もっとかっこよくしたい」「みんなに認められたい」と。

 ですから、ここはあせらず、言うべきことは言いながらも、今の状態を今以上悪くしないことだ
けを考えながら、その時期を待たれたらどうでしょうか。すでにUYさんは、UYさんができること
を、すべてなさっておられます。母親としては、満点です。どうか自信をもってください。私のHP
を読んでくださったということだけでも、UYさんは、すばらしい母親です。(保証します!)

ただもう一つ注意してみたらよいと思うのは、たとえばテレビやテレビゲームに夢中になってい
るようなら、少し遠ざけたほうがよいと思います。このメールの終わりに、私が最近書いた原稿
(中日新聞発表済み)を、張りつけておきます。どうか参考にしてください。

 で、今度はUYさん自身へのアドバイスですが、どうか自分を責めないでください。「過関心で
はないか?」「過干渉ではないか?」と。

 そういうふうに悩むこと自体、すでにUYさんは、過関心ママでも、過干渉ママでもありませ
ん。この問題だけは、それに気づくだけで、すでにほとんど解決したとみます。ほとんどの人
は、それに気づかないまま、むしろ「私はふつうだ」と思い込んで、一方で、過関心や過干渉を
繰りかえします。UYさんにあえていうなら、子育てに疲れて、やや育児ノイローゼ気味なのかも
しれません。ご主人の協力は得られませんか? 少し子育てを分担してもらったほうがよいか
もしれません。

 最後に「そしてテーブルの上でオセロなどのゲーム中に、意味も無く飛び上がったりしてテー
ブルをゆらしてゲームを台無しにしたりする(無意識にやってしまうようです)ような乱雑な動作
はどのようにすれば良いのか、深く悩んでいます。『静かに落ち着いて、意識を集中させて動
く』ことが出来ないのはやはり干渉のしすぎだったのでしょうか」という部分についてですが、こ
う考えてみてください。

 私の経験では、症状的には、小学1年生ぐらいをピークにして、そのあと急速に収まっていき
ます。そういう点では、これから先、体力がつき、行動半径も広くなってきますから、見た目に
は、症状ははげしくなるかもしれません。UYさんが悩まれるお気持ちはよくわかりますが、一
方で、UYさんの力ではどうにもならない部分の問題であることも事実です。

ですから、愛情の糸だけは切らないようにして、言うべきことは言い、あとはあきらめます。コツ
は、完ぺきな子どもを求めないこと。満点の子どもを求めないこと。ここで愛情の糸を切らない
というのは、子どもの側から見て、「切られた」と思わせいないことです。

それを感じると、今度は、子どもの心そのものが、ゆがんでしまいます。が、それでも暴れたら
……。私のばあいは、教室の生徒がそういう症状を見せたら、抱き込んでしまいます。叱った
り、威圧感を与えたり、あるいは恐怖心を与えてはいけません。あくまでも愛情を基本に指導し
ます。それだけを忘れなければ、あとは何をしてもよいのです。あまり神経質にならず、気楽に
構えてください。

 約束します。UYさんの問題は、お子さんが小学3、4年生になるころには、消えています。ウ
ソだと思うなら、このメールをコピーして、アルバムか何かにはさんでおいてください。そして、
四、五年後に読み返してみてください。「林の言うとおりだった」と、そのときわかってくださると
確信しています。もっとも、それまでの間に、いろいろあるでしょうが、そこは、クレヨンしんちゃ
んの母親(みさえさん)の心意気でがんばってください。コミックにVOL1〜10くらいを一度、読
まれるといいですよ。テレビのアニメは、コミックにくらべると、作為的です。

 また何かあればメールをください。なおこのメールは、小生のマガジンの2−25号に掲載し
ますが、どうかお許しください。転載の許可など、お願いします。ご都合の悪い点があれば、至
急、お知らせください。
(030217)

※……これに対して、「自己意識」「感覚運動的意識」「生物的意識」の三つに分けて考える考
え方もある。「感覚的運動意識」というのは、見たり聞いたりする意識のこと。「生物的意識」と
いうのは、生物としての意識をいう。いわゆる「気を失う」というのは、生物的意識がなくなった
状態をいう。このうち自己意識があるのは、人間だけと言われている。この自己意識は、四歳
くらいから芽生え始め、三〇歳くらいで完成するといわれている(静岡大学・郷式徹助教授「フ
ァミリス」03・3月号)。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【YK様へ(2)】

 食生活がどうなっているのか、私にはわかりませんが、まず試してみるべきことは、(1)食生
活の改善、です。

 ここにも書いたように、MG、CA、Kの多い食生活(自然海産物中心の献立)に切りかえてみ
てください。

 精製された白砂糖を多く含む食品は、避けます。(与えると意識しなくても、今では、ありとあ
らゆる食品に含まれています。幼児のばあい、2歳児でしたら、1日、10グラム前後でじゅうぶ
んです。)

 感情の起伏がはげしく、手にあまるようなら、一度、小児科を訪れてみられてはいかがでしょ
うか。以前とちがい、最近では、すぐれた薬も開発されています。(薬を使うときは、慎重にしま
すが、そのあたりのことは、よくドクターと相談して決めてください。)

 食生活の改善……徹底してするのが、コツです。アイス、ソフト、乳酸飲料などは、避けま
す。徹底してすれば、1、2週間ほどで、効果が現われてきます。

 同じようなケースを、もう一つ、思い出しました。その原稿を添付します。少し古い原稿なの
で、先に書いたことと、内容が少し異なるかもしれませんが、異なっている部分については、先
に書いたほうを、優先してください。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【栄養学の分野からの考察】

●過剰行動性のある子ども

 もう二〇年以上も前だが、アメリカで「過剰行動性のある子ども」(ヒュー・パワーズ・小児栄養
学)が、話題になったことがある。ささいなことがきっかけで、突発的に過剰な行動に出るタイプ
の子どもである。

日本では、このタイプの子どもはほとんど話題にならなかったが、中学生によるナイフの殺傷
事件が続いたとき、その原因の一つとして、マスコミでこの過剰行動性が取りあげられたこと
がある(九八年)。日本でも岩手大学の大沢博名誉教授や大分大学の飯野節夫教授らが、こ
の分野の研究者として知られている。

●砂糖づけのH君(年中児)

 私の印象に残っている男児にH君(年中児)という子どもがいた。最初、Hさん(母親)は私に
こう相談してきた。「(息子の)部屋の中がクモの巣のようです。どうしたらいいでしょうか」と。

話を聞くと、息子のH君の部屋がごちゃごちゃというより、足の踏み場もないほど散乱してい
て、その様子がふつうではないというのだ。が、それだけならまだしも、それを母親が注意する
と、H君は突発的に暴れたり、泣き叫んだりするという。始終、こきざみに動き回るという多動
性も気になると母親は言った。私の教室でも突発的に、耳をつんざくような金切り声をあげ、興
奮状態になることも珍しくなかった。そして一度そういう状態になると、手がつけられなくなっ
た。私はその異常な興奮性から、H君は過剰行動児と判断した。

 ただ申し添えるなら、教育の現場では、それが学校であろうが塾であろうが、子どもを診断し
たり、診断名をくだすことはありえない。第一に診断基準が確立していないし、治療や治療方
法を用意しないまま診断したり、診断名をくだしたりすることは許されない。仮にその子どもが
過剰行動児をわかったところで、それは教える側の内心の問題であり、親から質問されてもそ
れを口にすることは許されない。

診断については、診断基準や治療方法、あるいは指導施設が確立しているケース(たとえば
自閉症児やかん黙児)では、専門のドクターを紹介することはあっても、その段階で止める。こ
の過剰行動児についてもそうで、内心では過剰行動児を疑っても、親に向かって、「あなたの
子どもは過剰行動児です」と告げることは、実際にはありえない。教師としてすべきことは、知
っていても知らぬフリをしながら、その次の段階の「指導」を開始することである。
 
●原因は食生活?

ヒュー・パワーズは、「脳内の血糖値の変動がはげしいと、神経機能が乱れ、情緒不安にな
り、ホルモン機能にも影響し、ひいては子どもの健康、学習、行動に障害があらわれる」とい
う。メカニズムは、こうだ。ゆっくりと血糖値があがる場合には、それに応じてインスリンが徐々
に分泌される。しかし一時的に多量の砂糖(特に精製された白砂糖)をとると、多量の、つまり
必要とされる量以上の量のインスリンが分泌され、結果として、子どもを低血糖児の状態にし
てしまうという(大沢)。

そして(1)イライラする。機嫌がいいかと思うと、突然怒りだす、(2)無気力、(3)疲れやすい、
(4)(体が)震える、(5)頭痛など低血糖児特有の症状が出てくるという(朝日新聞九八年2・1
2)。これらの症状は、たとえば小児糖尿病で砂糖断ちをしている子どもにも共通してみられる
症状でもある。私も一度、ある子ども(小児糖尿病患者)を病院に見舞ったとき、看護婦からそ
ういう報告を受けたことがある。

 こうした突発的な行動については、次のように説明されている。つまり脳からは常に相反する
二つの命令が出ている。行動命令と抑制命令である。たとえば手でものをつかむとき、「つか
め」という行動命令と、「つかむな」という抑制命令が同時に出る。

この二つの命令がバランスよく調和して、人間はスムーズな動きをすることができる。しかし低
血糖になると、このうちの抑制命令のほうが阻害され、動きがカミソリでスパスパとものを切る
ような動きになる。先のH君の場合は、こまかい作業をさせると、震えるというよりは、手が勝
手に小刻みに動いてしまい、それができなかった。また抑制命令が阻害されると、感情のコン
トロールもできなくなり、一度激怒すると、際限なく怒りが増幅される。そして結果として、それ
がキレる状態になる。

●恐ろしいカルシウム不足

 砂糖のとり過ぎは、子どもの心と体に深刻な影響を与えるが、それだけではない。砂糖をとり
過ぎると、カルシウム不足を引き起こす。

糖分の摂取が、体内のカルシウムを奪い、虫歯の原因になることはよく知られている。体内の
ブドウ糖は炭酸ガスと水に分解され、その炭酸ガスが、血液に酸性にする。その酸性化した血
液を中和しようと、骨の中のカルシウムが、溶け出るためと考えるとわかりやすい。

体内のカルシウムの98%は、骨に蓄積されている。そのカルシウムが不足すると、「(1)脳の
発育が不良になったり、(2)脳神経細胞の興奮性を亢進したり、(3)精神疲労をしやすくまた
回復が遅くなるなどの症状が現われる」(片瀬淡氏「カルシウムの医学」)という。わかりやすく
言えば、カルシウムが不足すると、知恵の発達が遅れ、興奮しやすく、また精神疲労を起こし
やすいというのだ。甘い食品を大量に摂取していると、このカルシウム不足を引き起こす。

++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●生化学者ミラー博士らの実験

 精製されてない白砂糖を、日常的に多量に摂取すると、インスリンの分泌が、脳間伝達物質
であるセロトニンの分泌をうながし、それが子どもの異常行動を引き起こすという。アメリカの
生化学者のミラーは、次のように説召している。

 「脳内のセロトニンという(脳間伝達)ニューロンから脳細胞に情報を伝達するという、神経中
枢に重要な役割をはたしているが、セロトニンが多すぎると、逆に毒性をもつ」(「マザーリン
グ」八一年(7)号)と。日本でも、自閉症や子どもの暴力、無気力などさまざまな子どもによる
問題行動が、食物と関係しているという研究がなされている。ちなみに、食品に含まれている
白砂糖の量は、次のようになっている。

製品名             一個分の量    糖分の量         
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー        
 ヨーグルト    【森永乳業】     90ml  9・6g         
 伊達巻き       【紀文】     39g  11・8g         
 ミートボール   【石井食品】 1パック120g  9・0g         
 いちごジャム   【雪印食品】  大さじ30g  19・7g         
 オレンジエード【キリンビール】    250ml  9・2g         
 コカコーラ              250ml 24・1g         
 ショートケーキ    【市販】  一個100g  28・6g         
 アイス      【雪印乳業】  一個170ml  7・2g         
 オレンジムース  【カルピス】     38g   8・7g         
 プリン      【協同乳業】  一個100g  14・2g         
 グリコキャラメル【江崎グリコ】   4粒20g   8・1g         
 どら焼き       【市販】   一個70g  25g          
 クリームソーダ    【外食】  一杯      26g           
 ホットケーキ     【外食】  一個      27g          
 フルーツヨーグルト【協同乳業】    100g  10・9g         
 みかんの缶詰   【雪印食品】    118g  15・3g         
 お好み焼き   【永谷園食品】  一箱240g  15・0g         
 セルシーチョコ 【江崎グリコ】   3粒14g   5・5g         
 練りようかん     【市販】  一切れ56g  30・8g         
 チョコパフェ     【市販】  一杯      24・0g       

●砂糖は白い麻薬

 H君の母親はこう言った。「祖母(父親の実母)の趣味が、ジャムづくりで、毎週ビンに入った
ジャムを届けてくれます。うちでは、それを食べなければもったいないということで、パンや紅茶
など、あらゆるものにつけて食べています」と。

私はH君の食生活が、かなりゆがんだものと知り、とりあえず「砂糖断ち」をするよう進言した。
が、異変はその直後から起きた。幼稚園から帰ったH君が、冷蔵庫を足げりにしながら、「ビス
ケットがほしい、ビスケットがほしい」と泣き叫んだというのだ。母親は「麻薬患者の禁断症状の
ようで、恐ろしかった」と話してくれた。が、それから数日後。今度はH君が一転、無気力状態
になってしまったという。私がH君に会ったのは、ちょうど一週間後のことだったが、H君はまる
で別人のようになっていた。ボーッとして、反応がまるでなかった。母親はそういうH君を横目で
見ながら、「もう一度、ジャムを食べさせましょうか」と言ったが、私はそれに反対した。

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの
子どもが見違えるほど落ち着くのがわかっている。

川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーやノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与
するだけでなおる」(「マザーリング」八一年(7)号)と述べている。効果がなくても、ダメもと。そ
うでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は小食で困ります」は、ない。体
重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということは、体重60キロの人が、4本飲
む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲めば飲んだで、腹の中がガボガ
ボになってしまう。

 なお問題となるのは、精製された白砂糖をいう。どうしても甘味料ということであれば、精製さ
れていない黒砂糖をすすめる。黒砂糖には、天然のミネラル分がほどよく配合されていて、こ
こでいう弊害はない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 過剰
行動児 セロトニン悪玉説 キレる子供の原因 キレる子どもの原因 切れる子供 原因 キ
レる子ども 原因 原因物質)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1533)

【キレる子供・補足】

●シシリー宣言

1995年11月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった18名の学者が、緊急宣言を行った。
これがシシリー宣言である。その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであ
った。

いわく、「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではな
く、行動的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応
性の低下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。つまり環
境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。

が、これで驚いていてはいけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。「環境ホルモンは、脳の
発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引き起こす。奇妙な行動を
引き起こす。

多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の間に5ポイントIQが低下した。人類の
生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具
体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーン
ピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

(4)教育の分野からの考察

 前後が逆になったが、当然、教育の分野からも「キルる子ども」の考察がなされている。しか
しながら教育の分野では、キレる子どもの定義すらなされていない。なされないままキレる子ど
もの議論だけが先行している。ただその原因としては、

(1)親の過剰期待、そしてそれに呼応する子どもの過負担。
(2)学歴社会、そしてそれに呼応する受験競争から生まれる子ども側の過負担などが、考えら
れる。こうした過負担がストレッサーとなって、子どもの心を圧迫する。

ただこの段階で問題になるのが、子ども側の耐性である。最近の子どもは、飽食とぜいたくの
中で、この耐性を急速に喪失しつつあると言える。わずかな負担だけで、それを過負担と感
じ、そしてそれに耐えることがないまま、怒りを爆発させてしまう。親の期待にせよ、学歴社会
にせよ、それは子どもを取り巻く環境の中では、ある程度は容認されるべきものであり、こうし
た環境を子どもの世界から完全に取り除くことはできない。これらを整理すると、次のようにな
る。

(1)環境の問題
(2)子どもの耐性の問題。

●終わりに……

以上のように、「キレる子ども」と言っても、その内容や原因はさまざまであり、その分野に応じ
て考える必要がある。またこうした考察をしてのみ、キレる子どもの問題を正面からとらえるこ
とができる。一番危険なのは、キレる子どもを、ただばくぜんと、もっと言えば感傷的にとらえ、
それを論ずることである。こうした問題のとらえ方は、問題の本質を見誤るばかりか、かえって
教育現場を混乱させることになりかねない。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【砂糖は白い麻薬】

++++++++++++++++++

子どもの突発的な凶暴性は、
低血糖によると考えられている。

しかし、だからといって、
甘味料(白砂糖)の多い食品を
子どもに与えろということでは
ない。

誤解のないようにしたい。

+++++++++++++++++

●独特の動き

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。

そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)だそうだ(アメリカ小児栄養
学・ヒューパワーズ博士)。つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取す
ると、インスリンが大量に分泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分
泌をうながし、それが脳の抑制命令を阻害する、と。

●U君(年長児)のケース

U君の母親から相談があったのは、4月のはじめ。U君がちょうど年長児になったときのことだ
った。母親はこう言った。「部屋の中がクモの巣みたいです。どうしてでしょう?」と。U君は突発
的に金きり声をあげて興奮状態になるなどの、いわゆる過剰行動性が強くみられた。このタイ
プの子どもは、まず砂糖づけの生活を疑ってみる。聞くと母親はこう言った。

 「おばあちゃんの趣味がジャムづくりで、毎週そのジャムを届けてくれます。それで残したらも
ったいないと思い、パンにつけたり、紅茶に入れたりしています」と。そこで計算してみるとU君
は一日、100〜120グラムの砂糖を摂取していることがわかった。かなりの量である。そこで
私はまず砂糖断ちをしてみることをすすめた。が、それからがたいへんだった。

●禁断症状と愚鈍性

 U君は幼稚園から帰ってくると、冷蔵庫を足で蹴飛ばしながら、「ビスケットをくれ、ビスケット
をくれ!」と叫ぶようになったという。

急激に砂糖断ちをすると、麻薬を断ったときに出る禁断症状のようなものがあらわれることが
ある。U君のもそれだった。夜中に母親から電話があったので、「砂糖断ちをつづけるように」
と私は指示した。が、その一週間後、私はU君の姿を見て驚いた。

U君がまるで別人のように、ヌボーッとしたまま、まったく反応がなくなってしまったのだ。何かを
問いかけても、口を半開きにしたまま、うつろな目つきで私をぼんやりと私を見つめるだけ。母
親もそれに気づいてこう言った。「やはり砂糖を与えたほうがいいのでしょうか」と。

●砂糖は白い麻薬

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラム。この量はイ
チゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキー
と声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネ
シウムの多い食生活に心がけながら、砂糖断ちをしてみるとよい。効果がなくてもダメもと。砂
糖は白い麻薬と考える学者もいる。子どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落
ち着く。

●リン酸食品

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。

と言っても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ
(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けて
も流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせ
ず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味を
おだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水に
よく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

かなり本腰を入れて対処しないと、リン酸食品を遠ざけることはできない。

●こわいジャンク・フード

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンク・フードは)疲
労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな
どの原因になっている」とも。

●U君の後日談

 砂糖漬けの生活から抜けでたとき、そのままふつう児にもどる子どもと、U君のように愚鈍性
が残る子どもがいる。それまでの生活にもよるが、当然のことながら砂糖の量が多く、その期
間が長ければ長いほど、後遺症が残る。

U君のケースでは、それから小学校へ入学するまで、愚鈍性は残ったままだった。白砂糖はカ
ルシウム不足を引き起こし、その結果、「脳の発育が不良になる。先天性の脳水腫をおこす。
脳神経細胞の興奮性を亢進する。痴呆、低脳をおこしやすい。精神疲労しやすく、回復がおそ
い。神経衰弱、精神病にかかりやすい。一般に内分泌腺の発育は不良、機能が低下する」(片
瀬淡氏「カルシウムの医学」)という説もある。

子どもの食生活を安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの食生活 子供の食生活 ジャンクフード ジャンク・フード 低血糖児 砂糖 白い麻薬)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●溺愛ママ

++++++++++++++++++

子どもの姿を見ようともしない。
自分勝手な判断だけで、自分勝手な
理由をつくりあげてしまう。

が、それで終わらない。
あげくのはてには、
「先生が悪い」「幼稚園が悪い」と。

今、そういう母親が、ふえている。

+++++++++++++++++++

●子どもを溺愛する母親

 親が子どもを溺愛する背景には、親側の情緒的未熟性や精神的な欠陥がある。つまりそうし
た未熟性や欠陥を代償的に補うために親は子どもを溺愛するようになる。

つまり子どもを溺愛す親というのは、どこかに心の問題をもった人とみてよい。が、親にはそれ
がわからない。わからないばかりか、溺愛を親の深い愛と誤解する。だから人前で平気で、そ
の溺愛ぶりを誇示する。こんなことがあった。

●溺愛を「愛」と誤解?

 高校のワンゲル部の総会でのこと。指導の教師が父母たちに向かって、「皆さんはお子さん
たちが汚してきた登山靴をどうしてますか?」と聞いたときのこと。一人の母親がまっさきに手
をあげてこう言った。「このクツが無事息子を山から返してくれたと思うと、ただただいとおしくて
頬ずりしています!」と。

あるいは幼稚園で、それはそれはみごとな髪型をしてくる子ども(年中女児)がいた。髪の毛を
細い三つ編みにした上、さらにその、三つ編みを幾重にも重ねて、複雑な髪型をつくるなど。ま
さに芸術的! そこである日、その母親と道路であったので、それとなく「毎日たいへんでしょ
う?」と聞いてみた。が、その母親は何ら臆することなく、こう言った。「いいえ、毎朝、30分もあ
ればすんでしまいます」と。毎朝、30分!、である。

●溺愛児の特徴

 親が子ども溺愛すると、子どもは子どもで溺愛児特有の症状を示すようになる。(1)幼児性
の持続(年齢に比して幼い感じがする)、(2)退行的になる(目標や規則が守れず、自己中心
的になる)、(3)服従的になりやすい(依存心が強く、わがままな半面、優柔不断)、(4)柔和で
おとなしく、満足げでハキがなくなるなど。ちょうど膝に抱かれたペットのように見えることから、
私は勝手にペット児(失礼!)と呼んでいるが、そういった感じになる。が、それで悲劇が終わ
るわけではない。

●カラを脱がない子ども 

子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして成長する。たとえば子
どもには、満4・5歳から5・5歳にかけて、たいへん生意気になる時期がある。この時期を中間
反抗期と呼ぶ人もいる。

この時期を境に、子どもは幼児期から少年少女期へと移行する。しかし溺愛児にはそれがな
い。ないまま、大きくなる。そしてあるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。が、簡単には脱げ
ない。たいてい激しい家庭内騒動をともなう。子「こんなオレにしたのは、お前だろ!」、母「ご
めんなさア〜イ。お母さんが悪かったア〜!」と。

しかし子どもの成長ということを考えるなら、むしろこちらのほうが望ましい。カラをうまく脱げな
い子どもは、超マザコンタイプのまま、体だけはおとなになる。昔、「冬彦さん」(テレビドラマ「ず
っとあなたが好きだった」の主人公)という男性がいたが、そうなる。

 溺愛ママは、あなたの周辺にも一人や二人は必ずいる。いて、何かと話題になっているは
ず。しかし溺愛は「愛」ではない。代償的愛といって、つまるところ自分の心のすき間うめるた
めの愛。身勝手な愛。一方的な愛。もっと言えば、愛もどきの愛。そんな愛に溺れてよいこと
は、何もない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 でき
愛 溺愛 溺愛ママ 溺愛する親)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【今朝・あれこれ】(9月22日)

●原稿が消えた(合理化)!

 10枚ほど原稿を書いたところで、ネット検索をした。しかしこれがよくなかった。突然、パソコ
ンが、フリーズしてしまった。同時に、書いた原稿が、消えてしまった。

 OFFICE・XPでは、こういうときのために、原稿を保存しておいてくれる。が、私が今、使って
いるのは、OFFICE・02。その機能は、ない。あああ……。

 で、こういうとき、いろいろとおもしろい心理が働く。『逃した魚は大きい』というが、そうして消
えた原稿ほど、よい原稿に思えてくる。「せっかく、よい原稿を書いたのに……」と。

 つぎに、こういうことがあると、しばらく書く意欲が消える。ぼう然とまではいかないが、パソコ
ンを見るのもいやになる。

 そこでだが、ここで意欲が、大きく2つに分かれる。(1)改めて、もう一度、ゼロから書きなお
す。(2)二度と、そのテーマについては書かない、と。

 改めて書きなおしてやろうと思うときは、同時に、「失った原稿より、いいものを書いてやる」と
思う。しかしそれには、かなりのエネルギーが必要である。それがないと、(2)の二度と、その
テーマについては書かない、となる。

 今は、(2)の、「二度と、そのテーマについては書かない」という心境。あれこれ自分の書いた
原稿にケチをつけて、自分をなぐさめる。「あんなジジ臭い原稿など、どうでもいいや」と。

 こうした心理状態を心理学の世界でも、「合理化」と呼んでいる。自分で自分を合理化する。
よくある現象である。

 まあ、気持ちを入れかえて、別のテーマで書いてみよう。


●同一視

 合理化の話を書いたので、「同一視」について。

 昨夜、街の中を歩いていたら、サッカーの中田選手そっくりの男に出会った。年齢は22、3
歳くらいか。最初は、顔とヘアースタイルが似ていると思った。髪の毛の染め方まで、そっくり。
が、よく見ると、歩き方まで!

 やや腰を曲げたような状態で、あごを前につきだして歩いていた。背は私より低かったので、
瞬間、私は、「ミニチュア・中田だ」と思ってしまった。

 おそらく……というより、まちがいなく、その男は、中田選手を意識しているようだった。そうす
ることによって、自分の存在感をアピールしていた。

 同一視……自分を、自分よりすぐれただれかと同一視することによって、劣等感をぬぐいさ
り、満足感を覚えることをいう。若い人によく見られる現象である。

 言いかえると、その人は、何か、大きな劣等感をもっていることになる。何かわからないが、
おそらく、本人も、それを意識していないのではないか。意識することもなく、自分を中田選手
に見たてることによって、満足している。


●代償行動

 ついでにもう1つ。

 劣等感が肥大化すると、へたをすれば、自己否定から、自我の崩壊へと進んでしまうかもし
れない。そうならないため、心というのは、そこにいたる段階で、さまざまな心理的反応を示
す。

 「代償行動」というのも、それ。

 最近、こんな話をワイフから聞いた。ある女性だが、いわゆる『はらいせ婚』というのをしたと
いう。それまでつきあっていた男性に振られたので、別の男性と、はらいせのために結婚した
という。

 「うまくいくはずがないのに……」と私が言うと、ワイフはこう言った。

「結婚した相手が金持ちの息子で、その女性は、高級車を運転して、振った男の近所を、毎
日、見せびらかしながら走っている」と。

 これも代償行動の1つということになる。ひとつの大きな目標が達成できないとわかると、そ
の目標をひとつさげて、自分を満足させる。つまりは自分を慰めるための行動ということにな
る。

 人間の心理は、それぞれ、みなちがうようで、どこかに共通点がある。その共通点を集合し
たのが、心理学ということになる。

 ……と、ここまで書いて、もう1つ、思い出した。「反動形成」である。よくある例は、下の子の
誕生で、上の子が、不自然なほどまでに、(いい兄)(いい姉)を演ずるケース。その時点で、赤
ちゃん返りを起こす子どもも少なくないが……。

 そこで上の子は、下の子を憎いはずなのに、いい兄、あるいはいい姉ぶってみせる。つまり
そうすることによって、自分に対する親の評価を高めようとする。

 それについて書いた原稿が、つぎのもの。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【反動感情】

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。

心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動形成というのは、自分の心を抑圧する
と、その反動から、正反対の自分を演ずるようになることをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうことがある。

性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。ほかに、たとえば神経質な人が、
外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。その反動形成に似ているから、「反
動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(34歳女性、当時)に会ったのは、私が40歳くらいのことだった。もともとは奈良
県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を感
じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘を
愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき6
歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」という。が、離婚はしなか
った。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もたれるの
関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。

これが、私がいう「反動感情」である。このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中
に入れこもうとする。わかりやすく言えば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをす
る。)好きになることで、不快感を克服しようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。

自分という「主体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き
(affection)」という状態をつくるが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意で
しかない。若い男女が、電撃的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」と
は、異質のものである。

 特徴としては、どこか自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、あるいはどこか
厭世(えんせい)的(自分や社会は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。

これに関してよく似たケースに、「ストックホルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テ
ロリストの人質になったような人が、そのテロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリ
ストに好意をいだくようになり、そのテロリストのために献身的に働き始めるようになることをい
う。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(40歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになったと
きのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でしょ?」
と言うと、ま顔で、「本気です!」と。

しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦に見えた。たがいにそう演じていただけ
かもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないのですか?」と聞くと、「私たちは、そういう夫
婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(45歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらしな
かった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前で
は、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副会
長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。

そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反動感情で作られた
愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたとしたら、ということ
だが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。

ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良好な関係にあるフリをしているだけかもしれな
い。本当はあなたといっしょに、いたくない。いたくないが、し方がないから、いっしょにいるだ
け、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思っているなら、その可能性は、ぐんと高くな
る。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(1973年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人たち
が、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質とな
った女性は、犯人と結婚までしたという。

※イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小2男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。

その子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われ
たら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につ
くることで、自分の心を防衛したと考えられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 同一
視 代償行動 代償行為 反動形成)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1534)

【子どもが勉強から逃げるとき】 

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勉強をするでもなし、しないでもなし。
しかし結局は、何もしない……。

今、そんな子どもがふえている。
しかも小学1年生のときから……。

原因は、(やりすぎ!)。

生まれたときから、子どもの能力を
はるかに超えて、やりすぎる。
与えすぎる。

これが子どもをして、『つまらない
子ども(……make Jack a dull boy)』
にしてしまう。

++++++++++++++++++

●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉

 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。

まずフリ勉。いかにも勉強しているというフリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリ
をする。しかしその実、何もしていない。何も考えていない。

次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラしているだけ。マン
ガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。このばあいも、時間ばかりかかるが、
その実、何もしていない。

ムダ勉というのもある。やらなくてもよいようなムダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線
グラフをかくときも、グラフばかりかいて時間をつぶすなど。

●1時間で、計算問題を数問!

 こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこ
ともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小2)の勉強をみてほしい」と。遠い親
戚にあたる母親だった。

そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワークブックを持ってきた。見
ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも子どもの能力を超えたもの
ばかりだった。

母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけで勉強がよくできるようになると思っていた
らしい。案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼんやりとしているだけ。ほとんど何もしない。
同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り返し。1時間もかかって、簡単な計算問題
を数問しかしないということもあった。小学低学年の段階で一度こういう症状を示すと、なおす
のは容易でない。

●意欲を奪う5つの原因

 子どもから学習意欲を奪うものに、(1)過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、(2)過
関心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、(3)過剰期待
(「やればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、(4)過干渉(何でも親が先に決め
てしまう)、それに(5)与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。

 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれ
は誤解。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶
をそこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。

あるいはより高度な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もい
る。これについては誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあ
ればよいが、そうでなければやはり逆効果。

 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう
が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし
方をする。私が今知っている子どもに、K君(小4男児)という子どもがいる。

彼は中学1年レベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家では
ほとんど勉強しない」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようで
す」とも。

 ついでながら静岡県の小学5、6年生についてみると、

家での学習時間が30分から1時間……43%
1時間から1時間30分……31%だそうだ。
(静岡県出版文化会発行「ファミリス」県内100名について調査・2001年)。

●変わる「勉強」への意識

 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」か
ら、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには
「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。

少なくとも世界の教育はそういう方向に向かって動いている。そして当然のことながら、それに
合わせて教育内容も変わってきている。大学の入学試験のあり方も変わってきている。

だから昔のままの教育観で子どもに勉強させようとしても、それ自体が今の教育にはそぐわな
いし、第一、子どもたちがそれを受け入れない。たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬
され、それだけでクラスのリーダーになった。しかし今は違う。

「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言うと、「ぼくらは、あんなヘンなヤツと
は違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられるから、A進学高校には行きたくな
い」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別にして、今はそういう時代なの
だ。

 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の勉強ぐせ フリ勉 ダラ勉 時間つぶし 時間殺し ムダ勉 無気力な子供)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【自学の勧め】

●中国・上海のあるBLOGより

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Self−study(自学)がいかに
重要か。

上海のある教育BLOGサイトで、
こんな興味ある書き込みを見つけた。

名前はわからないが、ある大学の
教授の書き込みと思われる。

それを紹介する。

なお私の教室(BW)では、
小学4年生になるころから、
この「自学」を教える。

生徒自身に、自分で本を読み、
自分で学んでいく力を身につけさせる。

長い目で見て、それがその子どもの
財産になるからである。

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It is a dilemma whether university students should attend classes or learn by their selves. In 
China, it seems to be a tradition that students should not miss even a single class, and 
many a student complies with it. Here I'd like to demonstrate my point of view.
大学生は授業に出席して勉強すべきなのか、自学すべきなのかについては、ジレンマがある。

中国には、学生は、授業をさぼってはいけないという伝統がある。で、私の意見を書いてみた
い。

As far as I am concerned, I observe self-study is of great importance, which can make a 
person more comprehensive and creative. On the contrary, lack of this ability will make 
Jack a dull. As is known to all, Chinese students often follow their teachers' instructions 
more firmly, and make more efforts to get high marks, compared to American students.
私が関するかぎり、自学は、とても重要である。そのほうが理解度もまし、よりクリエイティブに
なる。が、(自学といっても)、その能力のない子どもは、つまらない子どもになってしまう。

よく知られているように、中国の学生は、アメリカの学生と比較すると、先生の指示に、より従
順で、よい点数を取ろうとする。

 However, Chinese students become less competitive without teachers' help, for they are 
not able to learn on their own efficiently. That's why only a few Chinese managed to win the 
Nobel Prizes. Therefore, it can be indicated that the ability of self-study should be 
concentrated in china as soon as possible.
が、中国の学生は、先生の助けなしでは、より競争しなくなってしまう。というのも、自分で効率
を考えて学ぶということができないからである。つまりこれが、中国人に、ノーベル賞受賞者が
少ないという理由でもある。したがって中国でも、自学する力をもった学生を、できるだけ早く育
てる必要性がある。

Another reason I choose not to attend classes is time spent on classes may be wasteful 
sometimes. In another word, self-study is more efficient. Can you put up with a teacher 
repeat a law again and again, which you have learnt by heart already? 
もうひとつの理由は、授業に出るということ自体が、ときには、時間のムダになるということ。言
いかえると、自学のほうが、より効果的である。たとえばあなたがすでに暗記しているような法
律を、先生が何度も繰り返したら、あなたはそれに耐えることができるだろうか。

The aim of a student is to learn and find out what we don't know, and surely listening to a 
professor is not everything. Thus, we should learn something we need by ourselves rather 
than waste time in classes.
学生が学ぶ目的は、私たちが知らないことを見つけ、学ぶことである。それに教授の言うこと
がすべてではないことは、たしかである。それゆえに教室で時間を無駄にするよりは、自分で
何かを学ぶ必要がある。

Different people have distinct characters. A Chinese poet named LiBai said:" everybody is 
of value to our country. " And only in the process of self-study can a student discover his 
or her interest without the influences made by teachers in classes. I believe self-study is so 
important that can change one's life.
それぞれの人には、それぞれの性格がある。リー・バイという中国の詩人は、こう言っている。
『だれもが、国の財産である』と。自学する子どものみが、先生の影響を受けることなく、自分
の興味を発見する。自学は、その人の人生を変えるほど、重要なことなのである。

Through some students argue that teachers are experienced, and they think the exams may 
contain loads of what teachers have taught in classes, I am convinced everything will be on 
the right track if I myself do the self-study well. So, after considering all of those above, I 
think you will agree with me that classes should be optional for students.
先生は、経験をつんでいるし、試験には、先生がクラスで教えたことが含まれているから(ムダ
でない)という議論もあるが、自学をうまくすれば、すべては正しいコースにのることを確信して
いる。

これらすべてのことを考えると、授業に出るかでないかは、学生に任せればよいという私の意
見に、(あなたも)賛成するだろうと思う。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自学
 自学の重要性 self-study)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【Great News!】 

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三男の制作したビデオ作品が、今度、日本一
に選ばれて、世界コンテスト(ロシア)に出品
されることになった。

うれしかった!

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 息子のBLOGに、こうあった。

 いわく、「僕の作った航大紹介ビデオ、『Departure』は、選考の結果、何と部門1位、総合1
位、つまりは日本一というすばらしい評価を受けて、ロシア(世界大会)に飛ぶことになりまし
た。頑張ってこいよ〜、デパーチャー!」と。

 さっそく電話をして、ことの真偽を確かめる。「本当か?」「そうだよ」と。さりげなく言うところ
が、おそろしい。三男は、いつも、そうだ。

 その息子たち。私たち夫婦に苦労もかけたが、夢もくれた。楽しませてくれた。親として、それ
以上、何を望むことができるか。どんどんと遠くに行ってしまう息子たちを心のどこかで感じな
がら、「これでいいんだ」「そうね」と、ワイフと、何度も、なぐさめあう。

私「ぼくたちも負けずに、最後の人生を楽しもう」
ワ「そうよ。私たちだって、楽しまなくちゃア」と。

 同じ今日、二男のBLOGを見ると、家族で、伯父(デニーズの兄)の家に遊びに行ったときの
写真が、載っていた。アイダホ州にある家だという。スケールの大きさに、驚く。ただただ驚く。
圧倒される。「フ〜ン」とか、「ヘ〜エ」とか。

 三男と二男のことを書いたから、長男についても書く。

 長男は、目下、コンピュータの専門学校に通学中。毎晩のように、「こんなこともできるように
なった」と、私たち夫婦に、新しい技術を披露してくれる。それにも、「フ〜ン」とか、「ヘ〜エ」と
か言って、驚く。来週は、期末試験とかで、毎晩夜遅くまで、勉強している。長男は長男で、自
分の道を見出しつつあるようだ。

 よかった!

 で、その私たち。明日は、友人夫妻と会食。どこか、山の上にあるレストランを見つけたそう
だ。一度、友人夫妻の家に寄って、そこからいっしょに、車で行くつもり。

 楽しみだ。

【息子たちへ!】

 オーイ、ぼくたちも、お前たちに負けないよう、元気でがんばっているよ! ハハハ。負けるも
んか! お前たちはお前たちで、思う存分、この広い世界を羽ばたけよ! ハハハ。

 人生は、1回しかないよ! 青春は、1回しかないよ! 自分をしっかりと見つめて、悔いのな
い人生を送れよ! けっして、振りかえるな! まっすぐ前だけを見て、前に進め! ハハハ。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1535)

●電話相談

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昼のあるテレビ番組の中に、「電話、生(なま)相談」
というようなコーナーがある。

視聴者が、あれこれ相談をもちかけ、それに対して、
番組の出演者が、自分の意見を述べるという番組である。

借金の問題、嫁・姑問題、不倫問題、家庭騒動、
さらには子育ての問題などなど。

テーマは、幅広い。が、いつも最後は、うやむやの
まま終わってしまう。

それもそのはず。ほとんどの問題は、こうした
電話で相談したくらいでは、何も解決しない。
はっきり言って、相談してきた人にとっては、
何も役にたたない。

ただそうした相談内容を、傍(はた)で聞いている
私たち視聴者には、役にたつ。

『他人の不幸話ほど、おもしろいものはない』と
言った哲学者もいたが、正直に言えば、それに
近い。「おもしろい」という言葉に問題があるなら、
「興味深い」と言いかえたほうがよいかもしれない。

「ああ、こんな問題もあるのだ」と、ときとして
驚くことがある。

しかし電話相談には、はっきりとした限界がある。

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●際限がない、親の相談

 たとえば子どもの不登校を考えてみよう。

 Aさんは、「うちの子が、不登校児になってしまった、どうしたらいいでしょう」と相談してきた。

 Bさんは、「うちの子は、週に、2、3日しか、学校に行かない。どうしたらいいでしょう」と相談
してきた。

 Cさんは、「うちの子は、午前中だけしか学校に行かない。どうしたらいいでしょう」と相談して
きた。

 Dさんは、「うちの子は、学校へ行っても、ときどき保健室か理科室にこもってしまう。どうした
らいいでしょう」と相談してきた。

 で、相談を受ける側は、そのつど、そのレベルで、あれこれアドバイスをする。しかし親がもち
かけてくる相談には、際限がない。

 子どもがやっとのことで、学校へ行くようになると、「何とか、毎日行かせたい」「午後の終わり
の会まで、行かせたい」となる。そしてそのつど、繰りかえし、相談がつづく。

 私が「週に2、3日、学校へ行くようになっただけでも、すばらしいことではないですか。それを
いっしょに喜んであげましょう」「午前中だけでも行くようになっただけでも、すばらしいことでは
ないですか。子どもをほめてあげましょう」と言っても、あまり意味はない。

 その状態になればなったで、親は、「さらに……」「もっと……」と言い出す。

 さらに、子どもが学校へ通うようになると、親はこう言う。「不登校で遅れた分を、何とか、取り
戻したい。どうしたらいいでしょう」と。それがさらにエスカレートすると、「今のままでは、D中学
しか、入れたい。何とか、C中学。できれば、B中学に入れたい。どうしたらいいでしょう」とな
る。

●意味のないアドバイス

 しかも電話相談というのは、90%が、グチ。この世界では、「よき聞き役に回れ」というのが、
ひとつの鉄則になっている。しかしそのため、1時間前後の時間が、それでつぶれてしまう。

 私がしていた電話相談でも、平均して1人、40分前後。長いばあいには、1時間半とか2時
間とかになった。

 それにほとんどの親は、住所はもちろん、名前すら言わない。言っても、偽名であることが多
い。それがわかっているから、こちらも、あえて聞かない。

 こうした電話が、数日おき、あるいは、週に1度とかいう割合で、かかってくる。が、私のアド
バイスに素直に従ってくれる人は、ほとんどいない。

 子どもの不登校の問題にしても、たとえば私が、「3か月はがまんしなさい」「何も言ってはだ
めです」「親は、子どもにとって空気のような存在になりなさい」と言っても、ムダ。1、2週間もし
ないうちに、また電話がかかってきて、「昨日、学校へ連れていきましたが、やっぱり、ダメでし
た」と。

 親にしてみれば、1か月でも長い。1週間でも長い。「このままうちの子は、ダメになってしま
う」という恐怖感から、あせる。

 あとは、この繰りかえし。

●達成感のない世界

 なぜこうなってしまうのか? つまり親は、子どもの問題を、必要以上に深刻に考えてしまう。
そしてそのつど、「どうしたらいい」と電話をかけてくる。なぜこうなってしまうのか?

 一方、相談を受ける側は、いつもある種のむなしさを覚える。つまり、いくら相談にのってやっ
ても、達成感がない。「相談にのってやって、よかった」という思いが、残らない。

 理由として考えられるのは、つまりは、親のエゴに振りまわされているだけということがある。
親は、何か問題が起きると、自分のことは棚にあげて、子どもに問題があると考える。自分を
何とかしようと考える前に、子どもを何とかしようと考える。その尺度となっているのが、親がも
つ(常識)ということになる。

 たとえば不登校の問題にしても、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、ものを
考える。子ども自身の気持ちは、つぎのつぎ。子ども自身は、学校へ行きたくない。あるいはそ
の多くは、心の問題をかかえている。「子ども自身はどうなのか」という視点そのものが、ない。
子どもの姿が、どこにもない。

 だから私が、「いいじゃないですか、学校なんて! 行きたくなかったら、行かなくても……」な
どと言おうものなら、ほとんどの親は、目を白黒させて驚く。「何てこと言うのだ!」と、そのまま
本当に怒ってしまう親もいる。

 「他人の子どものことだから、何とでも言える。よくもまあ、そこまで言いたいことを言うもの
だ!」と、あとで、FAXで怒ってきた父親だって、いた。(ホントだぞ!)

 しかしそれが私の本音(ほんね)でもある。相談を受ける私は、そういう本音を、ねじまげて、
相談にのってやらなければならない。つまり、達成感がないのは、そのためと考えてよい。

●公的機関がすべき

 だから、電話相談は、やめた……と書くと、私の人間性を疑う人もいるかもしれない。しかし
やめたものは、やめた。いろいろいきさつはあるが、やめた。が、ムダだったかというと、そうと
は言えない。参考にはなった。テレビ番組の中の電話相談のように、「ああ、こんな問題もある
のだ」と、それを知ることができた。

 しかしいつしか、口コミで私の電話相談のことが広がり、毎日のように電話がかかってくるよ
うになると、そうはいかない。土曜日も、日曜日もない。昼も、夜もない。居留守を使うという手
もあったが、ウソをつくのは、私のやり方ではない。

 さらに、反対に、「どうして相談にのってもらえないのか」と、叱られることもあった。講演活動
をしたり、新聞や雑誌にコラムを書いていると、私を、神様か、仏様のように思う人もいるらし
い。しかし私にも、生活がある。お金を稼ぐための仕事もしなければならない。

 平均して、毎日、3〜4時間も、そのために時間を取られるのは、つらい。念のために申し添
えるなら、私はいまだかって、こうした相談で、1円も、お金を受け取ったことはない。さらに言
えば、こと電話相談について言えば、そのあと、礼を言ってきた人は、ほとんどいない。100人
に1人もいない。

 相談してくる親は、自分のことだけで精一杯。自分のことを考えるだけで、精一杯。それはそ
れとしてわかるが、そのあとどうなったか、その報告だけはしてほしかった。

 だからあるとき、心を鬼にして、すべての相談を断ることにした。そのときは、3月末という、ち
ょうどキレのよいときだったこともある。

 で、結論を言えば、こうした電話相談は、公的な機関が、きちんとした形で、組織的にすべき
だと思う。いくら親のエゴといっても、そのエゴに気づかないまま、日々、悶々と悩んでいる親は
多い。そういう人たちの相談にのってやるのも、公的な仕事のひとつということになる。90%
は、グチかもしれないが、そのグチを聞いてやるだけでも、悩んでいる人は救われる。

 で、最近も、ある人から電話相談をもちかけられた。しかし、断った。世話になった人だから、
何とかしてあげたいと思ったが、そのときも、心を鬼にして、断った。今では、そういう相談を受
け付ける公的な窓口も、あちこちにある。各地区の子育て支援センター、公民館、保健所(保
健センター)など。

 どうか、そういうところで、一度、相談してみてほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 電話
相談 子育て相談 育児相談)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●今朝(9月24日)

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昨日の昼は、山の上の、あるレストランで
イタリア料理!

友人夫妻との会食。
おいしかった。楽しかった。

さらに夜は、スキヤキ。おかげで、今朝、
起きたとき体重をはかったら、
2キロ、オーバー!

さっそく、減量開始。

まず、自転車で、30分ほど走る。
ついでワイフに、「今朝は、朝食抜き」を
宣言。

そうそう、満腹感が残っているためか、
今朝は、頭の働きが鈍い。

考えるよりも先に、あくびばかりが、出る。

しかし今日も、とにかく、始まった。

がんばるしかない。がんばろう!

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 昨日、友人夫妻の車で、浜名湖の西にあるレストランで、イタリア料理を食べた。山の中腹に
あるレストランで、浜名湖が一望できた。すてきなレストランで、一品ごと、ウエイターが、「これ
は〜〜です」「これは〜〜です」と、紹介してくれた。

 おいしかった。楽しかった。が、いつもの、食べすぎ。時計を見ると、レストランを出たのが、
午後3時。12時から食べ始めたから、何と、3時間も、そのレストランでねばったことになる。3
時間だぞ! あのウエイター、きっと、「早く帰れ」と、内心では怒っていたにちがいない。

 ああしたレストランでは、ワインで、儲けるしくみになっている。が、私たちは、そのワインを飲
まなかった。とくに私は、水(ウォーター)だけ。ゴメン!

 帰りの途中に、ワイフと夕食の献立の話になる。「何にする?」「何にしようか?」ということ
で、スキヤキになった。鍋物は、私の得意芸。夕食は私がつくることにした。

 そんなわけで、夕食は、スキヤキ。味が少し薄かったが、まあまあのでき。(スキヤキというの
は、一度少量で煮こんだあと、一度、さまして、数時間そのままにしておく。そのあと、もう一
度、熱を入れ、新鮮な野菜や牛肉を補充すると、おいしくなる。これは、私流、スキヤキ料理
法。しかし昨夜は、そのさましておく時間が、なかった。それで薄味になってしまった。)

 で、今朝起きたとき、眠気眼(ねむけまなこ)で体重計の上に乗ると、ギョッとして、そのまま
目がさめてしまった。いつもより、2キロもオーバー。2キロといえば、ペットボトル1本分!

 さっそく今日から、またまたダイエット。書斎にお茶を届けてくれたワイフに、「今朝は、朝食を
抜くよ」と宣言。私のばあい、1、2食抜けば、体重はすぐまたもとにもどる。そういう意味では、
私の体は、便利な体にできている。あとは、運動。

 しかし昨日は、美食日だった。口の中には、あのイタリア料理とスキヤキの味が、まだどこか
しこに、残っている。しばらくは、ダイエット食と、野菜だけの献立がつづきそう。

 おかげで、今朝は、考えるより先に、あくびばかりが、出る。ア〜ア。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●指導力不足教師

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子どもに適切な指導ができないとして、
2005年度に、「指導力不足」と認定された
公立学校の教員は、506人だったという。

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子どもに適切な指導ができないとして、2005年度に、「指導力不足」と認定された公立学校の
教員は、506人だったという。9月22日、文部科学省のまとめで、わかった。

この数は、04年度より60人減った。年代別では40代が45%、50代が37%とベテラン教員
が8割強を占めたという。全国の公立小中高校の教員は、約89万8000人。約1775人に1
人が、指導力不足と判定されたことになる。

 T初等中等教育企画課長は、「年齢構成上、教員にはその年代が多いことも要因だが、子ど
もの変化や、保護者の要望の変化に対応しきれていない部分もある」と分析している(中日新
聞)。

 この記事を読んで、「?」と思う部分が、いくつかある。

 その1。数が少なすぎる。全国で、たったの506人? しかしとてもそんな数でないことは、現
場の先生たちなら、みな、知っている。「?」と思われる教師がいても、たいていは、学校内部
で処理されてしまう。ここでいう506人という先生は、きわだって、特別な先生ということにな
る。

 G先生(K市教育委員会所属)も、こう言った。「問題のある教師を、問題があると認定するだ
けでも、たいへんなことです」「とくに40代前後の教師は、我流を身につけていますから、指導
がむずかしいです。自分の教え方が絶対正しいと言い張って、一歩も譲りませんから」と。

 その2。「子どもの変化や、保護者の要望の変化に対応しきれていない部分がある」という部
分。つまり対応できないから問題がある、と。言いかえると、私たちが頭の中で描く、(指導力
不足教師)とは、ややニュアンスがちがうのではないのか。

 私たちが(指導力不足教師)というときは、いわゆる(いいかげんで、無責任な教師)をさす。
子どもたちがワイワイと騒いでいても、すべきことはするが、それ以上はしない。そういう態度
で、そのまま授業を終わってしまう。そんな教師をさす。

 もっとも、今回の調査は、全国の都道府県と政令市の教育委員会を対象に実施したものだと
いう。指導力不足の定義は教委ごとに違い、それぞれが医師、弁護士などによる委員会を設
けて判定したという。それを文科省が、結果を集約したという。

 どこかに一定の基準があったわけではない。

 ついでながら、認定者が一番多かったのは横浜市の23人。千葉、三重両県の22人だった
という。

 で、指導力不足と認定された教員で、05年度に研修を受けたのは342人。うち現場に復帰
できたのは116人と3分の1だったという。認定後、依願退職したのは103人。研修後も指導
力が身につかなかったとして、免職となった教員が6人いたという。

 つまりは、こうした調査は、不適格教師のクビを切るための、お膳立てに利用されていると考
えてもよいのでは?

 が、あえて、一言。「子どもの変化や、保護者の要望の変化に対応しきれていない部分があ
る」という部分だが、現在のように、日本中の親や子どもたちが、総ドラ息子、総ドラ娘化してい
る中で、今さらに、どうして(子どもの変化や、保護者の要望に対応できていない)が、問題にな
るのか。つまりこれ以上、子どもの変化や、保護者の要望に対応したら、教育そのものが、成
りたたなくなってしまう。

 わかりやすく言えば、これ以上、親や子どもたちに振りまわされていたら、教育そのものが、
成りたたなくなるということ。「教育」といっても、その底流では、親たちのドロドロとした欲望が、
渦を巻いている。そんなドロドロとした欲望に対応できないからといって、指導力不足とは?

 もっともお役人の使う言葉には、必ず、ウラがある。今回も、(不適格教師)のことを、(指導
力不足)と言いかえただけなのかもしれない。たとえば私が中学生のときは、隠れて酒を飲ん
でいる先生だっていた。そういう、つまりはだれの目から見ても、「?」な先生を、(指導力不足)
ということにしたのかもしれない。

 私には、よくわからないが……。医師や弁護士による委員会が判定したということだから、そ
ういう人たちの目から見て、そういう教師だったということなのだろう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 指導
力不足 不適格教師 指導力不足教師)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【韓国情勢】

++++++++++++++++++

韓国政府の高官が、「日本は、アメリカの
寄生虫」と言ったとか。

何を言っても、私はもう驚かないが、そう
言えば、今朝のニュースによれば、あの
K国も同じようなことを言っている。

「(日本は)アメリカの対(北)朝鮮敵視政策に
追従し、主人の機嫌を取ろうとする政治的な醜態
を見せている」(読売新聞)と。

+++++++++++++++++++

●アメリカ空軍が撤退

 韓国のB国際安保大使は、21日、「日本は米国に寄生して、中国に対抗しようとしているが
……」と述べて、「寄生虫」という言葉を使った。

 何とでも言いたければ言うがよい。しかし逆に、日本の政府高官が、同じような言葉を韓国に
向けて言ったら、あのN大統領は、どのように反応するだろうか。きっと、狂ったように、それを
反日攻撃の材料にするにちがいない。

 ところで最近の大きな動きとしては、アメリカ空軍が、いよいよ韓国から出て行くことになりそ
うということ。

在韓米第7空軍司令官が、21日、「空対地射撃場の移転先問題が30日以内に解決されなけ
れば、駐韓米空軍の戦力を韓半島(朝鮮半島)の外に展開することもあり得る」と語ったという
(朝鮮N報)。

 アメリカは、「30日以内」という、タイムリミットをつけたことになる。米韓関係は、予想以上の
スピードで、破滅へと向かっている。

 が、韓国のあのおバカ大統領は、そんな動きにも、どこ吹く風。「K国が偽札を作っていると
いう証拠はない」「(開城工業団地でK国に渡している、毎月50マンドルの現金が)、ミサイル
や核開発のための使われているという証拠はない」(朝鮮N報)と、述べている。

 ほかに、「作戦統制権の話はアメリカ側から出たもの」(これはウソだったと、あとになって判
明)とか、「韓国有事の際には、50〜60万人のアメリカ兵が、韓国を守ってくれる」(これも、ア
メリカ側が、そんな約束をした覚えはないと否定)などと言っている。

 さらに日米、中ロの間に立って、これら4か国の「バランサーになる」と豪語してはみたもの
の、実際には、日米関係を破壊し、肝心の中ロには、相手にされなくなってしまった。4年前、
大統領に就任したときは、「K国の核問題は、私が解決してみせる」と豪語した。が、結果は、
ご覧のとおり。

●どうして韓国が韓国なのか

 それもそのはず。日米韓の3か国あっての韓国である。日米から遊離して、どうして韓国なの
か。中国やロシアの立場から見れば、そんなことは、だれにだってわかるはず。

 おまけに韓国最大手のU銀行が、開城工業団地を通して、K国の隠し口座を作っていたとい
う事実が判明。「一時的な便宜のため」と、韓国政府は弁明したが、それが18か月もつづいて
いたという。

 もしこれが事実なら、マカオのバンコ・デルタ・アジア銀行(BDA)問題以上の問題となる。仮
にアメリカが、U銀行に対して、BDAと同じような調査を開始したら、韓国経済は、息の根を止
められることになる。

 わかっているのか、N大統領!

 もっともN大統領のハラは、K国の敵意を、日本やアメリカに向けさせることによって、自分だ
けは安全圏に置こうというところにある。自国への矛先を、日本やアメリカにかわそうというわ
けである。そういう意味では、N大統領の外交政策は、成功しているかのように見える。

 が、それは同時に、反日、反米、そして親北政策となって、はねかえってくる。この東アジア
で、この日本を敵に回して、韓国は、どうやって生き延びていくことができるのか。この数日だ
けでも、円に対して、ウォンが急騰している。100円=850ウォンが危険水域とされていたが、
それが800ウォンに近づきつつある(9月22日)。

 つまり韓国内の日本向け輸出企業は、そのほとんどが、その時点で、壊滅的打撃を受ける
ことになる。(すでに、受けているが……。)

 ならばウォンを切り下げればよいということになるが、そうなればなったで、N大統領が描いて
いた夢は、つゆと消えることになる。N大統領は、「韓国は、世界の10大先進国になった」と、
少し前まで、大声ではしゃいでいた。が、それはウォン高が背景にあったからにほかならない。

 このまま行けば、またまた韓国は国家破綻(デフォルト)するかもしれない。先の国家破綻の
ときも、100円が800ウォンになったところで、起きた。

 それにしても「寄生虫」とは?

 これから先のことは知らないが、もしそうなら、現在の韓国は、どうなのか? 現に今、その
韓国は、アメリカに寄生しているではないのか。経済では、日本に寄生している。こうした発言
は、それが終わってから言うべきではないのか。

●以下、チャンネル2風に……

 あのね、B国際安保大使さんよ、アメリカは、韓国にせよ、K国にせよ、相手にしていないの。
それがわからなければ、あのアメリカの大地のどん真ん中に立って、もう一度、自分たちの極
東アジアがどういう位置にあるか、それを考えてみればよい。

 アメリカのほとんどの大学生は、韓国がどこにあるかさえも知らないよ。中国やロシアのこと
は知っていても、韓国のことは、知らない。それともあなたは、南米のウルグワイや、パラグア
イがどこにあるか、知っているとでもいうのか? アメリカ人にしてみれば、韓国という国は、そ
の程度の国なの。

 「韓民族」「韓民族」と声高に叫ぶのもよいが、今は、もうそういう時代ではないの。とくにアメ
リカには、民族主義など、ない。あの国は、多民族で構成された移民国家。韓国からの移民
も、多いよ。自分たちの論理だけを振りまわして、「主権」だの、「民族の誇り」などを訴えても、
意味はないということ。

 おめでたいというか、おバカというか……。日本経済にずっと寄生してきたのは、ほかなら
ぬ、韓国、あなたがたではないのか! 現在、韓国の産業の柱になっている、自動車、電子、
鉄鋼、それに造船の産業は、すべて、日本から奪い取ったもの。

 今、それらが今度はすべて、中国に奪われようとしている。日本の知ったことではないが、
「日韓の首脳会談を開いてもよい」(N大統領)とは、何ごとか! 頭をさげて、「首脳会談を開
かせてください」と言うべきは、実は、あなたがた韓国のほうではないのか!

 アメリカは、「現政権が変わっても、対韓国政策はもう、あと戻りはしない」と宣言している。そ
の点、日本は、まだ暖かいよ。今のN政権が、韓国の人たちの総意を代表しているなどとは、
だれも思っていない。ただここで言えることは、N大統領よ、もうこれ以上、日韓関係を破壊す
るような発言や行為は、おやめなさいということ。

 それこそ、本当に今度は、日本もあと戻りできなくなってしまう。しかしね、それはね、同時
に、韓国経済の終焉(しゅうえん)を意味することになるのよ。わかっていますか、N大統領!

 それにね、太陽政策というのも、結構だが、相手は、あなたのウラのウラをかく、独裁者な
の。わかる? あなたは一見、K国を助けるフリをしながら、やがてはK国を自国へ取りこもうと
している。これがウラ。しかしそんなウラは、とっくの昔に、バレバレ。だからK国は、矛先を日
本やアメリカに向けたフリをしながら、さらに韓国から、援助を引き出そうとしている。これがウ
ラのウラ。

 K国の問題を考えるときにはね、貧者の論理で考えなければならないのよ。

 たまたま金持ちになった韓国がだよ、その札束を見せびらかして、それでもって、K国が目を
開くと思ったら、大きなまちがい。かえってK国は、門戸を閉ざすだけ。ひがむだけ。いじけるだ
け。

 相手は、共産主義者でも、社会主義者でもないのよ。ただの頭のおかしい、独裁者。どうして
近くにいて、そんなことがわからないの? つまりね、それがわからないから、あなたはおバカ
なの。

【付記】

●K国に毎月、現金50万ドル!

+++++++++++++++++++

朝鮮N報にこんな記事が出ていた。
それを要約する。

何でも、毎月50万ドルもの現金が、
K国に渡っているという。

+++++++++++++++++++

ドルを満載した現金輸送車が、月2回、ソウル市内のU銀行本店を出発する。行き先はK国の
開城工業団地にあるウリ銀行の支店。現金輸送車に積まれたドルは、開城工団の韓国企業1
5社で働く、K国の労働者約8000人に渡す給料(1人当たり最低58ドル=約6700円)だ。ひ
と月に約50万ドル(約5820万円)が現金輸送車に積まれ、開城工団に向かう。なぜウリ銀行
は銀行送金せずにドル札を直接、K国に運ぶのか? 

 その理由は、ウリ銀行開城工団支店は輸出工業団地内にあるものの、ドル収入がまったくな
く、K国の労働者に渡すドルを、自給自足できないからだ。つまり、開城工団の各企業は、韓
国から原材料を受け取り、K国の労働力を使って単純加工し、再び韓国に運ぶため、輸出に
よる外貨収入が発生しないのだ。 

 またK国は、ウリ銀行開城工団支店に自己名義のドル建て口座を作れないので、給料は現
金で支給しなければならない。

 問題は、ソウルを出発した現金輸送車に積まれたドルが、K国側に渡る過程で、韓国政府の
為替当局(韓国銀行)に届け出る手続きがなく、現金輸送車に積まれたドルの金額をいちいち
確認する必要がないため、現金輸送が他の目的に利用される可能性もあるということだ。 

 そのうえ韓国財政経済部は、今月から現金支給でも振り込みでも、K国への送金については
申告義務を免除する特別措置まで取っている。 

 開城工団の韓国企業がこの現金を受け取り、K国の労働者に月給として直接支給するわけ
でもない。輸送されたドルはまず、K国の行政官庁に渡される。K国当局は各種社会保障費や
食糧配給の代価など、一種の税金を控除した後、労働者に月35ドル(約4080円)ずつK国
ウォン(K国の公式レートで約5000ウォン)で支給する。結局、ウリ銀行が運んだドルは 10
0%、K国当局に渡るのだ。 

 巨額のドルを定期的にK国当局に渡すやり方に、国際社会の一部から懸念が出ているが、
こうした給与支給方式は変っていない。むしろ韓国政府は、ウリ銀行のK国に対する外貨送金
に、韓国銀行の申告義務をなくす特例条項まで設け、送金の便宜を図っている。 

 韓国政府当局者は「K国がこの現金を実際にどう使っているかは確認できないのが現状」と
話している。

【付記2】

 こうした韓国側の行為に、アメリカの政府高官が、不快感を示している。 

 たとえば対北強硬派で知られているレフコウィッツK国人権特使は、今年4月、議会の公聴
会で、「開城工業団地事業はK国に数億ドルを与えており、今後さらに多くの現金収入をK国
にもたらすだろう。韓国はこの事業で冷戦の壁を克服するとしているが、国際社会は工場の労
働者らに対する公正な処遇について疑問の声を上げている」と発言している。

 また昨年まで米ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)でアジア担当局長を務めていた
マイケル・グリーン氏は、最近米国内のマスコミとのインタビューで、「開城工業団地と金剛山
事業は、K国の住民のためになる経済・社会体制上の変化を起こすことなく、余りにも多くの現
金がK国の支配層に渡っており、既存の体制を強化させることにつながっているという点が問
題になる」と語っている(以上、朝鮮N報より)。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1536)

【子どもとストレス】

●ストレス学説

+++++++++++++++++

適度なストレスは、生活のスパイス。
それは常識だが、では「適度なストレス」
とは、どの程度のストレスのことを
いうのか。

称して、「はやし浩司のストレス学説」

+++++++++++++++++

 適度なストレスは、生活のスパイス。それが、生活に、ある種の緊張感をもたらす。それは常
識だが、では「適度なストレス」とは、どの程度のストレスのことをいうのか。それがわからな
い。

●正のストレス、負のストレス

 ストレス(生理的ひずみ)にも、2種類ある。たまたま、私は、それを同時に経験しつつある。

 来月(10月)から、数年ぶりに、言葉クラブをもつ。生徒も、5、6人、集まった。で、これが
今、ある種の緊張感となって、私の心を包んでいる。これが正のストレス。

 一方、この先ずっと、私は、グループ・ホームへ入った兄のめんどうをみなければならない。
ひょっとしたら、兄のほうが、私より長生きをするかもしれない。途中、いろいろな医療費も負
担することになるだろう。それを考えると、気が重くなる。これが負のストレス。

 つまり前向きに、自分を発展させていくストレスが、正のストレスということになる。一方、袋小
路に入ったように、先が見えないストレスが、負のストレスということになる。

 適度なストレスとはいうものの、正のストレスなら、まだ何とかなる。ここでいう、生活のスパイ
スになる。

 しかし負のストレスは、そうではない。それがいくら軽いものであっても、(重いものなら、当然
だが)、心の内側にペタッと入りついて、その心を、重く苦しいものにする。

●住んでいる世界で異なるストレス

 心の広さというのは、千差万別。人によって、みな、異なる。

 井戸のような世界に住んでいる人は、小さな石ころが落ちただけで、それを大きなストレス
(ストレッサー)にしてしまう。

 一方、大きな海のような世界に住んでいる人は、渦巻く台風のような風が起きても、平気。

 つまりは住んでいる世界、あるいはその人の心の広さによって、同じストレスでも、感じ方ま
で、異なってくる。

 それが正のストレスであれ、負のストレスであれ、事情は同じ。

 では、私たちは、ストレスに対して、どのように考え、どのように対処すればよいのか。

●ストレス学説 

 ストレスというのは、もともとは「圧力」を意味する(セリエ)。その圧力が、心理的負担になり、
心理的反応を示した状態を、「ストレス」という。「生理的ひずみ」と考えると、わかりやすい。

 しかしそのストレスの受け方には、ここにも書いたように、個人差がある。たとえば同じストレ
ス(圧力)でも、人によって、それを重圧に思う人もいれば、そうでない人もいる。そこで今で
は、ストレスに個人差、つまり個人変数を加えて考えるのが常識になっている(ラザラスとフォ
ルクスマン)。

 同じストレスであるにもかかわらず、人によって個人差が出るのは、それぞれの人がもつ認
知プロセスがちがうからと考えられている。わかりにくい言葉だが、要するに、その人が置かれ
た環境、心理状態、精神状態、経験などにより、その処理方法が異なるということ。

 たとえばある男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金がないと仕事をする気が起きない」
と。

 また別の男性(40歳)は、こう言った。「オレは、借金に追われるようになると、仕事が手につ
かなくなる」と。

 同じ(借金)でも、それを受け取る側の認知プロセスによって、ストレスにするかしないかが決
まってくる。こうしたストレスへの対処方法を総称して、「コーピング(coping)」と呼ぶ学者もい
る。

●では、どうするか?

 ストレスと戦うためには、2つの方法が考えられる。ひとつは、そのストレスそのものと戦うと
いう方法。もう1つは、自分の住む世界を、より広く、大きくすることによって対処するという方
法である。
 つまり心理的圧力となるような原因を取り除くのが、前者。広い海のような心をもち、小石が
落ちたくらいでは、ビクともしない。そういう状態にもっていくのが、後者ということになる。

 で、私のばあいは、ストレスの原因となるようなストレッサー、とくに冒頭にあげた負のストレ
スを、心のどこかで感じたばあいには、できるだけ早い段階で、それを解消するように努めて
いる。もともとあまりストレスに強い精神構造にはできていない。

 つぎに、できるだけ広い心を用意する。具体的には、さまざまな経験をすることによって、広
い心をもつようにする。そのためには、情報が重要な役割をになうことが多い。そういう意味で
は、無知、無学は、ストレスの大敵と考えてよい。

 ほかに、たとえば、心の防衛機制に準じて、(1)合理化、(2)反動形成、(3)同一視、(4)代
償行動、(5)逃避、(6)退行、(7)補償、(8)投影、(9)抑圧、(10)置換、(11)否認、(12)
知性化という方法などがある。

どう反応するかは、もちろんそれぞれの人によって異なる。が、人というのは、それをストレスと
感じたときから、それに長く耐える力は、あまりない。これは幼児のばあいだが、日中、ほんの
5〜10分間程度ストレスを感じただけで、精神疲労症状を起こす子どもは、少なくない。

 子どもによっては、頭痛、腹痛を訴えることもある。吐く息が臭くなったり、下痢症状を示すこ
ともある。それが周期的に長くつづいたりすると、心をゆがめることも少なくない。神経症を発
症したり、さらに情緒障害、精神障害に発展することも珍しくない。

 話が脱線したが、今、あなたが何かのストレスを感じているなら、まずその中身を知る。敵を
知る。それがストレスと立ち向かう、第1歩ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ストレ
ス、ストレッサー ストレス学説 正のストレス、負のストレス)

++++++++++++++++

ストレスについて、以前書いた原稿の
中から、いくつかを集めてみました。

++++++++++++++++

子どもが自慰をするとき

●ある母親からの質問

 ある母親からこんな相談が寄せられた。いわく、「私が居間で昼寝をしていたときのこと。6歳
になった息子が、そっと体を私の腰にすりよせてきました。小さいながらもペニスが固くなって
いるのがわかりました。やめさせたかったのですが、そうすれば息子のプライドをキズつけるよ
うに感じたので、そのまま黙ってウソ寝をしていました。

こういうとき、どう対処したらいいのでしょうか」(32歳母親)と。

●罪悪感をもたせないように

 フロイトは幼児の性欲について、次の3段階に分けている。(1)口唇期……口の中にいろい
ろなものを入れて快感を覚える。(2)肛門期……排便、排尿の快感がきっかけとなって肛門に
興味を示したり、そこをいじったりする。(3)男根期……満4歳くらいから、性器に特別の関心
をもつようになる。

 自慰に限らず、子どもがふつうでない行為を、習慣的に繰り返すときは、まず心の中のストレ
ス(生理的ひずみ)を疑ってみる。

子どもはストレスを解消するために、何らかの代わりの行為をする。これを代償行為という。指
しゃぶり、爪かみ、髪いじり、体ゆすり、手洗いグセなど。自慰もその一つと考える。

つまりこういう行為が日常的に見られたら、子どもの周辺にそのストレスの原因(ストレッサー)
となっているものがないかをさぐってみる。ふつう何らかの情緒不安症状(ふさぎ込み、ぐずぐ
ず、イライラ、気分のムラ、気難しい、興奮、衝動行為、暴力、暴言)をともなうことが多い。そ
のため頭ごなしの禁止命令は意味がないだけではなく、かえって症状を悪化させることもある
ので注意する。

●スキンシップは大切に

 さらに幼児のばあい、接触願望としての自慰もある。幼児は肌をすり合わせることにより、自
分の情緒を調整しようとする。反対にこのスキンシップが不足すると、情緒が不安定になり、情
緒障害や精神不安の遠因となることもある。子どもが理由もなくぐずったり、訳のわからないこ
とを言って、親をてこずらせるようなときは、そっと子どもを抱いてみるとよい。最初は抵抗する
そぶりを見せるかもしれないが、やがて静かに落ちつく。

 この相談のケースでは、親は子どもに遠慮する必要はない。いやだったらいやだと言い、サ
ラッと受け流すようにする。罪悪感をもたせないようにするのがコツ。

 一般論として、男児の性教育は父親に、女児の性教育は母親に任すとよい。異性だとどうし
ても、そこにとまどいが生まれ、そのとまどいが、子どもの異性観や性意識をゆがめることが
ある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の性教育 性教育 子供の性 性 自慰 子供の自慰 自慰行為)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どものおねしょとストレス

 いわゆる生理的ひずみをストレスという。多くは精神的、肉体的な緊張が引き金になることが
多い。

たとえば急激に緊張すると、副腎髄質からアドレナリンの分泌が始まり、その結果心臓がドキ
ドキし、さらにその結果、脳や筋肉に大量の酸素が送り込まれ、脳や筋肉の活動が活発にな
る。

が、そのストレスが慢性的につづくと、副腎機能が亢進するばかりではなく、「食欲不振や性機
能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などの種々の反応が引き起こされる」(新井康
允氏)という。こうした現象はごく日常的に、子どもの世界でも見られる。

 何かのことで緊張したりすると、子どもは汗をかいたり、トイレが近くなったりする。さらにその
緊張感が長くつづくと、脳の機能そのものが乱れ、いわゆる神経症を発症する。

ただ子どものばあい、この神経症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。「尿」につい
ても、夜尿(おねしょ)、頻尿(たびたびトイレに行く)、遺尿(尿意がないまま漏らす)など。

私がそれを指摘すると、「うちの子はのんびりしています」と言う親がいるが、日中、明るく伸び
やかな子どもでも、夜尿症の子どもはいくらでもいる。(尿をコントロールしているのが、自律神
経。その自律神経が何らかの原因で変調したと考えるとわかりやすい。)同じストレッサー(スト
レスの原因)を受けても、子どもによっては受け止め方が違うということもある。

つまり子どもによって、それぞれ認知プロセス(=ストレスに対する耐性)は異なる。

 しかし考えるべきことは、ストレスではない。そしてそれから受ける生理的変調でもない。(ほ
とんどのドクターは、そういう視点で問題を解決しようとするが……。)

大切なことは、仮にそういうストレスがあったとしても、そのストレスでキズついた心をいやす場
所があれば、それで問題のほとんどは解決するということ。ストレスのない世界はないし、また
ストレスと無縁であるからといって、それでよいというのでもない。

ある意味で、人は、そして子どもも、そのストレスの中でもまれながら成長する。で、その結果、
言うまでもなく、そのキズついた心をいやす場所が、「家庭」ということになる。

 子どもがここでいうような、「変調」を見せたら、いわば心の黄信号ととらえ、家庭のあり方を
反省する。手綱(たづな)にたとえて言うなら、思い切って、手綱をゆるめる。一番よいのは、子
どもの側から見て、親の視線や存在をまったく意識しなくてすむような家庭環境を用意する。

たいていのばあい、親があれこれ心配するのは、かえって逆効果。子ども自身がだれの目を
感ずることもなく、ひとりでのんびりとくつろげるような家庭環境を用意する。子どものおねしょ
についても、そのおねしょをなおそうと考えるのではなく、家庭のあり方そのものを考えなおす。

そしてあとは、「あきらめて、時がくるのを待つ」。それがおねしょに対する、対処法ということに
なる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の夜尿症 おねしょ 頻尿 子どものおねしょ おねしょう)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●私のストレス発散法

 ストレス(生理的なひずみ、あるいは「気」のうっ積)で苦しんでいる人は、多い。実のところ、
私は30歳〜35歳のころ、偏頭痛で苦しんだ。年に数回、あるいはもっと多い頻度で、偏頭痛
の発作が起きた。それこそ四転八転の苦しみを味わった。「頭を切ってくれ!」と叫んで、ふと
んの中でもがいたことも多い。その苦しみは、偏頭痛を味わったものでないとわかるまい。

 もっとも当時は、偏頭痛に対する理解も治療法もなく、(あったかもしれないが、私が相談した
医師は、別の診断名をくだしていた。ある大病院では、脳腫瘍と診断し、開頭手術まで予定し
た)、市販の薬をのんでは、ゲーゲーとそれを吐き出していた。そういう意味では、まさに毎日
がストレスとの戦いでもあった。

 そんな中、やがて自分なりの対処法を身につけるようになった。

 まず第一に自分はストレスに弱いことを自覚した。そのため、ストレッサー(ストレスの原因)
となりやすいものは、できるだけ避けるようにした。たとえば人と会う約束も、1日1回にすると
か、など。あるいはスケジュールには、余裕をもたせるなど。

 つぎに、当然のことながら、治療法をさがした。たまたま東洋医学の勉強もしていたので、あ
らゆる漢方薬を試してみた。しかし結局は、そのうち、たいへんよく効く西洋薬が開発されて、
それでなおるようになった。ただその薬は、のむと胃を荒らすので、できるだけのまないように
している。

 が、最善の治療法は、汗をかくこと。ただし、偏頭痛がひどくなってからでは、汗をかくと、か
えって……というより、運動することそのものができない。軽い段階で、思い切って汗をかく。

運動がよいことは言うまでもないが、その中でも、私のばあい、エンジン付の草刈り機で、バン
バンと草を刈るのが効果的。一汗かくと、偏頭痛そのものが消える。だから「おかしい」と感じ
たら、あたりかまわず草を刈ることにしている。理由はよくわからないが、下半身は毎日、自転
車できたえているため、走ったり、自転車にのっても、あまり汗をかかない。しかし反対に、上
半身は、ほとんど鍛えていないので、草を刈るとその上半身を使うため、汗をかくのではない
か……と、勝手にそう解釈している。

 今でも、少し油断すると、頭重が起きる。しかしそれは同時に、私の健康のバロメーターでも
ある。持病もうまくつきあうと、それを反対に利用することができる。「少し頭が重くなったから、
仕事を減らせ」とか。そういうふうに、利用できる。

 この話は、子育てとは関係ないが、育児疲れや育児ノイローゼで、偏頭痛になる人も多いの
で、参考のために書いた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●わずらわしい世界

 情報の時代というが、本当に、この世界、わずらわしい。昨夜も、居間でお茶を飲んでいた
ら、若い女性から電話がかかってきて、息子の電話番号を教えろ、と。私が断ると、「何を偉そ
うに!」と。勝手に他人の家に電話をかけてきて、「何を偉そうに!」は、ない。

 ひとり静かに生きることは、一見、楽なようにみえて、楽ではない。「一日」という時間帯をみ
ても、ひとり静かでのんびりできる時間のほうが、少ない。つぎからつぎへと、いろいろな事件
が起きる。そのほとんどは、向こうからやってくる。

できるなら、そういうわずらわしさから、解放されたい。しかし、それは死ぬまで、不可能だろ
う。ただ私のばあい、朝、5時ごろ目が覚めて、それから7時、8時まで、こうして原稿を書いて
いるが、その時間ほど、「ひとり」でいられる時間はない。貴重な時間だ。しかし、それでわずら
わしさが消えるわけではない。

 こうしたわずらわしさがあれば、それと戦うしかない。受け身になったとき、そのわずらわしさ
は、ストレッサーとなる。問題は戦い方だ。しかしひとたび情緒が不安定になると、それも簡単
ではない。

子どものばあい、大きく分けて、三つのタイプに分かれる。(1)攻撃型、激情型、暴力型、(2)
内閉型、オドオド型、萎縮型、(3)執着型、こだわり型、依存型。

思いついたまま書いたので、正しくないかもしれないが、要するに、大声を出して暴れるタイプ
と、グズグズして引きこもるタイプ、それにモノにこだわって、それを異常にこだわるタイプがあ
る。

 おとなもそうで、私のばあいは、(1)の攻撃型と、(2)内閉型の間をいったりきたりする。精神
状態がフワフワし、自分でもつかみどころがなくなってしまう。爆発しそうな自分を必死でこらえ
たり、反対に、電話に出るのも、おっくうになったりする。

あるいはときどき、(3)のモノにこだわるときもある。そういうときは、それまでほしかった高価
なものを、パッと買ったりする。それで気分が晴れることもある。あとはカルシウム剤をたっぷり
と飲んで、風呂に入って、よく眠る。「明日は明日の風が吹く」と、そう思いながら、床につく。

 昨日も一日、何かとわずらわしいことがつづいた。そのため朝なのに、少し頭が痛い。しかし
考えても始まらない。「何とかなるだろう」と、自分をなぐさめながら、前に進むしかない。がんば
りましょう。がんばります。では、みなさん、おはようございます。
(02−11−16)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心のメカニズム

*****************

少し不謹慎な話で恐縮だが、セックス
をすると、言いようのない快感が、脳
全体をおおうのがわかる。これはセッ
クスという行為によって刺激され、脳
にモルヒネ様の物質が放出されるため
である。しかしこういう快感があるか
ら人は、セックスをする。つまり、種
族を私たちは維持できる。同じように、
よいことをしても、脳の中で、同様の
変化が起きる? それについて考えて
みた。

*****************

 まず、数か月前に私はこんなエッセーを書いた。その中で、私は「気持ちよさ」とか、「ここち
よさ」という言葉を使って、「正直に生きることの大切さ」について書いてみた。

●常識の心地よさ 

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。

無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。排気ガスで
汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それが「常識」
だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余
計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店
員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みん
なが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るものか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町のT市のホテルに泊まる
つもりでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊
まりたいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝
たかった。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくこと、そのも
のと言ってもよい。

●なぜ気持ちよいのか

 少し話が専門的になるが、大脳の中心部(大脳半球の内側面)に、辺縁系(大脳辺縁系)と
呼ばれる組織がある。「辺縁系」というのは、このあたりが、間脳や脳梁(のうりょう)を、ちょう
ど包むようにフチどっていることから、そう名づけられた。

 その辺縁系の中には、認知記憶をつかさどる海馬(かいば)や、動機づけをする帯状回(た
いじょうかい)、さらに価値判断をする扁桃体(へんとうたい・扁桃核ともいう)がある。

その扁桃体が、どうやら、人間の善悪の感覚をつかさどっているらしいことが、最近の研究で
わかってきた。もう少しわかりやすく言うと、大脳(新皮質部)でのさまざまな活動が、扁桃体に
信号を送り、それを受けて、扁桃体が、麻薬様の物質を放出する。その結果、脳全体が快感
に包まれるというのだ。

ここに書いたケースで言えば、私が店員さんに50円のお金を渡したことが、扁桃体に信号を
送り、その扁桃体が、私の脳の中で、麻薬様の物質を放出したことになる。

 もっとも脳の中でも麻薬様の物質が作られているということは、前から知られていた。そのひ
とつに、たとえばハリ麻酔がある。体のある特定の部位に刺激を与えると、その刺激が神経を
経て、脳に伝えられる。すると脳の中で、その麻薬様物質が放出され、痛みが緩和される。私
は23、4歳のころからこのハリ麻酔に興味をもち、一時は、ある研究所(社団法人)から、「教
授」という肩書きをもらったこともある。

 それはそれとして、麻薬様物質としては、現在数10種類ほど発見されている。その麻薬様物
質は、大きく分けて、エンドルフィン類と、エンケファリン類の二つに分類される。これらの物質
は、いわば脳の中で生産される自家製のモルヒネと思えばよい。こうした物質が放出されるこ
とで、その人はここちよい陶酔感を覚えることができる。

 つまりよいことをすると、ここちよい感じがするのは、大脳(新皮質部)が、思考としてそう感ず
るのではなく、辺縁系の中にある扁桃体が、大脳からの信号を得て、麻薬様の物質を放出す
るためと考えられる。少し乱暴な意見に聞こえるかもしれないが、心の働きというのも、こうし
て、ある程度は、大脳生理学の分野で説明できるようになった。

 で、その辺縁系は、もともとは動物が生きていくための機能をもった原始的な脳と考えられて
いた。私が学生時代には、だれかからは忘れたが、この部分は意味のない脳だと教えられた
こともある。

しかしその後の研究で、この辺縁系は、ここにも書いたように、生命維持と種族維持だけでは
なく、もろもろの心の活動とも、深いかかわりをもっていることがわかってきた。そうなると人間
は、「心」を、かなりはやい段階、たとえばきわめて原始的な生物のときからもっていたというこ
とになる。ということは、同属である、犬やネコにも「心」があると考えてよい。実際、こんなこと
がある。

 私は飼い犬のポインター犬を連れて、よく散歩に行く。あの犬というのは、知的なレベルは別
としても、情動活動(心の働き)は、人間に劣らずともあると言ってよい。喜怒哀楽の情はもち
ろんのこと、嫉妬もするし、それにどうやら自尊心もあるらしい。

たとえば散歩をしていても、どこかの飼い犬がそれを見つけて、ワンワンとほえたりすると、突
然、背筋をピンとのばしたりする。人間風に言えば、「かっこづける」ということになる。そして何
か、よいことをしたようなとき、頭をなでてやり、それをほめたりすると、実にうれしそうに、そし
て誇らしそうな様子を見せる。恐らく、……というより、ほぼまちがいなく、犬の脳の中でも、人
間の脳の中の活動と同じことが起きていると考えてよい。つまり大脳(新皮質部)から送られた
信号が、辺縁系の扁桃体に送られ、そこで麻薬様の物質が放出されている!

●心の反応を決めるもの

 こう考えていくと、善悪の判断にも、扁桃体が深くかかわっているのではないかということにな
る。それを裏づける、こんなおもしろい実験がある。

 アメリカのある科学者(ラリー・カーヒル)は、扁桃体を何らかの事情で失ってしまった男性
に、つぎのようなナレーションつきのスライドを見せた。そのスライドというのは、ある少年が母
親といっしょに歩いているとき、その少年が交通事故にあい、重症を負って、もがき苦しむとい
う内容のものであった。

 そしてラリー・カーヒルは、そのスライドを見せたあと、ちょうど一週間後に再び、その人に病
院へ来てもらい、どんなことを覚えているかを質問してみた。

 ふつう健康な人は、それがショッキングであればあるほど、その内容をよく覚えているもの。
が、その扁桃体を失ってしまった男性は、スライドを見た直後は、そのショッキングな内容をふ
つうの人のように覚えていたが、一週間後には、そのショッキングな部分について、ふつうの人
のように、とくに覚えているということはなかったというのだ。

 これらの実験から、山元大輔氏は『脳と記憶の謎』(講談社現代新書)の中でつぎのように書
いている。

(1)(扁桃体のない男性でも)できごとの記憶、陳述記憶はちゃんと保たれている。
(2)扁桃体がなくても、情動反応はまだ起こる。これはたぶん、大脳皮質がある程度、その働
きを、「代行」するためではないか。
(3)しかし情動記憶の保持は、致命的なほど、失われてしまう。

 わかりやすく言えば、ショッキングな場面を見て、ショックを受けるという、私たちが「心の反
応」と呼んでいる部分は、扁桃体がつかさどっているということになる。

●心の反応を阻害(そがい)するもの

 こうした事実を、子育ての場で考えると、つぎのように応用できる。つまり子どもの「心」という
のも、大脳生理学の分野で説明できるし、それが説明できるということは、「心」は、教育によっ
て、はぐくむことができるということになる。

 そこで少し話がそれるが、こうした脳の機能を阻害するものに、「ストレス」がある。たとえば
ニューロンの死を引き起こす最大の原因は、アルツハイマー型などの病気は別として、ストレ
スだと言われている。

何かの精神的圧迫感が加わると、副腎皮質から、グルココルチコイドという物質が分泌され
る。そしてその物質が、ストレッサーから身を守るため、さまざまな反応を体の中で引き起こす
ことが知られている。

 このストレスが、一時的なものなら問題はないが、それが、長期間にわたって持続的につづく
と、グルココルチコイドの濃度があがりっぱなしになって、ニューロンに致命的なダメージを与
える。そしてその影響をもっとも強く受けるのが、辺縁系の中の海馬だという(山元大輔氏)。

 もちろんこれだけで、ストレスが、子どもの心をむしばむ結論づけることはできない。あくまで
も「それた話」ということになる。しかし子育ての現場では、経験的に、長期間何らかのストレス
にさらされた子どもが、心の冷たい子どもになることはよく知られている。

イギリスにも、『抑圧は悪魔を生む』という格言がある。この先は、もう一度、いつか機会があ
れば煮つめてみるが、そういう意味でも、子どもは、心豊かな、かつ穏やかな環境で育てるの
がよい。そしてそれが、子どもの心を育てる、「王道」ということになる。

 ついでに、昨年書いたエッセーを、ここに転載しておく。ここまでに書いたことと、少し内容が
重複するが、許してほしい。

●子どもの心が破壊されるとき

 A小学校のA先生(小1担当女性)が、こんな話をしてくれた。「1年生のT君が、トカゲをつか
まえてきた。そしてビンの中で飼っていた。そこへH君が、生きているバッタをつかまえてきて、
トカゲにエサとして与えた。私はそれを見て、ぞっとした」と。

 A先生が、なぜぞっとしたか、あなたはわかるだろうか。それを説明する前に、私にもこんな
経験がある。もう20年ほど前のことだが、1人の子ども(年長男児)の上着のポケットを見る
と、きれいに玉が並んでいた。私はてっきりビーズ玉か何かと思った。が、その直後、背筋が
凍りつくのを覚えた。

よく見ると、それは虫の頭だった。その子どもは虫をつかまえると、まず虫にポケットのフチを
口でかませる。かんだところで、体をひねって頭をちぎる。ビーズ玉だと思ったのは、その虫の
頭だった。

また別の日。小さなトカゲを草の中に見つけた子ども(年長男児)がいた。まだ子どもの小さな
トカゲだった。「あっ、トカゲ!」と叫んだところまではよかったが、その直後、その子どもはトカ
ゲを足で踏んで、そのままつぶしてしまった!

 原因はいろいろある。貧困(それにともなう家庭騒動)、家庭崩壊(それにともなう愛情不
足)、過干渉(子どもの意思を無視して、何でも親が決めてしまう)、過関心(子どもの側からみ
て息が抜けない家庭環境)など。威圧的(ガミガミと頭ごなしに言う)な家庭環境や、権威主義
的(「私は親だから」「あなたは子どもだから」式の問答無用の押しつけ)な子育てが、原因とな
ることもある。要するに、子どもの側から見て、「安らぎを得られない家庭環境」が、その背景に
あるとみる。さらに不平や不満、それに心配や不安が日常的に続くと、それが子どもの心を破
壊することもある。

イギリスの格言にも、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。抑圧的な環境が長く続くと、ものの
考え方が悪魔的になることを言ったものだが、このタイプの子どもは、心のバランス感覚をなく
すのが知られている。

「バランス感覚」というのは、してよいことと悪いことを、静かに判断する能力のことをいう。これ
がないと、ものの考え方が先鋭化したり、かたよったりするようになる。昔、こう言った高校生
がいた。「地球には人間が多すぎる。核兵器か何かで、人口を半分に減らせばいい。そうすれ
ば、ずっと住みやすくなる」と。そういうようなものの考え方をするが、言いかえると、愛情豊か
な家庭環境で、心静かに育った子どもは、ほっとするような温もりのある子どもになる。心もや
さしくなる。

 さて冒頭のA先生は、トカゲに驚いたのではない。トカゲを飼っていることに驚いたのでもな
い。A先生は、生きているバッタをエサとして与えたことに驚いた。A先生はこう言った。「そうい
う残酷なことが平気でできるということが、信じられませんでした」と。

 このタイプの子どもは、総じて他人に無関心(自分のことにしか興味をもたない)で、無感動
(他人の苦しみや悲しみに鈍感)、感情の動き(喜怒哀楽の情)も平坦になる。よく誤解される
が、このタイプの子どもが非行に走りやすいのは、そもそもそういう「芽」があるからではない。
非行に対する抵抗力がないからである。悪友に誘われたりすると、そのままスーッと仲間に入
ってしまう。ぞっとするようなことをしながら、それにブレーキをかけることができない。だから結
果的に、「悪」に染まってしまう。

 そこで一度、あなたの子どもが、どんなものに興味をもち、関心を示すか、観察してみてほし
い。子どもらしい動物や乗り物、食べ物や飾りであればよし。しかしそれが、残酷なゲームや、
銃や戦争、さらに日常的に乱暴な言葉や行動が目立つというのであれば、家庭教育のあり方
をかなり反省したらよい。

子どものばあい、「好きな絵をかいてごらん」と言って紙とクレヨンを渡すと、心の中が読める。
子どもらしい楽しい絵がかければ、それでよし。しかし心が壊れている子どもは、おとなが見て
も、ぞっとするような絵をかく。

 ただし、小学校に入学してからだと、子どもの心を修復するのはたいへん難しい。修復すると
しても、四、五歳くらいまで。穏やかで、静かな生活を大切にする。
(02−11−23)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心を
ゆがめる子供 扁桃体 ストレスと子供 子供とストレス)


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ここまでの原稿に関連して、
以前にマガジンで配送した原稿を、送ります。
前に読んでくださった方は、とばしてください。

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●性善説と性悪説

 胎児は母親の胎内で、過去数10万年の進化の過程を、そのまま繰り返す。ある時期は、魚
そっくりのときもあるそうだ。

 同じように、生まれてから、知能の発達とは別に、人間は、「心の進化」を、そのまま繰り返
す。……というのは、私の説だが、乳幼児を観察していると、そういうことを思わせる場面に、
よく出会う。

たとえば生後まもなくの新生児には、喜怒哀楽の情はない。しかし成長するにつれて、さまざま
な感情をもつようになる。よく知られた現象に、「天使の微笑み」というのがある。眠っている赤
子が、何を思うのか、ニコニコと笑うことがある。こうした「心」の発達を段階的に繰り返しなが
ら、子どもは成長する。

 最近の研究では、こうした心の情動をコントロールしているのが、大脳の辺縁系の中の、扁
桃体(へんとうたい)であるということがわかってきた。

たしかに知的活動(大脳連合野の新新皮質部)と、情動活動は、違う。たとえば1人の幼児を、
皆の前でほめたとする。するとその幼児は、こぼれんばかりの笑顔を、顔中に浮かべる。その
表情を観察してみると、それは知的な判断がそうさせているというよりは、もっと根源的な、つ
まり本能的な部分によってそうしていることがわかる。が、それだけではない。

 幼児、なかんずく4^6歳児を観察してみると、人間は、生まれながらにして善人であることが
わかる。中に、いろいろ問題のある子どもはいるが、しかしそういう子どもでも、生まれながら
にそうであったというよりは、その後の、育て方に問題があってそうなったと考えるのが正しい。

子どもというのは、あるべき環境の中で、あるがままに育てれば、絶対に悪い子どもにはなら
ない。(こう断言するのは、勇気がいることだが、あえてそう断言する。)

 こうした幼児の特質を、先の「心の進化」論にあてはめてみると、さらにその特質がよくわか
る。

 仮に人間が、生まれながらにして悪人なら……と仮定してみよう。たとえば仲間を殺しても、
それを快感に覚えるとか。人に意地悪をしたり、人をいじめても、それを快感に覚えるとか。新
生児についていうなら、生まれながらにして、親に向かって、「ババア、早くミルクをよこしやが
れ。よこさないとぶっ殺すぞ」と言ったとする。もしそうなら、人間はとっくの昔に、絶滅していた
はずである。

つまり今、私たちがここに存在するということは、とりもなおさず、私たちが善人であるという証
拠ということになる。私はこのことを、アリの動きを観察していて発見した。

 ある夏の暑い日のことだった。私は軒先にできた蜂の巣を落とした。私もワイフも、この1、2
年で一度ハチに刺されている。今度ハチに刺されたら、アレルギー反応が起きて、場合によっ
ては、命取りになるかもしれない。それで落とした。殺虫剤をかけて、その巣の中の幼虫を地
面に放り出した。そのときのこと。時間にすれば10分もたたないうちに、無数の小さなアリが
集まってきて、その幼虫を自分たちの巣に運び始めた。

 最初はアリたちはまわりを取り囲んでいただけだが、やがてどこでどういう号令がかかってい
るのか、アリたちは、一方向に動き出した。するとあの自分の体の数百倍以上はあるハチの
幼虫が、動き出したのである!

 私はその光景を見ながら、最初は、アリたちにはそういう行動本能があり、それに従っている
だけだと思った。しかしそのうち、自分という人間にあてはめてみたとき、どうもそれだけではな
いように感じた。

たとえば私たちは夫婦でセックスをする。そのとき本能のままだったら、それは単なる排泄行
為に過ぎない。しかし私たちはセックスをしながら、相手を楽しませようと考える。そして相手が
楽しんだことを確認しながら、自分も満足する。同じように、私はアリたちにも、同じような作用
が働いているのではないかと思った。つまりアリたちは、ただ単に行動本能に従っているだけ
ではなく、「皆と力を合わせて行動する喜び」を感じているのではないか、と。またその喜びがあ
るからこそ、そういった重労働をすることができる、と。

 この段階で、もし、アリたちがたがいに敵対し、憎みあっていたら、アリはとっくの昔に絶滅し
ていたはずである。言いかえると、アリはアリで、たがいに助けあう楽しみや喜びを感じている
に違いない。またそういう感情(?)があるから、そうした単純な、しかも過酷な肉体労働をする
ことができるのだ、と。

 もう結論は出たようなものだ。人間の性質について、もともと善なのか(性善説)、それとも悪
なのか(性悪説)という議論がよくなされる。しかし人間は、もともと「善なる存在」なのである。
私たちが今、ここに存在するということが、何よりも、その動かぬ証拠である。繰り返すが、もし
私たち人間が生まれながらにして悪なら、私たちはとっくの昔に、恐らくアメーバのような生物
にもなれない前に、絶滅していたはずである。

 私たち人間は、そういう意味でも、もっと自分を信じてよい。自分の中の自分を信じてよい。
自分と戦う必要はない。自分の中の自分に静かに耳を傾けて、その声を聞き、それに従って
行動すればよい。もともと人間は、つまりあらゆる人々は、善人なのである。
(02−8−3)

参考文献……『脳と記憶の謎』山元大輔(講談社現代新書)
      『脳のしくみ』新井康允(日本実業出版社)ほか
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 性善
説 ストレスとは ストレス学説)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1537)

●日本の仏教

++++++++++++++++++

日本の仏教には、いくつかの謎がある。

その第一。なぜ、日本にある仏像は、
どれも例外なく、古代インドのそれではなく、
古代ギリシアの服装をしているのか。

その謎を解く、ひとつのカギがまたまた
見つかった。

++++++++++++++++++

 アフガニスタンの中部にあるバーミヤンで、このほど、5〜6世紀ごろの塔院跡や、高さ3メー
トルはあったとみられる、立仏像のひざ下部が発見されたという。

 発見したのは、UNESCO(国連教育科学文化機構)。

 アフガン考古保護協会のゼマリアライ・タルジ代表は、「7世紀にバーミヤンを訪れたとされ
る、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)が、『大唐西域記』の中で見たと記した幻の涅槃(ねはん)像が
近くにあるかもしれない」と話しているという(中日新聞06−09−25)。

 が、この記事の中で、私の目をひいたのは、つぎの部分である。

 「……しっくいで覆われた主仏塔側面の柱状の装飾部分には、ギリシア文化の影響を受けた
植物の葉の彫刻が施されていた」と。つまり「ギリシア文化の影響を受けた装飾が施されてい
たという。

 バーミヤン遺跡というのは、一般には、5〜8世紀の造営とされているが、それ以前との説も
ある。アフガニスタンの首都カブール、西約240キロのところに、それはある。

 以前から、このバーミヤンで、インドから伝わってきた仏教と、古代ギリシア文明が融合した
という説はあった。日本の仏像が、どれも、古代インドの服装ではなく、古代ギリシアの服装を
しているのも、そのためと考えてよい。

 ただ私が調べた範囲では、ここに書いた、玄奘三蔵(三蔵法師のこと)は、バーミヤンまでは
来ていない。現在のチベットあたりまで来て、引きかえしているはずである。それはともかくも、
三蔵法師は、インドまでは行っていない。これは動かしがたい事実である。

 つまり私たちが今、この日本で「仏教」と呼んでいるものは、原型をとどめないほどまでに、そ
の過程で、加工されたものと考えてよい。釈迦経典と言われているものについても、釈迦滅
後、何百年もたってから、そのときどきの仏教徒によって書かれたり、編纂されたものである。

 つまり、日本の仏教には、多くの矛盾がある。矛盾だらけと言ってもよい。少し前になくなった
が、東大の中村名誉教授も、さかんに「大乗非仏説」を唱えていた。つまりインドからヒマラヤ
山脈の北を回って中国、日本へと伝わった仏教(大乗仏教、北伝仏教)は、釈迦が唱えた仏教
とは異質のものである、と。

 たしかにおかしな点も多い。たとえば、インドでは男性だったカノンが、日本では「観音様」と
いう女性になっている。

ここに書いたように、日本の仏像が、(ガンダーラの仏像もそうだが)、古代インドの服装ではな
く、すべてヘレニズム文化の影響を受けた古代ギリシアの服装を身につけている。

また経典の中に、よく、貨幣の話が出てくるが、釈迦の時代にはまだ貨幣はなかったこと、など
など。

釈迦の生誕地に残る仏典(法句経)は別として、それ以外は、どうも?、というものが多い。そう
いうものを根拠にして、仏教を説いても、あまり意味がないのではないのか。さらに総じてみれ
ば日本の仏教は、あのチベット密教の影響をモロに受けている。それが中国の土着宗教と結
びついて、日本へ入ってきた。チベット密教そのものと言う人もいる。

 だからといって私は仏教を否定しているのではない。仮に仏教が否定されたとしても、
その仏教とともに生きてきた、何億何千万もの人たちの人生まで否定することはできない。た
だ、盲信するのはいけない。中には、経典の一言半句にまで深い意味を求める人もいるが、し
かしここにも書いたように、矛盾がないわけではない。そういう矛盾、つまり明らかなまちがい
まで押し殺して盲信するのは、危険なことでもある。

 大切なことは、自分で考えることだ。先日もある著名な仏教哲学者U氏の講演をテレビで見
ていたが、その中でその哲学者はこう言っていた。「○○経にXXという言葉がありますが、つま
り人間はみな、平等と釈迦は教えているのです」(NHK、02年6月)と。

しかし、だ。何もおおげさに経典の一節をもちださなくても、人間がみな平等というのは常識で
はないのか。ほんの少し自分自身の「常識」に照らし合わせれば、小学生にだってわかる。そ
れにその哲学者は、こうも言っていた。「人間は白人も、黒人も、黄色人種も、みな平等だと、
そういうことを釈迦は教えているのです。すばらしいことです」と。

しかしこの話はウソ。釈迦の時代に、釈迦の周辺に、白人や黒人、黄色人種はいなかった! 
その教授は、経典に、自説をこじつけたにすぎない。

 私たちは何の疑いもなく、日々の生活の中で、仏教的な儀式を繰り返している。そしてそれ
があるべき方法だと、信じて疑わないでいる。しかしそういう姿勢こそ、ひょっとしたら、釈迦が
もっとも嫌った姿勢ではないのか。話せば長くなるが、法句経で述べている釈迦の精神とは、
どこか違うような気がする。

 ここではこの程度にしておくが、もし興味があったら、あとは皆さんが、自分でたしかめてほし
い。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 古代
インド 古代ヘレニズム バーミヤン 大乗非仏説 中村元 日本の仏教)

【付記】

 過去を盲目的に踏襲するのは、正しくない。私たちは、そのつど、事実に照らしあわせ、歴史
を修正していかねばならない。

 たとえば仏像にしても、京都や奈良にある仏像が、絶対に正しいというわけではない。考古
学も進んでいることなのだから、衣装を、古代インドのそれに合わせて、仏像を作るということ
も、これからは重要なことではないのか。

 同じように、私たちが釈迦経典と呼んでいるものについても、もし「仏教」を信仰するというの
なら、一度、原点にたちかえって考えてみる必要があるのではないだろうか。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1538)


●逃げ出した資本

+++++++++++++++++

韓国から、資本が逃げ出し始めている。
人も、金も、そして技術も、だ。

+++++++++++++++++

 韓国から逃げ出す人たちが、このところ急速にふえている。

 現在、留学や語学研修のために、現地で、90日以上滞在している長期出国者は、05年度
で、10万2085人(朝鮮N報調べ)に達している。その数は、前年度(04年)よりも、14%もふ
えている。

 さらに05年度に、アメリカの永住権を取得した韓国人は、2万5000人(同)。そのうち就職
移民は、1万6167人(同)。この数は、前年度(04年)の、約2倍である。

 海外へ脱出している韓国人は、「韓国で働き口の見つからない若者たちだけではない。医
師、韓方医・看護師・研究員など、専門職の高級人材も韓国での生活に見切りをつけ、見知ら
ぬ地を目ざしている」(同)とのこと。

 一番人気はアメリカで、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドがつづく。(反米を唱える国
で、アメリカが一番人気というのも、おかしなことだが……。)

 当然、人が出て行けば、金(マネー)も出て行く。

 留学、研修の費用として持ち出される金額は、2000年には9億6000万ドル(約1120億
円)だったのが、昨年(05年)は33億7000万ドル(約3930億円)と、3倍以上に増えた。

この額は、「現代(ヒョンデ)自動車が、ソナタ1台を売って手にする利益は1000ドル(約11万
7000円)だ。つまりソナタ337万台を輸出してやっと稼げるほどの外貨」(同)に等しいという。

 そのほか、今年(06年)に入ってから8月までに海外の不動産を購入するために持ち出され
た金額も、2億5326万ドル(約294億円)におよぶ。その額は、昨年(05年)、1年間に記録
した932万ドル(約10億9000万円)の27倍にもなる。さらに、海外の株式や債権を買い付
けるのにも150億ドル以上がつぎ込まれ、その額は昨年より50%以上増加している(同)。

 朝鮮N報は、社説の中で、こう書いている。

 「高賃金・政府規制・労使紛争に悩まされる企業が、韓国を脱出する光景は、もう見なれたも
のとなってしまった。今年上半期の海外直接投資額(申告基準)は、70億8000万ドル(約82
50億円)で、昨年の同期より83%も増加した。N政権が発足してから3年8か月の間に、人も
カネも企業も先を争うように韓国を脱出している。 

 中身のない教育が生徒と保護者を海外に追いやり、雇用の不振が社会の要である青壮年を
追い出し、政権の気まぐれな増税が決して貧しくない人々を移民船に乗船させているのだ」と。

 こうした中、異常なウォン高(注※)と、国内経済の停滞により、貧困層が、増えている。

 韓国の総計庁の発表した資料によると、昨年(05年度)の貧困層の割合は、18%だった。
その数は、03年度、16・9%、04年度、17・4%と、少しずつだが、ふえている。世帯数で
は、約26万世帯。人口数では61万人が、新たに加わり、昨年度は、世帯数では、284万20
00世帯、人口数では869万3000人が貧困層ということになった。

 その結果、当然のことながら、韓国の経常収支は、現在、急速に悪化している。

 昨年(05年)、166億ドル(約1兆9350億円)の黒字だった経常収支は、今年(06年)の7
月末までだけでも、6億4000万ドル(約7460億円)の赤字に転落している。

 韓国の貿易協会のS博士は、「ドルに対しウォンが10%上がれば、4年にわたり、228億ドル
(約2兆6600億円)の貿易赤字が発生、毎年 57億ドル(約6640億円)の貿易収支悪化要
因として作用するだろう」(同)と話しているという。

 N大統領が豪語しているように、「今年末には、黒字になる」というのは、どうやらありえない
話ということになる。

 戦後、アメリカと日本が敷いてきた自由主義貿易体制の中に身を置きながら、反米、反日を
唱えれば、どうなるか。それを今、N大統領は、少しは知るべきではないのか。

注※……米国系大手証券会社JPモルガン・チェースのイム・ジウォン博士は、「韓国のファン
ダメンタル(経済的な基礎体力)を考慮すると、ウォン高になる理由がない」と説明する。ウォン
高は成長の質がよく、物価も低く、経常収支が黒字の時に起きるが、今の韓国は正反対の状
況だから、ウォン高になるのは異常だというのだ(朝鮮N報)。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●人とのかかわり

+++++++++++++++++

人は、人とのかかわりをもって、
はじめて、人である。

人格の完成度をみるときも、その
人の、他者とのかかわり方をみて、
判断する。

+++++++++++++++++

 体というのは、使わないでいると、その部分の機能がどんどんと衰えていく。これを、「廃用性
機能低下」と呼んでいる。

 わかりやすく言えば、体のその部分が、サビついて、使い物にならなくなるということ。

 ……ということは経験的にも常識だが、しかし脳みその中でも、同じようなことが起こる。
「心」、あるいは「精神」、さらには「知的能力」も、使わなければ、同じようにサビついて、使い
物にならなくなる。

 その中でも、とくに重要なのが、感受性。

 豊かな感受性は、それ自体が、心の重要な財産と、心理学の世界では考えられている。EQ
論(=人格完成論)でも、同じようなことをいう。その感受性を高めるための訓練法も、いくつか
用意されている。

 心がサビつくと、感受性そのものが、鈍くなってくる。喜怒哀楽の情が薄れてくる。冗談が通じ
にくくなり、笑いが減る。他人の苦しみや悲しみに鈍感になる。無感覚になる。無反応になる。

 では、その豊かな感受性を保つためには、どうすればよいか。

 ひとつの方法として、常に、人とのかかわりをもつというのがある。積極的に他人に話しか
け、交際範囲を広める。決して、自分だけの小さな世界だけに閉じこもってしまってはいけな
い。

 が、こうした感受性を豊かにするということは、結局は、あなた自身のためでもある。

 心がサビついてくると、いろいろな弊害が生まれてくる。たとえば意欲の減退、生きがいの喪
失など。生きる力そのものも弱体化する。わかりやすく言えば、そのまま生きる屍(しかばね)
になってしまうということ。

 (これから老齢期を迎える私たち団塊の世代には、とくに重要!)

 何度も書いてきたが、精神の健康は、(1)ものの考え方が自然で、常識的であること、(2)
心のゆがみやひずみがないことで、判断される。精神が健康な人ほど、感受性が豊かで、人と
とのかかわりかたが自然ということになる。もちろん、友人も多い。

 さあ、あなたも外に出よう。出て、いろいろな人に会い、笑っておしゃべりをしよう。つまりは、
それが、心の健康法ということになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 廃用
性機能低下 精神の健康法 人とのかかわり 感受性 豊かな感受性 心の健康法)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●打倒、韓国!

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サッカーだけが、国際試合ではない。

現在、経済の世界では、日本と韓国は、
まさに熾烈(しれつ)な戦いを繰り
ひろげている。

勝つか、負けるか。

しかしこの試合は、サッカーとは、
わけがちがう。日本の浮沈のみならず、
日本の将来がかかっている。

負けるな、日本!
打倒、韓国!

++++++++++++++++++

 ここにきて、日本側の猛烈な反撃が始まった。それはまさに、「猛烈な反撃」。サッカーにたと
えるなら、11人対11人の試合の中に、日本側が、20人以上もの選手を投入したような反撃
である。

 反則? とんでもない。この世界には、反則というルールなど、ない。

 敵は、韓国のサムソン社(IT関連企業)、それに現代社(自動車製造会社)。ほかにも、造
船、鉄鋼など、いくつかの国策会社があるが、それは中国に任せればよい。

 まずアメリカ市場における、いくつかの事実を、並べてみよう。

 日本製のプラズマテレビ(42インチ、パナソニック製)……1999ドル
 韓国製のプラズマテレビ(42インチ、サムソン製)  ……2199ドル

 さらにこの値段から、パナソニックは、その場で200ドルの値引きをしている。だから実勢価
格は、何と、1799ドル! さらに日本のシャープは、同型で、韓国の液晶テレビより、約40%
も安い値段で、販売している。40%だぞ!

 ハハハ。

 どうだ、韓国! 思い知ったか、日本の実力!

 自動車産業の世界でも、同じようなことが起きている。

 日本製の小型車(トヨタ、ビッツ)は、同型の韓国製の自動車の小型車(現代、ベルナ)より
も、875ドル(約10万円)も、安く販売されている。10万円だぞ!

 その結果、トヨタのカローラは、昨年同期にくらべて、14%増。ホンダのシビックは、11%
も、今年に入ってから、売り上げを伸ばしている。トヨタのイストは、20%も、伸ばしている。

 半面、韓国の自動車は、小型車のベルナなどは、13%減。準中型車のアバンテ(輸出名エ
ラントラ)とプライド(輸出名リオ)は、販売量も10%以上も低下している。

 わかるか? 10〜20%も売り上げを伸ばしている日本。その一方で、韓国は、10〜13%
も、売り上げを減らしている。

 ハハハ。

 が、ここにきて、さらに打倒、韓国の動きが加速してきた。台湾、インドへの肩入れである。つ
まり韓国から日本外資を引きあげる一方で、その額を、台湾やインドに投資し始めている。あ
の小泉首相は、つい先日、こう言い切った。「(反日も結構だが)、後悔するのは、韓国のほう
だ」と。

 で、なぜ、今、打倒、韓国なのかは、今さら言うまでもない。少し経済力をもったことをいいこ
とに、そして、日本がおとなしくしていることをいいことに、韓国は、まさにしたい放題。言いたい
放題。

 今日(9月26日)も、こんなニュースが伝わってきている。

 何でも、K国の再建計画を韓国政府が立てたというのだ。それによれば、K国の核開発問題
にからんで、韓国は、3段階に分けて、K国の再建を支援するという(注※)。

現段階につづいて、6か国協議に応じた段階、さらに核開発を放棄した段階、と。電気、道路、
鉄道の整備など、まさにいたれりつくせりの援助だが、そのつど莫大な再建費用がかかる。
が、その費用については、「日本から出させる」と。

 バカめ!

 どうして韓国の考える再建計画に応じて、日本が、お金を出さねばならないのか。自分を何
様だと思っているのか。日本とK国の問題は、あくまでも日本とK国の間の問題。日本は韓国
の指導に従う必要はまったくないし、その前に、どうして韓国の指導に従わねばならないのか。

 とにかく、私には、韓国政府、とくにN大統領の考えていることが、まったく理解できない。

 忘れてならないのは、日本は韓国なしでも生きていかれるが、韓国は、日本なしでは生きて
はいかれないということ。が、その韓国のN大統領は、こう言っている。「日韓首脳会談の開催
については、日本側がどのように出るかにかかっている」(同26日)と。

 さらに韓国外交通商省の次官でさえ、27日の定例会見で、日韓首脳会談の展望について、
「日本が日韓関係の諸般の葛藤解消に向け、真摯な姿勢を見せれば、いつでも可能だ」と述
べている。

 つまり「日韓会談をしたかったら、してやる」「それには、日本の態度次第」と。まだ安倍総理
大臣のほうからは、一言も、日韓首脳会談をしたいとは言っていない。にもかかわらず、そうい
うことを口にする。

 現状を見るかぎり、立場は逆ではないのか。

注※……権議員によると、統一部は今年3月に青瓦台(大統領府)に対し、この計画案を提出
したという。北朝鮮の6カ国協議復帰とその後の核廃棄を想定した経済協力ロードマップの形
で、現行の経済協力を1段階、核開発モラトリアムの進行と6か国協議への復帰を2段階、核
プログラムの完全放棄を3段階に設定している。2段階の経済協力計画には「3大基本事業」
が含まれており、電力、鉄道・道路、通信システムの支援が主な骨子となる。電力支援は200
万キロワットの供給とそれ以前の重油提供(3年間)、それとは別途に開城工業団地2段階推
進時に発電所を建設するか、事業者が費用を負担する産業的送電方式転換などを含む。鉄
道・道路では京元線と国道3号線の連結、通信では北朝鮮内の電話局建設など。このほか、
金剛山完工地域を北朝鮮の固城地域まで拡大することも計画しているという。3段階には、朝
鮮半島銃弾鉄道(TKR)とシベリア横断鉄道(TSB)運営が含まれる。 

 予算については、2段階の3大基本事業の推進に最小39兆ウォン、適性費用としては74兆
ウォンが推算されているとしている。財源として、政府出捐金として毎年1兆ウォンを追加、特
別信託基金、銀行企業連合の構成、北東アジア銀行・ODA(政府開発援助)支援の要請、日
朝国交正常化の際の補償金活用、経済協力企業基金設置、目的税導入、などの案が検討さ
れていると説明した。(ヤフーニュースより)
 
【補足】

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少し前に書いた原稿をいくつか、
ここに載せておきます。

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●もっとも立派だと思う国……日本

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韓国の反日ムードを嫌い、
このところ日本企業は、韓国から去り、
その目を、台湾に向け始めている。

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 今年1〜4月期の日本からの台湾投資は、2億1100万ドル(約238億円)となり、前年同期
比で、112%も増加した。

 とくに、薄膜トランジスタ液晶表示装置、半導体、自動車、電子および部品、機械、ゲームプ
ログラムという、5つの中心産業での投資が著しい。そしてこれらの産業は、すべて韓国の国
内産業と競合するものばかり。

 具体的には、NECは、台湾に台湾光電という会社を設立。台湾企業に、日本の主要IT企業
の生産(OEM)基地としての役割をもたせようとしている。

また、ソニーとNECは、2004年から、毎年50億〜60億ドル程度のIT製品を台湾から購入し
ており、台湾に,インターネット情報家電、および、半導体研究開発センターを設立している。

 わかりやすく言えば、日本は、現在、打倒韓国の旗印のもと、静かに、かつ密かに、台湾の
基幹産業にテコ入れを始めたことになる。ターゲットは、もちろん、液晶パネル。すでにその波
及効果は、現れ始めている。

 韓国のL社といえば、液晶パネル生産では、一時は一世を風靡(ふうび)した会社としてよく
知られている。昨年のはじめまでは、どこのショッピングセンターに行っても、L社の液晶テレビ
が、店頭を飾っていた。が、時代は変わった。今年は、L社だけでも、数百億円の赤字が見こ
まれている。

 こうした日本の動きに、嫉妬し、危機感をいだいているのが、韓国。韓国のI貿易研究所主席
研究員は、『日本と台湾が投資と提携をふやせば、台湾と主力輸出産業が重複する韓国の輸
出が、打撃を受ける可能性がある』と話している。

 こういうのを、韓国では、「ブーメラン効果」と呼んでいる。日本をたたけばたたくほど、その効
果は、ブーメランのようになって、韓国に打撃を与えるというもの。

 私たち日本人の知ったことではないが……。

 なお台湾のビジネス誌「遠見」によれば、全4質問中、「移民したい国」「立派だと思う国」「旅
行したい国」の3質問で、日本がトップになったという(06年6月29日)。

 調査は、台湾全土で、20歳以上、約1000人の人について、行われた。以下、その結果。

「移民したい国」   日本……32.3ポイント
米国……29.1ポイント
カナダ…26.5ポイント

「最も立派と思う国」 日本……47.5ポイント
米国……40.3ポイント
中国……15.8ポイント

 日本は、こういう国を、もっと大切にしようではないか! 

 我愛台湾!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●極東アジア情勢

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極東アジア情勢が、目下、激変中!

米韓関係の崩壊、韓国に触手をのばす中国、
急接近する日米両国、崩壊寸前のK国。

ふつう、サッカーというのは、2チームで
戦うもの。だが、現在の極東情勢は、
まるで、4チーム、5チームが
混戦試合をしているようなもの。

どうなる、極東情勢!

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 日本のK首相が、8月15日に、Y神社を参拝すれば、「待ってました!」とばかり、韓国のN
大統領は、大騒ぎするはず。反日運動を開始するはず。今ごろは、手ぐすね引いて、その時
機を、うかがっているはず。今のN大統領には、反日しか、生き残る道はない。

 こういう状況の中、アメリカは、韓国からの撤退を、正式に発表した(8月7日、アメリカ国防
省発表)。遅くとも2009年までには、そうなる。戦時作戦統制権を韓国に移譲するということ
は、即、アメリカ軍の韓国からの撤退を意味する。

 どうしてアメリカ軍が、韓国軍の指揮下に入らなければならないのか。

 一方、日本は、韓国に対して、本気で、経済戦争をしかけ始めている。

 東芝は、8月はじめ、第4番目の半導体工場に着手した。投資規模は、6000億円。2008
年から、NANDフラッシュメモリーの量産体制に入る。

 さらに08年までに、総額1兆円の大型投資を予定している。もちろん敵は、韓国のサムソ
ン。

 また日本第2位の半導体メーカーの、エルピーダは、やはり今月はじめ、1兆円の投資をし
て、半導体生産ラインを拡充すると発表。09年3月以前に、量産体制に入る。

そのほか、プラズマテレビの分野でも、松下、パイオニアも、相ついで工場を増設しつつある。

松下は、6月、主力工場である兵庫県尼崎工場の生産量を、年間340万枚にふやした。さら
に08年をめどに、同じ尼崎に、2番目の工場を建設しつつある。

パイオニアも、同じように300億円を投資し、山梨県に新工場を建設する予定でいる。

 シャープも負けていない。8月末から、いよいよ第8世代の液晶生産ラインと呼ばれる、生産
ラインを使って、液晶の量産体制に入る。

 サムスン電子の幹部は、「日本のメーカーがこのような攻撃的投資に乗り出しているのは、
業績回復に伴う自信が反映されている」(朝鮮N報)と話している。

実際、ソニー、松下、シャープ、東芝、キャノン、富士通など日本の電子メーカーは、今年第1四
半期では、一斉に黒字を計上しており、大型投資に乗り出す下地を確保している。

 そして今まで、韓国内で下請けさせていた部品などについては、その工場を、台湾やそのほ
かの国々に、移しつつある。

 つまりこれらの一連の動きは、明らかに、打倒韓国を意識したもの。1、2年前から、各社に
よって綿密にねられた作戦によるものと考えてよい。

「反日運動をするならするで結構。しかし日本だって、黙ってはいないぞ」という、強烈なメッセ
ージが、これらの動きの中にこめられている。

 が、ひとりノー天気なのが、韓国のN大統領。こうした日米の動きに反比例する形で、急速に
中国に接近を試みている。

 しかし、だ。中国がそんな甘い国でないことは、チベットを見ればわかるはず。台湾を見れば
わかるはず。へたをすれば、竹島(独島)どころか、38度線以北を、中国に乗っ取られてしま
う。

 またアメリカ軍が韓国から撤退すれば、再び、韓国を通貨危機を襲うかもしれない。その可
能性は高い。どこのだれが、そんなあぶない国に、投資などするだろうか。今の韓国の平和が
かろうじて維持されているのは、強力なアメリカ軍が駐留しているからにほかならない。

 そういえば、先ごろ、その通貨危機について、もし日本が通貨危機に陥れば、韓国は50億ド
ル、反対に韓国が通貨危機に陥れば、日本は100億ドルの金額を、それぞれ相手の国に支
援するという。そういう取り決めがなされた※。

 一見、何とも不平等な取り決めのように見えるかもしれないが、言いかえると、「日本は、10
0億ドルしか支援しませんよ」という意思表示をしたことになる。前回、韓国がデフォルト(国家
破綻)したときには、100億ドルの緊急融資のほか、日本は、アジア開発銀行などを通して、
総額500億ドル近い支援をしている。

 儒教の国でありながら、韓国のN大統領という人は、そういうことについては、まったく恩義を
感じない人らしい。つまり日本は、先手を打って、「つぎは、100億ドルまで」と決めこんだわけ
である。

 残るはK国。今では中国にも見離され、孤立無援。中国でさえも、「韓国は、(中国の)親戚
だ」(中国外交部・報道官・8月9日)と言いだした。で、そのK国だが、こんなおもしろいエピソ
ードが、もれ伝わってきている。

 国連安保理で、中国が非難決議案に賛成したときのこと。K国の外務省は、駐P中国大使を
呼びつけ、「裏切り行為」と非難したという。が、このあとが、実にK国らしい。ヤフーのニュース
を、そのまま紹介する。

「同じころ北京では、C・K国大使が、R中国外相に面会を求めた。しかし断られたことから、K
国のC大使は、大使館員10人とともに3台の車で中国外務省に押しかけ、同省前で3時間以
上にわたり、『裏切り者』などの言葉を荒々しく繰りかえした。同省は無視しつづけたが、『現場
の様子があまりに険悪で、警察を呼ぶ話もあった』(香港の中国消息筋)という」と。 

 K国の大使館員たちが、中国の外務省前で、「裏切り者」と言って、3時間もねばったというの
だ。

 K国は、もう、ここまで狂っている。

 さて8月15日まで、あと残すところ、6日。日本のK首相は、Y神社参拝の参拝の腹を決めた
ようである。が、もしこういう状況の中で、K首相がY神社を参拝すれば、どうなるか。

 その日を境に、極東アジア情勢は、さらに混乱する。一次的には、中国、韓国の反日勢力を
勢いづかせる。二次的には、その勢力にのって、韓国のN大統領一派が、反日運動を展開す
る。中国も、それに同調する可能性が、きわめて高い。

 具体的には、韓国はさらに竹島の実効支配を推し進めるだろう。中国は、尖閣諸島周辺で
の油田開発を、堂々と推し進めるだろう。

 ますます極東アジア情勢は、不安定になる。つまり戦争への道を、日本は、一歩、踏み出す
ことになる。ひとり日本のK首相は、「平和の誓いのため」と言っているが、そんな論理は、日
本の外では、通用しない。

私の知ったことではないが……。

(注※)日韓両国は通貨危機などの際、総額150億ドルで、互いに支援しあう通貨スワッピン
グ契約を締結することに合意した。 

 韓国のH副首相兼財政経済部長官と谷垣禎一財務大臣は、4日、東京で第1回、日韓財務
相会合を開き、このような内容を盛り込んだ合意分を発表した。 

 両国が発表した6項目からなる合意文によると、韓国の通貨危機時には、日本は100億ド
ルを、日本の危機時には韓国は、50億ドルをそれぞれ支援することにしたという。

(この原稿は、8月9日に書いたものです。マガジンに載せる、9月13日には、情勢が大きく動
いているかもしれません。)


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1539)

●今朝(9月27日)、あれこれ

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キーウィの棚を打つ、はげしい雨の
音。それで今朝は、目がさめた。

昨日から、ここ浜松地方では、時折、
集中豪雨的な雨が断続的につづいて
いる。

おかげで運動はストップ。どこか体
が重い。

が、書斎に入ると、ひんやりとした風。
その風の中に、秋の気配を強く感ずる。

バンザーイ、私の季節だ!

+++++++++++++++++

●1944年

 今朝(9月27日)、Eマガの読者が、1944人になった。その「1944」にかこつけて、1944
年(昭和19年)の話。私が生まれる、3年前の話である。私は1947年(昭和22年)の生ま
れ。

 1944年には、もちろん私は存在していなかった。父も、そのころは、台湾に出兵していたの
ではないか。上に、長男のケンジ、二男のジュンジ、姉のミホコがいた。そのころ、兄のケンジ
は、小児マヒをわずらい、下肢が不自由になっていたと聞いている。

 その兄のケンジは、私が5歳か6歳のとき、なくなっている。葬儀の日、土間に無数の履き物
が散乱していたのは、よく覚えている。直接の死因は、日本脳炎と聞いている。暑い夏の日
に、父が兄を、自転車に乗せて、20キロほど山奥にある母の実家へ連れていったのが原因だ
ったという。

 そのほかのことは、ほとんど何も、覚えていない。ケンジと私は、10歳以上、年が離れてい
た。二男のジュンジとは、9歳、姉のミホコとは、5歳、年が離れていた。

 こういう話になると、どうも、歯切れが悪い。私は、そう聞いたというだけで、確信がもてない。
あのあたりでは、だれも、本当のことを言わない。みなが、みな、世間体ばかりを気にしてい
る。自分に都合の悪い話はしないし、しても、そこにウソを混ぜる。

 だから話を聞くたびに、話の内容が変わる。そういうことは、よくある。

 兄のケンジは、本当に日本脳炎で死んだのか? 本当に小児マヒだったのか? だれの責
任というわけではないが、私の母は、いつも、「父ちゃん(=父)が悪い」と言っていた。

 話をもとにもどすが、1944年という年は、日本軍とアメリカ軍が、マリアナ沖で、空前の激突
をした年でもある(6月19日)。ちょうど同じころ、連合国が、フランスのノルマンジーに上陸作
戦を開始している(6月6日)。

 このあと、8月25日に、ドイツは連合国に降伏。が、日本は、さらに勝ち目のない、破滅的な
戦争へと突入していく。同年10月には、レイテ沖海戦で、戦艦・武蔵を失う。11月には、東京
大空襲を受ける。

 死んだ人は静かだと、人はよく言う。それはそのとおりだが、しかしまだ生まれていない人間
にとっても、そうである。私はそういう世界で起きていた喧騒(けんそう)を、まったく知らない。も
ちろん記憶の中にもない。

 しかしまったくの無縁だったかというと、そうではない。それぞれの時代には、その時代がも
つエネルギーがある。そのエネルギーは、そのあとも、無数のうねりとなって、つぎの時代の人
たちに大きな影響を与えていく。

 たとえば父は、台湾の戦地で、アメリカ軍の攻撃を受け、貫通銃創(じゅうそう)を受けてい
る。弾(たま)が2発、腹の中を通り抜けたという。いや、弾は2発ではなく、1発だったかもしれ
ない。こういう話は、いつも、おおげさに語られる。

 ともかくも、それが1つの遠因になって、やがて父は、日本に帰ってから酒に溺れるようにな
った。いまでいう、PTSD(心的外傷後ストレス障害)だったかもしれない。はじめのころは、夜
中によくうなされたという話を聞いている。(この話も、確かではないが……。)

 私にとっては、悲しくも、重苦しい幼児時代は、そうして始まった。

 ともかくも、自分の生まれる前の過去の話になると、私はそこに同時に、自分が死んだあと
の世界をダブらせる。私が死ねば、少なくとも私は、生まれた前の世界にもどる、と。静かで、
どこまでも静かで、まったくの無の世界。すべての喧騒とは、無縁の世界。

 その世界には、私は、いなかった。生まれるという気配すら、なかった。父にしても、母にして
も、私を産むという意識すらなかったのではないか。やがてアメリカ軍による空襲は、全国各地
へと広がる。絶望的な戦況の中で、どうやって生き延びていくか。それだけを考えるのが、精一
杯だったはず。

 私が生まれるまで、あと3年。「私」という存在すらないときのことだから、こういう言い方は正
しくない。それはわかっているが、私は、そのころは、静かに、自分が生まれるのを待っていた
……。暗い、暗い、闇の世界で。音もなく、風もなく、時もない、そんな闇の世界で……。
(はやし浩司 私論1)

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Eマガ(無料版)の読者の方の数に
合わせて、自分の過去を追いかけて
みたいと思います。

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●子どもの世界

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子どもの世界には、ウソがない。
自分を隠さないから、それがそのまま、
人間の本性ということになる。

その本性に触れるたびに、
「ああ、これが人間だ」と思う。

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 昨日も幼児たちと、こんな会話をした。おじいちゃん、おばあちゃんについてだ。ある子ども
(年長児)が、こう言った。「ぼくには、おじいちゃんとおばあちゃんが、3人、いる」と。

 すると別の子が、「私は、4人」「ぼくは、2人」と言い出した。が、A君は、「ぼくには、いない」
と。

私「いないの?」
A「みんな、死んじゃった」
私「みんな?」
A「うん、死んじゃった」
私「それは、さみしいね」
A「ううん、ゼンゼン」

私「おじいちゃんが死んだとき、泣かなかったのか?」
A「泣かないよオ〜」
私「おばちゃんが死んだときは、どうだった?」
A「泣かないよオ〜」と。

 この時期の子どもは、「老人は死ぬもの」と考えている。「死んで、当たり前」という考え方をす
る。「死」が「喪失感」につながるのは、子どもが、小学3、4年生以上になってからと考えてよ
い。幼児教育をして、37年目になるが、いまだかって、幼児が、おじいちゃんやおばあちゃん
が死んで、泣いたという話は、聞いたことがない。

 A君の話を聞きながら、「そういうものだろうな」と、自分を納得させる。つまりそれを基盤に、
子どもの心を考える。ついで、そこからはじまる、人間の心を考える。 

 つまりここにも書いたように、死について、喪失感がともなうようになるのは、子どもが、小学
3、4年生以上になってからである。そのころを過ぎると、「失う」ことへの恐怖感が、悲しみに
転化するようになる。

 しかしこれにも個人差がある。それまでの人間関係の濃密さの問題もある。私のばあいは、
20歳前後で祖母を、25歳前後で祖父をなくしている。生まれたときから同居してきた祖父母
である。

 その祖父のときは、涙をこぼしたような記憶はあるが、祖母については、ない。それまで10
年近くも寝たきりだったから、「ああ、死んだか」というような感じだった。

 母方の祖父は、私が3、4歳のときになくなっている。祖母は、高校生くらいのときになくなっ
ている。祖母がなくなったとき、私は泣いたが、その祖母がなくなったということで泣いたのでは
ない。

 伯父が、葬儀の席で、「おふくろ、ごくろうさんだった」「ごくろうさんだった」と泣いているのを見
て、泣いた。

 話をもどすが、人間の心に宗教性が芽生えるのも、やはりそのころと考えてよい。つまり小学
3、4年生のころである。そのころ、不可思議なものへの関心が、「霊」という存在につながって
いく。うらないや、まじないに興味をもち出すのも、やはりこのころである。

 ところで話は大きく飛躍するが、その子どもが現実的であるか、現実的でないかは、その子
どものもつ合理性によるものと考えてよい。さらに合理性は何によって決まるかといえば、思考
力による。思考するという習慣によって決まる。

 わかりやすい例では、たとえば夢うつつの状態がある。あなたがぼんやりと、半眠の状態で、
うとうととしているときを、頭の中で思い浮かべてみればよい。その夢うつつという状態になる
と、思考力が低下する。そしてそういうときというのは、非現実的なものを、現実的なものとし
て、受けいれてしまう。よい例が、『不思議の国のアリス』である。夢の中の世界を、アリスとい
う少女が冒険するという、あの話である。

 言いかえると、この時期までの思考力というか、思考する習慣が、子どもの合理性に大きく作
用するということ。知識や経験ではない。「思考するという習慣」である。それが子どもをして、
合理的に考える子どもにする。

 そんなわけで、この時期、子どもが、神や仏を否定しても、驚かない。またそれを悪いことと
決めてかかってはいけない。むしろ、まだ判断力もない子どもに、神の存在や、仏の心を押し
つけるほうこそ、問題である。できれば少なくともこの時期までは、そういう押しつけはしないほ
うがよい。

 「この時期」というのは、小学3、4年生ごろをいう。この時期というのは、ちょうど自己意識が
完成し始める時期と重なる。人間の記憶も、この時期を境に、急に鮮明になってくる。子どもが
自分で自分をコントロールすることができるようになるのも、やはりこの時期である。

 まあ、私も、その祖父になった。別に悲しんでほしいとは思わないが、私が死んだところで、
孫たちには、何ともないだろう。息子たちにしても、何ともないだろう。ひょっとしたらワイフにし
ても、私が死んだら、その解放感に酔いしれるかもしれない。

 考えてみればさみしいことだが、死ねばそのときは、そのとき。あとは何もわからない。わか
らないまま、チリとなり、灰となる。

「ううん、ゼンゼン」と言った子どもの言葉を思い出しながら、改めて、「そういうものだろうな」
と、自分を納得させる。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1540)

●教師の淫行

++++++++++++++++

またまた1人の教師が、淫行何とかで、
逮捕された(浜松市)。

朝食のとき、ワイフと、
それが話題になった。

++++++++++++++++

 朝食のとき、ワイフがこう言った。「今度は小学校の先生が、女子中学生とホテルへ行ってい
たんだってエ」と。

 見ると、その記事が、デカデカと新聞に載っていた。

私「これだけつづくと、もう、うんざりだね」
ワ「ホント。どうして、そんなことするのかしら?」
私「はあ、ぼくにもよくわからない」と。

 2年ほど前だが、こんなことがあった。女子中学生、4、5人を連れて映画を見にいったとき
のこと。帰りに、記念にと、みんなでプリクラ写真を撮った。

 もちろん親たちの承諾を得てから、そうした。で、その写真を、Rさんという女の子(中2)が、
学校で自分の友だちに見せたらしい。そしたら、その友だちが、私の顔を見て、こう言ったとい
う。

 「結構、かわいいじゃん」と。

 で、私が、「それ、どういう意味だ?」と聞くと、「つきあってもいいという意味だよ」と教えてくれ
た。

 この話はここで終わったというか、つづいてRさんが、こんな話もしてくれた。何でも、廊下に、
ウンチがポタリと落ちていたというのだ。Rさんは、「男子のウンチだ」と言い張ったが、私は、
「女子のウンチだ」と言った。

 「どうして?」と聞いたので、「だって、男は廊下では、ウンチはできない。ズボンをはいている
から」と話してやった。

 女子中学生という年齢は、そういう年齢である。50歳をすぎた男を、「かわいい」と言ってみ
る半面、廊下で、ウンチを落とす。今度の教師も、その女子中学生とつきあっていたという。

私「先生なら、子どもというものがどういうものか、よくわかっているはずなのにね」
ワ「そうよねエ〜」と。

 私の印象では、こうした事件は、まさに氷山の一角。今の今も、学校の先生も含めて、無数
の男たちが、女子中学生や女子高校生と、ベッドの上や暗い部屋の一室で抱きあっているは
ず。それを止めるのは、もう、この日本では、不可能と言ってもよい。

 車もある。携帯電話もある。それにホテルもある。ないのは、倫理観、道徳観、宗教観、それ
に思考力。

 夕方の街を歩いていると、そうした光景をあちこちで見かける。あやしげな雰囲気の男と女。
コンビニが、待ちあい場所になることが多い。そういう光景に、割って入ることができるというの
か。

 私も、そういう光景を見ることは多い。しかしいつも、見て見ぬフリ。どうしようもない。

 だから私がいつも言っているように、こうした売春を止めるには、厳罰主義しかない、というこ
とになる。アメリカではもちろん、オーストラリアでも、そうしている。

さらにオーストラリアでは、そういう行為を見聞きしたものは、警察への通報義務まである(南
オーストラリア州)。それを怠ると、その見聞きした人まで、逮捕される。

 若い女性が近づいてきただけで、真っ青になる。そういう雰囲気さえできれば、この種の事件
は、少しは減る。

 人間にかぎらず、おしなべて動物がもつ性欲の力には、ものすごいものがある。ふつうの理
性や知性で、コントロールできるようなものではない。こうした事件を引き起こす学校の先生た
ちは、はからずも、その「力」を、身をもって証明していることになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【BW教室より】

++++++++++++++++

「ゲームをしよう」と、子どもたちは言う。
「ダメだよ」と私は、答える。

あとは、押し問答。

「どうしてダメ?」
「お父さんに叱られるよ」
「どうして?」「どうして?」と。

++++++++++++++++

 現在の教育内容は、子どもたちの知的好奇心を満足させるようには、できていない。またそ
ういう方向性を、もっていない。

 教科書にしても、「ここまで勉強しなさい」「しかしここまでやればじゅうぶん」という内容になっ
ている。だれが決めたのかはしらないが、そうなっている。

 50〜60%の子どもには、それでもよいのかもしれないが、しかし知的な意味で、好奇心が
おう盛な子どもには、不十分である。昨日も、小5クラスの子どもたちと、こんな会話をした。

A子「こんど、囲碁をもってきてもいい?」「先生と、勝負する!」
私 「ダメだよ。ぜったいにダメ」
A子「どうしてエ〜?」
私 「あのね、そんなことをしていたら、お父さんに叱られるよ」
A子「だってエ〜、お母さんが、一度、林先生と勝負したらって、言っているよ」

B子「だったら、私も、将棋をもってくる」
私 「ぜったいに、ダメ!」
B子「いいじゃん。私、強いわよ」
私 「あのなア、そんなことをしていたら、先生は、クビになってしまうよ」
B子「ううん、そんなこと、ぜったいに、ない。だってエ、この前、パズルを解いて、先生と遊んだ
とママに言ったら、よかったねと言ってたヨ」

 そう、あなたは、子どもたちがもつ、あの燃えさかるような好奇心に触れたことがあるだろう
か。それは、まさに火傷(やけど)をするほど、熱い。そんな子どもたちが、つまらない(失礼!)
教科書を前に置いて勉強(?)をしている。

 それはたとえて言うなら、自由に飛び回っている小鳥を、小さなカゴの中に閉じこめるようなも
の。だからときおり、子どもたちは、悶々とした欲求不満を、私にぶつけてくる。

私 「静かに、勉強しろ」
C君「もう、じゅうぶん、している」
私 「クラスで1番になれ」
C君「とっくの昔に、1番だよ。でも、1番なんて、つまらない。先生に当ててもらえない」
私 「どうして?」
C君「どうせ、できるからって、先生に、無視される」

A子、B子、「私も、そう。うちの先生も、私には、当ててくれない」「本当にそう。いやになっちゃ
う」と。

 幸せな子どもたちである。英語でいう、「Gifted Children」と呼ばれる子どもたちである。9
人のクラスだが、ほぼ全員が、現在、中学校で使う教科書を使って、勉強をしている。

 が、こう書くと信じてもらえないかもしれないが、私は、ほとんど何も教えていない。「わからな
いところがあったら、もってきな」とだけは言うようにしている。が、それについても、「パパに教
えてもらったからいい」とか、「ママに聞くからいい」とか言う。さらには、「先生だけには、教えて
もらいたくない」とか、とんでもないことも言う。

 へたに私が何かを教えようとすると、怒りだしてしまう。泣き出してしまう子どももいる。私に教
えられるのが、よほど、くやしいらしい。「林を、やっつけろ」というのが、彼らの合言葉になって
いる。

 私が教えなくても、子どもたちは子どもたちどうしで、刺激しあいながら、勝手に伸びていく。
そういう意味では不思議なクラスだ。ワイワイと騒いでいるから、何もしないかというと、そういう
ことはない。ちゃんと、やるべきことはしっかりとやって帰る。

 で、そういう子どもを伸ばすには、どうしたらよいのか。私は、好き勝手なことを言いあってい
る子どもたちの姿を、横目で見ながら、それを考える。

 ひとつの方法としては、この10月だけでも、教科書を離れて、「数学」を教えるというのがあ
る。大きな書店へ行くと、数学の専門書がたくさん並んでいる。それを使って教える。

 さっそくだが、今日の午後は、その本を仕入れるために、街中にある書店へ足を運んでみる
つもり。私ができることは、せいぜい、その程度のことでしかない。

来週、子どもたちが喜ぶ顔が、楽しみだ。

 待っていろよ、子どもたち。君たちの脳みそを、グチャグチャに、引っかきまわしてやるから
な!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【読者のみなさんへ】

 こんな質問をいただきました。とくに時事問題について、リアルタイムで記事を読むには、どう
したらいいか、と。つまりマガジンに載せる原稿は、いつも1か月前に書いた原稿ということに
なっている。それについて、「もっと早く読むには、どうしたらいいか」と。

 現在、つぎのような流れで、原稿を書いています。

(毎朝、原稿を書く)→(楽天の日記に転載する)→(日記を読みながら、自分の原稿を推敲し
たり、手直ししたりする)→(マガジンに転載する)。

 つまり一度、書いた原稿は、楽天の日記として発表し、他人の目で、自分の原稿を読みなお
すようにしています。これを私は、勝手に、「熟成期間」と読んでいます。その間に、頭を冷やし
たり、別の角度から考えなおしたりします。あるいは、そのまま原稿をボツにすることもありま
す。

 ですから、もしリアルタイムに読みたいと思ってくださる方がいらっしゃれば、私のHPのトップ
ページから、楽天日記のほうへ、おいでください。まだ荒削りの原稿ですが、そこでその日に書
いた原稿を読んでいただけます。

 また現在、無料マガジン(Eマガ、メルマガ)のうほうでも、HTML版(カラー版)を、無料で読
んでいただけるようにしてあります。どうぞ、安心して、HTML版のほうも、お楽しみください。あ
とで購読料を請求するというなどということは、ぜったいにありません。

(できれば、有料版のまぐプレを読んでほしいとは思っていますが……。現在、購読料は、月額
300円です。)

 で、HTML版マガジンのほうは、こういう手順になっています。

 ほぼ1か月分の原稿を書き終えたところで、まず、原稿を、HP上に転載します。そしてその
あと、写真などで、それを飾っていきます。

 そのためマガジンに載せる写真などは、原稿より、新鮮なものとなっています。

 さらに当然のことですが、ウィルスチェックは、そのつど、こまめにしています。「絶対」というこ
とは、お約束できませんが、私のマガジン(HTML版)では、つぎのような方法で、安全を確保
しています。

(1)定期的なウィルスチェックと、スパイウエアチェックを欠かさない。
(2)プロバイダー(サーバー)のほうで、有料のウィルスチェックを通している。
(3)パソコンを使い分けている。

 とくに、HP用のパソコンは、超高性能のパソコンを使用しています。来年の1月以降、ビスタ
(OS)が発売になったら、さらに高性能のパソコンに乗り換えるつもりでいます。

 こんなわけで、どうか安心して、HTML版をお楽しみください。プラス、これからも末永く、よろ
しくご購読くださいますよう、お願いします。

 1000号までの道のりは、まだまだ遠いです。がんばります!

                             はやし浩司


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1541)

●荒れる子ども

++++++++++++++++++++

掲示板に、つぎのような相談が寄せられた。

友だちに乱暴する、ウソをつくなど、母親の
Nさんは、そういう子どもを、「どうしたら
いいか」と。

++++++++++++++++++++

【Nさんより、はやし浩司へ】

はじめまして。小1の男の子のことですが、この4月に小学校に入学してから、問題ばかり起こ
すようになりました。

4月は、授業妨害と教室から飛び出す。(言葉尻を捉えて、面白いことをいう。叱られたら、我
慢できない。)

5月は、特定の子を嫌って、言葉の暴力を浴びせかける。(その子に非はありません。)

6月は、いじめっ子に応戦する形で、暴力を振るう。(棒で応戦。)

7月は、架空の話を作り上げ、特定の子供を犯人扱いする。(そのことは何のつながりもありま
せん。)

9月は、授業妨害。また作り話をして特定の子を犯人扱いする。自分で傘を壊しておきながら、
嘘の出来ごとをでっちあげる。

入学してから、チックを指摘されたので、余程、抑圧されているのかと思い、厳しく叱らず諭す
形で接してきましたが、嘘をつくようになってからは、相当厳しく叱るようになり、それがアダに
なったのか、嘘の頻度が増してしまいました。

チックは軽くなっています。

対処のしようがなく、とりあえず、嘘はすぐ見ぬくようにし、なぜ嘘ついたのか聞き、そのあと
に、オモチャの禁止など、罰をあたえるようにしています。

本には、嘘をついてはいけないと思うけど、ついてしまう、などと気になることも言います。

どういう教育をしたらいいのでしょうか?

家でくだらない嘘をつく事は無視すればいいのですが、学校で人に迷惑をかけてはいけないと
思い、悩んでおります。

よろしくお願いします。

【はやし浩司よりNさんへ】

 いろいろな症状が複合しているように思います。多動性、衝動性、虚言癖、かんしゃく発作な
ど。授業妨害がはげしいようであれば、ADHD児の心配もあります。

 環境的には、極端な甘やかしと、極端なきびしさ。この2つが同居していたことが疑われま
す。一方できびしくしながら、結局は、子どもの言いなりになってしまうような環境です。

 虚言癖については、妄想性の虚言癖(空想的虚言癖)が疑われます。これも極端にきびしい
家庭環境、親の威圧的な過干渉、息を抜けないような過関心が原因ではないかと疑われま
す。虚言癖については、このあとに、関連の原稿を添付しておきます(注※1)。参考にしてみ
てください。

 しかしそれ以上に心配されるのが、子ども自身が、心のより所を見失ってしまっていることで
す。自分でも何がなんだか、わけがわからないまま、それに振りまわされているといった感じで
す。

 Nさんのお子さんがそうだというのではありませんが、あたかも脳が乱舞しているかのような
印象を受ける子どもが、今、ふえています。私は、映像文化の影響、脳の微細障害説などを、
疑っています。

 このタイプの子どもは、やたらと頭の回転だけは速く、言動がめまぐるしく変化していくという
特徴があります。それについての原稿も、このあとに添付しておきます(注※2)。(さらに詳しく
お知りになりたいときは、私のHPで、お読みください。随所で、取りあげています。)

 で、小学1年生ということですから、まだ自己意識もじゅうぶん、育っていません。つまり自己
管理能力も、じゅうぶんではないということです。ですから、おとなを相手にするようにして、あ
れこれ説教しても、あまり意味はありません。言うべきことは言いながら、今は、時の流れを待
つしかありません。

 脳が乱舞しているような部分については、小学2年生を過ぎるころには、落ち着いてきます。

 また仮にADHD児であっても、自己意識が育ってくると、自分で自分を管理するようになりま
すから、小学3、4年生を境に、急速に落ち着いてきます。

 妄想的虚言癖については、家庭環境を猛省します。過度な過関心、過干渉になっていないか
を、反省してみてください。暴力、威圧などは、この際、厳禁です。へたをすれば、子どもの中
にもうひとつの心を作ってしまいます。

 子どものウソについては、そのつど、ていねいにそれをつぶしていきますが、しかし罰(ばつ)
は、好ましくありません。おそらく今の状態では、いくら叱っても、効果はないと思ってください。
叱られたとき、罰がこわいから、それらしい雰囲気を表現するだけです。

 で、とりあえず落ち着かせるためには、(1)白砂糖などの甘い食品を一掃する。(2)Ca、M
g、Kの多い食生活、つまり海産物中心の献立に切りかえる。(3)ばあいによっては、カルシウ
ム剤を投与する。(4)リン酸食品を避けるという方法をとってみてください。

 食生活を変えるだけでも、このタイプの子どもは、劇的に変化するはずです。徹底すれば、1
週間ほどで、効果が出てきます。これについても、簡単な原稿を、このあとに添付しておきます
(注※3)。とりあえずしてみるということで、参考になると思います。

 また最後に、こうした子どもの問題では、すでにNさんは、そうなさっておられるようですが、
『負けるが勝ち』と考えて、いつもこちらから頭をさげるようにします。これは、あなたの子ども
自身のためです。

 繰りかえしますが、この種の問題は、どうあせったところで、今は、どうにもなりません。が、
時期(小学3、4年生ごろ)がくれば、急速に症状は収まってきます。それまでに無理をしたりし
て、症状をこじらせないことが大切です。こじらせればこじらせるほど、長引くということです。

 ADHD児については、その心配があるなら、小生のHPをご覧になってください。またその心
配があるなら、一度、専門のドクターに相談なさるとよいかと思います。学校のほうでも紹介し
てくれるはずです。今では、副作用もほとんどない、よい薬が開発されています。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司 

注※1
子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそうい
うウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困りま
す!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 ある日、一人の女の子(小4)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。

そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりことこまか
に話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど
逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。
落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小2)からこんな話を聞い
た。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落とした
という金額とほぼ一致していた。

が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことがたびたび続いた。「宿題ができな
かった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、そのつど、どこかつじつまが合わなか
った。そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えること
にした。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒
を疑うのか!」と。

そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。「まずい」と思っ
たが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。
●空中の楼閣に住まわすな

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこ
んだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世
界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式の
ウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまう
ことになるから注意する。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

注※2
子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよ
う。

動作も一貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然
神妙な顔をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。そ
の間に感情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちら
の頭のほうがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学2、3年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。30年前には
このタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ10年、急速にふえた。小1児で、10人に2人
はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、1クラスに数人もいると、そ
れだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒
ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、66%もいる(98年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。「指導の疲れから、病欠、
休職している同僚がいるか」という質問については、15%が、「1名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、90%以上の
先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(75%)、「友だちをたたく」(66%)など
の友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(66%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(52%)な
どの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が98年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、20%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」(1
4%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(10%)と続く。そしてその結果
として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、8%、「かなり感ずる」「やや感ずる」という
先生が、60%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊
家庭は少なくなった。

むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発
的に騒いだり暴れたりする。そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きてい
る。実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビ
やゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。
速すぎる。しかもその間に、ひっきりなしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。
速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。その
証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くことができ
ない。

浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮城に魚が、お
しっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろいが、直感的
で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさど
るのは、左脳である(R・W・スペリー)。

テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。こうした今まで人間が経験したことがない新し
い刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えていることはじゅうぶん考えられる。その一つが、こ
こにあげた「脳が乱舞する子ども」ということになる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

注※3

●砂糖は白い麻薬

 キレるタイプの子どもは、独特の動作をすることが知られている。動作が鋭敏になり、突発的
にカミソリでものを切るようにスパスパとした動きになるのがその一つ。

原因についてはいろいろ言われているが、脳の抑制命令が変調したためにそうなると考えると
わかりやすい。そしてその変調を起こす原因の一つが、白砂糖(精製された砂糖)である(アメ
リカ小児栄養学・ヒューパワーズ博士)。

つまり一時的にせよ白砂糖を多く含んだ甘い食品を大量に摂取すると、インスリンが大量に分
泌され、そのインスリンが脳間伝達物質であるセロトニンの大量分泌をうながし、それが脳の
抑制命令を阻害する、と。

これから先は長い話になるので省略するが、要するに子どもに与える食品は、砂糖のないも
のを選ぶ。今ではあらゆる食品に砂糖は含まれているので、砂糖を意識しなくても、子どもの
必要量は確保できる。ちなみに幼児の一日の必要摂取量は、約10〜15グラム。この量はイ
チゴジャム大さじ一杯分程度。

もしあなたの子どもが、興奮性が強く、突発的に暴れたり、凶暴になったり、あるいはキーキー
と声をはりあげて手がつけられないという状態を繰り返すようなら、一度、カルシウム、マグネ
シウムの多い食生活に心がけながら、砂糖は白い麻薬と考え、砂糖断ちをしてみるとよい。子
どもによっては一週間程度でみちがえるほど静かに落ち着く。

なお、この砂糖断ちと合わせて注意しなければならないのが、リン酸である。リン酸食品を与え
ると、せっかく摂取したカルシウム分を、リン酸カルシウムとして体外へ排出してしまう。と言っ
ても、今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。

たとえば、ハム、ソーセージ(弾力性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっと
りとした粘り気を出し、溶けても流れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわ
らかくした上、グニャグニャせず、歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保
つため)、コーラ飲料(風味をおだやかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶
いたりこねたりするとき、水によく溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。かなり本腰
を入れて対処する。

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンク・フードは)疲
労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな
どの原因になっている」とも。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 荒れ
る子ども 荒れる子供 脳が乱舞する子供 空想的虚言 虚言癖 子供のウソ 子供の嘘 子
どもの嘘)

【Sさんより、はやし浩司へ】

私が少し神経質で威圧的な性格であり、自分もその事を自覚していますので、叱る時と褒める
時のメリハリをつけるように心がけてきました。

それが、極端な甘やかしと、極端なきびしさなのかと思いました。

子供は確かに頭の回転が速く、礼儀正しく、大人の前ではいい子ちゃんを装っている節があり
ます。ですから学校で注意を受けた時は大変驚きました。

先生や周囲の人に嫌われないように、迷惑にならないようにと指示するようになり、毎日「今日
はどうだった?叱られなかった?」と聞いていました。

今日からある程度は大目に見て、少し自由にさせて、寝る前に童話や伝記を読んでやるように
します。

学校の事は本人から話すまで聞かないことにします。
甘いものはあまり食べない子供ですが、砂糖をなるべく排除します。

禁止にしているゲームは30分位の時間を切って解禁してやります。

虚言以外の行動は一度やってからはやらないので、ADHDは考えていませんでした。
なるべく外に連れ出して遊んでやる。

習い事を二つ行かせていますが一つにして本人の好きな事をやらせます。

これで落ち着かなければ心療内科の受診も考えます。

有難うございました。
おかげで何とかやっていく道筋が見えたような気がします。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1542)

【今朝・あれこれ】(9月29日)

++++++++++++++++

ぼんやりとした天気。
それと同じくらい、ぼんやりとした頭。

軽い頭痛。頭痛といっても、神経痛。
左の後頭部が、ときおり、かすかだが、
ピリピリと痛む。

これから朝風呂に入って、気分を
入れかえるつもり。

++++++++++++++++

●書きたいこと

 昨日、自転車に乗っていたとき、ふと、書きたいことが、頭の中を横切った。そうでないときな
ら、メモに書いてそれを残しておくのだが、自転車に乗っていたので、それができなかった。

 が、そういうことというのは、すぐ忘れてしまう。そのあと、ときどき、「何だったのか」と考える
が、どうしても、それを思い出せない。

 いつもの経験によれば、こうして文を書いていると、また同じことが頭の中を横切るはず。そ
のとき、しっかりとそれをメモに残し、それについて書こう。


●脳年齢

 あちこちのサイトで、脳年齢を測定してくれる。最近では、電子辞書にまで、その機能がつい
ている。

 脳年齢……つまり、いろいろなテストをして、そのときの点数が、何歳の人の平均値かを見な
がら、その人の脳の年齢を測定しようというものである。

 で、私もいくつか試してみた。

 Aサイト(どこかの病院が運営するサイト)  ……31歳
 Bサイト(どこかの研究団体が運営するサイト)……34歳
 C電子手帳(S社の電子手帳)        ……32歳

 この数字は、事実である。しかも驚いたことに、31〜34歳と、脳年齢の誤差が、ほとんどな
い。もちろん別々のテストである。

 どれも一回勝負。ぶっつけ本番でしたもので、仮に、数回もつづけて訓練をすれば、もう少
し、点数はあがるかもしれない。脳年齢はさがるかもしれない。

 が、平均して「32歳」という数字を喜んでよいものやら悪いものやら。中学生や高校生からみ
れば、32歳の男というのは、オジン。使い物にならないオジンということになる。私はそういう
子どもたちを相手に、ものを教えなければならない。せめて25歳くらいの脳年齢でないと、…
…とまあ、少しぜいたくなことを考えている。


●10月30日号

 この原稿は、マガジンの10月30日号用である。つまり月末。私も、今月、つまり10月に、無
事満59歳になった。(この原稿を書いているときは、まだ58歳だが……。)

 本当の誕生日は、10月27日だが、戸籍上は、10月28日になっている。おやじが、市役所
に届け出るとき、日にちをまちがえた。当時は、そういう時代だった。

 で、この年齢になると、誕生日がくるのが、少しもうれしくない。(かなりひねくれているか
な?)「あと1年で、60歳かア」「60代なんて、いやだな」と、そんなことばかり考える。つまりこ
うして私は、自分で自分を、老人にしたてていく。それはものすごい力で、いくら自分で、「私
は、そうではない」と叫んでも、その力のほうが強い。その力が、どんどんと自分を押しつぶして
いく。

 「お前は、老人だあ」と。

 それは受験生をもつ親たちが、否応なしに子どもの受験戦争に巻き込まれていく様子に似て
いる。いくら「うちの子は……」と思っても、まわりが騒々しくなると、自分まで、それに染まって
しまう。巻きこまれてしまう。

 これから先、私は、どうやって自分を支えていったらよいのか。年齢に関係なく、前向きに生
きていきばよいのか。この問題は、ますます大きなものになるだろう。


●恐怖症

 自転車に乗っていたとき、頭の中を、こんなことが横切った。子どもの不登校についてで、あ
る。

 自分の子どもが、「学校へ行きたくない」などと言おうものなら、ほとんどの親は、その瞬間
に、パニック状態になる。冷静に子どもの心を知ることさえできなくなる。

 そして親は、子どもに向かっては、「学校へ行きなさい」と叱りつつ、そのまま自分が感ずる不
安や心配を、子どもにぶつけてしまう。が、子どもは、「行きたくない」のではなく、「行けない」の
だ。

 そういう子どもの心理を、どう親に説明したらよいのか。私は、自転車に乗りながら、それを
考えていた。

 で、こういう話し方をすれば、多分、親に理解してもらえるだろうということを思いついた。この
原稿の冒頭で書いた、「ふと、書きたいことが、頭の中を横切った」というのは、そのことをい
う。

 たとえばこんなことがある。

 私は、高所恐怖症で、大屋根にのぼっただけで、足の裏がスカスカとして、おりられなくなって
しまう。29歳のときのこと。テレビのアンテナをつけるために大屋根にのぼったところまではよ
かったが、そのまま足がすくんでしまって、おりられなくなってしまったことがある。

 平気な人にすれば、「どうして?」と思うかもしれないが、ともかくも、そのときは、そうなった。

 で、さらに最近も、(……といっても、もう3年になるが)、同じような経験をしている。

 裏庭に、家を増築した。そのときのこと。何かのことで大屋根にのぼろうとしたのだが、その
前に足がすくんでしまって、のぼることができなかった。言いようのない恐怖心が、全身を包ん
だ。

 いくら自分に、「何でもない」「傾斜は、それほどない」「遊園地のすべり台より楽なはず」「仮
に足をすべらせたとしても、足場がしっかりと作ってあるから、だいじょうぶ」と自分に言い聞か
せても、だめだった。

 こうした恐怖症は、理性や知性で、コントロールできるようなものではない。脳みその別の部
分が、勝手に別の指令を出してしまう。そしてその指令というのは、理性や知性で考える部分
よりも、何千倍も、何万倍も強い。(こういうとき、「千」とか「万」とかいう数字を出すのは、正しく
ないが……。)

 「心」というのは、そういうものである。

 多くの親は、子どもに向かって、「気のもちよう」とか、「気のせい」とか、言う。しかしそんな簡
単なことではない。簡単なことでないことは、この一例をもってもわかるはず。子どもは、本当
に学校へ行けないのだ! 「行きたくない」のではなく、「行けない」のだ。

 そういう子どもの心を無視して、無理をすればどうなるか。たとえば私を、無理に大屋根の上
に乗せたら、どうなるか。私はそのまま、屋根の上で、小さく体を丸めてしまうかもしれない。

 実際、あのときもそうだった。あのときも当初は、アンテナの工事費を浮かすためにそうした
が、結局は、近くの電気屋さんに来てもらった。2人がかりで、大屋根からおろしてもらった。時
間的には、それまで1時間ほどあったが、その間中、私は、大屋根の真ん中で、体を丸めて座
っていた。

 ……ということを、書きたかった。で、今、それを書いたので、頭の中がすっきりした。

 みなさん、おはようございます。まだときおり、頭痛がしますが、そのうち、収まるでしょう。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1543)

●公式レートというインチキ

++++++++++++++++++++

K国内での、韓国企業は、K国の労働者に、
毎月、1人当たり、63ドルものお金を
渡しているという。

日本円になおせば、約7300円という
ことになるが、このお金には、ウラがある。

+++++++++++++++++++++

 現在、K国にある開城工業団地では、韓国側は、そこで働くK国労働者に対して、1人当た
り、平均、月63ドル(日本円で、約7300円)の給料を渡している。しかしK国側は、自国の労
働者に、ドルで渡しているのではない。そのドルを、一度、自国の通貨(ウォン)に換えて、渡し
ている。

 話をわかりやすくするために、一度、その流れを、チャート化してみる。

(韓国側、一人あたりアメリカドルで、63ドルの賃金を払う)→(K国の指導者がそれをドルで受
け取る)→(そのドルを、公式レートにしたがって、ドルをウォンに換算する)→(K国の労働者
に、ウォンで、支払う。その額、1人当たり約5000ウォン)と。

 日本の基準からすれば、少額だが、しかしこの金額には、ウラがある。

 まずその給料は、アメリカドルで、韓国側が、K国側の指導者(高官)に、まとめて渡される。
K国の公式レートでは、63ドルは、約5000ウォンということになる。K国の労働者の平均賃金
は、2000〜3000ウォンと言われているから、それよりは、2倍程度、高い給料ということに
なる。

 が、ここで待った! ここから先は、算数の問題である。

 K国には、(1)K国が勝手に定めた、公式レートと、(2)実際の取り引きで使われている闇レ
ートの、2つがある。公式レートでは、1ドル=約143ウォン。しかし闇レートでは、1ドル=約2
000〜3000ウォン。あるいは最近はもっとさがって、それ以下。1ドル=約4000ウォンとい
う人もいる。

 そこで63ドルを、闇レートで換算すると、15万7500ウォンということになる(63x2500=1
5万7500)。これで計算すると、15万7500ウォンというのは、平均的労働者の給料を2500
ウォンとして計算すると、約63人分の給料ということになる。

 わかるかな?

 つまりK国は、自国の労働者に対して、韓国から受け取る給料の、約31分の1程度しか払っ
ていないことになる(15万7500ウォン÷5000=31・5)。残りのドルは、ゼ〜ンブ、K国の指
導者(高官)のふところに入ることになる。しかもアメリカドルという、現金で!

 言いかえると、韓国側は、そういう形で、K国に、現金を渡していることになる。

 もしK国の労働者に、K国の通貨で、5000ウォン支払うということなら、何も公式レートによ
らなくても、中朝国境あたりでK国ウォンをかき集めてきて、支払えばよい。そうすれば、2ドル
程度ですむはず。

 2ドルですむところを、わざわざ63ドルも支払っている。ということは、残りの61ドルは、その
まま、K国の指導者(高官)のふところに入ることになる。そしてそのお金は、まわり回って、核
開発や生物化学兵器、さらにはミサイル開発費として使われている。

韓国のN大統領は、「(使われているという)その証拠はない」とがんばっているが、もともとお
金に名前など、つけられない。「その証拠はない」と言うくらいなら、「使われていない」という証
拠を出すべきではないのか。

それを日本やアメリカの政府は、問題にしている!

 さて今月だけも、韓国側は、開城工業団地だけでも、約50万ドルもの現金を、K国側に渡し
ている。日本円になおすと、約5800万円。年間になおすと、600万ドル。7億円。開城工団地
の韓国企業15社で働く、K国の労働者約8000人に渡す給料(1人当たり最低63ドル=約7
300円)だ、そうだ。
(06年9月29日記)

 
Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●安倍内閣、誕生!

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安倍総理大臣を中心とする安倍内閣が、誕生した。

戦後の日本において、国際社会で通用する、
はじめての総理大臣といってもよい。

おそらく世界の人たちも、そういう目で、
安倍総理大臣を見ているにちがいない。

この先のことはわからないが、安倍総理大臣が
誕生したと知ったとき、私は、さわやかな清風が
日本中をかけ抜けたように感じた。

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 JNNの調査で、安倍内閣の支持率は、73%。同じく共同通信社の調査で、65%。平均して
約70%という高い支持率を得て、安倍内閣は、誕生した。タカ派だとか、右派だとか言われて
いるが、「そうメチャなことはしないだろう」という安心感というか、安定感がある。が、何よりも、
すばらしいのは、あくまでも現時点での話だが、外国人の目から見て、はじめて日本は、総理
大臣らしい総理大臣を、トップにかかげたということ。

 安倍総理大臣は、従来型の、どこか胡散(うさん)臭い政治家たちとは、一線を画している。
若いということもあるが、その分だけ、知的である。頭もキレそう。演説などを聞いていると、ど
こかまだたどたどしい感じがしないわけではないが、そのたどたどしさの中に、かえって私は、
安倍総理大臣の誠実な人柄を感ずる。

 私の予想では、あくまでも、現時点での予想ということになるが、安倍政権は、かなりの長期
政権になるだろうと思う。「現時点」にこだわるのは、政治の世界は、いつも、一寸先は闇。こ
の先、何があるかわからない。わからないが、何もなければ、ここに書いたように、かなりの長
期政権になるだろうと思う。

 また、総理在任中のY神社参拝については、JNNの調査で、参拝すべきが、33%で、やめ
るべきが、53%。同じく共同通信社の調査では、参拝すべきが、33%で、すべきでないが、5
1・3%であった。

 つまり日本の過半数の人たちが、総理大臣のY神社参拝に反対していることになる。私自身
は、なぜ、こうまで歴代の総理大臣たちが、Y神社参拝にこだわるのか、その理由がよくわか
らない。背景に何かの哲学のようなものがあるならまだしも、それもない。前総理大臣のY首相
は、「反戦の誓い」という言葉をよく使ったが、「反戦の誓い」とは何か。その根拠は何か。また
反戦の誓いと、Y神社はどう結びつくのか。その前に、「反戦」とは、何か。どのひとつをとって
も、私には、いまだに、よくわからない。

 その点、安倍総理大臣は、どうなのだろうか。安倍総理大臣も、やはり「反戦の誓い」とやら
をするために、Y神社を参拝するつもりなのだろうか。

 私の印象では、安倍総理大臣は、Y神社参拝を強行するようなことはしないと思う。戦後生ま
れの総理大臣であるだけに、国民の世論に対しては、よりフレキシブルに対処するのではない
か。

 ……ということで、今は、静観中。今、安倍内閣の中身というか、方向性が、私には、まだよく
見えてこない。安倍総理大臣自身も、手の内をそうは簡単には、見せないだろう。安倍総理大
臣は、今回は、あたりさわりのない内閣を組みながら、次の政権、さらには、次々政権をにら
みながら、いまごろは、長期的な戦略を立てているにちがいない。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

【1945】

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昨日、Eマガの読者が、1945人に
なった。1人、ふえた。

そこで、1945年!

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 1945年といえば、広島、長崎に原爆が落とされた年である。

 記録によれば、広島では、半径500メートル以内の人たちは95%以上が、即死。死者、行
方不明者は、25万人。原爆投下後、キノコ雲は、1万7000メートルもの高さにまで届いたと
いう。

 8月6日、この日、広島は、雲ひとつない天気。どういうわけか、午前8時すぎ、一度出されて
いた空襲警報が、解除されている。それを聞いて、人々が、いつもの朝の仕事にもどった、ち
ょうどそのとき、市内の細江町(現在の大手町)上空570メートルで、原爆が炸裂(さくれつ)し
た。

 爆撃を指揮したのは、陸軍大佐のティベッツ。B29、「エノラゲイ」に搭載したのは、ウラニウ
ム爆弾。TNT火薬2万トンに相当する爆弾である。

 が、軍、つまり大本営は、この事実を、国民には知らせなかった。が、日本人にとって、これ
以上の悲劇はない。つづく翌9日には、今度は長崎に、原爆が投下される。

 なぜ、広島、長崎に原爆が投下されたのか。投下されなければならなかったのか。もし威力
の誇示ということだけなら、何も、広島や長崎に投下しなくても、たとえば日本に近い太平洋上
で爆発させるという方法もあったはず。東京湾の中心でもよかった。そうでなくても、そのときす
でに、日本中は、アメリカ軍によるジュータン爆撃で、ほとんどが焼け野原になっていた。

 が、アメリカにしても、そうせざるをえない理由があった(?)。

 広島の原爆投下をさかのぼること、約20日前の7月17日。トルーマン、チャーチル、スター
リンの3人が、ポツダムで戦後処理を話しあっている。そのあと、ポツダム会談の内容をふま
え、いわゆる「ポツダム宣言」がなされている(7月26日)。

 内容は、日本に無条件降伏を迫るというものであった。が、日本政府は、これを「黙殺する」
と発表(7月28日)。

 ここでつぎの悲劇が起きる。

 日本政府は、「YESでも、NOでもない」という意味で、「黙殺」という言葉を使ったのだが、こ
れが英語で、「IGNORE(無視)」と翻訳された。そしてその言葉だけが、世界中を、かけめぐっ
た。

 「IGNORE」という単語が、いかに、辛らつなものであるかは、英語を少し勉強したことがある
人なら、わかるはず。日常の会話でも、「IGNORE」という単語が出てくれば、ピンとした緊張感
が走る。ただ単に、「NO」というよりも、相手に与える衝撃は強い。「IGNORE」という単語は、
そういう単語である。

 そこでアメリカは、ポツダム宣言、第13項に従い、広島、長崎に原爆を投下した。その13項
には、こうある。

 「日本国が無条件降伏しないかぎり、迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」と。

 もっともそれ以前から、原爆の投下は、用意周到に準備されていたわけだから、ポツダム宣
言は、原爆投下の口実をつくっただけとも考えられる。しかし流れとしては、(ポツダム宣言)→
(日本が無視)→(原爆投下)へと、つながった。

 そして日本は、原爆投下を見て、連合国に対して、無条件降伏を受諾する。8月15日のこと
である。私が生まれる2年と2か月前のことである。

 で、そのあと、「耐え難きを耐え……」でよく知られている天皇による玉音放送(8月15日正
午)、マッカーサーが厚木基地に到着(8月30日)、アメリカ軍艦ミズーリ上で、日本側が降伏
文書にサイン(9月2日)とつづく。

 こうした中、日本ではほとんど知られていないが、広島の惨状を見たオーストラリア人の記者
が、こんな記事を、イギリスのデーリー・エキスプレス社に書いている(「20世紀・前記録」よ
り)。

 「30日後の広島では、人がなおも死んでゆく。あのとき無傷であったというのに、原爆の疫病
としか描写するほかない何ものかによって死んでいく。

 (広島の様相は)、怪物大の蒸気ローラーが通り過ぎ、木っ端微塵に抹殺、壊滅したようだ。
……この原爆の最初の実験場で、私は4年の戦争期間中、もっとも恐ろしい、戦慄すべき荒廃
をこの目で見た。

 (これにくらべると)、太平洋諸島の戦場は、エデンの園みたいなものである。

 この荒廃がもたらされた瞬間から、生き残った人たちは、白人を憎んだ。その憎悪のはげし
さは、原爆そのもにに劣らない」(バーチェット記者)と。

 「ノー・モア・ヒロシマ」という言葉は、彼の口から生まれた。

 歴史はこうして刻々と動いていく。しかしそれは同時に、私に、不思議な感覚をもたらす。過
去が自分に近づいてくるような感覚である。

 あと2年と2か月で、私は生まれる。あと2年と1か月で、私は生まれる……と。しかし私は、
そういう事実を、まったく知らなかった。感ずることもなかった。母の胎内にもいなかったわけだ
から、その時点では、私は「無」だったということになる。

 仮に、もし「私」をつくった精子が、「私」の精子でなかったとしたら、今の私は、私ではない。も
し「私」をつくった卵子が、「私」の卵子でなかったとしたら、今の私は、私ではない。今の「私」
が私であるのは、数億分の1の、そのまた数億分の1の確率で、そうなっただけということにな
る。

 サマージャンボの宝くじで、1等を、つづけて何本も当てるよりも、むずかしい。

 その精子と卵子との結合すら、そのとき、まだなかった。私はどこにいたのか? 今こうして、
1945年の記録を読んでいると、それが不思議な感覚となって、私の心に充満してくる。

 そうそうこの年、1945年の12月、抗生物質を発見したフレミングに、ノーベル賞が与えられ
ている。あの「奇跡の薬」ともてはやされたペニシリンを発見した、アレクザンダー・フレミングで
ある。
 
 実は私は、小学、3年生のとき、小児結核をわずらっている。が、そのペニシリンで命が救わ
れた。もしあのときペニシリンがなければ、私は、そのまま死んでいただろう。それまでは結核
という病気は、不治の病として、世界中で恐れられ、多くの人たちの命を奪っていた。

 ……こう考えていくと、では、今ここにいる「私」は何かということが、さらにわからなくなってい
く。

 私が生まれるまで、あと1年と11か月。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●印象

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「文」で受ける印象と、「声」で受ける印象とは、
まったくちがう。

さらに実際、会ってみることで受ける印象とは、
まったくちがう。

こうした(ちがい)は、どうすればよいのか。
克服すればよいのか。

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 最近、こんなことがあった。

 ある仕事で、ある女性(30歳くらい)と、メールで連絡を取りあっていたときのこと。私は、そ
の女性に、悪い印象をもってしまった。

 ズケズケというか、何というか、礼儀知らずの言い方が、不愉快だった。こちらが何かを書く
と、「じゃあ、〜〜とは、どういうことですか?」と、すかさず、そんな返事が返ってきた。

 で、何度かメールでやりとりしたあと、今度は電話で私のほうから連絡をした。が、である。驚
いた!

 美しく、やさしい声だった。私は、それに驚いた! ラジオの道路交通情報か何かでしゃべる
女性のような声だった。メールのやり取りで受けた印象とは、大ちがい。メールのほうでは、オ
バタリアンのような女性を想像していた。

 で、しばらくしてから、その女性と会うことになった。が、これまた、驚いた! 髪の毛はボサ
ボサ。化粧らしい化粧はしていなかった。まるで「女」を感じさせない女性だった。30歳前後と
いうことだが、どう見ても、40歳以上に見えた。

 ……という話は、フィクションである。ここに書いた女性は、架空の女性である。しかしこれに
似た経験は、よくする。つまりメールのやり取りで受ける、その人の印象ほど、あてにならない
ものはない。つまりこのあたりに、(文)というか、(インターネット)の限界がある。

 電話なら、表情まではわからないが、声の調子から、その人の心をつかむことができる。しか
しメールという(文)では、それすらもできない。そればかりではない。その人のメールを、その
ときのこちらの気分で読んでしまう。

 たとえば私の気分が、落ちこんでいたとする。そういうとき、ぶっきらぼうなメールを受け取っ
たとする。とたん、不愉快になってしまう。相手に対して、悪い印象をもってしまう。だれかが「お
前、バカだなあ」と書いてきたとする。とたん、「バカとは何だ!」となってしまう。

 相手は、軽い冗談のつもりでそう書いてきただけなのかもしれないのだが……。

 だからメールのやりとりだけで、人間関係をつくるのは、たいへん危険なことと考えてよい。と
きには電話をして、直接その人の声を聞く。あるいは会う。これは何も、相手だけの問題では
ない。こちら側の問題でもある。

 私も、知らず知らずのうちに、相手に悪い印象を与えてしまっているかもしれない。

 そこでこのところ、私は、それを避けるため、できるだけ電話を使うようにしている。仮にメー
ルで仕事の依頼を受けたとしても、返事は、電話でするようにしている。そうすることによって、
相手に悪い印象を与えないようにしている。(電話のほうで、かえって印象を悪くしてしまうとい
うことも、あるかもしれないが……。)

 ……ここまで書いて、ピカッとひらめいた!

 今度の新しい携帯電話は、動画まで送れることになっている。今は、もっぱらメールの交換
用に使っているが、動画のサイズを最小限にしたうえで、声でメールを送ればよい。文で、では
なく、声で、メールを送る。さっそくあとで、何人かの人に、実験してみよう。

 携帯電話という(電話)を使って、(声)を送るというのもおかしなことだが、やってみるだけの
価値はある。私の携帯電話では、メールは使い放題、無料ということになっている。

 話が脱線したが、仮にメールで相手に連絡するとしても、自分が書く文には、慎重であったほ
うがよい。とくにはじめて連絡を取りあう人ほど、そうではないか。

(追記)今、私の携帯電話を調べてみたら、ちゃんと、そういう機能がついていた。(ボイスメモ)
という機能である。つまりあらかじめ自分の声(ボイス)をメモしておき、それを添付ファイルとし
て、相手に送るという機能である。

 知らなかった!


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1544)

●不安

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80歳をすぎた近所の女性が、
数日前、救急車を呼んだ。

あとで理由を聞くと、便に
大量の血が混ざっていたからだという。

その女性は、自分が、がんになったと早合点して、
そうしたらしい。

しかし、がんではなかった。シロだった。ただ単なる、
切れ痔にすぎなかった。

++++++++++++++++

 私は知らなかったが、近所に住む女性が、救急車を呼んだという。今年、80歳になる女性で
ある。

 あとで人づてに理由を聞くと、便に大量の血が混ざっていたからだという。その女性は、それ
をがんと早合点してしまったらしい。が、病院での検査の結果は、シロ。がんではなかった。た
だ単なる切れ痔にすぎなかったという。

 最初、この話をワイフから聞いたとき、私は笑ってしまった(失礼!)。その女性のような心気
症の人(=大病ではないかと、そのつど、大げさに悩む人)は多い。実は私もその1人だが、し
かし便に血が混ざっていたくらいでは、救急車は呼ばない。

 しかもその女性は、80歳だという。

私「80歳になっても、死ぬのがこわいのかねエ?」
ワ「何歳になっても、こわいみたいよ」
私「そういうものかねエ」と。

 そう言えば、私の母も、89歳になり、足が思うように動かなくなったとき、それを治せない医
師を、「ヤブ医者」と言って、怒っていた。姉が、「89歳にもなれば、みんなそうよ」と懸命になだ
めていたが、母には、理解できなかったようだ。

 この問題には、つまりその人の生死にかかわる問題には、年齢は関係ないようだ。老齢にな
ったからといって、死に対する恐怖感がやわらぐということはない。考え方が変わるということも
ない。

 むしろ現実は逆で、老齢になればなるほど、「生」に執着する人は、多い。ほとんどの人がそ
うではないか。中に、「私はいつ死んでもいいですよ。覚悟はできていますよ」などと言う人がい
るが、たいていは、そう言いながら、かっこつけているだけ。本心でないと考えてよい。

 「死」を受け入れるということは、たいへんなことである。

 イギリスのBLOGから、「死」について書いた賢人たちの言葉を、集めてみる。

★I live now on borrowed time, waiting in the anteroom for the summons that will inevitably 
come. And then - I go on to the next thing, whatever it is. One doesn't luckily have to 
bother about that.

私は借りてきた時間の中で、召喚のための小部屋で待ちながら、生きている。それは避けられ
ないもの。で、それから私は、どうあっても、つぎの部屋に行く。幸運にも、人は、それで心をわ
ずらわす必要はない。
Agatha Christie, "An Autobiography"(アガサ・クリスティ「自叙伝」)


★I shall tell you a great secret my friend. Do not wait for the last judgement, it takes place 
every day.

友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはいけない。
それは毎日起きていることなのだから。
Albert Camus

★To the well-organised mind, death is but the next great adventure.

よく準備された心には、死は、ただ単なるつぎの冒険でしかない。
Albus Dumbledore

★Even in the desolate wilderness, stars can still shine.

人に見放された荒野のようなところでも、星はまだ、輝いている。
Aoi Jiyuu Shiroi Nozomi (青い自由、白い望み?)

★A Lizard continues its life into the wilderness like a human into heaven. Our fate is 
entirely dependent on our life

とかげは、野生の中に向かって生きつづける。人間が天国に向かって生きつづけるように。
我々の運命は、私たちに生命に完全に支配されている。
Andrew Cornish

★This existence of ours is as transient as autumn clouds. To watch the birth and death of 
beings is like looking at the movements of a dance. A lifetime is a flash of lightning in the sky. 
Rushing by, like a torrent down a steep mountain.

我々の存在は、秋の雲のように、一時的なもの。人の生死を見るということは、踊りの動きを
見ているようなもの。人生というのは、空に光る稲妻の閃光でしかない。あるいは、急な山を下
る急流のようなものでしかない。
Buddha (c.563-c.483 B.C.)(釈迦)

★100 per cent of us die, and the percentage cannot be increased.

私たちのうち100%は死ぬ。そのパーセンテージがふえるということは、ない。
C.S. Lewis, "The Weight of Glory"

★Who chants a doleful hymn to his own death?

だれが、自分の死に際して、悲しげな賛美歌を歌うだろうか。
Shakespeare

★We are here to laugh at the odds and live our lives so well that Death will tremble to take 
us.

私たちは、おおいに笑い、楽しく生きるために、ここにいる。そうすれば死は、私たちを連れ去
るのを、躊躇(ちゅうちょ)するだろう。
Charles Bukowski

★All God does is watch us and kill us when we get boring. We must never, ever be boring. 

★すべての神は、私たちをずっと見ていて、私たちがいつ、生きるのに飽きるかを見ている。
だからそれゆえに、私たちは決して、自分の人生に飽きてはいけない。
 Chuck Palahniuk, "Invisible Monsters"

 人生が瞬間的なものなら、80歳になるのも、瞬間にやってくる。若い人たちからみれば、老
後は、ありえないほど遠い未来に見えるかもしれないが、その老後は、瞬間にやってくる。それ
がわからなければ、自分の過去をみることだ。

 少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、「私は生きた」という実感をもっている人は、きわ
めて幸福な人だと思う。もし少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、それが何のためにある
かといえば、その「生きる実感」をつかむためにある。

 その「実感」が、灯台となって、それからのその人の人生の歩む道を、照らす。

 で、この年齢になってますますはっきりとわかってきたことがある。それは青春時代というの
は、人生の出発点ではないということ。青春時代は、人生のゴールそのものであるということ。
それはちょうど、あのサケが、最後には自分の生まれた源流をさかのぼり、そこで死を迎える
ようなもの。

 しかし悲しいかな、少年、少女時代にせよ、青春時代にせよ、その最中にいる人には、それ
がわからない。「人生は永遠」と考えるのはまちがってはいないが、「永遠」と思うあまり、その
時代を浪費してしまう。

 しかしその時代は、1回ポッキリで終わる。……終わってしまう。「まだ先がある……」と思っ
て、人は、生きていく。が、先は、ない。ないから、その日、その日を、悶々とした気分で過ご
す。

 それが不完全燃焼感となって、心をふさぐ。悔いとなって、心をふさぐ。老後になればなるほ
ど、それがより鮮明になってくる。

 冒頭に書いた女性だが、今回は、シロだった。が、この先、何年、生き延びることができると
いうのだろうか。5年だろうか。10年だろうか。体の不調が起きるたびに、ビクビクしながら生
きていくにちがいない。「生きる」といっても、死を先に延ばすだけの人生。明日、その死がやっ
てくるかもしれない。明日はだいじょうぶでも、あさって、やってくるかもしれない。

 では、どう考えたらよいのか。どう死をとらえたら、よいのか。生きることを考えたら、よいの
か。

『友よ、私はあなたに偉大な秘密を話してやろうではないか。最後の審判を待ってはいけない。
それは毎日起きていることなのだから』と書いた、Albert Camus。『よく準備された心には、死
は、ただ単なるつぎの冒険でしかない』と書いた、Albus Dumbledore。

 彼らの言葉の中に、その答につながるヒントがあるように、私は思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●今、してみたいこと

+++++++++++++++++

今、してみたいことがある。

パソコンショップへ行くと、「FLASH」という
ソフトを売っている。

動画を作るソフトだが、これを使うと、HP上で、
動きのある画面を表示することができる。

値段は、1万4000円前後。ソフトとしては、
決して安くない。

しかし、今、私はそれをしてみたい。

++++++++++++++++++

 大手の会社のHPをのぞいていると、ときどき動きの速い動画を見ることがある。クルクルと
紐(ひも)が巻いたかと思うと、それがリボンに変化して、その中から花が出てくる、とか。

 その会社の旗が、風にゆるやかになびくというのもある。

 これらの動画は、FLASHというソフトを使って作成したものである。大きなパソコンショップへ
行くと、そのソフトを売っている。値段は、1万4000〜5000円前後。

 かなり以前から私も、そういう動画に一度、挑戦してみたいと思っていた。が、簡単な動画を
載せるだけで、1万4000円! ……ということで、ためらっていた。

 が、そろそろ限界。一度は試してみる価値はある。やってみたい。今朝もワイフが、「今度の
誕生日に、何がほしい?」と聞いたので、「FLASH」と答えた。

ワ「それで何をするの?」
私「ぼくのホームページを、動画で飾ってみたい」
ワ「飾って、どうするの?」
私「別に、どうということはない。まあ、頭の体操のようなものだよ」と。

 私は、どういうわけか、あの分厚い説明書を手にすると、ゾクゾクとした快感を覚える。パラ
パラとめくっていると、何とも言えない満足感を覚える。

ワイフは、それを「ビューキ」と言うが、私は、そうとは思っていない。ここにも書いたように、そ
れは私にとっては、頭の体操。もっとわかりやすく言えば、頭の健康器具。自転車が、肉体の
健康器具なら、新しいソフトは、頭の健康器具ということになる。

 それをワイフに言うと、「しかたないわねエ……」と。

 ハハハ。さっそく、これからパソコンショップへ行って、それを買うつもり。今日は、10月1日。
誕生日までには、まだ先があるが、こういうのを、誕生日プレゼントの先取りという。

 今、できること、したいことは、決して、先延ばしにしない。それがここ数年の、私のモットーに
なっている。(これはこじつけかな?)

(注)値段を、1万4000〜5000円と書いたが、もう少し高かったかもしれない。あまり値段が
高ければ、今回は、あきらめることにする。

【顛末記(てんまつき)】

 私が購入したのは、Free Mxxxx という、FLASH作成ソフト。値段は、ガイドブック付で、1
万円弱。

 で、何とか簡単な動画を作成したものの、そのあとの操作が、わからない。「Free Mxxxで
作成したファイルは、SQF形式で保存されます。……このままではFLASHとして公開できない
ため、SWF形式のファイルとして、書き出す必要があります……」と。

 で、このあと何度、ガイドブックの指示どおりに作業をしても、私のHP上では、まったく反応な
し。3〜4時間ほど悪戦苦闘してみたが、やはりダメ。ほかのBLOGにも、ファイルを張りつけ
てみたが、これまた反応なし。

 ああああ……というところで、今夜は、おしまい。

 以前、はじめてHPを作成したとき、FTP送信できなくて、やはり四苦八苦したことがある。パ
ソコンそのものをパソコンショップへもちこんだこともある。「電話ではよくわからないから、ここ
でやってみせてくれ」と。が、当時は、FTP送信という言葉すら知らない店員もいた。どこか知っ
たかぶりに、「フリーソフトを使ってください」と教えてくれた店員もいたが、今から思うと、とんで
もない指導だった。

 しかし「ここであきらめては、何もできない」と思って、そのあと、あちこちに電話をかけまくっ
た。そのせいか、はじめて自分のHPをモニター上で見たときには、涙が出るほど、うれしかっ
た。

 今、あのときのことを、あれこれと思い出す。

 ……ということで、明日は、あちこちに電話をかけまくるつもり。ここであきらめては、いけな
い。ぜったいに、あきらめてはいけない。FLASHを、私のHPに載せてやる! どんなことがあ
っても、載せてやる!

 しかし、楽しかった! こうして悪戦苦闘しているときというのは、本当に楽しい。この楽しさが
あるから、パソコンはやめられない。


Hiroshi Hayashi+++++++++Sep 06+++++++++++はやし浩司

●韓国からの外資の逃避

+++++++++++++++++

予想されていたこととはいえ、
現実になってしまった。

韓国からの外資の逃避が、雪崩(なだれ)を
うって、始まった。

+++++++++++++++++

 2009年までに、統制権を、アメリカは韓国に移譲すると宣言した。つまりアメリカ軍は、韓国
軍の指揮下に入る、と。

 しかし現実には、そんなことはありえない。ありえないということは、統制権の移譲とは、事実
上、アメリカ軍の韓国からの撤退を意味する。

 事実、9月29日、在韓米軍の中核戦力である米軍第2師団を率いる在韓米軍の、第8軍司
令部が、韓半島(朝鮮半島)を離れる可能性について、言及している。この日開かれた記者懇
談会で、米軍第8軍司令部の解散の有無を問われたベル在韓米軍司令官は、これを否認せ
ず、改編の可能性を強く示唆したという。

 が、アメリカあっての韓国である。こうした動きに並行して、今、韓国からの外資の逃避が、
急ピッチで進んでいる。とくに、アメリカとイギリスを中心とする、外資の逃避が著しい。

朝鮮N報紙によると、N紙が29日に入手した「外国人による証券投資資金の流出入現況」とい
う資料によると、今年に入って8月11日までに、韓国から流出した外国人証券投資資金(株
式、債券、配当金など)は、92億6400万ドル(約1兆838億円)と、1992年に株式市場を開
放して以来、最大値を記録したという。 

 このような外資の「資金離脱ラッシュ」は、外国人が株式を売ることにより生じた資金を韓国
の金融機関などに預金し、再び機会を見計らっては投資するといったサイクルとはちがい、完
全に韓国を去ってしまう現象であることから、着目されている(N紙)。 

 ちなみに、過去、韓国の証券市場における外国人の資金は、02年(8億3000万ドル=約9
71億円)と、05年(24億3000万ドル=約2843億円)の2回にわたり、純流出(流出額が流
入額を上回ること)を記録しているが、その額は、今年ほど深刻ではなかった。

 わかりやすく言えば、02年に8億ドル、05年に24億ドルだった流出が、今年は、8月までの
8か月だけで、92億ドルを超えたということになる。これは韓国経済にとっては、たいへんな数
字ということになる。

 が、ここで外資の流出が止まるわけではない。N政権の反米、反日色が濃くなればなるほ
ど、アメリカ、イギリスにつづいて、日本外資の逃避も始まる。あるいはすでに始まっている。日
本は韓国から外資を引きあげる一方で、その資金を、台湾やインドに投資し始めている。

 韓国のN政権イコール、K国と考えるなら、日本が韓国を助けなければならない理由など、ど
こにもない。日本の経済が、バブル経済のあと、どん底をはっていたとき、それを連日のように
喜んでいたのは、ほかならぬ韓国である。「これで韓国と日本の立場は逆転する」という見出し
が、連日のように新聞各紙のトップを飾った。

 今でも、その流れの中にある。今回も、ソニーが全世界から自社製の乾電池を回収するとい
うことになったときも、韓国側の新聞各紙は、「韓国製の乾電池が大躍進!」※と報じている。

 まるでソニーの失敗が、うれしくてたまらないといったような報道である。

 これはもう戦争といってもよい。経済戦争という戦争である。そんな韓国に遠慮する必要は、
まったくない。

 私たちは、戦う。日本のために、戦う。……戦わねばならない。

 日本の投資家たちよ、今こそ、韓国から、資金を引きあげようではないか!

(注※)……「韓国メーカーが大躍進」……ソニーが苦戦する間、サムスンSDI、LG化学など国
内メーカーが躍進し、大逆転した。世界2次電池市場は2000年初めにサンヨー、ソニー、松
下、日立など日本メーカーが市場の95%を占めていたが、最近では状況が異なっている。 

 サムスンSDIは、9月27日、「忠清南道天安工場のリチウム電池生産量が単一企業として
は世界で初めて月3400万セルCelll=電池を数える単位)を超えた」と発表した。今年初めに
生産量が月2200万セルだった点を考慮すると、9か月の間に生産量が55%増加したことに
なる(朝鮮N報)。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1545)

●今朝・あれこれ(10月2日)

+++++++++++++++++

昨日は、FLASH(動画)の作成で、
半日がつぶれた。

が、いまだに、HP上に、それを載せる
ことさえ、できない。

イライラ……、悶々……。

++++++++++++++++

●クールな世界

 今日は月曜日。仕事が始まる日。にもかかわらず、気分は晴れない。不完全燃焼? 何か
をやり残した感じ。もちろん昨日の午後から、原稿書きは、ストップ。今朝も、ストップ。

 FLASH(動画)に挑戦しているが、最後のところで、どうもうまくいかない。FTP送信するとこ
ろまでは、何とかできるのだが、HPを開いても、動画が表示されない。その部分のワクが、黒
く表示されるだけ。

 で、メーカーに問い合わせているのだが、「サポート番号がちがう」と、そのつど送信を拒絶さ
れてしまう。もう、こうなると、打つ手なし! お手上げ!

 しかしここであきらめてはいけない。とりあえず、HP作成用のソフトを開発している、I社に電
話をしてみよう。受けつけは、午前10時から。あと1時間。

 ところで、こういうとき、パソコンに詳しい人が近くにいるとよいのだが、おかしなことに、パソ
コンの世界では、横とのつながりが、できにくい。友だちができない。理由がある。

 パソコンに詳しいかどうかは、どの段階であっても、相対的なもの。私自身もそうだが、私より
パソコンについて知らない人とは、つきあいたくない。それと同じ理由で、私よりパソコンに詳し
い人は、私とはつきあいたがらない。

 それに、今回もそうだが、パソコンの世界では、その部分だけが、極端に専門化するというこ
とが、ある。今回も、SQF形式で作成した動画を、SWF形式のファイルとして書き出すという
部分で、つまずいた。

 しかし「SQF」って、何だ。「SWF」って、何だ。それがさっぱり、わからない!

 ……ということもあって、この世界では、それがわずかな差であっても、すぐ、おかしな上下関
係ができてしまう。「たがいに教えあって……」ということは、まず、ない。考えてみれば、クール
な世界だ。


●訃報の回覧

 朝食のとき、テーブルのすみを見ると、訃報の知らせが届いていた。X班のTさんという人が、
なくなったという。年齢は、76歳だったという。

 喪主と死亡者の名前が、同じになっている。「?」と思って見ていると、横でワイフがこう言っ
た。「ひとり住まいだったみたいね」と。

私「ひとりで、どうやって葬式をするの?」
ワ「きっと、親戚の人がきて、するのよ」
私「フ〜ン」と。

 「76歳かア?」と思ってみたり、「どういう人生だったのかなア?」と思ってみたりする。

 ……で、今、気がついた。今朝は眠い。理由がある。

 昨夜は12時半すぎまで、フランスでの競馬の実況中継を見ていた。「凱旋門賞レース」とい
う、レースである。何でも、世界で、もっとも権威のあるレースだそうだ。そのレースに、あのディ
ープ・インパクトが出場した。

 結果は、残念ながら、3位。期待が大きかっただけに、がっかり。専門家の分析によれば、集
団に囲まれて、最初から飛ばしすぎたのが負けた理由ということらしい。ディープ・インパクト
は、初半はそこそこに走って、後半で、ほかの馬をごぼう抜きにするという走り方を得意とする
馬だそうだ。

 負けた瞬間、「ア〜ア」と声が出ただけ。そのまますぐテレビのスイッチを切って、床に入っ
た。


●10月

 今日は10月2日。月曜日。もうすぐオーストラリアの友人と、友人の母親が、この浜松へやっ
てくる。あちこちを案内することになっている。今月は、忙しい月になりそう。

 ……ということで、今朝は、ここまで。これから風呂に入り、出たら、教材作り。月末も忙しい
が、月はじめも、同じように忙しい。

 がんばります。


【付記】

 FLASHを、やっと、本当にやっと、HPに載せることができた!

 うれしかった!

 悪戦苦闘すること、4、5時間。挿入方法をまちがえていた。私が使っているNinja(HP作成
用ソフト)では、オブジェクトの挿入という方法で、FLASHをHPに載せるのだそうだ。(説明書
には、そんなことは、どこにも書いてないぞ!)

 小さな1歩だが、この先、奥は、深い。長い.

 がんばってやってみよう!

 ハハハ!


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1546)

●1946年

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昨日、Eマガの読者が、1946人になった。
そこで、「1946年」。

私が生まれる、1年前ということになる。

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 1946年。

 この年の1月。天皇は、年頭詔書(しょうしょ)で、あの「人間宣言」をしている。「私が神だとい
うのは、架空の観念にもとづくものだ」と。

 『朕(ちん)と国民の間の紐帯(ちゅうたい)は、終始相互の信頼と敬愛で結ばれ、たんなる神
話と伝説とのよりて生ぜるものにあらず。天皇をもって、現御神(あきつみかみ)とし、かつ日本
国民をもって他の民族に優越せる民族にして、世界を支配すべき運命を有するとの架空なる
観念にもとづくものにあらず』(年頭詔書)

 つまり天皇といっても、1人の人間である、と。

 このときから、日本の戦後が始まったといっても、過言ではない。翌月の2月から、天皇は、
「天皇巡幸」として、神奈川県を皮切りに、全国を回り始める。実は、私自身も、その天皇巡幸
を、目撃している。時代はずっとあとになるが、私が小学1年生か2年生のときのことではなか
ったか。

 私たちは天皇の乗った車が通る道路沿いに、一列に並び、旗を振った。大きな、黒い馬車の
ような車だったということは、よく覚えている。あっという間のできごとだった。車のうしろのほう
に、人の影が見えたような気はする。が、覚えているのは、それだけ。……ということは、天皇
巡幸は、それから10年以上もつづいたことになる。天皇には天皇の思いがあって、そうしたの
だろう。

 戦争というのは、始めるのは簡単。一部の勇ましい好戦論者が、声高に叫べば、それでよ
い。しかしそれを終結させるのは、たいへん。しかもその後遺症は、何十年にもわたり、世代を
超えて残る。

 また、このほかに同じ年の5月に、「東京裁判」が開かれたことも忘れてはいけない。東条英
機らA級戦犯とされた28被告が、東京市谷にあった旧陸軍大講堂に集められた。この問題
も、それから60年たった現在も、Y神社問題として、尾を引いている。

 そんなわけで……というのでもないが、戦争の危機を感じたら、1にがまん、2にがまん。叩
かれても叩かれても、1にがまん、2にがまん。1度カッとなって、引き金を引いたら、最後。あ
とは収拾のつかないドロ沼の底へと落ちていく。

 もし平和主義というものがあるとするなら、その主義とは、この忍耐力をいう。何度も書くが、
「私は戦争は嫌いです」「いやです」と逃げて回るのは、平和主義でもなんでもない。「卑怯」と
いう。「いざとなったら、平和のために戦う」「子どもたちのために戦う」。そういう気構えをもつ。
それが平和主義である。

 それにもうひとつつけ加えるなら、一国の平和というのは、相手の国の平和なくして、維持で
きないということ。相手の国の平和をまず考える。一国の平和は、その反射的効果として、やっ
てくる。それが平和主義である。

あのインドのネール元首相も、こう書き残している。『ある国が平和であるためには、他国の平
和もまた保障されねばならない。この狭い、相互に結合した世界にあっては、戦争も、自由も、
平和も、すべてたがいに連動している』(「一つの世界をめざして」)と。

 日本には最初から、そういう視点が欠けていた。おかしな民族主義にかられ、「大和民族こ
そ、世界で最高の民族である」という妄想をもってしまった。そしてことあるごとに、武力でもっ
て、相手の国への侵略を繰りかえしていった。

 いろいろな意見はあるだろう。異論、反論もあるだろう。しかし、あの戦争は、明らかにまちが
っていた。大義名分すら、なかった。

なお今度の安倍総理大臣は、A級戦犯の戦争責任について、こう述べている。

 「わが国はかつて、植民地支配と侵略で、アジア諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた」
と述べた上で、「戦争の主体はさまざまな議論があり、政府として具体的に断定することは妥
当ではない」(10月2日、衆議院本会議にて)と。

 暗い話がつづいたが、1947年の11月3日に、新憲法が公布される。記録によれば、その
式典は、質素なものであったという。明治憲法が発布されたときのような、ぎょうぎょうしい行事
はいっさい行われず、天皇は、菊の花束のみが飾られた、杉葉ぶきのアーチという式台の上
で、深々と頭をさげたという。

 1946年。もうすぐ私は、母の胎内で、命を授かることになる。あと、少し。暗い暗い、何もな
い、闇の世界で……。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●すぐれた人

++++++++++++++++++

人間にも、優劣がある。

賢い人からは、愚かな人が、よくわかる。
しかし愚かな人からは、賢い人がわからない。

利口な人からは、バカな人がよくわかる。
しかしバカな人からは、利口な人がわからない。

このばあい、賢い人、利口な人を、すぐれた人という。
愚かな人、バカな人を、劣っている人という。

「バカな人」というのは、バカなことをする人のことをいう。
頭のことではない。

++++++++++++++++++

 あえて言おう。人間にも優劣がある。すぐれた人もいれば、そうでない人もいる。

 たとえば賢い人からは、愚かな人が、よくわかる。しかし愚かな人からは、賢い人がわからな
い。

利口な人からは、バカな人がよくわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない。

このばあい、賢い人、利口な人を、すぐれた人という。愚かな人、バカな人を、劣っている人と
いう。

 ほかにもある。

 他人の苦しみや悲しみのわかる人を、慈悲深い人という。心の暖かい人という。しかし心の
冷たい人には、慈悲深い人がわからない。心の暖かい人が、わからない。心の暖かい人を、
すぐれた人という。心の冷たい人を、劣っている人という。

 友だちの多い人を、心の豊かな人という。友だちの少ない人を、心のさみしい人という。友だ
ちの多い人からは、少ない人がよくわかる。しかし友だちの少ない人からは、多い人がわから
ない。友だちの多い人を、すぐれた人という。少ない人を、劣っている人という。

 こうして人間には、優劣の(差)ができる。つまり、人間的にすぐれた人からは、劣っている人
がよくわかる。しかし劣っている人からは、すぐれた人がわからない。それはちょうど、山登りに
似ている。

 「低い」と思って登ってみても、そんな山でも、登ってみると、意外と視野が広いのに驚くことが
ある。遠くの町や、海が見えることもある。そして山の上から、こう思う。

 「山って、登ってみるものだなア」と。つまり山というのは、登ってみるまで、その(高さ)がわか
らない。しかし登ってみると、それまで自分がいた世界が、すごく小さく、狭かったことに気づく。

 同じようなことが、子育てについても、言える。

 できのよい子どもをもっている親からは、ドラ息子、ドラ娘というのが、どういうものかがよくわ
かる。しかしドラ息子やドラ娘をもっている親からは、できのよい子どもがわからない。そういう
子どもでも、ふつうの子どもと思ってしまう。

 ただここで注意しなければならないことは、地位や立場、名誉や貧富の(差)では、人間の優
劣は決まらないということ。ここでいう(優劣)というのは、あくまでも、(心)の問題である。

 むしろ、地位や立場、名誉や貧富の(差)で、優越感を覚えている人には、ここでいう、劣って
いる人が多い。「私は金持ちだ」「私は地位が高い」と。こういう人たちは、それだけ、世俗的な
常識に毒されているということになる。もちろん、人間的にすぐれた人が、それなりの名誉や立
場、名誉や富みを得ることはあるが……。しかしそれはあくまでも、結果。結果として、そういっ
たものは、あとからついてくる。

 さらにこういうことも言える。

 世俗的な常識に毒されている人ほど、回り道をすることになる。人生も長ければ、回り道も、
それなりに許される。しかし人生は、短い。回り道をしているヒマなど、どこにもない。しかも一
度回り道をすると、もとの道にもどるのに、たいへんなエネルギーを必要とする。つまりその分
だけ、時間もかかる。

 わかりやすい例で考えてみよう。

 ここに一人のインチキ高利貸しがいる。電柱に電話番号を張りつけて、お金を借りにくる人を
待っている。そういう人にとっては、お金で困っている人は、カモということになる。そのお金で
困っている人から、さらにお金をまきあげる。

 こういう人は、それなりの財産(?)をつくるかもしれない。しかしその人は、その一方で、もっ
と大切なものをなくす。一度汚れた心をもとにもどすのは、不可能とは言わないが、たいへんな
ことである。先にも書いたように、人生が長ければ、それも可能かもしれないが、人生は、短
い。

 私は、それを、「時間のムダ」と呼んでいる。

 ……ということで、人間の優劣を、こと心の問題として考えることは、まちがってはいない。さ
らにその優劣がわかるようになると、愚かな人やバカな人を、相手にしなくなる。さらにその優
劣がわかるようになると、あわれみすら覚えるようになる。

 ……とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、ゴメン! 自分で読みかえしても、顔が赤くな
るほどだが、これは私自身の努力目標でもある。私自身は、いまだにその愚かな人たちや、
バカな人たちの世界で、右往左往している。何とかそういう世界から抜け出たいと思っている
が、どうもうまくいかない。ふと気がつくと、世俗的な常識の中で、ああでもない、こうでもない
と、もがいている。

 そうそう、こういうエッセーを、恩師の田丸先生に送ると、いつも先生は、「ごちそうさま」と返
事を書いてくる。だから、こういうエッセーは、先生には、送らない。

 ただ一度、先生に、「どうすればいいですか?」と聞いたことがある。「どうすれば、自分をより
高い立場に置くことができますか?」と。すると先生は、こう教えてくれた。

 「すぐれた人に会いなさい」と。

 「ウ〜ン」と思っただけで、私は、それについては、返事ができなかった。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

●1949年

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今朝、Eマガの読者が、1949人に
なった。

それにかこつけて、1949年のこと。
私が、満2歳のときの年である。

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 私は幼児のころ、ときどき、こんな不思議な夢を見た。「幼児のころ」というのは、そのときま
で、繰りかえし見た夢という意味である。だからこそ、よけいに、その夢のことをよく覚えてい
る。

 夢の中は、薄暗い。その薄暗い世界で、長いヒモでつながれた、大きな鐘がゆれる。その鐘
が、ゆっくりと、向こうから手前に、そして手前から向こうにゆれる。

 鐘は、教会の鐘のようでもあるが、同時に、寺の鐘のようなものである。それがゆっくりと、ま
るでスローモーションの映画でも見ているかのように、ゆれる。

ヒモの上の部分は見えない。下のほうは、深い……というより、底なしの世界のようでもある。
薄暗いまま、どこまでもつづいている。

 夢としては、たわいもない夢だが、私は、そんな夢をよく見た。理由は、わからない。どこかで
そういう鐘を見たという記憶もない。

 で、私はその夢について、すでに子どものころ、ひょっとしたら、私は生まれたときからその夢
を見ていたのではないかと思うようになった。あるいは、母の胎内にいる間から見ていたので
はないかと思うようになった。

 もちろん母の胎内では、鐘のことはわからないはず。いや、鐘というよりは、何か大きな振り
子のようなものだったかもしれない。それが音もなく、ゆれる。もしそうなら、その振り子という
のは、私自身だったかもしれない。母の胎内でゆれる、私自身だったかもしれない。

 その夢は、私が2歳のときには、見ていたはずである。2歳、つまり1949年である。

 この年、中国では毛沢東が活躍している。GHQの指導で、1ドルが360円に固定される。東
西ドイツが正式に分離されるなどなど。歴史をみるかぎり、この年をもって、東西冷戦時代が
始まったとみてよい。

 明るいニュースとしては、ミュージカル「南太平洋」が、ブロードウェイでロングランを記録する
(5月)。上野動物園にインドのネール首相から、象のインディラが送られる(10月)。湯川秀樹
が、中間子の研究で、ノーベル賞を受賞している(11月)などがある。

 もちろん私は、そのどれひとつも現実には記憶していない。ただ湯川秀樹の名前は、子ども
のころ、耳にタコができるほど、よく聞かされた。

 ほかに……。私がよく覚えていることに、こんなことがある。

 私の寝床に、「く」の字型のつい立が置いてあった。そのつい立には、いろいろな雑誌や絵本
から切り抜いた写真や、絵が張ってあった。私はいつしか、それを見ながら、眠るようになっ
た。

 で、その中の1枚の絵のことを、たいへんよく覚えている。これはずっとあとになって知ったこ
とだが、その絵というのは、チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』という話の一部を
描いた絵だった。

 1人の精霊が、トップハットを片手に、壁の中から体半分を残して、すり抜けてくる絵だった。

 不思議な絵だった。つまり不思議な絵だったからこそ、記憶に残った。あのころの私が、満2
歳ごろの私ではなかったか。記憶はさだかではないが、しかしまったく、ないわけではない。

 たとえば私がおむつを取りかえてもらうシーンなどは、おぼろげながらだが、記憶に残ってい
る。いや、今から思うと、そういうシーンを思い出したのは、私が私の息子たちのおむつを取り
かえていたときのことである。

 ある日、息子たちのおむつを取りかえていたときのこと。「ああ、私もこうしてもらった」という
思いが、そのまま、自分の過去の記憶へとつながった(?)。

 1949年という年は、私にとっては、そういう年だった。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1547)

●K国の核実験宣言

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K国が、核実験をすると、
公式に発表した。

だれにも相手にされなくなると、
悪あがきしてみせる。

「ならず者」の典型的な
行動パターンである。

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 とうとうというか、ついに、K国が、核実験を公式に宣言した。「アメリカの反共和国(反北朝
鮮)孤立圧殺策動が限界点を越えた状況にあって、われわれはこれ以上、傍観しているわけ
にはいかない」(10月3日・K国外務省)というのが、その理由だそうだ。

 アメリカが悪い。だから核実験をするのだ、と。

 とんでもない意見に聞こえるかもしれないが、貧者には貧者の論理(※)というものがある。そ
の日の食べ物に困っている人にしてみれば、腹いっぱい、おいしいものを食べている人を見た
だけで、腹がたつもの。それはわかる。しかしそれを考慮に入れても、K国のこの言い分に
は、(?)マークが、何個も並ぶ。

 が、もし核実験をすれば、それで本当に、K国は、おしまい。おしまいの、おしまい。あとは自
己崩壊するしかない。つまりK国は、現在、そこまで追いつめられている。K国というより、金xx
による独裁政権は、そこまで追いつめられている。

 日本としては、金xx独裁政権を、自己崩壊させるのが、もっとも好ましいシナリオということに
なる。拉致問題も、それで解決する。

 しかし、問題は、韓国。いまだに、「同胞、同胞」と、K国にすりよっている。どこか演歌的? 
どこか浪曲的? あのN大統領は、「北朝鮮の核は一理がある」とさえ言ったことがある。最近
にいたっては、「K国が核実験をしても、戦時作戦統制権の単独行使には影響しない」とまで言
い切っている。「K国が核事件をしても、アメリカ軍は、必要ない」と。

 天下のおバカ大統領である。K国が核兵器をもてば、韓国内の軍隊は、すべて「紙くず」(朝
鮮N報)と化す。にもかかわらず、そういうことが、まるでわかっていない。あるいはそのうち、
「K国をここまで追いこんだのは、アメリカだ。日本だ」と言い出すかもしれない。

 何度も書くが、K国の金xxは、もう(まとも)ではない。はっきり言えば、狂っている。そういう人
間を相手に、まともな議論などしても意味はない。金xxの言動を、いちいち分析しても意味はな
い。真意はどうの、目的はどうのと、論じても意味はない。

 私たち日本人は、そういう前提で、K国問題を考え、K国の核開発問題を考える。K国が自己
崩壊すれば、韓国や中国は困るかもしれない。が、今の段階では、そんなことは日本の知った
ことではない。そういうのを、私たちの世界では、「自業自得」という。

 それにしても、とうとうここまで来たか……というのが、今の私の実感である。
 
【貧者の論理】

 若いころ、オーストラリアの大学で、ある教授が口にした言葉である。名前は忘れたが、その
教授は、『貧困による公害(pollution by Poverty)』という言葉を使った。

 つまり貧者には貧者の論理というものがあり、その論理を忘れて貧者を語ることはできない
というものだった。

 たとえば1人の金持ちと、1人の貧者がいたとする。金持ちは、自分が豊かであることを、見
せつけるともなく、見せつける。そして貧者に向かって、こう言う。「君も、ぼくのようになりたか
ったら、努力しなさい」と。

 金持ちは、貧者に努力の大切さを教えたつもりかもしれないが、貧者は、そうはとらない。貧
者は、やがてその金持ちを、ねたむようになる。そしてこう思うようになる。「お前たちのような
人間がいるから、オレたちは貧しいのだ」と。

 そのよい例が、現在のK国である。

 情報が遮断(しゃだん)されていることもあるが、K国の人たちは、だれも、自分たちの指導者
がまちがっているとは思っていない。とくに金xxを取りまく人たちは、そうである。

 西側の豊かさを見聞きするたびに、それをうらやましいと思う前に、「西側が、オレたちの発
展をじゃまするから、オレたちは貧しいのだ」となる。豊かな生活といっても、その実感そのも
のがない。

 そのため貧者は、貧者であるがゆえに、屈折したものの考え方をする。そしてそのため、貧
者の世界では、勝者の論理は、ことごとく否定される。「核兵器を拡散させたら、世界はたいへ
んなことになる」と説くのは、勝者の論理である。貧者は貧者で、別の論理で考える。そしてこう
言う。

 「自分たちは核兵器をもっていて、何てことを言うのだ!」と。「第三世界」という言葉も、そう
いう過程で生まれた。

 こうして勝者と貧者は、あらゆる場面で、ことごとく対立する。おおざっぱに言えば、それがア
メリカ流民主主義が、その世界でしか通用しないという理由でもある。さらにおおざっぱに言え
ば、西側の経済論理が、その世界でしか通用しないという理由でもある。

 こうした貧者の論理にメスを入れ、それを解き明かそうとする努力も、いろいろな場面でなさ
れている。が、そのどれも結局は中途半端で終わってしまうのは、いつも勝者が勝者の立場
で、貧者を論ずるからではないのか。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1548)

●今朝、あれこれ

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ここ数日間は、FLASHに没頭した。
FLASHというのは、HPなどでときどき
見かける、あの動画をいう。

パッパッと写真や絵が動いて、文字が現れたり、
消えたりする。

あれが、あのFLASHである。

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 ここ数日間は、FLASHに没頭した。ご存知の方も多いと思うが、FLASHというのは、HP(ホ
ームページ)などでよく見かける、あの動画をいう。パッパッと写真が動いて、文字が現れたり、
消えたりする。

 かなり以前から、そのFLASHを、私も、自分でも作ってみたいと思っていた。他人の作ったF
LASHを見ながら、「どうすれば、自分もできるだろう」と、よく考えた。が、最初のネックは、ソ
フトの高額さ。L社、I社、M社などから発売されているが、どれも3〜5万円もする。

 が、今度(06年9月)に、A社から、手ごろな廉価(れんか)版が発売になった。ていねいなガ
イドブック付で、1万円弱。「これならできる!」と思って、即、購入。

 で、……というか、悪戦苦闘の結果、何とか私もできるようになった。が、できるようになった
とたん、「なんだ、こんなものだったのか!」と。

ちなみに、試作第1号は、無事、私のHPに載せるまでに、2日間、計、4〜5時間もかかった。
が、2作目からは、10〜20分で、できるようになった。

 こうして私は、FLASHを、マスター(?)した。と、同時に、この2日間、原稿書きは、ほとんど
できなかった。今朝、あわてて、11月1日号のマガジンの発行予約を入れたところ。予定より
遅れること、5日。

今日から、11月3日号の作成にとりかかる。


●騒がしいK国の核実験

 ここ数日、K国の核実験宣言に、世界は揺れに揺れている。「核実験をする」と叫ぶ、K国。
「妥協はない」とがんばる、アメリカ。その間で、オロオロとうろたえる、韓国。

 K国は、K国国内でも、「核実験をする」と報道しているようである。となると、近く、核実験が
行われる公算は、きわめて大きい。K国の革命記念日の10月10日前後になるというのが、
今のところ、おおかたの見方である。

 つまり、K国は、いよいよ終わりの終わりに近づいたということ。

 しかし問題は、そのあとに起こる。こうした独裁国家というのは、静かには崩壊しない。ああで
もない、こうでもないと、悪あがきをする。その(悪あがき)が、日本も含めて、周辺の国々に、
たいへんな迷惑をかける。恐らく、今回も、そうなるだろう。

 日本は日本として、ここはしっかりと手綱を握りなおし、それなりの覚悟をしておこうではない
か。


●失ったアザデガン油田

 K国の核実験宣言に隠れて、あまり目立ったニュースにはなっていないが、日本は、とうとう
イランのアザデガン油田開発の利権を、失ってしまった(10月5日)。

 つい先日は、シベリアにおける油田開発が、暗礁に乗りあげたばかりである。それも考える
と、今回のアザデガン油田の利権を失ったということは、日本の石油戦略にとっては、大打撃
と言ってもよい。戦争にたとえるなら、ミッドウェー海戦(1937年)で、日本機動部隊が、空母4
隻を失ったくらいの損害に匹敵(ひってき)する。

5年後、10年後を考えたばあい、その影響は、はかり知れない。が、それだけではない。

イランは、さっそく、「日本のかわりに、中国か、ロシアに利権を渡す」というようなことを言って
いる。もし中国に開発利権が渡るようなことにでもなれば、少なくとも石油戦略においては、(つ
まり石油争奪戦においては)、日本と中国の立場は、ここで逆転することになる。


Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1549)

【ゆがむ、子どもの心】

●子どもの心

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どこかの進学塾に入ったとたん、心がゾッとするほど冷
たくなる子どもというのは、たしかにいる。

10人のうち、3〜4人は、そうではないか。さらにその
うちの1人くらいは、手がつけられなくなるほど、冷たく
なる。

「手がつけられない」というのは、指導の限界を超える
子どもをいう。

自分勝手でわがまま。異常なまでのジコチュー。ものの
考え方がドライ。人間の優劣まで、テストの点数や能力
だけで判断してしまう。

「あいつはバカだ」「こいつはアホだ」と、平気で言いだ
す。

中には、教室へ入ってきたとたん、「ああ、今日は、こ
の教室を学級崩壊させてやる!」と叫んで、一人で、騒
ぎまくる子どもさえいる。

親は、「おかげで、やっと気構えができました」と喜ん
でいるが、とんでもない、誤解!

小学校の4〜6年という、まさに心ができるその時期に、
こういう経験をする子どもは、不幸である。

いつになったら、親や社会や、そして進学塾の自称、
教育者たちは、それに気がつくのか?

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 少し前、Yさんという方から、メールをもらった(あとに添付)。それについて、私の掲示板のほ
うに、こんな書き込みがあった(10月6日)。

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●中学受験の塾  

biglobe配信の「子育て最前線の育児論byはやし浩司」を、拝読しております。
「06年10月2日(No786)」を拝読し、思わず共感してしまい、投稿させて頂きました。

中学受験について、Yさんのメールが載っていましたが、将に、「同感!」
です。

子供は、小4男子ですが、今年から、塾に行き始めました。
たまたま、同級生が3年生から通っていたので、"一緒に"という気軽なつもりで、大手進学塾
にしました。

私の塾に対する調査不足だったのですが、入ってみて、勉強の進度、宿題の量、毎回のテス
ト、など、スゴイものでした。

私自身が中学受験経験者なので、自分のころと比較してしまい、"ここまでやらないと、今の中
学受験は受からないのか?!"と、非常に驚きました。

こんな状況を3年間も続けるのか?と、ビックリしながら、テストの成績が悪くて落ち込む子供
のため、分からない問題を説明し、宿題を一緒に見てあげたり。。。の日々を数ヶ月過ごしまし
た。

その成果が出たのか、毎回のテストが、60〜70点くらい取れるようにはなったのですが、子
供の様子が変になり始めました。

その1:チック症状(目の異常なまばたき)
その2:勉強の拒否、
が現れました。

勉強の拒否については、毎日やるテキスト(算数の小問形式10題)でがあるのですが、「やり
なさい」というと、数時間(2時間近くでも)、机の前に座ったまま、鉛筆も持たず、黙ってジッとし
ているのです。

その時は、数時間も粘る根性に、スゴイと思うやら、あきれるやら、怒りをおぼえるやら。。。い
ろいろでした。

このままでは、受験というより、勉強そのものが嫌いになって、問題だ!
人間は、いくつになっても勉強して、自分を成長させるものだというのが持論(私自身も、まだ
まだ勉強中)なもので・・・。

さらに、人間性が崩壊する!と感じ、受験を止めようと決心しました。

が、本人と話をしてみると、近所の中学ではなく、知人のお兄ちゃんが行っている私立校に行
きたいとのこと。。。
本人が、そう言うのであれば、と、いろいろ探しました。

じっくり探せば、ちゃんとありました。

小さな個人塾ですが、先生とお話をして、私が通っていた塾に近い雰囲気があり、"ここなら"と
思い、行き始めました。

大手塾と違い、スケジュール通りに進まなかったり、たまには、授業の半分くらい雑談で終わっ
たりしているようですが、ダジャレで、地名を覚えさせようなど、先生の工夫が感じられ、変えて
よかったと思っています。

大手塾と違い、先生の目も行き届き、落ち着いてきました。成績順でのクラス替えが無いた
め、クラスメートとも仲が良いといった感じです。

受験にクラスメートと仲が良い必要は無いという意見もあるかもしれませんが、塾に行くのが楽
しい方が、楽しくないより良いと思っています。

時々、行きたくない(塾が嫌というより、単に、遊びたい)という発言は出ますが、それは、子供
ですから。。。

以前行っていた大手塾は、大人でも、会社で、ここまで毎回査定されたら、行きたくなくなるな
ぁ、という感じでした。

まだまだ、5年、6年と先が長いので、今後どうなるか分かりませんが、本人次第と思っていま
す。

Yさんのお子さんのように、自主性が付いてくれれば嬉しいのですが、「他人に負けたくない」で
はなく、「自分に負けたくない」の精神で、勉強(その他、何事にもですが)に臨んで欲しいもの
です。

つい感想を述べたくて、長々と書いてしまい、お忙しいところ、すみませんでした。

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【Yさんからのメール】

以前、いただいたYさんからのメールを、
そのまま掲載します。
(マガジン、06年10月2日号より)

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【Yさんより】

こんにちは。
今朝は、涼しかったですね。
秋の虫たちの声が心地いい朝でした。

先日は、延長レッスンしていただきありがとうございました。
お礼が遅くなってしまいすみませんでした。

先生の今朝のブログ拝見いたしました。
息子の受験のことでは、迷うことばかりです。

私個人のことですが、今年は子ども会の役を仰せつかり、
この夏休みは、子ども会の運営、夏祭り大会の準備など、
かなりハードでした。

このことが、多分(?)よかったと思う、いや、思いたいのですが、
息子の受験から、私自身かなり関心がそれていたと思います。
いわゆる、「夏休み中、受験勉強に奔走する親」にならなくてすむ状態でした。

よいほうに解釈すれば、本人に任せていました。

そんなとき、同級生の受験生のお母さん二人と、お話しする機会があり
考えさせられることがありました。

●A男君のおかあさん

「うちでは、勉強をしないから、今度から家庭教師もつけることにした。
それでも心配だから、日曜日の午前中は、夫に勉強をみてもらっています」

「学校の宿題もたくさんあって、本当に大変。」

「もう、毎日毎日こんなことで疲れちゃう。下の娘の時も
こんな思いをするのかと思うと、いやになっちゃう」

●B子さんのおかあさん

「今の成績では無理と、進学塾の先生に言われて、ついでに特訓教室に
申しこんできたわ。週2コースと週3コースがあって、週3コース
にしました」

「B子は、もう、どこの学校でもいいって言い出してしまって
困ってるの」

「毎晩、勉強しなさい、いやの、親子げんかばかり」

私は、それを聞いて、言葉を失いました。
「子どもの人生だから、子どもに任せるしかないから〜〜。」
などと、あやふやな受け答えをしながらも、少々焦る自分が、そこにいました。

そこで、このA男さんとB子さんとの会話を、そのまま息子に話してみました。
そして、感想を聞いてみました。

息子「私は、自分でやりたいから。勉強している横で、監視されたり
ぼくの意見も聞かないで夏期講習やら模試やら決められたら、絶対にイヤだ!!」

「自分がどうしなきゃいけないか自分が一番よくわかってるから、
いちいち言われたら、やる気なくすよ。」

「親にそんなことされたら伸びるモンも伸びないよ。
私だったら耐えられない。」

……と、息子は、かなりはっきりとした口調で意見を言いました。

親が考えているよりも、多分子どもは真っ正面から、
受験に立ち向かっているのだと思いました。
そりゃあ、冷静に考えてみれば
子ども自身の方が緊張しているのは当たり前なのですよね。

実際、息子も仲良しのK君に誘われて夏期講習を受けてきました。
息子に聞いてみると、5日間で、かなり中身が、ぎっしりでした。

毎回、テストがありました。ベスト10は名前が張り出されたようです。
1日目、周りの状況にかなり驚いたようで、どこか気おくれしたと言っていました。
しかし、これが2日目、3日目と尻上がりにやる気が出てきて
ベスト10に名前が載るまでになりました。

うれしいことですが、こんなやり方は5日間ぐらいが限界だな。と
正直、思いました。

ですが、発見しました。
自分を発揮できる力がついてきていると、いうことです。

私は、本当に「BWのおかげだな」と思いました。
年が上の子どもたちから学習の姿勢を学び、物事をよく考える力
をつけていただいたことです。
とにかく「前向きにやろう!」という気持ちが、あふれて見えるのです。

「これは、何年もかけて、はやし先生やほかのBWの子どもさんから
学んで培ったことだな」と思いました。
そして、学習させられるという意識ではなく
「自分は今学習すべき時。自分は負けたくない。だからがんばる。」
と、いうことがよく判断できるまでに、成長しているなと思いました。

息子は「ぼくは、やるときはやるんだからねっ!!」 と、
そんなことを言いたげな様子でした。

で、夏休みも終わりに近づく頃こんな会話をしました。

私「夏期講習どうだった?」
息「結構、刺激になったよ。できる人いっぱいいたしね」
私「でも、いつもいつも順番つけられて勉強するのってどう?」
息「まあ、いつもいつもはイヤだね。でも、たまには刺激になっていいかも」
私「あの塾に通っている子は、1年間とか2年間、毎回やってるんだよ」
息「ぼくは、遠慮する。BWがいいよ。なんか安心する」

S中の説明会には約1500人が来ていたそうです。
単純にその半分(半数は保護者)が受験するとしても
かなりなモノです。

親子共々緊張していた帰り道、BWの前を通ったとき
ちょうどはやし先生と出くわしました。

息「ヘンなおやじ。(失礼!)だけど、癒し系だね。
なんか緊張とれたみたい。はっはっはっ。」

と、そんなことを言っていました。

私自身、正直、焦ります。
本当に、これでいいのかな……と。
周りのお母さんの話やら説明会の人数やら
色んな情報が入ってくるたびに焦ります。

でも、何とか踏みとどまることができているのは
やはり、はやし先生のマガジンや、子どもたちへの対応の仕方などの
影響がかなり大きいと思います。

思春期にさしかかり、息子への対応が以前より難しいなあ〜。
と思うこともしばしばです。

そんなときは 「自分が6年生の時はどうだったであろう」と
考えるようにしています。
何だか、もう一度、子ども時代を疑似体験しているような
そんな気持ちになります。

秋は、私のテニスクラブの試合や子どもたちの学校行事も
目白押し、もちろん子ども会の仕事も…。

息子に負けないように私は私の持ち場で精一杯がんばろうと思っています。

また、いろいろとご助言ください。

+++++++++++++++++++++

 進学塾の弊害は、何も、(できる子ども?)たちだけに現れるのではない。当然のことながら、
(できない子ども)たちも、大きくキズつく。自らに、(自分はダメ人間)というレッテルを張ってし
まう子どもも多い。

 成績で順位をつけられ、その順位に従って自分の席が決まる……。今、このあたりの進学塾
では、みな、そうしている。大きな進学塾では、成績によって、さらにAクラス、Bクラスと分けら
れている。BクラスからAクラスにあがる子どもには、大きな励み(?)になるかもしれないが、
それと同じ数の子どもが、もがき、苦しむ。自信をなくす。親に叱られる。

 こういう世界で、数か月も過ごせは、子どもは、どうなるか? 半年とか、1年も過ごせば、ど
うなるか? 

 おそらく、どの子どもも、進学塾の中では、借りてきたネコの子のように、おとなしく静かにし
ているのだろう。しかし私のところでは、様子が、急変する。私を、「テメエ」「コノヤロー」と呼ん
でみたりするようになる。中には、突発的に、力任せに、バッグなどで、私を殴りつけてくる子ど
もさえいる。

 何とかなだめて静かにさせるが、この時期の子どもの心は、ゆがむときには、そこまでゆが
む。

 が、気がつかないのは、親だけ。「やっと受験に対する気構えができました」と喜んでみせる。

 そういう親に対して、私は、何と答えればよいのか。「そうですね」とも言えないし、「そうでは
ありませんよ」とも言えない。

 しかし本当の悲劇は、そのあとにやってくる。

 仮に受験にうまくいっても、一度、砂漠のようになってしまった心は、もとには、もどらない。生
涯にわたって、もどらない。もちろん受験に失敗すれば、その後遺症は、深く、いつまでも残
る。

 あえて告白しよう。

 私の二男は、中学2年生のときに、受験勉強を放棄してしまった。「受験勉強なって、くだらな
い」と。しかしそれに対して、私は返す言葉がなかった。まさに、その通りだからである。

 さらに三男は、学部2位という成績で、横浜のY大に入学しながら、その大学を中退してしま
った。やはり、同じようなことを言った。「Y大へ入ってくるような連中は、みな、おかしい」と。そ
れに対しても、私は返す言葉がなかった。まさに、その通りだからである。

 現在の受験競争の中では、どこかおかしな子どもでないと、勝ち残れないしくみになってい
る。またそういう子どもほど、スイスイと、この受験競争を勝ち抜いていく。まともな思考力をも
った子どもほど、その途中で、どんどんとふるい落とされていく。

 それともあなたが、もし、あなたの学力(能力や知力ではない、学力)に順位がつけられ、そ
れでもって席が決まるような世界に押し込められたら、それに耐えることができるだろうか。つ
まりそういうことが平気でできる子どもでないと、生き残ることができない。

 家畜の訓練でも、そんなバカなことはしないぞ!

 で、現在、多くの研究者たちが、「これではいけない」と考え始めている。つまり入試制度、試
験問題の内容、あり方について、考え始めている。恩師の田丸先生も、その1人である。

 たとえばアメリカでは、成績だけでは、ハーバードやMITのような有名大学には、入れない。
絶対に、入れない。学校長の推薦文が必要である。つまり人間的な面での完成度を、より問題
にしている。

 そういうしくみが完成されるまでには、まだまだ長い道のりがあるが、しかしやがて日本も、そ
うなる。またそうならなければならない。

 このままでは、日本の社会は、ますますゆがんでしまう。おかしくなってしまう。

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もう15年ほど前に書いた原稿ですが、
ここに1作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

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●生意気な子どもたち

子「くだらねエ、授業だな。こんなの、簡単にわかるよ」
私「うるさいから、静かに」
子「うるせえのは、テメエだろうがア」
私「何だ、その言い方は」
子「テメエこそ、うるせえって、言ってんだヨ」
私「勉強したくないなら、外へ出て行け」
子「何で、オレが、出て行かなきゃ、ならんのだヨ。貴様こそ、出て行け。貴様、ちゃんと、金、も
らっているんだろオ!」と。そう言って机を、足で蹴っ飛ばす……。

 中学生や高校生との会話ではない。小学生だ。しかも小学3年生だ。もの知りで、勉強だけ
は、よくできる。彼が通う進学塾でも、1年、飛び級をしているという。

しかしおとなをおとなとも思わない。先生を先生とも思わない。今、こういう子どもが、ふえてい
る。問題は、こういう子どもをどう教えるかではなく、いかにして自分自身の中の怒りをおさえる
か、である。あるいはあなたなら、こういう子どもを、一体、どうするだろうか。

 子どもの前で、学校の批判や、先生の悪口は、タブー。言えば言ったで、あなたの子どもは
先生の指導に従わなくなる。冒頭に書いた子どものケースでも、母親に問題があった。彼が幼
稚園児のとき、彼の問題点を告げようとしたときのことである。その母親は私にこう言った。

「あなたは黙って、息子の勉強だけをみていてくれればいい」と。

つまり「よけいなことは言うな」と。母親自身が、先生を先生とも思っていない。彼女の夫は、あ
る総合病院の医師だった。ほかにも、私はいろいろな経験をした。こんなこともあった。

 教材代金の入った袋を、爪先でポンとはじいて、「おい、あんたのほしいのは、これだろ。取
っておきナ」と。彼は市内でも1番という進学校に通う、高校1年生だった。

あるいは面と向かって私に、「あんたも、こんなくだらネエ仕事、よくやってんネ。私ゃネ、おとな
になったら、あんたより、もう少しマシな仕事をスッカラ」と言った子ども(小6女児)もいた。やは
りクラスでは、1、2を争うほど、勉強がよくできる子どもだった。

 皮肉なことに、子どもは使えば使うほど、苦労がわかる子どもになる。そしてものごしが低くな
り、性格も穏やかになる。しかしこのタイプの子どもは、そういう苦労をほとんどといってよいほ
ど、していない。具体的には、家事の手伝いを、ほとんどしていない。言いかえると、親も勉強
しかさせていない。また勉強だけをみて、子どもを評価している。子ども自身も、「自分は優秀
だ」と、錯覚している。

 こういう子どもがおとなになると、どうなるか……。サンプルにはこと欠かない。日本でエリート
と言われる人は、たいてい、このタイプの人間と思ってよい。官庁にも銀行にも、そして政治家
のなかにも、ゴロゴロしている。都会で受験勉強だけをして、出世した(?)ような人たちだ。見
かけの人間味にだまされてはいけない。いや、ふつうの人はだませても、私たち教育者はだま
せない。彼らは頭がよいから、いかにすれば自分がよい人間に見えるか、また見せることがで
きるか、それだけを毎日、研究している。

 教育にはいろいろな使命があるが、こういう子どもだけは作ってはいけない。日本全体の将
来にはマイナスにこそなれ、プラスになることは、何もない。

++++++++++++++++

もう1作、原稿を添付します。
(中日新聞掲載済み)

過負担、過過信が、子どもの心をゆがめる
こともあるという、その1例として、
読んでください。

++++++++++++++++
●発作的に暴れる子ども

 ある日の午後。1人の母親がやってきて、青ざめた顔で、こう言った。「娘(年中児)が、包丁
を投げつけます! どうしたらよいでしょうか」と。

話を聞くと、どうやら「ピアノのレッスン」というのが、キーワードになっているようだった。母親が
その言葉を口にしただけで、子どもは激変した。「その直前までは、ふだんと変わりないのです
が、私が『ピアノのレッスンをしようね』と言ったとたん、別人のようになって暴れるのです」と。

 典型的なかんしゃく発作による家庭内暴力である。このタイプの子どもは、幼稚園や保育園
などの「外」の世界では、信じられないほど「よい子」を演ずることが多い。柔和でおとなしく、静
かで、その上、従順だ。しかもたいてい繊細な感覚をもっていて、頭も悪くない。ほとんどの先
生は、「ものわかりがよく、すなおなよい子」という評価をくだす。

しかしこの「よい子」というのが、クセ者である。子どもはその「よい子」を演じながら、その分、
大きなストレスを自分の中にため込む。そしてそのストレスが心をゆがめる。つまり表情とは裏
腹に、心はいつも緊張状態にあって、それが何らかの形で刺激されたとき、暴発する。ふつう
の激怒と違うのは、子ども自身の人格が変わってしまったかのようになること。瞬間的にそうな
る。表情も、冷たく、すごみのある顔つきになる。

 ついでながら子どもの、そしておとなの人格というのは、さまざまな経験や体験、それに苦労
を通して完成される。つまり生まれながらにして、人格者というのはいないし、いわんや幼児で
は、さらにいない。もしあなたが、どこかの幼児を見て、「よくできた子」という印象を受けたら、
それは仮面と思って、まずまちがいない。つまり表面的な様子には、だまされないこと。

 ふつう情緒の安定している子どもは、外の世界でも、また家の中の世界でも、同じような様子
を見せる。言いかえると、もし外の世界と家の中の世界と、子どもが別人のようであると感じた
ら、その子どもの情緒には、どこか問題があると思ってよい。

あるいは子どもの情緒は、子どもが肉体的に疲れていると思われるときを見て、判断する。運
動会のあとでも、いつもと変わりないというのであれば、情緒の安定した子どもとみる。不安定
な子どもはそういうとき、ぐずったり、神経質になったりする。

 なお私はその母親には、こうアドバイスした。「カルシウムやマグネシウム分の多い食生活に
こころがけながら、スキンシップを大切にすること。次に、これ以上、症状をこじらせないよう
に、家ではおさえつけないこと。暴れたら、『ああ、この子は外の世界では、がんばっているの
だ』と思いなおして、温かく包んであげること。叱ったり、怒ったりしないで、言うべきことは冷静
に言いながらも、その範囲にとどめること。

このタイプの子どもは、スレスレのところまではしますが、しかし一線をこえて、あなたに危害を
加えるようなことはしません。暴れたからといって、あわてないこと。ピアノのレッスンについて
は、もちろん、もう何も言ってはいけません」と。

+++++++++++++++++++++

 ここに書いた、(生意気な子ども)については、よく覚えている。名前をX君といった。で、この
事件があった直後、母親を、教室へ呼んで、話をしようとした。とたん、その母親は、怒ってしま
った。怒ったというより、不機嫌な顔をして、私をずっとにらんでいた。

 「あんたごときに、偉そうなことを言われる筋合いではない」といった雰囲気だった。

 で、そのあと、何の連絡もないまま、X君は、そのまま私の教室をやめてしまった。

 そのあとの消息は、聞いていない。

 またここに書いた、(包丁を投げつけた子ども)は、そのあとも、数年、私の教室に通ってくれ
た。名前を、Zさんと言った。そのZさんについてもう1作書いた原稿がある。それを紹介する。
この話の中に出てくる、(娘)というのは、そのZさんのことをいう。

 今回の話とは、直接関係ないが、何かの参考になれば、うれしい。

++++++++++++++++++++++

●親の心は、子の心

 親子の密着度が高ければ高いほど、親の心は、子の心。以心伝心という言葉があるが、親
子のばあいは、それ以上。子どもは親の話し方はもちろんのこと、しぐさ、ものの考え方、感じ
方、価値観すべてを受けつぐ。以前、こんな相談があった。

 「自分の娘(年長児)がこわくてなりません」と、その母親は言った。「娘は、私は思っているこ
とを、そのまま口にしてしまいます。私が義理の親のことを、『汚い』と思っていると、親に向か
って、娘が『あんたは汚い』と言う。ふいの客に、『迷惑だ』と思っていると、その客に向かって、
娘が『あんたは迷惑』と言うなど。どうしたらいいでしょうか」と。

 私は「そういう関係を利用して、あなたの子どもをすばらしい子どもにすることもできます」と言
った。「あなたがすばらしい親になれば、いいのです」とも。

 こういう例は少ないにしても、親子には、そういう面がいつもついてまわる。あなたという人に
しても、あなたの親の影響を大きく受けている。「私は私」と思っている人でも、そうだ。特別の
経験がないかぎり、あなたも一生、あなたの親の呪縛(じゅばく)から逃れることはできない。

言いかえると、あなたの責任は、大きい。あなたは親の代から受け継いだもののうち、よいも
のと悪いものをまず、より分ける。そしてよいものだけを、子どもの代に伝えながら、一方で、
自分自身も、新しく、よいものをつくりあげる。そしてそれを子どもに伝えていく。……というよ
り、あえて伝える必要はない。

あなたの生きザマはそのまま、放っておいても、あなたの子どもの生きザマになる。親子という
のは、そういうもの。だから子育てというのは、まさに自分との戦いと

いうことになる。


【Yさんからの追伸】

+++++++++++++++++

以上の原稿をYさんに送りましたら、
さっそくYさんから返事が届きました。

紹介させてもらいます。

+++++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

はやし先生


おはようございます。
また、雨ですね。
明後日は、私のテニスの地区大会。
明明後日は、幼稚園の運動会。
休日ですが、忙しくなりそうです。


メールありがとうございました。
みなさん同じ場所で同じように悩んでおられるのですね。
元気が出てきます。


最近の娘のクラスの出来事です。
今月末に野外訓練が予定されています。
それに伴って、部屋決め・グループ決め、仕事分担など
人間関係にかかわるたくさんの決定事項があったようです。


クラスの中で、以前から少々浮いている状態のA子さんという子がいました。
ここ数日にわたる、A子さんへの風当たりはかなり激しかったようです。
主張するタイプの子数名が、「A子はくさい」だの「キモイ」だの
「一緒の部屋になるなんて死んでもイヤだ。」だの……。
容赦ない言葉の攻撃があったようです。


娘は、クラスの中では特にリーダー的な存在ではありませんが
自分の許容に大幅に外れることがある時にはそれを許すことができません。
だからといって、自分の考えを皆の前で主張することもできないので
この、よくないクラスの流れを「どうしたらいいだろう…。」と
毎日のように悩んでいました。


A子さんへのあまりにもひどい攻撃を見つけたときには
後から、そっと「今の、大丈夫だった?」と何度か
言ってあげていたようです。


娘 「でも、A子さん何にも言ってくれないんだよね。悪口言われても
   そんなにイヤではないのかな…。」

私 「そんなにあからさまに悪口言われたら誰だってイヤだと思うよ。
   あなたにそっと優しい言葉かけてもらってすごくうれしいと思っていると
   思うよ。」

娘 「だけどね、あんまりA子さんをかわいそうがるのも私としてはいやなんだ
   よね。 だって、ちょっとA子さんに失礼な気がするし…。」


まあ、こんなような会話をここのところ毎日毎日しています。


娘は、毎年担任の先生から言われる言葉があります。
「リーダー性がつけばもっといいですね。」
「穏やかで友達も多い。友人関係がきわめて良好です。」

上の、2点はいつもの決まり文句のように先生から言われていることです。

私自身が子どもの頃は、児童会活動・クラブ活動等集団があれば
リーダーのような仕事をしていたので、娘のような立場の
子どもがよく理解できなくて、正直物足りないなあ と思って
いました。

でも、娘が高学年になった頃から私の娘に対する考えもかなり変わりました。
この子のいいところは、「友達に対して威圧感を感じさせないところだ。」
と、言うことです。
大事なことです。
「いつも目立って活躍する子と同じくらいあなたは重要なポジションだよ。」
と娘に言ってやります。
「そっと、さりげなく友達を救う。(救う!は大げさかもしれませんが)」
娘から教えてもらったことです。


受験は確かに目の前にある大きな目標でありストレスです。
ですが、学校である日々の出来事や家族との会話や人間関係など
そんな一見つまらなそうで地味に見える優しさの積み重ねこそが
最後には、「豊かな一生。」と思えるような気がします。


でも、はやしせんせい!  実際に受験は避けて通れないモノで
できれば合格してほしい。
そんな考えが先行するときもあります。
だから、焦るのです。不安なのです。
こんな気持ちが交差する日々です。


親が、しっかり地に足つけて「最後の砦」に
ならなければいけませんね。

最近娘は受験に対してこんなことを言います。
娘「私ってのんびりしてるよね〜。
 こんな、楽な生活している受験生いないよね〜。」

・・・・・と、です。

これは、私にとってはうれしい言葉です。
まさに、娘が自分自身を叱咤激励している言葉だと受け取れるからです。
受験も勉強も自分のことだ。さあ! やるぞ!と、思っているのでしょうね。
ですが、本当にの〜〜んびりで、ため息が出てしまいます。(笑)
(これが本音かもしれませんが)



先日見学させていただいたKZさんは上のおねえちゃんが
幼稚園から娘と同級生です。
実は、娘をずっと見ていて「どこかいい塾にでもいっているのかな」と
感じていたそうです。
娘を見て、そう思ってくれるとはうれしいことですね。


さすが、BWです!!!



秋も深まってきましたね。
季節の変わり目、お体には気をつけてくださいませ。




Hiroshi Hayashi+++++++++OCT 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1550)

【ドメスティック・バイオレンス】

++++++++++++++++++++

家庭内暴力、称して、「ドメスティック・バイオレンス」。
略して、「DV」。

「配偶者(たいていは夫)、もしくは、恋人からの暴力」
をいう。

++++++++++++++++++++

●夫婦喧嘩のリズム

 周期的に夫婦喧嘩を繰りかえす人がいる。(私たち夫婦も、そうだが……。)その夫婦喧嘩に
は、一定のリズムがあることがわかる。【安定期】→【緊張期】→【爆発期】→【反省期】というパ
ターンで、繰りかえされる。

【安定期】

 夫婦として、何ごともなく、淡々とすぎていく。朝起きると、夫がそこにいて、妻がそこにいる。
それぞれが自分の持ち場で、自分勝手なことをしている。日々は平穏に過ぎ、昨日のまま、今
日となり、今日のまま、明日となる。

【緊張期】

 たがいの間に、おかしな、不協和音が流れ始める。夫は妻に不満を覚える。妻も、夫に不満
を覚える。忍耐と寛容。それが交互にたがいを襲う。何か物足りない。何かぎこちない。会話を
していても、どこかトゲトゲしい……。ピリピリとした雰囲気になる。

【爆発期】

 ささいなことがきっかけで、どちらか一方が、爆発する。相手の言葉尻をつかまえて、口論に
なったり、言い争いになったりする。それが一気に加速し、爆発する。それまでの鬱積(うっせ
き)した不満が、口をついて出てくる。はげしい口答え。もしくは無視、無言。

【反省期】

 爆発が一巡すると、やがて、反省期を迎える。自分の愚かさを、たがいにわびたり、謝ったり
する。が、それも終わると、今度は反対に、相手に、いとおしさを覚えたりする。たがいに安定
期より、深い愛情を感ずることもある。心はどこか落ち着かないが、「これでいいのだ」と、たが
いに納得する。

 これが夫婦喧嘩のリズムだが、そのうちの【爆発期】に、どのような様相を示すかで、それが
ただ単なる夫婦喧嘩で終わるのか、DV(ドメスティック・バイオレンス)になるかが、決まる。

●ドメスティック・バイオレンス

 東京都生活文化局の調査によれば、

   精神的暴力を(夫から)受けたことがある人……55・9%
   身体的暴力を(夫から)受けたことがある人……33%、ということだそうだ。
 (1997年、女性からの有効回答者数、1553人の調査結果)

 DVの特徴は、大きくわけて、つぎの2つがあるとされる(渋谷昌三・心理学用語)。

(1)非挑発性……ふつうならば攻撃性を誘発することのないことに対して、攻撃性を感ずるこ
と(同書)。
(2)非機能性……攻撃しても、何の問題解決にもならないこと(同書)と。

 わかりやすく言うと、DVが、ふつうの夫婦喧嘩と異なる点は、攻撃される側にしてみれば、夫
が、どうして急に激怒するか、その理由さえわからないということ。またそうして夫が激怒したか
らといって、問題は何も解決しないということ。もともと、何か具体的な問題があって、夫が激怒
するわけではないからである。

 ではなぜ、夫は、理由もなく(?)、急激に暴力行為におよぶのか。

 私は、その根底に、夫側に自己嫌悪感があるからではないかとみている。つまり妻側に何か
問題があるから、夫が暴力をふるうというよりは、夫側が、はげしい自己嫌悪におちいり、その
自己嫌悪感を攻撃的に解消しようとして、夫は、妻に対して、暴力行為におよぶ。(もちろんそ
の逆、つまり妻が夫に暴力をふるうケースもあるが……。)

 ただ暴力といっても、身体的暴力にかぎらない。心理的暴力、経済的暴力、性的暴力、子ど
もを利用した暴力、強要・脅迫・威嚇、否認、責任転嫁、社会的隔離などもある(かながわ女性
センター)。

 アメリカの臨床心理学者のウォーカーは、妻に暴力をふるう夫の特徴として、つぎの4つをあ
げている(同書)。

(1)自己評価が低い
(2)男性至上主義者である
(3)病的なほど嫉妬深い
(4)自分のストレス解消のため、妻を虐待する、と。

 これら4つを総合すると、(夫の自己嫌悪)→(自己管理能力の欠落)→(暴力)という構図が
浮かびあがってくる。

 実は私も、ときどき、はげしい自己嫌悪におちいるときがある。自分がいやになる。自分のし
ていることが、たまらなくつまらなく思えてくる。ウォーカーがいうところの、「自己評価」が、限り
なく低くなる。

 そういうとき、その嫌悪感を代償的に解消しようとする力が、働く。俗にいう『八つ当たり』であ
る。その八つ当たりが、一番身近にいる、妻に向く。それがDVということになる。

 が、それだけではない。その瞬間、自分自身の問題をタナにあげて、妻側に完ぺき性を求め
ることもある。自分に対する、絶対的な忠誠と徹底的な服従性。それを求めきれないと知り、あ
るいはそれを求めるため、妻に対して暴力をふるう。

 こうした暴力行為は、本来なら、その夫自身がもつ自己管理能力によってコントロールされる
ものである。自己管理能力が強い人は、自分を管理しながら、そうした暴力が理不尽なもので
あることを知る。が、それが弱い人や、そうした暴力行為を、日常的な行為として見て育った人
は、そのまま妻に暴力をふるう。

 マザコンタイプの夫ほど妻に暴力をふるいやすいというのは、それだけ、妻に、(女としての
理想像)を求めやすいということがある。

 で、自己管理能力を弱くするものとしては、その人自身の精神的欠陥、情緒的未熟性、ある
いは、慢性化したストレス、精神的疾患などが考えられる。うつ病(もしくはうつ病タイプ)の夫
が、突発的にキレた状態になり、妻に暴力をふるうというケースは、よく知られている。

●対処方法

 妻側の対処方法としては、(あくまでも通常の夫婦喧嘩のワクを超えているばあいだが)、そ
の雰囲気を事前に察したら、

(1)逆らわない
(2)口答えしない
(3)「すみません」「ごめんなさい」と言って逃げる、に尽きる。

 決して口答えしたり、反論したり、言い訳をしてはいけない。夫が心の病気におかされている
と考え、ただひたすら、「すみません」「ごめんなさい」を繰りかえす。この段階で、反論したりす
ると、それが瞬時に、夫側を激怒させ、暴力につながる。

 で、DVも、冒頭に書いたように、4つのパターンを繰りかえしながら起きるとされている。(学
者によっては、【緊張期】→【爆発期】→【反省期】の3相に分けて考える人もいる。)つまりその
緊張期に、どうそれを知り、どう夫をコントロールするかが重要ということ。

 方法としては、気分転換ということになる。要するに、「内」にこもらないということ。サークル
活動をするのもよし、旅行をするのもよし。とくにこのタイプの夫婦は、たがいに見つめあって
はいけない。たがいに前だけを見て、前に進む。

 ただこの世界には、「共依存」(注※)というのもある。暴力を繰りかえす夫。それに耐える
妻。その両者の間に、おかしな共依存関係ができることもある。

 ここでいう【反省期】に、夫が、ふだん以上に妻にやさしくする。一方、やさしくされる妻は、「そ
れが夫の本当の姿」と思いこんでしまう。こうしてますますたがいに、依存しあうようになる。夫
の暴力を、許容してしまうようになる。

 DVは、夫婦という、本来は、何人も割って入れない世界の問題であるだけに、対処のしかた
がむずかしい。今では、DVに対する理解も進み、また各地に、相談窓口もふえてきた。

 この問題だけは、決してひとりでは悩んではいけない。もし夫の暴力が、耐え難いものであれ
ば、そういう相談窓口に相談してみるのもよい。

なおこの日本では、『配偶者からの暴力の防止および被害者の保護に関する法律』も、2001
年度から施行されている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 DV 
ドメスティック・バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力 暴力行為 ドメスティックバイオレンス)


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共依存について書いた原稿を
添付します。

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注※……共依存

依存症にも、いろいろある。よく知られているのが、アルコール依存症や、パチンコ依存症な
ど。

もちろん、人間が人間に依存することもある。さしずめ、私などは、「ワイフ依存症」(?)。

しかしその依存関係が、ふつうでなくなるときがある。それを「共依存」という。典型的な例とし
ては、つぎのようなものがある。

夫は、酒グセが悪く、妻に暴力を振るう。仕事はしない。何かいやなことがあると、妻に怒鳴り
散らす。しかし決定的なところまでは、しない。妻の寛容度の限界をよく知っていて、その寸前
でやめる。(それ以上すれば、本当に、妻は家を出ていってしまう。)

それに、いつも、暴力を振るっているのではない。日ごろは、やさしい夫といった感じ。サービス
精神も旺盛。ときに、「オレも、悪い男だ。お前のようないい女房をもちながら、苦労ばかりかけ
ている」と、謝ったりする。

一方妻は、妻で、「この人は、私なしでは生きていかれない。私は、この人には必要なのだ。だ
からこの人のめんどうをみるのは、私の努め」と、夫の世話をする。

こうして夫は、妻にめんどうをかけることで、依存し、妻は、そういう夫のめんどうをみることで、
依存する。

ある妻は、夫が働かないから、朝早くに家を出る。そして夜、遅く帰ってくる。子どもはいない。
その妻が、毎朝、夫の昼食まで用意して家を出かけるという。そして仕事から帰ってくるとき
は、必ず、夕食の材料を買って帰るという。

それを知った知人が、「そこまでする必要はないわよ」「ほっておきなさいよ」とアドバイスした。
しかしその妻には、聞く耳がなかった。そうすることが、妻の努めと思いこんでいるようなところ
があった。

つまり、その妻は、自分の苦労を、自分でつくっていたことになる。本来なら、夫に、依存性をも
たせないように、少しずつ手を抜くとか、自分でできることは、夫にさせるといったことが必要だ
った。当然、離婚し、独立を考えてもよいような状態だった。

が、もし、夫が、自分で何でもするようになってしまったら……。夫は、自分から離れていってし
まうかもしれない。そんな不安感があった。だから無意識のうちにも、妻は、夫に、依存心をも
たせ、自分の立場を守っていた。

ところで一般論として、乳幼児期に、はげしい夫婦げんかを見て育った子どもは、心に大きな
キズを負うことが知られている。「子どもらしい子ども時代を過ごせなかったということで、アダ
ルト・チェルドレンになる可能性が高くなるという」(松原達哉「臨床心理学」ナツメ社)。

「(夫婦げんかの多い家庭で育った子どもは)、子どもの人格形成に大きな影響を与えます。こ
のような家庭環境で育った子どもは、自分の評価が著しく低い上、見捨てられるのではないか
という不安感が強く、強迫行動や、親と同じような依存症に陥るという特徴があります。

子ども時代の自由を、じゅうぶんに味わえずに成長し、早くおとなのようなものわかりのよさを
見につけてしまい、自分の存在を他者の評価の中に見いだそうとする人を、『アダルト・チェル
ドレン』と呼んでいます」(稲富正治「臨床心理学」日本文芸社)と。

ここでいう共依存の基本には、たがいにおとなになりきれない、アダルト・チェルドレン依存症と
も考えられなくはない。もちろん夫婦喧嘩だけで、アダルト・チェルドレンになるわけではない。
ほかにも、育児拒否、家庭崩壊、親の冷淡、無視、育児放棄などによっても、ここでいうような
症状は現れる。

で、「見捨てられるのではないかという不安感」が強い夫が、なぜ妻に暴力を振るうのか……と
いう疑問をもつ人がいるかもしれない。

理由は、簡単。このタイプの夫は、妻に暴力を振るいながら、妻の自分への忠誠心、犠牲心、
貢献心、服従性を、そのつど、確認しているのである。

一方、妻は妻で、自分が頼られることによって、自分の存在感を、作り出そうとしている。世間
的にも、献身的なすばらしい妻と評価されることが多い。だからますます、夫に依存するように
なる。

こうして、人間どうしが、たがいに依存しあうという関係が生まれる。これが「共依存」であるが、
しかしもちろん、この関係は、夫婦だけにはかぎらない。

親子、兄弟の間でも、生まれやすい。他人との関係においても、生まれやすい。

生活力もなく、遊びつづける親。それを心配して、めんどうをみつづける子ども(娘、息子)。親
子のケースでは、親側が、たくみに子どもの心をあやつるということが多い。わざと、弱々しい
母親を演じてみせるなど。

娘が心配して、実家の母に電話をすると、「心配しなくてもいい。お母さん(=私)は、先週買っ
てきた、イモを食べているから……」と。

その母親は、「心配するな」と言いつつ、その一方で、娘に心配をかけることで、娘に依存して
いたことになる。こういう例は多い。

息子や娘のいる前では、わざとヨロヨロと歩いてみせたり、元気なさそうに、伏せってみせたり
するなど。前にも書いたが、ある女性は、ある日、駅の構内で、友人たちとスタスタと歩いてい
る自分の母親を見て、自分の目を疑ってしまったという。

その前日、実家で母親を訪れると、その女性の母親は、壁につくられた手すりにつかまりなが
ら、今にも倒れそうな様子で歩いていたからである。その同じ母親が、その翌日には、友人た
ちとスタスタと歩いていた!

その女性は、つぎのようなメールをくれた。

「母は、わざと、私に心配をかけさせるために、そういうふうに、歩いていたのですね」と。

いわゆる自立できない親は、そこまでする。「自立」の問題は、何も、子どもだけの問題ではな
い。言いかえると、今の今でも、精神的にも、自立できていない親は、ゴマンといる。決して珍し
くない。

で、その先は……。

今度は息子や娘側の問題ということになるが、依存性の強い親をもつと、たいていは、子ども
自身も、依存性の強い子どもになる。マザコンと呼ばれる子どもが、その一例である。

そのマザコンという言葉を聞くと、たいていの人は、男児、もしくは男性のマザコンを想像する
が、実際には、女児、女性のマザコンもすくなくない。むしろ、女児、女性のマザコンのほうが、
男性のそれより、強烈であることが知られている。

女性どうしであるため、目立たないだけ、ということになる。母と成人した息子がいっしょに風呂
に入れば、話題になるが、母と成人した娘がいっしょに風呂に入っても、それほど、話題には
ならない。

こうして親子の間にも、「共依存」が生まれる。

このつづきは、また別の機会に考えてみたい。
(はやし浩司 共依存 アダルトチェルドレン アダルト チェルドレン 依存性 マザコン 女性
のマザコン 自立 自立できない子供 相互依存 はやし浩司 DV 夫の暴力 ドメスティック
バイオレンス 家庭内暴力 夫の暴力行為 ドメスチック バイオレンス)

+++++++++++++++++++++

DVとは関係ありませんが、
人間関係の複雑さを教えてくれるのが、
つぎの人からのメールです。

参考までに……。

+++++++++++++++++++++

【親子の確執】

************************

現在、東京都F市にお住まいの、NEさんという
方から、親子の問題についてのメールをいただき
ました。

転載を許可していただけましたので、みなさんに
紹介します。

このメールの中でのポイントは、2つあります。

子離れできない、未熟な母親。
家族自我群の束縛に苦しむ娘、です。

旧来型の親意識をもつ、親と、人間的な解放を
求める娘。この両者が、真正面からぶつかって
いるのがわかります。

NEさんの事例は、私たちが、子どもに対して、
どういう親であるべきか、それを示唆しているように
思います。

みなさんといっしょに、NEさんの問題を
考えてみましょう。

***********************

【NEより、はやし浩司へ】

はやし浩司さま

突然のメールで、失礼します。
暑いですが、いかがお過ごしですか?

今回のメールは、悩み相談の形をとってはいますが、ただ単に自分の気持ちを整理するため
に書いているものです。返信を求めているものではないので、どうかご安心ください。

結婚後、三重県S市で生活していた私たち夫婦は、主人が東京都の環境保護検査師採用試
験に合格したこともあり、今春から東京で生活することになりました。実は、そのことをめぐって
私の両親と大衝突しています。

嫁姑問題ならまだしも、実の親子関係でこじれて悩んでいるなんて、当事者以外にはなかなか
理解できない話かもしれません。このような身内の恥は、あまり誰にも相談もできません。人生
経験の浅い同年代の友人ではわからない部分も多いと感じ、人生の先輩である方のご意見を
聞かせていただけたら…(今すぐにということではなく、やはり問題解決に至らなくて、どうにも
ならなくなったときに、いつか…)と思い、メールを出させていただきました。

まずはざっと話させていただきます。

事の発端は、私たち夫婦が東京に住むことになったことです。
表面上は…。

私の実家は、和歌山市にあります。夫の実家は、東京都のH市にあります。東京へ移る前は、
三重県のS市に住んでいました。

けれども、日頃積もり積もった不満が、たまたま今回爆発してしまったというほうが正確なのか
もしれません。

母は、私たちが三重県のS市を離れるとき、こう言いました。

「結婚後しばらくは三重県勤務だが、(私の実家のある)和歌山県の採用試験を受験しなおす
と言っていたではないか。都道府県どうしの検査師の交換制度に申し込んで、三重県から和歌
山県に移るとかして、いつかは和歌山市にくるチャンスがあれば…と、待っていた。それがだ
めでも、三重県なら隣の県で、まあまあ近いからとあきらめて結婚を許した。それが突然、東
京に行くと聞いて驚いた。同居できなくてもいいが、できれば、親元近くにいてほしかった。あな
たに見棄てられたという気分だ」と。

親の不安と孤独を、あらためて痛感させられた一件でした。「いつか和歌山市にくるかもしれな
い」というのは、あくまで両親の希望的観測であり、私たちが約束したことではありません。母も
体が丈夫なほうではないので、確かにその思いは強かったかも知れませんが…。

ですので、いちいち明言化しなくても、娘なら両親の気持ちを察して、親元近くに住むのが当然
だろう、という思いが、母には強かったようです。

しかし、最初からどんな条件をクリアしようと、結婚に賛成だったかといえば疑問です。昔風の
理想像を、娘の私に押しつけるきらいがありました。

たとえ社会的地位や財産のある(彼らの基準でみて)申し分ない結婚相手であっても、相手を
自分たちの理想像に押し込めようとするのをやめない限り、いつかは結局、同様の問題が噴
き出していたと思うのです。

配偶者(夫)に対して、貧乏ゆすりが気に入らないだとか、食べ物の好き嫌いがあるのがイヤ
だなどと…。配偶者(夫)と結婚したのか、親と結婚したのかわからないほど、結婚当初は、親
の顔色をうかがってばかりいました。両親の言い分を尊重しすぎて、つまらぬ夫婦喧嘩に発展
したこともしばしばありました。

いつまでも頑固に、私の夫を「気に入らない!」と、わだかまりを抱えているようでは、近くに住
んでもうまくいくとは思えません。両親にとって、娘という私の結婚は、越えられないハードルだ
ったのかもしれませんね。

結婚後、実家を離れ、三重県で生活していても、「そんな田舎なんかに住んで」とバカにして電
話の一本もくれませんでした。私が妊娠しても「誰が喜ぶと思ってるんだ」という調子。結局、流
産してしまったときも「私が言った(暴言)せいじゃない(←それはそうかもしれませんが、ひどい
ことを言ってしまって謝るという気持ちがみられない)」と。

出産後も頼れるのは、夫の母親、つまり義母だけでした。実の母は「バカなあんたの子どもだ
から、バカにきまってる」「いまは紙おむつなんかあるからバカでも子育てできていいね」などな
ど。なんでそんなことまでいわれなければならないのかと、夢にまでうなされ夜中に叫んで目が
さめたこともしばしば…

そんな調子ですから、結婚後、実家にかえったことも、数えるほどしかありません。行くたびに
面とむかってさらに罵詈雑言を浴びせられ、必要以上に緊張してしまうことの繰り返しです。

このまま三重県生活を続けていてもいいと考えたのですが、子どもが生まれると近くに親兄弟
の誰もいない土地での生活は大変な苦労の連続。私の実家のある和歌山市と、旦那の実家
のある東京のそれぞれに帰省するのも負担で、盆正月からずらして休みをとってやっと帰る…
などをくりかえしていました。そのためお彼岸のお墓参りのときには、何もせずに家にいるだけ
というふうでした。

さらに子どもの将来の進路・進学の選択肢の多さ少なさを比較すると、このまま三重県で暮ら
していていいのだろうかと思い、それで夫婦ではなしあった結果、今回思いきって旦那が東京
を受験しました。ただでさえ少子化の今の時代ですから、近くに義父母や親戚、兄弟が住んで
いる街で、多くの目や手に支えられた環境の中で子育てしていこう!、との結論にいたったの
でした。

このことについて実の母に相談をしませんでした。事後報告だったので、(といっても相談なん
てできるような関係ではなかったですし)、和歌山市の両親を激怒させたことは悪かったとは思
います。しかし、これが発端となり、母や父からも猛攻撃が始まりました。

「親孝行だなんて、東京に遠く離れて、一体何ができるっていうの? 調子いいこと言わない
で!」
「孫は無条件にかわいいだろうなんて、馬鹿にしないで! もう孫の写真なんか送ってこなくて
いいから」
「偽善者ぶって母の日に花なんかよこさないで!」
「言っとくけど東京人なんて世間の嫌われ者だからね」云々…。

電話は怖くて鳴っただけで体のふるえがとまらなくなり、いつ三重までおしかけてこられるかと
恐怖でカーテンをしめきったまま、部屋にとじこもる日々でした。それでも子どもをつれて散歩
にいかなければならないと外出すれば、路上で和歌山の両親の車と同じ車種の車とでくわした
りすると、足がすくんでうごけなくなってしまい、職場にいる主人に助けをもとめて電話する…そ
んな日々がしばらく続きました。

いつしか『親棄て』などと感情的な言葉をあびせかけられ、話が大上段で感情的な応酬になっ
てしまっています。親の気持ちも決して理解できないわけではないのですが…。

ふりかえると、両親も、夫婦仲が悪く、弟も進学・就職で家を離れ、私がまるで一人っ娘状態と
なり、過剰な期待に圧迫されて共依存関係が強まり、「一卵性母娘」関係になりかけた時期が
ありました。

もしかするとその頃から、親子関係にほころびが生じてしまったのかもしれません。こちらの言
い分があっても、パラサイト生活の状態だったので、最後には「上げ膳据え膳の身で、何を生
意気言ってるの!」とピシャリ! 何も反論できませんでした。

親が憎いとか、断絶するとか、そんな気持ちはこちらにはないのです。実の親子なのですか
ら、ケンカしても、必ず関係修復できることはわかっています。でも、うまく距離がとれず、ちょっ
と苦しくなってしまったというだけ。

「おまえは楽なほうに逃げるためにあんな男つれてきて、仕事もやめて田舎にひっこんで結婚
しようとしてるんだ」
「連中はこっちが金持ちだとおもってウハウハしてるんだ」
「人間はいつのまにか染まっていくもの。あんたもあんな汚らしい長家に住んでる人間たちと一
緒になりたければ、出て行けばいい」などなどと、吐かれた暴言は、心にくいとなってつきささ
り、ひどく傷つきました。

結婚に反対され、家をとびだし一人暮らしを始めたのも、「このままの関係ではまずい」と思っ
たことがきっかけでした。ついに一人ではそんな暴言の嵐を消化しきれず、旦那や義父母に泣
いてすがると、私の両親は「お前が何も言わなければ、そんなことあっちには伝わらなかった
のに。余計なことしゃべりやがって。あっちの親ばっかりたてて、自分の親は責めてこきおろし
て…。よくもそんなに人バカにしてくれたね。もう私達の立場はないじゃないか。親が地獄のよ
うな日々おくっているのに、自分だけが幸せになれるなんて思うなよ」と。

そんな我が家の場合、もう一度、適切な親子の距離をとり直すために、もめるだけもめて、こ
れまでの膿を全部出し切っていくという、痛みをともなうプロセスを、避けて通れないようです。

本や雑誌で、家族や親子の問題を扱った記事を目にすると、子ども側だけが一方的に悪いわ
けではないようだと知り安心するものの、それは所詮こじつけではないか?、と堂々巡りに迷
いこみ、訳がわからなくなってしまいます。

娘の幸せに嫉妬してしまう母、愛情が抑圧に転じてしまう親、アダルトチルドレン、心理学用語
でいう「癒着」、育ててもらった恩に縛られすぎて、自分の意思で生きていけない子ども…など
など。そんな事例もあるのだなーと飽くまで参考にする程度ですが、どこかしらあてはまる話に
は、共感させられることも多いです。

世間一般には、「スープの冷めない距離」に住むことが親孝行だとされています。私の母は、
「近所のだれそれさんはちゃんと親近くに住んでいる。いい子だね」という調子で、それにあて
はまらない子は、「ヘンな子ね、いやだわ」で終わり。スープの冷めない距離に住めなかった私
は「親不孝者だ…」と己を責め、自分そのものを肯定できなくなることもあります。

こんな親不孝者には、子育ても人間関係も仕事もうまくいくわけがないのだ。親を棄てて、幸せ
だなんて自己満足で、いつか必ずしっぺ返しをくらって当然だ。父母の理想から外れた人生を
選び、それによってますます彼らを傷つけている私に、存在価値なんてあるのだろうか…など
と。

子どもは24時間待ったなしで愛情もとめてすりよってきますが、東大に入れて外交官にして、お
まけにプロのピアニスト&バイオリニストなどにでもしなければ、子育てを認めないような、かた
よった価値観の両親のものさしを前に、無気力感でいっぱいになってしまいます。よってくる我
が子をたきしめることもできずに、ただただ涙…そんな日々もあります。

実はこの親子関係がらみの問題は、私の弟の問題でもあります。

彼は転職する際、両親と大衝突し、罵詈雑言の矛先が選択そのものにではなく、人格にまで
向けられたことに対して、相当トラウマを感じているようです。(事実、1年近く、実家との一切の
関わりを断ち切った時期もあったほどです)。

結局、転職先は両親の許容範囲におさまり、表層は解決したように見えるのですが、本質的な
信頼の回復には至っていません。子の人生を受け入れることができない両親の狭量さを、彼
はいまだに許していません。

弟は「親は親の人生、子は子の人生。親の期待に子が応えるという、狭い了見から脱して、成
人した子どもとの関係を築こうとしない限り、両親が子どもの生き方にストレスをためる悪循環
からは抜け出せないよ」と、両親を諭そうとした経験があります(もちろん人間そう簡単には変
わりませんが…)。

今回の私の件も、問題の根本は同じであると受け止め、(今後、彼の人生にもあれこれ影響が
出てくるのは必至なので)、「他人事ではない」と味方についてくれました。

まだ人生経験が浅い私には、親が遠距離にいるという事実が、将来的に、今は予想もつかな
いどんな事態を覚悟しておかねばならないのか、具体的なシミュレーションすらできていませ
ん。(せめて今後の参考に…と思い、ある方が書いた、「親と離れて暮らす長男長女のための
本」を借りてきて、眺めたりしています。)

親の不安と孤独を軽減するには、一にも二にも顔を見せることですね。夫の実家に子どもを預
けて、和歌山市にどんどん帰省しようと思います。そういう面では、親戚など誰も頼る人のいな
い三重県S市在住の今よりも、ずっと帰省しやすくなるはずです。あとはお互いの気持ちの問
題です。そう前向きに思うようにはしたいのですが…

人は誰にも遠慮することなく、幸せをつかむ権利があり、そうした自己完結的な充足の中に、
ある面では躊躇を感じる気質も持ち合わせていて、そこに人間の心の美しさがあるのかもしれ
ない…そんなことを言っている人がいました。

私はこれまで両親から受けた恩に限りない感謝を覚えていますし、折に触れてその感謝を形
に表していきたいと思っています。が、今はそんな思いは看過ごされ、けんかばかり。「親棄て」
の感情論のみ先行してしまっていることが残念です。

我が家の親子関係再構築の闘いは、まだまだ続きそうです。でも性急さは何の解決も生み出
しません。まずは悲観的にならず、感情的にならず、静かに思慮深く、自分の子どもにしっかり
愛情注いで過ごしていくしかないと思います。

そして、原因を親にばかりなすりつけるのではなく、これまで育ててもらった愛情に限りない感
謝の気持ちを忘れずに、折々に言葉や態度で示しつつ、前進していかなければ…と思ってい
ます。

理想の親子関係って何でしょうね?
親孝行って何でしょうね?

勝手なおしゃべりで失礼しました。
誰かの助言ですぐに好転する問題ではないので、急ぎの回答など気にしないでください!こう
して打ち明けることで、もう既にカウンセリング効果を得たようなものですから。(と、言っている
間にも、状況はどんどん変わりつつあり、解決しているといいのですが…)

ただ、私が最近思うことは、私の両親の意識改革も必要なのではないかということです。彼ら
の親戚も、数少ない友人もほとんどつきあいのない隣り近所も誰も、彼らのかたよった親意識
にメスを入れることのできる人はいない状況です。

先日は父の還暦祝いに…と、弟と二人でだしあって送った旅行券もうけとってもらえず、ふだん
ご無沙汰している弟が、母の日や父の日にひとことだけ電話をいれたときにも話したくなさそう
に、さも、めんどくさそうに、短く応答してすぐブツリときられてしまったそうです。

彼らはパソコン世代ではありません。親の心に染入るような書物を紹介する読書案内のダイレ
クトメールですとか、講演会のお知らせなどを、(私がしむけているなどとは決してわからないよ
うに)、ある日突然郵送で何度か、繰り返し送っていただくことはできませんでしょうか?

そのハガキに目がとまるかどうかが、彼らが意識を改革できるかどうかの最後のきっかけであ
るような気がしてならないのです。

そういうふうに、相手にかわってくれ!、と望んでいる私の姿勢も無駄なんですよね。

はやしさんのHPにあった親離れの事例などは、うちよりもさらに深刻な実の母親のストーカー
の話でしたから、最近の世の中には増えてきていることなのだろうと思いました。

友達に相談しても、早くから親元はなれてそういう衝突したことのない人からみれば、まったく
わからない話ですし、「あなたを今まで育ててくれたご両親に対する、そういう態度みてあきれ
た」と、去っていった友人もいました。また、あまり親しくない人たちのまえでは、実の親子なん
ですからもちろんうまくいっているかのようにとりつくろわなければならず、非常に疲れます。

時間はかかるでしょうが、両親があきらめてくれるかもしれないきっかけとしては、いろいろや
るべきことがあるようです。たとえば両親の家は、新築したばかりの家ですので、和歌山市に
帰って年老いた両親のかわりに、家の掃除や手入れなどをひきうけること。私が仕事(検査助
手)に復帰し、英検・通検などを取得すること。小さい頃から習い続けてきて途中で放棄された
ままのピアノも、もういちど始めること(和歌山市の実家に置き去りになっているアップライトの
ピアノがある)。母の着物一式をゆずりうけるために気付など着物の知識をしっかり勉強するこ
と。同じく母の花器をつかって玄関先に生けてもはずかしくないくらいのいけばなができるよう
になること。梅干やおせち料理、郷土料理など母から(TVや雑誌などでは学べない)母の味を
しっかり受け継ぐこと…などなどが考えられます。

東京で勤務し続ける弟とは、両親に何かあればひきとる考えでいることを話し合っています(実
際にはかなり難しいでしょうが…)。弟も私が和歌山市に戻り、ここまでこじれても一言子どもの
立場から折れて謝罪すれば、ずいぶん状況が違うだろうといってくれてはいるのですが、ほん
とうに謝る気もないのにくちさきだけ謝ったとしても、いつかは親の枕もとに包丁をもって立って
いた…なんてことにもなりかねません。謝ってしまうと親のねじまがった価値観を認めることに
なりそうでそれは絶対にできません。

万一のときには実家に駆けつけるつもりですが、正直、今の気持ちとしては何があろうと親の
顔も見たくありません。

すみません。長くなりました。

急ぎではありませんので、多くの事例をご覧になってきたはやしさんの立場から何かご意見が
ございましたら、いつかお時間に余裕ができましたときにお聞かせいただければと思いました。

HPでは現在ご多忙中につき、相談おことわり…とありましたのに、それを承知でお便りしてしま
いまして、勢いでまとまらない文章におつきあいくださいましてありがとうございました。

暑さはこれからが本番です。
どうぞお体ご自愛なさってお過ごしください。

現在は東京都F市に住んでいます。 NEより


*****************以上1550作***************※




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児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
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