最前線の子育て論byはやし浩司(3)

最前線の子育て論byはやし浩司
(1200  〜  )
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最前線の子育て論byはやし浩司(1200)

●「人権大会を阻止」

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3月22〜23日、ベルギーで、K国を非難する、
「K国人権大会」が開かれることになった。

それはわかる。

しかしその人権大会を阻止しようと、現在、
韓国では、「大規模な阻止デモ」(朝鮮N報)が、
計画されているという。

まったくもって、????な、計画である。

++++++++++++++++++++++

 3月22日と23日に、ベルギーのブリュッセルで、K国の人権問題を討議するための、「K国
人権国際大会」が開かれる。

 その人権大会を阻止しようと、つまりやめさせようと、現在、韓国内で、「大規模な阻止デモ」
が計画されているという(朝鮮N報)。

 朝鮮N報は、つぎのように伝えている。

 「大学総G生会連合(韓S連)と統一R帯は、14日、『人権を覇権政策の道具として活用する
対北敵対政策が、米国、日本に続き、ヨーロッパ連合にまで拡大している』とし、『韓半島(朝鮮
半島)の平和と自主権を蹂躙(じゅうりん)する、米国の対北敵対政策に強力に抗議する、韓半
島の自主平和統一国際遠征闘争を展開する』とした」(報道文のまま)と。

 つまりK国の人権問題が、アメリカ、日本につづき、ヨーロッパまで拡大し始めている。これら
はアメリカのK国敵視政策によるものである。だから、それに抗議するため、大会を阻止する、
と。

「90人余で組織される予定のこの遠征隊は、20〜25日、ブリュッセル市内の各地やヨーロッ
パ議会などで市街行進、キャンドル集会、写真展を行う計画。1人当たりの参加費用は130万
ウォン。韓S連はホームページで遠征隊30人余を募集している」とも。

 被害妄想も、ここまでくると、どうにも、手がつけられない。「敵視政策」というが、アメリカは、
K国など、もとから相手にしていない。韓国すら、相手にしていない。相手にしていないことは、
アメリカの大地に立ってみると、わかる。

 むしろ「相手にしてくれ」「相手にしてくれ」と、悪あがきをしているのは、K国のほうではないの
か? この日本だって、相手にしたくない。しかしそのつど、やっかいな無理難題をふっかけて
きては、日本にちょっかいを出してくる。

 が、それにしても、「阻止デモ」とは?

 昨年、日本の国連の安保理事加入問題では、韓国政府は、各国に特使まで送りこんで、日
本の加入を阻止した。もちろんそうした報道は、韓国内では、いっさい、なされていない。日本
でも知る人は少ない。

 一方、今度、韓国の外務大臣が、国連の事務総長に立候補した。それについて、韓国のメ
ディア(新聞)は、「日本は、国連の場で、賛成の意思を表示しなかった」と、自分たちがしてき
たことを棚にあげて、日本を非難している。

 それぞれの国が、それぞれの国の立場で、何をしようと、それは、それぞれの国の勝手。し
かし今回の、阻止デモには、あきれた。驚いた。こうまで韓国という国が、K国寄りになっている
とは、私も知らなかった。朝鮮N報の報道によれば、K国が今のように人権問題を引き起こすよ
うになったのには、理由があるというのである。しかもその理由は、アメリカが作ったもの。デモ
隊は、それを説明するために、ベルギーへ行く、と。

 フ〜ンと思ってみたり、ヘ〜エと思ってみたり……。

 この記事を読んでいるとき、私は、あのM号(新潟とK国を結ぶ、定期船)を思い出していた。

 一度、その船の中の様子が、テレビで紹介されたことがあるが、その中で、在日朝鮮人の女
子学生たちが、食後、「♪……崩壊する……崩壊する」と、笑いながら歌っていたのを覚えてい
る。もちろん彼女たちが歌う「崩壊する」というのは、この日本のことである。

 何を歌おうと、それは彼女たちの自由だが、しかし問題は、なぜこうまで、彼女たちに敵意を
もたせてしまったかということ。今では在日朝鮮人といっても、3世、4世の時代になっている。
その3世、4世の若い女子学生たちが、日本の崩壊を楽しみにしている(?)。つまりそこに、こ
の問題の、根深さがある。複雑さがある。

 私はその光景を見たとき、「私なら、そんな国、つまり日本には住まないだろう」と思った。崩
壊するのを楽しみにしながら、その国に住むと言いうのも、さぞかし、つらいことだろう、と。しか
しこうした屈折したものの考え方は、(あくまでも日本人の私がそう感ずるだけだが)、どこか
「阻止デモ」を組織する人たちの考え方と共通している。

 どうして今、阻止デモなのか? K国の人たちがそれをするなら、まだ話もわかる。しかしな
ぜ韓国の人たちが、それをするのか。私には、どうしても理解できない。

 私がUNESCOの交換学生として、韓国に渡ってから、もう40年近くの年月が流れた。その
40年もの間、韓国は、何も変わっていない。自分で自分を変えようともしていない。いまだに秀
吉の朝鮮出兵をのろい、「朝鮮動乱で日本は、戦後復興をなしとげた」「ベトナム戦争では、韓
国兵の犠牲の上で、金をもうけた」「南北が分断されたのは、日本のせい」と主張している。私
はこうした話を、当時、それこそ耳にタコができるほど、聞かされた。

 ゆいいつ救いなのは、そうした活動を支持している、韓国のN大統領の支持率が、20%台で
あること。与党、U党の支持率が、10%台であること。こうした阻止デモに見られるような、
「?」な動きは、決して、韓国の人たちの心を代弁しているものではないということ。良識ある韓
国の人たちは、おそらく、眉をひそめているにちがいない。

 私は、そちらのほうを信じたい。が、それにしても、「阻止デモ」とは???


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【付記】 

●自己矛盾

 (こうでありたいと思う自分)。しかしそこには、いつも(実際の自分)がいる。この両者が一致
していれば、その人は、静かに落ちつく。が、そうでなければ、そうでない。情緒不安から精神
不安になる人もいる。心理学の世界では、それを「自己概念」「現実自己」という言葉をつかっ
て、説明する。

 わかりやすい例で言えば、夫を殺したいほど憎んでいる妻がいたとする。夫の顔を見るのも
いや。夫のにおいをかぐのもいや。夫の声を聞くのもいや。願うことは、夫の死ばかり……とい
うような状態で、どうしてその妻は、安穏たる日々を送ることができるだろうか?

 もしそれでもいっしょに住んでいるとしたら、その妻は、自己矛盾を起こしてしまう。自己矛盾
から、自己否定に陥ってしまうかもしれない。しかし通常の神経をもっている妻なら、とても耐え
られない。

 日本の崩壊を一方で楽しみにしながら、どうしてその日本で、生活することができるのだろう
か。私には、どうしても、理解できない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●健康診断

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健康は、運動をつづけるという
習慣によってもたらされる。

しかし、同時に、「だからどうなの?」と
いう部分のない健康論は、意味がない(?)。

健康診断を受けながら、そんなことを
考えた。

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 年に1回の健康診断の日。とくに悪いところはない。このところ食事もおいしい。体の調子も
悪くない。左肩の腱を痛めてから、左腕を思うように動かせないが、これはそのうち、なおるだ
ろう。ここ1、2週間、かなり楽になってきた。

 公民館の一室で、自分の順番を待つ。白い陽光が、カーテン越しに、部屋の中に注いでい
る。暖房がじゅうぶんきいた部屋の中は、ここちよい。眠気さえ覚える。

 ところで運動の大切さは、運動をしているものにしか、わからない。運動をしていない人に、
いくら運動の大切さを話しても、わからない。多分、「そういうものか」という程度にしか、耳に残
らないのでは? つまりいくら話しても、左の耳から入って、右の耳に抜けてしまう。

 しかし運動をしているものは、その運動の大切さが、よくわかる。1、2日、運動をサボっただ
けで、とたんに体の調子が悪くなる。その微妙な変化が、自分でもよくわかる。が、運動をしな
い人は、調子が悪くなったままで、それがふつうだと思いこんでしまう。

 漢方では、『流水は腐らず』と教える。英語では、『ころがる石には、苔(こけ)はつかない』と
教える。健康の秘訣は、1に運動、2に運動、3に運動ということになる。が、もっと大切なこと
は、運動する習慣を身につけることである。1か月や2か月、運動をしたからといって、健康に
なるわけではない。1年や2年で、健康になるわけではない。10年単位、20年単位での運動
が、その人を健康にする。

 その健康診断でのこと。私とそれほど年齢がちがわない男性が、私の前にいた。ドクターと
の会話が聞こえてきたが、心筋梗塞を2度もしているとのこと。恐らく軽い脳梗塞のあるのだろ
う。話し方が、それとわかるほど、かったるい。動きも、モタモタしている。そうした(差)が、この
年齢になると、たいへんよくわかる。

 私はその男性のうしろ姿を見ながら、ふとこんなことを考えた。「健康だからといって、だから
それがどうした?」と。とたん、私の中の健康論が、ガラガラと音をたてて崩れていくのを感じ
た。

 健康について、サンスクリットには、こんなことわざがある。

★He who allows his day to pass by without practicing generosity and enjoying life's 
pleasures is like a blacksmith's bellows -- he breathes but does not live. 
修行もせず、人生の楽しみも楽しまず、ただ日々を過ごすものは、鍛冶屋のふいごのようなも
の。ただ生きるために呼吸をしているだけ。

 つまり健康は、健康であることに意味をのせてはじめて、その価値をもつということ。 サンス
クリットでは、ただ生きているだけでは、意味がない、と。

 時として健康であるものは、健康でない人に、優越感を覚えたりする。健康でない人を、愚者
だと思いこんだりする。そしてその返す刀で、自分をすぐれた人物と思い込んだり、賢者だと思
いこんだりする。

 もちろん健康であることは、重要なことだ。が、しかし「だからといってそれがどうしたの?」と
いう部分のない健康論は、それ自体、意味がない。どんな人でも、どんなにがんばっても、や
がてその健康をなくす。要は、時間の問題ということ。

 それはある点で、お金に似ている。お金がなければ、人は不幸になる。しかしお金では幸福
を買うことはできない。またいくらお金をためても、それを何かに生かすことを考えなければ、
巨億の財産も、ただのゴミの山でしかない。

 やがて自分の番号が呼ばれる。「40番さん、どうぞ!」と。私は衣服を脱いで、カゴに入れ、
ベッドの上に横になる。看護士が、手際よく心電図の端子を、体のあちこちに取りつける。ひん
やりとした感触が、体のシンまで届く。

 健康であることは、やはりありがたい。大切なことは、この健康を、どう使うかということ。私の
前にいた男性を思い出しながら、静かに目を閉じた。

【付記】

 調べてみたら、こんな格言もあった。アイルランドのことわざである。

You have only 2 things to worry about, either you are sick or you are healthy, if you are 
healthy, you have nothing to worry about, but if you are sick you have 2 things to worry 
about, you will get well, or you will die, if you get well、 you have nothing to worry about, 
but if you die, you will have 2 things to worry about, you will go up, or you will go down, if 
you go up, there is nothing to worry about, but if you go down, you will be so busy shaking 
hands with old friends you won't have time to worry! 

 あなたが病気だろうが、健康だろが、あなたには2つの心配ごとがある。もしあなたが健康な
ら、何も心配することはない。が、もしあなたが病気なら、2つのことを心配する。病気がなおる
だろうかという心配と、死ぬのではないかという心配。もし病気がなおると、あなたは何も心配
することはない。が、もしあなたが死ねば、2つのことを心配する。天に昇ることができるだろう
かという心配と、地下に落ちていくのではないだろうかという心配。天に昇れば、あなたは何も
心配することはない。が、もし地下に落ちていけば、あなたは古い友たちと握手をするだけで
忙しく、心配する時間などないだろう。

 やはり人は、人とのかかわりをもって、はじめて(生きる)ことを実感できるようだ。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●世界のことわざ、格言

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世界のことわざ、格言を集めてみた。
出典は、イギリスのフリー掲示板。
日本のもあって、おもしろい。

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★Four things come not back -- the spoken word, the sped arrow, the past life, and the 
neglected opportunity. 
4つのものは、帰ってこない。口から出た言葉、放たれた矢、過去の生活、そして、失った機
会。(アラビアのことわざ)

★Free speech is the right to shout 'theater' in a crowded fire. 
言論の自由というのは、火事場の混雑の中で、「これは見ものだ」と叫ぶ権利をいう。(イッピー
の格言)

★When two elephants fight it is the grass that suffers. 
2頭の像が戦えば、草が傷(いた)む。(アフリカのことわざ)

★Until lions have their historians, tales of the hunt shall always glorify the hunter. 
ライオンの世界に歴史家が現れるまで、狩の物語は、常に狩人に栄誉を与えるだろう。(アフリ
カのことわざ)
 
★If the enemy within cannot kill us, then the enemy without can do us no harm 
- African Prove
 内部の敵が、われわれを殺すことができないなら、外部の敵は、害はない。(アラビアのこと
わざ)

★The enemy of my enemy is my friend. 
Fuck it. Let's do it. 
 敵の敵は、私の友。くそくらえ。させたいようにさせとけ。(オーストラリアの格言。)

★Enough is a feast 
 充足こそが、ごちそう。(日本のことわざ)

★If you want happiness for a lifetime - help the next generation. 
 生涯の幸福を願うなら、次の世代を助けろ。(中国の格言)

★…a thousand paths and an infinity of dreams. Hopeful, we are halfway to where we want 
to go hopeless, we are lost forever. 
 1000の道と、無限の夢。希望もなく、行きたいところに半分来たということは、われわれは
道に迷ったということ。(中国のことわざ)

★That the birds of worry and care fly above your head, this you cannot change, but that 
they build nests in your hair, this you can prevent. 
 悩みごとのある鳥は、あなたの頭の上を飛ぶ。それをあなたは変えることはできない。しかし
あなたの髪の毛の中で巣をつくったとき、あなたはそれを防ぐことができる。(中国のことわざ)

★If you stand in one place long enough, the world will come to you. 
 あなたの場所に、長く立てば、世界は、あなたに向かってやってくるだろう。(中国の格言)

★Only after the last tree has been cut down; Only after the last fish has been caught; Only 
after the last river has been poisoned; Only then will you realize that money cannot be 
eaten. 
最後の木が切られたとき、最後の魚が釣られたとき、最後の川が毒されたとき、あなたは、お
金を食べることができないということを悟るだろう。(インドのことわざ)

★Coffee has two virtues: it is wet and warm. 
 コーヒーには2つの美徳がある。ひとつは濡れていること。もうひとつは暖かいこと。(オラン
ダの格言)

★We never know the worth of water till the well is dry. 
 井戸の水がかれるまで、水の価値はわからないもの。(イギリスの格言)

★When spiders unite, they can tie down a lion. 
 蜘蛛も団結すれば、ライオンをしばりあげることもできる。(エチオピアの格言。)

★Love is friendship set on fire. 
 愛は、火がついた友情。(フランスの格言)

★What!  No star, and you are going out to sea? Marching, and you have no music? 
Traveling, and you have no book? What!  No love, and you are going out to live? 
 何だって! 星もなしで、海に出るんだって? 音楽もなしに、行進するんだって? ガイドブ
ックもなしに旅に出るんだって? 何だって! 愛もなしに、生きるんだって? (フランスのこと
わざ)

★The death of a friend is equivalent to the loss of a limb. 
 友の死は、手足をなくすようなもの。(ドイツの格言)

★Man has himself as his only friend and his only enemy. 
人は、ゆいいつの友としての自分と、ゆいいつの敵としての自分をもつ。(インドの格言)

★The frog does not drink up the pond in which it lives 
 カエルは、自分が住む池の水をのみほさないもの。(インドの格言)


★An Irishman is never drunk as long as he can hold onto a blade of grass and not fall off 
the earth. 
 アイルランド人というのは、草をつかんで、地面に倒れるまでは、酒を飲まないもの。(アイル
ランドの格言)

★Dance as if no one's watching, sing as if no one's listening, and live everyday as if it were 
your last. 
 だれも見ていないと思って踊れ。だれも聞いていないと思って歌え。あなたが最後の人だと思
って、生きろ。(アイルランドの格言)

★At the end of the game, The king and the pawn go back in the same box. 
 ゲームの終わりには、王も道化師も、同じ箱にもどる。(イタリアの格言)。

★Not everything which is bad comes to hurt us. 
 悪いものだけが、あなたを傷つけるためにやってくるのではない。(イタリアの格言)
 
★If you stand up like a nail you will get hammered down. 
 釘のように立てば、あなたはハンマーで叩かれる。(日本の格言)

★the reverse side also has a reverse side 
 ものごとの裏には、いつも裏がある。(日本の格言)

★Vision without action is daydream. Action without vision is nightmare. 
 行動のともなわないビジョンは、ただの白日夢。ビジョンのない行動は、ただの悪夢。(日本
のことわざ)

★Fear is only as deep as the mind allows 
 恐れは、心の許すかぎり深い。(日本の格言)

★If God lived on earth, people would break his windows. 
 もし神がこの世にいたならば、人々は、神の家の窓を押し破って入っていくだろう。(ユダヤの
ことわざ)

★Turn your face to the sun and the shadows fall behind you 
 太陽のほうに顔を向けろ。そうすれば、あなたのうしろに影ができる。(マオリのことわざ)

★It is better to live one day as a lion, than a thousand days as a lamb. 
 子ヒツジのように1000日生きるよりも、ライオンのように1日を生きるのが、よい。(ローマの
ことわざ)

★He who doesn't risk never gets to drink champagne. 
 危険をおかさないものは、シャンペーンを飲むことはできない。(ロシアの格言)

★The church is close, but the road is icey. The bar is far, but I will walk carefully. 
 教会は近い。しかし道路は、凍っている。酒場は遠い。しかし私は、注意深く歩く。(ロシアの
格言)

★He who allows his day to pass by without practicing generosity and enjoying life's 
pleasures is like a blacksmith's bellows -- he breathes but does not live. 
修行もせず、人生の楽しみも楽しまず、ただ日々を過ごすものは、鍛冶屋のふいごのようなも
の。ただ生きるために呼吸をしているだけ。(サンスクリットのことわざ)

★They talk of my drinking but never my thirst 
 彼らは、私の飲酒のことを話す。しかし私の渇きについては、話さない。(スコットランドの格
言。)

★Don't speak unless you can improve upon the silence 
 それが沈黙から進歩したものでなければ、話すな。(スペインの格言)

★I don't want the cheese, I just want out of the trap. 
私はチーズがほしいのではない。ワナから抜け出たいだけ。(スペインのことわざ)

★Whoever gossips to you will gossip about you. 
あなたにゴシップを伝える人は、あなたについてのゴシップを流す。(スペインの格言)

★Shared joy is a double joy; shared sorrow is half a sorrow. 
 喜びを分けもつことは、2倍の喜び。悲しみを分けもつことは、半分の悲しみ。(スウェーデン
のことわざ)

★Fear less, hope more; Wine less, breathe more; Talk less, say more; Hate less, love more; 
And all good things are yours. 
 恐れを少なく、希望を多く。酒は少なく、呼吸は多く。おしゃべりは少なく、もっと話す。憎しみ
は少なく、愛を多く。そうすれば、よいことは、あなたのもの。(スウェーデンのことわざ)
(はやし浩司 格言 ことわざ 世界の格言 世界のことわざ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●富士山

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今日、佐鳴湖の西岸にある
富士見橋から、富士山が、
くっきりと、美しく見えた。

こんな日は、年に何回あるだ
ろうか。

家に帰り、カメラをもってくる。
写真をとる。

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 佐鳴湖の西岸に、富士見橋という名前の、橋がある。その名前のとおり、その橋からは、富
士山がよく見える。……ということだが、実際には、富士山が見える日は、そんなにない。とくに
富士山が美しく輝いて見える日は、少ない。年に数回あるかないかという程度ではないか。

 その富士山が、今日は、みごとなほどまでに、くっきりと見えた。美しく見えた。真っ白な富士
山である。私はそれを見て、思わず、声をあげた。ウォーッと。が、そういう日にかぎって、デジ
タルカメラをもっていない。あわてて家にもどり、カメラをもって、再び、富士見橋へ。

 佐鳴湖といっても、その両岸は、丘に囲まれている。だからどこからでも富士山が見えるとい
うわけではない。その富士見橋のところでしか、見えない。ちょうどその橋からだと、対岸の丘
がくびれるようにして、下にさがっている。そのくびれの向こうに、富士山が見える。

 もっとも今は、その富士見橋のそばに、大きな水門ができ、富士見橋からは、直接富士山を
見ることはできない。橋の横の道を通って、水門の向こう側に出なければならない。水門の東
側には、歩道が作ってある。

 私は、その歩道にカメラを構えた。するとすぐ、一人の男性が私に話しかけてきた。「きれい
ですね」と。

 男性の年齢は、65歳くらいだっただろうか。おだやかな顔をした紳士だった。

私「はあ、こんな日は珍しいです」
男「私も、このあたりを毎日のように散歩しているのですが、こんなところから富士山が見れる
なんて、知りませんでした」
私「はあ、あの橋の名前を、富士見橋というんですよ。富士山を見ることができるから、富士見
橋というのですよ」
男「そうですか。もう、このあたりに住んで30年になるというのに、知りませんでした……」と。

 私が三脚にカメラをすえつけ、カメラを構える間中、その男性は、あれこれと話しかけてき
た。以前は、浜松市の東にある、船越町(ふなこしちょう)というところに住んでいたという。その
船越町から、そのあたりのどこかに、30年ほど前に引っ越してきたという。私はその男性にか
まわず、カメラのシャッターを切りつづけた。

 望遠にして、タイマーをセットした。風が強く、カメラが落ちつかない。台風並みの風が、ゴー
ゴーと吹いていた。私のカメラは、P社製の、手ぶれ防止つきのカメラである。その性能を信じ
て、シャッターを切る。バシャ、バシャ、と。

私「ほら、北には、日本アルプスの山々が、あんなに美しく見えますよ」
男「本当だ。これはすばらしい」
私「今日のように、風が強くないと、こうまで、きれいには見えないものです」
男「写真は、焼くのですか?」
私「いえ、このまま私のホームページに載せます」
男「焼かなくても、いいのですか? お金はかかりませんか?」
私「そうです。お金はかかりません。ただですよ。そのままコピーするようにして、載せるのです
から……」と。

 その男性は、感心した様子だった。が、その一方で、どこか恥ずかしそうな表情をしてみせ
た。パソコンのことは、まったく知らないといったふうだった。私は、それにも構わず、シャッター
を切りつづけた。

 その男性は、相変わらず、自分のことを話しつづけた。「八幡中学って、ご存知ですよね。あ
の近くに住んでいたこともあります。あそこからは、子どものころ、富士山がよく見えました」「馬
込川(まごめがわ)の土手に立つとね、そこから富士山がよく見えましたよ。今は、高いビルに
囲まれて、見ることができませんがね……」と。

 私はふと、時間があれば、友だちになれる人だと思った。しかし時間がない。私は、そのまま
仕事に向かう途中だった。そう思ったとたん、ふと、言いようのないさみしさを感じた。

私「これから仕事に行かねばなりません。ゆっくりと話したいのですが、時間がなくてごめんなさ
い」
男「そうでしたか。それは悪かったです。私のほうこそ、あやまらなくてはいけません」
私「失礼します」と。

 私はそそくさとカメラの三脚をたたむと、自転車のカゴにほうり投げた。そしてそのまま自転
車を走らせた。頭の中で、つぎの撮影ポイントを考えていた。

 相変わらず強い風が吹いていた。自転車がそのつど、ヨロヨロと大きく揺れた。と、そのときう
しろを見ると、その男性は、まだその位置にいた。欄干(らんかん)に体を寄せかけて、じっと富
士山の方角を見ていた。

 「どういう人だろう……?」と思った。「毎日、ひとりで散歩をしているのだろうか」とも。が、し
かしそのとき、強い風が足元から吹きあげた。自転車が大きく揺れた。とたん、その男性のこ
とを忘れた。

 ……そして今。このエッセーを書きながら、改めてふと、思う。「あの男性は、どういう人だっ
たのだろう……」と。
(06年3月17日記)


はやし浩司++++++++++++Mar.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●老後

+++++++++++++++++

老後は、突然、やってくるものではない。
少しずつ、少しずつ、夕日が山の端(は)に
隠れるようにやってくる。

それに気づくか、気づかないかは、
その人しだい……。

++++++++++++++++++

 若いころは10年に1度、歯医者に通った。それから少したつと、それが5年に1度となった。
それが今では、3年に1度。今回、歯医者に言ったら、ドクターが、そう言った。「林さん、3年ぶ
りですね」と。

 同じように、齢をとればとるほど、病院へ通う、そのサイクルが短くなる。若いころは、1年に1
回程度だったものが、今では、数か月に1度くらいになった。さらに歳をとると、それが毎週に
なり、毎日になるかもしれない。

 私の近所には、ほとんど毎日、病院へ通っている老人がいる。

 つまり老後は、すべからく、こうしてやってくる。若いころは、からだのどこかの腱を傷(いた)
めても、たいてい、1、2週間でなおった。それが今では、1、2か月とつづく。病気になる回数も
ふえるが、その病気が、長くつづく。

 で、今日、歯医者へ行ったら、待合室に大きなポスターが張ってあった。そこには、「健康長
寿」という言葉が書いてあった。「寝たきり老人になってはいけません」というようなことも、その
下に書いてあった。「健康長寿」。ナルホド、よい言葉だ。老後は老後でも、できるだけ、健康を
維持したままのほうがよい。

 それはわかるが、しかしそれは時間の問題。60歳まで健康でも、70歳で病気になるかもし
れない。70歳まで健康でも、80歳で病気になるかもしれない。80歳まで健康でも、90歳で病
気になるかもしれない。長寿が、ただの延命であってはいけない。意味がない。

 わかりやすく言えば、「健康だからどうなの?」という部分がないまま、長生きしても意味がな
い。健康であるならあるで、その健康を、自分の命としてではなく、人類共通の財産として、み
なに、還元していかねばならない。(少し、大げさかな……?)還元しないまま、長生きをして
も、かえってみなに、迷惑をかけるだけ。そうなる。

 そこでふと、こう思う。「自分が死ぬときは、さりげなく、だれにも知られず、静かに、さらりと死
にたい」と。

 しかしそうはうまくいかない。自分でも、それがよくわかっている。それにそのときにならない
と、それがわからない。死に方にも、いろいろある。突然、死ぬ人もいれば、長い間、がんと闘
いながら死んでいく人もいる。それを決めるのは、運と確率。偶然と必然。それらが混ぜん一
体となって、死に方を決める。

 しかし私は、私の義父ほど、立派な死に方を見せた人を知らない。最後は胃がんだったが、
見舞いにきていたみなの前で、自ら、延命装置を両手ではずして、それで死んでいった。そう
いう死に方もある。

 さてさて、今度は、何年後に歯医者に行くことになるのか? 3年後か、それとも2年後か。そ
う言えば、今日、ドクターが気になることを言った。上の歯の歯石が取れなかったことを言いな
がら、「まあしばらく様子を見てください。この歯とこの歯は、そのうち抜けてくるかもしれませ
ん。それまで、おだいじに」と。

 どこか治療をあきらめたような言い方だった。つまり私を、老人あつかいし始めた? ハハ
ハ。こうして私も、どんどんと老人になっていく。もう一度、ハハハ。


はやし浩司++++++++++++Mar.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●愚か者の脳みそ

++++++++++++++++++++++

A fool's brain digests philosophy into folly, science into superstition, and art into pedantry. 
Hence University education. 
愚か者の脳みそは、哲学を、愚かなものにし、科学を迷信にしてしまう。そして芸術を、学者風
にしたててしまう。大学教育というのは、そんなもの。
(ジョージ・バーナード・ショー)

++++++++++++++++++++++

 かなりきつい評論である。バーナード・ショーは、口の悪い人だったらしい。こうまでものを、ズ
バリと言い切る人は、少ない。バーナード・ショーだからこそできた芸当である。

 このバーナード・ショーの言葉をもじると、こうなる。

 『バラエティ番組は、哲学を、愚かなものにし、科学を迷信にしてしまう。そして芸術を、漫画
にしてしまう』と。

 今夜も、見るつもりはなかったが、それを見てしまった。ひとつのチャンネルでは、東京の新
宿に住む、ある女性占い師を紹介していた。

 もうひとつのチャンネルでは、「時空を超えた……」とか何とかを売り物にしている、ある手品
師の手品を紹介していた。

 まず占い師だが、こうしてテレビは、またまた新しいヒーローをつくりつつある。その番組を見
て、おびただしい数の、若い女性や男性が、彼女のもとに走るようになるだろう。

 もうひとつは、手品師の手品。私が見たとき、たまたま腕の中に入った蝶(ちょう)が、皮膚の
中を移動するというところを紹介していた。私の解釈によれば、薄い、ごく薄い、人工皮膚のよ
うなものが腕に張ってあり、その下を蝶が移動したにすぎない。

 それを見て、ノーブレインな人たちは、どっと歓声をあげていた。占い師にせよ、手品師にせ
よ、彼らに責任はない。問題は、テレビ局。いくら娯楽番組とはいえ、してよいことと、悪いこと
がある。そのあたりの基準というか、自覚がまるでない。

 ああいうのを見て、日本人は、ますます愚かになる。子どもたちは子どもたちで、ああいうの
を見て、それがおとなの世界だと思ってしまう。その前に、どうして日本の教育は、自ら考える
子どもを育てないのか。少し考えれば、そのどれも、すぐインチキとわかるはず。

 はっきり言おう。手相を見たくらいで、その人の人生など、わかるはずもない。人間の皮膚の
下を、蝶が移動するはずもない。本来なら、バカバカしくて見ておれないと考えるのが、ふつう。
その(ふつう)が、この日本では、どこかへ消えてしまっている。

 今、世界がどうなっているか、少しは考えろ。目を開け。今、地球がどうなっているか、少しは
考えろ。目を開け。

 ……と、力(りき)んだところで、この話は、おしまい。こういう評論を書くのも、実は、バカバカ
しい。もう疲れた。どうぞご勝手に!

 
Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1201)

●教育の自由化

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アメリカの教育は、実用的。その基礎を
つくったのが、ジョン・デューイ。

アメリカを代表する、哲学者、兼、教育者である。

++++++++++++++++++++

 アメリカの教育を考えるとき、ジョン・デューイをはずして語ることはできない。1859〜1952
年の人物である。彼は、「哲学と教育は密接に関連性をもつべきだ」と考え、哲学を教育の場
で実践しようとした、最初の教育者であると考えてよい。

 彼は、日常経験を最重要視し、教育もまた、実用的(道具的)であるべきだと主張した。それ
以前、つまりちょうど彼が生まれたころ、アメリカは、法律によって、「実用的なことを教えること
が教育」であると、自らの教育の方向性を定めている(1862年)。その方向性に、デューイ
は、まさに理論的根拠を与え、補強したことになる。そののち、アメリカには、農業、工業など、
実用的な教育を目ざした学校が、無数に設立された。

 どうして教育は、実用的であってはいけないのか?

 一方、この日本では、明治時代までの本山教育が、教育の基礎になっている。「寺子屋」とい
う教育システムそのものが、それを踏襲したものと考えてよい。小僧を教育する本山では、毎
日、一方的な詰めこみ教育が、その柱となっていた。その本山教育に、ドイツ流のアカデミック
教育が混入した。

 それが今にみる、日本の教育の原型と考えてよい。

 が、今、日本の教育は、大きな転換期を迎えつつある。おおざっぱに言えば、アカデミックな
教育から、実用的な教育へと脱皮しつつある。もっとわかりやすく言えば、アメリカ流実用主義
的教育へと、脱皮しつつある。よい例が、英語である。

 日本の英語教育は、将来、英語の文法学者になるためには、すぐれた体系を整えていた。
それもそのはず。もともと日本の英語教育は、その道の学者たちによって組み立てられていた
からである。だから、おもしろくない。だから役にたたない。だいたい、子どもたちの中で、将
来、英語の文法学者になるのは、何%いるのだろうか? そこで今の、小学校における英語
教育が始まった。実用面に重きをおいた、英語教育である。

 数学教育も、理科教育も、同じ。さらに歴史教育も、同じ。暗記につづく、暗記。その方式こそ
が、本山における小僧教育そのものと言ってよい。明けても暮れても、修行という名目の、読
経、写経。

 なぜ私たちが歴史を学ぶかといえば、過去の経験を、未来に生かすためである。年表を暗
記し、登場人物を暗記するような歴史教育に、どんな意味があるというのか。たとえばスペイン
の小学校では、1年をかけて、1つのテーマについて、子どもたちは学ぶという(スペイン在住
の読者より)。その報告を寄せてくれた人の子どもは、1年をかけて、フランス革命について勉
強をしているとのこと。

 こうした教育が、なぜ、この日本では、できないのか?

 デューイは、とことん日常的経験にこだわった。そしてやがて「概念は、道具である」という、
ある意味で、当然とも言えるべき結論に達した。わかりやすく言えば、道具にならない概念に
は、価値がない、と。空理空論だけでは、人は生きてはいかれない。またそういう幻想を、教育
にいだいてはいけない。

 アメリカの中学校では、たとえば中古車を買うというテーマで、数学の授業を始める。そのテ
ーマを通して、金利計算、損得の計算、少数の計算などなどを教える。ついでに小切手の使い
方まで、教える。学んでいることが、そのまま社会に出てからも役立つ内容となっている。

 重要なのは、自ら考える子どもを育てること。知識ではない。自ら考える子どもである。

 日本の教育の最大の欠陥といえば、自ら考える子どもを育てないこと。いまだに明治以来
の、「もの言わぬ従順な民づくり」が、教育の柱になっている。またそのワクから一歩も、抜け
出ていない。むしろこの日本では、考える子どもを、異端視する傾向が強い。そういう子どもを
嫌う傾向すらある。

 何も考えないで、受験勉強だけをしていれば、それでよいのか? またそういう子どもを、優
秀な子どもと言ってよいのか?

 ジョン・デューイ流教育論にも、問題がないわけではない。しかしなぜ今、デューイかと言え
ば、この混沌とした混乱状況を見ればわかる。それもそのはず。旧態依然の教科書教育の上
で、それをねじまげながら、ただ何とかしようともがいている。たとえて言うなら、歌舞伎という
舞台の上だけで、現代映画を作ろうとするようなもの。この方式には、おのずと、無理がある。

 どうしてこの日本は、アジアのほかの国に先がけて、(検定)教科書を撤廃しないのか。

 今は、どう考えても、もう、そういう時代ではない。中央で作った教科書を、地方がありがたく
いただきながら、子どもたちを教育する。そんな時代ではない。日本以外の先進国で、どの国
が、検定教科書など、使っているか? 文科省は、「日本の教科書は、検定であって、中国や
韓国のように国定ではない」という、どこか「?」な答弁を繰りかえしている。検定も、国定も、ど
こもちがわない。

 自由なる教育こそが、日本を発展させる。

 これから先のことはわからないが、しかしなぜ今、アメリカがアメリカであるかといえば、そこ
に自由な教育があったからにほかならない。ホームスクール(日本のフリースクール)をはじめ
として、アメリカでは、学校の設立そのものが、完全に自由化されている。もちろん失敗も多い
という話も伝わってきているが、そのダイナミズムこそが、一方で、アメリカの原動力にもなって
いる。

 ジョン・デューイが、すでに100年前の人と知って、改めて、私は驚く。この100年間の間に、
日本の教育は何を学んだのか。日本の文部省は、何を学んだのか。ほかの省庁が、戦後こぞ
って欧米化を推し進めたのに対して、日本の文部省だけは、あえてそれに背を向けた。なぜ
か? どうしてか? 

 われわれはもう、文科省が心配しているような愚民ではない。
(はやし浩司 デューイ 日本の教育 教育の自由化)

【付記】

 韓国や中国が、日本の教科書にいちゃもんをつけてきたら、日本は、こう言えばよい。「日本
には、もう、そんなものは、ありませんヨ〜」と。「そんなものを使っている国は、全体主義国家
だけだヨ〜。ハハハ」と。

 気持ちいいだろうな。もし、そう言えたら、さぞかし、気持ちいいだろうな。

 それに教科書という名称は、もうやめたらよい。「テキスト」でじゅうぶん。で、オーストラリアに
も、テキストの検定制度というのがあるには、ある。しかしその検定をするのは、純然たる民間
団体。しかも検定するのは、暴力と性についての描写のみ。歴史については、検定してはいけ
ないことになっている(南オーストラリア州など)。

 自由とは、「自らに由る」こと。日本が真に自由な国となるためには、まず教育から、自由化
すること。子どもたちの世界から、自由化すること。なぜなら、この国の未来は、その子どもた
ちがつくるのだから。

 で、中には、「教科書がなければ、国がバラバラになる」と説く人がいる。それがどっこい。も
しそうなら、アメリカやオーストラリアは、とっくの昔にバラバラになっているはず。ちがいます
か?

 さらについでに、「日本の天皇制がなくなれば、日本人の心はバラバラになる」と説く人もい
る。「日本人のアイデンティティは、天皇制にある」と説く人さえいる。

 本当に、そうかな? そう思いこまされているだけではないのかな?

 もしそうなら、中国や韓国は、とっくの昔にバラバラになっているはず。国の歴史ということに
なれば、中国や韓国のほうが、日本のそれより、はるかに長〜イ。日本だって、中国の歴史の
一部にすぎない。「東洋史」という考え方は、そういう視点においた歴史観をいうのですね。少
なくとも、世界の歴史学者たちは、そう見ている。

 日本の歴史を、1500年とするなら、中国の歴史は、5500年。線で表現すると、こうなる。も
とから、かないっこない。

 日本***************(15)
 中国************************************
*******************(55)

 日本人も、ここらで、そろそろ意識革命する時期にきているのではないのかな? そう、意識
革命。おかしな復古主義にこだわるのではなく、未来に向かって、前向きに進んでいく。そのた
めの意識革命。

 それができたとき、日本は、アジアの中でも、真の先進国になれると思うのだがなあ……。
(つぶやきでした。)

  
Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

●義務教育について。

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義務教育の「義務」って、どういう意味?

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 義務教育の「義務」というのは、子どもに対しての義務をいうのではない。親は、親がもつ教
育権(親権)を、国に預ける義務があるという意味での、義務をいう。

 そもそも満18歳未満の子どもに、法的義務は存在しない。もし法的義務が存在するなら、学
校へ行かない子どもは、処罰されることになる。しかしどうやって処罰するのか?

 昔は、「オレの子の教育は、オレがする」と言って、子どもを学校へ渡さない親がいた。そうい
う親は、義務教育違反として、処罰された。それなら話がわかる。

 が、その「義務」が誤解され、「子どもは、学校へ行く義務がある」というふうに理解されるよう
になった。しかしそれはまちがい! もしそれを言うなら、「権利教育」と言ったほうが、正確か
もしれない。「子どもは、学校で教育を受ける権利がある」と。

 今度、政府内で、「義務教育年数を撤廃する」という動きが出てきた。「幼稚園から義務教育
にする」とか、「高校3年まで義務教育にする」とか、そういう話になっているようだ(06年3
月)。

 高校3年まで義務教育にするという話は、まだわかるが、しかし幼稚園まで義務教育化する
というのは、どうか? 何のために? どうして? 幼稚園教育を無料化するための方便という
ことなら、賛成だが、しかし現実には、不可能。幼保一元化がやっと軌道にのったばかり。私
立幼稚園は、今、どこも、経営を立てなおすために、四苦八苦している。

 むしろ話は逆で、確たる裏づけがあるわけではないが、4歳児では、週2〜3日、幼稚園へ行
けばじゅうぶん。5歳児でも、週3〜4日、幼稚園へ行けばじゅうぶん。それよりも家庭教育を
充実させたほうがよい。何でもかんでも、学校という発想が、幼稚園教育のレベルまで押し下
げられたら、それこそたいへん!

 あのね、みなさん! 子どもを育てるのは、親の権利なのですよ! 自分の子どもと、楽しい
思い出を、たくさんつくる。それは親の権利なのですよ! どうしてそんな権利を、自ら放棄す
るようなことを、するのですか!

(付記)

 私立幼稚園の経営ボーダーラインは、園児200人とされている。200人を切ると、とたんに
経営が苦しくなる。しかし今、少子化と幼保一元化の嵐の中で、私立幼稚園は、経営を立てな
おすため、どこも四苦八苦。義務教育にしたところで、経営が楽になるわけではない。むしろ現
場の教師に、負担ばかりがふえる。

 さらに一言つけ加えるなら、今まで、私立幼稚園だからこそできた、(自由な教育)が、そこで
終わることを意味する。現在、ほとんどの私立幼稚園では、自分の幼稚園の特殊性を出そう
と、それぞれが工夫プラス苦労をしている。日本に残された自由教育の最後の砦(とりで)、そ
れが私立幼稚園ということになる。

 そういう私立幼稚園を、政府は、どうしようと考えているのか? 疑問ばかりが残る!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【安全マーク?】

++++++++++++++++++

今度から、中古品を販売するにも、
安全マークが張られていないと、
できないそうだ。

それにしても……!

高度に完成された社会には、
「レール」ができる。

しかしその中身といえば、
管理と規制。

レールに乗った人は、一生、
安泰。
そうでない人は、そうでない。

しかしレールに乗った人も、
それなりの代償を支払わねばならない。

+++++++++++++++++++

●レール

 日本のように、高度に完成された社会には、「レール」ができる。しかし最初に断っておくが、
「完成された社会」イコール、「理想の社会」ではない。完成された社会は、同時に、高度に管
理され、規制された社会を意味する。まさに、今の日本の社会が、それと言ってよい。

 それはたとえて言うなら、家の中をグルグルと回りながら、そのつど、あちこちを手なおしてい
く社会に似ている。「今度は、ここでは、こうしなさい」「今度は、あそこでは、ああしなさい」「ここ
では、これはしては、だめ」「あそこでは、あれはしては、だめ」と。

 本来なら、そうしたエネルギーは、外に向かって放たれるのがよい。しかし外に向かうといっ
ても、向かう先がない。そこでそのエネルギーは、内へ内へと向かう。

●高度に細分化された社会

 ひとつの例として、ご存知のように、保育園の保育料金は、一家の収入(世帯収入)に応じ
て、無料〜6万円超(月額)と、段階的に定められている。この額は、地域によっても、大きくち
がう。たとえば3歳未満の子どものばあい、千葉県A市では、月額2万2900円であるのに対し
て、東京B市では、月額5万5900円など。

 額についてはともかくも、現在、保育料は、全国どこでも、〜3歳未満、3歳児、4歳児以上〜
と、ことこまかく、細分化されている。

 こうした息苦しいほどまでの「管理」と「規制」は、生活のあらゆる場面に及んでいる。今で
は、地方の小さな町や村で、観光ガイドをするにも、試験があり、資格が必要とされる。この日
本で、資格もなく、自由にできる仕事といえば、総理大臣以下、政治家くらいなもの。

 で、こういう社会では、そのレールの上に乗ったものは、安泰。そうでないものは、社会その
ものから、はじき飛ばされてしまう。もちろんその先で待っているのは、損と苦労。

●本来の規制緩和とは

 そこで本来なら、自由な社会をめざし、一般庶民の知的レベルが向上するにつれて、こうした
管理や規制は、ゆるやかなものになるのが、望ましい。が、この日本では、それが逆行してい
る。日本のような官僚型社会では、官僚たちが一般庶民を、より管理、規制することによって、
その権限と権益を増大させようとする。

 つまり新たな管理や規制をふやすことによって、同時に、自分たちの職場を拡大する。かくし
て、今の日本のような、世界に類をみない、超管理型国家、超規制型国家ができあがってしま
った。

 何でも、今度から、中古品を販売するにも、何とかマークが必要になるという。まあ、それはと
んでもない管理と言ってもよい。これからは、のみの市はもちろん、ガレージ・セール、フリーマ
ーケットすらも、自由にできなくなる。

 が、弊害は、それだけで終わらない。子どもの教育の世界にも、こうした管理や規制は、大き
く、暗い影を落としている。

●社会にはびこる不公平感

 この日本では、人生の入り口で、そのレールに乗ったものは、一生、安泰。楽。しかしそのレ
ールからはずれたものは、一生、そのまま。もっとわかりやすく言えば、不公平。それを子ども
をもつ親たちは、日常の生活の中で、いやというほど、思い知らされている。だからこそ、子ど
もを受験勉強に駆りたてる。「勉強しなさい!」と。

 言いかえると、こうしたレールを取り払わないかぎり、日本は自由な国といいながら、その自
由を手にすることは、ない。もちろん受験競争も、なくならない。事実、この日本を自由な国と思
っているのは、一部の特権階級の人たちだけではないのか。考えようによっては、今のロシア
や中国よりも、この日本には自由がない。実感としては、それに近い。

 さてあなたの子どもは、これから先、どんなレールに乗るだろうか。あるいはあなたは自分の
子どもを、どういうレールに乗せようとしているだろうか。さらにあなたやあなたの夫(妻)は、
今、どんなレールの上に乗っているだろうか。それとも乗っていないだろうか。

 しかしこれだけは、覚えておくとよい。レールに乗ったからといって、自由になれるわけではな
い。大半の人は、一生、そのレールにしばられ、そのレールから飛び出すことすら、できなくな
る。いわば、カゴの中に閉じこめられた状態になる。「社会の歯車」という言葉を使って、それを
説明する人もいる。たった一度しかない人生を、そんなことで、ムダにしてよいものか。

●社会の歯車で、よいのか?

 たとえば役所の保育園入園相談窓口に行ってみるとよい。その窓口の相談員は、毎日、マ
ニュアルを片手に、いつも同じ言葉を繰りかえしている。が、それだけ。毎日、毎日、だ。自分
で自由に裁量できる部分など、まったくない。一般庶民を、管理、規制しながら、実は、自分自
身をも管理、規制している。
 
 こうした社会で、自分をがんじがらめにしているクサリから、自分を解き放つためには、みな
が、かけ声をあわせて、1、2の3で、そのレールから飛び出すことしかない。しかしこれは、こ
の日本では、不可能。何といっても、歴史が長い。この日本は、奈良時代の昔から、官僚主義
国家。世界に名だたる官僚主義国家。日本の歴史は、そのまま官僚のための、官僚による、
官僚の歴史と言っても過言ではない。

 しかし、これが私たちが、求めてきた本当の社会なのだろうか。あるいは、私たちが求めてい
る社会は、そういう社会をいうのだろうか。これから先、少なくとも、この日本では、さらに管
理、規制がきびしくなる。しかしそれは本当に、私たちが求めている未来のあるべき姿なのだ
ろうか。

 それにしても、中古品を販売するのにも、「安全マーク」だって? 笑わせるな! 

【高コスト社会】

 中古品が安全かどうか、だれが判断する? 当然、お役人ということになるが、その安全マ
ークには、それだけの人件費がかかるということになる。つまりその分だけ、中古品は、高額
になる。

 こうして日本は、さらにさらに、高コスト社会へとなっていく。たとえば食料費にしても、日本
は、欧米のほぼ2倍とみてよい。2倍だぞ。つまりそれだけのコストを、いろいろな名目で、お役
人たちに支払っていることになる。

 教育費など、かけるべきところの予算は削り、かけなくてもよいようなところばかりに、予算を
かける。

 さあて、この先、この日本は、どうなるのだろう?

 管理、管理、規制、規制……。そのうち、日本中の日本人が、みな、窒息して死んでしまうか
もしれない。ホント!

【仮面民主主義国家】

 日本は、一応、建て前は、民主主義国家ということになっている。そして一応、政治家たち
が、政治をリードしているかのように見える。

 つまりそれだけ、官僚たちの「策謀」が、巧妙だということ。顔だけ、政治家に渡し、脳みそや
体は、官僚が支配する。動かす。議会の質問書も、答弁書も、官僚が書くという実態を、いった
い、どれだけの日本人が、知っているのか? 何も、国会や、県議会だけではない。

 ある都市の、ある部長(市役所勤務)は、私にこう言った。「議員さんでもね、自分で作文でき
るような人は、ほとんどいませんよ。それでね、私たちが、質問書も、答弁書も、書いてやって
いるのですよ」と。

 こうした民主主義国家を、仮面民主主義国家という。「新社会主義国家」と呼ぶ学者も多い。
民主主義国家とは名ばかり。その中身は、官僚主義国家。与党や野党の党首は、みな、元官
僚。県知事の大半も、元官僚。大都市の市長の大半も、元官僚。さらに選出される国会議員
の大半も、天下りでやってきた、元官僚。

 こうして今に見る、超管理国家、超規制国家が誕生した。そしてその管理や規制は、弱まる
どころか、さらに強化されつつある。「自由」「自由」と言いながら、その自由は、どこにある? 
この日本では、官僚にたてついたら、仕事さえ、ままならない。

 国家公務員と地方公務員の人件費だけで、38兆円。日本の国家税収が42兆円あまりだか
ら、何と、国家税収の90%を、公務員たちが使っていることになる。こんなバカげた財政運営
をしている国が、ほかに、どこにある?

 現在、公務員の人たちは、こういう私の意見を聞くと、猛反発する。怒る。それはわかる。も
ちろん1人ひとりの公務員の人に、責任があるわけではない。官僚主義が、すべて悪いわけで
はない。しかし視点を、あなたの子ども、さらにはあなたの孫に置いて、ものを考えてみてほし
い。あなたはそれでよいとしても、あなたの子どもや孫は、どうなる? あなたと同じ公務員に
なれば、それでよし。しかしみながみな、公務員になれるわけではない。

 その上で、これからの日本が、どうあるべきかを、あなた自身の頭で、考えてみてほしい。答
は、おのずと、出てくると思う。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●中高年族よ、たくましく生きよう!

 こんなショッキングな調査結果が、発表された。
(ショックを受けたのは、私たちの世代だけかもしれないが……。)

++++++++++++++

●中高年フリーター、2021年には200万人突破

 大手調査研究機関のUFJ総合研究所は、35歳以上でフリーターをしている「中高年フリータ
ー」が、2001年の46万人から、2011年には132万人に増え、2021年には200万人を超
える見通しだとする推計を発表した。

 フリーターの多くはいずれ定職を持ちたいと考えているものの、年齢が高くなるほど正社員に
なるのが難しく、この状況は変わらないとの前提で推計した。

 推計では、フリーターは所得が比較的少ないため、2021年に200万人を超える人が正社
員にならずに、「中高年フリーター」となることで、国の税収が1兆1400億円、社会保険料が1
兆900億円減少するほか、2021年のGDP(国内総生産)成長率を1・2%押し下げる要因に
もなる。

また、所得が少ないフリーターは、結婚する割合が低いため、子供の出生率を年間1・0〜2・
1%押し下げ、少子化を加速させるなどとも指摘している。

 内閣府の国民生活白書によると、2001年に35歳以上でフリーターに相当する人は46万
人いた。フリーターは、パートやアルバイトなどのうち、主婦や学生を除いた人を指す。

++++++++++++++++

 「だったら、正社員とアルバイトを差別しないことだ」と、私は最初に、そう思った。職業にラン
クをつけたから、こういう結果になった。こうした職業に対する、差別意識は、悪しき封建時代
の遺物と考えてよい。

 (少し前まで、正社員になることを、「まともな仕事」といい、そうでない仕事を、「ロクでもない
仕事」といった。)

 仕事に上下はない。正社員もフリーターもない。働く人イコール、労働者。みな、平等。平等
に保護すればよい。(アメリカでは、そうしているぞ!)

 ……とまあ、グチを言っていてもいけない。

 あえて言うなら、私もそのフリーターだが、中高年のみなさん、もっとたくましく生きよう!

 その一言に尽きる。お金になることは、何だってする。恥も外聞も、捨てる。あとは働いて、働
いて、働きまくる。

 だいたいにおいて、日本は、公務員を優遇しすぎる。仕事も、楽。その結果として、そうでない
人たちが、損をする。そういうしくみが、できてしまっている。

 そういうしくみを一方で、放置しておいて、「何が、GDPを下げる」だ! 本当に日本のGDPを
下げているのは、だれか、ヨ〜ク考えてみることだ。

 ……こうまでバカにされたのでは、たまらない。

 そういう事実があるなら、私たちは私たちで、たくましく生きるしかない。しかしねえ、この日本
では、何をするにも、許可だの、資格だの、認可だの……。ありとあらゆるものが、がんじがら
めに規制されている。今では、地方の田舎町で、観光ガイドをするにも、資格がいる。

 お金がないから、明日から、リヤカーでも引いて……というわけには、いかない。本当に息苦
しい世界になってしまった。

 おかげで、国家、地方公務員の人件費だけで、38兆円! 日本の国家税収が、42兆円弱
だから、つまりは税収のほとんどが、公務員の人件費に消えていることになる。

 こういう事実を、一方で放置しておいて、何が、「所得が少ないフリーターは、結婚する割合が
低いため……」だ。

 これでは、あたかも、フリーターが、社会のゴミのようではないか。少し前だが、どこかの高校
の校長は、「ブリーター撲滅運動」をしていた。「撲滅」というのは、「たたきつぶす」という意味
だ。

 私がむしろ心配するのは、フリーターもさることながら、日本人から、生きる野生臭が消えて
きたことだ。いつも何かに依存しようとしている。また依存することが、生きることだと考えてい
る。そんな感じがする。

 日本を一歩出れば、そこには、海千山千の海賊たちがゴロゴロしている。そういう世界に囲
まれて、オホホ、オホホと笑いあっていて、どうしてこれからの国際社会を生き抜くことができる
というのか。

 フリーターには、フリーターの生きザマというものがある。そのたくましさを、みんなに見せつ
けてやろうではないか。中高年よ、パワーを出そう。アメリカのカウボーイのように、野宿をして
でも、生き延びてやろうではないか。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●ある相談から

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わがままな娘に手を焼いている……
そんな相談がありました。

M県M市にお住まいの、MTさん
(母親)からのものです。

+++++++++++++++

【MTより、はやし浩司へ】

17歳の娘は私たちから見ると、わがままです。一緒に生活していた時、ご飯は一緒に食べ
ず、食べたいときに部屋へもっていって食べたり、自分の都合で、親に送り迎えを急に頼んだ
りし、散々振り回されてきました。

中学一年の半ばから不登校になり、わたしの子育てにも問題があったと、色々反省もさせられ
ました。でもよかれと思って、本人の希望もあって通っていたフリースクールはやめ、通信高校
も定時制高校も、一学期間だけ通ってやめてしまいました。

高校に行き始めた頃からケータイ代を払うためバイトを始めましたが、たいした稼ぎもないの
に、一時は何万ものケータイ代を未納していました。自分に見合ったケータイの使い方をしたら
という私の話に耳をかしません。

最近は家を出て彼氏の家にころがりこんだかと思えば、一人暮らしをすると、嬉しそうに報告し
てきたり・・・。金銭感覚がまともではないような気がするのです。うちではお金をあげず、貸して
います。が、もうそれもしていません。家にいなければ振り回されることがないのでホッとする反
面、外でなにしているのか・・・。このままほっといていいのでしょうか?

++++++++++++++++

 17歳といえば、体も心も、もうおとな。それがわからなければ、あなた自身のときのことを思
い出せばよい。つまりこの年齢の子どもに対しては、親としてできることは、ほとんど、ない。ま
た親として何かをしようと、親が気負えば負うほど、逆効果。子どもの目には、それが重荷とな
って、映る。

 MTさんの娘について言えば、現在、猛烈な速度と勢いで、おとなの世界に向けて、心の準備
をしている。今までの自分を、すべてかなぐり捨てるかのように、して、である。しかし皮肉なも
のだ。

 どこのだれが、自分の子どもが、(わがままな子)になると、想像して、子育てなどするだろう
か。あどけない顔。子どもらしい、しぐさ。「パパ」「ママ」と言って、あなたの胸に飛びこんでくる
子ども。その子どもがやがて、「ケータイ代を払うために、バイトをする」ようになるとは!

 しかし現実は、現実。そこにあるのが、厳然たる現実。親に残された選択は、ただひとつ。そ
の現実を、受けいれるか、それとも、その現実を拒絶するか。MTさんは、こう迷っている。「家
にいなければ振り回されることがないのでホッとする反面、外でなにしているのか」と。

 では、どうするか? どうしたらよいか? 答は簡単。子どもは、信じて、信じて、信じぬく。ど
んなに裏切られても、信じぬく。決して短気を起こしてはいけない。子どもへの愛情を断ち切っ
てはいけない。子どもがいくら断ち切っても、親は、断ち切ってはいけない。迷うことはあるかも
しれない。しかし断ち切ってはいけない。

 もしそれができなければ、毎日、子どもに向かって、こう念ずればよい。「許して、忘れる」と。
何があっても、「許して、忘れる」と。その度量の深さが、あなたの親としての、子どもへの愛の
深さということになる。

 その愛があれば、子どもは、必ず、(必ず、だ)、あなたのもとに戻ってくる。5年後か、10年
後か、それはわからない。しかし20年を超えることは、ない。

 今、MTさんの娘は、もがいている。苦しんでいる。表面的な反抗とは裏腹に、自分でもどうし
てよいかわからず、悩んでいる。その答がわからないから、親のMTさんに、(わがまま)をぶつ
けている。わかりやすい例に、(家庭内暴力)がある。形こそ、少しちがうが、その心理は、同
じ。つまり(わがまま)をぶつけながら、MTさんの、親としての愛情を確かめている。

 だからMTさんのすべきことは、ただひとつ。どんなに裏切られても、決して、娘を見放さな
い。あとは、その根くらべ。じっとがまんの根くらべ。MTさんは、娘に、こう言えばよい。「あなた
には、負けないわよ」と。「あなたがいくら私を嫌っても、私は、あなたを嫌わないからね」と。

 こういうケースでは、親は、子どもの悪い面ばかりが気になるもの。妄想も、ある。しかしこと
金銭感覚については、そういう子どもにしたのは、MTさん、あなた自身。生まれながらにして、
金銭にルーズな子どもなど、いない。

 それに「ご飯は、いっしょに食べない」ということにしても、理由は、はっきりしている。いっしょ
に食べたくないから、食べない。それだけのこと。子どもを責める前に、どうしていっしょに食べ
たくないか、その心をさぐってみたらよい。

 MTさんは、口うるさくないか? 小言を言い過ぎていないか? あれこれ指示ばかり与えて
いないか? 心配や不安だけを、子どもにぶつけていないか?

 今どき、親子、仲よく食事をする子どもなど、いない。会話の消えた家庭など、ゴマンとある。
廊下ですれちがっても、たがいに目をそむけあう親子となると、もっと多い。同居しながら、30
年以上、会話らしい会話をしたことがない親子さえ、いる。

 子どもに期待しないこと。MTさんの理想像を、子どもに求めないこと。押しつけないこと。MT
さんは、MTさんで、前向きに生きる。1人の人間として、前向きに生きる。そういう姿を見て、
娘は、あなたを1人の人間として、再評価する。つまりMTさんにとって重要なことは、そうして
再評価されるに足りる親になること。あとは、子どもの判断に任す。

【MTさんへ】

 今のMTさんには、つらい毎日かもしれませんが、ケースとしては、よくあるケース。珍しくも何
ともありません。娘さんは、(自分のしたいこと)が、何であるかも、よくわからないのでしょうね。
どこへ行ったらよいのか。何をしたらよいのか。それがわからないでいるのです。

 あなたにも、その年齢のとき、そういうことは、ありませんでしたか? 実は、私にはありまし
た。「学校」という世界で、何となく押し出されて、おとなにはなったのですが、おとなになったと
たん、そこに自分がいないのを知りました。

 今、ほとんどの子どもたちが、同じような悩みをかかえて、苦しんでいます。この日本では、何
も考えないで、おとなしく勉強だけしている子どものほうが、生きやすいのかもしれませんね。
勉強しかしない。勉強しかできない。勉強だけがすべてという子どもです。そういう子どもほど、
受験競争を、スイスイと勝ち抜いていく。親は、「いい子だ」と喜びますが、私には、お化けにし
か見えません。

 まともな子どもなら、悩みます。苦しみます。不安もあるだろうし、将来への心配もあるでしょ
う。しかし見方によっては、娘さんは、たくましい子どもということになります。その(たくましさ)
を、評価してやろうではありませんか。

 冒頭に書きましたように、17歳では、もうどうにもなりません。子どもというより、人格をもっ
た、1人の人間だからです。前にも書きましたが、子どもの巣立ちは、いつも美しいとは、かぎ
りません。親と、ののしりあいながら巣立っていく子どものほうが、多いくらいです。

 だから当然、(MTさんは、どうは思っておられないでしょうが……)、だからといって、子育て
に失敗したとか、親として失格などと、考えてはいけません。あなたはあなたで、懸命に子育て
をしてきたわけですから、それでじゅうぶんです。繰りかえしますが、ケースとしては、珍しくも何
ともありません。

 そういえば、同じような相談が、ある父親から、つい先日もありました。その相談は、私のHP
の、掲示板のほうに書きこんでありますから、また一度、そちらのほうも、のぞいてみてくださ
い。参考になると思います。励まされると思います。

 わかりやすく言えば、あなたの娘さんがまちがっているのではなく、今の日本の教育制度の
ほうが、おかしいのです。学校以外に道はなく、学校を離れて道はないという、その制度そのも
のに、です。

 本来なら、もっと人間のもつ多様性にあわせて、多様化したコースを用意しなければならない
のに、それをサボってきた、教育制度のほうこそ、おかしいのです。そういうことも頭のどこか
に入れて、あなたの娘さんを、理解するようにしてみてください。

 その父親からの相談のときも書きましたが、コツは、子どもの横に、友として立つようにする
ことです。友として、です。親意識など、もうこの際、捨てなさい。くだらないです。

 なお、こういう時期は、あっという間にすぎます。そしてあなたの娘さんが、22〜4歳になるこ
ろには、今の問題は、笑い話になります。私のごく近い知りあいの中には、こんな人もいます
よ。

 長男は、高校2年生のときに、無免許でバイクに乗り、事故。そのまま高校から退学処分。
二男は、暴走族に。その下に娘さんがいたのですが、この娘さんは、何とか高校だけは出まし
たが、親からみて、きわめて不本意な男性と結婚。結婚式も隠れてするような結婚でした。

 しかし今、3人も、すばらしい家庭を築いています。その知人の家には、毎週のように孫たち
が集まり、華やかで明るい笑い声が絶えません。

 人生というのは、そういうものです。ですから、子どものことは、許して忘れる。あとは窓をあ
け、ふとんを暖めて、子どもの帰りを待つ。どんなことがあっても、子どもを信じて、子どもの帰
りを待つ。それが親としての最後の努めということになるでしょうか。決して、あきらめてはいけ
ません。決して愛情の糸だけは、切ってはいけません。まさに根くらべです。それだけは、大切
に!

 あとは、静かに流れる時間が、問題のすべてを解決してくれます。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1202)

【近ごろ・あれこれ】

●友人の結婚披露宴

 昨日(3・19)、友人の結婚披露宴に行ってきた。結婚式は、昨年、フィリッピンですませたと
か。こじんまりとした披露宴だったが、なごやかで、楽しかった。まさに、おとなの披露宴といっ
た感じ。

 来賓に、静岡県知事のI氏や、島田市長のS氏、それに私も以前お世話になった、中日新聞
本社取締役のA氏が来て、祝辞を述べていた。改めて、友人の人脈の広さに驚いた。


●迷い

 こうしてほぼ3年間、インターネット上で、原稿を書くということに全力を注いできた。肝心の本
は、1冊も書かなかった。しかしこれでよかったのか? またまた無駄なことをしてしまったの
か?

 「書いてきてよかった」という思いと、「こんなことをして、何になる」という、2つの思い。この両
者が、交互に現れては消える。この3年間は、まさに、そういう3年間だった。

 で、実は、今も、そうだ。「これからも書こう」という気持ち。「もうやめようか」という気持ち。こ
の両者が、複雑に自分の中で交錯する。さあ、どうしようか? これからもこの迷いは、ずっと
つづくだろう。

●息子のBLOG

 息子のBLOGを読んで、感動する。そのBLOGには、こうあった。

 『口述、航法のC'Kに無事合格し、残すC'Kはあと一つとなった。C'K前の最後の調整フライト
のことを、brush up(磨き上げる)と呼ぶ。Final C'Kの前には約3時間のbrush up時間が与えら
れ、それぞれ苦手なところを重点的に練習する。追い込みの時期だ。今日でそのbrush upもほ
とんど終わり、残すところTGLとA/W合わせて25分のみ。25分で何ができるのか定かではな
いが、明日の土曜フライトでそれを使い切って、月曜にいよいよFinal C'Kだ。

 6ヶ月。景色は少しずつ、僕らが初めてここに来たときの色にもどりつつある。この国で最強
の部類に入るだろう長く厳しい冬を越えたのだ。そのことが一番信じられない。

 いろんなことがあった。辛く、重く、ボロボロになりながら食らい付いていった半年間だった。
押しつぶされんばかりに積もった雪は、僕たちの心の象徴だったのかもしれない。そんな雪で
も、解け始めるのを目の当たりにすると、なぜか寂しい気持ちに襲われる。僕たちは、どんな
に雪が降ってももう大丈夫。雪が解けて、世界が普通に戻っても、その能力は消えないよね。
帯広、十勝を飛び回った。いろんな空を見た。いっぱい怒られて、いっぱい泣いて、同じくらい
笑った。自分の未熟さもいっぱい知った。この半年間は今までの中で、一番「生きた」気がす
る。自分の年齢がよくわからなくなるくらい、生きた。まるで浦島太郎のようだ。

 同時に、あと25分で後半お世話になったY教官ともお別れだ。ここ2〜3日は今までの中で
特に厳しい。明日は今まで一番のフライトを見せたい。月曜のC'Kは、教官に恥をかかせない
ようなフライトにしたい。教官がいつも言っていたこと:操縦は人格、人格は操縦。Challenger。
気持ちで飛行機を操る。操縦桿に魂を込める。どんなに言われても、何くそ!と負けない根性
を身に着ける。かっこよく飛ぶこと。誰よりも早く上がること。・・・僕は強くなったというところを、
見せたい』と。

 原文のまま、紹介した。

 実は、私も、留学時代、まったく同じ経験をした。

 ちょうど、留学して3か月目のことだったと思う。ようやく夢を、英語で見始めたころである。

 そのとき私は、オーストラリアでの1日を、留学前、日本にいたころの1年に感じていた。これ
は決して、オーバーなことを言っているのではない。本当に、1日を、1年に感じていた。

 そういう自分を見つめながら、ある朝、ベッドの上で、こう思った。「まだ、3か月しかたってい
ない! ぼくは、ここでもう90年も生きたような気がする。まだこんな生活が、9か月もつづ
く!」と。

 私は思わず、ウォーと叫びそうになった。本当に充実した毎日だった。そのことをワイフに話
しながら、「E(=息子)は、今、そういう気持ちなんだろうね。ぼくには、Eの気持ちがよく理解で
きる」と。

 親として、これ以上、何を望むことができるか?

 本音を言えば、横浜のY大学をやめ、パイロットになりたいとEが言ったとき、私は、内心では
反対だった。で、息子には、こう言った。「どうしてお前は、金メダルを捨てて、銅メダルを取る
のか」と。Y大学へは、センター試験で、学部x位の成績で入学している。できれば、学者として
の道を進んでほしかった。

 しかしそれがEの道だった。倍率60倍のK大に入学。今は、パイロットの道を進み始めてい
る。職業としては、危険な職業である。これから先、飛行機事故のニュースを耳にするたびに、
ハラハラしなければならない。(もうすでに、ハラハラしているが……。)

 が、夢もできた。

 いつか、Eが、機長として初フライトをするとき、私とワイフも、その飛行機に乗る。そのときま
で、私たちは、元気で生きる。飛行機恐怖症の私だが、息子になら、自分の命を預けることが
できる。死んでも、悔いはない。

 そう、その日のために、すでにパイロットの帽子まで、そろえた。息子が、くれたものだ。1度
だけかぶったことがあるが、その帽子は、今、廊下の壁に、飾ってある。先日、息子がそれを
見て、「パパ、どうしてかぶらないの?」と聞いたので、私は、こう言った。

 「その日にかぶるよ。かぶって、お前が操縦する飛行機に乗るよ」と。

 (息子のBLOGへは、私のHPのトップページより、進んでもらえます。どうかまた機会があれ
ば、読んでやってください。)


●マヤ文明

 今、日本の皇太子が、南米を訪問している。3月18日には、メキシコ市からユカタン半島の
メリダに移動し、皇太子は、40度近い暑さの中、マヤ文明の遺跡「ウシュマル」を訪問したとい
う。

 私は若いころ、つまり30歳少し前に飛行機事故に遭遇するまで、世界中を飛び回っていた。
そのときのこと。1度だけ、そのマヤ文明のその遺跡と、マチュピツのインカ遺跡を訪問するチ
ャンスがあった。チケットも買い、日程も組んでいた。が、ペルーのリマまで来たところで、突
然、予定を変更。そのままニューヨーク経由で、つまりニューヨークで簡単な仕事をして、日本
へ帰ってきてしまった。

 が、年を取ればとるほど、そのときの変更が悔やまれる。どうしてあのときキャンセルしてしま
ったのか、いまだに、その理由がよくわからない。が、ともかくも、キャンセルしてしまった。

 皇太子のそのニュースを読みながら、改めて、あのときの変更を悔やむ。いつか機会があれ
ば、行ってみたいと思うが、もう二度とそんな機会は、ないだろう。それにあのあたりを旅行す
るには、かなりの体力が必要。

 で、今回、皇太子妃は、皇太子に同行しなかった。そのことを思いながら、皇太子妃も、いつ
か、後悔するのではないのかな、と思う。あの遺跡だけは、チャンスがあれば、一度は見てお
いたほうがよい。その価値はある。謎とロマンに満ちている。「もったいないことをしたな」という
思いは、そのまま、皇太子妃への思いへとつながる。


●健康

 80歳をすぎても、ピンピンとしている人もいれば、80歳になる前に、動けなくなる人もいる。
私のワイフの通っているテニスクラブのコーチは、90歳だった。(最近になって、クラブへは来
なくなったと、ワイフは、言っているが……。)

 50代、60代の人たちを見ていると、それはわからない。しかし70歳を越えるころから、その
(差)がはっきりとしてくる。

 その(ちがい)は何なのか? どうしてこうした(差)が生まれるのか? またどうすれば、80
歳を過ぎても、ピンピンとしていることができるのか?

 これは私のおおざっぱな観察によるものだが、80歳を過ぎても、ピンピンしている人には、
いくつかの共通点がある。

(1)体が、どちらかというと細身であること。(細いきゃしゃな体つきをしている。)
(2)生活の場で、いつも動き回っていること。(動きがキビキビしている。)
(3)成人病など、生活習慣病と無縁であること。(食事と運動に気をつかっている。)

 そこで私なりに引き出した結論は、こうなる。

(1)標準体重をキープする。実際には、(標準体重)x0・9程度がよいのでは。標準体重という
のは、老いも若きも、ひっくるめた体重である。それをそのまま老体に当てはめて考えることは
できない。
(2)運動という運動よりは、日常の生活の場で、よく体を動かすこと。
(3)生活習慣病を作らないこと。糖尿病、高血圧、高脂血症、それに内臓太りの兆候が見られ
たら、早めに、手を打つこと。

 若い人たちにこういう話をすると、「老後は、まだずっと先」とか、「75歳まで生きられれば、
いいよ」などと言う。しかし老後は、あっという間にやってくる。それに40歳のときに見る青い空
も、58歳の今見る青い空も、同じ。つまり80歳になっても、90歳になっても見る青い空は、青
い空。

 私が言いたいのは、仮にその75歳になっても、「生」への執着が消えるわけではないというこ
と。75歳になっても、今のあなたが「生きたい」と思っているように、「生きたい」と思うもの。「予
定通り、75歳まで生きたから、もう死んでもいい」などとは、絶対に思わない。「思わない」とい
うより、そういうふうに「思えない」。

 だからこうした兆候が見られたら、早めに手を打つのがよい。30歳だからといって、早すぎる
ということはない。


●ファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」

 ファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」を介して、そのパソコン内部の情報が、外部に漏れる
という事件が、相ついでいる。詳しくはわからないが、スパイウエアのようなものが、Winnyの
中に、忍ばせてあるのではないか?

 もともとファイル交換ソフトというのは、違法スレスレのソフトである。このソフトを使えば、音
楽でも映像でも、音質や画質を落とすことなく、コピーできるという。幸いにも、私は、そのソフト
を使ったことがない。しかし安心はできない。

 私が個人情報を登録している、マガジン社やBLOG社、それに証券会社や銀行のパソコン
は、だいじょうぶなのだろうか? そういったところから、重要なパスワードや、カードナンバー
が、外に漏れるということは、ないのだろうか?

 さらに私は、フリーのファイル圧縮ソフトなどを、使っている。そういったソフトにも、Winnyの
ような、スパイウエア的なソフトが組みこまれているようなことはないのだろうか。

 念のため、昨日、2台のパソコンのウィルス検査、スパイウエア検査、それにボット検査をし
てみた。結果は、「感染なし」。しかし油断は、できない。この世界、何があっても不思議ではな
い。何が起きても、不思議ではない。注意しよう。

【教訓】

(1)パソコンの世界では、冒険主義は、そのまま命取りになる。決して、冒険しては、ならな
い。今の状態が最良なら、そのままの状態をキープすること。
(2)パソコンの世界では、絶対安心できるメール、絶対安心できるホームページ以外は、開か
ない。
(3)どうしても……というばあいには、独立した別のパソコンを使う。私のばあいも、「?」と思う
ようなメールやホームページは、別の、つまりウィルスが侵入しても構わないようなパソコンを
使って開いている。ADSLではなく、通常のパルス信号の電話回線を使って、開いている。
(4)相手の人に迷惑をかけないよう、今どき、定期的なウィルス検査、スパイウエア検査、ボッ
ト検査は常識。加えて私のばあいは、プロバイダーのほうで、ウィルス検査、さらに各パソコン
ごとに、専用のソフトを導入している。さらに加えて、それぞれの仕事に応じて、パソコンを独立
さえている。HP用のパソコン、インターネット用のパソコン、それにこの文章書き用のパソコ
ン、など。
(5)万が一のばあいの対策を忘れない。つまり、それでも安心できない。そこで私のばあい、
パソコンごとに、外づけのハードディスクを用意し、そのつど、ファイルは、パソコン本体のほう
ではなく、そちらのほうに保管している。万が一にも、ウィルスが侵入したばあいには、パソコン
ごと、リカバリー(再セットアップ)するためである。リカバリーにまさるウィルス駆除方法は、な
い。

 それでも、今までに、何度、ヒヤヒヤ、ハラハラ、ドキドキさせられたことか。こうした対策は、
そうした経験から、学んだもの。


●大井川

 静岡県島田市に、川越遺跡が、再現されて残っている。その遺跡を、ワイフと2人で見てき
た。3月も終わりに近づいたころのことである。

 で、私は、このところ、江戸時代の文化に、たいへん興味をもっている。文化といっても、大
衆文化。一般庶民の生活に、である。

 で、その川越遺跡だが、江戸時代には、大井川を渡るにも、いろいろな方法があったようだ。
大高欄連台といって、16人で担ぐものから、平連台といって、2人で担ぐものまで。肩車といっ
て、人足の肩に担がれて運ばれる方法もあった。もちろん値段もちがう。おもしろいと思ったの
は、当時は、川の深さと川の幅によっても、値段がちがったということ。

 毎朝、「待川越」と呼ばれる人が、水深さと川幅を計って定めたそうだ。で、その水深さが、2
尺5寸(136センチ)になると、川留(ど)めになったという。

 その模様は、安藤広重の五十三次の版画にも描かれている。私は、その版画を見ながら、
しばし、考える。「こうした人たちは、いったい、どこへ消えてしまったのか?」と。つまりそうした
人たちが苦労して川を渡った努力は、どこへ消えてしまったのか、と。

 現代にたとえるなら、大高欄連台というのは、高級外車。平連台というのは、大衆車。肩車
は、自転車ということになる。それぞれの人たちは、それぞれの思いをもって、それぞれの連
台を選び、川を渡ったにちがいない。いろいろな事情もあったことだろう。何を考え、何を思い
ながら、それぞれの連台に乗ったのだろう。しかしまったく、想像できないわけではない。

 人も半世紀以上、生きていると、「過去」というものが、おぼろげながらも、わかるようになる。
私の子ども時代の、その先には、戦争があり、さらにその先には、大正時代、明治時代があ
る。江戸時代もある。

 子どものころ見たぼんやりとした景色や風景が、そのまま江戸時代のそれと重なる。つまり
私自身の子ども時代を思い出しながら、江戸時代もそうだっただろうなと思う。

 広重の絵には、馬に乗った人もいるし、かごに乗った人もいる。川原には、座って順番を待
つ人の姿も描かれている。ここに書いた、平連台も、いくつか無造作に横たわっている。

 そういう人たちは、いったいどこへ消えてしまったのか? ……ということは、同時に、当然の
ことながら、私たちの運命も、やがてそうなるということ。が、だからといって、ここで「生きること
のむなしさ」を書くつもりはない。事実は、その反対で、私はそこに、懸命に生きてきた人たち
の、生きざまそのものを感ずる。

 私も何も残さないかもしれない。このまま消えてしまうかもしれない。しかし懸命に生きたとい
う、事実だけは残る。たとえば私の子ども時代についても、今は、何も残っていない。あのころ
生きていたおとなたちも、ほとんどが死んでしまっている。

 ただ残念なのは、そうして生きた人たちの、熱い実感というか、肌で触れることができるよう
な現実感が、残っていないということ。かろうじて広重はそれを版画にしたが、もしその版画も
なければ、その実感は、さらに遠ざかってしまっただろう。

 どうしてあの時代は、もっと記録を残さなかったのだろう。あるいはそういう記録を、残すこと
さえ許されなかったのか。江戸時代の文化といっても、そのほとんどは、こうした庶民の文化で
あったはず。歌舞伎や浄瑠璃だけが、文化では、決して、ない!

 島田の川越遺跡を訪れてみると、当時の宿場なども再現されていることもあり、その時代に
タイムスリップしたような錯覚に襲われる。それぞれの家の中に展示されている、当時の道具
などを見ると、さらにそうである。

 土日でも、訪れる人も少ない、静かな遺跡だが、一見の価値はある。みなさんも、ぜひ、訪れ
てみたらどうだろうか。

(付記)

 ここ40〜50年の日本の変化には、はげしいものがあるが、しかしそれ以前はというと、きわ
めてゆるやかな変化であった。

 だから私が子どものころには、江戸時代そのものが、まだいたるところに残っていた。祖父
母は明治生まれの人だったが、江戸時代そのものを引きずっていた。さらに田舎へ行けば行く
ほど、江戸時代が、より濃密に残っていた。

 そういう意味でも、団塊の世代というのは、貴重な存在といってもよい。江戸時代と、現代を
同時に語ることができる。

 そんなわけで、私は、今、江戸時代の一般庶民の文化に、たいへん興味をもっている。つま
りそれが私自身のルーツでもあるからである。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●Charlieとチョコレート工場

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Charlieとチョコレート工場を見た。

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 マガジン読者の方から、「Charlieとチョコレート工場」(ビデオ)について、評論してほしいとい
う依頼があった。「幼児教育を評論するものとして、どう思うか」と。

 ストーリーについては、省略するが、映画そのものは、40年以上も、世界でベストセラーにな
っている、同名の小説を映画化したもの。どこか、マイケル・ジャクソンが個人的に作った、「ネ
バーランド」という遊園地を連想させるような、過激なほどまでに、ファンタジックな映画。画面
がけばけばしくて、まるでパチンコ屋かどこかへ入ったような気分になった。ただ私には、あま
りにも奇想天外すぎて、星は、★★の2つ。奇想天外というよりは、思考が分裂している(?)。
支離滅裂(?)。突飛性を強調しすぎるあまり、肝心の主題が、そのつど、ぼけてしまったような
印象をもった。

 監督は、ティム・バートン。主演は、ジョニー・デップと、子役の、フレディー・ハイモア。

 5人の子どもが、チョコレート工場へ入ることを許されるが、最初から、ストーリーが、見え見
え。何よりも抵抗を覚えたのは、4人の、(できそこないの子どもたち)が、つぎつぎと、それぞ
れの罰を受けるところ。毒気が強すぎる。しかもその(できそこないぶり)が、強調されすぎ。極
端なドラ娘に、ゲーム漬けの子ども。理屈ばかりこねる子どもに、それに超肥満児。

 アメリカでは、「肥満」について話すのは、タブー視されているはず。ふと「こんな映画を作って
いいのかなあ?」と思った。つまり肥満児を、できそこないの子どもにしてしまって、いいのかな
あ、と。

 で、最後は、極貧家庭で、家族を大切にして生きる子ども、つまりフレディー・ハイモアが演ず
るピーターが、最後のプレゼント、つまりチョコレート工場のすべてを譲り受けるというプレゼン
トを、手にする。この子どもが、他の4人とは対照的に、超できすぎ。不自然なほど、できすぎ。

 言わんとするところは、よく理解できるのだが、先にも書いたように、私には、奇想天外すぎ
た。ビデオの流れに、ついていくことができなかった。チョコレート工場とはいうものの、宇宙の
どこかに浮かぶ、宇宙船か何かのよう。そういう構成なら、私にも、まだ理解できたかもしれえ
ない。が、よくよく考えても、星は、やはり★★の2つ。

 映画としては、よくできた映画だと思う。CGをふんだんに使って、全体が夢の中の世界のよ
う。しかし肝心の主人公のCharlieが、あまりにも軽すぎる。好き好きもあるのだろうが、私は、
どうしてこんな映画に、77%もの人が、星5つの評価をしているのか、よくわからない(MOVIE  
WALKER調べ)。

 私は、おもしろいとも思わなかったし、見終わったあと、「時間を無駄にした」という思いばかり
が残った。つまり得るものは、何もなかった。

 ついでに一言。子どもの見方が、甘い。短絡的。たとえば「ほしがるものを、買い与えるとドラ
娘になる」という発想は、あまりにも一方的すぎるのでは? 肥満にしても、最近は、精神医学
の分野で論じられることが多くなった。「過食症の子どもは、自己管理能力が劣っている」という
発想も、しかり。

 こんな発想で子どもをみたら、知恵の発達に問題のある子どもはどうなのか? 身体に障害
のある子どもはどうなのか? ……ということになってしまう。ADHD児や、LD児は、どうなの
か? これらは子どもの責任というより、そもそも(責任)を追及するほうが、まちがっている。
映画に出てくる4人の子どもにしても、子どもに罰を与えても、意味がない。

 それに罰を与える、神的な存在のCharlieにしても、どう見ても、その(神)に見えない。心の
ゆがんだ、小悪魔。そんなCharlieに、どうして子どもたちを罰する資格があるのか? きびし
い意見を書いたが、これでは、子どもに何か問題が起きると、自分の責任を棚にあげて、子ど
もを何とかしようと騒ぐ、親の心理と同じではないか?

 やはり、星は★★の2つ。1つでもよい。(ゴメン!)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1203)

●夜の街(散文)

++++++++++++++++++

いろいろあって、夜の街を歩くことに。
時刻は、10時、少し前(?)。
ふだんは、見られない光景を、
私は、いくつか、目にした。

++++++++++++++++++

 肌寒さを感ずる夜だったが、それでもどこかに春の陽気をまぶしたような夜だった。仕事の
帰りに、私は、街中の通りを歩いてみた。映画館の時刻表を手に入れるためだった。しかしそ
こで見た光景は、昼間と、まるでちがうものだった。

 たったひとりで、ラップを踊っている若者がいた。
 ホームレスの男が、ダンボール箱の中で、眠っていた。
 コーヒーショップのテーブルで、顔を腕でおおって、うずくまっている男がいた。
 1人の女性が、排水溝の格子を、小さな棒で、何度もつついていた。

 何をしているのかとしばらく遠巻きにして見ていたら、格子の中に落ちている、指輪のようなも
のをほじって、取り出そうとしているのがわかった。「あんなところに指輪?」と思ったが、指輪
ではなかったかもしれない。それを1個、2個と、ほじって、集めていた。

 町の中心部は、繁栄の象徴かもしれないが、夜は、その正反対の、別の姿を映し出す。もっ
と正確に言えば、心にキズをもった人、孤独な人、負け組の人、そういう人たちだけが、取り残
されて、そこにとどまる。

 しかし何という場ちがいな光景!

 近代的なビルに、大理石様のブロックで飾られた、道路。電子的な光を放つ街路灯。ネオン
サイン。電光掲示板。その中に、ラップを踊る男がいて、ホームレスの男がいる。行き場をなく
した男がいて、女がいる。

 時刻は……?、と思って、時計をさがしてみたが、時計が、街中から消えて久しい。それに公
衆電話も、電話ボックスも消えた。ときどき行き交う若い男女は、みな、例外なく、携帯電話を
手にもちながら、歩いている。

 大きなちがいがあるようで、実は、どこにもない。私は、たまたま私であるだけ。朝日ととも
に、この街にやってきて、夕日とともに、この街から去っていく。が、その私でも、あと数時間、
この街にとどまれば、ラップを踊り、ダンボールの中で眠るようになる。わずかな小遣いを片手
に、コーヒーショップのテーブルで、顔をうずめるようになる。

 同じ道を帰るとき、まだその女性は、そこにいた。今度は、顔を見ることができた。年齢は40
歳くらいだろうか。すすけた顔色をしていた。それに前に見たときには気がつかなかったが、黒
い、大きなオーバーを着ていた。そのオーバーが、ほこりにまみれて、顔の色と同じように、す
すけていた。

 ラップを踊っている男も、そこにいた。ホームレスの男も、そこにいた。地下道を通って、反対
側に出ると、そこには、Yという予備校があった。大学受験専門の、全国チェーンで展開してい
る予備校である。

 そのポスターには、こうあった。「この1年で、一生が決まる!」と。

 それは、(脅し)なのか、(励まし)なのか。そんなことを考えながら、デジタルカメラで、そのポ
スターの写真をとった。

 振り返ると、ときおり吹き降ろす強い風が、乾いた地面からほこりを巻きあげているのがわか
った。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1204)

●たがいに先制攻撃?

++++++++++++++++++++

アメリカも、K国も、たがいに「先制攻撃の
選択肢を放棄したわけではない」と主張して
いる。

アメリカは、イランに対して、そう言ったの
だが、それにさっそく、K国が反応した。

++++++++++++++++++++

 K国を一言で、批評するなら、妄想的自己愛者的国家ということになる。わかりやすく言え
ば、身のほど知らず。自分のことが、まるでわかっていない。

 しかしここで注意しなければならないのは、K国が言うところの先制攻撃というのは、日本に
対してであること。あるいは日本の中のアメリカ軍基地に対してであること。

 理由が、ある。

 仮にK国が日本にあるアメリカ軍基地に対して、先制攻撃をしかけたとしても、アメリカ軍は、
それに対して、手も足も出せない。朝鮮動乱のときとは、時代も背景も、大きくちがう。

 アメリカ軍が反撃したくても、韓国が、それにブレーキをかける。韓国内のアメリカ軍は、韓国
政府の了解なしには、K国に対して、一兵も動かすことができない。その韓国だが、日本がK
国に攻撃されたとき、自国を犠牲にしてまでも、アメリカに同意を与えるはずがない。むしろ、K
国の側に立って、K国を援助するかもしれない。

 もちろん交戦権を放棄した日本も、手も足も出せない。一方的に防衛に徹するのみ。戦争の
大義名分も立つ。K国にしてみれば、日本ほど、組みしやすい国はない。

 ただそれだけの度胸が、金xxにあるかどうかというと、それは疑わしい。私は、「ない」と思う
が、しかし油断はできない。ここはアメリカ頼みということになるが、そのアメリカも、このとこ
ろ、様子が変わってきた。「空軍と海軍は、提供するが、陸軍は出さない」という方針らしい。

 つまり、アメリカとしても、アメリカン・ボーイズの損害は、最小限にとどめたいという意向のよ
うである。沖縄海兵隊の、グアムへの移動には、そういう意味がこめられている。

 勇ましいK国制裁論と、反米、反基地闘争が渦巻く、この日本。その両者が、ますます先鋭
化する傾向さえ見せる。ともにその言い分は、よく理解できるが、ただ1点だけをのぞいて、私
は、現在のK首相が率いる、K内閣を支持する。

 その1点というのは、Y国神社、参拝である。K首相よ、もうこれ以上、Y神社参拝にこだわる
のは、おやめなさい! 日本の置かれた状況をよく考えて、ここは、『負けるが勝ち』。一歩退
いてこそ、日本の株もあがろうというもの。どうか、どうか、おやめなさい!
(06年03月22日記)

(付記)拉致問題に抗議の気持ちをこめて、私は、「K国」、「金xx」と表記している。正式の国
名、正式の名称を使うことに、少なからず、抵抗感を覚えるからである。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1205)

●指導する人vs指導される人

++++++++++++++++

親しくなりすぎても、指導する人は、
指導できなくなる。

しかしある程度、親しくならないと、
指導は、できない。

そのあたりの一線を、どう引くか?

++++++++++++++++

 指導する人と、指導される人とは、基本的に、立場が、ちがう。ちがって当然である。対等の
立場で、対等の能力(知識)なら、指導する人と、指導される人の関係は生まれない。

 指導する人には、それなりの能力(知識)の優越性がなければならない。その優越性が、そ
れぞれの立場を、ちがったものにする。たがいになれなれしいのもよくない。しかし距離があり
すぎても、これまたよくない。とくに、相手が、子どものばあいは、そうである。

 最近でもこんな経験をした。

 そのクラスは、小学3年生だけの、4人のクラスだった。いろいろ事情があって、4人だけにな
った。経営的なことを言えば、4人だけでは、経営は、なりたたない月謝を合計しても、学生ア
ルバイト(家庭教師)の半額にもならない。しかし私はそのクラスを、1年以上、つづけた。

 で、新年度になり、時間的なつごうがつかず、そのクラスの4人を、別のクラスに移すことにし
た。しかしここで異変が起きた。

 1対4のときは、つまり4人だけのクラスのときは、何かにつけて、先生と生徒という関係では
なく、友だちのような関係になる。生徒は、私のことを、呼び捨てにし、私も、それを軽く受け流
していた。

 が、ほかのクラスでは、そうではない。ある程度の緊張感がないと、10人とか、12人のクラ
スをまとめることができない。が、4人だけのクラスから移ってきた子どもは、そうではない。

 以前と、同じように、なれなれしい口調で話しかけてくる。当然、私は、それをたしなめる。
が、子どもは、自分を切りかえることができない。とまどう。そしてとたん、「勉強がおもしろくな
い」と言い出す。

 一度、カゴの外に出た小鳥は、カゴにはもどらない。それと同じに考えてよい。

 そこで改めて、考える。指導するものは、指導されるものに対して、どのようであるべきか、
と。よく人間関係を口にする人がいるが、はっきりここで言っておかねばならない。相手が、子
どもでは、人間関係など、生まれない。とくに相手が、幼児や小学生では、人間関係など、生ま
れない。(子どものほうが、どう考え、どう思うかは、それは子どもの問題であって、指導するも
のの側の問題ではない。)

 だから指導するものは、いつも、その向こうに親がいることを意識しながら、指導する。もちろ
んその親との間に、人間関係ができることはある。しかしそれとて、教育の世界では、できるだ
け、避けなければならない。とくに私の職場のように、親といっても、90%が母親というばあい
は、そうである。

 ささいな誤解でも、そのまま大問題になってしまう。そのまま命取りになってしまう。母親との
間には、つねに一線を引いて仕事をする。たとえばこれはあくまでも、私のばあいだが、私は
つぎの3つの原則を、守っている。(1)母親とは、子どもの教育以外の話はしない。(2)教室の
外では、決して、母親とは、会わない。(3)親類、縁者の子どもは、教えない。

 それぞれの人には、それぞれの事情があるだろうから、私のこうした姿勢が、正しいとは思
わない。近くの友人(塾講師)は、毎週のように親たちと、飲み歩いている。それでいて、何も、
問題は起きていない。そういうケースもある。

 ただこれだけは、はっきりと言える。

 子どもの前では、先生の悪口は、タブー中のタブー。学校の先生はもちろんのこと、おけいこ
塾、スポーツクラブの先生などなど。悪口を言えば、それでおしまい。子どもは、その先生の指
導に従わなくなる。

 先生に何か、問題があるとしても、子どものいないところで、また子どもの耳に届かないとこ
ろで、処理すること。子どもというのは、親の気持ちを、そのまま先生に伝える。つまり子どもを
見れば、その子どもの親が、先生(=私)を、どう思っているか、手に取るようにわかる。

 これはウソでも、誇張でもない。子どもは、そういう意味では、自分をごまかしたり、隠したり
することができない。とくに幼児〜小学高学年児は、そうである。先生といっても、生身の人
間。中には、牧師か僧侶のように思っている人もいるかもしれないが、キズつくときは、キズつ
く。

 わかりやすく言えば、指導する人は、こと子どもの教育に関しては、親の理解と信頼が不可
欠。それなくして、指導は、できない。『親しき中にも、礼儀あり』ということか。『親しき中に垣を
せよ』ともいう。
 

●パラドックス

++++++++++++++++++

私「静かにしなさい」
子「静かにしてるでしょ」
私「ぼくの言っていることに、逆らうな」
子「何も、さからっていないでしょ」と。

こういうのを、パラドックスという。
「逆らっていない」と言いながら、
私に逆らっている。

+++++++++++++++++++

 「張り紙するな」という張り紙を、張る。スピード違反をした車を、それ以上の猛スピードで追い
かける。こういうのをパラドックスという。

 似たようなパラドックスを、子どもの世界で、感ずることがある。A子さん(中学生女子)と話し
ていたときのこと。A子さんは、私が何を言っても、まず、それを否定する。

私「昨日は、いい天気だったね」
A[でも、寒かったわ]
私「街は、たいへんなにぎわいだったようだ」
A「私は人ごみは、嫌い」
私「もう春だね」
A「まだ彼岸になっていないわよ」と。

 そこで私が、「あのね、何でもぼくの言うことを否定しないでよ」と言うと、すかさず、こう言う。
「私、何も否定なんかしてないわ!」と。

私「ほら、また否定した!」
A「どうして、否定なの!」
私「それが否定しているということなの!」
A「正しいと思っていることを言うのが、否定なの? 先生、おかしいわよ」と。

 幼児にも、このタイプの子どもがいる。ふざけていて、ペン立てを倒して、ペンを床に散らかし
てしまったとする。するとすかさず、私を見つけて、「先生が、こんなところに置いておくから、悪
い!」と。

 そのA子さんだが、私がそれをたしなめると、さらに、こう言う。「だって、先生は、いつも、言
いたいことがあったら、言えと言っているでしょ。私だって、言いたいことは言うわよ!」と。

 まさに、ああ言えば、こう言う式の反論をしてくる。まともに話していると、こちらのほうが、お
かしくなる。気がヘンになる。

 原因は、その子どものもつ、(ひねくれ)。勝気で負けず嫌いの性格もあるが、生い立ちが、
それほど恵まれていなかったことによることが多い。A子さんのばあいも、下に妹がいる状態
で、5歳のときに、母親をなくしている。

 加えて、私に対する不平、不満があるのかもしれない。それとも、本当は、嫌っている? 心
の中は、いつも緊張状態。そのため、一見、表情はおだやかだが、そこから伝わってくる、温も
りが感じられない。心は、冷たい。兄が交通事故にあったときも、「兄は、バカだから」と、平然
と言っていた。

 こうした(ひねくれ)、あるいは、(ひねくれ症状)は、一度身につくと、その人に、一生、ついて
回る。本人に、その自覚さえない。「私はふつうだ」と思いこんでしまう。他人と自分を比較する
こともない。

 私は、このタイプの子どもを教えるのが苦手である。ついけんか腰になってしまう。自分のい
やな面だけが、えぐり出されてしまう。できるなら、こういうタイプの子どもとは、接したくない。
(おとなでも、そうだが……。)

(付記)

 何かを話しかけると、即座に、「ウッセーナー」と言いかえす。こういう態度を、心理学の世界
でも、「拒否的態度」という。慢性的な欲求不満が原因と考えられている。それがさらに長い時
間をかけて、その子ども(人)の、性格として定着してしまう。心を開かないため、結婚しても、
結婚生活そのものが、うまくいかないことが多いとされる。
(はやし浩司 拒否的態度 否定的態度 否定的姿勢 慢性的な欲求不満 ひねくれ ひねく
れた子供)


●負け犬

+++++++++++++++++

マスコミの世界で、華々しく活躍する
人たち。

そういう人たちは、そういう人たちなりに
努力をしている。苦労もしている。

そういう人たちを、私は、どこか
うらめしそうにながめながら、こう思う。

「そうだ、私は、負け犬なのだ」と。

そう、私は、負け犬なのだ。

+++++++++++++++++

 大きな原石から、一個のダイアモンドを削り出す。何十カラットというダイアモンドである。しか
しその削りカスは、捨てるわけではない。その削りカスから、また小さなダイアモンドを、削り出
す。今度は、1カラットとか、2カラットのダイアモンドである。

 さらにその削りカスから、小さなダイアモンドを削り出す。0・01カラットとか、0・02カラットと
かいう、まあ、虫眼鏡で見なければわからないような、小さなダイアモンドである。さらに残った
カスは、そのまま捨てられるか、ダイアモンドであれば、研磨機の研磨剤として使われる。

 しかしダイアモンドは、ダイアモンド。大きさは関係ない。

 何十カラットもするようなダイアモンドで、自分を輝かせる人もいれば、0・01カラットのダイア
モンドで、自分を輝かせる人もいる。しかしあるとき、そういう自分にふと、気がつく。

 「私は、負け犬だ」と。私がしがみついているのは、小さな、小さな、0・01カラットのダイアモ
ンドでしかない、と。が、それはわかっていても、そのダイアモンドを捨てるわけにはいかない。
しがみつくしかない。それを手放したら、私から、輝きは消える。

 ……というには、グチか? 実は、このところ、この種のグチが多くなった。自分でもよくわか
る。それを口にすると、ワイフは、こう言う。「そんなこと言うなら、もうマガジンの発行など、や
めたら!」と。

 正直に告白するが、自分でも、どうしてこんなバカなことをしているのか、よくわからなくなると
きがある。それはたとえて言うなら、砂浜のゴミを毎日、拾い集めているようなもの。その一方
で、派手な連中がやってきて、毎晩のようにその砂浜でパーティを開き、ゴミをまき散らす。

 いくらゴミを拾い集めても、そういう連中には、かなわない。その上、こうした仕事というのは、
(仕事と言えるかどうかさえ、わからないが……)、だれにも評価されない。読んでくれる人にし
ても、(だからといって、読者の方をどうのこうのと言っているのではない。それが現実だと思う
から、そう書くが)、「どうせ、無料のマガジン」という評価しかしてくれない。自分でも、それがよ
くわかる。

 今までに、ショッキングだった事件には、こんな事件がある。

 ある男性から、子どものことで、相談があった。で、その相談について、「今は、時間がない
ので、また別の機会に考えてみます」という返事を書いた。それについて、「君は、HPなどで、
無料相談を歌っているではないか。だったら、責任を取れ」と。

 あるいは、返事を書いても、「私の不幸話を、ダシにするとは、許せない」とか、「何も、他人
のあなたに、そこまで言われる筋あいではない」とか言って、叱られたこともある。返事を書くと
いっても、1〜2時間は、かかる。さらに「有料マガジン(月額200円)と、無料マガジンの内容
が同じではないか。金を返せ」と言ってきた女性もいた。マスコミの世界で、よく登場するOとい
う女性である。

 「マガジンの量が多すぎる」「あんな長文の子育て診断など、受ける人はいない」という苦情
も、定期的に、よく届く。

 もちろん励ましのメールもあるが、数の上では、苦情や抗議のメールのほうが、多い。

 ワイフは、「あなたは無名だから、相手は、なめているのよ」と言う。そうかもしれないし、そう
でないのかもしれない。

 まあ、ともかく、1000号までは、つづける。そのあとのことは、そのとき考えればよい。

 人は、たとえそれが0・01カラットのダイアモンドであっても、そこに夢と希望を託す。夢と希
望をつなぐ。いくら負け犬でも、それがないと、生きていかれない。今の私が、そうだ。

 がんばります! がんばりましょう! この日本を、すばらしい国にするために!

(カラット)(carat)は、ダイヤモンドなどの宝石の質量を表す単位である。現在は、1カラット=
200ミリグラム(=0.2グラム)と規定されている。分量単位として、ポイントがあり、1カラット=
100ポイントとなっている。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●アザデガン油田

+++++++++++++

とうとう表に出てきた。
アザデガン油田が、である。

日本は、イランにあるこの
油田開発に、すでに、初期投資
だけでも、20億ドル以上も
投入している。

そのアザデガン油田開発に、
アメリカがストップを
かけてきた!

++++++++++++++

 ヤフー・ニュースによれば、日本とイランが合弁で開発を進めている、アザデガン油田につい
て、とうとうというか、ついにアメリカが、開発凍結を求めてきたという(3月23日・※1)。

 アザデガン油田は、推定埋蔵量260億バレルをもつ、日本最大の自主開発油田(※2)。こ
の油田開発が軌道に乗れば、日本は、以後、きわめて安定的に、原油を確保することができ
るはずだった。

 しかし開発凍結ということになれば、同時に、日本は、その利権を失うことになる。が、それだ
けではすまない。現在、日本はイランからだけでも、原油の15%を輸入している。その15%に
ついても、輸入ができなくなる。

 日本は、アメリカやEU諸国とは、比較にならないほど、原油を中東に依存している。本来な
ら、日本は、中東に報道機関を集中させるべきである。私たちが、その動向を、逐一(ちくい
ち)知っていたところで、何もおかしくない。

 しかしそのニュースのほとんどは、アメリカやEUを経由して入ってきている。つまりこのあたり
にも、日本のノー天気ぶりが、集約されている。脳死状態と言ってもよい。今日も、どの新聞
も、WBCで優勝した日本チームの話ばかり。野球ファンには申しわけないが、ことの重大さと
いうことになれば、WBCとアザデガン油田とでは、比較にならない。

 そこで日本は、「日本がアザデガン油田から手を引けば、フランスが取ってかわるだけ」と言
って、今まではアメリカを説得してきた。が、そのフランスも制裁に加わりそうな気配。とたん、
説得力をなくした。……なくしてしまった。が、さらにまずいことに、肝心のイランは、反対に、
「日本がやらないなら、中国にやってもらう」と、日本を脅し始めている。中国も、その気になり
つつあるらしい。

 もしここでアザデガン油田の開発と、開発利権が中国に渡ってしまえば、アジアにおける日本
と中国の立場は、少なくとも原油確保という点では、完全に逆転する。野球にたとえて言うな
ら、3対2で、日本が1点差で試合を推し進め、つまりあと一歩で、中国に勝てると思っていたと
ころ、9回の最終回のウラで、中国に、満塁ホームランを打たれるようなものである。

 ただアメリカは、こう言っている。「中国には、まだその力はない」と。が、それはどうか? 砂
漠での油田開発については、すでに中国は、その実力を着実に蓄(たくわ)えつつある。昔から
こう言うではないか。『油断、大敵』と。この格言は、もとはと言えば、中国の格言である。中国
が、それを逆手に使って、日本を追い落とす可能性は、きわめて高い。

(付記)

 ここでアメリカの申し出を日本が断れば、日米関係は、そのまま崩壊する。しかし日本には、
K国問題がある。「K国の核開発は反対だが、イランの核開発は容認する」というわけにはい
かない。

 日本としては、結局は、アザデガン油田の開発を断念するしかないだろう。が、そうなれば、
日本はどうなるか? 日本は、戦後、最大の石油危機を迎えることになる。つまり私たち日本
人に、その覚悟はできているか? WBCでの優勝に、浮かれ喜ぶのは、そのあとでもよいの
ではないかと、私は思うのだが……?

++++++++++++++ 

※1……イランの核兵器開発の動きに対する国際的な反発が強まる中で、米国政府関係筋
は、ブッシュ政権のゼーリック国務副長官やジョゼフ国務次官(軍備管理・国際安全保障担
当)らが、日本政府に非公式な形でアザデガン油田の開発を、少なくとも中断するよう要請した
ことを明らかにした。米国議会でも同様の要請を行う動きが目立っている。米国側は日本側に
対し、国連の対イラン経済制裁の成否にかかわらず、同油田開発停止を強く求めており、日
本側の対応次第では、日米関係に深刻な摩擦を生むおそれが出ている。

※2……推定埋蔵量260億バレルをもつ、日本最大の自主開発油田。現在、国際石油開発
が75%、イラン国営石油会社の子会社が25%の権益を保有している。当初は2005年中に
開発作業に入り、08年から日量15万バレルで生産を始める予定だったが、イラン側の地雷
除去作業などが遅れており、生産開始もずれ込む見通しとなっている。(ヤフー・ニュースより)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1206)

●募金活動

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現在、東海道のローカル線の駅前で、
高校生たちが、募金活動をしている。

何でも、G先生を救う会だという。

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 先日、友人の結婚披露宴のために、静岡県S市へ行ってきた。そのS駅でおりると、高校生
たちが、(中学生だったかもしれない)、何かの募金活動をしていた。それには、「Gちゃん」だ
ったか、「Gさん先生」だったか、何とか書いてあって、その横に、「重い肝臓病から、救うため」
とか何とか、書いてあった。(あいまいな記憶で、ごめん!)

 同行したワイフが、チラシを受け取った。そしてそれを読んで、「肝臓移植のために、6000
万円だってエ!」と、声をあげた。

私「6000万円!」
ワ「そうみたい。そのお金を集めているんだってエ!」
私「そんなにかかるの?」
ワ「日本では、肝臓移植できないため、外国でするそうよ」
私「だれの?」
ワ「学校の先生みたい……」と。

 私は、こうした街頭での募金活動には、協力しないことにしている。今までに、何度も、苦い
経験をさせられたからである。遠くは、学生時代に、それをさせられた。たいていは、どこかの
インチキ宗教団体が、姿を変えてしている。最近では、捨て犬を救う会というのもあった。

 が、しばらく、どういうわけか、その募金活動だけは、気になった。子どもたちの屈託のない、
つまり汚れのない顔が、美しかった。脳裏に焼きついた。「何があったのだろう」「どうしたのだ
ろう」と考えた。

 で、結婚披露宴が終わり、帰途についた。再び、S駅の前に来ると、相変わらず、高校生た
ちが、(中学生だったかもしれない)、澄んだ声をはりあげていた。私はポケットの中を、手でさ
ぐった。小銭が、ジャリと音をたてた。私は、金額を見ることもなく、それをつかんで、そのまま
募金箱の中に入れた。

 「6000万円というのも、たいへんだろうな」と、瞬間、思った。「どうして日本の医療機関では
できないのだろう」とも、思った。事情は、いろいろあるのだろう。「相手が子どもたちなら、だま
されても、悔いはない」と思いながら、私は、改札口を、ワイフと2人で通り抜けた。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●心配な郵便局員

+++++++++++++++

要領をつかめない郵便局員。
そういう人を相手にすると、
言いようのない不安感を覚
える。

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 毎週、アメリカに住む、二男夫婦に、新しい雑誌を届けている。今は、ロボットをつくる雑誌を
送っている。その雑誌を送るようになって、今回で、4回目になる。毎号、それについてくる部品
を組み立てると、最後には、ロボットができあがるという雑誌である。

 で、それに週刊誌や、別の本を合わせて、昨日、郵便局へもっていった。このあたりでも、最
大の郵便局である。「本局」と、私たちは、呼んでいる。

 見ると、いつもとちがった顔の女性が、そこにいた。瞬間、「心配だな」と思ったが、そのカン
は、的中した。

 「アメリカ、SAL便です」と言って、小包を、台の上に載せると、その女性は、何やら反対側
で、スイッチを押し始めた。パチパチ、またパチパチ、そしてパチパチ。

女「3350円です!」
私、ギョッとして、「そんなはずはありません。1キロもないのですから……」
女「SAL便ですね。アメリカですよね」
私「あなた、国際小包のところを押していませんか」
女「SALの航空便ですね」
私「だからア、SAL便のところを押したあと、航空便を押したら、航空便の値段になってしまうで
しょ!」と。

 その女性は、またパチパチと、スイッチを押し始めていた。もう1人、横に、いつもの男性がい
たが、その男性は、別の客と、対峙していた。言いようのない不安感を覚えた。

女「ああ、1770円です」
私「そんなはずはありません」
女「小包ですよね」
私「小包ではありません。小型包装物です」
女「小型包装物ですかア?」
私「……SALのアメリカ、小型包装物の順でスイッチを押してみてください」
女、懸命にパチパチとスイッチを押しながら、「……1160円ですね」と。

 その包装物には、800円分の記念切手がすでに張ってある。だから残りは、360円というこ
とになる。私は1000円札を出したが、一向に受け取る様子もない。私がさらにお金を出すの
を、待っているといったふう。

私「1160円じゃあ、なくて、800円分の切手は張ってありますから、残りは360円です」
女、切手を指でこすりながら、「これ、切手ですかア?」
私「そうです。切手です」と。

 私はますます不安になった。1000円札を出すと、おつりを待った。

女「じゃあ、あとはこちらでしておきますから……」
私「おつりは……?」
女「そうでしたね、ごめんなさい」と。

 その女性は、今度は計算機をパチパチとたたき始めた。が、どうも要領が悪い。が、そのう
ち、横にあった紙の上で、鉛筆を使って、計算を始めた。

 「800円分の切手が張ってありますから……。1000円いただきましたから……。切手代金
は、1160円ですから……」と。

 私はそれを見ながら、昔見た、ドリフターズの、『もしも、こんな○○があったなら……』 とい
う、コント番組を思い出していた(失礼!)。『もしも、こんな郵便局があったなら……』と。コント
番組では、幽霊の局員が出てきたり、病気もちの局員が出てきたりする。が、それで不安は、
消えたわけではなかった。

 「おつりは、640円です」と、その女性は言ったが、いつものシールを張る気配がない。海外
向けの小型包装物のばあい、4センチ四方くらいの大きさの、シールを張ることになっている。

私「あのう……、シールは……?」
女「シールですね。シールは……、エート、これでいいですか?」と。

 見ると、それは、「SAL」と書いた、シールだった。(この話は、本当だぞ!)

私「それはもう張ってあります。ほら、小型包装物申請用のシールです」
女「ああ、そうでした。忘れていました」
私「……?」と。

 そのシールに、簡単な内容と、金額を書きこむことになっている。

 それを渡すと、女は、また、「あとは、私のほうでしておきますから……」と。

私「あのう、そこじゃあ、まずいです」
女「どうして?」
私「ガムテープの上にシールを張っても、くっつきませんから」と。

 その女性は、そのシールを、包装したガムテープの上に張りつけていた。が、気のよい女性
なのか、ニコニコ笑いながら、私の指示に従ってくれた。が、肝心の切手を張る気配は、まるで
ない。しかしそれを見届けるわけにはいかない。

 私のほうも、少し疲れを覚えた。投げやりな気分になっていた。生徒だったら、がまんもでき
るが、相手がおとなどと、本当に疲れる。「まあ、いいや。もし切手代不足ということになって、
送りかえされてきたら、領収書をもってくればいい。どうせ急ぐ荷物でもないし……」と。

 外に出ると、ワイフが、車の中で私を待っていた。

ワ「混んでいた?」
私「いいや」
ワ「ずいぶんと、時間がかかったわね」
私「そうなんだよ」と。

 ワイフに説明するのも、おっくうだった。何もしゃべりたくなかった。疲れた。本当に疲れた。

 しかしあの女性、本当に切手を張ってくれたのだろうか。360円分の差額切手を……? 今
でもその不安感が、心のどこかに残っている。

 で、こういう仕事を長くしていると、瞬間見ただけで、心配な人と、そうでない人が、区別できる
ようになる。しかし金額を扱う仕事だから、もう少し、心配でない人にしてもらいたい。知らない
人だったら、そのまま3350円、払ってしまったかもしれない。

 それにしても、心配な郵便局員だった。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1207)

●Eの日記より

+++++++++++++++++

私も子どものころ、
パイロットにあこがれた。
その夢を、息子が
果たしつつある?

+++++++++++++++++

Final C'Kに合格した。

 デブリ(飛行後ブリーフィング)が終わると、同じく合格を果たした、他の班の同期がもう目を
赤くさせていた。僕はというと、終わった瞬間は、「はぁ疲れたな」くらいにしか感じていなかっ
た。が、合格の報告をY教官にしに行ったとき、いつもは軽くあしらうあのY鬼教官が、最後にこ
っちをしっかり向いて、気をつけをし、今までに見たことのないようなすがすがしい顔で、「おめ
でとうございました」と言って、頭を下げた。思いがけない行動だった。部屋に帰る途中の廊下
で、目頭がぐっと熱くなった。

 帯広。初めての空。暗く、長いトンネルだった。何度も追いつめられ、大好きな飛行機の操縦
すら、時にはもうやめたいと思うこともあった。今こうしてすべてを追え、ゆっくりと振り返ってみ
ると、山や岩や林ばかりで何もなかったところに、幅も不ぞろいで、でこぼこだけど、確かな一
本の道ができているのを感じる。

これから、もっと険しい山を削り、川を越え、空が一番綺麗に見える丘を目指してどんどん突き
進んで行くのだろう。技術は進歩し、もっと簡単に綺麗な道を作れてしまうかもしれない。けれ
ど、どんなに綺麗な道になったとしても、変わらないものが一つある。それは道の向かう方向
だ。この帯広で踏み固めてきたでこぼこの道の向く先に、目指すものがある。僕は方角がわか
らなくなったら、何度もこの道を振り返り、向きを修正していくのだ。

 今日合格したのはA班の6人。まだ全員終わったわけではないので、思い切り喜ぶというわ
けにはいかない。いや、たとえ全員終わったとしても、喜ぶわけにはいかない。と言うのも、僕
たちは今、大事な同期の一人を失おうとしているからだ。I―IVになくてはならない存在、部屋っ
子のK太。彼は今、Finalを目前に控え、この航大を去らなければならない。十勝の空は今、濃
い灰色の雲に覆われている。
 
(息子EへのBLOGへは、はやし浩司のHPのトップページ、右下より、どうぞ。みなさん、どうか
読んでやってください。彼にも励みになると思います。)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

【ニュース・あれこれ】

●メール問題

 民主党のN議員が、はじめて、情報提供者の名前を明らかにした。テレビ画面に向かって、
何ら悪びれた様子もなく、「氏名を明らかにします」「その名前は、N沢孝とおっしゃる方です」
(3月24日)と発言した。

 で、名指しされたN沢孝という人物は、「弁護士を通して……」などと言って、事件との関わり
を否定している。

 どちらがウソを言っているのか? この事件は、メール問題もさることながら、ウソがどういう
ものであるかを知るためには、たいへんよい材料になるのでは? 


●PSEマーク

 PSEマークとは、何か? いまだにその内容がよくわからない。私が理解している範囲で言
えば、中古品販売について、経済産業省の発行するPSEマーク、つまり安全検査マークがな
いと、その売買ができないということらしい。

 しかしこれこそ、まさに天下の愚法。いったい政府は、私たちの生活を、どこまで管理したら、
気がすむのか。


●韓国の東海

 「日本海」という名前の海が、そこにあることが、韓国には、よほどおもしろくないらしい。世界
にある、在外大使館を通して、それぞれの国が、「日本海」という表記を改め、「東海」と表記す
るように、要請しているという。

 しかし日本海は、日本海。どうして東海なのか。韓国から見れば、日本海はたしかに「東にあ
る海」かもしれないが、日本にとっては、「北の海」。あるいは「北西にある海」。自己中心性もこ
こまでくると、「?」。

 ついでながら、韓国では、東シナ海を、西海と呼んでいるそうだ。自分の国で、その周辺の海
をどう呼ぼうが、それはその国の勝手。しかし在外大使館を通して、地図の表記を改めるよう
要請までしているとは……? 『坊主、憎ければ、袈裟まで憎い』ということか。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1208)

●もう一つの世界

++++++++++++++++

どんどん進化する、インターネットの世界。

今度は、ポッドキャストというものが
登場した。

言うなれば、インターネットを利用した、
プライベートなラジオ放送局のこと。

++++++++++++++++

 「ポッドキャスト」という名前をご存知だろうか? 言うなれば、インターネットを利用した個人
的なラジオ放送局をいう。アメリカでは、大流行しているそうだ。

 そのためのソフト(フリ−ウエア)も充実してきている。ポッドキャスト専用の、配信サイトも、す
でにいくつか生まれつつある。よく知られたのに、ポッドキャスティングジュース、Seesaaブロ
グ、ケロログ、らじろぐなどがある。

 プロが作った番組より、おもしろいと言っている人が多い。興味のある人は、上記、サイトか
ら、ポッドキャストをのぞいてみるとよい。

 で、インターネットの世界がここまで、進んでくると、たとえば今までの、電波法は何だったの
かということになる。たとえばアマチュア無線がある。私たちが学生のころは、アマチュア無線
も、4級〜1級まで、その免許がこまかく区分されていた。試験もあって、それに合格しないと、
たがいに交信することもできなかった。

 が、今では、インターネットを利用して、ラジオ放送局まで、開設できる! 資格など、いっさ
い、不問。もちろんそれなりにおもしろくなければ、だれも聞いてくれない。が、しかし可能は、
可能。一度、試してみる価値はある。

 こうして考えてみると、インターネットの世界は、(現実の世界)とは別の、(もう一つの世界)と
いうことになる。その(もう一つの世界)には、もう一つの別の宇宙がある。そしてそこには、無
数の国と住民がいて、(現実の世界)と同じようなことをしている。しかしバカにしてはいけない。

 その(もう一つの世界)は、(現実の世界)にも、影響を及ぼし始めている。少し前、ライブDア
という会社が、世間を騒がしたが、それも、その一例。(現実の世界)の人たちが知らない間
に、(もう一つの世界)が肥大化し、(現実の世界)のテレビ局を買収する寸前にまで、いった。

 今まさに、第二の産業革命が、静かに、しかし確実に、進行しつつある。そう考えて、まちが
いない。

 では、その(もう一つの世界)を前にして、私たちは、どうあったら、よいのか。またどうあるべ
きなのか。

(1)現実感をいつも保つこと。
 
 インターネットの世界は、あくまでも(架空の世界)。その(架空の世界)の空が青いからといっ
て、それをそのまま信じてはいけない。インターネットの世界には、大意汚染もなければ、環境
破壊もない。が、それが(現実の世界)と思いこんではいけない。

 つぎに人間関係を、決して電気信号でつないではいけない。人間関係は、肌で触れあい、相
手の息を感じあってこそ、その深みをます。インターネットの世界の人間関係は、電気信号で
結ばれる。相手の肌のぬくもりを感ずることはない。これがともすれば、ゆがんだ人間関係を
作りやすい。

 要するに、(現実の世界)と、(もう一つの世界)の間には、明確な一線を引くということ。この
操作を誤ると、それこそ、何がなんだか、わけがわからなくなってしまう。

 それにしても、ラジオ局とは! 一昔前までは、こんなことは夢物語だった。しかし今では、そ
の気にさえなれば、そこらの専門のラジオ局に負けないようなことまで、できる。現に今、アメリ
カでは、専門のラジオ局の広告収入が激減し、インターネットラジオ局のほうの広告収入が、
急増しているという(NHK報道番組・06年3月)。

 フ〜ンと驚いてみたり、感心してみたり……。雑誌などには、その開設方法などが、詳しく紹
介されている。興味のある方は、どうぞ!

(付記)

 この世界では、早いもの勝ち。電子マガジンが現れたころには、発行しただけで、すぐ、100
人単位の読者がついたという。もの珍しさが、それを手伝った。しかし今では、それも過去の
話。私のマガジンでも、読者数は、合計で2100人前後になったが、1日1人ふえれば、よいほ
う。週3回の発行でも、その程度である。

 つぎに登場したのが、BLOG。今は、それが花盛りといった感じ。が、それも一巡しつつあ
る。トラックバックにしても、このところ、あるとしても、不良書きこみばかり。それがしつこいほ
どに、つづく。「あなたの童貞、落札してみませんか」と。BLOGをしながら、たいはんの開設者
は、コメントの書きこみを停止している。やはり不良書きこみが、あとを絶たないからである。

 が、最大の問題は、「だからどうなの?」という部分。「マガジンを発行したから、どうなの?」
「BLOGを開設したから、どうなの?」「ポッドキャストを開設したからどうなの?」と。

 どうしてそれをするのかという目的を、しっかりともたないと、そのまま沈没してしまう。その恐
れは、じゅうぶん、ある。それをすることによって、自分は、何をしようとしているのか、と。アメ
リカでは、先にも書いたように、ポッドキャストを配信することによって、広告料を取っているそう
である。つまり金儲け。

 しかしこの日本では、そこまでもっていくのが、たいへん(?)。そういう意味では、マーケット
が小さすぎる。思い切って英語版で勝負したほうが、よいのかもしれない。世界を相手にでき
る。

 ……などなど、いろいろ考える。


はやし浩司+++++++++March '06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●孤独

++++++++++++++

孤独になるって、いやですね。
病気になるより、ずっと、いや。

ホント!

++++++++++++++

 こうして家を離れて、ひとりで原稿を書いていると、孤独というものが、どういうものであるか、
それがよくわかる。

 その孤独。いくら有名になっても、いくら金持ちになっても、そういうものでは、絶対に、癒(い
や)されない。(……と思う。)孤独というのは、そういう点では、もっと原罪的なものではない
か。

 では、どうすればよいのか?

 もし私たちに、信じあえる人がいたら、幸いである。
 もし私たちに、心が開けあえる人がいたら、幸いである。

 が、その信じあえる人もなく、心を開けあえる人もいないとしたら、そのとき、孤独は、キバを
むく。容赦なく、その人に襲いかかり、その人の魂まで、食いつぶす。

 そういう意味では、どんな人も、孤独の前では、か弱い、どこまでもか弱い。狼(おおかみ)を
前にした、ひよこのようなもの。

 そこで人は、たがいに助けあい、わかりあい、信じあい、心を開けあい、そして愛しあう人を
求めて、原野をさまよい歩く。ただただ、さまよい歩く。立ち止まったとたん、孤独が、襲いかか
ってくる。

 よく家出をする人が、一方的に、家から離れていくことがある。子どもの世界でも、同じような
現象が、よく観察される。そういう子ども(人)は、家出をしているのではなく、立ち止まることが
できないから、そうしているだけ。

 が、やがて、体力と気力が尽きて、立ち止まる。しかしその先で待っているのは、孤独という、
自己否定。絶望。つまり、「死」。

 こうして多くの人は、孤独であることよりも、死を選ぶ。孤独という恐怖で、もがき苦しむくらい
なら、死んだほうがまし。気が楽。そして救われる。

 では、どうすればよいのか? どうすれば、この孤独と戦うことができるのか?

 一つのヒントが、イエス・キリストであり、マザー・テレサということになる。見かえりを求めるこ
となく、人に心を開き、人を信じ、そして人を愛する。もちろんイエス・キリストやマザー・テレサ
のまねなど、できるはずもない。しかしその万分の一、億分の一だけでも、それを実行できた
ら、人は、この孤独から、解放される。生きる喜びを、みなと、共有することができる。(……と
思う。)

 久しぶりの遠出。目の届くところに、二つの時計がある。一つは、9時37分をさして、止まっ
ている。もう一つは、振り子時計だが、その振り子は止まったまま。秒針は動いているが、正確
な時刻かどうかは、わからない。多分、夜中の10時ごろ? それとも11時ごろ?

 静かな夜だが、しかし耳鳴りだけはジンジンと聞こえる。先ほど、頭痛薬をのんだ。花粉症は
なおったはずだが、ここ数日間、断続的にはげしいくしゃみが出る。風邪をひくと、ときどき、こ
うなる。つまりなおったはずの花粉症が、現れる。

 こういうときは、気力も、(もちろん体力も)、弱くなる。と、同時に、孤独というのが、より鮮明
にわかる。

 こういう夜は、早めに床につくのが、よい。おやすみ!


はやし浩司+++++++++March 06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●人間不信

++++++++++++++++

K氏は、子どものころ、
母親に虐待された。

その後遺症は、今も
残っているという。

そのため、Kさんは、
今も苦しんでいるという。

++++++++++++++++

 K氏(今年、45歳くらい)は、子どものころ、実の母親に虐待されたという。虐待といっても、
言葉の暴力、無視、冷淡など。

 「このあたりでは、『ちょうらかす』と言いますが、つまり、いつもからかわれました。夜、小便を
漏らしたりすると、母は、それをみなに見せ、『ほら、Kが、おしっこ漏らした』『見てやってくださ
い。あのKが、おしっこを漏らした』と、みなの前で笑うのです」と。

 母親の精神年齢は、かなり低かったようだ。「たとえば、何かあると、すぐどこかへ隠れてしま
うのです。そこで私が泣きながら、母親をさがしていると、ちょうどよいころを見計らって、『ほ
ら、母ちゃんはここだよ』と言って、現れるのです。つまりそうして私が、母をさがすのを楽しん
でいたのですね」と。

 一事が万事。こうしてK氏は、母親不信に陥ってしまった。が、その後遺症は、今も、つづく。
私に、こう言った。

 「いいですか、林さん。母親を信ずることができないということは、もうだれも信ずることができ
ないのと同じです。今の女房と結婚して、もう20年近くになりますが、その女房ですら、いまだ
に信ずることができません。何があっても、すぐ疑いの目で見てしまうのです。それは女房にと
っても、さぞかし、つらいことだろうと思います」と。

 母親に裏切られしものよ、
 汝は、心の不完全燃焼感と戦いながら、
ただひとり、孤独の海を、
 あてもなく、さまよいつづける。

 つかまる浮き木もなく、
 汝は、人間不信という十字架を背負いながら、
 暗くてさみしい闇の世界を、
 目に涙を浮かべながら、さまよいつづける。

 心理学の世界では、K氏のような心理状態を、「基本的不信関係」という言葉を使って説明す
る。決して、特殊なケースではない。何割かの人がそうでないかと思えるほど、多い。つまり乳
幼児期に、親、とくに母親との間で、基本的信頼関係を結ぶことができなかった子どもは、それ
以後、この「基本的不信関係」で悩む。そしてその後遺症は、一生、つづく。

 言うなれば、心の傷。本能的な部分にまで、それが及んでいるから、簡単には、癒(いや)さ
れない。つまり、この問題は、それくらい根が深い。

私「戦後の一時期は、そういう時代だったかもしれません」
K「私は、戦後の人間ではありません」
私「当時は、まだ、戦後のあのドサクサを引きずっていましたから……」
K「親も、何も考えず、子どもを産んでいたような時代だったかもしれませんね」
私「まさに粗製濫造の時代だったということです」と。

 私自身は、昭和22年生まれの、戦後の人間だが、私は、あの戦争をうらんでいる。あの戦
争を起こした人間、あの戦争を遂行した人間、すべてだ。おかげで私を含めて、私たち、何の
罪もない人間が、どれほど、その後遺症で苦しんだことか。

 私が高校生のときのことだったと思う。私の母が、あまりにも私に、「産んでやった」「育てて
やった」と、恩を着せるものだから、私は、ある日、母に、こう叫んだことがある。「だれが産ん
でくれと、いつ、どこで、あんたに頼んだア!」と。

 母にしてみれば、戦後のあの時期は、そういう時代だったかもしれない。苦労の連続だった
かもしれない。私はそれに反発したわけだが、しかし私のその怒りは、戦争全体に向けられた
ものだったかもしれない。

 今にして思えば、そう思えなくもない。

 K氏の戦いは、今もつづく。K氏は、こう言う。「親孝行という言葉がありますね。私は、あの言
葉を聞くと、笑い出してしまいます。一応、世間的には、いい息子を演じていますが、内心で
は、いつも、『あのクソババア』と思っています。母が死んでも、一滴も涙は出ないでしょう。それ
が自分でもよくわかっています」と。

 この世の中には、いろいろな親子関係がある。私やあなたがそうであるからといって、そうで
ない人たちを批判したり、非難したりすることは許されない。そのK氏も、親類の人たちとの板
ばさみで苦しむことがあるという。

 「林さんが言う、『ダカラ論』『ベキ論』というのがありますね。あれはいやですね。『お前は子ど
もだから……』『親は親だから……』と、親類の人たちは、平気で迫ってきます。『子だから、親
を思っているはず』とか、『子だから、親のめんどうを見るべき』とか。人間関係を、形でしかみ
ない。あれはいやですね」とも。

 そのK氏の母親は、数年前、脳梗塞を起こして、倒れたことがある。幸い軽くてすんだが、方
向感覚がなくなってしまったという。ときどき家の中でも、迷子になることもあるという。K氏にし
てみれば、「知ったことか」ということになるが、世間は、それを許さない。

 「親子関係が良好なら、金銭的援助も苦にはならないのかもしれませんが、私のばあいは、
ちがいます。たとえ1万円でも、母に渡すくらいなら、ドブへ捨てたほうがましです。そういう気持
ちが、林さんには、わかりますか」と。

 親子であるがために、その確執も深い。昔、学生時代、刑法の教授が、こんな話をしてくれた
のを、覚えている。日本の刑法では、尊属殺といって、親殺しのばあいは、ふつうの殺人罪より
も、一級、重い刑罰が科せられていた。

 それについてその教授は、こう言った。「親殺しは、刑罰が重い。それはわかる。しかしそれ
を裏から読むと、親であるがゆえに、やむにやまれず殺したという事情が多い。その事情は、
ふつうの殺人よりも、重くて深い。それを考えると、親殺しの刑罰を重くしているのは、妥当かど
うか、疑わしい」と。

 その結果だが、尊属殺、つまり両親や祖父母などの祖先にあたる親族を殺したものに対し
て、重罰を加えるという規定は、1973年に、最高裁により、違憲と判断され、刑法200条から
削除された。当然のことである。

 今は、もう『ダカラ』論や、『ベキ』論で、ものを考える時代ではない。何度も書いているが、親
子関係も、つきつめれば、一対一の人間関係。その内容は、人間関係で、決まる。親も、そし
て子も、親子であるという関係に甘えてはいけない。甘えて、好き勝手なことをしてはいけな
い。世の中には、親をだます子もいるが、反対に、子をだます親もいる。子を虐待する親もい
る。そういうことを忘れてはいけない。
(はやし浩司 親孝行 親孝行論 基本的不信関係 尊属殺 親殺し 虐待 人間不信)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1209)

●予科練の歌

+++++++++++++++++++++

私は子どものころ、終戦後生まれた人間では
あったが、軍歌ばかり、歌っていた。

当時は、まだそういう時代だった。

++++++++++++++++++++++

 私は子どものころ、軍歌ばかり歌っていた。軍歌が好きだった。「♪予科練の歌」「♪同期の
桜」など。

 当時は、まだそういう時代だった。敗戦によって、戦争が終わったわけではない。その後遺症
というか、残骸(ざんがい)は、そのまま色濃く残っていた。

 その軍歌を、どういうわけか、最近、またよく口ずさむようになった。とくに「♪予科練の歌」
を、よく口ずさむ。

++++++++++

予科練の歌
.  
若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にや でかい希望の 雲が湧く
.  
燃える元気な 予科練の 腕はくろがね 心は火玉
さっと巣立てば 荒海越えて 行くぞ敵陣 なぐり込み
.  
仰ぐ先輩 予科練の 手柄聞くたび 血潮が疼く
ぐんと練れ練れ 攻撃精神 大和魂にや 敵はない
.  
生命惜しまぬ 予科練の 意気の翼は 勝利の翼
見事轟沈した 敵艦を 母へ写真で 送りたい
(作詞 西条八十)

++++++++++

 私は、子どものころ、パイロットになるのが、夢だった。小学校の高学年児のころは、毎日、
飛行機ばかり作って遊んでいた。大きな翼を木で作り、それを体に取りつけて、2階から飛び
降りようとしたこともある。

 その夢は、中学生になってからも消えなかった。が、やがて近眼に。「近眼の人は、パイロッ
トになれない」と聞かされて、断念。

 しかし親子というのは、不思議なものだ。どこでどう影響を与えたのか。どこでどう影響を受け
たのか。三男が、今、そのパイロットの道を歩み始めている。その三男は、幼いときから、やる
ことなすこと、私の子ども時代にそっくり。毎日、三男のBLOGを読みながら、果たせなかった
自分の夢を、その中に読み取っている。自分を慰めている。

 そして歌うのが、「♪予科練の歌」。

 何とも軍国主義丸出しの歌だが、それがビンビンと心に響く。どうしてか? どうしてだろう?
 

 最近、三男の同室の友人が、航空大学を退学した。飛行機の上で、少しふざけた。詳しくは
書けないが、ともかくも、その結果、そういうことになってしまった。

 三男にとっては、それがかなりショックだったようだ。ああいう三男だから、おそらく、毎日、毎
晩、理事や教官の間をかけ回って、処分を撤回するように動いたのだろう。三男は、子どもの
ときから、自分のことはそっちのけで、他人のことばかり、心配していた。

 その(心)というか、その(熱き思い)が、内容はともかくも、その「♪予科練の歌」を口ずさん
でいると、私の心に伝わってくる。

 ところで話はまったく変わるが、私の子どものころには、江戸時代がまだ生き残っていた。最
近になって、それをことさら強く感ずるようになった。

 明治時代になったから、江戸時代が終わったわけではない。明治時代、それにつづく大正時
代という時代は、それほど大きく変化しなかった時代と言える。変化はあるにはあったのだろう
が、それはゆるやかな変化だったと思う。

 少なくとも、戦後の日本の変化と比べると、ゆるやかな変化だったと思う。そのせいか、私が
子どものころには、まだその江戸時代そのものが生き残っていた。

 祖父も祖母も、明治生まれの人だった。そういう祖父母にしても、ものの考え方などは、江戸
時代そのままの考え方をしていた。当然、私の父や母も、その影響を受けていただろうし、大
正や昭和の時代になったからといって、改めて、意識改革をしたというわけではない。

 何といっても、江戸時代は、300年近くもつづいた。その時代を機関車にたとえるなら、その
機関車は、そのまま、明治、大正、昭和と、3つの時代を、突き抜けて走った。それくらいのパ
ワーは、もっていた。時代のどこかでブレーキをかけて停止したという事実は、どこにもない。

 今、多くの人たちは、とくに若い人たちは、「江戸時代は、昔の話」と思っている。遠い、遠い、
昔の話、と。しかし本当にそうだろうか? そう言い切ってよいのだろうか?

 私は、今でも、江戸時代の後遺症というか、残骸を、日本のあちこちに感ずる。封建主義的
なものの考え方、風習、習慣など。地方へ行けば行くほど、それを強く感ずる。

 もちろん江戸時代がすべて悪いというわけではない。しかしそういうスキをついて、あの時代
を決して、美化してはいけない。江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほ
ど、圧制と暗黒の時代であった。そのことを忘れてはいけない。

 で、最近になって、「武士道」という言葉をよく耳にする。しかし武士でもなかった、私やあなた
が、武士道を説いて、どうする? どうなる? 私たちの祖先の大半は、その武士とやらに苦し
められた、町人や農民だったのだ。

 4、5年前、私の山荘の隣に住む女性がなくなった。年齢は、90歳を超えていた。その女性
がこんな話をしてくれたのを覚えている。

 その女性が子どものころでさえ、つまり明治時代に入ってからでさえ、士族と言われる人たち
は、帯刀したまま、道を歩いていたという。そしてそのサヤがカチャカチャと音を立てて、近づい
てくるのを耳にすると、みな、道の両側により、頭を地面につけて、その士族と言われる人たち
が通り過ぎるのを、待ったという。

 悲しいことに、日本人は、かつて一度たりとも、あの江戸時代を清算したことがない。ないば
かりか、NHKの大河ドラマに見られるように、むしろ、江戸時代の圧制暴君たちを美化しては
ばからない。日本人のもつ、このオメデタサというか、従順さは、いったい、どこから生まれてく
るのか?

 江戸時代の亡霊は、亡霊として、そのまま、生き残っている。その一例が、今に見る、権威主
義であり、日本人独特の、上下意識である。「家」意識や、職業による上下意識も、まだ色濃く
残っている。若い人が何か意見を述べたりすると、「生意気抜かすな!」と、怒鳴りかえす老人
となると、いくらでもいる。

 もちろんその亡霊は、私やあなたの心の中にも、生き残っている。そういうものを静かになが
めてみるというのも、今の時代には、とても大切なことのように思う。

 とまあ、話が大きく脱線してしまったが、話をもとに戻す。

私が「♪予科練の歌」を歌ったからといって、軍国主義を肯定しているわけではない。子どもの
ころは、そんなことは何も考えずに、教えられるまま、この歌を歌っていた。そのとき私が、この
歌を歌いながら、パイロットにあこがれていたのは事実だし、そのときの思いが、そのまま、こ
の歌を歌っていると、よみがえってくる。そしてその(思い)が、今の三男の気持ちとダブり、私
の胸を熱くする。

 私は空を飛ぶことによって、鳥のように自由になりたかったのかな?


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●しつこいスパムメール

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あやしげな件名。
思わせぶりな件名。

目的は何か?

++++++++++++++++

 スパムメールが多いのには、もうなれた。しかたない。しかしここ1週間ほど、そのスパムメー
ルの中でも、とくにしつこいスパムメールが、届いている。

 差出人は、「伊藤xx」という女性名。件名しか読んでいないので、内容はわからない。しかし
その件名が、実に巧妙というか、思わせぶり。連続して、ひとつのストーリーになっているところ
が、恐ろしい!

件名 メール、ありがとうございました。
件名 私のメール、届きましたか?
件名 返事をお待ちしています。
件名 あれから1日、待っていましたが、まだ返事がいただけません。
件名 どうして返事をいただけないのでしょうか?
件名 恥ずかしいですが、私の写真を送ります。
件名 一度、お会いしたいんです。お願いします。
件名 OKをいただければ、あなたのところに飛んでいきます。
件名 思いきって、私の裸の写真を送ります。見てください。
件名 私では、もの足りませんか?

 ……などなど。どこかのバカ男が、女性名を語ってメールを発信しているのが、見え見え。そ
んなことは、少し文を書く人間なら、だれにでもわかる。どこのだれが、自分の裸の写真など、
頼まれもしないのに、送るだろうか。

 しかし目的がよくわからない。私の住所や名前を登録させて、そのあと、何かに利用しようと
いう魂胆までは、何となく、わかる。が、そのあと、どうやって、私から、お金を巻きあげるつもり
なのだろう。

 10年ほど前には、こんな事件が、よくあった。

 やはり今と同じように、「会ってくれたら、10万円さしあげます」「私をなぐさめてくれたら、20
万円さしあげます」「ホテルで会いましょう」と。

 そこでスケベ心をもった男が、言われるままホテルへ行くと、女がそこにいる。そしていざ、セ
ックスの段階になると、「あなたには、ムードがない」「へたくそだ」「口が臭い」などと、あれこれ
文句をつけられる。男が意気消沈していると、「どうしてくれるの?」「下着代くらいは払ってよ」
と。

 もちろんドアの向こうには、女の仲間の男が待っている。スケベな男がドアから出ようとする
と、「お前、うちの女房に何をした!」と。あとのことは、推してはかるべし。

 こうしてスケベな男は、何十万円〜かの、あと始末代を払うことに……!

 要するに、この種のスパムメールは、無視→削除。何も考えず、無視→削除。が、今、ふと、
このエッセイを書きながら、こんなことが頭にひらめいた。

 この種のスパムメールは、ひょっとしたら、私あてではないのかもしれない、と。

 つまり私に対して出されたスパムメールではなく、私のワイフに対して出されたものではない
か、と。

 私の家では、家族が、それぞれ別のパソコンを使っている。私は私専用、ワイフは、ワイフ専
用、と。しかし中には、パソコンを共有している家庭も多いはず。

 そういう家庭では、当然、妻が、夫のメールをのぞくということもあるはず。内容まではともか
くも、件名くらいは、読むこともあるだろう。そのとき、その妻が、ここに書いたような件名のメー
ルを見たら、どうするだろうか? どう思うだろうか? 

 「うちのダンナは、だいじょうぶ」などと思って、やはり無視するだろうか? 無視できるだろう
か? 夫を信じて疑わない妻だったら、無視するかもしれない。しかし……?

 夫に何かの疑いをもった妻なら、「ひょっとしたら……」と思って、メールを開いてしまうかもし
れない。そしてその中にある、ファイルを開いてしまうかもしれない。あるいはどこかのサイトを
開いてしまうかもしれない。

 とたん、何かのスパイウエアを、注入されてしまう。ボットを、注入されてしまう。そういうこと
は、じゅうぶん、考えられる。

 ……ということは、別の対策が必要ということになる。つまり日ごろから、そういうおかしなス
パムメールが届くということを、妻なら妻に、よく説明しておかねばならない。また、そういうメー
ルは、絶対に開いてはだめだということを、よく教えておかねばならない。

 でないと……!! ゾーッ!!

 ますます巧妙になりつつある、この世界。人間の心の盲点を、さまざまな形で、ついてくる。み
なさんも、くれぐれも、ご用心!!


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1210)

●友人の退職 

++++++++++++++++++

今日、友人が、小学校の校長を最後に、
教職を退職することになった。

その離任式が今日、ある。
私は、校門のところで、その友人に、
花束を、渡すつもり。

「ありがとうございました」と。

++++++++++++++++++

 今日、友人が、小学校の校長を最後に、教職を退職することになった。その離任式が、その
学校である。教頭に時刻を問い合わせると、午前9時40分から10時ぐらいにかけて、校門を
通るとのこと。私は、そこで友人に、花束を渡す。私にとっては、かけがえのない友人だった。
これからも、ずっと、かけがえのない友人になるだろう。

 しかしこのさみしさは、いったい、何か? どこからくるのか?

 友人は、5、6年前から、「私は、あと5、6年で退職です」と、言っていた。そのときは、5、6
年が、遠い未来に思えた。2、3年前になると、「私は、あと2、3年で退職です」と、言ってい
た。そのときも、2、3年が、遠い未来に思えた。

 しかし時の流れというのは、不思議なもの。その5、6年が終わり、2、3年が終わってみる
と、あっという間に、時が、どこかへ消えてしまったかのように感ずる。実際、あっという間に、
そのときが、やってきてしまった。人は、未来を遠くに思うかもしれないが、過去は、短い。本当
に短い。

 だから本当なら、私は、その友人に、「ごくろうさま」とか、「おめでとう」と言うべきなのだろう
が、そういう気持ちが、どうしても、わいてこない。「どうして教職を去るのだ!」「どうしてそんな
に年をとってしまったのだ!」「まだ、働けるではないか!」「もっと、先生をつづけるべきではな
いか!」と。

 子どもたちの成長を見守るときは、時の流れは、ゆるやかで暖かい。しかし自分の老後とな
ると、その同じ時が、過酷で、冷たくなる。こうした「時」のもつ二面性を、どうとらえたらよいの
か。どう理解したらよいのか。

 友人も、多くの人生をみてきたにちがいない。親から子へ、そして孫へ、と。そして「時」の流
れのもつ不思議というか、切なさを、数多くみてきたにちがいない。が、やがて、それは私自身
へと返ってくる。友人の退職は、つまり私自身の人生のしめくくりが、そこまでやってきているこ
とを、意味する。

 時刻は、今、午前4時11分。ほんのりと空が明るく見えるのは、気のせいか。こんな早起き
をしたのは、ここ数か月では、はじめて。多分、その友人も、眠られぬ朝を迎えているにちがい
ない。静かな朝だ。本当に、静かな朝だ。庭の木々をこする風の音も、今朝は聞こえない。

 N先生、本当に長い間、ありがとうございました。今日、先生の離任式のあと、渡せるかどう
かわかりませんが、花束をもって、校門のところに立たせてもらいます。そして一言、お礼を言
わせていただきます。先生、本当に長い間、ありがとうございました。これからも、いつまでも、
ずっと、先生の友人でいさせてください。ありがとうございました。

                                   はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●直葬(ちょくそう)

++++++++++++++++++

病院から、直接、火葬場へ。
そしてそのまま、家族だけの
静かな密葬。

それを直葬(ちょくそう)という。

今、その直葬が、ふえているという。
都市圏では、約30%が、その直葬だと
いう(中日新聞)。

+++++++++++++++++

 葬儀費用もさることながら、それまでの介護費用、病気治療費が、以前とは比較にならない
ほど、高額になってきている。だからほとんどの家庭では、その家の老齢者が死ぬころには、
大半の貯金を使い切ってしまうことになるという。「とても、葬儀費用なんて、出せない」というの
が、本音?

 今、首都圏を中心に、直葬という葬儀のし方がふえているという。「じきそう」と、私は、読ん
だ。しかし正しくは、「ちょくそう」と読むのだそうだ。つまり病院で死亡すると、そのまま火葬場
へ。そして家族だけの静かな密葬を行う。

 新聞報道(中日新聞)によると、人も80歳をすぎると、友人も少なくなり、葬儀といっても、家
族だけの集まりになるという。従来の日本の儒教的感覚からすれば、派手な葬儀を行うのが、
親の死であれば、子の務めということになっている。が、そうした感覚そのものが、今、大きく、
音をたてて崩れ始めている。

 つまり、無駄な葬儀に、どれほどの意味があるのか、と。

 数日前、私は、ワイフにこんな会話をした。ワイフは、「葬儀など、してくれなくてもいい」と。そ
こで私が、「お前が死んだら、一晩、お前を抱いて寝てやるよ」と言うと、「どうして?」と。

 で、私はこう答えた。「もし、ぼくが先に死んだら、多分、お前は、ぼくにそうしてくれるから」
と。ワイフは、それを聞いて、うれしそうに笑った。

 ずっと先かもしれない。あるいは、すぐ先かもしれない。しかし私は、ワイフが死んだら、もうこ
の世の中で生きていく自信は、ない。そんな私が、ワイフの葬儀など、できるわけがない。した
くもない。ワイフが死んだら、その夜は、そしてそのつぎの夜も、そのつぎの夜も、静かに2人
だけで過ごしたい。だれにも、その静かな時をじゃまされたくはない。

 それを葬儀というのなら、それが私にとっての葬儀ということになる。方式や儀式など、クソ食
らえ! そんなことをしたからといって、どうして自分の心が癒されるのか!

 話をもとに戻す。

 私はたくさんの葬儀を見てきた。しかしこのところ、葬儀に出るのが、おっくうになった。はっき
り言えば、出たくない。できるだけ、あれこれ理由をつけて、出ないようにしている。そういう私
を非難している人もいるようだが、非難したい人には、させておけばよい。そういう人は、自分
で考えて私を非難しているのではなく、型にはまったものの考え方から抜け出せず、その中
で、私を非難しているだけだ。

 だから、私はあえて言う。私が、死んでも、だれも来なくてよい。つまりその覚悟ができている
からこそ、「出たくない」と、言う。私の葬儀に来ない人をうらんだり、非難したりはしない。

 ……と少し力んでしまったが、大切なことは、どう死ぬかではなく、どうそのときまで、生きる
か、だ。その結果として、葬儀があるとするなら、それはそれ。あとは残された遺族の問題とい
うことになる。死んだ本人の問題ではない。

 だから私は、ワイフや息子たちにこう言っている。「無駄なお金は使うな。直葬ですれば、費
用も30万円程度ですむ」と。私は私の家族には、できるだけ迷惑をかけたくない。だからそう
いう(やり方)であっても、何ら、思い残すところはない。

 ただこういうことは言える。今、日本人のもつ意識は、大きく変わりつつあるということ。戦前
までの儒教的文化圏から抜け出て、アメリカ型の西欧型文化圏へと、その変革期にあると言っ
てもよい。日本人にとっては、ルネサンスとも言えるべき、意識革命が、深く、静かに、しかし確
実に進行しつつある。

 そのひとつが、葬儀のし方ということか。が、「直葬」という言葉に、少なからず抵抗を覚える
人もいるかもしれない。地方の田舎へ行けばいくほど、そうだろう。しかしその葬儀も、「型」か
ら抜け出て、「人間」を見る方式に変わってきている。もっとわかりやすく言えば、自然体という
ことか。自然な形で、自然にする。

 だからといって、もちろん、人の死を軽く考えてよいというのではない。しかし派手な葬儀をし
たからといって、人の死を重くとらえたということにはならない。あくまでもそれは心の問題。そう
いう視点で、ものごとを考えればよい。

 私のワイフが死んだ夜、親類や、近所のうるさい連中がワイワイとやってきたら、私は、こう
言うだろう。「出ていけ!」「2人だけにしてくれ!」と。そういう私を、他人がどう思おうが、私の
知ったことではない。

 これから先、長生きをすればするほど、私を知る人は少なくなり、私の死を悲しむ人も少なく
なる。人も80歳を過ぎると、ほとんどが、そうなるという。新聞記事にも、そう書いてあった。派
手な葬儀など、もとから望むべくもないが、あえてしてほしいとも思わない。これはあくまでも、
私の個人的な希望だが、私は、静かに、だれにも知られず、死んでいきたい。ずっとあとにな
って、「あの林が死んでいた?」と思われるような、そんな死に方をしたい。

 死ぬということは、その人にとって、人生最大の醜態をさらけ出すようなもの。少なくとも、私
にとっては、そうだ。おおげさ騒いでほしくない。直葬、大いに、結構!

(付記)

 それぞれの遺族は、それぞれの思いをもって、故人と別れを告げる。その遺族が、それぞれ
の考えもって、葬儀をする。それは、その遺族の勝手。まわりのものたちが、とやかく言っては
いけない。

 しかし中には、世間体を優先させ、派手な葬儀をする人たちもいる。反対に、親類のだれか
が質素な葬儀をしたりすると、「世間体が悪い」と、あれこれ不満を口にする人もいる。どちらに
せよ、つまるところ、それだけその人の精神構造が、未熟ということ。そう判断して、まちがいな
い。

 派手な葬儀にせよ、質素な葬儀にせよ、大切なのは、「心」。いくら派手でも、その心がなけ
れば、ただの祭。しかしいくら質素でも、その心があれば、葬儀は葬儀。他人の目など、気にす
るほうがおかしい。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●脱北支援者に逮捕状?

+++++++++++++++

あのK国が、日本の脱北支援者に
逮捕状を出した!!

あの国は、国全体が、
もう、狂ってしまったとしか、
言いようが、ない。

+++++++++++++++

 あのK国が、拉致実行者に対して、日本が逮捕状を出したことに対抗して、脱北支援者の日
本人に、逮捕状を出したという。

 近ごろにない、とんでもないニュースである!

 ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

 「朝鮮C通信によると、K国の警察に相当する人民保安省の報道官は、27日、『公民の誘拐
や拉致を背後で操ったり、直接関与した』として、日本人妻の帰国や、K国脱出住民の生活を
支援する日本の非政府組織(NGO)の幹部4人に、K国の刑法、刑事訴訟法に基づき逮捕状
を出したと明らかにした」(06年3月27日)と。

 日本から出たくない人を拉致、誘拐した人に、日本政府が逮捕状を出す。それは当然のこと
ではないか。

 一方、K国から出たがって逃げてきた人を助けた人に、逮捕状を出す? ここまでくると、も
う、あのK国は、国全体が狂ってしまったとしか、言いようがない。何を、どういう基準で考えて
いるのか、さっぱり、理解できない。

 しかしこの胸騒ぎは、いったい、何か? このところK国の問題を考えていると、おかしな胸騒
ぎを覚える。不愉快というような簡単なものではない。ヒルが心に張りついてくるような感じ。は
がしてもはがしても、容赦なく、張りついてくる。あえて言うなら、頭の狂った人間を相手にした
ときのうような気分に似ているが、相手は、個人ではない。一応、「国」という国家である。

 しかもその国は、核兵器までもっている! 『Kちがいに刃物』とは、昔から言うが、その頭の
狂った人間に、執拗にストーカーされているような感じ。印象としては、それに近い。

 だからあえて言おう。K国は、日本在住の4人の人に、逮捕状を出したということだが、この3
人は、当然のことながら、日本は、国をあげて、守る。どんなことがあっても、守る。

 それにしても、K国は、この先、どこまで狂っていくのだろう? このところのアメリカの動きを
見ると、アメリカは、どうやら金xx政権の転覆(てんぷく)を、本気で考え始めたようである。私
は、今は、それが正攻法のように思う。日本にしても、まともな考え方で、つきあえる相手で
は、ない。

 拉致問題にしても、今の金xx政権がつづくかぎり、解決はしない。理由は明白。K国の最高
責任者である金xx自身が、拉致問題に深く、かかわっているからである。こうした度を越したい
やがらせ、それはまさに、いやがらせだが、それをする背景には、それがある。

(付記)

 同日、韓国のR合ニュースによれば、東欧にあるどこかのK国大使館員とその家族が、ハン
ガリーにある韓国大使館へ、亡命を申請したという。

 K国の政府要人たちは、こうしたニュースをどうとらえているのだろうか。それとも、ハンガリ
ーにある韓国大使館員全員に対しても、逮捕状を出すつもりなのだろうか?


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●14歳で家出

++++++++++++++++++++

14歳で家出。15歳の男子(男性?)との
同棲生活?

そんな女子(女性)をもつ親から、
以下のような相談がありました。

(掲示板より)

++++++++++++++++++++

はじめまして。よろしくお願いします。
長女 14才についてどうか相談にのって頂きたく、メールをしました。

長女がおかしいなと思うようになったのは、中1の2学期が終わる頃でした。
学校でクラスメートに、「上級生にいじめられている」とうそを言って、そのことが先生にまで伝
わり問題になったことです。それについては、後で本人からうそをついたと、正直に私に言って
きました。そのときから、部活もやめてしましました。

中2の秋から、ある男子生徒ですが、A君という子につきまとわれて迷惑していると、担任の先
生や、周りの友人に相談していたそうです。担任先生からこの件で電話をもらい、A君が評判
の悪い子であること、長女に危害がおよばないように気をつけてください、ということでした。先
生も学校で気をつけて見て下さったり、私たちも本人と相談し、送り迎えを、1、2度しました。

同じ頃、友人とトラブルがあったこともあり、なぜか長女は、そのA君に友人とのトラブルを相談
していたのです。それが原因でクラスで孤立。A君と交際をしはじめました。それから摂食障害
で入院、その後は不登校となりました。夕方近くになると遊びにいきたいと言う長女に対して、
私は、許して遊びに行かせることができませんでした。長女のつらい気持ちは、理解している
つもりでいましたが・・。

次の日1/21、長女は、そのA君宅に家出をしました。向こうの両親とも話しをし、迎えにいき
ましたが、帰っては、きませんでした。

主人は、これ以上長女の精神状態が悪化しないようにこのまま様子をみようと言い私も同意し
ました。

週に1度程度は、帰ってきますが、数時間後、また出て行きます。こちらからは、話しかけてい
ません。本人が言ったことに、うなずくことしか言っていません。

3/14 再度A君の両親に会ったところ、A君の両親が、「来月、引っ越しします。S(長女)ち
ゃんもつれていきたいのですが・・・。Aと結婚させたいのです。」と。
主人は、「長女は、なにもかもわかった上で、こういう交際ををやっているんだと思います。長
女を信じているので、本人が決めてもいいと思います。」と言ってかえってきたそうです。

が、先日、長女が帰って来たとき、長女は、「今更、世話になっているのに、帰りたいから帰る
というわけには、いかない。引っ越しを機に、家に帰って来たい。Aの母親も15才の時に家出
をして今のお父さんと結婚したんだって。だから、私の気持ちが、よくわかると言って家に帰ら
ないでいいよと言ってくれるんだけど、本当のこといえないんだ。」と言いました。つまり家に戻
りたいが、それをA君にすなおに話せないというのです。

このまま、どんなことがあっても私は、長女の帰りを待っているべきでしょうか? 向こうの両親
と話しあうべきでしょうか? よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司よりFTさんへ】

 先ほど、電話で、だいたいのことは話しました。A君に対する熱病も、やや冷めかかった状態
なので、2人の間に割って入るには、今がチャンスかもしれません。方法はいくつか考えられま
すが、お母さん(=あなた)と娘さん(以下、Sさんとします)の2人で、相手の両親もしくは、父親
と話し合うのが、最良かと思います。

 できればなごやかな状況で、話し合うのがコツです。一歩退いて、負けるが勝ちと思い、話し
合います。争わず、常識論を淡々と話します。

 生活力のない15歳の男と、14歳の女が、結婚状態に入ることは、常識の範囲を超えていま
す。それをすなおに相手の親に話せばよいでしょう。

 で、こういうケースでは、Sさんを、(1)責めない(「あなたは、〜〜が悪い」と責めること)、
(2)励まさない(「がんばれ」「がんばれる」式の励ましをしないこと)、(3)脅さない(「こんなこと
で、どうするの」式の脅しをしないこと)の、3大鉄則を、厳守してください。Sさんの心は、常に、
緊張状態にあると判断してください。したがって、いつも、一触即発の状態です。ささいなこと
で、突発的に錯乱状態になることもあります。

 本来なら、心療内科で、精神を安定させる(=精神の緊張感をとる)薬剤を処方してもらうの
が、よいと思いますが、電話によれば、それもむずかしいとのこと。そこで電話で話しましたよう
に、あなた自身が、心療内科(内科でもよい)で、薬を処方してもらい、それをSさんに分け与え
るという方法があります。それはいかがでしょうか?

 また家に戻ってきたら、Sさんの居場所をしっかりと確保することです。ここに書いた三大鉄
則を守り、今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。Sさんの心の問題が
からんでいるため、半年単位の忍耐が必要でしょう。1か月や2か月で、心の状態が改善する
などということは、ありえません。そういう前提で、対処します。

 最後に、ここが重要ですが、どんなことがあっても、最後の最後でも、愛情の糸だけは切らな
いようにしてください。どんなことがあっても、です。(その点、お父さんのほうに、どこか冷めた
ところがあるように感じました。どうか、お父さんも、最後の最後でも、愛情の糸だけは切らない
ようにお伝えください。)

 その「糸」は、Sさんにとっては、最後の砦(とりで)のようなものです。その糸を切ったら、それ
こそSさんは、再び、糸の切れた凧のような状態に戻ってしまうでしょう。今からでも、じゅうぶん
間に合います。

 あとは、暖かい無視と、ほどよい援助。「求めてきたときが、与えどき」と、心得てください。そ
して問題が起きたら、『許して忘れる』だけを心の中で念ずる。そしてここが重要ですが、その
あとは、(時の流れ)に任せます。時間が解決してくれます。2年では無理かもしれませんが、
遅くとも5年後には、笑い話になります。それを信じて、前向きに考えてください。

 それぞれの人間には、無数の糸がからんでいます。その糸が、その人の進むべき道を決め
ていきます。人は、それを「運命」と呼びますが、その運命について、少し前、こんなことを書き
ました。

 悪魔(不幸)というのは、(決してFTさんが不幸というのではありません。誤解のないよう
に!)、それを恐れたとき、キバをむいて、あなたに襲いかかってきます。しかしそれを笑い飛
ばしたとき、シッポを巻いて、あなたから退散していきます。

 今、重要なことは、くだらない親意識など捨てて、ついでにプライドも捨て、Sさんの友として、
Sさんの横に立ってみてください。それだけで、Sさんに対する態度が大きく変るはずです。

 以上ですが、このつづきは、4月28日号のほうで、もう一度、考えさせてください。今夜は、こ
れで失礼します。

はやし浩司

【付記】励ましは、なぜ悪いか

 前向きに、伸びつつある子どもに、「がんばれ!」式の励ましは、それなりに効果がありま
す。しかし落ち込んでいる子どもに向かって、「がんばれ!」式の励ましは、効果がないばかり
か、かえってその子どもを、窮地に追い込んでしまうことにもなりかねません。

 落ち込んでいる子どもは、落ち込んでいる子どもなりに、苦しみ、もがいているのです。「がん
ばりたくても、がんばれない」というジレンマに陥っているのです。そういうとき、たとえ家族から
でも、「がんばれ!」と言われると、その子どもは、ますます、どうしてよいかわからなくなってし
まうというわけです。

 わかりやすい例で考えてみましょう。

 たとえばあなたが、学校のテストで、よい点数を取ってきたとします。そのときそれを見て、あ
なたの母親が、「よくがんばったわね。これからもがんばりなさいよ」と言ったとします。

 あなたは、その言葉を、すなおな気持ちで、聞くことができるはずです。

 しかし反対に、あなたが予想していたよりも、悪い点数だったばあいは、どうでしょうか。あな
たなりにがんばったけれど、しかし、点数が悪かったというようなばあいです。あなたは落ち込
んでいます。で、そういうとき、たとえ家族でも、「がんばれ!」と言われても、あなたはそれをす
なおな気持ちで、聞くことはできないと思います。

 英語では、こういうとき、「Take it easy!」と言います。「気を楽にしなよ」という意味です。
そういう言い方なら、まだわかりますね。

 それについて書いた原稿が、つぎの2作の原稿です(中日新聞掲載済み)。どうか参考にして
ください。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親子のきずなが切れるとき】 

●親に反抗するのは、子どもの自由?

 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、85%。「親に反抗
してはいけない」と考えている高校生は、15%。

この数字を、アメリカや中国と比較してみると、親に反抗してもよい……アメリカ16%、中国1
5%。親に反抗してはいけない……アメリカ82%、中国84%(財団法日本青少年研究所・九
八年調査)。

日本だけは、親に反抗してもよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけない
と考えている高校生が、ダントツに少ない。こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個
人主義が、ますます進んでいる」(評論家O氏)と論評する人がいる。

しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校生だけがそうなのか、ということについ
て、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに個人主義が進んでいるということはあり
えない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考えるのもおかしい。

●受験が破壊する子どもの心

 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖
父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動
が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数
は! 平均点は何点だったの?」と。

さらに「幼稚園のときから、高い月謝を払ってあんたを英語教室へ通わせたけど、ムダだった
わね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子どもからやる気をなくす。いや、その程
度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親子の信頼感、さらには親子のきずなそ
のものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「八五%」という数字は、まさにその結果であ
るとみてよい。

●「家族って、何ですかねえ……」

 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき
手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ
てしまった。R氏には2人の娘がいた。1人は大学1年生、もう1人は高校3年生だった。

R氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学
費が難しくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の娘
はそれに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんたの
義務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻ま
で、「生活ができない」と言って、家を出て、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏は
こう言う。「家族って、何ですかねえ……」と。

●娘にも言い分はある

 いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言
うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき
た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。

 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ
ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で
ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿題はやったの」と
いう言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を
変えてみたら……。

たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気楽に
やりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子どもがテス
トの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりなよ」と。
この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでやる気を
起こす。   
(はやし浩司 親子の断絶 絆 親子断絶)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

子どもの心が離れるとき 

●フリーハンドの人生 

 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに
生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。
親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの
人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。

子どもを「家」や、安易な孝行論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、
いけない。もちろん子どもがそのあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするとい
うのであれば、それは子どもの勝手。子どもの問題。

●本当にすばらしい母親?

 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」
と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ
てしまう。

 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏
が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(2000年夏)。「私は母の女手一つで、育てら
れました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I氏
の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。

しかしそのうちI氏の母親が、本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまっ
た。50歳も過ぎたI氏に、そこまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。
ひょっとしたら、I氏の母親はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったの
かもしれない。

●子離れできない親、親離れできない子

 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく
言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし
て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん
は、夜なべをして……」という、あの歌である。

戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しかしこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがまし
い歌はない。窪田Sという人が作詞した『かあさんの歌』は、3番まであるが、それぞれ三、四
行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分は、母からの手紙の引用ということになってい
る。それを並べてみる。

「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」
「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」

 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは
どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう
に違いない。

●「今夜も居間で俳句づくり」

 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、
手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」
「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ
る。

つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と織り
込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中2男子)がいた。自分のことを言うの
に、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言う
と、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い
た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。

●うしろ姿の押し売りはしない

 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな
い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども
に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦
労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と
いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの
心はあなたから離れる。
 
 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳
の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査
結果がある。

平成6年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日本の若者はた
ったの、23%(3年後の平成9年には19%にまで低下)しかいない。

自由意識の強いフランスでさえ59%。イギリスで46%。あのアメリカでは、何と63%である
(※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に
きているとみるべきではないのか。

●親も前向きに生きる

 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので
もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。
私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。
親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの
親もそれを望まないだろう。

いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え方ではない。あくまでもフリー
ハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命に生きる。あなたはあなたで、
懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。

※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成6
年)は、次のようになっている。

 フィリッピン ……81%(11か国中、最高)
 韓国     ……67%
 タイ     ……59%
 ドイツ    ……38%
 スウェーデン ……37%

 日本の若者のうち、66%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読む
と、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 

Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1211)


●「棒」の恐ろしさ

++++++++++++++++++

7年前、割り箸が、子どもの脳に突き
刺さるという事件が起きた。

その事件について、医師の過失があっ
たかどうかを問う裁判の、判決が出た
(3月28日)。

++++++++++++++++++

 今から7年ほど前のことだが、割り箸が脳に突き刺さって、子どもが死ぬという事件があっ
た。死んだのは、当時4歳だった、H君。祭で買った綿アメの割り箸が、転倒したとき、のどに
突き刺さったという。

 H君は病院へ運ばれたが、H君の母親が、「ぐったりしているけど、連れて帰って大丈夫です
か?」と聞くと、担当した医師は、「疲れて眠っているので休ませて下さい」と言ったという(H君
の母親・裁判記録)。

 で、そのままH君は、死んでしまった。

 この事件を聞いたとき、当時、私が最初に思ったのは、「棒ほど、危険なものはない」だっ
た。しかしこれは幼児教育の世界では、常識中の常識。棒や鉛筆などを、口にくわえている子
どもを見かけたら、即座に注意する。ときには、はげしく叱る。

 鉛筆を口にくわえたまま転倒したときのことを、想像してみればよい。あるいはその状態で、
だれかがぶつかってきたときのことを想像してみればよい。あなたは、それだけでゾッとするは
ずである。

 私も、こんな失敗をしたことがある。この世界に入ってまもなくのころのことだったが、鉛筆を
もったまま手をあげた子どもがいた。

 幼児だと、そういうとき、まっすぐ上に手をあげない。中には、横に手をのばす子どもがいる。
そのときもそうだった。その子どもは、「ハ〜イ!」と言って、鉛筆を握ったまま手を横にのばし
た。が、その瞬間、その声を聞いて、横に座っていた子どもが、振りかえった。鉛筆の先が、振
りかえった子どもの頬(ほお)を、突いた。鉛筆の芯が、そこで折れた。

 もしあのとき、その鉛筆が、子どもの目を突いていたとしたら……。想像するだけでもゾッとす
るが、もしそんなことになっていたとしたら、今の私は、ない。

 さらに私が小学3年生だったか、4年生だったかは忘れたが、こんな事件もあった。

 そのときその子どもは、両手に鉄製の火箸をもって走っていた。そしてそのままの状態で、こ
ろんだ。火箸は、一本ずつ両目を突いた……。以来、その子どもは、失明してしまった。

 ……ということで、子どもには、棒をもたせない。いわんや口にくわえさせるなどという行為
は、言語道断。見かけたら、即、注意する。……ということだが、だからといって、子どもを、い
つも監視しているわけにもいかない。棒にかぎらず、親のちょっとした油断が、大事故につなが
るというケースは、いくらでもある。

 H君のばあいは、どういういきさつで、綿アメの棒がのどに突き刺さったのかは、わからな
い。が、私が想像するに、あの綿アメを上のほうから口に入れ、その状態で、ころんだのでは
ないかと思う。そしてそれがころんだ拍子に、のどの奥につきささり、折れ、ついで脳の奥に突
き刺さってしまった。

 不幸な事件である。

 で、H君の両親は、診察した医師の過失を問い、裁判で争った。その結果は、「無罪」。その
判決を聞いた、母親のSさんは、こう述べている。

「無罪という言葉は決して出てこないと信じていたから、体が凍りついたような思いでした」(報
道)と。

 裁判官は、「H君の頭の中に異変があったことを疑うことは可能で、CT撮影や脳神経外科へ
の相談を行うべきだった」と指摘した上で、「H君の状態を考えると、命が救えた可能性は極め
て低かった」として、医師には医師としての過失はあるものの、死亡との間に因果関係がある
ことには合理的な疑いが残るとして、無罪の判決を言い渡した。

 つまり医師としての過失はあるが、しかしそれが直接の原因で死亡したとは言いがたいとい
うことで、無罪である、と。H君の母親には、たいへんつらい判決かもしれないが、判決として
は、妥当な判決だと、私は思う。医師という、特殊な職業の世界では、一般社会とは、ややち
がった尺度で、過失を考える。過失をあまり厳格に問いすぎると、医師の業務そのものが成り
立たなくなってしまう。

 それにこうした事件は、ひとつだけの不運で、起こるものではない。いくつかの不運が重なっ
て、起こる。

 第一の不運は、H君が、たぶん、棒の先のほうを口に入れていたこと。第二の不運は、その
状態で、ころんでしまったこと。第三の不運は、折れた箸に、両親が気がつかなかったこと。第
四の不運は、医師もそれに気がつかなかったこと。その結果として、H君は、死んでしまった。

 だからすべての責任を、医師にかぶせるわけにはいかない。しかしH君の両親の無念さも、
理解できる。100に1つでも、1000に1つでも、助かる見込みはあったかもしれない。その思
いがあったからこそ、両親は、医師を訴えた。

 ……とても残念だが、私は、これ以上のことは、ここには書けない。が、あえて言うなら、この
事件は、改めて、「棒」のもつ恐ろしさを、世の親たちに教えた。それは事実である。以後、私
の周辺でも、親たちが、その「棒」に、神経質になったのを、私は感じている。

 そう、「棒」はこわい。本当にこわい。だからほとんどの私立幼稚園では、鉛筆の使用を禁じ
ている。つまりそれだけ危険な道具であることを、現場の先生たちも知っているからである。事
故も多い。

 みなさんも、幼児を指導するときは、「棒」の恐ろしさをじゅうぶん理解して、指導してほしい。

 ……ということで、何とも歯切れの悪いエッセーになってしまった。奥歯にものをはさんだよう
なエッセーになってしまった。加えてH君の両親の心情を察すると、何かしら割り切れないもの
が残る。おそらく裁判官もそう感じたのだろう。だから裁判官は、判決の最後で、担当医師に
対し、こう述べている。

「医師として基本的かつ初歩的な作業を怠ったことについて、批判に謙虚に耳を傾けるべき
だ」(判決文)と。

 無罪判決で、裁判官がこうした指摘するのは、異例のことである。

(付記)

 幼児を指導するとき、(1)火遊び、(2)ナイフやカッターを使っての遊び、(3)袋かぶり、(4)
棒(鉛筆)の使用などには、とくに注意する。年中児でも、何でもものを口の中に入れる子ども
がいる。そういう子どもは、とくに注意して指導にあたる。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●咳

++++++++++++++++

日本人ほど、咳に無頓着な国民は
いないのでは……?

人ごみの中でも、平気で、ゴホン、
ゴホンと咳く……。

++++++++++++++++

 先日、驚いたことに、本当に驚いたことに、あの回転寿司の寿司のほうに向かって、ゴホン、
ゴホンと咳をしている男性(60歳くらい)がいた。一応、手でこぶしをつくって、それをしていた
が、それを見ていて、私は、心底、ゾッとした。

 おかげで食欲は半減。隣に、妻らしき女性が座っていたが、平気な顔をしていた。私なら即
座に、夫を注意するだろうにと思った。

 ……総じてみると、日本人ほど、咳に無頓着な国民は、いないのではないか。人ごみの中で
も、平気で、ゴホン、ゴホンと咳をする。手でこぶしをつくったり、中には、口を手で押さえたりし
ている人もいるが、しかしそんな方法では、ばい菌の拡散は、防げない。

 実は、おとなの世界がそうであるためか、子どもの世界も、そうである。私に向かって、口を
押さえることもなく、ゴホン、ゴホンと咳を吹きかけてくる子どもとなると、いくらでもいる。大半が
そうではないか。そのつど、「口を押さえなさい」「横を向いて咳をしなさい」と教えるが、効果
は、その場だけ。そういう習慣そのものが、身についていない。

 おかげで、風邪にせよ、インフルエンザにせよ、流行したとたん、私たちのような人間が、最
初の犠牲者になる。よく誤解されるが、風邪にせよ、インフルエンザにせよ、菌に、おとなも、
子どももない。子どもの風邪だから、菌もそれだけ弱いだろうと考えるのは、まったくの誤解!

 では、どうするか?

 咳をするときは、必ず、ハンカチ、あるいは小さなタオルで口をおおう。そういう習慣を、子ど
もの前で見せておく。子どもの心にしみこませておく。咳をするにしても、相手から顔をはずし、
すみのほうに行って、それをする。

 なお欧米では、ハンカチやタオルで、口を押さえたり、鼻をかんだりする。私も若いときからそ
うしているが、それを子どもたちが見ると、「汚い」と言う。ハンカチやタオルで鼻をかむことを、
汚いという。しかし私には、それが何十年来の習慣になっているため、反対に、そういう子ども
たちの気持ちが理解できない。

 咳をするときは、ハンカチやタオルで口を押さえる。これは日本の外、つまり国際社会では、
常識である。汚いと思わず、あなたも、そうしてほしい。そうするのは、結局は、あなたやあなた
の子どものためでもある。
(はやし浩司 咳 咳のし方)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●流れる水

+++++++++++++++++

水が、自然と流れる場所を求めて
流れていくように、人生もまた、
自ら流れる場所を求めて、流れて
いく。

+++++++++++++++++

 いろいろあった。すったもんだの騒動もあった。しかし人生というのは、水が自然と流れる場
所を求めて流れていくように、流れていく。そしてその流れた先で、やがて落ちつく。

 私の兄は、現在、グループホームで、生活をしている。母は、姉の家で同居生活をしている。
兄はともかくも、母は、自分の家を絶対に離れないとがんばっていた。しかし足腰が立たなくな
り、大便や小便をもらすようになると、自分なりに観念したのか、姉の家に落ちついた。

 姉も、見ちがえるほど、明るくなった。体重もふえたという。私も、母が、姉の家に入ったとい
うその夜、はじめて、心安らかに、朝まで、ぐっすりと眠ることができた。

 大切なことは、流れに任すこと。その流れに逆らえば、角が立つ。無理をすれば、どこかでそ
の歪(ひず)みが出る。騒動になる。この数年間の経験で、私は、それがよくわかった。

 兄が、近所でトラブルを起こすようになったのは、今から、ちょうど4年ほど前のこと。ゴミをそ
のあたりにまき散らす。自動車のナンバーに落書きをする。植木鉢の葉先を、指で摘んでしま
う、など。しかし火遊びをするようになって、さすがの姉も、音(ね)をあげた。

 一度は、近所の旗を、ライターで火をつけて燃やしてしまったことがある。放火である。で、私
が兄を、とりあえずということで、引き取った。心療内科へ通いながら、介護保険の申請を出し
た。

 が、母は、それを許さなかった。毎日のように電話をかけてきて、私や姉に、兄を返せと言っ
てきた。母も、すでに、現実を理解する能力をなくし始めていた。放火事件のことを話しても、
「うちのJ(=兄)は、そんなことはしない!」と、がんばった。

 しかしその母も、2度、3度と倒れた。病院へ入った。そのころから、足腰が立たなくなった。
姉は、母が、水道を出しっぱなしにする、ガスコンロをつけっぱなしにすると、そのつど心配し
た。悩んだ。

 が、そうした私や姉の心配や悩みなど、どこ吹く風。母は、相変わらず、私や姉を口汚く罵倒
した。ボケもかなり進み始めていた。気丈な人だが、老いには勝てない。それで今のような状
態になった。落ちついた。

 悪魔はそれを恐れたとき、牙(きば)をむいて、あなたに襲いかかってくる。しかしそれを笑っ
たとき、悪魔は、尻尾を巻いて、あなたから退散する。姉はともかくも、私は笑った。

 兄が暴れて、ラジカセをこわしたときも、廊下で糞をもらしたときも、笑った。ボケた兄は、飼
っているペットのようなもの。本気で相手にしてはいけない。相手にしても、しかたない。

 その姉の家へ、今日、長男と2人で行ってきた。36年ぶりという雪が、3月の末だというの
に、降っていた。突然の訪問で、姉も予定していなかった。連絡してから行くと、姉もあれこれ
気をつかうだろうということで、そうした。

 姉は家にいた。母も、今日はデイサービスもなく、家にいた。姉が預かっている孫の女の子も
そこにいた。家中が、明るい笑い声で満ちていた。私はそれを見て、目頭が熱くなった。うれし
かった。

 これからもまだ、いろいろあるだろう。問題は、何一つ、解決していない。しかし水が、自然と
流れる場所を求めて流れていくように、人生もまた、その場所を求めて流れていく。流れた先
で、やがて落ちつく。

 ジタバタしても、いけない。あせっても、いけない。なるようになる。なるようにしかならない。人
にはそれぞれ、無数の糸がからんでいる。その無数の糸が、その人の進むべき方向を決め
る。

 それを「運命」というのなら、だれにも、その運命はある。どうにかなる問題であれば、それと
は戦う。ふんばる。それは当然だ。しかしどうにもならない問題もある。老後の問題、親子の問
題、介護の問題、病気の問題、子どもの問題、夫婦の問題などなど。こちらが求めなくとも、こ
うした問題は、向こうから、クモの糸のようにあなたにからんでくる。

 今、その運命の糸にからまれて、苦しんでいる人も多いと思う。袋小路に入って、どうしたらよ
いか、わからないまま、もがいている人も多いと思う。しかしときには、その運命に身を任せて
みることも大切なことではないのか。自分の運命を、すなおに流れの中に置いてみる。

 あとのことは、その運命が決めてくれる。時間が解決してくれる。あなたは静かに、その運命
に身を任せればよい。逆らわず、静かに、淡々と……。
(はやし浩司 運命 運命論 運命とは) 

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以前、こんな原稿を書きました。
あまり関係のない話かもしれませんが、
参考までに……。
(中日新聞掲載済み)

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【袋小路から抜け出る法(レット・イット・ビー!)】

子育てで親が行きづまったとき

●夫婦とはそういうもの    

 夫がいて、妻がいる。その間に子どもがいる。家族というのはそういうものだが、その夫と妻
が愛しあい、信頼しあっているというケースは、さがさなければならないほど、少ない。どの夫
婦も日々の生活に追われて、自分の気持ちを確かめる余裕すらない。

そう、『子はかすがい』とはよく言ったものだ。「子どものため」と考えて、必死になって家族を守
ろうとしている夫婦も多い。仮面といえば仮面だが、夫婦というのはそういうものではないの
か。もともと他人の人間が、一つ屋根の下で、10年も20年も、新婚当時の気持ちのままでい
ることのほうがおかしい。私の女房なども、「お前は、オレのこと好きか?」と聞くと、「考えたこ
とないから、わからない」と答える。

●人は人、それぞれ

 こう書くと、暗くてゆううつな家族ばかりを想像しがちだが、そうではない。こんな夫婦もいる。
先日もある女性(40歳)が私の家に遊びに来て、女房の前でこう言った。「バンザーイ、やった
わ!」と。話を聞くと、夫が単身赴任で九州へ行くことになったという。

ふつうなら夫の単身赴任を悲しむはずだが、その女性は「バンザーイ!」と。また別の女性(3
3歳)は、夫婦でも別々の寝室で寝ているという。性生活も数か月に1度あるかないかという程
度らしい。しかし「ともに、人生を楽しんでいるわ。それでいいんじゃ、ナ〜イ?」と。明るく屈託
がない。

要は夫婦に標準はないということ。同じように人生観にも家庭観にも標準はない。人は、人そ
れぞれだし、それぞれの人生を築く。私やあなたのような他人が、それについてとやかく言う必
要はないし、また言ってはならない。あなたの立場で言うなら、人がどう思おうが、そんなことは
気にしてはいけない。

●問題は親子

 問題は親子だ。私たちはともすれば、理想の親子関係を頭の中にかく。設計図をえがくこと
もある。それ自体は悪いことではないが、その「像」に縛られるのはよくない。それに縛られれ
ば縛られるほど、「こうでなければならない」とか、「こんなはずはない」とかいう気負いをもつ。
この気負いが親を疲れさせる。子どもにとっては重荷になる

不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、この気負いが強いから注意する。「よい親子関係を築
こう」というあせりが、結局は親子関係をぎくしゃくさせてしまう。そして失敗する。

●レット・イット・ビー(あるがままに……) 

 そこでどうだろう、こう考えては。つまり夫婦であるにせよ、親子であるにせよ、それ自体が
「幻想」であるという前提で、考える。もしその中に一部でも、本物があるなら、もうけもの。一部
でよい。そう考えれば、気負いも取れる。「夫婦だから……」「親子だから……」と考えると、あ
なたも疲れるが、家族も疲れる。

簡単に言えば、今あるものを、あるがままに受けいれてしまうということ。「愛を感じないから結
婚もおしまい」とか、「親子が断絶したから、家庭づくりに失敗した」とか、そんなようにおおおげ
さ考える必要はない。

つまるところ夫婦や家族、それに子どもに、あまり期待しないこと。ほどほどのところで、あきら
める。そういうニヒリズムがあなたの心に風穴をあける。そしてそれが、夫婦や家族、親子関
係を正常にする。ビートルズもかつて、こう歌ったではないか。「♪レット・イット・ビー(あるがま
まに……)」と。それはまさに、「智恵(wisdom)の言葉」だ。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1212)

【雑感・あれこれ】

●受験競争

++++++++++++++++++

2人の母親が、こんな話をしていた。

「X進学塾は、毎週テストをしてくれるそうよ」
「Y進学塾は、レベルが高いそうよ」
「X進学塾では、成績がさがると、Bクラスに回されるそうよ」
「Y進学塾でも、そうらしいわ」
「どちらにしましょう?」
「どちらに入れようかしら?」と。

++++++++++++++++++

 たいていの親たちは、はげしい受験競争をしてくれる塾ほど、よい塾と考えている。またそう
いうところへ入れれば、自分の子どもの成績が、さらに(?)、よくなると考えている。

 たしかに受験勉強には、ある種の緊張感が必要である。その緊張感がないと、こと学力とい
う点では、伸び悩む。そこで多くの進学塾では、(成績)という脅しを使って、その緊張感をつく
る。

 しかしそこにあるのは、(成績)だけ。すべてが(成績)に始まって、(成績)で終わる。

 しかしこの方法には、両面がある。成績が伸びることで、さらにやる気を出す子どももいるか
もしれないが、それ以上に多くの子どもは、やる気をなくし、成績をさげる。(成績)というのは、
あくまでも相対的なもの。A君が1位になれば、それまで1位だったB君が、2位になるだけ。

 が、それにもまして考えなくてはいけないことは、『だから同なの?』という部分のない教育ほ
ど、恐ろしいものはないということ。「成績があがったら、どうなの?」「いい高校や、いい大学へ
入ったから、どうなの?」と。

 俗にいう(よい高校)や、(よい大学)へ入ってはみたものの、その時点で、燃え尽きてしまっ
たり、荷おろし症候群といって、そのまま宙ぶらりんになってしまう子どもは、多い。本当に、多
い! 全体の何割、あるいはそれ以上と言ってもよいほど、多い。が、それだけではない。

 都会地域で、子どものころからはげしい受験競争を勝ち抜いてきた子どもほど、独特の価値
観、人生観をもっているのがわかる。(本人は、ぜったいに、それがわからないが……。)わか
りやすく言えば、クールで、冷たい。いつも巧妙に損得計算ばかりしている。ある大学教授から
聞いた話を、正確に、そのまま書く。

 その大学の教授の娘(30歳、当時)が、ある大学の研究室に入った。その研究室に、ある検
査機器が導入されることになった。高額な機器である。が、だれも、その使い方を教えてくれな
いという。その検査機器を使うのは、その使い方を知っている、一部の研究者だけ。「他人に
使い方を教えたら損、という雰囲気さえある」と。

 受験競争が、そのまま大学の研究室に反映されている。が、そういう世界が、本当に望まし
い世界と言えるだろうか。あるべき世界と言えるだろうか。多くの親たちは、何も考えず、子ど
もを受験競争に駆り立てる。しかしその受験競争のもつ弊害については、ほとんど耳を貸さな
い。

 近未来的には、あなたの子どもが、その受験競争に敗れたときのことを考えてみればよい。
あなたの子どもは、その時点で、キズつき、自信をなくし、自らにダメ人間のレッテルを張ってし
まう。そうする可能性は、たいへん高い。はげしい受験競争を経験した子どもほど、そうであろ
う。仮に、どこかの高校や大学へそのあと入ったとしても、もう(やる気)は起きてこない。(やる
気)を期待するほうが、おかしい。そうなる。

 しかしそういうのを、「教育」と言ってよいのだろうか? 「教育」と言えるのだろうか? しかし
今、多くの親たちが、その(おかしさ)に気づき始めている。それについては、また別の機会に
書くことにして、子どもに向かって、「勉強しなさい!」と叫ぶときには、ここに書いたようなこと
を、頭のどこかに置きながら、叫ぶとよい。多分、それだけでも、あなたの心は、少しは、やさし
くなると思う。

(付記)

 自分自身の経験もふまえて、つまり反省の念をこめて、あえて告白する。

 私も、若いころ、ある進学塾で、講師をしていたことがある。今から思うと、とんでもないことを
したと思う。若い、子どもの心理の「シ」の字もわかっていない講師が、子どもの進学指導をす
る。その恐ろしさというか、デタラメさというか、世の親たちは、もう少し、それを知ったほうがよ
いのでは……。

 豪華なパンフレットや、こうこうと光るネオンサインに、決して、だまされてはいけない。

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1213)

【老人の赤ちゃん返り】

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老人の中には、子どもがよく見せる、
赤ちゃん返りに似た様子を見せる人
がいる。

そう、それはまさに赤ちゃん返り。
赤ちゃん返りをすることで、このタイプ
の老人は、だれかに依存しようと
する。

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●仏様のようなUさん

 以前、ある女性のことを書いた。その女性は、数年前、88歳で死んだが、私が見た感じで
は、まさに仏様のような人だった。いつも穏やかな顔をして、笑顔を絶やさなかった。そのあた
りに伝わる昔話もよくしてくれた。

 で、その女性が死んでから、数か月後のこと。その近所に住む、S氏(70歳くらい)という名
前の男性と、こんな会話をした。私が、「あのおばあちゃんは、本当にいい人でしたね。あの人
がなくなって、本当に残念です」と。すると、そのS氏は、はき捨てるようにして、こう言った。

 「何ですって、林さん! あのUさん(=その女性)が、いい人ですってエ? とんでもない。若
いころは、きつい人でね、みんな、あのUさんに泣かされましたよ」と。

 私はその話を聞いて、本当に驚いた。信じられなかった。「Uさんって、あのおばあちゃんのこ
とでしょ?」「そうですよ」と。

●赤ちゃん返り

 子どもの世界には、「赤ちゃん返り」と呼ばれる、よく知られた症状がある。下の子どもが生ま
れたことが原因で、上の子どもが、赤ちゃんのようになる症状をいう。それまでしなかったおも
らしを、再び、し始めたり、態度、しぐさ、それにものの言い方などが、赤ちゃんのようになる。
「ママ」のことを、「ウマーマー」と言ってみせたりするなど、言い方そのものが、ネチネチとした
言い方になることも多い。

 本能的な嫉妬心が、子どもの心をゆがめると考えるとわかりやすい。つまり生まれたばかり
の赤ちゃんは、自分のかわいさを親にアピールすることで、親の保護を受けようとする。こうし
た行為は、意思的な行為というよりは、本能的な行為と考えるのが正しい。つまりこの時期、愛
着行動は、親から赤ちゃんに対してだけではなく、赤ちゃんからも親に対してと、その双方向に
おいてなされる。

 それを「ミューチュアル・アタッチメント(相互愛着)」と呼ぶ学者もいる。

 で、下の子どもが生まれたりすると、上の子どもは、もう一度、親の愛情を自分のものにしよ
うと、本能的な部分で、親への働きかけ(アタッチメント)を始める。それが「赤ちゃん返り」であ
る。

●スタスタと歩いていた、Aさんの母親

 老人といっても、大きく分けて、2つのタイプに分かれる。ひとつは、独立心が最後まで旺盛
で、「私は私」という生き様を貫(つらぬ)くタイプ。

 もうひとつは、依存性が強く、だれかに依存しながら生きていこうとするタイプ。このタイプの
老人の特徴は、加齢とともに、ますます、その依存性を強くしていく。

 私の知人に、こんな女性がいた。そのとき年齢は、75歳くらいではなかったか。電話をかけ
てくるたびに、「私も、年をとったからねエ〜」と。つまりその女性は、そう言いながら、言外で、
「だから、何とかしてほしい」と言いたかったのだろう。何かにつけて、ネチネチと他人に甘える
ような言い方をした。

 こんなことがあった。これはその知人の娘にあたる女性から聞いた話である。その娘にあた
る女性を、Aさんとしておく。

 そのAさんのところにも、よく電話がかかってきたという。そのときも、今にも死にそうな、弱々
しい声で、「足が痛い、足が痛い」と。そこでその翌日、Aさんが、母親の家に行ってみると、母
親は、居間から台所へ歩くだけでも、何度もころびそうになったという。床をすって歩くような歩
き方をしていた。

 そこでAさんが、「病院へ行こうか」と声をかけると、「心配しなくていい」「ひとりで歩けるから」
と。しかしそんな母親の様子を見て、心配をしない娘はいない。その日はいったん嫁ぎ先の家
に帰り、翌日、母親を病院へ連れていくつもりでいた。

 が、その翌日のこと。それを見て、Aさんは、腰を抜かしそうになったという。電車をおりて、改
札口を出たところで、何と、その私の知人、つまりAさんの母親が、駅の構内を、ほかの友人た
ちと、スタスタと歩いているのを見てしまったというのだ。

 Aさんが、思わず、「お母さん!」と声をかけると、その母親は、瞬間、しまったというような顔
をしてみせたという。

 つまり、私の知人は、Aさんという娘にめんどうをみてもらいたいがため、ウソをついていたこ
とになる。こうした例は、老人の世界には、多い。

●仮面(ペルソナ)

 依存性の強い老人は、弱々しい自分を演ずることで、相手の同情をかう。が、それは演技に
よるものというよりは、もっと本能的なものと考えてよいのでは。ある女性(85歳くらい)は、他
人の視線を意識したとたん、まるで別人のように歩き方、話し方まで、変わってしまうという。

 また別の女性(80歳くらい)は、現在、ひとり住まいをしているが、さみしくなると、あちこちへ
電話をかけるという。やはり今にも死にそうなほど、弱々しい声でそれをするという。

 最初のころは、みな、それにだまされて(?)、あわててその女性の家に駆けつけたものだ
が、しかしそのうち、だれも相手にしなくなってしまったとのこと。

 で、こうした依存性は、どうして生まれるかという問題がある。それは本来の依存的性格がそ
うさせるのか、それとも、演技によるものなのか。さらにあるいは、子どもの赤ちゃん返りに似
た症状と考えてよいのか。

 ただ子どものばあいとちがって、長い年月をかけてそうなるため、つまり本人自身の(意識的
行為)が混在するようになるため、子どもの赤ちゃん返りのように、単純に考えることはできな
い。このタイプの老人は、どうすれば自分がよい老人に見えるか、また人にそう思われるか
を、いつも他人の目の中で、研究している。そしてそれが、その老人の(仮面)となって、その老
人に定着する。

●もともと依存性が強い

 あえて言うなら、先にも書いたように、このタイプの老人は、もともと依存性の強い人と考えて
よい。他人に対して、服従的で、そのため同情をかうような行為が目立つ。見た目の外観と
は、区別して考えたほうがよい。

 その人が依存的であるかどうかは、もっと本態的なもので、ふつうは、外観からはわからな
い。見た目には独立心が旺盛に見える人でも、依存的な生き方をしている人は、多い。このタ
イプの老人、つまり依存性の強い老人は、日常生活の中でも、何かに依存していないと、落ち
つかない。

 依存する対象は、さまざまである。学歴や過去の肩書き、夫や妻、子ども、財産や名誉など
など。さらに宗教に依存する人も多い。毎日のように墓参りをしたり、朝夕の勤行をかかさない
人もいる。

 ある男性(75歳くらい)は、足腰が立たなくなったとたん、家人(息子や娘)に、墓参りをする
ように命じているという。その息子氏がこう言った。「元気なころには、一度も墓参りなどしたこ
とがないのに……」と。

 こうした依存性が、つまりは満たされない空虚感が、回りまわって、赤ちゃん返りの引き金を
引く。そう決めてかかるのは危険なことかもしれないが、しかしそう考えることによって、依存性
の強い老人の行動をうまく理解できる。

 事実、このタイプの老人は、赤ちゃんそのものになる。

●仮面は仮面

 ある男性(75歳くらい)は、機嫌のよいときには、まるで赤ちゃんのように、周りの人に甘える
という。穏やかな顔つき、やさしい言い方、ニコニコというよりは、ニタニタという笑みを浮かべ
て、すりよってくるという。

 話し方も、どこか幼稚ぽい。話す内容も、自分の子どものころのことばかり。自分は子どもの
ころ、いい子だったということを、ことさら強調するという。

 が、仮面は仮面。そうした行為を、家人が無視したりすると、突然、怒り出すことも珍しくない
という。あるいは自分の部屋に戻って、ものを壊したりすることもあるという。こんな例もある。

 ある夜、いつものように、娘のB子さんのところに、B子さんの母親から電話がかかってきた。
が、たまたま、そのときB子さんは、夫と言い争いをしていた。虫の居所が悪かった。そのた
め、B子さんが、母親に、「今、忙しいから、またあとで電話してくれない」と告げた。とたん、そ
れまでの猫なで声だった母親の口調が変わり、「何だ、その言い方は! 親に向かって何てこ
と言う!」と。そのままその母親は、電話をガチャンと切ってしまったという。

 B子さんは、笑いながら、こう言った。「あまりの急変ぶりに、私のほうが驚いたくらいです」
と。

●仏様(?)

 さて、あなたの周囲にも、その「仏様」のような老人は、いくらでもいるはず。すべてを悟りきっ
たような表情で、穏やかで、やさしい。

 しかしそのほとんどは、仮面と見てよい。苦労に苦労を重ねてそうなった人には、人間的な深
みを感ずるが、仮面をかぶった人にはそれがない。どこか不自然。どこかつかみどころがな
い。そういった感じになる。

 さらに見るべきところは、その人の過去である。

 ある女性(80歳くらい)は、生涯において、ただの一度も働いたことがない。料理と洗濯はし
たが、掃除といっても、部屋の中だけ。道路や、外回りは、すべて子どもたちがしていた。

 「先代からの財産があるから……」と言っていたが、その実、そのつど息子や娘から言葉巧
みにお金を取りあげて、生活費にあてていた。その女性も、今、まわりの人には、「仏様」と呼
ばれている。

 が、そんな女性が、仏様になるはずがない。言うなれば、赤ちゃん返りをしているだけ。赤ち
ゃん返りをした老人は、みな、仏様風の様子になる。

 ……ということで、このところ、老人の心理に、たいへん興味をもっている。ひとつには、幼児
の心理に似ているということもあるが、私自身が、その老人に近いということもある。

 さらに人間の心理は、そのつど変化すると、一般的に考えられている。「発達心理学」という
言葉も、そこから生まれた。たしかにそういう部分もないわけではないが、しかし私は基本的に
は、幼児も老人も、その心理には一貫性があると思う。もっとはっきり言えば、幼児も老人も、
同じ。つまりその間の、少年少女期も、青年期も、壮年期も、同じ。

 そう思うようになりつつある。つまりこのエッセーは、そういう視点で、書いてみたが、まだよく
わからない点も多い。もう少し考えてから、このつづきを書いてみたい。
(はやし浩司 老人の赤ちゃん返り 依存性 依存性の強い老人)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●新年度の決意

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一般社会では、正月の元旦、つまり1月1日が、
年の始まりということになっている。しかし私た
ちの世界では、4月1日が、年の始まり。

+++++++++++++++++++++

 私は、この10年間、遠慮ばかりしていた。何かにつけて、控えめにすることばかり考えてい
た。それを心のどこかで、モットーにしていた。わかりやすく言えば、年齢を気にしすぎていた。
50歳になったのだから、50歳らしい生き方を、と。もうすぐ60歳になるのだから、60歳らしい
生き方を、と。

 しかしそれはまちがっていた。そういう生き方は、まちがっていた。

 1人の人間が生きていくことについて、年齢など、関係ない。たしかに気力や体力は弱くな
る。中には、ボケ始める人もいる。しかし私はちがう。みなが、そうだからといって、私までそう
でなくてはならないと考える必要は、ない。まったく、ない。

 ところで世間では、正月の元旦、つまり1月1日をもって、年の始まりとする。しかし私たちの
世界では、4月1日をもって、年の始まりとする。そのため、私たちの世界では、この時期は、
メチャメチャ、忙しい。

 昨日も、おとといも、教室の掃除や、手なおしなどで、一日中、忙しかった。ジュータンを買っ
てきて、それを教室に敷いた。机をペンキで塗りなおし、その上にビニール・シートをかけなお
した。

 教材の整理や、棚の整理などなど。そんな作業をワイフに手伝ってもらいながら、こんな会話
をした。

私「ぼくは、死ぬまで、全力で仕事をするよ」
ワ「そうよ、あなたはまだ若いわよ」
私「そうだな。今までのぼくは、あまりにもジジ臭かった」と。

 この10年間、私はいつも自分の年齢を数えながら生きてきた。そんな感じがする。たとえば
物を買うときも、「あと〜〜年、もてばいい」「ぜいたくなものはいらない」と。

 しかしそれはまちがっていた。

私「ぼくは倒れるまで、仕事をする。これからは今までの何倍も、全力で仕事をする。そして倒
れたときが、終わり。そのときは、いさぎよく、死ぬ」
ワ「簡単には、死なないわよ」
私「尊厳死という言葉があるけど、ぼくが脳死状態になったら、さっさと、延命装置をはずして
ほしい」
ワ「……遺言でそう書いてくれないと、私には、できないわ」
私「わかった。そう書いておく。だから、さっさとはずしてほしい」
ワ「わかったわ」と。

 ワイフの話しによれば、今度から、本人の意思表示がなくても、家族の同意があれば、尊厳
死ができるようになるという。そのための法改正が、今、進んでいるという。今までは、前もっ
て、本人がその意思表示をしておかねばならなかった。

私「ぼくには、したいことが山のようにある。いつか、お前を、あのメルボルンに連れて行きた
い。それに……」
ワ「何よ?」
私「最新型のパソコンがほしい」
ワ「いつだって、買えるじゃない」
私「そういうものでもないよ。パソコンは、電気製品とはちがうから」と。

 「あと何年、この仕事ができるだろうか」などということは、もう考えない。そういうふうに考える
こと自体、ジジ臭い。体も頭も快調。だったら、それを信じて、仕事をすればよい。年齢は、関
係ない。

 だれだ! 還暦だの何だのと、バカな言葉を考えたのは! そういう言葉を考えるから、人は
いつの間にか、その言葉にしばられるようになってしまう。

 さあて、新しい年度。ジジイになりたいやつは、勝手になればよい。ジジイだと思いたいやつ
は、勝手にそう思えばよい。しかし私は、ちがうぞ。これからが人生だ。思う存分、自分の仕事
をするぞ。自分の人生を楽しむぞ。さあ、来い!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●トンチンカンな論法

+++++++++++++++++

韓国のN政権は、言うこと、なすこと、
すべてトンチンカン!

+++++++++++++++++

 朝鮮N報が、こんな記事を載せている(4月2日)。いわく「韓国がK国を経済援助するのは、
アメリカの国益にもかなっている」と。

 「?」と思って記事を読むと、こうあった(要約)。

「韓国のK国支援は、アメリカの戦略に合致。

 中国はK国を、K国を『中国の東北第4省』として、自国にとりこもうとしている。このままで
は、K国は、そうなってしまうだろう。つまり38度線が、中国と韓国の国境となってしまう。

 これはアメリカのアジア戦略にも大きな影響を与える。

 だから韓国はK国を支援し、これに対抗しなければならない。つまり韓国がK国を支援するの
は、アメリカの国益にかなったこと」(韓国・政府当局者)と。

 ものは言いようだが、しかしここまで現状認識がズレてくると、どう韓国を理解してよいのか、
わからなくなる。アメリカも含め、日本も、これから先、経済制裁を強め、K国をしめあげようと
考えている矢先のことである。韓国は、K国の核兵器開発を、どう考えているのだろう?

 私がまず言いたいのは、それがK国のやり方だということ。「振り子外交」ともいう。K国は、
戦後、ソ連と中国、ロシアと中国、中国とアメリカの間を、それぞれ、振り子のように行ったりき
たりしながら、経済支援を取りつけてきた。そして今度は、中国と韓国である。

 中国に向かっては、「援助してくれないなら、韓国と仲よしになるぞ」と言いつつ、韓国に対し
ては、「援助してくれなければ、中国の属国になるぞ」と脅す。つまり2つの国の間を、振り子の
ように行ったりきたりしながら、その両国から援助を引き出す。

 韓国のN政権は、まんまとそのワナにひかかってしまった。

 で、「?」の第一。アメリカは、韓国など、相手にしていない。K国については、なおさら。「韓国
が、アメリカの戦略的な前線基地」という考え方は、もう、もっていない。韓国が共産化したとこ
ろで、アメリカは、驚かない。「どうぞ、ご勝手に」というのが、アメリカの本音ではないだろうか。

 そのアメリカは、その戦略的防衛ラインを、極東から、グアムーハワイラインまで、すでに引
きさげている。(日本すらも、その防衛ラインから、はずされている!)アメリカの立場で、考え
てみればそれがわかる。

 ことあるごとに「反米」の、のろしをあげる韓国や日本を、どうしてアメリカが、命までかけて、
守らなければならないのか。日本はともかくも、韓国については、戦略的な視点から見ても、ま
た資源確保という視点からも見ても、価値はゼロ。

 K国の金xx政権が崩壊しそうになると、せっこらせっこらと助けているのが、韓国。日本のA
外務大臣も、つい先ごろ、「両国(韓国と中国)が、K国を助けているが、いったいどういう目的
なのか理解に苦しむ」(3月15日)と発言している。国際的な常識からすれば、A外務大臣が行
っていることのほうが、正当である。

 あのね、N大統領、もし韓国がK国を援助することが、アメリカの国益にもかなっているという
のなら、アメリカは、何も、経済制裁など、しませんよ! 何というトンチンカンな論法!

 先ごろ、K国は、日本の脱北支援者たち4人に対して、逮捕状を出した。K国がいやで、その
K国から逃げてきた人を助けた人たちに対して、だ。このトンチンカンぶりにもあきれるが、今
回の韓国の政府当局者の発言にも、あきれる。

 そのせいか、朝鮮N報ですらも、その報道を伝えながら、終わりに、こう書いている。

 「あるK国の核開発問題専門家は、『韓国の当局者たちが、中国の影響力を抑制するために
も、K国に対する支援を増やさなければならないと主張しはじめたのは、米国がK国に対する
制裁への参加を求めることを恐れて、その場しのぎで作った論理』と説明した」と。

 わかりやすく言うと、韓国は、先手を打って、K国への経済制裁を回避しようとして、このよう
な論法をもちだしたというのだ。しかしそれにしても、トンチンカンな論法。アメリカのことなど、
何も考えていないくせに! つごうのよいときだけ、「アメリカの国益」をもちだす。こういうのを、
私たちの世界では、詭弁(きべん)という。

 
Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●ロバート・デニーロの「ハイド&シーク(かくれんぼう)」を見る

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ロバート・デニーロ主演の「ハイド&シーク」
を見る。

おもしろかった。星は★★★★の、4つ星。

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 昨夜、夕食後、ロバート・デニーロ主演の「ハイド&シーク」を見た。おもしろかった。星は★
★★★の、4つ星。

 まだビデオを見ていない人のために、ストーリーは、ここには書かない。見てからの、お楽し
み。この映画も、最後のどんでん返しがおもしろい。

 で、改めて、多重人格障害について、考えさせられる。ふつう多重人格障害というと、「異なっ
た人格どうしは、他を意識できないとされる」(かんき出版「心理学用語」)。つまりひとつの人格
になっている間は、もうひとつの人格を意識できない。

たとえば1人の人が、A人格とB人格の2つをもっていたとする。その人がA人格からB人格に
なったとたん、その人は、A人格である間に経験したことを、忘れてしまう。記憶すら残らない。

しかし最近では、多重人格でありながら、それぞれの人格を、たがいに部分的に認識したり、
認めあったりするというケースもあるとこともわかってきた。こうした症状をもつ人を、「解離性
同一障害者」という。

 このばあいは、部分的、あるいは全体的に別人格になりながらも、もうひとつの人格について
の意識もある。当然、記憶にも連続性がある。ただ本人は、それぞれの人格になりながら、そ
のつど、どちらの自分が、本当の自分なのか、わからなくなる。たとえばA人格になったとき
は、その人は、B人格のほうが、ニセだと思う。B人格になったときは、その人は、A人格のほう
が、ニセだと思う。

 こうして二重、あるいは三重……の人格の間を、慢性的に行ったりきたりする。

 ここで「解離性同一障害」という言葉を使ったが、「障害」というほどの障害ではないが、会う
たびに、そのつど雰囲気がちがうという人は、少なくない。あるいは、平常なときと、激怒したと
きと、まったく別人のようになる人も、少なくない。

 さらにそういう人を、「解離性同一障害」と言ってよいのかどうかは知らないが、たとえば酒を
飲んでいないときと、酒を飲んだあとの様子が、まるでちがうという人もいる。人格そのものま
で、まったく別人になってしまう。

 シラフのときは、やさしく、シャイ。気も小さい。が、ひとたびアルコールが回りだすと、大声で
怒鳴ったり、叫んだりする。自信満々な様子になる。

 私の父親もそうだった。酒を飲んでいるときは、態度も大きくなり、暴れたり騒いだりした。
が、その酒がさめてくると、再び、別人のように、穏やかになった。シラフのとき、本人は、酒を
飲んでいたときの自分のことを覚えていたのかどうか? 一度もそれについては聞いたことが
ないので、私は知らない。ただ私の印象では、シラフになったときでも、酒を飲んで、怒鳴った
り、叫んだりしたときのことは、ある程度は、覚えていたのではないかと思う。

 で、似たような現象は、私自身も経験している。

 私の中には、たしかに、2人の「私」がいる。1人は、気が小さく、臆病。まじめで、さみしがり
屋。理屈ぽくて、人にやさしい。ふだんは、そういう私である。これを「私A」とする。

 が、何かのことで、私は、もう1人の「私」になる。イライラしたり、気がふさいだときに、そうな
る。時間的には、1〜2分の間に、そうなる。

 そのときの私は、自信家。孤独に強く、世界を相手に、勝負したくなる。もちろんこわいもの
は、何もない。が、同時に自分の人生が、陳腐に見えてくる。つまらなく思えてくる。とたん、自
己嫌悪に陥ることもある。これを「私B」とする。

 しかし私Bは、それほど、長つづきしない。時間的には、長くても半日程度。少しずつ、やがて
もとの私に戻る。

 で、そのあと、つまり私Bから私Aにもどったあとというのは、前頭部が重いのがわかる。スッ
キリしない。頭痛がすることもある。もちろん私Aは、私Bの間にしたことや、言ったことは、す
べて覚えている。ただ責任感は薄い。「私Bは、本当の私ではない」というように思うことで、私
Bがしたことや言ったことについて、責任を逃れてしまう。

 ……ということは、私も、その「解離性同一障害者」ということになる。ゾーッ!

 が、考えてみれば、つまりざっと私の周囲を見回してみれば、多かれ少なかれ、みな、そうで
はないかと思う。私のワイフにしても、精神はきわめて安定した女性だが、私とけんかをする
と、やはり別人のように冷たくなる。(私はそう感ずる。)

 よく言われるのは、多重人格障害者と長くいっしょに同居していると、そのまわりの人も、そ
れに同調して、多重人格者的になることもあるということ。これはその多重人格障害者の症状
に合わせて、そのつど、まわりの人が、影響を受けるためと考えられる。

 ということは、私のワイフが、私とけんかしたときなど冷たくなるのは、私に合わせてそうなる
とも考えられる。私が私Bになるから、ワイフも、それにその私Bに合わせて、冷たくなる(?)。
もしそうなら、ワイフが冷たくなるのは、私のせいということになる。(ゴメン!)

 ……ということを考えながら、「ハイド&シーク」を見た。ブルース・ウイリスの「シクス・センス」
と、かなり似た映画だったが、「ハイド&シーク」のほうは、現実味がある分だけ、恐ろしかっ
た。見終わったあと、ワイフと、「こわかったなあ」「こわかったわ」「ホント」と、たがいに言いあ
った。

 多重人格障害に興味のある人は、ぜひ、見てみたらよい。あるいは、「私もひょっとしたら、
解離性同一障害?」と思っている人も、ぜひ、見てみたらよい。この映画には、いろいろと考え
させられた。
(はやし浩司 多重人格障害 解離性同一障害 二重人格 多重人格)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●拾ったお金は、交番に!

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子どもたちに、「拾ったお金はどうしますか?」と
聞くと、みな、すかさず、「交番に届けます」と
答える。

が、昨日、私は、ふと、こう思った。

「日本では、そうかもしれないが、では、外国では
どうなのか?」と。

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 子どもたちに、「拾ったお金はどうしますか?」と聞くと、小学生だと、みな、「交番へ届ける」と
答える。幼児だと、「パパやママに預ける」と答える。

 が、昨日、私は、ふと、こう思った。「日本では、そうかもしれないが、では、外国では、どうな
のか?」と。日本にあるような交番のある国は、少ない。そこでアメリカにいる息子に電話をし
て、確かめてみた。

 私が、「アメリカでは、どうしているのか?」と聞くと、息子は、しばらく考えたあと、こう言った。
「めったにお金は落ちていないから……」と。

 そこで息子の嫁に聞いてもらった。嫁は、生粋(きっすい)のアメリカ人である。「日本では、子
どもたちに、拾ったお金は、交番(POLICE BOX)に届けるようにと教えているが、アメリカで
はどうなのか?」と。

 するとしばらく考えた様子だったが、こう言った。「アメリカでは、みな、そのままもらってしま
う」と。

 どうやら、「拾ったお金は、交番に」というような教育は、アメリカでは、していないようだ。もっ
ともアメリカは、万事、自己責任の国。お金について言えば、落とした人が悪いということになる
(?)。

 「そういうものだろうな」と考えてみたり、「そういうものかな」と考えてみたりする。

 で、その私だが、何度か、お金を落としたことがあるが、一度とて、戻ってきたためしがない。
近くの交番へ問いあわせたこともない。最初から、あきらめてしまう。「どうせ、戻ってこないだ
ろう」と。

 問題は、お金を拾ったときだ。サイフでもよい。

 これはあくまでも私のばあいだが、サイフだったら、一番近くにある店に届けるようにしてい
る。……というより、ここ数回、どういうわけかコンビニの前ばかりで拾っている。それで、その
ままコンビニへ届けるようにしている。

 その前は、一度、高校生のサイフを拾ったが、中を確かめると、学生証のほか、コンドーム
が2個入っていた。小銭もいくらかあったが、私はそれを、落ちていたところにあった自動販売
機の上にのせた。交番までは、歩いて5〜600メートルほどの距離があった。

 「どこのバカが、コンドームの入った高校生のサイフなど、わざわざ交番へ届けるか!」と、そ
のときは、そう思った。

 「拾ったお金は、もらってしまえ」とは、立場上、私は、言えない。遺失物横領罪に該当する。
しかしそれが国際的な常識であるとするなら、無理に善人ぶるのも、どうかと思う。そこで以
前、子どもたちとこんな会話をしたことがある。

 「いくらなら、もらってしまうか? またいくらなら、交番へ届けるか?」と。

 つまり交番へ届けるにしても、金額の問題があるだろう。100円や200円なら、もらってしま
うだろう。しかし10万円や20万円ともなると、やはり良心がとがめる。で、その結果だが、子ど
もたち(小学校の高学年児)たちは、こう言った。

 「1000円や2000円くらいなら、もらってしまう。それ以上のときは、パパかママに渡す」と。

 まあ、このあたりが、常識的な見解ということになる。ただ私のばあい、こういうことがある。

 自転車で走っていると、ときどき、サイフらしきものが落ちているのを見かけるときがある。し
かしそういうとき、最近の私は、わざと見て見ぬフリをして、その場を通り過ぎるようにしてい
る。サイフを拾うのもよいが、そのあとのことを考えると、わずらわしい。

 そういう私でも、若いころは、こまめに落とし主をさがして、それを渡していた。マニュアルどお
り、交番へ届けたことも何度かある。が、そうした行為をすることに、どれほどの意味があるの
か。たいていのばあい、「はい、ありがとう」ですんでしまった。が、かといって、サイフを自分の
ものにするのも、いやなこと。自分の人間性が腐る。

 しかしアメリカでは、「もらってしまう」と。

 そういう生き方のほうが、わかりやすい。スッキリしている。あるいは思い切って、そういうル
ールを作ればよい。「10万円までは、拾った人がもらってよい」「10万円以上のときは、警察
か交番に届ける」とか何とか。

 まあ、むずかしい話はさておき、サイフを拾ったときほど、その人がもつ善と悪の、心の境目
が試されるときはない。自分のもっている道徳心や倫理観が、どの程度のものか、そのときわ
かる。

 さて、あなたなら、どうする? 道を歩いていたら、10万円が入った財布が落ちていた。近く
には、だれもいない。さあ、どうする? 本音で、一度、この問題を考えてみてほしい。


【付記】

 私は、幼児や小学生を教える立場上、子どもたちには、「拾ったお金は、まず、パパかママに
渡しなさい。あとのことは、パパかママに任せなさい」と教えている。「もらってしまいなさい」と
は、決して、教えていない。念のため! (しかしこの教え方は、責任逃れのようで、少し、ズル
イかな?)

【付記2】

 こわいのは、無理に善人ぶること。無理に善人ぶれば、その裏で、人は、もうひとつの別人
格をつくる。ユングが説いた「シャドウ」というのが、それである。

 よくある例は、牧師や僧侶、それに教師が、善人ぶること。セックスの話などを、ことさら嫌っ
て見せたりする。あるいは「自分は悪とは無縁の人間です」というような態度をして見せたりす
る。

シャドウというのは、いわば邪悪な心のかたまりのようなもの。つまり仮面をかぶる人は、自分
の邪悪な部分をそのシャドウに押しこめることによって、善人であるというフリをすることができ
る。自分は善人であると信じこむことができる。あるいは自分をだますことができる。

 しかしそういう仮面(ペルソナ)を一度かぶると、やがて、本当の自分がわからなくなってしま
う。わからなくなってしまうだけではなく、そのシャドウを、一番身近にいる人が、受け継いでしま
う。

 牧師や僧侶、あるいは教師の子どもが、ときとして世間を揺るがすような大事件を起こすこと
がある。その一例として、佐木隆三の書いた、『復讐するは我にあり』をあげる学者がいる。(こ
れについては、以前にも書いたので、ここでは省略する。)こうした子どもは、自分の親のシャド
ウを、そのまま引き継いでしまった子どもと考えられる。

 しかしシャドウはシャドウ。その人の影のようになって、いつもその人につきまとう。つまりわ
かりやすく言えば、無理に善人ぶっても、意味がないということ。人間は、自然体で生きるのが
よい。あるがままの姿をさらけ出して生きるのがよい。

 「牧師だから……」「僧侶だから……」、そして「教師だから……」という理由だけで、無理をし
てはいけない。無理をして仮面(ペルソナ)をかぶってはいけない。

もし善人になる方法があるとするなら、あるいは善人になりたいと願うなら、それはまさに日々
の行いの中から生まれる。長い時間をかけて、熟成される。牧師や僧侶、それに教師になった
とたん善人になるということは、絶対に、ありえない!

 が、もしあなたが何も考えず、ごく自然に、拾ったサイフやお金は、持ち主のものと考え、さら
に何も見返りを求めず、交番に届けるようであれば、あなたはすばらしい人と考えてよい。しか
しそんな人は、今の日本に、いったい、何%いるだろうか?

【付記3】

 今日も、H大医学部の教授のセクハラ問題が新聞に載っていた(4月4日)。報道によれば、
学内で処分される前に、自ら辞職してしまったということらしい(※)。

 その教授も、一応、表面的には、すぐれた人格者ということになっていたのだろう。またそうで
なければ、H大の教授は、勤まらない。

 しかしいかに能力的にすぐれた人物でも、そのままイコール、人格者というわけではない。む
しろ現実は、その逆ではないのか? 「教授」「教授」と、あがめたてまつられているうちに、こ
のタイプの人は、自分を見失ってしまう。人格を磨く機会と場所を、見失ってしまう。

 ユングの理論を借りるなら、教授という仮面をかぶることで、邪悪な部分を、シャドウに閉じこ
めたまま、自らを人格的にもすぐれた人間であると、錯覚してしまう。しかし本物の善人ではな
い。だからこうした事件を、起こす。

 セクハラの内容がどういうものであったかについては、何も報道されていないので、よくわか
らない。しかし自ら辞職したということなので、それ相当なことをしたのだろう。この事件は、「脳
科学者」という肩書きをもつ教授が起こしたということでも、たいへん興味深い。その教授は、
脳の構造については熟知していたのかもしれないが、脳の機能については、そうではなかった
ということになる。

このつづきは、もう少し情報を集めてから書いてみたい。

【付記4】

 よくふだんは善良ぽく見える人が、何かの事件を引き起こしたりすると、「魔がさした」などと
いう言葉を使って、それを説明する人がいる。

 「ふとした油断が原因で、そういう事件を起こした」という意味で、そう言う。しかしそういう人
は、もともと善人ではなかったという前提で考えると、この「魔がさした」という言葉の意味がよく
わかる。

 もっと言えば、自分が心のどこかに閉じこめておいた邪悪な部分が、ふとしたきっかけで、顔
を出した。そしてその人を、ウラから操った。その結果、事件を引き起こした。つまりそう考える
と、うまく説明ができる。

【注※】ヤフー・ニュースは、つぎのように伝える。

 「脳科学者のS口俊之・H大大学院医学研究科教授(47)が、大学職員へのセクハラ(性的
嫌がらせ)を理由に、諭旨解雇処分を通知された問題で、H大は3日、S口教授が1日付で自
主退職したと発表した。

 独立行政法人化後の人事規定の盲点を突かれ、処分逃れを許す羽目になった。

 S口教授は、セクハラ審査の終盤の3月18日に退職願を提出。大学側は23日に処分を伝
えた。従来なら人事院規則により退職願の受理を保留できたが、法人化で、職員は非公務員
となり、『雇用解約を申し入れた日から2週間を経過すると雇用関係は終了する』との民法の
適用対象となった。

 一方、教育公務員特例法は処分通知から2週間の異議申し立て期間を認めており、多くの
国立大は法人化後も人事規定に同じ定めを設けたという。このため、処分確定には2週間が
必要で、職員から通知前に退職願が出ると、退職が先に成立し、処分できなくなる」と。
(はやし浩司 シャドウ 仮面 ペルソナ)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1214)

【近ごろ・あれこれ】

●ワイフのビーズ

 このところ私のワイフは、ビーズにハマっている。ビーズを使って、ネックレスやブレスレットを
作っている。で、今日も、近くのショッピングセンターへ行って、ビーズ玉や、ネックレスを作るた
めの小物類を、あれこれと買ってきた。

 私は、二男の嫁のために、ほぼ同じものを、買いそろえてやった。しめて合計で、7000円!
 電話で、「ビーズに興味があるか?」と聞くと、嫁は、「YES!」と明るく答えた。それで嫁に
も、買いそろえてやることにした。

 今、ワイフは、横で新しいネックレスに挑戦している。私は、こうして文章を書いている。聞こ
えるのは、熱帯魚を飼っている水槽の水の流れる音。パソコンのキーボードをたたく音。それ
に、カチャカチャと、ワイフが、ビーズ玉をケースに入れたり落としたりする音。外はすでに真っ
暗。

 時刻を見ると、午後6時半。静かな夜がやってきた。……しかしワイフは、いつ、ネックレスを
首に飾るのだろう? 作るばかりで、首にかけない。「どうして?」と聞いたら、「ネックレスに合
う服がない」とのこと。フ〜ン。


●歯医者

 今日で、虫歯の治療が終わった。最後に、ドクターが、歯の磨き方を、ていねいに教えてくれ
た。ついでに、看護士さんが歯の掃除もしてくれた。

 口をゆすぐとき、ふと横を見ると、ドクターがそこにいた。そのドクターに世話になるようになっ
て、もう35年になる。家族も、みな、そのドクターの世話になっている。

 ふだんは、大きなマスクをしているので、よくわからなかったが、そのドクターも、私と同じよう
に年をとった。横顔を見たとき、そう思った。

 良心的で、腕も確か。まちがいなく、名医と断言してよい。医院の名前は、K谷歯科医院。市
内の佐鳴台にある。「今日で治療は、ひとまず終わりです」と言われたとき、ふと、何とも言えな
いさみしさが心の中を、横切った。
(はやし浩司 浜松市佐鳴台 K谷歯科医院)


●株価

 数か月前に買った株が、その後、どんどん値下がりした。一時は、1株あたり、数万円も下が
った。で、xx万円の含み損。

 こういうときは、株は、塩漬け。それが私のやり方。若いころからの、私のやり方。

 が、ここ数日、どういうわけか、その株の株価が上昇し始めた。昨日も、ストップ高。まだ元を
取り戻すところまではきていないが、あと一息。がんばれ!

 新聞の報道によれば、バブル経済が再燃しているという。まあ、日銀もこれだけ市中にお金
をバラまけば、それも当然。仮に年間、30兆円もバラまけば、国民1人あたり、約30万円弱。
我が家で計算すれば、150万円(5人分)ということになる。

 株で、それくらい儲けたとしても、おかしくない。しかし少なくとも我が家には、そんなお金は入
ってきていない。いったい、どこへ、こうしたお金は消えていくのか?


●新聞の3面記事

 夕刊(中日新聞4・4日号)が、私の左に、開いたまま、そこにある。見ると、性犯罪がらみの
記事が、3つ!

(1)九州のRKB毎日放送の記者が、女子高校生を強姦し、そのときの模様を、ビデオにまで
収めていたという。ほかにも余罪があるらしい。

(2)静岡県の清水市の消防士が、わいせつ未遂で、再逮捕されたという。ほかに10数件の余
罪が疑われているという。

(3)浜松市の女子中学生を相手にした売春事件で、さらに3人が逮捕されたという。うち1人の
36歳の男は、私が住む町内と同じ町内の住人だという。

 私も「男」だから、男性の心理が理解できないわけではない。しかし(思い)と(行動)の間に
は、距離がある。たとえば「若い女性とセックスをしてみたい」というのは、(思い)。しかしそれ
を実行に移すには、かなりの努力と時間的エネルギーが必要である。

 その(思い)と(行動)の間に距離がある人を、自己管理能力の高い人という。距離のない人
を、自己管理能力の低い人という。つまりその人がもつ、道徳心や倫理観というのは、その間
の(距離)のハバによって決まる。

 で、私のことだが、私は、それほど自己管理能力が高い人間だとは思わない。誘惑には弱
い。優柔不断で、自分の意思をはっきりさせることができない。人に頼まれると、何となく、それ
を手伝ってしまう。

 しかしこと、女性ということになると、私は、極端に臆病(おくびょう)になる。自信がない。だい
たい私は女性にモテるタイプではない。ワイフはいつも私のことを、「MR.ビーンみたい」と言
う。

 私も、そう思っている。ムードは、ゼロ。若いころ失恋をしたのが、いまだに尾を引いている。
そのときから、女性は、あきらめた。遠い存在になった。今も、そうで、ときどき、(本当だぞ)、
私のことを、「すてきな男性だ」と言ってくれる女性もいるにはいるが、そういう女性は、それを
喜ぶ前に、頭がおかしいのではと思ってしまう。

 しかし私のような男ほど、あぶないのか? モテる男性だったら、こういう事件など、起こさな
い。モテないから、こういう事件を起こす(?)。

 どこがちがうのか? 私とそういう事件を起こす連中とは、どこがちがうのか?

 簡単に言えば、私には、そのチャンスがないということ。そういう世界とは、無縁の世界を生
きている。つまり私の頭の中には、そういう情報そのものがない。それで、かろうじて、私は私
のままでいられる。

 そこで重要なことは、『危うきに近寄らず』ということか。そういう人を、「君子」と言うらしい。

(追記)

 こうしたハレンチ罪を犯した人に対しては、もっと重罪で臨むべきである。問答無用に、懲役
2年くらいは、常識ではないのか。アメリカでは、そうしている。しかしこの日本では、初犯だと、
ほとんどのばあい、執行猶予をつけて、そのまま再び社会に放り出してしまう。性犯罪に、甘
い。甘すぎる。

前にも書いたことがあるが、オーストラリアでは、そうした若い女性(16歳未満※の女子)との
性交渉については、たとえ合意があったとしても、性交渉をもった本人(男)はもちろんのこと、
それを見聞きしながら、それを通報しなかった人も、罰せられることになっている(南オーストラ
リア州)。つまり通報を、義務化している。

 日本も、この際、それくらい罰則をきびしくしてもよいのではないのか。
(はやし浩司 性犯罪 通報の義務化)
(※年齢については、未確認。前回書いた原稿のほうが、正確。)


●肥満

 春休みなって、とたん、体重が、2キロもふえてしまった。で、さっそく今日、4月4日から、ダイ
エット開始。運動開始。

 同じ日、医療センターから、先日の健康診断の結果が届く。1項目をのぞいて、オールA! 
1項目というのは、「総コレステロール」。それが「B」。

 (A…異常なし。B…日常生活に支障なし。C1…12か月後に要検査。C2…6か月後に要検
査。C3…3か月後に要検査。E…要精密検査。つぎにF1、F2とつづく。)

 総コレステロールの正常値は、130〜230mg/dlだそうだが、私の値は、233。3mgのオ
ーバー。

 しかしこのところ、食事がおいしくて、ならない。ついつい食べ過ぎてしまう。気をつけよう。


●超能力捜査官(?)

 おとといも、そして昨夜も、民放のテレビ局が、超能力捜査官なる人物を登場させて、わけの
わからない番組を流していた。

 で、最後までしっかりと見たが、結局は、みな、ハズレ! おとといの番組は、超能力捜査官
なる人物を使って、生き別れになった母親を探し出すというもの。昨日の番組は、アメリカで失
踪した、女子大学生の行方を探し出すというもの。

 ものごとは、常識で考えろ! そんなことで、生き別れになった人や、失踪した人の居場所な
ど、わかるはずがない。多少の科学性があるとするなら、ダウジングだが、しかし、私は、信じ
ない。ダウジングというのは、針金のような棒をもって、地下に埋まっているものをさがしだすと
いう、あれである。

 その(モノ)の上に、何かの棒(これをダウジングロッドという)をもってやってくると、その棒が
地下にあるものと反応して、動いたりするという。その動きを見ながら、地下にあるものをさが
しだす。

磁場や磁力の微妙な変化を感じ取ってそうなるらしいが、しかし水脈や鉱脈のような大きなも
のについては、その可能性もないとは言えないが、地下に埋まった筒や箱程度のものに、それ
ほどまでに大きな力があるとは、思われない。つまり手にもった棒を動かすほどの力があると
は、思われない。

 番組の中では、学校の校庭に埋められたタイムカプセルをさがし出すというようなことをして
いたが、逆に考えてみれば、トリックは、簡単にわかるはず。

 あなたがタイムカプセルを埋めるとしたら、どんな場所に埋めるだろうか。まさか校庭に中央
ということはあるまい。たいていは、校庭のすみで、木とか、鉄棒とか、何かの目印になるもの
の横に埋める。そうした常識を働かせば、タイムカプセルがどこに埋められているかは、おお
よその見当がつくはず。

 ああいう番組を、何の疑いももたず、全国に垂れ流す、その愚かさを知れ。当たりもしないの
に、そのつど、ギャーギャーと騒いでみせる、その愚かさを知れ。さらにこうした番組が、それを
見る子どもたちにどのような影響を与えるか、その恐ろしさを知れ。

 超能力捜査官を名乗る男たちは、その過程で、道路の様子や、風景について、あれこれと言
い当てて見せたりする。しかしそんなことは、あらかじめ簡単な下調べをすれば、わかること。

男「近くに湖があります」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」
男「学校があるはずです」
出演者たち「ギャー、本当! 当たっている!」と。

 しかし肝心の遺骨は出てこなかった。が、それ以上に許せないのは、遺族ともまだ言えない
家族を前にして、「殺されています」「埋められています」と、口に出して、それを言うこと。他人
の不幸を、こういう形で、娯楽番組にしてしまう、その冷酷さを知れ。残酷さを知れ!

 本当に、日本人はバカになっていく。昔、「一億、総xxx」と言った、著名な評論家がいたが、
日本人は、ますますそのxxxになっていく。「xxx」というのは、ノーブレインの状態をいう。脳死
の状態と言ってもよい。

 こういうことを書くと、それを信じている人は、猛烈に怒る。その気持ちは、わかる。しかしそ
れこそカルト信仰ではないのか。あるいはカルト信仰の前段階と言ってもよい。そういうものを
信ずることによって、知らず知らずのうちに、その人は、カルト信仰の下地を、自ら、作ってい
ることになる。

(付記)

 そうであるとは断言できないが、テレビ局は、たまたま当たったばあいだけを、編集して放送
しているのではないかという疑いもある。もしそうなら、それこそ、まさに詐欺と断言してよい。
国民の良識を愚弄(ぐろう)する、詐欺である。こうした番組を見るときは、そういう目で見ること
も忘れてはならない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1215)

●男の中の女、女の中の男

+++++++++++++++++

男と女のちがいとは何か?

若い人は、その(ちがい)を、
明確に感じ取ることができる。

しかしその(ちがい)も、年と
ともに、薄れ、やがてわからなく
なる。

+++++++++++++++++

 「(男は男に作られ)、女は女に作られる」と言ったのは、たしか、ボーボワールではなかった
か。心理学の世界にも、「役割形成」という言葉がある。生まれたときは同じでも、その後、環
境の中で、男は男に育てられ、女は女に育てられるというわけである。

 ただ大脳生理学の分野には、脳内ホルモンのちがいが、男と女を作り分けるという説もあ
る。だから、男が男になり、女が女になるというのは、環境のせいだけとも言えないのかもしれ
ない。

 事実、男の中にも、女性的な部分はあるし、女の中にも、男性的な部分はある。それに子ど
もの世界を観察していると、幼児〜小学3、4年生ごろまでは、男も女も、ない。容姿や服装を
のぞいたら、(ちがい)をさがすほうが、むずかしい。

 それが思春期を迎えるころから、急速に変化する。男は女を意識し、女は男を意識する。そ
の意識が、たがいに自らを、ちがった存在として、際(きわ)だたせる。とくに性的な存在として
の異性には、強烈なものがある。

 私も、高校生のときだが、図書館で女体の解剖図を見ただけで、体中が燃えるように熱くな
り、そのまま動けなくなってしまったのを覚えている。さらに自転車に乗っていたときのこと。前
を歩く女性の足を見ただけで、ペニスが勃起してしまったのを覚えている。

 ほかにも無数にこうした経験をしたが、こうした経験は、私だけのものではない。男なら、み
な、共通して経験することである。つまりこうして男は男になり、女は女になっていく。

 が、それで男の中の女が消えるわけではない。女の中の男が消えるわけではない。あのユ
ングも、「アニマ」「アニムス」という言葉を使って、それを説明している。

 アニマというのは、男の中にある女性的な部分が、イメージ化したもの。アニムスというの
は、女の中にある男性的な部分が、イメージ化したものをいう。

 たとえば男は、男でありながら、自分を全幅に包んでくれるマドンナ的な女性に、あこがれを
いだく。一方、女は、女でありながら、自分を雄々しく保護してくれる、野性的で力強い男性に、
あこがれをいだく。つまりともに、そういうイメージを心の中で、描く。

 が、ときとして、そのイメージは、破壊される。あるいは満たされないときもある。そういうとき
は、代償的に、男は自らマドンナ的になり、女は自ら野性的になったりする。

 私も子どものとき、小学3年生ごろのことだったと思うが、人に隠れて人形を抱いて寝ていた
ことがある。女の子といっしょに遊ぶということさえ考えられない時代だった。私は人形を抱い
て寝ることで、私は、やさしい母親を演じていたことになる。

 反対に、女でありながら、女らしさをまったく感じさせない子どもも、少なくない。自ら女である
ことを拒否しているかのような子どもである。女あつかいをしただけで、バシッと足蹴りを入れ
てきたりする。

 が、これらはすべて、若いころの話。若い人の話。

 男にも更年期というのがあるという話は、よく聞く。その更年期の影響かどうかは知らない
が、私も、50歳を過ぎるころから、男と女の区別ができなくなって、困ったことがある。女性に、
まったく色気を感じなくなってしまった。と同時に、自分が男であることを、忘れてしまった。で、
あるとき、こう思った。

 「今なら、混浴風呂に入っても、女性と、平気で話をすることができるだろうな」と。

 が、それは一時的なものだった。またこのところ、女性は女性として、意識できるようになって
きた。それはそれでよかったと、内心では思っているが、もちろんその意識は、以前よりは、弱
い。週刊誌に出てくるような若い女性のヌードを見ても、何も感じない。ときにただの肉のかた
まりのようにさえ思うこともある。で、こうして考えてみると、男とは何か、女とは何か、ますます
わからなくなってくる。

 まあ、結論から先に言えば、性的な部分をのぞいて、男と女を区別することのほうが、おかし
いということ。まちがっている。男と女は、どこもちがわない。

そこで重要なことは、そういう前提で、ものを考えること。もし男であることや、女であることで、
そこに社会的な差別があるなら、社会のしくみのほうを、変えていく。

 たとえば女性には、妊娠、出産、育児といった、女性特有の負担がある。それはしかたない
としても、そうした負担で、女性が社会的に不利にならないよう、社会のしくみのほうを、変えて
いく。

 フロイトの性俗説によれば、男と女のちがいが、人間のありとあらゆる生活に影響を及ぼし
ているという。それもそうだろう。人間がなぜ生きるかといえば、その第一の目的は、子孫存続
のためである。そのことはほかの、動植物を見ればわかる。

 しかし性俗説だけがすべてではない。ユングもそう唱えて、フロイトから決別したが、私も、そ
う思う。人間が人間であるためには、こうした性俗説から解放されなければならない。人間は、
ほかの動植物とはちがう。同じ部分があるとしても、それを超えなければならない。

 ということは、私もようやく、その性俗説から解放されつつあるということか。相手が男である
とか、女であるとかいうことは忘れて、一人の人間として、見ることができるようになりつつあ
る。

 それはそれで悪いことではないと思うのだが……。しかしそれもつまらないなという未練もな
いわけではない。この先のことは、もう少し年を取ってから、書いてみたい。
(はやし浩司 性差 ジェンダー アニマ アニムス 男女の違い)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●適応能力vs対処能力

+++++++++++++++++

子どものほうが、適応能力は高い。
しかしその分だけ、環境や他人からの
影響を受けやすい。

成人になれば、適応能力は低くなるが、
それぞれの分野における対処能力は
高くなる。

適応能力と対処能力は、反比例の関係にある。

+++++++++++++++++

 新しい環境にその人を置いてみたとき、子どもであればあるほど、適応能力は高い。私は
『子どもは水』という格言を考えたことがあるが、それは、そういう意味で言った。

 が、子どもであるほど、その分だけ、環境や他人からの影響を受けやすい。当然といえば、
当然である。たとえば日本には、『今鳴いたカラスが、もう笑った』という言い方がある。子ども
の心の変化のすばやさを言ったものだが、それは同時に、子どもの心というのは、環境の影
響を受けやすいことを意味する。

 雰囲気が変わっただけで、子どもは、その影響を受ける。

 が、加齢とともに、環境適応能力は、低下する。が、その分だけ、それぞれのばあいに対処
する能力、つまり対処能力は高くなる。夫婦げんかをしていても、電話がかかってくれば、その
場で気分を入れ替え、電話の相手と、にこやかに(?)対処するというような芸当ができるよう
になる。

 反対に子どものばあいには、それができない。ひとつのできごとが、そのまま脳全体を支配
する。こうした現象を、レヴィンという学者は、「パーソナリティの分化度」という言葉を使って、
説明した。

 つまり「子どもの脳は、それだけ柔軟にできている分だけ、たがいに影響を受けやすい」と。

 では、その分だけ、おとなの脳は、子どもの脳よりすぐれているかといえば、そうとは言えな
い。対処能力がすぐれる分だけ、脳の柔軟性が失われる。そのため、つぎのような症状が現
れる。

(1)ものごとへの固執化
(2)行動、思考の単一化
(3)融通性の喪失
(4)適応能力の喪失など。

 ある老人(今年80歳くらい)は、定年退職してから約25年になるが、生活パターンは、まった
くと言ってよいほど、変わっていない。趣味も、盆栽だけ。とくにここ10年は、家の中に引きこも
ってばかりいる。訪れてやってくる人も、ほとんどいない。

 こういう状態になると、脳の柔軟さが失われるだけでなく、対処能力そのものも衰えてくる。わ
かりやく言えば、がんこで偏屈になる。

 もっともこういう例は、いわば例外。ふつうに考えれば、適応能力と対処能力は、反比例の関
係にある。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●ダビンチ・コード

+++++++++++++++++

本屋で少し立ち読みをしたあと、
そのままビデオショップへ。
そこで2本のビデオを借りる。

1本は、『ダビンチ・コードの謎』、
それにもう1本は、その補足版。

2本とも見たが、途中で、あくび。

どうしてこんな本が、世界で
1000万部以上も売れたのだろう……?、
と思ったのが、ビデオを見終わったときの、
私の率直な感想。

+++++++++++++++++

 今、世間で騒がれている本に、『ダビンチ・コードの謎』がある。レオナルド・ダ・ビンチの描き
残した絵画の中には、ダビンチが暗号として残した秘密が隠されているという。

 で、何人かの研究家が登場して、その謎を解説。メインとなった絵画は、言わずと知れた、
『最後の晩餐』。ダビンチが描いた絵画の中でも、もっとも大作であると同時に、有名な絵画で
ある。原画は、イタリアのサンタ・マリア・デラ・グラツィエ教会に所蔵されているという。

 その『最後の晩餐』の中央には、イエス・キリストが座っている。で、ビデオ『ダビンチ・コード
の謎』は、つぎのような謎が、この絵画の中に隠されていることを順に説明する。(ビデオの正
式のタイトルは、『ダ・ヴィンチ・コードの謎』となっている。)

(1)キリストの右側、(向かって左側)、そこに座っているのは、マグダラのマリアだという。マリ
アは、娼婦ということになっているが、実際には、聖なる愛人、つまりイエス・キリストの妻的な
存在だったという。

(2)ダビンチの自画像が、絵画の向かって右端のほうに描かれているが、そのダビンチは、イ
エス・キリストから顔をはずして、外側に向いている。解説者の説明によれば、これはダビンチ
が、反キリスト教の立場であることを示したものだという。

(3)絵画全体の構図が、(M)の形をしているのは、絵画全体で、「マリア」を示したものだという
(これは本の中でそう説明している)。つまりダビンチは、(M)という文字を構図にすることによ
って、マリアがふつうの存在ではなかったことを言いたかったのだという。

(4)イエス・キリストとマリアの服装が、ちょうど逆になっている。形と色が、正反対になってい
る。それについて、ビデオの中では、たしかこう説明していた。「これはテーブルの下で、腰と腰
がつながっているためだ」と。(ギョッ! もしそうなら、最後の晩餐で、イエス・キリストが、テー
ブルの下で、マリアとセックスをしていたことになる!)

(5)ナイフの謎や、それからマリアの首にかかる手の謎についても、解説していた。ナイフは、
だれかの腹を刺そうとしているものだとか、マリアの首にかかった手は、マリアの首を切ろうと
しているものだ、とか。

(6)マリアとの間に生まれたイエス・キリストの子孫が、今でも生き残っているという。そして独
自の宗教活動をしているという。

 全体を見た印象としては、(こじつけ)。(こじつけ)の連続。「そうかなあ?」とか、「少し考えす
ぎではないのかなあ?」と、そのつど、思った。

 たしかに当時は、つまりダビンチがこうした絵画を描いた時代には、反キリスト教的なことを
口にしたり、絵に描いたりすることは、不可能に近かったかもしれない。国全体が、狂信化して
いた時代である。

 それでダビンチは、自分の描いた絵画の中に、自分の思いを、さまざまな暗号として、それ
を、描きこんだ。そういう理屈なら、私にもわかる。しかしだからといって、それがどうだというの
か?

 マグダラのマリアにしても、私たちがもっている常識によれば、マリアは、娼婦だった。そのマ
リアをイエス・キリストは救った。以後、マリアは、つかず、離れずして、イエス・キリストの世話
をつづける。

 現代のように、社会制度が整った時代ではない。だからそういうマリアを、どういう存在であっ
たかを論ずるのは、あまり意味がないのではないか。ビデオの中では、「聖なる愛人」というよ
うな言い方をしていたが、妻であっても、何ら、おかしくない。だいたい、「聖なる愛人」とは何
か? 愛人に「聖なる愛人」も、「そうでない愛人」もない。

 またこまかい話だが、(『ダビンチ・コードの謎』の中では謎としているので)、ナイフにしても、
テーブルに上にころがっている果物(?)の皮をむく道具であったと考えても、何らおかしくな
い。「腕の位置がおかしい」と解説者は説明していたが、私は、おかしくないと思う。

 ほかに「あるべき肝心の聖杯がない」とか、「ブドウ酒とパンがない」とか、など。

 要するに、『ダビンチ・コードの謎』は、ダビンチ自身が、無神論者か、あるいは反キリスト教
的な立場にあったことを、言いたいらしい。が、それについても、同じことが言える。だからとい
って、それがどうだというのか、と。

 つまりそれほど、おおげさ考えなければならない問題ではない。仮にマリアが、「聖なる愛人」
であったとしても、あるいは「妻」であったとしても、それでキリスト教全体が、ひっくりかえるとい
うことはありえない。

 さらに『ダビンチ・コードの謎』は、洗礼者ヨセフと、イエス・キリストの関係についても、あれこ
れ、疑問を投げかけている。私たちが知っている常識によれば、ヨセフは、イエス・キリストに
洗礼をほどこした洗礼者である。つまりその時点で、ヨセフの使命は終わったということになっ
ている。

 どちらが上で、どちらが下というわけではないが、イエス・キリストを(神の子)とするなら、ヨセ
フは、ただの預言者。もしくは洗礼者にすぎない。が、『ダビンチ・コードの謎』の中で、1人の研
究者が、「そうではなかったのではないか」というようなことを述べている。「ヨセフのほうがイエ
ス・キリスよりも、立場が上だったかもしれない?」と。

 しかしこれについても、またまた、同じことが言える。だからといって、それがどうだというの
か、と。

 宗教というのは、(教え)にそってするもの。すべては(教え)によって始まり、(教え)によって
終わる。ダビンチが、どのような異論をもち、どのような信念をもっていたかは知らないが、だ
からといって、それによって、(教え)が影響を受けるということでもあるまい。そう考えるほう
が、おかしい。要するに、どうでもよい。

 仮に、百歩譲って考えてみても、ダビンチの見解は、どこまでいっても、ダビンチという1個人
の見解にすぎない。ダビンチが、神の子というわけではない。イエス・キリストの弟子というわけ
でもない。ダビンチは、西暦1452年の生まれ。言うなれば、イエス・キリストの死後、約1400
年後に、ダビンチは、自分の解釈で、自分の思いを、自分の絵の中に塗りこめたにすぎない。

 それをまるで、天と地がひっくりかえったかのような大事実として、問題視するほうが、おかし
いのではないのか。たとえて言うなら、日本の広重や北斎が、自分の版画の中に、反幕府的な
思想を描きこんだようなもの。後世の研究家たちが、その暗号を解いたからといって、それが
どうしたというのか?

 で、私の印象は、冒頭にもどる。私は、こうした重箱の底をほじるような、こじつけ的解釈(失
礼!)には、どうしても、ついていけない。途中であくびが出たのは、そういう理由による。

 最後に、イエス・キリストとマリアの間に、子どもができ、その子孫が、今でもこの世界のどこ
かに生きているかもしれないという。

 しかしこれについても、そうであったとしても、またそうでなかったとしても、今、ここでそれを
論じても意味はない。

 この2000年間で、約67世代が入れ替わったことになる。(1世代を30年として、計算。)

 世代ごとに、2人の息子もしくは娘が生まれたとすると、67世代では、その数は、2の67乗。
つまり単純に計算しても、その数は、2、4、8、16、32、64人……とふえていって、67世代
目には、現在の地球の人口よりも、はるかに多くなる。だれが子孫で、だれが子孫でないかと
区別するほうが、おかしい。

 「なるほど、そういう見方もあるのか」という意味では、おもしろいビデオだと思うが、それ以上
の意味はないのではないか。ただし私は、本のほうは、立ち読み程度にしか読んでいないの
で、ここではコメントできない。

 ビデオを見終わったあと、「本まで買って読んでみたい」という気持は、とても起こらなかった。
(ゴメン!)

【注】この評論は、今回封切られる、ロム・ハンクス主演の映画、『ダビンチ・コードの謎』につい
てのものではありません。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1216)

●夫婦の問題(M氏への手紙)

+++++++++++++++++++++++

夫のA氏は、「ぼくたち夫婦は、形だけの夫婦です」
と言った。

妻のBさんは、「別れて、九州の実家に帰りたい」と
言っているという。

しかし2人の間には、2人の子どもがいる。上の子は
今年、小学5年生になる。下の子は、小学1年生にな
る。

その問題で、友人のM氏(今年82歳)が、悩んでい
る。孫へのいとおしさも、ある。「孫を引き取ってもよ
い」とは言いつつ、「年のことを考えると、それもでき
ない」と。

そのM氏への手紙。

++++++++++++++++++++++++

Mさんへ

拝啓

 春らしくなりました。今日は、山へ行き、タラの芽を採ってきました。さっそく、それが夕食の食
卓に、フライとなって、料理を飾りました。おいしかったです。

 そうそうついでに、ショッピングセンターで、いくつか、野菜の苗を買ってきました。先ほどま
で、その作業で、畑にいました。結構、汗を流しました。

 お手紙、ありがとうございました。また先日は、突然、おうかがいし、いつものごとく、不愉快な
話をしてしまいました。私どもの、配慮のなさを、どうか、お許しください。奥様のほうから、あの
ように話しかけられたものですから、つい、言わなくてもよいようなことまで、言ってしまったよう
です。

 R氏と、奥さんが、うまくいっていないということは、もうずいぶん前から、私も、感じていまし
た。しかしこうした問題は、どの夫婦にもある問題であり、また昔から言うように、夫婦の仲とい
うのは、夫婦だけにしかわかりません。世の中には、いろいろな夫婦がいます。

 そういう点では、幸福な夫婦というのは、みな似ていますが、そうでない夫婦というのは、まさ
に千差万別。定型がありません。(私たち夫婦も、その、そうでない夫婦です。)

 で、お手紙を何度も読ませていただきましたが、この問題だけは、私にも、どうアドバイスした
らよいかわかりません。またアドバイスしたところで、どうにもならないと思います。

 最終的には、R氏と奥さんが、1対1で話し合って決めることだと思います。ただ私が知るか
ぎりでは、これら一連の問題について、R氏には、ほとんど責任はないと思います。問題の大
半は、奥さんのほうにあります。ですから、R氏を責めてはいけません。むしろ私は、常日ごろ
から、R氏に同情しています。

 まあ、奥さんのほうも、遠方からおいでになっているため、何かとさみしい思いをなさっている
ことは、理解できます。しかしそれ以上に、やはり性格の問題もあるのではないでしょうか。あ
の奥さんのばあい、その性格に合わせられる男性というのは、そうはいないのではないでしょう
か。周辺の人たちと、ことごとく、何らかのトラブルを引き起こしておられるというのも、その表
れではないかと思っています。

 ……と書きつつ、やはり、この問題は、R氏と奥さんが、1対1で話し合って、結論を出される
ことだと思います。私のような者が口をはさむような問題ではないと思いますし、またはさんだと
ころで、どうにかなるような問題でもないと思います。

 2人のお孫さんについても、やはり、当事者である、R氏と奥さんが、話し合うのが一番では
ないでしょうか。私にしても、R氏のためにできることがあるとするなら、その結論を受け止める
ことでしかないと思います。幸いにも、2人のお孫さんたちは、心、健やかに成長しておられま
す。すばらしいお子さんたちです。

 これも私の察するところ、奥さんの指導というよりは、R氏のほうの人徳によるものではない
かと思っています。

 せっかく相談をいただきましたが、私としては、何ともしようがありません。たいへん申し訳あ
りませんが、どうか、私の立場も、ご理解の上、この程度で、お許しください。

 ますます春めいてきました。私の春休みも、あと残すところ、3日となりました。明日からは仕
事の準備にかかります。今の仕事を、あと何年つづけられるかわかりませんが、最後の最後
まで、自分を完全燃焼させながら、がんばってみたいと思っています。

 どうか、お体を大切に。奥様に、くれぐれも、よろしくお伝えください。今日は、こんな手紙で、
失礼します。



敬具


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●うれしいメール

+++++++++++++++++

Pさん(母親)から、こんなうれしい
メールが、届いた。

何度も読みかえした。

「よかった」と思った。

+++++++++++++++++

【はやし浩司へ、Pより】

おはようございます。
昨日もお世話になりました。
ワークは毎月末に指導になっておりますが、S雄から、「丸付け自分でやってもいいんだって。」
との答えが返ってきたので渡したところ、「やっぱりお母さんやってー」と。
どのように進めたらよいでしょうか?教えてください。

帰ってくるなり「お母さんすごくやりやすい」と・・・
いろいろBWでの出来事や友達のことを話してくれました。
S雄「クラスで飛び級してる子と話をしたら、『君も飛び級すれば。』って言われた。」と。 

うれしそうに仲良くなった友達のことを毎週話してくれます。
夕ご飯を食べ、「僕、勉強してくる。」・・・え!え!え!
今まで一度も言ったことがない子が、びっくりです。
こんなにも変わるとは思ってもいませんでした。

またまたすごいことに、入浴中(母と入浴)「お母さん問題、億の上は何かわかる?」と。
私は、「兆で京で・・・ここまでしか知らないなー」と。
S雄、「まだあるだに」とスラスラ答えてくれました。
その後、S雄「お父さんに聞いたら、兆兆兆だってー。」と大笑い。
楽しくて楽しくてしょうがないみたいでした。
入浴後、「あと5ページやろう。」と・・・え!?

私は今だけだろうなーと思いながら、「程ほどにね。」と声をかけたら、
S雄「全部やっちゃおう。」・・・え?え?え?・・・
結局、10時半までやってしまいました。

いつも家族そろって9時におふとんで本をよんだり、会話をしたりすごすのですが、
さすがに昨日はびっくりしました。1年生のとき三日坊主で通信教育やめた子が。
今この様子で、三ヶ月坊主にならないかしら・・・。

私自身家庭内の問題で、昨年末疲れてしまい、子供にまで影響が出始めていました。
これはまずいと思い、勉強ができるできないに関係なく、BWへの入会を考えました。
先生のホームページをはじめ、ストレスが子供をつぶす本を繰り返しよみ、
自分自身が素直になれるよう気持ちを落ち着かせることができるように。

『BWに入れないかもしれないけど、聞くだけきいてみよう』。
先生に任せっぱなしで申し訳ありません。
入会させていただき、本当にありがとうございます。

S雄にも話したことがあるんですが、高校時代、不良ぽかったけれど、生活指導の先生に
「今度体操部作るから入るかー」と声をかけられ入部。
それがきっかけで、大学も行くようになり、仕事もいろいろ勉強して楽しいんだよと。 

その先生は、まさか入部すると思ってもいなかったと卒業のときに教えてくれました。 

今年度、会社でチーフ・マネージャーに。とてもうれしかったです。
きっとあの一声がなかったら、退学していたと思います。
S雄にも、林先生に出会えてよかったと学生生活を卒業してくれたらなーと思っています。
これからもご指導お願いします。

私個人の意見ですが、仕事上毎日パソコンの生活です。
しかし家ではほとんど見ません。疲れます。やはり持ち運び便利な本が一番好きです。 

どうかまた本を出版してください。お願いします。

今日もこれからなにしようか・・・お花見ですよね。
では、先生も春休みゆっくりと休んでください。

PS・文章苦手なのですみません。

      S雄の母親の、P子より

【はやし浩司より、P子さんへ】

 これからもご期待にそえるよう、がんばります。メール、ありがとうございました。うれしかった
です。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●性格検査(Y・G性格検査)

++++++++++++++++++++

自分はどんな性格か? 

それを知るために考案されたのが、
矢田部・ギルフォード性格検査法。

「Y.G性格検査法」ともいう。

一度、あなたはどんな正確か、
ここで自己診断してみるとよい。

++++++++++++++++++++

 人間の性格を、12の尺度に分けて、それぞれどんな性格であるかを知る。その検査法が、
谷田部・ギルフォード性格検査法(Y・G検査性格検査法)である。

 それぞれ12の尺度について、あなたは、どの位置にあるか、自己診断してみるとよい。でき
れば、職場など、より多くの人に参加してもらい、相互に比較してみるとよい。

*********Y・G性格検査法(簡略版)***********

(1)抑うつ性なし +++++   抑うつ性大
(2)情緒安定   +++++   情緒不安定
(3)劣等感なし  +++++   劣等感強し
(4)神経質でない +++++   神経質
(5)客観的    +++++   主観的
(6)協調的    +++++   非協調的(不満・不信)
(7)愛想がいい  +++++   愛想悪し(攻撃的)
(8)非活動的   +++++   活動的
(9)のんきでない +++++   のんき
(0)思考的内向  +++++   思考的外向
(1)服従的    +++++   支配的
(2)社会的内向  +++++   社会的外向

 (注……それぞれについて、1〜5点の、5段階評価)

 (1)〜(5)は、情緒の安定性をみる。
 (5)〜(7)は、社交性をみる。
 (7)〜(9)は、衝動性をみる。
 (9)〜(0)は、内省的かどうかをみる。
 (0)〜(2)は、主導的かどうかを。それぞれ、みる。 

 ちなみに私自身(=はやし浩司)を、自己診断してみると、こうなる(?)。


(1)抑うつ性なし +++●+   抑うつ性大
(2)情緒安定   +++●+   情緒不安定
(3)劣等感なし  +●+++   劣等感強し
(4)神経質でない +++●+   神経質
(5)客観的    ++●++   主観的
(6)協調的    +++●+   非協調的(不満・不信)
(7)愛想がいい  ●++++   愛想悪し(攻撃的)
(8)非活動的   +++●+   活動的
(9)のんきでない +●+++   のんき
(0)思考的内向  ++++●   思考的外向
(1)服従的    +++●+   支配的
(2)社会的内向  ++●++   社会的外向

 これでみると、それぞれの合計点は、つぎのようになる。

(1)〜(5)は、情緒の安定性をみる。 ……13ポイント(平均 2・6)
 (5)〜(7)は、社交性をみる。    …… 8ポイント(平均 2・6)
 (7)〜(9)は、衝動性をみる。    …… 7ポイント(平均 2・3)
 (9)〜(0)は、内省的かどうかをみる。…… 7ポイント(平均 3・5)
 (0)〜(2)は、主導的かどうかをみる。……12ポイント(平均 4・0)

 このY・G性格検査法によれば、(平均値を3とすると)、私は、情緒の安定性、社交性、衝動
性は、平均的。内政的ではなく、支配性が強く、社会的外向性が強いということになる。(少し、
甘いかな?)

 こんど教室の生徒たちの性格を、これで検査してみようと考えている。その結果は、また後
日、報告したい。
(はやし浩司 子供の性格 性格テスト 性格判断 子どもの性格 谷田部・ギルフォード性格
検査 はやし浩司 性格検査法 Y・G性格検査法 性格検査テスト法)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1217)

●特攻隊と自爆テロ

+++++++++++++++++

特攻隊と自爆テロ。
どこかがちがうようで、
しかし、どこか、よく似ている?

+++++++++++++++++
東京都のI知事が脚本・製作を務めた映画、『俺は、君のためにこそ死ににいく』の制作発表が
都内で行われたという。この作品は、実在した「特攻の母、STさんという女性の視点から見た
特攻隊員たちの、散りゆく青春を描いた作品だという」(ヤフー・ニュース)。

 会場では、「坊主になれない俳優はいらん!」とのI知事の言葉どおり、坊主頭になり、自衛
隊の訓練にも参加したというKY氏は、「未来の礎(いしずえ)となってくれた英霊に、感謝と尊
敬をもって自分の役を演じたいと思う」と、復帰2作目となる本作への意欲をしめしたという。

 このところ、戦時中の特攻隊をどこか美化する映画が、話題をさらっている。が、その一方
で、同じ日、こんなニュースが伝わってきている。

 イラクにあるシーア派モスクで、またまた自爆テロがあったという(読売新聞)。記事は、つぎ
のように伝える。

 「バグダッド北部のイスラム教シーア派モスク(礼拝所)で、4月7日、自爆犯3人が体に巻き
付けた爆発物を、相ついで爆発させた。イラク国営テレビは当局者の情報として、信徒ら少なく
とも79人が死亡、164人が負傷したと伝えた」(同紙)と。

 「3人は女性の着る黒いガウンをまとい、金曜礼拝終了後に、信徒らがモスクを出ようとした
ところを狙った。自爆犯の中に女がいたとの情報もあるが、確認されていない」とも。

 もちろんイラクでは、「自爆テロ」とは言っていない。「聖戦」と言っている。同じように、外国で
は、「特攻隊」とは言っていない。「自爆テロ」と言っている。

 特攻隊と自爆テロは、どこがどうちがうのか。

(1)対象がちがう。特攻隊は、アメリカ軍という軍が対象となっていた。イラクの自爆テロは、民
間人が対象となることが多い。そのため民間人が、犠牲になることが多い。

(2)特攻隊は、日本の国が命令している。自爆テロは、反政府集団が、自発的に計画、実行し
ている。

(3)特攻隊は、兵隊と呼ばれる男たちがしている。自爆テロは、男も多いが、今回の自爆テロ
のように、女がすることも多い。

 しかしこれら(1)〜(4)は、いわば表面的なちがいに過ぎない。特攻隊も、イラクの自爆テロ
を起こす人たちも、その心情は、同じ。力の弱いほうに立たされた者たちが、どこか追いつめ
られ、決死挽回を図って、それをする。もっとわかりやすく言えば、相手に恐怖(テラー)を与え
て、相手側の攻撃態勢を混乱させる。

 ……ということになると、特攻隊も、自爆テロも、それぞれ肯定されてしまう。が、それは、お
かしい。

 特攻隊となっていった人たちは、若者ばかりだった。国際政治をどれだけ理解していたかと
なると、それは疑わしい。軍部からの一方的な情報のみに操られて、そうしたと考えても、何
ら、おかしくない。

 一方、イラクで自爆テロをする人たちは、信仰上の信念でもって、そうしている。そういう意味
では、狂信的とさえ言える。が、では、特攻隊となっていった人たちは、狂信的でなかったかと
いうと、これもまた疑わしい。

 戦時中、私が住む浜松基地は、その特攻隊隊の中継基地になっていた。特攻隊員たちは、
一度、この浜松に集結し、時期をみながら、(たいていは1週間程度、寝泊りをしたあと)、九州
方面へ飛び立っていったという。私の知人の中には、その特攻隊の世話をした人たちが何人
かいた。私の義理の兄の父親も、そに1人である。

 いつだったか、その義理の父親が、私にこう話してくれたことがある。

 「特攻隊員たちは、みな、異常だった」と。精神状態が、今でいう、ハイの状態だったという。

 話を聞くと、特攻隊員たちの気が変わらないように、特攻隊員たちは、一般の人たちからは
完全に隔離された状態に置かれ、日常的に、覚せい剤のようなものを、飲まされたり、注射で
打たれたりしていたという。

 だからといって、私は何も、特攻隊員たちを責めているのではない。彼らは彼らなりに、「国」
を考えて、「散っていった」(同映画)のだろう。問題は、そうした特攻隊員たちにあるのではな
く、そういう若者たちを、洗脳し、自爆するようにしむけた、当時の軍部にあり、政府にある。彼
らは、あたかも、特攻隊員たちが、自らの意思でそうしたという形をつくりながら、それを美化
し、自分たちの責任を回避している。このことは、イラクの自爆テロを見ていると、よくわかる。

 中には、まだ10代の子どもがいる。もちろん若い女性もいる。おそらく、こうした自爆テロを
起こした子どもたちや若い女性たちは、その内部では、美化され、英雄視されているのだろう。
しかしそれが本当に必要な戦闘(?)であり、正しいことなのかというと、これもまた疑わしい。

 仮に正しいこととするなら、では、自衛隊のイラク派遣は何かということになってしまう。サマア
の自衛隊も、当然、その自爆テロの標的になっている。つまりここで矛盾が起こる。脳みそが
混乱する。

 特攻隊を正当化してしまうと、イラクの自爆テロが正当化されてしまう。自爆テロが正当化さ
れてしまうと、その犠牲者たちは、犠牲となって当然という立場に立たされる。言うなれば、サ
マアの自衛隊員たちが犠牲になっても、何も、文句を言えないということになる。少なくとも、日
本人に、イラクの自爆テロを非難する資格はないということになる。

 ……とまあ、考えていくと、頭の中が混乱する。わけがわからなくなる。

 結論を先に言えば、男であろうが女であろうが、まだ事情もよくわからない若い人たちを使っ
て、自爆攻撃をさせるのは、まちがっている。おかしい。もっと言えば、狂っている。

 仮に百歩譲って、特攻隊員たちがしたことが正しかったとするなら、戦後のこの日本は、何か
ということになってしまう。どうして今の今、アメリカ軍に対して、その自爆攻撃とやらを、つづけ
ないのかということになってしまう。つまりそうすることが、「桜となって散っていった、英霊」に報
いることではないのか?

 これからその映画が作られるということのなので、何とも言いがたいが、どうして今の今、特
攻隊員なのか? 私には、どうしても、それが理解できない。若い俳優の1人は、こう述べてい
る。「未来の礎となってくれた英霊に、感謝と尊敬をもって自分の役を演じたいと思う」と。

 そういう考え方もあるのかなあ……?、と思ったところで、私の今朝(4・8)の雑感は、ここま
で。

それにしても、「未来の礎」とは? もうひとつおまけに、?。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●アメリカの入社試験

++++++++++++++++++

二男のBLOGにこんなおもしろい記事
が載っていた。

ここに無断転載させてもらう。

Sよ、許してくれ!

++++++++++++++++++

アメリカの会社に入社する時は、これといって「入社試験」みたいなのをするところはないので
すが、よく面接の時に、いくつかそれっぽい質問をすることは多いようです。「文字列Aの順序
を逆にして、すべて大文字にするにはどうしますか?」とか・・

別に正解が出せるかどうかを調べるわけではなくて、そういう問題を一緒に解きながらチーム
メイトとの相性を見るわけです。面接官と呼ばれるような人が、実際に雇用の判断をすること
はまずなくて、実際に配属される部署のチームメイトがミーティングの形で面接をすることが多
いようです。

今日も僕のチームで2人ほどそんな面接があったのですが、マイクロソフト社が面接の時に出
しているのと同じ問題に挑戦してもらいました。


問題

4人の人たちがつり橋を渡ろうとしています。全員が橋の同じ側にいます。真夜中で、懐中電灯
が一つだけあります。橋は一度に2人までしか渡れません。橋を渡るときは懐中電灯が必要
で、1人で渡るときも、2人で渡るときもどちらかが懐中電灯をもって一緒に渡らなければいけ
ません。懐中電灯を持って往復しながら全員を渡すわけですが、投げたりすることはできませ
ん。4人はそれぞれ橋を渡るのにかかる時間が違っていて、二人で渡るときはどちらか遅いほ
うの時間がかかります。

Aさん 1分
Bさん 2分
Cさん 5分
Dさん 10分

例えば、もしAさんとDさんが一緒に橋を渡るときは、遅い方のDさんの10分かかるわけです。
そしてもしAさんが一人で懐中電灯をもって帰ってくるとすると往復11分かかる訳です。

さて、全員を17分以内に橋の反対側に移動させるには、どういう順番で橋を渡ればよいでしょ
うか?

別にこれができないとマイクロソフトに入社できない訳ではないと思いますが、今日の面接でも
こういう問題を解いてもらいました。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1218)

【板取川】

●板取川温泉

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25年ぶりに、昔、買った山林を、
確かめるために、岐阜県の板取村
というところへやってきた。

合併前は、武儀郡板取村といったが、
今は、関市板取という。

「関市ねえ〜?」というのが、
率直な感想。どうしてこんな
静かな山村を、関市というのか?

その関市というのは、刃物の産地と
して、よく知られた町である。

+++++++++++++++

●黄沙

 午後12時50分、新岐阜駅を出る、板取村行きのバスに乗る。乗ったとたん、春がすみを思
わせる、白いモヤ。一面にモヤ。驚く。空全体が、真っ白。「まさか?」と思ったが、そのまさ
か、だった。黄沙(こうさ)である。中国大陸から風で飛ばされてきた、黄沙である。

 そう言えば、数日前のニュースによれば、中国の北部地方は、今年は大干ばつだそうだ。黄
河流域の砂漠化も進んでいるという。そのせいだろう。私も、これほどまでにすごい黄沙を見た
ことがない。

 小雨がパラついていたが、それが乾くと同時に、砂の跡が、くっきりと現れた。窓ガラスには
もちろん、カバンにまで!

●洞戸

 バスは、一度、洞戸という小さな村を経由する。「ほらど」と読む。「洞への入り口」という意味
だが、その名のとおり、このあたりには、いろいろな伝説が残っている。

 私が子どものころ聞いた話によれば、このあたりには、昔、頭がシシ(ライオン)、体がトラ、
そして尻尾がヘビという怪獣が住んでいたそうだ。名前も、そのままズバリ、「シシトラヘビ」と言
った。

 その怪獣を昔、藤原の何とかという武士が、退治しにやってきたという。私は、「藤原の鎌足
(かまたに)」と聞いたが、確かではない。

 その武士が、今でも「大矢田(おやだ)」と言われているところで、大きな矢を作って、そしてこ
の洞戸から、山に入ったという。それで、その矢を作ったところと、大矢田。その入り口を、洞
戸というようになった。……と、私は聞いている。

 つまり私は、このあたりの地名に詳しい。

●板取川温泉

 板取川温泉へは、午後3時ごろ着いた。つぎのバス停が、「杉原」という終点だそうだ。だか
らその1つ手前の停留所ということになる。

 観光地として、きれいに整備されているので、老若男女を問わず、家族連れでも、じゅうぶん
楽しめる。その下には、いわずと知れた、天下の名流、板取川が流れている。四国の四万十
川にまさるとも、決して劣らない。清流中の清流である。

 いつ来ても、板取川の水は、美しい。澄んだクリスタル色をしている。

 私たちは、その板取川温泉の川向こうにある、「ひおき」という民宿に泊まった。地元に住む
いとこが、1押しで、推薦してくれた。

 その推薦にまちがいはなかった。新しい建物で、部屋に入ると、ヒノキのにおいが、プンと鼻
をついた。部屋も広い。4月8日の土曜日だったが、まだシーズンではないらしい。宿泊客は、
どうやら私とワイフの2人だけのようだ。宿屋の主人には申しわけなく思ったが、かえってのん
びりできそうで、うれしかった。

●板取

 このあたりには、思い出が多い。知人や親類も多い。子どものころは、このあたりまで、よく
遊びに来た。そうそう「ひおき」の下には、昔来たことのあるキャンプ場が、そのまま残ってい
た。

 川遊びに関しては、私は、プロだと思う。夏になると、この板取川へやってきて、一日中、泳
いだり、魚をとったりして、遊んでいた。

 橋を渡るとき、川底をながめながら、子どものころの自分を、思い出していた。いや、ふつう
思い出というのは、思い出そうとして、思い出すもの。しかしここでは、そうではない。

 川の底から、怒涛のように、思い出が、脳裏の中に、つぎつぎと浮かんできた。

 言い忘れたが、板取村は、私の実母の在所のある村。私にとっては、この村のほうが、ふる
さとと言ってもよい。生まれ育ったのは、板取村から車で1時間ほどのところにある、M市だ
が、そのM市を、自分のふるさとと思ったことは、一度もない。

 私にとっては、M町は、いやな町だった。今も、いやな町である。

●村長

 少し前まで、つまりこの板取村と関市が合併する前まで、この板取村の村長は、長屋K氏と
いう人物だった。母の実家の隣人である。

 だから子どものころから、そのK氏のことはよく知っている。いつも薄い下着だけで、縁側に
座って涼んでいた。おだやかな性格の、人徳のある人だった。確か私より10歳ほど、年長で
はなかったか。

 私は、そのK氏が、村長になったと聞いたとき、驚くと同時に、心底、うれしかった。で、その
あとは、一度も、会っていない。私にとっては、そのまま畏(おそ)れおおい人となってしまった。

 宿屋の主人に、K氏のことを話すと、「そうですね。合併する前まで、村長でした」と話してくれ
た。

●山林

 今日、こうして板取村にやってきたのは、先に書いたように、自分の買った山林を確かめる
ためである。

 この25年の間に、雪害などがあったりして、かなり傷んだという話も聞いている。それにここ
20年来の山林不況で、立ち木の価値はさがる一方。今では買ったときの値段の5分の1で
も、売るのがむずかしいという。木そのものは、45年木(ぼく)になっているというのに!

 あきらめてはいるが、しかしここまで価値がさがるとは! そのとき、だれがそう思っただろう
か。少なくとも、値段はさがらないと思っていた。木は、年々、成長する。

 地元の森林組合の人に相談すると、あっさりと、「それはだまされましたね」と言った。買った
当時ですら、相場の10倍以上の値段だったという。

 よく調べないまま、売り主の言いなりの値段で買った私が、愚かだった。

●後悔

 しかし不思議なものだ。こうして民宿の一室で、柱に背をもたれかけさせ、パソコンのキーボ
ードをたたいていると、その(うらみ)が、どんどんと消えていくのがわかる。

 森の香り、木々の放つ生気。ここはまさしく、深緑の木で包まれた水墨画の世界。そういう世
界に包まれていると、私は、その山林で損をした以上のものを、この村からもらったのがわか
る。

 「損をした」「損をした」と思いながらすごすのも、これからの10年。しかしその10年のうち
に、私にとって最良であるべき、10年が流れてしまう。「損をした」とか、「得をした」とか、そん
なことを思っている間に、私の人生そのものが、終わってしまう。

 だったら、不愉快なことは、早く忘れること。

 内心では、「買ったときの値段で、だれかに売りたい」とは思っている。しかし今となれば、10
分の1でもよい。早くケリをつけて、気分を楽にしたい。

 いや、この民宿に来てからは、正直なところ、それさえもうどうでもよくなってしまった。先ほ
ど、ワイフに、「あんな山林、だれかにくれてやろうか」と話すと、ワイフも、少しためらったあと、
「そうねえ……」と。

 あのころは、家1件分の値段で、その山林を買った。しかし今では、山林を売ったとしても、そ
のお金では、駐車場を作るのも、むずかしい。

私「損をしたと思いながら、仕事でがんばったから、損はしていないかもしれないよ」
ワ「そうね」と。

●頭痛

 部屋へ入ってから、ワイフは、頭痛がすると言って、コタツの中で、横になっている。先ほど、
湿布薬を2枚、ひたいに張りつけてやった。薬も渡した。

 私のバッグの中には、そうした薬が、一式、すべて入っている。頭痛薬に胃薬、精神安定剤
に催眠薬、目薬に、各種ハーブ薬、花粉症の薬もある。いつごろからか、そういう習慣になって
しまった。で、そのせいか、どこへ行くにも、そのバッグがないと不安でならない。

 昨夜はいろいろあって、床についたのは、午前1時ごろ。今日は私ひとりで板取村へ来るつ
もりだったが、朝になって、ワイフが、「私もついて行く」と言い出した。「あなたひとりでは、心配
だから」と。

 このところ、中高年者の自殺がふえているという。とくに50代があぶないという。それをワイ
フを心配したわけではないが、しかし私の中で自殺願望が、このところ、年々、大きくなってい
るのがわかる。「このまま死ねたらいいね」とか、そんなことを、平気で口に出して言うことが多
くなってしまった。

 そのワイフは、たった今、寝息をたて始めた。一見、元気そうな女性だが、先日の健康診断
の結果によれば、私より不健康。とくに血圧が高い。……ここ数年で、急に高くなった。だから
こうして睡眠不足のまま旅行をしたりすると、すぐ頭痛を起こす。

 つまるところ、私が悪い。このところワイフに何かにつけて、心配ばかりかけている。

●板取の見所

 民宿「ひおき」の玄関先には、何枚かのパンフレットが並べてある。ひおきの名刺カードもあ
る。それには、こうある。

 冬は雪の中、薪ストーブ、しし鍋、鴨鍋、岩魚骨酒
 あまご釣り解禁……3月1日〜
 虹ますのから揚げ
 美しい新緑の板取……4月末〜
 山の祭り……5月連休
 石楠花、見ごろ
 鮎釣り解禁……あじさい祭、6月中旬
 絶品の香り高い板取川の鮎
 主が調達(要予約)
 自慢の新米こしひかり……10月〜、と。

 板取川といえば、鮎釣りのメッカ。友釣りがよく知られている。その板取川だが、私は子ども
のころから、板取川だけを見て育ったこともあり、「川というのは、そういうものだ」と思ってい
た。

 しかしこれはたいへんなまちがいだった。以後、日本はもちろんのこと、世界であちこちの川
を見てきたが、長良川、とくにこの板取川ほど、美しい川を見たことがない。どこへ行っても、そ
うだった。

 そのためいつごろからかは忘れたが、私はそういう自分を誇らしく思うようになった。「ラッキ
ーだった」というような軽い気持ではない。それほどまでに美しい川が、いつも私の心の中を流
れている。それは言うなれば優越感を超えた、自尊心のようなものではないか。

 どこかでだれかが、美しい川を見せてくれても、私はいつも、心の中ではこう思う。「何だ、こ
んな川! 板取川のほうが、ずっときれいだ。君は、板取川を知らないのか。ぼくは、子どもの
ころ、その板取川で育ったのだぞ!」と。

●みやげ屋

 板取川温泉のみやげ屋は、午後6時に閉まるという。朝は、10時から。いろいろ時間をすり
合わせてみたが、夕食前の時間帯にしか、みやげを買う時間がない。それで、私は、民宿から
みやげ屋まで、2往復するハメに。

 最初の1往復で、夕方6時までしか開いていないことを知った。つぎの1往復は、お金をもっ
て、でかけた。

 来週、友人たちと会食をすることになっている。そのとき、その友人たちに、この板取のみや
げを手渡したい。私は、ほうば味噌、佃煮類を、2〜3個ずつ、まとめて買った。人にあげるも
のは、その前に、一応、私のほうで試食をしてからにしたい。それもしないで、いきなり渡すの
は、失礼かも(?)。

 「これは、こういう味です」と説明しながら、渡ししたい。
 
 で、こういうときのコツは、自分が食べたいものを選ぶこと。(当然のことだが……。)最近の
傾向としては、みやげというと、食べ物が多くなった。若いころは、置き物とか、そういうものが
多かったように思う。

 どうしてだろう?

 ひとつには、置き物のもつむなしさというか、そういうものがわかるようになった。悪く言えば、
どうせゴミになるだけ。とくに最近のみやげには、こう書いてある。「MADE IN CHINA」と。
中には、100円ショップで100円のものに、300円とか、400円の値段がついていることがあ
る。

が、本当の理由は、もう新しい思い出をつくる気力がわいてこない。(ジジ臭い話で、ゴメン!)
それとも、今、こうしてワイフと民宿に泊まったという思い出が、いつか輝くときが、くるのだろう
か? 私は、もう、そういうことはないと思う。

 だからどうしても、食べ物が多くなる。そのときの(思い出)は、腹の中に入れて、それでおし
まい! あとは忘れて、バイバイ。人生も、こうして、より淡白になっていく。

●夕食

 夕食は、階下で、2人だけですました。ちょうどシーズンオフということで、おかげでのんびりで
きた。

 料理は、★4つの、★★★★。心のこもった料理に、ワイフも大満足。1泊1人、9500円とい
うことなので、それほど料理には、期待していなかった。しかしおいしかった。写真は何枚かと
ったので、マガジンのほうで、それを紹介するつもり。

(宿泊料金については、シーズンごとに異なるようなので、宿泊する人は、確かめてほしい。)

 宿の主人は、どこかほかの地方からの人だということらしい。女将は、地元の人だという。食
事中も、話がはずむ。

●入浴

 風呂は、男女別に分かれていたが、その必要はない。私をワイフは、2人で1つの湯船につ
かった。ステンレス製の、大きな風呂だった。

 体をじゅうぶん、のばした。くつろいだ。旅館にもいろいろある。民宿にもいろいろある。しか
しもしみなさんが、何らかの機会で、この板取村へ来るような機会があれば、ひおきを推薦す
る。築後2年目(06年)という新しさもあるが、「本物」であることは、使っている材木を見ただけ
でわかる。

 食堂の大黒柱だけでも、40センチ角のひのき材を使っている。都会では絶対に見られな
い、大黒柱である。民宿だが、しかし旅館で、これほどの材木を使っている旅館は、あるだろう
か?

●いとこに会う

 風呂から出ると、そこにいとこ夫婦が立っていた。3、4年ぶりの再開である。時間は忘れた
が、別れたとき時計を見ると、午後11時を過ぎていた。

 「明日は早いですから」と、いとこの妻は言った。

 外まで見送ると、いとこは白い車に乗って、そのまま去っていった。

 いとこ夫婦は、今年は、たいへんだ。長女と、長男の、専門学校と高校の、入学が重なった。
そのため3月中は、目の回るような忙しさだったという。子どものころの楽しかった話というより
は、その苦労話が尽きない。

 そうしてあっという間に、数時間という時間が過ぎた。

●就寝

 私たちが泊まった部屋は、川に面した、一番北よりの部屋だった。まだ木の香りがプンとす
る、真新しい部屋だった。

 部屋は10畳。電気を消すと、朝まで、ぐっすりと眠ることができた。ワイフが横でモゾモゾと動
いたので、「何時?」と聞くと、「8時よ」と言った。カーテンがわりになっている白い障子窓を通
して、まばゆおいばかりの朝の光が、部屋の中に届いていた。

 久しぶりに、よく眠った。こんな安らかな朝を迎えたのは、何年ぶりだろう。私にとっては、そ
んな朝だった。

 ここへ来るまでは、私に山林を売りつけた男に、少なからず、うらみを覚えていた。顔を見る
のもいやだった。その前に、この板取村に来るのも、いやだった。思い出が多いとはいえ、そ
の思い出の上に、いやな思い出が、その山林のおかげで、上書きされてしまった。

 が、そのうらみは消えた。

 目の前に流れる川では、よく遊んだ。手前の土手は、キャンプ場になっていて、一度、イノシ
シがいたのを覚えている。

 この先、川を上流に向かっていくと、このあたりでは珍しい、大渓谷になっている。その渓谷
の上から下をのぞいたこともある。その途中で、魚をとって、その場で焼いて食べたこともあ
る。

 そんな楽しかった思い出が、つぎつぎと、そのいやな思い出の上に、さらに上書きされてい
く。

私「今朝の夢には、昔の教え子たちが出てきたよ」
ワ「珍しいわね」
私「それに、子どものころの二男も出てきた」
ワ「フ〜ン」
私「安らかな夢だった」
ワ「珍しいわね」と。

 障子戸を開けると、まっすぐ朝の陽光が、ガラス窓を通して、部屋に入ってきた。とたん、あ
のつんとした冷気が消え、春のような陽気が部屋に充満した。

 窓の外を見ると、深緑の杉の林を背にして、黒い大きな山がそこにあった。右のほうには、
幾重にも重なった、尾根が、それぞれ色を変えて、そこに連なっていた。

 GOOD MORNING! 今日は、忙しい1日になりそうだ。

 これから山の中を歩く……体力は、OK! 体調も、OK! 気分は、そう快!


はやし浩司++++++++++++April.06+++++++++++Hiroshi Hayashi


【案内】

 山の宿……ひおき
 電話 0581−57−2756
 住所 〒501−2901 岐阜県関市板取3752−1


はやし浩司++++++++++++April.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●夫婦の信頼関係

++++++++++++++++++

自分の心のスキ間を埋めるための、
自分勝手な、つまりは自分本位な
愛のことを、代償的愛という。

ストーカーが見せる、ストーカー的な
愛を思い浮かべればよい。

しかしそんな愛では、夫婦の間に、
信頼関係など、できるはずはない。

++++++++++++++++++

 自分の心のスキ間を埋めるための、自分勝手な、つまりは自分本位な愛のことを、代償的愛
という。本来、「愛」というのは、いかに相手の人の立場になって、その心を共有できるかによっ
て、その深さが決まる。が、代償的愛には、それがない。どこまでも自己中心的な愛をいう。

 ストーカーが見せる、ストーカー的な愛を思い浮かべればよい。が、それは「愛」ではない。支
配欲、依存性、情緒の不安定性、精神的な未熟さを補うために、一方的に、相手を、自分の支
配下に置いて、自分の思いどおりにしようとする。

 が、当の本人には、それがわからない。

 代償的愛をもって、それを真の愛と錯覚してしまう。あるいは、誤解する。相手がいやがって
逃げ回っているにもかかわらず、それは自分が悪いのではなく、相手が自分を理解していない
せいだと、勝手に解釈する。

 ……というような話は、前にも、何度も書いた。

 そこで最近、こんな話を聞いた。その話について……。

 ある男性(今年80歳くらい)だが、片時も離れず、妻のそばにいるという。たとえば妻がトイレ
に入ったりすると、そのトイレのドアのところに立って、妻がトイレから出てくるのを待っている
のだという。

 もちろん妻がひとりで、買い物に行くのさえ、許さない。許さないというより、ついていく。その
ため妻は、ここ20年ほど、友人たちとの旅行すら、していないという。
 
異常なまでの依存性と言ってもよい。が、当の男性にも、言い分がある。その男性は、こう言っ
た。「自分は、心筋梗塞を起こしたことがある。バイパス手術を受けて、何とか生活できる状態
だが、そのため、妻がいないと不安でならない」と。

 一般論として、代償的愛は、加齢とともに、依存性、支配欲へと変化しやすい。つまり年を取
れば取るほど、より妻(夫)に依存するようになり、妻(夫)を、より自分の支配下に置こうとする
ようになる。

 では、なぜ、そうなるかと言えば、答は簡単。

 そもそも、夫婦間に必要な、信頼関係そのものがない。先の男性にしてみれば、若いころ
は、不倫のし放題。妻は、家政婦か女中のような存在でしかなかった。その男性は、「誠実」と
いう言葉とは、無縁の世界に住んでいた。

 こうした現象は、子どもの世界でも見られる。よく知られた例としては、分離不安がある。母
親の姿が見えなくなっただけで、狂乱状態になり、母親のあとを、泣き叫びながら追いかけたり
する。

 何かのきっかけで、母子間の信頼関係にヒビが入ったとき、そうなる。母親が、数日間、病気
で入院したとか、遊園地で迷子になったりしたとか、そういうことが原因で、分離不安になること
も珍しくない。

 必ずしも、母親の側に、愛がなかったから、そうなったということだけではない。

 が、子どもは、それを「捨てられた」と思いこんでしまう。妄想、あるいは誤解ということになる
が、子どもには、まだ、そこまで理解できない。つまり子どもは、「また捨てられるかもしれない」
と思うことで、極度の不安状態に置かれる。「捨てられるかも?」というのは、子どもにとって
は、恐怖以外の何ものでもない。その恐怖感が、子どもをして、分離不安に駆りたてる。

 同じように考えていくと、こうした代償的愛の結果、極端な依存性、あるいは支配欲の背景
に、夫婦間の不信感があると考えられる。しかもその不信感は、妻が不倫をしたとか、あるい
は夫の信頼感を裏切るようなことをしたとか、そういうことが原因で起こるのではない。夫自身
の生活態度が原因で起こる。

 昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。同じように、自分が不誠実だと、相手も不誠実
だと思う。そしてより相手を疑うようになる。その誤解が、自ら、たがいの信頼関係に、ヒビを入
れていく。

 夫婦にかぎらず、相手がだれであるにせよ、信頼関係などというものは、一朝一夕にせきる
ものではない。長い時間をかけて、少しずつ熟成される。しかしその信頼関係は、いわば、ガラ
スの箱のようなもの。ほんの少しの衝撃を加えただけで、すぐこわれてしまう。また一度、こわ
れると、その修復は、たいへんむずかしい。

 たとえば不倫を例にあげて考えてみよう。

 若い人は多分、不倫というのは、内心の問題と安易に考えやすい。私もそう考えていた。「バ
レなければ、それでいい」と。あるいは、ただ単なる排泄と考える人もいる。そしてそれほど深
い考えもなしに、一時の、甘い、肉体関係に、心をまどわす。

 しかしその代償は、大きい。当の本人は、「自分さえ、黙っていれば、妻(夫)には、バレない」
と思うかもしれない。「妻(夫)さえ気がつかねば、生活は、変わらない」と考えるかもしれない。

 が、その代償は、大きい。自分自身の中の(誠意)を、それによって、破壊してしまう。つまり
自分で、自分の中に、自己不信の芽を作ってしまう。今さら言うまでもないことだが、自分すら
信じられない人間が、どうして他人を信ずることができるだろうか。

 だから不倫をしている夫(妻)ほど、自分の妻(夫)を疑う。ここでまさに『泥棒の家は、戸締り
が厳重』という現象が、起きる。自分がそうだから、妻もそうではないかと疑ってしまう。

 もちろん信頼関係は、それだけで決まるものではない。乳幼児期の「基本的不信関係」が、
長く、尾を引くこともある。さらに先に書いた、乳幼児期に経験した分離不安が、成人になって
からも、再現されることもある。夫婦の信頼関係といっても、その中身と、それができあがる過
程は、千差万別。決して、単純なものではない。

 だから今、冒頭にあげた男性が、なぜそうなのかということについて、安易な解釈を加えるこ
とはできない。ひょっとしたら、心筋梗塞という病気がもつ特有の不安感が原因でそうなったの
かもしれない。あるいはその男性には、若いころから、心気症だったのかもしれない。

 しかしこれだけは言える。

 今、あなたは、自分の夫(妻)に対して、絶対的な信頼感を覚えているだろうか。「絶対的」と
いうのは、「疑いすらもたない」という意味である。

 もしそうなら、あなたたち夫婦は、すばらしい夫婦と言える。また今まで、すばらしい人生を送
ってきた人と言える。率直に言えば、うらやましい!
(はやし浩司 夫婦の信頼関係 代償的愛 分離不安 夫婦 信頼)

【付記1】

 知人の中にも、妻に隠れて、不倫を重ねている男性がいる。今は、それなりに結構楽しそう
な雰囲気だが、しかしそのツケを払うときは、必ず、やってくる。「人間不信」というツケである。

 しかしこのツケほど、恐ろしいものはない。それはいつか、やがて、悔いても悔いきれないほ
どの重圧感となって、その人を襲う。(あるいは、それを感ずることもないほど、軽薄な人生の
まま、生涯を終えるかもしれない。)

 その覚悟ができているなら、出会い系サイトでも何でもよいから、そういうところで知り合った
女や男と、不倫を重ねるがよい。愛人を作るのがよい。

【付記2】

 老齢に近づけば近づくほど、人は、前向きに生きなければならない。ある賢者は、こう言っ
た。

 「夫婦はたがいに手を取りあって、前だけを見て進む。決して、見つめあってはいけない」と。

 もし冒頭に書いた男性が、別に生きがいをもっていたら、こうまで妻のほうに視線を向けるこ
とはないだろう。仕事でも何でもよい。それがないから、つまり妻のほうに、視線を向けすぎて
いる。その結果として、それが異常なまでの依存性となってしまった。

 「老後の生きがい」……これもまた、大きな、かつ重大な問題である。これについては、また
別の機会に考えてみたい。

【付記3】

 夫婦の信頼関係というものは、つねに自分と戦いながら、つくりあげるもの。あくまでも(自
分)だ。

 それは決して、楽なことではない。

 たとえばともに楽しい生活をしたからといって、できあがるものではない。ともに苦労を分かち
あうことによって、信頼関係が生まれるという人もいるが、どうも、それだけではないように思
う。

 今は、この程度にしかわからないので、この問題についても、また別の機会に考えてみた
い。

【教訓】

(1)不誠実な人間とは、つきあうな。そういう人間には、近寄るな。
(2)不誠実なことをしている人間とは、つきあうな。そういう人間には、近寄るな。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●2人目の孫

++++++++++++++++

2人目の孫が生まれる。

それについて、二男から、ワイフに
手伝いにきてほしい、と。

++++++++++++++++

 2人目の孫が生まれることになった。それについて、アメリカに住んでいる二男から、ワイフ
に、「手伝いに来てほしい」と。

 ワイフは、迷っている。

 方法がないわけではない。私が、ヒューストン空港までいっしょについて行ってやり、そこでワ
イフを、二男に手渡す。私は、そのまま日本へ帰ってくる、などなど。

 が、それ以上に、ワイフの健康上の問題もある。おそらく二男には、50代の人間の健康が、
どういうものであるか、わかっていないのかもしれない。

 私も、このところ、ふとしたことで、睡眠が乱れることがある。翌日、何もなければそれでよい
が、講演が入っていたりすると、その時間調整(=健康管理)に、苦労する。その苦労は、
年々、二次曲線的に大きくなってきている。

 また私のように海外旅行になれているならよいが、ワイフは、そうではない。それにいっしょに
海外へ行くときは、いつも私のあとをついてくるだけ。言葉の問題もあるが、ワイフは、電話の
かけ方すら知らない。おまけに、更年期をすぎて、血圧が急激にあがってしまった。片道、24
時間の旅は、ワイフには、無理である。

 ワイフは、「どうしたらいい?」と聞くが、私の立場では、反対はできない。もちろん賛成もでき
ない。ワイフが「行く」と言えば、協力するしかない。

 二男も、アメリカで、何かと心細いのだろう。その気持ちは、よくわかる。ワイフが言うには、
二男は、誠司(長男)の世話などをしてほしいとか言っているそうだ。

 どちらにせよ、二男がアメリカ人の女性と結婚するという話になったときから、こういうことに
なるということは、私には、わかっていた。どちらが病気になっても、すぐには、行き来できな
い。「その覚悟はできているか?」と聞いたことがあるが、そのときは、二男は、「できている」と
言ったはずだが……。

 私も、アメリカの二男のところへ行くことは、今後は、もうないだろうと思う。前回行ったとき
も、ボ時差ケだの、エコノミー症候群だのと、その後遺症に、苦しんだ。最近では、人ごみの中
に入っただけで、頭痛が始まる。これはワイフも、同じ。

 あとは、ワイフの判断に任せるしかない。とにかくこういうことでは、口をはさまないほうがよ
い。二男にうらまれるのはいやだが、ワイフにうらまれるのは、もっといやだ。

【付記】

 私たちも3人の息子をもうけたが、だれの援助も、受けなかった。長男が生まれたとき、母
が、1晩だけ、アパートに泊まってくれた。それだけ!

 こうして考えてみると、私の息子たちは、粗製濫造(?)。何もかも、すべてが無我夢中のま
ま、過ぎていった。今から思うと、もう少していねいに息子たちの世話をすべきだったのかもし
れない。二男の子育てを見ていると、そんな思いもわいてくる。いや、あのころの日本は、まだ
まだ貧しかった。ホント!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●貧困という魔物

+++++++++++++++

貧困は、人の心をゆがめる。
道徳や倫理を狂わせる。

さらに借金に追われるようになると、
心そのものが、魔物化する。

友人は言うにおよばず、親兄弟、
親類まで、だますようになる。

だますという意識がないまま、
だますようになる。

+++++++++++++++

 今でも、無限連鎖講、つまりネズミ講方式まがいのサギ商法が、堂々と、流通している。多く
は、健康食品や化粧品などを使ってそれをするが、家庭用品や金融商品などにも分野を広げ
ている。さらに最近では、それに加えて、インターネットを使ったネズミ講まで、登場している。

 そのインターネットだと、海外を複雑に経由して日本へ入ってくるため、相手を特定すること
がむずかしい。会社名や個人名などは、すべて偽名。しかも瞬時、瞬時にことが運んでしまう。
つまりその分だけ、被害者がふえ、被害額が、大きくなってしまう。

 実は、私の友人も、その被害にあった。高校時代からの友人だからと、気を許したのが、い
けなかった。気がついたときには、数百万円分の健康補助食品が、居間に山積みになってい
たという。

 「高校時代は親友だったから、まさか、私に対して、そんなことをするとは、思っていなかっ
た」と、その友人は、言った。そしてこうも言った。「そういう私すらもだますのだから、よほど、
お金に追いつめられていたのだろう」と。

 そう、貧困は、人の心を狂わす。さらに借金に追われるようになると、人は、友人はもちろ
ん、親、兄弟、親類までだますようにようになる。だますという意識がないまま、だますようにな
る。

 もちろん貧困であるからといって、すべての人がそうなるわけではない。貧しくても、心豊かに
生きている人は、いくらでもいる。で、そのちがいは、どこにあるかといえば、その貧困を受け
いれるかどうかのちがいと言ってもよい。

 が、貧困を受けいれるためには、ふつうの人以上の、高い道徳と哲学が必要である。それま
でに培(つちか)われた人間性というか、品性が必要である。それがないと、人は、ズルズル
と、そのまま、貧困という魔物の餌食(えじき)になってしまう。

 つまるところ、私たちが、日ごろ、どういう生活をしているかで決まる。今、あなたが幸福で、
生活も豊かで、リッチであるとしても、それに甘えてはいけない。そういう生活をしながらも、そ
の中で、もうひとりの自分をみがいていく。それを怠ると、あなたも、貧困という魔物の餌食にな
る可能性は高い。

 というのも、貧困であるかないかは、結局は、相対的な問題でしかないからである。外国の高
級車から、国産車に車種を落としただけで、「貧しくなった」と感ずる人もいれば、軽自動車に
乗りながら、「豊かになった」と感ずる人もいる。

 だれにも、どんな生活をしている人にも、貧困という魔物は、常に、今、そこにいる! それを
忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1219)

【子どもへのおどし】

FTさんへ

+++++++++++++++++++++

子どもをおどす……。おどす意識がないまま、
おどす。

決して、FTさんを責めているのではありません。
しかしそのつもりはなくても、いつの間にか、
子どもをおどしてしまっている。

そういうケースは、少なくありません。

しかしそういうおどしが日常化すると、
子どもの心は、FTさん、あなたから
確実に離れていきます。

あるいは、その瞬間、あなたの子どもは、
あなたに反発する。拒否反応を示す。
突発的に、キレた状態になる。

FTさんの掲示板への書きこみを、もう一度、
ここで再検証してみたいと思います。

まず、FTさんからの、書きこみを、
ここに転用させていただきます。

文体は、少し、私のようで、整えさせて
いただきました。

++++++++++++++++++++

【FTより、はやし浩司へ】

+++++++++++++++++++

14歳で、家出。A君という、15歳の男子
と同棲生活を始める。それについて……。

+++++++++++++++++++

あれから、林先生の意見を参考に、主人と話し合いました。しかし、主人は、何か言うとすぐ切
れてしまう長女の精神状態を優先的に考え、「本人が帰って来るまで待つ」という考えを変えま
せんでした。

長女とも、今後のことで話し合いをしようと連絡をとったのですが、長女は、「わっかた。明日、
帰る」と言いつつ、結局は、帰ってはきませんでした。

4月6日 

私は、長女の通う中学校の担任の先生と会い、長女の今後について話し合いました。先生
は、つぎのように、言ってくれました。

 「彼女の将来を考えるとこのままでは、いけないと思います。私からA君宅に行って、彼女とA
君に話をしてもいいです。彼女からは、私のところに、時々メールがきます。そのメールのやり
とりの中で、私が迎えに来てくれたら、学校へ行ってもいいよと言っていますよ」と。そんなよう
な内容です。

 先生は、「私が、彼女を迎えに行ってもいいです」とも、言ってくれました。

 その時、私はとそんなことをしたら長女が、「自分は特別だ」と思いこむと思ったので、先生に
そのことを言いました。

 「特別なことをしてるんですから、そう思ってもいいんです。根本的な解決にはなりませんが、
きっかけを作ってあげたら彼女は、学校に来ると思います。」と。

 私は、すぐに返事はできなかったので、後で返事をするということにして、その日は、帰ってき
ました。

 林先生、学校の先生、小児科の先生の意見を参考に考えた結果、私は、長女にメールで、
こう連絡しました。

 「話し合いをしたいけど、なかなか帰ってこないね。来年の春が来たら自分の道を選ぶ時がく
るね。そいのためには、準備が必要だね。いくら親がいやでも、あとたった1年しかないんだ
よ。やり直してみてはどうか?」と・・。

 それに答えて、長女からの返事は、「わたしだって自分のことちゃんと考えてる。迎えにくるよ
うなことしたら死んでやる」でした。

 私「人間って本当にいつ死ぬかわからないよね。」

 それを言うと、また、長女は、きれてしまいました。

 長女と話し合えないので
次の日、A君の両親に連絡をとり話し合いをしました。
(その話し合いには、主人が行きました。)

 主人は「この3ヶ月、様子を見ていたけれど、長女が帰ってこないので、帰るように少しずつ
でも促して、協力してほしい」と、お願いしてきたそうです。

 長女は学校の先生に連絡をとり、(いつかわかりませんが・・・)、今日4月10日から学校へ
行くことにしていました。

 朝、帰ってきて、茶髪を黒く染め、だらしのない制服姿をし、サンダルをはき、そのまま、学校
へ行きました。

 それを見て、私にできることは、何か?、と考えてしまいました。

 長女の死んでやるという言葉に負けていました。長女の抵抗にひるむことなく時には、強い態
度も必要。時には、長女が学校へ行く気になったのであれば、それを全面的に協力する姿勢
も必要であると・・。

 主人とは、なかなか意見があいませんでした。

 このような状況の中、私に責められても、主人は声を荒げることもなく、ただ、私の話を聞き、
わが子の帰りを待っていました。

人間、窮地に立たされた時、本当の自分が姿が現れると・・・・まさに、私の姿は醜い姿でした。

 誰になんと言われようとわが子を信じて待つという主人の姿は、私には、まねのできない姿で
した。

これからも再び、主人に寄り添い生きていけそうです。
長女のことはまだまだかかりそうですが・・・
今日は、これにて・・・・

+++++++++++++++++++++++++

 まずFTさんの文面の中の、気になる2か所をあげてみたいと思います。FTさんは、娘さん
(長女)にこう言っています。

(1)「話し合いをしたいけど、なかなか帰ってこないね。来年の春が来たら自分の道を選ぶ時
がくるね。そいのためには、準備が必要だね。いくら親がいやでも、あとたった1年しかないん
だよ。やり直してみてはどうか?」と・・。

(2)私「人間って本当にいつ死ぬかわからないよね。」

 FTさんは、娘さんに向かって、「来年になったら……」と期限をつけて、娘さんの気持ちを追
いこんでいます。そしてさらに娘さんを追いつめるかのように、「いくら親のことがいやでも…
…」「あとたった1年しかないんだよ」と。

 つまりそうしなければ、「やり直しがきかなくなるよ」と。

 また2つ目のところでは、「人間って、本当に、いつ死ぬかわからないよね」と。私はこの文章
を読んだとき、昔、私の母がよく言っていた言葉を思い出しました。私の母は、いつも、口ぐせ
のように、こう言っていました。

 『いつまでもあると思うな、親と金。ないと思うな、運と災難』と。

 あるときまでは、私は、「そうかなあ」と思っていましたが、やがて、私の母は、そう言いなが
ら、「親である、自分を大切にしろ」と言っているのに気がつきました。つまり「親の私は、いつ
までも生きているわけではないのだから、大切にしろ」と。

 FTさんは、「自分は、いつ死ぬかわからない」と言いつつ、その一方で、娘さんに、極限的な
恐怖を与えています。FTさんは、それに気づいているのでしょうか。

 こういうときは、では、どう言ったらよいか。それを順に考えてみます。

 まず、「1年」と期限を切ったことについてですが、こうした状況にある娘さんに対しては、期限
を切ることは、かえって逆効果であるということをまず、理解してください。こういうときは、反対
に、こう言います。

 「人生は、長いのだから、あせらなくてもいいのよ。若いころの1年や2年、何でもないのだか
らね。のんびりやったらどう。静かに考えて、自分なりの結論を出してね。お母さんは、親とし
て、あなたの結論に従うわ」と。

 また「自分は、いつ死ぬかわからない」ではなく、こう言います。

 「私は、あなたの分まで、がんばるわ。死ぬなんて、とんでもない! 私は、うんと長生きし
て、あなたが幸福になるのを、ちゃんと見届けるわ。私のことは心配しなくていいのよ。あなた
はあなたで、自分の人生を、思う存分、楽しめばいいのよ。お母さんは、応援するわよ」です。

 つまりFTさんは、娘さんを、言葉で極限まで追いつめながら、最後に、「自分は、いつ死ぬか
わからない」と、絶壁から、つき落すようなことを言っています。だから、娘さんは、その言葉を
聞いて、キレたと考えられます。この時期の子どもは、親が考えているよりは、ずっと感覚が繊
細で、とぎすまされています。

 そしてここが重要ですが、こうしたFTさんの言葉に対して、だから娘さんは、「死んでやる」と、
これまた極限的なおどしで、返してきています。FTさんは、それを「娘側からのおどし」と理解し
ていますが、おそらく、娘さんには、その意識はないでしょう。追いつめられたから、しかたなし
に、そう言っているのかもしれません。

 「あと1年しかない」「それまでに立ち直らなければ、あとはない」と、おどすFTさん。それに答
えて、「死んでやる」と、おどす娘さん。まさに言葉の応報といった感じです。しかも母子が、同
レベルになってしまっている!

 ……と、この問題の解決には、何ら役にたたないことを書いてしまったようですが、(おどし)
の意味がわかってもらえれば、幸いです。これは最近、ある予備校の前で見た、ポスターの話
ですが、そこには、こうありました。

 「この1年で、君の一生は、決まる!」と。

 これは励ましなのでしょうか? それとも、子どもたちを予備校へ通わせるための、おどしな
のでしょうか。私は、(おどし)ととりましたが、この種の(おどし)は、親たちも、日常的にしてい
るのではないでしょうか。

 親としては、子どもにその自覚をもってもらい、追いつめられた緊張感の中でがんばってほし
いと思ってそう言うのでしょうが、しかし言い方をまちがえると、(あるいは、子どもに、それだけ
の重圧をはね返す力があればよいのですが、そうでなければ)、かえって子どもを、窮地に追
いこんでしまうことになりかねません。

【FTさんへ、はやし浩司より】

 私の印象では、「何とか、自分の娘を、自分のワクの中に取りこもうとする母親」と、「何とか
そのワクから逃げ出そうとする娘」の、はげしい葛藤劇を見ているような感じがします。

 今のFTさんには、たいへんつらいことを言うようですが、いわゆる代償的過保護と言われる
過保護家庭で、その末期に、よく見られる葛藤劇です。(代償的過保護については、一度、「は
やし浩司 代償的過保護」で検索してみてください。)

 ですから、ここまできたら、FTさん自身が、決断をくだすしかないでしょう。

(1)助けを求めてくるまで、手を出さない。
(2)暖かい無視。
(3)何があっても、許して忘れる、と。

 そしてここが重要ですが、FTさんは、娘さんのことを心配しているようで、実は、自分が感じて
いる不安や心配を、娘さんにぶつけているだけです。はっきり言いましょう。

 学校へ行かないからといって、その人間がダメになるということは、ありません! ダメになる
と思いこんでいるのは、FTさん、あなただけですよ。そうしたあなたの気持ちは、「いくら親がい
やでも、あとたった1年しかないんだよ。やり直してみてはどうか?」という言葉の中に集約され
ています。

 FTさんは、こう言っています。「いくら、あなたという娘が、私という親を嫌ったとしても、私は
構わない。しかしあなたに残された時間は、あと1年しかない。やり直すなら今しかない」と。(こ
れは先にも書きましたが、立派な、おどしです!)

 こういう問題では、まず(水が、どう流れているか)を知ります。つぎに、(どう水が流れていく
だろうか)を知ります。そして最後に、それがわかったら、あとは、水が流れるように、その水の
流れに従います。

 つまりものごとは、なるようにしかならないのです。その間に、FTさんが、いくらがんばっても、
どうにもなりません。今が、その状態だと思います。また無理をすればするほど、娘さんはとも
かくも、FTさん自身の健康にも、被害が出てくるようになります。

 中学3年生というと、FTさんから見れば、子どもかもしれませんが、(もちろん個人差はありま
すが)、見方によっては、もうじゅうぶんすぎるほど、立派なおとなです。ですから、信ずるところ
は信じて、またやるべきことはやりながらも、あとは、その(水の流れ)に任せてみてはどうでし
ょうか?

 こうした問題は、やがて、水がその流れ先を求めて落ち着くように、落ち着きます。そのとき
あなたは、こう思うでしょう。「ナンダ、何でもなかったではないか!」と。

 で、今は、学校の先生に相談し、その先生の努力に期待するしかないと思います。(FTさん)
→(先生)→(娘さん)というパイプを通して、娘さんとのつながりをもちます。FTさんにしてみれ
ば、今が最悪の状況と思うかもしれませんが、この種の問題には、さらに、二番底、三番底が
あります。

 現在は、相手の男性の家にいますが、その家にもいられなくなったとしたら、あなたの娘さん
は、どうなるか。どうするか。それをほんの少し、考えてみてください。この種の問題は、「まだ、
以前のほうがよかった」ということを繰りかえしながら、二番底、三番底へと、落ちていきます。

 たとえば今は、その男性の家にいますが、その家からも家出。そこで不特定多数の男性の
家を転々とするようになったら、あなたは、どうしますか? 私の知人の中には、外国人男性と
性交渉をもち、HIVに感染。エイズを発症した子ども(中2、当時)もいますよ。

 コツは、「今の状況をなおそう」と考えないこと。「今の状況を、これ以上悪くしないことだけを
考えて、半年単位で様子をみる」です。これについては、前にも書きましたので、ここでは省略
しますが、決して、あせってはいけませんよ。

 たいへん苦しい気持ちは、よく理解できますが、今は、忍耐のときです。幸いなことに、娘さん
を、どっしりと見据えているご主人が、あなたのそばにいます。また親身になって、娘さんのこと
を心配してくれる先生がいます。決して、あなたは1人ではありません。そういう人たちに身を
寄せれば、今は苦しいかもしれませんが、この問題は、乗り切れるはずです。

 ……あとは、10年後に視点を置いてみてください。こうした問題は、親子の絆(きずな)だけ
大切にしておけば、必ず、笑い話になります。「あなたは、たいへんだったのよ」「お母さん、心
配かけて、ごめんね」と。

 それをどうか信じて、あとは、あなたはあなたで、前に向かって進んでいけばよいのです。娘
さんのことは、少し忘れたほうがよいかもしれませんね。

 では、今日は、これで失礼します。
(はやし浩司 家出 子どもの家出 子供の家出 娘の家出)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1220)

【金銭的価値観】

++++++++++++++++++

私の大嫌いなテレビ番組に、
「○○お宝XX鑑定団」というのがある。

私は、あれほど、人間の心をもてあそび、
そしてゆがめる番組はないと思う。

が、この日本では、その番組が、
人気番組になっている。

つまり、日本人の、そして人間の心は、
そこまで、狂っている!

+++++++++++++++++++

●失った鑑賞能力

 ものの価値を、金銭的尺度でしかみないというのは、人間にとって、たいへん悲しむべきこと
である。ものならまだしも、それが芸術的作品や、さらには人間の心にまでおよんだら、さらに
悲しむべきことである。

 テレビの人気番組の中に、「○○お宝XX鑑定団」というのがある。いろいろな人たちが、それ
ぞれの家庭に眠る「お宝?」なるものを持ちだし、その金銭的価値を判断するという番組であ
る。

 ご存知の方が多いと思うが、その「もの」は、実に多岐にわたる。芸術家による芸術作品か
ら、著名人の遺品まで。はては骨董品から、手紙、おもちゃまで。まさに何でもござれ! が、
私には、苦い経験がある。

 私は子どものころから絵が好きだった。高校生になるころまで、絵を描くのが得意だった。そ
のころまでは、賞という賞を、ひとり占めにしていた。だからというわけでもないが、おとなにな
ると、つまり金銭的な余裕ができると、いろいろな絵画を買い集めるようになった。それはある
意味で、私にとっては、自然な成り行きだった。

 最初は、シャガール(フランスの画家)から始まった。つぎにビュフェ、そしてミロ、カトラン、ピ
カソ……とつづいた。

 が、そのうち、自分が、絵画の価値を、金銭的な尺度でしか見ていないのに気がついた。こ
のリトグラフは、XX万円。サインがあるからYY万円。そして高価な絵画(リトグラフ)ほど、よい
絵であり、価値があると思いこむようになった。

 しかしこれはとんでもないまちがいだった。

 だいたいそういった値段といったものは、間に入る画商やプロモーターの手腕によって決ま
る。中身ではない。で、さらにそのうち、日本では有名でも、現地のフランスでは、ほとんど知ら
れていない画家もいることがわかった。つまり、日本でいう絵画の価値は、この日本でのみ通
用する、作られた価値であることを知った。

 つまり画商たちは、フランスでそこそこの絵を描く画家の絵を買い集め、それを日本で、うまく
宣伝に乗せて、高く売る。「フランスで有名な画家だ」「○○賞をとった画家だ」とか、何とか宣
伝して、高く売る。そういうことが、この世界では、当時も、そして今も、ごく当たり前のようにな
されている。

 が、同時にバブル経済がはじけ、私は、大損をするハメに!

 そういううらみがある。そのうらみは、大きい。

 その絵画の価値は、その人自身の感性が決めること。しかし一度、毒気にさらされた心とい
うのは、そうは簡単に、もどらない。私は今でも、ふと油断をすると、絵画の価値を、値段を見
て決めてしまう。さらに反対に、内心では、「すばらしい」と思っても、その値段が安かったりす
ると、その絵画から目をそらしてしまう。

 私は、こうして絵画に対する、鑑賞能力を失ってしまった。

●損をすることの重要さ 

 お金がなければ、人は、不幸になる。貧困になると、心がゆがむこともある。しかしお金で
は、決して、幸福は買えない。豊かな心は、買えない。

 それにいくらがんばっても、人生には、限りがある。限界がある。終着点がある。

 そういう限界状況の中で、私たちが、いかに幸福に、かつ心豊かに生きるかということは、そ
れ自体が、人生、最大の命題といってもよい。

 そのお金だが、お金というのは、損をして、はじめて、お金のもつ無価値性がわかる。もちろ
ん損をした直後というのは、それなりに腹立たしい気分になる。しかし損に損を重ねていくと、
やがて、お金では、幸福は買えないということを、実感として理解できるようになる。ときに、そ
の人の心を豊かにする。よい例が、ボランティア活動である。

 損か得かという判断をするなら、あのボランティア活動ほど、損なものはない。しかしそのボラ
ンティア活動をつづけることで、自分の心の中に豊かさが生まれる。

 反対に、損をしない人たちを見ればよい。いつも金銭的価値に左右され、「お金……」「お金
……」と生きている人たちである。

 そういう人たちは、どこかギスギスしている。どこか浅い。どこかつまらない。

●お金に毒された社会

 話をもとに戻すが、では(豊かさ)と何かというと、それが今、わかりにくくなってしまっている。
とくに戦後の高度成長期に入って、それがさらにわかりにくくなってしまった。

 その第一の原因は、言うまでもなく、(お金)にある。つまり人間は、とくに日本人は、ものにお
よばず、心の価値まで、金銭的尺度で判断するようになってしまった。そしてその幸福感も、相
対的なもので、「隣人より、よい生活をしているから幸福」「隣人より、小さな車に乗っているか
ら、貧乏」というような考え方を、日常的に、ごくふつうにするようになってしまった。

 それはちょうど、高価な絵画を見ながら、「これはすごい絵だ」と思うのに、似ている。反対
に、安い絵画を見ながら、「これはつまらない絵だ」と思うのに、似ている。人がもつ幸福感ま
で、金銭的な尺度で判断してしまう。

 そのひとつの現れが、あのテレビ番組である。もちろんそのテレビ番組に責任があるわけで
はない。が、それを支える人たち、イコール、視聴者がいるから、それは人気番組となる。

 が、相乗効果というのも否定できない。日本人がもつ貪欲さというものが、テレビ番組によっ
て、さらに相乗的に倍化するということも、ありえなことではない。つまりこうして日本人の心は、
ますます毒されていく。

司会者「では、ハウ・マッチ?」
電光板xxxxxxx
司会者「340万円!」と。

 ああいう番組を、何ら疑問ももたないまま、毎週、見つづけていたら、その人の心はどうなる
か? それをほんの少しでも想像してみればよい。つまり、それが私が、あのテレビ番組が嫌
いな理由でもある。

 今のように、この日本で、貨幣が流通するようになったのは、江戸時代の中期ごろと言われ
ている。が、それは実に素朴な貨幣経済社会だったと言える。戦後のことだが、そのときでさえ
も、田舎へ行くと、まだ、盆暮れ払いというのが、ごくふつうに行われていた。

 それが今のような、お金万能主義というか、絶対主義の日本になってしまった。そして何ら恥
じることなく、ああした番組が、堂々と、この日本で大手を振って歩くようになってしまった。意識
というのはそういうものかもしれないが、全体が毒され、自分が毒されると、自分がもっている
意識がどのようなものであるかさえわからなくなってしまう。そして本来、価値のないものを価値
あるものと思いこみ、価値のないものを、価値あるものと思いこむ。そして結局は、自分の感
性のみならず、限られた人生そのものを、無駄にする。

 だから、とてもおかしなことだが、本当におかしなことだが、この日本では、そしてこの世界で
は、損をすることによって、人は、人間は、心豊かな人間になることができる。

 損をする人は、幸いなるかな、である。
(はやし浩司 損の哲学 ボランティア精神)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●前向きに生きる

+++++++++++++++

よく「前向きに生きる」という
言葉が使われる。

しかし「前向きに生きる」とは、
どういうことなのか?

+++++++++++++++

 よく「前向きに生きる」という言葉が使われる。しかし「前向きに生きる」とは、どういうことなの
か。どこか漠然(ばくぜん)としていて、意味がよくわからない。

 が、最近、私は、こんな経験をしつつある。

 正直に告白するが、私は、現在、58歳である。(子どもたちには、48歳と教えている。)この
「58歳」という年齢は、たいへん微妙な年齢である。私が若いころには、おとなたちは、みな、
55歳で定年退職した。今は、60歳で、定年退職している。

 定年退職は、私には関係ない。しかしそれでも、その年齢が気になる。55歳とか、60歳とか
いう年齢が気になる。私は、その2つの年齢の、その間にいる。あと2年で、60歳になるわけ
だが、自分の未来が、そこから先、しぼんでいくように感ずる。

 そこで無意識のうちにも、その60歳を念頭に置いた生活を考えるようになってしまった。たと
えばものを買うにしても、「あと○○年、もてばいい」とか、「ぜいたくなものは、いらない」とかな
ど。つまり何かにつけて、ものの考え方が、消極的になってしまった。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。それについては、前にも書いたが、どうしてこの私が、
年齢という数字に、左右されなければならないのか。そこで今年に入ってから、自分の生き方
を変えた。

 とくに3月に春休みに入ってから、大きく変えた。私は、「やるべきことは、すぐやる」という生
き方に変えた。たとえばそれ以前から、教室の修理を考えていた。机や椅子の傷(いた)み
が、目立つようになっていたこともある。

 そこで春休みの初日にそれをした。ショッピングセンターで、必要なものを買いそろえた。ペ
ンキや、ビニールシートなど。ジュータンも。そしてその足で、教室の修理に向かった。万事、先
手、先手の生き方である。

 つぎに教材づくり。この7〜10年ほど、同じ教材を使っていた。それを一新することにした。
言い忘れたが、私の教室では、教材は、すべて手作り。一度のレッスンに、80〜120枚の、
画用紙で作った教材などを使っている。

 その教材づくりがすむと、郷里の姉を訪問した。これを春休みに入って、2日目にした。……
というように、そのときできることは、そのときにした。決して、あと回しには、しなかった。

 で、こうして、無事、春休みが終わったが、それは充実した春休みだった。ワイフとの一泊旅
行もした。恩師の先生の家にも行った。25年前に買った、山林の検地にも行ってきた。が、お
かしなことに、春休みが終わったというのに、生活のリズムだけは、そのまま残った。

 今日で、仕事が始まって、4日目になるが、何かにつけて朝から忙しい。こうしてマガジン用
の原稿を書くのは、すでに日課になっているが、そのほかにも、やらなければならない仕事や
雑務が、そこに無数にある。やりたいことも、ある。

 たとえば最近、ワイフは、ビーズ遊びに夢中になっている。ビーズで、ネックレスを作ったり、
ブレスレットを作ったりしている。それを横で見ているうちに、私も作りたくなった。

 「男の私が、ビーズでネックレス作り?」……というようなことは、考える必要はない。作りたい
ものは、作りたい。そこで昨夜、仕事が終わってから、近くのショッピングセンターで、ビーズを
買ってきた。夜11時の、閉店まぎわに、である。

 あああ、時間がない!!!

 ……というような状態に、今、なっている。

 そこで改めて、「前向きに生きる」ということは、どういうことなのかを、考える。実は昨夜も、
ワイフと、その話をした。

私「ぼくが倒れて死ぬときが、人生の終わり。しかしその直前まで、ぼくはやるべきことをやる。
あと何年、とか、あと何年すればいいとか、そういうことは考えない」
ワ「そうよ、年齢なんて、関係ないわよ」
私「そこなんだよ。ぼくは、今まで、年齢を気にしすぎていた。しかしそれではいけない。で、ぼく
は気がついた。前向きに生きるということは、攻撃的に生きることだとね」と。

 私はここで「攻撃的」という言葉を使ったが、決して、守勢に回ってはいけない。それが「前向
きに生きる」ことの前提ということになる。が、それだけでは足りない。「前向きに生きる」という
ことは、死を想定しない生き方ということになる。

 わかりやすく言えば、「あと何年しか生きられないのだから、これこれこの程度で、満足しろ」
というような、限界を、自分に設定しないということ。今は今であり、その今は、永遠につづく。
大切なことは、今日という一日を、一年のようにして生きること。

 幸いなことに、私のばあい、それがすぐ、(子どもたちに教える)という場で実行できる。その
気にさえなれば、その日、その日に、自分を完全燃焼させることができる。そう、ここ3日間、私
は、毎日、自分を完全燃焼させている! 子どもたちと騒ぎながら、ヘトヘトになるまで、完全
燃焼させている!

 それが前向きに生きるということ。

私「それがわからなければ、うしろ向きに生きている人たちを見ればいい。そういうサンプル
は、いくらでもある。過去の名誉や地位にぶらさがって、ジクジクと世をうらみながら生きている
老人は、多い。そういう老人になってはいけない。そういう生き方をしてはいけない」
ワ「そのほうが、あなたらしいわよ」
私「そうなんだよ。若いころのぼくは、そうだった。10万円損をしたら、その翌日には、その10
万円を、どこかで取りかえそうとした。そういう生き方をしていた。が、今は、ちがう。『そんなこ
とをしたら、恥ずかしい』とか、『年齢相応の生活をしよう』とか、そんなふうに考えるようになっ
てしまった。それはおかしい」
ワ「やりたいことを、するって、いうことね」
私「そうだよ。しかも絶対に、あと回しにしない……」と。

 そんなわけで、今日も、忙しい一日になりそう! おかげで、体調もよし。仕事も順調! 何
が、文句あるのか!
(はやし浩司 前向きな人生 前向きに生きる 攻撃的な人生観 死を意識しない人生)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1221)

●スキンシップ

+++++++++++++++++

とんでもない育児論が、
堂々とまかり通っている!

赤ちゃんを抱くと、抱き癖がつくから、
抱いてはダメだ、と!

????

+++++++++++++++++

 母子間のスキンシップが、いかに重要なものであるかは、今さら、言うまでもない。このスキン
シップが、子どもの豊かな心を育てる基礎になる。

 が、中に、「抱き癖がつくから、ダメ」「依存性がつくから、ダメ」というような、「?」な理由によ
り、子どもを抱かない親がいる。とんでもない誤解である。

 スキンシップには、未解明の不思議な力がある。魔法のパワーと言ってもよい。「未解明」と
いうのは、経験的にはわかっているが、科学的には、まだ証明されていないという意味である。
そのことは、反対に、そのスキンシップが不足している子どもを見れば、わかる。

 もう20年ほど前になるだろうか。大阪に住む小児科医の柳沢医師が、「サイレント・ベイビ
ー」という言葉を使った。

 (1)笑わない、(2)泣かない、(3)目を合わせない、(4)赤ちゃんらしさがない子どものこと
を、サイレント・ベイビーという(「心理学用語辞典」かんき出版)。

 幼児教育の世界にも、表情のない子どもが、目立ち始めている。喜怒哀楽という「情」の表現
ができない子どもである。特徴としては、顔に膜がかかったようになる。中には能面のように無
表情な子どもさえいる。

 軽重もあるが、私の印象では、約20%前後の子どもが、そうではないか。

 印象に残っている女児に、Sさん(年長児)がいた。Sさんは、いつも、ここでいう能面のように
無表情な子どもだった。うれしいときも、悲しいときも、表情は、そのまま。そのままというより、
こわばったまま。涙がスーッと流れているのを見てはじめて、私はSさんが、泣いていることが
わかったこともある。

 Sさんの両親に会って話を聞くと、こう教えてくれた。

 「うちは、水商売(市内でバーを経営)でしょ。だから、生まれたときからすぐ、保育園へ預け
ました。夜も相手をしてやることができませんでした」と。

 わかりやすく言えば、スキンシップらしいスキンシップなしで、Sさんは、育てられたということ
になる。

 子ども、とくに乳児は、泣くことによって、自分の意思を表現する。その泣くことすらしないとし
たら、乳児は、どうやって、自分の意思を表現することができるというのか。それだけではな
い。

 母子間の濃密なスキンシップが、乳児の免疫機能を高めることも、最近の研究でわかってき
た。これを「免疫応答」というが、それによって、乳児の血中の、TおよびBリンパ球、大食細胞
を活性化させるという。 

さらに乳児のみならず、母親にも大きな影響を与えることがわかってきた。たとえば乳児が、母
親に甘えたり、泣いたりすることによって、母親の乳を出すホルモン(プロラクチンなど)が刺激
され、より乳が出るようになるという。

 こうした一連の相互作用を、「母子相互作用(Maternal infant bond)」という。

 まだ、ある。

 私も経験しているが、子どもを抱いているとき、しばらくすると、子どもの呼吸と心拍数が、自
分のそれと同調(シンクロナイズ)することがある。呼吸のほうは無意識に親のほうが、子ども
に合わせているのかもしれないが、心拍数となると、そうはいかない。何か別の作用が働いて
いると考えるのが、妥当である。

が、そこまで極端ではなくても、母子の間では、体や心の動きが、同調するという現象が、よく
見られる。母子が、同じように体を動かしたり、同じように思ったりする。たとえば母親が体を丸
めて、右を向いて眠っていたりすると、乳児のほうも、体を丸めて、右を向いて眠っていたりす
る。こうした現象を、「体動同期現象」という言葉を使って説明する学者もいる。

 こうした人間が、生物としてもっている性質というのは、あるべき関係の中で、あるべきように
育てたとき、子どもの中から、引き出される。たとえば赤ちゃんが泣いたとする。するとそのと
き、そのかわいさに心を動かされ、母親は、赤ちゃんを抱いたりする。それがスキンシップであ
る。

 もちろん抱き癖の問題もある。しかしそういうときは、こう覚えておくとよい。『求めてきたとき
が、与えどき』『求めてきたら、すかさず応ずる』と。親のほうからベタベタとするのはよくないが
(※)、しかし子どものほうから求めてきたら、すかさず、それに応じてやる。間を置かない。そ
してぐいと力を入れて抱く。

 しばらくすると、子どものほうから体を離すしぐさを見せる。そうしたら、水の中に小魚を放す
要領で、そっと体を離す。

 なお母乳を与えるという行為は、そのスキンシップの第一と考えてよい。いろいろと事情があ
る母親もいるだろうが、できるだけ母乳で、子どもは育てる。それが子どもの豊かな心をはぐく
む。
(はやし浩司 抱き癖 抱きグセ サイレント・ベイビー 子どもの表情 無表情な子供 母子相
互作用 免疫応答 プロラクチン はやし浩司 体動同調 子供の抱き方 スキンシップ)

【補記※】

 母親のほうが、自分の情緒不安を解消する手だてとして、子どもにベタベタするケースもあ
る。でき愛ママと言われる母親が、よく、そうする。そういうのは、ここでいうスキンシップとは、
分けて考える。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●しつこいトラックバック

++++++++++++++++++

毎日、しつこいトラックバックに
うんざりしている。

文面は変えているが、同一人物のものから
というのは、丸わかり!

文体、文調が同じ! いくら内容は変えても、
書き手のクセまでは、変えられない。

++++++++++++++++++

 私は毎日、楽天日記に、日記形式の随筆を書いている。その楽天日記に、トラックバック機
能がついたのは、数年前のことではないか? よく覚えていないが……。

 しかしそのトラックバックに書きこまれるリンク先は、今のところ、100%、スケベサイトばか
り。「童貞、オラ、ここで捨てました」「童貞、高く、買います」「あなたも、ここで童貞、捨てたら」
と。

 最近では、「セレブな奥様が、あなたを待っています」「私の恥ずかしい写真を、1枚、さしあ
げます」「お近くの女性を、無料で紹介」というのも、ある。

 稚拙な、内容。誤字だらけの、ヘタクソな文章。こういうのが、削除しても、削除しても、届く。
多いときは、一日で、10〜15件ほど、届く。

 もう、いいかげんにしてほしい。「童貞」なんて、もう、とっくの昔に、捨てた! バカヤロー! 
それに女性など、ワイフ1人で、たくさん! うんざり!

 ……と言っても、意味がない。せっかく、すばらしい能力と健康をもっているのに、そうした
「力」を、こういうことに使うことの空しさ。こういうことをしている連中は、まだ、それに気がつい
ていないらしい。

 時間には限りがあるぞ。健康にも、限りがあるぞ。人生は、短いぞ。いらぬお節介かもしれな
いが、それがわかったとき、そういう連中は、必ず、自分のしたことを、後悔するはず。(あるい
は、昆虫のような脳みそのまま、一生を終えるのか?)

 楽天日記の機能をあれこれ調べてみたが、トラックバックを阻止する方法は、ないらしい。ど
うしたらよいものか?

【お願い】

 メールをくださる方へ、

 スパム・メールが多いのにも、困っています。しかもそのスパム・メールが、ますます巧妙にな
ってきています。知りあいの方からのものなのか、それとも、スパム・メールなのか、区別する
のさえ、むずかしいのもあります。たとえば……、

件名:お世話になりました、鈴木です。
件名:ご無沙汰しています。佐藤です。
件名:いろいろありがとうございました。一言、お礼を申しあげたくて……、などなど。

 思わずメールを開きそうになりますが、そういったメールは、心を鬼にして(?)、プレビュー画
面に開くことなく、そのまま削除しています。中には、本当に、知りあいの方からのもあるのか
もしれませんが、そうであると確認できないものについては、容赦なく、削除しています。

 この世界では、ほんの一瞬の油断が、命取りになることも、珍しくありません。私だけならとも
かくも、私を経由して、ほかの多くの人に、迷惑をかけることにもなりかねません。

 だから、心を鬼にして、となります。どうかご理解ください。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●NMさんへ

++++++++++++++++++++

NMさんへ、

日記形式で、返事を書きます。お許しください。
楽天日記を読んでくださっているということで
すので、こちらに返事を書きます。

++++++++++++++++++++

 昨日(13日)、お金を受け取りました。何とも、割り切れない気分です。かえってご迷惑をお
かけしてしまったようで、ごめんなさい。

 いろいろありましたが、お会いして以来、……というか、現地へ行ってきて以来、心が軽くなっ
たような気持ちです。何というか、不愉快な思い出の上に、その昔の楽しい思い出が上書きさ
れたような気分です。

 子どもころは、本当に、楽しかったです。それにご主人の誠実さに接しているうちに、自分の
中のゆがんだ心が洗われていくように感じました。

 こちらは、小雨が降ったりやんだりしています。先日、畑に、ニンニクのほか、ネギ、シシト
ウ、トマトなど、いろいろな野菜の苗を植えました。今年は、もう少し畑を広げて、別の野菜を育
ててみようと思っています。昨日、その場所のまわりに、柵をしたところです。(我が家には、犬
がいますので……。)

 で、我が家も、目下、2人の大学生をかかえています。長男が、今年から、「もう一度、専門
学校で勉強してみたい」ということで、その専門学校に入りました。『子ども大学生、親、貧乏盛
り』という格言を考えましたが、本当に、お金がかかります。これも日本の教育行政の貧困のな
せるわざということになりますが、うらんでばかりいてもいけません。楽しいことも、あります。

 いつか息子の操縦する飛行機で、日本のどこかを旅したいと思っています。あるいはいつか
息子といっしょに、仕事をしてみたいです。そんなことを考えていると、「もう少し、がんばってみ
よう」という気持ちがわいてきます。

 親が子どもを育てるのではありませんね。子どもが、親を生かしてくれるのです。感謝すべき
は、親のほうかもしれませんね。もし子どもがいなければ、私も、こうまでがんばることはないと
思います。仮に、もし息子たちがみな、本当に巣立ってしまったら、かえって私は、気が抜けて
しまうかもしれません。

 おかげで仕事は、順調です。とくに今年は、多くの人の協力に支えられました。小さな幼児教
室を開いていますが、口コミと紹介だけで、どのクラスも、ほぼ満員になりました。本当にあり
がたいことです。で、やる気満々! 毎日、自分を完全燃焼させるつもりで、がんばっていま
す。

 健康のほうも、今のところ、心配なさそうです。数日前まで、64・8キロもありましたが、この
数日、ダイエットし、かつサイクリングをつづけたら、今朝は、63キロにもどっていました。私の
体は、単純なようです。64キロを超えると、とたんに体を重く感じます。イスから立ちあがるとき
も、ヨイコラショという感じになります。私にとっての、ベストコンディションは、62・5キロです。あ
と少しです。

 そうそう1か月ほど前、健康診断を受けたら、中性脂肪をのぞいて、オールAでした。日ごろ
の努力のかいがあったと、うれしかったです。つまりまだまだ現役でがんばれそうということで
す。

 ……ということで、がんばります!

 いつも暗い話ばかりしていますが、次回は、もうそういうことは忘れて、楽しい話をさせてくだ
さい。そのためにも、一度、浜松へおいでになりませんか。これは私から、あなたとご主人への
正式な招待状と考えてくださって、結構です。

 5月3、4、5日は、当地最大の凧祭りがあります。もしよろしかったら、そのあたりの日をねら
って、おいでください。いかがでしょうか? お待ちしています。ご主人のH氏に、くれぐれも、よ
ろしくお伝えください。

 では、今日は、これで失礼します。

                           はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1222)

【ネックレスづくり】

++++++++++++++++

ビーズを使って、ネックレスづくり
に挑戦。

講師は、私のワイフ。2人で、コタツ
に入りながら、作った……。

++++++++++++++++

●セット

 ビーズショップへ行くと、レシピ(作り方)の入ったセットを売っている。初心者は、そういうセッ
トを買って、ネックレスを作るとよい。ショップの人にそう言われて、それを買った。

 私は、840円のを買った。猫の目のように、見る角度によって、模様が変わるビーズが、気
に入った。色は、灰褐色と、淡い茶色、それに薄いピンク色。3〜4種類のビーズが組み合わ
さったもの。

 しかしセットには、ビーズ玉だけしか入っていない。テグス(ひも)とか、取りつけ金具などは、
別に買わなければならない。が、これが失敗の第一歩だった。

 セットを見ながら、テグスと金具、それに「つぶし玉」と呼ばれる留め玉を買った。ほかにアジ
ャスターなど。アジャスターというのは、首の太さに応じて、ネックレスの長さを調整する、短い
チェーンのことをいう。

 が、どれも、特大のものばかり買ってしまった。ショップで見ると、みな、小さく見えた。で、そ
れで特大のものばかり、買ってしまった。ただ、テグスだけは、2号と呼ばれる、ネックレスづく
りには、細すぎるものにしてしまった。「そのほうが、楽だろう」という、思いが、心のどこかを横
切ったからである。

●意外と簡単だった……

 ビーズ玉通しは、思ったより、楽だった。テグスの一方を、レシピに従って、セロテープで留め
たあと、一個ずつ、穴に通していった。一定のパターンがあるから、それを覚えてしまえば、あ
とは楽。

私「ぼくの処女作だ。できたら、だれにあげようか?」
ワ「私に決まっているでしょ!」
私「どうして?」
ワ「だって、そのセット、私に似合うと言って買ったのでしょ」
私「それがね、そうではないんだよ」と。

 おかしなもので、一個ずつビーズを通していると。いろいろな女性の顔が、脳裏に浮かんでく
る。「あの人にあげようか?」「この人にあげようか?」と。

私「やはり、これはデニーズにあげようか?」
ワ「若い人が好む色ではないわよ」
私「そうだね……」と。

●テグスが切れた

 時間にすれば、30〜40分ほどで、ネックレスらしきものができた。一方に、金具を取りつ
け、つぶし玉を入れる。

 しかしそのつぶし玉が大きすぎた。テグスは細い。焼き鳥の串に、指輪を通したような感じに
なった。しかし今さら、しかたない。平ペンチと呼ばれるペンチで、力を入れて、つぶし玉をつぶ
す。

 そして接着剤をつけて、金具を閉じる。

 ここまでは、うまくできた。「意外と簡単だね」と。

 が、悲劇は、そのあと起きた。もう一方の端も、同じようにまとめようとして、ペンチにぐいと力
を入れたとたん、ザリザリと、音を立てて、テグスが切れた。ザリザリというのは、糸が切れた
音ではない。ビーズが、四方八方に、散った音!

 ワイフが横で、「アー」と、何とも間の抜けた声を出した。私は、こういうとき、声を出さない。

●再度、チャレンジ

 見ると、ネックレスの3分の1ほどが、どこかへ消えてしまっていた。「どうする?」「しかたない
わね」と。

 ビーズ玉といっても、直径が2〜3ミリのものから、4ミリ前後まで、何種類かある。それらが、
コタツの布団の中とか、その下のジュータンの間に、散らばってしまった。

 しばらく、天井を見あげて寝ころんでいた。すぐには、やる気は起きなかった。が、そこでやめ
たら、あとがない。私は、めがねをはずすと、はいつくばりながら、1個ずつビーズを集め始め
た。

 「こういう作業は苦手なんだよ」と。が、やがてコツがわかった。手のひらで布団やジュータン
の上をこすってみる。ビーズがあれば、それがわかる。こうして1個、また1個……と。

私「お前に、こんな細いネックレスは、無理だよ。肌がたるんでしまっているし、それにお前の
首は、太い」
ワ「だから、アジャスターで調整するのよ」
私「なるほど……」と。

●テグスをつなげる

 つぶし玉をつぶすとき、テグスも切ってしまった。テグスの長さが、短くなってしまった。ギリギ
リの長さになってしまった。

 再びビーズを通してみると、残りは、数ミリもない。つまり外に出たテグスの長さが、数ミリも
ない。「これでは、金具をつけるのは無理だよ」とこぼすと、講師のワイフは、「そういうときは、
テグスをつなげればいいのよ」と。

 言われるまま、リールに巻いてあったテグスを少し切り取り、それをネックレスのテグスにし
ばろうとした。が、うまくしばれない。

私「どうするんだ?」
ワ「簡単にしばったあと、接着剤で、固定するのよ」
私「なるほど……」と。

 しかししばろうとしても、すぐスルリとほどけてしまう。しかたないので、少し接着剤をつけてか
ら、しばる。が、これはうまくいった。が、またまた問題が起きた。結び目のところが、玉になっ
てしまったため、ビーズが通らない!

私「どうするんだ?」
ワ「そういうときは、大きいビーズが通るところで、結び目をつくるのよ」
私「なるほど」と。

 こうして作業はつづいたが、気がつくと、左肩が、痛み出した。肩こりである。

●完成

私「結構、疲れるなア」
ワ「私も、最初は、そうだった」
私「これは老人の趣味には、向かないよ」
ワ「そうね。若い人の趣味よね」と。

 何度か、寝転んだり、起きあがったり……。それを繰りかえしながら、やっと、ネックレスが、
できた。

私「このネックレスね、葬式で使う数珠(じゅず)みたいだね」
ワ「あなたが選んだ色よ」
私「それはわかるけど、数珠みたいだ」
ワ「そんな感じがするわね」
私「だったら、葬儀場まで、ネックレスで使って、葬儀が始まったら、はずして、数珠として使え
ばいい」
ワ「アジャスターがあるから、まずいわよ」
私「その部分は、ほら、こうして、手の中で隠せばいい」と。

 それにしても、肩がこった。疲れた。が、しかしこうして私の処女作が、できた。

 「お前にやるよ」と言ってワイフに渡すと、ワイフは、それを首につけた。やはり数珠みたいだ
った。

 「今度は、もっと、明るい色にするよ」と言うと、ワイフは、「白いブラウスか何かの上だったら
いいわよ」と、私をなぐさめてくれた。ホッ!


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●年齢と過去

+++++++++++++++

年を取れば取るほど、
過去が近づいてくる。

そんな不思議な体験を、
私は今、しつつある。

+++++++++++++++

 10歳の子どもには、100年前という昔は、年齢の10倍も遠い過去に思えるかもしれない。
しかし20歳の若者には、100年前という昔は、年齢の5倍の過去でしかない。

 さらに……。50歳の人にとっては、100年前という昔は、年齢のたった2倍での過去でしか
ない。で、現在、私は、58歳だから、100年前という昔は、正確には1・7倍の過去でしかな
い。

 ……ということで、私が子どものころには、江戸時代という時代が、遠い過去に思えた。しか
し今は、ちがう。この年齢になってみると、江戸時代という時代が、すぐその昔の過去に思え
る。明治時代となると、さらにすぐその昔の過去に思える。

 わかりやすく言うと、私たちの身のまわりで、江戸時代そのものが、いまだに力強く残ってい
るのが、わかる。この感覚は、私が子どものときや、青年時代には、なかった感覚である。私
は、若いころ、江戸時代などという時代は、とっくの昔に終わった、過去の時代だとばかり思っ
ていた。

 言いかえると、この100年でもよい。150年でもよい。本当に日本人は、あの江戸時代とい
う封建主義時代を、心の中や、意識の世界で、清算してきたかというと、それは疑わしい。歴
史的エネルギーということになると、あの江戸時代には、ものすごいパワーがある。明治時代
や大正時代になったからといって、そのパワーが衰えたという形跡は、ない。今でも、マクロな
見方をすれば、この日本は、そのパワーの流れの中にあると言ってもよい。

 家制度や、家父長意識、さらに先祖崇拝意識、職業による身分差別意識、男尊女卑意識、
男女の差別意識などなど。こうして考えだしたら、キリがない。キリがないほど、今でも、そこ、
かしこに、それを感ずる。少し前まで、世間を騒がしていた、天皇家の皇位継承問題にしても、
そうである。

 ほとんどの識者たちは、「伝統」という言葉を使って、この問題のもつ本質論から逃げてしま
った。が、男系男子天皇にこだわること自体、今に時代にとっては、おかしなこと。時代錯誤と
言うべきではないのか。

 そこで私たちにとって重要なことは、2つある。1つは、常に過去を冷静に見ながら、反省す
べきものは、反省し、清算すべきものは、清算するということ。そしてもう1つは、時代を先取り
する形で、未来に向かって、未来型思考に変えていくこと。この2つの努力を怠れば、今までの
日本のように、ズルズルと、過去を引きずっていくだけ。いつまでたっても、(おかしな日本)は、
(おかしな日本)のままで、終わってしまう。

 で、数日前、私は、日本人のもつ「実家意識」について、書いた。今でも、つまり江戸時代が
終わって、140年にもなろうというのに、その実家意識にこだわっている人は多い。「家があっ
ての、子孫」という考え方である。それについて、「おかしい」と書いた。

 その実家意識を中心として、長子相続制度、さらには、跡取り制度となると、法律上はその
規定はないものの、世俗的風習として、いまだに色濃く残っている。

 で、若いころ、こうした問題に接するたびに、「どうしてそうまで過去の遺物にこだわるのだろ
う」と不思議でならなかった。が、この年齢になって、その謎が、解け始めた。

 江戸時代という時代は、遠い過去の時代ではない。私たちの時代そのものが、江戸時代そ
のものの流れの中にある。パワーの中にある。過去の遺物どころか、私たちの意識が、江戸
時代の人たちの意識そのものである。140年前というが、私が80歳になれば、私の年齢のた
った2倍の昔にすぎない。(140+20=160年。58+20=78歳。160÷78=約2で計
算。)

 たったの2倍! どうしてその2倍という短い時の流れの中で、日本人の意識が変わるという
ことがあるだろうか!

 ……ということで、年を取れば取るほど、過去がより身近になってくる。そして同時に、私たち
が、過去の遺物をいまだに引きずっていることが、より鮮明にわかるようになってくる。これは
私が今、現在進行形で経験しつつある、不思議な体験である。

 さて、あなたは、どうだろうか? 


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●今を生きる

 今日できることは、今日する。今できることは、今する。……ということで、今日は、朝から忙
しかった。

 朝一番に、K幼稚園に、今度その幼稚園でする講演会の案内書を届けた。

 その帰り道に、ショッピングセンターで、肥料と除草剤を買った。

 畑を耕して、畝(うね)を1つ、ふやした。

 恩師のN先生たちと、会食をした。

 帰ってきてから、昼寝。

 起きてすぐ、別のショッピングセンターへ、ビーズを買いに行った。ついでにワイフと、そのシ
ョッピングセンターの中で、軽食。最近、私は、ビーズの魅力にとりつかれている。

 帰ってきてから、ワイフと、そのビーズを使って、ネックレスを作った。

 そして今、こうしてエッセーを書いている。

 忙しい一日だったが、その間にも、人に頼まれた仕事を、2つこなした。

 ……ということで、今日は、「今日できることは、今日する。今できることは、今する」を、実践
してみた。充実した1日だった。よくがんばった。おかげで、今は、気分爽快。時計は、午前1
時5分を示している。昼寝をしたせいか、まだ眠くない。明日は日曜日だから、もう少し、あれこ
れ、書いてみよう。


●ビーズの魅力

 今日、ワイフとショッピングセンターへ、ビーズを買いに行った。その一角に、その店がある。

 私は、そのビーズを買いながら、改めて、ビーズのもつ美しさを確認。と、同時に、ビーズのも
つ美しさには、人の心を癒(いや)す力があることを知った。ビーズといっても、最近のは硬質
ガラスでできている。反射率も高い。宝石以上に美しい輝きを放つビーズも多い。

 あれこれビーズを選びながら、ぼんやりとそれをながめていると、心が安らいでくるのがわか
る。それは、澄んだ水槽の中で泳ぐ熱帯魚を見ているときの気分に似ている。森の中で、新緑
に包まれた木々を見ているときの気分に似ている。

 きっと脳内で、エンドロフィン系、エンケファリン系のホルモンが分泌されたのだろう。30分ほ
ど、その店で時間をつぶしたが、店から出てくるときは、うっとりとした気分になっていた。

 私の趣味は、ある周期で、定期的に変わる。が、今、しばらくは、私の趣味は、そのビーズに
なりそう。


●インターネットは、有害?

インターネットは有害か? 先日も、ある母親と、その話をした。いわく、「インターネットは有害
だから、子どもたちには、させません」と。
 
 同じような意見は、あちこちで聞く。

 しかし、たしかにインターネットには、そういう部分もある。が、インターネットには、同時に、こ
れからの人間の未来を決定づける、重要な何かがある。コンピュータ、それにつづくインターネ
ットは、やがて歴史の中で、「第二の産業革命」、あるいはそれ以上のものとして位置づけられ
るようになるだろう。

 今のこの「時代」を境にして、人間の生活は、大きく、つまり革命的に変化する。劇的に変化
する。私たちは、そういう時代の中に生きている。

 もちろん抵抗もある。しかしそれは何も、インターネットにかぎったことではない。たとえばイギ
リスで産業革命が起きたとき、それはまたたくまに世界に広がった。が、ドイツだけは、その流
れに背を向けた。機械破壊運動まで起きた。その結果が、第一次大戦の敗北であり、つぎに
技術革新の重要性に気づくまで、ドイツは、手痛い代償を支払わねばならなかった。

 インターネットはともかくも、コンピュータは、もう必需品である。これから先、コンピュータなし
での生活は考えられない。そのコンピュータを子どもたちの世界から遠ざけるような行為は、
子どもたちに向かって、「未来に向かって生きるな」と言うに等しい。

 で、問題は、インターネットである。

 たしかにネット上では、有害な情報が、無数に飛びかっている。自殺系サイトもあれば、援交
サイト、出会い系サイト、それにスケベサイトなどなど。この私も、最初は、そういったサイトを、
有害サイトと見抜けず、数々の失敗を重ねた。が、そういう経験を重ねたおかげで、心の中に
抵抗力というか、免疫性ができた。

 そういったプロセスは、だれしも経験するものであり、避けては通れないものかもしれない。よ
い例がビデオであり、携帯電話である。こうした文明の利器の世界では、常に、(スケベ心)
が、それを先導する。「スケベ心なくして、文明の利器の発達はない」とさえ断言できる。

 そこで私は、結局は、使い方の問題ではないかと思う。「どうやって使わせないか」ではなく、
「どうやって使うか」である。

 方法がないわけではない。今では、その対策を講じたソフトも、市販されている。プロバイダ
ーによっては、スパムメールを遮断するサービスを始めているところもある。完ぺきではない
が、しかし子どもたちの世界を、ある程度は守ることができる。

 もちろん与えっぱなしは、いけない。しかしそれは何もインターネットにかぎったことではない。
本屋でも、ビデオ屋でも、その種の情報は、氾濫している。危険か危険でないかといえば、携
帯電話のほうが、はるかに危険である。

 大切なことは、もしそういった意見があるなら、みなが、声をあげることである。そうすれば、
必ず、ソフト開発メーカーが動く。そしてさらに完ぺきに近い、ソフトが開発される。今は、その
過渡期にあるとみてよい。

 ……ということで、インターネットは危険だから、子どもにはさせないという意見には、私は、
賛成しない。
(はやし浩司 インターネットの功罪 問題点)


●文字化けメール

 ここ数日、多いのが、文字化けしたメール。件名のところが、そうなっている。

 件名:xヶ阿ッz

 スパム・メールである。

 本当によくもまあ、こうまで悪知恵が働くものだ。わざと文字化けした件名を書き、フィルター
をかいくぐろうとする。

 こういう小ズルイことをする人間は、どこまでも、小ズルイ。が、脳みそのレベルが低いから、
脳の分化※も遅れているはず。つまり一事が万事。こういう人間を信用すると、たいへんなこと
になる。

 迷わず、削除、また削除。相手にしないのが、何よりも肝心。

(注※)おとなになると脳の分化が進み、それぞれが見かけ上、独立した働きをするようにな
る。仕事をしているときの脳、趣味を楽しむときの脳、友人や知人といっしょにいるときの脳な
ど。これを脳の分化という。

 が、子どものばあい、その脳の分化が未発達なので、その使い分けができない。家で母親と
口論したりすると、そのままの状態を、学校の中までもちこんだりする。わかりやすく言えば、
自己管理能力が弱く、気分を切り替えることができない。自分をコントロールすることができな
い。

(補記)

 そろそろ眠くなってきました。では、みなさん、お休みなさい。明日も、忙しい一日になりそうで
す! Have a good night!


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1223)

【近ごろ・あれこれ】

●毒へび

 この1年で、3匹の毒ヘビを殺した。昨年は、大きなマムシ。今年に入って、ヤマカガシとマム
シ。ヤマカガシは、おとなしいヘビと言われているが、それでも不用意に踏みつけたりすると、
かまれることがある。立派な毒ヘビである※。

 昨日(4月16日)、山荘の横で、そのマムシを殺した。最初、ワイフが、竹の子をさがしそう
と、竹やぶの中をのぞいていた。そして「ヘビがいる!」と叫んだ。

 見ると、マムシ。それが、とぐろを巻いて、そこにいた。私は三角鋤(すき)を持ち出すと、その
中央部に、容赦なく一撃!

 毒ヘビを殺すときは、決して、力を抜いてはいけない。一撃必殺の思いで、殺す。へたに逃が
すと、今度は、向こうのほうから、人間を襲うようになる。……と、近くの農家の人から聞いた。

 体は2つに切れた。が、頭部と、しっぽ部が、別々に動いて、逃げようとした。このあたりが、
マムシのすごいところ。私はすかさず、2撃、3撃と、三角鋤で、マムシを叩いた。

 最後に頭部を切り取り、死骸は、穴を掘って、土の中に埋めた。生める前に頭部よく見ると、
細い針のような毒針が、口から外に向かってのびているのがわかった。途中で、「く」の字に曲
がっていた。長さは、2センチくらいか。それを見ながら、「『マムシ、1か月』と言うだろ。こんな
のにかまれたら、1か月は入院だよ。あるいはそのまま死ぬかもしれない」と。ワイフはそれを
黙って、聞いていた。

 私の印象では、ここ数年、毒へびが急にふえたように思う。それ以前は、めったに見なかっ
た。しかしこの1年間で、私は、3匹も殺した。これも地球温暖化のせいか? 平均気温があが
ると、毒ヘビがふえ、その生息境界線が、北上するということだそうだ。今は沖縄地方にいるハ
ブが、このあたりに上陸してくるのも、もう時間の問題か。

 みなさん、山の中を歩くときは、くれぐれも、気をつけましょう。ひざまで届く長靴をはくのは、
常識! ワイフも言っていましたが、マムシの体は、保護色になっているため、まわりの枯れ葉
と見分けるのが、たいへんむずかしいです。

+++++++++++++

(注※)ヤマカガシ……奥歯の根元に毒腺を持つため、深く噛まれると危険。(死亡例もある)。
毒は出血毒であるが、おもに血小板に作用してこれを破壊する性質であるため、クサリヘビ類
の出血毒とは違い、激しい痛みや腫れは、あまり起こらない。しかし、噛まれてから20−30分
後ぐらいから、血液の中で化学反応が起こり、血小板が分解されていく。そのため、全身の血
液が凝固能力を失ってしまい、全身に及ぶ皮下出血、歯茎からの出血、内臓出血、腎機能障
害、血便、血尿などが起こり、最悪の場合は脳出血が起こる。一説には、その毒の強さはハブ
の10倍とも言われる(ウィキペディア百科事典より転載。) 


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●空き地のおばちゃん

 近くの空き地に、1人の女性がいる。私たちは、尊敬の念をこめて、「空き地のおばちゃん」と
呼んでいる。

 今年、92歳になるのではないか? ここ数週間、姿を見ないので、同じ空き地にいる人たち
に、「どうかしましたか?」と聞くと、「体調を崩されたみたい……」と。

 空き地のおばちゃんは、いつもこのあたりを、清掃してくれている。雑草がのびると、その雑
草を刈り取ってくれている。近くにI中学校があるが、そのI中学校の、西側にある坂周辺が、い
つもきれいなのは、そのおばちゃんの、おかげである。

 おばちゃんは、草を刈るときも、ふつうの、つまり裁縫(さいほう)で使うようなハサミを使って
いる。あのハサミで、1本ずつ、草を刈るのである。そのためエンジン付きの草刈り機でするな
ら、ものの5〜10分ですむような草刈りも、おばちゃんがすると、1日仕事になる。

 家族の人に会うこともあったので、「すばらしい人ですね」と声をかけると、家族の人たちは、
みな、「家の中ではきつい人ですよ」と。「きつい」というのは、このあたりの方言で、「がんこで、
きびしい人」という意味である。

 一方、こんな老人もいる。

 その家の近くに、近所の家からゴミが風に乗って舞ってきたりすると、そのゴミを集めて、そ
の近所の家の玄関先に、わざとまき散らしてくるという老人がいるという。

 ワイフの友人が、ワイフに話してくれた老人のことである。年齢は、80歳くらいだという。男性
である。

 ひとり住まいのため、いろいろなボランティアたちが、その老人を助けている。週2回、病院
へ通うことになっているが、その病院へは、ボランティアの運転する車で、通っている。ほかに
も、週2回、同じようなボランティアが、掃除にきたりしている。

 私はその話を聞いて、「老人にも、いろいろいるなア」と思った。近所の人たちのために、惜し
みなく労力を捧げている老人もいれば、自分では何一つしないで、他人がしてくれるのを要求
する老人もいる。

 私が「あの老人のことか?」と聞くと、ワイフは、「そうよ、あの老人よ」と。

 私も、ときどき、道路で顔を合わせることがあるが、いつもこわばった顔をしている。ボランテ
ィアによる支援を受けているというが、見た感じでは、元気そうである。

私「あの老人に、支援など、必要ないよ」
ワ「そうよねえ……」と。

 老人の人格は、その老人がいかに利他的であるかによって、判断する。自己中心的で、自
己管理能力がなく、世間の人たちと良好な人間関係を結べないというのであれば、その老人
の人格の完成度は低いということになる(EQ論)。

 どこでどう人間は、それぞれのタイプに分かれるのだろう。老人になればなるほど、それが極
端な形で現れる。

【付記】

 「自分は大切にされるべきだ」という、おかしなプライドにとりつかれた人ほど、当然のことな
がら、利己的になる。長い時間をかけて、そうなる。

 問題は、その心のより所である。「なぜ、大切にされるべきか」と考えるのか?

 退職前の職歴や、学歴にこだわって、そうなる人もいる。家柄や、財産にこだわって、そうな
る人もいる。しかしすばらしい職歴や、家柄に生まれ育ちながらも、そうでない人も多い。

 そのちがいは、結局は、その人が生まれ育った環境の中で作られるのではないか。しかもそ
の方向性というか、ちがいの基礎は、満5、6歳くらいまでにできる(?)。よくわからないが、す
でにそのころには、ある程度の方向性ができあがることだけは、事実のようである。
(はやし浩司 老人の人格 利他 ボランティア ボランティア活動)


++++++++++++++++++++

この原稿を書いているとき、
以前、書いた原稿のことを
思いだしました。

「使えば使うほどいい子」
という内容の原稿です。

乳幼児期の育て方が、
老人になってからも、
その人に影響する。

そういうふうに、この
原稿を読んでくだされば、
うれしいです。

+++++++++++++++++++++

子どもをよい子にしたいとき 

●どうすれば、うちの子は、いい子になるの?

 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私
は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読
む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い
まくることです」と。

 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。
自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や
根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。

●100%スポイルされている日本の子ども?

 ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、100%、スポイ
ルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。

そこで私が、「君は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教
えてくれた。「ときどきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけ
ない。シャワーを浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。
つまり、「日本の子どもは何もしない」と。

反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう言って驚いていた。「向こ
うでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だけはしっかりと手伝って
いる」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。

●ドラ息子症候群

(1)ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜
ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い
どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が
皆の中心にいないと、気がすまない。

(2)ものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。目標を定めることができず、目標を
定めても、それを達成することができない。あれこれ理由をつけては、目標を放棄してしまう。
ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣そのものがだらしなくなる。その場を
楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ消費的な行動が多くなる。

(3)ものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存心が強い割には、自分
勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立つ。

(4)バランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動す
ることができない、など。

●原因は家庭教育に

 こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(4〜5歳)前後で表れてくる。しかし一度こ
の時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。

ドラ息子、ドラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに
原因があるからである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省
する前に、叱って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」
とか言って、それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつく
ってしまう。

●子どもは使えば使うほどよい子に

 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛
だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」
と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん
が捨ててくれる」と。

あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お父さんがいるから、
いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だちの家からタクシー
で、あわてて帰ってきた子ども(小6女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れていて、そこで用
をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子どもにはどんどん家
事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、このしつけはできなく
なる。

●いやなことをする力、それが忍耐力

 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け
てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き
なことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。

たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂
場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。こ
んな子ども(年中女児)がいた。

その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのおばあさんのめんどうをみるのが、
その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、こう話してくれた。「おばあさんが
口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれるのです」と。こういう子どもは、
学習面でも伸びる。なぜか。

●学習面でも伸びる

 もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして
も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える
力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき
ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。

 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く
と、「掃除は、掃除機でものの10分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋さ
んが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろされ
ると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。

●家庭の緊張感に巻き込む

 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見
ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回
り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。

 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども
が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし
知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほ
うがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わった
ら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さら
に食器を食器棚へしまわせる、など。

 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ
ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の
草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと
をいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それ
が、「いい子にする条件」ということになる。

●バランスのある生活を大切に

 ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。(1)生活感
のある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなう
ことをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困る
のだ」という意識をもたせる。(2)質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。(3)忍耐
力をつけさせるため、家事の分担をさせる。(4)生活のルールを守らせる。(5)不自由である
ことが、生活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、(6)バランスのある生活
に心がける。

 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。
ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある
いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって
いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ
ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。

子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを
忘れてはならない。
(はやし浩司 育児 育児法 ドラ息子 子どもの忍耐力 忍耐力 がんばる子供 家庭教育 
はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【子どもを伸ばす】

++++++++++++++++++

子どもを信ずる。
これは子育ての基本。
同時に、子育てのテーマ。

++++++++++++++++++

●役割の感知

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、その期待にこたえようと、無意識のうちに
も、自分の中のよい面を、表に出そうとする。よい面を見せようとする。子どもを伸ばすときは、
こうした子どもの心理を、うまく利用して伸ばす。

たとえば母親が、「うちの子はすばらしい」と、そう思ったとする。するとその子どもは、母親の
期待にこたえようと、無意識のうちにも、自分のすばらしい面を感知し、自らそれを伸ばそうと
する。そういう意味では、子どもの心というのは、親の心を映す、カガミのようなものと考えてよ
い。

 ところで心理学の世界には、「役割形成」という言葉がある。男の子は、そうであるようにと、
とくに教えなくても、やがて男の子らしくなっていく。同じように女の子は、女の子らしくなってい
く。

 無意識のうちにも、子どもは自分の役割を感知し、それに合わせて、自分を形成していく。そ
のために、子どもは、男の子らしくなり、女の子らしくなる。

 そこでここでは、もう一歩、この問題を、踏みこんで考えてみる。

●自己形成で作られる人格

 たとえば学校の校長を考えてみる。

 長い間、教職という立場にあり、そして校長にまでなった人を見てみる。そのとき、校長と呼
ばれる人には、ある共通点があるのがわかる。そのほとんどが、人格者で、かつ高邁(こうま
い)な思想や哲学をもっている。

 それは校長という要職にある間に、親や生徒の期待にこたえようと、その人自身が、自ら努
力した結果とみてよい。もちろん中には、演技で、人格者のフリをする人もいる。校長にかぎら
ない。が、しかしそういう人は長つづきしない。やがて自己矛盾を起こし、そういった要職に耐
えられなくなる。

 もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 たとえばサッカーの試合がある。その選手がいくらすばらしいプレーをしてみせようとしても、
観客がゼロでは、やる気そのものが、生まれてこないだろう。しかし観客席が満員になり、熱い
声援を受ければ、その選手は、その期待にこたえようと、自分の力を、無意識のうちにも、十
二分(ぶん)に発揮するようになるかもしれない。

 つまり子どもにかぎらず、私たちは、いつも、他人が自分をどう思っているかを、敏感に感知
し、自分がどうあるべきかを判断する。意識してそうするばあいもあるが、たいていは無意識の
まま、それをする。そしてそれに応じて、自分のあり方を決めようとする。わかりやすく言えば、
他人が、自分に対してもっているイメージ、つまり(他者的自己概念)を、自分のイメージとし
て、無意識のうちにも、自分の(自己概念)として受けいれようとする。

●社会的自己

 たとえばあなた自身のことで、考えてみてほしい。

 あなたの周囲には、あなたのことを、すばらしい人と思っている人もいれば、そうでない人も
いる。

 そういうときあなたは、自分のことをすばらしいと思っている人の前では、自然な形で、あなた
のすばらしい面が表に出てくるのを感ずるだろう。やさしくなったり、おおらかになったりする。

 反対に、そうでないときは、そうでない。自分のことをいやな人だと思っている人の前では、
(あなたはそれを無意識のうちにも、敏感に感知しているわけだが……)、ついつい自分の中
のいやな部分を表に出してしまう。冷淡になったり、無愛想になったりする。

 もちろんその相手といっても、個人のときもあるが、集団のときもある。

 あなたを暖かく迎えてくれる集団の中では、あなたは自分の中のよい面を、前面に出そうとす
る。しかしあなたを拒否する集団の中では、自分がそう望んでいるわけではないのに、自分の
中のいやな部分を表に出してしまうことがある。

 こうして子どもは、そして人は、自分の中に、「社会的自己」を形成していく。家族の中におけ
る自己、園や学校という世界における自己、そして友人の世界における自己など。

 おとなであれば、職場における自己、趣味の会における自己などがある。

 こうした社会的自己というのは、決して、1つではない。わかりやすく言えば、みな、ちがう。そ
れぞれの場面において、みな、ちがう。あなたが10の集団と接しているなら、10の社会的自
己をもつことになるし、20の集団と接しているなら、20の社会的自己をもつことになる。

 ただ、自分を拒否したり、否定したりする集団については、あなたは、それから、これまた無
意識のうちにも、遠ざかっていくかもしれない。こうした経験は、私もよくする。

●私のケース

 たとえば子どもを教えていて、その子どもの親が、子どもを通して、私に対して、どのようなイ
メージをもっているか、それがわかるときがある。

 そのイメージが、よいものであればよいが、そうでないときは、とたんに居心地が悪くなる。ザ
ワザワとした胸騒ぎが起こることもある。当然のことながら、教えようという熱意そのものがわ
いてこない。しかしそうした状態は、長つづきしない。長くつきあっていると、(よい教師でいよ
う)という思いと、(それができない自分)との間で、自己矛盾を起こしてしまう。それは、心理的
には、ものすごいストレッサーとなって、私を襲う。つまりこうして私は、その親や子どもから離
れようとする。

 が、個人にせよ、集団にせよ、その重要なカギを握るのは、だれかということになる。

 言うまでもなく、それは、その人が、もっとも大切に感じている個人であり、集団ということにな
る。子どもについて言えば、「親」ということになる。

 つまりここで冒頭の話にもどる。ここでは子どもについて、考えてみる。夫と妻という関係でも
よい。

 子どもというのは、(あるいは妻というのは)、常に、親が、(あるいは夫が)、自分に対してど
のようなイメージ(他者的自己概念)をもっているかを、無意識のうちにも、感知する。そしてそ
のイメージに合わせて、自己概念を作りあげようとする。

 親が、(あるいは夫が)、子どものことを、(あるいは妻であるあなたのことを)、よい子(人)だ
と思っているなら、(よい妻であると思っているなら)、自然と、子どもは、(あなたは)、そのよい
妻に向けて努力するようになる。

 こうした現象は、心理学の世界では、「好意の返報性」という言葉を使って説明されている。
『相手は、あなたが相手のことを思うように、あなたのことを思う』という、イギリスの格言もあ
る。

 が、その反対のケースもある。子どもの世界について、考えてみる。

●親のイメージどおりになる子ども

 親が、自分の子どもに対して、悪いイメージをもっていたとする。「うちの子は、何をしてもダメ
だ」「心配だ」と。

 こういうケースのばあい、いくら親が表面的にはそうでないと演じてみせても、子どもはそれを
敏感に察知してしまう。ユングという心理学者は、それを「シャドウ」という言葉を使って説明し
たが、そのシャドウを、子どもは、無意識のまま、そしてそっくりそのまま、受けついでしまう。
「受けつぐ」というよりは、そのまま、自分のイメージとして受けいれてしまう。

 つまり子どもは、ますますその親にしてみれば、望ましくない子どもになってしまう。そしてあと
は、お決まりの悪循環。(親にしてみれば、ますます心配な子どもになる)→(子どもは、ますま
すその心配な子どもになる)、と。

 では、どうするかだが、答はもう出ているようなもの。

●子どもを信ずる

 子育てをしていて、何がむずかしいかといって、実は、自分の子どもを信ずることぐらい、む
ずかしいことはない。日々が、その戦いと言ってもよい。もっと言えば、子育てイコール、いかに
子どもを信ずるか、その戦いということになる。

 ときには、希望をもち、ときには落胆し、その繰りかえしをしながら、親は、子どもを育てる。し
かしそのときでも重要なことは、どんなことがあっても、子どもを信ずるということ。これは子育
ての最後の砦(とりで)のようなもの。それを崩したら、もうあとがない。

 さらに一言、つけ加えるなら、信ずるといっても、仮面ではいけない。仮面ではいけないことに
ついては、すでにここに書いたが、他人ならともかくも、子どもや、夫婦は、その仮面では、だま
せない。だから心の底から、濁(にご)りなく、子どもを信ずること。

 それにもうひとつ、条件がある。

 あなたが自分の子どもを信ずるとしても、それを子どもに押しつけてはいけない。過剰期待
や過負担ほど、子どもを苦しめるものはない。またそうした押しつけによって、反対に、子ども
が、その(いい子)を演ずるように、しむけてはいけない。

 無理や強制がつづくと、今度は、子どものほうが仮面(ペルソナ)をかぶるようになる。が、こ
れについては、もう何度も書いてきたので、ここでは省略する。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 社会
的自己 自己概念 仮面 ペルソナ 子供の心理 幼児の心理)

+++++++++++++++

3年前に書いた原稿を
ここに添付します。

この原稿の中で、「二面性」という
言葉を使いましたが、
本当は、「多面性」という言葉の
ほうが、正しいかもしれません。

+++++++++++++++

●人間の二面性

 人間には、二面性がある。

 たとえば私は、こんな話を聞いたことがある。ベトナム戦争から帰ってきたオーストラリア人兵
士から聞いた話である。クリスという男だったが、こう言った。

 「みんな戦場からサイゴンに帰ってくると、女を買いに行くんだ。買うといっても、セックスが目
的ではない。女を買って、一晩中、女のおっぱいを吸っているんだ」と。

 テレビなどで戦車の上に陣取っている兵隊を見ると、私たちは、「たくましい」とか、「かっこい
い」と思うかもしれない。しかしそれは外に向った、表の顔。そういった兵士にも、もう一つの顔
がある。赤ん坊のように、女性のおっぱいを吸いつづけたのが、その顔である。

 実は、こうした二面性は、子どもにも広く、見られる。それが好ましいことなのかどうかという
議論はさておき、外の世界でがんばり、その分だけ、家の中では、ぐずったり、乱暴したりする
子どもは、いくらでもいる。ときには、まったく別人のように振る舞う子どももいる。こうした違い
は、園や学校での参観日などを通してみると、よくわかる。

 ある女の子(年長児)は、幼稚園では何をするにもリーダーで、先生も一目、置いていた。学
習面でも、運動面でも、その女の子にかなう子どもは、いなかった。しかしその母親は、私にこ
う言った。「家では、何もしてくれないんですよ。ぐずってばかりいます。それにここだけの話で
すが、いまだにおねしょをしているんですよ」と。

 もしあなたの子どもが、参観日などで、「がんばっている」「家の中での様子と違う」と感じた
ら、家の中では、思いっきり、手綱(たづな)を緩(ゆる)める。このとき、家の中でも引き締める
ようなことがあると、子どもは行き場、つまり心の調整の場をなくしてしまう。家の中で、退行的
な様子(全体に幼稚ぽくなり、生活習慣がだらしなくなる、約束や規則が守れないなど)が見ら
れても、大目に見る。

 また、こうした二面性を、悪いことと、決めてかかってはいけない。ここにも書いたように、こう
した二面性があるからこそ、外の世界でがんばれる反面、自分の心を調整することができる。
心理学の世界には、「補完」という言葉があるが、たがいに補完しあうこともある。とくに責任あ
る地位や、立場にある人ほど、この二面性は、強く現れる。

 話は、ぐんと、生臭くなるが、学校の教師によるハレンチ事件は、あとを絶たない。このH市
でも、男子生徒にいたずらを繰りかえしていた教師、更衣室にカメラをしかけて盗撮していた教
師、女子生徒の下着を盗んだ教師などがいる。こういう事件が明るみに出るたびに、学校も、
また親も、そして生徒も、「まさか!」と驚く。「あの教育熱心な先生が、どうして!」と。

 しかしここが問題なのである。こうした教師は、仮面の部分では、たしかに優秀な教師かもし
れない。そのように外の世界で、振る舞っている。しかしそれはあくまでも外の顔。だからこそ、
別のところで、心の調整が必要となる。(だからといって、ハレンチ事件を起こしてよいと言って
いるのではない。誤解のないように!) いつも立派な教師のままでは、気がヘンになってしま
う。

 問題は、どうやって自分の心を調整するか、である。似たような話だが、いつも緊張にさらさ
れている医師や弁護士ほど、(リッチということもあるが)、秘密交際クラブで遊んでいるという。
もう少し身近な例では、こんな話もある。

 T君(中学生)の父親は、H市でも、1、2を争う、有名ホテルのコック長をしている。そこで私
がある日、そのT君にこう聞いた。「君はラッキーだね。毎日、うちでもおいしいものばかり食べ
ているの?」と。

 するとT君は、こう言った。「パパは、家では、まったく料理しないよ。それにパパは、いつもお
茶漬けばかり食べている」と。

 以前は、「教師、聖職論」というのがあった。そのためその反動形成(本来の自分とは反対
の、別の人格者を作ること)から、自己矛盾におちいり、自己嫌悪から、自己否定にまで走って
しまう教師も少なくなかった。しかし今は、そういう時代ではない。今でもときどき、「聖職論」を
論じる人がいる。が、そもそもそういったことを論じるほうがおかしい。教師といえども、ふつう
の人間(ふつうの人間であることが、悪いというのではない。また教師をバカにしているのでも
ない。誤解のないように!) 肩の力を抜いて、気楽にやればよい。二面性があるにしても、そ
の二面性は、できるだけ近いほうがよい。

 さてあなた自身はどうだろうか。あなたにとって、外の世界で見せる仮面の部分は、何か。一
方、あなたにとって、本質的の部分は、何か。大切なことは、どんな人間にも、こうした二面性
があるということ。また、あって当然ということ。社会生活が複雑になればなるほど、人間は、そ
うなる。こうした現象を、大脳生理学の分野では、「脳の分化」という言葉を使って、説明する。
わかりやすく言えば、人間は、それぞれの場面に応じて、それぞれの自分をもっているというこ
と。

そうした理解も、実は、子育てでは必要なことかもしれない。
(030720)

【注】こうした二面性を、心理学の面で鋭くとらえたのが、ユングである。さらに詳しく勉強してみ
たいと思う人は、ユングの「ペルソナ論」「アニマ論」を、ひも解いてみるとよい。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 聖職
論 補完 人間の多面性)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1224)

【夫婦の信頼関係】

+++++++++++++++++

夫婦の信頼関係というものは、
作られるものではない。
熟成されるもの。

「疑わない」「不安に思わない」。

それが夫婦の信頼関係。

+++++++++++++++++

●「信ずる」という言葉

 「信ずる」という言葉ほど、自己矛盾に満ちた言葉はない。よい例が、若い人たちの会話。

男「オレを信じろ」
女「あなたを信じているわ」と。

 こういう会話をすること自体、相手を疑っていることになる。疑ったり、不安に思っているから
こそ、そういう会話をする。本当に信じあっていたら、そういう言葉そのものを使わない。

 夫婦も、同じ。夫婦の間で、「オレを信じろ」「あなたを信じているわ」などという会話をするよう
になったら、夫婦も、お・し・ま・い!

 しかしその信頼関係が、大きくゆらぐことがある。ウソ、インチキ、ごまかしに始まり、その先
に、浮気があり、不倫がある。どちらか一方が、他方に、それを感じたとき、信頼関係は、そこ
で大きくゆらぐ。

 で、最近、私は、こんなことに気づいた。話はぐんと、ミクロ的になるが、こんなことだ。

●ショッピングセンターのカート

 たとえばショッピングセンター。1人の女性が、カートに荷物を載せて自分の車のところにやっ
てきた。そして荷物を、車に載せ終わると、カートを、駐車場の壁に押しつけるようにして、そこ
に残した。残したまま、自分の車で、立ち去った。

 本来なら、カートは、カート置き場に戻さなければならない。またそんなところにカートを置い
たら、つぎに駐車した人が困るはず。

 そういう情景を見たりすると、私は、ふと、こう思う。「こういう女性なら、チャンスがあれば、浮
気でも不倫でも、何でもするだろうな」と。理由がある。

 人間の脳みそというのは、それほど器用にはできていない。『一事が万事』と考えてよい。A
ならAという場面では、小ズルく振る舞い、BならBという場面では、誠実に振る舞うということは
できない。小ズルイ人は、万事に小ズルく、誠実な人は、万事に誠実である。

 つまりショッピングセンターのカートを、そのように平気で、そのあたりに置くことができる人と
いうのは、そのレベルの人と考えてよい。フロイトという学者は、そのレベルに応じて、「自我の
人」「超自我の人」「エスの人」と、人を分けて考えたが、超自我の人は、どこまでいっても超自
我の人であり、エスの人は、どこまでいっても、エスの人である。

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エ
スの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

●一事が万事

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に、ある程度のハバをもって、同居する。完全
に超自我の人はいない。いつもいつもエスの人もいない。しかしそのハバが、ちがう。超自我
の人でも、ハメをはずことはあっても、その範囲で、ハメをはずす。しかしエスの人は、いくらが
んばっても、超自我の状態を長くつづけることはできない。

 だから「超自我の人」「エスの人」と断定的に区別するのではなく、「超自我の強い人」「エスの
強い人」と区別するのが正しい。

 それはともかくも、これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。

●原因は幼児期

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」と
いうことになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立
が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し
専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、
どうしてよいか、わからない。

●話を戻して……

 自分の中の(超自我)(エス)を知るためには、こんなテストをしてみればよい。

(1)横断歩道でも、左右に車がいなければ、赤信号でも、平気で渡る。
(2)駐車場に駐車する場所がないときは、駐車場以外でも平気で駐車できる。
(3)電車のシルバーシートなど、あいていれば、平気で座ることができる。
(4)ゴミ、空き缶など、そのあたりに、平気で捨てることができる。
(5)サイフなど、拾ったとき、そのまま自分のものにすることができる。

 (1)〜(5)までのようなことが、日常的に平気でできる人というのは、フロイトがいうところの
「エスの強い人」と考えてよい。倫理観、道徳観、そのものが、すでに崩れている人とみる。つ
まりそういう人に、正義を求めても、無駄(むだ)。仮にその人が、あなたの夫か、妻なら、そも
そも(信頼関係)など、求めても無駄ということになる。もしそれがあなたなら、あなたがこれか
ら進むべき道は、険(けわ)しく、遠い。

 反対に、そうでなければ、そうでない。

●オーストラリアでの経験

 私のオーストラリアの友人に、B君がいる。そのB君と、昔、こんな会話をしたことがある。南
オーストラリア州からビクトリア州へと、車で横断しようとしていたときのことである。私たちは、
州境にある境界までやってきた。

 境界といっても、簡単な標識があるだけである。私は、そのとき、車の中で、サンドイッチか
何かを食べていた。

B君「ヒロシ、そのパンを、あのボックスの中に捨ててこい」
私 「どうしてだ。まだ、食べている」
B君「州から州へと、食べ物を移してはいけないことになっている」
私 「もうすぐ食べ終わる」
B君「いいから捨ててこい」
私 「だれも見ていない」
B君「それは法律違反(イリーガル)だ」と。

 結局、私はB君の押しに負けて、パンを、ボックスの中に捨てることになったが、この例で言
えば、B君は、超自我の人だったということになる。一方、私は自我の人だったということにな
る。

 で、その結果だが、今では、つまりそれから36年を経た今、B君は、私のもっとも信頼のお
ける友人になっている。一方、私は私で、いつもB君を手本として、自分の生き方を決めてき
た。私は、もともと、小ズルイ人間だった。

●信頼関係は、ささいなことから

 私とB君とのエピソードを例にあげるまでもなく、信頼関係というのは、ごく日常的なところか
ら始まる。しかも、ほんのささいなところから、である。

先にあげた(テスト)の内容を反復するなら、(1)横断歩道でも、左右に車がいなくても、信号が
青になるまで、そこで立って待つ、(2)駐車場に駐車する場所がないときは、空くまで、じっと待
つ、(3)シルバーシートには、絶対、すわらない、(4)ゴミや空き缶などは、決められた場所以
外には、絶対に捨てない、(5)サイフは拾っても、中身を見ないで、交番や、関係者(駅員、店
員)に届ける。そういうところから、始まる。

 そうしたことの積み重ねが、やがてその人の(人格)となって形成されていく。そしてそれが熟
成されたとき、その人は、信頼に足る人となり、また人から信頼されるようになる。

 先のB君のことだが、最近、こんなことがあった。ここ数年、たてつづけに日本へ来ている
が、車を運転するときは、いつもノロノロ運転。「もっと速く走っていい」と私が促すと、B君は、
いつも、こう言う。

 「ヒロシ、ここは40キロ制限だ」「ここは50キロ制限だ」と。

 さらに横断歩道の停止線の前では、10〜20センチの誤差で、ピッタリと車を止める。「日本
では、そこまで厳格に守る人はいない」と私が言うと、B君は、「日本人は、どうして、そうまでロ
ジカルではないのだ」と、逆に反論してきた。

 「ロジカル」というのは、日本では「論理的」と訳すが、正確には「倫理規範的」ということか
(?)。

 しかしこうした経験を通して、私は、あらゆる面で、ますますB君を信頼するようになった。

●夫婦の信頼関係

 夫婦の信頼関係も、同じようにして築かれる。そして長い時間をかけて、熟成される。しかし
その(はじまり)は、ごく日常的な、ささいなことで始まる。

 ウソをつかない。約束を守る。相手に心配をかけない。相手を不安にさせない。こうした日々
の積み重ねが、週となり月となる。そしてそれが年を重ねて、やがて、夫婦の信頼関係となっ
て、熟成される。

 もちろんその道は、決して、一本道ではない。

 ときには、わき道にそれることもあるだろう。迷うこともあるだろう。浮気がいけないとか、不
倫がいけないとか、そういうふうに決めてかかってはいけない。大切なことは、仮にそういう関
係をだれかともったとしても、その後味の悪さに、苦しむことだ。

 その苦しみが強ければ強いほど、「一度で、こりごり」ということになる。実際、私の友人の中
には、そうした経験した人が、何人かいる。が、それこそ、(学習)。人は、その学習を通して、
より賢くなっていく。

●では、どうするか?

 そこでもし、あなたの夫(妻)が、その(信頼に足る人ではない)というばあいは、どうしたらい
いかということになる。

 とくに、一度、裏切られた経験をもつ妻(夫)なら、そうであろう。が、このばあいでも、あなた
の夫(妻)をつくるのは、あなた自身だということ。それを忘れてはいけない。仮にあなたの夫
(妻)が、フロイトが言うところの「エスの強い人」であるなら、長い時間をかけて、あなたの夫
(妻)を、「超自我の強い人」に、改変していく。

 方法は簡単。あなたという妻(夫)が、その手本を見せればよい。たとえば2人で横断報道に
さしかかったとき、あなたの夫(妻)が、「だれもしないから、信号を無視して渡ろう」と言っても、
あなたはがんとして、それを拒(こば)めばよい。

 駐車場に空きがないとき、あなたの夫(妻)が、「あそこに空き地があるから、あそこに止めよ
う」と言っても、あなたはがんとして、「あそこは駐車場ではないから、だめ」と、それを拒めばよ
い。

 そうした積み重ねが、あなたの人格をつくり、やがてその人格が、あなたの夫(妻)を動かす。
あなたを、あなたの夫(妻)が認めるようになったとき、あなたの夫(妻)も、わなたという妻(夫)
にふさわしい夫(妻)になる。もしあなたの夫(妻)があなたを裏切るようなことがあれば、あなた
の夫(妻)は、あなたというより、あなたの誠実さを裏切った後悔の念で、苦しむはず。

 B君が、私を感化したのと同じような現象が起きるはず。

●北海道のKHさんへ

 夫婦の信頼関係について考えてみました。

 夫の不倫に悩んでおられる様子がよくわかります。しかしここで重要なことは、「だから信頼
関係が保てなくなった」と、自分の気持ちを投げ捨てることではなく、今の状態を、乗り越えるこ
とによって、さらに前に進むことです。

 あの親鸞(しんらん)も、『回向(えこう)論』の中で、こう言っています。

『(善人は浄土へ行ける。)いわんや悪人をや』と。

 この言葉を、今の状況に当てはめて考えてみると、こうなります。

 つまりですね、たがいに誠実な夫婦が、よい信頼関係を築けるのは当然のことではないか。
しかしそうでない夫婦こそ、それに気がついたとき、さらによい信頼関係が築けるもの、と。

 あなたの誠実さに触れたとき、あなたの夫は、自分のしてきた行為に、心底恥じることになる
でしょう。苦しむのです。そしてその苦しみが、さらにたがいに深い、夫婦の絆(BOND)をつく
る基礎になるのです。

 要は、あなたにそれを許す、度量があるかどうかという問題になります。そしてあなたが言っ
ているように、「別れることもできない」というのであれば、ここはサッパリとあきらめて、つまり
ジクジクものを考えないで、ここに書いたようなことを実践してみては、どうでしょうか。

 あなたの夫にではなく、あなた自身に、負けてはだめですよ!!!
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 夫婦
の信頼 夫婦の信頼関係 夫婦の問題 不倫 浮気 はやし浩司 自我の人 超自我の人 
エスの人)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1225)

【雑感・あれこれ】

●日韓問題

 日韓問題が、こじれてきた。日本が竹島周辺を海洋調査すると言ったことに対して、韓国側
は、「もししたら、(調査船を)拿捕する」とか、「竹島を強制占拠する」とか、言い出した。

 どうしてこうまで韓国政府は、エキセントリック(過激)なのだろう? 日本に対して過去のうら
みはあるにせよ、(それはわかるが)、わざわざそれを、自ら増幅させている。ものの考え方
が、被害妄想的というか、すべてうしろ向き。

 日本政府は、海洋調査を決行するつもりらしいが、ならばそれ相当の覚悟もしなければなら
ない。つまりその覚悟はできているのか? 小さな島を取りあって戦争というのもバカげている
が、(日本人なら、そう考えるが……)、しかし韓国にとっては、そうではない。韓国は、国の威
信をかけて、戦争をしかけてくるだろう。

 支持率がますます低下する、韓国のN政権。反日運動は、まさにその支持率をあげるための
切り札となっている。韓国政府が、エキセントリックになる背景には、そんな裏事情も隠されて
いる。
(06年4月19日記)


●こわい架空請求

 昨夜、架空請求のテレビ報道番組を見た。久々に見た、よい番組だった。取材班が、数か月
にわたって、追跡調査したという。

 その番組を見て、改めて、架空請求の恐ろしさというか、巧妙さに驚く。と、同時に、「絶対
に、スパム・メールやスケベ・サイトを開かないぞ」という思いを強くする。

 で、このところ多いのが、楽●日記への、トラックバック。今のところ、100%、スケベ・サイト
からのもの。となると、トラックバックとは何か? BLOGとは何か?、ということになってしま
う。

 要するに、「身に覚えのない状態」にしておくということ。身に覚えがあるから、こうした架空請
求にひかかってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

【コンパクトな生活?】

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人は老人になればなるほど、
コンパクトな生活をめざすべきと、
ある人が言った。

そのときは、「なるほど」と、
納得した。

しかし、……
コンパクトな生活だと!
何が、コンパクトな生活だ!
バカ言うな! 

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●コンパクトな生活

 10年ほど前、ある知人が、私にこう言った。「林君、人はね、老人になればなるほど、コンパ
クトな生活をめざすべきだよ」と。

 彼が言う「コンパクトな」というのは、「こじんまりとした」という意味である。そのとき彼は、あと
数年で、60歳の定年退職を迎えようとしていた。

 そしてまた最近、別の知人がこう言った。何でも、その知人は、何かの講演会に行って、同じ
ような話を聞いてきたらしい。

 「ぼくは、その講演会を聞いて、感動したよ。すばらしい講演会だった。つまりね、人はね、老
齢に近づいたら、身辺を整理して、生活をコンパクトにしなければいけない。生活空間を小さく
して、支出を抑える。健康を大切にして、できるだけ長生きをすることを考える」と。

 ……というわけで、最近、「コンパクト」という言葉を、よく耳にするようになった。

●それが理想の姿なのか?

 私の周辺には、そのコンパクトな生活を実践している老人が、何人かいる。「何人か」というよ
り、ほとんどが、そうである。

 毎日、近くの空き地へやってきて、何かをするでもなし、しないでもなしといったふうに、一日
を過ごしている老人。一日中、部屋にこもって、趣味三昧の老人。同じく一日中、庭いじりをし
ている老人などなど。

 見るからに、質素な生活をしている。静かな生活をしている。が、あるとき、私は、疑問に思っ
た。「果たして、それでいいのか?」と。つまり、それが老人の生き方として、あるべき、理想の
姿なのか、と。

 答は、やがて、「NO!」に傾いてきた。

●老人風生活

 実は、私も、そうした考え方に、少なからず、影響を受けた。体力や気力の衰えを感じ始めて
いたこともある。それに合わせて、そのころ、収入も、減少し始めていた。

 で、コンパクトな生活とは、何か、それを模索するようになった。

 常識的な考え方としては、(1)生活範囲を狭くする、(2)交際範囲を限定する、(3)支出を抑
え、質素な生活を旨とする、(4)無理をしない、(5)野心を捨て、(6)健康を大切にする、など
がある。

 で、冒頭に書いた知人などは、定年退職する少し前、自宅と自宅周辺にもっていた土地を売
り払い、郊外に、小さな家を建て、そこへ移り住んでしまった。つぎの知人は、反対に、市内に
小さなマンションを買い、そこへ移り住んでしまった。「そのほうが、便利だから」というのが、そ
の理由である。

●まだまだ現役

 ところで、最近、私の心境は、大きく変化しつつある。コンパクトな生活を目ざしたくても、それ
ができない状況に追いこまれてしまった。

 第一に、頭のボケた兄の介護費用の問題がある。現在、兄は、グループ・ホームに入居し
て、それなりに優雅な生活を送っている。しかしグループ・ホームでは、それなりの費用がかか
る。「都会へ大学生を送ったのと同じくらいの費用がかかる」とよく言われるが、それくらいは、
かかる。

 つぎに長男が、「もう一度、専門学校へ入って、勉強したい」と言いだした。そうするように勧
めたのは、私だが、今年から、ともかくも、その専門学校へ通うようになった。その費用も、まさ
に「大学生」なみにかかる。

 実のところ、私も、それまでは、心のどこかで引退を考えていた。「できるだけ長く働こう」とは
思ってはいたが、何をするにも、どこか遠慮がち。ものを買うときですら、「あと何年もてばい
い」というような考え方をするようになっていた。

 が、それが許されない状況になってきた。とたん、闘志が、モリモリとわきあがってきた。

●生きることを消耗しているだけ

 年齢を意識して生活することぐらい、バカげたことはない。たとえばこの日本では、「長生きを
したほうが勝ち」という、おかしな風潮すらある。そういう考え方をしている老人は、多い。

 しかし長生きをしたからといって、それがどうだというのか。先にも書いたが、それがあるべき
老人の姿なのか。理想の姿なのか。「3年、よけいに長生きすれば、息子夫婦に、家を建てて
やれる」と言った老人もいた。3年分の年金で、新築の家が買えるというのだ。

 それはそれで結構なことだが、しかしその人自身は、それでよいのか。……と考えていくと、
こうした生き方は、(果たして、それを「生き方」と言ってよいかどうか、わからないが……)、む
しろ生きるということに対して、背を向けた生き方ということに気づく。

 つまり生きているのではなく、生きていることを、日々に、消耗しているだけ。

●今は、今しかない

 重要なことは、前向きに生きること。「前向きに生きる」というのは、攻撃的かつ積極的に生き
るということ。もう少しわかりやすく言うと、「今日できることは、今日する」「今できることは、今
する」ということになる。

 「明日はない」と思う。今、あるのは、「今」だけ。「今」は今しかない。そう考えて行動する。つ
まりそういう生き方を目ざしていくと、やがて自分から、年齢的な思考性が消えていくのがわか
る。その「今」に、年齢など、関係ない。

 たとえば昨夜も、こんなことがあった。

 仕事を終えて家に帰ると、もう夜の8時半になっていた。それから夕食を食べ、一息ついたこ
ろ、ワイフが、ビーズの話をした。「真珠のビーズが足りない……」と。このところ、私たちは、ビ
ーズに凝(こ)っている。

 そこで私が、「じゃあ、これから、そのビーズを買いにいこう」と声をかけると、ワイフは、こう
言った。「これからア?」と。「まだ、間にあう。買いに行こう」と。

 ……ということで、私たちは、そのビーズを、買いに行った。

●今を生きる喜び

 「明日があるから、明日に回す」というのは、うしろ向きな生き方ということになる。つまりほと
んどの老人たちは、ものごとを先送りすることによって、今を消耗する。無益に消耗する。そし
てそれを正当化するために、回りまわって、「コンパクト」という言葉を使う。

 もしそのとき、「(ビーズを買いにいくのは)、またでいいや」とか、「今度、その近くへ行ったと
きでいいや」と思ったとしたら、うしろ向きな生き方ということになる。そしてほとんどの老人たち
がするように、コタツに入って、そのまま寝そべってしまったとしたら、それも、うしろ向きな生き
方ということになる。

 が、「明日はない」と思って行動したら、どうなるだろうか。いや、明日など、意識するほうがお
かしい。明日は明日で、必ず、やってくる。明日がやってきたら、そのときは、そのときで、また
別に考えればよい。別に行動すればよい。

 ビーズを買って家に向こうとき、私が、「何でも、今できることは、今しよう」とワイフに声をか
けると、ワイフは、こう言った。「あなたといると、疲れるわ」と。それはそうかもしれないが、そ
の(疲れ)こそが、今を生きる人間に与えられる勲章のようなもの。その(疲れ)が、(生きる喜
び)となって、すぐかえってくる。

●コンパクトな生活?

 年を取ったからといって、何も、コンパクトな生き方をする必要などない。人は、死ぬまで、生
きる。それが明日、死ぬことになろうとも、そのときまで生きる。

 その生きることに遠慮してはいけない。年齢など、毛頭、考える必要はない。

 もし私やあなたが健康で、したいことができるなら、今、それをすればよい。私の知人の中に
は、60歳を過ぎて、新しい幼稚園を設立しようとがんばっている人がいる。すでに関東から静
岡県にかけて、5、6園の幼稚園をもっている。

 別の知人は、88歳を過ぎて、自宅の庭の端に、総杉の木づくりの離れの部屋を建てた。さら
にまた別の知人は、このあたりの自治会長を数期務めたあと、とうとう公民館の新築をなしと
げた。年齢は聞いていないが、もう70歳を過ぎているのではないか。

 そういうすばらしい老人たちがいる。あなたの周囲にも、そういう老人たちがいるはず。つまり
手本とすべき老人というのは、そういう人たちをいう。

 コンパクトな生活! そんな生活を目ざしてはいけない。反対に、そういう生活を目ざしている
老人たちを見てみることだ。小市民的で、つまらない。自分勝手で、自己中心的。そういう生活
をしている老人を、決して、手本としてはいけない。

 そこで、あえてもう一度、繰りかえす。コンパクトな生活? そんな生活など、クソ食らえ!

●生きる原点に!

 若いころは、何かの歌の歌詞にもあったように、「♪何もこわくなかった」。しかし今は、ちが
う。ふと気がつくと、まわりは、こわいものだらけ。しかしそれは、おかしい。仮にそうであるとし
ても、どうして、それをこわがらなければならないのか?

 メンツや世間体にこだわる必要はない。先週も、ある人たちと会食をしながら、こんな話をし
た。

 私が浜松に来たころのこと。私には、収入がなかった。そこで私は小さな張り紙を作って、そ
れをワイフと2人で、電柱に張りつけて回った。「翻訳します」という張り紙である。

 そのおかげで、私は、いくつかの会社の翻訳の仕事を、専属的にできるようになった。

 で、その話をしながら、「今の若い人たちに、それができますかねえ?」と声をかけると、ある
小学校で教頭をしているその男性は、こう言った。「できないでしょうね」と。ついで、「私もでき
ません」と。

 しかし、なぜ、できないのか? つまりそこに(こわさ)があるからではないのか?

 が、生きることに、制約はない。メンツも世間体もない。若いころの「今」も今なら、今の「今」
も、今。その「今」をこわがる必要はない。むしろたとえば定年退職前の肩書きや地位にこだわ
って、その「今」をこわがるほうが、おかしい。中には、定年退職してから20年近くもなるという
のに、退職前の肩書きにこだわって、いばり散らしている人もいる。

 それが生きていくために必要なことなら、電柱に張り紙でも何でもして、仕事を取ってくればい
い。電柱に張り紙をするにが違法なら、別の方法を考えればよい。それが生きるということであ
り、生きることの原点は、そういうところにある。

 昨夜、家に帰ってから、私は、ワイフにこう言った。「死ぬことなど、もう考えない。死ぬまで、
ぼくは、生きるよ」と。
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 今を
生きる 生きる原点)

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数年間に書いた原稿を、2作
ここに添付します。

中日新聞、金沢学生新聞に発表
した原稿です。

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●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。

こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう
愚かな生き方そのものと言ってもよい。いつまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分
のものにすることができない。あるいは社会へ出てからも、そういう生き方が基本になっている
から、結局は自分の人生を無駄にしてしまう。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わってい
た……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。

この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて疲れる』という生き方の、正反対の位置にあ
る。これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなた
の周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来
などというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の
中で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。子どもたちとて同じ。子どもたちに
はすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子ども時代は子ども時代として、精一
杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないのか。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。

ごくふつうの日常会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違
いを感ずる。その違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからない
のではないか……と、私は心配する。

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●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。価値があるかないかの判断は、あとからすればよい。
生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意
味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもっ
て言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの「ヘアー」を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪その人はどこにいる。私
たちがなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、それを教えてくれる人はどこにいる」と。

それから30年。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではな
いが、トルストイの「戦争と平和」の中に、私はその答えのヒントを見いだした。生のむなしさを
感ずるあまり、現実から逃避し、結局は減びるアンドレイ公爵。一方、人生の目的は生きること
そのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエール。そのピエール
はこう言う。

「(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進むこと。生きること」(第五編四
節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画「フォレスト・ガンプ」の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ」
と。

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、
そのあと喜びの歓声と悲しみの悲鳴が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命に
生きるからこそ、人生は意味をもつ。生きる価値がある。

言いかえると、そうでない人に、生きる意味などわからない。情熱も熱意もない。夢も希望もな
い。毎日、ただ流されるまま、その日その日を無難に過ごしている人には、生きる意味などわ
からない。さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われ
たとき、私たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生き様でしか
ない。

あの高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほうばりながら、適当に試合をしていた
ら、高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら
繰り返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は、何も生まれ
ない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1225)

●子どものことは、子どもに聞く

++++++++++++++++

子どもの教育で、わからなかったことが
あったら、子どもに聞けばよい。

子どものことは、子どもに聞く。
それが子どもの教育の大鉄則でもある。

++++++++++++++++

 人間といえども、自然の一部でしかない。そんなことは、当然のことではないか。だから自然
学者が、何か、わからかないことがあったとき、自然にたいして、直接、問いかけるように、子
どものことで、何か、わからないことがあったら、直接、子どもに問いかければよい。

 あのダーウィンも、ファーブルも、自然にたいして、直接、問いかけた。そして今に残る業績を
あげた。

 私が嫌いのは、子どもを直接、教えたこともないような学者たちが、研究室の奥で積み重ね
たような教育論である。そうした教育論は、読めば、すぐわかる。先日も、こんな教育論を目に
した。

 最近の子どもたちの「荒れ」についての意見だが、こうあった。「社会の変革期における過渡
期的な現象である。子どもたちは、学校に反抗することで、社会の変革を促している」と。日本
でも有名な評論家の意見である。

 しかし一読して、「?」。子どもたちが、そんな高邁(こうまい)な意識をもって、(あるいは無意
識でもよいが)、行動しているとは、とうてい考えられない。またそんな視点からでは、いくら考
えても、問題は、解決しない。

 「荒れ」の問題は、……というのを書くのが、ここでの目的ではないので、省略するが、こうし
た例は、多い。

 ほかにも、たとえば、不登校について、ある学者は、こう述べている。

 「不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)無気
力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられている。

 またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている」
(「日本K新聞」より、原文のまま)と。

 こうした分類をしたところで、どれほどの意味があるというのか。問題の解決に役立つのか。
不登校児をもって苦しんでいる親の立場で、ものを考えてみればよい。もしその親に向かっ
て、だれかがこう言ったとする。

 「あなたの子どもの不登校は、学校生活起因型です。原因は部活動の不適応が原因です」
と。

 多分、その親は、こう叫ぶにちがいない。「そんなことは、わかりきったことではないか!」「今
さら、そんな説明などしてもらわなくて、結構!」と。

 だからといってもちろん、研究としての学問を否定しているのではない。しかしその一方で、
子どもを忘れた教育など、いくら考えても意味がない。もうひとつ、こんな例もある。

 児童向けの英語教育が話題になり始めたころのこと。どこかの学者が、「シャワー方式」なる
名前の英語教育法を考えた。シャワー方式というのは、わかってもわからなくても、子どもの耳
に向かって、英語を録音したテープを聞かせつづけるというものである。

 つまりシャワーのように、子どもに英語を流しつづけるから、「シャワー方式」という。

 そこである雑誌社が、その方式を応用して、学習用テープを作った。が、これほど、子どもた
ちに不人気の教材はなかった。つまり、まったく売れなかった。

 これも考えてみれば、当然。

 もしあなたにそれがわからなければ、BS放送か何かで、ドイツ語の番組を見てみればよい。
ビデオでもよい。あなたは、10分もたたないうちに、イライラしてくるはず。そしてすぐ、あなた
はこう言うだろう。「もう、やめてくれ!」と。

 ついでに言うなら、言葉というのは、実際、使ってみてはじめて身につく。毎日、ドイツ語の放
送を聞いたからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。

 ……などなど。私も子どものことでわからないことがあったときは、まず、子どもの顔を見る。
そして子ども自身に問いかける。すべてはそこから始まり、そこで終わる。子どもを忘れた教育
には、意味がない。そう断言するのは危険なことかもしれないが、それほどまちがってはいな
いと思う。で、もし教育論なるものがあるとするなら、その教育論なるものは、そのあとについて
やってくる。決して、子どもの先を行くものではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
論)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●受験競争国家

+++++++++++++++

韓国の経済ニュースを見ていると、
順位を表す数字が、毎日、ズラリ
と並ぶ。

はげしい受験を通り抜けた人たち
の、ものの発想法が、こんなとこ
ろにも凝縮されている。

が、どうもそれだけではないようだ……

+++++++++++++++

たとえば今日(4月20日)も、こんな記事が出ている。
「現代車は『08年には北京現代車が中国の自動車業界第2位に跳躍するだろう』とした。 
現在、北京現代車は上海GM(ジェネラルモーターズ)、上海フォルクスワーゲンに続き、中国
内販売量第4位にランク付けられている」(東A日報)と。

韓国という国は、順位にこだわる。何かにつけて、順位、順位、また順位。以前、私は、そうし
た風潮は、それまでのはげしい受験戦争によってもたらされるものと考えてよいのでは、という
内容のエッセーを書いた。が、その風潮は弱まるどころか、このところ、経済面で自信をつけて
きたのか、さらにはげしくなったように感ずる。

 日本のことがよほど気になるらしい。とくに日本を意識した順位には、強いこだわりを見せ
る。ことあるごとに、「日本は、xx位、韓国は、yy位」と。「日本にできることは、韓国にできない
はずはない」「韓国が日本に負けるはずはない」と。強い自負心もある。しかしどうもそれだけ
ではないようだ。それ以上に強く影響しているのが、儒教文明(?)。

 簡単に言えば、体裁、メンツ、世間体を気にする。同族意識が強く、上下関係がきびしい。

 一方、気にされる側の日本にしてみれば、それがうるさくてたまらない。あえて言うなら、スト
ーカーにつきまとわれているような気分(?)。ときどき、「またか!」と思ってしまう。あるいは
「日本のことは、もう放っておいてくれ。自分の幸福を勝手に追求したら」と言いたくなってしま
う。

 ……ということで、みなさんも、韓国のニュースを読むときは、一度、そんな目で見てみたらど
うだろうか。国中が、受験戦争をしている感じ。ホント!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●仮面をはずし忘れた人

++++++++++++++

さも善人ですといった様子をしてみせる。
さも私はできた人間ですといった様子をしてみせる。

だれかが話しかけたりすると、
さも私は何でも知っていますといった様子をしてみせる。

苦労人であることを、ことさら強調することもある。

++++++++++++++

 心理学の世界には、仮面(ペルソナ)という言葉がある。仮面というのは、まさに仮面。その
仮面をかぶるようになる経緯については、人さまざまだが、だれしも、そのときどきにおいて、
ある程度の仮面は、かぶる。商人は商人の仮面、教師は教師の仮面などなど。

 しかし中には、仮面をかぶりながら、その仮面をはずし忘れてしまう人がいる。善人のフリを
しつづけるうちに、仮面のほうを、本当の自分だと思いこんでしまう。実は、今日も、そのタイプ
の人を見かけた。

 レストランで昼食をとっているときのこと。私のななめ前に、60歳くらいの女性が2人、すわっ
ていた。そのうちの1人がそうだった。

 その女性を(女性A)としておく。もう1人の女性を、(女性B)としておく。その女性Aだが、始
終、にこやかな笑みを絶やさず、「そうです」「そうです」といった感じで、女性Bの言うことに、そ
のつど、うなずいていた。

 女性Aは、さも私は善人です、さも私はよくできた人間です、といった様子をしてみせていた。
しかしその笑みが不自然。不気味。どこかのカルト教団の信者がよくしてみせる笑みに似てい
た。

 が、その女性が、瞬間だが、鋭い目つきをしたときがあった。女性Bが先に席を立ち、バッグ
からサイフを取り出そうとしたときのこと。女性Aは女性Bのサイフを見た。恐ろしいほど、冷た
い視線だった。それまでの穏やかな視線とは、まったく異質の視線だった。私は、ワイフに小
声でこう言った。

 「いいか、お金を払うのは、あの背の高いほうの女性(=女性B)のほうだよ。よく見ていてご
らん」と。

 2人の女性は支払いをすますカウンターの前に立った。で、私が予想したとおり、女性Bのほ
うが代金を支払った。で、女性Aのほうはというと、1、2歩退いたところに立ち、やはり穏やか
な表情のまま、黙って、それを見ていた。

 「どうしてあなたには、それがわかったの?」とワイフが聞いた。私は、理由を説明した。

 「人が、仮面をかぶるのには、それなりの理由があるからさ。あの2人のばあいは、背の低い
ほうの女性(=女性A)が、自分の中の邪悪な依存性をごまかすために、仮面をかぶってい
た。わかりやすく言えば、最初から、あの背の高いほうの女性(=女性B)に、代金を払わせる
つもりでいた。ぼくには、それがわかった」と。

 おそらく、……というより、まちがいなく、女性Bは、女性Aのことを、人間味のある、よくでき
た、すばらしい人と思っているにちがいない。つまりそういうふうに思われるように、女性Aは、
仮面をかぶっていた。演じるという意識もないまま、演じていた。

私「だいたいね、ああいう笑みには、気をつけたほうがいい。ニコニコというよりは、ニンマリと
いった感じだね。どこか不自然。不気味」
ワ「本当に苦労した人の笑みとは、ちがうということ?」
私「そうだよ。ぼくは、あの背の低いほうの女性(=女性A)が見せた、鋭い視線を見落とさなか
ったよ。あれが仮面の下にある、あの女性の本当の顔だろうね」と。

 仮面をかぶるのは、しかたのないこと。しかしその仮面をはずし忘れてはいけない。はずし忘
れると、どの顔が、本当の自分の顔なのか、わからなくなってしまう。そういう人は、いくらでも
いる。とくに宗教を利用して、地位や名声を得ているような人に、このタイプの人が多い。さも、
私は、仏様(あるいは神様)の化身でございますといったような様子をして見せる。

 名前は出せないが、日本でも有名な女性にもいる。派手な慈善事業をしてみせたり、みなの
前で、説法をしてみせたりする。

 しかしほんの少しだけ、人を見る目を養えば、このタイプの人は、すぐ見抜ける。言うまでもな
く、どこか不自然。心の底からにじみ出てくるような、深い人間味がない。その不自然さを感じ
たら、それは仮面と考えてよい。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1226)

【時には母のない子のように】

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寺山修司は、こう歌う。

♪時には母のない子のように
 だまって海を見つめていたい……
  
+++++++++++++++++++

寺山修司は、こう歌う。

  ♪時には母のない子のように
   だまって海を見つめていたい
   時には母のない子のように
   ひとりで旅に出たい
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
  
  ♪時には母のない子のように
   長い手紙を書いてみたい
   時には母のない子のように
   大きな声で叫んでみたい
   だけど心はすぐ変わる
   母のない子になったなら
   だれにも愛を話せない

   hu hu hu……

 その寺山修司だが、たいへんな母親をもっていたそうだ。その母を知る人は、みな、異口同
音に、こう言う。「寺山修司の母親は、こわい人だった」と。俳優のM氏もその1人で、NHKの
テレビ番組の中で、そういう趣旨の発言をしている(06年4月19日)。その番組の中には、「鬼
ババ」という文字さえ、かいま見えたように記憶している。

 寺山修司という人は、母親の虜(とりこ)になりながら、その呪縛から逃れ出ることができず、
かなり苦しんだ人らしい(同番組、M氏談話)。そうした思いが、この「時には母のない子のよう
に」という歌詞の中に、表現されているという。

 改めて、その歌詞を検証してみる。この歌は、私が大学3年だったか、4年のときに、大ヒット
した歌である。どこかさみしげな、それでいて、どこか退廃的な感じのする歌だった。

 で、寺山修司は、「♪時には母のない子のように……」と歌い、そのあと2番で、こうつづけ
る。「♪大きな声で叫んでみたい」と。

 しかし家族、なかんずく母子の間で形成される、「自我群」は、そんな甘いものではない。本能
に近い部分にまで、それは刷りこまれる。ふつうの人間関係ではない。だから寺山修司は、こ
う歌う。

 「♪だけど心はすぐ変わる」と。

 つまり母からの呪縛から逃れたい。しかしそう思ったとたん、自分は、その母に引き戻されて
しまう、と。実際、寺山修司の母親は、「ものすごい女性」(同、テレビ番組)だったようだ。

 嫁が気に食わないという理由で、寺山修司の結婚式には列席しなかったという。また寺山修
司の死後は、青森県に自宅に、寺山修司の記念館まで用意したという。生涯にわたって、寺山
修司の母親は、寺山修司の上に君臨していた(?)。

 で、問題は、この歌の歌詞の、最後の部分。「♪母のない子になったなら、だれにも愛を話せ
ない」という部分である。

 いろいろな解釈ができるのだろうが、私はこう解釈する。つまり、母にすら愛を拒否されてし
まったら、もう自分は、だれも信じられない人間になってしまう。もしそういう人間になってしまっ
たら、もうだれも、愛せなくなってしまう、と。

 そういう例は、実際に、多い。よく知られた例としては、虐待児がいる。実の母親に虐待され
つづけた子どもである。

 そういう子どもでも、児童相談所などに保護されると、「ママのところに帰りたい」と泣き叫ぶと
いう。保護されること自体を、「罰」と誤解する子どももいる。そこで相談所の相談員が、「また
ひどいめにあうのだよ」と説得すると、ある子ども(小学生)は、こう言ったという。

 「今度は、ちゃんと、いい子になるから、家に帰して」と。

 悲しき子どもの心である。その子どもにしてみれば、どんなひどい母親でも、母親。たった1
人の母親。そんな母親を、自ら否定してしまえば、その子どもは、心のより所をなくしてしまう。
そういう例も、ないわけではない。

 実の母親に30年以上にわたって、裏切られ、だまされつづけた男性(50歳)がいる。どう裏
切られ、だまされつづけたかは別として、その男性は、こう言う。

 「母親すらも信じられないというのはですね、もう、だれも信じられないということになるのです
ね。とくに、女性は、ね。が、それではすみません。だれも信じられないということは、それ自
体、たいへん孤独なことです」と。

 その男性は、結婚して、25年近くになるが、いまだに自分の妻すら、信じられないという。そ
の男性にとっても不幸なことだが、妻にとっても、不幸なことと考えてよい。

 だから寺山修司は、歌詞の1番と2番を、こう結ぶ。

 「♪母のない子になったなら、だれにも愛を話せない」と。

 その番組の最後の部分で、寺山修司の母親が、インタビューに答えて、こう言っていた。レポ
ーターが、「寺山修司がなくなって、どういうふうに思っておられますか」というようなことを聞い
たときのこと。母親はこう言った。

 「なくなってはいません。ここに、いないだけです」と。

 その寺山修司は、昭和58(1983)年5月、47歳の若さで、肝硬変で死んでいる。それを察
した寺山修司は、生前、「墓は建ててほしくない。私の墓は、私の言葉であれば、充分」と言い
残している。

 しかしその墓を、寺山修司の母が、八王子市の高尾霊園に建てた。そしてそのあと死んだ母
親も、その墓に入った。生涯にわたって母親の呪縛に苦しんだ寺山修司は、死んでからも、墓
の中で、母親の呪縛に苦しんでいるのかもしれない。
(はやし浩司 寺山修司 (はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子
育て はやし浩司 母子論 母と子)

++++++++++++++++++

母親は、母親であることをよいことに、
決してその立場に甘えてはいけない。

時として、母親は、生涯にわたって、
子どもを苦しめつづける存在ともなりえる。

さらに、母親といえども、いつか子どもに、
人間として評価されるときが、やってくる。

たとえ子どもにされなくても、後の世の
人々によって、評価されるときが、やってくる。

そうした視点で書いたのが、つぎの原稿です。
数年前に書いた原稿です。

++++++++++++++++++

【野口英世の母親】

●母シカの手紙

 2004年に新1000円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そうい
う人物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こんな手紙
を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつくるトおせ
てくたされ わてもねむられません」(1912年(明治45年)1月23日)(福島県耶麻郡猪苗代
町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を思
う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開発課パ
ンフ)というのが、おおかたの見方である。母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、こころぼそく
ありまする。どうかはやくかえってくだされ……かえってくだされ」と懇願している。

 これに対して、野口英世は、1912年2月22日に返事を書いている。「シカの家の窮状や帰
国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本やアメリカを
代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決することなどを切々と書い
ています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)ということだそうだ。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、手紙
を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するものであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、すぐに
は帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、親が子ども
に、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよ
い。あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々と、家の窮状を
訴え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこんな手紙を手にしたら、あ
なたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくなってしまうかもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでやった」
「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んでもらった」「育て
てもらった」と、恩を着せられる。

たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。そういう子育てを評して、あるア
メリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存心をもたせることに無頓着な民
族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えてくださ
い。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきてください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未熟な
親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か何かで伏せ
っていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。事実、野口英世記
念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、いっしょに写っている母
シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ちがにじ
み出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、私も昔、学生
のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。しかし今、自分が親になってみる
と、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書いておく。

●私のこと

 私は23、4歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今のワイフと
いっしょに生活するようになったころも、毎月3万円の仕送りを欠かしたことがない。大卒の初
任給が6〜7万円という時代だった。が、それだけではない。

母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取っていった。長男が生まれたと
きも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で20万円近くをもって帰った。母
にしてみれば、それは子どもとしての当然の行為だった。(だからといって、母を責めているの
ではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれに命令されるわけで
もなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が27歳ごろのときから、実家での
法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。土地柄、そういう
行事だけは、派手にする。たいていは近所の料亭を借りきってする。その額が、20〜30万
円。そのたびに、私は貯金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これについては
また別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感というよりは、社会的
重圧感に、いやというほど、苦しめられた。「子どもは親のめんどうをみるのは当たり前」「子ど
もは先祖を供養するのは当たり前」「親は絶対」「親に心配かける子どもは、親不孝者」などな
ど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はその重圧
感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方をしていた。

「あそこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡さなか
った」
「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。それ
は、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が感じ
た重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定するのか」とか
言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。しかしこれは誤
解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手紙を
読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、思えな
い。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。そこでもう一
度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころより
もはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカは、「子ど
もが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思っていたに違い
ない。だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろ
う。

文字の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理解できな
かったかもしれない。一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが親のめん
どうをみるのは当たり前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた手紙は、まさに
そうした板ばさみの状態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こうした評論
のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、その母親を
批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。

現に今、その母シカをたたえる団体が存在している。母シカを批判するということは、そうした
人たちの神経を逆なですることにもなる。だからここでは、私は結論として、つぎのようにしか、
書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、帰ってく
るな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝行など考えなくて
もいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。それが無理なら、「元気か?」と様子を聞く
だけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、どんな手紙を書くだろうか。一度母シカの気持
ちになって考えてみてほしい。
(02−8−2)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 野口
英世 英世の母 シカ 野口英世の母親論)

【補記】

 寺山修司の母親が、なぜに、今に言われる母親として評価されるようになってしまったか。

 実は、そのヒントは、寺山修司の母親の、遍歴の中に、あるのではないか。その遍歴を箇条
書きにしてみる(参考、ウィキペディア百科事典)。

(1)寺山修司の生年月日は、実際の生年月日と戸籍上の生年月日が、異なっている。
(2)父親は警察官だった。寺山修司は、母はつの長男として誕生。
(3)9歳のときに、空襲で焼け出され、それまで住んでいた青森市から、現在の三沢市に移
る。父親の兄の経営する食堂の2階に住む。
(4)父親が、セレベス島で戦病死する。
(5)終戦
(6)母親のはつは、米軍のベースキャンプで働く。
(7)寺沢修司、古問中学校に入学。青森市で映画館を経営する母の叔父に預けられ、青森市
内の中学校に転校。
(8)母親は、寺沢修司を青森に残したまま、九州の米軍キャンプに移る。

 私はこの遍歴の中に、なぜ寺山修司が寺山修司になったかという、その謎を解くヒントが隠さ
れているように思う。息子を青森に残したまま、自分は、青森の米軍基地から、九州の米軍基
地に移ったという。女性の、はつが、である。

 それがどういう意味をもつのかは、わかる人にはわかるはず。それについては、もう少し寺
山修司について資料をあつめてから、書いてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1227)

【雑感・あれこれ】

●脳は、使えば、老化しない?

 加齢とともに、脳細胞の数は減少するそうだが、しかし使いつづけている脳細胞については、
何でも複雑なメカニズムが働き、死滅せず、その活動が維持されるそうだ。それを科学的に証
明した学者がいた。数日前、どこかのネット・ニュースで、そんな記事を読んだ。

 反対に、脳細胞は、使わなければ、どんどん死滅していくということらしい。「死滅」というより
は、正確には、その論文によれば、機能を停止するということか。

 ともかくも、脳みそは使わなければならない。しかし考えてみれば、それは当然のことではな
いのか(?)。体の筋肉にしても、使わなければ、どんどんと衰えていく。たとえば同じ50歳の
人でも、足の太ももの筋肉が隆々としている人もいれば、鳥のガラのようになった人もいる。

 そのちがいは、どこから生まれるかといえば、(使うか)、(使わないか)、である。ただ脳みそ
は、外からはわからない。が、それでも、加齢とともに、表情や目つきでそれがわかるようにな
る。脳みそを使いつづけている人は、独特の、キリリとした表情や目つきをしている。そうでな
い人は、どこかトロンとした、しまりのない表情や目つきをしている。

 問題は、どう脳みそを使うか、だ。あるいは、今、どう使っているか、だ。


●隣人との境界争い

 土地がらみの問題で、隣人と、境界争いをすることぐらい、不愉快なものはない。できるなら
隣人とは、そういう問題は、起こしたくない。

 実は、私が今住んでいる土地を買ったときも、そういう問題が、起きた。当時、この土地は、
ちょうど、100坪の土地だった(はず)。それで、それを2つに分けて、その1つを譲ってもらっ
た。

 が、2、3年もしたころのこと。別のことで測量をしてもらったら、全体で、15〜20センチほ
ど、隣の土地が私の土地のほうに、入りこんでいることがわかった。坪数になおすと、2〜3坪
ということになる。坪、11万円で購入した土地だから、約30万円の損をしたことになる。

 しかしそのころには、塀も立ててしまったし、隣人とも仲よく暮らすようになっていた。私は、言
うべきか、言わざるべきかで、かなり悩んだ。で、その結果、「言わないほうがいいだろう」「言
えば、相手も不愉快に思うだろう」ということで、現在に至るまで、そのままになっている。隣人
は隣人で、55坪の土地ということで、業者から購入している。

 こうした土地がらみの問題で、隣人と、境界争いをしている人は多い。土地だけではない。マ
ンションの通路、共有施設などなど。そうした問題で、毎日、不愉快な思いをしている人は多
い。が、国どうしが争うと、へたをすれば、戦争ということになりかねない。今の今も、日本と韓
国は、竹島という小さな島の領有権を争って、険悪な関係になっている。不愉快さも、こうした
問題になると、国際級(?)。

 日本は、かねてから、何度も「国際裁判所で話しあおう」と提案してきている。今回も、最終的
には、国際裁判所への提訴を考えている。が、韓国は、がんとしてそれに応じない。スジ道とし
ては、それが一番妥当だと思うのだが、韓国にも、いろいろ言い分はあるのだろう。それとも韓
国にとっては、何か、つごうの悪いことでもあるのだろうか。そうであるならなおさら、そういうと
ころで、白黒をはっきりつけたほうが、私はよいと思うのだが……。


●マガジンの発行が、遅れ気味

 電子マガジンでは、だいたいいつも、約1か月先の原稿を書いている。5月17日号であれ
ば、4月17日ごろには、発行予約をすますようにしている。

 しかし今日は、5月20日。昨日、やっと5月15日号の発行予約をすませたところ。約1週間
の遅れということになる。

 このところ、いろいろあって、原稿書きをサボっている。率直に言えば、原稿書きより、本業
の幼児教室のほうが、おもしろい。毎日、時間があれば、そのための教材ばかりを作ってい
る。それにこのところ、読者が、ぜんぜん、ふえな〜い。そんなとき、数日前だが、E県のOさん
という方から、励ましのメールをもらった。

 何でも私のマガジンをすべて、別のフォルダーを作って、すべてそこへ保存してくれていると
のこと。うれしかった。で、またまた書く気が、モリモリとわいてきた。

 E県のOさんへ、ありがとうございます!!!!


●金価格の上昇

 若いころ、純金のネックレスを買った。グラム、3000円くらいの時代ではなかったか。当時
の値段で、50数万円だったと思う。

 しかしそのネックレスを身につけたのは、数回のみ。あとは、そのまま財産として(?)、金庫
の中にしまってしまった。

 が、そのあと、金価格は、だらだらと下降の一途。一時は、グラム1000円ほどまでになって
しまった。ネックレスの価値が、3分の1になってしまったことになる。

 が、である。このところの原油価格の上昇と、円安の影響で、その金が、グラム2400円ほど
までに上昇している。もとの値段にもどったわけではないが、先日、以来はじめて、そのネック
レスを手にとって、見た。それまでは、見るのも、いやだった。

 しかし金価格が上昇したことを、喜んでよいのか。それとも悲しむべきなのか。つまり金価格
が上昇したということは、それだけ国際情勢が不安定になったことを意味する。


●パソコンの修理

 長男がイライラしていた。理由を聞くと、パソコンがこわれた、と。

 そこで昨日、3、4時間をかけて、そのパソコンの修理を手伝ってやった。一度、すべてのファ
イルを、別のハードディスクにコピーしたあと、本体を、再セットアップ。(パソコンのメーカーに
よっては、リカバリーともいう。)

 そのあと、OSのアップデート、ウィルスソフトのインストールとアップデート……とつづいた。そ
れで3、4時間もかかってしまった。

最初に、BIOSの設定で、手間取った。パソコンに再セットアップ用のCDを挿入しても、そのC
Dを読みこまない。ハードディスクのほうが、勝手にOSを起動してしまう。

 メーカーは、アメリカのD社のもの。日本製のそれとくらべて、設定画面での操作が、よくわか
らない。不親切。あちこちを、「ON」にしたり、「OFF」にしたりして、やっとのことで、それができ
た。

 こうして考えてみると、パソコンという電気製品は、素人が相手にするのは、まだまだ無理。
今、何とか動いているなら、その状態を保ちながら、だましだまし、使う。それが一番。へたな
冒険主義は、危険。ときには、命取りにさえなりかねない。

 以上、4月22日の朝。午前7時。今朝の雑感でした。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1228)

●速読

++++++++++++++++

速読法という読書法がある。
本や新聞などをななめに読んで、
おおまかな意味を、それで理解してしまう
という方法である。

私も若いころは、得意だった。が、
このところ、かなり力が落ちてきた。

そこでこの速読法を逆手にとって、
速読しやすい文章というものは、
考えられないものだろうか。

++++++++++++++++

 速読法という読書法がある。これは、文章を、ななめに読んで、いわば感覚的にその内容を
理解するという方法である。

 文章というのは、少し訓練すれば、だれでも、かなり速く読めるようになる。私も、若いころ
は、得意だった。とくに週刊誌の記事ような、内容の浅い文章は、すべてを読む必要はない。
小見出しでまず読みたいところをねらう。そしてそのあたりを、サーッと、目でなでるように、3
〜4行ずつ、まとめて読む。

 どうせたいしたことは書いてない(失礼!)。で、その中でも気になる言葉が目についたところ
だけ、その前後を、じっくりと読む。

 そこでこんなことは考えられないだろうか。つまり速読用の文章を、あえて書き手が、それを
意識して書くという方法である。

 おそらく、この方法を考えついたのは、世界でも、私が最初だと思う。まずは、実験をしてみ
よう。

 ここまで書いた文章を、速読用に、書き改めてみる。読者のみなさんは、内容を理解しよう
と、あえて構える必要はない。サーッと、目を通すだけでよい。

********世界初、速読用文章*********

 速読法という読書法。ななめに読む。感覚的に理解。

 少し、訓練、だれでも、できる。私、若いころ、得意。
 とくに週刊誌。全部、読む、必要ない。
 小見出し、選ぶ。気になる言葉、ていねいに、読む。

 速読用の文章、私、考える。世界初。
 実験的。私、速読用の文章、書いてみる。

**************************

 どうだろろうか? 忙しい人は、こうして文章を読めばよい。読み手は、キーワードだけを選
択しながら、読めばよい。であるなら、あえてそういう文章を、書き手の方が用意してもよいの
ではないか。どこか味気ないが、しかし書き手の言わんとしていることが、それで伝われば、文
章としては、役を果たしたことになる。

 この方式で、一文、書いてみる。

**************************

 今日、予定。小雨、肌寒い。ワイフ、「春雨(はるさめ)」と。
 朝、いくつか、仕事、すます。午後、山荘へ。先日、マムシ退治用の、八手(やつで)、買っ
た。これから夏にかけて、マムシ、出る。

 マムシも、毒をもつから、嫌われる。殺される。毒がなければ、平和、共存。国も、また、同
じ。

 イランの核兵器開発。重大問題。アメリカ、核攻撃を計画中、と。おかげで、原油、値上が
り。昨日、75ドル超。夏にかけて、物価、上昇する。

 ハチ、毒ヘビ、注意。山を歩くとき、長靴、必須。素足、厳禁。みなさん、ご注意!

**************************

 未来的には、日本語は、こうなるのではないか。すでにその兆候は見え始めている。文章
も、論文のような文章は別として、頭で考えて読むのではなく、感覚で読む時代に入りつつあ
る。よい例が、若い人たちが携帯電話で交換する、あのメール。文章と言えるような文章では
ないが、しかし、たがいの感覚は、それで伝わる。

 ぼんやりとパソコンの画面をながめていたら、そんなことを考えた。今日は、4月23日、日曜
日。どんよりとした曇天。天気がよければ、近くのガーデンパークへ行くつもりだった。
(はやし浩司 速読 速読用文章 未来の日本語)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1229)

●人間的完成度

++++++++++++++++++

損をすることは、悪いことばかりではない。
「損」が、その人の心を広くする。

反対に、損をしない人とがんばっている人は、
心が狭い(?)。

++++++++++++++++++

 私たちの世代をさして、「両取られの人生」と評する。上からは、親に金を取られ、下からは、
子どもたちに、金を取られる。

私たちの前の世代の人たちは、息子や娘から、お金を取りながら、生計を立てていた。一方、
私たちのつぎの世代の人たちは、20歳になっても、30歳になっても、親のスネをかじって、生
計を立てている。

 だから、両取られ!

 で、そういう私の個人的な人生を振りかえりながら、私は、ふと、こう思う。「損をすることは悪
いことばかりではない。その『損』が、その人の心を広くする」と。

 話は少しそれるが、たとえば何かのことで、人にだまされたとき、だまされたほうの人間は、
おおまかに言えば、つぎの2つのうちの、1つの道を選ぶ。

(1)だまされたことを、受け入れる。
(2)だまされた分だけ、復讐する。

 「受け入れる」というのは、「自分はバカだった」とあきらめることをいう。「復讐する」というの
は、今度は、自分がだます側に立ち、だれかをだますことを考えることをいう。

 この2つは、いわば極端なケースで、もちろんその間のケースもある。また同じ人でも、ケー
ス・バイ・ケースということも、ある。

そのだまされるということには、いつも、「損」がともなう。その損については、金銭的な損のほ
か、時間的な損、精神的な損、知的、能力的な損などがある。

 私も、過去、多くの人にだまされた。(だましたことはないと思うが、それはわからない。)で、
私のばあいは、だました相手には、声をあげて、抗議し、そのあと、その人と絶縁するという形
で、それを乗り越えてきた。「自分がバカだった」と自覚することは、その分だけ、自分が賢くな
ったことを意味する。

 ところで、その「損」についてだが、最初から損を覚悟で行動する人たちもいる。ボランティア
活動をする人たちである。心理学の世界では、こうした行為を総称して、「援助行動」と呼んで
いる。

 この援助行動は、高度に知的な動物だけがなしうる、特別な行動だという。人間のほか、サ
ル、ゾウなども、援助行動的な行動を見せることがあるという。言いかえると、援助行動の有無
が、その人の、人間的完成度の程度を示すと言っても過言ではない。

 反対に、援助行動は何もせず、自分だけの世界に閉じこもり、小さく生きている人は、それだ
け、人間的完成度の低い人とみてよい。

 そこで最初の話にもどるが、私はいつしか、損をすることが、その人の人間的完成度を高め
るひとつの方法だと考えるようになった。損を恐れてはいけない。損をしたからといって、他人
を責めたり、自分を責めてはいけない。大切なことは、損をしたあと、自分の心の中に充満す
るモヤモヤを、どう処理していくか、だ。

 そこで考えてみれば、子育てというのは、それ自体が、その「損」のかたまりのようなもの。も
ちろん(だまされた)という意識はない。(損をした)という意識もない。つまり最初から、無私。
最初から、損得を考えて子育てをする人は、いない。(損得を考えてする人もいるが、それは邪
道!)

 こうした子育てでの意識を、何かのことで損をしたとき、応用することはできないものだろう
か。あるいは、何かのボランティア活動をするときのように、あらかじめ、損をすることに対し
て、ある程度の心の準備をしておくことはできないものだろうか。そうすれば人は、損をしなが
らも、その損を、そのつど、自分の血や肉としていくことができる。

 その援助行動だが、一度、どこかで援助行動を経験した子どもは、そのつぎには、より自然
な形で、援助行動ができるようになるという。また援助行動の多い人ほど、他人との共感性が
強くなり、責任感も強くなることがわかっている。さらに男性より、女性のほうが、援助行動が多
いということもわかっている。これは多分に、女性が、妊娠、出産、育児という苦しみを経験して
いるためではないか。

 まあ、むずかしい話はさておき、人生には、損はつきもの。得をすることもあれば、損をする
こともある。大きく生きようと思えば思うほど、その損も大きくなるということ。そして損を重ね、
その損をじょうずに乗り切った人ほど、より人間的な完成度の高い人になれるということにな
る。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 援助
行動 ボランティア ボランティア活動 損)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●イドの世界

+++++++++++++++++

楽天BLOGに、私は毎日、日記を
書いている。そのBLOGに、毎日、
5〜10件の書きこみ(トラックバック)
が、ある。

今のところ、100%、スケベ・サイト
からのものである。

++++++++++++++++++

 楽天BLOGに、私は毎日、日記を書いている。日記といっても、エッセーのようなものだが、
そのBLOGに、毎日、5〜10件もの、書きこみがある。「書きこみ」というよりは、リンク先が張
りつけられる。すべて、スケベ・サイトへのリンクである。

 本来、トラックバックというのは、だれかが書いた記事に対して、「こういう関連サイトがありま
すよ」「こちらのサイトも参考にしてくださいよ」と、そのリンク先を、張りつけることをいう。

 たとえば私が自閉症について、何かのエッセーを書いたとする。するとそれを読んだ人の中
で、同じように自閉症について考えている人が、リンク先を張りつけてくる。こうして日記と日記
がリンクされ、それぞれの日記が、全体として、ちょうどネックレスのようにつながり、人の輪が
できる。

 が、ここにも書いたように、トラックバックといっても、私のエッセーとは、まったく関係のないも
のばかり。こうなると、いったい、トラックバックとは何かということになってしまう。新手のスパ
ム・メール、そのもの(?)。

 あのフロイトは、人間の心は、(イド)(自我)(超自我)の3つの相互作用によって機能すると
説いた。

 イドというのは、無意識かつ衝動的な世界のことをいう。いわば心のエネルギーの倉庫のよう
なもの。そこには人間の欲望が、ドロドロと渦を巻いている。

 自我というのは、そうしたイドをコントロールし、より現実に即した思考や行動をするための意
識をいう。イドのなせるままにしておいたら、人間社会はメチャメチャになってしまう。

 超自我というのは、その自我のさらに上部に君臨し、高い道徳観や倫理観で、自我をコントト
ロールする意識をいう。私たちが「良心」とか「良識」、「知性」とか「理性」とか呼んでいるのは、
この超自我のことをいう。

 自我は、イドと超自我の間にあって、いわばその両者を調整する機能をもつ。イドが強いとき
には、それを戒(いまし)める。かといって、超自我が強すぎると、円滑な人間関係が結べなくな
ってしまう。ときには、自我は、超自我をコントロールする。

 こうしたフロイトの理論に当てはめて考えてみると、こうしたトラックバックをリンクしてくる連中
というのは、まさに欲望の命ずるまま、衝動的に行動しているのがわかる。インターネットという
文明の利器を利用しながら、脳みそは、昆虫レベル。一片の道徳観もなければ、倫理観もな
い。

 「あなたの童貞を買います」
 「外交官の妻が、さみしがっています」
 「完全無料の、出会い紹介」
「セレブな女性の、性を満足させるのは、あなた」などなど。

 そのつど文面を変えているが、同一人物からのトラックバックと考えて、ほぼまちがいない。
誤字、脱字だらけ。文章は、稚拙(ちせつ)。

 本来ならこうした(イド)を、(自我)がコントロールしなければならない。しかしその自我が軟
弱。自我そのものが、確立していない。わかりやすく言えば、人間性がいいかげん。チャランポ
ラン。あわれな連中である。原因は、乳幼児期から少年期にかけて、不幸にして不幸な育児環
境で育てられたためと考えてよい。

 もちろん超自我であるのがよいというわけでもない。超自我が強すぎると、先にも書いたよう
に、他人と円滑な人間関係が、結べなくなる。ときにはハメをはずし、その範囲で、バカ話もす
るする。そうした行為は、人間には重要なことなのである。

 それにしても、こうしたトラックバックには、うんざり! 毎日、そのトラックバックを削除するの
も、このところ、めんどうになってきた。文句も言いたいが、こういう連中は、相手にしないほう
がよい。(もうすでに、こうして相手にしているが……。)もともとまともな連中ではない。どんな
ワナをその先にしかけて待っているか、わかったものではない。

 まあ、あえて言うなら、フロイトが説いた、「イド」、あるいは「エス」というのが、どういうもので
あるかを知るためには、よいサンプルである。こういうことを平気でできる連中というのは、そ
れをコントロールする自我の発達が、未熟と考えてよい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
 超自我 イド)

【補記】

 子どもの教育を考えたら、同時に、その子どもの(自我)が、どのように育っているかを判断
するのがよい。

 「私は私」と考えて、自分の欲望をコントロールする力を、自我という。

 自我が強固な子どもは、自分のしたいことがはっきりとしている。善悪の判断が正確で、YE
S、NOを、しっかりと表現できる。

 反対に自我の軟弱な子どもは、優柔不断。何を考えているかわからない。そのときどきの雰
囲気に流され、自分でも何をしたいのか、よくわかっていない。

 こうした方向性は、すでに4、5歳前後には完成している。この時期、自我が強固な子ども
は、そのままの状態で、少年少女期を迎える。そうでない子どもは、そうでない。

 たとえば私は教室で、わざとまちがえてみせたり、ズルイことをしてみせたりする。自我が強
固な子どもは、そうした私のまちがいや、ズルに、強烈に反応する。中には、怒って、顔を真っ
赤にする子どももいる。子どもは、そういう子どもにする。

++++++++++++++++++

以前、書いた原稿を、いくつか、
添付します。

++++++++++++++++++

●子どものバイタリティ

 おかしな時代だと思う。今の世の中、どこかナヨナヨした子どもほど、できのよい子どもという
ことになっている。一方、バイタリティがあり、どこか腕白(わんぱく)な子どもほど、できの悪い
子どもということになっている。

私自身が腕白だったこともある。今の世相を見ていると、どこか自分が否定されてしまうこのよ
うにすら感ずる。反対に、数は少ないが、私の子ども時代を思い起こさせる子どもに出会った
りすると、どこか心がほっとする。心がなごむ。

 子どもが本来的にもつバイタリティは、大切にする。たとえば最近、多動性児(ADHD児)が
あちこちで問題になっている。が、問題になるのは、「教える側の立場」で問題になるだけで、
子ども自身がもつバイタリティということを考えるなら、むしろあとあとその子どもにとっては、よ
い方向に作用することが多い。

(ADHD児のばあい、自意識が芽生える小学三〜四年生を境として、その症状は急速に収ま
ってくる。自意識の中で、自分をコントロールするようになるからである。そしてそれとちょうど
反比例する形で、今度は持ち前のバイタリティが、その子どもを前向きにひっぱっていく。どこ
か周囲に鈍感なところもあるが、現代社会というワクの中では、むしろその鈍感さが、よいほう
に作用するということもある。むしろこうした世の中では、繊細な子どもほど、生きにくいので
は?)

 このバイタリティを悪と決めつけてはいけない。たとえば子どもに作文を書かせたとする。そ
のとき、多少字がめちゃめちゃでも、また乱暴でも、さらに文法や書式がおかしくても、子ども
が自分の気持ちをそのまま表現するようであれば、よしとする。そういうおおらかさが、子ども
の表現力を高める。運動面や生活面については、さらに言うまでもない。

 このバイタリティは、自我の発達と深くからんでいる。教育の世界で自我というときは、「つか
みどころ」のことをいう。自我の発達した子どもは、外から見ても、「この子はこういう子だ」とい
うつかみどころがはっきりしている。わかりやすい。

たとえば「こうすればこの子は怒るだろうな」とか、「こうすればこの子は喜ぶだろうな」というこ
とが、わかりやすく、その分、教える側も教えやすい。反対に自我の発達の遅れている子ども
は、どこかグズグズしていて、どういう子なのか、それがわかりにくい。柔和な表情を浮かべて
従順な様子を見せるから、「いいのかな……?」と思いつつも、少し無理をしたりすると、それ
があとで大問題になったりする。

 その自我は、本来、あらゆる動物も、そし人間も、生まれながらにして平等にもっているもの
と考える。そのため「育てる・育てない」という視点からではなく、「引き出す・つぶす」という視点
で考える。

子どもはあるがままに、あるべき環境で育てれば、その自我の強い子どもになる。そうでなけ
れば、そうでない。が、つぶす方法(?)はいくらでもある。強圧的な過干渉、異常な過関心、溺
愛、過保護など。何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。子どもの側から
みて、つかみどころのない親の心は、子どもをかぎりなく不安にさせる。まさに『親の情緒不
安、百害のもと』ということになる。

 ここにも書いたように、バイタリティの旺盛な子どもは、今の世界では、周囲から白い目で見
られることが多い。しかしそういうときでも、子どものバイタリティを信じ、表面的には、「すみま
せん」と謝りつつも、決してそれを悪いことと決めてかかって、つぶしてはいけない。このタイプ
の子どもは、いつか必ず、何らかの形で、自分の道を極める。それを信じて、前向きに子育て
をしていく。
(02−1−13)※
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 軟弱
な子ども 子供の意思 子供の自我)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●依存と愛着

 子どもの依存と、愛着は分けて考える。中には、この二つを混同している人がいる。つまりベ
タベタと親に甘えるのを、依存。全幅に親を信頼し、心を開くのを愛着という。子どもが依存を
もつのは問題だが、愛着をもつのは、大切なこと。

 今、親にさえ心を開かない、あるいは開けない子どもがふえている。簡単な診断方法として
は、抱いてみればよい。心を開いている子どもは、親に抱かれたとき、完全に力を抜いて、体
そのものをべったりと、すりよせてくる。心を開いていない子どもや、開けない子どもは、親に抱
かれたとき、体をこわばらせてしまう。抱く側の印象としては、何かしら丸太を抱いているような
感じになる。

 その抱かれない子どもが、『臨床育児・保育研究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査による
と、四分の一もいるという。原因はいろいろ考えられるが、報告によれば、「抱っこバンドだ」と
言う。

「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒
否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研
究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。

報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が3
3%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が2割前後見
られ、調査した6項目の平均で25%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固い」
「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で20%の赤ちゃんから報告されたという。

さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放
されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。
また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を
使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。

 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)2
〜3割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不
足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。

 子どもは、生後7、8か月ころから、人見知りする時期に入る。一種の恐怖反応といわれてい
るが、この時期を通して、親への愛着を深める。が、この時期、親から子への愛着が不足する
と、以後、子どもの情緒はきわめて不安定になる。

ホスピタリズムという現象を指摘する学者もいる。いわゆる親の愛情が不足していることが原
因で、独得の症状を示すことをいう。だれにも愛想がよくなる、表情が乏しくなる、知恵の発達
が遅れ気味になる、など。貧乏ゆすりなどの、独得の症状を示すこともあるという。

 一方、冒頭にも書いたように、依存は、この愛着とは区別して考える。依存性があるから、愛
着性があるということにはならない。愛着性があるから、依存性があるということにはならな
い。が、この二つは、よく混同される。そして混同したまま、「子どもが親に依存するのは、大切
なことだ」と言う人がいる。

 しかし子どもが親に依存性をもつことは、好ましいことではない。依存性が強ければ強いほ
ど、自我の発達が遅れる。人格の「核」形成も遅れる。幼児性(年齢に比して、幼い感じがす
る)、退行性(目標や規則、約束が守れない)などの症状が出てくる。

もともと日本人は、親子でも、たがいの依存性がきわめて強い民族である。依存しあうことが、
理想の親子と考えている人もいる。たとえば昔から、日本では、親にベタベタ甘える子どもイコ
ール、かわいい子イコール、よい子と考える。そして独立心が旺盛で、何でも自立して行動する
子どもを、かわいげのない「鬼ッ子」として嫌う。

 こうしたどこかゆがんだ子育て観が、日本独特の子育ての柱になっている。言いかえると、よ
く「日本人は依存型民族だ」と言われるが、そういう民族性の原因は、こうした独特の子育て観
にあるとみてよい。もちろんそれがすべて悪いと言うのではない。

依存型社会は、ある意味で温もりのある社会である。「もちつもたれつの社会」であり、「互い
になれあいの社会」でもある。しかしそれは同時に、世界の常識ではないことも事実で、この日
本を一歩外へ出ると。こうした依存性は、まったく通用しない。それこそ生き馬の目を抜くような
世界が待っている。そういうことも心のどこかで考えながら、日本人も自分たちの子育てを組み
立てる必要があるのではないか。あくまでも一つの意見にすぎないが……。
(02−10−18)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 依存
 愛着 愛着行動 アタッチメント 子どもの依存性 依存的な子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【ある相談より】

Q:3歳の息子ですが、このところ反抗がひどくて困ります。どう対処したらよいでしょうか。(静
岡県G市・MK)

第一反抗期

 あなたの子どもに、第一反抗期は、あったか? 

外部の刺激に左右され、そのたびに精神的に動揺することを情緒不安という※。二〜四歳の
第一反抗期、思春期の第二反抗期に、とくに子どもは動揺しやすくなる。

 子どもは、この反抗期をとおして、親に対して、絶対的安心感をもつことができるようになる。
どんなことをしても、またどんなことを言っても許されるのだという安心感である。この安心感
が、親と子どもの間の信頼関係の基本になる。ここでいう「絶対的」というのは、疑いをいだか
ないという意味。

 よく誤解されるが、子どもが親に反抗することは、悪いことではない。悪いのは、子どもがそ
の反抗心を自分の心の中に、おし隠してしまうことである。俗にいう、「いい子ぶる子ども」とい
うのは、それだけ自我の発達※が遅れるのみならず、親も含めて、人と信頼関係が結べない
子どもとみる。

 このタイプの子どもは、自分の心を守るために、さまざまな特殊な行為(問題行動)を繰りか
えすことが知られている。

●異常な依存心……だれかにベタベタに甘える。だれかれなく、愛想がよくなり、こびを売るよ
うになる。しかし心を開けないため、孤独。不安。他人に対して愛想がよくすることにより、身の
まわりに、「自分は愛されている」という環境をつくろうとする。

●引きこもり……人との接触を断ち、自分の世界に閉じこもる。人と接すると、必要以上に気
をつかい、神経疲労を起こしやすい。不登校の原因となることもある。つまり人との関係を断ち
きることによって、身の保全をはかろうとする。

●異常な敵対心……行動が攻撃的になり、自分以外のすべてのものは、「敵」と位置づけて、
排斥したり、否定したりする。非行、集団非行に走るケースも多い。攻撃的に相手を否定する
ことで、自分の優位性を保とうする。

●異常な隷属心……たいていは親に対してだが、その人に異常なまでに隷属する。隷属する
ことによって、身の保全をはかる。このタイプの子どもは、必要以上に相手にへつらったり、ペ
コペコする。

これらの行為は、子どもによって、さまざまに変化する。しかし共通しているのは、信頼関係が
結べないことによる、不安と孤独、焦燥と心配を解消するため、自分の心を守ろうとしている点
である。これを心理学の世界では、「防衛機制」という。

 そこであなたの子どもチェック。

 あなたの子どもは、2〜4歳の第1反抗期のとき、あなたという親に対して、好き勝手なことを
し、また言っていたか。あなたは親として、それを許していたか。もしそうなら、それでよし。しか
しもしあなたの子どもが、あなたの前でいい子ぶったり、反抗らしい反抗もしないまま、今に至
っているなら、かなり注意したほうがよい。これから先、ここでいうような問題行動を起こす可能
性は、たいへん高い。あるいはすでにそれは始まっているかもしれない。

 子どもというのは、それぞれの時期に、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。反抗
期はまさにそのカラを脱ぐ時期と考えてよい。それぞれの時期にうまくカラを脱げなかった子ど
もは、あるとき、そのカラを一挙に脱ごうとする。たいていは激しい摩擦と、軋轢(あつれき)を
引き起こす。たとえば家庭内暴力を起こす子どもも、こうしたメカニズムで説明できることが多
い。

 だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親としてそれ
をたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退いた視点で子
どもを見るようにする。
(03―03―03)

※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許
さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張
状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不
安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり
(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。

表情にだまされてはいけない。柔和な表情をしながら、不安定な子どもはいくらでもいる。この
タイプの子どもは、ささいなことがきっかけで、激変する。母親が、「ピアノのレッスンをしよう
ね」と言っただけで、激怒し、母親に包丁を投げつけた子ども(年長女児)がいた。また集団的
な非行行動をとったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えることもある。

※……「自我」というのは、要するに、その子どもの「わかりやすさ」をいう。教える側からみる
と、「つかみどころ」ということになる。自我の発達している子どもは、何を考え、何をしたいか
が、外から見ても、たいへんわかりやすい。したいことをし、言いたいことを言う。YES、NOを
はっきりと言う。一方、自我の軟弱な子どもは、それがわからない。何を考えているかすら、わ
からないときがある。どこか仮面をかぶったような感じになる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 反抗
 子供の反抗 反抗的な子供 反抗的な子ども 反抗期 反抗期の考え方)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司 

【子どもの反抗について、Sさんからの相談より】

はやし先生

(前略)

さて、今日のメルマガに、

(以下引用)だから、子どもが反抗することを、悪いことと決めてかかってはいけない。一応、親
としてそれをたしなめながらも、「この子は今、自我を形成しているのだ」と思い、一歩、退いた
視点で子どもを見るようにする。

※……情緒が不安定な子どもは、神経がたえず緊張状態にあることが知られている。気を許
さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にする、よい子ぶるなど。その緊張
状態の中に、不安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不
安定になる。症状が進むと、周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不登校を起こしたり
(マイナス型)、反対に攻撃的、暴力的になり、突発的に興奮して暴れたりする(プラス型)。(こ
こまで引用)

 うちの場合は反抗期も十分あったのに(今でも喧嘩になると『このくそ婆!』とかいうのです
よ!)。

結局小さい頃のその時期に私がその反抗を押さえつけていた(許してやらなかった)ことに発
端があるわけで、反抗しそこなったことが今マイナス型として現れているなら、この今のマイナ
ス型の時期も自我を形成していると考えていいんでしょうか?

 母親ばかりのせいではない、と自分を慰める一方、どこの家庭もそうでしょうが、母親が子供
にかかわる時間は膨大に多い。そのこどもとの時間を楽しめるときと、楽しめないときがあり、
それも仕方がないと思いながら、、、。

すみません。ここ2,3日ホルモンのバランスが悪いらしく非常に情緒が不安定で(私は周期的
にこういうことがあるのですが)誰とも話したくなく、また、周りのすべてに対し攻撃的になってい
ます。鬱症状というわけです。

友人に話しても、母親はみな多かれ少なかれそういうことがあるようです。
C新聞にも、卵巣機能の低下によるホルモンのバランスの崩れで、二〇代から四〇代の女性
が更年期障害の症状を訴えるケースが多いという記事が出ていました。専門医に相談するべ
しと。

でも実情は、お医者様は男性が多く、その症状を訴えても、『それくらいガマンできないか?』と
か『ジャー薬飲んでみる?』という程度のリアクションで、もう二度と相談するか!という結果に
なるのが常なのです。(私も友人もそうでした)

私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでしまい
そうですので、今はやめました。

とりあえず自分が情緒不安を周期的に持っている、ということだけキモに銘じ、そういう時はな
るべくヒトと接触を持たないように今は心がけています。

++++++++++++++++++

S様へ

 自分の過去をみることは、こわいですね。本当にこわい。自分という人間がわかればわかる
ほど、その周囲のことまで、わかってしまう。「親を恨んでしまいそう」というようなことが書いて
ありましたが、そこまで進む人も少なくありません。

 若いころ、ブラジルのリオデジャネイロへ行ったことがあります。空港から海外沿いにあるリ
オへ向かう途中、はげ山の中に、いわゆる貧民部落が見えるところがあります。ブラジルは、
貧しい国ですが、そのあたりの人たちは、本当に貧しい。しかし私が、直接、そういう人たちを
見たのは、観光で、どこかの丘に登ったときのことです。四、五人の子どもたちが、どこからと
なく現れました。気がついたら、そこにいたという感じです。(印象に残っているのは、バスから
おりたとき、土手の向こうから、カモシカのように軽い足取りで、ヒョイヒョイと現れたことです。)

 その子どもたちの貧しさといったら、ありませんでした。どこがどうというより、私はそういう子
どもを見ながら、「親は、どうして子どもなんか、つくったのだろう」と思いました。「子どもを育て
る力がないなら、子どもなど、つくるべきではない」と。

 しかしそれは、そのまま私の問題であることに気づきました。私も、戦後直後生まれの、これ
またひどいときに生まれました。しかし「ひどいときだった」とわかったのは、ずっとおとなになっ
てからで、私自身は、まったくそうは思っていませんでした。(当然ですが……。)「ひどい」と
か、「ひどくないか」とかは、比較してみて、はじめてわかることなのですね。

 私もある時期、親をうらみました。とくに私の親は、ことあるごとに、「産んでやった」「育ててや
った」「大学を出してやった」と、私に言いました。たしかにそうかもしれませんが、そういう言葉
の一つ、一つが、私には、たいへんな苦痛でした。で、ある日、とうとう爆発。私が高校生のと
きだったと思います。「いつ、だれが産んでくれと、あんたに頼んだ!」と、母に叫んでしまいま
した。

 で、今から考えてみると、子どもの心を貧しくさせるのは、金銭的な貧しさではなく、心の貧し
さなのですね。私たちの世代は、みんな貧乏でしたが、貧乏を貧乏と思ったことはありませんで
した。靴といっても、ゴム靴。靴下など、はいたことがありません。ですから歩くたびに、キュッキ
ュッと音がしました。蛍光灯など、まだない時代でした。ですから近所の家に、それがついたと
き、みなで、見に行ったこともあります。私が小学三年生のときです。

 貧しいというのは、子どものばあい、ここに書いたように、心の貧しさを言います。……と考え
ていくと、ブラジルで見た、あの子どもたちは、本当に貧しかったのかどうかということになる
と、本当のところは、わからないということになります。身なりこそ、貧しそうでしたが、見た感じ
は、本当に楽しそうでした。

 一方、この日本は、どうかということになります。ものはあふれ、子どもたちは、恵まれた生活
をしています。で、その分、心も豊かになったかどうかということになると、どうもそうではないよ
うな気がします。どこかやるべきことをやらないで、反対に、しなくてもよいようなことばかり、一
生懸命している? そんな感じがします。

 さて、疑問に思っておられることについて、順に考えていきたいと思います。

 乳児期に、全幅の安心感、全幅の信頼関係、全幅の愛情を受けられなかった子どもは、い
わゆる「さらけ出し」ができなくなります。「さらけ出し」というのは、あるがままの自分を、あるが
ままにさらけ出すということです。そのさらけ出しをしても、親や家族は、全幅に受け止めてくれ
る。そういう安心感を、「絶対的安心感」といいます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかな
い」という意味です。

 この時期に、親の冷淡、育児拒否、拒否的態度、きびしいしつけなどがあると、子どもは、そ
の「さらけ出し」ができなくなります。いわゆる一歩、退いた形になるわけです。ばあいによって
は、仮面をかぶったり、さらにひどくなると、心と表情を遊離させたりすうようになります。おとな
の世界では、こういうことはよくあります。あって当たり前ですが、家族の世界では、本来、こう
いうことは、絶対に、あってはいけません。

 おならをする。ゲボをはく。ウンチをもらす。小便をたれる。オナラをする。ぞんざいな態度を
する。わがままを言う。悪態をつく。……いろいろありますが、要するに、そういうことが、「一定
のおおらかな愛情」の中で、処理されなければなりません。

 これは教育の場でも、同じです。よく子どもたちは私に、「クソジジイ!」と言います。悪い言葉
を容認せよというわけではなりませんが、そういう言葉が使えないほどまでに、子どもを、抑え
つけてはいけないということです。言いたいことを言わせながら、したいことをさせながら、しか
し軽いユーモアで、サラリとかわす。そういう技術も必要だということです。

 また夫婦も、そうです。私は結婚以来、ずっと、ダブルのふとんでいっしょに、寝ています。
で、ワイフも、私も、よく、フトンの中で、腸内ガスを発射します。若いころは、そういうとき、よく
ワイフを、足で蹴っ飛ばして、外へ追い出したりしました。「お前だろ?」と言うと、「あんたでし
ょ!」と、言いかえしたりしたからです。

 しかし齢をとると、そういうこともなくなりました。あきらめて、顔だけフトンの外に出し、泳ぐと
きのように(私は、そう思っていますが……)、口をとがらせて、息をすったり、吐いたりしていま
す。かといって、腸内ガスを許しているわけではありませんが、しかしそれも、ここでいう「さらけ
出し」なのですね。

 そういうさらけ出しをおたがいにしながら、子どもは、絶対的な安心感を覚え、その安心感を
もとに、人間どうしの、信頼関係の結び方を学びます。

 幼児でも、信頼関係の結べる子どもと、そうでない子どもは、すぐわかります。私は、ご存知
のように、年中児(満四歳)から、教えさせていただいていますが、そのとき、子どもをほめた
り、楽しませてあげたりすると、その気持ちが、スーッと子どもの心の中にしみこんでいくのが
わかる子どもと、そうでない子どもがいるのがわかります。

 しみこんでいく子どもを、「すなおな子ども」と言います。そういう子どもは、そのまま、私との
間に、信頼関係ができます。もう少し、別の言い方をすれば、「心が開いている」ということかも
しれません。心が開いているから、私が言ったことが、そのまま、心の中に入っていく……。そ
んな感じになります。

 一方、心を開くことができない子どももいます。このタイプの子どもは、いわゆる「すなおさ」が
ありません。何かをしてあげても、それを別の心でとらえようとします。ひねくれる。いじける。つ
っぱる。ひがむ。ねたむなど。さらに症状が進むと、心そのものを閉じてしまいます。極端な例
では、自閉傾向(自閉症ではありません)があります。

 が、こうして心を開けない子どもは、孤独なんですね。さみしがり屋なんですね。そこで、ショ
ーペンハウエルの「二匹のヤマアラシ」の話が出てきます。寒い夜、二匹のヤマアラシが、体を
暖めあおうとします。しかし近づきすぎると、たがいのハリで、相手をキズつけてしまう。しかし
離れすぎると、寒い。二匹のヤマアラシは、ちょうどよいところで、暖めあう。自分の位置を決
める……。

 このタイプの子どもは(おとなも)、孤独をまぎらわすため、外の世界へ出る。しかしそこで
は、どうも、居心地が悪い。うまく人間関係が、結べない。疲れる。しかたないので、また引っ込
む。しかし引っ込むと、さみしい。これを繰りかえします。繰りかえしながら、ちょうどよいところ
で、自分の位置を決める……。

 このとき、子どもは、自分の心を守るため、さまざまな症状を見せます。よく知られているの
が、欲求不満を解消するための、代償行為です。指しゃぶり、髪いじり、夜尿症などがありま
す。さらに症状が進むと、神経症を併発し、さらに進むと、情緒障害や精神障害にまで発展し
ます。

 が、子ども自身も、他人から、自分の心を守ろうとします。それを「防衛機制」といいます。相
手に対して、カラにこもる、攻撃的になる、服従的になる、依存性をもつなど。Sさんが、ご指摘
なのは、このあたりのことなのですね。Sさんの問題を、もう少し整理してみると、こうなります。

(反抗期はあった)(しかしそれを、押さえつけてしまった)と。

 たしかにそういう親は、多いし、Sさんだけが、そうだとはいうことにはなりません。いまだに親
の権威をふりかざし、「親に向かって何よ!」と、本気で子どもに怒鳴り散らす人もいます。しか
し問題は、抑えることではなく、ここにも書いたように、「一定のおおらかな愛情」の中で、それ
ができたかどうかということです。いくら抑えても、子ども自身が気にしないケースもあれば、軽
く抑えても、子どもが深刻に気にするケースもあります。

 そこで今度は、親自身の問題ということになります。

 不幸にして不幸に育った親は、いわゆる「自然な形での親像」が、体の中にしみこんでいませ
ん。ふつう子育てというのは、自分が受けた子育てを、そのまま再現する形で、子どもに対して
します。それを私は、「親像」と呼んでいます。その親像がないため、子育てが、どこかぎこちな
くなります。極端に甘くなったり、きびしくなったりするなど。気負い先行型、心配先行型、不安
先行型の子育てをすることもあります。

 そこで掘りさげていくと、つまり、自分の子育ての失敗(こういう言葉は不適切かもしれません
が……)の原因は、つまるところ、「自然な形での親像」のなさに気づくわけです。「私はどうして
自然な形での、子育てができないのか?」と。そしてそれがわかってくると、今度は、原因をさ
がし、そして行き着くところ、自分の「親」に向かうわけです。「私をこんな親にしたのは、私の両
親が悪いからだ」と、です。

 「私も自分を探そうと試みたことはありますが、非常につらいことで、ともすると親を恨んでし
まいそうですので……」と、Sさんは、書いておられます。実のところ、私も、同じように、悩んだ
ことがあります。

 が、私のばあいは、「戦後のあの時代だったから、しかたない」とか、「親は親で、食べていく
だけで、しかたなかった」というような考え方で、理解するようになりました。今から思えば、貧
乏は貧乏でしたが、しかし同じ貧乏の中でも、まだほかの家庭よりは、よかったという思いもあ
ります。だからその「怒り」のようなものは、やがて社会へと向けられていったと思います。

 今でも、あの戦争を美化する人もいますが、私はいつも、「バカな戦争」と位置づけています。
「あんなバカな戦争をするから、いけないのだ」と、です。私が不幸だったのも、親が不幸だっ
たのも、結局は、戦争が悪いのです。あの戦争は、もともと正義もない、大義名分もない、メチ
ャメチャな戦争だったのです。

 ということで、自分なりに処理しました。そこでSさんの件ですが、「(親を恨んでしまいそうな
ので)、やめます」とあります。ここなんですね。ここです。まだ、Sさんは、どこかよい子ぶろうと
している。恨みたかったら、恨めばよいのです。多分、そうお書きになったのは、かなり深い部
分で、Sさんが、自分の心の問題に、気がつき始めておられるからです。むしろ、これはすばら
しいことなのです。

 実はこの種の問題のこわいところは、そういう自分自身に気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえすところにあります。それだけではありません。今度は、同じ失敗を、つぎの世代に伝えて
しまうところにあります。もし仮にここでSさんが、自分の心を抑えてしまうと、今度また、同じ失
敗を、Sさんの、子どもが繰りかえすことになります。これを、教育の世界では、「世代連鎖」と
か、「世代連覇」とか言います。

 これは極端な例ですが、「虐待」「暴力」も、同じようなパターンで、代々と伝わってしまいま
す。

 しかしひと通り、親を恨むと、今度は、「あきらめの境地」、さらには「許す境地」へと、入りま
す。ですから、遠慮せず、恨みなさい。恨んで恨んで、恨みなさい。遠慮することはありません。
そしてあなた自身の親というよりは、あなたの心の中に潜んでいる、(親から受け継いだも
の)、つまり(私であって、私でないもの)を、恨めばよいのです。

 私も、子どものときから、父が酒を飲んで暴れる姿を、毎週のように見てきました。そういう意
味では、暴力的な体質が、身についてしまいました。小学五、六年生ごろまでは、何かにつけ
て、喧嘩(けんか)ばかりしていました。結婚してからも、ワイフに暴力を振るったことも、しばし
ばあります。

 しかしそういう自分の気づき、その原因に気づき、そして親を恨み、やがて、そうであっては
いけないことに気づきました。

 さて本題ですね。長い前置きになりました。

 残念ながら、「マイナスの自我」というのは、ありません。私も聞いたことがありません。「自
我」というのは、英語では「セルフ」、心理学の世界では、「意識する体験」、哲学の世界では、
「意識する主体」、精神分析の世界では、「人格の中枢」をいいます。教育の世界では、「つか
みどころ」ということになるでしょうか。「この子は、こういう子だ」という、つかみどころをいいま
す。それは、(ある・なし)で決まるもので、(プラスの自我、マイナスの自我)という考え方には、
なじみません。

 で、仮に自我の発達が阻害され、情緒的な問題があったとしても、マイナスの自我ということ
にはならないと思います。あえて言うなら、ここに書いたように、「自我の阻害(そがい)」という
ことになるかもしれません。しかしSさんのお子さんのばあい、むしろ、今、不登校という形であ
るにせよ、お子さんが、そういう「わかりやすい形」であることからして、強烈な自我があると考
えてよいと思います。自我(フロイト学説)についての原稿は、最後に張りつけておきますから、
また参考にしてくいださい。

 以上、こうしてSさんの過去をほじくりかえしましたが、そこで今は、こう考えてみてください。

 過去は、過去。今は、今。明日は、今の結果として、明日になれば、必ず、やってくる、と。

 つまりこうして過去がわかったとしても、その過去に引きずりまわされてはいけないというこ
と、です。Sさんが、今、そこにいるように、子どもたちもまた、そこにいる。その「事実」だけを
見すえながら、あとはそこを原点として、前向きに生きていくということです。悩んだところで、過
去は変えられないのです。あくまでも、今は、今です。大切なことは、その「今」を、懸命に生き
ていく。結果は、必ず、あとからついてきます。

 お子さんたちについても、すばらしいお子さんたちではないですか。そこでね、Sさんも、もう
気負いを捨て、あるがままの自分をさらけ出せばよいのです。子どもたちに向かって、さりげな
く、とげとげしくなく、いやみなく、こう言えばよいのです。

 「私も、これからは好き勝手なことをするからね。あんたたちも、自分で考えて、好き勝手なこ
とをしなさい」と。

 「こういうことを言うと、キズつくのでは……」「また喧嘩になるのでは……」と思ったとしたら、
Sさん自身が、さらけ出しをしていないことになりますね。つまりそれでは、親子の信頼関係は
結べないということ。信頼関係を結ぶためには、まずSさんのほうが子どもに向かって、さらけ
出しをしなければなりません。

 で、話をもとに戻しますが、心の豊かさというのは、その信頼関係をいうのですね。いくら金銭
的に貧しくても、そんなのは、子どもの世界では、問題ではない。またそれで子どもの心がゆが
むことはない。ゆがむとすれば、心の貧しさです。しかしですね、もし、もしですよ、Sさんの子ど
もたちが、そのことをSさんに教えようとして、今の問題(問題という言い方も好きではありませ
んが……)をかかえているとしたら、見方も変わってくるのではないでしょうか?

 Sさんのまわりには、いろいろ問題もあるし、Sさんとは、見方も違うかもしれませんが、人間
が求める幸福などというものは、そんなに遠くにあるのではないような気がします。ほんのすぐ
そばで、あなたに見つけてもらうのを待っているような気がします。それがあのブラジルの子ど
もたちです。

 だってそうでしょう。人間は、過去、数十万年もの間、生きてきたのです。そういう中で、いつ
も幸福を求めて生きてきた。それがここ一〇〇年ぐらいの間で、学校だの、勉強だの、進学だ
のと言い出して、子どもの世界のみならず、親たちの世界までゆがめてしまった。そして勝手
に、新しい幸福をつくりだし、一方、勝手に新しい不幸をつくりだしてしまった。そして新しい問
題まで、つくりだしてしまった。少なくとも、ブラジルの子どもたちが、今の日本の子どもたちより
不幸だとは、とても思えないです。一方、今の日本の子どもたちが、ブラジルの子どもたちよ
り、幸福だとは、とても思えないのです。

 この問題については、また別のところで考えてみますが、ときには、そういう原点に立ちかえ
って考えてみることも必要ではないかということです。まとまりのない話になってしまいました
が、また投稿してください。喜んで返事を書きます。

+++++++++++++++

【子どもの自我がつぶれるとき】

●フロイトの自我論 

フロイトの自我論は有名だ。それを子どもに当てはめてみると……。

 自我が強い子どもは、生活態度が攻撃的(「やる」「やりたい」という言葉をよく口にする)、も
のの考え方が現実的(頼れるのは自分だけという考え方をする)、創造的(将来に向かって展
望をもつ。目的意識がはっきりしている。目標がある)、自制心が強く、善悪の判断に従って行
動できる。

 反対に自我の弱い子どもは、ものごとに対して防衛的(「いやだ」「つまらない」という言葉をよ
く口にする)、考え方が非現実的(空想にふけったり、神秘的な力にあこがれたり、まじないや
占いにこる)、一時的な快楽を求める傾向が強く、ルールが守れない、衝動的な行動が多くな
る。たとえばほしいものがあると、それにブレーキをかけることができない、など。

 一般論として、自我が強い子どもは、たくましい。「この子はこういう子どもだ」という、つかみ
どころが、はっきりとしている。生活力も旺盛で、何かにつけ、前向きに伸びていく。反対に自
我の弱い子どもは、優柔不断。どこかぐずぐずした感じになる。何を考えているかわからない
子どもといった感じになる。

●自我は引き出す

その自我は、伸ばす、伸ばさないという視点からではなく、引き出す、つぶすという視点から考
える。つまりどんな子どもでも、自我は平等に備わっているとみる。子どもというのは、あるべき
環境の中で、あるがままに育てれば、その自我は強くなる。

反対に、威圧的な過干渉(親の価値観を押しつける。親があらかじめ想定した設計図に子ども
を当てはめようとする)、過関心(子どもの側からみて息の抜けない環境)、さらには恐怖(暴力
や虐待)が日常化すると、子どもの自我はつぶれる。そしてここが重要だが自我は一度つぶれ
ると、以後、修復するのがたいへん難しい。たとえば幼児期に一度ナヨナヨしてしまうと、その
影響は一生続く。とくに乳幼児から満四〜五歳にかけての時期が重要である。

●要は子どもを信ずる

 人間は、ほかの動物と同様、数一〇万年という長い年月を、こうして生きのびてきた。その過
程の中でも、難しい理論が先にあって、親は子どもを育ててきたわけではない。こうした本質
は、この百年くらいで変わっていない。子育ても変わっていない。変わったと思うほうがおかし
い。要は子ども自身がもつ「力」を信じて、それをいかにして引き出していくかということ。子育
ての原点はここにある。

(参考)
●フロイトの自我論

 ジークムント・フロイト(オーストリアの心理学者、一八五六〜一九三九)は、自我の強弱によ
って、人の様子は大きく変わるという。それを子どもに当てはめて考えてみたのが、次の表で
ある。

自我……意識される客体としての自己に対して、自分を意識する主体(哲学)。個々の心理現
象を、一貫した全体的な「自分」として意識する体験(心理学)。人格の中枢機関(精神分析)な
ど。自我のとらえ方は、必ずしも一致していない。英語ではego、selfという。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの自我 自我論 子供の心理 子供の自我 ジークムント・フロイト)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1230)

●仕事と休息

++++++++++++++++++

「忙しいですか?」と、よく聞かれる。
で、いつも、私の答は、同じ。

「忙しくはないですが、時間が足りなくて、
困っています」と。

++++++++++++++++++

 朝、起きる。まっすぐ書斎へ飛びこむ。パソコンに電源を入れる。Eメールに目を通したあと、
ニュースを読む。

 私の1日は、こうして始まる。時刻は、まちまち。今朝は、午前6時に起床。今は、午前6時4
0分。もう40分も、ムダにしてしまった。

 私は、仕事が多すぎるときの重圧感も、よく知っている。しかしそれ以上に、仕事がないとき
の空漠感(くばくかん)も、よく知っている。どちらかを選べと言われたら、私は、迷わず、(仕事
が多すぎるときの重圧感)を選ぶ。

 成功者には、定説はない。が、失敗者には、定説がある。その第一。怠け者。怠け者が、成
功したという話は、古今東西、聞いたことがない。「やるぞ!」「やるぞ!」の掛け声ばかりで、
結局は、何もしない。何もしないから、成功するわけがない。

 となると、成功者とは何かということになる。

 要するに、怠惰(たいだ)な生活からは、何も生まれないということ。ドラマそのものが、生ま
れない。一方、成功者には、そのドラマがある。そのドラマが、その人の人生を、潤(うるお)い
豊かなものにする。そのドラマに、生きる価値がある。

 つまり成功者というのは、人生を、より有意義に、かつ濃密に生きる人のことをいう。金持ち
になったとか、名誉や地位を得たから、成功者というわけではない。その人を、まわりの人や、
後世の人が、どう評価するから、あくまでも、そのまわりの人や、後世の人の問題。その人の
問題ではない。

 ところで三男が、先日、北海道にある「幸福駅」という名前の駅まで、行ってきた。今は汽車
が走ることもない、さびれた無人駅だそうだが、その駅を見ながら、三男こんなような日記を書
いている。

 「生きることの目的は、幸福になることではない。幸福に向かって、努力することだ」と。

 私は、その言葉に、はっとするほど、驚いた。そしてこうつぶやいた。「そうだよ、そうなんだ
よ」と。

 反対に、毎日をブラブラと過ごしながら、「やることがない」とこぼしている人を見ると、私は、
こう思う。「どうして、たった一度しかない人生を、そんなふうにして、過ごすのか」と。「もったい
ない」と思うのは、私の勝手かもしれない。その人のしてみれば、いらぬお節介かもしれない。
しかし、私は、あえて、こう思う。「もったいない!」と。

 私の仕事は、忙しくはない。その気にさえなれば、休息時間は、たっぷりとある。しかし時間
が、ない。どういうわけか、時間がない。だから私は、「忙しいですか?」と聞かれるたびに、こ
う答えるようにしている。

 「忙しくはないですが、時間が足りなくて、困っています」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●ワイフの血圧

+++++++++++++

女性にとっては、
更年期という時期には、
特別の意味がある。

心の曲がり角?
体の曲がり角?

更年期になると、何かにつけて、
女性は、大きく変化する。

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 更年期を迎えて、ワイフの血圧が、上昇した。健康診断の結果でも、「要指導」の注意。それ
までは、平均値より、やや高いかな?、という状態だった。しかし気がついてみると、1xxmmH
g!

 「このところ、朝起きると、顔色が何となく赤いな」とは、思ってはいたが、そんなにあるとは知
らなかった。すぐ、かかりつけの病院へ。

 更年期を迎えると、卵巣機能の低下によって、女性ホルモンの分泌が、急速に低下するとい
う。そのため自律神経にも大きく影響し、心と体のバランスが、崩れやすくなるという。

 自律神経というのは、呼吸や血液の流れ、消化、体温調節などの生命活動を行う神経をい
う。そのため自律神経が乱れると、心臓の動悸が速くなったり、血行が悪くなるなどの体の変
調が起きるという。また、自律神経は環境の変化やストレスに対して心のバランスを保つ働き
もあるため、神経が過敏になりイライラするなどの、心の変調も生じやすくなるという(以上、参
考:ユベラネット)。

 その結果、知らないうちに、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)や動脈硬化になる人が多いという。
高血圧症も、そのひとつ。

 そこでまず運動療法。日曜日には、近くのショッピングセンターまで、歩いてみた。昨日は、
近くにある佐鳴湖まで、歩いてみた。歩いた距離は、3〜4キロというところか。

 つぎに食事療法。私の家は、もともと(塩味家庭)。自分ではそう思っていないが、うちへくる
アメリカ人や、オーストラリア人たちは、みな、こうこぼす。「ヒロシの家の料理は、みな、塩から
い」と。

 みなが、そう言うのだから、そうだろう。そこで、数日前から、塩からい料理は、一掃した。

 最後に薬。医院では、降血圧薬と、降コレステロール薬を処方してくれた。ともに、「ごく効果
の弱い、症状の軽い人がのむもの」だ、そうだ。しかし私は、医師の処方を、あまり信用してい
ない。とくに、こうした生活習慣病の治療薬については、そうである。

 一度、薬に頼るようになったら、最後。死ぬまで、頼らなければならない。が、それ以上にこ
わいのは、薬を中断したときに起きる、反作用。

 最初は、それらの薬を、さらに半分に割ってのんで、しばらく様子をみることにした。できれ
ば、こうした薬には頼らないで、血圧を調整したい。

 その結果、その日の夕方には、正常値よりやや高いかなというレベルまで、さがった。しかし
薬の効き方が、急過ぎる。翌日は、さらに錠剤を、こまかく割って、やや少なめにしてみた。

 ……こうして、今日で、治療4日目になる。今朝も、「どうだった?」と聞くと、「上が1xxmmHg
で……」と。

 どうやらこの3日間、数値は安定しているようだ。「1か月単位で、低くすればいいよ」と言う
と、「私も、そう思う」と。

 私の知人の中には、毎日、降血圧薬をのんでいる人がいる。それはそれでしかたないのだ
ろうが、しかしそれをのむのをやめたとたん、死んでしまった人もいる。ワイフのいとこの、Hさ
んもその1人。

 朝、寝室から出てこないので家人が見に行ったら、化粧台の前で、うずくまるようにして倒れ
ていたという。くも膜下出血だったという。

 そういうこわい話を、たくさん聞いているので、ここは正攻法で戦うのがよい。運動療法と食
事療法。それに、ストレスのない生活。

 今日は、仕事の関係で、午前中の散歩はできない。仕事が終わったあと、夜、ワイフを散歩
に連れだすつもり。昨日、「明日の夜は、○○レストランまで歩いてみよう」と声をかけると、し
かたなさそうな声で、ワイフは、「うん」と言った。

 もともと、歩くのが、あまり好きな女性ではない。しかしこの際、心を鬼にして、連れだすしか
ない。そして今、私は、改めて、こう思う。

 「健康は守るものではない。作るもの」と。


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●心理テスト

++++++++++++++++++

正直に生きよう。
それが何にもまして、最善!

++++++++++++++++++

 今朝、配信されてきたB社のメールマガジンを読むと、こんなコラムが載っていた。題して、
「あなたを知る、心理テスト」。

 問の部分だけ、そのまま、転載する。

+++++++++++++
【問】
 
休日、朝早くから友達と待ち合わせをしたあなた。目覚まし時計は
セットしたはずなのに、うっかり寝過ごして遅刻をしてしまいました。
待たされた友だちは、見るからに機嫌が悪そう…。あなたが思わず口にした
言い訳は、次のうちどれですか?

     A:着る服が決まらなかった。
     B:体調が悪かった。
     C:電車が遅れた。
     D:朝寝坊をした。

 気になる診断結果は、後のコーナーで発表します。

+++++++++++++

 要するに大切な待ち合わせに遅刻してしまった。そのとき、あなたは、どんな言い訳をする
か。その言い訳のし方で、あなたの心理をさぐろうというのが、このテストである。

 しかしテストそのものが、バカげている。おかしい(失礼!)。

 何も、言い訳などする必要はない。正直に、「目覚まし時計をセットしたはずなのに、うっかり
寝過ごしてしまった」と言えばよい。

 こうした言い訳、つまりウソは、一度口にすると、習慣になりやすい。ばあいによっては、ウソ
の上に、ウソを塗り重ねる……ということにもなりかねない。さらにウソがバレれば、友情にヒ
ビが入るかもしれない。

 で、その記事は、つぎのようにつづく。

+++++++++++++

(簡単な解説をしたあと)、

Aを選んだ人は……熱血タイプ
Bを選んだ人は……気配りタイプ
Cを選んだ人は……ポーカーフェイスタイプ
Dを選んだ人は……正直者タイプ、と。
(それぞれに、100字前後の解説がついている。)

+++++++++++++

 私なら、「A、B、C、Dのどれも、それを選んだ人は、ウソつき」と書く。となると、ここで大きな
命題にぶつかる。

 人間の心理と人間性は、分けて考えるべきかどうかという命題である。もう少しわかりやすい
例で考えてみよう。

 たとえばある患者が、「頭が痛い」「熱がある」「めまいもする」と訴えたとする。そこである医
師が、頭痛薬と解熱剤、それに何かめまいを抑える薬を処方したとする。しかしそれで、その
患者は、その病気から、本当に解放されるのだろうか。

 漢方では、「本病」と「表(票)病」という言葉を使って、それを説明する。つまり、外に現れた
病状は、あくまでも「表(票)病」。もとにある、「本病」を治さないかぎり、病気はなおらないと説
く。

 その患者のばあいも、表面的な症状だけをみて治療をしても、意味がないということになる。
……ということで、話をもどす。

 たしかに人間の心理というのは、そのつど状況に応じて、ざまざまに変化する。しかしそのつ
ど、そうした表面的な心理に翻弄(ほんろう)されていたら、その人は、いったい、どうなるだろう
か? 大切なことは、基盤、つまり「基(もと)」を作ること。基があれば、そのつど、その人は、
基に応じて、ものを考え、行動することができる。

 言い訳など、する必要はない。もし言い訳をしなければならないような状況に置かれたら、口
を閉ざして、黙っていればよい。このばあいだったら、「ヘマをして……ごめん」と、あやまるだ
けでもよい。

 そもそも(言い訳)という(ウソ)で、人の心理をさぐろうという発想そのものが、おかしい。まち
がっている。つまりこんな心理テストで、人の心理など、さぐれない。あえて言うなら、「熱がある
から、白血病タイプ」「頭痛があるから、脳腫瘍タイプ」「めまいがあるから、インフルエンザタイ
プ」と言うのと同じくらい、どこか、おかしい。

 言うまでもなく、表面的な部分だけをみて、自分や他人を判断していると、やがて自分さえも、
何がなんだか、訳がわからなくなる。そのよい例が、「占い」ということになる。それについて
は、もう何度も書いてきたので、ここでは省略するが、今、この種の心理テストが氾濫(はんら
ん)しているので、あえて、こんなエッセーを書いてみた。

 ついでながら、批判ばかりしていてはいけない。私なら、この心理テストを、つぎのように作り
変える。

++++++++++++++++++

【問】
 
休日、朝早くから友達と待ち合わせをしたあなた。目覚まし時計は
セットしたはずなのに、うっかり寝過ごして遅刻をしてしまいました。
待たされた友だちは、見るからに機嫌が悪そう…。あなたなら、
どのようにして、友だちの機嫌をなおそうとしますか。

     A:楽しい話題をもちかけて、友だちを笑わす。
     B:食事をおごるなど、何かの埋めあわせを考える。
     C:機嫌をうかがいながら、静かに、友だちが機嫌をなおすのを待つ。
     D:友達のことは無視して、自分がよいように行動する。

 気になる診断結果は、後のコーナーで発表します。

++++++++++++++++++

Aを選んだ人……楽天的で、ものの考え方が、前向きな人。
Bを選んだ人……サービス精神が旺盛で、責任感の強い人。
Cを選んだ人……控えめで、忍耐強い人。裏方でがんばる人。
Dを選んだ人……自分勝手で、自己中心的。わがままな人。

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Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1231)

【どこへ行く、韓国?】

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ますます左傾化する、N政権。
「北の脅威は、過去のもの」と
言いつつ、その一方で、繰り広げる、
猛烈な反日キャンペーン。

韓国はいったい、どこへ行こうと
しているのか?

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●物理的制裁?

 韓国のN大統領が、日本に対して、「断固たる措置を取る」「物理的制裁も辞さず」などと述べ
た(4月25日)。竹島の領有権争いに関して、である。

 国際政治の世界で「物理的制裁」というのは、軍事行動、もしくは軍事的制裁を意味する。わ
かりやすく言えば、戦争ということ。

 同盟国とまではいかないにしても、同じ自由主義貿易体制の中で、共栄共存を図る韓国が、
ここまで言うとは! 日本政府は、「(こうした発言は)、韓国国内向けの発言」(4月26日)と、
表面的には、冷静に受け止めているようとしているようである。が、当然のことながら、対抗措
置も検討しているはず。

 経済制裁という、対抗措置である。韓国政府がここまで言い切った以上、つまり敵意をむき
出しにした以上、日本はもう、何も遠慮する必要はない。打倒、韓国! 打倒、N政権!、であ
る。

 その前に、韓国の経済状況はどうなっているのか。最近のデータをもとに、分析してみたい。

●韓国経済

 韓国の国内総生産(GDP)は、今年(06年)第一・4半期で、前期よりも1・3%の伸びを示
し、前年比6.2%となり、市場予想を上まって、伸びている(韓国銀行、4月25日発表)。

 つまり韓国は、この数年、5〜6%の伸び率で、経済発展を遂げていることになる(注1)。

 が、だからといって、喜ぶのは早い。GDPは、たしかに5〜6%の伸び率を示しているが、経
済成長率となると、第一・4半期では、1・6%にすぎない。つぎの第二・4半期では、1・0〜1・
2%へと減速すると予想されているので(注2)、1年を通してみれば、4〜5%の成長率という
ことになる。

 中国の経済成長率とは比べようもないが、韓国経済の規模から考えると、もう少し勢いがな
いと、中国経済にのみこまれてしまう可能性が高い。たとえば一番目新しいニュースとしては、
こんなニュースもある。

 現在、多国籍製薬企業が、相ついで、韓国から撤退をしつつあるという。たとえばソウルに工
場を構えていたファイザーも、4月18日、韓国での生産を中止すると発表した(注3)。

 薬品については、韓国はすでに、薬品輸入国に転落している。が、さらに悪夢はつづく。

 韓国経済は、日本と同じ、貿易、とくに物品の輸出によって成りたっている国である。そのた
め、少しでもウォン高になると、その影響はモロに現れる。

 そのウォン高が、このところ、さらに進行している。韓国企業にとって、為替相場上の損益分
岐点は、およそ1ドル、961ウォンと言われている(注4)。しかし4月19日のソウル外国為替
市場で、ウォンは、前日比8ウォン値上がりして、1ドル=945.6ウォンで取引を終えている
(注5)。

韓国の各企業が年初の事業計画の際に予想していたウォン相場は、1ドルが1002ウォンで
あり、最近のウォン高で、採算性が悪化したのを受け、一割の企業が輸出を縮小したり、断念
すると回答している。

 仮に1ドルが950ウォン水準がつづくばあい、各企業が予想する輸出減少率は、平均12%
になるという(同、注5)。

 その1例として、韓国を代表する、LG電子をみてみよう。

 LG電子ですら、今年(06年)の第一・4半期の営業利益は、2000億ウォン以下にとどまっ
たという。そのため、前期にくらべ、売り上げは、6・2%の減少、営業利益は9・7%の減少。さ
らに当期純益は、48・6%もさがっている(注6)。

 得意の携帯電話機分野での不振がつづいている。

 こうした国内事情を反映して、このところ、倒産件数もふえている。

 ロイターが伝えるところによると、韓国銀行(中央銀行)が18日発表した3月の同国の企業
倒産件数は、161件で、過去15年で最少だった2月の119件から、大幅に増加したという。
ちなみに1月は142件だった(注7)。

 伸びつづけるGDPと、経済成長率。しかしその裏で、倒産件数が増え、大企業は、軒並み純
利益を減らしている。では、実際のところ、韓国経済は、どのレベルにあるとみるべきなのか。

●今まではよかったが……

 これについては、韓国の東亜日報が、つぎのような記事を載せている。それをそのまま紹介
する。

……16日、韓国開発研究院(KDI)が発表した「経済展望報告書」に対して、大半はこのような
反応を見せはしないだろうか。2006年の半期別経済成長率が、第1四半期(1〜3月)6.
2%に(前年同期比)成長した後、第2四半期(4〜6月)5.8%、第3四半期(7〜9月)5.
1%、第4四半期(10〜12月)4.4%と引きつづき低下する展望となっているからだ。景気が
好転するのかと思われていたところへ、今年も下り坂ということだ。 

原油価格の高騰と消費の伸び悩みで、現在の景気回復の基調が長引くかどうか不透明という
ことだ。下半期に景気が天井をついた後、萎縮する可能性も排除できないという診断だ。 

KDIは今年の国内総生産(GDP)成長率を当初5.0%から5.3%に上方修正した。第1四半
期の6.2%という高成長率で力を得た。 

しかし、今年の経常収支黒字は41億ドルにとどまると予想した。昨年の黒字規模に比べ125
億ドル、当初の展望値に比べ83億ドルが及ばない規模だ。ウォン高と原油価格上昇など、貿
易条件が悪化したためだ。 

消費拡大とともに現在の景気上昇をけん引している輸出も、引き続き良好かどうかは未知数
だ。米国と中国の経済成長基調が鈍化する可能性もあり、現在のように輸出も好調ぶりが続く
かは不透明だと、KDIは指摘した。 

このような景気鈍化の可能性に対して、財政経済部(財経部)は「ダブルディップの可能性は少
ない」と予想した(東亜日報 4月17日)……と。 

少し読みづらい文章だが、「今まではよかったが、この先のことはわからない」と。かなり弱気
になっているのが、わかる。こうした中、日本の巻き返しにも、はげしいものがある。何といって
も、日本と韓国では、経済規模がちがう。「世界第11位の、先進国になった」と韓国ははしゃい
でいるが、その実、GDPで見るかぎり、韓国の経済規模は、日本の経済規模の、約7分の1。

 03年度の、日本のGDPは、約4兆3000億ドル。かたや韓国のGDPは、約6000億ドルに
過ぎない(注8)。

 韓国にとっての最大のライバルは日本ということになるが、まともに立ち向かっては、韓国に
は勝ち目はない。韓国は、日本の動向に神経をとがらせている。つぎの記事は、朝鮮日報の
社説として載せられたものだが、これを読んだだけでも、その危機感が伝わってくる。

●ライバルは、日本!

……日本の東芝がデジタル器機の保存装置として使われる、NAND型フラッシュメモリーの生
産量を増やすため、5000億円(およそ4兆2000億ウォン)相当の設備投資に乗り出すとい
う。300ミリウェハーを基準にして、現在1か月間8万枚に達する生産量を、2008年以降は1
か月間25万枚に拡大するという計画だ。 

 日本経済新聞の報道によると、東芝が「首位の韓国サムスン電子を追う」という。昨年のNA
ND型フラッシュメモリーの世界シェアは、サムスン電子が54・1%、東芝が223・4%、ハイニ
ックスが10・7%を占めていた。 

 今のところはサムスン電子が圧倒的なシェアでトップを守っているが、現在の地位を守るた
めの道のりは険しいものになりそうな状況だ。 

 ディスプレー産業では、すでに韓国の優位が崩れつつある。プラズマ・ディスプレー・パネル
(PDP)モジュール(半製品状態の画面部品)市場では、昨年第4四半期に日本の松下電器産
業が、28%のシェアを獲得し、サムスンSDI(26・7%)を追い抜いて、トップに踊り出た。 

 松下は引き続き生産ラインを拡充している反面、サムスンSDIは依然として投資計画さえ立
っておらず、その格差はさらに広がるものと見られる。韓国が日本を追い抜いてPDP部門のト
ップになってから、わずか2年で逆転されたのだ。 

 LCD部門では、台湾が韓国を追い抜いた。昨年第4四半期に10インチ以上の大型LCD(液
晶ディスプレー)パネルの生産量で、韓国は台湾にトップを座を奪われた。今年は年間生産量
でも台湾に追い抜かれる可能性がある。しかも、日本のシャープなどが、LCD部門への投資
拡大によって市場への攻勢を本格化している。 

 メモリー半導体や、PDP、LCDは、現在の韓国を下支えしている基幹輸出品目だ。日本企
業が投資に躊躇(ちゅうちょ)しているうちに、韓国企業が大胆な投資を行って世界市場を掌握
した製品だ。しかし、日本企業の反撃と台湾企業の追い上げによって、予断を許さない状況に
なってしまった。 

 独自の中核技術を持たず、主に量産技術に依存してきた韓国電子産業が、限界を露呈して
しまったのだ。設備投資を拡大することも重要だが、何よりも技術面で突破口を切り開く必要
がある……。(朝鮮日報 社説)

 ほかに今のところ、韓国は船の建造量では3年連続、1位。インターネット利用者数は2位。
自動車の生産量では6位となっている。

造船やインターネットは別として、最後の砦が、自動車産業ということになる。その自動車産業
は、どうか? が、このところ、韓国の自動車産業界は、何かと騒がしい。秘密資金問題が明
るみに出て、韓国最大手の自動車メーカー、「現代」グループの会長が、この24日にも、検察
当局に召還されるかもしれないという(注9)。

●岐路に立つ韓国経済

 以上、こうしてながめてみると、韓国経済は、今、大きな岐路に立たされていることがわか
る。もともと、その産業基盤は、弱い。朝鮮日報の社説が述べているように、「独自の中核技術
を持たず、主に量産技術に依存してきた韓国電子産業が、限界を露呈してしまった」というの
が、現実である。

 もしこのまま原油高がつづき、ウォン高がつづけば、韓国経済は、今年中にも崩壊するかも
しれない。相つぐ多国籍企業の、韓国からの撤退は、火事場から逃げるネズミのようなもの。
「あぶない!」と感じたからこそ、みなが、撤退を始めた。

●反日キャンペーンの、ブーメラン効果

 N政権が反日キャンペーンを繰り広げるのは、勝手だが、その日本が、このまま静かにして
いるとは、とうてい思われない。また、静かにしていてはいけない。

 日本がもつ最大の武器は、経済力である。その経済力をフルに使って、韓国経済と戦う。は
げしい言い方に聞こえるかもしれないが、N政権は、日本に対して、それ以上の敵意をむきだ
しにしている。

 わかりやすく言えば、韓国経済を破滅に導くことはないにしても、これ以上、韓国に遠慮する
ことはない。韓国から、日本企業の撤退、ジャパン・マネーの引きあげを臭わすくらいのことを
しても、悪くない。

 さらに韓国が得意とする、半導体、ディスプレイ、さらには最近を力を伸ばしつつある自動車
産業の分野をターゲットとして、日本における国内産業の助成、台湾、東南アジア、インドなど
での現地生産によるコストダウンを図る。

 すでに携帯電話での分野では、韓国は守勢に回り始めている。

 韓国の経済界がもっとも恐れているのは、「ブーメラン効果」である。つまりN政権が、反日キ
ャンペーンを繰り広げれば広げるほど、その反動として、韓国経済が打撃を受ける、と。それ
を心配している。であるならば、そのブーメラン効果とやらを、よりはっきりとわかる形で、韓国
に示してやる。

 私も、UNESCOの交換学生として韓国に渡って以来、韓国を自分の第二の母国のように、
ずっとながめてきた。が、今のN政権ほど、わけのわからない政権をみたことがない。ものの
考え方が、完全にうしろ向き。まるで、K国の金xx政権の手下のようでさえもある。

 しかしわざわざ反日のための大統領談話なるものを用意するとは! 余計なことかもしれな
いが、この尊大ぶった政治姿勢こそが、まさに儒教文明のなせるわざと考えてよい。

●恩を忘れたか、N大統領!

ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとしていた、
11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ドルを援助
した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。総計で、550億ド
ル!

 その結果、それまで33行あった韓国の主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、
失業者は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の日本
円になおせば、わずか5〜6兆円。それで、救済できたこと。(日本のばあい、あのN銀行救済
のためだけに、4兆円ものお金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1兆円!)

 しかし韓国が国家破綻を起こしたとき、それを助けたのが、ほかならぬ、この日本。世界銀
行にしても、アジア開発銀行にしても、日本が最大の出資国になっている。

 どうしてN大統領は、こうした日本の努力を、前向きに評価しないのか。ゆいいつ救いなの
は、N大統領の支持率が、20%前後。与党ウリ党の支持率が、10%前後で推移しているこ
と。さらに選挙をするたびに、野党ハンナラ党に、ベタ負けしているということ。N大統領イコー
ル、韓国ではないということ。

 ……などなど言いたいことは山のようにある。本当なら、もっと仲よくしたいのだが、こうまで
ことあるごとに、反日キャンペーンを繰り広げられると、そういう気持ちも、どこかへ吹っ飛んで
しまう。

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以上の原稿は、4月26日に書いたものです。
この原稿がマガジンに載るころには、
国際情勢は大きく変化しているかもしれません。

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【注1】……韓国銀行(中央銀行)が25日発表した第1・四半期の国内総生産(GDP)伸び率
は、季節調整済みで前期比1.3%、前年比6.2%となり、市場予想を上回った。

 ロイター調査による予想中央値は前期比1.1%、前年比6.0%となっていた。

 昨年第4・四半期は前期比1.6%、前年比5.3%、同第3・四半期は前期比1.6%、前年
比4.5%だった。(ヤフー、経済総合ニュース、4月25日)


【注2】……韓国銀行(中央銀行)の李成太・総裁は21日、第2・四半期の同国経済成長率
が、第1・四半期の前期比約1.6%から同1.0〜1.2%に減速し、年内は同様の成長ペース
が続く可能性があるとの見通しを示した。ただ、景気の大幅鈍化は見込んでいないとしてい
る。国会の委員会で語った。(ロイター 4月20日)

【注3】……多国籍製薬会社が相次いで韓国から工場を撤退させている中、ファイザーがソウ
ル工場での生産を中断することを決めた。これにより、医薬品の貿易赤字の規模が拡大する
のではないかとの懸念の声が高まっている。 

 ファイザーは18日、「本社の生産最適化戦略に基づき、ソウル工場の生産を中断することに
した」と発表した。同社のソウル工場では昨年、韓国ファイザーの売上総額の3分の1(1050
億ウォン)を占めた高血圧治療剤のノバスクなどを生産してきた。 

 同社関係者は「2度にわたる合併を経た後、世界各地の製造施設で重複生産されている製
品の生産を本社レベルで再調整してきた。生産の中断後も臨床研究をはじめとする研究開発
などに引き続き投資を拡大させていきたい」と明らかにした。 

 しかし、多国籍製薬会社の相次ぐ工場撤退により、国内で生産・販売していた製品が海外か
らの輸入品に切り替われば、医薬品分野における貿易赤字の幅はさらに大きくなるとの懸念
の声も強い。 

 昨年3月には韓国リリーと韓国ワイスが工場を売却、閉鎖しており、グラクソ・スミス・クライン
(GSK)も昨年6月に抗生剤工場を売却した。韓国ロシュも来年の上半期までに安城工場を閉
鎖するという。 

 韓国医薬品輸出入協会によると、昨年の医薬品輸入額は28億6900万ドルと、前年に比べ
220・4%増加した。一方、輸出は8億6400万ドルと、前年比11・1%増にとどまり、昨年の
貿易赤字は20億500万ドルと、前年度より25・0%も増加した。 

 製薬業界関係者は「今後、米韓自由貿易協定(FTA)の締結が実現すれば、医薬品の貿易
赤字はさらに増えるだろう。多国籍製薬会社の臨床試験を積極的に誘致し、赤字を相殺して
いく必要がある」と語った。 (朝鮮日報4月20日)


【注4】……韓国の中小輸出企業にとって、為替相場上の損益分岐点は、およそ1ドル961ウ
ォンであることが分かった。 

 19日、韓国輸出保険公社が今月3日から10日まで、中小輸出企業287か所を対象にアン
ケート調査した結果によると、損益分岐点になるドルに対するウォン相場は、繊維が967ウォ
ン、半導体955ウォン、鉄鋼953ウォンなど、平均961ウォンと集計された。 

 一方、各企業が年初の事業計画の際に予想していたウォン相場は1ドル・1002ウォンとな
り、最近のウォン高で採算性が悪化したのを受け、一割の企業が輸出を縮小したり、断念する
と回答した。 

 1ドル・950ウォン水準が続く場合、各企業が予想する輸出減少率は平均12%となった。
(朝鮮日報 4月20日)


【注5】……韓国ウォンが米ドルに対して4日連続で値上がりし、1ドル=950ウォン台を割っ
た。 米国の利上げ打ち止め観測による影響が大きい。 

  19日のソウル外国為替市場で、ウォンは前日比8ウォン値上がりした1ドル=945.6ウォ
ンで取引を終えた。 為替レートが終値基準で950ウォンを割ったのは97年10月27日(93
9.9ウォン)以来8年6カ月ぶり。 

  ウォンはこの4日間、対米ドルで15.9ウォン値上がりし、この日は海外でドルが売られてウ
ォン高を後押しした。 前日の国際外国為替市場でドル安に傾き、こうした雰囲気が国内外国
為替市場でのドル売りにつながった。(中央日報 4月19日)


【注6】……LG電子の今年第1四半期の営業利益が2000億ウォン以下にとどまったことがわ
かった。 

 LG電子は19日、「今年の第1四半期は、売上げ5兆7998億ウォン、営業利益1906億ウ
ォン、当期純利益1604億ウォンをそれぞれ記録した」と明らかにした。前期に比べ、売上げ
は6・2%、営業利益は9・7%、当期純益は48・6%下がった。特に、LG電子の四半期当たり
の営業利益が2000億ウォン以下にまで下がったのは、昨年の第2四半期(1436億ウォン)
以来となる。 

 実績の発表結果、携帯電話部門の不振が目立った。携帯電話部門の第1四半期の売上げ
は前期より25%減となる2兆329億ウォンにとどまった。営業利益は2174億ウォンの黒字
から89億ウォンの赤字に転落した。売上総額は昨年の同期に比べ40%増えたものの、高価
格帯製品の売り上げが減少したうえ、マーケティング費用が増加したことで、実績が悪化したと
LG電子は説明した。 

 一方で、生活家電部門では高級冷蔵庫と商業エアコン販売の好調に支えられ、売り上げ(1
兆5735億ウォン)と営業利益(1595億ウォン)が前四半期に比べて大きく増えた。デジタルTV
中心のデジタルディスプレイ部門は、PDP・LCDTVの需要拡大に支えられ、前期の807億ウ
ォンの赤字から295億ウォンの黒字転換に成功した。PCが主力のデジタルメディア部門で
は、売り上げ7643億ウォン、営業利益229億ウォンを記録した。 

 ウリ投資証券のイ・スンヒョク研究委員は「特に携帯電話部門が期待はずれの結果となっ
た。第2四半期には全体の営業利益が第1四半期より増えるなど、状況はやや好転するので
はないか」と話した。 (朝鮮日報 4月20日)


【注7】……[ソウル 18日 ロイター] 韓国銀行(中央銀行)が18日発表した3月の同国の企
業倒産件数は161件で、過去15年で最少だった2月の119件から大幅に増加した。1月は1
42件だった。

 中銀が同時に発表した3月の債務不履行率は0.02%と、4カ月連続で横ばいだった。


【注8】

2003年世界の、GDPトップ10 

1 アメリカ    10兆8572億ドル 
2 日本       4兆2907億ドル 
3 ドイツ      2兆3862億ドル 
4 イギリス     1兆7750億ドル 
5 フランス     1兆7316億ドル 
6 イタリア     1兆4554億ドル 
7 中国       1兆3720億ドル 
8 カナダ       8505億ドル 
9 スペイン      8271億ドル 
10 メキシコ      6116億ドル
11 韓国      6052億ドル


【注9】……秘密資金造成などの疑いで検察捜査を受けてきた、鄭夢九(チョン・モング)現代
起亜(ヒョンデ・キア)自動車グループ会長の召還調査が、24日に迫った中、内外から懸念の
声が広まっている。 

現代車グループの協力会社は検察に善処を訴える嘆願書を提出しており、海外のディーラー
らも、今回の捜査がもたらすイメージ墜落などの否定的な影響に神経を尖らせている。 

23日、財界と検察によると、現代車グループ部品供給協力会社の集まりである現代起亜車協
力会は、22日、同グループに対する善処を訴える嘆願書を検察に提出した。嘆願書には協力
会社約1800社の役職員5万人の署名が添付されている。 

李栄燮(イ・ヨンソプ)現代起亜車協力会会長らは嘆願書で、「現代起亜車の経営障害が本格
化し、対外信任度が下落したことで、否定的な波及効果が日増しに現実化しており、心配だ。
現代起亜自動車と運命を共にする協力会社としては、さらに大きな負担だ」と主張した。 

協力会社はまた、「捜査の結果、経営空白という最悪の状況を迎えることになったら、現代起
亜車のグローバル経営は根本から揺るがされることになり、協力会社にはその影響が数倍も
増幅されて響くだろう」とし、間接的に鄭会長と息子の鄭義宣(チョン・ウィソン)社長に対する善
処を要請した。 

しかし、一部のネチズンたちは、「国民の血税で巨額の負債を帳消ししてもらい、検察の捜査
を受けている状況で、反省どころか、下請け会社の職員を利用して救命嘆願をするなんて呆
気に取られる」という内容を、最高検察庁のホームページに書き込んだりしている。 

スコット・ピンク米国現代車ディーラー協会会長は、先週、米ロサンゼルスで開かれた北米地
域ディーラー代表会で、「米国の顧客がビジネス外の要素で、現代車の購買を留保するという
のは想像することさえ嫌なことだ」とし、「今回の事態が販売減少につながるのではないかと心
配している」と述べた。 

スコット会長は直ちに協会の名義で、今回の事態に対して懸念する文書を現代車本社に送る
計画だ。米カリフォルニア州担当ディーラーの「オブライアンオートモチーブ」社は、現代社本社
に送った文書で、「今回の事態は、現代社が海外で蓄積してきたブランドイメージに打撃を与
えかねない」と憂慮した。(東亜日報 4月24日)
(はやし浩司 韓国 経済 経済指標 韓国経済)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1232)

【BWより】

 今年度も、新しい生徒を迎えることができました。
 で、毎年、同じ話をしています。

 それを改めて、お伝えしたいです。

【1】ねらい

 BW教室は、何かを教える教室ではありません。学ぶことを好きにさせる教室です。そのあと
のことは、そのあとのこと。子どもたちに任せます。

 たとえば(ひらがな)。BWでは、ひらがなの書き方とか、そういうことは、教えません。ひらが
なを使った遊びを、教えます。つまり子どもたちに、「ひらがなは楽しい」「文字を書くのは楽し
い」と、そう思ってもらえるように指導します。

 そのあと子どもたちが家に帰って、「ママ、ひらがなを教えて!」とでも言ってくれれば、しめた
もの。それがまた、BWのねらいでもあります。

【2】こまかいことですが……

 BWでは、消しゴム、エンピツのキャップについては、使わないように指導しています。

 消しゴムですが、この時期、一度、消しゴムを使うクセが身についてしまうと、書いては消し
の、無駄な作業ばかりを繰りかえすようになります。

 私は「消し消し中毒」と呼んでいます。つまり(考えてから書く)のではなく、(一度、適当に書い
てみてから、考える)というようになってしまいます。

 ひどい子どもになると、1分間、ものを書いただけで、その1分間に、数回以上、消しゴムを
使います。

 こうなると、もう消しゴムを取り上げることもできません。無理に取り上げると、中毒患者が見
せる禁断症状のような症状を見せます。イライラするばかりで、何も書こうとしなくなります。

 もちろん時間に制約があるテストなどでは、決定的に不利になります。

 仮に1分間に4回、3秒ずつ消しゴムを使ったとすると、1時間では、12分間も、時間を無駄
にすることになります。

 また最近の大学の入試では、答よりも、その答にいたったプロセスを重要視するようになって
きています。(答よりも、どう考えたか)を重要視するということです。そのため、理科系のほと
んどの大学では、消しゴムの持参を禁止しています。

 以上のような理由から、幼児期から小学校の低学年期には、できるだけ消しゴムを使わせな
いように指導するのが、賢明かと思います。

 つぎにキャップですが、子どもは、鉛筆(鉛筆自体、危険な道具であることを忘れてはいけま
せん)を使うとき、そのキャップを、鉛筆の反対側にはめます。

 事故は、そのあとに起こります。

 鉛筆をしまうとき、そのキャップをはずそうと、子どもは、両手で、鉛筆とキャップを握ります。
そして左右に手を広げるようにして、キャップをはずします。

 そのとき、(子どもの体がやわらかいこともありますが)、鉛筆のとがった芯のほうが、となり
の子どものほうに向かって、ヒュイと飛んでいきます。

 私の教室でも、以前、そうした事故が数回、起きています。幸いにも、鉛筆の芯が刺さった先
が、頬とか、首だったのでよかったのですが、もしそれが目だったとしたら……。以来、キャップ
の使用を禁止するようにしています。

【3】参観について

 BWでは、おうちの方の参観は、自由にしていただいています。しかしつぎのルールは、お守
りください。

(1)私語、雑談は、絶対禁止!
(2)他人のお子さんのワークや作品をのぞいたりするのは、絶対禁止!
(3)お子さんに向かって、おうちの方が、目やジェスチャでサインを送るのは、絶対禁止!
(4)レッスンのあと、レッスンのことで、お子さんを叱ったり、注意したりするのは、絶対禁止!
(5)待ち合い的に、参観していただいても意味のない方の参観は、絶対、お断り! たとえば
お子さんの兄や姉などの同席参観は、お断り!

 以上、きびしいことを書きましたが、私にとっては、BWはまさに、真剣勝負の場です。私の教
育理論の実践の場です。一見、ふざけあいながら、レッスンを進めているように見えるかもしれ
ませんが、それもよく考えた上で、そうしています。どうか誤解なさらないでください。

 以上、こまごまとしたことを書きましたが、みなさんのお子さんを、すばらしいお子さんにしま
す! 約束します!! そんなわけで、どうか私のキャリアと実績を信じて、お子さんを、安心し
て、お任せください。
(はやし浩司 BW BWの指導 方針)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

●子どものウソ

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子どもはウソをつかないというのは、
幻想でしかない。

子どもは、ウソをつく。

しかしウソをつくからといって、
子どもを、頭から叱ってはいけない。

子どもは、ウソをつきながら、
親からの自立を学ぶ。

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 子どものウソにもいろいろある。そのウソだが、病的なものは別として、それを悪いこと決め
つけて、頭から否定してはいけない。

 子どもは、ウソをつくことで、自立を学び、ついで、自我の確立を学ぶ。それがわからなけれ
ば、あなた自身の子ども時代のことを思い出してみればよい。

 あなただって、ウソをついたことがあるはず。親をだましたときの、あの快感を覚えているは
ず。

 あえていうなら、ウソは、自我と超自我の間にある、緩衝材としての役割を果たす。超自我、
つまり頭がコチコチの、石部金吉のような人物でも困る。「石部金吉」というのは、三省堂の大
辞林によれば、「たださえ物がたいい石部金吉が、さらに金兜(かぶと)をかぶっているの意。
極端な堅物(かたぶつ)のたとえ」とある。

 冗談も言う。ユーモアもわかる。適当にふざけて、いいかげんにすますところは、いいかげん
にすます。そのためには、ときにウソもつく。……というのが、子どものウソである。

 反対に、「ウソは絶対ダメ!」と子どもを強く指導しすぎると、子どもは、融通のきかない子ど
もになってしまう。他人と、良好な人間関係が築けなくなってしまう。さらに言うなら、子どものウ
ソは、(何も、子どもにかぎらないが……)、車のハンドルがもつ、「遊び」のようなもの。この遊
びがあるから、車も運転できる。

 だから子どもがウソをついても、それなりにたしなめながらも、それ以上に、子どもを叱った
り、責めたりしてはいけない。一説によると、子どもは、満2歳前後から、ウソをつき始めるとい
う。ウソ寝、ウソ泣きなどが、その始まりとされる。

 こうした親側の心の度量の広さが、子どもを伸びやかにする。

 ついでながら、子どもの(いたずら)も、同じように考えてよい。

 BW教室(私の実験教室)の子どもたちは、本当にいたずらが好きである。少しでも油断する
と、つぎからつぎへといたずらを、する。

 私がトイレに行っている間に、ドアのカギをかけてしまう、時計の針を進める、イスのボルトを
抜く、などということは、茶飯事。書きだしたらキリがないが、ときに、あれっと驚くほど、知能的
ないたずらをする子どももいる。

 一応は叱りながらも、笑いとばす。そして私も、それ以上に、知能的ないたずらを、する。たと
えばデジタルカメラで顔をとり、それを加工して、子どもたちの顔を、ジーさん、バーさんにして
しまうなど。それをテレビ画面に、大きく写し出して見せたりする。

 こうしたやりあいが、子どもの心を開く。

 そうそうこの4月から入会した、Aさんの母親が、Aさんに、「BWは楽しい?」と聞いたところ、
Aさんは、こう答えたという。「BWは楽しいところではないよ。おもしろいところだよ」と。

 Aさんの母親が、そんなメモを書いて、私に渡してくれた。うれしかった。ホント!

 Aさん、ありがとう!!!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子供
の嘘 うそ ウソ 子供の心理 幼児の心理)

【ある母親からの相談より】

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ある母親から、BWのトイレは
危険(?)という相談があった。

それについて……。

++++++++++++++++

【Yさんより、はやし浩司へ】

おかげさまで子どもたちは昨日も
楽しく過ごしてきたようです。

今朝、子どもたちの登校後にいきなり母が
やってきて、何を言い出すかと思えば、
「はやし先生のところを止めなさい!」と。

理由を問うと、トイレがお教室の外にあり、
娘が一人でトイレに行くのは危ないからだと言います。
子どもが出入りすることを知っている変質者が、
待ち構えて連れ去るかもしれないと。

そんなことまで考えたら、生きてはいけないよと言ったら
「じゃあどうなってもいいのね」と不機嫌になりました。
大手の塾なら建物の廊下にトイレはありますが、
うちの近くの病院でも、不審者が侵入して器物損壊したケースも
ありますし、空港の国際線ターミナルじゃないんだから、
そこまでのセキュリティはどこにもありません。
子どもの通っている学校だって、そこまでする気に
なった犯罪者には対応不能です。

母もご存知のようにもともとああいう人なので、
言い出すと聞きません。しかもこのところ、
老化により、ますます妄想的になっています。

一応私が先生に伝えることで、納得させましたので、
なるべく授業中トイレに出た時、奥様に少し気を
配っていただくようにお願いします。
あんまり長いようなら見に行っていただくとか....。
あつかましい、ご無理なお願いで申し訳ありません。

もちろん、授業中のトイレはなるべく行かせないため、
出発前に必ず行きたくなくても行かせるように
私のほうでも対応いたします。

【はやし浩司より、Yさんへ】

おはようございます。

トイレのご心配、ですか???

BWは、3階にあり、トイレも3階にあり、
変質者が入ってくるスキはありません。

それにたいがい、内外に父母が立っていますので、
よけいに変質者が入ってくるスキはありません。

少し前、レストランの上の教室は火事のとき
心配だと、訴えてきた母親がいました。

しかしこれも、心配ご無用!

今度おいでになるとき、廊下(2階)から階段の
カベをたたいてみてください。

廊下と2階の部分だけは、鉄骨ではなく、鉄筋になって
います。

またドアも、鉄製の防火ドアになっています。

さらに昨年、それを心配して、大家さんが、
70万円をかけて、火災報知器をつけてくれました。

階下で火事があれば、教室の中でベルが鳴るように
なっています。

なお、お母さんは、誤解なさっているのではないかと
思います。

子どもが、「BWのトイレは外」と言ったのを、
「建物の外」と、です。

BW教室のトイレは、BW教室のある部屋からドアを
出て右側のところ、つまり3階の廊下にあります。

そう言えば、昨日、レッスンの途中で、トイレに行くと
言った子どもがいましたので、

「横断歩道を渡るんだよ。交通事故に気をつけるのだよ」と
からかってやったのを覚えています。もちろん冗談で
そう言ったのですが……。

それをお母さんは、真に受けたのではないかと
思います。

また何か、ご心配なことがあれば、連絡してください。
では、

はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【子どもの人格論】

●まず、はじめに……

+++++++++++++++++

人には、(本当にすばらしい人)と、
(見かけ上、すばらしい人)がいる。

そうした(ちがい)は、どこから、
どう生まれるのか?

また、どうすれば、その(すばらしい
人)になれるのか?

+++++++++++++++++

●Bという女性教師

 ありのままを書く。

 私が昔勤めていた幼稚園に、Bという女性教師がいた。当時年齢は50歳くらいではなかった
か。

 そのBという女性教師が、ある午後、職員室へ飛びこんできて、こう言った。はき捨てるような
言い方だった。

 「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさ
ないんだから、いやになっちゃう!」と。

 Bという女性教師は、そういう教師だった。言いたいことを、スケズケと言った。私も、2度ほ
ど、何かのことで意見を言うと、「生意気、言うんじゃないよ!」と、平手で、頬を殴られたことが
ある。

 で、そういう教師の話をすると、おおかたの人は、「何という教師だ!」と、思うにちがいない。
「教師として、あるまじき人間」と。

 私もそう思っていた。ごく最近まで、そう思っていた。しかしBという教師は、いつも本音で生き
ていた。知的レベルは、それほど高くなかったが、その教師の教育論には、一種独特のものが
あり、何かと参考になった。

●自我構造理論

 一方、その私はどうかというと、心の奥深くでは、同じように思うこともある。しかしそう思った
とたん、「邪悪な思い」と片づけて、それをまた心のどこかにしまいこんでしまう。

 こうした心の作用は、フロイトの、「イド&自我論」(=自我構造理論)を使うと、うまく説明でき
る。

 私たちの心の奥底には、「イド」と呼ばれる、欲望のかたまりがある。人間の生きるエネルギ
ーの原点にはなっているが、そこはドロドロとした欲望のかたまり。論理もなければ、理性もな
い。衝動的に快楽を求め、そのつど、人間の心をウラから操る。

 そのイドを、コントロールするのが、「自我」ということになる。つまり「私は私」という理性であ
る。その自我が、混沌(こんとん)として、まとまりのない、イドの働きを抑制する。

 そこでこの自我構造理論を、Bという女性教師に当てはめて考えてみると、こうなる。

 イドの世界では、その女性教師は、いつも何かの見かえりをもとめて、その母親の子どもと
接していたことになる。多くの人は、「教師」というと、聖職を意識し、「聖職であるなら、そういう
ことは考えないはず」と思うかもしれない。

 しかし教師といっても、ふつうの人間。ばあいによっては、ただの人間。あなたやあなたの夫
(妻)と、どこもちがわない。またそうであるからといって、まちがっているということにもならな
い。

 Bという女性教師は、それを自然な形で(?)、ありのままの自分を表現したにすぎない。

 「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさ
ないんだから、いやになっちゃう!」と。

●イドと自我の戦い
 
しかしあえて言うなら、それはイドに操られた言葉ということになる。もう少し自我の働きが強け
れば、仮にそう思ったとしても、言葉として発することまではしなかったと思われる。

 同じようなことは、EQ論(emotional quotient、心の知能指数)でも、説明できる。

 EQ論によれば、人格の完成度は、(1)自己管理能力の有無、(2)脱自己中心性の程度、
(3)他人との良好な人間関係の有無の、3つをみて、判断する。(心理学者のゴールマンは、
(1)自分の情動を知る、(2)感情のコントロール、(3)自己の動機づけ、(4)他人への思いや
り、(5)人間関係の5つをあげた。)

 つまり自己管理能力が弱いということは、それだけ人格の完成度が低いということになる。

 (言うべきか)(言うべきでないか)ということになると、Bという女性教師は、そういうことを、職
員室という場では、言うべきではなかった。たとえそう思ったとしても、だ。つまりその分だけ、B
という女性教師は、人格の完成度が、低かったということになる。

 が、その一方で、こういう問題も、ある。

●教師という仮面

 教師という職業は、仮面(ペルソナ)をかぶらないと、できない職業といってもよい。おおかた
の人は、教師というと、それなりに人格の完成度の高い人間であるという前提で、ものを考え
る。接する。

 そのため教師自身も、「私は教師である」という仮面をかぶる。かぶって、親たちと接する。し
かしそれは同時に、教師という人間がもつ人間性を、バラバラにしてしまう可能性がある。こん
なことまでフロイトが考えたかどうかは、私は知らないが、自我とイドを、まったく分離してしまう
ということは、危険なことでもある。

 ばあいによっては、私が私でなくなってしまう。

 そこまで深刻ではないにしても、仮面をかぶるということ自体、疲れる。よい人間を演じている
と、それだけでも心は緊張状態に置かれる。人間の心は、そうした緊張状態には、弱い。長く、
つづけることはできない。

 そこでふと我にかえって、自分に気づく。そしてはき捨てる。

 「あの親ったら、あれほど息子のめんどうをみてやったのに、盆暮れのつけ届けひとつよこさ
ないんだから、いやになっちゃう!」と。

●自己管理能力

もしそのとき、Bという女性教師が、自我の力で、イドを抑えこんでしまっていたとしたら……。
外見上は、すばらしい教師のままでいられたかもしれない。私たちに対する印象も、それほど
悪くしないで、すんだかもしれない。

 で、この(ちがい)こそが、つまりは、(真の人間性)ということになる。

 人には、(本当にすばらしい人)と、(見かけ上、すばらしい人)がいる。その(ちがい)はどこ
にあるかと言えば、イドに対する自我の管理能力にあるということになる。もっと言えば、自我
のもつ管理能力がすぐれている人を、(本当にすばらしい人)という。そうでない人を、(見かけ
上、すばらしい人)という。

 さて話は、ぐんと現実的になるが、私がここに書いたことを、もっと理解してもらうために、こ
んな話を書きたい。

●思春期に肥大化するイド

 昨夜も、自転車で変える途中、こんなことがあった。

 私が小さな四つ角で信号待ちをしていると、2人乗りの自転車が、私を追い抜いていった。黒
い学生服を着ていた。高校生たちである。しかも無灯火。

 その2人乗りの自転車は、一瞬、信号の前でためらった様子は見せたものの、左右に車が
いないとわかると、そのまま信号を無視して、道路を渡っていった。

 最初、私は、「ああいう子どもにも、幼児期はあったはず」と思った。皮肉なことに、幼児ほ
ど、ルールを守る。一度、教えると、それを忠実に守る。しかし思春期に達すると、子どもは、と
たんにだらしなくなる。行動が衝動的になり、快楽を追い求めるようになる。

 なぜか?

 それもフロイトの自我構造理論を当てはめて考えてみると、理解できる。

 思春期になると、イドが肥大化し、働きが活発になる。先にも書いたように、そこはドロドロと
した欲望のかたまり。そのため自我の働きが、相対的に弱くなる。結果、自我のもつ管理能力
が低下する。

 言うなれば、自転車に2人乗りをして、信号を無視して道路を渡った子どもは、(本当にすば
らしい人)の、反対側にいる人間ということになる。人間というよりは、サルに近い(?)。

●では……

 ではどうすれば、私たちは、(本当にすばらしい人間)になれるか。

 最初に、自分の心の奥深くに居座るイドというものが、どういうものであるかを知らなければ
ならない。これはあくまでも私の感覚だが、それはモヤモヤとしていて、つかみどころがない。ド
ロドロしている。欲望のかたまり。が、イドを否定してはいけない。イドは、私の生きる原動力と
なっている。「ああしたい」「こうしたい」という思いも、そこから生まれる。

 そのイドが、ときとして、四方八方へ、自ら飛び散ろうとする。「お金がほしい」「女を抱きたい」
「名誉がほしい」「地位がほしい」……、と。

 イドはたとえて言うなら、車のエンジンのようなもの。あるいはガソリンとエンジンのようなも
の。

 そのエンジンにシャフトをつけて、車輪に動力を伝える。制御装置をつけて、ハンドルをとりつ
ける。車体を載せて、ボデーを取りつける。この部分、つまりエンジンをコントロールする部分
が、自我ということになる。あまりよいたとえではないかもしれないが、しかしそう考えると、(私)
というもが、何となくわかってくる。つまり(私)というのは、そうしてできあがった、(車)のような
もの、ということになる。

 つまり、その車が、しっかりと作られ、整備されている人が、(本当にすばらしい人)ということ
になるし、そうでない人を、そうでない人という。そうでない人の車は、ボロボロで、故障ばかり
繰りかえす……。

 冒頭の話にもどす。

 Bという女性教師だが、今は、他界して久しい。が、私には、強烈な印象を残して、この世を
去っていった。

 その教師を思い出しながら、今でも、ときどき、ふとこう思う。

 「あの先生のように、本音をむきだしにして生きることができたら、私ももっと気楽に生きるこ
とができるのになあ」と。

 ……どうやら私はまだ、どこかで仮面をかぶったまま生きているらしい。心のどこかではその
教師を否定しながら、その一方で、あこがれに似た気持ちをいだく。

今の私には、(本当にすばらしい人)になるのは、とても無理だと思う。ホント!
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自我
構造理論 イド EQ EQ論 心の知能指数)


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以前書いた原稿を
再掲載します。

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【子どもの人格論】

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
(2)自己認知力
(3)自己統制力
(4)粘り強さ
(5)楽観性
(6)柔軟性

 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

 順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(5)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(6)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。(がんこ)を考える前に、
それについて、書いたのが、つぎの原稿である。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの人格 子供の人格論)


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●子どもの意地

 こんな子ども(年長男児)がいた。風邪をひいて熱を出しているにもかかわらず、「幼稚園へ
行く」と。休まずに行くと、賞がもらえるからだ。

そこで母親はその子どもをつれて幼稚園へ行った。顔だけ出して帰るつもりだった。しかし幼
稚園へ行くと、その子どもは今度は「帰るのはいやだ」と言い出した。子どもながらに、それは
ずるいことだと思ったのだろう。結局その母親は、昼の給食の時間まで、幼稚園にいることに
なった。またこんな子ども(年長男児)もいた。

 レストランで、その子どもが「もう一枚ピザを食べる」と言い出した。そこでお母さんが、「お兄
ちゃんと半分ずつならいい」と言ったのだが、「どうしてももう一枚食べる」と。そこで母親はもう
一枚ピザを頼んだのだが、その子どもはヒーヒー言いながら、そのピザを食べたという。

「おとなでも二枚はきついのに……」と、その母親は笑っていた。
 
今、こういう意地っ張りな子どもが少なくなった。丸くなったというか、やさしくなった。心理学の
世界では、意地のことを「自我」という。英語では、EGOとか、SELFとかいう。少し昔の日本人
は、「根性」といった。(今でも「根性」という言葉を使うが、どこか暴力的で、私は好きではない
が……。)

教える側からすると、このタイプの子どもは、人間としての輪郭がたいへんハッキリとしている。
ワーワーと自己主張するが、ウラがなく、扱いやすい。正義感も強い。

 ただし意地とがんこ。さらに意地とわがままは区別する。カラに閉じこもり、融通がきかなくな
ることをがんこという。毎朝、同じズボンでないと幼稚園へ行かないというのは、がんこ。また
「あれを買って!」「買って!」と泣き叫ぶのは、わがままということになる。

がんこについては、別のところで考えるが、わがままは一般的には、無視するという方法で対
処する。「わがままを言っても、だれも相手にしない」という雰囲気(ふんいき)を大切にする。

++++++++++++++++++

 心に何か、問題が起きると、子どもは、(がんこ)になる。ある特定の、ささいなことにこだわ
り、そこから一歩も、抜け出られなくなる。

 よく知られた例に、かん黙児や自閉症児がいる。アスペルガー障害児の子どもも、異常なこ
だわりを見せることもある。こうしたこだわりにもとづく行動を、「固執行動」という。

 ある特定の席でないとすわらない。特定のスカートでないと、外出しない。お迎えの先生に、
一言も口をきかない。学校へ行くのがいやだと、玄関先で、かたまってしまう、など。

 こうした(がんこさ)が、なぜ起きるかという問題はさておき、子どもが、こうした(がんこさ)を
示したら、まず家庭環境を猛省する。ほとんどのばあい、親は、それを「わがまま」と決めてか
かって、最初の段階で、無理をする。この無理が、子どもの心をゆがめる。症状をこじらせる。

 一方、人格の完成度の高い子どもほど、柔軟なものの考え方ができる。その場に応じて、臨
機応変に、ものごとに対処する。趣味や特技も豊富で、友人も多い。そのため、より柔軟な子
どもは、それだけ社会適応性がすぐれているということになる。

 一つの目安としては、友人関係を見ると言う方法がある。(だから「社会適応性」というが…
…。)

 友人の数が多く、いろいろなタイプの友人と、広く交際できると言うのであれば、ここでいう人
格の完成度が高い、つまり、社会適応性のすぐれた子どもということになる。

【子ども診断テスト】

(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )してはいけないこと、すべきことを、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。

 ここにあげた項目について、「ほぼ、そうだ」というのであれば、社会適応性のすぐれた子ども
とみる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 社会
適応性 サロベイ サロヴェイ EQ EQ論 人格の完成度)


++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

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【子どもの心の発達・診断テスト】

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【社会適応性・EQ検査】(P・サロヴェイ)

●社会適応性

 子どもの社会適応性は、つぎの5つをみて、判断する(サロベイほか)。

(1)共感性
Q:友だちに、何か、手伝いを頼まれました。そのとき、あなたの子どもは……。

(1)いつも喜んでするようだ。
(2)ときとばあいによるようだ。
(3)いやがってしないことが多い。


(2)自己認知力
Q:親どうしが会話を始めました。大切な話をしています。そのとき、あなたの子どもは……

(1)雰囲気を察して、静かに待っている。(4点)
(2)しばらくすると、いつものように騒ぎだす。(2点)
(3)聞き分けガなく、「帰ろう」とか言って、親を困らせる。(0点)


(3)自己統制力
Q;冷蔵庫にあなたの子どものほしがりそうな食べ物があります。そのとき、あなたの子どもは
……。

○親が「いい」と言うまで、食べない。安心していることができる。(4点)
○ときどき、親の目を盗んで、食べてしまうことがある。(2点)
○まったくアテにならない。親がいないと、好き勝手なことをする。(0点)


(4)粘り強さ
Q:子どもが自ら進んで、何かを作り始めました。そのとき、あなたの子どもは……。

○最後まで、何だかんだと言いながらも、仕あげる。(4点)
○だいたいは、仕あげるが、途中で投げだすこともある。(2点)
○たいていいつも、途中で投げだす。あきっぽいところがある。(0点)

(5)楽観性
Q:あなたの子どもが、何かのことで、大きな失敗をしました。そのとき、あなたの子どもは…
…。

○割と早く、ケロッとして、忘れてしまうようだ。クヨクヨしない。(4点)
○ときどき思い悩むことはあるようだが、つぎの行動に移ることができる。(2点)
○いつまでもそれを苦にして、前に進めないときが多い。(0点)
 

(6)柔軟性
Q:あなたの子どもの日常生活を見たとき、あなたの子どもは……

○友だちも多く、多芸多才。いつも変わったことを楽しんでいる。(4点)
○友だちは少ないほう。趣味も、限られている。(2点)
○何かにこだわることがある。がんこ。融通がきかない。(0点)

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(  )友だちのための仕事や労役を、好んで引き受ける(共感性)。
(  )自分の立場を、いつもよくわきまえている(自己認知力)。
(  )小遣いを貯金する。ほしいものに対して、がまん強い(自己統制力)。
(  )がんばって、ものごとを仕上げることがよくある(粘り強さ)。
(  )まちがえても、あまり気にしない。平気といった感じ(楽観性)。
(  )友人が多い。誕生日パーティによく招待される(社会適応性)。
(  )趣味が豊富で、何でもござれという感じ(柔軟性)。


 これら6つの要素が、ほどよくそなわっていれば、その子どもは、人間的に、完成度の高い子
どもとみる(「EQ論」)。

***************************

順に考えてみよう。

(1)共感性

 人格の完成度は、内面化、つまり精神の完成度をもってもる。その一つのバロメーターが、
「共感性」ということになる。

 つまりは、どの程度、相手の立場で、相手の心の状態になって、その相手の苦しみ、悲し
み、悩みを、共感できるかどうかということ。

 その反対側に位置するのが、自己中心性である。

 乳幼児期は、子どもは、総じて自己中心的なものの考え方をする。しかし成長とともに、その
自己中心性から脱却する。「利己から利他への転換」と私は呼んでいる。

 が、中には、その自己中心性から、脱却できないまま、おとなになる子どももいる。さらにこの
自己中心性が、おとなになるにつれて、周囲の社会観と融合して、悪玉親意識、権威主義、世
間体意識へと、変質することもある。

(2)自己認知力

 ここでいう「自己認知能力」は、「私はどんな人間なのか」「何をすべき人間なのか」「私は何を
したいのか」ということを、客観的に認知する能力をいう。

 この自己認知能力が、弱い子どもは、おとなから見ると、いわゆる「何を考えているかわから
ない子ども」といった、印象を与えるようになる。どこかぐずぐずしていて、はっきりしない。優柔
不断。

反対に、独善、独断、排他性、偏見などを、もつこともある。自分のしていること、言っているこ
とを客観的に認知することができないため、子どもは、猪突猛進型の生き方を示すことが多
い。わがままで、横柄になることも、珍しくない。

(3)自己統制力

 すべきことと、してはいけないことを、冷静に判断し、その判断に従って行動する。子どもの
ばあい、自己のコントロール力をみれば、それがわかる。

 たとえば自己統制力のある子どもは、お年玉を手にしても、それを貯金したり、さらにため
て、もっと高価なものを買い求めようとしたりする。

 が、この自己統制力のない子どもは、手にしたお金を、その場で、その場の楽しみだけのた
めに使ってしまったりする。あるいは親が、「食べてはだめ」と言っているにもかかわらず、お菓
子をみな、食べてしまうなど。

 感情のコントロールも、この自己統制力に含まれる。平気で相手をキズつける言葉を口にし
たり、感情のおもむくまま、好き勝手なことをするなど。もしそうであれば、自己統制力の弱い
子どもとみる。

 ふつう自己統制力は、(1)行動面の統制力、(2)精神面の統制力、(3)感情面の統制力に
分けて考える。

(4)粘り強さ

 短気というのは、それ自体が、人格的な欠陥と考えてよい。このことは、子どもの世界を見て
いると、よくわかる。見た目の能力に、まどわされてはいけない。

 能力的に優秀な子どもでも、短気な子どもはいくらでもいる一方、能力的にかなり問題のある
子どもでも、短気な子どもは多い。

 集中力がつづかないというよりは、精神的な緊張感が持続できない。そのため、短気にな
る。中には、単純作業を反復的にさせたりすると、突然、狂乱状態になって、泣き叫ぶ子どもも
いる。A障害という障害をもった子どもに、ときどき見られる症状である。

 この粘り強さこそが、その子どもの、忍耐力ということになる。

(1)楽観性

 まちがいをすなおに認める。失敗をすなおに認める。あとはそれをすぐ忘れて、前向きに、も
のを考えていく。

 それができる子どもには、何でもないことだが、心にゆがみのある子どもは、おかしなところ
で、それにこだわったり、ひがんだり、いじけたりする。クヨクヨと気にしたり、悩んだりすること
もある。

 簡単な例としては、何かのことでまちがえたようなときを、それを見れば、わかる。

 ハハハと笑ってすます子どもと、深刻に思い悩んでしまう子どもがいる。その場の雰囲気にも
よるが、ふと見せる(こだわり)を観察して、それを判断する。

 たとえば私のワイフなどは、ほとんど、ものごとには、こだわらない性質である。楽観的と言え
ば、楽観的。超・楽観的。

 先日も、「お前、がんになったら、どうする?」と聞くと、「なおせばいいじゃなア〜い」と。そこで
「がんは、こわい病気だよ」と言うと、「今じゃ、めったに死なないわよ」と。さらに、「なおらなか
ったら?」と聞くと、「そのときは、そのときよ。ジタバタしても、しかたないでしょう」と。

 冗談を言っているのかと思うときもあるが、ワイフは、本気。つまり、そういうふうに、考える人
もいる。

(2)柔軟性

 子どもの世界でも、(がんこ)な面を見せたら、警戒する。

 この(がんこ)は、(意地)、さらに(わがまま)とは、区別して考える。

 一般論として、(がんこ)は、子どもの心の発達には、好ましいことではない。かたくなになる、
かたまる、がんこになる。こうした行動を、固執行動という。広く、情緒に何らかの問題がある
子どもは、何らかの固執行動を見せることが多い。

 朝、幼稚園の先生が、自宅まで迎えにくるのだが、3年間、ただの一度もあいさつをしなかっ
た子どもがいた。

 いつも青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった子どもがいた。その子どもは、幼稚園で
も、決まった席でないと、絶対にすわろうとしなかった。

 何かの問題を解いて、先生が、「やりなおしてみよう」と声をかけただけで、かたまってしまう
子どもがいた。

 先生が、「今日はいい天気だね」と声をかけたとき、「雲があるから、いい天気ではない」と、
最後までがんばった子どもがいた。

 症状は千差万別だが、子どもの柔軟性は、柔軟でない子どもと比較して知ることができる。
柔軟な子どもは、ごく自然な形で、集団の中で、行動できる。

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 EQ(Emotional Intelligence Quotient)は、アメリカのイエール大学心理学部教授。ピーター・
サロヴェイ博士と、ニューハンプシャー大学心理学部教授ジョン・メイヤー博士によって理論化
された概念で、日本では「情動の知能指数」「心の知能指数」と訳されている(Emotional Ed
ucation、by JESDA Websiteより転写。)

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【EQ】

 ピーター・サロヴェイ(アメリカ・イエール大学心理学部教授)の説く、「EQ(Emotional Intell
igence Quotient)」、つまり、「情動の知能指数」では、主に、つぎの3点を重視する。

(1)自己管理能力
(2)良好な対人関係
(3)他者との良好な共感性

 ここではP・サロヴェイのEQ論を、少し発展させて考えてみたい。

 自己管理能力には、行動面の管理能力、精神面の管理能力、そして感情面の管理能力が
含まれる。

○行動面の管理能力

 行動も、精神によって左右されるというのであれば、行動面の管理能力は、精神面の管理能
力ということになる。が、精神面だけの管理能力だけでは、行動面の管理能力は、果たせな
い。

 たとえば、「銀行強盗でもして、大金を手に入れてみたい」と思うことと、実際、それを行動に
移すことの間には、大きな距離がある。実際、仲間と組んで、強盗をする段階になっても、その
時点で、これまた迷うかもしれない。

 精神的な決断イコール、行動というわけではない。たとえば行動面の管理能力が崩壊した例
としては、自傷行為がある。突然、高いところから、発作的に飛びおりるなど。その人の生死に
かかわる問題でありながら、そのコントロールができなくなってしまう。広く、自殺行為も、それ
に含まれるかもしれない。

 もう少し日常的な例として、寒い夜、ジョッギングに出かけるという場面を考えてみよう。

そういうときというのは、「寒いからいやだ」という抵抗感と、「健康のためにはしたほうがよい」
という、二つの思いが、心の中で、真正面から対立する。ジョッギングに行くにしても、「いやだ」
という思いと戦わねばならない。

 さらに反対に、悪の道から、自分を遠ざけるというのも、これに含まれる。タバコをすすめら
れて、そのままタバコを吸い始める子どもと、そうでない子どもがいる。悪の道に染まりやすい
子どもは、それだけ行動の管理能力の弱い子どもとみる。

 こうして考えてみると、私たちの行動は、いつも(すべきこと・してはいけないこと)という、行動
面の管理能力によって、管理されているのがわかる。それがしっかりとできるかどうかで、その
人の人格の完成度を知ることができる。

 この点について、フロイトも着目し、行動面の管理能力の高い人を、「超自我の人」、「自我の
人」、そうでない人を、「エスの人」と呼んでいる。

○精神面の管理能力

 私には、いくつかの恐怖症がある。閉所恐怖症、高所恐怖症にはじまって、スピード恐怖症、
飛行機恐怖症など。

 精神的な欠陥もある。

 私のばあい、いくつか問題が重なって起きたりすると、その大小、軽重が、正確に判断できな
くなってしまう。それは書庫で、同時に、いくつかのものをさがすときの心理状態に似ている。
(私は、子どものころから、さがじものが苦手。かんしゃく発作のある子どもだったかもしれな
い。)

 具体的には、パニック状態になってしまう。

 こうした精神作用が、いつも私を取り巻いていて、そのつど、私の精神状態に影響を与える。

 そこで大切なことは、いつもそういう自分の精神状態を客観的に把握して、自分自身をコント
ロールしていくということ。

 たとえば乱暴な運転をするタクシーに乗ったとする。私は、スピード恐怖症だから、そういうと
き、座席に深く頭を沈め、深呼吸を繰りかえす。スピードがこわいというより、そんなわけで、そ
ういうタクシーに乗ると、神経をすり減らす。ときには、タクシーをおりたとたん、ヘナヘナと地面
にすわりこんでしまうこともある。

 そういうとき、私は、精神のコントロールのむずかしさを、あらためて、思い知らされる。「わか
っているけど、どうにもならない」という状態か。つまりこの点については、私の人格の完成度
は、低いということになる。

○感情面の管理能力

 「つい、カーッとなってしまって……」と言う人は、それだけ感情面の管理能力の低い人という
ことになる。

 この感情面の管理能力で問題になるのは、その管理能力というよりは、その能力がないこと
により、良好な人間関係が結べなくなってしまうということ。私の知りあいの中にも、ふだんは、
快活で明るいのだが、ちょっとしたことで、激怒して、怒鳴り散らす人がいる。

 つきあう側としては、そういう人は、不安でならない。だから結果として、遠ざかる。その人は
いつも、私に電話をかけてきて、「遊びにこい」と言う。しかし、私としては、どうしても足が遠の
いてしまう。

 しかし人間は、まさに感情の動物。そのつど、喜怒哀楽の情を表現しながら、無数のドラマを
つくっていく。感情を否定してはいけない。問題は、その感情を、どう管理するかである。

 私のばあい、私のワイフと比較しても、そのつど、感情に流されやすい人間である。(ワイフ
は、感情的には、きわめて完成度の高い女性である。結婚してから30年近くになるが、感情
的に混乱状態になって、ワーワーと泣きわめく姿を見たことがない。大声を出して、相手を罵倒
したのを、見たことがない。)

 一方、私は、いつも、大声を出して、何やら騒いでいる。「つい、カーッとなってしまって……」
ということが、よくある。つまり感情の管理能力が、低い。

 が、こうした欠陥は、簡単には、なおらない。自分でもなおそうと思ったことはあるが、結局
は、だめだった。

 で、つぎに私がしたことは、そういう欠陥が私にはあると認めたこと。認めた上で、そのつど、
自分の感情と戦うようにしたこと。そういう点では、ものをこうして書くというのは。とてもよいこと
だと思う。書きながら、自分を冷静に見つめることができる。

 また感情的になったときは、その場では、判断するのを、ひかえる。たいていは黙って、その
場をやり過ごす。「今のぼくは、本当のぼくではないぞ」と、である。

(2)の「良好な対人関係」と、(3)の「他者との良好な共感性」については、また別の機会に考
えてみたい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 管理
能力 人格の完成度 サロヴェイ 行動の管理能力 EQ EQ論 人格の完成)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1233)

●このままでは、戦争!

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ますます雲行きがあやしくなってきた、
日韓関係!

日本のK首相が、Y神社を参拝するたびに、
戦争への足音が高まる。

+++++++++++++++++

 日本の首相が、日本国内で何をしようが、日本の勝手……という論理は、韓国や中国では、
通用しない。日本の首相がY神社を参拝するというのは、ドイツの首相が、ヒトラーの墓参りを
するようなもの。少なくとも、韓国や中国の人たちは、そうみている。

 で、今度の竹島問題。

 日本の政治家たちは、あまりにも無知。無学。無神経。かろうじて今回は、ことなきをえた
が、それについて、日本の政治家たちは、「N大統領の談話は、国内向けのもの」「反日運動
は、選挙のため」と。それに対して、韓国のN大統領は、またまた大激怒。「話にならない」と、
反駁(はんばく)。

 このまま行けば、日本と韓国は、まちがいなく一戦を交えることになる。「こちらが何もしなけ
れば、相手も何もしないだろう」と考えるのは、あまりにも、甘い。

 もちろんその背景には、戦後、ずっとくすぶりつづけている、歴史認識問題がある。加害者で
ある日本は、それが加害者の常として、害を与えたということを忘れやすい。一方、被害者で
ある韓国や中国は、それが被害者の常として、害を与えられたということを、いつまでも覚えて
いる。

 が、それだけではない。

 「独立を自分たちでなしえなかった」「日本ごときに、自分たちの国が蹂躙(じゅうりん)された」
という、彼らが怨念としてもつ屈辱感には、ものすごいものがある。それがわからなければ、一
度でよいから、韓国や中国に住んで、向こうの国からこの日本をながめてみることだ。

 韓国のN大統領は、その独立戦争を、自分たちの手で成し遂げたいと考えている。またそう
いう方向性でもって、国を動かしている。

 ただ単なる島の領有権問題だと考えていると、日本は、とんでもない大やけどをすることにな
る。

 何が、平和だ! 

 こうした危機に際して、日本の政治家たちのノー天気ぶりには、ただただ、あきれるばかり。

 もしここで日本が韓国と一戦を交えれば、その戦争は、日韓戦争だけでは終わらない。当然
のことながら、そこにK国が加わる。つまりその時点から、日本対、韓国とK国の連合国という
戦争になる。

 さらにもしそうなれば、日本に勝ち目はない。絶対にない。「日本には自衛隊がある」と説く人
もいるが、自衛隊には、韓国とK国の連合軍を防ぐ力はない。加えて韓国との戦争ということに
なれば、アメリカは、手も足も出せない。

 韓国とK国を合わせれば、200万人の大軍になる。しかもかれらは、完全徴兵制によって、
国民すべてが、軍人として一から鍛えられている。一方、日本の自衛隊は、完全にサラリーマ
ン化してしまっている。そういう事実を、あのN大統領は、すでに見抜いている。

 この場に及んでも、まだ日本のK首相は、Y神社参拝をするかもしれないという。「反戦の誓
い」とやらを、そこでするかもしれないという。

 何が、反戦の誓いだ!

 日韓関係、日中関係を破壊してしまったのは、日本のK首相と断言してもよい。

 この6月に、再度、韓国は、竹島の呼称問題を、国際機関に提起するという。危機が去った
わけではない。6月には、さらにそれが大きな危機となって、もどってくる。

 そのとき、日本は、どうするつもりなのか? どう行動をとるつもりなのか? あるいは日本の
K首相は、引退を間近にひかえ、最後にもう一度、Y神社を参拝するつもりなのか。

 もちろん韓国のN大統領にも、中国のK首相にも、問題はある。しかし彼らには彼らの言い
分もある。論理がある。その言い分や論理に、どうして日本のK首相は、謙虚に耳を傾けない
のか。相手の立場で、ものを考える。それが国際政治の場でも、常識ではないのか。

 韓国のN大統領のテレビ談話を、「国内向けのもの」と笑った政治家たちよ。つぎに本当に笑
われるのは、あなたたちの脳みそではないのか。
(この原稿は、4月27日に書いたものです。発表のときには、国際情勢が大きく動いているか
もしれません。)

(付記)

 私は何も、彼らの反日運動を支持しているわけではない。私も韓国のN大統領の、あの(こ
だわり)には、ふつうでないものを感ずる。いつだったか、私はそれを、老人性の回顧主義的
妄想と批判した。しかしいつの世も、戦争は、こうして起こる。

 つまりもし双方が(まとも)だったら、そも、戦争など起きない。どちらかがまともでないから、
戦争は起きる。

 忘れてならないのは、どこかの賢人が、言った言葉だ。

 『平和などというのは、戦争と戦争の間の、つかの間の休息に過ぎない』と。あるいは『平和
は、つぎの戦争のための準備期間でしかない』と言った賢人もいた。

 今まで、「平和」を唱えてきた人たちに、あえて私は言いたい。平和運動をしてきた人たちに、
あえて私は言いたい。

 今こそ、その正念場がやってきた、と。

 竹島をあきらめて、平和の道を選ぶか。

 それとも、竹島の領有権を争って、韓国と一戦を交えるか。

 口で「平和」を叫ぶことぐらい、簡単なことはない。どこかの小学生を使って、平和宣言とやら
をさせることぐらい、これまた簡単なことはない。

 しかしそれでは、平和は守れない。さあ、どうする、日本! どうなる、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【善と悪】
 
●昆虫のような脳みそ

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「昆虫のような脳みそ」と書いたことに
ついて、コメントの書きこみがあった。

「お前は、いったい、何様のつもり?」と。

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 「昆虫のような脳みそ」という言葉を使ったことに対して、コメントの書きこみがあった。「お前
は、いったい、何様のつもり?」と。

 たしかに辛(しん)らつな言葉である。私も最初聞いたとき、そう思った。恩師のT教授が、い
つも口ぐせのように使っている言葉である。いつの間にか、私も、そのまま使うようになってしま
った。しかし、私にも、言い分がある。

 いつだったか、私は、善と悪は、平等ではないと書いた。西欧社会では、『善は神の左手、悪
は神の右手』と説く。しかし平等ではない。

 善人になるのは、意外と簡単なことである。約束を守る、ウソをつかない。この2つさえ守れ
ば、どんな人でも、やがて善人になれる。

 しかし自分の中に潜む悪を、自分から追い出すことは、容易なことではない。とくに乳幼児期
までに心にしみついた悪を追い出すことは、容易なことではない。生涯にわたって、その人の
心の奥底に潜む。

 それについては、以前に書いたので、ここでは、そのつぎを考えてみたい。

 仮にここに10人の人がいたとする。が、そのうちの9人が善人でも、1人が悪人だったとす
る。数の上では善人のほうが、多いということになる。が、やがてその9人は、1人の悪人に、
翻弄(ほんろう)されるようになる。最悪のばあいには、9人の善人たちは、たった1人の悪人
の支配下に置かれるようになるかもしれない。

 悪のもつパワーには、ものすごいものがある。一方、善の力は、弱い。善人たちが集まって
考えた、社会のルールやマナーが、少人数の悪人によって、こなごなに破壊されるということ
も、珍しくない。

 この点でも、善と悪は、平等ではない。

 恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」という言葉を使う背景には、もつろん軽蔑の念もあ
る。しかしそれ以上に、いつも私は、そこに怒りの念がこめられているのを感ずる。「せっかく
知的な世界を作ろうとしているのに、昆虫のような脳みそをもった連中が、それを容赦なくこわ
してしまう」と。

 T教授は、あの東大紛争(1970)を経験している。T教授の理学部研究室は、その東大紛争
の拠点となった安田講堂の向かってすぐ右側裏手にあった。そのため、T教授の研究室は、爆
弾でも落とされたかのように、破壊されてしまった。うらみは大きい。日ごろは穏やかな恩師だ
が、こと学生運動については、手きびしい。「昆虫のような脳みそ」という言葉は、そういうところ
から生まれた(?)。

 「私は善人である」と、自分を悪人の世界から分けて考えることは、簡単なこと。悪いことをし
ないから、善人というわけでもない。よいことをするから、善人というわけでもない。悪と戦って
はじめて、人は、善人になれる。

 その(戦う)という部分に、この言葉がある。「昆虫のような脳みそ」と。「サルのような脳みそ」
という言葉もある。そういえば数年前にベストセラーになった本に、「ケータイをもったサル」とい
うタイトルのもあった。

 あえて言うなら、「昆虫のような脳みそ」というのは、「バカの脳みそ」ということになる。しかし
誤解しないでほしい。「バカなことをする人を、バカ」(「フォレスト・ガンプ」)という。知的な能力
をさして言うのではない。恩師のT教授が、「昆虫のような脳みそ」と言うときは、「せっかくすば
らしい能力をもちながらも、その能力を、悪のために使ってしまう人」を意味する。

 だから何も遠慮することはない。この言葉は、堂々と使えばよい。昆虫のような脳みそをもっ
た人たちを見たら、そう言えばよい。何も善人が、遠慮して生きる必要はない。遠慮したとた
ん、私たちは、その悪人の餌食(えじき)になる。

 このエッセーが、そのコメントを書いてきた人への、反論ということになる。(コメントそのもの
は、即、削除してしまったが……。)

 で、私が何様のつもりかって? ハハハ、見たとおりの、ただのドンキホーテ。ラ・マンチャの
男。ハハハ。

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4年前に書いた原稿を、ここに添付します。

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善と悪

●神の右手と左手
 
昔から、だれが言い出したのかは知らないが、善と悪は、神の右手と左手であるという。善が
あるから悪がある。悪があるから善がある。どちらか一方だけでは、存在しえないということら
しい。

 そこで善と悪について調べてみると、これまた昔から、多くの人がそれについて書いているの
がわかる。よく知られているのが、ニーチェの、つぎの言葉である。

 『善とは、意思を高揚するすべてのもの。悪とは、弱さから生ずるすべてのもの』(「反キリス
ト」)

 要するに、自分を高めようとするものすべてが、善であり、自分の弱さから生ずるものすべて
が、悪であるというわけである。

●悪と戦う

 私などは、もともと精神的にボロボロの人間だから、いつ悪人になってもおかしくない。それを
必死でこらえ、自分自身を抑えこんでいる。

トルストイが、「善をなすには、努力が必要。しかし悪を抑制するには、さらにいっそうの努力が
必要」(『読書の輪』)と書いた理由が、よくわかる。もっと言えば、善人のフリをするのは簡単だ
が、しかし悪人であることをやめようとするのは、至難のワザということになる。もともと善と悪
は、対等ではない。しかしこのことは、子どもの道徳を考える上で、たいへん重要な意味をも
つ。

 子どもに、「〜〜しなさい」と、よい行いを教えるのは簡単だ。「道路のゴミを拾いなさい」「クツ
を並べなさい」「あいさつをしなさい」と。しかしそれは本来の道徳ではない。人が見ていると
か、見ていないとかということには関係なく、その人個人が、いかにして自分の中の邪悪さと戦
うか。その「力」となる自己規範を、道徳という。

 たとえばどこか会館の通路に、1000円札が落ちていたとする。そのとき、まわりにはだれも
いない。拾って、自分のものにしてしまおうと思えば、それもできる。そういうとき、自分の中の
邪悪さと、どうやって戦うか。それが問題なのだ。またその戦う力こそが道徳なのだ。

●近づかない、相手にしない、無視する

 が、私には、その力がない。ないことはないが、弱い。だから私のばあい、つぎのように自分
の行動パターンを決めている。

たとえば日常的なささいなことについては、「考えるだけムダ」とか、「時間のムダ」と思い、でき
るだけ神経を使わないようにしている。社会には、無数のルールがある。そういったルールに
は、ほとんど神経を使わない。すなおにそれに従う。駐車場では、駐車場所に車をとめる。駐
車場所があいてないときは、あくまで待つ。交差点へきたら、信号を守る。黄色になったら、止
まり、青になったら、動き出す。何でもないことかもしれないが、そういうとき、いちいち、あれこ
れ神経を使わない。もともと考えなければならないような問題ではない。

 あるいは、身の回りに潜む、邪悪さについては、近づかない。相手にしない。無視する。とき
として、こちらが望まなくても、相手がからんでくるときがある。そういうときでも、結局は、近づ
かない。相手にしない。無視するという方法で、対処する。それは自分の時間を大切にすると
いう意味で、重要なことである。考えるエネルギーにしても、決して無限にあるわけではない。
かぎりがある。そこでどうせそのエネルギーを使うなら、もっと前向きなことで使いたい。だか
ら、近づかない。相手にしない。無視する。

 こうした方法をとるからといって、しかし、私が「(自分の)意思を高揚させた」(ニーチェ)こと
にはならない。これはいわば、「逃げ」の手法。つまり私は自分の弱さを知り、それから逃げて
いるだけにすぎない。本来の弱点が克服されたのでも、また自分が強くなったのでもない。そこ
で改めて考えてみる。はたして私には、邪悪と戦う「力」はあるのか。あるいはまたその「力」を
得るには、どうすればよいのか。子どもたちの世界に、その謎(なぞ)を解くカギがあるように思
う。

●子どもの世界

 子どもによって、自己規範がしっかりしている子どもと、そうでない子どもがいる。ここに書い
たが、よいことをするからよい子ども(善人)というわけではない。たとえば子どものばあい、悪
への誘惑を、におわしてみると、それがわかる。印象に残っている女の子(小三)に、こんな子
どもがいた。

 ある日、バス停でバスを待っていると、その子どもがいた。私の教え子である。そこで私が、
「缶ジュースを買ってあげようか」と声をかけると、その子どもはこう言った。「いいです。私、こ
れから家に帰って夕食を食べますから」と。「ジュースを飲んだら、夕食が食べられない」とも言
った。

 この女の子のばあい、何が、その子どもの自己規範となったかである。生まれつきのものだ
ろうか。ノー! 教育だろうか。ノー! しつけだろうか。ノー! それとも頭がかたいからだろう
か。ノー! では、何か?

●考える力

 そこで登場するのが、「自ら考える力」である。その女の子は、私が「缶ジュースを買ってあげ
ようか」と声をかけたとき、自分であれこれ考えた。考えて、それらを総合的に判断して、「飲ん
ではだめ」という結論を出した。それは「意思の力」と考えるかもしれないが、こうしたケースで
は、意思の力だけでは、説明がつかない。「飲みたい」という意思ならわかるが、「飲みたくな
い」とか、「飲んだらだめ」という意思は、そのときはなかったはずである。あるとすれば、自分
の判断に従って行動しようとする意思ということになる。

 となると、邪悪と戦う「力」というのは、「自ら考える力」ということになる。この「自ら考える力」
こそが、人間を善なる方向に導く力ということになる。釈迦も『精進』という言葉を使って、それ
を説明した。言いかえると、自ら考える力のな人は、そもそも善人にはなりえない。よく誤解さ
れるが、よいことをするから善人というわけではない。悪いことをしないから善人というわけでも
ない。人は、自分の中に潜む邪悪と戦ってこそはじめて、善人になれる。

 が、ここで「考える力」といっても、二つに分かれることがわかる。

一つは、「考え」そのものを、だれかに注入してもらう方法。それが宗教であり、倫理ということ
になる。子どものばあい、しつけも、それに含まれる。

もう一つは、自分で考えるという方法。前者は、いわば、手っ取り早く、考える人間になる方
法。一方、後者は、それなりにいつも苦痛がともなう方法、ということになる。どちらを選ぶか
は、その人自身の問題ということになるが、実は、ここに「生きる」という問題がからんでくる。そ
れについては、また別のところで書くとして、こうして考えていくと、人間が人間であるのは、そ
の「考える力」があるからということになる。

 とくに私のように、もともとボロボロの人間は、いつも考えるしかない。それで正しく行動できる
というわけではないが、もし考えなかったら、無軌道のまま暴走し、自分でも収拾できなくなって
しまうだろう。もっと言えば、私がたまたま悪人にならなかったのは、その考える力、あるいは
考えるという習慣があったからにほかならない。つまり「考える力」こそが、善と悪を分ける、
「神の力」ということになる。
(02−10−25)※

++++++++++++++++++++

●補足

 善人論は、むずかしい。古今東西の哲学者が繰り返し論じている。これはあくまでも個人的
な意見だが、私はこう考える。

 今、ここに、平凡で、何ごともなく暮らしている人がいる。おだやかで、だれとも争わず、ただ
ひたすらまじめに生きている。人に迷惑をかけることもないが、それ以上のことも、何もしない。
小さな世界にとじこもって、自分のことだけしかしない。日本ではこういう人を善人というが、本
当にそういう人は、善人なのか。善人といえるのか。

 私は収賄罪で逮捕される政治家を見ると、ときどきこう考えるときがある。その政治家は悪い
人だと言うのは簡単なことだ。しかし、では自分が同じ立場に置かれたら、どうなのか、と。目
の前に大金を積まれたら、はたしてそれを断る勇気があるのか、と。刑法上の罪に問われると
か、問われないとかいうことではない。自分で自分をそこまで律する力があるのか、と。

 本当の善人というのは、そのつど、いろいろな場面で、自分の中の邪悪な部分と戦う人をい
う。つまりその戦う場面をもたない人は、もともと善人ではありえない。小さな世界で、そこそこ
に小さく生きることなら、ひょっとしたら、だれにだってできる(失礼!)。しかしその人は、ただ
「生きているだけ」(失礼!)。が、それでは善人ということにはならない。繰り返すが、人は、自
分の中の邪悪さと戦ってこそ、はじめて善人になる。

 いつかこの問題については、改めて考えてみたい。以前書いた原稿(中日新聞掲載済み)を
ここに転載する。

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【四割の善と、四割の悪】

子どもに善と悪を教えるとき

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四割の悪
がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさないで、子どもの
世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、「ホテル」であった
り、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をする者は、子
どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマりやすい。ある中学校
の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生徒を、プールの中に放
り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対してはどうな
のか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびしいのか。親だ
ってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強している親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動物た
ちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界になってしまっ
たら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の世界を豊かでおも
しろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書についても、こんな説話
が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすくらいなら、
最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。神はこう答え
ている。「希望を与えるため」と。もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はより
よい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい
人間にもなれる。神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」
と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それが
わかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世界だけ
をどうこうしようとしても意味がない。たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問
題ではない。

問題は、そういう環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あ
なたの仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそれ
と闘っているだろうか。

私の知人の中には50歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校生の娘も
いる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際をしていたら、
君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手の男を許せる
か」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。こういうおめでた
さが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それが問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人
 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。
悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社会を見る目は、
大きく変わる。子どもの世界も変わる。

(参考)

 子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1234)

【近況・あれこれ】

●苦しかった、1700人台

 前回(4月26日)、Eマガの読者が、やっと1800人台にのった。(メルマガ、まぐまぐなどを
含めると、合計で、2100人になる。)苦しい戦いだった。1700人になってから、1800人にな
るまで、長い時間がかかった。ときに2、3週もの間、読者の増加がゼロという日々がつづい
た。

 しかしやっと1804人に! 1801人目の方は、E県に住んでいるOさんという人だった。メッ
セージが届いたので、お礼の返事を書いた。うれしかった。

 これからも長い戦いがつづきそうである。「こんなことをしていて何になるのだろう?」という思
いと、「本当にみんなが、読んでいてくれるのだろうか?」という思い。その2つが、迷いとなっ
て、交互に私を襲う。

 1000号まで、あと少し。そのあとのことは、考えない。今は、ともかく、1000号までつづける
しかない!


●3兆円!!

 アメリカ軍の移転費用に、日本は、3兆円も負担することになった。国民を1億人とすると、1
人当たり、3万円ということになる。3人家族なら、9万円! 5人家族なら、15万円!

 とんでもない額である。N防衛庁長官は、「上限だ」と説明しているが、あの防衛庁長官の顔
を見ていると、どうも不安になる。どうして不安になるか、ここには詳しく書けないが、ともかく
も、不安になる。

 私はああいう大臣を、直接、何人か見てきた。背の高い白人を前にすると、ヘラヘラするだけ
で、何も言わない。(N防衛庁長官がそうというのではない。誤解のないように!)英語で直接
議論するなどということは、夢のまた夢。

 それにしても、3兆円! 日本のどこに、そんなお金があるのか! それにしても、高い。高
すぎる。

 今、あなたの家に、防衛庁の職員がやってきて、アメリカ軍の立ち退き料を求めてきたら、あ
なたは払うだろうか。

 「あなたの家は、5人家族ですから、15万円です」と。

 ものごとは、そういう次元で考える。そうすれば、3兆円という額がどういう額か、実感として、
それがわかるはず。


●4月29日

 今日は、近くのガーデンパークへ行くつもりだった。新緑が美しい。しかしあいにくの、今にも
泣き出しそうな、曇り空。それに小寒い。

 どうしようか?

 このところ何かいやなことがあると、孫の誠司のことを頭に思い浮かべる。毎週のように、何
か、おもちゃを送り届けている。ジジバカの典型か?

 こういうことをするのは、あまりよくないとはわかっている。が、しかし今の私には、それしか楽
しみがない。いや、心を癒(いや)してくれる楽しみがない。

 毎晩、床について眠る前になると、誠司の喜んでいる顔を想像する。すると、いつの間にか、
眠ってしまう。

 そうそうデニーズには、ビーズだとか、その道具などを、送り届けている。先日、ひとつ、私が
作ったネックレスを送ってやったら、喜んでくれた。こういうとき、アメリカ人というのは、わかり
やすい。ウソをつかない。いつも本音だけを話す。お世辞を言わない。飾らない。

 デニーズが「うれしい」と言ったときは、本当にうれしいのだ。だから私も、うれしい。

 また何か、作って送ってやろう。そうそうデニーズは、「ビーズ」とは言わない。「宝石」と言って
いる。最近のビーズや飾りなどは、超硬質ガラスを使っている。人造宝石と言ってもよい。輝き
が美しい。たしかに宝石だ。

 で、今週からBW教室でも、遊びに、ビーズ遊びを取り入れた。そのビーズ遊び。子どもたち
に、「ビーズ遊びは好きか?」と聞いたら、女児については、100%。全員が、「好き!」と答え
た。

 ビーズというより、キラキラと輝く美しいものには、そういう魅力があるようだ。


●究極の手ぶれ防止カメラ

 今、デジカメというと、手ぶれ防止付きが常識。カメラそのものが、高感度になってきている。
そのため、構造が、ますます複雑になってきている。

 そこで一案。

 シャッター部分だけ、着脱式のデジカメというのは、どうか?

 そうすれば、手ぶれは起きない。シャッター部分だけ、必要に応じて取り外し、リモコンとして
それを使う。

 リモコン式のシャッターであれば、タイマーも不要。そのつど、離れたところから、パチパチと
写真が撮れる。

 車では、リモコン式のドア開閉装置は常識。あんなカギですら、そんなことができる。カメラの
シャッターで、それができないはずがない。

 これはまさにコロンブスの卵。シャッターがカメラから離れれば、手ぶれは起きない。まさに究
極の手ぶれ防止ということになる。

 カメラメーカーのみなさん、どうか、そういうカメラを考えてほしい。そしてもしこの原稿がもと
で、そういったカメラが実用化されたら、1台だけ、私に、それをプレゼントしてほしい。アイデア
の提供料として!!!

 2006年4月29日午前8時。
(はやし浩司 究極の手ぶれ防止付カメラ 手ぶれ防止 デジカメ シャッター着脱方式リモコ
ンカメラ シャッター リモコン デジタル カメラ シャッター着脱 実用新案)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1235)

●教育キホン法改正案要旨

+++++++++++++++

今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。

それについて一言。

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 国があっての国民と考えるか、国民あっての国と考えるか……。それによって、教育キホン
法の内容は、大きく変わってくる。

 この日本では、奈良時代の昔から、「国あっての国民」と考える。国民、つまり「民」などという
ものは、言うなれば、国の財産。モノ。それとも奴隷(?)。

 本当に日本は、民主主義国家か? 民主主義国家と言えるのか? それを示す試金石が、
教育キホン法ということになる。

 が、今度閣議了承された、教育キホン法(教育キホン法改正案要旨)なるものは、相も変わ
らず、美辞麗句。抽象的文句の羅列(られつ)。官僚の作文。どこかの教授が、「ヘタクソな作
文」(中日新聞)と評していたが、まったくの同感。あのリンカーンは、ゲティスバーグ(Gettysb
urg)という南北戦争の激戦地に立って、こう言った。

AND THAT GOVERNMENT OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE AND FOR THE PEOPLE 
SHALL NOT PERISH FROM THE EARTH.(人民の、人民による、人民のための政府は、この
地上から消え去ることはない)と。

「SHALL NOT PERISH」というのは、もう少し正確には、「私は、消さない」という意味にな
るが、ともかくも、そう言った。

 これをこの日本でもじると、こうなる。

「官僚の、官僚による、官僚のための政府は、この日本から消え去ることはない」と。

 どうして国民の側に立った教育キホン法が、この日本では、生まれないのか。できないのか。
国民に向かって、「ああしろ」「こうしろ」と言うくらいなら、まず自分たちのほうが、「ああします」
「こうします」と言えばよい。

 たとえば前文には、「我々日本国民は……貢献することを願う」とあるが、いつどこで、その
我々が、そういうことを願ったのか。勝手に、そういうことを決めつけてもらっては困る。

もし書くとしたら、「子どもの教育では、自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一
丸となって、子どもたちの未来のために、それを希求します」とか何とか。自分の立場で、そう
書けばよい。

 あるいは「教育の多様性を認め、不公平社会を是正するため、個人のそれぞれの才能に応
じた教育をめざします」でもよい。

 さらに「愛国心は、世界の常識」などと、いまだに言っている政治家がいるのには、驚く。(教
育キホン法改正案要旨では、「伝統と文化を尊重し、それをはぐくんできた我が国と郷土を愛
するとともに……」となっている。念のため。)

 日本では「愛国心」と訳すが、あの英語の「Patoriotism(ペイトリアチズム)」という単語にし
ても、もともとは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」という意味の単語に
由来する。)「郷土や家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもな
っている。国ではない。郷土だ、家族だ!

 が、この日本では、そこに「国」という言葉を入れる。なぜか? その理由など、今さら、説明
するまでもない。

 そんなわけで、私は、今回の教育キホン法なるものは、チラッとしか読んでいない。

 今回の要旨では、国旗、国歌については触れていないが、それについても、あえて言うなら、
こうなる。

 愛国心に関してだが、国旗はともかくも、国歌を歌ったから愛国心があるとも、歌わなかった
ら、愛国心がないということにもならない。日本のK首相は、『君が代』の「君」は、国民のことだ
と説明したが、『君が代』の「君」は、だれが考えても、「天皇」をさす。官僚主義国家、つまり王
政国家のもとでは、天皇という「王」は、絶対的な存在かもしれないが、それをよしとしない人が
いたとしても、何も、おかしくない。

 (注)外国では、あの明治維新を、「Meiji Restoration」(王政復古)」と翻訳しているぞ。

 それは愛国心の問題ではない。主義の問題である。その主義ということになれば、たとえ国
でも、個人の主義にまで干渉することは許されない。

 が、もしそれほどまでに、愛国心を、形として表したいというのなら、K国のように、バッジ制に
すればよい。胸に、バッジをつけて、それを表す。そのほうが、ずっとわかりやすい。

 しかしこのばあいも、バッジをつけたから愛国心があるとも、バッジをつけなかったから、愛
国心がないということにもならない。

 そんなこと、いちいち役人ごときに指示されなくても、もし目の前で、他国の連中に、郷土が
荒らされ、家族が殺されれば、だれだって武器をもって立ちあがる。愛国心などというものは、
「形」の問題ではない。言葉の問題でもない。国旗や国歌の問題でもない。もちろんバッジの問
題でもない。心の問題だ。

 「国を愛しましょう」と言うくらいなら、その第一歩として、「汝の隣人を愛しましょう」と言ってみ
たらどうか。私など、その隣人すら、愛することはできない。そんな私が、どうして国という、実
体のない存在(?)を、愛することができるのか。

 バカも休み休み、言え!

 だいたい、「愛」という言葉の意味すら、わかっていないのでは?

 ……ということで、教育キホン法に対する、批評は、おしまい。ここ数日、10人近い教師や親
たちと、いろいろ話したが、教育キホン法など、話題にもならなかった! ホント!

+++++++++++++++++

愛国心について、以前書いた原稿を
ここに添付します。
(中日新聞にて発表済み。)

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家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて
いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。

アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいか
ない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。

先日もある母親から電話でこんな相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小
2)が、養護学級をすすめられているというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣
き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなのか? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。
カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 2000年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近くを妻
が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは10%程度。夫が担当している
ケースは、わずか1%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、6割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、3%(たった
の3%!)前後にとどまった。その一方で7割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求
める必要がある」と考えていることもわかったという。

内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。

「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、40代、50代には、リンゴの皮す
らむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に
困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、
家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を
平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。ア
メリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米というより、世界の共通の理念にもなってい
る。家族を大切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼
らのいう愛国心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。99年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、4
0%の日本人が、「家族」をあげた。

同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが45%になった。たった1年足らずの間
に、5ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化
である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(2001年11月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注目して
ほしい。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 愛国
心 教育基本法 国旗 国歌)

●批判ばかりしていてはいけないので……

 私なら、つぎのような教育キホン法改正案を考える。

++++++++++++++++

(前文)

自由、平等、平和を旗印にかかげ、政府と教育者が一丸となって、子どもたちの未来のため
に、それを希求します。

子ども個人の才能を引き出し、認め、個人のそれぞれの才能に応じた教育ができるように、教
育の多様化を認める教育環境をめざします。

不公平社会や社会的格差を是正するため、社会的不正義、不平等、不公正を容認しない教
育環境をめざします。
 
親たちが安心して子どもを教育機関に任せられるよう、教育内容の充実と、教員の資質向上
を図り、父母への教育費の負担を軽減するために、常に努力いたします。

 また政府ならびに教育機関に関与する者たちは、子どもたちの見本、手本となるように、豊
かな人間性と創造性のある文化人となるよう、まい進努力いたします。

+++++++++++++++++

 ついでながら、今回閣議決定された「教育キホン法改正案」の前文は、つぎのようになってい
る。(2006年4月27日、公表。原文のまま。)

+++++++++++++++++

 我々国民は、民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉
の向上に貢献することを願う。

 公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継
承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。

 憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るた
め、この法律を制定する。

+++++++++++++++++

 以上!


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1236)

●RAY

++++++++++++++++++++++++

ビデオ「RAY」を見る。

ジャズファンには、たまらないビデオだろう。
前半は、どこかかったるいテンポ。ときどき眠くなる。
が、後半になると、なじみの曲がつぎつぎと流れだす。
とたん、感激、また感激。

最後のしめくくりもよかった。

ただ私自身は、ジャズは、あまり好きではない。
子どものころは、「ガチャガチャ音楽」と呼んで
いた。

すばらしい映画ではあったが、そんなわけで、
私にとっては、星は、2つから3つ。ゴメン!

+++++++++++++++++++++++++

 「RAY(レイ)」、つまりレイ・チャールズの生涯を描いた映画である。T・ビデオショップ社の紹
介には、つぎのようにある。

「第77回アカデミー賞作品賞はじめ、6部門ノミネート、そして主演のジェイミー・フォックスが見
事主演男優賞を獲得した、感動のヒューマンドラマ!」と。

映画を見ながら、「よくもまあ、ここまで自分をさらけ出したものだ」と、感心した。

 不倫はし放題。隠し子もつくる。おまけに麻薬中毒。音楽家としては成功したが、レイ・チャー
ルズの人生は、ビューティフルなものであったとは、とても言いがたい。しかしそれだけに、映
画を見ながら、いろいろと考えさせられた。

 その1。ここにも書いたように、映画「RAY」は、レイ・チャールズという人間を、徹底的に丸裸
にしている。レイ・チャールズ自らが、主演のジェイミー・フォックスを選考したということだから、
この映画は、レイ・チャールズ自身の監督のもとに製作された映画とみてよい。が、こうしたさ
らけ出しは、自分の生き様に自信をもっているものだけができる特権と言ってもよい。「私は
私」と断言できるものだけが、自分をさらけ出すことができる。しかしそこまで自分を高めるとい
うのは、凡人には、とてもできない。

いくつか印象に残ったセリフがある。その中でも、つぎのセリフには、心を打たれた。

 レイの母親が、レイにこう言う。「目は盲目でも、心まで、盲目にしてはいけない」と。映画の
中では、たしか、「あなたは盲目だけど、心も盲目よ」と言ったように覚えている。

 目の盲目と、心の盲目。「なるほどな」と思ってみたり、「そういうものだろうな」と思ってみたり
する。

 ただレイ・チャールズ自身は、この映画の完成をみることなく、2004年に他界しているという
(T・ビデオショップ社、解説)。盲目だったから、映画を見るということはできなかったかもしれ
ないが、その映画を見る観客の雰囲気はわかったはず。さぞかし、心残りなことだっただろうと
思う。

 で、再び、「心の盲目」。

 相手の心の中を見ることができない人のことを、心の盲目というのか。あるいは心で、ものを
見ることができないことを、心の盲目というのか。解釈はいろいろできる。が、自分勝手で、自
己中心的な人は、他人の心がわからない。そういう人の心は、盲目ということになる。

 ただ私自身は、子どものころから、ジャズがあまり好きではない。……というより、嫌いだっ
た。「ガチャガチャ音楽」と呼んでいた。すばらしい映画だということについては異論はないが、
「二度目を見たいか?」と聞かれたら、答は、「NO!」。(ジャズファンの人たちへ、ゴメン!)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1237)

【不安なあなたへ……】

●子どもの心がつかめない(?)

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心がつかめない娘(小6)について、
そのお母さんから、こんな相談があり
ました。

この問題について、考えてみたいと
思います。

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どこからお話ししていいのか分りません。沢山の問題があるように思うのですが・・・。
どうか、少しでも、問題点が整理できればと、こちらのHPに投稿させて頂きました。

事の始まりは、先日娘の担任の先生から電話があったことです。

「実は、P子さん(=私の娘、小6)が、最近、A子さんにひどい言い方をしているようだ。下校
中、上下関係があるように見える」と言われました。それがたいへん、気になりました。

さらに、「実は去年の冬ごろ、ちょっとした事件がありまして」と、聞かされました。

先生の話の内容は、こういうことでした。娘のP子が、B子さんに本を貸したのですが、なかな
か返してくれないので、「返して」と言ったところ、B子さんは、「私は借りていない」と言ったとの
こと。

「確かにB子さんに貸したはず」と娘は言いましたが、しかし別の子から、「あっ、私、借りてる
よ」と、本を渡されました。娘はB子さんに謝り、この件は終了しました。

ところが、その後、B子さんが、「私のペンがない!」と騒ぎ出しました。周りの友人も手伝っ
て、探したところ、それが娘のP子の筆箱の中に、あったというのです。「あっ、そのペン私のじ
ゃない?」と、B子さんが言ったといいます。それを見ていた先生も中に入り、娘に聞くと、「違
う、これはお母さんに買ってもらったもの」と答えたというのです。

先生は「じゃあ、お母さんに聞いてもいいですか?」と、娘のP子に訪ねると、「ダメ」と答えたと
いうのです。

それはおかしいなーと、いうことで、周りからも疑われた。・・・・と、いう事がありました。先生
は、「もう、このことは済んだことなので、いいのですが・・・・。しかしP子さんが、A子さんにひど
く当ることなどを、とても心配しています。おうちでも話しあってみてください」と言いました。

 初耳でした。でも、結果として娘はみんなの前で泥棒にされてしまったのでしょうか。
とにかく、真実を知りたいと、私は、娘に聞いてみました。

まず、A子さんのことですが、娘のP子は、「思い当たることはない、何の事を言っているのか
わからない」と言いました。無意識でも、つまりこちらがその気でなくても、相手が傷ついている
としたら、とっても悲しい事だから、これから気をつけてねなどと、話しました。次にペンの事を
聞いたのですが、その話になるろ、娘は泣きだしてしまいました。

 ・・・・実はこのずっと以前から気になっていたのですが、子どもたちは文房の交換をしている
ようです。「このペンどうしたの? この前買ったペンはどこ行ったの?」と私がP子に聞くと、屈
託なく、「うん、友達が交換してっていうからいいよって」とか言います。

私「え? 何で?」
娘「どうしても欲しいって言うし、交換ならいいかなって。それに断る理由がないから」とのこと。

これもショックでしたが、きちんと「物をもっと大切にして欲しい。簡単に交換しないでほし
い。。。」などなど沢山話しこれからはしないでねと、そのときは、そういう話で終わりました。

 で、本題ですが、「ペンのことだけど、こんなことがあったんだって? そのペンはどうしたもの
なの?」と聞くと、娘はなかなか答えようとしませんでした。そこで(1)持ってきてしまった、(2)
拾った、(3)自分で買った、(4)その他の中のどれ?、と聞くと、やっとの事で、「交換したもの」
と言いました。

「じゃあ何であの時、そういわなかったの?」と聞くと、泣くばかりです。泣いて泣いて、やっと聞
けたのが、「交換しようって言われてしたのに、Bちゃんがどうしてそんな事を言い出したのか
分らなくって」と。

私「あなたは泥棒だと、他の人はそう思うよ、それでもいいの?」
娘「盗んだと思われてもいい。それでも自分の思いは言えない」と。

 最近、大きくなってきて、少し手が離れてきたと思って手を抜いてしまったと、我にかえりまし
た。低学年のころは、毎日のように主人と夜、子どもたちのことについて話し合っていたのも、
最近ではしていない事にも気付かされました。

で、昔からの悩みの種は、娘(相談の娘小6・この下に小3の妹がいます)の、対人関係につい
ての問題です。

私が働いていたため、娘が1歳半のときから保育園へ預けました。教育熱心で有名な保育園
でしたが、右を向きなさいと指示されても、右を向かないような娘でした。そんなわけで、先生
も、娘にかなり手を焼いていたようでした。何度も主人と呼び出されては、「お宅の子は人を見
る」とこんこんと言われました。

人見知りが極端にはげしく、突然話し掛けられたりすると、かたまって口を閉ざしたり、下を見
る、隠れるなどの行為をしました。ですから、極力休日は、家族で一緒にのんびりゆったり、栄
養を蓄えるつもりで、常に皆で横に手をつなぎ、時には後ろに回り背中をなでながら過ごしてい
ました。

小学校の入学時には、「大丈夫、なにも心配要らないよ」と、ぽんっと送り出したりしましたが、
当時は、本当に元気よく通っていました。が、大人に理解されにくい性格は中々変わることもな
く、「こう思ってるんだよ!」などと、口にした事は無いようです。

が、その一方で、娘は、地道に努力するタイプで、昨年、放送委員になったのですが、家で練
習し、運動会やおひつの放送も、物怖じせず、こなしていきました。

一時期、これは、何かの障害なのではないかと、悩みました。が、素人判断も出来ず、なんと
かやっていけていましたので・・・・。

現在も、三者面談などでは体をこわばらせ、手に冷や汗をかいています。落ち着きがなくなり、
なんとか作り笑いをしてみせたりするのですが、それも先生にはふざけているように見えるの
か、あまりよい印象は与えていないようです。

 そのような関係の先生ですが、今回の話し合った結果を、その先生に連絡しました。

私としては、なんとか、先生にだけでも誤解を解きたい。このままでは娘のP子がかわいそうと
の思いで話しました。

先生は「分りました。ペンの事は申すんでしまった事なので、(確かに時がたちすぎている)、今
さら蒸し返すのも何ですのでやめます」と言ってくれました。またペンのことについては、「やは
りあのペンはB子さんのものだったわけだ。でも、B子さんは、交換した気は全く無いですよ」と
のこと。私は「また相談にのって頂きたいので、よろしくお願いします」と言えただけです。

先生は、本当に娘のことを心配しているのか不安になりました。なぜ先生は、娘の側を少しで
も見ようとしてくれないのでしょうか。私は常に平等を心がけ、こちらが悪いのでは、と思いなが
ら話を聞くようにしているのですが。。。

長々とすみません。娘から話しを聞いて、娘には、「お母さんは、あなたを信じている。本当に
信じている。世界で一番の味方だから」「分った、お母さんが守ってあげる。心配しないで。で
も、努力しようね」と、言いました。

A子さんには本当に申し訳ない事をしたと思っています。とてもおとなしい子です。B子さんは、
大人うけする、ハツラツとしたとても気持ちのいい子です。クラスのリーダー的存在。親友の子
と喧嘩をした時だけ、娘に愚痴を言いにくるようです。

私は今、娘に何をしたらいいのか。先生に何を言ったらいいのか。主人とも話し合っています
が、行き詰まってしまっています。

本当に長くなって申し訳ありません。毎晩、この問題を考えていると、眠れません。アドバイスを
お願いします。
(大阪府、KR子、P子の母親より)

【はやし浩司より、P子さんのお母さんへ】

 メール、ありがとうございました。

 まず、最初に、一言。

 この種の問題は、たいへんありふれた問題です。はっきり言えば、何でもない問題です。

 まず、A子さんについてですが、A子さんは、P子さんに、いじめられていると訴えただけのこ
とです。ただP子さんには、その意識はなかった。つまり(いじめている)という意識がないまま、
結果として、いじめているという雰囲気になってしまった。それだけのことですが、これも(いじ
め)の問題では、よくあることです。

 B子さんとの本のトラブルについては、P子さんが、ウソを言っているだけのことです。何でも
ない、つまりは、子どもの世界では、よくあるウソです。一応たしなめながらも、おおげさに考え
る必要は、まったくありません。

 思春期の子どもは、自立を始めるとき、それまでになかったさまざまな変化を見せるようにな
ります。フロイトの説によれば、イド(心の根源部にある、欲望のかたまり)の活動が活発にな
り、ときとして、子どもは欲望のおもむくまま、行動するようになります。

 ウソ、盗みなどが、その代表的なものです。万引きもします。性への関心、興味も、当然、高
まってきます。しかしそういう形で、つまり親や社会に対して抵抗することで、子どもは、親から
自立しようとします。

 ですから、ここに書いたように、一応はたしなめながらも、それですませます。あなたのよう
に、子どもを追いつめてはいけません。これはP子さんの問題というよりは、完ぺき主義(?)
のあなたのほうに問題があるのではないかと思います。

それともあなたは、子どものころ、あなたの親に対して、ウソをついたことはないとでも言うので
しょうか? ものを盗んだことはないとでも言うのでしょうか? 親の目の届かないところで、男
の人と遊んだことはないとでも言うのでしょうか? もしそうなら、あなたは修道女? (失礼!)

 もしP子さんに問題があるとするなら、乳幼児期に、母子の間で、しっかりとした信頼関係が
結べなかったという点です。母子の間でできる信頼関係を、心理学の世界では、「基本的信頼
関係」といい、それが結べなかった状態を、「基本的不信関係」といいます。

 この信頼関係が基本となって、その後、先生との関係、友人関係、異性関係へと発展してい
きます。

 そのころの(不具合)が、今、P子さんの対人関係に、影響を与えているものと思われます。
が、しかしそれは遠い過去の話。今さら、どうしようもない問題です。

 ですから今は、「うちの子は、人間関係を結ぶのが苦手だ」「他人に心を開くのが苦手だ」「外
では無理をして、いい子ぶる」「自分の心の中を、さらけ出すことができない」と、割り切ることで
す。だれでも、ひとつやふたつ、そういう弱点があって、当たり前です。

 大切なことは、そういう子どもであることを、認めてあげることです。認めた上で、P子さんを
理解してあげることです。「なおそう」とか、そういうふうに、考えてはいけません。(どの道、今さ
ら、手遅れですから……。)

 あとはP子さん自身の問題です。もしP子さんが、もう少しおとなになり、人間関係の問題で悩
むようなことがあったら、ぜひ、私のHPを見るように勧めてあげてください。あるいはマガジン
の購読を勧めてあげてください。無料です。同じような問題は、そのつどテーマとして、マガジン
でもよく取りあげていますので、参考になると思います。

 で、今、あなたの目は、P子さんのほうに向きすぎています。そんな感じがします。しかも、P
子さんへの不信感ばかり……! 心配先行型の子育てが、いまだにつづいているといった感
じです。

 ですからあなたはあなたで、もう少し、外に向かって目を向けられたらどうでしょうか? 多
分、あなたはP子さんにとっては、うるさい、いやな母親と映っているはずです。たかがペンぐら
いの問題で、親からここまで追及されたら、私なら、机ごと、親に向かって投げつけるだろうと
思います。ホント! 今では、ペンといっても、いろいろありますが、100円ショップで、3〜5本
も買える時代です。

 いわんや子どもが泣きだすほどまで、子どもを追いつめてはいけません。またこの問題は、
そういう問題ではないのです。

 さらに学校の先生も、それほど、おおげさには考えていないはずです。先にも書きましたが、
こうした問題は、まさに日常茶飯事。ですから、先生がP子さんのことを悪く思っているとか、娘
が誤解されてかわいそうとか、先生が親側に立ってものを考えてくれないとか、そういうふうに
考えてはいけません。

 またP子さんに向かって、「信じている」とか何とか、そんなおおげさな言葉を使ってはいけま
せん。また使うような場面ではありません。繰りかえしますが、たかがペン1本の問題です。わ
かりやすく言えば、P子さんが、B子さんのペンを盗んで、自分の筆箱に入れた。それだけのこ
とです。

 多少の虚言癖はあるようですが、それもこの時期の子どもには、よくあることです。(もちろん
病的な虚言癖、作話、妄想的虚言などは、区別して考えますが……。)

 あなたにも、それがわかっているはず。わかっていながら、P子さんを追いつめ、P子さんの
口からそれを聞くまで、納得しない。つまりは、あなたは、完ぺき主義の母親ということになりま
す。

 P子さんは、いい子ですよ。放送委員の一件を見ただけでも、それがわかるはず。そういうP
子さんのよい面を、どうしてもっとすなおに、あなたは見ないのですか。あなたが今すべきこと
は、そういうP子さんのよい面だけを見て、あなたはあなたで、前を見ながら、前に進む。今
は、それでよいと思います。つまりは、それが(信ずる)ということです。言葉の問題ではありま
せん。

 またこうした問題には、必ず、二番底、三番底があります。あなたはP子さんの今の状態を最
悪と思うかもしれませんが、しかし、対処のし方をまちがえると、P子さんは、その二番底、三番
底へと落ちていきますよ! これは警告です。

 反対の立場で考えてみてください。私なら、家を出ますよ。息が詰まりますから……。P子さん
が、家を出るようになったら、あなたは、どうしますか。外泊をするようになったら、どうします
か。

 ですから今は、「今以上に、状態を悪くしないことだけを考えなら、様子をみる」です。

 だれしも、失敗をします。人をキズつけたり、あるいは反対に人にキズつけられながら、その
中で、ドラマを展開します。悩んだり、苦しんだり……。そのドラマにこそ、意味があるのです。
子どもについて言えば、そのドラマが、子どもをたくましくします。

 P子さんは、たしかにいやな思いをしたかもしれませんが、それはP子さんの問題。親のあな
たが、割って入るような問題ではないのです。親としてはつらいところですが、もうそろそろ、あ
なた自身も、子離れをし、P子さんには、親離れをするよう、し向けることこそ、大切です。

 とても、ひどいことを言うようですが、私はあなたの相談の中に、子離れできない、どこか未
熟な親の姿を感じてしまいました。あなたはそれでよいとしても、P子さんが、かわいそうです。

 で、たまたま昨夜、『RAY』というビデオを見ました。レイ・チャールズの生涯をつづったビデオ
です。あのビデオの中で、ところどころ、レイ・チャールズの母親が出てきますが、今のあなた
に求められる母親像というのは、ひょっとしたら、レイ・チャールズの母親のような母親像では
ないでしょうか。

 最後に、もう一言。

 こんな問題は、何でもありませんよ! 本当によくある問題です。ですから、「A子さんに申し
訳ない」とか、B子さんがどうとか、そんなふうに考えてはいけません。今ごろは、A子さんも、B
子さんも、学校の先生も、何とも思っていませんよ。

 あなた自身が、心のクサリをほどいて、自分のしたいことをしたらよいのです。心を開いて!
 体は、あとからついてきますよ!

 すばらしい季節です。おしいものでも食べて、あとは、忘れましょう! 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子ど
もの虚言 子供の虚言 盗み)

+++++++++++++++

いくつか、今までに書いた
原稿を添付しておきます。

+++++++++++++++
 
【信頼関係】

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、答え
てあげること。こうした一貫性をとおして、子どもは、あなたと安定的な人間関係を結ぶことが
できる。その安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していくこ
とができる。しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での
信頼関係を築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基
本となる。だから「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安。親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ども
は、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。こ
れを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出しても、気に
しない」環境をいう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということにな
る。義務といってもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。
(030422)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 信頼
関係 親子関係 親子の信頼関係 基本的信頼関係 不信関係 一貫性)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

【感情の発達】

 乳児でも、不快、恐怖、不安を感ずる。これらを、基本感情というなら、年齢とともに発達す
る、怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの感情は、より人間的な感情ということになる。これらの感
情は、さらに、自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情へと発展していく。

 年齢的には、私は、以下のように区分している。

(基本感情)〇歳〜一歳前後……不快、恐怖、不安を中心とする、基本感情の形成期。

(人間的感情形成期)一歳前後〜二歳前後……怒り、悲しみ、喜び、楽しみなどの人間的な感
情の形成期。

(複雑感情形成期)二歳前後〜五歳前後……自尊感情、自己誇示、嫉妬、名誉心、愛情など
の、複雑な感情の形成期。

 子どもは未熟で未経験だが、決して幼稚ではない。これには、こんな経験がある。

 年長児のUさん(女児)は静かな子どもだった。教室でもほとんど、発言しなかった。しかしそ
の日は違っていた。皆より先に、「はい、はい」と手をあげた。その日は、母親が仕事を休ん
で、授業を参観にきていた。

 私は少しおおげさに、Uさんをほめた。すると、である。Uさんが、スーッと涙をこぼしたのであ
る。私はてっきりうれし泣きだろうと思った。しかしそれにしても、大げさである。そこで授業が
終わってから、私はUさんに聞いた。「どうして泣いたの?」と。すると、Uさんは、こう言った。
「私がほめたれた。お母さんが喜んでいると思ったら、自然と涙が出てきちゃった」と。Uさん
は、母親の気持ちになって、涙を流していたのだ。

 この事件があってからというもの、私は、幼児に対する見方を変えた。

 で、ここで注意してほしいのは、人間としての一般的な感情は、満五歳前後には、完成すると
いうこと。子どもといっても、今のあなたと同じ感情をもっている。このことは反対の立場で考え
てみればわかる。

 あなたという「人」の感情を、どんどん掘りさげていってもてほしい。あなたがもつ感情は、い
つごろ形成されただろうか。高校生や中学生になってからだろうか。いや、違う。では、小学生
だろうか。いや、違う。あなたは「私」を意識するようになったときから、すでに今の感情をもって
いたことに気づく。つまりその年齢は、ここにあげた、満五歳前後ということになる。

 ところで私は、N放送(公営放送)の「お母さんとXXXX」という番組を、かいま見るたびに、す
ぐチャンネルをかえる。不愉快だから、だ。ああした番組では、子どもを、まるで子どもあつか
いしている。一人の人間として、見ていない。ただ一方的に、見るのもつらいような踊りをさせて
みたりしている。あるいは「子どもなら、こういうものに喜ぶはず」という、おとなの傲慢(ごうま
ん)さばかりが目立つ。ときどき「子どもをバカにするな」と思ってしまう。

 話はそれたが、子どもの感情は、満五歳をもって、おとなのそれと同じと考える。またそういう
前提で、子どもと接する。決して、幼稚あつかいしてはいけない。私はときどき年長児たちにこ
う言う。

「君たちは、幼稚、幼稚って言われるけど、バカにされていると思わないか?」と。すると子ども
たちは、こう言う。「うん、そう思う」と。幼児だって、「幼稚」という言葉を嫌っている。もうそろそ
ろ、「幼稚」という言葉を、廃語にする時期にきているのではないだろうか。「幼稚園」ではなく、
「幼児園」にするとか。もっと端的に、「基礎園」でもよい。あるいは英語式に、「プレスクール」で
もよい。しかし「幼稚園」は、……?
(030422)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 基本
感情 人間的感情形成 感情形成期)

Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

【不安なあなたへ】

 埼玉県に住む、一人の母親(ASさん)から、「子育てが不安でならない」というメールをもらっ
た。「うちの子(小三男児)今、よくない友だちばかりと遊んでいる。何とか引き離したいと思い、
サッカークラブに入れたが、そのクラブにも、またその友だちが、いっしょについてきそうな雰囲
気。『入らないで』とも言えないし、何かにつけて、不安でなりません」と。

 子育てに、不安はつきもの。だから、不安になって当たり前。不安でない人など、まずいな
い。が、大切なことは、その不安から逃げないこと。不安は不安として、受け入れてしまう。不
安だったら、大いに不安だと思えばよい。わかりやすく言えば、不安は逃げるものではなく、乗
り越えるもの。あるいはそれとじょうずにつきあう。それを繰りかえしているうちに、心に免疫性
ができてくる。私が最近、経験したことを書く。

 横浜に住む、三男が、自動車で、浜松までやってくるという。自動車といっても、軽自動車。
私は「よしなさい」と言ったが、三男は、「だいじょうぶ」と。で、その日は朝から、心配でならなか
った。たまたま小雨が降っていたので、「スリップしなければいいが」とか、「事故を起こさなけ
ればいいが」と思った。

 そういうときというのは、何かにつけて、ものごとを悪いほうにばかり考える。で、ときどき仕事
先から自宅に電話をして、ワイフに、「帰ってきたか?」と聞く。そのつど、ワイフは、「まだよ」と
言う。もう、とっくの昔に着いていてよい時刻である。そう考えたとたん、ザワザワとした胸騒
ぎ。「車なら、三時間で着く。軽だから、やや遅いとしても、四時間か五時間。途中で食事をして
も、六時間……」と。

 三男は携帯電話をもっているので、その携帯電話に電話しようかとも考えたが、しかし高速
道路を走っている息子に、電話するわけにもいかない。何とも言えない不安。時間だけが、ジ
リジリと過ぎる。

 で、夕方、もうほとんど真っ暗になったころ、ワイフから電話があった。「E(三男)が、今、着い
たよ」と。朝方、出発して、何と、一〇時間もかかった! そこで聞くと、「昼ごろ浜松に着いた
けど、友だちの家に寄ってきた」と。三男は昔から、そういう子どもである。そこで「あぶなくなか
ったか?」と聞くと、「先月は、友だちの車で、北海道を一周してきたから」と。北海度! 一
周! ギョッ!

 ……というようなことがあってから、私は、もう三男のドライブには、心配しなくなった。「勝手
にしろ」という気持ちになった。で、今では、ほとんど毎月のように、三男は、横浜と浜松の間
を、行ったり来たりしている。三男にしてみれば、横浜と浜松の間を往復するのは、私たちがそ
こらのスーパーに買い物に行くようなものなのだろう。今では、「何時に出る」とか、「何時に着
く」とか、いちいち聞くこともなくなった。もちろん、そのことで、不安になることもない。

 不安になることが悪いのではない。だれしも未知で未経験の世界に入れば、不安になる。こ
の埼玉県の母親のケースで考えてみよう。

 その母親は、こう訴えている。

●親から見て、よくない友だちと遊んでいる。
●何とか、その友だちから、自分の子どもを離したい。
●しかしその友だちとは、仲がよい。
●そこで別の世界、つまりサッカークラブに自分の子どもを入れることにした。
●が、その友だちも、サッカークラブに入りそうな雰囲気になってきた。
●そうなれば、サッカークラブに入っても、意味がなくなる。

小学三年といえば、そろそろ親離れする時期でもある。この時期、「○○君と遊んではダメ」と
言うことは、子どもに向かって、「親を取るか、友だちを取るか」の、択一を迫るようなもの。子
どもが親を取ればよし。そうでなければ、親子の間に、大きなキレツを入れることになる。そん
なわけで、親が、子どもの友人関係に干渉したり、割って入るようなことは、慎重にしたらよい。

 その上での話しだが、この相談のケースで気になるのは、親の不安が、そのまま過関心、過
干渉になっているということ。ふつう親は、子どもの学習面で、過関心、過干渉になりやすい。
子どもが病弱であったりすると、健康面で過関心、過干渉になることもある。で、この母親のば
あいは、それが友人関係に向いた。

 こういうケースでは、まず親が、子どもに、何を望んでいるかを明確にする。子どもにどうあっ
てほしいのか、どうしてほしいのかを明確にする。その母親は、こうも書いている。「いつも私の
子どもは、子分的で、命令ばかりされているようだ。このままでは、うちの子は、ダメになってし
まうのでは……」と。

 親としては、リーダー格であってほしいということか。が、ここで誤解してはいけないことは、
今、子分的であるのは、あくまでも結果でしかないということ。子どもが、服従的になるのは、そ
もそも服従的になるように、育てられていることが原因と考えてよい。決してその友だちによっ
て、服従的になったのではない。それに服従的であるというのは、親から見れば、もの足りない
ことかもしれないが、当の本人にとっては、たいへん居心地のよい世界なのである。つまり子ど
も自身は、それを楽しんでいる。

 そういう状態のとき、その友だちから引き離そうとして、「あの子とは遊んではダメ」式の指示
を与えても意味はない。ないばかりか、強引に引き離そうとすると、子どもは、親の姿勢に反発
するようになる。(また反発するほうが、好ましい。)

 ……と、ずいぶんと回り道をしたが、さて本題。子育てで親が不安になるのは、しかたないと
しても、その不安感を、子どもにぶつけてはいけない。これは子育ての大鉄則。親にも、できる
ことと、できないことがある。またしてよいことと、していけないことがある。そのあたりを、じょう
ずに区別できる親が賢い親ということになるし、それができない親は、そうでないということにな
る。では、どう考えたらよいのか。いくつか、思いついたままを書いてみる。

●ふつうこそ、最善

 朝起きると、そこに子どもがいる。いつもの朝だ。夫は夫で勝手なことをしている。私は私で
勝手なことをしている。そして子どもは子どもで勝手なことをしている。そういう何でもない、ごく
ふつうの家庭に、実は、真の喜びが隠されている。

 賢明な人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づく。そうでない人は、なくしてから気づく。健
康しかり、若い時代しかり。そして子どものよさ、またしかり。

 自分の子どもが「ふつうの子」であったら、そのふつうであることを、喜ぶ。感謝する。だれに
感謝するというものではないが、とにかく感謝する。

●ものには二面性

 どんなものにも、二面性がある。見方によって、よくも見え、また悪くも見える。とくに「人間」は
そうで、相手がよく見えたり、悪く見えたりするのは、要するに、それはこちら側の問題というこ
とになる。こちら側の心のもち方、一つで決まる。イギリスの格言にも、『相手はあなたが相手
を思うように、あなたを思う』というのがある。心理学でも、これを「好意の返報性」という。

 基本的には、この世界には、悪い人はいない。いわんや、子どもを、や。一見、悪く見えるの
は、子どもが悪いのではなく、むしろそう見える、こちら側に問題があるということ。価値観の限
定(自分のもっている価値観が最善と決めてかかる)、価値観の押しつけ(他人もそうでなけれ
ばならないと思う)など。

 ある母親は、長い間、息子(二一歳)の引きこもりに悩んでいた。もっとも、その引きこもり
が、三年近くもつづいたので、そのうち、その母親は、自分の子どもが引きこもっていることす
ら、忘れてしまった。だから「悩んだ」というのは、正しくないかもしれない。

 しかしその息子は、二五歳くらいになったときから、少しずつ、外の世界へ出るようになった。
が、実はそのとき、その息子を、外の世界へ誘ってくれたのは、小学時代の「ワルガキ仲間」
だったという。週に二、三度、その息子の部屋へやってきては、いろいろな遊びを教えたらし
い。いっしょにドライブにも行った。その母親はこう言う。「子どものころは、あんな子と遊んでほ
しくないと思いましたが、そう思っていた私がまちがっていました」と。

 一つの方向から見ると問題のある子どもでも、別の方向から見ると、まったく別の子どもに見
えることは、よくある。自分の子どもにせよ、相手の子どもにせよ、何か問題が起き、その問題
が袋小路に入ったら、そういうときは、思い切って、視点を変えてみる。とたん、問題が解決す
るのみならず、その子どもがすばらしい子どもに見えてくる。

●自然体で

 とくに子どもの世界では、今、子どもがそうであることには、それなりの理由があるとみてよ
い。またそれだけの必然性があるということ。どんなに、おかしく見えるようなことでも、だ。たと
えば指しゃぶりにしても、一見、ムダに見える行為かもしれないが、子ども自身は、指しゃぶり
をしながら、自分の情緒を安定させている。

 そういう意味では、子どもの行動には、ムダがない。ちょうど自然界に、ムダなものがないの
と同じようにである。そのためおとなの考えだけで、ムダと判断し、それを命令したり、禁止した
りしてはいけない。

 この相談のケースでも、「よくない友だち」と親は思うかもしれないが、子ども自身は、そういう
友だちとの交際を求めている。楽しんでいる。もちろんその子どものまわりには、あくまでも親
の目から見ての話だが、「好ましい友だち」もいるかもしれない。しかし、そういう友だちを、子
ども自身は、求めていない。居心地が、かえって悪いからだ。

 子どもは子ども自身の「流れ」の中で、自分の世界を形づくっていく。今のあなたがそうである
ように、子ども自身も、今の子どもを形づくっていく。それは大きな流れのようなもので、たとえ
親でも、その流れに対しては、無力でしかない。もしそれがわからなければ、あなた自身のこと
で考えてみればよい。

 もしあなたの親が、「○○さんとは、つきあってはだめ」「△△さんと、つきあいなさい」と、いち
いち言ってきたら、あなたはそれに従うだろうか。……あるいはあなたが子どものころ、あなた
はそれに従っただろうか。答は、ノーのはずである。

●自分の価値観を疑う

 常に親は、子どもの前では、謙虚でなければならない。が、悪玉親意識の強い親、権威主義
の親、さらには、子どもをモノとか財産のように思う、モノ意識の強い親ほど、子育てが、どこか
押しつけ的になる。

 「悪玉親意識」というのは、つまりは親風を吹かすこと。「私は親だ」という意識ばかりが強く、
このタイプの親は、子どもに向かっては、「産んでやった」「育ててやった」と恩を着せやすい。
何か子どもが口答えしたりすると、「何よ、親に向かって!」と言いやすい。

 権威主義というのは、「親は絶対」と、親自身が思っていることをいう。

 またモノ意識の強い人とは、独特の話しかたをする。結婚して横浜に住んでいる息子(三〇
歳)について、こう言った母親(五〇歳)がいた。「息子は、嫁に取られてしまいました。親なんて
さみしいもんですわ」と。その母親は、息子が、結婚して、横浜に住んでいることを、「嫁に取ら
れた」というのだ。

 子どもには、子どもの世界がある。その世界に、謙虚な親を、賢い親という。つまりは、子ど
もを、どこまで一人の対等な人間として認めるかという、その度量の深さの問題ということにな
る。あなたの子どもは、あなたから生まれるが、決して、あなたの奴隷でも、モノでもない。「親
子」というワクを超えた、一人の人間である。

●価値観の衝突に注意

 子育てでこわいのは、親の価値観の押しつけ。その価値観には、宗教性がある。だから親子
でも、価値観が対立すると、その関係は、決定的なほどまでに、破壊される。私もそれまでは
母を疑ったことはなかった。しかし私が「幼児教育の道を進む」と、はじめて母に話したとき、母
は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア!」と泣き崩れてしまった。私が二三
歳のときだった。

 しかしそれは母の価値観でしかなかった。母にとっての「ふつうの人生」とは、よい大学を出
て、よい会社に入社して……という人生だった。しかし私は、母のその一言で、絶望の底にた
たき落とされてしまった。そのあと、私は、一〇年ほど、高校や大学の同窓会でも、自分の職
業をみなに、話すことができなかった。

●生きる源流に 

 子育てで行きづまりを感じたら、生きる源流に視点を置く。「私は生きている」「子どもは生き
ている」と。そういう視点から見ると、すべての問題は解決する。

 若い父親や母親に、こんなことを言ってもわかってもらえそうにないが、しかしこれは事実で
ある。「生きている源流」から、子どもの世界を見ると、よい高校とか、大学とか、さらにはよい
仕事というのが、実にささいなことに思えてくる。それはゲームの世界に似ている。「うちの子
は、おかげで、S高校に入りました」と喜んでいる親は、ちょうどゲームをしながら、「エメラルド
タウンで、一〇〇〇点、ゲット!」と叫んでいる子どものようなもの。あるいは、どこがどう違うの
というのか。(だからといって、それがムダといっているのではない。そういうドラマに人生のお
もしろさがある。)

 私たちはもっと、すなおに、そして正直に、「生きていること」そのものを、喜んだらよい。また
そこを原点にして考えたらよい。今、親であるあなたも、五、六〇年先には、この世界から消え
てなくなる。子どもだって、一〇〇年先には消えてなくなる。そういう人間どうしが、今、いっしょ
に、ここに生きている。そのすばらしさを実感したとき、あなたは子育てにまつわる、あらゆる
問題から、解放される。

●子どもを信ずる

 子どもを信ずることができない親は、それだけわがままな親と考えてよい。が、それだけでは
すまない。親の不信感は、さまざまな形で、子どもの心を卑屈にする。理由がある。

 「私はすばらしい子どもだ」「私は伸びている」という自信が、子どもを前向きに伸ばす。しかし
その子どものすぐそばにいて、子どもの支えにならなければならない親が、「あなたはダメな子
だ」「心配な子だ」と言いつづけたら、その子どもは、どうなるだろうか。子どもは自己不信か
ら、自我(私は私だという自己意識)の形成そのものさえできなくなってしまう。へたをすれば、
一生、ナヨナヨとしたハキのない人間になってしまう。

【ASさんへ】

メール、ありがとうございました。全体の雰囲気からして、つまりいただいたメールの内容は別
として、私が感じたことは、まず疑うべきは、あなたの基本的不信関係と、不安の根底にある、
「わだかまり」ではないかということです。

 ひょっとしたら、あなたは子どもを信じていないのではないかということです。どこか心配先行
型、不安先行型の子育てをなさっておられるように思います。そしてその原因は何かといえ
ば、子どもの出産、さらにはそこにいたるまでの結婚について、おおきな「わだかまり」があった
ことが考えられます。あるいはその原因は、さらに、あなた自身の幼児期、少女期にあるので
はないかと思われます。

 こう書くと、あなたにとってはたいへんショックかもしれませんが、あえて言います。あなた自
身が、ひょっとしたら、あなたが子どものころ、あなたの親から信頼されていなかった可能性が
あります。つまりあなた自身が、(とくに母親との関係で)、基本的信頼関係を結ぶことができな
かったことが考えられるということです。

 いうまでもなく基本的信頼関係は、(さらけ出し)→(絶対的な安心感)というステップを経て、
形成されます。子どもの側からみて、「どんなことを言っても、またしても許される」という絶対的
な安心感が、子どもの心をはぐくみます。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味
です。

 これは一般論ですが、母子の間で、基本的信頼関係の形成に失敗した子どもは、そのあと、
園や学校の先生との信頼関係、さらには友人との信頼関係を、うまく結べなくなります。どこか
いい子ぶったり、無理をしたりするようになったりします。自分をさらけ出すことができないから
です。

さらに、結婚してからも、夫や妻との信頼関係、うまく結べなくなることもあります。自分の子ど
もすら、信ずることができなくなることも珍しくありません。(だから心理学では、あらゆる信頼関
係の基本になるという意味で、「基本的」という言葉を使います。)具体的には、夫や子どもに
対して疑い深くなったり、その分、心配過剰になったり、基底不安を感じたりしやすくなります。
子どもへの不信感も、その一つというわけです。

 あくまでもこれは一つの可能性としての話ですが、あなた自身が、「心(精神的)」という意味
で、それほど恵まれた環境で育てられなかったということが考えられます。経済的にどうこうと
いうのではありません。「心」という意味で、です。あなたは子どものころ、親に対して、全幅に
心を開いていましたか。あるいは開くことができましたか。もしそうなら、「恵まれた環境」という
ことになります。そうでなければ、そうでない。

 しかしだからといって、過去をうらんではいけません。だれしも、多かれ少なかれ、こうした問
題をかかえているものです。そういう意味では、日本は、まだまだ後進国というか、こと子育て
については黎明(れいめい)期の国ということになります。

 では、どうするかですが、この問題だけは、まず冷静に自分を見つめるところから、始めま
す。自分自身に気づくということです。ジークムント・フロイトの精神分析も、同じような手法を用
います。まず、自分の心の中をのぞくということです。わかりやすく言えば、自分の中の過去を
知るということです。まずいのは、そういう過去があるということではなく、そういう過去に気づか
ないまま、その過去に振りまわされることです。そして結果として、自分でもどうしてそういうこと
をするのかわからないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。

 しかしそれに気づけば、この問題は、何でもありません。そのあと少し時間はかかりますが、
やがて問題は解決します。解決しないまでも、じょうずにつきあえるようになります。

 さらに具体的に考えてみましょう。

 あなたは多分、子どもを妊娠したときから、不安だったのではないでしょうか。あるいはさら
に、結婚したときから、不安だったのではないでしょうか。さらに、少女期から青年期にかけて、
不安だったのではないでしょうか。おとなになることについて、です。

 こういう不安感を、「基底不安」と言います。あらゆる日常的な場面が、不安の上に成りたっ
ているという意味です。一見、子育てだけの問題に見えますが、「根」は、ひょっとしたら、あな
たが考えているより、深いということです。

 そこで相手の子どもについて考えてみます。あなたが相手の子どもを嫌っているのは、本当
にあなたの子どものためだけでしょうか。ひょっとしたら、あなた自身がその子どもを嫌ってい
るのではないでしょうか。つまりあなたの目から見た、好き・嫌いで、相手の子どもを判断して
いるのではないかということです。

 このとき注意しなければならないのは、(1)許容の範囲と、(2)好意の返報性の二つです。

 (1)許容の範囲というのは、(好き・嫌い)の範囲のことをいいます。この範囲が狭ければせ
まいほど、好きな人が減り、一方、嫌いな人がふえるということになります。これは私の経験で
すが、私の立場では、この許容の範囲が、ふつうの人以上に、広くなければなりません。(当然
ですが……。)子どもを生徒としてみたとき、いちいち好き、嫌いと言っていたのでは、仕事そ
のものが成りたたなくなります。ですから原則としては、初対面のときから、その子どもを好き
になります。
 
 といっても、こうした能力は、いつの間にか、自然に身についたものです。が、しかしこれだけ
は言えます。嫌わなければならないような悪い子どもは、いないということです。とくに幼児につ
いては、そうです。私は、そういう子どもに出会ったことがありません。ですからASさんも、一
度、その相手の子どもが、本当にあなたの子どもにとって、ふさわしくない子どもかどうか、一
度、冷静に判断してみたらどうでしょうか。しかしその前にもう一つ大切なことは、あなたの子ど
も自身は、どうかということです。

 子どもの世界にかぎらず、およそ人間がつくる関係は、なるべくしてなるもの。なるようにしか
ならない。それはちょうど、風が吹いて、その風が、あちこちで吹きだまりを作るようなもので
す。(吹きだまりというのも、失礼な言い方かもしれませんが……。)今の関係が、今の関係と
いうわけです。

 だからあなたからみて、あなたの子どもが、好ましくない友だちとつきあっているとしても、そ
れはあなたの子ども自身が、なるべくしてそうなったと考えます。親としてある程度は干渉でき
ても、それはあくまでも「ある程度」。これから先、同じようなことは、繰りかえし起きてきます。
たとえば最終的には、あなたの子どもの結婚相手を選ぶようなとき、など。

 しかし問題は、子どもがどんな友だちを選ぶかではなく、あなたがそれを受け入れるかどうか
ということです。いくらあなたが気に入らないからといっても、あなたにはそれに反対する権利
はありません。たとえ親でも、です。同じように、あなたの子どもが、どんな友だちを選んだとし
ても、またどんな夫や妻を選んだとしても、それは子どもの問題ということです。

 しかしご心配なく。あなたが子どもを信じているかぎり、あなたの子どもは自分で考え、判断し
て、あなたからみて好ましい友だちを、自ら選んでいきます。だから今は、信ずるのです。「うち
の子は、すばらしい子どもだ。ふさわしくない子どもとは、つきあうはずはない」と考えのです。

 そこで出てくるのが、(2)好意の返報性です。あなたが相手の子どもを、よい子と思っている
と、相手の子どもも、あなたのことをよい人だと思うもの。しかしあなたが悪い子どもだと思って
いると、相手の子どもも、あなたのことを悪い人だと思っているもの。そしてあなたの前で、自
分の悪い部分だけを見せるようになります。そして結果として、たいがいの人間関係は、ますま
す悪くなっていきます。

 話はぐんと先のことになりますが、今、嫁と姑(しゅうとめ)の間で、壮絶な家庭内バトルを繰り
かえしている人は、いくらでもいます。私の近辺でも、いくつか起きています。こうした例をみて
みてわかることは、その関係は、最初の、第一印象で決まるということです。とくに、姑が嫁に
もつ、第一印象が重要です。

 最初に、その女性を、「よい嫁だ」と姑が思い、「息子はいい嫁さんと結婚した」と思うと、何か
につけて、あとはうまくいきます。よい嫁と思われた嫁は、その期待に答えようと、ますますよい
嫁になっていきます。そして姑は、ますますよい嫁だと思うようになる。こうした相乗効果が、た
がいの人間関係をよくしていきます。

 そこで相手の子どもですが、あなたは、その子どもを「悪い子」と決めてかかっていません
か。もしそうなら、それはその子どもの問題というよりは、あなた自身の問題ということになりま
す。「悪い子」と思えば思うほど、悪い面ばかりが気になります。そしてあなたは悪くない面ま
で、必要以上に悪く見てしまいます。それだけではありません。その子どもは、あえて自分の悪
い面だけを、あなたに見せようとします。子どもというのは、不思議なもので、自分をよい子だと
信じてくれる人の前では、自分のよい面だけを見せようとします。

 あなたから見れば、何かと納得がいかないことも多いでしょうが、しかしこんなことも言えま
す。一般論として、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経験しておくことは、
それほど悪いことではないということです。あとあと常識豊かな人間になることが知られていま
す。ですから子どもを、ある程度、俗世間にさらすことも、必要といえば必要なのです。むしろま
ずいのは、無菌状態のまま、おとなにすることです。子どものときは、優等生で終わるかもしれ
ませんが、おとなになったとき、社会に同化できず、さまざまな問題を引き起こすようになりま
す。

 もうすでにSAさんは、親としてやるべきことをじゅうぶんしておられます。ですからこれからの
ことは、子どもの選択に任すしか、ありません。これから先、同じようなことは、何度も起きてき
ます。今が、その第一歩と考えてください。思うようにならないのが子ども。そして子育て。そう
いう前提で考えることです。あなたが設計図を描き、その設計図に子どもをあてはめようとすれ
ばするほど、あなたの子どもは、ますますあなたの設計図から離れていきます。そして「まだ前
の友だちのほうがよかった……」というようなことを繰りかえしながら、もっとひどい(?)友だち
とつきあうようになります。

 今が最悪ではなく、もっと最悪があるということです。私はこれを、「二番底」とか「三番底」と
か呼んでいます。ですから私があなたなら、こうします。

(1)相手の子どもを、あなたの子どもの前で、積極的にほめます。「あの子は、おもしろい子
ね」「あの子のこと、好きよ」と。そして「あの子に、このお菓子をもっていってあげてね。きっと
喜ぶわよ」と。こうしてあなたの子どもを介して、相手の子どもをコントロールします。

(2)あなたの子どもを信じます。「あなたの選んだ友だちだから、いい子に決まっているわ」「あ
なたのことだから、おかしな友だちはいないわ」「お母さん、うれしいわ」と。これから先、子ども
はあなたの見えないところでも、友だちをつくります。そういうとき子どもは、あなたの信頼をど
こかで感ずることによって、自分の行動にブレーキをかけるようになります。「親の信頼を裏切
りたくない」という思いが、行動を自制するということです。

(3)「まあ、うちの子は、こんなもの」と、あきらめます。子どもの世界には、『あきらめは、悟り
の境地』という、大鉄則があります。あきらめることを恐れてはいけません。子どもというのは不
思議なもので、親ががんばればがんばるほど、表情が暗くなります。伸びも、そこで止まりま
す。しかし親があきらめたとたん、表情も明るくなり、伸び始めます。「まだ何とかなる」「こんな
はずではない」と、もしあなたが思っているなら、「このあたりが限界」「まあ、うちの子はうちの
子なりに、よくがんばっているほうだ」と思いなおすようにします。

 以上ですが、参考になったでしょうか。ストレートに書いたため、お気にさわったところもある
かもしれませんが、もしそうなら、どうかお許しください。ここに書いたことについて、また何か、
わからないところがあれば、メールをください。今日は、これで失礼します。
(030516)
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出し 子育て不安 育児ノイローゼ)


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1238)

●伝統とは?

++++++++++++++++++++

今度、教育キホン法改正案なるものが、
政府内で、閣議了承された。

その教育基本法改正案の前文には、
「……伝統を継承し……」とある。

しかし、伝統とは何か?
そも、伝統とは、継承すべきものなのか?

++++++++++++++++++++

 日本では常識でも、外国へ行くと、そうでないというような事例は、よくある。たとえば日本で
は、「自然を愛します」と言うと、その言葉自体が、美しい響き放つ。

 しかしアラブ諸国など、砂漠の国へ行くと、そうではない。そういう国々で、「自然を愛します」
などと言おうものなら、「お前はバカか」と言われる。彼らにとって自然とは、砂漠をさす。

 同じようなことを、私は、ブラジルでも経験した。

 日本では「緑を大切にしましょう」と子どもたちに教える。しかしブラジルの人たちにとっては、
緑、つまりジャングルは、まさに恐怖に満ちた暗黒の世界。大切にすべきものではなく、戦うべ
き相手ということになる。少なくとも、30年前には、そうだった。

 私はそう言ったことはないので、実際にはどうかは、わからない。しかしブラジルで、「緑を大
切にしましょう」などと言おうものなら、同じように、「お前はバカか」と言われたかもしれない。

 そうそう今、思い出したが、昔、こんな記事を何かの本で読んだことがある。黒澤明の『影武
者』という映画を、アラブのどこかの国で上映したときのこと。英語では、「影武者」を、「シャド
ウ・ウオリアー(陰の武士)」とでも訳すのか。アラビア語でも、同じように訳したのだろう。その
ため最後の最後まで、アラブの人たちは、その映画が理解できなかったという。

 それもそのはず、「影」は、「日陰」を表す。彼らにしてみれば、「影」はまさしく、「オアシス」を
意味する。日本語的に考えれば、「影武者」は、「オアシス戦士」とでもなる。「どうしてそのオア
シス戦士が、悪いのか」と。

 そこで本題。

 今度、教育キホン法改正案なるものが、閣議了承された(06年4月)。その前文に、「……伝
統を継承し……」うんぬんとある。

 しかし伝統とは、何か? ここでは視点を変えて、英語で考えてみる。伝統は、英語では、「tr
adition」と訳す。反対にtraditionは、「伝統」と訳される。

 しかし今、アメリカ人や、オーストラリア人に、「traditionを代々継承することは大切なこと」と
言うと、やはり、「お前はバカか」と言われるにちがいない。英語の「traditon」という単語には、
日本語でいう「伝統」という意味も含まれるが、そのほかにも、慣習、しきたり、伝説、言い伝え
という意味も含まれる(研究社、アプローチ英和辞典)。

 つまりそれらをひっくるめて、「tradition」という。

 そこでもし教育キホン法改正案に、こう書いてあったとしたら、あなたはどのように感ずるだろ
うか。

 「……慣習、しきたり、伝説を継承し……」と。

 あなたは多分、「?」と思うにちがいない。「バカか」と思うかもしれない。つまり日本では常識
でも、外国ではそうではないということはよくあるが、これもその一例ということになる。そこでも
う少し具体的に、たとえば、前文に、「先人たちの知恵を生かし」とか、「歴史的遺産を大切にし
て」とか書いてあれば、話もわかるのだが……。

 それにしても、「伝統を継承し」とは、何をさすのか? すこしうがった見方をすれば、「天皇制
の維持」を意味するとも、考えられなくはない。こうしたあいまいな言い方というのは、官僚たち
が得意とする、お家芸でもある。

 あいまいな文章のまま、一度、何かのお墨つきをもらい、あとは自分たちの解釈で、自由勝
手に料理する。この教育キホン法改正案もそうである。閣議了承、さらには国会通過というお
墨つきさえもらえれば、あとは自分たちで、自由勝手に解釈できる。拡大解釈でも何でも、よ
い。そのつど、「教育キホン法の精神にのっとり……」とか、何とでも言える。

 で、改めて考えてみる。
 
 伝統とは、継承しなければならないものなのか、と。そも、伝統とは、何か。いろいろな解釈を
する人は多いが、私には、よくわからない。たとえば伝統的文化という言葉がある。

 日本で、伝統的文化と言えば、歌舞伎や相撲などをさす。別に破壊しろとまでは言わない
が、それを守るか守らないかは、つまり維持するかどうかは、一般庶民である。一般庶民が、
その(流れ)の中で決めることであって、政府ではない。もちろんお役人でもない。

 もしそれが天皇制の維持を意味するものであり、そのための布石として、前文で、「伝統を継
承し」と言うのであれば、私は「?」マークをいくつか、つけたい。いや、何も、私は、天皇制に反
対しているのではない。もし国民の大多数が、それを望むなら、それはそれで構わない。私も、
それに従う。それが民主主義である。しかしもしそうだとするなら、こんなあいまいな書き方をす
るのではなく、すなおに、「天皇制を継承し」と書けばよい。

 どうして、そうしないのだろう? 何か、まずいことでも、あるのだろうか?

 ……などなど、いろいろと考えてしまう。

 話をもとにもどすが、伝統とは、何か? 私には、よくわからない。さて、みなさんは、どうか?


Hiroshi Hayashi++++++++++.April.06+++++++++++はやし浩司

●二男の日課

++++++++++++++++

アメリカに住み、アメリカで
生活する二男のBLOGに
こんな記事が載っていた。

題して、「ぼくの日課」。

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このごろの、大抵の日課(平日)

7:30 起床(誠司が僕らを起こしに来る・・。)朝食(シリアル、ホットケーキなど。)
8:15 出勤(車)
8:30 会社着
11:30 家へ帰って家族と昼食
1:30 会社へ帰る
5:00 退社
5:15 帰宅、誠司と遊ぶ
7:00 夕食
8:00 好きなことする
10:00 誠司を寝かせる(歯磨き、本)
10:30 ディニースとテレビを見たり好きなことをする
12:00 就寝

まあ、こんな感じなんです。

+++++++++++++++++++++

 二男は、ごく平均的なサラリーマンで、ごく平均的な生活をしている。その二男は、結婚当初
から、昼食は、自宅に帰ってしているという。日本では、まず考えられない生活である。(かく言
う、私は、サラリーマンではないので、三食すべて、ワイフといっしょに食べているが……。)

 この日課を見て、いくつか気がついた点がある。

(1)昼の休み時間が長いこと。2時間もある。
(2)残業がないこと。5時には、しっかりと終わる。

 オーストラリアの友人たちも、ほぼ同じような生活をしている。

 で、この日課表を見ていると、いろいろ考えさせられる。

 どうしてこんな働き方しかしていないアメリカ人が、今のような高い水準の生活を維持できる
のだろうか、と。それが第一。

 つぎにアメリカには、家族主義が、伝統的に、いまだに色濃く残っているなということ。それが
第二。それが生活の中に定着している。

 彼らは、基本的には、家族と生活するための収入を得るために、働く。そういう意識をもって
いる。だから日本人のように、仕事のために、家族が犠牲になるなどということは、本来、あり
えない。そういう発想そのものが、ない。

 一方、その日本人は、戦後、何かを犠牲にしながら、ただがむしゃらに働いてきた。「企業戦
士」「一社懸命」などという言葉も、そういうところから生まれた。それはそれでやむをえなかっ
た部分もないわけではないが、では、いったい、私たちは何だったのかということ。

 わかりやすく言えば、強いドル、つまり国際基軸通貨となったドルの強みを背景に、貿易赤字
をものともせず、世界から富を買いあさっている。それがアメリカの現状ということになる。

 日本などは、そのドルをためこむだけ。売ることもできない。売ったとたん、ドルは、大暴落。
それがこわい。だから、ためこむだけ。それをよいことに、アメリカは、せっこらせっこらと、ドル
を印刷する。

 二男の生活も、そういう(現状)の上に、成りたっている。わかっているか、S!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●T先生
 
++++++++++++++++++

昨夜、T先生と、1時間ほど、電話で
話す。

声の調子からして、あまり元気がない。
そのあと届いたメールによれば、
不眠症に悩んでいるとのこと。

++++++++++++++++++

 恐ろしいほど、頭のキレる先生。それが私のT先生への、第一印象だった。1970年のことで
ある。その場の雰囲気と、私の一言だけで、私の脳みその中身すべてを、見抜いてしまった。
そういう先生だった。

 以来、T先生とは、師弟の関係でもなく、さりとて、友人というほど、近い関係でもなく、わけの
わからない関係のまま、それがつづいている。

 2人の双子の娘さんがいるが、1人は、今度、R大学(私立)の教授になったとのこと。もう1
人の娘さんについては、その娘さんの旦那(T先生の言葉)が書いた、「国家のH格」という本
が、ベストセラーになっていることなどを、話してくれた。

 しかし今は、元気がない。年齢も年齢だが、やはり不眠症がたたっているのか。先日は、鎌
倉駅の構内でころび、以前、手術した左足の関節を、また痛めてしまったとのこと。

 T先生の父親は、日本でも有名な化学者だった。日本化学会の会長を務めたこともある。T
先生自身も、日本化学会の会長を務めたことがある。親子2代で、会長を務めたということに
なる。まさに、学者一家。このところ毎週のように、いろいろな大学の入試問題についての意見
を求められるが、私には、さっぱり意味がわからない。率直に言えば、1問も解けない。意見を
求められても、返事の書きようがない。

 しかし、元気がない。ときどき会話をしている脳みそとは別の脳みそが、先生に向かって、こ
う叫ぶ。「先生、元気出せ!」「それでは、ぼくは、困る!」と。

 今では、T先生の多くの弟子たちが、T大やY大で、教授職についている。ときどき、その自慢
話をしてくれる。その先生が、最近、急速に、弱気になってきている。数日前も、こんなメール
が届いた。私が、東大闘争(1970)で、T先生の研究室も被害を受けたと書いたことについて
の返事である。

+++++++++++++++

林様:

  メール有難うございました。 80を過ぎると、めきめきと
衰えが感じられます。 できるだけ体操でもしなければと思う
のですが、それも億劫になって、とかくよろめくというか、平
衡感覚も衰えて来ますし、身体がぎこちなくなってきます。 
非可逆過程です。

  しかしそれだけ、若い時には考えもしなかった「生きる」
ということが実感を伴いながら、考えるようになります。「人
は80を超えてようやく熟す」とはこんなことなのかな、など思
いながら。

 貴方にはまだまだ分からないでしょうが。 最近
長年親しかった仲間が亡くなりましたが、悲しく寂しいという
感覚と一緒に、「遠からずあの世で会える」という感じもします。

  幸いに一応健康に一人生活が出来ているだけでも、毎日
有難いことと感謝しながら、ホームページをいじくったりして
います。

   昨日ある会で、私が言い出した「考える教育を育てる」
運動をしてくれる人に会いました。 彼や仲間で「考える教育」
のホームページを作ってくれているのですが、なかなか進んでい
なかったものでしたが、近日中に私のホームページも含めてもっ
と大幅に宣伝をしますということでしたが。

(中略)

 それを聞くと、それだけ責任を感じて、これま
で勝手に、無責任に作っていただけに、少し見直しをしなければ、
と感じています。 お忙しいでしょうが、貴方の辛口のコメント
が欲しいです。

  貴方のお書きなったものは大変に哲学的で、難しいのです
が、つまらない訂正点を一つ書きます。

   大学紛争ですが、本当
に何故あんなことが起こったのか、全く今でも分かりません。 
起こした連中でさえ、そう言っています。

   今の学生を見ていて到底
考えられないことでした。 革命などあんなふうにして起こるの
かな、とさえ思いました。

   一つの訂正というのは、大学の方々
が学生のために封鎖され、使えなくなりましたが、面白いことに
「化学」に関連した学科は何処も封鎖されませんでした。 私のと
ころも入り口の大きなガラスのドアは壊されましたが、中は無事
でした。

   「化学」は臭いし、危ないし、ということで、「化学教育」
のレベルが低いことを示すもの、と笑われたものでした。どうでも
いいことですが。

  くれぐれもお元気で。 ご活躍を期待しています。

  TK(06年4月29日)

(先生へ)

 無断で、先生からのメールを、日記に転載して、ごめん! おかしなことに、私は、その日の
日記を、朝、こうして書くことにしています。

+++++++++++++++

 年齢の話はあまりしたくないが、しかしその年齢のもつ恐ろしさは、年を取ればとるほど、わ
かる。生きとし生きるもの、すべての命そのものまで、吸いこんでしまう。そしてその命を、その
まま闇の世界へと、葬り去ってしまう。

 肉体の死だけが、死ではない。死は、年齢とともに、少しずつ、やってくる。T先生流の言い方
で言えば、「心も酸化し、サビつき、やがてボロボロになっていく」。しかしそれは何も、先生だ
けのことではない。

 私自身の近未来の姿でもある。いくらがんばっても、年齢には勝てない。その非情さが、私の
心を、沈ませる。

 私は、どこまで、がんばれるのか? 先生、どうか、どうか、いつまでも、がんばってください。
いっしょに、死ぬまで、生きましょう!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(1239)

【親の影、子どもの心】

+++++++++++++++++++

親がもつ影、それがそのまま子どもの心と
なる。

いくら親が仮面をかぶっても、子どもは、
それを見抜く。見抜いて、自分の心と
してしまう。

子育てのこわさは、実は、ここにある。

+++++++++++++++++++

 掲示板に、こんな書きこみがあった。それをそのまま、ここに転載する。

++++++「はやし浩司のHP」掲示板より++++++

信頼関係・・・その信頼関係についてですが、娘の出産後、異常なまでの神経質な状態が続い
ていたことは確かです。子どもが2か月くらいまでは、まだ覚えていますが、その後1才くらいま
での間、正直、記憶がありません。

少し思い出しましたが、出産した病院が異常に母乳にこだわる病院でした。たくさんの勉強を
入院前、入院中も押しつけられました。出産前は、子どもなんてほっておけば自然に育つ
わ!、なんていいかがんな考え方をしていましたが、そこで、完全に否定されました。

完全母乳と、「断乳」ではなく「卒乳」というプレッシャーの中で、子どもが自分からいらないよ、
と言うまで与え続けなさいというものでした。

が、2才を過ぎてもやめられない子どもにイライラし、でも我慢、我慢・・・・と。しかし、体がつい
ていきません。そろそろ・・と考え、無理やり引き離しました。当然、子どもは異常なまでに、泣
き続けました。

そんな娘でしたが、「保育園で頑張っているのだから」と、一貫性のない気持ちが顔を出し、泣
く姿に負け、またおっぱいを吸わせてしまいました。常に、自分が働いているのが悪いのだか
ら・・・という負い目がありましたが、でも、自分の夢もありました。当時の育児休暇は一年間だ
け。それ以上ということになると、退社するしかありませんでした。

そして、常に(今も)、私の心にあるものは、「悪い母親像」です。他の、近所の母親などのひど
い所、悪いところばかり、見ていました。それに自分の母親も。そういう見方が、いつもあって、
私は心でこう言っています。「なんてひどい母親たち、絶対にあんな風にはならない」って。「な
んて低レベルな親たち。。。。」とも。

「こうなりたい」ではなく、「こうなりたくない」ばかり。とくに自分の母親のようには、なりたくないと
思っていました。

私の母親は、私を産んだあと、2か月で復帰し、基本的に父親の母(つまり私の祖母)によっ
て、私は育てられました。やがて2才年下の弟が生まれ、2か月の産休中、保健婦さんが、弟
の健診に来たとき、私について、「心配だ、欲求不満状態ですよ」と言ったそうです。

幼稚園児のときから、私は鍵っ子。家に帰っても、家には、誰もいません。夏休みになると、私
は、母の実家、父の実家と転々。「明日は○○が見てくれるって、助かるわー」などと、何度も
ため息を漏らされたこともあります。

愚痴を言われるたび、いい子でいなきゃって思いました。毎晩のように、行った先々がお化け
屋敷になる夢を見ていました。楽しい思い出もたくさんあるはずなのに、なぜこんな事しか覚え
ていないのでしょうね。おかしいですね。

今、長女も同じ気持ちだとすると・・・心が痛いです。まともな育児を受けてなかったから、今、う
まく、子どもを育てられないのでしょうか。・・・これも母親のせいにしてしまいますね。つくづくイ
ヤになってしまいます。子どもの事が心配だ、と言いながら、一番心配しているのは自分のこと
で、また、自分という母親なのですね。

未熟な親と指摘され、それについては、思い当たるところがあります。

まだ、小学生か、中学生のままのような感じです。親に、もっと抱きしめて欲しかったのに、と
か、よく思います。

よく買い物の立ち話で、こんなことを言う親がいますね。「まだ夏休み! うちの子、はやく学校
いってくれないかしら」と。そんなことを聞くと、「私がいつもお母さんのそばにいることを、お母さ
んは嬉しいと思っていたのに・・・お母さんは、嬉しくなかったのかしら?」と。そういう思いが、ま
だ自分の中で、消化できていません。

こんなこと、思っていたらいけないと考えています。

もう、やめます。「あのようになりたくない」じゃなく、「こんな人になりたい」に切り替えて。自分が
変われば自然とついてくるような気がします。

++++++++++++++++++++

【書きこみをしてくださった、Pさんへ、はやし浩司より】

 Pさんのことというより、あなたの書きこみを読んで、自分のことをあれこれ考えました。私も、
ごく最近、気がついたのですが、私という息子は、私の母には、重荷でしかなかったように思い
ます。

 私が幼児のころは、たしかに私の母は、私を、でき愛しました。ベタベタでした。しかしそれは
本当に私を、受けいれてくれていたからではありません。私を利用して、自分の心のスキマを
埋めていただけなのですね。

 私が反抗期を迎え、母に反抗するようになると、その母は、どんどんと変化していきました。
が、そうした変化にしても、そのときはわかりませんでした。今、こうして自分の過去を冷静に
みていくとわかる……という変化です。いつしか私は母に嫌われるようになっていました。が、
そのときは、母を、みじんも疑いませんでした。いつでも母は母であり、私のことを、心底、気に
かけてくれているのだと、そのときは、そう思っていました。

 そこでどうでしょう、「母」という言葉がもつ幻想を、捨てるのです。「母」というと、神様か、仏
様のように思う人も多いですが、それはまさに幻想です。幻想そのものです。極端な例です
が、子どもを虐待する、(虐待ママ)と呼ばれる母親たちがいます。そういう母親を見ていると、
その思いを強くします。

 だからといって、そういう母親を責めているのではありません。そういう母親はそういう母親
で、苦しんでいます。自分の中に潜んで、裏から自分を操る、自分でない自分に、苦しんでいま
す。

 で、その幻想さえ捨ててしまえば、……といっても、それは簡単なことではありませんが、それ
ができれば、母親といえども、1人の人間として、見ることができるようになります。しかしそれ
は同時に、つまりそうすることは、自分という(私)のためでもあります。

 私たちもその(親)ですが、親であるという立場に、決して甘えてはいけません。ともすれば、
(親である)という立場に甘え、子どもの心を見失ってしまいます。しかしいつか必ず、自分も、
1人の人間として評価されるときがやってくる。そういう前提で、自分の、親としてのあり方を考
えます。

 私たちの世界では、あなたのような母親を、「気負いママ」と呼んでいます。「いい親でいよう」
という気負いが強い親をいいます。「いい家庭を作ろう」「すばらしい子育てをしよう」と。が、気
負いばかりが強くて、結局は、親子の関係をぎくしゃくしたものにしてしまいます。

 なぜ、そうなるかと言えば、あなた自身に、しっかりとした(親像)が、脳の中にインプットされ
ていないからとみます。率直に言えば、不幸にして不幸な家庭で、育てられた。繰りかえします
が、子育ては本能ではなく、学習によってできるようになります。

 自分が親に育てられたという経験、つまり学習があってはじめて、今度は自分が親になった
とき、自然な形で、自分の子育てができるようになります。が、それがないと、どこか、かたよっ
た子育てをするようになります。

 極端に甘い親とか、極端にきびしい親というのは、たいていこのタイプの親と考えて、まちが
いはないようです。

 が、こういうばあいでも、決して、自分を責めてはいけません。自分の親を責めても、いけま
せん。みな、そうなのですから……。

 幸福な家庭で、何ひとつ、不自由なく、親の豊かな愛情に恵まれて育てられた人の方が、は
るかに少ないのですよ。みんな、それぞれ、何らかの問題をかかえている。問題のない人な
ど、いません。

 ただここで重要なことは、仮にあなたの過去がそうであるからといって、それをそのまま子ど
もに伝えてはいけないということです。それを私たちの世界では、「世代連鎖」とか、「世代伝
播」とか呼んでいます。子育てというのは、世代から世代へと、連鎖しやすいという意味です。
つまりそれに気がついたら、あなたという親の代で、それを断ち切ります。

 その点では、すでにあなたは、それに気づいている。自分をや自分の過去を冷静に見つめる
目を、すでにあなたは、もっている。だからあなたは、すでにすばらしい親になったのです! 
わかりますか。あなたはすばらしい親になったのですよ!

 それに気づけば、あとは時間が解決してくれます。今すぐというわけではありませんが、「時」
には、そういう力があります。ちょうど畑にまいた種のようなものです。今すぐというわけにはい
きませんが、やがて芽を出し、実を結びます。

 決して、あせらないこと。時の流れの中に、静かに、身を任せることです。

 ねっ、よい親になるって、意外と簡単なことだと、思いませんか? あとは、子どもを育てよう
などという意識は捨てて、子どもに、子育てのし方を見せるつもりで、子育てをつづければよい
のです。

「あなたが親になったら、こういふうに子育てをするのですよ」「家庭とは、こういうものですよ」
「夫婦というのは、こういうものですよ」と。そしてこう思います。「私が、その見本を見せてあげ
るから、しっかりと、よく見ておくのですよ」と。

 そうそう、私もあるとき、自分の母親を見て、こう思いました。「何だ、ただの女ではないか」
と。しかしそう思ったとたん、気が楽になりました。それまでは、「母」という幻想にとりつかれ、
母が、その幻想に反したことをするたびに、腹を立てていました。「そんなはずはない」と、で
す。

 以上ですが、何かの参考になれば、うれしいです。では、おやすみなさい。
(06年5月1日)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1240)

【世界の教育格言】

●種を蒔いたように……

As you sow, so we shall you reap. 「あなたが種を蒔いたように、あなたはそれを刈らねばなら
ない」。イギリスの教育格言。つまり因果応報ということか。子育てについて言えば、ほとんどの
親は、子どもに何か問題が起きると、「子どもをなおそう」とする。しかしなおすべきは、子ども
のほうではなく、親のほうである。そういう視点から、子どもの問題を見つめなおしてみる。


●引いて、発(はな)たず

孟子(紀元前3世紀ごろの、中国の思想家。著書『孟子』は、儒学の経典のひとつとされる)が
残した言葉である。子どもに矢の射り方を教えるときは、矢の引き方までは教える。しかし、そ
の矢を放つところまでは見せてはいけないという意味。教育といっても、やりすぎはよくない。た
とえば手取り、足取り教える教育法がある。一見、親切な指導法に見えるかもしれないが、か
えって子どものためにならない。


●子どもは人の父

The Child is Father of the Man. 「子どもは人の父」、イギリスのワーズワースの詩の一節であ
る。子どもが成長し、やがておとなになっていくのを見ていると、この感を強くする。つまり、子ど
もは、人の父、と。子育てというのは、子どもを育てることではない。子どもに、子育ての仕方を
見せておく。見本を見せておく。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育てるのです
よ」と。それが子育て。


●食欲がないときに……

『食欲がないときに食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこ
ない、また記憶されない』。Studying without an inquiring desire will be not retained in ones' 
memory. レオナルド・ダ・ビンチ(1452〜1519)の言葉である。子どもの学習指導の常識と
言ってもよい。日本では教育というと、「教え育てる」が基本になっているが、それは昔の話。子
どもから意欲を引き出し、それをじょうずに育てる。あとは子ども自身がもつ「力」に任せればよ
い。


●忠告は密かに……

Give advice secretly, and praise children openly. 「忠告は密かに、賞賛はおおやけに」。古代
ローマの劇作家、シルスの言葉である。子どもを叱ったり、子どもの名誉をキズつけるような行
為は、だれもいないところでせよ。しかし子どもをほめるときは、みなの前でせよ、という意味で
ある。子育ての行動規範のひとつとして覚えておくとよい。


●教育の秘法

あのエマーソン(アメリカの詩人、思想家、1803〜1882)は、こう書いている。『教育に秘法
があるとするなら、それは生活を尊重することである』と。欧米では、「自立したよき家庭人」を
育てるのが、教育の柱になっている。とくにアメリカでは、デューイの時代から、より実用的なこ
とを教えるのが、教育の柱になっている。生活に根ざさない教育は、そも役に立たない。生活
を尊重してこそ、そこに真の教育があるというわけである。


●かわいくば……

『かわいくば、五つ数えて三つほめ、二つ叱って良き人となせ』(二宮尊徳、江戸時代後期の農
政家、1787〜1856)と。「子どもがかわいいと思ったら、叱るときでも、一呼吸おいて、まず
よいところを三つみつけて、それをほめる。そしてそのあと、二つくらいの割合で、叱れ」という
意味。子どもをほめる、子どもを叱る……。それは家庭教育の要(かなめ)と言ってもよい。


●最初に受けた印象が……

First impressions are most lasting. イギリスの教育格言。つまりものごとは、第一印象が大切
ということ。とくに子どもの教育では、そうである。その第一印象で、すべてが決まるといって
も、過言ではない。だから子育てをしていて、「はじめの一歩」を感じたときは、とくに慎重に! 
コツは、叱らない、おどさない。「小学校はきびしいのよ」「先生はこわいわよ」と教えたため、学
校へ行きたがらなくなる子どもは少なくない。


●玉、磨かざれば……

『玉、磨かざれば、器(うつわ)ならず。人、学ばざれば、道知らず』(礼記、中国五経の一つ)。
脳の健康は、肉体の健康と似ている。究極の健康法などというものはない。同じように、究極
の思想などというものはない。運動を怠ったら、その日から、健康はくだり坂に向かう。同じよう
に考えることを怠ったら、その日から、脳は老化する。人は、日々に研鑽(けんさん)してこそ、
人でありえる。学ばない人、考えない人は、それだけで、大切な人生を無駄にしていると言え
る。


●馬を水場に……

A man may lead a horse to the water, but he cannot make it drink. 「馬を水場に連れて行くこ
とはできても、その馬に水を飲ませることはできない」。イギリスの教育格言である。子どもを伸
ばす最大の秘訣は、まず楽しませること。楽しむことによって、自発的行動(オペラント)が生ま
れ、それが強化の原理となって、子どもを伸ばす(スキナー)。しかし無理は禁物。無理をして
も、意味がない。それがこの格言の意味ということになる。


●ビロードのクッションより……

It is better to sit on a pumpkin in the field rather than to sit on the soft velvet cushion of 
the palace. 『ビロードのクッションより、カボチャの上に座っているほうがよい』(ソロー、アメリカ
の随筆家、1812〜1862)。子どもにとって家庭とは、すべからく、カボチャのようでなくてはな
らない。子どももある程度の年齢になったら、家庭は、しつけの場から、心を癒す、憩いの場と
なる。またそうでなくては、いけない。


●教育は、母のひざに始まり……

I・バロー(17世紀のイギリスの数学者)は、こう言っている。「Education starts in mother's lap 
and what children hear in those days will form their character.(教育は母のひざに始まり、幼
年時代に伝え聞くすべての言葉が、性格を形成する)」と。この時期、母親の子どもへの影響
は、絶対的なものであり、絶大である。母親が、子どもの方向性のすべてを決定づけると言っ
ても過言ではない。子どもの教育は、子どもをひざに抱いたときから始まると、バローは言って
いる。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1241)

【今日、このごろ】

●気温が32度!

 昨日(5・1)、静岡市で、気温32度を記録した。山梨県の甲府で、33度。この浜松市北部で
も、29・5度! 真夏日である。

 先日、岐阜へ行った折、金華山(岐阜城があることでよく知られている山)のふもとを、車で走
って、驚いた。山の木々が、無数にというより、不気味に見えるほど、立ち枯れをしていた。

 地球環境は、ジワジワと、しかし、確実に悪化しているようだ。


●シャドウ

 心の影、それを「シャドウ」という。仮面(ペルソナ)をかぶった生活をつづけていると、その裏
に、シャドウができる(ユング)。私は「心の影」と訳している。この影がこわい。ふつうシャドウと
いうのは、その人の邪悪な部分をいう。一番身近にいるもの、つまりあなたの子どもが、えてし
て、その影を引き継いでしまう。

 大切なことは、ありのままの自分をさらけ出して生きること。無理に善人ぶらない。聖人ぶら
ない。大物ぶらない。


●国家のH格

 今、話題のベストセラーに、S社から出版された「国家のH格」がある。その本は別として、そ
の本を書いた、F氏の奥さんが、恩師T先生のお嬢さんだったということは知らなかった。一
度、T先生の自宅に遊びに行ったとき、ちょうど、車で帰るところとか、そのとき、会ったことが
ある。

 数学者らしい、理知的な人だった。「あの人だったのかあ……」と思ってみたりする。

 ワイフに、「世の中って、狭いもんだね」と、話した。ワイフも、「ヘエー」と言った。


●金のネックレス

 若いころ、金のネックレスを買った。1グラム、3000円弱のころのことである。が、その後、
金の価格はさがる一方。それを知って、そのネックレスは、そのまま、お蔵入り。

 が、このところの中東情勢を反映してか、金の価格が、毎日、最高値を更新している。で、再
び、そのネックレスを、「お蔵」から取り出してみる。「今のうちに、売ろうか」と、ワイフに話しか
けている。

 さあ、どうしようか? 今朝(5・2)の金価格は、T社で、グラム、2544円。


●ガーデン・パーク

 昨日(5月1日)、近くのガーデン・パークへ行って、弁当を食べてきた。平日だからすいてい
るだろうと思って行ったが、それがどっこい! どこかの小学校の遠足の集団が、あちこち
に!

 私たちはその集団を避けて、静かなところで、弁当を食べた。

 「レストランで食べるより、おいしいね」と言うと、ワイフも、すなおに、同意してくれた。

 少し前まで、日曜日でもガラガラだった。しかしこのところ、人気が、急上昇。駐車場は広い
し、それに入場料が無料。休憩場所は、ふんだんに、いたるところにある。犬連れも、OK。

 「今に、有料になるよ。お役人たちが、だまって見ているはずがない」と。


●ジーパンに赤シャツ

 生まれてはじめて、ジーパンを買ってきた。はいてみた。ヨレヨレの、すり切れたようなジーパ
ンだ。が、そういうジーパンほど、値段が高い。その高いのを買った。

 「おかしな世界だね。これじゃあ、まるで古着だア」と。

 ついでに赤シャツも買ってきた。赤い色のシャツは何枚ももっているが、ド派手な赤シャツ。

 ジジイだから、ジジイらしい服装……という時代ではない。まあ、私が着たら、どんな服でも、
ジジ臭く見えるが……。


●連休

 今は、大型連休の最中(さなか)だそうだ。しかしその実感は、ない。昨日も、今日も、平日ど
おりの仕事。私のばあい、明日、5月3日から、休みになる。

 いろいろしたいことがある。予定もある。しかしここには書けない。

 今では、HP上やBLOG上などで、旅行などの予定を書くのは、タブー。それを読んで、空き
巣や泥棒が、やってくるそうだ。時代も変わった。

 私も講演予定日などのスケジュールは、書かないことにしている。「○月○日、2時から△中
学校で、講演」と書くことは、泥棒に、「その日に、おいでください」と書くようなもの。

 みなさんも、どうか、ご注意!


●株価

 数か月前、2社の株を、xx株ずつ、買った。しかしそののち、私の買った株は、さがる一方。
M社の株価は、約半額になってしまった!

 だから今は、株価を見るのも、いや。おっくう。今朝も、少しのぞいてみたが、まだ、さがりつ
づけている! 

 今売れば、xxx万円の損。こういうのを、「含み損」という。

 しかし株価がさがることは、悪いことばかりではない。生活が、質素になる。何かにつけて、
倹約するようになる。つまり無駄づかいが、減る。

 今が、そのとき。ここは笑ってすます。ハハハ。


●マガジンの発行

 このところマガジンの原稿書きが、遅れ気味。忙しいというより、ほかにやることがたくさんあ
って、どうしても、あと回しになる。

 読者も、ふえない。

 サッカーにたとえるなら、観客のいないフィールドで、ひとりで練習をしているようなもの。

 「1000号だ」「1000号までだ」と、自分に言って聞かせる。まだまだ苦しい戦いが、つづき
そう。

……ということで、やっと、原稿が、20枚になったので、今日は、ここまで。これからマガジン
(5月29日号)の配信予約を入れるつもり。

 こんな文ですが、最後まで、読んでくださり、ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1242)

【今日・あれこれ】

●朝

 昨夜は、11時ごろ、風呂に入った。床についた時刻は、覚えていない。多分、12時ごろでは
なかったか。

 しかしこのところ、朝が、早い。5時半には、目がさめてしまう。今朝もそうだった。そのせい
か、このところ、毎日のように、軽い昼寝をしている。あるいは、こうしてコタツの中に入り、パソ
コンに向かっていると、ときどき、猛烈な睡魔に襲われる。今が、そうだ。

 大きなあくびが、数回、たてつづけに出た。気持ちのよい朝だ。空気がかわいている。すがす
がしい。一年中、こうだといいのだが……。


●今、ほしいもの

 昨夜、近くのショッピングセンターへ、買い物に行ってきた。今日、大切な客が来るので、そ
の料理のためである。

 で、いつものように、その帰りに、パソコンショップへ。今、ねらっているのが、P社のデジカ
メ。超高感度のカメラである。夜景も、フラッシュなしで撮れるという。もちろんブレ防止機能つ
き。

 「株があがったら……」と思っているが、その株は、さがる一方。まあ、ここはがまんのとき。


●すべてをもつ人

 この世の中には、幸運にも、すべてをもつ人がいる。

 名誉、地位、財産、家族。それに、周囲の人たちの暖かい愛。ほかの人の、何千倍も、濃密
な人生を歩んでいる。少なくとも、傍(はた)から見ると、そう見える。

 しかし当の本人が、それを自覚しているかというと、それは疑わしい。人は、幸福であるにせ
よ、そうでないにせよ、その生活を長くつづけていると、やがて自分がわからなくなる。

 それはちょうど、サングラスに似ている。あのサングラスをしばらくかけつづけていると、青は
青に、赤は赤に、それなりに、色のちがいが、はっきりと区別できるようになる。

 幸福な人は、幸福色のサングラスをかけて、世界を見る。そうでない人は、これまた別の色
のサングラスをかけて、世界を見る。

 で、このことは、2つの教訓を、私たちに教えている。

 ひとつは、幸運にも、すべてをもつ人でも、それなりに、ときに、不幸を感じ、それなりにさまざ
まな問題をかかえているということ。

 一方、そうでない人、つまり私も含めてだが、そういう人でも、冷静に自分を見れば、結構、
幸福な部分も、ないわけではないということ。不幸に見えるのは、あくまでも、サングラスのせ
い。

 まわりくどい言い方をしたが、人は、(ふつうの価値)を、自分の中に発見したとき、幸福にな
れるということ。賢明な人は、その(ふつうの価値)を、それをなくす前に気づく。そうでない人
は、それをなくしてから気づく。

 幸運にも、すべてをもつ人が、必ずしも、幸福とはかぎらない。しかしそうでないと思っている
人でも、いくらでも、幸福になれる。

 ……とま、そう考えて、自分をなぐさめる。


●5月31日号

 この原稿は、マガジンの5月31日号用。だから何か、5月のしめくくりのような原稿を書かね
ばならない。

 しかし実際には、今日は、5月3日。5月3日に、5月のしめくくりの原稿?

 おかしな気分だ。タイムマシンに乗って、一度、5月末に飛び、そこから今という過去を見てい
るような気分。

 多分、無事、今月も終わることだろう。そう願っている。あるいはひょっとしたら、交通事故か
何かで、そのときには、死んでいるかもしれない。が、マガジンだけは、5月31日に配信され
る。

 だからというわけでもないのだろうが、このところ、「月」に対する感覚が、少し狂ってきたよう
に感ずる。4月なのに、5月だと思ってみたり、5月なのに、4月だと思ってみたりする。カレン
ダーを読みまちがえることも、たびたびある。

 しかし、何はともあれ、こうしてパソコンの前に座っている私にとっては、今日(5月3日)が、5
月31日なのだ。


●ふつうの価値

 「ふつうこそ最善」という言葉がある。どこかの哲学者が言った言葉である。

 今朝は、改めて、それについて考える。

 たとえば健康。

 この健康の価値は、ふつうでなくなったときに、わかる。が、それまでは、わからない。それを
当たり前のこととして、その価値を見失ってしまうからである。

 最近見た、テレビの報道番組の中に、こんな1シーンがあった。ある難病にかかった男性の
ことだが、その男性は、テレビのレポーターに向かって、泣きながら、こう叫んでいた。

 「もう一度、生きたい。もう一度生きて、自分の人生を、一(いち)からやりなおしてみたい」と。
60歳くらいの男性ではなかったか。

 「ありがとう」「ありがとう」と言いながら死んでいく人がいる。しかしその一方で、「悔しい」「悔
しい」と言いながら死んでいく人もいる。

 そうしたちがいは、どこから生まれるのだろう。

 私はその男性の言葉を聞きながら、ふと、こう思った。「この人は、若いころから、どういう人
生を歩んできたのだろう?」と。私がその男性に感じた不完全燃焼感には、ものすごいものが
あった。

 つまりは、そのときどきで、そのときどきを、完全に燃焼させて生きるか、そうでないかのちが
いということか。しかし自分を完全燃焼させるというのは、たとえ一時でも、容易なことではな
い。


●T選手

 昨夜、今度のワールドカップの出場選手のメンバー表が、発表された。その中に、Tさんの名
前が、筆頭にあった。うれしかった。

 で、先日、何かのことで会って別れるとき、私が、「すばらしい人生を歩んでおられますよ」と
言うと、謙遜して、「スポーツしかできませんから……」と。

 昨年のアジアカップ杯では、全戦に出場し、優勝まで、なし遂げた人である。Tさんは、私たち
の知らないすばらしい世界、想像もつかないほど濃い世界を知っている。それがうらやましい。

Tさんの前では、一度とて、サッカーの話をしたことはない。ないが、私は、心底、Tさんを尊敬
している。

(Tさんへ、もしこの原稿が目にとまったら、この林も、あなたの隠れファンだということを、どう
か忘れないでくださいよ!)


++++++++++++++++++

ふつうの価値について、以前、書いた
原稿の中から、いくつかを集めてみます。

++++++++++++++++++

【親が子どもを許して忘れるとき】

●苦労のない子育てはない

 子育てには苦労はつきもの。苦労を恐れてはいけない。その苦労が親を育てる。親が子ども
を育てるのではない。子どもが親を育てる。

よく「育自」という言葉を使って、「子育てとは自分を育てること」と言う人がいる。まちがっては
いないが、しかし子育てはそんな甘いものではない。

親は子育てをしながら、それこそ幾多の山や谷を越え、「子どもを産んだ親」から、「真の親」へ
と、いやおうなしに育てられる。たとえばはじめて幼稚園へ子どもを連れてくるような親は、確か
に若くてきれいだが、どこかツンツンとしている。どこか軽い(失礼!)。バスの運転手さんや炊
事室のおばさんにだと、あいさつすらしない。

しかしそんな親でも、子どもが幼稚園を卒園するころには、ちょうど稲穂が実って頭をさげるよ
うに、姿勢が低くなる。人間味ができてくる。

●子どもは下からみる

 賢明な人は、ふつうの価値を、それをなくす前に気づく。そうでない人は、それをなくしてから
気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさも、またしかり。

 私には三人の息子がいるが、そのうちの二人を、あやうく海でなくすところだった。とくに二男
は、助かったのはまさに奇跡中の奇跡。あの浜名湖という広い海のまん中で、しかもほとんど
人のいない海のまん中で、一人だけ魚を釣っている人がいた。あとで話を聞くと、国体の元水
泳選手だったという。

私たちはそのとき、湖上に舟を浮かべて、昼寝をしていた。子どもたちは近くの浅瀬で遊んで
いるものとばかり思っていた。が、三歳になったばかりの三男が、「お兄ちゃんがいない!」と
叫んだとき、見ると上の二人の息子たちが流れにのまれるところだった。

私は海に飛び込み、何とか長男は助けたが、二男はもう海の中に沈むところだった。私は舟
にもどり、懸命にいかりをたぐろうとしたが、ロープが長くのびてしまっていて、それもできなか
った。そのときだった。「もうダメだア」と思って振り返ると、その元水泳選手という人が、海から
二男を助け出すところだった。

●「こいつは生きているだけでいい」

 以後、二男については、問題が起きるたびに、「こいつは生きているだけでいい」と思いなお
すことで、私はその問題を乗り越えることができた。花粉症がひどくて、不登校を繰り返したと
きも、受験勉強そっちのけで作曲ばかりしていたときも、それぞれ、「生きているだけでいい」と
思いなおすことで、乗り越えることができた。

私の母はいつも、こう言っていた。『上見てキリなし。下見てキリなし』と。人というのは、上ばか
りみていると、いつまでたっても安穏とした生活はやってこないということだが、子育てで行きづ
まったら、「下」から見る。「下」を見ろというのではない。下から見る。「生きている」という原点
から子どもを見る。そうするとあらゆる問題が解決するから不思議である。

●子育ては許して忘れる 

 子育てはまさに「許して忘れる」の連続。昔、学生時代、私が人間関係のことで悩んでいる
と、オーストラリアの友人がいつもこう言った。「ヒロシ、許して忘れろ」(※)と。英語では
「Forgive and Forget」という。この「フォ・ギブ(許す)」という単語は、「与えるため」とも訳せる。

同じように「フォ・ゲッツ(忘れる)」は、「得るため」とも訳せる。しかし何を与えるために許し、何
を得るために忘れるのか。私は心のどこかで、この言葉の意味をずっと考えていたように思
う。が、ある日。その意味がわかった。

 私が自分の息子のことで思い悩んでいるときのこと。そのときだ。この言葉が頭を横切った。
「どうしようもないではないか。どう転んだところで、お前の子どもはお前の子どもではないか。
許して忘れてしまえ」と。

つまり「許して忘れる」ということは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れろ」ということになる。そしてその深さ、つまりどこまで子どもを許し、忘れるかで、親の愛
の深さが決まる。

もちろん許して忘れるということは、子どもに好き勝手なことをさせろということではない。子ど
もの言いなりになるということでもない。許して忘れるということは、子どもを受け入れ、子ども
をあるがままに認めるということ。

子どもの苦しみや悲しみを自分のものとして受け入れ、仮に問題があったとしても、その問題
を自分のものとして認めるということをいう。

 難しい話はさておき、もし子育てをしていて、行きづまりを感じたら、子どもは「生きている」と
いう原点から見る。が、それでも袋小路に入ってしまったら、この言葉を思い出してみてほし
い。許して忘れる。それだけであなたの心は、ずっと軽くなるはずである。

※……聖書の中の言葉だというが、私は確認していない。
(031020)
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 許して
忘れる 許して、忘れる ふつうの価値 ふつうこそ最善)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●壮絶な受験戦争(子どもは不登校児に)

 U君は小学校の低学年児のころは、学級委員をこなすなど、ごくふつうの子どもだった。まじ
めで、成績もそこそこによかった。が、このことがかえって、母親の判断を狂わせた。母親は
「うちの子は、やればできるはず」「こんなはずは、ない」「まだ、何とかなる」を繰り返し、A君に
無理な学習を強いた。

 子ども(中学生)は1日約10時間の学校生活をする。たいへんな重労働である。しかも今、
約40%の子どもが塾通いをしている(中一生・静岡県「私塾界」誌)。その上さらに、家庭学習
である。

U君の母親も、コピー機まで用意して、毎日U君の勉強に備えた。U君が夜遅く塾から帰ってく
ると、母親は一定のワークをさせ、そしてそれを採点していた。が、やがてU君は、オーバーヒ
ート。しかしU君の母親は、それを許さなかった。

 そしていよいよ受験。進学指導の先生は、B高校を勧めたが、U君の母親は、最上位校のA
高を希望して譲らなかった。「私はどこの高校でもいいと思っているのですが、何とか息子の夢
をかなえさせてあげてください」と、先生に泣きついた。が、結果は不合格。U君はすべり止め
に受けた、C私立高校へ通うようになった。

 しかしこういうケースでは、深刻な後遺症は、そのあとに起きる。互いに緊張している間は、
その「芽」に気づかない。また私のような立場の者がアドバイスしても無駄。結局、行きつくとこ
ろまで、行くしかない。

U君は、一年間は何とか通ったものの、やがて高校へ行かなくなってしまった。母親は「特別進
学クラスから普通クラスに移されたことが原因」「先生が息子の気持ちを聞いてくれないから
だ」と、涙ながらに訴えたが、それはあくまでも表向きの言い逃れ。それ以前から、U君は、ま
ったくやる気をなくしていた。

 賢明な人は、ふつうの価値に、それをなくす前に気づく。愚かな人は、その価値をなくしてか
ら気づく。健康しかり、生活しかり、そして子どものよさもまた、しかり。

が、さらに愚かな人は、また同じ失敗を繰り返す。U君の母親は、U君が高校を中退する、しな
いの話になっても、まだ特別進学クラスにこだわっていた。しかもU君だけではない。まったく同
じコースをたどって、U君の弟のK君までもが、高校受験に失敗。そして同じように断続的だっ
たものの、学校へ行かなくなってしまった。が、それで悲劇は終わったわけではない。U君もK
君も家には寄りつかなくなり、今は、母親の実家で寝泊りしている。

 こういうケースは、あなたの周囲にも、1つや2つはある。ひょっとしたら、あなた自身の家庭
がそうであるかもしれない。学歴信仰の人は、いくらでもいるし、U君の母親のように、うつ病気
質、あるいは神経症の人も何割かいる。さらにそこそこにはできるが、しかしそれほどでもない
子どもをかかえている親は、半数はいる。これら3つのファクター、つまり(信仰、気質、子ども
の能力)をかけ合わせると、何割かの親子が、このU君親子のようになる危険性がある。

 教育というのは、失敗してからでは遅い。しかし失敗しなければ気づかない。果たしてあなた
は大丈夫か?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子育
て論 受験の失敗 受験戦争 受験勉強)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【子育て段階論】

●『まいた種のものしか、実はならない』

 『まいた種のものしか、実はならない』は、イギリスの格言。日本でも同じように、『蛙(かわ
ず)の子は、蛙』とか、『ウリのツルに、ナスビはならぬ』とかいう。

 こう書くと、『トビがタカを生む』とか、『青は藍(あい)より出でて、藍より青し』とも言うではない
かと言う人もいる。まあ、そういうことも、たまにはあるが、しかしふつうは、『まいた種のものし
か、実はならない』。

 子育ては、つぎの四つの時期に分けて考えるとよい。

●子育て段階論

(第一期)(夢と希望の時期)……乳幼児期から小学校入学前までの時期をいう。この時期は、
親は、子どもにかぎりない夢や希望を託す。それが悪いというのではない。この夢や希望があ
るから、子育てもまた楽しい。少しボールを蹴っただけで、「将来は、サッカー選手に」、少しお
もちゃのピアノの鍵盤をたたいただけ、「将来は、ショパンコンクールに」と親は考える。

 しかしこの時期、それが過剰期待になってはいけない。親の夢や期待が過剰になればなる
ほど、子どもにとっては、重荷になる。その重荷が、子どもの伸びる芽すら、押しつぶしてしま
う。

 またこの時期、子どもの得意分野と不得意分野が、少しずつ分かれ始める。そのときコツ
は、不得意分野をどうこうしようと考えるのではなく、得意分野をより伸ばすようにすること。そ
れを「一芸」というが、子どもの一芸は大切にする。

中には、「勉強一本!」という子どももいるが、このタイプの子どもは、一度勉強でつまずくと、
坂をころげ落ちるかのように成績がさがる。だから子どもの一芸は大切にする。子どもを側面
からささえるのみならず、生来の仕事につながることも多い。さらに時期、才能の芽が見えてく
るが、その才能は、つくるものではなく、見つけるもの。無理につくろうとしても、たいてい失敗
する。

 ときに戦場のようにもなり、イライラすることも多い。あたふたとするうちに、その日が終わっ
たというようにして、日々はすぎていく。

(第二期)(落胆と抵抗の時期)……子どもが小学校へ入ってから、受験勉強に入るまでの時
期をいう。この時期、親は、そのつど落胆を味わいながらも、それに抵抗する。子どものできが
悪かったりすると、「そんなハズはない」「うちの子はやればできるハズ」と、考える。たまによい
成績をとってきたりすると、「やっぱりそうだった」と、自分を納得させる。

 この時期は、親の方にも、心の余裕ができる時期でもある。乳幼児期の雑務から解放され、
子育ても一段落する。親が再び活動的になり、外に目を向けるようになる。またこの時期は、
子どもがちょうど親離れする時期に重なる。が、それに合わせて親も子離れをすればよいが、
それがむずかしい。親は自分から離れていく子どもを、一方で喜びながら、一方でさみしく思っ
たりする。親自身の心も、この時期、揺れ動く。

 日々はそのつど平凡に流れる。朝、起きると子どもがそこにいる。私もそこにいる。子どもは
子どもで、勝手なことをし、親は親で勝手なことをする。そんな感じで流れる。しかしこの時期、
子どもは、それまで親がもっていた夢や希望を、ちょうどキャベツの葉のように、一枚ずつはぎ
取りながら成長していく。

(第三期)(地獄と絶望の時期)……子どもが受験期を迎え、受験の結果が、出されるまでの時
期をいう。この時期、親は無意識のうちにも、自分の受験時代を再現する。選別されるという
恐怖、将来への不安。もっとも親がそれを感ずるのは、親の勝手。しかしそれを子どもにぶつ
けてはいけない。

が、たいていの親は、その恐怖や不安を、子どもにぶつけてしまう。「もっと勉強しなさい!」「こ
んな成績では、いい中学に入れないでしょ!」と。

 この時期以前は、日本のばあい、親子関係が外国のそれとくらべても、とくに悪いということ
はない。しかしこの時期を境に、日本では、親子関係は急速に悪化する。最初は小さなキレツ
だが、それがやがて断絶へと進む。

今、中学生でも高校生でも、たがいに信頼しあい、慰めあい、助けあっている親子など、さがさ
なければならないほど、少ない。その原因がすべてこの受験勉強にあるとは言えないが、受験
勉強が原因でないとは、もっと言えない。

 が、それだけではすまない。この「受験」には、恐ろしいほどの魔力が潜んでいる。それまで
は美しく、どこか華やいでいた母親も、この時期に入ると、血相が変わってくる。子どものテスト
週間になっただけで、「お粥しかのどを通りません」と言った母親がいた。「進学塾の明かりを
見ただけで、カーッと頭に血がのぼりました」と言った母親もいた。

 そして受験が近づくと、親は、いよいよ狂乱の時期へと突入する。たかが子どもの受験と笑っ
てはいけない。子どもが入試に失敗したあと、自殺を図った母親だっている。夫婦関係がおか
しくなり、離婚騒動になるケースとなると、いくらでもある。子どもの受験という、あの独得の緊
張感が、それまで家族の中でくすぶりつづけていた火種に火をつけるからである。

 そしていよいよ子どもの受験……。親は狂乱し、子どもはその中で、悶絶する。程度の差も
あるが、この時期の親は、合理的な判断力すら失う(失礼!)。私は以前、『受験家族は、病人
家族』という格言を考えた。

受験生がいる家族は、大きな病気をかかえた病人のいる家族と思えばよい。みながみな、どこ
かピリピリしている。安易ななぐさめや、はげまし、さらには興味本位の詮索(せんさく)はタブ
ー。言い方をまちがえると、かえってその家族を苦しめることになる。その家族の気持ちになっ
て、そっとしておいてあげることこそ、大切である。

 日々は、まさに緊張と一触即発の状態ですぎていく。暗くて重苦し毎日がつづく。

(第四期)(あきらめと悟りの時期)……まさに地獄のような受験期を抜け、一段落したあと、子
どもが巣立っていくまでの時期をいう。やがて親は、少しずつだが冷静さを取り戻す。そしてこ
う思うようになる。

 「いろいろやってはみたけれど、やっぱり、あんたはふつうの子だったのね。考えてみれば、
何のことはない。私だって、ふつうの人間ではないか」と。

 親はあきらめの境地に達するわけだが、あきらめることは悪いことではない。あきらめること
により、親は子どもの本当の姿を見ることができる。「まだ何とかなる」と思っている間は、それ
が見えない。子どもも心を開かない。「やっぱりあんたはふつうの子だったのね」と、親がそう思
うことで、子どもは、その重荷から解放される。そしてそのときを出発点として、親子という上下
意識のある関係から、「友」という対等の関係へと、その関係が、質的に変化していく。

●親子関係を大切に

 要するに、親はいつ、どこで、『まいた種のものしか、実はならない』という事実を悟るかという
こと。しかしあえていうなら、その時期は早ければ早いほどよい。親子といえども、その基本は
一対一の人間関係。子育てには、山もあれば谷もある。とくに子どもが受験期を迎えるころに
は、その山や谷は大きく深くなる。が、これだけは、ここに書ける。

この日本では、子どもの受験は避けては通れないものかもしれないが、しかしそれには親子の
人間関係まで破壊する価値はない。またたかが受験(失礼!)のことで、親子関係を破壊して
はいけない。それはちょうど、ドロの玉を包むのに、絹のハンカチを使うようなものだ。いや、子
どもの受験に狂奔する親にしても、結局は、大きな流れの中で、踊らされているに過ぎない。
「私は私」と思っているかもしれないが、「私」そのものが、流されているから、自分ではそれが
わからない。

●終わりに……

 「ふつうの家族」「ふつうの子育て」「ふつうの子ども」には、すばらしい価値がある。賢明な親
は、ふつうの価値をなくす前に気づく。そうでない親は、なくしてから気づく。仮に気づくとして
も、ほとんどの親は、その前に大きな回り道をする。が、ふつうの価値に気がついてしまえば、
何でもない。すべての問題は解決する。そして日々はまた平穏、無事に流れ始める。それはお
おらかでゆったりとした世界。まさに悟りの境地。だから、私はこの時期を、あえて、「悟りの時
期」とした。

 ここでいう「子育て段階論」は、あくまでも一般論。しかし大多数の親が、多かれ少なかれ通
る道でもある。ひょっとしたら、あなたとて例外ではない。そんなことも考えながら、子育て段階
論を頭の中に入れておくと、道に迷ったときの地図のように、あなたの子育てで役にたつ。
(02−10−28)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ふつうこそ、最善

 ふつうに生きて、ふつうに生活する。子どももふつうなら、その子育ても、またふつう。賢明な
人は、そのふつうの価値を、なくす前に気づき、愚かな人は、なくしてから気づく。

 そう、それは健康論に似ている。健康も、それをなくしてはじめて、その価値に気づく。それま
ではわからない。私も少し前、バイクに乗っていて、転倒し、足の腱を切ったことがある。その
ため、歩くことそのものができなくなった。その私から見ると、スイスイと歩いている人が信じら
れなかった。「歩く」という何でもない行為が、そのときほど、それまでとは違って見えたことはな
い。

 子育ても、また同じ。その子育てには、苦労はつきもの。だれだって苦労はいやだ。できるな
ら楽をしたい。しかしその苦労とて、それができなくなってはじめて、その価値がわかる。平凡
は美徳だが、その平凡からは何も生まれない。あとで振りかえって、人生の中で光り輝くのは、
平凡であったことではなく、苦労を乗り越えたという実感である。

 今は冬で、風も冷たい。夜などは、肌を切るような冷たさを感ずる。自転車通勤には、つら
い。苦労といえば苦労だが、一方で、その結果として健康というものがあるなら、それは喜びに
変わる。楽しみに変わる。要は、その価値に、いつ気がつくかということ。

こんなことを書くと、その苦労の渦中にいる親たちに、叱られるかもしれない。「人の苦労も知
らないくせに。言うだけなら、だれにだって言える」と。しかしこれだけは頭に入れておくとよい。

子育てに夢中になっているときは、時の流れを忘れることができる。あるいは子どもの成長を
望みながら、時が流れていくのを納得することができる。「早くおとなになれ」と望みながら、同
時に自分が歳をとっていくのを、あきらめることができる。しかしその子育てが終わると、とたん
に、そこに老後が待っている。そうなると今度は、時の流れが、容赦なく、あなたを責め始め
る。「何をしているんだ!」「時間がないぞ!」と。それは恐ろしいほどの重圧感と言ってもよ
い。

 私は、今、三人の息子たちに、ときどきこう言う。「お前たちのおかげで、人生を楽しく過ごす
ことができた。いろいろ教えられた。もしお前たちがいなかったら、私の人生は、何と味気なく、
つまらないものであったことか。ありがとう」と。私はそれを、子育てがほぼ終わりかけたときに
気づいた。

子育てには、子育ての価値がある。そしてそれから生まれる苦労には、苦労の価値がある。そ
のときはわからない。私も、そのときはそれに気づかなかった。つまりかく言う私も、偉そうなこ
とは言えない。私とて、子育てが終わってからそれに気づいた、まさに愚かな人ということにな
る。


●子育ては目標さがし

「目標」といっても、中身はさまざま。しかし目標のない子育てほど、こわいものはない。そのと
きどきの流れの中で、流されるまま、右往左往してしまう。が、そんな状態で、どうして子育てが
できるだろうか。たとえば、隣の子が水泳教室へ入った。それを聞いて、言いようのない不安
にかられた。そこで自分の子どもも、水泳教室に入れた、と。

 目標をもつためには、まず視点を高くもつ。高ければ高いほど、よい。私はこれを『心の地
図』と呼んでいる。視点が高ければ高いほど、視野が広がる。そしてその視野が広ければ広い
ほど、地図も広くなり、道に迷うことがない。

 問題は、どうすれば、その心の地図をもつことができるか、だ。それにはいつも情報に対し
て、心の窓を開いておくこと。風とおしをよくしておくこと。まずいのは、自分が受けた子育てが
最善と信ずるあまり、ほかの情報を遮断(しゃだん)してしまうこと。そして自分だけの子ども
観、教育観だけをもって、子育てをしてしまうこと。

そういう点では、「私の子どものことは私が一番よく知っている」「私の子育て法は絶対、正し
い」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやすい。この世界には、そういうジンクス(=悪い縁起)
がある。つまり心の地図を広くするためには、謙虚であればあるほど、よい。

 そこで子育ての目標は、どこに置くか。心の地図の目的地といってもよい。ひとつのヒントとし
て、私は、『自立したよき家庭人』をあげる。子どもを、よき家庭人として自立させることこそ、ま
さに子育ての目標である、と。

 これについては、もうあちこちに書いてきたので、ここでは省略する。が、『自立したよき家庭
人』という考え方は、もう世界の常識とみてよい。アメリカでも、オーストラリアでも、カナダでも、
ドイツでも、そしてフランスでも、そうだ。これらの国々については、私が直接、確認した。フラン
ス人の女性はこう言った。私が「具体的には、どう指導するのですか?」と聞いたときのこと。
「そんなのは、常識です」と。

 日本では、いまだに、出世主義がはびこっている。よい例がNHKのあの大河ドラマ。歴史は
歴史だから、それなりに冷静に判断しなければならない。しかしああまで封建時代の圧制暴君
たちを美化してよいものか。ああした暴君の陰で、いかに多くの民衆が苦しみ、殺されたこと
か! 江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、恐怖政治の時代だっ
た。それを忘れてはならない。

 話はそれたが、今、日本は大きく変わりつつある。また変わらねばならない。学歴社会から、
能力社会へ。権威主義社会から、個人主義社会へ。上下社会から、平等社会へ。そして出世
主義社会から、家族主義社会へ。

 地図を広くもつということは、そうした主義の世界にまで足を踏み入れることをいう。そしてそ
の地図ができれば、目的地もわかる。それがここでいう「子育ての目標」ということになる。


●限界を知る

 子どもの限界を知り、限界を認めることは、決して敗北を認めることではない。自分のことな
らともかくも、こと子どもについてはそうで、何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待ほ
ど、子どもを苦しめるものはない。

そんなわけで、「うちの子は、やればできるはず」と思ったら、すかさず「やってここまで」と思い
なおす。もっとはっきり言えば、「まあ、うちの子はこんなもの」とあきらめる。その思いっきりの
よさが、子どもの心に風をとおし、子どもを伸ばす。いや、その時点から、子どもは前向きに伸
び始める。

 もちろんその限界は、親だけの秘密。子どもに向かって、「あんたは、やってここまで」などと
言う必要はない。また言ってはならない。しかし親が限界を認めると、そのときから、親の言い
方が変わってくる。「がんばれ、がんばれ」と言っていたのが、「よくがんばっている、よくがんば
ったわね」と言うようになる。そのやさしさが、子どもを伸ばす。子ども自身が、その限界のカベ
を破ろうとするからだ。それがわからなければ、自分のことで考えてみればよい。

 あなたの夫が、あなたの料理を食べるたびに、「まずい、まずい」と言えば、あなただってやる
気をなくすだろう。あるいはあなたの妻が、あなたが仕事から帰ってくるたびに、「もっと働きな
さい」と言ったら、あなただってやる気をなくすだろう。

 もちろん子どもを伸ばすためには、ある程度の緊張感は必要。そのための、ある程度の無
理や強制は必要。それは認める。しかし限界を認めているか認めていないかで、親の態度は
大きく変わる。たとえば認めないと、親の希望は、際限なくふくらむ。「何とかB中学に……」と
思っていた親でも、子どもがB中学へ入れそうだとわかると、今度は「何とかA中学に……」とな
る。一方、限界を認めると、「いいよ、いいよ、B中学で。無理することないよ」となる。

 ……こう書く理由は、今、子どもの能力を超えて、高望みする親があまりにも多いということ
(失礼!)。そしてそのため子どもの伸びる芽をかえって摘んでしまう親があまりにも多いという
こと(失礼!)。それだけではない。そのため、親子の絆(きずな)すら、こなごなに破壊してしま
う親があまりにも多いということ(失礼)。

さらに、行きつくところまで行って、はじめて気がつく親があまりにも多いということ(失礼!)。ま
たそこまで行かないと、気がつかない親が、あまりにも多いということ(失礼)。それを避けるた
めにも、親は、できるだけ早く子どもの限界を知る。限界を認める。親としては、つらい作業だ
が、その度量の深さが、親の愛の深さということになる。

(追記)今では、親に、「やればできるはず」と思わせつつ、自分の立場をとりつくろう子どもも
少なくない。

ある男の子(小五)は、親の過剰期待もさることながら、親にそう期待させながら、自分のわが
ままをとおしていた。その男の子は、よい成績だけを親に見せ、悪い成績を隠した。先生にほ
められたことだけを話し、叱られたことは話さなかった。

 私は長い間、それに気づかなかった。そこで私はある日、その男の子に、「君の力は、君が
いちばんよく知っているはず。自分の力のことを、正直にお父さんに話したら」と言った。その
男の子は、親の過剰期待で苦しんでいると思った。

しかしその男の子は、それを父親には言わなかった。言えば言ったで、自分の立場がなくなる
ことを、その男の子はよく知っていた。

 しかし、こうした仮面は、子どもを疲れさせるだけではなく、やがて終局を迎える。仮面がはが
れたとき、同時に親子の絆(きずな)は破壊される。破壊されるというより、子どものほうが自ら
親から遠ざかる。その結果として、親子の関係は、疎遠になる。

●仮面に注意

 もしあなたが「うちの子は、できのいい子だ」と思っているなら、気をつけたほうがよい。それ
は、まず、仮面と思ってよい。だいたい幼児や小学生で、「できのいい子」など、いない。「でき
がいい、悪い」は、ずっとおとなになってから、それも無数の苦労を経た結果として決まること
で、幼児や小学生の段階で決まるはずもない。

 ある女の子は、小学二年生のときから、学級委員長をつとめた。勉強もよくできた。先生の
指示にもよく従った。そういう女の子を見て、母親は、「うちの子は優秀」と思いこんだ。たしか
に優秀(?)だったが、私には、気になる点がいくつかあった。

小学五年生のときのこと。これから夏休みというとき、その女の子は、夏休み明けのテストのこ
とを心配していた。私が「そんな先のことは心配してはいけない」と何度も言ったのだが、その
女の子にしてみれば、それが彼女のリズムだった。母親にも私はそう言ったが、母親はむしろ
それを喜んでいるふうだった。「あの子は、大学の医学部へ行くと言っています。あの子の望み
をかなえさせてあげたいです」と。

 しかしその女の子は、中学へ入ると同時に、プッツンしてしまった。不登校、節食障害(過食、
拒食)、回避性障害(人に会うのを避ける)を繰りかえすうちに、自分の部屋に引きこもるように
なってしまった。

 こうした例は、多い。本当に多い。しかしこういうケースとて、その途中にいる親は、それに気
づかない。親は、自分の子どもはすばらしいと思いこむ。そして子どもは子どもで、親がそう思
うの分だけ、仮面をかぶる。この仮面が、やがて子どもの心をゆがめる。
 もしつぎの項目のうち、あなたの子どもに思い当たることが三つ以上あれば、あなたの子ども
は、あなたの前で仮面をかぶっていると思ってよい。

(1)あなたは自分の子どもを、できのいい子だと思っている。勉強もスポーツもよくできる。マナ
ーもわきまえている。人前では礼儀正しい。

(2)幼稚園や学校では、「いい子ですね」と、先生にほめられることが多い。親や先生の指示
に従順で、指示されたことを、うまくやりこなす。

(3)わがままを言ったり、大声で自己主張することもなく、一方、あなたに甘えたり、ぐずったり
することも少なく、独立心が旺盛にみえる。

(4)ときどき何を考えているかわからないところがある。感情をストレートに表現することが少
ない。万事にがまん強い。

(5)ときどき子育てがこんなに楽でいいものかと思うときがある。うちの子は、このまま優秀な
まま、おとなになっていくと思うことが多い。

 子どもが仮面をかぶっているのがわかったら、家庭のあり方をかなり反省しなければならな
い。子どもの仮面は、子どもの責任ではない。仮面をかぶらせる、親の責任である。もちろん
子ども自身の問題もある。

仮面をかぶるタイプの子どもは、親にすら心を開くことができない子どもとみる。しかしそれと
て、新生児から乳幼児期にかけて、親子の相互愛着行動のどこかに問題があったとみる。子
どもの側からみて、満たされない愛、あるいは大きなわだかまりや、欲求不満が、その背景に
あったとみる。

 しかし過去は過去。もしあなたの子どもが、今、仮面をかぶっているようなら、まず子どもの
心を溶かすことだけを考える。言いたいことを言わせ、やりたいことをやらせる。その時期は早
ければ早いほどよい。子どもが小学生になってからだと、むずかしい。……というより、なおす
のは不可能。それがそのまま子どもの性格として、定着してしまうからである。そういう覚悟で、
時間をかけて対処する。

 しかし本当の被害者は、仮面をかぶる子ども自身である。ある母親(三五歳)は、こう言っ
た。「今でも実家の父と母を前にすると、心が緊張します。ですから、実家には、二晩連続でと
まることはできません。何だかんだと理由をつけて、できるだけ日帰りで帰ってきます」と。

 この母親も、親には、ずっとできのいい娘と思われていた。今もそう思われているという。そ
のため、「父親や母親のそばにいるだけで、心底疲れます」と。今、こういう例は、本当に多
い。

 そんなわけで、今、あなたが自分の子どもを、できの悪い、どこかチャランポランな、いいか
げんな子どもと思っているなら、むしろそれを喜んだらよい。ワーワーとうるさいほど自己主張
し、親を親とも思わないようなことを言い、態度も大きく、ふてぶてしいなら、むしろそれを喜ん
だらいい。これは皮肉でも何でもない。本来、子どもというのは、そういうもの。そうであるべ
き。またそういう前提で、子どもをみなおしてみる。
(03−1−20)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●ブルーな気持

 私は、過去において、何度か、失業の危機に直面したことがある。仕事先を、クビになったこ
ともある。飛行機事故に遭遇し、以後、飛行機に乗れなくなってしまったこともある。

当時、通訳や、貿易の代行もしていた。そういう私にとって、飛行機に乗れないということは、
致命的だった。その事故のすぐあと、イタリアへ行くという仕事があった。しかし、その数日前
に、その仕事をキャンセルしてしまった。それが最後だった。

 今は、幼児教室で生計をたてている。が、この不況下。それに少子化。私の仕事も、大きな
影響を受けている。このままいけば、赤字になるのは、時間の問題?

 が、それ以上にこわいのは、体力が、年々、弱くなってきていること。今では、土日は、たっぷ
りと休息しなければ、翌週の仕事に、さしさわりが出るようになってしまった。そのため土日は、
人にもできるだけ会わないようにしている。

 しかし、仕事がなくなるというのは、まさに恐怖。恐ろしいほどの恐怖。生活ができる、できな
いということではなく、自分の価値や存在すら否定されてしまうかのような、恐怖である。

 リストラされ、それが理由で自殺する人がいる。中高年の自殺者数が、大幅にふえている。
私には、そういう人たちの気持ちが、よくわかる。本当によくわかる。自分を否定されることぐら
い、恐ろしいことはない。その恐怖を味わうくらいなら、死んだほうがまし?

 しかしこのところ、一方で、何のために仕事をしているか、わからなくなるときがある。生きる
ためとはいうが、明日が、今日の繰りかえしという人生に、どれだけの意味があるというのか。
「今日できることは、今日しよう」と、自分を励ましている。が、どこまでがんばれることやら?

 通りを歩きながら、同年代らしい男の人とすれ違うと、ときどき、こんなことを考える。「この人
たちは、どんな夢や希望をもっているのだろうか」と。おかしなことだが、ビルの軒下にうずくま
っているホームレスの人たちをみると、妙な親近感を覚える。私と彼らの違いはと言われれ
ば、私は、かろうじて、ふんばっているだけ。土俵の端に追いつめられながら、ふんばっている
だけ。

 しかし今は、何とか、仕事だけはある。家族もいるし、それに健康だ。ほかに何を望むことが
できるか。もし今、仕事がなくなったり、大きな病気になったりしたら、私は、どうなる? 私に
は、それに耐える力はないだろう。勇気も、度胸もないだろう。

賢明な人は、ふつうの価値を、なくす前に気づくという。しかしどうすれば、私はその賢明な人
に、なれるのか。あるいは私は、ふつうの価値を、なくしてから気づくかもしれない。私は、やは
り、愚かな人間かもしれない。

 とりとめもないことを書いてしまったが、今夜の私は、少し落ちこんでいる。ブルーな気持。い
ろいろと、いやなことがあった。それに疲れている。睡眠不足もある。しっかりと今夜は眠って、
明日は、心機一転、がんばろう。とにかく、今は、今を大切にして、少しでも、前に進むしかな
い。
(030821)

●The reward of suffering is experience. - Aeschylus
 苦しみの代償は、経験である。(アスキュロス)

●When suffering knocks at your door and you say there is no seat for him, he tells you not 
to worry because he has brought his own stool. - Chinua Achebe
苦しみがドアをノックしたら、彼が座るところはないとあなたは言う。しかし彼はこう言う。心配な
い。私は自分のイスをもってきたから、と。(C・アキベ)

●I have never been able to carry out any work coolly. On the contrary it is done, so to 
speak, with my own blood. - Jim Dine
私はどんな仕事も、うまくできたことがない。それとは対照的に、いわば、私の血でもって、それ
はなされただけ。(J・ダイン)

Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●いろいろな問題

【K市在住の、TUさんよりの相談】

突然のメールでご迷惑をおかけします。

1年前ほど、息子の通う学校で、先生の講演を聴く機会がありました。相談に乗って頂けない
かと思い、思い切ってメールしました。

息子は今小学2年生です。その息子の勉強の勧め方と、日々の関わり方で、少し困っていま
す。

最近になり、宿題が増えてきました。内容も量も、1年生のときより増えてきました。どうも、宿
題をごまかして適当にやろうとしているようです。

そのことで、先日ひどく叱ってしまいました。叱り方が感情的になってしまい、息子もかなりショ
ックだったようで、勉強のことになると辛くなるようです。「そんな、言いかたをしないで!」と言
います。

息子も人の話を聞けない子で、授業中でも、勝手に騒いでしまうことがあるようです。そのこと
もあり、ついきつく注意することが多いです。

このままいくと、勉強についていけなくなるのではと不安です。勉強も私が見るより、塾へ行か
せたほうがいいのではと思ってしまいます。

このままでは親子関係にも亀裂が入ってしまうのではないかと不安です。あと、人の話が聞け
ない子への効果的な関わり方でアドバイスがあったら頂けないでしょうか?

+++++++++++++++++++++++

 多くの母親たちが、同じような問題をかかえ、悩んでいる。そういう意味では、典型的な悩み
の一つ(失礼!)ということになる。

 順に整理してみよう。

(1)家では、あまり勉強しない。
(2)適当にごまかすようになった。
(3)叱り方が過激になってきた。
(4)授業中の態度が、よくない。
(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。
(6)塾へ入れるのは、どうか?
(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 
●家では、あまり勉強しない。

 子どもが受験期になると、親は、言いようのない不安にかられる。

 もともと子育てというのは、そういうもの。親は、無意識なまま、自分が受けた子育てを、その
まま繰りかえす。

 将来への不安、選別されるという恐怖。自分自身が子どものころ感じた(心)を、自分の子ど
もを通して、再現する。TUさんも、子どものころ、そういう不安や恐怖を感じた。……というより
も、そういう不安や恐怖を、TUさんの親たちから、植えつけられた。

 それが今、TUさんの心の中で、再現されつつある。そしてそれが「うちの子は、あまり勉強し
ない。どうしたいいのか」という心配になって、現れてくる。

 そこでTUさんも、「なぜ、自分が、そういう不安にかられるのか?」と、自分自身に、問いかけ
てみるとよい。

 理由はいくつかある。

 その第一は、日本全体がもつ、学歴社会。さらには、江戸時代からつづく、身分意識。さらに
は日本人独特の、集団意識。それらが混然一体となって、「コースからはずれると、こわい」と
いう恐怖感をつくりあげる。

TUさんが今、感じている不安感の原点は、そこにある。

 もっともそれに自分で気づくのは、簡単なことではない。TUさんにかぎらず、こういった意識と
いうのは、心の奥深いところに巣をつくっている。そのため、なかなか、姿を現さない。姿をつ
かめない。

 さらに、「学校での勉強は絶対」という、学校神話もある。

 しかしならば、自分にもう一度、問いかけてみることだ。

 「どうして中学1年で、一次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」「どうして中学2年
で、二次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」と。

 あなたはこうした素朴な質問に、答えることができるだろうか。あるいはあなたの子どもが、
あなたにそう聞いたとしたら、あなたは、何と答えるだろうか。

 アメリカでは、公立の小学校でも、学校の先生と親たちが、相談して、勝手にカリキュラムま
で決めている、そういう(自由)を見せつけられると、「では、日本の教育は何か?」となる。「私
たちは、どうしてこうまで学校の勉強にこだわらなければならないのか?」となる。

(入学する学年まで、アメリカでは、学校ごとに、自由に決めているぞ! 「うちの小学校では、
満4歳から入学させる」と、PTAが決めれば、それでもOK! アーカンソー州ほか。)

 TUさんは、その前提として、「学校での勉強はできなければならないもの」と思いこんでいる。
私は、それを「学校神話」と呼んでいる。

 TUさんは、(家で勉強しない)→(遅れてしまう)→(受験競争に負けてしまう)と、心配してい
る。TUさんの気持ちを、こう決めてかかるのは、失礼なことかもしれないが、おおかた、まちが
っていないと思う。

 そこで登場するのが、学歴社会。

 この日本では、学歴のある人は、その恩恵を、たっぷりと受けることができる。とくに、公的な
資格に保護された特権階級、官僚、公務員の世界に、それをみることができる。ここ10年で、
エリート意識が急速に崩壊しつつあるとはいえ、なくなったわけではない。残っている。

 そういった不公平を、親たちは、日常的に、いやというほど、見せつけられている。

 本来なら、そういった不公平があれば、それと戦わねばならないのだが、そこは、日本人。私
たちには、独特の、隷属意識がある。「おかしいから、なおそう」と思う前に、「あわよくば、自分
も……」「せめて自分の子どもも……」と考える。

 だから日本の社会は、少しもよくならない。いつまでも繰りかえし、繰りかえし、つづく。

 そこで、TUさんは、「あまり勉強しない」と悩んでいる。

 しかし、本当にそうだろうか? もし仮にTUさんの息子が、学校から帰ってきて、毎日、1時
間、勉強したら、TUさんは、それで満足するだろうか。今度は、TUさんは、「せめて2時間…
…」と思うようになるかもしれない。親の欲望には、際限がない。こんな例もある。

 先日も、「やっとうちの子が学校へ行くようになりました。しかし午前中で帰ってきてしまいま
す。何とか、給食までみなと、いっしょに食べさせたいのですが、どうしたらいいか」と相談して
きた、親がいた。

 私は、それについて、こう返事を書いた。

 「午前中、2時間だけで帰ってきなさい。『3時間目。4時間目はしなくても、いいのよ』と言って
あげなさい。そのとき、ついでに、『よくがんばったわね』と言ってあげなさい。

もしあなたの子どもが給食まで食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずです。『何と
か、午後の勉強も受けさせたい。どうしたらいいか』と。しかしそれこそ、親の身勝手というもの
です。いつまでたっても、あなたの子どもの心は休まることはないでしょう」と。

 学校という強制キャンプで、5〜6時間もしぼられてきた子どもが、その上で、さらに家での宿
題である。それがいかに重労働であるか、それがあなたにわからないはずがない。一度、そう
いう視点で、TUさん自身のこことして考えてみるとよい。つまり「私なら、それができるか?」
と。さらには、「私は、子どものころ、どうだったか?」と。

 もしそうなら、つまりTUさんが、子どものころ、勉強好きで、学校の宿題をきちんとし、親の言
いつけをハイハイと守っていたとしたら、TUさんは、今ごろは、すばらしい学歴をもち、特権的
な階級で、気楽な生活をしているはず(失礼!)。それならば、何も、問題は、ないはず。あな
たの子どもも、そうなる。

 かなり、きついことを書いたようだが、この問題はいつも、「自分ならできるか?」「自分が子
どものときは、どうだったか?」という視点で、考えてみるとよい。


●適当にごまかすようになった。

 小学校の低学年の子どもで、一日、30分前後、家で、勉強すれば、すばらしいこと。15分で
もよい。大学受験生がするような、受験勉強的な勉強を、小学2年生の子どもに期待しても、
無理。ヤボ。不可能。

 さらに子どもは、9〜10歳前後から、親離れを始める。この時期、幼児がえりを起こしたり、
反対に、おとなのまねをして見せたりしながら、子どもは、おとなになる準備を始める。子ども
あつかいをすると怒るくせに、ときどき母親のおっぱいに触れたがったりする。これを私は、
「揺りもどし現象」と、勝手に呼んでいる。

 女の子では、父親との入浴をいやがったり、裸を見られたりするのを、いやがるようになる。
男の子も、性意識に、このころ急速に芽生えようになる。

 同時に、子どもどうしの世界が、大きくふくらんでくる。それまでは、家庭を中心とした世界
が、子どもの世界だったのが、学校を中心とした第二世界。さらに、友だちを中心とした、第三
世界へと進む。(ゲームの世界もあり、私はこれを「第四世界」と呼んでいる。)

 当然、親子の関係も、その分だけ希薄になる。

 が、親が、子離れをするようになるのは、子どもが、中学生から、高校生にかけてのこと。こ
の時期、親は、「どうしたら子離れできるのか」と悩む一方で、子離れできない自分にいらだつ
ことも多い。TUさんの悩みも、そのあたりにある。

 子どもが適当にごまかしたら、親も、適当にだまされたフリをして、自分の心をごまかす。

 いいかげんであることが悪いというのではない。子どもは、(おとなもそうだが)、このいいか
げな部分で、羽をのばす。羽を休める。

 まずいのは、ギスギス。『親の神経質、百害のもと』と覚えておくとよい。過関心、過干渉も、
それに含まれる。


●叱り方が過激になってきた。

 それだけ親のほうの心が、緊張状態に、置かれているということ。

 よく誤解されるが、情緒不安定な状態を、情緒不安定というのではない。心が緊張状態にあ
る。あるいは心から緊張状態がとれないことを、情緒不安という。

 この緊張状態の中に、不安や、心配ごとが入ると、それを解消しようと、心は一挙に不安定
になる。感情が不安定になるのは、あくまでも、その結果でしかない。

 だから第一に考えるべきことは、どうすれば、その緊張状態から、自分を解放するかと言うこ
と。

 いろいろ方法はある。(1)逃避型(その問題から逃げる)、(2)受容型(あきらめる)、(3)戦
闘型(その問題と戦う)、(4)防衛型(それに対抗するための思想を高める)、など。

 それぞれの方法を、バランスよく、自分の心の中で調合しながら、心の緊張感を取りのぞく。

 逃避するのが、悪いわけではない。たまには、子育てを忘れる。忘れて、好き勝手なことをす
る。子どもというのは不思議なもので、親がカリカリしたからといって、伸びるものではない。反
対に、何もしなくても、伸びる。

 つぎに「うちの子は、こんなものだ」とあきらめる。あなたがごくふつうの女性であるように(失
礼!)、あなたの子どもも、またふつうの子ども(失礼!)。

 ふつうであることが悪いわけではない。この(ふつうの価値)は、それをなくしたとき、はじめて
わかる。賢明な親は、それをなくす前に気づく。愚かな親は、それをなくしてから気づく。

 つぎに大切なことは、自分の心や思想を、理論武装すること。視野を高め、教養を広くする。
夜のバラエティ番組を、夫といっしょにゲラゲラと笑って見ているような家庭では、困る(失
礼!)。

 当然のことながら、自分の心の奥で巣をつくっている、旧来型の学歴信仰、学校神話などと
も、戦う。しかしこのばあいは、それに対抗しうるだけの、理論武装をしなければならない。

 コマーシャルになって恐縮だが、そのためにも、どうか、どうか、はやし浩司のマガジンを購
読してほしい。


●授業中の態度が、よくない。

 いろいろなケースが疑われる。心配なケースとしては、ADHD(集中力欠如型多動性)の問
題もある。

 しかし今、(イメージが乱舞する子ども)が、ふえているのも事実。乳幼児期に、テレビを見す
ぎた子どもほど、そうなるという研究結果もある。10年ほど前から、右脳教育という言葉が、さ
かんに使われるようになったが、乳幼児への不自然な右脳教育は、できるだけ慎重であった
ほうがよい。テレビは、その右脳ばかりを刺激する。

 ほかに、環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障害説、食生活のアンバ
ランスによる脳間伝達物質の過剰分泌説なども、とりあげられている(シシリー宣言※)。

 といっても、小学校に入学してから、それに気づいても遅い。

 この時期に大切なことは、(今の症状をよりこじらせない)ことだけを考えて対処する。そして
その一方で、子ども自身がもつ、自己意識を、うまく育て、それを利用する。わかりやすく言う
と、自分で考えて、行動させるようにする。

 たとえばADHDにしても、小学3、4年を境にして、見た目には、急速にその症状が落ちつい
てくる。子ども自身が、自分をコントロールするようになるからである。

 もし学校での騒々しさが目立ったら、こんこんと、繰りかえし、言って聞かせるのがよい。あと
は、しばらく時間を待つ。

●勉強についていけなくなるのではと、心配。

 この不安は、だれにでもある。が、これは日本人独特の意識といってもよい。つまり、その
「根」は、深い。

 日本人は、集団からはずれるということを、極端にこわがる。恐れる。それはたとえて言うな
ら、動物社会における、(群れ意識)に似ている。「みんなと同じことをしていれば安心」というの
が、それ。

 が、この(群れ意識)には、二面性がある。

 一つは、(群れからはずれたら、不安)という意識。もうひとつは、(群れからはずれるものを、
許さない)という意識。この二つが、相互から相、重なって、日本人独特の群れ意識をつくる。

 言いかえると、自分自身の中の群れ意識と戦うためには、(自分の確立)と同時に、(他人の
確立を許す)という意識を、自分の中に育てなければならない。

 恐らく、こうした群れ意識というのは、その中に、どっぷりとつかっている人には、わからな
い。こうした群れ意識というのは、一度、自分自身が、その群れから離れてみてわかる。ある
いは、群れの中にいる人たちに、排斥されてみてわかる。

 少し話がおおげさになってきたが、日本人独特の、(遅れる意識)というのは、そういう群れ意
識の中から生まれている。

 そういう群れ意識を理解して上で、もう一度、あなた自身に問いかけてみてほしい。

 「学校に遅れる」「勉強に遅れる」というのは、どういう意味なのか、と。昔は、「後(おく)れる」
と書いた。いやな言葉だ。

 どうして日本人は、遅れることを、こうまでこわがるのか? どうして、遅れたら、それがいけ
ないのか? どうして、遅れてもよいと、居なおることができないのか?

 あわてて大学を出て、あわてて会社に入社して、その結果、あわてて人生を送って、それでよ
いのだろうか?

 今までの日本人は、国策として、そういう日本人に育てられてきた。戦前の「国のため」意識
が、「社会のため」意識にすりかえられた。「社会で役だつ人」「立派な社会人」意識になった。
その結果、いわゆる会社人間、企業人間が生まれた。私の同世代の中には、会社の発展の
ために、命をかけて仕事をしてきた人は、いくらでもいる。

 それが悪いというのではない。今の日本の繁栄は、こうした人たちの努力と犠牲(失礼!)の
上に成りたっている。

 しかし、今、同時に、それではいけないという考え方も、浮かびあがってきている。TUさんは、
恐らく、そのハザマで、もがき苦しんでいる。


●塾へ入れるのは、どうか?

 私も基本的には、その塾を経営している。塾というよりは、小さな教室である。

 で、こういう質問をもらうと、私は、どこまで自分を殺さなければならないかという問題にぶつ
かる。迷う。それにつらい。そういう意味では、TUさんの質問は、少なくとも、私には、「?」であ
る。私は何と答えたらよいのか。

 まさか「うちの教室へおいでなさい」とも書けないし、「塾へは行かないほうがいい」とも、書け
ない。

同じように、以前、電話で、こう言ってきた母親がいた。「うちの子を、K式算数教室か、あなた
の教室に入れようかと迷っていますが、どちらがいいですか」と。

 で、私はこう言ってやった。「うちは、10問出しますが、K式のほうは、9問(ク・モン)しか出し
ませんから……」と。いつか仲間のI先生が、教えてくれた言い方である。

 それに日本人は、学校だけが、勉強の場だと思っている。しかしこれほど、島国的な発想も
ない。

ドイツでも、イタリアでも、そしてカナダでも、課外授業のほうが主流になってきている。アメリカ
では、日本の塾のように、学校設立そのものが自由化されている。もちろんアメリカにも塾はあ
る。「ラーニング・センター」と、ふつう、そう呼ばれている。さらにEU諸国(ヨーロッパ)では、大
学の単位は、全土で、ほぼ、共通化された。

 どこの国のどこの大学で勉強しても、同じという状態になった。

 こういう事実を、いったい、どれだけの日本人が知っているのか? 文部科学省が発表す
る、大本営発表だけを鵜呑みにしてはいけない。官僚たちは、権限と管轄にしがみつき、自分
たちに都合の悪い情報を、決して公開しない。

 が、ひょっとしたら、TUさんは、私を、それ以上の人間とみて、こういう質問をしてきたのかも
しれない。一人の塾教師としてではなく、それを超えた人間として……?

 そうだとよいが、そういうことは、あまり期待していない。

 だから、この質問には、あえて答えない。いつか、別のところで、一つのテーマとして、考えて
みたい。


●親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 親子関係でも、こわれるときには、こわれる。しかもそれをこわすのは、子ども。しかもその
子どもは、親の生きザマを見て、こわす。

 だから親は親で、き然として生きる。それしかない。「あんたなんかに嫌われても、かまわな
い」「あんたは、あんたで、勝手に生きなさい」と。

 親の側が、「こわれるのでは?」と心配すればするほど、立場が逆転する。親のほうが、子ど
もの機嫌をとったり、子どもにコビを売ったりするようになる。

 しかしそれこそ、本末転倒。それについては、参考になる原稿を、このあとに添付しておく。

 要するに、親は親。子どもは子ども。どこか溺愛タイプの母親ほど、子どもに嫌われるのを、
こわがる。しかし親に嫌われて困るのは、子ども。それを忘れてはいけない。

 つまりこの問題も、日本人独特の子育て観と深くからんでいる。

 日本人は、自分の子どもを、一人の人間としてではなく、いわばペットとして育てる(失
礼!)。そしてベタベタの依存関係をつくりながら、それを親子の太い絆(パイプ)と誤解する。
たがいに犠牲になることを、美徳と考える。

 しかし親子というのは、皮肉なもの。親というのは、子どもに嫌われないようにすればするほ
ど、嫌われる。嫌われても構わないという生き方をすればするほど、かえって尊敬される。子ど
もは、長い時間をかけて、親の心の裏側まで、見抜いていまう。

 それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたが尊敬できる親というのは、あなたの歓心を買い、ベタベタと機嫌をとってくる親だろう
か。それとも、「私は私」と、き然とした生き方をしている親だろうか。

 つまり親も、いつか、対等の人間として、その生きザマを、子どもに問われるときがやってく
る。必ず、やってくる。そのとき、それに耐えられるような親になっているか、どうか。そういう立
場になったときの視点で、ものを考えてみればよい。

 親子の関係など、気にしないこと。あるいは「こわれるもの」「こわれて当然」と考えること。10
年後、20年後のことはわからないが、そのとき、親子の関係がこわれていなかったら、もうけ
もの。そう考えて、居なおる。

 もう、子どもは小学2年生なのだから、あなたはあなたの人生を、前向きに生きればよい。母
ではなく、妻ではなく、女ではなく、一人の人間として……。母親は、子どもを妊娠し、出産す
る。そういう意味では、母親は、子どもに対しては、犠牲的な存在かもしれない。しかし、母親
も、一人の人間として、自分の人生まで、犠牲にしてはいけない。


●ではどうするか?

 否定的なことばかり書いていてもしかたないので、「では、どうしたらいいか」ということについ
て考えてみる。

(1)家では、あまり勉強しない。

 この時期は、まだ「勉強は楽しい」という意識を育てる。無理、強制、条件(〜〜したら、小遣
いをあげる)、比較(A君は、何点だったのと聞く)は、禁物。

 これから先、子どもは、過酷なまでの受験競争を経験する。そういうとき最後のキメテとなる
のが、忍耐力。

 まだこの時期は、その忍耐力を養うことを考える。まにあう。

 なお子どもの忍耐力は、(いやなことをする力)をいう。テレビゲームやサッカーを、一日中し
ているからといって、忍耐力のある子どもにはならない。子どもを忍耐力のある子どもにするに
は、子どもを家事の中に巻きこみながら、使う。『子どもは使えば、使うほど、いい子』と覚えて
おくとよい。

 そういう力、つまり(いやなことをする力)があってはじめて、将来、あの苦しい受験勉強を通
り抜けることができるようになる。

(2)適当にごまかすようになった。

 親は、子どもを最後の最後まで、信ずる。それが親。だまされたとわかっていても、とぼけ
る。そしてあとは許して、忘れる。

 仮にあなたの子どもが、あなたのサイフからお金を盗んで使っていたとしても、一応は叱りな
がらも、子どもを信ずる。「だれだって、それくらいのことはする」「うちの子だって、そういう経験
をしながら、おとになる」と。

 そして仮にそのお金で、あなたの誕生日プレゼントを買ってきたとしても、一応、あなたは喜
んだフリをする。

 もしお金を盗まれるのがいやだったら、管理をしっかりとすればよい。そういう方法で、対処
する。

 それともTUさん、あなた自身は、どうか? あなたは何もごまかしていないか? 交通ルール
だって、しっかりと守っているか。交差点で、黄信号になったら、しっかりと車を止めているか。
ショッピングセンターでは、いつも、駐車場に車を止めているか。

 さらに友だちとの約束は、しっかりと守っているか。人に誠実か。借りたお金を、いつもきちん
と返しているか。

 もしそうなら、それでよし。あなたの子どもの心がゆがむことは、絶対にない。が、そうでない
なら、つまりあなた自身が、どこか小ズルイ人であるなら、それはあなたの子どもの問題ではな
い。あなた自身の問題である。

 あなたはひょっとしたら、自分のいやな面を見せつけられるようで、子どもが、ズルイことをす
るのが許せないのとちがうだろうか(失礼!)。人間というのは、自分がもついやな面をだれか
に見せつけられると、カッとなりやすい。もしそうなら、やはり、これはあなた自身の問題という
ことになる。

(3)叱り方が過激になってきた。

 育児ノイローゼの初期症状も疑ってみる。心の緊張感をとるように、努力する。

 こうした緊張感は、あなた自身にとっても、また子どもにとっても、よくない。しかしこうした問
題は、何とかしようともがけばもがくほど、アリがアリ地獄に落ちるように、かえって深みにはま
ってしまう。

 では、どうするか。

 あなたも、一人の人間として、自分の進むべき道を模索する。そうでなくても、これから先、子
どもの問題は、つぎからつぎへと起きてくる。だから子育てとは別に、つまり子育てを離れた世
界で、自分の生きザマを確立する。

 そのときコツがある。できるだけ、自分の中の「利他」の割合を大きくする。そしてその一方
で、「利己」の割合を、小さくする。「利己」が大きければ大きいほど、かえって袋小路に入って
しまう。つまり何かの方法で、他人のために働くようにする。具体的には、ボランティア活動が
ある。

 ボランティア活動をすすんでする人たちの、あの内からわきでるような神々しさ、あなたも感じ
てみるとよい。それがその人の、人間的な大きさということになる。

 また、子どもの耳は、長い。(英語で『子どもの耳は長い』というときは、別の意味で使うが…
…。)叱っても、その音が脳に届くまでには、時間がかかる。言うべきことは言いながらも、あと
は、子どもの判断に任せる。

(4)授業中の態度が、よくない。

 子ども自身は、「よくない」とか、「悪い」とか、思っていない。もう少し年齢が大きくなるのを待
つ。もう少しすると、先に書いた自己意識が育ってくるので、それをうまく利用する。

 あとは、学校の先生には、低姿勢でのぞむこと。「うちの子が、みなさんに迷惑をかけしてい
るようで、すみません」と。

(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。

 現実問題として、中学一年生で、掛け算の九九が、満足にできない子どもは、全体の1〜2
0%はいるとみる。

 国立の大学に通う大学院生(文科系)でも、小学校で習う、分数の足し算、引き算ができない
学生は、30〜40%(※2)もいる。

 悲しいかな、これが日本の教育の現実である。いいかえると、今は、そういう時代だというこ
と。オールマイティな頭でっかちの子どもより、一芸に秀でた子どものほうが、生きやすいという
こと、。またこれから先、そういう時代になるということ。

 定年退職したあとも、大卒の学歴をぶらさげて生きている人は多い。しかしこれからは、もう
そういう時代ではない。

 たまたまTUさんの子どもは、小学2年生ということだから、この年齢あたりが、その分かれ道
ということになる。

 アカデミックな学習態度を身につけて、いわゆる日本の学歴社会に順応していくか、あるいは
それに背を向けて、サブカルチャの道を進むか。

 もし勉強に遅れが目立ってきたら(こういう言い方は、本当に不愉快だが……)、「勉強をさせ
る」のではなく、あなた自身が、自分で勉強するつもりで、子どもをその雰囲気の中に巻きこん
でいく。そういう姿勢が、子どもを勉強好きにする。

(6)塾へ入れるのは、どうか?

 一度、子ども自身の心を確認してみること。すべては、ここから始まる。

(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安

 そういう不安があるなら、もうすでにこわれ始めている。人間関係というのは、そういうもの。

 よく若い男が、女に、「お前を信じているからな」と言うことがある。しかしそう言うということ
は、すでに相手を疑っているということになる。

 本当に相手を信じていたら、そういう言葉は出てこない。同じように、「親子関係が、こわれる
かもしれない?」と不安になっているようなら、すでにこわれ始めているとみる。

 「母親の役目はここまで。あとは父親の役目」と、割り切ることはできないのか。いつまでも母
性世界だけで、子どもを育ててはいけない。とくに、相手は、男児。それともあなたは、自分の
子どもを、マザコンタイプの冬彦さんにしたいのか?

 今、若い男性でも、そして結婚してからの夫でも、このタイプの男が多い。多すぎる。

 結婚してからも、何か自分のことでニュースがあったりすると、妻に話す前に、実家の母親に
電話したりする。当の本人は、そうすることが、親孝行の息子と誤解している。そしてお決まり
の、美化論。親を美化することによって、自分のマザコンぶりを、正当化しようとする。

 「私の母は、立派な人だ。だから私が、こうして尽くすのは、当たり前。子どもの義務」と。

 なぜこれほどまでに、この日本で、マザコンタイプの男がふえてしまったか? その原因の一
つに、TUさんが今、感じているような不安がある。そしてその不安の根源は、日本の文化その
ものに深く根ざしている。

【TUさんへ】

 かなりきびしいことを書きました。自分でも、わかっています。

 しかしこの問題は、TUさんだけの問題ではありません。広く、ほとんどの母親たちが、共通し
て悩んでいる問題です。

 私の返事は、本文の中に書いておきました。しかしこれだけは忘れないでください。

 今、あなたの子どもは、あなたに考えるテーマを投げかけているのです。子育ての問題。教
育の問題。日本の社会や文化の問題など。

そこで大切なことは、こうしたテーマについて、あなた自身が考え、自らの結論を出すということ
です。

 本文の中で、「あなた自身はどうだったか」と書きましたが、それはまさしく(あなた)自身を知
るきっかけとなるはずです。

 そういう視点、つまりあなたが子どもを育てるのではない。あなたの子どもが、あなたという人
を育てるために、そこにいる。そういう視点で、子どもをみます。

 あなたが「私は親だ」と思っている間は、決してあなたの子どもは、あなたに対して心を開くこ
とはないでしょう。あなたに何も教えないでしょう。しかしあなたがほんの少しだけ、子どもと対
等の立場にたち、謙虚になれば、あなたの子どもは、あなたに心を開くことになります。

 メールを読むかぎり、あなたは、どこか権威主義的な、親意識の強い方だと思います。もしそ
うならなおさら、つまらない親意識など捨てて、子どもに、こう話してみてはどうでしょうか。

 「ママも、子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった。おもしろくないもんね」「学校の宿題なん
てね、適当にやればいいのよ。あなたは学校でがんばって、疲れているんだから、家の中で
は、休めばいいのよ。ごくろうさま」と。

 あなたの子どもは、目を白黒させて驚くかもしれません。しかしそのあと、あなたの子どもは、
心を開いて、いろいろ言うでしょう。

 いいですか、親子の絆(きずな)というのは、そういうものです。心を開きあわないで、どうして
絆を太くすることができるでしょうか。

 この絆の問題については、また追々、私のマガジンのほうで書いていきます。まだマガジンを
購読なさってくださっておられないようなので、ぜひ、ご購読ください。いつまで、このエネルギー
がつづくかわかりませんので、早い者勝ちです。今なら、無料。お得です。ホント!

 では、今日は、これで失礼します。メールの引用、転載など、ご了解いただければうれしく思
います。

 なおこの原稿は、マガジンの6月30日号のほうで、掲載するつもりです。そのときまでにまた
推敲に推敲を重ねておきますので、またそちらのほうを、お読みいただければうれしく思いま
す。ご都合の悪い部分などあれば、至急、お知らせください。よろしくお願いします。
(はやし浩司 子どもの勉強 子供の勉強 子どもの学習 子供の学習 勉強をしない子ども 
勉強をしない子供 家庭での勉強)

++++++++++++++++++++++++++

●「シシリー宣言」

一九九五年一一月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言を
行った。これがシシリー宣言である。

その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであった。いわく、

「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではなく、行動
的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応性の低
下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いていては
いけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。

「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引
き起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の
間に5ポイントIQが低下した。人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。

ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非
行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

※2学力

 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。

結果、二五点満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国
立大学の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をと
ったという。

++++++++++++++++++++

●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、問題
は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせること」
「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。またそれ
が親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にというか、無意識の
まま、してしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、お金
ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するようにな
る。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんとう)する。
たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れていくこともあるだろ
う。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎてしま
う。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言った。

「ヒロシ、日本の子どもたちは、100%、スポイルされているね」と。「スポイル」というのは、「ド
ラ息子化している」という意味。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、生活力
も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解できるようにな
る。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあなたの
子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。

しかしそれを見て見ぬフリしたり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたは家
庭教育のあり方を、かなり反省したほうがよい。子どもをかわいがるということは、どういうこと
なのか。子どもを育てるということがどういうことなのか。それをもう一度、原点に返って考えな
おしてみたほうがよい。
(040530)
((はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 子育
ての原点)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1243)

●やる気

+++++++++++++++++++

このところ、忙しい。
そのせいか、疲労気味。
こうしてパソコの前に座っても、
ものを書く気があまり起きない。

気力の減退。
それについて、記録する。

+++++++++++++++++++

 東洋医学(漢方)では、体力と気力は、同一源のものとして考える。天の気(呼吸)と、地の気
(飲食物)が、合体して、人精となる。

 この人精(じんせい)が、エネルギーの根源というわけである。「精」は、「精力の精」「精神の
精」と考えると、わかりやすい。少し前まで、何かのことでがんばっている人を見かけると、「精
が出ますねえ」と、声をかけたりした。(最近は、この言い方を、あまり耳にしないが……。)

 だから体力や気力が落ちてきたときは、第一義的には、おいしいものを食べて、適度な運動
を繰りかえすのがよいということになる。

 が、やる気は、それだけで起きてくるというものではない。伊藤氏の「思考システム」によれ
ば、思考は大脳新皮質部の「新・新皮質」というところでなされるが、それには、帯状回(動機
づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値判断)なども総合的に作用するという(伊藤正男)。

 さらに最近の研究によれば、脳内のカテコールアミンと呼ばれるホルモンが、やる気に大きく
関係していることもわかった(澤口俊之「したたかな脳」)。その中のノルアドレナリンは、集中
力、ドーパミンは、思考力に関係しているという(同書)。

 つまりこうした作用が総合的に機能して、やる気が決まるということらしい。

 で、私の今の状態は、どうか?

 何を考えても、「どうでもいいや」という思いが、先に立ってしまう。めんどうというより、むなし
さが先に立ってしまう。ラマンチャの男(ドンキホーテ)が、風車を相手に、ひとりで戦っているよ
うなもの。所詮(しょせん)、相手は、風車!

 実際、「あなたの書いていることは、学問的には一片の価値もない」と言ってきた、大学の教
授がいた。(この話は、本当だぞ!)。「田舎のおばちゃんたちを相手に、講演をして、どういう
意味があるのか」とも。(この話も、本当だぞ!)

 そのときは、怒り、心頭に達したが、今になって思うと、「そのとおりだな」と納得する。私のし
ていることは、どうせ、その程度。

 そういう思いが、私から、どんどんとやる気を奪っていく。

 だから、やる気がないのではなく、書く気がわいてこないということになる。そのほかの面で
は、やる気はある。気力はある。

 今朝も、犬のハナの体を、シャップーで洗ってやった。午後に客人がくるので、居間の掃除も
した。腕につけるブレスレットの修理をした。言うなれば、書くのを、後まわしにしただけ。しかし
こうしてパソコンに向かって座っていると、「ああ、これが私の時間だ」という思いは、強くもつ。
それにおかしなことだが、こうしてサクサクと動くパソコンを相手にしていると、気持ちよい。

 ……ということで、昼まで、まだ3時間弱もある。今日から、マガジンの6月号の原稿を書くこ
とにした。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 やる
気 気力 帯状回 カテコールアミン 動機づけ)

+++++++++++++++++

以前、書いた原稿を添付します。

+++++++++++++++++はやし浩司 

●知識と思考

 知識は、記憶の量によって決まる。

その記憶は、大脳生理学の分野では、長期記憶と短期記憶、さらにそのタイプによって、認知
記憶と手続記憶に分類される。

認知記憶というのは、過去に見た景色や本の内容を記憶することをいい、手続記憶というの
は、ピアノをうまく弾くなどの、いわゆる体が覚えた記憶をいう。条件反射もこれに含まれる。

で、それぞれの記憶は、脳の中でも、それぞれの部分が分担している。たとえば長期記憶は
大脳連合野(連合野といっても、たいへん広い)、短期記憶は海馬、さらに手続記憶は「体の運
動」として小脳を中心とした神経回路で形成される(以上、「脳のしくみ」(日本実業出版社)参
考、新井康允氏)。

 でそれぞれの記憶が有機的につながり、それが知識となる。もっとも記憶された情報だけで
は、価値がない。その情報をいかに臨機応変に、かつ必要に応じて取り出すかが問題によっ
て、その価値が決まる。

たとえばAさんが、あなたにボールを投げつけたとする。そのときAさんがAさんであると認識す
るのは、側頭連合野。ボールを認識するのも、側頭連合野。しかしボールが近づいてくるのを
判断するのは、頭頂葉連合野ということになる。

これらが瞬時に相互に機能しあって、「Aさんがボールを投げた。このままでは顔に当たる。あ
ぶないから手で受け止めろ」ということになって、人は手でそれを受け止める。しかしこの段階
で、手で受け止めることができない人は、危険を感じ、体をよける。

この危険を察知するのは、前頭葉と大脳辺縁系。体を条件反射的に動かすのは、小脳という
ことになる。人は行動をしながら、そのつど、「Aさん」「ボール」「危険」などという記憶を呼び起
こしながら、それを脳の中で有機的に結びつける。

 こうしたメカニズムは、比較的わかりやすい。しかし問題は、「思考」である。一般論として、思
考は大脳連合野でなされるというが、脳の中でも連合野は大部分を占める。

で、最近の研究では、その連合野の中でも、「新・新皮質部」で思考がなされるということがわ
かってきた(伊藤正男氏)。伊藤氏の「思考システム」によれば、大脳新皮質部の「新・新皮質」
というところで思考がなされるが、それには、帯状回(動機づけ)、海馬(記憶)、扁桃体(価値
判断)なども総合的に作用するという。

 少し回りくどい言い方になったが、要するに大脳生理学の分野でも、「知識」と「思考」は別の
ものであるということ。まったく別とはいえないが、少なくとも、知識の量が多いから思考能力が
高いとか、反対に思考能力が高いから、知識の量が多いということにはならない。

もっと言えば、たとえば一人の園児が掛け算の九九をペラペラと言ったとしても、算数ができる
子どもということにはならないということ。いわんや頭がよいとか、賢い子どもということにはなら
ない。そのことを説明したくて、あえて大脳生理学の本をここでひも解いてみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 知識
 思考 記憶 記憶のメカニズム)

Hiroshi Hayashi+++++++++はやし浩司

●思考について

 当然のことながら、「思考」は、多くの哲学者の基本的なテーマであった。「われ思う、ゆえに
われあり」と言ったデカルト(「方法序説」)、「思考が人間の偉大さをなす」と言ったパスカル
(「パンセ」)、さらに「私は何か書いているときのほか、考えたことはない」と、ただひたすら文を
書きつづけたモンテーニュ(「随想録」)などがいる。

 ところが思考するということは、それ自体にある種の苦痛がともなう。それほど楽なことでは
ない。それはたとえば図形の証明問題を解くようなものだ。いろいろな条件を組み合わせなが
ら解くのだが、それで解ければよし。しかし解けないときの不快感は、想像以上のものだ。子ど
もたちを見ていても、イライラして怒りだす子どもすらいる。

もっともこの段階でも、知的遊戯を楽しむような余裕や、解いたあとの喜びがあれば、まだ救
われる。大半の子どもは、「解け」と言われて解き始め、解けなければ解けないで、ダメ人間の
レッテルを張られてしまう。だからますます思考するということに、苦痛を感じてしまう。

が、これは数学の問題だが、しかし多かれ少なかれ、思考するということには、いつも同じよう
な苦痛がついて回る。それで結論が得られれば、まだ考えることもできるが、そうでなければそ
うでない。そこで大半の人は、無意識のうちにも、考えることを避けようとする。一度そうなる
と、思考にもいくつかの特徴が表れる。

●ループ性……10年一律のごとく、同じことを考え、それを繰り返す。とくに人生論や価値観
など、思考の根幹にかかわるようなことについて、何ら変化がない。

●退化性……思考が停止すると、その段階から思考は退化し始める。それはスポーツ選手
が、練習をやめるのに似ている。練習をやめたとたん、技術は低下する。思考も同じ。

●先鋭化……思考が縮小化するとき、多くのばあい、その思考は先鋭化する。ものの考え方
が極端になったり、かたよったりするようになる。

 こうした現象が見られたら、その人の思考は停止したとみたとよい。もちろんこのほか、年齢
的な問題もある。私も50歳を過ぎてから、急速に集中力が衰えたように感ずる。集中力が衰
えたから、その分時間もかかるし、それに鋭さがなくなったように感ずる。そういうことはある。

 で、子どもの問題……というより、これは親の問題かもしれないが、20歳代で思考が停止す
る人もいれば、60歳、70歳代になっても停止しない人がいる。個人差というより、それまでに
どのような教育を受けたかで決まる。概して言えば、日本の教育は、子どもの思考を育てる構
造になっていない。それが結果として、世界的にみても、特異な日本人像をつくりだしていると
考えられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 思考
について デカルト パスカル)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1244)

●イラン危機と日本

++++++++++++++++

原油価格が上昇している。
今日(5・4)のニュースによれば、
5月2日、ドバイ産原油価格は、
1バレル当たり、68・33ドル
にまで上昇したという。

最高値である。

もしアメリカとイランの関係が
悪化し、ホルムズ海峡が閉鎖される
ようなことにでもなれば、
1バレル、100ドルということも
ありえるという。

++++++++++++++++

 「アメリカが経済制裁すれば、テロ活動を起こす」「アメリカがイランを攻撃すれば、イランは、
イスラエルに報復攻撃をする」と、ますます過激な発言を繰りかえす、イランのマフムード・アフ
マディーネジャード大統領。(名前が長い!)

 日本はこの地域から、90%近い原油を輸入している。もしアメリカとイランの関係がこじれ、
ホルムズ海峡が封鎖されるようなことにでもなれば、日本への影響は、甚大である。

 しかしそれこそ、中国のねらい。中国は、今回のイラン危機(私は、そう呼んでいるが……)を
利用して、日本を叩き落そうとしている。中国の一連の動きを見ていると、そんな感じさえす
る。

 現在、日本がイランで開発しているアザデガン油田が、中国の手に渡れば、極東アジアにお
ける日本と中国の立場は、逆転する。近い将来において、日本が中国に頭をさげて原油を輸
入するような事態にも、なりかねない。

 ことは、重大である!

 一方、目が離せないのが、韓国情勢。

 5月3日、ドル・ウオンの為替レートが、1ドル=930ウオン台ににまで、ウオンが高騰した。
基本的には、韓国は、加工貿易で成りたっている国である。ウオンが上昇すれば、輸出面での
打撃は大きい。

 韓国では、かねてより、1ドル=950ウオンが、輸出のボウーダーラインとされてきた。つまり
それ以上にウオンがあがれば、輸出そのものが成りたたなくなる、と。

 しかしその950ウオンをあっさりと、突破してしまった。朝鮮N報の報道によれば、最近にな
って、約1000社の企業が、輸出業務を停止しているという。もしこのままウオン高がつづけ
ば、韓国は、再びデフォルト、つまり国家破綻の危機にさらされる。

 加えて、このところの原油高。

 5月2日、ドバイ産原油価格が、とうとう、1バレル当たり、68・33ドルにまで上昇した。ホル
ムズ海峡が封鎖されれば、1バレル当たり、100ドルになると予想する経済学者もいる。

で、その韓国は、日本以上に、原油を中東(ドバイ)に依存している。しかも石油の備蓄量が、
75日分程度しかない。(日本は、約160日分、アメリカは、80日分。)

 持久戦ということになれば、韓国には、それほど、力はない。

 しかしあえて言おう。すでに日本と韓国の経済戦争は、始まっている。その戦争に、中国も加
担し始めている。日本にその気はなくても、韓国や中国は、その気で、日本と戦っている。そし
てその戦争は、日増しに熾烈(しれつ)になってきている。

 だったら、日本も、それ相当の応戦をすべきではないのか。ここで日本が手をこまねいてい
れば、日本は、それこそ本当に、「太平洋の海溝に叩き落とされてしまう」(中国)。

 もちろん戦争といっても、これは経済戦争である。人と人が殺しあう戦争ではない。「戦争」と
いう言葉に語弊(ごへい)があるなら、経済試合でもよい。ともかくも、今、日本は、その正念場
を迎えつつある。

 話はそれたが、先に書いたイラン危機が、これから先、日本のみならず、中国や韓国に、ど
のような影響を与えるか、ますます目が離せない。日本にとってもっともよいシナリオは、イラン
のマフムード・アフマディーネジャード大統領(本当に、名前が長い!)が、核開発を断念してく
れることだが、それは、もうありえない。

 つぎのシナリオは、中国とロシアが、イランへの制裁に傾いてくれることだが、それも、どうや
らありえない。日本と中国の間の距離以上に、アメリカとロシアの間には距離がある。言うなれ
ば、西欧文明とスラブ文明の対立。それを乗り越えるのは、容易なことではない。(日本人は、
アメリカ人もロシア人も同じと考えやすいが、それはとんでもないまちがいである。)

 有志連合によるイランへの経済制裁ということもあるが、日本への被害への大きさを考える
なら、日本にとっては望ましくない。利するのは、中国や韓国、それにロシアだけ。(韓国は、有
志連合には乗ってこないはず。)それに穴だらけの経済制裁をしたところで、どれほどの意味
があるというのか。

 で、ここから先は、まさに悪魔のシナリオということになる。そうあってほしいと願って書くわけ
ではない。しかし日本の国益を最優先するなら、つぎのようなシナリオもある。

 イスラエルがイランを先制攻撃して、イランの核開発関連施設を攻撃してくれること。つまり中
東戦争を、アメリカ対イランという構図ではなく、イスラエル対イランという構図に限定する。アメ
リカには傍観者になってもらう。

 このあたりで、イランが、核兵器開発を断念してくれれば、一番、よい。

 で、それがないと、日本は、最悪の状態を迎えることになる。

 しかし心配は、無用!

 ホルムズ海峡が封鎖され、石油危機が到来したあとは、世界各国は、持久戦へともつれこ
む。もちろん日本も被害を受けるが、しかし最後まで生き残るのは、このアジアでは、この日本
だけ。

 中国も今、油田開発に躍起(やっき)になっているが、石油不足は、年々、深刻さをましてい
る。1996年には、1350万トンの原油を輸入していた。それが、99年には、2850万トンに
増加。毎年原油需要が4%ずつふえているにに、供給量は、2%ずつしかふえていない。202
0年ごろには、世界一の原油輸入国家になるとも言われている。

 日本は、今回のイラン危機を利用して、逆に、韓国や中国を、東シナ海に、叩き落すことがで
きる。

 とても悲しいことだが、韓国にN政権があるかぎり、そしてK国に金xx政権があるかぎり、日
韓関係が、好転することはありえない。で、ここが重要だが、もし、再度、韓国がデフォルト(国
家破綻)に陥ったとしても、次回は、日本のほうから助けを申し出る必要は、まったく、ない。ま
たそんな愚を、繰りかえしてはいけない。

 何度も、まず、頭をさげさせる。「助けてください」と言うまで、頭をさげさせる。それを見届け
てから、日本は、韓国を助ければよい。

 あの竹島にしても、そのあと、韓国の大臣が、ヘリコプターで上陸している。さらに今度は、竹
島に電話線まで施設するという。まさにやりたい放題のことをしている。日本の神経を逆なです
るようなことを、平気でしている。そういう韓国を、日本が、どうして助けなければならないの
か。
(この原稿は、06年5月4日に書いたものです。)

【追記】

●どうなっているの、統一部長官?

++++++++++++++++++

韓国は、いつから、K国の属国になって
しまったのか?

ますますわからなくなった、韓国の行方
(ゆくえ)?

++++++++++++++++++

 06年5月3日の討論会で、韓国のイ統一部長官は、つぎのように述べている。朝鮮N報の日
本向け記事から、一部、そのまま抜粋する。(日本の新聞ではないぞ!)

 「『日本人拉致被害者・横田めぐみさんの父親と会う意向はあるか?』との質問には、『その
ような計画はない。必要だとは思わない。K総書記が拉致を告白してまで歩み寄りを見せた
が、日本ではこれを過小評価しているようだ』と述べた」と。

 つまり韓国のだれかが、イ統一部長官に、「横田めぐみさんの父親と会う意向はあるか?」と
聞いたことに対して、長官は、「必要だとは思わない」と。

 それはわかるとしても、つぎの発言が、「?」。イ統一部長官は、こう言っている。

 「K総書記がが、拉致を告白してまで、歩み寄りを見せた」「(しかしそれに対して)日本では、
これを過小評価している」と。

 まあ、最近にない、とんでもない発言である。「拉致を告白してまで……」とは! 告白すれば
それですむという話でもないだろうし、「告白した」ということは、拉致の実行責任者は、金xxで
あることを、韓国の高官自身が、認めたことになる。

 さらにこの発言の前には、こんなことまで言っている。

 今度、韓国に亡命した、脱北者が、再度、アメリカに亡命したことに対して、「ナンセンス」と。
「韓国政府は弾圧したこともないのだから、S氏(=アメリカに亡命した人)亡命はナンセンス」
(同、朝鮮N報)と。

 さらにさらに、「?」な発言がつづく。イ統一部長官は、こうまで述べている。

 「アメリカのK国に対する体制変動の試みについては、明確に反対する」(同、朝鮮N報)と。

 つまり独裁国家を支持する、と。

 こうした統一部長官の発言を並べてみると、儒教国家の特徴というか、権威主義がどういうも
のか、それがよくわかる。繰りかえすが、イ統一部長官は、こう述べている。

 「拉致を告白してまで……」と。

つまり「K国の最高権力者ともあろうお方が、わざわざ拉致を告白してまで……」と。私はこれ
を読んだとき、即座に、テレビドラマの『水戸黄門』を思い浮かべた。三つ葉葵の紋章を見せ
て、「控えおろう!」と一喝する、あのテレビ番組である。

 形は民主主義国家でも、韓国は、まさに権威主義国家。ここが重要だが、相手がだれであろ
うが、そんなことで遠慮する必要はない。横田めぐみさんの両親は、「娘を返せ」と言っている
だけである。先にも書いたように、告白したからといって、それですむような問題ではない。

 仮にもし告白しなかったら、今ごろは、どうなっているだろう。恐らく今の今も、K国の高官た
ちは、「拉致問題は、日本政府のでっちあげ」と言いつづけて、協議のたびに、大声で激怒して
見せているにちがいない。(演技たっぷりに!)

 で、このイ統一部長官の発言は、権威主義というものがどういうものであるかを知るのに、た
いへんよい素材である。

 日本でも、昔から、為政者には、一目も二目も置くのが、ならわしになっていた。相手が天皇
だと、なおさらである。目と目を合わせることすら、許されなかった。名前を口にすることすら、
許されなかった。

 「偉い人」という言葉は、そういうところから生まれた。言いかえると、イ統一部長官は、(出
世)に(出世)を重ね、今のような(偉い人)になったのだろう。恐らく、自分でもそう思っているに
ちがいない。だから「告白までして……」という言葉が出てくる。

 さらにつけ加えるなら、韓国は、K国に、骨のズイまで魂を抜かれてしまった。K国に核兵器
で脅されつづけているうちに、いつの間にか、K国の機嫌をとるだけの国になってしまった。

 心理学の世界にも、「ストックホルム症候群」という言葉がある。犯罪者に仕えているうちに、
犯罪者に協力するようになってしまう心理状態をいう。ことの善悪すら、わからなくなってしま
う。それに似ている。つまり国全体が、そのストックホルム症候群に陥(おちい)ってしまった。

 そんな感じさえする。

 どこへ行く、韓国?

 もうすぐまた、韓国の平和ノーベル賞受賞者でもある、金大中が、K国の金xxと、会談をする
ことになっている。南北共和制を敷く、その筋道を作るために、会談をするらしい。

 ならば、これだけは忘れないでほしい。そういった話しあいは、K国の核兵器開発問題を解
決からにしてほしい。その話しあいを棚にあげたまま、南北の統一ということになれば、それだ
けは、絶対に、日本は容認できない。

 少し前、韓国のN大統領は、Y神社参拝問題にからんで、公式の場で、「(日本よ)、いい気に
なるな」と言った。しかし今度は、日本が、その言葉を返す番になった。

 韓国のN大統領よ、いい気になるな!

 それにしても、ますますわからなくなった、韓国の行方(ゆくえ)。いったい、韓国は、どこへ行
こうとしているのか?

(注)ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に
由来する(一九七三年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人
たちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質
となった女性は、犯人と結婚までしたという。
(はやし浩司 ストックホルム症候群 はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼
児教育 子育て はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【心を偽る人たち】

●反動感情

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。心理学の世界に、「反動形成」という言葉がある。反動
形成というのは、自分の心を抑圧すると、その反動から、正反対の自分を演ずるようになるこ
とをいう。たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心
がないように振るまうことがある。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。
ほかに、たとえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをするのも、それ。そ
の反動形成に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(34歳女性、当時)に会ったのは、私が40歳くらいのことだった。もともとは奈良
県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を感
じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘を
愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき
六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)という。が、離婚は
しなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もた
れるの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反動感情」である。
このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうとする。わかりやすく言え
ば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好きになることで、不快感を克服し
ようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。自分という「主
体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き(affection)」という状態を
つくるが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意でしかない。若い男女が、電
撃的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や社会
は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、「ストックホ
ルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になったような人が、そのテ
ロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意をいだくようになり、そのテロリ
ストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(40歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになったと
きのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でしょ?」
と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦に見え
た。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないのですか?」
と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(45歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらしな
かった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前で
は、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副会
長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務
を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりも
まず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の家」岩波書店)と。そのノラが、親に感じていた
愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反動感情で作られた愛ではないかということにな
る。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたとしたら、ということだが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良
好な関係にあるフリをしているだけかもしれない。本当はあなたといっしょに、いたくない。いた
くないが、し方がないから、いっしょにいるだけ、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思
っているなら、その可能性は、ぐんと高くなる。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。


注……ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件
に由来する(1973年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人
たちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質
となった女性は、犯人と結婚までしたという。

注……イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意
でしたことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあ
げた会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、
家を出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小2男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。そ
の子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われた
ら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につく
ることで、自分の心を防衛したと考えられる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心を
偽る 反動形成 虐待 心理 人形の家)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1245)

●善人と悪人

+++++++++++++++++++++

道路に人が倒れていた。
苦しそうである。
そういうとき、あなたは、倒れていた人を、
無視して、通りすぎることができるか?

+++++++++++++++++++++

●倒れていた男

 一度だけだが、私は、こんな光景を見た。神奈川県のK市に行ったときのことである。ワイフ
と2人で歩いていると、10数人の人たちが、円陣をつくって、そこに集まっていた。見ると、中
央には、1人の男性が倒れていた。

 男性の年齢は、50歳くらいではなかったか。

 みなは、何やらたがいに話しあいながらも、その男性を見ているだけであった。声をかけると
いったふうでもなかったし、救急車を呼ぶというふうでもなかった。私とワイフは、その一群の人
たちをうしろのほうから見ながら、そしてその集団を避けるようにして、そのままその場を離れ
た。

 男は、酔っ払っていたのか? それとも何かの急病だったのか? それはよくわからなかっ
たが、私たちにとっては、旅先でのできごとだった。

 が、もし、その男が、私の近所で倒れていたとしたら……。おそらく、私はその男に声をか
け、ばあいによっては、救急車を呼んだかもしれない。

●ニヒリズム

 人の心の原点には、ニヒリズムという、悪魔が住んでいる。言うなれば、(冷たい残忍な心)と
いうことになる。

 そのニヒリズムが、ときとして、心の奥から、顔を出す。たとえば、今朝の中央N報(韓国系新
聞社)によれば、今年、K国の食糧事情が悪化するかもしれないという。90年末の食糧危機
の再来になるかもしれないという。

 そういうニュースを読んでいると、ふと、自分の心の中で、そのニヒリズムが、顔を出すのが
わかる。「ザマーミロ」とまではいかないが、「知ったことか」という思いが、顔を出す。苦しむの
は、罪もない一般庶民たちということは、よくわかっている。しかしそうした理性は、こういうばあ
い、どこかへ行ってしまう。

 私の心がおかしいのか? それとも、私だけではなく、こうしたニヒリズムは、みな、もってい
るのか? もしみながもっているとしたら、そのニヒリズムは、心のどこから、どのようにして、
生まれるのか?

●生きる力の、プラスとマイナス

 前向きに生きていく。これを(プラスの生きる力)という。しかしその生きる力には、もうひとつ
の作用がある。

 (他人を蹴飛ばしてでも生きる)という、マイナスの生きる力である。たとえばこんな状況を考
えてみよう。

 あなたは沈没船から、あやうく、小型のボートに乗り移ることができた。九死に一生を得たよ
うな状況だった。

 小型ボートの定員は、40人。しかしすでに、50人以上もの人たちが乗っている。ボートは今
にも沈みそうである。しかも明かりひとつない、夜の、真っ暗な海。

 そのときボートの手すりにだれかが手をかけた。見ると、一人の女性である。その女性は、
かよわい声でこう言った。「助けて……」と。

 映画『タイタニック』の1シーンを、想像してもらえばよい。

 もしそういう状況に置かれたら、あなたはどうするだろうか? その女性を助けるだろうか? 
それとも、無視するだろうか? その女性を助けあげれば、ボートは、ボートごと、沈んでしまう
かもしれない。

 そこでもしあなたが、その女性を無視して、下を向いたとする。(映画『タイタニック』の中に
も、そういうシーンがあったように思う。)それが(マイナスの生きる力)ということになる。

●表と裏

 ニヒリズムを悪と決めつけるのは、どうかと思う。このニヒリズムがあるからこそ、人は、平常
心を保つことができる。

 さらにこんな例で考えてみよう。

 あなたは町の郊外に、大型のショッピングセンターをつくった。超大型のショッピングセンター
である。センターそのものが、ひとつの町のようになっている。

 毎日、多くの買い物客で、にぎわっている。あなたはその成功に酔いしれ、自分の偉大さを
確認する。

 しかし心のどこかでは、罪の意識も感じている。あなたがそのショッピングセンターを作った
おかげで、それまで近くにあった、多くの零細商店が、閉店に追いこまれた。しかしそのとき、
あなたは、こう思うにちがいない。

 「この世界は、食うか、食われるかの、弱肉強食の世界。いちいち、そんなことを心配してい
たら、生きていかれない」と。「へたに温情を示していたら、今度は、自分が食われてしまう」と
も。

 つまり(プラスの生きる力)は、いつも、(マイナスの生きる力)と、ペアになっているのがわか
る。もしこのとき、(マイナスの生きる力)イコール、ニヒリズムと考えるなら、ニヒリズムは、生き
る力そのものということになる。

 少なくとも、ニヒリズムを否定してしまうと、その人は生きていかれなくなってしまう。

●受験というニヒリズム

 さらによい例が、受験というニヒリズムである。

 合格する人たちに、ワク(定員)があるばあい、1人の受験生が合格するということは、同時
に、別のところで、1人の不合格者を作りだすことになる。しかしその不合格者のことを心配し
ていたのでは、受験そのものが、できなくなる。

 そこで合格したとたん、ほとんどの人は、不合格で落ちた人のことは、忘れてしまう。心のスミ
で、ふと、その人を思い浮かべることはあっても、それを自ら打ち消してしまう。「私のせいでは
ない」と。そしてあなたはあなたの道を歩き始める。

 つまり私たちの生活から、こうしたニヒリズムを取り去ることはできない。それはわかるが、た
だこういうことは言える。

 そのニヒリズムを決して、野放しにしてはいけないということ。それが必要であるとしても、最
小限におさえること。そういった努力を怠れば、まさにこの世は、闇と化す。

●ニヒリズムとの闘い

 学生時代に見たミュージカルに、『ヘアー』というのがあった。私は、シドニーのキングスクロ
スにあった劇場で、それを見た。

 そのミュージカルの中で、1人の女の子が、こう歌う。「どうして、人々は、残忍になれるの…
…?」と。その女の子は、戦争という残忍さを頭に置きながら、そう言った。

 言うまでもない。ニヒリズムが、極限化すると、それはそのまま残忍化する。さらに放置すれ
ば、悪魔化する。

 そこで私たちは、生きることを考えるときは、同時に、ここに書いた、(マイナスの生きる力)
を、念頭に置かねばならない。そのことがわからなければ、先に書いた、ショッピングセンター
を思い浮かべればよい。受験勉強を思い浮かべればよい。

 常に、(生きる力)には、ニヒリズムがともなう。

 そのニヒリズムを、理性でコントロールできる人を、善人といい、そうでない人を、悪人という。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 ニヒリ
ズム 善人 悪人)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●優等生ブルース

 小学生のときから、勉強がよくできた。スポーツも万能。だから親にも、先生にも期待されて
いる。そこでA君は、いつの間にか、自分で「そういう人間」をめざすようになった。「そういう人
間」というのは、そういう人間である。

 A君は、いつも周囲に注目されているのを知っている。それは悪くない世界だ。が、同時に、
みなの期待を裏切ることもできない。だから、いつもA君は、優等生であろうとしている。……優
等生でなければならない。

 しかし本当のA君は、どこにいるのか? 何を望んでいるのか? 何をしたいのか? それが
わからないまま、A君は、孤独だった。

●劣等生ブルース 

 毎日、学校へ行っても、ハラハラしている。先生に指されないことだけを願いながら、体を小
さく丸めている。が、ときどき指されてしまう。そして「前に来い」「お前、説明してみろ」などと言
われる。とたん、教室は、笑いのウズ。

 B君は、そんなとき、いつも、みなの前で、おどけて見せる。ひょうきんな顔をして、その場を
茶化す。みなに「バカ」と思われるより、「おもしろい」と思われるほうが、まだまし。

 しかし本当のB君は、どこにいるのか? 何を望んでいるのか? 何をしたいのか? それ
がわからないまま、B君は、孤独だった。

●中間層ブルース

 勉強も、スポーツもほどほどにできる。しかしとくに、目立つということはない。夢も希望もな
い。毎日、それとなく過ごしている。

 C君の趣味は、テレビゲームとカードゲーム。塾も二つ通っているが、本当のところは、行き
たくない。しかし行かなければ、立場がない。立場がなくなる。しかしこのところ、家にも居場所
がなくなってきた。親は、C君の顔を見るたびに、「宿題はあるの?」「勉強はすんだの?」と言
う。

 しかし本当のB君は、どこにいるのか? 何を望んでいるのか? 何をしたいのか? それ
がわからないまま、C君は、孤独だった。

●ブルース

 それぞれの子どもが、それぞれの立場で、ブルースを口ずさんでいる。優等生といわれてい
る子どもも、またそうでない子どもも。それが学校というところ。それが人生というもの。しかし
忘れてならないのは、彼らもまた、私やあなたと同じ、人間だということ。

 ……と考えて、我が身を振りかえってみる。そしてこう思う。何のことはない。私たちだって、
同じではないか、と。私たちもそれぞれが、それぞれの立場で、それぞれのブルースを口ずさ
んでいる。

 しかし本当の私は、どこにいるのか? 何を望んでいるのは? 何をしたいのか? それが
わからないまま、私たちもまた、孤独な世界を生きている?
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 優等
生 劣等生)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1246)

●バブル経済

++++++++++++++++++

すべてがパワフルで、
すべてが生き生きと輝いていた。

それがあのバブル経済の時期だった。

しかしそのバブルは、はじけた。
日本は、そのあと、長いトンネルの
時代に入った……。

++++++++++++++++++

 実体経済以上に、資産価値が上昇した状態を、「バブル経済」と呼んでいる(ウィキペディア
百科事典)。

 わかりやすく言えば、東京都周辺部の土地の値段が、40坪単位で、1億円とか2億円になる
ことを想像してみればよい。(実際に、日本のバブル経済のころは、そうなったが……。)それ
がバブル経済である。

 土地をもっている人は、何も働かなくても、そのまま億万長者になるが、もっていない人は、
一生働いても、自分の住む家すら確保できない。

 だからいつかは、はじける。はじけて、その上昇分が、調整される。それが「バブル崩壊」で
ある。言うなれば、バブル経済というのは、巨大な博打(ばくち)のようなもの。みなが、「買っ
た」「買った」と言っている間に、資産価値だけが、どんどんと上昇する。

 しかし実体がともなわない。だから、はじける。

 で、日本のバブル経済も、はじけた。その結果、日本は、長くて苦しい時代を迎えた。この10
年を、「失われた10年」と呼ぶ人もいる。

 で、同じ愚を、中国が、現在進行形の形で、繰りかえしている。中国人のビジネスマンたちを
見ていると、10数年前の日本人を思い起こさせる。あのころの日本人も、自信満々。まさに飛
ぶ鳥を落とす勢いで、世界で、覇権(はけん)を広げていた。

 が、このところ、中国の経済が、急速におかしくなってきた。ペキンでも、新築のマンションの
うち、60%弱が売れ残るようになっているという。

 ペキン不動産管理網によると、「現在、新築中のマンションの約11万戸が売れず、売れ残り
率が、59・1%(面積基準)に達した」という。これを受けて、中国の新華社は、「バブル経済崩
壊」のニュースを、世界に配信し始めた。

 それを裏づける資料がある。

 1997年、中国の不動産融資は、200億人民元。それが最近では、3兆700億人民元にま
で、ふくれあがっている。この10年間で、実に154倍になったことになる。

 また住宅融資を受けた、31・8%の人は、年収の50%以上を、その返済にあてているという
(「新浪」)。

 これは、もう、メチャメチャな数字と言ってよい。日本のバブル経済もひどかったが、中国の
バブル経済も、ひどい。このままでは、中国のバブル経済は、やがて崩壊するし、崩壊したあと
も、その後遺症は、長くつづく。

 その時期はいつか? 日本の経験から言うと、政府が、金利の引き上げを始めたときが、そ
のときということになる。日本も、時のH大蔵大臣が、金利の引き上げを宣言したのをきっかけ
として、バブル経済が崩壊した。

 中国も、融資金利を、このところあげ始めている。しかし時、すでに遅し。それが、新築マンシ
ョンの売れ残り率、60%という数字に表れている。

 さあ、どうする、中国? どうなる、中国? 私の知ったことではないが……。
(06年5月6日記)

【補足】

 中国政府は、自国の元を、必要以上に、安くおさえている。安くおさえれば、おさえるほど、輸
出に有利だからである。

 そのため、世界中に、MADE IN CHINAの製品が、氾濫(はんらん)するようになった。そ
のことは、100円ショップと呼ばれる店の商品を見ればわかる。「こんなものまで100円!」と
驚くような商品が、ズラリと並んでいる。

 そのため、その周辺国が、この10年、大打撃を受けている。まず東南アジア各国が、その
被害を受けた。そしてそれが今、韓国、台湾へと広がりつつある。

 そこで元の切り上げ……ということになるが、それが簡単ではない。

 すでに世界の投資家たちは、それを見込んで、中国に、これまた必要以上の投資をしてしま
っている。仮に元の価値が2倍になれば、投資額は2倍になって戻ってくる。こんなウマイ話は
ない。

 一方、中国はそれを知っているから、今さら、元を切り上げたくても、できない。もしここで元
を切り上げれば、投資家たちが、いっせいにそれをドルに換えて、中国から引きあげてしまう。

 中国は、欲をかきすぎて、墓穴を掘ってしまったことになる。つまり「働けど、働けど、わが身
……」というような状況を、自ら、作ってしまった。今も、相も変わらず、安い労働力を使って、
安い製品を作るしかない。

 もしここで、そうした安い製品づくりをやめたら、たちまちちまたに労働力があふれ、失業者
がふえてしまう。そうなれば、そうした失業者が、暴動を起こすかもしれない。中国政府は転覆
(てんぷく)の危機にさらされる。

 だいたい、今どき、一党独裁の政治体制があること自体、おかしい。日本でたとえて言うな
ら、霞ヶ関の官僚たちが、日本の政治を支配しているようなもの。(日本も、似たようなものだ
が、中国よりは、まし。)中国の民衆たちも、すでにそれに気づき始めている。

 しかし、いつかやがて、今のバブル経済は、はじける。

 そうなったとき、中国は、どうなるか? 私の印象では、そのとき、中国各地では、民主の暴
動が多発し、やがてそれが中国民主化への動きとつながっていくだろうと思う。もちろん日本に
も大きな影響を与える。

 しかしそのばあいでも、この暴動の矛先を、決して、日本に向けさせてはいけない。つまり反
日運動に、結びつけさせてはいけない。

 日本は、音なしの構えで、静かに中国の変動を、見守るのがよい。そしてころあいをみて、中
国民主化の、手伝いをする。

 で、気になるのが、現在のA外務大臣。このところ、過激な発言がつづいている。「天皇にY
神社参拝をしてもらうのがよい」などというようなことまで言っている。ああいう人が、日本の首
相になったら、日本は、どうなるか? 日本というより、まわりの国々がどう反応するか? 想
像するだけでも、私は、ぞっとする。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

【近況・あれこれ】

●いとこの来訪

 岐阜県のS市に住むいとこが、おととい、我が家に来てくれた。奥さんと子どもと、一泊してく
れた。

 楽しかった。私のワイフの運転で、浜松周辺の観光地を回った。

 が、どこへ行っても、人また人。ゴールデンウィークというのは、こういうものかと、改めて、思
い知らされた。

 (私自身は、人ごみは、苦手。しばらく人ごみの中にいると、頭痛が始まる。)

 そこでその人ごみを避けて、より静かな場所へと移動。つまり一般の人たちの常識の逆を、
いった。

 これはうまくいった。

 まず気賀の関所へ。つづいて、寸座から観光船に乗って、寸座→舘山寺→寸座と、浜名湖
を往復。(観光客は、ふつう、舘山寺から遊覧船に乗る。)

 で、夕方、浜名湖の周辺をドライブすると、みなが、潮干狩りをしていた。すかさず、私たちも
合流! 

 昨日の夕方、いとこたちは岐阜へと帰っていった。いつも別れはさみしい。家に帰って、コタ
ツに入ったとたん、ものすごい睡魔。そのまま、私は眠ってしまった。


●デジタルカメラ

 昨日、新しいデジタルカメラを買った。衝動買いである。

 買ったのは、P社の、LUMIX。「旅行カメラ」というニックネームのついた、TZ1。
 
 画素数こそ、500万画素と、今では標準的だが、レンズは、光学10倍ズーム。しかし何とい
っても、ISO感度がすごい。驚くなかれ、ISO・1600。

 これだけの感度があれば、夜の街も、フラッシュなしで、撮影できるはず。(まだ試していない
ので、楽しみ!)

 で、店員が在庫を確認に行っているとき、横を見ると、隣に、一組の男女が立っていた。そし
てあれこれ、女性のほうが、男性に話しかけていた。デジタルカメラについての知識は、ゼロと
みた。

 「画素数が多ければ、それだけ、性能がいいみたい」
 「撮影枚数が多ければ、いいみたい」
 「軽い方が、いいわ」と。

 で、合い間を見て、私が声をかけた。

私「画素数が多いからといって、いいカメラとはかぎりませんよ。800万画素のカメラもありま
すが、実際には、使い道がありません。

インターネットで使うなら、100万画素でじゅうぶん。ハガキ大の紙に印刷するにしても、200
〜300万画素もあれば、じゅうぶん。

それに軽すぎるカメラは、ブレやすく、カメラとしては、不向きです。デジカメは、ある程度、重い
方が、よいですよ。

800万画素の写真をとっても、印刷のしようがありません。A4サイズの写真を印刷するとです
ね、それだけで、インク代が、1枚、200〜300円はかかるとみてください。

それに800万画素の写真をとったりすると、あっという間に、メモリーを消費してしまいます。も
ちろんその分だけ、バッテリーの消耗も、はげしい」

女「どれが、お薦めですか?」

私「あのね、デジカメは、ブレ防止があるかないかを、まずみますよ。とくに、はじめてデジカメ
を買う人は、そうです。あとは、使いやすさで選びます。簡単なのがいいです」と。

女「じゃあ、どれがいいと思いますか?」

私「私なら、P社のカメラをお勧めします。今年に入って、もう3台も買いました」と。

 1台は、二男夫婦に買ってやった。1台は、私用。そして今日、もう1台。

P社、つまりパナソニック社のカメラを推薦する理由。

★光学式のブレ防止機能がついていること。実際、使ってみると、その性能のすごさに驚く。
(他社のは、感度をあげ、シャッタースピードを速くし、それによって、ブレを軽減するという方法
を採用している。)

★P社のは、一部、アナログ式の、回転ダイアルになっている。一見、使いにくそうだが、実際
には、指でカリカリと回すだけで、撮影体勢に入れるので、楽。他社のほとんどは、モニター画
面を見ながら、それをする。これが結構、めんどう。

 私が現在使っているのは、(1)FX−8と、(2)昨日買った、TZ−1。ほかにも、C社やF社の
を、それぞれ2〜3台ずつ買ったことがあるが、すべて息子たちへ、払い下げてしまった。その
結果、現在のP社のカメラに落ち着いた。

 値段は他社のより、1〜3割高めだが、ブレ防止機能がついている、使い勝手のよさという点
を考慮するなら、やはりP社のがよい。あとはデザイン。これについては、好き好きがあるの
で、私は、何とも言えない。

 まあ、あえて欠点を言うなら、音声録音機能がついていないこと。以前、使っていたC社のカ
メラには、それがついていた。結構、重宝した。できれば、ICレコーダーとしても使えるとよい。
やがてそういう機能のついたカメラも登場すると思われるが……。

 それに操作部のデザインは、みな同じなのに、使い方がちがうというのは、おかしい。たとえ
ば、FX8と、TZ1とでは、写真の削除など、それぞれ操作のし方がちがうというのは、P社ファ
ンの私としては、困る。

 ちなみに、このブレ防止機能のおかげで、それまでマイナーだったP社が、一躍、デジカメの
世界では、トップに躍り出たそうだ。その理由は、ここに書いたとおりである。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●わかりやすい世界

++++++++++++++++++

少し前、ベストセラーになった、
「B〜」という本。
そして今回、ベストセラーになった、
「K〜」という本。

共通点は、どれも、難解!

++++++++++++++++++

 最近のベストセラー書の特徴といえば、一言で言うなら、難解。やたらと専門用語が多く、見
たことも、聞いたこともないような言葉が、ズラズラと並ぶ。

 読んでいる人は、本当に、そういう言葉を理解して読んでいるのだろうか? それともわかっ
たようなフリをして、読んでいるだけなのだろうか?

 こうした動き、つまり(知識と戯れる現象)は、西欧では、1960年代に、経験している。

 「(この時代)難解な言葉、気取った表現、それだけに重々しく荘厳な言葉でもって、大衆はも
ちろん、知識人ですらわからないような本がつぎつぎと刊行された」(「現代思想のすべて」湯浅
赳男)。

 はっきり言えば、今の日本がそうではないか。前にも書いたが、私がバカなのか、私には、日
本を代表する思想家、O氏や、Y氏、それにT氏の書いた文章が、あまりよく理解できない。
今、話題になっているW氏の書いた本にしても、そうである。理解はできるのだが、読んでいる
うちに、言葉の煙に包まれてしまうかのような錯覚すら、覚える。

 しかしあえて言おう。

 難解な文章で書かれた本イコール、良書ということには、ならない。むしろ、実際には、その
逆。こんな私にしても、よりわかりやすい文章を書くということは、たいへんむずかしい。ときに
自分の書いた数行の文章をながめながら、5分、10分と、四苦八苦することがある。

 一方、難解な文章というのは、意外と、書くのが楽。ためしに、一文、書いてみる。

 「個人の品格とは、無意識下の自己概念の具現化の過程で、生まれるもの。代言するなら、
現実的自己は、存在する私としての存在を映す、幻想的鏡にすぎない。従って個人の品格の
優劣は、無意識下の自己の認識と、知的、理性的生産性と、その昇華のみによって、具現化
される」と。

 わかるかな?

 私が言いたいのは、要するに、「人間の品格は、内から光るような理性、知性で決まる」とい
うこと。もっとわかりやすく言えば、「自分の品格をみがきたかったら、中身をみがけ」というこ
と。だったら、最初から、そう書けばよいのではないのか?

 今は、その過渡期ということか。歴史的にみれば、日本は、30〜40年前の西欧の思想界の
あとを、追いかけている。

 で、こうして現象は、今、しばらくつづくだろう。西欧で、こうした(知識と戯れる現象)が批判さ
れるようになったのは、ベトナム戦争以後の、1980年以後〜とみてよい。

 今日も電車の中でも、これ見よがしに、そんな感じのするインテリ風の男や女たちが、新書を
片手に、むずかしそうな顔をして、こうした本を読んでいる。多分、本人たちは、それなりに、あ
る種の優越感に浸(ひた)っているのだろう。しかしそんな本なら、もっと別のところで、読めば
よい。何も、バカで、品格のない人たちの間で、読まなくてもよい。

 一方、その私は、いつも330円のパソコン雑誌を読んでいるが……。ハハハ!

 わかりやすい人たちが、わかりやすい思想で、わかりやすく生きる。私たちは、そういう、わ
かりやすい世界を、めざそう!


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●シンプルライフ!

+++++++++++++++

わかりやすい人たちが、
わかりやすい思想で、
わかりやすく生きる。

私たちは、そんな世界を
めざそう!

称して、シンプル・ライフ!

+++++++++++++++

 家具の少ない部屋、
 飾りの少ない家、
 まっすぐな道、
 シンプルなルール、
 規則や規制の少ない社会、
 そしてわかりやすい世界。

 わかりやすい人たちが、わかりやすい思想で、わかりやすく生きる。私たちが求めている世
界は、そんな世界ではないのか。

 方法は簡単。よいものは、すなおによいと思えばよい。おかしいものは、すなおにおかしいと
思えばよい。それがわからなければ、子どもたちの世界を見ればよい。とくに幼児の世界を見
ればよい。

 幼児だから、「幼稚」と思うのは、まちがい。幼児イコール、未熟で、未完成と考えるのも、ま
ちがい。幼児の世界には、人間が生きる原点がある。そして人間が最終的に目標とする、ゴー
ルがある。

 幼児は、たしかに、未経験で、知識はとぼしい。しかしそれをのぞけば、おとなと、どこも、ち
がわない。むしろ人は、おとなになるにつれて、俗化する。純粋で、美しい心を忘れる。もっと
言えば、わかりやすい生きざま、そのものをなくす。

 もしそこに倫理や哲学というものが入りこむとしたら、すべては、「常識」に従えばよい。鳥は
水にもぐらない。魚は陸にあがらない。そういう常識に従えばよい。あとは、その常識に従っ
て、自分を磨く。

 美しい音楽を聴いて、美しい絵を見て、美しい世界を知る。「美しい世界」というのは、みな
が、懸命にがんばっている世界をいう。

 つまりは、シンプルな生き方ということになるのか。

 突っ張らない、ひがまない、ねたまない、いじけない、くじけない……。世俗に毒されることも
なく、私は私で、すなおに、生きる。
 
+++++++++++++++++

以前、書いた原稿をいくつか、
添付します。
(中日新聞にて発表済み)

++++++++++++++++++

●自由が育てる常識

 魚は陸の上にあがらない。鳥は水の中にもぐらない。そんなことをすれば、死んでしまうこと
を、魚も鳥も知っているからだ。そういうのを常識という。

 人間も同じ。数10万年という気が遠くなるほどの年月をかけて、人間はその常識を身につけ
た。その常識を知ることは、そんなに難しいことではない。自分の心に静かに耳を傾けてみれ
ばよい。それでわかる。たとえば人に対する思いやりや、やさしさは、ここちよい響きとなって心
にかえってくる。しかし人を裏切ったり、ウソをついたりすることは、不快な響きとなって心にか
えってくる。

 子どもの教育では、まずその常識を大切にする。知識や経験で、確かに子どもは利口には
なるが、しかしそういう子どもを賢い子どもとは、決して言わない。賢い子どもというのは、常識
をよくわきまえている子どもということになる。映画『フォレスト・ガンプ』の中で、フォレストの母
親はこう言っている。「バカなことをする人を、バカと言うのよ。(頭じゃないのよ)」と。その賢い
子どもにするには、子どもを「自由」にする。

 自由というのは、もともと「自らに由る」という意味である。無責任な放任を自由というのでは
ない。

つまり子ども自らが、自分の人生を選択し、その人生に責任をもち、自分の力で生きていくとい
うこと。しかし自らに由りながら生きるということは、たいへん孤独なことでもある。頼れるのは
自分だけという、きびしい世界でもある。

言いかえるなら、自由に生きるということは、その孤独やきびしさに耐えること、ということにな
る。子どもについて言うなら、その孤独やきびしさに耐えることができる子どもにするというこ
と。もっとわかりやすく言えば、生活の中で、子ども自身が一人で静かに自分を見つめることが
できるような、そんな時間を大切にする。

 が、今の日本では、その時間がない。学校や幼稚園はまさに、「人間だらけ」。英語の表現を
借りるなら、「イワシの缶詰」。自宅へ帰っても、寝るまでガンガンとテレビがかかっている。あ
るいはテレビゲームの騒音が断えない。友だちの数にしても、それこそ掃いて捨てるほどい
る。自分の時間をもちたくても、もつことすらできない。

だから自分を静かに見つめるなどということは、夢のまた夢。親たちも、利口な子どもイコー
ル、賢い子どもと誤解し、子どもに勉強を強いる。こういう環境の中で、子どもはますます常識
はずれの子どもになっていく。人間としてしてよいことと、悪いことの区別すらできなくなってしま
う。あるいは悪いことをしながらも、悪いことをしているという意識そのものが薄い。だからどん
どん深みにはまってしまう。

 子どもが一人で静かに考えて、自分で結論を出したら、たとえそれが親の意思に反するもの
であっても、子どもの人生は子どもに任せる。たとえ相手が幼児であっても、これは同じ。そう
いう姿勢が、子どもの心を守る。そしてそれが子どもを自由人に育て、その中から、心豊かな
常識をもった人間が生まれてくる。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 自由
論 自由と常識 常識論)

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●今どきの子どもたち

 「騒いでる子どもは、チンチンをハサミで切るぞ」と私が言ったときのこと。一人の女の子(小
五)が、「私にはないわ」と言った。ふつうはここで会話が終わるはずだったが、そのときはそう
ではなかった。すかさず別の男の子が、こう叫んだ。「何、言ってるんだ! クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 今どきの子どもたちの性知識は、ふつうではない。先日も、一人の男の子がニヤニヤ笑いな
がら、「先生、フェラって知っている?」と。「何だ、それ!」と言い返すと、「知ってるくせに……」
と、笑いつづけた。

 今どき、小学生で、「セックス」を知らない子どもはいない。これはもう15年近くも前のことだ
が、一人の女子中学生が、私にこう聞いた。「先生は純情か?」と。そこで私が「そうだ」と言う
と、「そんなハズないでしょう。子どもがいるクセに!」と。直後、私はその意味がわからなかっ
た。が、しばらく考えてやっと理解できた。さらにこんなことも。

 ある日、一人の女子大生が私に会いたいと電話をかけてきた。「どうしても相談したいことが
ある」と。そこで会って話を聞くと、「先生の知り合いで、私を援助交際してくれる人はいない
か?」と。「先生、あなたでもいい。1か月20万円ならいい」と。私の教え子だったというが、記
憶にはなかった。美しい女の子だった。

……そう思っていた。そういう私の「プライベートな思い」が、どこかで伝わり、それが誤解され
てしまったらしい。

 私はもうこの種の話にはうんざり。私とて「ふつうの男」だから、興味がないわけではない。し
かしここまで性が乱れてくると、もう手の施しようがない。それはちょうど、野に放たれた小鳥の
ようなものだ。つかまえることすら、できない。

 ……あのアダムとイブが、禁断の実を食べたという説話は、こういった状況を言ったものか。
しかしここで考え方を一転させて、「性そのものなど、何でもない」という前提に立つと、話が変
わる。思いきって、「性」を、単なる排泄行為と考えてはどうか。毎日小便や大便をするように、
人は、セックスをする、と。アダムとイブについて言うなら、禁断の実を禁断の実とするから、話
がおかしくなる。小鳥について言うなら、カゴの中に閉じ込めておこうとすことのほうが、おかし
い、と。

 この問題については、また別の機会に考える。しかしこんな事実もあることを忘れないでほし
い。アメリカの中西部に、アーカンソー州という州がある。その州に、H州立大学がある。その
H州立大学でのこと。フットボールクラブのメンバー60人を調べたところ、そのうち15人(2
5%)が、HIV(エイズ)検査で陽性だったという(2000年)。

たいへんな数だし、きわめて深刻な問題といってもよい。しかしそれはそのまま日本の、

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●指導方法

 子どもに限らず、人を指導するには、簡単に言えば、ふたつの方法がある。ひとつは、(1)脅
(おど)す方法。もう一つは、(2)自分で考えさせる方法。

 ほとんどの宗教は、(1)の「脅す方法」を使う。バチ論や地獄論がそれ。あるいは反対に、
「この教えに従ったら、幸福になれる」とか、「天国へ行ける」というのもそれ。(「従わなければ
天国へ行けない」イコール、「地獄へ落ちる」というのは、立派な脅しである。)

 カルトになると、さらにそれがはっきりする。「この信仰をやめたら、地獄へ落ちる」と教える宗
教教団もある。常識で考えれば、とんでもない教えなのだが、人はそれにハマると、冷静な判
断力すらなくす。

 もうひとつの方法は、(2)の「自分で考えさせる方法」。倫理とか道徳、さらには哲学というの
が、それにあたる。ものの道理や善悪を教えながら、子どもや人を指導する。この方法こそ
が、まさに「教育」ということになるが、むずかしいところは、「考える」という習慣をどう養うか、
である。

たいていの人は、「考える」という習慣がないまま、自分では考えていると思っている。あるい
は、そう思い込んでいる。たとえば夜のバラエティ番組の司会者を見てほしい。実に軽いこと
を、即興でペラペラとしゃべっている。一見、何かを考えているように見えるかもしれないが、実
のところ、彼らは何も考えていない。脳の表層部分に飛来する情報を、そのつど適当に加工し
て言葉にしているだけ。

「考える」ということには、ある種の苦痛がともなう。「苦痛」そのものと言ってもよい。だからた
いていの人は、自ら考えることを避けようとする。考えることそのものを放棄している人も、少な
くない。子どもや学生とて、同じ。東大の元副総長だったTK先生も、「日本の教育の欠陥は、
考える子どもを育てないこと」と書いている。

 前にも書いたが、「人間は考えるから人間である」。パスカルも『パンセ』の中で、「思考こそ
が、人間の偉大さをなす」と書いている。私は宗教を否定するものではないが、しかし人間の
英知は、その宗教すらも超える力をもっている。まだほんの入り口に立ったばかりだが、しかし
自らの足で立つところにこそ、人間が人間であるすばらしさがある。

 問題は何を基準にするかだ。つまり人間は何を基準にして、ものを考えればよいかだ。私
は、その基準として「常識」をあげる。いつも自分の心に、その常識を問いかけながら、考えて
いる。「何が、おかしいか」「何が、おかしくないか」と。そしてあとはその常識に従って、自分の
方向性を定める。ものを考え、それを文章にする。それを繰り返す。

言うまでもなく、私たちの体には、数10万年という長い年月を生きてきたという「常識」がしみつ
いている。その常識に耳を傾ければ、おのずと道が見えてくる。その常識に従えば、人間はや
がて真理にたどりつくことができる。少なくとも私は、それを信じている。あくまでもひとつの参
考意見にすぎないが……。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●子どもたちへ

すねたり
いじけたり
つっぱったりしないでさ、
自分の心に静かに
耳を傾けてみようよ
そしてね、
その心にすなおに
したがってみようよ

つまらないよ
自分の心をごまかしてもね
そんなことをすればね
自分をキズつけ
相手をキズつけ
みんなをキズつけるだけ

むずかしいことではないよ
今、何をしたいか、
どうしたいか、
それを静かに
考えればいいのだよ

仲よくしたかったら、
仲よくすればいい
頭をさげて
ごめんねと言うことは
決してまけることでは
ないのだよ
ウソだと思ったら
一度、そうしてみてごらん
今より、ずっとずっと
心が軽くなるよ

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●生きる哲学

 生きる哲学にせよ、倫理にせよ、そんなむずかしいものではない。もっともっと簡単なことだ。
人にウソをつかないとか、人がいやがることをしないとか、自分に誠実であるとか、そういうこと
だ。もっと言えば、自分の心に静かに耳を傾けてみる。

そのとき、ここちよい響きがすれば、それが「善」。不愉快な響きがすれば、それが「悪」。あと
はその善悪の判断に従って行動すればよい。人間には生まれながらにして、そういう力がすで
に備わっている。それを「常識」というが、決してむずかしいことではない。もしあなたが何かの
ことで迷ったら、あなた自身のその「常識」に問いかけてみればよい。

 人間は過去数10万年ものあいだ、この常識にしたがって生きてきた。むずかしい哲学や倫
理が先にあって生きてきたわけではない。宗教が先にあって生きてきたわけでもない。たとえ
ば鳥は水の中にはもぐらない。魚は陸にあがらない。そんなことをすれば死んでしまうこと、み
んな知っている。そういうのを常識という。この常識があるから、人間は過去数10万もの間、
生きるのびることができた。またこの常識にしたがえば、これからもずっとみんな、仲よく生きて
いくことができる。

 そこで大切なことは、いかにして自分自身の中の常識をみがくかということ。あるいはいかに
して自分自身の中の常識に耳を傾けるかということ。たいていの人は、自分自身の中にそうい
う常識があることにすら気づかない。気づいても、それを無視する。粗末にする。そして常識に
反したことをしながら、それが「正しい道」と思い込む。あえて不愉快なことしながら、自分をご
まかし、相手をキズつける。そして結果として、自分の人生そのものをムダにする。

 人生の真理などというものは、そんなに遠くにあるのではない。あなたのすぐそばにあって、
あなたに見つけてもらうのを、息をひそめて静かに待っている。遠いと思うから遠いだけ。しか
もその真理というのは、みんなが平等にもっている。賢い人もそうでない人も、老人も若い人
も、学問のある人もない人も、みんなが平等にもっている。子どもだって、幼児だってもってい
る。赤子だってもっている。あとはそれを自らが発見するだけ。方法は簡単。何かあったら、静
かに、静かに、自分の心に問いかけてみればよい。答はいつもそこにある。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●常識をみがく

 常識をみがくことは、身のまわりの、ほんのささいなことから始まる。花が美しいと思えば、美
しいと思えばよい。青い空が気持ちよいと思えば、気持ちよいと思えばよい。そういう自分に静
かに耳を傾けていくと、何が自分にとってここちよく、また何が自分にとって不愉快かがわかる
ようになる。無理をすることは、ない。道ばたに散ったゴミやポリ袋を美しいと思う人はいない。
排気ガスで汚れた空を気持ちよいと思う人はいない。あなたはすでにそれを知っている。それ
が「常識」だ。

 ためしに他人に親切にしてみるとよい。やさしくしてあげるのもよい。あるいは正直になってみ
るのもよい。先日、あるレストランへ入ったら、店員が計算をまちがえた。まちがえて50円、余
計に私につり銭をくれた。道路へ出てからまたレストランへもどり、私がその50円を返すと、店
員さんはうれしそうに笑った。まわりにいた客も、うれしそうに笑った。そのここちよさは、みん
なが知っている。

 反対に、相手を裏切ったり、相手にウソを言ったりするのは、不愉快だ。そのときはそうでな
くても、しばらく時間がたつと、人生をムダにしたような嫌悪感に襲われる。実のところ、私は若
いとき、そして今でも、平気で人を裏切ったり、ウソをついている。自分では「いけないことだ」と
思いつつ、どうしてもそういう自分にブレーキをかけることができない。

私の中には、私であって私でない部分が、無数にある。ひねくれたり、いじけたり、つっぱった
り……。先日も女房と口論をして、家を飛び出した。で、私はそのあと、電車に飛び乗った。
「家になんか帰るか」とそのときはそう思った。で、その夜は隣町の豊橋のホテルに泊まるつも
りでいた。が、そのとき、私はふと自分の心に耳を傾けてみた。「私は本当に、ホテルに泊まり
たいのか」と。答は「ノー」だった。私は自分の家で、自分のふとんの中で、女房の横で寝たか
った。だから私は、最終列車で家に帰ってきた。

 今から思うと、家を飛び出し、「女房にさみしい思いをさせてやる」と思ったのは、私であって、
私でない部分だ。私には自分にすなおになれない、そういういじけた部分がある。いつ、なぜそ
ういう部分ができたかということは別にしても、私とて、ときおり、そういう私であって私でない部
分に振りまわされる。しかしそういう自分とは戦わねばならない。

 あとはこの繰りかえし。ここちよいことをして、「善」を知り、不愉快なことをして、「悪」を知る。
いや、知るだけでは足りない。「善」を追求するにも、「悪」を排斥するにも、それなりに戦わね
ばならない。それは決して楽なことではないが、その戦いこそが、「常識」をみがくことと言って
もよい。

 「常識」はすべての哲学、倫理、そして宗教をも超える力をもっている。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 常識
論 常識とは 常識について わかりやすい生き方 シンプルライフ)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

常識といっても、安易な常識論には
警戒したほうがよいですね。

それについて、書いた原稿をいくつか、
集めてみました。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●安易な常識論で苦しむ人

 日本にはいろいろな常識(?)がある。「親だから子どもを愛しているはず」「子どもだから故
郷(古里)を思い慕っているはず」「親子の縁は絶対に切れない」「子どもが親のめんどうをみる
のはあたりまえ」など。

しかしそういう常識が、すべてまちがっているから、おそろしい。あるいはそういう常識にしばら
れて、人知れず苦しんでいる人はいくらでもいる。たとえば今、自分の子どもを気が合わないと
感じている母親は、7%もいることがわかっている(東京都精神医学総合研究所の調査・00
年)。「どうしても上の子を好きになれない」「弟はかわいいと思うが、兄と接していると苦痛でな
らない」とか。

 故郷についても、「実家へ帰るだけで心臓が踊る」「父を前にすると不安でならない」「正月に
帰るのが苦痛でならない」という人はいくらでもいる。そういう母親に向かって、「どうして自分の
子どもをかわいいと思わないのですか」「あなたも親でしょう」とか、さらに「自分の故郷でしょう」
「親を嫌うとはどういうことですか」と言うことは、その人を苦しめることになる。

たまたまあなたが心豊かで、幸福な子ども時代を過ごしたからといって、それを基準にして、他
人の過去をみてはいけない。他人の心を判断してはいけない。それぞれの人は、それぞれに
過去を引きずって生きている。中には、重く、苦しい過去を、悩みながら引きずっている人もい
る。またそういう人のほうが、多い。

 K市に住むYさん(38歳女性)のケースは、まさに悲惨なものだ。母親は再婚して、Yさんをも
うけた。が、その直後、父親は自殺。Yさんは親戚の叔母の家に預けられたが、そこで虐待を
受け、別の親戚に。そこでもYさんは叔父に性的暴行を受け、中学生のときに家出。そのころ
には母の居場所もわからなかったという。

Yさんは、「今はすばらしい夫に恵まれ、何とか幸福な生活を送っています」(手紙)ということだ
が、Yさんが受けた心のキズの深さは、私たちが想像できる、その範囲をはるかに超えてい
る。Yさんから手紙を受け取ったとき、私は何と返事をしてよいかわからなかった。

 ここでいうような「常識」というのは、一見妥当性があるようで、その実、まったくない。そこで
大切なことは、日本のこうした「常識」というのは、一度は疑ってみる必要があるということ。そ
してその上で、何が本当に大切なのか。あるいは大切でないのかを考えてみる必要がある。

安易に、つまり何も考えないで、そうした常識を、他人に押しつけるのは、かえって危険なこと
でもある。とくにこの日本では、子育てにも「流儀(?)」を求め、その「形」を親や子どもに押し
つける傾向が強い。こうした方法は、一見便利なようだが、それに頼ると、その実、ものの本質
を見失うことにもなりかねない。

 「親である」とか「子であるとか」とかいう「形」ではなく、人間そのものをみる。また人間そのも
のをみながら、それを原点として、家庭を考え、家族を考える。それがこれからの子育ての基
本である。
(はやし浩司 安易な常識論)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●アメリカ論

 よく私の「家族主義」について、つぎのように攻撃してくる人がいる。「林君は、家族主義を口
にするが、アメリカのほうが離婚率が高いではないか」「アメリカでは、夫婦でも裁判ザタになっ
ているケースが、日本とは比較にならないほど、多いではないか」と。(実際には、日本とアメリ
カの離婚率は、それほど変わらない。)

 これについて反論。離婚率が高いから、家族が破壊されているとはかぎらない。低いから家
族がしっかりしているということにもならない。たまたま日本の離婚率が低いのは、それだけ女
性ががまんしているからにほかならない。社会的、経済的地位も、まだ低い。男尊女卑思想も
まだ残っている。

たとえばオーストラリアあたりで、夫が妻に、「おい、お茶!」などと言おうものなら、それだけで
即、離婚。実際にはそういう会話をする夫はいない。ウソだと思ったら、近くにいるオーストラリ
ア人に聞いてみることだ。

 つぎに裁判だが、たしかに多い。しかしそれは日本とアメリカの制度の違いによる。アメリカ
には、それこそ地区ごとに、「コートハウス」と呼ばれる仲裁裁判所がある。人口数万の小さな
町にさえ、ある。

そんなわけで、近隣で何かもめごとがあると、彼らはすぐ「では、判事に判断してもらおうではな
いか」と、裁判所へでかけていく。こういう気安さ、気軽さがベースになっているから、夫婦であ
っても、裁判所へ出向く率は日本より、はるかに高い。

 さらにアメリカから伝えられる凶悪事件を例にあげて、アメリカ社会は崩壊していると主張し
ている人もいる。しかしアメリカと言っても広い。あのテキサス州だけでも、日本の2倍の広さが
ある。カルフォニア州だけでも、ほぼ日本の広さがある。

一方、アメリカ人の目から見ると、日本も東南アジアも区別できない。区別されない。インドネシ
アで暴動が起きると、アメリカ人は、日本もそれに巻き込まれていると思う。同じようにカルフォ
ニア州の一都市で何か事件が起きたとしても、決して、アメリカ全土で起きているわけではな
い。先日もアメリカへ行ったら、知人のF氏(アメリカ人)はこう言った。

「日本人はハリウッドをアメリカだと思い込んでいるのでは」と。そして「ハリウッド映画だけを見
て、それがアメリカと思ってほしくない」とも。

 たしかにアメリカも多くの問題をかかえている。それは事実だが、しかしこれだけは忘れては
いけない。アメリカには「アメリカ人」と呼ばれるアメリカ人はいないということ。それは東京には
「東京人」と呼ばれる東京人はいないのと同じ。先のテキサス州では、人口の40%がヒスパニ
ックが占めている。もちろん中国系、日系などのアジア人も多い。白人ばかりがアメリカ人では
ないことは、常識だ。

そういう多民族が集合して、「アメリカ人」というアメリカ人をつくっている。単一民族しか知らな
い日本人とでは、そもそも「国民」意識そのものがちがう。言いかえると、日本人対アメリカ人と
いうように、そもそも対等に考えることすら正しくない。

 冒頭の問題は、そういう前提で考えなければならない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●日本の常識、世界の標準? 

 『釣りバカ日誌』の中で、浜ちゃんとスーさんは、よく魚釣りに行く。見慣れたシーンだが、欧
米ではああいうことは、ありえない。たいてい妻を同伴する。向こうでは家族ぐるみの交際がふ
つうで、夫だけが単独で外で飲み食いしたり、休暇を過ごすということは、まず、ない。そんなこ
とをすれば、それだけで離婚事由になる。

 困るのは『忠臣蔵』。ボスが罪を犯して、死刑になった。そこまでは彼らにも理解できる。しか
し問題はそのあとだ。彼らはこう質問する。

「なぜ家来たちが、相手のボスに復讐をするのか」と。欧米の論理では、「家来たちの職場を台
なしにした、自分たちのボスにこそ責任がある」ということになる。しかも「マフィアの縄張り争い
なら、いざ知らず、自分や自分の家族に危害を加えられたわけではないのだから、復讐すると
いうのもおかしい」と。

 まだある。あのNHKの大河ドラマだ。日本では、いまだに封建時代の圧制暴君たちが、あた
かも英雄のように扱われている。すべての富と権力が、一部の暴君に集中する一方、一般の
庶民たちは、極貧の生活を強いられた。もしオーストラリアあたりで、英国総督府時代の暴君
を美化したドラマを流そうものなら、それだけで袋叩きにあう。

 要するに国が違えば、ものの考え方も違うということ。教育についてみても、日本では、伝統
的に学究的なことを教えるのが、教育ということになっている。欧米では、実用的なことを教え
るのが、教育ということになっている。

しかもなぜ勉強するかといえば、日本では学歴を身につけるため。欧米では、その道のプロに
なるため。日本の教育は能率主義。欧米の教育は能力主義。日本では、子どもを学校へ送り
出すとき、「先生の話をよく聞くのですよ」と言うが、アメリカ(特にユダヤ系)では、「先生によく
質問するのですよ」と言う(TK先生談)。

日本では、静かで従順な生徒がよい生徒ということになっているが、欧米では、よく発言し、質
問する生徒がよい生徒ということになっている。日本では「教え育てる」が教育の基本になって
いるが、欧米では、educe(エデュケーションの語源)、つまり「引き出す」が基本になっている、
などなど。同じ「教育」といっても、その考え方において、日本と欧米では、何かにつけて、天と
地ほどの開きがある。

私が「日本では、進学率の高い学校が、よい学校ということになっている」と説明したら、友人
のオーストラリア人は、「バカげている」と言って笑った。そこで「では、オーストラリアではどうい
う学校がよい学校か」と質問すると、こう教えてくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。チャールズ皇太子も学ん
だことのある由緒ある学校だが、そこでは、生徒一人一人に合わせて、カリキュラムを学校が
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように、と。そういう学校をよ
い学校という」と。

 日本の常識は、決して世界の標準ではない。教育とて例外ではない。それを知ってもらいた
かったら、あえてここで日本と欧米を比較してみた。 


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●家族のつながりを守る法

2000年の春、J・ルービン報道官が、国務省を退任した。約3年間、アメリカ国務省のスポー
クスマンを務めた人である。理由は妻の出産。「長男が生まれたのをきっかけに、退任を決
意。当分はロンドンで同居し、主夫業に専念する」(報道)と。

 一方、日本にはこんな話がある。以前、「単身赴任により、子どもを養育する権利を奪われ
た」と訴えた男性がいた。東京に本社を置くT臓器のK氏(53歳)だ。いわく「東京から名古屋
への異動を命じられた。そのため子どもの一人が不登校になるなど、さまざまな苦痛を受け
た」と。単身赴任は、六年間も続いた。

 日本では、「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも、「勉強する」「宿題があ
る」と言えば、すべてが免除される。仕事第一主義が悪いわけではないが、そのためにゆがめ
られた部分も多い。

今でも妻に向かって、「お前を食わせてやる」「養ってやる」と暴言を吐く夫は、いくらでもいる。
その単身赴任について、昔、メルボルン大学の教授が、私にこう聞いた。「日本では単身赴任
に対して、法的規制は、何もないのか」と。私が「ない」と答えると、周囲にいた学生までもが、
「家族がバラバラにされて、何が仕事か!」と騒いだ。

 さてそのK氏の訴えを棄却して、最高裁第二小法廷は、1999年の9月、次のような判決を
言いわたした。いわく「単身赴任は社会通念上、甘受すべき程度を著しく超えていない」と。つ
まり「単身赴任はがまんできる範囲のことだから、がまんせよ」と。もう何をか言わんや、であ
る。

 ルービン報道官の最後の記者会見の席に、妻のアマンポールさんが飛び入りしてこう言っ
た。「あなたはミスターママになるが、おむつを取り替えることができるか」と。それに答えてル
ービン報道官は、「必要なことは、すべていたします。適切に、ハイ」と答えた。

 日本の常識は決して、世界の標準ではない。たとえばこの本のどこかにも書いたが、アメリカ
では学校の先生が、親に子どもの落第をすすめると、親はそれに喜んで従う。「喜んで」だ。親
はそのほうが子どものためになると判断する。が、日本ではそうではない。

軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。こうした「違い」が積もりに積も
って、それがルービン報道官になり、日本の単身赴任になった。言いかえると、日本が世界の
標準にたどりつくまでには、まだまだ道は遠い。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1247)

【雑感・あれこれ】

●孤独

 連休中、いろいろな人に会った。楽しかった。しかしいつも、そのあとにやってくるのが、(さみ
しさ)。人と会うのは楽しいが、別れるのは、さみしい。

 で、明日から、また仕事。私という人間を求めて、たくさんの人や子どもたちが、来てくれる。
そう思ったとたん、ポッと心が温まるのを感ずる。と同時に、「私の生きがいは、ここにある」と
実感する。

 私は、結局は、どういう形であれ、死ぬまで、仕事をするだろう。仕事というより、人と会いつ
づけるだろう。

 ……今日、三男が、宮崎へと帰っていった。駅まで見送った。「さみしいね」「またまた2人ぼ
っちになってしまったね」とワイフに言うと、「これでいいのよ」と、ワイフは言った。


●今日は雨

 大型連休最後の日だというのに、今日(5・7)は、朝から雨。せっかく買ったデジカメの出番も
ないまま、一日が終わってしまった。

 で、ヒマなので、アニメを1作、作ってみた。しかし最後の編集のところで操作をまちがえて、
パーにしてしまった。あああ……!

 こういう失敗が1度でもあると、創作意欲が、とたんに消えてしまう。コタツに入って、ふて寝を
していると、そのまま眠ってしまった。目をさますと、午後4時。2時間ほど、時間を無駄にしてし
まった。

 パソコンを開くと、TK先生からのメールが入っていた。今度(5月20日)、鎌倉のBという会
で、講演をするという。その原稿を送ってくれた。

 その中の一文に、こんなことが書いてあった。

 先生のお嬢さんたちは、あのアインシュタイン博士がなくなった同じ病院で、その1週間後に
生まれているという。そのアシンシュタイン博士は、なくなる前の晩、何やら大声で、ワーワーと
叫んでいたという。

 あいにくとドイツ語だったので、そばにいた看護婦たちにも意味がわからなかったという。TK
先生は、「何やら重要なことをしゃべっていたかもしれない」というようなことを書いている。

 アインシュタイン博士は、どんなことをしゃべっていたのだろう。たいへん興味がある。そのう
ち、『アインシュタイン・コード』という本が出るかもしれない。ダビンチもおもしろいが、アインシ
ュタインのほうが、もっと、おもしろい。……と私は、勝手にそう思っている。


●中東情勢

 残念ながら、中東情勢については、私は、詳しくない。しかしテレビの報道で見るかぎり、彼ら
は、いつも戦争ばかりしている。そんな感じがする。たった今も、何かの特集番組で、それを見
た。それを見ながら、ふと、こう漏らす。

 「……少しは、仕事でもして、働けばいいのに……」と。私が見たシーンでは、兵士たちが、小
銃を空にもちあげて、何やら叫びながら、行進を繰りかえしていた。

ワイフ「あれが仕事みたいね」
私「小銃をあげて、行進することが?」
ワイフ「そうみたい」と。

 世界には、おかしな仕事があるものだ。ホント!


●飛行機

 三男と、昨夜、遅くまで、飛行機の話をする。いくつか、おもしろいことを話してくれた。

 パイロットによって、当然のことながら、操縦のじょうずな人と、そうでない人がいる。そこで私
が、「ときどき、ドスンと着陸する、へたくそなパイロットがいる」と話すと、三男は、こう言った。

 「それはヘタということではない。たとえば滑走路が雨などで、濡れてすべりやすくなっている
ときは、わざと、ドスンと着陸させて、タイヤが滑らないようにする」と。

 なるほど!

 そういう話をつぎからつぎへと、してくれる。練習機は、1機、数千万円もして、1時間も飛ぶ
と、経費が5万円もかかるという話もしてくれた。今度、仙台の飛行場で練習する飛行機は、1
機、1億円もするそうだ。

 今は宮崎にいるが、10月からは、仙台へ移るという。仙台に住んでいる人がいたら、息子
を、どうかよろしく! 飛行機事故のニュースを聞くたびに、このところ、そのつど、少なから
ず、ドキッとする。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(1248)

【子どもの世界・携帯電話】

●子供向け携帯電話

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子どもに携帯電話は、是か非か?

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 今ごろ、こんなことを論じても意味は、ほとんどない。すでに携帯電話は、おとなの世界では
もちろんのこと、子どもの世界でも、社会的に認知され、(あたりまえの道具)になってしまっ
た。このあたりの高校でも、携帯電話をもっていない高校生は、クラスに1人か2人……という
程度にすぎない(筆者、2002年ごろ、調査)。

 最近では、セキュリィティ上の理由から、小学生の間で、測位システム(GPS)機能つきの携
帯電話も、普及してきた。

 これに対して、「不要だ」「それがあれば安全だと、過信しやすい」「授業中にかかってきて、
授業を妨害する」などの、反対論も多い。

 一方、長距離通学の子どもをもつ父母の間からは、「必要だ」「ほかに安全を確保する手段
がない」などの意見が続出。結局、全体としてみれば、私立小学校では、携帯、OK、公立小学
校では、携帯、NOというのが現状のようである(参考、読売新聞)。

 で、こうした議論は、あたかも浜辺に打ちあげる波のように、そのつど、わき起きてきては、ま
た消える。私が子どものころには、漫画があった。漫画是非論である。

 すでに当時、手塚治が活躍していたが、私が住んでいたG県では、「漫画禁止令」なるもの
も、出された。「学校では、漫画を読んではいけない」と。

 それからテレビ是非論、さらにはビデオ是非論、テレビゲーム税非論、インターネット是非
論、そして携帯電話是非論へと、つづいた。

 で、結果としてみると、こうした時代の流れには、私たちおとなは、無力でしかないということ。
いろいろ騒いではみるが、しかしその流れを止めることはもちろんのこと、内部に立ち入ること
すらできない。つぎの世代はつぎの世代の人たちが、自分たちで決めていく。

 携帯電話にしても、その(流れ)の中にある。今では、電車の中でも、ワイワイ、ギャーギャー
と騒ぐ中学生や高校生は、ほとんどいない。みな、電車に乗ったとたん、携帯電話を開き、
黙々と、メールを打ち始める。

 私たちの世代にとっては、異様な光景だが、彼らにしてみれば、ごく当たり前の、ごく日常的
な光景である。そういう彼らに対して、「おかしい」「まちがっている」と、いったい、だれが言える
だろうか。

 テレビが急速に普及し始めたころも、そうだった。(今でもそうだが……)、テレビやテレビゲ
ームが理由で、外で遊ぶ子どもが、めっきりと減った。一時は、それが塾通いのせいだと言わ
れたが、実際には、農村部の子どもほど、家の中に閉じこもる時間が長いこともわかった。

その結果が、今、である。

 テレビにせよ、ゲームにせよ、携帯電話にせよ、(あたりまえの道具)になってしまった。今さ
ら、こうした(流れ)を逆行させることはできない。冒頭にも書いたように、是非を論じても、意味
がない。

 GPS機能付携帯電話にしても、「子ども自身が自ら考えて安全を守るという意識が薄れる」と
いう意見や、「子どもにもプライバシーというものがある。子どもの人権が守れない」という意見
もあるようだが、それは、少し考えすぎではないのか。私の知る範囲でも、そのGPS機能付携
帯電話をもっている子どもは、多い。しかしもの珍しさが目立ったのは、当初だけ。今では、話
題にもならない。

 ある程度の方向性は、おとなたちが作ってやらねばならない。それは当然だが、しかしそれ
にも限界がある。10人のうち、7〜8人が、抵抗したところで、2〜3人が、そのルールを破れ
ば、それでおしまい。抵抗を繰りかえす子どものほうが、かえって仲間はずれにされてしまう。

 テレビゲームやカードゲームに、その例をみるまでもない。

 では、私たちおとなは、どうすればよいのか。これからも、こうした問題は、そのつど、わき起
きてくる。その(流れ)は、加速されることはあっても、減速されることはない。つまり各論をいく
ら論じても、意味はない。で、総論として、どう考えたらよいのか。

 ひとつには、子ども自身に、(自ら考える力)を、幼児期から養っておくこと。その方法につい
ては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する(原稿を、あとで添付※1)。

 つぎに重要なのは、子ども自身に、(心の抵抗力)をつけておく。その方法についても、すでに
何度も書いてきたので、ここでは省略する(原稿を、あとで添付※2)。が、何よりも重要なの
は、おとなの私たちが、生きザマを、子どもたちに見せておくということ。それを棚にあげて、つ
まりそういうことをしないで、子どもたちの世界ばかり心配しても、意味はない(原稿を、あとで
添付※3)。

 ともかくも、こうした2つの力が子どもにあれば、子どもは、自ら自分を守っていく。自分の進
むべき方向を定めていく。

 が、それでも問題が起きてしまったとしたら……。

 それについては、各論として考えるしかない。そういった(当たり前の道具)を介して非行問題
が起きたとしたも、非行問題は非行問題として考えるしかない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 携帯
電話 GPS機能付携帯電話 時代の流れ)

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いくつか、以前書いた原稿を
添付しておきます。

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 子育て自由論(中日新聞掲載済み)

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※1【子育て自由論】

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。釈迦は、「自分こそが、
自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり「自分のことは自分でせ
よ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。ある母親は今の夫と
いやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになったら、あなたは、ちゃん
とできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子ど
もになる。外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

※2【心の抵抗力】

●夢のない子どもたち

 ロシア・北オセチア共和国のベスランで起きた学校占拠事件は、小学生たちにも、強い衝撃
を与えた。

 どの小学生も、顔をあわせると、その話を始める(9月6日)。「みんな殺された」「裸にされ
た」「爆弾で吹っ飛ばされた」と。

 こういう話は、決して好ましいものではない。やがて子どもたちの心を、ボディブローのよう
に、むしばみ始める。おとなたちのへの不信感、未来への不安感となって、はねかえってくる。

 そこで私は、「そんな事件は例外だよ」「この日本では、ありえないよ」と、必死になって、それ
を打ち消す。が、焼け石に水!

 そうでなくても、子どもたちから、夢が消えつつある。「明日は、きっといいことがある」と思っ
て、一日を終える子どもは、男子30%、女子35%にすぎない(「日本社会子ども学会」、全国
の小学生3226人を対象に、04年度調査)。

 子どもだから、明日という未来に向かって、夢や希望をいだきながら生きているというのは、
もはや幻想でしかない。

 が、否定的なことばかりを言っていてはいけない。

 私たちは、親として、子どもの夢や希望を前向きにとらえていく。これを発達心理学の世界で
も、役割形成という。子どもが「花屋さんになりたい」と言ったら、すかさず、「そうね、すてきな
仕事ね」と言ってあげる。

「明日は庭に、花を植えてあげましょうね」「今度、テーブルを花で飾ってあげましょうね」と。

 こういう前向きなストローク(強化)が、子どもに夢をもたせる。そしてそれが子どもをさらに前
向きに、ひっぱっていく。

 つまりは、子どもたちに夢をもたせるのは、親の役目ということになる。決してむずかしいこと
ではない。が、実際には、世の親たちは、子どもの夢を破壊しながら、それに気づいていない。

 「あなたも、Mさんのような宇宙飛行士になるのよ」「でも、今の成績では無理ね」「もっと勉強
しなければ、S中学校へは入れないわよ」と。

 こうして子どもたちは、役割混乱を起こす。心理的にも、情緒的にも、きわめて不安定な状態
になる。その役割混乱の深刻さについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 子どもたちから夢が消えたのは、あくまでも、その結果でしかない。今度のベスランで起きた
学校占拠事件は、さらに、それに拍車をかけた?


●もの知りの子どもより、深く考える子どもを!

 心の抵抗力は、「考える力」によって、決まる。その抵抗力が、子ども自身を、守る。

 たとえばインターネットや、携帯電話を使った、「出会い系サイト」というのがある。凶悪犯罪
の温床にもなっている(04年度、「青少年白書」)。

 こうした出会い系サイトは、もはやコントロール不能状態にあるとみてよい。それはたとえて
言うなら、性病のようなもの。もう、この日本には、出会い系サイトにしても、性病にしても、そ
れらからのがれる場所は、ない。方法も、ない。

 そこで最後の砦(とりで)は、子ども自身の「力」ということになる。「抵抗力」と言ってもよい。
つまりは、子ども自身を、「自ら考える子ども」にするしかない。 

 が、いまだに幼児教育というと、知育教育と考えている人が多い。知識を身につけさせること
が、幼児教育というわけである。英会話を覚えさせ、掛け算の九九を暗記させる。それが幼児
教育、と。

 決してムダだとは思わないが、しかしそれだけでよいとは、だれも思っていない。とくにこれか
らの日本では、そうだ。

 で、どうしたらよいのか? 子どもを自ら考える子どもにするのは、どうしたらよいのか?

 方法は、もう一つしかない。親自身が、自ら考える姿勢を、子どもに見せることである。そうい
う環境で、子どもを包む。親が、意味もないバラエティ番組を見てゲラゲラと笑っていて、どうし
て子どもを考える人間に育てることができるだろうか。

 ちなみに、「子どもに見せたくない番組」(PTA全国協議会調査)としては、つぎのような番組
があげられている。

 ロンドンxxx(テレビ朝日系)
 水xx!(フジテレビ系)
 クレヨンxxちゃん(テレビ朝日系)
 めちゃ2xxxxッ(フジテレビ系)などがある。

 こういう番組を、あなたの子どもが好んで見ているようなら、あなたの子どもに将来はない(失
礼!)。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。

●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

※3【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 心の
抵抗力 4割の善 四割の善 子どもの世界 子供の世界)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1249)

【雑感・あれこれ】

●私設施設での怪死事件(?)

 名古屋市にある、I・Mという、自称「メンタル・スクール」で、1人の男性(26歳)が、怪死し
た。

 NEWS−iは、以下のように伝える。

 「先月(4月)、引きこもりの人たちが暮らす名古屋の民間施設で、入所していた26歳の男性
が死亡した事件で、愛知県警は施設の代表ら7人を、逮捕監禁致死の疑いで逮捕しました。

 逮捕されたのは、NPO法人(I・Mスクール)の代表で、SG容疑者(49)や、施設の従業員ら
合わせて7人です。

 調べによるとSG容疑者らは、先月14日、26歳の無職の男性を東京の自宅から名古屋の
施設に車で連れていく際、体を床に押さえつけたり、手錠やロープなどを使って拘束したほか、
施設に着いてからも、柱に鎖でつなぐなどして、4日後に死亡させた逮捕監禁致死の疑いがも
たれています。

 この施設は1991年にSG容疑者が、不登校や引きこもりの人たちを、共同生活を通して更
生させようと設置しました」と。

 さっそくI・Mスクールを、ヤフーで検索してみる。が、肝心の施設についてのページがない。H
Pの管理者が、早々と、関連ページを削除してしまったらしい。

 私の推測によれば、息子の引きこもりで困った家人が、I・Mスクールに連絡して、強制的に
入居させようとした過程で起きた事件ということになる。よく似た事件に、Tヨット・スクール事件
というのがあった。あれも、そういえば、名古屋市を舞台として起きた事件ではなかったか。

 ほかに、不登校の子どもを、罵倒(ばとう)してなおす(?)という女性も、名古屋にはいる。

 いろいろいきさつはあるのだろうが、全体としてみると、心の病気を、みなが、軽く考えすぎて
いるのではないか。とくに引きこもりについては、そうである。一見すると、怠け病(そんな病名
はないが……)に見える。そのため、まわりの者たちが、「何とかなる」「そんなはずはない」と
無理をする。その無知と無理解、そして無理が、積もり積もって、こうした事件へとつながる。

 SGという女性の顔は、報道記事などに添付されているが、そのSGという女性に、どれだけ
の基礎知識があったのか、はなはだ、疑問である。T・ヨットスクールの指導者にしても、また不
登校の子どもを、罵倒してなおすという女性にしても、そうである。

 熱病で苦しんでいる子どもに向かって、あたかも水をぶっかえるような対処法が、(理屈の上
では、熱を冷ますのだから水、という論理は成りたつが……)、果たして子どもの心の更生につ
ながるといえのだろうか。

 子どもが引きこもりを引き起こすまでには、長いプロセスがある。そしてそのプロセスは、子
どもが生まれたときから始まる。

 そうしたプロセスを無視して、いきなり……という対処法は、メチャというより、無謀、無謀とい
うより、デタラメと考えてよい。

 また別の機会に書いてみたいが、たとえば引きこもりをなおす(?)にしても、5年単位の時の
流れが必要である。そのためには、家人の根気と努力、それに愛情が必要である。苦しい戦
いかもしれないが、その戦いなくして、子どもを立ちなおさせることはできない。

 今回の事件は、まさにT・ヨットスクール事件の再現を思い起こさせる。これから先、I・Mスク
ールの内情が、明らかにされるだろう。それを待って、またこの問題を考えてみたい。

+++++++++++++++

私の経験を書いた原稿を
1作、添付します。
(中日新聞掲載済み)

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子どもが恐怖症になるとき

●九死に一生

 先日私は、交通事故で、あやうく死にかけた。九死に一生とは、まさにあのこと。今、こうして
文を書いているのが、不思議なくらいだ。が、それはそれとして、そのあと、妙な現象が現れ
た。夜、自転車に乗っていたのだが、すれ違う自動車が、すべて私に向かって走ってくるように
感じた。

私は少し走っては自転車からおり、少し走ってはまた、自転車からおりた。こわかった……。恐
怖症である。子どもはふとしたきっかけで、この恐怖症になりやすい。

 たとえば以前、『学校の怪談』というドラマがはやったことがある。そのとき「小学校へ行きたく
ない」と言う園児が続出した。あるいは私の住む家の近くの湖で水死体があがったことがあ
る。その直後から、その近くの小学校でも、「こわいから学校へ行きたくない」という子どもが続
出した。

これは単なる恐怖心だが、それが高じて、精神面、身体面に影響が出ることがある。それが恐
怖症だが、この恐怖症は子どものばあい、何に対して恐怖心をいだくかによって、ふつう、次
の三つに分けて考える。

(1)人(集団)恐怖症……子ども、とくに幼児のばあい、新しい人の出会いや環境に、ある程度
の警戒心をもつことは、むしろ正常な反応とみる。知恵の発達がおくれぎみの子どもや、注意
力が欠如している子どもほど、周囲に対して、無警戒、無頓着で、はじめて行ったような場所で
も、わがもの顔で騒いだりする。

が、反対にその警戒心が、一定の限度を超えると、人前に出ると、声が出なくなる(失語症)、
顔が赤くなる(赤面症)、冷や汗をかく、幼稚園や学校がこわくて行けなくなる(学校恐怖症)な
どの症状が表れる。さらに症状がこじれると、外出できない、人と会えない、人と話せないなど
の症状が表れることもある。

(2)場面恐怖症……その場面になると、極度の緊張状態になることをいう。エレベーターに乗
れない(閉所恐怖症)、鉄棒に登れない(高所恐怖症)などがある。これはある子ども(小一男
児)のケースだが、毎朝学校へ行く時刻になると、いつもメソメソし始めるという。親から相談が
あったので調べてみると、原因はどうやら学校へ行くとちゅうにある、トンネルらしいということ
がわかった。

その子どもは閉所恐怖症だった。実は私も子どものころ、暗いトイレでは用を足すことができな
かった。それと関係があるかどうかは知らないが、今でも窮屈なトンネルなどに入ったりする
と、ぞっとするような恐怖感を覚える。

(3)そのほかの恐怖症……動物や虫をこわがる(動物恐怖症)、死や幽霊、お化けをこわが
る、先のとがったものをこわがる(先端恐怖症)などもある。何かのお面をかぶって見せただけ
で、ワーッと泣き出す「お面恐怖症」の子どもは、一五人に一人はいる(年中児)。

ただ子どものばあい、恐怖症といってもばくぜんとしたものであり、問いただしてもなかなか原
因がわからないことが多い。また症状も、そのとき出るというよりも、その前後に出ることが多
い。

これも私のことだが、私は三〇歳になる少し前、羽田空港で飛行機事故を経験した。そのため
それ以来、ひどい飛行機恐怖症になってしまった。何とか飛行機には乗ることはできるが、い
つも現地ではひどい不眠症になってしまう。「生きて帰れるだろうか」という不安が不眠症の原
因になる。

また一度恐怖症になると、その恐怖症はそのつど姿を変えていろいろな症状となって表れる。
高所恐怖症になったり、閉所恐怖症になったりする。脳の中にそういう回路(パターン)ができ
るためと考えるとわかりやすい。私のケースでは、幼いころの閉所恐怖症が飛行機恐怖症に
なり、そして今回の自動車恐怖症となったと考えられる。

●忘れるのが一番

 子ども自身の力でコントロールできないから、恐怖症という。そのため説教したり、叱っても意
味がない。一般に「心」の問題は、一年単位、二年単位で考える。子どもの立場で、子どもの
視点で、子どもの心を考える。無理な誘導や強引な押しつけは、タブー。

無理をすればするほど、逆効果。ますます子どもはものごとをこわがるようになる。いわば心
が熱を出したと思い、できるだけそのことを忘れさせるようにする。症状だけをみると、神経症
と区別がつきにくい。私のときも、その事故から数日間は、車の速度が五〇キロ前後を超える
と、目が回るような状態になってしまった。「気のせいだ」とはわかっていても、あとで見ると、手
のひらがびっしょりと汗をかいていた。

が、少しずつ自分をスピードに慣れさせ、何度も自分に、「こわくない」と言いきかせることで、
克服することができた。いや、今でもときどき、あのときの模様を思い出すと、夜中でも興奮状
態になってしまう。恐怖症というのはそういうもので、自分の理性や道理ではどうにもならない。
そういう前提で、子どもの恐怖症には対処する。

(付記)
●不登校と怠学

不登校は広い意味で、恐怖症(対人恐怖症など)の一つと考えられているが、恐怖症とは区別
する。この不登校のうち、行為障害に近い不登校を怠学という。うつ病の一つと考える学者も
いる。不安障害(不安神経症)が、その根底にあって、不登校の原因となると考えるとわかりや
すい。


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

●マナー

 岐阜県の長良川といえば、清流中の清流として、知られている。その長良川の支流に、板取
川という、これまた美しい川がある。

 その板取川のほとりに住む、H氏がこう言った。

 「夏になると、板取川の周辺は、ゴミの山になる」と。ビニールシートや雑多なゴミだけではな
い。今では、バーベキューコンロさえ、みな、捨てていくという。私が、「どうして?」と聞くと、「持
ち帰っても、しまう場所がないのではないか……」とのこと。

 以前、夏が終わると、川の周辺は、人の糞だらけになるという話を書いた。捨てたティッシュ
ペーパーが、無数に咲いた白い花のようになるという話である。しかしそれ以上のキャンパー
たちは、それを川の中でする。だから雨量の少ない年には、あの板取川ですら、汚水の川のよ
うになる。

 岩場に何か、べっとりとくっついているので見てみたら、人の糞だった……という話は、よく聞
く。

 ただ最近は、公営のトイレもでき、キャンプできる場所も限定するようになってきている。その
ため以前よりは、よくなったとのこと。しかしそれで、問題が解決したわけではない。

 ゲリラ的にやってきたキャンパーたちが、相も変わらず、川を汚す。川の周辺を汚す。

 私も最近、その板取川へ行ってきたが、板取川の下流のM市あたりまでくると、無数のビニ
ールシートが、川沿いの木々にひかかって、まるで旗のようになって、連なっていた。H氏の住
む、旧武儀群板取村のほうには、それがなかったのは、多分、村の人たちが、総出で、清掃作
業をしているためではないか。

 ともかくも、都会人たちよ、無責任な行動は、慎もうではないか! 自分たちの出したゴミをも
って帰るくらいのマナーは、守ろうではないか! これからその季節になるので、あえて一言、
あの板取川を愛する者の1人として、ここで提言してみたかった。


●小寒い朝

 昨日は一日中、雨。低気圧が、このあたりを通過した。で、今は、寒冷前線が、このあたりに
停滞しているらしい。小寒い。

 先ほどから、パソコンのウィルスチェックをしている。その間、ぼんやりと、目を閉じて、時を
待つ。肌をなでる湿気を帯びた冷気。

 肌というのは、おもしろいもの。その冷気を通して、昔、同じような冷気を感じた日々を思い出
す。「同じような冷気を感じたことがあるぞ」という思いが、過去の、ある時の思い出へとつなが
っていく。

 まず思い浮かんだのが、ボブの家のベッドの上。時期は忘れたが、遠くに、ボブの両親が住
む、家が見える。私は、ベッドの上で、毛布にくるまって、寒さをしのいでいる。遠い昔のことだ
が、肌が、タイムトンネルのように、今と、その時をつなぐ。

 うつろな頭。まだ眠い。たった今、コタツに電源を入れた。とたん、睡魔。どうやらウィルスチェ
ックは、終わったようだ。ウィルスの感染は、なし。頭を振って、パソコンの画面に向かって、文
字を打ちこむ。今日も、始まった。

 06年5月8日。長い連休が、終わった。今日から、仕事、再開! がんばろう!

(ウィルス感染防止の大鉄則)

 あやしげなメール、「?」なメールは、即、削除、また削除。迷わず、削除。容赦なく、削除。あ
やしげなサイト、「?」なサイトは、絶対に開かない。見ない。それにまさるウィルス感染防止策
は、ない。


●忙しすぎる教師たち

++++++++++++++++

学校の先生は、いそがしい。
本当に、いそがしい。
かわいそうなくらい、いそがしい。

++++++++++++++++

 子ども相手の仕事が、いかにたいへんなものかは、経験したものでないと、わからない。たと
えば私の三男は、学生時代、夏になると毎年、サマーキャンプの手伝いをしていた。自分自身
が世話になったということもある。

 しかしその三男いわく、「先生なんて、こりごり」と。

 好き好きや、向き、不向きもあるのだろう。しかし相手が、小学生や中学生ならまだよい。幼
児ともなると、大のおとなでも、数時間が限度。いくら子どもが好きといっても、そこには限度が
ある。

 05年6月に文科省は、こんな発表をした。「義務教育に関する意識調査」というのが、それだ
が、それによると、

 公立小中学校の年間授業時間数をふやすことについて、保護者の67%が賛成したのにた
いして、教員は、36・3%にすぎなかった。

 放課後や、土日に補習授業を行うことについては、保護者の61・4%が賛成したのにたいし
て、教員は、13・8%が賛成。59・5%が反対した。「もう、これ以上、負担をかけないでく
れ!」という教師の本音が、こうした数字に表れている。

 そうでなくても、教師はいそがしい。そのいそがしい上での、さらなる負担である。ある女性教
師(40歳くらい)は、こう言った。「授業中だけが、体を休める時間です」と。

 そこで今、教職を、さらに専門職化しようという動きが出てきた。教師の仕事は、教育である
という考えに基づく。「教師教育を学部段階から、大学院段階へと引きあげるべき」と主張する
意見もある。

 しかしそれにはひとつの条件がある。つまり雑務からの解放である。

 現在のように、雑務、雑務の連続の中では、いくら教師の質をあげても、それこそ、宝のもち
腐れ。絹のハンカチで鼻をかんで捨てるようなことになってしまう。教師が「教育」という、本来
の仕事に立ち戻れるよう、当然のことながら、人、モノ、金の充実が図らなければならない。
が、それだけでも、足りない。

 父母がもつ、学校への依存性の問題がある。それはもう、神話的とさえ言ってもよい。だから
「神話的依存性」。ほとんどの父母は、子どもの世界で何か問題が起きると、すぐ「学校で…
…」と考える。こうした安易な依存性が、その一方で、教師の雑務をふやす。

 今では、自分の子どもが家出したりすると、父母たちは、まず担任の教師に電話をする。助
けを求める。自分たちでさがしまわる前に、そうする。だからますます教師は、いそがしくなる。

 ある教師を夫にもつ女性(35歳)は、こう言った。「昨夜も、家出した女の子をさがして、夫
は、深夜2時ごろまで、街の中を歩いていました」と。

 こんな状態で、すぐれた教育など、期待するほうがおかしい。つまりは父母の意識改革も、同
時に進めなければならない。参考とすべき、例がないわけではない。

 たとえばあなたが通うかかりつけの医院なり病院を、思い浮かべてみたらよい。あなたはそ
こで医師に診察をしてもらい、病気を治してもらう。しかし診察室から一歩出れば、そこであな
たと医師との関係は切れる。

 こうして医師は、自分の仕事に責任をもち、患者は、あくまでも自己の責任で、自分の健康を
管理する。

 制度的には、学校教育も、基本的には、そうであっても、何もおかしくない。学校という場は、
子どもを教育する場である。教育というのは、教育であって、より高次元な教育を意味する。家
出した娘を、親といっしょになって街の中をさがし回るような行為は、ここでいう教育ではない。

 いそがしすぎる教師たち。そういった教師の悲鳴が、今日も、私のところに届いている。そう
した教師の声を、ここで代弁してみた。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
の質 忙しすぎる教師 教員 教員の問題 義務教育に関する意識調査)


Hiroshi Hayashi++++++++++.May.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(1250)

●ゆとり教育の限界

 学校週五日制(92年)につづいて、「ゆとり教育」(96年)なるものが始まった。学習内容の3
割削減と同時に、総合的な学習も始まった(02年)。授業時間も、全体として、15%程度、削
減された(02年)。

 当初は「(勉強が)簡単になった」と喜んでいた子どもたちも、1年たち、2年たつと、それ以前
と同じ(流れ)の中に、埋没してしまった。が、それだけではない。中学生を中心として、「勉強な
んかしてもムダ」という気風すら生まれてしまった。

 このあたりの中学生でも、約60%の子どもたちは、受験勉強さえ満足にしない。「勉強でが
んばるより、部活でがんばって、推薦で、高校へ入る」と言っている。中には、「進学校なんか
に入って、勉強させられるのはいや」と言う子どもさえいる。

 もともと進学する目的などないのだから、これは当然といえば、当然である。総じてみれば、
今の子どもたちには、切羽(せっぱ)つまったというか、追いつめられた感じがない。「何がなん
でも……」という気迫をもった子どもとなると、10%もいないのではないか。あるいはもっと、少
ない。

 だから皮肉なことに、むしろ受験競争が、楽になった。少しがんばれば、だれでも、そこそこ
の中学や高校へ進学できる。大学にいたっては、定員割れしているところのほうが多い。ぜい
たくさえ言わなければ(?)、だれでも、どこかへは、入れる。

 こういう状態が、だれも、よいとは思わない。その結果だが、世界的にみても、日本の子ども
たちの学力の低下は、著しい。

 OECDが調査した「生徒の学習調達度」によれば、日本は、読解力では、2000年には、世
界ランキング、第8位だったが、2003年には、14位に。数学的応用力では、1位から6位に、
それぞれさがっている。

 PISA(学習到達度調査)や、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)でも、同じような結果
が出ている。

 つまりこうした一連の文科省による教育改革(?)が、子どもたちに、「もう勉強をしなくてもい
いよ」という、まちがったメッセージを与えてしまった。その結果が、今である。

 正直に書こう。

 能力的にふつうであれば、今の算数の教科書(「上」「下」)など、週1回の指導で、2〜3か月
で終えることができる。2時間で、20〜30ページを消化する子どももいる。もちろん計算練習
などの訓練を要する部分もあるが、とくに何かを教えるという必要は、ほとんどない。

 私の教室でも、「わからないところがあったら、もっておいで」というような指導で、じゅうぶん
である。

 それだけ教科書が、内容的にも軽くなったということ。言うなれば、これは、教科書が、平均
的な子どもを対象にして作られたものというよりは、最下位部の子どものレベルに合わせて、
(最低限、これだけの知識は必要)という観点で作られたことによる。

 だから現状として、私立中学校などでは、数学にかぎらず、英語、国語でも、教科書をほとん
ど無視して、授業を進めている(H市内)。で、その結果として、私立中学、私立高校の大学進
学率が高くなり、さらにその結果として、親の所得格差が、そのまま「格差」として、子どもの世
界にも反映されるようになってきている。

 そこで最近、ゆとり教育なるものの見直し議論が、さかんになってきた。92年以前の教育
に、もどそうという動きも見られる。しかしそれに対して、反対意見も多い。「従来型の、詰めこ
み式教育に対する反省がないまま、92年以前にもどすのはどうか」という意見である。

 どちらであるにせよ、教育というのは、常に、30年先をみて組み立てる。今、改善したからと
いって、その結果が出るのは、30年先ということになる。

 で、今、92年体制の結果が出つつある。日本が、ゆとり教育なるものを打ち出したとき、小
躍りして喜んだのが、韓国であり、中国である。「これで日本を追い抜ける」と。仮に今、92年
以前にもどしたとしても、日本の子どもたちの学力低下は、このまましばらくつづく。韓国や中
国が日本を追い越す前に、日本の教育が立ちなおればそれでよいが、すでに日本は、その韓
国にさえ、追い抜かれてしまっている。

 OECDの調査による「生徒の学習到達度」によれば、読解力においては、韓国6位、日本8
位(2000年)、韓国2位、日本14位(2003年)。数学的応用力においては、日本1位、韓国
2位(2000年)、香港1位、韓国3位、日本6位(2003年)、である。

 このままの低下傾向がつづけば、つぎの調査では、もっと悪い結果が出るはず。

 要するに、中央管制による、いわゆる文科省の(思いつき教育行政)にも、限界が見えてき
たということ。「見えてきた」というより、「限界を露呈した」と言ってもよい。日本の未来は、今の
子どもたちが作るという常識すら、わかっていない。

 教育面での行政改革、つまり教育の自由化を、日本は、さらにいっそう、進めるべきである。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
の自由化 規制緩和 行政改革 子供の学力 ゆとり教育)


**************以上、1250作まで*************※






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司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
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労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでく
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ン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん
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育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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