最前線の子育て論byはやし浩司(2)

最前線の子育て論byはやし浩司
(1100  〜  )
最前線目次 このHPのトップ はやし浩司のメインHPトップ

最前線の子育て論byはやし浩司(1100)2006年1月25日

●たばこ、1箱、1000円!

++++++++++++++++++

たばこ1箱の値段を、1000円に!

週刊文春(1・26)日号の中で、
中原H氏は、そう書いている。

ナルホド!

++++++++++++++++++

 中原H氏(山野美容G大学)の教授が、こんな興味あることを書いている。

 「日本人でいちばん多いのは、気管、気管支および肺がんです。これを防ぐのに、もっとも効
果的な方法は、禁煙です。

 たばこにより、毎年3万人ががんを発症するという報告があるほどです。

 禁煙を浸透させるには、たばこ一箱を1000円に値上げすることです。そうすれば税収が増
え、たばこ農家も増収になり、禁煙者が増えて、肺がんが減り、子どもがたばこを吸えなくな
り、医療費の削減にもなる。

 "一石五鳥"ではありませんか」と。

 大賛成!

 「欧米では、たばこ1箱は、600〜700円がふつうで、日本のように、(セブンスターは、280
円)安い国は、ありません。

 1箱あたり20円値上げしても、効果薄です」とも。

 中原氏は、さらにこんな事実があることを示している。

 「フィンランドでは、喫煙率を、76%から25%に下げた結果、肺がんは半減し、心疾患を3
分の1に減らすことができました。

 対照的に日本では、がんがこの30年間で2倍以上に増えて、死因第一になり、死因第二位
の心疾患も、10年前から増加傾向にあります。

 第三位の脳血管疾患も含めて、ワースト3は、いずれも生活習慣病と関係があります」と。

 そしてこう政府を批判している。

 「なぜ政府は、生活習慣病を防ぐ政策を積極的に推進しないのでしょうか。医療費を削減す
る方法としてはベストなのに、です」と。

 これにも大賛成!!

 が、こんな裏事情もある。

 この日本では、1970年に、医師の数は、約11万人だったのだが、04年度には、27万人
を超えた。中原H氏は、「医師を養うために、患者を増やす必要がある。そして金儲けの人間ド
ックを行うわけです」(同)とも。

 フム〜……。

 しかしはっきりとした統計があるわけではないが、ざっと見たところ、低所得の人ほど、喫煙
率が高いのではないか。つまり喫煙だけが、ゆいいつの楽しみという人も少なくない。

 そういう人にとっては、1000円はきつい。それに一度、ニコチン中毒になると、そうは簡単に
やめられない。そういう人たちは、より安い、つまり危険なたばこに手を出す可能性もある。た
とえばK国製の、密輸たばこ、とか。「覚せい剤のほうが安い……」ということにでもなったら、
それこそ、たいへん。

 と、考えても、やはり、たばこ1箱、1000円というのは、よいアイデアだと思う。政府が打ち出
している、20円程度の値上げでは、何のための値上げか、わからない。ある試算によると、た
ばこから得る国家税収よりも、たばこが原因で起こる病気にかける保険医療費のほうが、多い
そうだ。

 つまり、日本人が全員、禁煙してしまうと、それこそ医療制度そのものが、崩壊してしまう、と
いうことになりかねない(?)。そこで政府は、一方で、病人をせっこらせっこらとつくりながら、
別のところで、無駄な医療費を、これまたせっこらせっこらを、払っているということになる。

 いいのかなあ……? このままで……?

 ついでながら中原H氏は、こんなことも書いている。健康法にそのまま役立ちそうな内容なの
で、そのまま引用させてもらう。

●食堂がんを防ぐには、酒の量を減らすこと。
●大腸がんの予防には、野菜を食べること。
●虫歯を防ぐためには、フッ素を歯に塗布したり、キシリトールガムをかむこと、と。

 やはり、自分の健康は、自分で守るしかないようだ。当たり前のことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●息子たちへ

連帯保証人には、なるな! 株の信用取引はするな!

++++++++++++++++

昔、私の祖父は、いつもこう
言っていた。

「浩司、株の信用取引だけは
するなよ」と。

私は、今、息子たちに、いつも
こう言っている。

「連帯保証人には絶対、なるなよ。
それと株の信用取引だけは、
絶対、するなよ」と。

+++++++++++++++++
 
 いくら相手が親友でも、兄弟、親子でも、債務の連帯保証人にだけは、なってはいけない。連
帯保証人になるということは、その人の債務(借金)を背負うのと同じ。

 だから、どんなことがあっても、たとえそれでそれまでの人間関係が崩壊しても、絶対に、債
務の連帯保証人にだけはなってはいけない。その恐ろしさは、法科出身の私が言うのだから、
まちがいない。

 ついでに、株の信用取引だけは、絶対に、してはいけない。

 今日も、ワイフは、こんなのんきなことを口にした。

 「あのAさんのダンナね、ライブDアの株に、250万円も投資していたんだって。250万円
が、パーになってしまったんだってエ」と。

 ワイフは、「Aさんが、250万円だけ損をした」と思っているらしい。しかしその程度ですめば、
まだよいほう。もしAさんが、ライブDア株を、信用買いしていたら、へたをすれば、1000万円
単位の借金、ばあいによっては、1億円近い借金をかかえこむことになる。

 それが信用取引の恐ろしさである。

 信用取引……ご存知のかたは、もうご存知かと思う。しかし一言、説明。

 小額の証拠金を担保に、その何倍もの、株取引をすることを、信用取引という。ふつう、1株
1万円の株なら、10万円では、10株しか買えない。しかい信用取引になると、その何倍もの
株を買うことができる。わかりやすく言えば、損金が10万円になるまで、理論上は、何株でも
買える。

 株価が上昇すれば、儲けも大きいが、さがればあっという間に、その10万円は消える。がそ
のとき、そのさがった値段で株を売却できればよいが、できないときは、追証拠金(通称「追
証」)といって、追加金を取られる。つまり証拠金の不足分を、追加徴収される。

 今回のライブDア株のように、買い手がつかないまま、底なしに株価がさがると、その追証
も、ばく大な額になる。Aさんの夫がその信用取引をしていたとなると、とても250万円の損程
度ではすまなくなる。

 ワイフは、こう言った。「250万円も投資していたんだって」と。「250万円も損をした」とは言
っていない。

 私の息子たちよ、そんなわけで、株の信用取引だけはするな。儲けたときは、それに浮かれ
てムダづかいをし、損をしたときは、それこそ、身ぐるみはがされる。株は、大バクチと心得
ろ!

 もしそれでも……、というのなら、株は現物で買って、現物で売れ。株価がさがったときは、そ
のまま、何か月でも何か月でも、塩漬け。あくまでも小づかいの範囲で楽しめ。

 Sよ、Sよ、Eよ、わかったか? これがお前たちのおやじからのアドバイス!


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

【近況あれ・これ】

●投資信託

 数週間前のこと。取り引きをさせてもらっている、N証券から、こんな電話があった。「林様に
は、年間、〜10万円の手数料をいただいています。で、そういうお客様には、特別なサービス
として……」と。

 〜10万円の手数料?

 株取り引きもしているが、そんなに払ってないはず。そこで調べてみると、原因は、投資信託
(「投信」)にあることがわかった。

 投資信託では、最初の手数料だけで、3%も取られる。1年間で、運用関係の手数料が、1・
5%程度。これだけで長期国債の利回りと、ほぼ同額になる。

 考えてみれば、バカげている! が、今ごろ気がついても、遅い! 私がバカだった。


●友人の結婚式

 今度、友人が、結婚することになった。相手は、25歳年下の、超・美しい女性! 年賀状を
見て、驚いた。そして何とも言えない、(うれしさ)に包まれた。

 そこで先日、簡単な祝いの品をもって、その友人に会いに行ってきた。友人は、こぼれんば
かりの笑顔をつくって、こう言った。「林さん、結婚は、あきらめていたんですが……」と。

 言い忘れたが、その友人は、今年、50歳になる。以前から、「どうして独身なのだろう?」と
は思っていたが、「あきらめていた」という一言の中に、その友人の深い思いが、ぎっしりと詰ま
っているように感じた。

 以前よりも、若返ったような感じがした。肌もツヤツヤとしていた。

 その友人の披露宴が、3月xx日に、ある。電車で、40分ほどの、S市でするという。昨日、招
待状が届いたので、即、「出席」に丸をつけて、送りかえした。

 おめでとう。


●火葬費用は、3年分の年収

 韓国の東A日報のHPに、こんな記事が載っていた。翻訳ソフトで日本語に翻訳したような、
読みにくい日本語だった。それをここに書き改めてみる。原文は、そのあとに、添付しておく。K
国の困窮ぶりが、こんな記事を読んでも、よくわかる。

【火葬費用は、3年分の給料。その費用がなくて、夜の闇にまぎれて、土葬】

 妻のオさんは、病気で、外出すら、ままにならなかった。その妻のオさんは、死ぬ数日前か
ら、何も食べられなくなり、そのまま死んだ。自殺のようなものだった。その少し前、ガールフレ
ンドとつきあっていた息子が、「母さん、彼女が家にくるときは、どこかよそへ行っていてね」と
言われたのが、相当なショックだったようだ。

 オさんは、土葬されることになったが、墓碑も墳墓も、何もなかった。

 去年、「都市周辺の山々には、墓ばかりで、木がない」ということで、党は、土葬ではなく、火
葬にせよという指示を出した。これは首都P市でも、2004年から実施されている。2002年の
指示では、墳墓を削ってなくし、墓碑は、最大限低くしろというものだった。しかしその3年後、
今度は、土葬不可の指示が出た。C市にあった火葬の施設が、そのころ再稼動された。

 しかし費用は、K国のお金で、1人分9万ウオン(約30ドル)。納骨堂はなく、骨粉は、骨つぼ
に入れて、遺族に返される。が、少しすると、C市市内では、いろいろなうわさが出るようになっ
た。

「一度に、3人ずつ火葬する」「(団地の中で土葬するため)、ある団地では、虫が出る」と。

 老人たちは、嘆いた。「私は死ぬタイミングに恵まれていない。私は土葬してほしい」と。

土葬する方法がないわけではない。火葬は、都市部中心に行われている。車を借りて、農村
部へ死体を運び、そこで土葬してもらうという方法がある。しかしソウルー水原程度の距離で
も、10万ウオンは、払わなければならない。勤労者の月給が、2000〜300ウオンである。墓
参りもままならない。

 山林保護員に、ワイロを私、近くの山に埋葬するという方法もあるが、Cさんのところには、お
金がない。Cさんが商売をして稼ぐお金と、娘の月給の2000ウオン(約0・7ドル)だけ。あとは
配給を加えて、やっとその日暮らしをしている。

 そこで彼らは、夜の闇にまぎれて、母の死体を、土葬するしかなかった。

***************以下、原文*****************

●火葬費用は3年分の給料、費用なくて夜に闇の土葬

妻のオさんは病気で外出すらできない病者だったが、行きようとベストを尽くした。そんな妻が
数日前から全く食べず、結局死んだ。自殺と同じだった。恋人と付き合っていた息子が「母さ
ん、彼女が家へ来るときに他の家へ行ってね」という一言が、オさんには衝撃だった。 
幸いにもオさんは地面に埋まることはできた。墓碑も封墳も何もなかったが。その代わり、主
人のチェさんは、K国労働党の方針を破った。 
去年、党では、木1本ない都市周辺の山にお墓ばかりあるとして、土葬ではなく無条件、火葬
にせよという指示を下した。首都P市では2004年から実施された。 
2002年に指示された方針は、封墳を削って無くして墓碑は最大限低めよというのだった。し
かし、3年経ってまた土葬不可の指示が出されたのだ。C市に一つあった火葬の施設が再稼
動し始めたのもその理由。費用はK国のお金で9万ウォン(約30ドル)程度必要だ。納骨堂は
なくて骨粉はつぼに入れて遺族に返す。それから少し経つと、C市内にはいろんな噂が出回っ
た。 
「一度に3人ずつ火葬するんだって」「ある家では団地で虫が出るんだって」 
年寄りたちは嘆いた。「私は死ぬタイミングに恵まれてない。息子よ、私は地面に埋まりた
い」。 
方法がなくはない。まだ火葬は大都市でばかり行われているからだ。 
車を借りて農村へ行って埋蔵すれば良い。しかし、ソウル〜水原(スウォン)程度の距離も10
万ウォンはもっと払わなければならない。勤労者の平均月給が2000〜3000ウォンだ。韓食
や秋夕(チュソク・旧暦8月15日)のときのお墓参りもどうしたら良いか分からない。 
山林保護員に賄賂を渡して近くの山に埋蔵する方法がないわけではないが、Cさんのところは
お金がない。Cさんが商売をして稼ぐお金と娘の月給2000ウォン(約0.7ドル)、そして配給
を加えて、やっとその日暮らしをしている。彼らの選択は夜に闇の土葬をするしかなかった。
(06・01月26日・東A日報HPより)

++++++++++++++++++

 K国の惨状は、日本の常識では、はかり知ることができないほど、ひどいようだ。「娘の月給
の2000ウオン(約0・7ドル)」という部分だけを読んでも、それがわかる。日本円に換算する
と、たったの80円程度。月給が、である。

 ついでに一言。「母さん、彼女が家にくるときは、どこかよそへ行っていてね」と言われた母親
も、かわいそうな人だ。そういう息子にしたのも、母親の責任と言われればそれまでだが、その
とき母親が受けたショックがどんなものであったか。病弱で、息子を叱ることもできなかったの
だろう。

 この記事には、いろいろと考えさせられる。

【補足】

 貧困が長くつづくと、個人差もあるのだろうが、心まで、むしばまれる。こんな話を聞いたこと
がある。

 アメリカ人の友人が、自分の姉を、自宅へ招いたときのこと。姉は、都市部で、貧しい生活を
していた。路上生活者に近い、生活をしていたという。そこで見るに見かねて、友人は、姉を、
自宅へ招いた。

 そのとき友人は、55歳。友人の姉は、58歳だったという。

 その友人と友人の妻は、毎日、手料理を用意したが、それについて、「まずい」とか、「食べた
くない」とか言って、不満ばかり口にしたという。ベッドルームも、一番広い部屋を用意したのだ
が、それについても、「明るすぎて、眠れない」「寒い」と。

 内心では、姉をずっと引き取るつもりでいたというが、友人の妻が、先に、音(ね)をあげた。
ベッドの中で、ひとり隠れてチキンや残ったスパゲッティを食べたりしていたからである。

 それで1週間目に、姉をまたもとの場所に送りかえしたというが、驚いたのは、そのあとのこ
と。

 友人の妻の宝飾品など、無数のものが、家から消えていたという。姉が盗んでもっていったこ
とはわかったというが、友人には、何も言えなかった。「どうせ問いただしても、知らないと言う
に決まっているから」と。

 ふつうなら……という言い方は、こういうケースでは、通用しない。友人は、「よかれ」と思っ
て、姉を自宅へ招いた。しかし肝心の姉は、そうした友人の思いを、理解できなかった。すでに
(ふつうの心)そのものをなくしていた。あるいは、その姉にしてみれば、自分とはかけ離れた
生活をしている弟夫婦が、ねたましく、憎かったのかもしれない。

 「貧困による公害」という言葉もある。貧困そのものが、社会のしくみそのものを、ゆがめてし
まうこともあるという。いくら生活が貧しくても、高い文化と教養、それを追求する心を忘れてし
まったら、その人は、おしまい。その友人の話を聞いて、私はそう感じた。

 みなさん、心意気だけでもよいから、気高く生きましょう!

 私は、世界一の評論家だ!
 私は、世界一の文化人だ!
 私は、世界一の哲学者だ!
私が書く日本語は、世界一読みやすい。わかりやすい。すばらしい、と。ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(101)

●会話

のどかな朝。白い光が、まばゆいほどまでに、居間に注ぎこむ。朝食を食べたあと、コタツの
中で、新聞を読んでいたワイフが、ふと、こんなことを言った。

「福井県の丸岡町で、毎年、一筆啓上コンテストというのが、あるんだって。今年の大賞は、若
狭町の北Oという人が取ったんだってエ……」と。

大賞をとった作品は、こんなものだった。そのまま転載。

+++++++++++++++

夫へ、「今度生まれ変われるとしたら、スラッとした女らしい、出来のよい女に生まれたいわ」と
送り、夫は、「何や、今度は俺と一緒になりたないんか?」と。

+++++++++++++++

ナルホド、さすが大賞! それを聞いて、私も、一つ、作品を考えた。ぜったい、大賞、まちが
いなし。

妻へ、「お前さ、最初に俺に会ったとき、どんな印象をもったア?」と送り、妻は、「コチコチで、
かたい人だと思ったワ」と。

 それをワイフに話すと、「そんなエッチな話はだめよ。選考外よ」と言って、笑った。

 つづいてまた新聞を読んでいたワイフが、こう言った。

ワ「あら、スピードスケートの女子選手って、スカートを頭から、かぶってはくんだってエ……」
と。
私「頭から……?」
ワ「KG選手がそうよ。足が太いでしょ。だから下から、はけないそうよ。新聞にそう書いてある」

私「なるほど……。じゃあさあ、お前も、腹巻が必要になったら、ブラジャーをそのまま下にさげ
ればいい。そのまま、腹巻になる。昼はブラジャー、夜は腹巻……。これは便利だヨ」
ワ「きっと、きつくておなかが痛くなるわ」
私「そうだろうね……」と。

 ついで、今度は、お茶の話になった。

 私はある時期、ウーロン茶ばかり飲んでいた。その期間は10年ほどだろうか。しかしあると
きから、突然、そのウーロン茶が口に合わなくなった。で、ウーロン茶はやめたが、そのあと
は、いろいろなお茶を、飲むようになった。

私「ところがね、最近、とくにおいしいと思うようになったのが、あの『でるでる茶』だよ」
ワ「私は、あのお茶は、だめ。一杯飲んだだけで、おなかが痛くなって、下痢になってしまうわ」
私「ぼくは、平気だよ。そんなことはない」
ワ「フ〜ン」と。

 『でるでる茶』というのは、そのまま商品名になっている。漢方薬のセンナか何かが入ってい
る、女性の便秘薬である。

 こうしたバカ話が、とりとめなくつづく。
 1月26日。もう正月も終わりに近づいた。

 相変わらず、白い光が、居間を照らしていた。


●熟睡、安眠

++++++++++++++++

肌も呼吸している。その肌をシャツ
などで、しめつけてはいけない。

とくに、夜、フトンの中では……。

++++++++++++++++

 冬になってから、このところ、どうも寝苦しい。とくに今年の冬は寒い。そこでいつもより一枚、
薄いフトンだが、それをかけ足した。

 私は、そのせいだと思っていた。

 そのため一度、重いフトンから、軽いフトンにかえた。が、それでも変わらなかった。寝苦し
い。熟睡感が、どうもない。

 そのため、毎晩、フトンの中で、悪戦苦闘。寝苦しいから、フトンをはたく。すると、容赦なく、
冷気がフトンの中に入ってくる。体をフトンの中にもぐらせる。が、やがてまた寝苦しくなる…
…。

 が、やがて原因がわかった。

 このところ薄いシャツだが、それを2枚、重ねて着ている。その上に、トレーナーを、パジャマ
がわりに着ている。

 肌だって、肺のように、皮膚(ひふ)呼吸している。もし肌が皮膚呼吸できなくなったら、その
人は、死んでしまう。昔、体中に、何かの化粧をして、それで本当に死んでしまった人がいる。

 シャツを2枚も着て、その上に、トレーナー。その体を、3枚のフトンでくるめば、だれだって、
寝苦しくなる。

 で、昨夜、寝る前に、私はパンツ一枚になった。そして夏用のパジャマを、その上に着た。ワ
イフは、「あなたは、いつもやることが極端すぎる」と言って、笑った。が、私は気にしなかった。

 で、今朝を迎えた。で、その感想記。

 おかげで、一晩中、体をサワサワと冷たい風を感じながら、眠ることができた。しかし横でワ
イフが、寝がえりをうつたびに、同じように真冬の冷気が、スーッと全身を包む。目がさめる。あ
とは、この繰りかえし。

 フトンは、真冬でも薄ければ薄いほどよい。しかしそのためには、部屋を暖房しなければなら
ない。しかし一晩中、暖房をつけっぱなしというのも、団塊の世代の私には、抵抗がある。私た
ち、団塊の世代は、質素を旨とした生き方をする。

 それに私は、この古家のほうが、どうも落ちつく。ワイフも同じ意見。30年前に建てたボロボ
ロの古家だが、愛着がある。が、その古家は、すき間だらけ。「夏用の家だ」と、うまくごまかし
ているが、冬は、寒くてたまらない。暖房をかけても、ほとんど、効果はない。

 どうしたらよいものか?

 これからもまだまだ、悪戦苦闘はつづくようだ。

(補記)

 人生、58年も生きて、いまだに睡眠方法が確定しないというのも、おかしなことだ。いつも行
き当たりばったりの方法で対処している。が、これでは、いけない。この先の老後が心配。

 これから先、本気でこの問題に取りくんでみようと思う。何といっても、人は、そのフトンの中
で、人生の3分の1を過ごすのだから。
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●『世にも不思議な留学記』を、POD版で!

+++++++++++++++

このところ、POD、つまり、
Print on demand
(注文に応じて、印刷する出版
形式)に興味をもっている。

たまたま、まぐまぐ社から、サービス
期間ということで、割安で出版できる
と聞いて、私もさっそく、チャレンジ
してみることにした。

第1作は、『子育て一口メモ』、
そして第2作は、『世にも不思議な
留学記』。

近く、販売を開始します。
そのときは、よろしくお願いします。

で、今日は、その編集作業で、1日、
終わってしまいました。

一部を、ここに紹介します。

+++++++++++++++

《はじめに……》

この『世にも不思議な留学記』は、中日新聞(東海版)に、8回にわたって連載されたあと、 金
沢学生新聞に、32回にわたって連載されたものです。私のホームページでも紹介している原
稿ですが、それを、加筆、編集しなおして、冊子として、みなさんにお届けします。

なおもともと新聞連載ということで書いた原稿なので、一部、内容的にダブっている部分があり
ますが、ご理解の上、ご容赦ください。

全編が、私の自己紹介のような冊子ですから、私の略歴などは、省略させていただきます。ま
た、この『留学記』は、当時の日記をもとに、最大限、事実のみを書きましたが、部分的に思い
違いや、まちがいがあるかもしれません。その点をお含みおきの上、お読みいただければ、幸
いです。

金沢大学のみなさんには、ほぼ4年にわたって愛読していただき、心から感謝しています。長
い間、ありがとうございました。

                    二〇〇六年一月
                                     はやし浩司


(目次)

【1】  隣人は西ジャワの王子だった
【2】  イソロクはアジアの英雄だった
【3】  自由の国、オーストラリア
【4】  自由とは裸になること
【5】  ゲテモノ食い
【6】  アン王女がやってくる! 
【7】  反日感情
【8】  オーストラリアの気候
【9】  モラトリアム
【10】 カレッジライフ
【11】 王子の悩み
【12】 処刑になったT君
【13】 白豪主義の国に、日本の旗が立った
【14】 日本の全体主義
【15】 最高の教育とは
【16】 英語と日本語
【17】 ルイス・アレキサンドリア
【18】 男尊女卑の日本人
【19】 非日常的な日常
【20】 人種差別と国際性 
【21】 徹底したエリート教育
【22】 ローンの新年 
【23】 日本の因習、そしてY子
【24】 性能は膨張率と硬度で決まる
【25】 日本の常識、世界の常識
【26】 たった一匹のネズミを求めて
【27】 王子、皇太子の中で
【28】 ベトナム戦争
【29】 不思議に思ったのが不思議
【30】 意識の変化、そして自己否定
【31】 豊かな生活、そして帰国
【最終回】ビートルズの歌で終わった青春時代

【エピローグ】金沢大学の学生の皆さんへ
 
【1】隣人は西ジャワの王子だった

●世話人は正田英三郎氏

 私は幸運にも、オーストラリアのメルボルン大学というところで、大学を卒業したあと、研究生
活を送ることができた。

 世話人になってくださったのが故・正田英三郎氏。皇后陛下の父君である。

 おかげで私は、とんでもない世界(?)に足を踏み入れてしまった。私の寝泊りした、インター
ナショナルハウスは、各国の皇族や王族の子息ばかり。西ジャワの王子やモーリシャスの皇
太子、ナイジェリアの王族の息子に、マレーシアの大蔵大臣の息子など。ベネズエラの石油王
の息子もいた。

 「あんたの国の文字で、何か書いてくれ」と頼んだとき、西ジャワの王子はこう言った。「インド
ネシア語か、それとも、ぼくの家族の文字か」と。

 「ぼくの家族の文字」というのには、驚いた。王族には王族しか使わない文字というものがあ
った。また「マレーシアのお札には、ぜんぶうちのおやじのサインがある」と聞かされたときに
も、驚いた。一人、名前は出せないが、香港マフィアの親分の息子もいた。「ピンキーとキラー
ズ」(当時の人気歌手)が香港で公演したときの写真を見せ、「横に立っているのが兄だ」と言
って、得意そうに笑った。

 今度は私の番。「おまえのおやじは、何をしているか」と聞かれた。そこで「自転車屋だ」とい
うと、「日本で一番大きい自転車屋か」と。私が「いや、田舎の自転車屋だ」というと、「ビルは何
階建てか」「車は、何台もっているか」「従業員の数は何人か」と。

●マダム・ガンジーもやってきた

 そんなわけで世界各国から要人がメルボルンへ来ると、たいてい私たちのハウスへやってき
ては、夕食を共にし、スピーチをして帰った。よど号ハイジャック事件で、K国に渡った山村運
輸政務次官が、井口領事に連れられてやってきたこともある。

 山村氏は、あの事件のあと、休暇をとって、メルボルンに来ていた。その前年にはマダム・ガ
ンジーも来たし、『サー』の称号をもつ人物も、毎週のようにやってきた。インドネシアの海軍が
来たときには、上級将校たちがバスを連ねて、西ジャワの王子のところへ、あいさつに来た。
そのときは私は彼と並んで、最敬礼する兵隊の前を歩かされた。

 また韓国の金外務大臣が来たときには、「大臣が不愉快に思うといけないから」という理由
で、私は席をはずすように言われた。当時はまだ、そういう時代だった。変わった人物では、ト
ロイ・ドナヒューという映画スターも来て、一週間ほど寝食をともにしていったこともある。『ルー
ト66』という映画に出ていたが、今では知っている人も少ない。

 そうそう、こんなこともあった。たまたまミス・ユニバースの一行が、開催国のアルゼンチンか
らの帰り道、私たちのハウスへやってきた。そしてダンスパーティをしたのだが、ある国の王子
が、日本代表の、ジュンコという女性に、一目惚れしてしまった。で、彼のためにラブレターを書
いてやったのだが、そのお礼にと、彼が彼の国のミス代表を、私にくれた。

 「くれた」という言い方もへんだが、そういうような、やり方だった。その国では、彼にさからう
人間など、誰もいない。さからえない。おかげで私は、オーストラリアへ着いてからすぐに、すば
らしい女性とデートすることができた。そんなことはどうでもよいが、そのときのジュンコという女
性は、後に大橋巨泉というタレントと結婚したと聞いている。

 ……今、こんな話をしても、誰も「ホラ」だと思うらしい。私もそう思われるのがいやで、めった
にこの話はしない。が、私の世にも不思議な留学時代は、こうして始まった。一九七〇年の
春。そのころ日本の大阪では、万博が始まろうとしていた。


+++++++++++++++++++++

【6】アン王女がやってくる! 

●セントヒルダでのダンスパーティ
 
 暑さがやわらいだある日。ビッグニュースが、ハウスを襲った。
 
エリザベス女王が、アン王女を連れて、メルボルンへやってくるというのだ。しかもアン王女が、
セントヒルダ(女子)カレッジで、ダンスパーティをするという。

 オーストラリアの学生たちは、「ぼくが、アンをものする」と、それぞれが勝手なことを言い始
めた。アン王女はそのときハイティーン。美しさの絶頂期にあった。

 しかし、そのうち、セントヒルダへ行けるのは、限られた人数であることがわかってきた。今度
は、誰が行けるか、その話題でもちきりになった。が、結局は、行けるのは、王族や皇族関係
者ということになってきた。

 私にも寮長のディミック氏から打診があったが、断るしかなかった。だいたいにおいて、ダン
スなど知らない。一度、サウンド・オブ・ミュージックという映画の中で、その種のダンスを見たこ
とがあるだけだ。それに衣装がなかった。

 それまでもたびたびハウスの中で、夜会(ディナーパーティ)はあったが、私は、いつも日本の
学生服を着て出席していた。日本を離れるとき、母が郷里の仕立て屋でスーツを作ってくれた
が、オーストラリアでは、着られなかった。日本のスーツは、何と表現したらよいのか、あれは
スーツではない。毛布でつくったズタ袋のような感じがした。

 その日の午後。選ばれた学生は、うきうきしていた。タキシードに蝶ネクタイ、向こうではボウ
タイと呼んでいたが、それをしめたりはずしたりして、はしゃいでいた。五、六人の留学生に、同
じ数のオーストラリア人の学生。

 留学生はともかくも、オーストラリア人の学生は、皆、背が高くハンサムだった。体をクルクル
と丸めてあいさつをする、あの独特のあいさつのし方を、コモンルームで何度も練習していた。

「王女妃殿下様、お会いできて、光栄に存じます」とか。人選からはずされた連中は連中で、
「種馬どもめ」と、わざと新聞で顔を隠して、それを無視していた。

 そのとき仲のよかったボブが、横から声をかけてくれた。

「ヒロシ、お前は行くべきだ。イギリスなど、日本の経済協力がなければ、明日にでも破産する」
「ああ、しかしぼくには、あんな服がない……」
「服? ああ、あれね。あれは全部、貸衣装だ。知らなかったのか。コリンズ通りへ行けば、いく
らでも借りられる」
「貸衣装?」
「そうだ。今度、案内するよ」
「ああ、君の親切に感謝する」と。

●そしてエリザベス女王は帰った……

 夜になって、ローヤルパレードの通りを歩いてみた。いつものように静かだった。特に変わっ
たことはなかった。行きつけのノートン酒場も、ふだんのままだった。いつもの仲間が、いつも
のようにビールを飲んでいた。

 途中、セントヒルダカレッジのほうを見ると、カレッジ全体に、無数のライトがついていた。そ
れがちょうどクリスマスツリーのように輝いていた。私はそれを見ると、何か悪いことをしたかの
ように感じて、その場を、そそくさと離れた。

 その翌日の夕方。エリザベス女王とアン王女は、メルボルンを離れた。カレッジから少し離れ
たミルクバーのある通りが、その帰り道になっていた。私たちはその時刻に、女王が通り過ぎ
るのを待った。

 夕暮れがあたりを包んでいた。暗くはないが、顔がはっきり見える時刻でもなかった。女王は
大きなオープンカーに乗って、あっという間に、通り過ぎていった。本当に瞬間だった。と、同時
に、女王の話も、アン王女の話も、ハウスから消えた。


+++++++++++++++++++++

《終わりに……》

 はやし浩司です。浩司は、「ひろし」と読みます。昭和二二年生まれ。戦後第一号の、団塊の
世代です。

 この『世にも不思議な留学記』は、私がもっとも大切にしている原稿です。短い留学記です
が、この中に、私の青春というより、私の命のすべてが凝縮されています。そんな思いを、この
本を通して、皆さんにお伝えできれば、こんなうれしいことはありません。

 なお本書の中で、田丸謙二先生(現在、鎌倉にて、ご健在中)、大橋巨泉様、ほかに登場す
る友人の方など、実名をそのまま使わせていただきました。本書の趣旨をご理解の上、どう
か、お許しください。 

                                   はやし浩司


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

●ロバート・デニーロの『タクシー・ドライバー』

+++++++++++++++++

ロバート・デニーロ主演の、『タクシー・ドライバー』を
見る。

それには、フカ〜イ、理由がある。……あった。

+++++++++++++++++

 私が今、着ているジャンパーには、大きなワッペンがついている。左側の腕のところで、それ
には、こう書いてある。「King Kong Company」と。中央に、ゴリラの絵が描いてある。

 それだけではない。

 右胸には、アメリカ海軍(海兵隊)の紋章。そして背中には、「BICKLE. T」と買いてある。

 そのワッペンを見ながら、生徒たちが私によく聞く。「どうしてゴリラの絵が描いてあるの?」
と。

 しかし私にもわからない。「キング・コング会社」という会社のワッペンにしては、少し、おかし
い。で、適当に、「これは動物園の人が着るジャンパーだよ」とか、「先生は、ゴリラだ」とか、言
っていた。そのジャンパーは、私のお気に入り。小さな虫の食った穴が、2、3か所ある。が、見
た目には、わからない。

 もともとは、長男が着ていたものだが、私が譲り受けた。……というより、「小さくて着られなく
なった」というような雰囲気で、戸棚につってあったので、そのまま私が勝手に着始めた。

 で、いつの間にか、私のものになった。が、着心地は、あまりよくなかった。長男に、いつ、
「返せ」と言われるか、ハラハラしていた。

 ところが、である。

 今日の朝、長男が、私が着ているジャンパーを見て、こう言った。

「パパねえ、そのジャンパーね……」と。

 瞬間、ドキッとした。が、長男は、こうつづけた。

「そのジャンパーね、ロバート・デニーロが着ていたものだよ」と。

 瞬間、そのドキッが、別のドキッに変わった。

私「何だって?」
長「知らなかったの?」
私「知らない……。本当か?」
長「タクシー・ドライバーという映画の中で、ロバート・デニーロが着ていたジャンパーだよ。限り
なく本物に似せた、ニセモノだけどね」と。

 というわけで、さっそく、私は、『タクシー・ドライバー』を見ることにした。が、古い映画である。
近くのビデオショップへ行ってみた。が、どこにあるか、わからなかった。店員に聞いていると、
横に立っていた男性(40歳くらい)が、「ここにありますよ」と教えてくれた。

 見ると、一番下の段に、あった。

 『タクシー・ドライバー』……どこか暗い、ドライバー。人生のどん底を、はうように生きている
男の物語。が、それでもその男は、生きがいをどこかに求めている。

 最初は、選挙運動事務所の女性に恋をする。つづいて、若い娼婦の救出をめざす。ロバー
ト・デニーロと共演する若い女性は、あのジュディ・フォスター。彼女の初々(ういうい)しさが美
しい。

 ……というわけで、映画の話は、どうでもよい。私が着ているジャンパーが、同じかどうかが、
問題。そこで最初から最後まで、『タクシー・ドライバー』を見る。

 で、その結果だが、答えは、YES! 同じだった。テレビの画面上の色とは、多少違っていた
が、それは、テレビのほうに問題があったためかもしれない。同じジャンパーが画面に出るた
びに、そのジャンパーを見ながら、ほほう、ほほう、と、私はうなずいた。

 ……ということで、この話は、おしまい。今度から生徒たちが、「どうしてゴリラの絵が描いて
あるの?」と聞いたら、こう言ってやるつもり。

 「これはね、ロバート・デニーロが、『タクシー・ドライバー』という映画の中で着た、ジャンパー
だよ。知らなかったの?」と。

 さぞかし気持ちのよいことだろう。ハハハ。ただしその映画は、子どもが見るような映画では
ない。念のため。

 なお「company」というのは、陸軍の中隊を意味する。長男の話では、「King Kong Com
pany」というのは、キング・コング戦車部隊のことだそうだ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(102)

●A外務大臣

++++++++++++++++++

A外務大臣が、靖国神社参拝問題に関連し、
「天皇陛下による参拝が一番だ」と述べた
という。

「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば
言うだけ、行かざるを得なくなる。

『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、
吸いたくなるのと同じ。

黙っているのが、一番』と、も。
(中日新聞・1・29)

++++++++++++++++++

 A外務大臣は、こう述べたという。

 「(靖国神社に)まつられている英霊の方からしてみれば、天皇陛下のために『万歳』と言った
のであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです。だったら、天皇陛下の参拝、それが一番」
「天皇陛下による参拝が一番だ」と。

 この発言には、いくつかの重大な問題が隠されている。それらを順に考えてみたい。

(1)天皇は、外務大臣のあやつり人形なのか?

 この発言を聞いて、一番驚いているのが、天皇自身ではないのか。A外務大臣が、天皇の意
思や意向を聞いた上で、こうした発言をしたのなら、まだわかる。しかしそういったプロセスを、
何も経ないで、いきなり「天皇陛下による参拝が一番だ」とは!

 もしあなたが天皇なら、何と答えるだろうか。どう考えるだろうか。あるいはもっと卑近な例で
考えてみよう。もしだれかがあなたに、「子育ての最中にあるのだから、あなたに、菅原道真
(すがわらのみちざね)の神社を参拝してもらいます。それが一番だ」と言ったら、あなたは、ど
う答えるだろうか。

 天皇の内心のことは、私にもわからない。しかし天皇のほうから、そういった希望でも出され
ているのなら、まだしも、そういった希望を確認しないまま、外務大臣(ごとき)が、そういう発言
をすることは、許されない。少なくともそういった天皇自身の希望は、外の世界の私たちには、
届いていない。

(2)天皇の戦争責任を追及した言葉にならないのか?

「天皇陛下のために『万歳』と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです」という
発言は、そのまま、天皇に対する戦争責任を追及した言葉になってしまう。自民党政権として
は、絶対に容認できない発言のはず。わかっていても、それを口にしたら、おしまい……という
のが、この発言である。それを、A外務大臣は、公(おおやけ)の場で、堂々と口にしてしまっ
た。

 A外務大臣のみならず、K首相は、この発言に対して、どう責任を取るつもりなのだろう? 
軽率といえば、軽率。

 私が知るかぎり、戦場の日本兵たちは、多くは、最後は、「お母さん!」とか、「お父さん!」と
か言って死んでいったという。「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった兵隊は、少なかっ
たという。

 が、それでも「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった、日本兵がいなかったわけでは
ないだろうと思う。が、そのことには、歴代の戦後政権は、あえて触れないで、今までやってき
た。もしそれが事実と認めてしまうと、その戦争責任は、まっすぐ、天皇に向かってしまう。

(3)『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ、とは?

 人格の完成度は、自己管理能力などによって決まる。自己管理能力のある人を、人格の完
成度の高い人という。

 が、A外務大臣は、「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば言うだけ、行かざるを得なくなる。
『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ」(中日新聞)と。

 新聞記事なので、不正確かもしれない。しかし「『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたく
なるのと同じ」という日本語は、正しくない。正しくは、「『たばこを吸うな、吸うな』と言われると、
かえって吸いたくなるのと同じ」である。

 それはともかくも、この自己管理能力のなさこそが、問題である。私やあなたのような凡人で
はない。外務大臣という、日本を代表する人物である。そういう人物が、自己管理能力のなさ
を、やはり堂々と自ら公表している。このおかしさ。この奇怪さ。

 しかも、中国や韓国に対して、「黙っているのが、一番!」とは! わかりやすく言えば、A外
務大臣は、中国や韓国に対して、「ごちゃごちゃ言わずに、黙っていろ」と発言したに等しい。こ
のごう慢さ。この高慢さ。

 おかげでこれから先、しばらく、日中関係、日韓関係は、ますます冷えこむことになるだろう。
私の知ったことではないが、しかし、外務大臣ともあろう大臣が、率先して、近隣諸国との関係
を悪化させるとは! 私も、ここまで日本の政治家たちの知的レベルが低いとは、思ってもみ
なかった。

(3)靖国神社参拝問題

 「英霊」「英霊」と言うくらいなら、今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲリラ戦でも、
何でも、しかけたらよい。それが「英霊」の意思を尊重する、もっともわかりやすい方法である。
先の戦争では、300万人以上もの日本人が死んでいる。しかもその大半は、アメリカ軍を中心
とする連合軍によって殺されている。

 しかしA外務大臣ですら、ひょっとしたら、英霊意識など、どこにもないのではないか。「英霊」
ということにしておかないと、まずいから、そう言っているだけではないのか。もっとわかりやすく
言えば、あの戦争は、勝ち目のない、愚かな戦争だった。

 あの戦争では、多くの日本人がだまされ、(だまされたのだぞ!)、戦場に駆り出され、そして
その犠牲者となっていった。つまり「英霊」という言葉は、当時の軍部たちが、自分たちの責任
を覆い隠すために使った言葉にすぎない。「英霊」と祭りあげることによって、「戦争を起こした
のは、国民であって、政府ではない」という形をつくった。つまり責任を国民に、押しつけた!

 それを今になってもち出して、あの戦争を肯定することは、許されない。中には、「あのとき戦
争をしなかったら、日本は、欧米諸国の植民地になっていた」と説く人もいる。「ソ連の進攻を
食い止めるために、日本軍は中国で戦った」と説く人もいる。

 なら、百歩譲って、もしそうなら、戦後の今の日本は、何かということになる。GHQによって、
完全に占領され、アメリカの植民地以上の植民地になってしまった。だから私はまた同じことを
言う。

 「今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲリラ戦でも、何でも、しかけたらよいのでは
ないか」と。A外務大臣、あなたがまず、その見本を見せてほしい。

 ……と、どうも、この問題を考えていくと、頭の中が混乱してくる。わけがわからなくなってく
る。みなが、何かをごまかすために、あるいは何かを隠すために、ものごとを遠巻きに議論し
ている。そんな感じさえする。

 あえて言うなら、今の皇太子妃の例を見てもわかるように、「天皇」「天皇」と、何もかも、その
負担を、天皇家に押しつけないことこそ大切ではないのか。「天皇だってふつうの人間」という
部分をねじまげて、あれこれと議論するから、話がおかしくなる。これ以上、天皇や天皇家の
人々を苦しめて、どうする。今度のA外務大臣の発言の底流には、そんな問題も隠されてい
る。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●依存性の強い子ども

++++++++++++++++

千葉県のAさんより、
こんな相談が届いています。
掲載許可をいただいていますので、
この問題を少し考えてみます。

(Aさんへ……xxxxx@ybb.ne.jp
のメールアドレスがまちがっているためか、
何度も返信を試してみたのですが、
宛て先不明で送り返されて
きました。で、こうして楽天の
日記のほうに、返事を書いて
おきます。ご了解下さい。)

++++++++++++++++

【Aよりはやし浩司へ……】

はじめまして。3か月ほど前より、先生のホームページなどを愛読しています。
4歳6か月の長男について相談します。

長男は優しく思いやりがあり、弟のことも大好きで、大切にしてくれています。ウルトラマンが大
好きで、ウルトラマンみたいになりたいと、毎日戦いごっこや、習っている空手の練習をしてい
ます。

ここ3か月ほどで、少しずつたくましくなっているようです。

2歳ごろまで体が弱く、何回も入院しました。また、初めての育児だったので、私は神経質な心
配先行型の子育てをしていたように思います。

人見知りがひどかったのですが、人なつっこい子になりました。こだわりの強さも消えたように
思います。よい変化がみえますが、依然、とても依存心が強いのです。

この依存心の強さをこれから減らすことはできるでしょうか?
友達と遊ぶのは大好きですが、この年齢にもなったにもかかわらず、つるみたがります。「しつ
こいなあ」と思うこともしばしばです。

3つ子のたましい・・というのですが、先生が書かれていた移行期でもあります。何かよいアドバ
イスがあれば、教えていただきたくメールいたしました。

  ここ数か月先生のホームページなどを参考に、こどもへの対応を変えてきたところ、子ども
がよい方向へと変化してきました。どうもありがとうございます。育児とはやはり楽しいし、幸せ
だけど、むずかしくもありますね。(千葉県・A子、母親より)

【はやし浩司よりAさんへ……】

 多分に赤ちゃんがえりの症状が見られます。表面的な様子とは別に、心はいつも緊張状態
にあると考えて対処します。子どものばあい、(おとなもそうですが……)、嫉妬がからむと、心
はかなりゆがみます。

 赤ちゃんぽくなったりすることから、「赤ちゃんがえり」と言いますが、そのほか、攻撃的になっ
たり、服従的になったり、同情を買うようになったりします。依存性が強くなるのも、その1つで
す。(最近、ものの考え方が、破滅的になった子どもの例を知りました。)

 加えて、乳幼児期の、心配先行型の育児姿勢が、子どもに依存性をもたせてしまったのかも
しれません。手のかけすぎから、慢性的な過保護状態になったとも考えられます。

 しかしわざわざ相談のメールをくださったということから、Aさんには、お子さんの(依存性)
が、もっともよく目だつのかもしれません。で、もしそうなら、私は、やはり「赤ちゃんがえり」の、
一様態ではないかと思います。

 こういうケースのばあいは、いくつか鉄則があります。

(1)求めてきたときが与えどき

 子どもが何か、スキンシップのようなものを求めてきたら、すかさず、いとわず、さっと与える
ようにします。間をおくとよくありません。「あとでね……」とか、「今は、忙しいのよ……」などと
いうのも禁句です。さっと応じてあげます。ぐいと抱くだけでも効果的です。たいてい1〜2分
で、子どもは満足して、親から体をはずそうとします。コツは、子どもに安心感を与えるようにす
ることです。

 あまりひどいようであれば、下の子には悪いですが、もう一度、100%の愛情を、上の子に
向けます。

(2)スキンシップを濃厚に

 機会を見つけて、スキンシップを濃厚に与えます。ベタベタなスキンシップがよいわけではあ
りません。ぐいと力強く抱くとか、そういうことでよいのです。ポイント的に与えるのが、コツで
す。もし赤ちゃんがえりによる依存性なら、「なおす」ということは考えず、「時期を待つ」という方
法に切りかえるほうが、無難です。時期がくれば、自然と消えていくからです。ここで無理をす
ると、かえって症状をこじらせてしまいます。情緒を不安定にしたり、精神そのものをゆがめる
こともあります。赤ちゃんがえりを、決して、軽く考えてはいけません。

(3)食生活を調整する

 「情緒が不安定かな?」と感じたら、CA、MG、Kの多い食生活に切りかえます。わかりやすく
言えば、海産物を中心とした献立に切りかえます。白砂糖の多い、甘い食品や、リン酸が含ま
れた食品は、避けます。

 Aさんが、「しつこいなあ」と言われるほどですから、かなりしつこいのだろうと思いますが、し
かし決して短気を起こしてはいけません。お子さんはお子さんなりに、安心感を求めるために、
そういう行動に出ているのです。が、Aさんの微妙な心を、敏感に読み取って、心のどこかで不
安感を覚えているのです。

 ですから対処のし方をまちがえると、症状はこじれ、思わぬほうに、ことが進んでしまうかもし
れません。なお、「弟が大好きで……」という部分が気になります。そんなはずは、ないからで
す。心理学の世界にも、「反動形成」という言葉があります。少しだけ、注意して観察してみてく
ださい。ひょっとしたら、お子さんは、無意識のうちにも、仮面をかぶっているのかもしれませ
ん。

 反動形成についての原稿を、添付しておきます。

++++++++++++++++

【反動感情】

●反動感情

 人は、ときとして、本当の自分の心を隠し、それと正反対の感情をもつことがある。私は、こ
れを勝手に「反動感情」と呼んでいる。

心理学の世界には、「反動形成」という言葉がある。反動形成というのは、自分の心を抑圧す
ると、その反動から、正反対の自分を演ずるようになることをいう。

たとえば性的興味を押し殺したような人は、他方で、人前では、まったく性には関心がないよう
に振るまうのが、それ。性に対して、ある種の罪悪感をもった人が、そうなりやすい。たとえば
牧師や教師など。ほかに、たとえば神経質な人が、外の世界では、おおらかな人間のフリをす
るのも、それ。よく知られた例としては、上の子どもが、下の子どもに対して、思いやりのある、
やさしい兄(姉)を演ずるのがある。その反動形成に似ているから、「反動感情」とした。

●Aさんのケース

 私がAさん(三四歳女性、当時)に会ったのは、私が四〇歳くらいのことだった。もともとは奈
良県の生まれの人で、夫の転勤とともに、このH市にやってきた。どこかその古都の雰囲気を
感じさせる、静かな人だった。Aさんは、いつもこう言っていた。「私は、夫を愛しています」「娘
を愛しています」と。

 当時、「愛する」という言葉を、ふだんの会話の中で使う人は、それほど多くはなかった。それ
で私の印象に強く残ったのだが、話を聞くと、どうもそうではなかった。つまり私は最初、Aさん
の家庭について、心豊かな、愛に包まれた、すばらしい家族を想像していた。が、そうではなか
ったということ。

 Aさんは、不本意な結婚をした。そしてそのまま、不本意な子どもを産んだ。それがそのとき
六歳になる娘だった。

Aさんには、結婚前に、ほかに好きな人がいたのだが、ささいなことがきっかけで、別れてしま
った。今の夫と結婚したのは、その好きな人を忘れるため? あるいは、その好きな人に、腹
いせをするため? ともかくも、それを感じさせるような、どこか、ゆがんだ結婚だった。

 Aさんは、夫とは、フィーリングが合わなかった。合わなかったというより、「(信仰を始める前
までは)、夫の体臭をかいだだけで、気持ちが悪くなったこともある」(Aさん)という。が、離婚は
しなかった。……できなかった。Aさんの実家と、夫の実家は、同業で、たがいにもちつ、もた
れつの関係にあった。離婚すれば、ともに実家に迷惑がかかる。

 そこでAさんは、キリスト教系宗教団体に入信。そのまま熱心な信者になった。そしてその教
え(?)に従い、「愛する」という言葉を、よく使うようになった?

●反動形成

 たとえばあなたがXさんを、嫌ったとする。そのときXさんと、それほど近い関係でなければ、
あなたは、そのままXさんと距離をおくことで、Xさんを忘れようとする。「いやだ」という感覚を味
わうのは、不愉快なこと。人は、無意識のうちにも、そういう不快感を避けようとする。

 が、そのXさんと、何かの理由で離れることができないときは、一時的には、Xさんに反発する
ものの、やがて、それを受け入れ、反対に、自分の心の中で、反対の感情を作ろうとする。反
対の感情を作ることで、その不快感を克服しようとする。これが私がいう、「反動感情」である。
このばあい、あなたはXさんを、積極的に自分の心の中に入れこもうとする。わかりやすく言え
ば、好きになる。(正確に言えば、好きだというフリをする。)好きになることで、不快感を克服し
ようとする。

 よくある例としては、(1)相手につくし、服従する方法。(2)相手に対して敗北を認め、自分を
劣位に置く方法。(3)自分の弱さを強調し、相手の同情を誘う方法などがある。自分という「主
体」を消すことで、相手に対する感情を消す。そして結果的に、「好き(affection)」という状態を
つくるが、このばあい、「好き」といっても、それはネガティブな好意でしかない。若い男女が、電
撃的に打たれるような恋をしたときに感ずるような、「好き(love)」とは、異質のものである。

 特徴としては、自虐的(自分さえ犠牲になれば、それですむと考える)、厭世的(自分や社会
は、どうなってもよいと考える)な人間関係になる。これに関してよく似たケースに、「ストックホ
ルム症候群」※というのがある。これはたとえば、テロリストの人質になったような人が、そのテ
ロリストといっしょに生活をつづけるうち、そのテロリストに好意をいだくようになり、そのテロリ
ストのために献身的に働き始めるようになることをいう。

 先にあげたAさんのケースでも、Aさんは、口グセのように、「愛しています」と、よく言ったが、
どこか不自然な感じがした。あるいは、Aさんは、そう思いこんでいただけなのかもしれない。A
さんは、夫や子どもに尽くすことで、自らの感情を押し殺してしまっていた?

●偽(にせ)の愛

 Aさんが口にする「愛」は、反動感情でつくられた、いわば偽の愛ということになる。しかし夫
婦はもちろんのこと、親子でも、こうした偽の愛を、本物の愛と信じ込んでいる人は、いくらでも
いる。

 Bさん(四〇歳女性)は、こう言った。夫が、一週間ほど、海外出張で上海へ行くことになった
ときのこと。「飛行機事故で死んでくれれば、補償金がたくさんもらえますね」と。「冗談でし
ょ?」と言うと、ま顔で、「本気です」と。しかしそのBさんにしても、表面的には、仲のよい夫婦
に見えた。たがいにそう演じていただけかもしれない。そこで「じゃあ、どうして離婚しないので
すか?」と聞くと、「私たちは、そういう夫婦です」と。

 親子でも、そうだ。C氏(四五歳男性)は、高校生になる息子と、家の中では、あいさつすらし
なかった。たがいに姿を見ると、それぞれの部屋に姿を、隠してしまった。しかしC氏は、人前
では、よい親子を演じた。演ずるだけではなく、息子が中学生のときは、その学校のPTAの副
会長まで努めた。

 一方、息子は息子で、ある時期まで、父親に好かれようと、懸命に努力した。私がよく覚えて
いるのは、その息子がちょうど中学生になったときのこと。父親に、敬語を使っていたことだ。
父親に電話をしながら、「お父さん、迎えにきてくださいますか」と。

 しかしこうした偽の愛は、長くはつづかない。仮面をかぶればかぶるほど、たがいを疲れさせ
る。問題は、そのどちらかが、その欺瞞(ぎまん)性に気づいたときである。今度は、その反動
として、その絆(きずな)は粉々にこわれる。もっともそこまで進むケースは、少ない。たいてい
は、夫婦であれば、どちらかが先に死ぬまで、その偽の愛はつづく。つづくというより、もちつづ
ける。

 ここまで書いて、ヘンリック・イプセンの「人形の家」を思い出した。娘時代は、親の人形として
生活し、結婚してからは、夫の人形として生活した、ある女性の物語である。その中でも、よく
知られた会話が、夫ヘルメルと、妻ノラの会話。

ヘルメルが、ノラに、「(家事という)神聖な義務を果せ」と迫ったのに対して、ノラはこう答える。
「そんなこともう信じないわ。あたしは、何よりもまず人間よ、あなたと同じくらいにね」(「人形の
家」岩波書店)と。そのノラが、親に感じていた愛、あるいは夫に感じていた愛が、ここでいう反
動感情で作られた愛ではないかということになる。もし、ノラが「愛」のようなものを感じていたと
したら、ということだが……。

 しかしこの問題は、結局は、私たち自身の問題であることがわかる。私たちは今、いろいろな
人とつきあっている。が、そのうちの何割かの人たちは、ひょっとしたら、嫌いで、本当は、つき
あいたくないのかもしれない。無理をしてつきあっているだけなのかもしれない。あるいは「私
はそういうつきあいはしていない」と、自信をもって言える人は、いったい、どれだけいるだろう
か。

 さらにあなたの子どもはどうかという問題もある。あなたの子どもは、あなたという親の前で、
ごく自然な形で、自分をすなおに表現しているだろうか。あるいは反対に、無理によい子ぶって
いないだろうか。そしてそういうあなたの子どもを見て、あなたは「私たちはすばらしい親子関
係を築いている」と、思いこんでいないだろうか。ひょっとしたら、あなたの子どもは、あなたと良
好な関係にあるフリをしているだけかもしれない。本当はあなたといっしょに、いたくない。いた
くないが、し方がないから、いっしょにいるだけ、と。もしあなたが、「うちの子は、いい子だ」と思
っているなら、その可能性は、ぐんと高くなる。一度、子どもの心をさぐってみてほしい。
(030314)

※ストックホルム症候群……スウェーデンの首都、ストックホルムで起きた銀行襲撃事件に由
来する(一九七三年)。その事件で、六日間、犯人が銀行にたてこもるうち、人質となった人た
ちが、その犯人に協力的になった現象を、「ストックホルム症候群」と呼ぶ。のちにその人質と
なった女性は、犯人と結婚までしたという。

※イプセンの「人形の家」……自己の立場と、出世しか大切にしない夫、ヘルメル。好意でした
ことをののしられてから、ノラは、一人の人間としての自分に気づく。それがここに取りあげた
会話。最後に、ノラは、偽善的な夫に愛想をつかし、ヘルメルと、三人の子どもを残して、家を
出る。

【付記】

 父親に虐待されていた子ども(小二男児)がいた。いつも体中に大きなアザを作っていた。そ
こでその学校の校長が、地元の教育委員会に相談。児童相談所がのり出して、その子どもを
施設へ保護した。

 が、悲しいかな、そこが子ども心。そんな父親でも、施設の中では、「お父さんに会いたい、会
いたい」と泣いていたという。そこで相談員が、「あなたはお父さんのことを好きなの?」と聞く
と、その子どもは、「好き」と答えたという。

 こうした子どもの心理も、反動感情で説明できる。つまり父親の虐待に対して、その子ども
は、本当の自分の感情とは反対の感情をもつことで、与えられた状況に適応しようとした。そ
の子どものばあい、「いやだ」と言って、家を飛びだすわけにもいかない。また父親に嫌われた
ら、生きていくことすらできない。そこでその子どもは、「好きだ」という感情を、自分の中につく
ることで、自分の心を防衛したと考えられる。
(はやし浩司 反動形成 子どもの心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(103)

++++++++++++++

子育て相談を、特集してみました。

++++++++++++++

(1)子どものウソ

Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)

A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害によ
る虚言、それに(3)虚言。空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それを
あたかも現実であるかのように錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経
症による症状のひとつとして考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症
状をともなうことが多い。

これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。

ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。

母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子
「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。
 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  

その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。

 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。

イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。このタイプの子どもは、現実と空想の間に
垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをも
ちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのよ
うに、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないの
が、特徴である。

 どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけ
を繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めた
り、はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。
(はやし浩司 子供の嘘、虚言癖 ウソ 嘘)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(2)勉強の遅れ

Q 学年がかわり、勉強の遅れが目立ってきました。このままでは、うちの子はどうなるかと、
心配でなりません。(小四女)

A アメリカでは、学校の先生が、子どもに落第をすすめると、親は、喜んでそれに従う。「喜ん
で」だ。これはウソでも誇張でもない。反対に子どもの学力が心配だと、親のほうから落第を求
めていくこともある。「まだうちの子は、進級する準備ができていない」と。アメリカの親たちは、
そのほうが子どものためになると考える。

 日本では、そうはいかない。いかないことは、あなた自身が一番よく知っている。しかし、二〇
年後、三〇年後には、日本もそうなる。またそういう国にしなければならない。意識というのは
そういうもので、あなたが今もっている意識は、普遍的なものでも、また絶対的なものでもな
い。

 さて、もし子育てで行きづまりを覚えたら、子どもは『許して忘れる』。英語では、「フォ・ギブ
(許し)・アンド・フォ・ゲッツ(与える)」という。つまり「(子どもに)愛を与えるために、許し、(子ど
もから)愛を得るために、忘れる」ということになる。子どもをどこまで許し、どこまで忘れるか
で、親の愛の深さが決まる。子どもの受験勉強で狂奔しているような親は、一見、子どもを愛し
ているかのように見えるが、その実、自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。自分の設計
図に合わせて、子どもを思いどおりにしたいだけ。しかしそれは、真の愛ではない。

 否定的なことばかり書いたが、勉強だけがすべてという時代は、もう終わりつつある。(だか
らといって、勉強を否定しているのではない。誤解のないように!) 重要なのは、そのときどき
において、子どもが、いかに心豊かに、自分を輝かせて生きるかということ。その中身こそが、
大切。

 相談のケースでは、何かほかに得意なことや、特技があれば、それを前向きに伸ばすように
する。子どもには、「あなたはサッカーでは、だれにも負けないわよね」というような言い方をす
る。子どもの世界には、『不得意分野を伸ばすより、得意分野を、さらに伸ばせ』という鉄則が
ある。子どもというのは不思議なもので、ひとつのことに秀でてくると、ほかの分野も、ズルズル
と伸び始めるということが、よくある。

 さらにこれからは、一芸がものをいう時代。ある大手の自動車会社の入社試験では、学歴は
不問。そのかわり面接では、「君は何ができる?」と聞かれるという。そういう時代は、すぐそこ
まできている。

 ところで『宝島』という本を書いた、R・スティーブンソンは、こう言っている。『我らの目的は、
成功することではない。失敗にめげず前に進むことだ』(語録)と。あなたの子どもにも、一度、
そう言ってみてはどうだろうか。
(はやし浩司 学習 学習の遅れ 遅進)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(3)好きになれない

Q 自分の子どもですが、どうしても好きになれません。いい親を演ずるのも、疲れました。

A 不幸にして不幸な家庭に育った人ほど、「いい家庭をつくろう」「いい親でいよう」と、どうして
も気負いが強くなる。しかしこの気負いが強ければ強いほど、親も疲れるが、子どもも疲れる。
そしてその「疲れ」が、親子の間をギクシャクさせる。

 子どもが好きになれないなら、なれないでよい。無理をしてはいけない。大切なことは、自然
体で子どもと接すること。そして子どもを、「子ども」としてみるのではなく、「友」としてみる。「仲
間」でもよい。実際、親離れ、子離れしたあとの親子関係は、友人関係に近い関係になる。い
つまでもたがいに、ベタベタしているほうが、おかしい。

 ただ心配なのは、あなた自身に、何か心のわだかまりがあるとき。「ゆがめられた意識」と私
は呼んでいる。トラウマ(精神的外傷)といえるほど大きなキズではない。しかし、しこりはしこ
り。心のひずみのようなもので、そのためものの考え方が、どこかゆがんでくる。そのわだかま
りが、そのつど潜在意識となって、あなたの子育てを、裏からあやつる。もしあなたが子育てを
していて、いつも同じ失敗を繰りかえすというのであれば、このわだかまりを疑ってみたらよ
い。

たいていは、望まない結婚であったとか、予定していなかった子どもであったとか、など。ある
母親はふだんは、静かな女性だったが、子どもが何かを失敗するたびに、「あんたさえいなけ
れば!」と叫んで、子どもをはり倒していた。
ほかにあなた自身の問題として、親の愛に恵まれなかったとか、家庭が不安定であったとかい
うこともある。

この問題は、そういうわだかまりがあるということに気がつくだけでも、そのあと多少時間はか
かるが、解決する。まずいのは、そのわだかまりに気がつかないまま、そのわだかまりに振り
まわされること。そのわだかまりが、虐待の原因となることもある。

 今、「自分の子どもとは気があわない」と、人知れず悩んでいる親は多い。東京都精神医学
総合研究所の調査によっても、そういう母親が、七%はいるという。しかもその大半が、子ども
を虐待しているという(同調査)。

 あるいは兄弟でも、「上の子は好きだが、下の子はどうしても好きになれない」というケースも
ある。ある母親はこう言った。「下の子は、しぐさから、目つきまで、嫌いな義父そっくり。どうし
ても好きになれません」と。

 親には三つの役目がある。ガイドとして、子どもの前を歩く。保護者として、子どものうしろを
歩く。そして友として、子どもの横を歩く。もしあなたがこのタイプの親なら、あなたは友として子
どもの横を歩くことだけを考える。あとは肩の力を抜いて、自然体で進めばよい。一〇年後、二
〇年後には、あなたは必ず、すばらしい親になっている。
(はやし浩司 子供を愛せない 育児問題)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

         
(4)落ちつきがない

Q 参観授業で見ても、騒々しく、落ちつきがありません。家でも集中力がなく、ワーワーと騒ぐ
だけで、勉強もほとんどしません。(小一男)

A 騒々しい子どもがふえている。「新しい荒れ」と呼ぶ人もいる。ADHD児のほか、思考が乱
舞してしまう子どももいる。いろいろな原因が考えられているが、ひとつに、テレビやテレビゲー
ムがあげられる。瞬間的に、めまぐるしく変化する画面は、右脳を刺激するが、一方、左脳の
働きをおろそかにする。論理や分析、つまり「ものごとを静かに考えて判断」するのは、その左
脳である。

 それはさておき、こうした問題が子どもにあったとしても、今は、それ以上、こじらせないこと
だけを考えて、小学三、四年生になるまで様子をみる。そのころになると自意識が発達し、子
どもは、自分で自分をコントロールするようになる。「こういうことをすれば、みんなに迷惑をか
ける」「嫌われる」「損をする」「先生に注意される」と。それ以前の子どもは、自分が騒々しいと
いう意識すらない。

 ある中学生(男子)は、こう言った。低学年児のころは、落ちつきがなく、学校の先生もたいへ
んだった。しかし「ぼくは、何も悪くなかった。みんながぼくを目のかたきにしただけ」と。おとな
でも、自分の姿を客観的に知ることはむずかしい。いわんや、子どもをや。

 むしろ問題は、無理な指導や強制的な指導、さらには、暴力をともなった威圧的な指導が、
症状をこじらせてしまうこと。せっかく自意識が発達しても、そのため子ども自身が、立ちなお
れなくなってしまう。

 子どもを指導するときは、言うべきことは繰りかえしながら言い、あとは時を待つ。そして少し
でも、言ったことが守れるようになったら、それをほめる。かなり根気のいる作業だが、このタイ
プの子どもと接するときは、まさに根気との勝負。家庭でも、決して短気を起こしてはならない。
 が、悪いことばかりではない。言動が活発な分だけ、好奇心も旺盛で、生活力もある。苦手な
分野もあるが、しかしその分、学力もある。中学生になるころには、かえってよい成績を示すよ
うになることも珍しくない。子どものよい面を信じながら、あとは子どもに合わせた生活を組み
たてる。「三〇分座って、五分くらい勉強らしきことをすればよし」「勉強と遊びが、ごちゃまぜに
なってもよし」と。繰りかえすが、このタイプの子どもは、叱っても意味がない。子ども自身の力
では、どうにもならない。

 問題のない子どもはいない。だから問題のない子育ても、ない。子育てというのはそういうも
の。そういう前提で考える。しかしそれから生まれるドラマが、子育てをうるおい豊かにし、親子
のきずなを太くする。平凡は美徳だが、平凡からは何も生まれない。…そう考えながら、子育
てを前向きにとらえる。
(はやし浩司 落ち着きがない子ども 落ち着きがない子供 騒々しい子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(5)反抗的な態度

Q 最近、子どもの態度が反抗的になってきました。一触即発という状態で、どこかピリピリして
います。(小五女)

A よく誤解されるが、情緒が不安定だから、情緒不安というのではない。心の緊張状態がと
れないことを、情緒不安という。その緊張状態のところへ、不安や心配が入ると、それを解消し
ようと、精神が一挙に不安定になる。情緒不安というのは、あくまでも症状。
 その症状としては、攻撃的暴力的になるプラス型、ぐずったり引きこもったりするマイナス型、
ものに固執する固着型などがある。

 そこで子どもが情緒不安症状を示したら、まず、原因が何であるかをさぐる。慢性的なストレ
スや欲求不満など。ある子ども(小六男児)は、幼児期に読んだマンガの本を大切そうにもって
いた。ボロボロだった。そこで私が、「これは、何?」と声をかけると、「どうチョ、読んではダメだ
と、言うのでチョ」と。赤ちゃんがえりならぬ、幼児がえりである。原因は父親にあった。父親
は、ことあるごとに、その子どもをこう、脅していた。「中学校へ入ると、勉強がきびしいぞ。毎
日、三時間は勉強しなければならないぞ」と。子どもの未来をおどすのは、タブー中のタブー。
それはそれとして、こうした脅しが、その子どもの心をゆがめた。

 子どもが思春期の第二反抗期にさしかかると、子どもの情緒はたいへん不安定になる。そこ
で大切なことは、家庭では、子どもが体を休め、心をいやすことができるようにすること。方法
としては、子どもの側からみて、親の視線をまったく感じないようにするのがよい。あれこれ説
教をしたり、気をつかうのは、かえって逆効果。また家の中で、態度が横柄になり、言葉づかい
が乱暴になるなど、生活習慣が乱れることもあるが、「ああ、うちの子は、外の世界で、がんば
っているからだ」と、大目に見るようにする。「親に向かって、何よ!」式に、頭ごなしに叱っては
いけない。

 なお子どもは、小学三年生くらいを境にして、急速に親離れを始める。学校であったことを、
親に話さなくなったり、女児だと、父親といっしょに風呂に入るのをいやがったりするようにな
る。ただその親離れは、ある日を境に、急にそうなるのではない。日々に、おとなぶったり、反
対に、幼児のようになったり、それを繰りかえしながら、数年をかけて、親離れする。

 しかし症状が、ある範囲に収まっているなら、親は、こうした親離れを喜ばねばならない。子
育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。子どもの反抗をすべて容認せよと
いうわけではないが、一方で、「ああ、うちの子は、自分の道を歩み始めている…」と思いなお
し、一歩、引きさがる。そういう姿勢が、子どもを自立させる。中学生になっても、「ママ、ママ」
と、親に頼る子どものほうが、おかしい。
(はやし浩司 子供の反抗 反抗的な子供 子どもの反抗 反抗的な子ども)
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司


(6)口が悪い

Q うちの子は、口が悪くて困ります。私に向かっても、平気で「クソババー!」とか言います。
(小二男)

A 子どもの口が悪いのは当たり前。それを許せというわけではないが、それが言えないほど
まで、子どもを抑えつけてはいけない。もう少し専門的に言うと、こうなる。

 乳幼児の心理は、口唇期(口を使って口愛行動をする)、肛門期、男根期を経て発達する(フ
ロイト)。肛門期というのは、体内にたまった不要物を、外に排出する快感を覚える時期と考え
るとわかりやすい。(これに対して、男根期は、いわゆる小児性欲のこと。おとなの性器性欲の
基礎になる。)

 たとえばおとなでも、重大な秘密を知ると、それをだれかに話したいという衝動にかられる。
が、それを話せないとなると、悶々とした状態になる。そこで思いきって、だれかに話す。その
とき感ずる快感が、ここでいう肛門期の快感と思えばよい。

 つまり子どもは、思ったことをズケズケと言うことで、自分の心の中にたまったゴミを外に吐き
出そうとする。それは快感であると同時に、子どもにとっては、精神のバランスをとるために
は、必要なことでもある。

 むしろそれを抑えつけてしまうことによる弊害のほうが、大きい。イギリスの格言にも、『抑圧
は悪魔をつくる』というのがある。心の抑圧状態が長くつづくと、ものの考え方が悪魔的になる
ことを言ったものだが、子どものばあい、それがとくに顕著に現れる。

 N君(小五)という、静かでおとなしい子どもがいた。従順で、これといって問題はなかった。し
かし私はある日、彼のノートを見て、びっくりした。そこには、首のない人間や、血だらけになっ
てもがき苦しむ顔、ドクロなどが描かれていた。原因は、父親の神経質な過関心だった。

 言いたいことを言う。思ったことを言う。それができるから、家庭という。あの『クレヨンしんち
ゃん』の中にも、母親のみさえが、義理の父親に向かって、こう怒鳴るシーンがある(V16)。
「ひからびた、ゆで玉子頭」と。そういうことが自由に言いあえる家庭というのは、それだけで
も、すばらしい家庭(?)ということになる。

 私も、よく生徒に、「クソじじい」と言われる。そこである日、こう教えてやった。

私「もっと悪い言葉を教えてやろうか」
子「うん、教えて、教えて」
私「でも、お父さんや、校長先生に言ってはだめだよ。約束するか?」
子「するする…」
私「ビ・ダ・ン・シ(美男子)」と。

 それからというもの、私のニックネームは、美男子になった。生徒たちは私を見ると、うれしそ
うに、「美男子! 美男子!」と。私は一応、怒ったフリをするが、内心では笑っている。
(はやし浩司 口の悪い子ども 口の悪い子供)
 

Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(7)親のトラブル

Q このところ親どうしのトラブルが原因で、憂うつでなりません。言った、言わないが、こじれ
て、抜きさしならない状態になっています。

A 親どうしのつきあいは、如水淡交。水のように、淡く、無理なくつきあうのがよい。つきあうと
しても、できるだけ学校の行事の範囲にとどめ、個人的な交際は、必要最低限にとどめる。ほ
かの世界と違って、間に子どもがいるため、一度こじれると、この種の問題は、とことんこじれ
る。親によっては、たいへん神経質な人がいる。神経質になるのが悪いというのではない。そ
れは子育てにまつわる宿命のようなもの。人間にかぎらず、どんな動物でも、子育をしている
間は、たいへん神経質になる。そこでこうしたトラブルを避けるために、いくつかの原則があ
る。

 (1)子どもの前では、学校や先生の批判はもちろんのこと、ほかの親の批判は、タブー。子
どもが先生の悪口を言っても、「あなたのほうが悪い」「そんなことは言ってはいけない」と、たし
なめる。相づちを打ってもいけない。相づちを打てば、今度はあなたが言った言葉として、広ま
ってしまう。それだけではない。子どもは、先生の指示に従わなくなってしまう。そうなれば教育
そのものが成りたたなくなってしまう。

 つぎに(2)子どもどうしの間でトラブルが起き、先生に相談するときも、問題だけを先生に話
し、あとの判断は、先生に任せる。相手の親や子どもの名前は、できるだけ出してはいけな
い。先生は、教育のドクター。判断するのは、あくまでも先生。それともあなたは病院へ行っ
て、自分で診断名をつけたり、治療法を決めたりするとでもいうのだろうか。

 また(3)子どもどうしのトラブルがこじれたときには、まず、あなたのほうから頭をさげる。こ
の世界には、『負けるが勝ち』という、大鉄則がある。先にも書いたように、間に子どもがいるこ
とを忘れてはいけない。大切なことは、子どもが気持ちよく学校へ通えること。またそういう状
態を、用意してあげること。だから負けるが、勝ち。あなたが先に「すみません」と頭をさげれ
ば、相手も、「いいんです。うちも悪いから…」となる。そういう謙虚な姿勢が、子どもの世界を
明るくする。

 が、それでもこじれたら…。先生に問題の所在だけを告げ、一度、引きさがる。これを「穴に
こもる」という。穴にこもって、時間が解決してくれるのを待つ。そしてその間、あなたはあなた
で、子どものことは忘れ、したいことをすればよい。

 ふつう、それほど深刻な問題でないときは、一にがまん、二にがまん、三、四がなくて、ほか
の親に相談と決めておく。ほかの親というのは、一、二歳年上の子どもをもつ親のことをいう。
そういう親に相談すると、「うちもこんなことがありましたよ」というような話で、たいていの問題
は解決する。
(はやし浩司 親同士のトラブル 親同士の問題 親の問題 学校でのトラブル)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(8)帰宅拒否

Q 学校からってくるとき、道草をくってばかりいます。家の中でも、どこか憂うつそうで、あいさ
つをしても返事をしません。(小五男)

A 疑うべきは、帰宅拒否。家庭が、家庭としての機能、つまり体を休め、心をいやすという機
能を果たしていないことを疑う。そこでテスト。

 あなたの子どもは、学校から帰ってきたとき、どこでどのようにして、心や体を休めているだ
ろうか。あなたのいる前で、平然として、休めていれば、よし。しかしあなたの姿を見ると、どこ
かへ逃げていくとか、好んでひとりになりたがるというようであれば、まず家庭のあり方を反省
する。その一つ、『逃げ場を大切に』。

どんな動物にも、最後の逃げ場がある。子どももしかり。子どもは、その逃げ場に入ることによ
り、体を休め、心をいやす。たいていは自分の部屋ということになるが、その逃げ場を親が平
気で荒らすようになると、子どもは、別の場所に逃げ場を求めるようになる。トイレの中や犬小
屋、近くの電話ボックスの中に逃げた子どもなどがいた。さらにこじれると、家出ということにな
る。

 子どもが逃げ場へ入ったら、追いかけて説教したり、叱ったりしてはいけない。いわんや部屋
の中や、机の中を調べてはいけない。コツは、逃げ場から子どもが出てくるまで、ただひたすら
根気よく待つこと。

これに対して、親子の間に秘密はあってはいけないという意見もある。そういうときは反対の立
場で考えてみればよい。いつかあなたが老人になり、体が不自由になったとする。そのときあ
なたの子どもが、あなたの机の中やカバンの中を調べたとしたら、あなたはそれに耐えられる
だろうか。プライバシーを守るということは、そういうことをいう。秘密をつくるとかつくらないとか
いう次元の話ではない。子どもの人格を尊重するためにも、また子どもの中に、「私は私」とい
う考え方を育てるためにも、子どもの逃げ場は神聖不可侵の場所と心得る。

 また子どもに何か問題が起きると、「学校が悪い」「先生が悪い」「友だちがいじめた」と騒ぐ
人がいる。そういうこともたしかにあるが、しかし家庭が家庭としての機能を果たしていれば、
問題は問題となる前に解決するはず。そのためにも、ここでいう家庭の機能を大切にする。

 子どもというのは、絶対的な安心感のある家庭で、心をはぐくむ。「絶対的」というのは、疑い
をいだかないという意味。その家庭がぐらつくと、子どもは心のより所をなくし、情緒が不安定
になる。攻撃的になったり、理由もなくぐずったりする。ものに固着することもある。神経症によ
る症状(腹痛、頭痛、チック、吃音、爪かみ、髪いじり)を伴うことが多い。ある男の子(小一)
は、鉛筆のハシをいつもかじっていた。
(はやし浩司 帰宅拒否 帰宅拒否症 子供の道草)

Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(9)父親の無関心

Q 父親が育児、教育に無関心で困ります。何もしてくれません。負担がすべて、私にのしかか
ってきます。

A 子どもと母親の関係は、絶対的なものだが、子どもと父親の関係は、必ずしもそうではな
い。たいていの子どもは、自意識が発達してくると、「私の父はもっと、高貴な人だったかもしれ
ない」という「血統空想」(フロイト)をもつという。ある女の子(小五)は母親に、こう言った。「どう
してあんなパパと、結婚したの。もっといい男の人と結婚すればよかったのに!」と。理屈で考
えれば、母親が別の男性と結婚していたら、その子どもは存在していなかったことになるのだ
が…。

 そんなわけで特別の事情のないかぎり、夫婦げんかをしても、子どもは、母親の味方をす
る。そういえばキリスト教でも、母親のマリアは広く信仰の対象になっているが、父親のヨセフ
は、マリアにくらべると、ずっと影が薄い?

 これに加えて、日本独特の風習文化がある。旧世代の男たちは、仕事第一主義のもと、そ
の一方で、家事をおろそかにしてきた。若い夫婦でも、約三〇%の夫は、家事をほとんどして
いない(筆者、浜松市で調査)。身にしみこんだ風習を改めるのは、容易ではない。

 そこで母親の出番ということになる。まず母親は父親をたてる。大切な判断は、父親にしても
らう。子どもには、「お父さんはすばらしい人よ」「お母さんは、尊敬しているわ」と。決して男尊
女卑的なことを言っているのではない。もしこの文を読んでいるのが父親なら、私はその反対
のことを書く。つまり、「平等」というのは、たがいに高い次元で尊敬しあうことをいう。まちがっ
ても、父親をけなしたり、批判したりしてはいけない。とくに子どもの前では、してはいけない。

 こういうケースで注意しなければならないのは、父親が育児に参加しないことではなく、母親
の不平不満が、子どもの結婚観(男性観、女性観)を、ゆがめるということ。ある女性(三二歳)
は、どうしても結婚に踏み切ることができなかった。男性そのものを、軽蔑していた。原因は、
その女性の母親にあった。

 母親は町の中で、ブティックを経営していた。町内の役員もし、活動的だった。一方父親は、
まったく風采があがらない、どこかヌボーッとした人だった。母親はいつも、父親を、「甲斐性
(生活力)なし」とバカにしていた。それでその女性は、そうなった?
 これからは父親も母親と同じように、育児、教育に参加する時代である。今は、その過渡期
にあるとみてよい。同じく私の調査だが、やはり約三〇%の若い夫は、育児はもちろん、炊
事、洗濯、掃除など、家事を積極的にしていることがわかっている。

 …というわけで、この問題は、たいへん「根」が深い。日本の風土そのものにも、根を張って
いる。あせらず、じっくりと構えること。
(はやし浩司 育児に無関心な父親 父親の育児 育児参加 父親の育児参加 父親の役割)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(10)友だちの問題

Q このところ、うちの子が、よくない友だちと交際を始めています。交際をやめさせたいのです
が、どう接したら、いいでしょうか?(小六男)

A イギリスの教育格言に、『友を責めるな、行為を責めよ』というのがある。これは子どもが、
よくない友だちとつきあい始めても、相手の子どもを責めてはいけない。責めるとしても、行為
のどこがどう悪いかにとどめるという意味。コツは、「○○君は、悪い子。遊んではダメ」など
と、相手の名前を出さないこと。言うとしても、「乱暴な言葉を使うのは悪いこと」「夜、騒ぐと近
所の人が迷惑をする」と、行為だけにとどめる。そして子ども自身が、自分で考えて判断し、そ
の子どもから遠ざかるようにしむける。

 こういうケースで、友を責めると、子どもに「親を取るか、友を取るか」の二者択一を迫ること
になる。そのとき子どもがあなたを取れば、それでよし。そうでなければ、あなたとの間に、深
刻なキレツを入れることになる。さらに友というのは、子どもの人格そのもの。友を否定すると
いうことは、子どもの人格を否定することになる。

 またこういうケースでは、親は、そのときのその状態が最悪と思うかもしれないが、あつかい
方をまちがえると、子どもは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった…」ということを繰り返しな
がら、さらに二番底、三番底へと落ちていく。よくあるケースは、(門限を破る)→(親に叱られ
る)→(外泊するようになる)→(また親に叱られる)→(家出する)→(さらに親に叱られる)→
(集団非行)と。

が、それでもうまくいかなかったら…。そういうときは、思いきって引いてみる。相手の子ども
を、ほめてみる。「あの○○君、おもしろい子ね。好きよ。今度、このお菓子、もっていってあげ
てね」と。

 あなたの言ったことは、あなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。それを耳にし
たとき、相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、よい子を演ずるようになる。相手の子ど
もを、いわば遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも、高等技術に属する。あとはそれ
をうまく利用しながら、あなたの子どもを導く。

 なおこれはあくまでも一般論だが、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経
験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな人間になることがわかっている。むしろこの
時期、無菌状態のまま、よい子(?)で育った子どもほど、あとあと、おとなになってから問題を
起こすことが多い。だから、親としてはつらいところかもしれないが、言うべきことは言いながら
も、今の状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる。あせりは禁物。短気を起こ
して、子どもを叱ったり、おどしたりすればするほど、子どもは、二番底、三番底へと落ちてい
く。
(はやし浩司 友だちの問題 友達の問題 悪友 悪友の問題 悪い友達 悪い友だち)
 
 
Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

(11)子育ての指針

Q 子育ての情報が多すぎて、どう子育てをしたらいいか、わかりません。指針のようなものは
ありませんか。

A 子育てには、四つの方向性がある。まず未来を見る。子どもに子ども(あなたからみれば
孫)の育て方を教える。それが子育て。「あなたが親になったら、こういうふうに、子どもを育て
るのですよ」「こういうふうに、子どもを叱るのですよ」と。見せるだけでは足りない。幸せな家庭
というのは、どういうものか、夫婦というのは、どういうものか、それを子どもの体にしみこませ
ておく。

 つぎに自分の過去をみる。もしあなたが心豊かで、満ち足りた幼児期、少年少女期をすごし
ているのなら、それでよし。しかしそうでないなら、あなたの性格は、どこかがゆがんでいるとみ
る。ひがみやすい、嫉妬しやすい、いじけやすい、意地が悪い、冷たいなど。そういうゆがみを
知るために、自分の過去を冷静に見る。そしてよい面は、子どもに伝え、そうでない面は、あな
たの代で切る。子どもの代には、伝えない。

 三つ目は、あなたの子育てを、できるだけ高い視点から見る。最初は、近所の人や親類の人
の子育てと比較してみるのもよい。そしてそれができるようになったら、世界の子育てと、自分
の子育てを比較してみる。「日本の子育ては…」と考える。その視点は高ければ高いほどよ
い。まずいのは、小さなカラにこもり、その中で、独善と独断で、ものの考え方を先鋭化するこ
と。これをカプセル化と呼ぶ人もいる。親は、一度このカプセルの中に入ると、何をするにも、
極端になりやすい。

 最後に、あなたの心の中をのぞいてみる。子育ては、ただの子育てではない。たとえばある
母親は、自分の子どもが生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなってもいい。私の命と交
換に、うちの子の命を助けて」と願ったという。こういう自分の命すら惜しくないという、まさに至
上の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

 それだけではない。あなたは家庭という小さな世界であるにせよ、子どもに対して、神の愛
や、仏の慈悲を、そこで実践できる。それはまさに崇高な世界といってもよい。子どもの問題を
ひとつずつ克服しながら、神々しいほどまでに、すばらしい人になった母親は、いくらでもいる。

 こうして自分の子育てを、いつも四つの方向から見るようにする。未来を見て、過去を見る。
上から見て、心の中を見る。

 最後に、親が子どもを育てるのではない。親は子育てをしながら、幾多の山を越え、谷を越
える。そういう苦労を繰りかえすうちに、ちょうど稲穂が実り、頭をたれるように、姿勢が低くな
り、人間的な丸みや深みができてくる。つまり親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育
てる。それに気づけば、あなたは子育てのプロ。もう道に迷うことはない。
(はやし浩司 子育ての指針 育児法 育児のコツ 育児のポイント)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(104)

●無知の知

++++++++++++++

私は物知りだと思っている人ほど、
本当は無知なのかもしれない。

「この世の中には、私の知らない
ことが山ほどある」と思っている
人ほど、物の道理をよく知っている
のかもしれない。

『サイエンスウェブ』という科学
雑誌を読んでいたとき、ふと、
そんなことを感じた。

++++++++++++++

『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスにま
つわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないということを知ること」を、無知の知
という。

 ソクラテス(?)は、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発
点だと言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し話はそれるが、こんなことがあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーといいます」
と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャーではなく、カレン
ダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見ているんだ
ろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カレンダーも知ら
ないのオ?」と。

 私は一応、ま顔のフリをしていたが、もちろん、冗談。しかし子どもたちは、真剣だった。その
真剣さの中に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだって、無数
の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そしてその状態は、庭
に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのではない
か。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわない?
 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわないと思って
いる。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったとしても、
自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、気づかない。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見ればよいと
いうこと。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、結局は、自分を知
ることの第一歩ということになる。

++++++++++++++++

 最近新しく発刊された、『サイエンスウェブ』(06・3月号)という雑誌を買ってきた。私はもとも
と理科系の人間である。(自分で、そう思っているだけかもしれないが……。)今月号の特集
は、ES細胞、BSE問題、衛星タイタンの表面、そして日本の有人宇宙飛行構想。どの記事
も、おもしろかった。

 しかしどれも読めば読むほど、その一方で、自分が小さくなっていくのを感じた。どれも私とは
無縁の世界のできごとばかり。それにそこに書かれている専門用語にしても、私の知らない言
葉ばかり。

 たとえばP70〜では、「スギ花粉症のメカニズム」を説明しているが、(抗原提示細胞)(Th2
リンパ球)(Bリンパ球)(マスト細胞)などなど、私には、知らない単語ばかり。わかりやすく言え
ば、私の知っている世界など、この広い世界では、ほんの一部の、そのまた一部に過ぎない。
それを改めて、思い知らされた。

 ソクラテス(?)は、『無知の知』という言葉を残したが、それを知ったとき、ソクラテスは、どん
な気持ちになったのだろう。ひょっとしたら、恐ろしいほどの無力感を覚えたかもしれない。

 つまりは、私たちは、いつも謙虚でなければならないということ。いつ、どこでも、そしてだれに
対しても、だ。私たちが知っていることよりも、知らないことのほうが、はるかに多い。それをい
つも心のどこかで、自覚する。

 ごう慢になったら、負け。独善的、独断的になったら、負け。自分勝手で、わがままになった
ら、負け。おかしなことだが、『サイエンスウェブ』を読んでいたとき、私は、そんなことを感じた。
無知の知を教えてくれるには、とてもよい雑誌だと思う。印刷もきれいだが、値段も安い。790
円。みなさんも、ぜひ、どうぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(105)

●帰宅拒否児

+++++++++++++

W県に住む母親から、子どもの帰宅拒否
についての相談があった。

それについて考えているとき、私は、自分の
子ども時代を思い浮かべた。

私自身も、その帰宅拒否児だった。

++++++++++++++

 私自身が帰宅拒否児だったという認識は、当時の私には、なかった。そんな言葉すらなかっ
た。そういう子どもがいたとしても、親や教師は、「子どもだから、家に帰りたがるはず」「家が
いちばん、いいはず」という、安易な『ダカラ論』や『ハズ論』だけで、簡単に片づけていたと思
う。

 しかし今から思うと、私は、その帰宅拒否児だった。小学生のころも、一日とて、家にまっすぐ
帰ったことはなかった。回り道をして帰るのが日課になっていた。学校のそばにある城山公園
や、長良川、神社や寺などなど。幸いにと言うべきか、私が生まれ育ったM町は、昔からの和
紙の生産地で、そういう意味では、小さいが、変化に富んだ町だった。

 父も母も、そういう私を多分知りながら、放任してくれた。家に帰ってからも、毎晩、真っ暗に
なるまで、外で遊んだ。今となってみれば、悪いことばかりではなかったということになるが、だ
からといって、そういう環境を肯定してもらっては困る。私にかぎらず、子どもにとって、家庭の
中に居場所がないというのは、決して好ましい環境ではない。さまざまな心の後遺症を残す。

 で、この状態は、夏休みや冬休みになっても同じで、こうした休みになると、決まって、私は、
母の実家のある田舎へ行った。私にしてみれば、そちらのほうが故郷のようなものだった。思
い出の数は、母の実家でのほうが、はるかに多い。

 私の家には、私の居場所はなかった。「家」といっても、私の部屋すらなかった。町中の自転
車屋で、2階にある8畳間だけが、私たち兄弟3人の、寝床ということになっていた。学校の宿
題などは、その部屋の隅(すみ)に置かれた座卓の前でした。

 世の中には、さまざまな人がいる。故郷の自分の家に、たまらないほどの愛着を覚えている
人も多いだろう。しかし私は、自分のあの家が嫌いだった。今でこそ、「プライバシー」とか、「子
どもの人権」とかいう言葉があるが、それさえなかった。まったく、なかった。少なくとも私の親
たちには、貧しかったこともあるが、その知識すらなかった。

 ゆいいつ私が座って……という場所は、テレビの置いてある小さな部屋だった。が、その部
屋にしても、障子戸を隔てて、すぐ横が、店のある表から、台所やトイレのある裏へとつながっ
ている通路になっていた。家族や客が、いつもその通路を、歩いていた。

 こうして私は、今でいう、帰宅拒否児になっていったのだと思う。……といっても、それに気づ
いたのは、ごく最近になってからのことである。私にとっては、あの時代のあの生活が、いわゆ
るスタンダードで、そのため、私は自分では、ごくふつうの子どもだったと思っていた。ごくふつ
うの生活を送っていたと思っていた。

 しかし私はやはり、帰宅拒否児だった。いろいろな事実を総合してみると、どうやらそういうこ
とになる。というのも、帰宅拒否というのは、意識的な行為というよりは、無意識に近い状態で
繰りかえす行為だからである。しかも、自分という人間を、遠いところに視点を置き、客観的に
見てはじめて、それがわかる。

 で、さらに、こんなこともある。

 こうした帰宅拒否的な傾向は、子ども時代だけでは、終わらないということ。58歳になった、
今も残っている。何かいやなことがあると、自分の家でありながら、私は、その家からすぐ飛び
出したくなる。反対に、家に帰りたくなくなる。これは私のトラウマのようなものかもしれない。

 そういう状態になったとき、心のどこかで、自分の心が、子ども時代の私の心と、同調するの
がわかる。「思い出す」とか「再現」するとか、そういうことではない。それは実にあいまいな意
識である。モヤモヤとした意識というべきか。無意識に近い状態で、本屋へ寄ったり、いろいろ
な店に寄ったりして、時間をつぶす。

 が、それが楽しいわけではない。もっと言えば、本屋へ行きたいから本屋へ行くのではない。
いろいろな店に寄るのも、そうだ。

 そして結果として、帰宅時間が、ぐんと遅くなる。つまりそういう自分を見ながら、「私は、子ど
ものころ帰宅拒否児だった」ということを知る。が、悪いことばかりではない。

 私はそういう自分を知っているからこそ、自分の3人の息子たちには、そういう思いをさせな
かった。家を建てましするときも、まず最初に考えたのが、子ども部屋だった。自分がいやな思
いをした分だけ、息子たちには、そういう思いをさせたくなかった。それに今、そういう自分を知
っているからこそ、帰宅拒否児と呼ばれる子どもの心理状態が、たいへんよくわかる。

 そう、今でも、帰宅拒否児は、いくらでもいる。幼稚園や学校から、家に向かって帰りたがら
ない子どもたちである。幼稚園児だと、帰りの時刻になると、幼稚園の園舎のどこかに隠れて
しまう。逃げてしまう。グズグズし始める。小学生だと、寄り道が多くなったりする。無意味な道
草を食うこともある。

 親はそういう子どもを叱ったりするが、しかしどうして叱るのか? 叱ることができるのか?

 帰宅拒否というのは、そういう問題である。いくつかの原稿を添付する。

+++++++++++++++

●帰宅拒否をする子ども

 不登校ばかりが問題になり、また目立つが、ほぼそれと同じ割合で、帰宅拒否の子どもがふ
えている。S君(年中児)の母親がこんな相談をしてきた。「幼稚園で帰る時刻になると、うちの
子は、どこかへ行ってしまうのです。それで先生から電話がかかってきて、これからは迎えにき
てほしいと。どうしたらいいでしょうか」と。

 そこで先生に会って話を聞くと、「バスで帰ることになっているが、その時刻になると、園舎の
裏や炊事室の中など、そのつど、どこかへ隠れてしまうのです。そこで皆でさがすのですが、お
かげでバスの発車時刻が、毎日のように遅れてしまうのです」と。

私はその話を聞いて、「帰宅拒否」と判断した。原因はいろいろあるが、わかりやすく言えば、
家庭が、家庭としての機能を果たしていない……。まずそれを疑ってみる。

 子どもには三つの世界がある。「家庭」と「園や学校」。それに「友人との交遊世界」。幼児の
ばあいは、この三つ目の世界はまだ小さいが、「園や学校」の比重が大きくなるにつれて、当
然、家庭の役割も変わってくる。また変わらねばならない。子どもは外の世界で疲れた心や、
キズついた心を、家庭の中でいやすようになる。つまり家庭が、「やすらぎの場」でなければな
らない。が、母親にはそれがわからない。S君の母親も、いつもこう言っていた。「子どもが外
の世界で恥をかかないように、私は家庭でのしつけを大切にしています」と。

 アメリカの諺に、『ビロードのクッションより、カボチャの頭』というのがある。つまり人というの
は、ビロードのクッションの上にいるよりも、カボチャの頭の上に座ったほうが、気が休まるとい
うことを言ったものだが、本来、家庭というのは、そのカボチャの頭のようでなくてはいけない。
あなたがピリピリしていて、どうして子どもは気を休めることができるだろうか。そこでこんな簡
単なテスト法がある。

 あなたの子どもが、園や学校から帰ってきたら、どこでどう気を休めるかを観察してみてほし
い。もしあなたのいる前で、気を休めるようであれば、あなたと子どもは、きわめてよい人間関
係にある。しかし好んで、あなたのいないところで気を休めたり、あなたの姿を見ると、どこか
へ逃げていくようであれば、あなたと子どもは、かなり危険な状態にあると判断してよい。もう少
しひどくなると、ここでいう帰宅拒否、さらには家出、ということになるかもしれない。

 少し話が脱線したが、小学生にも、また中高校生にも、帰宅拒否はある。帰宅時間が不自然
に遅い。毎日のように寄り道や回り道をしてくる。あるいは外出や外泊が多いということであれ
ば、この帰宅拒否を疑ってみる。

家が狭くていつも外に遊びに行くというケースもあるが、子どもは無意識のうちにも、いやなこと
を避けるための行動をする。帰宅拒否もその一つだが、「家がいやだ」「おもしろくない」という
思いが、回りまわって、帰宅拒否につながる。裏を返して言うと、毎日、園や学校から、子ども
が明るい声で、「ただいま!」と帰ってくるだけでも、あなたの家庭はすばらしい家庭ということ
になる。
(はやし浩司 帰宅拒否 帰宅拒否児 道草 回り道 子供の道草)


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

●年賀状

++++++++++++++++++

今年は、大幅に年賀状を減らした。
心苦しかったが、やむをえなかった。

来年は、もっと減らすつもり。
つまり、これからは年賀状の時代ではない。
そんな思いもあった。

++++++++++++++++++

 北陸3県だけの調査結果だが、この3県だけで、年賀状は、総数で、2・5%も減少したとい
う。1人あたりの枚数は、30・3通で、ほぼ昨年並みだったという(日本郵政公社北陸支社調
べ・06年・金沢市)。

 年賀状の枚数が大幅に増え始めたのは、あの(プリントごっこ)の時代からではないか。家庭
でも年賀状が、簡単に印刷できるようになった。そのため、老いも若きも、この(プリントごっこ)
に群がった。

 つぎにやってきたのが、(パソコン+プリンター)の時代。同時に、住所録管理ソフトが発売に
なった。私のような人間が飛びついた。そのソフトによって、私とワイフは、宛名書きの苦労か
ら解放された。

 便利である。そこで毎年、私がすることと言えば、(出す人)と(出さない人)を、より分けるだ
け。あとは、年賀状をセットして、(印刷)のボタンをクリックするだけ。それ以前は、7〜10日も
かけて書いた、あて名書きが、2、3時間のうちにすんでしまうようになった。

 しかしそれを繰りかえすこと、8年。毎年、住所録管理ソフトの更新版を購入しているので、こ
の「8年」という数字は、正確である。筆MソフトのV8(バージョン8)から買い始めて、今年は、
V15(バージョン15)。だから8年。

 しかしそういう年賀状に、数年前から、疑問をもち始めた。「何のための年賀状か」と。気が
ついてみたら、もらうのも、出すのも、1000枚近くになっていた。中には、生涯、顔を見たこと
もない、遠い遠い、親類まで、その中に含まれていた。

 で、思い切って、数年前から、年賀状を減らした。郵便局で購入する枚数そのものを減らし
た。ワイフはそのつど、「こんなに少なくていいの?」と何度も聞いたが、私は「いいよ」「いいよ」
とだけ、言った。

 で、今年は、その年賀状が、ぐんと減った。1、2年出さないと、相手も、くれなくなる。が、そ
れではいけない。断りのハガキを書こうと思ったが、それもおかしい。まさか年賀状に、「この
年賀状が最後です」などとは書けない。「来年からは、もう出しません」とも書けない。くれた人
に、「もう年賀状はいりません」とは、もっと書けない。

 そのかわり、出すべき人には、出した。あて名はもちろん、図柄も、すべて手書きで、出した。
これだと週に、10〜20枚書くのがやっと。11月の中旬から始めて、12月の末ぎりぎりまでか
かった。

 しかしそれが年賀状の原点ではないのか……と私は、勝手にそう思っている。(パソコン+プ
リンター)で書くのも年賀状かもしれないが、そういう年賀状のもつ味気なさは、どうしようもな
い。つまり便利になりすぎて、かえって、年賀状の本質を、見失ってしまった。つまり、それなら
出さないほうがましと、私は、考えるようになった。

 来年は、年賀状は、もっと減るのではないか。若い人たちは、携帯電話で、年賀のあいさつ
をしている。インターネットでのあいさつも、ふえている。今では、音声や動画まで、相手に送れ
るようになった。時代は、たしかに、変わりつつある。

 で、この文を読んでいる人の中には、去年まで、年賀状を交換していた人もいるかもしれな
い。そういう人には心苦しいが、どうか、私たち夫婦の勝手を許してほしい。あえて言うなら、来
年からは、年賀状は、もう結構ですから、私たちのことは、どうか忘れてほしいということ。また
何か縁があれば、そのときはそのときで、改めて交際させていただければと思う。

 来年は、その年賀状を、さらに減らすつもりでいる。ごめん!

(追伸)

 私の年代以上の人たちは、年賀状に対して、特殊な(こだわり)をもっている。今年も、年賀
状を出さなかっただけで、「あの浩司は、どうした?」と、姉や親類に電話をかけまくっていた人
がいた。

 しかしたかが年賀状ではないか。つまり印刷された、ただの紙切れ。「だったら、何も考えず
に出したらいい」と言う人がいる。「むずかしく考えることはない」と。実は、私は、そう考えてき
た。しかしハガキといっても、1枚、50円。1000枚では、5万円になる。

 年齢とともに収入は減る。だから年齢とともに、不要な出費は、おさえなければならない。

 しかしなぜ、私の年代以上の人たちが、こうまで年賀状にこだわるかといえば、私は、あの時
代の、あの洗脳教育に理由があると思う。毎年、年末になると、学校では、年賀状づくり一色。
版画づくり、絵柄コンテストなどなど。「年賀状を出さない人は、日本人にあらず」というような風
潮すら、あった。

 だいたい考えてみればおかしな話ではないか。毎日、学校で会っている友だちにすら、年賀
状を書いていた。要するに、私たちは、時の郵政省と文部省の策略に、のせられただけ。

 しかし洗脳であるにせよ、一度できた意識を消すのは、容易なことではない。この私ですら、
いまだに何かしらの(こだわり)をもっている。こうしてエッセーを書いていること自体、その(こ
だわり)の表れとみてよい。

 こうした意味のない(こだわり)は、少なければ少ないほどよい。「自由になる」というのは、そ
ういう無数の(こだわり)からの解放を意味する。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(106)

●何がしたいの?

+++++++++++++++++

昨夜、寝る前に、ワイフが、こう
聞いた。

「あなたは、いったい、何がしたいの?」と。

そのときは、それで終わった。
そのまま眠った。

しかし、今朝になって、その言葉が、
大きなしこりとなって、胸をふさいだ。

私は、何をしたいのか?

+++++++++++++++++

 ときどき、生きていることが、めんどうになることがある。わずらわしい。うるさい。が、それで
も、毎日、懸命にがんばって生きている。歯を食いしばって、生きている。生きている以上、働く
しかない。生きていくしかない。

 しかしそんな私に、夢はあるのか? 希望はあるのか? そして目的はあるのか? ワイフ
は、それを言った。

 ワイフは、ときどき、こう言う。「長生きはしたくないわ」と。私も、同感。生きていても、しかた
のない人間になったら、さっさと死ぬ。無駄に生きて、醜態をさらけ出すくらいなら、さっさと死
ぬ。が、それすら、簡単なことではない。そうはうまく、死ねるわけではない。

 近所に、1人の老人がいる。今年、84歳になるのではないか。姿を見ることはあっても、会
話を交(か)わしたことはない。

 その老人は、数年前に、がんをわずらった。半年近く、入退院を繰りかえした。が、一度は、
よくなったらしい。それ以後、ときどき、元気そうに散歩をしている。そういう種類のがんだった
のだろう。が、最近になって、自宅で、在宅ケアを受けているという。詳しくは、知らない。

 その老人は、今でも、昼中、暖かくなると、散歩に出てくる。が、散歩という散歩ではない。何
かに追いたてられるかのように、まっすぐ前だけを見て、足早に歩いている。ときどき、時計や
万歩計をのぞきながら、歩いている。つぎの手術のために、体を鍛えているのか。そんな感じ
さえする。その姿には、どこか悲壮感が漂っている。

 生きるということは、そういうことか。そういうことをいうのか。目的といっても、馬の前につりさ
げられたニンジンのようなもの。いつもそこにあるのだが、それに手が届くことはない。夢や希
望など、とっくの昔に消えた。

 私は、何をしたいのか? それが実は、自分でも、よくわからない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司
 
 
●うれしかったこと

++++++++++++++++

F小学校の入試が
終わった……。

++++++++++++++++

 先日、市内のF小学校の入学試験が終わった。その試験で、BWの生徒のほぼ全員が合格
した。が、不合格の子どももいた。私の教室は、受験塾ではない。が、それでも、私の教室から
は、毎年、20人前後の子どもたちが受験する。80人の入学定員に対して、今年(06)は、15
0人前後が受験したという。倍率は、約2倍ということか。

 が、BW教室(私の教室)では、私は、受験の話は、いっさいしない。夏と冬に1度、通常のレ
ッスンとは別に、入試懇談会をもつが、しかしBW教室の中では、しない。日ごろから、親たち
には、「受験」「受かる」「すべる」という、3つの言葉は、いっさい使わないようにと、お願いして
いる。私は、受験問題ごときの内容に、自分の指導法が振りまわされるのは、好きではない。

 そういう趣旨を親たちは、よく理解してくれている。受験の話など、だれもしない。私もしない
が、親たちもしない。が、それでも何となくそういう話題になったときは、私は、いつもこう言うこ
とにしている。

 「あるがままの子ども育てましょう。そういう子どもがダメだというのなら、こちらからそんな学
校、蹴飛ばしてやればいいのです」
 「F小学校など、当然、合格します」と。

 しかしそれでも、不合格の子どもは、いる。15年ほど前までは、毎年、全員合格という時代
がつづいたが、それ以後は、そうではない。今年も、不合格の子どもがいた。「絶対だいじょう
ぶ」と自信をもっていた、Rさん(年長児)が、その1人。聡明で、人格の完成度も、きわめて高
い子どもである。

 そのRさんの母親から、電話があった。「娘は、F小学校に行くつもりでいました。不合格だっ
たことをどう説明したらいいのか、わかりません」と。

 こういうケースで重要なのは、親は、決して、うろたえてはいけないということ。子どもは、親の
落胆ぶりを見て、それを自分の心のキズとしてしまう。トラウマというほど大げさなものではない
かもしれないが、心のキズにしてしまう。そういうケースは、多い。親が堂々としていれば、一過
性のできごととして、そのまま消えてしまう。

 サラッと受け流して、サラッと忘れる。それをRさんの母親に説目した。が、Rさんの母親は、
「BW教室の中で、話題になったら、どうしましょう?」と。

 しかし心配は、無用。私の教室の親たちのレベルは、高い。H市内でも、「知的な」という意味
で、トップクラスの人たちが集まっている。それに私は幼児を教えているが、実は、その幼児を
とおして、親たちを指導している。子どもにとって、何が大切で、何がそうでないかを、指導して
いる。

 「幼児教育は、母親教育」が、私の教育理念の柱にもなっている。

 が、親たちを直接教えているわけではない。子どもたちを楽しませ、喜ばせ、そして子どもた
ちを明るく前向きに、ひっぱっていく。そういう子どもたちの姿を見せながら、参観する親たち
に、自分の子育てに、夢や希望をもってもらう。自信をもってもらう。それが教室の雰囲気を、
やさしく、なごませる。

R「BWで、お宅の子、どうでしたと聞かれたら、何と言えばいいでしょうか」
私「そういうことを聞くようなレベルの低い親は、BWには、いませんよ」
R「そうでしょうか?」
私「じゃあ、あなたなら、聞きますか?」
R「聞きません」
私「……でしょ。話題にもしませんよ」と。

 ただ、私には、電話などで、結果を知らせてくれる人はいる。しかしそういう電話でも、「あの
子は、どうでしたか」「この子は、どうでしたか」と聞くような親は、いない。もし聞かれても、私は
答えないだろう。私がもつ、そういう雰囲気は、日ごろのレッスンの中で、親たちにじゅうぶんす
ぎるほど、伝わっている。

 ……ともかくも、受験は終わった。合格発表も終わった。で、その二次の抽選の日、(実際に
二次の抽選はなかったが)、たまたまその日の午後から、年長児のクラスがあった。ほとんど
全員が、F小学校を受験したはずである。

 午後3時。1人だけ、「合格しました」という報告のあと、急用で休むという連絡があった。が、
それだけ。しばらく待っていると、その1人をのぞいて、全員が来てくれた。受験だけが目的な
ら、生徒は来ないはず。親も来ないはず。

 私は、それがうれしかった。本当に、うれしかった。私はいつもどおりのレッスンを、しかしい
つもより力をこめて、した。

 帰り際、親たちとも会話を交わしたが、だれも、受験の話などしなかった。指で、Vサインや、
OKマークの信号を送ってくれた親はいた。ほかの親たちの目を盗んで、目で「合格しました」と
サインを送ってくれた親もいた。が、それだけ。それでおしまい。

 私とて、結果が気にならないと言えば、ウソになる。しかし受験が終わって、1週間以上にな
るが、不合格だったのは、そのRさんだけ。

 最後にあえて一言。今年のF小学校の先生たちは、目が高い。すばらしい。Rさんの件は、と
ても残念だが、しかし子どもたちをしっかりと見ている。選んでいる。それが今、どういうわけ
か、とてもうれしい。

 Rさんへ、あなたのお子さんはすばらしい子どもですよ。私が保証します。Rさんご自身も、レ
ッスンを参観なさっていて、それがよくわかっているはずです。これからも自信をもって、今のま
まの子育てをつづけてください。受験には、それ自体に、くじ引きのような部分があります。とく
に相手が幼児のときは、そうです。そう考えて、あとは、おいしいものでも食べて、受験のこと
は、忘れてください。

 「BWはやめない」と言ってくださったことに感謝しています。その言葉に、私は、全力で、お返
しをします。約束します。私の実力を、本当にお見せできるのは、これからです。よろしくお願い
します。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●パソコンの寿命

+++++++++++++

5年間使ったパソコンの
動きが、このところ、急に
おかしくなってきた。

+++++++++++++

 私は、パソコンの寿命は、3〜4年。長くて、5年とみている。3〜4年もすると、性能的に、ガ
クンと見劣りがするようになる。ハードディスクの容量が少ないとか、メモリーが少ないとか…
…。パソコンにさせる仕事量そのものが、多くなるということもある。

 現在、1つのファイルに、たとえば1万5000ページ前後の文書が入っているのがある。そう
いう文書のばあい、一度開くと、とたんにパソコンが、重くなってしまう。サラサラとしていた感じ
が、モタモタとした感じになる。

 またホームページの編集も、そうだ。私のメインのHPは、50MB弱のサイズだが、これくらい
のサイズになると、編集のあと、保存するだけでも、4時間前後もかかってしまう。

 こうなってくると、もっと性能のよいパソコンが、ほしくなる。が、それだけではない。加えて、
本体のハードそのものが、あちこち、痛んでくる。よく「ハードディスクの寿命は、5年くらい」と
か、「メモリーも損傷してくる」とか、言われる。雑誌などには、そう書いてある。

 具体的には、ワードで作業をしていても、単語登録ができなくなるとか、罫線が引けなくなると
か、そういった不具合となって現れる。

 そこで「新しいパソコンがほしい」となる。

 が、幸いなことに、年を追うごとに、パソコンの値段は安くなる。性能もよくなる。だからますま
す新しいパソコンがほしくなる。その期間が、3〜4年ということになる。

 ところで、5年間使ってきたF社製のパソコンだが、このところ、動きが急におかしくなってき
た。システムチェックをしたり、デバッグしたりしているが、どうもおかしい。もちろんウィルスチェ
ックもしている。スパイウェア・ソフトもインストールした。原因は、多分、メモリー不足だと思う。

 ときにメモリーの使用量が、残り10〜20%を切ることがある。私にとっては、一番大切なパ
ソコンだから、つまり重要な仕事を任せているパソコンだから、不安といえば、不安。で、今
は、そのパソコンの中のデータを、DVDに焼いたり、外付けのハードディスクに移しかえたりし
ている。

 こうなると、そのパソコンの寿命は、さらに短くなる。私の予想では、多分、この秋までは、も
たないと思う。本当は、明日にでも買いかえたいが、秋には、MS社から、BISTA(OS)が、発
売になる。それで「秋まで」と考えている。

 パソコンは、本当にデリケートな電気製品だと思う。電気製品というより、(生き物)のような感
じがする。あちこちガタがきたF社製のパソコンを使っていると、そのガタが、老化現象のように
さえ思えてくる。人間の老化現象と、パソコンの故障のし方は、よく似ている。

 私も左肩の腱を切ってから、左上を、肩より高くあげられなくなった。道路を走ったりすると、
すぐ膝(ひざ)が、ガクガクし始める。一度に老化するのではなく、少しずつ、あちこちが老化し
てくる。ガタがくる。パソコンもそうだ。

 しかしF社のそのパソコンは、当時、24万円もした。当時はまだ珍しかった、17インチのワイ
ド画面のパソコンである。「捨てる」といっても、そうは簡単に捨てられない。愛着がある。その
点も、ふつうの電気製品とちがう。

 とにかく今は、もう少し使ってみるつもり。だましだまし……といった感じだが、今は、がまん
のとき。毎日、パソコンのカタログを見ながら……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●夫婦げんか

++++++++++++++++++

夫婦げんかは、心にふりかける
スパイスのようなもの。

定期的にけんかをして、たがいに
さみしい思いをして、そしてまた
ヨリを戻す。

けんかはいやなものだが、しかし
ときには、それも必要なのかも?

++++++++++++++++++

 おととい、掃除のことで、ワイフと口論をした。けんかをした。私が不平をブツブツと口にしな
がら、ワイフを手伝わせていると、ワイフがキレた。

 「うるさいわね。掃除は、私がするから、あなたは、あっちへ行っていてよ!」と。

 そういうときのワイフは、まるで別人のよう。一方、私は、そういうとき、すぐ家を出たくなる。
そういうクセがある。で、いくつかの捨てゼリフを残して、私は、外に出た。雨が降っていた。
が、そのまま、市内の職場に向かった。

 こういうときふつうの人なら、バスに乗っていくことを考える。しかし私は、ただひたすら、歩く。
歩きながら、何もかも忘れようとする。が、おとといは、はげしい雨。靴からズボンまで、すぐ、
びしょ濡れになってしまった。それでも歩いた。

 しかし市内までは、7キロ近くもある。約3分の2ほどまで歩いたところで、ダウン。足が痛くな
った。近くにあった、バス停の屋根の下で休んでいると、バスが来た。私は、そのまま、バスに
乗った。

 私の中には、たしかに2人の人間がいる。二重人格者かもしれない。ふだんは、ユーモアが
あって、ひょうきんな私だが、そういうときの私は、冷酷で、破滅的。「あんなヤツ、明日、離婚
してやる」とか、「このまま死んでやる」とか考える。

 が、職場に入ると、気分が、変わる。職場というより、子どもたちの声を聞くと、とたんに変わ
る。それが私の仕事の、よいところ。1〜2分も、子どもたちとワイワイと騒いでいると、ワイフ
のことなど、すっかり忘れてしまう。けんかのことなど、すっかり忘れてしまう。

 が、その日は、X曜日。毎週X曜日には、空き時間が1時間半ほどある。その時間の間、私と
ワイフは、毎週、デートをすることにしている。街中でショッピングをしたり、食事をしたりする。

 で、レッスンが終わるころ、つまり空き時間に近づくこと、それが気になりだした。「あいつ、今
日は、来るだろうか?」と。

 そういうけんかをしたあとというのは、いつもなら、ワイフは、来ない。ワイフの精神の完成度
は、私より高い。情緒も安定しているし、自己管理能力も高い。おまけにがんこ。気が強い。

 あきらめていると、ドアがあいて、ワイフが入ってきた。とたん、ポーッとしたうれしさが、心の
中に広がった。しかしそれを顔に出しては、おしまい。私は相変わらず不機嫌な顔をしたまま、
ワイフを無視した。

 ワイフはワイフで、教室のうしろのほうを掃除したり、子どもたちが散らかしたものを片づけた
りしていた。

 で、そのレッスンは、終わった。子どもたちを見送ったあと、私も外に出た。外に出て、階段
のところに腰をかけた。座った。座って、ワイフを待った。ワイフは、教室の中に、そのまま。

 1分……、2分……。

 こういうとき、ワイフは、決して私のあとを追いかけてこない。私はすでに気分転換をすませて
いるが、ワイフはそうでない。あのけんかのときのまま。3分……、4分……。

 しかたないので、教室のドアをあけた。ワイフは、かがんで、何やら仕事をしていた。

 「おい、行くよ」と声をかけると、ワイフは、驚いたような様子で、「あら、あなた、まだいたの?
 もう行ってしまったかと思った」と。

 「おい、何か、おいしいものを食べるか?」「うん」と。

 外へ出ると、雨は小降りになっていた。

ワ「私、追いかえされるかと思った……」
私「そんなこと、したことないだろ」
ワ「ふ〜ん」
私「本当はね、お前が来てくれて、うれしかった……」と。

 ワイフも、このところ、急に気弱になった。そんな感じがする。若いころのワイフなら、そのま
ま数日間くらいなら、私とは口もきかなかった。が、今は、ちがう。「追いかえされるかと思った」
と。そんな気弱なことを言うようになった。

 そういうワイフが、いとおしかった。

私「お前が、そんなふうに言うなんて、信じられない。ぼくなんか嫌いなのだろ?」
ワ「それは、あなたの妄想よ。私、そんなふうには、思っていないもの」
私「もともと好きで結婚した相手でもないだろ?」
ワ「でも、もう35年もいっしょにいるのよ。そんなことないわよ」と。

 で、結局は、その日は、近くの店で、焼きそばを食べた。ワイフは、コーラを飲んだ。そして私
は、いつものようなバカ話を始めた。どうでもよいようなバカ話である。それを聞いて、ワイフ
は、ケラケラと笑った。

 夫婦げんかはいやなもの。できるなら、したくない。そのときも、そう思った。しかし夫婦でも、
けんかもしなくなったら、おしまい。言いたいことも言えなくなったら、おしまい。……というような
自己弁解は、さておき、やはり、家庭の中は、平和であるほうが、よい。もう夫婦げんかは、や
めよう。ホント!


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●日米の金融制裁

++++++++++++++

アメリカによる、K国制裁が、
本格化してきた。
それに日本も同調し始めた。

危うし、K国!

+++++++++++++++

 2月1日、日本の金融機関は、マカオのバンコ・デルタ・アジア(=BDA)に対し、自主的に取
引停止に踏み切った。BDAは、K国の金融犯罪に関与した疑いが強いと米政府が認定した銀
行である。

 BDAは、アメリカ当局によると、K国の政府機関や関連企業と20年以上にわたって取引して
おり、同行が違法活動している証拠を入手。K国当局者に協力して、米ドルの偽札を含む現金
を同行に預け入れ、市場に流通させるなどの違法行為をしていたとされる。

 これに対して、K国が、猛反発。「偽札づくりというのは、アメリカ政府のデッチあげ」と息巻い
ている。が、悲しいかな、そんなK国の言い分を信ずるのは、韓国のN大統領だけ。

 が、それですまない。アメリカはすでにつぎの手に、着手している。1月31日、アメリカは、「K
国制裁草案」なるものを、公表した。それによると、(1)いかなる金融機関もバンコ・デルタ・ア
ジア銀行とは取り引きできなくなる。(2)BDA銀行が他の金融機関を利用して、アメリカの金融
システムにアプローチするのができなくなる、という。

言いかえると、「BDA及び同銀行が利用する金融機関と取り引きする金融機関は、アメリカの
いかなる金融機関とも取り引きできない」ということになる。今回の日本の金融機関の措置は、
アメリカの草案を先取りしたものということになる。

 もっとわかりやすく言えば、BDAだけではなく、BDAと取り引きのある銀行すべてが、制裁対
象となる。つまりこうしてBDAから、他の銀行にK国の資金が流れるのを阻止するだけでなく、
事実上、それによってK国は、貿易を含め、対外活動ができなくなる。

 もちろんK国は、こうした措置に対して、さらに反発するだろう。しかし反発すればするほど、
そこにまっているのは、さらに大きな国際社会からの制裁である。身のほど知らずというか、K
国には、もともと勝ち目はない。

 K国のGDPは、日本の山陰地方にある1つの県ほどもないという。それ以下かもしれない。
そんな国が、アメリカや日本を相手に、経済戦争をしても、勝てるわけがない。どうしてこんな
簡単なことがわからないのかと思うが、そこは、K国。すべての常識が、ゆがんでいる。

 が、こんなことも言える。『窮鼠(きゅうそ)、猫をかむ』という。今のK国は、それを逆手にとっ
て、アメリカや日本に反発しているわけだが、本当に『猫をかむ』という状況にならないともかぎ
らない。韓国に亡命している、F氏(K国元高官、金xxの側近)は、「金xxには、その度胸はな
い」と言っているが、それもK国の窮乏状態にもよるのでは……? 平均的勤労者の1か月分
の給料が、0・7ドル(日本円で80円)という現状は、それ自体が、すでに常識の範囲を超えて
いる。

 ますます目が離せなくなったK国。ある日、東京のど真ん中で、核兵器が爆発してからでは遅
い。そうならないように、私たち日本人はみな、今、K国問題から目をそらしてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●新しい惑星が発見された!

++++++++++++++++++++

太陽系、第10番目といわれる、新しい惑星が
発見された。

何とも、ロマンに満ちた話ではないか。

第10番目ねえ〜と思ってみたり、
「今ごろ、なぜ?」と思ってみたり……。

この太陽系は、私たちが思っているより、
はるかに大きいようである。

++++++++++++++++++++

 太陽系に、第10番目の惑星が発見されたという。前から、あれこれうわさはされていたが、
どうやら、今度は、確実なようである。大きさは、やや月より小さいかという感じ。中日新聞は、
つぎのように伝える(2・2)。

「米航空宇宙局(NASA)が昨年夏、「太陽系10番目の惑星」と発表した天体は直径約3000
キロで、冥王星より大きいことが、ドイツ・ボン大などの観測でわかった。研究チームは「惑星」
説を支持する結果だとしている。2日付の英科学誌ネイチャーに掲載された。
 この天体は海王星や冥王星よりも外側の軌道にあり、太陽からの距離は地球までの約97
倍。あまりに遠いため、可視光の観測では正確な大きさが決められなかった。
 研究チームは、スペインにある電波望遠鏡を使って天体から放射される熱を検出、太陽から
の距離を基に直径を割り出した。冥王星(約2400キロ)と、月(約3500キロ)のほぼ中間の
大きさで、1846年の海王星発見以来、太陽系で見つかった最大の天体になるという。
 天体はまだ、国際天文学連合に惑星と認定されていない。どんな条件がそろえば惑星と呼
べるかについて一致した見解はないが、大きさは重要な要素。冥王星をめぐっても『惑星では
ない』との強力な主張があり、論争を呼んでいる」と。

 この第10番目の惑星(?)の記事を読んで、最初に思い出したのが、「謎の惑星、ニビル」。
古代メソポタミアの時代から、「ある」とされてきた惑星である。

 それについて、昨年書いた原稿を、まず、ここに!

**************************

●シュメール人

 古代メソポタミアに、不思議な民族が住んでいた。高度に知的で、周囲文化とは、かけ離れ
た文明を築いていた。

 それがシュメール人である。

 彼らが書き残した、「アッシリア物語」は、そののち、旧約聖書の母体となったことは、よく知ら
れている。

 そのシュメール人に興味をもつようになったのは、東洋医学を勉強していたときのことだっ
た。シュメール人が使っていた楔型(くさびがた)文字と、黄河文明を築いたヤンシャオ人(?)
の使っていた甲骨文字は、恐ろしくよく似ている。

 ただしメソポタミア文明を築いたのは、シュメール人だが、黄河文明を築いたのが、ヤンシャ
オ人であったかどうかについては、確かではない。私が、勝手にそう思っているだけである。

 しかしシュメール人がいう「神」と、甲骨文字で書く「神」は、文字の形、発音、意味が、同じで
あるということ。形は(米)に似ている。発音は、「ディンガー」と「ディン」、意味は「星から来た
神」。「米」は、「星」を表す。

 ……という話は、若いころ、「目で見る漢方診断」(飛鳥新社)という、私の本の中で書いた。
なぜ、東洋医学の中で……と思われる人も多いかと思うが、その東洋医学のバイブルとも言
われている本が、『黄帝内経(こうていだいけい)・素問・霊枢』という本である。この中の素問
は、本当に不思議な本である。

 私は、その本を読みながら、「この本は、本当に新石器時代の人によって書かれたものだろ
うか」という疑問をもった。(もちろん現存する黄帝内経は、ずっとあとの後漢の時代以後に写
本されたものである。そして最古の黄帝内経の写本らしきものは、何と、京都の仁和寺にある
という。)

 それがきっかけである。

 で、このところ、再び、そのシュメール人が、宇宙人との関係でクローズアップされている。な
ぜか?

 やはりシュメールの古文書に、この太陽系が生まれる過程が書いてあったからである。年代
的には、5500年前ごろということになる。仮に百歩譲って、2000年前でもよい。

 しかしそんな時代に、どうして、そんなことが、シュメール人たちには、わかっていたのか。そ
ういう議論はさておき、まず、シュメール人たちが考えていたことを、ここに紹介しよう。

 出典は、「謎の惑星『ニビル』と火星超文明(上)(下)・ゼガリア・シッチン・ムーブックス」(学
研)。

 この本によれば、

(1)最初、この太陽系には、太陽と、ティアトマと水星しかなかった。
(2)そのあと、金星と火星が誕生する。
(3)(中略)
(4)木星、土星、冥王星、天王星、海王星と誕生する。
(5)そこへある日、ニビルという惑星が太陽系にやってくる。
(6)ニビルは、太陽系の重力圏の突入。
(7)ニビルの衛星と、ディアトマが、衝突。地球と月が生まれた。(残りは、小惑星帯に)
(8)ニビルは、太陽系の圏内にとどまり、3600年の楕円周期を描くようになった、と。

 シュメール人の説によれば、地球と月は、太陽系ができてから、ずっとあとになってから、ティ
アトマという惑星が、太陽系の外からやってきた、ニビルという惑星の衛星と衝突してできたと
いうことになる。にわかには信じがたい話だが、東洋や西洋に伝わる天動説よりは、ずっと、ど
こか科学的である。それに現代でも、望遠鏡でさえ見ることができない天王星や海王星、さら
には冥王星の話まで書いてあるところが恐ろしい。ホント。

 どうしてシュメールの人たちは、そんなことを知っていたのだろうか。

 ここから先のことを書くと、かなり宗教的な色彩が濃くなる。実際、こうした話をベースに、宗
教団体化している団体も、少なくない。だからこの話は、ここまで。

 しかしロマンに満ちた話であることには、ちがいない。何でも、そのニビルには、これまたとん
でもないほど進化した生物が住んでいたという。わかりやすく言えば、宇宙人! それがシュメ
ール人や、ヤンシャオ人の神になった?

 こうした話は、人間を、宇宙規模で考えるには、よい。その地域の経済を、日本規模で考え
たり、日本経済を、世界規模で考えるのに似ている。視野が広くなるというか、ものの見方が、
変わってくる。

 そう言えば、宇宙へ飛び出したことのある、ある宇宙飛行士は、だれだったか忘れたが、こう
言った。「人間の姿は、宇宙からはまったく見えない。人間は、地上をおおう、カビみたいなも
のだ」と。

 宇宙から見れば、私たち人間は、カビのようなものらしい。頭の中で想像できなくはない。た
だし、カビはカビでも、地球をむしばむ、カビ? が、そう考えていくと、日本人だの、中国人だ
のと言っていることが、おかしく見えてくる。

 それにしても、周期が、3600年。旧約聖書の時代を、紀元前3500年ごろとするなら、一
度、そのころ、ニビルは、地球に接近した。

 つぎにやってきたのが、キリストが誕生したころということになる。

 で、今は、西暦2005年だから、この説に従えば、つぎにニビルがやってくるのは、西暦360
0年ごろ、つまり1600年後。

 本当にニビルには、高度な知能をもった生物がいるのだろうか。考えれば考えるほど、ロマ
ンがふくらむ。若いころ、生徒たちを連れて、『スターウォーズ』を見に行ったとき感じたようなロ
マンだ。「遠い、遠い、昔、銀河系の果てで……」というオープニングで始まる、あの映画であ
る。

 ワイフも、この話には、たいへん興味をもったようだ。昨日もいっしょに書店の中を歩いてい
ると、「シュメール人について書いた本はないかしら」と言っていた。今日、仕事の帰りにでも、
またさがしてみよう!

 待っててよ、カアーチャン!(4・29)


【付記】

 しかし空想するだけで、ワクワクしてくるではないか。

 遠い昔、別の天体から、ニビルという惑星がやってきて、その惑星の衛星が、太陽系の別の
惑星と衝突。

 地球と月が生まれた。

 そのニビルという惑星には、知的生物、つまり私たちから見れば、宇宙人が住んでいた。ひ
ょっとしたら、今も、住んでいるかもしれない。

 そのニビルは、3600年周期で、地球に近づいてきて、地球人の私たちに、何かをしてい
る? 地球人を改造したのも、ひょっとしたら、彼らかもしれない? つぎにやってくるのは、多
分、1600年後。今は、太陽系のはるかかなたを航行中!

 しかしそう考えると、いろいろな、つまりSF的(科学空想小説的)な、謎が解消できるのも事
実。たとえば月の年代が、なぜ、この地球よりも古いのかという謎や、月の組成構造が、地球
とはなぜ異なっているかという謎など。

 また月が、巨大な宇宙船であるという説も、否定しがたい。「月の中は空洞で、そこには宇宙
人たちの宇宙基地がある」と説く、ロシアの科学者もいる。

 考えれば、考えるほど、楽しくなってくる。しかしこの話は、ここまで。あとは夜、月を見なが
ら、考えよう。ワイフは、こういう話が大好き。ほかの話になると眠そうな表情をしてみせるが、
こういう話になると、どんどんと乗ってくる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●謎のシュメール

 『謎の惑星(ニビル)と火星超文明』(セガリア・シッチン著)(北周一郎訳・学研)の中で、「ウ
ム〜」と、考えさせられたところを、いくつかあげてみる。

 メソポタミアの遺跡から、こんな粘土板が見つかっているという。粘土板の多くには、数字が
並び、その計算式が書いてある。

+++++++++++++

1296万の3分の2は、864万
1296万の2分の1は、648万
1296万の3分の1は、432万
1296万の4分の1は、324万
……
1296万の21万6000分の1は、60

++++++++++++

 問題は、この「1296万」という数字である。この数字は、何か?

 その本は、つぎのように説明する(下・78P)

++++++++++++

 ペンシルバニア大学のH・V・ヒルプレヒトは、ニップルとシッパルの寺院図書館や、ニネヴェ
のアッシュールバニバル王の図書館から発掘された、数千枚の粘土板を詳細に調査した結
果、この1296万という天文学的数字は、地球の歳差(さいさ)運動の周期に関するものである
と結論づけた。

 天文学的数字は、文字どおり、天文学に関する数字であったのである。

 歳差とは、地球の地軸が太陽の公転面に対してゆらいでいるために発生する、春分点(およ
び秋分点)の移動のことである。

 春分点は、黄道上を年々、一定の周期で、西へと逆行していく。このため、春分の日に太陽
のうしろにくる宮(ハウス)は、一定の周期で、移り変わることになる。

 ひとつの宮に入ってから出るまでにかかる時間は、2160年。したがって、春分点が1周して
もとの位置に帰ってくるには、2160年x12宮=2万5920年かかるのである。

 そして1296万とは、2万5920x500、つまり春分点が、黄道上を500回転するのに要する
時間のことなのだ。

 紀元前4000年前後に、歳差の存在が知られていたということ自体、すでに驚異的である
が、(従来は、紀元前2世紀にギリシアのヒッパルコスが発見したとされていた)、その移動周
期まで求められていたというのだから、まさに驚嘆(きょうたん)に値する。

 しかも、2万5920年という値は、現代科学によっても証明されているのだ。

 さらに、春分点が、黄道上を500回転するのに要する時間、1296万年にいたっては、現
在、これほど長いビジョンでものごとを考えるのできる天文学者は、何人いることだろう。


+++++++++++++++

 シュメールの粘土板の言い方を少しまねて書いてみると、こうなる。

3153万6000の12分の1は、262万8000
3153万6000の720分の1は、4万3800
3153万6000の4万3200分の1は、730
3153万6000の8万6400分の1は、365……

 これは私が、1分は60秒、1時間は60分、1日は24時間、1年は365日として、計算したも
の。これらの数字を掛け合わせると、3153万6000となる。つまりまったく意味のない数字。

 しかしシュメールの粘土板に書かれた数字は、そうではない。1年が365日余りと私たちが
知っているように、地球そのものの春分点の移動周期が、2160年x12宮=2万5920年と、
計算しているのである。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

地球という惑星に住んで、春分の日の、たとえば午前0時JUSTに、夜空を見あげてみよう。そ
こには、満天の夜空。そして星々が織りなす星座が散らばっている。

 しかしその星座も、毎年、同じ春分の日の、午前0時JUSTに観測すると、ほんの少しずつ、
西へ移動していくのがわかる。もちろんその移動範囲は、ここにも書いてあるように、1年に、2
万5920分の1。

 しかしこんな移動など、10年単位の観測を繰りかえしても、わかるものではない。第一、その
時刻を知るための、そんな正確な時計が、どこにある。さらにその程度の微妙な移動など、ど
うすれば観測結果に、とどめることができるのか。

 たとえていうなら、ハバ、2万5920ミリ=約30メートルの体育館の、中央に置いてある跳び
箱が、1年に1ミリ移動するようなもの。100年で、やっと1メートルだ。

 それが歳差(さいさ)運動である。が、しかしシュメール人たちは、それを、ナント、500回転
周期(1296万年単位)で考えていたというのだ。

 さらにもう一つ。こんなことも書いてある。

 シュメール人たちは、楔形文字を使っていた。それは中学生が使う教科書にも、書いてあ
る。

 その楔形文字が、ただの文字ではないという。

●謎の楔形文字

 たとえば、今、あなたは、白い紙に、点を描いてみてほしい。点が1個では、線は描けない。し
かし2個なら、描ける。それを線でつないでみてほしい。

 点と点を結んで、1本の線が描ける。漢字の「一」に似た文字になる。

 つぎに今度は、3個の点にしてみる。いろいろなふうに、線でつないでみてほしい。図形として
は、(△)(<)(−・−)ができる。

 今度は、4個で……、今度は、5個で……、そして最後は、8個で……。

 それが楔形文字の原型になっているという。同書から、それについて書いてある部分を拾っ
てみる(92P)。

++++++++++++++

従来、楔形文字は、絵文字から発達した不規則な記号と考えられているが、実は、楔形文字
の構成には、一定の理論が存在する。

 「ラムジーのグラフ理論」というものを、ご存知だろうか?

 1928年、イギリスの数学者、フランク・ラムジーは、複数の点を線で結ぶ方法の個数と、点
を線で結んだ結果生ずる図形を求める方法に関する論文を発表した。

 たとえば6個の点を線で結ぶことを考えてみよう。点が線で結ばれる、あるいは結ばれない
可能性は、93ページの図(35)に例示したような図形で表現することができる。

 これらの図形の基礎をなしている要素を、ラムジー数と呼ぶが、ラムジー数は一定数の点を
線で結んだ単純な図形で表される。

 私は、このラムジー数を何気なくながめていて、ふと気がついた。これは楔形文字ではない
か!

+++++++++++++

 その93ページの図をそのまま紹介するわけにはいかないので、興味のある人は、本書を買
って読んでみたらよい。

(たとえば白い紙に、4つの点を、いろいろなふうに描いてみてほしい。どんな位置でもよい。そ
の点を、いろいろなふうに、結んでみてほしい。そうしてできた図形が、楔形文字と一致すると
いう。

 たとえば楔形文字で「神」を表す文字は、漢字の「米」に似ている。4本の線が中心で交わっ
ている。この「米」に似た文字は、8個の点をつないでできた文字ということになる。)

 つまり、楔形文字というのは、もともと、いくつかの点を基準にして、それらの点を結んででき
た文字だというのだ。そういう意味では、きわめて幾何学的。きわめて数学的。

 しかしそう考えると、数学などが生まれたあとに、文字が生まれたことになる。これは順序が
逆ではないのか。

 まず(言葉)が生まれ、つぎにその言葉に応じて、(文字)が生まれる。その(文字)が集合さ
れて、文化や科学になる。

 しかしシュメールでは……?

 考えれば考えるほど、謎に満ちている。興味深い。となると、やはりシュメール人たちは、文
字を、ニビル(星)に住んでいた知的生命体たち(エロヒム)に教わったということになるのだろ
うか。

 いやいや、その知的生命体たちも、同じ文字を使っているのかもしれない。点と、それを結ぶ
線だけで文字が書けるとしたら、コンピュータにしても、人間が使うような複雑なキーボードは
必要ない。

 仮に彼らの指の数が6本なら、両手で12本の指をキーボードに置いたまま、指を動かすこと
なく、ただ押したり力を抜いたりすることで、すべての文字を書くことができる。想像するだけで
も、楽しい! 本当に、楽しい!

 ……ということで、今、再び、私は、シュメールに興味をもち始めた。30年前に覚えた感動が
もどってきた。しかしこの30年間のブランクは大きい。(チクショー!)

 これから朝食だから、食事をしながら、ワイフに、ここに書いた二つのことを説明してやるつも
り。果たしてワイフに、それが理解できるかな?

 うちのワイフは、負けず嫌いだから、わからなくても、わかったようなフリをして、「そうねえ」と
感心するぞ! ハハハ。
(はやし浩司 楔形文字 ラムジー グラフ理論 ニビル エロヒム 地球の歳差運動 運動周
期)

【付記】

 食事のとき、ワイフに、ここに書いたことを説明した。が、途中で、ワイフは、あくびを始めた。
(ヤッパリ!)

私「ちゃんと、聞けよ。すごい謎だろ?」
ワ「でもね、あまり、そういうこと、書かないほうがいいわよ」
私「どうして?」
ワ「頭のおかしい人に思われるわよ、きっと……」
私「どうしてだよ。おかしいものは、おかしい。謎は、謎だよ」
ワ「どこかの頭のおかしい、カルト教団の信者みたいよ」
私「ちがうよ、これは数学だよ。科学だよ」
ワ「でも、適当にしておいたほうがいいわよ」と。

 以上が、ワイフの意見。

*******************************


今回発見された、第10番目の惑星と、ニビルの大きなちがいは、その公転周期と軌道。第10
番目の惑星の公転周期は、今のところ不明だが、ニビルは、3600年。つまり3600年をかけ
て、太陽の周囲を一周する。軌道についても、今のところ不明だが、地球や冥王星のように、
太陽をぐるりと円軌道で回るというのであれば、ニビルとはちがう。ニビルは、極端な楕円軌道
を描いて、太陽のまわりを回る。

 そのあたりのことは、今後、科学的に明らかになってくると思う。乞う、ご期待!、というところ
か。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(107)

●共依存

+++++++++++++++

共に依存しあう関係を、「共依存」という。
「家族依存症」と呼ぶ学者もいる。

+++++++++++++++

 以前、「共依存」について、原稿を書いた。それについて、BLOGなどで、何人かの人たちか
ら、意見をもらった。

 それを書く前に、「共依存」について。

 共に自立できず、たがいに、依存しあって生きていくことを「共依存」という。よく例として出さ
れるのが、乱暴で働かない夫と、献身的で従順な妻の関係。夫は、「お前がいなくなると、俺は
死んでしまう」というようなことを妻に思わせ、一方、妻は、そういう夫に仕えることを、生きがい
とする。

 こうした「共依存」関係は、夫婦の関係のみならず、親子の間でも、よく観察される。

 ある父親は、80歳。ことあるごとに、50歳になる自分の娘に向かって、こう言っている。「ワ
シも年をとったよ」「いつ死んでもおかしくないよ」「朝、起きていたら死んでいたということになっ
ても、いいよ」と。つまりそういうふうに心配させることによって、娘に依存しようとする。もっとは
っきり言えば、そういうふうにわざと心配をかけながら、娘を自分から離れていかないようにす
る。

 娘は娘で、そういう父親に不満をいだきながらも、「親は親だから……」と言いつつ、献身的
に尽くす。

 が、娘のほうが、ときどき娘の夫とともに、旅行などに行くときようなときになると、父親は、こ
う言うという。

 「ワシのことは、何も心配せんでもいい。2人で楽しく、やってきてくれ」と。

 それが娘には、イヤミに聞こえるという。「かえってそう言われると、旅行できなくなってしまう」
と。

 さらにときどき娘のほうが、心配になって、父親に電話をすると、こう言うという。言い忘れた
が、娘の母親は、10年ほど前に、他界。現在は、父親は、娘の家から、歩いて10分ほどのと
ころに、ひとりで住んでいる。

娘「ちゃんと、ごはんを食べているの?」
父「ええよ、何も心配しなくても……」
娘「朝ごはんは、食べたの?」
父「だから、心配しなくてもええ……」

娘「ちゃんと食べなくてはいけないよ」
父「おととい買ってきたコロッケが、まだ1個、残っているから、それを食べる」
娘「そんなもの食べて、どうするの。あとで、私が何か、もって行くから……」
父「だから、心配しなくてもええ。ワシはワシで生きていくから。ワシも、そろそろその年だから
……」と。

 こうした会話を通して、父親は、娘の心をたくみに誘導する。父親自身が、それを考えなが
ら、つまり意識的にそうしているというよりは、無意識の世界で、そうしていると考えるほうが正
しい。意識的な演技では、そこまでできない。

 こうした「依存性」について、「良好な親子関係」と、ここでいう「共依存」とは、どう区別するか
という問題がある。良好な親子関係を築いている親子でも、時として、共依存的な様子を見せ
ることがある。BLOGへの書きこみも、それについてのものが、多かった。さらに「共依存でも、
たがいにそれに納得しているなら、それでいいではないか」という意見もあった。

 しかし忘れてならないのは、「共依存関係」というのは、もともと正常な人間関係ではない。そ
のため、そのしわ寄せというか、(ひずみ)は、さまざまな分野に現れる。

 ここに書いた娘にしても、「一日とて、父親のことが頭から離れません」と言って、いくつかの
精神薬を、毎日、のんでいる。つまりその基底に、深い愛情があって、父親のめんどうをみて
いるわけではない。「見るに見かねて……」あるいは、「世間的に放置しておくことはできないか
ら……」という理由で、めんどうをみているにすぎない。

 つまりは自立できない父親と、これまたその呪縛から逃れることのできない親子関係というこ
とになる。

 こういった症状が見られたら、ここでいう「共依存」ということになる。そうでないなら、そうでな
いということになる。

 こうした共依存から、どうすれば脱却することができるかという問題もある。夫婦なら、最終的
には、離婚という方法が残されている。しかし親子となると、そうは簡単に、いかない。家族自
我群から発生する、幻惑に苦しむ。つまりそれほどまでに、脳の中に刷りこまれた(刷りこみ)
は、強力なものである。つまり本能に近い部分にまで、その(刷りこみ)がなされている。

 それから自分を解放するのは、容易なことではない。

 こうして考えてみると、この娘の例をみるまでもなく、自分の子どもに、たくみに心配をかけな
がら、その子どもに依存しようとする親は、それだけでも、ズルイ親ということになる。本来な
ら、親は、親のほうが自立し、子どもたちには心配をかけないようにしなければならない。

 共依存には、そういう問題も含まれている。
(はやし浩司 共依存 家族依存 家族依存症 親子の問題 親から離れられない子供 子供
に依存する親)

【あなたのまわりにも、いませんか?】

●ことあるごとに、「私も年を取ったからねえ……」を口ぐせにする親。
●ことあるごとに、弱々しい親を、わざとらしく演じて見せる親。

たとえあなたの親がそうであるとしても、あなたはあなたとして、自立する。というのは、そういう
親に育てられたあなた自身も、(依存性の強い人)になっている可能性が高い。

そこで重要なことは、まず、自分の中の依存性に気づくこと。「真に私は自立しているか?」と、
自分に問うのもよい。でないと、今度は、あなたたの子ども自身もまた、その依存性の強い子
どもになってしまう。

そしてあなたも、いつか、あなたの子どもに、弱々しい声で、こう言うようになる。「私も、年をと
ったからねえ」と。子育ては、そういう意味でも、世代連鎖しやすい。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(108)

●新しいパソコン

++++++++++++++++

パソコンは、どんどん進化している。
恐ろしいほどの勢いである。

この秋には、新しいOSのVISTA
が発売になるという。

++++++++++++++++

 このところ、暇さえあれば、M社のHPばかり、のぞいている。半年ほど前に、M社から、1台
購入した。調子はよい。今のところ、問題はなし。サクサクと仕事をこなしてくれる。

 が、さらに性能のよいパソコンが、発売になった。

 CPUは、インテルPentium D 940
 メモリーは、2048MB
 グラフィックボードは、nVDIA Geforece 7800GTX

 これだけ見ても、スゴイ! もちろん値段もすごい。税込みで、24万4000円(ディスプレは、
別売)! 「どんなパソコンだろう」と、想像するだけで、胸がワクワクしてくる。

 しかしこの世界、本当に日進月歩。1年前の新製品が、その1年もたつと、陳腐に見えてく
る。このまま進めば、あと1、2年のうちに、CPUを4個重ねた、インテルPentium Dx2という
のも、登場してくるかもしれない。もちろんメモリーは、4096MB!

 メモリーが大きいと、それだけ消費電力も大きくなると言われている。が、メモリー自体も進化
するだろう。より消費電力が少ないものになると考えられる。もちろんCPUも!

 ここに紹介したM社のパソコンは、本体の前面から、4台のハードディスクを、電源を入れた
まま出し入れできるという。ということは、仕事に応じて、ハードディスクを取り替えることも可能
になる。万が一のときのためのデータ保存も、楽になる。いろいろメリットは多い。

 が、今度買うときは、2つの点に注意したい。1つは、4年とか5年の長期保証に加入するこ
と。もう1つは、Officeの、最新版を、プレインストールしたものを購入すること。

 で、その2つを導入すると、値段は、27万8000円になるという(ただし保証期間は、3年)。
とてもおいそれと買える金額ではないが、しかしその程度でないと、「私」が満足しない。

 来週から、またネット取り引きをしてみよう。株の売買でもうけたら、買うつもり。

 
●悲劇!

++++++++++++++++

寒い日だった。私は教室の
ストーブの前で、ガタガタ
震えていた。

しかし、それが悲劇の始ま
りだった。

++++++++++++++++

 寒い日だった。天気の予報官は、「暖かくなる」と言った。が、ハズレ。雨がやむと、日没ごろ
から、急に冷え始めた。身の置きどころのないような寒さだった。

 このところ、肉らしい肉は、食べていない。菜食主義というわけでもないが、しかしそれに近
い。生徒たちに、「君たちは、寒いか?」と聞くと、みな、「ううん」と。

 風邪の前ぶれだろうか。悪寒かもしれない。そんな気配も、あるにはあった。

私「寒くない?」
子「寒くないよ」
私「ホント?」
子「先生は、寒いの?」
私「そう、ガス欠だよ」

子「ガス欠って、何?」
私「ほら、車でも、ガソリンがないと、走らないだろ。あれと同じだよ」
子「そう、ガズ欠ね」と。

 私は、「ガス欠もしらないのか」と思ったが、黙って、ストーブの前に立った。が、寒い。少し前
から、温かいお茶をつづけて飲んでいたが、少しも、体が暖まらない。と、そのとき、ワイフが、
教室の中に入ってきた。「あなた、もってきたわ」と。

私「何?」
ワ「トレーナーよ。その薄着じゃ、寒いに決まっているわよ」
私「ありがたい。トレーナーかア」
ワ「これを、中に着て……」と。

 その少し前、私はワイフに電話をかけた。寒さを訴えた。ワイフは、それを知って、店で、安
物だが、トレーナーを一着、買って、届けてくれた。それを、子どもたちに隠れて、炊事室で着
た。上着のシャツの下とズボンの下に……。

 変わった生地でできているトレーナーだった。着たとたん、ほんわかとした温もりが、肌に伝
わってきた。

私「これならいけそうだ」
ワ「あら、そう。よかったわ」と。

 残りのクラスは、2つだけ。小学校の高学年児クラスと、中学生のクラス。しかしズボンの下
に、トレーナーとは! 一度、そのかっこうで失敗したことがある。

 もう10年になるだろうか。ワイフと街を歩いているとき、ワイフが突然、こう言った。「あなた、
ズボンの下に、何、着ているの?」と。見ると、ズボンの下から、パジャマのすそが、外に顔を
出していた。

 あわてて家を出てきたため、パジャマを脱ぐのを忘れた。そのままズボンをはいた。……とま
あ、そんな失敗である。

 見ると、何となく、ズボンの下からトレーナーが見える感じ。私は座ったまま、立つこともでき
なかった。と、そのとき、参観の親たちが、2、3人、ゾロゾロと入ってきた。

 「まずい」と思った。女性は、こういうことに、目ざとい。

 私は、足を反対側に向けると、ズボンの下のトレーナーを上に、まくってあげた。いくら何で
も、そういう姿は、母親たちには見られたくない。しかし立ったとたん、トレーナーが、下に落ち
ていくのがわかる。アアア……!

 で、やっとのことで、そのレッスンを終えた。が、今度は、猛烈な尿意。寒いときの尿意は、こ
れまた強烈。「したい」と思ったとたん、膀胱がはち切れそうになった。したい……。したい…
…。

 生徒や親たちとのあいさつもそこそこに、部屋を出ようとすると、1人の母親が、私に話しか
けてきた。

母「先生、あのう……」
私(やめてくれ……)
母「少し、相談したいことがあるのですが……」
私(あとにしてくれ……)

母「○子のことですが……」
私「はい……」
母「4月からのことですが……」
私(早くしてくれ……)と。

 で、思い切って、言った。もう、もたなかった。「あのう、実は、トイレに行きたいのです。ちょっ
とだけいいですか」と。そう言い終わらないうちに、廊下の右にある、トイレに駆けこんだ。便器
の前に立った。

 ところが、である。ズボンのチャックをあげたところまではよかったが、いくら両手でかきわけ
ても、中が開かない! まるで、大きな鉄の扉が閉まっているような感じ。数回、かきわけたあ
と、気がついた。トレーナーだア!

 私は、ズボンのベルトをはずした。そしてズボンを下にさげた。同時に、トレーナーとパンツも
さげた。瞬間、小便が、堰(せき)を切ったように、外へはじき飛んだ。とたんうしろから子ども
の声がした。

 「先生って、そうやってオシッコをするんだア」と。見ると、その母親の娘の○子! 

私「トイレから出て行け!」
子「ハハハ」
私「セクハラだア」
子「ハハハ」と。

 小便が終わって、また教室へ。母親はそこに立って、私を待っていた。○子は、知らぬ顔し
て、備えつけたマンガの本を読んでいた。

 ……そのあとのことは、ここに書いても意味がない。いつもの、よくある親の相談。そしていつ
もの私の返事。

 きっとあとで、○子は、私のことを話しただろう。いや、話さなかったかもしれない。あの年齢
になると、子どもでも、そういうことは親には話さない。あるいは、話したかもしれない。「先生っ
て、オシッコをするとき、お尻を出してするのよ。赤ちゃんみたい」と。

 それにしても、いやな思い出を作ってしまった。どうやって弁解してよいのかわからない。それ
でありのままをここに書いた。○子よ、○子の母親よ、どうか、この文章を読んでくれ。口で説
明したり、弁解したりするのは、私には、あまりにもつらい。

 私は、お尻を出して、小便など、しないぞ!


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

【赤ちゃん返り】

+++++++++++++++

赤ちゃん返りを決して、安易に
考えてはいけない。

赤ちゃん返りは、子どもの心を
本能的な部分で、ゆがめる。

あるいは、さまざまな情緒障害の
引き金を引くきっかけともなる。

+++++++++++++++

●ゆがんだ心

 赤ちゃん返りと呼ばれる、よく知られた現象が、子どもの世界には、ある。ところが、である。
いろいろな心理学の本を見ても、この「赤ちゃん返り」について書いた本が、ほとんどない。(私
は読んだことがない。)

 これほどまでに重要な現象について、それについて書いた本がないというのは、どういうこと
か。だいたいにおいて、文字すら、定まっていない。「赤ちゃん返り」なのか、それとも「赤ちゃん
帰り」なのか。

 私は、一度、子どもが大きくなって、また赤ちゃんの心理状態に戻るという意味で、「返り」と
いう文字を使っている。「返り咲き」の「返り」である。が、中には、「返り咲き」を、「帰り咲き」と
書く人もいる。

 となると、「赤ちゃん還り」でも、「赤ちゃん回り」でもよいことになる。しかし私はやはり、「赤ち
ゃん返り」が正しいと思う。現象的に考えると、そうなる。

 その赤ちゃん返りについて、昨日、「なおりますか?」と聞いてきた母親がいた。しかしこうし
た、つまり一度ゆがんだ心は、なおらない。そのまま一生、つづく。ただ、表面的には、わから
なくなる。そこで私は、「もぐる」という言葉を使う。

 こういう例が、ある。

●もぐる子どもの心

 下の子どもが生まれたことで、情緒が不安定になってしまった女の子(年中児)がいた。心の
緊張感が、取れなくなってしまった状態と考えるほうが正しい。このタイプの子どもの心は、い
つもある種の緊張状態にある。親に対して絶対的な安心感を覚えることができない。そのた
め、心が休まることがない。そこへ心配ごとや不安ごとが入ると、それを解消しようと、一気に
情緒が不安定になる。

 で、その女の子のばあい、たとえば幼稚園へ出かけるとき、あるいは、おけいこ塾へでかけ
るとき、決まってぐずったり、泣いたりした。が、一度、出かけてしまえば、ケロッとして、あとは
何ごともなかったかのようにすませてしまう。

 そういう姿を見て、その母親も、「二重人格者みたいです。なおるでしょうか?」と。

 そこでその女の子の幼稚園での様子を見ると、ごくふつうの、何も問題のない子どもに見え
た。その女の子が、家庭で、赤ちゃん返りを起こしているなどということは、幼稚園の保育士に
も、わからないだろう。

 が、この段階で、だれも、その女の子の赤ちゃん返りが(なおった)とは、思わない。その女の
子のもう1つの心は、別のところにある。あって、顔を出さないだけである。だから、(もぐる)と
いう言葉を、私は使う。

 こうした例は、多い。たとえば、いじけやすい子ども、くじけやすい子ども、ひがみやすい子ど
も、ねたみやすい子ども、すねやすい子どもなどがいる。そういう子どもでも、環境さえそうでな
ければ、そういった症状は出てこない。時と場合に応じて、そういった症状が外に出てくる。

●程度と症状はさまざま

 赤ちゃん返りも同じように考える。もっとも、その症状には、個人差と、程度の差がある。さら
に症状も、(1)ネチネチと赤ちゃんぽくなる退行型、(2)下の子に攻撃的になる攻撃型、(3)服
従的になる服従型、(4)ベタベタと甘えたりする依存型、(5)ものの考え方が破滅的になる破
滅型などに分類される。

 また同じ赤ちゃんぽくなる退行型にしても、しぐさや動作、ものの言い方まで赤ちゃんぽくなる
子どももいれば、ただその時々において、グズグズするだけの子どももいる。またいろいろなタ
イプが複合することも珍しくない。退行型に依存型が加わるケースは、よく観察される。だから
どの程度から赤ちゃん返りといい、またいわないかという判断は、むずかしい。

 さらにこの赤ちゃん返りが、そののち、さまざまな情緒障害(自閉傾向、かん黙症など)の引
き金を引くことになることもある。下の子が生まれたあと、心(情意)と表情が、遊離してしまっ
た子ども(年中・女児)もいた。その母親は、「外見からは、何を考えているか、さっぱりわかり
ません」と心配していた。何があっても、いつもニタニタというか、ニヤニヤと、意味のわからな
い笑みを浮かべていたからである。

 原因は、本能的な嫉妬心である。

●本能に根ざした嫉妬心

 ここで「本能的」というのは、本人には意識できない、さらに奥深いところで起こる現象という
意味である。だからそういう子どもを叱ったり、説教しても、意味がない。たとえば生後まもない
赤ちゃんは、エンゼル・スマイルに代表されるように、(かわいさ)を親にアピールすることによ
って、自分の生存をはかろうとする。

 つまりそれは赤ちゃんの意識的な行為というよりは、遺伝子そのものに組みこまれた。本能
的な行為と考えるとわかりやすい。もしこの段階で、親から見捨てられたら、子どもは生きてい
くことができない。つまり、人類は、とっくの昔に絶滅していたことになる。

 親から見て、かわいいから、親は子育てをする。そうでなければそうでない。

 下の子に、親の愛情を奪われたという危機感をいだいた子どもは、その(かわいさ)を、再現
することによって、もう一度、親の愛情を、すべて自分に取りもどそうとする。それが赤ちゃん返
りである。

 そのことは、赤ちゃん返りを起こしている子どもを見れば、わかる。

●NSさんのケース

 印象に残っている女の子に、NSさん(当時、年長児)がいた。そのNSさんは、教室でも、片
時も、母親から離れようとしなかった。母親のそばにいて、体をクネクネとくねらせながら、ネチ
ネチと甘えていた。

 「ウママア(ママ)、オウチイエ(おうちへ)、カイエリタイ〜(帰りたい)」と。

 それを見て母親はNSさんを強く叱ったりしたのだが、叱れば叱るほど、逆効果。NSさんの
症状は、ますますひどくなっていった。「おもらしは、毎晩のようにします」「月に、1、2度は、原
因不明の熱を出します」と、母親は言った。

 意識の世界で、自分の体温をコントロールすることはできない。だから私は、本能に近い、無
意識の世界によって、彼女はコントロールされていると判断した。ここで「本能的」というのは、
そういう意味である。

 そのため対処のし方も、症状の内容と程度に応じて、ちがう。症状が軽ければ、そのまま一
過性のものとして終わる。しかし重ければ、もう一度、100%の愛情を上の子に注ぎなおすと
ころから始める。親は、「上の子も下の子も平等です」と言うが、その「平等」が、上の子には、
不満なのだ。

 あとは1年単位で、様子をみる。この問題には、本能的な嫉妬心がからんでいるだけに、容
易には、なおらない。指導する側からすると、赤ちゃん返りを決して、安易に考えてはいけない
ということになる。

●なおそうと思わないこと

 さて、冒頭で相談してきた母親だが、「なおりますか?」と聞いた。私は、「なおらない」と答え
た。「なおそうと思わないことです」とも。しかしここで2つのことが言える。

 1つは、もぐったまま、そのままわからなくなってしまうということはある。とくに赤ちゃん返り
は、その時期特有の症状であり、その子どもが年齢的に成長し、自分を包む世界が変わってく
れば、下の子をそれほど意識しなくなる。そのため赤ちゃん返りという、あの特有の症状は、外
からはわからなくなる。

 もう1つは、こうした(心のゆがみ)は、別の形に姿を変えやすいということ。たとえばよく「上
の子どもは、下の子どもにくらべてケチ」と言われる。生活態度が、防衛的になるために、そう
なると考えるとわかりやすい。

 さらに上の子は、いじけやすくなったり、くじけやすくなったり、ひがみやすくなったり、ねたみ
やすくなったり、すねやすくなったりすることはある。そういう(心のゆがみ)に変化することはあ
る。

 ただここで誤解してはいけないのは、こうした(心のゆがみ)というのは、だれにでもあるとい
うこと。多かれ少なかれ、だれでにでも、ある。私も、あなたも、だ。だからそういう(ゆがみ)が
あるからといって、大げさに考えてはいけない。そういう(ゆがみ)を克服しながら生きていくの
が、人間ということにもなる。

 が、本来なら、そうならないように、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始めるのがよ
い。「ある日、突然、下の子が生まれた」というような状況をつくると、まずい。それがわからな
ければ、あなたの夫が、ある日突然、愛人を家の中に招き入れたようなケースを想像してみれ
ばよい。

 あなたは、果たして平静でいられるだろうか。あるいは夫が、「お前は愛人と、平等にかわい
がってやっている」と言っても、あなたはそれに納得するだろうか。下の子が生まれたときの、
上の子の心理は、それに近い。

 こうして考えていくと、もうおわかりかと思うが、「嫉妬」には、悪魔的な力がある。赤ちゃん返
りがこじれて攻撃的になると、上の子は、下の子を、殺す、あるいは殺す寸前までのことをす
る。それほどまでに、上の子の心をゆがめることもある。

 重ねて言うが、赤ちゃん返りを、決して安易に考えてはいけない。
(はやし浩司 赤ちゃん返り 赤ちゃん帰り 赤ちゃんがえり)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(109)

【日々・雑感】

●ガラス箱の時計

 子どものころ、ガラス箱に入ったような時計があった。大きさは、縦と横が10センチくらい。
高さが15センチくらいではなかったか。まわりがガラス箱のようになっていたので、中の構造
が、よくわかった。

 そこには、無数の歯車と、カチカチとそれを制御する、扇風機のファンになったようなものが
あった。私は時刻を見るというよりは、そのメカニズムがおもしろくて、いつまでもその時計をな
がめていた。

 ……というようなことを、パソコンに応用できないだろうか。つまり私たちがなぜ、パソコンを
使いながらも、ときとして言いようのない不安感に襲われるかといえば、その構造がまったくわ
からないからである。

 ほとんどのパソコンは、不透明の、しかも金属製の箱でできている。どこかが故障しても、ど
こがどう故障しているかさえわからない。もっともパソコンのばあいは、仮に透明の、つまりガラ
ス箱になったからといって、構造がわかるわけではない。しかし外から、どこに何があるかがわ
かるだけでも、安心感がちがうのでは……。

 たとえば箱を透明にして、ハードディスクが作動しているときは、ハードディスクの横のダイオ
ードが点灯する。メモリーが作動しているときは、やはりメモリーの横のダイオードが点灯す
る。「ああ、今、ここが作動しているのだな……」と。

 全面が透明である必要はない。片面とか、2面とかでよい。それによって、ゴミのたまり具合
や、ファンなどの作動状態を、目で確かめることができる。

 ほかにも、外付けのハードディスク、DVD―writer、カードリーダーなど。こういったものも、
透明だとよい。

 ……と考えたが、本当のところ、それでよいのかどうか、私にもわからない。たとえば少し前
まで使っていたマウスは、透明になっていた。最初は、それなりにおもしろかったが、実際に
は、すぐあきてしまった。ただ中身が見えるというだけで、やはり私には、その構造が、何もわ
からなかった。


●降水確率って、何?

 白々と明ける空。どんよりと曇った空。寒々とした冬空。時刻は、午前6時半。

 ふと「降水確率って、何?」と、思った。よく「遠州地方の今日の降水確率は、10%です」とか
いう。

 しかし降水確率って、何?

 降水確率というのは、ある地域で、ある一定時間内に、1mm以上の雨が降る確率をいう。
だから「降水確率、10%」というのは、「その地域で、ある一定時間内に、1mm以上の雨が降
る確率は、10%」という意味になる。それは私でも、知っている。

 しかしこの数字は、いろいろに解釈ができる。

(1)午後12時間のうち、雨が降る時間は、1・2時間ということなのか。
(2)遠州地方の、10%の地域に雨が降るということなのか。

 そこであちこちを調べてみると、こういうことがわかった。

 「過去に同じような天気図になった日を調べてみたところ、10日のうち、1日は、その地域
で、1mm以上の雨が降ったことがわかった」というのを、「降水確率、10%」というのだそうだ
(「世の中の裏事情・PHP版」。)

 だからたとえば「過去に同じような天気図になった日を調べてみたところ、10日のうち、3日
は、その地域で、1mm以上の雨が降ったことがわかった」というのであれば、「降水確率、3
0%」ということになる。

 ナルホド!

 1mm以上だから、小雨でも、ドシャ降りの大雨でも、雨は雨。シトシトと降りつづける雨でも、
カミナリが鳴り響くような瞬間的な豪雨でも、雨は雨。雨の種類は、関係ないそうだ。


●バーコードの秘密

 ついでにもう1つ、雑学。

 私は、いまだにあのバーコードなるものが、信用できない。ショッピングセンターなどで、レジ
の人が、買ったものを、ピッ、ピッと通すたびに、何とも言えない不安感に襲われる。「本当に、
こんなことでわかるのだろうか」とか、「読み取り機だって、まちがえることもあるだろうに」とか。
そんなふうに、考えてしまう。とくにバーコードの部分が、よじれていたり、汚れているときは、そ
うである。そんなわけで私は、いつも、表示板の数字を、じっとながめている。

 そこで同じ「世の中の裏事情・PHP版」を読むと、こう説明している。

 バーコードは、ふつう13桁になっている。そのバーコードを、レーザー読み取り機が読み取る
わけだが、そのとき、読み取り機は、読み取りが正確だったかどうかを、自動的に判別もする
そうだ。

 しくみは、こうだそうだ。

 たとえば……、

 バーコードに書かれた数字が、490230102034xのとき、読み取り機は、その番号を、49
−02301−02034−xの4つの部分に分けて読み取る。

 最初の2桁の49は、国の識別番号。日本は、49か45だそうだ。
 つぎの5桁の02301は、会社の識別番号。
 さらにつぎの5桁の02034は、その会社内部における製品番号。

 最後のxの部分に、実は、謎が隠されているという。

 バーコードを読みこんだ読み取り機は、瞬時に、こんな計算もするという。

(1)こまでの12桁の数字のうち、右から(右からだぞ)、偶数桁の数字を、まず合計する。
 
   このばあい、4+0+0+0+2+9=20となる。

(2)この数字の20を3倍する。このばあい、20x3=60となる。

(3)つぎに同じく右から、今度は、最初の「x」をのぞいて、奇数桁の数字を合計する。

このばあい、3+2+1+3+0+4=13となる。

(4)ここで(2)の「60」と、(3)の「13」を加える。

このばあい、60+13=73となる。

(5)さらに、(4)で出てきた数字を、10の倍数になるよう切りあげる。

このばあい、「73」だから、10の倍数は、「80」となる。

(6)最後に、その10の倍数から、(4)で出てきた数字を、引く。

このばあい、80−73=7となる。つまりx=7ということになる。ちなみに、この「x」の数字を、
「チェック・デジット」というそうだ。

(7)13桁の数字のうち、末尾の数字として、この「7」を書き加える。もしバーコード読み取り機
が、どこかで読み取りのミスをおかすと、この数字は、ちがったものになる。たとえば「7」のは
ずなのに、「2」とか、「3」とかいう数字になる。そうなったとき、読み取り機は、即座に、ブー音
を鳴らす。

 こうしてバーコード読み取り機は、自分が読み取った数字が正しいかどうかを、自動的に判
別するのだそうが、そのエラーは、120万回につき、「たったの4回」だそうだ(同書)。

 ナルホド!

 しかし最後のxの部分が、0〜9までの数字ということになると、エラーをしたばあい、10回の
うち1回は、読み取り機ですらも、「正常」としてしまうのではないのか。それともそれも含めて、
「120万回のうち、4回」ということなのか。(2)のところで、偶数桁の数字を3倍するところに、
何かの秘密が隠されているような気がするが、私には、よくわからない。

 また暇なときに考えてみることにするが、しかし「120万回につき、4回のエラー」を、多いと
みるか、それとも少ないとみるか……。それには個人差があると思う。私は「多い」と思うが…
…。少し神経質かな? 


●たかが風刺画くらいのことで……?

 ことの発端は、デンマークのある新聞が、イスラム教の預言者、ムハンマドの風刺画を載せ
たことによる。これに対して、アラブ諸国のイスラム教徒たちが、猛反発。そこで表現の自由を
かかげる欧州各地の新聞は、この風刺画を、こぞって再掲載。イスラム教徒たちは、さらに反
発。で、事態は、表現の自由の問題を離れて、宗教戦争とも言えるべき段階にまで、こじれて
しまった。その結果、レバノンのデンマーク領事館の入った建物が放火され、死傷者まで出す
始末になってしまった(06年2月)。

多くのイスラム教徒たちは、その風刺画を「イスラム教への侮辱」とみなしているという。

 信仰というのはそういうものだろうということは、私にも理解できる。同じような例は、この日本
国内においても、ないわけではない。今の今も、社会の水面下で、はげしい宗教戦争を繰りか
えしている宗教団体は、いくらでもある。しかし、だ。たかが、風刺画ではないか? 視野が狭
いというか、過激というか……。……と私は、考えてしまうのだが、そう考える私のほうが、おか
しいのだろうか。

 今回もそうだが、もう少し、それぞれの国民に、(自ら考える力)があれば、こうした事件は起
きなかったのではないかと思う。最初に風刺画を描いた、デンマークの作者にしても、そうだ。
ひょっとしたら面白半分に描いたのではないかという部分も、ないわけではない。宗教を信仰し
ている人たちに対して、ほんの少しでも畏敬(いけい)の念があれば、ああいった風刺画は描
けなかったはず。

 一方、アラブのイスラム教徒の人たちもそうだ。いくら1つの信仰を信じているとしても、(自ら
考える力)まで放棄してしまってはいけない。1つの信仰を盲信すればするほど、その人の頭
の中は、カラッポになる。カラッポになるから、盲信という。中には、そういう状態の人を、「熱心
な信者」と評価する人もいるが、カラッポはカラッポ。あとはテープレコーダーのように、他人に
注入された思想を、オウムのように繰りかえすだけ。いくら信仰に埋没しても、決して、そうであ
ってはいけない。

 で、私は今回の一連の事件の背景には、アラブの人たちの、欧米に対する、ある種の反感
や不満があるのではないかと見ている。挫折感というか、疎外感というか……。それが風刺画
をきっかけとして、表にふき出してしまった。

 私自身は、まったくアラブの世界のことは知らない。知らないから、いいかげんなことを言うの
は許されない。しかし彼らの気持ちも、理解できないわけではない。自分たちだけが国際社会
からどんどんと、取り残されていく……。しかもいつもその上には、欧米諸国が君臨している。
その行き場のない(不満)や(怒り)が、今回の風刺画をきっかけとして、暴発してしまった
(?)。

 しかしあえて言うなら、アラブの国々が、これから先、近代国家として生まれ変わるために
は、今のような宗教国家体制をつづけていては、無理だろうということ。決して、イスラム教が
おかしいとか、民主主義がすぐれているとか、そんなことを言っているのではない。

 しかし宗教国家と言われるような国へ足を踏み入れたとたん感ずる、あの息苦しさは何か。
重圧感というか、束縛感というか……。自由に自分の意見を述べることさえできない。彼らの
宗教的機嫌をそこねないように、細心の注意を払わねばならない。つまりそれこそが、それら
の国の近代化をはばんでいる、最大の要因ではないのか。

 怒りに任せて、欧米の大使館を焼きうちすればするほど、国際社会から取り残されていくの
は、実は、彼ら自身なのである。それに気がつかない間は、アラブはアラブ。いつまでたって
も、アラブはアラブということになってしまうのではないか。

 
Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(110)

●1児をもつ女性と交際している、息子(高3)の子ども

++++++++++++++++++++++

一児をもつ若い女性と、交際している高校3年
生の息子。

その息子の母親から、掲示板のほうに、「どう
したらいいか」という相談があった。

父親も、体調を崩しているという。

なおその女性は、現在、満18歳だという。

++++++++++++++++++++++

【掲示板への投稿記事より】(文体は私のほうで、少し変えました。)

林先生。初めまして。とても悩んでます。

息子は、現在、私立男子進学高校の3年生です。
受験真っただ中です。

去年の夏まで受験に向けて、塾や図書館で、頑張って勉強していました。
大学オープンキャンパスにも4校、参加しました。
偏差値60ぐらいの大学です。

夏の終わりに1日だけのアルバイトに友だちに誘われて都会まで行き、そこで今の彼女と出会
いました。それからというもの、無断外泊が始まり、塾には通っていましたが、勉強に身がはい
らなくなってしまったように見えました。ある日、学校にも行かないので、強く叱ると、そのまま、
大きな荷物を持って家を出てしまいました。

高校の先生も塾の先生もいっしょに探してくださり、塾の先生が彼女の家を探しだし、連れ戻し
てくださいました。家から車で3時間のところです。

そのことを知った、塾の、面倒見のいい友断ちが、息子を殴りました。それからは学校へも塾
へも行かず・・でもなんとか、卒業はできそうですが。1学期まで1度も休んだ事がない息子だっ
たのですが・・。

彼女には、1歳になる認知してない子供がいて、その子のためか、息子に優しく、携帯代の30
000円や、交通費1往復3000円も息子に与えたりしています。「そういうことはやめてほしい」
と、言いましたが、「連絡とれないとかわいそう」とか、彼女は言います。

今、彼女は1歳の子どもと2人暮らし。そこに息子は、3日ほどの無断外泊を、しょっちゅうしま
す。塾の先生が最近は家庭教師にきてくれますが、それもすっぽかしたりします。

今、友だちは1人もいません。私たち夫婦はそれなりの学歴があり、親戚もみんなそうです。だ
から、私も頑張ってきました。でも、息子にはそれがいやだったのかも・・でも、夏までは頑張っ
ていたのですが・・ 

カウンセラーの先生も塾の先生も今は何も言わないで、受験が終わったら話しあいましょうと
おっしゃってくださっていますが、私の気持ちは限界です。主人も体調不良になってしまいまし
た。それでも、あとの2人の小学生の娘たちのために、なんとかふんばっています。

先日、息子の机に本人が描いた絵がありました。父・母・妹・妹をひとつの円で囲み、自分とか
いた息子が少し離れたところに描いていました。

家でまったくしゃべらないのです。彼女ができて以来。食事は一緒にしますが、終わったらすぐ
に自分の部屋に行きます。

息子なりに孤独を感じているのだと思いますが、どうしたらいいのか・・・。

私の財布から、しょっちゅうお金を盗みます。2・3万円とか、そういう金額です。最近では小学
生の娘たちの財布からも・・。

まだ、受験は残っていますが、夏の希望校より偏差値20も低い大学です。しかも彼女の家の
すぐそばです。

本人は、受かる気でいます。
夜中に帰ってきて、朝、受験しにでかけます。

お忙しいのに、長文を読んでくださりありがとうございました。
黙っているのが限界になってきたのです。まだ、黙っているべきですか?!
よろしくお願いいたします。

+++++++++++++++++

【はやし浩司より、UK様へ】

 掲示板への投稿ということで、あなた様のことを、UK(unknown)様とします。

 今、UK様は、今まで、ご自身がもっておられた哲学観、倫理観、道徳観、既成概念、常識な
どが、リシャッフルされたような心理状態にあると思われます。そのどれをも、息子さんに否定
されてしまい、大きなショックを受けておられるのが、よくわかります。たいへんな混乱状態にあ
るということも、よくわかります。

 しかし一歩退いて、私のような立場でみると、「今は何も言わないで、受験が終わったら話し
合いましょう」と言う、カウンセラーの先生や塾の先生の言っていることが、正解のように思いま
す。ここでジタバタしても、何も解決しなばかりか、かえって問題をこじらせてしまうだけのように
思います。受験にも、さしさわりが出てくるかもしれません。

 またこうした問題には、さらに二番底、三番底があります。今のUKさんにしてみれば、現在
の状況が、ドン底に見えるかもしれません。しかしここで問題をこじらせてしまうと、さらに、二
番底、三番底へと、(あくまでもあなたから見ての話ですが……)、息子さんは、落ちていく可能
性があります。たとえば大学を中退、就職、その女性と同棲を始める、など。(だからといって、
それをドン底とみるのは、どうかという問題もあります。大切なことは、息子さんは息子さんで、
自分の納得した人生を歩むということです。ドン底かどうかという判断は、最終的には、本人が
すべき問題ということです。)

 私もM物産という会社をやめて、幼稚園の講師になったとき、母親は猛反対し、電話口の向
こうで泣き崩れてしまいました。私にとっては、自分で納得した選択だったのですが……。私の
母にしてみれば、私がドン底にでも落ちたかのように感じたのだと思います。

 高校3年生といえば、もう立派なおとなです。あなたから見れば、(子ども)かもしれません
が、立派なおとなです。あなたが思っている以上に、お子さんは、自分の将来を考え、まわりの
ことを考えています。

 そこでこういう問題では、親意識が強ければ強いほど、あなたのお子さんは、あなたから離
れていくだろうということです。価値観の押しつけ、頭ごなしの説教などは、この際、心して避け
てください。親としてではなく、友として、息子さんの横に立つようにしてみてください。相談相手
になるつもりで接するのがコツです。

またこうした男女関係は、大学生の世界では、今どき、珍しくもなんともありません。たまたま今
は、親と同居しているため、あなたという親の目にとまってしまったにすぎません。年齢的に、
みなより、少し早かったかなというだけのことです。

 で、こうしたケースでは、ある期間、そういった男女関係をつづけても、結局は長つづきせ
ず、みな、別れていきます。いわば、青春時代の、一過性の「熱病」のようなものです。ふつう
は、見て見ぬフリをしながら、やり過ごすものです。が、UKさん夫婦が、それにカリカリすれば
するほど、息子さんとその女性の関係を、より強固なものにしてしまうという可能性もあります。
心理学の世界にも、『ロミオとジュリエット効果』というのが、あります。ご存知ですか? 周囲の
ものが反対すればするほど、当人たちは、より燃えあがってしまい、よりお互いに愛しあってい
ると、錯覚してしまうということです。

 少し無責任な言い方になるかもしれませんが、時期がくれば、息子さんは、自然と、その女性
から離れていくだろうということです。今、息子さんと、その女性を、将来に向かって結びつける
ものが、何もないからです。ともに、生活力もありませんし、その女性にしても、息子さんの存
在を、それほど、重要視はしていないはずです。

 また受験に関していえば、息子さんは、どこか偏差値だけで大学を選んでいるような感じがし
ます。つまり目的や目標が、そこにないのが気になります。UK様自身も、偏差値の高い大学
ほど、息子さんにふさわしいと考えておられるような感じがします。

 今回、こうした事態になった背景には、そうした息子さんやUK様の受験姿勢があったのかも
しれません。つまりこのまま大学に進学しても、どこの大学に入学したところで、遅かれ早か
れ、今のような状況になっただろうと思われます。が、だからといって、どこの大学でもよいと言
っているのではありません。またそうなってもしかたないと言っているのではありません。

 ここは、ともかくも静観するしかないということです。もしUK様に、「私の言うことを聞かないな
ら、大学の学費は出さない」と、あなたの息子さんに言うだけの勇気があれば、話は別です
が、今の状況では、多分、それも無理でしょう。息子さんは、すでにそういうUK様の心の弱さま
で、読んでしまっているように思います。(ただしお金の管理だけは、しっかりとしてください
ね。)

 が、何よりも、大切なことは、UK様の内心はともかくも、つまり内心の迷いはさておき、息子
さんを、信ずることではないでしょうか。少なくとも、表向きは信じているフリをしながら、動揺し
ないことだと思います。

 子育てというのは、本来、そういうものです。思うようになるようで、結局は、ならない。子ども
に振り回されながら、山を越え、谷を越えている間に、親自身が成長させられていく。親が子ど
もを育てるのではありません。子どもが親を育てているのです。

 今のUK様にとっては、つらい毎日かもしれません。そのお気持ちは、よくわかります。しかし
息子さんにも、そろそろ巣立ちのときがきているように思います。が、その巣立ちは、いつも美
しいものとはかぎりません。中には、ののしりあいながら、巣立ちしていく子どももいます。しか
し巣立ちは巣立ち。そういった視点でも、この問題を考えてみてください。

 息子さんが高校3年生では、親としても、できることは、ほとんどないということです。なすべき
ことも、ほとんど、ありません。だれかが説得して……という問題でもありません。

 だからここは静観します。動じないで、うろたえないで。そしてあとは『許して、忘れます』。そ
のあとのことは、必ず、時間が解決してくれます。息子さんは、水がどこかへ流れていくように、
煙がどこかへ流れていくように、やがて自分の道を進み始めます。来るときがくれば、自然と、
そのようになっていくということです。

 あまりお力になれなくて、すみません。1作、7年前に中日新聞に書いた記事を、このあとに
添付しておきます。参考にしてくださればうれしく思います。

++++++++++++++++++++++

●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。が、近所の人
には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえている。

いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生きていてく
れるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようになる。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたこ
とを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(1872〜1970)は、こう書き残している。

『子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる』
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。

+++++++++++++++++++++++++

 UKさんへ、あとは時間が解決してくれますよ。『時は、心の癒し人』です。それを信じて、前に
向って進んでください。過去にとらわれることなく、未来を恐れることなく、今日、今できること
を、懸命に、ただひたすら懸命にすればよいのです。

いっしょに、がんばりましょう!

++++++++++++++++++

【UK様よりの返信、掲示板より……】

林先生、お忙しいのに早速お返事いただきありがとうございます。

書き込みする場所を間違えました。ごめんなさい。

先生のお返事を何度も何度も読んで心より理解したいと思っています。

彼女も18歳。中卒なので、友だちも少ないのだと思います。
1人で1歳の子を育てるのは大変で、息子が必要なんだと思います。

彼女の親父と電話で話しましたが、「恋愛は自由だ」と言われてしまいました。母親からは「あ
なたの息子さんの子だって言いたいけど、違いますよー。ハハh」って感じでどうも感覚が違うと
思いました。でも、息子はいつもやかましく言われてた親より彼女や彼女の親のほうが楽で癒
しの場なのだと思います。

信じて、静観して、許して忘れる。
頑張ります。ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(111)

●幼児の知的能力

+++++++++++++++++++++

4、5歳児の知的能力は、明らかに段階的に
発達する。

それを最初に構造化したのは、ピアジェ(ス
イスの心理学者)だが、それをもう少し、現
場の指導にあてはめて、考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

 ピアジェ(1896〜)は、4、5、6歳児について、つぎのように発達段階を分けている。

【4歳児】

 自分の性別を言う。
 見慣れた物事の名前を言う。
 3数字の反唱ができる。
 2本の直線の比較ができる。

【5歳児】

 2つのおもりの比較。
 見慣れた事物の名前を言う。
 文章の反唱(10音節)ができる。
 4つの硬貨の数え方ができる。
 2片によるはめ絵遊びができる。
 
【6歳児】

 文章の反唱(16音節分)ができる。
 2つの顔の美の比較ができる。
 身近な事物の用途による定義ができる。
 同時になされた3つの命令の実行ができる。
 自分の年齢を言う。
 午前と午後の区別ができる。
(以上、「心理学用語辞典」(かんき出版)より)

 全体としてみると、現代の子どもたちは、ピアジェの時代の子どもたちより、早熟的に発達段
階が、それぞれ早まっている。たとえば6歳児(幼稚園年長児)をみても、50年前には、文字
(ひらがな)の読み書きができた子どもは、5%前後※だったが、現在では、夏休み前の段階
で、約80%の子ども(私の調査では78%)が、ほぼ自由に、読み書きできるようになってい
る。

 (※私が幼稚園児のとき、1クラス40人前後の中で、文字の読み書きができる子どもは、2
人しかしなかった。それを根拠に、ここで5%とした。)

 こうしたピアジェの発達段階を、具体的に、指導要領としてまとめてみると、つぎのようにな
る。

【時的判断能力】

○昨日、明日が理解できるようになる……4歳児
○あさって、おとといが、理解できるようになる……5歳児
○今日が水曜日のとき、明日が木曜日、昨日が火曜日と、曜日を結びつけることができるよう
になる……6歳児

【空間的能力】

○平面上に描かれた地図を、地図として認識できるようになる……4歳児
○地図を見ながら、Aの家から一番遠い家、近い家が判断できるようになる……5歳児
○自分の家のまわりの、簡単な地図を描くことができるようになる……6歳児

【善悪の判断】

○マッチ遊びや、カッター遊びが悪いことだと理解できる……4歳児
○拾ったお金を使うことが悪いことだと、理解できる……5歳児
○ときとばあいによっては、親の禁止命令を破ることも許されるということが理解できるように
なる……6歳児

4歳児は、親や教師の命令に忠実な年齢ということになる。5、6歳児になると、たとえば、社会
的にどうなのかという判断が、入り込むようになる。「拾ったお金で、アイスを買って、公園でみ
んなに分けてあげました。いい子ですか、悪い子ですか」と聞くと、4歳児の大半は、「いい子」
と答える。が、5歳児となると、それが半々くらいになり、6歳児になると、ほぼ全員が「悪い子」
と答える。

【家族関係】

○家族の構成を理解できる。(父親、母親、兄、弟の区別)……4歳児
○父親の父親が、祖父という、2世代のつながりが理解できる……5歳児
○「妹の兄は、自分のこと」「父親の兄が、おじさん」が理解できる……6歳児

【位置関係】

○「右」「左」の感覚が、理解できる……4歳児
○「右の上」「右から3番目」が理解できる……5歳児
○「右から3列目の、上から2段目」が、指導によって理解できる……6歳児

【反復数字】

 まず指導者が、手をたたきながら、「6、3、8」と数字を唱え、それを子どもたちに復唱させ
る。

○4、5数字まで、即座に反復できる……4歳児
○5、6数字まで、即座に反復できる……5歳児
○7数字まで、即座に反復できる(ただし個人差あり)……6歳児

【計数能力】

○30までのものなら、数えることができる……4歳児
○100までのものなら、数えることができる……5歳児
○100を超えて、ものを数えることができる……6歳児

【季節感覚】

○春→夏→秋→冬の変化を理解できる……4歳児
○夏の行事、冬の行事の区別、判断ができる。「夏の果物」「秋の果物」が理解できる……5歳

○月ごとの行事が理解できる……6歳児

【金銭感覚】

○「10円と10円で20円」が理解できる……4歳児
○「30円と5円で、35円が理解できる」……5歳児
○「おつり」「お金が足りない」「あまる」が、理解できる……6歳児

5、6歳から小学2年生ごろまでに、おとながもっているような金銭感覚が、ほぼ完成する。「損
をした」「得をした」という感覚も、このころ、急速に発達する。

なお私のBW教室では、こうした学習を、44のテーマに分け、毎回ちがった角度から、学習、
レッスンをしている。
(はやし浩司 幼児の能力 幼児の学習 幼児の発達段階 知的能力の発達)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(112)

●思考能力

++++++++++++++

考えるということは、
ものを書くこと。

思考能力と言語能力とは、
たがいに密接に関連している。

++++++++++++++

 今朝、こんな夢を見た。どこかの道を、ドライブしていた。しかし道は、どんどんと狭くなってい
った。運転しているのは、ワイフ。私は、左の窓の外を見ながら、ハラハラ、ドキドキ。

 さらに道は、狭くなっていった。幅は、30センチくらいになっただろうか。その道を、ワイフは、
器用な運転さばきで、通りぬけていった……。

 やがて車は、高い山の上に出た。道の先は、川の中に入ってしまっている。私たちは車から
おりた。そして崖の下をのぞいた。そこには、見たこともないような美しい滝があって、水は下
に、流れて落ちていた……。

 おおざっぱに言えば、そんな夢だが、おかしな点は、いくつかある。

 だいたい、道の幅が30センチくらいしかなかったという点がおかしい。そんな道を、車が走れ
るわけがない。おもちゃの車ならともかくも、人間が乗れる車ではない。今、思うと、おかしな夢
だが、その夢を見ているときには、そんなことは考えもしなかった。つまりそのあたりに、私の
思考能力の限界があったということになる。

 が、まったく非論理的な夢かというと、そうでもない。川があり、滝が下に、流れて落ちていた
という点は、論理的である。町の中に滝があったとか、滝が上に向かって流れていたとか、そう
いうのであれば、問題だが、そういうことはなかった。

 こうして考えてみると、(1)無意識下における論理性と、(2)思考能力(判断力)は、別のもの
ということがわかる。

 そこでよく思い出してみると、夢の中に出てきた細い道というのは、先日、ワイフと行った、寸
又峡(すまたきょう)温泉へつづく道だったように思う。私は左側の窓側の席に座って、あの細
い道を、上からながめていた。そのとき、私はハラハラ、ドキドキした。

 道が川の中に消えていたという点については、どうしてそういう夢を見たのかは、わからな
い。ただ、まわりの景色は、子どものころよく遊んだ、長良川の様子に似ていたように思う。

 最後に崖の上から、美しい滝を見たが、それは現実の滝というよりは、映画の中に出てくる
ようなシーンだった。コンピュータ(CG)か何かで合成して作ったような、今から思うと、どこか
不自然な景色だった。崖が、何十段にも重なって下へつづいていて、そのまわりを、けばけば
しい色の森が、取り囲んでいた。

 が、そのときどきにおいて、私は何も考えなかった。何も考えず、その夢を見ていた。しかし
問題は、ここである。なぜ、私は考えなかったのか。ほんの少しだけ考えれば、あらゆるシーン
が、おかしいと気づいたはず。しかし夢の中の私は、何も考えず、見るものをそのまま見てい
ただけ。

 つまり思考能力は、ほとんどゼロの状態だったということになる。

 こうした経験は、つまり思考能力がゼロになるという経験は、夢の中だけの話ではない。現実
の世界でも、よくある。「もう少し深く考えていれば、わかったはずではないか」と、あとになって
後悔するような場面である。しかしそのときは、相手を盲目的に信用してしまったり、そのとき
どきの流れに乗せられてしまったりして、わからない。自ら、思考能力を停止させてしまうことも
ある。

 が、さらに深刻な問題もある。

 こうした思考能力は、年齢とともにますます減退していくということ。私にしても、うっかりミスと
いうか、油断して失敗というようなケースが、若いときより、はるかに多くなったように思う。あと
で考えて、「しまった!」と後悔することも、多くなった。

 が、現実問題として、日常生活の中で、いちいち考えて行動するということは、ほとんど、な
い。ほとんどの人は、ほとんどの時間を、何も考えないで、すごしている。日々の生活を、いわ
ば条件反射的に、繰りかえしている。もしその時点、時点で深く考えていたら、何も行動できな
くなってしまう。

 ところで、この無意識下の論理性については、簡単なテストをすることで、知ることができる。
これは私が、子どもたち(4〜6歳児)にするものだが、こんなテスト法がある。

 白い紙と、ペンだけを渡しして、絵を描かせる。順にいろいろなものを描かせるが、このとき、
つぎに何を描くかを、言ってはいけない。その絵が描き終わったら、「そのどこかに、つぎは、
〜〜を描いてね」と指示する。

 たとえば(山)→(川)→(木を2本)→(家)→(雲)→……というような順序で描かせる。(詳しく
は、私のHPに、具体例とともに収録してあるので、そちらを見てほしい。)

 このとき、無意識下の論理性がしっかりとしている子どもは、論理的(ロジカル)な絵を描く。
が、そうでないない子どもは、そうでない。山の上に川を描いたりしても、平気な顔をしている。

 一方、思考能力は、その無意識下における論理性とは、別の次元で構成されるものと考えて
よい。たとえばよく誤解されるが、ペラペラとよくしゃべるから、思考能力があるということには
ならない。情報の量イコール、思考能力ということにはならない。思考能力イコール、情報の量
ということにもならない。

 で、夢の話にもどるが、30センチほどしかない道を見たとき、私は、なぜ何も考えなかったの
か。「おかしいぞ」「そんなはずはない」と。ふつうならそう考える。が、私はそんなことを考える
よりも先に、ハラハラ、ドキドキしてしまった。

 もしそのとき、「おかしい」と思ってしまったら、多分、私の夢は、そこで中断してしまったかもし
れない。そういうことも、ないわけではない。夢を見ていて、途中で、「これは夢だ」と気がつくよ
うなことは、ときどきある。

 となると、思考能力を左右するのは、「意識」ということになる。つまり人間の思考というのは、
意識の世界でなされるものということになる。夢のような無意識下で見るような世界では、そも
そも、意識は働かない。だから思考能力も働かない。

 そこでさらに、では思考能力とは何かということになると、「言葉による論理」ということにな
る。言葉をともなわない思考能力というものもあるのかもしれないが、一応、ここでは、「ない」と
いうことにしておく。

 というのも、たとえば絵画や音楽、その他の芸術の世界では、言葉によらない思考能力が働
くことがあるからである。しかしそれはかなり感覚的なもので、感覚的である以上、無意識の状
態でなされることが多い。言葉による思考能力とは、異質なものと考えるのが正しい。

 そこで昔、ある賢人は、こう言った。「私は、ものを書いているとき以外は、考えたことがない」
と。

 つまり思考というのは、抽象的であればあるほど、常に、言葉によってなされる。言いかえる
と、言葉そのものが未発達な人は、その分だけ、思考能力がないということになる。このこと
は、ゴリラやチンパンジーを見れば、わかる。知的能力という意味では、かなり人間に近いが、
では思考能力があるかということになると、「ほとんどない」とみてよい。そういう点では、彼らが
見ているこの世界の光景は、私が夢の中で見る光景に似ているのではないかと思う。

 たとえ30センチほどしかない道を見ても、彼らにしてみれば道は道。自動車が通れるかどう
かなどとは、考えもしないだろう。かわりに、道のにおいをかいで、ほかの動物が通ったかもし
れないとか、危険な動物が近くにいるかもしれないと思うことはあるかもしれないが、それはそ
う「思う」だけのこと。やはり思考能力とは、異質のものである。

 ……と考えていくと、思考能力と言葉、つまり思考能力と言語能力とは、密接に結びついてい
ることがわかる。わかりやすく言えば、豊かな言語能力が基盤にあってはじめて、その人は、
思考能力を、その上で、花を咲かせることができるということになる。

 ……とまあ、かなり乱暴な意見だが、仮にこの私の意見を仮説としても、そこからいくつかの
教訓を引き出すことができる。

(1)考える子どもにするには、本を読ませる。
(2)考える習慣を身につけさせるためには、文章を書かせる、と。

 今朝の夢のことを思い出しながら、私は、そんなことを考えたが、こうして考えることができた
のも、言葉という媒体があったからにほかならない。もし言葉がなかったら、ここまでの結論を
導き出すことはできなかったと思う。今、しみじみと、言語能力の重要性について、改めて考え
なおしている。
(はやし浩司 思考能力 言語能力 考えるということ 思考能力の発達 無意識下の論理性)


はやし浩司++++++++++++Feb.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●不倫

不倫ができる人というのは、それだけ、元気な人ということになる。健康で、体力も性欲もあ
る。それにそれなりの魅力がある人ということになる。プラス、経済力も必要。

 だからといって、元気な人は、不倫をしたらよいと言うのではない。しかし性欲は、生きる原動
力になっていると説いた学者がいた。あのフロイトである。

 考えてみれば、フロイトの言ったことは、常識と言ってもよい。人間は別として、ありとあらゆ
る生物は、動物、植物の区別なく、すべて、子孫存続のために、生きている。子孫存続がすべ
てであり、ほかに目的などない。生きている理由もない。人間だけが例外と考えるのは、少し身
勝手すぎる。

 実際、人間の生殖器ほど、精密かつ精工にできているものはない。芸術的ですらある。その
まわりの薄い皮一枚にしても、それぞれにちゃんとした意味がある。機能がある。陰毛にして
も、そうだ。

 さらに生殖行為から受ける快感となると、それは人間が感ずる、あらゆる快感に勝(まさ)る。
そういう事実がある以上、「不倫はいけない」と頭から決めつけて考えるのも、どうか?

 不倫とまで行かなくて、浮気心というのがある。これは私の個人的な見解だが、そういう浮気
心まで、知的な理性で、抑えこむのは、不可能ではないかと思う。たとえばあのアインシュタン
は、生涯において、たいへんなスケベ人だったと、何かの本で読んだことがある。

 しかし時期というのも、ある。不倫をするのに年齢はないという人もいるが、男性について
は、50歳くらいまで。女性については、35歳くらいまでではないか。その年齢を超えると、男女
ともに、急速に性的魅力をなくす。いろいろな病気をする人もいて、ここでいう(元気な人)でなく
なることも多い。

 しかし私の知っている人に、今年、60歳くらいになるのだが、(本当は、その人の年齢をよく
知っているが)、30歳も年下の女性と、不倫を重ねている人がいる。男の私から見ても、魅力
的な人だから、そういうことがあっても、何もおかしくない。

 月に2、3度、どこかで会って、不倫をしているという。

 しかしうらやましいと思ってはいけない。このところその人は、その女性から逃げ腰になって
いるのだが、そうなったとたん、相手の女性が、しつこくなってきたという。不倫が、セックスの
範囲でとどまっているということは、あまりありえないのでは……。「今はどうやって別れるかが
問題」と、その人は、その人なりに、悩んでいる。

 不倫といっても、そういう不倫になると、さらに元気でなければならない。それこそ会うたび
に、バイアグラを飲んで……ということになりかねない。

 不倫かあ……?、と思ってみたり、不倫ねえ……?、と思ってみたりする。まあ、あえて勧め
るわけではないが、しかし不倫ができる人というのは、それだけ元気な人ということになる。こ
の年齢になると、「若いとき、もっと遊んでおけばよかった」という思いがふと、顔を出す。ワイフ
も、同じようなことを言うときがある。「私、結婚前に、もっと遊んでおけばよかった」と。話が、ど
こかグチっぽくなってきたので、この話はここまで! あとはみなさん、ご自由に!


はやし浩司++++++++++++Feb.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●風刺画(2)

++++++++++++++++

風刺漫画騒動は、さらに世界に
広がっている。

そうした騒動を、私たち日本人
は、どう考えたらよいのか。

++++++++++++++++

 風刺画ではなく、風刺漫画だった。それはさておき、風刺漫画の対する暴動は、さらに世界
各地へと広がっている。イランでは、2月6、7日の両日、オーストリアやデンマークの大使館に
まで石が投げられたという。ニューヨークでも、デモ隊が、新聞社に押しかけたという。

 「そもそもの発端は、12枚の風刺漫画だった」(TBS・I-news)という。「デンマークの新聞が、
昨年9月、爆弾型のターバンを巻いたムハンマドなどの漫画を掲載、さらに今月に入って、フラ
ンスやドイツなどの各紙が、問題の漫画を掲載した。それが今回の暴動の発端になった」(同)
と。

 表現の自由か、それとも、宗教的尊厳の尊重か。

 ヨーロッパ側が強く主張するのが、「言論の自由」。「表現の自由」も、当然、それに含まれ
る。ヨーロッパでは、アメリカの大統領や、イギリスの王室ですら、風刺画や風刺漫画の対象と
なる。イエス・キリストだって例外ではない。が、イスラム教の国々では、そうではないらしい。

 が、これについて、「では、日本は、どうか?」という問題がある。たとえば日本の皇室につい
ての風刺画や風刺漫画は、日本国内においてすらも、タブー視されている。ときどき外国のメ
ディアが、日本の皇室をテーマに風刺画や風刺漫画を発表することがある。

 が、そのつど日本の宮内庁は、在外公館を通して、それに強く抗議している。天皇の写真や
映像の取りあつかい方についてさえ、抗議することもある。が、さらにそれが極端になったの
が、隣のK国である。

 数年前、隣のK国の美女軍団なるものが、韓国をバスで移動中でのこと。金xxを印刷した垂
れ幕がたまたま雨で濡れていた。それを見た美女軍団なるものの女性たちは、その場でバス
を止め、その垂れ幕を、涙を流しながら、自分たちの胸の中にしまいこんだという(04年)。

 こうして考えて見ると、ヨーロッパの人たちがいうところの言論の自由については、日本は、ヨ
ーロッパと、イスラム教国やK国との、ちょうど中間あたりに位置するということがわかる。もっ
と言えば、ヨーロッパの人たちの気持ちもよくわかるが、一方、イスラム教国の人たちの気持ち
もよくわかるということになる。

 たとえば報道の自由度という点では、日本は、世界でも、第42位だという。1位は、今回、風
刺漫画を発表したデンマーク※。最下位は、あのK国。

 で、そういう日本人の私から一言。

 ゆくゆくは、日本も、ヨーロッパ型の言論の自由を受けいれざるをえなくなるのではないかと
いうこと。しかしこれは国民全体の意識にからむ問題だから、今すぐというわけには、いかな
い。が、時代の流れとしては、そういう方向に向かっている。

 昨年、「世界の報道の自由度」が、「国境なき記者団」によって発表されたとき、「日本が42
位だって!?」と、私は驚いた。しかし今回の一連の事件を見たとき、「なるほど、そういうこと
だったのか」と、改めて、それを思い知らされた。それを再認識する、よい機会になった。


++++++++++++++++++++++

(※報道の自由度)

パリ発05年10月26日の時事通信によれば、日本の報道自由度は、昨年と比べわずかにラ
ンクアップしたものの、先進7カ国中最低の42位だったという。報道の自由の擁護を目指す国
際団体、「国境なき記者団」(RSF、本部パリ)は、世界167カ国の報道の自由度の順位を発
表した。

 最上位は、デンマークやアイルランドなど北欧を中心とする欧州8カ国。最下位はランクづけ
発表当初から3年連続で、K国だったという。 

 日本では、一応、報道の自由が確保されているかのように見えるが、国際的にみれば、どう
も、そうではないということのようだ。何もヨーロッパの基準が正しいとは思いたくないが、しかし
ヨーロッパから見る日本は、まだまだ極東の島国の域を出ていないことだけは、事実のよう
だ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●戦G自衛隊

++++++++++++++++++

昨夜、ある民放で、「戦G自衛隊」が
放映された。

どんな映画かと、1時間ほど、見て
しまった。

「戦G自衛隊」は、週刊文春の「文春
きいちご賞」でも、ワースト4に選ば
ている。

だから見た。

++++++++++++++++++

週刊文春が、「2005年度ワースト映画・文春きいちご賞」を発表した。それによれば、ワースト
10は、つぎのようになっている(「週刊文春・06・1・26日号」)。

 1  SHINOBU
 2  TAKESHIS'
 3  宇宙戦争
 4  戦G自衛隊1549
 5  オペレッタ狸御殿
 6  春の雪
 6  アレキサンダー
 6  北の零年
 9  鳶がクルリと
 9  東京タワー

 で、やはり、ワースト4映画にふさわしい映画だった。役者が、どれも、顔だけで演技している
といった感じ。不自然。ヘタクソ。それに力(りき)みすぎ。怒鳴りすぎ。ときどき、「?」と思うよう
な、場違いなセリフ。高尚なセリフ。

 1人の若い女性が、こう言う。「これが戦国の世のならいです」と。

 戦国の世のならいかどうかは、いくつかの時代を生きてみて、(あるいは歴史を学んでみ
て)、はじめてわかること。どうして戦国の時代に生まれたその女性に、そんなことがわかるの
だろう。

 また私が見たシーンでは、川原に自衛隊員たちが集合し、その近くにヘリコプターや戦車が
置いてあるという想定だった。が、それらがまったく別の場所の置いてあるということが私にも
よくわかった。それほど、編集も稚拙(ちせつ)。

 たとえばヘリコプター近くに立っていた隊員が、草で作ったボールを画面の右手のほうに投
げる。すると、今度は、シーンが変わり、そのボールは左手から飛んでくる。川原に立っていた
子どもがそれを受け取る。「うまくつないだな」と感心する前に、シラけてしまった。

 女優も何人か出てきたが、戦場にふさわしい汗臭さは、まるでなかった。どの人も、顔中にフ
ァンデーションを塗りたくり、デパートの化粧品売り場に立つ女性たちのような化粧をしていた。

 とにかく演技が、演技、演技していた。不自然な言い方に、不自然なジャスチャ。「どうしても
っと、自然な演技ができないのか」と、何度も思った。

 ああいう映画を見ると、日本映画も、基本的な部分から、考えなおさなければいけないなと、
強く思う。全体としては、NHKの大河ドラマと、民放の刑事ドラマをミックスしたような映画。1時
間ほどで、私のがまんも、切れた。そのままチャンネルをかえて、ニュース番組を見た。

 今度、ついでに、ワースト1と2の映画も見てみよう。ワースト3の「宇宙戦争」は、すでに見
た。

【補記】

●不自然な演技

++++++++++++++++++

みなさんは、日本の俳優が演ずる
演技は、演技、演技していて、
どこか不自然だと思いませんか?

顔と声だけで演技しているといった
感じ。心が入っていないというか、
その心になりきっていないというか……。

++++++++++++++++++

 歌舞伎にせよ、その以前の能にせよ、日本の演劇は、不自然。不自然であることが基本に
なっている。劇団の演劇にしてもそうだし、NHKの大河ドラマにしても、そうだ。形や型が決ま
っていて、動作、しぐさ、セリフの言い方まで、何からなにまで、不自然。こうした演劇の世界で
は、役者たちは、あたかも不自然であるのが当然、というような演じ方をする。

 それはそれでよいのだが、つまり観客がそれに納得して楽しんでいるのだから問題はないの
だが、そうした不自然さが、映画の世界にまで、入りこんでいるのは、悲しむべきことである。
今回見た「戦G自衛隊」にしても、そう。どの1シーンをとっても、あきれるほど、不自然。役者
が、その人物になりきっていない。……というか、顔と声だけで、演技しているといった感じ。

 不自然に、かっこうつけてみたり、力んでみたり、怒鳴ってみたり……。薄っぺらいというか、
中身がない。役者自身がもつ人間性が、演じている役と、一致していない。演技だけではな
い。ポテポテと太った自衛隊員が出てきたのには、あきれた。明らかに人選ミス。本物の自衛
隊員が見たら、怒るのではないか?

ほかにたとえば1人の自衛隊員が、大阪城の中で、武士たちを相手に、力んでみせるシーン
があった。刀を抜いて構える武士たちを相手に、ひるむことなく、自説を力説するシーンだった
が、私は、それを見て、思わず笑ってしまった(失礼!)。

見るからにそうでない人が、学者や博士の役を演ずるようなもの。役者の演技力の不足もさる
ことながら、こうした映画が映画として、まかり通ってしまうのは、私は、映画界そのものがも
つ、構造的な欠陥が、原因ではないかと思う。つまり日本の映画界は、マスコミを利用して、有
名人は育てる。が、俳優は育てない。

 もっとも、すばらしい映画がなかったわけではない。戦後の黒沢明の映画は、どれもすばらし
かった。2003年に日米で同時公開された、「THE LAST SAMURAI(ラスト・サムライ)」
も、すばらしかった。トム・クルーズと渡辺謙の共演がよかった。監督、制作、脚本、すべてアメ
リカ人だったというのは、残念だが、言いかえると、アメリカ人のほうが、日本映画をうまく作る
ことができるということになる(?)。しかしそれこそ、日本人にとっては、悲しむべきことというこ
とではないのか。

 で、今、かすかな期待をよせているのが、「俺たちの大和」。前評判もよい。が、もしその映画
でも裏切られたとしたら……。私は、もうしばらく、日本映画は見ないだろう。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●金xxが、腎不全?

+++++++++++

K国の金xxが、
腎臓移植の事前検査を
受けたかもしれない?

+++++++++++

 韓国の新聞社は、こぞって、あの金xxが、腎不全であることを、報道している。朝鮮N報は、
6年前と現在の比較写真を並べて、詳細に、それを検証している。(詳しくは、「朝鮮N報・HP」
にて。)

 ナルホド! やはり私の推察が正しかった。(……と思う。)

 先月(06年1月)、金xxは、中国を、電撃訪問している。そのとき金xxは、北京へ到着後、実
に不可解な行動をとっている。そしてそのあとは、顔や姿をほとんど見せない、隠密行動を繰
りかえしている。金xxの姿が、正式に報道されたのは、さらにそのあとのことである。

 私は、金xxが北京へ着いてから、そのあとの数日間は、金xxは、北京にあるどこかの病院
にいたのではないかと思っている。そしてその間、金xxそっくりの替え玉が、金xxになりすまし
て、中国各地を訪問してみせたのではないかと思っている。

 (最後の数日間は、本物と、入れかわった可能性が高いが……。それからは、金xxは、あち
こちで目撃されたり、写真などに取られている。)

 なぜか?
 
 つまり金xxがかかえる病気の状態が、それほどまでに悪化していたからである。つまりそれ
が腎不全だったということになる。

 朝鮮N報は、(1)体重の急激な減少、(2)皮膚のたるみ、(3)手首の腫れ、(4)髪の毛の変
化、(5)メガネが透明になったことなどをあげ、専門医の見解として、「腎不全と判断される」と
報道している。

 で、今回の訪中は、「腎臓移植の事前検査か」と、位置づけている。もしそうなら、金xx政権
は、そう長くはもたないのではないか。拉致を指揮したのがだれかは知らないが、(本当は、み
な、知っているが)、拉致問題を解決するためには、K国の政権が変わるしかないのではない
かと思っている。そのためにも、一日も早く、K国の政権が変わり、より常識的な指導者が、K
国に現れることを、願っている。

 そういう観点から、今回の朝鮮N報の報道を、GOOD NEWS(失礼!)ととらえている日本
人は、多いのではないかと思う。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(113)

●「私」らしさの追求

++++++++++++++++

勉強だけして、いい高校に入る。
勉強だけして、いい大学に入る。

だから、それがどうしたというのか?
それが、どうだというのか?

入ったとたんに、目標を喪失。
親は、「おかげで……」と喜ぶが、
そのあとのことは、どう考えているのか。

宙ぶらりんになった若者の未来は、暗い。
もともと、そこに「私」がないからである。

++++++++++++++++

 (私はこうあるべきだ)(私はこうありたい)と、自分の姿を頭の中に描くことを、「自己概念」と
いう。そして(現実の私はこうだ)というときの(こうだ)という部分を、「現実自己」という。

 その自己概念と現実自己が一致していれば、子どもは、静かに落ちつく。わかりやすく言え
ば、自分のもつ夢や目標に向かって進んでいる子どもは、生き生きと輝く。どっしりとした安定
感がある。が、そうでない子どもは、そうでない。

 よく誤解されるが、いい高校へ入ることや、いい大学へ入ることは、子どもにとっては、夢でも
希望でもない。(親にとっては、夢や希望かもしれないが……。)また目標にはなりえるかもしれ
ないが、それはここでいう本来の(目標)とは、かけ離れたものである。異質のものである。

一昔前には、エリート意識や学歴意識が、子どもを支えることができた。が、今は、ちがう。子
どもたちの価値観そのものが、多様化してきている。それに合わせて生きザマも、多様化して
きている。

 だから勉強だけをして、つまり受験勉強だけをして、いわゆる(いい高校)や(いい大学)へ入
った子どもは、その時点で、宙ぶらりんになる。……なってしまう。目標そのものを、見失ってし
まう。

 私も自分の過去を振りかえりながら、ときどき、こう思う。「もしあのとき、あのまま、大工への
道を進んでいたら、私は、もっと生き生きと自分の人生を送ることができただろうに」と。「大学
にしても、そんな有名大学でなくてもよかった。二流でも、三流でも、工学部の建築学科へ進ん
でいれば、もっと生き生きと自分の人生を送ることができただろうに」と。

 高校2年から3年にかけての、突然の針路変更が、私を大きく混乱させた。つまりそのとき、
ここでいう「自己概念」と「現実自己」が、不一致を起こしたことになる。こういうのを心理学の世
界では、「役割混乱」というが、私のばあい、その混乱状態は、30歳を過ぎるまでつづいた。

 それは前にも書いたが、大嫌いな男と、いやいや結婚した女性の心理状態に似ているので
はないか。毎日が暗くて、憂うつだった。私のばあい、それこそ、毎日、足を引きずって高校へ
通うような状態になった。

 で、よくあるケースは、あるときまでは、成績もよく、勉強好きだった子どもが、突然、変身。
怠学から、非行へ走るというもの。親はこう言って泣き崩れる。「塾へもまじめに通い、クラスで
もトップの成績だったのですが、どうして、こうなってしまったのでしょうか?」と。

 こういうケースでも、ここでいう「自己概念」と「現実自己」の考え方をあてはめて考えてみる
と、子どもの心が手に取るように理解できる。こういった子どもは、夢や希望があって勉強して
いたのではない。目標があったわけでもない。ただ親の意向と命令に従って、勉強していただ
けである。

 だからある日、突然、それに気づく。目ざめると言ってもよい。「私は、何だ!」「私は、何だっ
たのか!」と。一般論として、「自己概念」と「現実自己」が不一致を起こすと、精神は、極度の
緊張状態に置かれる。そのため、当然、情緒も不安定になる。ささいなことでキレやすくなった
りする。カッとなりやすくなる。

 しかしこうしてその子どもは、「私」さがしを模索し始める。親にすれば、「どうして?」ということ
になるが、子どもという1人の人間にとっては、そのほうが望ましいということになる。親にして
も、もちろん子どもにしても、つらい試練かもしれないが、子どもは、そうして自分を束縛してい
た、殻(から)を脱ぐ。

 先日も、ある母親から、こんな相談があった。「高校3年生の息子が、ときどき外泊。1児をも
つ、18歳の女性と、ときどきいっしょに生活をしている」と。そのため「大学も偏差値が60の大
学から、40の大学へと、ランクをさげることになってしまった」と。

 この相談については、少し前、相談者の了解が得られたので、そのままマガジンにも載せさ
せてもらった。このばあいでも、もしその高校生に、夢や希望、あるいは目標があれば、こうし
た誘惑(?)には、負けなかったのではないかと思われる。しかし残念ながら、それがなかった
(?)。

 今でも、「ただ勉強さえできればいい」「いい高校さえ入ればいい」「いい大学さえ入ればいい」
と考えている親が多いのには、驚かされる。本当に驚かされる。

 今どき、子どもたちを、そういう形で、前に引っぱっていくことはできない。仮に引っぱることは
できても、そこには限界がある。早ければ中学校へ入ったとき、遅くとも、大学へ入ったとき、
その子どもは、先に書いたように、宙ぶらりんになってしまう。もともと「私」がないからである。

 燃え尽きてしまったり、荷卸し症候群に陥ってしまうケースも、少なくない。そこまでいかなくて
も、大学へ入ったとたん、目標を喪失し、遊びほけてしまう子どもとなると、いくらでもいる。大
半の子どもが、そうではないか。

 そこで重要なことは、今、あなたの子どもは、どうかということ。ここでいう「自己概念」と、「現
実自己」を一致させているだろうかということ。もしそうなら、それでよし。が、そうでないなら、家
庭教育のあり方を、基本的な部分から見直してみたほうがよい。
 
 子どもに夢や希望をもたせ、その目標に向かって進むように、側面から支援するのが、つま
りは、家庭教育ということになる。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(114)

【子どもの人格】

●幼児性の残った子ども

++++++++++++++++

人格の核形成が遅れ、その年齢に
ふさわしい人格の発達が見られない。

全体として、しぐさ、動作が、
幼稚ぽい。子どもぽい。

そういう子どもは、少なくない。

++++++++++++++++

 「幼稚」という言い方には、語弊がある。たとえば幼稚園児イコール、幼稚ぽいということでは
ない。幼稚園児でも、人格の完成度が高く、はっと驚くような子どもは、いくらでもいる。

 が、その一方で、そうでない子どもも、少なくない。こうした(差)は、小学1、2年生ごろになる
と、はっきりとしてくる。その年齢のほかの子どもに比べて、人格の核形成が遅れ、乳幼児期
の幼児性をそのまま持続してしまう。特徴としては、つぎのようなものがある。

(1)独特の幼児ぽい動作や言動。
(2)無責任で無秩序な行動や言動。
(3)しまりのない生活態度。
(4)自己管理能力の欠落。
(5)現実検証能力の欠落。

 わかりやすく言えば、(すべきこと)と、(してはいけないこと)の判断が、そのつど、できない。
自分の行動を律することができず、状況に応じて、安易に周囲に迎合してしまう。

 原因の多くは、家庭での親の育児姿勢にあると考えてよい。でき愛と過干渉、過保護と過関
心など。そのときどきにおいて変化する、一貫性のない親の育児姿勢が、子どもの人格の核
形成を遅らせる。

 「人格の核形成」という言葉は、私が使い始めた言葉である。「この子は、こういう子ども」とい
う(つかみどころ)を「核」と呼んでいる。人格の核形成の進んでいる子どもは、YES・NOがは
っきりしている。そうでない子どもは、優柔不断。そのときどきの雰囲気に流されて、周囲に迎
合しやすくなる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

【人格の完成度の高い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、年上に見える。
○自己管理能力にすぐれ、自分の行動を正しく律することができる。
○YES・NOをはっきりと言い、それに従って行動できる。
○ハキハキとしていて、いつも目的をもって行動できる。

【人格の完成度の低い子ども】

○同年齢の子どもにくらべて、幼児性が強く残っている。
○自己管理能力が弱く、その場の雰囲気に流されて行動しやすい。
○優柔不断で、何を考えているかわからないところがある。
○グズグズすることが多く、ダラダラと時間を過ごすことが多い。

 では、どうするか?

 子どもの人格の核形成をうながすためには、つぎの3つの方法がある。

(1)まず子どもを、子どもではなく、1人の人間として、その人格を認める。
(2)親の育児姿勢に一貫性をもたせる。
(3)『自らに由(よ)らせる』という意味での、子育て自由論を大切にする。

++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から
いくつかを選んで、ここに
添付します。

内容が少し脱線する部分があるかも
しれませんが、お許し下さい。

++++++++++++++++++

(1)【子どもの人格を認める】

●ストーカーする母親

 一人娘が、ある家に嫁いだ。夫は長男だった。そこでその娘は、夫の両親と同居することに
なった。ここまではよくある話。が、その結婚に最初から最後まで、猛反対していたのが、娘の
実母だった。「ゆくゆくは養子でももらって……」「孫といっしょに散歩でも……」と考えていた
が、そのもくろみは、もろくも崩れた。

 が、結婚、2年目のこと。娘と夫の両親との折り合いが悪くなった。すったもんだの家庭騒動
の結果、娘夫婦と、夫の両親は別居した。まあ、こういうケースもよくある話で、珍しくない。し
かしここからが違った。なおこの話は、「本当にあった話」とわざわざ断りたいほど、本当にあっ
た話である。

 娘夫婦は、同じ市内の別のアパートに引っ越したが、その夜から、娘の実母(実母!)による
復讐が始まった。実母は毎晩夜な夜な娘に電話をかけ、「そら、見ろ!」「バチが当たった!」
「親を裏切ったからこうなった!」「私の人生をどうしてくれる。お前に捧げた人生を返せ!」と。
それが最近では、さらにエスカレートして、「お前のような親不孝者は、はやく死んでしまえ!」
「私が死んだら、お前の子どもの中に入って、お前を一生、のろってやる!」「親を不幸にした
ものは、地獄へ落ちる。覚悟しておけ!」と。それだけではない。

どこでどう監視しているのかわからないが、娘の行動をちくいち知っていて、「夫婦だけで、○
○レストランで、お食事? 結構なご身分ですね」「スーパーで、特売品をあさっているあんたを
見ると、親としてなさけなくてね」「今日、あんたが着ていたセーターね、あれ、私が買ってあげ
たものよ。わかっているの!」と。

 娘は何度も電話をするのをやめるように懇願したが、そのたびに母親は、「親に向かって、
何てこと言うの!」「親が、娘に電話をして、何が悪い!」と。そして少しでも体の調子が悪くな
ると、今度は、それまでとはうって変わったような弱々しい声で、「今朝、起きると、フラフラする
わ。こういうとき娘のあんたが近くにいたら、病院へ連れていってもらえるのに」「もう、長いこと
会ってないわね。私もこういう年だからね、いつ死んでもおかしくないわよ」「明日あたり、私の
通夜になるかしらねえ。あなたも覚悟しておいてね」と。

●自分勝手な愛

 親が子どもにもつ愛には、三種類ある。本能的な愛、代償的愛、それに真の愛。ここでいう
代償的愛というのは、自分の心のすき間を埋めるための、自分勝手でわがままな愛をいう。た
いていは親自身に、精神的な欠陥や情緒的な未熟性があって、それを補うために、子どもを
利用する。子どもが親の欲望を満足させるための道具になることが多い。そのため、子ども
を、一人の人格をもった人間というより、モノとみる傾向が強くなる。いろいろな例がある。

 Aさん(60歳・母親)は、会う人ごとに、「息子なんて育てるものじゃ、ないですねえ。息子は、
横浜の嫁にとられてしまいました」と言っていた。息子が結婚して横浜に住んでいることを、Aさ
んは、「取られた」というのだ。

 Bさん(45歳・母親)の長男(現在18歳)は、高校へ入学すると同時に、プツンしてしまった。
断続的に不登校を繰り返したあと、やがて家に引きこもるようになった。原因ははげしい受験
勉強だった。しかしBさんには、その自覚はなかった。つづいて二男にも、受験期を迎えたが、
同じようにはげしい受験勉強を強いた。「お兄ちゃんがダメになったから、あんたはがんばるの
よ」と。ところがその二男も、同じようにプツン。今は兄弟二人は、夫の実家に身を寄せ、そこ
から、ときどき学校に通っている。

 Cさん(65歳・母親)は、息子がアメリカにある会社の支店へ赴任している間に、息子から預
かっていた土地を、勝手に転売してしまった。帰国後息子(40歳)が抗議すると、Cさんはこう
言ったという。「親が、先祖を守るために息子の金を使って、何が悪い!」と。Cさんは、息子
を、金づるくらいにしか考えていなかったようだ。その息子氏はこう話した。

「何かあるたびに、私のところへきては、10〜30万円単位のお金をもって帰りました。私の長
男が生まれたときも、その私から、母は当時のお金で、30万円近く、もって帰ったほどです。
いつも『かわりに貯金しておいてやるから』が口ぐせでしたが、今にいたるまで、1円も返してく
れません」と。

 Dさん(60歳・女性)の長男は、ハキがなく、おとなしい人だった。それもあって、Dさんは、長
男の結婚には、ことごとく反対し、縁談という縁談を、すべて破談にしてしまった。Dさんはいつ
も、こう言っていた。「へんな嫁に入られると、財産を食いつぶされる」と。たいした財産があっ
たわけではない。昔からの住居と、借家が二軒あっただけである。

 ……などなど。こういう親は、いまどき、珍しくも何ともない。よく「親だから……」「子だから…
…」という、『ダカラ論』で、親子の問題を考える人がいる。しかしこういうダカラ論は、ものの本
質を見誤らせるだけではなく、かえって問題をかかえた人たちを苦しめることになる。「実家の
親を前にすると、息がつまる」「盆暮れに実家へ帰らねばならないと思うだけで、気が重くなる」
などと訴える男性や女性はいくらでもいる。

さらに舅(しゅうと)姑(しゅうとめ)との折り合いが悪く、家庭騒動を繰り返している家庭となる
と、今では、そうでない家庭をさがすほうが、むずかしい。中には、「殺してやる!」「お前らの前
で、オレは死んでやる!」と、包丁やナタを振り回している舅すら、いる。

 そうそう息子が二人ともプツンしてしまったBさんは、私にも、ある日こう言った。「夫は学歴が
なくて苦労しています。息子たちにはそういう苦労をさせたくないので、何とかいい大学へ入っ
てもらいたいです」と。

●子どもの依存性

 人はひとりでは生きていかれない存在なのか。「私はひとりで生きている」と豪語する人です
ら、何かに依存して生きている。金、モノ、財産、名誉、地位、家柄など。退職した人だと、過去
の肩書きに依存している人もいる。あるいは宗教や思想に依存する人もいる。何に依存する
かはその人の勝手だが、こうした依存性は、相互的なもの。そのことは、子どもの依存性をみ
ているとわかる。

 依存心の強い子どもがいる。依存性が強く、自立した行動ができない。印象に残っている子
どもに、D君(年長児)という子どもがいた。帰りのしたくの時間になっても、机の前でただ立っ
ているだけ。「机の上のものを片づけようね」と声をかけても、「片づける」という意味そのもの
がわからない……、といった様子。そこであれこれジェスチャで、しまうように指示したのだが、
そのうち、メソメソと泣き出してしまった。多分、家では、そうすれば、家族のみながD君を助け
てくれるのだろう。

 一方、教える側からすれば、そういう涙にだまされてはいけない。涙といっても、心の汗。そう
いうときは、ただひたすら冷静に片づけるのを待つしかない。いや、内心では、D君がうまく片
づけられたら、みなでほめてやろうと思っていた。が、運の悪いことに(?)、その日にかぎっ
て、母親がD君を迎えにきていた。そしてD君の泣き声を聞きつけると、教室へ飛び込んでき
て、こう言った。ていねいだが、すごみのある声だった。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。

 そういう子どもというより、その子どもを包む環境を観察してみると、おもしろいことに気づく。
D君の依存性を問題にしても、親自身には、その認識がまるでないということ。そういうD君で
も、親は、「ふつうだ」と思っている。さらに私があれこれ問題にすると、「うちの子は、生まれつ
きそうです」とか、「うちではふつうです」とか言ったりする。そこでさらに観察してみると、親自身
が依存性に甘いというか、そういう生き方が、親自身の生き方の基本になっていることがわか
る。そこで私は気がついた。子どもの依存性は、相互的なものだ、と。こういうことだ。

 親自身が、依存性の強い生き方をしている。つまり自分自身が依存性が強いから、子どもの
依存性に気づかない。あるいはどうしても子どもの依存性に甘くなる。そしてそういう相互作用
が、子どもの依存性を強くする。言いかえると、子どもの依存性だけを問題にしても、意味がな
い。子どもの依存性に気づいたら、それはそのまま親自身の問題と考えてよい。

……と書くと、「私はそうでない」と言う人が、必ずといってよいほど、出てくる。それはそうで、こ
うした依存性は、ある時期、つまり青年期から壮年期には、その人の心の奥にもぐる。外から
は見えないし、また本人も、日々の生活に追われて気づかないでいることが多い。しかしやが
て老齢期にさしかかると、また現れてくる。先にあげた親たちに共通するのは、結局は、「自立
できない親」ということになる。

●子どもに依存する親たち

 日本型の子育ての特徴を、一口で言えば、「子どもが依存心をもつことに、親たちが無頓着
すぎる」ということ。昔、あるアメリカの教育家がそう言っていた。つまりこの日本では、親にベタ
ベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、よい子とする。一方、独立心が旺盛で、親を
親とも思わない子どもを、「鬼っ子」として嫌う。私が生まれ育った岐阜県の地方には、まだそう
いう風習が強く残っていた。今も残っている。

親の権威や権力は絶対で、親孝行が今でも、最高の美徳とされている。たがいにベタベタの親
子関係をつくりながら、親は親で、子どものことを、「親思いの孝行息子」と評価し、子どもは子
どもで、それが子どもの義務と思い込んでいる。こういう世界で、だれかが親の悪口を言おうも
のなら、その子どもは猛烈に反発する。相手が兄弟でもそれを許さない。「親の悪口を言う人
は許さない!」と。

 今風に言えば、子どもを溺愛する親、マザーコンプレックス(マザコン)タイプの子どもの関係
ということになる。このタイプの子どもは、自分のマザコン性を正当化するために、親を必要以
上に美化するので、それがわかる。

 こうした依存性のルーツは、深い。長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがも
つ習性(?)とからんでいる。私はこのことを、ある日、ワイフとロープウェイに乗っていて発見し
た。

●ロープウェイの中で

 春のうららかな日だった。私とワイフは、近くの遊園地へ行って、そこでロープウェイに乗っ
た。中央に座席があり、そこへ座ると、ちょうど反対側に、60歳くらいの女性と、五歳くらいの
男の子が座った。おばあちゃんと孫の関係だった。その2人が、私たちとは背中合わせに、会
話を始めた。(決して盗み聞きしたわけではない。会話がいやおうなしに聞こえてきたのだ。)
その女性は、男の子にこう言っていた。

 「オバアちゃんと、イッチョ(一緒)、楽しいね。楽しいね。お山の上に言ったら、オイチイモノ
(おいしいもの)を食べようね。お小づかいもあげるからね。オバアちゃんの言うこと聞いてくれ
たら、ホチイ(ほしい)ものを何でも買ってあげるからね」と。
 
 一見ほほえましい会話に聞こえる。日本人なら、だれしもそう思うだろう。が、私はその会話
を聞きながら、「何か、おかしい」と思った。60歳くらいの女性は、孫をかわいがっているように
見えるが、その実、孫の人格をまるで認めていない。まるで子どもあつかいというか、もっと言
えば、ペットあつかい! その女性は、5歳の子どもに、よい思いをさせるのが、祖母としての
努めと考えているようなフシがあった。そしてそうすることで、祖母と孫の絆(きずな)も太くなる
と、錯覚しているようなフシがあった。

 しかしこれは誤解。まったくの誤解。たとえばこの日本では、誕生日にせよ、クリスマスにせ
よ、より高価なプレゼントであればあるほど、親の愛の証(あかし)であると考えている人は多
い。また高価であればあるほど、子どもの心をつかんだはずと考えている人は多い。しかし安
易にそうすればするほど、子どもの心はあなたから離れる。仮に一時的に子どもの心をつか
むことはできても、あくまでも一時的。理由は簡単だ。

●釣竿を買ってあげるより、一緒に釣りに行け

 人間の欲望には際限がない。仮に一時的であるにせよ、欲望をモノやお金で満足させた子
どもは、つぎのときには、さらに高価なものをあなたに求めるようになる。そのときつぎつぎとあ
なたがより高価なものを買い与えることができれば、それはそれで結構なことだが、それがい
つか途絶えたとき、子どもはその時点で自分の欲求不満を爆発させる。そしてそれまでにつく
りあげた絆(本当は絆でも何でもない)を、一挙に崩壊させる。「バイクぐらい、買ってよこせ!」
「どうして私だけ、夏休みにオーストラリアへ行ってはダメなの!」と。

 イギリスには、『子どもには釣竿を買ってあげるより、子どもと一緒に、魚釣りに行け』という
格言がある。子どもの心をつかみたかったら、モノを買い与えるのではなく、よい思い出を一緒
につくれという意味だが、少なくとも、子どもの心は、モノやお金では釣れない。それはさてお
き、その六〇歳の女性がしたことは、まさに、子どもを子どもあつかいすることにより、子どもを
釣ることだった。

 しかし問題はこのことではなく、なぜ日本人はこうした子育て観をもっているかということ。ま
た周囲の人たちも、「ほほえましい光景」と、なぜそれを容認してしまうかということ。ここの日本
型子育ての大きな問題が隠されている。

 それが、私がここでいう、「長くつづいた封建制度、あるいは日本民族そのものがもつ習性
(?)とからんでいる」ということになる。つまりこの日本では、江戸時代の昔から、あるいはそ
れ以前から、『女、子ども』という言い方をして、女性と子どもを、人間社会から切り離してき
た。私が子どものときですら、そうだった。

NHKの大河ドラマの『利家とまつ』あたりを見ていると、江戸時代でも結構女性の地位は高か
ったのだと思う人がいるかもしれないが、江戸時代には、女性が男性の仕事に口を出すなどと
いうことは、ありえなかった。とくに武家社会ではそうで、生活空間そのものが分離されていた。
日本はそういう時代を、何100年間も経験し、さらに不幸なことに、そういう時代を清算するこ
ともなく、現代にまで引きずっている。まさに『利家とまつ』がそのひとつ。いまだに封建時代の
圧制暴君たちが英雄視されている!

 が、戦後、女性の地位は急速に回復した。それはそれだが、しかし取り残されたものがひと
つある。それが『女、子ども』というときの、「子ども」である。

●日本独特の子ども観

 日本人の多くは、子どもを大切にするということは、子どもによい思いをさせることだと誤解し
ている。もう10年近くも前のことだが、一人の父親が私のところへやってきて、こう言った。「私
は忙しい。あなたの本など、読むヒマなどない。どうすればうちの子をいい子にすることができ
るのか。一口で言ってくれ。そのとおりにするから」と。
 私はしばらく考えてこう言った。「使うことです。子どもは使えば使うほど、いい子になります」
と。

 それから10年近くになるが、私のこの考え方は変わっていない。子どもというのは、皮肉なこ
とに使えば使うほど、その「いい子」になる。生活力が身につく。忍耐力も生まれる。が、なぜ
か、日本の親たちは、子どもを使うことにためらう。はからずもある母親はこう言った。「子ども
を使うといっても、どこかかわいそうで、できません」と。子どもを使うことが、かわいそうという
のだが、どこからそういう発想が生まれるかといえば、それは言うまでもなく、「子どもを人間と
して認めていない」ことによる。私の考え方は、どこか矛盾しているかのように見えるかもしれ
ないが、その前に、こんなことを話しておきたい。

●友として、子どもの横を歩く

 昔、オーストラリアの友人がこう言った。親には3つの役目がある、と。ひとつはガイドとして、
子どもの前を歩く。もうひとつは、保護者として、子どものうしろを歩く。そして3つ目は、友とし
て、子どもの横を歩く、と。

 日本人は、子どもの前やうしろを歩くのは得意。しかし友として、子どもの横を歩くのが苦手。
苦手というより、そういう発想そのものがない。もともと日本人は、上下意識の強い国民で、た
った1年でも先輩は先輩、後輩は後輩と、きびしい序列をつける。男が上、女が下、夫が上、
妻が下。そして親が上で、子が下と。親が子どもと友になる、つまり対等になるという発想その
ものがない。ないばかりか、その上下意識の中で、独特の親子関係をつくりあげた。私がしば
しば取りあげる、「親意識」も、そこから生まれた。

 ただ誤解がないようにしてほしいのは、親意識がすべて悪いわけではない。この親意識に
は、善玉と悪玉がある。善玉というのは、いわゆる親としての責任感、義務感をいう。これは子
どもをもうけた以上、当然のことだ。しかし子どもに向かって、「私は親だ」と親風を吹かすのは
よくない。その親風を吹かすのが、悪玉親意識ということになる。「親に向かって何だ!」と怒鳴
り散らす親というのは、その悪玉親意識の強い人ということになる。先日もある雑誌に、「父親
というのは威厳こそ大切。家の中心にデーンと座っていてこそ父親」と書いていた教育家がい
た。そういう発想をする人にしてみれば、「友だち親子」など、とんでもない考え方ということにな
るに違いない。

 が、やはり親子といえども、つきつめれば、人間関係で決まる。「親だから」「子どもだから」と
いう「ダカラ論」、「親は〜〜のはず」「子どもは〜〜のはず」という「ハズ論」、あるいは「親は〜
〜すべき」「子は〜〜すべき」という、「ベキ論」で、その親子関係を固定化してはいけない。固
定化すればするほど、本質を見誤るだけではなく、たいていのばあい、その人間関係をも破壊
する。あるいは一方的に、下の立場にいるものを、苦しめることになる。

●子どもを大切にすること

 話を戻すが、「子どもを人間として認める」ということと、「子どもを使う」ということは、一見矛
盾しているように見える。また「子どもを一人の人間として大切にする」ということと、「子どもを
使う」ということも、一見矛盾しているように見える。とくにこの日本では、子どもをかわいがると
いうことは、子どもによい思いをさせ、子どもに楽をさせることだと思っている人が多い。そうで
あるなら、なおさら、矛盾しているように見える。しかし「子育ての目標は、よき家庭人として、子
どもを自立させること」という視点に立つなら、この考えはひっくりかえる。こういうことだ。

 いつかあなたの子どもがあなたから離れて、あなたから巣立つときがくる。そのときあなた
は、子どもに向かってこう叫ぶ。

 「お前の人生はお前のもの。この広い世界を、思いっきり羽ばたいてみなさい。たった一度し
かない人生だから、思う存分生きてみなさい」と。

つまりそういう形で、子どもの人生を子どもに、一度は手渡してこそ、親は親の務めを果たした
ことになる。安易な孝行論や、家意識で子どもをしばってはいけない。もちろんそのあと、子ど
もが自分で考え、親のめんどうをみるとか、家の心配をするというのであれば、それは子ども
の問題。子どもの勝手。しかし親は、それを子どもに求めてはいけない。期待したり、強要して
はいけない。あくまでも子どもの人生は、子どものもの。

 この考え方がまちがっているというのなら、今度はあなた自身のこととして考えてみればよ
い。もしあなたの子どもが、あなたのためや、あなたの家のために犠牲になっている姿を見た
ら、あなたは親として、それに耐えられるだろうか。もしそれが平気だとするなら、あなたはよほ
ど鈍感な親か、あるいはあなた自身、自立できない依存心の強い親ということになる。同じよう
に、あなたが親や家のために犠牲になる姿など、美徳でも何でもない。仮にそれが美徳に見え
るとしたら、あなたがそう思い込んでいるだけ。あるいは日本という、極東の島国の中で、そう
思い込まされているだけ。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間として自立させること。自立させるとい
うことは、子どもを一人の人間として認めること。そしてそういう視点に立つなら、子どもに社会
性を身につけさえ、ひとりで生きていく力を身につけさせるということだということがわかってく
る。「子どもを使う」というのは、そういう発想にもとづく。子どもを奴隷のように使えということで
は、決して、ない。

●冒頭の話

 さて冒頭の話。実の娘に向かって、ストーカー行為を繰り返す母親は、まさに自立できない親
ということになる。いや、私はこの話を最初に聞いたときには、その母親の精神状態を疑った。
ノイローゼ? うつ病? 被害妄想? アルツハイマー型痴呆症? 何であれ、ふつうではな
い。嫉妬に狂った女性が、ときどき似たような行為を繰り返すという話は聞いたことがある。そ
ういう意味では、「娘を取られた」「夢をつぶされた」という点では、母親の心の奥で、嫉妬がか
らんでいるかもしれない。が、問題は、母親というより、娘のほうだ。

 純粋にストーカー行為であれば、今ではそれは犯罪行為として類型化されている。しかしそ
れはあくまでも、男女間でのこと。このケースでは、実の母親と、実の娘の関係である。それだ
けに実の娘が感ずる重圧感は相当なものだ。遠く離れて住んだところで、解決する問題ではな
い。また実の母親であるだけに、切って捨てるにしても、それ相当の覚悟が必要である。ある
いは娘であるがため、そういう発想そのものが、浮かんでこない。その娘にしてみれば、母親
からの電話におびえ、ただ一方的に母親にわびるしかない。

実際、親に、「産んでやったではないか」「育ててやったではないか」と言われると、子どもには
返す言葉がない。実のところ、私も子どものころ母親に、よくそう言われた。しかしそれを言わ
れた子どもはどうするだろうか。反論できるだろうか。……もちろん反論できない。そういう子ど
もが反論できない言葉を、親が言うようでは、おしまい。あるいは言ってはならない。仮にそう
思ったとしても、この言葉だけは、最後の最後まで言ってはならない。言ったと同時に、それは
親としての敗北を認めたことになる。

が、その娘の母親は、それ以上の言葉を、その娘に浴びせかけて、娘を苦しめている。もっと
言えば、その母親は「親である」というワクに甘え、したい放題のことをしている。一方その娘
は、そのワクの中に閉じ込められて、苦しんでいる。

 私もこれほどまでにひどい事件は、聞いたことがない。ないが、親子の関係もゆがむと、ここ
までゆがむ。それだけにこの事件には考えさせられた。と、同時に、輪郭(りんかく)がはっきり
していて、考えやすかった。だから考えた。考えて、この文をまとめた。
(02−9−14)※

++++++++++++++++

(2)【育児の一貫性】

子育ての一貫性

 以前、「信頼性」についての原稿を書いた。この中で、親子の信頼関係を築くためには、一貫
性が大切と書いた。その「一貫性」について、さらにここでもう一歩、踏みこんで考えてみたい。

 その前に、念のため、そのとき書いた原稿を、再度掲載する。

++++++++++++++++++++++

信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じ
ようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと
安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の
基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの3つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第1世界という。園や学校での世界。これを第2世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第3世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第2世界、つづいて第3世界へと、応用していく。し
かし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第2世界、第3世界での信頼関係を築く
ことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だから
「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ど
もは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。
これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第2世界、第3世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」を
いう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といっ
てもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいも
のがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人が
いる。A氏(60歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言
う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的で
あったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかなら
ない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、い
かにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どう
して子どもが育つかということになる。
(030623)
(はやし浩司 一貫性)

++++++++++++++++++++++

(3)【子育て自由論】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦関係
が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。これを親
子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あのお父さ
んのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子どもは、
母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独立し
たものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊害に
なってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立そのものが、でき
なくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子どもは、その
家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親戚の
伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その男性を、
ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、父
の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた母を、
私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩んでいた
ことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめることは
できない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しかしどんな問題であ
るにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、苦しんだり、悩んだり
するようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、無意識
にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることがある。独立心の
旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」という。そ
ういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とした。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみし
いもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」と言
う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろんその母親は、
それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、とらえる。
自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いをもつ人
はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、過保
護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考えてみた
い。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。たと
えばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。英語教
室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができる子どもイコ
ール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという価値観を身につけて
しまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっくりそのま
ま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題にはな
らない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力がどんどんと
落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。塾はも
ちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようになってしまっ
た。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能力に
欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をなくすと、
おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかりやすく言うと、自
分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている(ボ
ーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにすること。足
並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化をおし進め
る。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たがいに
高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つようにする。この
一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」
と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離
れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」
(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前
ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず
子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいない
ところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数10万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こ
う書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見
せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみると
よい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみる
とよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関
係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろう
か。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子ど
もは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一
歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。つぎの
ような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問題として、家庭
教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

●己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり
「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになった
ら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

+++++++++++++++++

【終わりに……】

 子どもは子どもらしく……とは、よく言う。しかし「子どもらしい」ということと、「幼児性の持続」
は、まったく別の問題である。

 また子どもだからといって、無責任で、無秩序であってよいということではない。どうか、この
点を誤解のないように、してほしい。
(はやし浩司 子供らしさ 幼児性の持続 子供の人格 人格の完成度)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●生きる目的

++++++++++++++

ときどき、以前書いた原稿を
読みなおす。

こんな原稿があった。
おもしろかった。

++++++++++++++

 これも、一応、著作権の問題がからむのか。こんな会話を耳にした。

 私が街の中の通りを歩いていると、たまたま2人の男が、私のうしろを歩いていた。そしてこ
んな会話をした。男は、2人とも、黒っぽいスーツを着て、どこかコメディアン風の男だった。

男A「お前な、どうしてバイオリニストは、バイオリンを弾くか、知っているか?」
男B「わからねえよな」
男A「それはな、自分の悲しみや苦しみを、一曲ずつ音楽を弾きながら、洗い流すためさ」
男B「ふーん」
男A「お前な、どうして画家は、絵を描くか知っているか?」
男B「わからねえよな」
男A「それはな、自分の悲しみや苦しみを、一枚ずつ書きながら、その中に塗りかためるため
さ」
男B「ふーん」
男A「ところでさ、お前な、どうして作家は、文を書くか、知っているか?」
男B「わからねえよな」
男A「それはな、自分の悲しみや苦しみを、一文ずつ書きながら、その中に吐き出すためさ」
男B「じゃあさあ、音楽家でも、画家でも、作家でもないオレたちはさ、どうやって悲しみや苦し
みと、戦えばいいのさあ?」
男A「今を、懸命に生きるということさ。毎日の、一瞬一瞬が、音楽であり、絵であり、そして小
説なのさ」と。

 私は、実はこの会話を、自分の夢の中で聞いた。6月23日。月曜日。書斎でパソコンに向っ
ていたら、いつもの眠気。そこで寝室へおりていって、フトンの上で横になった。しばらく眠っ
た。ちょうど起きがけにこの夢を見た。だから、ここに書きとめる。
(030623)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(115)

【近ごろ・あれこれ】

●早く、寝たい!

 寒い夜道を歩いていると、願うことは、ただ1つ。ポカポカと暖かいふとんの中に入って、早
く、寝た〜い。

 風呂もよいが、風呂から出たあとが、寒い。朝風呂でも、就寝前の風呂でも、事情は、同じ。

 しかし私の家ほど、生活習慣の定まっていない家庭はないのでは……? たとえばその風呂
にしても、ほとんど毎日、気が向いたときに入っている。昨日は、起きてすぐの、午前7時ごろ。
その前の日は、昼過ぎ……といった具合。

 結婚したときから、そういう習慣(?)になっている。自由、気ままに生きるという生き方が、い
つの間にか、こうなってしまった。

 一方、私の知人の中には、毎日、分単位で、規則正しい生活をしている人がいる。雨戸を開
ける時刻も、閉める時刻も、一年を通して、同じ。夏も冬も、だ。

 そういう人を見ると、心底、感心するというよりは、驚く。「そういう生活をしていて、平気なの
かなア?」と。まあ、人それぞれ。その人がそれでよいのなら、私のようなものが、とやかく言う
必要はない。

 ただ私のばあいは、変化のある生活を大切にしている。いつもどこかに、何かの新鮮さを感
じていないと、落ちつかない。単調な生活には、耐えられない。寝室にしても、いつもあちこち
へ移動している。同じ寝室の中でも、ふとんの向きをいつも変えている。

 が、願うことは、ただ1つ。ポカポカと暖かいふとんの中に入って、早く、寝た〜い。


●顔

 子どもたち(年長児)に、聞く。「君たちのパパと、ぼく(=私)とでは、どっちが、かっこいいか
な?」と。すると、全員、「パパ!」と答える。

 そこで、私は、わざとむっした表情をしてみせ、「じゃあ、ぼくの顔と、君たちのパパの顔を描
いてみるからね」と。

私「まず、林先生(=私)の顔は、かっこいいかな、すばらしいかな?」
子どもたち、(瞬間、迷った様子で)、「かっこよくない……」
私「ああ、そう、かっこいいんだね。では、つぎは、鼻。先生の鼻は、高いかな、それとも、すて
きかな?」
子「……すてきじゃない……」
私「ああ、そう。すてきなんだね」

(子どもたちが、「ちがう」「ちがう」と叫んでいるのは、無視。こうして、まず、私の顔を描く。スー
パーマンに出てくる、クラーク・ケントのような顔である。)

私「では、君たちのパパの顔だよ。君たちのパパの顔は、へんかな、おかしいかな?」
子「へんじゃ、ない」
私「ああ、そう、へんなのかア。じゃあ、目はどうかな。おもしろいかな、それとも、おかしいか
な?」
子「……おかしくない……」
私「ああ、おかしんだね」と。

 こうして私は、子どもたちの父親の顔を、超おかしく描く。(コミック「天才バカボン」に出てく
る、バカボンのパパのような顔である。)

 最後に、「これでできた。じゃあ、くらべてみてごらん。先生の顔と、君たちのパパの顔は、ど
っちがかっこいいかな?」と聞く。

 こうした(ふざけ)を、私はときどきするが、いつも子どもたちの答は、同じ。例外なく、同じ。全
員、「パパ!」と答える。

 で、私はさらにむっとした表情をしてみせ、こう言う。「君たちは、いったい、どういう美的感覚
をもっているのだア!」と。

 あとは、こどもたちの笑い声。それを聞いて、私も笑う。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●ドアの向こう

子どもたちの笑い声とともに、ドアが開いた。
まばゆいばかりの白い光が、教室の中に、入ってきた。
見ると、そこに4、5人の母親たちが、立っていた。

美しい人たちだった。長い髪の毛を、ゆっくりとゆらしながら、
なにやら、にこやかに話しあっていた。笑いあっていた。
遠い、遠い、昔の世界。そのドアの向こうは、昔の世界だった。

年の差。当然、それはある。その華やかさを見たとき、
ふと、我にかえって、自分の姿を見る。
20代のころ、30代のころ、50歳の人や、60歳の人が、
老人に見えた。自分とは関係のない世界の人に見えた。

それが、今、わかる。反対の立場で、よくわかる。

母親たちは、いつもの笑みを浮かべながら、型どおりのあいさつをして、
そのまま去っていく。私も、型どおりのあいさつをして、
そのまま別れる。ふと、心を横切る、さみしさ。切なさ。そして冬の風。

ドアが閉まったとき、そこにあるのは、現実。白い光の消えた世界。
私はそそくさと、机をそろえ、椅子を並べなおす。そして母親たちのことは忘れる。
どちらにせよ、つまりは、私のことをどう思っているにせよ、
私には遠い、遠い昔の世界の人たち。

++++++++++++++++++

この散文を書いていて、ふと思い出したのが
映画『ロメオとジュリエット』。

それについて書いたのが、つぎの原稿。
この原稿を書いた当時ですら、遠い、遠い昔に
思える。

++++++++++++++++++

●息子が恋をするとき

 栗の木の葉が、黄色く色づくころ、息子にガールフレンドができた。メールで、「今までの人生
の中で、一番楽しい」と書いてきた。それを女房に見せると、女房は「へええ、あの子がねえ」と
笑った。その顔を見て、私もつられて笑った。

 私もちょうど同じころ、恋をした。しかし長くは続かなかった。しばらく交際していると、相手の
女性の母親から私の母に電話があった。そしてこう言った。

「うちの娘は、お宅のような家の息子とつきあうような娘ではない。娘の結婚にキズがつくから、
交際をやめさせほしい」と。

相手の女性の家は、従業員30名ほどの製紙工場を経営していた。一方私の家は、自転車
屋。「格が違う」というのだ。この電話に母は激怒したが、私も相手の女性も気にしなかった。
が、二人には、立ちふさがる障害を乗り越える力はなかった。ちょっとしたつまづきが、そのま
ま別れになってしまった。


 「♪若さって何? 衝動的な炎。乙女とは何? 氷と欲望。世界がその上でゆり動く……」と。
オリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが演ずる「ロメオとジュリエット」の中で、若い男が
そう歌う。たわいもない恋の物語と言えばそれまでだが、なぜその戯曲が私たちの心を打つか
と言えば、そこに二人の若者の「純粋さ」を感ずるからではないのか。私たちおとなの世界は、
あまりにも偽善と虚偽にあふれている。

年俸が一億円も二億円もあるようなニュースキャスターが、「不況で生活がたいへんです」と顔
をしかめてみせる。一着数百万円もするような着物で身を飾ったタレントが、どこかの国の難
民の募金を涙ながらに訴える。暴力映画に出演し、暴言ばかり吐いているタレントが、東京都
や外国の政府から、日本を代表する文化人として表彰される。

もし人がもっとも人間らしくなるときがあるとすれば、電撃に打たれるような衝撃を受け、身も心
も焼き尽くすような恋をするときでしかない。それは人が人生の中で唯一つかむことができる、
「真実」なのかもしれない。そのときはじめて人は、もっとも人間らしくなれる。もしそれがまちが
っているというのなら、生きていることがまちがっていることになる。しかしそんなことはありえな
い。

ロメオとジュリエットは、自らの生命力に、ただただ打ちのめされる。そしてそれを見る観客は、
その二人に心を合わせ、身を焦がす。涙をこぼす。しかしそれは決して、他人の恋をいとおし
む涙ではない。過ぎ去りし私たちの、その若さへの涙だ。あの無限に広く見えた青春時代も、
過ぎ去ってみると、まるでうたかたの瞬間でしかない。歌はこう続く。「♪バラは咲き、そして色
あせる。若さも同じ。美しき乙女も、また同じ……」と。

 相手の女性が結婚する日。私は一日中、自分の部屋で天井を見つめ、体をこわばらせて寝
ていた。6月のむし暑い日だった。ほんの少しでも動けば、そのまま体が爆発して、こなごなに
なってしまいそうだった。ジリジリと時間が過ぎていくのを感じながら、無力感と切なさで、何度
も何度も私は歯をくいしばった。

しかし今から思うと、あのときほど自分が純粋で、美しかったことはない。そしてそれが今、たま
らなくなつかしい。私は女房にこう言った。「相手がどんな女性でも温かく迎えてやろうね」と。そ
れに答えて女房は、「当然でしょ」というような顔をして笑った。私も、また笑った。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb.06+++++++++++はやし浩司

●作文指導

+++++++++++++++++

 今、ほとんどの中学校では、入学試験に、
作文テストなるものをする。その作文テス
トについて、親たちからの、相談も多い。
「どうすればいいですか?」と。

+++++++++++++++++

 今、ほとんどの中学校では、入学試験に、作文テストなるものをする。その作文テストについ
て、親たちからの、相談も多い。「どうすればいいですか?」と。

 実はその作文テストで、いつも1つ疑問に思っていることがある。つまり(じょうず・へた)は、
だれが判断するのかということ。テストをする教師だって、みながみな、作文がうまいとはかぎ
らない。そのことは、それぞれの学校が発行する印刷物などを読めばわかる。ときどき、「これ
が先生の書いた文章なのかなあ?」と思うことは、よくある。

 しかしそんな疑問をもっていたのでは、子どもたちに対して、指導ができない。では、どうする
か?

(1)声に出させて、読ませてみる。

 もっとも重要なコツは、子どもに作文を書かせたら、子ども自身に、それを声に出して、読ま
せてみること。これは子どもにかぎらない。おとなでも、そうだ。声に出して読んでみると、語句
の使い方が正しいかどうかが、わかる。文のリズムも、それでわかる。自然なリズムで、流れる
ようにサラサラと読める文章は、すばらしい。

 要するに気取らないで、話し言葉で書くということか。短い文章をつなげて、端的に書くのがコ
ツ。

(2)常識的なことを書く。

 作文テストで、教師が知りたいのは、その子どものものの考え方が常識的かどうかというこ
と。そのことは、入試問題として、与えられたテーマをみればわかる。

 今年の入試では、たとえばこんな課題が出された(H市内)。

●みんなで、映画を作ることになりました。あなたなら、どんな目的をもって、どんな映画を作り
ますか。

●みんなで、ロボットを作ることになりました。あなたが作るロボットは、どんなロボットですか。
またそのロボットには、どんな仕事をさせますか。

 こうした作文では、当然のことながら、戦争、死など、暗い話を書くのは、タブー。内容が未来
に向かって、明るくすなおなものであればよい。またこの世界には、「無思想の思想」という言
葉がある。わかりやすく言えば、思想という思想を感じない作文ほど、よい……ということにな
っている。たとえば、「神の教えに従って……」とか、「この世界は、すべて数学で構成されてい
る……」というのは、まずい。

 もちろん漢字の使い方や文字の書き方も評価されるが、それはマイナーな問題と考えてよ
い。

 で、あとは練習あるのみ。作文というのは、書けば書くほど、うまくなる。もし、親として家庭で
指導ができる部分があるとするなら、子どもとの会話に注意すること。それについて書いた原
稿を、ここに添付する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

子どもの国語力は、親が決める!
親の会話力で、決まる!

++++++++++++++++

【子どもの国語力を伸ばす法】

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう30年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の3つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない

ある男の子(小2)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」というような話し方をしていた。「ジ
ャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛隊』という映画を見てきた中学生
がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言った。「先生、スゴイ、スゴ
イ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何度か聞きなおしてみた
が、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない

ある女の子(小4)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで会話が終わるとか。何を聞いて
も、「まあまあ」と言う、など。

母「学校はどうだったの?」
娘「まあまあ」
母「テストはどうだったの?」
娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない

そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの子どもも外国語でも話すかのよ
うに、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のようにたどたどしかった。

私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」
子「山ア……、上にイ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる

 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。
もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。
「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言
った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++

【補記】

 自分の書いた文章を、一度、声に出して読んでみるというのは、とても重要なことである。そ
してできれば、いつも、読む人側の立場にたって、書くこと。つまり読む人にとって、わかりやす
い文章かどうかを考えながら、書くこと。

 たとえば、こんなメールを受け取ったとしよう。「先日は、いろいろありがとうございました。あ
のあと、あの問題などをよく考えてみましたが、原因は父親にあると思います。が、息子として
も反省すべき点もあると思います。これからも、よろしくご指導ください」と。

 「父親」というのは、その人自身の親のことなのか、それとも、その人の夫のことなのか。
 「あの問題」とは、何か。
 「息子として……」というのは、だれのことなのか、などなど。「いろいろ」とか、「あの」「など」と
かいう言葉は、使うとしても、最小限にしたい。

 こういう文章に出会うと、それだけでイライラしてしまう。そういう文章は、へたくそな文章とい
うことになる(失礼!)。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(116)

【実父との関係に悩む女性から……】

++++++++++++++++++

結婚当初のトラブルから、父親と
疎遠になってしまった女性からの
相談です。

(広島県在住、YDより)

++++++++++++++++++

以前にもご相談させていただきましたYDです。今回は私と実父との事で、ご相談お願いしたい
と思いました。 

18歳のときから、私は、今の主人とつき合い始めたのですが、そのときは、私が進路未定の
状態だったので、交際を猛反対されました。 

 幼稚な私は当時、交際を隠し続けていたのですが結局親が知るところとなり、私は家を飛び
出し、主人の所に転がり込む形で、家族との縁を切りました。そのときから体の不調が始まり、
主人と同棲を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました(主治
医の先生によると、「おびえ」という症状との見解でした)

 実家とは絶縁状態のまま結婚、出産し、4年が過ぎた頃実母が亡くなり、家の敷居をまたぐこ
とになりましたが、実父との関係は修復されないままでいます。

 母は子供の頃から誰にも言えない胸のうちを、私には話せるようで、愚痴の聞き役のような感
じでした。家を出てからも、父に隠れながら、毎日のように電話をくれました。しかし私の話より
自分の愚痴や不安を聞かされ、私が励ます内容の電話が多かったと思います。そのせいか、
私は心のどこかで父を軽蔑していると自分では思っています。
 
 母が亡くなった事で、法事などで実家に行くこともありますが、主人は父を嫌って極力実家に
は近づこうとしません。父にはそれがもの凄く不満のようで、「もっと(私を)大事にしてくれ」と訴
えるのですが、主人は、自分の両親・姉でさえとも一線を引き付き合うところが有り、自分と合
わない人間とは付き合わないところがあります。主人の気持ちも考えると、どちらにも強く言え
ないでいます。 

 このお正月に母のお墓参りに行きましたが場所が岩手県と遠いこともあり、また車での慣行
で雪も降ったあととだったので、詳しい日程が立てられないまま行きました。

 結局、予定より2日も余裕が出来たので、叔父達に会いに行くことが出来ましたが、事前に
詳しく連絡を入れていなかった事で、父に迷惑がかかり、怒られる結果となりました。

父は「相手の立場に立って思いやりを持って行動すべきだ。相手にも都合がある。正月という
時期だから余計に考えるべきだった。自分(父)が何も知らないで勝手に決めすぎだ」と言われ
ましたが、今回は行き当たりばったり過ぎて、皆に迷惑を掛けたのは確かだと、自分では思っ
ています。 

 事前に父に密に予定を話しておけば良かったことなのですが、私自身ごちゃごちゃ言われた
くないから、最低限のことだけ伝えればいいやと、父とのコンタクトを避けてしまった結果だと、
自分では思っています。 

 父は、私の家族であるリーダーは主人だから、私に言っても仕方なく、主人が考え、行動す
べきことであり、主人と話をすることを考えていると言っています。私は主人の性格を考える
と、余計に父を疎ましがるのではないかと思い、まずは私が父とコミュニケーションを取れるよ
うにならなければ、今の関係の改善は難しいと思うのですが。

 また、私たち家族が出向くことによって父が叔父達に「よろしくお願いします」「お世話になりま
した」と動けるように、私たちから働きかけるべきなのでしょうか? 父にその必要があるのな
ら父から聞いてくればいいのにと、どこか反発心もありながら、社会を見ないまま家庭に入った
身として、常識に欠けているのか判断が出来ずにいます。まず何から改善すべきか見出せな
い現状です。

 文章が支離滅裂でお恥ずかしいのですが、先生はどう感じたでしょうか?聞かせていただけ
るととても嬉しいです。


+++++++++++++++++++++++

●「家族」とは何か?

 多くの人にとっては、「家族」は、その人にとっては、(心のより所)ではあるが、しかし一度、
歯車が狂うと、今度は、その「家族」が、重圧となってその人を苦しめることがある。ふつうの苦
しみではない。心理学の世界でも、その苦しみを、「幻惑」と呼んでいる。

 そういった「家族」全体がもつ、束縛意識、結束意識、連帯意識を総称して、「家族自我群」と
呼ぶ学者もいる。こうした意識は、乳幼児期から、親を中心とする家族から本能に近い部分に
まで刷りこまれている。そのため、それから自らを解放させることは、容易なことではない。

 ふつう、生涯にわたって、人は、意識することがないまま、その家族自我群に束縛される。
「親だから……」「子だから……」という、『ダカラ論』も、こうした自我群が背景となって生まれ
る。

 さらにこの日本では、封建時代の家督制度、長子相続制度、権威主義などが残っていて、親
子の関係を、特別視する傾向が強い。私が説くところの、「親・絶対教」は、こうして生まれた
が、親を絶対視する子どもは、少なくない。

が、ときに、親自身が、子どもに対して、その絶対性を強要することがある。これを私は「悪玉
親意識」と呼んでいる。俗に言う、親風を吹かす人は、この悪玉親意識の強い人ということにな
る。こういう人は、「親に向かって、何てこと言うのだ!」「恩知らず!」「産んでやったではない
か!」「育ててやったではないか!」「大学まで出してやったではないか!」というような言葉を、
よく口にする。

 もともと権威主義的なものの考え方をする傾向が強いから、人とのつながりにおいても、上下
意識をもちやすい。「夫が上、妻が下」「男が上、女が下」と。「親が上で、子が下」というのも、
それに含まれる。さらにこの悪玉親意識が強くなると、本来なら関係ないはずの、親類の人た
ちにまで、叔父風、叔母風を吹かすようになる。

 が、親子といえども、基本的には、人間対人間の関係で、決まる。よく「血のつながり」を口に
する人もいるが、そんなものはない。ないものはないのであって、どうしようもない。観念的な
(つながり)を、「血」という言葉に置きかえただけのことである。

 で、冒頭に書いたように、(家族のつながり)は、それ自体は、甘美なものである。人は家族
がもつ安らぎの中で、身や心を休める。が、それには、条件がある。家族どうしが、良好な人
間関係を保っているばあいのみ、という条件である。

 しかしその良好な人間関係にヒビが入ると、今度は、逆に(家族のつながり)が、その人を苦
しめる、責め道具になる。そういう例は、多い。本当に多い。子ども自身が、自らに「親捨て」と
いうレッテルを張り、生涯にわたって苦しむという例も少なくない。

 それほどまでに、脳に刷りこまれた(家族自我群)は、濃密かつ、根が深い。人間のばあい、
鳥類とは違い、生後、0か月から、7〜8か月くらいの期間を経て、この刷りこみがなされるとい
う。その期間を、「敏感期」と呼ぶ学者もいる。

 そこで、ここでいう家族自我群による束縛感、重圧感、責務感に苦しんでいる人は、まず、自
分自身が、その(刷りこみ)によって苦しんでいることを、知る。だれの責任でもない。もちろん
あなたという子どもの責任でもない。人間が、動物として、本来的にもつ、(刷りこみ)という作
用によるものだということを知る。

 ただ、本能的な部分にまで、しっかりと刷りこまれているため、意識の世界で、それをコントロ
ールすることは、たいへんむずかしい。家族自我群は、意識の、さらにその奥深い底から、あ
なたという人間の心を左右する。いくらあなたが、「縁を切った」と思っていても、そう思うのは、
あなたの意識だけ。それでその刷りこみが消えるわけではない。

 この相談を寄せてくれた、YDさんにしても、家を出たあと、「体の不調が始まり、主人と同棲
を始めると同時に、自律神経失調症とわかり、一年間、薬の服用をしました」と書いている。ま
た実母がなくなったあとも、その縁を断ち切れず、葬儀に出たりしている。
 
 家族自我群による「幻惑」作用というのは、それほどまでに強烈なものである。

 で、ここで人は、2つの道のどちらかを選ぶ。(1)家族自我群の中に、身を埋没させ、安穏
に、何も考えずに生きる。(2)家族自我群と妥協し、一線を引きながらも、適当につきあって生
きる。もう1つ、本当に縁を切ってしまうという生き方もあるが、それはここでは考えない。

 (2)の方法はを、いいかげんな生き方と思う人もいるかもしれないが、自分の苦しみの原因
が、家族自我群による幻惑とわかれば、それなりにそれに妥協することも、むずかしくはない。
文字が示すとおり、「幻惑」は、「幻惑」なのである。もっとわかりやすく言えば、得体の知れな
い、亡霊のようなもの。そう考えて、妥協する。

 YDさんに特殊な問題があるとすれば、あくまでもこのメールから私がそう感ずるだけだが、
それはYDさん自身の、依存性がある。YDさんは、親に対してというより、自分自身が、だれか
に依存していないと、落ち着かない女性のように感ずる。そしてその依存性の原因としては、Y
Dさんには、きわめて強い(弱化の原理)が働いているのではないか(?)。

 自信のなさ、そういう自分自身を、YDさんは、「幼稚」と呼ぶ。もう少し精神的に自立していれ
ば、自分をそういうふうに呼ぶことはない。YDさんは、恐らく幼いときから、「おまえはダメな子」
式の子育てを受けてきたのではないか。とくに父親から、そう言われつづけてきたように思う。

 そのことにYDさん自身が気がつけば、もっとわかりやすい形で、この問題は解決すると思わ
れる。

 あえてYDさんに言うべきことがあるとするなら、もう親戚のことや、父親のことは忘れたほう
がよいということ。YDさんがもっとも大切にすべきは、夫であり、父親ではない。いわんや、郷
里へ帰って、親戚に義理だてする必要など、どこにもない。それについてたとえYDさんの父親
が、不満を言ったとしても、不満を言う、父親のほうがおかしい。それこそまさに、悪玉親意
識。YDさんは、すでにおとな。親戚にまで親風を吹かす父親のほうこそ、幼稚と言うべきであ
る。詳しくは、このあとそれについて書いた原稿を添付しておく。

【YDさんへ……】

 お元気ですか。ここまでに書いたことで、すでに返事になってしまったようです。

 私のアドバイスは、簡単です。あなたの父親のことは、相手のほうから、何か助けを求めてく
るまで、放っておきなさい。あなたがあれこれ気をもんだところで、しかたのないことです。また
どうにもなりません。

 父親が何か苦情を言ってきたら、「あら、そうね。これからは気をつけます」と、ケラケラと笑っ
てすませばよいのです。何も深刻に考えるような問題ではありません。

 あなたの結婚当初の問題についても、そうです。いつまでも過去をずるずると引っぱっている
と、前に進めなくなります。

 で、もっと広い視野で考えるなら、そういうふうにYDさんを苦しめている、あるいはその原因と
なっているあなたの父親は、それだけでも、親失格ということになります。天上高くいる神なら、
そう考えると思いますよ。

 本来なら、そういう苦しみを与えないように、子どもを見守るのが親の務めです。あなたの父
親は、結果としてあなたという子どもを苦しめ、悲しませている。不幸にしている。だから、あな
たの父親は、親失格ということになるのです。

 そんな父親に義理立てすることはないですよ。

 今は、一日も早く、「ファーザー・コンプレックス(マザコンに似たもの)」を捨て、あなたの夫の
ところで、羽を休めればよいのです。あなたの夫と、前に進めばよいのです。あなたの夫が、
「実家へ行きたくない」と言えば、「そうね」と、それに同意すればよいのです。

 私は、あなたの夫の考え方に、賛成します。同感で、同意します。

 では、今日は、これで失礼します。

 出先で、この返事を書いたので、YDさんとわからないようにして、R天日記のほうに返事を書
いておきます。お許しください。


【YDさんより、はやし浩司へ】

++++++++++++++++++

私が返事を書いた、翌日、
YDさんより、こんな
メールが届いた。

++++++++++++++++++


はやし先生

先ほど楽天日記を読ませていただきました。

心が楽になりました。ありがとうございまいた。

家族自我群にあてはまるのだと教えて頂き、とても感謝しています。先生のホームページから
勉強させて頂きマガジンからも勉強させていただいていますが、私は自分の都合の良い情報
ばかりを集めて自分を正当化しようと思っているのではないかと思っていました。

先生のお書きになった通り、私は依存性が強い人間です。主人と付き合い始めた当初は自分
でも思い出したくないくらいです 苦笑。そして父から褒められた記憶はありません。

父は「言って聞かないなら殴る。障害者になってもいいんだ」という教育方針で、私が何か悪い
ことをすると、殴られるのは当たり前でした。お説教の最中に物が飛んでくるのもよくあることで
した。なので、父からのお説教があってしばらくはもう二度と可愛いと思ってもらえないかもしれ
ないという恐怖心は強かったと、今になると思います。

それでも、学校をさぼったりしていたのは、何でだったのか、まだ当時の自分を自己分析でき
ずにいますが・・・。

「大切にされた記憶がない」と話すと、父は、「毎週(月曜日に剣道に通っていたのですが、終
わるのが夜の9時でした)、迎えに行っていたのになぁ」と言われた事があります。私が父の愛
情に気付いていなかっただけなのか、自分がされた嫌な事だけしか覚えていないから私は自
分を悲劇のヒロイン化させているのかと思っていました。

その反面、(私は中学生でしたが)当時の心境は、「夜遊びに走らないように監視されている」
のが本当のところではなかったのかと思います。きっとその頃からひずみはすでに始まってい
たんでしょう・・・。

自分では私は「アダルトチルドレン」に入るのではないかと思っています。社会との繋がりがう
まく持てない焦りから、今の自分のままでは子供達の成長に良くないのではないかと焦ってい
ます。父に「親や、その親、親の兄弟あってのお前なんだから、まわりを大切にすべきだ」と強
く言われる事で、自分を見失ってしまいました。

父の事を思い起こすと未だに震えが起こるので、きちんと文章になっているのか不安ですがお
時間を割いて頂きありがとうございました。

追伸・「ユダヤの格言xx」という本の中で、「父親の生き方から夫の生き方に変え、逆境のとき
は夫を支え、喜びを分かち合い、女中を雇う余裕があっても怠けることなく、話をしてくるものに
はわけへだてなく対応し、困っている人には手を差し伸べる」(ユダヤ人の伝統的な良き妻の
像)と言う説を手帳に書き写したことがあります。楽天の日記を読ませていただきこの事を思い
出しました。 

個人的なのですがこの本の先生の見解にとても興味があります。
長々と読んでいただきありがとうございました。

++++++++++++++++

悪玉親意識についての原稿を
添付しておきます。

++++++++++++++++

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。その悪玉親意識にも、これまた二種類あ
る。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちのそうすることが多い。親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言
い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。

「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにする
のが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとす
るのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の
方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者
ということになる。
 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。

+++++++++++++++

もう1作……

+++++++++++++++

●子育て、はじめの一歩

 先日、あるところで講演をしたら、一人の父親からメールが届いた。いわく、「先生(私のこと)
は、親は子どもの友になれというが、親子にも上下関係は必要だと思う」と。

 こうした質問や反論は、多い。講演だと、どうしても時間的な制約があって、話のあちこちを
端(はし)折ることが多い。それでいつも誤解を招く。で、その人への説明……。

 テレビ番組にも良質のものもあれば、そうでないのもある。そういうのを一緒くたにして、「テ
レビは是か非か」と論じても意味がない。同じように、「(上下意識のある)親意識は必要か否
か」と論じても意味はない。親意識にも、つまり親子の上下関係にも、いろいろなケースがあ
る。私はそれを、善玉親意識と、悪玉親意識に分けている。

善玉親意識というのは、いわば親が、親の責任としてもつ親意識をいう。「親として、しっかりと
子どもを育てよう」とか、そういうふうに、自分に向かう親意識と思えばよい。一方、悪玉親意識
というのは、子どもに向かって、「私は親だ!」「親に向かって、何だ!」と、親風を吹かすことを
いう。

 つまりその中身を分析することなく、全体として親意識を論ずることは危険なことでもある。同
じように「上下意識」も、その中身を分析することなく論じてはいけない。当然、子どもを指導
し、保護するうえにおいては、上下意識はあるだろうし、またそれがなければ、子どもを指導す
ることも、保護することもできない。しかし子どもの人格を認めるという点では、この上下意識
は禁物である。あればじゃまになる。

親子の関係もつきつめれば、一対一の人間関係で決まる。「親だから……」「子どもだから…
…」と、「だから」論で、たがいをしばるのは、ときとしてたがいの姿を見失う原因となる。日本人
は世界的にみても、上下意識が強い民族。親子の間にも、(あるいは夫婦の間ですら)、この
上下意識をもちこんでしまう。そして結果として、それがたがいの間にキレツを入れ、さらには
たがいを断絶させる。

 が、こうして疑問をもつことは、実は、子育ての「ドア」を開き、子育ての「階段」をのぼる、そ
の「はじめの一歩」でもある。冒頭の父親は、恐らく、「上下関係」というテーマについてそれま
で考えたことがなかったのかもしれない。しかし私の講演に疑問をもつことで、その一歩を踏み
出した。ここが重要なのである。もし疑問をもたなかったら、その上下意識についてすら、考え
ることはなかったかもしれない。もっと言えば、親は、子育てをとおして、自ら賢くなる。「上下意
識とは何か」「親意識とは何か」「どうして日本人はその親意識が強いか」「親意識にはどんなも
のがあるか」などなど。そういうことを考えながら、自ら賢くなる。ここが重要なのである。

 子育ての奥は、本当に深い。私は自分の講演をとおして、これからもそれを訴えていきた
い。
(はやし浩司 親意識 親との葛藤 家族自我群 はやし浩司 幻惑)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●ある母親からの相談

++++++++++++++++

育児に悩む、母親から、こんな
相談があった。

++++++++++++++++

先日一度ご相談差し上げたNKと申します。一時は暴力的だった我が子も随分と落ち着いてき
ましたが、最近主人と私が、仲が悪いせいか、(1)指しゃぶり、爪噛みを始めた事。(ひどい時
は拳を口に入れ込んでウエッっと嗚咽する事も)、(2)先日友人の子どもがおっぱいをもらって
る姿を見て、突然おっぱいに異常に興味を示している事、(3)根気よく遊べない事(幼稚園な
どに遊ぶに行っても皆と同じ様に座っていれず、歩き回ってしまう)事、(4)笑顔が減ったような
気がする事。沢山のことが一気に起きてしまい、主人との事もあり、子どもにとってどう接した
らよいのかわからません。どうすることがベストなのでしょうか? よろしくご指導下さい。

【はやし浩司から、KT様へ】

 この問題は、一見、子どもの問題に見えますが、実は、母親である、KT様、あなた自身の問
題です。子どもが、あなたの心の状態を、忠実に、カガミのように映しだしているにすぎませ
ん。

 つまり心が不安定になっているのは、子どもの方ではなく、あなた自身のほうだということで
す。お子さんは、たしか、2歳でしたね。そんな子どもに、神経症による症状が、これだけ出て
いるのですから、反省すべきは、あなた自身のほうということになります。

 神経症については、(はやし浩司のHP)→(トップページ)→(はやし浩司の書斎)→(FORU
M)→(神経症)へと進んでください。今日、診断チェックシートを載せておきました。

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
から、おいでください。

 子どもの視点から見て、安心感のもてる家庭環境作りに、どうか、心がけてください。

 で、私からのアドバイス。あなたの子どもは、いつかすぐ、あなたのよき友だちになり、あなた
の苦しみや悲しみを、共有してくれます。あなたをなぐさめ、励ましてくれます。それを信じて、
今は、そのための基礎作りと考えてください。わかりますか? あなたは子どもを育てているの
ではないのです。将来の親友を育てているのです。

 今は、頼りなく、心もとないかもしれませんが、やがてたくましく成長します。それをどうか、信
じてください。あっという間に、そうなります。で、一番重要なことは、肩の力を抜いて、もっと子
育てを楽しむことです。方法は簡単です。あなた自身が、幼児に返ったつもりで、いっしょに、
人生を楽しめばよいのです。

 私も、ずいぶんと前のことですが、あるときから、生徒たちを前にして、「教えてやろう」という
気持は、捨てました。そのかわり、「いっしょに楽しんでやろう」と考えるようになりました。とた
ん、気も楽になりました。生徒たちの表情も、見ちがえるほど、明るくなりました。

 あなたの子どもの神経症(心身症)による症状は、少し時間がかかるかもしれませんが、そ
れで消えるはずです。2歳ということですから、ささいなことで、こうした症状を示すようになりま
すが、お母さんのあなたさえ、少しなおせば、症状も、すぐ消えます。(……こじらせれば、情緒
が不安定になるだけではなく、精神状態にも影響をおよぼすようになるかもしれません。どう
か、ご注意ください。)

 子どもの心が不安定と感じたら、(現在、かなり不安定のようですが……)、CA、MG、K分の
多い食生活に切りかえてみてください。わかりやすく言えば、海産物を中心とした献立に切りか
えます。

 白砂糖の多い食品をひかえ、カルシウム分をふやすだけでも、子どもの心は、かなり落ちつ
きます。ためしてみてください。


++++++++++++++++++

子どもの神経症についての原稿を
ここに添付しておきます。

++++++++++++++++++

 子どもの神経症(心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害)は、ま
さに千差万別。「どこかおかしい」と感じたら、この神経症を疑う。
 精神面の神経症…恐怖症(ものごとを恐れる)、強迫症状(周囲の者には理解できないものに
対して、おののく、こわがる)、不安症状(理由もなく悩む)など。
 身体面の神経症……夜驚症(夜中に狂人的な声をはりあげて混乱状態になる)、夜尿症、頻
尿症(頻繁にトイレへ行く)、睡眠障害(寝ない、早朝覚醒、寝言)、嘔吐、下痢、便秘、発熱、
喘息、頭痛、腹痛、チック、遺尿(その意識がないまま漏らす)など。

一般的には精神面での神経症に先立って、身体面での神経症が起こることが多く、身体面で
の神経症を黄信号ととらえて警戒する。
 行動面の神経症……神経症が慢性化したりすると、さまざまな不適応症状となって行動面に
現れてくる。不登校もその一つということになるが、その前の段階として、無気力、怠学、無関
心、無感動、食欲不振、引きこもり、拒食などが断続的に起こるようになる。
  神経症が子どもに現れたら、子どもの側からみて、親の存在を感じないほどまでに、家庭環
境をゆるめる。親があれこれ気をつかうのは、かえって逆効果。子どもがひとりでぼんやりとで
きる時間と場所を大切にする。

+++++++++++++++++

●カルシウムは紳士をつくる

 戦前までは、カルシウムは、精神安定剤として使われていた。こういう事実もあって、イギリス
では、「カルシウムは紳士をつくる」と言われている。子どもの落ち着きなさをどこかで感じた
ら、砂糖断ちをする一方、カルシウムやマグネシウムなど、ミネラル分の多い食生活にこころ
がける。

私の経験では、幼児の場合、それだけで、しかも一週間という短期間で、ほとんどの子どもが
見違えるほど落ち着くのがわかっている。川島四郎氏(桜美林大学元教授)も、「ヒステリーや
ノイローゼ患者の場合、カルシウムを投与するだけでなおる」(「マザーリング」八一年7号)と
述べている。

効果がなくても、ダメもと。そうでなくても、缶ジュース一本を子どもに買い与えて、「うちの子は
小食で困ります」は、ない。体重15キロ前後の子どもに、缶ジュースを一本与えるということ
は、体重60キロの人が、4本飲む量に等しい。おとなでも缶ジュースを四本は飲めないし、飲
めば飲んだで、腹の中がガボガボになってしまう。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(117)

【K国への制裁問題】

+++++++++++++++

先の日朝・国交回復協議を受けて、
またまた、K国制裁問題が浮上し
てきた。

しかし、K国など、本気で相手に
してはいけない。

制裁など、してはいけない!

++++++++++++++

●制裁問題

 06年2月4日から、中国の北京で、日K協議が行われた。しかし予想どおりというか、当然の
ことながら、物別れ。何ら合意点を見いだすことなく、協議は終了した。拉致問題についても、
「何ら進展がないまま終わった」(報道各社)。

 これについて、自民党のT部幹事長まで、新潟市内で講演をし、「結果は残念極まりない。
『対話と圧力』と言われるが、真剣に圧力を考えねばならない」(ヤフーNEWS)と述べ、経済
制裁などK国への「圧力」を検討すべきだとの認識を示したという。

 しかしここで日本は、動いてはいけない。動けば、それこそ、K国の思うツボ。ワナにはまる。
いわんやK国を制裁するようなことをしてはいけない。正攻法で、ジワジワとK国をしめあげる
ことは、この際、し方ないにしても、消して「制裁」を口にしてはいけない。あくまでも正攻法。つ
まり国際世論を動かしながら、K国をしめあげる。

 K国など、相手にしてはいけない。また日本が相手にすべきような国ではない。拉致被害者
の方の気持ちも、よく理解できるが、この問題には、K国の最高指導者がからんでいる。から
んでいる以上、拉致問題が進展することはありえない。絶対に、ありえない。

 それがわかっていて、つまり百も承知の上での、今回の日K協議である。言うべきことは言
う。しかし日本は、ここで止める。理由を順に並べてみる。

●問題は、核開発問題

 ここで日本が先走って制裁に踏み切れば、日本は、そのまま6か国協議から離脱することに
なる。韓国、中国が、日本の参加を認めないだろう。当然、K国は、日本の参加に、猛反対す
る。「制裁を先にしておいて、何が協議だ」ということになる。

 そのときK国の核攻撃の危険にさらされるのは、この日本ということになる。

 日本が攻撃されれば、アメリカが日米安保条約をもとに、K国に反撃してくれるはずと考えて
いる人は多い。しかし日米安保条約が改定された1970年代と今とでは、東アジアの軍事状
況は、大きく変わった。

 韓国および、中国の軍事力も、当時とは比較にならないほど、増大した。その韓国や中国の
意向に反して、アメリカが日本のために反撃してくれると考えるのは、あまりにも甘い。どうして
アメリカが自らの国を危険にさらしてまで、日本を守らねばならないのか。

 さらに日K戦争となっても、日本は憲法にしばられて、K国には手も足も出せない。出せない
ばかりか、韓国は、アメリカを抑制しながら、K国と共同軍事行動を取る可能性が高い。

 そうなったとき、日本は、どうするのか? どうなるのか? 単独でK国や韓国と戦う準備がで
きているのか? その心構えはできているのか? アメリカ政府の高官は、K国がすでに12発
の核爆弾をもっていると、議会で証言している。

●正攻法

 日本政府だって、今回の協議が、こういう結果で終わることは、最初から知っていたはず。K
国もタヌキなら、日本もタヌキ。戦後賠償金を払う意思など、今の日本には、みじんもない。な
いにもかかわらず、「払いますよ」と臭(にお)わせながら、協議を開いた。

 また拉致問題についても、ここに書いたように、K国の最高責任者がからんでいることをこれ
また百も承知の上で、日本側は、責任問題を追及した。「拉致実行者を日本側へ引き渡せ」と
言うことは、彼らにしてみれば、金xxを引き渡せと言うに等しい。

 今回の協議は、もとから、意味のない協議であった。結末もわかっていた。そういうものを開
いて、「進展がなかったから、制裁だ」というのは、おかしい。

 では、どうするか?

 2月1日、日本の金融機関は、偽ドル問題にからんで、マカオのB銀行との取り引きを停止し
た。また各自治体は、日本各地にある、朝鮮S連の各施設に対して、税務上の恩恵措置を停
止する動きに出ている。ほかにも世界の人権団体と協力して、K国の人権問題を、国際機関で
討議するという動きも、加速してきている。ミサイル開発問題と並んで、覚せい剤や偽タバコ、
ミサイル問題を取りあげる動きも大きくなってきた。

 日本が今すべきことがあるとするなら、こうした正攻法による(しめあげ)を、側面から助長す
ることである。

 日本は、決して単独で、行動してはいけない。卑怯と言われようが、おく病と言われようが、
気にすることはない。だいたいにおいて、K国に、私たちがもっている(ふつうの常識)は、通じ
ない。また制裁するとかしないとか、そういう話になれば、K国は、そういう国ではない。すでに
K国は、これ以上、何も失うものはないと言えるほど、世界の中でも、最貧国になっている。

 K国の平均的労働者の1か月分の賃金が、アメリカドルに換算して、たったの0・7ドルしかな
いことを、忘れてはいけない。日本円になおすと、80円! 80円だぞ!

 そこでK国のねらいは、かつての日本がそうしたように、「戦争」を外に向かってしかけること
である。国民の不満を、外にそらす。で、そのK国にとって、ゆいいつ戦争の大義名分がたつ
国といえば、ほかならぬ、この日本なのである。

 もし、ここで東京で、核兵器が爆発したら、日本はどうなるか、それをほんの少しだけでも考
えてみればよい。核兵器でなくても、細菌兵器でも化学兵器でもよい。軍事雑誌などによると、
それがどれであれ、1発で、約20万人の日本人が死ぬという。20万人だぞ!

 彼らはそういったミサイルだけでも、数百発ももっている。もちろんそうした兵器がミサイル
で、日本にぶちこまれるとはかぎらない。漁船や、戦闘機に載せられてやってくる可能性もあ
る。(その可能性のほうが、はるかに高いが……。)

 もしそうなったら、日本はどうする……というより、今まで何もしてこなかった、日本のほうが、
バカだったということになる。日本中が平和ボケしてから、もう30年になる。拉致問題って、そ
ういう日本のスキをついて、なされたに過ぎない。

 制裁を臭わすのは、日本政府の自由だが、しかし制裁を前面に出してはいけない。今、ここ
で重要なのは、日本は、とくにアメリカとの協調関係を大切にしながら、国際世論に訴えていく
ことである。そして核開発問題については、アメリカに追従しながら、(追従しながらだぞ!)、6
か国協議を舞台に、K国をしめあげることである。

 今、K国は、その6か国協議から、先に席を蹴って立とうとしている。K国の金xxの健康問題
もある。つまり日本にとっては、K国をしめあげるための、最良のチャンスがやってきつつあ
る。

 日本は、K国の政権が交代し、常識の通ずる体制が生まれるのを待つしかない。拉致被害
者の方には、つらい毎日がつづいていることはよくわかる。しかしこの問題だけは、K国の金xx
体制がつづくかぎり、決して解決しない。
(06年2月11日記)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(118)

●イマジン

+++++++++++++++

イタリアのトリノで
冬期オリンピックが始まった。

開会式をテレビで見た。
よかった。感動した。

+++++++++++++++

 イタリアのトリノで、第20回、冬季オリンピック大会が、開かれた。その開会式の模様を、テ
レビで見た。よかった。

 さすがイタリア。ローマ時代からの歴史の重みと、自信を感じた。何といっても、深みがちが
う。スケールがちがう。よかった。感動した。

 聖火が登場する直前、オノ・ヨーコが、詩を読みあげた。つづいて、イタリア人の歌手が、英
語で、「♪IMAGINE」を歌った。よかった、感動した。涙が出た。

 ひとつの国家的行事の中で、国として、「♪IMAGINE」を歌うというのは、それ自体、勇気の
いること。世界中のほとんどの国々が、おかしな民族主義に毒されて、「我が民族は……」と、
自分勝手なことばかり言っている。そういう中での、「♪IMAGINE」である。

 「イタリアって、おとなだなあ」というのが、私の第一印象。「EUという形で、ヨーロッパを1つに
まとめたという自信の表れかなあ」というのが、私の第二印象。「アジアでオリンピックがあった
としても、どこも、こんな歌は、歌わないだろうな」というのが、私の第三印象。「日本なら、どう
か?」……オノ・ヨーコが、日本人だったとは言いたくない。彼女自身も、そう思っていないだろ
う。

 日本とか、日本人とかいう感覚を、彼女に求めるのは、失礼というもの。だいたい、アメリカに
は、アメリカ人というのは、いない。東京に、東京人というのは、いない。それと同じ。みな、移
民。移住者。いるとすれば、アメリカインディアンということになるが、アメリカインディアン、イコ
ール、アメリカ人と思う人は少ない。

 一方、この日本は、どうか。……と考えていくと、少し憂うつになる。日本はともかくも、まわり
の国々は、そのおかしな民族主義に毒された国ばかり。韓国にせよ、K国せよ、中国にせよ、
不幸なことに、極東アジア全体が、そういうおかしな民族主義に侵されている。

 「日本だけはちがう」と思いたいが、それが、どうも自信がもてない。日本の中にも、結構、お
かしな民族主義に毒されている人は、多い。「我が民族は、すぐれている」と思うのは、その人
の勝手だが、「だから他民族は、劣っている」と考えるのが、ここでいう「おかしな民族主義」と
いうことになる。

++++++++++++++++++++

「♪IMGINE」について以前書いた
原稿を、添付します。

++++++++++++++++++++

●プロローグ

かつてジョン・レノンは、「イマジン」の中で、こう歌った。

♪「天国はない。国はない。宗教はない。
  貪欲さや飢えもない。殺しあうことも
  死ぬこともない……
  そんな世界を想像してみよう……」と。

少し前まで、この日本でも、薩摩だの長州だのと言っていた。
皇族だの、貴族だの、士族だのとも言っていた。
しかし今、そんなことを言う人は、だれもいない。
それと同じように、やがて、ジョン・レノンが夢見たような
世界が、やってくるだろう。今すぐには無理だとしても、
必ず、やってくるだろう。
みんなと一緒に、力をあわせて、そういう世界をめざそう。
あきらめてはいけない。立ち止まっているわけにもいかない。
大切なことは、その目標に向かって進むこと。
決して後退しないこと。
ただひたすら、その目標に向かって進むこと。

+++++++++++++++++

イマジン(訳1)

♪天国はないこと想像してみよう
その気になれば簡単なこと
ぼくたちの下には地獄はなく
頭の上にあるのは空だけ
みんなが今日のために生きていると想像してみよう。

♪国なんかないと思ってみよう
むずかしいことではない
殺しあうこともなければ、そのために死ぬこともなくない。
宗教もない
平和な人生を想像してみよう

♪財産がないことを想像してみよう
君にできるかどうかわからないけど
貪欲さや飢えの必要もなく
すべての人たちが兄弟で
みんなが全世界を分けもっていると想像してみよう

♪人はぼくを、夢見る人と言うかもしれない
けれどもぼくはひとりではない。
いつの日か、君たちもぼくに加わるだろう。
そして世界はひとつになるだろう。
(ジョン・レノン、「イマジン」より)

(注:「Imagine」を、多くの翻訳家にならって、「想像する」と訳したが、本当は「if」の意味に近い
のでは……? そういうふうに訳すと、つぎのようになる。同じ歌詞でも、訳し方によって、その
ニュアンスが、微妙に違ってくる。

イマジン(訳2)

♪もし天国がないと仮定してみよう、
そう仮定することは簡単だけどね、
足元には、地獄はないよ。
ぼくたちの上にあるのは、空だけ。
すべての人々が、「今」のために生きていると
仮定してみよう……。

♪もし国というものがないと仮定してみよう。
そう仮定することはむずかしいことではないけどね。
そうすれば、殺しあうことも、そのために死ぬこともない。
宗教もない。もし平和な生活があれば……。

♪もし所有するものがないことを仮定してみよう。
君にできるかどうかはわからないけど、
貪欲になることも、空腹になることもないよ。
人々はみんな兄弟さ、
もし世界中の人たちが、この世界を共有したらね。

♪君はぼくを、夢見る人と言うかもしれない。
しかしぼくはひとりではないよ。
いつか君たちもぼくに加わるだろうと思うよ・
そしてそのとき、世界はひとつになるだろう。

ついでながら、ジョン・レノンの「Imagine」の原詩を
ここに載せておく。あなたはこの詩をどのように訳すだろうか。

Imagine

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine life in peace…

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.

+++++++++++

●愛国心について考える

……ジョン・レノンの「イマジン」を聴きながら……。

 毎年八月一五日になると、日本中から、「愛国心」という言葉が聞こえてくる。今朝の読売新
聞(八月一六日)を見ると、こんな記事があった。「新しい歴史教科書をつくる会」(会長・田中
英道・東北大教授)のメンバーが執筆した「中学歴史教科書」が、愛媛県で公立中学校でも採
択されることになったという。採択(全会一致)を決めた愛媛県教育委員会の井関和彦委員長
は、つぎのように語っている。

 「国を愛する心を育て、多面的、多角的に歴史をとらえるという学習が可能だと判断した。戦
争賛美との指摘は言い過ぎで、きちんと読めば戦争を否定していることがわかる」(読売新聞)
と。

 日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば
中国やK国などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。日本では、「愛国心」と、そこ
に「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オーストラリア人も、「国」など、考
えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。この単語は、ラテン語の「patri
ota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日
本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という
意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

●patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
●patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
●Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。こ
の戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは
愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。ここに日
本人と欧米人の、大きなズレがある。つまり体制あっての国と考える日本、民あっての体制と
考える欧米との、基本的なズレといってもよい。が、こうしたズレを知ってか知らずか、あるい
はそのズレを巧みにすりかえて、日本の保守的な人たちは、「愛国心は世界の常識だ」などと
言ったりする。

たとえば私が「織田信長は暴君だった」と書いたことについて、「君は、日本の偉人を否定する
のか。あなたはそれでも日本人か。私は信長を尊敬している」と抗議してきた男性(四〇歳くら
い)がいた。このタイプの人にしてみれば、国あっての民と考えるから、織田信長どころか、乃
木希典(のぎまれすけ、明治時代の軍人)や、東条英機(とうじょうひでき・戦前の陸軍大将)さ
えも、「国を支えてきた英雄」ということになる。

もちろん歴史は歴史だから、冷静にみなければならない。しかしそれと同時に、歴史を不必要
に美化したり、歪曲してはいけない。先の大戦にしても、三〇〇万人もの日本人が死んだが、
日本人は、同じく三〇〇万人もの外国人を殺している。日本に、ただ一発もの爆弾が落とされ
たわけでもない。日本人が日本国内で、ただ一人殺されたわけでもない。しかし日本人は、進
駐でも侵略でもよいが、ともかくも、外国へでかけていき三〇〇万人の外国人を殺した。日本
の政府は、「国のために戦った英霊」という言葉をよく使うが、では、その英霊たちによって殺さ
れた外国人は、何かということになる。

こういう言葉は好きではないが、加害者とか被害者とかいうことになれば、日本は加害者であ
り、民を殺された朝鮮や中国、東南アジアは、被害者なのだ。そういう被害者の心を考えること
もなく、一方的に加害者の立場を美化するのは許されない。それがわからなければ、反対の
立場で考えてみればよい。

 ある日突然、K国の強大な軍隊が、日本へやってきた。日本の政府を解体し、かわって自分
たちの政府を置いた。つづいて日本語を禁止し、彼らのK国語を国語として義務づけた。日本
人が三人集まって、日本語を話せば、即、投獄、処刑。しかもK国軍は、彼らのいうところの首
領、金元首崇拝を強制し、その宗教施設への参拝を義務づけた。そればかりか、数十万人の
日本人をK国へ強制連行し、K国の工場で働かせた。無論、それに抵抗するものは、容赦なく
投獄、処刑。こうして闇から闇へと葬られた日本人は数知れない……。

 そういうK国の横暴さに耐えかねた一部の日本人が立ちあがった。そして戦いをしかけた。し
かしいかんせん、力が違いすぎる。戦えば戦うほど、犠牲者がふえた。が、そこへ強力な助っ
人が現れた。アメリカという助っ人である。アメリカは前々からK国を、「悪の枢軸(すうじく)」と
呼んでいた。そこでアメリカは、さらに強大な軍事力を使って、K国を、こなごなに粉砕した。日
本はそのときやっと、K国から解放された。

 が、ここで話が終わるわけではない。それから五〇年。いまだにK国は日本にわびることもな
く、「自分たちは正しいことをしただけ」「あの戦争はやむをえなかったもの」とうそぶいている。
そればかりか、日本を侵略した張本人たちを、「英霊」、つまり「国の英雄」として祭っている。
そういう事実を見せつけられたら、あなたはいったい、どう感ずるだろうか。

 私は繰り返すが、何も、日本を否定しているのではない。このままでは日本は、世界の孤児
どころか、アジアの孤児になってしまうと言っているのだ。つまりどこの国からも相手にされなく
なってしまう。今は、その経済力にものを言わせて、つまりお金をバラまくことで、何とか地位を
保っているが、お金では心買えない。お金ではキズついた心をいやすことはできない。日本の
経済力に陰(かげ)りが出てきた今なら、なおさらだ。

また仮に否定したところで、国が滅ぶわけではない。あのドイツは、戦後、徹底的にナチスドイ
ツを解体した。痕跡(こんせき)さえも残さなかった。そして世界に向かって反省し、自分たちの
非を謝罪した。(これに対して、日本は実におかしなことだが、公式にはただの一度も自分たち
の非を認め、謝罪したことはない。)その結果、ドイツはドイツとして、今の今、ヨーロッパの中
でさえ、EU(ヨーロッパ連合)の宰主として、その地位を確保している。

 もうやめよう。こんな愚劣な議論は。私たち日本人は、まちがいを犯した。これは動かしがた
い事実であり、いくら正当化しようとしても、正当化できるものではない。また正当化すればす
るほど、日本は世界から孤立する。相手にされなくなる。それだけのことだ。

 最後に一言、つけ加えるなら、これからは「愛国心」というのではなく、「愛郷心」と言いかえた
らどうだろうか。「愛国心」とそこに「国」という文字を入れるから、話がおかしくなる。が、愛郷心
といえば、それに反対する人はいない。

私たちが住む国土を愛する。私たちが生活をする郷土を愛する。日本人が育ててきた、私た
ちの伝統と文化を愛する。それが愛郷心ということになる。「愛郷心」と言えば、私たちも子ども
に向かって、堂々と胸を張って言うことができる。「さあ、みなさん、私たちの郷土を愛しましょ
う! 私たちの伝統や文化を愛しましょう!」と。
(02−8−16記)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(119)

●平均葬儀費用、313万円!

+++++++++++++++++

平均葬儀費用は、313万円だそうだ。
「フ〜ン」と思ってみたり、「そんなものかな?」と
思ってみたり……。

死ぬのもたいへん。結構、お金がかかる?

+++++++++++++++++

 平均葬儀費用は、313万円。財団法人の日本消費者協会が、関東地方で調べたところ、そ
ういう数字が出てきたそうだ(2003年)。

 しかしこれはあくまでも平均的な額。葬儀には、ご存知のように、ピンからキリまである。その
気にさえなれば、葬儀も、最低は、10万円から、できるそうである(「世の中の裏事情」PHP)。
もちろん上限はない。仏式で葬儀をするばあい、戒名に必要な(お布施)にしても、これまたピ
ンからキリまである。戒名が3文字ふえただけで、ふつう、30〜50万円が上乗せされる。

 たとえば戒名は、ふつうは、6文字か9文字。6文字だと、10万円前後。しかし9文字になる
と、50万円前後。

 さらに「院」とか、「大」の文字がつけてもらうと、戒名も12文字になって、(お布施)だけ、軽
く、100万円を超える。

 火葬にしても、公共施設ですれば安くすませることができる。無料のところも多い。が、私営
の火葬場だと、そうはいかない。いくつかのクラスに分かれているところが多い。これにも、ま
た、上限がない。

 しかし、問題は、なぜ、人は、こうまで「葬儀」にこだわるのかということ。本人自身がこだわる
ことも多い。いつも口ぐせのように、「私が死んだら、葬式にだけには来てくださいよ」と、会う人
ごとに、頼んでいた知人(当時、80歳くらい)もいた。

 一方、通俗的な世間体にしばられて、(世間体ほど通俗的なものはないが……)、派手な葬
儀をする人もいる。傍(はた)からみていると、「何もそこまでしなくても……」と思うのだが、そ
の人には、その人の事情というものがある。とくこの葬儀には、その人の死生観、人生観、哲
学、さらには、人格そのものが、からんでいる。

 簡単に割り切ることができない。

 そこで私たち……というより、私は、どうあるべきかということを考える。実は、昨夜も、夕食
のあと、ワイフとそれについて、話した。私が、「葬式は、どうする?」と聞くと、ワイフは、「そん
なものは、しないわ」と。

私「しかしお前の兄弟たちが、許さないかもね」
ワ「いいじゃない、私が、それでいいと言っているのだから……」
私「だけど、ぼくが冷たい目で見られる」
ワ「遺書にはっきりと、そう書いておくからいいわよ」

私「ぼくも、葬式は、いらない」
ワ「だったら、あなたも、遺書にはっきりと、そう書いておいてよ。私も、あなたの親戚に、冷た
い目で見られるのは、いやだから」
私「ぼくたちだって、結構、世間体を気にしているのだね」
ワ「世間体じゃあなくて、私は、うるさいことを言われたくないのよ。わずらわしいでしょ」と。

 それなりの死生観、人生観、哲学のある人から、文句を言われるのは、しかたない。しかし、
そうでない人に、あれこれ言われるのは、不愉快。バカげている。この日本、「私は私」と思っ
て生きるのは、結構、たいへん。それを貫くのは、もっとたいへん。

 で、私が死んだあと、(順番でいけば、私のほうが先)、家の中で、ひっそりと葬式をしたら、
みんな何と言うだろうか。どう思うだろうか。まあ、どう言われようが、どう思われようが、私の知
ったことではないが……。

 もちろん、僧侶も呼ばないし、墓もつくらない。遺灰のあつかい方については、息子たちに任
す。いつか、海にまいてくれてもいいし、一部は、山荘の周辺とオーストラリアのアルバート・パ
ークにまいてくれてもいい。決して「葬儀代を、安くあげよう」と考えているわけではない。

 私は、裸で生まれ、裸で生きてきた。だから死ぬときも、裸で死にたい。これが私の生き方だ
といえるような、そんな生き方を最後まで貫きたい。だから葬式にしても、本当に悲しんでくれる
人だけに集まってもらい、その人たちが静かに慰めあうようなものにしてほしい。

 墓については、私の書いた文章が、墓だと思ってほしい。私は、いつも、そういう思いをこめ
て、自分の文章を書いている。だから、もし私のことを思い出してくれる人がいたら、いつでも
気が向いたとき、どのページでもよいから、私の書いた文章を読んでほしい。

 簡単にすませば、10万円ですますことができる葬儀。そんな葬儀に、313万円もかけること
はない。もしそんなお金があるなら、今、生きている人たちが、有効に使えばよい。できれば、
食料もなく、飢えて苦しんでいる人に、あげればよい。

 ……とまあ、話がどんどんと脱線してしまったが、だからこそ、「今」というこのときを、一日、
一日、大切にして生きる。そして毎晩、床に入って目を閉じるときが、私の葬式。そのまま眠り
につくのも、そのまま死ぬのも、原理的には、同じ。翌朝、生きていたら、生きているということ
になる。翌朝、死んでいたら、死んでいるいうことになる。

本当に死んだときだけ、313万円もかけて、なぜ、大騒ぎしなければならないのか。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●極東情勢

++++++++++++++++

オリンピックも大切かもしれないが、
その祭りに隠れて、今、極東情勢が
大きく動いている。

いいのか、こんなことで、日本!

+++++++++++++++

 日米同盟(日米安保条約)が、今、崩壊の危機に立たされている。沖縄からの米軍移転問題
が、こじれにこじれてしまった。おまけに、防衛施設庁の、談合疑惑。防衛庁自身が、脳死の
状態。

 米軍が、どこに移転しようとしても、そこで待っているのは、住民たちの反対運動。「移転反
対!」の大合唱。業を煮やしたアメリカ政府は、日本に向かって、こう言った。「もっと戦略的に
ものを考えろ!」と。

 つまり「日本よ、日本の置かれた立場を、もっと考えろ!」と。

 差し迫った最大の脅威は、K国の核兵器。そのうしろでK国を支える、韓国、そして中国。韓
国(N政権)は、K国と、連合制(共和制)を敷くことをもくろんでいるらしい。もしそうなれば、朝
鮮半島全体が、核兵器をもった、強大な反日国家になる。

 そうなったとき、だれが、韓国やK国を、抑えてくれるか? ドイツかフランスか? それとも中
国やロシアか? 答えは、NO!

 日本人のほとんどは、「日本が何もしなければ、彼らも何もしない」と、考えている。しかしそ
んな甘い考え方は、この極東アジアでは通用しない。もし今、この日本に米軍が駐留していな
ければ、K国や中国、それに韓国ですらも、明日には、日本に攻撃をしかけてくるだろう。悲し
いかな、戦前の日本は、そういうことをされても文句が言えないようなことを、してしまった。

 で、戦後、日本の平和を守ったのは、平和を愛する日本人がいたからではない。反戦の誓い
とやらをする総理大臣がいたからではない。日本に、米軍が駐留していたからにほかならな
い。

 6か国協議にしても、しかり。K国の核に、もっとも脅威にさらされるのが、この日本である。K
国の高官も、かねてから、そう言っている。「核兵器は、日本向けのものだ」と。それを受けて、
韓国の高官も、「K国が核兵器をもてば、南北統一後の朝鮮にとっても、有利」などと発言して
いる。

 こういうきびしい現実を前にして、だれが、そのK国を抑えてくれるのか? もちろん日本に
は、K国を抑えるだけの力は、ない。

 韓国のN政権のオメデタサについては、前から書いてきた。「同朋意識」なるものをもちあげ
て、K国にすり寄るのも結構だが、その肝心のK国は、「崩壊するなら、中国圏に」と、中国の
ほうに顔を向けている。現在の38度線が、つぎは、韓国と中国の国境になるかもしれない。

 それを察知してか、韓国の金前大統領が、あわててK国へ……。「南北連合制(共和制)」と
いう言葉もそこから生まれた。が、そうは、うまくいくものか。

 日本は、まず、日本の安全を考えなければならない。が、もしここで日米同盟が、崩壊するよ
うなことがあれば、そのとき、日本は、戦後、最大の危機を向かえることになる。日本よ、日本
人よ、その覚悟はできているのか?

 今、日本は、耐震偽造問題で、上も下も、大騒ぎ。しかし、核兵器が空から降ってきたら、耐
震偽造問題など、腸から出るガスのようなもの。ビルどころか、町ごと、吹っ飛んでしまう。

今、日本が、すべきことは、K国の核攻撃に備えて、たとえば核シェルターを、全国の都市の地
下に用意するとか、そういうことではないのか。化学兵器や生物兵器による攻撃に備えて、万
全の準備をするとか、そういうことではないのか。そのための準備を、たちあげること。問題の
大きさと質がちがう!

アメリカ政府が、日本に向かって、「もっと戦略的にものを考えろ!」と言った理由が、私には
わかる。つまりアメリカはこう言いたいのだ。「どうしてアメリカが自分の体を張ってまで、日本を
守らねばならないのか」「アメリカに甘えるのも、いいかげんにしろ」と。それがアメリカの本音と
いうことにもなる。

 政治、なかんずく国際政治は、どこまでも現実的なものである。どこまでもどこまでも、現実的
なものである。「これだけのことをしてやったのだから、相手は感謝しているはず」とか、「私た
ちさえいい子にしていれば、戦争をしかけてはこないはず」という論理は、国際政治の場では、
絶対に通用しない。(060213記)

【付記】

 韓国がK国と、核開発問題を棚あげにしたまま、連合制を敷くというのなら、日本は韓国と、
決別するくらいの覚悟をもたねばならない。つまりこの問題は、日本にとって、それくらい重大
かつ深刻な問題なのである。決して安易に考えてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(120)

●アメリカに住んでいる、Sさんより

++++++++++++++++++

海外に住んでいる日本人で、最大の
問題は、やはり、子どもの教育?

そんな内容のメールを、アメリカC州
在住のSさんから、もらいました。

++++++++++++++++++

はやし先生へ、弱音を吐きます。これは小学生以上の子供を連れた海外駐在員共通の悩み
かと思います。

以前も書きましたが、現地校と日本語補習校の両方の宿題を毎日こなさなくてはなりません。
もちろん子供が進んでやれば問題はないのです。

英語の宿題を現地の子と同じようにやり、日本の学校の進度と同じように日本の勉強もしなく
てはなりません。母と子供に大きな負担が圧しかかり、必死の2人三脚です。一歩リズムが乱
れると大変です。今日も宿題をさせるために怒鳴りました。気持ちを落ち着かせるためにメー
ルを書きました。

子供が大変なのは良くわかるのです。情けないです。お子さんを3人4人連れて駐在されてい
る方もいるのに。夫は真夜中に帰宅、出張も多いので頼るわけにもいきません。しかし、どうに
かやっていくしかないですね。ピアノやダンスを習っています。楽しそうなので続けさせたいで
す。

もう少し気楽になれたらと思います。

息子さんはARKANSASに御住まいなんですね。

【Sさんへ、はやし浩司より】

 メール、ありがとうございました。私の知らない世界のことなので、フムフム……と言った感じ
で、読ませていただきました。ありがとうございました。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●お金で、人の心は買えない

++++++++++++++++++

「お金で人の心を買える」と豪語した
青年実業家がいた。

バカめ!

お金で、人の心は買えない!
絶対に、買えない!

++++++++++++++++++

 昨年(05年)の、日本の国連安保理事会・理事参入問題で、日本の外務省は、約1兆円もの
お金を、アフリカ諸国を中心にばらまいた。1兆円だぞ! 日本人全員が、1人、約1万円弱の
お金をばらまいたに等しい。

 しかし結果は、ご存知のとおり。

 それ以前からも、日本は、ことあるごとに、かつ気前よく、世界中に、お金をばらまいてきた。
しかしそれを受け取った国々が、日本に感謝しているかといえば、それは疑わしい。疑わしい
というより、ない。

 そもそも、日本と、援助を受ける側の経済論理は、異質のものである。古い学説で恐縮だ
が、それを最初に指摘したのが、ミュルダールというスウェーデンの経済学者である。今調べ
てみたら、1898年生まれの学者だという。

 彼は、いわゆる先進国と呼ばれる(豊かな国)と、当時後進国よ呼ばれていた(貧しい国)と
では、経済哲学そのものが違うと説いた。具体的には、「貧しい国々では、貧困が、伝統的な
価値観と解きほぐしようもないほど、複雑にからみあっている」と。

 もっと卑近な例で言えば、ありあまるほどの収入で、優雅な生活をしている人と、多重債務に
追われ、その日その日を何とか生きている人とでは、お金に対する考え方が、違うということ。
経済理論というと、えてして、豊かな国の人たちの立場での理論でしかない。しかしそうした経
済理論というか、経済観念を、貧しい国々の人たちに押しつけても、効果はない。ないばかり
か、かえって、反発を買うことにもなりかねない。

 外務省がばらまいた、1兆円ものお金は、結局は、露(つゆ)と消えた。

 当然である。札束をばらまいて、「日本を支持してくれ」と頼んでも、彼らは動かない。表面的
には、にこやかに応じても、動かない。逆の立場で考えてみれば、そんなことはだれにでも、わ
かるはず。そういったお金は、かえってそれぞれの国で、貧富の差を大きくするだけ。ミュルダ
ールの言葉を借りるなら、「貧困の内容を、かえって複雑にするだけ」。

 では、どうするか?

 経済学にも、哲学をもたせること。私たちの生活の中でいうなら、「本当の豊かさとは何か」
を、日々に追求すること。ただお金があればいい……。ただおいしいものを食べればいい…
…。ただ大きな車に乗ればいい……。ただ立派な家に住めばいい……、という考え方では、人
の心どころか、自分の心さえ、つかむことができない。

 「だから、どうなの?」という部分がないからである。

 その「だから、どうなの?」という部分を補うのが、哲学ということになる。経済学でいえば、経
済哲学ということになる。

 が、悲しいかな、日本の外務省の官僚たちは、豊かな国の経済理論しか知らない。そしてそ
の豊かな国の中でも、特権階級として君臨している人たちである。だからお金さえばらまけば、
人の心を買えると錯覚している。その結果が、冒頭に書いた、1兆円である。

 ……しかし、そういえば、その1兆円だが、そのあと、だれかが責任を取ったという話は、まだ
聞いていない。海外援助の窓口を、政府主導で、一本化するという話はあるが、私は当然だと
思う。外務省の官僚たちは、まさにお金を使い放題。好きなように使っている。が、札束を見せ
びらかしながら、外国で大きな顔をするというやり方は、もうそろそろ、やめたらどうなのか? 

あえて言うなら、哲学のない援助など、するだけ損。意味がない。まず、それに外務省の官僚
たちが、気がつくべきではないのか? バカめ!

 ということで、「お金で、人の心は買えない」という話は、おしまい。

【だから、どうなの?】

 日本は、経済的には豊かな国になった。若い人たちにそう言っても、ピンとこないかもしれな
い。しかし私には、わかる。

 私が子どものころには、肉屋のあのハムですら、1枚売りが、原則だった。「1枚、いくら」「2
枚で、いくら」という売り方をしていた。

 それでもハムなど、めったに口にすることができなかった。

 が、今では、そういったハムを、パッケージごと買う。1パッケージには、10〜20枚ものハム
が入っている。私たちの世代は、そういったものを見ただけで、「日本は豊かな国になった」と
思う。

 が、戦後、日本は、「だからどうなの?」という部分を置き去りにしたまま、豊かさだけを求め
て、ここまでやってきた。

 おいしいものを食べる……、だからどうなの?、と。

 よい例が、料理番組である。飲食店の紹介番組である。見るからに軽薄そうな男女が、ギャ
ーギャーと騒ぎながら、超一級の料理を口にする。「だから、どうなの?」という部分がないま
ま、超一級の料理を口にする。

 料理は超一級でも、「だからどうなの?」という部分が、どこにもない。つまりそれだけおいし
いものを口にするのだから、その男女が、その分だけ、賢くなるとか、人間的に成長するとか、
そういうことはない。もっとわかりやすく言えば、毒々しい欲望を満たしているだけ。

 では、どうするか? どうしたらよいのか?

 私は、いつも、何をするときでも、「だから、どうなの?」と、自問することが重要ではないかと
思う。とくに、何か、ぜいたくをするようなとき、にである。これは私の経験だが、そのとたん、も
のの考え方が、一変することが、よくある。つまりそういうふうに自問することこそが、今までの
日本人に、一番、欠けていた部分ではないかと思う。

 ……このテーマについて書くことには、まだ自信がもてないところもあるので、今日は、ここま
で。


Hiroshi Hayashi++++++++++FEB. 06+++++++++++はやし浩司

●イスラム原理主義

+++++++++++++++++

どうもよくわからないのが、イスラム教
の世界、そしてイラン。

イスラム原理主義って、いったい、
何なのか? イランはどこに向かって
進んでいるのか?

+++++++++++++++++

 このところ、毎日のように書店へ立ち寄っては、イスラム教の本を読む。興味がある。もっと
知りたい。私にとっては、決して、無縁の世界ではない。留学時代の友人の何割かは、そのイ
スラム教徒であった。イランについて言えば、原油との関係において、日本人にとっては、決し
て、無縁の国ではない。

 イスラム教の世界にも、近代化の波が押し寄せたことがある。その筆頭にあげられるのが、
トルコ。

 トルコは、第一次大戦に敗北し、オスマントルコが解体されたあと、近代化の道を歩んだ。そ
れまでの政教一致の国家体制から、政教分離の国家体制へと、大変革した。

 こうしてアラブの世界にも、つぎつぎと、近代国家が生まれていった。アルジェリア、シリア、エ
ジプト、それにイラクもそうだ。

 が、これに対抗する勢力も生まれてきた。それが、ハサン・アル・バンナー(1906〜49)率
いる、『イスラム同胞団』である。イスラム同胞団は、イスラム教に基づく、国家建設こそが、ア
ラーの教えに従ったものだと、民衆に向かって説いた。

 私たちが今、「イスラム原理主義」と呼んでいるのは、それをいうが、そのイスラム同胞団は、
そののち反英闘争と結びつき、さらに最近では、反米闘争へと結びついていった。

 つまり歴史が長い。長いから、ここらあたりで、ちょっと日本がでかけて行って……というよう
なやり方で、理解できるような問題でもないし、解決できるような問題でもない。今回のイランの
核開発問題にしても、そうだ。

 アメリカは、単独でも、イランの核開発施設を攻撃する構えを見せているが、言うなれば、こ
れはアメリカ型合理主義と、イスラム型原理主義の対立と考えてよい。そのイランは、1979年
のホメイニ革命によって、政教一致の国家体制を築いている。

 しかしここで注意しなければならないのは、私たちがイスラム教に対してもっている、偏見と
誤解である。ものの考え方が、どうも西欧的というか、西欧の立場でしか、イスラム教の世界を
みない。たとえばここでいうイスラム同胞団にしても、「原理主義はおかしい」というふうに、すぐ
考えてしまう。またそういう前提で、ものを考えてしまう。

 しかしもとを正せば、イスラム同胞団にしても、イギリスの植民地政策への反発から生まれた
ものである。事実、イギリスは、イスラム同胞団を、徹底的に弾圧したこともある。そういう歴史
があることも忘れて、今ここで、「イスラム原理主義は……」と論ずることは、危険なことでもあ
る。

 が、しかし皮肉なことに、こうした原理主義は、国家の近代化の足かせとなるだけではなく、
ばあいによっては、国家そのものの近代化を後退させる原因ともなりかねない。イランについ
て言えば、国家が目ざした工業などの近代化は、ことごとく失敗。原油を売るだけの国になって
しまった。わかりやすく言えば、西欧との差をますます広げている。

 そこで今回のイランの核兵器開発問題について言えば、そうした(あせり)が、イランをして、
核開発に向かわせたとも考えられなくはない。このままでは、イランは、アラブ社会の中でも、
「顔のない国」になってしまう。イランは、それを恐れた(?)。

 ところでイランの核兵器開発問題は、決して日本とは無縁の問題ではない。もし国連の安保
理で、経済制裁ということにでもなれば、日本は、この地域から、最大の油田開発の1つを失う
ことになる。アザデガン油田が、それである。日本に与える影響は、甚大である。

 今日も、これから近くの書店へ行って、あれこれ本をあさってくるつもり。

【補記】

 現実の数字。

 日本の原油、中東依存度は、2002年……85・3%
              2003年……88・5%

 さらにそのうちわけは、

     アラブ首長国連邦 ……22・9%
     サウジ      ……22・4%
     イラン      ……13・8%
     カタール     …… 9・2%
     クウェート    …… 6・9%
   (以上、経済産業省、02年「エネルギー生産・需給統計年表」)

 中東の政治的安定は、日本にとっても、死活問題なのである。こうした現実を無視して、「イラ
ン問題は、日本には関係ない」と、どうして言うことができるのか。

 04年2月、日本とイランが開発に合意した、「アザデガン油田」は、推定埋蔵量260億バレ
ルで、世界第二の大油田ともくされている。

 もし、イランの核疑惑問題がこじれるようなことがあると、日本は、この油田の利権すらも失う
ことになる。すでに日本は、4年前、アラビア石油のカフジ油田の利権の半分を、失っている。

 悲しいかな、ここは、中東最大の宗主国であるアメリカに、日本は、泣きつくしかないのであ
る。アメリカの機嫌をそこねたら、アザデガン油田はもちろんのこと、日本は、中東から原油を
輸入することすら、ままならなくなる。

 さあ、どうする、日本!


Hiroshi Hayashi++++++++++FEB. 06+++++++++++はやし浩司

●A外務大臣・続報

++++++++++++++++++

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、
日本のA外務大臣の発言に対して、

「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうか
がえない」と、批判した。

当然である。

++++++++++++++++++

アメリカのニューヨーク・タイムズ紙は、2月13日、日中関係や靖国神社参拝などをめぐる麻
生太郎外相の最近の歴史認識発言を取りあげ、「扇動的な発言からは誠実さも賢明さもうか
がえない」と批判する社説を掲載した。

 社説は「日本の攻撃的な外相」と題し、外相が「天皇陛下の(靖国神社)参拝が一番だ」と述
べたことや、日本の植民地支配下の台湾で教育水準があがったことを指摘した発言を取りあ
げ、「一連のがくぜんとする発言により、アジアの人々の反感を買った」と批判。(以上、毎日新
聞)

 A外務大臣の発言に対しては、私も、まったく同じ印象をもった。それについて書いた原稿
を、そのまま、もう一度、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

●A外務大臣

++++++++++++++++++

A外務大臣が、靖国神社参拝問題に関連し、
「天皇陛下による参拝が一番だ」と述べた
という。

「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば
言うだけ、行かざるを得なくなる。

『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、
吸いたくなるのと同じ。

黙っているのが、一番』と、も。
(中日新聞・06年・1・29)

++++++++++++++++++

 A外務大臣は、こう述べたという。

 「(靖国神社に)まつられている英霊の方からしてみれば、天皇陛下のために『万歳』と言った
のであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです。だったら、天皇陛下の参拝、それが一番」
「天皇陛下による参拝が一番だ」と。

 この発言には、いくつかの重大な問題が隠されている。それらを順に考えてみたい。

(1)天皇は、外務大臣のあやつり人形なのか?

 この発言を聞いて、一番驚いているのが、天皇自身ではないのか。A外務大臣が、天皇の意
思や意向を聞いた上で、こうした発言をしたのなら、まだわかる。しかしそういったプロセスを、
何も経ないで、いきなり「天皇陛下による参拝が一番だ」とは!

 もしあなたが天皇なら、何と答えるだろうか。どう考えるだろうか。あるいはもっと卑近な例で
考えてみよう。もしだれかがあなたに、「子育ての最中にあるのだから、あなたに、菅原道真
(すがわらのみちざね)の神社を参拝してもらいます。それが一番だ」と言ったら、あなたは、ど
う答えるだろうか。

 天皇の内心のことは、私にもわからない。しかし天皇のほうから、そういった希望でも出され
ているのなら、まだしも、そういった希望を確認しないまま、外務大臣(ごとき)が、そういう発言
をすることは、許されない。少なくともそういった天皇自身の希望は、外の世界の私たちには、
届いていない。

(2)天皇の戦争責任を追及した言葉にならないのか?

「天皇陛下のために『万歳』と言ったのであって、総理大臣万歳と言った人はゼロです」という
発言は、そのまま、天皇に対する戦争責任を追及した言葉になってしまう。自民党政権として
は、絶対に容認できない発言のはず。わかっていても、それを口にしたら、おしまい……という
のが、この発言である。それを、A外務大臣は、公(おおやけ)の場で、堂々と口にしてしまっ
た。

 A外務大臣のみならず、K首相は、この発言に対して、どう責任を取るつもりなのだろう? 
軽率といえば、軽率。

 私が知るかぎり、戦場の日本兵たちは、多くは、最後は、「お母さん!」とか、「お父さん!」と
か言って死んでいったという。「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった兵隊は、少なかっ
たという。

 が、それでも「天皇陛下、バンザイ!」と言って死んでいった、日本兵がいなかったわけでは
ないだろうと思う。が、そのことには、歴代の戦後政権は、あえて触れないで、今までやってき
た。もしそれが事実と認めてしまうと、その戦争責任は、まっすぐ、天皇に向かってしまう。

(3)『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ、とは?

 人格の完成度は、自己管理能力などによって決まる。自己管理能力のある人を、人格の完
成度の高い人という。

 が、A外務大臣は、「中国が、(靖国参拝を反対と)言えば言うだけ、行かざるを得なくなる。
『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたくなるのと同じ」(中日新聞)と。

 新聞記事なので、不正確かもしれない。しかし「『たばこを吸うな、吸うな』と言われ、吸いたく
なるのと同じ」という日本語は、正しくない。正しくは、「『たばこを吸うな、吸うな』と言われると、
かえって吸いたくなるのと同じ」である。

 それはともかくも、この自己管理能力のなさこそが、問題である。私やあなたのような凡人で
はない。外務大臣という、日本を代表する人物である。そういう人物が、自己管理能力のなさ
を、やはり堂々と自ら公表している。このおかしさ。この奇怪さ。

 しかも、中国や韓国に対して、「黙っているのが、一番!」とは! わかりやすく言えば、A外
務大臣は、中国や韓国に対して、「ごちゃごちゃ言わずに、黙っていろ」と発言したに等しい。こ
のごう慢さ。この高慢さ。

 おかげでこれから先、しばらく、日中関係、日韓関係は、ますます冷えこむことになるだろう。
私の知ったことではないが、しかし、外務大臣ともあろう大臣が、率先して、近隣諸国との関係
を悪化させるとは! 私も、ここまで日本の政治家たちの知的レベルが低いとは、思ってもみ
なかった。

(3)靖国神社参拝問題

 「英霊」「英霊」と言うくらいなら、今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲリラ戦でも、
何でも、しかけたらよい。それが「英霊」の意思を尊重する、もっともわかりやすい方法である。
先の戦争では、300万人以上もの日本人が死んでいる。しかもその大半は、アメリカ軍を中心
とする連合軍によって殺されている。

 しかしA外務大臣ですら、ひょっとしたら、英霊意識など、どこにもないのではないか。「英霊」
ということにしておかないと、まずいから、そう言っているだけではないのか。もっとわかりやすく
言えば、あの戦争は、勝ち目のない、愚かな戦争だった。

 あの戦争では、多くの日本人がだまされ、(だまされたのだぞ!)、戦場に駆り出され、そして
その犠牲者となっていった。つまり「英霊」という言葉は、当時の軍部たちが、自分たちの責任
を覆い隠すために使った言葉にすぎない。「英霊」と祭りあげることによって、「戦争を起こした
のは、国民であって、政府ではない」という形をつくった。つまり責任を国民に、押しつけた!

 それを今になってもち出して、あの戦争を肯定することは、許されない。中には、「あのとき戦
争をしなかったら、日本は、欧米諸国の植民地になっていた」と説く人もいる。「ソ連の進攻を
食い止めるために、日本軍は中国で戦った」と説く人もいる。

 なら、百歩譲って、もしそうなら、戦後の今の日本は、何かということになる。GHQによって、
完全に占領され、アメリカの植民地以上の植民地になってしまった。だから私はまた同じことを
言う。

 「今からでも遅くないから、アメリカ軍に対して、ゲリラ戦でも、何でも、しかけたらよいのでは
ないか」と。A外務大臣、あなたがまず、その見本を見せてほしい。

 ……と、どうも、この問題を考えていくと、頭の中が混乱してくる。わけがわからなくなってく
る。みなが、何かをごまかすために、あるいは何かを隠すために、ものごとを遠巻きに議論し
ている。そんな感じさえする。

 あえて言うなら、今の皇太子妃の例を見てもわかるように、「天皇」「天皇」と、何もかも、その
負担を、天皇家に押しつけないことこそ大切ではないのか。「天皇だってふつうの人間」という
部分をねじまげて、あれこれと議論するから、話がおかしくなる。これ以上、天皇や天皇家の
人々を苦しめて、どうする。今度のA外務大臣の発言の底流には、そんな問題も隠されてい
る。


Hiroshi Hayashi++++++++++Jan. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(121)

【近ごろ・あれこれ】

●エタノール消毒薬と筆写

 BW教室では、今週から、新しい2つの試みを始めた。ひとつは、毎回、子どもたちの手に、
エタノール消毒薬をふきかけること。エタノール消毒薬というのは、病院で、手や手術道具の消
毒に使用している消毒薬である。

 もちろん鳥インフルエンザ予防のためである。べトナムやインドネシアでは、すでに死亡者が
相次いでいる。鳥インフルエンザが日本に上陸するのは、もう、時間の問題。来週かもしれな
いし、来月かもしれない。

 あとは、うがいだが、それも様子をみながら、始める。また当然のことながら、咳をする子ども
については、マスクを着用させている。が、ひとりだけマスクをかけさせると、中には、いやがる
子どももいる。そういうときは、全員にかけさせる。

 ところで、使い捨てのマスクだが、20〜30枚で、500円前後で買うことができる。しかし子ど
も用のものがない。しかたないので、耳にかける部分を結んで、短くして使っている。が、小さ
い子どもだと、顔中が、そのマスクでおおわれてしまう。

 どうしたらよいものか。咳をする子どもは、みなから離れた席に座らせるようにしているが、こ
れも、ときどきいやがる子どもがいる。「あなたが悪いのではないよ。咳の中のばい菌が悪い
のだよ」と何度も説得してから、そうしている。

 もうひとつの新しい試みは、毎回、レッスンの前に、名作の一部を、子どもたちに転写させて
いること。これは小学3年生以上の子どもに、実施している。「BWの子どもは、算数はできる
が、国語は苦手」という、不名誉な評判を耳にしたからである。

 「まあ、見ていなさい」というのが、私の今の心境。私がもっている国語力、とくに作文力を、
子どもたちに伝えたい。

 で、いろいろな名作を集めた。その一部を切りぬいて、ラミネート加工した。こうして全部で、
48作ほど、筆写用の原稿を用意した。原稿用紙も、印刷した。

 その中には、つぎのようなものがある。

○五月の海……与謝野晶子
○檸檬(れもん)……梶井基次郎
○野菊の墓……伊藤左千夫
○一握の砂……石川啄木
○少年時代……幸田露伴
○獄中記……大杉栄
○草枕……夏目漱石などなど。

 小学3年生〜にはむずかしいと思われる人もいると思うが、筆写で使うなら、芥川龍之介の
「羅生門」でも、だいじょうぶ。ただし漢字には、すべて読み仮名をふっておいた。

 これを2、3か月の間、レッスンの前の習慣として、子どもたちにしてもらう。国語力の強化
は、作文に始まり、作文に終わる。


Hiroshi Hayashi+++++++++++++++++++はやし浩司
 
●すてきな女性

 毎日、何人かの人から、子育てについて、相談のメールをもらう。昨日もあったし、今日もあ
った。

 その中でも、最近、こんなすてきな女性に出会った。もちろんメールのやり取りだけで、顔は
知らない。声も聞いたことはない。しかしその女性の文面の端々(はじばし)から、私たちがとっ
くの昔に忘れてしまった、あの日本女性のすばらしさが、にじみ出ていた。

 その女性は、現在、弁護士の夫と結婚している。それについて、「(夫の)両親に私たちの結
婚を許してもらえました」と書いている。あるいは、「これから息子と2人で、千歳空港まで、(夫
を)お迎えに行ってきます」と書いている。「許してもらえました」とか、「お迎え」という言い方の
中に、その女性のすべてが凝縮されている。

 が、その弁護士をしている夫は、そういう女性を妻にもちながら、一方で、不倫をしていたらし
い。その女性は、それを知り、精神的にかなり追いつめられた。そのため、4歳の息子に、神
経症によるいくつかの症状(自家中毒や潔癖症など)が出ていた。私への最初の相談は、それ
から始まった。そして数度のやりとりがつづいた。そして最後に受け取ったメールには、こうあ
った。

 「私は夫を許すように、がんばってみます」
 「また再び、平和な家族に戻れるよう、努力してみます」
 「夫が、子どもに、また以前のような愛情を示してくれたらうれしいです」と。

 メールを読んでいて、そのけなげさというか、切なさに、胸がじんと熱くなった。と、同時に、
「どんなすてきな人なのだろう」「一度、会ってみたい」という思いにかられた。好奇心といえば
不謹慎だが、率直に言えば、それに近かった。札幌の近郊の町に住んでいる人だから、これ
から先、会うことはないだろう。しかしどんな人かは、興味がある。きっと心の暖かい、やさしい
人にちがいない。

 北海道のTさん、あなたのことを書いてしまいました。許可なく、あなたのメールの内容を転載
することはありませんと書きましたが、こうして一部ですが、転載してしまいました。どうかお許
しください。


はやし浩司++++++++++++Feb.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●正直な子ども

 バレンタインディが終わった。私もいくつか、チョコレートをもらった。が、肝心の私は、チョコ
レートを食べられない。食べると、偏頭痛が始まる。で、もらったチョコレートは、子どもたちに
分け与えることにしている。

 その分け与えるときのこと。男児(男子)たちに向かって、「君たちは、チョコレートをもらった
かア?」と聞くと、返事は、「もらった」と「もらわなかった」の2つ。

 しかしこのばあい、つぎの4つのケースに分けられる。

(1)本当にもらって、「もらった」と答える子ども。
(2)本当にもらっても、「もらわなかった」と答える子ども。
(3)もらってなくても、「もらった」と答える子ども。
(4)もらってなくて、「もらわなかった」と答える子ども。

 この中で、(4)の子どもは、正直な子どもということになる。たいていさみしそうな声で、そう言
う。で、そういう子どもたちにだけ、私は、チョコレートを分けてやる。一応、(2)の子どもにも分
けてやることにしているが、(2)のタイプの子どもは、ほとんどいない……と、私はみている。
「もらわなかった」と、ウソをつかねばならない理由はないからである。

 問題は、(3)のタイプの子ども。もらってなくても、「もらった」と見栄をはる。年齢が大きくなれ
ばなるほど、このタイプの子どもがふえるのではないか(?)。はっきりとした調査をしたわけで
はないので、本当のところはわからない。が、そういう子どももいないわけではない。

 で、こうして考えてみると、ここでいう(4)のタイプの子どもは、それだけ心が開ける子どもと
いうことになる。あるいはそれだけ自分に自信のある子どもということになる。このことは、おと
なの世界で考えてみるとわかる。

 たとえば同窓会などの席で、堂々と、「私は、3年前、借金苦で、一家心中まで考えました」と
告白する人は、それだけ人格の完成度が高い人とみてよい。「私は私」という生きざまが、かな
りしっかりしていないと、そういうことは言えない。(だからといって、あえて告白しなければなら
ないような話でもないが……。)

 つまり自分をさらけ出して生きるということ。それが大切。子どもについて言うなら、バレンタイ
ンディのチョコレートを、もらっていなくて、「もらわなかった」とか、「もらえなかった」と、さみしそ
うに言える子どもは、すばらしい。子どものときから、そういう形で、自分をさらけ出して生きる
術(すべ)を身につけている。

 ……と考えて、私自身はどうかと、ふと考える。私は世間体を気にして見栄をはることはもう
ないが、しかし聞かれないかぎり、あえて自分のほうから、自分を落とすような話はしない。しか
し武士道でいうような「恥」など、まったく気にしていない。聞かれれば、できるだけ本当のことを
答えるようにしている。

 ウソをつくのはいやだし、ウソほど、あと味の悪いものはない。ウソをつくくらいなら、笑われ
ても、本当のことを話したほうが、ずっと気が楽。

 で、私はチョコレートを子どもたちに分けてやる。「もらった」と言った子どもには、分けてやら
ない。「もらわなかった」と言った子どもにだけに、分けてやる。と、その瞬間だが、中には、「し
まった!」というような表情をしてみせる子どもがいる。多分、もらっていないのに、「もらった」と
答えてしまった子どもではないか。しかし私は、無視。

 「なア、もらえなくて、残念だったなア。先生のもらったチョコレートを分けてやるからナ。仲よく
食べようナ」と。

 こうして私のバレンタインディは、毎年、同じようにして終わる。

 ハッピー・バレンタイン!!


はやし浩司++++++++++++Feb.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●冬季オリンピック

++++++++++++++++++++++++++

週刊B春が、こんな記事を載せている(2・16日号)。

題して、「全国紙・スポーツ紙、メダル予想」と。

しかし現実は、きびしい……!

++++++++++++++++++++++++++

 週刊B春は、こう書いている(2・16日号)。

 「まず10紙中、5紙が、金、3紙が銀、1紙が銅と、メダル獲得は、ほぼ鉄板と予想されてい
るのが、スピードスケート男子500メートルの、加藤J君」と。

 「同じく女子500メートルでは、大菅Sを、2紙が銅、吉井Sを、1紙が銅、今回で4度目の出
場となる岡崎Tを、1紙が銅に推している」と。

 その結果、「トリノ五輪メダル予想」として、つぎのようなメダル獲得数を予想している(本誌P
152)。

読売新聞社
 金……1個、銀……2個、銅……6個

毎日新聞社
 金……1個、銀……2個、銅……1個

産経新聞社
金……0個、銀……2個、銅……1個

日刊スポーツ
 金……1個、銀……1個、銅……2個などなど。

 実際には、それぞれ実名をあげて、予想しているが、結果は、みなさん、ご存知のとおり。選
手の人たちがかわいそうなので、ここには書かない。で、今朝(2・15)も朝パソコンを開くと同
時に、まずスポーツニュースを見た。「今日はどうだった?」と期待を寄せながら見たが、やは
りメダルは、なし。「……メダルを逃がす」とか、「惜しくも……」という文字ばかりが、目立つ。

 サンケイスポーツだけが、荒川Sの、銅1個と、かなり現実に近い予想をしている。その荒川
S(女子フィギュアスケート)だが、今朝のヤフーニュースは、つぎのように伝えている。

「荒川は、今季のフリーで使っていたオーケストラ版『幻想即興曲』を、リズムが取りやすく、本
人に思い入れもあるプッチーニの歌劇『トゥーランドット』に変更した」と。

 こうした変更にも、どこか日本の(あせり)のようなものを感ずる。

 ただし一言。週刊B春は、その荒川について、こんな記事を書いている。いわく「フィギュア界
の期待を一身に背負う荒川には、大人の色気たっぷりの演技でメダル獲得と願いたい。欲を
言えば中国グランプリのエキシビションで見せたような乳首ポロリのハプニングも待っている
(笑)」(原文のまま)と。

 日本を代表する週刊誌も、この程度。選手たちの血のにじみ出るような努力と苦労を、こん
な目でしか見ていない。こんな記事を読んだら、荒川Sでなくても、ほかの選手の人たちでさ
え、やる気をなくすだろう。日本人は、いつからみんな、こんなバカになってしまったのか。
(060215)


Hiroshi Hayashi++++++++++FEB. 06+++++++++++はやし浩司

●子どもが生まれるともらえる給付金

++++++++++++++++++

児童手当は、いくらか、ご存知ですか?

++++++++++++++++++

【育児給付金】

子どもが生まれると、各種の給付金を受け取ることができる。それらには、(1)出産育児一時
金、(2)出産手当金、(3)育児休業給付金、(4)児童手当がある。

●出産育児一時金

 これは健康保険から支給されるもの。子ども1人あたり、30万円。妊娠4か月を過ぎていれ
ば、流産、死産でも支給される。

●出産手当金

 勤めている女性が、妊娠、出産で仕事を休み、給料がもらえなかったばあいに、支給され
る。退職しても、6か月以内に出産すれば、支給対象になる。支給される金額は、日給の6割。

●育児休業給付金

 男女を問わず、育児休暇をとっている間に、給料がまったく支払われないか、休業前の8割
未満になったばあいは、「育児休業給付金」が、もらえる。支給金額は、休業前の給料の3割。

●児童手当(後述)

 これらの手当金のほか、各地方自治体では、以下のような助成金制度をもうけている。

【子育て支援・助成金】

 現在、子どもをもつ親に、国や自治体は、以下のような
子育て支援・助成金を支給している。受領が可能と思われる
方は、遠慮せず、各窓口へ、相談してみたらよい。

●私立幼稚園就園奨励費

 資格……私立幼稚園へ通っている園児のいる家庭
 金額……年額、5万6500円(所得制限あり)
     (国と自治体から)
 届け出先……幼稚園、もしくは、各市町村村役場
       申請書を提出する。
     (現在、各私立幼稚園で代行。幼稚園に問いあわせてみること。)

●児童手当

 資格……小学校3学年修了前
金額……月額5000円
     第3子以降……月額1万円(所得制限あり)
 届け出先……各市町村村役場

●児童扶養手当

 資格……ひとり親
 金額……第1子……4万1880円
     第2子……プラス5000円
     第3子……プラス3000円
 届け出先……各市町村役場

●児童育成手当

 資格……ひとり親
 金額……1万3500円前後(自治体によってちがう)
 届け出先……各市町村役場

●特別児童扶養手当

 資格……身体障害者1級手帳の子ども
 金額……月額5万1550円
 届け出先……各市町村村役場
 

 ほかに、乳幼児医療費助成金、ひとり親家庭医療費助成などがある。助成金の額は、自治
体によって、異なる。医療費の全額もしくは、ほとんどを助成してくれる。

 すべて届け出先は、各市町村村役場になっているので、こまめに足を運んで相談することが
大切。これらの中には、届け出を出さないと受領できないものもが多く、また届け出を出した時
点からしか支給されないものもある。

 上限の年齢制限もあるので注意。児童扶養手当、児童育成手当ては、子どもが満18歳にな
るまで。子どもが生まれたらすぐ、相談してみる。

 方法としては、私のこのページをそのままコピーして、相談窓口で、順に説明を求めるとよ
い。
(はやし浩司 育児給付金 児童手当 扶養手当 休業給付金 児童育成手当 出産手当金)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●こだわりの強い子ども

+++++++++++++++++

うちの子は、何かにこだわると、そればかり
気にしてしまいます。最近は、臭いに敏感で
少しでもへんな臭いがすると、不潔とか、
嫌いとか言って、おおげさに避けようとします。

また毎日、暇さえあれば、手ばかり洗っています。

子どものこだわりを感じたら、どうしたらい
いですか?

下に、4歳の長男がいます。
(6歳女児をもつ母親より)

+++++++++++++++++

つぎのことに気をつけられたら、よいかと思います。

(1)求めてきたときが、与え時

 スキンシップなどを求めてきたら、すかさず、与えます。瞬時をおかずして与えるのがコツで
す。たいてい10〜20秒前後で、子どもは満足します。「待っていてね」「忙しいから」は禁句。

(2)暖かい無視

 潔癖症(手洗いぐせ)などの(こだわり)については、暖かい無視を繰りかえします。叱ったり、
やめさせようと考えるのは、タブーです。子どものほうから何かを言ってくるまで、暖かい無視を
繰りかえします。

(3)食生活を改善

 Ca、Mg、Kの多い、食生活、献立に切りかえてください。乾ししいたけの話が出ましたので、
資料を添付しておきます。乾ししいたけは、カルシウムを吸収する作用があります。与えるとし
ても、適度に! なお白砂糖は避けます。与えるとするなら、精製されていない、黒砂糖にして
ください。なお、しばらく砂糖断ちをしてみてください。

(4)家庭の中は、安らぐ場所

 「うちの子は、外ではがんばっている」と思い、家の中では、思いきり羽をのばすようにさせま
す。ぞんざいな態度を見せたり、だらしない生活をするかもしれませんが、ここでも「暖かい無
視」を繰りかえしてください。

(5)二番底、三番底を警戒

 この問題には、二番底、三番底があります。「なおそう」と考えるのではなく、今の状態をこれ
以上悪くしないことだけを考えて、2〜3か月単位で様子を見ます。あせればあせるほど、逆効
果です。過負担、過剰期待も、この際、ひかえます。ほどほどのところで、手を引き、お母さん
自身も、肩の力を抜いてください。幼稚園も、ときどき休むくらいの、そんな心の余裕が大切で
す。

   あとは、「許して、忘れる」ですよ!!!   
                          はやし浩司
(はやし浩司 こだわり こだわりの強い子供 潔癖症 疑惑症 固執 手洗い 手洗い癖 手
洗いぐせ はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(122)

【BW教室より】

++++++++++++++++++

子どもの心を傷つけた?

私は今日、こんな失敗をした。

++++++++++++++++++

KS様へ

こんばんは!

今日は、KS様にお詫びしたくて、メールを書きます。

実は、今日のレッスンで、こんなことがありました。

レッスンが始まってまもなくのこと。ちょうど、みなが、
バレンタインデーのチョコの話をしていたときのことです。

「もらった」「あげた」「もらわなかった」と騒いでいました。

と、そのとき、だれかが「義理チョコだ」「義理チョコをあげた」と
騒いでいました。私はそのとき、だれかのプリントに丸をつけて
いたと思います。

そのとき、KSさんが、「先生、これ」と小さな声で、
クッキーをくれました。

で、私は、「義理チョコ」と騒いでいた言葉をそのまま
受け売りしてしまい、いい意味で、「おお、これはすばらしい
義理チョコだ」と言ってしまいました。

瞬間、同時にその言葉は、KSさんを傷つける言葉で
あったことも知りました。

で、丸つけが終わると、すぐ、KSさんのところへ行き、
「ひどいことを言ってごめんね」と謝りました。

で、「手作りのクッキーだったの?」と聞くと、KSさんが、
「うん」と言いました。ますます私は自分の言った言葉を
恥じました。昨年も、手作りのクッキーをもらった
からです。

で、そのあと、2、3回、KSさんにあやまりましましたが、
しかし一度口から出た言葉は、取り消せません。

最後に別れるとき、「手作りのをくれたのは、君だけだよ。
うんと、いいお返しをするからね」と言いましたら、
はじめて、顔をゆるめてくれました。

もし機会があれば、くれぐれも、林は反省していると
お伝えください。

よろしくお願いします。

本当にすまないことを言ってしまったと
反省しています。

ごめんなさい。これからは、気をつけます。

では、
おやすみなさい。


はやし浩司 

++++++++++++++++++++++

このメールを出すと、すぐ、KSさんのお母さん
から返事のメールが、届きました。

それを読んで、ほっとしました。

++++++++++++++++++++++

【KSさんのお母さんから、はやし浩司へ】

はやし先生

メールを読んで驚きました! R子からは、そのような話を
聞かなかったうえに、「先生からチョコをもらったの♪」と
嬉しそうでしたから。

教室から出てきた様子では、「先生はチョコをを食べない
人らしくて、クッキーをその場で、粉まで食べてくれた」と、
そちらのほうの印象が強かったようです。

まだ「義理チョコ」というものが、どういうものか、わかってい
ないのでしょう。恋愛対象にチョコレートをあげる、というこ
ともわかっていないようです。むしろ「先生は本当にチョコレ
ートを食べない人なんだろうか?」というほうが疑問に残った
ようでした。

小学生は大きくなるにつれて、バレンタインデーへの思いが
どんどん変わっていくものですね。先生方も大変だろうなと
思います。

どうぞR子のことは、ご心配なく。本人、本日もニコニコで
楽しくBWに行って帰宅しました。またこれからもよろしく
お願いいたします。

KSでした。


++++++++++++++++++++++

【はやし浩司より、KSさんのお母さんへ】

 返事をいただき、ほっとしました。ありがとうございました。私は、少し調子に乗ると、すぐこう
いうヘマをしてしまいます。だから昔から、女性には、もてません。ワイフに言わせると、デリカ
シーがないからだそうです。

 今でも、ワイフに、「愛しているよ」などと言うと、「気持ち悪いから、やめてよ」と言われてしま
います。「あなたに言われても、心に響かない」とか、「あなたが言うと、MR・ビーンみたい」と
か言われることもあります。子どものころから、女の子と遊んだ経験がないと、男も、こういうダ
サイ男になるのですね。ホント!

 やはり男というのは、子どものときから、女の人とも、適当に交際しながら、技術をみがかね
ばいけません。いえ、実のところ、正直に告白しますが、いまだに、女子を教えるのが、苦手で
す。どこかで気をつかってしまうからです。

 その点、男子は、平気です。あのクラスでも、たがいに言いたいことを言いあって、楽しく学習
を進めています。みんな、私の名前も、呼び捨てです。「おい、林、ここ、わからん」とか言って、
問題をもってきたりします。それを受けて、「あのなア、先生にものを聞くときは、林先生とか何
とか言え」と私は言っているのですが……。

 もっとも、たがいに気をつかっていたら、どちらも、疲れてしまいますね……。まったく気をつ
かわないところが、BWのよいところでもあります。勝手な言い訳ですが、どうかご理解の上、
お許しください。

 が、やはり、今日のあの言葉は、失敗だったと思います。お母さんがおっしゃるようであれば
よいのですが、私は、KSさんは傷ついたと、今でも、思っています。すみませんでした。そのあ
と、何度も謝りましたが、謝ってすむ問題でもありません。私がKSさんなら、怒って、その場
で、クッキーを私に投げつけたと思います。

 ただ私は、よい意味で、「おお、これはすばらしい義理チョコだ」と言ったつもりですが、KSさ
んにしてみれば、「せっかく手作りで焼いてきてあげたのに、何てこと言うのよ!」ということにな
りますね。やはり……。

 すみませんでした。

 で、お願いがあります。

 いただきました、KSさんからの返事を、お名前など、KSさんとわからないようにして、楽天の
日記(無料マガジン)に載せたいのですが、ご了解いただけませんか。このところ、原稿のネタ
さがしに、少し苦労しています。よろしくお願いします。その原稿を、そのまま、こうしてKSさん
に送ります。

 よろしくお願いします。もし都合が悪いようでしたら、ご連絡、ください。では、おやすみなさ
い。今日は、朝、5時に起きたこともあり、目がショボショボしています。

 KSさんは、本当に、すばらしいお子さんですね。心が純粋で、けがれがないというか。心の
たいへん暖かいお嬢さんです。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(123)

【Nさんへ】

++++++++++++++++++++

昨日(1・15)は、教室で、いろいろ
話をさせていただき、ありがとうございました。

改めて、ご主人のすばらしさには、感動
しました。「さずがだな……」と、何度も
思いました。

あのあと、あれこれ考えました。
失礼なことを、言ったかもしれませんが、
どうか、お許しください。

で、いろいろな点について、補足しておきたいと
思います。この原稿が、Nさんの目にとまることを
願っています。

++++++++++++++++++++

 お子さんの名前を、Mさん(年長児)としておきます。そのMさんですが、全体としてみると、ま
ったく問題のない子どもです。まずそれを前提として考えます。

 で、Mさんの症状は、大きく分けて、2つあります。(1)神経症(心身症)による症状と、(2)赤
ちゃん返りがこじれた、強度の分離不安もしくは、かんしゃく発作です。

 別々に考えると、それらは、子どもの世界では、よく見られる、ごくふつうの、何というか、だ
れでも一度くらいは経験する問題だということです。この2つをくっつけてしまうと、何がなんだ
か、わけがわからなくなりますから、ご注意ください。

 ここではNさんのことを直接書くことはできませんので、今までに経験した子どもの中から、い
くつかの事例をあげて、具体的に考えてみたいと思います。何かのお役にたてれば、うれしい
です。もちろんNさんのことを書いているのではありません。

●マッチ・ポンプ

 ときどき経験するのが、「マッチ・ポンプ」です。母親が一方で子どもの問題をつくりながら、他
方で、「どうしよう」「どうしたらいいの」と悩むのが、それです。よい例が過干渉です。

 子どもの精神状態にまで干渉しながら、その結果、子どもに過干渉児特有の、萎縮性や内
閉性が見られるようになると、「どうしたらいいですか?」と。私は、母親に原因があるという意
味で、「母因性」という言葉を使っています。

 Nさんが、そうであるということではなく、そういうケースは、多いです。

 ほかにたとえば、母親自身が、育児ノイローゼになり、その影響を子どもに与えておきなが
ら、やはり「どうしたらいいの?」と。5、6年前ですが、こんなことがありました。

 母親が交通事故を起こしてしまいました。かなりひどい事故だったようです。で、その直後か
ら、その母親は、毎週、2〜3つの病院を、かけもちで通うようになりました。内科と整形外科
と、もう1つは何だったか忘れました。が、やがてそれに、精神科が加わるようになりました。

 事故をきっかけとして、つまりそれ以後、すっかり体調を崩してしまい、うつ状態になってしま
ったからです。電話での様子も、事故前と、事故後では、まったく別人のように変わってしまい
ました。

 で、子どもに影響が現れ始めたのは、それから数か月から半年してからのことだったと記憶
しています。そのときその子どもは、小学2年生(女児)ではなかったかな?

 すっかり暗くなってしまった家庭で、(当時の私は、そう感じていました)、その子どもは、自分
の居場所をなくしてしまったのかもしれません。その子どもの表情は、日を追うごとに暗くなって
いきました。そして毎日のように、頭痛や腹痛を訴え、学校へ行っても、ほとんどの時間を、保
健室で過ごすようになってしまいました。

 が、母親自身は、あれこれ病気を訴えながらも、それはそれとして、「私は変わっていない」と
思っていたのかもしれません。子どもに、何か変化が起きるたびに、「どうしたらいいでしょう
か?」と相談にやってきました。

 しかし私の立場では、「お母さんに、原因がありますよ」とは、とても言えませんでした。交通
事故による心の後遺症が、あまりにも痛々しかったからです。「母因性」というには、あまりにも
酷な状態でした。

●神経症の問題

 子どもが何か、どこかおかしな症状を見せると、親は、悩みます。たとえばチックを考えてみ
ます。

 チックといっても、症状には軽重があるものの、何割かの子どもが、一度は経験するというほ
ど、珍しくも何ともありません。

 そういうチックを知ると、(ほとんどの親はチックであることですら気づかず、「おかしなクセ」と
誤解して、見過ごしてしまいますが)、親は、とたんにそれを気にするようになります。

 ほんの少しまばたきしただけで、「そら、またチックだ!」と。そしてことさらそれをおおげさに
問題にします。つまり親自身が、子どもの神経症に神経質になってしまい、自分自身が、同じ
ような神経症になってしまうのです。

 こうしたケースは、珍しくありません。先日何かの本で読んだ話には、こんなのがありました。
母親がうつ病になると、その家族が、うつ病になる確率が、たいへん高くなるという話です。さら
にこんな話も。

 ある会社のある上司(課長)が、うつ病になったのでそうです。そうしたらやがて、その課全体
が、重苦しい雰囲気に包まれるようになり、気がついてみたら、その課の何割かの人たちま
で、うつ病になってしまったという話です。

 これを「病気の連鎖」といいます。親子であると、この病気の連鎖は、さらに顕著に現れま
す。

 で、最初の話に戻りますが、子どものチックを気にしながら、母親自身が、神経症になってし
まうというケースです。で、この段階で、母親が神経症になると、その相乗効果というか、悪循
環というか、子どものチックは、さらにひどくなります。

●原因は母親

 子どもが何らかの神経症による症状を見せたとき、第一の原因は、母親にあるとみます。
が、決して、母親を責めているのではありません。

 子育ては、それほどまでに重労働だということです。1人の子どもを育てながら、みな、ヘトヘ
トになっています。それが2人、3人となれば、なおさらです。

 そういう母親を責めているのではありません。ただ子育てに、あまり熱心になるのは、考えも
のだということです。そういう意味では、子育てには、「底」がありません。一度、子育てのウズ
に巻きこまれると、どんな母親でも、そのウズの中でもがき苦しみながら、底なしの世界に入り
こんでしまうということです。

 そこで私は、「適当に手を抜く」ということを、話しています。子育てをしながら、手を抜く。適当
なところで、適当に、手を抜くということです。

 しかし私がそう言えば言うほど、今度はまた、親は苦しんでしまいます。よい例が過干渉で
す。私が「お母さん、過干渉ぎみですよ」と指摘すると、そのときは、母親は、「そうです」と言っ
て、それに従ってくれます。

 が、いざ、子どもを前にすると、「過干渉であってはいけない」「私は過干渉ママなのだ」と、か
えって思い悩んでしまうのです。つまりそれがストレッサーとなって、さらに母親を苦しめてしまう
……。

 では、どうするか、ですが、結論は、ただ1つ。「子育てから離れる」です。子どものことを忘れ
て、一人の人間として、好き勝手なことをする。そしてその結果として、子育て離れる。

 少し無責任な言い方に聞こえるかもしれませんが、子どもというのは、放っておいても、育つ
ものです。あれこれ手をかけたからといって、育つものでもありません。むしろ、やや放任気味
のほうが、子どもは、よく育ちます。こんな研究結果があります。

●子どものやる気

 D・C・マクレランドという人がした調査ですが、彼はまず、母親たちを、(1)意欲最高群、(2)
意欲高群、(3)意欲普通群、(4)意欲低群の4つに分類しました。

 わかりやく言えば、(1)教育的に過関心、過剰期待、過剰負担を強いる母親〜〜(4)子ども
の教育に無関心という母親に分類したということです。

 その結果ですが、子どものやる気(=達成動機得点)は、(1)の意欲最高群の母親のばあい
が、一番低く、(3)の意欲普通群の子どもが、一番高いということがわかりました。

 そして(4)の意欲最高群の母親の子どもの、やる気は、(1)の意欲低群の母親の子どもの、
やる気よりも、はるかに低いということもわかりました。

 つまり親がカリカリすればするほど、何もしない親よりも、はるかに逆効果となって、子どもか
ら、やる気を奪ってしまうということです。つまり普通の母親が、一番、よいということになりま
す。

 では、どうすれば、(普通)であるかということですが、それについては、昨日、「子育て診断」
の冊子をお渡ししましたので、それで自己診断をしてみてください。40項目について、Nさんの
子育てを診断できるようになっていますので、どこに、どのような問題があるか、それでわかっ
ていただけると思います。

●神経症

 神経症による症状のほとんどは、子どもの側から見て、愛情的な意味で、絶対的な安心感を
得られないことが原因で起こると考えて、ほぼまちがいありません。またそういう前提で、考え
てみてください。

 Nさんのばあいは、下の子どもが生まれたときから、そういった症状が出ているということで
すので、赤ちゃん返りがこじれた、やや複雑なバリエーションではないかと判断しています。

 Nさんから見れば、「平等」ということになりますが、上の子にとっては、その平等ということ
が、不満なのです。そしてそのどこかで愛情飢餓を覚えてしまった。そういう状態です。

 ですから、子どもの神経症的な症状の部分については、まずNさん自身が、全幅の愛情を、
子どもに向けなおすという方向で、接し方のあり方を、もう一度、考えてなおしてみてください。

 昨日も話しましたが、「なおそう」と思うのではなく、「今の状態をこれ以上悪くしない」というこ
とだけを考えて、様子をみます。というのも、こうした神経症による症状は、一度、現れると、環
境が改善されたのちも、症状だけは、そのまましばらく残ってつづくにがふつうだからです。チ
ックにしても、環境が変わり、子どもの心が大きく変化したあとも、いわば(クセ)のような形で、
そのあと、1〜3年つづくことも、珍しくありません。

 Nさんの子どもが、絶対的な安心感、(「絶対的」というのは、疑いすらもたないという意味で
す)、それを覚えたとき、今心配なさっておられる症状も、少しずつ、消えていきます。

 最後に、冒頭にも書きましたように、こうした問題は、子どもの世界ではよく見られるものであ
るということ。あまりおおげさに考えるのではなく、おおらかに。今、子どもが見せている症状
は、いわば心の不調を訴える、黄信号ととらえて、手を抜くところは、思い切って手を抜いてみ
てください。そのためにも、Nさんは、一度、母親であることを忘れて、自分のしたいことをする
のです。このままでは、Nさん自身が、育児ノイローゼになってしまいますよ!
(はやし浩司 子供の意欲 意欲 意欲最高群 D・C・マクレランド 意欲を引き出す 達成動
機得点 子供のやる気 はやし浩司)
(060215)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(124)

●アメリカの日本人

+++++++++++++++++++++++

アメリカ在住のSZさんという方から、
こんなメールが届いています。

SZさんのお子さんは、BW教室のOBです。

+++++++++++++++++++++++

【SZさんより、はやし浩司へ】

はやし先生へ

メール、ありがとうございました。

自分の子供をアメリカ人として育てることは、考えたことがありません。
物理的な事情で、アメリカの公立小学校と日本語補習校に通わせています。

とはいっても、子供たちは毎日アメリカの学校に通い、アメリカ合衆国に忠誠を
誓う宣誓を行ってから授業に望みます。

友達も皆、アメリカ人です。アメリカ人といっても、カリフォルニアは移民の多い州
です。

白人、アジア人(中国人、日系人、インド人、韓国人、カンボジア人・・)アラブ
人、

ヒスパニック系の人々、どのように整理してよいか分からないほどです。

ここで日本人として育てるにはどうすればよいのかと、考えあぐねます。

子供たちが色々な人種の友達と付き合うことで、日本文化のすばらしさを感じ、
アジア人としての誇りをもつようになれば、どんなにすばらしいかと思います。
まだ小さいので難しいでしょうが、これは私の理想です。

日経新聞2・15に(長野・軽井沢「日本」のリゾート)という記事がありました。
私は市町村の景観形成計画をつくる仕事をしていたので、こういう記事に興味があり
ます。

星野リゾート社長は米コーネル大大学院でホテル経営を学んだそうです。

「欧米の友人を日本のリゾートや別荘に案内すると「西洋のまねではないか」とがっ
かりされる。それが悔しかった」と。

それで「森に囲まれた谷あいの集落」というコンセプトで、ホテルを具現化したそう
です。
「日本が過度に西洋の影響を受けず、固有の文化を大事にしたらどうなったか想定し
たと。」
こういう仕事は、日本人であり、また国際感覚をもっている人でなければできないと
感じました。

先生のいう、日本人でいくか、アメリカ人でいくかという問題は、また違った次元の
事と思いますが、色々考えさせられます。

Y子(娘)は、Grade 2の3学期に入り、勉強が一段階、難しくなりました。
算数は簡単ですが、文章を作る宿題やレポート形式の宿題など苦労します。

近所の高校生に、木曜日だけ現地校の宿題を見てもらうことにしました。
彼女はアメリカ人として育ちましたが、小学生の時、日本語補習校に通っていたので
日本語が話せます。

ハンガリーの日本人学校の先生に、「アメリカで、K式の教室に行くといいよ。」
と勧められました。しかし、今のところ宿題だけで手一杯なので考えていません。
夫は「勉強はがんばらなくていいよ。今からがんばったら息切れするよ」と言ってい
ます。

由紀子は本を読むのが好きで、日本語と英語の本を週に6冊くらい読みます。
日本語習得のため、本をたくさん読むように、補習校から指導を受けています。
補習校には図書室があり、週3冊ずつ日本の本を借りることができます。

日本語補習校をやめて、塾に移る方もたくさんいます。補習校はあくまでも日本の学
校で、体育や図工、学校行事など行われます。スケジュールが厳しく、それを補う
ために宿題がたくさん出ます。

家庭教育で補っていくのです。

塾は日本の勉強を少人数制で教えてくれます。先生方も日本の受験システムを熟知し
ています。

何とか、現地校と日本語補習校のバランスをうまくとっていきたいです。

ほとんどの日本からの駐在員は治安の良い地域に住んでいます。治安の良い地域=教
育レベルの高い地域です。

公立小学校なのに10段階にレベル分けされ、公表されています。レベルにより、州
からの補助金が決まるので、学校は学力を上げるため力を注ぎます。子供たちの通
う学校は、レベル10最高ランクの学校で、Grade 4から優秀な子供を集めた特別
クラスができます。

何だかすごいところに来たと 最初は思いましたが、アメリカ人の子育てはとてもお
おらかだと感じます。

落第や飛び級など あまり気にしないような印象を受けます。

先生も良くご存知のとおり、アメリカのLibraryの時間はとても良いですね。
Libraryの先生が 読み終えた本の内容を理解できたかテストし、子供の能力にあっ
た本のレベルを選定します。

日本の学校でも取り入れるといいですね。

駐在は5年間の予定で、子供が中学1年生、小学5年生での帰国の予定です。わかり
ませんが・・・・。

日本は寒いようですね。こちらは暑くなったり寒くなったり、砂漠気候です。先日、
暑くて風の強い日に山火事がありました。
怖いものです。

乱文、お許しください。

アメリカC州在住、SZより


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

【SZさんへ、はやし浩司より】

拝復

アメリカの教育事情の一端がわかり、
たいへん興味深く、読ませていただきました。

ありがとうございました。

日本に住んでいると、日本文化のよさって
どこにあるのだろうと考えても、よくわかりません。

しかし反対に、アメリカ人に接してみると、
彼らのもつ合理主義に、ときどきついて
いけなくなることがあります。

それを掘り下げていくと、日本文化が見えてくるの
かもしれませんね。

アメリカやオーストラリアなどの広い荒野の中に
立ってみると、自分とは何か……と、どんどんと
小さくなっていくのがわかります。

絶望感に似た、気が遠くなるような気分です。

そのとき自分を支えてくれるのは、「私は
日本人だ」という民族主義かもしれません。

だから私は民族主義を否定はしません。
どうか誤解しないでくださいね。

でもね、正月に息子たち夫婦が、アメリカ
から来たときのことです。

アメリカ人の嫁はもちろんのこと、息子まで、
日本の料理を、ほとんど食べないのですね。
9年もアメリカにいるとそうなるのでしょうか。

嫁の妹などは、寿司でも、海苔が食べられなくて、
全部、海苔をはがして寿司を食べていました。
「へえ〜」と驚くやら、残念に思うやら……。

そのとき私は現場にはいませんでしたので、
ワイフがおもしろおかしく話す話を、笑って
聞いていただけですが……。

が、その息子がアメリカへ帰って、真っ先に
したことは、アメリカのレストランに飛び込んだ
ことだそうです。

きっとアメリカ食が、恋しかったのでしょうね。

それをBLOGで読んで、では今まで、
せっこら、せっこらと、日本食や日本の雑誌を
送り届けていた私は、いったい、何だったの
かと、ふと、自分がなさけなくなりました。

嫁さんも、当初は、日本語を勉強したいと
言っていたのですが、育児に忙しいらしく、
その時間もなかったようです。

日本で、日本語で会話をすることは、まったく
ありませんでした。

息子は、完全にアメリカ人になる道を選んだ
ようです。(とっくの昔に!)

しかしその一方で、日本を大上段に批判
したようなことを言うと、私の民族主義が
ムラムラと反発を覚えたのも事実です。

そうそうこんなことがありました。
正月に、その息子が熱を出しました。
それで別の息子に車を運転させ、夜中に、
近くの店まで行ってもらい、体温計を
買ってきました。古いのをなくしてしまった
からです。私自身も、風邪をひいて、
かなりの熱があったのですが……。

その体温計を、息子の部屋にもっていって、
息子の体温を計ろうとしましたら、えらく
息子に怒鳴られてしまいました。ふつうの
怒鳴られ方ではなかったので、私は、かなりの
ショックを受けました。

ワイフにも、「あなたはいつも、いらぬおせっかい
をし過ぎなのよ」と、しかられる始末。

しかし「これが日本人なのだがなあ……」と
思いました。熱き、人情が、です。でも、そうした
人情など、アメリカ人には通用しませんね。
まったく通用しない。アメリカ人には、そうした
行為は、お人よしのバカがするもののように
見えるのかもしれません。

私の父は、台湾で、アメリカ軍と戦い、腹に
貫通銃創を2発も受けています。そういう過去も
知らないで、またそういう私や父、日本に遠慮
もしないで、「日本はつまらない」というような
ことを言うのですから……。ときには、私のほうが
怒れてくることもありました。

まあ、息子は息子で、幸福になってくれれば
それでいいのですが……。親として何も望む
ことはありません。どうせ私はやがてあの世へ
行く立場ですから、とやかく言ってもしかたの
ないことです。

私は私で、合理的に生きていくしかありません。
そう、最近は、つとめてその息子については
合理的に考えるようにしています。が、悪い
ことばかりではありません。

その息子を見ながら、いろいろ学んだのも
事実です。それまで知らなかった世界も、知る
ことができました。

しかしね、SZさん、肌の黄色い日本人が
いくら、「私はアメリカ人だ」と叫んだところで、
白人のアメリカ人は、それを受け入れてくれる
ものなのでしょうか? そのあたりのことを、
また教えてください。

白人の目から見れば、日本人も、ベトナム人も
同じ。黒人より、劣等な民族と思っているかも
しれません……と、まあ、そんなことを心配
するのも、これまたいらぬ、おせっかいかもし
れませんね。

この部分についての返事は、いりません。どう
返事をもらったところで、どうにもならないか
らです。

……とまあ、どこかグチぽい話になってしまい
ましたが、私のほうは、何とか、元気に生きて
います。

またまたいつものお願いですが、SZさんからの
今回のメールを、マガジンに掲載させてください。
多分、3月24日号に掲載できると思います。

もし都合が悪いようでしたら、連絡下さい。

よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++++

【SZさんから、追伸】

はやし先生へ

マガジン掲載のこと、了解しました。

先生と私では、経験と知識の差がありすぎて
誤解すらしようがありません。

国際結婚をしてアメリカ国籍を得る、それは自然な
ことと感じます。

日系人は立派にアメリカ人として生きているように見えます。
日本人は他のアジア人ほど差別を受けていません。
日本人はアメリカ人に認められているように感じます。
現に、私は白人のアメリカ人に声をかけられ、親切にして
もらっています。「日本に行ったことがある。」とよく、
話しかけられます。

カリフォルニアだからかもしれません。
東海岸や南部は事情が違うようです。

みなさん、日本食が大好きなんですけれど・・。

海苔をはがす話は、よく聞きます。
海のないところで育つと、あの香りが苦手になるようです。
ハンガリー人もそうでした。
多分、海産物の香りが苦手なのでは? だしの香りとか。

アメリカの食事は大味です。それに慣れると繊細な味付けの
日本食は物足りないかもしれません。
とんかつやすき焼きなら、好きかもしれません。

ひとつ 私の仕入れた気になる情報です。

この国の人たちは算数が苦手です。
この国のコンピュータ業界は、中国人やインド人など
アジア人が支えているようです。そして儲けているのは
だれか? 夫は「この国は移民が支えている?」と言ってい
ます。

先生はご存知なことかもしれませんが・・。
色々考えさせられます。

ひどい事件が続いていますね。

SZより

Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(124)

●掲示板より

++++++++++++++++++

それぞれの家庭には、それぞれの問題が
ありますね。

一見、幸福そうに見える家庭でも、そう
見えるだけ?

だから問題があることを悩むのではなく、
問題があって当然という前提で、自分の
家庭を見なおしてみる。

それが大切なのではないでしょうか。

掲示板へのこの書きこみを読みながら、
私は、そんなことを考えました。

++++++++++++++++++

【Yさんより、掲示板へ】

こんにちは。
私の実父母のことなのですが・・・
父には数年前から愛人がいます。たぶん現在も続いています。
母がその事に気づいてから、私や弟や親戚など、たくさんの人を巻き込み、父にいろいろ追及
したのですが、父は絶対に認めようとしませんでした。

母は、このままでは自分がおかしくなってしまうからと別居もしました。
2年ほど別居している間に、私は父と愛人が一緒にいるところを突き止め、その場で父と話を
して、「(愛人とは)もう会わない」と約束させました。

けれどそれは口先だけだったようで、一筆書いて署名捺印して欲しいと言うと、頑なに拒否され
てしまいました。
そして、母には「仲良くやっていこう」と言うのです。

父は母と結婚して以来、家計も自分で握っていて、母には食費として数万円、渡していただけ
でした。

母は、父はとてもやさしくしっかりした人だとずーっと思っていたのですが、60歳を目前にして
貯金がゼロだとわかり、しかも愛人までいて、かなりショックを受けたようでした。

父は、世間にも家族にも「いい人」を演じていただけで、実は、お金と女にだらしのない人間だ
ったのです。

私としては、そんな父はもう放っておいて、今すぐに離婚すればいいと思うのですが、母には経
済力がないのです。腱鞘炎とヘルニアのため無理もできません。
私や弟も現時点では、母を引き取る事は難しいです。

母は、7年後に年金法が改正されたら、離婚すると言っています。
それなら、生活のために今は割り切って、一緒にいるんだなーと思っていたのですが、父の携
帯電話をチェックして、私に「この番号にかけてみて」「相手が男か女か確かめて」と言ってきた
りするのです。

母は、執念深くて、嫉妬深くて、わがままな性格です。
あと7年も、母は父と生活できるのでしょうか?

私自身、主人が子供をかわいがれない(私も離婚したい)。次女のおねしょや爪噛み。長女は
朝起こしても起きない。起きても動かない。今1年生ですが、ほぼ毎日遅刻していて、「本当は
学校に行きたくないんじゃない?」など悩みは尽きないのに、実家のことまでとなるとイライラし
てしまいます。

愚痴のようになってしまって、すみません。
最近もんもんとしていて、誰かに聞いてもらいたかっただけです。
ここに書いてみて、ちょっとスッキリしました。

先生の日記・メルマガ。いつも楽しみにしています。
頑張ってくださいね(^^)v

【はやし浩司よりYさんへ】

 親の問題は親の問題と割り切って、Yさんから切り離して考えたらよいと思います。Yさんが思
い悩んだところで、どうにもならない問題かと思います。子どものあなたが、「離婚すればいい」
と考えたり、父親に、「約束させる」などということをしても、あまり意味はないということです。

 同時に、父親、母親という、「親」に対する幻想も捨てます。幼児期に、子どもは、親は絶対と
いう意識をもちます。(「もつ」というより、「植えつけられる」のかな?)「人工論※」というのが、
それです。その人工論が、そのまま残像、あるいは亡霊となって、子どもの心の中に、生涯に
わたって残ります。

 親子の密着度が強ければ強いほど、この人工論も、強く残ります。わかりやすく言えば、親に
対して、いつまでも、幻想をもちやすいということです。

 しかし親とて、人間。ただの人間。ばあいによっては、子どものあなた自身より、レベルが低
いことだって、ありえます。だから親に、高邁(こうまい)な人格など、求めないこと。期待しない
こと。

 (だからといって、Yさんのご両親が、そうであると言っているのではありません。一般論とし
て、そう言っているだけです。)

 また「愛人がいた」ということと、「女性にだらしない」ということとは、別問題のように思いま
す。つまり「愛人」と、「心のだらしなさ」を、直接結びつけないほうが、よいのではないかと思い
ます。恋愛感情などというものは、その人の知性や理性を超えた世界で、その人の内部、奥深
くで生まれるものです。「女性にだらしない」というのは、たとえば、女性の心を、平気でもてあ
そぶような行為をいいます。

 あなたの父親は、ひょっとしたら、そうではないのではないかと思います。「60歳を前にして」
とありますので、あなたの父親は、私と同年齢かもしれませんね。私のような年齢になると、セ
ックスのために「女性」を求めるということは、もうありません。その気が消えるわけではありま
せんが、そういうことをするのを、めんどうに感ずるようになります。

 で、一番、苦しんでいるのが、実は、父親自身ではないのかなと思います。自分で自分をどう
したらよいのか、わからないでいるのかもしれません。まあ、同じ同性の立場で言えることがあ
るとするなら、一方的に、父親が悪いというものの考え方をするのではなく、また一方的に母親
の味方をするのではなく、父親自身の心に耳を傾けてがえうことのほうが、大切なのではない
でしょうか。

 まあ、これも人生。あれも人生。いろいろなことがありますね。掲示板への投稿、ありがとうご
ざいました。

++++++++++++++++++++++

※……乳幼児の心理(幼児の人工論)

 乳幼児の自己中心性は、よく知られている。

 このほかにも、乳幼児には、(1)物活論、(2)実念論、(3)人工論など、よく知られた心理的
特徴がある。

 物活論というのは、ありとあらゆるものが、生きていると考える心理をいう。

 風にそよぐカーテン、電気、テレビなど。乳幼児は、こうしたものが、すべて生きていると考え
る。……というより、生物と、無生物の区別ができない。

 実念論というのは、心の中で、願いごとを強く念ずれば、すべて思いどおりになると考える心
理をいう。

 ほしいものがあるとき、こうなってほしいと願うときなど。乳幼児は、心の中でそれを念ずるこ
とで、実現すると考える。……というより、心の中の世界と、外の世界の区別ができない。

 そして人工論。人工論というのは、身のまわりのありとあらゆるものが、親によってつくられた
と考える心理である。

 人工論は、それだけ、親を絶対視していることを意味する。ある子どもは、母親に、月を指さ
しながら、「あのお月様を取って」と泣いたという。そういう感覚は、乳幼児の人工論によって、
説明される。

 こうした乳幼児の心理は、成長とともに、修正され、別の考え方によって、補正されていく。し
かしばあいによっては、そうした修正や補正が未発達のまま、少年期、さらには青年期を迎え
ることがある。

 今朝のY新聞(6月28日)の朝刊を読むと、まだあのA教祖に帰依している信者がいるとい
う。あの忌まわしい地下鉄サリン事件をひき起こした、あのA教祖である。

 私はその記事を読みながら、ふと、こう考えた。

 「この人たちの心理は、乳幼児期のままだな」と。
(はやし浩司 人工論 物活論 実念論 乳幼児の心理 子どもの心理 子供の心理)


Hiroshi Hayashi++++++++++++++++++はやし浩司

【YKさんからのメール】

++++++++++++++++

YKさんから、こんなメールが
届いています。

2月から、作文指導を始めたこ
とについての、ご意見+アルファ
です。

YKさん、メール、ありがとう
ございました。

++++++++++++++++

はやし先生 

こんにちは。
だいぶ春めいてきました。
今日は、小学校の体力づくり大会。
午前中は、その応援に行ってきました。

最近、BWで国語(作文)の指導が始まったようで
「やってくださるといいな〜」 と以前から思っていたので
「やったー!」 と
うれしくて仕方のない今日この頃です。
ありがとうございます。

先日のレッスンの後、R雄(弟)が、

R雄「なんか具合悪いみたい。熱を測ってみる。」 
と、帰ってくるなり、そんなことを言いました。

どうしたのかな?、と様子をうかがっていると

R雄「今日はちょっと張り切りすぎかな〜。」
母  「はっ?  何が?」
R雄「BWでさっ。」
母  「何やってきたの?」
R雄「まあ、いろいろとね。」   ピピピッ
   「熱、37.2°だ。」
母  「頭が痛い?」
R雄「う〜〜ん…わからない。」
母  「まあ、とりあえず、ご飯食べようか。
    その後、また熱を測ってみよう。」

母  「もしや、これは脳みそをたくさん使ったことによる
   知恵熱かな? 」
と、内心ちょっとワクワク(!?)してしまいました。

以前、先生のエッセイにあった、「レッスン後頭が熱い」の
まさに、その症状かもしれない、と、おもったのです。


一時間後
R雄「熱を測ってみたら36.1°だったよ。」
母  「きっと、BWで脳みそをマックスに使ったからじゃないの。」
父  「そうだ!そうだ! 脳みそは使えるだけ使うのがいいぞ。」


とにかく、張り切る。あわてる。調子づく。
がライフスタイルの息子なので…。
ホント、お世話になります。

KH子(姉)の方は、淡々とした毎日を送っているようです。
私からみると以前に比べ、とてもどっしりとして見えます。
二学期の「いじめ」のトラブルもいい感じで乗り越えました。
「自信」 と言うわけでもないのでしょうけれど
自分なりのリズムをしっかり守ろうとがんばっているのが
よくわかります。

いい、傾向だな。 と、感じています。
でも、もしかしてそれは母親の私がやっとKH子のいいところに
気づいた(認めた)のかもしれません。

この子のゆっくりとしたマイペース。
どうかすると、「怠けているんじゃないの。」と
見えてしまう態度に本当にイライラしたものでした。

少し前、洗濯物を一緒に干しながら、
母  「ママはね、ママ学校に行ったわけでもないし
    ママになっていいよ。って合格証書をもらったわけでもないけど
    あなたが、生まれたと同時にママになったのよね。」
   「だから、わからないことや間違っていることが一杯あると思うんだ。
    今まで、ごめんね。」
と、言ってみたのです。

KH子「??? 別に…。」
と、言いながらびっくりした顔をしました。

4歳になったばかりの次女を見ていると
今まで上の二人、とくにKH子にしてきた子育てが
どんなに自分(親)中心のリズムで振り回していたのかがよくわかります。

最近では、ちょっとしたトラブルがあっても
「あ〜誤差の範囲ね。」、と
かなり図太くなってきた私、自分自身驚いています。
「誤差」とは失礼な…と子供たちは思うかもしれませんが…。

先日、食事をしているときにこんな会話をしました。
母   「KH子が、こんなにおもしろくなるとは思わなかったよ。」
KH子 「何、どうゆうこと?」
母   「そうね〜。例えて言うなら、トランプのカードが分けられて
    その内容がおもいのほかよくてワクワク。ゲームが楽しみ。って
    心境かな。」
KH子 「ふ〜ん。そう。」

KH子は、まんざらでもないニコニコ顔をしていました。
私の言いたいことはわかったようです。

「受験をしたい」と、自己主張したこと。
勉強ができるようになりたいと思い始めたこと。
自分自信の中での目標があること。
何より自分でやるようになったこと。

そして、勉強ができるようになってきたこと。

そんな前向きな様子に「おもしろくなってきた」という言葉が
私の中から自然と出てきたのだと思います。
もちろん、受験という当面の課題に向けていい下地ができてきた
という意味もあります。

親の子供への期待(要求)は本当に際限がないです。
正直なことを言えば、もっともっとという気持ちが無い
わけではありません。
もう少し上も行けるのでは…と。

でも、今は充分満足と思わなくては…と思っています。
だから、今のこの気持ちを忘れないように
と、思っています。

受験を迎えるこの一年は、KH子ではなく私(親)の
試練だと思っています。
どれだけ、子供を信じ、子供が心身ともに休めることのできる
雰囲気作りができるかが、私の受験(課題)です。

結果は、KH子のことを知らない試験官が決めることだからね。
合格すればもちろんうれしい。
でも否と出ても落胆することはない。
あなたの知らない人が決めたことよ。
と、そんなことを会話しています。

悔いの無いようにやれるだけやってみようね。

不安な自分と落ち着いた自分。
私の中には自分が二人いるみたいです。

これからもお世話になります。
よろしくお願いします。

**おたずね**

BWの新入生の募集がありますが年中さんからですよね。
次女(年少)が、姉・兄の行っているBWを夢の国のように思っています。
上の子を送っていくと車の中で大泣きなのですが…。
ダメ元で聞いていますので、ご無理なら気を使わずに断ってください。
年中から、お世話になろうと思っていますので。

++++++++++++++++++++++++++

【はやし浩司よりYKさんへ】

 読むにつれて、楽しそうな家族の様子が伝わってきて、私もうれしくなりました。何かと暗い話
題がつづくこのごろ、YKさんからのメールを読んで、ほっとしました。ありがとうございました。

 さっそくですが、YKさんとわからないようにして、マガジン(R天日記)のほうで、YKさんのメー
ルを紹介させていただきたいのですが、よろしいでしょうか。どうか、ご了解ください。都合の悪
い点があれば、至急、お知らせください。改めます。

 で、作文指導ですが、これから先、少しずつもりあげていきたいと考えています。「ものを書く」
というのは、私にとっては、「生きる」ことです。そんな思いを、お子さんたちに伝えることができ
たら、うれしいです。

 で、この1週間、過去の著名な作家たちの文章を、筆写させてみたのですが、全員、1人の例
外もなく、喜んで従ってくれたのには、驚きました。指導を始める前は、「半分くらいの子どもは
いやがるだろうな」「そういう子どもは、どう指導しようかな」と、思い悩んでいました。が、結果
は、このとおりです。

 今日も、小3の子どもが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を書き写してくれました。それを見なが
ら、私が、「日本で、これ以上、むずかしい文章はないから、これが書けるということは、君にと
っては、むずかしい文章は、もうないということだよ」と話してやりましたら、その子どもは、ニン
マリと、うれしそうに笑いました。

 この指導を、2か月前後つづけたあと、作文指導と、読書指導に入りたいと思っています。夏
前には、ワークブックを買いそろえ、受験準備をしたいと思っています。いろいろやりたいこと
がたくさんあって、頭の中を整理するのが、たいへんです。

 これからも、よろしくお願いします。

【補足】

 国語力は、読書に始まって、読書の終わる。が、それだけでは足りない。プラス、作文。

 しかし作文といっても、子どもにそれをさせると、すぐマンネリ化してしまう。よい例が日記。1
か月も書かせると、文章そのものが、ワンパターン化してしまう。もちろん内容も、だ。

 そこで私は「あったことを書くのではない。考えたことを書きなさい」と指導するが、これもま
た、うまくいかない。「考えたことを書く」という意味が、よく理解できないようである。

 そこで先月(1月)から、1クラスだけだが、交換ノートを始めた。最初、子どもたちは、「交換
日記〜イ?」と言ったが、交換日記ではない。私は「考えたことを書きなさい」と指示した。

 そしてよく考えて書いた文章には、大きな丸をつけてあげている。つまりこうして子どもたち
は、ほかの子どもの書いた文章と、自分の書いた文章を比較することによって、「考える」とい
うことはどういうことかを知る。子どもの先生は、実は、子どもである。

 ただ1つ問題がある。

 現在、ほとんどの学校では、この作文を、入試問題の柱にしている。それはそれでよいことな
のだが、作文指導というと、心のどこかで入試準備を意識してしまう。つまり、試験官に、迎合
するというか、コビを売るような指導を、どうしてもしてしまう。

 「暗い話は書くな」
 「明るく、さわやかな文章を書け」
 「きちんとした文章で書け」
 「漢字を多く使え」
 「脱字、誤字には、注意しろ」
 「おかしな記号や、マークは使うな」と。

 親たちも、そういう目的で、私に作文指導を願っているわけだから、つまり、私としては、スポ
ンサーの意向に逆らうことはできない。が、それが本当によいことなのかどうかというと、実は、
私にもわからない。

 だいたい、それを指導する、私の作文力はどうか?、という問題もある。私が下手(へた)で
は、子どもの指導など、できるはずもない。そういう意味では、今回の作文指導には、ある種の
緊張感を覚える。責任は重大、という緊張感である。

 YKさんへ、これからもがんばりますので、よろしくお願いします。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●日本が最大の拠出国???

+++++++++++++++++++

たばこの健康被害を低減を目ざす、「たばこ
規制枠組み条約」なるものが、2月7日、
ジュネーブのWHOで討議された。

その席で、日本が費用の22%、約176
万ドルを拠出することになったという。

もちろん日本が、最大の拠出国!

+++++++++++++++++++

 欧米先進国の中で、世界一、たばこ規制に甘い国。それが日本。その日本が、日本の外で
は、「たばこ規制枠組み条約」なるものに対して、いい子ぶっている? みなさんには、そのお
かしさが、理解できるだろうか?

 まず、Yahoo・ニュースの一部を読んでみてほしい。

いわく、「たばこによる健康被害の低減を目ざす、(たばこ規制枠組み条約)の第1回締約国会
議が17日まで、ジュネーブの世界保健機関(WHO)本部で開かれ、条約事務局をWHO本部
に設置することなどを決めて閉幕した。2006―07年の事務局予算は801万ドル(約9億50
00万円)で、日本が22%の約176万ドルを負担する最大の拠出国となった」と。

 こんな(条約)を結ぶくらいなら、まず日本国内で、(たばこ規制枠組み条例促進法)でも何で
もよいから、制定すればよい。それもしないでおいて、いきなり、(国際条約)とは? たしかに
この日本でも、喫煙は、規制されるようにはなってきている。しかしまだまだ甘い。それにきびし
くなったといっても、ここ数年の話。

 そんな日本が、日本の外では、大きな顔をしている? 気前よく、またまたお金をばらまいて
いる? 

 私は、もう15年前から、たばこの看板規制を、強く訴えている。私の教室の目の前のビルの
屋上には、縦横、5メートルほどの大看板が、立っている。夜には、その看板を、照明灯が、明
るく照らす。私には、それが気になってしかたない。

 そういうものを一方で放置しておきながら、何が、(たばこ規制)だ! たばこの健康被害が
問題になったころには、「吸いすぎには注意しましょう」などという看板が立てられていたことも
ある。

 吸いすぎを注意したかったら、そういう看板を、撤去することだ!

 ところで、あの低ニコチンタールのたばこなるものは、かえって危険であることがわかってき
た。その分だけ、味も、薄い? 「低ニコチン」ということに安心感を覚え、喫煙者は、かえって
喫煙量をふやしてしまうという。ニコチンの量がいくら半分でも、倍の数のたばこを吸ったので
は、意味はない。

 それにこの日本では、男性の喫煙率はさがっているというが、反対に女性のそれはあがって
いるという。もし外国でお金をばらまく余裕があるなら、まず国内での、たばこ規制のために、
そのお金を使うべきではないのか。

 それにしても、こうした多額のお金が、外務省の官僚たちの裁量だけで、自由に使われてい
るというのは、恐ろしいことでもある。しかしなぜ、日本は、こうまで気前がよいのか? それに
は理由がある。

実は、みなさんはご存知ないかもしれないが、こうしたWHOなどの国際機関ですら、日本の官
僚の天下り先になっているのである。そのためにお金をばらまいている(?)。

 たとえば現在、国連事務局には、111人(女性66人)の日本人が働いている。しかしそのほ
とんどは、日本の外務省から、身分を変えて、派遣されている職員たちである。(アメリカ人、3
12人、ドイツ人、143人、フランス人、116人。外務省国際社会協力部、05年調査)

 日本の官僚たちは、ここまでやるぞ! やっているぞ! そのうち、どこかで問題になるのだ
ろうが……。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(125)

●親のシャドウ

++++++++++++++++++++

親が感じている不安を、子どもは、敏感に
察知する。そして先手を取る形で、子どもは
親の不安を、そのまま具現化する。

不登校が、そのよい例である。

++++++++++++++++++++

 もう20年になるだろうか。こんなことを相談してきた、母親がいた。何でも6歳になる娘が、そ
の母親が心の奥底で思っていることを、そのまま口にしてしまい、こわいというのだ。

 たとえばその母親が、内心で、「親(義母)のことを、汚い」と思っていると、娘のほうが、先
に、「おばあちゃん、汚いから、あっちへ行っていて!」と言う。あるいは、予定していなときに客
が来たとする。そのときその母親が、同じく内心で、「こんな時間に来て!」と不愉快に思ってい
ると、娘のほうが先に、「こんな時間に、来ないで」と言ってしまう、など。

 その母親は、それを「こわい」と言う。

 こうした例は少なくない。子どもは、親がつくるシャドウ(陰の隠された心)を、敏感に読み取っ
てしまう。そしてそれを口にする。

 最近でも、こんな例があった。

 ある母親の子どもが、神経症による症状をいくつか示していた。最初は、その神経症につい
て、どうしたらよいかという相談だった。しかしその娘(6歳)は、このところ、朝になるとぐずり、
幼稚園へ行くのをいやがるようになったという。

 そこでその母親は、「不登校児になったら、どうしましょう……」と。

 (Nさんへ、あなたのことを書いて、ごめんなさい。決して、あなたを責めているのではありま
せん。一般論として、どうか、お読みください。)

 こういうケースのばあい、娘のほうが親の心を敏感に読み取り、それを先取りする形で、不登
校児になる可能性は、たいへん高い。つまり子どもの不登校児になる状態を、親自身が先に
作っているということになる。わかりやすく言うと、こうなる。

(親が、うちの子は不登校児になるのではないかと心配する)→(それが親の隠された心となっ
て、シャドウをつくる)→(子どもがそのシャドウを読み取る)→(子どもが先に、そのシャドウを
先取りして、具現化する)→(子どもが不登校児になる)。

 またその途中の過程においても、子どもが何か、不登校につながるような兆候を見せたりす
ると、このタイプの母親は、それに対して、過剰反応をしやすくなる。その過剰反応が、子ども
の心理状態を不安定にする。そしてそれが悪循環となって、子どもの不登校へとつながってい
く。

 たとえばある朝、あなたの子どもが、突然、「今日は、学校へ行きたくない」と言ったとする。

 そのとき、「うちの子は、不登校児になるはずはない」と信じている母親、あるいは不登校な
ど考えたこともない母親は、「あら、そう。どこか体のぐあいでも悪いの」と笑ってそれをすます。

 しかし心の奥底で、「うちの子は、不登校児になるかもしれない」と、日ごろから不安に思って
いる母親は、そのとたん、パニック状態になる。「そら、不登校だ!」と。

 そのパニック状態が、子どもの心理状態を、一気に悪化させる。そして本当に、その子どもを
して、不登校児にしてしまう。

 そこで「不登校児になったらどうしましょう……」と相談してきた母親に、私は、こう言った。

 「そんなことは、考えないことです。お子さんを信じて、つまり疑わないで、今は、今で、子ども
の神経症だけを考えていきましょう」と。

 その神経症にしても、「なおそう」と考えないこと。今の状態を、これ以上悪くしないことだけを
考えながら、数か月単位で様子をみる。なおそうと考えて、子どもの心をいじると、症状はさら
に悪化して、二番底、三番底へと落ちていく。

 さて、あなたは今、どんなシャドウをもっているだろうか。そしてそのシャドウは、子どもに、ど
んな影響を与えているだろうか。それをほんの少しだけ、ここで考えてみるとよい。

 ついでながら、4年前に書いた、「不登校児についての相談」についての原稿を、ここに添付
する。

++++++++++++++++++++++++

●岩手県Eさん(父親)からの相談

****************************

小学2年の秋から、断続的に不登校。病院で診断してもらうと
ケトン性低血糖ということ。それはなおりましたが、そのあと、
学校へ行くのは、いやだと言い出すようになり、また不登校。

3年になると、午前中だけ登校、昼に帰ってきて、午後だけ登校
とか、学校へ通うのが不規則になりました。

4年になると。しばらくは学校に通いましたが、10月になると、
また行けなくなり、「適応教室に行きたい」と言うようになり、
適応教室に通うようになりました。

そのあと、ムカムカする、つらいなど、いろいろな心身症による
症状を示すようになり、病院でも小児性心身症と診断されました。

病院の先生の話では、子どもらしさがない、ストレスが限界に
なった、病院を避難場所にしているのではとのこと。

が、そういう娘でも、それまでは、私たちと口をきいてくれました。
しかし6年になると、態度が変わりました。病院へ行っても、
「もう、ほうっておいてほしい」「来ないでほしい」と。

「もう学校へは、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と、
娘に言っていますが、私たちの気持ちも、通じなくなってきています。

つらい毎日です。病院への治療費も、月20万円を超えるように
なりました。私たち夫婦も、限界です。下の妹(5歳)への影響も
心配です。どうしたらいいでしょうか。(以上、要約)
(岩手県・E・父親)


【学校へのこだわり】

 Eさんからのメールは、この10倍以上もの長さがあった。そしてそれには、EさんとEさんの妻
が、娘さんを何とか学校へ行かせようと、あれこれ努力をしたというようなことが、詳しく書いて
あった。それは努力というより、悪戦苦闘に近いものだったらしい。

 その努力がまちがっていたとは言わない。しかし問題は、なぜ、Eさん夫婦が、そこまで学校
にこだわったか、である。

 こうしたケースで多いのは、(Eさん夫婦が、そうであったというのではない。誤解のないよう
に!)、初期の段階での、対処の失敗が、問題をこじらせてしまうということ。子どもが学校へ
行きたくないと言うと、ほとんどの親は、混乱状態から、狂乱状態になる。

 そして親自身が感ずる、不安や心配をそのまま子どもにぶつけてしまう。

 この段階で、「あら、そう?」「行きたくなければ、行かなくてもいいのよ」と親が言ったら、その
あと、深刻な不登校にならずにすんだはずというケースは、いくらでもある。が、実際には、そう
はいかない。親自身が、狂乱状態になってしまう。私は、そういう例を、何十例も経験してい
る。

 Eさん夫婦も、娘さんを、まさに(学校へ行けるだけ行かせよう)と努力した。たとえば、Eさん
からのメールには、「3年生になると、母親が送り迎えをして、午前中だけ学校→午前中学校、
帰って家で昼食→午後から登校という不規則ながら、なんとか学校にいっていましたが、10月
からまた体調不良を訴えいけなくなりました」(原文)とある。

 この時点で、午前中だけでも行ったら、「よく行ったわね」と、なぜ、ほめてあげなかったのだ
ろうか。あるいは午前中だけも行ったら、親のほうから、「午後はいいのよ。そんなに無理をし
なくてもいいのよ」と、なぜ言ってあげなかったのだろうか。

 率直に言えば、親の心配ばかりが先行していて、子どもの心が見えてこない。私は、Eさんの
相談を一読して、最初に、それを強く感じた。

 ……といっても、Eさんを責めているのではない。だれしも、そういう状況に置かれれば、そう
考える。Eさんだけが、特別というわけではない。Eさんだけが、(こういう言葉は使いたくない
が)、失敗したというわけではない。

 が、親は、えてして、学校へのこだわりから、子どもの心を見失う。学校神話、学歴信仰、学
校絶対主義などが、その背景にある。明治以来、国策として、延々として作られてきた意識で
ある。そうは、簡単には変えられない。まず、それに気づくだけでも、たいへん!

 ものごとをすべて、「学校とは行かねばならないところ」という大前提で、考えてしまう。つまり
この無理が、子どもの心を、ゆがめる。

 ただこの時点で、一つ注意しなければならないことは、学歴信仰は、何も、親だけのものでは
ないということ。子どもも、いつしか親の学歴信仰を、そっくりそのまま受け継いでしまう。

 その親だって、そのまた親から、受け継いでいるだけということにもなる。同じように、子ども
が、それを受け継いでしまう。

 だから行き着くところまで行って、そのときはじめて親のほうが、それに気づき、「学校なん
か、行きたくなければ行かなくてもいいのよ」と言っても、意味はない。こういうケースで、子ども
にそう言えば、かえって子どもを追いつめてしまうことになる。

 「私は学校へ行かねばならない」「学校へ行きたくても、行けない」「どうすればいいの!」と。

【心の緊張状態】

 「情緒不安」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、いいかげんで、誤解を招きやすい言葉
もない。

 情緒不安というのは、あくまでも結果でしかない。なぜ、子どもが(おとなも)、情緒が不安定
になるかといえば、その前に、心が緊張状態にあるからと考える。

 心が開放されない。何かの心配ごとが、ペタリと張りついて、取れない。

 そういう緊張状態にあるとき、何かの心配ごとが入ってくると、心はその心配ごとを解消しよう
と、一挙に不安定な状態になる。その状態を「情緒不安」という。つまり、情緒が不安定になる
のは、あくまでも結果でしかない。

 子どものばあい、何かのキーワードがあって、そのキーワードに触れると、一挙に不安定に
なることが多い。

 ある女の子(年長児)は、母が、「ピアノのレッスンをしましょうね」と言っただけで、ときにギャ
ーと泣き叫んで、手がつけられなくなってしまった。包丁を投げつけたこともあるという。その女
の子のケースでは、「ピアノのレッスン」が、一つのキーワードになっていた。

 そこで考えなければならないのは、なぜ、情緒が不安定であるかではなく、なぜ、心の緊張感
がとれないか、である。

 原因はいろいろ考えられるが、その多くは、対人関係をうまく処理できないためとみてよい。
他人と、良好な人間関係が結べない。もっと言えば、自分の心を開放したまま、交際できない。
それが心の緊張状態をつくりだす。

 だからこのタイプの子どもは、おおまかにわけて、つぎの6つのタイプのどれかを選択する。

(1)攻撃型(他人に乱暴になる)
(2)自虐型(自虐的な運動や、勉強をする)
(3)同情型(相手に同情を求めるため、弱々しい自分を演ずる)
(4)依存型(だれかにベタベタと甘える)
(5)服従型(集団に属し、長に、徹底的に服従する)
(6)逃避型(引きこもったり、人間関係を遮断する)
(7)怠惰型(生活全般が、退行的になる。だらしなくなる)

 最初にわかってあげなければならないのは、このタイプの子ども(おとなも)、人との交際が、
それ自体、苦痛であるということ。相手に対して、気をつかう。神経をつかう。集団の中で、仮
面をかぶる、いい子ぶる、自分を飾ったり、ごまかしたりする。

 だから集団の中に入れると、すぐ精神疲労や神経疲労を起こす。親は、「うちの子は、集団
になれていないだけ」「集団の中で訓練すれば、やがてなれるはず」と考える。たしかにそういう
ケースもないわけではないが、そうは、簡単ではない。

 無理をすることで、かえって、症状をこじらせてしまうケースのほうが、多い。強圧的な指導に
などによって、回避性障害や摂食障害、行為障害などへと発展していくケースも、少なくない。
幼児のばあいは、かん黙したり、自閉傾向を示したりすることもある。(自閉症と自閉傾向を混
同しないように……。)

 では、なぜ緊張状態がとれないのかということになる。このタイプの子どもは、集団の中で
は、(いい子)ぶることが多い。ものわかりがよく、先生の言うことを、すなおに聞いたりする。ま
たいい子を演ずることで、自分の立場をつくろうとする。

 たとえばブランコを横取りされても、柔和な表情のまま、それを明け渡してしまうなど。その時
点で、「どうして横取りするのだ!」と、相手に抗議することができない。

 が、教える側から見ると、どこか何を考えているかわからない子どもという感じになる。心が
つかみにくい。心の状態と、顔の表情が、不一致を起こすことも多い。いやがっているはずな
のに、ニヤニヤ笑うなど。

 原因は、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全にあるとみる。

【母子関係の不全】

 絶対的なさらけだしと、絶対的な受け入れ。この二つの基盤の上に、母子の信頼関係が、築
かれる。

 「絶対的」というのは、「疑いすら、もたない」ということ。「私はどんなことをしても、許される」と
いう安心感。その安心感が、相互の信頼関係の基盤となる。

 が、何かの理由で、たがいに、このさらけ出しができなくなるときがある。親側の拒否的な育
児姿勢、冷淡、無視など。親自身が何らかの心のキズをもっていて、子どもに対してさらけ出し
ができないときもある。

 たとえば親自身が、不幸にして不幸な家庭で、生まれ育った、など。こういうケースのばあ
い、「いい親でいよう」「いい家庭を築こう」という、気負いばかりが先行し、結果的に子育てで、
失敗しやすくなる。

 あるがままの自分を、ごく自然にさらけ出すというのは、それができる人には簡単なことだ
が、それができない人には、たいへんむずかしい。自分がそうであるということにすら、気がつ
かない人も多い。

 中には、親や兄弟のみならず、自分の夫や、そして自分の子どもにすら、自分をさらけ出せ
ない人もいる。「あるがままの自分をさらけ出したら、嫌われるのではないか」「みなから、へん
に思われるのではないか」と。

 言うまでもなく、その原因は、ここでいう母子関係の不全である。つまり子どもは、母親との関
係において、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。その信頼関係が、そののち、その人の人間
関係の基本になるため、これを「基本的信頼関係」という。

 子どもは、母子の間でできた信頼関係を基本に、そのワクを広げる形で、友人や、先生、さ
らには結婚してからは配偶者や子どもとの信頼関係を結ぶことができるようになる。

【対人障害】

 怠学、学校恐怖症については、すでにたびたび書いてきたので、ここでは省略する。で、子ど
ものばあい、こうした対人障害が、そのまま不登校となって現れることが多い。

 で、その恐怖症だが、そのつらさは、それになったものでないとわからないだろうということ。
私など、まさに恐怖症のかたまり。

 子どものときから、閉所恐怖症、高所恐怖症などがあった。しかし本当にそれがひどくなった
のは、飛行機事故を経験してから。30歳になる、少し前のことだった。飛行機に乗れなくなっ
てしまったことはしかたないとしても、ことあるごとに、スピード恐怖症になる。

 数年前も、あやうく、交通事故にあいそうになった。九死に一生とまではいかないにしても、あ
やうく、だ。

 そのため、私は道路を自転車で走っていても、すべての自動車が、自分に向って走ってくる
ように感じた。あとでみたら、手のひらが、ぐっしょりと汗をかいていた。

 人間の思考パターンというのは、そういうものだが、自分でも、「気のせいだ」とわかっていて
も、コントロールできない。それがつらい。

 だから、子どもの恐怖症にしても、決して安易に考えてはいけない。あくまでも子どもの目線
で、子どもの立場で考えること。無理をすれば、症状をこじらせるだけ。

 で、その対人障害だが、よく知られたものに、回避性障害がある。他人との良好な人間関係
が結べなくなる。一度、その回避性障害になると、人との接触が、異常にわずらわしくなる。人
の気配を感じただけで、神経が張りつめる。気が重くなる。

 それだけならまだしも、一度、そういう状態になると、ふつう以上に神経をすりへらす。そのた
め、精神疲労を起こしやすい。体がだるくなる。思考が進まなくなる、など。頭痛や肩こり、不
眠、早朝覚醒を訴える子どももいる。

 心身症から神経症へと発展することもある。ただし、症状は、千差万別。定型がない。ふつう
は、身体的症状(腹痛、下痢など)、精神的症状(抑うつ感、不安症など)、行動的症状(髪いじ
り、ものかじりなど)に分けて考える。「おかしなことをするな?」と感じたら、この心身症を疑っ
てみるとよい。

 で、そういう状態が、前兆症状としてしばらくつづいたあと、より明確な形で、たとえばここでい
うような学校恐怖症などとなって現れる。

 これについても、すでにたびたび書いてきたので、私のHPに書いた記事を参考にしてほし
い。

【学歴信仰】

 「学校は、絶対」「学校とは、行かねばならないところ」と。そういう意識をもっている人は、多
い。

 しかしその意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。意識というのは、そ
の時代時代において、変化しうるものである。だから大切なことは、今、私やあなたがもってい
る意識が、絶対的なものであると、思ってはいけないということ。学校神話も、その一つ。

 私たち日本人は、「学校は絶対である」という意識をもっている。ずいぶんと前のことだが、戦
時下のサラエボで、逃げまどう子どもをつかまえて、「学校へは行っているの?」と問いかけて
いたあるテレビ局のレポーターがいた。

 子どもを見れば、すぐ学校という発想。それも学校神話の一つと考えてよい。そういう意識
は、明治以来、国策の一つとして、日本人の中に作られてきた。戦争で、学校どころではない
はず。ふつうの常識のある人なら、そう考える。

 世界は、もう少し、おおらかである。学校の設立そのものも、自由。アメリカなどでは、カリキ
ュラムの内容ですら、学校ごとに独自に決められる。もちろん日本でいう「教科書」などない。

 学校にしても、内容と種類は、さまざま。学校へ行かないで、家庭で学習する、ホームスクー
ラーも、200万人もいる。

 一方、この日本では、子どもに何か、問題が起きると、すぐ、「学校で!」と考えやすい。今で
は、家庭教育まで、学校に押しつける親さえいる。

 しかしものごとは、常識で考えてみたらよい。たった一人の子どもでさえもてあますことが多い
のに、そういう子ども、30〜40人も一人の先生に押しつけて、「しっかりめんどうをみろ」はな
い。

 話はそれたが、不登校の子どもをもつ親と話していると、この学校神話をよく感ずる。私が、
「いいじゃないですか、学校なんか。子どもが行きたくないと言ったら、行かなくても……」などと
私が言おうものなら、たいていの親は、目を白黒させて、驚く。

 私は、よく、自分の息子たちを幼稚園や学校を休ませて、家族旅行に出かけた。平日に旅行
すると、どこも、ガラガラ。言いようのない解放感を味わった。が、そういうときたいてい、幼稚
園や学校から電話がかかってきて、(とくに幼稚園の先生からが多かったが)、「そういうことを
すると、遅れます」「困ります」と。

 しかし子どもが、何から、どう遅れるというのか? だいたいにおいて、「遅れる」というのは、
どういうことなのか。あるいは、コースからはずれることを、「遅れる」というのか。だったら、そ
の「コース」とは、何か?

 つまり、「どうしても学校」という意識は、そういうところから生まれる。そして自分の子どもが
不登校を起こしたりすると、「さあ、たいへん!」と、たいていの親は、パニック状態になる。そし
てそういう意識が、必要以上に、子どもを追いつめる。

【あくまでも子どもの目線で】

 決して、Eさんが、そうであったというのではない。またそうであったからといって、Eさんを責
めているのでもない。

 ただこういうケースでは、親は、多くのばあい、子どもの目線で、ものを考えることができな
い。

 数か月前も、こんな相談があった。ある母親からのものだった。いわく、「やっとのことで、学
校へ行くようになりました。しかし午前中だけ。給食の時間になると、家に帰りたいと言います。
何とか、給食だけでもと思うのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 それに答えて、私は、こう返事を書いた。

 「午前中だけにして、『よくがんばったわね』とほめてあげてください」と。

 こういうケースで、その子どもが、給食を食べるようになると、今度は、親は、「せめて午後ま
で……」「終わりの会まで……」と言い出すにちがいない。子どもも、それをよく知っている。つ
まり親の希望や欲望には、際限がない!

 つい先日も、やっとのことで不登校のなおった子どもに対して、「今までの遅れを取りもどすた
め」ということで、進学塾へ入れた親がいた。が、とたん、その子どもは、また不登校! 『元の
木阿弥(もくあみ)』という言葉があるが、そういう状態になってしまった。

 こういうケースは、多い。本当に多い。そうして失敗を重ねながら、子どもは、二番底、三番底
へと落ちていく。

 そこで大切なことは、今の状態を最悪と思っては、いけないということ。不登校にかぎらず、
子どもの心の問題では、「今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考えて、半年、あるいは
一年単位で、様子をみる」である。

【許して忘れる】

 子どもに何か、問題が起きたら、ただひたすら『許して、忘れる』。とくに子どもの心の問題で
は、そうで、その度量の深さによって、親としての愛情の深さも決まる。

 ただ誤解してはいけないのは、『許して、忘れる』といっても、子どもに好き勝手なことをさせ
るということではないということ。許して忘れるというのは、子どもに何か問題が起きたら、それ
を自分のこととして、受け入れることをいう。

 たとえば不登校児にしても、それを一番苦しんでいるのは、子ども自身だということ。一見、
楽しそうに振る舞っているように見えるかもしれないが、子ども自身、その緊張感から解放され
ることはない。年齢が大きくなると、それに、将来への不安が加わる。

 そういう状態のとき、見るに見かねて、多くの親は、「学校へは行かなくてもいい」などと言う。
しかしその言葉自体が、子どもにとっては、苦痛なのだ。

 それはたとえて言うなら、二階の屋根にのぼったあと、ハジゴをはずされるようなもの。子ど
もの立場にするなら、「じゃあ、どうしたらいいの!」となる。

 もしこういう状態で、子どもにかける言葉があるとするなら、「お前は、つらかったんだね」「お
前は、よくがんばったよ」「人生は、長い。気楽に行こうよ」という言葉である。できれば、「お父
さんが悪かった。お前の苦しみを理解できなかった」と、あやまることである。

 こういうケースでは、親意識など、あれば捨てること。「親である」という気負い、「親だから何
とかしなければ」という責任感。それも捨てる。子どもにしてみれば、自分のために犠牲になっ
ている親を見ることぐらい、つらいことはない。

 ある女性は、こう言った。その女性が高校生だったときのこと。高校に入学はしたものの、ほ
とんど、学校には行っていなかった。おまけに摂食障害。

 「何がつらかったかといって、母に、『私はつらい』と言われることぐらい、つらいことはなかっ
た」と。

 その女性は、高校を中退したあと、数年、アパートを借りてひきこもった。が、そのあと、少し
ずつたちなおって、カナダへ語学留学。つづいて、オーストラリアへ。今は、看護ヘルパーの資
格をとるため、専門学校へ通っている。

 だから親は親で、前向きに生きる。「ようし、十字架の一つや二つ、ぼくがかわりに背負って
やる」「お前はお前でがんばれ。ぼくはぼくでがんばるから」と宣言する。そしてそういう前向き
な姿を、子どもに見せていく。

 そういう姿ほど、子どもに安堵感を与えるものはない。そしてそれが子どもの心の問題にも、
よい方向に作用する。

【Eさんへ……】

 書かなくてもよいようなことまで書いて、何かと不快に思われたかもしれません。しかし子の
問題は、根が深いということをわかってもらいたくて、あれこれ書きました。あくまでもここに書
いたことを参考に、一度、あなた自身の心の中をのぞいてみてください。

 あなたの子どもは、あなたを苦しめるために、そこにいるのではありません。あなたに何かを
教えるために、そこにいるのです。何か、大切なものを、です。

 あなたがすべきことは、そういう子どもの声というか、子どもという存在を超えた、その向こう
にある声というか、そういうものに、静かに耳を傾けることです。

 今は、あまりにも一対一の関係になりすぎている。私には、そんな感じがします。一つには、
あなた自身が、若いということもあります。しかし相手は、しょせん、子どもです。本気で愛しな
がらも、決して、本気で相手にしてはいけません。

 「会いたくない」と言ったら、こう言いなさい。「ははは。そうは言っても、私は、お前からは離
れないからな」「どんなことがあっても、お前を守るからな」と。もしそれでもあなたの子どもの心
をつかめなかったら、子どもの心の中に、自分を置いてみます。

 すると、どうしてそういうことを言うのか、それがわかりますよ。なぜ、あなたが避けられている
かもわかりますよ。

 親というのは、そういう意味では、さみしい存在。どんなに嫌われても、こちらからは嫌っては
いけないということ。嫌われても、嫌われても、そんなことは気にせず、前に進むしか、ありませ
ん。いちいち子どもの機嫌など考えないことです。100に1つ、1000に1つ、子どもの中に(や
さしさ)を感じたら、もうけものと思うことです。それとも、Eさんは、子どもに何を求めています
か。

 子どもというのは、(求める対象)ではないのです。わかりますか? いい子にしようとか、い
い親子関係にしようとか、そういうふうに考えてはいけません。とくに今のEさんと、子どもの関
係においてはそうです。

 あえて言えば、あきらめて、それを受けいれる、です。もっと言えば、『負けるが、勝ち』です。

 が、心配は、無用。

 子どもというのは、そういう親の姿勢の中から、何かを学んでいくものなのですね。何を学ぶ
かはわかりませんが、必ず学んでいくものなのですね。だから、ここはあせらず、「ようし、お前
はお前で生きろ。私は私で生きるから」と。そう宣言してみてください。

 あなたの子どもは、すでに年齢的には、じゅうぶん親離れしています。あなたが考えているよ
り、はるかにおとな的な考え方をしています。(あるいは、あなたとほとんど、同じ程度には考え
ているかもしれませんよ。あなたから見れば、いつまでも、子どもに見えるかもしれませんが…
…。)

 そういう子どもを、もっと、信じてみてはどうでしょうか。静かに、「お前は、ぼくに何をしてほし
いか」と聞いてみる。そしてあなたの子どもが、何かを言ったら、そのとおりにすればよいので
す。

 「会いたくない」と子どもが言ったら、「いつなら、会いに来ていいか」と聞けばよいのです。

 大切なことは、暖かい無視と、ほどよい親子関係です。「ほどよい」というのは、「求めてきた
ときが、与えどき」と心得るとよいでしょう。

 最後に「毎月の入院費で、20万円」という話を聞いて、胸がふさぎました。あなたの家庭で、
心のケアをつづけるというわけには、いかないのでしょうか。今の状況から察すると、長期の引
きこもり、もしくは家庭内暴力も考えられますが、それでも、家につれてくるということはできま
せんか。

 家庭内暴力の可能性があるなら、また別に考えなくてはいけませんが、引きこもりという雰囲
気であれば、子どもにとっては、家のほうが、よいかと思います。長い目で見ても、つまり、いつ
か子どもが立ちなおったあとでのことですが、そのほうが、良好な親子関係を築くことができま
す。

 引きこもりをするようなら、好きなだけ、引きこもりをさせればよいのです。そういう大らかさを
感じたとき、子どもも、また前向きに立ちなおり始めます。不思議ですが、これは本当です。

 また今の時期、そして今の状態では、あなたが、あれこれ干渉したり、過関心になったりしな
いことです。静かに、ただひたすら静かに、暖かく無視する。これにまさる対処方法は、ありま
せん。

 で、最後に一言、つけ加えるなら、この種の問題は、いつか必ず、笑い話になります。いつか
あなたは、自分の子どもに向かってこう言うのです。

 「あのころは、たいへんだったぞ。ははは」と。

 その日は、必ずきます。そのときのために、「今」をどうか、破壊しないように!

 また将来的なことになれば、いろいろと不安も大きいかと思いますが、あとは、あなたの子ど
も自身が、自分の道を見つけていきます。すでに、あなたに向って、「病院へ来てほしくない」と
言っているようなら、むしろそのたくましさのほうを、評価してあげてください。

 そう、今、形こそ、少しいびつですが、あなたの子どもは、巣立ちをしようと考えています。あ
るいは懸命に、その準備をしているのかもしれません。

 またあなたは下の妹さんのことを心配していますが、むしろ、上のその子どものほうが、ずっ
とさみしい思いをしていたのかもしれません。「お姉ちゃんだから……」という「ダカラ論」だけ
で、です。

 そんな気持ちにも、少し、配慮してあげてみてください。

 なお、いただきましたメールについて、「そのままの掲載は断る」ということでしたので、こちら
で勝手に要約、改変させていただきました。この原稿での、マガジン掲載など、許可をいただ
ければ、うれしいです。

 では、今日は、これで失礼します。

 なお、前に書いた原稿(中日新聞発表済み)を、ここに添付します。どうか、参考にしてくださ
い。
(はやし浩司 不登校 学校恐怖症 不登校児 シャドウ 学校へ行かない子供)

++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。人というのは、上を見れ
ば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないものだという意味だが、子
育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのではない。下から見る。「子ど
もが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。以前にも、どこかに書いたように、
フォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもか
ら愛を得るために忘れる」ということになる。

仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英語に訳したアメリカ人がい
た。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。この言葉は、どこか、「許し
て忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。

大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てとい
うのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越え
るごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。が、若い親にはそれがわからない。ささ
いなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談をしてきた母親がいた。

東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授業についていけない。
この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受けるたびに、私は頭を
かかえてしまう。


●家族の真の喜び
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが
大きくなり、そして互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったま
ま、口をつぐんでしまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。しかしそれでも
巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしかない。

親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつもドア
をあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう
書いている。「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれ
ない。が、それでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市A幼稚園元園長)
(はやし浩司 不登校 不登校児 許して忘れる)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(126)

【近ごろ・あれこれ】

●不良書きこみ&不良トラックバック

++++++++++++++++++++++

掲示板や、トラックバックコーナーに、
「童貞買います」だの、「人妻紹介」だの、はたまた、
「一晩つきあってくれたら、10万円払います」だの、
この種の、不良書きこみが、あとを断たない。

最近では、トラックバックの中に、堂々と書きこんで
くるのがいる。

しつこい! 本当にしつこい! もう、うんざり!

もうやめてくれ!

++++++++++++++++++++++

 R天の日記の、コメントコーナーを閉鎖して、しばらくになる。心ない人たちからの、不良書き
こみが、あとを断たないからである。

 が、今度は、トラックバックのほうに、書きこみがつづくようになった。しかしこれがまた、しつ
こい。削除しても、削除しても、つづく。多いときは、同じ文面で、1日に、10回ほど、書きこみ
がある。

 「童貞のあなたを買います」とか、「人妻を紹介します」とか、など。

 ところが、である。コメントの書きこみなら止めることができるが、トラックバックについては、
それができない。R天のBLOGサービスの案内コーナーをあちこちさがしてみたが、それを止
める方法は、今のところ、見つかっていない。

 (書きこみをやめさせる方法があれば、どなたか、どうか教えてください!)

 こうした書きこみで、よく目につく言葉が、「無料」「完全無料」とかいうのである。しかしそんな
ことはありえない。ありえないことは、常識で考えればわかるはず。もともと、こういう書きこみ
が平気でできる人間というのは、ワル(悪)である。

 そんなワルに、誠意など、期待するほうがおかしい。「無料」と思って申しこんだら、つぎつぎと
あれこれ請求される。そうに決まっている。今、そういう事件が、これまたあとを断たない。もと
もと、法に触れるようなスケベ事犯だから、被害者は、表に出すこともできない。泣き寝入りす
るしかない。そのスキを彼らは、また、ついてくる。

 要するに、削除、削除、また削除! 今のところ、対処法は、それしかない。それにしても、し
つこい!

 文明の利器も、こういうワルにかかると、本当に憂うつ。R天のみなさん、BLOGもよいが、何
とかしてくれ!


●憂鬱(ゆううつ)

++++++++++++++++++++

今、子どもたちに、作文指導をしている。
その子どもたちが筆写する文章の中に、
「憂鬱」という漢字が出てきた。

+++++++++++++++++++++

 子どもたちに、今、毎回、レッスンの前に、過去の名作と言われる文学の一節を、筆写させて
いる。作文指導の一環である。

 で、1人の子どもの書いている文章の中に、「憂鬱(ゆううつ)」という文字が出てきた。送り仮
名はついている。それを読みながら、A君(小3)が、こう言った。

A「先生、こんな漢字、書けない!」
私「いや、書ける。書いてごらん」と。

 するとA君は、「鬱」という漢字を書き始めた。「木が2つ。缶という漢字に……」と。そしてそれ
が終わると、しばらく何やら数えていて、「ゲーッ、28画もあるウ!」と。

私「そうだよ、28画だよ。しかしね、その漢字が、日本で一番、むずかしい漢字ということにな
っているよ。つまりね、その漢字が書ければ、あとは、どんな漢字でも書けるということさ」
A「そうなんだ。これが書ければ、どんな漢字でも書けるということなんだね」
私「そうだよ」と。

 A君は、うれしそうに笑った。笑いながら、「こんな漢字を書いていると、本当に、ユーウツにな
るね」と。それを聞いて、みなが笑い、「ぼくも書いてみる」「私も書いてみる」と言い出した。

 しかしこんな漢字、だれが使うのだろう。一字書くのに、速い人でも、5〜10秒は、かかる。こ
うしてワープロで打てば、瞬時に書けるが、手書きでは、そうはいかない。

 本当に、憂鬱な漢字だ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●権威主義

+++++++++++++++++

あなたは、あなたより若い上司に
頭をさげることができるだろうか。

若いといっても、20歳とか30歳。
それくらい、あなたより若い……。

+++++++++++++++++

 もし、あなたより10〜20歳も若い上司がそこにいて、あなたにあれこれ命令したとしたら、あ
なたは、それに耐えることができるだろうか。

 あなたはあなたで、自分のキャリアには自信がある。それなりの苦労もしてきた。経験もあ
る。知識もある。しかし、相手は、あなたの上司だ。そういうとき、あなたは、自分というより、そ
ういう自分の職場を、どう思うだろうか。

 今度のライブD社の、Fテレビ局買収劇を見ていたとき、私は、ふと、こんなことを考えた。「こ
れは、ものごとを合理的に考える新世代と、伝統的な権威主義にしがみつく、旧世代との戦い
である」と。

 というのも、こうした買収劇を通して、年配の男たちが経営を牛耳るFテレビ局側にしてみれ
ば、30代そこそこの若者たちがいきなり自分たちと同等、もしくは、それ以上の立場になるの
は、許しがたいことではなかったのか。具体的に、頭の中で、シミュレーションしてみれば、そ
れがわかる。

 あなたは今、60歳だ。大会社の経営者である。社員は、1000人近くいる。そのほとんどが
年功序列式の会社組織の中で仕事をしている。もちろんその中には、30代、40代の人もい
る。あなたはそういう若い社員たちを、あごで使っている。

 が、ある日突然、そこへ新しい経営者が入ってきた。聞くと、その経営者は、33歳だという。
しかも態度が大きい。しかし経営上の立場は、あなたと同等か、それより上。そういうとき、あ
なたは、その若い経営者にどのような態度を取るだろうか。

 ほんの少しだけ、それを頭の中で想像してみてほしい。

 あなたは、同等の人間として、その若い経営者に、頭をさげ、その命令に従うことができるだ
ろうか。それとも、心理学でいうところの「役割混乱」を起こして、自己否定にまで突っ走ってし
まうだろうか。

 もちろん時間がたてば、慣れるということもあるだろう。しかしそれまで権威主義にこりかたま
ってきた人にとっては、そうではない。若い経営者に、あごで使われるようになったとき、あなた
は耐えがたいほどの屈辱感を覚えるかもしれない。あなたの経営方針が否定されたり、批判さ
れたりすれば、なおさらだ。

若い経営者「君、何だね、この数字は! 40年近くもマスコミの世界にいて、こんなこともわか
らないのかね」
年配の経営者「はっ、申しわけありません。ただちに、やりなおします。どうか、2日間だけ、時
間的な猶予を私にください」
若い経営者「2日間だけだぞ」と。

 残念ながら、この日本には、こうした権威主義が、社会のすみずみにまで、根をおろしてい
る。「私は、権威主義者ではない」と言う人だって、例外ではない。例外でないことは、ここに書
いたような立場を、ほんの少しだけ、頭の中で、シミュレーションしてみれば、わかるはず。

 人間に上下はない。あるはずもないし、またあってはならない。しかしこの日本には、ある。
男が上、女が下。夫が上、妻が下。そして親が上、子が下、と。年齢による上下意識も、残って
いる。こうした上下意識が、いかにバカげたものであるかは、外国へ行ってみればわかる。

 韓国のような、儒教意識が強い国は例外としても、そうした上下意識の残っている国は、そう
はない。言うまでもなく、権威主義は、その上下意識で成り立っている。

 仕事は仕事。職場は職場。しかし仕事や職場を離れてまで、そこに上下関係があるほうが、
おかしい。少し前の話だが、H市内の都市銀行の家族寮では、夫の地位に応じて、妻たちの地
位も決まっていたという。妻たちが集まる集会でも、一番地位の高い夫をもつ妻が、中央にデ
ンとすわる習わしになっていた。廊下ですれちがうときでも、地位の低い夫をもつ妻は、地位の
高い夫をもつ妻に、道を譲らねばならなかった。

 相手が自分より、若くても、だ。

 こうしたバカげた上下意識は、今でも、残っている。どこにでも、残っている。今度のライブD
社の、Fテレビ局買収劇を見ていたとき、私が、「これは、ものごとを合理的に考える新世代と、
伝統的な権威主義にしがみつく、旧世代との戦いである」と思った理由は、そこにある。言いか
えると、今回の買収劇の背景にあったものは、上下意識をもたない非権威主義と、上下意識
をもつ権威主義との戦いであったと言ってもよい。

 その後のライブD社のH元社長には、少なからず幻滅したが、しかしだからといって、非権威
主義がまちがっていたということではない。若者たちは、H元社長の失敗にこりず、これからも
前に進んでほしい。日本の社会を亡霊のようになって包んでいる、この権威主義を、こなごな
に破壊してほしい。ひるまないで、負けないで……。

 その人の価値を決めるのは、地位でも肩書きでもない。実力だ。そういうあたりまえのこと
が、あたりまえに通ずるような社会になるよう、この日本をつくりかえてほしい。日本人の意識
をつくりかえてほしい。

 ……と力んだところで、この話は、おしまい。


はやし浩司++++++++++++Feb.06+++++++++++Hiroshi Hayashi

●子どもの心理

++++++++++++++++

男の子と母親の関係は、
ほかの親子関係にはない
特殊性がある。

++++++++++++++++

 「君のお母さん、すてきな人だね」と子どもに言うと、たいていの男の子は、不機嫌な顔をす
る。中には、「お前なア、おいらのママに手を出すと、おいらのパパに、殺されるぞ」と言う子ど
もさえいる。実際に、そう言われたことがある。小学3年生の男の子であった。

 しかし、「君のお父さん、かっこいいね」と言うと、不機嫌な顔をする子どもは、いない。たいて
い、「そうだよ」とか、「そうさ」とか、言う。

 で、女の子はどうかというと、「君のお母さん、すてきな人だね」と言っても、「君のお父さん、
かっこいいね」と言っても、ほとんど何も、反応を示さない。たいてい、「フ〜ン」程度で終わって
しまう。

 こうした心理は、どう説明したらよいのか。男の子が、自分の母親を独占したいという気持
は、よく理解できる。また自分の母親を、マドンナ化する傾向があるということも、よく知られて
いる。母親と息子の関係は、ほかの親子関係とは、少しちがった見方をしなければならない。
特殊といえば、特殊。男の子は、あるときから、母親を、異性として意識するようになる。そして
それが発展して、異性への興味とつながっていく。

 一方、女の子で多いのが、「将来は、パパと結婚する」と言う子ども。「だって、君のパパに
は、ママがいるよ」と話してやると、「それでもいい」と。このばあいも、女の子は、父親を異性と
して意識していることがわかる。

 考えてみれば、男の子にとって、最初の異性は母親であり、女の子にとって、最初の異性
は、父親ということになる。その異性意識が、「嫉妬(しっと)」という形で、外に現れても、何も不
思議はない。私のようなものが、「君のお母さん、すてきな人だね」と言えば、男の子は、そこに
不純なものを感ずるのかもしれない。それで、「パパに殺されるぞ」となる。

 ナルホド!

 自分では殺せないから、「パパが……」となる。つまり「おいらのママは、おいらだけのもの」と
いうわけである。

 子どもの心理の、また別の一面を発見した。
(はやし浩司 子供の心理 嫉妬 母親と息子 最初の異性意識)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(127)

●過去と未来

++++++++++++++++

青春時代の私が、
自分の子ども?

……ふと、今、
そんなことを
考えた。

++++++++++++++++

 先日、大学の同窓会があった。そこで1人の男性に出会った。静かな男性だった。学生時代
も、ほとんど、言葉を交わしたことがない。大学を卒業したあとも、そのまま。会ったこともな
い。が、記憶にないわけではない。その男性は、学生時代も、静かな男性だった。

 名前を、NU君としておく。学生時代から、近寄りがたいような気品をただよわせていた。36
年後の今、さらにそれにみがきがかかって、紳士以上の紳士になっていた。そのNU君を、
今、頭の中で思い浮かべてみると、不思議な錯覚にとらわれる。つまり記憶というのは、ずい
ぶんといいかげんなものだ。

 現在のNU君を、「父親」とするなら、学生時代のNU君は、その「息子」といった感じがする。

 ただ現在のNU君は、髪の毛もかなり薄くなり、がっしりと太っている。肌の色も、日焼けして
黒くなっている。もし別の場所で出会ったら、私は、その男性が、大学の同窓生とはわからない
ないだろう。よく見れば……つまりあのNU君だと思ってよく見れば、NU君だとわかる。目の周
辺だけは、だれでもそうかもしれないが、昔のままのNU君である。

 その2人のNU君が、頭の中で、今、混在している。36年前のNU君と、数か月前のNU君
が、である。で、そういう2人のNU君を思い浮かべながら、改めて、親子とは何か、時の流れと
は何かと、考える。

 繰りかえすが、現在のNU君を、「父親」とするなら、学生時代のNU君は、その「息子」といっ
た感じがする。2人のNU君がいて、1人は父親であり、もう1人は、その息子ということになる。

 しかしこの感覚は錯覚というだけでは、片づけられないのではないか。つまり人は、ある年月
の幅を越えると、自分自身が、自分の青春時代の父親になるということ。その年月というの
は、昔から言われているように、30年ということになる。もともと「世」という漢字は、「十」が三
つ集まってできた漢字と言われている。「十十十」で、「世」というわけである。

 「世代」という言葉も、そこから生まれた。人は、30年で、ちょうど1世代、世代が代わる。子
どもは親になり、その親は、ちょうどその子どもと同じ年齢の子どもをもつ。

 で、そのNU君のことを思い浮かべながら、「では、私はどうか?」と考える。今の「私」を「父
親」とするなら、学生時代の「私」は、今の「私」の息子ということになるのか、と。

 ただ私自身のこととなると、そこには連続性がある。だから、どこからどこまでが、父親で、ど
こからどこまでが息子かということは、よくわからない。しかしそういう視点で見ると、学生時代
の私が、今の私の息子に見えなくもない。不完全でだらしなく、いいかげんで、つまらない。そ
んな息子である。

 たいへん飛躍した考え方で、「?」と思う人もいるかもしれないが、そんなわけで、私は「親と
は何か?」「息子(娘)とは何か?」と考えていくと、自分でもわけがわからなくなってしまう。もっ
と言えば、「親」とか、「子」とかいう言葉を使って、時間的な感覚だけをもって、人間関係を区
切るほうがおかしいのではないか、と。

 私たちはものごとを、あまりにも、時間的な、つまりは3次元的な世界で考えすぎるのかもし
れない。よい例が、過去と未来である。過去など、どこにもない。未来も、どこにもない。あるの
は、「今」という現実だけなのに、私たちは、観念の世界だけで、過去や未来を、どんどんとつく
りあげてしまう。そしてそれを、あたかも現実の世界のようにとらえてしまう。

 少し前、「♪明日があるさ」というような歌がはやった。「過去があるから、現在がある」と説く
人も少なくない。

 が、この(時間的な壁)を取り払ってしまうと、今、そこにあるのが、(現実)であり、その(現
実)こそが、(すべて)ということになる。私という人間についていうなら、私は、どこまでいって
も、今の私なのである。

 私の中には、(かつての私)がいるように感ずるかもしれないが、それは脳ミソの中で信号化
された、記憶という作用によるものにすぎない。

 話が混線してきたので、先のNU君の話にもどる。

 一度、脳ミソの中に記憶として、情報が蓄積されると、時間的な判断は、できなくなる。たとえ
ば10年前に見た夢も、昨夜見た夢も、記憶の中では、等距離にある。ときどき、「どちらの夢
が古い夢なのだろう?」と考えることはあるが、そう考えたところで、それはわからない。

 同じように、今、NU君のことを思い浮かべると、たしかに2人のNU君がいるのがわかる。1
人は学生時代のNU君。もう1人は、同窓会で会った、あの紳士のNU君。その2人が、記憶の
中では、別人、つまり、子と親の関係に思えてくる。

 これは不思議な感覚である。今まで、私が感じたことがない感覚である。少しおおげさな言い
方に聞こえるかもしれないが、その(不思議さ)の中に、ひょっとしたら、この時空を越えたとい
うか、(生きる)ことにまつわる謎を解く鍵(かぎ)が隠されているかもしれない。そんな気がす
る。

 ……今、NU君のことを思い浮かべながら、私は、そんなことを考えた。
(06―02−21)

【補記】

 過去から今、そして未来へという、時間的な連続性が、理解できるようになるのは、幼児のば
あい、4〜5歳前後からと考えてよい。それまでは、過去は、すべて「昨日」。未来は、すべて
「明日」である。

 この年齢のころから、「明日」「昨日」が理解できるようになり、それが発展して、「あさって」
「おととい」がわかるようになる。さらに5歳児になると、カレンダーが理解できるようになる。曜
日もわかり、月もわかるようになる。さらに年もわかるようになる。

 では、そうした概念は、自然に発生するものかというと、それはちがう。多分に教育的なもの
と考えてよい。たとえば幼稚園では、年中行事を追いかけることが、保育の柱になっている。つ
まり教育者自らが、無意識のうちに、子どもたちに、「過去」「未来」の概念を、植えつけてい
る。

 その結果が、私たちおとなである。「未来はある」「過去はある」と説きながら、そこに何も疑
問を覚えない。しかし未来にせよ、過去にせよ、それらはどこにもない。「ある」と思いこんでい
るだけである。

 ウソだと思うなら、あなたの目の前の世界を、自分の目で、静かにながめてみることだ。そこ
にあるのは、「現実」という世界だけである。汚れた壁、古びた写真、静かに回りつづける時
計、電気、床の上にころがっている電話機などなど。

 この無数の現実が、「時間」というエネルギーによって、連続性をもって変化しているにすぎな
い。それはたとえて言うなら、動いている車から、外の世界をながめているようなものである。

 車に乗っている人は、あたかも外の世界が動いているように思うかもしれない。しかし実際に
動いているのは、車のほうである。そしてその車を動かしているのが、ガソリンというエネルギ
ーなのである。同じように、この現実を動かしているのは、時間というエネルギーなのである。
決して、荒唐無稽(こうとうむけい)なことを言っているのではない。「時間はエネルギーである」
というのは、宇宙物理学の世界では、常識である。

 が、その感覚を理解するのは、むずかしい。江戸時代の日本人に、「地球は丸い」「ここか
ら、東へ東へと、どんどんと先へ進んでいくと、またここに戻ってくる」と話したところで、当時の
人たちには、理解できなかったであろう。

 私たちは、あまりにも常識的な常識に、とらわれてしまっている。

 で、私はときどき、幼児たちを教えながら、こう考える。カレンダーを使って、曜日を教えたり、
時計を使って、時刻を教えたりすることが、本当に正しいことなのか、と。こうした知識は、現代
社会を生きていくには、不可欠なものかもしれないが、同時に、脳の中に、別の概念をつくりあ
げてしまう。

 過去、未来という概念である。

 その結果、親はもちろんのこと、子どもまでもが、「未来のために、今を犠牲にする」というこ
とに、あまりにも無頓着になってしまう。その一例が、受験勉強である。「幼稚園教育は、小学
入試のため。小学校教育は、中学入試のため。中学校教育は、高校入試のため……」と。

 この感覚は、子どもが社会へ入ってからもつづく。そしていつか、気がついたときには、もう先
は、ない。そのとき、その人は、こう考える。「何のための人生だったのか」と。

 そして「過去」という概念は、その反射的効果として生まれる。未来のために、今を犠牲にし
て生きてきた人は、その副産物として、自分の中に、過去をつくりあげていく。以前、こんなこと
を言った母親がいた。

 自分の息子が、高校入試に失敗したときのことだ。

 「先生、みんな、ムダでした。小さいときから、体操教室や算数教室、それに音楽教室にも通
わせましたが、みんなムダでした」と。

 その子どもが、今、そのとき、健康であり、数学が得意であり、ピアノを楽譜を見ただけでひ
けるようになっていたにも、かかわらず、だ。

 さらにこのことは、50代、60代になると、よくわかる。端的に言えば、未来のためにいつも、
今を犠牲にして生きてきた人ほど、過去にこだわりやすい。過去の栄華や、業績にこだわりや
すい。肩書きや身分や地位にこだわりやすい。

 そういう意味では、未来に対する概念と、過去に対する概念は、紙の表と裏のようにつながっ
ている。

 しかし、未来など、どこにもない。過去など、どこにもない。そう考えると、(それが理解できる
ようになると)、ものの考え方が一変する。ついでに人生観も一変する。

 重要なことは、「今」というこの「時」を、懸命に生きることである。その結果として、つぎの「今」
は必ずやってくる。そして振りかえったとき、そこに記憶として、すばらしい思い出が残る。

++++++++++++++++

6年前に書いた原稿(中日新聞
掲載済み)を、ここに掲載して
おきます。

++++++++++++++++

●今を生きる子育て論

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。愚かな生き方の代名詞のようにもなって
いる格言である。「いつか楽になろう、なろうと思ってがんばっているうちに、疲れてしまって、結
局は何もできなくなる」という意味だが、この格言は、言外で、「そういう生き方をしてはいけま
せん」と教えている。

 たとえば子どもの教育。幼稚園教育は、小学校へ入るための準備教育と考えている人がい
る。同じように、小学校は、中学校へ入るため。中学校は、高校へ入るため。高校は大学へ入
るため。そして大学は、よき社会人になるため、と。こうした子育て観、つまり常に「現在」を「未
来」のために犠牲にするという生き方は、ここでいう愚かな生き方そのものと言ってもよい。い
つまでたっても子どもたちは、自分の人生を、自分のものにすることができない。あるいは社会
へ出てからも、そういう生き方が基本になっているから、結局は自分の人生を無駄にしてしま
う。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた……」と。

 ロビン・ウィリアムズが主演する、『今を生きる』という映画があった。「今という時を、偽らずに
生きよう」と教える教師。一方、進学指導中心の学校教育。この二つのはざまで、一人の高校
生が自殺に追いこまれるという映画である。この「今を生きる」という生き方が、『休息を求めて
疲れる』という生き方の、正反対の位置にある。

これは私の勝手な解釈によるもので、異論のある人もいるかもしれない。しかし今、あなたの
周囲を見回してみてほしい。あなたの目に映るのは、「今」という現実であって、過去や未来な
どというものは、どこにもない。あると思うのは、心の中だけ。だったら精一杯、この「今」の中
で、自分を輝かせて生きることこそ、大切ではないのか。

子どもたちとて同じ。子どもたちにはすばらしい感性がある。しかも純粋で健康だ。そういう子
ども時代は子ども時代として、精一杯その時代を、心豊かに生きることこそ、大切ではないの
か。

 もちろん私は、未来に向かって努力することまで否定しているのではない。「今を生きる」とい
うことは、享楽的に生きるということではない。しかし同じように努力するといっても、そのつどな
すべきことをするという姿勢に変えれば、ものの考え方が一変する。たとえば私は生徒たちに
は、いつもこう言っている。「今、やるべきことをやろうではないか。それでいい。結果はあとか
らついてくるもの。学歴や名誉や地位などといったものを、真っ先に追い求めたら、君たちの人
生は、見苦しくなる」と。

 同じく英語には、こんな言い方がある。子どもが受験勉強などで苦しんでいると、親たちは子
どもに、こう言う。「ティク・イッツ・イージィ(気楽にしなさい)」と。日本では「がんばれ!」と拍車
をかけるのがふつうだが、反対に、「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。ごくふつうの日常
会話だが、私はこういう会話の中に、欧米と日本の、子育て観の基本的な違いを感ずる。その
違いまで理解しないと、『休息を求めて疲れる』の本当の意味がわからないのではないか……
と、私は心配する。

++++++++++++++++

ほかにもいくつか、原稿を書きました。
内容がダブりますが、どうかお許しく
ださい。

++++++++++++++++

●休息を求めて疲れる

 「休息を求めて疲れる」。イギリスの格言である。愚かな生き方の代名詞にもなっている格言
でもある。「いつか楽になろう、なろうと思っているうちに、歳をとってしまい、結局は何もできな
くなる」という意味である。「やっと楽になったと思ったら、人生も終わっていた」と。

 ところでこんな人がいる。もうすぐ定年退職なのだが、退職をしたらひとりで、四国八十八か
所を巡礼をしてみたい、と。そういう話を聞くと、私はすぐこう思う。「ならば、なぜ今、しないの
か?」と。

 私はこの世界に入ってからずっと、したいことはすぐしたし、したくないことはしなかった。名誉
や地位、それに肩書きとは無縁の世界だったが、そんなものにどれほどの意味があるというの
か。私たちは生きるために稼ぐ。稼ぐために働く。これが原点だ。だから○○部長の名前で稼
いだ一〇〇万円も、幼稚園の講師で稼いだ一〇〇万円も、一〇〇万円は一〇〇万円。問題
は、そのお金でどう生きるか、だ。サラリーマンの人には悪いが、どうしてそうまで会社という組
織に、義理立てをしなければならないのか。

 未来のためにいつも「今」を犠牲にする。そういう生き方をしていると、いつまでたっても自分
の時間をつかめない。たとえばそれは子どもの世界を見ればわかる。幼稚園は小学校の入学
のため、小学校は中学校や高校への進学のため、またその先の大学は就職のため……と。
社会へ出てからも、そうだ。子どものときからそういう生活のパターンになっているから、それを
途中で変えることはできない。いつまでたっても「今」をつかめない。つかめないまま、人生を終
わる。

 あえて言えば、私にもこんな経験がある。学生時代、テスト週間になるとよくこう思った。「試
験が終わったら、ひとりで映画を見に行こう」と。しかし実際そのテストが終わると、その気力も
消えてしまった。どこか抑圧された緊張感の中では、「あれをしたい、これをしたい」という願望
が生まれるものだが、それから解放されたとたん、その願望も消える。

先の「四国八十八か所を巡礼してみたい」と言った人には悪いが、退職後本当にそれをした
ら、その人はよほど意思の強い人とみてよい。私の経験では、多分、その人は四国八十八か
所めぐりはしないと思う。退職したとたん、その気力は消えうせる……?

 大切なことは、「今」をどう生きるか、だ。「今」というときをいかに充実させるか、だ。明日とい
う結果は明日になればやってくる。そのためにも、「休息を求めて疲れる」ような生き方だけは
してはいけない。

++++++++++++++++++++++++

●「今」を知らない子どもたち

 私の知人がこう言った。「退職したら、Tさんと二人で、車で日本一周をするつもりです」と。し
かし私はその話を聞いたとき、「ではなぜ、今しないのか?」と思った。

 日本人は仏教というよりチベット密教の影響を強く受けているから、「結果」を重要視する。
「死に顔でその人の生涯が決まる」と教えている日本最大の宗教教団すらある。

しかし大切なのは、結果ではなく、「今」だ。が、それだけではない。こうした結果を大切にする
考え方は、日本人の生き方そのものにも大きな影響を与えている。その一つが、「未来」のた
めにいつも「今」を犠牲にするという生き方。たとえば幼稚園は小学校入学のため、小学校は
中学校や高校の入学のため、さらに高校は大学入試のため、大学は就職するためと考える親
は多い。そう考えるのは親の勝手だとしても、子どももまた、そういう生き方を身につけてしま
う。そしていつまでたっても「今」がつかめなくなる。しかしそれは愚かな生き方そのもの。イギリ
スには、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「いつか楽になろうなろうと思ってがんばっ
ているうちに、疲れてしまい何もできなくなる」という意味である。

 一度こういう生き方のパターンができてしまうと、それを変えるのは容易ではない。そのまま
一生つづくと言ってもよい。その一例として、休暇の過ごし方がある。

たとえば今、一〇日間の休暇が与えられたとする。そういうとき欧米の人なら、その「時」をそ
のまま楽しむ。……楽しむことができる。しかし日本人は、休暇中は今度は、休暇が終わって
からの仕事を考える。子どももそうだ。子どもが学校から三日間の休日を与えられたとする。
そして子どもが家でブラブラしていたとする。すると親はそれを見て不安に思ったりする。「こん
なことでいいの!」と。つまり日本人は休みを休みとして楽しむことすらできない。別の友人は
こう言った。「一〇日も休みをもらっても、過ごし方がわらない」と。こうした生き方は、よく「仕事
中毒」という言葉で説明されるが、そんな簡単なことではない。根は深い。

 さて冒頭の話だが、私はその知人は、退職後、日本一周の旅には出ないと思う。しても旅か
ら帰ったあとの老後の話ばかりすると思う。それはちょうど試験週間の学生のようなものだ。試
験中というのは、ほとんどの学生は「試験が終わったら映画を見にいこう」とか、「旅行しよう」と
か考えるが、いざ試験が終わると、何もしたくなくなる。

あなたにもそういう経験があると思うが、抑圧された環境の中では夢だけがひとり歩きする。し
かしその抑圧から解放されると、同時に夢も消える。いや、その前に健康がそれまで続くかど
うかさえわからない。命だってあぶない。そんなあやふやな「未来」に夢を託してはいけない。
夢があるなら、条件をつけないで、「今」始めることだ。繰り返すが、結果は必ずあとからついて
くる。

+++++++++++++++++++

●私の過去(心の実験)

 私はときどき心の実験をする。たとえば東京の山手線に乗ったとき、東京から新橋へ行くの
に、わざと反対回りに乗るなど。あるいは渋谷へいくとき、山手線を三周くらい回ってから行っ
たこともある。一周回るごとに、自分の心がどう変化するかを知りたかった。しかし私の考え方
を大きく変えたのは、つぎのような実験をしたときのことだ。

 私はそのとき大阪の商社に勤めていた。帰るときは、いつも阪急電車を利用していた。その
ときのこと。あの阪急電車の梅田駅は、長い通路になっていた。その通路を歩いていると、た
いていいつも、電車の発車ベルが鳴った。するとみな、一斉に走り出した。私も最初のころは
みなと一緒に走り、長い階段をかけのぼって、電車に飛び乗った。しかしある夜のこと、ふと
「急いで帰って、それがどうなのか」と思った。寮は伊丹(いたみ)にあったが、私を待つ人はだ
れもいなかった。そこで私は心の実験をした。

 ベルが鳴っても、わざとゆっくりと歩いた。それだけではない。プラットホームについてからも、
横のほうに並べてあるイスに座って、一電車、二電車と、乗り過ごしてみた。それはおもしろい
実験だった。しばらくその実験をしていると、走って電車に飛び乗る人が、どの人もバカ(失
礼!)に見えてきた。当時はまだコンピュータはなかったが、乗車率が、一三〇〜一五〇%くら
いになると電車を発車させるようにダイヤが組んであった。そのため急いで飛び乗ったようなと
きには、イスにすわれないしくみになっていた。

 英語に、『休息を求めて疲れる』という格言がある。「早く楽になろうと思ってがんばっているう
ちに、疲れてしまって、何もできなくなる」という意味だが、愚かな生き方の代名詞にもなってい
る格言である。その電車に飛び乗る人がそうだった。みなは、早く楽になりたいと思って電車に
飛び乗る。が、しかし、そのためにかえって、よけいに疲れてしまう。

 ……それから三〇年あまり。私たちの世代は企業戦士とか何とかおだてられて、あの高度
成長期をがむしゃらに生きてきた。人生そのものが、毎日、発車ベルに追いたてられるような
人生だった。どの人も、いつか楽になろうと思ってがんばってきた。しかし今、多くの仲間や知
人は、リストラの嵐の中で、つぎつぎと会社を追われている。やっとヒマになったと思ったら、人
生そのものが終わっていた……。そんな状態になっている。

私とて、そういう部分がないわけではない。こう書きながらも、休息を求めて疲れるようなこと
は、しばしばしてきた。しかしあのとき、あの心の実験をしなかったら、今ごろはもっと後悔して
いるかもしれない。そのあと間もなく、私は商社をやめた。今から思うと、あのときの心の実験
が、商社をやめるきっかけのひとつになったことは、まちがいない。

Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(128)

●子どもは環境で包む

 私はときどき、たとえば小学五、六年生の子どもを、中学生のクラスに座らせて勉強させるこ
とがある。何かを教えるのではなく、「好きな勉強をしなさい。本読みでも、宿題でもいい」と言っ
て、子どもの自由に任せる。(クラスといっても、私のばあいは、一クラス、五〜六名の小さなク
ラスだが……。)

この方法は、下の子どもが上の子どもの勉強グセを受け継ぐには、たいへん効果的である。
週一回程度でも、数か月もすると、下の子どもは上の子どもを見習って、黙々と勉強するよう
になる。実際、私はこの方法で、ツッパリ始めた子どもをなおしたこともあるし、騒々しくて落ち
着かない子どもをなおしたことがある。

 それはそれとして、子どもを指導したいと考えたら、環境で包む。……包むことを考える。釣
り好きの親の子どもは、釣りが好きになる。読書好きの親の子どもは、読書が好きになる。社
交的な親の子どもは社交的になる。しかし押しつけはいけない。親が本を読まないのに、「うち
の子はどうして本を読まないでしょう」は、ない。子どもというのはそういうもので、親の考え方
や感じ方をそのまま受け継いでしまう。たとえば今あなたが、「男なんてつまらないもの」とか、
「うちの夫はだらしない」などと思っていると、あなたの娘もそう思うようになる。これは一つのテ
ストだが、こんなことをしてみると、親子の密着度を知ることができる。

 紙と鉛筆を用意し、まずあなたが山、川、木を二本、家、雲、太陽を描いてみる。そしてその
絵をどこかへ隠し、つぎに子どもに、同じように山、川、木を二本、家、雲、太陽を描かせてみ
る。子どもの絵ができあがったら、あなたの絵と見比べてみる。親子の密着度が高い親子ほ
ど、実によく似た絵をかく。年長児で三〇組に一組は、ほとんど同じ絵を描く。

 子どもに何かをさせようと思ったら、まず自分でしてみる。環境で包む。そういう姿が、子ども
を前向きに伸ばす。ただし一言。あなたが努力しても、子どもがそれに乗ってこなければ、それ
はそれでおしまい。あのレオナルド・ダ・ビンチもこう言っている。

『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶をそこな
い、また記憶されない』と。

何ごとも無理強いは禁物。子どもというのは、親の期待を一枚ずつ剥ぎ取りながら成長するも
の。そういう前提で、子育てを考えること。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●テレビ・新聞・家事

++++++++++++++++

たしかにこのところ、新聞を読む
時間が少なくなった。

ニュースは、まずインターネット
で見てから、それから新聞……と
いうことが、多くなった。

ワイフが、新聞を読みながら、「ねえ
……」と言う前に、私のほうが、そ
の記事についてコメントすることも
多い。

++++++++++++++++

 日本人がテレビを見る時間は、平日が、3時間半。日曜は、4時間だという(NHK放送文化
研究所調査・「平成十七年国民生活時間調査」による)。

 その調査によると、

「テレビ視聴時間は、1人あたり、1日、3時間39分。平日(3時間27分)と、日曜(4時間14
分)は前回並みだが、学校が週5日制となった影響もあり、土曜日は、前回調査(5年前)の3
時間38分から、4時間3分に延びた。

また70歳以上に限れば1日5時間半を超えている。全体では9割の人がテレビを1日15分以
上見ているが、20代男性がテレビを見る割合は、はじめてどの曜日も8割を切った」という。

問題は、新聞である。

同じ調査によれば、新聞を読む人は、44%。平均時間は、21分だという。

 「新聞は、国民の44%が読んでおり、平均時間は21分。平日では男女10代と女性70歳以
上を除くすべての層で、読む人が減っており、この結果、男女とも40代以下で平日の新聞読
者は、50%を割り込むこととなった」と。

 テレビはともかくも、私たちの世代は、新聞には、独特の感覚をもっている。「新聞は絶対」と
いう感覚である。その新聞について、「男女とも40代以下で平日の新聞読者は、50%を割り
込むこととなった」というのは、どうも信じがたい。つまり40代以下の人たちは、約半数が、新
聞を読んでいないということになる。

 新聞社もいろいろ苦労はしているようだが、新聞離れは、もうどうしようもないのでは……
(?)。私もここ数年、起きると真っ先にパソコンに電源を入れ、まず読むのが、メール。そして
ニュース。新聞受けまで、新聞を取り出しに行くのが、めんどう。あとは仕事の合い間に、その
つどイネーネットで、ニュースをのぞいている。

 新聞を読むのは、朝食のときか、朝食が終わったとき。時間も、この調査のように、10〜20
分前後。本当に興味のある記事だけを、ねらい撃ちして読む。となると、新聞とは何かというこ
とになってしまう。

 私の印象では、新聞のほうが、もう少し世間の流れに合わせて、変化すべきだと思う。いつま
でも「これが新聞でございます」というような姿勢では、読者の心をつかむことができない。

 たとえばこれはあくまでも私の憶測かもしれないが、新聞社は、インターネットを、どこか敵視
しているようなところがある。たとえば新聞記事のどこかで、もっといろいろなホームページを紹
介してもよいと思うのだが、そういうことはしない。何かの紹介記事のあと、「詳しくは、○○HP
を!」とか何とか書いてあってもよいのでは?

 一方、新聞社のHPというのも、あるにはある。しかしいつも、記事は小出し。事情はわかる
が、そのため、ニュースというと、インターネット専門の配信会社のHPで、読むことになる。

 では、有料のインターネット新聞というのはどうかということになるが、恐らく、お金を払ってま
でインターネット新聞を読む人はいないと思う。欧米では、たとえば1記事5セント(オーストラリ
ア)で、記事を読ませるようなサービスもあるそうだが、そこまでの道のりは、遠い。

 それにしても、とうとう50%を切ったか!、というのが、私の驚き。この数字には、いろいろと
考えさせられる。

 ついでながら、ほかの時間の使い方を見ると、家事をする成人男性がふえており、とりわけ5
0、60代でその傾向が顕著。平日15分以上、家事をしている成人男性は、50代で27%とな
り、前回調査を8ポイント上回った。60代では50%と、前回の38%から大きく増加したとい
う。

成人男性の平均家事時間は平日で46分、日曜日は1時間35分だったという(産経新聞・06
年2月)。

 これはとてもよいことだ!


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(129)

●園児2人が、殺害された!

++++++++++++++++++

どこかの県の、どこかの町。
そこで園児2人が、1人の
女性に殺害された。

殺害したのは、中国人妻。
「日本の生活になじめなか
った」(報道)というのが、
事件を引き起こす、遠因に
なったらしい。

++++++++++++++++++

 またまた悲惨な事件が起きた。2人の園児が、理由もなく、車の中で殺害されるという事件で
ある。

 殺害したのは、中国から来た、中国人の妻。報道によれば、「結婚紹介所」を通して、日本人
の男性と結婚。そして日本へやってきたという。今回の事件の背景には、日本の生活になじめ
なかった、1人の女性の苦悩と悲しみが、見え隠れする。もちろんだからといって、その女性の
起こした行為が、許されるわけではない。悲惨な、あまりにも、悲惨な事件である。

 ……と書いたところで、筆がとまってしまった。「だから……」という部分に、つなげることがで
きない。というのも、現在、同じような結婚紹介所を通して、同じように結婚している人が、この
日本には、何万組もいるはず(筆者推定)。

 そういう女性たちが、みな、同じような状況にあるわけではない。いろいろとそれなりに苦労
はあるのだろうが、ほとんどのカップルは、幸福に暮らしている。私も、何組かの、そういう夫婦
を知っている。

 そこでヤフーの検索エンジンを使って、「結婚紹介所 国際結婚」を検索してみた。が、驚い
た。そういう紹介所を経営している会社が、ズラリと並んで出てきた。「格安、37万円!」という
見出しのHPもあった。しかしそのほとんどが、中国人の妻を紹介するものだった。

 もちろん大半のカップルは、どういう出会いであれ、そののち、幸福な家庭を築いている。こ
こにも書いたように、私の知りあいの中にも、そういうカップルは、何組かいる。しかしみながみ
な、うまくいくとは限らない。生活習慣のちがい、食生活のちがい、行動様式のちがいなどな
ど。が、何といっても、言葉の壁は、大きい。

 日本語というのは、もともと、微妙な表現を得意とする。たとえば、「私はあなたを愛している」
と言うときも、「愛しているわ」「愛しているね」「愛しているよ」と、文尾をほんの少し変えるだけ
で、感じが異なってくる。

 だからといって、中国語には、それができないというのではない。言い方を微妙に変えること
で、同じように微妙なちがいを表現できる。その点、英語と中国語は似ている。しかし中国語で
は、「我愛ニィ」だけ。英語では、「I love you.」だけ。

 こうした言葉のちがいは、中国から来た人たちと話していると、よく感ずる。話し方そのもの
が、ぶっきらぼうというか、ズケズケというか、そんな印象をもつ。たとえば何か苦情を訴えてく
るときも、いきなり、「先生、あんたね、悪いあるよ!」と、切り出してくる。

 そういうとき日本人なら、「あのう、少し、申しあげにくい話があるんですが……。実は、です
ね……」という前置きをする。中国から来た人には、そういうものの言い方をする習慣そのもの
が、ない。

 これは私の勝手な憶測によるものだが、つまり私が知っている何人かの中国から来た人た
ちを見ながら、勝手に類推するものだが、それが「言葉の壁」になったのではないかと思う。報
道によれば、「会話には不自由はなかったが、微妙な表現は苦手だったようだ」とある。

 そこで改めて、国際結婚を考えてみる。

 まず考えなければならないのは、「同じアジア人だから……」という先入観。つまり「同じアジ
ア人だから、日本人も中国人も、それほどちがわないのでは……」という先入観。が、これはた
いへんな、まちがい! どこがどうちがうかという話になると、ここには書ききれない。しかしそ
んな先入観をもって、結婚すると、まず、うまくいかない。

 とくに中国人の女性のばあい、男女同権意識が、日本人のそれとは比較にならないほど、強
い。毛沢東による文化大革命の影響と説明する人もいるが、「大和なでしこ」のような女性を想
像して結婚すると、まず、うまくいかない。概して言えば、中国の女性たちは、同じ収入でも、
「私の収入は、私のもの。夫の収入とは、別のもの」という考え方をする。だからお金にまつわ
る騒動が絶えない……とは、よく聞く話である。

 が、何といっても、最大の問題は、「夢と期待」の問題であると説明する人もいる。

 相手、つまり中国の女性の立場で考えてみよう。中国の女性たちは、豊かな国、日本の、そ
の日本人にあこがれて結婚する。そういう部分が、ないとは言えない。たとえば「この男性の給
料は、月給20万円」と紹介されただけで、彼女たちは、夢のような生活を想像する(?)。20
万円というのは、中国の農村部の基準で考えれば、1年分以上の収入に相当する。

 で、日本へ夢と期待をふくらませて、やってくる。が、現実は、甘くない。もちろん言葉の問題
もあるが、月収20万円といっても、この日本で生活してみると、中国での生活と、それほどち
がわない。物価そのものが、高い。そこでいきなり、幻滅、ということになる。そういうケースも
多いと聞く。
 
 そこで大切なものといえば、何といっても、愛情である。とくに日本人男性が、どのような深い
愛情をもって、中国からやってきた妻に接するか、である。その愛情があれば、言葉の問題な
ど、何でもない。生活習慣のちがい、食生活のちがい、行動様式のちがいなど、何でもない。

 が、もし……。今回の事件の背景に、それがあったというのではない。それだけは誤解しない
でほしいが、もし、日本人の男性の側に、安易な結婚観があったとしたら、それは事件を起こし
た中国人の妻だけの責任とは、言えないのではないかということになる。

 ここでは、何が安易で、どう安易だったかということについては、書けない。書けないが、日本
人の男性なら、容易に察しがつくことと思う。そういう「安易な結婚観」である。

 実のところ、国際結婚のむずかしさは、私も痛感している。国際結婚をするにしても、とくに日
本人側の男性について言えば、それだけの国際性がなければならない。いつも日本と外国と
の間を行き来するとか、そういうことを通して、それなりの理解がなければならない。それがな
いまま、ここでいう「安易な結婚観」をもって結婚すれば、まず、うまくいかない。

 ……とまあ、何かしら、奥歯にものがはさまったような書き方しかできないが、今回の事件と
は関係なく、国際結婚について考えてみた。

 で、本題に話をもどす。

 2人の園児が殺害された。本当に悲惨な事件である。が、どうしても、「だから……」という部
分が書けない。しかしあえて「だから……」と書くべき部分があるとするなら、今の私には、こう
としか書けない。

 私も、毎日、その幼児を教える立場にある。そしてこの2か月の間、ずっと、子どもたちが親
たちの車に乗るのを見届けてから別れるようにしている。幼児を殺害するという事件が、つづ
いたからである。が、これからは、さらにそれを徹底させるしかない。こうした事件は、いつ何ど
き、どこで起こるかわからない。決して、油断はできない。

 みなさんも、くれぐれも、ご注意を!


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●孫の誠司

++++++++++++++++

孫の誠司と電話で話す。
で、私は「ジージ」。
いつの間にか、「ジージ」になって
しまった。

今日も電話をすると、今日は、
「エアプレーン・ジージ」と。

++++++++++++++++

 正月に孫の誠司が、我が家へやってきた。そして私が2年以上もかかって、集め、そして作っ
たプラモデルの飛行機を、1つ、残らず、みんな、こわしてしまった! 1つ、残らず、だ。

 それでいつしか、私のことを、誠司は、「エアプレーン・ジージ(飛行機のじいちゃん)」と呼ぶ
ようになった。

 ワイフだったら、つまりワイフが1つでもこわしたら、私は発狂していたかもしれない。しかし相
手は、孫。そのうち、毎朝、どれをこわしているか、楽しみにするようになった。「今日は、あの
飛行機かア……」と。中には、苦労して組み立てたのもある。しかしそういうのが、本物そっくり
に、こわされていくのを見るのは、これまた楽しい。「墜落した飛行機、そっくり」と。

 今、その残がいが、箱の中に、ぎっしりとつまっている。数えたことがないのでわからないが、
50機くらいはある。よくまあ、ここまで、こわしてくれたものだ! ハハハ!

 で、その誠司、床屋が嫌いらしい。今日も、二男がそう言っていた。そこで午後になって、ワイ
フと2人で、近くのショッピングセンターへ。N社の「スキxx」という、電動式のバリカンを買ってき
た。さっそく、このあと、SAL便で送るつもり。

 うちの息子たちも、子どものころは、みな、それで髪の毛を刈ってやった。二男のやつ、覚え
ているかな? ビデオでの説明書つきだから、多分、二男にも使えるだろう。

 もうすぐ、誠司の妹が生まれる。誠司に似た、やさしい子だといいが……。楽しみだ!!


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●最後の悪あがき(?)

++++++++++++++++++

K国のマネーローダリングの疑いで、
アメリカは、マカオにある、D銀行との
取り引きを中止した。

が、これがK国に、予想外の大打撃を
与えたらしい……。

++++++++++++++++++

 K国は、自国で印刷したニセドルを、一度、マカオにあるBDA銀行に預金し、その銀行を通し
て、マネーロンダリングしていたという。怒ったアメリカ政府は、BDA銀行との取り引きを中止し
た。正確には、アメリカ財務省が、K国の違法行為に関与しないように、金融機関への規制強
化をマカオ当局に求めた(05年9月)。とたん、お金を預けていた預金者たちが、BDA銀行に
殺到。取りつけ騒ぎまで起きた。

 そこでBDA銀行は、K国関連の口座を凍結。K国との取り引きを停止した。韓国のC日報
は、「マカオにおける取り引き銀行の引き出し禁止措置によって、K国は、莫大な金額の不正
資金を使えなくなった。他の外国銀行も日々、K国との取引を忌避している」と伝えている。

 が、それに対して、K国は、ことあるごとに、「経済制裁を解除すれば、6か国協議に出る」と
発言している。つまり今回のアメリカの措置は、経済制裁であると。

 しかしここまで常識がズレてくると、どうコメントしてよいのか、私にもわからない。アメリカにし
てみれば、6か国協議など、もうどうでもよい。重要なのは、K国が核兵器開発を放棄するかど
うか、なのだ。

 しかもニセドルを印刷するというのは、まさに犯罪行為。その犯罪行為を棚にあげて、「経済
制裁を解除せよ」とは! そう言えばK国は、こんな発言もしている。日本から拉致した拉致被
害者について、「人間的な扱いをした」と。多国から人を拉致しておいて、「人間的」とは?

 さらにそれに追い討ちをかけるように、金xxの長男の金Mが、マカオのカジノで、ニセドルを
使っているところが、ビデオカメラに撮影されていたという(時事通信)。こうなると、金xxも、万
事休す。「ニセドル印刷は、私の知らないところで、だれかがした」という言い訳は、もう通用し
ない。

 K国の崩壊は、ないとされてきた。カルト教団化した国だから、国民は、金xxとともに、墓場ま
でいっしょに行くだろうと、だれしも思っていた。しかしここにきて、K国崩壊が、急速に現実味
を帯び始めてきた。すでにK国の、海外活動は、外交活動も含めて、脳死状態にあると言われ
ている。貿易すら、ままならない状態になってきているという。

 それもそうだ。どこのだれが、ニセドルをもらって、モノなど売るか!

 さらに金xxの健康問題もある。腎不全が、悪化しているとうわさされている。それがだれであ
れ、他人の健康問題を、悪いほうに期待してものを書くのは許されない。しかし今、拉致問題を
本当に解決しようとする思うなら、K国の金xx体制を、崩壊させるしかない。韓国や中国は、そ
れをいやがっているが、日本は、構わない。構わないから、金xx体制が崩壊するように、道筋
をつけてやる。そういう意味で、金xxの健康問題を、内心では喜んでいる人も、多いはず。

 で、それ以外に、もっとも効果的なのは、K国と取り引きのある外国の銀行に対して、ジワジ
ワと、圧力をかけていくこと。すでにスイスの銀行ですら、K国との取り引きを停止している。こ
のワクをどんどんと広げていけばよい。人権問題で、K国をしめあげるのも、効果的。

 ゆくゆくは、K国は、中国に、(韓国ではないぞ!)、吸収合併されていくことになる。韓国はK
国に、さかんにラブコールを送っているが、どれほどの効果があることやら。やがて今の38度
線が、韓国と中国の国境になることも、じゅうぶん、考えられる。

 もしそうなれば、南北統一など、夢のまた夢。一番最後に、ババを引くのは、韓国ということに
なる。へたをすれば、韓国経済そのものも、崩壊する。

 話が脱線したが、K国の一連の発言を見ていると、最後の悪あがきのようにも、聞こえる。も
う少し辛らつな言い方をすれば、断末魔の叫び(?)。言うことなすこと、すべて常識からハズれ
ている。

 ただ日本の国益を最優先するなら、日本は、ここは静かにしていたほうがよい。アメリカ議会
での高官の発言などによれば、K国は、すでに12発もの核兵器を保有しているといわれてい
る(※1)。もしここでK国を挑発するような行為に出れば、K国は、その核兵器を、日本に対し
て、使用するかもしれない。その可能性は、じゅうぶんにある。

 だから、ここは静かにしていたほうがよい。そういう日本の姿勢を、卑怯(ひきょう)とか、おく
病とか、そういうふうに考える人もいるかもしれない。しかしこれは、そういう問題ではない。もと
もと、あんな国、相手にしても、しかたない。また日本が、本気で相手にしなければならないよう
な国ではない。あんな国を相手に、自国のプライドを論じて、どうする? どうなる?

 ここは務めて、冷静に! それが日本の、今、あるべき姿である。

(※1)ロイター通信によると、米民主党のリード上院院内総務ら同党の有力上院議員4人は、
3日、K国が「12個の核兵器を保有している可能性がある」として、ブッシュ大統領にK国の核
能力に関する情報を公開するよう求める書簡を送ったという。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(130)

●だまし、だまし……

++++++++++++++++++++++

愛用のパソコンが、ますますおかしくなってきた。
ディスクのチェックをすると、ところどころに
「BAD・クラスタ」の文字が現れる。

ハードディスクのクラスタが壊れ始めたらしい。

こうなると、このパソコンの寿命も、短い。

++++++++++++++++++++++

 今、私の指に一番なじんでいるのが、F社のDESK POWER。買って、もう6年目になる。
当時は、まだ珍しい、17インチのワイド画面で、その迫力に圧倒されて、そのパソコンを買っ
た。当時の値段で、24万円。本当は、26万円だったが、「今は、24万円しか持ちあわせがな
い……」とポツリと言うと、その場で、24万円にしてくれた。

 が、それから5年。まずCD−RWがおかしくなった。ギリギリとモーターがきしむような、うなり
声をあげるようになった。それでCDドライブを、ドライブごと、新品に交換した。

 これはうまくいったが、今度は、部分的に、ハードディスクにエラーが出るようになった。たとえ
ばWORDを使用しているとき、辞書登録ができない、など。今のところ、たいしたエラーではな
いので、それほど深刻には考えていない。ワイフは、「新しいパソコンにしたら?」と言うが、つ
ぎにほしい機種は決まっている。今年の秋には、いよいよBISTA(XPにかわる、新しいOS)が
発売になるので、それまで、今は、じっとがまんのとき。

 で、実は、昨年、新しいパソコンを買っている。M社のパソコンである。こちらのほうは、めち
ゃめちゃ、性能がよい。メモリーも、1024MB、実装している。グラフィックボードも、最新のGe
force。もちろんCPUは、PEN・D。で、HPやビデオ編集などは、そちらのパソコンでしている。
が、文章を書くのは、もっぱらこのF社のDESK POWERのほう。ワイド画面であるだけに、
視野も広い。書きやすい。

 で、そのパソコンを使いながら、つまり(だまし、だまし、使いながら)、おかしな愛着を覚える
ようになった。何というか、その(だまし、だまし)という部分が、自分の体と、どこか似ているか
らだ。健康には気をつかっているほうだが、この年齢になると、体のあちこちにガタがくるように
なる。たとえば今は、左肩の腱を傷(いた)めて、左手を思うように上にあげることができない。
重いジャンパーを着るときは、ワイフの介護が必要。

 パソコンをだまし、だまし使う。自分の体を、だまし、だまし使う。……どこか似ている。それで
愛着を覚えるようになった。

 もちろん、対策は、講じている。データは、すべて外付けのハードディスクに移動させた。この
文章も、そちらから読み出し、またそこへ保存している。ひょっとしたら、つぎの瞬間、画面がブ
ルーになるかもしれない。そうなれば、オダブツ! (ご存知の方も多いと思うが、画面全体が
ブルーになり、OSを起動できなくなったら、パソコンの寿命が尽きたことを意味する。人間にた
とえるなら、脳死?)

 そんなわけで、秋まで、このパソコンを、だまし、だまし使うしかない。同じように、自分の体
も、だまし、だまし使うしかない。時期はわからないが、あと5年か、それとも10年か?

 昨夜も、自転車で、1時間ほど、走った。寒い夜だったが、それをやめたら、私の健康はな
い。ついでに書き添えるなら、こうして運動したつぎの翌朝は、気持ちがよい。体の細胞のひと
つひとつが、ピチピチと音をたててはねているような感じさえする。自分の体をだまし、だまし使
うにしても、それなりの努力と苦労が必要。何もしないでは、そのだますこともできない。

 で、今度買うパソコンは、ホット・スワップ、つまり電源を入れたまま、ハードディスクが何台
も、出し入れできる機種。RAIDコントロールができるのがよい。RAIDコントロールができるよう
になれば、何台ものハードディスクを、1台のハードディスクのようにして使うことができるような
るそうだ。すごい! 自分でも、そこまで高性能のパソコンは必要ないとは、よくわかっている。
しかし、それがほしい。

 ハハハ。それはたとえて言うなら、自分の体を改造して、20歳そこそこのバリバリの肉体に
するようなもの。オリンピックのアイススケートの選手のような体にするようなもの。

 ついでに、私のようなパソコン初心者のための、パソコン用語講座。

●クラスタ……ハードディスクなどで、1周分を、1レコードという。その1レコードを、
数十個に分割したのを、1セクタという。そのセクタをいくつか集めたものが、クラスタである。
クラスタは、それぞれデータをひとまとめにして、記憶する。

●RAID……データを分割し、複数のディスクに書くことで、性能を高めたディスク装置のこと。
複数のディスクに書き込むことによって、データの転送速度が向上し、ディスク装置の信頼性
の向上や、低価格化が実現できる。
(以上、参考、「標準パソコン用語辞典」(秀和システム)より)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

●どうなる、イラン問題!

++++++++++++++++++

今朝の新聞を読んでみたが、
イラン問題についての記事は、ゼロ!

こんなことでいいのか、新聞社!

++++++++++++++++++

 今日、2月23日。イランの核開発問題について、イランとロシアの協議が開かれる。イランの
核開発問題についての、これが最終的な協議となる。「ロシアのプーチン大統領は、楽観視し
ていると述べている」と、インターネットの配信ニュースなどでは報道されている。が、本当にそ
うか?

 もしこの協議が決裂するようなことになると、イランの核開発問題は、国連の安保理に再度
付託されたあと、イランに対する経済制裁が発動される。アメリカを含めて、欧米には、それほ
ど影響はないかもしれないが、この日本には、死活問題ともいえるほど、大きな影響を与え
る。まず、つぎの数字を見てほしい。

 日本の原油、中東依存度は、2002年……85・3%
              2003年……88・5%

 さらにそのうちわけは、

     アラブ首長国連邦 ……22・9%
     サウジ      ……22・4%
     イラン      ……13・8%
     カタール     …… 9・2%
     クウェート    …… 6・9%
   (以上、経済産業省、02年「エネルギー生産・需給統計年表」)

 つまりこの日本は、90%近い原油を、イランを含む、中東から輸入している。とくにイランで
は、アザデカン油田開発に、日本は深くかかわっている。もし経済制裁ということになると、そ
の油田開発に参加できなくなるだけではなく、開発利権すら失うことになりかねない。イランは、
「日本がだめなら、中国に売る」と、かねてから発言している。

 が、それですめば、まだよいほう。イランが何らかの武力行使に出るようなことになると、中
東は、一気に、緊張状態に包まれる。イラン・イスラエルの戦争も、危惧される。アラブ各国に
おける、テロ活動も、活発化するだろう。

 そうなると、日本は、戦後最大の、オイル危機を迎えることになる。その受ける影響は、70年
代はじめのオイルショックの比ではない。当時とは経済規模そのものが、ちがう。

 が、この静けさは、何か? 不気味とも言えるほどの、この静けさは、何か? 私が新聞社の
編集長なら、特派員を張りつけてでも、イラン・ロシアの協議を取材する。報道する。が、今朝
の新聞を見ても、それについては、一行も触れられていない。

 サッカーのW杯関連、民主党と自民党のドロ試合、それにオリンピック関連のニュースだけ。
はっきり言えば、つまりその重要度から言えば、どうでもよいニュースばかり。いったい、日本
の新聞社は、どうしてしまったのか? 平和ボケもここまでくると、脳死状態に近い。あるいは
日本人というのは、そういう状況にならないと、考えないのか。動かないのか。あとになってギャ
ーギャーと騒ぐくらいなら、なぜ、今、騒がないのか?

 一番よいのは、イランが、核開発を放棄することだが、それはもうありえない。つぎにロシア
が、イランを抑えこんでくれることだが、アメリカにとっては、痛し、かゆしというところか。イラン
がロシアの支配下に落ちるくらいなら、イランの核開発関連施設に、武力攻撃を加えたほうが
よい……と、アメリカは考えているにちがいない。

 そのイランは、イスラエルへの攻撃をもくろんでいるし、アメリカは、すでにイスラエルの反撃
を容認するという姿勢を打ち出している。イランは、アラブ全体を巻き込んで、日本を含め、欧
米諸国を、アラブ世界から追い出そうとしている。

 もしそうなれば、W杯どころではなくなる。民主党と自民党が、今ごろ、ドロ試合をしていて、
何になる。オリンピックのメダルのことを心配するヒマがあったら、明日の原油のことを心配し
たほうがよい。

 もしイランとロシアの協議が、今日、決裂するようなことになれば、やることはひとつ。みなよ
り先に、買いだめしておくべきものは、しっかりと買いだめしておく。みなが動き出してからで
は、遅い。ひょっとしたら、明日から、忙しくなりそうだ。
(この原稿は、2月23日朝、書いたものです。マガジンに掲載するころには、国際情勢は大きく
変化しているかもしれません。)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(131)

●遊離

++++++++++++++++++

心(情意)と、表情が、遊離する。
教える側から見ると、何を考えて
いるかわからない。

そういう子どもは、要注意。一見、
「いい子」に見えるが、いろいろな
問題を引き起こす……・

++++++++++++++++++

 昨日、Nさん(母親)としばらく話しあう。Nさんは、このところ、自分の子どもが不登校児にな
るのではないかと悩んでいる。もうすぐ、小学校に、入学して、1年生になる。

私「その心配は、ないですよ」
N「どうしてですか?」
私「私の長年の経験から、それがわかります」
N「でも、今でも、幼稚園へ行きたがらなくて、困っています。朝になると、グズって、たいへんで
す」
私「それには、もうひとつ、別の要因が働いているからです」と。

 学校恐怖症になって、不登校児になっていく子どもには、大きな特徴が、ひとつある。それ
が、(心と表情の遊離)である。つまり心(情意)と表情が、不一致を起こす。教える側からする
と、何を考えているかわからない子どもといった状態になる。

 いやがっているはずなのに、ニタニタと笑っている。ニンマリとした笑みを浮かべている。全
体に、静かで、おとなしい。一見、できがよい子に見える。先生の指示にも、従順で、問題を起
こすこともない。

 が、基本的には、人間関係を、うまく結ぶことが苦手。苦手だから、一歩、退いたところで、自
分の世界を守ろうとする。心理学でいうところの防衛機制のひとつと考えてよい。

 それに対して、心(情意)と表情の一致している子どもは、外から見ても、わかりやすい。いや
だったら、「イヤ!」と、はっきりと言う。したいことがあれば、「シタイ!」と、はっきりと言う。自
分の意思を明確に表現するから、何を考えているか、それがよくわかる。

 Nさんの子どもは、そういうタイプの子どもだった。「だから、不登校児にはなりません」と。

 が、Nさんは、心配そうだった。

私「グズるのは、ストレス発散のひとつの方法と考えてあげてください」
N「では、どうすればいいのですか?」
私「グズるだけ、グズらせながら、暖かく、無視します。ほどよくグズらせれば、そのあとは、静
かになります」
N「でも、心配です」
私「Nさんの子どものケースは、あくまでも、赤ちゃん返りのこじれたケースと考えてください。赤
ちゃん返りが、そのまま不登校につながるということはありません。赤ちゃん返りは、時期がく
れば、症状的には、外からはわからなくなります」と。

 親子の間に、確固たる信頼関係、これを「基本的信頼関係」と言うが、その信頼関係があれ
ば、子どもは、本来、赤ちゃん返りも起こさないし、ここでいう「遊離」も起こさない。その信頼関
係は、子どもが生後直後の0歳から1、2歳児前後までの間に確立される。

 何をしても許されるという絶対的な安心感。何をしても許すという絶対的な愛情。これが基盤
となって、その上に、「基本的信頼関係」が築かれる。「絶対的」というのは、「疑いすらもたな
い」という意味である。

 が、その信頼関係がゆらぐことがある。たとえば母親が、病気で入院したとか、何らかの事
情で、母親から、強制的に離されたとかなど。もちろん虐待や暴力、育児拒否や冷淡、無視な
どがあれば、信頼関係そのものが、築かれなくなる。

 このタイプの子どもは、他人とのかかわりが、たいへん苦手。集団の中に入っただけで、気
疲れを起こしてしまう。神経症による症状、たとえば自家中毒(嘔吐)や、爪かみ、夜尿、潔癖
症(手洗い)などの症状を示すことも多い。そこでこのタイプの子どもは、他人に対して、(1)攻
撃型になったり、(2)同情型になったり、(3)依存型になったり、(4)服従型になったりする。つ
まりそういう形で、自分の心を守ろうとする。

 先に書いた「いい子」というのは、いい子ぶることで、外の世界との摩擦や衝突を避けようと
する。だから、疲れる。本来の自分を、さらけ出して生きることができないからである。

 が、Nさんの子どもは、そうではない。ふだんは、明るく、伸びやかである。言いたい放題のこ
とを言い、したい放題のことをしている。一時的に、情緒が不安定になるが、その原因となる緊
張感は、愛情飢餓、もしくは弟への嫉妬が原因とみてよい。

私「幼児の指導を36年もしてくると、瞬間、幼児を見ただけで、その幼児には、どんな問題が
あり、これから先、どんな問題を引き起こすか、手に取るようにわかるものです。よくものに書く
ときは、『1時間も教えればわかる』と書きますが、本当は、瞬間です。それでわかります」
N「心配ないでしょうか……?」
私「心配ありません。が、むしろ心配なのは、お母さん自身が、今、そのように心配していること
です。子どもは、その心配ごとを、そのまま、受け継いでしまいます。つまりですね、『うちの子
は、不登校児になるのではないかしら?』と心配しているとですね、その心配を先取りする形
で、本当に不登校児になってしまいます。だから、そんなことは考えないこと。『うちの子は、だ
いじょうぶ』という安心感が、子どもの心を安定させます」と。

 こうした現象は、ユングが説いた、「シャドウ論」によっても、説明される。つまり親の心の陰に
できたシャドウは、ときとして、そのまま子どもの心になってしまうことがある。

 だから親は、まず、自分の子どもを信ずること。中には、「信じられない」とこぼす親もいるか
もしれないが、信ずること。「うちの子は、いい子だ」という思いが、子どもを伸ばす。子どもの
表情を明るくする。

私「ですから不登校のことは、もう考えないこと。私がだいじょうぶと言えば、だいじょうぶ。お子
さんが信じられなければ、私を信じなさい。それならできますね」
N「できます」
私「じゃあ、この問題は、もう解決したのも同然。あとは、私に任せなさい」と。

 Nさんは、そのまま帰っていった。しかしあえて一言。Nさんが、そこまで不安になるのは、Nさ
ん自身が、実は、Nさんの両親と、ここに書いた、「基本的信頼関係」と築いていないからとみ
てよい。理由はわからない。しかしNさん自身が、ひょっとしたら、不幸にして、不幸な乳幼児期
を経験している。そういうことはじゅうぶん、考えられる。

 この基本的信頼関係がなぜ重要かといえば、乳幼児期にできた親子の信頼関係が基本とな
って、つまりそれを応用する形で、その子どもは、幼稚園や保育園の先生との間に信頼関係を
築くことができる。さらに応用して、今度は、友人との間に、信頼関係を築くことができる。

 さらに夫や妻との間に、信頼関係を築くことができる。もちろん、今度は、生まれてきた子ども
との間に、信頼関係を築くことができる。だから「基本的」信頼関係という。

 言いかえると、Nさんがもちこんできた悩みというのは、実は、Nさんという母親自身にあると
いうことになる。その可能性は、きわめて高い。

 Nさんへ、またいつでも相談においでください。お待ちしています。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●親子の断絶


++++++++++++++++++++

高校2年生に娘との会話が、途切れて
2年になる。どうしたらいいかという
相談をもらった。

++++++++++++++++++++

 高校2年生になる娘との会話が途切れて、2年になる。どうしたらいいかという相談をもらっ
た。I県に住む、父親からのものだった。

 「今が、大切な時期で、もっと会話をふやさねばならないというあせりばかりを感ずる」「しかし
何を言っても、話を聞いてくれないばかりか、いつも一触即発の状態。娘はカッとなって、とき
に手当たり次第、そこらにあるものを、私に投げつける」「どうしたらいいか」と。

 断絶状態になると、ほとんどの親は、こう言う。「幼児のころは、いい子でした」「あのころの子
どもは、どこへ行ってしまったのでしょうか」と。

 しかし子どもは、どこへも行ってはいない。あなたのそばにいる。あなたのそばにいて、あな
たの助けを待っている。

 こう書くと、「エッ!」と思われる人も多いかもしれない。しかしあなたの子どもは、あなたのそ
ばにいる。子ども自身、自分でも、どうしたらよいかわからないでいる。が、もうひとりの(自分)
が、そのつど顔を出して、あなたに抵抗する。

 ここで誤解してはいけないことは、ほとんどの親は、「子どもが変わった」と言う。しかし子ども
は変わっていない。何も変わっていない。変わったのではなく、別の子どもが、ちょうど本当の
子どもをさえぎる形で、本来の子どもを、抑え込んでしまっていると考える。このことは、いわゆ
る(心のゆがんだ子ども)を観察していると、よくわかる。

 たとえば、ひがみやすい子ども、いじけやすい子ども、ねたみやすい子ども、つっぱりやすい
子どもなど。このタイプの子どもと話していると、もとの子どもの上に、もうひとり、別の子ども
が、のかかっているように感ずることがある。本来の子どもが、すなおに自分自身を出せなく
て、もがき苦しんでいるのを感ずることがある。

 「本当の私は、こうではない」「本当の私を、認めてほしい」と。

 人間の心は、そうは簡単に変わらない。変えようとして、変わるものでもない。変わったように
見えるのは、別の心が生まれ、本来の心を抑え込んだり、じゃましたりするからである。

 反対のこともよくある。たとえばもともと邪悪な心をもっていた人がいたとする。平気でウソを
つく。小ズルイことをする。そういう人が、あるときから、何かのきっかけで、善人ぽくなること
は、よくある。しかしそれで邪悪な心が消えるわけではない。邪悪な心は、そのまま残る。その
人が、一見、善人ぽく見えるようになるのは、その人自身が、もうひとつ別の心で、自分をコン
トロールするようになるからにほかならない。

 だからあなたの子どもは、そこにいる。そこにいて、あなたの助けを待っている。

 この相談をしてきた人のケースでも、(転載の許可がもらえなかったので、詳しくは書けない
が……)、父親としてすべきことがあるとするなら、一に忍耐、二に忍耐、三、四も忍耐というこ
とになる。

 相手は、あなたの子どもである。あなたがすべきことは、子どもが、幼いこどもだったころの
本来の子どもを信じ、静かに時の流れに身を任すことである。あせって、何かをすればするほ
ど、こういうケースでは逆効果。子どもは、ますますあなたから遠ざかっていく。静かに、時を待
つ。

 この年齢の子どもは、外からは計り知れないほど、複雑な心の葛藤(かっとう)を繰り返す。
将来への不安、心配、恐怖などなど。人間関係も複雑になる。そうした混乱を、ときには、すべ
て親にぶつけてくる。中には、「どうして私なんか、産んだのよ」と叫ぶ子どもさえいる。

 が、けっして、あせってはいけない。そっと見守る。暖かく見守る。この世界には、『暖かい無
視』という言葉がある。暖かく無視する。

 が、それでも何かを伝えなければならないことがあるとするなら、私は「トイレ通信」を勧め
る。

 これはトイレの中に、メモ用紙のようなものを置いて、たがいに連絡を取りあうという方法であ
る。「元気か? 快便か?」というメモでもよい。

 フロイトの肛門期説を応用した、通信方法である。人には、ちょうど便を外に排出したいとい
う本来的な願望があるように、心にたまったゴミを、外に吐き出したいという、本来的な願望が
ある。それをうまく利用する。わかりやすく言えば、ウンチをしたあとというのは、人は、すなお
に自分の心を表現できる。スッキリしたという快感が、そのまま、心をすなおにする。

 返事があってもなくても、かまわない。そのメモに、あなたは、あなたの「愛」を書きつづる。
「元気か」「無理するな」「困ったことはないか」など。

 効果がなくて、ダメもと。しかしこれをつづけていると、かたまった心も、やがてゆるんでくる。
そして子どものほうから、何かを書いてくるようになる。時期には個人差もあるだろうが、数か
月単位でつづけてみる。ぜひ、一度は、ためしてみてほしい。

 また親子の断絶が始まったら、『アルバムを部屋の中央に置く』(中日新聞掲載済み)という
方法もある。それについては、前にも書いたので、その原稿をこのあとに添付しておく。参考に
してほしい。

 要するに、乳幼児期の、あなたの子どもを信ずること。繰り返すが、あなたの子どもは、そこ
にいて、あなたの助けを待っている。

++++++++++++++++++++++

●アルバムをそばに置く

子どもがアルバムに自分の未来を見るとき

●成長する喜びを知る 

 おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成
長していく喜びを知る。それだけではない。

子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子
ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみ
れば、父親は父親であり、生まれながらにして父親なのだ。一方、自分の赤ん坊時代の写真
を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども(年長男児)もいた。

ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子どもは、まずいない。哺
乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いても、たいてい「知らな
い」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるのは、満四・五歳前後
からとみてよい(※)。

このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の概念がわかるようになる。それまでは、す
べて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日が、おととい」「明日の次の日が、あさって」
という概念は、年長児にならないとわからない。が、一度それがわかるようになると、あとは飛
躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解するのに役立つのが、アルバムということに
なる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な力がある。

●アルバムの不思議な力

 ある子ども(小5男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい
た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つま
りアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真
にとって残す人は、まずいない。

アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、それだけではない。冒頭に書いた
ように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見る。さらに父親や母親の子ども
時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようになる。それは子どもにとっては恐
ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、私はあのとき感じたショックを、
いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たときのことだ。「これがぼくの、母
ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだったと思う。

●アルバムをそばに置く

 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ
た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。
それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師
のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ
ているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあっ
た。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情を
しているのに、私は気がついた。

そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバムを置いてみるとよい。あなたもア
ルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。

※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィー
ク誌二〇〇〇年一二月)。

 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて
いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント
ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。

 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な
ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に
わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ
フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに
なる。

 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場
所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは
記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ
かりやすい。
(はやし浩司 アルバムの効用 トイレ通信 親子の断絶 会話のない親子 親子断絶)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(132)

●老人はどうあるべきか

++++++++++++++++

義理のいとこ(従兄弟)が、隣に住む
老人とのトラブルに、悩んでいる。

その話を、ワイフが、朝食のあと、私
にした。

++++++++++++++++

 老人の世界には、(まだらボケ)と言われる、ボケ方がある。ほどほどに正常なときと、そうで
ないときが、交互に、しかしランダムに、現れるという。そういうボケ方である。

 義理のいとこの名前を、N氏としておく。今年、42歳になる。そのN氏の隣に、今年80歳くら
いになる老夫婦が住んでいる。夫のほうは、定年で退職するまで、県の出先機関に勤めてい
たという。妻のほうは、ごく最近まで、市内で、ブテイックの店を経営していたという。隣に住む
老夫婦の夫を、X氏としておく。

 X氏には、娘が1人いたが、今は、兵庫県に住んでいる。結婚して以来、この浜松(静岡県)
へは、ほとんど戻ってこないという。

 そのX氏が、ことあるごとに、N氏に、苦情を訴えてくるという。「お前が、うちの植木鉢を倒し
た」「お前が、うちの塀を壊した」と。最近では、「お前が、除草剤をまいたから、うちの野菜が大
きく育たない」「お前の息子が石を投げたから、ガラスが割れた」と。さらに「うちの玄関に置い
ておいたサイフがなくなった。お前が持っていったのだろう」とも。

 もちろんN氏には、まったく身に覚えがない。そこであれこれと反論をすると、そのときは、結
構、まともなことを言うという。会って話している感じでは、ふつうの人に見えるという。しかしお
かしな点がないわけではない。

 たとえばN氏が、そうした苦情に立腹し、X氏の家に行くと、いつもX氏は、ニコニコと笑いなが
ら、まるで客でも来たかのように、N氏に応対するという。「こちらが怒っているということが、理
解できないようだ」と、N氏は言う。「自分がどういう状況に置かれているか、まるでわかってい
ないようだ」とも。

 まだらボケの老人が、近所の人に、「うちの息子が、私の金を盗んだ」「うちの嫁は、食事を
食べさせてくれない」などと言うという話は、よく耳にする。しかしその矛先(ほこさき)が、つまり
被害妄想の矛先が、他人に向くこともあるらしい。が、その矛先を向けられた他人こそ、えら
い、迷惑!

 相手がボケ老人とわかっていれば、それなりに対処もできる。が、このまだらボケという症状
は、ときにボケるというだけで、それがわからない。一応、ひとりで生活はできるし、言うことも、
まとも。理屈もしっかりと通っている。

 が、そのN氏にも、がまんできない事件が起きた。

 ある日、自宅の横の草を刈っていると、一か所、黒く燃えた部分があることに気づいた。50
センチ四方の大きさだったという。「まさか?」と思って見ると、明らかに放火したあとだった。1
メートル先には、N氏の自宅の物置小屋がある。そこへ火がつけば、そのまま家全体に、火が
燃え移っていたかもしれない。

 N氏は、放火だと思った、その直後に、「あのX氏のしわざ」と確信したという。それ以前にも、
こうした事件が、たてつづけに起きていたからである。

 夜中に牛乳ビンが投げつけられ、屋根瓦が割れた。
 小石が投げつけられ、駐車場のガラスが割られた。
 N氏の息子の自転車のタイヤに、前後、同時に穴をあけられた、などなど。

 が、しかしそのときは、放火だった。いたずらでは、すまされない。そこでN氏は、警察に電話
をした。N氏は、ワイフにこう話したという。

 「放火したというよりは、警察に調べてもらったら、どこかで焚き火をした燃えカスを、箱か何
かに入れてもってきたようですね。黒く炭になった木片の下をほじってみたら、枯れた草が出て
きました。

 が、ここが、老人の浅知恵というか、理由がよくわからないのですが、わざわざ、反対側に住
んでいる隣人の住所と名前の書いた、ハガキが横に並べてあるのです。つまり、放火を、反対
側に住んでいる隣人のしわざに見せかけようとしたのですね。

 ふつうなら、そんなこと、しないでしょう。そこでそのハガキを、その反対側に住む隣人に見せ
ましたら、そのハガキというのは、ゴミとして、捨てたものだということがわかりました。

 X氏は、そのゴミとなったハガキを拾ってきて、反対側に住む隣人のせいにしようとしたので
すね」と。

 が、この話には、つづきがある。

 X氏の妻は、ここにも書いたように、ごく最近まで、市内でブテイックの店を経営していた。そ
のせいか、体のほうは弱くなったが、頭のほうは、しっかりとしている。

 で、別の日、たまたまN氏が、そのX氏の妻に道で出会ったとき、X氏の妻を呼びとめ、こう話
したという。

 「このあたりに放火魔がいるという、うわさです。うちもやられました。どうか、お宅も気をつけ
てください」と。そして黒く燃えた部分を、その妻に見せた。しかし妻は、まさか自分の夫が、そ
んなことをしたとは思っていない。「こわいことですねえ」「うちも気をつけます」と言っていたとい
う。

 で、N氏は、こう話をつなげた。「実は警察にも来てもらい、現場を検証してもらいました。で
ね、燃えカスの中に、竹を燃やしたカスがあったというのですね。細い、笹竹という竹です。きっ
と犯人は、枯れた笹竹をもってきて、それを燃やしたのでしょうね」と。

 N氏は、X氏の裏庭に、その笹竹が生えていることを知っていた。X氏の妻もそれを知ってい
た。しかしX氏の妻は、何も反応を示さなかったという。

 が、ここからが、老人の浅知恵。

 それから数日後のこと。先の燃えカスのあった場所にN氏が行ってみると、あたり一面に、笹
竹をこまかく切った断片が、まいてあったという。だれが何のためにまいたかは、一目瞭然。X
氏は、自分の犯行であることを、ごまかすために、そのあたりに笹竹の断片をまいた。N氏は、
その放火が、X氏によるものだと、さらに確信した。

 しかし証拠がない。あれば、放火未遂で、X氏を訴追できる。……ということだが、相手は、老
人。頭のボケた老人。そんな老人を相手にしても、しかたない。

N氏は、ワイフにこう言ったという。「80歳もすぎて、そういうことをする老人がいるということ自
体、信じられません。老人といえば、人生の大先輩。大経験者。しかも老い先は、長くない。老
人には、老人らしい、もっと別の生き方があるはず」と。

有吉佐和子は、「恍惚の人」という本の中で、こう書いている。「長い人生を営々と歩んで来て、
その果てに老もうが待ち受けているとしたら、人間は何のために生きたことになるのだろう」
と。

 X氏の話は、まさにそれを改めて思い起こさせた。「人間は、何のために生きたことになるの
か」と。

 そこで重要なことは、ボケないように努力することも重要だが、人は、死ぬまで、日々、未来
に向かって、邁進(まいしん)していかねばならないということ。一日とて、怠ってはいけない。怠
ったとたん、その日を境に、その人の人格は、後退し始める。何度も書くが、それは健康論に
似ている。

 究極の健康法というものがないのと同じように、「悟りの境地」などというものは、ない。「悟っ
た」と、うぬぼれたとたん、その日を境に、その人の人格は、後退し始める。あの釈迦が、そう
言っている。「精進(しょうじん)」という言葉も、そこから生まれた。

 ワイフは、こう言った。「でも、そんなX氏のような人でも、死ねば、仏様ということになるのでし
ょう。おかしいわね」と。

 そう、大乗仏教では、そう教える。「死んだ人は、みな、仏」と。しかし本当に、そう考えてよい
のか。あるいはそういう考え方に甘えて、精進することを忘れてしまってよいのか。たとえばあ
なたの周囲にいる老人を、見回してみてほしい。

 中には、すばらしい老人もいる。人生の手本としたいような老人もいる。しかし残念なことに、
大半の老人たちは、そうではない。「年上である」というだけの権威主義にひたって、威張り散
らしている老人さえいる。ひょっとしたら、あなたの親だって、そうかもしれない。年をとれば、そ
れなりに人格の完成者になるというのは、幻想でしかない。むしろ、今の若い人たちより、つま
らない人間になっていく老人だって少なくない。

 大切なことは、そういう老人を見ながら、自分の老後のあり方を、学習していくことではない
か。どうあるべきなのか。また、どうあったらよいのか、と。ただX氏のばあいは、ボケという、本
人自身でも、どうにもならない問題をかかえ、X氏は、今のX氏になった。いくらがんばっても、
脳みそそのものが、うまく機能しなくなったら、おしまい? そういう問題もあるが、しかしそれで
も、前に向かって精進していく。私は、それが生きることではないかと思う。

+++++++++++++++++

ついでながら、ちょうど3年前に
書いた原稿を、ここに添付して
おきます。

+++++++++++++++++

【未来と過去】

●回顧と展望

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満55歳くらいを境にして、入れかわるという。ある
心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかしこれには、当然、
個人差がある。

 70歳になっても、あるいは80歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反対に、40
歳の人でも、30歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんどちらがよいとか、
悪いとかいうのではない。ただ満55歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が
半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど毎日、幼児
や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、な
い。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、
私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。10年後、あるいは20
年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしか
ない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※をいくら読
んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、天国の話はした
が、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏教典のほ
とんどは、釈迦滅後四、500年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてできた
経典である。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教で
ある。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あればもうけも
の」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわからないが、私には見
たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなもの
を、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手に
しない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。大きな正義を貫く勇気も、度
胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づ
けないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。それしかな
い。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。体力や気力
が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむ
ようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉に
ぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そう
いう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進
することこそ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。わかりやすく言えば、仏の境地な
ど、ないということになる。そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私も
そう思う。人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。過去で
はない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

++++++++++++++++++++++++

前向きの人生、うしろ向きの人生

●うしろ向きに生きる女性

 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そ
うなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしでき
るなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(70歳)が
いた。その15年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だ
った。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を五人ほ
ど雇うほどまでになった。が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあっ
て、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父
がなくなってから2年後に他界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をして
いた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の
娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば
二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したとい
う。「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。値段も、2000円とか3000円
とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの

 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大
波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければ
ないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわか
らなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意
味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。
読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がい
る。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、
いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだ
というのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演を
させてもらったが、その会を主宰している女性が、80歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療
費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚
いた。「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。
「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばら
しい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそうい
う航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そ
してそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば
少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その
波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾

 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向き
になる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまで
も信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなけれ
ば、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって
説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとした
ら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別
の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間にな
るということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、
今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもた
らしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなか
ったのかということになる。数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数1
0万年など、マバタキのようなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビル
が建つ。しかし数10万円では、パソコン1台しか買えない。数億年と数10万年の違いは大き
い。モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか5000年〜6000年
ほど前のこと。たったの6000年である。それ以前の数10万年の間、私たちがいう神はいっ
たい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているので
はない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多
い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。そしてそ
の論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、
あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある

 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといっ
て、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に百歩譲って、神や仏に、奇跡を起こす
ようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではな
い。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパ
ダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわからな
いが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどう
かを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そ
こに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎
晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性70歳)も、その1人と言ってもよい。同じようなことは
子どもたちの世界でも、よく経験する。たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と
泣きついてくる親や子どもがいる。そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。いわ
んや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが…
…)、さらに困る。もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。
不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論

 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。
「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言っ
たのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(75歳くらい)だった。が、何も私は、そういう女
性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその女性に向かって、「そうい
う生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生きザマは生きザマとして、
尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言っては
ならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずす
ようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。何ら
かのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言
ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どう
すれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生き
なくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?

 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、
人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人
生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、
毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私
とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うな
ら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をくいし
ばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世
界に、吹き飛ばされてしまう。しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値
もそこから生まれる。もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそ
こから生まれる。……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢

 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく
気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察す
る。先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる
目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考
えているのだろう」と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまで
わかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題か
ら逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと
考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャに
なったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。人は年齢とともに、よ
り賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。愚かになるだけならまだしも、古
い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か
自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世
界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなけ
れば、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん

 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々
に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進
(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始
める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、
その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(030613)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(133)

●インターネットの世界

+++++++++++++++++

またまた新しい、ウィルスが発生している。
「ボット」というウィルスだそうだ。
「ロボット」の「ボット」をとって、
「ボット」となった。

パソコン雑誌(YOMIURI・PC)によれば、
すでに日本でも、40台のうち、1台は
感染しているという(06・4月号)。

しかしこのボット、ふつうの悪(ワル)ではない。

++++++++++++++++++

 ウィルスというのは、おおまかに言えば、愉快犯がおもしろ半分につくるウィルスと、何か別の
目的をもったウィルスの、2種類に分類することができる。しかし今回発見された、「ボット」と呼
ばれるウィルスは、ズバリ、金もうけ!

 パソコンの中に潜み、遠隔操作で、そのパソコンを自由に操るというという。ファイルを破壊し
たりするような、派手なことはしない。だから自分のパソコンの中に、「ボット」が侵入していて
も、それに気づく人はいない。

 しかし安心するのは、早い。このボットの目的は、ここにも書いたように、金もうけ。個人のク
レジットカードの番号や、銀行の通帳で使う、暗証番号などを盗んだりする。しかも直接盗むの
ではなく、だれかのパソコンを、自分のロボットのようにして、遠隔操作をしながら盗む。

 背後には、巨大な犯罪組織がからんでいるという説もある。雑誌によれば、ネットマフィアが、
流通させているとのこと。その犯罪組織が、巨額な資金を投じて、ここでいうボットを、開発した
らしい。その上、すでに、このボットでつくりあげたシンジゲートが、別の犯罪者集団に、時間貸
しの形で、売買されているという。そういう点でも、今度のボットは、今までのウィルスとは、異
質のものと考えてよい。

 あえて言うなら、トロイの木馬に、スパイウィルスをしのばせたようなウィルスということか。

 しかも、だ。この日本では、すでに、40台のパソコンのうち、1台が感染しているという。これ
はものすごい数といってよい。日本だけでも、すでに50万台が感染していることになる(同、Y
OMIURI・PC)。

 では、そのボットに対して、私たちは、どうやって自分のパソコンを守ればよいのかということ
になる。

 第一にしなければならないことは、(1)アンチウィルスのソフトを導入し、常にUPDATEする
こと。(2)ウィルス検査を、少なくとも週に1度は、実行すること。(3)あやしげなメールは、絶対
に開かないこと。(4)あやしげなサイトは、絶対に見ないこと。とくにスケベサイト、犯罪サイト
は、見ないこと。(5)ウィルス検査だけではなく、スパイウエア検査も、常時すること。もちろん
WIDOWSのUPDATEも忘れてはならない。

 このボットについて言えば、「犯人は、チャットサービスを使って、ボットに遠隔操作のコマンド
を打ち込みます。被害者のパソコンをネット経由で、自由自在にコントロールするのです」(同
誌)ということだそうだ。つまりチャットがあぶないということか?

 これから先も、このボットにかぎらず、さらに巧妙かつ悪質なウィルスが開発されるというか、
生まれてくることだろう。

 そこでインターネットの先進国のオーストラリアでは、どうしているか。オーストラリアの友人に
話を聞くと、こう教えてくれた。(1)パソコンの使い分けは、常識。(2)インターネットで使うクレ
ジットカードは、インターネット専用の別の、小額のものにするのは、常識、ということだった。

 それにしてもまあ、よくもこうまでつぎつぎと、新手の悪が生まれるものだ。ウィルスに始まっ
て、ワーム、トロイの木馬、スパイウエア、アドウエア、クラックツール、それにボット。つい先日
まで、フィッシング詐欺が問題になっていたが、今度は、ボット!

 インターネットは便利だが、その便利さの陰で、今のこの瞬間にも、世界の悪たちが、私たち
をねらっている。

 みなさん、気をつけましょう!

(私のばあい)

(1)パソコンを使い分けている。とくにHP制作用のパソコンには、ウィルスが入らないように、
細心の注意を払っている。
(2)プロバイダーのウィルスチェックサービスに加入し、さらにパソコンごとに、アンチウィルス
ソフトを導入している。
(3)数か月前からは、スパイウエア駆除ツールを導入している。
(4)1〜2週間ごとに、ウィルスチェックを繰りかえしている。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●夫婦、そして離婚

+++++++++++++++++

離婚の最大原因といえば、
(1)不倫、(2)借金、(3)暴力。
この3つ。

言いかえると、この3つがなければ、
夫婦は夫婦として、まだがんばれる。

+++++++++++++++++

 私たち夫婦も、過去において、何度か離婚の危機に立たされたことがある。しかしそのつど、
結局は、離婚しなかったのは、たがいに離婚をすれば、何も残らないことを知っていたからで
ある。

 名誉も、地位も、それに金もない。わかりやすく言えば、私のような貧乏人が離婚して、どうな
る? 家族しかいない私たち夫婦が、離婚して、どうなる? 何が残る?

 離婚の危機に立たされるたびに、私は、こう考えた。「このままのほうが、まだ、まし」と。離婚
したからといって、それで問題が解決するわけではない。今以上に、状況がよくなるわけでもな
い。むしろ、状況は、かえって複雑になるだけ。悪くなるだけ。「だったら、離婚はしない」と。

 が、そのつど、もし、どちらかに、不倫、借金、暴力があれば、状況は、おのずと変わってい
ただろう。とくに不倫は、たがいの信頼関係を、粉々に破壊する。絶対的な安心感があっては
じめて、夫婦は、夫婦でいられる。家族は、家族でいられる。「絶対的」というのは、「疑いすら
いだかない」という意味である。

 が、一度、どちらかが不倫をすると、そうはいかない。そのときから、たがいに、たがいを疑っ
てみるようになる。こんな事例がある。

 その男性は、最初の妻と、恋愛の末、結婚した。最初の妻を、妻Aとしておく。しかし5年も過
ぎるころから、その男性は、職場の女性と不倫関係になった。そしてしばらくの間、離婚騒動を
繰りかえしのち、最初の妻とは離婚。しばらくして、その職場で知りあった女性と再婚。再婚し
た女性を、妻Bとしておく。

 よくある話である。

 で、その妻Bであるが、それでめでたしめでたしというわけにはいかない。夫は、相変わら
ず、同じ職場で働いている。その職場にいる夫から、たとえば「今夜は、残業で遅くなる」という
電話が、かかってきたとする。それだけで、妻Bは、不安になる。

 それもそのはず。自分たちが不倫関係にあったとき、夫が、妻Aに、そう言って電話をかけて
いたのを、何度も耳にしていたからである。妻Bは、「もしや……?」と思い、不安になる。夫
が、出張ともなれば、なおさらである。不倫関係にあったとき、夫の出張にあわせて、妻Bも、
会社を休み、夫と、よく旅行をした。

 つまり妻Bは、妻Aから「妻の座」を奪ったそのときから、今度は、自分が、妻Aの立場に立た
されることになった。

 ここでいう夫婦の信頼関係というのは、そういうものをいう。妻Bにしてみれば、自分の夫は、
かつては、そういう形で、妻Aをだましていた。だから自分が妻になったからといって、それで安
心はできない。妻Bが、「ひょっとしたら、夫に、また新しい愛人ができたのでは……?」と疑う
ようになったとしても、何も、おかしくはない。

 しかしこの不信感が、実は、シャドウとなって、夫婦の中にキレツを入れるようになる。妻Bの
頭の中に、「離婚」という言葉が横切るようになったら、もうおしまい。あっという間に、離婚は、
現実のものとなる。

 夫の側からそれを考えれば、よくわかる。

 妻Bは、夫を疑っている。夫が、「残業だよ、残業。本当に残業だよ」「浮気じゃないよ」と言っ
たところで、妻Bは、それを信用しない。つまりこの時点で、たがいの心の間に、かたくて厚い
壁ができる。その壁が、夫を遠ざける。

 だから、こういう形で、離婚した夫婦(とくに男性)は、やがて離婚、再婚を繰りかえすようにな
る。私が知っている、ある医師は、この10年の間に、3回も、結婚、離婚を繰りかえしている。
(3回だぞ!)現在の妻は、同じ病院で働いていた元看護婦。4人目の妻である。

 心理学の世界では、マザコンタイプの男性ほど、結婚生活は、長つづきしないと言われてい
る。それはマザコン的であるためというよりは、常に、妻の中に、マドンナ的な理想像を求める
ためと考えられている。

 しかし理想的な女性など、いない。自分の母に代わるような女性など、いない。どんなことをし
ても、許してくれる、そんな女性など、いない。だからこのタイプの男性は、やがて、理想の女性
を求めて、女性から女性へと、渡り歩くようになる。結果的に、浮気しやすくなり、離婚しやすく
なる。

 話がそれたが、夫婦の間の信頼関係などとういうものは、簡単にはできない。「愛している」
「愛しているわよ」と言いあう程度では、できない。それこそ血がにじみ出るような苦労を共にし
て、はじめて、できる。

 こと浮気心について言えば、それはだれにでもある。ない人は、いない。私にだって、ある。
雑誌や映画で見かけた男性や女性、街でかいま見た男性や女性。そういう人たちに浮気心を
いだくことは、よくある。

 しかしある年齢に達すると、そういう女性と、体をこすりあわせてみたいという欲望よりも、そ
の切なさを、楽しむようになる。そう、それは実に切ない。心の中で、「あなたを抱いてみたい」
といくら思っても、それを口にすることはできない。そ知らぬ表情を浮かべながら、そのままだ
まって見送る。その切なさが、また、たまらない。

 では、どうすればよいのか?

 答は簡単。ほどほどのところで、あきらめればよい。「まあ、こんなものだ」と納得すればよ
い。夫や妻に、たいしたものを求めたところで、どうしようもない。割り切るところは割り切る。あ
とは、たがいに好き勝手なことをして生きればよい。

 それが夫婦ではないのか。

 そうそう、私のワイフは、いつもこう言っている。「あなたね、あなたがだれかとの浮気を想像
するのは、あなたの勝手だけど、相手の女性にも、男性を選ぶ権利があるのよ。それがわか
っているの!」と。

 ハイ、まさにそのとおり。

++++++++++++++++++

少し前に書いた、原稿を、ここに
添付しておきます。

マザコンタイプの男性は、浮気しやすい?

そんな視点で、もう一度、あなた自身(夫)を
観察してみては、どうでしょうか?

++++++++++++++++++

●聖母か娼婦か?

 女性は、元来、聖母か娼婦か。どちらか。ただし、聖母のように見えても、決して、聖母とは
思ってはいけない。一人の女性が、相手に応じて、聖母になったり、娼婦になったりする。

 だから見た目には、つまり男によっては、その女性は、聖母にも見えることがあるし、娼婦に
見えることもある。わかりやすく言えば、男しだいということ。

 若いころ、こんな経験をした。高校を卒業してから、まもなくのことだった。

 私には、その女性(Aさんとしておく)は、聖母に見えた。高校時代、隣のクラスの女の子だっ
た。おしとやかで、恥ずかしがり屋だった。その上、理知的で、分別もある人に見えた。が、そ
の女性が、別の世界では、まったくの別人? 男を、まさにとっかえひっかえ、遊んでいた!

 ある友人が、こう言った。「あのな、林、あのAさんな、高校生のとき、草むらで、男とセックス
をしていたぞ。自転車で家へ帰るとき、オレ、見てしまったぞ」と。

 私が驚いて、「そんなことあるかア!」と言うと、その友人は、「ウソじゃない。オレは、ちゃんと
見た」と。

 それでも私は、信じなかった。「きっと見まちがえたのだろう」とか、「何か、ほかのことをして
いたのだろう」とか。「Aさんではなかったのかもしれない」とも。

 しかしそれから20年くらいたってからのこと。別の友人が、こう言った。「ぼくは、あのAさん
と、高校3年生のとき、つきあっていた。そのとき、Aさんは、すでに処女ではなかった」と。

 私は「ヘエ〜」としか、言いようがなかった。私がAさんにもっていたイメージとは、あまりにも、
かけ離れていたからだ。

私「女って、わからないものだあ」
友「お前は、Aさんをどう思っていたんだ?」
私「とにかく、信じられない。ぼくにとってAさんというのは、マドンナだった」
友「あのAさんが、マドンナだったってエ? お前は、いったい、Aさんの、どこを見ていたんだ
い?」
私「そう、ぼくには、マザコン的なところがあるからな」と。

 一般論として、マザコンタイプの男は、女性に、理想像を求める。そして好意を寄せる女性
を、マドンナ化する傾向が強い。日本語で言えば、聖母化する。(マドンナのことを、聖母とい
う。少しニュアンスがちがうような気もするが……。)

 聖母化するのは、その人の勝手だが、聖母化された女性のほうは、たまらない。とくに夫に
聖母化されると、妻は、困る。これもまた一般論だが、マザコンタイプの男性は、離婚率が高い
という。もちろん浮気率も高いという。

 1990年に発表されたキンゼイ報告によれば、アメリカ人のうち、37%の夫が、少なくとも、
1回以上の浮気をしているという。この数字を多いとみるとか、少ないとみるか。日本には、宗
教的制約がないから、日本人の夫の浮気は、もう少し、多いのではないか。

 それはともかくも、マザコンタイプの男性は、理想の(?)女性を求めて、つぎからつぎへと、
女性を渡りあるく傾向が強い。新しい女性とつきあっては、「こんなはずではなかった」「この女
性は、ぼくの理想の女性ではない」と。だから離婚しやすい。浮気しやすい。(多分?)

 要するに、女性を聖母化するというのは、それ自体が、マザコン性のあらわれとみてよい。こ
のタイプの男性は、肉欲的な荒々しい性的関係を結ぶことができない。女性を聖母化する分だ
け、成熟したおとなの関係を結ぶことができない。

 で、問題は、まだつづく。

 さらに一般論として、女性は、自分がどう見られているかを敏感に察知し、その見られている
自分を、男の前で演ずることがある。

 「聖母に見られている」と感じたとたん、その人の前では、聖母のように振る舞うなど。つまり
Aさんは、私の前では、聖母を演じていただけ? しかしそう考えると、すべて、つじつまが合
う。

 が、これは私自身の問題でもある。

 私は、ここにも書いたように、かなりマザコンタイプの人間だった。母親を絶対化する分だ
け、若いとき、私とつきあう女性にも、それを求めた。私と結婚したワイフでさえ、あるとき、私
にこう言った。

 「私は、あんたの母親じゃないのよ!」「あんたの母親のかわりは、できないのよ!」と。

 そのときはなぜワイフがそう言ったのか、その意味がわからなかった。しかし当時の私は、ワ
イフに、いつも、女性としての完ぺきさを求めていたように思う。

 そこであなたの(あなたの夫の)マザコン度チェック!

(  )あなたは妻に、いつも完ぺきな女性であることを求める。(あなたの夫は、あなたに完ぺ
きな妻であることを求める。)
(  )あなたはいつも、女性に、母親的な女性像を求める。(あなたの夫は、あなたに母親的な
女性像を求める。)
(  )あなたは妻に、動物的な妻であることを許さない。(あなたの夫は、あなたに動物的な妻
であることを許さない。)
(  )あなたは、いつも妻に、完全に受けいれられていないと気がすまない。(あなたの夫は、
あなたに完全に受け入れられている状態を求める。)
(  )あなたは妻に、かつてあなたの母親がしてくれたことと同じことを、求めることが多い。
(あなたの夫は、夫の母親が夫にしたことと同じことを求めることが多い。)

 要するに、妻を聖母化するということは、その夫自身が、マザコンであるという証拠。(……
と、言い切るのは危険なことだが、それほど、まちがってはいない。)

ワイフ「本人自身は、それに気づいているのかしら?」
私「さあね。たぶん、気がついていないだろうね。マザコンタイプの人は、そうであること自体、
親思いのいい息子と考えているから」
ワイフ「でも、そんな夫をもったら、奥さんも、たいへんね」
私「お前も、苦労したな」
ワイフ「ホント!」(ハハハハ)と。

 人生も半世紀以上生きてみると、いろいろなことがわかるようになる。男も女も、ちがわない
というのも、その一つ。どこもちがわない。この世の中には、聖母も娼婦もいない。みんな、そ
のフリをしているだけ。そうでないフリをしているだけ。

 だからこの議論そのものが、意味がない。男性に、聖人も、男娼もいないように、女性にも、
聖母も娼婦もいない。……ということで、この話は、おしまい。

●女性とおとなのセックスができない男性

 概して言えば、日本の男性は、総じて、マザコン的? 母系社会というより、母子関係の是正
をしないまま、子どもは、おとなになる。つまり父性社会の欠落?

 よい例が、ストリップ劇場。私も若いころは、ときどき(ときどきだぞ!)、見にいったことがあ
る。

 日本のストリップ劇場では、中央の舞台で、裸の女性が、服を一枚ずつ脱ぎながら、なまめ
かしく踊る。観客の男たちは、それを見ながら、薄暗い客席で、シコシコとペニスをマッサージ
する。

 この関係が、実にマザコン的? 女がほしかったら、「ほしい」と言って、飛びついていけばよ
い。セックスをしたかったら、「したい」と言って、飛びついていけばよい。

 が、舞台の女性に、「あんた、ここへあがってきなさいよ。抜いてあげるからさア」と声をかけ
られても、その場で、照れて見せるだけ。どうも、はっきりしない。そのはっきりしないところが、
マザコン的?

 マザコンの特徴は、女性を美化し、絶対化するところにある。あるいは母親としての理想像
を、相手の女性や妻に求める。そのため女性の肉体は、おそれおおい存在となる?

 ……という心理は、私にはよく理解できないが、多分、そうではないか。このことは、子どもた
ちの世界を見ていると、よくわかる。

 数は少なくなったが、今でも、雄々しい男の子というのは、いるにはいる。(反対に、ナヨナヨ
した男の子は、多いというより、ほとんどが、そう。)そういう男の子は、女の子に対して、ストレ
ート。こんなことがあった。

 私が、何かのきっかけで、「騒いでいるヤツは、ハサミでチンチンを切るぞ」と言ったときのこ
と。一人の女の子(小5)が、すかさずこう言った。「私には、チンチンなんて、ないもんね」と。

 それを聞いた別の男の子(小5)が、「何、言ってるんだ。お前らには、クリトリスがあるだ
ろ!」と。

 私はこのやりあいには、驚いた。「今どきの子どもは……!」と。

 しかし思い出してみると、私たちが子どものころには、そういう言葉こそ知らなかったが、相手
に対して、今の子どもよりは、ものごとをストレートに表現していたと思う。「おい、セックスをさ
せろ」というなことまでは言わなかったが、それに近い言葉を言っていたように思う。

 だから同じ男として、「お前らには、クリトリスがあるだろ!」と言いかえす男の子のほうが、好
きと言えば、好き。一応、たしなめるが、それは立場上、そうしているだけ。

 そういえば、マザコン的といえば、マザコン的? かなり昔、こんなことを言う男子高校生がい
た。その高校生は、ま顔で、私にこう言った。

 「先生、ぼくの彼女ね、本当にウンチをするのかねエ?」と。

 その高校生に言わせれば、「彼女は、ウンチをしない」とのこと。そこで私が「じゃあ、彼女
は、何を食べているの?」と聞くと、「ごはんだけど、彼女は、ウンチをしないと思う」と。

 また反対に、こんなことを言う男子高校生もいた。

 「先生、ぼく、B・シールズ(当時のアメリカの大女優)のウンチなら、みんなの前で食べてみせ
ることができる」と。

 彼は、そのブルック・シールズの熱狂的なファンだった。

 こうして考えてみると、初恋時には、男はみな、多かれ少なかれ、マザコン的になるのか? 
あるいはプラトニック・ラブを、そのままマザコンと結びつけて考えることのほうが、そもそも、お
かしいのか?

 ただ、こういうことは言える。

 マザコンタイプの男性ほど、その女性のすべてを受け入れる前に、自分をすべて受け入れて
くれる女性を求める。そしてその女性に、母親的な完ぺき性を求めて、その女性を追いつめや
すい、と。

 恋人関係ならまだしも、結婚生活となると、ことは深刻。いろいろ問題が起きてくる。離婚率
や浮気率が高いという説があるのも、その一つ。

 それについてワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

「夫がマザコン的だと、奥さんも、疲れるわよ。夫が望むような妻にならなければならないから」
と。

私「夫がマザコンだと、離婚率が高いという説があるよ」
ワイフ「当然でしょうね。そんな男と、生活するのは、たいへんよ」
私「妻より、母親のほうが大切と考えている男性も、多いよ」
ワイフ「だったら、母親と結婚すればいいのよ」
私「ワア、それこそ、マザコンだあ」と。

 そういう意味でも、母親は、ある時期がきたら、子どもを、自分から切り離していかねばなら
ない。いつまでも、濃密な母子関係に溺れていると、子ども自身が、自立できなくなってしまう。

 本来なら、父親が、母子関係に割ってはいり、その母子関係を調整しなければならない。が、
今、その父親不在の家庭が多い。あるいは、父親自身が、マザコン的であるというケースも、
少なくない。

 最後に、タイトルに、「女性とおとなのセックスができない男性」と書いたので、一言。

 もう10年近くも前になるだろうか。中学3年生になったばかりの女の子が、私に、こう言っ
た。

 「先生、あんな男とは、もう別れた」と。その中学生には、ボーイフレンドがいた。そこで私が
理由を聞くと、こう言った。

 「だって、先生、3回もデートしたけど、何もしてくれないのよ」と。

私「何もしてくれないって?」
中学生「手も、握ってくれないのよ」
私「で、君は、どんなことをしてほしいと思っていたの?」
中学生「ふふふ。わかっているくせに……」と。

 性的な男女交際を奨励するわけではないが、私はその話を聞きながら、そのときは、「だらし
ない男もいるものだ」と思った。
(はやし浩司 マザコン 聖母 マドンナ 離婚率 離婚 不倫 浮気)


Hiroshi Hayashi+++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(134)

●顔のない自分

++++++++++++++++

だれしも、自分の顔がほしい。
その顔を求めて、自分を模索する。

地位でも名誉でも財産でもよい。
あるいは、自分の過去でも先祖でもよい。

顔があれば、人から無視されることもない。
それなりの人と、認めてもらうことができる。
しかし、もし、自分から、その顔がなくなったら……。

++++++++++++++++

 非行少年と呼ばれる子どもたちがいる。しかしその非行少年から、「非行」を奪ってしまった
ら、その少年は、(もちろん少女も)、どうやって生きていけばよいのか。勉強もダメ。運動もダ
メ。彼らは、非行を繰りかえすことで、自分の顔、つまり存在感をつくっている。

 だからそういう子どもに向かって、「あなたはそんなことをすれば、みなから嫌われるだけだ」
と、諭(さと)しても、意味はない。彼らは、嫌われたり、恐れられることによって、自分の顔を保
とうとする。

 ……という話は、何度も書いてきた。顔のない子どもは、ここに書いたように、(1)攻撃的に
なるタイプ、(2)同情を求めるタイプ、(3)依存的になるタイプ、(4)服従的になるタイプなどに
分類される。

 実は、おとなもそうで、わかりやすい例で言えば、カルト教団がある。

 ふつうカルト教団の内部では、信者たちは、指導者に対して、徹底した服従を誓う。誓うとい
うより、日ごろの信仰活動を通して、そう教えこまれる。しかしそれは信者にとっては、甘美な
世界でもある。徹底した服従と引きかえに、信者たちは、完全な保護を手に入れる。神でも仏
でもよいが、そうした絶対的なものに包まれる。

 で、ときどき、ふと、こう思う。あのK国だが、あのK国の国民たちは、飢餓状態にありながら
も、結構、心の中は、平安ではないか、と。何でもかんでも、その頂点にいる金xxにすべてを預
けることによって、自分自身は、何も考えなくてすむ。仕事をするときも、何かの勉強をするとき
も、「金xx様のため」と、心に念ずればよい。それで心が、ずっと軽くなる。

 つまり彼らは、「服従という顔」「依存という顔」をもつ。カルト教団の内部の人たちは、本当に
仲がよい。信じられないほど、仲がよい。信者どうしが、ときとして、兄弟以上の兄弟、親子以
上の親子になることがある。この親密感こそが、カルトの魅力でもある。

 同じように、暴走族のグループを見てみよう。外からの様子はともかくも、内部の仲間たち
は、仲がよい。団結力も強い。外の世界以上に、そこには、暖かい温もりもある。彼らは彼らな
りに、たがいを守りあうことで、自分の顔をもとうとする。

 そこで、では、私はどうかと考える。私には、顔があるか。あるとするなら、それはどういう顔
か、と。

 実のところ、最近、その顔が、どんどんと小さくなっていくのを感ずる。こうして文を、毎日、ヒ
マを見つけては書いているが、それは同時に、「こんなことをしていて、何になるのだろう」とい
う迷いとの戦いでもある。少し前のことだが、こうメールで書いてきた人がいる。

 「自己満足のためだけに書いて、何になる。君の書いている文章など、学問的には、一片の
価値もない」と。

 事実そのとおりだから、反論のしようがない。また反対の立場だったら、私も、そう思っただろ
う。そういってきた人は、「林君、君のために、あえて言う」と、冒頭に書いていた。私を非難す
るというよりは、親切心から、そう言った。

 私には、学者としての顔は、ない。まったくない。名誉も地位もない。そればかりか、このとこ
ろ、知力の衰えを、よく感ずる。「今さら……」というあきらめの念も、生まれてきた。

 そういう私だから、もし今、若ければ、私は、攻撃的な方法で、自分の顔をつくろうとしたかも
しれない。はっきり言えば、非行少年たちの心が、手に取るようにわかる。理解できる。

 ここまで書いて、また、あの尾崎豊を思い出した。「♪卒業」という歌を思い出した。つぎの原
稿(中日新聞発表済み)は、その「♪卒業」について、書いたものである。

++++++++++++++++++++

若者たちが社会に反抗するとき 

●尾崎豊の「卒業」論

学校以外に学校はなく、学校を離れて道はない。そんな息苦しさを、尾崎豊は、『卒業』の中で
こう歌った。「♪……チャイムが鳴り、教室のいつもの席に座り、何に従い、従うべきか考えて
いた」と。「人間は自由だ」と叫んでも、それは「♪しくまれた自由」にすぎない。現実にはコース
があり、そのコースに逆らえば逆らったで、負け犬のレッテルを張られてしまう。尾崎はそれ
を、「♪幻とリアルな気持ち」と表現した。

宇宙飛行士のM氏は、勝ち誇ったようにこう言った。「子どもたちよ、夢をもて」と。しかし夢をも
てばもったで、苦しむのは、子どもたち自身ではないのか。つまずくことすら許されない。ほん
の一部の、M氏のような人間選別をうまくくぐり抜けた人だけが、そこそこの夢をかなえること
ができる。大半の子どもはその過程で、あがき、もがき、挫折する。尾崎はこう続ける。「♪放
課後街ふらつき、俺たちは風の中。孤独、瞳に浮かべ、寂しく歩いた」と。

●若者たちの声なき反抗

 日本人は弱者の立場でものを考えるのが苦手。目が上ばかり向いている。たとえば茶パツ、
腰パン姿の学生を、「落ちこぼれ」と決めてかかる。しかし彼らとて精一杯、自己主張している
だけだ。それがだめだというなら、彼らにはほかに、どんな方法があるというのか。そういう弱
者に向かって、服装を正せと言っても、無理。尾崎もこう歌う。「♪行儀よくまじめなんてできや
しなかった」と。彼にしてみれば、それは「♪信じられぬおとなとの争い」でもあった。

実際この世の中、偽善が満ちあふれている。年俸が二億円もあるようなニュースキャスター
が、「不況で生活がたいへんです」と顔をしかめて見せる。いつもは豪華な衣装を身につけて
いるテレビタレントが、別のところで、涙ながらに難民への寄金を訴える。こういうのを見せつ
けられると、この私だってまじめに生きるのがバカらしくなる。そこで尾崎はそのホコ先を、学
校に向ける。「♪夜の校舎、窓ガラス壊して回った……」と。もちろん窓ガラスを壊すという行為
は、許されるべき行為ではない。が、それ以外に方法が思いつかなかったのだろう。いや、そ
の前にこういう若者の行為を、誰が「石もて、打てる」のか。

●CDとシングル盤だけで200万枚以上!

 この「卒業」は、空前のヒット曲になった。CDとシングル盤だけで、200万枚を超えた(CBS
ソニー広報部、現在のソニーME)。「カセットになったのや、アルバムの中に収録されたものも
含めると、さらに多くなります」とのこと。この数字こそが、現代の教育に対する、若者たちの、
まさに声なき抗議とみるべきではないのか。

(付記)

●日本は超管理型社会

 最近の中学生たちは、尾崎豊をもうすでに知らない。そこで私はこの歌を説明したあと、中学
生たちに「夢」を語ってもらった。私が「君たちの夢は何か」と聞くと、まず一人の中学生(中2女
子)がこう言った。「ない」と。

「おとなになってからしたいことはないのか」と聞くと、「それもない」と。「どうして?」と聞くと、「ど
うせ実現しないから」と。もう1人の中学生(中2男子)は、「それよりもお金がほしい」と言った。
そこで私が、「では、今ここに1億円があったとする。それが君のお金になったらどうする?」と
聞くと、こう言った。

「毎日、机の上に置いてながめている」と。ほかに5人の中学生がいたが、皆、ほぼ同じ意見だ
った。今の子どもたちは、自分の将来について、明るい展望をもてなくなっているとみてよい。
このことは内閣府の「青少年の生活と意識に関する基本調査」(2001年)でもわかる。

 15〜17歳の若者でみたとき、「日本の将来の見とおしが、よくなっている」と答えたのが、4
1・8%、「悪くなっている」と答えたのが、46・6%だそうだ。

●超の上に「超」がつく管理社会

 日本の社会は、アメリカと比べても、超の上に「超」がつく超管理社会。アメリカのリトルロック
(アーカンソー州の州都)という町の近くでタクシーに乗ったときのこと(01年4月)。タクシーに
はメーターはついていなかった。料金は乗る前に、運転手と話しあって決める。しかも運転して
くれたのは、いつも運転手をしている女性の夫だった。「今日は妻は、ほかの予約で来られな
いから……」と。

 社会は管理されればされるほど、それを管理する側にとっては便利な世界かもしれないが、
一方ですき間をつぶす。そのすき間がなくなった分だけ、息苦しい社会になる。息苦しいだけな
らまだしも、社会から生きる活力そのものを奪う。尾崎豊の「卒業」は、そういう超管理社会に
対する、若者の抗議の歌と考えてよい。

(参考)

●新聞の投書より

 ただ一般世間の人の、生徒の服装に対する目には、まだまだきびしいものがある。中日新
聞が、「生徒の服装の乱れ」についてどう思うかという投書コーナーをもうけたところ、一一人の
人からいろいろな投書が寄せられていた(二〇〇一年八月静岡県版)。それをまとめると、次
のようであった。

女子学生の服装の乱れに猛反発     ……8人
やや理解を示しつつも大反発      ……3人
こうした女子高校生に理解を示した人  ……0人

投書の内容は次のようなものであった。

☆「短いスカート、何か対処法を」……学校の校則はどうなっている? きびしく取り締まってほ
しい。(65歳主婦)
☆「学校の現状に歯がゆい」……人に迷惑をかけなければ何をしてもよいのか。誠意と愛情を
もって、周囲の者が注意すべき。(40歳女性)
☆「同じ立場でもあきれる」……恥ずかしくないかっこうをしなさい。あきれるばかり。(16歳女
子高校生)
☆「過激なミニは、健康面でも問題」……思春期の女性に、ふさわしくない。(61歳女性)

●学校教育法の改正

 校内暴力に関して、学校教育法が2001年、次のように改定された(第26条)。
 次のような性行不良行為が繰り返しあり、他の児童の教育に妨げがあると認められるとき
は、その児童に出席停止を命ずることができる。

一、他の児童に傷害、心身の苦痛または財産上の損失を与える行為。
二、職員に傷害または心身の苦痛を与える行為。
三、施設または設備を損壊する行為。
四、授業その他の教育活動の実施を妨げる行為、と。

文部科学省による学校管理は、ますますきびしくなりつつある。

++++++++++++++++++

 新聞社への投書の中で、16歳の少女が、「同じ立場でもあきれる。恥ずかしくないかっこうを
しなさい。あきれるばかり」と書いている点が、気になる。が、私に言わせれば、こういう優等生
のほうに、あきれる。「恥ずかしくないかっこうって何か」と。「まただれに対して、恥ずかしくあっ
てはいけないのか」と。

 顔のある子どもは、その顔を大切にすればよい。幸せな子どもだ。しかし顔のない子どもは、
どうやって生きていけばよいのか。

 あえて告白しよう。最近、……といっても、この5、6年のことだが、私はあのホームレスの人
たちを見ると、言いようのない親近感を覚える。ときどき話しかけて、冗談を言いあうこともこと
もある。そのホームレスの人たちというのは、その少女の感覚からすれば、「恥ずかしい部類
の人間」ということになる。

 しかしどうしてそういう人たちが、恥ずかしいのか。多分、その投書を書いた少女は、そういう
ホームレスの人たちを見ると、あきれるのだろう。もしそうなら、どうして、その少女は、あきれ
るのか。私には、よく理解できない。

 そう、私は、子どもたちを教えながらも、その優等生が、嫌い。ぞっとするほど、大嫌い。以
前、こんな原稿も書いたことがある。それを掲載しておく。少し話が脱線するが、許してほしい。

+++++++++++++++++++

【世間体】

●世間体で生きる人たち

 世間体を、おかしいほど、気にする人たちがいる。何かにつけて、「世間が……」「世間が…
…」という。

 子どもの成長過程でも、ある時期、子どもは、家族という束縛、さらには社会という束縛から
離れて、自立を求めるようになる。これを「個人化」という。

 世間体を気にする人は、何らかの理由で、その個人化の遅れた人とみてよい。あるいは個
人化そのものを、確立することができなかった人とみてよい。

 心理学の世界にも、「コア(核)・アイデンティティ」という言葉がある。わかりやすく言えば、自
分らしさ(アイデンティティ)の核(コア)をいう。このコア・アイデンティティをいかに確立するか
も、子育ての場では、大きなテーマである。

 個人化イコール、コア・アイデンティティの確立とみてよい。

 その世間体を気にする人は、常に、自分が他人にどう見られているか、どう思われているか
を気にする。あるいはどうすれば、他人によい人に見られるか、よい人に思われるかを気にす
る。

 子どもで言えば、仮面をかぶる。あるいは俗にいう、『ぶりっ子』と呼ばれる子どもが、このタ
イプの子どもである。他人の視線を気にしたとたん、別人のように行動し始める。

 少し前、ある中学生とこんな議論をしたことがある。私が、「道路を歩いていたら、サイフが落
ちているのがわかった。あなたはどうするか?」という質問をしたときのこと。その中学生は、
臆面もなく、こう言った。

 「交番へ届けます!」と。

 そこですかさず、私は、その中学生にこう言った。

 「君は、そういうふうに言えば、先生がほめるとでも思ったのか」「先生が喜ぶとでも思ったの
か」と。

 そしてつづいて、こう叱った。「サイフを拾ったら、うれしいと思わないのか。そのサイフをほし
いと思わないのか」と。

 するとその中学生は、またこう言った。「そんなことをすれば、サイフを落した人が困ります」
と。

私「では聞くが、君は、サイフを落して、困ったことがあるのか?」
中学生「ないです」
私「落したこともない君が、どうしてサイフを落して困っている人の気持ちがわかるのか」
中「じゃあ、先生は、そのサイフをどうしろと言うのですか?」
私「ぼくは、そういうふうに、自分を偽って、きれいごとを言うのが、嫌いだ。ほしかったら、ほし
いと言えばよい。サイフを、もらってしまうなら、『もらうよ』と言えばよい。その上で、そのサイフ
をどうすればいいかを、考えればいい。議論も、そこから始まる」と。

 (仮に、その子どもが、「ぼく、もらっちゃうよ」とでも言ってくれれば、そこから議論が始まると
いうこと。「それはいけないよ」とか。私は、それを言った。決して、「もらってしまえ」と言ってい
るのではない。誤解のないように!)

 こうして子どもは、人は、自分を偽ることを覚える。そしてそれがどこかで、他人の目を気にし
た生きザマをつくる。言うまでもなく、他人の目を気にすればするほど、個人化が遅れる。「私
は私」という生き方が、できなくなる。
 
 いろいろな母親がいた。

 「うちは本家です。ですから息子には、それなりの大学へ入ってもらわねば、なりません」

 「近所の人に、『うちの娘は、国立大学へ入ります』と言ってしまった。だからうちの娘には、
国立大学へ入ってもらわねば困ります」ほか。

 しかしこれは子どもの問題というより、私たち自身の問題である。

●他人の視線

 だれもいない、山の中で、ゴミを拾って歩いてみよう。私も、ときどきそうしている。

 大きな袋と、カニばさみをもって歩く。そしてゴミ(空き缶や、農薬の入っていたビニール袋な
ど)を拾って、袋に入れる。

 そのとき、遠くから、一台の車がやってきたとする。地元の農家の人が運転する、軽トラック
だ。

 そのときのこと。私の心の中で、複雑な心理的変化が起きるのがわかる。

 「私は、いいことをしている。ゴミを拾っている私を見て、農家の人は、私に対して、いい印象
をもつにちがいない」と、まず、そう考える。

 しかしそのあとすぐに、「何も、私は、そのために、ゴミを拾っているのではない。かえってわ
ざとらしく思われるのもいやだ」とか、「せっかく、純粋なボランティア精神で、ゴミを集めている
のに、何だかじゃまされるみたいでいやだ」とか、思いなおす。

 そして最後に、「だれの目も気にしないで、私は私がすべきことをすればいい」というふうに考
えて、自分を納得させる。

 こうした現象は、日常的に経験する。こんなこともあった。

 Nさん(40歳、母親)は、自分の息子(小5)を、虐待していた。そのことを私は、その周囲の
人たちから聞いて、知っていた。

 が、ある日のこと。Nさんの息子が、足を骨折して入院した。原因は、どうやら母親の虐待ら
しい。……ということで、病院へ見舞いに行ってみると、ベッドの横に、その母親が座っていた。

 私は、しばらくNさんと話をしたが、Nさんは、始終、柔和な笑みを欠かさなかった。そればか
りか、時折、体を起こして座っている息子の背中を、わざとらしく撫でてみせたり、骨折していな
い別の足のほうを、マッサージしてみせたりしていた。

 息子のほうは、それをとくに喜ぶといったふうでもなく、無視したように、無表情のままだっ
た。

 Nさんは、明らかに、私の視線を気にして、そうしていたようである。
 
 ……というような例は、多い。このNさんのような話は別にして、だれしも、ある程度は、他人
の視線を気にする。気にするのはしかたないことかもしれない。気にしながら、自分であって自
分でない行動を、する。

 それが悪いというのではない。他人の視線を感じながら、自分の行動を律するということは、
よくある。が、程度というものがある。つまりその程度を超えて、私を見失ってしまってはいけな
い。

 私も、少し前まで、家の近くのゴミ集めをするとき、いつもどこかで他人の目を気にしていたよ
うに思う。しかし今は、できるだけだれもいない日を選んで、ゴミ集めをするようにしている。他
人の視線が、わずらわしいからだ。

 たとえばゴミ集めをしていて、だれかが通りかかったりすると、わざと、それをやめてしまう。
他人の視線が、やはり、わずらわしいからだ。

 ……と考えてみると、私自身も、結構、他人の視線を気にしている、つまり、世間体を気にし
ている人間ということがわかる。

●世間体を気にする人たち
 
 世間体を気にする人には、一定の特徴がある。

その中でも、第一の特徴といえば、相対的な幸福観、相対的な価値観である。

 このタイプの人は、「となりの人より、いい生活をしているから、自分は幸福」「となりの人より
悪い生活をしているから、自分は不幸」というような考え方をする。

 そのため、他人の幸福をことさらねたんでみたり、反対に、他人の不幸を、ことさら喜んでみ
せたりする。

 20年ほど前だが、こんなことがあった。

 Gさん(女性、母親)が、私のところにやってきて、こう言った。「Xさんは、かわいそうですね。
本当にかわいそうですね。いえね、あのXさんの息子さん(中2)が、今度、万引きをして、補導
されてしまったようですよ。私、Xさんが、かわいそうでなりません」と。

 Gさんは、一見、Xさんに同情しながら、その実、何も、同情などしていない。同情したフリをし
ながら、Xさんの息子が万引きしたのを、みなに、言いふらしていた!

 GさんとXさんは、ライバル関係にあった。が、Gさんは、別れぎわ、私にこう言った。

 「先生、この話は、どうか、内緒にしておいてくださいよ。Xさんが、かわいそうですから。Gさん
は、ひとり息子に、すべてをかけているような人ですから……」と。

●作られる世間体

 こうした世間体は、いつごろ、どういう形で作られるのか? それを教えてくれた事件にこうい
うことがあった。

 ある日のこと。教え子だった、S君(高校3年生)が、私の家に遊びにきて、こう言った。(今ま
で、この話を何度か書いたことがある。そのときは、アルファベットで、「M大学」「H大学」と、伏
せ字にしたが、今回は、あえて実名を書く。)

 S君は、しばらくすると、私にこう聞いた。

 「先生、明治大学と、法政大学、どっちがかっこいいですかね?」と。

私「かっこいいって?」
S「どっちの大学の名前のほうが、かっこいいですかね?」
私「有名……ということか?」
S「そう。結婚式の披露宴でのこともありますからね」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、結婚式での見てくれを気にしていた!

私「あのね、そういうふうにして、大学を選ぶのはよくないよ」
S「どうしてですか?」
私「かっこいいとか、よくないとか、そういう問題ではない」
S「でもね、披露宴で、『明治大学を卒業した』というのと、『法政大学を卒業した』というのは、
ちがうような気がします。先生なら、どちらが、バリューがあると思いますか」
私「……」と。

 このS君だけではないが、私は、結論として、こうした生きザマは、親から受ける影響が大き
いのではないかと思う。

 親、とくに母親が、世間体を気にした生きザマをもっていると、その子どもも、やはり世間体を
気にした生きザマを求めるようになる。(あるいはその反動から、かえって世間体を否定するよ
うになるかもしれないが……。)

 生きザマというのは、そういうもので、無意識のまま、親から子へと、代々と引き継がれる。S
君の母親は、まさに世間体だけで生きているような人だった。

++++++++++++++++++++

 これからますます、「顔」が問題になってくる。それともほとんどの人たちは、老齢になるととも
に、その顔を、放棄してしまうのか。これから先、私自身がどう変化していくか、それを静かに
観察してみたい。
(はやし浩司 個人化 アイデンティティ コアアイデンティティ コア・アイデンティティ 顔 顔の
ない子供 ペルソナ 仮面 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(135)

●さえない日曜日

今日は、朝から雨。
かなりひどい雨。
その上、何をしても小寒い。
食事を減らしているせい?
それとも、花粉症のせい?

昨日は、メガネを割ってしまった。
ひざの上にメガネを置いて、
雑誌を読んでいたのが、まずかった。
気がついたときには、床の上。
メガネが、こなごなに割れていた。

予備のメガネで、そのあとを過ごす。
が、ピントがゆるい。もともと老眼鏡。
コタツに入って、横になる。
することもなく、考えることもなく、
そのまま、うたた寝。

こういうときは、買い物がよい。
何かほしいものを、パッと買うのがよい。
しかしこのところ、株価は、下がり気味。
これといった臨時収入もない。
ワイフに頭をさげるのも、おっくう。

しかたないので、またコタツにもぐる。
それにしても、おなかがすいた。
それほど食べているわけでもないのに、
私は、すぐ太る。食べた分だけ、太る。
しかたないので、今朝は、朝食抜き。

さえない日曜日。外を見ると、小雨が
どしゃ降りに変わっていた。
それを見て、今度は、頭をふとんの中に
もぐりこませる。
本当に、今日は、さえない日曜日。
(06年2月26日)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(136)

●MOTHER TERESA

++++++++++++++++++++

『マザーテレサ』を、ビデオで見た。
よかった。

映画としては、やや軽い感じがしなかった
わけでもない。が、実話に基づくだけに、セ
リフの1つひとつに、いろいろと考えさせ
られた。

マザーテレサが残した言葉を、
インターネットで拾ってみた。

++++++++++++++++++++

●愛について(IN LOVE)

"I have found the paradox, that if you love until it hurts, there can be no more hurt, only 
more love." 

「私は1つのパラドクッスを発見した。それがあなたの心を傷つけるほどまでに人を愛すれば、
痛みはなくなり、さらに深い愛だけが残る」

●お金と慈善について

Let us not be satisfied with just giving money. Money is not enough, money can be got, but 
they need your hearts to love them. So, spread your love everywhere you go. 

お金をだれかに与えることだけに、満足してはいけない。お金だけではじゅうぶんではない。お
金は得られるもの。しかし彼らは彼らを愛するあなたの心を必要としている。だからあなたが行
くところどこでも、愛をばらまきなさい。

 ビデオの中でも、「SMILE(微笑み)」が、一つのテーマになっていたように思う。マザーテレ
サは、微笑むことの大切さを教えていた。この世を超えた愛というか、そういうものを、マザー
テレサは感じていたのかもしれない。

 考えてみれば、そのとおり。私たちの人生といっても、長くて100年。しかし100年といって
も、この広大な宇宙の中では、瞬間の、そのまた瞬間にすぎない。そんな瞬間の瞬間に、人間
が本来的にもつ欲得を追求したところで、意味はない。そのことは、私のこの半世紀を振りか
えっただけでも、わかる。

 若いころ、世話になった人の多くは、もう、この世にいない。一世を風靡(ふうび)した人も、そ
うでない人も、わずかな思い出を残して、この世を去っていった。あとに響くのは、その余韻だ
け。いや、その余韻さえも、乾いた風とともに、そのほとんどが消えてしまった。

 私やあなたとて、例外ではない。私のばあいも、50年余という年月を生きたにもかかわら
ず、その実感がない。あっという間に、その50年余が過ぎてしまった。本当に、あっという間
だ。瞬間の瞬間というのは、そういうもの。

 だからこそ……と考えるところで、2つの道に分かれる。ひとつは、だからこそ、このだからこ
そ、毎日を大切に生きようと考える道。だからこそ、つぎにつづく世代の人たちのために、何か
を残していこうと考える道。享楽的に、自分のためだけに生きる道もあるのだろうが、それはこ
こでは考えない。

 が、いくらそう思ってがんばったところで、日々のほうが、自分より先に流れてしまう。「今日こ
そは……!」と思って、朝起きる。が、夜になると、「やはり何もできなかった」と思いながら、眠
りにつく。あとは、その繰りかえし。

 マザーテレサは、利他を極限まで追求した人ということになる。比較するのもどうかと思うが、
K国の金xxは、利己を極限まで追求した人ということになる。つまりは、たがいに正反対の位
置にいる。そう考えると、マザーテレサの輪郭(りんかく)が、さらに明確に見えてくる。独裁者と
いうものが、どういうものであるか、さらに明確に見えてくる。

 ビデオを通して学んだことも、いくつかある。

 マザーテレサは、「組織」に、まったくこだわらなかった。組織をつくること自体、意味のないも
のと考えていた。

 ときにマザーテレサですらも、そこに限界を感じ、迷い、弱音を吐くこともあった。

 無我、無私ほど、強いものはないということを、マザーテレサは、自らの人生を使って、証明
した、などなど。

 当然のことながら、この映画を制作するにあたって、脚本家にせよ、プロヂューサにせよ、事
実(史実)に忠実であることを、何よりも重要視したはず。私も何冊か、マザーテレサについて
の本を読んだことがあるが、そうした本から得た知識と、それほどちがった印象はもたなかっ
た。

 映画としては、どこか淡々としすぎていて、もの足りなさを感じたが、しかしところどころで、ホ
ロリホロリと涙がこぼれた。★をつけるのは、あまりにも恐れ多いので、ここではつけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(137)

【近ごろ・あれこれ】

●イランのウラン濃縮活動

 ギリギリのギリギリのところで、イランは、2月26日、ウラン濃縮活動を、ロシア国内で行うこ
とに、同意したという(news−i)。

 イランは、「とりあえず」ということで、そういう同意をしたというが、まだ予断を許さない。経済
制裁を回避するための、一時的な方便ともとれる。自国でのウラン濃縮作業を停止するとは、
イランは、まだ一言も発していない。

 しかしこれほどまでに重要な国際問題が、日本国内では、マイナーな問題となっているのは、
どうしたことか。もし国連安保理がイランに対して経済制裁を実施すれば、それによって、日本
経済は、甚大な影響を受ける。さらにアメリカがイランに対して、軍事行動を起こせば、たとえ
それが限定的なものであっても、中東情勢は一気に不安定化する(※)。

 日本は、原油の90%を、この地域に依存している。イランとイスラエルが、戦争状態になる
ようなことになれば、日本経済は、その時点で、壊滅的な打撃を受けることになる。

 このあとどうなるか?

 3月6日から、IAEA(国際原子力機関の理事会)が開かれる。今のままでは、IAEAは、イラ
ンのウラン濃縮問題を国連の安保理に付託するとしている。そのIAEAの理事会で、どのよう
な結論が出されるか、今は、それを見守るしかない。日本にとって一番よいシナリオは、イラン
が、ウラン濃縮活動を断念することだが、そうはうまくいかないだろう。

※……サウジアラビアの有力紙アルワタンは2月19日、米国防総省の内部報告などを引用す
る形で、米国と同盟国がイランの核施設計31か所を攻撃目標として特定した、と報じている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●日本の西欧化

+++++++++++++++++

先鋭化する文明間の対立。
西欧vsイスラム世界
西欧vs中国などなど。

こうした対立が、やがて
世界を大破局へと向かわせる
可能性は、きわめて高い。

では、日本はどうすれば
よいのか?

+++++++++++++++++

 戦後、あのドイツは、バラバラに解体されてしまった。その結果、ドイツは、ヨーロッパという社
会に、ちょうど水と油が混ざるかのように、融合した。

 一方、日本は、アメリカという国に、いわば吸収合併される形で、西欧社会に、融合した。そう
いう意味では、日本は、自然な形(?)で、西欧化したということになる。

 この日本の西欧化が、日本にとって、結果として、よかったのか、それとも悪かったのか。

 この話で思い出すのが、「文明間の対立」という言葉である。過去、世界は、いくつかの段階
を経て、対立→終焉(しゅうえん)を繰りかえしてきた。階級闘争、イデオロギー闘争など。しか
し現在は、「文明の対立の時代である」と説く学者は多い。

 よく知られた人に、S・P・ハンティントン(1927〜)がいる。彼はアメリカの国家安全保障会
議のコーディネーターもしたことがある人物である。その彼が言うには、「これからは、文明間
の衝突が、紛争の火種になる」と。

 ざっと大きくわけて、この世界は、つぎの文明に区分することができる。

(1)西欧社会を中心とする、西欧文明とアメリカ文明
(2)アラブ社会を中心とする、イスラム文明
(3)中国を中心とする、儒教文明
(4)ロシアを中心とする、スラブ文明
(5)そのほか、アフリカ文明、ヒンズー文明、ラテンアメリカ文明など。

 すでに西欧文明とイスラム文明の対立は、顕在化してきている。アメリカと中国の対立を見る
までもなく、同じように西欧文明と儒教文明の対立も、このところ顕在化のきざしを見せ始めて
いる。この極東アジアについて言えば、韓国やK国は、基本的には、儒教文明のワクの中にあ
る。

 ロシアは民主化されたといっても、西欧文明とは、異質の国と考えてよい。そのことは、たと
えばドイツ人と話をしてみるとわかる。中国人の日本嫌いはよく知られているが、ドイツ人のロ
シア嫌いには、これまた格別なものがある。西欧社会は、ロシア、つまりスラブ文明を、決して
自分たちの一員とは認めていない。

 で、問題は、日本である。

 このところ、またまた「武士道」なるものが、この日本でもてはやされ始めている。書店でも、
その種の本がズラリと並んでいる。大きく見れば、こうした動きは、行き過ぎた西欧化への抵
抗ともとれるし、反対に、日本化への復帰ともとれる。

 しかしあえて、言おう。なぜ、西欧化が悪いのか? なぜあえて、今のこのときに、復古主義
という道を選ばなければならないのか?

 ハンティントンの説によらなくても、これから先、文明間の衝突が、ますます先鋭化し、それが
戦争という紛争につながることは、じゅうぶん、考えられる。すでにアメリカは、中国を将来の仮
想敵国と位置づけ始めている。

 こうした巨大文明が、真正面から衝突する現実を前にして、日本だけが、日本文明とやらを
主張したところで、悲しいかな、ほとんど意味がない。日本文明というのは、アメリカ文明と中国
文明の間にあっては、その間で揺れ動く、小石のようなものでしかない。

 となれば、日本に残された選択は、ただ1つ。西欧文明にさらに融合していくか、あるいは反
対に、もう一度、中国文明に復帰するか、である。隣の韓国(N政権、支持率20%台)は、すで
に中国文明への復帰という道を選んでいる。

 「日本は独自の日本でありたい」という気持も、理解できないわけではない。しかし日本は、
戦後、幸か不幸か、西欧化という道を選択してしまった。今の日本にとって、もっとも違和感なく
い受けいれられる文明と言えば、西欧文明であり、アメリカ文明である。アメリカが戦後敷い
た。自由主義経済というワクの中で、自国の繁栄と維持をつづけたいと願うなら、なおさらのこ
とではないか。

 今さら、社会主義国家をめざすのもどうかと思うし、さらに鎖国するというのも、さらに現実離
れしている。

 日本の西欧化、おおいに結構!、ということになる。が、それには、いくつかの条件がある。

(1)文明の対立を念頭において、それを回避すべく努力をする。
(2)文明の優劣性をもたない。(西欧文明が他の文明よりすぐれていると思うのは、まちが
い。)
(3)とくに日本は、アメリカ文明と中国文明の対立を先鋭化させてはならない。

 もう1つ、儒教文明を、西欧化するという方法もあるが、それには、長い時間がかかる。とりあ
えず今の現状を解決するためには、それを待っていたのでは、間にあわない。

 で、こうした条件はあるにしても、日本の西欧化は、すでに世界というより、日本の常識となっ
ているし、その流れをいまさら、変えようと思うのも、どうかと思う。ハンティントンは、こう言って
いる。「日本はすなおに西欧文明を受け入れようとしている。日本こそが、世界の文明の融和
の役割を果たすべきだ」(「文明の衝突」)と。

 ハンティントンが述べていることの中に、これからの日本の、あるべき姿が示されているよう
に、私は思う。
(参考文献……湯沢赳男著「現代思想のすべて」(日本文芸社))
(はやし浩司 文明の衝突 日本の西欧化 西欧化する日本)


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●作文指導

+++++++++++++++++

入学試験では、年を追うごとに、
作文テストが重要視されるように
なってきている。

入学試験に迎合するわけではないが、
作文は、(思考)の基礎。基本。

今さら作文の重要さを説明するまでも
ない。

で、現在、私の教室でも、今、その作文指導に
力を入れている。

方法としては、

(1)作文の筆写(いろいろな作家の文章を筆写させる)
(2)作文の補充(作文の骨格を与えながら、内容を補充させる)
(3)作文というステップを踏む。

こうした指導を1〜2か月サイクルで、
繰りかえす。

 今日は、ステップ(2)の
作文の補充という指導をする。

これは基本的な書き方は、私の
ほうで用意し、残りの部分を、
子どもに補充させるというもの。

具体的には、※※※の部分を、子ども
自身に書かせる。

みなさんのご家庭でも、役立つよう
であれば、利用してほしい。

+++++++++++++++++

【テスト1】

●あなたはみんなと、映画をつくることになりました。あなたならどんな映画を作りますか。映画
を通して、あなたが伝えたいことや、ストーリーの内容が、よくわかるように、書いてください。

+++++++以下、筆写させながら※部を、補充させる++++++++

 私は子どものころから、※※※の話しが、大好きです。よく読んだ本に※※※があります。も
しみんなで映画を作ることになれば、その※※※の話しをみんなにしてみたいと思います。み
んながそれでいいと言うなら、私は、こんな映画を作ってみたいです。
 まず主人公は※※※にします。※※※で、※※※な人です。その人を中心に、物語が展開し
ます。ほかに中心となる登場人物は、※※※と※※※です。
 最初の場面は、※※※です。主人公の※※※が、仲間の※※※たちと、※※※をしていると
ころから物語が始まります。
 が、その※※※が住んでいる※※※には、※※※という、どこか意地悪で、さみしがり屋の
※※※がいます。この※※※は、本当は心のやさしい人ですが、みんなに誤解されているうち
に、悪い人ということになってしまいました。
 そこで主人公の※※※は、何とか、その※※※を自分たちの仲間にしようと努力します。が、
そうすればするほど、※※※は、その反対のことをしてしまいます。ときには、仲間のみんなと
けんかをし、仲間にけがをさせてしまうこともあります。
 が、ある日のこと。みんなが川で遊んでいると、仲間の1人が、※※※してしまいます。それ
を見ていてみんなが、あわてていると、その※※※が、※※※をして、その仲間の1人を助け
てくれます。
 それを見て、仲間たちは、※※※を見なおします。「君は、すごい勇気のある人だったのね」
と。
 映画ですから、こうしたみんなの心の動きを、表情や態度、ジェスチャでわかるようにしたい
です。見終わったあと、みながほっとするような映画を作ってみたいです。


++++++++++++++++++++++

【テスト2】

●あなたは中学生になったら、どんなことをしたいですか。あるいはどんな夢や希望をもってい
ますか。具体的に、それがわかるように、書いてください。

+++++++以下、筆写させながら※部を、補充させる++++++++

 私は小さいときから、ずっと、※※※をしてきました。今もしています。で、中学生になったら、
さらに※※※でがんばってみたいです。
 とくに私がしたいのは、※※※です。小学生のときとちがって、中学生になれば、仲間もふえ
ます。そういう仲間といっしょに、みんなで励ましあいながら※※※したいです。
 たとえば、中学生になれば、※※※など、ひとりでできるようなこともあります。今までは、「子
どもだから……。」と言われて、それができませんでした。私は、それができるようになること
を、楽しみにしています。
 ほかに、中学生になったら、※※※や、※※※などもしてみたいです。今、友だちと、「中学
生になったら、いっしょに※※※しようね。」と、そんな約束をしています。
 が、その分だけ、責任も大きくなるのかもしれません。今までは、「子どもだから……。」と、逃
げることもできましたが、これからはそうはいきません。中学生というと、おとなという感じがしま
す。
 そこで中学生になったら、つぎのようなことにも気をつけたいと思います。
一、※※※
二、※※※
三、※※※
 ほかにもいろいろありますが、いちばん大切なことは、※※※ではないかと思います。不安に
なることや心配なことがないと言えば、うそになりますが、私は私なりに※※※。
 しっかりとした目的をもって、充実した中学生生活を送りたいと考えています。


Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

【子どもの自慰】

++++++++++++++++++

ヤフーやグーグルの検索を使うと、
必要な情報が、瞬時に手に入る。

一方、私のHPでは、どんな言葉を
検索して、私のHPへやってきたかが
わかるしくみになっている。

「はやし浩司」「はやしひろし」などが
圧倒的に多いが、最近、目だつのが、
「子どもの自慰」。

検索エンジンを使って、どこかのだれかが、
「自慰」「子供の自慰」を調べているらしい。

++++++++++++++++++

●自慰

 子どものばあい、慢性的な欲求不満状態がつづいたり、慢性的な緊張感がつづいたりする
と、何らかの快感を得ることによって、それを代償的にまぎらわそうとする。代表的なものとし
て、指しゃぶり、髪いじり、鼻くそほりなどがある。

 毛布やボタンなどが手放せない子どももいる。指先で感ずる快感を得るためである。が、自
慰にまさる、快感はない。男児というより、女児に多い。このタイプの女児は、人目を気にする
ことなく、陰部を、ソファの角に押し当てたり、直接手でいじったりする。

 そこでこういう代償的行為が見られたら、その行為そのものを禁止するのではなく、その奥底
に潜む原因、つまり何が、慢性的な欲求不満状態なのか、あるいはなぜ子どもの心が緊張状
態にあるかをさぐる。そのほとんどは、愛情不足もしくは、愛情に対する飢餓感とみてよい。

 で、フロイトによれば、人間の行動の原点にある、性欲動という精神的エネルギー(リビドー)
は、年齢に応じて、体のある特定の部分に、局在するという。そしてその局在する部分に応じ
て、(1)口唇期(生後〜18か月)、(2)肛門期(1〜3歳)、(3)男根期(3〜6歳)、(4)潜伏期
(6〜12歳)、(5)性器期(12歳〜思春期)というように、段階的に発達するという。

 が、それぞれの段階に応じて、その精神的エネルギーがじょうずに解消されていかないと、そ
の子ども(おとな)は、それぞれ特有の問題を引きおこすとされる。こうした状態を「固着」とい
う。

 たとえば口唇期で固着を起こし、じょうずに精神的エネルギーを解消できないと、口唇愛的性
格、たとえば依存的、服従的、受動的な性格になるとされる。肛門期で固着を起こし、じょうず
に精神的エネルギーを解消できないと、肛門愛的性格、たとえば、まじめ、頑固、けち、倹約的
といった性格になるとされる(参考、「心理学用語」渋谷昌三ほか)。
 
●代償行為

 男根期の固着と、代償行為としての自慰行為は、どこか似ている。つまり男根期における性
的欲望の不完全燃焼が、自慰行為の引き金を引く。そういうふうに、考えられなくもない。少な
くとも、その間を分けるのは、むずかしい。

 たとえばたいへん強圧的な過程環境で育った子どもというのは、見た目には、おとなしくな
る。まわりの人たちからは、従順で、いい子(?)という評価を受けやすい。(反対に、きわめて
反抗的になり、見た感じでも粗雑化する子どもも、いる。よくある例は、上の兄(姉)が、ここで
いう、いい子(?)になり、下の弟(妹)が、粗雑化するケース。同じ環境であるにもかかわら
ず、一見、正反対の子どもになるのは、子ども自身がもつ生命力のちがいによる。強圧的な威
圧感にやりこめられてしまった子どもと、それをたくましくはね返した子どものちがいと考える
と、わかりやすい。)

 しかしその分だけ、どちらにせよ、コア・アイデンテティの発達が遅れ、個人化が遅れる。わ
かりやすく言えば、人格の(核)形成が遅れる。教える側からみると、何を考えているかわかり
にくい子どもということになる。が、それではすまない。

 子どもというのは、その年齢ごとに、ちょうど昆虫がカラを脱ぐようにして、成長する。このタイ
プの子どもは、反抗期にしても、反抗らしい反抗をしないまま、つぎのステップに進んでしまう。

 親によっては、そういう子どもほど、いい子(?)というレッテルを張ってしまう。そしてその返
す刀で、反抗的な子どもを、できの悪い子として、排斥してしまう。近所にそういう子どもがいた
りすると、「あの子とは遊んではダメ」と、遠ざけてしまう。

 こうした親のもつ子ども観が、その子どもを、ますますひ弱で、軟弱にしてしまう。中には、自
分の子どもをそういう子どもにしながら、「うちの息子ほど、できのいい息子はいない」と公言し
ている親さえいた。

 しかし問題は、そのあとにやってくる。何割のかの子どもは、そのまま、生涯にわたって、ひ
弱で、軟弱なまま、陰に隠れた人生を送ることになる。しかし大半の子どもは、たまったツケを
どっと払うかのように、さまざまな問題を起こすようになる。はげしい反抗となって現れるケース
も多い。ふつうの反抗ではない。それこそ、親に対して、包丁を投げつけるような反抗を、繰り
かえす。

 親は、「どうしてエ〜?」「小さいころは、あんないい子だったのにイ〜!」と悲鳴をあげる。し
かし子どもの成長としては、むしろそのほうが望ましい。脱ぎ方に問題があるとしても、そういう
形で、子どもはカラを脱ごうとする。その時期は、早ければ早いほどよい。

 反抗をしないならしないで、子どもの心は、大きく歪(ひず)む。世間を騒がすような凶悪事件
を起こした子どもについて、よく、近所に住む人たちが、「どちらかというと目立たない、静か
な、いい子でしたが……」と言うことがある。見た目にはそうかもしれないが、心の奥は、そうで
はなかったということになる。

●神経症

 話が大きく脱線したが、子ども自慰を考えるときは、こうした大きな視点からものを考える必
要がある。多くの親たちは、そうした理解もないまま、娘が自慰らしきことをすると父親が、息
子が自慰らしきことをすると母親が、あわてる。心配する。「今から、こんなことに興味があるよ
うでは、この先、どうなる!」「この先が、思いやられる」と。

 しかしその原因は、ここに書いてきたように、もっと別のところにある。幼児のばあい、性的好
奇心がその背景にあると考えるのは、まちがい。快感によって、脳内ホルモン(エンケファリン
系、エンドルフィン系)の分泌をうながし、脳内に蓄積された緊張感を緩和しようとすると考える
のが正しい。

 おとなでも、緊張感をほぐすため、自慰(オナニーやマスターベーション)をすることがある。

 だからもし子どもにそういう行為が見られたら、その行為そのものを問題にするのではなく、
なぜ、その子どもがそういう行為をするのか、その背景をさぐるのがよい。もっとはっきり言え
ば、子どもの自慰は、神経症、もしくは心身症のひとつとして対処する。

 自慰を禁止したり、抑えこんだりすれば、その歪みは、また別のところに現れる。たとえば指
しゃぶりを、きびしく禁止したりすると、チックが始まったり、夜尿症になったりする。そういうケ
ースは、たいへん多い。

 そういう意味でも、『子どもの心は風船玉』と覚えておくとよい、どこかで圧力を加えると、その
圧力は、別のところで、べつの歪みとなって現れる。

 子どもの自慰、もしくは自慰的行為については、暖かく無視する。それを強く叱ったりすると、
今度は、「性」に対して、歪んだ意識をもつようになることもある。罪悪感や陰湿感をもつことも
ある。この時期に、一度、そういう歪んだ意識をもつようになると、それを是正すのも、これまた
たいへんな作業となる。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 オナニー 神経症 心身症 子どもの自慰)
(はやし浩司 固着 口唇期 肛門期 男根期 子供の心理 心の歪み)

【補足】

 歪んだ性意識がどういうものであるか。恐らく、……というより、日本人のほとんどは、気づい
ていないのではないか。私自身も、歪んだ性意識をもっている。あなたも、みんな、だ。

 こうした性意識というのは、日本の外から日本人を見てはじめて、それだとわかる。たとえば
最近でも、こんなことがあった。

 私の家にホームステイしたオーストラリア人夫婦が、日本のどこかへ旅行をしてきた。その旅
先でのこと。どこかの旅館に泊まったらしい。その旅館について、友人の妻たち(2人)は、こう
言った。「混浴の風呂に入ってきた」と。
 
 さりげなく、堂々と、そう言う。で、私のほうが驚いて、「へえ、そんなこと、よくできましたね。恥
ずかしくありませんでしたか」と聞くと、反対に質問をされてしまった。「ヒロシ、どうして恥ずかし
がらねばならないの」と。

 フィンランドでは、男も女も、老いも若きも、サウナ風呂に入るのは、みな、混浴だという。た
またまそのオーストラリア夫婦の娘の1人が、建築学の勉強で、そのフィンランドに留学してい
た。「娘も、毎日、サウナ風呂を楽しんでいる」と。

 こうした意識というのは、日本に生まれ育った日本人には、想像もつかないものといってもよ
い。が、反対に、イスラムの国から来た人にとっては、日本の女性たちの服装は、想像もつか
ないものらしい。とくに、タバコを吸う女性は、想像もつかないらしい。(タバコと性意識とは関係
ないが……。)

 タバコを吸っている若い女性を見ると、パキスタン人にせよ、トルコ人にせよ、みな、目を白
黒させて驚く。いわんや、肌を露出して歩く女性をや!

 性意識というのは、そういうもの。私たちがもっている性意識というのは、この国の中で、この
国の常識として作られたものである。で、その常識が、本当に常識であるかということになる
と、そのほとんどは、疑ってかかってみてよい。

 だいたいにおいて、男と女が、こうまで区別され、差別される国は、そうはない。今度の女性
天皇の問題にしても、そうだ。そうした区別や差別が、世界の常識ではないということ。「伝統」
という言葉で、ごまかすことは許されない。まず、日本人の私たちが、それを知るべきではない
だろうか。

 こう考えていくと、自慰の問題など、何でもない。指しゃぶりや髪いじりと、どこもちがわない。
たまたまいじる場所が、性器という部分であるために、問題となるだけ。……なりやすいだけ。
そういうふうに考えて、対処する。
(はやし浩司 自慰 子供の自慰 自慰行為 オナニー)

 
Hiroshi Hayashi++++++++++Feb. 06+++++++++++はやし浩司

●虚栄的補償

+++++++++

虚飾で自分を包み、
虚栄を張る人は、
少なくない。

+++++++++

 人は、何か、自分に弱点や欠点があると、その弱点や欠点を何らかの形で、補おうとする。
心理学の世界では、それを「補償」という言葉を使って、説明する。

 その補償には、大きくわけて(1)意識的にするものと、(2)無意識のままするものがある。意
識的にするものの代表に、克服的補償、代用的補償、みせかけ補償、それに虚栄的補償があ
る。

 たとえば勉強ができなくてバカにされた男の子が、猛勉強をして勉強ができるようになるの
が、克服的補償。

 同じように勉強ができなくて、みなにバカにされた男の子が、スポーツ面でがんばり、目だっ
た活躍をするようになるのが、代用的補償。

 目だたない女の子が、流行を追いかけたり、有名なアイドルのまねをして、そのアイドルにな
ったように振る舞うのを、みせかけ補償。
 
 そして自分の体を虚飾で包み、虚栄を張るのが、虚栄的補償という。自分の実家を、名家と
人に自慢してみせたり、知名人とだけ交際してみせるのが、それ。私の知人にも、そういう人
が何人か、いる。

 Yさん(60歳・女性)も、その1人である。

 Yさんは、ことあるごとに、「T家」という名前を口にした。T家というのは、彼女の夫の名前であ
る。「T家の人たちは……」「T家では……」と。

 話だけを聞いていると、T家というのは、ものすごい家のように思ってしまう。「T家の先祖は、
旧S藩の家老をしていました」と言ったこともある。

 そして自分は、これこれこういう人たちと親交があると、会う人ごとに自慢していた。H市内で
もよく知られた、○○会社の社長の妻や、○○大学の教授の妻など。さりげなく口にするの
が、特徴である。

 「先日も、○○さん、ほら、今、手広く仕事をなさっておられる、あの○○さんね。あの人の奥
様から買い物に誘われましたの……」と。

 Yさん自身も、H市内から、車で1時間ほどのところにある、旧家の出身であった。江戸時代
には、庄屋をしていたという。しかし戦後の農地解放で土地の大半を失ってからは、それ以前
の羽振りのよさは消えた。実家を預かっていた実兄が、多額の借金をかかえ、自己破産したこ
ともあった。

 Yさんは、もともとは勝気な人だったようだ。そにため、かわりに夫の実家を自慢するようにな
った。しかし夫自身は、ごく平均的なサラリーマンにすぎなかった。Yさんは、ますます虚栄を張
るようになった。

 ……というような例は、多い。

 つまりYさんは、実家へのコンプレックス(劣等感)を、夫の実家をことさら虚飾で包むことによ
って、補償していたことになる。

 が、補償は悪いことばかりではない。克服的補償にしても、代用的補償にしても、その人自
身を、別の面で伸ばす原動力になることがある。今は有名になったスポーツ選手の中にも、そ
の補償によって、そこまでの人物のなったと思われる人は、少なくない。

 みせかけ補償や虚栄的補償にしても、そういう形で、その人は自分を支えている。もしその
人から、みせかけ補償や虚栄的補償を取りのぞいてしまったら、その人は、生きる力そのもの
をなくしてしまうかもしれない。その人はその人で、そうであることを、生きがいにしている。

 しかしあえていうなら、人は、(子どもも)、補償という形ではなく、すなおな形で、あるがままに
生きたい。またあるがままに生きるための、実力というか、目的をもちたい。だれにも、弱点や
欠点はあるものだが、それはそれとして、あまり気にしないで生きたい。

 というのも、こうした補償というのは、別のところで、その人の心を歪(ゆが)めることが多いか
らである。ときに卑屈になったり、ときに過激になったりしやすい。たとえば毎朝5時とか6時に
起きて、バットの素振り練習をしていた男の子(中学生)がいた。夜は夜で、9時、10時まで、
バッティングの練習をしていた。

 「将来はプロ野球の選手になるためだ」と、その子どもは言っていたが、そこまで自虐的にな
ると、痛々しささえ感ずる。涙ぐましい努力というよりは、自分を痛めているだけ。「何も、そこま
でしなくても……」と、そんなふうに思ってしまう。

 その男の子のケースでも、「ほかでは目立たないから……」というのが、原動力になってい
た。

 こうした補償は、多かれ少なかれ、だれにでもある。私にもあるし、あなたにもある。そこで大
切なことは、自分にとって、弱点や欠点が何であるかを、まず知ること。そしてその弱点や欠点
を補償するために、自分は何をしているかを知ること。

 先にも書いたように、補償には、意識的にするものと、無意識のままするものとがある。意識
的にするものについてはわかりやすいが、無意識のままするものについては、わかりにくい。
無意識のままする補償には、空想的補償(おとぎ話のような世界に自分を押しこんでしまい、
現実離れしたものの考え方をする)、暴発的補償(暴言や暴力を、当たり構わずはいたり、振
るったりする。みなに恐怖心を与えることで、自分の存在感を示す)などがある。

 わかりやすく言えば、ここでいう補償というのは、いわば心がまとった仮面のようなもの。一度
はその仮面をぬがなければ、本当の自分を知ることはない。これは「私は私らしく」という生き
方を貫くためには、MUST(=必要不可欠なこと)と考えてよい。

 ここに書いたYさんの例を見るまでもなく、虚飾と虚栄に生きるということは、それだけも自分
の人生をムダにすることになる。
(はやし浩司 補償 虚栄的補償 みせかけ補償 代用的補償 克服的補償 はやし浩司 弱
点 欠点 コンプレックス)


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

●人間関係

+++++++++++++++++

1人の人と、1つの人間関係ができあ
がるまでには、いくつかのプロセスが
ある。

出会い→観察→近接→親近感→
時間的熟成→衝突と和解→信頼関係の
熟成→人間関係、と。

一朝一夕にできあがるものではない。

+++++++++++++++++

 1人の人と、1つの人間関係ができあがるまでには、若い男女がよく見せる、電撃的な恋愛
で始まるような関係は別として、いくつかのプロセス(段階)がある。決して一朝一夕に、できあ
がるものではない。

(1)出会い(どこで出会うか)
(2)相互観察(たがいに観察する)
(3)近接(近づく)
(4)親近感の表現(気持ちの表現)
(5)時間的熟成(相互に親近感を表現しあう)
(6)衝突と和解(対立と融和)
(7)信頼関係の熟成(たがいに疑うことのない関係)
(8)人間関係(夫婦関係)

 他人のばあいは、この中でも、(5)の時間的熟成が重要である。1年や2年では、足りない。
私も若いころ、相手を早々と信用しすぎたため、よく失敗した。時間的熟成なくして、人間関係
はできあがらない。

 もちろんその反対の例もある。

 たとえばよく誤解されるが、血のつながりがあるから……というだけでは、こうした人間関係
はできない。むしろ、時間的推移の中で、破壊されていくケースのほうが、多い。同じ兄弟、姉
妹でも、他人以上に他人のようになってしまった例は、いくらでもある。

 また(血のつながり)に甘えて、それだけをもって、相手をしばったり、相手に自分の考えを押
しつけるのも正しくない。押しつけるほうは、その人の勝手かもしれないが、押しつけられるほう
は、たまったものではない。ときに、「もう、いいかげんにしてくれ!」と叫びたくなることもある。

 夫婦の関係も、同じように考えることができる。が、その中でもとくに重要なのが、(7)の信頼
関係の熟成ではないか。「どんなことがあっても、裏切られない」「どんなことがあっても裏切ら
ない」という確固たる基盤があって、信頼関係は、その上にできあがる。

 それは絶対的なものであって、この絶対性が失われた状態では、信頼関係は、成りたたな
い。「絶対的」というのは、「疑いすらもたない」という意味である。しかもその信頼関係は、10
年とか20年とかいう年月を経て、はじめてできあがる。1年や2年、あるいはその程度で、でき
ると考えているとしたら、それは(まやかしの信頼関係)と断言してよい。

 よい例が、若い人たちの会話。

女「私を信じて」
男「俺は、お前を信じているからな」と。

 たがいに信じていないから、そういう会話をする。たがいに信じていたら、「信ずる」「信じて」
という言葉すら、出てこない。

 が、その人間関係は、自然にできあがるものではない。そこには苦労と努力がともなう。たと
えて言うなら、人間関係は、芸術作品のようなもの。どんな芸術作品になるかは、その人の苦
労と努力による。毎日たがいに遊びほけながら、楽しい生活をしているからといって、人間関
係ができあがるものではない。いわんや、悪事をいっしょに働いたからといって、できあがるも
のではない。

 よい例が、暴力団の世界である。

 一見、深い信頼関係により、結束力が強い世界に見えるが、その基盤は、弱い。その弱さ
を、「恐怖」で補っているだけ。「指を詰める」という独特の作法に、それが集約されている。つ
まり信頼関係をつくりあげるためには、誠実と誠意、加えて善意が、不可欠と考えてよい。

 言いかえると、たがいに誠実と誠意、それに善意をたがいに貫く。その結果として、ここでいう
人間関係ができあがる。友人関係や夫婦関係にとどまらない。親子関係とて例外ではない。
「親だから……」「子だから……」と、(血のつながり)だけに甘えていては、人間関係はできあ
がらない。反対に、親子でも、他人以上に冷え切ってしまった親子となると、この世界には、ゴ
マンといる。

 ……かく言う私にしても、振りかえってみると、友人という友人が、ほとんどいない。私のワイ
フにしても、信頼関係が本当にできているかといえば、それは疑わしい。3人の息子もいるが、
親子関係にしてもそうだ。

 こうなってしまった原因のほとんどは、私にあるわけだから、だれかを責めるわけにはいかな
い。しかし今、自分の半世紀を振りかえってみると、私は、実に不誠実な人間であったように思
う。他人に対しても、また自分に対しても、だ。その結果が、今の私ということになる。

 言いかえると、こうした生きザマというのは、思春期や青年期から始まるのではない。もっと
以前と考えてよい。私の経験では、幼児が幼児期から少年少女期へ移行するころからではな
いかと思う。つまりもし教育に、本当の目的があるとするなら、こうした生きザマの基礎の基礎
をつくることではないか。

 私のケースでいうなら、私は、精神生活という意味では、きわめて貧弱な家庭環境で生まれ
育っている。小ズルイ世界で、それを当たり前として、生きていた。

 が、もしあの時期を、もう少し心豊かな環境で過ごすことができたら、今の私はもう少しちがっ
た私になっていただろうと思う。同じように、今、子どもたちを、豊かな精神生活で包むことがで
きたら、それが結局は、その人の真の財産となるということ。ただ私のばあい、環境がそうであ
っても、自分で努力して改善することもできた部分もあったはず。すべてを、環境にせいにする
のは、正しくない。が、私のばあいは、それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。

恐らく私はこのまま、死ぬまで、孤独という無間地獄の世界で、もがき苦しむことになる。自業
自得と言えばそれまでだが、実のところ、そういう自分が、本当になさけない。
(はやし浩司 人間関係 信頼関係 脱孤独論)


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

●エセ正義

++++++++++++++++++++++

国会で、「メール問題」を取りあげた、N議員は、
「メールは、本物でないと判断した」と謝罪した。

しかしそのメールの発信源である、仲介者の人物
の名前の公表については、「本人の名誉を守るため」
というような理由にもならない理由をこじつけて、
拒否した。

しかし、こういうのをエセ正義という。

++++++++++++++++++++++

 今回の一連の、「メール問題」で、民主党のN議員は、「じゅうぶんな調査がないまま、質問を
した」「メールは本物ではないと判断した」と謝罪した。前原代表も、同じ席で、謝罪した(3月1
日)。

 しかしメールをN議員にもちこんだとされる、仲介者の名前については、(N議員は、フリーラ
イターだったと言っているが)、公表を拒否した。N議員は、かねてから、「その人に迷惑がか
かるから」というような理由を並べて、公表することを拒否しつづけている。

 N議員と、そのフリーライターなる人物との関係が、どういうものであるかは知らない。が、も
しN議員が言っていることが事実とするなら、N議員とフリーライターとは、すばらしい人間関係
で結ばれているといってよい。裏切られても、裏切られても、N議員は、そのフルーライターの
名誉とプライバシーを守っている?

 しかしそんなことは、ありえない。ありえないことは、ほんの少しだけ、常識を働かせて考えて
みれば、わかるはず。

 そのガセ情報で、日本中が、大騒動になってしまった。国会が空転するほどの大騒動であ
る。N議員自身も、病院へ入院するほどの健康状態になってしまった。にもかかわらず、情報
をもたらした、つまりメールをもってきた人物の名前を公表できないとは?

 そのメール自体、N議員のでっちあげと疑われても、しかたないだろう。韓国でも、韓国を代
表する科学者が、同じようなことをした。あの科学者も、つるしあげられても、つるしあげられて
も、まだ自分が正しかったことを主張しつづけている。

 往生際(おうじょうぎわ)が悪いとは、こういうことを言う。

 常識ある議員なら、これほどまでの大事件になったのだから、メールをもちこんだフリーライ
ターの責任を追及するという意味でも、そのフリーライターの名前を公表するだろう。今さら、義
理立てしなければならない理由など、ない。まったく、ない。

 「あのメールは、○○市に住む、△△というフリーライターがもちこんできたものです」と。

 その△△というフリーライターは、ウソのメールで、N議員やその仲間を窮地におとしいれた
ことになる。詐欺師以上の詐欺師と言ってもよい。ここにも書いたように、ふつうの窮地ではな
い。

 どうしてそんなフリーライターを、N議員は、かばうのか?

 こういうのをエセ正義という。笑えて涙が出るほどの、エセ正義である。

 だいたい、メールの発信人と受取人が同じメールを、本物と思いこむところがおかしい。ほん
の少しでも、インターネットをかじったことがある人なら、それがわかるはず。それとも、N議員
以下、民主党の執行部の議員たちは、そこまでインターネット音痴だったということか。この第
二の産業革命と言われている時代に、である。(インターネットの普及は、第二の産業革命と
言われている。)

 実に実に、おかしな弁解である。

 テレビ画面などで見るN議員には、これはあくまでも私のカンだが、それほどまでに厚い友情
を守りつづける人物には見えない。どこか小ずるく、どこかずる賢い議員にしか見えない。そう
いう議員が、「公表できません」とがんばるから、話がおかしくなる。私の頭の中で、脳ミソが、
火花がパチパチと音をたてて、ショートする。


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(138)

●ママのおなら

 教室で、何かのきっかけで、動物の鳴き声の話になった。こういう話は、得意である。

私「犬は、日本では、ワンワンって、鳴くけど、英語では、バウアウ・ウッフ・ウッフだよ」
子どもたち「ネコは? 馬は? 牛は?……」と。

 そこで私はそれぞれ、日本語の鳴き方と英語の鳴き方を、交互にしてみせた。

私「どちらが、本物の声のように聞こえるかな?」
子どもたち「カラスは、英語のほう」「ブタは、日本語のほう」「英語のニワトリは、むずかしい」
「アヒルは、やっぱり英語のほうかな」と。

私「ヒツジは、日本では、メーメーだけど、英語では、バーバーだよ」
子どもたち「ジジイのヒツジは、何て鳴くの?」
私「ジジイのヒツジも、バーバーだ」
子どもたち「ババーかア?」
私「ババーじゃないよ。バーバーだよ」と。

で、そのうち、おならの話になった。

私「じゃあさあ、これから日本語と英語で、おならの音を言ってみるけど、どちらが本物みたい
か、言ってよ」
子どもたち「いやだーア」
私「日本語では、ブーブー・プリプリ。英語では、プーッ・プーツ。どちらからな?」
子どもたち「知らないよ〜オ」
私「A子さん、君は、どちらだと思う?」
A子「先生は、下品!」
私「じゃあ、B君、君は、どうだ?」
B君「やっぱり、日本語のほうかな?」
私「ほほう、ブーブー・プリプリかあ?」
(みな、爆笑!)
B君「ぼくじゃないよ。ぼくじゃないよ。ぼくのママだよオ」と。
(みな、またまた爆笑)

 昨日の教室の1コマでした。


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

●子どもの学習意欲

+++++++++++++++++++

日・米・中・韓の4つの国の子どもたちの
学習意欲についての調査結果が、発表され
た。

それによると……

+++++++++++++++++++

 このほど、日・米・中・韓の4つの国の子どもたちの意識、意欲についての調査結果が公表さ
れた(060302・中日新聞)。

 それによると、

★成績の向上(よくなること)を希望する子ども

日本  ……33・2% +++
アメリカ……74・3% +++++++
中国  ……75・8% ++++++++
韓国  ……73・8% +++

(日本青少年研究所・05年調査)

 こうした傾向がみられることは、すでに5、6年前から、教育関係者の間では、常識だった。
数年前のことだが、ある中学校の校長が、こう話してくれた。

 「勉強でがんばって、いい高校へ入りたいと思っている子どもは、半分もいませんよ。6割くら
いの子どもは、部活か何かでがんばって、推薦で高校へ進学したいと考えていますよ。で、「進
学指導の先生が、『もう少し勉強でがんばって、A高校への進学をめざしたら?』と声をかえた
りすると、『あんな高校へ入って、勉強で苦労したくない』と答える子どもが、ふえてきました」
と。

 同じようなことは、私も経験している。少し前までは、小学校の高学年児の入会も認めていた
が、やる気を引き出すだけでも一苦労。それまでに、やる気そのものを、跡形もなくつぶされて
しまっている子どもも、少なくなかった。

 つまりそうした常識が、今回の調査で、はからずも裏づけされたということになる。最近の日
本の子どもたちは、そういう意味では、飽食状態にある。きびしさがないというか、緊張感に欠
ける。が、それだけではない。

 で、これは私自身の感想だが、反対にこういうこともある。

 以前は、……といっても、10年とか20年前のことだが、勉強が苦手な子どもを教えていて
も、なかなか効果があがらなかった。学校の勉強のほうが、先へ、先へと進んでしまったからで
ある。

 ところが、最近は、そうではない。少し教えるだけで、見た目には、メキメキとできるようにな
る。ほんの少しだけ、自信をもたせるような指導でじゅうぶん。つまりその分だけ、学校におけ
る子どもたちの学力が、低下しているということになる。

 さらに私の教室は進学塾ではないが、ここ10年、年を追うごとに、進学率というか、有名高
校や有名大学への進学率が、飛躍的によくなってきている。20年前、30年前には、OBで、
東京のT大や京都のK大へ入る子どもはほとんどいなかった。しかし最近では、当たり前のよ
うに入っていく。何割かの子どもたちは、国立大学の難関学部へと進学していく。

 わかりやすく言えば、それだけライバルが少なくなったということになる。つまり幼児期に、方
向性だけをつけてやると、あとは、自分でそのまま伸びてくれる。方向性というのは、つまりは、
(やる気)ということになる。

 一方、こんな問題もある。

 私の教室では、3、4年生ごろから、個別レッスンに入る。(個人レッスンではない。)子どもの
能力とやる気に合わせて、それぞれ、独学で勉強できるように指導する。この年齢になると、
一斉に同じことを教えるということができなくなる。できる子どもと、そうでない子どもに(差)が
現れてくるからである。

 そういう方法で、1年も指導すると、学校でする勉強の2、3年分を自分で終えてしまう。小学
4、5年生で、中学2、3年レベルの学習をしている子どもは、私の教室では、珍しくない。(ウソ
じゃないぞ!)

 本来、学校での勉強もそうであるべきではないのか。いまだに悪しき平等主義にしばられて、
できる子どもの頭をたたくようなことを、平気でしている。つまりせっかくやる気があっても、学
校教育が、制度として、その芽を摘んでしまう。

 子どものやる気を引き出す方法の鉄則は、ただひとつ。

『伸びる喜びに灯をともして、能力を前に引き出す』である。

 「ほう、君は、こんなこともできるの!」「すごいね。これは5年生でもできない問題だよ!」と。
ウソではいけない。子どもといっしょに、それを喜び、そして心底から、それをほめる。教える側
がやる気をもって、子どもたちといっしょに、教え、学ぶことを楽しむ。

 進学塾が常套手段としているような、恐怖を与えて、成績でおどしながら勉強させるという方
法は、邪道中の邪道。そういう方法は、一時的には効果があっても、決して長つづきしない。か
えってその受験競争が終わったとき、反動として、子どもは勉強しなくなることが多い。それば
かりか、燃え尽きてしまったり、荷卸し症候群におちいってしまう子ども少なくない。

 しかしそれにしても、33・2%とは!! わかりやすく言えば、向学心に燃える子どもは、3分
の1もいないということになる。これでいいのかなあ、日本! 


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

●キレる子ども

++++++++++++++++

キレる子どものキレ方には、いくつ
かの特徴がある。

M県に住む母親より、こんな相談が
あった。

「うちの子は、キレると、手に負え
なくなります。狂人のようになって
暴れます。どうしたらいいでしょう
か?」と。

子どもは、小学1年生の男児。

++++++++++++++++

 突発的に錯乱状態になり、激怒することを、「キレる」という。そのキレ方には、つぎのような
特徴がみられる。

(1)原因不明(非刺激的刺激による激怒)
(2)目的不明(非生産的激怒)
(3)限界設定(一定限度内での激怒)

 わかりやすく言えば、ささいなことで、ふつうは理由とも言えないような理由を理由として、突
然激怒する。激怒したからといって、どうなのだという目的がわからない。そして「それ以上した
らおしまい」という限度ギリギリのところで、暴言を吐いたり、暴力を振るったりするということ。

 似たような症状は、家庭内暴力と言われる暴力を、家人に向かってする子どもにも、見られ
る。このタイプの子どもも、病的なほどまでに敏感に家人の心を読み取り、その限界スレスレ
のところで、暴力行為を繰りかえす。

 ある女の子(年長児)は、母親が、「ピアノのレッスンをしようね」と言っただけで、突然、錯乱
状態になった。近くにあった包丁を、母親に向かって投げつけたという。

 また別の男の子(小3)は、先生のデスクの前で、並んで立っているときに、突然、錯乱状態
になった。ギャーと大声を出して、暴れ、近くにあった机をひっくりかえしてしまった。

 こうした子どもたちに共通して見られる症状としては、ふだんは、もの静かで、ものわかりの
よい子どもといった印象を受けるということ。親や先生の指示に、従順に従う。しかし自分から
積極的に行動したり、自分の意思を明確に表示するということは、ない。まわりの人たち(親や
教師)から見ると、「何を考えているかわからない子ども」といった印象を与えることが多い。

 そこでその受けた印象のまま、つまり「ものわかりのいい子どもだ」という印象のまま、あれこ
れ無理をすると、突然、キレる。それはあたかも内部にたまったガスの圧力が限界点(臨界
点)に達して、ものが爆発するさまに似ている。

 また先にも書いたように、何らかのキーワード、あるいはささいな雰囲気の変化が、引き金と
なることが多い。それが何であるかについては、それぞれの子どもによって、千差万別で、定
型がない。別の子ども(年中男児)は、母親が拒絶的な態度を示しただけで、錯乱状態になっ
て暴れた。(ただしこの時期は、かんしゃく発作として、片づけられることが多い。)

 このタイプの子どもの精神状態は、慢性的に緊張状態にあるとみる。つまり心を外の世界に
向かって、開くことができない。心を許して、ありのままの自分をさらけ出すことができない。そ
の緊張状態のところへ、何かの不安や心配ごとが入りこむと、精神状態は、一気に不安定に
なる。それがここでいう「キレる」という状態に結びつく。

 で、さらにその原因は何かというと、乳幼児期における、育児の失敗と考えてよい。親子の間
で、基本的な信頼関係そのものが、できあがっていない。ほとんどの親は、そういう現象的な
結果だけをみて、「どうして?」「どうしたらいいの?」と悩むが、その原因は、親自身にある。ま
ず、それに気づくこと。

 このタイプの子どもは、先にも書いたように、外の世界では、「いい子」を演ずる。仮面をかぶ
る。それは意識的なものというよりは、無意識的なもので、そうすることによって、自分を自ら、
外界の世界から守ろうとする。「いい子」でいれば、叱られたりすることもない。防衛機制のひと
つと考えられる。

 では、そうするか?……という問題になるが、ここにも書いたように、この問題は、根が深い。
だからほとんどの子どもは、そうした(心の問題)、つまり(心を開けないという問題)を、生涯に
わたってもちつづけることになる。「三つ子の魂、百まで」というよりは、「0歳児の魂、百まで」と
いうほうが、正しい。

 したがって対処法は、限られてくる。

(1)その問題には触れない。とくにキーワードに反応するときは、そのキーワードには、触れな
い。
(2)スキンシップを濃密にし、親子の心の交流を、緊密にする。その時期は早ければ早いほ
ど、よい。拒否的態度、否定的な育児姿勢は、禁物。
(3)心の緊張感をほぐすためには、日常的に、ひとり、ぼんやりできるような時間をふやしてや
るのがよい。時間きざみ、分きざみの、こまかいスケジュールなどは、用意しない。学校(幼稚
園)から帰ってきたあとは、のんびりさせる。このタイプの子どもは、外の世界では、「いい子」
を演ずる。その分だけ、気疲れを起こしやすい。
(4)CA、MG、Kの多い、つまり海産物を中心とした食生活に切りかえる。白砂糖の多い食品
や、燐酸食品類は、避ける。

 で、ひとたびキレたあとは、幼い子どもであれば、抱きかかえるようにして、その衝動的な怒
りが消えるまで、待つ。この段階で、はげしく叱ったり、威圧してはいけない。それを繰りかえす
と、ますます症状が悪化し、やがて、親や教師の手に負えなくなる。だからできるだけ初期の段
階で、親は、自分の子育ての失敗をすなおに認め、それ以上、症状を悪化させないことだけを
考えて対処する。

 この問題は、症状をこじらせればこじらすほど、長引くが、適切な対処を繰りかえせば、思春
期が終わることには、外からはわかりにくくなり、子どもは、そのまま落ちついていく。決して今
の状態を最悪とか、一生つづくと考えて悲観してはいけない。

 キレたとき、暴れまわって手に負えなくなったようなケースについては、また別のところで考え
る。
(はやし浩司 キレる子ども 錯乱状態 突発的に激怒する子供)


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

●ハードディスクの交換

+++++++++++++++

ハードディスクの交換をすること
にした。

5年間、愛用したパソコンだが、
このところ、急に、動きがおか
しくなってきた。

ディスク・スキャンをすると、
BADクラスターの表示も出る。

こうなったら、ハードディスク
の交換しかない!

+++++++++++++++

 私は、ウィルス対策の一つとして、使用目的別に、パソコンを使い分けている。(1)文書作成
用と、(2)インターネット用、それに(3)HP制作用の、3つである。ほかに、2台のパソコンを使
っている。

 そのうちの文書作成用のパソコンが、このところ、急に動きがおかしくなってきた。メーカーに
問い合わせると、「物理的な故障が考えられる」とのこと。つまりハードディスクの故障。

 ハードディスクにも寿命というのがあるらしい。パソコンの部品の中でも、このハードディスク
だけは、円盤(ディスク)の上を、針でこすりながら作動する。わかりやすくいえば、レコードを針
でこすりながら、音を鳴らすようなもの。長く使っていると、当然、たがいに摩滅したりして、故
障する。

 で、今、この文章を書いている横で、そのハードディスクの交換が、静かに進行している。パ
ソコン内部のハードディスクを、外付けのハードディスクに、コピーしているところ。1時間半ほ
ど前に始めたが、まだあと1時間半ほど、かかる。

 それが終わったら、外付けのハードディスクを、パソコン内部に付けかえる。

 こういった作業はめんどうなものだが、それが結構、楽しい。(そうでない人には、そうでない
かもしれないが……。)ワイフは、「(パソコンの世界は)奥が深いわね」と言うが、この世界は、
まさに日進月歩。こちらが追いつく前に、さらに先に進んでしまう。

 で、プロの人たちは、自分でパソコンを組み立てるという。私も、もう少し自由な時間があれ
ば、それをしてみたい。が、その時間が、ない。が、方法はないわけではない。自分で好きなパ
ーツを選んで、組み立ててもらうという方法がある。雑誌などには、そういう会社が、いくつか紹
介されている。

 そういう方法でパソコンを買うと、同じような性能のものでも、店に並ぶメーカー品より、3〜4
割は安く手に入る。少し前までは、品質的に不安な部分もあったが、今は、そうではない。メー
カー品と同等か、それ以上のものが、手に入る。(メーカー品には、ムダな付属品が、多すぎ
る! それで値段が高くなる。ホント!)

 ……今、コピー状況をみると、「残り時間、1時間21分」と表示されている。結構、待たされ
る。もっとも私にとっては、パソコンというのは、ボケ防止のための玩具のようなもの。パソコン
相手に、悪戦苦闘するところに、意味がある。それに一つの問題をクリアしたときに感ずる、あ
の快感がたまらない。

 古いパソコンだが、あとは、メモリーをふやせば、5年は、若返る。楽しみだ! そうそう、昨
日、年長児のクラスで、こんなことがあった。

●私の年齢

 私は、白い紙に数字を書きながら、子どもたち(年長児)にこう言った。「ここに、今、先生(=
私)の年齢を書きました。その数字を当ててください」と。私は「48」と書いた。本当は、58歳だ
が……。最近は、10歳、いつも若く言うようにしている。

 するとすかさずA君が、「80歳!」と。

私「そんなはずはないだろう。よく、ぼくを見てごらん」
A「じゃあ、24歳!」
私「それも、また極端だよ」
A「じゃあ、30歳!」

私「近いけど、もう少し、年をとっているよ」
子どもたち「100歳!」「60歳!」「30歳!」と。

 やがて数字が、近くなってきた。

B「40歳かな?」
私「もう少し上……」
C[45歳?]
私「もう少しだよ……」
D「50歳?」
私「それよりは、小さい」
D「じゃあ、48歳!」
私「ぴったし・カンカン!」と。

 するとE子さんが、こう言った。「でも、先生って、私のおじいさんみたい。おじいさんは、48歳
じゃない」と。

 「まあ、そういうこともあるかもね」と、私は笑ってすませたが、どうも、居心地が悪い。いくら年
齢のことでも、子どもたちにウソを言うのは、気が引ける。本当のことを言おうかとも思ったが、
やめた。私は、やはり、48歳なのだ。

 ところで、タレントや歌手の人たちは、みな、年齢を偽っている。そういう話を、みなさん、ご存
知だろうか。最近でも、暴力事件を引き起こした、黒人タレントが、10歳近く、年齢を偽ってい
たという記事が、何かの週刊誌に出ていた。

 私がよく知っている歌手にしても、5歳ほど、年齢を偽っている。その歌手は、私の郷里出身
で、その歌手の兄と私は、同じ合唱団で、歌を歌っていた。だからその歌手の本当の年齢を、
私は、よく知っている。(だからといって、その歌手を責めているわけではない。この世界は、そ
ういう世界だということ。)

 しかしパソコンのように、人間も、内部の部品だけを取り換えて、そのつど、新品になったり、
パワーアップできたりするようになると、よい。やがてそういう時代がくるのかもしれないが、私
が生きている間には、間に合わないだろう。

 心臓は、マラソン選手の心臓。脳みそは、アインシュタインのような脳みそ、と。

 が、パソコンの世界では、それができる。つまり私は、自分のできないことを、パソコンにして
みて、満足しているのかもしれない。こういうのも、「代用的補償」というのか。よく勉強が苦手
な子どもが、スポーツなどでがんばるというのが、それである。

 しかし……。その年齢当てのとき、子どもたちが「先生は、30歳に見える」「いや、20歳だ」と
言ったときには、われながら、少し照れた。横で、参観の母親たちが、笑って見ていたこともあ
る。

 この年齢の子どもたちには、まだ、おとなの年齢を見分けるということができない。できても、
せいぜい、父親の年齢と比較して、「パパと同じくらい」「パパは、30歳」「パパよりは、おじいさ
ん」という程度である。

 しかし、私は、48歳だ。脳みそも、気力、体力も、そして中身(内臓)もだ。ハハハ。


Hiroshi Hayashi++++++++++Mar. 06+++++++++++はやし浩司

●掲示板への投稿より

++++++++++++++++++++

掲示板に、TKという方から、「中3生への
無理難題への対応」というテーマで、こんな
投稿がありました。

この問題について、少し考えてみたいと
思います。

++++++++++++++++++++

林先生

TKと申します。いつもマガジンを有意義に読ませていただいております。もし、この林先生のご
活動を、3年早く知っていれば、私共の生活は違ったものになったと反省しております。

現在、卒業直前の中3生が、中3になると同時に無理難題を父親である私に、要求し、かなえ
られない時は大声をあげて怒ったり、こわれない新聞紙や本を投げたりすることが週に1回ほ
ど続いています。また時々学校を休むようになりました(月に4日程度)。

中3になってからの彼の状況の変化は下記の通りです。

★4歳年上の兄が大学進学で下宿のため、家を出た。(兄はけっこう、にらみを効かしてい
た。)
★高校受験のために勉強をしているが、自分の思い通り成績が上がらなかった。(志望校を変
更した。)
★部活で最後の県大会等に正選手で出場できなかった。(かなり真剣に練習したが。)

小さい頃から末っ子ということで、(二人兄弟、父母と4人家族)、服の用意とかを母親がやりま
したが、兄とのバランスもあり、甘やかしたつもりはありません。

ただ、子供の頃から非常にがんこで、融通は利きませんでした。(理不尽な先生の指示に従わ
ない。きらいなピアノやそろばん等のならい事で練習しない。納豆等の好きな食べ物にこだわ
る。甘いものは好まない。) 逆に親に不平不満を言わない子で、心の中に言いたいことがたく
さんあったように今、思っています。

また、父母兄が理系の科目が得意なのに対して、本人が歴史や英語が得意で、俺だけだめ人
間かなとよく聞きます。(うらやましいと答えています。)

体にいいというとサプリメントをきちんと摂取したり、歯の矯正も積極的にやりたいと言ったり、
毎日3kmのランニングを欠かさない等、非常に厳格なところがあります。

最近は勉強へのやる気が下がってきて、宿題等にも、しぶしぶ対応しております。

この状況に対して、私共の対応は下記です。

★本人が自主的に動くまでは、何もしない。(朝起こしたり、勉強しろと言わない。)
★本人の話を聞くようにする。(顔を向けて話を聞く。)
★おうむ返しに答えない。(自分の考えを答えず、質問や確認をする。)
★どうしてもできないことには、難しいと答える。(こうすると怒り出すが、できないことはできな
いので、言わざる負えない。)
★高校や大学に何がなんでも通わそうとは思わっていない。(フリースクールの方が合っている
気がしているが、あくまでも本人次第。) 人生何とかなると思っている。(そういう人を何人も見
てきての私の実感)。
★家はあくまでも安らぎの場にしたい

ただ、中学は非常に規則や無意味な校風に厳しく、合格した高校の序列で平気で生徒をラン
ク付けしたり、県大会等で活躍できないと冷たかったりして、本人も苦しんだようです。運動会
等の行進練習は軍隊のようで、私も非常に違和感を持って見ていました。(公立中学です。)

最近の無理難題は下記です。

★合格した高校の説明会の後、この学校には行かないと主張。(校則が厳しいのが原因。)
★来年、別の高校を受験する。(下宿して家を出る。)

この年齢で性格を直そう等とのことは考えていませんが、対応等のお考えをお聞かせいただ
ければ幸いです。

【TK様へ、はやし浩司より】

 だれでも、若いときは、そうかもしれませんね。私の母も、私が高校生のとき、私をもてあま
し、学校の先生のところへ、ときどき相談に行っていたようです。私は私で、だれにも心配をか
けないように生きていたつもりなのですが……。

 親が見る子どもと、子ども自身が見る自分自身とは、かなりちがうようですね。それに子ども
が見る親もまた、親自身が見る自分自身とも、かなりちがうようですね。その(ちがい)を、どこ
でどう理解するかが、問題です。

 あなたから見れば、心配でならない子ども(二男)。しかし子どもから見るあなたは、これまた
うるさくて、どうしようもない、おとななのかもしれません。私も子どものころ、自分の親を、そう
思っていました。

 もう少し専門的には、思春期は、「第二の誕生」とも呼ばれています。子ども自身の自我(私
は何かという核)が、大きく乱れる時期と考えてください。子どもは子どもで、将来への不安、心
配などで、悶々と苦しんでいる。「どうしたらいいのだ?」「どこへ行けばいいのだ?」「何をした
らいい?」「何をすべきなのか?」と、です。

 私もある時期までは、思春期の子どもたちが、みんな、バカに見えました。これは事実です。
しかしある時期から、その思春期の子どもたちを見ながら、こう気がついたのです。「私は、若
いころ、もっとバカだった」と。とたん、子どもたちを見る目が、変わりました。

 掲示板の記事を読む範囲では、あなたの二男(以下、呼び捨てにしますが、お許しください)
は、すばらしい子どものように思います。いまどき、月に4回程度の(サボリ=怠学)なら、珍しく
も何ともありません。とくに、「毎日3キロのランニングを欠かさない」というのには、驚きました。
どうして、TKさんは、そういう点をもっと前向きに評価してあげないのでしょうか?

 それとも、あなたなら、できますか? あなたは、中学3年生のとき、そういうことを、していま
したか?

 あなたからわがままに見えるかもしれませんが、私は、二男が今、先の見えない世界で、も
がき苦しんでいる姿が、容易に想像できます。わがままについては、無視して対処しますが、
暴力や暴言は、軽いうつ状態にあると考えて対処します。

 心の緊張感が、ほぐせないでいるのです。もっと言えば、心の休まる場所や時間が、ない。あ
る調査によると、子どもたち(中学生)が、家の中で一番、心や体が休まる場所といえば、トイ
レの中、風呂の中、それにフトンの中だそうです。

 その緊張した状態の中に、不安や心配ごとが入りこんでくると、子どもの心は、(おとなもそう
ですが)、一気に不安定になります。攻撃型、暴力型、依存型、服従型など、いろいろなタイプ
がありますが、二男は、ときどき、攻撃型に出るようですね。

 しかしこう言うと、「えっ!」と思われるかもしれませんが、攻撃型のほうが、あとあと、いい子
になりますよ。少なくとも、引きこもるタイプよりは、ずっと、あとがいいです。それに回復も、早
いです。加えて、その時期さえうまく通り抜ければ、たくましく成長していきます。

 が、TKさんは、悩んでいる。で、そういうときは、こう考えてください。こうした問題には、必
ず、二番底、三番底があります。今を最悪と考えてはいけません。そのため、対処の仕方とし
ては、「今の状態を、今以上に悪くしないことだけを考えて、対処する」ということです。

 あなたがもっている、(理想像)を求めても意味はありません。それを押しつければ、二男は、
あなたに、より反抗するようになるでしょう。

 それをまとめて、人は、「反抗期」と呼ぶわけですが、そこであなたの視点を、今から10年後
に置きます。たとえば10年後に、二男は、今のこの時期を振りかえるときがやってきたとしま
す。そのとき、二男の目に映るあなたは、どういう父親になっているかを想像してみてください。

 いつも自分という人間を守ってくれた父親でしょうか?

 それとも、カリカリ、ピリピリと、世間体ばかり、気にしていた父親でしょうか。

 そのとき、あなたという「親」は、親としてではなく、一人の人間として、最終的に子どもに審判
されます。

 考えてみれば、おかしなことです。どうして親は親として、子どもから遊離してしまうのでしょう
か。どうして親は、子どもの友にはなれないのでしょうか。一番近くにいて、たがいにわかりあっ
ているはずなのに、その多くは、遊離してしまう。断絶してしまう。考えてみれば、本当におかし
なことです。

 が、だからといって、あなたを責めているのではありません。ひょっとしたら、親子というの
は、そういうものかもしれないということです。いつまでも絆(きずな)を保ちたいと願う親。父
親。しかし子どものほうは、親を踏み台にしてでも、親から解放されたいと願っている。「友」に
なるのは、むずかしいということです。

 無理難題を言うというのは、発達心理学の上で考えれば、幼児期の「人工論」が抜けきって
いないということになります。単純に考えれば、そういうことです。親に何かをしてほしい。親な
ら、何とかできるはずだという幼稚性です。が、こうした幼稚性が見られることは、この時期、珍
しくありません。

 中には、ボケかかった母親を許せないで、毎日、その母親を叱っていた女性(60歳くらい)も
いました。子どもは、親が、いつも万能であることを求めるものです。が、どうもそうではない…
…。それに気づく。今は、その混乱期にあると考えてあげてください。

 独立心と依存心。この2つが交互に顔を出し、子どもの心を混乱させます。

 で、親側のほうとしては、いろいろすべきことがあります。第一に、親子であることにまつわ
る、幻想を捨てることです。いつか子どもが、自分のめんどうをみてくれるようになるだろうと
か、よき友として、自分を支えてくれるだろうとか、そういう期待はしないこと。

 第二に、子どものことは忘れて、親は親で、自分のできなかったこと、したいこと、したかった
ことを追求します。子どもにかこつけて、自己犠牲心を売りつけても、意味はありません。ない
ばかりか、子どもにとっては、それが負担になるだけです。子育てが終わったとき、どっとやっ
てくるのが、老後ですよ。あなたにも、もうそんなに長い時間は、ないはずです。

 第三に、子どもは、『許して、忘れる』です。愛といいますが、愛ほど、実感しにくい感情もあり
ません。(別れたときとか、死別したときかなどに、実感する人もいますが……。)いっしょに住
んでいるなら、なおさらです。で、その愛は、「どこまで子どもを許し、どこまで子どもを忘れる
か」、その深さが決まります。

 裏切られても、裏切られても、親は、子どもを信ずる。窓をあけて、子どもの帰りを待つ。ふと
んを暖めて待つ。その度量の深さ、です。それがつまるところ、「親の愛」ということになります。

 TKさんも、もう、親であることを忘れなさい。捨てなさい。親意識など、クソ食らえですよ。もっ
と肩の力を抜いて、バカになればよいのです。バカな親になればよいのです。そう考えると、ず
っと気が楽になりますよ。

 ハハハ、俺はバカなおやじだからな。よろしくね、と。

 あなたが親だ、親だと、優越性を保っている間は、二男は、あなたに心を開くことはないでし
ょう。この問題は、一見、子どもの問題に見えるかもしれませんが、実は、あなた自身の問題
だということです。

 それにこのすばらしい時期は、あっという間に終わりますよ。すばらしい時期です。あなたも
いつか、今のこの時期を思い出して、こう言うときがやってきます。「あのころは、楽しかった
な」と。

 が、それでももし、子育てに行き詰まりを覚えたら、二男が、幼児のころのアルバムを見たら
よいと思います。よくね、親が子どもを育てると言うでしょう。しかしあれは、ウソ。子どもが親を
育てているのです。育てているだけではない。生きがいを与えている!

 私も、息子たちがまだ小さいころは、家路につくのが、何よりも楽しみでした。自転車のカゴ
の中には、おもちゃがいっぱい。毎晩、玄関を「ただいま!」と言ってくぐると、息子たちが、「パ
パ、お帰り!」と言って、みな、抱きついてきました。

 それが生きがいで、私は、また、仕事に励んだものです。つまり私の息子たちが、私に生き
がいをくれたのです。親として、何を、それ以上、子どもたちに求めることができますか?

 あなたの二男は、すばらしい子どもですよ。記事を読んで、すなおにそう思いました。今時の
子どもは、みな、そうです。外からはわからないかもしれませんが、どの家庭でも、子どもは、
それくらいのわがままというか、無理難題を、親にふっかけていますよ。

 しかしそれも、もとは言えば、親の責任ですよね。幼いときから。したい放題のことをさせてき
たのは、親ですから。いまさら「がまんしろ」と言うほうが、無理なのです。そういえば、昨日も、
あるゲーム機器が販売になりましたね。それを求めるために、おじいちゃん、おばあちゃんた
ちが寒空の下で立って待っていました。

 テレビのレポーターが「だれのために買うのですか?」と聞くと、みな、「孫のため」と答えてい
ましたよ。

 そういうことをしておきながら、今になって、「がまんしろ」とは?! いえTKさんが、そうだっ
たと言っているのではありません。多かれ少なかれ、私たちは、みな、子どもに対して、そうい
うことをしてきたということです。

 二男の巣立ちは近いようですね。今は、そういう目で見てみたら、どうでしょうか。そして残り
少ない時間を、どうやって、たがいに意義のあるものにするか、それを考えてみてください。あ
と3年で、あなたの子どもは、去っていきます。その3年など、またまたあっという間に終わって
しまいますよ。

 で、そのあとどっとやってくるのが、老後! 老後ですよ、あなたの!

 保証します。毎晩3キロもランニングする子どもは、絶対に、道を踏み外すような子どもには
なりません。安心して、子育てをつづけてください。そしてあなたの二男には、こう言います。
「お前はすばらしい子だ」「自慢の子だ」と。

 私の好きなエッセーをここに添付しておきます。ぜひ、読んでみてください。中日新聞に載せ
てもらったものの中でも、とくに反響の大きかった原稿です。

+++++++++++++++++++++++

●子どもが巣立つとき

 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそん
な年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子の
腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。

 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息子
が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネクタイ
をしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。

二男が高校に入ったときのことだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてか
ら女房に話を聞くと、こう教えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る
予定の友だちが、体力がないため、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私
を超えたのを知った。いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るよ
うになった。

 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わっ
てみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いやられ
る。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾けてや
ればよかった」と、悔やむこともある。

そう、時の流れは風のようなものだ。どこからともなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そ
していつの間にか子どもたちは去っていき、私の人生も終わりに近づく。

 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときのこ
と。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからなかっ
た。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。

うしろから女房が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。

 何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手
なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、「臭
い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男は、そ
ういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。

そのときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。レ
ストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子たち
も、ああだったなあ」と。

 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。 
(06−03−04)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●講演会の感想から

2月24日、引佐町で子育てについて、講演をさせていただきました。その主宰者のNさんより、
講演の感想を届けてもらいましたので、そのまま紹介させていただきます。たいへんうれしかっ
たです。

++++++++++++++++++++

5.講演会の感想 
  項         率(%)
大変良かった        76.9%
良かった          19.2%
普通             3.9%

+++++++++++++++++++++
 

●今日からでも実行できることを教えていただき為になりました。

●自分の日頃している行動の大切さを思い知らされたように思う。子供を、尊敬して見られる
ようにしたい。

●今回は、とても良い話を聞けました。(自分の過去を見つめる)という話を聞いた時、ドキッと
しました。何だか自分を見つめ直すよい機会でもあったと思います。この言葉を忘れずに、自
分の悪い部分を今から少しでも直していき、子育てができたらいいと思いました。

●自分の子供を信頼できているか、ちゃんと子供に子育ての見本を示せているか考えさせら
れた。反省させられた。自分が誠実にルールを守るようにまずしたい。


●経験に基づいた専門的なお話が聞けて良かったです。頂いた本をじっくり読みたいです。

●子供について、いつも信頼しあえる関係をつくっていきたいと感じました。親が見本なのだと
いうことを自覚して行動したいと思います。

●自分自身を見つめ直すよい機会になりました。事例を出してのお話、とてもわかりやすかっ
たです。

●毎日子育てに精一杯でしたが、託児もお願いして会に参加できて良かったです。

●今まで気がつかなかったようなルール違反を少しづつでも気がついて、善人になっていかな
いといけないと思いました。

●子供を信頼していないわけではないけど、他人に言われるとゆらいでしまう。でも、親子関係
の為にもきっとできるようになると思えるようになりました。子供の目標を応援してあげられるよ
うになりたい。

●楽しく、厳しく聞かせていただきました。

●親子の信頼関係といろいろで、改めて考えさせてもらった。気づきがありました。

●とても良いお話で、また話を聞きたいです。

●赤ちゃん返りの事や他にも色々自分のことを言われているようで、とても身にしみた。

●子育てを見つめ直すというより、自分自身の日々の生活習慣を見つめ直す良いきっかけに
なりました。

●詳しく内容が聞けて良かった。全部聞きたかった。

●子供と信頼関係を大事にしたいと思った。

●ルールを守るって大切なことなんだと改めて感じ、自分の生活を振り返りちょっと安心しまし
た。でも、シャドウ部分は気になります。口には出さねど、過去のトラウマがあることはあるの
で。

●ハッとする内容で、今までを反省することばかりです。あっという間の90分で、もっと聞きたか
ったです。

●エネルギッシュで、おもしろい話でした。

●日々の生活の中で考えさせられることばかりのお話でした。

●とても良い講演で、子育て支援をしていく上でもとても参考になりました。

●子育て教育は親の教育。

●わかりやすいお話とても良かったです。

●講演会またやってください。大変ためになります。
●軽に子供同士が遊べる空間を是非、設立していただければと希望しています。

●託児があるので講演に出席できました。少しでも子供のため、子育てのポイントが聞くことが
できて良かったです。

Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(139)

●2006 WORLD BASEBALL CLASSIC(WBC)アジアラウンド

++++++++++++++++++++++++++

2006年、ワールド・ベイスボール・クラシックスが
開幕した。

私は、その実況中継を、コタツの中で寝そべりながら見た。
が、心は上の空……。私は、その試合を見ながら、35年
前の私を思い出していた。

+++++++++++++++++++++++++++

 2006・WORLD・BASEBALL・CLASSIC(WBC)アジアラウンドという、国際野球大会
が、今日から始まった。日本の初戦相手は、中国。そして今夜(3月3日)、日本は、中国に、1
8対2という、何というか、草野球のような得点で、勝った。勝ったというより、試合にならない試
合だった。そのため、どこか白けた。気が乗らなかった。

 私は、その野球中継を、ぼんやりと見ながら、ちょうど35年前の自分を思い出していた。19
71年の夏のことだった。

 当時、日本の経済界を牛耳っていた経済人に、今里H氏という人がいた。戦後の日ソ貿易の
立役者となって活躍した、大人物である。その今里氏が、友人の秋元氏に、こんな依頼という
より、命令をくだした。

 「1972年の札幌冬季オリンピックのあとに、何かしたい。その企画を立てろ」と。秋元氏は、
私の1年先輩。私は秋元氏のあとに、同じ奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。「予算は、
いくらでも出す。心配するな」とも。

 今里氏と秋元氏の関係は、今里氏がオーストラリアへ行った際、その今里氏の通訳をしたの
が、きっかけだったと聞いている。

 そこで秋元氏は、私に声をかけてくれた。私は、P・ランダンという友人を連れて、秋元氏に合
流した。P・ランダンは、オーストラリア留学時代の、私の友人であった。そのときランダンは、
私のあとを追いかけるように、東京へ来ていた。

 秋元氏の構想は、国際博覧会としても、壮大なものだった。秋元氏は、「牧畜オリンピックを
やろう」と言った。

 当時、(今でもあると思うが)、2年に1度、つまり1年おきに、アメリカでは、全米で競う、「牧
畜オリンピック」のようなものを開いていた。あらゆる家畜が、品種を競うという、オリンピックで
ある。そこにはありとあらゆる種類の家畜が集まる。正式の名前は忘れたが、私たちは勝手
に、「牧畜オリンピック」と呼んでいた。秋元氏は、その間の年に、それを日本で開くことを計画
した。

 秋元氏は、すぐアメリカへ飛んだ。私とランダンは、日本での候補地をさがした。間に、TFと
いう、プロの企画会社が入ってきた。社員は20人前後。社長はY氏という、30代半ばの男だ
った。

 その企画会社は、北海道の函館近くの、「S」という日本最大の牧場を選んだ。私たちは、浜
松を選んだ。浜松には、中田島砂丘という砂丘がある。その砂丘の手前は、広い砂地の空き
地になっていた。

 私は、何度も、東京と浜松の間を、行き来した。その間、ランダンは、東京に残り、英語の案
内書や依頼書の作成をした。

 今里氏は、約束どおり、惜しみなく予算を提供してくれた。が、その年の秋、突然、日本を第
一回目のニクソン・ショックが襲った。アメリカのニクソン大統領が、金とドルの交換を一方的に
停止してしまった。とたん、今里氏は、「金が出せなくなった」と言った。計画は、そのまま、宙に
浮いてしまった。

 秋元氏はそのままアメリカに残り、ランダン氏は、そのあとまもなくオーストラリアにもどった。
私は、行く場所もなく、この浜松に残った。

 よく人は、私に聞く。「どうして浜松に来たのか」と。実は、これが私が浜松に来た、理由であ
る。

 で、なぜ、35年前の私を思い出したか? 私は、その実況中継を見ながら、その背後で動い
たであろう、企画会社を見たからである。さらにその背後で動いたであろう、企画屋を見たから
である。

 正義や倫理などというものは、ない。要するに、金を動かし、人を動かし、ときには、国を動か
し、自分たちの利益に、それを結びつけていく。

 「サッカーに負けてはいけません。野球でも、国際大会をしましょう」
 「そうだな、国際大会だ。ワールドカップ方式でいいだろう。で、だれを動かす?」
 「当然、ミスターNですよ。O監督がのってくれば、さらにいい」
 「アメリカから、イチRーも呼びますか?」
 「そうだな。すぐ打診してみろ!」と。

 こういう会話が、どこかで必ず、あったはず。そして今回の、WBC(2006 WORLD BAS
EBALL CLASSIC)へとつながった(?)。

 たぶん観客たちには、それがわからないだろう。わかる必要もない。こうした超大型のプロジ
ェクトが企画にのり、実行に移される過程には、必ず、これまた超大物の経済人がいる。そう
いう経済人が、陰で、若い人や、企画会社を操る。企画屋を操る。しかし経済人が本当に操る
のは、観客という、一般人である。

 野球中継の合間、合間には、スタンドで声援を送るファンたちの表情が写しだされた。どの人
も、明るく、さわやかな顔をしていた。中にはコスチュームをそろえて、いっしょに踊っている女
性たちもいた。

 しかしそのうちのだれが、「操られている」と思ったであろうか。だれしも、自分の意思で、自
分の考えで、日本のチームを応援していると思っていたにちがいない。事実、そういう部分がな
いわけではない。だから、私は何も、そうしたファンの気持ちに、水をさすつもりは、ない。野球
試合は、あくまでも興行。娯楽。みなが、楽しめば、それでよい。

 しかし私は若いときに、そういう企画の裏の裏まで見てしまった。そして同時に、いやというほ
ど、挫折感も味わった。だからその野球中継を見ながら、一歩退いたところで、私は、さらに白
けてしまった。少なくとも、サッカーのワールドカップの試合で感ずるような、純粋さを感ずること
はなかった。心を白紙にして、応援するということが、どうしてもできなかった。

 「プロ野球業界も、金儲けのために、あの手、この手といろいろ考えるものだ」と。

 で、こうして私は、この浜松に居ついてしまった。東京へもどる気は起こらなかった。そのあと
のことは、また別の機会に書くことにして、ここに書いた、秋元氏は、そのあと、外資系企業を
渡り歩き、日本M社の副社長をしていたときには、販売促進のために、あのマイケル・ジャクソ
ンを日本に呼んできた。現在も世界を代表する、ある化粧品メーカーの日本支社長をしてい
る。

 また、P・ランダン氏は、その後、宝石の加工、輸出会社をおこし、全オーストラリアでナンバ
ーワンの宝石会社として、表彰されるにいたった。ともに40代そこそこの年齢のときである。

 あのころの経験が、決してムダではなかったということか?

 WBCが、国際大会として根づくかどうか。それはこれからの課題だろう。オリンピックの正式
競技からはずされて、その影がやや薄くなった。ただここで言えることは、金儲けの臭いがプン
プンするような大会では、決して長つづきはしないだろうということ。観客だって、そうはバカで
はない。「だれかに操られている」と感じたとき、観客は去っていく。

 企画会社や企画屋の腕の見せどころは、これからというところか。

【補記】

 インターネットで検索してみたら、函館の「S」という牧場は、今でも健在のようだ。私と同じ年
齢の若い男がいたが、今ごろは、どうしているのだろう。一度、会ってみたい気がする。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

(和歌山県にお住まいの、SGさんより)

本日のマガジンに掲載していただいたSGです。
お答えいただき、とてもうれしかったです! ここのところマガジンにおいて依存性の強い子に
ついて、書いて下さっていたため、自分で読みながら考えていました。

ご指摘いただいたように、次男の誕生による赤ちゃん返りもあるのかなと思いますが、うちの
問題は前々回のマガジンに載っていたように、私たち夫婦が内心長男に依存されることを望ん
でいることだと思います。

私たち夫婦はそろいもそろって、長男を溺愛しており、「あの、自信なさげな顔がたまらないね
ー」などいつも話し、べたべたしすぎて、甘えられることをもとめていました。
今もその気持ちはありますが、まず母親である私から長男の自立のため変わっていこうとおも
います。猫とちがって、大人になって親離れするのですから・・・

長男は体も弱く入院を繰り返し喘息、アトピー・・・とあり、どもりもあり繊細な子です。口うるさく
手をかけすぎていました。あまり手をかけていない次男がたくましく成長していく姿を見ていると
「暖かい無視」は子どものために大切なんだなあと、今更ながらに実感します。

先生にこういう形で出会え、子育ての軌道修正ができそうです。またお気づきの点ありましたら
ぜひお聞かせください。ありがとうございました。
 
(追伸)

先ほどのSGです。(依存性の強い長男)たびたびすみません。長男について
大切なことを書き忘れていました。

反動形成いついては、私自身最近になって、感じ始めていました。彼は子どもなりに、私たち
両親の期待に沿うよう「優しいお兄ちゃん」を無理して演じていた所もあるようです。
「優しいねーすごいなあ」と言ってほめながら、長男に理想を押し付けていました。
このところ、やっと、次男にいじわるをしてみたりしてある意味子どもらしくなってきました。

まわりから、「いい子」といわれる子どもはストレスがたまっていたようです。
また、私に対してもプチ反抗期です。

思えば次男誕生の日から、人が変わったように物分りがよくなっていたのも、「優しいお兄ちゃ
ん」を演じていたのかもしれません。

本当に大切なことを教えていただき、感謝ばかりです。気をつけます。

(SG様へ)

 いただきましたメールのアドレスが、まちがっているようです。何度か、いろいろな方法で、返
信を試みましたが、すべて、「あて先不明」で送り返されてきてしまいました。で、こういう形で、
掲載許可をいただけた部分だけ、原稿を掲載させていただきました。よろしくご理解ください。
プラス、ありがとうございました。(06年3月4日)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(140)

●朱に交われば赤くなる……

+++++++++++++++++++

中国の故事に、『朱に交われば赤くなる』と
いうのが、ある。

しかしその恐ろしさを知っている人は、
いったい、どれだけいるだろうか?

+++++++++++++++++++

 私は、子どものころ、本当に、小ズルイ人間だった。よく言えば、要領のよい子どもだった。
悪く言えば、その場その場で、他人をだますというより、自分をごまかすのが、平気だった。そ
んな子どもだった。自分でも、それをよく知っている。

 すべてを戦後のあの時代のせいにするわけにはいかない。というのも、同じような時代に生
まれ育ちながら、私のようでない人も多いからである。が、あえて言うなら、当時は、そういう時
代だった。とくに私のまわりには、家庭教育の「か」の字もなかった。

 道路にお金が落ちていれば、「モ〜ライ(=貰う)」と言って、自分のものにした。警察署に届
けるとか、届けないとか、そんなことは、考えもしなかった。

 その私が、この年齢になって、変わったかというと、それは疑わしい。私は、基本的には、小
ズルイ人間である。自分でも、それがよくわかっている。前にも書いたが、こんなことがあった。
その原稿を、そのまま紹介する。日付を見ると、2002年の11月になっている。それから4年
もたつのに、私は、いまだに同じことで悩んでいる。

+++++++++++++++++++

●本当の私

 私はもともと小ズルイ男で、今も、それが自分の中にしっかりと残っている。すべてをあの戦
争の責任にするわけではないが、私が過ごした幼児期というのは、戦後の混乱期。まさにドサ
クサのころで、秩序があるようで、なかった。そういう時代だった。親たちも食べていくだけで精
一杯。家庭教育といっても、その「キョ」の字もなかった。

 その私が一見、まじめそうな顔をして生きているのは、そういう自分を必死になって押し殺し
ているからにほかならない。一度幼児期にできた「自分」を消すことは、私の経験からしても不
可能だと思う。ふと油断をすると、すぐ表面に出てきてしまう。ただ私のばあい、それが「盗み」
とか、「暴力」とか、そういう反社会的な面で出てこないだけ、ラッキーだった。出てくるとするな
ら、「お金」と「女性」についてだ。

 まず、「お金」。たとえば道路でサイフを拾ったりすると、それをどうするかでいまだに、悩んだ
り苦しんだりする。しかしそういう自分がいやだから、つまりあとで、あと味の悪い思いをするの
がいやだから、何も考えず、交番に届けたり、近くの店に届けたりしている。自分の行動パター
ンを決めて、それに従っている。

 つぎに「女性」。私の青春時代は、まさに「女に飢えた時代」だった。高校生のときも、デートを
しただけで先生に叱られた。そうした欲求不満が、私の女性観をゆがめた。イギリスの格言に
も、『抑圧は悪魔をつくる』というのがあるが、まあ、それに似た状態になった。結婚前は、女性
を「おもちゃ」ぐらいにしか考えていなかった。女性の気持ちなどまったく無視。セックスの対象
でしかなかった。

が、ある事件を契機に、そういう「女遊び」をまったくやめたが、今でも、そういう思いはたしか
に残っている。ふと油断すると、女性が「おもちゃ」に見えるときがある。(しかしこれは本能に
よるものなのか、自分の意識によるものなのかは、よくわからない。たとえば男というのは、射
精する前と、射精したあとでは、女性というより、女性の肉体に対する関心が、180度変わる。
射精する前には、ワイフでもたしかにおもちゃに見える。しかし射精すると、その思いは完全に
消える。なぜか?)

 話を戻す。こうした小ズルさがあるから、反対に、他人の小ズルさが、よくわかる。相手が、
自分でもしそうなことをすると、それがすぐわかる。先手をとったり、それから身を守ったりす
る。そういう意味では役にたっている。が、それがよいのか悪いのか? 人を疑うのは、あまり
気持ちのよいものではない。しかしこういうことは言える。

私のワイフは、同じ団塊の世代だが、人を疑うことを知らない。純朴と言えば聞こえはよいが、
実際には無知。そのため今まで悪徳商法の餌食(えじき)にされかかったことが、何度となくあ
る。おかしな料理器具や、アワ風呂発生器や、あやしげな生協活動や、はたまた新興宗教な
どなど。私が「やめろ」と言わなければ、今ごろはかなりの損をしていたと思う。

 そんなわけで私が今、一番恐れているのは、やがて気力が弱くなり、自分の本性がそのまま
モロに外に出てくること。そうなったとき、私は実に醜い人間性をさらけ出すことになる。すでに
今、その兆候が現れ始めている?
 
 そこで私は今、つぎのことに心がけている。どんなささいなルールも守る。ワイフが、「そんな
こといいのに……」とあきれるときもあるが、とにかく守る。そのルールが正しいとか正しくない
とか、そういうことは判断しない。一応社会のルールになっているときは、それを守る。

 あるいはどんな少額でも、お金はごまかさない。レジなどで相手がまちがえたときは、おつり
が多くても少なくても、(少ないときは当然だが……)、即、申告する。お金は借りない。貸さな
い。もちろん交通ルールは守る。黄色になったら、どんなばあいでも、止まる。自転車に乗って
いても、それは守る。そういうことを自然にしている人から見れば、「そんなこと当然のことでは
ないか」と笑われるかもしれないが、私はそうしている。そうしながら、つまり、自分の行動パタ
ーンを、できるだけわかりやすくしながら、自分の邪悪な部分を目覚めさせないようにしてい
る。

++++++++++++++++++++++

●私の限界

 数年前のことだが、こんなこともあった。

ある文具店で、文房具をいくつか買った。頭の中で計算しながら、1000円を出すと、若い女
性の店員が、300円余りのおつりをくれた。私は瞬間、「?」と思った。思いながら、数歩、歩い
てしまった。

 私の計算では、おつりは、100円もないはず。

 そこで振りかえりながら、「あのう……」と言いかけると、その店員のうしろに、もう一人、年配
の女性が立っていて、こう言った。「今、全品、2割引セールをしています」と。

 私は、それを聞いて笑った。店員も笑った。しかしそこに私の限界がある。つまり数歩、歩い
たというところに、私の人間的な限界がある。本来なら、それに気づくと同時に、振りかえり、お
金を返すべきだった。しかし私はそのおつりを握ったまま、数歩、歩いた。歩いてしまった。

 どうしてあのとき、私は数歩、歩いてしまったのか?

私は、瞬間だが、子どものころのように、「モ〜ライ」と思ってしまった。「得をした」と思ってしま
った。その小ズルイ自分と戦うために、数歩、歩いてしまった。

●朱に交われば……

中国の故事に、『朱に交われば、赤くなる』というのが、ある。人は、そのつきあう相手によっ
て、善人にも悪人にもなるという意味である。つきあう相手からの影響を無視することはできな
いということだが、この故事には、もうひとつの意味がある。

つきあう相手によって、自分の中の邪悪な部分が、えぐり出されることもあるという意味であ
る。

たとえば、今、私の周辺ではこんなことが起きている。その相手の名誉にもかかわる問題だか
ら、詳しくは書けない。しかし大筋では、こんな話である。

私の近くに、X氏(60歳くらい)という男性がいる。かなりの経営的な手腕をもっている人で、こ
の世界では、「成功者」と呼んで、さしつかえのない人である。

その人は、見るからに小ズルイ人で、やることなすこと、一貫している。で、その人と会っている
と、ふと、子どものころの私が、そこにいることを知る。話が合うというか、話がはずむ。「それ
はおもしろいですね」「一度、やってみましょうか」と。

それだけではない。そのX氏は、私を平気でだます。だますといっても、それほど大げさなこと
ではない。口がうまいというか、その程度。ウソもよくつく。で、そのX氏とつきあう私はどうかと
いうと、私も、そのX氏に対してだけは、平気でウソをつく。ごまかす。

だから、ここ数年、私は、そのX氏と会うのを避けている。会ったあと、いつも不愉快な思いを
するからである。言うなれば、X氏は、私の心を写すカガミのようなもの。そのカガミに写る私の
心は、いつも醜くて、うす汚い。

 私が言う、『朱に交われば赤くなる』というのは、そういう意味である。そしてその故事のもつ
意味の恐ろしさというのを、強く感ずるようになった。つまり私の中には、自分でもいやになる
部分が、ある。そのいやな部分が、同じようにいやな部分をもった人に出会うと、えぐり出され
てしまう。

 これは心理学的にも、おもしろい現象だと思う。

 だから最近では、このタイプの人とは、努めて、つきあわないようにしている。避けるようにし
ている。もう少し正確に言うと、『朱に交われば、自分の中の朱が、えぐり出される』ということ
か。今の私は、それがこわくてならない。

+++++++++++++++++

もう1作、こんな原稿を紹介します。
3年ほど前に書いた原稿です。

+++++++++++++++++

●不愉快な気分

 たまたま私は、その日、二つの経験をした。

店で、3000円のものを買った。5000円札を出したので、おつりは2000円ということになる。
が、店の女性は、私におつりを、7000円もくれた。(話をわかりやすくするために、消費税など
の、こまかい数字は省略した。)

 「あのう……」言いかけたが、その女性の手を見ると、1万円札がしっかりと握られている。私
は「?」と思った。思ったとたん、言葉がひっこんでしまった。5000円札を渡したのに、どうして
……と考えているうちに、わけがわからなくなってしまった。そういうとき、「今、渡したのは、50
00円札です」と言うと、かえって話が、混乱してしまう?

 店から出るとき、何とも言えない不快感が心の中に充満した。「どうして正直に言わなかった
のだ」と、自分で自分を責めた。しかしその女性は、たしかに一万円札をもっていた。私が500
0円札だと思っていたのは、1万円札だったのか。それとも、途中で、その女性は、別の札とも
ちかえたのか。私とて、すべてを見ていたわけではない。

 その不快感は、ずっと消えなかった。ふつうなら、「得をした」と喜んでよいはずだが、そういう
感覚は、なかった。「いいのかなあ?」と思っている間にも、足は、どんどんと、その店から遠ざ
かってしまった。

 同じ日の夜。今度は、こんな経験をした。

 夜、帰るとき、車の列を横切って、向こう側の車線に出ようとしたときのこと。そのとき、ワイフ
が車を運転していた。私たちは信号のない十字路にいた。が、半分ほど車を出したところで、
車が反対方向から、何台かやってきた。私たちは、車の列の中で、立ち往生してしまった。

 とたん、横の車が、はげしくクラクションを鳴らした。「どけ!」という意味である。一度や、二
度ではない。何度も鳴らした。ワイフが頭をさげたが、それでも、クラクションは、鳴りつづい
た。助手席にいた私が体を乗りだしてその車を見ると、運転していたのは、27、8歳の若い女
性だった。

 やがて車の流れが切れ、私たちは反対車線に出たが、私は、何とも言えない不快感に襲わ
れた。ワイフは、「しかたないわよねえ……」と笑っていたが、私は、車から飛び出し、その女性
を怒鳴りつけたかった。

 たまたまその日は、私の精神状態がよくなかったのかもしれない。どこかピリピリしていた?
 が、そのままにしておくわけにはかない。夜、家に帰ると、ワイフにこう切り出した。

私「今日、お前がぼくに渡してくれたお金はいくらだった?」
ワ「旅費とお弁当代で、1万9000円だったわ。バッグの一番外のポケットに入れておいたわ」
と。

 そこで私は、おつりの話をした。するとワイフは、「じゃあ、いくら使ったか明細を言ってよ。そ
れで計算できるわ」と。

 で、その結果、ワイフはこう言った。「やっぱり、あなたは、1万円札を渡したのよ。自分で50
00円札と思いこんでいただけよ。でなと、計算が合わないもん」と。

 「ああ、よかった」と思ったとたん、胸の中のしこりが消えた。そしてつづいて、あの女性の話
をした。

私「お前は、ああいう女性を、どう思う?」
ワ「ああ、あの人ね。せっかちな人ね」
私「それだけ?」
ワ「それだけよ」
私「ぼくは、車から出て行って、怒鳴りつけてやりたかった」
ワ「あんな人、相手にしなければいいのよ」
私「そのあと、気にならなかったか?」
ワ「すぐ忘れたわ」
私「ぼくには、それができない。いつまでも気になる」
ワ「そうね。あんたは、そういう人ね」と。

 なぜ人間は、不愉快になるか。自分で自分を不愉快にすることもある。反対に、他人が自分
を不愉快にすることもある。私はその日、同時に二つの経験をした。しかしこうした不愉快は、
心の健康にもよくない。

 では、どうするか。もっとも、その日は、疲れていた。それでささいなことが気になった? 注
意力も、欠けていた。それでそういうことになった。しかし、私が感じた不快感は、まったく同質
のものだった。何でもないようなことだが、考えてみれば、これはおかしなことだ。

 一方は、自分で作りだした不快感。もう一方は、他人から与えられた不快感。その二つが同
質? 意識の上では、別の不快感かもしれないが、脳の中へ入ると、同じものになってしまう?
 あるいは、脳は、そこまでは区別できない? 

それはちょうど、たとえて言うなら、食べ物が胃袋に入るようなものか。フランス料理と日本料
理を別々に食べても、胃袋の中へ入れば、みな、同じ。もう区別できない?

私「人間の感情なんて、単純なものだね」
ワ「……何の話?」
私「いいの。どうせ、お前に話しても、お前には理解できないから……」
ワ「わけのわからないことを、言わないでよ」
私「ぼくと、お前とでは、脳ミソの質が違うということ」と。

 しかしその日は、よい経験をした。このつづきは、また別の日に考えてみたい。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(141)

●子どもから見た親の姿

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

自分自身から見た、「親の姿」。
子どもから見た、「親の姿」。
親(あなた)自身が、「親は、こうあるべき」と、
考える、「親の姿」。
子どもが、「親は、こうあるべき」と、
考える、「親の姿」。

「親の姿」には、いろいろある。

これら「親の姿」が一致していればよし。
そうでなければ、親子の間には、大きな
溝(みぞ)が入ることになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

 あなたの子どもは、今、あなたを、どんな親だと思っているだろうか。ものわかりがよく、知性
的で、理性的な親だと思っているだろうか。それとも、わがままで、自分勝手な親だと思ってい
るだろうか(現実の親認識)。

 一方、あなた自身は、どうだろうか。自分のことを、どんな親だと思っているだろうか。家族思
いで、献身的な親だと思っているだろうか。それとも、だらしなく、風采のあがらない親だと思っ
ているだろうか(現実の自己認識)。

 さらにあなたの子どもは、今、あなたにどんな親になってほしいと願っているだろうか。あなた
に対して、どうあるべきだと願っているだろうか(子どもの親概念)。

 反対に、あなたは、子どもに対して、どんな親であるべきだと考えているだろうか。あなた自
身が描く、理想的な親の姿というのは、どういうものだろうか(親の親概念)。

 あなたという(親)を考えるときには、こうした4つの方向からの(眼)がある。それらを、ここで
は、現実の親認識、現実の自己認識、子どもの親概念、子どもの親概念とする。しかしこうして
言葉にまとめると、むずかしくなってしまう。わかりやすい例をあげて考えてみよう。

 A氏(40歳)は、自分では、できのよい親だと思っている。家族思いで、献身的。仕事もまじ
めにこなし、休日でも、仕事があれば、会社にでかける。家族のまとまりが、何よりも大切と考
えている。

 だから言葉にこそ出さないが、自分の妻や子どもたちは、自分に感謝しているはずと信じて
いる。自分は尊敬されているはずと思っている。

 そのA氏には、1人の息子と、1人の娘がいる。しかしその2人の子どもは、そうは思っていな
い。「ぼくの親父(おやじ)は、いばっている。いつも一方的。さからうと、こわいから、黙っている
だけ」「私の父親は、いつも親風を吹かしている。こまかい。うるさい」と。

 A氏は、いつもこう言っている。「父親は、一家の柱。父親は、船にたとえるなら、船長。存在
感こそが重要なのだ」と。

 一方子どもたちは、こう思っている。「もっと自由にしてほしい」「私たちを、もっと信じてほし
い」「あれこれと自分の考えや考え方を、押しつけないでほしい」「子どもではなく、人間として認
めてほしい」と。

 一見、まとまりのある家族に見えるかもしれないが、その内実は、バラバラ。こんな状態で
は、親子関係にしても、うまくいくはずがない。少し極端な例だが、「定年離婚」という言葉があ
る。夫が定年を迎えたとたん、妻のほうが、離婚話を持ちだすという、あれである。

 その定年離婚で、妻が離婚話を持ちだすと、ほとんどの夫は、あわて、ふためくという。「何を
考えているのだ!」と、妻を殴りとばす夫も少なくないという。

 こういうケースでは、夫が自分で思っている夫の姿と、妻が思っている夫の姿が、大きく乖離
(かいり)していたと考える。夫は、それに気づかなかっただけということになる。

 同じように、A氏の家族のように、心がバラバラになってしまった家庭では、そのつど、問題
が、海辺に打つ寄せる波のように、現れては消える。つぎからつぎへと、だ。で、そのたびに、
A氏は、「なぜだ?」「どうしてだ?」と振りまわされる。「オレは、こんなに、家族のために尽くし
ているのに!」「がんばっているのに!」「何が、不満なのだ!」と。

 親にもいろいろあるが、より自己中心的な親もいれば、より自己中心的でない親もいる。中
には、自己愛のかたまりのような親さえいる。「自分さえよければそれでいい」「家族が自分の
ために犠牲になっても、当然」と。

 しかしそれでは、良好な親子関係など、望むべくもない。

 そこで、どうするか?

 方法は簡単。ひとつ、こんな実験をしてみてほしい。

今、あなたはここにいて、この文章を読んでいる。そこで今、あなたの子どもがどこにいるか
を、頭の中に思い浮かべてみる。

 たとえばあなたの子どもが、今、学校(幼稚園)にいるとする。あるいは居間のどこかで、本を
読んでいるとする。

 そのとき、そっと、あなたの脳みそを、子どもの頭の中に、入れてみる。「入れる」といっても、
もちろん、空想するだけである。そしてその子どもの脳みその中から、外の世界を見てみる。

 その世界は、どんなものだろうか。まわりには、どんなものが見えるだろうか。何があるだろう
か。

 そうして視野を、どんどんと大きくしていく。そして最終的には、その視野の中に、あなた自身
を置いてみる。するとあなたは、子どもの目を通して、あなた自身をそこに見ることができる。
ちょうどビデオカメラか何かに撮影して見るように、だ。

 その(あなた)は、どんな姿だろうか。子どもの目には、どんなふうに映るだろうか。どう見える
だろうか。

 これは決してむずかしいことではない。というのも、あなた自身も、子どものころ、そういうふう
にして、あなたの親を見ていたはずである。そういう自分にもどるだけでよい。それで(子どもか
ら見た、あなたという親の姿)を見ることができる。

 で、あとは、それを繰りかえす。繰りかえすことで、現実の親認識、現実の自己認識、子ども
の親概念、子どもの親概念の4つをひとつにまとめることができる。もちろんそれが、家族のつ
ながりを、深くすることは言うまでもない。

こう書くと、親ばかり……と思う人がいるかもしれない。子どもの側にも、それなりの義務と負担
があってしかるべき、と。しかしここでは、考えない。日本人は、元来、親意識の強い民族であ
る。それが子育て観の中に、風俗、文化として、定着してしまっている。多くの問題は、子ども
にあるのではない。親自身のほうにある。そう考えて、改めるべきは、まず親のほうと考える。

 子どもに向かって、子どもはこうあるべきだと考えるのではなく、自分は、こうあるべきと考え
る。それがこれからの親子関係を考える、第一歩ということになる。

 「最近、どうも子どものことがわからない」と感じたら、ここで示した方法を、一度、試してみて
ほしい。
(はやし浩司 親の姿)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(142)

●2人の姉妹

++++++++++++++++++++++

少し前、母の介護をめぐって、2人の姉妹が
対立しているという話を書いた。

それについての追加報告。

++++++++++++++++++++++

 2人の姉妹がいる。上の姉は、今年、63歳。下の妹は、満60歳になったところだという。

 現在、上の姉が、自宅で、母親のめんどうをみている。母親は、現在、87歳。ひとりで生活で
きなくはないが、どこかあぶなっかしい。それで上の姉が、母親を引き取った。

 で、下の妹は、毎月、7万円の費用を、姉に送りつづけている。決して楽な額ではない。妹の
夫も、2年ほど前、以前の会社をリストラされ、現在は、その子会社で、「アルバイト的な仕事」
(妹の言葉)をしているという。貯金を切り崩しての、送金である。

 姉は、毎週のように妹に電話をかけ、母の世話のたいへんさを訴えくるという。「少し、ボケて
きた」「徘徊するようになった」「便をもらすようになった」と。

 ここで意見が、大きく分かれる。

 妹のほうが、その電話があるたびに、「施設へ入れたらどう?」ともちかけるという。しかしそ
れに対して、姉のほうは、「世間体が悪い」「親を施設に入れるなんて、恥ずかしくてできない」
と。

 が、妹のほうは、都会のマンション住まい。引き取りたくても、母親が、「都会は嫌い」「マンシ
ョン生活はいや」と言っているという。加えて、夫の理解を得るのがむずかしい。

 そのため、電話は、いつも、けんかで終わってしまうという。「たいへんだ。自由に外出もでき
ないのよ。あなたにその苦労がわかるの!」「わかっているわよ。だったら、施設へ入れたらど
うなのよ!」「あなたは、そんな冷たいことを言って、それでも娘エ!」と。

 で、肝心の母親は、これまた古風というか、驚き。「施設へ入れられるくらいなら、首をつっ
て、死んでやる!」と言っているという。その年代の人たちは、「施設」という言葉に、独特の印
象をもっている。偏見もある。

 さらに「実家の田畑を売って、費用を出してほしい」と懇願する妹に対して、姉や母親は、「そ
んな恥ずかしいことはできない」「ご先祖様に申し訳ない」と、がんとして拒否。しかたないので、
妹は、毎月、7万円の送金をつづけている。

 この話を伝えてくれた人によれば、「どちらかというと、姉のほうが、冷たい人だ。妹のほう
が、温かい人だ」ということらしい。言い忘れたが、姉は、実家の近くに住む男性と結婚。最近
まで、「〜〜村」と、「村」という名前のついていた町に住んでいる。妹のほうは、東京近郊の大
都市に住んでいる。

 妹はこう言う。「親のめんどうをみるのが、そんなにたいへんだったら、施設へ入れればい
い。毎週、毎週、苦情を言われる私だって、たまったものではない。毎週電話をかけてくるの
は、私に、費用を請求するため。私には、そう聞こえる」と。

 本来なら、母親自身が、自ら、施設に入るべきである。実家の近くにある畑(現在、宅地)を
売れば、それくらいの費用は出る。「娘たちに迷惑をかけるくらいなら……」と、私なら、そう考
える。私のワイフも、そう言っている。

 で、この文章を読んだ、あなたなら、どう考えるだろうか。姉のほうが正しいと思うだろうか。
それとも妹のほうが、正しいと思うだろうか。親は親だから、親のわがままを聞いてやるのも、
子どもの務めと、あなたは考えるだろうか。

 実は、その話を伝えてくれた人も、そう言っている。「親孝行だけは、しなければいかんよ」
と。しかしこんな事実もある。

 概して言えば、「親孝行なんか、しなくていい」と言っている親の子どもほど、親孝行をするよ
うになる。「親のめんどうをみるのは、子の務め」と、親孝行を、子どもに強いる親の子どもほ
ど、親孝行をしない。これは「子どもにはめんどうをかけたくない」という思いが、子どもの心を、
やさしくするためと考えてよい。

 それぞれの家庭には、それぞれの深い事情がある。歴史もある。だから表面的な部分だけ
を見て、こうした事例について、自分の考えを書くことは、たいへん危険なことである。姉には
姉の思い。妹には妹の思いというものがある。

 が、やはり、最大の問題は、その母親にあると考えてよい。現在、2人の姉妹は、決裂寸前
だという。妹にしても、一日とて、気が晴れる日はないだろう。つまり子どもどうしのいがみあい
の原因を、母親自身が作っている。「首をつって、死んでやる」と、猛烈な圧力を、2人の姉妹
にかけている。

 その母親は、精神的に、きわめて未熟な親とみてよい。が、こういう親は、決して少なくない。
中には、家を出た娘に対して、「のろってやる」「私が死んだら、墓場であんたが不幸になるの
を、笑って見届けてやる」と言っている親さえいる。(この話は、本当だぞ!)

 ……ということで、今、日本は、大きな過渡期を迎えているのではないか。ここに書いた姉の
ような考え方をする旧世代から、妹のような考え方をする新世代への、である。私は、ここで
「親孝行」という言葉を使ったが、この言葉そのものが、儒教的ですらある。

 つまりこの日本全体が、戦前までの儒教文化から、西欧文化への過渡期にある。ここに書い
た、2人の姉妹の対立は、そうした過渡期によく見られる、混乱のひとつと考えてよい。

【補記】

 この話をしながら、ワイフは、こう言った。「年を取ったからからといって、人格者になるわけじ
ゃあないからア」と。

 実は、私もそう思う。年の取り方をまちがえると、むしろ人は、より愚劣になる。私もこの年齢
になってはじめて、それがわかるようになった。その人を、10年単位で観察してみたとき、どん
どんと邪悪になっていく人は、いくらでもいる。むしろ、そういう人のほうが、多いのではない
か?

 もちろん、年をとって、人格者になり、より人間味をます人もいる。そうしたちがいは、どうして
生まれるのか? 「苦労が、その人を人格者にする」という説もある。が、苦労をしたため、邪
悪になっていく人だって、これまた多い。
 
要は、年の取り方ということになる。それについては、また別の機会に考えてみたい。

【補記2】

 少し油断すると、日常のささいなことに気を奪われて、どんどんと自分が小さくなっていくよう
に感ずることがある。あるいは愚劣な人としばらくつきあっていると、自分まで愚劣になり、あと
で不愉快な思いをすることもある。

 この前、恩師のT先生に会うと、先生は、こう言った。「それなりの人と、つきあうことです」と。
先生がいう「それなりの人」というのは、「トップクラスの人」という意味である。

 で、私が「私のまわりから、そういう人をさがすには、どうしたらいいですか?」と聞くと、笑い
ながら、「自分から求めていきなさい」と。

 先日、T先生の家に遊びに行くと、天皇陛下と談話している写真や、ノーベル賞受賞者の人
たちと会食をしている写真が、本箱の中に、無造作に並べてあった。「日本学術会議の評議員
に任命する」という、任命書も、そこにあった。そう言えば、その前に会ったときには、たまたま
日本でもよく知られた女性写真家が遊びに来ていた。いっしょに、食事をさせてもらった。

 T先生のまわりには、いつもそういう人たちが集まっている。T先生自身が、そういう人だから
である。しかし私のような凡人には、まねのできる話ではない。が、方法がないわけではない。
私は、それが「考える」という方法ではないかと思う。T先生にしても、若いころから、考えてば
かりいた。その結果が、今のT先生である。

 希望をもって、前に進むしかない!


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【近況あれ・これ】

●WBC、日本vs韓国戦

 たった今、ヤフー・ニュースを見たら、日本が、対韓国戦で、2−0でリードしていることがわ
かった。野球の国際試合である。長い名前だが、「アサヒ・スーパー・ドライ・プレゼンツ・200
6・WORLD BASEBALL CLASSIC(WBC)アジアラウンド」という。

 居間におりていって、野球中継を見ようかと思ったが、今夜は、体を動かすのも、おっくう。風
邪気味。

 それに野球中継を見始めたら、また2、3時間、時間をムダにする。あと3、4枚、原稿を書け
ば、4月10日号のマガジンが、完成する。マガジンでは、毎回、最低でも、1400字程度x20
枚と決めている。

 今、日本中が、その野球中継を見ているにちがいない。で、私は、少し前、こんな計算をして
みた。あるところでした、ある講演会のあとに、である。

 その会場では、500人近い人たちが、集まってくれた。

 で、その講演会で、私は2時間ほど、話をしたが、単純に計算すれば、2時間x500で、約10
00時間。それだけの時間を、聞きにきてくれた人と、共有したことになる。

 1000時間といえば、24で割ると、42日分ということになる。つまり私は、その2時間だけ
で、のべ42日分、生きたことになる。(ちょっと、この計算には無理があるかな? こんな計算
には、まったく意味がない。)

 しかし今、全国で、視聴率を10%としても、約1200万人もの人たちが、その野球中継を見
ていることになる。試合時間を3時間とすると、3600万時間ということになる。

 3600万時間といえば、24で割って、さらに365で割ると、約4100年分の時間ということに
なる。1人の人間の寿命を、80年とすると、51人分の寿命ということになる。もちろん主役は、
あのイチR―だから、イチR―は、たった一回の試合で、51人分の人生を生きることになる。
(繰りかえすが、こんな計算には、まったく意味がない。わかっている。)

 裏をかえして言うと、つまりそれだけ多くの時間を、みなが野球中継を見ながら、無駄(失
礼!)にしていることになる。その時間は、毎日、毎晩、51人の人が、生まれてから、80歳で
死ぬまで、同じ野球中継を見ている時間に等しい。

 それにしても、壮大な無駄。テレビが消費する電力だって、バカにならない。テレビ1台の消
費電力を、1時間当たり、……という計算は、もう、やめよう。私が今、書いているこんな文章を
読むより、野球中継のほうが、ずっとおもしろい。意味がある。

 しかしこれだけは言える。

 今、極東情勢は、大きく動いている。昨日あたりから、中国と台湾が、それぞれ軍事訓練を
始めた。一触即発とまではいかないが、かなりあぶない。国連の安保理によるイランへの経済
制裁も、危惧されている。

 日本経済は、デフレからインフレへ。日銀の量的緩和も、近く解除されるかもしれない。(早く
解除されたほうが、私はよいと思うが……。)もちろんK国の核開発問題もある。こんなときに、
勝った、負けたと、たかがボールの打ちあいに、うつつを抜かしていてよいものか。目は開くべ
きときに、開かないと、あとでたいへんなことになる。

 ……とは言いつつ、WBCは気になる。あと1、2枚、原稿を書くと、4月10日号は、完成す
る。それが完成したら、私もその野球中継を見にいくつもり。韓国にだけは、負けられたくな
い。

 
●快適パソコン

 ハードディスクを取りかえてから、このパソコンの調子が、めちゃめちゃ、よくなった。ハードデ
ィスクにも、回転数という性能がある。回転数が多ければ多いほど、つまり性能はよくなる。(人
間の頭についても、同じような言い方をするのは、興味深い。頭のよしあしをいうとき、「あの人
の頭は、回転が速い」などと言う。)

 が、速いからよいというわけでもないらしい。回転数が速くなればなるほど、ハードディスク
は、熱を発生する。故障も多くなる。(人間の頭も、そうか?)

 以前は、電源を入れてから、デスクトップ画面になるまで、4、5分はかかった。今は、2分前
後ですむ。この快適さが、何とも言えない。

 ところで私のこのパソコンでは、ワードで作業をしているとき、辞書登録ができなかった。辞書
を登録をしようとすると、瞬間だけ、黒枠の説明文が出て、そのまま消えてしまう。メーカーに、
3、40分ほど、電話で相談しながら、四苦八苦したが、結局は、だめだった。

 で、私は、その部分のファイルが、こわれていると思った。思ったので、別のパソコンの中か
ら、そのファイルをさがし、このパソコンに移植してみた。結果、なおった!!

 手術でいえば、腎臓移植のようなもの。それをした。が、どのファイルがこわれているかをさ
がし出すだけでも、たいへんだった。APPLICATION DATAというところがあやしいというとこ
ろまでは、何とかたどりつけたが、それからがたいへんだった。……などなど。しかしパソコン
相手に、知恵比べをしているときというのは、本当に楽しい。

 が、ここで問題。「だからそれがどうなのか?」と思ったとたん、何だかむなしくなった。「高性
能のパソコンになったからといって、だからそれがどうなのか?」と。

 文章が高尚になるわけではない。私の思想が高まるわけでもない。もちろんパソコンの頭が
よいからといって、私の頭がよくなるわけではない。パソコンは、あくまでも用具。現代の筆記
用具。

 しかしこの快適感がたまらない。

 が、ここで重要な教訓がある。

 パソコンという機械は、それがほどほどに、サクサクと動いている間は、そのままの状態をう
まく保ちながら使うこと。おかしな冒険主義をもったとたん、つまり、あちらをいじってやろう、こ
ちらをいじってやろうと思ったとたん、故障というより、わけがわからなくなってしまう。

 今が、その状態。このままの状態で、秋まで、待とう。いよいよVISTA(新OS)が発売にな
る。が、不安がないわけではない。先ほど、ワイフとこんな会話をした。

 私が「パソコンがなおった。調子がよくなった」と話すと、ワイフはこう言った。「じゃあ、もう新
しいパソコンを買わなくてすむわね」と。

 ああああ……。……ということで、やっと20枚になった。4月10日号は、これで完成。あとで
もう一度、自分の書いた文章全体を読みなおしてみて、配信予約を入れるつもり。

 みなさん、最後まで、こんなつまらない文章を読んでくださり、ありがとうございました。次回の
マガジンでは、もう少し、ましな、お役に立てる記事を用意させていただくつもりでいます。

 では、これからWBCの中継を見に行ってきます。
 時は 06年 3月 5日。午後8時13分!

【追記】

 WBCの対韓国戦では、日本は韓国に、3対2で敗れました。残念! 本当に残念!


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(143)

【雑務に悲鳴をあげる教師たち】

+++++++++++++++++++

家庭での子どもへの教育力が、低下している
という。

このほど北海道(北海道道庁?)は、
青少年育成運動推進指導員らを対象にして、
アンケート調査をした(05年8月、267人
を対象に実施し、うち154人が回
答)。

その結果、「低下している」と。

+++++++++++++++++++

●家庭の教育力の低下

 青少年の指導や育成に当たっている人の9割が、「家庭でのしつけなど、子供への教育力が
低下している」と感じていることが、北海道のアンケート調査でわかったという(毎日新聞・06・
03・06)。

 この調査は、「調査は青少年育成の現状と課題を探るのが目的で、05年8月に青少年育成
運動推進指導員ら、267人を対象に実施し、うち154人が回答した」(同)ものだという。

 それによれば、

 家庭での教育力低下について、

   まったく、そのとおり……48%
   ある程度、そのとおり……46%、など。

 具体的に感ずる課題としては、

   あいさつや規則正しい食生活など基本的な生活習慣……84%
人に迷惑をかけないなどの社会的規範      ……78%、など。

 理由としては、

   子供を過保護や過干渉にする親の増加……72%
しつけの仕方が分からない親の増加 ……56%、など。

 青少年の非行防止策としては、

   家庭でのしつけや教育の充実     ……73%
家庭、学校など関係機関の連携強化  ……60%
インターネット上の有害な情報規制  ……61%
子供への声かけなど地域住民の意識高揚……61%、など。

 そこで北海道は、今回の調査結果を、現在進めている「道青少年保護育成条例」の改正に
反映させる方針だという。

 しかし……???

 「家庭での教育力の低下」とはいうが、ここでいう「教育」というのは、何をさすのか。子どもを
どのような子どもにする教育を意味するのか、私には、よくわからない。まさか子どもを、従順
で、ものわかりがよく、静かな子どもにするのが教育、と考えているわけでもないだろう。

 過保護、過干渉という言葉を使っているが、過保護、過干渉が、子どもの非行と、どういう関
係があるのか。その因果関係が、よくわからない。関係があるとするなら、甘やかし、でき愛、
あるいは親自身の自己管理能力の欠落など。それらが混然いったいとなって、子どもの非行と
結びつく。このあたりに、もう少し、切りこんだ指摘をしてほしかった。

 あいさつや規則正しい生活を子どもに強いたところで、非行を防止できるわけではない。5、
6年前のことだが、東海地方のG県では、「朝食運動」なるものを推進した。「朝食を、家族いっ
しょに食べる」という運動である。またS県でも、時を同じくして、「あいさつ運動」なるものを推進
した。ともに県をあげての推進運動である。

 「朝食運動」にしても、現実には、不可能。夫を職場に送り出し、子どもたちの世話をしたあ
と、子どもたちに朝食を食べさせる。母親がやっと一息つけるのは、子どもたちが学校へ出か
けたあとのこと。共働きの家庭も、多い。朝の食堂は、どの家庭でも、まさに戦場。

 「あいさつ運動」にしても、あいさつなど、したければすればよい。したくなければ、しなくてもよ
い。外国では、目と目を合わせたその瞬間、スマイル(ほほえむ)のが、習慣になっている国が
多い。あいさつができるようになったからといって、非行を防止できるというものでもない。

 どこかトンチンカンな調査だが、その調査結果をもとに、「道青少年保護育成条例の改正に
反映させる」というところが、恐ろしい。勉強不足も、よいところ(失礼!)。

 本当に子どもの非行を防止したかったら、(1)社会にはびこる不公平感を是正すること。(2)
多様性のある、フレキシブルな社会をめざすこと。つまり多様な価値観を平等に認める社会を
めざすこと。(3)「学校以外に道はなく、学校を離れて道はない」という、今の硬直した教育制
度を見なおすこと。そしてここがいちばん重要だが、なぜ子どもが非行に走るのか、また非行
に救いの道を求めるのか、その心理状態を、もっと詳しく分析する必要がある。

 表面的な現象だけを見て、モグラたたきのように、非行だけをたたいても、意味はない。

 さらに「家庭、学校など関係機関の連携強化」を求めている指導員が多いが、これには驚い
た。これ以上、学校に、何を押しつけるのか。家庭教育の指導まで押しつけてはいけない。学
校というのは、「教育」をするところである。子どもに勉強を教え、子どもの人格の完成をめざす
ところである。その学校に、「しつけ」から、果ては、「家庭教育」まで押しつける。そのおかしさ
に、私たち日本人が、まず気づかねばならない。

 今、現場の教師たちは、悲鳴をあげている。ある女性教師はこう言った。「授業中だけが、や
っと息が抜ける時間です」と。とくに生活指導の教師は、本来、教育とは関係のない家庭問題
で、毎晩遅くまで、悪戦苦闘している。授業と授業の間の空き時間にしても、以前は、週に5〜
7時間はあったが、今は、2〜3時間がやっと。教師たちは、あまりにもいそがしい。

 こんなところにも、「学校万能主義」というか、「学校神話」という亡霊が、いまだにはびこって
いる。つまり「何でもかんでも、めんどうくさい仕事は学校に」という発想そのものが、まちがって
いる。

 きびしい批評をしてしまったが、ひとつだけ、おおいに賛同する部分がある。「インターネット
上の有害な情報規制」という部分である。

 私も、インターネットをこうして利用しているが、とくに子どもたちに対して、もっと情報規制を
すべきと考える。今では検索するだけで、そのものズバリの性交写真が、いとも簡単に手に入
る。ちなみにヤフーの検索で、「性交写真」を検索してみたところ、瞬時に、30800件もヒットで
きた。トップから、「熟女玉乱」→「エロ動画無法地帯」→「無料で見られるサイト一覧」とつづく。
  

 こうした悪質サイトには、開くだけで、ウィルス(スパイウエアなど)が侵入してくるところも多い
という。雑誌などには、そう書いてある。だから私自身は、中身を見たわけではないが、どのサ
イトにも、そのものズバリの写真が掲載されているはず。

 もっと知恵をしぼれば、何とか、なるはずだが、結局は、そういうものを求めるおとながいる
以上、どうにもならないだろうということ。つまりは、おとなの問題ということになる。

 最後に、「家庭での教育力をどうするか」という問題について。

 答は、簡単。私のマガジンを読めばよい。親たちがもっと、賢くなればよい。これは私から、
読者へのコマーシャルということになる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司


●忙しくなる、教師の世界

 私たちが中学生や高校生のころには、先生には、「空き時間」というものがあった。たいて
い、1時間教えると、つぎの1時間は、その空き時間だった。

 その空き時間の間に、先生たちは、休息したり、本を読んだり、生徒の作品を評価したり、教
材を用意したりしていた。

 しかし今は、それが、すっかり、様(さま)変わりした。

 このあたりの小学校でも、その「空き時間」が、平均して、1週間に、1〜2時間になってしまっ
たという(某、小学校校長談)。(学校によっては、1週間に、平均して3時間程度というところも
ある。文科省の指導に従えば、週1時間程度になるが、学校ごとに、やりくりをして、3時間程
度を確保している。なお、中学校では、平均して7〜8時間程度の、空き時間がある。浜松市
内)

 だから今では、平日、学校の職員室を訪れても、ガランとしている。先生の姿を見ることは、
めったにない、

 「いわゆる企業や工場の経営論理が、学校現場にも及んでいるのですね。少人数による、習
熟度別指導をする。2クラスを3人の先生で教える(2C3T方式)、さらには1クラスを、2人の
先生で教える(TT方式)が、一般化し、先生が、それだけ足りなくなったためです」と。

 この結果、再び、詰めこみ教育が復活してきた。先生たちは、プロセスよりも、結果だけを追
い求めるようになってきた。が、問題は、それだけではない。

 余裕がなくなった職場からは、先生どうしの交流も消え、そのため、「精神を病む教師が続出
している」(同)という。とくに忙しいのは、教頭で、朝7時前からの出勤はあたりまえ。さらにこ
のところの市町村合併のあおりを受けて、制度や、組織、組織の定款改革などで、自宅へ帰る
のは、毎晩、7時、8時だという。

 何でもかんでも、学校で……という、親の安易な姿勢が、今、学校の先生たちを、ここまで追
いこんでいるとみてよい。教育はもちろん、しつけから、家庭指導まで……。たった1〜2人の
自分の子どもでさえ、もてあましている親が、20〜30人も、1人の先生に押しつけて、「何とか
しろ!」はない。

 さらに一言。

 1995年前後を底に、学習塾数、塾講師数ともに減少しつづけてきたが、それがここ2000
年を境に、再び、上昇する傾向を見せ始めている(通産省・農林通産省調べ)。進学競争が、
激化する様相さえ見せ始めている。

 私の周辺でも、子どもの進学問題が、数年前より、騒がしくなってきたように感ずる。さて、み
なさんの周辺では、どうであろうか?
(はやし浩司 空き時間 2C3T 習熟度別指導 TT 指導システム 激化する進学熱 進学
指導 詰め込み教育)

++++++++++++++++++++

 今後は、こうした習熟度別教室は、一部の抵抗もあるだろうが、学校内で定着していくものと
思われる。実際には、当初は、どこか遠慮がちに始まった習熟度別授業だったが、市内の小
学校を中心に、新たな単元が始まるたびに、簡単なテストをして、そのあと、クラス分けをする
ところがふえてきた。

 もちろん、問題点がないわけではない。

 教師の負担もさることながら、こうした習熟度別授業は、親たちに、少なからず、ショックを与
えている。たとえば習熟度別授業を参観してきた、ある母親は、こう言っている。学校の帰り
道、親たちはみな、進学塾はどうしようと、そんな話ばかりしていました、と。

こうした習熟度別授業は、平等主義を貫いてきた学校教育に、大きな変化をもたらすことはも
ちろんのこと、子どもたちの間で、差別化を生む可能性もある。それをどう克服していくか、こ
れからの大きな課題になるものと思われる。


●過酷な職場

+++++++++++++++++

学校の先生たちが、悲鳴をあげている。
あなたには、その悲鳴が聞こえるだろうか?

+++++++++++++++++

 教育は、重労働である。とくに、小学校教育は、そうである。

 たとえば水泳指導したあと、生徒たちといっしょに着替え、つぎの時間には、クラスで算数を
教えなければならない。

 そのためかなりの体力と気力を、必要とする。

 で、現実問題として、この浜松市でも、55歳をすぎて教師をしている、女性教師は、ほとんど
いない。女性教師のばあい、たいていの教師は、50歳前後に退職していく。「水泳指導ができ
なくなったら、教師はやめる」というのが、一つの目安になっているという。

 学校の教師のばあい、50歳少し前に、管理職に向うかどうかが、決まる。管理職になれば、
学級担任からはずされるが、それは校長と教頭、教務主任のほか、あと1名程度。そこでもっ
と、女性教師を管理職に回せばよいということになるが、これもむずかしい。

 浜松北部の、旧HK市のばあい、小学校は18校あるが、去年まで、女性校長は3人いた。し
かし2人、退職したので、現在(05年度)は、1人のみ。

 そうでない教師は、学級担任をつづける。が、50歳過ぎてからの、学級担任は、きつい。男
性教師にとっても、事情は、同じ。

 ますます拡大する教師の仕事。今では、家庭問題にまで教師が駆り出される時代である。
「子どもが警察につかまった。いっしょに行ってくれ」「子どもが家出をした。いっしょにさがしてく
れ」と。

 本来なら、教師は教育に専念すべきである。またそれをもって「教師」という。しかし雑務、雑
務の連続。これでは、本来の教育がおろそかになって当然。「これでいいのか」と疑問をもつの
は、私だけではないと思う。


●家庭問題が、そのまま学校に!

++++++++++++++++++++

 以前、荒れた学校が、問題になった。
しかし今は、問題になっていない?

実は問題になっていないのではなく、
荒れた学校が、当たり前になってしまった。

++++++++++++++++++++

 今どき、荒れた学校を問題にする人はいない。教師も、父母も、そして評論家も。それが当
たり前の現象になってしまったからである。

 しかし「荒れ」は「荒れ」でも、以前とは、少し質が変わってきた。H市で小学校の校長をしてい
るN氏は、こう話してくれた。

 「以前は、荒れというと、暴力事件を言いました。しかし今は、少し質が変わってきたように感
じます。つまり今は、家庭問題が、そのまま学校へ持ちこまれるようになりました。

 家庭騒動、親の離婚、貧困などなど。親の心の問題が、そのまま持ちこまれることもありま
す。引きこもり傾向を示す生徒がいたので、家庭訪問をしたら、親が出てこない。つまり親自身
も、引きこもってしまっているのですね。

 そういう子どもが、学校の内部で、いろいろな問題を引き起こします。最近の荒れは、そうし
て起こるものが多いです」と。

 ついでに言うと、その校長も、あの「金P先生」を、鋭く、批判していた。「ああいうありもしない
教師像を、マスコミが勝手につくり出すから、かえって、現場は混乱してしまうのです。

たとえばあの番組の中で、非行グループが、自転車のチェーンを振り回したとしますね。すると
つぎの日には、本当にそのチェーンをもって、学校へ来る生徒が出てきたりします」と。

 金P先生については、私も、たびたび批判してきた。ああいう教師を見て、「教師とは、こうあ
るべきだ」と考えるとしたら、それはまちがい。よくテレビドラマの中で、警官と悪党が、ピストル
でバンバンと撃ちあうシーンがある。

 それと同じくらい、金P先生の世界は、ありえない。たとえば金P先生は、非行少年の家の中
にあがりこみ、その少年の父親といっしょに、酒を飲んで、人生論を語りあったりする。

 しかしそれが教師のあるべき姿なのか。そこまでしてよいのか。あるいは、それこそまさに、
教師の(おごり)ではないのか。いや、その前に、体力そのものが、つづかない。20〜30人も
の子どもを相手にすることだけでも、重労働である。その上での、教育である。

 その金P先生について書いた原稿が、つぎのものである(中日新聞掲載済み)。

+++++++++++++++++++++

教師が10%のニヒリズムをもつとき 

●10%のニヒリズム

 教師の世界には10%のニヒリズムという言葉がある。つまりどんなに教育に没頭しても、最
後の10%は、自分のためにとっておくという意味である。でないと、身も心もズタズタにされて
しまう。

たとえばテレビドラマに『三年B組、金P先生』というのがある。武田T也氏が演ずる金P先生
は、すばらしい先生だが、現実にはああいう先生はありえない。それはちょうど刑事ドラマの中
で、刑事と暴力団がピストルでバンバンと撃ちあうようなもの。ドラマとしてはおもしろいが、現
実にはありえない。

●その底流ではドロドロの欲望

 教育といいながら、その底ではまさに、人間と人間が激しくぶつかりあっている。こんなことが
あった。私はそのとき、何か別の作業をしていて、その子ども(年中女児)が、私にあいさつを
したのに気づかなかった。30歳くらいのとき、過労で、左耳の聴力を完全になくしている。

が、その夜、その子どもの父親から、猛烈な抗議の電話がかかってきた。「お前は、うちの娘
の心にキズをつけた。何とかしろ!」と。

私がその子どものあいさつを無視したというのだ。そこでどうすればよいのかと聞くと、「明日、
娘をお前の前に連れていくから、娘の前で頭をさげてあやまれ」と。こんなこともあった。

●「お前を詐欺で訴えてやる!」

 たまたま5月の連休が重なって、その子ども(年中女児)の授業が、一時間ぬけたことがあ
る。それについて「補講せよ」と。私が「できません」と言うと、「では、お前を詐欺で訴えてやる。
ワシは、こう見えても、顔が広い。お前の仕事なんかつぶすのは、朝飯前だ!」と。

浜松市内で歯科医をしている父親からの電話だった。信じられないような話だが、さらにこんな
こともあった。

 私はある時期、童話の本を読んでそれをカセットテープに録音し、幼稚園児たちに渡してい
たことがある。結構、骨の折れる作業だった。カラオケセットをうまく使って、擬音や効果音を自
分の声の中に混ぜた。音楽も入れた。もちろん無料である。そのときのこと。たまたまその子
ども(年長男児)が病気で休んでいたので、私はそのテープを封筒に入れ郵送した。

で、その数日後、その子どもの父親から電話がかかってきた。私はてっきり礼の電話だろうと
思って受話器を取ると、その父親はいきなりこう言った。「あなたに渡したテープには、ケース
がついていたはずだ。それもちゃんと返してほしい」と。

ケースをはずしたのは、少しでも郵送料を安くするためだったが、中にはそういう親もいる。だ
からこの一〇%のニヒリズムは、捨てることができない。

 これらはいわば自分を守るための、自分に向かうニヒリズムだが、このニヒリズムには、もう
一つの意味がある。他人に向かうニヒリズム、だ。

●痛々しい子ども

 一人の男の子(年中児)が、両親に連れられて、ある日私のところにやってきた。会うと、か
弱い声で、「ぼくの名前は○○です。どうぞよろしくお願いします」と。親はそれで喜んでいるよう
だったが、私には痛々しく見えた。4歳の子どもが、そんなあいさつをするものではない。また
親は子どもに、そんなあいさつをさせてはならない。

しばらく子どもの様子を観察してみると、明らかに親の過干渉と過関心が、子どもの精神を萎
縮させているのがわかった。オドオドした感じで、子どもらしいハキがない。動作も不自然で、ぎ
こちない。それに緩慢だった。

 こういうケースでは、私が指導できることはほとんど、ない。むしろ何も指導しないことのほう
が、その子どものためかもしれない。が、父親はこう言った。「この子は、やればできるはずで
す。ビシビシしぼってほしい」と。母親は母親で、「ひらがなはほとんど読めます。数も100まで
自由に書けます」と。

このタイプの親は、幼児教育が何であるか、それすらわかっていない。小学校でする勉強を、
先取りして教えるのが幼児教育だと思い込んでいる。「私のところでは、とてもご期待にそえる
ような指導はできそうにありません」とていねいに断わると、両親は子どもの手を引っ張って、
そのまま部屋から出ていった。

●黙って見送るしかなかった……

 こういうケースでも、私は無力でしかない。呼びとめて、説教したい衝動にかられたが、それ
は私のすべきことではない。いや、こういう仕事を30年もしていると、予言者のように子どもの
将来が、よくわかるときがある。そのときもそうだった。やがてその親子は断絶。子どもは情緒
不安から神経症を発症し、さらには何らかの精神障害をかかえるようになる……。

 このタイプの親は独善と過信の中で、「子どものことは、私が一番よく知っている」と思い込ん
でいる。その上、過干渉と過関心。親は「子どもを愛している」とは言うが、その実、愛というも
のが何であるかさえもわかっていない。自分の欲望を満たすため、つまり自分が望む自分の
未来像をつくるため、子どもを利用しているだけ。……つまりそこまでわかっていても、私は黙
って見送るしかない。

それもまさしくニヒリズムということになる。

++++++++++++++++++++++

 熱血教師が悪いというのではない。しかし一つまちがえば、熱血教師は、子どもの問題にせ
よ、家庭の問題にせよ、さらにその問題をこじらせてしまう。その教師の独断と偏見、思いこみ
と早とちりが、かえって騒動を大きくしてしまうこともある。

 反対の立場で考えてみればわかる。

 ある日、突然、子どもの問題にかこつけて、あなたの子どもが通う学校の教師が、ズカズカと
あなたの家にあがりこんできたら、あなたは、どのような反応を示すだろうか。いくらあなたの
家庭に問題があったとしても、あなたはこう言うだろう。「失敬だ」と。

 話が脱線したが、こうした「荒れ」もあって、学校の教師は、ますます疲れる。ある女性教師
(小学校)は、はからずも、私にこう話してくれた。

 「授業中だけが、心と体を休める場所です」と。

 こうした現実を、どれだけの親たちが、知っているだろうか?

(付記)

 参観日に参観授業を見てきた親の中には、よく、こう言う親がいる。「すばらしい授業でした。
先生も、あそこまで教材を用意して、授業をしてくれるとは、思ってもみませんでした」と。

 しかしそれは、参観日だから、である。「参観日のあと、数日は、何もやる気が起きません」
と、その(疲れ)を訴える教師が多いことも、忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(144)

●行列のできる法律S談所

+++++++++++++++++++

法律が先か、それとも法律はあとか?

法律が先に立つ世界は、まさに闇。

『行列のできる法律S談所』という
番組には、そんな基本的な認識すら
ないのでは?

+++++++++++++++++++

 ときどき、『行列のできる法律S談所』という番組を見る。が、あの番組を見るたびに、「?」と
思ってしまう。法律の基本そのものが、わかっていない(?)。

 昨夜(3・5)の番組では、こんなテーマが取りあげられていた。

 結婚前は美しい女性だった。が、結婚後、ガラリと妻の様子が変わった。化粧はせず、だらし
ない生活。夫の返事にも、おならで答えるという。しかも新婚1月後で、である。こういう妻のば
あい、離婚はできるかどうか、と。

 いつもの番組である。で、弁護士たちが、「できる」「できない」と議論する。たしか4人の弁護
士のうち、3人は「できない」。1人は「できる」ではなかったか。

 が、この発想そのものが、基本的な部分でまちがっている。私も元、法科の学生。その立場
で、一言、意見を書いてみたい。

 法律があるから、それに人は従うのではない。とくに民法は、そうである。何かの紛争が起き
たとき、その紛争を解決手段として、法律がある。最初に法律ありきという姿勢は、本来の法
の精神に反する。仮に法律に反していても、たがいにそれで納得し、満足しているなら、法の
出る幕はない。

 しかしあの番組では、いつも先に、法律ありき……という姿勢が目立つ。その影響だろうが、
私の教室でも、私が何かをするたびに、「慰謝料請求するぞ」「行列のできる法律S談所に訴え
てやる」と言う子どもがふえてきた。

 たとえばその慰謝料にしても、「これこれこういうことをしたから、慰謝料が請求できる」という
のではない。「私は、精神的損害をこうむった。それをつぐなってもらうにはどうしたらいいか」と
考えたあと、法律が登場する。そこではじめて慰謝料を請求するという話になる。

 弁護士の世界のことは知らないが、こんなことは、法学の世界では、常識。どうしてそういうこ
とをきちんと言う学者が、あの番組には、出てこないのだろう? あの番組を見ていると、かえ
ってまちがった法律意識を、子どもたちに植えつけてしまうことになりかねない。

 で、夫の会話に、おならで答える妻についてだが、「おならで答えたから、離婚事由になる」
「ならない」という発想そのものが、ナンセンス。もっと基本的な部分はどうなのかというところま
で見て、はじめて、離婚の話になる。民法で定める離婚事由は、つぎのようになっている(民法
770条、法定離婚事由)。

++++++++++++++

夫婦の一方は、左の場合に限り、離婚の訴を提起することができる。

1、配偶者に不貞な行為があったとき。
2、配偶者から悪意で遺棄されたとき。
3、配偶者の生死が3年以上明かでないとき。
4、配偶者が強度の精神病にかかり、回復の見込がないとき。
5、その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき。

2 裁判所は、前項第1号乃至第4号の事由があるときでも、一切の事情を考慮して婚姻の継
続を相当と認めるときは、離婚の請求を棄却することができる。

+++++++++++++

 つまり(妻のおなら)が、5の「その他婚姻を継続し難い重大な事由があるとき」に該当するか
どうかということ。これについては、たとえば裁判所でも、もろもろの状況を総合的に判断して、
結論を出す。おならだけを見て、判断するということはない。

 で、そのおならで返事をする妻についてだが、すでに夫婦関係が冷え切ってしまっているとい
うことが考えられる。その冷え切った理由が、妻側にあるとするなら、離婚は可能であろう。お
ならは、その一部にすぎない。

 が、冷え切った理由が、妻側に存在しないときは、どうか? 妻にしてみれば、ごくふつうの
人間として、ふつうの生活をしているつもりかもしれない。化粧をしないということでも、それ自
体は、何でもないこと。夫は、そのふつうの様子が理解できないだけということになる。で、この
ばあいは、離婚事由にはならない。むしろ夫のわがままということになる。

 どちらにせよ、ことの細部をとりあげて、「これは離婚できる」「これは離婚できない」と論ずる
のは、先にも書いたように、ナンセンス。こんな形で法が運用されたら、それこそ、この世界
は、闇。めちゃめちゃになってしまう。弁護士にもなった人たちだから、そんなことは、百も承知
のはずと、私は思うのだが……。

 ただ刑法のほうは、そうとばかり言えない面がある。しかし刑法においても、法は、あとに来
るべきではないのか?

 たとえばこんな事例で考えてみよう。

 一旦停止の4つ角がある。その角の少し入ったところで、2人の婦警たちが、ミニパトカーを
止めて、見張っている。そして一旦停止しないで、4つ角に進入してきた車のドライバーに対し
て、つぎつぎと違反キップを渡している。

 よく見かけるシーンである。

 このばあいでも、婦警たちは、まず法律ありきという姿勢で、違反者を見張っているのがわか
る。もし本当に、交通ルールをドライバーに守らせようとするなら、運転者がその前にわかるよ
うに、一旦停止線のところに立って、見張るべきである。

 では、なぜ、一旦停止で車は止まらなければならないのか。それはルールというより、ドライ
バー自身の安全のためである。相手の車に、迷惑をかけないためである。ルールは、それを
裏から、補強する。一旦停止の線が描いてなくても、一旦停止が必要と感ずれば、ドライバー
は、そこで一旦停止する。一旦停止の線がないからといって、本線に一旦停止しないで、飛び
出してよいというものではない。

で、仮にそのあたりで、何かの交通事故があったときはじめて、法律が登場する。「あなたは一
旦停止すべきだったのに、一旦停止しなかった。一旦停止して、左右の安全の確認をすべき
だった。が、それをしなかった。つまりあなたのほうに過失がある」と。

 ふつうの人が、ふつうの生活をしていれば、また、それができれば、本来、法などというもの
は、必要ないのである。仮に、法(民法)に反していても、それで当事者たちが、納得していれ
ば、これまた法などというものは、必要ないのである。「配偶者の生死が3年以上明かでないと
き、離婚事由になる」という項目についても、「3年たったら、だれしも離婚すべき」というのでは
ない。中には、夫の帰りを待ちながら、10年でも、20年でも、妻のまま待っている人だってい
るはず。本来、ユートピアというときの理想世界では、そういう世界をいう。

 しかしそこで何か紛争が起きる。争いが起きる。そのときはじめて、法が前に出てくる。それ
が法なのである。

 はじめに法ありきという発想が、どういうものか、これで理解してもらえただろうか。……という
ことで、あの番組には、私は以前から、少し疑問に思うところがあった。あなたも、一度、そうい
う視点から、あの番組を見てみるとよい。

【補足】

 法的正義とは何かといえば、それは人間が本来的にもつ良識をいう。良識ある人が、良識あ
る行動をしていれば、本来、法など、いらない。不要。が、人間の世界には、良識ある人ばかり
ではない。ときとして、その良識ある人が、何かのトラブルに巻き込まれることがある。そのと
き、その良識ある人を守るために、法が、前に出てくる。それが法律である。

 「〜〜したら、離婚できる」「〜〜したから、慰謝料が請求できる」というように、教条的に法を
運用するのは、本来の法のあり方ではない。「良識ある妻が、夫と別れられなくて困っていま
す。どうしたらいいでしょう」「良識ある人が、ひどいめにあって苦しんでいます。どうしたらいい
でしょう」という問題が提起されたとき、法的正義が発揮される。法律が前に出てくる。

 法は、決して、悪人の味方をしてはいけない。そういう意味でも、法律を、教条的に解釈する
のは、たいへん危険なことでもある。

 繰りかえすが、ああいう番組を見て、子どもたちが、法律というのはこういうものだと、まちが
った先入観をもつのは、たいへん危険なことである。「法に触れなければ、何をしてもよい」とい
うふうに、法を解釈するようになるかもしれない。あるいは法の抜け道をさがすようになるかも
しれない。もし法律が、そういう形で利用されるようになったら、この世の中は、どうなる。小ズ
ルイ悪人ばかりの世界になってしまう。それを、私は、「闇」という。
(はやし浩司 離婚 離婚事由 離婚論 法的正義)

●良識ある善人を守るための法律が、良識ある善人を苦しめるための道具として機能すると
き、その世界は、闇となる。(はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●心気症

++++++++++++++++++

ささいな病気を、ことさら大げさに
考えて、心配する。不安になる。

「もしや……?!」と思って、悩む。

そういうのを「心気症」という。

何を隠そう、私がその心気症なのだア!

++++++++++++++++++

 病気でもないのに、自分の心身のささいな変調にこだわり、苦痛を訴える症状を、心気症と
いう(「心理学用語辞典」・かんき出版)。

 つまりささいな病状を、ことさら大げさに考えて、あたふたと心配する。「もしや……!?」と思
うこともある。つまり「がんではないか?」と。そういう症状を、心気症という。

 「心気症」という用語があるほどだから、かなり一般的な症状と考えてよい。不安神経症、あ
るいは強迫神経症の仲間と考えてよい。とくに病気と結びついた不安神経症、あるいは強迫神
経症を、「心気症」という。

 程度の差もあるのだろうが、何を隠そう、私が、その心気症なのだ。実は、数日前もあった!

 夜中に目が覚めると、のどが乾いたようになって、痛い。が、よく観察してみると、右側の奥
歯が痛い。ズーンとした痛み。その痛みが、のどから、上の歯のほうまで、響く。

 その奥歯は、治療して、金冠がかぶせてあるはず。指を口の中に入れて、その歯をさわって
みる。が、さわった感じでは、どうということはない。もっと奥のほうから痛みが骨のほうに伝わ
っている。そんな感じがする。

 「風邪で、歯が痛むというようなことはあるだろうか?」と、最初は、そう考えた。しかしそんな
ことはありえない。

 夜、ふとんの中で、暗い天井を見あげながら、いろいろ考える。考えては、それを打ち消す。
「しかし……。もしや……?」と。

 数年前に、脳腫瘍で死んだ、友人のことを思い浮かべる。その彼は、こう言っていた。私が、
「ぼくも、よく頭痛に悩むよ」と言うと、「林、何を、バカなことを言っているんだ!
あのな、脳腫瘍の痛さは、想像もつかん痛さだよ」と。

 どんな痛さだろうと考えながら、口の中から伝わってくる痛さに、静かに耐える。眠れないほど
の痛さということでもないが、しかし安眠できるような状態でもない。

 「しかし、初期症状というのもあるだろう。初期症状のときは、それほど、痛くないのかもしれ
ない。だんだんと痛くなって、やがて耐えきれなくなる……」「このまま、痛みがどんどんひどくな
ったら、どうしよう?」と。

 横を見ると、ワイフが軽い寝息をたてていた。起こすのも悪いと思って、じっとそのままにして
いる。10分、20分……。と、そのとき、ワイフの寝息が止まった。モゾモゾと体を動かした。す
かさず、話しかけた。

 「なあ、風邪みたいだよ……」
 「風邪……?」
 「なあ、歯が痛いよ……」
 「薬をのんだら……?」
 「うん……」と。 

 私は起きあがって、台所へ行くと、バナナとジュースをお湯に溶かしたものをもってきた。枕
元にはいつも、薬が一式、置いてある。湿布薬に頭痛薬、睡眠薬に精神安定剤、そのほかも
ろもろの漢方薬にハーブなどなど。もちろん風邪薬も置いてある。

 「どれにしようか?」
 「風邪薬にしたら?」
 「でも、歯が痛い……」
 「だったら、バッファリンがいいんじゃない?」
 「うん、……ノーシンではだめだろうか?」
 「じゃあ、それにしたら」
 「うん」と。

 私はバナナを食べながら、ジュースを飲んだ。時計を見ると、午前4時を少し回ったところ。
時計を見ながら、粉薬を口に入れた。

 「なあ、がんじゃないだろうか?」
 「どうしてがんなの?」
 「骨の奥が痛い……」
 「どんなふうに?」
 「ズーン、ズーンと痛い」
 「きっと虫歯よ」
 「だって、ちゃんと治療したところだよ」
 「金冠の中で、虫歯になることだってあるわよ」
 「そうかなあ……?」と。

 この世界には、骨まで腐るという、恐ろしいがんもあるそうだ。詳しい病名は知らないが、昔、
そんな病気になった女性の映画を見たことがある。私はそれかもしれないと思った。思いなが
ら、「ああ、これでぼくも死ぬ……」と思った。

 「このまま死んだら、どうしよう?」
 「死なないわよ」
 「どうして?」
 「バカねえ、虫歯で死んだ人の話なんか、聞いたことないわよ」
 「虫歯かねえ……?」
 「虫歯よ。ハーッて息を吐いてみたら」
 (ハーッ)
 「……おかしいわね、虫歯臭くないわよ」
 「だろ、虫歯じゃあ、ないよ」と。

 不安で、心臓がドキドキするのがわかった。いやな気分だ。ただほかに風邪の症状もあった
ので、それに希望をつないだ。「風邪だ、風邪だ。これは風邪による症状だ」と。しかし風邪で
歯が痛くなったという話は、聞いたことがない。そう考えたとたん、また不安になった。

 で、その朝は結局、そのまま起きた。ふだんならそのまま書斎に入って原稿を書くのだが、そ
んな気は起きなかった。「まだ、やりたいことはあるのに……」「まだ、58歳じゃ、ないか」「がん
とわかっても、ぼくは治療しない。そのままオーストラリアへ行く」などと、あれこれ考える。

 が、しばらく体を起こしていると、痛みがやわらいできた。薬がきいてきた。

 こういうとき、私のような心気症の人間は、頭の中で、2人の人間が戦うような状態になる。ボ
クシングで言えば、デス・マッチのようなもの。どちらか一方が死ぬまで、戦う。

 「風邪だ、虫歯だ! お前は、バカだ。いつもの取り越し苦労だ!」
 「何だと! 油断していると、命取りになるぞ。これはがんだ。がんの初期症状だ!」
 「前にも、似たような痛みがあったではないか。虫歯の治療のときを思い出してみろ!」
 「あったかもしれないが、その歯は、たしか神経を抜いているはず」と。

 「何でもない!」という私。「がんだ」という私。そういう2人の私が交互に現れては、消える。お
まけにのども、痛い。のどの奥に痰がからんでいる感じ。何度も、うがいを繰りかえす。

 これは生への執着によるものか、それとも死がもたらす絶望感との戦いによるものなのか。
……わけがわからない状態で、朝を迎え、その日が始まった。

 「どう、具合は?」と、のんきな様子で、ワイフが起きてきた。「起きたら、痛みが収まってき
た」と私。「でしょ、心配ないわよ」とワイフ。

 そのときになって、恐る恐る、手鏡をもってきて、口の中をのぞく。「もし、大きな病変でもあっ
たら……」と、不安になる。心臓の鼓動が高まる。が、押しても引いても、歯はビクとも動かな
い。(動くはずもないが……。)とくに変わった様子もない。

 歯間ブラシを歯と歯の間に入れてみる。「がんなら、出血があるはずだ」と。以前、どこかの
病院で、ドクターがそう言っていたのを思い出していた。「がんだとね、組織が破壊されますか
ら、出血があるはずです」と。

 しかし出血はなかった、が、よく見ると、金冠の下、つまり歯ぐきと、金冠の間のすき間に、小
さな薄茶色の穴が見えるではないか! 虫歯! そうだ、虫歯! 歯の側面から、虫歯になっ
ていた!

 とたん、安堵感で、胸のつまりが消えた。「ナーンダ、虫歯だア!!」と。

 「虫歯だよ、これは!」
 「でしょ、だったら、歯医者へ行ってきたら?」
 「うん、そうだな。風邪の様子をみてから行くよ」
 「そうね」と。

 で、その日は、歯医者へ行かなかった。昨日も、行かなかった。で、そのまま今日になった。
時計は、午前8時、少し前。あれからも、ずっと、ズーン、ズーンとした痛みが、ときおり、つづ
いている。これから行きつけの歯医者に電話をして、そこへ行くつもり。

 しかし心気症というのは、いやなもの。いつも早合点と、取り越し苦労。この繰りかえし。とき
どきこう思う。「死神よ、そんなにぼくをいじめるなら、さっさと殺しに来い!」と。

 が、ひとつだけ、変化がある。若いころとくらべると、「死」への恐怖感が、変わってきたという
こと。若いころは、一度心気症になると、居ても立ってもおられなかったが、つまりそのままあ
わてて病院へ駆けこんだものだが、今は、ちがう。

 「勝手にしろ」という、どこか投げやりな気持ちも生まれてきた。「まあ、今まで健康に生きてこ
られたのだから、文句はないだろう」と、自分をなぐさめる気持ちも生まれてきた。多少、「死」
への覚悟もできてきたということか。

 そして今。私は、改めて健康で生きている自分が、うれしい。「今日こそは、悔いのない人生
を、思う存分生きてみる」と、そんな思いさえわいてくる。心気症というのは、悪いばかりではな
いようだ。
(はやし浩司 心気症 不安神経症 強迫神経症)

【追記】

 やはり虫歯だった。金冠の中の詰め物が、欠けていたという。そこから虫歯が進んだらしい。

 で、その治療中、正確には、麻酔をかけられ、歯科助手の若い女性が、歯の間の歯石を取
ってくれている間、不思議な経験をした。

 それはうっとりとするほど、気持ちのよいひとときだった。カリコリ、カリコリと、歯石を削る音
がする。そのたびに、その女性の胸が、頭に触れる。強いライトが、春の陽気を思わせる。縁
側で日なたぼっこをしているような気分にさせる。

 そのときだ。私の目の中に、女性の性器が、超リアルに浮かんできた。最初は、まぶたの模
様が、強いライトで、そう見えたのかと思った。しかしそのうち、それがより鮮明になってきた。
たしかに女性の性器だった。何度も確かめたが、女性の性器だった。

 いつものような卑猥(ひわい)感は、まったく、なかった。もちろん美しいとか、美しくないとか、
そういう感じもなかった。ただどういうわけか、女性の性器が、至近距離で、超リアルに見えて
きた。どうリアルだったかということについては、ここには書けないが、ともかくも、リアルだっ
た。

 あるいはひょっとしたら、胎児のころの記憶が、麻酔の作用で、呼び起こされたのかもしれな
い。……しかし、胎児はまだ目が見えないはず。

 麻酔のせいだろうか? それとも私に頭にときおり触れる女性の胸のせいだろうか? それ
とも強いライトのせいだろうか? 私は、半分、夢を見ていたのかもしれない。ともかくも、それ
は不思議な経験だった。

 あとでそのことをワイフに話すと、ワイフも、「きっと麻酔のせいよ」と言った。そしてこう言っ
た。「あなた、そんなことマガジンに書いてはだめよ」と。

 「しかしね、これは不思議な経験だ。だれかが書きとめておかないといけない。きっと、同じよ
うな経験をしている人は、多いはずだよ」
 「でも、へんね。どうしてそんなものが見えたのかしら?」
 「女性だとね、きっと、ペニスか何か、そんなものが見えてくるのかもしれないね」
 「そんなこと、ないわよ。絶対に!」と。

 春は近い。そのあと家に帰ると、強い睡魔に襲われた。それはまちがいなく、かけられた麻
酔のせいだと思う。コタツに入ると、そのままウトウトと眠ってしまった。

【補記】

●強迫神経症(こだわり)

 何かのことで不安になると、その不安が、ペッタリと頭にくついてしまう。そしてその不安を消
すために、(そんなことでは決して消せないのだが)、何か儀式的な行為を何度も何度も繰りか
えすようになる。

 子どものよく見られる、手洗いぐせ(潔癖症)も、そのひとつ。「手にばい菌がついた」「手のば
い菌が、取れない」などと言って、手を洗ってばかりいる。トイレから帰ってきた父親に対して、
「パパは、きたないからさわらないで!」と泣き叫んだ子ども(年長女児)もいた。その子ども
は、手の皮膚が破れるほどまでに、暇さえあれば、繰りかえし、石鹸をつけて手を洗っていた。

 こうした症状を、強迫神経症という。心理学の本などによると、不安神経症のひとつに位置づ
けられている。大きなちがいは、何かの儀式的行為をともなうこと。宗教の世界でも、同じよう
なことを経験する。

 ある女性は、毎日3〜5時間、仏壇の前に座って、念仏を唱えていた。また別の女性は、同じ
ように、目をさましているときは、手に数珠を握って、それを指先でクルクルと、何やら呪文の
ようなものを唱えながら、回していた。そうすることによって、不安を紛らわしているというより
は、そういう行為そのものが、やめられないといったふうであった。念仏を唱えていた女性は、
「やめると、バチがあたって、地獄へ落ちる」と本気で信じていた。

 こうした症状を示す子どもの特徴としては、何かのものやことに対して、(こだわり)をもつこ
と。その(こだわり)の内容は、そのときどきによって、変化することもある。母親が、ベッドの位
置をほんの少し動かしただけで、「精神状態がおかしくなってしまった」(母親談)子ども(中学
男子)もいた。

 この先のことはよくわからないが、今では、(こだわり)を和らげるための、新しい薬も開発さ
れているとのこと。症状があまりひどいようであれば、一度、心療内科か精神科のドクターに相
談してみるとよい。
(はやし浩司 手洗い癖 潔癖症 強迫神経症 不安神経症 こだわり はやし浩司 子供の
こだわり)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(145)

●正直な子ども

●正直な子ども

+++++++++++++++

「うちの子は、すぐウソをつく」と
悩んでいる親は多い。

しかしその前に、ほんの少し、
こんなことも反省してみてほしい。

子どもがものを正直に言える
家庭環境になっているかどうか、と。

++++++++++++++++

 A先生(現在、A小学校教頭)と、昨夜1時間ほど、電話で話す。その中で、「正直な子ども」と
いう言葉が出てきた。A先生は、こう言う。「正直な子どもに育てるためには、正直にものが言
える環境がなければなりませんよね」と。まったく、同感である。

 そのA小学校で、こんなことがあったという。

 ある日、一人の母親が、「どうしても校長に話したいことがある」と言ってやってきた。話を聞く
と、「担任のX教師に、たいへんな問題がある」と。で、その日は、あいにくと校長は外出中。か
わりにA先生が、その母親の話を聞くことになった。

 母親は、こう言ったという。

 「担任のX教師は、勉強ができない子どもを、棒をもってきて、頭をたたく。うちの娘は、それ
におびえて、学校へ行きたくないと言い出した」と。

 で、A先生は、その話を校長に伝えておきますとだけ話して、その日は、母親に帰ってもらっ
た。母親は、何度も「この件は、X教師には、内密に」と言ったという。が、そんな話を内密にす
ませる教頭は、いない。母親が帰ったあと、A先生は、X教師を呼んで、事情を聞いた。

 X教師は、こう説明した。

 「まったく、身に覚えがない」「プリントを丸めて、子どもの頭をたたくようなことはしたことがあ
るが、しかしその子どもには、したことがない」「その子どもは、最近、忘れ物が多くて、昨日も、
強く注意したところ」と。

 話の内容をまとめると、こういうことらしい。

 忘れ物が多いので、その母親の子どもに、X教師は、こう言った。「明日、○○を忘れたら、
お母さんに、電話するからね」と。X教師にしてみれば、軽いおどしのつもりだった。が、その子
どもは、それを真に受けた。そこでその子どもは、先手を取る形で、家に帰ってから、母親に、
X教師の悪口を言い始めた。「勉強ができない子どもを、棒をもってきて、頭をたたく」という話
は、そのとき、出てきたらしい。

 よくある話である。子どもだから、ウソはつかないはずというのは、幻想。学習塾でも、おけい
こ塾でも、子どもは、やめたくなっても、親には、「やめたい」とは言わない。そういうときは、ま
ず、先生の悪口を言い始める。つまりそういう形で、親をして、「そんな塾ならやめなさい」と思
うようにしむける。

 だからある音楽教室の先生は、こう言った。「そういう子どもの親というのは、教室をやめると
きには、蹴飛ばすようにしてやめていきますから、わかります」と。

 私にも似たような経験はいくつかある。そういう話をA先生に話すと、A先生は、こう言った。

 「どこまでこういう問題に首をつっこんでいいものか、いつも、それに悩みます。実は、こんな
こともありました」と。

 その小学校で、家庭教育講演会を開いたという。そのとき、担当の若い先生が、お知らせ
に、「……子育てで失敗しないためにも、ぜひ、みなさんの参加を……」と書いたという。そのお
知らせについて、猛反発した母親がいたという。「失敗とは何だ!」「失敗という言葉が許せな
い!」「子育てをしている親に対して、失礼だ!」と。ものすごい剣幕だったという。

 しかしこういう事件が重なると、現場の教師たちは、ますます萎縮する。やる気をなくす。若い
教師なら、なおさらである。

私「結局、まあ、親しだいということになりますね」
A「しかし、その親も、表面からはわかりませんから……。どこまで信用して話していいものかど
うか、それについても悩みます」
私「親との信頼関係をつくるのにも、1、2年はかかります。『この人なら、だいじょうぶ。何を話
しても心配ない』という確信を得るようになるまでには、何年もかかります。今は、それができな
い時代かもしれませんね」と。

 で、先の子どもの話に戻った。

 本来なら、子どもは正直でなければならない。が、それには条件がある。子どもが正直に、何
でも話せるような家庭環境がなければならないということ。それがないと、子どもは、ウソをつく
ようになる。親は、「うちの子はウソをつく。どうしたらいいか」と悩むが、それこそ、親の身勝
手。正直に話せないから、ウソをつく。

 神経質で強圧的な家庭環境。親が権威主義であってもいけない。そんなことは、子どもの立
場で考えてみれば、すぐわかる。先にあげた子どものケースにしても、本当の問題は、親自身
にある。今どき、生徒を棒でたたくような教師は、いない。少し冷静になれば、そんなことは、だ
れにだってわかるはず。

 そうそう、A先生が、その母親に、「棒でたたくということはありえません」と言うと、その母親
は、こう叫んだという。「うちの子は、ウソはつきません。あなたは、うちの子が、ウソをついてい
ると言うのですか!」と。

 何ともドロドロした話だが、たがいにこういうグチでも言いあわないと、やりきれないのが、こ
の世界。A先生は、最後にこう言った。「平成時代は、教師、受難の時代。いつかこの時代を
振りかえって、そう位置づける人も出てくるでしょう」と。それについても、まったく同感! 

 以上、一言、学校の先生のほうの立場から、先生側の言い分を、代弁してみた。
(はやし浩司 子供の虚言 虚言癖 子供の嘘 嘘をつく子供 虚言)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(146)

【近況・あれこれ】

●ホワイト・デー

 今年のホワイト・デーには、「ビーズ遊びセット」を、みなに、返した。最近発売になった、本の
セットである。初回号だけは、780円で、買うことができた。

 それを教室で、A子さん(年長児)に渡すと、それを見ていたB君が、A子さんに、「お前、先生
が好きなのかア?」と。A子さんが、「うん」と言うと、すかさず、「お前、バカだなア〜」と。

 で、私が、「黙っていろ、うるさい」とたしなめると、近くにいたC君が、「オイラ、チョコなんか、
食べないもんねえ」と。

私「チョコじゃ、ない」
C[じゃあ、何よ?]
私「ビーズ遊びだ」
C「そんなもの、オイラ、いらない」
私「やるわけないだろ、お前なんかに……。お前、じゃあ、チョコをだれにももらわなかったの
か?」

C「もらったよオ〜」
私「だれに?」
C「ママだよ」
私「そういうのは、もらったことにならないの。ねえ、A子さん?」
A「うん」と。

 もうひとつ、こんなことも……。

 教室が騒がしかった。そこで私は、こう言った。「ママのおっぱいを飲んでいるなら、しゃべっ
ていい」と。

 とたん、教室は静かになった。が、一人、K君(小3)が、何かのことで、声を出した。

私、すかさず、「君は、ママのおっぱいを、まだ飲んでいるの?」
K「飲んでないよオ〜」
私「どうして?」
K「だって、もう何も出ないもん」
私「ウッ、なぜ、君は、そんなことを知っているんだ」
K「だって、もう出ないよ」
私「だからさア、どうして君が、そんなことを知っているんだ?」
K「……」と。

 ほかの子どもたちは、みな、神妙な顔をして、黙っていた。何かを言えば、自分が疑われる。
「そうだ、そうだ」とも言えない。「出る」とも「出ない」とも言えない。つまりこうして私は、子どもた
ちの発言を封じこめることに成功した。ハハハ!

 そのあとは、教室は、静かになった。


●地元説得は、断念した(?)

今朝の新聞を見ると、日本のK首相は、アメリカ軍の沖縄からの基地移転に際して、地元の人
たちの理解と協力を得ることを断念した、とある。「日米安保条約を優先させる」とも。

 法律の世界では、日本国憲法が、日本の最高法である。しかしその日本国憲法よりも、国家
間でなされる国際条約のほうが、優先される。(議論もあるが……。)そもそも、憲法に反した
国際条約は結ばれないことになっている。これは、当然といえば、当然ということになる。

 そのアメリカ軍に基地移転に関して、どこへ行っても、この日本では、「反対!」の大合唱。沖
縄の基地反対運動の活動家が、それぞれの地域で、反対運動を指導しているのだから、話に
ならない。で、とうとうK首相が、業(ごう)を煮やした(?)。それが冒頭の発言である。

 政治、なかんずく国際政治は、現実的に考えなければならない。冷徹なほどまに現実を見据
えた、現実主義である。いつもそこにある現実と、どう立ち向かうかが、国際政治の基本であ
る。理想論や期待論、同情論や未来論は、意味がないというより、危険ですら、ある。

 その第一歩として、今、日本が、この極東アジアにおいて、どういう立場に置かれているか、
それを冷静に判断しなければならない。とくに危険なのが、K国である。それについては今さら
言うまでもないが、中国、ロシアにつづいて、韓国まで、日本の仮想敵国になりつつある。その
原因をつくったのは、もとはと言えばこの日本なのだから、日本も、あまり偉そうなことは言えな
い。それはわかっている。

 しかしこれが現実なのである。そういう現実を前にして、この日本の平和と安全を守るために
は、どうしたらよいのか。ものごとは、ここから考え始めなければならない。

 たとえばK国の核開発問題を解決してくれるのは、中国か、ロシアか、それともドイツやフラン
スか? 答は「NO!」。「K国の核問題はわれわれが解決してみせる」と、大見得を切って登
場したのが、韓国のN大統領だが、今では、すっかりさまがわり。

 そのK国は、すでに12発以上もの核兵器をもっている(アメリカ議会での高官の証言)。何
も、ミサイルだけが運搬方法ではない。漁船の底に隠して、東京湾へもってきて、そこで爆発さ
せることだってできる。日本海沿岸にある原子力発電所の近くで爆発ということにでもなれば、
日本列島全体が、放射能で汚染されることになる。人間が住めなくなる。

 そういう差し迫った危機が、すぐそこまで来ている。反対運動をする人たちの気持ちもわか
る。理解できる。騒音問題や治安問題もあるだろう。しかしここはK首相も言っているように、
「がまんすべきところはがまんし、協力すべきところは協力すべき」ではないのか。何もかも反
対、では、話が進まない。表面的な動きはともかくも、すでに日米関係は、崩壊の瀬戸際に立
たされている。

 アメリカの立場で考えれば、それがわかる。どうしてそのアメリカが、自分の体を張ってまで、
この日本を守らなければならないのか? アメリカ軍の日本からの完全撤退ということも、決し
て、ありえない話ではないのである。もしそうなったら、日本は、どうなるのか。

 この浜松市にも、航空自衛隊の基地がある。その基地に、AWという電子偵察機の常駐が
決まったとき、一部の人たちは、反対運動を起こした。騒音問題もあるが、もしどこかの国と戦
争ということになれば、この浜松市もあぶない。雑誌などによれば、すでにそのとき、浜松市
は、K国のミサイル攻撃の対象にもなっていた。だれも賛成する人はいない。私だってそうだ。
しかし現実をみていくと、やがて「しかたないな」という考え方に、変わっていく。

で、今は、毎日のように、そのAWが、浜松市を取り巻くように、ゆっくりと旋回して飛んでいる。
それを見ていると、私はほっとした安心感さえ覚える。「ああして、私たちを守ってくれているの
だな」と。

 「何も悪いことをしなければ、平和は守れるはず」「いい子にしていれば、だれも攻めてはこな
いはず」と考えるのは、あまりにも甘い。甘いことは、日本が、いちばんよく知っているはず。戦
前の日本は、そういう世界の甘さを逆に利用して、あちこちの国に向かって戦争をしかけてい
った。

 基地移転に反対すれば、それで日本の平和が守れると考えるのは、私は、どうかと思う。

【補記】

 今日(3月8日)、私のR天日記へのアクセスが、夕方の時点で、400件を超えた。いつもの
倍以上である。

 何があったのだろう? まさか私のこの記事に対しての反応ではないと思うが、それにして
も、こうまで急にふえると、気になる。

 改めて、この「基地移転問題」について、考えてみる。

 日本の特殊性とは何かと聞かれれば、戦後、日本は戦前の官僚主義を残したまま、西欧(ア
メリカ型)文明を、そのまま受けいれたこと。その時点で、日本は、中国や朝鮮(韓国+K国)
の、いわゆる儒教文明とは、袂(たもと)を、分けた。

 一方、中国や朝鮮では、日本に対して、「日本ごときに蹂躙(じゅうりん)された」という屈辱
感、それに「独立を、自分たちの手で、なしえなかった」という不完全燃焼感。この2つがあい重
なって、反日感情のベースとなっている。

 その日本は、ほぼその全土が、アメリカ軍によって焦土と化したわけだが、もしそのあと、ア
メリカ軍が日本に進駐していなかったら、毛沢東中国や金日成K国、スターリンソ連、さらには
李承晩韓国によって、繰りかえし、攻撃を受けたであろう。これは憶測でも何でもない。日本
は、そうされてもしかたのないようなことを、それらの国々に対して、してしまった。

 つまり皮肉なことに、少なくとも戦後の日本の平和を守ったのは、平和を愛する国民がいた
からではなく、アメリカ軍だったということになる。

 私は、今も、その(流れ)の中にあると思う。現に今、K国は、核兵器を製造しているし、その
核兵器は、「日本向け」のものだと、何度も公の場所で、公言している。中国にしても、もし今、
日本からアメリカ軍が撤退すれば、どう出てくるか、わかったものではない。つまりそういう現実
を目の前にして、私たちは、どう考え、どう行動したらよいのか。

 マクロな見方をすれば、21世紀は、文明と文明との対立が、先鋭化する世紀だといわれて
いる(S・P・ハンティントン)。すでに西欧文明とイスラム文明の対立は、現実化している。さらに
アメリカと中国の対立は、西欧文明と儒教文明の対立と考えられなくもない。

 ミクロな見方をすれば、日本は、今のような官僚主義体制をつづけるかぎり、この極東アジア
では、中国や朝鮮と融和することは、ありえない。彼らが、日本を受けいれない。驚くべきこと
に、日本には、いまだにこう言っている人がいる。「戦前、中国や朝鮮で、鉄道や道路を整備し
てやったのは、この日本だ」と。

 もしそうなら、つぎの世代の時代に、逆に日本が中国や朝鮮に、同じことをされても、日本は
文句を言えないことになる。

 こうした考えに対して、これからの国際社会は、今までのような既存の理論で動くのではなく、
情報化時代に象徴されるように、別の理論で動くと説く学者も多い。つまり緊密な情報化が進
めば、やがて国境そのものが、なくなるだろう、と。しかしこれだけ情報化が進んだ今でさえ、
むしろ世界は、逆に動いている。

 それぞれの国々が、自分につごうのよい情報だけを流し、一方、つごうの悪い情報には、目
をつぶる。しかもそれを瞬時に、大量に行う。国民感情の起伏が、一昔前と比較にならないほ
ど、はげしくなってきているのは、そのためと考えてよい。つまり私は、この(流れ)は、これから
もしばらくつづくと思う。基地問題も、その(流れ)の中にある。

 ついでながら、平和主義には、2種類ある。「いざとなったら戦争も辞さない」という平和主
義。もう一つは、「殺されても文句は言いません」という平和主義。戦争はいやだからといって
逃げ回るのは、平和主義でも何でもない。ただのおく病という。

どちらにせよ、つまりどの平和主義を信奉するかは、その人の自由だが、私は「座して死を待
つ」(前川口外務大臣)ような平和主義には反対である。私自身はともかくも、私の家族や子ど
もたちが、目の前で殺されるようなことは許さない。絶対に許さない。

+++++++++++++++

3年前に書いた原稿を、そのまま
ここに掲載します。

+++++++++++++++

●私たちの本当の敵とは……?

 私は1968年に、韓国に渡った。まだ日韓の間に国交のない時代で、私は、UNESCOの交
換学生として、渡った。

 プサン港へ着いたときは、ブラスバンドで迎えられたが、歓迎されたのは、その日、1日だ
け。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。しかしそれは想像を絶する、日本
攻撃だった。

 これはあくまでも仮定論だが、もしあのころ、日本にアメリカ軍が駐留していなかったら、日本
は、韓国もしくは、K国に占領されていただろうと思う。当時、日本の自衛隊は、約6万人強。
かたや韓国軍は、18万人弱。それだけではない。韓国は完全な徴兵制を敷いていた。国民す
べてが、銃の使い方、大砲の撃ち方に精通していた。私は彼らが日本に対してもつ憎しみを知
るうち、「日本がつぎに戦争するとしたら、相手は韓国だろうな」と思った。

 それから約35年。日本はかろうじて平和を保つことができた。軍事費にそれほど多額の費
用を使うこともなく、また徴兵制を敷くこともなく、今まで平和を保つことができた。しかしここで
誤解してはならないのは、日本が平和を保つことができたのは、日本人が平和を守ったわけで
も、また平和を愛したからでもない。ここにも書いたように、アメリカ軍が、日本にいたからであ
る。

 もし当時、日本にアメリカ軍がいなければ、韓国やK国は、当然のことながら、日本に攻め入
っていた。つまりそれくらい彼らの憎しみは、大きかった。またそういう憎しみを買ってもしかた
ないようなことを、日本は彼らに対してした。……してしまった。もしそのことがわからなけれ
ば、反対の立場で考えてみればよい。

 ある日突然、圧倒的な軍事力をもつK国が、日本の九州に上陸してきた。そしてまさに破竹
の進撃を繰り返し、一週間のうちには、東京都まで占領してしまった。以後、金XXの銅像への
参拝を義務づけられ、かつ3人以上が集まって日本語を話すのも禁止されてしまった。これに
違背したものは、K国の憲兵によって容赦なく逮捕され、裁判にかけられることもなく投獄。こ
んな状態が、何と、30年近くもつづいた!

 私たちを直接指導してくれたのが、あの金素雲氏(韓国を代表する文化人)だったこともあ
る。私は当時の手帳にこう書いた。「日本の教科書はまちがってはいないが、すべてを書いて
いない」と。

 他国の軍事政権が、その軍事力にものを言わせて、自国へ侵略してくることへの恐怖という
のは、相当なものだ。それもわからなければ、今、ここであのK国が日本へ侵略してきたときの
ことを、ほんの少しだけ頭の中で想像してみればよい。それともあなたは、K国が日本へ侵略
してきても、平気とでも言うのだろうか。あのK国が、である。当時の日本といえば、今のK国以
上にK国的であった。

 が、日本があぶなかったのは、そのときだけではなかった。それをさかのぼる10年前、日本
は、当時の中国に報復されても、少しもおかしくない状態だった。今から思うと、このときも、日
本はアメリカ軍に守られた。もし60年代に、日本にアメリカ軍が駐留していなければ、日本は
ほぼ確実に、中国の植民地になっていた。中国にしても、いつなんどき、日本を植民地にして
もおかしくない状態だった。日本は、それくらいのことをされても文句言えないようなことを、中
国に対しても、してしまった。

 こう書くからといって、何も、アメリカのおかげと言っているのではない。歴史というのは、無数
の偶然と必然が重なって決まる。考えようによっては、今の日本は、アメリカの植民地のような
もの。また仮に今、中国の植民地であったとしても、私たちは今と同じように、結構、ハッピーな
のかもしれない。K国の人だって、テレビで見るかぎり、みな幸福そうだ。今の日本だって、外
の世界からみれば、役人たちにぎゅうぎゅうに管理された官僚主義国家だが、この日本の中
で住んでいると、それもよくわからない。結構、私たちは私たちなりに、自由だと思っている。

 それはそれとして、今、日本はたいへん危機的な状況にある。今後の展開のし方によって
は、戦争になるかもしれない。日本には、その気はなくても、相手はそうではない。しかしこの
状態は、今、始まったわけではない。60年代にも、70年代にもあった。今もあるし、これから
もある。もちろん世界が平和であるにこしたことはないが、しかし平和などというものは、少なく
とも今のこの地球では、幻想でしかない。では、どうするか?

 私たちはともすれば、「自分だけの平和」「自分の国だけの平和」を考える。しかしそれでは、
足りない。相手の国の平和を保障してあげてこそ、自分の国の平和を守ることができる。

 つぎに、戦争はいやだからという論理だけで、平和を求めてはいけない。戦争というのは、ど
ちらか一方が逃げ腰になったとき、キバをむく。言いかえると、平和を守るということは、積極
的に、戦争と向かいあわなければならない。そこに暴力団がいるなら、ばあいによっては、そ
の暴力団と戦わねばならない。いわゆる何もしない平和主義というのは、この世界では偽善で
しかない。

 そして3つ目に、私たちは平和を口にしたら、同時に、敵は私たち自身だと自覚する。仮にK
国と戦争状態になっても、敵はK国ではない。金XXでもない。私たちの敵は、私たち自身であ
る。私たちの心の奥に潜む、邪悪な心である。どんな戦争も、たがいの当事者たちは、自分が
正しいと信じてそれをする。相手がまちがっていると信じて戦争をする。しかしそれでは、「戦
争」は解決しない。平和な世界はいつまでたっても、やってこない。戦争を解決し、平和な世界
にするためには、私たち自身が変わらねばならない。そのために自分自身の中の敵と、私た
ちは戦う。

 で、この中でとくに重要なのは、やはり3番目。少し抽象的な言い方でわかりにくいかもしれな
いが、このことは、暴走族どうしの抗争を想定してみるとわかる。二つの暴走族のグループ
が、縄張りを争って抗争、つまり戦争を起こしたとする。当のグループたちには、それぞれに言
い分があり、また正義があるかもしれない。しかし全体としてみれば、彼らが本当に戦うべき相
手は、もう一方のグループではなく、自分自身の中に潜む、邪悪さである。が、本人たちには、
それがわからない。わからないから、いつまでたっても、なぜ繰りかえすのかさえわからないま
ま、同じような抗争事件を繰りす。

 さて、このエッセーの結論。

 とても残念なことだが、私たち日本人は、大きなまちがいを犯した。戦争というまちがいであ
る。が、そのまちがいもさることながら、さらに戦後、その責任を回避しつづけた。今も、回避し
ている。見方によっては、これも大きなまちがいである。日本人として、自分たちのまちがいを
認めることは、たいへんつらい。つらいが、一度、このあたりで、過去を清算しないと、そのまち
がいは、いつまでもつづくことになる。

 今から35年前、韓国から帰ってきた私に対して、「君は、韓国に洗脳されたのか?」と言った
人がいた。ごく最近も、「君は日本人だろ。どうしてその日本人が、日本を悪く言うのか」と言っ
た人がいる。しかし私は韓国に洗脳されたわけでも、日本を悪く言っているのでもない。私は私
たち自身の中に潜む邪悪さこそが、悪いと言っている。悪いことをしたことを認めないで、それ
から逃げてまわるのも、その邪悪さの1つということになる。そういう邪悪さと戦うことこそ、今、
私たちに求められている。35年前の、あの韓国の人たちの燃えるような憎悪の念を思い出す
たびに、私は、そう思う。
(030217)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●言語能力

++++++++++++++++++

日本語の起源について、
ときどき、考える。

ご存知のように、
モンゴル語、朝鮮語、それに日本語は、
発音音声こそちがうが、文法は、同じ。
同じ「ランゲージ・ファミリィ」に
属している。

が、それ以前の日本人は、
どうだったのか?

つまり朝鮮語が日本へ入ってくる前の
日本人は、どのような言葉を
話していたのか?

++++++++++++++++++

 ワープロの時代になって、ときどき「なるほど!」と思うことがあった。たとえば、「臭い」という
文字を打ちこみたくて、「くさい」と書いて漢字に変換すると、「草い」と出たりした。(最近のワー
プロは、そういうヘマはしないが……。)

 そこで「草」と「臭い」は、関係があるのかなと思った。つまり「草のような臭いがすることを、臭
いという」と。

 さらに「腐る」と打ちこみたくて、「くさる」と書いて漢字に変換すると、「草る」と出たりした。この
ときも、「草」と「腐る」は、関係があるのかなと思った。つまり「草のようになることを、腐るとい
う」と。

 こうした関連性は、ほかの場面でもよく経験する。よく知られた例に、「神」「上(かみ)」「紙」
「髪」などがある。上のほうにあって、大切なものを、昔の日本人は、カミと発音して表現してい
たようだ。そこへ中国語、つまり漢字が入ってきた。それで現在のように、それぞれ、神、上、
紙、髪という漢字をあてて、書くようになった。

 「うまい」も、そうだ。「うまい」には、「おいしい」「じょうず」という意味があるが、昔は、「甘い」
と書いて、「うまい」と読んでいた。関連性がないとは、言えない。よいことをまとめて、昔の日本
人は、ウマイ発音して表現していたようだ。

 ……とまあ、こんな幼稚なことを書くと、言語学の学者たちには、笑われそうである。現在で
は言語学は、生物学次元でとらえられるようになってきている。言語があるからこそ、人間は、
ほかの生物とは区別される。その言語能力は、人間がもつ個体的な遺伝情報を関係がある、
と。「生成文法」(N・チョムスキー)という言葉も、言語学の発達の中から生まれてきた。

 で、私はこう考える。

 日本語の文法は、先にも書いたように、朝鮮半島からの渡来人たちによってもたらされた。
それは、もうどうしようもない事実である。たとえば、韓国語では、「私・は・はやし浩司・です」
は、「ナヌ・エ・はやし浩司・イムニダ」となる。

 が、それ以前の日本語は、どうであったか? 文法については、痕跡もなく姿を消してしまっ
たから、いまさらそれを知る方法はない。が、言葉がなかったわけではない。ここに書いた言
語学によれば、人間は生まれながらにして、遺伝情報のひとつとして言語能力をもっていると
いう。もともとこの日本列島に住んでいた、たてば縄文人なども、独自の文法をもち、何かの会
話をしていたのは、当然と考えてよい。

 が、それは今となっては、もう知る由もない。ないが、言葉のほうには、その残像が残ってい
る。

 たとえば「走る」「飛ぶ」「食べる」など、何らかの動作に関する言葉は、すべて「〜ウ」で終わ
る。

 「美しい」「汚い」「きれい」など、何らかのものの様子を表す言葉は、すべて「〜イ」で終わる。

 このことから、太古の日本人は、何かをするときは、「ウウウ」と話していたのかもしれない。
何かの様子を表したいときは、「イイイ」と話していたのかもしれない。

 その「ウ」の前に、たとえば、「み」をくつけて、「見る」となった。「たべ」をくつけて、「食べる」と
なった。「たた」をくつけて、「叩く」となった……。

 同じように、「イ」の前に、たとえば「くさ」をくつけて、「臭い」となった。「うま」をくつけて、「うま
い」となった。「はや」をくつけて、「速い」となった……。

 だから太古の日本人は、たぶん、こう話していたにちがいない。「うまいから食べる」は、「イイ
イ、ウウウ、イイイ、ウウウ」と。あとは、その表現力の問題。にこにこ笑いながら、「イイイ」と言
い、口を動かして、「ウウウ」と言う。それで、全体として、「うまいから食べる」という言葉を表現
していた(?)。

 以上、すべて私の空想である。推論である。が、それほど、まちがってはいないのではない
か。ときどき生徒たちに、この話をしてやることがある。そして縄文人のまね、つまりゴリラのま
ねをしながら、「イイイ、ウウウ……」とふざけて見せてやる。生徒たちはそれを見て笑うが、は
やし流、言語学の第一歩ということになる。

 ところで、言語能力を、決して軽く考えてはいけない。言語能力は、あらゆる知識、思想、科
学、論理、哲学、そして文化そのものの原点になっている。現代の映像文化にしても、言語能
力の1バリエーションと考えてよい。つまり人間が人間であるのは、その言語能力による。

 が、最近、子どもたちを中心に、その言語能力が低下しているという指摘を、あちこちでよく
耳にする。「子どもたちの言語能力がおかしい」という話も聞く。が、

私の印象によれば、言語能力というのは、人間が、固体の遺伝として身に備わっているものだ
から、10年単位や100年単位では変化しないものだと思っている。変化があるとしても、100
0年単位(?)。会話能力や文章による表現力はたしかに落ちてきているが、それは本来の言
語能力とは関係のないものだと思っている。

 この分野については、私は門外漢なので、また詳しく調べて、後日、報告してみたい。
(はやし浩司 言語能力 言語学 生成文法 子供の言語能力 言葉)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司


●実家(本家)意識

+++++++++++++++++

原始社会では、贈り物が、社会の
秩序を保つ絆(きずな)になっていた。

やがて、より多くの贈り物をもらう人が、
「力のある人」ということになり、
その力のある人が、やがてその社会を
支配するようになっていった。

+++++++++++++++++

 原始社会では、たがいの贈り物が、社会の秩序を保つ柱になっていた。「もらった」「やった」
が、人間関係をつくる基本になっていた。が、そこに変化が見られるようになった。

中に、より多くもらう人が現れた。そしてその量が、加速度的に多くなっていった。で、より多く
の贈り物をもらう人が、「力のある人」ということになり、その力のある人が、やがてその社会を
支配するようになっていった。

 その残像は、日本の年貢制度にみることができる。農民たちは、支配者に、年貢という「贈り
物」をささげることによって、自分たちの安全と保護を保証してもらった。支配者は、もらった
「贈り物」を、今度は、部下やその配下に、再配分することによって、彼らを支配した。部下や
配下は、忠実な僕(しもべ)として、その支配者に従った。

 それがやがてひとつの秩序を保つようになり、封建主義社会における「社会」となっていっ
た。

 こうした流れを、経済学の世界では、「互報(平等に、贈り物を交換する社会)」「再配分(支
配者により多くの贈り物が集まり、その支配者は、その贈り物を再配分することで、支配力を
ます)」という言葉を使って説明する。

 が、何も、これは経済学の世界だけの話ではない。今でも、この日本には、「実家意識」に代
表されるように、原始社会の制度そのものが、残っている。この日本には、だれにも、「実家」と
いうものがある。その実家に、その実家から出たものは、一方的に「贈り物」をするという習慣
が残っている。「贈り物」というのは、何も、「物」にかぎらない。「心」もそれに含まれる。

 たとえば実家にだれか、病人が出たとする。すると、実家から出たものは、その実家の病人
について、ことさら心配してみせたりする。見舞いに行ったり、看病に行ったりする。もちろんそ
の反対のケースもあるが、しかし多くの場合は、一方的なものである。実家が頂点にあって、
実家から出たものは、一方的に、実家に尽くす。

 こうした実家意識が、いかにおかしなものであるかは、外国へ出てみると、わかる。アメリカ
やオーストラリアには、実家意識そのものがない。ないものは、ないのであって、どうしようもな
い。彼らに実家意識を説明しても、理解すらできない。親子も、兄弟も、みな、平等。「平等」と
いう意識すらないほど、平等。

 少し前だが、こんなことを言った母親がいた。「私の家は実家だから、(親類に恥ずかしくない
ように)、息子には、そこそこの大学を出てもらわねば困ります」と。

 若い母親がそう言うから、悲しい。

 ……と言いつつ、実家、それに対する新家(あらや)というのは、あくまでも相対的なもの。実
家はつねに新家であり、新家はつねに実家である。あなたにしてみれば、あなたの生まれた家
は実家かもしれないが、あなたの子どもにしてみれば、あなたの家が、実家である。

 が、この日本では、そこに「代々……」という言葉が、つけ加えられる。わかりやすく言えば、
先祖の位牌を代々守りつづけているのが、「実家」ということになる。「本家(ほんや)」と呼ぶこ
とが多い。中には、20代、40代……と、先祖の位牌を守りつづけている実家もある。

 そういう実家になると、そこから出た人たちの実家意識も、これまたちがったものになってく
る。ものすごいというか、異常というか……?

 ある母親は、息子の土地を、息子がいない間に、勝手に売り飛ばしてしまった。息子が、中
国へ赴任している間のできごとだった。息子は、その間、権利書と実印を、母親に預けておい
た。

 息子がそれに抗議すると、母親は平然とこう言ってのけたという。「親が、実家を守るため
に、息子の財産を使って、何が悪い!」と。さらに甥(おい)や姪(めい)からも、お金をだまし取
る人さえいる。実家意識が高じると、そういうことをしても、みじんも、恥じなくなる……らしい。

 すべては、実家のため、祖先のため、となる。

 バカげた意識だが、しかし当の本人たちにとっては、そうではない。生きる哲学、さらには宗
教にもなっている。簡単に否定すると、反対に、こちらのほうが、はじき飛ばされてしまう。

 この実家意識には、いろいろと問題がある。そこから出た人たちが、常に、実家を心のより
所としてしまう。「私は、○○村の△△家の出のものだ」と。ときには、自分の今住んでいる
「家」よりも、「実家」あるいは「本家」のほうを、優先させてしまうこともある。が、実家に住む人
もたいへん!

 実家は、いつも、覗(のぞ)かれる。干渉される。そしてそれがうるさいほど、つづく。ある男性
は、こう言った。「実家、実家と、うるさくてたまらない。もう放っておいてほしいと叫びたくなるこ
とも、たびたびある」と。

 現在は、その過渡期ということになるのかもしれない。実家意識の強い、旧世代。「そんなも
のくだらない」とする、新世代。ただここではっきりと言えることは、実家意識なるものは、封建
時代の遺物にすぎないということ。封建時代の「家制度」の亡霊と言ってもよい。江戸時代に
は、「家」によって、そこに住む人間の価値まで固定された。

 しかし、今どき、実家とは?! 本家とは?!

 つまり日本の社会は、見た目には近代化されたが、その中身といえば、原始社会そのもの。
私が言っているのではない。カール・ボランニー(1886〜1964)が、『経済人類学』の中で指
摘している。実家意識は、まさに、彼の言葉を借りるなら、「再配分」の社会そのものということ
になる。

 大切なのは、その個人が、どう自分の世界で、より充実した人生を送ることができるかという
こと。代々つづいた実家に住む人も、気負うことはない。一方、その実家から出た人たちも、そ
の実家にかこつけて、自己の依存性を肯定してはいけない。それこそ、「今どき、実家とはねえ
……?」ということになる。

 まだまだ私の戦いはつづきそうである。この問題は、これからも深く考えてみたい。
(はやし浩司 実家 実家意識 原始社会 再配分社会 家制度)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●親意識

++++++++++++++++++++

実家意識と、親意識は、
その底流で、深く結びついている。

その親意識について……

++++++++++++++++++++

 親にも、いろいろあるようだ。今朝、横浜市の友人のK氏(57歳・男性)と、電話で、1時間ほ
ど、話した。彼が生まれ育った群馬県のX町というところは、今でも、家父長意識が色濃く残っ
ているところだという。

 そこで、親意識を、悪玉と善玉に分けてみた。

(悪玉・親意識)

 「産んでやった」「育ててやった」という意識が強い。親は絶対で、親に反抗することを、親が
許さない。「親の悪口を言うヤツは、地獄へ落ちる」などと言って、日常的に、脅される。

 子どもが巣立ったあとも、子どもは、親のめんどうをみるべきという考え方が強い。盆や、暮
れの帰省は、絶対にしなければならない。それをしないと、「先祖(親)捨て」のレッテルを張ら
れる。

 子どもは、人間というより、親のモノ、財産。

(善玉・親意識)

 子どもは子どもでも、子どもというより、友だち意識が強い。いつも仲よしといった感じ。子ど
もといっしょに、もう一度、別の人生を楽しむといったふう。

 子どもが巣立つときは、「あなたの人生は、あなたのものだから、自由にしなさい」と、子ども
の背中をたたくことができる。親は親で、子育てからの解放感を覚える。

 子どもに対しては献身的だが、しかし見返りは求めない。その意識すらない。いつも「子ども
には迷惑をかけたくない」と思っている。

 先に進む前に、以前書いた原稿を紹介する。

+++++++++++++++++++++

●悪玉親意識

 親意識にも、親としての責任を果たそうと考える親意識(善玉)と、親風を吹かし、子どもを自
分の思いどおりにしたいという親意識(悪玉)がある。

その悪玉親意識にも、これまた二種類ある。ひとつは、非依存型親意識。もうひとつは依存型
親意識。

 非依存型親意識というのは、一方的に「親は偉い。だから私に従え」と子どもに、自分の価値
観を押しつける親意識。子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしようとする。子
どもが何か反抗したりすると、「親に向って何だ!」というような言い方をする。

これに対して依存型親意識というのは、親の恩を子どもに押し売りしながら、子どもをその
「恩」でしばりあげるという意識をいう。日本古来の伝統的な子育て法にもなっているため、た
いていは無意識のうちに、そうすることが多い。

親は親で「産んでやった」「育ててやった」と言い、子どもは子どもで、「産んでもらいました」「育
てていただきました」と言う。

 さらにその依存型親意識を分析していくと、親の苦労(日本では、これを「親のうしろ姿」とい
う)を、見せつけながら子どもをしばりあげる「押しつけ型親意識」と、子どもの歓心を買いなが
ら、子どもをしばりあげる「コビ売り型親意識」があるのがわかる。

「あなたを育てるためにママは苦労したのよ」と、そのつど子どもに苦労話などを子どもにする
のが前者。クリスマスなどに豪華なプレゼントを用意して、親として子どもに気に入られようとす
るのが後者ということになる。

以前、「私からは、(子どもに)何も言えません。(子どもに嫌われるのがいやだから)、先生の
方から、(私の言いにくいことを)言ってください」と頼んできた親がいた。それもここでいう後者
ということになる。

 これらを表にしたのがつぎである。

   親意識  善玉親意識
        悪玉親意識  非依存型親意識
               依存型親意識   押しつけ型親意識
                        コビ売り型親意識
 
 子どもをもったときから、親は親になり、その時点から親は「親意識」をもつようになる。それ
は当然のことだが、しかしここに書いたように親意識といっても、一様ではない。はたしてあな
たの親意識は、これらの中のどれであろうか。一度あなた自身の親意識を分析してみると、お
もしろいのでは……。

++++++++++++++++++++

 悪玉親意識が強いと、親子の間には、命令・服従の関係が、生まれやすい。親は、子ども
に、徹底した服従を求める。

 このとき、子どもは、二つのうちの、どちらかの選択に迫られる。親に従順になる。あるいは、
親に反抗する。

 さらに、この段階で、親は、親としての権威を持ちだすことが多い。(親・絶対教)の根幹にあ
るのは、この権威である。理由など、ない。根拠も、ない。あるとすれば、子どもに対する本能
的な依存性※ということになる。

 が、その権威が通じなくなったとき、たとえば親自身が、その権威を維持できなくなったとき、
親は、つぎの4つのパターンのどれかをとることになる。

(1)攻撃型……子どもに向かって、暴力的に服従を強いる。
(2)同情型……わざと弱々しい親を演じてみせる。
(3)依存型……ベタベタと子どもに依存する。甘える。よい親を演ずる。
(4)服従型……「老いては子に従え」を口ぐせにし、子どもに服従する。

 これら4つのパターンの複合型というのもある。あるいはそのときどきに変化するというタイプ
もある。

 X町のK氏は、こう言う。

 「私の親などは、死ぬまで、私から、お金をむしり取りましたよ。容赦なかったですよ。とくに冠
婚葬祭は、派手で、そのつど、5〜50万円程度のお金を、要求してきました」「そのため、若い
ころは、そのつど、貯金通帳は、カラになりました。私の人生は、まるで親のために犠牲になっ
たようなものですよ」と。

 K氏のばあいは、それでも、また親子関係が良好だったから、救われる。が、そうでないと、
それから生まれるストレスは、想像を絶するものになる。子どもは、家族自我群という、重いク
サリにからまれて、悶絶する。

 が、そんなK氏だが、K氏の母親は、死ぬまで、近所の人にこう言っていたという。

 「息子なんて、育てるもんじゃないですね。どうせその年になれば、みんな、親を捨ててどこか
へ行ってしまいますよ。親なんて、さみしいもんですわ」「息子は、横浜の嫁に取られてしまいま
した」と。

 K氏の母親は、ここでいう同情・依存型の親意識をもっていたことになる。

 結局は、悪玉親意識の強い親というのは、自立できない、精神的に未熟な親ということにな
る。
(はやし浩司 親意識 善玉親意識 悪玉親意識)

【注※……本能的な依存性】
 
 ある種の鳥類は、生後直後に、「刷り込み(インプリンティング)」をすることが知られている
(ローレンツ)。

 人間も、生後まもなくから数か月にかけて、同じような刷り込みをすることが最近の研究でわ
かってきた。この時期を、「敏感期」という。

 この敏感期に、子どもは、親に対して、特定の、かつ濃密な本能的な感情をもつようになる。
私は、親・絶対教の根幹に、この(刷り込み)があるのではないかと推察している。
(はやし浩司 敏感期 ロレンツ ローレンツ 刷り込み インプリンティング)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●誠司

 孫の誠司(現在、アメリカ在住)と電話で話す。前回は、私のことを、「エアロプレーン・ジージ」
と呼んだ。今日も、そう呼んだ。その前は、電話をすると、「ハイ、バイ!」で切ってしまった。た
またま何かのことでぐずっているときに電話をしたのが、まずかった。

 今日は、ワイフと話した。そのワイフのことを、誠司は、「ロープウェイ・バーバ」と呼んだ。

どうして乗り物の名前を、名前の前につけるのだろう? そういう習慣なのだろうか?そのあと
長男とも話したが、長男のことは、ちゃんと、「アンクル・シューイチ」と呼んでいた。

 少し前、浜松市の写真集(ガイドブック)を送ってやった。そのガイドブックについて、誠司が、
二男(誠司の父親)に、「どうしてこの写真集には、ジージが載っていないのか?」とさかんに聞
いたという。

 幼児特有の自己中心性というよりは、まだ「本」の意味がよくわかっていないらしい。

 電話をすると、電動のバリカンが届いたという。誠司の髪の毛は、日本人のそれより、3分の
1、あるいはもっと細い。日本製のバリカンが使えるかどうかまだわからないが、「床屋へ行く
のをいやがる」というから、送ってやった。

 まあ、二男は二男で、今、いろいろなドラマを展開しているようだ。そのドラマに意味がある。
価値がある。その意味や価値に気づくのは、子育てが終わってからだが、今は、説明してもわ
からないだろう。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●勇気

++++++++++++++++

勇気にもいろいろある。

その中でも、最大の勇気は、
負けを認める勇気ではないか。

自分のことでも、また
子どものことでも……。

+++++++++++++++++

 勇気にもいろいろ、ある。子どもの世界風に言えば、悪と戦う勇気、未知の世界に飛び出す
勇気、恐怖と戦う勇気などがある。自分を奮(ふる)いたたせることを勇気というが、広辞苑に
は、「いさましい意気、ものに恐れない気概」とある。

 しかし本当の勇気は、負けを認める勇気ではないか。「私はバカです。私はつまらない人間
です。私は負けました」と、それをすなおに認める勇気ではないか。

 人も、ある年齢になると、否応(いやおう)なしに、その(負け)を認めざるをえない立場に立た
される。体力、気力、それに知力など。そのつど、自ら負けを認めて、身を引く。そんな場面が
多くなる。

 しかしそれは、実のところ、たいへん苦しい戦いでもある。負けを認めたくないから、最後の
最後の、その土壇場でがんばる。ふんばる。しかしその力には限界がある。できるなら勝ちた
い……そう思いながら、最後の力をふりしぼる。

 が、こんな状態では、いつまでたっても、安穏たる日々はやってこない。心を不安にするザワ
めきを、消すことはできない。こんな話を、姉から聞いた。

 姉はボランティアで、近所のひとり住まいの老人たちの世話をしている。その中の1人が、こ
のところ、大便の始末ができなくなってきた。トイレに間にあわないとか、あるいは、うまく下着
をさげられないとか、いろいろあるらしい。トイレから出てくるたびに、衣服に、大便をつけて出
てくるという。

 が、当の本人は、絶対に、それを認めようとしない。姉が、「おばあちゃん、ここにウンチがつ
いているでしょ!」と言って、それを見せても、「ついていない!」「ウンチじゃない!」と言ってが
んばるという。

 しかたないので、姉が、下着や衣服を取りかえてやろうとするのだが、それについても、「この
ままでいい」「自分でできる」と言って、拒否するという。が、姉がつらがるのは、そのことではな
い。このところ、その老人が、姉に反抗的になってきたこと。言葉もきつくなってきた。ときに、
そういう姉を、罵倒することもあるという。

 で、こういうとき、老人介護のマニュアルには、こうあるという。「そうだねと言って、老人の言
い分を認めてやること」と。が、便臭だけは、どうにもならない。だからついつい姉も、きつく出
ることもあるという。

 私が「きっと、自分がなさけなくて、その老人は、自分に怒っているのだよ」「負けを認めるの
がいやなんだよ」と言うと、姉は、「そうかしら?」と言った。姉は、その老人が、ますますがんこ
で、わがままになってきたと言った。

 こういう例は、多い。老人の世界には、とくに、多い。過去の地位や肩書き、名誉や栄華にし
がみつき、それから自分を解放できないでいる老人たちだ。人生そのものを、完全燃焼してい
ない。その不燃焼感が、ますますそういった老人たちをして、がんこにする。しかしその老人
は、女性である。

私「どうして、そんなにプライドが高いのかね?」
姉「昔から、近所でも、お姫様と呼ばれていたような人だから……。実家は、元武家とかで、こ
んな田舎に嫁いでくるような人ではなかったみたい……」
私「そういうことか……」
姉「そういうこと」と。

 が、それだけではないようだ。この世界には、「応報」という言葉がある。長い話だったが、姉
の話をまとめると、こうなる。

 その女性は、若いときから、近所の人たちを、どこか見くだしていたという。そして夫の両親、
つまりその女性の義理の両親たちが、ボケ始める年齢になると、陰で両親に対して、虐待に近
いようなことをしていたという。

姉「表では、いい嫁さんという感じだったけど、裏では、そうでなかったみたい」
私「たとえば……」
姉「きつい人だったみたいよ。とくに母親は、その女性に、ビクビクといった感じだったわ」と。

 義理の母親が、便をもらしたりすると、その女性は、大声をあげて母親を叱っていたという。
その声が、となり近所まで、聞こえることがあったという。

私「そういう過去があるから、自分を許せないのだろうね、きっと……」
姉「そうかもね」と。

 親子でも、親が老齢期に入ると、立場が逆転するということは、よくある。そして親が子どもに
したのと同じことを、今度は、子どもが親にするようになる。

 ときどき耳にする例は、こんな話だ。

 親が子どもを虐待すると、今度は、その親が老人になったとき、同じように、子どもが親を虐
待するようになる。まさに「因果応報」ということになる。

 話が脱線したが、こうした応報を避けるためにも、「負けを認める勇気」、それが重要である。
若いときはなかなかむずかしいかもしれないが、しかしそのいさぎよさが、心を軽くする。人間
関係に、さわやかな風を通す。

 その大便をもらす老人にしても、「ごめんなさい」と負けを認めてしまえば、世話をする姉だっ
て、救われる。が、いつまでも、「そんはずはない」「そうであってはいけない」とがんばるから、
人間関係も、ぎこちなくなる。

 そうそう、大切なことを言い忘れた。

 実は、負けることは、負けることではない。日本では、昔から、『負けるが勝ち』という。それに
ついては、今までにも何度も書いてきた。以前、書いた原稿を、ここに添付する。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●負けるが勝ち

 この世界、子どもをはさんだ親同士のトラブルは、日常茶飯事。言った、言わないがこじれ
て、転校ざた、さらには裁判ざたになるケースも珍しくない。ほかのことならともかくも、間に子
どもが入るため、親も妥協しない。が、いくつかの鉄則がある。

 まず親同士のつきあいは、「如水淡交」。水のように淡く交際するのがよい。この世界、「教
育」「教育」と言いながら、その底辺ではドス黒い親の欲望が渦巻いている。それに皆が皆、ま
ともな人とは限らない。情緒的に不安定な人もいれば、精神的に問題のある人もいる。さらに
は、アルツハイマーの初期のそのまた初期症状の人も、40歳前後で、20人に1人はいる。こ
のタイプの人は、自己中心性が強く、がんこで、それにズケズケとものをいう。そういうまともで
ない人(失礼!)に巻き込まれると、それこそたいへんなことになる。

 つぎに「負けるが勝ち」。子どもをはさんで何かトラブルが起きたら、まず頭をさげる。相手が
先生ならなおさら、親でも頭をさげる。「すみません、うちの子のできが悪くて……」とか何とか
言えばよい。あなたに言い分もあるだろう。相手が悪いと思うときもあるだろう。しかしそれでも
頭をさげる。あなたががんばればがんばるほど、結局はそのシワよせは、子どものところに集
まる。

しかしあなたが最初に頭をさげてしまえば、相手も「いいんですよ、うちも悪いですから……」と
なる。そうなればあとはスムーズにことが流れ始める。要するに、負けるが勝ち。

 ……と書くと、「それでは子どもがかわいそう」と言う人がいる。しかしわかっているようでわか
らないのが、自分の子ども。あなたが見ている姿が、子どものすべてではない。すべてではな
いことは、実はあなた自身が一番よく知っている。あなたは子どものころ、あなたの親は、あな
たのすべてを知っていただろうか。

それに相手が先生であるにせよ、親であるにせよ、そういった苦情が耳に届くということは、よ
ほどのことと考えてよい。そういう意味でも、「負けるが勝ち」。これは親同士のつきあいの大鉄
則と考えてよい。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

【親の欲目】

●親の欲目

 「己の子どもを知るは賢い父親だ」と言ったのはシェークスピア(「ベニスの商人」)だが、それ
くらい自分の子どものことを知るのは難しい。

親というのは、どうしても自分の子どもを欲目で見る。あるいは悪い部分を見ない。「人、その
子の悪を知ることなし」(「大学」)というのがそれだが、こうした親の目は、えてして子どもの本
当の姿を見誤る。いろいろなことがあった。

●やってここまで

 ある子ども(小6男児)が、祭で酒を飲んでいて補導された。親は「誘われただけ」と、がんば
っていたが、調べてみると、その子どもが主犯格だった。またある夜1人の父親が、A君(中1)
の家に怒鳴り込んできた。「お宅の子どものせいで、うちの子が不登校児になってしまった」と。
A君の父親は、「そんなはずはない」とがんばったが、A君は学校でもいじめグループの中心に
いた、などなど。こうした例は、本当に多い。子どもの姿を正しくとらえることは難しいが、子ども
の学力となると、さらに難しい。

たいていの親は、「うちの子はやればできるはず」と思っている。たとえ成績が悪くても、「勉強
の量が少なかっただけ」とか、「調子が悪かっただけ」と。そう思いたい気持ちはよくわかるが、
しかしそう思ったら、「やってここまで」と思いなおす。子どものばあい、(やる・やらない)も力の
うち。子どもを疑えというわけではないが、親の過剰期待ほど、子どもを苦しめるものはない。
そこで子どもの学力は、つぎのようにして判断する。

●子どもを受け入れる

 子どもの学校生活には、ほとんど心配しない。いつも安心して子どもに任せているというので
あれば、あなたの子どもはかなり優秀な子どもとみてよい。しかしいつも何か心配で、不安が
つきまとうというのであれば、あなたの子どもは、その程度の子ども(失礼!)とみる。そしても
し後者のようであれば、できるだけ子どもの力を認め、それを受け入れる。早ければ早いほど
よい。

そうでないと、(無理を強いる)→(ますます学力がさがる)の悪循環の中で、子どもの成績はま
すますさがる。要するに「あきらめる」ということだが、不思議なことにあきらめると、それまで見
えていなかった子どもの姿が見えるようになる。シェークスピアがいう「賢い父親」というのは、
そういう父親をいう。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(147)

【イスラム教】

++++++++++++++++++

イスラム教って、何?
……と思っている人は多いと思う。

私も、そうだ。

そこで買ってきたのが、『イスラム教の本』
(学研)。

昨日(3・10)、その本を、1日で、
読破した。

+++++++++++++++++++

●絶対的な服従・帰依

 絶対的な帰依……あらゆる信仰に共通する条件。絶対的な服従・帰依なくして、信仰は成り
たたない。

 仏教の世界にも、「南無」という言葉がある。もともとは、サンスクリット語の「ナム」の当て字
である。その「ナム」もまた、「帰依する」という意味である。ついでながら、日本最大の宗教団
体に、S学会というのがある。そのS学会の信者たちは、ことあるごとに、日蓮が唱えた題目、
すなわち、「南無妙法蓮華経」という題目を唱える。

 南無は、ここに書いた、「ナム」の当て字。

 妙法は、「ミョウホウ」、同じくサンスクリット語で、「不思議な」とか、「因果な」という意味。それ
に「妙法」という当て字を当てた。

蓮華は、「レンゲ」、同じくサンスクリット語で、「物語」という意味。それに「蓮華」という当て字を
当てた。

 「経」は、「経典」の経。中国で、仏典として編纂されるときに、つけ加えられた。つまり、「南
無・妙法・蓮華・経」は、「不思議な物語に帰依する経典」ということになる。

 これらの事実は、私が直接、東京にあるインド大使館の領事部の人の協力を得て、調べたも
のである。

 ただ「ナム」が意味する「帰依」については、「帰依」というほど、深い意味で使われているので
はない。たとえばインドでは、あいさつとして、「ナマ(=ナム)・ステ」という言葉を使う。もともと
は、「あなたに帰依します」という意味だが、そんな深い意味を考えてあいさつをする人はいな
い。会ったときも、別れるときも、軽く両手を合わせて、「ナマステ!」と言いあう。

●「イスラム」とは……

 同じように、「イスラム」という言葉は、もともとは、「服従する」「帰依する」という意味する言葉
だそうだ。そのイスラム経。このところ、何かと私の興味をひきつけて放さない。で、今日も、書
店で1冊、本を買ってきた。初歩の初歩ということで、学研の「イスラム経の本」(1165円)とい
うのにした。

 それによれば、ムハンマドは、ただの予言者にすぎないということ。しかもムハンマドは、最初
は、文字も読めない、ごくふつうの一般人であったという。そのムハンマドが、神の啓示を受け
て、予言者になった。つまり極めて霊的な神が別にいて、その神が、ムハンマドに啓示を与え
ながら、人々を指導した。おおざっぱに言えば、そういうことになる。

 ムハンマドは、いろいろと不可思議な体験をしている。こういう話は、どの宗教にもつきもの
だが、私は、そういう話には、たいへん興味がある。「イスラム経の本」(学研)には、つぎのよう
にある。ムハンマドが、神の啓示を最初に受けたところである。

 「最初は、神のお告げだったという。ムハマンドは、あるときから、山籠(ごも)りするようにな
った。食料をたずさえ、メッカ近郊のヒラー山の洞窟に籠もり、何日もの間、瞑想や勤行を続け
るというものである。そして40歳のある日、ついに運命の出来事が、彼の身にふりかかる。

 いつものように洞窟に籠もっていたある夜のこと、うとうとと眠っていたムハマンドは、突如、
全身が押しつぶされるような感覚に襲われた。気がつくと、そこに天使ジブリール(ガブリエル
のこと)の姿があった。天使はそのままムハマンドに、「読め」と命じたのである。

 『私は読めません』と言うと、天使はムハマンドをつかみ、覆いかぶさり、苦しくなると離し、ま
た『読め』と言った。『私は読めません』と言うと、天使はまたムハマンドをつかみ、覆いかぶさ
り、苦しくなると離し、また『読め』と言った。

 またムハマンドが『読めません』と言うと、天使は、3度、ムハマンドをつかみ、覆いかぶさり、
苦しくなると離し、『読め。創造をなされた汝(なんじ)御名(みな)において、読め。汝の主は、も
っとも尊い御方、筆を取る術(すべ)を教えられた御方。人間にその知らぬことを教えられた』
(96章1〜5節)と言ったのである」(同書、P29)。

 こうしてムハマンドは、預言者になる。同書の冒頭にもあるが、ムハマンドは、決してイスラム
教の教祖ではない。ただの預言者である。つまりここにイスラム教の最大の特徴がある。

 ムハマンドは、絶対にして、人間をはるかに超越した神の、その預言者にすぎない。いいか
えると、そうであるからこそ、イスラム教では、そのムハマンドの説いた神の教えに対して、異
論を唱えたり、異議を唱えたりすることはできない。

 絶対的な服従、もしくは帰依こそが、イスラム教の原点になっている。

●イスラム教の謎

 で、そのイスラム教についてだが、私はかねてから、ひとつの大きな謎を感じていた。ご存知
の方も多いと思うが、エルサレムの旧市街地は、ムスリム(イスラム教徒)、キリスト教徒、それ
にユダヤ教徒の3つに分かれている。ともに「自分たちの聖地」と主張して、今日に見られる紛
争の原因ともなっている。

 どうしてか? どうして3つの聖地が、かくも近接しているのか? 同じ場所に集中しているの
か? 地球規模の視点で見るなら、まさに1点ということになる。どうしてその1点に集中してい
るのか?

 その謎も、「イスラム教の本」を読んで、ある程度、解けた。イスラム教でも、コーランにあわ
せて、旧約聖書(モーセ五書、ダビデへの詩篇)、新約聖書(福音書)を、聖典としているのであ
る。だからイスラム教の中には、旧約聖書の中に出てくるような話が、共通して出てくる。

 で、さらに興味深いのは、ムハマンドは、その後、数々の、神秘体験をしているが、その中に
は、「7つの天界への巡礼」というのもある。そしてそこで、何と、ムハマンドは、イエスとヨハネ
に会っているのである!

 同書には、つぎのようにある。

●イエスにも会ったムハマンド

 「伝承によれば、ある夜、ムハマンドのもとに天使が現れ、彼の頸を裂き、心臓を取り出して
洗った。再び心臓が体内に戻されたとき、彼の魂は知恵で満たされたという。

 ムハマンドは、天使ジブリールに連れられた、天馬ブーラークに乗ってエルサレムに向かう。

 そこで行われたのは天界への巡礼であった。天使に連れられたムハマンドは、第1天で、ア
ダム、第2天で、イエスとヨハネ、第3天で、ヨセフ、第4天で、エノク、第5天で、アロン、第6天
で、モーセ、第7天で、アブラハムに、相見(まみ)える。

 いずれも聖書に登場する先達(せんだつ)ともいうべき使途たちであった。

 彼らは『ようこそ! 正義の預言者、有徳の兄弟よ』と口々に言い、ムハマンドを迎えたので
ある。そしてさらに遠い涯(はて)に連れられ、天国の至福の象徴である、『シドラの木』のある
場所で、主より、日に50回の礼拝の義務を言い渡される。

 命令を持ち帰ったムハマンドだったが、その帰途、モーセより、『あなたの信徒は、それに耐
え得ないだろう』と忠告を受けた。再び主の前に戻ると、主は、礼拝の回数を、5回に軽減する
ことを申し渡したのであった」(同書、P33)と。

 イスラムの学者たちは、このできごとを、霊魂のみでなく、身体もともなった旅であること、そ
してその旅が、一夜の間に起こったことを、「奇跡の事実」として認めているという。

 こうしてイスラム教が生まれ、今日に至る。今日は、レッスン1として、ここまでにしておく。つ
づきは、またの機会に書いてみたい。
(はやし浩司 イスラム教 ムハマンド)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●連鎖と応報

+++++++++++++++

子育ては、親から子へと、連鎖する。
それはよく知られた事実だが、
もうひとつ、「応報」という事実もある。

その応報について……。

+++++++++++++++

 たとえばあなたが今、あなたの子どもを、虐待したとする。いろいろな虐待のし方がある。とも
かくも、虐待したとする。

 すると、その虐待されたあなたの子どもは親になったとき、そのあなたの子どもは、その子ど
も(あなたからみれば、孫)に対して、同じような虐待をするようになる。あるいはその可能性
は、たいへん高い。

 それを育児の世界では、「世代連鎖」という。「伝播(でんぱ)」という言葉を使う人も多い。

 ここで重要なポイントが1つある。

 虐待される子どもの立場で考えてみよう。当然のことだが、親に虐待されて、それを喜ぶ子ど
もは、いない。で、ふつうなら、そういう親の虐待を受けながら、子どもは、親を反面教師とし
て、その反対に親になろうとすることが考えられる。「私は、親に虐待されて、いやな思いをし
た。だから、自分が親になったら、自分の子どもに対しては、虐待をしない」と。そう心に誓った
ところで、おかしくない。

 しかしその反面教師には、限界がある。いつか私は「つっかい棒」という言葉を使ってそれを
説明した。そのつっかい棒(=気力あるいは緊張感)がある間は、反面教師は反面教師として
機能する。しかしそのつっかい棒がはずされたとき、その人は、反面教師そのままの人間にな
る。そういう例は、たいへん多い。

 私にも、こんな経験がある。

 私が高校生のときの、英語の教師は、まさに詰めこみ主義そのものの教え方をした。明けて
も暮れても、そればかり。あとは試験と成績。それに順位。生徒たちを競わせながら、それをし
た。

 私はそういう授業を受けながら、「私が教師だったら、こういう教え方はしない」「こういう教え
方をする」などと、毎日のように考えていた。つまり私はその英語の教師を見ながら、その教師
を反面教師として、別の教師像を頭の中で、作りあげていた。

 が、である。

 この浜松市にやってきて、ある進学塾で講師のアルバイトをするようになったときのこと。私
は英語を担当したが、ある日、自分の教え方を知って、がく然とした。何のことはない。私の教
え方は、あの高校時代の、あの英語の教師の教え方そのものだったのである。

 私が高校生のときは、そのつっかい棒があった。「あんな教師にはならないぞ」という気力と
いうか、緊張感があった。しかしその教師から別れて、大学生になり、社会人になったとき、そ
の緊張感が消えた。つっかい棒が消えた。とたん、私は、反面教師そのものになっていた!

 ここでいう「連鎖」は、そういう過程を経て、親から子へと、代々、連鎖する。あるいはしやす
い。それはよく知られた事実であり、子育ての世界では、常識にもなっている。

 が、もうひとつ忘れてはならない事実がある。それが「応報」である。しかも、こちらのほうが、
ひょっとしたら、あなたにとっては、より深刻な問題と考えてよい。

 こんな例を、あなたは耳にしたことがないだろうか。親を虐待する、子どもの話である。決して
珍しくない。

 わかりやすく言えば、こういうことになる。

 親が子どもを虐待したとする。たとえば子どもが不用意に便をもらしたとする。それに激怒し
て、親が、子どもをはげしく叱り、体罰を加えたとする。子どもは泣きながら、それにあやまり、
「もうしません」と約束する。が、また数日もすると、同じ失敗をする。あるいはそれを繰りかえ
す。親は、ますますはげしく子どもを叱る。

 が、いつか、親子の立場は、逆転する。必ず逆転する。若い親にこんなことを言っても、ムダ
かもしれない。どの親も、「私は死ぬまで、健康だ」「だれにも迷惑をかけない」「それだけの財
産は、残しておく」「子どもの世話にはならない」などと思っている。中には、「私だけは、ボケな
い」と思いこんでいる人もいる。

 しかし加齢とともに、「老い」は、必ず、やってくる。例外は、ない。それがわからなければ、あ
なたの周囲の人たちを見回してみることだ。今は、老後の世界は、別世界と思っているかもし
れない。が、あなたの目に映る老人たちこそが、あなたの未来である。

 で、その逆転したとき、ここで「応報」という現象が起きる。つまりあなたは子どもにしたのと同
じことを、今度は、その子どもにされるようになる。あなたが子どもを虐待すれば、あなたが老
人になったとき、今度は子どもがあなたを虐待するようになる。あるいはその可能性は、たい
へん高い。

 あなたが老人になって、便をもらしたとする。するとあなたの子どもは、ことさらそれをいやが
り、嫌い、あなたを叱る。叱るだけならまだしも、あなたに体罰を加える。「また、もらしたのね。
何度言ったら、わかるの!」と。

 だから……。この先は、もう書く必要はないと思う。あとは、それぞれ個々の問題ということに
なる。

 子育てというのは、そういうもの。頭の中で考えてするものではないということ。子育てという
のは、だれしも、自分の体の中にしみこんだものを、無意識のうちに、繰りかえしているだけ。
そのひとつが、ここでいう「連鎖」と「応報」ということになる。

 こわ〜い、ですね、この話は! ホント!
(はやし浩司 子育て連鎖 連鎖 伝播 応報 因果応報)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●ガス田開発問題
 
++++++++++++++

日本と中国の間で、
ガス田、開発問題が、
こじれに、こじれている。

結構な話ではないか。
このまま化石燃料を使いつづければ、
地球温暖化は、ますます進み、
やがて、地球全体が、砂漠化する。
人間どころか、あらゆる生物は
死滅する。

100年単位、200年単位で
ものを考えれば、いまごろ、
こんな問題で頭を悩ますほうが、
おかしい。おめでたい。

そのうち、米中戦争でも始まれば、
この極東アジアは、めちゃめちゃ。

いや、すでに中国は、地球温暖化により、
各地で深刻な影響を受け始めている。
「私の知ったことではない」と言いたいが、
しかしそれは地球全体の問題でもある。

大きな国だから、ものの考え方も大きいかなと、
私は思ったが、どうやら事実は、逆のようだ。

+++++++++++++++

 実のところ、北海道の東にある、クナシリ、エトロフ島を、ロシアの領土と言うのと同じくらい、
沖縄のはるか南にある尖閣諸島を、日本の領土というのには、少し、無理がある。

沖縄は明治時代以前までは、琉球王朝と呼ばれ、日本よりは、中国、台湾とのつながりのほう
が、はるかに深かった。江戸時代においては、薩摩の「附庸国」ということになっていたが、一
応、「外国」という扱いを受けていた。一方、中国は、かねてから沖縄は、中国の領土であると
主張している。あの毛沢東も、「沖縄は、中国の領土」と、宣言している(カイロ宣言にて・194
3)。

 だからというわけでもないが、50年先、100年先の極東アジアを見据えながら、ものを考え
てみてはどうだろうか。ささいな問題でぎくしゃくしないで、このあたりを、日中韓の共同開発区
域として、みんなで仲よく開発するとか、そういう方法だって、ないわけではない。

 もちろんそれには、1つの条件がある。たがいの信頼関係が前提となる。今のように、やるこ
となすこと、たがいに疑心暗鬼では、何もできない。たがいに相手を敵視しあっていて、何がで
きるのか。そうでなくても、アジアどころか、地球全体が、今、危機的な状況にある。砂漠にして
も、地球全体で、毎年600万ヘクタールの速さで広がっている(ウィキペディア百科事典)。もち
ろん中国とて例外ではない。ゴビ砂漠の例をみるまでもない。

 その油田開発だが、京都大学のN教授は、こう述べている(サンケイ新聞・3・11)。

 「取るべき対応はただ一つ。日中中間線に近い日本側水域で試掘を開始することだ。領土・
領海に対する国家の明確な意思を見せてこそ、外交ルートでの協議は成立する。首相は、協
議機関を設置し、リーダーシップを発揮すべきだ」と。

 こういう勇ましい意見には、注意したほうがよい。どこか短絡的ですらある。これではまるで、
中国に向かって戦争をふっかけているようなもの。あえて言うなら、日本は、中国が手がける
前に、もっと早い段階で、このあたりの資源調査をしておくべきだった。少なくとも今は、中国
は、日本側が主張する排他的経済水域(EEZ)の外、つまり日中中間線の中国側のところで
作業をしているのだから、日本側としては、何も文句は言えないはず。少なくとも、中国側は、
そう主張している。

 だったら日本は日本で、そのあたりにこだわるのではなく、日本の排他的経済水域の内側の
あちこちで、資源開発のための調査をすればよい。そのひとつとして、「日中中間線に近い日
本側水域でも試掘を開始する」(N教授)ということであるなら、何も問題はないはず。

 それにしても、どうして日本と中国、それに韓国との間では、こうまでやることなすこと、問題
がこじれてしまうのか。政治、風土、文化のちがいというよりは、これもまた文明のちがいによ
るものなのか。アメリカ型西欧文明と、儒教文明のちがい(?)。私には、そんな感じさえする。

+++++++++++++++++

ついでながら少し前に書いた、
「台湾問題」についての原稿を
ここに添付しておきます。

+++++++++++++++++

●台湾問題は、日本の問題

++++++++++++++++++++++

どうして、中国は、日本が主張する経済水域の中で、
ガス油田の開発および採掘を始めたのか。

どうして日本の抗議に対して、中国は耳を貸そうと
しないのか。

実は、この問題に裏には、台湾、さらには沖縄(琉球)
の領有権問題がからんでいる。

雑誌「諸君」(11月号)の中の記事を参考に、この
問題を考えてみたい。

中国側の言い分を、それなりに理解するために……。

+++++++++++++++++++++++

 中国と台湾。その中国は、台湾は、中国の領土と主張し、もし台湾が独立宣言をするような
ことがあれば、中国は武力介入も辞さないと、ことあるごとに宣言している。

 つまり台湾の独立は、許さない、というわけである。

 しかし、この問題は、そのまま日本の問題と考えてよい。中国に視点を置いてみれば、それ
がわかる。中国の東には、台湾がある。しかしその台湾の向こうには、沖縄(琉球)がある。も
し台湾が独立してしまえば、沖縄(琉球)は、ますます、中国から遠ざかってしまう。

 仮に台湾が、中国の領土の一部になれば、つぎに中国が領有権を主張してくるのは、実は、
沖縄(琉球)なのである。これは私の被害妄想でも、憶測でも、何でもない。

 連合国は、ポツダム宣言(1945)によって、日本の敗戦を明確に位置づけた。しかしそのポ
ツダム宣言の前に、ヤルタ協定(同、1945)、さらにその前に、エジプトのカイロでなされたカ
イロ宣言(1943)がある。

 そのカイロ宣言の中には、「日本は、中国から奪取したすべての領土を、中国に返還すべ
き」という一文があるが、中国は、その中には、台湾はもちろんのこと、沖縄(琉球)も含まれる
と主張した。毛沢東が、その人である。毛沢東は、その著書、『中国革命と中国共産党』の中
で、「沖縄(琉球)は、日本が中国から奪った領土である」と書いている(中西輝政氏、指摘・
「諸君」11月号)。

 ……こう書くと、「沖縄が、中国の領土だって?」と思う人がいるかもしれない。しかしここは、
明確に述べておかねばならない。

琉球王朝、つまり沖縄は、江戸時代においては、薩摩の「附庸国」であると同時に、明と清との
朝貢関係をもっていた。つまり沖縄(琉球)は、幕藩体制の中では、一応、日本の「領分」としな
がらも、日本では異国として扱われていたのである。

 が、1871年、宮古・八重山島民が台湾に漂着し、54人が、台湾島民に殺害されるという事
件が起きた。これに対して時の明治政府は、「日本国民を殺害した」として清国に抗議、台湾
へ出兵。そしてそのあと、日本は、北京条約で、清に沖縄(琉球)の日本への帰属を認めさせ
る(参考、中島成久氏ゼミ資料)。

 こういう流れからみると、つまりどこか力ずくで、沖縄(琉球)を日本の領土としてきたという流
れからみると、「沖縄(琉球)は、中国の領土である」と、中国が主張しても、どこもおかしくな
い。少なくとも、「沖縄は、日本の領土である」という主張には、歴史的根拠があまりない。つま
りここが、日本の最大のアキレス腱ということになる。

 しかしその中国が、沖縄をあきらめたわけではない。かろうじて、本当にかろうじて、今、中国
がそれを主張しないのは、台湾問題があるからにほかならない。台湾が、中国のコブなら、沖
縄(琉球)は、そのコブの上のコブにすぎない。「沖縄(琉球)が、中国の領土である」ということ
を主張するためには、まず台湾を、自分の領土に組みこまねばならない。

 わかりやすく言えば、台湾が、大きな壁となって、中国と日本の間に、またがっている。中国
にしてみれば、まず、台湾問題なのである。

 つまりもうおわかりかと思うが、台湾問題が片づけば、つぎにやってくるのが、沖縄(琉球)問
題である。「台湾問題は、日本に関係ない」などと思っていたら、たいへんなまちがいである。
現に今、「沖縄は中国の領土である」と主張する知識人が、中国国内で、ふえ始めている。

 一方、ここ1、2年、米中関係は、急速に悪化の一途をたどっている。新たな冷戦時代の始ま
りと説明する人も多い。最近になってアメリカのライス国務次官も、中国を、「明らかな脅威」と
位置づけ始めている(05年8月)。台湾や日本にとって、脅威という意味ではない。アメリカ本
土にとって、脅威という意味である。

 事実、それに呼応するかのように、中国の軍の近代化と拡充には、ものすごいものがある。
軍事費にしても、公表されている数字の3倍近くはあると言われている。あるいは、それ以上
かもしれない。

 そこで、その中国がなぜ、こうまで、軍事力の拡充に熱を入れるかといえば、すでに中国は、
台湾や日本を飛び越して、アメリカとの戦争を、念頭に置いているからに、ほかならない。その
中国は、これまたことあるごとに、「もし中台戦争にアメリカが介入してくるようなことがあれば、
アメリカとの対決も辞さない」と主張している。

 中西輝政氏は、つぎのような事実も指摘している。

 「この(05年)7月、中国国防大学のエリート、朱成虎少将が多くの欧米記者を前に、『アメリ
カが中台の武力紛争に介入したときには、中国は、アメリカ本土に、戦略核ミサイルによる先
制攻撃を加える』という警告を発した」(同、「諸君」11月号)と。

 そうなれば、沖縄はもちろん、日本の本土すらも、中国の核攻撃の対象となる。

 ……とまあ、こうした物騒な話はさておき、中国は、日本の主張する経済水域を、そもそも認
めていない。だから平気で、その中で、ガス油田の開発、採掘をすることができる。だからいく
ら日本が抗議の、のろしをあげても、どこ吹く風。中国は、これから先も、ますます堂々と、日
本の経済水域内に入ってきて、ガス油田の開発、採掘をするだろう。

ワイフ「そう言えば、沖縄って、日本とは、ちがうという感じがしていたわ」
私「あまり、そういうことは言わないほうがいい。もしそんなことを、日本人のお前が言っている
ことを知ったら、中国人は、『そら、みろ!』と喜んで、飛びついてくるかもよ」
ワ「でも、事実は事実だから……」
私「日本としては、何としても、米中関係の悪化を、阻止しなければならない。これ以上、悪化
すれば、日本の平和どころの問題では、なくなってしまう」
ワ「K国の核開発問題も、どこかへ吹っ飛んでしまうわね」
私「そういうこと」と。

 こうした中国の野望を封じこめるための方法は、2つある。一つは、中国の民主化運動を、
側面から支援して、中国を民主化すること。ブッシュ大統領も、「世界を民主化することが、世
界に平和をもたらす方法」というようなことを言っている。

 もう一つは、日本、東南アジアからインドにかけて、中国包囲網を構築すること。とくに重要な
カギを握るのが、すでに核保有国となったインドである。すでに、アメリカも日本も、その方向で
進んでいる。中国が、軍拡をつづけているかぎり、日本は、中国とはどこかで一線を画す。でな
いと、それこそ敵に、塩を送るようなことになりかねない。

 ……とまあ、いっぱしの外交評論家のようなことを書いてしまったが、しかしこれらの問題は
そのまま、私たち自身の問題である。日本の平和と安全に、直接かかわってくる問題である。
これからも、これらの問題を追求していきたい。
(参考、「国家の覚悟が問われる秋」byN教授、「諸君」11月号)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(148)

●ほめる

++++++++++++++++

子どもは、ほめて伸ばす。
これは家庭教育の大鉄則!

++++++++++++++++

●灯をともして引き出す

 欧米諸国では、『灯をともして引き出す』が、教育の基本理念になっている。「教育」を意味す
る(education)という単語も、もとはといえば、(educe)、つまり「引き出す」という単語に由来す
る。

 その灯をともして引き出すためには、子どもは、ほめる。ほめてほめて、ほめまくる。そのせ
いか、アメリカでもオーストラリアでも、学校の先生は、子どもをよくほめる。参観している私の
ほうが恥ずかしくなるほど、よくほめる。

 発達心理学の世界では、ほめることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強
化の原理となって、子どもを前向きに伸ばすと考えられている(B・F・スキナー)。

●脳内ホルモンが脳を活発化させる

 このことは、大脳生理学の分野でも、裏づけられている。好きなことをしているときには、脳
内で、カテコールアミンという脳内ホルモンが分泌され、それが、ニューロンの活動を活発化
し、集中力や思考力をますことがわかっている(澤口俊之「したたかな脳」)。

 このとき大切なことは、得意分野をほめること。不得意分野や苦手な分野には、目をつぶ
る。たとえば英語が得意だったら、まずそれをほめて、さらに英語を伸ばす。すると脳内ホルモ
ンが脳全体を活発化し、集中力もます。そのためそれまで不得意だった分野まで、伸び始め
る。これを教育の世界では、「相乗効果」と呼んでいる。子どもの世界では、よくみられる現象
である。が、それだけではない。

ほめることによって、子どもの心そのものまで、作り変えることができる。こんなことがあった。

●子どもをほめるときは本気で

 ある小学校に、かなり乱暴な子供(小5男児)がいた。腕力もあった。友だちを殴る蹴るは当
たり前。先生もかなり手を焼いていたらしい。母親は、毎月のように学校へ呼び出されていた。

 その子ども(K君としておく)が、母親に連れられて私のところへやってきた。夏休みになる少
し前のことだった。私は、週1回、夏休みの間だけ、K君の勉強をみることにした。

 こういうケースで重要なことは、最初から、本心で、その子どもをいい子と思うこと。ウソや仮
面ではいけない。本心だ。英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思
う』というのがある。あなたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あな
たのことをいい人だと思っているもの。心理学の世界にも、「好意の返報性」という言葉があ
る。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとする。相手の
好意には、好意でもってこたえようとする。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ばす。

●「先生、肩もんでやるよ。」

 で、夏休みも終わりに近づき、母親にK君の様子を報告することになった。私は車の助手席
に、K君は、うしろの席にいた。私は、こう言った。

 「K君はたくましい子どもです。元気がありすぎるため、トラブルを起こすかもしれませんが、
今だけです。おとなになったら、すばらしい人になります。楽しみな子どもです」と。

 K君は、実際、好奇心が旺盛で、バイタリティもあった。おとなのユーモアもよく理解した。頭も
よい。母親は「そうでしょうか。」と、どこか心配そうだったが、その翌週、こんなことがあった。

 いつもより30〜40分も早く、K君が私のところへ来た。「どうした?」と聞くと、K君は、少し恥
ずかしそうにこう言った。

 「先生、肩もんでやるよ。オレ、肩もむの、うまいんだア」と。

 私はだまって、K君の好意を受けた。
(はやし浩司 脳内ホルモン オペラント 自発的行動 カテコールアミン ドーパミン 子どもの
やる気 子供の集中力 思考力)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●ほめる(2)※

●明るい4人兄弟

 Gさんの家には、男の子ばかり、4人の子どもがいます。が、どの子も、屈託なく、明るい。伸
びやか。その秘訣は、すぐわかりました。母親が、上の子どものお下がりを、下の子どもに与
えるとき、いつもこう言うのです。

 「あら、あなたも、Aちゃん(すぐ上の兄)のが着られるようになったわね。大きくなったわね」
と。

 母親がまず、それを心底喜んでみせる。それを受けて、下の子どもたちが、「大きくなった」と
喜ぶのです。そういう雰囲気を、母親が、無意識のうちにも、つくりあげていたのです。

●不思議なパワー

 子どもを伸ばす最大の鉄則、それは、子どもをほめることです。スキナーという学者は、ほめ
ることによって、自発的行動(オペラント)が生まれ、それが強化の原理となって、子どもを前向
きに伸ばしていくと説明しています。

さらに最近の研究によれば、ほめることによって、脳内で、カテコールアミンというホルモンが
分泌され、それが、子どもの集中力(ノルアドレナリン)や思考力(ドーパミン)を活性化させるこ
ともわかってきました(澤口俊之「したたかな脳」)。

 ほめることには、私たちが想像する以上の、ものすごいパワーがあるようです。が、いくつか
条件があります。

●ほめる条件

 ほめるとしても、努力とやさしさ。この2つは遠慮なく、ほめます。顔やスタイルは、ほめない。
頭については、時と場所を慎重に選んで、ほめます。顔やスタイルは、ほめれば、関心がそち
らばかりに向いてしまうということになりかねません。頭については、ほめすぎたため、かえって
うぬぼれてしまうというケースも、少なくありません。

 また当然のことですが、ほめるときには、心底、その気になってほめます。ウソや体裁では、
効果がないばかりか、かえって逆効果。子どもは、親の心の隠された意図(シャドウ)を、敏感
に読み取ってしまいます(ユング)。

●学習面では……

 たとえば子どもの学習。子どもを伸ばすコツは、得意面をさらに伸ばす、です。苦手な分野、
不得意な分野には、目をつむります。

 こうすることで、先に書いた、カテコールアミンという脳内ホルモンの分泌を促し、脳を活性化
させることができます。

 1科目が伸びたら、ほかの科目もつられて伸び始める……という現象が、子どもの世界で
は、よくあります。これを「相乗効果」と呼んでいますが、「うちの子は学習面ではどうも……」と
思ったら、1科目なら1科目だけを、集中的にほめて伸ばします。

●好意の返報性

 が、それでも、よくこんな質問を受けます。「子どものほめ方が、わかりません」と。しかし答え
は簡単。まず、本心で、自分の子どもをいい子と思うことです。不安や心配は禁物。本心で、で
す。

英語の格言にも、『相手はあなたがその人を思うように、あなたを思う』というのがあります。あ
なたがAさんならAさんをいい人だと思っているなら、そのAさんも、あなたのことをいい人だと
思っているもの。心理学の世界ではそれを、「好意の返報性」という言葉を使って説明していま
す。

 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、自分のいい面を見せようとします。相手
の好意には、好意でもってこたえようとします。そういう子どもの性質を利用して、子どもを伸ば
します。親が、「…うちの子は、ダメ…」と思っていて、どうして子どもが伸びることができるでし
ょうか。

 もうおわかりですね。「うちの子は、すばらしい」と、まず信ずること。心ができれば、ほめ方
は、自然と、あとからついてきます。
(はやし浩司 相乗効果 ノルアロレナリン カテコールアミン 脳の活性化)

【補記】

 子どものやる気、思考力に、脳内ホルモンが、関係している。昔から『好きこそ、もののじょう
ずなれ』と言うが、好きなことをしていると、脳内で、カテコールアミンというホルモンが分泌され
る。

 このカテコールアミンには、ノルアドレナリンとドーパミンの2種類があるが、そのうちノルアド
レナリンは、注意力や集中力と関係があり、ドーパミンは、思考力に関係があるとされる。

 カテコールアミンが分泌されると、脳が覚醒状態になるという。そしてその結果、脳の機能そ
のものが活性化される。

 教育の世界には、「相乗効果」と呼ばれる、よく知られた現象がある。たとえば英語なら英
語、1科目が伸び始めると、とくにほかの科目を勉強したわけでもないのに、数学や国語まで、
伸び始めるという現象である。この現象に、ここに書いた脳内ホルモンの働きを重ねてみる
と、なぜそうした現象が起きるのか、うまく説明できる。

 そこで重要なことは、子どもを伸ばそうと考えたら、どんな分野でもよいから、ひとつのことを
楽しんでさせるようにすること。その前向きな取り組みが、子どもの脳を活性化させる。その結
果として、子どもは、ほかのあらゆる分野で、伸び始めるようになる。

まずいのは、不得意な分野や苦手な分野を、子どもに押しつけるような行為である。逆の相乗
効果(?)が働いてしまい、子どもは、今度はあらゆる面で、伸び悩むようになってしまうかもし
れない。
(はやし浩司 子供の集中力 子供の思考力 子どもの集中力 カテコールアミン ノルアドレ
ナリン ドーパミン)

【注、ノルアドレナリン】

ホルモンとして副腎から血液に放出され、また、シナプス伝達の間にノルアドレナリン作動性ニ
ューロンから放出される神経伝達物質である。それは、ストレス・ホルモンの1つであり、注意と
衝動性(impulsivity)が制御されている人間の脳の部分に影響する。アドレナリンと共に、この化
合物は闘争あるいは逃避反応を生じさせて、心拍数を直接増加させるように交感神経系を動
かし、脂肪からエネルギーを放出し、筋肉の素早さを増加させる。(Wikipedia フリー百科事典
より転載)。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●おかしな、(とぼけ)

++++++++++++++++++

K国が、またまたおかしなことを言い出した。
アメリカ政府の金融制裁について、「協議会を
開こう」と提案してきたという。

しかしその中身が、???。

++++++++++++++++++

 3月7日に、ニューヨークで米政府が金融制裁について説明した米朝実務者会合で、北朝鮮
は、(1)金融制裁の解除、(2)偽札疑惑に関する米朝専門部会(タスクフォース)の設置、(3)
ニセ札を識別する技術的な支援、(4)米銀行の利用−の四項目を要求していたことがわかっ
た(中日新聞)。

 この中で、とくに「?」なのは、(3)の「ニセ札を識別する技術的な支援をしてほしい」というと
ころ。

 この項目を読んだときには、思わず、私は、吹き出してしまった(失礼!)。ニセ札を製造して
いる国が、ニセ札を識別する技術的な支援をしてほしいと言うのだ。(とぼけ)も、ここまでくる
と、芸術的ですら、ある。K国は、まちがいなく、国家ぐるみで、ニセ札を製造している。論理的
にものを考えると、必然的に、そういう結論になる。順に考えてみよう。

(1)かねてから、K国は、ニセ札を製造しているとうわさされていた。
(2)これに対して、K国は、かねてから、それを否定していた。
(3)マカオで、K国のマネーロンダリングをしているという疑惑が浮かびあがった。
(4)アメリカは、当該銀行を取り引き禁止処分とした。
(5)結果的に、それがK国の金融制裁となった。
(6)K国は、K国内部の、(はねあがり分子)によるものだと反論した。
(7)そこで今回の協議会が開かれた。
(8)アメリカは、ニセ札製造にK国が国家としてからんでいることを説明した。

 2か国協議では、K国が、国としてニセ札づくりにからんでいるという確固たる証拠が提示さ
れたにちがいない。もしそうでないなら、K国は、その点を鋭くついて、「K国は、ニセ札づくりと
は、関係ない」「ニセ札疑惑は、アメリカのでっちあげ」と主張したはず。

 しかし協議のあと、K国は、「金融制裁の解除」だけを、アメリカに求めた。金融制裁の解除
だけを求めたということは、つまりは、協議に出たK国側の高官たちが、ニセ札づくりに、K国
が国家としてからんでいることを認めたことを意味する。

 が、ここからが、K国らしい。そのK国が、「ニセ札を識別する技術的な支援をしてほしい」と。
こういうのを、日本では、(とぼけ)という。わかりやく言えば、消極的なウソ。ウソにも2種類あ
る。積極的なウソと、消極的なウソ。とぼけは、そのうちの消極的なウソをいう。

 あるいはもうひとつ可能性として残るのは、トップの金xxと、協議に出た部下たちの間のコミ
ュニケーションが、どこかで遮断されているか、混線しているということ。もしそうなら、協議に出
たK国の高官たちこそ、えらい、悲劇。「親分、もうバレバレですぜ」と言いたいのかもしれな
い。しかし本国から飛んでくる指令は、「ニセ札を識別する技術的な支援をしてほしい」。

 どこのバカが、ニセ札を製造している国に、ニセ札を識別する技術的な支援などするだろう
か。K国の提案は、まるで、「もっと精巧なニセ札を製造したいが、どうすればいいか。ニセ札と
バレないニセ札を作りたいが、どうすればいいか」と言っているようなもの。

 これに対して、アメリカのR国務長官は、協議機関設置を拒否する考えを明言。「他国の通貨
を偽造するな。違法取引にかかわるな。北朝鮮がそういったことに取り組めばいいだけだ」(ヤ
フーニュース)として、ニセ札製造など、違法行為への関与を断ち切る対策を求めたという。当
然である。

 それにして、???。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●「The Polar Express(ポーラー・エキスプレス)」を見る

++++++++++++++++

トム・ハンクス主演(?)の、ビデオ
「ポーラー・エキスプレス」を見る。

よかった。楽しかった。おもしろかった。
★は、★★★★★の5つ星。

子どもの心を忘れかかった子どもたちに、
ぜひ、見てほしい……と、まあ、途中で、
何度も、そう思った。

++++++++++++++++

 トム・ハンクス主演(?)の「ポーラー・エキスプレス」を見る。内容は、「スノー・マン」「ネバーエ
ンディング・ストーリー」、それに「銀河鉄道」の3つをミックスしたようなビデオ。しかし随所に、
芸のこまかさが光る名作。笑いながら、それでいて、ぐんぐんと吸いこまれて、何だか、おかし
な涙までこぼれてくるという、まあ、不思議なビデオ。

 トム・ハンクスは、車掌の役で出てくるが、もちろん実物のトム・ハンクスではない。CG化(コ
ンピュータ・グラフィック化)されたトム・ハンクス。「今では、コンピュータで、こんなこともできる
のか」と、感心するやら、驚くやら……。

 方法としては、まず俳優たちに、実際に演技をさえ、それをもとにCG化するのだそうだ。その
とき俳優の体中に、無数の端子をとりつけ、それぞれの端子の動きを、コンピュータで読み取
りながら、1コマずつ、画面を作っていくという。何かの雑誌で、そう読んだことがある。

 しかし、では、顔の表情は、どうするのか? 体のような大きな動きは、端子を取りつけること
で読み取ることができるが、顔となると、そうはいかない。目や口の微妙な動きはどうするの
か? ビデオを見ながら、そんなことも考えた。

 見終わったあと、ワイフは、こう言った。「アメリカはすごい映画を作るわね」と。そして「誠司
(アメリカ在住)は、見たかしら?」とも。クリスマス映画だから、クリスマスのときに見たらよかっ
たかもしれない。そんなビデオだった。

 「サンタクロースを信じたものだけが、鈴の音を聞くことができる」という。つまりは、子どもの
ころの美しい心を忘れたら、人間も、おしまいということ。その哲学には、おおいに共感を覚え
る。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(149)

●87%が反対

++++++++++++++++++++

岩国への米軍移転問題で、住民の87%が
反対の意思表明をしたという。

新聞各紙、インターネットニュースなどは、
こぞって、「9割が反対!」と報道して
いる。

++++++++++++++++++++

 在日アメリカ軍の空母艦載機部隊を、山口県岩国基地に移す計画の、賛否を問う、岩国市
の住民投票が行われた。つぎのような結果になった。
 
住民投票の投票率は、58・68%。開票の結果、賛成が、5369票、反対が4万3433票。し
たがって、反対が、投票総数の87%を占めたという(3月12日)。

 「賛成か、反対か」と問われれば、「賛成」と答える人は、まずいない。「反対」と答える人はと
もかくも、それ以外の人は、「しかたない」「やむをえない」「どちらでも」と考える。そういう人た
ちも多いはず。そういう中で、「賛成か、反対か」という、切りこむ、その切りこみ方が、そもそも
おかしい。今回の住民投票は、反対派が主導して行われることになった。そういういきさつもあ
る。

 それにしても、87%! 反対派が全員投票したとして、0・5868x0・87=0・51、つまり純
粋にみて、岩国市民の51%が、反対という意思表示をしたことになる。岩国には、岩国の、事
情があるのだろう。反対運動の様子を、テレビ報道で、かいま見たことがある。その中には、
「原爆都市、広島の近くに、米軍は不要」というようなプラカードをかかげている人たちもいた。

 これ以上のコメントは、ここでは差し控えたい。が、すでに日米同盟は、事実上、崩壊してい
るとみてよい。少なくとも、日本人の心の中には、日米同盟は、もう、ない。ないことは、この数
字を見ただけもわかる。となると、日本は、単独でこの日本を守らなければならなくなる。しかし
その心構えがあるかというと、それも疑わしい。

 岩国の米軍移転問題は別として、つまりこの問題とは関係なく、仮に今、この日本から、アメ
リカ軍が消えてなくなったら、この日本は、どうなるのか? もっと言えば、日本は日本だけのこ
とを考えていれば、それでよいのか? かつて私がオーストラリアの大学に留学していたころ、
オーストラリアの友人たちは、みな、こう言った。

 「どうして日本は、ベトナムに派兵しないいのか。この問題は、君たち、アジアの問題ではない
か!」と。

 そのオーストラリアは、今回、自衛隊がイラクのサマワに派遣されたおり、その自衛隊を守る
任務を、自ら、買って出てくれた。さらにオーストラリアの国防省に勤務していた友人は、メール
で、私にこう書いてきた。「ヒロシ、心配するな。日本がK国に攻撃されたら、オーストラリアは、
自動的にK国と戦うことになっている」と。戦争がどうのこうのという問題はさておき、日本人に
は、どうしてそういった国際感覚が、働かないのか?

 繰りかえすが、「賛成か反対か」と問われれば、反対に決まっている。しかしそれだけで、こ
の日本の平和と安全が守られるかというと、私は、そうは思っていない。日本を取りまく国際情
勢は、あまりにもきびしい。韓国にせよ、K国にせよ、中国やロシアにせよ、日本が考えている
ほど、甘い国ではない。緊張感そのものが、ちがう。

 行き過ぎた平和主義は、国を滅ぼす。過去にも、そういう例は、ゴマンとある。ただ私は、個
人的には、日本は日本人だけの手で守るべきだと思う。仮に孫の誠司(アメリカ人)や、嫁の兄
弟たち(アメリカ人)が、兵隊としてこの日本にやってくるということになれば、私は、こう言うだ
ろう。「こんなところで、命を落とすことはない。日本のことは、日本で何とかするから、来なくて
いい」と。

 実は、先のオーストラリアの友人にも、そう書いた。「日本は、君たちの国、オーストラリアが、
インドネシア軍に攻撃されても、絶対に助けにはいかないだろう。軍隊を派遣しないだろう。悲
しいことに、日本という国は、そういう国だ。だから、日本のことは心配しなくていい」と。

 これに対して、「日本には、平和憲法があるから、海外へ出兵できない」と言う人たちがいる。
しかし本当に、そうか? むしろ平和憲法をよいことに、つまりそれを口実に、責任逃れをして
いるだけではないのか。

 たいへんきわどい話になってしまったが、日本政府は、条約を優先させると言っている。これ
から先、この問題では、大きな混乱が予想される。が、その問題が片づいたとき、おそらく、日
米同盟は、事実上、崩壊しているかもしれない。日本人が考えているほど、日米関係は、磐石
(ばんじゃく)ではない。

 それがわからなかれば、逆の立場で考えてみればよい。どうしてアメリカが、自分たちの体を
張ってまで、この日本を守らなければならないのか。かくも、嫌われてまで……。
(060313)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●4人に1人が離婚!

+++++++++++++++++

日本人や韓国人の男性と結婚した
中国人妻たちのうち、4人に1人が、
離婚しているという。

+++++++++++++++++

 中国の女性人民政治協商会議の報告によると、「2004年度に、4000人あまりの中国人
が、国際結婚をした。が、そのうち1000人が離婚した」という。つまり4人に1人が離婚したこ
とになる。離婚率は、25%! しかも「(各国の)中国大使館には、夫から暴力や性的虐待を
受けたとか、監禁されたと通報する事例がふえている」(同会議)という。

 離婚できない状態で、その一歩手前で、離婚状態になっている夫婦となると、もっと多いは
ず? つまり約半数が、離婚もしくは、その離婚一歩手前の状態とみてよい。しかしこの数字
は、国際結婚が、いかにむずかしいかを、そのまま表している。が、それだけではない。

 言葉の問題、生活習慣のちがいの問題などなど。こうした問題をかかえて、心の病気になる
中国人妻も、少なくない。さらに週刊誌などの報道によれば、日本人や韓国人と結婚するた
め、女性たちは、その仲介者に多額の現金を支払わねばならないという。そのため、借金を背
負って、日本や韓国へやってくる女性も多いという。

 もちろん中には、日本人や韓国人の夫と結婚して、幸福な家庭を築いている人もいる。しか
し離婚率が25%。さらにその一歩手前で、離婚状態にある人たちも含めると、推定で、50%
というのでは、とても、国際結婚とは言えない。しかも仲介者(業者)に多額の現金を支払うとい
うのであれば、人身売買と批判されても、文句は言えない。

 そこで重要なことは、だからといって、こうした国際結婚に反対するのではなく、中国人妻に
かぎらず、外国人妻に対して、日本人が、もっと心を開き、彼女たちが、日本の社会に、自然
な形で溶けこめるような体勢を整えること。私たちが用意すること。

私が見たところでも、日本の社会は、どこか閉鎖的。どこか外国人妻に冷たい。何かあると、
相手の人の立場で、相手の国の事情を理解しようとするのではなく、日本の社会に同化できな
いことを、批評したり、ときに非難したりする。そして自分たちの思うようにならないと、仲間は
ずれにしたり、排斥したりする。そのため、外国人妻は、外国人妻どうしが、集まってしまう傾
向が見られる。つまりこうして日本人と外国人妻たちの間には、大きなカベができてしまう。

 また、夫側の問題として、国際結婚というと、何か、ロマンチックなものを感ずる人も多いかも
しれない。しかしことは、そんなに甘くない。たがいに、徹底的に相手の国の人になりきるつもり
で努力しても、むずかしい。もちろんそのベース(基礎)に、愛情があれば、話は別。その愛情
には、すべての困難を乗りこえる力がある。

 で、なければ、国際結婚は、安易に考えてはいけないのでは(?)。とくに多額の現金を支払
い、結婚仲介所のようなところを通して結婚する、結婚のし方は、本来の男女の出会いとは、
異質のものと考えてよい。これは当人たちだけの問題ではすまない。やがて生まれてくる、子
どもも、その影響を受ける。

 昨今、不幸なことに、その中国人妻たちの犯した犯罪がつづいている。しかしその責任は、
そういう女性と結婚した夫や、私たち日本人にもある。それを忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●歯を削る

++++++++++++++++

昔の人は、たくましかった。

私の祖父は、自分の歯が欠けたりすると、
何かでその歯の代用品を自分で作り、
それをカガミを見ながら、接着剤うぃ使い、
自分でくつけて治していた。

++++++++++++++++

 このところ、数日おきに、歯医者へ通っている。下の奥歯に、虫歯ができたからである。で、
治療もほとんど終わり、あとは冠をかぶせるだけという状態になった。が、である。

 が、その数時間後、つまり昨日、歯医者へ行ってから数時間後から、まず、頬(ほお)の内側
が、シクシクと痛みだした。ついでに舌の側面も痛い。指を口の中に入れて、その歯をさわって
みると、エッジ(歯の上端側面)が、鋭くとがっているのがわかった。バリバリとした感じになって
いた。

 その痛みは、午後になると、さらにひどくなった。うまくしゃべることさえできない。虫歯が痛い
のではなく、エッジが、頬の内側や、舌の側面をこするからである。

 早速、ワイフに電話。ワイフから歯医者へ連絡を取ってもらった。もう30年以上も、世話にな
っている歯医者である。私の家族も、全員、その歯医者に世話になっている。腕は、確か。良
心的で、誠実。

 で、「明日、一番にみますから、8時30分に来てください」とのこと。

 しかし夜になって、痛みはさらにひどくなった。頬の内側に傷がつき始めた。指を入れると、
少し血がにじんでいるのがわかる。とても翌日までは、待てない。

 ワイフに、「サンド・ペーパーはあるか?」と聞くと、何枚か、それをもってきてくれた。

私「これで、磨く」
ワ「自分で……?」
私「そうだよ」と。

 その前に、長男に声をかけた。「お前に命を預けるから、ぼくの歯をヤスリで削ってくれない
か?」と。長男は、即座に首を横に振った。しかたない。こうなったら、自分でやるしかない。

 と、そのとき、私は、私の祖父を思い出していた。私の祖父は、こういうとき、自分で、歯を治
していた。たとえば歯が折れたりすると、それを接着剤で、くつけたりしていた。何かを削って、
歯の代用品を作ったこともある。「おじいちゃんができた。ぼくにできないはずはない」と、私
は、自分に言って聞かせた。

 で、サンド・ペーパーを、小さな四角に切り、口の奥へ。カガミを見ながら、そのエッジを自分
で削る。このあたりは、模型飛行機を作るような要領である。が、意外と簡単に削れるではな
いか! これには驚いた。5〜10回も、ザリザリと削ると、エッジの部分が、丸みをおびてきた
のが、よくわかった。

 歯は、思ったより、ずっと、やわらかい。……こうしてエッジの左右を自分で削った。その間
中、ワイフが心配そうに、「だいじょうぶ?」と横で見ていたが、「何でもないよ」と、私は、笑って
見せた。

 で、今は、その翌日、つまり今朝、起きてみると、痛みは、消えていた。そこで考えた。

 私たちの生活は便利になった。それは認める。しかしその便利さに負けて、私たちは、野性
的な生きる力を見失ってしまった。たとえば今回も、「歯の問題は、歯医者で」と、考えるあま
り、自分で、どうしたらいいかまでを考えなくなってしまった。「痛い、痛い」と右往左往するだ
け。が、これではいけない。

 よく似た例に、床屋がある。自転車のパンクがある。髪の毛は、床屋で……。自転車のパン
クは、自転車屋で……という発想で、そのつどものを考えたら、身動きがとれなくなってしまう。
髪の毛ぐらいなら、風呂でカミソリで切ればよい。自転車のパンクくらいなら、少し要領を覚え
れば、自分でなおせる。

 つまりそういうたくましさこそが、現代人にいちばん欠けている部分ではないか? 一部の専
門的なことはできるかもしれないが、それ以外のことは何もできない……。しかしそれではいけ
ない。それでは、この複雑な社会を生きていくことはできない。

 だからたとえば、学校でも、ときには、散髪(ヘアーカット)のし方や、自転車のパンクの修理
のし方を教えてもよいのでは……。今の学校教育は、実用的なことを教えるのを、忌み嫌う雰
囲気さえある。しかし欧米では、子どもたちが社会へ出てから役に立つ知識を、与え、教える
のが教育の柱になっている。

 さらに(たくましさ)ということになると、オーストラリアの中学校では、「キャンピング」という科
目が、必須科目になっている。つまり野外活動のことだが、もっとわかりやすく言えば、「野宿」
のこと。そのキャンピングを通して、オーストラリアでは、子どもたちに、たくましく生きる、その
方法を教えている。

 どうして教育は実用的であっては、いけないのか? 今朝、昨夜のことを思い出しながら、私
は、そんなことを考えた。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(150)

●イスラム教(2)

+++++++++++++++++

イスラム教と聞いて、最初に「?」と
思うのが、女性の服装。

どうしてイスラム教の国々では、
顔や姿を黒いベールやチャドルで
おおうのか?

+++++++++++++++++

 イスラム教の国々では、日本とは比較にならないほど、男女の隔離(男女隔離)が、厳格にな
されている。女性は、夫や家族の男以外には、顔や体を見せるべきではないとされている。
が、同じイスラム教の国といっても、戒律のきびしい国もあれば、そうでない国もある。戒律の
きびしい国では、そのため、女性は、顔や姿を、黒いベールやチャドルでおおうことになる。

 が、もしそうなら、そういった戒律のきびしい国では、男女の出会いもなく、たがいに結婚でき
ないということになる。恋愛すら、成り立たない。

 そこで戒律のきびしい国では、結婚は、「親族の話し合いで決定されるのが原則だから、血
縁が濃いことが喜ばれる。そのためいとこ婚が多い。地域によっては、女性は父方のいとこか
ら結婚を求められたら、特別な理由がないかぎり、断ることができないという慣習も定着してい
る」(「イスラム教の本」P79・学研)というふうにして決まるらしい。

 もっともイスラム世界といっても広い。近くのマレーシアも、インドネシアも、そのイスラム教の
国だが、見た目には、西欧社会と変わりない。女性たちも、自由に恋愛しているように見える。

 ただしセックスは別。私も若いころ、マレーシアの女性と数回、デートしたことがある。が、そ
のとき、同じマレーシアの友人(男性)から、こう警告された。「セックスだけはするなよ。このメ
ルボルンにも、モスリム(イスラム教徒)の地下裁判所(アンダーグラウンド・コート)がある。セ
ックスをしたとわかれば、そこへ連れていかれ、強制的に結婚させられるか、殺されるか(=ペ
ニスを切られるか)のどちらかだ」と。35年も前の話だから、今は、どうなのか知らない。

 こうした戒律のすべては、ムハマンドの(神のお告げ)によって、できたものだという。ムハマ
ンドは、ただの預言者にすぎない。だから、ムハマンドを批評したり、批判したりすることは、あ
りえない。絶対的な帰依、服従が、イスラム教の原点になっている。前にも書いたが、「イスラ
ム」という言葉自体が、もとはと言えば、「帰依、服従」を意味する語だそうだ。

 そこで順に考えてみたい。

 ……といっても、考えてみるだけ、ヤボなこと。イスラム教の国々には、イスラム教によるしき
たりや、風習がある。あって当然。それを私のような日本人が、とやかく言っても、始まらない。
反対に、日本には、日本のしきたりや、風習がある。

 たとえば今でも、あの相撲の土俵には、女性はあがれないことになっている。天皇家の世継
ぎ問題にしても、そうだ。外の世界から見れば、おかしなしきたりや風習に見えるかもしれない
が、日本は日本。こうした問題は、相手を理解して、納得するしかない。ここに書いたきびしい
男女の隔離にしても、どこか日本の男尊女卑思想と共通している。つまりは、『他人の振り見
て、わが身をなおせ』ということか。

 イスラム教の国々の人たちは、その国々の人なりに、それぞれ、自分たちの方法で、人生を
楽しんでいるにちがいない。

【補記】

 私が子どものころも、男と女はいっしょに遊んではだめという、何というか、不文律のようなも
のがあった。そのため、私も含めてだが、私には、女の子といっしょに遊んだという記憶が、ほ
とんどない。

 男の子の遊びと、女の子の遊びも、厳格に区別されていた。男の子が、ゴム跳びや、あや取
りをして遊んでいる姿など、見たことがない。一方、女の子が、野球や、コマ回しをしている姿な
ど見たことがない。

 家の中でも、台所は、女性のいる場所と決められていた。私などが、ふいに台所に立つと、
即座に、母に追い返されたのを覚えている。この点、イスラム社会における、「ハーレム」と似
ている。「ハーレム」というのは、もともとは、「奥さんの部屋」という意味だそうだ。イスラム世界
では、男性は、そのハーレムをのぞくことすら、許されない。

 が、だからといって、私は子どものころ、そうした子どもの世界を、窮屈に感じたことは、一度
もない。それ以外の世界を知らないのだから、当然といえば、当然。意識というのは、そういう
もの。別の意識を知ってはじめて、それまでの意識がどういうものだったかがわかる。

 ……だからというわけでもないが、私はことあるごとに、親たちには、こう勧めている。「機会
があれば、子どもたちを、一度は、外国へ出しなさいよ」と。旅行的なものではいけない。その
国に入り、その国の人となって、生活をする。そういう生活をとおして、それまでの自分の意識
がどういうものであったかが、わかる。しかもその年齢は、若ければ若いほどよい。25歳を過
ぎてからでは、遅い。

(私は厳格には、25〜27歳前後が、「意識の定着年齢」だと思っている。それ以後は、その人
がもつ意識を変えることは、不可能になると思っている。これについては、また別の機会に詳し
く書いてみたい。)

 そういう機会を与えるのは、この日本では、とくに重要(?)。日本という国だけに生まれ育っ
ていると、この日本という国がどういう国かさえもわからなくなる。日本という国は、表面的には
西欧化されたが、中身といえば、いまだに旧態依然のまま。その特異性というか、異質性に気
づかないかぎり、日本は、いつまでたっても「異質な国」のままで残ってしまう。少なくとも世界
は、日本をそういう目で見ている。それを忘れてはいけない。


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●意識の定着化

 アインシュタインは、かつてこう言った。『常識などというものは、その人が18歳のときにもっ
た偏見のかたまりである』と。私たちがもつ常識というのは、そういうもの。いつもそういう目で
疑ってみたほうがよい。(ここでいう「常識」というのは、英語でいう「Common Sense」のこと。ニ
ュアンス的には、「共通感覚」「共通意識」という意味に近い。)

 そこであえてアインシュタインの言葉を訳しなおすと、こうなる。

 『その人がもっている、感覚意識などというものは、その人が18歳のときにもった偏見のか
たまりである』と。

 私も、その意識というか、年齢的な変化を、きわめて鮮明に経験したことがある。私が、ちょ
うど27歳のときのことである。

 それまでの私は、毎月、毎週のように、世界を飛び回っていた。で、その行く先々で、現地の
生活をし、現地の食べ物を食べ、それなりに外国での生活を楽しむことができた。が、アルゼ
ンチンのブエノスアイレスに行ったときのこと。

 詳しいいきさつは忘れたが、突然、本当に突然、外国の料理が食べられなくなってしまった。
たしか、謝肉祭の夜だったと思う。私たちは、現地の通訳に招かれて、郊外の、モグリのレスト
ランへ向かった。どうしても肉が食べたかった。

 が、出された肉というのが、生肉。それをパイナップルではさんで食べる。パイナップルには、
肉からしたたる血がついていた。アルゼンチン人たちは、謝肉祭ということもあって、だれも食
べなかったが、私たち日本人は、食べた。が、私は、ぞっとした。

 それだけはなかったと思うが、そのアルゼンチンへ行ったのを最後に、私は、それ以後、外
国の料理が口に合わなくなってしまった。香港や台湾へ行っても、そうだった。現地へ着くとす
ぐ、私は日本料理を求めるようになった。それ以後、現在に至るまで、この習慣は、変わって
いない。

 これは私の個人的な食感覚の変化をいったものだが、いろいろな人に聞いても、みな、多か
れ少なかれ、同じような経験をしているのがわかった。早い人では、25歳前後。遅い人でも、
30歳前後に、そういう時期がやってくるらしい。



Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

【常識が偏見になるとき】 

●たまにはずる休みを……!

「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい
の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ
そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているにすぎない。

アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと
えば……。

●日本の常識は世界の非常識

(1)学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親
が教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、
州政府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、100万人を超えた。毎年15%前後の割合でふ
え、2001年度末には200万人に達するだろうと言われている。

それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は
家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同で研修会を開い
たり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、
こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。

(2)おけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ
通う。早い子どもは午後1時に、遅い子どもでも3時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単
位(※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が1200円前後(2001年調べ)。
こうした親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども1人当たり、230マルク(日本円で約1
4000円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最長
二七歳まで支払われる。

 こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対
する世間の評価はまだ低い。

ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任をも
たない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号すら
親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときはどうするのですか」と聞いた
ら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師Y・ムラカミ氏)はこう教えてくれた。「そ
ういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待っていると、先生のほうから電話
がかかってきます」と。

(3)進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中
高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で70校近くあった。が、私はそれを見て驚いた。
どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、はさん
であるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。

この話をオーストラリアの友人に話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そ
こで私が、では、オーストラリアではどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。

 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子
も学んだこともある古い学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを
組んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども
は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。

なおそのグラマースクールには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同
時にその足で学校へ行き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。

●そこはまさに『マトリックス』の世界

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っているようなことで
も、世界ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身
の常識を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあ
るべきか。さらには子育てとは何か、と。

その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学校神話とはよく言ったもので、「私
はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにしても、結局は、学校神話を信仰してい
る。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。それはまさに映画『マトリックス』の世
界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想の世界だと気づかない。気づかない
まま、仮想の価値に振り回されている……。

●解放感は最高!

 ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと
動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に
行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して
いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ
い。あなたも、学校神話の呪縛から、自分を解き放つことができる。

※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後
三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ
とができる。

Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●「自由に学ぶ」

 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」
を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。

 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて
よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。
それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政
治を行うための手段として用いられてきている」と。

 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社
会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を
破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、
国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事
的独裁国家では、国づくりは学校教育から始まるということを忘れてはならない」と。

 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に
は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は
むしろ増加している。学校内部で犯罪が少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくな
い。学校内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所シス
テムの改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべき
ではないのか」と(以上、要約)。

 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい
る。なお2000年度に、小中学校での不登校児は、13万4000人を超えた。中学生では、38
人に1人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、4000人多い。
(はやし浩司 フリースクール 自由な教育 LIE Learn in Freedom 不登校 常識論 意識論
 はやし浩司 教育評論 教育論)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

【意識】

●Common Sense

 自分がもっている「Common Sense」ほど、あてにならないものはない。日本語では、「常
識」と訳すが、私たちが日常的に言うところの「常識」とは、かなり意味がちがう。日本語でいう
「常識」というのは、ふつうの人が、ふつうの生活するための、基本的な知識をいう。

が、英語でいう「Common Sense」というと、一般的な人が、共通してもっている認識を意味
する。あえて訳すと、「共通認識」ということになるのか。研究社の「アプローチ英和辞典」では、
Common Senseを、「良識、常識」と訳している。

 だから日本語で、「あの人は常識のない人だ」と言うときは、「あるべき知識のない人」という
意味で、そう言う。一方、英語で、「あの人はCommon Senseに欠ける人だ」と言うときは、
どこかに、「あの人は変人だ」というニュアンスをこめて、そう言う。「sense」という単語を、「感
覚」という意味のほか、「思慮」「分別」(同辞典)と訳すのは、そういう理由による。

 その「Common Sence」だが、国によって、民族によって、さらに個人によって、その内容
が、すべてちがう。それが如実に現れるのは、「裸」「性」に対する考え方である。

 もう30年以上も前になるが、スウェーデンの性教育教会の会長の通訳をして、全国を回った
ときのこと。こんな話を聞いた。名前は忘れない。エリザベス・ベッテルグレン女史といった。

 ベッテルグレン女史は、こう言った。大学で、何の講義だったかは忘れたが、実際に、1組の
男女が、素っ裸で、セックスの実演をしてみせるということもあるそうだ。(大学の授業の中でだ
ぞ!)教官がその場で、「A君とB子さん、前に出てきなさい」というような指名をする。もちろん
2人とも学生である。前もって打ち合わせなどしない。いきなり、である。

 で、2人はみなの前に出てきて、裸になり、マットの上で、抱き合ってみせる。それを見なが
ら、教官が、「こうすればいい」「ああすればいい」と指導するという。

 当時の私には、信じがたい話だった。(今でも信じがたいが……。)しかしベッテルグレン女
史は、「それがどうしたの?」というような雰囲気で、私に、その話をした。

 またこんな話も、最近、聞いた。去年、私の家に2組のオーストラリア人の夫婦がホームステ
イした。その1組の夫婦の娘が、現在、フィンランドで建築学の勉強をしているという。北欧は、
建築学の分野で、世界をリードしている。その娘が、こんな話を伝えてきたという。

 フィンランドでは、みな、サウナに入る。どこでも男女混浴が当たり前。老若男女の区別はな
い。その娘も、20歳と少しだが、みなといっしょにサウナに入っているという。もちろん素っ裸
で、である。

 さらにオーストラリア国内にも、ヌーディスト村があちこちにあるという。そういうところでは、家
族ぐるみで参加するのが常識だそうだ。だからもちろんその中には、10代の息子や娘もい
る。20代の息子や娘もいる。そういう人たちが、平気で……というより、「それがどうしたの?」
という雰囲気で、ヌードでいることを楽しむという。

 が、こういう話を聞くと、日本人なら、だれしも、「まさか!」「とんでもない!」と考えるにちがい
ない。つまりそのように考える基盤になっているのが、ここでいう「Common Sense」というこ
とになる。日本で、もし、中年の男性が、10代の女の子といっしょに、素っ裸で、サウナに入っ
たら、どうなるか。それをほんの少しだけ、頭の中で想像してみたらよい。

 これは「裸」「性」に対するCommon Senseということになるが、実は、私たちの意識には、
こうしたCommon Senseが、無数にからんでいる。わかりやすい例でいえば、「家族観」「仕
事観」「人生観」などなど。それらすべてに、からんでいる。

●2つの教訓

 このことは、つぎの2つの教訓を意味する。

 ひとつは、まず自分が、どのようなCommon Senseをもっているかを、知ること。それが第
一歩。

 もうひとつは、そのCommon Senseが、本当に普遍的なもので、大切なものかどうかを、
疑ってみること

 あのアインシュタインは、こうしたCommon Senseは、「その人が18歳までにもった偏見
のかたまり」であると、看破(かんぱ)している。アインシュタインのような頭のよい人だからこ
そ、それに気がついたのかもしれない。なるほどと思うと同じに、ドキッとする。

 話を先に進める前に、私がした経験を話しておきたい。

 私がオーストラリアにいたときのこと。あるとき、ある友人の家に、夕食に招かれた。イギリス
系のごくふつうの家族だった。が、驚いたのは、その夕食のあとのときのことだった。ふと気が
ついてうしろを見ると、友人の父親が、エプロンをかけて、食器を洗っているではないか!

 私は、すっとんきょうな声をあげて、こう叫んだ。「ああ、男が皿洗いをしている!」と。今でこ
そ、笑い話にしかならないが、当時は、本当に驚いた。心底、驚いた。つまりそのとき私の頭の
中には、「男が皿を洗う」という、Common Senseが、なかったことになる。

 こういうのを、Common Senseのズレという。こうしたCommon Senseのズレは、日常
生活の中でも、よく経験する。たとえば私は、冠婚葬祭の場で、それをよく感ずる。結婚式にせ
よ、葬式にせよ、私のもっているCommon Senseと、ほかのひとたちのもっているCommo
n Senseが、大きくズレているのを、よく感ずる。

 はっきり言えば、私は、日本式の結婚式にせよ、日本式の葬式にせよ、そういったものに、ど
れほどの意味と価値があるのか、いまだによくわからない。あの「盆供養」にしても、もとはとい
えば、アフガニスタンにあった土着宗教の行事に由来する。それをアフガニスタンでは、「ウラ
バン」と言っていた。ウラバンが、中国へきて、「盂蘭盆(うらぼん)」になり、「盂蘭盆会(え)」に
なった。「盂蘭盆」は、「ウラバン」の当て字である。釈迦仏教が中国へ伝わる過程で、本来の
釈迦仏教とは縁もゆかりもない盆供養が、アフガニスタンで、混入したことになる。

 そういうことを知ってしまうと、当然のことながら、盆供養についてのCommon Senseも、
ちがったものになってしまう。それが意識のズレとなって、自分にもはっきりとわかるときがあ
る。

 ただここで誤解しないでほしいのは、だからといって、盆供養がまちがっているとか、無意味
だとか言っているのではない。盆供養を通して、死者を思い慕うことは、何もまちがっていな
い。それぞれの人は、それぞれの思いをもって、死者を供養する。

 それにそれがたとえアフガニスタンの土着的な宗教的行事であったにせよ、仏教と、何か通
ずるものがあったからこそ、現在に生き残ったと考えられる。で、もう一言つけ加えるなら、盆
供養を大切だと思うのも、また思わないのも、その人の勝手だということ。

 えてしてこの日本では、そうした風習になじまない人を、ことさら排斥する風潮がある。「日本
人なら、盆供養をすべきだ」と、押しつけがましく迫ってくる人も少なくない。あるいは、「親の供
養をしないようなものは、人間のクズだ」と言う人さえいる。

 結婚式についても、同じ。もっとも、それは儀式というよりは、パーティのようなもの。もっと言
えば、遊び(?)。深刻に考えなければならないようなものでもない。しかしCommon Sense
のズレを感ずることは、少なくない。

 しかしこうして考えていくと、いったい、何が本当で、何がそうでないか、それがわからなくなっ
てくる。が、同時に、それをしないと、つまり自分のCommon Senseが何であるか知らない
と、その先に、本物の自分を見ることができなくなる。私たちは、本来的に、偏見のかたまり(ア
インシュタイン)なのである。その偏見を取り去ること。つまりは、それが自分を、自由に向かっ
て、解放するための第一歩ということになる。

【追記】

 冠婚葬祭に関して、よく「ベキ論」「ダカラ論」「ハズ論」をふりかざして、何かと迫ってくる人が
いますね。あれはいやですね。本当に、いや。何かの考えに基づいてそう言うなら、まだしも、
そういう人にかぎって、頭の中は、カラッポ。あるいは脳ミソそのものが、硬直してしまってい
る。

 10年、いや、30年、40年、一律のごとく、同じ意見を言う。そういう人を見ると、「この人は、
いったい、何を学んできたのだろう」と思うことがあります。が、そういう人にかぎって、「私は絶
対、正しい」という信念(?)をもっている。だからよけいに、やりにくいですね。過去を踏襲する
ことが、「絶対」と考えている(?)。

 そうそう、「伝統」という言葉も、そこから生まれたのですね。伝統を背負っていれば、その人
は強くなれる。何も考えなくても、です。しかし考えてみれば、伝統ほど、いいかげんなものもな
い。人間をしばる道具、あるいは方便として使われることもあります。

 言うなれば、伝統と呼ばれるものこそ、アインシュタインが言った、「偏見のかたまり」なのか
もしれません。どうして女性が、土俵にのぼってはいけないのでしょうか? どうして女性が天
皇になってはいけないのでしょうか? 考えてみれば、おかしなことだらけですね。みんなで、
笑いましょう! ハハハ!
(はやし浩司 ウラバン 盂蘭盆 伝統 偏見 伝統 伝統論 意識 意識論)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●伝統

++++++++++++++++++

伝統とは、何か?

統一化された、行動規範か?
それとも、偏見のかたまりか?

++++++++++++++++++

 つい先日まで、皇位継承問題にからんで、「伝統」という言葉が、よく使われた。しかし伝統と
は、何か? それがよくわからない……。

 人間にかぎらず、あらゆる動物は、同じような思考や行動を繰りかえしていると、脳ミソの中
に、思考回路(パターン)というものを、つくる。たとえば目の前にある茶碗を取るときも、それを
いちいち考えて行動する人はいない。さっと手がのびて、茶碗を手でつかむ。

 こうしたパターン化は、生活のあらゆる部分で、定着する。つまりそうすることで、人は、日常
の生活を、なめらかにすることができるようになる。

 同じように、毎年、同じような、しきたりを繰りかえしていると、そこに一定のパターン(形式)
ができるようになる。以前考えたことを、再び考えなおすよりも、以前考えたことはそのままにし
て、そのつぎのことを考える。そのほうが、楽だからである。よい例が、各地でなされる「祭り」
である。

 毎年、同じようなことを繰りかえすなら、過去を踏襲したほうが、楽。何も考えることなく、祭り
ができる。

 こうしたパターン(形式)が、積み重なって、「伝統」となっていく。

 伝統が悪いと言っているのではない。伝統があるからこそ、人間の生活は、スムーズに流れ
ていく。「去年、こうしてうまくいったから、今年も……」となる。が、もちろん弊害もある。

 伝統そのものが、個人の自由な発想をしばることもある。阻害することもある。たとえばこの
浜松という、もうすぐ100万都市になるような都市の中でも、少し郊外に行くと、いまだに長子
存続的なものの考え方をする人がいる。「お前は長男だから……」と、親は子どもを縛り、「私
は長男だから……」と、子どもは親に縛られる。

 もっと広い世界では、伝統が、革新的な思想や行動を弾圧する道具として、機能することもあ
る。たとえばヨーロッパで花を咲かせた18世紀の啓蒙思想運動がある。その反動として、その
あと、19世紀はじめに、フランスでは、中世の伝承をしようとする、いわゆる「伝統主義」が、生
まれたことはよく知られている。そのときどきに起こる、自由主義や科学主義にするどく対立す
ることも、珍しくない(参考、「広辞苑」)。

 現在の日本でも、武士道なるものを振りかざす復古主義が見られる。こうした動きも、そうし
た反動のひとつと考えられなくもない。

 つまりこういうケースでは、「伝統」という言葉を使って、それを安易に肯定することは、たいへ
ん危険なことでもある。

 広辞苑には、こうある。

 伝統……(1)系統をうけ伝えること。また、うけ伝えた系統。(2)(traditon)伝承に同じ。また
特にそのうちの精神的核心または脈絡、と。

 では、何が、善玉伝統で、何が、悪玉伝統なのか?

 私という個人をみたときも、その年代によって、伝統に対する考え方が変化してきているのが
わかる。全体としてみると、若いときは、伝統を忌み嫌い、中年のころは、妥協し、老年に近づ
くにつれて、どこか保守的になる。しかしこうして総じてみると、伝統と呼ばれるものは、すべて
悪玉的な要素があることがわかる。反対に、善玉的な伝統とは何かと聞かれると、即答に困っ
てしまう。

 要するに、人間は、めんどうなことが嫌い。もっと言えば、考えることが嫌い。それが年齢とと
もに加速して、やがて伝統にしがみつくようになる。わけのわからない未来に自分を賭けるより
も、過去の栄華に一抹の期待を寄せる。少なくとも、伝統に従っていれば、失敗する可能性
は、より少ない。

 で、今、多分、皇室の皇位継承問題には、一応のケリがついたらしい。「伝統」という言葉が、
突然、姿を消した。今では、妊娠数か月で、胎児の排泄物を調べて、男児か女児かわかると
いう。礼宮殿下に男児が生まれるという確信をもったからこそ、「伝統」という言葉が消えたとみ
るのが、正しい。つまり、再び、日本人は、考えることを放棄した。結局は、楽な道を選んだ。

 しかしこれだけは言える。あくまでもこれは私の心情でもあるが、人は、伝統にしがみつくよう
になったら、おしまい。そこで進歩は、停滞する。明日は今日と同じ。来年は、今年と同じという
人生に、どれほどの意味があるというのか。もしそうなら、その人は、死んだも同然。長生きす
るかどうかは、何も、年齢だけの問題ではない。話が脱線ししそうなので、この話は、ここまで。
(はやし浩司 伝統 伝統とは 伝統論 保守主義 復古主義)


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

●火星の大峡谷

++++++++++++++++++

火星に大峡谷の写真が、
あちこちの新聞を、にぎわしている。
名前は、マリネリス峡谷。

01年4月に打ちあげられた、火星軌道
探査機「マーズ・オデッセイ」が、その
全体像をとらえたという。

長さは、何と、4000キロ。深さは、
5〜10キロにもなるという。

+++++++++++++++++++

 このほど、アメリカのNASAが、太陽系最大規模の峡谷である、「マリネリス峡谷(海の峡
谷)」の全体像を写真に収め、公表した。その写真をとったのは、NASAの火星軌道探査機
「マーズ・オデッセイ」。01年4月に打ちあげられ、02年2月から本格的に活動を始めたとい
う。

 しばし、その写真を見つめる。

 素人の判断だが、この大峡谷は、「J」型に、大きく、Uターンしているらしい。峡谷の様子が
わかりやすいのは、下側の部分。細長い平地を上下からはさむようにして、大絶壁(多分?)
が、平行に走っているのがわかる。長さは、何と、4000キロ。深さは、5〜10キロにもなると
いう。

 

 その平地に立った自分を想像してみる。NASAの発表によれば、絶壁の高さは、5〜10キ
ロもあるという。富士山の約3倍! ヒマラヤ山脈ほどの高さということになる。それが4000キ
ロもつづいている。日本列島が、北海道から九州まで、約2000キロだから、その2倍というこ
とか。平地の部分に、日本列島を置いてみると、その大きさが容易に想像できる。

 が、もしこの地球が、温暖化か何かで、火星のように、すべて砂漠になってしまったら……?
 地球にも、たとえば日本海溝のような深い、溝がある。そういう溝が、マリネリス峡谷のように
なるかもしれない。今は、深い海の底にあるから、見えないだけ。

 ということは、峡谷といっても、マリネリス峡谷は、太古の昔には、海の底にあった海溝だった
可能性もある。見れば見るほど、興味津々(しんしん)という写真である。が、それにしても、不
思議な写真である。

 雨水や、あるいは海流の浸食によってできたものだとするなら、その水の入り口はどこなの
か。出口はどこなのか。火山活動か何かによってできたというなら、噴火口は、なぜないのか。
さらに地球のような大陸移動によってできたというのなら、なぜ「J」型に折れ曲がっているの
か。

 科学者もそのあたりを懸命に調べているにちがいない。

 で、またまた火星にいたかもしれない知的生物についての話。もし火星に知的生物がいたと
するなら、火星が最後に近づくにつれて、そうした生物たちは、より高度の低い、くぼ地や穴
に、住居を移したはず。

 一説によると、火星も、そこに住んでいた知的生物たちが化石燃料を使いすぎたために、今
のようになってしまったという。ただ火星のばあいには、火星の大きさそのものが、小さすぎ
た。だから温暖化が一気に進んでしまった可能性が高いという。(地球も、あぶないが……。)

 だから私は、マリネリス峡谷の写真の中でも、平地の部分にじっと目をこらす。何か、痕跡の
ようなものがないか、とである。このあたりに、人為的な幾何学模様か何かあれば、楽しい。ま
たまた私のロマンが、ぐんとふくらむ。

 もし同じような興味をもつ人がいれば、その写真を見たらよい。これはまさに、現実の写真な
のである。あるいは地球の近未来の写真と考えてもよい。


【付記】

 たいへん悲観的+絶望的な意見で申し訳ないが、地球環境は、すでに、もうどうしようもない
ところまで、来てしまっているのではないか。地球温暖化にしても、このまま一次関数的に、気
温が上昇すると考える学者は少ない。ある臨界点を超えると、不測の事態が、別の不測の事
態を生み、地球の気温は、それ以後、二次曲線的に上昇するという(?)。

 そうなると、もう地球は、本当にお・し・ま・い!!

 もちろん私もそうなってほしくないと願っている。しかし人間の欲望には際限がない。その際
限のなさが、自らを滅ぼす。いや、人間だけならまだしも、ありとあらゆる生物を、絶滅させる。

 で、これまた一説によると、あくまでもSF的な一説だが、かつての火星も、今の地球と同じよ
うに、水も空気もあった。そしてそこには人間のような知的生物も住んでいたという。が、あると
きから火星の温暖化が急速に進み、今のような火星になってしまった。

 そのときその火星から逃げてきたのが、地球人、つまり私たちの原型になった。火星人たち
は、自分たちの痕跡をこの宇宙に残すために、自分たちのDNAを、地球にいたサルたちの脳
に、埋めこんだ。

 となると、今の地球人たちが、かつての火星人と同じ運命をたどることになったとしても、何も
おかしくない。人間が原罪的にもつ欲望といったものも、実は火星人譲りということになる。

 ……とまあ、とんでもないことを考える。しかし決して、ありえない話ではない。そういう意味で
も、この写真には、いろいろ考えさせられる。ホント!


Hiroshi Hayashi++++++++++.Mar.06+++++++++++はやし浩司

【近況、あれこれ】

●ワイフのビーズ玉

 今度、D社というところから、「ビーズ・アクセサリー」という本が、刊行された。ビーズ玉で、ネ
ックレスを作るという雑誌で、ビーズ玉や工具が、付録としてついている。

 ためしに(?)、ワイフに買ってやったら、ワイフが、それにハマってしまった! 毎晩、コタツ
の前に座って、その雑誌をながめている。「お前が、そんなふうに、雑誌をながめている姿を見
るのは、はじめてだ」と言うと、「本当に、そうね」と。私は、ワイフには、そういう趣味はないもの
と思っていた。

 ひとつ自分でネックレスを作ったのが、病みつきになってしまったようだ。昨日、第2巻が発売
になったので、私は、2冊、それを買ってきた。1冊は、ワイフに。もう1冊は、アメリカのデニー
ズに。デニーズも、興味をもってくれたら、毎号、買って送ってやるつもり。

 そうそう、孫の誠司には、「ROBOT」という雑誌を買って送ることにした。毎号ついてくる付録
を組み立てると、やがてロボットができあがるという雑誌である。昨夜、3号まで包装したので、
今日にでも郵便局へもっていくつもり。

 何かと忙しくなりそう。プラス、お金もかかりそう。しかし誠司が喜ぶ顔が、目に浮かぶ。なん
といっても、私は、「エアロプレーン(飛行機)ジージ」(誠司)なのだア!


●急激な寒さ

 昨日(3月14日)の寒波は、異常だった。真冬に逆戻りしたよう。今朝は、このあたりでも、氷
点下を記録した。北陸地方では、またまた大雪だという。

 もう、こうなると、気温はめちゃめちゃ。5月の陽気になったかと思うと、今度は、真冬。どうな
っているのだろう。

 昨夜は、そんなわけで、フトンを一枚、かけ足した。しかしそれでも朝方、寒かった。ワイフを
湯たんぽがわりに抱いたが、そのワイフも、寒いといって、私を湯たんぽがわりに使っている。
これではたがいに、寒いはず。おかげで朝早く、目が覚めてしまった。


●息子のEのBLOG

 息子(E)のBLOGを読む。それには、こうあった(3月15日)。何でも、十勝にある、「幸福」と
いう名前の駅へ行ってきたらしい。

 「……おみやげとしてだが、今でも毎日切符が発行されている。今日の日付の入った、幸福
行きの片道切符を買ってみた。本当に幸福という名の駅が、人生のレールの先には存在する
のだろうか。あるのは幸福という名のレールで、幸せになろうと頑張っていること自体が、幸福
なのではないだろうか。なぜなら、今、僕は幸福を感じるから。レールが続く限り、僕はゴール
なんてしたくない。路線を何度も切り替えながら、いつまでも走り続けていたい。幸福という名
の、終点のないレールの上を」と。

 これを読んで、何かしら大切なものを、息子に教えられたような気がした。いつの間にか、あ
の小さかった息子が、自分の幸福を考える年齢になった。そう、息子のEは、小さかった。生ま
れたときも、標準体重よりはるかに小さかった。(うちの息子たちは、みな、そうだったが…
…。)

 しかし結果としてみると、みな、身長が180センチ以上になった。それはそれとして、その小
さな息子を見ながら、「こんな小さな人間が、果たして大きくなるのだろうか」と、そのときは思っ
た。が、その息子が、今、自分の道を歩み始めている。

 息子はこう言う。「幸せになろうと頑張っていること自体が、幸福なのではないだろうか」と。

 それに対して、私は、「そうなんだ、そうだよ」と、エールを送りたい。それはまさに私の人生観
の核心的な部分でもある。人生はドラマ。そのドラマにこそ、意味がある。価値がある。

 息子たちよ、人生にゴールはないよ。死ぬまで、前に向かって歩く。それが人生だよ! また
いろいろな景色を見たら、私に話してほしい。待っている。

 WE LOVE YOU!


●ちょうど500枚!

 1100作から1150作まで、つまりここまでで、ちょうど500枚になった。原稿用紙でいう、50
0枚分という意味である。

 だれが読んでくれるのか、あるいはだれも読んでくれていないのか、それはわからない。しか
しともかくも、500枚を書いた。1月25日から500枚ということだから、約2か月弱で、500枚
ということになる。以前は、もっとたくさん原稿を書いていたような気がする。少し集中力が落ち
てきたということか。このつぎからは、1200〜1250作に挑戦ということになる。がんばろう。
がんばります!

 毎日、1時間でもヒマな時間があると、書斎へ飛びこむ。そしてこうして原稿を書き始める。
が、こうして何かをするものをもっているというのは、本当によいことだ。とくに原稿書き、つまり
「考える」ということは、どこにいても、できる。それが楽しい。

 この先には何があるのだろう。どんな駅があるのだろう。私にも、目的地はない。ゴールはな
い。こうしてがんばっているときが、人生。楽しい。おもしろい!


*********最前線の子育て論byはやし浩司1150*********





【本文中・検索・キーワード集】(順次、収録していきます)
【検索キーワード】 BW子どもクラブ BW教室 BWきょうしつ BWこどもクラブ 教育評論 教育評論家 子育て格言 幼児の心 幼
児の心理 幼児心理 子育て講演会 育児講演会 教育講演会 講師 講演会講師 母親講演会 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩
み 幼児教育 幼児心理 心理学 はやし浩司 親子の問題 子供 心理 子供の心 親子関係 反抗期 はやし浩司 育児診断 育児評
論 育児評論家 幼児教育家 教育評論家 子育て評論家 子育ての悩みはやし浩司 教育評論 育児論 幼児教育論 育児論 子育
て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし
浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司 幼児の心 幼児の心理 育児 はやし浩司 育児疲れ 子育てポイ
ント はやし浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市 金沢大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩
司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやしひろし 林ひろし 静岡県 浜松市 幼
児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐
阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ.
writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ
 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よくできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 
教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし浩司の子育て診断 これでわかる子育てアドバイス 現場からの子育
てQ&A 実践から生まれたの育児診断 子育てエッセイ 育児診断 ママ診断 はやし浩司の総合情報 はやし浩司 知能テスト 生活力
テスト 子どもの能力テスト 子どもの巣立ち はやし浩司 子育て診断 子育て情報 育児相談 子育て実践論 最前線の子育て論 子
育て格言 はやし浩司 子どもの問題 子供の問題 育児相談 子どもの心 子供の心 子どもの心理 子供の心 はやし浩司 不登校 
登校拒否 学校恐怖症 はやし浩司 子育て実例集 子育て定期検診 子どもの学習指導 はやし浩司 子供の学習 学習指導 子供の
学習指導 はやし浩司 子どもの生活指導 子供の生活 子どもの心を育てる 子供の心を考える 発語障害 浜松中日文化センター 
BW教室 はやし浩司の才能教室 幼児教室 幼児知能教室 浜松市 BWこどもクラブ はやし浩司 子育て診断 育児アドバイス 子育
てアドバイス 子育て情報 育児情報 育児調査 はやし浩司 子育ての悩み 育児問題 育児相談 はやし浩司 子育て調査 子育て疲
労 育児疲れ 子どもの世界 中日新聞 Hiroshi Hayashi Hamamatsu Shizuoka/Shizuoka pref. Japan 次ページの目次から選んでく
ださい はやし浩司のホームページ 悩み調査 はやし浩司の経歴 はやし浩司 経歴 人物 子どもの叱り方 ポケモンカルト ポケモ
ン・カルト 子どもの知能 世にも不思議な留学記 武義高・武義高校同窓会 古城会 ドラえもん野比家の子育て論 クレヨンしんちゃん
野原家の子育て論 子育て教室 はやし浩司 浜松 静岡県 はやし浩司 子どもの指導法 子どもの学習指導 家族主義 子どものチ
ェックシート はやし浩司 はやしひろし 林ひろし 林浩司 静岡県浜松市 岐阜県美濃市 美濃 経済委員会給費留学生 金沢大学法
文学部法学科 三井物産社員 ニット部輸出課 大阪支店 教育評論家 幼児教育家 はやし浩司 子育てアドバイザー・育児相談 混
迷の時代の子育て論 Melbourne Australia International House/international house/Hiroshi Hayashi/1970/ はやし浩司 ママ診断 
過保護 過干渉・溺愛 過関心 教育論 子どもの巣立ち論 メルマガ Eマガ はやし浩司 子育て最前線のあなたへ・子育てはじめの一
歩 子育て はじめの一歩・最前線の子育て論 子育て最前線の育児論 はやし浩司 入野町 林浩司 林 浩司 東洋医学基礎 目で
見る漢方・幼児教育評論家 子育てアドバイザー 子どもの世界 子供の世界 育児如同播種・育児相談 子育てアドバイス 教育相談
 はやし浩司・はやしひろし 林ひろし 林浩司 林こうじ 浜松市入野町 テレビ寺子屋 最前線の子育て論 子育てストレス 最前線の
子育て はやし浩司 著述 執筆 評論 ファミリス ママ診断 メルボルン大学 はやし浩司 日豪経済委員会 日韓交換学生 三井物産
元社員 子どもの世界 子供の世界 子育ての悩み 育児一般 子供の心 子どもの心 子育て実戦 実践 静岡県在住 はやし浩司 
浜松 静岡県浜松市 子育て 育児相談 育児問題 子どもの心 子供の心 はやし浩司 心理 心理学 幼児教育 BW教室 はやし浩
司 子どもの問題 子供の問題 発達心理 育児問題 はやし浩司子育て情報 子育ての悩み 無料相談 はやし浩司 無料マガジン 
子育て情報 育児情報 はやし浩司 林浩司 林ひろし 浜松 講演会 講演 はやし浩司 林浩司 林 浩司 林こうじ コージ 林浩司 
はやしひろし はやしこうじ 林浩二 浩司 東洋医学 経穴 基礎 はやし浩司 教材研究 教材 育児如同播種 育児評論 子育て論 
子供の学習 学習指導 はやし浩司 野比家の子育て論 ポケモン カルト 野原家の子育て論 はやし浩司 飛鳥新社 100の箴言 
日豪経済委員会 給費 留学生 1970 東京商工会議所 子育ての最前線にいるあなたへ 中日新聞出版 はやし浩司 林浩司

子育てエッセイ 子育てエッセー 子育て随筆 子育て談話 はやし浩司 育児相談 子育て相談 子どもの問題 育児全般 はやし浩司
 子どもの心理 子育て 悩み 育児悩み 悩み相談 子どもの問題 育児悩み 子どもの心理 子供の心理 発達心理 幼児の心 はや
し浩司 幼児の問題 幼児 相談 随筆家 育児 随筆家 育児エッセー 育児エッセイ 母親の心理 母親の問題 育児全般 はやし浩
司 林浩司 林こうじ はやしこうじ はやしひろし 子育て アドバイス アドバイザー 子供の悩み 子どもの悩み 子育て情報 ADHD 
不登校 学校恐怖症 怠学 はやし浩司 浜松市

はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依
存と愛着 育児ノイローゼ 一芸論 ウソ 内弁慶 右脳教育 エディプス・コンプレックス おてんばな子おねしょ(夜尿症) おむつ(高層
住宅) 親意識 親の愛 親離れ 音読と黙読 学習机 学力 学歴信仰 学校はやし浩司 タイプ別育児論 恐怖症 家庭教師 過保護 
過剰行動 考える子ども がんこな子ども 緩慢行動 かん黙児 気うつ症の子ども 気負い 帰宅拒否 気難しい子 虐待 キレる子ども
 虚言(ウソ) 恐怖症 子供の金銭感覚 計算力 ゲーム ケチな子ども 行為障害 心を開かない子ども 個性 こづかい 言葉能力、
読解力 子どもの心 子離れ はやし浩司 タイプ別育児論 子供の才能とこだわり 自慰 自意識 自己嫌悪 自殺 自然教育 自尊心 
叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
へ)東洋医学 漢方 目で見る漢方診断 東洋医学基礎編 はやし浩司 東洋医学 黄帝内経 素問 霊枢 幼児教育 はやし浩 林浩
司 林浩 幼児教育研究 子育て評論 子育て評論家 子どもの心 子どもの心理 子ども相談 子ども相談 はやし浩司 育児論 子育
て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司